diary 2018.7.

diary 2018.8.


2018.7.31 (Tue.)

本日は研修。後半は課題の共有なので非常によかったが、指導主事の監視がなんとも。お前らつまらん仕事してんなあ。

それにしても前半の講義はどうしょうもないもので、愚民化教育の押し付けそのもの。心底呆れながら聞いていた。
現場を離れたやつに上から目線で言われてもねえ。文法を教えても生徒の満足度は十分でない、なんて話だったのだが、
それはつまりお前の授業では「わかる喜び」が実現できていないってことだ、お前の授業が下手なんだバーカ。
こういうクソッタレが幅を利かせている現状、どうにかならんものか。教育業界、頭の悪いやつが本当に多すぎる。


2018.7.30 (Mon.)

なんだかタフマンシリーズに新たな仲間が加わったようで、タフマンリフレッシュという新製品が発売されていた。
タフマンシリーズは2年前に飲み比べをしたけど(→2016.8.5)、あらためてその新製品についても調べなければ!
ということでさっそく購入。タフマンDRYの代わりに投入された新製品だと思うが、買いやすくなったのがありがたい。

まずタフマンリフレッシュの最大の特徴は、缶となった点。デザインも従来のものとはまったく違って、実にオシャレ。
エナジードリンクを意識してのリニューアルだと思うが、なんとカフェインなし。タフマンDRYには入っていたのに。
そしてガラナの風味が強め。タフマンDRYにはなかったのに。なるほど、エナジードリンクを意識はしているものの、
かなり独自性を持たせているわけだ。炭酸は弱めの印象で、味は甘い。単純にタフマンVを炭酸にしたわけではないな。
あえてちょっとクセのある感じに仕上げることで、個性を持たせた味だと思う。広く受け容れられるといいですな。
【考えられるシチュエーション】……ノンカフェインのエナジードリンクとしてエネルギーを補給したいという場面。

 タフマンリフレッシュ。2018年2月に登場。

個人的には、常備するなら炭酸でなくて飲みやすいタフマンVかな。タフマンリフレッシュは気つけっぽい印象かなあ。


2018.7.29 (Sun.)

昨日は『無風状態』とか言って喜んでいたのに、今日は台風だよ……。

隠岐諸島への旅は終わったが、旅行じたいはまだもう一日ある。この一日で存分に神社めぐりをする予定だったが、
台風が来そうということで島根県は厳戒態勢に入りつつある感じ。確かに朝から空がどこか暗く、風がかなり強い。
こうなるとレンタサイクルを使ってのやりたい放題はちょっと難しそうだ。ポイントを絞ってバスで動くことにする。
昨夜のうちに参拝する候補を選び、できるだけ効率のよいスケジュールを組み立てておいた。割り切っていくのだ。

最初の目的地は神魂神社だ。2年前に訪れているが(→2016.7.24)、そのときに御守をうまく頂戴できなかった。
さすがに2年経ったら当時切らしていたふつうの御守をゲットできるだろう、との算段で再訪問するというわけだ。
バスで直接かんべの里へ乗り込むと、そこからちょいと歩いて神魂神社。御守があるかドキドキしつつ参拝。

  
L: いざ行かん。  C: 相変わらず雰囲気のある参道だ。  R: さあ、石段を上ったら拝殿だ。いざ勝負、勝負!

前回参拝時にはだいぶイライラしてしまったが、今回はそれを申し訳なく思ってしまうほどに丁寧な対応なのであった。
本当にありがとうございました。やっぱり歴史を感じさせる神社といい形でご縁が結べたと思うと、感動が大きい。
あらためて参拝できてよかったと心から思ったよ。御守はこの気持ちを思い起こさせてくれる素敵なアイテムなのだ。

  
L: 拝殿そして本殿。よく見ると拝殿は向拝が別で付いていて隠岐造っぽいのね。しかし国宝の本殿は本当に見事だ。
C: 貴布祢稲荷両神社も本殿と同じ1583(天正11)年の築。  R: しかし神魂神社は人知を超えた別世界って感じだなあ。

松江駅に戻ると、今度は須我神社を目指す。出雲大東駅へと向かう路線バスに乗り込むと県道24号を30分ほど揺られ、
その名も須賀というバス停で下車する。安芸高田の清神社もそうだったが(→2014.7.22)、神社に絡む「すが」とは、
スサノオがヤマタノオロチを倒した際に「清々しい」と言ったのが由来である。ここもその伝説の舞台とされる場所だ。

  
L: 須我神社の参道入口。県道から分かれて門前の集落へと入る。石造りの鳥居としては山陰最大という大鳥居がお出迎え。
C: 参道の途中にある大きな石灯籠。ちゃんと両側にある。  R: かつて祠があったと思しき土台。奥には御幣まみれの石。

おととし木次線に乗った際(→2016.7.22)、出雲大東駅で須我神社の看板を見かけてかなり気になっていたのだ。
しかしバスでないとどうにもならない場所にあるので、後回しとなっていた。今回、ようやく参拝することができた。

  
L: 須我神社。見てのとおり、山裾の部分がそのまま境内となっていて、ちょっと独特な雰囲気である。
C: 鳥居の辺りから随神門を見たところ。手前の石には「日本初之宮」と刻まれている。こだわりを感じる。
R: 境内の空間もまたかなり独特。建物は西側に配置され、東側はオープンスペースとなっている。

ヤマタノオロチを倒した後、スサノオはこの地に宮殿を建てたそうだ。これが日本初の宮殿ということで、
須我神社は「日本初之宮」を名乗っている。また、このときにスサノオが詠んだ歌が日本初の和歌ということで、
「和歌発祥の地」も名乗っている。境内の建物の配置もそうだが、かなり独特なこだわりを感じさせる神社だ。

  
L: 石段を上って拝殿を横向きに見たところ。左手奥にあるのが授与所だが、わざわざ高さを拝殿に合わせて建ててある。
C: 拝殿。石垣で後ろに余裕がないので、この苦しいアングル。  R: 本殿。大社造にしては彫刻がちょっと凝っている。

なんとも不思議な空間だなあと思って拝殿の前を抜けたら、なんとすぐ隣がお寺の境内となっていた。
お寺側が一段高くなっているだけで、ほとんど分け隔てる要素がない。なるほどスサノオは神仏習合で牛頭天王だったし、
須我神社はもともとこちらの普賢院と一体化していたのかと納得。境内をはじめ神社にしてはかなり自由な感覚も、
今も普賢院と密接な関係があるなら理解できる。で、案の定、御守もどちらかというとお寺に近いスタイルだった。

 お隣の普賢院。やっぱりかつては須我神社の神宮寺だった。

須我神社を参拝しているうちに天気は回復し、青空が見えてきた。清々しい。今回の旅行は本当にいい旅だなあと思う。
台風に振り回されて最終日は最低限のタスクをクリアした、という感触だが、やるべきことをやった達成感は最高だ。

帰りはあえて乃木駅で下車し、バスを乗り換えて玉造温泉へ。縁結びパーフェクトチケットをフル活用しております。
しかし今回は玉湯川沿いの温泉街ではなく、宍道湖に面したホテルで日帰り入浴である。これまた最高なのであった。

 宍道湖を眺めながら温泉に浸かるこの贅沢よ。

帰りは松江駅から夜行バス。まあ少なからず翌朝にダメージはあるけど、気持ちが充実しているから大丈夫だ。
初めての隠岐諸島、そして松江周辺でのリヴェンジ。どれも上手くいった。素敵な旅をありがとうございました。


2018.7.28 (Sat.)

隠岐「流されたいんよ!」旅の2日目は、島前である。一口に「島前」と言っても、主に3つの島・自治体からなる。
おかげでひとつにまとまっている島後に比べるとちょっとマイナーな印象があるのだが、魅力はまったく劣らない。
今日はがんばって午前中に西ノ島(西ノ島町)、午後に中ノ島(海士町)を自転車で走る予定。高低差がつらそう……。
なお、もうひとつの島である知夫里島(知夫村)は今回スルー。申し訳ないけど、規模の小さい村なのでなかなかねえ。
まあとにかく、全力で島前の魅力(の2/3)を味ってやるのだ。8時30分に観光協会で電動自転車を借り、いざスタート。

  
L: 別府港。車が多く、本土も含めて隠岐の往来が盛んなことがうかがえる。左が客船ターミナルで、右は観光協会が入っている。
C: 観光協会のある第2ターミナルビル。おしゃれですな。  R: パンフレット置き場なんておしゃれすぎて。つくるの大変そう。

まずは別府港の北側にある黒木御所跡から。ネットで検索してみたら、同名の史跡が全国に複数あって驚いた。
そもそも「黒木御所」とは皮を削っていない木材を使った御所を意味するそうで、平時のものではない御所を指す。
隠岐の黒木御所跡は、後醍醐天皇が脱出までの1年余りを過ごした行在所とされる(昨日の国分寺との説もある)。
海側には黒木神社が鎮座しており、併せて探訪。ワサワサと木々が元気で、なかなか大変な環境だっただろう。

  
L: 黒木神社の入口。「建武中興発祥之地」の碑がある。  C: 黒木神社。  R: 奥へ上っていくと黒木御所跡。

それにしても西ノ島の海は本当にきれいだ。爽やかな朝に港へ出ると、その美しい色合いに見とれてしまう。
青い空、豊かな緑、透きとおった海。これぞ島の旅の醍醐味だ。堪能すると、いざ焼火(たくひ)神社へと向かう。

  
L: 朝の別府港。島前はカルデラで海岸線は複雑な形なのだ。奥に見えるのはおそらく中ノ島の山だろう。
C: 西ノ島の海。とにかくきれい。浮かんでいるのは見付島。  R: いざサイクリングを本格的にスタート。

フェリーが別府港を出るのは12時20分。なんとかそれまでに西ノ島の観光名所を押さえられるだけ押さえたい。
そこで最初にいちばんの難所をもってきたというわけだ。焼火神社のある焼火山は、島前カルデラの中心である。
案の定、たいへんつらい。電動自転車でも、つらいものはつらいのだ。国道485号を西に抜けてから一気に南下。
最初は海沿いののんびりとした道だが、途中から海を離れてじっとりとした上りを強いられる。山だから当然だが。
カルデラの中心の山だから、高さがあるのは当たり前のこと。これを朝イチの気合いで上りきり、神社入口へ。
駐車場の脇に自転車を置くと、草木が勢いよく茂る登山道を大股で行く。これはなかなか、精神的にキツい。

  
L: 焼火神社へ向かう道。まあふつうに山だよね。  C: 焼火神社・焼火山の登山道入口。  R: なかなかにハード。

5分ほどで立派な銅鳥居が現れるが、焼火山の山頂へと向かうルートはその少し手前から分岐すると案内板がある。
今日は体力をフルに使う旅程なのはわかりきっているので、今回はパスして焼火神社の参拝のみと即決するのであった。
半袖短パンでこんなモジャモジャな道をこれ以上登るなんて勘弁してほしい。マムシも出るって案内板にあったし。
そもそもが、寄り道している時間も体力もないのだ。なんせカルデラの起伏が相手だ、ちょっとの油断が命取りになる。

  
L: 焼火神社の銅鳥居。  C: 草木が元気な道を抜けると、ここだけ妙に開けた社務所に出る。1902(明治35)年の築。
R: 社務所から見える知夫里島。行けなくてごめんなさい。しかしこうして見ると、島前と島後は特徴が正反対で面白い。

参道は社務所からさらに奥へと続いていて、狛犬の先にあるカーヴを行くと社殿が見えた。そう、これが見たかった。
国指定重要文化財となっている社殿は、非常に独特な形で岩に貼り付いていた。その様子に、しばらく圧倒される。
焼火神社はかつては焼火山雲上寺という寺だった。明治になって神仏判然令を受けて神社となった経緯があるのだ。
そのためか、参道に対して拝殿と本殿が並ぶというオリジナリティ溢れる配置である。合理的と言えば合理的だが。

  
L: ラストスパート。  C: 進んでいくと焼火神社の社殿が現れる。  R: 拝殿。逆光が非常に残念。朝イチだもんな……。

拝殿は1673(寛文13)年の築。かつてはもっと小規模だったそうだが、1902(明治35)年に改修されて今の姿となった。
本殿は岩壁の洞にはまって投入堂チック(→2017.7.17)。榛名神社っぽくもある(→2016.3.30)。修験道の価値観だね。
1732(享保17)年の築だが、ズームで見ると東照宮的な印象。朱塗りと白木とをきっちり分けている丁寧な仕事が光る。
これら両者を結ぶのが通殿。横向きだからか、幣殿とは呼ばないみたい。現存するものはやはり1902(明治35)年の築。

  
L: 拝殿をクローズアップ。土地に余裕がないとはいえ、本殿に対して完全に横向きと割り切っているのはすごい。
C: 通殿と本殿を覗き込む。  R: 本殿。洞窟にはまり込んでいるかのような造りで、建築的にも榛名神社を思い出す。

これは本当に貴重なものを見た。大いに感動しつつ、登山道を下って坂道を下って国道485号まで戻る。
焼火山を抱える西ノ島は、島前三島の中で最も複雑な形をしている島だ。逆を言えばその分だけ天然の良港が多く、
カルデラの内側に複数の集落が点在している。後述するが中ノ島は田んぼが非常に多くて稲作が盛んなのに対し、
西ノ島は漁業が盛ん。その最大の漁業拠点である浦郷港を目指す。が、ひたすら西へ爆走し、そのまま港を抜ける。
というのも、もうひとつの隠岐国一宮とされる由良比女神社が港の先にあるから。いざ参拝するのだ。

  
L: 浦郷港に面して鳥居がある。由良比女神社はここから奥へ進んで左手に鎮座するが、この鳥居とは逆向きである。
C: 県道を進んで戻って由良比女神社の境内入口。かつてはイカ型の電話ボックスがあったらしい。  R: 随身門。

近世には衰退していたそうで、そのせいか、昨日の水若酢神社と比べると明らかに境内はコンパクトな印象。
しかし拝殿は堂々たるサイズで威厳十分。今日は何やら神事があるようで、中にワイシャツ姿の人が並んで座っていた。
邪魔しないように二礼二拍手一礼し、これで隠岐の一宮は完全制覇となったのであった。めでたいめでたい。

  
L: 参道をさらに行く。  C: 拝殿。中では何やら神事をやっているようだ。  R: 後で寄ったら閉店モード。

なお、西ノ島町観光協会で確認したが、由良比女神社には御守がない。御朱印は観光協会でいただける(焼火神社も)。
実際に訪れてみると、確かに御守なさそうだなあ、という感触である。でも社殿は立派なので、一見の価値はある。
本殿は向拝が屋根と一体化しており隠岐造ではないが、肘木や斗栱などの組物が非常に独特。ものすごく凝っている。

  
L: 境内社。こちらの妻入の方はどちらも向拝が独立した隠岐造となっている。  C: 横から見た本殿・拝殿。
R: 本殿。1889(明治22)年の築。斗栱が見事だが、軒下でそこから延びている飾りが非常に独特。なんだこりゃ?

さて、由良比女神社の手前の入江は「イカ寄せの浜」として知られている。実際にテレビで見た記憶がうっすらあるが、
冬にイカの大群が現れて「獲る」のではなく「拾う」状態になるそうだ。祭神の由良比女命が芋桶で海を渡っていたとき、
その手をイカが引っ張ったんだか噛み付いたんだかで、そのお詫びということで大群で押し寄せるようになったという。
『土佐日記』では祭神は「ちぶり神」であり、知夫里島から西ノ島に移ったせいで知夫里島にイカが来なくなったとか。
伝承とは面白いものだなあと思いつつ海を覗き込んだら、イカはいなかったが、青い大きなカニが悠然と歩いていた。

 
L: イカ寄せの浜。今は静かな夏の海。  R: 調べたらタイワンガザミのようだ。たいへん旨いらしい。

さあ、ここからがまた勝負だ。そのまま県道315号を進み、国賀海岸を目指す。ケーブルテレビの映像があまりに見事で、
これは無理をしてでも行かなれば!と固く決意していたのだ。それも下から見上げるのでなく、上から見下ろす形で。
となると、電動自転車をフルパワーでこぐしかない。フェリーまでの残り時間、バッテリーの残量、どちらも不安だが、
迷っている暇なんてありゃしない。歯を食いしばって坂道を駆け上がっていくと……牛? そんでもって……馬?
そう、この辺りは牛や馬が放牧されており、彼らは遠慮なく道路をまたいで草を食んでいる。なんとも豪快なものである。

  
L: 道に現れた牛たち。さすがに最初はびっくりした。  C: てっぺんまであともう一息。しかし自転車でがんばったなあ。
R: 絶景を背にのんびりと座り込む牛と、夢中で草を食む馬。こういう風景、本当にあるんだなあ……なんて思ってしまった。

牛たちや馬たちはおとなしく、僕の姿を見てもあんまり相手にしてくれない感じ。まあ、迫って来られても困るが。
常識的な範囲で彼らに近づいて、写真を撮らせてもらう。絶景に動物にと、これは本当に贅沢な体験だったなあ。

  
L: 牛と馬。間にある台地にも牛と馬がいてのんびり過ごしている。実際に見ると天国にいるような景色よ、これ。
C: 牛たちをクローズアップ。デカいから怖いっちゃあ怖いのだが、彼らは実に穏やかなのであった。  R: うーん、近い。

しかし牛さん馬さんと戯れている暇はあんまりない。てっぺんにたどり着いて、そこからの景色を見たいのだ。
道路を上りきると、そこは一面の芝生。自転車を置いて丘の上へと歩いていくと、目印のように四阿がある。
そのすぐ近くに「摩天崖」と書かれた柱が立っていて、その先は恐ろしい高さの崖。実に257mもの高さに目が眩む。

  
L: 駐車スペースからラストスパート。四阿が見える。  C: 旧日本軍の監視所跡。窓だけ地上であとは地下。
R: 国賀海岸の最高部、摩天崖のてっぺん。高さ257mの断崖というのは、そりゃもう恐ろしいなんてもんじゃない。

そして南側の柵のギリギリまで行ってみると、目の前にあるのは究極の絶景。今までいろんな美しい景色を見てきたが、
これほどまでに心を奪われる景色はなかったんじゃないか。澄み切った青い海、鮮やかな緑、穏やかな動物たち。
しかし断崖絶壁は自然の絶対的な力をまざまざと見せつける。あんなに大きかった牛も馬も、ただの小さな粒でしかない。


まずはパノラマで、広い視野で見たところを再現。

美しいだけの景色なら日本のあちこちにあるが、国賀海岸はただ美しいだけではないのだ。本気を出した自然の恐ろしさ、
その上に成り立つ平穏という対比が、残酷なほどにありありと示されている光景は、決して他では見られないものだろう。
一言で表現するなら、それは「畏れ」だ。自然への畏怖、それが現実の空間として目の前に広がっているのである。
ただ、そんな大地にしっかり適応している動物たちもまた逞しさを感じさせる存在だ。生命とはかくもか弱きもの、
しかしまた、かくもしぶときもの。地球で繰り広げられていることの帰納的な光景が、ここにはあるんじゃないか。

  
L: 国賀海岸のベストショットということで。手塚治虫『火の鳥 黎明編』の「世界だ」レヴェルの衝撃ですよこれは。
C: あまりにも畏れ多い大地、そこで逞しく日常を生きる動物たち。思わず哲学したのは阿蘇の外輪山以来かな(→2008.4.29)。
R: ちなみに摩天崖のてっぺんからはど真ん中を突っ切って257m下って海まで出ることができる。歩きたかったなあ。

アクセスの難しさが半端ないので気軽に行けないのがつらいところだが、国賀海岸は絶対に一度は訪れてほしい場所だ。
そして牛や馬としっかり触れ合ったうえで、この絶景を目にしてほしい(順番は逆でもいいけど)。これは究極ですぜ。
写真だと、やはりどうしても限界がある。ぜひ、現地でこの光景を実際に体感してほしい。感動すること間違いなしだ。

絶景の余韻に惚けつつも安全運転に徹しながら浦郷港へ。せっかくなので西ノ島町役場経由で別府方面に戻る。
西ノ島町役場は浦郷港の集落のど真ん中にあり、周囲に余裕のない立地なので全容がぜんぜんつかめないのであった。
国道を東へ行ってトンネルを抜けると真新しい建物。西ノ島コミュニティ図書館「いかあ屋」で、ちょっと寄ってみた。
図書館機能が中心だが、キッチンがついていたり和室がついていたりコンセントが自由に利用できる部屋があったりと、
従来の公民館よりは身近に使う工夫がなされており、利用者はけっこう多かった。非常に意欲的な取り組みだと思う。

  
L: 浦郷港付近。  C: 西ノ島町役場。竣工年がわからないらしいが、築後60年以上は確かだと。さすがに新庁舎建設を計画中。
R: 西ノ島コミュニティ図書館「いかあ屋」。「いかあや」は西ノ島弁で「行こうよ」の意味で、屋号っぽい愛称にしたそうだ。

フェリー「くにが」の出航時刻は12時20分で、どうにか12時の5分前にはターミナルに到着することができた。
バッテリーの残量は13%で、こっちもギリギリ。焼火神社と摩天崖を往復して帰ってこれるとは、絶妙な量ですな!
乗船手続きをしてフェリーに乗り込む。焼火山の山頂も行ってみたかったし、国賀海岸も遊歩道を歩きたかった。
なんとか西ノ島の主要なポイントは押さえたけど、その魅力を味わい尽くした、とまでは言えないところである。
いつかリヴェンジする機会があるといいなあと思いつつ、別府港を後にする。さあ次は中ノ島だ。走りまくるぞ!

