diary 2019.1.

diary 2019.2.


2019.1.31 (Thu.)

ではようやくですが、先日みんなで見た『ボヘミアン・ラプソディ』の感想を書きます。

まず20世紀フォックスのファンファーレがブライアン=メイのギターになっているところから「やられた!」と。
ファンなら初っ端からこの映画のクイーンに対する敬意を感じ取ることができるわけで、実に上手い工夫なのである。
そしてメンバーのそっくり具合が本当にすごい。すべてのシーンに説得力が滲み出てしまうレヴェルで似ている。

この映画は世界的にヒットしているが、日本でのヒットぶりは特に強烈であるそうだ。よく指摘されているように、
その背景にLGBTに対する理解が深まっているというタイミングがあるのは確かだが、単純にそれだけではないだろう。
クイーンがリアルタイムだった世代が金に余裕のあるおじさんおばさんになったという時間経過による相乗効果、
そしてそれ以上に、バブルのリヴァイヴァルを期待する社会的な雰囲気が大ヒットの根底にあると考える。
『ボヘミアン・ラプソディ』はクイーンというかフレディ=マーキュリーの伝記映画という定義が最も適切で、
これは決して若者の成長物語・青春物語ではない。視線が現在から過去に向いている。ここがポイントである。
青春映画であれば主人公と同じ時間経過、登場人物に寄り添う形の時間で成長を描いていくことになる。
そのため、主人公の危機は観客に対してもできるだけ同じサイズで描かれる。主人公の危機=観客の危機であり、
この危機を脱することでもたらされる感情移入によってカタルシスを生み出す。そういう演出手法が確立されている。
しかし『ボヘミアン・ラプソディ』における危機は相対的に小さく描かれる。これは「喉元を過ぎた熱さ」であり、
観客には主人公の過去の経験として受け止められるものだ。具体的には、空港での「パキ」呼ばわり、父との確執、
バンドでの下積み。序盤の苦労はどれもあっさりとしか描かれず、最初の成功をつかむまでの展開が非常に速い。
(当然ながらクイーン最大の危機はフレディがエイズで失われることであり、それに比べればすべては些細なものだ。)
青春映画なら「ファルーク=バルサラはいかにしてフレディ=マーキュリーになったのか?」に主眼が置かれるが、
この映画はそうではないのでさっさとフレディになってもらうのだ。メンバーには最初から成功が約束されている。
そしてこの「成功者の過去への目線」はそのまま、バブルを経ていい歳になったおじさんおばさんのものであるのだ。
日本における爆発的なヒットは、そういう層の無言の要求に完全にマッチした結果であると指摘できるだろう。

若者の冒険に手に汗を握る必要がない成功者の回顧録という過去への視線は、劇中のクイーンの音楽に集中できる、
という効果も持っている。工夫を凝らしたレコーディングのシーンやライヴのシーンは、「なるほどそうだったか」と、
どこか安心して見られるのだ。ところが実は1箇所だけ、そうではないものがある。この映画のクライマックスである、
1985年のライヴ・エイドにおける伝説的なパフォーマンスだ。このクライマックスへと至る前提として、
「クイーンはライヴ・エイドに参加できるのか?」という危機があり、しかもここにフレディのエイズ感染が絡んでくる。
この逆境を用意することで、バンド崩壊からの再生という成長物語を部分的に差し込んでいるというわけだ。
これで観客の時間と作中の時間がここだけ同期することになり、より興奮が深まるという巧妙な仕掛けになっている。
「どうせファンは知ってるでしょ」ということもあり全体的に展開が速いこの映画だが、ライヴ・エイドについては、
本当にじっくりと再現する。もともとクイーンの楽曲とフレディの歌唱力の素晴らしさは言うことなしであり、
映画館の音響設備に加えて当時より鮮明な映像が乗せられ、すべてが主人公に寄り添う時間へと集約されることにより、
観客は問答無用に興奮させられてしまうのである(それを完全に成功させる最大の要因は、やはりフレディの歌なのだが)。
そしてもうひとつ、ライヴ・エイドのシーンは観客ではなく出演者目線のライヴとなっている点も大きい。
実際のライヴ会場で観客はステージを見上げることしかできないし、ステージ上にカメラがあるとしても数は限られる。
しかしライヴそのものではなく「ライヴのシーン」としてカットを多くとることで、出演者の目線が確保できる。
これによって、フレディのクイーン、メンバーのクイーン、私のクイーン、みんなのクイーン、すべてが同期する。
後述する「クイーンの楽曲に埋め込まれた『we』」が、スクリーンと音響を通して自己の中に現れるのだ。

僕個人としては、現在に安住する視点から過去を振り返る要素がイマイチ気に食わない、というのが正直なところだ。
成功が約束されていることで、才能がメンバーの関係性をつないでいる点が強調される。それは事実なのかもしれない。
クイーンのメンバーは明らかにインテリであり、それを示すシーンもある。ブライアン=メイは天文学者になったし、
ロジャー=テイラーは歯科医の卵だった。ジョン=ディーコンもメイのアンプをつくったエンジニアの面を持っている。
ところが中心にいたフレディは、移民という過去を捨てようと躍起になるし、私生活では迷走を繰り広げる。
その悪趣味さにメンバーは嫌悪感を示しつつも、お互いの才能がお互いを捨てさせなかった。その純粋さは光る。
しかしイギリスという絶対的な階級社会を掘り下げることがない部分は、僕にとっては社会学的に不満なのである。
さらにクイーン以外のロックバンドについての言及が極端に少ない点も気になる。ブリティッシュロックの歴史、
そこにクイーンがどう位置付けられるのかを再検証してほしかった。もちろんそこまでやるには2時間はあまりに短い。
でもこの映画は現代の要求に応えようとするのはいいが、クイーンを論じる切り口をセクシュアリティに限定している。
デキがいいだけに、社会学的な片手落ちと感じるのだ。ブリティッシュロックと階級、その切り口が圧倒的に足りない。
クイーンという存在がセクシュアリティだけで語られて終わるとしたら、僕はそれが悔しくてたまらないのだ。
まあそうは言っても、この映画が現代における最大多数の最大幸福なデキであることは間違いない。意義は十分にある。

