diary 2012.12.

diary 2013.1.


2012.12.31 (Mon.)

年末年始のテレビは対決してばっかりだな! コタツに入ってぼーっとテレビを見ているのだが、とにかく対決、対決。
あるいは、できる/できないのチャレンジか。とにかく、アスリートやエキスパートを呼んで、そのパターンばっかり。
ふだんの僕はほとんどテレビを見ない生活をしているのだが、こうして実家でどっぷりテレビ漬けになっていると、
どうも昨今のテレビの企画力は大幅に落ちているんじゃないか、と思わずにはいられないほどのワンパターンぶりなのだ。
しょうがないので、親が録画しておいた旅番組やらドキュメンタリーやらを見て過ごす。それが一番いいのだ。
大晦日だからって紅白歌合戦なんか見たくないし、『笑ってはいけない○○』なんかを見るほどバカじゃないし。
まあそんな具合に、非常に退屈な年末年始を過ごしている。潤平のテザリングを借りて日記書いてばっかりだ。

AC長野パルセイロが薩川監督と契約を更新しなかった、というニュースを知ったのは情けないことに最近になってからで、
どーすんだオイ!と思っていたら、なんと徳島でセットプレー一辺倒(→2011.7.16)で4位になった美濃部が新監督とな。
まあ薩川は柏から出向していたしS級ライセンス取得に専念するのかな、と思ったら、FC琉球の新監督に就任ですと。
長野のフロントはいったい何をやっているのか、もう、呆れてワケがわからなくて何も言えない。この迷走ぶりはひどすぎる。
信州ダービーを再び見られる日が来るのか、非常に不安になってきた。いや、もう、ホントに呆れて困った。


2012.12.30 (Sun.)

実家に帰っていちばんびっくりしたのは、かつてのマツシマ家が義富屋(岐阜屋)だった頃の絵が見つかっていたこと。

まさかこんな資料が見つかるとは!という驚きもさることながら、まさかこんな大店だったとは!という驚きもかなりのものだ。
「なんで今は没落しちまったんだ? 仙吉か! 最後の仙吉が植木鉢並べたりランチュウ飼ったりしとったからか!」
思わず取り乱してしまったよ。いやしかし、これが先祖のやっとったこととは到底思えん。なんじゃこりゃ!?


2012.12.29 (Sat.)

唐突だが、竹島に上陸してやることにしたのだ。竹島がわが日本固有の領土であることを主張すべく、上陸するのだ!

……そう、愛知県蒲郡市の竹島に。三河湾にそういう名前の島があるの。で、橋が架かっていて簡単に行けるの。
島根県の方の竹島は、そりゃもう日本固有の領土なんですけどね、今回は上陸しません。いつか上陸できるといいね。
(韓国が何を言おうと、軍事力で日本の一般市民を殺害して侵攻した以上、正当性は認められないと僕は考える。)

それはともかく、本日は帰省の旅行の最終日。名古屋を出た後は愛知県の市役所めぐりをしながら東へ進み、
蒲郡の竹島に上陸し、ちょっと東にはみ出してDOCOMOMO物件を見学し、飯田線で飯田まで帰るというプランである。
まず最初に訪れるのは、半田市役所。知多半島の中心都市である半田市へ行くには、大府から武豊線に乗るのだ。
武豊線はその名のとおり、武豊町の武豊駅が終点。半田駅はその2駅手前にある。まあ、終点まで行っちゃいましょうよ。
というわけで、やっぱり空が暗いうちに名古屋駅を出発。空が十分に明るくなったのは、武豊線の往路なのであった。
武豊線は意外とメジャーなのか、快速は走るわ車両は4両だわ、ローカルな感触がほとんどなかった。朝は本数もあるし。

終点の武豊駅に到着すると、まずお馴染みの最果て光景を味わう。そして改札を抜けて駅舎を眺める。
さらに駅の手前にある銅像を眺める。これは「高橋煕君之像」という。この人、武豊駅の駅員だった人だ。
1953年、台風で線路が流されてしまったことを発煙筒で走行中の列車に知らせて乗員と乗客の命を救ったのだが、
残念ながら高橋さん本人はこの台風で亡くなってしまった。それで彼の功績を讃えるために銅像が建てられたのだ。
来たからには、しっかりとその場所にあったドラマを知っておく。事実を自分の中に刻み込んでおく。

  
L: 武豊線の最果て。まだ朝早いのがよくわかるぜ。  C: 武豊駅。武豊線は名鉄と競合しており、劣勢とのこと。
R: 高橋煕君之像。こういうドラマをきちんと知っておきたいと思うのだ。いちおう合掌しておきました。

乗ってきた列車でそのまま2駅引き返し、半田駅で降りる。半田市役所は半田駅からわりと近くにあるのだが、
まず駅から東へと延びる愛知県道112号線の広さに圧倒される。武豊線のスケール感に慣れていたので、ひどく驚いた。
半田は醸造業が非常に有名な歴史のある街で、知多半島という立地もあって港湾もよく発達した。
重工業も盛んで、そのために第二次大戦では空襲を受けることになった。この幅の広い道路はその影響だろうか。
駅から市役所へ向かっていくと、その半田の歴史をまさにそのまま体感することができるのが面白い。
県道112号の広さに負けない勢いでそびえ立つのが、ミツカンの本社だ。僕の地元は愛知に近いこともあって、
中埜酢店の製品に接する機会が多かった。やがて中埜酢店は家紋からつくった商標のミツカン(三ッ環)を社名にして、
英語の表記も「mizkan」なんてオシャレなものに変えちゃって、すっかりお馴染みの大手食品メーカーになっている。
道を挟んでミツカン本社の北側、半田運河沿いには、今も酒・醤油・味噌・酢に関連する施設が並んでいる。
これは半田運河が江戸時代、江戸に向けて半田産の酒や酢などを運び出すためにつくられたことによるものだ。

 そびえ立つミツカン本社を半田運河側から振り返って眺める。うーん、大企業。

半田運河を渡ってすぐのところに半田市役所はある。朝早いせいで、かなりの逆光なのが残念だが、しょうがない。
半田市役所は1960年の竣工。かなりモダンな感触のする庁舎建築で、それだけ半田の文化度の高さがうかがえる。
しかしこの庁舎、耐震性に問題ありということで建て替えが決定。2010年にプロポーザルを開催しており、
安井建築設計事務所の案に決まった。でもこの計画が進んだことで、現在のモダンな庁舎の設計者がわからない。
やはりネットでの情報収集は記録の上書きに弱くて限界があるのだ。きちんと調べればわかるんだろうけどね。

  
L: 交差点越しに眺める半田市役所。  C: 正面より撮影。1960年竣工にしてはかなりオシャレ。どこが設計したのかな。
R: 正面に貼り付いている半田市役所の文字がまたモダン。やっぱりこの街の文化度の高さを感じさせるぜ。

取り壊される前に今の半田市役所を見ることができてよかったと思う。いかにも1960年らしい規模ながら、
細部を見るとモダンなこだわりが多く施されており興味深い。まずこの茶色主体の色づかいからして凝っている。
こういう庁舎が消えていくのは、耐震強度の面からしょうがないとはいえ、非常に残念なことである。
新たな半田市役所のイメージ図を見るに、黒っぽいおとなしめな色づかいだがガラス面積の多い現代風でいくようだ。
完成するのは何年も先になるだろうけど、半田市街地の活性化につながる庁舎になるといいですな。

  
L: 北東側から眺めたところ。  C: 敷地の内側から。壁面が屏風状になっているのが凝っていてかっこいい。
R: 南側には増築された新しい建物がくっついている。が、新庁舎建設にあたってこちらの建物も壊される模様。

残った時間で半田市内をぐるぐる歩きまわってみる。まずはやっぱり半田運河沿いの木造建築群である。
半田市としては「蔵のまちエリア」ということでまとめているようだが、「まち」というにはやや数が足りない。
とはいえ現役の工場として機能しているエリアなので、その生きている感じが味わえるのはすばらしい。
実際に歩いてみると、年末の早朝というタイミングで訪れたことが実に惜しく思える。

  
L: 逆光がキツくて申し訳ないけど、キッコウトミの味噌工場。現役ならではの迫力をいずれしっかり味わいたい。
C: 半田市観光協会は小栗家住宅(旧萬三商店事務所)内にあるのだ。明治初期の築で、登録有形文化財。
R: 半田運河沿いの木造建築群は現役ならではの迫力がある。こちらは、けっこう傷んでいるけど迫力のある土蔵。

まだまだ時間に余裕があるので、武豊線の西側まで出てみることにする。ターゲットは、旧中埜家住宅だ。
当初は半田の街がこんなに魅力的とは思っておらず、市役所周辺だけで済ませようと考えていたので、地図がない。
しょうがないので駅に着いたときに見た地図の記憶を頼りに、街の匂いを嗅ぎながら旧中埜家住宅を目指す。
自分でもものすごくいい加減だなあと思うのだが、それでもちゃんと着いちゃうからわれながらすごいもんだ。
旧中埜家住宅は現在、紅茶専門の喫茶店「T's CAFE」として営業している。なるほど、これは確かにいい雰囲気。
やっぱりこれはあらためてもう一度、きちんとした時間に半田の街をじっくり堪能しなければいかん!と痛感。

  
L: 「T's CAFE」として営業している旧中埜家住宅。重要文化財で紅茶をいただくとは贅沢だなあ。ぜひ体験したい。
C: 別の角度から撮影。旧中埜家住宅はこの一角だけ周囲からちょっと浮いている。まあ、それだけ見事な雰囲気なのだ。
R: 正面から撮影。1911(明治44)年に中埜半六の別邸として建てられた。設計は鈴木禎次。

そのまま名鉄の知多半田駅前に出る。なるほど、JRの半田駅と比べると周辺が少し賑やかだ。
様子を確かめると、そこからまっすぐ東へ歩いて半田駅まで戻る。青春18きっぷをかざして改札を抜けたら、
ホームの上はえらいことになっていた。とにかく人でいっぱいなのである。もともと年末で乗客が多いところに、
名鉄で事故があったことで、その利用客がこっちに流れてきているのだ。誇張なしで、ホームから人があふれかけている。
やってきた列車にどうにか無事に乗り込むと、大府まで戻る。半田はぜひ、またいつかリヴェンジしたい街だ。

さっきはスルーした大府駅で今度は下車。改札を抜けると大府市役所を目指して歩いていく。
ぶっちゃけ、大府市にはこれといった名所がない。でも工業や農業が盛んであり、スポーツ選手も多く輩出している。
最近ではなんといっても、国民栄誉賞の女子レスリング・吉田沙保里が本拠地としていることでちょっと話題になった。
大府市役所は駅からわりと近くにあって、いかにもな平成オフィス庁舎建築なので非常にわかりやすい。
やっぱり逆光が強烈だったが、根性で撮影。冬場の朝に建物を撮影するのは本当に難しくて面倒くさいぜ。

  
L: 大府市役所。旧庁舎は現在の駐車場の位置にあったとのこと。同じ敷地で交互に移る式年遷宮的なパターンか。
C: 北側はこんな感じでオープンスペースが整備されている。アトリウムも特徴的だ。設計は日建設計で2000年竣工。
R: 反対側は見事にオフィスである。大府市役所は平成オフィス庁舎らしさの塊のような建築だと思うわ。

 
L: 東側にある公園の手前から眺めたところ。  R: こちらは駐車場を挟んだ向かいにある商工会議所。

さっさと駅まで戻ると、お次は刈谷市に移動。大学院時代に刈谷出身の後輩がいたので、なんとなく親近感がある。
彼の話によると、刈谷はとにかくトヨタの影響が強い工業都市。自動車交通に適するように道路がやたら広いとのこと。
サッカーで社会学な僕の観点からすれば、刈谷といえばデンソー(日本電装)を母体としていたFC刈谷だ。
FC刈谷はなんといっても、「赤ダスキ」と呼ばれる赤い斜めのラインが入ったユニフォームで知られる。
そんな個性的なチームがJFLから降格してしまって財政難にあえいでいるのは残念である(現在は東海リーグ1部)。
閑話休題、さっきの大府市までが旧尾張国で、境川を渡って刈谷市から東が旧三河国。
僕はあまりその違いを意識できないのだが、会社勤めをしていたときに蒲郡出身の先輩がいて、
「尾張と三河はまったく別ですよ」とおっしゃっていたので、一見さんにはわからない何かがあるのだろう。
表面上はどっちもトヨタを支える工業地帯なんだけどな。というか、トヨタの影響力がすごいのか。

 
L: 刈谷駅南口のペデストリアンデッキから駅周辺を眺める。工業都市らしく、力技での豪快な都市開発って印象。
R: ペデストリアンデッキは駅前の商業施設とつながっており、そこから刈谷駅を振り返ったところ。JRと名鉄が交差する。

刈谷駅から刈谷市役所までは少し距離がある。愛知県道48号をトボトボと西へ歩いていったのだが、
まあ言われてみれば確かに、刈谷の市街地は妙に駐車場が多くて、なんだかスカスカしている印象がある。
土地利用に余裕があると言えば聞こえはいいが、駅前の中心部でも、人ではなく車が基準のスケール感である。
やがていかにも最近整備されましたという感じの道路に出くわす。それをちょっと北へ入ると、巨大な庁舎建築が登場。
トヨタを支える工業都市・刈谷にふさわしい威容である。設計は日建設計、2010年の竣工でかなり新しい。

  
L: 刈谷市役所。今どきの大規模庁舎建築の典型例という印象。なんだかいかにも日建らしい手堅さを感じる。
C: 角度を変えて撮影。真ん中のアトリウムには、なんだかオシャレな感じのカラフルな椅子が置かれていたよ。
R: 反対側の北側から眺めたところ。手前の高架は名鉄三河線。周囲は駐車場が多くて、大きいけど撮影しやすかった。

 東から見た側面。ふたつのオフィスをガラスでつなぐ。手堅いなあ。

せっかくなので、線路の北側に抜けて駅まで戻ることにする。途中のアピタはやはり車優先な感じで、
歩道を歩いているつもりが車道に入っていたようで、少々焦って敷地を抜ける。なんだか申し訳ない。
派手に再開発されていた南口とは違い、北口には昔ながらの飲み屋など、繁華街の匂いが少し残っていた。
にしてもやはり道幅が広い。そこを抜けると階段があって、こちらもペデストリアンデッキとなっていた。
刈谷駅北口のデッキはけっこう派手にあちこちをつないでいて、一瞬、方角の感覚がなくなってしまった。

さて今日はひたすら、東海道線沿いに市役所をつぶしていくのだ。刈谷の東は安城市。Wikipediaの記事によると、
農業に力を入れたことで「日本(の)デンマーク」と呼ばれた過去があるそうだ。でも今はやはり、自動車工業の街。
駅の改札を抜けて南側に出ると、そこはなんでもない地方都市の駅にしては大きめのペデストリアンデッキ。
面白いのは、「ここは愛知県条例にもとづく暴走族集合禁止場所です」という看板があったこと。そうなのか。

 安城駅のペデストリアンデッキ。暴走族が出没するのか。

安祥城址もきれいに残っていないようだし、市街地で特に見てみたいところもなかったので、すんなり市役所へ。
愛知県はトヨタを中心に工業が盛んで財政的に豊かな自治体が多いのはいいんだけど、なんとなくその分だけ、
街としての見どころのある都市が少ないように思う。観光資源が県庁所在地の名古屋に集中している印象で、
それ以外の街の持っているものがイマイチどうも見えてこない。半田は面白かったし、犬山(→2009.10.13)もあるのに、
なんだかもったいない。これは手堅い日常生活を送る愛知県人の意識によるものなのか。興味深いところだ。
ちなみに安城市は『ごんぎつね』の作者・新美南吉が学生生活を送った街とのことで、それを意識したPRがなされている。
南吉の出身地である半田市と、そこそこに熾烈なPR合戦になっているようだ。さんざん泣かされたなあ、『ごんぎつね』。

駅から南東へと歩いていく。安城では主要な道路を矩形にきっちり引き直したようで、特に駅前は雰囲気が新しい。
街のスケール感は特別大きいとは思わないが、そのわりには交通量がしっかり多い。やはりここも車社会のようだ。
やがて文化センターの先にさりげなく安城市役所が登場。北側に茶色い北庁舎、その南に3階建ての本庁舎。

  
L: 安城市役所。左が本庁舎で右が北庁舎。  C: 本庁舎は1966年竣工。いかにもだ。  R: 角度をちょっと変えてもう一丁。

安城市役所は1966年の竣工とのこと。幅があってサイズ自体はなかなかだが、3階建てなのとコンクリートの使い方とが、
いかにも1960年代の庁舎建築らしい。隣の北庁舎もいかにも1980年代風。実にわかりやすい例である。

  
L: 裏側はこんな感じ。手前にあるのは西庁舎。  C: 北庁舎は1985年竣工。  R: これは北庁舎を北側から眺めたところ。

撮影を終えると、市役所周辺を気ままに歩きまわる。市役所の隣にあるのは安城市民会館だ。けっこう規模が大きい。
市役所と市民会館の間を抜けると、安城公園。小規模ながらしっかりとしたオリの動物園があって、鳥やら鹿やらがいる。
そこから南に出ると、安城神社。地域を代表するような名称だし、市役所のすぐ近くにあるので、経緯が非常に気になる。
それで後で調べてみたのだが、立地のわりには歴史のない神社だった。創建されたのは、昭和になってからのこと。
戦争で亡くなった人たちを祀る神社で、現在地には戦時中の1942年に移った。なるほど、そういう時代だったわけだ。

  
L: 安城市民会館。サルビアホールと会議棟からなるみたい。  C: 市役所隣の安城公園にはミニ動物園がある。
R: 安城神社。1938年に別の神社の境内に建てられた招魂社がその起源。戦時中に一等地に移して今に至るわけだ。

さて、安城神社では散歩中の犬の落とし物に困っているようで、「ワンコのウンコは持ち帰ろう!」という看板があった。
そしたら案の定というかなんというか、似ているカタカナを書き換えてしまおうといういたずらが施されているのを発見。
そりゃそうだよなあ、やってみたくなるよなあ、と妙に共感してしまったのであった。ひとりウンウンうなずいてしまったよ。
結局、僕の中ではこれがいちばん、安城で印象に残ったものだったな。中二病な性格で申し訳ないねえ。

 問題の物件。まあ、その気持ちはよくわかる。

安城駅を出た列車は、岡崎駅の手前から急に南に針路を変えて、三河湾へと近づいていく。
不思議なことに、安城までは快晴だったのに、列車の行く先は雲に覆われて暗くなっている。そこへ突っ込んでいく。
まるでくっきりと境界線を引いたかのように曇りの世界へと切り替わってしまった。蒲郡の街はそのただ中にあった。

 蒲郡駅。こちらは名鉄の南口。海の街らしく「ニッポン・チャレンジ」のヨットがある。

今さっき、愛知県は名古屋以外の観光資源が見えてこねえ、なんてことを書いたばっかりなのだが、
蒲郡は温泉のあるマリンリゾートとして、はっきりと観光を武器にしている街である。競艇も有名だ。
特に近年では一大リゾート地帯として開発された「ラグーナ蒲郡」が大きな存在感を見せている。
ちなみに「蒲郡」という地名は、1878(明治11)年に蒲形村と西之郡村が合併した際に1字ずつ取って生まれた。

蒲郡駅は北がJR、南が名鉄となっており、建物としては連続している。観光案内所は南口にある。
まずはそこでレンタサイクルを借りる。レンタサイクルは常陸太田以来で軽くトラウマなのだが(→2012.12.16)、
それを克服しないことには旅を楽しむことなどできないのだ。とにかく気をつけて乗ろうと思う。
手続きを終えると地図をもらって北口へ出る。そこからそこそこ西へといったところに市役所があるのだ。
蒲郡の南側は観光に特化したエリアとなっているが、対照的に北側は地元民の生活感が強い印象である。
ごくふつうの地方都市らしさが漂っている。なんというか、非常に役割分担がはっきりしている土地だと思う。

まっすぐ西へ行ったところで蒲郡市役所が見えてきた。データによれば石本喜久治の設計で、1961年に竣工とのこと。
しかし県道に面している高層棟(新館)はどう見ても1980年代以降のテイストである。調べてみたところ、
蒲郡市のホームページで市報のほぼすべてのバックナンバーが閲覧できて(大変すばらしい! ほかの自治体もやって!)、
1980年の竣工と判明。でも残念ながら設計者まではわからず。まあ竣工年がわかっただけでもヨシとしましょう。

  
L: 東隣の旭公園越しに眺める蒲郡市役所。右が1961年竣工の本館、左が1980年竣工の新館。
C: エントランスはこんな感じ。あくまで本館が正面玄関のようだ。  R: 反対側から眺めた蒲郡市役所。

さて市役所を撮影しようとして周辺をウロウロしていたら、もっとずっと面白い建物に遭遇してしまった。
それが、これである。年末で休館日なのをいいことに、あらゆる角度から市役所より熱心に撮影してしまったよ。

 蒲郡市民体育センター(蒲郡市民体育館)。これは大胆な建築だ。

調べてみたところ、これは蒲郡市民体育センターの体育館部分。もともとは蒲郡市民体育館として建てられた。
似たようなコンクリートでバリバリ攻める体育館建築としては、丹下健三の国立代々木競技場(1964年竣工)や、
佐賀市にある坂倉準三の市村記念体育館(1963年竣工 →2011.8.7)などが思い浮かぶところだ。
蒲郡市民体育センターはそれらと比べるとやや遅い1968年の竣工で、設計したのはなんと、石本建築事務所。
これだけ大胆な造形を組織事務所がやってみせたことが、正直かなり意外である。これは僕の勝手な想像なのだが、
蒲郡市庁舎の実績がある石本が設計を依頼され、当時の流行だったコンクリ大胆造形体育館を建ててみせた気がする。
落成記念行事にはフランク永井・倍賞千恵子・森進一が来たそうで、竣工当時はかなり珍しがられた建物だったという。
観光都市らしいセンスで見事に目玉となるハコモノをつくりあげた、蒲郡市民体育センターはそんな存在だったのだろう。

もう少し詳しく当時の背景を押さえよう。僕は修士論文で戦後の公共施設建設を調べたが(対象は東京都府中市)、
わかったのは、公共施設には建設される順番がある、ということだ。まず学校や市役所が鉄筋コンクリート化される。
次いで市民会館や公会堂などホール施設が建てられる。これは当時、文化施設の建設がひとつのステイタスだったから。
(なお、革新首長は市庁舎と市民会館をセットで建て、間にオープンスペースをつくる傾向があったことも指摘しておく。)
その次に運動施設が来る。さらに、美術館や博物館などがつくられていく。だいたいそういう順番で施設ができていく。
時間経過とともに、施設が分散していく特徴もある。最初は、自治体の中央に大きめのホールや運動施設がつくられる。
しかし高度経済成長が進むにつれ、周辺の各地区にもやや小規模なホール(公民館)や運動施設が建設されていく。
そんな公共施設の階層化・分散化があるのだが、あくまで実用性が重視される周辺地区の公民館や体育館とは違い、
中央のホールや体育館には街の誇りをかけた記念性があった。蒲郡市民体育センターからはその心意気が看て取れる。
(参考までに、1961年竣工で結婚式も行われたという鳴門市民会館の事例を紹介しておく(→2011.7.16)。)

もうひとつ、建築史的な面から見ると、大規模なホール・体育館の誕生と建物の鉄筋コンクリート化は軌を一にしている。
鉄筋コンクリート構造の発達により、建物の真ん中に柱のない大規模な内部空間をつくることができるようになったのだ。
内部では巨大な空洞を、外面では大胆な造形を。1960年代の建築にはその両者を実現できる喜びがあふれている。
これが高度経済成長を経た文化施設への需要と結びつき、モダニズムから踏み出すポストモダニズムの種を蒔きながら、
日本全国に広がる大きなうねりとなっていったのである。それは今からすれば、非常に幸福な時代であったと言えるだろう。
ご存知のとおり、当時は無敵と思われた素材だったコンクリートも劣化が激しく、傑作がどんどん取り壊されている状況だ。
全国的には無名かもしれないが、1960年代後半に組織事務所によって地方都市にこれだけの体育館が建てられた、
この事実は当時の日本の社会状況を知るうえで、きわめて貴重な証拠であるはずだ。この建物は絶対に残してほしい。

  
L: 階段を上って2階レヴェルから眺める。  C: 正面から眺める。中から見るとガラスが光を通して凄いみたい。
R: テニスコート側から眺める。体育館建築には体育館建築特有の歴史があるのだ。一度きちんと研究しなきゃなあ。

機会があればぜひ中に入って、あらためてこの体育館のこだわりを実感してみたいものだ。
それにしても、大学院時代に納得いかないながらも(酒を飲んで無理やり)書いた修士論文が、
ここでこんな形で役に立つとは思わなかったぜ。どんな研究であれ、生かすも殺すも自分しだいなんだなあ。

市役所の撮影を終え、体育館もしっかり堪能したので、今度は線路の南側を一気に攻めていく。
やはりレンタサイクルは便利だ。蒲郡駅南口からのリゾート地帯は、けっこう広々とした開放的な空間になっている。
そこを自転車で走り抜ける快感はたまらないものだ。欲を言えば青空の下がよかったのだが、まあしょうがない。

 なんだかオシャレな「生命の海科学館」。高松伸の設計で1998年竣工。

老朽化に苦労していそうな外観の竹島水族館を抜けると、そこから海辺へ出る道を進んでいく。
すぐ左手にあるのが、蒲郡クラシックホテルだ。かつては蒲郡ホテル、そして蒲郡プリンスホテルという名称だった。
久野節の設計で1934年に竣工した建物は、近代化産業遺産にも認定されているのだ。こりゃ見ないわけにはいかない。
不審者として怒られるんじゃないかとビクビクしながら坂を一気に上がってホテルの正面を目指す。めちゃくちゃ急な坂だ。
でも電動自転車が最大限に威力を発揮してくれて、どうにか上れる。そうして上りきったところにエントランスがある。
開業時期が時期だけに、和風の装いをたっぷり施した近代建築である。帝冠様式にはない品があるなあ、と思う。
中に入るとアール・デコ調の内装になっているらしいんだけど、さすがにそこまで探検する勇気はなかったです。

  
L: 庭園越しに眺める蒲郡クラシックホテル。  C: 正面にまわり込んで撮影。和風と近代の融合の典型例ですなあ。
R: これは後で竹島へ向かう竹島橋の途中から撮影したもの。竹島を望む絶好の位置に建っているのだ。

坂を下ってそのまま竹島方面へ。竹島へは竹島橋を渡って直接歩いて行けるのだが、まずはその前に周辺を歩きまわる。
まずは、海辺の文学記念館。かつてここには「常磐館」という旅館があり多くの作家に愛されたそうだが、
1980年に廃業し、その後取り壊される。そして跡地はグリーンパークという公園として整備された。
やがて1997年になり、別の場所にあった医院建築を街づくりの一環として移築してきて「海辺の文学記念館」としたのだ。
そして、竹島弁天こと八百富神社の遥拝所もある。竹島は島全体が八百富神社の境内となっているのだが、
橋が架かる前は参拝に行くのが現在ほど楽ではなかったため、対岸に遥拝所がつくられたというわけだ。
なるほど、参拝しようと遥拝所の前に立つと、そのまままっすぐ竹島を見ることができるようになっている。