  
L: 別府港に描かれたおやじと布。水木しげるのルーツは隠岐にあるそうだ(島後らしいが)。目玉おやじのブロンズ像もある。
C: 離岸したフェリーは豪快に向きを変える。その軌跡がまあきれいで。  R: さらば西ノ島。国賀海岸にぜひまた行きたい。

西ノ島の別府港から中ノ島の菱浦港までは、わずか20分。まっすぐ東へ行けばそのまま到着するのだ。すごく近い。
同じ島前の島ではあるが、菱浦港の方が規模は大きい。菱浦フェリーターミナルはかなり気合いの入ったつくりである。

  
L: すぐに菱浦港が見えてきた。手前にホテルがあるなど、こっちの方がリゾート感がある。  C: オサレなデッキなこと。
R: キンニャモニャ踊り像。「キン像」と略すらしい。しゃもじを両手に民謡に合わせて踊る、以上の情報が見つからない……。

単純に人口だけでいえば海士町(中ノ島)は西ノ島町よりも少ないのだが、駐車場には車がいっぱいあるし、
オシャレなメシを食える店もあるし、しっかり賑わっている印象。ターミナル内の土産物売り場も充実している。

  
L,C,R: 菱浦フェリーターミナル内。2002年竣工で、「承久海道キンニャモニャセンター」という施設の一部として扱われている。

観光案内所でさっそくレンタサイクルを借りると、いざスタート……と言いたいところだが、さすがに昼メシを食いたい。
なんかいい店ないかなあ、と思いつつ周辺を探索すると、向かいに隠岐牛の店があった。少し混んでいるが、即決で入る。
豪勢に焼肉を食っている家族連れが目立っていたが、一人旅の私は素直にローストビーフ丼をいただくのであった。

  
L: 菱浦フェリーターミナル(承久海道キンニャモニャセンター)の外観。全体をカーヴさせて囲んでいる感を上手く出している。
C: 近づいてみたところ。用途別に複数の棟を並べている。  R: ローストビーフ丼。オシャレで観光地としての矜持を感じる。

おいしいものを食べて落ち着いたところで、ペダルをこぎだす。島の起伏を全力で受け止めた先ほどの西ノ島とは違い、
中ノ島はかなり穏やか。しばらく海岸線を行くこともあり、最初の峠を越えればかなり快適なサイクリングである。

 対岸から眺める菱浦港。やってきた「おき」がバウバイザーを上げている。

県道317号を進んでいくと、海岸から海士町の中心部へと入っていく。北側は一段高く田んぼとなっており、
海に面した集落しかなかった西ノ島とは明らかに雰囲気が違う。同じ島前のカルデラの島なのに、不思議なものだ。
このメインストリートを進んでいくと、すぐに海士町役場が現れる。1969年竣工の実に典型的な役場スタイルである。
むしろ面白いのは向かいのJAしまね海士支所で、しっかりリニューアルが施されているがファサードは旧来のまま。
手前に駐車場があり、その中央に堂々とバス停があるのが異様だ。これまた、昔の空間がそのまま残っている。
調べてみたら、こちらの建物はやはりかつての海士「村」役場だった。資料にミスがあったが、おそらく1934年着工。
(2002年発行「島根県の近代化遺産一覧」のPDFファイルには「昭和9年(1924)着工」と記載。恥ずかしいなあ。)

  
L,C: 海士町役場。典型的な1960年代鉄筋コンクリート庁舎で、いかにもな町役場サイズ。駐車場と植栽のバランスも典型的。
R: JAしまね海士支所(旧海士村役場)。1915(大正4)年制定の海士町町章(当時は村章)がきちんと残されているのがよい。

そのJAしまね海士支所から奥へ入っていくと、明治期に建てられた母屋を改修したという村上家資料館がある。
村上家は隠岐に流された後鳥羽上皇の世話をしたという名家。この辺りが昔っから島前の中心地だったことがわかる。

 
L: 村上家資料館。2014年のオープン。  R: 角度を変えて眺める。最大の見所は古文書の展示。

県道をさらに東へ行くと、すぐに隠岐神社である。祭神は後鳥羽上皇で、創建は1939年と非常に新しい。
かつては松江藩主・松平直政がこの地の寺に後鳥羽上皇の廟を建てたが、廃仏毀釈で廃寺となってしまった。
後鳥羽上皇を祀る神社はすでに水無瀬神宮(→2015.7.25)があったため、創建が遅めとなったわけか。
戦前の盛り上がりの中、建武中興十五社のような感覚で、あらためて配流地に神社をつくったのだろう。

  
L: 隠岐神社。後鳥羽上皇の火葬塚・行在所跡の脇につくったが、もとが広大なので境内もしっかり広い。
C: 参道を行く。だいぶ奥行きがあるが、明治期の神宮(→2015.5.10)と比べると整備は雑。まあ離島だしな。
R: けっこう歩いてようやく石段。ここまでずっと、木々の生い茂る砂利敷きの参道なのであった。

長い参道は自然の勢いにだいぶ押され気味だったが、石段を上がるときちんと整備された境内となる。
神門を抜けるとそこからは石畳の参道が整備されており、いかにも建武中興十五社や明治以降の神宮らしい空間に。
なるほど、隠岐諸島は神社建築空間の整備意図ということで考えると、だいぶ素直に違いを体感できる場所だ。
隠岐造を守る名神大社系、修験道らしい焼火神社、そして近代の文法による隠岐神社。実に勉強になるではないか。

  
L: 石段を上がると、きちんと人の手の入った感触に。  C: 神門。  R: 抜けると近代の神宮的境内となる。

境内は無人だったが、授与所には御守がきちんと置かれており、無人販売スタイルで無事に頂戴することができた。
さて皇室の紋といえば菊花紋だが、これは後鳥羽上皇が菊花紋を愛用したのがきっかけとなっているとのこと。
でも隠岐神社の神紋はストレートな菊花紋ではなく、菊浮線綾にアレンジしているのが特徴的だ。こだわりが面白い。

  
L: 社殿の向かって左には神輿が収められた祭器庫。  C: 本殿。隠岐造とのことだが、よく見えない。向拝ついてる?
R: 隠岐神社前のバス停にて。標識がしゃもじでキンニャモニャである。そんなにアイデンティティなのか……。

隠岐神社に隣接している後鳥羽上皇御火葬塚にも行けるだけ行ってみた。こちらも道は砂利敷きとなっているが、
両側は低い石垣が続いている。いかにも宮内庁が管理している御陵といった雰囲気が、ちゃんと漂っている。

  
L: 後鳥羽上皇御火葬塚の入口。  C: 道はこんな感じ。このまま隠岐神社にも行ける。  R: 左に曲がると御火葬塚。

そのまままっすぐ進めば後鳥羽上皇行在所跡。今は勢いよく生い茂る木々を背にして石碑が建っているだけである。
しかしまあ、同じ隠岐に流されたにしても、後鳥羽上皇はこの地で亡くなったが、後醍醐天皇は脱出して京都に戻った。
この100年ちょっとで鎌倉幕府が揺らいで、それだけの差がついたということか。歴史を現地で考えるのは勉強になる。

 
L: 後鳥羽上皇行在所跡。  R: 県道の反対側には海士町後鳥羽院資料館。1980年に海士町歴史民俗資料館として開館。

さてここからが本格的なサイクリングだ。隠岐国の4つの旧名神大社、ラストがこのずっと先にあるのだ。
県道317号を道なりに進んでいって、田んぼと住宅が続く景色を抜けていく。やがて郵便局を目印に北へと分岐すると、
ちょっとした起伏のある道となる。森を背にして住宅が並んでおり、あらためて西ノ島との違いを実感する。
そうして開けた田んぼ地帯に出ると、鳥居といかにも社叢らしい小さな山が見えた。宇受賀命(うずかみこと)神社だ。

  
L: 宇受賀命神社。田んぼとなだらかな山というこの景観こそ、中ノ島らしさを象徴するものではないかと思う。
C: 社号標・鳥居からまっすぐ見たところ。  R: 参道を行く。しかし境内までずっと両側が田んぼってのが中ノ島。

ではいざ参拝なのだ。島後のほぼ北端にあった伊勢命神社と同様、こちらも無人。でもだいぶカラッとした印象だ。
拝殿にはなかなか見事な注連縄が掛かっているが、瓦屋根となっているせいもあって雰囲気がちょっと独特である。
しかし本殿を覗き込んだらこちらも見事な隠岐造。1917(大正6)年の築で、海士町の文化財に指定されている。

  
L: 拝殿。中を覗き込んだら宇受賀命神社の幟がびっしりと並べられていた。  C: 角度を変えて眺めたところ。
R: 本殿。ぼちぼち隠岐造らしさがわかってきたぜ。妻入の本殿でも特に垂直方向に長い印象なのは向拝のせいかなあ。

これで本日のタスクは終了なのだ。天気に恵まれて、予定していたすべての神社を無事にまわることができた。
あとはのんびりと中ノ島らしさを味わいながら、菱浦港まで戻るのであった。やっぱり田んぼの広さが印象的ね。

  
L: 島前の他の2島にはない光景である。中ノ島は島前の食料庫として機能しているというわけか。
C: 中ノ島で唯一の信号機。子どもたちが島の外で戸惑うことがないように設置している。押しボタン式だぜ!
R: 菱浦港に面する県道から一本南に入った道。昔ながらの港町らしさが雰囲気として残っている。

15時15分、フェリー「おき」が菱浦港を出る。いったん別府港に寄ってから、知夫里島をすっ飛ばして七類港に向かう。
島前カルデラの中心たる焼火山がどんどん遠くなっていく。焼火神社の縁起は、大晦日に海から火が三つ浮かび上がり、
それが現在社殿のある岩屋に入ったとされる。隠岐に流された後鳥羽上皇が焼火権現に救われた、なんて話もあり、
海上守護神として篤く信仰されてきた。かつては夜に境内で篝火が焚かれ、それが灯台の役割を果たしていたという。
今こうして焼火山を眺めていると、人々がこの威容をどれだけ頼もしく感じていたか、心の底から実感できる。
存分に楽しませてもらった島前の旅だが、最後にきちんとその歴史を自分のものとして受け止められたのがうれしい。

  
L: フェリーを独り占め。風を全身で感じて隠岐を後にする。  C: 焼火山と向き合い、その威容に思わず背筋が伸びる。
R: さよなら島前、さよなら隠岐諸島。無言で眺めているうちに、頭の中に『無風状態』のメロディが流れてきた。

船は淡々と行く。焼火山とそれを守るように浮かぶ知夫里島・中ノ島を眺めていたら、ふと頭の中に歌が流れてきた。
『無風状態』だ。はっぴいえんどのトリビュート盤、BLACK EYE’S RIVER (浜崎貴司+高野寛+TOKIE)の方。
“風がなけりゃ ねえ船長”、そう呟いてみる。憧れていた、流されたかった島との別れ。言葉にしがたい感情が湧き出す。
そのうちに、僕らと入れ替わるように島前へ向かっていく1隻の白い船が現れた。フェリー「しらしま」だろう。
感傷に浸っていた僕の目を惹いて、船は島前へと吸い込まれていく。ああ、これが日常なのだ。島にとっては日常なのだ。
特別だと思えば、この旅は特別だ。でもそれは日常の一部にもなりうるものだ。僕はどっちで受け止めてもいいんだ。
この体験を、特別な体験として記憶してもいいし、島の日常を味わったと捉えてもいい。訪れたことで、その権利を得た。

17時55分、七類港へと戻ってきた。バスに揺られると、松江駅で縁結びパーフェクトチケットをかざして下車する。
隠岐まで行くとはなかなか豪快な寄り道だったなあ、と思う。そしてせっかくの乗車券、松江しんじ湖温泉まで揺られ、
温泉に浸かってまた松江駅まで戻る。コンビニで期間限定の「白バラ紅茶」を見かけたので、おいしくいただく。

 白バラ乳業の人気がうかがえる積極的なシリーズ展開である。

島後、そして島前。憧れていた場所は、期待以上の現実を僕に体験させてくれた。こんなに幸せなことがあるだろうか。


2018.7.27 (Fri.)

夏休みの週末は旅行ばっかりしているわけだが、さあ、いよいよ、未踏の島へ挑む時が来た! 隠岐諸島だ!
隠岐というとマサルの「流されたいんよ!」発言の元となった場所なのでどうしてもそのセリフが頭をよぎるが、
ついにその地を訪れることができると思うと本当に感慨深い。もう本当に楽しみで楽しみでたまらなかったのだ。

朝6時30分に松江駅に到着すると、まずはバスで松江しんじ湖温泉駅へと向かう。せっかくだし松江市役所を撮ろうと。
幸いなことに天気が抜群にいい。ちょっと早朝すぎるけど、青空の下で誰にも邪魔されずに市役所を撮影できる幸せ。
5年前には耐震補強工事をやると決めていたが(→2013.8.19)、今年の2月に松江市庁舎整備基本構想が策定されて、
建て替えの方針が確定している。おそらくこれが今の庁舎を見る最後のチャンスだろう、と思いつつシャッターを切る。

  
L: 松江市役所。  C: ほぼ正面から撮影。これももう見納めか。  R: 正面を強調する感じでもう一枚。

松江しんじ湖温泉駅にやってきた本来の目的は、実は松江市役所ではない。所期の目的を忘れるわけにはいかないぜ。
狙いは、3日間バスを乗り放題できる縁結びパーフェクトチケット。たった3000円で旧出雲国内を自由に動きまわれる、
恐ろしいアイテムなのだ。さっそくそれで松江駅まで戻る。そして今度は七類港行きのバスに乗り込む。忙しいぜ。

40分ほど揺られると七類港に到着である。ここが隠岐諸島への玄関口となる、フェリーターミナルのある場所だ。
そしてこの建物、「メテオプラザ」という名前を持っている。その名のとおり、美保関隕石を展示する施設でもある。
ほかにも海水を濾過した入浴施設やホール、さらには謎のリラックスルームなどがくっついた複合施設なのだ。
設計したのは島根県出身の高松伸。そういえば境港のターミナルも設計していたな(みなとさかい交流館 →2013.8.20)。
まあとにかく、乗船名簿に記入を済ませて乗船券を購入。この乗船名簿を書く一手間が、離島って感じなんだよなあ。

  
L: 七類港フェリーターミナルビル「メテオプラザ」。フェリーの出航時刻は9時で館内施設が開くのと同時なのね……。
C: 角度を変えて撮影。すぐ背中が山なので撮りづらい。島根半島だから当たり前だが。  R: いざ出航。さらばメテオプラザ。

フェリー「おき」で、まずは島後の西郷港を目指す。所要時間は2時間25分ということで、特にやることがない。
春休みに乗った直江津と小木を結ぶ「あかね」は座席があってふつうに座っていればよかったが(→2018.3.30)、
こちらは両津-新潟と同じくひたすら絨毯敷きのエリアに寝転がるスタイル。おがさわら丸もそうだったなあ。
まあ長距離の船便だと究極的にはそういう形に落ち着くものなんだろう。やはり、気がつきゃ寝ていた。

  
L: 七類港からどんどん離れていく……。  C: フェリーの切符は硬券。旅情を感じさせますなあ。  R: 2等船室にて。

11時過ぎ、起きたら島が見えていた。島後だ。地図で見ると丸っこい島後だが、その海岸線はかなり複雑である。
船からだと、いくつもの平べったい山が折り重なるような姿をしている。荒々しい岩肌で断崖となっているその上に、
こんもりと緑が乗っていて溢れ出しそうだ。しかし西郷湾内に入ればそこはしっかりと港。あっという間に接岸する。
驚くほど呆気なく隠岐の土を踏んでしまった。テンポが良すぎて、ターミナルビルから道路に出て軽く混乱してしまう。

  
L: 西郷湾内に入る。それまでは自然に圧倒されていたが、明らかに人里の景色でほっと一安心。隠岐に来た!
C: 西郷港。いざここまで来ると、到着まではあっという間。  R: 隠岐に上陸したが、いきなりの日常で途方に暮れる。

まずやるべきことは、レンタサイクルの確保である。隠岐の島町観光協会に行って、無事に手続き完了。
そうなればもう、あとはペダルをこぐだけだ。絶好のサイクリング日和に、意気揚々とスタートを切るのであった。
絶対的な目標は当然、隠岐国一宮・水若酢神社である。しかしそれを含めて隠岐国には名神大社が4社あり、
島後の北西端に位置する伊勢命神社までは押さえたい。別府行きの便の出航は18時5分なのでしっかり余裕があるが、
体力がもつかどうか。まあとにかく、できるだけ寄り道をして面白がりながら島後を味わうとしよう。

最初はやはり、挨拶がわりに役所を訪れなければなるまい。かつて島後は西郷町・布施村・都万村・五箇村があったが、
2004年に合併して丸ごと隠岐の島町となった(竹島も隠岐の島町に含まれる)。役場は1972年竣工の旧西郷町役場である。
しかし老朽化を主な理由に新庁舎の建設を計画中。設計者もプロポーザルで梓設計・ナック建築事務所JVに決まっており、
西郷浄化センター横の農地に移るそうだ。西郷地区ではいちばん広い海から離れた平地で、はっきり郊外志向な感じ。

  
L: 隠岐の島町役場。西郷港から1.5kmほど離れた八尾川沿いにある。  C: 北東から見たところ。  R: 北から見た背面。

 平日ということで中にお邪魔する。ふつうに役場ですな。

ご挨拶を済ませると、そのまま西に抜けて国道485号に出る。ちなみにこの国道485号、西ノ島を経て松江へ至る、
海上国道を含む路線である。こいつをちょっと南に戻ると、玉若酢命(たまわかすみこと)神社である。

  
L: 玉若酢命神社の境内入口。  C: 参道を行く。  R: 茅葺の隋神門。いきなり隠岐の神社の凄みを見せつけられた。

玉若酢命神社は名神大社ではないが、隠岐の国府に近いこともあり、総社として強い力を持っていた神社とのこと。
それを如実に示しているのが一連の建築物だ。本殿と随神門、あと少し離れたところにある社家・億岐家住宅の3棟が、
国指定重要文化財となっている。なお拝殿は特に文化財となっていないようだが、それでも見事な迫力を持っている。

  
L: 拝殿。巨大な注連縄に目がいくが、建物じたいも見事。御守は無人販売スタイルで置いてある。  C: 角度を変えて眺める。
R: 本殿。見るからに独特な妻入で、これが隠岐造。向拝の屋根が独立している点が春日造と異なる。1793(寛政5)年の築。

億岐家住宅にはもうひとつ国指定重要文化財があるので、それも見学させていただく。それは、駅鈴と隠伎倉印。
駅鈴は律令時代に官吏(駅使)が使ったもので、この鈴を鳴らして駅馬を調達し、中央官庁とやりとりしていたそうだ。
また倉印は、倉に貯蔵されている税の出納の際に使用されたもの。よくこれだけのものが残っていたなあと感心する。
遠慮して写真を撮らなかったけど、ネットを見るに写真がけっこうあって、どうも撮ってよかったみたい。深く後悔。

