diary 2010.3.

diary 2010.4.


2010.3.31 (Wed.)

本日をもって平成21年度はおしまいである。で、本日をもって学校を去る先生方を囲んで飲み会。
転出が予想されていた人もいれば、まさかのサプライズ転出となってしまった人もいる。
それぞれに残していく気持ちがあるわけで、飲みながらもその気持ちにしっかり触れる会となるのであった。
個人的には仕事の中にあるさまざまな要素を、それぞれの方から均等に任されたように思っている。
来年度になっても果てしないドタバタの中で毎日をやりくりしていくことになるのだろうけど、
そして任された仕事をそっくりきれいに再現することはできないのだけど、自分なりに解釈してしっかりやりたい。
とりあえずそういう意識だけは絶対に忘れないで持っておこうと思うのであった。うーん、漠然としてるなあ。


2010.3.30 (Tue.)

長かった旅行もいよいよ最終日である。ヴォリュームのある旅行は久しぶりだし、場所も面白いしで、
まったく飽きることなくここまで来てしまった。まだまだあちこち行けそうな気分である。
しかしながら好きなだけフラフラできるような身分ではないので、最終日らしくビシッと締めて終わるのだ。

本日はまず、吉野へ行く。歴史の舞台にもたびたびなっている吉野という場所を、いいかげん見ておきたい。
そしてそのまま和歌山方面へと抜ける。途中に真田昌幸・信繁(幸村)親子が流された九度山があるので、
もちろん寄ってみる。夕方くらいに和歌山市に着いたら和歌山ラーメンを食べ、一気に大阪へ。
大阪から米原、大垣へと移動し、最後はムーンライトながらで東京に戻る、という計画である。
大胆に関西圏を縦断して横断するわけで、最終日にふさわしい暴れっぷりであると言えよう。
まあつまり、もう宿泊することがないので日没以降はひたすら移動、というプランなのだ。合理的なのだ。

まだ空が暗いうちにチェックアウトを済ませると、奈良駅へと向かう。
やっぱり奈良についても急ぎ足で、まだまだどこか遣り残した感覚をおぼえながら、電車に乗り込む。
寝ぼけていたのを差っ引いても、奈良駅を出発する電車はどのホームが何線なのか、わかりづらい。
まずは王寺駅まで行き、そこから和歌山線に乗り換える。そしてとにかく南下。
途中で夜が明けて、もはやすっかりおなじみになった奈良の山々がはっきりと見える。今日は快晴だ。
思えば実に贅沢な旅行であった。そしてそれを最後まできちんとやりきること、今はそれに集中するのだ。

住宅街から大きくカーヴを描いて列車は山間へと入る。吉野といえば山の中というイメージがあるが、
それにふさわしい風景へと変化した。吉野ってどんなところなんだろう、とワクワクしてくる。
吉野口駅に着くと、近鉄に乗り換える。周囲はもはや山の中であり、駅員は改札にひとり。
ホームはどこまでがJRでどこからが近鉄なのか、境界が非常に曖昧でわからない。
律儀に青春18きっぷをかざして改札を抜け、近鉄の切符を買い直してホームに戻ると電車が来た。
吉野へと向かう電車は田舎には似つかわしくない車両の数で、乗客は1両あたりいいとこ2~3人。
なんともゴージャスな気分で、なかなか急な坂を快調に上がっていく車窓の風景を眺める。

下市口の辺りから、電車は吉野川に沿って走るようになる。さすがに清流。
大和上市を抜けて橋を渡るが、高架から吉野の街が一望できて美しい。
林業関連、材木関係の工場か倉庫が点在しており、なるほどここは吉野だと納得。電車はさらに上がる。
そうして終点の吉野駅に到着。櫛型ホームを歩いて改札を抜けると、いよいよ本日のスポーツが始まる。
現在、朝の7時過ぎ。ここから午前中ほぼずっと、吉野を歩きまわる予定になっているのである。
いや、走りまわると言った方が正確かもしれない。とにかく、時間いっぱいあちこちに行ってみるのだ。
コインロッカーに荷物を預けると、軽くストレッチをしてからいざスタート。

 吉野駅。当然、まだ土産物屋は開いておらずちょっとさみしい。

吉野駅前のちょっとした土産物屋地帯を抜けると吉野ロープウェイ・千本口駅の入口がある。
しかしまだ営業時間外なので、おとなしく七曲りと呼ばれる細いアスファルトの道を歩いていく。
なかなか急な坂が続いており、えっちらおっちら歩いていくこと10分ほどで少しだけ広い道路に出る。
これが吉野の商店街というか土産物屋の並ぶ地域だ。もちろんまだ営業していないが、
営業準備の車はちょこちょこ通る。道幅のわりにスピードを出しており、少し怖い。

吉野の商店街は、ロープウェイ・吉野山駅の辺りから竹林院の辺りまで2km弱ほど続いている。
これだけでもなかなかの分量で、たいていの観光客はこの土産物屋地帯を往復して満足する。
だが僕は奥の方まで行ってみる決意を固めていた。理由はとにかく、見てみたいから。
最も奥にあるのは、かつて西行が庵を結んでいたという西行庵。そこまでがんばってみるのだ。

商店街を抜けると坂道が現れる。アスファルト舗装はされているものの、なかなか急で歩きづらい。
道路に面した家々には50ccの原付バイクが置いてあり、非常にうらやましく思いつつ歩く。
近鉄吉野駅でもらった地図を片手に自分の進み具合を確認しながら進んでいくが、なかなか遠い。
道はずーっとコンクリートの舗装で、ひたすら上り坂。どこの田舎にもある景色が延々と続く。
そこをマラソン感覚で走るのである。これは本当にキツかった。好奇心だけが心の支えである。

そうして終わりの見えない戦いを繰り広げていると、ずいぶん奥まった位置にある民家の隣に神社が現れた。
吉野水分神社である。世界遺産ということで参拝……は後にして、さらに奥へと進んでいく。
高城山の展望台を無視して走っていくと、山奥にしては妙に立派な鳥居が登場した。
これまた世界遺産の金峯神社である。でもやはり参拝するのは後回しなのである。
参道をグイグイ進んで神社の前に出るが、肝心の本殿をすり抜け、その右手にある石畳の道を行く。
石畳は途中で終わり、土の道……ではなく、昨日降った雪がうっすらと積もる道となる。
自分は本当に山の奥まで来ちゃったんだなあと、もはや呆れるしかなかった。
ある程度進んだところで久しぶりの下り坂になる。が、これがかなり強烈で、片側が完全に崖。
高所恐怖症が発症し、おそるおそるのへっぴり腰で石段を下っていく。
するとこれまでずっと木々に覆われ日陰だったのが、急に開けた。そのまま下りていくと、ちょっとした広場に出る。
右手には正直チャチとしか言いようのない庵があり、中にはお坊さんの像が置かれていた。
これが西行庵なのだ。庵じたいは大したことないが、山の奥にあるちょっとした休憩スペースは悪くない。
ここまで来るのに吉野駅からだいたい1時間半。自分でもよくがんばったと思う。

  
L: 西行庵へと向かう最後の道はこんな具合に雪がうっすらと積もっていたのであった。いやー参った参った。
C: 石段を下りていく。右側に手すりがあるからまだいいものの、左側の崖は本当に怖い。
R: 西行庵前の広場。東屋もあって、一休みするにはなかなか悪くない場所。

 西行庵。中には西行の像が座っている。

周囲はいわゆる「奥千本」と呼ばれる一帯。何が千本あるのかといえば、当然サクラ(ヤマザクラ)だ。
でも個人的には吉野杉の美しさが非常に印象的だった。杉は山の斜面を整然と緑で包んでいるのだが、
そこにさっき道を覆っていたのと同じ白い雪がうっすらと振り掛けられていて、なんとも幻想的だ。
西行庵を後にして石段を上っていくと、杉に積もっていた粉雪がサラサラと落ちてきて、
それが日の光を反射して小さく輝く。そうして無数の小さな輝きが、僕の周りを包み込む。
これには時間を忘れて見とれてしまった。サクラの季節にはまだちょっと早い。
そんな時期にわざわざここまで来たことに対しての吉野からのご褒美、そう思えた。本当にきれいだった。

 吉野の山に舞った雪が、世界を優しく彩る。

感動しつつ石段を下って金峯神社まで戻る。金峯神社は吉野山の地主神を祀っている。
非常に簡素な神社なのだが、「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として世界遺産に登録されている。
鳥居に石段、そして拝殿があるだけで、よくまあユネスコもその存在に気がついたもんだ、と思うほど。
石段を上っていき、拝殿を眺めながら用意しておいたカロリーメイトをかじる。
もちろん、ふつうに食べるよりもおいしく感じた。

 
L: 金峯神社を遠景で。拝殿しかないのは、吉野山それ自体を本殿と捉えているからだろうか。
R: 金峯神社拝殿。簡素、簡素と書いているが、近くで見ればもちろん立派。なんだか清潔感がある。

来た道を戻って高城山の展望台に上ってみる。ここは鎌倉時代の末期、後醍醐天皇の皇子である護良親王が
幕府軍と戦った場所だそうだ。今はのんびりとした奈良県南部の山並みを楽しめる絶好の場所となっている。

 高城山展望台。今は穏やかな時間が流れる。

そこからさらに戻って、吉野水分神社。これまた吉野の世界遺産である。「水分」は「みくまり」と読む。
ずいぶん無茶な読み方だと思ったら、「水分」とは「水配」ということらしい。そう聞くと、なんとなく納得いく。
石段を上って派手な色彩の楼門をくぐると、そこは今までに見たことのない姿の神社だった。
中庭を囲んで回廊があり、右手の本殿は3つの建物が横に合体したような形をしている。
今までにさまざまな神社を見てきたが、さすがにここまで奇妙な形をしているものは初めてだ。
1605(慶長10)年に豊臣秀頼によって建てられたというが、時間を超越した独特の雰囲気を持っている。
確かに神社なんだけど、どこか違う場所にいるような、もっと言えば遠いお空の上に来ちゃったような、
そういう現実感のなさが漂っている。まるで神様がつくった箱庭に潜り込んだ気分がした。

  
L: 水分神社楼門。それほど珍しい感じのしない門なのだが、ここをくぐるとまるで別世界なのだ。
C: 楼門をくぐった辺りから眺める本殿。周囲はぐるっと回廊が囲んでおり、本当に不思議な雰囲気がする。
R: 本殿は石を積んだちょっと高いところに建っている。これは真ん中のやつを見上げてみたところ。

勢いよくさらに走って吉野の里を目指す。途中の立て看板に絶景を味わえる展望台があると書いてあり、
せっかくなので寄ってみたら、確かにこれがすばらしい。眼下には金峯山寺を中心にして建物が集中している。
波打つ緑に覆われた山々は海のようで、吉野の里はそのうねりの中に架かった橋のように見える。
カーヴを描いて伸びていく終端には、すっかり小さくなった金峯山寺の本堂(蔵王堂)がどっしりと構えている。
これもまた、どこか箱庭めいていた。視界のずっと先には紀ノ川沿いに街が細長く続いており、
それとの対比で吉野の孤立した、しかし誇り高そうな印象がよけいに強調されている。

坂を下って里の入口近くまで戻ると、吉野山桜展示園という場所に出る。
吉野といえば下千本・中千本・上千本・奥千本とそれぞれヤマザクラが咲く桜の名所として有名だが、
今回はさすがに時期が早かったため、咲いていたとしてもいいところ三部咲きといった状況だった。
でも桜展示園には全国さまざまな種類の桜があり、少しだけだが花を味わえたから、まあヨシとしよう。

そうして坂を下りきると、土産物屋が並ぶ道に戻ってくる。やっと「人里」と呼べる雰囲気になる。
竹林院はその「人里」の南端に位置している。庭園・群芳園で知られる寺である。
なお、竹林院群芳園は宿坊としてもおなじみであり、修学旅行の宿泊先にもなることがある。
さすがにこんな奥地じゃどんなやんちゃ坊主も抜け出す気にはならんだろうなあ、と思いつつ庭園の中に入る。
群芳園は千利休の作で細川藤孝(幽斎)が改修したというのだが、それほどの切れ味は感じられなかった。
奥へ進むと庭園というよりもただの裏庭といった風情になってしまい、非常に残念。まったく大したことなし。

  
L: 私有地を開放している展望台から眺めた吉野。吉野の地理的な特性が一目で理解できる絶景だった。
C: 吉野山桜展示園で唯一マトモに咲いていてくれた桜。ワンテンポ早い歓迎ぶりがありがたかった。
R: 竹林院の群芳園。大和三庭園の一つとされるが、言うほど立派な庭園ではなかった、というのが正直なところ。

土産物屋が並ぶ中に、突如鳥居が現れる。鳥居の向こうはずいぶん急な下り坂になっている。
これが吉水神社の入口なのだ。そして鳥居をくぐって下っていくと、今度は急な上り坂を上っていくことになる。
このV字のゴール地点にあるのが吉水神社。もともとは金峯山寺の僧坊・吉水院(きっすいいん)だったのだが、
明治維新の神仏分離で後醍醐天皇を祀る神社となった。ここは後醍醐天皇のほか源義経や豊臣秀吉が訪れ、
今もそれらの人物にちなんだ多くの文化財が残されているのである。本殿はこれといったことのない建物だが、
奥にある書院は「南朝の皇居」ということでさすがに威厳がある。中に入って700年ほど前の歴史を想像する。
京都と吉野では都会レベルは天と地ほどの差がある。この吉野に逃れて「南朝だ!」と言い張っても、
どう考えても負け犬の遠吠えにしか思えない。そして冬場は卒倒するほど寒いであろうこの書院での暮らしは、
かなり厳しいものだったに違いない。吉水神社の書院の中は、そういう想像を膨らませるものが非常に多い。
歴史の勝者と敗者が交錯した実に密度の濃い建物の中を、ゆっくり歩いて過ごすのであった。

吉水神社の境内から出ると、あらためて外の景色を眺める。「一目千本」といい、中千本の山を一望できるのだ。
3月下旬の中千本は咲いている桜がほとんどゼロという状況なのだが、緑の合間にある茶色い部分が
薄いピンクに染まった姿を想像してみる。書院のおかげで想像力が鍛えられている状態だったから、
きっとこんな景色なんだろうな、というイメージはつかめた。でも現実は、それをはるかに超える美しさなのだろう。

  
L: 吉水神社・書院。かつては源義経が隠れ、後醍醐天皇が暮らし、豊臣秀吉が花見に訪れたという場所。
C: 吉水神社より眺める「一目千本」の中千本。この緑以外の部分がピンクに染まる景色は、さぞ絶景なのだろう。
R: 吉野の土産物屋地帯を行く。街並みはだいたいこのような感じで、飲食店や旅館もチラホラ混じっている。

吉野の土産物屋地帯を北へ歩いていくと、大きな寺にぶつかる。金峯山寺(きんぷせんじ)である。
役小角が開いたというこの寺は修験道の本山であり、聖地・霊場としての吉野山の中心的な存在だと言える。
本堂(蔵王堂)の迫力はまさに、吉野の中ではほかに並ぶものがない、有無を言わせぬ絶対的なものだ。
狭苦しい吉野の土地にしてはたっぷり広い境内に、巨大な本堂が見事な対比でそびえている。
バランスがいいのでついつい素直に受け流してしまいそうになるが、この建物は本当に大きい。
しばらくの間、ただ見とれて突っ立って過ごす。

満足したら、仁王門を抜けて再び商店街を歩く。帰りは七曲りを歩く気などなかったので、
ロープウェイで麓まで下りることにする。吉野ロープウェイは1928年に営業を始めたというが、
これは現存するロープウェイ路線としては最古なのだという。まあ確かに、ほかと比べて低い感じがする。
ロープウェイというともうちょっと高いところをスイスイ走っていくイメージがあるが、こちらは地面が妙に近い。
しかしそのおかげで、桜が満開のシーズンには咲いている桜の中をかき分けて進んでいくんだそうで、
これがもうとんでもなく美しいらしい。どうせとんでもなく混むのだろうが、それはかなりうらやましい話だ。

  
L: 金峯山寺・本堂(蔵王堂)。豊臣家の寄進により1592(天正19)年に建てられた。とにかく圧倒的。
C: 商店街に入ったところから眺める仁王門。1456(康正2)年築。本堂とは互いに背を向けるように建っている。
R: 吉野ロープウェイ。桜が咲いたら、桜の海の中を泳いでいくような感じになる。ぜひ一度味わってみたいものだ。

吉野は朝から走りに走って非常にハードな体験だったが、抜群の天気に恵まれて、予想以上に楽しめた。
しっかりと疲れを感じつつも、充実感に満たされながらJRの吉野口駅まで戻ることができた。

再びJRに乗り換えると、さらに和歌山方面へと進んでいく。五條市を抜けて和歌山県に入る。
列車は紀ノ川に沿って下っていくが、山に囲まれている光景はどこか地元に似ていて親しみを感じる。
でもさすがに稜線は南アルプスほど鋭くはないし、遠くでそびえている感触もない。穏やかに思えるのだ。

橋本駅に着いたので、列車を降りる。吉野で走ったおかげで時間的な余裕を少しつくることができたので、
ちょっと橋本の市街地を歩いてみることにする。駅前の観光案内所に入るとパンフレットがいっぱい。
高野山関係で観光に力を入れているようだ。が、駅にも観光案内所にもコインロッカーがない。
これはいかんだろ!と思うのだが、しょうがない。重い荷物を背負ったままで、西にある市役所へと歩きだす。

  
L: 橋本駅。JRと南海が分かちがたく合体している感じの駅だ。ロッカーがないのがつらい。
C: 橋本駅にあるまことちゃん像。楳図かずおは隣の高野町生まれ・五條市育ちなんだって。グワシ!
R: 完全に壊滅している橋本の旧商店街。まさにゴーストタウンとなってしまっている。

市街地には古くからの立派な住宅が残る場所もあるのだが、商店街跡地の壊滅的な外見があまりにもひどく、
これには大いにショックを受けつつ歩いた。かつてアーケードで栄えていたと思われる通りは、
文字通り「ゴーストタウン」という表現がしっくりくるような具合になってしまっていた。
破れた布地や壊れた明かりや看板がそのままになっており、見ていてあまりに痛々しく、歩くのがつらい。
住民にしてみれば仕舞屋が集まってそのまま住宅になっただけ、かもしれないが、それにしてもこれはひどい。

住宅地を抜けていったので、市役所の裏手に出た。南の国道24号を目指しつつあちこち撮影していく。
橋本市役所は分散具合がかなりひどく、市役所の周辺に北別館・西別館・上下水道部などが散らばっている。
さらに市民会館・教育文化会館・勤労青少年ホームといった公共施設も市役所の近くに集まっている。
かつては一大行政地区として整備されていたのかもしれないが、今は駐車場と古い建物が穏やかに残る、
そういう印象を与える一角となっている。駅近くの商店街を壊滅させた波が、ここにも流れ込んだようだ。
国道24号に出ると、派手な色合いの看板が遠くに見え、郊外ロードサイド店が並んでいる雰囲気がする。
橋本市の都市構造は完全に旧来のものが崩れ去り、郊外化しているようだった。

  
L: 橋本市役所の奥にある橋本市民会館。付近には市役所関連の建物がいくつも集中している。
C: 橋本市役所の側面。昭和30年代の庁舎と見た。分散しながらも、3階建てのこの建物を今もしぶとく使っている。
R: 正面から見た橋本市役所。こちらは後から増築されているが、それにしても旧庁舎部分と違和感ありすぎ。

のんびりと駅まで戻ると、JRではなく南海の電車に乗り込む。ここから南海で高野山方面に少し行くと、九度山に着く。
九度山は真田マニアにとっては聖地と言える場所なのだが、素人には少し説明が必要だろう。
ご存知のとおり真田家は関が原の合戦の際、親の昌幸と次男・信繁(幸村)が西軍に、長男の信幸が東軍についた。
そして関が原へと向かう徳川秀忠の軍勢が信濃を通過したとき、もののついでといった気分で上田に攻め込んだのだ。
これが第二次上田合戦で、昌幸・幸村は秀忠軍を叩きのめし、結果、秀忠は関が原の合戦に間に合わなかった。
西軍にしてみれば唯一の勝利らしい勝利だったが、家康にしてみれば唯一の汚点ともいうべき事態である。
当然、家康は激怒して昌幸・幸村は死刑になるところだったのだが、信幸の必死の嘆願により流刑となった。
そのふたりが流された先こそが、九度山なのである。そして昌幸はこの地で亡くなっている。
(幸村は大坂冬の陣の際に九度山を脱出して大坂方に加わり、昌幸に伝えられた戦術を駆使して戦った。)

橋本駅を出た南海の電車は大きくカーブを描きながら橋を渡り、紀ノ川の左岸に移るとゆっくりと高度を上げていく。
山沿いに上っていく車窓の風景は美しい。紀ノ川がつくった山間の盆地がゆったりと東へ伸びていく。
上から見るとブーメランの形をしている学文路(かむろ)小学校の脇を抜けると、九度山駅に到着。

九度山駅には市街地の案内図があったので、それを手に坂を下っていく。
「真田のみち」と看板が出ており、どうやらこれが九度山のメインストリートであるようだ。
赤字に白く「真田まつり」と書かれたのぼりがいくつも並んでいるが、賑わいはまったくない。
いかにも田舎の住宅地であり、やっているんだかやってないんだかわからないような商店が点在。
市町村の「町」なんてそんなもんと言えばそんなもんだが、それにしてもはっきりと田舎である。
もっとも、僕にとってはそれがどこか心が落ち着く感触でもあるのだ。
道の両脇には木製のプランターがあり、六連銭とともに「紀州九度山」と書かれている。
真田ネタ以外に町おこしの素材が見つからない、しかも真田ネタだって「昌幸・幸村の流刑地」というやや苦しいもので、
とりあえずやれるだけのことはやってみよう、という意識を感じる。なかなか九度山も大変なようだ。

  
L: 九度山駅。  C: メインストリート・真田のみち。しかしながら商店はまばらでほとんどが住宅。
R: 真田いこい茶屋。なかなか見事な古民家を改装。真田のみちにおける唯一の観光客相手の施設。

 六連銭はあちこちで見かける。プランターにも描かれているが、これ以外に町おこしのネタがない。

真田のみちを先まで進んでみることにした。やっぱり田舎の住宅地に商店っぽい要素が混じった光景は変わらない。
この真田のみちは小高い丘となっており、家々の間から見える北側・紀ノ川方面の見晴らしがとてもいい。


駐車場から眺めた九度山の表情。いかにも平和な田舎といった風情である。

対照的に南側は険しい地形を丹生川が鋭く蛇行する。そして丹生川は北上して紀ノ川と合流するのだが、
九度山の中心部はまさにこれらの川に区切られた一帯に集中しているのだ。昔からの都市構造が興味深い。
そういうわけで、真田のみちの終端は川にぶつかっておしまい、となる。実際に歩いてみると、あっけない。

  
L: いかにも田舎の住宅地兼商店街。実にのどかな街並みである。
C: 商店街というか「住宅地+点在する店舗」の中にある、六連銭を大々的に掲げた店。こりゃ大胆な。
R: 左から来た丹生川が紀ノ川と合流し、西へと流れていく。なかなか雄大な光景である。

いったん紀ノ川まで出たのだが、戻って本来の目的地である寺・善名称院を訪れることにする。
善名称院といってもピンとこない人が多いかもしれないが、「真田庵」と言えばどんな場所かわかるだろう。
ここは九度山に流された真田昌幸の屋敷があったところで、今も境内では真田昌幸や家臣たちが祀られている。
南の国道から案内板に従って境内に入ったのだが、門には大きな六連銭のついた戸があり、雰囲気十分。
入って左手の一角が真田地主大権現で、まさにここが真田ファンの「聖地」ということになる。
その先には寺院・善名称院としての本堂。ぐるっとまわり込んでさらに左手奥には真田宝物資料館がある。
やはりもともと地元の寺が歴史ブーム・真田ブームによって注目されるようになった場所のようだ。

それにしてもひと気がない。真田宝物資料館の中には誰もおらず、入口で料金200円をセルフサービスで納める。
真田とは関係のない善名称院としての歴史と、真田昌幸・信繁(幸村)親子についての歴史が、
ともになかなか豊富な資料をもとに紹介されている。個人の資料館らしく“クセ”があるが、悪くはない。
資料館を出ると、大学生くらいの男2名と年輩の夫婦が境内の中に入ってきた。親子かと思ったが、違うようだ。
僕を含めてこの具合なら、真田庵は九度山町における重要な観光資源として活躍しているようである。

このまま帰るのも惜しいので、本堂を覗き込んでみたら真田グッズが大量に置いてあった。
まあ、せっかくここまで来たんだし、何かしら買って帰るのもいいだろうと思い、品物をテキトーに見繕う。
そのうちさっきの大学生風2人組も中に入ってきた。しかし奥からテレビの音が聞こえてくるのに誰も出てこない。
しょうがないので「すいませーん」と大きな声を出して呼んでみる。しばらくしてから現れたのは、
小柄ながらも非常にエネルギッシュなおばあさんだった。善名称院は尼寺で、ここの住職のようだ。
そしてここからがもう本当に凄かった。マシンガントークとはまさにこのことで、いやもう圧倒されっぱなしだった。
開口一番、僕と大学生2名を見て、「お前ら草食系じゃダメだ」となじってくるのである。まず最初にコレなのだ。
海老蔵を見習ってガンガンいかんかい、と初対面の客に対して何も聞かずにしゃべりまくるのである。
続いて民主党政権の迷走ぶりに対する辛口コメント。そして徳川幕府が300年続いたのは密教のおかげ、と言う。
それから真田昌幸が生きてるうちはわりと裕福だったと思うが昌幸死後は本当に生活が苦しかっただろうとか、
大阪から九度山は馬だったら意外と近くて一度自転車でその感覚を試してみたらどうだろうとか、
町役場の役人たちは現場(真田庵)のことをろくに考えないで提案をしてくるから困るとか、
次から次へと話題は飛び、こちらには一言もしゃべる隙を与えることなくまくし立てるのだ。まさにマシンガン。
最初のうちは、独りで尼寺やってりゃ、そりゃあ来た人間にはあれこれしゃべりたくなるもんだよな、と
のん気に構えていたのだが、この勢いが一向に衰えない。むしろ加熱してどんどん舌鋒は鋭くなる。
結局どれくらいの時間、一方的にマシンガンを食らっていたのか見当もつかないのだが、
さすがに電車の時刻が気になって「えっと、すいません。これとこれをいただきたいんですが」と言ったら、
「あんた見かけよりもせっかちね」と返された。そしておばあさんはそろばんを取り出して計算開始。
しかし計算が終わると「何年生まれ?」と訊いてくる。「昭和52年です」咄嗟に元号の方で答えた。
おばあさんはあれこれつぶやきながら頭の中で数字を動かし、品物と一緒に3枚の紙を手渡してきた。
「あんたは人の3倍、物事をこなすことができる。とても大きいエネルギーを持っている」
まあ、そう言われてうれしくない人はいないもんな。占いってのはそうやって自分の話を聞かせるってわけか。
「この先、感謝の気持ちを絶対に忘れないこと。そうすれば来年以降、道が開けてくる」
占いを信じようと信じまいと、感謝の気持ちは大事だよなあ。そうだなあ、その点はそのとおりだよなあ。
……というわけで、無事に九度山・真田庵土産を購入することができたのだが、
サービスということなのか、九星による占いをしてくれた。渡された紙にもいろいろ詳しく書かれていた。
それにしても、物を買うのにこんなに時間がかかったのは人生で初めてだ。
百聞は一見に如かず。この凄まじいマシンガントークを味わいたければ、ぜひとも九度山の真田庵へ。
占いも当たってないことのない内容が多かったような気がするので、信じてみるのも面白いだろう。
いやしかし、本当にこれは強烈だった。

余韻が冷めやらない中、九度山町役場まで足を伸ばしてみた。真田のみち辺りからは遠くに見えるが、
いざ歩いてみたら意外と近かった。まずまず年代ものの庁舎建築で、がまん強く使っている印象がする。
丹生川を挟んだ小高い丘にあり、九度山ののどかな光景を一望できる場所にあるのがいい。

  
L: 善名称院(真田庵)。ぜひとも土産を購入してマシンガントークと九星占いを味わっていただきたい。面白いよ。
C: 境内に祀られている真田地主大権現。真田ファンとしては訪れないわけにはいかない場所でしょう。
R: 九度山町役場。鉄筋コンクリの庁舎建築だが、低層と高層の対比がなかなかである。

九度山を後にすると、橋本まで戻る。そこから再びJR和歌山線に乗り、和歌山駅を目指す。
線路は紀ノ川と並行しており、南北の両側に山並みを従えて西の海へと向かっていく。
やがて山の連なりはそれぞれ南北へと開いて消え、列車は和歌山市の平野へと出る。
和歌山に来るのは3年ぶりとなるが(→2007.2.11)、風景はまったくと言っていいほど変化していないようだ。

列車が和歌山駅に到着したが、予定よりも早かったので何もやることがない。
和歌山の市街地に繰り出してもいいのだが、和歌山は歩くにはかなり広い街なのだ。
(その分、賑わいが拡散して中心市街地の地盤沈下が激しいという側面があるはずだ。)
そこでモタモタしてしまっては、かえってよけいに時間がかかって予定が悪いほうに狂う可能性だってある。
それで結局、和歌山駅から和歌山市駅まで電車に乗ってみることにした。
高架で快調にすっ飛ばして和歌山市駅に到着すると、そのまま和歌山駅まで引き返す。
鉄分の多い行動だ。でもまあ、高いところから久々に和歌山の街を眺めることができたので、ヨシとしよう。

 
L: 和歌山駅で見かけた、和歌山電鉄の車両。「いちご電車」ということで、白と赤のカラーリングだ。
R: 和歌山電鉄といえば貴志駅にいる猫の駅長・たまが有名。こんなイラストになっているんだね。

そういえば、前に「ぶらくり丁」の写真を撮ったときには、もうほとんど日が沈みかけていて暗かったな、
いい機会だからまだ日が出ているうちのぶらくり丁の写真でも撮っておくか、と思い、和歌山の街に出る。
なんだよ、結局がっちり街歩きしちゃってんじゃん、と自分で自分にツッコミを入れるのであった。
これなら、さっき和歌山市駅で降りてから歩いた方が楽しかったなあ、と思う。

  
L: 歩いてみたら、やっぱり和歌山駅からぶらくり丁まではけっこうな距離があった。すっかり夕日の光加減だ。
C: ぶらくり丁の中は……3年前よりも人通りが少なくなってないか? だいぶ危機感を抱かせる静けさだ。
R: 大通り。人よりも車のほうが圧倒的に多い感じで、非常に切なくなってしまう。

さて、吉野からわざわざ和歌山に出てきたのには理由がある。それは、和歌山ラーメンを食べることだ。
以前にも書いたのだが、和歌山ラーメンには2つの系統が存在しているのである(→2007.2.11)。
ひとつは「井出系」。これは前回訪れたときに食べている。そして今回、もうひとつの「車庫前系」に挑戦するのだ。
ぶらくり丁の写真を撮り終えると、さっそく車庫前系の老舗・本家アロチ丸高へと突撃する。
ちなみに周辺には「アロチ」という名前の建物がいくつもあって、これっていったいどんな意味だと調べてみたら、
この辺りの地名で、漢字では「新内」と書くようだ(「新地」は「シンチ」で、「アロチ」ではないようだ)。

店内に入ると客はおらず、僕が本日最初の客であるようだ。今日は吉野に行ってからろくにメシを食っておらず、
とにかくすさまじく腹が減っている。当然のごとくラーメン大盛を注文すると、店内をじっくり観察して過ごす。
しばらくして大きなどんぶりで大盛が登場。相手として不足はない。勢いよく食べはじめる。
味はやはり正統派の豚骨醤油ラーメン。臭みがまったくない分、醤油に近いということだろうか。
もっとも、醤油に近いということでか、大盛のせいもあってか、パンチにやや欠ける印象がしたのは否めない。
でも早寿司との相性もよく、おいしくいただいたのであった。大盛に早寿司によく食うなあ、と思われただろうなあ。

 和歌山ラーメン・車庫前系。しっかり豚骨醤油。

たっぷり食べて満足すると、和歌山駅まで戻る。すべては予定どおり、いや、予定よりもスムーズに動いている。
しかしこういうときこそ、トラブルが怖い。昨日からなんとなくイヤな予感がしていたのだ。
それは、こっちはスケジュールどおりに動いていても、電車の方が遅れてしまってうまくいかなくなるんじゃないか、
という予感だ。僕にはそういう第六感はないはずだが、しかしどうも、そうなりそうな気がしてならないのだ。
これは説明のしようがないのだが、とにかくイヤな感じがした。だから早めに和歌山を後にして大阪に向かった。

そしたら案の定というか、まさかというか、天王寺駅に着く直前で大阪環状線のトラブルを知らされる。
大阪駅まで行って、そこから米原、さらには大垣まで行ってムーンライトながらに乗って東京に帰る予定なのだ。
大阪環状線がうまく動かないと、最悪の場合には東京に帰れない可能性が出てくるということだ。これはマズイ。
iPodの音楽を聴くのをやめて、情報収集に神経を集中させる。しかしよく状況がつかめないまま、天王寺に着く。
どうやら向かいのホームに停まっている電車に乗るのが早いようなので、乗り換え。はやる心を抑えて待つ。
何分遅れかはわからないが、とにかくやがてどうにか電車は動き出した。

大阪駅に着くと、電光掲示板と腕時計を見比べて素早く判断。構内の売店でお土産と夜食を買い込む。
(しかしまあ、あの状況でちゃっかり買い物をしてしまうのは、われながら要領がいいというか何というか。)
そしてホームに出るが、東海道本線は快速だの新快速だのが意外に複雑で、特に米原まで行くとなると、
本数は思いのほか少なくなるのだ。ボサッとしてたら命取りになるところで、どうにかセーフ。

安心したのも束の間、乗り込んだ東海道本線も結局遅れてしまったのだった。なんだか妙にツイてない。
JRもさすがにその辺のことはわかっていて、乗客がムーンライトながらに乗り遅れることがないように、
次の列車の発車を待ってくれるのだが、おかげで米原駅に着いてからみんなで猛ダッシュ。
駅員が必死の声をあげる中、どうにか大垣へ向かう列車に乗り込んで、すぐに発車。
旅の終わりがこうもせわしないと、感傷に浸ることなんてまったくできやしない。

大垣ではすぐにムーンライトながらに乗り換え。東京に着いたら自宅に戻り、ちょっと休んだらそのまま出勤だ。
今はとにかく、できるだけじっくり眠ることにしよう、と目を閉じる。こういうドタバタに見舞われることだって、
過ぎてしまえば楽しい記憶となるのだ。深夜特急のリズムに揺られながら、そんなふうに考えていた。


2010.3.29 (Mon.)