  
L: 海辺の文学記念館。もともとは1910(明治43)年築の岡本医院診療所。裏側はがっつりと和風建築になっている。
C: 八百富神社遥拝所。建てられた詳しい時期は不明らしいが、聖地としての竹島の性格がよくわかる施設である。
R: 浜辺に出て竹島を眺める。これは確かに、弁才天を勧請したくなる雰囲気が漂っている島だ。

浜辺に出てあらためて竹島を望む。木々に包まれ、こんもりとした姿だ。宮崎県の青島(→2009.1.8)を思い出すが、
あちらよりも高さはあるが小規模だ。竹島は対岸と400mほどしか離れていないが、まったく異なる暖地性の植生だそうだ。
橋の途中から見比べてみるとわかるが、確かに対岸の蒲郡クラシックホテル周辺は落ち着いた緑に包まれているが、
竹島の木々はもっとたくましいというか、やや南国っぽい生命力を感じさせる。植物じたいが競争している印象である。

  
L: 浜辺ではカモメたちがいっぱい群れをなしていた。  C: 三河大島も見えるよ。  R: それでは竹島へ出発なのだ。

竹島橋を渡って竹島に上陸する。これでみんなに「オレは竹島に上陸してきたぜ!」とギャグを言えるぜ。
竹島の入口には大鳥居があり、それをくぐると地図の案内板がある。竹島は周囲が約680mとそれほど大きな島ではなく、
青島の「鬼の洗濯板」みたいな名物も特にないので、すぐに八百富神社へ参拝してしまうことにした。
標高は22mで、石段を地道に上って神社を目指す。さっき青島を思い出すと書いたが、石段を上って参拝する点は、
江ノ島の江島神社(→2010.11.27)を強く思い出す。しかしながら、やはり竹島は江ノ島ほどの規模ではないので、
それほど苦労することなく頂上に到着。そしていきなり目の前に現れる神社は、境内社の宇賀神社。かなりの圧迫感だ。
宇賀神社から振り返ると、これまたすぐに大黒神社。島の上で土地に余裕がないからか、摂末社の密度がやたら高い。
まっすぐに延びる参道の先には八百富神社の拝殿。日本七弁天のひとつに数えられているという神社だ。
江ノ島の江島神社のミニチュア版という印象だが、それはつまり、日本人の価値観がそうなっているってことだろう。

  
L: ついに竹島に上陸したのだ! 島の周囲にも出られるが、特に何もないので八百富神社の参道である石段を上ってみる。
C: 階段を上がりきると、いきなり宇賀神社が現れる。このせせこましい感じは江島神社としっかり共通しているわ。
R: 八百富神社の拝殿。八百富神社は藤原俊成が竹生島から勧請して1181(養和元)年に創建したとのこと。

欲を言えば蒲郡もそれまでの愛知県の各都市と同様に晴れていてほしかったのだが、まあしょうがない。
レンタサイクルをすっ飛ばして駅に戻る直前、なんとパラパラと空から小さい雨粒が降りてきた。
しっかりと降られなかっただけマシなのか、と気持ちを切り替えて、さらに東を目指す。

蒲郡の東にある都市といえば豊橋である。電車が豊橋止まりだったので、いったん改札を抜けて駅前に出る。
豊橋の街は以前訪れたとき(→2009.12.30)よりもさらに開発が進んだ印象である。ちょっと気になる。
でも今日はじっくりと豊橋の街を歩いている暇がないのだ。コンビニで食料を買い込むと、急いで駅に戻る。

豊橋の東にあるのは、二川駅。東海道で33番目の宿場・二川宿のあった場所で、今は豊橋市の一部だ。
ただし、二川宿は駅からは少し離れた位置にある。まあこの辺の詳しい事情は後で述べるとする。
なぜ二川駅で降りたのかというと、ここにDOCOMOMO物件・川合健二邸があるからだ。ぜひ見てやるのだ。

駅の北口を出ると、すぐに東海道にぶつかる。とりあえずは東海道を無視して、その先にある県道3号へ。
これをひたすら東へ歩いていく。二川伏見稲荷の前も通過して、ひたすら東へと進んでいくのだ。
やがて北裏の交差点に出るので、ここで左折。山へ向かって坂道を上っていく。辺りは見事に山沿いの住宅街だ。
非常に閑静で、とても超アヴァンギャルドな建築があるとは思えない一帯である。少し不安になりつつ歩く。
所在地はあらかじめ調べておいたのだが、地図でこの辺じゃないかって場所に到達しても、かっちりした住宅ばかり。
首を傾げつつ行き止まりまで進んで、そこから山の方へと坂を上っていってみると……木々に囲まれた空き地があった。
そして砂利道の先、木々の間から、怪しげなオブジェが顔を覗かせている。まさに、奇天烈な物体がそこにあった。

  
L: 住宅街のはずれにある空き地……と思ったら、何か茶色い物体がチラッと顔を覗かせている。
C: 近づいてみてびっくり、これがDOCOMOMO物件・川合健二邸なのだ。通称「ドラム缶の家」「鉄の家」だそうで。
R: 側面はこんな感じ。なんだか不時着した宇宙船みたいな雰囲気である。いい意味での秘密基地っぽさもある。

近づいてみたら、周りをコルゲートで包み、錆びきったハニカム構造付きの鉄板でフタをした物体が転がっている。
さすがに実物を目にして、しばらく言葉が出なかった。さっきまで閑静な住宅街を歩いていたことが信じられない。
この一角だけ、手塚治虫の『火の鳥』で描かれているような惑星に思える。目の前にあるものは、不時着した宇宙船か。
瞬間、僕の頭の中に浮かんだ言葉は、「普請道楽とはこういうことか」であった。厳密には正しい使い方ではないのだが、
この建築を目にして、そんな表現が真っ先に出てしまったのが事実なんだからしょうがない。自邸という究極の道楽。
川合健二邸にはその建築本体だけでなく、その周囲までもまるで別の世界へと変えてしまうような引力がある。
それを自分の生活空間で実現してしまう凄みと喜び。これこそ、「普請道楽」という言葉を捧げるにふさわしく思えた。

「川合健二」と言っても建築関係者ぐらいしかその名前がわからないだろうから、何をした人かざっと書いておく。
調べてみると彼は建築家ではなく、技術者であり科学者だったそうだ。菊正宗を退社後に冷凍機を研究するようになり、
1958年に丹下健三設計の旧東京都庁舎で設備設計者として世に出る。その後も丹下建築の設備を数多く担当した。
そして1966年、自給自足の生活をするためにつくったのがこの邸宅。当時の建築界にかなりの衝撃を与えたそうだ。
まあ確かに今どきならわからんでもないけど、50年近く前の1966年にこの住宅ってのは恐ろしい発想である。
建築屋さんには特に、基礎がないために当時の建築基準法の適用外だった点が衝撃的であるみたい。なるほど。

川合健二邸は今も現役の住宅なので、静かに外観を撮影させていただくに留めた。でも外から見てもなんとなく、
きっと中は快適なんだろうな、と想像がつく。きわめて機能的で、秘密基地や屋根裏みたいなワクワク感がありそうだ。
僕は建築で食べている人間ではない、ただの野次馬にすぎないので、それ以上の専門的なことは考えない。
ただ単純に、目にしたものの迫力をできるだけの純度で受け止めて面白がるだけである。これこそ普請道楽だな、と。

 
L: 川合健二邸の玄関側。  R: 敷地には自然に還りかけている車たちが。これがよけいにSF風味を加速している。

帰りはせっかくなので、二川宿跡に寄って駅まで戻ることにした。さっきも書いたが、二川宿は駅から少し離れている。
これは二川宿の特性とも関係がある。1888(明治21)年に東海道線が通った際、二川の地に駅はつくられなかった。
しかしその後、請願を受けて駅が建設されることになったが、二川宿の加宿である大岩町の近くにつくられたのだ。
もともとの二川村と大岩村は少し距離があったが、2つでひとつの宿場とされた。しかしそれだと負担が大きかったので、
東の二川村を西へ移し、西の大岩村を東へ移し、二川宿と加宿大岩町という形にして実際に一体化させたのだ。
明治に入って二川駅ができて以降、駅に近い大岩町が近代的な街割りへと変化していったのに対し、
大岩町を挟んだ旧二川宿は空間構造にほとんど変化がないまま現在まで来てしまったのだ。
そのおかげで旧本陣もしっかり残っており、豊橋市が二川宿本陣資料館として整備・運営している。

実際に二川宿のエリアに入ると、まずとにかくその道幅の狭さに驚かされる。かつての東海道そのままの道幅なのだ。
そのくせ交通量はそこそこあるので、写真撮影がめちゃくちゃ大変だった。車が来るたびに必死で端に寄るのだが、
それでも車はやっと通れるくらいの狭さ。現代との違いを実感できるのはいいが、あまりにも狭すぎるのである。

  
L: 二川宿の旧本陣。現在は豊橋市二川宿本陣資料館となっている。残念ながら年末モードでお休みなのであった。
C: 本陣資料館前には対向車をよける安全地帯が。資料館の奥には建物がいっぱいつくられており、かなり面白そう。
R: 資料館の向かいは旧旅籠。江嶋屋・巴屋などの屋号が表札のように紹介されている。道幅は本当に車1台分だ。

まあ正直、ここまで強烈にかつての東海道のスケール感を残しているとは思っていなかったので、ひどく驚いた。
木造の古い建物はそんな多く残っているわけではないが、旧本陣一帯がしっかり健在であるのは非常に大きい。
実際に空間を体験することで歴史を知ることができるというのは、これはかけがえのない価値を持つことだと思う。
そういう意味で、二川宿のこの道幅のスケール感、そして高札場跡の食い違い跡などは、「行けばわかる」わけで、
きわめて貴重で有意義な場所である。古い建物はなくても、ただ歩いているだけで面白くってたまらなかったよ。
訪れた時期が時期だけに仕方がなかったのだが、やはり本陣資料館の中を見学できなかったのは非常に残念だった。

  
L: 味噌・醤油の製造・販売をしているという西駒屋。二川にはもともと駒屋があって、東駒屋と西駒屋はその分家だって。
C: この辺が二川宿と加宿大岩町の境界らしい。食い違いだったのをカーヴに整備したのがわかる。左は高札場の跡。
R: 奥の二川宿は旧来のスケール感をしっかり残すが、手前の大岩町は現代のスケール感。おかげでかなりのボトルネック。

ここんとこ、日坂(→2012.12.24)に関(→2012.12.27)と、妙に東海道づいてしまっているのだが、
歴史を現実の空間として実際に体験できることの凄みを思い知らされている。二川宿もまた、見事なものだった。

 二川では家々にこのような暖簾を掲げており、旧来の宿場の雰囲気を伝えている。

今日も旅の楽しみを存分に味わうことのできた一日だった。旅を通して知識が自分の中に定着していく喜び。
その余韻に浸りながら豊橋駅まで戻ると、ホームで本を読みながら飯田線の列車の到着を待つ。
豊橋駅で発着する飯田線の本数はそれなりにあるのだが、愛知県止まりの列車が多く、長野県まで行くのはまばら。
2本ほどスルーしてから、上諏訪行きの列車に乗り込む。無事に座席を占領して、快適に読書に勤しむ。
まだ29日ということもあってか、車内はあまり混んでいなくて拍子抜けした。浜松市以北の乗客は1ケタだけ。

4時間近く揺られてようやく飯田駅に到着。でも列車はまだこの先、はるか上諏訪まで行くのだ。
飯田線ってのは全線乗ると大冒険だな、としみじみ思う。気を抜かずに仕事をするJRの皆さんも大変だ。
そんなことを考えながら実家まで歩いていくと、途中で慣れ親しんだ源長川公園が半分に削られていたのを見た。
もちろん家に着いての第一声は、「う、ウチの庭が! 半分に削られとる!」である。いやー、これは大ショックだったわ。


2012.12.28 (Fri.)

毎度おなじみ、無茶な旅行をしておりやす。津駅前の宿を出たのはまだ空が真っ暗な6時前。
1階がコンビニなので食料を買い込んでおき、津駅の自動券売機で切符を買う。JRと近鉄の券売機があるのだが、
JRの券売機で買うのは伊勢鉄道の切符。伊勢鉄道はもともと国鉄伊勢線だったのだが、第三セクター化したのだ。
切符は鈴鹿駅までのものを買う。本日最初の目的地は、鈴鹿市なのである。鈴鹿といえば鈴鹿サーキットだが、
それ以外にもけっこう観光資源は多い。そして市内をきわめて複雑に鉄道が走っているのが特徴である。
そのため、鈴鹿市には代表駅と呼べる存在がなかなかない。強いて言えば近鉄の白子ということになるのだろうが、
市全体を俯瞰すれば、あくまでそれは鈴鹿市の個性ある一部分にすぎない。鈴鹿は、いまいち核のない街なのだ。
もともと江戸時代には各藩の領地が入り乱れていた場所で、第二次世界大戦中に海軍工廠が開かれて、
広域合併して鈴鹿市が生まれたという経緯がある。その後、本田技研工業により自動車の街として有名になる。

鈴鹿駅で降りるのには理由がある。まず、鈴鹿市役所を訪れるため。そして、一宮めぐりをするため。
鈴鹿市役所は鈴鹿駅から近いのでいいのだが、神社の方はとっても遠い。でも鈴鹿駅が最寄で、歩くしかない。
朝まだ暗いうちに鈴鹿駅から歩いていって、神社に着く頃には明るくなっているだろう、というくらいの距離がある。
で、帰りに鈴鹿市役所の写真を撮影して津に戻るのだ。自分でも呆れてしまうほどにバカバカしいプランだが、
それがいちばん時間的なロスの少ない選択肢なのである。6時1分、真っ暗な空気の中を伊勢鉄道が動き出す。

油断すると寝てしまう子なので、さっきコンビニで買った朝食を食べて過ごす。景色が見えないのは、やはり切ない。
手早く栄養補給して脳みそにエネルギーを補充すると、寝ないように気を張る。30分もしないうちに鈴鹿駅に到着した。
駅はえらく高さのある高架で、明かりがついていても薄暗いコンクリートの階段をひたすら下りていく。
まだ空は暗くて、ロータリーで振り返っても駅の全容がつかめない。とりあえず、県道(伊勢街道)の方角へと歩きだす。
周辺は完全におとなしい住宅地で、目印になるものが何もない中を抜けていく。駅に戻る帰りには道に迷いそうだ。
野生の勘にまかせて大通りの匂いのする方へと歩いていく。途中からやけに背の高いビルが目につくようになる。
それが鈴鹿市役所であることはわかっているので、自信を持ってその建物の方向を目指して歩を進めていく。
すると、すぐに幅の広い道に出た。これが伊勢街道(三重県道8号~103号)だ。市役所の脇を抜け、さらに北上する。

 夜明け前の鈴鹿市役所。

延々と県道103号・伊勢街道を北へ行く。本当に、ただひたすらに歩いていく。しっかりと郊外社会になっており、
ロードサイド店舗やコンビニや運送会社や工場などが続くその脇を歩いていく。車の交通量はゆっくりと増えていく。
車たちは快適そうに走り抜けていくのだが、こっちはトボトボと地道に距離を積み上げていくのみ。少し虚しい。
しかも歩道は貧弱で、白線一本で仕切られた路肩は田んぼまで50cmあるかないかの幅となっている。
そして朝焼け。三重県はわりと、都市と都市の間には平野が広がり、一面の田んぼとなっている景色が多い。
東に広がる田んぼと空の境界線がくっきりと朱に染まり、さっきまで闇だった空間に紫の帯が広がる。
あまりに見事な朝焼けに、無理やり脳内にCASIOPEAの『ASAYAKE』を流してポジティヴな気分になろうとするものの、
朝焼けは天気が崩れる前触れという言い伝えを忘れることはできなくって、なんとも切ない心持ちになるのであった。

黙々と歩き続けること実に30分、一ノ宮町西の交差点でようやく右折する。しばらく進むと、神社の看板が立っている。
矢印に従って左を向けば、なるほど神社の参道らしく石灯籠が左右に建っていた。さすがは小規模とはいえ一宮だ。
住宅が両脇に並ぶ狭い路地の参道を進むと、パッと開けた場所に出る。鳥居に森が小さいながらも上品にたたずむ。
ここは、都波岐奈加等(つばきなかと)神社。伊勢国の一宮は2つあるのだが、そのうちの「小さい方の神社」である。

  
L: 都波岐奈加等神社への参道。住宅地の神社なのだが、そのわりには石灯籠が立派。さすがは一宮なのだ。
C: 路地の参道を抜けると、都波岐奈加等神社が現れる。規模は小さくても、空間的にはなかなか見事な演出だ。
R: 鳥居を抜けて境内を行く。一宮めぐりということで訪れる人は意外と多そうな雰囲気。実に小ぎれい。

都波岐奈加等神社はもともと、都波岐神社と奈加等神社という2つの神社だった。それを明治時代に合併して、
現在のような名称になったのだ。都波岐神社が伊勢国一宮とされていたが、織田信長の伊勢侵攻で被害を受けた。
そのせいか、今ではすっかり地元住民のための神社といった雰囲気である。でも一宮めぐりの参拝客がいるようで、
一宮であることをしっかりアピールする説明板があった。いくらなんでも朝早く来すぎたので閑散としているが、
昼間になればまた違った姿を見せるのではないかと思う。きれいにしてあるところに、そういう感触をおぼえる。

  
L: 正月の準備ということでか、茅の輪をくぐって拝殿へ。  C: 拝殿。コンクリ造なのは個人的には残念です。
R: 本殿を覗いてみる。やっぱり一宮の本殿は立派だわ、とあらためて思った(→2012.8.12)。猿田彦大神を祀る。

きちんと参拝できたのはよかったのだが、帰りのことを考えると正直、気が重い。またあれだけの距離を歩くのだ。
しかしへこたれているヒマなんぞないので、来た道をトボトボと戻ってまた地道に距離を稼いでいく。
そのうち困ったことに、ケガをしている左足が痛くなってくる。昨日の関宿でもさんざん長い距離を歩かされて、
回復しきらないうちに朝イチでまたたっぷり歩いているので、そりゃ痛くなるに決まっている。当然の帰結である。
腕時計を見ると、まだ7時半にもなっていない。今日一日のことを考えると、なかなかに絶望的な事態である。
でも歩くしかないのだ。痛いからといって無理な力がかからないように気をつけながら歩を進めるのであった。

やがて鈴鹿市役所に到着。ここまで来れば、鈴鹿駅まではもうあと少しだ。おかげで心理的に余裕ができて、
建物を見上げながらぐるっと敷地を一周して撮影する。鈴鹿市役所は背が高く、規模が大きくて撮影しづらいのだが、
伊勢街道を挟んだ構図ならフォトジェニックだ。きれいに撮れる角度が決まっている建物は、それはそれで気楽でいい。

  
L: 北側から撮影した鈴鹿市役所。こちらは裏側になる。  C: 鈴鹿市役所の北側を別の角度から。
R: エントランス部分。鈴鹿市役所は2006年の竣工。設計は毎度おなじみ石本建築事務所である。

  
L: 南西から見上げた鈴鹿市役所。エントランスからガラス張りのロビーに接続しているわけだ。
C: やっぱり鈴鹿市役所はこの角度から撮影するのがいちばんいいね。手前には鈴鹿市民会館がある。
R: とっても高架な鈴鹿駅。戻ってきて、なるほどこういう駅だったのか、と納得するのであった。

当初の懸念どおり、市役所を撮影してから鈴鹿駅に行こうとして軽く迷った。伊勢鉄道の高架は見えるのだが、
完全なる住宅地を突っ切ることになるので、どこから駅を目指して住宅地に入っていけばいいのかがわからない。
また、住宅地に入っていっても細い道をくねくね行くので、目標の位置から意外と流されてしまっていた。
おかげで思っていたよりもややギリギリのタイミングでの到着となってしまった。ちなみに改札で買った切符は硬券で、
久しぶりの古きよき鉄道っぽい感触に少しほっこりしてしまった。あと、意外と乗客は多かった。

津に戻ってくると、次の列車まで1時間ほどの余裕があったので、軽く津駅周辺を散歩してみることにした。
さっき足が痛いって書いてたじゃないかコラ、とツッコミが入りそうだが、旅先ではじっとしていられない子なのだ。
というわけで、公共建築百選に選ばれている三重県立美術館まで行ってみた。ゆったりした上り坂を歩くこと10分、
入口に到着。でも中を見学しているヒマなどない。というか歩きたくない。建物が妙に長くて広そうなのだ。
ここからじゃぜんぜん全容がつかめないなあ、と思いつつテキトーにデジカメのシャッターを切って引き返す。

 入口から見た三重県立美術館。ここから右へずっと建物が延びているのだ。

左足が健在であれば、ここから三重県庁まで軽く歩いちゃうところなのだが、さすがにそれは無理なのだ。
まあ5年前に訪れているし(→2007.2.10)、県庁だけ行って津市役所を再訪しないのは片手落ちな気分なので、
これはまた運がよければってことにしておくのだ。そうして楽しみをとっておくことにする。
おとなしく駅まで戻って地下通路を抜けて東口に出ると、コインロッカーから荷物を出して準備完了。
今度は近鉄の切符を買って改札を抜ける。ホームで列車を待つが、近鉄はやる気十分で特急ばっかり。
よくまあこんなにポンポンと特急が走るなあ、乗る客いるなあ、と呆れるのであった。

津を出て近鉄で向かう次の目的地は、四日市である。四日市は今年4月に訪れたばかりだ(→2012.4.1)。
その際にはレンタサイクルで旧港地区を爆走したのだが、今回は四日市じたいに用があるわけではない。
四日市から出発するバスに乗って、もうひとつの伊勢国一宮に行こうというわけなのである。
ところが実は、伊勢国一宮の「大きい方」である椿大神社(つばきおおかみやしろ)も、鈴鹿市にあるのだ。
しかしこの神社、鈴鹿山脈の本当に麓に位置していて、公共交通機関でアクセスする手段が実に乏しい。
関西本線の加佐登駅経由のバスが出ているようなのだが、その加佐登まで行くのが面倒くせえよ!ということで、
わざわざ四日市まで出てからバスでアクセスすることにしたわけだ。そっちの方がはるかに楽ちんに思えたのだ。

四日市は三重県北部の中心都市だけあって、近鉄四日市駅周辺のバスターミナルはなんと、東・西・南の3ヶ所もある。
このうち、椿大神社行きのバスが出ているのは南のバスターミナル。駅ビルの前には詳しい案内板があるので、
特に迷うこともなく横断歩道を渡ってすぐに目的のバス停へ。僕のほかにはおばあちゃんと、女性2人組が2セット。
やがてJR四日市駅方面からバスがやってきて、僕らを乗せてそのまま南へと走りだす。ここから50分ほどの旅である。
途中で別のおばあちゃんが乗ったり降りたりしながら、バスは天白川という川に沿って坂を上っていく。
道幅が狭いところをグイグイ行くので、けっこうしっかりバス酔いしてしまった。どうしょうもないので根性で耐える。

泣きっ面に蜂、ということなのか、窓ガラスに斜めの線が引かれだした。ついに雨が降り出してしまったのだ。
天気予報よりもずっと早いタイミングだ。椿大神社を去る頃に降ると予想していた僕には、これは厳しい仕打ちである。
そのうちバスは高花平という団地を抜ける。そこだけぽっかりと住宅地になっているのがいかにもニュータウンっぽい。
さらに東名阪自動車道を越えた辺りから、やたらと茶畑が目につくようになる。ここは静岡県か、と錯覚するほどだ。

茶畑地帯から坂を上がっていくと、砂利敷きで規模の大きい駐車場が木々の間にいくつも姿を見せるようになる。
実は正直、僕は椿大神社のことを「街から離れたほとんど山の中のさびれかけた神社」だと思い込んでいたのだが、
この駐車場を見て初めて、椿大神社の偉大さを実感したのであった。さすがは猿田彦大神を祀る神社の総本社なのだ。
猿田彦といえば同じ伊勢の猿田彦神社が思い浮かぶのだが(→2012.3.31)、規模からしてもう、格が違う。
バスはさらに坂を上がる。道沿いにかなり立派な施設があり、「椿会館」とある。神社が持っているものと思われる。
四日市から椿大神社まで往復するバスはきっかり2時間に1本で、この2時間を山の中でどうやって暇をつぶして過ごすか、
僕はそればっかり心配していたのだが、どうやらそれは杞憂だったようだ。思わず車内ですいませんと謝っちゃったよ。

バスを降りると、折りたたみ傘を開いて参道へ。入口のところに車の交通安全を祈祷する獅子堂があった。
猿田彦神社も交通安全にご利益があったが、ここには専門の社殿があるのかと驚いた。雨だけどけっこう忙しそうだった。
その脇に鳥居があり、本格的に境内へと入っていく。山へ向かって非常にゆったりとした上り坂になっており、
参道の両脇には磐座や古墳やえびす&大黒像など、とてもパワースポット度合いの高いアイテムが揃っている。
また一本道ではなく、分岐してさまざまな社殿へ行けるようになっており、ちょっとした迷路っぽさもある。
広い境内のあちこちにチェックポイントが点在しているため、じっくりと神聖さを味わえる空間となっている。

  
L: 坂を上ると椿大神社。バス停はこのすぐ向かいにある。来るまでにけっこう乗り物酔いしてつらかったです。
C: 獅子堂(交通安全祈祷殿)。椿大神社に奉納された宝物の獅子頭から名づけられた。椿大神社は獅子舞発祥の地との説
も。
R: 参道を行く。境内は杉の林に包まれており、社殿などが点在している。実に聖地な雰囲気の強い神社だ。

とりあえず、参道をそのまままっすぐ進んで参拝することにした。木々に囲まれた参道を抜けて最後の鳥居をくぐると、
そこは少し開けた場所となっている。薄暗い木陰から出て、明るい光を十分に浴びた拝殿と直面するというわけだ。
しかも上り坂が維持されており、拝殿は少し仰角があるので、参拝者はそれだけ光を強く感じることになる。
じっくり続く参道は、薄暗い中で訥々と歴史を語りかける。そして終点で光とともに主役が現れるのだ。実に巧みだ。
惜しむらくは、雨が降っていたこと。濡れた石と屋根が光を反射してしまい、拝殿それじたいが少し見づらい。
まあそれはそれで、いつもより光があふれて劇的な光景になっていた……ともとれるので、そう納得しておこう。

  
L: 拝殿の手前の参道は、杉が勢いよく生い茂って暗くなっている。この薄暗い中を抜けると開けた拝殿に出るのだ。
C: 椿大神社・拝殿。地面の岩と拝殿の屋根が光を反射して見づらかったのが非常に残念。しかし空間的な工夫は群を抜いている。
R: 拝殿の脇には奉納された相撲の鉄砲柱がある。境内に土俵があるのは見たことあるけど、こういう事例は初めてで驚いた。

