diary 2018.12.

diary 2019.1.


2018.12.20 (Thu.)

『ラブライブ!』の感想シリーズ第4弾。第1弾は「他作品との比較による『ラブライブ!』総論」(→2018.12.9)、
第2弾は「キャラクター造形論」(→2018.12.14)、第3弾は「組織論/時間論」(→2018.12.17)と書いてきた。
しつこすぎていいかげんそろそろ気持ち悪いので、今回の第4弾でおしまい。最後のテーマは、「身体論/空間論」である。

まずはゲームの『THE IDOLM@STER』から切り込んでみようと思う。いくつかある源流の中でも、確実な存在だからだ。
AC版『THE IDOLM@STER』の稼働開始は2005年7月だが、開発じたいは2001年9月から始まっていたという。
そしてもうひとつ重要なのが動画サイトの発達で、2005年2月にYouTubeが、2006年12月にニコニコ動画が登場した。
この時期に発売された対戦格闘ゲーム『新豪血寺一族 -煩悩解放-』には「レッツゴー!陰陽師」のPVが収録され、
これが動画サイトで大人気となった。実は僕もバヒサシさんに動画を見せてもらって、これには衝撃を受けた記憶がある。
ゲームの本筋と関係なくCGのキャラクターが実際のグループのように歌って踊る姿は、ユーザーの発想を大いに刺激した。
2007年1月にはXbox360版『THE IDOLM@STER』が発売され、編集されたプレイ動画がMADムービーとして人気になる。
(MADについては、かなり前にバヒサシさんから「MADテープ」を教えてもらった。バヒさんはいろいろ教えてくれるなあ!)
同年8月、VOCALOID・初音ミクが登場。これもMAD文化の薫陶を受け、生身の人間にはとても歌わせられない歌詞を、
嬉々として歌わせるという作品が生まれる(→2008.3.23)。こうして仮想の身体が徐々にコントロール可能となってきた。
人間側から寄せたのがPerfumeで、やはり2007年の夏に『ポリリズム』で一気にスターダムに駆け上がった(→2008.3.23)。
エフェクタとして大胆に使用されたオートチューンは、すでにシェールが1998年に『Believe』でメインに据えていたが、
中田ヤスタカが得意のクラブミュージックをアイドルソングに持ち込む戦略において非常に効果的に機能することとなった。
2008年2月にはMikuMikuDance(MMD)が公開され、3Dモデルの初音ミクを手軽に躍らせることも可能となった。
また同時期にXbox360版『THE IDOLM@STER LIVE FOR YOU!』が発売され、MAD動画編集が簡略化された。
同年8月にMikuMikuDanceがVer.3.01になりマルチモデル化され、初音ミク以外のキャラクターも扱えるようになった。
『ラブライブ!』以前の動向はこんなところか。Perfumeと初音ミクと『THE IDOLM@STER』は相互作用を及ぼしつつ、
「ヴァーチャルなアイドル」というコンテンツが浸透する下地をつくってきた。『ラブライブ!』とμ'sはその系譜を継いでいる。

そもそものアイドルの定義だが、崇拝される偶像を意味するところの英単語「idol」に由来しており、アメリカ発祥である。
戦後の日本には映画スターが存在し、レコードを出す人もいた。しかし「アイドル」という存在が確立されるには、
1970年代末から始まる生演奏の「歌謡曲」からシンセサイザーの打ち込みによる「J-POP」への変容が必要だったと思う。
(ここにYMOが寄与したというのが僕の一貫した考え。プロから機械への移行という功罪。→2012.1.132012.10.19
プロフェッショナルなミュージシャンを従えるには当然、大人な説得力が必要となるが、機械ならかなりハードルが下がる。
ここにおいて、「スター」のネオテニー(幼形成熟)としての「アイドル」という存在が成立したと考えるのである。
(岡野誠『田原俊彦論』ではアイドルを見下す視線について取り上げられているが(→2018.11.262018.12.11)、
 大掛かりな映画を背景としたスターに対し、手軽なテレビを背景とするアイドルは、年齢的なこともあって軽んじられる。)
単純に、テクノロジーの発達により低年齢層がお金を出せる範囲が広がって、低年齢層向けに「アイドル」が分化した、
そんな社会的な背景があるかもしれない。とにかく、この時期に日本芸能史に新たな分野が確立されたのは確かだろう。
もうひとつ押さえておきたいのは声優ブームで、これはアニメーションの人気とともに隆盛した。1980年代前半が第2次、
1990年代半ばが第3次とされるが、やはりこれも幼形成熟の要素を持ちつつ、低年齢層の購買力増加の影響がある。
声優のアイドル化は、現在の2.5次元文化の元祖、先行的事例との解釈は可能であろう。現実のアイドル(3次元)も、
アニメを通した声優(2.5次元)も、アニメキャラクター(2次元)も、支持するのがマニアックであることに大差はない。
どれだけ自分にとって都合のよい親しい存在として解釈しうるかという点において、本質的にはどれも変わらないのだ。