昨日は奈良市内の主に東側に焦点を当ててあちこち見てまわった。
今日の午前中は引き続きレンタサイクルで奈良市内の西側を走りまわり、
午後になったら電車に乗って奈良の盆地をぐるっと一周してみることにする。
相変わらずの、体力の続く限り動き続けるエキセントリックな旅行っぷりである。

早朝に宿を出たものの、残念なことに雨がパラついている状態。
しかし空はそんなに暗いわけではない。一縷の望みを胸に、自転車をこぎ出す。
時刻は午前6時。こんな時間に出発したって、まだどこの寺も開いていない。
しかし街並みを味わうことはできる。そういうわけで、まずは西へと走り、続いて南へと走り、
まずはそのまま大和郡山市を目指すことにする。自転車で、奈良市を脱出してしまうのだ。

黙々と阪奈道路を西へ走っていると、やがて右手に広大な空き地があるのが見える。平城京跡である。
ここには後で寄るので、とりあえず今はスルー。さらに西を目指して平坦な道を行く。
平城京跡という旧跡の近くにあるためか、緑色をずいぶん濃いめに抑えたファミリーマートを目印に左折。
唐招提寺や薬師寺へと向かう奈良県道9号を南下していく。が、これまたどちらも後で寄る。
わき目もふらずに自転車をこぎ続け……と言いたいところだが、空腹に耐えかねて牛丼チェーン店に入る。
ゆっくりと朝食をいただくと、雨はやや小降りになっていた。勢いよくさらに南下していく。
周囲は完全なる田園地帯。奈良の都の頃からこのあぜ道は変わっていないのだろうか、
などと思いながら自転車を走らせると、いつのまにか大和郡山市に入っていた。

大和郡山市はご存知のとおり、もともとはただの「郡山」という名前の城下町だった。
市制施行する際に福島県の郡山との混同を避けるため、旧国名が頭についてこの名前になった。
さてこの大和郡山市、今も城下町の雰囲気を色濃く残す街としてよく知られている。
郡山城はもともと地元の豪族によってつくられた城だが、織田信長に属する筒井順慶が本拠地とし、
その後、豊臣秀長が大和・和泉・紀伊3ヶ国の領主として郡山城に入ったことで大きく発展した。
最終的には柳沢吉保の息子である吉里が甲府から移り、そのまま柳沢家が治めて明治維新を迎えた。

  
L: JR郡山駅から市街地へ入る途中にある外堀緑地。余裕があればのんびり散策したかった。
C: 水路が道の真ん中を走る紺屋町。箱本十三町のひとつで、今も往時の雰囲気を伝えている一角。
R: 柳町商店街。柳町は近くに遊郭があったため、呉服店が繁盛していたそうだ。

大和郡山では、かつて豊臣秀長により、外堀の内側にある13の町が1ヶ月ごとに自治の当番となる制度がつくられた。
この制度は、特権と義務を記した文書を箱に入れて回していったことから、「箱本(はこもと)」と呼ばれていた。
今も大和郡山にはいかにも城下町らしい町の名前とともに古い建物があちこちに残っている。
特に街のスケール感が、かつての城下町そのままの小ささを保っているのが、非常に印象的である。

 元旅館・花内屋。かぎ型になっている交差点に位置しており、城下町らしさ全開だ。

少し南の方へと出てみる。城下町のくちゃっとした街並みを抜けると、そこには曇り空を移した水面が広がっていた。
大和郡山といえば、なんといっても金魚の養殖である。目の前にある無数の池は、金魚の養殖池なのだ。
見渡す限り、と言ってもいいほどに、池は視界の大部分を埋め尽くしている。この土地ならではの光景を見た。
この見慣れぬ景色が、この場所にとっての当たり前なのだ。しばらくの間、僕は無言でこの光景を眺め続けた。

 辺り一面に広がる金魚の養殖池。さすがは大和郡山だ。

あまり時間に余裕があるわけではないので、少し急いで郡山城址へと移動する。
かつて城主の居館があった二の丸跡には、奈良県立郡山高校が建っている。
その正門と向き合うようにして、本丸へと続く通路ができている。自転車を置いて進んでいく。
郡山城の本丸跡は、柳沢吉保を祀っているという柳澤神社となっている。
さすがは金魚の街だけあり、神社にはさまざまな種類の金魚を入れた水槽がずらりと並べられていた。
奥へ進むとなかなか見事な天守台がある。が、崩壊の危険があるそうで、立入禁止となっていた。

  
L: 本丸跡の柳澤神社。4月1日から行われる「おしろまつり」の露店が営業準備中だった。
C: 神社に並べられた金魚の水槽。もとはフナだが、実にさまざまな種類がいる。外国産の品種も多くて驚いた。
R: 郡山城の天守台。大和国はとにかく石が採れない場所で、築城には非常に苦労したそうだ。

本丸の堀を挟んで東側にある、築城400年を記念して復元された追手門、東隅櫓、多聞櫓の辺りにも行ってみる。
いかにも「手を入れた城跡」という感触のする公園となっており、本丸の静けさや二の丸の高校との対比が際立つ。
重要な部分は静かに残しつつ、利用できる部分は利用する、そういうメリハリが効いているのが印象的だった。

 追手向櫓(手前)と追手門(奥)。学術的というよりは観光向けという印象。

郡山城址を出ると、そのまま大和郡山市役所へ。幅の広い建物で、ガラスとサッシュのファサードが非常にモダン。
石橋を渡って近くに寄って見てみると、建物の古さがやたら目につく。実に正しい昭和のモダニズム建築だ。
調べてみたら1962年竣工で、設計したのは山田守だった。大和郡山、何から何まで侮りがたい街である。
(山田守建築事務所の公式HPに竣工当時の写真があるので見比べてみると面白い。)

  
L: 大和郡山市役所を向かいの三の丸会館(中央公民館・市立体育館)から撮影。
C: 本庁舎の西側。  R: 本庁舎の東側。こちらは1977年に増築された。

大和郡山が予想以上に面白かったので、大いに満足しつつ自転車にまたがり、ペダルを踏み出す。
そんな心理を反映してか、空もだいぶ青い面積が増してきた。どうやらもう雨の心配はなさそうだ。
快調に来た道を戻って奈良市に入ると、今度はきちんと薬師寺を目指して案内板に従って曲がる。

薬師寺へ向かう道はなかなか複雑である。周囲は完全に田舎の田園風景となっており、
東塔・西塔などのシンボリックな建物がずっと遠くからでもしっかりと確認することができる。
ところが道はあくまで観光ではなく地元の生活レベルの幅しかなく、たどり着くのに予想外の時間がかかった。
時刻は8時半より少し早い。門の前でぼんやりしていたら、開門時刻よりもちょっと早く受付してくれたよ!

  
L: 薬師寺・南門。こうして東塔・西塔とセットで眺めると、「ああ薬師寺だ」って気持ちになるから不思議だ。
C: 1981年再建の西塔。500年後には東塔といいバランスになるように計算したうえでつくられたとか。
R: 薬師寺といったら東塔。朝に来たら逆光でものすごく撮影しづらかった。さすが東側の塔である。

よく考えると薬師寺というのも変な場所だ。変というのは失礼だけど、でもやっぱり変だと思う。
というのも、現存している奈良時代の建物は東塔しかないのに、やたらと知名度があるからだ。
東院堂が鎌倉、南門が室町という歴史を誇るが、あとは20世紀終盤以降の建物ばかりなのだ。
中学生のときに修学旅行で来たので今回あらためて訪れてみたが、冷静に考えてみると、
別にわざわざ来るほどのものでもないような気がしてならないのである。首を傾げつつ見てまわる。

  
L: 金堂。1976年に再建された。おかげでピカピカ。  C: 大講堂。2003年に再建された、伽藍で最大の建物。
R: こちらは国宝・東院堂。伽藍の外側にあるのだが、回廊がすごく近いせいで正面から撮影できないのが残念。

広大な伽藍に再建されたばかりの建物がいくつも配置されている。道を挟んだ北側には玄奘三蔵院があり、
平山郁夫のヘタクソな絵がうやうやしく展示されている。いったい薬師寺のどこにこんな金があるのか、
まったくもって理解ができない。どうしてこんなに勢いよく金を使うことができるんだ?
――ひとつ言えることは、薬師寺の意義は、その金遣いのよさにあるということだ。
奈良時代の権力者が伽藍をつくりあげたのに近い勢いで、薬師寺は急ピッチで復興を遂げている。
その勢いを目の当たりにできることこそが、薬師寺の面白さなんだと思う。
工事現場らしくコーンが置かれ、鉄パイプの足場が組まれているその様子から、
1400年ほど前の工事現場の姿との違いを想像することで、伽藍が構成されていくというリアリティを感じること、
それが正しい薬師寺の味わい方ではないかと思うに至ったのである。そう考えると、薬師寺は純粋に面白い。

続いては北上してすぐの唐招提寺だ。金堂の修復がついに完了したということでけっこう楽しみにしていたのだ。
自転車を停めて拝観料を納めて南大門をくぐると、目の前に修復を終えた金堂が現れる。
整然とした美しさで瓦屋根が裾を広げ、その下ではどっしりとした柱が落ち着いた色合いで重みを支えている。
これはもう、見とれてしまう。時間も空間も超えて「奈良に来たんだ」という感覚を、めいっぱい味わわせてくれる。
金堂の前に立つと、奈良時代にタイムスリップしたような感覚に陥る。奈良の質感が全身を包むのだ。
中の仏像を覗き込み、柱や扉をベタベタ触ってさらに奈良の質感を自分の中に刻み込む。

  
L: 唐招提寺・金堂。僕にとっては奈良の象徴とも言うべき存在。「オレが奈良だ!」という説得力がものすごい建物だ。
C: 鼓楼。周囲と比べてずいぶんかわいらしい建物だが、しっかりと唐招提寺らしさを保っている。
R: 講堂。平城宮の東朝集殿を移築・改造したものだそうだ。大きいくせに、中に壁などはほとんどなかった。

唐招提寺の見どころは金堂だけではない。国宝や重文がゴロゴロあり、それらが集まって強い迫力を感じさせる。
「伽藍の構築とは仏教の世界観の構築そのものであると思う」なんて昨日の日記で書いたけど、
唐招提寺の場合には、それに加えて奈良時代当時の価値観が深く反映されているように思うのである。
いや、この表現は正しくない。正確に言えば、奈良時代当時の価値観が非常によく残されているように感じるのだ。
これだけきれいに、これだけ高い密度で、できるだけ少ない誤差で歴史に触れられる場所はそうそうないはずだ。
とにかく、ただ境内の中を歩いているだけでも、かつてあった時間が自分の中を通り抜けていくのがわかる。
それだけでもう面白くて面白くて、夢中であちこち歩きまわって過ごした。

 
L: 礼堂(らいどう)。もとは僧侶が住んでいた僧坊を改築したもの。縁側がすごくいいですなあ。
R: 宝蔵。見事に校倉造だ。隣には一回り小さい経蔵が、やっぱり校倉造で並んでいる。

唐招提寺の余韻に浸りつつ、ペダルをこいで来た道を戻る。空は再び厚い雲に覆われてきている。困ったものだ。
目印のファミリーマートで右折すると奈良市街へ向かう阪奈道路に入る。平城京跡はもうすぐだ。
するとすぐに左手につくりかけの公園が現れる。ずっと奥には1997年再建の朱雀門が建っている。
朱雀門は決して小さくないのだが、なんせ公園の敷地が奥行きがあるので、ちんまりとして見える。

みやと通に出て近鉄奈良線の線路を越えて、本格的に平城京跡へと入る。
そして、そのあまりにも広大な空間に圧倒される。かつての奈良の都は、今もネガとして空白のまま残っている。
街中とは言わないが、これだけの広い場所がほぼ手付かずのまま残っているという事実に驚かされる。
何m先になるのか見当もつかないくらいずっと先に、復元された第一次大極殿(だいごくでん)が建っている。
やはり昨日の日記に書いたが、かつて存在したことを伝えるには、何もないままにしておくことが最善の策なのだ。
奈良の人々はそのことを本当によく知っている。広大な無を目の前にして、歴史の事実に圧倒される。
かつて建物が建っていた空き地を眺めると、思っていたよりもその空間が小さかったことに違和感を感じるものだ。
今こうして広大な平城京跡を眺めていると、建物で埋め尽くされていた過去の都市がどれほどの規模だったか、
とりあえず想像してみてその姿に呆れてしまう。……でも現実は、きっと想像の上をいっている。

  
L: 復元された朱雀門。これが小さく見えてしまうのだから、奈良ってのはスケールが大きい。
C: 広大な平城京跡と、復元された第一次大極殿。  R: 広大な無が僕らの想像を掻き立てる。

奈良市の中心部にまで戻ってレンタサイクルを返却すると、歩いてJR奈良駅まで行く。
JR奈良駅と奈良公園をつなぐ三条通は、歩行者にとっては奈良のメインストリートと言っていい存在だ。
4年前(→2006.4.8)に通ったときと雰囲気はまったく変わっていないことをあらためて確かめる。
そうして今のうちに存分に奈良市街の雰囲気を味わっておく。満足したら、切符を買って駅の改札を抜ける。

 奈良駅から奈良公園へと向かう三条通。

ここからは本日の後半戦だが、この後半戦が意外と長いのだ。まずJR桜井線で畝傍(うねび)駅まで行く。
そこから近鉄に乗り換えて橿原神宮を目指す。「そんなもん、近鉄奈良からぜんぶ近鉄で行けばいいじゃん!」
というのが正しい反応だと思うのだが、まあなんというか、ゆっくりぐるっと奈良の盆地を一周してみたいのだ。
決してJRの全国乗りつぶし比率を上げようとなんて思ってないんだからね!とツンデレっぽく言ってみる。
……もうダメです、自分。いろんな意味でもうダメだ。

桜井線にはついこの間、「万葉まほろば線」という愛称がついたようで、それが盛んに使われている。
でも鉄道事情に詳しくない僕には、それはけっこう厳しい。というのも、奈良県のJRは意外と複雑で、
目的地は車両に表示されていても、それがどこ経由なのかがわからなくって困るからである。
王寺という猛烈なターミナル駅が存在することで、路線ロンダリングされているように僕には思えるのだ。
しょうがないので事前にネットで調べた発車時刻と照合することで乗るべき列車を特定したのだが、
もし少しでも予定が狂えば大混乱してしまうこと必至である。まったくどうすりゃいいんだか。

いざ乗ってみると桜井線は予想以上にローカル色の強い路線だったのだが、
京終(きょうばて)、帯解(おびとけ)、櫟本(いちのもと)など難読駅名が連続していてそれはそれで面白い。
その次が天理。高架の駅からは天理教の宿泊施設と思われる建物が密集しているのがよく見える。
「第146母屋」だとかやたら大きな数字がついていて、すげえな天理、と呆れるしかなかった。
天理を抜けると列車は山の麓の田舎地帯をのんびり走っていく。山はなだらかでいかにも奈良県だ。
桜井駅の周辺だけちょっと都会な雰囲気で、進行方向を西に変えた列車は田舎の住宅街を行く。

畝傍駅に到着。近鉄と乗り換える人がいるからちょっと立派だろうと思っていたら無人駅だった。
駅舎を出て市街地の匂いのする方へ。そのまま橿原市役所前を抜けて近鉄の八木西口駅を探すが、
これがどこにあるのかよくわからない。さまよっているうちに1駅北にある近鉄八木駅に入ってしまったので、
素直にそこから橿原神宮前駅まで電車で揺られた。そしたら橿原神宮前駅の構内が意外に都会というか、
本屋やらコンビニやらマツキヨやらドトールやらさまざまな店舗が並んでいて驚いた。桜井線とは雲泥の差だ。
そんなに利用者が多いの、ここ?

 橿原神宮前駅。村野藤吾設計で1940年竣工。

橿原神宮前駅を出ると、夏かと思うような日差しの中、北へと歩く。道はまっすぐで迷うことはない。
程なくして橿原神宮の入口へと到着する。広々とした駐車場を抜けると大きな一の鳥居がお出迎え。
参道もデカいが、灯篭もデカい。豪快につくられている砂利敷きの参道をまっすぐに歩いていく。
橿原神宮はすべてのスケールが大きめにつくられている。さすがは明治期の神宮だと思う(→2009.1.8)。
どれくらいの距離を歩いたのか感覚が麻痺した頃に、左手に深田池、右手に南神門が現れる。
深田池には無数の水鳥たちが浮かんでいる。一休みしてから南神門をくぐってみるが、これがまた異様に広い。
遮るものが何もない砂利敷きの空間が延々と続く。デカいは偉い、偉いはデカい! そんな価値観が直に伝わる。

  
L: 橿原神宮・一の鳥居。とにかくやたらめったら何でもかんでもデカい。そして広い。単調といえば単調。
C: 南神門を抜けてもやっぱりバカデカい空間が現れる。左側にある外拝殿(げはいでん)から奥に進んで参拝。
R: 内拝殿。何やら手前で作業中だった。奥にある幣殿の千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)が屋根からぴょっこり出ている。

再び延々歩いて橿原神宮駅に戻り、近鉄で橿原市街に戻る。八木西口駅で降りてもよかったのだが、
さっきの近鉄八木駅の方が都会に思えたのでそっちで降りる。腹が減ってガマンができない状態になっていたのだ。
少しでも都会な方がいいメシにありつけるんじゃないかと考えたわけである。
が、近鉄八木駅周辺に納得できるメシ屋はなく、フラフラ歩いているうちに橿原市役所前まで戻ってしまった。
最終的にはそこでお得なランチメニューに出会うことができたのだが、この状況は予想外だった。

さて、橿原には神宮のほかにもうひとつ目的地がある。それは、今井町(いまいちょう)と呼ばれる街である。
今井町は称念寺を中心につくられた寺内町で、戦国時代には本願寺と結んで織田信長と戦った城塞都市だ。
信長に降伏した後は、商人で茶人の今井宗久のとりなしもあり、それまでと同様に自治を認められた。
江戸時代に入ってもその経済力を重視した幕府によって自治が認められ、そのまま明治維新を迎えた街なのだ。
環濠で囲まれた東西600m、南北310mの範囲に約700軒の住宅があるが、うち500軒が旧来の様式を守っており、
基本的に街の構造は16世紀からほとんど変化していないというとんでもない場所なのである。
昨日の奈良町が空振りだったので、過度な期待は禁物かなあ、なんて思いながらメシを食うのであった。

腹ごなしも済んで今井町を存分に歩きまわるべく鼻息荒く店を出たら、なんと雨が降り出してやがる。
さっきまで日焼けしそうになりながら橿原神宮を歩いていたはずなのに、天気が急変。これは「けったいな」事態だ。
案内板に従って南西に出て、今井町の入口に入るといよいよ雨は本格化。しかも寒い。
今井町の地図を眺めながら突然のアンラッキーな展開にがっくりとなりつつも、気合を入れ直して歩きだす。
まずは南東端にある今井まちなみ交流センター「華甍」(旧高市郡教育博物館)から訪れてみる。
正面から写真を撮影していたら、なんと、雨が雪へと変わってしまった。これには開いた口が塞がらない。

 小粒の雪が舞うなか撮影した、今井まちなみ交流センター「華甍」。

もともと環濠集落だったのを防御を固めて自治都市にしてしまった場所なので、街の境界ははっきりしている。
そのうえ、戦略上、大軍が入ってこないように入口を狭めて曲げているので、より境界が強調されたように感じる。
今井町の内部に踏み込むと、そこは完全に別世界だった。冗談ではなく、どこでもドアでタイムスリップした感覚だ。
時間の流れ方がまったく異なっているように感じられるのだ。狭い通路の両脇を木造住宅が固めている風景が、
360°連続している。歩いても歩いても、それが続く。今まで線状に古い建築が並ぶ街はいくつか訪れた。
妻籠に馬籠(→2005.8.16)、栃木(→2005.11.132008.8.20)、倉敷(→2008.4.22)、川越(→2008.8.19)、
佐原(→2008.9.1)、松江(→2009.7.18)、奈良井(→2009.8.14)、高山(→2009.10.12)、近江八幡(→2010.1.10)、
長浜(→2010.1.10)などなど。しかし、今井町の迫力はそれらとはまったく比べ物にならない。
今井町は完全に、面なのだ。空間の密度があまりにも濃すぎるのだ。
そのせいで、時間までもが流れ方を変えてしまっている。これには鳥肌が立った。
僕は時間を超えて、迷い込んでしまった。歴史の中に迷い込んだのではない。
日本人が連綿として続けてきたもの、強いて言えば実体化した「伝統」や「風土」の中に迷い込んでしまったのだ。
(僕は「歴史」という言葉から「フィクション」というニュアンスを捨て去ることができない。だからこの言葉を使いたくない。
 今井町の中にあったのは、完全なリアル、つまり日本人の生活なのだ。これは純粋な「日本らしさ」の具現化だ。)

  
L: 今井町の街並み。東西600m、南北310mの範囲にわたってこの光景がずっと続く。空気の質感がまったく違う。
C: 上田家住宅。1744(延享元)年築だそうだ。ほとんどの住宅が南北方向に玄関を持つ中、西向きに玄関があるのが珍しい。
R: 旧米谷家住宅。道幅が狭いので、こうやって正面から余裕をもって撮影できる住宅は非常に貴重だ。ありがとう。

今井町の凄みは都市構造がそのまま残っているという事実だけでなく、現状の使われ方にもある。
ほとんどの住宅は現在もそのまま住宅として使われている。つまり、商売っ気のある建物がきわめて少ないのだ。
よく見ると喫茶店や土産物屋になっている、という店が片手で足りるほどしかないのだ。あとはぜんぶ現役の住宅。
中には地元住民向けの商店もあるが、観光客向けに媚びて改装した建物はひとつもなかった。ただのひとつもだ。
この事実がまた僕には非常に衝撃的だった。究極の本物が、ここにまだ残っていたんだ!と驚いた。
古い街並みに興味のある人は、絶対にこの今井町を訪れなければいけない。この空間を体験しなければいけない。

  
L: 今井町の西端・今西家住宅。1650(慶安3)年築。今西家は「今井町の西を守る」ということでこの名字になったそうだ。
C: 今西家住宅の正面をムリヤリ撮影してみた。これも現役バリバリの住宅なんだからすごい。
R: 豊田家住宅。1662(寛文2)年築。円に「木」の字の紋から「西の木屋」と呼ばれていたそうだ。周囲は分家だらけ。

『イージーライダー』(→2005.9.9)や『下妻物語』(→2005.7.12)などで、粗い映像で街を歩きまわる描写があるが、
あんなような気分で今井町の中をさまよい歩く。どこまで行っても近世の街が続くが、環濠の外側は現代だ。
木造住宅のファサードがあらゆる角度に連続していく光景は、完全に迷路だ。時間軸も狂わされた迷路。
おかしなことに、そんな僕の感覚に天気まで影響されたのか、晴れたり雨が降ったりを何度も繰り返す。
(写真はできるだけ青空が映っているものを選んだが、実際の天気は完全に壊れてしまっていた。)
予定していた時間いっぱい、とにかく歩いて歩いて歩き倒す。そうしてできるだけ長い距離を歩き、
この今井町というあまりにも特殊な空間を自分の中に落とし込むことに集中して過ごす。

  
L: 今井景観支援センター。パンフレットが充実。派手な看板などは出ていないので、気づかず通り過ぎちゃいそうだ。
C: なんでもない今井町の街並み。しかしこの光景は、今の日本ではすっかり失われてしまったものだ。
R: 平均的な今井町の姿をもう一丁。どこを歩いてもこんな光景が無限に繰り返されるのだ。

本当に、今井町ではただぐるぐると歩きまわっていただけなのだが、最高に充実した経験ができた。
どれだけ歩いても歩き足りない。でも時間に余裕がないので、後ろ髪を引かれる思いで橿原市役所前まで戻る。
橿原市役所に着くと、当然のごとくデジカメを構えて恒例の市役所撮影をしようとするが、
いかんせん車の交通量が多いわ敷地に余裕がなくて全体像を視野に収めることができないわで、
きちんと撮影したという感触にはなれなかった。まあ、それも含めての市役所の特性ということで納得するしかない。

 
L: 橿原市役所。  R: 角度を変えて北東側から撮影。手前の道の交通量が半端ない。

畝傍駅まで戻ろうとするが、横断歩道の信号が異常なまでに歩行者に不利で、5分ほど待たされる。
しかも10秒足らずで赤になる。この橿原市役所前から畝傍駅に出る横断歩道ほど厳しいスポットは珍しいだろう。
そこまでやる必要があるんか、と呆れつつ駅まで戻ると、再び桜井線に乗り込む。
このままぐるっと奈良の盆地の西半分を北上し、目指すは法隆寺なのである。

高田駅からは和歌山線。雰囲気はすっかり郊外社会である。
一大ターミナルである王寺駅で乗り換えて法隆寺駅へ。法隆寺駅から法隆寺まではゆるやかな上りになっており、
これがけっこうな距離があるのだ。県道5号を早足でグイグイ歩いて歩いて国道25号に出ると、
ちょっと西に進んで法隆寺の参道に入る。松の並木になっており、両脇には土産物屋や甘味処などが並ぶ。
先へ進んでいくと、ひょこっと現れるのが南大門。いきなり国宝だが、ごく自然にしれっと建っている。
法隆寺はとにかく国宝まみれなのである。大げさではなく、あっちも国宝、こっちも国宝という場所なのだ。
ぜんぶ見てまわるのにいったいどれくらい体力を使うのか、想像がつかない。武者震いしつつ中へと入る。

  
L: 法隆寺南大門。脇には自転車が置いてあったりなんかして、これがごくふつうの風景であるところに奈良の凄みを感じる。
C: 南大門をくぐると、いかにも法隆寺っぽい雰囲気に。見渡す限り、国宝と重文。なんとも贅沢な空間である。
R: 中門。飛鳥時代の建築である。なんというか、古くっていい建物には説得力があるんだよなあ。

さすがは法隆寺、壁からして雰囲気あるなあと思ったら重要文化財。行く手にある建物たちはみんな国宝。
国宝や重文だから偉いというわけではないのだが、やはり質と量が完全にそろっていると、迫力が違う。
中門をたっぷり眺めてから左に折れて、いよいよ西院伽藍の中に入る。回廊に沿って進むと、まず五重塔。
飛鳥時代に建てられた日本最古の五重塔だそうで、当初材なのかどうなのかは知らないけど、
扉など十分すぎるほど歴史を感じさせる古び方をしている。やっぱりベタベタ触って歴史を体感してみる。
その先にあるのが金堂。しかしこうしてあらためて奈良の建築物を眺めていると、どこか中国風の匂いを感じる。
(中国っぽさという点において、昨日訪れた黄檗宗の萬福寺となんとなく似ている印象を受けるのだ。)
なるほど、国風文化ってそういうことかぁーと、法隆寺に来て納得するというのもなんだか変な話だ。
で、いざ大講堂に行ってみようと思って愕然とする。今まさに修復工事の真っ最中だったのだ。
そういえば、法隆寺で何か修復しているって話をどこかで聞いたような気がしないでもない。しまった。
まあでも、確率的にはどこで修復工事にぶち当たってもおかしくないものだろうから、
これは素直に次回への借りということで納得しておくことにしよう。楽しみが1個、先に延びただけさ。

  
L: 五重塔。世界最古の木造塔だそうだ。  C: 金堂。五重塔と実にいいコンビだ。
R: 大講堂は修復工事の真っ最中なのであった。周囲との違和感がすごいなー。

工事中の大講堂を抜けて上御堂を見てまわると、伽藍に戻る。そうして再び、五重塔や金堂を眺める。
奈良時代よりもさらに前、元号をつける習慣ができたよりも以前の建物が、今もこうして残っている。
1300年とちょっと前から、この場所でずっと踏ん張り続けているのである。純粋に、呆れてしまう。
こういう歴史がすぐ隣にある生活って、もう考え方のベースの部分が違ってくるんだろうな、と思う。
ずっと昔にあったこと、そしてその昔を近くに感じられる人たちのこと、いろいろ考えて過ごす。

 う~ん、エンタシス!

西院伽藍を出ると、周辺にあるさまざまな建物を見てまわる。
西側には三経院、その奥の小高い丘の上には西円堂がある。三経院は唐招提寺の礼堂にどこか似ている。
そして西円堂からは五重塔・金堂の名コンビと斑鳩の里、奈良の山々をのんびり眺めることができる。
あらためてじっくり見てみると、奈良は山に囲まれている。でもすごくなだらかで、とても穏やかな山々だ。
適度に守られているという感触がする。そのせいか、奈良盆地では時間がゆっくりと流れているように思える。
元の高さまで戻ると、西院伽藍の東側へと移動。三経院によく似た東室(ひがしむろ)があり、中をちょっと参拝。
木造の古びた床を踏んで風を感じる心地よさがたまらない。やはりもともと僧房だったようだ。
さらに東には綱封蔵。「双倉」といって、2つの蔵を屋根でつないだ形をしている。大胆でかっこいい。

  
L: 三経院。  C: こちらは東室。三経院とそっくり。  R: 綱封蔵。真ん中にドカンと穴が開いた形になっているのだ。

綱封蔵の手前に通路から奥に進むと大宝蔵院に入る。法隆寺の貴重な文化財がたっぷり展示されている。
あまりにも有名な玉虫厨子のほか、飛鳥時代や奈良時代などのかなり古い時期の仏像などが並んでいた。
さすがに作品としては素朴で、僕の好きな鎌倉期の写実的な方向性とはまったく異なっている。
しかしそれだけに信仰への純粋なベクトルが感じられて、なんだかほのぼのとした気分になってしまった。
当時の人々が大切に扱って拝んでいた仏像が、1000年以上経ってもしっかりと残っている。
それを眺めるわれわれは、何が変わって何が変わっていないのか。そういうことを考えだすとキリがない。

外に出ると、さらに東へ進んで東大門をくぐり、東院伽藍へ。もともと聖徳太子一族が住んでいた場所だという。
ここはなんといっても夢殿だ。聖徳太子を供養するための八角形のお堂だが、外から内側を覗き込みながら進み、
そのままぐるっとまわって見ていくようになっているのが独特で面白い。
東院伽藍のすぐ脇には国宝の鐘楼があるのだが、あまりに地味というか違和感なく建っているためか、
通りがかりのおっさんが特に気にすることなくバシバシ叩いて去っていった。それ、国宝だってば!