  
L: 億岐家住宅。1801(享和元)年築で、現役の社務所兼住宅である。  C: 正面から見たところ。  R: 中はこんな感じ。

玉若酢命神社を後にすると、国道をちょっと北上して今度は隠岐国分寺。その名のとおり隠岐の国分寺の後継寺院で、
後醍醐天皇が隠岐に流されていたときに暮らしていた場所という説もある。今はかつての礎石がいくつか残されている。
それを確認するくらいしかやることがないので、いちおう参拝するとすぐに国道に戻って北上を続けるのであった。

  
L: 隠岐国分寺の跡。礎石がいくつか残る。なお、現在の本堂は2014年の再建。明治時代にいったん廃寺になっているのだ。
C: 国道485号をひた走る。島なので起伏を覚悟したが、妥当な上りと下りって感じ。さすがは島後のメインストリート。
R: 五箇トンネルまではじっとりとした上りだが、抜けると豪快な下りを経て穏やかな道に。いい感じのサイクリングである。

30分ちょっとで隠岐国一宮・水若酢神社に到着する。これでまたひとつ、未踏破だった一宮を訪れることができた。
難敵である島の一宮ということで、いつも以上に感慨深い。ひと気のない神社を独り占めする気分も実に心地よい。

  
L: 水若酢神社の境内入口。国道が境内をよけるように西へと進むが、そこから分かれた道を進むとこの鳥居が現れる。
C: 参道を行く。左手に立派な屋根の架かった土俵があるが、隠岐では祝い事があると相撲大会をやるんだってさ。
R: そのまま進むと隋神門。1811(文化8)年の築とのこと。簡素な印象の門ではあるが、注連縄が掛けられて威厳がある。

ではいざ参拝。二礼二拍手一礼を済ませ、国指定重要文化財の本殿を眺める。こちらも先ほどの玉若酢命神社と同様、
隠岐造の代表例ということで、さすがの迫力。妻入の本殿といえばなんといっても大社造が有名だが(→2016.7.24)、
どこか似たものを感じる。出雲と隠岐の近さが建築として現れている好例であろう。しかし確かに向拝は独特だ。
これが屋根と一体化すると春日造になるというが、そもそも春日造は本殿を見せたがらないしいくつか並べるしで、
むしろ大社造を簡素にした様式と捉える方がしっくりくる。この微妙な違いが島のアイデンティティというわけか。

  
L: 拝殿。1912(大正元)年の築。  C: いざ本殿。隠岐造は垂直方向に長い印象だなあ。  R: 本殿は1795(寛政7)年の築。

御守を頂戴したが、一般的なふつうの御守がないようで、ちょっと困った。身体安全除災招福がビニール入り弓矢守。
開運厄除が金幣守でこれもビニール入り。布の袋に入ったスタイルとなると、病気平癒ということになるようだ。
しかし表面にはそんなこと書いてないし、とりあえずそちらを水若酢神社の代表的御守として頂戴することにした。

  
L: 横から眺める本殿。印象としてはやはり大社造に近い。  C: 鬼瓦の代わりである鬼板が置かれていた。
R: 水若酢神社古墳・1号墳。石室の大きな石がいくつも露出している。全長約11mで隠岐諸島最大級とのこと。

そのまま東にある隠岐郷土館を見学。旧周吉外三郡(周吉郡・穏地郡・海士郡・知夫郡)の郡役所として建てられた、
島根県を代表する擬洋風建築とのこと。竣工は1885(明治18)年。もともとは江戸時代の松江藩陣屋の敷地にあり、
郡役所の後には隠岐支庁の庁舎として1968年まで使われていたそうで、まさに隠岐の行政を代表する建物だったわけだ。

  
L: 隠岐郷土館(旧周吉外三郡役所庁舎)。玉若酢命神社・水若酢神社とともにこちらもまた隠岐のプライドを感じさせる。
C: 背面と側面はこんな感じ。往時の雰囲気を残しつつきれいにしている。  R: 中に入る。玄関はこんな感じである。

中はおなじみの博物館的な展示で、民俗学方面の資料(つまりかつての生活用品)がたっぷり置かれていたが、
建物全体をきれいにしているのが非常に印象的。床板はきっちり張り替えていたが、それ以外は往時の雰囲気が残る。
大切にされているんだなあと、ほっこりするのであった。行政施設を誇りを持って扱う姿勢はやっぱり大事ですよ。

  
L: 建物内の様子。床が妙にきれいだが、あとは往時の雰囲気。  C: 2階に上がる。擬洋風である。  R: 民俗学的展示。

さらにその奥には都万目の民家。「都万目(つばめ)」とは島後の中央ちょい西の地名。江戸時代末期に建てられた、
豪農の屋敷を移築してきたというわけ。案内板に従ってさらに奥へ進むと闘牛場ということで行ってみたが、
そこはだいぶ草木が生い茂ってイマイチそういう雰囲気ではないのであった。ふだんの練習場に近い印象だった。

  
L: 都万目の民家。  C: 中を覗くとこんな感じ。  R: 闘牛場ということだが、あまりそういう雰囲気ではないなあ。

水若酢神社の境内北側にあるのが、五箇創生館。こちらは打ちっ放しのコンクリートに瓦屋根を載せた建物で、
名前からしておそらくバブル期のふるさと創生事業でつくられたのではないかと思うが、詳しいことはよくわからない。
確実に言えることは、喫茶コーナーのおかげでありがたく昼メシにありつけたということだ。この辺り、店がないのよ。

  
L: 五箇創生館の入口。  C: 隠岐そば。つなぎは使わないとのこと。  R: 五箇創生館の中。天井にいぐり凧。凝ってるなあ。

名物を食べて落ち着いたところで展示を見学。五箇創生館は「隠岐の伝統文化と観光の伝承施設」ということで、
隠岐の観光資源をテンポよく確かめることができる施設だった。印象的だったのは、やはり相撲と牛突き(闘牛)。
そうそう、さっき西郷港に上陸したとき、力士も何人か一緒に船を下りたのだ。八角部屋が隠岐で夏合宿をやるそうで、
伊勢ノ海部屋が合流してちびっこ相撲教室もやるとか。八角部屋には隠岐の海をはじめ隠岐出身の力士がいるもんね。
五箇創生館では、祝い事があった際に開催される上述の隠岐古典相撲の映像が流れ、相撲の根付きっぷりがわかる。
牛突きは流罪となった後鳥羽上皇を慰めるために始まったという話だが、相撲と同じ流れで定着しているのだろう。

 
L: 隠岐の相撲文化はかなり気合いが入っている。隠岐古典相撲大会は徹夜で延々とやるらしい。  R: 牛突きコーナー。

きちんと牛突きを見れば隠岐についての理解も深まるんだろうけど、とりあえず今はどうすることもできない。
いちおうは隠岐の文化の一端に触れたということで満足しておくのだ。相撲の映像は本当に面白かったです。
では先へと急ごう。五箇創生館を後にすると、国道485号に戻ってさらに北上。目指すは伊勢命神社なのだ。
水若酢神社まで来ちゃえばもうあと一踏ん張りなのだが、これがたいへんキツうございましたね。
というのも、山光久見トンネルを抜けてから分岐して北西の久見の集落へ向かうのだが、これがものすごい下り。
明らかに森林を切り開いた道で、ほぼ一直線に集落へと自由落下していく感覚。行きはよいよい、帰りは怖い。

  
L: 下り坂がおさまったところで、右手に伊勢命神社。つまり海に面した久見の集落を見守る、はずれた位置にあるってこと。
C: 伊勢命神社の境内を正面から眺める。  R: 境内の様子。今はだいぶ寂れたが、往時の威厳はそれなりに残っている。

下りきったところで伊勢命神社。祭神は伊勢命で、他にはない隠岐独自の神様だそうだ。たださすがにその名前から、
伊勢と関係はある模様。江戸時代には内宮を勧請したものと扱われたが、1841(天保12)年築の本殿はきちんと隠岐造。
上述のとおり隠岐国に4社ある旧名神大社だが、現在は無人。御守もなかったけど、参拝できたことを素直に喜んでおく。

  
L: 拝殿。  C: 境内社が面白い形で並ぶ。左が住吉大明神、中央が三笠大山大明神、右が愛宕大明神。その右は稲荷大明神。
R: 本殿を覗き込む。さすがに立派である。海に近いせいか木々の勢いがすごい。なお屋根が銅板葺となったのは昭和とのこと。

息も絶え絶えになりながらどうにか坂を上りきると、水若酢神社のある五箇まで戻ってくる。いや本当につらかった。
全身汗びっしょり、目的の神社はすべてまわった、そうなるともう、ゆっくりと温泉に浸かるしかないではないか。
しかし隠岐諸島はかつて火山だったくせに温泉がほとんどない(島前なんて、見るからにカルデラなのだが)。
伊勢命神社は西日本最大の黒曜石の産地だった歴史があるそうで、昔は火山の恵みがあったんだろうけどねえ。
そんな島後で唯一の温泉施設が、隠岐温泉GOKA。平坦でありがたい県道44号をどんどん西へ行くと、3階建てが現れる。

 隠岐温泉GOKA。島後で温泉がここしかないという事実にびっくりである。

時間帯もよかったからか、客は僕一人なのであった。時間を気にせず一人で浸かる温泉というのは最高ですなあ。
帰りはやはり五箇トンネルまでの上りがちょっとつらかったが、越えてしまえば下り坂。のんびりと西郷まで戻る。

今日のうちに島前の西ノ島・別府まで移動する。やってきたレインボージェットに乗り込む。ジェットフォイルだ。
料金はお高めだけど、いろんな乗り物を経験するのも大事なのだ。ジェットフォイルはボーイング929が正式名で、
つまり飛行機を船にしたもの(ボーイング社では700番台が航空機で、900番台が船舶ということになっている)。
海中の水中翼で安定させて「飛ぶ」わけだ。そりゃ速くてお高いわ。座席もシートベルトを締めて完全に飛行機仕様。

 
L: 西郷港にやってきたレインボージェット。この後、こいつに乗り込んで島前の西ノ島まで行くのだ。
R: レインボージェット船内の様子。フェリーよりは飛行機寄りといった感じ。スピードは確かに抜群に速い。

45分ほどで別府港に到着。ふつうに穏やかな港である。予約していた港近くの旅館にチェックインすると、
メシを求めて歩きまわる。わりときちんと海の幸が食いたかったのだが、なかなか見つからず、結局ラーメンに。
おいしゅうございましたけどね。しかし旅館の隣の棟が食堂で、どうやら館内からだと中に入って食えたみたい。残念。
さて西ノ島では町内のケーブルテレビが充実しているようで、国賀海岸のドローン映像が最高に魅力的。明日、行くぜ!


2018.7.26 (Thu.)

朝練に参加。やっぱりグラウンドが狭いのは困るなあ。プレーの選択肢がそれだけで減ってしまう。
その後は健康診断でバリウム。つらいの。これを年イチでやらなくちゃいけないとか、本当につらいの。
夜は渋谷マークシティに行き、夜行バス・スサノオ号に乗り込む。そして心の中で叫ぶ。「流されたいんよ!」


2018.7.25 (Wed.)

日直なのであった。まあいわゆるひとつの電話番である。あとは巡回という名の校内徘徊をする役。

そういえば、21日に優勝した御嶽海だが、記事に「雷電以来」という表現があって、さすがにぬぬぬとなるのであった。
長野県出身の力士が優勝するのは208年ぶりとのこと。もう、どんだけ弱いのか。こうなりゃ、かえって面白いけどね。
両親からの情報では、長野県内はかなりの盛り上がりだそうで。雷電以来の盛り上がりですかな。面白がったもん勝ち。


2018.7.24 (Tue.)

国立ハンセン病資料館で研修。人権担当ということでのご指名だが、こういう勉強になる出張は大歓迎なのだ。

まずは講演の映像を見たけど、ずいぶん話が上手い方だったなと大いに感心。残念ながら既に亡くなっているそうで、
講演の内容とともに僕にはその事実が引っかかった。なるほど、この方の代わりになりうる存在がもはやいないのか、と。
まあそれだけ本当に話が上手くて、姿勢も理知的で、そりゃ替えが利かないわなと納得できる講演の映像だったのである。
果たして自分は後世に何か心に響かせるだけのものを残せるのか、なんて考えてしまうほどの見事さだったんだけど、
それはそれで、ハンセン病に対する差別的な扱いがあってのことなので、モヤモヤせざるをえない。考え込んでしまった。

講演の映像を見た後は、館内の展示を見る時間となる。自分が患者だったら、家族が患者だったら、身近に患者がいたら。
現代ではなくかつての価値観で、果たして自分はどうふるまうタイプの人間なのか。現代で似た事例が出たらどうなのか。
自分なりに想像力をはたらかせていろいろ考える。そうして心の準備をしておくことが大事なのではないか、と思う。
さらに、周囲の人たちとどう接していくか。教育とは、教養と想像力を磨かせることだとあらためて勉強させてもらった。

久々の西武線沿線なので、昼メシに満洲のぎょうざをいただきながら脳ミソをいったんクールダウン。


2018.7.23 (Mon.)

午前中に北海道から戻ってくると、その足で直接、区内の小学校へ。結核検診なのである。せわしないなあ。

それにしても東京は押し付けてくるような暑さである。先月の沖縄をちょっと思わせる圧迫感だ(→2018.6.22)。
どちらかというと、容赦ない湿度というよりは、日差しの浸透力が圧倒的であると思う。直射日光が危険という感触。
まあでもさすがに、さっきまでいた北海道と比べちゃいかんわな。特に今回の北海道は、あまり日が差さなかったし。

気温35℃以上は活動自粛ということで、本日の部活は体育館での活動を余儀なくされるのであった。
いきなりのフットサル的な運動ということで、なかなか思うようにいかない。正直、こりゃもう部活にならん!
まあ体育館を使わせてもらえるだけありがたいんだけどね。いやはや、困った世の中になってきたもんですわ。


2018.7.22 (Sun.)

北海道2日目は北広島市からのスタートである。ここから江別にちょっと寄り道して、岩見沢そして美唄を攻める。
いかにも神社を押さえつつ、残った市役所をつぶしていく旅である。そして最後にJリーグ観戦。今日も目一杯だ。

宿泊した東室蘭から北広島まで、すべて各駅停車での移動である。苫小牧での待ちぼうけがあったとはいえ、
北広島に到着したときには2時間半以上が経っていた。さすがは北海道。まあ、各駅停車で移動できるだけいいけどね。
さて、北広島でまず最初に訪れたのが廣島神社だ。広島出身の和田郁次郎が入植調査を行った際に祠を建てたのが起源。
来る途中で伊勢参りをしており、天照大御神を祀ったそうだ。和田ら広島県民は翌年から本格的に移住を開始し、
村は「広島村」と命名されて、1996年の市制施行で北広島市となった。でも神社の名前は旧字体で廣島神社のままだ。

  
L: 廣島神社の境内入口。  C: 参道を行く。  R: 拝殿。北海道らしい頑丈さ。1980年の竣工とのこと。

参拝して御守を頂戴すると、すぐ北に隣接する北広島市役所にまわり込む。と、そこにはできたての建物があった。
新しい庁舎じたいは昨年5月にオープンしているが、1年以上経っても周囲の整備がぜんぜんできていないではないか。
先代の北広島市役所は、広島町として町制施行した1968年に建てられた。やがて札幌のベッドタウンとして開発が進み、
市役所の分散・狭隘・老朽化が問題となって建て替えが決まったのだ。なお、1991年に増築された旧第3庁舎の西半分は、
市庁舎別館ということで残されている。ほかはあらかた取り壊して駐車場となるようだ。いつ整備が完了するのやら。

  
L: まずは西側の市庁舎別館。もともとは1991年に増築した旧第3庁舎の一部。  C: 別館から見た西側の側面。
R: 近づいてみる。2階の玄関ということになるようだ。垂れ幕には「大志をいだけ!! 小中一貫教育 始動」。バカだねえ。

周囲の整備がぜんぜんできていないので、撮影しづらいったらありゃしない。それでもなんとか根性で撮っていく。
市役所のすぐ西側にはJR千歳線と並んで遊歩道があり、それを利用して建物を見下ろせるのは面白いところだ。
なお設計者はプロポーザルによって久米設計札幌支社+アトリエブンクJVに決まった。市の公式サイトによると、
先着100名の市民に公開してプレゼンテーション・ヒアリングが行われたとのこと。気合いを感じさせる話だ。

  
L: 北東側から見たところ。  C: 正面より眺める。  R: 北西側より。千歳線に並走する高架の遊歩道より撮影。

さて北広島というと、北海道日本ハムファイターズが札幌ドームから本拠地を移転させるという話が決まったばかり。
予定地は市役所から千歳線沿いに北へ1.5kmほど行ったところで、球場建設とともに新駅も設置されるようだ。
なるほど、郊外という点では福住も北広島も五十歩百歩だ。むしろ隣に新駅をつくれるんならそっちの方がいい。
新千歳空港からも近くなるし。おまけに広い土地を新たにやりたい放題できるわけで、実に合理的だと思う。
この話が実現すると、現在の北広島市役所周辺はまさに市街地の中心となる。北広島の野望、おそるべしである。

  
L: 遊歩道を南に進んで見たところ。  C: 東側の側面。  R: そのまま遊歩道から見る南西側。やはり駐車場が未整備。

北広島駅に戻ると、そのまま一気に快速エアポートで札幌をスルーして、南小樽まで行ってしまう。
石原裕次郎記念館(→2010.8.8)はもう閉館してしまったが、海とは反対の山の方には住吉神社があるのだ。
別表神社ということで、無理してでも参拝して御守を頂戴しておかなければ。北海道って本当に大変だぜ。

  
L: 住吉神社の境内入口。南小樽駅からまっすぐ坂を上ったところにある。  C: 参道。長いぜ。実は石段の上の方が工事中。
R: 拝殿。石段の工事と関係しているのか、御神体は社務所の方に移されていたのであった。社殿は1971年の竣工とのこと。

小樽の住吉神社は北海道の神社としては歴史が古く、まだ「オタルナイ」と呼ばれていた1868(明治元)年に、
墨江神社として創建された。ちなみに「オタルナイ」が「小樽」と改称されるのは、この翌年のことである。
住吉神社という名前になったのは1892(明治25)年のこと。社務所は1934年築で、小樽市指定歴史的建造物。
御守はその社務所の中で頂戴するスタイル。なかなか種類が豊富で、個別にビニール包装されていた。丁寧だなあ。

  
L: 本殿を覗き込む。見えん。  C: 社務所。  R: 石段に面する側。工事中はこちらでお参りする仕様なのであった。

これで懸案事項だった小樽を代表する神社の御守は頂戴できた。引き返すと札幌で乗り換えて、今度は江別へ。
江別市役所はすでに訪問済みだが(→2013.7.14)、江別駅の近くにある江別神社はまだ参拝していないのだ。
この後は函館本線を北上していくわけだから、せっかくなので途中下車して素早く御守を頂戴するのである。

  
L: というわけで、江別神社にやってまいりました。  C: 参道を行くと社殿が見えてくる。  R: 拝殿。

緑の元気さといい、それに埋もれがちな質素な鳥居や社号標といい、いかにも北海道の神社という感じである。
拝殿も厚みを持たせた屋根に千木を目立たせるスタイルが実に北海道。神明系コンクリ社殿は本当にこんな造りが多い。
さて江別神社が面白いのは、加藤清正が祭神に含まれていること。これはこの地に入植した屯田兵が熊本出身だから。
その後、出雲大社から大国主神を勧請し、伊勢神宮から天照大神を勧請して主祭神とした。それでこの社殿なのだな。

 
L: 江別神社が鎮座する萩ヶ岡はかつて屯田兵第三大隊本部が置かれ、現在はこの火薬庫が残る。1886 (明治19)年ごろの築。
R: 江別駅前公園。煉瓦&やきものの街(→2013.7.14)ということで、それっぽいオブジェが。しかし道が広いなあ。

