diary 2018.3.

diary 2018.4.


2018.3.31 (Sat.)

宿を相川(佐渡島北西側の凸部)に設定したのは、朝イチで佐渡金山を訪れるためである。移動をバスに頼る以上、
行ける場所は時間的に限られてしまう。でもさすがに佐渡金山をはずすわけにはいくまい。天気もいいし、元気に出発。

 春日崎周辺。岩礁がすごい。右端に小舟で漁をしている人がいる。

春日崎から佐渡金山跡までは4.5kmということで、いきなりの歩きである。だってバスがないんだもん。気合いだ。
7時半過ぎに出て9時に到着の算段だったが、気合いが入りすぎたのか8時半には到着していたのであった。……あれ?

 だいたいこんな感じの道を進んでいくと佐渡金山跡に着きます。

しょうがないので駐車場からさらに奥へと進んでみる。そうしたら少し行ったところにもうひとつ駐車場があり、
道遊の割戸を裏から見られるようになっていた。しかし「もうこれ以上なさそうだな」と思ってしまって引き返し、
国指定重要文化財の大立竪坑櫓をスルーしてしまうという大ボーンヘッドをやらかした。せっかく早く来たのにねえ。

  
L: 広大な駐車場。観光バスが押し寄せるんだろうなあ。  C: 裏側から見た道遊の割戸。  R: 見学コースの出口。2回通った(後述)。

8時45分、見学を開始する。今まで銅山(→2013.11.302015.5.5)と銀山(→2013.8.18)を見学したことはあるが、
金山は初めてだ。いちおうこれでブロンズコレクターもシルヴァーコレクターも脱却だ。まあひたすら穴を掘る、
という行為じたいに差はないんだけどね。昨日の千石船に続いてもう一丁、近世資本主義の一端を見て学ぼうじゃないの。
見学できる坑道は2つあり、まずは江戸時代初期に開発された手掘りの坑道「宗太夫(そうだゆう)坑」にお邪魔する。

  
L: 宗太夫坑の序盤。穴に合わせて案内板を曲げるとは丁寧な仕事だなあ、と妙なところに感心。  C: 動く人形で採掘作業を再現。
R: 水上輪という排水ポンプ(中の螺旋を回すアルキメデスポンプ)を使っている。坑道が海抜より低く、排水が大変だったそうだ。

佐渡金山(相川金銀山)が発見されたのは1601(慶長6)年のこと。ちょうど同時期に会津征伐による減封で、
佐渡は上杉景勝から徳川家康の支配下となった。そして金山を幕府が直轄し、産出した金銀は貨幣の鋳造に使われた。
世界遺産登録推進室の公式サイトによれば、江戸時代を通じて金は約40t、銀は約1800tも採掘されたそうだ。

  
L: 酸欠防止のために風を送る作業。穿子(ほりこ)が唐箕(とうみ)という送風機を操作しているところ。
C: 坑内の休息所。手前で座っているのが佐渡金山名物・「馴染みの女」おじさん。「馴染みの女にも会いてぇなぁ~」と喋る。
R: 休息所の周囲はこんな感じである。安全性を確保しつつ、黒を上手く使って坑道本来の部分を目立たせていると思う。

『佐渡金山絵巻』に描かれている採掘作業を忠実に再現しているとのことだが、作業着を着ている人形が多いなと思う。
だいたいこういう作業は褌一丁でやることが多いイメージで、事実『佐渡金山絵巻』でも最深部は褌一丁になっている。
展示では水替人足が褌に頭巾でがんばっていたが、実際のところはどうなのだろう。肌を出す方が危険なのかなあ。
労働者の給与は高かったらしいので服装がきちんとしていたのかもしれない。一方で無宿者が酷使された話もあるが。

  
L: 採掘作業。金穿(かなほり)大工が鏨(たがね)と鎚だけで掘る。  C: 螺灯ではなく吊った皿に油で火を灯している。
R: 「やわらぎ」という神事。固い鉱石がやわらぐように、山の神様(大山祇神)の心がやわらぐように、ということらしい。

宗太夫坑の出口は県道の反対側である。なんとも不思議な気分で県道の上の橋を渡って展示資料館に入る。
実際に現場を見せてインパクトを与えた後で総括する内容ということで、順番としては効果的であると思う。
ちなみに資料館の一角には、純金延べ棒取り出しチャレンジコーナーが。12.5kgで6000万円の金の延べ棒を、
透明ケースにある穴から30秒以内に取り出せば景品がもらえるとのこと。もちろんやってみたけど失敗。重い!
後で調べたら、取り出すときに延べ棒を持つ手首をもう片方の手で固定するのがどうやらコツらしい。わかるかよ!

  
L: 佐渡奉行所周辺の模型。毎度おなじみ大久保長安によって市街地が計画的に整備された。最盛期の相川の人口は5万人だと!
C: 大判・小判の展示。  R: 純金延べ棒取り出しチャレンジ。成功すると金箔カードをもらえる。正直ちょっと悔しい。

ではもうひとつの坑道にお邪魔するのだ。1899(明治32)年に開削された「道遊(どうゆう)坑」である。
なお、入口は宗太夫坑と一緒なので、いったん外に出てからもう一回受付にまわることになるのであった。
道遊坑は三菱に払い下げられてからの坑道で、1989年の休山まで採掘が行われていた。トロッコ・機械工場・粗砕場など、
多くの設備が操業当時の姿のままで残されているのが見所。こちらは足元がコンクリートで整備されて高低差はわずか。
途中でトロッコの軌道と合流し、それに沿って進んでいく形に。道遊の割戸の真下を通って抜けていくルートである。

  
L: 酒類熟成所を覗き込む。「北雪」「真野鶴」など、佐渡の地酒が寝かされていた。売店で買えるんだってさ。
C: トロッコの軌道に合流。  R: 展示されている蓄電池式のトロッコ。後ろの鉱車は1tの鉱石を載せることができる。

5分ほどで道遊の割戸の真下に到着。この鉱脈を採掘するために道遊坑を開削したそうで、休山まで操業し続けた。
実際の写真とともに、機械や人形を配置して再現している。中腹を発破して鉱石を落とす方法も採っていたそうだ。

 道遊の割戸の真下。かつては掘り過ぎで中腹から光が差していたとか。

そのままトロッコの軌道で外に出ると、ちょっとした広場だった。すぐ近くに高任立坑の櫓と電車車庫(機械工場)。
山の方へ入っていくと高任神社があり、その脇から道遊の割戸を至近距離で見ることができる。これは圧倒されるなあ。

  
L: 高任坑の出入口と高任立坑の櫓。  C: 高任神社。  R: 神社の脇から見る道遊の割戸。穴はダイナマイトで開けたそうだ。

戻って電車車庫(機械工場)の中を見学する。1939年ごろに建てられて当初はトロッコの修理・整備を行ったが、
後に採掘道具の作成・修理も行うようになったそうだ。建物じたいも端正でいいが、機械もきれいに残してある。

  
L: トロッコの先頭部・2トン蓄電池式機関車。スピードは3段階に調節できて、最速で時速12〜13kmとのこと。
C: 電車車庫(機械工場)の内部。国指定重要文化財。梁が立派。  R: 当時貴重だったというガラスには三菱マーク。

さらに西へ行くと開けた場所となり、振り返れば道遊の割戸の撮影ポイントなのであった。これはお見事。
でも実は道遊の割戸って、人力でこんな姿になったのだ。江戸時代初期、山頂の金脈を必死で掘り進めていったら、
幅約30m、深さ約74mの割れ目ができてしまったというわけ。まるでマンガみたいな本当の話である。
ちなみに地下の坑道の総延長は約400kmに及ぶ。あらためて、人間の欲望ってのは凄まじいとしみじみ思う。

  
L: 単なる廃墟に見えるけど国指定重要文化財の粗砕場。中の穴に鉱石を落として選鉱しながら破砕する施設で、1937年の築。
C: 粗砕場の手前が道遊の割戸の撮影ポイントである。江戸時代にここで露天掘りをやっていた光景を想像してみる。凄いなあ。
R: 県道から見る文化財群。いちばん上が粗砕場で、真ん中が中尾変電所。ベルトコンベアが貯鉱舎に続く。アーチ橋も美しい。

以上で金山じたいの見学は終了。世界遺産登録に向けて気合いが入っており、それが内容を充実させていると感じる。
職場へのお土産は、小判をイメージして金色の紙で包んだチョコレートを選択。もっといろいろ選択肢が欲しかったなあ。

県道を下っていった先にある高台の西端が、佐渡奉行所跡である。初代奉行の大久保長安がここを中心に街を整備した。
佐渡一国の行政と司法だけでなく、海上警備も担当。さらになんと、こちらで金銀の精製までやっていたという。
2000年に御役所(おやくしょ)が復元され、2004年には金銀を精製する勝場(せりば)も公開、体験もできるとのこと。

  
L: 佐渡奉行所跡。冠木門が誇らしい。両側の屋根が石置木羽葺になっていますなあ。詳しくは昨日のログを参照。
C: 御役所。高山陣屋に似ているかな(→2009.10.12)。  R: 背面。かつてここに御役宅(陣屋、奉行の住居)があった。

かつては建物が残っていて明治維新後に役所や学校として使われたそうだが、1942年の火事で全焼してしまった。
最近になって復元されただけあり、中はいろいろきれい。まあそれはそれで大久保長安気分になれるし。ウッシッシ。

  
L: 中はこんな感じ。ひたすらきれいな印象。  C: 御白洲。屋外のイメージが強いが、奉行所だから屋内にあるみたい。
R: 発掘された鉛板。金の精錬に使われ(灰吹法)、サイズは70cm×26cm×5cmで重さ40kg。こいつが172枚も出てきたんだと!

御役所に続いては、北側の一段低い場所にある勝場を見学。こちらは復元というよりは展示説明と体験の施設として、
割り切ってつくられているようだ。とはいえ木材をしっかり使った梁などは圧巻だが。やはり世界遺産への気合いか。
工程はさすがにけっこう複雑だが、基本的には鉱石を細かくしてから水を使って重い貴金属成分を選び出すって感じか。
きちんと体験して勉強すると面白いんだろうなあと思う。しかし近代以前からしっかり化学をしているなあと実感する。

  
L: 勝場(ガイダンス施設)の内部。気合いを感じる。  C: ねこ流し。比重の重い金銀を含む粒子が木綿に引っかかって残る。
R: 相川の街を見下ろす。相川は奉行所を含む高台の上町、海岸沿いの下町からなる。下町は埋め立てで南へと拡張していった。

佐渡金山の関連施設はまだまだこれで終わりではないのだ。奉行所の北東に北沢地区の施設群があって、ここもすごい。
明治から昭和にかけての巨大施設が並んでおり、激しくカーヴする県道から見下ろすと、もうそれだけで絶景である。

 北沢地区の選鉱・精錬施設群。古代ギリシャかローマの遺跡みたいだ。

高台から下りて東に入ると、目の前の巨大な遺構に息を呑む。スケールが異様で、言葉が出ない。
そもそもが選鉱所・精錬所はフォトジェニックというか圧倒的なものだが(→2013.8.182013.11.302015.5.5)、
それにしても規模が大きく、また骨格の残り具合が物語性を感じさせる。遺跡のような美しさに、ただシャッターを切る。

  
L: 入口のところにある相川郷土博物館。御料局佐渡支庁、つまりは佐渡鉱山の本部事務所として明治時代後期に建てられた。
C: 北沢火力発電所発電機室棟。1908(明治41)年の築みたい。  R: 北沢浮遊選鉱場。1938年建設で、日本初の浮遊選鉱場。

浮遊選鉱とはさっきの勝場のねこ流しを化学的に効率よくやるもので、泡とともに浮いた金属を回収する仕組み。
1940年には最高記録となる年間約1500kgの金と約25tの銀を生産。江戸時代に残ったズリの再処理も行っていた。
しかし1952年に鉱山の大規模縮小により施設は廃止となった。現在残っているのはコンクリートの躯体のみである。

  
L: 角度を変えてクローズアップ。  C: 距離をとって全体を眺める。  R: 遺構を広場とすることでグッドデザイン賞を受賞。

60年前まで稼働していた施設だが、やはりこれはきちんと「遺跡」だなあと思う。人間の活動の記録そのものだ。
もはや二度と使われることがないという物悲しさも含めて、古代・中世・近世の遺跡となんら変わらぬ価値を感じる。
遠い過去として押しやられたという点で、歴史として等しい存在になっている。その意義を見出だせるかどうかは、
現在を生き続けるわれわれの教養と判断力に委ねられている。賢者は歴史に学ぶというが、どれだけ学べるかが問題だ。

  
L: 浮遊選鉱場の奥にある北沢青化精錬所。「青化」とは、シアン化合物を使い金を溶かして精錬する技術(青化法)。
C: 北沢50mシックナー。1940年完成の泥鉱濃縮装置。  R: 鋳造工場跡。かつてここからシックナーまで工場が並んでいた。

バスの時刻になるまで、相川の「下町」を歩いてみる。江戸時代以来のゆったりカーヴする道に沿って住宅が続く。
寺が集まるエリアから西へ下りた辺りが商店街となっており、「相川天領通り」の立派な門とアーケードが目を惹く。
街区の境目となっている交差点を越えると、佐州おーやり館。旅館を改修して交流センター・観光拠点とした施設だ。
「おーやり(おおやり)」とは、「のんびりする」「ほっとする」「安心する」といった意味の方言だそうだ。

  
L: 佐渡市相川支所。消防署と一体化して2014年に竣工。幅が広くてカメラの視野に収まらない。この辺は戦後の埋め立て。
C: 相川天領通り。上述のとおり金山と一体となって発展した相川だが、休山後も佐渡地域振興局など一定の行政機能が残る。
R: 佐州おーやり館。かつては太宰治や尾崎紅葉も泊まった旅館・佐州館で、2階は学生向け簡易宿泊施設となっている。

相川支所からバスに乗り込み、30分ちょっと揺られて金井で下車。旧金井町は佐渡なのに海に面していなかった。
つまり、佐渡島の中心にあったというわけである。そのため、2004年に10市町村が合併して佐渡市が誕生した際、
金井町役場が佐渡市役所となった。すでに両津市があったにもかかわらずそうなった辺り、佐渡の広さというか、
各集落がそれぞれに特徴を持ち、力関係が比較的均等であることを示していると思う。「佐渡市歴史文化基本構想」では、
両津・河原田(佐和田)・小木・相川の4箇所が「拠点的都市」として位置づけられている。金井は入っていないのだ。
(余談だが、この「佐渡市歴史文化基本構想」は佐渡について非常に詳しく、これひとつでかなりいろいろわかる。
 佐渡市の公式サイトからPDFファイルを閲覧できる。全国各地の歴史文化基本構想は文化庁の公式サイトを参照。)
近代の港・両津、城下町で商業と交通の中心・河原田(佐和田)、近世の港・小木、金山以来の行政の街・相川と、
なるほどヴァラエティに富んでいる。でもその4点を結んでみると、確かに金井は地理的なバランスが抜群にいい。

  
L: 佐渡市役所。  C: 南側から見たところ。植栽のところに「新保城址」という石碑がある。  R: 南東から見る。

佐渡市役所は1985年に金井町役場として竣工している。2014年に新庁舎建設の基本計画を策定しており、それによると、
現庁舎を活用しながら近くに新庁舎を建設し、現庁舎の耐用年数が過ぎた後は新庁舎に一本化するつもりだったようだ。
しかし結局、2016年に新庁舎の建設を取りやめて本庁舎の改修へと方針転換。1985年竣工だからまだまだ使えるけど、
佐渡島の広さを考えるとこの町役場の規模では明らかに手狭だろう。市役所の周囲には土地もいっぱいあるしなあ。

  
L: 少し距離をおいて東の新保川の辺りから眺める。  C: 東側、背面。  R: 北から見たところ。

気になったので石碑にあった新保城について調べたら、「世阿弥を預かった代官・本間六郎の城」との記述があった。
周囲は見渡す限りの農地なのでこんなところに本当に城があったのかと思うが、代官屋敷ならまあわからないでもない。
ちなみに本間氏は佐渡国守護代として一族で争いつつも佐渡を支配したが、1589(天正17)年に上杉景勝に滅ぼされる。
それで出羽の酒田に移って商売を始めたのが、後に日本最大の地主として知られた本間家(→2009.8.122013.5.11)。
歴史はつながるなあ。おかげで日記の中身が旅行するたびにどんどん濃く、重くなっていく。書いてて本当に大変。