  
L: 東大門。ここを抜けると東院伽藍だ。東院伽藍は正式には上宮王院というらしい。聖徳太子の斑鳩宮跡。
C: 夢殿。奈良時代に建てられた八角円堂で、回廊に囲まれている。北には絵殿・舎利殿、南には礼堂がある。
R: 東院伽藍のすぐ脇にある鐘楼。中には奈良時代の梵鐘があり、法要の際にたたかれるそうだ。

レベルの高い作品が並ぶ美術館を訪れると、エネルギーを吸い取られてヘロヘロになってしまうことがある。
法隆寺でもそうなるんじゃないかと思って密かに気合を入れてあちこち見てまわったのだが、
実際に歩きまわってみたら、まったく疲れることなどなかった。むしろいい建物を見るたびに癒された気分だ。
確かにとんでもない密度で文化財が配置されているのだが、そのどれもがあるべき位置に収まっており、
観光客(拝観者)は少しも違和感をおぼえることなく、素直に法隆寺の空間を味わうことができるのである。
唐招提寺もそうだったけど、かつての価値観を肌で体感できるというのは、とてもすばらしいことだ。
そしてこの法隆寺は、それが可能な面積が非常に広い。あらためてその偉大さを実感するのであった。

法隆寺から駅までの帰りは、急激に天気が悪化して、また雪に降られた。
しかも日が照っているのに雪がチラつくという「天気雪」。こんなのは人生で初めてだ。
雨のち曇りのち晴れのち曇りのち晴れ、そして雨、さらに雪。そうかと思えばすぐ晴れて、最後は天気雪。
今日一日だけでありとあらゆる天気を体験してしまったのだ。もうめちゃくちゃだとしか言いようがない。
振り返ると、遠くに見える法隆寺の上空に暗い色をした雲が乗っかっていて、かなりの荒れ模様である。
ギリギリのタイミングで出発できたんだな、と思いつつ、吹き付ける雪を払い除けながら法隆寺駅に到着。
奈良駅へと向かう電車に揺られながら非常に濃かった今日一日を思い返していたら、笑いが込み上げてきた。


2010.3.28 (Sun.)

宿を出ると、京都駅へと歩く。どこまでも奥の深い街・京都をたった2日で切り上げるというのは、
なんというか後ろめたさに近い感じの名残惜しさがある。とはいえ、贅沢を言い出したらキリがないのだ。
京都はまだこの先、何度もじっくり味わう機会があるだろう。そう自分に言い聞かせて納得するしかない。
さて本日の予定だが、京都駅からJR奈良線で南下し、最終的には奈良に入る。
しかし途中で面白そうな場所がいくつかあるので、時間の許すかぎり寄り道をしてみるのである。
まずは伏見稲荷。そして黄檗宗の萬福寺にも行ってみる。もちろん宇治も忘れてはいけない。
できれば午後の早いうちに奈良入りしたいのだが、正直どうなるかわからない。
今日も毎度おなじみの、時間との戦いに明け暮れることになるのだ。

上述のように最初の目的地は伏見稲荷大社である。あまり早く着きすぎてもつまらないのだが、
伏見稲荷は境内がオープンになっていていつでも好きな時間に中に入ることができるので、
7時半より少し前くらいに到着するように動くことにする。京都駅の中では端っこにある奈良線のホームには、
テニスの大会があるようで、テニスラケットのバッグを持った中学生くらいの子どもたちが多くいた。
顧問とおぼしき大人の話をなんとなしに聞いていると、けっこうレベルの高い大会のようである。
ま、オレはサッカー部の顧問だし関係ないしーと思って窓の外を眺めているうちに電車は動きだす。

伏見稲荷の最寄駅はズバリ、稲荷駅という。改札を抜けて10歩も行けば、右手に鳥居がお出迎え。
ここまで近いと拍子抜けしてしまう。まあでもそれはそれで非常に便利なことなのだ。気を取り直して参道を進む。
ゆったり広々とした参道だが、たまに車が来るので歩行者は脇の歩道を歩かないといけない。少々残念。

ゆるかな坂を上っていくと、1589(天正17)年に豊臣秀吉が造営したという楼門にぶつかる。
稲荷らしく狛犬の代わりに狐が両脇をかためている。色づかいもなかなか派手である。
さらに進むと拝殿があり、その奥に本殿。やはり色が派手だが、それほどどぎつい感触はない。
朝早くから外国人観光客がちらほらいる中、お賽銭を入れてお参り。

  
L: 伏見稲荷大社・参道。駅を出て北に10歩ほどでこの光景。向かいはコンビニで妙に利便性がいい名所である。
C: 楼門。稲荷だけあり、朱色が目立つ色づかいだ。  R: 拝殿。この奥に本殿があるが、妙に窮屈な形だった。

伏見稲荷といえばなんといっても千本鳥居である。本殿の先、東南の方へと石段を上っていくと、
巨大な鳥居が何本も並ぶ一角に出る。ドミノ倒しをしようとしても倒れないだろうと思ってしまうほど間隔が狭い。
その大きな鳥居をくぐっていくと、今度はそれほど大きくない石造りの鳥居が現れる。
そしてその先は二手に分かれていて、どちらを行っても無数の朱色の鳥居のトンネルが続いているのである。
興奮気味の外国人観光客が記念撮影をしていて、それが済むのを待ってからトンネルをくぐって進んでいく。

  
L: 斎場の手前にある石段を上ったところに巨大な鳥居が並んでいる。それぞれの間隔は非常に狭い。
C: 大型鳥居地帯を抜けると二手に分かれた小型鳥居地帯に入る。いわゆる「千本鳥居」の代表的空間。
R: 千本鳥居の中を行く。朱色に染まった世界をくぐっていくのはかなり奇妙な体験。なんだか異次元っぽい感じ。

千本鳥居は思っていたほど長い距離ではなかった。意外とあっさり奥の院に出る。
奥の院の面白いところは、絵馬の代わりに狐の札が掲げられている点。好きに顔を描けるようになっていて、
さまざまな表情の狐たちが願いごととともに奥の院を彩っていた。ユーモラスでとても面白い。
本来ならさらに先へと進んで稲荷山をぐるっと一周すべきなのだが、今日も時間に余裕のない旅なのだ。
さっきとは違う方の千本鳥居をくぐって本殿方面へと戻り、そのまま参道を下って伏見稲荷をあとにする。

  
L: 伏見稲荷・奥の院。絵馬の代わりの狐たちがとても個性的な表情をみせている。いい工夫である。
C: 参道の脇にある仮社務所。やたらと妙な造形の建築だったので思わず撮影してしまった。なかなかよろしい。
R: 稲荷駅のホーム。屋根を支える柱に注目。しっかりと鳥居を意識したデザインになっているのだ!

次は黄檗宗の萬福寺だ。最寄駅はその名も、黄檗駅という。まあつまり、黄檗という地名ができあがっているのだ。
黄檗宗は臨済宗・曹洞宗とともに日本三禅宗に数えられている仏教の宗派である。
日本において黄檗宗の歴史を開いたのは隠元。インゲンマメにその名を残す、中国から来た僧侶である。
この隠元が江戸幕府から宇治の土地を与えられ、建てられた寺が萬福寺なのだ。
そのような経緯があるため、黄檗宗は今もそこかしこに中国風の特徴を持っており、訪れてみると実に面白い。
以前に品川めぐりの下見でその事実を知ったので(→2010.1.7)、今回、黄檗宗の親玉である萬福寺に来たのだ。

黄檗駅で電車を降り、住宅街を抜けると程なくして萬福寺に到着する。
重い荷物を背負っているのでコインロッカーを探したのだが駅周辺にはなく、仕方なくそのまま歩いた。
それはつまり、それだけ観光地化されていないということでもある。萬福寺は入口である総門からすでに、
落ち着いた雰囲気と中国風の独特な迫力が漂い出ていた。さっそく中に入ってみる。
総門を抜けるとクランク状に石畳の通路ができており、その先に三門がある。かなり立派だ。
手前にある石柱には「不許葷酒入山門(葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず)」と彫られている。
(葷とはニンニクやニラなどの臭いの強い野菜のこと。自分と他人の修行の妨げになる、と考えられた。)
萬福寺も早い時間に訪れても困らない仕組みになっている。三門を抜けたところに係の人がいなければ、
奥の事務所で拝観料を払えばよいのだ。こういうのは非常にありがたい。

  
L: 萬福寺・総門。1661(寛文元)年の建立で、いかにも中国風。萬福寺は大半の建物が重要文化財になっている。
C: 三門。なかなか規模が大きい。  R: 萬福寺松隠堂。卍字くずしなど、黄檗宗らしいデザインがあちこちに見られる。

三門をくぐった左手・北側にある松隠堂からまずは歩きまわってみる。
大まかな部分はふつうのお寺と変わらないが、細部のデザインはまったくと言っていいほど異なっている。
柱には何やら漢字の文を書いた札が貼りつけられ、卍字や桃などをモチーフにした飾りが施されている。
中国の明代末期の様式だそうだが、ふだん慣れきっているものと異なる違和感をいちいちおぼえて面白い。

  
L: 松隠堂の内部。桃の飾りが印象的だが、細部に至るまで中国式で違和感をおぼえること必至。同じ仏教なのにね。
C: 天王殿の布袋像。弥勒菩薩の化身だというが、そんな話は初耳だ。昨日の広隆寺の弥勒菩薩とはえらい違いだ。
R: いかにも黄檗宗らしい開版(かいぱん)。木魚の原型とも言われる。これを叩いて食事や法要の時間を知らせる。

天王殿を抜けると中庭があって、その奥に大雄宝殿がある。一般的な寺における本堂にあたる建物だそうだ。
この天王殿から大雄宝殿に至る回廊は重要文化財のオンパレードで、南には鐘楼・伽藍堂(関羽を祀る)・斎堂、
北には鼓楼・祖師堂・禅堂と見ごたえのある建物が続く。きれいに左右対称になっているのも印象的である。
大雄宝殿の奥には法堂。先ほどは木々が植えられた中庭だったが、大雄宝殿と法堂の間は何も遮るものがない。
バランスを重視して独特の清潔感を持つ境内となっており、あらためて黄檗宗の面白さを感じるのだった。

  
L: 天王殿の辺りから眺める大雄宝殿。この左右の回廊は重要文化財が目白押しとなっているのだ。
C: 売茶堂へと至る門。いかにも中国風なデザインだ。  R: 法堂。卍字くずしの高欄が見事である。

 萬福寺の回廊。独特の落ち着きがある空間となっている。

訳のわかっていない観光客が訪れるような場所ではないためか、萬福寺は妙に落ち着きを感じさせる場所だ。
ふだん慣れている和風のお寺とは一味も二味も違う要素があちこちにあり、それを確かめるだけでも面白い。
朝の静かで穏やかな空気に包まれた萬福寺は、僕の心の中に非常に強い印象を残したのだった。

当初考えていたよりもテンポよく見学ができているので、その分だけ早く宇治駅に着くことができた。
とはいえ宇治上神社に平等院(と市役所)と見るべきものが多いので、ここで時間をロスすることも考えられる。
少し緊張感を持って改札を抜け、コインロッカーに荷物を預ける。そして気合を入れて駅の外に出た。
時刻は9時半の少し前。観光案内所でイラストの地図をもらうと、それを片手にいざ出発。

JRの宇治駅から東へと進んでいく。すぐに宇治橋が見えてくる。写真などで見る欄干は木製なのだが、
しっかりとアスファルトで舗装されており、車道部分は桂川の渡月橋と同じぐらいの頑丈さとなっている。
重要な道路だからしょうがないのだが、やはりもうちょっと風情が欲しいなあ、なんて思いながら渡る。
そして川面にふと視線を落としたとき、「おや?」と首を傾げた。川の表面の紋様が、なんだか独特なのだ。
いや、ほかの川も同じようになっているかもしれないが、不思議と宇治川は心が川面に惹きつけられるのである。
流れはけっこう速い。眺めていて、ああこれは古い絵巻物に出てくる渦の形そのものだ、と思い出した。
さすがは宇治。平成で21世紀の今になっても、川はきちんと平安時代と同じ渦を描いて流れているのだ。
嘘だと思う人は宇治に行って宇治川の川面を眺めてみてほしい。確かにブロンズ色で平安絵巻の渦を描いて、
今もするすると流れているから。この事実に触れて、あらためて「土地の威力」をしっかり感じた気分である。
宇治橋を渡ると川沿いの道をしばらく歩く。宇治といえばお茶で、お茶関連の店が並んでいる。自販機もある。
細かい部分では現代風に譲ったところがあるにしても、宇治はその根本的なものを現代でもしっかり保っている。

宇治川沿いに南下し、案内に従って左折したら、驚くほどあっさりと宇治神社に着いてしまった。
世界遺産に登録されているのは宇治上神社だけだが、宇治神社と宇治上神社は対の関係にあるので、
きちんと宇治神社にもお参りをしておくのである。どこか歴史の古さを感じさせる神社だった。

  
L: なんとなく平安時代の絵巻物を思わせる宇治川の流れ。そう思いませんか?
C: 宇治茶の自動販売機。このほか、観光案内所にもお茶関連の商品がたくさん並んでいた。
R: 宇治神社。宇治上神社とは妙に差がついてしまった感じでちょっとかわいそうな気もする。

宇治神社の脇から坂を上ってすぐにあるのが宇治上神社。文字どおりそのまんまの名前の神社だなあ、と思う。
世界遺産ということでそれなりに規模の大きな境内を予測していたのだが、実際はその正反対の姿だった。
よくユネスコが存在に気がついたなあというくらいに小さい神社で、どこかかわいらしい印象を受けるほど。
この神社最大のポイントは、本殿が1060年頃築ということで、現存最古の神社建築であること。
なお、外から見えるのは覆屋である。中には本殿が3つ並んでおり、それを覗き込むことは可能。
本殿もやはりかわいらしい印象を受けるが、この覆屋じたいもなかなか面白い存在であると思う。

  
L: 宇治上神社・境内への入口。ちょっとした住宅レベルと言ってもいいほどの小規模さである。というか住宅っぽい。
C: 拝殿。やはりこちらも住宅っぽい。鎌倉時代前期の宇治離宮を移築したものだそうだ。……って住宅じゃん!
R: 本殿(の覆屋)。格子の中には本殿が3つ並んでいる。これって覆屋も含めて国宝なのかね? よくわからん。

宇治上神社はまったく神社らしくない。まるで人の家をそのまま強引に神社に改造したような印象である。
それもかなり趣味の良いというか、上品な住宅をもとにしている感触がするので、非常に穏やかで心地よい場所だ。
デートでええ雰囲気ぶっこくには最適な場所なんじゃないすかね。

坂を下って再び宇治川のほとりに出る。たもとに源氏物語・宇治十帖の像がある朝霧橋を渡って中州へ。
宇治川の中州には「中ノ島」という名前がついており(正確には上流側が「塔ノ島」、下流側が「橘島」)、
散歩する人がちらほらいた。ここから平等院への参道に出るのが橘橋。それにしても宇治川の流れは速い。

 さっき渡った宇治橋を眺める。川面は平安時代の紋様を描いて流れる。

宇治川の左岸に戻ると、いよいよ平等院へと行ってみる。10円玉でおなじみの、平等院鳳凰堂を見るのだ。
混雑というほどではないものの、観光客はけっこう多い。モタモタしている時間はないので早足で受付へ急ぐ。
拝観料を納めて中に入ると、別途300円で内部拝観ができるという。これにはけっこう心が動いたのだが、
待ち時間が50分ということであきらめた。余裕があれば、のんびり外観を眺めておいてから中に入りたかった。

平等院鳳凰堂はご存知のとおり藤原道長の息子・頼通が建てた。
もともとは道長の別荘地で、当時の仏教の末法思想を受けて、頼通が寺院として建設してできたものである。
そのため、鳳凰堂のある一角は浄土庭園となっている(参考までに毛越寺の浄土庭園はこちら →2008.9.12)。
受付から歩いていくと、阿字池を挟んで建つ鳳凰堂が目に入る。最初は側面からだ。
1053(天喜元)年に建立されたという鳳凰堂は、その歴史を大いに感じさせる落ち着いた色をしている。
柱によって持ち上げられた左右の翼廊は、明らかに機能性を欠いている。が、だからこそ美しい。
鳳凰堂の正面に立ち向き合ってみると、ため息が出るほどに美しい。寺院建築としては中堂だけで足るだろう。
しかしその左右に独創性あふれる装飾が絶妙なバランス・スケールで取り付けられることで、
かけがえのない存在感が生み出されているのだ。いったいどうしたらこんなデザインを思いつけるというのだ?
言葉もなく、ただただ見とれてしまった。時間さえ許せば、きっと何時間でも延々と眺めていられる。
それほどに魅了されてしまった。僕にとって、この建物が実現した美は完全に別格だった。そうとしか言えない。

  
L: 平等院鳳凰堂。名建築ということは常識として知っていたのだが、実物の美しさは想像をはるかに超えていた。
C: 正面より撮影。ほかの観光客が視界に入っちゃうのでギリギリに近づいて撮影したら両端が切れる。悔しい。
R: 翼廊をクローズアップ。スケール的に人間が中に入ることは不可能だと思うのだが、中堂とのバランスは絶妙だ。


無理にパノラマ撮影したので左右の翼廊のバランスがおかしくて非常に格好の悪い写真。でも載せちゃう。

鳳凰堂をずーっと眺めていてもキリがないので、後ろ髪を引かれる思いになりながら移動する。
平等院は順路どおりに行くと、鳳翔館という博物館施設の中に入る。ここに各種の国宝が展示されているのだ。
鳳凰堂の屋根にあった金銅鳳凰(今ついているのは複製)や、かつて60円切手に描かれた梵鐘などがある。
個人的に最も面白かったのは、木造雲中供養菩薩像だ。阿弥陀如来とともに雲に乗ってやってくる菩薩の像で、
さまざまな楽器を持っていたり舞ったり祈ったりと、非常にヴァリエーションが豊かなのだ。
これまた、見ていてまったく飽きない。次に平等院を訪れるときにはじっくりと時間をかけよう、と思うのだった。

平等院を出ると観光客の流れとはまったく無関係の方向へと歩きだす。最後に一発、市役所を見ておくのだ。
困ったことに宇治市役所は宇治上神社や平等院のある辺りからは少し離れた位置にあるのだが、
ここまでの経験からそんなに距離はないだろうと判断し、当初の予定どおりに歩いてそこまで行ってみる。
市役所へ至るまでの道は典型的な地方都市の住宅街で、たまに農地が挟まっていて茶が育っている。
こういう道を歩いていると自分が観光で訪れていることが信じられないという気持ち、
何もわざわざ遠くに来て地元住民と同じようなことをしなくてもいいのに、という気持ちにならないでもない。
でも、逆にそれが、自分の中で日本というものの姿を一般化していく作業として捉えられるのも確かで、
そう考えると日本のあちこちで地元住民気分を味わうのは、特別な経験にも思えるのである。

そんな訳のわからんことをこねくり回すように考えているうちに、巨大な宇治市役所が目の前に現れた。
いかにも広い道路を引くための再開発のついでに建てました、という印象を受ける威容である。
(市役所をつくるための口実として、再開発をして広い道路を引きました、というパターンもある。)
南北両方の方角から撮影してみたが、さして面白くもなかったのでさっさと駅まで戻る。

 
L: 宇治市役所を北側より眺める。  R: 宇治市役所を南側より眺める。

宇治の知名度のわりには駅前にこれといった飲食店もなく、仕方なくコンビニで食料を調達する。
少し慌てながら腹ごしらえを済ませたところで、ちょうど電車がホームにやってきた。
京都府産の抹茶を使用しているということで宇治に置いてあったのだろう白バラ抹茶オ・レを飲みつつ、
車窓の景色を堪能して過ごすのだった(白バラ牛乳は鳥取県の大山乳業農業協同組合の製品)。
電車は果てしない野っ原のターミナル・木津駅をさらに南下して奈良を目指す。

……そしてなんと、正午前に奈良に到着することができた。これは当初の予定から考えると快挙である。
明日は明日で奈良観光のプランがすでにしっかりとできあがっている状態なので、
今日のうちにあちこち訪れる余裕があるというのはすばらしいことなのだ。
こりゃツイてるぜ、と思って改札を抜けると、まっすぐにコインロッカーへ。しかし、すべてふさがっている。
気を取り直して荷物を背負ったまま、駅の観光案内所で教えてもらったレンタサイクルの事務所へ行く。
しかしここもすでにすべて貸し出してしまったとのこと。奈良に対してイヤな気分が漂いはじめる。

こうなったら積極的に動いて少しでも状況を良くしていくしかない。奈良駅のすぐ近くには旧奈良駅舎がある。
4年前には整備が終わっていなかったが(→2006.4.8)、今は改装されて観光案内所になっている。
(4年前に訪れたときには知らなかったが、高架化のため旧奈良駅舎が取り壊される話が出たのが1998年。
 それに対して熱心な保存運動が展開され、2001年には主要部分の保存が決定していた。
 曳家工法で現在地に移動したのが2004年。つまり4年前にはすでに保存・移動が完了した状態だったのだ。
 で、昨年、観光案内所としてオープンしたのだ。いやー、無知とは恥ずかしいものだとあらためて思う。)
さっそくそこに飛び込んで、ほかのコインロッカーとほかのレンタサイクルについて問い合わせた。
すると、コインロッカーは駅にあるだけがすべてだが、近鉄奈良駅近くの食堂で荷物を預かってくれるとのこと。
レンタサイクルも近鉄奈良駅近くの奥まったところにもうひとつあって、そちらはたぶん大丈夫という話を聞く。
礼を言って観光案内所を出ると、近鉄奈良駅方面へと早足で歩きだす。

 
L: なんだかんだで人気のせんとくん。奈良のあちこちにいたのだが、拒否反応はまったくなかった。よかったねえ。
R: 旧奈良駅舎を改装した観光案内所。1934(昭和9)年竣工で、設計は大阪鉄道局工務課。気合十分の建物だ。

まずはレンタサイクルだ。観光案内所でもらった地図に位置を書き込んでもらったので、それを参考に歩く。
まだスケール感に慣れてなかったせいで少しだけ迷ってしまったが、無事に見つけて自転車を借りることができた。
京都では非常に快調なMTBだったが、今回はママチャリである。ま、借りられたのだから文句は言わない。
荷物を預かってもらおうか迷ったのだが、よけいな出費をケチるべく、そのまま宿まで行ってしまうことにした。
予約しておいた奈良の宿はJRの奈良駅よりも近鉄の新大宮駅に近く、歩きだとそこそこ距離がある。
でも自転車だとそんなに苦にならない。そんなわけでサラッと走って荷物だけ先に預け、再び街へと繰り出す。

恒例の役所めぐりを早いうちに済ませてしまおうと、まずは宿から近い奈良市役所から行ってみることにした。
奈良市役所は1977年竣工。言われてみれば確かにこの時期らしい印象のある建物だ。
施工した淺沼組の新人採用向けHPには当時の奈良市庁舎の写真があるのだが(⇒こちら)、
周囲はまだ開発途中で、白くてマッシヴな奈良市役所が空き地の中にドデンと鎮座している様子は迫力がある。
今はすっかり国道沿いに半ロードサイド型の開発が仕上がっており(郊外が奈良市街に取り込まれた感じ)、
奈良市役所はその中に違和感なく収まっている。郊外型庁舎の早い時期の例と考えられそうだ。

  
L: 奈良市役所。見た目はそれほどでもないが、けっこう大きい建物だ。1970年代の典型的な市庁舎の例、と言えそう。
C: 議会のある西棟。  R: 側面(東棟)を眺める。こうして見ると、奈良市役所の大きさが実感できる。

  
L: 中央棟と北棟に挟まれた中庭。  C: 敷地の北東側から眺めた奈良市役所。駐車場も広い。
R: 左側のベージュ色が北棟。連絡通路を挟んで右側にある白いのが中央棟。

次は当然、奈良県庁である。奈良県庁は奈良公園の脇、観光名所がひしめく一等地といえる場所に位置している。
モダニズムの庁舎建築として非常に有名な存在であり、調べてみるとけっこうファンの多い建物である。
1965年竣工で、設計は片山光生(建設省近畿地方建設局)。国立競技場の設計者でもある人だ。
大規模な回廊を持っているのは寺院の伽藍配置をモデルにしたからだという。
1997年に東棟、1999年に主棟と議会棟をリニューアルしており、それが効いて外見が非常に美しい。

  
L: 登大路より眺める奈良県庁舎。まずは回廊のピロティ部分を抜けて中へと入ることになる。
C: モダン全開のファサード。てっぺんのパラボラアンテナを収納している塔のデザインが非常に特徴的だ。
R: 中を覗き込んでみてもやっぱりモダン。ちなみに画面右端にある茶色と白の物体はせんとくんの角です。

  
L: 議会棟。どうでもいいけどモダニズム建築の議会って必ずV字の屋根になっている気がする(→2009.1.9)。
C: 主棟のエントランスから上を見上げたところ。どうやったらこんな工夫を思いつけるのかわからん。
R: 裏手から眺めた奈良県庁。デザイン的には正面とまったく一緒である。

奈良県庁の屋上は広場になっており、奈良公園を眺めることができるようになっているそうだ。
しかしながら3月中の土日は開放しないとのことで、残念ながら中には入れず。これは悔しい。
また機会をみて奈良県庁を訪れ、さらに深く味わってみたいものである。

役所の撮影が終わると、あとは自転車の勢いで奈良公園付近にある観光名所を徹底的につぶすことにした。
前に奈良に来たときにほとんどすでに訪れているのだが(→2006.4.8)、今回は復習のつもりであちこちまわってみる。
まずは奈良国立博物館だ。京都に続いてこちらの国立博物館も休館中だったので、周りを撮影してまわる。

  
L: 奈良国立博物館・西入口。本来の入口はおそらくこちら。片山東熊の設計により1894(明治27)年に竣工した。
C: こちらが東入口で、前回訪れたときにはこちらから撮影した。現在はこちらから入るのがふつう。
R: 手前が西新館で、奥が東新館。本来は池に水があるはずなのだが、今は絵でごまかしていてものすごく変だ。

奈良県新公会堂方面へ向けて気ままに自転車を走らせる。途中でいかにも奈良公園らしい広々とした芝生に出る。
広大な区域が公園としてそのまま残されており、そこを人間も鹿も自由に行き来して思い思いに過ごしている。
なんとも贅沢なものだと思う。歴史が絶対的な事実として幅を利かせている街はほかにもあるが、
その歴史があまりに古すぎて、歴史の跡地には自由が残ったのだ。でもそれは正しい措置だと思うのだ。
ほかの用途が発生してしまえば、いくら歴史を叫んだところで目の前の現実にかき消されてしまう。
かつて存在したことを伝えるには、何もないままにしておくことが最善の策なのだ。奈良公園の偉大さはその点にある。

 
L: 奈良公園。この空白の中にこそ歴史が息づいているのだ。後世の人間が想像力でそれを拾い上げる。
R: 奈良県新公会堂。昔の奈良の建築をテカテカした現代の素材で再現した感じの建物。とにかく幅広。

そうやってあれこれ考えながらウロウロしているうちに春日大社の境内に入ってしまったので、お参りしておく。
今回の旅行では春日大社のことはまったくもってノーマークというか重要視をしていなかったのだが、
いざ訪れてみると呆れるほど重要文化財があちこちに転がっていて、なかなか興味深い。
石灯籠のやたら並ぶ参道や古い建物の前では、観光客と鹿が一緒になって記念撮影をしている。
まったくもってこれは平和そのものだなあ、なんて思う。まさに絵に描いたような平和な光景である。

  
L: 春日大社の参道を行く。  C: 境内を囲む回廊の南門。春日大社にとって正面の楼門である。
R: 幣殿。春日大社に拝殿はなく、この幣殿で参拝することになる。実に珍しい。

 
L: 春日大社・中門。この奥に4つの本殿があるのだ。本殿に参拝するためには特別拝観料が必要。
R: 車舎。このようにあちこちにある一見なんでもない木造の小屋が重要文化財なんだからかなわない。

いつまでも奈良公園の中にいてもつまらないので、ちょっと外に出てみる。
世界遺産に登録されたが僕はまだ行ったことのない、元興寺を見てみることにした。
元興寺は奈良時代にはかなり大きな規模を持っており、今の奈良町の大部分は元興寺の境内だったそうだ。
しかしその後、衰退・分裂して荒れに荒れ、ひどい状態が長く続いていた。
現在は国宝となっている本堂も、1950年頃までは「化け物が出る」と言われるほどのありさまだったという。

実際に訪れてみると、ほかの著名な観光地とはちがい、小ぢんまりとしてやや地味な雰囲気である。
東門を抜けて中に入る。 靴を脱いで極楽堂に上がってみると、風の心地よい木造建築特有の清々しさを感じる。
これはなかなかいい。そう思いながら奥へ進むと禅室があり、向かいには無数の石仏が並んでいるのが見える。
石仏が並ぶ光景というのはどこか陰惨さを感じさせるものなのだが(→2010.1.72010.1.23)、
この元興寺についてはそれがない。奈良というあまりにも古い歴史を持つ街にあるためか、
カラリと乾いた感触がするのだ。「赦す」というイメージ。恨みつらみが消えた後の、穏やかな空気が流れている。
かつて元興寺はさまざまな苦しみに巻き込まれたが、今はただ静かに、訪れる人を迎えている。
そして、この先もずっとそうだろう。そういう安堵感が全体を包んでいて、不思議と居心地のいい場所だった。

  
L: 元興寺の東門。もとは東大寺の門だったそうだ。  C: 元興寺の本堂である極楽堂。妙に落ち着くいい建物。
R: 禅室と無数の石仏たち。真ん中には桜が咲いている。穏やかな春の日に映える場所である。

 極楽堂の脇には一輪の椿が飾られていた。いいセンスしているなあ。

境内の南側には宝物殿がある。ちょっと薄暗い博物館的な建物で、それほど大きくはない。
中に入るとまず目に飛び込んでくるのが、国宝の五重小塔だ。国分寺の塔の1/10スケール雛型という説があるが、
実際の建築物としての塔とまったく同じようにつくられており、工芸品ではなく建造物として国宝に指定されている。
もう、ため息が出てしまうほど精巧にできていて、これだけで僕はもう十分満足してしまった。
あとはいくつか像が置いてあったり日本最古の瓦についての説明があったり。
でも塔のインパクトがあまりに圧倒的で、正直ほかの展示はよく覚えていませんスイマセン。

元興寺を出ると、周辺の「奈良町」と呼ばれる区域を散歩してみる。
本屋で奈良の観光ガイドを覗いてみると、この「奈良町」についての紹介が妙に目につくのだ。
なんでも古い街並みが残っているそうで、そういう場所ばっかり行っている僕としては当然探検してみるしかない。
それで鼻息荒くあちこち歩いてみたのだが、どうもイマイチそれっぽい場所が見つからないのである。
観光客がそれなりにいて、古い建物がそれなりに点在しているエリアは見つかったのだが、
そんなにギャーギャー騒ぐほどのレベルではない。でも調べるとどうやらこれがその奈良町のようなのだ。
ぜんぜん大したことないじゃないか、と大いに肩透かしを食った気分になって奈良町を後にする。
ちょっと狭いアーケードの「もちいどのセンター街(「もちいどの」は「餅飯殿」と書く)」を北へと歩いていくと、
奈良駅から歩行者にとっての東西のメインストリートである三条通に出る。
そこで軽く西に寄ったところにまたアーケードの商店街がある。今度は広めの「東向(ひがしむき)商店街」だ。
北端には近鉄奈良駅があるので、奈良でいちばん勢いのある商店街となっている。人混みが実に激しい。

  
L: 奈良町。まったく大したことがなかった。  C: もちいどのセンター街を行く。せんとくんとまんとくんの旗が印象的。
R: 東向商店街。奈良という場所は歴史的な空間が多すぎて、都市の賑わいがここだけに集中している感じがする。

登大路に抜けると、奈良公園に戻って観光を続ける。やはり奈良に来たからには興福寺を無視することはできない。
興福寺はその広大な伽藍の修復が仕上がっていないことで、かえって独特の魅力を持っていると僕は思う。
伽藍の構築とは仏教の世界観の構築そのものであると思うのだが、今の興福寺にはそういう殻がないので、
本来閉じるべき世界に穴が開いて世俗の要素がそこになだれ込んできて訳わからなくなっているのが面白い。
興福寺はアジア的にかなり理想的なオープンスペースじゃないか、と本気で思っているのである。