滞在時間は30分弱。すぐに江別駅から列車に乗り込んで、岩見沢で下車。8年前に岩見沢市役所を撮った際には、
台風の影響による雨で靴が濡れたっけ(→2010.8.12)。細かいことをよう覚えているなあと自分で自分に呆れるぜ。
今回はそのリヴェンジをしつつ、隣にある岩見沢神社にも参拝するのである。青空になることを祈りつつ歩く。

  
L: 岩見沢神社。境内の入口は市役所の向かいである。  C: 参道は短いが、鳥居が3つもある。これがラストだ。
R: 拝殿。やはりこのスタイルで、神明系だと一目でわかるデザインだ。「開拓地神明系防寒拝殿」とでも名付けようか。

御守を頂戴すると、岩見沢市役所のリヴェンジ撮影に入る。8年前には濡れた敷地をまわって淡々と撮ったが、
あらためて向き合うとかなり幅のある建物だ。見るからに昭和を感じさせる典型的な鉄筋コンクリート建築である。

  
L: 岩見沢市役所へアプローチする道。並木道として余裕をもって整備されているのはいいが、無断駐車多すぎ。
C: 岩見沢市役所のエントランス。見るからに昭和だが、落ち着いたデザインである。  R: 角度を変えて眺める。

岩見沢市役所は1965年の竣工。建て替えの計画が進められており、新庁舎の基本設計について概要が出ている状況。
それによると新庁舎の位置は現在と同じで、手前の駐車場部分に建ててから現庁舎を取り壊して新たな駐車場にする模様。
新庁舎の竣工は2020年度、その後2年間で現庁舎の解体と外構工事を行う予定だ。新庁舎の設計者は久米設計札幌支社。

  
L: さらに距離をとって眺める。岩見沢市役所は幅が広いのだ。  C: 南東側、側面と背面。  R: 駐車場より背面を眺める。

ネットで調べても新庁舎の情報に押されて現庁舎の設計者情報はぜんぜん出てこない。安定感のあるモダニズムで、
きちんとした腕のある設計事務所が手がけたと思うのだが。手前を公園として整備している点にも気合いを感じる。

  
L: 北側から見た背面と側面。渡り廊下で水道庁舎とつながる。  C: 水道庁舎。1984年築で、こちらも取り壊し予定。
R: 少し距離をとって全体を眺める。オープンスペースがいいが、市街地から離れているので余裕のある空間というわけだ。

中を覗いてみたが、入ったらホール空間になっているなど1965年竣工にしてはずいぶん新しい。大規模改修をしたのか。
周辺の整備といい、建てられた当時の状況を知りたくなる市役所だ。新庁舎も工夫のある建物になるといいなあ。

 
L: 中に入るとこんな感じ。1960年代の建物にしては開放的で、耐震改修の際に大きく手直ししたのではないか。
R: 市役所の南東は駐車場だが、北東はこのように公園として整備されている。新庁舎でもそのまま生かされるようだ。

目的を果たすと急いで岩見沢駅へと戻る。やはり実際に訪れると、この2km弱という距離はけっこう大変だ。
岩見沢からは函館本線をさらに北上して美唄駅で下車。美唄に来るのは初めてなので、かなりワクワクして歩きだす。
美唄駅は市街地のほぼ真ん中にあり、なかなかバランスのよい位置という印象。しかし時間的な余裕がないので、
今回は市役所のある西半分だけの探訪とする。まずは中央通をまっすぐ西へ進んで美唄市役所を目指す。
空間配置としては市役所の手前は中央公園で、そのさらに手前に空知神社がある。「街の中心」が明確になっている。

  
L: 美唄市役所。正統派の昭和モダンスタイル庁舎ながら、かなりの威厳を感じさせる建物である。
C: 中央公園側に寄って撮影。緑のオープンスペースのおかげで非常にいい感じ。  R: 正面の東からだとこうなる。

さっそく美唄市役所の撮影を開始。中央公園と接続して手前に緑のオープンスペースがあり、たいへんフォトジェニック。
そして何より撮影しやすくて助かる。美唄というとそんなに大きいイメージはないが、市役所は実に堂々としている。
もともと道内有数の石炭の街であり、1950年代の人口は9万人以上だったそうだ。その誇りを感じさせる市役所である。

  
L: ずんずん進んで突き当たりの中央部はこんな感じ。  C: 中を覗き込む。建物内の南東側は吹抜ホールですね。
R: 美唄市は建築にまつわるデータを詳細にレリーフで残してある。ほかの市もみんなこれくらいきちんとやってほしい。

たいへんありがたいことに、美唄市役所には建築関係者のデータをレリーフとして貼り付けている。誇りを感じる。
それによると、美唄市役所の設計者は北海道建築設計監理で、1975年の竣工。三井美唄炭鉱が閉山して厳しい時期だが、
立地といい建物じたいといい詳細な記録といい、気合いを入れて市役所を建てたことがよくわかる。美しい。

  
L: 北東側より。こっちからもすっきり見やすい。  C: 北側の側面。  R: 北西側より。望楼がいいですねえ。

なお、「美唄」という地名がまた一工夫あるものだ。カラス貝を意味するアイヌ語「ピパイ」が由来となっており、
自治体名はこれを意訳した「沼貝」とした。しかし先行して美唄駅が開業しており、1926(大正15)年に美唄町に改称。
アイヌの原音に近づけつつ、しかももともとの意味の「貝」を漢字の一部に入れるセンスはなかなかのものではないか。

  
L: 西側より背面。舗装された道路と建物の間に砂利敷の駐車場がある辺り、北海道らしいセットバックを感じる。
C: 南西より撮影。ガラス面積の大きい低層棟を南側に配置するのは、1975年にしては先駆的ではないかと思う。
R: 道路を挟んで西側の美唄市役所車庫。ここだけ戦後って感じで、手書きの文字がまたいい。末永く残してほしいぜ。

市役所の撮影を終えると、そのまま中央公園を抜けて空知神社に参拝する。創建は1891(明治24)年のことで、
屯田兵の砲兵隊が配置されて村が開かれた際に同時につくられたそうだ。現在地に移転したのは1903(明治36)年で、
県社にまでなっており、美唄における中心的な存在だったのがうかがえる。戦後は一時衰退したらしいが。

  
L: 国道12号に面する参道。  C: 進んでいくと境内。新しくてピッカピカの銅鳥居が建てられている。お祭り中みたい。
R: 参道を進んでいくとまた新しい銅鳥居。奥には茅の輪。境内社・空知稲荷神社の幟がやたらと目立っている。

何やらお祭りのようで、境内はけっこう賑わっている。御守を頂戴したのだが、種類豊富で選ぶのに大いに困った。
かつて衰退していたのが信じられない人気ぶりである。かつての県社らしい勢いを取り戻していて、何よりである。
メタボ除け御守という面白い御守があったので頂戴する。空知だけに「吾唯空ヲ知ル」ってことで。マサルにあげよう。

 
L: 拝殿。一目でわかる神明系だが、こちらは木造。  R: なお、隣接する中央公園の入口(南側)はこんな感じ。

美唄市街についても書いておこう。前に気合いを入れて北海道の都市と歴史について考察したが(→2012.8.27)、
美唄もかなり典型的な開拓都市である。札幌と旭川を結ぶ国道12号沿いにあり、特に滝川までは日本一長い直線道路だ。
この幹線道路を中心にして碁盤目に都市化したうえに、東と南東に炭鉱を抱えて市街地が連結していった経緯がある。
実際に訪れたのは函館本線の西側一部分だけだが、それでも十分に「北海道らしい空間」を味わうことができた。
市役所や神社といった要素が大切にされていることからも、調べればそれに応えてくれそうな街という予感がある。

  
L: 美唄の国道12号。駅周辺は郊外化しておらず、北海道らしい市街地化をしている。  C: 駅から西へと延びる中央通。
R: 市役所裏のあかしあ通。左はいつの竣工だかわからん美唄市職員住宅。これまたたいへん北海道らしい光景だと思う。

もっと長い時間しっかり美唄を味わいたかった。しかし夜にはサッカー観戦があるので、余裕を持って動きたい。
学べそうなことが非常に多そうで後ろ髪を引かれる思いをしつつ、岩見沢でいしかりライナーに乗り換えて札幌へ。
札幌駅に到着すると、すぐに近くの東急百貨店へ。というのも、東急ハンズ札幌店がこちらの8~9階に移転したから。
前はビルが上から下まで丸ごとハンズだったのに、わずか2フロアだけになってしまうとは……。お兄さんは悲しい。
横浜もそうなってしまったし、これは経営戦略の転換が進んでいるということか。しっかりせいよ、東急不動産。

札幌ハンズを見てまわると、そのまま歩いて地下鉄の大通駅へ向かう。東西線で大谷地駅まで揺られると、
南へ歩いて2km弱、それでようやく札幌厚別公園競技場に到着である。そう、ここがいわゆる「聖地・厚別」だ。
勘のよい方はおわかりだろうが、そうなのである、今回の北海道旅行はこの厚別での試合に合わせて計画しました。
札幌ドームでの試合はすでに観たことがあるけど(→2015.11.1)、ぜひとも厚別のホームゲームを観てみたい、と。
3年前の千葉戦は厚別での試合予定が札幌ドームに変更になったわけで、その借りを返す機会を探っていたのだ。
なかなかチャンスがなかったが、今回やっと実現できたってわけ。夏場のナイトゲームなのでもう1泊プラスじゃ。

  
L: 札幌厚別公園競技場に到着。心なしか、札幌サポも前回観戦時より気合いが入っているように見える。
C: 厚別には照明設備がないので、クレーン車に照明を取り付けて対応しているのには驚いた。常設しているんだって。
R: 入場を待つ長蛇の列。こうして待つことでテンションが上がっていく感じ。しかし厚別の周囲は余裕がないなあ。

恒例の初訪問スタジアム一周をしてみるが、ほかと比べてかなり人口密度が高い印象。ここ北海道なのにね。
まあ冗談はともかく、やはり「聖地・厚別」ということでの特別感や高揚感が、ひしひしと伝わってくる。
そもそもなぜ厚別が「聖地」なのか。1996年に東芝堀川町サッカー部が北海道に移転してコンサドーレ札幌が誕生。
1996年シーズンから翌シーズンまで旧JFLを舞台に2年間戦ったのだが、なんとホーム厚別で21勝0敗という成績を収め、
まさに不敗神話を記録してJリーグに昇格を果たしたのである(1999年のJ2創設のタイミングでJ2降格してしまうが)。
2001年からは札幌ドームとの併用となって厚別での試合数は減ったが、その分だけ特別感は増したのではないかと思う。

  
L: 昔ながらの陸上競技場なんだけど、そこがいいんだろうなあと思わせるスタジアム。歴史を感じさせるというか。
C: 南側のモニュメント付近はテーブルと椅子でくつろげる。  R: スタジアム内はけっこう開放的に動ける印象。

一周を終えるとさっそくスタジアム内に入る。初めてのスタジアムなので、奮発してメインスタンドである。
典型的な陸上競技場なので、トラックを挟んでピッチは遠い。しかしアウェイゴール裏の半分以上を札幌サポが占め、
スタジアム全体はかなり熱っぽい雰囲気。なんだか音の響き方が違うのだ。屋外とは思えない不思議な響き方である。

  
L: さすがにピッチは遠い。  C: ホーム側サイドスタンド。札幌サポの熱気が凄い。陸上競技場にしてはゴール裏が近い?
R: アウェイ側も元気である。客が多いからか設計上の特徴なのか、厚別は音の響き方がいい。音が拡散しない感じなのだ。

さてこの日は『ゴールデンカムイ』とのコラボ企画ということで、物販の行列がまあすごいことすごいこと。
各所からオススメされているのだが私は未読。いや、完結したら一気読みするリストの筆頭なんですよ。マジで楽しみ。
キックオフ前にはアニメの声優さんを迎えてのセレモニーがあったんだけど、ふつうハーフタイムにも出てこないか。
帰りの飛行機の関係で絶対に前半途中で帰っただろー。最後まで試合を観てもう1泊を余儀なくされた私は悔しい。

 
L: 『ゴールデンカムイ』関連のスタンドポップ。よくわからないけど、白鳥由栄(→2012.8.19)みたいな人がいるのはわかる。
R: キックオフ前のセレモニー。まあ、いいんですけど、なんかこう、花束渡す以外にもうちょっと絡んでもよくね?と思った。

いざ試合開始。本日の札幌の相手はジュビロ磐田。札幌は今シーズンから監督にミハイロ=ペトロヴィッチが就任。
浦和監督を解任されたことでこれはチャンスと、野々村社長が是が非でもと監督に迎えたそうだ。その効果は覿面で、
どうにかJ1残留を果たした昨年からガラッと変わって大躍進を果たし、一時は3位につけていた(現在は5位)。
注目すべきタレントは、なんといってもジェイ=ボスロイド、そしてタイ代表のチャナティップ=ソングラシン。
タイ出身のJリーガーは着実に増えているが(→2017.12.3)、その立役者こそチャナティップ。プレーが本当に楽しみだ。
対する磐田は名波監督からのラヴコールに応えたFW大久保が移籍加入。どっちも迫力ある攻撃が期待できそうである。

  
L: 札幌はすっかり日本に定着したミシャ式サッカー。しかしこれだけ好調となると、どう進化したのか興味深い。
C: Jリーガーの身体能力ってすげー。  R: 川崎から移籍のMF三好にDF大井が対応。三好は好プレーを連発していた。

ということで、案の定かなり激しい攻め合いとなるのであった。札幌はやはりトップのジェイの迫力がとんでもなく、
そこにシャドーに入ったチャナティップと三好がキレキレのコンビネーションを見せて磐田陣内へ自在に切り込む。
どっちもボールを上手く運ぶし鋭いところにボールを出せるしで、彼らに対応する磐田の守備陣は本当に大変だ。
しかしGKカミンスキーを中心に落ち着いて対応し、最後のところで粘ってみせる。いかにもJ1らしいハイレヴェルさで、
見応えがすごいのなんの。ワンシーンを写真で切り取るだけでは伝わらない、流れるような攻撃が満載なのであった。
特に札幌は前線の連携が見事で、スルーパスが気持ちよく通るシーンが多かった。チャナティップのワクワク感も特別。
もちろん磐田の攻撃陣も奮闘。後半、抜け出す宮崎に川又がヒールで出した一瞬の隙を衝くプレーなんて痺れたなあ。
(しかし川又、以前はそんなイメージなかったけど、磐田ですっかり上手くなったなあ。すごいや。→2017.4.1

 
L: ハンドで得たPKをジェイが蹴る。しかしさすがのカミンスキーがファインセーヴ。これは完全に世界レヴェルの攻防だった。
R: ボールをキープするチャナティップ。彼がボールを持ったときのワクワク感は特別なものがある。確実に次に繋いでみせる。

結果こそスコアレスドローだが、プレーの内容はめちゃくちゃレヴェルが高かった。札幌の息の合った攻撃といい、
それを体を張って全力で止めきる磐田といい、逆に磐田の攻撃と札幌の守備もそうだけど、何から何までハイレヴェル。
以前「J1とJ2の差は予測にある」と書いたが(→2017.11.10)、今日の試合は予測を超えるプレーのオンパレード。
一流選手の瞬間的な発想と、それに対応する反射神経と、ここまで研ぎ澄まされたものができあがるのか、という感動。
両サポーターには勝ち負けつかずで痛み分けなんだろうけど、僕はJ1のハイレヴェルさにただ感動するのであった。

 満足感に浸りながら大谷地駅まで歩く。いや本当にいいものを見せてもらった。

本日の宿はすすきののはずれ。札幌に来るとだいたいここのお世話になるなあ、という宿である。
もちろんセイコーマートに寄って、ソフトカツゲンや菓子パンなどのおやつを買い込む。ああ、北海道だなあ……。

 すすきの! いや、もう単に寝るだけなんだけどさ。

明朝は空港へ直行して、午前中に東京に戻って結核検診。夢のような週末だったけど、もう少し浸らせてもらいましょう。


2018.7.21 (Sat.)

今年の夏休みは覚悟を決めて大胆に全国あちこちに行く予定を立てているが、今週末は北海道なのである。
先月に沖縄へ行っておいて(→2018.6.232018.6.24)今度は北海道とは、自分でもいい度胸をしているなあと思う。
先週は淡路島だったし。でもそれだけ、「動けるときに動いておく」ことが大事なのだ。チャンスを生かさなきゃね。

朝イチのAIR DOで新千歳に突撃し、やってきたのは苫小牧。1日目は苫小牧から室蘭、さらに洞爺湖温泉まで足を延ばす。
北海道の市役所めぐりは計画的にやらないと資金的に大変だが、伊達市役所が残っちゃったのでこのプランである。
もちろん目的はそれだけでなく、神社も参拝するし室蘭でボルタ(→2012.8.222013.7.222015.11.3)も押さえる。

 
L: 苫小牧駅前。  R: 苫小牧駅前バスターミナル。やけに閑散としていると思ったら、3年前に廃止されていた……。

ではさっそく苫小牧の神社から。別表神社になっている樽前山神社を目指す。苫小牧の街はちょっと独特な感じで、
距離感というかスケール感が、ほかの街とは明らかに違うのだ(→2012.7.1)。異様にだだっ広いのである。
そんなわけでGoogleマップではすぐ北に見えるけど実際には3kmの距離があるということで、素直にバスに乗る。
道路を挟んで向かいにある苫小牧工業高校が学園祭らしくて賑わっていたが、それとは反対側にある鳥居をくぐる。

  
L: 樽前山神社の鳥居。舗装と緑にやはりどこか北海道らしい「境界の曖昧さ」(→2012.8.17)を感じる境内である。
C: 鳥居をくぐってからもだだっ広いアスファルトなのだが、右に曲がって社殿と向き合うと、まさに苫小牧のスケール。
R: 拝殿。実に色鮮やかである。樽前山神社は1992年にこちらに移転してきたそうで、石畳も石灯籠も新しくてきれい。

樽前山神社は明治初期、樽前山周辺を開拓する際、山麓に山の神である大山津見神を祀ったのが始まりとのこと。
1875(明治8)年には明治天皇の勅命によって、樹木の神・久々能智神と草原の神・鹿屋野比売神を祭神に加えた。
そして海に近い矢代町に遷座して苫小牧の総鎮守となったが、1992年に現在地に移った。だいぶ大きく動いたなあ。
二礼二拍手一礼して御守を頂戴する。そしたら「北海道ご当地みくじシリーズ」というものがあるらしく、
樽前山神社のほかは、函館・湯倉神社、帯広・帯廣神社(→2015.11.3)、美瑛・美瑛神社、稚内・北門神社、
根室・金刀比羅神社というラインナップ。これ完全制覇するのはそうとう大変なんだけど! 魅力的だが、恐ろしい。

  
L: 本殿を覗き込む。  C: 北海道ご当地みくじシリーズで、樽前山神社は「貝運!一念発起みくじ」。ホッキ貝とかけている。
R: 境内末社の聖徳神社。祭神はもちろん聖徳太子だが、寺を建てたことから建築・土木の神様という扱い。うーん、なるほど。

参拝を終えるとやはりバスで苫小牧駅まで戻る。次の目的地は室蘭だ。さっさと苫小牧を後にするのは心苦しいが、
だだっ広い苫小牧はちょっと移動するだけでも大幅に時間を食うのだ。欲をかかずにおとなしく室蘭へ行くのが得策だ。
北海道内の移動は本当に大変なのだ。登別までは特急で、そこから先は普通列車。背に腹は変えられないのである。

さて室蘭。6年前のリヴェンジで、参拝したけど頂戴していなかった室蘭八幡宮の御守が目的である(→2012.7.1)。
神社については当時のログで書いたのでそちらを参照。前回と違って天気がいいので、リヴェンジ写真を貼り付ける。

  
L: 道道699号から見る室蘭八幡宮へのルート。一段高いところに鳥居があり、さらに山へ登っていくのがわかる。
C: 階段を上って室蘭中央通に面する鳥居に出る。  R: 鳥居を抜けて石段を行く。なかなかの山っぷりである。

さて室蘭八幡宮の御守だが、クジラの絵があしらわれているのであった。さすがクジラを売って造営した神社だ。
このエピソードをきちんとデザインに落とし込んでいるところが素晴らしい。室蘭八幡宮を再訪問して本当によかった。
なお、交通安全の御守や絵馬などにもクジラが積極的にデザインされている。まあ室蘭は「くじらん」大好きだしな。

