diary 2019.1.

diary 2019.2.


2019.1.31 (Thu.)

ではようやくですが、先日みんなで見た『ボヘミアン・ラプソディ』の感想を書きます。

まず20世紀フォックスのファンファーレがブライアン=メイのギターになっているところから「やられた!」と。
ファンなら初っ端からこの映画のクイーンに対する敬意を感じ取ることができるわけで、実に上手い工夫なのである。
そしてメンバーのそっくり具合が本当にすごい。すべてのシーンに説得力が滲み出てしまうレヴェルで似ている。

この映画は世界的にヒットしているが、日本でのヒットぶりは特に強烈であるそうだ。よく指摘されているように、
その背景にLGBTに対する理解が深まっているというタイミングがあるのは確かだが、単純にそれだけではないだろう。
クイーンがリアルタイムだった世代が金に余裕のあるおじさんおばさんになったという時間経過による相乗効果、
そしてそれ以上に、バブルのリヴァイヴァルを期待する社会的な雰囲気が大ヒットの根底にあると考える。
『ボヘミアン・ラプソディ』はクイーンというかフレディ=マーキュリーの伝記映画という定義が最も適切で、
これは決して若者の成長物語・青春物語ではない。視線が現在から過去に向いている。ここがポイントである。
青春映画であれば主人公と同じ時間経過、登場人物に寄り添う形の時間で成長を描いていくことになる。
そのため、主人公の危機は観客に対してもできるだけ同じサイズで描かれる。主人公の危機=観客の危機であり、
この危機を脱することでもたらされる感情移入によってカタルシスを生み出す。そういう演出手法が確立されている。
しかし『ボヘミアン・ラプソディ』における危機は相対的に小さく描かれる。これは「喉元を過ぎた熱さ」であり、
観客には主人公の過去の経験として受け止められるものだ。具体的には、空港での「パキ」呼ばわり、父との確執、
バンドでの下積み。序盤の苦労はどれもあっさりとしか描かれず、最初の成功をつかむまでの展開が非常に速い。
(当然ながらクイーン最大の危機はフレディがエイズで失われることであり、それに比べればすべては些細なものだ。)
青春映画なら「ファルーク=バルサラはいかにしてフレディ=マーキュリーになったのか?」に主眼が置かれるが、
この映画はそうではないのでさっさとフレディになってもらうのだ。メンバーには最初から成功が約束されている。
そしてこの「成功者の過去への目線」はそのまま、バブルを経ていい歳になったおじさんおばさんのものであるのだ。
日本における爆発的なヒットは、そういう層の無言の要求に完全にマッチした結果であると指摘できるだろう。

若者の冒険に手に汗を握る必要がない成功者の回顧録という過去への視線は、劇中のクイーンの音楽に集中できる、
という効果も持っている。工夫を凝らしたレコーディングのシーンやライヴのシーンは、「なるほどそうだったか」と、
どこか安心して見られるのだ。ところが実は1箇所だけ、そうではないものがある。この映画のクライマックスである、
1985年のライヴ・エイドにおける伝説的なパフォーマンスだ。このクライマックスへと至る前提として、
「クイーンはライヴ・エイドに参加できるのか?」という危機があり、しかもここにフレディのエイズ感染が絡んでくる。
この逆境を用意することで、バンド崩壊からの再生という成長物語を部分的に差し込んでいるというわけだ。
これで観客の時間と作中の時間がここだけ同期することになり、より興奮が深まるという巧妙な仕掛けになっている。
「どうせファンは知ってるでしょ」ということもあり全体的に展開が速いこの映画だが、ライヴ・エイドについては、
本当にじっくりと再現する。もともとクイーンの楽曲とフレディの歌唱力の素晴らしさは言うことなしであり、
映画館の音響設備に加えて当時より鮮明な映像が乗せられ、すべてが主人公に寄り添う時間へと集約されることにより、
観客は問答無用に興奮させられてしまうのである(それを完全に成功させる最大の要因は、やはりフレディの歌なのだが)。
そしてもうひとつ、ライヴ・エイドのシーンは観客ではなく出演者目線のライヴとなっている点も大きい。
実際のライヴ会場で観客はステージを見上げることしかできないし、ステージ上にカメラがあるとしても数は限られる。
しかしライヴそのものではなく「ライヴのシーン」としてカットを多くとることで、出演者の目線が確保できる。
これによって、フレディのクイーン、メンバーのクイーン、私のクイーン、みんなのクイーン、すべてが同期する。
後述する「クイーンの楽曲に埋め込まれた『we』」が、スクリーンと音響を通して自己の中に現れるのだ。