  
L: 興福寺は鎌倉幕府も室町幕府も大和国に守護を置けないほどの勢いを持ったが、廃仏毀釈で現在の姿に変わり果てた。
C: 東金堂。1415(応永22)年の再建。伽藍が崩壊している興福寺の中で、最も存在感のある建物。
R: 五重塔。こちらは1426(応永33)年頃の再建。こんな見事な塔をタダで近づき放題見放題ってのはいいもんだ。

  
L: 中金堂は現在も創建当初の姿を再現した建設工事が進められている。壊すのは簡単だがつくるのは大変。
C: やたらと観光客の多い南円堂。五重塔の向かいに位置しており、この動線は今の興福寺で最も賑やかな場所だ。
R: 北円堂。1208(承元2)年頃の再建で、現存する興福寺の建築では最も古いものだそうだ。

当然、国宝館の中にも入る。建物はリニューアルが行われていて、前とだいぶ雰囲気が変わった。
薄暗くって博物館的(つまりもう止まってしまった生命の匂いがしたってこと)だった以前とは異なり、
今の国宝館の展示は「生きている」感じがする。照明も大幅に改善されていて、ずいぶん印象が良くなった。
やっぱり阿修羅像は大人気で、ほかの八部衆立像もいいのだが、さらにその上をいく絶対的な魅力がある。
こう言っては申し訳ないのだが、作者の特別な思い入れがどことなく感じられてしまうのだ。
(8人組のグループなのにひとりだけ人気が出ちゃって、でもそれがしょうがないや、というのに似ている感じだ。)
そしてもうひとつ僕が惹かれたのは、金剛力士立像である。阿形も吽形も腕が欠けてしまっているのだが、
誇張に満ちているくせにリアルな筋肉の表現、風を受けて流れる布のシワ、真剣ながらもユーモアのある表情、
もうどれをとっても完璧なのである。信仰心のない僕はすまして立っている仏像には何も感じるものがないのだが、
西洋のルネサンスに匹敵するような鎌倉期のリアリズムにはまんまと物語性を感じさせられてしまうのである。
鎌倉期の立体造形物にはそれ以前のような純粋さ、純真さはないのかもしれないが、
僕はどうしてもそっちの方が好みのようで、人の流れに流されつつ飽きるまで眺めて過ごしたのだった。

まだまだ時間的な余裕はたっぷりあるので、正倉院まで足を伸ばしてみる。
が、残念なことに正倉院は平日のみの公開となっていて、入ることができなかった。
しょうがないので覗き込める場所を見つけて目を凝らしてガマン。しかし平日だけ公開とは珍しい措置だ。
正倉院はもともと東大寺の一部なのだが、明治以降は国の管理下に置かれて現在は宮内庁が管理。
いろいろとややこしい力関係があるんだろうな、と思う。いずれきちんと見てみたいものだ。

 正倉とは倉庫のことで、つまりこれは定冠詞つきの「the 正倉院」なのだ。

4年前に訪れているので今回は中に入るつもりはなかったのだが、なんせ時間に余裕があるので、
東大寺の大仏殿にも入ることにした。まあ、奈良に来たからには訪れないとひどく間抜けな気もするし、
訪れておいて損をする場所ではないのだから、素直に大仏を拝観することにした。

  
L: 東大寺大仏殿。正式名は東大寺金堂だそうだ。  C: 角度を変えて正面より撮影。でかいなあ。
R: 正面入口付近より見上げる。遠景で見るとふつうの寺院建築だけど、こうして見るとやっぱりスケールが違う。

 びゅく仙よ、悔い改めなさい。

東大寺の南大門だって見ちゃう。金網が掛けられて、せっかくの仁王像が光の加減で見づらい。
それでもいちおうデジカメで撮影しておく。あれこれ色調を補正してみたら、意外と見られる画像になった。

  
L: 東大寺南大門。よけいな装飾がなくって、それがかえってかっこいい。
C: 阿形。  R: 吽形。金剛力士像は高さ8.4m。こういうものをこのクオリティでつくっちゃうんだもんなあ。

重いママチャリを途中に置いて、坂を上って二月堂・三月堂のある区域(上院というらしい)にも行ってみた。
あらためて東大寺の広さに驚きを覚えつつ、裏手の方から上っていく。
ちょうど二月堂が正面に望めるルートで、古都・奈良の雰囲気を存分に味わうことができた。

  
L: サラサモクレン(だと思う)が美しく咲いていた。周りの土塀も背景の二月堂も非常にいい感じ。春の奈良ですな。
C: 三月堂こと法華堂。撮影している間ずっと、2頭の鹿がまるで人間のカップルのようにイチャイチャしてやがった。
R: こちらは四月堂こと三昧堂。周りが強烈な三月堂と二月堂なので目立たないが、立派な重要文化財である。

  
L: 夕日を浴びる二月堂。旧暦2月にお水取り(修二会、しゅにえ)が行われるのでこの名前がついた。本尊は絶対秘仏だと。
C: 二月堂の南面(石段を上がったところ)。お水取りに特化している建物だそうだが、奈良が一望できていい場所。
R: のんびりと渡る風を感じつつ景色を眺める。非常に気持ちがいい。いつまで経っても飽きない。

しばらくぼーっと景色を眺めて過ごす。何もせず、ただただ目の前の景色を眺めて時間が過ぎるのを味わう。
本当は二月堂から沈む夕日の写真でも撮ろうかと思っていたのだが、春分の日から一週間くらいのわりには、
なかなか太陽が沈む気配を見せない。しょうがないのであきらめて、奈良市街へと戻ることにする。

明日の行動パターンを確認するために三条通の本屋に入ってガイドブックを立ち読み。サッカー雑誌も立ち読み。
そんなふうに過ごしてから外に出たら、地面が濡れている。レンタサイクルも濡れている。なんなんだ。
どうやら突然の雨が降ったようだ。さっきまでそんな気配はなかったし、今も空は明るいままだし、
狐につままれたような気分になった。まあとりあえず、今日の予定は終わった。明日が晴れれば問題ないのだ。
気を取り直して晩飯を食いに自転車を走らせる。旅は今日で半分なのが、少しさみしい。


2010.3.27 (Sat.)

今日は朝からレンタサイクルを使って文字どおり一日中京都を走りまわるのである。
僕のように明るいうちにバシャバシャと写真を撮りまくりたい人間には、朝のタイムラグが非常に惜しく思える。
空はもう十分明るいのに、施設は9時にならないと開かない。そういう時間がもったいないのである。
それで今回、少しでも時間を有効活用するために、朝の早いうちは嵯峨野をウロウロすることにした。
個人的な好みでいえば嵯峨野は夕暮れが一番!なのだが(→2004.8.8)、まあやむをえない。
宿を出るとまずは二条駅へ。荷物を預けて背中を軽くすると、一気に西へと走りだす。

6年前には金閣をスタートして府道29号を延々と西へと歩いて嵯峨野まで行ったのだが、
今回はそれは嵯峨野・嵐山からの帰路とするのだ。山陰本線に沿って府道187号をひた走る。
走って走って花園駅前を通過。6年前にも訪れたことがある。コンビニで替えのパンツを買ったことを思い出す。
じっとりとした上りが続くが自転車は快調。辺りの看板には「太秦」の文字が現れるようになる。
まったく息を切らすことなく、気がつけば嵯峨嵐山駅を通り過ぎてオーバーランしていた。
時刻はまだ7時前。予想していたよりもはるかに早く到着してしまった。徒歩での苦労とは大違いだ。

のんびりと自転車を進め、嵯峨野の中心部へと入る。雲のほとんどない空は真っ青。すばらしい天気だ。
朝日をいっぱいに浴びた嵯峨野の風景は、穏やかながらもどこか力強く感じられる。
嵯峨野の北部からゆったり南下して嵐山に出て、9時に天龍寺に入ればいい。プランは完璧だ。
まずは化野念仏寺まで行ってみる。石畳の道に面した店は当然、営業時間前なのでさびしいが、
朝の気持ちよい空気に包まれてむしろ爽やかである。6年前にハンミョウを見かけたことを思い出す(→2004.8.8)。
夏の夕暮れと春の早朝、ふたつの嵯峨野を自分の中で比べていろいろなことを考える。

化野念仏寺だって当然ながらまだ開いていない時間である。入口の写真を撮って少しぼんやりすると、
自転車にまたがって位置エネルギーをゆっくり消費しながら南へと進んでいく。朝の嵯峨野もなかなかいい。
途中で七分咲きの枝垂桜にメジロが何羽も群がっているのが見えた。いかにも嵯峨野らしい小道で、
メジロが桜の花を突っつくたびに花びらが散り、静かに揺れながら苔の生した地面へと落ちていく。
あまりにも嵯峨野らしい、あまりにも和風の景色に、自転車から降りてしばし呆ける。
もうこれだけで、京都に来た甲斐があった。そう思わせるほどに愛おしい時間だった。

  
L: 化野念仏寺へと続く道。店が並んで嵯峨野でもかなり活気のある一角なのだが、今はまだ静かである。
C: 化野念仏寺への入口。さまざまな緑と花が辺りを包んでおり、独特な雰囲気を醸し出している。
R: 自転車を停め、枝垂桜に群がるメジロの声を聴く。これは本当に贅沢な時間だった。

6年前に嵯峨野に来たときにはタッチの差で祇王寺に入れなかったのだが、今回は早く来すぎて入れなかった。
まあ、わかっていたことではあるが、やはりちょっと切ない。ま、楽しみがまたちょっと先に延びたってことだ。
さらにのんびりと進んで落柿舎の前に立つ。振り返ると典型的な嵯峨野の風景が広がっている。
蝶がひらひらと飛んでいき、鳥が柱に止まってじっと休んでいる。「原風景」という言葉がしっくりくる場所だ。
僕は中学の修学旅行で嵯峨野を訪れ、そのときに大いにこの場所が気に入ってしまったのだが、
やっぱり何度来ても心が落ち着く。なぜかはわからないが、不思議と穏やかな気持ちになれる場所なのだ。

  
L: 祇王寺前。前回は時間が遅くて中に入れなかったが、今回は早すぎて中に入れなかった。いずれ中に入りたい。
C: 落柿舎にて。今回借りた自転車とともにパチリ。  R: 落柿舎から眺める嵯峨野の風景は不思議と心が落ち着く。

落柿舎からちょっと南に行くとトロッコ列車の嵐山駅があり、その脇の坂道を上がると竹林の中へと入る。
日当たりのよいさっきまでの風景とのコントラストがまた見事で、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで下る。
この竹林の道をずっと下っていくと嵐山に出る。嵯峨野の緑から嵐山の猛烈な俗っぽさへ、
竹林のトンネルは正反対の両者をつなぐ四次元空間のように思える。すべての対比が面白くてたまらない。

 嵯峨野から嵐山へと通じる竹林。これもまた美しい。

竹林をしばらく下っていくと、右手に天龍寺の北門が現れる。でもここからはまだ入らない。
府道29号に出るまでガマンするのだ。そうすると、俗世間の雰囲気満載の嵐山に出て落差を楽しむことができる。
今日は朝が早かったからさほどでもなかったが、昼過ぎだと修学旅行の学生でいっぱいになる。
そんな学生相手の土産物屋が原色だらけの看板や小物などを前面に押し出しており、
ゴチャゴチャグチャグチャした光景を目にしてようやく、現在に戻ってきたという気分になるのだ。

さて、少し桂川方面に南下して、天龍寺に正面から入る。時刻はちょうど9時。いいタイミングだ。
天龍寺といえば何といっても庭園である。天龍寺はかつてとんでもない広さを誇る伽藍を有していたというが、
戦乱や火災により何度も被害を受け、現在その面影はほとんどない。それだけに庭園の存在感は格別なのだ。
庭園を歩くだけだと500円。もう100円出すと方丈など建物の中に入って庭園を眺めることができる。
僕は黒光りする床板を踏みながら庭園を眺めるのが好きなので、迷わず100円をプラスして庫裏から中に入る。
まずは小方丈。さっそく畳の上に正座して庭園を眺める。曹源池が広いせいか、なんとなく漠然とした印象である。
しかし亀山を借景にしており、スケールの大きさには圧倒される。往時の天龍寺の勢いがうかがえる。
角度を変えて大方丈から庭園を眺める。ここはかつての嵐山の雰囲気をしっかり味わえる場所なんだなあと思う。
多宝殿のある北側に行ってみると、なかなか見事な枝垂桜がもうすぐ満開になろうとしていた。
そんな具合に、歴史の雰囲気を含んだ天龍寺の庭園を存分に歩きまわって過ごしたのであった。

  
L: 天龍寺の大方丈を入口(庫裏)の前から撮影。この奥が庭園になっているのだ。
C: 天龍寺の庭園。右端にチラッと写っているのは小方丈。回遊式庭園なのだが池が広くて歩くのがちょっと大変、
R: 小方丈側から眺めた庭園。亀山を借景にして、かつての壮大な伽藍を想像させる。

天龍寺を出ると、お決まりの桂川と渡月橋をテキトーに撮影する。
すでに修学旅行か合宿か何かと思われる学生たちで川沿いは賑わいはじめていた。
ここでじーっと桂川を眺めていてもしょうがないので、自転車にまたがりゆっくりと東へ下っていく。

 桂川と渡月橋。渡月橋はアスファルトが敷かれ、近くで見るとがっくり。

6年前に歩いた桂川沿いの道ではなく、三条通を走っていく。
嵐電こと京福電気鉄道嵐山本線・帷子ノ辻(かたびらのつじ)駅を越えてしばらく行くと、立派な門の寺が現れる。
寺の先には嵐電・太秦広隆寺駅が大胆に斜めに配置されている。おかげで頭上の電線がずいぶん派手だ。
複雑な形になった交差点は車と歩行者がいっぱいでつねに混雑状態。改善しようがないからしょうがない。

さて、このややこしい交差点に位置している立派な門の寺が、広隆寺である。
広隆寺といえば、かの有名なアルカイックスマイルでおなじみの弥勒菩薩半跏像があることで知られている。
あまりにもこの仏像の存在感が圧倒的なため、ほかの名品の存在が霞んでしまうほどだ(失礼)。
まあそんなわけで、中学の修学旅行以来となる弥勒菩薩半跏像を拝みに中へ入ってみた。

騒がしい寺の周辺とは対照的に、門をくぐると雰囲気は一気に落ち着いたものへと変わる。
木々が包む講堂に寄ってみる。1165(永万元)年の再建だというが、全体がはっきり見えずよくわからない。
さらに先へ進んで広隆寺の本堂にあたる上宮王院を眺める。やはりどこか静かな落ち着きがある。
正直に言うと、僕は中学の修学旅行の記憶が時間が経って曖昧になっていった結果、
広隆寺も弥勒菩薩半跏像も奈良にあると勘違いしていた時期があった(しかもそれがけっこう長かった)。
どちらも京都というよりも、僕にとっては「奈良のイメージ」に属するものであったのだ。
あらためて現地を訪れてみても、やっぱり京都というよりは奈良っぽく感じるのである。
広隆寺は聖徳太子の仏像を譲り受けた秦河勝が建立したという説がある。飛鳥時代からの歴史があるのだ。
当時の建物が残っているわけではないものの、現在も十分にその雰囲気を保っている不思議な空間である。

  
L: 広隆寺・楼門。1702(元禄15)年の建立とのこと。ここをくぐると喧騒から切り離された世界になる。
C: 講堂。参道からちょっとだけ右手にはずれたところにある。木々が多く、建物の外観はあまりよく見えない。
R: 上宮王院。聖徳太子像を本尊として祀っている。今も聖徳太子の存在感が強い場所なのだ。

拝観料を納めて霊宝殿の中に入る。実に薄暗い。暗すぎて何がなんだかわからない。
いくらなんでもこれはないだろう、と思う。ライトアップにも工夫がみられず、非常に残念な気持ちになる。
いちばんの目玉である弥勒菩薩半跏像の前に立つ。やっぱり暗くってせっかくの表情がはっきりしない。
目を凝らしてじっと見つめているうちに、ようやく目が慣れる。視力の弱い人間にはつらい措置である。
弥勒菩薩半跏像と対面するのは中学生のとき以来だ。あのときは「ハァー見事ですなァー」といった感じで
その繊細さを目にしてお決まりの感動パターンに終始したように思う。今回も確かにその繊細さに見入ったが、
何よりも、「こいつには、性別が無い!!」という事実がものすごい勢いで僕の頭の中を支配してきたのだ。
弥勒菩薩半跏像は、男とか女とかそういう二項対立からかけ離れたところに位置している。
人間の姿をしているのだが、絶対的に人間ではない。そこから逆説的に、弥勒菩薩半跏像が木の塊に見えた。
つくった人間、眺める人間の想いを背負うために個性を削りに削って一般化していった極限として映った。
さまざまな想いが託されまくった結果としての特別な木の塊がそこにある、と弥勒菩薩半跏像を受け止めた。
そして僕は勝手に、研ぎ澄まされた純粋な「祈り」の存在と、人間になりえない造形物の哀しさを同時に覚えた。
だから弥勒菩薩半跏像に祈りを捧げるほかの人々に対し、漠然とした軽蔑を感じた。
祈りを捧げることが、弥勒菩薩半跏像を僕たち人間、こっち側から遠ざける行為に思えてならなかったからだ。
つまり僕は弥勒菩薩半跏像を「人間を救うために考え込んでいる弥勒菩薩を表現したもの」ではなく、
「人間になるために今まさに修行を積んでいる真っ最中の木の塊」として勝手に見なしていたのだ。
まあ、変な話ではあるが、逆にそれだけピグマリオン的にこの像の価値を真摯に受け止めたということだ。
――こいつ、つくられてから1400年ぐらい経っているのに、性別も無いし、まだ人間になれないのか。

広隆寺から北上して行った先には仁和寺がある。
6年前には門だけ眺めて先を急いでスルーしているので、今回はきちんと見ようと思っているのである。
しかし山陰本線のせいで、広隆寺から仁和寺のある「きぬかけの路」へと抜けるルートが実に複雑怪奇。
住宅街の中を迷いに迷って最終的には妙心寺の境内を抜けてどうにか仁和寺にたどり着くことができたのだが、
いやはや参った。ちゃんとした地図がないとダメだ、とあらためて思わされた一件だった。

さて仁和寺である。仁和寺といえば真っ先に『徒然草』の有名なエピソードが思い出されるのだが、
肝心の仁和寺それ自体だって見事な文化財が目白押しなのである。今回はきちんと見てまわるのだ。
まず二王門をくぐる。この門も大きくて立派なのだが、その先にある伽藍の広さに圧倒される。
左手には勅使門があり、その奥には庭園があるが直接見ることはできない。後で寄ることにする。
中門をくぐると左に樹高の低い独特な姿をした御室桜が植わっているが、さすがに開花はまだまだ先。
さっきまで砂利が敷き詰められていた境内は、田舎の農村のような風景へと変化している。
どこか懐かしい感じがする。仁和寺は天皇家と関係の深い格式の高い寺のはずなのだが、
実際に歩いてみると、堅苦しい感じのない穏やかな場所、気さくさを感じさせる場所である。

  
L: 仁和寺の二王門。こちらは「仁王門」ではなく「二王門」なのだ。江戸時代初期に建てられたとのこと。
C: 広い仁和寺の伽藍。中門までの間は砂利が敷かれているが、その先は田舎の農村っぽくなる。

R: 御室桜。開花時期は京都では最も遅いそうで、今はまだつぼみが現れはじめた状態。

  
L: 静かにたたずむ五重塔。  C: のどかな観音堂。しかしまあ、このハシゴはないだろう。
R: 国宝・金堂。旧皇居の正殿・紫宸殿を移築・改造したものだそうだ。天皇家との関係の深さがうかがえる。

ひととおり見てまわると、拝観料を払って庭園の中に入ってみる。
仁和寺の庭園は、宸殿を境にして北と南に分かれている。南庭は勅使門まで遮るものがなく、
広大な白砂の空間が印象的だ。端っこには右近の橘、左近の桜が植えられている。
北庭に出ると、今度は池が広い面積を占め、その向こうに木々や岩が配置されている。
まったく異なる姿の庭が建物の南北で展開されており、これがなかなか面白い。
仁和寺は実にさまざまな表情を持った場所で、その広さに応じた多様性を持っているのだ。

  
L: 南庭。広大な無という印象。  C: 回廊を歩くのもなかなか楽しい。  R: 霊明殿の辺りから眺めた北庭。

仁和寺の庭園が予想外に面白かったのでいい気分で二王門を抜ける。
あとは6年前に来た道を戻るだけなので迷う心配はない(僕は一度見た道は忘れないのだ)。
気楽に走っていくと、すぐに龍安寺に到着である。ここもまた、庭園が楽しい場所だ。
ほかの大勢の観光客の列に混じって中へと入る。龍安寺は石庭が世界的に有名なのだが、
そこに至るまでがけっこう距離があるのだ。広い池(鏡容池、きょうようち)をぐるっと回らないといけない。
でもその距離こそが重要である気がする。あっさりと石庭に出会ってしまってはありがたみがないのだ。
しっかり歩いて待たされることで、石庭のありがたみというか価値が増すように思える。

方丈に入り、靴を脱いで黒光りする床を踏めば、すぐ左手に石庭が現れる。
周囲の木々がわずかな影を落とすほかは、真っ白い砂が輝いて観客たちの目に飛び込んでくる。
「どこから眺めても、必ず15個の石のうち1個は他に隠れて見えない」などという情報に興味はない。
そういう上っ面だけの知識は必要ない。石庭に描かれた世界との対話、そこから何を見つけ出すかが大事だ。
(僕のこういう態度は、以前書いた美術作品鑑賞術と大いに共通している(→2008.11.1)。)
6年前にここを訪れたときには、龍安寺で石庭を眺めるという行為について、
「これからまもなくはじまる演劇を胸を高鳴らせて待っている」状態と書いたが(→2004.8.8)、
その考えは今も変わらない。演じられる物語と今の自分との対比がそこにはあるのだ。
龍安寺の石庭には、人の数だけ解釈があるだろう。その解釈に込められた自らの思いを噛み締める、
そういう複数の時間が流れている。ひとつの空間に無数の時間が錯綜する現実が、端的に現れる場所なのだ。

  
L: 龍安寺・鏡容池の弁天島には真田幸村の墓がある。非公開(渡れない)なので眺めるだけ。
C: 龍安寺の石庭。さまざまな国籍の人々が思い思いに、目の前に繰り広げられた世界を眺め、解釈する。
R: 「これからまもなくはじまる演劇を胸を高鳴らせて待っている」観客たちの図。

ふと思う。僕はよく晴れた日にしか龍安寺を訪れていないが、雨の日にはこの庭はどんな表情を見せるのだろう。
より研ぎ澄まされた内省を促すのだろうか。雨音がホワイトノイズとなって石庭自身への集中を掻き立てるのだろうか。
旅先で雨が降ることはとても不運なことではあるのだが、この石庭についてはその機会を味わってみたく思う。


試しにパノラマで撮影してみたが、あまりに距離が近いので変になった。でももったいないので公開してみる。

6年前の逆コースということで、龍安寺の次は金閣寺である。曲がりくねった道を行き、立命館大学の脇を抜け、
目の前の山に大文字が見えるとそこが駐輪場。観光客が横断歩道を渡ろうとびっしり貼りついている。
金閣寺はその「わかりやすさ」から日本人・外国人を問わずたいへんな人気を誇っている。
が、建物もいいけど金閣寺は庭園もなかなかのものなのだ。バランスよく味わいたいなあと思いつつ列に並ぶ。

 左大文字。歴史ある街はやることも面白い。

拝観料を納めて御札をもらう。金閣寺は御札がチケットがわりになっているのである。
中に入るとさっそく金色の建物が池の向こうに現れる。記念撮影をする観光客でいっぱいだ。
ここでわざわざ書くまでもないのだが、金閣寺は正式な名を「鹿苑寺」といい、その舎利殿を「金閣」と呼ぶ。
でもまあ通称名の金閣寺で書いていかないとなんだか鼻につく感じがするので、ふつうに金閣寺と書いていく。
6年前にも書いたが、金閣はわかりやすくジャパネスクなので外国人観光客が大興奮。
もちろん日本人観光客だって大興奮。とりあえず僕はもうあと50年経てば興奮できるかもしれない。
築55年、まだまだきれいすぎるのである。うまい具合に古びていってほしいものだ。

金閣を眺めた後は、庭園をぐるりと回ることになる。これがなかなか雰囲気があっていいのだ。
一面の緑の中に湧水や滝が並び、虎渓橋を渡って金閣寺垣に囲まれた道を歩いていく。
観光客が多すぎるのでじっくりと味わう気分になれないのは残念だが(みんなおしゃべりに夢中でうるさい)、
春先の鮮やかな緑はたっぷりと光を浴びて眩しいくらいだ。歩いているだけで気持ちが洗われるようだ。
なんだかんだでやっぱり金閣寺はいいなあ、と再確認して不動堂の脇を抜け、境内の外に出る。

  
L: 鹿苑寺金閣。鏡湖池(きょうこち)越しに眺める最も一般的な構図で、みんながみんな記念撮影に必死。
C: 金閣の裏側はこのようになっている。築55年には思えない小ぎれいさである。正直、もうちょっと汚れていてほしい。
R: わかりづらいけど竜門滝の鯉魚石(りぎょせき)。つまり鯉の滝登りを表現したものだ。

昨日の日記でも書いたとおり、今日は京都の北半分をターゲットに走りまわる。
西側の観光名所はこれでだいたい押さえたので、いよいよ本格的に京都の街中へと入っていく。
金閣の次はわりとすぐ近所の北野天満宮を目指す。それまでの山道からは一変し、道は碁盤目になる。
曲がるポイントを正確にわかっていないとかえって迷ってしまうので、注意しつつ南下していく。
京都の街は北から南へとゆるやかな傾斜になっており、東西方向は平坦。走っていて非常に特徴的だと思う。

ゆるやかに下って北野白梅町駅を目印に東へ入ると、やがて左手に大きな鳥居が現れる。北野天満宮だ。
菅原道真の没後に京都で災害が相次いだため、道真の怒りを鎮めるべくつくられた神社である。
堂々とした参道を歩いていき楼門を抜ける。境内の構造は少し複雑で、そのまままっすぐ行くと社務所。
お参りする場合には一本西にずれて三光門(中門)を抜ける。すると国宝の社殿が正面に現れるのだ。
さすがに本場・平安京の天満宮だけあり、参拝するのに行列ができている。
が、真ん中の列以外は長さが大したことがないので、さっさと並んで参拝を済ませる。
やはり真ん中の列じゃないとご利益が落ちるのだろうか。そんなこと考えたことないからよくわからない。
お金を納めて学業の御守をいただく。ちったぁ賢くなりたい、という僕の願いは一生変わらないのだろうなあ。

  
L: 今出川通に面する北野天満宮の一の鳥居。手前では客待ちのタクシーが何台も停まっていたのであった。
C: 三光門(中門)。日・月・星の彫刻があることから三光門と呼ばれるのだそうだ。
R: 社殿。1607(慶長12)年、豊臣秀頼によって建てられた。代表的な桃山建築とのこと。

北野天満宮の次は、ちょっと遠いのだが、がんばって上賀茂神社へ行ってみる。
いやむしろ、自転車だからこそ行きやすいといえるかもしれない。延々と続く上り坂にガマンさえできれば、
バスなんかよりもずっと思いどおりに行くことができるのだ。軽めのギアで堀川通を飛ばしていったら、
思いのほか簡単に到着することができた。もはや京都は自転車のために生まれた街としか思えない。

さて、上賀茂神社である。正式な名前を「賀茂別雷神社」という。「別雷」は「わけいかずち」と読む。
つまりこれは「若雷」ということで、若々しい力に満ちた雷神を指すのだそうだ。なんだか難しい。
まあとにかく、賀茂別雷命という神様を祀っているのでこういう名前なのだ。山城国の一宮である。
一の鳥居をくぐった中は広めの芝生広場となっており、左手には見事な枝垂桜が植わっている。
さらに鳥居をくぐると、重要文化財に指定されているさまざまな建造物が目白押し。
たいていの神社は建物の向きをきっちり揃えているものだが、その点、上賀茂神社はやや異なっている。
まず境内を斜めに流れる御手洗川に沿って細殿・土舎などが並んでいる。
しかし進んでいった先にある楼門や本殿などはきちんと南北の方角を守って建っている。
つまり、手前の右岸と奥に進んだ左岸とは異なる角度で建物がそれぞれ密集しているのである。
おかげで実際に訪れてみると、それぞれかなり複雑に配置がなされているような印象を受ける。
もっともそのように徹底的に元の地形を重視している点にもまた、歴史の古さを感じさせられるのだ。

  
L: 上賀茂神社の一の鳥居。中は広い芝生となっており、枝垂桜の花見客もけっこういた。
C: 細殿とその前にある立砂(たてずな)。立砂は御神体である神山を模しており、清めの砂の起源だとか。
R: 楼門。御手洗川という小川を渡ったところにある。狭い範囲に建物が密集してなんとなくミニチュア気分になる。

 
L: 楼門を抜けると高倉殿。ここから奥へと上がっていくと本殿と権殿があるのだ。
R: 御手洗川と土舎。上賀茂神社は御手洗川があるためか、建物が非常に複雑な並び方をしている印象がする。

貯め込んだ位置エネルギーを一気に解放して下る。今出川通に出る直前、同志社大学の存在に気づいたので、
迷わず中へと入ってみる。ちょうどオープンキャンパスをやっていたようで、妙に賑やかだ。
学生のふりをして中に入り、自転車を軽く走らせつつ各建物を眺めてまわる。
同志社大学の中は古い洋風の建築で満たされている。名前はほとんどが「○○館」と漢字3文字になっており、
どれがどれだか素人には非常にわかりづらい。とりあえず気になった建物を片っ端から撮影するのであった。

  
L: 同志社中学校・彰栄館。京都市内に現存するレンガ建築では最も古いそうな。
C: ハリス理化学館。  R: クラーク記念館。同志社のシンボル的存在とのこと。

 有終館。日本最大の学校図書館として建てられたそうだ。

重要文化財や登録有形文化財に指定されている建物が並ぶキャンパスはなかなか壮観である。
緑の中に小ぎれいなレンガ建築の茶色が点在する光景に、なんとなく一橋を思い出すのであった。
オープンキャンパスということでか、神学館の前では応援団がパフォーマンスの準備をしていた。
チアリーディングの女子大生に軽く興奮しつつ、しかし学ランの応援団員にちょっとおびえつつ、
気の済むまで同志社の雰囲気を味わってウロウロするのであった。うーん不審者。

同志社のすぐ南は京都御苑である。京都御所の周りにある公園部分を京都御苑と呼ぶのだ。
6年前にも来ているが(→2004.8.7)、中はアホみたいに広い。砂利の敷かれた広大な道が走り、
緑がブロックを形成して、なかなか強烈なゲシュタルトの図と地状態をつくりだしている場所である。
この御苑はかつて、東京へ遷都して荒廃した公家町を撤去して整備したことでできた過去がある。
やたらめったら広いのは、もともと広い公家の屋敷をたくさんつぶしたからなのだ。豪快な話である。
それにしても砂利道は自転車だと非常に走りづらい。砂利に厚みがあるのでタイヤがとられるのだ。
前に自転車が走っていってできた跡である轍の上は走りやすいのでそこを狙っていく。
この轍を専門用語で「御所の細道」というらしい。京都ってのは細かいところまで風流な街だと思う。

  
L: 京都御苑の広大な砂利道。御所の細道が数本走っているのがわかる。ここを行くと走りやすさが段違いなのだ。
C: 京都御所の南端・建礼門。この日は偶然、天皇一家が京都を訪れていたらしい。気づかなかった。
R: 桃林。かなり派手な色の花が咲いていて見事。観光客が写真を撮りまくっていたよ。

京都府庁・京都市役所は昨日訪れているので本日はスルー。鴨川に出て北上し、下鴨神社を目指す。
ところで「鴨川」とは、Y字になっている合流地点から下流・南側を指す名前なのである。
その上流、Y字の北西側は同じ「かもがわ」でも「賀茂川」と書くのだ。北東側は「高野川(たかのがわ)」。
下鴨神社はそのY字のだいたい合流点に位置している。上流が「賀茂川」で下流が「鴨川」ということで、
だから「上賀茂神社」と「下鴨神社」ということなのか。奥が深いものだなあとあらためて思う。

下鴨神社の正式な名は「賀茂御祖神社」。「御祖」は「みおや」と読む。賀茂別雷命の両親を祀るからだ。
ちなみにこちらも山城国一宮である。両方合わせて賀茂神社と総称し、葵祭が開催される。
糺(ただす)の森という広大な原生林を抜けると下鴨神社の楼門が現れる。
楼門をくぐると舞殿・橋殿などいくつも建物が建っている。やっぱり上賀茂神社に似た密度を感じるが、
こちらは建物の向きは規則正しくなっており、その点は大きく異なっている。
面白いのは「えとの社」の存在で、各干支ごとに小さな守護社がつくられているのだ。
わが巳年の守護社は未年と一緒になっている。きちんとこちらにもお参りしておく。

 下鴨神社参道。糺の森を抜ける参道は非常に長い! 