この映画はスタッフロールに「Don't Stop Me Now」を流し、さらに「The Show Must Go On」へつなげて終わる。
そうするセンスも素晴らしいが、絶妙な意味合いを持たせることのできる曲がそもそもあることがやはりすごいと思う。
数あるクイーンの曲の中で特に、人類の歴史とともに永遠に残っていくであろうと僕が考える曲は、2曲ある。
ひとつは「We Are the Champions」で、これはスポーツイヴェントの閉会式で未来永劫流れ続けるはずである。
そしてもうひとつが「We Will Rock You」。シンプルなリズムだが、それだけにもはや1フレーズ聴くだけで、
この曲しか考えられないくらいの絶対的な存在となっている。重要なのは、どちらも「we」が主語であることだ。
実際、どちらもクイーンだけでなく観客も含めての「we」であり、音楽の本質を見事に衝いた作品となっている。
クイーンを聴いて彼らの楽曲に埋め込まれた「we」を再確認するたび、僕はその偉大さに眩暈を覚えるのだ。


2019.1.30 (Wed.)

部活とはなんぞや、という話を滔々とテニス部に語る。今日は頼まれてテニス部の様子を見ていたのだが、
遊びじゃねーんだよということでお説教なのであった。自分の中学校時代をスッパリと棚に上げて、である。
部活というものは、用法と用量を間違えなければ絶対に子どもの精神的成長にとってプラスになるものなので、
その辺の効用について再確認させる。まあ、その場では神妙に聴いていても、自力だと結局できないのが子どもなのだが。
自分の感覚以上に自分に厳しくやるべし、と言って解散。たまにはこういう経験をさせるのもいいんじゃないですかね。


2019.1.29 (Tue.)

アジアカップ準決勝・イラン戦はやはり衝撃的なのであった。イランはさすがに歴史ある強豪国だけあって、
ひとつひとつのプレーに賢さというか「サッカーわかってる感」を存分に漂わせていたのだが、あの一瞬だけ、
南野が倒れた瞬間だけ、完全に時間が止まってしまっていた。そこから日本が先制点をあげると、結果的には3-0。
サッカーが集中力のスポーツであるとはいえ、蟻の一穴がこうも大きな差として現れるとは。残酷だが、これが現実。
明日は全国、いやもしかしたら世界中のサッカー指導者が、セルフジャッジの危なさを子どもに話すんだろうなと。
これで決勝だぜやったぁ!とかそんな感情よりも、勝負の分水嶺を目の当たりにして背筋が凍る感覚の方が圧倒的に強い。


2019.1.28 (Mon.)

音楽鑑賞教室なのであった。パンフレットが配られて、指揮者の経歴を見てびっくり。藝大指揮科卒だと!
生徒はピンときていなかったようだが、「募集定員2名だぞ」「マジっすか!」というやりとりで盛り上がる。
そう、高校時代に物理班の後輩がこの事実を発見して盛り上がったのをそっくりそのままやったというわけ。
しかし25年近く経ってもぜんぜん募集定員が変わっていないのね。恐ろしい世界だなあとあたらめて思う。

演奏会は楽しゅうございました。こうやって若手指揮者は経験を積んでいくんだなあと思うのであった。
正直、もっといろいろ聴いてみたかったですなあ。指揮者さんの今後のご活躍を期待いたします。


2019.1.27 (Sun.)

リョーシさんが上京してきたぜ! リョーシさん本人からは「本厄だから厄除けしたい」という希望があり、
それでようやく自分自身が昨年本厄だったことに気づく私。うーん、おととしの方が厄が強かった気がする。
でも去年もそれなりに厄が満載であった。後半はうまく乗り切れたのであんまりそういう感覚はなかったが。
25歳のときの本厄はかなり強烈で、大学院でゴチャゴチャしていていいことひとつもなくって困ったもんだが。
まあとにかく、自分も後厄であることには違いないので、一緒に厄払いすることにしたというわけである。

厄除けスポットは西新井大師である。ネットで検索したら人気だったので、というお気軽な理由なのだ。
もうひとつの希望である映画『ボヘミアン・ラプソディ』が西新井のTOHOシネマズで上映中ということで、
それならまとめて行っちゃおうということで私が決めました。西新井ってそんなに都会だったのか!とびっくり。

東京駅八重洲口でリョーシさんと合流するが、どこで昼飯を食うかが決まらない。そのうちに遅刻のみやもりが来て、
東京駅周辺の地下街に詳しいみやもりのアドヴァイスで店が決まる。それから大手町駅へと向かったのだが、
45周年のモンチッチがすごいことになっていましたな。東京キャラクターストリートで隣がテレビ東京の店舗で、
モンチッチの着ぐるみがテレ東のナナナと握手していた。猿ならバナナ食えよと、けしかけていたのは僕だけでした。

そんなこんなで西新井大師に到着。鉄分多めのリョーシさんは東武大師線のスーパー盲腸線ぶりに静かに興奮。
やっぱり西新井大師に参拝するならわざわざ東武大師線に乗りたいところだ(以前、自転車で来た →2006.7.15)。
それにしても参拝客が非常に多くて驚いた。何か行事でもあるのかと思ったがそうでもないらしい。ものすごい人気だ。
ちなみに、西新井大師の正式な名前は「總持寺」。本堂の西側に井戸があることで「西新井」という地名が生まれた。

  
L: 西新井大師の山門にて。リョーシさんとみやもりを撮影したのだが、画像がこのサイズだとどうにもならんなあ。
C: みやもりに仁王像のマネをしろと要求されたのでこうなった。ポーズのリョーシさんと表情の私。性格が出るなあ。
R: 参道を行く。毎月28日という不動明王の縁日は明日だが、すでにこんな感じで各種屋台が出ているのであった。

昼飯をのんびり決めていたら、お護摩の時間には間に合わなかった。リョーシさん的にはお財布に良かったのだろうが。
で、毎度おなじみのおみくじ対決を敢行したところ、みやもりが吉、リョーシさんが末吉に対して、僕は凶なのであった。
リョーシさんとおみくじを引くと凶になる気がするのは気のせいか(→2011.2.20)。ま、これより悪くならないからヨシ。

  
L: 厄除けということでお線香を捧げるべく点火するリョーシさん。こんなふうに点火する装置があるのね。
C: 凶。何ひとついいことが書いてなかったぜ。  R: 吉と末吉の人たち。毒にも薬にもならない結果ですなあ。