僕個人としては、現在に安住する視点から過去を振り返る要素がイマイチ気に食わない、というのが正直なところだ。
成功が約束されていることで、才能がメンバーの関係性をつないでいる点が強調される。それは事実なのかもしれない。
クイーンのメンバーは明らかにインテリであり、それを示すシーンもある。ブライアン=メイは天文学者になったし、
ロジャー=テイラーは歯科医の卵だった。ジョン=ディーコンもメイのアンプをつくったエンジニアの面を持っている。
ところが中心にいたフレディは、移民という過去を捨てようと躍起になるし、私生活では迷走を繰り広げる。
その悪趣味さにメンバーは嫌悪感を示しつつも、お互いの才能がお互いを捨てさせなかった。その純粋さは光る。
しかしイギリスという絶対的な階級社会を掘り下げることがない部分は、僕にとっては社会学的に不満なのである。
さらにクイーン以外のロックバンドについての言及が極端に少ない点も気になる。ブリティッシュロックの歴史、
そこにクイーンがどう位置付けられるのかを再検証してほしかった。もちろんそこまでやるには2時間はあまりに短い。
でもこの映画は現代の要求に応えようとするのはいいが、クイーンを論じる切り口をセクシュアリティに限定している。
デキがいいだけに、社会学的な片手落ちと感じるのだ。ブリティッシュロックと階級、その切り口が圧倒的に足りない。
クイーンという存在がセクシュアリティだけで語られて終わるとしたら、僕はそれが悔しくてたまらないのだ。
まあそうは言っても、この映画が現代における最大多数の最大幸福なデキであることは間違いない。意義は十分にある。

この映画はスタッフロールに「Don't Stop Me Now」を流し、さらに「The Show Must Go On」へつなげて終わる。
そうするセンスも素晴らしいが、絶妙な意味合いを持たせることのできる曲がそもそもあることがやはりすごいと思う。
数あるクイーンの曲の中で特に、人類の歴史とともに永遠に残っていくであろうと僕が考える曲は、2曲ある。
ひとつは「We Are the Champions」で、これはスポーツイヴェントの閉会式で未来永劫流れ続けるはずである。
そしてもうひとつが「We Will Rock You」。シンプルなリズムだが、それだけにもはや1フレーズ聴くだけで、
この曲しか考えられないくらいの絶対的な存在となっている。重要なのは、どちらも「we」が主語であることだ。
実際、どちらもクイーンだけでなく観客も含めての「we」であり、音楽の本質を見事に衝いた作品となっている。
クイーンを聴いて彼らの楽曲に埋め込まれた「we」を再確認するたび、僕はその偉大さに眩暈を覚えるのだ。



2019.1.27 (Sun.)

リョーシさんが上京してきたぜ! リョーシさん本人からは「本厄だから厄除けしたい」という希望があり、
それでようやく自分自身が昨年本厄だったことに気づく私。うーん、おととしの方が厄が強かった気がする。
でも去年もそれなりに厄が満載であった。後半はうまく乗り切れたのであんまりそういう感覚はなかったが。
25歳のときの本厄はかなり強烈で、大学院でゴチャゴチャしていていいことひとつもなくって困ったもんだが。
まあとにかく、自分も後厄であることには違いないので、一緒に厄払いすることにしたというわけである。

厄除けスポットは西新井大師である。ネットで検索したら人気だったので、というお気軽な理由なのだ。
もうひとつの希望である映画『ボヘミアン・ラプソディ』が西新井のTOHOシネマズで上映中ということで、
それならまとめて行っちゃおうということで私が決めました。西新井ってそんなに都会だったのか!とびっくり。

東京駅八重洲口でリョーシさんと合流するが、どこで昼飯を食うかが決まらない。そのうちに遅刻のみやもりが来て、
東京駅周辺の地下街に詳しいみやもりのアドヴァイスで店が決まる。それから大手町駅へと向かったのだが、
45周年のモンチッチがすごいことになっていましたな。東京キャラクターストリートで隣がテレビ東京の店舗で、
モンチッチの着ぐるみがテレ東のナナナと握手していた。猿ならバナナ食えよと、けしかけていたのは僕だけでした。

そんなこんなで西新井大師に到着。鉄分多めのリョーシさんは東武大師線のスーパー盲腸線ぶりに静かに興奮。
やっぱり西新井大師に参拝するならわざわざ東武大師線に乗りたいところだ(以前、自転車で来た →2006.7.15)。
それにしても参拝客が非常に多くて驚いた。何か行事でもあるのかと思ったがそうでもないらしい。ものすごい人気だ。
ちなみに、西新井大師の正式な名前は「總持寺」。本堂の西側に井戸があることで「西新井」という地名が生まれた。

