実家で究極的に見るべきテレビ番組がない大晦日なのだ。日記を書きつつNHK教育でクラシックをかけるのみである。
帰省ついでの旅行、2日目は市役所がメインである。四日市スタートで三重県北部を押さえ、岐阜県へと抜ける。
こう書くと昨年夏の帰省(→2017.8.11)と同じパターンと思われるかもしれない。しかし、そこはマニアックに行く。
いなべやら海津やら、平成の大合併で市になった街をきちんと押さえるのだ。途中で桑名の神社にも寄りますよっと。7時過ぎ、近鉄四日市からまずは桑名へ。南にある西桑名駅へ素早く移動して、三岐鉄道北勢線に乗り換える。
本日最初の目的地であるいなべ市役所は途中の楚原駅が最寄りだが、せっかくなので終点の阿下喜(あげき)まで乗る。
駅舎を出るとすぐ近くに「阿下喜温泉」の文字。非常に気になるが、さすがにこの時間にやっているはずがない。
とりあえず、駅構内の写真を撮って過ごす。僕は鉄っちゃんではないので詳しくないが、北勢線はナローゲージであり、
確かに車両の幅がすごく狭い。北勢線はかつての軽便鉄道がそのまま残って営業している、数少ない事例なのだ。
L: 三岐鉄道北勢線・阿下喜駅。 C: わざわざ移築したという転車台。 R: ホームにて。車両の幅の狭さが印象的。引き返して楚原駅で下車。楚原神社(残念ながら御守はなさそう)の境内を抜けて国道421号に出ると少し西に動いて、
いなべ市役所に到着。いなべ市は員弁郡の4町が合併して2003年に誕生。しかし「員弁」が難読地名ということで、
ひらがな市名となってしまった。こうやって日本人はバカになっていくのだ、と心底思う。恥を知らないのかな。
L: いなべ市役所(旧員弁町役場)。 C: 中央の植栽をクローズアップ。 R: 一周を開始。まずは南から。いなべ市では支所方式を採用しているが、中心になるのは旧員弁町役場ということでやってきたわけだ。
しかしすでに新庁舎の建設が決定しており、公募型プロポーザルの結果、日建設計が設計者に決まっている。
場所は今さっき訪れた阿下喜駅から北に2km弱で、3階建て程度の低層の庁舎を来年完成予定とのこと。
L: 南東から見た側面。 C: 東から見たところ。 R: 北東から見た背面。いなべ市役所は2階建てだがしっかり面積をとっており、距離をとらないとカメラの視野に建物が収まらない。
しかしそれ以上に駐車場が広いおかげでストレスなく撮影ができる。まあ、距離をとるので細部がわかりづらくなるが。
新しいいなべ市役所は、緑の中に行政棟・議会棟・保健センター・シビックコアの4棟を配置する計画になっており、
土地に余裕があるのは現庁舎と共通している。「にぎわいの森」という名称で、店舗や農業体験広場も併設するそうだ。
いずれヴィアティン三重(→2017.8.10)や鈴鹿アンリミテッドの試合を観戦するときに新庁舎を訪問できるといいなあ。
L: 北から見たところ。左右対称に見えて西側の方が少し後ろに出っ張っている。でも差はそれくらいで、統一感がすごい。
C: 正面側に戻ってから少し西寄りで眺めたところ。東西のオフィスを、ホールっぽい平屋でつないでいるわけだ。
R: 角度を変えてエントランスに近づいてみた。中央の植栽に庁舎竣工記念の碑があり、それによって1976年竣工と判明。西桑名まで戻ると、桑名の市街地にくりだす。市役所は6年前に押さえているので(→2012.4.1)、今回はスルー。
となると、目的はもちろん御守である。桑名宗社春日神社と九華公園(桑名城址)の鎮国守国神社がターゲットなのだ。寺町通りのアーケード。桑名市のイメージキャラクター「ゆめはまちゃん」がいる。
まずは桑名宗社春日神社へ。中臣神社と桑名神社の両社をあわせた「桑名宗社」を神社の正式名としているが、
春日神社という俗称もふつうに使われている。「中臣」だし神紋は藤だし、なるほど明らかに藤原氏系の神社である。
L: 桑名宗社春日神社の銅鳥居。1667(寛文7)年、桑名城主の松平定重が寄進。桑名の名物として知られているとのこと。
C: 楼門。空襲により焼失したが、1995年に再建された。 R: 拝殿。向かって左が中臣神社で、右が桑名神社。本来は中臣神社と桑名神社で神紋も異なるようで、上がり藤に「大」が中臣神社、「三」が桑名神社である。
なお、桑名宗社としてひとつにまとめる際には上がり藤に縦で「大三」という形になる。御守もそのようなデザイン。
桑名神社は三崎大明神で「三」なのだろうが、中臣神社の「大」がよくわからない。首を傾げつつ参拝する。本殿を覗き込む。やはり2つ並んでいる。
さらに東へ行くと桑名城址の九華公園。公園の北側は、鎮国守国(鎭國守國)神社の境内である。
1784(天明4)年、白河城内に松平定綱を祀って創建され、桑名への移封により神社も桑名城本丸に移った。
鎮国守国神社とはつまり、「鎮国公」こと松平定綱と「守国公」こと松平定信を祀っている神社というわけ。
桑名というと本多忠勝がどうしても真っ先に出てくるが、寛政の改革を行った松平定信が求めた移封先であり、
その思いが反映された神社というわけだ。でもそれなら本多忠勝を祀る神社があってもいいじゃないか、と思う。
岡崎城址の龍城神社(→2017.12.30)に合祀されているが、桑名の地に忠勝を祀る神社がないのは非常に淋しい。
L: 九華公園、鎮国守国神社の境内へと入る。 C: なんだかランダムな印象がする境内。テントは初詣用かな。
R: 鎮国守国神社は一の鳥居から拝殿までがまっすぐになっていない。公園中央に対してはまっすぐなのだが。
L: 拝殿。1919(大正8)年の築。 C: なんとも不思議な本殿だなあと思ったら、蔵造りなのであった。これは珍しい。
R: 樂翁公百年祭記念寶物館。「楽翁」とは松平定信のこと。1934年の築で、国登録有形文化財に指定されている。両方の神社で無事に御守が頂戴できてよかった。桑名からは養老鉄道で北上。昨年夏の帰省旅行(→2017.8.11)が、
デジャヴとして蘇る。キテレツだったなあ、養老天命反転地。しかし今回はそこまで行かず、石津駅で下車する。
ここからは海津市コミュニティバスに頼ることになるのだが、駅のすぐ近くに神社があったので吸い寄せられる。
杉生(すぎお)神社という名前で、参道が線路でぶった切られているほど境内はかなり余裕があって立派である。
L: 杉生神社の入口。 C: 参道の途中に養老鉄道の踏切。 R: 境内は立派なんだけど非常に静かである。境内社もきちんと整備されており、これは御守が期待できそうだと思ったのだが、結局無人なのであった。
これだけ存在感のある神社なので残念。主祭神は須佐之男命。戦乱や水害で記録があまり残っていないらしい。
L: 拝殿。荘厳な雰囲気だ。 C: 境内社も立派。こちらは春日神社。 R: 手前の屋根の存在に特徴を感じる。参拝を終えてしばらく待つとコミュニティバスがやってきた。これで海津市役所へ直に乗り込むというわけだ。
海津市は2005年に海津郡3町の合併により誕生。海津町役場が海津市役所となった。もともとは「高須」という地名で、
尾張藩の支藩・高須藩があった。藩主はいわば尾張徳川家に何かがあったときのバックアップといった位置付けだった。
著名なところでは、幕末の会津藩主・松平容保も実は高須藩の出身である。陣屋は現在の海津明誠高校の辺りとのこと。
L: 海津市役所、まずは南西から。こちらが1974年竣工の西館(旧海津町役場)で、設計は大建設計。
C: 西から見たところ。 R: 北西から。正直この角度だと何がなんだかよくわからないなあ……。
L: まわり込んで北東から見た西館。 C: 北から見た東館。こちらは2013年の竣工で、設計は内藤建築事務所。
R: 北東から全体を眺める。西館と東館の間に統一性はなく、昭和後半と平成後半がそのまま陳列されている印象。
L: 大江川沿いの堤防に上がって眺める東館の東側。 C: まわり込んで南から見た東館。 R: 南西から見た東館。
L: 南側エントランスを中心に西館と東館を眺める。 C: 南側エントランス。 R: 敷地内、南西から全体を眺める。
L: 南から見た西館。 C: 西館の中を覗き込む。いきなり数段上がるのは、輪中を意識してのことだろうか? ……なんて。
R: 角度を変えて南側から見てみる。おそらく東館を建てるタイミングで、こちらもある程度は改装しているのでは。駐車場が広いこともあり、あっさりと市役所の撮影は終了。コミュニティバスが来るまでまだまだ時間があるので、
南に700mほど行ったところにある海津市歴史民俗資料館まで往復してみることにした。年末でどうせ休館なのだが。
しかし歩いていると、田んぼの広大さに圧倒される。海津市の揖斐川左岸はまるごと高須輪中となっており、
洪水に悩まされながらも長く穀倉地帯をやってきたのがよくわかる光景だ。バスから見えた景色も田んぼ一色だった。
L: 高須輪中の広大な田んぼ。ずっと先に見えるのは高須の集落。そのさらに先にある山の麓を養老鉄道が走るわけだ。
C,R: 海津市歴史民俗資料館。公共施設を集めた一角にある。城跡っぽいデザインだが、高須陣屋跡はここではないので注意。市役所に戻って再びコミュニティバスに乗り込むと、10分ほど北上して本日最後の目的地へ。千代保稲荷神社である。
「ちよほいなり」と読むのが正しいのだが、「お千代保稲荷(おちょぼいなり)」という呼び方が定着している。
ふだん鉄道での移動が中心である僕にしてみると、木曽三川のど真ん中でとんでもない場所にある神社という感覚だが、
参拝客でごった返していて心底驚いた。長い参道にひしめく店はどこもきちんと営業しており、活気にあふれている。
年末だからというわけではないようだ。そんなに有名で人気な神社だったのか、と自分の不勉強を恥じるのであった。
L: 県道213号に面する千代保稲荷神社の南口大鳥居。カーヴする長い参道はここからスタートするのだ。
C,R: 参道の商店街。土産物から飲食店、青果店に洋服店などとにかく多種多様。本当に純粋な商店街である。
L,C,R: 商店はどこも元気に営業中で、衰退する駅前商店街とは実に対照的。狐につままれた気分である。稲荷だけに。500m弱の参道を進んでいくと左手に鳥居。千代保稲荷神社の境内だ。しかしこれがまた複雑な空間で、
稲荷が本質的に自由闊達な価値観をしていることもあり、社殿の配置がややこしい。動線がよくわからないところに、
大量の参拝者がひっきりなしにやってくるものだから、境内はカオスそのものなのであった。何がなんだか。
L: 千代保稲荷神社の境内入口。すでに複雑である。 C: 石段を上って燈明場。ここでロウソクを灯すわけだ。
R: 拝殿。行列ができている。門前で売っている稲藁で結んだ油揚げとロウソクをお供えするのが流儀とのこと。さて、千代保稲荷神社にやってきたのはいいが、実はこの神社、御守を置いていない。お札も御朱印もない。
というのも、この神社、源義家が六男・義隆を分家する際に先祖の霊璽・宝剣・自分の肖像などを渡し、
「千代代々に保っていけ」と言ったことがきっかけで創建されたから。プライヴェイトな神社ってわけだ。
しかしそのわりには門前町がものすごいことになっており、その辺のバランス感覚が正直よくわからない。
L: 保食神を祀る霊殿。 C: 社務所。1953年竣工とのことだが、ずいぶん風格がある。 R: 本殿。千代保稲荷神社の東に抜けても商店街はしばらく続いており、特に串カツやどて煮が人気なのであった。
御守のない神社ということでいったいどんなところかと思っていたが、いやはや、想像を絶する空間だった。
車社会の名古屋から適度な距離がある神社ってことで人気があるのだろうか。終始圧倒されっぱなしだったなあ。
L: 千代保稲荷神社の東に抜けても元気な店が並んでいる。 C: 東の端にある東口大鳥居。鳥居から鳥居までずっと元気。
R: 少し距離をとって千代保稲荷神社の門前町を眺める。周囲はやはり広大な田んぼ。高須輪中の北端部に位置している。コミュニティバスで20分ほど揺られて岐阜羽島駅へ。しかしそのすぐ脇にある新羽島駅から名鉄で名古屋に出る。
あとは恒例の高速バスで飯田へ。2日間でいつもよりちょっとコンパクトな寄り道だったが、楽しゅうございました。
早朝、まだ暗い名古屋駅に着いたら雪なのであった。いやあ、これはまいった。でもしょうがない。
名古屋にしてはなかなかの雪景色である。
今年の帰省ついでの旅行は2日間とちょっとコンパクト。毎度おなじみ市役所と神社・御守が目的の旅だが、
初日の今日は御守の確認がメインである。となると、雪はあまり気にしなくていい。石段が滑りそうなのだけが怖い。最初の目的地は四日市だ。名古屋からJRで行くか近鉄で行くかによって結果が大きく違う街だが(→2012.4.1)、
結局はバスのお世話になるので、今回はどっちの駅でも特に問題はない。となると安い方だ、ということでJRに乗る。
しかし行動が早まった分だけJR四日市駅で待たされることになり、寒い季節はそれが微妙にしんどいのであった。JR四日市駅スタート、近鉄四日市駅経由でやってきたのは、6年ぶりの椿大神社である(→2012.12.28)。
伊勢国一宮のひとつということで、あらためて御守をチェックに来たのだ。前回は雨、そして今回は雪景色。
なかなかすっきりした状況で参拝できないなあと苦笑するが、これはこれでフォトジェニックであるとも思う。
L: 椿大神社の入口。これは後で晴れてきたところ。 C: 鳥居をくぐってすぐの獅子堂。ふだんは車の交通安全祈願所。
R: 参道を行く。雪の日の神社はなんとも言えない風情がありますな。椿大神社は鈴鹿山脈の麓だから雪も降るわな。
L,C: 猿田彦大神の妻神・天之鈿女命を祀る別宮・椿岸神社。 R: 椿大神社の拝殿。相変わらずの荘厳さである。今回の参拝であらためて授与品に注目して驚いたのは、御朱印帳である。なんと、手塚治虫『火の鳥 黎明編』から、
猿田彦とウズメをそれぞれ表紙にあしらっているのだ。祭神との関係性から考えて、最高の工夫であると思う。
僕は御朱印集めに興味はないが、さすがに欲しくなってしまうレヴェル。ぜひ御守でもやってくれませんかねえ。
L: 椿大神社の御朱印帳。『火の鳥 黎明編』から持ってきたのは最高の判断。なお、椿の花だけのシンプルなものもある。
C: 椿会館。今回はメシに適さない時間帯の参拝だったので、名物とりめしはいただかなかった。無理して食えばよかったかな。
R: 椿会館の中にある土産物売り場。緑色はぜんぶ伊勢茶の関連商品である。その他にも地元産品が非常に充実している。鈴鹿市のコミュニティバスで椿大神社を後にする。これだと直接、加佐登神社に行くことができて便利なのだ。
こちらは日本武尊の墓とされる白鳥塚古墳の手前にあり、彼が亡くなるときに持っていた笠と杖を祀っているという。