御守を頂戴して参拝を完了すると、のんびり歩いて西新井のアリオへ。行ってみたらずいぶん大きくて驚いた。
これだけまとまった土地ってことは元は工場かと思ったら当たりで、日清紡の東京工場を再開発したそうな。
4階のTOHOシネマズに行くと、調子に乗ってコーラとポップコーンを買ってしまった。いかにも映画館!ってのを、
一度はやってみたかったのよ。一人では食えない量なので、こういう機会でもないとチャレンジできないし。
さて肝心の『ボヘミアン・ラプソディ』だが、2日前に席を予約した時点ではけっこうスカスカだったのに、
いざ席に着こうとしたらほぼ満席。やはり西新井は辺境ではなかったし、クイーンの人気も凄まじいのである。
感想についてはまた後日。きちんと気合いを入れて書かないといけない内容だったので、日を改めます。

西新井を後にすると、みやもりの持っている商品券が使える店に入ろうということで、日本橋方面へ。
そこでマサルの合流を待ちつつ『ボヘミアン・ラプソディ』の感想戦。もっと洋楽聴けよとくだを巻くのであった。
そして19時過ぎにマサルが合流すると、会社を辞めた件についての事情聴取。今回はリョーシ氏を主賓に迎えつつ、
「岩崎、会社やめるってよ」と題しての事情説明会が繰り広げられたのであった。しかしながらまたその一方で、
僕が福岡の川端商店街で見つけた帽子をかぶせる(最初はお土産のつもりだったがもったいなくてあげるのをやめた)、
西新井大師の御守贈呈式、リョーシさんのお土産贈呈式、マサル持参のカードゲーム『狩歌』大会も執り行われた。

 マサル、お前、顔が2つあるぞ!!

なお、転職したマサルはかなりふつうの社会人的な恰好で仕事をしているそうだ。おもしろTシャツを期待していたが、
「僕のサイズが大きくなって、おもしろTシャツが見つからないんよ!」とのこと。いいかげん痩せなさいよホントに。

  
L: 西新井大師の御守贈呈式。そういえば以前僕が贈呈した空知神社のメタボ除け御守はどうなったんだろうか。
C: 誰でもマサルになれる帽子をかぶってマサルになりきっているつもりの人。なんだかパーマンみたいね。
R: あまりにも白バラコーヒーが好きすぎて、ついに自分が白バラコーヒーそのものになってしまった人。

『狩歌』は札に単語が書かれており、歌を実際に流してその単語が出てきたら取る、というゲーム。
「愛」とか「あなた」とか「ずっと」とか、いかにもな単語が並んでいるところを見るだけで笑えてくる。
90年代のJ-POPとか絶対にあるわーと思いつつ、まずは葛城ユキの『ボヘミアン』で挑戦してみるわれわれ。
いや、『ボヘミアン・ラプソディ』を見たから……。でもそれなりに勝負になったので、これはなかなか面白い。

 『狩歌』で盛り上がるわれわれ。ゲームマスターが歌詞を確認しないと大変ね。

そんな具合に大盛り上がりで会は終了。また近いうちに遊べるといいですなあ、と言いつつ解散。
僕は調子に乗りすぎて、結局吐くまで飲んでしまったのであった。15年ぶりくらいかなあ。お恥ずかしい。


2019.1.26 (Sat.)

ここ最近の日記の遅れにはCDを入れる作業が関係しているが、百人一首はとにかく手間がかかって困ったのであった。
いや、iPodに百人一首を入れておけば、いざというときに便利かなと思って。下の句早押しクイズだってできるぜ。

試しに通勤中、イヤホンで百人一首を流したら、上の句を聞いて下の句を考える作業がずっと続くのであった。
これがものすごく疲れる。休みなくずーっと考えっぱなしになるので。仕事の前に脳ミソがパンクしてしまいますぞ。


2019.1.25 (Fri.)

Jリーグの日程が出たので観戦の予定をぼんやりと考える。

イニエスタのいる神戸とフェルナンド=トーレスのいる鳥栖は絶対に観なければ。あとは片野坂監督の大分も。
J2では大木サッカーの岐阜は当然として、霜田監督の山口を今年こそ観たい。魅力的な監督が多いなあ。
スタジアムについては、いいかげん吹田に行かねばなるまい。残る長崎もそろそろ攻めたいところだ。
そういえばJ3に八戸が加わったんだよなあ。蕪嶋神社の再建のタイミングもあるけど、ぜひ現地観戦したい。
とりあえずはそんな感じで、観たい試合をリストアップしていく。できるだけたくさん観られますようにっと。


2019.1.24 (Thu.)

職場体験最終日。カメラ片手に事業所にお邪魔しては生徒の様子を激写する日々であったが、
なかなかに神経を使う3日間だった。生徒はみんなちゃんとしているのでトラブルの心配は皆無だけど、
やはり他所様のお世話になるのは大変なのだ。協力していただいた皆様は本当にありがとうございました。


2019.1.23 (Wed.)

職場体験2日目。幼稚園の先生は大変ですなあと思うのみである。


2019.1.22 (Tue.)

職場体験開始。様子を見るべく自転車で動きまわるが、みんな真剣に取り組んでいるようでなにより。


2019.1.21 (Mon.)

実は市庁舎データの専用ページをつくって情報を整理しているのだが、本当に膨大だなあと呆れております。
あまりに膨大でまだまだぜんぜん手をつけていない県もあって申し訳ない。現時点ではこんな感じです(⇒こちら)。

やはり800近い量というのは、とんでもないものがある。自分が過去に訪れた分だけでも整理できていないのに、
東日本大震災以降の新築ラッシュが激しくて、とても対応しきれるもんじゃない。恐ろしい趣味を持ったものだ……。


2019.1.20 (Sun.)

ここんとこやたらと忙しかった反動で本当にだらけておりました。


2019.1.19 (Sat.)

道徳の授業でさだまさしの『償い』が出てくる回を担当したので、実際に曲を用意して生徒に聴かせる。
これはもう、どうにもならん問題なのである。ゆうちゃんの気持ちもわかるし、奥さんの気持ちもわかるし。
あまりにもどうにもならないので、結論としては「自分の気持ちも大事だが、相手の気持ちも大事」しかなく、
相手の気持ちを考える想像力を研ぎ澄ましているかい、君たち。というところに落とし所を求めるのであった。
生徒たちは一人残らずめちゃくちゃ真剣で、時間が足りなかった。土曜授業だってのに君たちすげえな。


2019.1.18 (Fri.)