  
L: 西新井大師の山門にて。リョーシさんとみやもりを撮影したのだが、画像がこのサイズだとどうにもならんなあ。
C: みやもりに仁王像のマネをしろと要求されたのでこうなった。ポーズのリョーシさんと表情の私。性格が出るなあ。
R: 参道を行く。毎月28日という不動明王の縁日は明日だが、すでにこんな感じで各種屋台が出ているのであった。

昼飯をのんびり決めていたら、お護摩の時間には間に合わなかった。リョーシさん的にはお財布に良かったのだろうが。
で、毎度おなじみのおみくじ対決を敢行したところ、みやもりが吉、リョーシさんが末吉に対して、僕は凶なのであった。
リョーシさんとおみくじを引くと凶になる気がするのは気のせいか(→2011.2.20)。ま、これより悪くならないからヨシ。

  
L: 厄除けということでお線香を捧げるべく点火するリョーシさん。こんなふうに点火する装置があるのね。
C: 凶。何ひとついいことが書いてなかったぜ。  R: 吉と末吉の人たち。毒にも薬にもならない結果ですなあ。

御守を頂戴して参拝を完了すると、のんびり歩いて西新井のアリオへ。行ってみたらずいぶん大きくて驚いた。
これだけまとまった土地ってことは元は工場かと思ったら当たりで、日清紡の東京工場を再開発したそうな。
4階のTOHOシネマズに行くと、調子に乗ってコーラとポップコーンを買ってしまった。いかにも映画館!ってのを、
一度はやってみたかったのよ。一人では食えない量なので、こういう機会でもないとチャレンジできないし。
さて肝心の『ボヘミアン・ラプソディ』だが、2日前に席を予約した時点ではけっこうスカスカだったのに、
いざ席に着こうとしたらほぼ満席。やはり西新井は辺境ではなかったし、クイーンの人気も凄まじいのである。
感想についてはまた後日。きちんと気合いを入れて書かないといけない内容だったので、日を改めます。

西新井を後にすると、みやもりの持っている商品券が使える店に入ろうということで、日本橋方面へ。
そこでマサルの合流を待ちつつ『ボヘミアン・ラプソディ』の感想戦。もっと洋楽聴けよとくだを巻くのであった。
そして19時過ぎにマサルが合流すると、会社を辞めた件についての事情聴取。今回はリョーシ氏を主賓に迎えつつ、
「岩崎、会社やめるってよ」と題しての事情説明会が繰り広げられたのであった。しかしながらまたその一方で、
僕が福岡の川端商店街で見つけた帽子をかぶせる(最初はお土産のつもりだったがもったいなくてあげるのをやめた)、
西新井大師の御守贈呈式、リョーシさんのお土産贈呈式、マサル持参のカードゲーム『狩歌』大会も執り行われた。

 マサル、お前、顔が2つあるぞ!!

なお、転職したマサルはかなりふつうの社会人的な恰好で仕事をしているそうだ。おもしろTシャツを期待していたが、
「僕のサイズが大きくなって、おもしろTシャツが見つからないんよ!」とのこと。いいかげん痩せなさいよホントに。

  
L: 西新井大師の御守贈呈式。そういえば以前僕が贈呈した空知神社のメタボ除け御守はどうなったんだろうか。
C: 誰でもマサルになれる帽子をかぶってマサルになりきっているつもりの人。なんだかパーマンみたいね。
R: あまりにも白バラコーヒーが好きすぎて、ついに自分が白バラコーヒーそのものになってしまった人。

『狩歌』は札に単語が書かれており、歌を実際に流してその単語が出てきたら取る、というゲーム。
「愛」とか「あなた」とか「ずっと」とか、いかにもな単語が並んでいるところを見るだけで笑えてくる。
90年代のJ-POPとか絶対にあるわーと思いつつ、まずは葛城ユキの『ボヘミアン』で挑戦してみるわれわれ。
いや、『ボヘミアン・ラプソディ』を見たから……。でもそれなりに勝負になったので、これはなかなか面白い。

 『狩歌』で盛り上がるわれわれ。ゲームマスターが歌詞を確認しないと大変ね。

そんな具合に大盛り上がりで会は終了。また近いうちに遊べるといいですなあ、と言いつつ解散。
僕は調子に乗りすぎて、結局吐くまで飲んでしまったのであった。15年ぶりくらいかなあ。お恥ずかしい。



2019.1.11 (Fri.)

「ボーイ・ジョージ」を日本風に訳すと「坊屋三郎」になるのだろうか。そんなことを考える週末。


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