L: 椎山川を渡って左の杜が加佐登神社。 C: 一の鳥居。 R: 石段を上っていく。二礼二拍手一礼して御守を頂戴するが、最も標準的な肌守が全6種類。その他、日本武尊関連の授与品が多数。
なかなか意欲的な神社である。日本武尊ファンの人なら絶対に参拝しておくべき神社ではないかと思う。
L: 上りきると開けた境内に出る。参道の曲がり方が不思議である。 C: 拝殿。 R: 本殿。加佐登駅までは2kmほど。その道のりは、商店が点在してのんびりとした雰囲気の住宅地だった。
関西本線に乗り込み、2駅東の河原田駅へ。3回目の参拝となる都波岐奈加等神社(→2012.12.28/2015.1.31)へ突撃。
今回は年末ということで神社が準備態勢に入っており、テンポよく御守を頂戴することができたのであった。
が、3年前からデザインが全面的に変更されており、前のデザインをコンプリートできなかったことが残念。もうひとつの伊勢国一宮・都波岐奈加等神社。
関西本線なのでJRの四日市駅に戻る。結局は近鉄四日市駅まで行きたいわけだが、せっかくなので、
途中にある四日市市役所をきちんと撮影しておく。6年ぶりだが(→2012.4.1)、敷地を一周して眺めてみる。
L: まずは南東から見た本庁舎。かつては手前のオープンスペースに、1931年竣工のモダンな旧市庁舎があった。
C: 近づいて見上げる。 R: 南側、正面から見る。四日市は広い街だからあまり大きく感じないが、実際は11階建てで大きい。
L: 南西から見た本庁舎。 C: 裏にまわって北西からがんばって見上げる。 R: こちらは北館。左側は駐車場みたい。
L: 北東から見た北館。 C: 北館の脇から見た本庁舎。 R: 本庁舎の西隣にある四日市市総合会館。撮影を終えると、国道1号を横断してアーケード商店街へ。駅と国道を結ぶ四日市一番街商店街振興組合と、
諏訪神社へと通じる表参道スワマエ発展会が重なっていて、アーケードが「線」ではなく「面」として成立している。
さすがは三重県最大の人口を誇る工業都市、と思う。一方で小ぎれいな近鉄四日市駅周辺に人が流れているのも確かで、
通行人をそんなに気にせず写真が撮れるのも事実である。個人的には、昭和な雰囲気で好きなんだけどね。
L: 表参道スワマエ発展会。かつての東海道がアーケード商店街化した(「東海道」と書いた幟が並んでいる)。
C: 大入道の人形。確認したら6年前にも撮っていたが、こにゅうどうくんがくっついている点が新しい。
R: 諏訪神社の入口に到着。両側にあるのが一の鳥居で、山車のために貫を通していないそうだ。奥が二の鳥居。というわけで、四日市を代表する神社である諏訪神社に参拝。表参道スワマエ発展会の奥に鎮座しているが、
神社から見て横参道となっていて、空間的にはちょっと独特な印象である。境内も妙に広場のような感触がある。
四日市祭では境内に山車が集まるようなので、そのために真ん中を空けているのだろうか。不思議である。
L: 参道を進んで境内。神社というよりも広場や公園といった雰囲気。山車が集まるための空間なのか。
C: 拝殿。1951年の再建とのこと。 R: 裏にまわって眺めた本殿。こちらも1951年の再建。見えん!いざ拝殿の前に立ってみると、非常にお寺っぽい。吊灯籠もあるし。これまた実に個性的である。
多くの工場がある四日市は戦時中にはアメリカ軍の重要攻撃目標とされ、9回にわたる空襲を受けている。
諏訪神社も焼けてしまい、現在の社殿は1951年に再建されたものだ。神社の公式サイト掲載の写真を見ると、
旧拝殿は切妻破風に唐破風の向拝で実に威厳がある。むしろ再建により、寺っぽく変わった感じである。
やっぱり不思議に思いつつ西側に出ると、諏訪公園。もともとは諏訪神社が所有する「保光苑」で、
四日市市に移管されて公園として整備されていったそうだ。レンガのすわ公園交流館がモダンで美しい。すわ公園交流館(旧四日市図書館)。1929年築で国登録有形文化財。
これでいちおう四日市の市役所と神社は押さえた。あとはもう、存分にリラックスさせてもらうとしよう。
近鉄四日市駅から湯の山線に乗り込み、のんびり揺られること30分弱で終点の湯の山温泉駅に到着。
温泉に、浸かるぞおおぉぉぉぅ!! 心の中で雄叫びをあげつつバスに乗り込み、湯の山温泉のバス停へ。湯の山温泉駅。駅から10分ほど歩いたホテルでも温泉に浸かれる。
いやあ、驚きましたね。Googleマップによると、駅が標高130mで、湯の山温泉バス停が340mくらい。
200mちょっとの標高差で完全なる雪景色でありますよ。いちおう御在所ロープウエイまで往復してみたが、
雪の積もりつつあるけっこうな勾配の坂道を歩くのは怖かった。いやあ、こんな具合とは想像できなかった。
L: 湯の山温泉バス停に着いたら完全な雪景色で驚いた。 C: 今年開通した湯の山かもしか大橋は閉鎖されていた。気温0℃!
R: 御在所ロープウエイ・ロープウエイ湯の山温泉駅。山頂まで行くと樹氷が見られるらしい。さすがに行かなかったが。坂を下った途中にある鹿の湯ホテルにお邪魔して温泉に浸からせてもらう。屋内の風呂もたいへん立派だったが、
サザンカ(だと思う)に積もる雪を眺めながら浸かる温泉がもう最高でして。なんたる風流。なんたる贅沢。無人なので思わず撮ってしまった露天風呂。雪に温泉とかもう、最高すぎる……。
風呂上がりには湯の山温泉の地サイダーである「キララポンポン水」を飲む。うーん、完璧としか言いようがない。
感動にむせびながら近鉄四日市に戻って日記書いてメシ食って初日は終了。湯の山温泉は本当にすばらしいわ!
今日も冬休みスペシャルで練習試合。舞台は高島平の高校である。場所が場所なので埼玉の学校も参加。
埼玉といったら日本屈指のサッカーどころで、公立のBチームでも強い強い。これは本当に貴重な体験だったなあ。
本当にありがたい2日間でした。企画してくださった方々には心からお礼を申し上げたいです。
品川区や港区のときにこういう企画に参加できなかったのが本当に残念。城東地区だけなのかなあ?
本日は冬休みスペシャルということで、池袋で練習試合なのであった。本当にためになりました。
同じ区内の学校と練習試合をやるのもいいが、ふだんまったく接点のない区の学校とやるのは新鮮で面白い。
お互い情報がゼロなので、試合中の修正や判断の要素が特に強まって、その分しっかり鍛えられるというわけだ。
生徒も試合をやっていく中で、自分と相手のいい部分、サッカーにおけるいいプレーが客観的にわかるのもよい。
だから練習試合が終わると、お互いに「いやー、やるわぁ」と軽く感動している感じになるのがたいへん清々しい。
部活のいいところはまさにそこなのだ。今日はその「部活のかけがえのない価値」がたっぷり味わえた一日だった。◇
昨日から苦しんでいたMacBookのOSインストール問題だが、なんと都営地下鉄の駅で解決。フリーWi-Fi様様である。
今日から冬休みなのはいいが、この年末の忙しいタイミングでMacBookが言うことを聞かなくなってしまった。
長期休業そして旅行アンド帰省というのは、日頃溜まりまくっている日記を消化する大チャンスだというのに。
まあいざとなったらfutsutamaを背負って帰ればいいので、焦らず落ち着いて対処するとしよう。
2018年最後の授業日だったのだが、最初から最後まで忙しかったなあ。
『ロストフの14秒 W杯日本vs.ベルギー 知られざる物語』。とにかく凄いという評判だったので、録画しておいたのだ。
内容はタイトルを見てわかるとおり、ロシアW杯の決勝トーナメント1回戦・ベルギー×日本の試合(→2018.7.3)、
その後半アディショナルタイムで発生したベルギーの決勝点となるカウンターに焦点を当てたドキュメンタリー番組だ。
28台のカメラによる映像を分析するだけでなく、日本の選手・監督やベルギーの選手・監督はもちろん、ザッケローニ、
オシム、カペッロにも取材してコメントをもらったというものすごいこだわりぶり。さすがNHKのドキュメンタリーだ。
試合の当事者、傍観者、それぞれの視線を綜合して、わずか14秒の間に展開されたプレーをめぐる真実に迫る。まず、この番組の意義について。この番組は、日本にとって決定的な失点シーンの単なるプレー検証ではない。
哲学的なことを言えば、「14秒」というきわめて短い時間に内包された果てしなく濃厚な密度をえぐり出した快挙だ。
時間というものは、つねに均等に流れていることが前提となっている(→2008.1.9)。近代社会のお約束である。
しかしわれわれは体感的に、時間の流れには濃淡があり、同じ1秒でも質の違いがあることを知っている(→2004.9.29)。
(ちなみに、時計の秒針に目を移したとき次の1秒までを遅く感じる現象には「クロノスタシス」という名前がある。)
この番組では、短い時間でどれだけの思考と運動が展開されていったのかを、非常に緻密に考察していく。
本当にあの14秒間をこれだけの密度で扱うことができるとは、いや、扱えるものなのか、と思うデキである。
絶好の素材があったにせよ、あれだけの短い時間を極限まで引き延ばしてみせる、それをやったこと自体が凄い。あの試合は、サッカーではよく言われる「2-0がいちばん危険なスコア」をいうことを証明した試合であると思う。
2点リードして失点ゼロという状況は、もう1点奪って試合を決めるか、このまま守りきるか、迷いを生む展開である。
3-1であれば失点への後悔が守備意識を高めるし、1-0なら時間帯にもよるが守備でいくと割り切れる。ということで、
特に弱いチームでその迷いは顕著なものとなる。3点目を取るにも、ゼロで守りきるにも、自信がイマイチだから。
それがプレーとして出てしまったのが、パスを香川に当ててしまう長谷部のミス。勝負の神は細部に宿るというが。
69分、ベルギーのヘッドの折り返しが日本のゴールに入るという不運な失点。しかしこの形こそがいちばんイヤなのだ。
不運なことで知らないうちに受け身になっていく恐ろしさ、逆に運を味方につけたベルギーが強気になっていく。
一度傾いてしまったモメンタムをひっくり返すのは至難の業だ。だんだん日本が呑まれていき、ついには追いつかれる。そして後半アディショナルタイム、日本はCKのチャンスを得る。ここで指摘されるのが、GLでの2つの経験だ。
僕は本田がCKをなんであんなGK正面に蹴るんだよと思っていた(カペッロも言っていた)。しかしこのボールの軌道は、
実はコロンビア戦で大迫が決めたときと同じものだった。同じコースなのを察知していたGKクルトワが動いたので、
今回は正面になってしまったというわけだ。また、そもそも延長戦を見越してカウンターの危険があるCKから攻めずに、
相手コーナーでボールキープしてゲームを殺す選択肢もあった(いわゆる「鹿島る」)。しかしこれは体力的な問題と、
ポーランド戦の時間稼ぎを繰り返したくないというトラウマ(と表現するほどでもないとは思うがまあいちおう)から、
日本のプレーはCKからゴールを狙うもの一本に絞られていたという。そしてクルトワは素早くボールをリリースする。
その先にはデ=ブルイネ。身体能力に自信があるというデ=ブルイネは、大きなタッチでピッチ中央を駆け上がる。ここでもうひとつ、指摘が入る。それは戦術的なファウルという選択肢だ。CKをキャッチしたクルトワに当たれば。
ドリブルで駆け上がるデ=ブルイネに当たれば。どちらもカード必至のファウルだ。しかし、流れを切ることはできる。
オシムは指摘する。「故意のファウルは日本人らしくない。確かにフェアプレーを重視することで、
日本人は損をすることが多い。多すぎるかもしれない。いや間違いなく多いだろう。望ましい結果が得られなくても、
それが日本人なのだ。」――これはネット上では批判がみられる見解であるが、一瞬の判断、そういう意見はありうる。
(このオシムの見解に対し、日本人が実際にやった「ずる賢い」プレーを1,2個挙げても論理的な反証にはならない。)
とにかく、吉田麻也はクルトワに当たることなく俯き、山口蛍はデ=ブルイネのドリブルを正面から止める選択をする。
だが、デ=ブルイネはドリブルのリズムを変えたうえで右にスルーパスを出す。これを受けるムニエに対応する長友。
長友はルカクへ出る斜め前のパスのコースを切り、ムニエは横に出さざるをえなくなる。そこでは長友が信じたとおり、
長谷部がルカクのシュートコースを切っていた。が、後ろを確認していたルカクはスルー。長谷部の伸ばした脚をかすめ、
ボールは左サイド・シャドリの足元へ。川島との1対1を制したシャドリは、ベルギーの逆転勝利をもぎ取った。両者の差はやはり、世界のトップレヴェルでやっている経験から導かれる予測の精度にあるだろう。
そして仲間と次のプレーのイメージを共有すること。それを言語化すると、「サッカーを知っている」となるのだろう。
思ったのは、サッカーにも他のスポーツと同じように細部での戦術があるが、あまりにもスピーディすぎるということ。
あまりにも速すぎるからわかりづらくて、結果どうしても反射神経の問題として感覚的に処理されてしまうことが多い。
これが野球やアメフトなら、攻撃と守備は時間を挟んで切り替わるので(アメフトのターンオーヴァーは除く)、
じっくりと戦術について考えるだけの余裕がある。しかし瞬間で攻守が切り替わるサッカーに、そんな猶予などない。
非常に多くの選択肢が一瞬のうちに現れ、現実が次々とリレーしていき、プレーが絶え間なく継続していく。
そのひとつひとつを言語化するには、断片はあまりに短く、90分は長すぎる。そして休む間もなく次の試合が始まる。
今回は「14秒」をクローズアップすることで、ミクロのサッカーが可視化されたが、これを積分するのは気が遠くなる。
でも最先端のヨーロッパで揉まれているベルギーでは、その微分と積分が当たり前になっているのだ。それを痛感した。美しく敗れたという事実は、時に勝利よりも崇高な記憶として残ることがある。
僕の中には1992年の日本シリーズで敗れたヤクルトが究極の理想として立ちはだかっているのだが(→2004.9.26)、
この試合の日本代表はそれに勝るとも劣らないものがある。絶対的な強さを誇ったあの西武ライオンズと比べると、
ベルギー代表はいささか迫力に欠ける。しかしこの14秒間におけるベルギー代表は、絶対的なものを確かに持っていた。
あのベルギー代表にあって、日本代表になかったもの。気の遠くなる作業でも、われわれは積分を続けなければなるまい。それにしても、「ロストフの14秒」というタイトルが本当にいいなあと思う。近年まれに見る傑作タイトルだ。
ロストフ・アリーナで起きた、取り返しのつかない14秒。あの短い時間の中に凝縮されていた、絶対的な差。
きっとこの呼ばれ方が定着して、あの悔しい記憶は未来永劫語り継がれ、日本は再起を目指す。この番組はその第一歩だ。
今日も修学旅行の実地踏査なのである!