  
L: 北西へとまわり込む。  C: 西側から見たところ。これで一周。  R: 近づいてエントラス部分を眺めてみる。

市役所の撮影を終えると、あらためて周囲の景色を眺めてみるが、これが面白い。というのも、ここは佐渡島の真ん中で、
北を見れば大佐渡山地が、南を見れば小佐渡山地が一望できるのだ。そして今いる平野が国中平野というわけだ。
大佐渡山地は雪をかぶって小佐渡山地より急峻で標高が高いのがうかがえるし、国中平野の穀倉ぶりも一目瞭然。
佐渡に来たのは初めてだけど、かなり地理と歴史の勉強になる旅ができているのではなかろうか。余は満足である。

 
L: 佐渡市役所付近から眺める大佐渡山地。  R: こちらは小佐渡山地。国中平野の穀倉ぶりもよくわかる。

お昼ご飯をいただいてバスに乗り込むと、一気に両津港まで行ってしまう。もちろんトキの関連施設も行きたかったが、
今回は両津の街を優先させてもらう。30分で両津港に到着すると、まずは旧両津市役所である佐渡市両津支所を目指す。
フェリーターミナルからすぐ西に行ったところで、建物には「佐渡島開発総合センター」という文字が貼り付いている。
これだよなあ、と思いつつ入口を見ると、ドアの上に「佐渡市役所両津支所」とあったので、とりあえず撮影開始。

  
L: 交差点から見た佐渡島開発総合センター。  C: ガラスが派手で、てっきりこれが旧両津市役所だと勘違い。両津勘違い。
R: 駐車場を挟んで南側から眺める。入口ドアの上に「佐渡市役所両津支所」とあったから油断してしまったではないか。

すぐ後ろで何やら工事しているのが気になるが、とりあえず一周して撮影。しかし後で確認してみたところ、
実はそっちの工事現場こそが旧両津市役所の跡地なのであった。現在は新たな両津支所・公民館・図書館を建設中。
これを佐渡島開発総合センターと渡り廊下で結んで一体的に利用するというわけなのだ。遅かりし由良之助、だなあ。

  
L: 背面。  C: 近くの両津湊鎮守・八幡若宮社。  R: 境内には北一輝(右)・昤吉(左)兄弟のレリーフが。父は初代両津町長。

では両津の街を歩いてみる。そもそも「両津」という名前は、「北の夷町と南の湊町の2つの港がある」ことが由来。
昨日のログでも書いたが、両津港が佐渡随一の港となるのは明治に入ってから。1858(安政5)年の日米修好通商条約で、
新潟港が「開港五港」のひとつとなる(新潟市歴史博物館みなとぴあで、その歴史に触れることができる →2007.4.28)。
そしてこの新潟港の補助港として1868(明治元)年に開港したのが両津港。その後は佐渡島内の道路が整備され、
相川から見て山2つ(大佐渡・小佐渡)越える小木より、国中平野を縦断すればいい両津の方が有利になっていくわけだ。
現在の両津港は南の湊側にフェリーターミナル、北の夷側に漁業拠点と機能が分かれている。商店街は夷側が中心。

  
L: 南は湊(みなと)の本町通り。緩やかに曲がる通りに面して短冊状の住宅が並ぶ。本当に穏やかな昔ながらの街並み。
C: 北は夷(えびす)の本町通り。アーケードの商店街だが、古い町家建築も多い。埋め立てで夷の方が湊より広くなった。
R: 加茂湖。もともとは淡水湖だったが、水害対策で夷と湊の間に水路を開削した結果、両津湾とつながって汽水湖となった。

埋め立てで面積を確保した分だけ有利なのか、また漁港と連続しているからか、夷の方が商店街・飲食店などが充実。
市街地は加茂湖岸のぎりぎりまで広がっていて、その近さに驚く。よく見ると、加茂湖の浅瀬には牡蠣がけっこういる。
加茂湖は牡蠣の養殖が盛んだが、そこから漏れて逃げてきたのが定着しているのか。食えるのかな、と思いつつ眺める。
その後も主に御守のありそうな神社を探索しながら歩いてみるが、意外なことに両津の街にはその要素が薄かった。

  
L: 両津カトリック教会。エドモンド=パピノ神父の設計で1887(明治20)年に再建。鶴岡の教会(→2014.8.24)もパピノ神父。
C: ネコがいたので、持っていた猫じゃらしで遊ぶ。「そんなの持ち歩いている人、初めて見た」と、おばあちゃんに言われる。
R: そんなの急に送られても困る。かといってMの方でも困るけど。なんでカタカナで書いちゃうかなあ。港には看板も出ているよ。

夷側の南端には、あいぽーと佐渡という施設がある。2015年オープンで、インフォメーションセンターというくくり。
観光案内や直売所が入っており、ほかにも多目的ホールや会議室、調理室などがある。道の駅にもなっているようだ。
設計は黒川紀章建築都市設計事務所。黒川紀章は2007年に亡くなり、会社は2014年に民事再生法の適用を申請したけど、
日本工営が事業を譲り受けてがんばっているようですな。メタボリズムの魂を絶やさないでほしいものです。

  
L: あいぽーと佐渡。北西側から見たところ。  C: 西から見たところ。  R: 南西側から見たところ。

  
L: 屋上は展望スペース。もうちょっと滞留する要素があってもいいと思う。わざわざ上がるメリットが弱いかなあと。
C: 屋上から眺める両津港フェリーターミナル。さすがに小木より規模が大きい。手前は海上保安庁の巡視艇「ときくさ」。
R: これ……おけさ笠をかぶってますよね……? 調べてみたら両津港北防波堤灯台で、「おけさ灯台」という愛称がついていた。

では本日最後の目的地へと向かうのだ。バスはフェリーターミナルの方から出るので、そっちへと歩いていく。
ちょうどフェリー(おけさ丸)が出港に向けて準備をしているところで、船首がカパッと開いて車が乗り込む。
バウバイザーというそうだ(バウ=船首)。このサイズで動くのを見ると、その迫力に圧倒されてしまいますな。

  
L: おけさ丸。  C: バウバイザーを上げたところ。昔の帆船は船首が弓みたいな形なので「bow」と呼ばれるようになったと。
R: 後で見たおけさ丸。大佐渡の山々を背景に新潟へ向かうのであった。まあ3時間後には僕もフェリーで新潟に行くんですが。

東海岸線のバスに乗り込むと、なんとさっき猫と遊んでいたときツッコミを入れてくれたおばあちゃんも一緒だった。
すっかり「猫じゃらしの人」という認識だったが、僕だって実戦で猫じゃらしを装備したのは今回の旅が初めてよ?
まさかすぐに使う機会が来るとは思わなかったけどね。東急ハンズはなんでも売っているなあと思いましたことよ。

30分ほど揺られて、野城というバス停で下車する。そこから少し歩くと「姫埼燈台館」という案内板が出ている。
というわけで、本日最後の目的地は姫埼灯台である。佐渡に来たからには、ぜひとも訪問しておきたい場所なのだ。
細い道を海の方へと進んでいく。植物の勢いがすごくて少し不安になってしまうが、緑を抜けた先には小さな駐車場。
そこからさらに奥へ入ると、真っ白な灯台が現れた。そんなに大きくはないが、その端正な美しさにただ見惚れる。
耐震補強でそうなったのかはわからないが、断面の六角形に調和する鉄骨がその美しさを見事に強調している。
この鉄骨が幾何学的な美しさを完成させているのだ。その点は韮山反射炉と似た感じかもしれない(→2015.3.22)。
キヌガサタケは「きのこの女王」と呼ばれているが、それと似た姿の姫埼灯台は「灯台の女王」とでも言うべきか。

  
L: 姫埼灯台への入口。ここから500mちょっと、海へと歩いていく。  C: 姫埼灯台を眺められるように整備されている。
R: というわけで姫埼灯台。「世界灯台100選」にも選ばれている。これは確かにデザインとして本当に美しい。

姫埼灯台が初点灯したのは1895(明治28)年のことで、現役の鉄造灯台としては日本で最も古いものである。
日本で「世界灯台100選」に選ばれた灯台は5つあるが、下田から約10km離れて完全に沖合にある神子元島灯台以外は、
これで4つ制覇したことになる(犬吠埼灯台 →2008.9.1、美保関灯台 →2009.7.19、出雲日御碕灯台 →2016.7.23)。
犬吠埼は煉瓦造、美保関と日御碕は石造(神子元島も石造)なので、それらと比べると姫埼灯台はやや華奢な印象だ。
酒田の日和山公園には日本最古の木造灯台が移築されているが(→2009.8.11)、断面が六角形なのは共通している。
おそらく同じ価値観をもとに、鉄でつくったらこうなったのだろう。歴史を背負いつつ、しかも純粋に美しい。

 
L,R: 近くで眺める。姫埼灯台は塔高が14.2 m。かわいらしい印象のせいか、そんなにあるとは思えないのだが。

バスが来るまで1時間以上あるので、のんびり過ごす。灯台から下りていくと旧官舎を復元した姫埼燈台館がある。
しかし12月から3月までは休館ということで、またしても悔しい思いをするのであった。新潟観光は春休みに向かない!
この周囲はキャンプ場になっているのか、バーベキューのできそうな炉があった。その先には遊歩道もあって、
いちおうは海岸近くまで下りていける。ただ、行ってもただの岩場なので、釣りぐらいしかできないだろうけど。

  
L: 姫埼燈台館。  C: 周囲はこんな感じ。  R: 海岸まで下りてみたけどやることは何もないのであった。

あとはひたすら姫埼灯台を眺めて過ごす。帰りのバスで運転手さん曰く、姫埼灯台目的の人はそれなりにいるようだ。
ただ、その運転手さんは姫埼灯台を見てもあまり響かなかったそうで。まあ建築方面に興味がなけりゃそうかもしれん。
僕には最高だったけどね。明治のデザイン、機能美、何よりその愛おしいサイズ感。実物を見ることができて満足だ。

両津港に着くと、フェリーターミナルの土産物売り場を物色。雰囲気が非常に昭和でよい。心が洗われる気分になる。
18時ぐらいにレストランで晩ご飯をいただく。両津で食べるものはすでに決めていた。加茂湖名産の牡蠣でしょう!
カキフライに刺身のついた定食をいただいたのだが、大変おいしゅうございました。佐渡らしいものが食えてうれしい。

 
L: 両津港フェリーターミナルの土産物売り場。実に昭和である。  R: 加茂湖名産の牡蠣をフライでいただく。たまらん。

19時30分、フェリーが両津港から出航する。土曜日の夜だし新潟行きだし、往路とは違って乗客がしっかり多い。
さて、その往路の直江津-小木と同様、こちらの両津-新潟の航路も国道350号となっている。昨日の写真のとおりだ。
かつて佐渡島内では道路の整備があまり進んでおらず、島に国道を通すことで整備を進めるように陳情したのだが、
「重要都市を連絡する道路じゃないと国道にはできない」ということで認められなかった。そこで田中角栄が、
佐渡島への航路も区間に含めて新潟市と上越市を結ぶ路線とする案を出し、海上区間を含む国道350号が誕生したという。
いかにも「コンピューター付きブルドーザー」なエピソードだなあと思う。地元にはうれしいし、観光客には面白いし。

さすがに一日動きまわって疲れていたので、気がつきゃ絨毯の上で寝ていたのであった。新潟港に着くと、バスに乗る。
22時を過ぎてヘロヘロだが、なんとか宿にチェックインして即、寝る。明日は新潟県の市役所めぐりなのだ。がんばる。


2018.3.30 (Fri.)

「流されたいんよ!」とは岩崎マサルのセリフである。離島を目指すたび、僕の頭の中にそのセリフがこだまする。
昨夜、バスタ新宿で夜行バスに乗り込むときから、ずっと響いている。この言葉が特別なのは、海なし県育ちだからか。
とにかく、今まで踏んだことのない土地を訪れるのは、なんとも表現しがたい不安感とそれ以上の高揚感がある。
早朝、直江津駅前に降り立った僕は大きくのびをすると、「流されたいんよ!」そうつぶやいて歩きだした。

フェリーの出発時刻は9時30分なので、まだまだ時間がある。旅先ではきちんとメシを食わないともたないので、
少々遠いがイトーヨーカドーを目指す。以前の訪問(→2012.8.11)で近くにモスバーガーがあるのを知っていたからだ。
そこで朝メシをいただきつつ態勢を整え、反転攻勢で直江津港へと向かうという算段である。上々の滑り出しだ。

春休みの旅行、第2弾は「新潟県の御守集め」である。いま持っている御守は、越後国一宮の彌彦神社と居多神社だけだ。
そこで今回はいよいよ佐渡を訪問し、一宮である度津神社の御守を頂戴しつつ市役所と観光名所も押さえようというわけ。
全国一宮めぐりもだいぶ終わりに近づいてきたはいいが、島の一宮ばかりが残っている状況なのだ。難度が段違いだぜ。
イトーヨーカドーからだと直江津港までは2.5kmで30分ちょっと。時間を見計らって出発し、駅前を抜けて関川を渡り、
まっすぐフェリーのターミナルへ。平日の朝だから驚くほど人が少ない。チケットを買うと5階の展望室から街を眺める。

  
L: 直江津港の佐渡汽船ターミナル。  C: 5階の展望室から街を眺める。平野が続くなあ。  R: お世話になる「あかね」。

スッカスカのフェリーというのは大変な贅沢である。が、特にやることもない。外に出ても、佐渡まで何もないし。
2015年就航のあかね船内は非常にきれいでツッコミどころもないし。おかげで気がつきゃ寝ていた。なんかもったいない。
そうして11時10分、小木港に到着。佐渡にはいくつか港があるが、いちばん南西の端っこにあるのが小木港なのだ。
今回の旅では、ここから2日かけて北上していくというわけ。なお、佐渡島内での交通手段はひたすらバスである。

  
L: フェリー内部にある表示「この航路は国道350号線です」。そう、今回はこの海上区間も利用して佐渡をとことん縦断する。
C: 小木港フェリーターミナル。手前は佐渡おけさの銅像。天草・牛深のハイヤ節が北前船で小木に伝わったのが源流だそうだ。
R: おけさデザインの交通安全看板。胴体部分にあるのは「追越し違反9000円 佐渡するめ500円」という少々意味不明な文言。

さて、小木である。新潟-両津と比べると、直江津-小木という航路はどう考えてもマニアックだ。冬季は運航しないし。
しかしかつてはこちらの方が栄え、江戸時代から北前船の風待ち港として賑わった。両津港の繁栄は新潟港の開港以降だ。
ということで、歴史的な遺構はこちらの南側にある。重要伝統的建造物群保存地区の宿根木(しゅくねぎ)は小木の西に、
佐渡国一宮の度津神社は小木の東隣・羽茂(はもち)にある。レンタサイクルがあれば一気に解決できるんだけどなあ。

  
L: 小木の南佐渡観光案内所。外側を面白くつくってある。  C: 第四銀行の小木出張所。だいぶやる気なデザインである。
R: なんと木造5階建ての喜八屋旅館旧館。1905(明治38)年に2階建てで建てられ、1928年にその上を増築。国登録有形文化財。

小木から宿根木までは4kmちょっとで、歩く時間がもったいない。バスが来るまで小木周辺を散策することに。
本当に軽く歩きまわっただけだったのだが、いろいろ興味深い建物や街並みが見つかって大興奮。楽しかったわー。

  
L: 小木の街並み。ゆったりとカーヴする通りからは、昔ながらの漁港の空気を今もしっかりと感じることができる。
C: 幸丸展示館にて。幸丸は佐渡海峡最後の地廻り船で、1961年まで海峡を往復していた。第四銀行小木出張所の元ネタかな。
R: フェリーターミナル隣のレストランにて佐渡天然ブリカツ丼をいただく。PR担当キャラの「ブリカツくん」がかなり強烈。

小木港からバスで揺られること15分で宿根木に到着。まず印象的なのが青く輝いている海である。とにかくきれい。
そしてそこに浮かんでいるのが、たらい舟。小木海岸の名物で、岩礁や入り江で複雑な地形となっているところを、
小回りを利かせながら貝類や海藻をとっていくのである。洗濯桶を改良していってこうなったらしい。面白いものだ。

  
L: 小木海岸といえば、たらい舟。わかりにくくて申し訳ないが、中央右に無人で浮いている。左端には乗っている人がいます。
C: 宿根木の港の反対側が重伝建の入口である。手前が駐車場になっている。  R: この風垣の奥が宿根木の集落。いざ突入!