さっきも書いたが、椿大神社は鈴鹿山脈の麓にあり、市街地からはけっこう離れた場所にある。
にもかかわらず、そしてこの雨にもかかわらず、参拝客はひっきりなしに現れる。そのことにとても驚いた。
客層で非常に目立っているのは女性陣だ。さっきのバスで終点まで乗っていたのは、僕と女性2人組2セット。
その2セットともいかにもパワースポット大好き、縁結び目的で来ましたという雰囲気を漂わせていた。
そんな女性のグループが何組もいる。カップルや熟年夫婦もいるけど、女性の比率がかなり高くなっている。
あともうひとつ、小さい子どもを連れた家族もいた。わざわざみんなで来るほどの場所なのね、と再認識。

参拝を終えるとのんびりゆったり、境内を散歩してみる。なんせ時間にはたっぷり余裕があるのだ。
まずはやはり、別宮である椿岸神社に行くのだ。こちらは猿田彦の妻・天之鈿女命を祀っている神社だ。
まあその点が縁結びに効能のあるパワースポットとされる所以なのであろう。素直にお参りお参り。
(ちなみに猿田彦神社の境内にも、彼女を祀る佐瑠女神社があった(→2012.3.31)。そういうもんなんだね。)

  
L: 椿大神社の拝殿への参道にある、椿岸神社への分岐点。絵馬がいっぱいで人気でございますね。
C: それとは別ルートで椿岸神社に行く場合、この鳥居をくぐる。  R: 椿岸神社の拝殿。やはり芸能にご利益あり。

あとは気ままにいろいろな社殿を見ていく。面白いのは、やはり松下幸之助社。
松下幸之助は椿大神社にかなりの財政的な貢献をしていたようで、わざわざ松下幸之助社がつくられているのだ。
近くには彼が寄進した茶室・鈴松庵もある。実際に見てみた松下幸之助社は、ちょっと地味で小さすぎると思う。
もうちょっと大きくつくってあげていいんじゃないですかね。これくらいの質素さがいいのかもしれないけどね。

  
L: 御船石座。ニニギ一行の船がここに繋がれたという伝承がある。小さいながらも雰囲気満点の磐座だ。
C: 行満堂神霊殿。猿田彦大神の末裔で修験道の開祖だという行満大明神を祀る。修験道だけにお寺風味である。
R: 松下幸之助社。「経営の神様」が本当に神様になっているわけですな。それにしても地味だなあ。

椿大神社の聖地としての雰囲気をしっかり味わうことができた。じっくり境内を歩いても余裕はたっぷりあるわけで、
坂を下って神社の近辺を探索してみることにする。すると、椿会館の辺りで面白いものを発見した。
伊藤園の自動販売機なのだが、見事にお茶ばっかり。お茶しかない自販機は日光東照宮以来だ(→2008.12.14)。
なんでこんなことになっているのかと思ったら、隣の自販機を見て納得した。こちらは「鈴鹿のお茶」を絶賛発売中。
さっきバスの中で茶畑の多さに驚いたけど、これがその答えというわけだ。この一帯は、伊勢茶の産地なのだ。
後で調べてみたら、実は三重県は全国第3位のお茶の産地(1位は言わずもがなの静岡で、2位は意外にも鹿児島)。
伊勢茶はブランドとしては有名ではないのだが、抹茶アイスクリームなどの加工用では圧倒的なシェアを占めている。

 お茶一色の伊藤園の自販機と、「鈴鹿のお茶」の自販機。徹底しているのだ。

坂道を軽く往復して、腹が減ったので椿会館へ。この施設はつまり、椿大神社の持っている結婚式場なのだ。
しかしながら式場や宿泊施設だけでなく、1階には食堂や土産売り場もある。参拝客にとってはとても便利な施設である。
当初はまさか椿大神社でメシが食えるなんて想像していなかったので、椿会館の存在は本当にうれしい。雨もしのげるし。
(椿大神社の目の前には喫茶店もあるし、土産物店や食事のできる店などが合計5軒ほどある。その程度だが。)

食堂には「名物とりめし」とあったので、迷わずそれをいただく。大盛で。入口で食券を買う古典的なスタイルである。
中は確かに食堂。長机のテーブルが並べられ、大勢の人が一堂に会してご飯をいただける場所となっている。
窓の外を見ると、心なしか雨脚がさっきよりも強まっているような気がする。こりゃ困ったな、そう思っていると、
大きめの急須ごとお茶が供された。あたたかいお茶をいただきながら、ぼんやりと考えごとをして過ごす。
注文したとりめし大盛はすぐにやってきた。箸を入れたら、意外と量がある。これは調子に乗りすぎたか、と少し後悔。
ところがいざ食べはじめると、これがグングン減っていく。旨いのである。味は一様なんだけど、飽きずに食える。

 名物・とりめし。何の変哲もない炊き込みご飯なのだが、たいへんおいしくいただいた。

あっという間に平らげると、再びお茶を飲んで過ごす。雨脚は確かに強まっているのだが、不思議とそれが気にならない。
いつもの僕なら旅行中、ちょっと太陽に雲がかかるだけでもムッとなるのだが、今日についてはなぜかそうならない。
ふと見ると、箸袋の裏には「食前感謝のことば」と「食後感謝のことば」なるものが印刷されていた。
「食前感謝のことば」が、「たなつもの百(もも)の木草もあまてらす 日の大神のめぐみえてこそ  頂きます」。
「食後感謝のことば」が、「朝よひに 物くふごとに豊受の 神のめぐみを思へ世の人  御馳走さま」。
……なるほど。つまりこれは、伊勢神宮の内宮と外宮に対応しているのだ(→2007.2.102012.3.31)。
内宮は天照大神を、外宮は豊受大神を祀っている。われわれが当然のようにエネルギーを得ている食事という行為と、
信仰というものを通してそれを解釈するやり方とが、僕の中で重なっていく。神道にしても、仏教にしても、
根本にあるのは「食わせてもらっている」ということへの感謝なのだ。そこが日本人の原点なのかもしれない。
そういえば、日本語では「生きる」という意味で「食べる」という言葉を使うことがよくある。
世界のほかの言語で、「食べる」という語をこのように使う例はあるんだろうか。ちょっと気になるところだ。
そんな具合に、ゆったりとお茶を飲みつつ、あちらこちらに気ままに思考を巡らせて過ごす。

やがて気がついた。……このお茶なのだ。あったかいこのお茶を飲んでいると、強制的に落ち着かされてしまうのである。
椿大神社周辺で栽培されたこの伊勢茶が効いて、雨と焦りで僕の心がささくれるのを防いでくれているのだ。
いつも1秒たりとも無駄にしたくない無茶な旅をしているけど、椿大神社での2時間をとてももったいなく思っていたけど、
こうしておいしいお茶を余裕たっぷりの心理状態でいただけるということが、かなり幸せなことに思えてきた。
お茶によってもたらされた落ち着いた心理状態だからこそ、箸袋の言葉の意味をより深く理解することができたのだ。
(実際にこの伊勢茶はかなりの主力かつ人気商品であるようで、土産物店では大々的にフィーチャーされていた。)

今日は残念なことに雨に祟られてしまったが、椿大神社でこれだけ優雅な時間を味わえるとは思っていなかったので、
非常にいい気分で帰りのバスに乗り込むことできた。もちろん、今度はきちんと酔い止めを飲んである。
雨の中、同じように50分ほどかけて四日市の都会へとバスは下っていく。行きとはまったく比べ物にならない、
穏やかな心持ちのままで近鉄四日市駅に到着。実は本来ならJRの四日市駅までバスに乗る予定で、
そこから桑名へ出るつもりだったのだ。行き忘れた六華苑へのリヴェンジ(→2012.4.1)をするつもりだったのだ。
でもこの雨の中、無理に訪れる気などない。きっとまたいつかチャンスはあるはずだ。楽しみを、とっておこう。

そう切り替えてしまえば、ここからの時間は、完全なる自由だ。何をするのも自由。何も気にすることはない。
なんとなく本が読みたくなったので本屋へ行き、目についた本を買い、各駅停車でのんびり名古屋を目指す。
電車の中では買った本を熟読。たまに窓の外に目をやり、雨に煙る見たことのない景色を味わう。
前回は関西本線で名古屋まで出たが、今度は近鉄。近鉄で名古屋へ行くのは初めてだ。それはつまり、
僕の知らない名古屋の一面を知ることができるってことなのだ。すべてがポジティヴな受け止め方へと変化する。
もともとは単に旨いお茶をたっぷり飲んだだけのことなのに、不思議なものだ。まあでも、それでいいと思う。

名古屋に着くと、前に生活創庫だったビックカメラでかなり小型のワイヤレスマウスを買った。
今夜はこれを使って、今回撮った写真をどんどん日記向けに編集してしまおうというわけである。
買い物を終えると、左足のこともあるし、すぐに本日の宿にチェックインしてしまうことにした。
16年前、さんざん闊歩した太閤口周辺をなぞるように歩いて宿へ。建物の平面が円形であるため、
部屋は必然的に扇形にならざるをえず、けっこう狭い。でもそれはそれで面白がれるから気にならない。

18時になって晩飯を食いに出る。毎度お馴染み、エスカで済ませることにする。
矢場とん名物の「わらじとんかつ」をいただいた。申し訳ないけど、それほどのお得感はないかな。
とはいえ旨いものをしっかり食えたので、上機嫌で宿に戻る。名古屋は相変わらず名古屋っぽさ全開でいいね。

 
L: 太閤口より見上げる名古屋駅のツインタワー。16年前とすっかり姿を変えているけど、名古屋っぽさは相変わらずだ。
R: 矢場とん名物・わらじとんかつ。お得感がイマイチなのは、ご飯のおかわりに料金がかかってしまうからか。

写真の編集作業をある程度終えると、さっさと寝る。今日は今日で楽しかったが、やっぱり明日は晴れがいいな!


2012.12.27 (Thu.)

今回の帰省は当然のごとく、ムーンライトながらを利用して寄り道をしながら3日かけて飯田まで帰る。
初日で滋賀県のあれこれを味わいつつ三重県に抜けて、2日目で三重県から愛知県へ移動し、3日目で飯田に到着。
プランはがっちりと練ってある。それを粛々と実行し、僕の想像を超える風景を味わう。たまらない喜びだ。

ムーンライトながらで大垣に着くと、西へ行く新快速の座席をめぐって猛烈な競争が始まる。
米原ですぐに乗り換える僕としてはそんなに急ぐ必要はないので、眠気を覚ますことに集中しながら淡々と過ごす。
さて米原で乗り換えるということは、北陸本線に乗るということだ。そうして近江塩津まで行く。
途中で長浜を通るのだが、観光が楽しいあの街並みが懐かしい(→2010.1.10)。機会があればまた訪れたいものだ。
さらに河毛駅も通る。ここは浅井氏の居城だった小谷城の最寄駅だ。これもまた、いずれ訪れてみたいものだと思う。

近江塩津で湖西線に乗り換える。吹きさらしのホームでしばらく待って、ようやく列車がやってきた。
それにしても、わかってはいたが、滋賀県はすっかり雪景色である。滋賀県の特に湖北・湖西はしっかり雪国で、
東京ではまだ見たことのない真っ白な雪が一面を覆っている。その光景に旅情をかき立てられずにはいられない。

 停車中の永原駅より眺める雪景色。滋賀県は雪国なのだ。

さて今回の最初の目的地は、近江今津である。現在は合併によって高島市の一部となっているが、
かつては高島郡の郡役所が置かれていた場所で、今も交通の要衝として機能している。
旧今津町の中心部にはウィリアム=メレル=ヴォーリズ(→2010.1.10)の建築が3つ残っており、
それらが並んでいる通りは、その名もズバリ、「ヴォーリズ通り」と名付けられているのだ。
僕は特にヴォーリズが大好きというわけではないが、地方都市に誇りとしての西洋建築をおっ建てた影響には興味がある。
そんなわけで今回わざわざ訪れてみたのだ。決して湖西線の乗りつぶしのついでじゃないよ!

 近江今津駅。高島市内では最も乗降客の多い駅とのこと。

印刷しておいたGoogleマップを参考にしながら、駅から北へと歩いていく。
残念なことに、Googleマップでは具体的にどの辺にヴォーリズ通りがあるのかはわからない。
しかし3件のヴォーリズ建築のもともとの用途を考えれば、昔ながらの市街地の真ん中にあるに決まっているのだ。
あとは地図上にある現在の建物の配置から旧市街地の位置にあたりをつけて、じわじわ攻めればいいのである。
そしたら滋賀県道333号沿いという、思った以上にわかりやすい位置に、今津ヴォーリズ資料館があった。
1923(大正12)年に百三十三銀行今津支店として建てられており、なるほどそれっぽいデザインだ。

  
L: 今津ヴォーリズ資料館(旧百三十三銀行今津支店)。1979年から2001年までは今津町立図書館だった。
C: 裏側はこんな感じで、正面以上にリニューアルの痕跡が強い。  R: 内部はこんな感じ。銀行の面影をよく残している。

まだ9時前なので資料館は開いていない。しょうがないので、窓ガラス越しに中を覗き込んで雰囲気をつかんで済ませる。
ヴォーリズ通りは県道に面したこの資料館からスタートする形になっており、通りの「顔」としての役割は十分果たしている。
でもリニューアルされた感触が強いのと、立方体がただ鎮座している形状なのとで、そこまで惹かれはしなかった。

 というわけで、ヴォーリズ通りがここから始まるのだ。

そのままヴォーリズ通りをしばらく西へ行くと、今度は日本基督教団・今津教会会堂が現れる。
こちらは1934年の竣工。正面から見ると確かに、いかにも西洋の教会といったシルエットの建物である。
でも公園を挟んで側面から見ると、しっかりと瓦屋根となっている。けっこう大きく印象が変化する。
ヴォーリズのデザイン手法はけっこう多様だと思うのだが、外壁をモルタルで仕上げる際には、
アール・デコ的なセンスがわりと出てくるんじゃないかと僕は勝手に感じている(→2010.1.10)。
そんな妻側の断面と平側の側面の差が興味深い。ヴォーリズ建築って、どこか素朴なんだよな。

  
L: 日本基督教団・今津教会会堂。  C: 門から中を覗き込んで撮影。妻側の断面はあくまで西洋風なのだ。
R: 公園を挟んで平側の側面を眺める。瓦屋根が建物の印象を大きく変える。用途が変わっていないせいか、実に小ぎれい。

教会からさらに西へ行って湖西線の高架近くにあるのが、旧今津郵便局。教会と同じく1934年竣工だが、
こちらは1978年に使われなくなってしまったせいか、建物はきちんと残っているが、ダメージが露わになっている。
デザインじたいはかなり面白く、アール・デコ的なデザインに和風な瓦葺きの切妻屋根が大胆に合体しており、
さらにペディメント部分は板壁となっている。板壁もヴォーリズ住宅の特徴で(→2010.1.102012.8.19)、
旧今津郵便局というのはある意味、ヴォーリズらしい要素をてんこ盛りにした好例と言えるかもしれない。
まあ、逆を言うとこの辺がヴォーリズのデザインセンスの限界って気もするんだけどね。

  
L: 旧今津郵便局。  C: 正面より眺める。現役で利用されていないせいか、ほかの2件に比べると見劣りしてしまう。
R: ヴォーリズ通りを行って高架を抜けると、辻川通りになる。というか、もともとヴォーリズ通りは辻川通りの一部らしい。

高架を抜けると辻川通りとなる。ここは古い木造建築が点在しており、食い違いの街路もそのままになっていて、
旧街道の雰囲気をよく残した場所となっている。もともとは北国街道の一部で、明治初頭から集落が形成されたとのこと。
今津はもともと加賀藩の飛び地だったそうで、かつてヴォーリズ資料館の位置には加賀藩の役所が置かれていたという。
以前には江若鉄道が通っており、そちらの近江今津駅は辻川通りのほど近く(現在の近江今津駅とは別もの)。
駅舎が何の説明もなくポンと建っていたが、せめて少しくらいのアピールがあってもいいんじゃないのと思う。

 江若鉄道の近江今津駅・旧駅舎。何の説明もないのはもったいないなあ。

ヴォーリズ通りも歩いたし、ひととおり今津の街並みも堪能したしで、さらにもうひとつ今津らしい場所を歩いてみる。
琵琶湖岸から一本入った通りはその名も浜通りという名前で、これまた往時の加賀藩時代の雰囲気を少し残している。

  
L: 浜通りを行く。今も昔も琵琶湖の漁業がメインの通りで、その歴史を漂わせているのが面白い。
C: 道路の中央から水を噴射して雪を融かす装置(→2006.11.3)。実際に動いているところを見るのは初めてだ。
R: 浜通りの路地を入って琵琶湖に出た。琵琶湖は高い山々に囲まれているので、広いけど確かに有限。

浜通りをそのまま南下していくと、今津港の観光船のりばに出る。今はオフシーズンなので営業していないが、
ここ今津からも竹生島(→2008.2.2)に行けるのだ。そこから右折して琵琶湖を背に西へ行くと近江今津駅だ。
その途中には、琵琶湖周航の歌資料館がある。どうも今津は「『琵琶湖周航の歌』誕生の地」で売っているようだ。
寄っている時間がないので、申し訳ないけどスルーして駅へ。京都へ出る目的の人々でけっこう賑やかである。

今津を後にすると、せっかくなので高島市役所へ行ってみることにする。高島市が誕生したのは2005年で、
高島郡の5町1村が一気に合併してできた。現在の高島市役所はかつての新旭町役場なので、新旭駅で下車する。
しかしまあ、なんというか、辺りには住宅と農地しかなく、これといったランドマークが何も見当たらない。
地図でだいたいの方角を押さえて歩き出したのだが、のびのびとした風景のせいで距離感がつかめない。
そのせいか思った位置に市役所がなくって、体育館や学校や畑を軽く右往左往した末に、ようやく到着。

 これくらいひどい右往左往ぶり。ここはどこだー? オレは何をしているんだー?

結局、高島市役所は地図で僕が感じたよりも、駅のずっと近くにあった。灯台下暗しってやつである。
建物じたいはけっこう派手で、確かに平成庁舎建築そのものだ(調べてみたら、1995年に竣工した模様)。
もうちょっと高さがあれば、その存在に簡単に気づけたんだろうなあ、と思う。周囲からはなぜか見えづらい。
もともと町役場だったわけで、役場ならではの「そこまで大規模にしなくていい感じ」が仇になったか。
なお、この市役所は暫定的なものだそうで、将来的には近江今津駅の南に新庁舎を建設する予定があるらしい。
まあ今のこの庁舎が老朽化するまでは計画は進みそうにない感じ。もったいないもんな。

  
L: 高島市役所(旧新旭町役場)。どうでもいいけど、「旧新」って文字が並ぶとなんだかワケわかんなくなるね。
C: エントランスはこんな感じ。敷地内にちょっと入らないと、木々に隠れてファサードがよく見えないのだ。
R: 裏側もほぼ同じデザイン。各入口の上部にはいまだに「新旭町役場」と彫られたままだった。直す気なさそう。

湖西線の列車を待つまでの間、市役所と反対側にある公共施設に寄ってみた。高島地域地場産業振興センター、
その名も「地場産しんあさひ」である。中は地元・高島市の特産品の展示販売、レストラン、定住相談窓口などだが、
10時ちょうどくらいに訪れたためか、イマイチ活気がない。高島では綿、特に帆布を主力商品としているようで、
さまざまな商品が並んでいた。でも残念ながらFREITAGに魂を売っちゃっている僕は、帆布にあまり興味がないのね……。

 地場産しんあさひはけっこう独特なデザインなのであった。

さて、僕が乗る予定の列車は北陸からの特急が遅れた影響を受けており、3分遅れで新旭駅に到着。
たかが3分だが、湖西線終点の山科駅での乗り換え時間はちょうどその3分間しかないのである。
どうなるんだこりゃ、と思いつつも、だからってどうにもならないので、おとなしく琵琶湖を眺めて過ごす。
比叡山坂本では石垣と緑の組み合わせによる光景に、懐かしい気分になる(→2010.1.9)。
湖西線もこの辺まで来るとそれなりに都会な印象になってきて、大津京は狭苦しいながらも県庁所在地な雰囲気。
そして長いトンネルを抜けると、そこは京都の山科なのであった。うーん、実に遠回りな帰省の旅だ。

列車が停車してドアが開くとホームに飛び出すが、その瞬間に東海道本線(琵琶湖線)は出発進行。
きっちり3分、間に合わなかった。東海道本線は本数が多いから、一本遅れたくらいじゃぜんぜんダメージを食わないけど。
ともかく、気を取り直して次の東海道本線に乗り込むと、石山駅まで揺られる。そして石山駅でわざわざ京阪に乗り換え。
次の目的地へは石山駅から歩いても行けるのだが、時間が読めないしさっき距離感のズレがあったしで、素直に1駅、
唐橋前駅まで京阪大津線のお世話になることにした。そしたらなんだかやたらと派手な色をした電車がやってきた。
なんと、『ちはやふる』(→2011.2.12)仕様にラッピングされた電車だった。けっこう好きなので、ちょっとうれしい。
滋賀県で『ちはやふる』列車が走っているのは、近江神宮で競技かるたの全国大会が開催されるからだろう。
近江神宮の祭神は百人一首の第一番の歌を詠んだ天智天皇なので、その縁で競技かるたの聖地となっているのだ。
今年の夏休みから『ちはやふる』列車は走っているようで、期間は1年間。立って車内をじっくり眺めながら1駅揺られる。

  
L: 『ちはやふる』列車は外見だけでなく、中身も見事に『ちはやふる』一色なのであった。まあ、いいんじゃないですかね。
C: 去りゆく『ちはやふる』列車を見送る。  R: 瀬田の唐橋。コンクリート製なのでそんなに風情は感じない……。

唐橋前駅で降りて列車を見送る。さて「唐橋」とは、瀬田の唐橋のこと。琵琶湖から流れ出る川は瀬田川だけで、
この瀬田川に架かる橋を渡らないと京都へ行くことができないため、「瀬田橋を制する者は天下を制す」と言われたそうだ。
もうひとつ、俵藤太こと藤原秀郷による大ムカデ退治伝説のきっかけとなった場所としても知られている。
現在はコンクリート製だが、擬宝珠は昔からのものを使っているとのこと。でもまあ、あんまり風情は感じられない。

瀬田の唐橋を渡ってしばらく東へ行くと、街道と分岐するようにして建部大社の参道が現れる。
建部大社の参道はなかなか独特で、東へしばらく進んでから左に曲がって境内に入る形になっている。

  
L: 建部大社・一の鳥居。ここからまっすぐ進むと……  C: 参道が左に折れ曲がるのだ。  R: その先には立派で落ち着いた神門。

近江国の一宮は、日本武尊(ヤマトタケル)を建部大神として祀っているこの建部大社である。
平治の乱で敗れた源頼朝が伊豆に流される際、ここに立ち寄って源氏の再興を祈願したんだそうで、
後に頼朝が天下を取ったことで出世開運にご利益がある神社として知られるようになったとのこと。

落ち着いた神門を抜けると、拝殿とご神木の三本杉が目に飛び込んでくる。建部大社は三本杉の紋を使っており、
モデルとデザインの関係が実に興味深い。しかしもっと興味深いのは、建部大社の空間構成である。
まず、拝殿とその奥にある本殿を囲むように、両側に摂社と末社が一列に並んでいる。こういう事例はあまりない。
そして拝殿と本殿の間には幣殿と呼んでいいのか、屋根が架けられており、そこでも参拝できるようになっている。
その先には回廊を経て本殿らしき建物が2つ左右に並んでいる。これはかなり独特な神社だな、と驚いた。

  
L: 拝殿と三本杉。建部大社の境内は非常に特徴的な空間配置。いろんな建築様式の神社があるなあ、と思いつつ参拝。
C: 拝殿から幣殿(でいいのかな?)を介して本殿へ。左の本殿には日本武尊、右の権殿には大己貴命が祀られている。
R: 拝殿・本殿の左右両側にはこんな感じで摂社・末社が並んでいるのだ。境内の砂利には砂紋が引かれている。

さて昨今のパワースポットブームを意識してか、建部大社ではえらくイケメンな日本武尊のイラストが描かれていた。
パワースポット大好き女子が食いつくのを狙ってのことなのだろう。まあ、それはそれで前向きな精神であると思う。
ところがこのイラスト、文字の配置が悪くって、日本武尊の隣に描かれた女性のすぐ横に「大己貴命」とある。
これでは大己貴命が日本武尊の嫁さんみたいだ。大己貴命=出雲大社でおなじみの大国主で(→2009.7.18)、
奥さんがめちゃくちゃいっぱいいる男の神様だ。「大国」が「だいこく」と読めることから大黒様と同一視されてもいる。
知識が半端な僕はイラストを見て、一瞬、かなり戸惑ってしまったよ。もっと勉強せにゃならぬ。

 イケメンな日本武尊。左は大己貴命ではなく、日本武尊の嫁さんの誰かですかね。

思っていたよりもスムーズに建部大社まで行くことができたので、参拝を終えても歩いて石山駅まで戻る余裕があった。
ここでメシを食っておかないと後々大変になるぞ、というわけで、石山駅の居酒屋ランチ海鮮丼をいただいた。
エネルギーを無事に充填すると、石山駅から東へ移動して草津駅へ。ここから草津線に乗って三重県に抜けるのだ。

さて草津線。乗ってみたらとってもローカルな雰囲気が満載なのであった。沿線はとにかく田園と山間の風景ばかり。
平成の大合併によって市になった自治体ばかりなのでしょうがないのだが、それにしても実にローカルだった。
忍者で有名な甲賀はこの辺りだよな、なんて思いながら揺られていたのだが、甲賀の里は穏やかな田舎だったなあ。

草津線の終点は柘植駅。ここで関西本線に接続して、さらに東を目指す。しかしまあ、草津線もローカルだったが、
関西本線は「関西」で「本線」のくせに、さらにめちゃくちゃローカル。駅と駅の間の風景に人の気配がないんだもん。
ひたすら山の麓を抜けていくだけ。東海道本線と近鉄があるからか、JRはすっかりやる気をなくしておるのう、と思う。

本日最後の目的地は、東海道47番目の宿場・関宿である。2005年に合併して現在は亀山市の一部となっている。
亀山城址と亀山市役所には4月に行ったが(→2012.4.1)、今回わざわざ関宿を訪れたのは、そのリヴェンジなのだ。
関宿は重要伝統的建造物群保存地区に選ばれているので、どれくらい見事なものかワクワクしながら改札を抜ける。
駅舎の中に観光案内所があり、地図をもらって軽く位置関係の説明を受ける。駅からまっすぐ坂を上がって5分ほどだ。
国道1号を渡って言われたとおりに坂を行く。ケガしている左足がちょっと痛いが、そこは根性で歩いていくのだ。
そうして住宅地の中を抜けていくと、見事に街道の雰囲気を残した通りに出た。これが関宿か!