新年会なのであった。同席した保護者の方がサッカー部員のお母さんで、少々緊張しつつあれこれ話す。
曰く、部活が楽しいそうで、何よりである。これはもう、具体的に練習メニューを組んでくれるコーチのおかげなのよね。
僕の指導はあくまで抽象的な範疇であって(戦術面でのコンセプトや判断についてのアドヴァイスなどは得意である)、
それなりに役には立っているとは思うが、やはり足りないんだよなあ。自分の指導スキルをあらためて反省してしまった。


2019.1.17 (Thu.)

職場体験の準備がいろいろ細かくて大変である。部活に出る暇もない。


2019.1.16 (Wed.)

プログラミング教育ってなんぞや。まず小学校で必修化されるということで勉強会があったのだが、さっぱり。
新自由主義に翻弄される哀れな教育現場、以上の感想はないのであった。いや本当に頭の悪い人間に巻き込まれている。
それで一儲けしようって連中の詭弁にお付き合いさせられる虚しさったらない。教育現場に誇りなどございません。

よく考えたら、自分は小学校低学年のときにはMZ-2000でBASICのプログラムを組んで遊んでいたのであった。
だから、それこそ昔、マイコンBASICマガジンにあったようなプログラムをみんなでいじくる感じでいいのなら、わかる。
今はパソコンが進化しちゃっているので、いきなり難しいことを要求される感じになっているのではないかと思う。
実際のところはどうなんでしょうかね。結局は教える人しだいなんだろうけど、のんびり楽しめるようならいいが。


2019.1.15 (Tue.)

旅行から帰ってきて思うのは、地酒の違いをわかって飲めたらどんなに楽しいだろう、ということだ。
全国あちこち旅行していて土産物店を覗くと、その土地でつくっている酒を見かけることがよくある。
もしそれぞれの銘柄の特徴をわかって楽しむことができたなら、きっとその土地への理解が深まるはずだ。

地酒めぐりって楽しみ方もあるんだろうなあ、と最初に思ったのは、富山の岩瀬でのことだ(→2006.11.2)。
造り酒屋の杉玉を見て、ただ街並みを眺めるだけでは足りないよなあと思ったのだ。しかし当方、酒に弱い。
日本酒はまだ相性がいい方だが、飲むには度胸が要るのである。旅行で翌朝遅刻すると大変なことになるし。
それでキララポンポン水(地サイダー)だったり良寛牛乳だったりがいいところ、なのである。

そうは言っても、まったく飲まないわけではない。札幌では飲み比べセットでベロベロになり(→2010.8.9)、
サッポロクラシックでサッカー観戦をし(→2015.11.1)、沖縄ではオリオンビールを飲んでいる(→2018.6.23)。
室戸岬で胡座をかいて太平洋を眺めながら高知の地酒をあおるという、ささやかな夢も叶えたっけ(→2015.2.27)。
こうして振り返ると、シチュエーションが大事なようである。飲むべき場所で、飲むべきものを飲む。
個人的にはバヒさんに連れられて行った沼津のバーの影響が非常に大きくて(→2008.3.212018.1.10)、
「文化としての酒」という視点を与えられてからは、銘柄の名前やラベルのデザインなど(→2015.5.10)、
積極的に気にするようにしている(クレインパークいずみの酒の銘柄の「鶴」調べは秀逸だった →2015.8.18)。

最近では、金沢でのサッカー観戦の際、能登かきとともに宗玄をいただいたのが記憶に新しい(→2018.11.17)。
個人的にはこれで一皮剥けた感がある。佐渡(→2018.3.31)で北雪を飲んでおくべきだったとか、
やっぱり金沢駅の地酒バー(→2018.11.18)で一杯やっときゃよかったとか、そう思うようになってきた。
だから昨日なんかも、売店で雪中梅でも買って飲んでおくべきだったのではないかと悔やんでいるのである。
今後はできるだけ、その土地の酒を味わう努力をしてみたい。持ち歩き用のぐい呑みを買っちゃおうかしらん。


2019.1.14 (Mon.)

わざわざ冬の新潟旅行2日目、どちらかというと今日が本番。神社の御守を頂戴しまくるのだ。
朝イチでやってきたのは糸魚川。8年前に市役所と天津神社を訪れているが(→2011.10.9)、両方にリヴェンジである。
当時はまだ北陸新幹線が開通していなかったが、今回はえちごトキめき鉄道・日本海ひすいラインとしてのアプローチだ。
ちなみに同じえちごトキめき鉄道でも、妙高はねうまラインと違って日本海ひすいラインは週末パスのエリア外となる。
もともとがJR西日本だからしょうがないのだ。現在の糸魚川駅はすっかり新幹線モードで、以前とまったく様子が違う。
特にアルプス口(南口)周辺は整備が終わっており、浦島太郎気分を味わいつつ糸魚川市役所へと向かうのであった。

  
L: アルプス口(南口)市街地から見た糸魚川市役所。相変わらずのそびえ具合。  C: 到着である。まずは前回と同じ構図で撮影。
R: すっかり色が変わった手前の糸魚川市民会館。市役所と色を合わせたのか。設計者はどちらも久米設計(久米建築事務所)。

  
L: 正面(北側)から見た糸魚川市民会館。  C: 市民会館の側面。北西から見たところ。  R: 南西から側面と背面。

  
L: 南東から。  C: そのまま右を向くと糸魚川市役所の背面。これは8年前にも撮った構図。  R: 南から見た市役所背面。

  
L: 南東から見た糸魚川市役所。  C: 東から見た市役所の側面。  R: 正面の方にまわり込んで北東から見たところ。

  
L: ピロティとなっているエントランスの脇にあるパブリックアート。この位置にわざわざ置くのは珍しいのでは。
C: 北から見た糸魚川市役所。この位置に木を植えるかーって感じ。  R: 北西から見た市役所。これで一周完了。