男一人でのんびり体験している余裕もないので、さっそく宿根木の集落にお邪魔する。が、これがもうすごくて。
基本的に平地だけどカスバ感があるというか、石畳の路地と板壁だけで構成されたまさに迷路のような空間は、
絶対にほかの場所では味わえない感覚になる。まずは目の前の現実に圧倒されるしかない、そういう純粋な驚き。
人様にとって当たり前だけど自分が完全にストレンジャーな存在となる場所を行くのは、実に心細いものだ。
しかしその一方で好奇心が勝って、夢中で歩を進める。まるで猫になってしまったような気分、ってのはあるかも。

  
L: 宿根木を行く。これがメインストリートの世捨小路(よすてこうじ)。由来は不明だというが、なんともすごい名前だ。
C: 幕末の地理学者・柴田収蔵の生家。  R: 集落の中を流れる称光寺川。地形に沿ってきれいに建っている家々が見事だ。

宿根木の建物はどこも2階建てである。もともと平屋だったものを2階建てとすることで空間を増やしてきたそうだ。
サヤと呼ばれる杉板の壁は、船大工が建てた家であることを主張するかのよう。実際、船の廃材も利用されているとか。
中にはサヤに包まれている土蔵もあり、サヤは海風から守る効果とともに盗難防止のカモフラージュにもなっている。

  
L: 宿根木の建物をクローズアップ。こちらは町並みモデル施設「清九郎」。4月1日からの公開に向けて掃除中だった……。
C: 1921(大正10)年築の旧宿根木郵便局。宿根木ではきわめて珍しい洋風建築だが、板張りなのでぜんぜん違和感がない。
R: 「塩」の看板が目印、三角形の「三角家」。もともと四角い建物を土地に合わせて三角形にして1846(弘化3)年に移築。

土地にまったく余裕がないので撮影するのは大変だが、本当に興味深い写真がいっぱい撮れる。この独特な空間体験を、
どうにかして高い純度で記録に残したいと思ってシャッターを切ってまわったのだが、いかがなものでしょうか。
「清九郎」は廻船2隻を所有した船主の豪邸で、中はかなり贅沢な空間とのこと。しかし公開は4月1日からで、掃除中。
このあと2日の差が悔しくてたまらない。雪国の観光地は3月と4月で明確な線引きがあるんだよなあ。がっくりだよ。
それでも船大工職人の「金子屋」は見学できたのでよし。残念ながら撮影禁止ということで、写真はございません。

  
L: 外観はほかの住宅と変わらないが……  C: 実は土蔵。サヤで包まれており、一見しただけではそれとわからない。
R: 「伊三郎」。軒下に扇のデザインの飾りを入れている。「石」とは姓である「石塚」からとったものだそうだ。

称光寺川を遡って奥へ奥へと進んでいくと、宿根木公会堂。その右手奥には白山神社。唯一、余裕を感じる空間だ。
そして最も奥にあるのが称光寺。お堂じたいは特別すごいことはないが、手前の山門が宿根木最古の建築物とのこと。

  
L: 宿根木公会堂。  C: 白山神社。  R: 雰囲気のある称光寺の入口。宗派は時宗。山門は1717(享保2)年の築。

ひととおり歩きまわると、坂道を上って県道に出る。宿根木集落の屋根を一望でき、その光景に思わず息を呑む。
昭和30年代に瓦葺屋根が増えたというが、伝統の石置木羽(こば)葺屋根を守っている家もあり、往時を偲ばせる。
これは木羽と呼ばれる薄く割った杉板を並べ、石を置いて押さえたもの。日本海側にみられる形式とのこと。

  
L: 海岸の遊歩道の途中にはこんな洞窟があったよ。  C: 宿根木を上から見るとこんな感じ。石置木羽葺屋根が見事である。
R: 県道の反対側には小木宿根木郵便局。集落から離れているが、かなり景観を意識した造り。集落内の旧郵便局は洋風なのにね。

宿根木集落のすぐ東、坂の上にあるのは佐渡国小木民俗博物館。この建物はもともと宿根木小学校の校舎であり、
1920(大正9)年に建てられた。1970年に廃校となった後は博物館となり、漁業や船大工の道具などが展示されている。
しかし外から見てわかるとおり、大正時代の小学校にしては巨大な建物が横にある。その中身は、実物大の千石船だ。

  
L: 佐渡国小木民俗博物館。校門の石柱など小学校の要素をきちんと残している。「小木町役場」の碑もなぜか置いてある。
C: 隣接している千石船展示館。  R: その中身がこちら「白山丸」。1858(安政5)年建造の「幸栄丸」を1998年に復元。

というわけで、さっそくお邪魔して拝見。いわゆる北前船については旅行するたび勉強させてもらっている感じだが、
さすがに実物大で復元されたものを見るのは初めてだ。なお、「北前船」は西廻り航路で交易を繰り返して米を運んだ船。
それに対して「千石船」は文字通り「1000石運ぶ船」を意味するが、形式名は「弁才船(べざいせん)」が正式なようだ。
1本の巨大な帆柱を立て、下の帆桁をなくして綱で留め十分な膨らみがつくようにしている、いかにもな和船である。
(わかりやすい図としては、名和神社の神紋にもなっている「帆掛船」を参照。ああいう感じの船。→2017.7.16

  
L: 後ろから見たところ。船じたいもそうだが、まず舵の巨大さに圧倒される。浅い港ではこれを持ち上げるのだ。すごいなあ。
C: 船首方向。上に乗っているのは帆柱。  R: 船尾方向。帆柱は船の全長とほぼ同じ長さだ。船は全長約24m、幅が最大約7m。

百聞は一見に如かずというが、これほどまでに説得力を感じられる教材はほかにないはずだ。これは本当にありがたい。
しかもきちんと内部も再現されているので、当時の船乗りの気分をしっかりと味わえる。とはいえ船内はたいへん狭く、
全国各地のさまざまな品物がぎっちり積まれていたとなると、船乗りたちがどのように過ごしていたのか不思議である。
しかし歴史を空間的に体験できるというのは本当に素晴らしいことだ。心の底から感動した。みんなもぜひ行ってほしい。
毎年7月の最終日曜日には「白山丸祭り」が開催され、帆を張った姿を見せてくれるそうだが、どれほど壮観だろうか。

  
L: 船内に入って船首方向を見る。右手に神棚がある。船と信仰の関係は興味深い。  C: 船尾方向を見ると、目の前に舵。
R: 船底。こちらに御影石などを積んで安定を保っていた。石は瀬戸内産で尾道で積み込み、石工も一緒に乗ってきたとか。

校舎を利用した民俗博物館としての展示も見てまわる。3万点以上という膨大な資料が高密度で展示されており、
先ほどの千石船と合わせてクラクラしてしまうのであった。想像をはるかに超えるハイレヴェルな施設だった。

  
L: 民俗博物館としての展示。凄まじい量である。  C: 学校建築との調和を感じる。  R: 教室も保存されている。

バスの時刻が来たので、最後にもう一度千石船を眺めてから県道に出る。いや、これは忘れられない経験になった。
感動しながらやってきたバスに乗り込むと、20分ほど揺られて終点の羽茂高校前まで。次の目的地は一宮の度津神社で、
実はその手前にバス停がある。しかしバスの本数が少なくて接続がうまくいかず、結局羽茂高校から歩くことに。
羽茂川手前の交差点さえ間違えなければ、道は一本でいたってシンプル。羽茂の中心部を抜けて交差点を越えると、
道は完全に農村の風景となるのであった。30分ほどトボトボと北へと歩いていくと、目の前に赤い橋が現れた。
その向こうには赤い大鳥居。見るからに一宮の威厳を感じさせる規模である。ついに度津神社にやってきたのだ。

  
L: 度津神社が見えてきた。さすがに一宮だなあと思う。  C: 赤い大鳥居。  R: 境内入口。清々しい雰囲気である。

度津神社は「わたつじんじゃ」と読む。なるほど「度」は「渡」だな、「ワタ」は海のことだし海上安全の神社か、
なんて思うが、1470(文明2)年に洪水に遭って詳しいことがわからなくなってしまった。とりあえず祭神は五十猛命。
となると紀伊国一宮の伊太祁曽神社を思い出すが(→2012.2.242014.11.8)、本来は木の神様・林業の神様である。
でも木は造船にも関係するので、海上安全・大漁祈願は五十猛命の守備範囲。伊太祁曽神社にその御守もあったし。
だからあまり違和感はないかな、と思いつつ参拝する。そしたら拝殿の立派なこと。思わず見惚れる威容なのであった。

  
L: 境内を行く。工事の軽トラが……どいてくれない……。  C: 社殿は一段高いところ。  R: 拝殿。ものすごい迫力だ。

翌日、両津港周辺で神社探索をしてみたが、御守が頂戴できそうな規模の神社はなかった。やはり度津神社は別格なのだ。
堂々としている社殿を前にすると、こちらの背筋も伸びる感じがする。気持ちよく二礼二拍手一礼するのであった。
決して大きい境内ではないんだけど、とにかく拝殿の見事さに圧倒されたなあ。しばらくいろんな角度から眺めて過ごす。
祭神が木の神様ってことで、かなり力を入れて造営したことがうかがえる。プライドを感じられる建物はいいものだ。

  
L: 角度を変えて拝殿を眺める。拝殿は1937年に建てられており、すべてに台湾産のヒノキが使われているそうだ。
C: 拝殿向かって右側、手前が獅子殿、奥が八幡宮。  R: 本殿。1709(宝永6)年築とのことだが、これ覆屋ですね。

島の一宮ということで少々不安があったが、御守はごくごくふつうに頂戴できた。神職さんもフレンドリー。
いざ参拝し終えると、他の一宮とまったく変わらない素敵な神社なのであった。参拝できてよかったなあと思う。

 
L: 度津神社の境内西隣は佐渡市立佐渡植物園。佐渡の自生種を展示しているというが、雰囲気は野放しの公園。
R: 奥へ進むと温室もある。道を挟んだ向かいは温泉施設のクアテルメ佐渡なので、じっくり過ごすのもよさそう。

来た道を戻るが、途中にある草苅神社に寄ってみる。境内に入って左手にある能舞台が新潟県の指定文化財。
階段を上がっていった先の拝殿も幅があり堂々としていて見事だ。でも御守はあるんだかないんだかよくわからず。

 
L: 草苅神社の能舞台。佐渡は流人が京都の文化を伝えて能舞台が多い。世阿弥が流されたことが決定的だったとか。
R: 拝殿。旧村社にしてはかなり立派な印象である。旧称は祇園羽茂神社だが、古い地名「草苅の里」にちなんで改称。

羽茂川近くの交差点の辺りに一の宮入口バス停があり、そこから1時間、佐和田バスステーションまで揺られる。
平成の大合併を経て現在の佐渡島は一島一市(佐渡市)となっているが、かつては10市町村が存在していた。
その中でも旧佐和田町は、商業と島内交通の中心となっている。新潟交通佐渡の本社は佐和田バスステーション内だ。
現在の県立佐渡高校の位置にかつては河原田城があり、この辺りは本間氏が治める城下町として栄えていた。
その後、金山のある相川に佐渡奉行所が設けられ、1617(元和3)年に河原田城は廃城となるが、街は残った。
17時を過ぎてすっかり夕方の空気となってしまったが、できる範囲で動きまわって街の雰囲気をつかむ。

  
L: 佐和田バスステーション。  C: 佐和田海水浴場。佐和田(河原田)は佐渡のS字で南西側の凹みに位置している。
R: 佐和田(河原田)の商店街。雰囲気は島外とまったく変わらない。島で商圏が独立している分、むしろ元気な印象。

メシをどうするかなあと思いつつ北側の国道350号に出ると(国道350号は佐和田でヘアピン状に市街地をまわる)、
なんとトマト&オニオン(→2013.8.202014.5.42017.7.17)の佐渡店があるではないか! これは本当にうれしい。
そして津山でもいただいたトマトの丸ごとサラダがあったので感涙にむせぶ。またこれが食えるとは! トマオニ最高!

 感動のあまり今回も写真を撮ってしまった。いいトマトだらう。トマオニ最高!

余韻に浸りつつ佐和田バスステーションに戻り、相川行きのバスに乗り込む。春日崎で下車して徒歩で本日の宿へ。
そんなに大きくないけど居心地がよく、温泉もよく、とても快適に過ごすことができたのであった。最高の旅行初日だ。


2018.3.29 (Thu.)

机上整理がつらいぜ。1年間で積み上がった物理的な重みが半端ない。でもその重みと向き合って過去を整理しなければ、
新年度になって机を移動させるときに各方面に迷惑をかけることになってしまうのだ。義理と人情でやる気を出す。
(職員室の中は「1学年はここ!」というように担当学年で場所が決まっているので、新年度にほぼすべての机が動く。)
しばらくシュレッダーと格闘してすっきりすると、各方面から「別の人の机みたい」と声をかけられる。……もう慣れた。


2018.3.28 (Wed.)

春休みということでがんばって日記を書こうとしているのだが、やっぱり思うように進まないねえ。
書くべきことが多すぎて。まあ裏を返せば、それだけ充実した毎日を過ごしていたってことなんだ、と思っておこう。


2018.3.27 (Tue.)

本日、無事に退学届を提出したのであった。10年ぶり2回目である(→2008.11.4)。まさか人生で2回も退学するとは。

振り返ってみると、本当にいろんなことがあった2年間だったなあとしみじみ思う。前回は大量の単位を着実に取ったが、
今回はとにかくトラブルに振り回された思い出が強烈である。特に最後のドタバタは信じられない密度だったなあ。
スクーリングのためにわざわざ大阪へ行ったことも、非常に強く印象に残っている(→2017.9.162017.9.172017.9.18)。
でもすべての時間が楽しかった。自主的な勉強を通して知識がブリブリと増殖していくのが純粋に快感だったし、
法律を勉強して姉歯の仲間が大学時代に何を学んでいたのかがわかって、やっと追いつけた!という気分になれたし。
この2年間で僕がどれだけ成長したかはわからないが、夢中になって勉強したことで、一回り大きくなれた気はしている。
学ぶことは楽しい、その真実を存分に確かめることができた2年間だった。退学しても、学ぶことはまだまだ続くのだ!


2018.3.26 (Mon.)

近年稀にみるひどい花粉症である。前に書いたと思うが、僕の花粉症はいきなり重症を発症するスタイル(→2005.3.18)。
つまりオール・オア・ナッシング的な花粉症なのだが、今年についてはそのひどさが極限まで来ている感じがする。
目から鼻から液体があふれ出し、ティッシュがいくらあっても足りない。症状をただ受け入れるだけだが、つらい。


2018.3.25 (Sun.)