朝のうちに温泉の実地踏査を復習すると、朝メシの実地踏査をして、挨拶をしてホテルを出る。
送迎バスは昨日乗ったし、できるだけ早く京都での行動を開始したかったので、駅まで歩くのであった。
ホテルから駅までどんな感じの道で、どれくらいの時間がかかるか、しっかり確認しておきたかったし。
明るいうちに駅の写真をきちんと撮りたかったし。これはれっきとした仕事である! そこんとこヨロシク!さて実地踏査2日目は、京都を動きまわる。修学旅行の3日目はタクシーによる京都市内班行動になるのだが、
そのときに生徒たちが行きそうなところを下見しておくのが主な任務だ。が、教員として見聞を広める機会でもある。
というわけで午前中は、まだ行ったことのない大原を訪れることにする。絶好の機会、勉強させてください。京都駅で地下鉄に乗り換える際、地下鉄・バス一日券を購入。そして烏丸線の終点・国際会館駅へ。
思えば大谷幸夫の国立京都国際会館を見に行ったのは、修学旅行本番のタイミングであった(→2013.6.17)。
しかし今日はその国際会館駅から出ているバスで、さらに北の方へと進んでいく。20分ちょっとで大原に到着だ。地図で見れば鞍馬寺(→2015.3.28)の東、比叡山(→2010.1.9)の北にある盆地、それが大原なのだ。
平安京から適度に離れている盆地ということで、隠遁・隠棲の本場として昔から知られていた場所である。
まずは終点のバス乗り場から西へと歩いていく。すると京都市左京区とは思えない鄙びた光景が広がっていた。
京都の周縁部としては、嵯峨野も独特な雰囲気を今も保っているが(→2010.3.27)、大原もまったく負けていない。
昔から大きく姿を変えることなく生活を続けてきたんだろうなあと思わせる穏やかさ。歴史が目の前にある感じ。
L: 大原にて。大原女が頭に薪を乗せて売っていた頃からこんな感じだったんだろうなあ、なんて勝手に考える。
C: 寂光院を目指して歩いていく。なんだか山の辺の道(→2012.2.18)を思いだすなあ。 R: さらに山の方へ。最初に訪れたのは建礼門院ゆかりの寺・寂光院。壇ノ浦の戦い(→2007.11.4/2015.11.21)で安徳天皇は亡くなるが、
その母親であり平清盛の娘である徳子(建礼門院)は生き残る。その後、出家して寂光院で一族の菩提を弔い続けた。
『平家物語』の最終巻では後白河法皇が寂光院を訪れており、やがて建礼門院の極楽往生をもって物語は結末を迎える。
L: 寂光院の入口に到着。 C: 石段を上っていく途中の庭園。 R: 本堂。2000年に火災で焼失、現在の建物は2005年の築。石段を上りきると本堂である。やや小ぶりで隠棲の地にある寺らしいと言えばらしいが、天皇の母にしては簡素だ。
しかし周囲の木々はよく整えられており、品の良さを十分に感じさせる。本堂の中に入ってお参りしておく。
本堂のさらに奥には一面に苔が生した空間があり、小さな地蔵が1体、立っていた。静かに平和を祈っているのか。
L: 汀の池。左奥の鐘楼には「諸行無常の鐘」が吊るしてある。 C: 御庵室遺蹟の碑。つまり建礼門院が暮らした庵の跡。
R: 庵室跡の手前には見事な苔の庭が広がる。寂光院は寂しいかもしれないが美しい場所で、その名のとおりの寺だった。一人佇む合掌地蔵。合掌が見えないと思ったら、冬限定の前掛けらしい。
寂光院のすぐ東側には建礼門院徳子を祀る大原西陵があるので、帰りに寄って手を合わせておく。
諸行無常とは言うものの、『平家物語』の結末はこのように現在も形となって存在し続けているのである。
そして今の僕のようにふらりと訪れる者がいるわけである。作品はDNAとなって残るものなのだ、と思う。
L: 大原西陵の入口。 R: 建礼門院徳子を祀る大原西陵。現実は物語となって生き続けるのか。国道367号に戻ってくると、そのまま今度は東へと抜ける。大原といえば三千院。デューク・エイセスも唄っていた。
ゆったりと坂道を上っていくと、漬物を中心に各種土産物店がポツポツと並んでいる。どの店舗も小ぎれいで、
大原らしい鄙びた雰囲気を壊さないように気をつかいつつも、エネルギッシュに営業しているのがわかる。
L,C,R: 大原の各種土産物を扱う店舗が呂川沿いで点々と営業中。雰囲気づくりにかなり気をつかっている感じ。
L: 売っているものは漬物が目立っている印象だが、柚子・漆器・和傘など、京都っぽさを感じさせるものも多い。
C: 坂道を上っていくと左手に三千院の寺標。 R: しかし石段を上ってもしばらく食事処や土産物店が続くのであった。坂道を上っていくと「梶井 三千院門跡」と彫られた寺標があり、やっと着いたか、と思って石段を上ったら、
まだ食事処や土産物店が続いており、そこは入口ではないのであった。そこからさらにしばらく歩いていく。
するとようやく右手に入口が現れるが、石段の先に薬医門という立派なつくりで驚いた。御殿門という名前である。
門を抜けると石段、そしてさっそく参拝入口。そのままスルッと入ってしまい、主要な建物を外から撮り忘れた。
三千院の境内は木々がいっぱいで通路が限られており、なかなかすっきり建物を眺められないのだと言い訳しておく。
さて、三千院の歴史は延暦年間に最澄の開山と古いが、現在地に移ったのは1871(明治4)年で、わりと最近のこと。
土地を複数持っていたので経緯が複雑なのだが、比叡山東塔から麓の坂本、さらに京都市内を転々として大原に来た。
梶井門跡の政所が大原にあったことで、最終的にこの地に落ち着いた模様。別の寺だった往生極楽院を呑み込んだ形だ。
L: 横参道を歩いてやっと入口の御殿門。ものすごく立派で驚いた。石組みは穴太衆で、坂本とのつながりがうかがえる。
C: 客殿から見た三千院の庭園・聚碧園(しゅうへきえん)。東側を見る。 R: 西側を見る。奥は写経場の円融房。三千院の中を見学すると客殿・中書院・宸殿を一周する感じになるのだが、正直かなり複雑で何が何やら。
増築によって要塞化しており、ちょっとした立体迷路という印象である。しかもところどころに御守が置いてある。
限定モノもあって、頂戴するためにわざわざ戻ることも。気分は『がんばれゴエモン2』のからくり城ですよ。
ちなみにGoogleマップでは三千院の建物の中を動きまわることができるので、探検してみるのも一興かと。
客殿の庭園である聚碧園は2次元と3次元の中間といった感じの個性的な庭で、苔と木々の生かし方も巧みである。
作庭は金森宗和(『へうげもの』(→2011.8.25/2018.5.13)でやたらと強かったオネエっぽい人)という話。
満足して外に出ると、境内をしばらく散策。やはり苔が印象的で、大原には独特の空気があるなあと思う。
L: 境内を散策。先ほどの寂光院もそうだったが、大原には独特の空気があると思う。いい意味での湿り気。
C: 辺りは有清園という庭園である。 R: わらべ地蔵をクローズアップ。僕は正直これ、無粋だと思います。往生極楽院を眺めると、弁財天の像がある石段を上って境内の東側へ。こちらには金色不動堂と観音堂があるが、
どちらも平成に入ってからの建物ということで建物に関心のある僕としてはイマイチ。きちんと参拝したけどね。
L: 国指定重要文化財の往生極楽院。もともとは別の寺だったが、移転してきた三千院が吸収して現在に至る。
C: 1989年建立の金色不動堂。 R: さらに石段を上って観音堂。こちらは1998年の建立。東側には苔がゼロだな!円融蔵で最後に御守を確認して三千院を後にする。北へ行くと律川。三千院は南の呂川と北の律川に挟まれているが、
この2つの川の名前は声明(しょうみょう)の「呂律(りょりつ)」に由来する。呂律(ろれつ)の元ネタですな。
律川を越えて右手が、後鳥羽天皇と順徳天皇の大原陵。承久の乱の面々だが、土御門メンバーだけいないのが気になる。
L,R: 後鳥羽天皇・順徳天皇の大原陵。討幕計画に反対していた土御門メンバーは別なんですね。そのままさらに北上して勝林院。上で述べた声明の修行場として建てられた。こちらと三千院の東にある来迎院を合わせ、
「魚山大原寺」と総称したことで「大原」の地名がついたとのこと。本堂は1778(安永7)年に再建されたものだが、
非常に大きくて迫力満点。天台宗の寺院だが、法然の大原問答がここで行われており、浄土宗的にも聖地である模様。
L: 勝林院。 C: 近づいてみる。あまりの迫力に圧倒される。 R: 側面もたいへん立派である。この勝林院の僧坊のひとつが、すぐ西にある宝泉院である。実は今回、大原を訪れた目的のひとつなのだ。
同僚の先生が薦めてくれたのでやってきたというわけ。鳥居元忠らの血天井が有名だが、僕としては庭園を見たい。
L: 宝泉院の入口。僧坊つまり僧侶の生活空間ということで、確かにどこか住宅っぽさがある。 C: 玄関へと向かう。
R: 鶴亀庭園。本当は奥の部屋から格子越しに鑑賞するみたい。しかしこれはこれで美しい。やっぱり大原は苔だな!玄関から進むとまず鶴亀庭園があり、その先にメインの盤桓園(額縁庭園)。中心は樹齢約700年という五葉の松で、
抹茶と茶菓子で一服しながら、柱や鴨居を額に見立てて庭を鑑賞する。落ち着きのない僕は当然、覗き込みますが。
L: 盤桓園、五葉の松。 C: 右を見て南西。 R: さらに右を見て北西。庭はこんな感じである。盤桓園という名前には「立ち去りがたい」という意味があるそうだ。なるほどここで一服していれば穏やかな気分。
しばらく惚けて過ごすのであった。ちなみに宝泉院の御守は松竹梅がそれぞれデザインされたものが1体ずつあって、
個人的には庭よりもそっちの方が見事であると思った。庭も十分いいのだが、松竹梅御守がはるかにいいということ。
L: こんな感じで鑑賞するわけです。 R: 抹茶と茶菓子。たまにはこういう時間の過ごし方もしておかないと。以上で大原探訪はおしまいである。遅ればせながら大原の雰囲気をきちんと知ることができて本当によかった。
満足しながらバスで国際会館駅まで戻ると、地下鉄を引き返して京都駅に戻る。ここからは全面的に実地踏査モードだ。
いつものごとく自転車を借りて、銀閣寺・金閣寺・二条城のチェックポイントをそれぞれ確認。実に大回りである。
しかし京都の中心部はちょうど全国高等学校駅伝で、あちこちが封鎖中なのであった。いや、これにはまいった。京都市内は大混乱でございました。
それでもなんとか意地で実地踏査をこなし、土産もしっかり買ってタスクは完了。がんばった。
この2日間でなぜか不思議と御守が増えている気がするが、その辺は秘密だ! そこんとこヨロシク!