  
L: 下鴨神社楼門。  C: 橋殿。  R: えとの社と幣殿。本殿二棟はこの幣殿の奥にある。

ちなみにこの日は上賀茂神社でも下鴨神社でも結婚式が行われていたのであった。
お盛んですなあ。……とか言っているようじゃダメ人間ですかそうですか。

さて次は京都大学に侵入してみるのである。
京都大学は僕の中で「生まれ変わったら通ってみたい大学No.1(→2004.8.7)」なので、当然中に入ってしまうのだ。
6年前には学生のふりをしてランチをいただくなどしたのだが、今日は残念ながらそんな時間的余裕がない。
テキトーにキャンパスの中を自転車で走りまわってみることにするのだ。

まずは自由の殿堂である京都大学の中のさらに自由の殿堂・吉田寮を見てみる。
吉田寮と聞いて「おお!」と思った人は通である。というか、京大が好きな人なら知らないはずがない施設だ。
なんといっても1913(大正2、すげえ!)年竣工という、現存する日本最古の大学学生寮なのだから。
寮費は月額約2500円(寄宿料400円・水光熱費約1600円・自治会費500円)で、
「炊事場・トイレ・シャワー・洗濯場・畑あり(いずれも共同)」とのこと(吉田寮HPより抜粋)。
かつて会社勤めをしていたとき、後輩が吉田寮の出身者と判明して驚いたことがあったが、正直うらやましい。
この環境で4年間(人によってはそれ以上)を過ごすことの凄みは、計り知れないものがあるだろう。

  
L: 京都大学吉田寮。大正時代の木造建築がいまだにバリバリの現役とは……。やっぱ京大は違うわ。
C: 吉田寮付近のなんだかよくわからない屋外アトリエ状態の空間。やっぱ京大は違うわ。
R: 吉田寮の手前にあるサークル棟。これまたド迫力の木造建築である。やっぱ京大は違うわ。

肝心の百周年時計台記念館の方にもお邪魔してみる。相変わらずリニューアルが効いて小ぎれい。
中では何かの学会が開催されていたのだが、気にせず歴史展示室を見学。パンフレットの量が半端でない。
同じく時計台の1階には京大ショップもある。歴史ある総合大学はいろいろと強いなあ、と思うのであった。

 
L: 京都大学・吉田南総合館。折田先生像が出現するのはこちらである。まったくすごい大学だよ。
R: 1925(大正14)年竣工の百周年時計台記念館とクスノキ。時計台の中には京大の歴史展示室もある。

京大のキャンパスを抜けるとそのまま東へと坂道を上っていく。
まだいいところ三分咲きの桜の下、観光客が押し合いへし合い歩いている。たいへんな混み具合だ。
あきらめて自転車を置くと、僕も歩く。この先にあるのは銀閣寺だ。みんな目的は一緒なのだ。

 大文字(右大文字)。金閣寺側が左大文字で、銀閣寺側が右大文字。

銀閣寺を目指す観光客の量は半端ではない。土曜日の午後、お昼を食べた皆さんが本格的に動き出す時間で、
受付へと至る銀閣寺垣には泣きたくなるほどみっちりと行列ができてしまっていた。
……が、意外に回転が早く、あっさり中に入れた。どれだけ待たされるのかと覚悟していたので拍子抜けした。
やはり銀閣寺も金閣寺と同様、御札がチケット代わりになっていたのであった。

こちらも中に入るとまず最初に銀閣の姿が目に飛び込んでくる。
ここでわざわざ書くまでもないのだが、銀閣寺は正式な名を「東山慈照寺」といい、その観音殿を「銀閣」と呼ぶ。
でもまあ通称名の銀閣寺で書いていかないとなんだか鼻につく感じがするので、ふつうに銀閣寺と書いていく。
見るからに豪華絢爛な金閣とは異なり、銀閣は落ち着いた和風の美そのもの。
境内は木々の緑、砂の白、そして建物の茶の3色で占められており、俗世と隔絶された印象に染まる。
……はずなのだが、やはり外国人観光客は興奮し、日本人も負けじと写真を撮り、入口付近は大混雑である。
金閣で騒ぐのはともかく、銀閣は静かに眺めたいなあと思うのだが、なかなかそれは難しい。

  
L: 観光客で大混雑の銀閣と向月台・銀沙灘。この3点セットこそがまさに銀閣寺なのだ。
C: 角度を変えて池越しに銀閣をもう一発撮影。一層は心空殿、二層は潮音閣と名がつけられている。
R: 東求堂。足利義政の書斎が含まれており、日本建築史上重要な建物だそうだ。

銀閣寺の庭園は苔寺(西芳寺)を参考にしているというが、なるほどそれを反映してか苔の種類が多い。
それは6年前にも印象的だったのだが(→2004.8.7)、さまざまな種類の苔が木々とともに視界を占め、
複雑な色合いの緑が折り重なった光景を見せる。地味だが、しかし確かに美しい。

 庭園の高い部分より眺める銀閣寺の境内。

本日の最後は二条城で締めることに決めている。しかし二条城は16時に閉門してしまうので、あまり余裕がない。
そもそも今は京都の東端にいるのだが、二条城は西側にあるのだ。移動する時間も考慮する必要がある。
そういうわけで半ば慌てつつ銀閣寺をあとにすると、そのまま南へ進んで昨日行けなかった南禅寺へと急ぐ。
できれば哲学の道を通って南禅寺に行きたかったのだが、道は観光客で埋め尽くされていて動けない。
迂回しつつ南へ進んで、どうにかたどり着くことができたのであった。

南禅寺は日本のすべての禅寺の中で、最も高い格式を持つという。
有名なところでは三門に石川五右衛門が上って「絶景かな絶景かな」と言ったエピソードがある(フィクション)。
じっくりあちこち見てまわりたかったのだが、今回はその三門をメインにして方丈庭園はパス。悔しい。
で、拝観料500円を納めていざ三門にチャレンジ。高所恐怖症なのだが僕も上ってみるのだ。
古い建物らしく階段は狭くて急だ。しっかりと手すりをつかんで一歩一歩踏みしめて上っていく。
楼上に出ると、視界が一気に……開けることはなかった。南禅寺はしっかりと木々に囲まれているのだ。
京都の街を眺めるには、少し高さが足りない。反対側の法堂・方丈もよく見えない。これはちょっと残念。
脂汗を流しながらどうにか楼上を一周すると、再び手すりをしっかりつかんで地面の高さまで戻った。

  
L: 南禅寺・三門。藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した兵士を弔うために再建した。
C: 三門の楼上より眺める南禅寺の法堂。周りが木ばっかりなので見晴らしはまったくよくないのが実に惜しい。
R: 法堂。国宝の方丈はこの奥にある。時間がなくて行けなかったのがとても残念だ。

 境内にある琵琶湖疏水水路閣。まさに近代産業遺産である。

南禅寺で高所恐怖症に見舞われていたせいか、思いのほか時間的余裕がなくなってしまった。
できれば岡崎に寄って平安神宮やら京都市美術館やら国立近代美術館やらの写真を撮りたかったのだが、
どう考えても平安神宮よりは二条城を優先すべきだ。そこはスパッと決断して西へと猛ダッシュ。

どうにか16時直前ぎりぎりに二条城の中へとすべり込むと、いざさっそく観光開始。
まずはいきなりメインディッシュであるところの二の丸御殿を見学。うぐいす張りの廊下をキコキコ言わせて歩く。
それにしても、しょうがないと言えばしょうがないのだが、建物の中が薄暗くってかなわない。
せっかくの狩野派の見事な襖絵が次から次へと現れるのだが、どれもきちんとよく味わえないのだ。
二条城の魅力を正しく受け止めるうえで、この点はかなり大きなマイナスであると思う。
(いちおう二条城のホームページに画像つきで解説が載っているけど、やはり生で味わいたい。)
とはいえさすがは二条城。廊下の天井の模様を見上げるだけでも格の違いをしっかり感じることができる。

  
L: 二条城・唐門。彫刻や飾りがいっぱい。  C: 二の丸御殿。明治初期には京都府庁として利用されたことも。
R: 小堀遠州による二の丸御殿庭園。御殿手前の得体の知れない物体は、防寒養生中のソテツ。

二の丸御殿を出ると、二の丸御殿庭園を眺めて本丸御殿方面へと移動。
本丸御殿は旧桂宮邸を移築したものだが、なんとなく丸っこくって妙な建物だ。
耐震性に問題があり現在は中を見学することができなくなっている。
さらに進んで天守台から二条城の広大な敷地を眺めてみる。そう、二条城は意外とかなり広いのだ。
天守台を降りて東大手門へと帰るとき、そのことを痛感させられる。16時閉門も無理からぬことなのだ。

 
L: 天守台より眺める本丸御殿方面。  R: 天守台。かつては天守が2つあった時期もあったとか。

空は暗くなりはじめた。ほぼ当初の予定どおり、京都の著名な観光地はつぶすことができた。
二条駅で荷物を回収し、そのまま南下して本日の宿を目指す。背中の重さも充実感のためか心地よい。
さて今日の宿だが、京都に来て2日連続でカプセルホテル風というのも味気ないこと極まりないので、
和室の宿に泊まることにした。といっても民宿のようなもので、若い外国人観光客がよく利用するところだ。
日本的な雰囲気を味わいたい外国人観光客の気持ちを味わうという、なかなか倒錯した状況である。
まあ僕としては、面白がることができればそれでよいのだ。

宿があるのは島原という区域だ。この京都の島原と聞いてなるほどとわかる人は京都通ということになるのだろう。
僕は知らなかったのだが、この辺りはかつて遊郭があった場所で、今もそれを示す島原大門が残っている。
島原の名の由来は、島原の乱である。この地に遊郭を移転させる際に起きた混乱が、
その数年前に勃発した島原の乱のゴタゴタに似ていたことから名がついたのだという。
ちなみに島原は文芸活動が盛んで文化的なレベルが高く、最高位の遊女は「太夫」と呼ばれた。
今も島原には芸事をしっかり身につけた太夫さんが何人もいるようだ。かなり熱心で、興味深い事例だと思う。
(そういう背景があるからか、島原は「遊郭」ではなく文化の香りのある「花街」だ!というこだわりもあるようだ。)

  
L: 島原大門。ここをくぐると、なんとなく遊郭に行くドキドキ感がわかるような気がする。落語の『明烏』気分になるね!
C: 島原には現在もこのような木造建築が残っている。かつてはこんな感じの遊郭が並んでいたってわけなのか。
R: 重要文化財・角屋(すみや)。現存する揚屋建築として、非常に貴重な存在だそうだ。

宿の部屋で一休みするが、メシを食わなくちゃなんないし自転車返さなくちゃなんないしで、再び外に出る。
ふつうに京都駅まで返しに行く気などない。京都の夜らしい夜をしっかり体験してから返すのだ。
というわけで、すっかり気に入ってしまったMTBと最後の別れを味わうべく東へと走る。
まずは先斗町。狭い路地に落ち着いたたたずまいの店が並ぶが、奥へ進むと派手な看板も現れる。
ここでメシを食うなんてことはありえないのだが、雰囲気だけは肌で感じておくことにする。
それにしても土曜の夜の四条通はとてつもなく賑やかで、人も車も溢れんばかりの勢いである。
自転車で走るのが申し訳なくなる。通り抜ける分にはいいが、とても停車できないくらいに往来が激しい。

  
L: 先斗町。いくらお金がかかるのか想像もつかないオシャレな店が並んでいる。おそろしやおそろしや。
C: それでも奥の方へ行けば派手な看板が出て、やや庶民的な雰囲気が漂っていなくもない感じになる。
R: 土曜夜の四条通。車道は車が、歩道は人間が埋め尽くして大騒ぎである。どこもかしこも大渋滞。

そしてなんといっても京都の夜といえば祇園である。何がどうして祇園なのかはよくわからないのだが、
ともかく祇園なのだ、夜の祇園を通り抜けてみなくてはいかんのだ。そう思ったので行ってみる。
いざ実際に訪れてみると、石畳に町屋建築のファサードが並んで雰囲気抜群……なのだが、
困ったことに観光客でいっぱいの道を平然と車が通っていくのである。もうひっきりなし。
これは本当に興ざめである。昂揚した気分をすっかり台無しにされてしまってがっくりである。
でも一歩奥に入ると狭い路地に気取った店が何軒もあり、絵に描いたような京都の夜を味わうことができた。

  
L: 夜の祇園は車がひっきりなしに通って台無し。  C: 車がなかったらいい雰囲気なのになあ。
R: 祇園のメインストリートから一歩西に入ると、かなり落ち着いた雰囲気となる。京都どすなあ。

京都駅に戻って自転車を返却すると、観光案内所で時間いっぱい明日の電車のダイヤを確認。
100円で10分間インターネットができる装置で悪戦苦闘しながらプリントアウト。しかし10分は意外と短い。
結局200円使ってしまったが、よく考えればこれは最も経済的な方法だったと思う。
おかげで明日は時間的にタイトだが、どうにかなりそうだという感触がつかめた。
その後はメシを食って歩いて宿に戻る。画像の整理が終わった瞬間に爆睡した。いや本当に疲れた。


2010.3.26 (Fri.)

ムーンライトながらが大垣駅に到着するのが5時55分。寝ぼけた頭で乗り継ぐべき電車を探す。
このまままっすぐ西へと向かって、最初の目的地は石山駅。そう、石山寺をまず最初に訪れるという魂胆なのだ。
前回の滋賀旅行(→2010.1.9)では時間切れとなってしまって訪れることができなかった石山寺からスタートし、
その後で京都に入ろうというわけである。ルートとしてはほとんどムダがない行動であると言えよう。

さて、常識的に考えれば新快速なり快速なりでさっさと西を目指すのがふつうなのだろうが、
あまり早く着きすぎても営業時間外で、石山寺の門前で体育座りということにもなりかねないのである。
ビニール枕を忘れて首が痛い僕はすべてが面倒くさくなってしまい、のんびり普通列車で西へ向かうことにした。
寝たり起きたりをテキトーに繰り返しているうちに列車は石山駅に到着する。気合を入れてから降りる。
JRの石山駅はその名のわりに、石山寺まで距離がある。歩けないこともないが、よけいな体力は使いたくない。
そういうわけで迷わず京阪に乗り換える。京阪石山からでもやはり歩くのだが、大したことのない距離で済む。

平日朝の8時過ぎということもあり、雰囲気は完全に日常生活のそれだ。まったく観光地という印象がない。
駅から石山寺までの道は川沿いの一本道なのでまったく迷うことがない。淡々と歩道を歩いていく。
片側が山、反対側が川という道を歩いていくと、小規模なロータリーというか車の滞留スペースが現れる。
それで右手の山の方を向くと、立派な門が建っている。ちょうど朝イチで来た観光バスの老人たちが到着し、
バシャバシャと記念撮影をしている。その中に混じって門をくぐり、そこそこ長い参道を通って受付へ。

その名のとおり、石山寺は石の上に寺が建っているという場所である。が、木々に囲まれた複雑な地形で、
写真を撮るにはなかなか厳しい場所であった。せっかくの国宝である本堂も、うまく眺められるポイントがない。
雨上がりのままスカッと晴れ渡っていないこともあり、なんとなく薄暗い中で歩きまわることになってしまった。
おかげできちんと石山寺の魅力を味わえた感触がない。すべてがぼんやりとした印象に終始してしまった。

  
L: 石山寺の東大門。ここから石山詣でが始まる。入口はやや小ぢんまりしているが、中は広い。
C: 本堂。紫式部の時代から約100年後、1096(永長元)年に再建されたものだそうだ。すごいことだ。
R: 三十八所権現社本殿。まさに石山という印象である。歴史ある建物が緑と石に包まれている。

もともとの地形をそのままに各種の建物がつくられているので、高低差がけっこう激しい。
あちこち見渡すことができない分、次から次へと歴史ある建物が目に飛び込んでくるようになっている。
自然と人工物のバランスという点では、なかなか興味深い場所であるのは確かだと思う。

  
L: 下から見上げる石山寺の多宝塔。1194(建久5)年建立で、日本で最古レベルのものだそうだ。
C: 正面(こっちが側面?)から見る。上部が妙に細いが、均整がとれている。800年という時間を感じさせないきれいさ。
R: 近くにあった桜の木とともに撮影。自然の多く残る周囲に溶け込んで、静かに美しさを発散している感じ。

敷地は奥へと広がっている。さまざまな植物が育てられている中、スロープの通路となった坂道を歩く。
やがて妙に新しい木造建築が見えてきた。光殿というらしい。石山寺は紫式部が『源氏物語』の着想を得た場所だ。
物語の主人公・光源氏にあやかって名づけられたことが容易に想像できる。少し離れたとことには紫式部の像があり、
どうやら石山寺は今まで以上に紫式部と『源氏物語』を前面に押し出してアピールをしていく意向のようだ。
悪くはないと思うが、今はまだすべてができたてで新しい。うまく古びることができるか、見守っていきたいものだ。

それぞれの建築物をじっくり味わうことができなかったため、石山寺にはそれほど面白い印象がないまま外に出た。
新しい建物をつくる余裕があるんなら今ある建物をもっときちんとメンテナンスしろよ、と言いたい。
まあ、もう少し暖かくなって本格的に花が咲きはじめたら、また印象も違ってくるのだろう。

石山寺を見終わってしまえば、あとはできるだけ時間を短縮してその分を京都見物にまわすことを考えるべきだ。
早足で駅まで戻ると出発間際の電車に飛び乗り、石山駅まで戻る。そして西へと向かうJRの列車に乗り込んだ。
京都駅のホームに降りるとかなりの空腹感に襲われたので、そのまま立ち食いうどんをいただく。
ここから先は日没までまったく休むことなく京都の名所をつぶしていくことになるのだ。まずは燃料補給なのだ。

食べ終わるとコインロッカーに直行し、荷物を整理して背中を軽くする。そしてそのまま向かいの観光案内所に入る。
京都はさすがに世界的に著名な観光地ということもあり、窓口がぜんぶで15くらいある。が、どこも行列。
要領よく周りを見回して、早く相談できそうなところを探す。そしたら運よく素早く自分の番を確保できた。
「すいません、レンタサイクルを紹介してほしいんですが!」相手も心得たもので、すぐにパンフレットと地図をくれた。
京都をレンタサイクルで観光しまくるというアイデアは、同じ学年担当の先生からいただいたものだ。
学校の先生というのは、もう皆さんもれなく京都・奈良に関する観光のエキスパートなのだ。当然といえば当然だが。
それでこの春休みに京都と奈良をできるだけ回るという話をしたら、レンタサイクルという手段を教えてくれたのだ。
6年前に京都を狂ったように歩きまわった経験を持つ僕だが(→2004.8.62004.8.72004.8.8)、
なぜかレンタサイクルという発想はまったくの盲点で、聞いた瞬間「それだー!」と叫んでしまったではないか。
恥ずかしい。

さて京都駅から出てレンタサイクル屋に行こうとしたのだが、思いっきり迷う。
後になってみれば逆に進んでいれば簡単に北口に出られる位置に観光案内所はあったのだが、
そのときの僕は焦っていたせいか、近鉄の南口に向かってしまったのだ。外へ出ても何がなんだかわからない。
道路に出ている交通案内や太陽の方向から自分が京都駅の南西にいることはすぐに把握できたのだが、
線路をくぐってパンフレットにあるレンタサイクル屋を探すがこれがもうまったくわからない。
旅行者というのは勝手なもので、最初の一歩でつまずくと、「自分はこの街に拒否されている」という、
ずいぶんとネガティヴな感情を抱くことがある(宮崎を訪れたときなんかその典型だった →2009.1.8)。
それをどれだけ早いうちに退けることができるかが勝負なのだ。これができないと、旅は苦痛でしかなくなる。
しょうがないのでパンフレットに載っている電話番号に連絡してみる。まあ正直、パンフレットのデキはよくなく、
まともなランドマークが紹介されていないので、声での説明を聞いてもなかなかピンと来ない。
それでもどうにか電話で指示されたとおりに動いて店を見つけることができた。店はずいぶんと奥まった位置にあり、
これは絶対にこの地図からじゃ見つからねえ!と思ったのであった。なんとかしてください。

2日間借りる手続きをする。自転車の種類はいろいろ用意されていたが、8段変則のMTBを選んだ。
サドルを思いっきり上げると、用意しておいたサイクリング用の手袋をして、いざ出発である。
自転車は本当によくメンテナンスされていて、とてつもなく快適だった。これならどこにだって行ける。
またがって100mも行かないうちに、すっかり気に入ってしまった。

さっき南口で迷ったのが悔しかったので、あえて京都駅より南側にある観光地から攻めることにした。
最初のターゲットは東寺だ。正式には教王護国寺というのだが、東寺でおなじみだからこっちも東寺と書く。
個人的な感覚では菊川駅から東京都現代美術館に向かう途中の三ツ目通りの街並みに似ている、
そんな印象を抱かせるビルと商店の入り混じった風景の中に、突然、東寺は現れる。
江東区ではまず見かけることのないであろう土の壁が延々と続いている。これが、京都なのだ。
門をくぐれば広大な伽藍が広がる。建物たちは十分大きいはずなのに、それを感じさせないスケール。見事なものだ。

まずは西側の境内から見ていく。夏のような鮮やかな日差しを浴びる御影堂が美しい。
靴を脱いでお堂の中に入ると、柱の間を風が吹き抜けていく。日本の木造建築の醍醐味を感じる瞬間だ。
優しい日陰の中で風を感じる、その心地よさに、いっぺんにこの建物のことが気に入ってしまった。
京都のあちこちを見てまわらなくちゃ、という焦った気持ちを鎮める特別な力がある。やはり、いい建物はいい。

御影堂を一周するように歩くと、東側の伽藍を歩いてみる。金堂、講堂、食堂と巨大な建物が並ぶが、
とにかく敷地が広くてごく自然に受け止めてしまう。近づいてみて大きさに驚くが、遠くから眺めていると違和感がない。
ごく当たり前に、スケールの大きい建造物が並んでいる。東寺の凄みをあらためて感じるのだった。

  
L: 東寺・御影堂。天気がよかったせいか、とても居心地のいい場所に感じられた。すっかり気に入ってしまった。
C: 京都のシンボルとも言われる東寺の五重塔を眺める。絵になるなあ。
R: 東寺の金堂。修理中なのかきちんと全貌を見ることができなかったのが非常に残念である。

東寺を出ると、猛スピードでまっすぐ東へと向かう。盆地の京都のど真ん中、東西方向はまったくもって平坦である。
京都駅から南へと下っていく線路を呆気ないほどにまたいで東福寺へ。東福寺に着くまでは寺が密集する地域で、
歴史の迷路に迷い込んだ気分になる。やがて谷を渡る木造の歩廊が現れる。自転車を引いて渡るともう東福寺だ。
東福寺といえば通天橋が有名である。ほかに国宝の三門や、方丈を囲む八相庭園もよく知られている。
せっかく来たのでその3つを味わってみよう、と境内に入った瞬間、ごくごく小さい雨粒が落ちてきた。
おいおいいいかげんにしてくれよ、と思ったらすぐに雨は止み、空は再び青さを取り戻す。どうにか助かった。

まずは方丈の八相庭園からだ。ここの庭園はコンセプトがはっきりしていて、東西南北の庭それぞれに特徴がある。
南庭は典型的な枯山水。西庭は刈り込んだ木と砂地で、北庭は苔と石で市松模様をそれぞれつくり、
東庭は石柱を北斗七星の形に立てて宇宙を表現している。わかりやすくて非常に面白い。

  
L: 南庭。おそらくメインの空間であるようで、ひなたぼっこしがいのある庭となっている。いかにも禅である。
C: 北庭。苔の盛り上がり具合により市松模様の輪郭がぼやける箇所もあり、それがなんとも美しく面白い。
R: 東庭の北斗七星。どの庭もそれぞれに個性があってたいへんよろしいと思うのであった。

八相庭園に入るのに400円。そしてこれとは別に、通天橋を渡って開山堂を見に行くのにまた400円かかる。
同じ東福寺なんだからケチケチするんじゃねーよと思うのだが、国宝の三門はタダなのでおとなしく納得する。
通天橋を渡ってみての感想は、花も緑も紅葉も期待できない時期に訪れたことを考慮に入れたとしても、
あまり面白みは感じなかった。通天橋は自分で渡るのではなく、遠くから眺めるものなのかなあと思う。

  
L: 国宝の三門。見事なんだけど、手前の池がちょうど掃除中でじっくり眺められず。残念である。
C: 通天橋を渡った先にある開山堂。  R: やっぱり通天橋は外から見るものですね。

京都駅の南側はこれでよし!ということにして、東福寺からそのまま北上。まっすぐに線路を抜ける道がなく、
落ち着いた住宅地を抜けていき、ガード下をくぐると三十三間堂の脇に出た。6年前と同じ光景だ(→2004.8.6)。
とりあえず向かいの京都国立博物館を眺めて側面の写真を押さえると(展示替えのため休館中)、
そのまま三十三間堂に入る。6年前に大いに感動した場所を、もう一度訪れてみるのである。

 京都国立博物館の側面。いずれまたリベンジだ。

三十三間堂について、僕は6年前に「三十三間堂の中には無限/永遠の世界が表現されている」と書いた。
まあそれについては今回もまったく同じ感想を持っている。が、ひとつ大きく異なる受け止め方をするようになった。
それは、前回とは逆に、1001体の千手観音の方が主役ではなくはっきりと脇役に見えたということだ。
6年前の日記では「前に一列で陳列されている国宝の仏像がジャマだ」というあまりにもヒドいことを書いたが、
今回はその風神・雷神像と二十八部衆立像のあまりの見事さにノックアウトされてしまったのである。
ひとつとしてレベルの落ちる像がない。どれも写実的かつ迫力がこもっていて、目が吸い寄せられてしまうのだ。
いかにも鎌倉期らしく、動きの中の一瞬を的確に捉えた像ばかりで、ひとつひとつを見ては息を呑んだ。
まあつまり、6年前には千手観音目的で来たので、手前にあった像の持つ迫力がノイズに感じられたってことだろう。
そういうことにしておこう。いやしかし、二十八部衆立像は本当にすばらしい。やっぱり独立して並べてほしいなあ。

  
L: 三十三間堂の外観。こちらは千手観音などの仏像が展示されている東側である。
C: お堂を南端より眺める。わかっちゃいるけど、長い!  R: 裏側というか西側。やっぱり長い。

6年前にはここから清水寺へと向かったが、今の僕はもう腹が減って腹が減ってしょうがないのである。
京都駅に行けばきっと何かあるだろうと思って、清水寺とは逆方向へ走る。それにしても自転車は快調だ。
すべての風景が飛ぶように後ろへと去っていく。車は多いが、平坦だから本当に走りやすい。

京都駅に着いたところで、残念なことに今度は本格的に雨粒がポツリポツリと落ちてきた。
レンタサイクル最大の弱点は、雨である。が、もう覚悟を決めてしまっているので僕はひるまない。
大っ嫌いな原広司のエゴ全開の京都駅をテキトーに撮影すると、どっかいい店ないかな、と辺りをうろつく。
(京都の玄関口として「伝統」というイメージと正反対の建築を提示するのは正しい戦略だと思うが、
原広司のデザインセンスは論外だ。ちなみに僕の個人的な希望を言うならば、京都駅ということであれば、
横浜港の大さん橋(→2010.3.22)みたいな曲線主体の建築が適する気がする。布っぽいやつ。)
そしたら目に飛び込んできたのが、「餃子の王将」。ああそうだ、王将は京都が本拠地だったわ、と思い出す。
そうなったらもう、入るしかない。カウンター席に陣取って「餃子セット(定食じゃないのだ!)」を注文。
値段は東京よりもちょっと安いのに、こっちは唐揚げがついてくるのである。なんてお得なんだ!と感動。

 
L: 京都駅。何も言うことはない。  R: 関西の王将の餃子セットは関東の餃子定食よりもお得でうらやましい。

さて餃子の王将を出たら、雨はいっそうひどくなっていた。これはもう、観光というレベルではない雨である。
それでもすぐ近所に東本願寺があるので、雨の中さっさと移動して寄ってみる。そしたら雨脚は急に弱まり、
本堂を眺めているうちに日が差してくるんでやんの。……しかしこれはまだ序章にすぎなかったのである。

 
L: 東本願寺・御影堂門。  R: 東本願寺・御影堂。敷地は広いのだが、カメラに収まらないほどデカい。

東本願寺は「火出し本願寺」とあだ名されるほどに火災が多いそうで、現在の建物はほとんどが明治期のもの。
ほかの寺院建築と比べても、全体的に「黒さ」が妙に印象的である。僧衣とマッチしている感じがなんとなくある。
御影堂の隣の阿弥陀堂は現在、修復工事の真っ最中で、寺に似つかわしくない無機質な巨大な囲いが
異様な存在感を見せていた。まあ納得するよりしょうがないんだけど。

東の次は、当然、西だ。というわけで西本願寺へ移動する。本願寺が東西に分裂した経緯はよく知らないが、
それでも今もその状況を続けていられるだけ浄土真宗は余裕があるのかな、なんて思いつつ門をくぐる。
東本願寺とは対照的にこちらは古い建物が多く残っている。中に入るとやはり黒くよけいな飾りのない感じがする。
いちおう阿弥陀堂(本堂)と御影堂に上がってそれぞれお参りしてみるが、質実剛健な印象はどこも変わらず。
目隠し状態で連れて来られ、「東本願寺と西本願寺、阿弥陀堂と御影堂、さあここはどっちのどの建物だ?」
なんて訊かれたとしても、まったくもって区別がつく自信がない。いるのかね、本願寺ソムリエ。

  
L: 西本願寺の御影堂門。  C: 西本願寺・御影堂。東西どちらも「みかげどう」ではなく「ごえいどう」と読む。
R: 渡り廊下の先、阿弥陀堂を見る。西本願寺と東本願寺では御影堂と阿弥陀堂の南北の位置関係が逆。

トイレを済ませて外に出ると、やっぱり雨。さすがの僕でも観光という気にはちょっとなれないレベルの降りだ。
時計を眺めると、まだ午後1時過ぎ。あきらめるには早すぎる時間帯である。今日は実に悩ましい天気だ。
少し迷ったのだが、じっとしていてもいいことなど何もないので、晴れることを祈りながら東へと向かうことにした。
雨脚がちょっとだけ弱まったタイミングで出発し、まっすぐに東へ。進んでいくにつれて雨は止み、
大谷本廟に着いたときにはまた太陽が出ていた。観光客のおばちゃんが「けったいな天気やねえ」と言っていたが、
まさにそのとおりである。もうこうなったら初志貫徹、天気を気にせず走りまくろうと思う。

大谷本廟の入口のところから五条坂がはじまる。ここをのぼっていった先が、清水寺なのである。
しかし自転車は通ることが許されないため、駐輪して歩いていくことになる。途中で右に折れ、茶碗坂を行く。
さすがにメインストリートである清水道に比べると人通りは少なく、店もシブめである。
清水寺の敷地にたどり着くと、空はすっかり青くなっていた。気分よく中へと入るのであった。

清水寺は坂上田村麻呂が創建に関わっているそうで、平安京遷都よりも古い歴史を持つ。
「清水の舞台」で有名な本堂は、1633(寛永10)年に徳川家光の寄進によって再建されたものだ。
Wikipediaには「実際に飛び降りた人が1694年から1864年の間に234件に上り、生存率は85.4パーセント」という、
高所恐怖症の僕は読んだだけで卒倒してしまいそうなデータが記載されている。いやもう本当に勘弁してほしい。
6年前に訪れたときにも書いているが(→2004.8.6)、舞台の先がゆるい下りになっているのがとにかく怖い。

  
L: 清水寺の仁王門と西門(さいもん)・三重塔。清水寺の境内には重要文化財がゴロゴロしている。
C: 清水の舞台(本堂)を訪れる人々。いつ訪れてもここは人がいっぱい。よく底が抜けないもんだ。
R: 舞台から眼下の音羽の滝を眺める。それにしてもやはり、高いところは怖い。雨の後だからよけいに怖い。