「滋賀県の御守集め」 の2日目は、近江八幡から野洲そして守山までをレンタサイクルで一日中爆走するのである。
文字にするとシンプルだが、これ実際にやるのはけっこう狂気の沙汰。でもそれがいちばん効率的だからしょうがない。
昨日の日記でも書いたとおり、湖東地域はめちゃくちゃだだっ広い。今日はそれをイヤというほど実感することになる。
まあとにかく晴れてよかった……。そう心の底から思いつつ、8時30分に近江八幡駅を出発する。国道8号に出て、東へ。

  
L: 国道8号経由でまわり込み、奥石神社に到着。こちらは旧中山道の東側に面している参道。老蘇の森の勢いがよくわかる。
C: こちらも旧中山道に面する奥石神社の南側入口。表参道はこちら。  R: 参道を行く。何か輪っかがぶら下がっている。

本日最初のターゲットである奥石(おいそ)神社に到着。もともとは繖山(→2015.8.7)の磐座を遥拝する里宮だとか。
なるほどそうならば「奥石」という社名にも納得がいく。社伝ではこの地に木々の苗を植えた石辺大連が長生きし、
社叢を「老蘇(おいそ)の森」と呼ぶようになった。1581(天正9)年に柴田家久が造営した本殿は国指定重要文化財。

  
L: 拝殿。やはり本殿の手前で独立して建てられている滋賀県スタイルである。  C: 拝殿の裏、本殿。
R: 中を覗き込んだところ。こちらを造営した柴田家久は勝家の一族で、織田信長の家臣とのこと。

参拝を終えると、そのまま旧中山道を西へ行く。穏やかな住宅が続いており、そのまま武佐宿へとつながる感じに。
山の中の宿場町とは雰囲気が違うなあと思いつつペダルをこぐ。武佐駅を越えると国道8号に合流、六枚橋から南下。

 武佐宿。左は旧八幡警察署武佐分署庁舎。1886(明治19)年築で、国登録有形文化財。

途中を日野川が蛇行しながら横切るが、延々と平地が続く地形である。そのほとんどが農地として利用されている。
しかし、航空写真で見ると平野の中央に唯一、深い緑色がある。これが国宝の本殿を持つ苗村(なむら)神社だ。
延喜式神名帳には「長寸(なむら)神社」として列している。朝廷に門松用の松苗を献上して「苗村」となった。
苗村神社の境内は駐車場を挟んで東西に分かれており、まずは東側の本殿から参拝する。実はこちらの方が歴史が古い。

  
L: 苗村神社東本殿の境内入口。鳥居の扁額には「長寸神社」とある。  C: 木々が鬱蒼と茂る参道を行った奥はこんな感じ。
R: こちらが東本殿。室町時代の築で、国指定重要文化財。西本殿に視線が行く分、こちらは古来の聖地という雰囲気が残る。

では西本殿へ。木々に囲まれた東側とは対照的に、こちらはかなり開放的な境内だ。ただし航空写真で見ればわかるが、
その北側にはしっかり社叢が残されている。まあ農地化や小学校建設でだいぶ削られたんだろうけど。とにかく参拝だ。

  
L: 苗村神社西本殿の境内入口。こちらの扁額は「苗村神社」。よく見ると楼門までの参道がわずかにカーヴしている。
C: 楼門。沙沙貴神社(→2015.8.7)同様、茅葺の迫力がすごい。国指定重要文化財で、室町・応永年間の築とみられる。
R: 角度を変えて眺める。手前が土の馬場となっており、北の小学校から南の県道までを貫き、境内よりも長い距離がある。

楼門をくぐると右手が社殿。まずはやっぱり独立した拝殿である。その奥に門と幣殿を挟んで国宝の西本殿がある。
1308(徳治3)年の築で、斜めに入った菱格子が繊細さを感じさせ、また歴史の重みを語りかけてくるようだ。
吊灯籠に不動堂があるなど境内の雰囲気は寺に近く、全体的に仏教っぽさが抜けていない感触なのが面白い。
西本殿は吉野の金峯山から国狭槌命が遷座したことで造営されたというが、その修験道の影響があるのだろう。

  
L: 拝殿。  C: 奥に西本殿。  R: 中を覗き込む。ちなみに左手前に並ぶ八幡社も国指定重要文化財となっている。

参拝を終えるとせっかくなので、神社の南西にある竜王町役場に寄っておく。竜王町は苗村・鏡山村が合併して誕生。
苗村の東には雪野山、鏡山村の西には鏡山があり、どちらも「竜王山」という別名があるので町名にしたとのこと。

 1982年竣工の竜王町役場。山梨の方は合併しちゃったから竜王町は全国でここだけ。

竜王町役場向かいのスーパーで水分を補給すると、農地をひたすらに北上して国道8号に戻る。だだっ広いなあ。
さらに西へと向かう途中、峠を越える手前にあるのが鏡神社だ。「源義経 元服の地」という幟が立っている。

  
L: 鏡神社の入口。  C: 石段を上っていくと鳥居が現れる。  R: 境内の様子。意外と広くて驚いた。拝殿が真新しい。

この辺りにはかつて都を出た人が最初に泊まった宿場・鏡の宿があったという(江戸時代には宿駅からはずれた)。
鞍馬山を脱出した遮那王(牛若丸)は夜に鏡の宿に泊まり、誰もいないので自分一人で烏帽子をかぶって元服し、
自ら「源九郎義経」と名乗ったという話。その後、義経は平泉に向かい、藤原秀衡の下で雌伏の時を過ごす。

 
L: 拝殿の奥の本殿。  R: 中を覗き込む。南北朝時代の築で、国指定重要文化財。

次の目的地は大笹原神社である。峠を越えると川に沿って南下していく。村田製作所の工場の脇を抜けていくと、
スマホは「山の中へ突っ込め」との指示。本当に大丈夫かよ、と不安になるが、小さいながらも案内板があり、
意を決して上っていく。すると鳥居が現れて、いちおう神社らしい雰囲気に。それでも山の印象の方が強い道だった。

  
L: 本当に神社があるのかと不安になりながら進んでいくと、鳥居が現れてほっとする。あーよかった。
C: やがて左手に社殿。きちんと神社があったことにようやく安心。  R: 拝殿。おなじみの滋賀スタイル。

どうにか大笹原神社に到着。こちらは本殿が国宝ということで、なるほどバランスのとれた美しさである。
岩倉城主・馬淵定信が1414(応永21)年に建てたもので、特に彫刻が優れており、東山文化を伝える建築とのこと。
なお、本殿の脇には境内社・篠原神社がある。こちらは1427(応永34)年の築で、国指定重要文化財となっている。

  
L: 本殿。一見、シンプルに見えるが実は装飾が豊か。蟇股や脇障子など、さりげない部分が見事な彫刻で仕上げてある。
C: 角度を変えて眺める。奥が「餅の宮」の異名を持つ篠原神社。この辺りは鏡餅発祥の地で、鏡餅の神・石凝姥命を祀る。
R: 境内の東側には寄倍(よるべ)の池。実は底なし沼で、神輿を2基沈めたところ水が涸れることがなくなったとのこと。

国宝の次は、また国宝。御上(みかみ)神社に参拝するのだ。国道8号に戻ってひたすら西へとひた走り、
野洲川の手前にある御上神社へ。南側には立派な駐車場もあり、鳥居も大きい。規模の大きさに驚きつつ境内に入る。

  
L: 国道8号から見た御上神社の入口。国道沿いに国宝級の神社がしれっと建っていることにびっくりである。
C: 鳥居。さすがは別表神社の風格である。  R: 参道を行く。国道のすぐ脇だとは思えない厳粛な雰囲気。

御上神社は東にある「近江富士」こと三上山を御神体とする神社である。三上山は俵藤太(藤原秀郷)の百足退治の舞台。
瀬田の唐橋(→2012.12.27)で踏んづけた大蛇が秀郷に助けを求め、三上山のムカデをやっつけたとさ。そんな秀郷は、
栃木県佐野市の唐沢山城(→2016.11.26)を本拠地としたんだけどね。昔の人はあちこちでいろいろやってますね。

  
L: 楼門。1365(康安5)年の築。  C: 角度を変えて眺める。これは本当に立派。しかし非常にお寺っぽい。
R: 拝殿。鎌倉時代後期の築で、旧本殿の部材を再利用して移築・改造したとされる。滋賀県スタイルの源流か?

これまで見てきた神社も見事な建造物が多かったが、御上神社はさらにワンランクその上をいく印象である。
木材も古くなると独特の落ち着きをみせるが(僕は小浜の明通寺でそのことを実感した →2010.8.202013.8.12)、
御上神社の建築たちは古材ゆえの落ち着きに加えられた装飾性が、見事な調和をみせている。本殿が国宝であるほか、
拝殿・楼門・摂社の若宮神社が国指定重要文化財となっており、これらの建物に囲まれていると別世界にいる気分になる。

  
L: 左が若宮神社で右が本殿。  C: 本殿。鎌倉時代後期の築。千木と鰹木で確かに神社建築なのだが、お堂っぽさもある。
R: 摂社の若宮神社。こちらも鎌倉時代後期の築。「御祭神 菅原道真公」と説明板が貼り付いているが、伊弉諾命も祀っている。

贅沢な建築空間を心ゆくまで味わうと、野洲市役所へと向かう。滋賀県の市役所で訪問したことないのはここだけ。
これで滋賀県の市役所を完全制覇できると思うとペダルをこぐ足取りも軽くなるってものだ。野洲市役所の所在地は、
野洲駅から東にわずか300mほど。いざ来てみると、逆になぜこんなに駅から近いのに今まで来なかったのか不思議。

  
L: 野洲市役所。野洲市は2004年に中主町と野洲町が合併して誕生。というわけで、こちらはもともと野洲町役場。
C: 手前の庭越しに本館を見たところ。これは町役場ですなあ。  R: 角度を変えて、南側の別館手前から眺める本館。

野洲市役所は1968年に野洲町役場として竣工している。なるほど、言われてみればシンプルな3階建てで町役場サイズ。
周辺は県道150号を軸に再開発が進んでいる印象だが、空間的に余裕があってやっぱり湖東地域の広大さを感じさせる。
市役所は築50年だが、この建物で行けるだけ行くつもりなのだろう。建て替えるにしても土地はあちこちにありそう。

  
L: 反対の北側から前庭ごと見たところ。  C: 北側の出入口から見たところ。  R: 広い駐車場から見る背面(東側)。

中を覗き込んでみるが、やはりふつうの役所なのであった。スイスイと撮影が終わったのでありがたかった。
なんだか呆気なく滋賀県の市役所を完全制覇してしまった。野洲にはまだ用があるが、とりあえず次の目的地へ。

  
L: 南側から見た背面。  C: 中を覗き込むが、ふつうに役所である。  R: 本館の南西にある別館。

野洲川を渡って守山市に入る。前回訪問で市役所周辺の道が異様に曲がりくねっているのは体験済みだ(→2015.8.9)。
厳密に言うと、駅から中山道守山宿を抜けようとするとえらいことになる。裏側である野洲側から攻めればわりと楽。
というわけで、慎重に東側から入って守山市役所に到着。今回は正午過ぎの訪問なので、日差しに苦しむことはない。
なお、前回も書いたとおり、守山市役所は1965年に守山町役場として竣工。「守山総合ビル」という名称だったみたい。

  
L: 守山市役所。まずは本館から。  C: 角度を変えて眺める。北側から見たところ。  R: 今度は近づいて西から。

  
L: 本館が収まるように撮ってみた。  C: 南西側から見たところ。こちらは1973年竣工の新館。  R: 背面。

  
L: 本館の左隣(北東)に接続する1965年竣工の大ホール。後ろには同じく1965年竣工の東館がくっついている。
C: 守山市役所内の市民ロビー。  R: エントランスから入って右側。ずっと進むと窓口となっている。

市役所にリヴェンジした後は、せっかくなので中山道守山宿についてもリヴェンジ。わかっちゃいたけど、
道の曲がりくねり方が本当に前近代。そして観光地化されておらず、ふつうに住民の生活圏なのがまたいい。

  
L,C,R: 中山道守山宿。往時の雰囲気をしっかり残すが、同時に現在も生活感にあふれている興味深い場所だ。

そんなこんなで目指すは勝部神社だ。これまたリヴェンジである。御守の日焼けがひどいので受け直すのだ。
やっぱりカラフルで迷ってしまうが、今回は日焼けに強そうな白を頂戴してみた。さあ、どんなもんずら。

 
L: 勝部神社。ここは拝殿が独立していないふつうのスタイル。とはいえ、拝殿が回廊と一体化しているが。
R: 勝部自治会火まつり交流館。レンタル会議室もある多目的施設。2017年オープンで、設計はmts一級建築士事務所。

そのままさらに南西へ進んで大宝神社まで行ってしまう。こちらはぎりぎり栗東市。ついにここまで来たか。
ちなみに所在地は「綣」と書いて「へそ」と読む。市域の超端っこなのに「へそ」とはどういうことなのか。
大宝神社の社名は年号にちなんでおり、701(大宝元)年の疫病の際に素盞鳴尊と稲田姫命を祀ったのが始まり。
境内の東側には伊吹山に座す地主神・多々美彦命を祀る追来(おふき)神社がある。こちらは国指定重要文化財。

  
L: 大宝神社の入口。ご覧のとおり、長い参道を行くことになる。  C: 四脚門。寺っぽい。奥に拝殿が見える。
R: 本殿は工事中なのであった。見るからに歴史がありそうで、じっくり見ることができなかったのが残念である。

 境内社・追来神社は1284(弘安6)年の築。「おふき」は「意布伎(いぶき)」が転じた。

さあここからは近江八幡に引き返していく。が、来た道を戻るようなことはしない。レンタサイクルをフル活用だ。
守山から野洲へ入るが、琵琶湖の方へと走っていく。さっきも書いたが野洲市は中主町と野洲町が合併して誕生した。
その中主町は、中里村と兵主村が合併したものだ。というわけで、目指すは兵主大社。正式名は「兵主神社」らしいが。
広大な農地と住宅地が交互に続く景色を抜けると鳥居と参道が現れる。神社の周辺だけは昔のままの姿なのだろう。

  
L: 兵主大社の鳥居と参道。中学校の脇をまっすぐ300m、この光景が続く。  C: 左に向き直って境内入口。手前は駐車場。
R: 鳥居をくぐると見事な楼門。1550(天文19)年の築。ただ、何度か大修理を行なっており、建立当初の部材は少なめとか。

兵主大社は桜井市にある穴師坐兵主神社からの勧請で、高穴穂宮への遷都により創建された。祭神は八千矛神で、
これは大国主神・大己貴命のこと。ちなみに高穴穂宮は景行天皇の時代の話で、大津市穴太の高穴穂神社がその跡地。
その後、琵琶湖の反対側に遷るが、八千矛神は白蛇となり亀の背中に乗って琵琶湖を渡り、湖岸からは鹿に乗り、
この地にやってきたということで、神紋は鹿角に亀甲を乗せたデザインである。御守はどの種類もこの神紋が基本形。

  
L: 角度を変えて楼門を眺める。  C: 楼門をくぐる。雰囲気のある境内だ。  R: 社務所(授与所)。重厚でよい。

武士の時代になると兵主大社は「兵」の「主」ということで崇敬を集め、武具の文化財が多数奉納されている。
なお、こちらの社殿は拝殿が独立しておらず、回廊と一体化した勝部神社と同じスタイル。滋賀県の神社は奥が深い。

  
L: 拝殿。向拝がないと楼門に似ているなあと思う。  C: 本殿。1643(寛永20)年の築とのこと。  R: 旧護摩堂。神仏習合だ。

さて兵主大社は庭園も有名で、国の名勝に指定されている。授与所で御守と一緒に拝観料を支払い見学させてもらう。
様式としては鎌倉時代末期らしいが、平安時代後期にまで遡る遺構が見つかったそうだ。参道に沿って庭園は細長く、
その距離に応じてさまざまな表情を見せるように工夫されている。おかげで素朴さと華麗さと両方あるのが面白い。

  
L: 兵主大社の庭園。この辺りは回遊式っぽい。  C: 本殿の近くは浄土庭園の雰囲気かな。  R: 楼門付近。川ですね。

大いに楽しませてもらったが、時刻は15時が近づいており、少し夕方の気配が漂いだす。少し急いで日野川を渡る。
このまま行けば本日のゴールに設定している日牟禮八幡宮だが、その途中にある賀茂神社にもきちんと参拝する。
さてこの神社、珍しいのは鳥居に通じる参道がないところ。目の前はいきなり畑で、なんとも唐突な印象がする神社だ。

  
L: 賀茂神社。やはり周辺はだだっ広い農地だが、ここだけ緑に包まれている。境内に通じる参道はなく、すぐ目の前は畑。
C: 境内入口。これだけ立派なのに参道がないのが不思議。  R: 緩やかに高くなっていく境内。参道左にあるのは産霊社。

もともとここは、白村江の戦いに敗れた天智天皇が「これからは騎馬の時代じゃね?」と日本初の国営牧場を創設した地。
(天智天皇は大野城(→2017.8.5)など朝鮮式山城を西日本各地に築いた。白村江の戦いのトラウマぶりがうかがえる。)
そこに、当時の日本が苦しんでいた災害や疫病を封じるべく、聖武天皇が736(天平8)年に創建したのが賀茂神社なのだ。
後の国分寺や東大寺につながる発想がみえてくる。陰陽道の祖とされる吉備真備に命じて社殿を整備したそうだ。