本日から2日間、修学旅行の実地踏査なのである! これはれっきとした仕事である! そこんとこヨロシク!
なお他の先生方は家庭の事情やら仕事の事情やらで不参加。僕ひとりでの実地踏査となってしまった。
というわけでもう一度繰り返す。これはれっきとした仕事である! そこんとこヨロシク!8時20分東京発・のぞみ209号で京都へと向かう。これが個人的旅行なら迷わず夜行バスで朝イチ行動開始だが、
これはれっきとした仕事なのである。新幹線ホームでの動き、京都駅でバスに乗るまでの動き、確認せにゃならん。
それらをひととおり済ませると近鉄特急で近鉄奈良へ。実際に歩いて感触を確かめつつ、宿泊予定の宿へと向かう。
L: 奈良に到着。何度来ても、街中をふつうに闊歩している鹿に驚く。そしてそのうち慣れる。その繰り返し。
R: ツノを切られた鹿なんて怖くないぜ!なんて言って鳥坂センパイみたいなことはやっていませんよ。念のため。宿に着くとまず外観を撮影し、担当の方と打ち合わせ。当日の動きとともに、同じ日に泊まる学校の情報も押さえる。
そして案内図を参照しつつ各部屋を見てまわる。今回は特に僕ひとりということで、念入りにさまざまな角度で撮影。
写真は生徒の事前学習でも使って修学旅行へ向けた意識づけにも使うことができるのだ。多いに越したことはない。打ち合わせを終えると、そのまま奈良公園を動きまわる。この辺りは班行動の中心となるので距離感をつかんでおく。
あと重要なのが、東大寺と興福寺、それぞれのアクセスについて確認しておくことだ。だいたいの時間も見ておく。
……さてそんな具合に動いていると、東大寺と春日大社の間にある手向山八幡宮に来てしまったではないか。
素通りするのも失礼だし、「紅葉の錦 神のまにまに」ってことで菅原道真にあやかりたい生徒が来るかもしれない。
そんなわけで参拝というか実地踏査するのであった。これはれっきとした仕事である! そこんとこヨロシク!
L: 手向山八幡宮。 C: 鳥居をくぐってこちらの杉の根に圧倒される。 R: けっこう距離のある参道を進んで楼門。
L: 楼門をくぐるとこの光景。 C: 少し右にずれて拝殿を眺める。 R: 左にまわり込み、奥の本殿を眺める。幅が広い。手向山八幡宮の御守はわりと色違いが充実しており、種類ごとに紫・赤・緑の3セットがある感じ。
生徒は気に入った色の御守を頂戴すればいいんじゃないかな! これはれっきとした仕事である! そこんとこヨロシク!
L: 手向山八幡宮のマーク。鳩でハートでございますか。 R: 楼門の手前にある宝庫。奈良時代の建物で国指定重要文化財。東大寺から奈良国立博物館を経由して興福寺までのルートを確認しておりますと、氷室神社の前を通りかかる。
素通りするのも失礼だし、修学旅行は来年6月で暑いから「氷」の文字に惹かれた生徒が来るかもしれない。
そんなわけで参拝というか実地踏査するのであった。これはれっきとした仕事である! そこんとこヨロシク!
L: 奈良公園へのメインストリート・登大路(のぼりおおじ)に面する氷室神社の鳥居。中に鹿がいますな。
C: 参道を進むとこちらも門。四脚門である。 R: くぐるとこの光景。手向山八幡宮と同じ構成なのは偶然か?瓦葺きの門から屋根が続いて拝殿に至る氷室神社の構成は、本殿の規模こそ違うが手向山八幡宮と共通している。
なかなか興味深い。そんでもって御守はふつうのもののほか、かき氷がデザインされた氷守があったから、
気に入った生徒は頂戴すればいいんじゃないかな! これはれっきとした仕事である! そこんとこヨロシク!
L: 左にずれて拝殿を眺める。 R: 向かって右から眺める本殿。こちらの規模はふつうである。興福寺に到着。宿で打ち合わせをしている間に雨がやんでくれて、だいぶ空気が乾いてきた感じ。よかったよかった。
さて興福寺だが、前に訪れたときには建設工事中だった(→2010.3.28)中金堂がついに落慶。2ヶ月前のことだと。
当然、参拝というか実地踏査。できたてホヤホヤなだけに、奈良時代の雰囲気を体験するにはもってこいでしょうな。
L: 興福寺中金堂。実に9代目の建物になるとのこと。 C: 幅がありすぎて正面からだとカメラの視野に収まらない!
R: もちろん国宝館も実地踏査。リニューアルで魅力が激増した施設である。今年1月に耐震工事から再オープン。奈良を動きまわると再び近鉄特急で京都に戻る。2日目の班行動で近鉄奈良駅をチェックポイントにするので、
当然その周辺も確認してからの移動である。京都からは湖西線で2日目に宿泊するホテルへ。今夜は温泉だぜ。
湖西線で温泉といったらまあ雄琴温泉でネガティヴなイメージもあるのだが、経営者側も努力をしているわけで、
それをイメージ先行で無碍にはできませんわなと。打ち合わせして晩メシいただいて温泉にふやけるほど浸かる。
晩メシも温泉もたいへんよろしゅうございました。これはれっきとした仕事である! そこんとこヨロシク!
忘年会である。プレゼント交換会では、高崎ハンズで買っておいた(→2018.12.2)くまモンだるまを用意。
そしたらそれが当たったヴェテランの女性の先生が凄まじく喜んでくれたのであった。いや、こりゃ照れますね。
僕も「おう、これはかわいい」と思って買ったのだが、僕なんか比べ物にならないほどのかわいがりぶりでして。
喜んでもらえて凄まじくうれしいであります。いや本当にあそこまで喜んでもらえるとは。たいへん光栄であります。
『ラブライブ!』の感想シリーズ第4弾。第1弾は「他作品との比較による『ラブライブ!』総論」(→2018.12.9)、
第2弾は「キャラクター造形論」(→2018.12.14)、第3弾は「組織論/時間論」(→2018.12.17)と書いてきた。
しつこすぎていいかげんそろそろ気持ち悪いので、今回の第4弾でおしまい。最後のテーマは、「身体論/空間論」である。まずはゲームの『THE IDOLM@STER』から切り込んでみようと思う。いくつかある源流の中でも、確実な存在だからだ。
AC版『THE IDOLM@STER』の稼働開始は2005年7月だが、開発じたいは2001年9月から始まっていたという。
そしてもうひとつ重要なのが動画サイトの発達で、2005年2月にYouTubeが、2006年12月にニコニコ動画が登場した。
この時期に発売された対戦格闘ゲーム『新豪血寺一族 -煩悩解放-』には「レッツゴー!陰陽師」のPVが収録され、
これが動画サイトで大人気となった。実は僕もバヒサシさんに動画を見せてもらって、これには衝撃を受けた記憶がある。
ゲームの本筋と関係なくCGのキャラクターが実際のグループのように歌って踊る姿は、ユーザーの発想を大いに刺激した。
2007年1月にはXbox360版『THE IDOLM@STER』が発売され、編集されたプレイ動画がMADムービーとして人気になる。
(MADについては、かなり前にバヒサシさんから「MADテープ」を教えてもらった。バヒさんはいろいろ教えてくれるなあ!)
同年8月、VOCALOID・初音ミクが登場。これもMAD文化の薫陶を受け、生身の人間にはとても歌わせられない歌詞を、
嬉々として歌わせるという作品が生まれる(→2008.3.23)。こうして仮想の身体が徐々にコントロール可能となってきた。
人間側から寄せたのがPerfumeで、やはり2007年の夏に『ポリリズム』で一気にスターダムに駆け上がった(→2008.3.23)。
エフェクタとして大胆に使用されたオートチューンは、すでにシェールが1998年に『Believe』でメインに据えていたが、
中田ヤスタカが得意のクラブミュージックをアイドルソングに持ち込む戦略において非常に効果的に機能することとなった。
2008年2月にはMikuMikuDance(MMD)が公開され、3Dモデルの初音ミクを手軽に躍らせることも可能となった。
また同時期にXbox360版『THE IDOLM@STER LIVE FOR YOU!』が発売され、MAD動画編集が簡略化された。
同年8月にMikuMikuDanceがVer.3.01になりマルチモデル化され、初音ミク以外のキャラクターも扱えるようになった。
『ラブライブ!』以前の動向はこんなところか。Perfumeと初音ミクと『THE IDOLM@STER』は相互作用を及ぼしつつ、
「ヴァーチャルなアイドル」というコンテンツが浸透する下地をつくってきた。『ラブライブ!』とμ'sはその系譜を継いでいる。そもそものアイドルの定義だが、崇拝される偶像を意味するところの英単語「idol」に由来しており、アメリカ発祥である。
戦後の日本には映画スターが存在し、レコードを出す人もいた。しかし「アイドル」という存在が確立されるには、
1970年代末から始まる生演奏の「歌謡曲」からシンセサイザーの打ち込みによる「J-POP」への変容が必要だったと思う。
(ここにYMOが寄与したというのが僕の一貫した考え。プロから機械への移行という功罪。→2012.1.13/2012.10.19)
プロフェッショナルなミュージシャンを従えるには当然、大人な説得力が必要となるが、機械ならかなりハードルが下がる。
ここにおいて、「スター」のネオテニー(幼形成熟)としての「アイドル」という存在が成立したと考えるのである。
(岡野誠『田原俊彦論』ではアイドルを見下す視線について取り上げられているが(→2018.11.26/2018.12.11)、
大掛かりな映画を背景としたスターに対し、手軽なテレビを背景とするアイドルは、年齢的なこともあって軽んじられる。)
単純に、テクノロジーの発達により低年齢層がお金を出せる範囲が広がって、低年齢層向けに「アイドル」が分化した、
そんな社会的な背景があるかもしれない。とにかく、この時期に日本芸能史に新たな分野が確立されたのは確かだろう。
もうひとつ押さえておきたいのは声優ブームで、これはアニメーションの人気とともに隆盛した。1980年代前半が第2次、
1990年代半ばが第3次とされるが、やはりこれも幼形成熟の要素を持ちつつ、低年齢層の購買力増加の影響がある。
声優のアイドル化は、現在の2.5次元文化の元祖、先行的事例との解釈は可能であろう。現実のアイドル(3次元)も、
アニメを通した声優(2.5次元)も、アニメキャラクター(2次元)も、支持するのがマニアックであることに大差はない。
どれだけ自分にとって都合のよい親しい存在として解釈しうるかという点において、本質的にはどれも変わらないのだ。さて、かつて「卑しさの社会学」と題したログにおいて、芸能界の危険な魅力について論じたことがある(→2013.3.20)。
なぜ、芸能界がハイリスク・ハイリターンであるのか。そしてなぜ、芸能界が古来より卑しいものとして扱われてきたのか。
それは芸能人とは、「身体あるいは精神(思想)をお金によって相手に委ねる(部分的に共有させる)」存在だからだ。
つまり独立した人格を有する一個人ではなく、自らの身体あるいは精神を他者に切り売りして生活しているから、卑しい。
(歴史的な観点から言えば、選挙権を持った市民とは対照的な、自己の身体を所有できない奴隷に近いものがある。)
ここから逆説的に、われわれにとって都合のよい人格を投影できる対象をつくり出せば、そこに価値を持たせることができる。
これを物語の中で生産すればキャラクターとなるわけだ。映画スターはそのキャラクターを再生産することで生活していた。
では、アイドルは。彼らは物語に囚われることがないかわりに、自らの身体においてキャラクターを演じ続けることになる。
(論旨は今回とは少しズレるが、過去ログ「キャラとは何か」も、ある程度ヒントになるのではないか。→2006.5.23)
ファンという不特定多数の相手にとって都合のよい親しい存在であり続ける、しかし従来の物語の枠にはとらわれない。
これが意味するのは、アイドルは現代社会そのものを物語として、自らの身体を無数の消費者に提供する存在ということ。
『ラブライブ!』風に表現すれば、まさに「みんなで叶える物語」となる。実に鋭いキャッチフレーズをつけたものだ。他者にコントロールされる身体としてのアイドルという存在は、テクノロジーの発達によって新たな局面に入りつつある。
上で述べた「ヴァーチャルなアイドル」が、いよいよ一般社会に浸透してきたのだ。その最新形はVTuberといったところか。
実体を持たないキャラクターが、情報空間における身体性を有するアイドルとして定義できる状況が生まれているのだ。
かつてコナミは、藤崎詩織やウィンビー(パステル)といったキャラクターにアイドル活動をさせようとしたことがある。
また大手芸能事務所のホリプロが1996年に伊達杏子をデビューさせたこともあった。しかしそれらは軒並み失敗した。
その原因は当時のテクノロジーの不足にあるのではない。先行した伊集院光の「芳賀ゆい」企画に成功のヒントがある。
それは、アイドルの依拠する物語をどのように生み出すかにある。コナミやホリプロは制作側がすべてを用意したのに対し、
伊集院はラジオリスナーと連動してすべてをやりきった。彼らは一次創作がないまま、二次創作だけをやっていたのだ。
(過去ログ「二次創作としての大長編ドラえもん」を参照(→2007.11.9)。思えば、モーニング娘。の全盛期においても、
ネットでは他にない規模で二次創作がうごめいており、大きな原動力となっていた。あの熱量は凄まじいものがあった。)
そして誰もがクリエイターに回れる可能性が開かれた初音ミクは、今もポップアイコンとしての役割を果たしていると言えよう。
情報技術・情報空間の発達によりわれわれの社会は変容を余儀なくされているが、この「物語」を全身で受け止めて、
アイドルはどのようにその血脈を保っていくのか。その命運を左右するのは、ほかでもないわれわれ自身であるのだ。……これで終わると、アイドル論としては書きたい放題に書いたけど、『ラブライブ!』の感想としてはあまりに中身が薄い。
もうひと頑張りして最後にアイドルをめぐる空間についても論じて、『ラブライブ!』の感想という体裁を取り繕っておこう。
「ご当地アイドル(ローカルアイドル)」という存在がある。注目を集めるきっかけとなったのは宮藤官九郎脚本の朝ドラ、
『あまちゃん』であろう(→2014.1.14)。もちろんそれ以前からローカルに活動していたアイドルグループは存在したし、
究極的な存在として宝塚歌劇団(→2012.2.26)を無視することはできない。これを巧みに応用したのがAKBグループで、
アイドルに地域性・聖地性を盛り込んで正当性・正統性を確保した。空間には地霊(ゲニウス・ロキ)が棲んでいるのだ。
つまりは、アイドルが活動する空間を固定させることによって、その依拠する物語性が容易に手に入るということなのだ。
『ラブライブ!』でもその考え方は踏襲されており、UDXやら神田明神やら秋葉原周辺を舞台空間として設定している。
巫女にメイドという記号もしっかり出すし、秋葉原を全肯定するのに一話をまるまる使ってすらいる(第1期、第9話)。
家電からテクノロジーの発達を経て情報化社会へと至った、その変革の記号論的な地位を背負い続けてきた秋葉原は、
情報空間のアイドルを抱える物語の舞台となるのにふさわしい。というより、秋葉原以外の場所は考えられなかっただろう。
(過去ログ「空間の肯定」を参照(→2013.1.9)。アイドルとは現代社会で個人が支持する依代なのかもしれない。)
おたくが統治する都市・秋葉原を拠点に、日本特有のキャラクター文化(→2013.9.30)のノウハウを採り入れながら、
観客の二次創作を通した物語への関与が許された存在。しかも、その身体性は情報空間の日常への浸透により、