さて、かつて「卑しさの社会学」と題したログにおいて、芸能界の危険な魅力について論じたことがある(→2013.3.20)。
なぜ、芸能界がハイリスク・ハイリターンであるのか。そしてなぜ、芸能界が古来より卑しいものとして扱われてきたのか。
それは芸能人とは、「身体あるいは精神(思想)をお金によって相手に委ねる(部分的に共有させる)」存在だからだ。
つまり独立した人格を有する一個人ではなく、自らの身体あるいは精神を他者に切り売りして生活しているから、卑しい。
(歴史的な観点から言えば、選挙権を持った市民とは対照的な、自己の身体を所有できない奴隷に近いものがある。)
ここから逆説的に、われわれにとって都合のよい人格を投影できる対象をつくり出せば、そこに価値を持たせることができる。
これを物語の中で生産すればキャラクターとなるわけだ。映画スターはそのキャラクターを再生産することで生活していた。
では、アイドルは。彼らは物語に囚われることがないかわりに、自らの身体においてキャラクターを演じ続けることになる。
(論旨は今回とは少しズレるが、過去ログ「キャラとは何か」も、ある程度ヒントになるのではないか。→2006.5.23
ファンという不特定多数の相手にとって都合のよい親しい存在であり続ける、しかし従来の物語の枠にはとらわれない。
これが意味するのは、アイドルは現代社会そのものを物語として、自らの身体を無数の消費者に提供する存在ということ。
『ラブライブ!』風に表現すれば、まさに「みんなで叶える物語」ということになる。実に鋭いキャッチフレーズをつけたものだ。

他者にコントロールされる身体としてのアイドルという存在は、テクノロジーの発達によって新たな局面に入りつつある。
上で述べた「ヴァーチャルなアイドル」が、いよいよ一般社会に浸透してきたのだ。その最新形はVTuberといったところか。
実体を持たないキャラクターが、情報空間における身体性を有するアイドルとして定義できる状況が生まれているのだ。
かつてコナミは、藤崎詩織やウィンビー(パステル)といったキャラクターにアイドル活動をさせようとしたことがある。
また大手芸能事務所のホリプロが1996年に伊達杏子をデビューさせたこともあった。しかしそれらは軒並み失敗した。
その原因は当時のテクノロジーの不足にあるのではない。先行した伊集院光の「芳賀ゆい」企画に成功のヒントがある。
それは、アイドルの依拠する物語をどのように生み出すかにある。コナミやホリプロは制作側がすべてを用意したのに対し、
伊集院はラジオリスナーと連動してすべてをやりきった。彼らは一次創作がないまま、二次創作だけをやっていたのだ。
(過去ログ「二次創作としての大長編ドラえもん」を参照(→2007.11.9)。思えば、モーニング娘。の全盛期においても、
 ネットでは他にない規模で二次創作がうごめいており、大きな原動力となっていた。あの熱量は凄まじいものがあった。)
そして誰もがクリエイターに回れる可能性が開かれた初音ミクは、今もポップアイコンとしての役割を果たしていると言えよう。
情報技術・情報空間の発達によりわれわれの社会は変容を余儀なくされているが、この「物語」を全身で受け止めて、
アイドルはどのようにその血脈を保っていくのか。その命運を左右するのは、ほかでもないわれわれ自身であるのだ。

……これで終わると、アイドル論としては書きたい放題に書いたけど、『ラブライブ!』の感想としてはあまりに中身が薄い。
もうひと頑張りして最後にアイドルをめぐる空間についても論じて、『ラブライブ!』の感想という体裁を取り繕っておこう。
「ご当地アイドル(ローカルアイドル)」という存在がある。注目を集めるきっかけとなったのは宮藤官九郎脚本の朝ドラ、
『あまちゃん』であろう(→2014.1.14)。もちろんそれ以前からローカルに活動していたアイドルグループは存在したし、
究極的な存在として宝塚歌劇団(→2012.2.26)を無視することはできない。これを巧みに応用したのがAKBグループで、
アイドルに地域性・聖地性を盛り込んで正当性・正統性を確保した。空間には地霊(ゲニウス・ロキ)が棲んでいるのだ。
つまりは、アイドルが活動する空間を固定させることによって、その依拠する物語性が容易に手に入るということなのだ。
『ラブライブ!』でもその考え方は踏襲されており、UDXやら神田明神やら秋葉原周辺を舞台空間として設定している。
巫女にメイドという記号もしっかり出すし、秋葉原を全肯定するのに一話をまるまる使ってすらいる(第1期、第9話)。
家電からテクノロジーの発達を経て情報化社会へと至った、その変革の記号論的な地位を背負い続けてきた秋葉原は、
情報空間のアイドルを抱える物語の舞台となるのにふさわしい。というより、秋葉原以外の場所は考えられなかっただろう。
(過去ログ「空間の肯定」を参照(→2013.1.9)。アイドルとは現代社会で個人が支持する依代なのかもしれない。)
おたくが統治する都市・秋葉原を拠点に、日本特有のキャラクター文化(→2013.9.30)のノウハウを採り入れながら、
観客の二次創作を通した物語への関与が許された存在。しかも、その身体性は情報空間の日常への浸透により、
「ヴァーチャル」という形容詞を冠せられながらも「アイドル」としての地位が広く認められている。それが『ラブライブ!』、
そしてμ'sということになる(2015年末にNHK『紅白歌合戦』に出演を果たしたことは、やはりメルクマールとなるであろう)。