  
L: 境内。神馬像の前には鳥居があり、さすがの気合いを感じる。  C: 拝殿。  R: 本殿は覆屋でまったく見えない。

参拝を終えるとそのまま境内の南側を抜けるが、参道がなかったのと対照的に、こちらはしっかり馬場となっている。
神社のすぐ北東には日本在来馬(これもそう →2017.8.21)で乗馬や流鏑馬が体験できる日本の馬 御猟野乃杜牧場もある。
やはり滋賀県というのは歴史もあるし土地もあるし、きちんと味わうとどこまでも奥が深い場所だなあと再認識。

 賀茂神社の境内南側にある馬場。約400mあり、ここで競馬もやるそうだ。

東へ進んでようやく八幡堀へ。やっとこさ近江八幡の中心部にたどり着いた。でも駅まではすごく遠いんだよなあ。
この辺りに来るのは8年ぶりである(→2010.1.10)。時刻が夕方に近くなってきたとはいえ人影が絶えることはなく、
相変わらず賑わいを感じさせる空気が漂っている。テンポよく写真を撮ってまわると、日牟禮八幡宮へと向かう。

 
L: 八幡堀。相変わらずフォトジェニックだぜ。  R: 白雲館。日牟禮八幡宮の鳥居はこの真向かいだ。

というわけで日牟禮八幡宮である。二度目の参拝ではあるが、御守を頂戴していないので、それがとにかく気になる。
鳥居をくぐると横参道で、あらためてその長さと観光客の数に辟易する。行き来する車も多いし。撮影が本当に大変。

  
L: 日牟禮八幡宮の木造明神鳥居。1616(元和2)年の造営だが、何度も修理されている。高さは8.8mあるそうだ。
C: 楼門。1858(安政5)年の再建だが、1970年に上部を焼失して翌年復興とのこと。少なくとも2回、祭りで焼けている。
R: 楼門をくぐって境内へ。あらためて訪れてみると、雰囲気が日吉大社(→2010.1.92014.12.13)によく似ている。

昨日のログでもちらっと書いたが、滋賀県の神社は日吉大社を筆頭に、拝殿が独立している独自のスタイルが多い。
こうしてあらためてじっくり日牟禮八幡宮の空間を体験してみると、都市部で日吉大社を再現したのかな、と思う。
近江八幡の商人たちがその財力を全力でつぎ込み、自分の街で日吉大社にあやかった神社をつくりあげていった、
そんな経緯があるのかなと想像する。日牟禮八幡宮は特に修理が多く、それだけ手を入れたい商人が多かったのか。

  
L: 拝殿に向かって右手の能舞台。1899(明治32)年の築。  C: 拝殿。1188(文治3)年の造営後、二度の改築を経る。
R: 拝殿の裏にある本殿。拝殿から距離がないので窮屈。いっぱい修理して今の姿に。並ぶ吊灯籠が神仏習合な雰囲気だ。

無事に御守を頂戴すると、せっかくなので近江八幡の街並みをあらためて味わいながら駅へと戻る。
昨日のログで書いたように、「八幡表に日野裏」という言葉があるそうで、通りの雰囲気は見事の一言である。
やはり新町通りは別格だが、それ以外の通りも古い建物が点在して残っており、往時の感触を面的に味わえる。

  
L: 近江商人のプライドがはっきり残る新町通り。  C,R: しかしそれ以外の場所も往時の雰囲気をよく残している。

駅に向かう途中には、近江八幡市役所。実は近江八幡市は来月に市長選挙が行われ、市庁舎建設が争点になっている。
僕が自転車で走りまわっている最中も、選挙カーがあちこちで喚きまくっていた。工事はすでに始まっているのだが。
いったいどうなることやら。今の市役所は建ってから50年近いし、工事をやめてもどうにもならんように僕は思うけど。
(※その後、4月の市長選挙で建設反対派が当選して建設工事の契約が解除された。前市長が訴訟を起こす泥仕合に。
  しかし結局は新庁舎の建設が決まり、2020年5月から7月にかけて基本設計の公募型プロポーザルが実施された。
  滋賀県建築設計監理事業協同組合が最優秀提案事業者となったが、並行して現庁舎の耐震工事が行われている。)

 
L: とりあえず2018年3月現在の近江八幡市役所。1971年竣工で、市役所の建設とともに周辺が官庁街として整備された。
R: 現庁舎のすぐ西隣が工事中の新庁舎予定地。しかしこの段階で市庁舎建設が争点になるとは、なんとも元気な街だなあ。

以上、まる一日自転車をこぎまくっての湖東地域神社めぐりなのであった。滋賀県の奥深さを思い知った一日だった。


2018.3.24 (Sat.)

春休みの旅行、第1弾である。今回のテーマはズバリ、「滋賀県の御守集め」であります。
というのも、実は滋賀県はけっこうな神社天国で、さすがかつては天智天皇も遷都した近江国なのである。
今回は神社を中心に据えてその近江国の歴史をきちんと味わいつつ、御守を頂戴していこうというわけだ。
夜行バスで四日市に入ると、関西本線を乗り継いで柘植へ。ここから草津線で滋賀県を攻めていくという作戦なのだ。

  
L: 油日駅。駅舎は忍者屋敷がモチーフとのこと。  C: 駅前の通りを行く。古い商店建築がけっこう残っている。
R: 旧商店街の終わりに油日神社の一の鳥居。ちなみに草津線沿いの南側には上野城址がある。甲賀にも上野城があったのね。

まずは柘植駅からたった1駅、油日駅でさっそく下車。目指すは油日神社だ。農地が広がる中を東へ歩いていくが、
目につくのはやはり滋賀県ということで、飛び出し坊やである。しかもここは甲賀ということで、みんな忍者なのだ。
面白いもんだなあと思いながら歩いていくと、道の脇に石灯籠がずらっと並びだす。油日神社の威厳を感じる光景だ。

 
L: 滋賀県×甲賀=忍者の飛び出し坊や。手作りの飛び出し坊やがあちこちにいたが、みんな忍者なのであった。
R: 油日神社まであともう少し、となると、このように石灯籠が道に並びだす。左手に見える集落の奥が油日神社。

住宅地の中を抜けるといきなり油日神社である。甲賀の総社で旧県社ということで、さすがに規模が大きい。
また規模が大きいだけでなく、しっかりと歴史を感じさせるつくり。昔ながらの独特な社殿の配置なのである。
それもそのはず、油日神社は本殿・拝殿・楼門・廻廊すべてが国指定重要文化財。威厳が違いますな。

  
L: 集落の中を抜けると油日神社の境内入口。  C: 楼門。1566(永禄9)年の築。  R: 楼門を抜けて拝殿。

油日神社とはなんとも珍しい名前だなあと思いつつ参拝。神社の南東、三重県との県境にある油日岳が御神体。
この山頂に、油の火のような光とともに油日大神が降臨したことでその名がついたそうだ。甲賀の武士に信仰され、
境内は甲賀郡中惣の遺跡として史跡になっている。甲賀武士は独立性が強く、戦時は六角氏に協力してゲリラ戦を展開。
しかしふだんは農業や行商をしていたそうだ。これが甲賀忍者と認識されているわけだ。織田信長が勢力を伸ばすと、
甲賀郡中惣を組織して合議制で地域の自治を行うようになる。甲賀流は薬の調合を得意とし、今も製薬会社が多いそうだ。

  
L: 拝殿。天正年間の建立。  C: 楼門から続く廻廊。こちらも1566(永禄9)年の築。  R: 拝殿脇から楼門と廻廊を眺める。

社殿を堪能すると、御守を頂戴する。朝イチだったが無事に頂戴できてほっとする。残った時間で境内を散策するが、
それぞれの建築は建てられた時期に大きな差がないこともあり、独特ながらも統一感のある雰囲気がとても素敵だ。
これだけの規模で建物がしっかりと残っていて、しかも騒がしい参拝客がいない。すばらしい神社だなあと感心しきり。

  
L: 本殿手前の中門。  C: なんとか本殿を覗き込む。1493(明応2)年の築。  R: 境内社のたたずまいも美しい。

さて、油日神社はその名前から、油の神様としても信仰されている。楼門の裏側には油の一斗缶が奉納されており、
これまたじっくり見ているとデザインが面白い。もはやふだんなかなか見ない物だからなあ。奥が深いですね。

 楼門の裏に奉納されている油の一斗缶。これまたデザインの多様性が美しい……。

油日神社を後にすると、来た道を素直に戻って油日駅へ。15分ほど揺られて貴生川駅で下車し、近江鉄道に乗り換える。
近江鉄道というとやたらめったら運賃が高いイメージがあるのだが(3年前にも書いている →2015.8.9)、しょうがない。
20分ほど揺られて下車したのは、日野駅である。中央線じゃない方ね。蒲生郡日野町で、蒲生氏の城下町である。

 日野駅。1916(大正5)年に建てられた私鉄最古の現役駅舎。昨年10月に改修が完了。

しかし日野の中心部は駅からだいぶ離れているのである。駅から近い自転車屋でレンタサイクルを借りられるので、
それで快調に走りだすのであった。南に。日野の中心部は東なので、方角が90°も違う。でもそれでいいのだ。

  
L: 比都佐神社の入口。  C: 境内入口。  R: 鳥居をくぐって参道を行く。昔っからこうなんだろうなあ、という雰囲気。

というわけで、最初に訪れたのは、比都佐(ひつさ)神社である。旧県社で、宝篋印塔が国指定重要文化財。
もちろん御守を期待しての訪問だが、広い境内はいかにも里の神社という雰囲気で、ひたすら地元民向けな印象。
それはそれで正しい神社のあり方である。社殿の脇ではおばあちゃんたちが座って何やら話し込んでいた。

 国指定重要文化財の宝篋印塔。1304(嘉元2)年の建立だが、しっかりしている。

結果から言うと御守はないようだったが、風格ある社殿がしっかり残っている辺りが近江らしさかな、と思った。
安土の活津彦根神社(→2015.8.7)、五個荘の龍田神社と大城神社(→2015.8.9)など、無人でも立派な神社が多く、
近畿のプライドや滋賀県人の勤勉さと金銭感覚の鋭さを感じさせる。宅地化しきっていないので昔ながらの姿が残るのか。

  
L: 舞殿っぽく思えるのだが、滋賀県のほかの神社の例から考えるとこれは拝殿ということになるのか。
C: 拝殿っぽいけど幣殿か。  R: 本殿。火災に遭っており、現在の社殿は1886(明治19)年の再建とのこと。

国道307号で日野の中心部に殴り込みをかけるが、お昼ということで国道沿いの店でランチをいただいてから突撃。
すっかり郊外社会のお世話になっているのうと思いつつ進んでいくが、日野の中心部に入ると雰囲気がガラリと変わる。
特に街並みが文化財に指定されているわけではないのだが、そこははっきりと歴史の香りが漂う空間なのであった。
きちんと検証しないとわからないが、感触としては五個荘(→2015.8.9)と街道沿いの町人町の中間といったところか。

  
L,C,R: 日野の街並み。五個荘の商人の屋敷が集まった感じと街道沿いの町人町の中間、という雰囲気がする。

上述のように、日野は蒲生氏の城下町だった。しかし蒲生氏郷が伊達政宗に対する抑えとして黒川(会津若松)に移ると、
日野は衰退する。そこで住民たちは漆器の日野椀を売り歩いて生計を立てる。これが日野商人へと発展していくわけだ。
やがて商品は万病感応丸に代表される薬が主力となる。僕はこの辺りに、先ほどの甲賀武士の影響を感じるのだが……。
まあとにかく、関東に店を多く持った日野商人たちは、地元の日野に邸宅を築く。これは五個荘と同じスタイルである。
やがて日野の中でも商店が点在するようになり、昭和な雰囲気の看板が出る現在の景観に落ち着いた、ということだろう。
そのような歴史的経緯が、日野の街にはけっこう素直に出ているように思う。都市を読む面白さがある街だと思うのだ。

  
L: 日野の住宅の塀。このように凝った意匠が印象的だった。  C: 日野商人街道から町役場へ向かう道。こちらはだいぶ広い。
R: 1980年竣工の日野町役場。現在の日野は、旧市街地である日野商人街道の北側が役場を中心に郊外社会として開発されている。

では日野を代表する神社、馬見岡綿向神社に参拝する。読み方は意外と素直で、「うまみおか わたむき じんじゃ」。
神社から見て真東にある綿向山の頂上に出雲国開拓の神を祀ったのが始まりで、その里宮として現在地に遷座した。
蒲生氏が氏神として崇敬したほか、やはり日野商人たちがその財力をフルに発揮して社殿を造営している。

  
L: 日野商人街道から北に延びる馬見岡綿向神社の参道。  C: 長い距離を進んでいくと境内。  R: かなり広々としている。

滋賀県というとなんといっても琵琶湖がど真ん中にあり、どうしても周囲の山と琵琶湖の間で暮らすことになる。
飛び出し坊やの異様な密度(→2010.1.10)は、その直感的な「狭さ」を反映したものではないかと思っているのだが、
実際には琵琶湖の南岸、特に湖東地域はめちゃくちゃだだっ広く、農地が延々と続く。自転車で走ればよくわかる。
(安土城址から見る干拓地の広さよ →2015.8.7、彦根の滋賀県立大学周辺なんてもう、絶望的に広いぜ →2014.4.5
馬見岡綿向神社も、その滋賀県本来の広さを感じさせる余裕のあるつくり。芝生で上手く演出していると思う。

  
L: 拝殿と向き合う。  C: 拝殿の手前にある太鼓橋。けっこう立派なのだが詳しいことがわからない。
R: 拝殿。1803(享和3)年の築。日野の豪商・中井源左衛門家の寄進。瀬田の唐橋も建立したとか。

先ほどの油日神社といい比都佐神社といい、滋賀県の神社は他県なら舞殿とするところを拝殿とする特徴があるようだ。
つまり、拝殿が本殿から完全に独立した形で手前に置かれる。振り返ると日牟禮八幡宮(→2010.1.10)もそうだったし、
日吉大社(→2010.1.92014.12.13)も沙沙貴神社(→2015.8.7)もそうだった。どんな経緯でそうなったのか気になる。

  
L: 本殿。1707(宝永4)年の築で、滋賀県有形文化財に指定されている。手前の木の刈り込み方が非常に印象的である。
C: 本殿を裏から眺めたところ。  C: この地に隠棲した置目老媼を祀る境内末社・村井御前社。地主神とのこと。

戻って参道沿いにある、近江日野商人ふるさと館「旧山中正吉邸」にお邪魔する。富士宮で酒造業を営んだ日野商人で、
それだけ聞くと何がなんだかよくわからないが、出身は日野だけど地方の店を拠点に商売をしていたというパターンだ。
正吉は駿河の酒米と富士宮の伏流水に目をつけ、能登杜氏を呼んで酒をつくった。国を超えて商売していたんだなあ。
(ちなみにその酒蔵・富士高砂酒造は、山中家から離れた今も富士宮で元気に営業中。知ってりゃ飲んだのだが。)
そうして稼いだお金で正吉は日野に豪邸を建てたわけだが、確かに立派である。日野商人の財力を実感できる邸宅だ。
主屋は江戸時代末期に建てられたそうだが、何度かの増築・改築を経て現在の姿になったのは1938年ごろとのこと。
玄関から入って左手は洋間棟となっており、和と洋の両方でこだわりを追求しているのが大変興味深い建物である。

  
L: 近江日野商人ふるさと館「旧山中正吉邸」の外観。  C: 玄関。左手が洋間棟というわけ。  R: 落ち着いた空間。

  
L: 金庫や書類棚などが置かれている部屋。富士宮の酒蔵の売上金がこちらに納められていた。奥にあるのは桟敷窓。
C: 桟敷窓の外の桟敷。馬見岡綿向神社の春の例大祭・日野祭のときに開けられ、ここから渡御行列や曳山を見物したそうだ。
R: 台所。かまどが非常にモダンである。いつごろつくられたのかわからないが、いかにも質がよさそうな感じ。