清水の舞台は人が多いし高いしで、どうにも落ち着けない。そわそわしてしまってじっくりと辺りを見る余裕が持てない。
先に進んで、あらためて奥の院の舞台に立ってみる。すると、京都の盆地を雲が舐めるように通り抜けるのが見える。
雲は霧のように粒の細かいシャワーを街に浴びせて南へと流れていく。「けったいな天気」が、目の前に現れたのだ。
ぼんやりと白い色をした柔らかな襞が強弱のコントラストをつけて右から左へと舞っていく様子に目を奪われる。
こんな光景を目にすることができるなんて思っていなかったので、しばし呆気にとられて眺めることしかできなかった。
奥の院から少し進むと本堂や三重塔が見事に姿を見せる一角に入ったので、デジカメのシャッターを切る。
6年前には「カメラのシャッターをいくら切ってもこの風はつかまえられないよ」なんてカッコつけたことを書いたが、
いざ撮影してみると印象に残る写真が撮れたので、前言を撤回したい気分になるのであった。

  
L: 京都の街に雨を降らせながら南へと流れていく雲。さすが清水寺、こんな光景を見ることができるんだなあ。
C: 清水の舞台を眺める。もうちょっとしたら桜が咲いて絶景になるんだろうなあ、と思う。今でも十分美しいけどね。
R: 音羽の滝に列をつくる人々。僕は中学の修学旅行で飲んでいるから、もういいや。

境内は清水の舞台の分だけ高低差があるのだ。坂道を下っていって入口へと戻る。
途中で舞台を下から眺めることのできるポイントがあり、お約束ということで見上げてみる。
釘を一切使わずこれだけのものをガッチリと組んじゃうんだからすげえよなあ、と感心。
それにしてもしかし、徳川家光ってのは日光東照宮(→2008.12.14)にしろ清水寺にしろ、
とんでもない建物をつくる人だ。徳川家の力がどれだけ強かったか、しっかり形に残っていて興味深い。

 
L: 清水の舞台を見上げる。よくまあ木造でここまでやりきるよ、と感心するしかない。
R: 帰りは清水道を行く。とにかく猛烈な人の多さで参った。さすがは京都の名所中の名所。

坂を下って自転車を回収すると、そのまま京都盆地の東端を北上していく。
ここは自転車で走るにはあまりにもきつい道だ。狭いし車も歩行者も多いしで、気をつかって大変だ。
注意深く運転しながら進んでいく。やがて右手にちょっとだけ広い道が現れる。高台寺への道だ。
せっかくなので入口だけでも覗いてみようと思う。進んでいくと急に車も人も増え、パッと開けた印象になる。
高台寺はその名のとおり、豊臣秀吉の正室である高台院が建てた寺だ。敷地西側の道は「ねねの道」という。
非常に落ち着いた印象の道である。対照的に、南側へ抜けていく二寧坂(二年坂)はずいぶんと賑やかである。
二寧坂がここまでの人気スポットだとは想像していなかったので、少し驚いた。

高台寺の入口まで行ってみる。中に入ろうか迷うが、拝観料が高台寺掌美術館の分を含んでいるということで、
あきらめることにする。慌てて庭園や美術館を眺めてもしょうがない、次の機会にきちんと見よう、というわけだ。
二寧坂とセットでじっくり訪れることにしましょう、と思いつつ自転車をこぎ出すのであった。
(ところで高台寺に行こうとしたときに霊山(りょうざん)観音を見て驚いた。あれは雰囲気ブチ壊しでしょう。)

  
L: ねねの道。石畳の落ち着いた通りである。  C: 二寧坂(二年坂)。オシャレな店が集中しており大人気である。
R: 高台寺・方丈。創建当時は伏見城から移築した建物が多くあったが、火災でかなり焼けてしまった。もったいない。

続いて目指すは知恩院である。八坂神社の脇を通って右に曲がり、門をくぐって狭い道を上がっていく。
知恩院は法然がひらいた浄土宗の総本山だ。徳川家が浄土宗を信仰していたこともあり、
江戸時代初期になって一気に現在のような大々的な建物が建てられたそうだ。
ゆるやかな坂道を上がりきると、まず巨大な三門が目に飛び込んでくる。本当に大きく、威風堂々としている。
現存する日本の寺院の三門・山門では最大だというが、まあとにかく圧倒的な迫力である。
この三門をくぐると、まるで城なんじゃないかと思うような石垣に囲まれた石段があり、
それをのぼったところにこれまた大規模な本堂(御影堂)が現れる。この本堂もまた、徳川家光による建物だ。
もとはわりと質素だった寺が、時の権力者によってどんどん拡張されていった結果というわけだ。

 
L: 知恩院・三門。とにかくデカい。工事の予算がオーバーして大工の棟梁夫妻が自刃したとか(白木の棺)。
R: こちらは本堂。左甚五郎が魔除けに置いたという「忘れ傘」、見上げて探したのだが結局わからず。悔しい。

なお知恩院から去る際、すぐ南にある円山公園にもちょっと寄ってみた。やはり残念ながら桜の時期には早く、
出店があちこちで営業準備を進めている状態だった。おそらく今とまったく違った光景になるのは来週末だろう。

さて今回の旅行では、京都観光ができるのが2日間ということで、大まかに京都を二分することにしていた。
まず初日に南半分を押さえて、2日目に丸一日使って北半分をしらみつぶしにしていこう、と考えていたのだ。
といっても厳密にそのように分けられるはずもなく、初日にだいぶ東側が北に食い込む格好になった。
知恩院まで進んでもうこれ以上東側を北上する気がなくなったので、さっさと恒例の役所めぐりをやることにした。
今日の「定番の京都観光地めぐり」はとりあえずここまででおしまい、なのである。

まず先に京都市役所を訪れる。三条通に出て西へ進み、鴨川沿いにちょっと北上して御池通の橋を渡ればすぐ。
ところで、ほかの京都のn条通はみんな広いのに、なぜ三条だけは狭くて御池通の方が広いのかわからない。
三条通は明治時代はメインストリートだったそうで、それでそこだけ拡張できなくて代わりに御池通を広げた、
という解釈でよろしいのだろうか。都市社会学が専門のくせして知らなくってすいません。

そんなことを考える間もなく京都市役所に到着である。交差点越しにまず撮影。
京都市役所の建物については、さすがに市のホームページに詳しい情報が掲載されている(⇒こちら)。
建てられ方を見てみるとけっこう面白い。まず正面玄関を含めた東半分が1927(昭和2)年に先につくられ、
次いで残りの西半分が1931(昭和6)年にできあがり、そうしてほぼ左右対称の現在の形に仕上がったのだ。
設計は京都市営繕課名義になっているが、西洋風の全体に細かい東洋風の装飾を施すなど、
意匠面では中野進一が京都大学の本館・時計台の設計をした武田五一の指導を受けて完成させたとのこと。
広々とした御池通に面して建つ京都市役所は、ほかの市役所にはない独特の存在感がある。

  
L: 京都市役所。道幅の広い交差点に位置していること、特徴的な飾りを持つことで、独特の存在感がある。
C: 広々としたオープンスペースの向こうにエントランスがある。全体を見ると西洋風だが、細かい部分は個性的。
R: オープンスペースの様子。ジャマになるものがほとんどなく、来訪者を気軽に受け入れる空間となっている。

 
L: 側面はこのようになっている。木漏れ日を浴びてまだら模様になってしまっている。念のため。
R: 京都市役所の裏側。敷地いっぱいに増築がなされているのだ。

6年前に京都市役所に訪れたときにはオープンスペースでイベントが行われていたが(→2004.8.7)、
今日は子どもたちが遊んでいた。本場の「いんじゃんぴょい」を初めて聞いた。方言って面白い。
ほかの役所のオープンスペースがあくまで役所の敷地の内側という一線をかたくなに守ろうとするのに対し、
京都市役所のそれはセットバックして歩道と完全に接続した前庭といった形になっており、
それによって市役所の建物が来訪者を見守る「美しい壁」と感じられるような要素があるのだ。
開かれた公共建築というものを考えたとき、この京都市役所の存在意義は非常に大きなものだと僕は思う。

次は京都府庁舎だ。ケヤキ並木を通って南側からアクセスすると、京都府庁旧本館が現れる。
こちらもやはり、京都府のホームページに詳しい情報が掲載されている(⇒こちら)。
松室重光の設計で1904(明治37)年に竣工し、重要文化財にも指定されている建物である。
(石田潤一郎『都道府県庁舎』によれば、文部省の久留正道も設計に関わっているとのこと(→2007.11.21)。)
こう書くともう使っていないように思われそうだが、今もしっかりと現役。中で職員が働いている。
京都府庁旧本館は明治30年前後に何度か頓挫・否決されながらもじっくりと建設計画が立てられ、
そのおかげか先行する洋風の庁舎の事例を十分に消化した仕上がりとなっており、
この後に続く庁舎建築にとって重要な模範的存在となったそうだ。

  
L: 京都府庁旧本館。  C: 門をくぐって正面から眺める。  R: 角度を変えて撮影。車寄せが派手である。

中に入ってみる。かつての知事室などは一般に公開されており、自由に見学することができる。
知事の座る椅子に腰かけると、そのまま窓の外にまっすぐ比叡山を眺めることができるのだそうだ。
また、中庭には桜の木が植えられており、美しい花を咲かせていた。警備員のおじさんが教えてくれたのだが、
観光客がそこそこおり、多少マニアックではあるものの京都の観光スポットとして一定の認知度があるようだ。
現役で使われていながら価値があるものとして一般にも開放されている。役所マニアとしてはうれしい例である。

  
L: かつての知事室。椅子に座って比叡山を眺めるのは、京都府のトップにのみ許された特権だったそうだ。
C: 中庭の桜。京都府庁旧本館は「ロ」の字型庁舎の完成型と言える存在だそうだが、その中心に位置している。
R: 旧本館の北側。議事堂はこちら側の1階と2階を吹き抜けとなって占めていた。

現在の京都府庁1号館は、旧本館の西側に建っている。狭い敷地にどっしりと建っており、圧迫感が強い。
その手前(南側)には議会棟。旧本館の北にはこれまたどっしりとした2号館がある。
それぞれバラバラにつくられており、1号館は1990年、2号館は1971年、議会棟は1969年の竣工。
なお、現在メインとなっている1号館の設計は、岡田新一が主体となって行われたようである。

  
L: 旧本館の西側にある議会棟。  C: 京都府庁1号館。敷地の端から旧本館までの間をぴっちりと埋めている。
R: 京都府庁2号館。確かに1970年代風で、それはそれでけっこう興味深い建物である。

あちこちいろいろ見ていたら16時を回ってしまった。これで京都1日目は終了とするのである。
本日の宿はちょっと妙な宿で、個室が広めのベッドとなっている、カプセルホテルである。
ついこないだ営業を始めたばかりで、まだビルの工事が完了していない。でもその分だけ安かった。
まあそれはそれでいろいろ見えて面白いので、非常に興味深く過ごさせてもらったのであった。

部屋に入って一休みのつもりが軽く眠ってしまい、辺りが暗くなってからメシを食いに外に出る。
京都駅方面へと自転車を走らせたら、京都タワーが怪しく光っていた。
とはいえ光る京都タワーは京都駅を目指すには絶好のランドマークで、とても便利な存在に思えた。
表はきれいだが裏側はけっこう汚い京都タワーも、そろそろ寿命を考える時期に来ているかもしれない。
そんなことを考えつつデジカメのシャッターを切る。なかなかきれいに映った。

 夜の京都タワー。

明日は早朝から休みなく京都を走りまわるつもりだ。今日みたいな天気にならないことを切に祈るのであった。


2010.3.25 (Thu.)

本日は修了式。終業式ではなく修了式。年度の終わりはそんなふうに名前が変わるようだ。
長野県ではここで異動する先生が発表されたものだが、こっちではそういう要素は一切ない。
思えば戸惑いどおしの一年間だった。最後まで違和感だらけだったなあと思っているうちに式は終了。

夜になり、旅の支度をととのえて家を出る。残す都道府県庁はあと5つ。
この春休みでそのうち2つ、京都と奈良をクリアするのである。もうゴールは近いのだ。

今回は究極的に経済的な交通手段である「青春18きっぷ+ムーンライトながら」で西へと向かう。
下りのムーンライトながらの日付が切り替わるのが小田原駅なので、まずはそこまで電車を乗り継ぐ。
横浜に出て東海道線を使う方が圧倒的に楽なのだが、東急と小田急の方が安いのでそっちを選択。
東急大井町線が延伸したとはいえ田園都市線に乗り換えないといけないのはまったく変わらない。
延々と揺られて中央林間にたどり着くと、コンビニで食料を買い込んで小田急に乗り換える。
小田急の中央林間から2駅の相模大野まで戻って、そこから小田原を目指す。このひと手間が面倒くさいのだ。
小田原駅に着いたときにはけっこうな疲れを感じてしまっていた。しかし直感ははたらく。
明日の朝食を今のうちに買っておくべきだとひらめいたので、閉店間際のコンビニで食料を追加購入。
同じ目的の乗客がつくる列に並んで青春18きっぷにハンコを押してもらい、改札を抜ける。
無事にムーンライトながらに乗り込むと、食べるものを食べてさっさと寝る。
起きたらいよいよ旅が始まる……いやもう実は旅はすでに始まっている。今は束の間の休息である。


2010.3.24 (Wed.)

学年の先生方で納め会があった。家から自転車でちょっと行った先の店で、
もちろん一度も入ったことはないのだが、よく休みの日に通りがかる店だった。
何度もこの日記で書いているように、学年では僕だけ若いという状況で、
年上とのコミュニケーションが大の苦手である僕としては、なかなか厳しい一年だった。
でも先生方は本当によくしてくださり(甘やかしてくださったと言えるくらいかもしれない)、
予想以上に余裕を持ってこの一年を過ごすことができたと思っている。
来年度からはもうちょっとマトモにお役に立てるようにしなくちゃいけないなあと、
あらためて静かに反省したしだいである。一年間、本当にありがとうございました。


2010.3.23 (Tue.)

本日は球技大会。グラウンドではサッカー、体育館ではバスケットボールとドッジボールをそれぞれやる。
僕は初めてサッカーの審判というものをやることになったわけだが、まあ正直言ってうまくできねーできねー。
クラスマッチレベルの(言っちゃあなんだが)どうでもいい審判でさえ、思いどおりにこなせない。
こんなんじゃ公式戦の副審とか絶対ムリだ、と内心青くなるのであった。

ところで意外にめちゃくちゃ盛り上がるのがPK戦。むしろふつうのサッカーの試合じたいよりも盛り上がる。
男子の試合がPK戦にもつれ込んだのを見て女子は大興奮し、自分たちもPK戦がやりたいがために、
同点に追いつこうとする感じ。3-2できれいに決着がついて試合が終わってからも「PK戦だけでもやらせて!」と、
完全に手段と目的が入れ替わってしまった主張をしてくるのであった。ニンともカンとも。

夜、ジーンズを買いに行く。お恥ずかしいことに、僕は服を買うという行為が恥ずかしくってたまらない人間で、
(『げんしけん』で服を買おうとして右往左往とする斑目が自分に重なって見てられんやった(→2008.1.21)。)
実は生まれてこの方、マトモにズボンを買いに行くということがなかったのである。はっはっは、なんて三十路だ。
とはいえいつまでもズボンを買えない子では困るので、勇気を出してジーンズを購入したしだい。
(服を買うのが恥ずかしい心理的理由というか屁理屈については、いずれきちんと文章化したいとは思う。
この問題は実はかなり心理の深い部分にまで関わってくるので、じっくり考える時間が必要なのだ。)

無印良品に行ったのだが、ジーンズは「スリム」「ストレート」「レギュラー」「リラックス」の4種類あり、順に太くなる。
ボテッ、ダラッとした服は好きじゃないのでまずはスリムから試着してみたのだが、
僕は尻と太ももが異様に大きい特殊な体型をしているので、ジーンズが太ももでつっかかる。
おまけに脱ごうとしてもうまく脱げない。八丈島でウェットスーツと格闘したときとまったく一緒だ(→2009.8.23)。
試着室で何分間かのた打ち回った挙句、どうにか生還を果たしたしだい。まるでマンガですぜ、マンガ。
ストレートでもやっぱりダメで、オレは下半身が人魚みたいになった状態でこの先を生きていくのかしらん、
というような軽い絶望を味わった末にどうにか脱出すると、もはやすっかり汗だくに。ズボンを買うのは大冒険だ。

結論から言うと、「レギュラーがオレにとってのスキニー」といったところか。どうにか体に合うものが見つかった。
ウェストは82cmなのだがそれはそうしないと尻が入らないからで、ベルトを締めると腰がきゅっとしぼむ。
店員さんに頼んで裾上げの長さを測ってもらう。自分の身体が値踏みされているようで非常に恥ずかしい。
「足長いですね。裾上げしなくてもいいんじゃないですか」と言われてちょっといい気分になるが、
足下をズルズルさせるのはイヤなので、断固裾上げをお願いする。どうも世間ではズルズル気味が流行しているようだ。
ところが無印良品では裾上げに何日かかかるということで、これだと旅行に間に合わないではないか、と愕然。
しょうがないので裾上げは後日頼むことにして、ジーンズをそのままの長さで買って帰ったのであった。
京都・奈良を足下ズルズルさせて歩くのは不本意なのだが、いつもの硬いジーンズで歩くのはもっと不本意だ。
旅行中、自転車用の裾巻きバンドを両足にいつも着けておくことで、足下ズルズルをごまかすことにする。

以上、オレは足が長いんだぞという自慢でした。


2010.3.22 (Mon.)

朝、起きたらものすごく天気がよくって、じっとしていられない気分になる。
そうだ、自転車で出かけよう!と思い立ち、支度をととのえるとサドルにまたがる。
さあ行き先はどこにしようか。頭の中で会議をすること2秒、目的地は横浜に決まった。
何度も行っている街だけど、行っていないところも多い。せっかくのいい機会だから、
一日かけてくまなく訪れてみよう、そう思ったのだ。そういうわけで、横浜大冒険のはじまりはじまり、である。

横浜へアクセスするルートは主に2つ。第一京浜こと国道15号か、第二京浜こと国道1号か。
前者は僕の家からは遠回りになるので、よほどのことがない限り使わない。後者が僕のメインルートだ。
本日もいつもどおりに国道1号コースで行く。少しでも早く横浜に着き、少しでもあちこち回りたいからだ。

東神奈川駅の脇を抜けて京浜東北線と並走するようになってから、西口へ行くかみなとみらいへ行くか考える。
でも結論はすぐに出る。晴れた日に自転車で走るみなとみらいは格別に楽しいのだ。まずはそれを味わうのだ。
取り舵いっぱい、みなとみらいに針路を向けて線路をまたぐと、ちょっと進んでペデストリアンデッキの上へ。
下りればそこはいよいよみなとみらいなのだ。歩くには退屈なスケールを自転車で飛ばすのは最高だ。
さっそく、みなとみらいをあてもなくさまよう。気になる建物、目についた建物へと近づいていき、ぷらぷらする。
ただそれだけである。でも、みなとみらいと自転車という組み合わせは、それ自体が抜群に楽しいのだ。

  
L: 赤レンガ倉庫。中には雑貨屋などがあるが、個人的には中の店よりも周辺の雰囲気の方が好き。
C: ランドマークタワーを見上げる。ふもとの船は日本丸。広角だと両者が収まってしまうからすごい。
R: みなとみらいを遠景で眺める。高層ビル群と赤レンガ倉庫との対比がなかなかきれいだ。

今回は勝手気ままに横浜をぶらつくのが目的なのだ。みなとみらいをやたらめったら走りまわり、
飽きると今度は西側の小高い丘、紅葉ケ丘を目指す。前川國男設計の音楽堂や図書館を見るのだ。
ふだんならみなとみらいから横浜駅西口まで戻る際に無視している坂道を必死で上がっていく。実に急である。

上りきったところにあるのが神奈川県立青少年センター。かつて横浜開港の際、神奈川奉行所が置かれたという、
実に由緒ある場所なのである(神奈川奉行所は明治時代になって神奈川県庁と改称される。県庁のルーツだ!)。
音楽堂・図書館からやや遅れて1962年に開館。設計はもちろん前川國男で非常にモダニズム色が強い。
青少年の支援や指導、ひきこもり・不登校・非行等の対策、科学体験活動、舞台芸術活動の振興の4事業を行うが、
それを反映して建物の中は多目的プラザ、科学体験室、科学情報室、演劇資料室、青少年資料室ホールなど、
規模のわりにはとても多彩な利用がなされている。リニューアルが効いて、外見はなかなかきれいである。

 神奈川県立青少年センター。中身のジャンルが幅広すぎである。

青少年センターの奥にあるのが神奈川県立図書館。1954年、右手に隣接する神奈川県立音楽堂とともに建てられた。
前述のように前川國男の代表作のひとつとして知られており、日本におけるDOCOMOMOのリストにも載っている。
かつてはこの一帯にある県施設の再整備計画があったが、保存運動が起きたそうである。確かにこれはすごい。

  
L: 神奈川県立図書館。神奈川は県立図書館ができたのが全国で2番目に遅かったそうだが、その分、気合を感じる建物。
C: エントランス。右手のピロティを通して音楽堂とつながっている。前川モダニズム全開である。
R: 中庭から眺める図書館。図書館は施設の性質上、採光のバランスが難しいと思うのだが、これは大胆でかっこいい。

続いてつながっている神奈川県立音楽堂に行ってみる。やっぱりこっちもモダニズム。
エントランス部分の鉄骨の枠が黄色く塗られていて、そのワンポイントが明るいアクセントになっていると思う。
建物の中に入るが、コンクリートと鉄が大胆に使われていて、そこにいい意味での「昭和の落ち着き」を感じる。
昭和の品のいいモダニズムは、素材が媚を売ってこない。素材の表情をそのまま生かして調和させるのが美しい。
これは素材の選択肢が増えた平成に入ってからは、すっかり遠くなってしまった感覚のように思う。
まあそういう印象を持つことは、今となってはある種のノスタルジア、後ろ向きな感情ではあるのだが、
紅葉ヶ丘の一連の前川作品からは、当時の日本のポジティヴな視線を読み取れずにはいられないのだ。

  
L: 神奈川県立音楽堂。現役バリバリで、使っているからこそのきれいさがある建物だ。何より、中がすごく明るい。
C: ふつう音楽ホールというと閉鎖的な空間というイメージがあるが、この建物は自然光をたっぷり採り入れている。
R: ホール内部ではこの後に開催されるコンサートの練習をやっていた。音響面の評価も非常に高いそうだ。

お次は野毛山動物園に行ってみるのだ。男ひとりで動物園というのも冷静に考えると切ないものだが、
そこは太陽が黄色かったからしょうがないのだ。これだけの晴れ具合ならどこに行っても許されるのだ。
南へと豪快に坂を下っていき、交差点で右折。今度は西へと猛烈な上り坂を進んでいく。横浜は起伏が激しい。
やたらとマッシヴな図書館の足下を抜けてさらに坂を上がっていくと、そのてっぺんにあるのが野毛山動物園。
小さい子どもを連れた家族でごった返す中、堂々とした足取りで僕も中に入ってしまうのであった。

野毛山動物園の中は思ったよりも小さい印象がした。小ぢんまりとした園内に、やや昭和の匂いのするオリが並ぶ。
こだわりなのかどうなのか知らないが、鳥類が充実している。実にさまざまな鳥があちこちにいた。
大人気だったのがレッサーパンダ。人だかりの中、木に登っていたり奥の方にいたりでよく見えなかったのだが、
そのうちに1頭がぐるぐると歩きだし、目の前を通るとそこから歓声があがる。なるほど確かにこれはかわいい。
さて、野毛山動物園ではかつてホッキョクグマを飼育していたのだが、ズーラシアに移管されて今はいない。
そこでホッキョクグマがいた当時の状態を残して一般に開放。それで人間がいっぱいオリの中に入っていた。
動物園でヒトが展示されるというのはよくある逆説だが、いざ現実として目にすると、なんとも妙な感じである。
売店・休憩所のある一角はすさまじい混み具合になっていた。とても落ち着いて休めるような状態ではない。
中をくまなくしっかり歩きまわると、もう一度レッサーパンダで和んでから野毛山動物園を後にした。

  
L: 野毛山動物園・入口。入場無料なので大人気なのである。立地条件からすると、規模は大きめになるそうだ。
C: レッサーパンダが! めちゃくちゃかわいい!  R: ホッキョクグマの代わりにヒト。あらためて見るとシュールだ。

まっすぐそのまま南下して、伊勢佐木町に出る。僕はここの庶民的というか少し地方都市的な雰囲気が好きで、
たまに来てはほっとすることがある(→2006.5.21)。今日は伊勢佐木町の最果てまで進んでみようと思い、
自転車を引いて奥までグイグイ歩いていってみた。しかし行けども行けども伊勢佐木町は続く。
どこまで続くんだコレ、と思うが、歩いても歩いても商店街はまったく衰えずに続いているのである。
結局、阪東橋の辺りであきらめて引き返した。いやはや、すごいものだ。

曙町で南に出て、横浜橋通商店街も歩いてみる。こちらはアーケードの中に活気のある店がみっちり詰まっている。
ここの第一印象は、「大阪みたいだ!」というもの。商品の量が非常に豊富で、値段が安い。
そして何より、まったく気取らない雰囲気が大阪の商店街そのものなのだ。まるでテレポートした気分だ。
横浜が実に多面的な街だということは知っているつもりだが、それにしてもこれはすごい。
歩けば歩くほどに発見がある。もしかしたら、横浜は日本で最も「密度の高い街」なのかもしれないな、と思う。

 
L: 伊勢佐木町を行く。個人的には、都会の要素と田舎の要素のバランスが絶妙に思える空間である。
R: 横浜橋通商店街。雰囲気は完全に大阪のそれ。関西弁の幻聴が聞こえてくるくらいに大阪。

さて、ご存知のとおり僕は県庁めぐりと一緒に市役所めぐりもやっているのだが、
横浜市役所は写真1枚とだいぶぞんざいな扱いをしているので(→2006.5.21)、あらためてきちんと撮影する。
オープン戦ながら大きな歓声が聞こえる横浜スタジアムの脇を抜け、関内駅へとまわり込んでいく。
すると街路樹の中に、茶色いボディに白い格子が引かれた、村野藤吾設計の横浜市役所が現れる。
全体はしっかりモダニズムでつくられているのだが、細部を見つめると職人の手づくりという感触がする。
なるほどこれは確かに村野の仕事だ。敷地に沿って一周しながら撮影していく。

  
L: 横浜市役所。横浜スタジアムに面している、南東側のファサードである。
C: 横浜スタジアムのレフト側入口から交差点を挟んで眺めたところ。  R: これが正面になるのかな。

横浜市庁舎は1959年、横浜開港100周年を記念して建てられたという。
村野は海に浮かぶ船をイメージして設計したそうだが、ポストモダンの今となってはもっと直接的な建築があるので、
そこまではっきりとその影を追いかけることはできないように思う。僕のセンスが欠如しているだけかもしれないが。
横浜市では現在、市庁舎を建て替える場所の選定をしている段階だという。確かに分散具合はひどい状況なのだ。
築50年を過ぎ、この名建築の今後がそろそろ気になってくる頃合である。

  
L: 敷地北側から撮影。  C: 市会棟のピロティ。議会棟ではなく「市会棟」なのがこだわりを感じさせる。
R: 関内駅入口から眺める横浜市役所。コンクリートの柱にレンガを詰めているそうだ。なるほど確かに村野っぽい。

ところで横浜市役所の道を挟んで北東側には、背の高いビルに囲まれて完全にモダンな建物が残っている。
調べてみると神奈川県警察本部の尾上町分庁舎ということで、設計者も不明なら竣工年も不明なのである。
でも気になっている人は多いようで、ネット上で紹介している人がけっこういる建物だ。確かに存在感があっていい。

 神奈川県警察本部・尾上町分庁舎。実際に見るとすごくインパクトがある。

市役所の次は当然、県庁だ。神奈川県庁は以前にも訪れて撮影をしたことがあるが(→2006.5.21)、
あらためて撮影し直してみる。やはり市役所と同じような感じで、敷地を一周ながら撮影していく。
本庁舎は1928年竣工。以前の県庁舎が関東大震災で倒壊したため、コンペで設計案を募ったのである。
当選したのは小尾嘉郎の案で、これをもとに佐野利器の指導の下、神奈川県内務部が設計を行った。
なお、このコンペの経緯については、近江榮『建築設計競技』に詳しい(→2004.12.4)。
それによると、小尾案が一等に選ばれた理由は「和風だから」ということらしい。
港町の横浜だけに、来日した人々に対して日本らしさを強調しよう、という意識がこの案を当選させたそうだ。
(デザインのキレ具合という点では、三等の土浦亀城案の方が圧倒的なのだが、当時評価はされなかった。)
結果、このあと民族主義的な風潮が高揚していく中で流行する帝冠様式の、先駆的な事例となった。
また、神奈川県庁本庁舎は、いわゆる「横浜三塔」の「キング」としてもよく知られている。
(高い建物のない昔は「キング」の県庁、「クィーン」の横浜税関、「ジャック」の開港記念館が横浜の象徴だった。)

  
L: 神奈川県庁・本庁舎。  C: 正面(東南側)から見たところ。  R: 側面(北東側)。交通量が多いぜ。

  
L: 横浜税関前から交差点を挟んで撮影。  C: 本庁舎の背面(北西側)。新庁舎に面しており、通路が取り付けられている。
R: 南西側から交差点を挟んで見たところ。手前には交番がくっつているので、ちょっとほかと雰囲気が異なっている。

県庁新庁舎もあらためて撮影してみる。坂倉準三の設計で1966年に竣工したこの建物は、
鉄骨鉄筋コンクリート造、地上13階建てで非常に大きい。おかげで撮影をするのが大変だ。
外から見て想像がつくように、エレベーターやトイレなどが中央部に配置されたコアシステムとなっている。
本庁舎はもちろん歴史的に意義のある建物だが、この新庁舎も建築史的な視点からすれば、
「戦後の高層オフィスビル」ということで実に典型的な事例である。さすが横浜、といったところだ。

この日記では「クィーン」の横浜税関についてふれたことがないので、せっかくなので行ってみる。
(「ジャック」の開港記念館についてはちょこっとだけだけど、いちおう写真を載せている(→2006.5.21)。)
横浜税関・本関庁舎の竣工は1934年。設計したのは大蔵省営繕管財局工務部(下元連・吉武東里)で、
建設には当時の失業者を救済する目的もあったという。塔は当初、神奈川県庁舎より低い予定だったが、
国の機関である税関は県庁より高くなきゃダメ!ということで三塔の中で最も高くなったそうだ。

  
L: 戦後に都心部を席巻した高層オフィス建築の典型、といった感じの神奈川県庁新庁舎。
C: 横浜税関本関庁舎。  R: 港の側に出てから眺めた横浜税関。なるほどこっちの方が正面ってわけだ。

そのまま横浜港大さん橋国際客船ターミナルに行ってみる。
大さん橋は1894(明治27)年の完成以来、「メリケン波止場」として横浜市民に知られていたそうだが、
今のターミナルができたのは2002年。1995年にコンペが行われてからけっこうかかってオープンした。
アレハンドロ=ザエラ=ポロとファッシド=ムサヴィのFOAによる設計はコンピューターを駆使しており、
内部の各階や外部の通路・芝生などがなめらかに連続したきわめて大胆なデザインとなっている。
この場所には実にさまざまな思い入れがあるのだが、来るたびに穏やかな気持ちにさせられる場所である。
また、夜にここから眺めるみなとみらいの夜景がまた格別なのだ。24時間開放しているので見放題だ。
この建物、雨のときにはかなり悲惨なんだろうけど、幸いなことにそういった目に遭ったことはまだない。

  
L: 横浜港大さん橋国際客船ターミナル。曲線のように面を連続させることで独特の空間がつくりだされている。
C: 突端から後ろを振り返ったところ。ちゃんとした建築物で、木のデッキと芝生という組み合わせが面白い。
R: 国際客船ターミナル内部の様子。船の出航を待つ人や観光客が行き交う。