しかし前回述べたように、μ'sはあらかじめ寿命を設定されてもいた。彼女たちは「スクールアイドル」なのである。
秋葉原よりもっと狭い空間、「学校」を母体にしての活動のみが許される。時間も「3年間」という制約が課せられていた。
しかし、その制約があるからこそ組織が行為を存続できるという逆説は、前回のログですでに述べたとおりだ。
そしてこの制約は、『ラブライブ!』の主な支持層である中高生が、生活上で直面を余儀無くされているものである。
有限の時間というリアリティが提示されることで、共感が生まれる。中高生にとって都合のよい親しい存在と認知される。
そしてスクールアイドルは定期的に死に、生まれ変わり、命尽きるまで活動し、また死ぬことでスクールアイドルを更新する。
個の生命に死があるからこそ種としての進化が可能なように、スクールアイドルは火の鳥のように蘇って活動し続けるのだ。
『ラブライブ!』における死と再生は、『ラブライブ!サンシャイン!!』にバトンタッチして生まれ変わることで実現されている。
『ラブライブ!サンシャイン!!』では、μ'sの影響を受けて結成された新たなスクールアイドル、Aqoursの活動が描かれる。
こちらの舞台は静岡県沼津市となっており、先代の『ラブライブ!』と比べて地域性をより強めた作品となっている。
(余談だが、J3・アスルクラロ沼津のゴール裏にはAqoursのメンバーが描かれたフラッグが存在する。→2017.10.8)

こうして、情報空間も含めた日本全国津々浦々にアイドルの種子が撒かれていく。期間限定・地域限定という制約は、
種としてのアイドルが文化となって存続する土壌を逆説的に活性化させる。アイドルは現代社会そのものを物語とする、
そう上で述べたが、実際は「現代社会が人間(身体)のアイドル化を促進している」と見る方が正しいのかもしれない。
アイドルの公演は、一種の祭りの要素を持っている。祭りは本来、収穫を祝うなど年単位の限られた機会に催されるが、
現代社会では祭りをめぐる経済効果を期待して、祭りを「イヴェント」として恒常的に発生させることが求められている。
そこで利用されるのがアイドルというわけだ。アイドルの公演は、都市が祭りを消費する手段として機能しているのだ。
祭りの規模は多種多様で、全国規模のアイドルによる5大ドームツアーから、スタジアムで行われるハーフタイムショウ、
ご当地アイドルの特設会場でのパフォーマンス。もしかしたらメイド喫茶での学園祭的コミュニケーション(→2005.9.11)も、
最小単位の祭りと言えるかもしれない。欲望と希望が交叉するアイドルの身体は、大なり小なり祭りを生み、お金を呼ぶ。
こうして現代社会とアイドルの相互依存は、資本主義の洗練された一端を担いつつ、文化としてこれからも持続していく。
(まあ究極的には『ジーザス・クライスト・スーパースター』ってタイトルが人間社会の本質を衝いているのかもね。)

『ラブライブ!』という作品は、2010年代における日本、その特性を暗示している存在とみなすことはできるだろう。
ただ、主な支持層があくまで中高生という低年齢層であり、作品としての完成度は決して高くなかったのもまた確かだ。
誰かが勝手にうまいことやってくれる、ただ自分たちにとってのみ都合のよい世界。脇役のいない、主役だけの世界。
無邪気に熱狂する人々を見ていると、自己中心的な価値観の現代社会への浸透ぶりを実感せずにはいられないのだ。
「みんなで叶える物語」、その「みんな」とはどこまでを含めるのか。その「物語」は本当に魅力的なのか。疑問は残る。



2018.12.17 (Mon.)

『ラブライブ!』の感想シリーズ第3弾。第1弾の「他作品との比較による『ラブライブ!』総論」(→2018.12.9)、
第2弾の「キャラクター造形論」(→2018.12.14)に続く今回のテーマは、「組織論/時間論」である。

メインとなる組織(『ラブライブ!』ではμ's)の内外をどの比率で描くかは、作り手の価値観が最も出る部分だと思う。
すでに述べたが、『ラブライブ!』は内部の比率が圧倒的に高い。物語のほとんどがメンバー間で完結するのである。
登場人物は家族・友達・ライバルのみに絞り込まれ、男性はほぼ不在だ。この外部は、μ'sの存在を揺るがすことはない。
さらに特徴的なのが、友達の使い方だ。彼女たちは第1話から登場し、きちんと名前も名乗るが、メンバーにはならない。
しかし時にはスタッフとして活動し、またきちんとファンとしても活動する。まるで便利な妖精さんのような存在なのだ。
演出にミュージカルの手法を取り入れたのは実に巧妙で、ミュージカル映画では裏方の存在は絶対に示唆されない。
歌って踊るパフォーマーの背景は、自動で勝手に動いてくれるというわけ。これと同じ状況が用意されているのである。

この「何もかもすべてがお膳立てされている」という点こそ、『ラブライブ!』最大の特徴と言えるかもしれない。
まずおかしいのが新入生歓迎の初ライヴで、観客がゼロであるにもかかわらず、何の報告もないまま幕が上がるのだ。
2年生の3人は舞台上で茫然となりながらもそのままライヴを敢行するところが中学生くらいには印象的と映るのだが、
大人にとっては違和感満載である。大人は裏方の苦労を知っているから。裏方なしでは動かないことを知っているから。
さらにこのライヴは、誰かが勝手にビデオで撮影してくれていて、ネットにアップロードまでしてくれるのである。
(後に撮影者は絢瀬絵里と明かされるが、肝心なのは誰がやったかではなく、誰かがやってくれたという事実だ。)
もっとすごいのは、誰かが勝手にグッズをつくっており、秋葉原の専門店で売っていること。まあよく考えればそもそも、
ラブライブの運営主体が何者なのかすら明かされていない。すべては誰かが勝手にうまいことやってくれる世界なのだ。