  
L: 開けた空間に出たけど社殿はまだ上。  C: 拝殿。  R: 本殿を後ろ側から見たところ。

せっかくなので、室蘭八幡宮の鳥居がある室蘭中央通から見下ろした旧室蘭駅舎の写真も貼っておくのだ。
やっぱり天気がいいと建物の輝き方が違う。国登録有形文化財で、北海道内では最古の木造駅舎建築とのこと。

 
L: 旧室蘭駅舎を見下ろす。  R: 道道から見た旧室蘭駅舎。1912(明治45)年の築。

時間があるので、昼メシそっちのけで室蘭市役所の撮影に再チャレンジ。天気がいいからね、撮っておかなくちゃ。
本庁舎が1952年の竣工で、議事堂のある新館が1962年の竣工。2021年以降に建て替え計画を具体化するみたい。

  
L: 北東から見た室蘭市役所。こちらが1952年竣工の本庁舎。  C: 本庁舎に近づいてみる。  R: 真北、正面から。

  
L: 北西から交差点越しに眺める。  C: 南西から見たところ。  R: 南側、駐車場越しに見た背面。向かって右が新館。

  
L: 南東にある開運公園から見たところ。  C: 北西から新館の側面。新館は1962年竣工。  R: 新館を北から見る。

さてせっかく室蘭に来たんだからということで、東室蘭に直行する予定を変更して輪西で下車。輪西といったらボルタ。
3年前にもボルタ工房にお邪魔したのだが(→2015.11.3)、今回も無理して突撃なのだ。いやー好きなんですよ、ボルタ。

  
L: ボルタ工房。また来てしまったわ!  C: 100種類のレギュラーボルタが並ぶ。正直、ぜんぶ欲しい。  R: 店内。

 
L: 各種ボルタ。うーん、どれもいい!  R: 武将ボルタを発見。インバウンド狙いかな。右端の忍者ボルタを買ったよ。

結局いろいろ買ってしまったではないか。やっぱりボルタはいいなあ!と思いつつバスに揺られて東室蘭駅へ。
そして急いで参拝したのが、中嶋神社。昭和40年代以降に発展した市街地・中島町(→2012.7.1)に隣接している。

  
L: 中嶋神社の境内入口。  C: 石段を上って参道を行く。  R: 拝殿。北海道でよく見る鉄筋完全防寒社殿である。

中嶋神社は輪西に入植した屯田兵村に建てられた神社が元で、中隊本部跡地である現在地に移って現在の神社名となった。
その後は輪西製鐵場(現・新日鐵住金室蘭製鐵所)に関連し、大国主神・事代主神を祭神に加えた。地域の重要な神社だ。

 境内にある輪西屯田兵旧火薬庫。1886(明治19)年の築で、まさに歴史の証人。

素早く参拝を終えると、室蘭本線を西に進んで伊達紋別で下車する。以前の旅行で何度かここをすっ飛ばしたために、
室蘭本線で伊達市役所だけが残った格好になっていたのだ。今回ようやく、長年の懸案事項に手をつけることができた。

一度も訪れたことのない土地に降り立つというのは、やはりテンションが上がる。ワクワクして駅前通りを北上するが、
駅周辺はかなり地味。北海道らしくセットバック感のある道となっており、商店が本当に点在といった程度の落ち着き。
市というよりは町レヴェルの感触に不安を感じつつ、気門別川を渡って東へ出る。しばらく行くと整備された商店街に。
しかしそれでも店と店の間隔は広めで、密度の低い独特な雰囲気がする。市役所の入口がある通りまで東へ進むと、
ようやくメインストリートらしい商店街に出た。「伊達」ということでか、市役所付近は瓦を意識した店舗が目立つ。

  
L: メインストリートに面する伊達市役所入口。左の歩行者向けの門はわざわざ瓦を載せて和風をアピールしている。
C: 手前に緑地や駐車場を広めにとっており、建物はかなり奥まっている。  R: 伊達市役所。緑を抜けるとこの角度。

もともとこの辺りは「紋鼈(もんべつ)」という地名をつけられていたが、戊辰戦争に敗れた亘理伊達氏が移住開拓。
それで伊達の名を冠したというわけである(福島県にも「伊達市」があるが、あちらは伊達氏発祥の地である)。
なお、降伏後の仙台藩は知行を半分以上減らされたが、分家の亘理伊達氏(伊達実元~成実の系統)はもっとひどく、
知行を従来の23853石から58石(0.24%だと!)にまで減らされてしまった。それでどうにもならずに開拓に出たのだ。
先週の洲本もそうだが(→2018.7.16)、明治維新と北海道開拓の物語は苛烈なものが多くて、なんとも切なくなる。

  
L: 正面(東側)から見た伊達市役所。  C: 南東、市民活動センター付近から眺める。  R: 南西から見た側面と背面。

伊達市役所は1975年の竣工。インターネットで調べようとしても、福島県の伊達市役所(新築)ばかりが出てきて困る。
「伊達市の沿革」という年表がヒットしたので助かったけど、同名の市役所というのは本当にややこしいものだ。

  
L: 西側から見た背面。  C: 北側の側面。4階の議会がない分、こっちはすっきり。  R: 北東より。これにて一周完了。

市役所の撮影を終えると、洞爺湖温泉行きのバスの時刻まで市街地を徘徊する。さすがに北海道は車社会で、
先ほどの駅前周辺とは違って国道37号まで出ると、しっかり市レヴェルの郊外社会である。ちょっと安心した。

  
L: 伊達市役所の中を覗き込む。昭和だなあ。  C: こちらは市役所通りの南端部。  R: 国道37号。むしろこっちが中心か。

東の方にある「総合公園だて歴史の杜」まで行ってみる。ここは総合体育館やカルチャーセンターを中心に、
さまざまな施設を配置している。ここに面白そうな建物が複数あるので、がんばって歩いてみたというわけだ。

  
L: 宮尾登美子記念アートホール。だて歴史文化ミュージアムの一部。  C: 公園内。緑の元気さが北海道らしいなあと。
R: 旧伊達市開拓記念館。亘理伊達氏関連の資料を展示していたが、昨年11月をもって閉館とのこと。がっくりである。

ではまず迎賓館から。1892(明治25)年の築で、その名のとおり明治政府高官や開拓使を接待するために利用された。
もともとは亘理伊達家当主・伊達邦成が開拓の功により男爵となった際、家臣が建てた邸宅とのこと。なるほど確かに、
印象としては気合いの入った住宅そのもの。しかし公の場は洋風に、私的な場は和風に分けてつくられているそうだ。

  
L: 迎賓館。1955年まで伊達家によって使われていたが、敷地とともに伊達市に寄付された。  C: 側面。  R: 背面。

もうひとつ、旧三戸部家住宅も園内に保存されている。こちらは明治10年代後半に建てられた開拓農家である。
仙台地方の建築様式が取り入れられ、道内に現存するものとしては最も古い部類で国指定重要文化財となっている。
案内板によれば、鉋(かんな)ではなく釿(ちょうな)で削った木材を、釘を使わないで組み立てているそうだ。

  
L: 園内を流れる川。親水公園的に整備されている。  C: 旧三戸部家住宅。中には入れない。  R: 背面。

貴重な建物だが中に入れないのでやや消化不良な気分になりつつも、今度は市街地の西側へと歩いていく。
国道37号をのんびりと行くが、先ほど書いたとおり郊外社会なんだけど、さらに空間的に余裕のある感じがする。
店舗の間にスカスカ感が少しあり、そこは駐車場の一部として整備されているが、空白の印象が消えないのだ。
ヒューマンスケールを逸脱してはおらず、以前訪れた牧之原台地の旧浜岡町(御前崎市、→2017.10.9)に近い感じだ。

さて、伊達市の市街地にはどうやら主な神社が2つある模様。まずは北西にある伊達神社から参拝する。
いかにも開拓地らしく矩形に整備されている住宅地の奥に鎮座しており、歩いてみたら意外と距離があった。
伊達神社は旧称を鹿島國足神社といい、亘理郡の鹿島天足和気神社を勧請して1875(明治8)年に創建された。
後に開拓の偉業を讃えて伊達邦成・田村顕允を配神として合祀している。市街地のはずれだからか、静かな雰囲気。

  
L: 伊達神社。  C: 境内。  R: 拝殿。伊達神社という名前になったのは1973年と、意外と最近のこと。

もうひとつの神社が、伊達相馬神社。こちらは駅にほど近い市街地の中。正式名称は単なる「相馬神社」らしい。
こちらの勧請元は相馬太田神社で、1923(大正12)年に創建された。相馬なのでバリバリの妙見信仰ということで、
仏教経由のちょっと独特な雰囲気が漂う神社である。まあ、「伊達」と「相馬」の両方を冠する時点で独特なのだが。
(伊達政宗と相馬義胤は激しく戦った間柄。それが北海道の地で名前のうえでは融合しているのは、妙な感じだ。)

 
L: 伊達相馬神社。  R: 境内。妙見信仰なので仏教っぽい「何でもあり」感がちょっとある神社だった。

17時前にすべり込んで、無事に両方の神社で御守を頂戴することができた。近くのスーパーで一休みして、
バスの時刻に間に合うように市役所前のバス停へ。目指すは本日最後の目的地・洞爺湖温泉である。
洞爺湖温泉というとなんといっても北海道洞爺湖サミットの印象が強いが、どんな場所かはよく知らない。
時刻は18時過ぎとなってしまっているが、できる限りで歩きまわって感じをつかんで温泉に浸かってやるのだ。

洞爺湖温泉バスターミナルに到着するが、なかなか立派。やはりサミット効果で大規模に改修されたのだろう。
円いカルデラの洞爺湖、その南西側に洞爺湖温泉はある。バスターミナルはその温泉街の端で湖を見下ろす位置にある。
坂を下って湖の方へ近づきつつ、東へと進んでいくと温泉街が本格化。飲食店を中心に、それなりに充実している。
実際に訪れたらけっこう寂れとるやんけ、という温泉街も多い中、洞爺湖温泉はリゾートとして定着している模様。

  
L: 洞爺湖温泉バスターミナル。観光総合案内所もこの施設内。3階は北海道洞爺湖サミット記念館となっている。
C: 温泉街は飲食店を中心に、それなりの勢いがある印象。どことなく避暑地っぽさがあるなあと思う。
R: 洞爺湖岸の遊歩道。彫刻と遊覧船の発着所と出店のテントと、いかにも洞爺湖らしい一枚ということになるのかな。

湖岸は遊歩道が整備されており、遊覧船の発着所もある。残念ながら時刻が遅くてすでに船は終わっていたが、
それで中島に上陸してみるのも面白そうだ。今はとりあえず、夕暮れの中に静かにたたずむ中島を見守る。

 中島。最高峰のトーノシケヌプリ(左)まで登ることができるそうだ。

ではいざ入浴である。ありがたいことに洞爺湖温泉は日帰りで浸かれるホテルがけっこう多くあるので迷うが、
湖畔のちょっと古めな感じのホテルにお邪魔する。気軽に入れるのはうれしいなあと思いつつ露天風呂を満喫する。

帰りは伊達紋別ではなく洞爺駅までバスで揺られて、そこから各駅停車で東室蘭まで戻る。楽しゅうございました。
到着時刻が遅過ぎてカレーラーメンを食えなかったのは残念だったが、やりたい放題できて満足である。北海道最高!


2018.7.20 (Fri.)

あっという間に1学期が終了である。充実した夏休みになるようにがんばるのである。うん、旅行をがんばる。


2018.7.19 (Thu.)

成績をつけるので本日はなかなかの修羅場。まあこれはしょうがないよね。気合いで対応。


2018.7.18 (Wed.)

この暑さは完全に異常だと思う。去年の今頃はこんなんじゃなかったはず。なんだかどんどんひどいことになっている。


2018.7.17 (Tue.)

W杯決勝についてようやく書いておこうか。フランス×クロアチアということで、そりゃクロアチアを応援しますわな。
クロアチアはここまで延長ばかりの苦しい戦いぶりだからつらいだろうし、しかも試合の間隔がフランスより1日短い。
どう考えても不利だけど、初優勝を期待したい。それにしても、国旗をもとに徹底している市松模様のユニがいいなあ。

クロアチアの決意を感じる試合の入り方で、ひたむきな攻撃が非常によい。でもフランスは要所を締めている。
フランスの守備はいつでも厚く攻められるぜって余裕を感じるんだよなあ。往年のブラジルみたいな感じが漂う。
当たり前だが、みんな止める蹴るが上手いなあと惚れ惚れする。どっちも一発できれいに決めるのでテンポが早い。
感心しながら見ていたら、先制したのはフランス。グリーズマンのFKからのOGで、やっぱり決めちゃうかーと呆れる。
それでもFKから混戦で押し込んで追いつくクロアチアもさすが。ワンチャンスを決められるの本当にすごい。
しかし10分後にはフランスがハンドからのPKで再びリード。フランスの方が1点を取るためのコストが低い感じで、
クロアチアとしては本当に悔しい。ロースコアゲームに持ち込みたいだろうけど、そうさせてくれないなあ。

後半に入って10分、カンテを下げるという判断には驚いた。モドリッチとの贅沢なマッチアップだったけど、
これを機能していないと見て動くとは。リードしているし、このままの状態を続けるのが無難な選択なんだろうけど、
それを良しとせずに試合が動く方を選ぶとは、デシャン監督の自分のチームに対する自信のほどがうかがえる。
そしたらフランスはわりとすぐにワンチャンスを決めて、かなりに有利になる3点目。これは実に戦略の妙だなあ。
まあ強くて速いエムバペが運んでのことだが。右でも左でも鋭く振れるポグバもすごいけどね。個の力で勝ち切るか。
結局そのエムバペまで決めちゃって、フランスは別格の強さを見せつける。隙を衝くマンジュキッチもさすがだったが。

というわけで下馬評どおりにフランス優勝。シャンパンサッカーじゃなくて完全にブラジルって感じですな。
いつでもゴールを奪えるからと、相手にボールを持たせる余裕綽々の「強者のカウンター」(→2014.7.52015.5.3)。
個の力が強いと、そうなっていくのが合理的なんですかね。以上、ふだんヨーロッパサッカー見ない人の感想でした。


2018.7.16 (Mon.)

淡路島旅行の2日目である。本日は洲本を攻めるが、そこから神戸に戻ったついでに有馬温泉まで行ってしまう。
いや、行ったことないんで。浸かってみたいじゃないですか、有馬温泉。無茶ではあるけど、無理ではないですよね。

さて朝イチでバスに揺られて訪れたのは、由良である。合併で今は洲本市の一部となっているが、もともとは由良町。
6年前のログでも書いたが、かつて江戸時代初期にこの地が淡路国支配の中心だった時期があった(→2012.10.7)。
しかし由良城の城下町ごと洲本に移転して(いわゆる「由良引け」)、今は穏やかな漁港の街となっている。
(似た事例としては「清洲越し」のあった清須市(→2013.5.6)を思いだすが、あちらは核のない工場・住宅地帯)。

  
L: 由良の通りを歩く。昔から変わらないであろう幅に、微妙に曲がる道。  C: いかにもな鉤の手。  R: 懐かしい感じだ。

海岸沿いを県道76号が走るが、その一本西にある道をのんびりと南下する。山と海の間を南北に細長く延びる土地に、
住宅がびっしりと密集している。そして間を縫うように道が走っており、その複雑さは近代以前の匂いが強く漂う。
新しく建て替えられた建物や家を取り壊した後の空き地が多く、街並みじたいは特別に配慮されているわけではない。
しかし街路としての空間じたいは昔のものがそのまま残っている感触があり、それだけでも十分に面白い。

 住宅地の中の港と背後に迫る山。

由良は住宅地の中に小さな港を抱え込んでいる形で、外側を通る県道76号の一部が橋となっており上から眺められる。
さっきバスの車窓から見てその景色に驚いたので、あらためて歩いてみる。距離が近くて撮影はけっこう無茶だったが、
なんとかパノラマ撮影した画像を貼り付けてみる。山と海、その間に細長く延びる街がおわかりいただけるでしょうか。


だいぶ無理やりだが、橋の上からパノラマ撮影してみた。

細長い由良の街の真ん中辺りに鎮座しているのが、由良湊神社である。もともとは、川の河口や港の神様である、
速秋津日古神・速秋津比売神を祀っていた。しかしかつての領主・池田忠長(忠雄、輝政の息子で後の岡山藩主)が、
八幡宮をこちらに遷す。その後、明治になって両社を合併、延喜式時代の由良湊神社に名前を戻したとのこと。
御守は一般的なもののほか、速秋津日古神にちなむ男性向けの彦御守と速秋津比売神にちなむ女性向けの姫御守があり、
せっかくなので両方頂戴しておいた。やはり一工夫ある御守はいいものだ。清々しい気分で神社を後にする。

  
L: 由良湊神社。山の手前、緩やかな坂の上付近に鎮座。  C: 境内の様子。  R: 本殿を覗き込む。

あとは気ままに由良の街を散策しつつ由良支所へ。対岸の成ヶ島にも上陸してみたかったが、さすがにその余裕はない。
地図や航空写真で見ると由良の街に沿うように延びている成ヶ島だが、実はかつては今と少し異なる姿をしていた。
北の成山と南の高埼がそれぞれ陸繋島となっていて、その間が開いて港となっていたのだ。城は成山の上にあった。
しかし江戸時代となって城下町を経営していくにはあまりに狭く、淡路国支配の中心地を洲本に戻すことになる。
その後も由良は港町として続いていくが、現在、成山と高埼の間が砂州となっていることからわかるように、
たびたび港の入口が土砂で塞がってしまった。そこで明和年間、成山側の新川口と高埼側の今川口を開削し、
成ヶ島を切り離したというわけ。これによって紀伊水道の風待ち・潮待ちの港として由良はさらに栄えたとのこと。
実際に現地を訪れると、由良引けから成ヶ島誕生までの必然性がよくわかる。わざわざ由良に来てよかったと思う。

  
L: 住宅地にいたカニ。さすが港町。  C: 由良支所から成ヶ島、成山を望む。ここから南に砂州がずーっと続くのだ。
R: こちらが洲本市役所由良支所。手前にあるのは高潮対策の陸閘。ちなみに由良町が洲本市に編入されたのは1955年。

一点、気になったことを。昨日の経験から、淡路島の人はよそからの来訪者に優しい、という印象を持っていた。
コミュニティバスの運転手さんにしろ諭鶴羽神社の宮司さんにしろ、非常に親切にいろいろと教えてくれたからだ。
しかし由良で街歩きをしている最中、街の人から僕に向けられた視線は、はっきり言って限りなく敵意に近いものだった。
もちろん邪魔にならないように気を遣いながら歩き、撮影していたが、よそ者に対してかなり閉鎖的な態度を示された。
どうも淡路島の人は一定のレヴェルまでは他者に対して心を開くが、自分が設定したプライヴェイトのラインを越えると、
かなり強い拒否反応を示す傾向があるようだ。朝、知らない人が歩いているというだけで嫌な顔をされたのは初めてだ。
由良が一般的な観光地ではないということを差っ引いても(成ヶ島というスポットを抱えているにもかかわらずだが)、
それはどうだろ、と思ってしまう態度だった。まあ僕は「己の欲せざる所人に施すこと勿れ」でやっていくだけですが。

洲本に戻るとまずは洲本城址へ。といっても山頂の方ではなく、麓の方を軽く歩く。6年前のログでも書いたとおり、
洲本城は厳密には江戸初期までの山頂の城と由良引け後の麓の城に分かれるのだ。山頂を再訪問する時間なんてない。

  
L: 麓の洲本城址・洲本市立淡路文化史料館。6年前も撮影したなあ。  C: 山頂の模擬天守を見上げる。
R: 麓の洲本城址も石垣が実に見事である。現在は検察・裁判所・税務署などが並ぶ官庁街となっている。

石垣と堀を抜けたところにあるのが洲本八幡神社。もちろん6年前にも参拝しているが、あらためて参拝して御守を頂戴。
それにしても洲本八幡神社の境内は砂地だし駐車し放題だし、境内がかっちり整備されていない。境界の曖昧な感じが、
前近代の匂いを漂わせている。麓の洲本城址も官庁街ということで、江戸時代の行政空間がそのままになっている、
とも言えるのだ。もしかしたらこの周辺こそ、洲本のかつての歴史を最も忠実に残している空間なのかもしれない。