  
L: さりげない関宿の様子。かつての宿場がそのまま現在も生活空間となっており、かなりの迫力。これには驚いた。
C: とにかく古い建物がよく残っている。街並みが保存されている比率がきわめて高いうえに、街並みが長い(後述)。
R: 関宿の東側(木崎、こさき)は少し低くなっており、その街並みを一眺できる。これが東京までつながっていたと思うと面白い。

関宿の「関」とは、8世紀に置かれて三関のひとつに数えられていたという「鈴鹿関」が由来。
東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐する、昔からの交通の要衝なのである。
とりあえず東の果てまで行ってみようと歩き出したのだが、街並みは延々と続いて途切れない。
今までいろんな宿場町を訪れてきたが、関宿は本当に長い。どこまで続くんだコレ、と呆れながら歩く。
西も西で凄まじく長くって、調べてみたらなんと、関宿の全長は実に1.8kmにも及んでいた。これにはびっくりだ。

  
L: 東の追分は伊勢別街道と分岐するので鳥居がある。20年に一度、式年遷宮の際に伊勢神宮から古い鳥居を移してくるのだ。
C: 御馳走場跡。ここで大名行列の一行を出迎えたり見送ったりしたそうだ。関宿には御馳走場が4箇所ほどあったそうな。
R: 御馳走場跡の向かい、凝ったデザインだなと思ったらやっぱり遊郭。左が開雲楼、右が松鶴楼(現在は食料品店)。

歩きすぎて足がむくんできており、おかげで左足がけっこうつらい。でもせっかくだからガマンして歩く。
来た道を素直に引き返し、そのまま今度は西側を行く。しかしさすがに全長1.8kmだけあって、まったく終点が見えない。
そして何より凄いのは、これだけの距離がありながら、旧来の街並みがほぼ完璧に維持されていること。
いちばん多いのはふつうの住宅で、地元住民向けの店に混じって観光客向けの店が点在する、そんな感じ。
派手に観光地化されているわけではなく、本当に穏やかな生活感が強いのである。なんとも不思議な場所だ。

  
L: 関宿では延々と歴史的な木造建築が続いている。しかもほとんどが住宅としての利用で、生活感が満載。
C: 山車倉。関宿の山車は非常に豪華で、これ以上のものはつくれない!ってことから「関の山」という言葉が生まれたという。
R: 伊藤本陣。街道に面した部分だけが残っているようだが、風格は十分。そして現在は電器店になっている。

途中に「眺関亭」と名づけられた展望スペースがあったので寄ってみる。屋根がぽっかり空いた形となっており、
その名のとおり関宿の街並みとその先にある山並みを一望できる。この辺りは関宿の中心である中町で、
昔ながらの木造建築が現役の店舗として利用されている事例が非常に多い。かといって派手に飾っているわけではなく、
あくまで上品な風情を残して営業している。こういうところに関宿のすばらしい価値が感じられる。

  
L: 眺関亭より眺める関宿(西側)の街並み。ちなみに東は眺めがあまりよくない。眺関亭の裏は百六里庭という小公園になっている。
C: 橋爪家。かなり栄えた両替商だったそうで、さすが凝った建物だと思ったら、その後は芸妓置家になったとのこと。やっぱりか。
R: ナガオ薬局。書体からして非常にノスタルジックな看板が素敵だ。中町はしっかりと金をかけた建物が多い印象である。

やがて、眺関亭から見えた台形の屋根の建物の前に出る。741(天平13)年に行基が開いたという地蔵院の本堂だ。
地蔵院はこの本堂と鐘楼、そして愛染堂が重要文化財に指定されている。近くで見れば見るほどに見事な建物だ。
そしてこの地蔵院の辺りから、関宿の西側のエリア・新所に入る。賑やかな中町は、この寺の門前町でもあるわけだ。

 
L: 地蔵院・本堂。きゅっと締まっていた関宿の街道は、ここでふっと軽く開ける。空間構成が巧みな一角である。
R: 本堂から左を向くと鐘楼。こちらも本堂と同じく重要文化財に指定されているのだ。

地蔵院の向かいは会津屋(旧山田屋)。ここの養女になった「関の小万」は実の父の仇討ちを果たしたとのこと。
関宿は失礼ながら、突出して全国的に有名な何かがあるというわけではないのだが、実際に訪れてみると、
ちゃんと地元ならではの物語がしっかり生きている場所である。つまり、本当に本物の街なのだと思う。

  
L: 会津屋。めちゃめちゃ元気に営業中。  C: 「洋館屋」好見家。大正初期に隣の会津屋が買い取り、漆喰で洋風に仕上げた。
R: 関宿の西側(新所)の街並みは商売っ気がまったくなく、ひたすら旧来の住宅が続く。やっぱりこっちも長いよー……。

地蔵院以降の西側は完全に住宅として利用されている建物ばかりとなり、しかもそれが延々と続く。
ひたすら歩いて歩いて歩き倒して、ついに西の追分に到着。でも木造の建物がひとつあるだけで、
あとはちょっとしたオープンスペースから国道1号が見下ろせるくらい。なんともあっけない。

 西の追分には木造の休憩施設が建てられている。中は関宿の説明がいっぱい。

日差しが夕方のものとなりつつある中、左足を引きずり気味に、来た道を戻る。いやはや、関宿は本当に長い。
せっかくなので、往路でスルーした旅籠玉屋歴史資料館と関まちなみ資料館に寄ってみる。
どちらも典型的な古い建物の保存展示施設なのだが、街並み同様に中身がしっかり充実していた。

  
L: 旅籠玉屋歴史資料館。近くの関まちなみ資料館とセットで300円。  C: 関宿を代表する旅籠だけあって立派ですな。
R: 蔵の中には歌川広重の浮世絵が展示されている。東海道五十三次の浮世絵で、各宿場の名所が描かれていて面白かった。

駅への入口まで戻ると、もう左足が限界なので、素直に坂を下って関駅へ。改札を抜け、ホームの椅子に座って休む。
しばらく待った後にディーゼルの関西本線がやってきた。夕方という時間帯のせいか、客はけっこう乗っている。
列車は亀山止まりで、亀山駅で30分ほど休憩。そうして今度は紀勢本線に揺られて津まで行く。
本日の宿は津の駅前に確保してあるのだ。チェックインすると部屋でしばらく左足を休める。
18時になると地下街で晩飯をいただく。津駅周辺は5年前(→2007.2.10)と雰囲気がぜんぜん変わっていないね。


2012.12.26 (Wed.)

昨日のニュース。『はだしのゲン』で有名な漫画家・中沢啓治氏が亡くなったとのこと。
『はだしのゲン』は近年、その政治的思想の側面が非常に左がかっていると批判されている状況である。
まあ確かにそうかもしれないが、だからといってこの作品の価値が減じることはないと僕は確信している。
作品内に克明に描かれている、あれだけ悲惨な現実を生きた人なのだ、そりゃそういう考え方になるってもんだろう。
彼が置かれた現実を冷静に顧みることなく安易に批判することはできない、僕はそう思う。

以前ログで書いたように、僕が初めて広島を訪れたのは小学3年生のときだ。当然、平和記念資料館にも行った。
そして4年前に会社を辞める際のグランツーリスモが、二度目の広島訪問である(→2008.4.23)。
やはりこのときにも平和記念資料館に行ったのだが、展示内容がかなりソフトになっていることに驚いた。
原爆が一般市民を無制限に傷つけたその生々しい証拠が、あらかた別のものに差し替えられていたのである。
(思えば小学生のとき、資料室という名の倉庫には原爆の被害を受けた人々の写真が何枚もあった。
 かつての平和記念資料館にはそういったものがいっぱい展示されていたと思うのだが……。)
きわめて残酷かな内容もしれないが、それは確かにあった現実なのだ。その現実が、隠されようとしている。
(丸木美術館の『原爆の図』は、僕の感覚からすれば、「美しすぎる」(→2010.4.27)。)

原爆の被害をめぐる言説、『はだしのゲン』をめぐる言説が、ゆっくりと黙殺されていく流れを感じる。
『はだしのゲン』の公式サイトが、検索結果から弾かれる、いわゆる「Google八分」を受けているのも問題であると思う。
オレは『はだしのゲン』で広島弁を覚えた。「ギギギ」「麦っ子」、いいじゃねえか。面白がったよ、オレも。
面白がればいいんだよ。面白がれるところ、笑っていい部分があるところに『はだしのゲン』の偉大さがあるんだよ。
現実に存在してしまったこの世の地獄と、そこを無邪気に生き抜いたゲンの底抜けにポジティヴな姿勢と、
その両方が描かれているからこそ『はだしのゲン』は唯一無二の存在なんだよ。人間のたくましさを信じた作品なんだよ。
政治に左右されることなく、作品の持つ価値をきちんと評価しなければならない。それを積み重ねていくのが、文化だ。
僕は『はだしのゲン』から、たくさんのことを学んだ。学ばせてくれた作品に対して無礼な態度をとることはできない。


2012.12.25 (Tue.)

東日本大震災復興支援チャリティマッチ「SAWA and Friends, X'mas Night 2012」が開催されるというので、
そりゃもう早い段階からチケットを押さえておりましたですよ。終業式が終わって勤務時間が終わったら、即、移動。
自転車で国立競技場まで駆けつけたのであった。試合開始1時間半前、かなりの賑わいである。

さてこの試合、前半は21歳以上の女子による「2012 Memories」と20歳以下女子の「2020 Future Dream」の対戦。
つまり、なでしこジャパンVSヤングなでしこというわけである。これはもう、絶対に観戦しなくちゃいけないでしょう。
そして後半は女子全員による「SAWA and Friends」と男子のレジェンドたちによる「Legend Players」の対戦となる。
当然、それはそれでやっぱり見どころ満載である。ウキウキしながら練習を眺めるのであった。

 
L: ポムだポムだー  R: この直立不動っぷりがいかにも猶本なんだよな。

この日は本当に寒くてたまらなかったのだが、スタンド(すべて自由席)はどんどん埋まっていく。
チャリティマッチでここまでしっかり客が入るとは大したもんだなあ、と思っているうちに選手入場。
クリスマスということでサンタ帽をかぶっていたのだが、審判までかぶっているのはいい感じでございますな。

  
L: 試合開始直前のスタンドの様子。なんと3万人超えの大盛況でございました。すごいなあ。
C: 一列に並ぶ選手たちと審判団。  R: ヤングなでしこ再結成でございますよ。ありがたやありがたや。

というわけで試合開始。試合が始まって気がついたのだが、このチャリティマッチ、どこを見ればいいのかわからない。
あっちにもこっちにも注目しておきたい選手がいるので視点を1ヶ所に集中できないし、迷っているヒマもない。
デジカメを構えつつあっちもこっちもと落ち着きなく観戦していたので、試合の流れなんてぜんぜん覚えていないよ!

  
L: 川澄だ! 「そんなにかわいくない」という若手男性教員が複数いるが、僕はカロリーメイトのCMにやられました。
C: 鮫島だ! この試合では見事な3点目のゴールを決めてみせた。メインスタンドと逆サイドだったのがちと残念。
R: 田中陽子だ! 田中陽子って、なんとなくカメラを構えるとついつい視界に入ってくる選手なんだよなあ。

 
L: いちおうゴールシーンも。混戦から熊谷がヘッドで決めた2点目。なでしこの貫禄はすごいなあ。
R: 途中交代した後、ゴール裏方面へ挨拶に向かう田中陽子を撮ったのだ。やっぱりかわいいのだ。これでいいのだ。

しっかり守ってヤングなでしこの持ち味を封じ込めつつ、きちんと点を奪ってみせる。
3-0で、なでしこ姉さんの貫禄勝ちとなった。ポムにはもうちょい積極的にシュートを撃ってほしかったわ。

後半は男子のレジェンドの皆さんが登場。ラモスに武田に北沢に都並に加藤久にと、ヴェルディOBの存在感が際立つ。
それ以外にも田中誠・名波・前園・水沼・藤田・福西・三浦淳・久保といった錚々たる面々がずらり。
木村和司もいて、10番がラモスとふたり、というのもご愛嬌。まあとにかく、すごいメンツに圧倒されてしまう。

  
L: ラモスと加藤久。レジェンドの皆さんはことごとくスリムな体型を維持しているのが印象的だったわ。
C: 個人技を披露するラモスとマッチアップする澤。これはものすごく貴重な一瞬が撮れたわー。
R: 10番の木村和司と10番のラモス。日産のレジェンドと読売のレジェンドという非常に贅沢な構図。

試合が始まると、ラモスの本気っぷりがとにかく凄かった。本当によく走るのだ。すごい運動量。
そしてボールを持つと想像力あふれるプレーで相手ディフェンスを無力化してしまい、チャンスを演出。
チャリティマッチということである程度は「お遊び」が許される状況ではあるわけだけど、
ラモスのプレーは遊び心を十分に持った真剣なプレーで、ラテン系の奥深さを見せつけられた感じだわ。

  
L: オフサイドの判定に対し、「オフサイドじゃない!」と叫ぶ松木。松木のやりたい放題はここでも炸裂したのであった。
C: 名波も引退したように見えない。いかにも現役選手のトレーニング、って雰囲気だったなあ。
R: ドラゴン久保だ! トラップするのがめんどくさいからシュートを撃った、って感じのゴールを見たかった。

大儀見のダイビングヘッドで「SAWA and Friends」が先制。すると「Legend Players」はここからラモスが大活躍。
鮮やかなヒールキックから北沢のゴールをまず演出。往年の読売の技術の高さを存分に見せつけるコンビネーションだった。

  
L: ラモスがヒールパスを出した決定的瞬間。いやー、いいもんを見させてもらったわ。寒い中観戦した甲斐があったね。
C: 遠慮がちにラモスにチェックにいくポムの図。  R: 女子チーム総取っ替えの図。これはなかなか見られない光景だわ。

本気のラモスはさらに前園へパス。前園は見事な切り返しでゴールを決めて「Legend Players」が逆転。
ラモスも凄かったが、女子の攻撃を徹底的につぶしまくる福西も凄かった。見応えたっぷりでございました。

 GKで再登場した武田とSB松木の危なっかしいプレー。

というわけで、大満足で家まで帰る。真剣勝負の試合もいいけど、チャリティマッチもすばらしいもんですね。
ちなみに、ウチの部員はけっこうな割合が観戦していたよ。部員は顧問に似る、とあらためて思ったとさ。


2012.12.24 (Mon.)

クリスマスイヴということなんだけど、万年反抗期の僕としては、できるだけそれにふさわしくない行動をしたい。
(ちなみに、3年前にはこんなこと(→2009.12.24)もしている。あれはなかなかいいイヴだったぜチクショー。)
足はケガしているし肋骨も折れているけど、どこかに行きたい。イヴから遠い場所……うーん、神社。
ということで、青春18きっぷを使って日帰りで一宮参拝という、いつもの行動パターンに落ち着いたのであった。

日帰り圏内でまだ行ったことのない一宮はもはや、遠江の2ヶ所しか残っていない。どちらも交通アクセスがあまりよくなく、
2つを一気にまわるのはかなり大変なので、今回は事任(ことのまま)八幡宮だけを訪れることにする。
そしてこの事任八幡宮は東海道五十三次の25番目の宿場・日坂宿の入口にあるので、日坂宿も歩いてみる。
残った時間でテキトーに市役所を訪問して、最後は東急ハンズの静岡店に行ってみるのだ。うむ、完璧なプランだ。

朝5時の始発で大岡山を出発すると、品川から東海道線に乗り込む。のんびり揺られて沼津まで。
沼津で乗り換えて静岡まで。静岡で乗り換えて掛川で降りる。着いたら午前9時過ぎなのであった。遠いなあ。
掛川駅から出るバスは10時ちょうど発なので、それまでの時間はトイレに行ったり食料を買い込んだりして過ごす。
そして10時、バスに乗り込んで一路、東へ。もうちょっと山の中へ入っていくのかな、と思ったらわりと平坦で、
事前にGoogleマップで見ていたよりはずいぶんと穏やかな人里という雰囲気で目的地に到着した。
僕のほかにも4人ほどの乗客がいて、全員が事任八幡宮で下車。空っぽのバスを見送ると、さっそく参拝。

いちおう写真を撮りつつひととおり参拝をしたのだが、冬なので太陽の角度が低く、なかなかいいものが撮れない。
帰りのバスは1本遅らせて13時の便に乗ることにしたので、まだまだ時間はたっぷりあるのだ。
日坂宿をぶらぶら歩いて、ある程度日が高くなったところでもう一度参拝することにした。

 事任八幡宮前の歩道橋より日坂宿の入口を眺める。左へ下ると日坂宿。

というわけで、日坂宿。ここは東海道の三大難所のひとつ、小夜の中山を越えたところにある宿場なのだ。
峠の西側の坂ってことで「にしさか」→「にっさか」と呼ばれるようになったようなのだが、
入坂、西坂、新坂などさまざまな字が当てられて、最終的には「日坂」という表記に決められて現在に至る。
事任八幡宮のすぐ先で道が2つに分かれるのだが、左へ下っていくと日坂宿。のんびり歩いていくと、
道に沿って家が並んでいる。古い木造住宅は少ないのだが、屋号を書いた板が貼り付けられているのがさすがだ。
建物は現代のものでも、道の幅や曲がりくねり方は旧来の街道の雰囲気をよく残している。

  
L: 「秋葉山」と彫ってある秋葉常夜灯。1845(弘化2)年に建てられたとのこと。遠江だけに秋葉信仰が強いんだなあ。
C: 逆川に架かる古宮橋を渡ったら、いよいよ本格的に日坂宿に入る。国道1号日坂バイパスとの対比が凄い。
R: 橋を渡ったらすぐに復元された高札場がある。やはりこれがあると宿場にやってきたって気になるなあ。

橋を渡ると「日坂」の名にふさわしく、すぐに上り坂。そしていきなり現れるのが、川坂(かわざか)屋という旧旅籠だ。
無料で見学できるので、さっそく中に入る。ボランティアの方の説明を聞きつつ、建物内のあちこちを見てまわる。

  
L: 坂を上ると旧旅籠・川坂屋が現れる。  C: 正面から撮影。こうして余裕を持って撮影できるっていいなあ。
R: 川坂屋の中にはあちこちにさまざまな書が残されている。こちらは山岡鉄舟による書。

この建物で特徴的なのは、書だ。建物じたいは1852(嘉永5)年の大火の後に再建されているので本当に幕末のもので、
その火事のせいで江戸時代のものはほとんど焼失してしまったという。明治に入って川坂屋は廃業したのだが、
東海道を往来するお偉いさんたちが「旅館だったんなら泊めてちょうだい」ってことで利用した経緯があり、
多くの書が残されているのだという。昔の偉人の慣習に、歴史をしっかり感じるのであった。

  
L: 川坂屋の中庭より建物を眺めたところ。  C: 別の旅籠・萬屋の内部。こちらは庶民向けの旅籠だったとのこと。
R: 現在の日坂宿はこんな感じである。今でも街道のサイズや曲がり方はそのまま、といった印象。

さっきも書いたが、日坂宿に現存する木造建築は少ない。僕が最も「惜しいなあ」と思ったのは、旧本陣・扇屋跡地。
なんでもその建物は、明治に入って旅籠屋としての営業をやめた後に小学校として使われていたという。
しかし非常に残念なことに、建物は解体されて跡形もなくなってしまっている。これは本当にもったいないことだ。
もし旧本陣・扇屋が残っていれば、それを核にしていくらでも日坂宿を「演出」することができたはずだ。
静かな生活感でいっぱいの住宅地となった現在の日坂を、もはや無理に観光化する必要はないのかもしれない。
でもその価値観は、旧本陣・扇屋が健在であるかどうかによって大きく左右されたのではないか、とも思うのだ。
僕の目には、旧本陣・扇屋という巨大なピースが欠けたことで、この集落が取り返しのつかない一線を越えたように映った。

  
L: こちらは藤文。日坂宿最後の問屋役・伊藤文七邸。  C: 旧本陣・扇屋跡地。今ではただの空き地となっており、本当に残念。
R: 末広亭(池田屋)。なんと、いまだに現役の旅館らしい。日坂宿の中で最も「生きた歴史」を示している場所かもしれない。

日坂宿をひととおり往復すると、事任八幡宮に戻って再び参拝する。やはり参拝客は散発的にやってきて、
境内にはつねに誰かしらいる感じである。この参拝客が日坂宿まで足を伸ばすことはあまりなさそうなのが残念だ。
両者が一体となれば、もうちょっと客を呼べそうに思えるのだが。やはり旧本陣・扇屋を失ったことが痛い。

ここであらためて事任八幡宮について。小夜の中山の西側にあることから旅の安全を祈願する神社として知られ、
また「ことのまま」=「願いごとのままに叶う」ということで『枕草子』『吾妻鏡』『東海道中膝栗毛』にも登場するという。
実際に訪れてみると、規模はどちらかというと小さめ。日坂宿のサイズに応じた規模の神社だな、という印象である。

  
L: 県道415号側からはこの石橋を渡ってアクセス。  C: 境内の様子はこんな感じ。仰々しくなくていいなあ、と思う。
R: 光の加減でわかりづらいが、社殿は一段高いところにある。左手には天然記念物の大楠。本殿の右奥には御神木の大杉もある。

願いごとがそのままに叶うってことで、それはもう、あれやこれやをお願いするのであった。いろいろ切羽詰まっておるのよ。
事任八幡宮は、境内の規模はそれほど大きくなくても高低差を上手く使って摂社やご神木などを散りばめており、
まとまりのある神聖な空間をつくりだしている。コンパクトな中に工夫を凝らしている手際のよさが好印象な神社だった。

  
L: 拝殿はこの高さ。  C: 拝殿をクローズアップ。神社の公式ホームページの年表によると、1840(天保11)年築とのこと。
R: 少し離れて事任八幡宮の森を眺める。平地から山の中へと入っていく、その境目に事任八幡宮と日坂宿があるわけだ。

二度目の参拝が終わっても、まだまだ時間はたっぷりある。かといって本宮山に登るだけの余裕はない。ケガもしているし。
境内の端っこには、材木を少し加工しただけといった感じの机やら椅子やらが置いてあって、休憩できるようになっている。
しょうがないので買い込んでおいたコンビニおにぎりをいただきつつ、そこでMacBookAirで日記を書いて過ごす。
あとはじっとしていても寒いので、軽く散歩がてら神社の周りをうろうろしてみたり。そうしているうちにバスが到着。

さて、バスが掛川駅に着いたのだが、天気もいいし、このまま市役所めぐりに突入するのがなんだか惜しく思えてきた。
せっかく掛川まで来たから、前回訪問(→2009.12.29)できちんと見ることのできなかった掛川城に行ってみよう、と決心。
というわけで、まずは1995年に再建された大手門へ。これをくぐると逆川で、その向こうに堂々たる天守が見える。
掛川城の天守は1994年の再建で、日本初となる木造での天守の復元なんだそうだ。まさに先駆者というわけだ。

中に入るとさっそく急な階段。さすがにきちんと復元してあるな!と感心する。上るのはいいけど下りるのが大変なんだよな。
竣工してからまだ10年経っていないので、木材がまだまだ新しい感触だ。これが建った当時の雰囲気だ、と思えばいい。
天守内はいちおう博物館的にいくつか資料が置かれているが、そればっかりということはなく、建物じたいをよく見せている。
今後、100年近く経ったら、この建物もきっと高く評価されることになるだろう。木造の復元は英断だなあと思う。

  
L: 掛川城大手門。実際の位置から50mほど北にあるとのこと。くぐった先には本物の大手門番所が移築保存されている。
C: 大手門の先には、逆川越しに掛川城の天守が見える。左側にあるのは三の丸から本丸に移築された太鼓櫓。
R: 天守内部の様子。まだまだ木材が新しい感触を残している。かつてはこうだったんだな、と思えばすごく楽しい。

現在の掛川城の構造をつくったのは山内一豊。城内には今でも山内一豊関連の展示が多くある。
一豊が高知へ移った後、掛川には譜代大名が入り、最後は太田氏(道灌の子孫)が入って明治維新を迎えている。

 天守より眺める北東方向。左から竹の丸・掛川城二の丸美術館・二の丸御殿。

さて、掛川城は二の丸御殿が現存しており、重要文化財にも指定されている。天守を出ると、さっそく見学。
こちらは1861(文久元)年の再建で、中を当時からあまりあれこれいじっていない点が特徴らしい。
派手すぎないんだけど、全体的にしっかりと余裕のあるつくりで、さすがは殿様の住居だわ、と思うのであった。

  
L: 二の丸御殿の玄関。天守との共通券で400円で入場可能。  C: 外から見た二の丸御殿はこんな感じ。
R: 二の丸御殿の内部はこんな感じ。回廊にもきちんと畳が敷かれているのがさすが。全体的に余裕を感じさせる。

二の丸御殿を出ると、さらに城内の奥の方へと歩いていく。そうして坂を下ったところに、大きな和風建築がある。
これまた重要文化財の大日本報徳社大講堂で、正面へまわり込む。そしたらかなり大規模な工事中なのであった。
大日本報徳社とは二宮尊徳の報徳思想の普及活動を行っている社団法人で、怪しい団体ではまったくないのだ。
尊徳の弟子・岡田佐平治が設立したことから、彼の地元である掛川に本部がある、というわけだ。
掛川は「スローライフシティー」を標榜しているのだが(→2009.12.29)、それと報徳思想は関係があるのかもしれない。

  
L: 大日本報徳社・経済門(左)と道徳門(右)。ふたつの門柱が同じ高さなのは、道徳と経済の調和を象徴しているからだって。
C: 大日本報徳社大講堂。1907(明治40)年の竣工。  R: 敷地内は大規模に工事中。完成後はどうなるのかな。

さて面白かったのが、城内に戻る途中にあった街灯。文字が書いてあるのがふと目に入って、なんだろうと思ったら、
「秋葉燈」と書かれているのである。さっきの日坂宿には秋葉常夜灯があったけど、あれと同じ構図ってわけだ。
時代が変わっても意識が変わっていない好例だと感心して、思わず写真に撮ってしまった。

 さっき見た日坂の常夜灯と同じ役割ってことだからか、「秋葉燈」と書かれている。

せっかくなので、竹の丸にも寄ってみる。竹の丸は山内一豊が掛川城を拡張した際に生まれたらしいのだが、
掛川藩御用達の葛布問屋だった松本家が1903(明治36)年にここに邸宅を建て、それが修復されて公開されている。
入場料は100円で、特にこれといって豪華な物が残っているわけではないのだが、明治期の邸宅ってことで素直に見学。
現在は市民向けにも活用されているようで、それは上手い使い方だなあと思うのであった。小ぎれいでよろしいです。

  
L: 竹の丸・旧松本家邸宅。  C: 中庭より眺める。  R: 2階の部屋の様子。なかなか居心地がよさそうだ。

そんな具合に掛川城を中心に1時間ほどのんびり観光をすると、東海道線に揺られて東へと戻る。
時刻は14時過ぎで、冬なのでもうそろそろ夕暮れっぽい色合いが混じりだす頃だ。市役所撮影を急がねばならない。
5分ほど揺られると、掛川市の東隣の菊川市へ。菊川市は2005年、菊川町と小笠町が合併して誕生した。
最近では常葉学園菊川が野球で有名なので知名度が上がっていると思うが、観光資源はあまりない。
シンプルに、駅から市役所まで行って撮影したらできるだけ早く戻る、ということで改札を抜ける。
そしたら非常にゆるやかに南へ傾斜するだだっ広い平野に、幅の広い道路がまっすぐ引かれており、驚いた。
とにかく空間に余裕がありすぎるのである。何もかもが閑散としている印象しかない。