糸魚川市役所のすぐ手前に天津神社の参道があり、そのまま東へ進んでいけば境内の入口である。
ただ、社殿とは横というより斜め後ろ参道といった位置関係になっており、ぐるっとまわり込んで社殿に出るのが独特。
まあそれは前回参拝した際にも書いているが(→2011.10.9)。2階建ての衣紋所の存在がこれまた独特である。

  
L: 市役所の敷地手前を通る天津神社の参道。  C: まっすぐ行くと境内入口。  R: 衣紋所。なんとも独特。

あらためて天津神社の拝殿を撮影する。茅葺の拝殿が相変わらず見事なのだが、調べても建築年代がわからない。
天津神社は越後国一宮の論社だが、この拝殿を見ていると、やはりタダモノではない神社だなあと思う。

  
L: 天津神社の拝殿。  C: 角度を変えて眺める。建築年代が非常に気になる。  R: 横から見た拝殿。

無事に御守が頂戴できるが不安になるが、拝殿の中に入ることができ、そこには多種多様な授与品が並んでいた。
初穂料は専用の賽銭箱に入れるスタイルで、ここまで充実していると思っていなかったので驚いた。さすがは一宮論社。

  
L: 拝殿内には多様な授与品が並んでおり、実に壮観である。  C: 多数の祠が集まる一角。これは実に強烈である。
R: 拝殿の裏、左がヒスイの女神・沼河比売を祀る奴奈川神社(駅前に像がある)。右が天津神社本殿だが雪囲いで見えない。

糸魚川駅に戻る。9時を過ぎてアルプス口(南口)に併設されている「糸魚川ジオステーション ジオパル」が開いており、
中をちょろっと見学してみる。鉄道保存展示施設としての性格が強い印象で、かなり気合いの入ったジオラマが目立つ。

  
L: 糸魚川駅アルプス口。1912(大正元)年築のレンガ車庫の出入口部分をモニュメントとして復元している。
C: ジオパルに入ると「明星山スライダー」がお出迎え。  R: プラレール三昧ですな! プラレール占いもあるよ。

  
L: 静態保存されているキハ52。外に出すこともあるとか。  C: キハ52の内部。キハキハモハモハする人もいるんだろうなあ。
R: ジオパルの中はこんな感じ。ジオラマの手前には運転体験コーナー。奥では国鉄時代の柱用駅名標などが展示されている。

  
L: ジオラマ鉄道模型ステーション。これは糸魚川駅周辺ですな。中央にしっかり糸魚川市役所が建っている。
C: 反対側には都会の風景。  R: 姫川渓谷を再現した一角。ヒスイと紅葉がこの辺りの名物とのこと。

堪能すると、日本海口(北口)に出る。アーケードが架け替わっており、8年前(→2011.10.9)とは微妙に印象が異なる。
さて糸魚川市街といえば、2016年の糸魚川市大規模火災である(→2016.12.22)。あれは本当にショックだった。
日記では勘違いして「いかにも昭和なヒスイロードは、もうないのだ」なんて書いているけど、ありますあります。
被災したエリアはヒスイロードから1ブロック西に入ったところだ。「平成29年版 消防白書」に詳しい(⇒こちら)。
延焼面積は約40,000平方m、鎮火に約30時間を要した。とりあえず今回は、その復興ぶりがどの程度なのかを見てまわる。

  
L: 糸魚川駅日本海口(北口)。  C: 駅から北にヒスイロード。8年前と比べるとアーケードが架け替わっているのがわかる。
R: ヒスイロードから見た本町通り。ここからまっすぐ西へ50mほど進んでいくと、大規模火災で被災したエリアに入る。

  
L: 本町通りの雁木。ヒスイロードに近い辺りは残ったようだ。  C: 本町通りから少し北に入る。被災した一角。
R: 本町通りに戻って西、被災したエリアの中心部。新しい建物がつくられつつある。右側は雁木だけ先行して建てた模様。

  
L: さらに先、右奥に京屋。ここまでが被災したエリアになる。  C: ぎりぎりで残った京屋。しかし分家は焼けてしまった。
R: そこから西側はかつてと同じ表情。しかし本町通りのいちばん歴史を感じさせる箇所が焼失してしまったのは残念だ。

8年前に撮影した建物は、やはりけっこう焼けてしまっていた。被災エリアは南北方向に広がっているので、
雁木の街並みがすべてダメージを受けたわけではない。しかし、その中でも魅力的だった箇所が失われてしまった。
建物を再建するだけでも大変で、費用負担が重くなるため雁木を設けない例もあるとのこと。そもそもこれは、
雁木だけの問題ではなく、地方都市の活性化の問題なのである。災害が衰退を加速するのを見るのは、本当につらい。

糸魚川から直江津に戻ると、ひたすら西へと歩いていく。レンタサイクルなら楽なのだが、天気が悪いし徒歩である。
目的地は、これまた3回目となる五智国分寺と居多神社だ(→2012.8.112014.10.19)。もうこっちも慣れたもんだ。
もちろん御守を頂戴するためである。居多神社では無事に赤と緑の両方の御守を確保できた。そこからさらに南へ。

 
L: 五智国分寺・親鸞堂(親鸞聖人御配所草庵)。  R: こちらは居多神社入口。どちらも詳しい写真は5年前のログを参照。

ひたすら歩いて向かったのは、春日山城方面。おうよ、これまたリヴェンジである(→2011.10.10)。
やはり春日山神社の御守を頂戴していなかったので、それが目的なのだ。冬の雨の中を歩くのはなかなか切ないが、
御守に対する好奇心があるのでつらくはない。目的達成に向かって淡々と徒歩を進めるのみである。

 春日山城史跡広場。単なるだだっ広い空間でしかないのだが。

春日山城史跡広場の脇を抜けると、まわり込むようにして春日神社に参拝する。ややこしいが、こちらは春日神社。
その名のとおり春日大社から勧請され、かつては春日山の頂上にあって「春日山城」の名前の元になったわけだ。
しかし春日山城を築いた際に、鬼門を守護すべく現在地に遷座した。ちょうどいい位置に小山があったもんだ。