さらに東へ行って山下公園へ。今ではすっかり横浜らしいオシャレな観光スポットとなっているこの公園だが、
実は関東大震災の復興事業として、瓦礫などで海を埋め立ててつくられたという歴史を持っているのである。
敷地北端のインド水塔はその記憶を今に残す施設だ。被災したインド人を横浜市民が救済したことへの感謝として、
1939年に在日インド人協会から寄贈されたものである。通りがかる人たちは興味深そうに説明を読んでいた。
山下公園の中では大道芸人たちがパフォーマンスしており、大きな人だかりができていた。
いかにも横浜らしい休日の午後の風景だなあと思いつつ、地面を蹴って自転車を転がして進む。

  
L: インド水塔。設計したのは意外にも日本人。  C: 山下公園。1930年開園で、今は横浜でも最も有名な公園のひとつ。
R: かつて船溜まりだった名残を残すバラ園。周囲より一段低いサンクンガーデンとなっている。奥にあるのは氷川丸。

 山下公園より眺める横浜港大さん橋国際客船ターミナル。主人公は船ということだ。

山下公園の奥に面して建っているのは横浜マリンタワー。かつては実際に灯台としての機能を持っていたという。
横浜港を象徴するモニュメントを建設しようということで1961年に竣工したが、近年は観光地としての地位が低下。
まあ確かに、積極的に上ってみようという気にはならない。もうちょっと北にあればまた違うと思うのだが。
さらにその先には、横浜人形の家。1986年に横浜のイメージを活かした国際観光文化施設として開館したが、
どうして人形なのか、それがイマイチわからない。設計したのは主亡き後の坂倉建築研究所だが、
いかにもバブル期のハコモノらしく大雑把。個人的にはコンセプトにも建物にも賛同できない施設である。

ここまで来ると、元町商店街はすぐである。元町は山下町・山手・関内を結ぶ場所にあり、
外国人居留者を相手に商業が栄えて発展していった街だ。おかげで今も当時のハイカラなイメージが強く残っている。
中心となる通りでは1階部分をセットバックさせて歩行者のための通路をつくり、残って張り出した2階以上がつながり、
いわばアーケードとなって賑やかな街の印象を増幅させている。さすがは横浜、こういった演出が上手い。
むさ苦しい男の僕には縁のない店ばかりなのだが、それでも歩いていて十分楽しいのである。

  
L: 横浜マリンタワー。  C: 横浜人形の家。公共建築百選に選ばれているのだが……。
R: 元町通り。雰囲気づくりが非常に上手いなあと思う。用のある店なんてないのだが、歩き甲斐がある。

ここから坂を一気に上って、山手方面へと行ってみる。かなりキツい坂だが、そこは根性で上りきる。
坂を制覇したところにちょうどあるのが、港の見える丘公園だ。1962年に開園しており、知名度は高い。
よく聞くその名前からはオシャレな横浜の港町が見える高台をどうしても想像せずにはいられない。
しかしながら、実際に訪れてみると、とてつもないギャップを目の前に突きつけられることになる。
この公園から見えるのは、リアルな港なのだ。荷物が運ばれ、保管され、また出て行く、そういう港なのだ。
無機質なコンクリートと鉄ばかりの、働く港なのである。この現実との落差には思わず笑いが込み上げてきた。
もっとも、夜景は抜群に美しいらしいので、機会があればぜひ、そのもうひとつの「落差」を味わいたいと思う。

 
L: 港の見える丘公園から眺める横浜港。ベイブリッジまでの空間を、リアルな「働く港」が埋めるのであった。
R: 公園内にある大佛次郎記念館。近くにはバラ園もあるが、まだ花咲く季節ではなく、けっこうさびしい。

それはそれとして港の見える丘公園を面白がったところで、本格的に山手を自転車で走っていく。
もともと横浜の外国人居留地は関内だった(「関内」とはご存知のとおり居留地を隔てる関所の内側という意味)。
しかし関内は低湿な場所で面積も狭く、南にある高台が住宅地として目をつけられるようになる。これが山手。
1899(明治32)年の条約改正により外国人居留地が廃止されるまで多くの外国人住宅がつくられ、
おかげで今も異国情緒がふんだんに残る観光地として人気のスポットになっているというわけだ。

まずは外国人墓地から。これはペリーが再来日した際に水兵が1名事故死してしまい、
幕府に対して「海の見える場所」という条件で墓地を要求したのがはじまりなんだそうだ。
冬場以外は週末に一般公開をしており、せっかくなので僕も寄付金を納めて中に入ってみた。
墓石のデザインは多岐にわたっていたが、どれもどっしりとした印象で、「重さ」を感じさせた。

墓地を出ると、フラフラとさまざまな洋館を見てまわる。もうちょっと早く来ていれば余裕もできたのだが、
時間がなくってかなり急ぎ足で眺める感じになってしまった。ファサードを見ているだけでも楽しいし、
まあ今回はとりあえず雰囲気を味わっておき、いずれまた機会をみて訪れればいいや、と割り切るのであった。

  
L: 外国人墓地。1900(明治33)年から財団法人によって墓地の管理を続けている。
C: 山手資料館(旧中澤邸)。1909(明治42)年竣工で、横浜市内に現存する唯一の、明治時代の木造西洋館。
R: 山手234番館。1927年に外国人のための共同住宅として建てられたそうだ。

  
L: 山手にある電話ボックス。こういう一工夫が街の雰囲気をつくりだすんだよなあ。上手いなあ。
C: エリスマン邸。アントニン=レーモンドの設計により1926(大正15)年に建てられた。
R: カトリック山手教会。現在の建物は1933年に再建された。いかにもな、絵になる教会である。

ずっと進んでいったら山手イタリア山庭園に着いた。横浜のビル群を見下ろす見事な高台で、
かつてイタリア領事館が置かれたことから、イタリア山と呼ばれているのだという。
水路や花壇を幾何学的に配置するのが特徴のイタリア式庭園がつくられたのは、そのためなのだろう。
ここからの眺めはなかなか面白い。外交官の家もさすがにオシャレだし、ブラフ18番館だっていい。
しかし猥雑な横浜の下町に生えている無数のビルの屋上が立体的に連なる光景は、
山手の雰囲気とはまったく異なっている横浜の確かな側面を鮮やかに見せてくれるのである。

  
L: ブラフ18番館。1993年に現地に移築された。  C: 外交官の家(旧内田家住宅)。こちらは1997年に渋谷・南平台より移築。
R: 庭園側から眺めた外交官の家。こっち側から見た方が雰囲気がある。けっこう落差があると思う。

 山手イタリア山庭園。ホントに幾何学的。すごく人工的な感触のする庭園だ。


イタリア山から眺める横浜の下町ビル群。横浜の多層性が感じられる。

だいぶ日も傾いてきた。本日最後は中華街に行ってみるのである。
横浜の中華街は日本最大のチャイナタウンとしてよく知られているが、その観光地としての歴史は意外に新しい。
1859(安政6)年の横浜開港で外国人居留地がつくられ、欧米人とともに多くの中国人商人がやってきた。
そして関帝廟を建てるなどして現在の中華街の母体が形成されたが、あくまで外国人の街のひとつにすぎなかった。
関東大震災により欧米人が帰国すると中華街としての性質が強くなり、1972年の日中国交正常化をきっかけに、
日本人が多く訪れるようになり、そうして中華街は横浜の一大観光スポットへと変身したのだそうだ。

正式なやり方はよくわからないが、とりあえず関帝廟にお参りしてみることにする。
チャイナタウンには必ずある関帝廟だが、なんでそんなに中国人は関羽が大好きなのか疑問に思って調べてみたら、
つまりこういうことらしい。関羽はもちろん武を司る神として崇められているが、生涯にわたり劉備に忠義を貫いたことから、
約束を守ることの象徴的な存在となり、結果、信用を重んじる商人によって商業神としても崇拝されるようになった。
(もちろん、関羽が当時の武将の中では極めて知的な人だったことも大きい。彼の知的な面が商人に歓迎された。)
外国へ渡る中国人は単なる労働力というよりも経済的な面で活躍した人が多かったから、
チャイナタウンに関帝廟が建てられるのは、中国人商人にしてみれば自然な流れということになるのだろう。
そんなわけで、いつも天神様にお参りするときと同じように、「ちったぁ賢くなりますように」とお願いするのであった。

  
L: 中華街!  C: 関帝廟。多くの観光客で賑わっている。欧米人の来訪者もそれなりにいた。
R: 関帝廟の本殿。原色のきらびやかな感じがいかにも中国風である。個人的には日光東照宮(→2008.12.14)を思い出した。

大雑把ながら、これでだいたいの横浜の観光スポットは訪れた。いやしかし横浜ってのは実に奥の深い街だ。
オシャレな表面だけを軽く味わおうと思えばそれも可能だし、どっぷりと歴史に浸かることだってできる。
なんというか、人間の人間らしい部分、華やかな部分とどうにもならない部分を並行して体験することができる。
それは他者との交流という歴史的経緯によってムリヤリに形づくられてきたものなのだろうが、だからこそ、
見事に可視化されているのである。まあ要するに、人間と都市の関係がとても正直で訪れ甲斐のある街ってことだ。


2010.3.21 (Sun.)

『イヴの時間 劇場版』。アニメ映画を見に行こうシリーズ第3弾である。
この映画、もともとは各話約15分で全6話の作品だった。それを編集した「完全版」を映画として公開したのだ。
「未来、たぶん日本。"ロボット"が実用化されて久しく、"人間型ロボット"(アンドロイド)が実用化されて間もない時代。」
を舞台に、人間とアンドロイドが暮らす日常における両者の関係性について描いている。
テーマとしてはそれほど目新しくないとあちこちで評されており、まあ確かにそのとおりではあるのだが、
暴力的な描写などはなく、日常性という視点から切り込んだ点がどこか爽やかな印象の作品である。

主人公は高校生のリクオ。家には女性型ハウスロイド(家事用アンドロイド)の「サミィ」がいる。
リクオはある日、サミィの行動記録をチェックするが、その際に命令したはずのない行動があったのを見つける。
真相を確かめるべく、リクオは友人のマサキとともに、その行動があった場所を訪れる。
そこは人間とアンドロイドを区別しない(区別がつかない)喫茶店、「イヴの時間」だった。
(ふだんアンドロイドは無表情で頭上に光のリングがあるが、店内ではそれがなくなり誰もが表情豊かにふるまう。)
迎えたウェイトレスのナギのほかに店内にはさまざまな客がおり、リクオとマサキは店に通って話をするようになる。
舞台となっている世界ではアンドロイドが機械にすぎないとして差別的な扱いを受けることがままあり、
またアンドロイドに対して人間視したり好感を抱いたりする者を「ドリ系」と呼んで蔑視する風潮となっている。
そのような状況下で人間とアンドロイドの区別をしないことは危険なのだが、ナギは頑としてその姿勢を崩さない。
誰が人間で誰がアンドロイドなのか、そういった謎を根底に抱えながら物語は進行していく。

とはいっても、話の本筋や狙いからすれば、誰がどっちでどっちが誰なのかはそれほど重要なことではない。
この物語に登場するアンドロイドはすべてマジメで、「イヴの時間」にいる間だけ自由を満喫しているというよりは、
「イヴの時間」にいる間に人間らしくふるまい、そのことでより人間を深く理解しようと試行錯誤をしているように見える。
アンドロイドやドリ系を排除しようとしている人間たちに対して抵抗しようとせず、まるで原罪を受け入れるようにして、
人間が自分たちを排除したくなる心理を知ろうとしているようにそれぞれがふるまっている。その点が興味深い。
物語ではそのようなアンドロイドたちの姿勢が描かれる一方で、拒否反応を示す人間たちもわずかながら描かれる。
過去につらい思いをしているマサキが最終的にその代表者の役割を果たすことになるのだが、
物語の中に解決策は描かれない。ただ人間とアンドロイドの交流がゆったりと続いていくだけである。
だからいちおう映画らしくクライマックスは用意されているものの、全体としては「イヴの時間」の心地よさの描写が多い。
またそういう時間の共有こそ最も描くべき部分であるから、その点においては独特の世界観をよく提示できている。

難癖をつけるとすれば、まず編集の問題。元が15分×6話ということで、それをムリにつないだ不自然さは残る。
また、「倫理委員会」という反ロボット団体の名称もよろしくない。誰にその任務を委ねられたのかが不明瞭で、
これが公的な機関なのか私的機関に準ずるものなのかで物語の背景が大きく変化する。そこが気になってしまうのだ。
最大の問題は、続編との兼ね合いもあるとは思うのだが、「時坂事件」に関する言及のあまりの少なさ。
人間とアンドロイドとの交流場面を焦点にするなら、むしろ時坂事件に関しては出してこない方が正解。
こっちの方がより大きな謎だから、観客の興味はそちらに引っ張られ、結果として消化不良になる要素が増えるだけ。
最後になってその部分が変にクローズアップされ、せっかくのテーマがぼやけてしまった印象がするのである。

まあ、僕の感想としては「一家にひとり、サミィちゃんが欲しい!」というもので、
ドリ系と言われようがなんだろうが僕はサミィが欲しいのであります。髪型を変えるところなんてたまらんですよ。
「イヴの時間」という特別な時間・場所の描き方、穏やかに主人公や人間を知ろうと試みるサミィたちアンドロイド、
そういった部分をとても魅力的に描いており、考えさせるというよりも感じさせる作品になっている。
正しい/正しくないという軸は存在しない。あなたはどう受け入れますか? どう受け入れるのが人間らしいですか?
まったく直接的でなく、場面を淡々と描くことだけで議論を提示することに成功している作品である。
エンタテインメントとして熟練している感じはあまりないが、確実に観客に何かを残すことができていると僕は思う。


2010.3.20 (Sat.)

旅行に出るたびに持ち帰ったパンフレットを、クリアファイルに整理してみる。
僕は旅先の観光案内パンフレットを集めるのが好きで、その場の衝動にかられていろいろ持ち帰っている。
気づけばそれが尋常でない量になっており、このたびきちんと整理してみようと思い立ったのである。

まずクリアファイルじたいそんなに安いものではないのだが、無理していくつも買ってみた。
そうしてバスンバスンとパンフレットを差していったのだが、とてもじゃないけど今あるクリアファイルじゃ足りない。
大げさでなく、1県につき1冊必要なほどに量があるのだ。後先考えず持ち帰っているので当然といえば当然だが、
それにしてもこれはひどい。収集癖があるというのはあまりいいもんじゃないなあと思うのだが、しょうがない。
まあ、今後もコツコツとクリアファイルを買っていって、きれいに整理していきたいものだ。


2010.3.19 (Fri.)

本日は卒業式なのであった。ウチの子どもたちは「本番に強い」んだそうで、
確かに練習ではダラダラ三昧だったにもかかわらず、本番は怒られることのないレベルできっちりこなした。
うーん、やるねえと思う反面、それはそれで正直なんだかムカつく。

直接教えたわけではないので僕としてはそれほど感慨深いわけではないはずなのだが、それでもやはり、
1年という短い期間ながらちょぼちょぼ顔を合わせた連中が巣立っていくのはうれしくもあり、またさびしくもある。
まあ、ここは素直に、次に会うときにはどれだけ大人びた顔つきになっているのかを楽しみに待つとしよう。
しばしの別れだ、またどこかで会おう。


2010.3.18 (Thu.)

何がおかしかったって、今日の昼休み、アニメ好きの女子生徒が6人くらいで徒党を組んで、
東京都青少年健全育成条例の改正案に反対するデモを廊下で繰り広げたことである。
ノートに「絶対反対!」「石原ヤメロ!」といったフレーズをマジックで太く書き、それを掲げてシュプレヒコール。
しまいには教室の後ろの黒板にまで改正案反対のビラ(というかノートにマジックで書いたもの)を貼りだす始末。
今回のムチャクチャな条例改正案の内容をどこまで理解してどこまでの理由づけで反対したのかは知らないが、
アニメのピンチ!ということでこの反応である。ほかの先生方とともに大爆笑したのであった。
僕はデモという行為に対して少しもポジティヴな感情を持っていないものの(→2006.8.22)、
さすがにこれにはほほえましいという気持ちにならざるをえなかった。いやー、こいつらは実に面白い。


2010.3.17 (Wed.)

クロード=レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』。構造主義の親玉が1955年に世に送り出したノンフィクションである。
というよりは、この作品が大きな反響を呼んだことによって構造主義が現代思想に現れるきっかけとなった。
昨年にレヴィ=ストロースが100歳で亡くなったというのはいろんな意味で大きな衝撃だった。
それで「さすがにこりゃあ読まなきゃいけねえぞ!」となって、このたびどうにか読破したのであった。

確かに分量の多い本ではあるのだが、訳に12年ってのはいくらなんでも時間がかかりすぎである。
(ちなみにレヴィ=ストロースはこの本をわずか5ヶ月で書き上げたんだそうだ。)
そのせいか、序盤はなんだか非常に読みづらい。フランス語の凝った表現を逐一丁寧に訳しているのがわかる。
あまりにクソマジメに訳しすぎて、読んでいるこっちの肩も凝ってくる。それで息抜きが必要になることが何度もあった。
しかし後半に入ってくると訳者も慣れてきたようで、かなり読みやすくなってくる。最初からこうならいいのに、と思う。

内容は多岐にわたるが、基本的にはレヴィ=ストロースの自叙伝であり、旅行記であり、民族学的な考察である。
これらの要素が時系列とはまったく関係なく、その場の思いつきのような順序で次から次へと展開されるのだ。
(ブラジルの大学への赴任、アメリカへの亡命、インド、イスラム圏、川と陸路でのインディオの調査、などなど。)
文体はつねにフランス語らしい比喩がふんだんに散りばめられ、あっちの文学者にはいいんだろうけど、
こっちの読者としてはもどかしいというかもったいぶった姿勢が鼻につくというか、そういうところは否めない。
が、それがまた1930年代のフランス人が見た未開の熱帯雨林というリアリティを存分に感じさせる要素でもある。
レヴィ=ストロースは過去(それは1955年のインディオにも過去だし、人類の過去でもある)を、哀しみをもって回顧する。
どうにもならない空間的距離、時間的距離で隔てられた「かつてあった人間たち」を、決して憐れむのではなく、
戻ることのできない位置にきてしまっている自分たちとともに哀しむのである。その姿勢が一貫している。

後半には非常に困難な旅の記録とともに、さまざまなインディオについての調査・分析が詳しく述べられる。
言語・装飾・行動様式など、とにかく描写が細かい。旅の困難さについての記述も実に生々しい。
おかげで読んでいるこちらも冒険をしているような気分になるのだが、レヴィ=ストロースの視線はつねに冷静で、
変質を余儀なくされるインディオたちの生活を、「今のうちに記録しておかなきゃ!」という危機感に突き動かされつつ、
そのどうすることもできない変質、もっと言えば彼らが完成させた文化が解体されていくことを哀しみながら、
こと細かに記録・紹介していくのだ。敬意と諦念の入り混じった文章は、華やかな冒険譚からはかけ離れている。
(もし未開の土地への冒険が「勝利」を求めるものであるならば、レヴィ=ストロースのそれはすでに「敗北」している。
 彼はそんな冒険に勝利や栄光などありえないことを十分に理解している。むしろ、なぜ勝利や栄光がないのか、
 なぜ冒険が敗北でしかありえないのか、それを圧倒的な描写量と冷静な客観視の力で記述している。)
レヴィ=ストロースは自分たちとまったく異なるコードの下で暮らす人々に対し、どこまでも客観的な姿勢で接する。
つまり、すべての文化を相対視することで、同じ人間に現れた差異、時間的差異と空間的差異を綿密に記述し、
人間という種の可能性や本質(言い換えれば、「構造」!)を検証しようとしているのである。
西洋の冒険者がどうしても逃れることのできなかった色眼鏡を恐ろしいほどストイックに脱却し、
インディオの価値観・世界観を自分たちのもうひとつの別ヴァージョンと見なすことが、見事にできているのである。
僕は「知性のある者ほど差別をしないものだ」と考えているのだが、レヴィ=ストロースのこの知性は、
明らかにそれまでの西洋のものから一段高みに昇っている。この飛躍のあまりの美しさに茫然とするほかなかった。

レヴィ=ストロースは哀しむ、と何度も書いた。彼が何を、彼がどうして哀しんでいるのか、あらためて書こう。
それは多くのものの中のひとつにすぎない西洋文明がまるで唯一の正解のようにふるまっていることを哀しみ、
その価値観がほかの多くのものを虐げて根絶やしにしようとしていることを哀しみ、そしてまた、
西洋文明がほかのものを理解しがたいところまで自分で自分を連れて行ってしまったことを哀しんでいる。
(空間的な距離、時間的な距離とはそういうこと。西洋文明にとって、他者はあまりに遠くになってしまった。)
ひとつのものを選ぶことは、ほかのものを捨てるということでもある。
『悲しき熱帯』で描かれているのは、西洋が捨てたもの、つまり西洋が失った可能性への回顧にほかならない。
自らの生活する場所に合わせて、それぞれの人間は多岐にわたる価値観・世界観を構築してきた。
(個人的には、こういうことを書くと、和辻哲郎の『風土』(→2008.12.28)を思い出す。近いものがあるはずだ。)
レヴィ=ストロースはその創造力の差異を見つめることで、人間という存在そのものを浮き彫りにしようと試みる。

それにしても、レヴィ=ストロースは西洋の文化圏(価値観ならぬ「価値圏」とでも言おうか)に生まれながら、
どうしてここまで冷静に、西洋が失ったものに対して正当な評価を下すことができたのだろうか。
その知性には、何か特別なものを感じずにはいられない。それくらいに、衝撃的な本だった。


2010.3.16 (Tue.)

ラーメン大学についてあれこれ書いていく。

僕の実家から羽場坂を下っていったところに「ラーメン大学」というラーメン屋がある。
味噌ベース、正油(と書く)ベース、塩ベースと多彩なスープをもとにさまざまなトッピングが用意されており、
メニューの種類がものすごく多い店である。しかしながらマツシマ家ではもっぱら味噌ラーメンしか注文しない。
ここの味噌ラーメンはマツシマ家における味噌ラーメンの定義そのものとなっており、
卒倒するほどの量のニンニクを溶かしていただくのが絶対的な作法として確立されている。
シンプルながらとっても旨い。洗面器のような特盛を一滴残らず平らげるのが定番のパターンだった。

ラーメン大学は長野県内ではあちこちで見かけるチェーン店で、特に何の疑問も持っていなかったのだが、
このたび蒲田に行ってみたらラーメン大学があって、懐かしくてたまらなくなって入ってみた。
メニューの豊富さは長野県と一緒で、さすがに味には若干の違いがあったが、方向性はやはり近かった。
で、家に帰って「そういえば、『ラーメン大学』って何なんだ!?」と思って調べてみたのである。
ところが公式なHPが存在しない。Wikipediaにも項目がない。断片的な情報が散らばっているだけなのである。

情報を総合すると、ラーメン大学は長野県を中心に、東京やその他各県に店舗を展開するチェーンで、
今年で創業40周年を迎えるようだ。長野県内においては最大のラーメンチェーンとして、
愛憎半ばするさまざまな評価が混在している。のんびりとした田舎のチェーンなので店舗によるクセは大きく、
現在の「餃子の王将」のようなブームが巻き起こる可能性もゼロではないと僕は考える。
しかし従業員はテキトーな感じのおじさんおばさんばかりなので、仮にブームが発生しても対応できないだろう。
まあともかく、チェーンなのは確かなのだがきちんと統括している様子はそれほどなく、
それぞれに地元の「種類の多いラーメン屋」として定着しているようである。
それでもやはり、信州味噌を使っているという味噌ラーメンの評価は概して高いようだ。

何が面白いって、「ラーメン大学」というネーミングである。
なぜ大学なのか。店に入ってしまえばふつうにラーメン屋なのに、なぜわざわざ「大学」を名乗るのか。
店のマークはいかにも校章っぽく、ドンブリの上、湯気の中に「大学」とあり、その辺も徹底しているのである。
角帽をかぶってサイズの大きな中国服を着ている男の子のマスコットキャラクターがいるが、
どのサイトを見ても名前がわからない。やる気があるんだかないんだか。
キャラクターよりも店の経営方針の方がユルいんだからたまらない。そして味噌ラーメンは抜群に旨い。
長野県を代表する文化はいろいろあるが、ラーメン大学の特異性はもっと論じられてもいいと思う。
『秘密のケンミンSHOW』はラーメン大学を取り上げるべきだ。もちろん、教育県・長野の究極形態として。

思い出すのは高校時代、成績のパッとしない僕に対し、ある数学教師が言った。「もうお前はラーメン大学に行け!」
言われた瞬間それもアリかなと思ったが、やっぱりふつうの大学に行きたかったので「ヤです」と答えた。
言った方も答えた方も、実に間抜けなエピソードである。のん気な学校、のん気な田舎だったなあ。


2010.3.15 (Mon.)

テレビでコロッケのものまねをやっていたのだが、コロッケのものまねは、もはやものまねではないと思う。
もちろんいい意味でだ。コロッケのものまねは、もはやものまねを超えたひとつの芸ではないかと思うのだ。
「コロッケ」としか形容できない、すでに新しい世界に到達してしまっていると思うのである。
まずは顔の動き。デビュー当時からかなり激しい形態模写で笑いをとってきたのだが、その姿勢は今も変わらない。
そして体の動き。コロッケのダンスは本物だ。ロボットダンスにしてもムーンウォークにしても、完成されている。
この両者を組み合わせて、さらに演出にも工夫を加え、コロッケは独自の世界を切り開いてみせる。
その完成度から、芸能界デビューしてから果てしなく努力を続けて今に至っているのがわかる。
ものまねであるはずなのに、誰にもマネのできない領域を創り出してしまっているのだ。
マジメな話、コロッケを重要無形文化財に指定すべきだと思う。あの無限の想像力は、完全に芸術だ。
ぜひどこか話のわかるアートディレクターに、コロッケをパフォーマンスアートとして紹介する企画を打ってほしい。


2010.3.14 (Sun.)

朝早くに起きて、代理で一日中部活の試合の面倒を見る。
今回は練習試合のリーグ戦で、朝の9時から夕方17時まで完全に休みなしなのである。
ハードではない競技だからできちゃうのだが、それにしてもこれは狂気の沙汰だと思う。

いちばん頼りになるやつが体調不良で休んだことを考慮したとしてもひどいプレーぶりで、
中には誰がどう見ても1秒たりともまったくやる気を出すことなくあっさりと負ける試合もあった。
「なんだこりゃ」と言ったら「だって相手は都大会に出るくらい強いから」とのお返事。
これにはさすがのオレもキレ……る前に、会場だった学校の顧問の先生からカミナリが落ちた。
は、恥ずかしい! 代理とはいえ引率しているこっちもションボリである。
まあでも最後には吹っ切れたのか、ふだんどおりの力で1試合だけは勝つことができた。遅ぇよ。


2010.3.13 (Sat.)

細かく天気予報をチェックしていたら、どうも長野県はギリギリ天気がもちそうな雰囲気に変わってきたので、
これはもう行くしかないや、と5時前に家を出る。今シーズン初の青春18きっぷの行使である。
目的地は当然、上田(→2010.3.5)。長野県では第3の都市であり、戦国大名・真田氏を生んだ土地である。
そんな場所をまあ気の向くままにのんびりふらふらしてみようかと、いざ出発。

目黒で青春18きっぷにスタンプを押してもらうと、山手線に乗り込む。
金曜の夜を飲んだくれて過ごした乗客をいっぱいに乗せて、電車は東側へと回っていく。
上野で高崎線に乗り換えると、コンビニで買っておいたメシを食べる。おなじみの行動パターンだ。
終点の高崎駅まで半分寝ながら到着すると、向かいのホームの電車に乗り換える。
横川行きの信越本線だ。横川より西が廃止になったり第三セクター化したりしているのが恨めしい。

音楽を聴きながら車窓の風景を眺めて過ごす。が、どうにも違和感がある。山の形がおかしいのだ。
伊那盆地から木曽山脈と赤石山脈をイヤというほど眺めてきた自分には、群馬県西部の山の形は奇妙に映る。
端的に言うと、ひどく不格好なのである。とても気まぐれで数式化できそうにない形状のグラフが続くのだ。
ウソ発見器の描く線の方がまだ美しく思える。それくらい奇妙な形の山が連なっている。
やがて左手に妙義山が見えてくる。いかにも岩だけでできた山といった風情で、なんだか日本らしくない。
そういえばかつて大学院時代にゼミ合宿でこの辺に来たことがあったが(→2002.2.282003.2.25)、
高速道路から眺める岩山の姿に圧倒された。どうしてこんな地形になっているのか知りたい。

 
L: 信越本線を進んでいくと現れる妙義山。岩でできている山で、その珍しさに思わず惹きつけられる。
R: 横川駅近くへとまわり込みつつ眺める妙義山。なぜ群馬・長野の県境はこんな山が多いのか。

そうこうしているうちに横川駅に到着。国道を挟んだ向こうにおぎのやのドライブインがあるのが見える。
そう、横川といえばおぎのや、おぎのやといえば全国区の知名度を誇る駅弁・峠の釜めしである。
僕はこの峠の釜めしが大好物で、どんなに腹が立っていてもこれを食うと機嫌が直ってしまうのだ。
かつてHQSの合宿帰りに寄った土産物屋で見つけて、リョーシさんと衝動買いしたこともあったっけ。
そんな聖地に来ちゃったわけだから、峠の釜めしを買わないわけにはいかないのである。
益子焼入りの釜飯をバッグに入れて持ち運ぶのは手間だが、非常食になるしいいや、と購入。

  
L: 横川駅とおぎのやの店舗。ここをはじめ、周辺には峠の釜めしを売っている場所がいくつもある。
C: 近所にある峠の釜めしの展示施設。規模は小さいが無料で楽しめるのですばらしい。
R: バスで碓氷峠(正確には入山峠)を越える。稜線がいかにも群馬県西部といった感じである。

峠の釜めしを買い込むと、碓氷峠鉄道文化むら方面へと歩いていく。途中でバスが停まっているので乗り込む。
横川-軽井沢間は鉄道が廃止されたかわりにバスが走っているのだ。これで長野県に出るのである。
バスはほぼ満席で発車。碓氷バイパスをクネクネと進んでいくと、どんどん標高が上がっていく。
窓からはいかにも群馬県西部らしい岩でできた奇妙なスカイラインが堪能できる。
やがて峠を越えるとすぐに軽井沢の街中に入る。群馬県側ではまったく雪がなかったのに、こちらは真っ白。
それだけの標高の差があるということなのだ。午前中の日差しを浴びて雪が輝く中、バスは軽井沢駅に到着。

 軽井沢駅。JRは新幹線だけで、ここからのローカル線はしなの鉄道になる。

軽井沢にはいちおう何度か来ているのだが、もともとそういうリゾート地にあまり興味がないし、車もないしで、
さっさと電車に乗ってしまうのであった。駅周辺にはこれといった店もなく、今の季節はまだ冬眠中という印象だ。
もししなの鉄道が信越本線のままだったら青春18きっぷが使えるのになあ、なんて思っている間に電車は出発。
浅間山を眺めてホケーッとしている間に小諸に到着。去年の夏に訪れたばかりなので(→2009.8.29)、
別の方向から同じ場所に来たというのがなんだか不思議な感じがして面白い。ここで電車を乗り換えてさらに西へ。

上田駅はさすがに新幹線が停まる駅だけあって、なかなか立派である。規模は大きくないものの、
土産物屋をはじめとして店がそれなりに揃っていて、人も多い。飯田との落差に悔しくなるが、どうしょうもない。
駅前のバスターミナルには『サマーウォーズ』(→2010.3.7)に乗っかった上田市のPRが大々的になされていた。
聖地巡礼をしようというファンがそんなにいるとも思えないのだが、少なくとも上田側の準備は万端のようだ。
ロータリーには真田幸村の像。知名度では及ばないにせよ、真田昌幸の方をクローズアップすべきだろうと思う。

  
L: 上田駅。味気ない建物だが、今の飯田駅に比べりゃはるかにマシだ。うらやましい。
C: バスターミナルにある大規模な『サマーウォーズ』に乗っかった上田市のPR。やる気でございますな。
R: 真田幸村像。この上田の地で活躍したのは真田昌幸なんだから、昌幸の像にするべきだ。

せっかく上田まで来たのだから、少し無理をしてまずは真田氏のふるさとを訪れてみることにした。
平成の大合併によって今の上田市はかなり広い面積となっているが、北部はもともと真田町という自治体だった。
この旧真田町に真田氏歴史館という施設があるので、ぜひ見てみようと思ったわけである。
というわけで菅平行きのバスに乗り込んで北へ。旧真田町役場の真田地域自治センターで降りればいい。
春スキー目当てと思われる観光客や地元住民たちを乗せたバスは快調に進んでいく。
が、あまりに快調すぎてボーッとしていて、バス停をひとつ乗り過ごしてしまった。これは失敗。
しょうがないので次のバス停で降りて、トボトボ歩いて戻る。途中で土産物を売っている施設があったので寄る。
まあこれも不幸中の幸いと思うか、と切り替えて軽く買い物をしたのであった。