僕はもともと作曲の人間なので、西木野真姫が作曲するにしても、アレンジがどういう理屈でなされているのか、
そこが非常に気になった。劇中で、西木野真姫が楽曲のバックトラックを作成するシーンは、一切描かれていない。
パフォーマンスを最優先する一方で、そこに至る「つくる」過程は完全に無視されている。このアンバランスさは異様だ。
つまり、『ラブライブ!』はμ'sという組織以外はすべて外部として徹底的に排除する、非常に極端な作品なのである。
裏方には裏方の世界があり、ここをきちんと描こうとすると、μ'sという本題がくすんでしまう。裏方すら邪魔でしかない。
中学生にもウケる純粋な世界であるためには、どんなに不自然であろうと、μ's以外のドラマは排除すべきというわけだ。
下手にリアルを追求して外部の他者を出すくらいなら、矛盾を覚悟で御都合主義を徹底する、という姿勢なのである。

この姿勢を貫くことで、運命的に選ばれた9人によるμ'sという組織の特別性が、とことんまで強調されることになる。
だから3学年の3人が卒業することでμ'sが解散してしまうのは、当然の論理的帰結となるわけだ。続けようがない。
しかし客観的に見れば、μ'sとしての時間を終えることで、次の世代である高坂雪穂と絢瀬亜里沙の居場所ができる。
さらには、μ'sの物語をきっちり完結させることにより、新シリーズの『サンシャイン!!』に移行できるのである。
『けいおん!』における「放課後ティータイム」から「わかばガールズ」への代替わりもヒントになったのではないか。
この時間的な有限性は、ある意味とても奇妙だ。μ'sを絶対化するためにあらゆる不自然さを許容したにもかかわらず、
時間だけがリアルなのである。時間だけがμ'sのコントロールをはずれ、その活動に終止符を打つ絶対的な壁となる。
しかし逆に考えると、時間が限られているからμ'sは奇跡的なラブライブ!優勝を果たすことが許されたとも言える。
μ'sという組織を完成させるためには、頂点で物語を終わらせる必要があった。しかしたとえば『水滸伝』において、
梁山泊に百八星が集まった瞬間に崩壊が始まったように、頂点を迎えた組織は崩壊に向かうほかないのである。
満開となった桜は人々から注目され、大いに歓迎されるが、それが葉桜となった途端に無視されてしまうのと同じだ。
だから『ラブライブ!』では、μ'sに崩壊という現象が存在することを、なんとしてでも否定する必要があった。
成長は肯定しても、老化は否定する。そうなると、とるべき手段は2つしかない。時間の概念を無視してしまうか、
時間を有限にして最高潮でゴールを迎えるか。『ラブライブ!』は後者を選び、成長だけを描く戦略をとった。

そこで登場したのが、「スクールアイドル」というエクスキューズなのである。これは本当に上手い言葉だ。
「アイドル」では老化に抗うことはできないが、「スクールアイドル」であれば時間の有限性が最初から示唆される。
(「スクールアイドル」という非常に興味深いエクスキューズについては、次の「身体論/空間論」でも確認する。)
『ラブライブ!』における組織は、アポトーシス(プログラム細胞死)とネオテニー(幼形成熟)を思わせる。
裏方の存在をプログラム的に消し去り、老化を否定した成長を描く。そしてμ'sの終焉もプログラムされている。
幼形と成熟という矛盾を抱えたまま、未来への希望と過去の栄光が切り替わる分岐点で、組織はその時間を止める。
μ'sは絶頂期で引退した存在として、伝説を残すことになる。そしてファンは、手元に残された有限の時間の物語を、
今度は自分たちの好みに合わせて編集する楽しみが与えられる。その一方で、新しいスクールアイドルがまた生まれる。
2期の第12話は最終話でないにもかかわらず、ラストを飾るにふさわしい非常に力の入った特別な演出がなされている。
μ'sという組織を焦点とすれば、ここが最後となるからだ。そして続く最終話で、新たな組織と時間の発生を示唆する。
組織に行為を存続させるのではなく、行為を存続させるために組織を生み出し続けるという、時間をめぐる逆説がある。


2018.12.16 (Sun.)

天気がそんなに良くないという話で、カメラを持たずに青春18きっぷを使って一宮の御守を受け直す旅に出る。
そんなに何度も行かなくてもいいだろうとツッコミが入りそうだが、せめて近場の一宮くらいきちんともらおうと。
一宮参拝は僕の原点なので、そこだけはちょっとこだわることにしたのだ。まあ、あくまで近場のみですので。

どっこい寝坊の影響で掛川まで行けず、富士山本宮浅間大社(→2008.3.232014.10.122015.12.27)と、
三嶋大社(→2008.3.222013.3.92015.3.21)の2社だけとなったのであった。家を出たら曇り空だったが、
昼過ぎに富士宮に着いたらなかなかの快晴ぶりでやんの。御守を頂戴すると、富士宮焼きそばをいただいて戻る。
三島ではさすがに曇りとなっていたが、快調に御守が頂戴できたのでよかった。これでまた研究が進むぜ!