  
L: 春日神社の一の鳥居。  C: 二の鳥居をくぐって参道。遷座して600年、古社の雰囲気。  R: 拝殿。御守はこの中。

 本殿。長尾氏は平氏の流れを汲むが、上杉氏は藤原北家の系統。そりゃ謙信も信仰するわ。

二礼二拍手一礼して御守を頂戴すると、いよいよ春日山神社へ。地道に坂を上っていけば到着なのである。
今回は雨も降っているし、春日山城址はスルーして純粋に神社を参拝するのみで済ませる。意外と人がいた。
ちなみに春日山神社の祭神はもちろん上杉謙信だが、米沢の上杉神社(→2009.8.11)からの勧請により、
1901(明治34)年に創建されている。武田神社(→2015.12.26)よりは早いが、それでも20世紀のことなのだ。

  
L: 上杉謙信の銅像がお出迎え。春日山神社はこのまま右へ。  C: 上越の街を眺める。天気のわりには景色がよかった。
R: 春日山神社の鳥居。下にある駐車場からだと石段を上ってこの光景だが、銅像脇からだと横参道的なアプローチになる。

  
L: 拝殿。冬なのでしっかり雪囲いモードである。  C: 本殿。  R: 角度を変えて眺める拝殿。ややこしい形に見える。

 参拝を終えて春日山城の本丸跡を見上げる。冬の越後は大変だなあ。

御守を頂戴すると坂道を下っていく。平坦になったところにある上越市埋蔵文化財センターを軽く見て時間調整。
向かいにバス停があり、ここからバスで高田の市街地に直接乗り込む計画なのである。なかなか無駄のないプランだぜ。

 
L: 上越市埋蔵文化財センター。  R: 謙信が大好きなのはわかるけど、これは……討死状態ではなかろうか。

高田駅の手前、本町六丁目バス停で下車。高田の街も8年前に訪れたが(→2011.10.10)、のんびり歩いて感触を再確認。
そうしてやってきたのは榊神社だ。越後高田藩は榊原家を藩主として明治維新を迎えており、初代の榊原康政を祀る。

  
L: 榊神社。創建は1871(明治4)年。  C: 参道を行く。天気が少し良くなってきた。  R: 右を向いて拝殿。

  
L: まわり込んで本殿を眺める。  C: やはり拝殿の中に御守があった。種類はなかなか多様である。  R: 東側の入口。

参拝を終えると駅の方へと戻る。高田の街はやはりアーケードが非常にがっしりとしている。雁木の文化だろう。
しかしその分だけひと気のなさが強調されてしまっている印象。建物は古びていないし、それなりに勢いはあるのだが。

  
L: 本町。これはバスの中から撮影した写真ですな。昔ながらの街並みはむしろ駅よりも北側にしっかり残っている感じ。
C: 高田まちかど交流館(旧第四銀行高田支店)。1931年に百三十九銀行本店として建てられている。内部を見学可能。
R: 高田の街並みをあらためて撮影。かなりがっしりとしたアーケードだが、歩いている人が少ないんだよなあ。

 高田駅。アーケードと同様、なんか過剰な感じがする。

高田駅からえちごトキめき鉄道・妙高はねうまラインを南下すること10分ほどで北新井駅に到着。今回はここで下車だ。
本日最後の目的地は斐太神社。「斐太」というと「飛騨」の古い表記が真っ先に思い浮かぶのだが、新潟県にもあるのか。
周辺は弥生時代後期の斐太遺跡となっているが、さすがにこの雪ではどうにもならない。神社に参拝のみとする。

  
L: 北新井駅のホームにて。うーん、なかなかしっかり雪国である。  C: 西へと歩いていく。  R: 雪の中へ……。

道路はもちろんちゃんと除雪されているが、そこから勝手気ままに動けないのがさすがの雪国である。
斐太神社の境内入口に着いても、参道に雪が積もったままなので、鳥居をくぐれない状態になっている。
いったん社務所の方に入って参道に合流すればいいのだが、拝殿の前に出るとやっぱり一面の雪。

  
L: 斐太神社の境内入口だが、雪で鳥居をくぐれない。  C: いったん社務所方面に入って参道に合流する。
R: 拝殿が見えてきた。石段で上がっていくと、結局参道も雪道なのであった。慎重に近づいていく。

今回は当然、こういう事態を想定していたので、武蔵小山の商店街で買っておいたブーツを履いている。
昨日の日記で「『特別な理由』により、冬場の新潟旅行となった」と書いたが、それはガーラ湯沢駅だけではないのだ。
来月には北海道旅行を予定しているので、その予習も理由としてあるのだ。寒さと雪に慣れておこうという魂胆である。

  
L: 斐太神社の拝殿。雪で眺める角度が限られるが、なかなかによいアングルである。  C: 本殿。
R: 境内社の雁田神社前から見た社殿。重厚な妻入の拝殿がなんとも独特だ。1958年に焼失したが同年再建。

境内社の雁田神社にも参拝したが、これがなかなか強烈だった。賽銭箱の前には「おさわり石」が置かれており、
壁には専用のケースが設置されて、陰陽それぞれの形状の石がうやうやしく並べられているのであった。
まあつまりは安産を願うわけである。斐太神社とは別に雁田神社独自の御守もあったので頂戴しておいた。

  
L: 雁田神社。  C: おさわり石。「男石」という表記も。  R: 専用ケースに並ぶ石。女性型の方はモザイクが必要なので省略!

以上で今回の新潟遠征は終わりである。すぐ近くにある温泉施設でじっくり湯に浸かると、北新井駅まで戻る。
えちごトキめき鉄道・妙高はねうまラインとしなの鉄道を乗り継いで、長野駅からは新幹線。さすがの週末パスなのだ。
今回は御守が主目的だったけど、それだけでなく来月に向けても実にいいシミュレーションができた。よかったわあ。


2019.1.13 (Sun.)