  
L: 洲本八幡神社の境内入口。神社公認の有料駐車場となっている。  C: 参道。舗装が砂で消えかかって曖昧な空間。
R: 随神門。詳しいことはわからないが、かなり独特な形式。瓦屋根だし山門っぽさもあるけど三ツ鳥居っぽい気もするし。

  
L: 拝殿。少し角度をつけて眺めるが、これ完全に寺だよね。石灯籠に囲まれているのも非常に独特である。
C: 柴右衛門大明神社。  R: 前回とは逆側から撮影した金天閣。こっちから見てもやはりバランスが悪いものは悪い。

 金天閣を挟んで北にある國瑞彦護國神社。

そのまま西へ行くと厳島神社に到着。「淡路島弁財天」という別名があり、こちらも規模の大きい神社だ。
先ほどの洲本八幡神社も神仏習合の匂いが強い神社だったが、こっちも弁財天ということで負けず劣らずのはず。
しかし実際に参拝してみると、鳥居代わりの御神灯としめ縄を掲げた石柱門くらいしか神仏習合の要素はなかった。

  
L: 厳島神社の鳥居。ここから弁天銀座が参道まで続く。  C: 弁天銀座を行く。飲食店多し。  R: 境内入口。

なお、境内社の稲基神社は由良引けを行った稲田氏の守護神。しかし石碑ひとつのようで、気づかなかった。無念。
明治までこの地を治めていた一族の神社が、石碑ひとつの境内社となっているというのは、なかなか厳しいものがある。
思うに、それは庚午事変の影響だろう。でも今の厳島神社は、そんな衝撃をまったく感じさせることなく穏やかだ。

 
L: 拝殿。こちらはふつうの神社である。  R: 外に出て道を挟んで拝殿と本殿を眺める。

庚午事変についてまとめておく。稲田氏は徳島藩主・蜂須賀氏の家老であるものの、もともとは義兄弟の関係だった。
しかし時代が進むにつれ、阿波国を治める蜂須賀氏と淡路国を任せられた稲田氏とで主従関係が固定化していく。
そんな微妙な関係が明治維新により決定的に悪化する。幕府寄りの徳島藩に対し、稲田氏は倒幕側について明治を迎える。
ところが陪臣の稲田氏家臣は士族階級として認められなかった。そこで徳島藩からの独立、洲本藩の立藩を目指すが、
これに徳島藩の過激派武士が反応して稲田氏側を襲撃する。これが1870(明治3)年、庚午の年のできごと。
徳島藩側は藩主の謹慎や10名の切腹などの処分を受け、淡路国は徳島藩の手を離れて兵庫県に編入されることとなる。
一方、無抵抗だった稲田氏側は、新たな配地を与えるという名目で、北海道の静内(新ひだか町)に開拓移住する。
この事件とその後を描いたのが、船山馨『お登勢』や映画『北の零年』。今の洲本は兵庫県の一部として粛々としており、
壮絶な歴史を感じさせる要素は少ない。まあどう考えても、渦潮を囲うよりも兵庫にくっついた方が得だもんな。
(なお、淡路島を兵庫県に編入する決断をしたのは、初代兵庫県知事を務めた伊藤博文とのこと。)

参拝を終えると洲本市役所へ。6年前には見事に純粋な昭和コンクリオフィスの塊だったが(→2012.10.7)、
昨年2月に6階建ての新庁舎が竣工した。設計者は、梓設計・建部設計・長次建築設計事務所JVとのこと。

  
L: 洲本市役所。まずは南側から見たところ。  C: 近づいて建物をクローズアップ。  R: さらに敷地内から見上げる。

  
L: 東側から眺める。手前の立体駐車場の存在感がすごい。ふつう正面の手前、しかも交差点の角地につくらねえぞ。
C: 立体駐車場の裏、同じく東側から見たところ。  R: 北から見た背面。角地はセットバックして木を植えて石碑を配置。

  
L: 通りを挟んで背面を眺める。  C: 西側から見たところ。  R: 西隣の屋上公園は健在で、そこから見た側面。

市役所の隣は、すもと公設市場。6年前にも書いたとおり、市役所との間に駐車場があってその屋上が公園となっている。
洲本市役所はすっかりオシャレ空間となってしまったが、この公園があるから交差点に立体駐車場をつくった気もする。

  
L: 昭和の雰囲気を残す、すもと公設市場。中は空き店舗がけっこう多いみたい。上は市営住宅となっている。1965年竣工。
C: 駐車場の屋上公園。  R: 雑草が多いのがなあ。雰囲気はふつうの公園とあまり変わらない。面白いものをつくったなあ。

最後に旧鐘淵紡績(カネボウ)洲本工場跡地の施設群を訪れておく。「洲本市民広場」という総称になっているようだ。
6年前にはデジカメの性能がイマイチだったし、陽も陰っていたので、主要な建物をリヴェンジ撮影していく。

  
L: 旧鐘紡洲本第2工場の洲本市立図書館と洲本アルチザンスクエア。  C: 旧鐘紡洲本第3工場汽缶室の淡路ごちそう館 御食国。
R: 淡路ごちそう館 御食国の中に入って、内側から壁を見たところ。こちらは土産物売り場となっているが、品物がいっぱい。

洲本を後にすると、津名港ターミナルで乗り換え。ちょっと余裕があったので、しづかホールまで軽く散歩する。
本当は淡路市役所の方が近いのだが、リヴェンジ撮影となると気合いが入って時間が足りないので、そっちは断念。
淡路島のバス交通は、どうしても本数が限られているために時間がタイトなのである。しょうがないんだけどね。

というわけで、津名港からやってきたのは伊弉諾神宮。やはり6年前にも参拝しているが(→2012.10.7)、
淡路島に来ておいて素通りできない。あとはあらためて御守を頂戴してコレクションを充実させておきたいのもある。
いろんな神社を参拝したうえで伊弉諾神宮に来てみると、現在のような神宮号となったのは戦後のことではあるが、
堂々たる参道や幅のある拝殿など、やはりここも明治以降に整備された「神宮」という雰囲気が強い(→2015.5.10)。

  
L: 淡路国一宮・伊弉諾神宮の境内入口。あらためて見ると、交差点に面して斜めに北上していく参道がかなり特徴的である。
C: 参道を行く。この堂々とした空間のつくり方は、明治以降に公式なものとして進められた「神宮」整備の文法を感じさせる。
R: 幽宮跡の御陵にあった濠の遺構とされる放生の神池と、水神を祀るという延壽宮。よくある末社の厳島神社とは違うようだ。

伊弉諾神宮はイザナギの幽宮(かくりのみや、隠居地)を起源とし、平安末期から鎌倉初期に淡路国一宮となった。
徳島藩が寄進した建物も残っているが、1876(明治9)年に本殿を建て、これを禁足地だった幽宮跡の御陵に移した。
そして10年以上かけて境内を官費で造営し、今のような姿になったという。放生の池は、御陵の濠の名残とのこと。
ということで、僕の直感はどうやら当たりのようだ。明治期に神宮スタイルで整備された一宮は、実はかなり珍しい。
近代に境内が整備された一宮には1926(大正15)年完成の日前神宮・國懸神宮があるが(→2012.2.242014.11.8)、
あちらは2つの神社の左右対称ぶりが特徴であって、明治期の神宮整備スタイルとは明らかに文法が異なっている。
やはり国生み神話の土地の一宮ということで特別視されたのだろう。一宮では唯一の事例と言えるのではないか。

  
L: 1883(明治16)年再建の正門。  C: 1882(明治15)年再建の拝殿。舞殿を兼ねている。  R: 角度を変えて眺める。

しかし現在の伊弉諾神宮にはどことなく残念な感じが漂っている。神道政治連盟系の候補者の看板を正門に置いたり、
境内地図などに微妙な旧仮名遣いが使われていたり、ファッション保守の匂いが漂う。リーブ21寄贈の頭髪感謝の碑は、
それはそれで別に構わんのだが、書かれている文の内容が詭弁丸出しで実に胡散臭い。一宮の品位を落としとりゃせんか。
なんというか、やっていることが薄っぺらいのである。知性のない者が無理に背伸びしている、劣等感が漂っているのだ。
もともときちんとした歴史のある神社なんだから、泰然自若としてこの土地固有の誇りで勝負すればいいのに。
もし明治期の境内整備がこの劣等感、「無理な後付けの誇り」の遠因となっているとしたら、残念なことである。

  
L: 本殿。もともとここが幽宮跡の御陵で、本殿が移る前は禁足地だった。  C: 夫婦大楠。樹齢は約900年とのこと。
R: 境内奥にある頭髪感謝の碑。「髪」は「神」「上」にも通じるとかなんとか。リーブ21の寄贈だが、たいへん胡散臭い。

参拝を終えると、近くにある寿司店でお昼をいただく。たいへんおいしゅうございました。外は日差しがかなりキツく、
食べ終わってもバスの時刻まで店内で避難させてほしいとお願いしたら、快く応じてくださった。本当にありがたいです。
やはり客を受け入れる立場に慣れている淡路島の人は、サーヴィス精神が非常に旺盛で優しいのだ、と再確認した。

丁重にお礼を言ってバスに乗り込むと、そのまま一気に三ノ宮へ。淡路島の社会学、なかなかの充実ぶりだったと思う。
さてここからはひたすら電車で移動なのだ。神戸市営地下鉄から北神急行、そして神戸電鉄に乗り換えて有馬温泉へ。
北神急行は市営地下鉄なのか神戸電鉄なのかよくわからん。関西の私鉄はマイナーなものも多く存在していて、
大手との関係性がよくわからない。よくわからなくても乗っていれば到着する。その感覚が本当に不思議である。
神戸高速鉄道もよくわからんし。そういえば北大阪急行電鉄の初乗り運賃は実に衝撃的であった(→2013.9.29)。

そんなことを考えている間に、有馬温泉駅に無事に到着。有馬温泉は関西における絶対的な存在ということで、
ワクワクドキドキしながら温泉街へと向かう。しかし思っていた以上に、坂の勾配がきつくて狭苦しい場所だ。
どうしても箱根と比較してしまうが、箱根湯本のような緩やかさはないし、強羅のような整然とした感じもない。
駅からすぐのところにあるのが太閤橋で、その近代以前の要素をやたらめったら感じる空間となっている。

  
L: 有馬温泉駅。1989年竣工だそうだが、ずいぶんモダニズムを意識しているではないか。平成な安っぽさはあるが。
C: 駅の向かいにある土産物店の吉高屋に圧倒される。  R: 有馬川に架かる太閤橋。有馬で道幅広いのここだけですね。

まずはいちばん高いところにある有馬稲荷神社を目指すことにした。阪急バス有馬案内所からは、もう完全に路地。
風情のある前近代的空間なのは確かだが、道に迷う不安しかない。土産物店が多くて楽しめるとは思うんだけどね。

  
L: 太閤橋から見た有馬川。完全に観光客向け親水空間となっていた。水遊びしろと言わんばかりである。
C: 観光案内所から南下。  R: しばらく歩くと阪急バス有馬案内所。ここから先が有馬の温泉街が本格化。

  
L,C,R: 道はこんな感じ。土地の狭さが店の密度を上げて、それで全体の雰囲気を上手くつくりだしている。

温泉街を上りきった先には、炭酸泉源公園がある。その名のとおり、炭酸泉が湧き出している場所である。
温度が低いので温泉ではなく鉱泉だが(18.6℃)、有馬温泉の銀泉はこれにラジウム泉を足したものとのこと。
また、有馬名物の炭酸煎餅をつくるのにも使われている。しかし井戸には立入禁止のテープが張られて風情がない。

 
L: 炭酸泉源公園。  R: 炭酸泉の井戸。立入禁止は仕方ないにしても、なんかこう、もうちょっとなんとかならんのか……。

炭酸泉源公園から一段上の道路に出ると、そこが有馬稲荷神社の境内入口。しかしここからがまた長かった。
石段の向かって左には、みかん畑でよく見かける農業用のモノレールと思しき軌条があり、道のつらさを暗示する。
最初はふつうに整備された石段だったが、途中からは組木のステップで完全に山道の雰囲気となっている部分も。

  
L: 有馬稲荷神社の境内入口。  C: 参道を行く。坂を上りきってまたこの上りで正直つらい。  R: 境内の様子。

どうにか上りきると、ベンチもあってちょっとした公園のように整備された境内に出る。しかし木々が遮っており、
眺めはイマイチ。有馬の温泉街を素直に眺められればなかなかの絶景だと思うのだが。参拝すれども御守はナシ。

  
L: 拝殿。  C: 裏にまわり込むと離れて本殿。  R: 本殿。拝殿から離れて、建築的にはけっこう独特。

せめて景色か御守のどっちかがあればなあ……と思いつつ、坂を下ってさらに寺社を行脚する。温泉寺と湯泉神社だ。
まずは湯泉神社から。「温泉」ではなく「湯泉(とうせん)」である。温泉寺の脇にある参道から進んでいくと境内で、
目立つ温泉寺とは対照的に奥まっているからか、ひと気がなくって寂しい。しかし式内大社と由緒正しい神社なのだ。

  
L: 湯泉神社の境内入口。空間的には温泉寺にくっついている感じが否めない。  C: 石段を行く。  R: 社殿。

参拝を終え御守を頂戴して戻ると、今度は温泉寺に参拝。こちらは行基開山で、やっぱり由緒正しい寺である。
有馬温泉は洪水によって壊滅状態となるが、熊野権現のお告げを受けた仁西が温泉寺とともに1191(建久2)年に復興。
開湯伝説に3羽のカラスが絡むのは熊野信仰の影響だろう。戦国時代には戦争で荒廃するが、秀吉が贔屓にして繁栄。

  
L: 温泉寺。  C: 御所泉源。塩分と鉄分を多く含む金泉で、温度は実に97℃。慶長伏見地震以来、熱湯になってしまったとか。
R: 金泉に浸かれる金の湯。有馬温泉は金泉にするか銀泉にするか悩ましい。両方浸かるくらいのんびりすべきなんだろうけど。

金泉に浸かるか銀泉に浸かるか悩んだが、初めての有馬だし金から行っておくか、と金の湯にお邪魔する。
いざ中に入るとお湯が本当に赤茶色。や、これ金じゃねえだろ銅だろ、と思わなくもないが、浸かればそりゃあ金である。
うっすら赤茶色の鉄分が混じる温泉に浸かったことはあるが、さすがにこれだけ強烈なのは初めてだ。存分に浸かる。

 風呂上がりに有馬サイダーてっぽう水をいただいた。すっげえ強炭酸!

全力で浸かったので、上がってからの飲み物が楽しみで楽しみで。そこに有馬名物として復刻されたサイダーを見つけ、
迷わず買って飲んだら……「てっぽう水」の名前に違わぬ強炭酸ぶり。とてもグイグイ飲み干せるレヴェルではない。
じっくりちびちびといただくのであった。有馬の炭酸、強烈でございました。次回は銀泉にも挑戦したいね!

帰りは新神戸から新幹線。在来線で考えると新神戸は微妙だが、有馬温泉からだとすごく便利で、認識を改めた。
以上で夏休みの旅行、第1ラウンドは終了である。淡路島に有馬温泉、兵庫県ってのはありとあらゆる要素があるなあ。


2018.7.15 (Sun.)

今年の夏休みの旅行、一発目のテーマは淡路島なのだ。淡路島への上陸はすでに6年前に果たしているが(→2012.10.7)、
まだ行っていない市があるのと洲本市役所が建て替えになったのとで再訪問を決意したしだい。味わい尽くすぜ!

朝6時に三宮バスターミナルに到着すると、近くの店で朝メシをいただいてから再びバスターミナルへ戻る。
そうして淡路島行きのバスに乗り込む。1時間ほど揺られて榎列(えなみ)という高速バスのバスストップで下車。
まずは北へ歩き、掃守の交差点から山の方へ入る。そこには淡路国の二宮・大和大国魂(やまとおおくにたま)神社だ。

  
L: 坂道を上っていくと社号標。石段ならわかるが、坂道は神社にしては珍しい。  C: 鳥居。  R: 進んで拝殿。

名神大社で旧県社ということである程度規模があることを想像していたのだが、やや放置気味の感触がする神社だった。
濃い緑で両側を遮られて細長くなっている境内はまるっきり無人で、御守も頂戴できなかった。実に拍子抜けである。

  
L: 角度を変えて拝殿を眺める。歴史のある神社だけあってか、かなり独特な形式となっている。
C: 幟を立てると思われる石の台。穴の手前に刻まれているのは氏子の地区名。これも見たことないスタイルだ。
R: 本殿を覗き込む。かつては西向きだったが海上を通る船が参拝しないので祟りがあり、南向きに改められた。

参拝を終えると、隣のお寺の境内を抜けて高速道路の南に出る。次の目的地へ歩いていくと、川の脇に馬の厩舎がある。
近づいてみたら、馬がこっちを見ていたので軽くご挨拶。なんでここで馬を飼っているのかわからないが、かわいい。

 おはようございます。

手を振って別れると、そのまま歩いていく。次に現れた川に沿って南下すると、緑の向こうに赤い巨大な鳥居が現れる。
近づいて南側にまわり込むとその巨大さに圧倒される。国生み神話で最初にできた島に鎮座するというプライドを感じる。
というわけでやってきたのは自凝島神社。読むのが難しいので、ひらがなで「おのころ島神社」と表記することも多い。

  
L: 自凝島神社の大鳥居。高さ約21mとのこと。  C: 鳥居をくぐって境内。一段高くなっている。  R: 拝殿。

自凝島神社はその名のとおり、オノコロ島に鎮座するとされる神社。オノコロ島はその漢字を見れば一目瞭然だが、
「自ら固まった島」という意味で、イザナギとイザナミが天沼矛で海をかき混ぜた後の滴から生まれたとされる。
境内は少し高くなっており、なるほど平坦な農地が続く周囲とはやや雰囲気が異なる。聖地っぽくがんばっている。
時刻は9時前だが参拝客はそこそこいて、授与品の種類も非常に豊富。大和大国魂神社とはだいぶ差があるなあと思う。

  
L: 角度を変えて拝殿を眺める。  C: 本殿脇を行く。こんな感じで一周できる。奥は摂社の八百萬神社。  R: 本殿。

ここからは徹底的に南あわじ市コミュニティバスのお世話になる。おのころ島神社前から直接、南あわじ市役所へ。
農地と住宅地を抜けて国道28号に出ると、さっきの三原川に戻って北上して一丁あがり。バスの充実は本当に助かる。
運転手さんに礼を言って下車すると、すぐに南あわじ市役所の撮影を開始。見るからにできたての新築庁舎である。

  
L: 南あわじ市役所。まずは北西から見たところ。手前の「南あわじ市役所」という看板からして市松配置の瓦である。
C: 脇に置かれている瓦。淡路瓦の産地ということでアピール。  R: 少し南に寄って、建物全体を眺めてみたところ。

  
L: 西から見たところ。撮影していてすぐ後ろが川なので、これ以上距離をとることができなくて苦しい構図に。
C: 南西から眺める。  R: 南側の側面。壁面は全面瓦張りで、その手前にあるのは太陽光パネルを市松模様にしたもの。

  
L: 南東にまわり込む。  C: 東側も敷地に余裕がない。これは北東から見た東側の背面。瓦が張り付いているのがわかる。
R: 北側の側面。こちらの市松模様は太陽光パネルではなく、瓦である。ありとあらゆる手で淡路瓦をアピールしている。

現在の南あわじ市役所は2015年の竣工で、設計はNTTファシリティーズ+社家一級建築士事務所+フタバ設計JV。
NTTファシリティーズにしてはずいぶんマトモな建物だな、という印象である。最大の特徴は瓦の多用ぶりで、
建物全体で実に36,000枚もの淡路瓦を使用しているそうだ。淡路瓦は三州瓦・石州瓦とともに日本三大瓦とされている。
落ち着いたダークグレーが光を受けると白く見える淡路瓦は、確かに素材としては独特の面白さがあると思う。
いかにも現代風のデザインだが、瓦であることでしっかり独自性を持たせてある。グッドデザイン賞受賞も頷ける。
建物全体は免震構造となっているそうだが、地震が来たときに瓦は割れないんだろうか。少しだけ気になる。