せっかくなので、小田原で途中下車して箱根湯本まで足を延ばす。最近は温泉に浸かりたくってたまらないのだ。
毎日寒いし疲れているしで、少しばかり意地になって旅行がらみで浸かれる温泉を探している状況である。
で、今回は駅からバスで無料の送迎をしている入浴施設にしてみた。行ってみたらかなりの人気ぶりだった。
お湯の温度がなかなか絶妙で、自由自在に浸かりまくることができる点は非常に素晴らしい点ではある。
しかし泉質は駅裏の鄙びまくった施設の方が良かったので(→2017.10.30)、そこは少々残念なところ。
まあいい気分のリフレッシュにはなったので、この勢いであと1週間をパワフルに駆け抜けたいものである。


2018.12.15 (Sat.)

寒い! 年末だもんな! 部活でずっと外にいると体が動かなくなってくるぜ!


2018.12.14 (Fri.)

『ラブライブ!』の感想シリーズ第2弾。前回は「他作品との比較による『ラブライブ!』総論」(→2018.12.9)だが、
今回からは各論を通してより詳しく分析を入れていき、最終的には社会学的アイドル論の入口へ道筋をつけてみたい。

まずは「キャラクター造形論」からいこう。物語は2年生トリオが動かすことで始まるが、その構成はすでに述べたように、
ボケ(南ことり)・大ボケ(高坂穂乃果)・ツッコミ(園田海未)である。これが多数決によるボケの優勢で動いていく。
この物語を動かす横軸を2学年という中心に置いて、次に縦軸が構成される。高坂穂乃果という主人公(ポジ)に対し、
1年生における小泉花陽という主人公(ネガ)が配置される。両者は「アイドルになりたい私」という構造で共通するが、
そのポジティヴな要素を高坂穂乃果が担当し、ネガティヴな要素を小泉花陽が担当する。大半の女子はここに含まれる。

1学年には「昔からの親友」の星空凛と、「新たな友達」の西木野真姫が配置される。西木野真姫は才能の象徴で、
彼女と関わることで才能ある他者を同化する手続きを踏み、「アイドルの私たち」が成立するエクスキューズとなっている。
第4話「まきりんぱな」というタイトルは、そう呼べと言わんばかりであざとい。西木野真姫を同化させるための工夫だろう。
しかし対照的に3学年の構造はやや複雑で、小泉花陽のネガをさらにこじらせた矢澤にこが、まず先にμ'sに加入する。
ここには過去の救済・浄化という要素がある。μ'sという組織のアイドルとしての正当性をさらに強調するプロセスと言える。
なお、第5話「にこ襲来」は明らかにエヴァンゲリオンを意識しており、トリックスターの役割が最初から宣言されている。
そこから絢瀬絵里と東條希が加わるが、生徒会長・絢瀬絵里は学校代表の正当性とやはり同化される才能の象徴で、
東條希は巫女にしてタロット占いの使い手であり、その行動に「神のお告げ」という要素をチラつかせることにより、
さらに明確にアイドルとしての正当性を持たせる。女神に由来するμ'sの名付け親が東條希であるのは、必然の演出だ。

あとは各キャラクターに、「自分に近いタイプ」と思わせる要素を追加で散りばめて、感情移入させればいいのである。
ダイエットに苦しむメンバーがポジの主人公・高坂穂乃果とネガの主人公・小泉花陽なのは、親近感の演出だろう。
家庭環境も多彩で、お金持ちから貧乏大家族、学校経営者、自営業、帰国子女に転勤族の一人暮らしと幅広い。
9人にありとあらゆる属性を用意し、最もお気に入りの「推し」のほかにもDD(誰でも大好き)、箱推しの余地を持たせる。
現実ではモーニング娘。が切り開き、フィクションでもセーラームーン以降練りに練られた方法論が存分に活用されている。

さて、上記のようにμ'sは3×3の構造を持つが、各学年にはつねに2:1となる緊張状態が用意されている点が興味深い。
それはボケとツッコミの比率であり、親友と他者の比率であり、才能ある者と気合いでなんとかする者の比率である。
この比率を動かすことでドラマを生み出しているのだが、そこにμ'sのメンバー以外の者が関与する隙はまったくない。
『ラブライブ!』におけるドラマトゥルギーは、すべてμ'sの中で発生してμ'sの中で解決する仕組みが徹底されている。
これについては次の「組織論/時間論」でも確認する。それにしてもこのMacBook、名前をぜんぶ一発変換したぞ……。


2018.12.13 (Thu.)

本日、やっとのことで2016年の日記をすべて書き終えました。今ごろで本当に申し訳ない。
越年して3年前の日記を書く状態はどうにか回避できたわけだが、負債の完済が遠い状況には変わりない。
この勢いで引き続き、2017年の日記についても地道にがんばって書いていく所存であります。ハイ。
旅行なんかはどれもこだわり100%で中身が濃いので、できるだけ早くアップロードしちゃいたいのだが、
中身が濃いだけあって年々書くのが大変になっている。いいかげん、要領よく書けるようにならなければ。


2018.12.12 (Wed.)

学年の先生方全員で、平成最後の天皇誕生日のあたりに来年度の修学旅行の下見をする予定だったのだ。
ところがさまざまな要因によって計画はどんどん変更されていき、気がつけば私が一人で行くことになりました。
仕事ですからね、好き放題に動けるわけではないので、責任も重大だし、正直これはちょっと困ったかなあ……と。
一生懸命がんばりますが、例年以上にのんびりできない年末年始が確定した感じ。うっかりミスに気をつけよう。


2018.12.11 (Tue.)