「ヴァーチャル」という形容詞を冠せられながらも「アイドル」としての地位が広く認められている。それが『ラブライブ!』、
そしてμ'sということになる(2015年末にNHK『紅白歌合戦』に出演を果たしたことは、やはりメルクマールとなるであろう)。しかし前回述べたように、μ'sはあらかじめ寿命を設定されてもいた。彼女たちは「スクールアイドル」なのである。
秋葉原よりもっと狭い空間、「学校」を母体にしての活動のみが許される。時間も「3年間」という制約が課せられていた。
しかし、その制約があるからこそ組織が行為を存続できるという逆説は、前回のログですでに述べたとおりだ。
そしてこの制約は、『ラブライブ!』の主な支持層である中高生が、生活上で直面を余儀無くされているものである。
有限の時間というリアリティが提示されることで、共感が生まれる。中高生にとって都合のよい親しい存在と認知される。
そしてスクールアイドルは定期的に死に、生まれ変わり、命尽きるまで活動し、また死ぬことでスクールアイドルを更新する。
個の生命に死があるからこそ種としての進化が可能なように、スクールアイドルは火の鳥のように蘇って活動し続けるのだ。
『ラブライブ!』における死と再生は、『ラブライブ!サンシャイン!!』にバトンタッチして生まれ変わることで実現されている。
『ラブライブ!サンシャイン!!』では、μ'sの影響を受けて結成された新たなスクールアイドル、Aqoursの活動が描かれる。
こちらの舞台は静岡県沼津市となっており、先代の『ラブライブ!』と比べて地域性をより強めた作品となっている。
(余談だが、J3・アスルクラロ沼津のゴール裏にはAqoursのメンバーが描かれたフラッグが存在する。→2017.10.8)こうして、情報空間も含めた日本全国津々浦々にアイドルの種子が撒かれていく。期間限定・地域限定という制約は、
種としてのアイドルが文化となって存続する土壌を逆説的に活性化させる。アイドルは現代社会そのものを物語とする、
そう上で述べたが、実際は「現代社会が人間(身体)のアイドル化を促進している」と見る方が正しいのかもしれない。
アイドルの公演は、一種の祭りの要素を持っている。祭りは本来、収穫を祝うなど年単位の限られた機会に催されるが、
現代社会では祭りをめぐる経済効果を期待して、祭りを「イヴェント」として恒常的に発生させることが求められている。
そこで利用されるのがアイドルというわけだ。アイドルの公演は、都市が祭りを消費する手段として機能しているのだ。
祭りの規模は多種多様で、全国規模のアイドルによる5大ドームツアーから、スタジアムで行われるハーフタイムショウ、
ご当地アイドルの特設会場でのパフォーマンス。もしかしたらメイド喫茶での学園祭的コミュニケーション(→2005.9.11)も、
最小単位の祭りと言えるかもしれない。欲望と希望が交叉するアイドルの身体は、大なり小なり祭りを生み、お金を呼ぶ。
こうして現代社会とアイドルの相互依存は、資本主義の洗練された一端を担いつつ、文化としてこれからも持続していく。
(まあ究極的には『ジーザス・クライスト・スーパースター』ってタイトルが人間社会の本質を衝いているのかもね。)『ラブライブ!』という作品は、2010年代における日本、その特性を暗示している存在とみなすことはできるだろう。
ただ、主な支持層があくまで中高生という低年齢層であり、作品としての完成度は決して高くなかったのもまた確かだ。
誰かが勝手にうまいことやってくれる、ただ自分たちにとってのみ都合のよい世界。脇役のいない、主役だけの世界。
無邪気に熱狂する人々を見ていると、自己中心的な価値観の現代社会への浸透ぶりを実感せずにはいられないのだ。
「みんなで叶える物語」、その「みんな」とはどこまでを含めるのか。その「物語」は本当に魅力的なのか。疑問は残る。
空気の乾燥が原因で声が出にくい状態になってしまった。何年かに1回くらいのペースで出る症状だが、商売上困る。
こういうときにはのど飴に頼るしかないのだが、コンビニで買えるのど飴は効いている実感にイマイチ欠けるので、
医薬品方面で何かいいものはないかと調べてみる。と、浅田飴が大分トリニータのスポンサーになったという記事を発見。
なんでも、大分の片野坂監督が声を嗄らせてしまいがちで、サポーターが浅田飴に「助けてあげて」とSNSでつぶやいて、
それに反応した浅田飴が商品を送ってあげたところから一気に交流が進み、大分のスポンサーになっちゃった、という話。
これは結局、片野坂監督の人間性と浅田飴のフットワークの軽さがすばらしい、ということだが、なるほどなるほど。で、浅田飴を買って舐めておるわけであります。コンビニのど飴よりは効いているかなと。プラセボ効果かもしれんが。
ちなみに「浅田」とは、処方した漢方医・浅田宗伯の名を採ったもの。浅田宗伯は松本周辺の村の出身であり、
飴薬を売り出した会社を興した人物も長野県と縁があるとのことで、それは知らなかった。今後は愛用していこう。
でも浅田飴、クールとパッションがあるけどキュートがないんだよなあ。『デレマス』とコラボして、ひとつどうかね。
テレビにしろラジオにしろ、落合のしゃべる内容が面白くてたまらない昨今。
反響がいいのか、内容がネットニュースの記事として出てくることが多く、見るたびに感心させられる。
落合がいかに本質を見抜いていたか、そしてわれわれがいかにマスコミに踊らされていたかを実感しているしだい。思えば落合博満という野球選手は何から何まで異質であった。マスコミはそれを「オレ流」と称していたが、
こうして歴史として振り返る機会が増えてくると、実際のところは当時の「常識」に対する無視だったわけだ。
現役時代には凄まじい風当たりだったが、それをことごとく結果でいなしてきたことは本当に驚異である。
(ちなみに落合の現役の去り方を見るに、スポーツ選手の引退は加齢により体の動きが悪くなることよりも、
加齢によりケガからの回復に時間がかかるようになることの方が、要因としては大きいのではないかと思う。)落合に対する賛否両論が究極的に噴出したのは、2007年の日本シリーズにおける完全試合リレーだろう(→2007.11.1)。
僕は当時から、山井の交代はやむなし、むしろ後を完璧に抑えた岩瀬を絶賛すべきだ、と考えていたのだが、
マスコミによる現役からの落合叩きはまだまだ継続しており、現在のように肯定派が主流を占めた感触はなかった。
(そして過去ログを見てのとおり、僕自身、その采配を評価しつつも、落合本人を「好きではない」と書いている。)
あれから時間が経って冷静に歴史を振り返られる人間が増えたことで、ようやく落合の思考が紹介されてきた感じか。
そうして落合の中で筋の通った論理を客観視できるようになり、われわれは野球の真理を再発見している状況なのだ。当時の「常識」に対する無視と上で書いたが、それは旧態依然とした野球選手の「常識」と、マスコミの「常識」だ。
落合はそれらと戦うことなく、無視をしていた。そして彼が「常識」に染まらないことを周囲は苦々しく思っていた。
完全なる孤立無援で、自分の中の論理を貫きとおした。それが今頃になって評価されている、それだけのことである。
時代が落合の理論に正当な評価を与えるようになったことは喜ばしいことだが、これまで何年を無駄にしてきたのか、
そういう思いもある。とりあえず今のわれわれにできることは、落合の理論をきちんと記録しておくことと、
今まさに「常識」を無視して叩かれている人間を冷静に客観的に評価することである。自分も含め、反省しなきゃいかん。
『ラブライブ!』の感想シリーズ第3弾。第1弾の「他作品との比較による『ラブライブ!』総論」(→2018.12.9)、
第2弾の「キャラクター造形論」(→2018.12.14)に続く今回のテーマは、「組織論/時間論」である。メインとなる組織(『ラブライブ!』ではμ's)の内外をどの比率で描くかは、作り手の価値観が最も出る部分だと思う。
すでに述べたが、『ラブライブ!』は内部の比率が圧倒的に高い。物語のほとんどがメンバー間で完結するのである。
登場人物は家族・友達・ライバルのみに絞り込まれ、男性はほぼ不在だ。この外部は、μ'sの存在を揺るがすことはない。
さらに特徴的なのが、友達の使い方だ。彼女たちは第1話から登場し、きちんと名前も名乗るが、メンバーにはならない。
しかし時にはスタッフとして活動し、またきちんとファンとしても活動する。まるで便利な妖精さんのような存在なのだ。
演出にミュージカルの手法を取り入れたのは実に巧妙で、ミュージカル映画では裏方の存在は絶対に示唆されない。
歌って踊るパフォーマーの背景は、自動で勝手に動いてくれるというわけ。これと同じ状況が用意されているのである。この「何もかもすべてがお膳立てされている」という点こそ、『ラブライブ!』最大の特徴と言えるかもしれない。
まずおかしいのが新入生歓迎の初ライヴで、観客がゼロであるにもかかわらず、何の報告もないまま幕が上がるのだ。
2年生の3人は舞台上で茫然となりながらもそのままライヴを敢行するところが中学生くらいには印象的と映るのだが、
大人にとっては違和感満載である。大人は裏方の苦労を知っているから。裏方なしでは動かないことを知っているから。
さらにこのライヴは、誰かが勝手にビデオで撮影してくれていて、ネットにアップロードまでしてくれるのである。
(後に撮影者は絢瀬絵里と明かされるが、肝心なのは誰がやったかではなく、誰かがやってくれたという事実だ。)
もっとすごいのは、誰かが勝手にグッズをつくっており、秋葉原の専門店で売っていること。まあよく考えればそもそも、
ラブライブの運営主体が何者なのかすら明かされていない。すべては誰かが勝手にうまいことやってくれる世界なのだ。僕はもともと作曲の人間なので、西木野真姫が作曲するにしても、アレンジがどういう理屈でなされているのか、
そこが非常に気になった。劇中で、西木野真姫が楽曲のバックトラックを作成するシーンは、一切描かれていない。
パフォーマンスを最優先する一方で、そこに至る「つくる」過程は完全に無視されている。このアンバランスさは異様だ。
つまり、『ラブライブ!』はμ'sという組織以外はすべて外部として徹底的に排除する、非常に極端な作品なのである。
裏方には裏方の世界があり、ここをきちんと描こうとすると、μ'sという本題がくすんでしまう。裏方すら邪魔でしかない。
中学生にもウケる純粋な世界であるためには、どんなに不自然であろうと、μ's以外のドラマは排除すべきというわけだ。
下手にリアルを追求して外部の他者を出すくらいなら、矛盾を覚悟で御都合主義を徹底する、という姿勢なのである。この姿勢を貫くことで、運命的に選ばれた9人によるμ'sという組織の特別性が、とことんまで強調されることになる。
だから3学年の3人が卒業することでμ'sが解散してしまうのは、当然の論理的帰結となるわけだ。続けようがない。
しかし客観的に見れば、μ'sとしての時間を終えることで、次の世代である高坂雪穂と絢瀬亜里沙の居場所ができる。
さらには、μ'sの物語をきっちり完結させることにより、新シリーズの『サンシャイン!!』に移行できるのである。
『けいおん!』における「放課後ティータイム」から「わかばガールズ」への代替わりもヒントになったのではないか。
この時間的な有限性は、ある意味とても奇妙だ。μ'sを絶対化するためにあらゆる不自然さを許容したにもかかわらず、
時間だけがリアルなのである。時間だけがμ'sのコントロールをはずれ、その活動に終止符を打つ絶対的な壁となる。
しかし逆に考えると、時間が限られているからμ'sは奇跡的なラブライブ!優勝を果たすことが許されたとも言える。
μ'sという組織を完成させるためには、頂点で物語を終わらせる必要があった。しかしたとえば『水滸伝』において、
梁山泊に百八星が集まった瞬間に崩壊が始まったように、頂点を迎えた組織は崩壊に向かうほかないのである。
満開となった桜は人々から注目され、大いに歓迎されるが、それが葉桜となった途端に無視されてしまうのと同じだ。
だから『ラブライブ!』では、μ'sに崩壊という現象が存在することを、なんとしてでも否定する必要があった。
成長は肯定しても、老化は否定する。そうなると、とるべき手段は2つしかない。時間の概念を無視してしまうか、
時間を有限にして最高潮でゴールを迎えるか。『ラブライブ!』は後者を選び、成長だけを描く戦略をとった。そこで登場したのが、「スクールアイドル」というエクスキューズなのである。これは本当に上手い言葉だ。
「アイドル」では老化に抗うことはできないが、「スクールアイドル」であれば時間の有限性が最初から示唆される。
(「スクールアイドル」という非常に興味深いエクスキューズについては、次の「身体論/空間論」でも確認する。)
『ラブライブ!』における組織は、アポトーシス(プログラム細胞死)とネオテニー(幼形成熟)を思わせる。
裏方の存在をプログラム的に消し去り、老化を否定した成長を描く。そしてμ'sの終焉もプログラムされている。
幼形と成熟という矛盾を抱えたまま、未来への希望と過去の栄光が切り替わる分岐点で、組織はその時間を止める。
μ'sは絶頂期で引退した存在として、伝説を残すことになる。そしてファンは、手元に残された有限の時間の物語を、
今度は自分たちの好みに合わせて編集する楽しみが与えられる。その一方で、新しいスクールアイドルがまた生まれる。
2期の第12話は最終話でないにもかかわらず、ラストを飾るにふさわしい非常に力の入った特別な演出がなされている。
μ'sという組織を焦点とすれば、ここが最後となるからだ。そして続く最終話で、新たな組織と時間の発生を示唆する。
組織に行為を存続させるのではなく、行為を存続させるために組織を生み出し続けるという、時間をめぐる逆説がある。
天気がそんなに良くないという話で、カメラを持たずに青春18きっぷを使って一宮の御守を受け直す旅に出る。
そんなに何度も行かなくてもいいだろうとツッコミが入りそうだが、せめて近場の一宮くらいきちんともらおうと。
一宮参拝は僕の原点なので、そこだけはちょっとこだわることにしたのだ。まあ、あくまで近場のみですので。どっこい寝坊の影響で掛川まで行けず、富士山本宮浅間大社(→2008.3.23/2014.10.12/2015.12.27)と、
三嶋大社(→2008.3.22/2013.3.9/2015.3.21)の2社だけとなったのであった。家を出たら曇り空だったが、
昼過ぎに富士宮に着いたらなかなかの快晴ぶりでやんの。御守を頂戴すると、富士宮焼きそばをいただいて戻る。
三島ではさすがに曇りとなっていたが、快調に御守が頂戴できたのでよかった。これでまた研究が進むぜ!せっかくなので、小田原で途中下車して箱根湯本まで足を延ばす。最近は温泉に浸かりたくってたまらないのだ。
毎日寒いし疲れているしで、少しばかり意地になって旅行がらみで浸かれる温泉を探している状況である。
で、今回は駅からバスで無料の送迎をしている入浴施設にしてみた。行ってみたらかなりの人気ぶりだった。
お湯の温度がなかなか絶妙で、自由自在に浸かりまくることができる点は非常に素晴らしい点ではある。
しかし泉質は駅裏の鄙びまくった施設の方が良かったので(→2017.10.30)、そこは少々残念なところ。
まあいい気分のリフレッシュにはなったので、この勢いであと1週間をパワフルに駆け抜けたいものである。
寒い! 年末だもんな! 部活でずっと外にいると体が動かなくなってくるぜ!