  
L: 内部の様子。吹抜は珍しくないが、窓口を曲線的に配置。  C: 全体的に余裕のある空間。窓付近にはテーブルもある。
R: 窓を背にして窓口の方を眺める。ソファや椅子などは 淡路瓦に合わせて落ち着いた色としており、実にオシャレである。

せっかくなので、三原川の対岸から建物全体を眺めて撮影してみる。建物の手前を広くとって駐車場とする例は多いが、
川沿いの狭い敷地ということでかえって開き直って、川を挟んで全容を眺めさせるというのは、いいアイデアだと思う。
市役所を凝った意匠にすることで市としての存在感をアピールするのであれば、むしろ好都合な立地となりうる。

  
L: というわけで、三原川を挟んで北西から見た南あわじ市役所。  C: 西、正面から。  R: 南西から見たところ。

南あわじ市は三原町・緑町・西淡町・南淡町が合併して2005年に誕生し、それぞれの旧町役場を分庁舎としていたのだが、
旧三原郡広域事務組合が入っていた旧三原郡生活文化会館を中央庁舎としていた(現在の南あわじ市役所第2別館)。
この中央庁舎は、市長室・議場はあるが住民サービスは扱っていなかったそうだ。すごい割り切り方だと思う。

  
L: 善光寺橋から見た南あわじ市役所庁舎群。右岸は警察署から市役所までが並ぶ行政地帯。ちなみに左岸は淡路島牛乳の工場。
C: 左(北)が第2別館、右(南)が第1別館。新庁舎はこのすぐ南に隣接。  R: 第2別館。かつては中央庁舎となっていた。

  
L: 正面から見た第2別館。1984年竣工。  C: 第1別館。ペディメントに瓦屋根、なんちゅうデザインだ。1990年竣工。
R: 角度を変えて眺めるが、これだとまだそんなに違和感がない。やはりペディメント下の柱がギリシャ風なのがいかんのだ。

時間的な余裕があったので、川の対岸をそのまま南下して、国道脇にある商業施設のパルティでアイスを買って一休み。
そしてパルティのバス停から次のバスに乗り込んだら、運転手さんがさっき市役所まで運んでくれた方で双方びっくり。
乗り換え地点である中林病院前まで、淡路島の事情について興味深い話をあれこれうかがうことができたのであった。
運転手さん曰く、三洋電機が健在だった頃は洲本に工場があることで、淡路島もかなり景気が良かったとのこと。
(三洋電機以前は鐘淵紡績(カネボウ)が洲本に紡績工場を持っており、淡路島経済を支えていた。→2012.10.7
しかし2011年にパナソニックの完全子会社となって以降は全然で、就職口がなくて若者がどんどん流出しているそうだ。
まあこれは淡路島に限らず地方はどこも衰退しているわけだが、企業城下町の脆さはなかなか衝撃的な話だった。
後述するが、淡路島の玉ねぎ天国ぶりは凄まじく、産業が不振と言われても「玉ねぎあるじゃん」と思ってしまうが、
むしろ「玉ねぎしかない」状態なのであろう。第1次産業と第2次産業、なかなか難しいものである。

中林病院前の日陰でしばらく待つと、南北幹線のバスに乗車。50分ほど揺られて淡路島の南端へとまわり込む。
山本というバス停で降りると、停車していた車の運転手さんから声をかけられる。諭鶴羽神社への送迎を予約していたが、
その宮司さんが直接車で送ってくれるシステムなのであった。なんだか申し訳ないなあと思いつつ車に乗り込むが、
いざ車が走りだすと神社への道がすさまじく細くてカーヴしまくる急勾配なのであった。いや、これは本当に怖かった。

  
L: 諭鶴羽神社、ゴール直前の道はこんな感じだった。ずーっとこの細さが続いてくねりまくるのだ。凄まじかった。
C: 黒岩海岸から直に上ってくるルートもあるが(諭鶴羽古道、片道2kmの表参道)、よほど元気じゃないと無理では。
R: というわけで諭鶴羽神社の境内入口。来るまでが大変な道のりだが、神社周辺はきちんと整備されている。

案の定、参拝客は僕だけ。どうしてわざわざ来たのか宮司さんに訊かれたが、淡路島最高峰の名を冠する神社、
参拝しないわけにはいかないじゃないか。そう素直に答える。しかし世間的には「『ゆづる』は」ということで、
羽生結弦ファンの聖地である模様。尊敬できるアスリートだが、そういうことで盛り上がれるファン心理は理解不能。
しかし社務所には、羽生選手が実際にこちらを訪れたときの写真がきちんと飾られていた(肖像権的に撮影は不可)。
ここまでわざわざ来て神社を盛り上げるのに一役買っているからこそ、広く支持されているんだよなあと納得した。

  
L: 石段を上って境内。  C: 拝殿。見るからにお堂で、自然崇拝から修験道・熊野信仰を経て神仏分離した経緯がうかがえる。
R: 拝殿の側面を眺める。英彦山に降臨した熊野神は石鎚山・諭鶴羽山を経て新宮の神倉神社(→2013.2.9)へ移ったという。

御守を頂戴しつつ宮司さんとさらに話すが、時間的な余裕があるならぜひ沼島まで足を延ばしてみたらどうです、
と提案される。この後は福良に戻って一息つこうかと考えていたのだが、確かにここまで来てしまったのであれば、
沼島へ行く方が貴重な機会で合理的である。さっそくスマホで船の時刻を調べ、間に合うように送ってもらうことに。

  
L: 本殿。  C: 本殿付近の林。雰囲気があるなあ。  R: 境内の様子。奥の方から拝殿・社務所方向を見たところ。

境内の先へと進んでいくと、奥宮十二所神社。さらにそこから奥之院の篠山神社、そして諭鶴羽山の山頂へ行けるが、
船の時刻が迫っていたのでそちらは断念する。が、これが大失敗だった。実は直線だと500mくらいの距離しかなく、
わりと簡単に頂上まで行けたようなのだ。しかもスマホで慌てて調べたせいで、実は沼島へ行く方の船ではなく、
沼島から戻る船の時刻を宮司さんに告げていたという間抜けさ。おかげで後で盛大な待ちぼうけを強いられた……。

  
L: 奥宮十二所神社の入口。「十二所神社」は熊野系の神社名なのだ。  C: 多宝塔の板碑。戦乱で焼失した堂宇の記録。
R: 天の浮橋遥拝所から眺める沼島。天の浮橋は国生み神話でイザナキ・イザナミが鉾を掻き混ぜたときに立っていた場所。

諭鶴羽神社の宮司さんは、そのまま土生(はぶ)港まで乗せてくださった。本当にありがとうございました。
でも港で事実を知り、臍を噬みつつ沼島行きの船が出発するまで小一時間ターミナルで待つことに。悔しくてたまらん。

  
L: 沼島へはこちらの船でアクセスするのだ。  C: 沼島に到着。港はこんな感じで、いかにもな漁港っぷりである。
R: 港を望む高台に鎮座する沼島八幡神社。1436(永享8)年に梶原俊景が創建した神社で、神話の舞台としては新しめかな。

さて突然来ることになった沼島、ぜんぜん予習していなかったのが僕の無知さである。危なくスルーするところだった。
まず読み方が「ぬしま」。「沼」を「ぬ」と読むのは、国生み神話で海をかき混ぜた天沼矛(あめのぬぼこ)と一緒。
そこも関係しているのかはわからないが、沼島は先ほど自凝島神社のところで述べたオノコロ島の有力候補地なのだ。
淡路島のすぐ南にある勾玉型の島ということで、なるほどむしろ自凝島神社よりも説得力があるんじゃないかと思う。

  
L: 42段の男坂を上ると神門、そこから33段の女坂を上ると拝殿。瓦屋根にシャチホコが載っていて、実にお寺のお堂っぽい。
C: 拝殿内の様子。奉納された絵馬13額も見事だが、天井の逆羅針盤が面白い。船室の天井につけるので東西を逆にしている。
R: 本殿。沼島八幡神社は戦国時代には沼島水軍の拠点となっていた。沼島水軍は梶原景時の流れを汲み、三好家と対立。

まずは集落の真ん中、港を望む高台に鎮座する沼島八幡神社に参拝する。石段を上っていくと途中に神門があり、
上りきると拝殿。シャチホコがあるせいか、これがどことなく天平時代の寺という雰囲気を漂わせているのが面白い。
また拝殿に上がるとさらに興味深いのは、色鮮やかな絵馬がいくつも掲げられていること。さらに天井には逆羅針盤も。
下に置いて使うのではなく天井に据え付けるものだから東西が逆になっており、だから「逆」羅針盤なのだそうだ。

 沼島八幡神社の境内から眺める沼島の街並みと淡路島。すぐ手前は神宮寺。

港から一本東に入ると住宅が並んでおり、明らかに近代以前の道がそのままコンクリート舗装されている。
道のど真ん中に井戸がある、なんて光景もあって、島ならではのおおらかさに触れて大いに感動するのであった。

  
L: 沼島の路地。道がまっすぐでないのがいいなあと。  C: 道のど真ん中に井戸。漁村の共同体っぷりを実感できる。
R: 南の方の住宅地にて。これも昔のままの道だなあ。左へ行くと上立神岩、右へ行くと沼島庭園・八角井戸・梶原五輪塔。

沼島八幡神社の御守を頂戴すると、住宅地から離れて西の方へ。目指すは自凝神社である。さっきのは自凝島神社で、
こちらの沼島に鎮座するのは自凝神社。名前がちょっと違う。ただ規模はそんなに大きくなく、社殿があるだけで無人。
どうせ大変なのはわかっちゃいるけど、ここまで来ておいて行かないって選択肢はないのだ。石段をグイグイ上がる。

  
L: 自凝神社の石段スタート地点。手前のコルゲート小屋に案内板が貼り付いているからそうだとわかるが、なけりゃわからん。
C: 途中でほぼ完全に草の中を行き、抜けるとこの光景。ワイルドだぜぇ。  R: ラストはきちんと整備された石段となる。

自ら遭難しに行くような感覚になりつつも、緑の中をだんだん上っていくと、やがてちゃんとした石段が現れる。
どうやら自凝神社の社殿にまっすぐ向かうところだけはきっちり整備したようだ。なるほどなるほど、と納得。
石段を上りきったところが拝殿で、抜けると本殿。近くには天沼矛を手にしたイザナギ・イザナミ像があるが、
以上で終了である。もともと寛政年間に祠が建てられてからの神社だそうで、ここまでよく整備したものだ、
というのが実際なのだろう。八幡神社とともに、沼島の凄みを感じさせる場所としてがんばってほしい。

  
L: 石段を上ると拝殿。石段も拝殿も2002年に整備されたそうだ。  C: 本殿。  R: イザナギ・イザナミ像。

参拝を終えてさっきの入口まで戻ると、沼島海水浴場に寄ってみる。さっき一緒に船に乗った客は家族連れが多くて、
そのほぼ全員が脇目も振らずにこちらの海水浴場へと向かっていった。そんなに安定した人気があるとはびっくりだ。
沼島はいい感じに距離があるからか、遠出した気分がしっかり味わえるってことで人気なのだろうな、と推測する。

 沼島海水浴場。けっこう人がいて驚いた。近畿ではいい感じの距離感なのかなあ。

今度は南側の住宅地を抜けて、上立神岩を目指すことにした。でも途中で右の道に入って沼島庭園の方に行ってみる。
沼島庭園は室町幕府の第10代将軍・足利義稙が細川高国に敗れて二度目の都落ちをした際、沼島で暮らして作庭したとか。
まず現れたのが今も現役であるらしい八角井戸。さらにかつて家があったと思しき空き地があり、その奥に墓石が並ぶ。
その脇、一段高いところにあるのが梶原五輪塔。梶原景時の墓とされるが、景時は今の静岡市で戦いに敗れて亡くなった。
沼島まで落ち延びた子孫が、一族の最盛期を偲んで墓をつくったわけだ。とりあえずナムナムと手を合わせておく。
そして沼島庭園があるという伊藤邸にどうにかたどり着いたが、草が生い茂り放題で庭園がありそうな雰囲気はゼロ。
そもそも入っていいのかどうかがよくわからない状態なのであった。釈然としないままその場を去るしかなかった。

  
L: 八角井戸。  C: 梶原五輪塔。梶原景時は石橋山の戦いで頼朝を救って重用されたが、それゆえ御家人の恨みを買うことに。
R: 沼島庭園……ではないよね、その入口付近だよねコレ。中に入っていいのかどうか。この先に庭園がありそうな気がしない。

さっきの道に戻って、小中学校の脇を通って沼島緑地おのころ公園を抜け、ひたすら先へと歩いていく。
細い道に少々不安になるものの、分岐もないので素直にまっすぐ行くしかない。やがて海岸へ至る下り坂に出た。
下りていって振り返ると、そこには海から刃物のように岩が突き出ている光景があった。これが上立神岩か。
周りの岩と雰囲気がぜんぜん違う。なるほど、国生み神話の天の御柱と言いたくなるのもよくわかる。

  
L: 上立神岩へと向かう道。そんなに大変ではないので、沼島に来たら散歩がてらのんびり歩いてぜひ行くべき。
C: 海岸から見た上立神岩。高さ約30m、周囲とぜんぜん違う形なのでびっくりだ。  R: 展望台から見たところ。

しばらく上立神岩を眺めてから、のんびり港へと引き返す。島の路地の様子をデジカメに収めつつ戻ると、
沼島を後にするのであった。いやあ、訪れることができて本当によかった。次回があればぜひメシを食いたい。

 さらば沼島。訪れることができてよかった。

土生港に戻ると、バスを乗り継いで本日の宿がある洲本へ。なかなかハードな一日なのであった。

さて、淡路島について「玉ねぎ天国」「玉ねぎしかない」などと書いてきたが、では実際どれくらい玉ねぎなのか、
写真で検証してみたいと思います。まず、自凝島神社から。こちら社務所で杉良太郎淡路島農園の玉ねぎを売っている。
いきなりの先制パンチが威力ありすぎでワケわかんなくなったんだけど、杉様は父親が南あわじ市の出身だそうで。
慈善活動しまくっている人なので、まあ淡路島で農園くらいやるよね、と納得。あと駐車場の無人販売も玉ねぎだらけ。

 
L: 自凝島神社の杉様の玉ねぎ。君は人のために死ねるか。  R: 自凝島神社の駐車場にある無人販売。全体の3/4が玉ねぎ。

次は、南あわじ市役所の撮影をしているときのこと。市役所は淡路瓦推しで、玉ねぎの要素はまったくなかった。
なんだよつまんないなあ、せっかくの名産品なのに。なんでもない道端に玉ねぎが転がっていたらネタになるけどなあ、
と思いつつ三原川に架かる善光寺橋を渡ったら、本当に玉ねぎが転がっていて驚いた。おそらく軽トラから落ちたのか。
とにかく、これで「淡路島は道端に玉ねぎが転がっているくらい玉ねぎ天国だぜ」という事実が立証できたのであった。

 
L: 橋を渡ったら……  R: マジで玉ねぎが道端に転がっとるやないかい! さすが淡路島、と大爆笑。

コミュニティバスの運転手さんからは淡路島の経済事情のほか、玉ねぎ事情についてもいろいろ教わった。
農家では収穫した玉ねぎを小屋で干しており、これが大変おいしいそうだ。見ると確かにあちこちで干しまくりである。
商品として出荷するものは乾燥させる施設に集めているそうで、玉ねぎを載せている軽トラもまたやたらと多い。

  
L: 玉ねぎ干しまくり。淡路島は玉ねぎを吊っている小屋だらけである。施設で乾燥させるよりこうして干した方が旨いそうだ。
C: 玉ねぎを載せている軽トラ。本当に多い。  R: 土生港・沼島汽船乗り場にて。ビニール袋の玉ねぎは吊るして干したやつ。

というわけで、淡路島がいかに玉ねぎだらけであるか、おわかりいただけたでしょうか。本当にすごかった……。


2018.7.14 (Sat.)

艦これ氷祭りが非常にうらやましかったなあと。僕はいわゆる「リアイベ」にはあまり興味のない人間で、
明日からの旅行があるので申し込みはしなかったのだが、いざ話を聞いてみるとこれがうらやましくってたまらない。
まあそもそも『艦これ』のリアルイベントは発想がおかしいことで定評がある。夏に幕張メッセでスケートだぜ。
伊藤みどりが敵ボスで無良崇人が提督でアイスショーだぜ。いったい何をどうしたらそんなことが可能になるのか。
こういう無茶な企画を「おもしろそうだから」という動機だけで実現まで持っていけることがすごいと思う。
いやー、無理してでも見に行くべきだったなあ。周りで『艦これ』やっている人いないから単独行動になるけど、
これは行っておくべきだった。今回の氷祭り、映像化されたらぜひ見てみたいんだけどなあ……。深く後悔している。


2018.7.13 (Fri.)

1学期の主要イヴェントが終わり、夏休みに向けての収束モードである。消化試合とは言わんが、レイムダック感はある。
来週が終われば夏休みに突入というのがちょっと信じられない。でも夏休みはあっという間に終わるんだろうなあ……。
そんな具合に、まだ始まってもいないのに、短い夏にしんみりしている気の早い私。年々その度合いがひどくなるね。


2018.7.12 (Thu.)

大雨の被害状況が信じられない。もはや日本は完全に、かつてと別次元の環境にあるのだと実感させられる事態だ。

個人的な感情込みで申し訳ないが、旅行予定の鉄路が毎年必ず被害に遭って、予定が狂うのである。
僕は旅行で各地の「ふつう」を目にしたいと願っているので(→2007.2.7)、その日常が豪雨災害で削り取られるのが、
たまらなくつらいのだ。そうして復旧に苦しんでいるうちに、日本がどんどん萎んでいく感じがしてしまう。
ただでさえ、地方の衰退は猛スピードで進んでいるし。この閉塞感は一朝一夕で払いのけられるものではない。
考えれば考えるほどブルーになる。世の中にそういうことをきちんと考えている人はどれくらいいるのかね。


2018.7.11 (Wed.)

移動教室3日目。今朝もスカパラ、『ルパン三世'78』で起こす。もう完全に僕個人の趣味でスミマセン。

最終日ということで、東京へ戻る途中に体験作業。まずはわりと南下して、身延町の「なかとみ和紙の里」へ。
こちらで実際に和紙を漉くのである。で、漉いた紙にお得意の俳句(→2018.4.17)を筆で書くというわけ。
紙には好きに着色できたり葉っぱを入れたりとデザインの工夫ができて、これがまたなかなか面白い。

 なかとみ和紙の里。職員の方も慣れているので、すぐ来てすぐ作業してすぐ撤退。

完成品を後で送ってもらえるので、作業が終わると即、撤退。システマティックだなあと思ううちに昼メシの場所へ。
なんか見覚えのある道を行くなあと思ったら国道20号で、一宮から勝沼にかけてのぶどう園地帯の一角で食事でやんの。
ハイハイハイ、僕この辺を自転車で通ったことがありまーす!(→2012.8.162014.10.12)と言ったら呆れられた。
おいしくバーベキューをいただくとお土産タイムで白桃ソフトクリームもいただいてよかったよかった。

なんか、ふつうにエンタテインメントな3日間だったような気がする。移動教室というより旅行に近かったぞなもし。


2018.7.10 (Tue.)

移動教室2日目。スカパラのベスト盤を持参しておいたので、朝は『火の玉ジャイヴ』で起こす。
本当は『燃えよドラゴン』のカヴァーがオススメなのだが。オレは毎日それで起きておりますのよ。

本日は八ケ岳中央農業実践大学校(→2014.6.7)へGO。一日みっちりお世話になるのだ。午前中は林業体験で下草刈り。
物珍しい体験ということもあるが、ふざけゼロで黙々と作業をこなす生徒たち。そういうところは本当に偉いと思う。
午後は班に分かれて、あらかじめ決めておいたメニューをこなす。僕は林業コースの枝打ち作業に同行して撮影。
専用の器具で高いところに上がり、そこで実際によけいな枝を落としていくのだ。これまた生徒は無心で取り組む。
高所恐怖症の僕も逃げられずに枝打ち作業に参加するのであった。要領がつかめて慣れると面白いんだけどね。

 これらの木々のけっこう上の方まで登って枝を落とすのだ。

各班、有意義な体験ができたようで何より。4年前にもお世話になったけど、八ケ岳中央農業実践大学校は楽しいよな。


2018.7.9 (Mon.)