 
L: なんだかかなりスカスカした感じの菊川駅前。  R: 商店街も空間に余裕がありすぎてちょっと違和感。

スカスカと空間に余裕があるだけ、市役所までの道のりがよけいに遠く感じられる。
こっちはまだ常陸太田(→2012.12.16)でケガした左足が、まだまだ痛んでいる状況なのだ。
無理をしない程度の早歩きで、駅から南西へ行く。すると茶色のいかにもな庁舎建築に出くわした。菊川市役所だ。
合併したせいで細かいデータはわからないのだが、見たところ1970年代末~1980年代半ばの竣工っぽい印象。
周辺には体育館や図書館などの公共建築があり、駐車場はそれらに囲まれながらもなかなか広くとってある。

  
L: 菊川市役所。  C: 正面より撮影。  R: 裏手には駐車場。市役所のすぐ西にある高台の上に、常葉学園菊川がある。

菊川市役所から駅まで戻ると、また東隣の市役所を目指す。お次は島田市役所なのだ。
島田市は1948年の市制施行とけっこう古いが、2005年に西隣の金谷町と合併して新制の島田市が発足した。
金谷といえば大井川鉄道(→2008.9.272008.9.28)ということで、なんとも懐かしい気分になる。
でも今日はするっとスルーして、隣の島田駅で降りる。時間的に、今日はこの島田市役所が限界だろう。

 
L: なんだかオシャレな島田駅。静岡空港はここからバスでアクセスするためか、それっぽい人もチラホラ。
R: 駅前から延びる道路の様子。島田ってけっこう賑やかな街なのね。少しだけ東室蘭っぽい印象も。

島田駅から市役所までは意外と距離があって、けっこう歩かされた印象である。
歩いていて、街並みがなんとなく東室蘭の中島町(→2012.7.1)に似ている感じがする。
あっちの方が都会なのだが、駅前から慌てず騒がず店が淡々と続く様子が共通しているように思う。

歩いていった先、交差点の左側にホールがあるのが見える。道を挟んだ右側は緑の垣根に庁舎建築。
これが島田市役所だ。ファサードには耐震補強が施されているが、本来のデザインが見えないほどではない。
石本喜久治の最晩年の設計で、1962年の竣工とのこと。質実剛健な昭和の庁舎建築そのものである。
道を挟んで島田市役所の西隣にあったのはプラザおおるり。神保彰のワンマンコンサートをやるようで少し気になる。
そして市役所の東隣には島田市民会館。市役所を挟んで東西にホールがあるという、なかなか珍しい配置だ。

  
L: 交差点より眺める島田市役所。  C: 正面はこんな感じ。ロータリーがあるところが昔の庁舎の様式を思い出させる。
R: 角度を変えて撮影。この一角は竣工してから50年間、あまり雰囲気が変わっていないんだろうなあ、と思う。

駅まで戻るとさらに東へ揺られて静岡駅へ。静岡の街にやってくるのは4年ぶりか。
前に来たときにはいろいろ工事の真っ最中で、どれだけ大きく変わったんだろう、と楽しみにしながら改札を抜ける。
地下の通路はすっかり工事が終わっており、それでかえって迷ってしまう。とりあえず地上に出て、呉服町通りを往復。
静岡の街は相変わらずのすばらしい活気で、とてもエネルギッシュだ。あらためて感心しながら歩く。

しかしながら、静岡に寄った目的は東急ハンズの静岡店なのだ。テキトーに歩いていれば見つかると思ったら、
ぜんぜんその気配がない。あらかじめきちんと下調べをすればいいのだが、毎度おなじみ「どうにかなるでしょ」で、
われながら成長せんなあ、と思うのであった。しょうがないのでケータイで検索をかけてみたところ、
「新静岡セノバ」の3階にあるということがわかる。新静岡セノバ? 聞いたことがない名前に首を傾げる。
が、次の瞬間、思い出す。新静岡っていえば、静岡鉄道の方だ。というわけで、静岡鉄道のバスターミナルに行ってみる。
そして驚いた。前に井川行きのバスに乗り込んだ(→2007.9.16)いかにも地方都市なバスターミナルは、
すっかりオシャレで大規模な商業ビルに変化してしまっていたのだ。なんたる変貌ぶりだ、と心底たまげた。

 
L: 呉服町通り。相変わらず静岡は活気がある。  R: 新静岡セノバ。前のバスターミナルの面影が皆無。変わるもんだね……。

さて肝心の東急ハンズ静岡店は、地方都市ワンフロアタイプの典型的なハンズなのであった。
基本的なハンズらしい品揃えは押さえつつも、やはり流行のアイテムを主力としている印象である。
クリスマスイヴということで店内は大混雑。いい機会なので新しい折りたたみ傘を購入した。よかったよかった。

これ以上、左足に負担をかけたくないこともあり、ひととおりハンズを味わうと、とっとと撤収。
東海道線を一気に戻って山手線内に入り、メシを食って家に帰る。おう、上々のイヴだったぜコノヤロウ。


2012.12.23 (Sun.)

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』。『序』(→2007.9.23)にも『破』(→2009.6.29)にも大満足な僕としては、
それはもう早く見たくて見たくてしょうがなかったのだが、映画館で快適に見たかったのでここまでガマンしていたのだ。

「……ナディア?」というのが僕の第一印象。BGMもわざわざナディアのやつを使っていて、間違いなく意識している。
しかしそれにしても、こういう方向にもってくるとは意外すぎて、ただただ驚いた。最初のところで圧倒されちゃって、
それ以降の展開は、素直に受け止めることしかできなかった。こっちの想像を超えちゃっているので、どうにもならない。

感想を書くのが難しい。卑怯に思われるかもしれないが、これは簡単に批判はできない、というのが正直なところ。
僕の場合、まずTVシリーズをもとにして、期待しているラインってのがあったわけだ。『序』はそれをなぞっていて、
『破』は凄まじい迫力でそれを超えてみせた。そしたら『Q』はTVシリーズとはまったく関係のない展開になっちゃって、
もともとこっちはそれを評価する軸を用意していなかったんだから、もうどうしょうもない。お手上げでございます。
まあ個人的な好みで言わせてもらえば、舞台空間が徹底して閉鎖的なので、そこはかなり気に入らなかった点だ。
今回の『Q』には「空」のイメージがなかったのだ。すごくがっちりと頭上を覆って押さえつけられている印象がしたのだ。
そう、『Q』の舞台空間は地理的な広がりが見えなかった。ヴンダーはどこを飛んでいるのかよくわからないし、
ネルフ本部は日が差している場所もあるけど密閉されている印象しかしないし、まあつまり、世界が狭い。
(廃墟だけという閉鎖空間で展開する物語では、『AKIRA』やマンガの『ナウシカ』を思い出す(→2006.3.24)。)
狭いところでシンジ君のTVシリーズ以上のウジウジぶりばかりがクローズアップされるので、フラストレーションが大きい。
『破』のシンジ君はポジティヴな面があったけど、それをボッキリ折るだけのものが『Q』の基本設定なので、
シンジ君自身に非はまったくないのだが、それにしてもネガティヴな世界に追い込まれたシンジ君をずっと見るのはつらい。
鈴原サクラを出したところでこの閉塞感はどうにもならん。そりゃ世間の反応は猛烈な肯定と猛烈な否定の両極端だわな。

僕の知らないうちに『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』は4部作になっていた。序/破/急+?の三部構成じゃなかったの?
今回の『Q』の位置づけが戦略的にどうなのか、これは最後の『:||』を見てみないとまったくわからないんだけど、
「議論を巻き起こすこと」「TVシリーズのようなネガティヴさを思い出させること」「期待値をニュートラルに戻すこと」、
そういった面から考えれば、これは非常によくできている作品ということになる。本当によくできているのだ。
さっき書いた「これは簡単に批判はできない」というのは、そういう意味で。よくできているんですよ、絶対値としては。
ただやっぱり、僕もライトファンの感覚に近い人間なので、「『Q』ではなく『急』を見たかった!」というのが本音だ。
いや、今回の『Q』とは別に『急』がきっといつかどこかのタイミングで制作されると僕は固く信じている。
とりあえず今は素直な気持ちで、ラストシーンで歩き出したアスカとシンジとレイのこれからを楽しみに待っていたい。
ぜんぜんまとまっていない感想で申し訳ないんだけど、心理的にまとまるわけがないのでこれで許してくれ。

でもアスカは本当にシンちゃんに優しいねえ。ラストシーンを見てそう思ったわ。偉いよアスカ、アスカ偉いよ。


2012.12.22 (Sat.)

一宮を中心にあちこちの神社を参拝しているんだけど、ここらで一丁マジメに勉強するか!と思い立ち、
神社検定の公式テキストで神社本庁の監修である『神社のいろは』を読んでみたのだ。別に検定は受けないけどね。

内容はQ&A形式でまとめられていて、これが非常にわかりやすい。いわゆるテキストとは一線を画していて、
日常生活レヴェルでふと神社について浮かんだ疑問に対し、かなりていねいに答えてくれるような構成なのである。
つまり、詳しい内容をがっつりたっぷり詰め込んであるのではなく、疑問への答えをポイントを絞って適度に出す、
そういう感じに仕上げてあるのが効いている。とはいえ、中身はしっかり濃い。さすがに神社検定のテキストだけあり、
神道の細かい作法だけでなく、天皇の祭祀へのかかわり方までかなり詳しく書かれている。正直、目からウロコだった。

感想はとにかく、「神道ってめんどくせえ!」である。いや、神道に限らず宗教ってのはどれも面倒くさいものだし、
その面倒くささが威厳を保つ根源であるのはわかっている。面倒くさいことをわざわざ手順を踏んでやるからこそ、
ありがたみが発生する。わざわざやるところに価値がある。そうわかっちゃいるけど、正直なところ、やっぱり面倒くさい。
で、その面倒くささの頂点に立っているのが、天皇なのだ。そう、天皇の仕事は凄まじく面倒くさい。
でもこの凄まじく面倒くさいことを、日本を代表して一手に引き受けているから、天皇は「エライ」のだ。
天皇や皇族の大変さは一般参賀に行ったときに感じたんだけど(→2009.1.2)、もう本当にお疲れ様なのである。
『神社のいろは』には皇室祭祀も紹介されているけど、見事にお祭りだらけ。ほかに日本全国の神社とのやりとりがあるし、
外交にも顔を出さなくちゃいけないし、あちこち慰問に行ったりで、これは本当に大変だ。マスコミもいろいろ言うし。
(だからこれ以上、天皇や皇族によけいな負担をかけちゃダメだよ! 国家元首にするとかとんでもねえよ!
 なんでもかんでも天皇に押し付けて済ませないように、日本国民はもっと民主主義をうまくやんないとダメだよ!)

というわけで、『神社のいろは』というタイトルのわりには、神社が云々というよりは、天皇ガンバレな感じになる。
個人的にはもっと個々の神社についての理解を深めたい気持ちがあったのだが、神社をめぐる考え方や現状について、
かなりきちんと知ることができたので大いに満足はしている。日本人が稲作に適した自然環境をいかに受け止めて、
それを儀式という形で感謝してきたか。そして、その儀式をいかに洗練してきたか。そこがよくわかる本である。
まあ、こういう国に生まれた人間のひとりとして、祖先が保ってきた価値観を知るのは悪いことじゃないわな、と思う。
最近のマツシマさん、ちょっと右寄りねー。ヨリが跳ぶー。


2012.12.21 (Fri.)

結局、肋骨折れてやんの。

1枚目のレントゲンでははっきりしなかったが、2枚目を見た瞬間に医者は、「これ、いってますね」
「いってますか」「いってますね」……なるほど、骨のカーヴは斜めの線を境に少し外側へずれていた。
まあ確かに、ふとした拍子に痛むと「う゛っ」って声が漏れて動けなくなってしまう、そんな感じだったから、
骨折という結果を突きつけられると納得するしかないのだが。うーん、やはりこのレヴェルの痛みは折れていたか。

しかしあれだけ激しくぶつけた左足の骨は異状なしで、ひねっただけの肋骨の方が折れていたとは。
肋骨は折れやすいと聞いてはいたけど、こうもあっけなく折れてしまうものだとわかると、怖いものだと思う。
9番目の肋骨で、うまく固定できない場所だから、安静にしているしか治す方法はない、とのこと。
しょうがないからしばらくおとなしく過ごすとしましょうか。いやまあ、それにしても、これはまいった。


2012.12.20 (Thu.)

『ウルトラマン』も見たし(→2012.2.27)、『ウルトラセブン』も見た(→2012.4.19)。
僕の中ではここで一区切りのつもりだったのだが、『帰ってきたウルトラマン』までは見てみることにした。
というのも、なんでも「11月の傑作群」と呼ばれるほどレヴェルの高い回がそろっているという話を聞いたから。
そしてその中のひとつに数えられている第33話が特に大傑作との呼び声が高いから。これはぜひ見ようというわけだ。

現在、公式には帰ってきたウルトラマンのことを「ジャック」と呼ぶようになっているらしい、と初めて知った。
でも僕としては「新マン」でないとしっくりこないので、「新マン」と呼ばせてもらう。作品じたいもそう呼ぶ。

それまでのウルトラシリーズと比べて印象的な点はいくつかあって、まず映像がものすごくクリアであること。
とにかく見やすい。そのせいか、怪獣との格闘シーンは前よりもヴァリエーションが豊かになっているように思えた。
そしてMAT隊員たちの髪型。実に濃い。全体的に濃い。濃い時代だったんだなあ、と思う(放映は1971年~1972年)。
だから主人公の郷秀樹の髪型にも最初は非常に違和感があった。まあ後半になるとその違和感は解消されたけどね。
モロボシ・ダンも本田圭佑に見えたけど、郷秀樹も本田に見えてしょうがない。オレの感覚がおかしいのだきっと。
特撮での飛行機の飛ばし方はかなり高度になっている。見事なものだ、と感心するしかなかった。

さて肝心の内容についてだが、序盤はフラストレーションがたまる展開だ。怪獣は外部から影響を与える存在でしかなく、
MAT内部での人間関係や信じてもらえなくて暴走する郷の成長がテーマとなっており、まあ正直つまらない。
坂田兄弟をはじめとする主人公のプライヴェイトな生活面が出てくるところは面白いのだが。意欲はヒシヒシと感じる。
『ウルトラセブン』では知性を持った宇宙人との駆け引きが大きな魅力となっていたが、新マンにそれはない。
だからどうしても「内部の葛藤→怪獣倒す→少しずつ関係改善」のパターンとなり、ストーリーに深みが出てこないのだ。
何より、怪獣のデザインがあまりにも格好悪すぎるのが致命的である。とにかく退屈で退屈でたまらなかった。
そして困ったときにはセブンにもらったウルトラブレスレット。これでは魅力的な話ができあがるはずがない。
それでも特に伊吹隊長に代わって以降、職場としてのMATの描かれ方はなかなか面白くなってくるのは確かだ。

急に面白くなったのは、テロチルスが登場する#16「大怪鳥テロチルスの謎」と#17「怪鳥テロチルス 東京大空爆」。
脚本の展開からカメラワークまでとにかく工夫にあふれており、人間関係の踏み込んだ描写もあって見応え十分。
どうやら新マンでターニングポイントをつくったのは、山際永三監督のようだ。ここで確実に一段レヴェルが上がった。
「11月の傑作群」というのは#31~#34(12月1週目の#35を含める見解もある)を指すのだが、
実際にはそれより前からじわじわと魅力を増してきている。11月放映分だけを特別視するのはもったいない見方だ。
#28「ウルトラ特攻大作戦」(脚本・実相寺昭雄)では、郷と岸田隊員が仲良くしていてなんだかいい感じである。
#29「次郎くん 怪獣に乗る」では、宇宙空間まで謎を引っぱった構成と怪獣の特性を絡めた展開が面白い。
#30「呪いの骨神 オクスター」でも、前半には坂田兄弟と大泉滉とその他しか出さない工夫がよく効いている。
そういうジャブが確実に放たれたところに、満を持して#31が来るわけだ。「11月の傑作群」は必然だったのだ。

#31「悪魔と天使の間に…」
発想が実に『ウルトラセブン』的なのである。新マンに侵略宇宙人が登場したのはなんとこれが初めてということで、
それまでずっと怪獣相手にドタバタやっていたのが、ようやく知性を持つ相手との駆け引きとなる。こうでなくちゃ。
宇宙人が障害を持つ子どもという「弱者」を装ったことで、郷もMATも一気に苦境に立たされることになってしまう。
話の内容に工夫がたっぷり詰め込まれているだけでなく、構図のとり方もものすごく面白い(テレパシーなんかすごいぜ)。
「ウルトラマンが勝ったときが最期」というアイデアも実にいい。何ひとつムダなく組まれていて、確かにこれは傑作だ。
そして実は、伊吹隊長が郷=ウルトラマンだと感づくポイントとなっているのも巧いところだ。これは古びない作品だわ。

#32「落日の決闘」
これはそこまで凄いエピソードというわけではない。が、確かにそれまでになかったキレっぷりをしているのも事実だ。
地震を予知する駐在さん、空飛ぶ上野隊員、怪獣のおならの攻撃といい、やりたい放題が炸裂している。
映像面では、野原に咲いている花を強調しながら、そこに銃撃戦や爆発で火が上がるという対比がかなり強烈である。
怪獣が2段階に変身するという発想も面白いし、怪獣を倒したと思わせる場面で無音にしておいて、
そこからの逆襲を強調するという仕掛けも効いている。『セブン』の実相寺テイストが紛れ込んできた印象がする。

#33「怪獣使いと少年」
ウルトラシリーズ最大の問題作と評判のエピソードだ。正直、これを見るために今まで新マンを見てきたのだ。
序盤の真空投げとイジメ(容赦なさすぎ!)の展開は、ややわかりづらい。発想のスピードが速くて急ぎ足な印象である。
構図のとり方が本当に大胆。埋められて泥だらけの少年にずっとピントを合わせて、後ろでやりとりさせる度胸は凄い。
隊長と郷以外のMAT隊員が出ないところがまた挑戦的だ。つまりはそれだけ「描きたいテーマ」に純化しているのだろう。
このエピソードが扱っているのは差別の問題。日本人というよりは、人間の持つイヤな部分を容赦なく出してくる。
それが日本ではどう現れるのか、をめちゃくちゃ真っ正面から描ききっているわけだ。ここまで踏み込むか!と呆れた。
郷と少年が住民に襲われるシーンでブレるカメラのリアリティが半端ない。もう単なるヒーロー物の枠を完全に超えている。
パン屋のおねえさんのシーンは本当に救いで、これがなかったらいくらなんでも後味が悪すぎる。絶対に必要なシーンだ。
そしてもうひとつ、魚が奇形化した怪獣や環境汚染に苦しむメイツ星人など、このエピソードは公害もテーマとしている。
両者を組み合わせてここまで中身の濃いものがつくれるのか、と呆れることしかできなかった。とにかくレヴェルが高すぎる!
#31で伊吹隊長が郷の正体に感づくと書いたが、それが十二分に生きてくるのがここ。この流れが奇跡的に美しい。
そして格闘シーンも抜群の完成度だ。雨の中、ほぼワンカットで工場群をスクロールする展開は計算され尽くしている。
とにかく、一瞬たりとも目を離すことのできない仕上がりとなっているのだ。評判以上の中身を見せてもらったわ。
「怪獣使いと少年」というタイトルも、ものすごく好きだ。これほど端的に物語の切なさを思い起こさせる言葉はないだろう。
まあでも大傑作なのはいいが、毎回このクオリティでやられたらこっちがもたないのも確かだ。それぐらい桁外れに凄い。

#34「許されざるいのち」
これまた、『ウルトラセブン』的なエピソードである。敵をつくりだすのが人間のエゴ、というのがひと工夫あっていい。
悪が悪である理由、それにまつわる悲しみを描いているから、怪獣との戦いに深みが増して傑作になりうるわけだ。
よく考えたら、この話は『機動警察パトレイバー』(→2004.12.15)の「廃棄物13号」みたいな展開である。
(ゆうきまさみは「そりゃあワンダバだわ」というセリフで新マンへのオマージュであることを暗示しているし。)
科学で生物から人智を超えた脅威を生み出す構造はよく見かけるが、郷の親友を絡めることで新鮮味を出せている。
いきなり始まるPYGの歌にはびっくりしたが、過去の断片の映像と組み合わせていい効果を生んでいると思う。
『セブン』であれば比較的平凡なエピソードとカウントされたかもしれないが、新マンの中では確かに上位に来る話だ。
それにしても、脅された次郎のふさぎこみ方が妙にリアルだな。

#35「残酷! 光怪獣プリズ魔」
坂田さん役の岸田森が脚本を書いたとのことで、この時期の新マンは実験的かつ意欲的で大変すばらしい。
#34は高校生の原案だったし、本来のつくり手だけでなく、ファンの立場からの二次的なアイデア(→2007.11.9)が、
うまく新マンの世界を広げる効果をあげていると思う。序盤のマンネリのひどさからは考えられない進歩であると思う。
このエピソードの内容は、とにかく理系バリバリ(というか理科のアイデア満載)で、よく練ってあって興味深い。
プリズ魔のデザインもそれまでのブサイクな怪獣とは一線を画していて満足。異形の敵ならではの緊迫感がいいのだ。
それにしても攻撃時の声がすごくエヴァのラミエルっぽいなあと思ったら、実はこの声が元ネタだったと知ってびっくり。
プリズ魔を迎撃する作戦もヤシマ作戦にそのままつながっていて、なるほどそういうことだったのか、と納得してしまった。
(エヴァの庵野監督は新マンの大ファンとして知られているのだ。彼が選んだ10本のリストもなかなか興味深い。)
あとはやはり『キン肉マン』のプリズマンのカピラリア七光線を思い出す。いろんなところに影響を与えていそうな話だ。
戦闘シーンではサイケ宇宙人のペロリンガ星人(→2012.4.19)も思い出した。あまりにも前衛的すぎる。
最後の戦いの舞台が野球場ってのも、ものすごくかっこいい。案の定、上野隊員は死にかけていたけどね。
そしてとんでもなくブツ切りの終わり方があまりにも斬新すぎる。でもそういう終わり方もあるからこそ楽しい、とも思う。

「11月の傑作群」以降、各話のクオリティは中の上くらいで安定していく印象である。
が、新マンは絶対にやってはいけないことをやってしまっている。それは#37&#38における坂田さんとアキちゃんの死。
究極のピンチを演出する意図があったのだろうが、これはダメ。もう絶対にダメ。せっかく気合の入っていたスタート地点が、
このことで完全に台無し。初期設定が否定されたことで、ただでさえつまんない序盤が完全に否定されてしまった感じだ。
おかげで新マンのシリーズ全体を定義する枠が、「ただ怪獣を倒すだけのヒーロー物」というものしか残らなくなってしまった。
特撮ヒーローの敵が「怪獣」というイメージに固定化されてしまったのは、この新マンがもたらした悪影響なんじゃないか。

以上、「11月の傑作群」を中心に、新マンについて気ままに書いてみた。
新マンは『セブン』ファンに酷評され、見るに値するのはこれくらい、ということで「11月の傑作群」の表現が生まれたそうだ。
正直なところ、僕もだいたいそれに近い立場である。全体的なクオリティは『セブン』と比べると、悲しくなるほど低い。
怪獣のデザインにはまったく工夫がなく、とにかく醜い。そしてそれをただ淡々と倒すだけ。決まり手はブレスレットばっかり。
ストーリーの流れにも魅力は少ない。量産されたお子様向けのエピソードが延々と展開されるだけのものがほとんど。
しかしところどころで、スタッフの意地がひょこっと現れる。『セブン』にまったく劣らない高度な話が平然と混じっているのだ。
新マンってのは、なんとも不思議な作品であると思う。玉石混淆の度合いがものすごく極端なのである。
でもそれは、よく考えたら、初代の『ウルトラマン』もそうだった。実相寺昭雄という怪物がいたから化学変化が起きたが、
そうでなければ打率の低いヒーロー物で終わる恐れもあっただろう。そういう意味で、新マンは特撮ヒーロー物としての、
「本質的な位置」を占めている作品なのかもしれない。基本はマンネリ、たまに傑作。まあ、それもまたよし、ってことで。


2012.12.19 (Wed.)

部員たちが成長している。僕の気づかないうちに、恒例のミニゲームで球際の強さが増してきているのだ。
単純にボールテクニックを追い求めているうちは小学生。しかし、そこに体の強さをうまく生かしながら、
体を使ってボールをしっかり保持したうえで、タメをつくって味方に精度の高いパスを出せるようになるとオトナ。
つまり以前に比べて明らかに、きちんと体を張ったプレー、味方を上手く使うプレーが増えているのである。
中学校の部活ってのはこれの繰り返しで、その辺の体の使い方がわかってくる頃には3年生になって引退してしまう。
去年の連中と同じようにきちんとオトナのサッカーの領域まで来つつあることを喜ぶと同時に、
残された時間の短さに切なくなってしまう。そしてオレはちゃんと経験を積み重ねられているのかと自問する。
いや本当に、部活ってのはキリがないものである。まあ部活に限らず教育全般がそういうもんだけどさ。


2012.12.18 (Tue.)