岡野誠『田原俊彦論』。きちんと読んだので感想を。発売イヴェントについてのログはこちらを参照(→2018.11.26)。

まず圧倒されるのが、目次に続く「凡例」である。この本においての資料の扱いを示しているのだが、
これだけ多くのことを、これだけ丁寧に扱っているとは!と驚いた。筆者の絶対的な真剣さが感じられる部分だ。
巻末の分厚い資料にも度肝を抜かれたが、どちらかというと僕には1980年代という雰囲気を感じるためのもの、
そういう感触である。番組内容の要約に反応するマサルもたぶん同じ感覚だろう。これだけでも十二分に楽しめる。

肝心の内容もまた真摯で、きっちりと時系列に沿って、きわめて客観的にスター・田原俊彦の誕生と活躍、苦難を描く。
根拠となるのは膨大な量のビデオ映像・雑誌記事・インタヴューだ。量の力で当時の客観的な状況を精確に描き出し、
そのうえで論を進めるので納得せざるをえない。歴史学の論文と同じくらいの注意深い手続きで事実が掘り起こされる。
そう、筆者は熱狂的なトシちゃんファンであるにもかかわらず、文章は一定の冷静な温度が保たれているのが凄い。
逆説的だが、その感情の抑制ぶりこそが、資料の量とともに筆者の熱意を最も感じさせる部分となっているのだ。
もっとも、終盤に近づいていくにつれて、田原俊彦本人へのインタヴューを主な資料としていることもあって、
抑えきれない感情が現れ出して、それもまた面白い。「ちゃんと病院へ行ってください」とか、もうオカンじゃないか。
もはや量で証明する必要がないところまで田原俊彦を描き出したことで、筆者はファンの代弁者に切り替わっていた。
それはつまり、「ファンの主観=田原俊彦というアイドルの実像」という構図が完成していることの証左なのではないか。
メディアによるよけいな増幅のない、純粋で見通しのいい関係性が構築された現状を反映しているように思う。
だから現在の田原俊彦は、このある種の安定(究極的な存在は宝塚か →2012.2.26)を歓迎している気もする。

さて、僕は上にリンクを張った発売イヴェントのログで、トシちゃんとカズを対比させて考えた。
これがマサルと岡野さん本人から、両者の関係(実は親友)を知らずに書いたことを大いに褒めてもらったのだが、
実際にこの本を読んでみて、さらに考えさせられる点があったので、それについて書いておこうと思う。
まず、田原俊彦が尊敬してやまない存在である、マイケル=ジャクソンとの対比。エンターテイナーとして、
田原俊彦はM.ジャクソンと同じ線上にいようと強く意識している。2009年にM.ジャクソンは亡くなってしまったが、
彼の身体イメージはそのダンスパフォーマンスとともに、われわれに解放された、と見るべきだろう(→2009.6.27)。
ではM.ジャクソンの身体イメージを取り入れてきた田原俊彦のイメージとは何か。われわれは「アイドル」と定義する。
しかしM.ジャクソンはアイドルとしてスタートしたかもしれないが、最終的な位置は決してアイドルではない。
あえて田原俊彦を「M.ジャクソンを矮小化したもの(表現が悪いが、弟子のようなものと理解してほしい)」とすると、
M.ジャクソンから田原俊彦に至る過程で抜け落ちたものは何か。そこにアイドルのヒントがあるように思うのだ。
結論から言ってしまうと、作詞と作曲だと思う。アイドルは本質的に、作詞・作曲をしてはいけない存在なのだ。
与えられた曲を、送り手と受け手のイメージを受け止めたうえで、求められたようにやりきる。それがアイドルだ。
だからチェッカーズは自分たちで楽曲をつくるようになった瞬間に、アイドルではなくなったというわけだ。
(鶴久の書く曲はいい曲ばかりだから許してやってください。再結成しなくていいから、どうか許してやってください。)
田原俊彦の場合、おそらくそこにプロ意識がある。僕はなぜ彼が作詞・作曲しようとしないのか不思議だったのだが、
たぶん彼はできるとしてもやらないのだ。彼は演じ手としてのプロだから、作詞も作曲もプロに任せているのだろう。
M.ジャクソンの身体イメージを受け継いでステージに立ち、踊り、そして歌う。そこに特化したアイドルであろうとしている。
これは実に不器用な生き方である。「アーティスト」という称号とともに新境地を開いてもよさそうなものだが、
そうするとかえってアイドルの定義とともに「田原俊彦のやってきたこと」がブレる結果となってしまう。だから、やらない。
その姿は僕にはやはり、カズが決して指導者の道を歩もうとせず、現役選手として生涯を貫く姿勢と重なって見える。
チームをデザインする側である監督にはならず、あくまでストライカーとしてのクオリティを一生追求し続ける。
サッカー選手の地位とアイドルの地位の間には、貴賤も何もない。彼らはただ、一生かけて道を究めようとしているのだ。
トークショウで岡野さんがおっしゃったように、1980年代当時の表現を見ると、「アイドルのくせに」という見下し方は、
確かに存在していた。そこからどれだけわれわれは進化しているのだろうか。芸能への蔑視はどこまで相対化されたのか。
アイドルの存在価値をショウビジネスの文脈でどう認めるのか。前に述べた「われわれが試されている」とは、そういうことだ。

それにしても、この本を読んだら、田原俊彦という存在にさすがに興味が出てきた。今後は積極的に気にかけていくぜ。


2018.12.10 (Mon.)