  
L: 浴室。  C: 庭園。  R: 洋間。和を基本としながらも、一室だけ気合いの入った洋間とするのがさすがだなあと思う。

日野商人街道を西へ戻る。途中にあるのが、日野まちかど感応館。万病感応丸の生みの親・正野玄三家の旧薬店だ。
初代の正野玄三は行商で利益を得た後に医者に弟子入りし、自ら医者として感応丸をつくりだす。これが全国的に売れ、
日野の主力製品となったのだ。日野まちかど感応館じたいは江戸時代末期に建てられ、国登録有形文化財となっている。

 
L: 日野まちかど感応館(旧正野玄三薬店) 。日野椀に代わる行商品・万病感応丸を生んだ正野玄三家の旧薬店。
R: 大窪の交差点にある日野曳山のモニュメント。さっきの桟敷窓から家族総出で見ていたのはこれってわけだ。

それでは日野商人の邸宅をもう一丁、近江日野商人館にもお邪魔する。こちらは旧山中兵右衛門邸で、1936年築。
こちらの中は日野商人の生活が云々というよりは、日野商人全体について概要をつかむことができる博物館的内容。
正式名称は日野町立歴史民俗資料館になるのかな。その名にふさわしい展示で、近江商人の中でも日野商人の特徴が、
豊富な資料をもとに説明されている。特に日野商人はヨコのつながりが強く、石門心学の影響が大きかったみたい。

  
L: 近江日野商人館(旧山中兵右衛門邸)。外観の質素さが近江八幡(→2010.1.10)とは違う点、らしい(八幡表に日野裏)。
C: 最初の主力商品・日野椀。大衆向けの漆器として売れた。  R: やがて薬が主力に。看板がいかにも江戸時代の薬屋である。

  
L: 電話室。ガラスに「電話七番」とある。階段や丸窓など、デザインも実に1930年代らしいモダンさである。
C: 日野で生産された薬の箱やら袋やら。  R: 2階から見る中庭。確かに近江八幡は庭に凝っていないイメージだなあ。

以上で日野の見学を終了とする。自転車をかっ飛ばして日野駅まで戻り、近江鉄道を南へと引き返す。が、水口で下車。
前回は水口城南駅周辺を動きまわって終わったが、今回はきちんと街歩きをしてから神社と市役所を目指そうというわけ。
まずは旧水口図書館。滋賀県の気合いの入った近代建築ということで、ヴォーリズ建築(→2010.1.102012.12.27)だ。
隣接している水口小学校の整備に合わせて建てられたが、東海道の宿場町(水口宿)にいきなり現れたヴォーリズ建築は、
かなりのインパクトがあった模様。以来、水口の知の拠点として大切にされてきたそうだ。国登録有形文化財である。

  
L: 旧水口図書館。1928年竣工のヴォーリズ建築。なんだか落ち着かないバランスだが、初期の鉄筋コンクリートってことで。
C: 南へ行くと、東海道の水口宿。  R: 水口宿の西端は3つの筋に分岐する非常に珍しい構造。からくり時計が置かれている。

旧水口図書館から南に出ると、すぐに東海道の水口宿にぶつかる。今も古い木造の建物が点々と残り、商店もちらほら。
しかし何が面白いって、宿場の端っこから見ると通りが3つに分岐していることだ。まるでオバQの髪の毛のごとし。
どうしてこんなことになったのかはわからないが、おかげで街に厚みがある。城下町ゆえの工夫だったのだろうか。

 
L: 水口教会会堂。こちらもヴォーリズ建築で、1930年竣工。  R: 公園の一角にある藤栄神社。加藤嘉明を祀るが実に小規模

水口城址を目指して歩いていくが、途中の水口中央公民館(水口体育館・綾野地域市民センター)が面白いので撮影。
ネットで調べたところ、日本建築協会の『建築と社会』1970年11月号の目次に「藤原一秀 水口町中央公民館」とあった。
これ以上の詳しいことはわからないが、ざっと見てみた限り、なかなか志の高さを感じさせる建物であるという印象。

  
L: 水口中央公民館(水口体育館・綾野地域市民センター)。真ん中エントランスを鉄とガラスで囲ったアトリウムとするのがいい。
C: アトリウム内部。  R: 北端は鹿深(かふか)ホールというらしい。「鹿深」は「甲賀」の旧名。どちらも旧仮名で「かふか」。

そんなこんなでようやく水口城址に到着。詳しいことは3年前のログを参照なのである(→2015.8.9)。
いちおう前回とは違う角度から撮った写真を貼り付けてみる。まあでも、変わらず大切にされていますね。

  
L: 南側から見た水口城址。  C: 中に入って眺める旧乾矢倉(水口城資料館)。  R: 規模は小さいが雰囲気はよい。

水口城南駅を抜けて甲賀市役所へ。3年前には影も形もなかった新庁舎が、すでに竣工して業務を開始しているのだ。
さっそく敷地を一周して撮影してまわる。設計は梓設計で、ふつうの積み上げ型平成庁舎。忍者は意識していない模様。

  
L: 甲賀市役所。まずは南東側から撮影。ちなみに向かいは西友水口店。  C: 少し東に移動。  R: 別館とセットで。

  
L: 敷地内からセットで。  C: 東から見たところ。手前の別館がけっこう大きい。  R: 北東から。

  
L: 北から撮影。  C: 北西から。こちらの手前には駐車場がある。  R: 県道越しに西から撮影したところ。

  
L: 南西側の交差点より撮影。  C: 再び北側にまわり込んで別館を撮影。こちらは会議室が中心。食堂もある。
R: 本館の中を覗き込んだところ。忍者がいた。天井に木材を使うなど、いかにも現代風な工夫がなされておりますな。

市役所の撮影を終えると、水口神社にリヴェンジ。今回は無事に御守を頂戴することができた。よかったよかった。
なお、今日頂戴した御守はどれも同じ会社の製品だと思われる。滋賀県で絶大なシェアを押さえているんだなあと思う。
でもこの会社の御守って、日焼けによる色落ちが激しいのが難点なんだよな……。なんとかなりませんかねえ。

  
L: 水口神社入口。前回と同じ構図で申し訳ない。  C: 実に開放的な境内。やはり、手前で拝殿が独立している。  R: 拝殿。

  
L: 拝殿の奥にある神門。  C: 中に入ると祝詞舎。  R: その奥の本殿。どうしても前回と構図がかぶってしまうなあ。

参拝を終えると、市役所の北にある「あいこうか市民ホール」バス停から甲賀市コミュニティバス・あいくるバスに乗る。
30分ほど揺られて到着したのは、田村神社。「田村神社」というと一宮ファンとしては讃岐を想像するが(→2015.5.3)、
こちら滋賀県の田村神社は坂上田村麻呂が祭神なので田村神社というわけ。鈴鹿峠の悪鬼を坂上田村麻呂が平定した際、
矢を放って「落ちたところに自分を祀れば災いを防ぐよ」と言って神社ができたそうで。実際、盗賊が多かったらしい。
(鈴鹿御前の伝説が有名。『太平記』では、田村麻呂が鈴鹿御前と戦ったときの剣が「鬼切」で、源頼光に渡る。)
県境の鈴鹿峠まで約6km、国道1号沿いとはいえ、なかなか奥深いところまで来たなあという感じになる場所である。

  
L: 田村神社の入口。東海道土山宿の東端に位置しており、ここから先の国道1号はどんどん山の中へと入っていく。
C: 二の鳥居。鳥居も銅製で古社の雰囲気。右手(東)へ進むと海道橋。  R: 開けている境内。建物の配置が独特。

創建当時から変わっていないんだろうなあと思わせる社叢を抜けると開けた境内となるが、建物が西に寄っている。
まっすぐ進んでいくと拝殿で、やはりここも本殿から独立した形となっている。が、左の祈祷殿とつながっていて、
これまた独特なのであった。そしてなんと手水舎が拝殿の裏にある。ほかに参道があるわけでもないのに、不思議だ。

  
L: 拝殿。  C: 拝殿の先、本殿へのルートは二手に分かれている。ちなみに手水舎はこの石鳥居の隣。なんでこの位置?
R: 鳥居をくぐって本殿へと向かう。一段高いところが本殿で、その左側に田村麻呂が放った矢から生えたという矢竹がある。

拝殿の後ろから参道は二手に分かれ、鳥居をくぐり灯籠が並ぶ中を行くルートと、左からまわり込むルートがある。
おそらく鳥居をくぐって本殿に参拝し、帰りはまわり込みルートで授与所に寄ってから戻るのが標準なのだろう。
わざわざそんなふうに境内を整備しているあたり、祭りや年末年始の参拝客がとんでもなく多いことを想像させる。

  
L: 鳥居・灯籠ルートからまわり込み授与所ルートを眺める。  C: 本殿。拝殿からこれだけ距離があるのは珍しい。
R: 横から眺めた本殿。覆屋ではなく補強してある感じ。田村神社は昔ながらの神社をうまく近代的に整備している印象。

本殿から戻ると拝殿横の授与所で御守を頂戴するが、やはりここも同じ会社の製品なのであった。まあいいけど。
田村神社は鈴鹿峠を守ってきた歴史を感じさせる姿をきちんと残しながらも、うまく整備して威厳を持たせている。

帰りはあいくるバスでそのまま貴生川駅まで戻り、草津まで出てメシをいただく。エイスクエアの存在がありがたい。
日記も書いてひと仕事終えると、本日の宿がある南彦根へ。南口にはビバシティ彦根があるけど、北口なんもないな!


2018.3.23 (Fri.)

今年度で定年を迎えて異動される先生のお別れ会なのであった。なかなか強烈なキャラクターの女性なのだが、
国語の先生にはそういう「一筋縄ではいかないひねくれおばさん」が多い気がする。要するに、僕が尊敬するタイプだ。
おもしろエピソードが山ほどあって、しかも話が上手いタイプ。心境としては、梵天丸もかくありたい、ですよ。

やはりお別れ会はその先生を中心に、爆笑が頻繁に巻き起こるのであった。いやあ、実に楽しゅうございました。
そして1年間、楽しゅうございました。たった1年間しか一緒に働けなかったのが悔しいくらい楽しゅうございました。
どうにかして先生がお持ちのスキルを吸収しようとがんばった1年間でもありました。受け継いでいきますぜ。


2018.3.22 (Thu.)

1年生の球技大会なのであった。体育館でフットサルもあったのだが、これはシュートをダイレクトでやる練習ですな。
相手GKの隙を突くには、ゴール前での運動量を多くしてつなぎ、反応しきれないテンポでシュートを撃つのが一番なのだ。
生徒たちはその感覚をつかんだからか、内容としては見応え十分。それを防ぐGKも活躍して、またそれがよござんした。


2018.3.21 (Wed.)

日頃の疲れは尋常ではなくて、今日は雨なのをいいことに一日中『おそ松さん』の2期を見ておりました。
久しぶりの全力で怠惰な休日はいいリフレッシュになった、と思いたい。ストーリーを浴びる日も必要なのだ。


2018.3.20 (Tue.)

本日をもって1年生の本年度の英語の授業が終了。生徒と一緒に教科書をめくって、思えば遠くへ来たもんだ、
なんて具合に振り返る。でも2年生になったらなったでもっとスピードが上がる。むしろここからが本番なのだ。

教えていて毎年思うのは、中学校英語の3年間は、他の追随を許さないほどに圧縮された知のオンパレードということ。
ゼロからのスタートであり、ここまで一気に知の促成栽培をやりきる教科はほかにない(小学校英語とかクソ喰らえ)。
つまりは現状のシステムが本当によくできているのである。愚民化教育を推進する連中が英語教育を壊そうとしているが、
ウチの生徒たちは知の本質をきちんと理解しているのが幸い。まあそれが理解できるように教えているんだけどね。
来年、再来年と何がどうなるかはわからないが、やれる限りのことはきちんとやって後悔のないように。その積み重ねだ。


2018.3.19 (Mon.)

昨日マサルに市役所めぐりについて少し辛めの励ましの言葉をいただいたので、それでちょっとやる気になって、
長年の懸案事項である市役所ページの製作を再開させる。御守ページとだいたい同じ要領でやっていくつもりだが、
こちらも量が量なのでなかなか思うようには進まない。でも少しずつでもやっていかないことにはどうにもならんので。

それにしても、マサルもcirco氏も「ランキングをつくれ」というアドヴァイスをくれたわけで。そういうもんなんですね。
僕の中ではどの市役所も基本平等だけど、世間はそういうわけでもないのね。いやあ、春休みの宿題が山積みですわ。


2018.3.18 (Sun.)

2週間前に予告したとおり、本日はいつもの姉歯メンバーで川崎市市民ミュージアムに突撃なのである。
『MJ's FES みうらじゅんフェス! マイブームの全貌展 SINCE1958』をみんなで見よう、というわけなのだ。
今回のトピックは、なんとみやもりさんが嫁さんと娘さんを連れて参加。われわれ、娘さんとは初対面でドキドキ。

武蔵小杉駅に集合するが、目黒線沿線住民の僕はもう楽で楽で。今後はいつも武蔵小杉集合にしてほしいくらいだが、
よく考えたら武蔵小杉には川崎市市民ミュージアムと等々力陸上競技場以外に何もないのだ。あとは高層マンション。
そう、武蔵小杉はマンションがやたらと建って人口が爆発的に増えており、気を抜いていたら駅周辺は開発ラッシュで、
うっすらとしか見覚えのない姿に変わってしまった。自転車で気ままに来ていた頃とはだいぶ違ってしまったのである。
おかげで改札口もやたらと多く、ニシマッキーとはベーグル屋で無事に合流できたが、みやもりとの合流には苦労した。
なお、マサルは恒例の遅刻である。で、合流してもバス停がややこしく、結局はターミナルのある北口に移動。
そしたらちょうどいい具合にマサルも合流。するとベビーカーに揺られていたみやもりの娘さんも目を覚ますのであった。
娘さんは初対面のおっさんたちにビビるも、特に問題なくバスに乗車。しかしまあ、みうらじゅん目的の客の多いこと。

  
L: 「ツッコミ如来立像」の前でポーズをとらされる僕。マサルが「お前の日記なんだからお前が写れよ!」と言うので。
C: みうらじゅんフェス会場入口。これは後で撮ったもので、僕らが入ったときにはけっこうな行列になっていた。
R: コクヨから贈呈されたというゴールデン・スクラップが展示されていた。原稿用紙もみうらじゅん特別仕様みたい。

休日ということを考慮してもものすごい人気ぶりで、どの展示にもべったりと人が張り付いている感じである。
しょうがないので隙をうかがって順不同で見ていったのだが、圧倒されたのが序盤の展示。小学生時代から分量が凄い。
そして上手い。10歳くらいでここまで描けるのか!と感心。僕や潤平も一心不乱に絵を描く幼少期を過ごしたクチだが、
(というか、そういう自分たちのアーティスティックな側面が全開だった過去をがっつりと思い出させられる内容だった)
外から見てきちんとカタチになっている絵を際限なく量産しているところが凄い。自分の中にいる過去の自分が、
静かにスイッチを入れて対抗意識を燃やしているのがわかる。オレの両親が見たら何て言うのか、すごく気になった。

  
L: 友達との新聞、つくるよねー。でもそれを残しておくってことがすごいのよ。ふつうは1週間もたないよ。
C: 小学生時代の仏像スクラップ。彼の非凡さをわかりやすく物語るが、京都生まれのアドヴァンテージもまた感じる。
R: 展示が進んで登場する、「アウトドア般若心経」。思いつくこと自体がまず凄いが、実行するのがさらに凄い。

序盤の展示についてまとめると、三重の「偉さ」を感じた。まず小学生時代の絵の非凡さ。ここまで描けるのは偉い。
次に、それを恥じることなく見せる偉さ。個人の妄想の記録はいわゆる黒歴史として闇に葬り去られるものだが、
純度100%でそれらをきちんと出すところが偉い。みうらじゅんは、それができるところに一番の非凡さがあると思う。
そして何より、これらの大量の絵をきちんと残していた親が偉い。僕も潤平も大量の絵を描いて描いて描きまくったが、
それらはほとんど残っていないし、残っていなくて当たり前なのである。それがわかるだけに、残す親の非凡さが際立つ。