『ラブライブ!』の感想シリーズ第2弾。前回は「他作品との比較による『ラブライブ!』総論」(→2018.12.9)だが、
今回からは各論を通してより詳しく分析を入れていき、最終的には社会学的アイドル論の入口へ道筋をつけてみたい。まずは「キャラクター造形論」からいこう。物語は2年生トリオが動かすことで始まるが、その構成はすでに述べたように、
ボケ(南ことり)・大ボケ(高坂穂乃果)・ツッコミ(園田海未)である。これが多数決によるボケの優勢で動いていく。
この物語を動かす横軸を2学年という中心に置いて、次に縦軸が構成される。高坂穂乃果という主人公(ポジ)に対し、
1年生における小泉花陽という主人公(ネガ)が配置される。両者は「アイドルになりたい私」という構造で共通するが、
そのポジティヴな要素を高坂穂乃果が担当し、ネガティヴな要素を小泉花陽が担当する。大半の女子はここに含まれる。1学年には「昔からの親友」の星空凛と、「新たな友達」の西木野真姫が配置される。西木野真姫は才能の象徴で、
彼女と関わることで才能ある他者を同化する手続きを踏み、「アイドルの私たち」が成立するエクスキューズとなっている。
第4話「まきりんぱな」というタイトルは、そう呼べと言わんばかりであざとい。西木野真姫を同化させるための工夫だろう。
しかし対照的に3学年の構造はやや複雑で、小泉花陽のネガをさらにこじらせた矢澤にこが、まず先にμ'sに加入する。
ここには過去の救済・浄化という要素がある。μ'sという組織のアイドルとしての正当性をさらに強調するプロセスと言える。
なお、第5話「にこ襲来」は明らかにエヴァンゲリオンを意識しており、トリックスターの役割が最初から宣言されている。
そこから絢瀬絵里と東條希が加わるが、生徒会長・絢瀬絵里は学校代表の正当性とやはり同化される才能の象徴で、
東條希は巫女にしてタロット占いの使い手であり、その行動に「神のお告げ」という要素をチラつかせることにより、
さらに明確にアイドルとしての正当性を持たせる。女神に由来するμ'sの名付け親が東條希であるのは、必然の演出だ。あとは各キャラクターに、「自分に近いタイプ」と思わせる要素を追加で散りばめて、感情移入させればいいのである。
ダイエットに苦しむメンバーがポジの主人公・高坂穂乃果とネガの主人公・小泉花陽なのは、親近感の演出だろう。
家庭環境も多彩で、お金持ちから貧乏大家族、学校経営者、自営業、帰国子女に転勤族の一人暮らしと幅広い。
9人にありとあらゆる属性を用意し、最もお気に入りの「推し」のほかにもDD(誰でも大好き)、箱推しの余地を持たせる。
現実ではモーニング娘。が切り開き、フィクションでもセーラームーン以降練りに練られた方法論が存分に活用されている。さて、上記のようにμ'sは3×3の構造を持つが、各学年にはつねに2:1となる緊張状態が用意されている点が興味深い。
それはボケとツッコミの比率であり、親友と他者の比率であり、才能ある者と気合いでなんとかする者の比率である。
この比率を動かすことでドラマを生み出しているのだが、そこにμ'sのメンバー以外の者が関与する隙はまったくない。
『ラブライブ!』におけるドラマトゥルギーは、すべてμ'sの中で発生してμ'sの中で解決する仕組みが徹底されている。
これについては次の「組織論/時間論」でも確認する。それにしてもこのMacBook、名前をぜんぶ一発変換したぞ……。
本日、やっとのことで2016年の日記をすべて書き終えました。今ごろで本当に申し訳ない。
越年して3年前の日記を書く状態はどうにか回避できたわけだが、負債の完済が遠い状況には変わりない。
この勢いで引き続き、2017年の日記についても地道にがんばって書いていく所存であります。ハイ。
旅行なんかはどれもこだわり100%で中身が濃いので、できるだけ早くアップロードしちゃいたいのだが、
中身が濃いだけあって年々書くのが大変になっている。いいかげん、要領よく書けるようにならなければ。
学年の先生方全員で、平成最後の天皇誕生日のあたりに来年度の修学旅行の下見をする予定だったのだ。
ところがさまざまな要因によって計画はどんどん変更されていき、気がつけば私が一人で行くことになりました。
仕事ですからね、好き放題に動けるわけではないので、責任も重大だし、正直これはちょっと困ったかなあ……と。
一生懸命がんばりますが、例年以上にのんびりできない年末年始が確定した感じ。うっかりミスに気をつけよう。
岡野誠『田原俊彦論』。きちんと読んだので感想を。発売イヴェントについてのログはこちらを参照(→2018.11.26)。
まず圧倒されるのが、目次に続く「凡例」である。この本においての資料の扱いを示しているのだが、
これだけ多くのことを、これだけ丁寧に扱っているとは!と驚いた。筆者の絶対的な真剣さが感じられる部分だ。
巻末の分厚い資料にも度肝を抜かれたが、どちらかというと僕には1980年代という雰囲気を感じるためのもの、
そういう感触である。番組内容の要約に反応するマサルもたぶん同じ感覚だろう。これだけでも十二分に楽しめる。肝心の内容もまた真摯で、きっちりと時系列に沿って、きわめて客観的にスター・田原俊彦の誕生と活躍、苦難を描く。
根拠となるのは膨大な量のビデオ映像・雑誌記事・インタヴューだ。量の力で当時の客観的な状況を精確に描き出し、
そのうえで論を進めるので納得せざるをえない。歴史学の論文と同じくらいの注意深い手続きで事実が掘り起こされる。
そう、筆者は熱狂的なトシちゃんファンであるにもかかわらず、文章は一定の冷静な温度が保たれているのが凄い。
逆説的だが、その感情の抑制ぶりこそが、資料の量とともに筆者の熱意を最も感じさせる部分となっているのだ。
もっとも、終盤に近づいていくにつれて、田原俊彦本人へのインタヴューを主な資料としていることもあって、
抑えきれない感情が現れ出して、それもまた面白い。「ちゃんと病院へ行ってください」とか、もうオカンじゃないか。
もはや量で証明する必要がないところまで田原俊彦を描き出したことで、筆者はファンの代弁者に切り替わっていた。
それはつまり、「ファンの主観=田原俊彦というアイドルの実像」という構図が完成していることの証左なのではないか。
メディアによるよけいな増幅のない、純粋で見通しのいい関係性が構築された現状を反映しているように思う。
だから現在の田原俊彦は、このある種の安定(究極的な存在は宝塚か →2012.2.26)を歓迎している気もする。さて、僕は上にリンクを張った発売イヴェントのログで、トシちゃんとカズを対比させて考えた。
これがマサルと岡野さん本人から、両者の関係(実は親友)を知らずに書いたことを大いに褒めてもらったのだが、
実際にこの本を読んでみて、さらに考えさせられる点があったので、それについて書いておこうと思う。
まず、田原俊彦が尊敬してやまない存在である、マイケル=ジャクソンとの対比。エンターテイナーとして、
田原俊彦はM.ジャクソンと同じ線上にいようと強く意識している。2009年にM.ジャクソンは亡くなってしまったが、
彼の身体イメージはそのダンスパフォーマンスとともに、われわれに解放された、と見るべきだろう(→2009.6.27)。
ではM.ジャクソンの身体イメージを取り入れてきた田原俊彦のイメージとは何か。われわれは「アイドル」と定義する。
しかしM.ジャクソンはアイドルとしてスタートしたかもしれないが、最終的な位置は決してアイドルではない。
あえて田原俊彦を「M.ジャクソンを矮小化したもの(表現が悪いが、弟子のようなものと理解してほしい)」とすると、
M.ジャクソンから田原俊彦に至る過程で抜け落ちたものは何か。そこにアイドルのヒントがあるように思うのだ。
結論から言ってしまうと、作詞と作曲だと思う。アイドルは本質的に、作詞・作曲をしてはいけない存在なのだ。
与えられた曲を、送り手と受け手のイメージを受け止めたうえで、求められたようにやりきる。それがアイドルだ。
だからチェッカーズは自分たちで楽曲をつくるようになった瞬間に、アイドルではなくなったというわけだ。
(鶴久の書く曲はいい曲ばかりだから許してやってください。再結成しなくていいから、どうか許してやってください。)
田原俊彦の場合、おそらくそこにプロ意識がある。僕はなぜ彼が作詞・作曲しようとしないのか不思議だったのだが、
たぶん彼はできるとしてもやらないのだ。彼は演じ手としてのプロだから、作詞も作曲もプロに任せているのだろう。
M.ジャクソンの身体イメージを受け継いでステージに立ち、踊り、そして歌う。そこに特化したアイドルであろうとする。
これは実に不器用な生き方である。「アーティスト」という称号とともに新境地を開いてもよさそうなものだが、
そうするとかえってアイドルの定義とともに「田原俊彦のやってきたこと」がブレる結果となってしまう。だから、やらない。
その姿は僕にはやはり、カズが決して指導者の道を歩もうとせず、現役選手として生涯を貫く姿勢と重なって見える。
チームをデザインする側である監督にはならず、あくまでストライカーとしてのクオリティを一生追求し続ける。
サッカー選手の地位とアイドルの地位の間には、貴賤も何もない。彼らはただ、一生かけて道を究めようとしているのだ。
トークショウで岡野さんがおっしゃったように、1980年代当時の表現を見ると、「アイドルのくせに」という見下し方は、
確かに存在していた。そこからどれだけわれわれは進化しているのだろうか。芸能への蔑視はどこまで相対化されたのか。
アイドルの存在価値をショウビジネスの文脈でどう認めるのか。前に述べた「われわれが試されている」とは、そういうことだ。それにしても、この本を読んだら、田原俊彦という存在にさすがに興味が出てきた。今後は積極的に気にかけていくぜ。
どうにもならないことなので粛々と受け止めるしかないし、そもそもここに書くことではないのだが、
しばらくちょっと仕事が忙しくなりそうな気配。まあ正直なところ、僕の仕事が忙しくなるという客観的事実よりは、
僕のやるべき仕事についての質感という主観的な部分をどのように折り合いをつけて納得していくかという、
そっちの方が気がかりである。われながら微妙な言い回しだなあ。まあ、呆れられないようにする、ってことです。
すいません、今さら『ラブライブ!』の感想を書こうと思ったら、とんでもない長さになってしまいそうなので、