総選挙の結果についてちょろっと書いておく。

民主党がとてつもなくグダグダすぎたので、自民の圧勝はまあこりゃしょうがない。
安倍晋三という脳みそのシワがあまりにも少ない人間が首相になってしまうのは憂うべき事態ではあるが、
今さらそのことを騒いでもどうしょうもないので諦めるしかない。とりあえず、そうならざるをえない結果だ。

問題は、日本維新の会の躍進ぶりだ。約50議席という数字を少ないと見る向きもあるようだが、
まともな感覚を持っている人間にしてみれば、これは十分に絶望的な数字だ。日本国民の頭の悪さを痛感させられる。
民主党の方がまだはるかに使える人材が多いはずだ。そのときの勢いに乗ることしか考えていない人間の集まりに、
それなりの力を持たせてしまった。日本人は何度同じ間違いを繰り返すのか。反省をしていないのだ。
なんとなくではなく、日本維新の会が何を目的にしているか、きちんと自力で調べてから投票をしてほしかった。
連中がどれだけ短絡的な発想で、聞こえのいいことだけを口にして、日本を壊そうとしているか、直視してほしかった。
何度か書いているが、政治というものは失敗を込みで考えなくてはならない(→2006.8.92012.9.5)。
ゼロサムゲームでこっちがしくじったから次あっち、ではいつまで経っても成熟した政党が生まれない。
がまん強く政党を成長させることで自分の意見を政治に反映させる姿勢こそ、本当の民主主義であるはずなのだ。
日本人の投票行動も短絡的すぎる。1票を投じることは自分の意見を表明することそのものなのだが、
全体のバランスを考えて、特定の政党を勝たせすぎないための投票行動ができるようにならないといけないだろう。
そこまでできるのがオトナの有権者だ。有権者は大人のはずなのだが、オトナな考えで動ける人があまりに少ない。

そう考えると、55年体制は優れた政治システムだったと言えるのかもしれない。今回の結果から、そう思った。
自民党という絶対的な与党と、社会党という絶対的な野党による55年体制は、保守と革新という文脈で語られる。
しかしこれは、ある意味では、選挙のたびに保守勢力の支持率がそのまま出る仕組みでもあったのだ。
革新勢力つまり社会党が躍進すれば、それは保守勢力つまり自民党に適度な危機感を与え、牽制することとなった。
しかし社会党が政権をとることはありえなかった。それは国民全員の暗黙の了解であったと言えるだろう。
有権者たちは、与党の挙動に不満がある場合には社会党に投票することで手軽に圧力を加えることができたわけだ。
政権交代を必要としない二大政党制と言えるシステムで、これは現状よりはるかに利点の多い体制だったのではないか。
そんなふうに思えてしまうくらいに現状の迷走ぶりはひどい。55年体制の冷静な再評価は絶対に必要な作業だろう。

さて、今回の選挙の結果、新党日本が消えたのは非常に残念なことだ。田中康夫の賞味期限がようやく切れた、
世間ではその程度の扱いかもしれないが、僕としては新党日本の政策が最も支持できるものだったので、ただただ残念だ。
しかしながら、これは当然の帰結であるということもわかっている。というのは、田中康夫の言っていることは正しくても、
それをどう実現していくかの戦略はまるっきりゼロに等しかったからだ。長野県知事時代の末期からそれは明らかだったが、
田中康夫は正しくあろうとするのはいいが、妥協ができないのだ。理想を掲げて現実で痛い目に遭う、そういう姿勢だった。
政治ってのはどこまでも現実への対処にほかならず、理想を実現するためには数の力が必要になる。民主主義だから。
最大多数に最大幸福をもたらすには、最大多数の支持が必要だ。そのためには、個人の正しさを捨てることもありうる。
しかし田中康夫は妥協せず、個人にしか見えていない正しさを貫こうとした。だから長野県の支持者は離れていったし、
新党日本は個人政党のまま今回の総選挙で消えた。いくら正しいことを言っても、皆がついて来れるものにしないと、
それを実現することは不可能な世の中なのだ。その妥協点を探る技術こそ、本来、政治家の腕の見せ所であるはずだ。
とにかく、新党日本が消えてしまったことは本当に残念である。理想に生きて現実に敗れた政党を、僕は忘れないよ。


2012.12.17 (Mon.)

授業が終わったところで医者に行かせてもらって左足を診てもらう。真っ赤に腫れて見るからに痛々しいぜ。
これは折れているかもしれないね、と言われて覚悟を決めてレントゲンを撮ったのだが、なんと奇跡的なことに、
骨に異状はなかった。とはいえ大ケガであることにかわりはないので、しっかりと薬を出してもらった。
あばらのひねった痛みもそのうち消えるだろうし、とりあえず年末年始はおとなしくして静養に努めるとしよう。


2012.12.16 (Sun.)

部活がなくて青春18きっぷが使える! そりゃもう、どっかの地方都市へ日帰りの旅に出るに決まっている。
こないだ使った「休日お出かけパス」(→2012.12.8)では行けないところ、というのがひとつの基準になるのだが、
まあだいたい、行き先は北関東のどこかってことになるのだ。茨城・栃木・群馬、さあどうしましょ?
で、そういうときにもうひとつ基準になるのが、「まだ乗ったことのない路線はどこだ?」ということ。
鉄じゃないけど。で、いろいろ検討した結果、今回のターゲットは水郡線の常陸太田支線に決定したのであった。
でもそれだけじゃ面白くないので、同じ茨城の日立まで行ってしまうことにした。午前中は常磐線沿線を攻めて、
午後になったら常陸太田に行こうじゃないか、ということでプランが確定。4時に起きて5時の電車に乗り込む。
目黒から山手線で30分弱、上野から常磐線で30分弱、それぞれじっとりと揺られると、我孫子からは快調に飛ばす。
そうして日立駅に着いたのが8時31分。2時間ほど滞在して、のんびり歩いてみようというわけだ。

  
L: 日立駅から見える工場群。日立は日立製作所の本拠地ってことで、いかにもそれらしい光景である。
C: 日立駅の入口。海岸沿いの線路と駅の入口はけっこうな高低差があるが、この新しくてきれいな駅舎がつないでいる。
R: 駅前にある発電用蒸気タービンの動翼。ものづくりの街としての矜持を示すために設置してあるんだと。

日立といったら当然、♪このー木 何の木 気になる木ーでおなじみの日立製作所が思い浮かぶ。
だから企業名が自治体の名前になったのかなと思ったら実際には逆で、「日立」の名付け親は徳川光圀なのだ。
日立の銅を採掘する企業・日立鉱山の機械部門が中心になって日立グループが生まれたというのが正しい経緯だ。
日立駅の中からはガラス越しに工場群が見え、駅前には巨大なタービンのオブジェが設置されており、
少し離れたところには非常に豪快なデザインの公共施設がそびえている。企業城下町の力が実感できる光景である。

 駅前のロータリーから眺める日立シビックセンター。こりゃすごいな。

駅から平和通りをまっすぐ西へと歩いていく。さすがに道の幅が広いのだが、歩道沿いの店は今ひとつ。
労働力は周辺の工場に分散していて、本来の中心市街地であるエリアはあくまで通過点となっている印象がする。
実際に歩いてみると、地図を眺めたときの感覚よりもたくさん歩かされる感じだ。思ったよりも広いのである。

日立市役所は駅からまっすぐ西に出て、その突き当たりを右折して国道6号を北へ行ったところにある。
これは意外と遠いわ、と思いながら歩を進めていくと、いきなり左手に複数の庁舎群が現れた。
日立市役所は「竣工:1956年、設計:石本建築事務所」というデータがあるが、どの庁舎のことかはよくわからない。
影響力の大きい企業のある街の市役所は、実はけっこう質素なことがある(東京では府中市かな →2009.11.3)。
日立市も企業由来の資金力で大規模な庁舎を建てることはせず、分散した古い建物を淡々と使っているのだ。
もっとも、そういう気風だからこそ、大企業が堅実に経営されているということなのかもしれない。本当に質素に使っている。
とはいえ東日本大震災の影響もあり、新庁舎の建設計画が具体的に動き出している状況である。

  
L: 国道6号に面しているのが日立市役所・第1庁舎。  C: その奥が第3庁舎。議会や市長室などはこちらの建物の中にある。
R: 「コ」の字型に第3庁舎・第2庁舎・第1庁舎が配置されている。左が第3庁舎で正面が第2庁舎。この右に第1庁舎がある。

 第2庁舎を裏側から眺める。左は第1庁舎。

さて、日立市は企業城下町として堅実に栄えているのはいいが、市街地にこれといった観光向きの場所がない。
しょうがないので、市役所からさらに少し北に離れたところにある「日立市かみね公園」まで歩いてみることにした。
「かみね」とは漢字で「神峰」と書き、麓の神峰神社から山の上へと公園化が進んでいった場所である。
9時をまわって動物園も遊園地も営業を始めたのだが、まだほとんど客はいない。寒いのでしょうがないのか。
遊園地は市営なのだが、小さい子ども向けの遊具がよく揃っていてちょっと感心してしまった。
多少寂れた雰囲気が漂っているが、日立市民の原風景として長く愛されているのだろうか。
山はけっこうな勾配になっており、がんばって動物園と遊園地を抜けると、芝生に包まれた丘に展望台がある。
ここからは日立の中心市街地が一望できてなかなかいい。冬の朝、南東向きなので厳しい逆光なのがもったいなかった。
あと、江ノ島の龍恋の鐘(→2010.11.27)みたいに、展望台に南京錠がびっちりたかっていたのはみっともなかった。

  
L: かみね公園の展望台。右は姉妹都市のアラバマ州・バーミングハム市から贈られたというバルカン像。
C: 展望台から眺めた日立市街。逆光のきつい時間帯だったが、街の細かいところまで見えるスケール感が好印象。
R: 反対側には、かみねレジャーランド。右にあるベージュの建物は吉田正音楽記念館。

日立市役所までが意外に遠く、かみね公園はさらに遠いし、もう見たい場所も特にないので、駅まで戻る。
せっかくなので、さっきの平和通りの南にある銀座通り(ひたち銀座もーる)を歩いて日立シビックセンターに出てみる。
平和通りが車のための道なら、銀座通りは歩行者主体の商店街。でもまだ朝早いので、それらしい活気はない。
企業城下町とはいえ、駅から離れているエリアはやはりどこか寂れつつある印象が漂っているのが残念だった。

しかしながら、けやき通りを渡って駅へ近づいていくと、イトーヨーカドーがそびえていることもあり、店舗の密度が上がる。
日立シビックセンターの北側は広場になっており、そこに横のイトーヨーカドーからアクセスできるようになっている。
イトーヨーカドー側はベージュでがっちりと城門のようなデザインが施され、シビックセンターは銀色のポストモダン。
実に豪快な空間で、日立市の企業城下町としてのエネルギーがここに一気に投入されている印象である。

  
L: ひたち銀座もーるは現代的な商業エリアだ。  C: ひたち銀座もーるの出入口はまるで城門(右がヨーカドー)。あまり趣味がよくない。
R: 日立シビックセンターを見上げる。図書館・会議室・スタジオ・ホールなどの複合施設。球体は「天球劇場」という名のプラネタリウム。

日立を後にすると、30分弱ほど揺られて勝田で降りる。次の目的地は、ひたちなか市役所だ。
ひたちなか市は1994年に勝田市と那珂湊市が合併して発足した市である。市役所は旧勝田市役所なのだ。
日立の企業城下町である勝田と海が売りの那珂湊という2つの中心がある状態はそのままで、
僕みたいにふらっと訪問する人間には、こういうタイプの街がいちばん困る。とりあえず、今回は勝田の方だけを訪れる。
いずれ機会をつくって、ひたちなか海浜鉄道にのんびり揺られて那珂湊や阿字ヶ浦や海浜公園に行きたいものである。

 
L: 勝田駅。しっかりと駅前が整備されている。  R: 勝田はとにかく道が広い! これも日立効果なのかねえ。

勝田での滞在予定はきっちり40分である。日立市と同様に道幅が広く、思っていたよりも距離がある街っぽい。
それで少し焦って、早足で東へ歩いて市役所を目指す。そしたら10分程度で無事に到着した。
でも行きで10分、撮影で10分、帰りで10分ということで、やはりそれほどの余裕がないのは事実なのだ。
手早く写真を撮影してまわる。今日は総選挙ということで、休日ながら市民の出入りがけっこう激しい。

  
L: ひたちなか市役所(旧勝田市役所)・本庁舎。1970年に竣工したとのこと。  C: 本庁舎エントランスを中庭を挟んで眺める。
R: 中庭とは逆の方から眺めた本庁舎。なんだか違和感のある構造。後ろはあとから増築したのかな? それとも手前を増築?

 
L: 中庭を挟んで東側にあるのが議事堂棟。  R: 議事堂棟をさらに東側から眺める。

撮影を終えると早歩きで戻る。予定よりも少し早めに駅に到着できたので、そのまま水戸まで戻って昼メシをいただく。
ドタバタして水郡線の列車に乗り込むよりも、余裕を持ってのんびり席を確保しておく方がいいに決まっている。
そんなわけで、カラフルな水郡線の列車に乗ると、常陸太田での行動を確認しながら発車を待つ。

水戸駅を出発してから17分後、列車は上菅谷駅に到着する。ここで反対側のホームに停車している列車に乗り換える。
郡山行きの水郡線は田園地帯から山間の県境へと向かうが(→2010.8.29)、常陸太田支線はひたすらに平野を行く。
本当に穏やかな田舎の農業地帯を豪快に切り開いていくように走るのだ。そうして終点の常陸太田駅に到着。
常陸太田駅の駅舎は昨年竣工したので非常にきれい。常陸太田支線のローカルぶりとの落差がけっこう印象的だ。
駅舎の中に入っている観光案内所でレンタサイクルの申込みをする。鍵をもらって電動自転車にまたがる。いざ出陣!

常陸太田の歴史は古い。関東七名城のひとつに数えられる(数えられない場合もある)太田城の城下町なのだ。
太田城の城主と言えば、北関東の雄・佐竹氏だ。そう、太田は佐竹氏発祥の地。鬼義重もここを本拠に暴れたのだ。
市制施行は1954年のことで、先に群馬県太田市が市制を施行していたため、「常陸太田」市となったのだ。

で、この常陸太田なのだが、実際に訪れてみるととにかく坂が凄い。わざわざ「凄い」と形容してしまうほどに凄い。
太田城が「鯨ヶ丘」と呼ばれる高台の北端に築かれたことで、城下町がその南側にまとまって形成されているのだ。
(この丘を東西にぶち抜いたトンネルは「鯨ヶ丘トンネル」という。しかし「鯨ヶ丘」とはものすごくいい名前だなあ!)
丘の上につくられた城下町というのは、僕の故郷である飯田にも似た状態である(→2006.8.13)。
しかし飯田の市街地が扇状地でしっかりと広い面積があるのに対し、常陸太田の鯨ヶ丘はかなりコンパクトなのだ。
そのため、近代化とともに市街地が丘の上の城下町から麓へとあふれ出した格好になっているのである。
だから地図で見ると連続している市街地の中に、容赦ない高低差が潜んでいるのだ。電動自転車じゃないと大変だ。
常陸太田駅は市街地の南端に位置しており、市役所は鯨ヶ丘をよける形で北東へ進んだところにある。
ところが僕は印刷した地図を持参していたにもかからわず、北上する道を間違えて鯨ヶ丘の西側に出てしまった。
(そもそも、市役所が鯨ヶ丘の上にあると勘違いをしていた。地図のスケール感を読み間違えたのだ。)
しょうがないので丘へ突撃して上りきって城下町の中に入ったんだけど、これは本当に強烈な坂っぷりだった。
そうして坂を上ったところにあったのは、昭和の穏やかさを存分に残す街並みと、歴史ある建物たちだった。

  
L: 市郷土資料館本館(梅津会館)。1936年に地元出身の実業家・梅津福次郎の寄付で竣工。1978年まではこれが市役所。
C: 市郷土資料館分館(旧太田共同銀行)。明治中期に建てられた。東日本大震災で受けた被害により現在は閉鎖中。
R: 常陸太田・鯨ヶ丘には現在も木造の古い建物がけっこう残っている。「鯨ヶ丘」という名前といい、文化レヴェルが高い印象。

ローカルな盲腸線の終点である常陸太田は、わざわざ訪れるだけの価値のある街並みをしっかり保っていた。
高低差が生み出す歴史と不便さが、見事な建物たちを今も残す効果を生んでいたのである。夢中でシャッターを切る。
鯨ヶ丘の旧城下町をあちこちさまよいながら、この街が歴史を通じて守っている豊かさを実感して過ごす。

  
L: 旧稲田屋赤煉瓦蔵。1910(明治43)年築で、稲田屋は造り酒屋とのこと。この周辺は人がいっぱいで賑わっていた。
C: 現在は日用雑貨を売る店舗だが、かつては薬局だったようで、今も当時の木の看板が軒下にずらりと並べられている。
R: 鯨ヶ丘は全体的に、昭和の趣を感じさせる街並みとなっている。とても居心地のいい場所だった。

とはいえ、いつまでものんびりとしてはいられない。常陸太田は見どころがいっぱいある場所なのだ。
冬の昼間はもたもたしていると、あっという間に暗くなってしまう。テンポよくまわらないといけないのだ。

 板谷坂より常陸太田の低地の市街地を眺める。この高低差はけっこう厳しいよ!

あらためて地図を眺めると、どうも常陸太田市役所は鯨ヶ丘から東へ下ったところにあるようだ、とわかる。
せっかくの位置エネルギーがもったいないのだが、意を決して坂を下っていく。切ないったらありゃしない。

板谷坂を注意深く下ってそのまままっすぐ行くと、右手に大きな白い庁舎建築が現れる。
市役所がないよー!とさんざん城下町をうろうろした後で、これだけわかりやすい市役所ぶりを見せつけられると、
自分の愚かさが情けなくってしょうがなく思える。でも気を取り直し、逆光と戦いながら撮影を始める。

  
L: 常陸太田市役所。1978年の竣工。けっこう規模が大きい。  C: 正面より撮影。休日にしても閑散としすぎている感じ。
R: 裏手の駐車場はとっても広い。耐震補強工事をやっているみたいで、後ろ側は仕切られて入れない部分があった。

鯨ヶ丘から降りてしまえば土地は余裕を持って確保できるようで、常陸太田市役所の裏手の駐車場は広大だった。
レンタサイクルにまたがりながら快調に撮影を済ませると、もう一度意を決して坂道を行き、鯨ヶ丘に挑むのであった。

なんとか上りきって再び城下町に入る。次の目的地は、茨城県立太田第一高等学校だ。
ここの旧講堂が1904(明治37)年竣工の重要文化財ということで、ちょろっと拝見するのである。
正面入口からお邪魔するが、それっぽい建物が見当たらない。しょうがないので脇の方から奥へ抜ける。
するといかにも高校らしい部室棟が左手にあって、一気にノスタルジーを感じてしまう。
旧講堂は一目瞭然、その部室棟からテストコートを挟んだ向かいにある。校舎の裏手に静かにたたずんでおり、
撮影するのになかなかこれといったポイントがないのが残念だった。なんとももったいないなあ、と思う。

 
L: テニスコート越しに眺める茨城県立太田第一高等学校・旧講堂(旧茨城県立太田中学校講堂)。
R: なかなかいい撮影ポイントがない……。まあ学校内で積極的に公開する施設じゃないからしょうがないけど。

そのまま太田城址に行こうとするが、やっぱり地図のスケール感が合わなくって、もう一度坂を下りてしまった。
しょうがないので丘の上の様子を見ながら上がる坂を決めるべく、少し南へと移動する。難しい土地である。
太田城址は現在、市立太田小学校となっている。そのため、これといった遺構は残っていないのだが、
まあいちおうやっぱり訪れておきたいじゃない。というわけで、坂を上がって小学校の裏手に出ると、正面にまわる。

 
L: 太田小学校。太田城址であることを示す石碑がある。でもそれ以外に過去の栄光を示すものはない。
R: 小学校のすぐ近くにある空き地。敷地も真四角(正方形)で意味ありげ。こっちの方が城跡っぽいけど、何なんだろう?

さっき太田第一高校の脇にある坂を下ったのだが、それは西山荘へ行く道なのだ。
常陸太田は佐竹氏の本拠地であったのだが、同時の徳川光圀が隠居して『大日本史』を編纂していた地でもあるのだ。
その光圀公が暮らしていたのが西山荘。当然、見に行かなくてはなるまい。快調に西へと自転車をすっ飛ばす。
西山荘は手前に駐車場と売店があり、そこからしばらく奥へ進んでいったところに入口が位置しているのだ。
入口までの空間も日本庭園になっており、なんだか鎌倉を思い出す(→2010.11.192010.11.272010.12.11)。

700円払って中に入る。西山荘は現在も徳川ミュージアムが管理・運営している施設なのだ。
冬の西日が非常に強烈なのだが、それすら陰影の演出となっているように思える。一気に引き込まれる感じ。
そうして庭園内をぐるっとまわって現れるのが、光圀が暮らしたという建物。実際のものは焼失してしまったが、
1819(文政2)年に再建されたのだ。徳川御三家・水戸藩主だった人物のものとしては、とんでもなく質素である。
山に囲まれた静かなこの土地で質素に暮らして最期を迎える。さすがは光圀公だ、と唸ってしまった。

 
L: 西山荘へと向かう道。鎌倉の日本庭園たちをなんとなく思い出すのであった。
R: 入口から西山荘を覗き込む。写真は個人で楽しむ範囲で撮影可とのこと。この光景だけで気品を察していただきたい。

最後に、佐竹寺へ向かう。佐竹寺は少し離れた位置にあり、じっとりとした坂を上ったところにある。
歩きだったら少し躊躇してしまうが、レンタサイクルの電動自転車で行けば特に問題ない。
そんなわけで快調にグイグイペダルをこぎながら坂を上がっていく。冬の日差しは強弱がきついので、
できれば早く到着して少しでもいいコンディションで撮影したい。……そう思ってペダルをこいでいたのだ。

「あ。左足側のペダルが下がっている」と思った次の瞬間、事故が起きた。
田舎には車道と歩道をブロックが区切る道がよくあるのだが、そのブロックの垂直な断面に、左足がペダルごと激突した。
僕はよく、自転車で車道を走っているときに、後ろから来る車の邪魔にならないように左の歩道側に寄る動きをやる。
いつもは歩道のブロックに当たることがないように左足側のペダルを上げているのに、その瞬間だけは下げていた。
左足の爪先を軸にして、自転車が右前方に浮き上がる。「しまった!」と思ったときには完全に体が投げ出されていた。
運がいいことに後ろを走る車とは距離があったようで、起き上がって振り返ったら車が停まっていた。素直に謝る。
自転車を起こして歩道まで寄っていき、いま左足をぶつけたばかりのブロックに腰かける。左足がしびれて感覚がない。
怪訝そうに僕を見て走り去る運転手のおばちゃんを見送ると、ため息をつく。左足の靴は、ヒモを通す穴から裂けていた。
痛さと熱さは感じるのだが、それ以上にしびれていて、細かい感覚がまったくない。立ち上がる気になれない。
現場の向かいにいたおっさんが「大丈夫か」と声をかけてきた。正直、大丈夫じゃない。でもどうしょうもない。
しばらくそのまま途方に暮れる。左足首から下は一向に感覚が戻ってこないし、右脇腹もひねって筋を違えたようだ。
上り坂だったから、そんなにスピードは出ていなかったはずだと思う。でも、足は今までにないダメージを食っている。
これは足の指の骨が折れているかもわからない。でも靴を脱いだら最後に思えて、そのまま様子を見る。
もうとても佐竹寺まで行く気なんて起きない。ここは茨城、家は東京、足にケガ。ただ途方に暮れることしかできない。

落ち着いて考える。常陸太田を脱出するには、やはりあと30分ほどで出る水郡線の太田支線に乗るしかないのだ。
それで水戸まで戻ったところで医者を探すことになるだろう。日曜日の午後、タイミングとしては最悪だ。
でも同じ30分を待つのなら、もうちょっと先に行った佐竹寺を見ても結果は大して変わらないはずだ。そう結論が出た。
現場は坂道がちょうど終わるところだった。よろよろしながらペダルをこいで、しばらく進むと山門が見えた。
まだしびれている左足が熱くてたまらないが、そこは感覚を切り離してデジカメを構える。われながらすごい根性だ。
山門も見事だったが、さすが重要文化財だけあり、茅葺きの本堂はさらに美しい。左足を引きずりながら歩きまわる。

  
L: 佐竹寺の山門。1940年の再建とのこと。  C: 佐竹寺本堂。佐竹義昭が1546(天文15)年に太田城の鬼門除けとして再建。
R: 本堂の正面、唐破風の下をクローズアップ。さすがに見事なものである。左足のことを一瞬忘れて感動したわ。

佐竹寺はその名のとおり、佐竹氏の名のもとになった寺だ。ここで源昌義が節が1つだけの竹を見つけたんだそうで、
これはめでたいってことで「佐竹」という名字にしたという。往時のことを考えると現在の静かなたたずまいはやや淋しいが、
しっかりと歴史を感じさせる建物が残っていること自体、すごいものだと思う。とりあえず、左足が大ごとでないように祈願。

 唐破風の鬼瓦にはさすが、佐竹氏の家紋「扇に月」がついていた。

痛みと熱さとしびれが混ざった左足をこれ以上無理はさせられないので、ひととおり撮影を終えるとすぐに駅まで戻る。
注意しながら一気に坂を下って国道に出ると、そのまま常陸太田駅の観光案内所に戻ってレンタサイクルを返却。
佐竹寺の手前で転んだことを素直に伝え、自転車に異状があったら連絡してもらうようにお願いした。申し訳ない。

 
L: 足が痛くても撮影はきちんとするぜ! 真新しい常陸太田駅。まさかケガした状態で撮影することになるとは……。
R: 最果てはこんな感じ。もうこの写真だけで、常陸太田の街に凄まじい高低差があることがわかるでしょう。

15時12分、列車は常陸太田駅を出発する。とにかく今はじっと耐えることしかできないので、おとなしく揺られる。
水戸に着くと、足を引きずりながら改札を抜けて観光案内所へ。日曜の午後だがやっている医者がないか問い合わせ。
駅ビル1階に内科だが診療所があるということで、受付に行ったのだがまったく相手にしてもらえなかった。
せめて氷だけでもいただけませんかとお願いしたが拒否された。中が混雑していたのは事実だが、この対応はないと思う。
自分のせいでケガをしたわけだし、ワガママを言うつもりもないが、水戸の街のホスピタリティには疑問を感じざるをえない。
夏には駅の南北での連絡に苦しんだが(→2012.8.5)、観光客や旅行者に対する姿勢が非常に冷淡な印象しかない。

駅ビル内にある薬局で湿布を購入すると、上野行きの列車の中で靴を脱いで、それをべったり貼り付ける。
左足の爪先は真っ赤に腫れ上がり、特に親指は内出血で爪が真っ黒。とんでもないことになってしまった、と愕然とする。
湿布だけだと焼け石に水で、苦肉の策でMacBookAirを足の上に乗せて無理やり冷やす。でもすぐにあったまってしまう。
MacBookAirのあらゆる場所を使って冷やし続ける。コンビニで氷を買いたかったが、とてもそこまで歩けなかった。
上野に着くと、湿布を爪先に巻いたまま、ヒモを締めずに靴を履いてのそのそとホームを移動する。
そんなこんなで、どうにか根性で家にたどり着くことができた。さあ、明日からどうしたものか……。


2012.12.15 (Sat.)

本日は授業日で学校公開日。英語の授業が1本と論語についての発表、という内容なのであった。
学年で打ち合わせをしているうちに漢文好きであることがバレたので、講評を担当することになってしまう。
とりあえず生徒たちにいつもの「学而不思則罔。思而不学則殆。」(→2007.7.27)を紹介してお茶を濁す。

雨が降ってきたので部活を中止にして、予定より早めに蒲田へ出ることにした。
池上線を利用したのだが、よく考えたら、池上線に終点までしっかりと乗るのは初めてのような気がする。
で、蒲田では区役所に行って、期日前投票をする。これまた、期日前投票をするのは初めてである。

土曜日ながら区役所は投票目的の人でけっこういっぱい。2階の会議室2つをぶち抜いた部屋が投票所なのだが、
しっかりと列ができているのであった。そしたら僕の選挙区は3区なので、空いている方の列へ通された。
選挙の用紙の裏に名前などを書いてから列に並んで投票。石原が辞めちゃったので今回は都知事選もあるのだが、
やはり総選挙に比べるとかなり地味になってしまった印象である。かつてのお祭り騒ぎが恋しいぜ。

投票を終えると駅ビルを軽くぶらついて、再び池上線で帰る。仕事と休みのちょうど中間って感じの日だった。


2012.12.14 (Fri.)