どうにもならないことなので粛々と受け止めるしかないし、そもそもここに書くことではないのだが、
しばらくちょっと仕事が忙しくなりそうな気配。まあ正直なところ、僕の仕事が忙しくなるという客観的事実よりは、
僕のやるべき仕事についての質感という主観的な部分をどのように折り合いをつけて納得していくかという、
そっちの方が気がかりである。われながら微妙な言い回しだなあ。まあ、呆れられないようにする、ってことです。


2018.12.9 (Sun.)

すいません、今さら『ラブライブ!』の感想を書こうと思ったら、とんでもない長さになってしまいそうなので、
何回かに分けて小出しにしていきます。第1回目の今回は、他作品との比較による『ラブライブ!』総論です。

いま、通勤電車の中でチビチビと岡野誠さんの『田原俊彦論』を読んでいるのだが(レヴューは明後日あたりに)、
おかげで「アイドル」というものに興味が出てきた。といっても僕の場合は何よりもまず、社会学的な興味だ。
大学時代にはモーニング娘。にハマりまくり、前任校では実際にメンバーの子に英語を教えたりもしたが(なんと!)、
本腰を入れると大掛かりで面倒くさくなることもあって、社会学的な視点であれこれ考えることは避けてきた。
正直なところ、今も面倒くさい。でもぼちぼち現時点での考えをまとめてもいいだろうという気になってきたのだ。
ただ、真正面から論じるにはあまりにも勉強不足だ。まずはその準備段階ということで、周辺部から攻めてみる。
具体的には、年末のHDレコーダーの処理も兼ねて、アニメ『ラブライブ!』を見た感想をまとめることから始めたい。
生徒からオススメされたのは、もう5年も前になるのか。そのときチラッと見た感想は「ことりちゃん声高ぇよ」でした。

まず最初に出る名前が「矢立肇」ということで、サンライズなのねとびっくり。ガンダムからラブライブまで幅広いなあ。
話の展開としては、実にベタ。メンバーの留学でピンチになるところまでベタ。お兄さんはかゆくなっちゃうよ。
こんな設備のいい学校が簡単になくなるかよ、とツッコんではいけないのでしょうか。子どもは食らいつくだろうけどね。
筋としては、ボケと大ボケとツッコミが多数決で話を進めていくわけだ。それでフィクションが離陸していくという仕組み。
だんだんとメンバーが揃っていく感じは、やっぱり元祖としての『セーラームーン』が根底にあるように思えてしまう。
屋上での練習は『櫻の園』(→2003.11.6)へのオマージュか。登場人物を限定してメンバー間のやりとりの密度を上げ、
日常性を持たせる手法は『けいおん!』(→2011.11.16)由来だろう。先行する作品をかなり研究しているのがわかる。
『ラブライブ!』の特徴は、ミュージカルの方法論を取り入れている点だろう。パフォーマンスのシーンの入れ方だが、
ミュージカル映画という形を応用しながら、多少強引でもパフォーマンスをストーリーに優先してぶち込んでくる。
ライヴシーンを必要最小限にしていた『けいおん!』(→2012.1.7)とは、この点が大きく異なっている。
2期なんて確信犯的で、いきなりミュージカルだ。キャラを確立させてギャグにも振れるという、余裕を感じさせる宣言だ。

同じアイドルネタとなる『アイドルマスター シンデレラガールズ』(→2015.4.112015.11.5)と比較すると、
典型的な明るい主人公の高坂穂乃果と、何もかもふつうの島村卯月という、一般性のある視点が共通していると言える。
少女マンガには基本的に、「ふつうの私」がハイスペックな男子にモテるという構造があると思うが(→2007.4.7)、
「ふつうの女の子がアイドルになる」構造は、その延長線上だ(ドジな月野うさぎも実際は同じ構造であると僕は考える)。
しかし『ラブライブ!』は第1話からかなり中身の詰まった内容なのに対し、『デレマス』は展開をあえて遅くした仕上げ。
『ラブライブ!』は少ない登場人物に特化し、μ's(うわこのMacBook一発変換したよ)の内部と外部が峻別されている。
その分、アイドルになれるキャラとなれないキャラの差は大きい(セーラー戦士も惑星と同じ人数しかなることができない)。
対照的に、『デレマス』は数えきれない登場人物を自由な形で出しており、内部と外部の区別が比較的あいまい。
むしろ、後半からわざわざ美城常務という、外部からトップダウンで枠を壊す人を新規に出してきたくらいだ。
アニメとしては『デレマス』が後発であり、リアリティを重視する形で『ラブライブ!』と差別化したと考えられる。

もともと僕はこの手のジャンルに興味があるわけではなくって、僕の知りうる限りの作品でなんとなく共通点があるな、
というものを並べて比較したら以上のような感じにまとまった。ハマりはしないけど、分析しがいのある作品だとは思った。



2018.12.7 (Fri.)