何回かに分けて小出しにしていきます。第1回目の今回は、他作品との比較による『ラブライブ!』総論です。いま、通勤電車の中でチビチビと岡野誠さんの『田原俊彦論』を読んでいるのだが(レヴューは明後日あたりに)、
おかげで「アイドル」というものに興味が出てきた。といっても僕の場合は何よりもまず、社会学的な興味だ。
大学時代にはモーニング娘。にハマりまくり、前任校では実際にメンバーの子に英語を教えたりもしたが(なんと!)、
本腰を入れると大掛かりで面倒くさくなることもあって、社会学的な視点であれこれ考えることは避けてきた。
正直なところ、今も面倒くさい。でもぼちぼち現時点での考えをまとめてもいいだろうという気になってきたのだ。
ただ、真正面から論じるにはあまりにも勉強不足だ。まずはその準備段階ということで、周辺部から攻めてみる。
具体的には、年末のHDレコーダーの処理も兼ねて、アニメ『ラブライブ!』を見た感想をまとめることから始めたい。
生徒からオススメされたのは、もう5年も前になるのか。そのときチラッと見た感想は「ことりちゃん声高ぇよ」でした。まず最初に出る名前が「矢立肇」ということで、サンライズなのねとびっくり。ガンダムからラブライブまで幅広いなあ。
話の展開としては、実にベタ。メンバーの留学でピンチになるところまでベタ。お兄さんはかゆくなっちゃうよ。
こんな設備のいい学校が簡単になくなるかよ、とツッコんではいけないのでしょうか。子どもは食らいつくだろうけどね。
筋としては、ボケと大ボケとツッコミが多数決で話を進めていくわけだ。それでフィクションが離陸していくという仕組み。
だんだんとメンバーが揃っていく感じは、やっぱり元祖としての『セーラームーン』が根底にあるように思えてしまう。
屋上での練習は『櫻の園』(→2003.11.6)へのオマージュか。登場人物を限定してメンバー間のやりとりの密度を上げ、
日常性を持たせる手法は『けいおん!』(→2011.11.16)由来だろう。先行する作品をかなり研究しているのがわかる。
『ラブライブ!』の特徴は、ミュージカルの方法論を取り入れている点だろう。パフォーマンスのシーンの入れ方だが、
ミュージカル映画という形を応用しながら、多少強引でもパフォーマンスをストーリーに優先してぶち込んでくる。
ライヴシーンを必要最小限にしていた『けいおん!』(→2012.1.7)とは、この点が大きく異なっている。
2期なんて確信犯的で、いきなりミュージカルだ。キャラを確立させてギャグにも振れるという、余裕を感じさせる宣言だ。同じアイドルネタとなる『アイドルマスター シンデレラガールズ』(→2015.4.11/2015.11.5)と比較すると、
典型的な明るい主人公の高坂穂乃果と、何もかもふつうの島村卯月という、一般性のある視点が共通していると言える。
少女マンガには基本的に、「ふつうの私」がハイスペックな男子にモテるという構造があると思うが(→2007.4.7)、
「ふつうの女の子がアイドルになる」構造は、その延長線上だ(ドジな月野うさぎも実際は同じ構造であると僕は考える)。
しかし『ラブライブ!』は第1話からかなり中身の詰まった内容なのに対し、『デレマス』は展開をあえて遅くした仕上げ。
『ラブライブ!』は少ない登場人物に特化し、μ's(うわこのMacBook一発変換したよ)の内部と外部が峻別されている。
その分、アイドルになれるキャラとなれないキャラの差は大きい(セーラー戦士も惑星と同じ人数しかなることができない)。
対照的に、『デレマス』は数えきれない登場人物を自由な形で出しており、内部と外部の区別が比較的あいまい。
むしろ、後半からわざわざ美城常務という、外部からトップダウンで枠を壊す人を新規に出してきたくらいだ。
アニメとしては『デレマス』が後発であり、リアリティを重視する形で『ラブライブ!』と差別化したと考えられる。もともと僕はこの手のジャンルに興味があるわけではなくって、僕の知りうる限りの作品でなんとなく共通点があるな、
というものを並べて比較したら以上のような感じにまとまった。ハマりはしないけど、分析しがいのある作品だとは思った。
練習試合である。コーチの目指すパスサッカーが定着している模様で何より。
◇
大学時代に所属していたゼミの飲み会に10年ぶりくらいに参加する。先生にお会いしたのが昨年で(→2017.11.16)、
そのタイミングでは参加手続きに間に合わなかったので、あらためて今年きちんと参加させていただいたしだい。
いざ参加してみたら年齢が上から2番目なのであった。時間の経過を素直に感じるが、淋しさも正直ありますね。
幸い、1コ下の世代からも一人参加者がいたので、置いてけぼりを食うことはないのであった。近況をいろいろ聞く。
それにしてもさすがにみんないいところに就職していますな。いちばん貧乏でいちばん冴えないのは間違いなくオレ。
そして現役学生のみなさんのエネルギッシュさがうらやましい。知らないうちに老け込んでいる自分を自覚したなあ。
まあそうは言っても意外とネガティヴにならずに過ごせたので、次の機会にも楽しい話ができるように日々がんばる。
赤坂憲雄『性食考』。どっかの書評で見て、興味をそそられたテーマだったので読んでみたというわけ。
しかしながら「はじめに」の段階から、僕の期待は裏切られることが確定していたのである。筆者はこう述べる。
「そう、きっとこのテーマはどれだけ執念深く追究したところで、
『薄明のなかの不定形としかいいようのない影の部分』にぶつかり、
けっしてあきらかな輪郭をもって浮き彫りにされることはないだろう。」
つまり、この本はあくまで筆者の予感を書き連ねるだけで、研究として切り込む気はないと宣言しているのだ。
そして宣言どおり、全編にわたっていかにも社会学的な文系特有の投げっぱなしジャーマンが炸裂している。読んでいる感触は、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(→2006.8.25)に近いものがある。これは褒めていない。
筆者の読書量には敬服するが、その本の引用を繰り返すのみで、自らそのテーマの中心に切り込んでいこうとしない。
サッカーで例えるなら、サイドでいい形でボールを持って、SBを抜くけど、延々とドリブルの往復を繰り返す感じ。
クロスを上げることもなければ、自らシュートを狙いにカットインすることもない。ドリブルの技術に酔っているだけ。
点を取りにいかないサッカーが退屈であるように、この本を読み進めることもまた退屈である。読者が学べない。
思考のヒントとしては有益だし、参考になる文献の紹介としても有用だ。でもそれだけに、肝心なところでの逃げが不快。
お前の知識の披露はもういいから、お前自身が性と食の関係性をどう結論づけたいのか。いやもう本当にイライラした。ただし、動物・神話・女神をテーマとする中盤はかなり切れ味の鋭い展開を見せる部分もある。
結局のところそれは、引用元であるバタイユやレヴィ=ストロースやエドマンド=リーチが面白いということなのだが。
とはいえ、そのあたり皆さんの成果を性と食というテーマに即して筆者がよくまとめてあるのは間違いない。
そういう意味でもやはり、この本は古典に踏み込むためのブックガイドとして読むべきであるような気がする。
最近は週末の日帰りお出かけをがんばっているため、ただでさえ飽和状態の写真が整理できずに溜まる一方である。
しかし今日は出張が終わると、気合いで一気に片付けていく。当然だが、やらないことには減っていかないので。
粘りに粘ること4時間半、ノンストップで写真の加工作業に集中するのであった。でもまだまだ終わらないのよね……。
出かけていたせいでM-1グランプリは途中からしか見ていないので、メモ程度で。
ジャルジャルは去年の福徳の悔しがりっぷりを目にして、僕としては好感度がだいぶ上がっていたのだが、
今年はそれを踏まえての貫禄を感じた。実を言うと1本目のネタは見られなくて、わざわざ動画を探して見たのだ。
いい意味で、小学生のふざけた遊びを最高レヴェルのやりとりに昇華させるスタイルが確立されていると思う。
他愛ない楽しいふざけを、ある種、音楽的なトランス状態まで持っていけるというのは、彼らでないとできない芸当。
唯一無二のことを完璧にやってのけているのだから、芸人として完成された領域に達したと思う。和牛は去年の反省がぜんぜん生きていない。彼らの人物造形は暗いのだ。登場人物に対する扱いがネガティヴ。
1本目はゴールデンタイムで「殺す」という言葉を連呼する点がネガティヴだが、それを軽やかに笑いに変えた。
2人の連動する動きも見事だったし、これは面白いと素直に思った。でも結局、2本目で人を陥れるネタに走った。
登場人物を凹ますまではいいのだが、それを笑いという形にまとめることなく終わる。だからどこか気分が悪くなる。霜降り明星はうるさいけど、ボケの腕が確かなところに表現豊かに笑わせるツッコミが入るので手放しに面白い。
2本目の途中で、こりゃ和牛負けたなと思ったら案の定そうなった。審査員の判断は妥当だったと自分は考える。さて、うるさいコンビということでもうひとつ、ミキについて。とにかく兄貴の方がうるさくて僕は大嫌いだった。
しかしネタはきちんと面白かったし、今年の兄貴は膨大な量のセリフを非常に滑舌良く言い切ってみせて、圧倒された。
まだうるさいとは思うものの、昨年とは比べ物にならないほど聞きやすくなっているので、素直に来年が楽しみ。
暑い! 12月やぞ! ヤバいだろこれ!
すべての音楽を持ち歩けない不自由さに我慢ができず、ついにiPod touchを購入してしまいました。
やっぱりAppleのiTunesは圧倒的に使いやすいの。そんでもって128GBなら持っている音楽がぜんぶ入るの。
つまり、かつて愛用したiPod classic(→2014.9.10)の後継として十分やっていけると判断し、購入を決断した。
スマホではやっぱり容量が足りなくて、決まったプレイリストしか持ち歩けないのがとってもつまんないのだ。
すでにスマホを持っているくせに今さらiPod touchというのは、なんとも間抜けな印象がしてしまうのだが、
好きなときに好きな音楽を好きなように聴けるという魅力は大きい。あらためてそのことを実感している。こりゃいいやと思っていじくりまわしているうちに、ふと気がついた。スマホ、いらないんじゃね……?