その後、展示は美大入学後へと移る。しかしここでは、80年代ヘタウマとの相性の悪さがひたすら露呈されていた印象。
確かに僕が「みうらじゅん」という名前を初めて認識したのはマガジンハウス辺りの何かの雑誌で、彼の肩書きは漫画家。
でもその絵はいかにも『ガロ』経由のアングラな雰囲気をまとったうえにシュールを狙っており、いい印象はなかった。
あらためて当時の作品を見てもやはり僕の感覚は同じで、小学生時代の作品を見た後だとすごくもったいなく思える。
80年代の強い光と濃い影は、どちらもみうらじゅんの味方ではなかったのだ(江口寿史とは対照的かも →2016.1.27)。
われわれが「時代がみうらじゅんに追いついた」と思うのは的確で、彼の継続性は後に大きな花を開かせることになる。

 スクラップの近くには記念写真を撮れるスペースも。

会場は2つに分かれており、小学生~80年代の漫画家時代の作品を第1会場とすると、第2会場はコレクションが中心。
彼の「マイブーム」によるコレクションを怒涛の勢いで展示しているのだが、展示空間が複雑な形をしていることもあり、
もう何がなんだか。量も膨大なので、ただただひたすら圧倒されっぱなしになってしまう。でもそれがまた楽しいのだ。

  
L: ブームごとの展示となっており、こちらは変な掛け軸、「ヘンジク」。真ん中はシャ乱Q、アウンサン=スー=チーもある。
C: 出ました「ゆるキャラ」。もともと彼の中でニャンまげブームが下地にあったようだ。やっぱりみうらじゅんは凄い人だよ。
R: 山岳戦隊テングレンジャー。戦隊ヒーローに詳しいニシマッキーは、テングイエローの顔と体の色の違いに不満げだった。

見ていくうち、これは一種のテーマパークではないかと思った。みうらじゅんの脳内を実際の空間に広げたテーマパーク。
第1部では彼の時間軸、第2部では彼を取り巻く空間軸を対象にしており、われわれは「みうらじゅん」を追体験していく。
そうして彼の物の見方を共有しながら、一人の人間が切り開くことのできる想像力を推し量っていく、そんな感覚になる。
みうらじゅんという人は価値観に対する実行力の割合が100%で、一般的な人と比べて飛び抜けたものを持っている。
彼は子ども連れの来場者に対して「情操教育になる」と言っているが、確かにその部分の刺激は凄まじいものがあった。

  
L: 冷蔵庫に貼るマグネット「冷マ」。案の定、水まわりのトラブル関係の広告が中心だが、こんなものまで集めているとは!
C: SINCE。いちばん古いのは600年代だったけど、たぶん1600年代の「1」が消えたのではないかと。それにしても凄い。
R: みうらじゅんの描いた作品を展示するコーナーもあったが、人間の想像力の底の知れなさがとにかく印象に残ったね。

それぞれのペースで展示を見ていったのだが、マサルを除く全員がだいたい同じくらいのタイミングで見学終了。
公園内の遊具でみやもりの娘さんが遊ぶのをあたたかく見守るのであった。子どもって滑り台が大好きなんだなあ。
一方で「もうひとりの2歳児」こと岩崎マサルはすべての映像を懇切丁寧に見ていき、閉館に近い時刻までかかった。
滑り台から引き離されたみやもりの娘さんはかなりの泣きっぷりだったが、ハローキティのラッピングバスで機嫌が戻る。
子育てって本当に大変だなあ……と思うのであった。人の親ってのは本当に偉いものだと実感した。

武蔵小杉駅に戻ると、面倒くさいのでそのまま居酒屋に突撃するのであった。ここで私の佐賀土産が満を持して登場。
それは……ワラスボの干物だ(→2018.2.26)。電車の中も飛行機の中も、折れないように東京までずっと手で持っていた。
今回もトイレットペーパーの芯を原料にして専用のケースまで作って、大事に背中に背負っていたのだ。つらかった。

 
L: 名護屋城址すぐ横の道の駅・桃山天下市で売っていたワラスボの干物。  R: 「エイリアン」と形容されるワラスボの頭部。

ワラスボは日本では有明海でしか獲れない貴重な絶滅危惧II類(VU)である。干物にして出汁や酒のおつまみとする。
目が退化して牙が大きく並んでいるため、ヴィジュアルはかなり衝撃的。まあ、生の方がさらにエグいのだが。
さあさあどうぞどうぞと勧めるも、みんな「まずはあなたからどうぞ」とつれない反応。苦労して持ってきたのに。

  
L: というわけで、責任を持ってワラスボの干物をいただく私の図。  C: 日本酒で酔っ払って目が充血している。
R: ワラスボを味わうの図。知っている風味だなと思ったが、ツナピコ(ツナキューブ)と同じ味付けだと気がついた。

ワラスボの干物は思っていたよりも硬くて、運搬にはそこまで気を遣う必要はなかった模様。
ただ、やはり肝心の頭部は砕けやすそう。みんなは胴体を3分割して食ったが、頭部は結局2匹とも僕が食った。

 
L: ワラスボに脳を支配された男の図。口から出ている部分が本体。  R: 姉歯会ワラスボ一家の図。

そんな感じで今回も平和に呑んだくれたのであった。めでたしめでたし。


2018.3.17 (Sat.)

本日は3年生とのお別れ試合なのであった。人数が多いので僕は外からのんびり見ていただけなのだが、
彼らはやっぱり強くて上手いなとあらためて感心した。体が強いし、個としての技術がしっかり高いのである。
それでも1年生の守備が通用していたので、きちんと成長しているなとこっちでもまた感心。2年生もまずまず。
ふだんの練習から言っている基本的ことが当たり前のものとして身についているので、見応えのある試合になっている。
技術の大切さも勉強になったし、自分たちのやっていることが確かな自信になったし、有意義な時間になってよかった。


2018.3.16 (Fri.)

卒業式である。異動しても前任校やその前の職場と同じように、2つの機械を同時に操作する役割をこなしたわけで、
やっぱり忙しいのは変わらないなあ、と思いつつ裏方作業をがんばるのであった。無事に終わって本当によかった。


2018.3.15 (Thu.)

『劇場版 艦これ』を見てみたよ。いちおうテレビシリーズの感想はこちら(→2017.2.14)。

結論から言うと、ワケがわかりませんでした。劇場版はテレビと違って概して評判がいいようなのだが、僕にはサッパリ。
まあこれは毎度おなじみ僕のファンタジー脳(能)の欠如が原因なのだが、何がどうなっているのか理解ができなかった。
アレかい、深海棲艦ってのは轟沈した艦娘なのかい。で、深海棲艦を倒してドロップした艦娘は浄化されたようなもんか。
それはいいとして、なぜに吹雪なのか。なぜ吹雪だけが鍵を握るのか。まあ主人公だから特別なのはしょうがないとして、
主人公が物語を解決させるその論理的な回路が、ファンタジー脳(能)が欠如している僕には理解できないのである。
だからすべてが御都合主義に見えてしまうのだ。最後に無理やり決着をつけて感動させようとしてくるのはテレビと一緒。

ま、鈴谷が大して活躍せず、摩耶とプリンツ・オイゲンが出ていない時点でダメですな。


2018.3.14 (Wed.)

今日の給食に「ケーニヒスベルク風肉団子」が出まして、生徒とみんなで面白いなこりゃ、といただいたわけです。
で、当然、「あれ? ケーニヒスベルクってどこだったっけ?」となるわけです。語感からして明らかにドイツなんだけど、
ポーランドの方だった気がする、と言う読書家な生徒と一緒に地図帳を開いて探してみる。しかしぜんぜん見つからない。
僕は僕で確かに聞いたことのある地名なので、大いに首をひねりつつ「すいません、職員室で調べます」といったん撤退。

まあ結局は僕が無知だという話なのだが、ケーニヒスベルクは第二次世界大戦を経てソ連(ロシア)領となっており、
現在のカリーニングラードなのであった。ポーランドの北東、リトアニアの南西にはけっこう広いロシアの飛び地があり、
そこの州都である。あらためて見てみるとこの飛び地はデカいなあと感心。ロシアの不凍港への強い欲望の賜物なのだ。
調べていくうちに、なぜ僕の記憶に残っていたのかもわかった。ケーニヒスベルクはカントが暮らしていた街だったのだ。
哲学概論の授業で出てきた地名なので覚えていたというわけ。しかしケーニヒスベルクはドイツというにはずいぶん東で、
プロイセン周辺の地理感覚の複雑さをあらためて実感した。歴史も地理ももっとちゃんと勉強しなくちゃいかん、と反省。
正直なところ、「あの辺は中世から取ったり取られたりでゴチャゴチャ」といういい加減なイメージしかない地域だった。
歴史や地理を理解するということは、その複雑さをそのまま受け止めて自分の感覚として落とし込むということだ。
もっと体系的に知識を増やしていきたいなあ、と強く思った。海外も海外で、きちんと旅行したくなっちゃいますなあ。


2018.3.13 (Tue.)

日記が大スランプですいません。いちおう画像はしっかり整理して下準備は進めているんだけどね、書けない。


2018.3.12 (Mon.)

森友学園への国有地売却の決裁文書が書き換えられていたということで、もうめちゃくちゃ。国の文書だぜ?
国会での虚偽答弁に合わせて国の文書を改竄とか、日本が民主主義国家ではなかったという事実が白日の下に晒された。
これでも安倍を支持するという人間は、それはもう宗教だわ。自分にとって都合の悪い現実から目をそらす宗教だわ。
「嘘を突き通せばごまかせる」という宗教を信じる人間か、信じない人間か。そういう二択の世の中になっちゃってる。
あらゆる野党よりも自民党の方がマシって人は現実を見てほしい。自民党は着実に民主主義を壊しているんだから。
外憂よりもまず内患をなんとかしなきゃ国家は成り立ちません。日本国民のレヴェルが問われている。本当に恥ずかしい。


2018.3.11 (Sun.)

東日本大震災からもう7年。テレビでは当時の子どもが大人になってどーのこーのというドキュメンタリーもあって、
時間がグイグイと流れていることを伝えている。おととしこの目で確かめてきた光景は(→2016.9.182016.9.19)、
今も大して変わっていないはず。一瞬の破壊と、先の見えない再建。オリンピックだと浮かれている場合じゃないね。

天気のいい休日ということで、青春18きっぷを使って気軽な旅に出る。目的地は東京のお隣、神奈川県だ。
そんな至近距離を青春18きっぷというのはもったいなく思えるが、日帰りの往復だと悪くない選択肢となるのだ。
神奈川県、いや相模国の歴史ある神社と新しい市役所をめぐるというのが、今回の目的なのだ。ラストはサッカー観戦。

まずは東海道線で二宮駅へ。ここから西には相模国二宮・川勾(かわわ)神社がある。東には総社の六所神社がある。
どちらも歩いて行けない距離ではないが、往復だとそれなりの時間がかかるので、バスを上手く活用して参拝する。
しかし川勾神社方面へ向かうバスは複数あってややこしい。とりあえずわかりやすいやつに乗ってしまうのであった。

鐘薮というバス停で下車すると、坂を下って川を渡り、坂を上がって川勾神社へ。天気はすっかり穏やかな春の気配。
しかしその分だけ花粉が猛烈で、歩いている間はひたすらくしゃみをするのであった。10分ほどで参道にぶつかる。

  
L: 川勾神社の参道。周辺はいかにもな山里で、二宮ともなればこれくらい地味になるものか、と思うのであった。
C: 境内入口。左側には伊藤博文が揮毫した扁額を石碑にして置いてある。  R: 隋神門。茅葺きなのがかなり独特。

川勾神社は相模国が成立する際に、寒川神社(→2011.5.42014.8.11)と一宮の座を争った経緯があるそうだ。
境内に入るとその威厳をしっかりと感じることができる。社殿は1951年の竣工だが、堂々とした落ち着きぶりが印象的だ。
航空写真で見ると周囲は宅地化しきっているが、二宮駅前の吾妻山とこの川勾神社周辺は緑をしっかり残している。
大きく姿を変えた平地部分とは対照的に、昔の姿を守っているのだろう。じっくり歩いてみると面白そうだと思う。

  
L: 社務所。唐破風の下で御札や御守を置いている。  C: 拝殿。  R: 横から拝殿と本殿を眺める。

バスで駅に戻ると、時間節約のためにまた別のバスに乗り込んで国道1号線を東へ。しかし国道1号もこの辺りだと狭い。
Googleマップの指示に従って国府新宿というバス停で下車したが、少し西へと戻ることに。大きな鳥居を目印にして北上。
参道は途中で地下にもぐって東海道線をくぐる仕組みになっている。そのまま進むと丁字路で、突き当たりが六所神社だ。
さっきの国道1号に面した鳥居がラストで、境内の入口には鳥居がないので、なんとなく寺っぽい感触がするのが面白い。

  
L: 国道1号に面する六所神社の鳥居。  C: そのまま地下を進むのだ。  R: 道の突き当たりがすぐ境内となる。

六所神社はもともと柳田大明神という神社で、そこに一宮から四宮に加えて平塚八幡宮の祭神を合祀して総社となった。
境内はコンパクトながらも池や神楽殿をしっかり配置し、非常に清潔感のある印象。なんだか女子受けしそうだと思う。
主祭神の筆頭に櫛稲田姫命が来て、その後に須佐之男命となる珍しいパターン。清潔感はその影響なのかもしれない。
御守のデザインも櫛稲田姫命の櫛をメインの柄としていて、こだわりを見せている。そういう神社は大好きだぜ。

  
L: 境内の両側には池。雰囲気が明るいのがいい。  C: 参道。手前の授与所周辺は休憩所で、甘酒が名物らしい。
R: 裏手の公園から本殿を眺める。この本殿と石垣は戦国大名の後北条氏によるものだそうだ。それにしてはきれいだが。

参拝を終えるとバスの時刻が合わないので20分ほど歩いて駅へと戻る。ここからは青春18きっぷが威力を発揮だ。
いったん藤沢まで戻ってしまって、藤沢市役所を撮影するのである。で、そこから茅ヶ崎・平塚と西進するというわけ。
この3つの市は最近になって立て続けに市役所を建て替えたので、一気に撮影してしまおうという魂胆なのだ。
どれも以前に撮影したことがあり、旧庁舎と同じ敷地に新築しているパターンなので、場所はわかっている。
この3兄弟を比較すると、いろいろなものが見えてきそうである。実に研究しがいのある市役所でございますな!

というわけで、東海道線新築市役所3兄弟、まずは藤沢市役所である。駅北口から東へ行けば5分ほどで到着なのだ。

  
L: 新しい藤沢市役所。ちなみに左手前にある「新館」はすでに閉鎖されており、全面改修を待つ状態となっている。
C: 国道467号を跨ぐ歩道橋脇から見たところ。  R: 下に降りてみた。国道は交通量が激しすぎて撮影がとっても大変。

以前の藤沢市役所は1951年の竣工ということで、なかなかの風情を感じさせるものだった(→2010.11.27)。
しかしその分、ただでさえ広くない敷地内に分庁舎が建てられてかなりグチャグチャで、撮影もしづらかった。
新しい庁舎はそれを一気に解消すべく、敷地をデン!と埋めるように建っている。周辺の狭苦しさは相変わらずだが。

  
L: 新館裏から撮影。  C: 別の歩道橋を渡って北西側から近づいた。  R: 敷地内の様子。日陰ないけどいちおうベンチあり。

新しい藤沢市役所の設計者は梓設計。昨年末に竣工したばかりで、今年の1月4日から業務開始となった。
まあつまりは市庁舎建築の最新事例というわけだが、オリジナリティはあまりない。2010年代の典型例って感じ。
天気がよかったせいもあって、敷地内に日陰は少ない印象。その分、来庁者を中に取り込む要素はそれなりに多い。

  
L: 南側つまり東海道線との間はこのような通路空間となっている。  C: 背面。  R: 北側に動いてもう一丁。

休日だけど中に入ることができるのはすばらしい。1階の窓口周辺はなかなか開放的。天井のアトリウムも目立つ。
南側はコンビニ(ローソン)と連携してしっかりと日光を採り入れる滞留空間となっており、これも好印象である。

  
L: 中に入るとこんな感じ。休日でも一部の窓口を機能させている。  C: 南側はテーブルのある滞留空間。
R: 1階の南西端にはコンビニが入っている。甲府や秋田と同じくローソン。ローソンは市役所に強いのかなあ。

そして最上階の9階はお約束の展望スペース。面白いのは、議会も9階にあって、両者が共存していること。
藤沢駅を眺める廊下の脇に傍聴席の入口があるのだ。「議会を市民に開く」という民主主義の観点からすると、
これは100点満点に近い空間のつくり方である。実際に理想を空間として実現しているところに価値があるのだ。

  
L: 9階の展望スペース。右手奥が議会の傍聴席入口。  C: 藤沢駅方面を眺めたところ。新館がバッチリ見えるね!
R: 1階と同様に、南側にはきちんとした滞留空間を設けている。もっとも、窓の外はOKストアばっかり目立つが。

最新の市役所はさすがになかなか面白かった。満足して2駅揺られて、茅ヶ崎駅で下車。北へしばらく歩くと市役所だが、
以前スロープの入口だった場所は工事の白い金属板の柵で閉鎖されていた。広場を整備中との説明が貼り付いている。
そのまま裏手の分庁舎・市民文化会館・総合体育館方面へとまわり込むと、地味ーに茅ヶ崎市役所の新庁舎があった。
道幅が非常に狭くて撮影しづらいところに、本日はこの辺りでイヴェントが開催されており、なかなかの賑わいぶり。
市役所1階で「ちがさき食育フェスタ」、向かいの総合体育館も「ちがさきスポーツ・レクリエーションフェスティバル」。
何をどうやっても人の姿が写真に入ってしまうというやりづらさなのであった。もうこれはどうしょうもない。
少しでも距離が欲しくて総合体育館から撮影するとペタンクに夢中な皆様が入ってしまう。すいませんね、ホントに。

  
L: 茅ヶ崎市役所。エントランス付近ではゆるキャラが登場して人が絶えない。  C: 総合体育館前から撮影。ペタンク中。
R: 角度を変えて眺める。これより西側に行くと、今度は電源開発・茅ヶ崎研究所の敷地内に入っちゃうのよ。やりづらい!