週末パスを使ってのお出かけである。この2日間のターゲットは、なんと、新潟なのだ。
今まで「雪の五箇山と白川郷が見てえ(→2016.2.11)」等の特別な理由がある場合を除いては、
実は冬に北海道・東北・北陸を旅行することは意図的に避けてきた。市役所中心の訪問なのだ、当たり前である。
しかし今回は神社中心であることと「特別な理由」により、冬場の新潟旅行となったのだ。下の写真をどうぞ。

 
L: ガーラ湯沢駅。  R: いちおう恒例の最果ての景色も押さえておく。

はいガーラ湯沢駅です! ガーラ湯沢駅ですよ! これで上越新幹線の制覇を完了ですよ!
ちがうナリよ、鉄じゃないナリよ! これはそう……社会学である。ふだんスキーをやらない僕には社会学なのだ!
冬にしか営業しないスキー場直結の駅はどんなんなのか見てみたかったんだい。好奇心があるから疎外感なんてないやい。

  
L: 「ガーラに来ました」的フォトフレーム 。右の宇宙人っぽい赤いのはなんなんですかね。これがガーラのマークなん?
C: 駅から直結しているリフト券のカウンター。  R: 吹抜ホール空間。うーん、バブルな感じがしますなあ。

 
L: 外に出てみた。これは背面かな。  R: 反対側。こちらが駅舎としては正面である模様。

スキーをやらないとなると、思った以上にやることがない。本当に何もない。というわけでそそくさと撤退する。
越後湯沢駅に戻るが、越後湯沢も越後湯沢でやることがない。こりゃもうさっさと弥彦神社を目指そうと考える。
今日は彌彦神社の御守確認が主目的で、明日に備えて直江津の宿に泊まれりゃもうそれでいいのである。
しかしふと上越線の案内表示を見てみると、「超快速」という文字を発見。……おう、こっちの方が面白いじゃないか!
そうだそうだ、北越急行ほくほく線では2015年に特急はくたかに代わって超快速が導入されたっけ(→2015.5.7)。
週末パスだから対象内だし、こりゃもう乗るしかねえや! というわけで、行き先変更。鉄じゃないナリよ。

  
L: 超快速の案内表示。越後湯沢-直江津間の84.2 kmを時速100km近いスピードで走り抜ける。かかる時間は約1時間。
C: こちらが超快速の車両。愛称は「スノーラビット」。  R: 車両に描かれているウサギ。こいつが「スノーラビット」か。

急遽予定を変更して超快速で直江津を目指すことに。いやー、4年前にはこいつに乗ることはまったく想像しなかった。
でもいざ乗ってみると、「うおお速えええ!」ということはあまりない。ほとんどがトンネルなので違いがわからない。
そもそも最高時速が圧倒的に速いわけではなく、線形の良さと停車駅を極限まで削ることで時間を短縮しているのだ。

 
L: 十日町駅(→2015.5.8)辺りからの車窓の風景。しかし超快速で途中に停まる駅が十日町だけってのもすごい。
R: 「超快速」の英語表記がどうなるかと思ったらコレ。“Cho”って! ネットで調べたら各所からツッコまれていた。

直江津に着くとそのまま信越本線で柏崎へ。8年前に訪れているのだが(→2011.10.9)、そのときはほぼ市役所のみ。
なお、柏崎市役所は昨年から駅のすぐ北西で新庁舎の建設工事が始まっており、2020年度の完成を予定している。
また来なくちゃいけないのか……。とりあえず今回は、柏崎神社に参拝しておく。御守がゲットできれば言うことなしだ。

  
L: 柏崎といえばブルボン。なぜ柏崎でフランス王室なのかと思ったら、かつてコーヒーを輸入したレユニオン島の旧称からだと。
C,R: 柏崎の市街地を行く。アーケードがしっかりしているわりにはひと気がねえなあ。全体的に広すぎる気がするんだよなあ。

駅から柏崎神社までは1kmほど。柏崎の総鎮守のはずなのだが、ネットで調べてもマトモな情報がぜんぜん出てこない。
793(延暦12)年に坂上田村麻呂の命で創建され、祭神は大穴貴命というのがやっと。1872(明治5)年に5社を合祀し、
1976年に「諏訪社」から現在の「柏崎神社」に改称したそうだ。2007年の中越沖地震では大きな被害を受けている。

  
L: 柏崎神社。  C: 拝殿。特設スロープを上がっていって中に入ったら、無事に御守を頂戴できた。
R: 本殿。中越沖地震で全壊したが、2010年に再建された。中越沖地震は柏崎周辺の寺社に大きな被害が出た。

思わぬ収穫にホクホクしながら信越本線をさらに北へ。吉田駅で弥彦線に乗り換えると本日のメインターゲット、
彌彦神社へと向かう。なんだかんだで参拝するのも3回目になる(→2011.10.82014.10.19)。慣れた調子で坂を上る。
すると駐車場と店舗が整備された空間が現れた。「おもてなし広場」ということで、こんなんあったけ?と思ったら、
昨年オープンしたとのこと。観光資源に恵まれた弥彦村にまたひとつ強力な武器が加わった、ってところですな。
帰りに寄ってみたのだが、食事処に土産物店という定番のラインナップのほか、スイーツ方面に力を入れている模様。
混んでいたこともあって土産物をつるっと見てまわっただけで終わったなあ。弥彦温泉の足湯が賑わっておりました。

 おもてなし広場。弥彦村の底力を感じさせる空間がまたひとつ増えたなあと。

おもてなし広場には後でじっくり寄るとして、とにかくまずは彌彦神社に参拝なのだ。境内に入って拝殿を目指すと、
そこにはたいへんな行列が! 三が日はもう終わったというのに! 新潟県民はそんなに他に行くところがないのか!

 ぎやー!

まあ特にこの後に急ぐ予定があるわけでもないので、素直に列に加わって参拝。彌彦神社は二礼四拍手一礼だが、
すっかり忘れていて周りのみなさんに合わせて慌ててやり直すのであった。公式サイトには二拍手でもOKってあるけど。
そして御守は、標準的なものが色違いでなんと10色。うれしい悲鳴である。ご利益10倍だもんね、うれしいなあ!

参拝を終えたら、ぜひとも弥彦温泉に浸からなくてはなるまいて。参道沿いの穏やかな老舗旅館にお邪魔する。
彌彦神社にはあれだけの人がいたのだが、上階の風呂には誰もおらず、お湯もよろしく、すばらしい時間を過ごせた。
弥彦温泉に浸かるという野望が最高の形で実現できて、ただただ感動である。本当にありがとうございました。

信越本線を南に戻って柏崎で再び下車。どうせ直江津に行ってもメシを食うところはないだろう、
それなら柏崎で名物の鯛茶漬けを食おうじゃないか、ということで動きまわる。ディナータイムなら市街地でも食える。

 
L: 8年前から食いたかった鯛茶漬けがここに。  R: こんなの旨いに決まっているのである。余は満足である。

御守に温泉に旨いメシということで、余韻に浸りつつ駅までの道を戻る。途中のスーパーで明日の朝食を見繕うが、
良寛牛乳なるものを発見。中越地方ではメジャーであるらしい。そりゃまあ出雲崎といえば良寛かジェロだから、
この2択で牛乳にふさわしいのは……んんー、良寛かぁー? 首を傾げつつも購入せずにはいられないのであった。

 直江津へ向かう列車内でいただく。

まあ抜群に語呂はいいのである。インパクトがあって覚えやすく、いいのではないでしょうか。おいしゅうございました。


2019.1.12 (Sat.)