本来のバス停近くの交差点までやっと戻ると、いよいよ真田氏歴史館に向けて歩きだす。
道は大きなカーブの上り坂で、周囲は完全に農地である。自分にとってはどこか懐かしい風景でもある。
教科書に出てきそうな、いかにも山に囲まれた扇状地だ。そこをのんびりじっくり横切っていく構図である。
パンフレットの地図では簡略化されているものの、実際に歩くとかなり広大なスケールで、
歩いても歩いても歴史館に近づいているという感触がしない。案内板が出ていないのがつらい。
さっきの施設を出て30分くらい経っており、こりゃ道まちがえたかな、と思ったところで無事に到着。

 かつて真田氏が城を構えた山を望む。うーん扇状地。

真田氏歴史館のある一帯はもともと真田氏が上田城建設前に住んでいたところで、
地元では「お屋敷」と呼ばれているそうだ。神社と歴史館以外は完全にマレットゴルフのコースとなっており、
(マレットゴルフ……ゲートボールの道具でゴルフをやるような感じのスポーツで、長野県民には超おなじみ。)
往時の勢いはそれほど感じられなかった。反面、きれいに残してあるなあとも思う。

  
L: 真田氏歴史館入口。門をくぐって中に入る。  C: お屋敷跡の皇太神社。真田昌幸が上田城築城後につくった。
R: かつての曲輪跡もすっかりマレットゴルフのコースとなっている。平和なものである。

そんな具合に周辺を散歩してから歴史館の中に入る。外からの見た目より中は広い。
内容はそれほどマニアックでなく、真田幸隆から昌幸を経て信之・幸村に至る基本的な功績が展示されている。
ファンならすでに本などで十分仕入れている知識というレベルなのだが、入館料200円にしては精力的だと思う。
真田十勇士をはじめとするフィクションの作品についてもある程度の量を展示しているのがなかなかいい。
そういう想像の部分も含めての功績、ということなのだろう。まずまず満足して帰る。

帰りは道もわかっているし下りになるしで、ずっと早くバス停まで戻ることができた。
ついでということで、旧真田町役場である真田地域自治センターに寄ってみることにした。
建物じたいはいかにも町村レベルらしい、高さのない典型的な平成オフィス建築だった。
向かいには中学校があり、真田氏のもうひとつの家紋・結び雁金が校章として誇らしげに校舎に彫られていた。

 真田地域自治センター(旧真田町役場)。

バスに揺られて上田駅まで戻ると、いよいよ上田の市街地を歩きまわってみる。
が、困ったことにここにきて天気が悪くなってきた。ついにポツリポツリと雨粒が落ちてきたのだ。
今朝の天気予報ではどうにかなりそうだったのだが、以前の悪い予報どおりの展開になりつつある。
これは困ったなあと思いつつ、希望的観測の時間つぶしで池波正太郎真田太平記館に入る。

 上田市街、駅から北へ伸びる坂道(真田坂)。車でかなり混雑していた。

『真田太平記』は途中まで読んだのだが、読みかけのままもう10年以上も放置している。
あらためてもう一度きちんと読まなくちゃいけないなあと思いつつ、展示を見ていく。
池波正太郎のうらやましい作家生活が紹介されており、いいなーと指をくわえて眺めるのであった。
1階には草の者(要するに忍者)をテーマにした自動ペープサートのシアターがあり、
その妙な凝り具合に感心しながら結局最後まで見てしまった。まあ全体的に悪くなかったですな。

雨の状況は変わらず。しょうがないので傘をさしつつ上田城方面へと歩いていく。
途中で上田市役所を撮影。1967年竣工ということだが無機質な色のわりには細部にモダンなこだわりがある。
敷地にそれほど余裕がないためか、なかなか大きめに感じる建物だ。

  
L: 上田市役所。右側が本庁舎、左側にくっついているのは南庁舎である。市役所は上田城の旧三の丸にある。
C: 正面から眺めたところ。  R: 反対側から眺めるとこのようになっている。

そのまままっすぐ進んでいくと上田城。南側にある上田市民会館が独特のデザインで面白い。
何かイベントがあるのか、駐車場は気持ちが悪いほど満杯なのであった。
天気が悪いせいもあるとは思うが、上田城址の中はそれほど明るい雰囲気ではなかった。
まあおそらく、古くから公園として整備されていていろんな施設がつくられていて、
それが老朽化してきているせいだろう。それは逆を言えば、市民にとって身近な城跡だったということだ。

 上田市民会館。1963年竣工だと。気合を感じる造形である。

いよいよ上田城址の本丸の中に入る。今の上田城は、正確に言えば真田氏の頃の上田城ではない。
かつて真田昌幸が築城した上田城は、二度の上田合戦の後に徳川方の手に渡り、徹底的に破壊された。
まあそれだけ、上田合戦での徳川方の負けっぷりがすさまじかったので憎しみがあったということだろう。
現在の姿に再建したのは真田信之の松代移封後にやってきた仙石忠政である。
(その後、仙石氏は出石に移って(→2009.7.20)、最後は松平家が上田を治めた。)
しかしながら上田市民は真田氏を徹底的に贔屓にしており、本丸跡の神社は真田神社となっているし、
上田市内にはやたらめったらあちこちに六文銭のマークが貼り付けられているのである。
さてそんな上田城だが、正面から入っていったところにある櫓門は平成に入ってからの復元である。
その左右にある南北の櫓は、かつて遊郭に払い下げられていたのを買い戻して移築復元したという。
真田神社の奥には、唯一仙石氏時代からそのまま残されているという西櫓がある。とても眺めがいい。

  
L: 左から、上田城南櫓、櫓門、北櫓。中の展示は残念なことにかなり貧相である。
C: 真田神社。名前とは裏腹に、真田氏のほか仙石氏・松平氏もきちんと祀っている。
R: 西櫓。ここからは千曲川を挟んだ別所温泉方面と入り組んだ山並みが見えてよい。晴れていればなあ……。

上田城址を出ると、向かいにある観光会館で土産物を見るなどして少し休む。
やはりここでも『サマーウォーズ』関連のPRが積極的に行われている。真田氏だけでも十分な財産なのだが、
さらにそこから貪欲にPRしていく姿勢には圧倒された。上田はいろいろあっていいなあとホントに思う。

帰りは今は上田高校になっている藩主居館跡の門を眺める。きちんと堀があって、
いかにも地方都市の進学校という雰囲気が漂っている。これもまたやっぱりうらやましい。

 上田藩主居館跡。真田信之はかつてここで暮らしたそうだ。

それにしても雨が鬱陶しい。晴れていればもう少しあちこち歩きまわってみようという気分にもなったのだが、
上田が嫌いにならないうちに移動しよう、と考えて電車に乗り込んだ。予定よりも早めに出発してしまう。

しなの鉄道の終点である篠ノ井まで行く。篠ノ井駅ではまず立ち食い蕎麦で空腹を満たしておき、
それから駅のコンビニで食料と酒(真澄)を買い込んだ。コンコースを抜けたら、雨はみぞれ混じりになっていた。
高いところから眺めてみるが、篠ノ井駅周辺にはこれといったものが何もない。
篠ノ井線の電車が来るまでヒマなので、しょうがないので読書して過ごすのであった。

再び青春18きっぷをかざして篠ノ井線の電車に乗り込む。が、2駅行ったところですぐに降りてしまう。
そう、そこは姨捨駅。去年の夏に帰省するときにパノラマ写真を撮った、あの景色の美しい駅である(→2009.8.14)。
今回は上田を早く出た分、ここでじっくりと夜景を撮影してみることにしたのだ。
天気のせいもあって、辺りはすでに暗くなりはじめていた。そして標高が高いこともあって、
雨ではなく確実に雪がちらついている。シャツをもう1枚着込んでおくべきだったと今さら思っても遅い。

 姨捨駅の駅舎。1927年築だが外も中も小ぎれい。

やがて空は本格的に暗くなっていく。雪の勢いも弱まらない。ほぼすべて予想どおりの展開である。
ここで僕はさっき買っておいたワンカップの真澄を取り出す。そしてフタを開けるとチビチビと飲みはじめる。
自分は日本酒がいちばん酔わなくて済むから、寒さを紛らわせて撮影するにはいちばんいいだろうと踏んだのだ。
安酒だから早く強烈に回るかな、と思ったのだが、それ以上に寒さが強かったせいか、まったく酔わない。
ひとつだけ予想と異なっていたのは、天気のわりには遠くの夜景をきちんと見ることができたという点だ。
霧が出て曇ってしまうことだけを心配していたのだが、善光寺平の灯はそんな懸念を吹き飛ばすほど見事だった。
チビチビ飲んではシャッターを切る、そんな作業を繰り返しながら電車を待つのであった。


暗くなってきた善光寺平。


完全に日が落ちた後の善光寺平。

まあこんな感じで、酒飲んで耐えた甲斐もあって夜景マニアのcirco氏も納得のいくような写真が撮れたと思う。
(姨捨駅で酒を飲みながら震えていた時間は、実に70分間にも及んだのである! いやー、大変だった。)
そうこうしているうちに電車がやってきたのでさっさと乗り込む。あったかい車内では急激に酒が回ってしまった。
気づけば眠り込んでしまって、腹が減って目が覚める。待ってましたと言わんばかりに非常食の峠の釜めしを取り出し、
ガッツリといただいたのであった。……きちんと釜めしの写真を撮ろうと思っていたのに、すっかり忘れてしまった。

甲府で高尾行きに乗り換える。車内の記憶は完全にない。気づいたらオレンジの中央線に乗っていた。
眠りそうになるのをこらえて立川で降りると南武線にスイッチ。気合を入れて久地で起き、武蔵溝ノ口で降りる。
もう時刻は0時をまわっている。予定していたとおりとはいえ、かなりのグランツーリスモになってしまった。
この日は田園都市線がトラブルで停まってしまっていたのだが、運よく大井町線は無事だった。
家に帰ると、もう何をするということもなく、ぐっすりと眠りこけるのであった。


2010.3.12 (Fri.)

鶴岡八幡宮の大イチョウが倒れた件はなかなかショックだった。雪と風で樹齢1000年の大木が倒れるとは。
まあ逆に1000年も経っていれば弱っている部分もあって倒れてしまったということなのかもしれない。
今のところ再生させるのか諦めるのかよくわからないが、今回の件では「しょうがないよなあ」という気持ちが強い。
実朝暗殺の場面を「目撃」した証人ってことで、それを考えるともったいないのは確かである。
でも、終わりはあるのだから、そういうものだから、と思うと、しょうがないかなあ、となるのである。
なんでもないごくふつうの日に事件は起きる。そして突然別れを告げなければならなくなる。
それは大イチョウだけでなく、実朝にとってもそうだった。そんでもって、みんなそうだったのだ。
あらためてそういう事実に気がついた。何度考えてもやっぱり、「そういうもんだから、しょうがないよなあ」と思う。


2010.3.11 (Thu.)

08:00 学年の一部で起きた問題について報告がある。当該生徒のあまりにも頭の悪い発想に唖然とする。

09:00 お休みした先生の代わりに自習の監督。

11:00 プリントの印刷や成績入力などの雑務をこなす。

12:00 授業。本日は How long ~ ? の質問と受け答え。連中の記憶力はトコロテン式なので困る。

13:00 メシどきに中島美嘉がかかったので放送室へ抗議に行くが、逆に音量を上げられてなすすべもなく撤退。

13:30 昼休み、生徒から塾の難しい数学の問題をやってと頼まれる。わりとあっさり解いていい気分。

14:00 午後も How long ~ ? の質問と受け答えの授業。前半は生体反応がなかったが、後半持ち直して安堵。

15:00 宿題チェックをして学活・清掃。長野県出身の自分には信じられないほど掃除が不真面目。毎日キレかけ。

16:00 しばらくずっとイヤな天気だったが、晴れが続いていい気分。旅行に行きたいと思うが、思うだけ。

18:00 お役所に移動して来年度以降についての説明会に参加。特に問題もなく終了。よかったよかった。

21:00 家で旅行の計画を練ってみる。ムーンライトながら+青春18きっぷの利便性・経済性にあらためて感心。


2010.3.10 (Wed.)

東京・長野・京都を除く現時点でのマイマップ(Googleマップ)が完成した。
単純にデジカメ画像と日記へのリンクを貼っただけなのだが、それでもけっこうな手間がかかった。
(気になる人は、referenceのcities(⇒これ)で、各県のシルエットか名前のところをクリックしてください。)
東京がまだなのは、23区・多摩・島嶼の分け方をまだ迷っているのと、意外と画像が少ないため。
長野がまだなのは、サボっているからですすいません。やっぱり故郷はポイントが多くて難しいのだ。
京都がまだなのは、これは単純に画像が少ないどころか、ほぼゼロなので。春休みになんとかしたい。

というわけで、43府県分の地図がいちおう揃ったのだ。あとはそれぞれ随時更新していくだけ。
この先は気長にあちこち足跡を広げていけたらいいなあと思っている。楽しみである。


2010.3.9 (Tue.)

本日は古典芸能教室ということで、落語を聴いたのであった。若手1名、中堅2名、色物1名という構成。
当方、勤務時間内であれこれ鑑賞するのは大歓迎なので、ウキウキ気分で会場へ。
まずは簡単に落語教室ということで、落語の基礎について学ぶ。出囃子について詳しく聞けたのはうれしかった。
実演コーナーで舞台に上がった生徒も落語家もガンダムファンで、そっちに話が流れていくのも平和でいいなあ、と。
営業には営業ならではの面白さがあるなあ、と思うのであった。

演目は与太郎噺が2つに『転失気(てんしき)』だった。さすがにプロの演じる与太郎は迫力が違う。
女子はキモいキモいと口走り、男子は口調をマネしだす。まったく見事な惹きつけ方だと感心する。
落語は頭の中で映像を組み立てることで成り立つ。つまり想像力をフル活用するので、聴くとけっこう疲れる。
(だから寄席では落語の合間に考えなくても楽しめる色物を挟んでいるわけだ。よくできているものだ。)
それは子どもたちに日ごろ足りない要素なので、こいつらにはいい経験になったんじゃないのかな、と思った。


2010.3.8 (Mon.)

「3年生を送る会」なのであった。在校生は学年ごとに出し物を用意し、それを発表する。
ウチの1年は『贈る言葉』を歌い(まだ能力的にそれぐらいしかできないのが切ない)、
2年生は音楽に乗せて写真を次々に映し出し、最後は歌で締めた。これは非常に好評。
僕としても知っている連中の幼い顔つきを初めて見て、大いに楽しませてもらったのであった。

さて、毎年恒例のサプライズ出し物ということで、われわれもダンスを披露した。
矢島美容室の『日本のミカタ』である。宴会ソングとしてのとんねるずの需要についてあらためて考えさせられた。
……なんてのん気に書いているような状況ではなかったのだ。なんせ振り付けを教わったのが今朝のこと。
こちとら授業が4つピッチリ詰まっているので休み時間にしか練習できないのである。
おまけに職場のパソコンでは動画が見られないようによけいな制限がかけられているので、
仕方なく裏にある制限のないパソコンで動画を見ながら動きを確認。それを休み時間ごとにやる破目になる。

まあ結局、本番ではキメの部分でしっかりトチったんだけど、子どもたちには好評だった。
個人的にはめちゃくちゃ悔しくて、その後はずっと「あーもうちきしょー」とモヤモヤしっぱなしなのであった。


2010.3.7 (Sun.)

仕事が終わって映画を見に出かける。アニメ映画を見に行こうシリーズ第2弾である。
今回見たのは、『サマーウォーズ』。たまたま再上映していたので、どれちょっと見てやろうと思ったわけだ。

監督は細田守で、『時をかける少女』(→2006.8.7)の人である。今作が初の長編オリジナル作品とのことだ。
『時をかける少女』で泣かされた僕としては、期待しないわけにはいかない。ネットでの評判もいいようだし、
DVDも順調に売れているようだ。大いにワクワクしているうちに照明が落とされる。

舞台はインターネットの仮想空間が発達した日本。OZ(オズ)と呼ばれる仮想空間は生活に密着しており、
あらゆるインフラがOZを通して成り立っている。主人公は数学が得意だがシャイな高校生・小磯健二。
憧れの夏希先輩から田舎(長野県の上田がモデル)に行くアルバイトを頼まれて二つ返事で承諾するが、
それは夏希の親戚宅で婚約者のふりをするというものだった。夏希は武家・陣内家(真田家がモデル)の子孫で、
一家の大黒柱である曾祖母・栄に健二を紹介する。結局ウソはバレるが、健二は栄に認められて一安心。
ところがその夜、健二は匿名のメールで送られてきた数式を勢いに任せて解いてしまう。
朝起きるとOZの世界は崩壊しており、OZに依存していた現実の社会も大混乱に陥っていた。
サイバーテロの犯人として罪を着せられた健二は、陣内家の面々と協力しながら事態の打開に動きだす。

まず、うるさい。音がとにかくデカくてうるさかった。声優も若手俳優を起用しているようで、どうにも馴染まない。
『時をかける少女』のときの反省がまったく生かされてなくてがっくりきた。セリフもやや直接的に思える。
しかし映像面では田舎の夏の感じがよく出ていて、涼しげな風の心地よさがうまく表現されていた。
物語の終盤では花札が重要な要素として登場するのだが、昔は家族でやったなあ、と懐かしく思った。
あとは上田高校の使い方が上手いなあと感心。長野県における上田高校の位置づけをよく再現していて、
高校野球と絡めて夏らしさを出す狙いがあったのだろうけど、長野県出身者としてそうそう!とうなずかされた。

はっきりと不満な点は2つ。カズマは女じゃないとダメでしょコレ。
ゲーマーで乱暴な口調で男だと思ったら女の子、それじゃないとグッとこないだろ! ちがうか!
これをやったらヒロインの夏希の存在感が薄くなるだろうけど、でもやっぱカズマは女じゃないとダメなの!
そのまんま男子だったなんてやだいやだい! ボーイッシュでツンデレじゃなきゃやだいやだい!
あともうひとつが加持リョウジ……じゃなかった陣内侘助とラブマシーンの関係。
ここをしっかり描かなかったために、不肖の息子の自己肯定(放蕩息子の帰還)という要素が弱くなり、
物語が非常に薄っぺらいものとなってしまっているのである。これが本当に惜しい。
陣内家と侘助の関係は、侘助とラブマシーンの関係と相似形を成している。
侘助が陣内家に受け入れられることと、侘助がラブマシーンをどう扱うかは、パラレルにならないといけない。
しかし結局、侘助が救われたのに対し、ラブマシーンは単なる敵として処理されるにとどまった。
おかげでこの作品では大家族の絆を描くことに終始しており、では家族とは何か、絆の由来はどこか、
そういったレベルにまで思考が到達していないのである。侘助が肯定されたのと同様に、
ラブマシーンもまた肯定されなくてはならなかったのだ。そこが完全に抜け落ちているので、
この作品はただの仮想空間エンタテインメントにとどまってしまっている。

総括すると、この作品は家族(特に大家族)の絆を描いたものとなっている。
でも、それ以上のものはない。ただの「感動を誘発しようとする映画」でしかなく、
社会学的な家族論にまで踏み込む可能性を持たない、思考の踏み台にはなりえない程度の作品である。
もし仮想空間を舞台にしたうえでそこで走るプログラムを家族ととらえる姿勢にまで踏み込んでいたとしたら、
かなり斬新な視点を持った作品となったのだが、そこまではたどり着けなかった。
正直、すべての点において当初の期待は裏切られた。期待はずれだった。


2010.3.6 (Sat.)

近所の小学校で餅つき大会が行われ、「ウチの学校を代表して行ってこい」と指令が下ったので参加した。
小学校では全校挙げての一大イベントのようで、雨の中、体育館いっぱいに子どもと保護者が集まっている。
特に保護者のやる気はすさまじく、大量の臼と杵が用意されて準備は万端なのであった。

ボランティアの中学生たちを引き連れつつ、僕や同僚の先生も実際に餅つきをやらせてもらう。
今回の相棒の先生は餅つきが得意種目で、見ていて惚れ惚れするほどのエネルギーで杵を下ろす。
僕はひたすら返して返して返しまくるのであった。周囲が呆れる猛スピードでつきあがる。

餅をひっくり返している中で気がついたこと、考えたことを書いておく。
まず基本的に餅は杵とぶつかる上の面ではなく、臼に面した下の面がつかれるものだということ。
杵によって与えられたエネルギーは、臼で受け止められることで成立するのである。
したがって餅を返すときには十分つけてない部分を下にするべきだ、とわかった。
しかしながら餅は非常に熱い。そして用意しておく手水もなかなかの熱湯である。
つまりどっちに触っても熱くってたまらないのである。逃げ場がないので餅を返す方はかなり大変なのだ。
杵でつく方はタイミングよく餅に杵をミートさせることだけを心がければよいのだが、返す方はそうもいかない。
いちばんつらいのは、熱湯の手水をつけて熱い餅が臼にくっついてしまわないようにすること。
熱湯で手がしびれているところにどっかりと重くて熱い餅に触ってねじって持ち上げて、
そうして臼との間に手水を浸してくっつかないようにしないといけないのだ。とにかくすべてが熱くってかなわない。

でもつきたての餅は言葉にならないくらいおいしいので、苦労が報われた以上の気持ちになれる。
小学校の保護者の皆さんも勢いあまって大量に餅をつきまくってしまったようで、
あちこちから「食べてください」と差し出され、満腹になって帰りましたとさ。非常に愉快な体験であった。


2010.3.5 (Fri.)

いい天気。旅行日和である。3年生は本日、中学校最後の遠足ということでディズニー方面へお出かけ中。
しかし学校行事でディズニーへ行くとは、田舎者には考えられないことである。個人的には賛成しかねる。

さてそんな僕はどこへ行きたいのかというと、なぜか上田に行きたい。
飯田とは同じ長野県なのだが、上田ってのは感覚的にかなり遠いのである。
中信の大都会・松本の向こうには北信の大都会・長野があるが、その影に隠れて訪れる機会がない。
僕の記憶では小さい頃に家族で行っているはずなのだが、これといった印象が残っていないのだ。
上田は真田氏の発祥の地である。真田ファンとしては聖地であり、きちんとどんな街かを記憶せねばなるまい。

もうひとつ上田に行きたい気分になるのは、JRのローカル線だけでは行けない位置にあるので、
それで行こうとするのにちょっと思いきった気持ちにならないといけないこともあると思う。
青春18きっぷだけじゃ行けないし、関東を出て碓氷峠をわざわざ越えるという手間をかけないといけない。
そういう要素が積み重なって、実際よりも遠くに上田を感じさせることになっているように思うのである。

いったん気になりだすと、もう止まらない。僕の想像の中の上田が勝手に膨らみだすのだ。
もはや碓氷峠を越えるという手間は、頭の中で魅力的な冒険へと姿を変えてしまっている。
そんなわけでコロコロと変わる天気とにらめっこしつつ、上田へ出かける隙をうかがう毎日である。


2010.3.4 (Thu.)

来週に「3年生を送る会」があるので、準備する生徒たちは遅くまで残ってがんばっている。
僕にしてみりゃ、これこそが学生時代最大の醍醐味なのだ。中学生だとまだレベルは知れているが、
高校生の文化祭の準備なんて、もう人生でいちばん楽しい時間なんじゃないかと思う。
高松祭の準備で動き回った時間にもう一度戻れるものなら戻りたい。差し入れのおにぎりはうまかったなあ。
(大学生になるともっと本格化してオトナと変わらなくなるので、気楽な楽しさはやや半減する。楽しいけど。)
まあとにかく、そういう集団でワイワイやりつつ手を動かしてゴールを目指す時間に居合わせて、
こっちのテンションも妙に上がるのであった(かといってこの商売、連中に同化するわけにはいかないのである)。
面倒を見ている1年生はまだまだ単純なものしかつくれないが、隣の2年生はだいぶ凝っている。
「よく見ておけー、しっかり見ておくのも勉強だぞー」とは、生徒に対しても僕に対しても共通している言葉である。


2010.3.3 (Wed.)

吉田秋生『BANANA FISH』。がんばって一気読みしてみた。

物語はベトナム戦争から始まる。麻薬で錯乱したアメリカ軍の兵士が、銃を乱射して仲間を撃ち殺してしまうのだ。
同僚の兵士・マックス=ロボによって取り押さえられたその兵士は「バナナ・フィッシュ」という言葉をつぶやく。
12年後、ニューヨークのギャングの少年・アッシュは手下の殺した男が「バナナ・フィッシュ」とつぶやくのを聞く。
やがてアッシュはギャングの取材に訪れた伊部俊一・奥村英二らとともにその謎へと迫っていくことになる。

舞台は1980年代アメリカということで、従来のマンガとはまったく異なる質感で話が進んでいく。
絵柄は確かに吉田秋生の生み出す日本のマンガなのだが、存分にアメリカらしさが漂っているのである。
物語の展開もギャングの抗争から民族系マフィアの抗争、さらには連邦政府の陰謀まで出てきてどんどん広がる。
そういった大小の対立関係が実に複雑に絡み合う。さまざまなレベルにおいての力をめぐるやりとりが実にリアル。

少女マンガがベース(最終的にはそんなくくりを超越してしまうが)ということもあってか、ホモっ気満載である。
しかしながら肝心のアッシュと英二の関係はどこまでもプラトニックで、かつ強く美しい信頼関係として強調される。
よくわからんが、いわゆる百合の世界を男どうしで描いていく究極形はこうなるのか、と思いつつ読んだ。
まあ遠慮なくバリバリ出てくるホモの趣味が、作中の1980年代アメリカに妙なリアリティを与えているのも事実だが。

厳しい評価になるが、僕はこの作品をそこまで優れた傑作だとは思わない。
いや、確かにレベルの高い作品である。こんな物語、ふつうの人間に描ききれるはずがない。
しかしながら、作者は物語の適切なコントロールに明らかに失敗している。その点が非常に気になるのだ。
最大の問題点は、バナナ・フィッシュの存在が中盤以降に完全にぼやけてしまっていること。
物語の鍵がバナナ・フィッシュをめぐる争いから、アッシュという存在をめぐる争いへと変化してしまっている。
どうやら作者はアッシュの魅力を強調していくうちに、物語の軸をそっちへとずらしてしまったようだ。
結果、物語は適切な着地点を失って、戦争マンガ、戦術の紹介マンガへと移っていってしまった。
この展開に納得できるのはアッシュの魅力に夢中になっている読者だけだろう。
冷静な読者なら、この点について適切な判断ができるはずだ。連載当時は少数派だったのだろうけど。

ターニングポイントは、アッシュ最大の理解者であるショーターの死にある。
バナナ・フィッシュを投与されて非業の死を遂げるショーターの姿は前半におけるハイライトである。
極めて重要なキャラクターであるショーターをここで死なせたという判断は、まずは正しいとしておく。
しかし問題は、その死の「価値」をきちんと守ることができなかった点にある。
物語がアッシュの魅力に重きを置けば置くほど、相対的にバナナ・フィッシュの脅威とショーターの死は軽くなる。
この反比例のバランスを保つことができなかったため、主観的にアッシュを描く喜びは増していっただろうが、
客観的に見て物語がショーターの死から離れていくことは、完成度を大きく落とす結果となっているのである。
作者とアッシュが意地でも生かし続ける英二と、残酷に殺されてしまったショーターの差は、
もっと適切に管理されるべきだったのだ。おかげで僕には後半が一気につまらなくなった。
序盤を読んでいるうちは浦沢直樹のつまらなさ(→2008.7.112009.11.28)との差に興奮したものだが。

そして物語がどうにもならなくなった状態、確実に迷走状態にあることを示しているのがブランカの存在である。
僕にはこのキャラクターが次の展開を考えるための作者の時間稼ぎにしか思えないのである。いらんだろ、と。
月龍も作者側のアッシュへの興味の移行に伴って妙にクローズアップされるようになっているが、
英二とアッシュの関係を嫉妬させるためにそうなったのだとしたら、それは戦略的なミスだと思う。
ふたりを引き離す物理的な力(軍事的・政治的な力)と、目に見えないふたりの信頼関係の勝負という構図ですら、
(本来ならバナナ・フィッシュをめぐる冒険をあくまで軸に据えるべきだが、そこを百歩譲ったとしても、だ)
月龍の存在じたいがかなりひどいノイズとなって、それが読み取りづらくなってしまっているのである。
つまりはアッシュに魅せられた登場人物があまりにも多すぎるのである。魅力を数で表現しないでほしいです。

ふと、ガンダムが支持されているのはキャラを殺すタイミングがうまいからかなーと思った。直接関係ないんだけど。


2010.3.2 (Tue.)

別にアニメファンというわけではないのだが、アニメは気合を入れて見る必要がないので、敷居が低い。
というわけでなんとなく気軽な感じで物語に触れたい気分だったので、映画館へアニメを見に出かけた。
作品は、高い評価を受けているらしい『涼宮ハルヒの消失』である。3時間近い大作である。
(ちなみに、小説で読んだハルヒシリーズの第1作『憂鬱』のレビューはこちら。辛口である。→2006.7.6

アニメシリーズ(未見)の延長線上にありながら、なおかつ原作の小説をそのまま忠実に再現したという作品。
あらすじとしては、キョンが知らないうちにいつもと異なる世界に入り込んでしまったさあどうする、といったところか。
みくる先輩は自分のことを知らなくなっちゃっているし、ハルヒも古泉も違う学校の生徒になっちゃっているし、
唯一SOS団の仲間で身近なところにいるのは長門だけ、それも文芸部の気弱な女生徒という、
それまでの長門ではない長門がいるだけ。キョンはこの世界に留まるのか、それとも元の世界を取り戻すのか。

結論としては、これは長門の恋の話ですね。原作ファンには、特に長門のファンにはたまらないのだろうなあ、と。
そんだけ。つまらなくはないし、ものすごく丁寧につくられているのがわかるので、好感は持てる。
しかしながら当方、長門タイプには興味がないので「なるほどね」どまりである。綾波レイ系統が好きならどうぞ。
最後のところがわかりづらくて、辛うじてこういうことかな?というのはわかるのだが、イマイチ確信が持てない。
でもそこんところをカッチリ描いちゃうのは非常にダサいことなので、まあしょうがないかなあといったところである。

で、ハルヒシリーズについて思ったこと。古泉が男でSOS団に入っているというのが、ものすごく効いている。
もし古泉が女性キャラでキョンが男一人の状態だったら、物語の目的が別方向へと飛んでいってしまう。
(そういうアニメやマンガは1990年代末から2000年代初頭にかけてやたら多かったような気がする。)
男の古泉がキョンのモテモテストーリー化に歯止めをかけつつ、なおかつやおい的にオイシイ方向も示唆する。
SOS団の視点からすれば、やや戦隊モノっぽい匂いの内部での調和をもたらす役割を見事に果たしている。
そんなわけで、「ハルヒ」の肝は、ハルヒでもみくるさんでも長門でもなく、実は古泉だと思うのである。
他者にも身内にもなる非常にプレーンな存在であり(やおい的には性的にもプレーンと言えるかもしれない)、
女性陣と比べるとふだん目立たない分だけ器用に立ち回らせることができるのである。
そんな古泉をバランサーとして登場させた作者のセンスには、素直に感心するしかない。
古泉がいないとたぶん設定がかなり薄っぺらくなって、だいぶつまんなくなってしまうだろう。すごいですね。


2010.3.1 (Mon.)

今日は都立高校の合格発表。3年生のだいたいの進路が決まる日なのであった。
といっても僕には直接関わりがないので、ごくふつうに仕事をしているうちに一日が終わった。
2年後には結果を聞いて一喜一憂しているのかもしれない。でもそんな先のことは想像がつかない。

それにしても、もう3月なのである。僕をめぐる環境が激変してから、もう一年が経とうとしている。
ふつうに過ごしているときでも猛スピードの毎日だったが、振り返るとさらにすさまじいスピードだったように思える。
何がなんだかろくすっぽわからないうちにここまで来てしまった。いまだに何がなんだかわかってない。
流されるままに人生がこうなって、これからもまた流されていくんだろうな、と思う。
そろそろ、ムダな体力を使わないでいながら思う方向へと動く流され方をしっかり身につけないといけない。
まあがんばりましょう。


diary 2010.2.

diary 2010

index