移動教室1日目。初日は定番の車山登山から八島湿原へのハイキングである。

  
L: 車山神社。諏訪地域なのでしっかり御柱である。  C: 車山から眺める白樺湖。  R: 八島湿原。いい感じである。

梅雨時のわりには晴れ間もあって、善哉善哉。しかし車山程度じゃ生徒はぜんぜん疲れないから物足りないね。


2018.7.8 (Sun.)

姉歯祭りである。先月の沖縄でお土産として買った紅芋タルトの贈呈式ということで招集なのだ。
しかしニシマッキーは「仕事で小笠原に行きます」ということで不参加。うらやましいなあ、もう!
最終的にはみんなの交通の便がいい飯田橋で飲むことになるのだが、昼間に合流できるのは僕とみやもりだけ。
何をどうするかいろいろ考えた結果、日本サッカーミュージアムへ行くことにしたのであった。
この施設、日本サッカー協会のビルに併設されており、ハリルホジッチ解任の責任をとって田嶋辞めろ!
という抗議行動という名目で行くことにしたのである(僕と違ってみやもりは純粋に見学である)。

  
L: 御茶ノ水から歩いて10分くらい、こちらがJFAのビル。「SAMURAI BLUE」とか本当にやめてほしい(→2012.3.9)。
C: こちらが日本サッカーミュージアムの入口。  R: 地下入口の顔ハメ。みやもりに「え、そっち?」と言われるの巻。

まずは地下1階の無料エリアから見学。Jリーグが全面的にフィーチャーされており、ふたりであれこれ雑談。
みやもりが気を抜いている間にJリーグの各クラブは監督が目まぐるしく変わっており、みやもりは浦島太郎状態。
まあ確かに、クルピがG大阪、長谷川健太がFC東京、城福が広島とか、冷静に考えるとびっくりだもんな。
ペトロヴィッチが札幌を、オリヴェイラが浦和を率いているのも、過去の自分が聞いたら信じないかもしれん。

  
L: Jリーグ各クラブの紹介コーナー。色鮮やかでよい。こうして見ると25年の歴史ってさすがに厚みがあるものだ。
C: 手前の床にはMVPの足形(GKは手形)。中村憲剛がぶっちぎりで扁平足。名波といい(→2015.3.29)パサーはそうなのか。
R: シャーレのレプリカが展示されており、好きなように記念撮影できる。みやもりには毎回何か撮らされとるなあ。

無料エリアの端っこにはサッカーの殿堂があったので、当然入ってあれこれコメントしていくのであった。
坪井玄道からスタートして生まれ年順にレリーフが並ぶ。黎明期の記述はいろいろ勉強になることが多かった。
やがて旧制高校や大学を通してスポーツとしてすっかり浸透すると、実業家の表彰者が増えていくのが面白い。
日本でスポーツがメジャー化するには企業の後押しが必要なんだなあと実感。そして競技者の表彰も増えていく。
審判やジャーナリスト、さらには写真家も表彰されており、幅広く業績を拾っていこうという意志は感じた。

  
L: サッカー殿堂のお部屋。野球殿堂(→2006.5.28)と比べるとさすがにまだまだだが、見応えは十分。
C: デットマール=クラマーよりも賀川浩の方が年上なのかよ!と驚いた一幕(1歳上)。どっちもレジェンドだなあ。
R: 1階には横浜フリューゲルスのグッズを展示した一角も。日本サッカー史でも屈指の悲劇をきちんと受け止めている。

ではいよいよ地下2階の有料エリア(500円)へ入るのだ。審判証を持っていたら100円引きだったのに……。チェッ。
チケットは2002年の日韓W杯のチケットを模したものになっていて、僕はチュニジア×日本のやつだった。
ただ、「チェニジア」と思いっきり誤植していて、本番もそうだったのか非常に気になるところだ。

  
L: 地下2階に下りるところに澤穂希の「なでしこジャパン」(真筆)が。これ愛称が決まったときのやつなのね。
C: 日韓W杯を模した入場チケット。ぶっちゃけ、私は日本がGL第3戦でチュニジアと対戦していたことを忘れておりました。
R: 日韓W杯当時の選手の人形と円陣を組める。隣は宮本か。背番号3もちゃんといて、しんみりしてしまった(→2011.8.5)。

最初の展示は2002年の日韓W杯に関するもの。誘致の経緯には非常に腹立たしいものがあるが、ぐっとこらえた展示。
すべての試合の概要を展示していて、当時の(バブルな)盛り上がりをちょっと思い出した。お祭り騒ぎだったなあ。
奥へと進むと映像コーナー。3Dメガネをかけて南アフリカW杯のダイジェストを見たのだが、 これが非常に面白い。
名シーンがテンポよく登場するので大変シビレる。でも3Dはそれくらいしか見たいものがなかったのが残念だった。
これをすべてのW杯についてやってくれたら最高なんだけどなあ。金がかかりすぎるかな。やる価値は絶対あるはず。

そして現在まさにロシアW杯を開催中ということで、日本代表の試合も好きなだけ見られるコーナーもあった。
GLのコロンビア戦、セネガル戦、決勝Tのベルギー戦の3つ。……あれ、ポーランド戦は? 負けたらナシなの?
みやもりと得点シーンを中心にベルギー戦(→2018.7.3)を見たのだが、まあやっぱりどこをとっても面白いのである。
スコアレスの締まった前半、ファインゴールの後半、そして鮮やかすぎるカウンターの試合終盤、とことん面白い。
もともと集まった時間が遅かったこともあるが、ここでじっくりと試合を再生しすぎたのが命取りなのであった。

  
L: 「ドーハの悲劇」の試合でロッカールームに貼られていた戦術シート。アメリカまであと90分だったはずが……。
C: 東京五輪のときのユニフォーム。  R: こちらは伝説のメキシコ五輪。当時のユニは「体育着」といった感じだ。

建物じたいがそんなに大きいとは思っていなかったので、映像コーナーの後はおまけ程度と勘違いをしていた。
おかげで残りの展示を閉館時刻までの5分で一気に見てまわる破目に。確かにそんな浅い歴史じゃないもんな……。
黎明期の資料やら東京五輪やら栄光のメキシコ五輪やら、展示内容は極力凝縮されているけどかなりの面積。
本気になればこの場所で楽に半日つぶせるんじゃないか、なんて話をみやもりとしつつ駆け抜けるのであった。

  
L: 後半の展示。見てのとおり、かなりの凝縮ぶりなのだが実はけっこう広い。じっくり見られなかったのが残念。
C: とび丸と私。  R: W杯のトロフィーを手にしてご満悦の私(「ジュール=リメ杯」と呼ぶのは初代だけみたい)。

最後のアンケートにきちんと「田嶋やめろ」と書いて、閉館時刻ギリギリに日本サッカーミュージアムを出る。
その後はなんとなく健康のためということで、飯田橋までのんびり歩く。えんだうは先に店に着いており、無事合流。
やがてマサルもどうにか合流。よけいに歩かせて申し訳なかったが、体重がついに0.1tを超えてしまったそうなので、
いい運動ということにしておくのである。というか本当に早死するぞ。お互いつらい年齢になったもんだわ。


2018.7.7 (Sat.)

3年生の引退試合である。僕も混じってトップ下で本田的プレー。でも日頃運動不足だから結局足つっちゃうのね。
前めのポジションで相手ディフェンスに対してプレスをかけるのって、意外と足への負担がデカいのである。
瞬間的に重心を変えてダッシュすることが多いので、それを繰り返しているうちに攣る。まあ、よく走ったってことで。

東京にいると実感できないのだが、大雨がここまで大きい被害をもたらすとは。ニュースの映像を見て背筋が寒くなる。
しかも範囲が広い。つい最近「ゲリラ豪雨」なんて言っていたが、ゲリラどころでは済まない広範囲が被害を受けている。
こういう災害が当たり前である時代になってしまったのか。壊すのは一瞬でも復旧には時間がかかる。なんともつらい。


2018.7.6 (Fri.)

オウム真理教の死刑囚に刑が執行されたそうで。これはきちんと熟慮したタイミングと言えるのかどうか。
政治的な思惑で支持率のカンフル剤に利用されたんじゃないかと思えてしまう。今の政権はそういうことをやる集団だ。

ネットの反応を見るに、理性よりも感情が先走ったコメントが多い。もっと言うと被害者や遺族ほど冷静であり、
本来関係のない傍観者ほど感情的になっているように思える。この逆説はたいへん示唆的なことだと感じるし、
また被害者や遺族のみなさんは事件について本当に考えて考えて考えて抜いたのだと思うとただただ胸が痛む。

はっきり宣言しておくが、僕は絶対的に死刑存置派である。ここにも逆説があって、死刑廃止論の方が野蛮と考える。
いや、野蛮というのは少し違うか。死刑廃止論は思慮が浅い。残念な人もいるかもしれないが、それが現実である。
思い出すのは高校時代。自分は賢いと勘違いしている後輩から「死刑賛成ですか、意外ですね」と言われたことがある。
(こいつがどれくらい勘違いしているかというと、小林よしのりの『東大一直線』を読んで東大文Iを志望するくらい。
 彼は僕に対して「マツシマさんなら文III行けるんじゃないですか」とのたまったのであった。笑っちゃったよ。
 もちろん、「僕は文Iですけどね」が言外の意としてある。そのときの僕の返事は、「お前は東大に受からねえよ」。
 そしたらすごーくイヤな顔をされたけど、僕の予言はきっちり当たった。まあもはや青春の一ページですな。)
閑話休題、いろいろ考えた結果として廃止論に与するなら文句は言わない。でもファッションで言われても困るぜ。

人間ってのは、自分たちが考えているほど賢い生き物ではない。だからこそ、自分たちでけりをつける準備をすべきだ。
残念ながら、どうしょうもなく残酷でどうしょうもなく理性と相容れない事件は、往々にして起きるものなのだ。
それに対して落とし前をつけなくちゃいけない、ということである。これは感情で対抗しようということではない。
死刑とは、自分たちが生み出した反社会的なものを自分たちで始末するという知的生命体・社会的動物としての責任だ。
それ以上でも以下でもない。抑止力でもないし、感情論でもない。ただ人間として「責任を負い、責任をとる」行為だ。
知的生命体としての理性とどうしょうもなく相容れない者を生み出してしまったことを、社会の一員として受け止める、
そのために死刑という選択肢を保持しておくことが、社会的動物としての責任である。そう僕は考えるのである。
勘違いしないでほしいのは、死刑の判決を下すことと刑を執行することは別である点だ。そこを一緒にしてはいけない。
だから究極的には、死刑囚を実質終身刑と同じ状態で留めておくことも可能である。その経費に納得できればだが。
刑を執行しないことで、事件を現在形に保っておくという考え方もある。過去にした瞬間、記憶の風化は始まるものだ。
そこを判断するのは社会ということになる。以上、死刑というカードを手放すことは無責任で野蛮であると僕は考える。

感情だけで今回の死刑執行をとらえる意見が目立っているうちは、まだまだだなあと思う。
人間ってのは、自分たちが考えているほど賢い生き物ではない。その事実を受け止める手段は残しておくべきだって話。


2018.7.5 (Thu.)

先日のベルギー戦(→2018.7.3)について、「けっこう先生の言ってたとおりだったね」という反応を各所からもらう。
実は試合前にあちこちから「サッカー部顧問として、どうですか? 勝てそうですか?」なんて具合に見通しを訊かれ、
そのたびに僕は「あんまりベルギー強いとは思わんです、日本にもワンチャンあります」と答えていたのである。
とはいっても専門家じゃないので明確な根拠があってのことではなくて、イメージの話ね。いいかげんで申し訳ない。
でも結果として、僕のコメントはイイ線いった感じになってしまった。それで、「うーん、そうね」と返す感じ。

おとといのログでも書いていたけど、僕はもともとベルギー代表にあまりいい印象を持っていなかったのである。
いちばんはやはり、EUROのウェールズ戦(→2016.7.2)で逆転負けを食らった点。そしてそれで味方にキレていた姿。
こいつらぜんぜんまとまってねえなあと。かつてのオランダ代表が人種のこともあって崩壊したのに似ているなあと。
しかし思っていたよりもベルギー代表の選手たちはずっとナイスガイで、僕は偏見で入っていたなあと反省しているのだ。
EUROは2年前のことで、そこから彼らが少しも成長していないと考えて、勝手に誤解していたんだなあと。すいません。
悪いイメージを勝手に引きずって彼らのいい面を見ないでいたわけだから、僕の方が圧倒的に人間的にできていない。
だから「けっこう先生の言ってたとおりだったね」と言われるたびに、こっちは恥ずかしくなってしまうのだ。
もう本当にすいません。勘弁してください。ベルギー代表のみなさん、本当に申し訳ございませんでした。

そしてもうひとつ反省しているのが、日本代表に対してである。ハリルホジッチ解任でブチ切れた私だが(→2018.4.9)、
その感情を整理できずにいたところにロッカールームの話(負けても整理整頓)。これは素直に誇らしいことである。
やっぱり言い過ぎだったかなあと思っているしだい。罪を憎んで人を憎まず、これは本当に難しいなあと実感している。


2018.7.4 (Wed.)

移動教室がいよいよ来週である。生徒たちはウキウキかもしれんが、こっちは各種準備でヘロヘロだよ。
ふつうの授業と同時並行で手続きを進めていくというのは、あっちでヒーヒーこっちでヒーヒーという感じになる。

準備をしていて思うのは、僕は本当に前もっての準備が苦手な人間なんだな、ということ。
教員というのは不測の事態に備えてあれこれ準備しておくその用意周到さがある種の能力ということになるのだが、
これが僕には決定的に欠けているのである。考えるのが面倒くさいし、最悪な結果を避ければいいという価値観なので。
つまりは、困ったらその場でさっと対策を立ててなんとかしましょう、そればっかりで今まで生きてきたのである。
だから不測の事態に陥ったときの冷静さと判断力なら、ある程度自信はある。旅行でそれを楽しんできたところもある。
これは僕の独断と偏見だが、僕の周りにいる頭のいい人は、用意周到タイプよりはその場で柔軟な解決タイプが多い。
そういう経験もあって、用意周到ってキリがないじゃーん、と割り切って本番勝負を挑む価値観を育んできたのだ。

しかし、そこに生徒を巻き込んではいけないのである。自分ひとりならいいけど、他人がいるからそうはいかない。
どこまで準備をしておけばいいのか、同僚の先生方とのバランス、自分の価値観、いろいろ考えさせられております。


2018.7.3 (Tue.)

ラウンド16、ベルギー×日本戦である。世間ではベルギー代表について、非常に高い評価がなされているようだ。
しかし2年前のEUROを見るに、正直あまりいい印象はない。とりたてて強いという印象もない(→2016.7.2)。
そりゃ腐ってもヨーロッパだから厳しい環境で揉まれてはいるだろう。でもそれだけではないか、と思う。
ハリルホジッチ解任以降の日本代表を積極的に応援する気にはなれないが、過大評価のベルギーの方がイヤだ。
ところでアザールの「Hazard」は英語のhazardと同じ意味なのかなあ。だとしたらすげえ名字だなあ。

さっき2年前のEUROを持ち出したが、日本にとってはあのウェールズの戦い方が目標になるのではないか。
何があっても守りきって、一瞬の隙を確実に衝く。それってハリルホジッチの最も得意とするところではないのかヤダー!
西野監督は日本でトップレヴェルの監督だが、マンUから3点取って5点取られる人である。相性、よくなさそう……。
そんなことを考えながら試合を見るが、入り方はよい。ひとつも穴をつくってはいけない緊張感がたまらない。
日本が攻めたときには、縦パスをカットされると格別に危ない印象。失点するとすればそこか、なんて思う。
柴崎の調子が良さそう。そしてベルギーは大迫をきっちり抑えるのがさすがである。よく研究しているなあと思う。
日本としては、早すぎる先制点も困るのかなあと。ベルギーに本気を出させる時間をできるだけ少なくしたいところだ。
そんなわけで集中してスコアレスで乗り切った前半は、日本の思惑どおりと言える、非常にいい内容なのであった。
それにしてもNHKのゲストは大学生だったり海外でプレーする若手だったりマニアックすぎないか。東京五輪世代だから?

後半3分、さっそく試合が動く。原口が一瞬躊躇した感じで、僕は「遅えよ!」って思わず叫んでしまったのだが、
それがフェイントになってGKクルトワのタイミングを崩したのかもしれない。まあ何にせよ先制したのはすばらしい。
とはいえ時間帯がちょっと早い。これから地獄の守備が始まるかな……早くカウンターから2-0にしちゃいたいねえ、
そう思って見ていたらすぐに追加点。ボールを受けたら早く撃っちゃえばいいのよと思っていたらそのとおりで、
乾のシュートは絶対にGKが取れないコース。香川と乾、C大阪が代表にもたらしたものは大きいなあと思わせるプレーだ。
ここに清武もいてほしかったなあと思うのだが、それは贅沢というものか。ベルギーは前半かなり押していたのに、
後半始まってあっという間に2失点ということで、これはメンタル的にキツいはず。実際に、集中切れ気味な印象。
日本はその後もチャンスをつくるわ一平くんが映るわでいい感じ。カウンターの鋭さで圧力をかけられるのはすばらしい。

いい形で時間を進めていた日本だが、1失点目が非常によくなかった。ヘディングでゴール前に送ったのが入っちゃう、
これは守っている方としては運に見放された感じになる本当にイヤな失点の仕方だ。そのネガティヴさを上手く振り切り、
相手がさらにオープンになったところを衝けるといいのだが。ここから西野ジャパンの実力が露わになるなあと思う。
しかし5分後にまた失点。左右に振られてクロスで同点は情けない。GLから同じミスを繰り返している印象である。
こうなるとベルギーはノリノリになるわけで、これは日本としては本当に難しい状況だ。残り時間のことを考えても、
90分が終わるまでにベルギーの勢いが落ちてくれるかどうか。延長に持ち込むかどうか、よけいな判断が必要にもなる。
そこでチームの意思がバラバラになって失点してしまうのはよくあるパターンで、チームの成熟度が問われる展開だ。
そんな中でファインセーヴを連発する川島はさすがなのであった。こういうプレーがいい流れを引き込んでくれる。

そして93分30秒、CKのチャンスから流れるようなカウンターを食らっての失点で、日本は敗れてしまったのであった。
これは……言葉にできないほどに悔しい。CKがGKクルトワの真っ正面に行っちゃったのがなあ……。本田さん。
あのルカクのスルーを見てしまうと、ベルギーの強さに納得するしかない。ベルギー強いです。本当に強いです。
そりゃもちろん悔しいんだけどね、こんな見事なカウンターを決められたら、素直に敗北を受け入れるしかない。
日本が今大会で一番のグッドルーザーになることを決定づける一発。負けた側ですら清々しさを感じる見事さだわ。

第三者が客観的に見ればものすごい好ゲームだったと思うのだが、ハリルホジッチが土台をつくったからこそ。
みんなそれがわかったと思います。いやあ、前半は1秒たりとも集中を切らさない守備の凄みが味わえるゲームだし、
後半は劇的すぎる幕切れ。ハリルホジッチの土台に、マンUから3点取って5点取られる監督がドラマを載っけた、
まさにそんなゲームだったのではないか。客観的に見れば最高に面白い試合だったんだろうけどね、いやあ、悔しい!


2018.7.2 (Mon.)

夏休みの予定が立たない。土日についてはきっちり計画を練ってあるけど、平日がまるで見えない。困った。


2018.7.1 (Sun.)

どうも最近は日記のやる気が出なくて困る。作業をまったくやっていないわけではないのだが、進みが悪い。
確かにここんところ旅行(=写真の整理)だったりテストだったり夏風邪だったりW杯だったりで波乱万丈な毎日だが、
なんともネガティヴ気味な気配があるのが困る。なんかこう、パーッといきたいものだが。パーッと。


diary 2018.6.

diary 2018

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