赤坂憲雄『性食考』。どっかの書評で見て、興味をそそられたテーマだったので読んでみたというわけ。

しかしながら「はじめに」の段階から、僕の期待は裏切られることが確定していたのである。筆者はこう述べる。
「そう、きっとこのテーマはどれだけ執念深く追究したところで、
『薄明のなかの不定形としかいいようのない影の部分』にぶつかり、
けっしてあきらかな輪郭をもって浮き彫りにされることはないだろう。」
つまり、この本はあくまで筆者の予感を書き連ねるだけで、研究として切り込む気はないと宣言しているのだ。
そして宣言どおり、全編にわたっていかにも社会学的な文系特有の投げっぱなしジャーマンが炸裂している。

読んでいる感触は、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(→2006.8.25)に近いものがある。これは褒めていない。
筆者の読書量には敬服するが、その本の引用を繰り返すのみで、自らそのテーマの中心に切り込んでいこうとしない。
サッカーで例えるなら、サイドでいい形でボールを持って、SBを抜くけど、延々とドリブルの往復を繰り返す感じ。
クロスを上げることもなければ、自らシュートを狙いにカットインすることもない。ドリブルの技術に酔っているだけ。
点を取りにいかないサッカーが退屈であるように、この本を読み進めることもまた退屈である。読者が学べない。
思考のヒントとしては有益だし、参考になる文献の紹介としても有用だ。でもそれだけに、肝心なところでの逃げが不快だ。
お前の知識の披露はもういいから、お前自身が性と食の関係性をどう結論づけたいのか。いやもう本当にイライラした。

ただし、動物・神話・女神をテーマとする中盤はかなり切れ味の鋭い展開を見せる部分もある。
結局のところそれは、引用元であるバタイユやレヴィ=ストロースやエドマンド=リーチが面白いということなのだが。
とはいえ、そのあたり皆さんの成果を性と食というテーマに即して筆者がよくまとめてあるのは間違いない。
そういう意味でもやはり、この本は古典に踏み込むためのブックガイドとして読むべきであるような気がする。


2018.12.6 (Thu.)

最近は週末の日帰りお出かけをがんばっているため、ただでさえ飽和状態の写真が整理できずに溜まる一方である。
しかし今日は出張が終わると、気合いで一気に片付けていく。当然だが、やらないことには減っていかないので。
粘りに粘ること4時間半、ノンストップで写真の加工作業に集中するのであった。でもまだまだ終わらないのよね……。


2018.12.5 (Wed.)

出かけていたせいでM-1グランプリは途中からしか見ていないので、メモ程度で。

ジャルジャルは去年の福徳の悔しがりっぷりを目にして、僕としては好感度がだいぶ上がっていたのだが、
今年はそれを踏まえての貫禄を感じた。実を言うと1本目のネタは見られなくて、わざわざ動画を探して見たのだ。
いい意味で、小学生のふざけた遊びを最高レヴェルのやりとりに昇華させるスタイルが確立されていると思う。
他愛ない楽しいふざけを、ある種、音楽的なトランス状態まで持っていけるというのは、彼らでないとできない芸当。
唯一無二のことを完璧にやってのけているのだから、芸人として完成された領域に達したと思う。

和牛は去年の反省がぜんぜん生きていない。彼らの人物造形は暗いのだ。登場人物に対する扱いがネガティヴ。
1本目はゴールデンタイムで「殺す」という言葉を連呼する点がネガティヴだが、それを軽やかに笑いに変えた。
2人の連動する動きも見事だったし、これは面白いと素直に思った。でも結局、2本目で人を陥れるネタに走った。
登場人物を凹ますまではいいのだが、それを笑いという形にまとめることなく終わる。だからどこか気分が悪くなる。

霜降り明星はうるさいけど、ボケの腕が確かなところに表現豊かに笑わせるツッコミが入るので手放しに面白い。
2本目の途中で、こりゃ和牛負けたなと思ったら案の定そうなった。審査員の判断は妥当だったと自分は考える。

さて、うるさいコンビということでもうひとつ、ミキについて。とにかく兄貴の方がうるさくて僕は大嫌いだった。
しかしネタはきちんと面白かったし、今年の兄貴は膨大な量のセリフを非常に滑舌良く言い切ってみせて、圧倒された。
まだうるさいとは思うものの、昨年とは比べ物にならないほど聞きやすくなっているので、素直に来年が楽しみ。


2018.12.4 (Tue.)

暑い! 12月やぞ! ヤバいだろこれ!


2018.12.3 (Mon.)

すべての音楽を持ち歩けない不自由さに我慢ができず、ついにiPod touchを購入してしまいました。
やっぱりAppleのiTunesは圧倒的に使いやすいの。そんでもって128GBなら持っている音楽がぜんぶ入るの。
つまり、かつて愛用したiPod classic(→2014.9.10)の後継として十分やっていけると判断し、購入を決断した。
スマホではやっぱり容量が足りなくて、決まったプレイリストしか持ち歩けないのがとってもつまんないのだ。
すでにスマホを持っているくせに今さらiPod touchというのは、なんとも間抜けな印象がしてしまうのだが、
好きなときに好きな音楽を好きなように聴けるという魅力は大きい。あらためてそのことを実感している。

こりゃいいやと思っていじくりまわしているうちに、ふと気がついた。スマホ、いらないんじゃね……?
電話はガラケーにお任せして、それ以外はiPod touchでもういいんじゃないかって気がしてきたのである。
そうすれば月々の通信費をだいぶ節約できるんじゃないだろうか。どれくらい節約できるかはわからないが。

実際にはプロバイダのプランだとかSMSの送受信だとかマップの位置情報だとか、いろいろ問題がありそうなので、
今すぐにはスマホを手放すことはないものの、周囲のアドヴァイスを聞きながらじっくり考えてみようと思う。



2018.12.1 (Sat.)

来年2月テスト前の旅行プランを練っております。というか、各種予約の関係もあるのでもう決めた。
今までやったことのないことをやるつもりだけど、どうなることやら。今シーズンはエルニーニョなので不安である。
こればっかりは日頃の行いを良くするしかないので、日々着実に善行を重ねていきたいと思います。


diary 2018.11.

diary 2018

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