その建物をすっきりと撮影する角度がないということは、つまり、その建物を誇る意識がまったくないことを意味する。
記念性を持たせる意思がなく、その自治体は役所をただの事務処理空間としてしか認識していない、ということなのだ。
これは、県庁舎では1950年代に丹下健三VS建設省で繰り広げられたバトルや(→2007.11.222008.9.13)、
市庁舎では1970年代の保守VS革新で繰り広げられていたバトルにも共通するトピックである。イデオロギーは消えても、
建築の様式として「開く/開かない」は、確かに形を変えて今も存在している。地域性も含めて考察すべき深いテーマだ。

  
L: 裏手の駐車場にまわって撮影。  C: 意地でファサードを確認する写真を撮影。  R: 南東端だけはオープンスペース。

以前の茅ヶ崎市役所は1974年竣工で、シンプルながらも微妙なオシャレさを持った建築だった(→2011.5.4)。
新しい庁舎の設計者は大建設計で、2015年末に竣工している。なお上述のように旧庁舎跡地は市民広場となる予定。
中に入ってみたが、休日ということで、イヴェント中の1階と2階の一部以外は入ることができなかった。
2階南側の「屋上庭園」(といっても小規模、さっきの南東端にある屋根の上)にすら入ることができない。
この点から、茅ヶ崎市は藤沢市とは対照的に、かなり閉鎖的な感覚を持っていることが読み取れるわけだ。

  
L: 1階南東端のカフェスペースを覗き込んだところ。  C: 2階から見下ろす1階の「市民ふれあいプラザ」。
R: しかし同じ1階も西側はこんな感じ。市民に公開する空間をかなり限定している閉鎖的な姿勢がよくわかる。

最後は平塚市。当然、平塚八幡宮に参拝してから平塚市役所へ行き、湘南ベルマーレの試合で締めるのである。
平塚八幡宮に参拝するのは3回目(→2011.5.42015.9.12)。天気もいいし時間もいいし、いい写真が撮れそう。

  
L: 平塚八幡宮の大鳥居。  C: 境内に入ったところ。  R: 両側に池がある構成はさっきの六所神社と一緒なのね。

せっかくなので参拝ついでに御守も頂戴しておいた。平塚八幡宮の御守は当然、すでに持っているのだが、
平塚は七夕祭りが有名ということで、短冊をかたどった七夕守を頂戴した。面白い工夫であると思う。

  
L: 拝殿前の銅鳥居。  C: 拝殿。  R: 本殿。平塚八幡宮は市街地を見守る位置にあるから規模がデカいなあ。

平塚八幡宮のすぐ裏が平塚市役所である。以前の市役所はいい感じのモダニズム建築だったが(→2011.5.4)、
新しい庁舎は無難な現代風。とはいえ、各フロアを強調する庇は旧庁舎を彷彿とさせないこともない、かもしれない。
撮影でとにかく困ったのが、手前の道路の交通量である。なぜか車がまったく途切れないのよ。延々と列になっている。
建物だけをすっきりと撮影することができないので、諦めてさっさと敷地を周回したのだが、これには本当にまいった。

  
L: 平塚市役所。手前の道路から車が消えることはまったくなくって、建物だけを撮影することは不可能。
C: その道路を挟んで庁舎を真正面から見据えたところ。デカすぎである。  R: ちょっと角度を変えてみた。

新しい平塚市役所の設計者は佐藤総合計画。工事は2期に分けられており、高層部分は2014年に完成している。
その後、低層部分の第2期工事が昨年末に完了した。こういうパターンはいつ竣工と言えばいいのか難しくて困る。

  
L: 西側から眺めたところ。  C: 北西より。この手前の低層部分が昨年末に完成したってわけだ。  R: 背面。

平塚市役所の背面にあたる北側は、広い空き地となっている。この周辺は学校・官庁・団地・文化施設・工場など、
実にヴァラエティに富んだ施設が大規模に並んでいるなかなか珍しい空間で、市役所裏が今後どうなるか、注目だ。
なお、市役所西側部分の2階と3階には平塚税務署が入っている。国の役所を市役所の中に入れるというパターンは、
千代田区役所の事例を思い出す(→2007.6.20)。しかしこちらはPFIではなく、市と国の資金で建てている。

  
L: 北東から見たところ。  C: 東側、消防本部の手前から眺める。  R: 南東の交差点前から市役所を見上げる。

ちなみに平塚市役所にもレストランとコンビニが入っている。しかし平日のみの営業で、藤沢ほどのやる気はない。
さっきの茅ヶ崎市役所に比べれば市民への公開度合いは高いと言えなくもないが、なんとも中途半端である。

  
L: 南側のピロティ部分。  C: 中を覗き込んだら七夕的な飾り付けが。  R: さらに奥の方はこんな感じだった。

駅からスタジアムまでは微妙に面倒臭い距離だが、市役所まで来てしまえばスタジアムまでは歩いていくよりない。
団地に図書館、美術館に工場群と、平塚らしい特色あるモザイク空間をトボトボ歩いていく。それにしても毎回思うが、
この辺りは工場が多いわりには道幅が異様に狭い。おかげで自転車とバスが通るたびに、見ていて少しヒヤヒヤする。

試合開始2時間ほど前にスタジアムに到着。今シーズン初のサッカー観戦である。カードは湘南×名古屋ということで、
J1昇格クラブどうしの対戦である。が、2試合終わった現時点で、順位は名古屋が1位(2勝)、湘南が6位(1勝1分)。
特に名古屋は昨シーズンのJ1昇格の原動力になったガブリエル シャビエルだけでなく、元セレソンのFWジョーが見もの。
湘南スタイルVS風間サッカー+元セレソンということで、これは絶対に観ておかなくちゃいかんだろ、という試合なのだ。

ところが試合が始まると、意外なところに注目すべき選手がいた。湘南の攻撃にことごとく余裕を持って対応するCBだ。
背番号は41ということで2種登録の17歳、菅原である。隣の席の名古屋サポがわりと独り言をつぶやく系のおじさんで、
ちょっと気持ち悪いなあと思いつつ観戦していたのだが、彼をはじめ名古屋サポが菅原に期待を寄せるのは確かにわかる。
(翌日にこの試合関連のネットニュースをチェックしたら、菅原についての記事がいっぱい出てきて驚いた。)
そしてもう一人、おじさんが大歓喜するのもわかる選手がGKのランゲラック。最近のJリーグは優秀な外国人GKが多いが、
その中でも突出している印象。湘南の決定的なシュートを2回防いで鉄壁ぶりを披露した。ありゃあ点は取れねえわ。

  
L: この試合では名古屋の堅守ぶりが非常に印象的だった。非常に安定感があり、湘南は思うように中に入れなかった。
C: 元ブラジル代表FWのジョーは不発。なかなかいいボールが入らなかったね。ボールを放り込めば違ったかもしれんが。
R: 後半、高い技術でボールをつないで攻め込む名古屋。もう少し変化が欲しかったし、湘南がよく守りきったかな。

選手の出入りの激しい湘南は、まだまだ成熟途中という印象だった。しかし途中から左サイドに入った梅崎は、
クロスに守備にと格の違いを見せつけるプレーぶり。右のミキッチとともに、今後の期待を大いに抱かせる存在だ。
ヴェテラン選手が喜んで入団するようになった湘南は、強豪への道をじっくりと歩みはじめたのかもしれない。
対する名古屋は個の能力の高さが際立っていた。ジョーは不発だったが、ボールをつないで攻める巧さはピカイチ。
守る湘南のリズムを崩す変化があれば、スコアレスドローという結果は違ったものになっていたのではないかと思う。


2018.3.10 (Sat.)

今日の部活はオフェンス志向の強い生徒とディフェンス志向の強い生徒で攻守を固定したミニゲームだったのだが、
守備陣にはっきりと進展が見られたのがよかった。最初はドタバタしていたのだが徐々に要領をつかんでいって、
最終的には僕が何も言わなくても余裕のある対応ができるようになったのだ。基本的な約束ごとがしっかり定着した。
ここ1年間ずーっと課題だった、落ち着いて対処するCBのやり方をわかってくれたのは、本当にうれしい。
あとはこの「当たり前」をチームのみんなで共有できればいいわけだ。そのための基礎が固まった感触がする。
生徒の理解が深まったこともうれしいが、自分がそこまでできたこともまたうれしい。前任校での経験が生きているぜ!


2018.3.9 (Fri.)

3年生の送別会なのであった。今度の学校は各学年での出し物の心配をしなくていいので本当に助かる。
今まで毎年、生徒に代わって無い知恵を絞ってヒイヒイ言ってきたので。しかしまあ、所変われば品変わるなあ。


2018.3.8 (Thu.)

画像整理を進めてはいるけどなかなか進まないし日記書く気しないしでスランプである。


2018.3.7 (Wed.)

日本文化への理解ということで、本日の午後は津軽三味線のデュオ演奏を聴く授業なのであった。
力強い演奏が大変ようございますな。カヴァー曲のアレンジぶりが、なるほどこうやるのか!と興味深かった。
特に『情熱大陸』がけっこう面白くて、津軽三味線はラテン方面のノリと合うような気もしてきた。


2018.3.6 (Tue.)

今週は腰痛がひどい。やたらとひどい。歩けないほどではないが、椅子に座ってじっとしているのがつらい。


2018.3.5 (Mon.)

部活が18時半までに戻っちゃったので、日記がまた少ししか進まない。写真の量がすごくてですね、ごめんなさい。


2018.3.4 (Sun.)

川崎市市民ミュージアムでやっている『MJ's FES みうらじゅんフェス!』を見に行こうぜ!という話になっていて、
姉歯メンバーの都合を調整していった結果、再来週に決定。しかし独身の僕とマサルはそれとは別に集合したのだ。
万年筆やボールペンで人気の「ラミー(LAMY)」がミッドタウンの辺りで展覧会をやるというので見ようというわけ。

さて集合時刻の10時半になってもマサルは六本木駅に現れず、電話したら自宅だと。しょうがないので日記を書いて待つ。
結局は正午に合流となるのであった。ミッドタウンの目と鼻の先にそんな世界があるのかよ、なんて話をしながら、
マサル曰く「国立っぽい空間」を歩いて会場の21_21 DESIGN SIGHTへ。サントリー美術館はよく行くが、こちらは初めて。

 21_21 DESIGN SIGHT。安藤忠雄の設計だとよ。

ラミーというと、キャップにU字のクリップがついている太めのボールペン「サファリ」が非常に有名である。
もともとは万年筆からのスタートで、モダンデザインでキレキレだった時代のブラウン社で活躍したデザイナーを起用し、
ミニマルっ気のある筆記具を次々と生み出している。それらのデザイン過程や製造過程などが展示されているのである。
個人的には、ラミーの製品はポップさで成功した「サファリ」以外は、正直それほど優れたデザインとは思わない。
「ミニマルっ気」と上で書いたけど、全体的にもっさりしていてまだ洗練させられる余地を感じる。どれもイマイチだ。

展示の裏側では、ラミーのボールペンを使って輪郭の中に好きに顔を描いてインスタに載っけれという企画をやっており、
僕らは下の作品を残した。これはもう、マサルの天才ぶりを実感させられたね。呼吸できないほどの大爆笑ですよ。

 右のマサルの作品には戦慄を覚えざるをえない。やっぱこいつ天才やぞ、天才。

そのまま六本木で昼飯をいただいたが、ぴんからショックはあまりにも衝撃がデカく、僕らはずーっとその話題ばっかり。
「みさ先輩(乃木坂46の衛藤美彩のことらしい)よりも宮(史郎)先輩だよね!」とラーメン屋で盛り上がったとさ。

その後はリアル脱出ゲームをやってみませんかというマサルの提案により、歌舞伎町のTOKYO MYSTERY CIRCUSへ。
世間的にはどうなんだろうかとビクビクしていたのだが、男2人でも特に問題なく楽しめるようでよかったよかった。

 1階のカフェスペースで作戦を練るわれわれ。

とりあえず、10分で楽しめるという『ある刑務所からの脱出』と、30分勝負の『リアル潜入ゲーム』に挑戦することに。
待っている間は近くのゲーセンでクイズゲームをやるという定番のスタイル。マサルは名前を「かごいけさん」と登録し、
僕は僕でマッチョなキャラクターに「ブルーオイスター」と名付けるフリーダムっぷりを見せつけつつ過ごすのであった。

さて、まずは『ある刑務所からの脱出』。ネタバレ禁止なので詳しくは書かないけど、本当に最後の最後でタイムアップ。
看守役の人が一緒に悔しがってくれるほどの惜しさなのであった。個人的には2箇所「その発想は出ません」があって、
ひとつはマサルが解いたのね。まあよく考えれば脱獄といえばそりゃそうかとも思うんだけど、僕にはできないなあ。
もうひとつは日本語の問題で、その言葉からその行動にはつながらないなと。ま、次からはがんばりますとしか言えんわ。

『リアル潜入ゲーム』はすいません、途中で完全に集中が切れてどうでもよくなってしまいました。負け惜しみだけど。
同時に挑戦している人が多すぎるのと、タブレットがチームで1個なので情報にひとりしかアクセスできないのとで、
僕にはただ修学旅行で見回りの先生から隠れるゲームでしかなくなってしまった。ルールがわからなきゃゲームにならん。
まあ、リアル脱出ゲームとはこういうものだ、という力加減がちょっとわかったのでヨシとしておきましょうか。

そんな具合にぴんからショックをピークに、どことなく消化不良なままで解散。2週間後のリヴェンジにご期待ください。


2018.3.3 (Sat.)

暖かいのはいいんだが、花粉がすごくてよう。今年の春は恐ろしいことになりそうというか、すでになっている。


2018.3.2 (Fri.)

学年末のテスト。最後なので、ほぼすべての問題に引っ掛けというかミスをよけるセンスを必要とする要素を入れた。
いつもは「85点以上で合格」と言っているのだが、今回は「80点以上で合格かな」といった力加減でつくってみたのだ。
そしたらいつも計ったように50点の平均点が、今回は45点ということで、見事に結果として数字に出たのであった。
まあ当方、「解き直すことで頭のよくなるテスト」をつくっておりますので。しっかりと復習してもらえればそれでいい。

それにしても切ないのは、「いつもより簡単だった」と引っ掛けの要素に気づいていない生徒がいたことである。泣ける。


2018.3.1 (Thu.)

都立の合格発表があり、3年生は卒業モード。下級生の授業も締めを意識した内容で、時間経過の速さに呆れる。


diary 2018.2.

diary 2018

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