金曜日で放課後に部活がないので生徒からの相談を受けたよ。
相談なので中身を詳しくここで大公開するわけにはいかないのだが、なかなかびっくりしました。
正直、僕はちょっとオトナになった気分でした。30過ぎて今さらオトナもクソもないんだけどね、まあ。
その分だけ自分自身の中学校生活が遠ざかっているから気をつけなくちゃいけないのもまた確かなのだが、
とりあえず、なんというか、自分が自分のことをいちばんわかっていないという事実を知らされた感じですわ。
それだけだ。それ以上はもう何も出ないよ!


2012.12.13 (Thu.)

教員免許更新講習(→2012.8.7)で出てきた映画を見てみようシリーズ、『ホリデイ』。
行きつけの美容院で再生しとったのがこの映画だという事実がわかったこともあって、見てみたわけだ。

話の流れは実にコテコテでございますなあ。昔の少女マンガみたいである。ステレオタイプそのまんま。
丁寧といえば丁寧なんだけど、だらだらだらだら、非常にテンポが悪い。さらにはイチャイチャチューチュー始まって、
もう見ちゃおれん感じですよ。女性をターゲットにしたラブコメ映画ってこんな感じなんですかホエー、と思うしかない。

いちおう英語の勉強と思ってセリフを注意して聞いてみたのだが、やっぱりわからんものはわからんのである。
そしてキャメロン=ディアスの大げさなリアクションを見ていると、やつらの価値観はわからんわ、と思ってしまう。
それでよけいに、「英語をわかる」ということが、妙に遠いことに思えてしまったのであった。

講義の内容と照らし合わせると、確かにメタ的に映画への言及があるわ、と気がつく。
映画は時代に合わせて変化してきたし、また映画というメディアの立ち位置も時間の流れの中で相対的に動いてきた。
そのことは否定してもどうにもならないことで、ただひたすらに肯定して新たな作品をつくり続けていくしかない。
生活と恋愛で翻弄されながらも生きていくしかない面々と、つくられるしかない映画というメディアとが、重なって見えた。

結論1: ジャック=ブラック(→2012.1.27)はラブコメをやるなよ。お前のツラはラブコメをやるようにはできておらんぞ。

結論2: ラブコメってジャンルがなくなってしまえばええんよ! いくら俳優と女優がチューチューしても僕は救われんのよ!


2012.12.12 (Wed.)

4時間目の授業中、3年生たちが急にソワソワしだす。そして「先生、ちょっと待って」と授業を止める。
いったいなんなんだ、と思ったら、みんなそろって時計を凝視している。僕も振り返って見るが、特に変わったことはない。
「ほらほら、12分になったよ!」と言いだす生徒がいて、そこでようやく事態が呑み込めた。
つまり今日は2012年12月12日、そして12時12分12秒ということで、「12」が並びまくる日だったのだ。
そのうち生徒たちはカウントダウンを始めて、無事に2012年12月12日12時12分12秒を祝うことができたのであった。
僕はそういうものにまったく興味がないので、はいはいよかったねおめでとさん、さあ授業やるよ、と再び黒板に向かう。
世間の皆さんはそれなりに盛り上がったんですかね。まあ、何かしら日常を楽しむ材料があるってのはいいことだけどね。


2012.12.11 (Tue.)

『デザインあ』が凄いという話なので、録画しておいてまとめてチェックしてみたら、まあこりゃ確かに凄い。
日本には「キレている子ども番組」の系譜があるが(→2004.7.14)、近年では出色の番組と言えるだろう。

この番組ではコーネリアスの音楽がきわめて重要な要素になっている。主張しすぎない穏やかな音楽は、
あくまで映像に出てくる主人公であるデザインたちを確かなグルーヴによって紹介してくれている。
BGMのリズムに合わせて、多数のカットによってテンポよくデザインされたものたちが登場してくるのだが、
セリフによる説明が行われる場面はほとんどなく(やるときは徹底してやるが)、映像でわからせるこだわりを感じる。
その映像も本当にていねいに編集されているのがわかる。カットのひとつひとつがよく考えられていて、
それを惜しげもなく思いきったタイミングでガンガンつないでいく。贅沢なつくり方をしているのである。
『デザインあ』では必ず歌が登場するのだが、これが非常に上手くつくられていて、ことごとく感心してしまった。
いちばんきれいに撮れた映像をつないでいったPVのようになっているのだが、ふつうのPVにある物語性がないのがいい。
動作とそれをめぐる美しさというデザインの根源的な部分だけがクローズアップされているので、物語性がない。
だからただ純粋に、デザインが付加した動作の美しさをリズムに合わせて堪能すればいいのである。純粋なのだ。

「デッサンあ」で、絵を描いている人たちの真剣な表情を見せるのもまた面白い試みだ。
作品という結果だけでなく、つくる過程、さらにはつくる姿勢に焦点を当てている。
本来、デザインとは容赦ない世界で、いいものは絶対的にいいし、ダサいものは絶対的にダサい。
しかしデザインに取り組む姿勢を中心に据えることで、誰にでも可能性は開かれていることを教えてくれる。

優れた子ども番組の重要な必須条件は、子どもの想像力と創造欲を刺激することである。
『デザインあ』はテーマとしている「デザイン」という言葉の守備範囲の広さそのままに、
子どもたちに対して(そして大人にも)次から次へと「デザインされたもの」たちを投げつけていく。
デザインとは本質的に手段であり、目的になることはない。だからこの番組も、ただ投げつけるだけで終始する。
受け手を興奮させるヒント集としてデザインを語り続ける。実に挑戦的な態度であると思う。
自らを手段であると割り切っている子ども番組の登場は、なかなか刺激的な事件である。


2012.12.10 (Mon.)

『ロックカン サウンドE缶』を購入してしまったのだ。これは『ロックマン』の1~10までのBGMを収録した10枚組CDだ。
つまりCD1枚にソフト1本分の音源が収録されているのだが、それだけでなく、PS版のナビモードでアレンジされたBGMや、
ボスキャラ応募のおまけCDに入っていたアレンジヴァージョンまで入っているのだ。なかなかの充実ぶりとなっている。

『ロックマン2』と『ロックマン3』の原理主義者である僕からすると、オリジナル音源はもう十分知り尽くしているし、
それだけにナビモードのアレンジは納得のいくレヴェルには達していないし、正直ちょっと消化不良なところはある。
でもボスキャラ応募おまけCDのアレンジヴァージョンが再び日の目を見たのは、心から歓迎したい事態である。
まあ、ファンへの踏み絵として買っておくべきCDというところだろう。それをわかっていたから迷わず買ったんだけどね。

しかしさすがに、オリジナル音源をめぐる商売はこれで終わりだろう。今後はぜひ多様なアレンジが主役となって、
『ロックマン』シリーズのBGMが評価され続けるといい。原曲が良すぎる分、気の利いたアレンジは本当に少ないのだ。
ぜひ、原曲の雰囲気を保ったまま構成を工夫したアレンジが定期的に発表されるようになるといい。心底そう願っている。


2012.12.9 (Sun.)

フィギュアってそんなに面白いかね? スポーツニュースではやたらとフィギュアスケートを扱っているんだけど、
僕にはフィギュアの何が面白いのか、どこが魅力的なのか、ぜんぜんわからない。マスコミと温度差を感じている。
前にも同じようなことを書いたけど(→2010.2.27)、あれから3年近く経っても僕の興味はまったく向かない。

いかに美しくふるまうか、という競技はほかにもある。シンクロナイズドスイミングしかり、新体操しかり。
しかしフィギュアだけが特別扱いされている。それは単純に、日本勢が一定の結果を残しているからだろう。
世界各国がシンクロの強化を始めて日本の地位が相対的に低下したことで、シンクロの注目度が落ちているのは明らか。
同じことがフィギュアでも起きれば、この状況は簡単に変わってしまうだろう。所詮、その程度の関心にしか思えない。

きちんと日本勢以外のフィギュアの演技を見ている人がどれだけいるのか。大切なのは、その部分だ。
僕はロンドンオリンピックでたまたま個人新体操の中継を見て、それがあまりにすごかったので結局最後まで見ちゃって、
これは恐ろしい世界だなあ……と諦めにも近い感覚をおぼえてしまった。でも、純粋に見とれてしまった。
残念ながら日本人選手はそこに登場しなかったのだが、それでも競技じたいの魅力はきちんと感じ取ったつもりだ。
果たして、日本人とかそういうことを抜きにして、フィギュアを見ている人がどれだけいるのか。
僕には現状の扱い方が、単純に「日本人だから」ということだけで騒いでいる、低レヴェルな興味関心にしか思えないのだ。
それは競技に興味を持つきっかけにはなっても、本当に競技を理解することとは別の次元であるはずだ。
そこのところをまるっきり無視して、騒げるうちに騒いでいる。そういう姿勢は非常に空疎であると僕は思うんだが。


2012.12.8 (Sat.)

先月はテスト前にも特にどこにも行かなかったのだが、その分だけ今月になってどっか行きたい欲が湧いている。
というわけで、今日は部活の予定がないのでお出かけチャンス。近くて遠い埼玉県北部を攻めてみることにした。
残念ながら冬の青春18きっぷ期間にはまだなっていないので(12月に入ったら即、使えるようにしやがれJR!)、
ホリデー・パスを使おうかな、と思ったら、なんとホリデー・パスは廃止されてしまっているのであった。
かわりに「休日お出かけパス」なるものが売り出されているのだが、2600円と値段が高くなっているのである。
その分だけフリー区間が広がってはいるんだけど、寄居・神保原・足利・自治医大・下館・君津などが終点。
この非常に中途半端でセコいやり口には怒りをおぼえる。堂々と商売しやがれJR、とムカつきながら電車に乗り込む。

高崎線に揺られてまず降り立ったのは本庄駅。まずは本庄市役所からスタートするのである。
しかしながら土曜日だというのに本庄駅は学生だらけ。高校生も大学生も駅構内にあふれている。
本庄ってそんなに学校の立地条件として優れた土地なのかね、と首を傾げつつ、高校生に押されながら東口に出る。
駅からまっすぐ東へ歩いていくのだが、途中で高校生たちは右へ曲がって去っていく。でもスクールバスが脇を走り去る。
あらためて、本庄の学校だらけっぷりに驚くのであった。で、トボトボと10分ちょっと歩くと市役所が現れる。

  
L: 本庄市役所。竣工は1992年、設計は佐藤総合計画。左が議場で右が事務オフィスとなっている。
C: 敷地南側の駐車場より撮影。  R: 元小山川に架かる写塔橋から眺めたところ。ここが本庄城址だってことに納得。

本庄市役所は元小山川に面した位置にある。台地が川で終わる、ちょうどその境目のところにあるのだ。
かつては本庄城があったという場所で、言われてみればなるほど、城を建てたくなるであろう立地だ。
現在はその場所に市役所が建っているわけだが、1992年竣工の平成オフィス庁舎はなかなかの威容である。

 
L: 本庄市役所の中庭。見えすぎちゃって困るんじゃねえかってくらいにガラス張りである。
R: 駐輪場が面白かったんで撮影。この螺旋の中に自転車の前輪を入れる仕組みになっているのね。

本庄の市街地は国道17号沿いが旧街道の雰囲気を少し保っていたが、特にこれといって行きたい場所もないので、
素直に次の目的地へ移動することにした。10分ほど揺られて南に戻って深谷駅。次は深谷市を探検してみるのだ。

  
L: 深谷駅。かつて深谷でつくられたレンガが東京駅に使われたってことで、このデザインに。1996年竣工。
C: 深谷駅前は広大な駐車場ばかり。キンカ堂深谷店が解体された結果らしいのだが、虚しさを強く感じさせる。
R: この地で生まれた澁澤栄一のからくり時計は修理中で、ゆるキャラの「ふかっちゃん」がクリスマス仕様で回っていた。

まずは当然、深谷市役所である。市役所は国道17号沿いにあるのだが、駅から国道17号まで少し距離があるので、
トボトボと東へ歩いていく。しばらくして到着したのだが、駐車場や道路で敷地にけっこう余裕がある感じの市役所だ。
建物じたいはけっこう古めで、木々がやや多くて全容がつかみづらい。駅前に限らず、市役所も駐車場が多い。
そういえば駅から市役所までの街並みも、どこか余裕があってゆったりとしている。密度の低さを感じるのだ。
埼玉も北部まで来ると、だいぶのんびりとした都市化・宅地化をしているのかな、と思う。

  
L: 深谷市役所の側面。深谷市役所は1966年竣工で、設計は石本建築事務所。1974年竣工の別館も石本だとさ。
C: 深谷市役所の正面入口付近。  R: 深谷市役所はなかなか全体像をつかめない建物なのね。

深谷市役所の撮影を終えると、そのまままっすぐ北へと歩いていく。ただひたすらに、歩く。
深谷を訪れることを決めた際、何か見るべき名所はないかと調べてみたところ、「重要文化財・ホフマン窯」が目についた。
今日は時間的にけっこうフレキシブルに動けるので、のんびり歩いてそこまで行ってみることにしたわけだ。
距離がたっぷりあることはわかっているので、のんびり気ままに歩いていく。たまにはそれもいいもんだ、と思い込んで歩く。

すると途中で興味深い光景に出くわした。道のど真ん中に木が立っている。まるで一里塚のようだと思う。
近づいてみたら、庚申供養塔が建っていた。裏側には建てられた経緯を説明した文が彫られている。
それによると、かつてここにあった庚申供養塔を撤去して道をつくったら事故が重なったため、
再び供養塔を建てて地蔵を祀って今のような形にしたんだそうだ。「昭和五十五年十二月庚申之日」と日付がある。
わりと最近のことに驚いたが、そういうもんかもしれんなあ、と妙に納得してさらに北へと歩いていく。

庚申塔を後にして畑の中をしばらく歩くと、やっとこさ国道17号の深谷バイパスに出る。
先ほど本庄での17号はきちんと街道だったが、こちらはバイパスだけあり、完全に広大な田園地帯を駆け抜けるための道。
人間が歩くことを前提としていない雰囲気満載である。そんなスピード全開の車道のすぐ脇を歩くのが怖かったので、
一本北に入った穏やかな農道を歩くことにした。関東平野のど真ん中、見渡す限り田畑の中をひたすらトボトボ歩くのは、
なかなかにつらい。霜が降りるほどに冷え込んでいた空気が、冬晴れの日差しでゆっくりとあたたまっていたのは幸いである。
途中、かつて日本煉瓦製造の工場と深谷駅を結んだ貨物線跡を横切る。今は「あかね通り」という遊歩道になっている。

  
L: 道のど真ん中の庚申供養塔。この供養塔のために道路が畑の一部を削ってつくられているのがわかる。
C: 供養塔をクローズアップ。これだけ見事な状態になっている事例はなかなか見かけないので驚いてしまった。
R: あかね通り。駅から工場までの4.2kmがそのまま遊歩道になっているのだ。これを歩けばよかったなあ。

しばらく深谷バイパスに沿って東へ歩いていたのだが、県道275号の案内板を合図に左折して北上。
雰囲気は農地の中の静かな住宅へと変化する。これをまっすぐ行けば、日本煉瓦製造の工場跡に着くはずなのだ。
ところがその手前にある川を渡る橋が架け替え工事中ということで渡れない。少し戻って遠回りして、仮設の橋に出る。

そうしてやっとの思いでようやく日本煉瓦製造工場跡まで来た。現在はその敷地の大半が売却済みなのか、
新しい事務所だか工場だかを建設中の模様で、工事車両がガンガン出入りしていた。敷地内に入れそうにない。
とりあえず日本煉瓦製造の旧事務所に近づいてみる。こちらの建物も重要文化財で、煉瓦史料館になっているのだ。
そしたら門は固く閉ざされており、そこにあった文字に愕然とする。煉瓦史料館は無料公開ではあるのだが、なんと、
毎週金曜日の10時~15時しか開かないのである。そんなの社会人には絶対に無理じゃん!
せっかくここまで歩いてきたというのに、とんでもない仕打ちを食らってしばし茫然と立ち尽くしてしまったよ。
深谷は循環バスも一日3本程度でまったく利便性がなく、帰りも同じ距離を歩かないといけない。ため息すら出ない。

 
L: ホフマン輪窯六号窯。外見は非常に大雑把な建物なのだが、中身は廃墟マニア垂涎のスポットになっているらしい。
R: 日本煉瓦製造株式会社・旧事務所。1888年ごろ竣工とのこと。現在は日本煉瓦史料館となっているが……がっくりだ。

帰りはそのまま県道275号をストレートに南下していくことにした。途中の楡山神社にちょいと寄って参拝。
楡の森があったことからその名がついたそうだが、「延喜式」にも名前が載っている由緒正しい神社だそうだ。
ちらっと覗き込んだら本殿がとても色鮮やかで驚いた。やはり歴史ある神社ってのはただものではないのだと実感。

深谷中央病院の脇であかね通りと交差して、さらに南へ。そうして深谷商業高校の中へ。
こちらの1922(大正11)年竣工の旧校舎が深商記念館となっているので、当然見に行くのだ。
……が、なんと改修工事中で中身がまったく見えず。「またかよ!(→2012.10.8)」とがっくり。
さっきの日本煉瓦製造といい深商記念館といい、どうもツイていない。流れがよくないなあ、とションボリ。

 
L: 楡山神社の御本殿。さすがの風格。  R: 工事のシートで覆われている深商記念館。もうがっくりですよ。

なんだかもう、悲しくなってしまった。本当に今日はついていない、と肩を落とすが、どうしょうもない。
こういうときにはさっさとメシを食って無理やりにでもポジティヴになるしかないのだ。市街地に戻ったところで、
花まるうどんで毎度おなじみのメニュー・かけ大&とり天をいただく。寒い日にあったかいうどんは効くのなんの。

最後に、深谷城址をきちんと見ておく。深谷城址は現在、深谷城址公園として整備されている。
周囲は城跡らしく石垣で囲まれているが、これはそれっぽくつくったものであって、本物ではないんだと。
敷地の中心には深谷市民文化会館があり、その手前は広場となっている。隅っこには遊具があり子どもがウジャウジャ。
外周りを城っぽくつくっているだけで、中は特に城らしい風情はない。まあ、都市化した平城はそんなもんかな。

 
L: 深谷城址公園の入口。それっぽくつくってある。  R: 深谷城址公園の真ん中には深谷市民文化会館。

深谷ではとにかく歩いた歩いた。本当につらかったぜ。レンタサイクルがあればいいのにねえ。
澁澤栄一関係の観光資源は西にあっていろいろ散らばっているので、深谷市の当局には考えてもらいたい。

本日最後の目的地は、行田市である。埼玉県は北から南まで宅地化された街でできているようなものだが、
行田市はいま、大いに沸いている。そう、映画『のぼうの城』(→2012.11.24)ブームで沸いているのである。
作品の舞台となった忍(おし)城は、行田市の市街地の真ん中にあるのだ。こりゃまあぜひ行ってみようというわけなのだ。

しかしながら、行田の市街地へのアクセスはなかなかややこしい。高崎線の行田駅は市街地からけっこう遠いのだ。
そこで、熊谷で秩父鉄道に乗り換えて行田市駅から攻めることにした。これなら、すぐに市街地へ入れる。
しかし秩父鉄道は本数が少なくて値段が高い。しょうがないので熊谷駅のパン屋で日記を書いて時間調整。

秩父鉄道は地元のローカル鉄道としての役割を全うしており、なかなかの乗車率なのであった。
熊谷から2駅行くと行田市駅。僕を含めて5~6名の観光客がホームに降り立った。階段を上って改札を抜ける。
市街地方面の南口に出て、軽く途方に暮れる。まず観光案内所で情報収集したいのだが、その観光案内所がない。
しょうがないので、印刷しておいたGoogleマップを参照しながら、まずは行田市役所を目指すことにした。

  
L: 秩父鉄道・行田市駅。市街地に近い駅なので賑わっているかと思ったら、ぜんぜんそんなことなかった……。
C: 行田は足袋で有名だった街、ということで、足袋とくらしの博物館。かつての足袋工場を利用している施設。
R: 武蔵野銀行・行田支店。忍貯金銀行として1934年に竣工した建物。足袋会館としても使われたことがあるそうな。

市役所へ向かう途中、行田市の観光情報館があったので迷わず寄る。行田は「のぼうバブル」の真っ只中ということで、
やはり観光客がけっこう多く訪れている模様。観光情報館では特設テントで何やら特産品を売っているのであった。
しかし僕にとってはとにかくレンタサイクルを借りることが重要なのだ。さっそく館内に入って訊いてみると、
最寄のレンタサイクル受付は郷土博物館になるとのこと。郷土博物館は忍城址にあり、市役所の先にあるので、
あらためて行田市役所を目指してそのまま西へ。そしたらしっかり工事中の庁舎が見えてきて、もう本当にがっくり。

  
L: 行田市役所。逆光もひどいしまたしても工事中だし、本当に今日は運が悪い……。1969年竣工だとさ。
C: 反対の忍城址側から眺めた行田市役所。  R: これは後で忍城三階櫓から眺めた行田市役所。うーん、特にないです。

さて肝心の忍城址である行田市郷土博物館は行田市役所のすぐ近く、ほとんど隣といっていい位置にある。
水城として有名な忍城だったが、現在は一部の堀を残すのみとなっており、ほぼすべてが埋め立てられている。
忍城址では三階櫓を1988年に再建しており、そこだけ内堀を残して雰囲気だけは伝わるようにしているのだ。
のぼうバブルの真っ只中ということで観光客がけっこういる。甲冑を着た地元の方たちが何やらイベント中である。
櫓の撮影を終えると、正面にまわり込んで行田市郷土博物館の中に入る。博物館内もなかなかの賑わいだ。

  
L: 忍城三階櫓。行田市郷土博物館の附属施設として1988年に郷土博物館とともに竣工している。
C: 城址内にある鐘楼。  R: 行田市郷土博物館。忍城関連だけでなく、足袋についての展示も充実している。

行田市郷土博物館の展示でまず目を引いたのは、鎌倉時代のものだという板碑。梵字を刻んだ石碑なのだが、
まずそのサイズに圧倒された。800年前のものがこれだけしっかり残っているってことに、ただ感動。
そしてなんといっても、忍城の模型である。その姿はまさに、水に浮いている城そのものだった。
忍城は沼地に点在する島にそのまま橋を渡すことで城郭としたそうだが、その徹底ぶりには驚いた。
奥にはかつて行田の名産品だった足袋についての展示があり、順路の最後は三階櫓に上る構成になっている。
三階櫓からは行田の街を眺められるが、鉄筋コンクリートの模擬櫓のわりには窓が小さく、非常に外が眺めづらかった。
おまけに産業文化会館が邪魔で、忍城籠城戦で石田三成が本陣を敷いたという丸墓山古墳が見えない。
なんとも消化不良な気分で見学は終了。それでもどうにか気を取り直し、受付でレンタサイクルの申込みをする。

 
L: 三階櫓から、石田軍が本陣を敷いたという丸墓山古墳の方向を眺める……が、産業文化会館が邪魔で見えん!
R: こののぼりは面白いですな。『のぼうの城』でターニングポイントとなったセリフを、うまく取り出している。

レンタサイクルさえ借りることができればこっちのもの。勢いよく南へと走って次の目的地へ。
『のぼうの城』では正木丹波守が守った「佐間口」の跡である佐間の交差点から西へ入り、水城公園へと向かう。
忍城の外堀を利用して公園とした場所で、かつての水城の雰囲気を味わえる唯一のポイントとなっているのだ。

  
L: 水城公園、南側の様子。かつての水城の雰囲気を味わえるのは今ではここだけとなってしまっている。
C: こんな感じの場所も。  R: 水鳥たちが闊歩していて、のん気に道を横切る光景ってのはけっこう珍しいよね。

水上公園を出ると、佐間の交差点まで戻ってそこから一気に南下。目標は、さきたま古墳公園。
地図だと近そうに思えたのだが、これが意外と距離があった。郷土博物館見学中からやたらと風が強くなっており、
細かく砕かれた枯れ葉のかすが目に入って痛い。ペダルをこぎながら夢中で格闘していたら、広い野原に出た。
手元の地図で確認して、さきたま古墳公園に到着したのだとわかった。いや、それにしても、とにかく広い。
一面の冬枯れした芝生に赤茶色でサイクリングロードが引かれている。こんな広大な土地がいきなり現れて、
思わず戸惑ってしまった。雰囲気としては整備中のところを仮にオープンさせた感じになっている。
しかしそんな場所を自転車で飛ばすのは、ものすごく快調。高低差がないのでめちゃくちゃ気分がいい。
木々が集まっている中に、ぽこっと小高い山がある。言わずもがな、あれが丸墓山古墳だ。ひたすら突進する。

  
L: さきたま古墳公園に到着。とにかくだだっ広い。なんでこんなに平らで広い土地が残っているかすごく疑問だ。
C: サイクリングロードは整備されたばかり。これを走るのが、もう、ものすごく気持ちいいのなんの。
R: 丸墓山古墳に到着。さっきも書いたが、忍城籠城戦では石田三成が本陣を敷いたという場所なのだ。

しかしさっきも書いたように、急にものすごい勢いの風が吹き荒れてきて、古墳の頂上はとんでもないことになっていた。
「風極の地」こと襟裳岬(→2012.7.2)にもまったく劣らないほどの風が吹いている。風を受けて体が揺れるほどだ。
それでもどうにかデジカメのシャッターを切る。残念ながら、忍城址が具体的にどの辺りにあるか確認はできなかった。

  
L: 丸墓山古墳の頂上の様子。この日はとにかく風が強くてまいった。  C: 忍城址方面を眺めるもよくわからず。
R: 反対側には稲荷山古墳(左)と二子山古墳(右)。古墳公園の名に違わず、この周辺はとにかく古墳がいっぱいなのだ。

丸墓山古墳を降りると公園の東側へ移動。そこにあるのは埼玉県立さきたま史跡の博物館と、埼玉県名発祥の碑だ。
さきたま古墳公園の「さきたま」とは、漢字では「埼玉」と書く。「埼玉」とはもともと、この一帯の地名なのだ。
それがイ音便化して、おなじみの埼玉となったわけだ。さらに言うと、埼玉は岩槻(→2009.3.18)が属した郡の名で、
県庁が岩槻に置かれる予定だったので「埼玉県」になったのだが、結局名称はそのままで県庁は浦和に置かれた。
だから大宮・与野・浦和が合併して「さいたま市」を名乗ることは、地名の歴史を考えるとかなり問題があったのだが、
結局その点の配慮はされないままでさいたま市が誕生してしまった。さいたま市は区名でもさまざまな問題があり、
いろいろと物議を醸したっけ(→2002.11.2)。地名にこだわらないことは空間の歴史にとって大きなマイナスなんだがなあ。

さきたま古墳公園からは「さきたま緑道」を走る。武蔵水路沿いに北鴻巣駅まで4.5kmにわたって整備されているのだが、
自転車専用の道と歩行者向けの遊歩道がずーっと続いているのだ。非常に快調にすっ飛ばして最後の目的地を目指す。

 
L: 埼玉県名発祥の碑。書は元県知事の畑和による。政治的な思惑でこの地名が広がっていくとは畑さんも考えなかっただろうに。
R: さきたま緑道を行く。石畳の遊歩道とアスファルトの自転車道が並んでいるのだが、この自転車道がとっても快適。

最後に訪れるのは、やはり忍城籠城戦の遺跡である石田堤跡だ。日本三大水攻めに数えられるほどの水攻めなので、
当然、その堤の築かれた範囲は長い。つまり、かなりの距離を自転車で走らされることになるのであった。
まあそれも戦の規模を直接的に体感できると思えば楽しいものだ。道もいいので、走っているだけで楽しくなってくる。
とはいえどこかで曲がらないと、このまま北鴻巣駅まで行ってしまう。石田堤跡が新幹線の線路近くにあるということは、
郷土博物館見学時にわかっていたことなので、どうにかうまいポイントを見つけないとなあ、と思いながら走っていると、
さすが緑道のど真ん中に「石田堤 300m」という案内の矢印が出ていた。これはラッキー!と全力で感謝して右折。
田畑の中をしばらく行くと、そこに突然、松の並木が現れた。その中に文字の書かれた板が混じっており、
よく見るとそれは石田堤の解説だった。道を挟んだ反対側は見学者用の駐車場。しっかりしていてすばらしいぜ。

  
L: 石田堤跡。この道はちょうど堤防の上につくられているのだ。まあ、当時の雰囲気はさすがに味わえませんが。
C: 反対側に下りると堤防っぷりがけっこうしっかり味わえる。かつてはここまでが水浸しになっていたんだな、と想像する。
R: 石田堤跡の碑。鴻巣市の方にもきちんと整備された石田堤があるのだが、今回はそこまで行かなかった。

これで本日の埼玉ぶらり旅は終了。レンタサイクルは指定された場所のうち、どこに返却しても可、ということで、
行田駅に返すべくがんばって走ったのだが、とにかく風の強さが尋常じゃない。遮るものがまったくない埼玉の田園地帯は、
それこそまさに「風極の地」。横からあおられては倒れそうになり、前から吹かれては後ろに押し戻されそうになるほど。
しかも石田堤まで来れたのはいいが、高崎線の方向は漠然としかわかっていないので、勘に任せて右往左往。
オレは日が暮れるまでに東京に帰れるのか、と本気で不安になるほどのコンディション。いや、これは本当にキツかった。

 関東平野に吹く風がそのままの勢いで通り抜けていく。うーん、風極の地。

太陽の沈もうとしている西へ、西へと必死でペダルをこいでいった結果、吹上駅付近にまでどうにか来た。
よく知らない地名に首を傾げるが、交差点にある地名の上に小さく「鴻巣市」とあるのを見て唖然とする。
鴻巣市ってことは、行田の南隣である。というわけで、強風の中、国道17号を地道に北上して行田駅を目指す。
ご存知のとおり関東平野は南から北へじっとりとした上りになっているので、ただでさえ強風がつらいのに、
坂道を上る苦労もプラスされて、もう、たまったもんじゃなかった。この時間は、とにかくひたすら修行だったわ。

そんなこんなでどうにか行田駅に到着すると、フラフラになりながらレンタサイクルの返却を完了。
電車内でぐったりしつつ都内まで戻ると、ある程度体力が回復したので、まずは池袋で中古ゲームミュージックCDを物色。
次いで秋葉原でも物色。もう意地で「休日お出かけパス」をフル活用してやったのであった。


2012.12.7 (Fri.)