電話はガラケーにお任せして、それ以外はiPod touchでもういいんじゃないかって気がしてきたのである。
そうすれば月々の通信費をだいぶ節約できるんじゃないだろうか。どれくらい節約できるかはわからないが。実際にはプロバイダのプランだとかSMSの送受信だとかマップの位置情報だとか、いろいろ問題がありそうなので、
今すぐにはスマホを手放すことはないものの、周囲のアドヴァイスを聞きながらじっくり考えてみようと思う。
休日おでかけパスで日帰り旅行である。最終的には上州一ノ宮で一之宮貫前神社の御守を確認したい。
しかしそこへ至るまでに群馬県のあちこちを動きまわってやろうという魂胆である。冬の日差しに負けずにがんばる。まず最初の目的地は、玉村八幡宮である。利根川と烏川の合流点・玉村町に鎮座している。
玉村町内に鉄道は走っておらず、高崎線の新町駅から永井バスのお世話になる。玉村五丁目で下車してすぐだ。
ちなみに下車した県道142号は、3年前までは国道354号だった。バイパスができて県道に降格してしまった。
L: 玉村五丁目バス停から見る県道142号。かつての日光例幣使道だ。中央の赤いのが玉村八幡宮の一の鳥居。
C: 県道142号に面している一の鳥居。 R: 進んでいくと立派な随神門。1865(慶応元)年の築とのこと。境内はしっかり整備されているが、逆にその「行き届いている感じ」が、神社よりも寺に近い感触である。
八幡宮で神功皇后を祀っていることから、安産や子育て方面にかなりオリジナリティが発揮されている印象。
L: 境内に入って左に「安産・子育て・子宝」と書かれた看板を掲げる建物。中には安産のご利益があるという撫で犬。
C: 境内。七五三仕様で、ハローキティやきかんしゃトーマスの絵馬掛けがあった。 R: 神橋と中門。拝殿はこの先。玉村八幡宮は、本殿が国指定重要文化財となっている。1507(永正4)年に建てられたものであり、
1610(慶長15)年に代官・伊奈忠次が新田開発の際に移築した。1771(明和8)年に現在の形になったそうだ。
群馬県の神社は、上野國一社八幡宮(→2018.8.1)や榛名神社(→2016.3.30)、碓氷峠熊野神社(→2017.9.9)など、
神仏習合色をわりと残したものが多い気がする。玉村八幡宮も神仏習合の雰囲気を強く感じさせる神社だ。
L: 拝殿。18世紀末ごろの築とのことだが、こちらは特に文化財に指定されてはいないみたい。
C: 振り返ると文化年間の築とされる神楽殿。 R: 本殿。火灯窓が仏教っぽくて独特である。参拝を終えると、せっかくなので玉村町役場に寄って撮影しておく。玉村町役場は1985年の竣工である。
玉村という地名の由来は、利根川や烏川などで「水が溜まりやすい場所」とのこと。「溜まる」で「玉」なのか。
周辺を航空写真で見るときれいに矩形の田んぼが広がっており、新田開発されたという歴史に納得がいく。
L: 玉村町役場。まずは南側、正面から見たところ。 C: 南東から眺める。 R: 東側の側面。
L: 東寄りに北から見た背面。建物の北東に公園っぽい空間があるのだ。 C: 北西から眺める。 R: 西から見た側面。この後は先ほどと同じく永井バスのお世話になり、玉村町役場から一気に前橋の群馬県庁前まで乗り込む予定である。
でも余裕があるので、県道142号沿いのジョイフルで朝食をいただく。ジョイフルといえば西日本だが(→2011.2.19)、
北関東や埼玉にも店舗があるのだ。定番の豚汁朝食でエネルギーを充填。ジョイフルの豚汁朝食は本当に偉大である。のんびり40分ほど揺られて前橋に到着。今回の目的は役所ではなく、神社。あと臨江閣(→2014.5.11)へのリヴェンジ。
ということで、群馬県庁から北上して楽歩堂前橋公園へ。グリーンドーム前橋が遠くからでもたいへん目立っているが、
そちらには行かずに臨江閣へと歩いていく。前橋東照宮の脇を抜けて正面へとまわり込むと、いざ見学開始である。グリーンドーム前橋(前橋競輪場)。1990年オープンでけっこうな歴史がある。
臨江閣は本館・別館・茶室からなる群馬県の迎賓施設で、今年8月に国の重要文化財に指定された。
本館は1884(明治17)年、群馬県令・楫取素彦(かとりもとひこ)の提案により建てられた。茶室も同年の竣工。
別館は1910(明治43)年の築で、一府十四県連合共進会の貴賓館として建てられた。出入口は別館の方にある。
L: まずは臨江閣の別館から。前回見た後に大規模な改修工事を行っており、昨年から公開を再開したとのこと。
C: 別館の廊下。本館も似た感じである。 R: 別館にある「かふぇ あんきな」。土産物も扱っている。
L: 別館2階に上がる階段。両側から真ん中に上がるのは西洋風だと思うのだが、きっちり和風でつくって面白い。
C: 前橋の偉人・萩原朔太郎も結婚式で使ったという2階の大広間は箏曲演奏会の準備中。 R: こちらは本館の階段。
L: 本館の一の間。昨年の竜王戦はここが会場だったみたい。 C: 外に出て庭園越しに眺める別館の背面。
R: こちらは本館。本館の方が外見は地味だが中は威厳たっぷり。別館の方は外見と大広間に全力という印象。見学を終えると、すぐ南の前橋東照宮に参拝。東照宮なので祭神は当然、徳川家康だ。結城秀康の五男・松平直基が、
越前勝山藩主となった際に創建した。ところがこの人、そこから越前大野→山形→姫路と転封を繰り返しており、
さらに息子の直矩は姫路→村上→姫路→日田→山形→白河という凄まじい転封ぶりで「引っ越し大名」とあだ名された。
子孫はいったん姫路に戻るも、朝矩の代に「幼少者を西国を抑える姫路藩主にはできない」ということでまた転封。
それで前橋にやってきたのだが、利根川の洪水で前橋城の本丸まで浸水してしまい、川越に移動して川越藩となる。
現在の社殿はこのときに築かれている。で、幕末になりようやく前橋に戻ってきて前橋東照宮となったのであった。
L: 前橋東照宮の境内入口。 C: 中に入るといきなりコレで驚いた。「前橋四公」をイラストでアピールしているそうだ。
R: イラストの横には車の祓殿。自動車専用のお祓所を設けたのは全国で初めてとのこと。本当かよ、とびっくり。
L: 拝殿。築170年くらいとのことだが、実に寺のお堂っぽい。 R: 本殿を覗き込む。御守を頂戴すると、もう一丁市街地の神社ということで、前橋八幡宮に参拝する。国道50号から南に入り、
メインストリートから少しはずれてちょっと落ち着いた雰囲気になった一角に鎮座。手前は八幡宮公園だ。
神社としての威厳がしっかりあるのに公園と一体化しているのが独特で面白い。気軽に立ち寄れる神社だと思う。
L: 前橋八幡宮。公園の中に参道があって神社になっている、そんな感じ。 C: 参道を行く。 R: 拝殿。向拝がすごい。前橋八幡宮は長野業重が石清水八幡宮から勧請したという。ネット上の断片的な情報を拾って組み合わせると、
業重は在原業平の五男であり、上野国司として赴任すると吾妻郡の長野原で暮らして長野氏を名乗ったという。
で、武田信玄を相手に戦いその名を轟かせた箕輪城主(→2013.8.4)・長野業正はその子孫ということになる。
L: 境内社の美保大国神社は対照的に木造。 C: 本殿はコンクリの中のようだ。 R: 八幡宮公園。境内は石垣で一段高い。これで前橋市街中心部の神社は押さえたはずだ。前橋駅まで歩くと両毛線で高崎駅へ。今日は自由に動いているなあ。
高崎駅からは上信電鉄である。「1日全線フリー乗車券」を購入すると、いざ西へ向けて出発だ。ここからがまた濃いぜ。上信電鉄高崎駅の電車型待合室「絲綢(シルク)之間」。勉強する高校生が占領。
5駅行ったところにある山名駅で下車。山名といったら「六分一殿」と呼ばれ、応仁の乱では宗全が西軍の総大将、
そんな守護大名が真っ先に思い浮かぶ。西日本のイメージが強いが、実はここの地名が由来となっているのだ。
室町幕府の成立により、山陰地方の守護として西国に移動した。戦国大名としては出石(→2014.10.26)辺りが本拠地。
L: 山名駅。 C: 駅周辺には個性的な店が。こちらは青果店。 R: ガレージセール的な感じで服を売っている。駅からすぐ北にあるのが山名八幡宮。山名氏は源氏ということで宇佐神宮から八幡神を勧請してきたのがはじまり。
室町時代には後醍醐天皇の孫・尹良親王が山名城に滞在、その間に城主・世良田政義の娘との間に子どもが生まれ、
山名八幡宮に安産祈願をしたことでそちら方面のご利益も強調されている模様。上信電鉄では看板がよく出ている。
(なお、尹良親王と世良田政義は飯田の近所・阿智村浪合で戦死したとされる。実在したかは疑わしいそうだが。)
L: 山名八幡宮の一の鳥居。 C: 線路の下をくぐる参道。踏切はよくあるけど、これは珍しい。 R: 随神門。中には神馬。一の鳥居は線路の東側にあり、掘り下げた地下道を抜けて西側の境内に入るという非常に独特なスタイルである。
線路を抜けると隋神門。隋神門とは両側に守り神を納めた神門ということになるが、山名八幡宮では中に神馬を納める。
これまた珍しい。そして隋神門を挟んで右にパン屋、左にカフェ。それもだいぶオシャレである。気合いを感じる神社だ。
L: 隋神門向かって右のパン屋・ピッコリーノ。暖簾には2年前にリニューアルしたという新たなデザインの神紋。
C: 向かって左にはミコカフェ。 R: 隋神門側から見たところ。受付のところだけ昔のままにしてある模様。圧倒されつつ参拝開始。二の鳥居をくぐって石段を上っていくと見事な拝殿。しかし石段を上りきってすぐなので、
余裕を持って撮影できない。そして拝殿・本殿周辺も非常に凝っていて、フォトスポットの案内板まで立っている。
隋神門の前にある立て看板の「山名新聞」によると、山名八幡宮は昨年のグッドデザイン賞を受賞したとのこと。
「安産子育て」と「地域」の社会問題を解決する取組みが評価されたそうだ。やる気があるのはよいことだ。
L: 隋神門を抜けて二の鳥居。 C: 石段を上るとすぐ拝殿。 R: 拝殿と授与所の間を抜けて本殿の方へ。
L: 江戸中期に前橋藩主・酒井家が再建した本殿。彫刻は1769(明和6)年に関口文治郎が手がけたという。
C: 角度を変えて斜め後ろから。 R: 本殿後ろの裏神様。獅子頭は疳の虫や厄を喰い切る神獣とのこと。グッドデザイン賞ということで、授与所も御守もかなり凝っている。授与所はもともとの社務所をベースに、
大きなガラス戸でリニューアル。御守も明らかにひとつひとつ柄からきちんと考えてデザインしたのがわかる。
聖性のおすそ分けである御守に、その土地や神社の特徴を図案としてきちんと盛り込むということは、
参拝者に対する神社からの信頼を示すことである(→2018.11.9)。大変好ましい事例であると思う。
L: 授与所。 C: 並べられている授与品。デザインに凝るのはよいこと。 R: 戌年の絵馬看板もこんな感じである。非常に清々しい気分で山名八幡宮を後にする。さらに西へ行って上州富岡駅で下車。そしたら駅舎が新しくなっており、
以前の昭和な雰囲気(→2012.8.4)は跡形もなく消えていたのであった。オサレなのはまあいいんだけどね、切ないね。
L: 上州富岡駅。富岡製糸場を意識してのオサレ駅舎となってしまった。 C: 近づいてみる。屋根はデカいが中身は小ぶり。
R: 駅舎内。ガラスとレンガの組み合わせは確かに斬新ではある。でもどこか狭苦しいなあ。窓口の下にはBCS賞のレリーフ。さて今回、富岡にやってきたのは、今年の3月に竣工した新しい富岡市役所が目的なのである。
設計は……隈研吾建築都市設計事務所なのであった。駅からアプローチして「しまった!」と思ったのは、
午後2時をすぎてけっこう日が傾いてきていること。12月の日差しをナメてかかっていた。とりあえず撮影開始。
L: 富岡市役所。この角っこの電柱、かなり邪魔じゃねえか?と思うのだが。 C: 電柱より内側で撮影。日差しがつらい。
R: 芝生(しるくるひろば)越しに行政棟。芝生はイヴェントでの使用を想定しているのかな。平日も活用できるといいが。
L: 明朝体で「行政棟 ADMINISTRATION BLD」の看板。文字だけを吊り下げるとはオサレなものである。
C: 行政棟を近くから見る。見事に木とガラスと鉄で構成されている。 R: 北から見たところ。
L: 裏側にまわって北西から見たところ。 C: 南の議会棟。 R: 議会棟の1階。こちらも明朝体の看板が出ている。
L: 議会棟は中に入れなかったが、2階ベランダには行ける。 C: 敷地南東端の建物をクローズアップ。
R: 中はこんな感じ。左の像は富岡市イメージキャラクター・お富ちゃん。休憩スペースとして建てられたのかな。日曜日なので中に入れなかったのは残念。気合いの入った庁舎なので、いずれ夏の平日にリヴェンジしたいと思う。
市役所向かいのおかって市場は健在。市役所と一体化できるといいが。
上州富岡駅からさらに西へ、いよいよ一之宮貫前神社へ参拝である。もう3回目だ(→2010.12.26/2014.9.13)。
御守はやはりビニールのスタイル。種類はわりと少なく、あまりそっち方面で神社をアピールしていく感じはない。
建物が立派だし群馬県内ではっきり権威があるし、そんなにアピールに必死になる必要がないんだろうなあと思う。
L: 一之宮貫前神社の楼門。下り宮だから微妙な角度になってしまいますな。まあもともと頭でっかちな気もする。
C: 相変わらず家光好みな拝殿と本殿。綱吉の建物からは父親への敬意を感じる。 R: 拝殿を横から見てみた。さて日差しはだいぶ傾いているものの、まだ帰るにはもったいない。せっかくなので上信電鉄の終点まで行く。
上州一ノ宮から先には行ったことがなかったので、実に新鮮。しばらくは国道254号とともに平地を進んでいくが、
最後の最後で木々の中をグイグイ抜けていって終点の下仁田駅に到着。ここがこんにゃくの聖地か!(ネギも有名)
L: 下仁田駅、最果ての光景。なんだかレトロでいい雰囲気。重い物を動かす鉄の力を感じさせるというか。
C: 駅舎内もいい感じである。上州富岡駅で失われたものがここにある。 R: 外から見た下仁田駅。特に目的があって訪れたわけではないが、とりあえずは役所だよな、ということで下仁田町役場へ。
1974年竣工で、裏の駐車場が2階レヴェルになっており、けっこう起伏の大きい土地に建てられている。
L: 下仁田町役場。 C: エントランスがわかりやすい角度で撮影。 R: 南東から見たところ。
L: 背面。 C: 西側の駐車場から見た側面。 R: 下仁田の中心部を歩く。おそらく昔から雰囲気は変わらないと思う。役場を一周して撮影を終えると、下仁田の中心部を気ままに歩いてみる。16時近くで雰囲気は落ち着ききっており、
特にこれといって印象深いことはないのであった。下仁田駅は中も外もレトロな感触がそのまま残っていたが、
街全体もそんな感じ。戦前からずっとこんな感じで来ているんだろうな、という山あいの穏やかな町である。
地方にはたまにこの空気感を残している宿場町があるが、下仁田は線ではなく面でかたまって残っているのが面白い。高崎まで戻ると、先月オープンしたばかりの東急ハンズ高崎店へ。昨年できた高崎オーパに入ったのだ。
感想としては、やはりワンフロアハンズということで、こないだの金沢店とだいたい同じ(→2018.11.18)。
ただ、高崎ということでか、手のひらサイズのだるま特集があった。こりゃいいや、と忘年会向けに購入。
地方ハンズにはその土地の名産品を扱う使命があると思うので(→2008.4.23/2017.11.19)、高崎店はその点合格。
L: 駅西口の高崎オーパ。かなり気合いを感じるが、それは高崎の前橋への対抗心がそうさせるのか……。
R: 先月オープンしたばかりということもあって、ハンズを全面にアピールしているエントランス。帰りはグリーン車でのんびり過ごすが、せっかくなのでエコ容器の峠の釜めしを買ってみた。
当然、味は一緒だけど……やっぱり風情が大きく劣ってしまうなあ。選択肢があるのはいいことだけどね。
L: エコ容器の峠の釜めし、いただきます! C: 紙を取るとこんな感じ。益子焼の蓋へのリスペクトはある。
R: 蓋を開けると内蓋の上に香の物。内蓋をしてでも香の物を付ける!という意地を感じさせるではないか。もちろん中身は一緒。でも正直、「ただの釜めし」感が出てしまうなあ。
以上で群馬への日帰り旅行は終了。本日いちばんの収穫は、山名八幡宮のやる気かな。たいへんすばらしいと思います。
来年2月テスト前の旅行プランを練っております。というか、各種予約の関係もあるのでもう決めた。
今までやったことのないことをやるつもりだけど、どうなることやら。今シーズンはエルニーニョなので不安である。
こればっかりは日頃の行いを良くするしかないので、日々着実に善行を重ねていきたいと思います。