『トップをねらえ!』。OVAとして大ヒットを記録した作品とのこと。作品名と主人公の顔は知っていたけど、
見たことはなかった。TSUTAYAをふらふらしていたら、30分×全6回で適度なヴォリュームだったので借りてみた。
まあ、ナディアやエヴァでおなじみの庵野秀明監督の初監督作品だし、きちんと見ておこうと思ったのだ。

絵がもう80年代全開である。懐かしい反面、やはり気恥ずかしさがあって画面を見つめづらい。
特に第1話は80年代のアニメっぽさが満載で、スポ根で、「『おねえさま』ってなんじゃそりゃ」と全力でツッコミ。
まあそんな具合にナメてかかっていたんですけどね、まさかあんなことになるとは。ホント、まさかあんな展開をするとは。

まず思ったのは、庵野監督が「ナディアを通過してエヴァンゲリオンへ至る経緯がとにかくよく見える」ということ。
ナディアからエヴァへはある程度の飛躍があるように僕は感じていたのだが、『トップをねらえ!』を見てみると、
まずナディア(→2008.2.20)のノーチラス号やガーフィッシュなどのメカニックデザインに納得がいく。
そして、そこからエヴァに受け継がれたものが見える。時代に合わせて削ぎ落としたもの、付け加えたものがある中で、
変わらない要素というか一本の軌跡が見えてきて面白いのだ。なるほど、これが庵野監督の好みか、と思う。
さらに興味深かったのは、宇宙戦艦内の生活感。艦内に電車を走らせる発想もすごい。よく考えているもんだ。
敵の宇宙怪獣の発想もまたすごい。敵艦隊が宇宙生物の群れで構成されることで、緊迫感が段違いになっている。
SFバリバリな未来と、現在の生活と無理なくつながっている未来が、バランスよく混じり合っている印象である。
その混じり具合にきちんとオリジナリティが発揮されていることが、この作品の価値を高めている。

さて、なんといってもこの作品の最も切れ味の鋭い点は、ウラシマ効果の大胆な取り込み方だろう。
速く移動する物体ほど時間の流れが遅くなるというウラシマ効果を物語の軸としたことで、驚くほど深みが増している。
光速に近い速度で移動する物体を調査する第2話でまずそれが提示されて、完全に度肝を抜かれてしまった。
そうして、時間の流れ方が違うことで生まれる悲しさをきっちり描ききる。これは高度なストーリーだと大いに感心。
物語が佳境に入るにつれ、この時間の違いが登場人物たちにとっての絶対的な壁として、どんどん効果を上げていく。
最後にはとんでもないところまで結論をもっていく。ここまでできるってのは本当にすごい、と圧倒されるしかなかった。

話のレヴェルが上がっていくのと同時に、作画レヴェルもめちゃくちゃ上がっていっている。
本当に加速度的に、キャラクターたちがどんどんかっこよくなっていくのだ。最初の印象は完全に吹っ飛んで、
これは実にかっこいいアニメであるとしか思えなくなってしまう。いい意味でどんどん裏切っていくのがたまらない。
しかしながら最終話がほぼモノクロなのは、僕はもったいなく感じる。ラストシーンのためとは思うが、閉塞感が強いだけ。

というわけで、結論としては、ナメてかかるととんでもないことになるアニメだった。
スタート地点からゴールまで、これほどまで遠くに、これほどまで高くにすっ飛ばすとは。もう、呆れるしかない。
しかもそれは、終わってみればきわめて順当だったと納得できてしまうのである。いや、これはすごいことだよ。


2012.12.6 (Thu.)

わりかしミーハーな1年生女子から「EXILEのUSAに似ている」という意見を頂戴する。
当方、えぐざいるなどというものに興味はないのでよくわからん。よくわからんけど、そりゃまあ気になる。
というわけでさっそくGoogleで画像検索をかけてみたところ、なるほどなるほど、確かにこういう系統だ、と納得。
似ているか似ていないかは僕が決めることではないのでどうでもいいし、どっちがかっこいいとか知ったこっちゃない。
でも今まで「マツシマは○○に似ている」といろいろ言われてきた中であまり納得できるものはなかったのだが、
この「EXILEのUSA」に関しては、「まあ確かにオレってこういう系統だよな」と素直に思えるのである。

まあいちばん面白かったのは、「EXILE」「USA」で検索をかけたときに出てきた関連キーワードに、
「EXILE USA ブサイク」というものがあったことだな。USAはEXILEのオリジナルメンバーなんだそうだが、
一部の皆様から「どうしてコイツがEXILEなんだよ!?」という保田圭的な批判にさらされているようで。
おかげで僕としては、オレ史上最大にEXILEへの好感度が上がっているんですが。
あはは、面白いじゃないか。USAがんばれ。


2012.12.5 (Wed.)

8枚組CDの『GRADIUS ULTIMATE COLLECTION』を入手したのだが、いや、まあとにかく呆れた。
「ULTIMATE」の名にまったく恥じないマニアぶりである。ここまで徹底的に音源を収録されると感動するしかない。
僕が今まで音楽的に最も強い影響を受けてきたのは『グラディウスIII』とFC版の『グラディウスII』なのだが、
そのすべてを味わうことができるだけでなく、さらにさまざまな音源から新しい発見ができるということは、もう、
この上ない喜びなのである。まさに宝の山が突然出現したようなものだ。ウホーッ!

収録されている音源の特徴としては、オリジナルの基盤の音に対してかなり忠実なのかな、ということ。
具体的に言うと、レヴェル調整をしようとして単純に音量を上げた場合、音が割れやすいのである。
これはつまり、今までCDで発売されていた音源には、慎重にエフェクタをかけて調整をしていたってことだ。
そこのミックス具合が気に入らないという意見もあったようだが、当時の価値観が見えて面白い。
また、当時発売されたCDでは純粋な音楽よりもゲームの世界観を再現することに重きを置いていて、
ゲーム本体と同じタイミングで効果音を入れてきたりBGMをぶった切ったりすることがあったのだが、
『GRADIUS ULTIMATE COLLECTION』では音楽の方に焦点が当てられているため、そういうことは一切ない。
きちんと2コーラス演奏させてからフェードアウトという原則が守られており、その配慮が非常にありがたいのだ。

日記のログをチェックしたら、実はグラディウスシリーズのBGMについて詳しく書いたことがなかった。
いい機会なので、いろいろあれこれテキトーに書いてみることにしよう。

『グラディウス』。1985年のゲームなのでBGMにドラムスのパートがない。でも音はすごくきれいだ。
曲はあまりにも有名なので文句をつけるのは無謀なのだが、そこはもう気にせずに書いちゃう。
空中戦の曲がよくわからない。シューティングの曲としてどこがいいのかよくわからない。有名だけど。
1ステージの曲はすごくいい。でも2ステージと3ステージのクオリティが大幅に落ちている。
4ステージでまたよくなって、 5ステージでどうでもよくなって、6ステージはそこそこ。7ステージはいい。
ボスはボスで空中戦同様、シューティングの曲としてどこがいいのかよくわからない。ランキングの曲は大好き。
というわけで、なんとも落差が大きいのである。名曲揃いとは決して手放しで言えないと思っているのである。

『グラディウスII』。何から何まで高く評価されているゲームであり、もちろんBGMも名曲が多いとされている。
僕の好みで言えば、確かに名曲はいくつもあるのだが、まだ上はあるんじゃないですかね、というところ。
思うに、『グラディウスII』のBGMにおける最大の功績は、各ステージの世界観に応じた表現力、それに尽きる。
前作とは完全に別次元の音色で曲を鳴らせるようになったこと、そのインパクトがあまりに大きいため、
全体的に高めの評価を受けているんじゃないかって思っちゃっているのである。ひねくれていて申し訳ない。
空中戦から1ステージへの気合の入り方は、間違いなくゲームミュージック史上最高のクオリティである。
モアイに高速ステージにボスオンパレードに、各ステージの世界観に合わせて本当によく曲がつくられている。
でもエンディングの「Farewell」は明らかに過大評価だ。作曲した古川さんは超お気に入りなんだろうけど、
僕はまったく魅力を感じない。「Farewell」贔屓のせいで『グラディウスII』全体が損をしている、と僕は思う。

『グラディウスIII』。僕にとってはこれが基準。ゲーム自体は難度が高すぎて損をしてしまった作品だが、
曲のクオリティについては完全に前作を超えていると断言できる。音色はどのパートも非常に聴き取りやすいが、
最大の特徴はコーラスのパートを入れていることだろう。これはゲームミュージックではかなり珍しいことで、
要所要所でコーラスのハーモニーを入れてオリジナリティを出している。さすが、面白いところに目をつけている。
しかしなんといっても、メロディが本当に魅力的なのだ。ほぼすべての曲がきちんと特徴的なメロディを持っている。
思わず口ずさみたくなる曲がこれだけの密度で詰め込まれているゲームはそうそうない。しかも曲数じたいが多い。
圧倒的なキラーチューンが各ステージに振り分けられているだけでなく、その合間にある曲のクオリティも高いのだ。
『グラディウスIII』のゲームミュージックこそ、シューティングゲームの王道である!と私は声を大にして言いたい。

『グラディウスIV』。世の中がシューティングゲームを必要としなくなってきている、そんな時代の作品だと思う。
しかし、ひとつひとつの音色はよりいっそう輪郭がはっきりし、音質は前作と比べて飛躍的に向上している。
そして曲もそれに応じた仕掛けを施しつつ、メロディラインへのこだわりもしっかりと残しており、
聴き応えのあるバランスが実現されている。とはいえ正直なところ、キラーチューンの比率は前作ほどではない。
序盤と終盤の充実ぶりに対し、中盤には中だるみとしか形容しようのない曲が連続しているのは否めない。
でもそれを補ってあまりあるほど魅力あふれる曲がしっかり存在しているのだ。ただ、一曲の構成から考えると、
全体的にどの曲もこれまでのグラディウスシリーズと毛色が違ってきている印象もある。詳しくは次で述べる。

『グラディウスV』。もはやCDと同じ音質の音楽をゲームで流せるようになって久しい時代、
シューティングゲームのゲームミュージックがどういう方向へと進化していったのか、その答えがここにある。
コナミが「グラディウス」の名を冠して出した答えは、「踊れるクラブミュージック」だった。
もともとゲームミュージックはフュージョンのメロディラインとテクノの楽器構成を母体にしていたので、
後者を突き詰める方向へと進んでいったのは納得できる。全体的にグルーヴ感は十分だが、メロディはやや曖昧。
だから僕としては、曲がダンスへ特化したと同時に、BGMへも特化しているという印象を受けている。
つまり、それまでグラディウスシリーズの曲は「主食」だったわけだ。「主食」である点にこだわりがあった。
「グラディウス」といえば音楽であり、「グラディウス」の音楽はかくあるべき、というコードがあった。
しかし『グラディウスV』において、完全にそういう縛りが無視されるようになったと思うのである。
シューティングゲームのBGMの進化形ではあるが、「グラディウス」の音楽でなくてもいい、そういう曲なのだ。
厳密に言うと、『グラディウスIV』でもその傾向ははっきりとあった。しかしメロディへのこだわりが、
けっこうギリギリのところで「グラディウス」としての矜持を保っていた。それがここで完全に絶たれている。
BGMとして聴いた場合、『グラディウスV』の曲は好きなものがけっこう多いのは紛れもない事実なのだ。
しかし、「グラディウス」として聴けるものは何ひとつない。そこに一抹の淋しさを感じつつ毎回再生している。

最後にちょろっと蛇足。
前も書いたように、FC版『グラディウスII』はAC版よりも高く評価されるべきである(→2012.3.29)。
また、SFC版『グラディウスIII』のボーナスステージBGMは、AC版にある曲以上に僕を虜にしてくれた。
『GRADIUS ULTIMATE COLLECTION』はそれらのすべて、本当にすべてを味わわせてくれるのだ。

そんなわけで、収録されているいろんなグラディウスの曲を聴いて、ひたすらウハウハしている。
ただ、今になっての発売はあまりにも遅すぎる!という思いがあるのもまた事実である。
15年前とは言わないが、せめて10年前にこういう企画が通らなかったものか、と心底悔しく思うのだ。
この曲たちをもっと早く「発見」できていれば、オレはどんな曲をつくれたのだろう、どう好みを広げられただろう、
そういう思いが頭の中にもたげてくるのである。いい時代なったなあと思う反面、悔しい気持ちもいっぱいある。


2012.12.4 (Tue.)

ゴンこと中山雅史がついに「第一線を退くこと」を表明した。これは僕にとっても、ひとつの区切りなのである。
前にも日記で書いたことがあるのだが、僕はかつて、消極的ながらもジュビロ磐田を応援していた(→2007.11.12)。
だから、中山が第一線を退くということは、磐田が1993年のJリーグ開幕に参加できずに翌年(旧)JFLから昇格した、
そんな歴史の1ページが完全に過去のものになる、そういう印象なのである。こうやって過去は完全に過去になるのか、と。
冷静に考えるとむしろ、中山雅史という選手が現役でいることでそれが今までつながっちゃっていたことが驚きなのだが、
(つまりは、中山がここまで現役を続けてきたということが、もうとんでもない偉業だということだ。)
とにかくこれで過去が過去になった。そして現在は現在で連綿とその歴史を紡ぎ続けていくわけだ。

カズにしろゴンにしろ、Jリーグ黎明期にはその調子のいい部分がJリーグバブルに合わせてクローズアップされていて、
サッカーに詳しくない人の中にはいまだにそういうイメージで彼らを見ている人がいるのかもしれない。
しかし長く現役を続けた選手たちは例外なく、すさまじい努力を続けてきたのだ。これは疑う余地のないことだ。
そして近年のJリーグでは、そういったベテランたちの姿勢が新たな魅力、確実な魅力を引き出す源となっている。
そういう意味でも、カズやゴンの現役を続ける姿勢が今の日本のサッカーを引っぱり続けていたのは間違いない。
時代に合わせてふるまうことができているからこそ、レジェンドになれるんだろうなと思うのである。

とにかく、心からお疲れ様でしたと言いたい。サッカーに関わってその偉大さをきちんと理解できるようになったのがうれしい。


2012.12.3 (Mon.)

恐ろしい事故が発生してしまった。中央道・笹子トンネルの天井崩落事故である。
僕が実家に帰省する際、最も便利な手段が、新宿から出ている中央道高速バスに乗ることだ。
だから今までに数えきれないほど、笹子トンネルを通過してきた。そのトンネルの天井が、いきなり崩れてしまった。
とてもとても他人ごとではないのである。僕は今までただ単に運がよかっただけ、そういうことだったのである。
なんというか、そんな事実を突き付けられた気分である。また、だからってどうすることもできないのも切ない。
当事者になりうる可能性がそれなりに濃いだけに、それ以上コメントできない。亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。


2012.12.2 (Sun.)

部活が終わって、自転車を北へと走らせる。

過去ログ改修が終わって、続いて今度は画像の調整やGoogleマップの修正などの作業を始めているのだ。
それからもうひとつ、「旅行と名数」のページも、Googleマップと連携させるなど細かい修正を加えている。
そうやってあれこれ作業をしているうちに、どうしても行っておかなければ!と思う場所が出てきたのだ。
それは、同潤会アパート。僕が上京したときにはまだあちこちに残っていたのだが、どんどん消えていってしまっている。
僕がボサッとしているうちに三ノ輪のアパートも取り壊されて、ついに上野下だけになってしまった。
しかも、最後の上野下も来年の取り壊しが決定しているという。それなら、今のうちにきちんと訪れないといけない。

同潤会・上野下アパートがあるのは、地下鉄銀座線・稲荷町駅のすぐ北。交差点から側面が見える。
まずは通りに面した側面から撮影し、正面へとまわり込む。ファサードは四角のオンパレードで、それが実にモダン。
ただ、その分だけしっかりと汚れてしまっている感触もある。パッと見て、取り壊しもやむなし、そう思えるほどだ。

  
L: 同潤会・上野下アパートの側面。一目でほかの建物にはない風格を感じることができる。  C: 角度を変えて眺める。
R: 窓を見れば、そのモダンなこだわりが一目瞭然なのだ。しかし全体的には汚れの印象がかなり強まってしまっている……。

いちおうここで同潤会とそのアパートについて簡潔にまとめてみる。
同潤会は1924(大正13)年、関東大震災からの復興を目的として内務省により設立された財団法人である。
日本の建築史においては特に、東京と横浜の計16ヶ所に建設した集合住宅「同潤会アパート」で知られている。
木造建築に甚大な被害をもたらした関東大震災は、建物の鉄筋コンクリート化を促すこととなった。
(まず学校建築が鉄筋コンクリートで建てられるようになり、次いでそのノウハウが役場庁舎建築へと活用されていく。)
当然ながら、火災に強い集合住宅の建設も求められた。そのモデルを示す役割を果たしたのが同潤会アパートだ。
水道・電気・ガスをはじめ、当時最先端のインフラに対応しており、都市の中層階級向けに綿密に計画がなされていた。
関東大震災は、以前書いたように東京では大学の郊外移転に伴う学園都市計画の契機となっている(→2008.7.28)。
そして関西圏では、私鉄による大都市郊外の都市開発に合わせて阪神間モダニズム(→2012.2.26)が出現していた。
同潤会アパートは、阪神間モダニズムに見られる価値観が東京の都心部の再開発に反映したものだ、と僕は考える。

  
L: 東側のエントランス。モダニズム特有の気品(→2005.10.19)を感じさせる。特に門柱がいいですね。
C: 角度を変えて撮影。「モダニズム特有の気品」と書いたが、これは量産化されると劣化するのだ。正直やや劣化気味。
R: こちらは西側のエントランス。東側とまったく同じデザインになっている。モダンへの「慣れ」が劣化をもたらす。

上野下アパートの竣工は1929年。実に築80年以上も経っているのだ。
僕が今まで直接この目で見た同潤会アパートは青山(表参道ヒルズになった後のログはこちら →2006.4.22)と、
東京都現代美術館に行く途中に見かけて「こりゃタダモノじゃねえや!」と驚いた清砂通の2件だけ。情けないけど。
それらと比べて上野下はやや小規模な印象。場所も少し奥まっているので本当にひっそりと建っている。
このアパートが竣工した当時の周囲は、今とはまったく異なった姿をしていたはずだ。それが想像つかない。
80年以上、このアパートだけが変わらないまま、土地の歴史を眺めてきた。空間はつねに変化し続けるものだ。
それだけに、空間の記憶というものは恐ろしくはかない。仕方ないとはいえ、上野下アパートが消えるということは、
東京という都市の歴史を掘り返していくうえで、とてつもなく大きな痛手となるのは間違いないだろう。
デジカメのシャッターを切りながら、僕はひたすら、この建物を見た記憶を深く深く頭の中に刻み付ける。
そうして、同潤会アパートという現実の空間を媒介に、大正末期から昭和初期という時間を想像して過ごす。

  
L: 建物全体を眺めようとしたけど前の道路の幅に余裕がないのと植えられた木々とでよく見えず。残念である。
C: さっきと逆で、西側エントランスを眺めてみた。上の写真とまったくの線対称になっているのがすごいわ。
R: 建物の裏側にまわり込んでみたけど、建物だらけでこの一部分しか見えなかった。昔はどうだったんだろ。

物ごとの大切さは失ってから初めてわかるもの。きちんと青山や清砂通にデジカメ持参で行くべきだった、
いやそもそも、その他のアパートもきちんと訪問しておくべきだったと今になって痛感した。本当に悔しい。
でもまあとりあえず今は、上野下アパートを訪れたときの気持ちをしっかり記憶しておくことにしよう。

さてここまで来たら、上野下アパートのすぐ近くにある地下鉄銀座線・稲荷町駅もしっかり押さえておこう。
稲荷町駅は、1927年に日本初の地下鉄・東京地下鉄道の駅として開業したときからずっとこのデザインなのである。
2003年にタイルが貼り替えられてずいぶんきれいになってしまったが、開業当時の姿に戻ったと思っておこう。

  
L: 南側・渋谷方面ホームへの出入口。  C: 北側・浅草方面ホームへの出入口を真っ正面より撮影。丸窓が面白い。
R: 交差点越しにあらためて眺めてみる。同潤会アパートは消えても、この出入口はずっと残していってほしい。

というわけで、やはり有名建築は残っているうちにきちんと訪れてきちんと考えなくちゃいけないな、と実感。
Googleマップで確認しつつ、ヒマをみてできるだけDOCOMOMO物件を中心にいろいろ味わおう、と思うのであった。


2012.12.1 (Sat.)

土曜授業をALTとともにどうにか切り抜け、昼飯をいただきつつ日記を書いて、15時過ぎには家に戻る。
チャンネルをNHKに合わせて準備万端、サッカー中継が始まった。本日はJ1の最終節なのだ。
すでに優勝は広島に決まっているが(→2012.11.25)、残留争いはいよいよクライマックスである。

今シーズンの焦点はとにかく、ガンバ大阪が降格するかどうか。10年に及んだ西野体制からの脱却を図るも迷走。
すでに降格が決定している最下位の札幌に次ぐ17位にまで追い込まれてしまっているのだ。
そしてその西野監督をシーズン途中で就任させておきながら解任するという離れ業を演じた神戸の動向も怪しい。
最終節は全試合が同時刻の15時半にキックオフとなる。テレビの画面にかじりつく。

NHKはこの手の中継に慣れており(→2005.12.3)、磐田×G大阪戦を軸に他会場の様子も伝えるスタイル。
するとわずか5分、磐田の前田遼一が押し込んで先制。前田にはその年のファーストゴールを決めた相手を降格させる、
というジンクスがあり(実に5年連続だってさ!)、今年その「呪い」はG大阪に降り掛かっているのだ。恐ろしい。
……なんて思っているうちに新潟×札幌戦では降格圏・16位の新潟が先制。その後も最下位相手に追加点を加える。
勝つしかないG大阪は必死に攻めるが磐田の守備が集中。逆に鋭いカウンターで、G大阪は窮地に追い込まれかける。
降格の可能性が残るC大阪は川崎にリードを許す。神戸は優勝した広島相手にスコアレスドローでハーフタイムを迎える。
複数の事象が同時進行して複雑に絡み合って、もうわけがわからない。でもこういうのがいちばん面白い。

後半早々、神戸は広島にPKを決められて失点。リードを守る新潟が、これで少し優位に立つ展開となる。
そして53分、G大阪は角度のないところから倉田が見事なゴールを決めて同点。勢いのついたG大阪は粘り強く攻める。
しかしゴール前を固める磐田の守備をなかなか崩せない。遠藤のシュートもオフサイドで、刻一刻と時間が過ぎていく。
やがて85分、ついに磐田がゴールを決めて勝ち越し。小林の振り抜いたゴールはまさにファインゴールだったのだが、
美しさだけでなくそのあまりにも残酷な意味合いに、G大阪サポではない僕ですら言葉を失ってしまった。
対照的にC大阪は後半ロスタイムに同点に追いつき自力で残留を確定。そしてヤマハスタジアムで試合終了の笛が鳴る。
奇しくも西野体制に別れを告げた2チームがJ2へ降格となった。来年も京都は苦労しそうだなあ……。

サポーターにとってはたまったもんじゃないだろうけど、テレビで逐一レポートを聞きつつ状況の変化を追っていくのは、
もう本当に面白い。やはり最終節はテレビ中継を楽しむに限るのだ。スタジアムに行ったら冷静じゃいられなくなるだろうし。
それにしても、今日の試合は特別な迫力に満ちており、やるかやられるかの真剣勝負の殺気がビンビン伝わってきた。
こういう迫力がダイレクトに楽しめるところは、サッカーという競技の大きな魅力であると思う。今年も本当に凄かったわ。


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