「ボーイ・ジョージ」を日本風に訳すと「坊屋三郎」になるのだろうか。そんなことを考える週末。


2019.1.11 (Fri.)

つぶあんとこしあんにこだわりのある人はすげえなあと思う。

自分はさっきどっちを食ったか訊かれても思い出せないくらい、つぶあんとこしあんについてこだわりがない。
これは冗談ではない。呑み込んで2秒後にはどっちだったか忘れている。それにくらいにこだわりがないのだ。
つまるところ「あんこ!」であればいいのである。博愛精神を持ってあんこに接している、と言ってもよい。
「つぶあんがいい」とか「こしあんがいい」とか、その判断基準が設定されるところからして理解ができない。
だからアンパンマンの頭の中身がつぶあんだろうがこしあんだろうが関係ないのである(※公式にはつぶあん)。
どっちも甘くておいしいだろうがよーつまらん差別するんじゃねえよーの精神なのだ。人類皆兄弟。あんこも皆兄弟。

……あ、でも羊羹に関してだけは、小倉はダメで煉羊羹オンリーである。なんでや?


2019.1.10 (Thu.)

不登校会議は勉強になりました……。

中学受験が諸悪の根源な気もするけど、努力というものの価値は絶対に否定できないものだしなあ。
受験なんて軽やかに乗り越えてしまうべきものです、という浪人時代の玉置先生(→2005.1.2)の言葉がしみるなあ。


2019.1.9 (Wed.)

サッカー日本代表でも長く活躍したGK楢崎正剛とDF中澤佑二の両選手が現役引退とのこと。

楢崎は前所属の「横浜フリューゲルス」を守っての引退。なんというか、美しいなあと思うのである。精神が美しい。
選手としてはもちろん、川口と双璧(「双壁」とすべきか)で日本のゴールを守り続けたレジェンドである。
年はまたいだが、彼と同じシーズンを最後に引退というところもまた美しい。歴史を背負っているからこその美しさか。

中澤はとにかく経歴がすごすぎる。おそらく今後、これほどハングリーな状況から出世していく選手はいないはずだ。
しかしながら代表にしろクラブにしろ、頼れるプレーをして当たり前、セットプレーから点を取って当たり前、
そんなふうに感じさせる領域に達した選手だった。われわれが想像できる範囲を超えた努力をしたからこそだろう。

当然のように活躍する姿をずっと見てきた選手たちが引退するというニュースに触れて、時間の流れに気づかされる。
そうして、われわれが日本サッカーの幸せな時代に立ち会ってきたことを実感するのである。お疲れ様でした。


2019.1.8 (Tue.)

はじまってもうた。始まってしまったら、ただただ無心でやるべき仕事をこなしていくだけである。


2019.1.7 (Mon.)

広島からFAした丸の人的補償が長野とは! ここ最近のストーヴリーグでは最大級の衝撃を受けております。
ドラフト指名を2回も拒否して巨人入りした経緯があるだけに、アンチ巨人な僕としてはあまりいい印象がなかったが、
さすがにこれはかわいそうな気がしている。まあつまりはネガティヴなイメージが払拭されたということである。
実際に会ったことのない人に対してイメージであれこれ考えるのは失礼極まりない話だが、同情せざるをえないのだ。
広島ファンはもちろん歓迎するだろうし、巨人ファンも応援し続けるだろうし、アンチ巨人だって同情する。
冷静に考えると、これは「長野を応援しない人」がゼロになるという、極めて珍しい事態が発生しているのである。
おそらくすべてのプロ野球ファンが長野をあたたかい目で見守っている。全力でがんばってほしいと思うわー。


2019.1.6 (Sun.)

夜行バス・ほの国号で降り立ったのは、豊橋駅である。今日はちょっと強引な青春18きっぷ利用の日帰り旅なのだ。
今回のターゲットは明確で、2年前の年末(つまりほぼ1年前)に訪れた田原の崋山神社・巴江神社(→2017.12.29)、
そちらへのリヴェンジである。……が、それだけではもったいない。反対方向にはなるが、鳳来寺へも突撃するのだ。
いや、むしろ朝イチで鳳来寺に行った方が時間を有効に使えるだろうということで、まずは飯田線に乗り込んだ。

 本長篠駅前バスターミナル。今日はここからのスタートなのだ。

本長篠駅から少し北、国道に面したバスターミナルへ。ここから8分で鳳来寺バス停に到着である。
しかしこのバス停があるのは、あくまで鳳来寺への参道の入口でしかない。ここから1km以上の参道を進み、
さらに1425段の石段を上ることになるのだ。覚悟を決めて、いざ歩きだす。雪がないから前向きな気持ちで行ける。

  
L: 鳳来寺への参道入口。朝早いので店はまだ。でも門前は小規模である。かつては本長篠から豊橋鉄道田口線が通っていた。
C: 参道には干支の石碑。新しいものと苔生した古いものが混在。  R: 参道。山へ入っていくぞーって感じですな。

  
L: 参道途中の光景。左の見事な建物は、鳳来寺に参拝する殿様も滞在したという平澤家住宅。奈良時代から続く名家とのこと。
C: 参道にはアート作品がチラホラ。  R: 山家料理とは非常に気になりますな。おそらくジビエ系なんだろうなと思う。

参道を進んでいった先は木々の茂る山となっており、しっかりと石段が続いている。いよいよである。
気合いを入れて一歩踏み出すと、あとは一定のリズムを刻みながら両足を交互に動かしていくだけ。無心で上る。
5分ほどで真っ赤な仁王門を抜けるが、石段は踏み面に少々のバラつきがあり、前に捻挫した経験から少し慎重になる。

  
L: 鳳来寺の石段が本格的に始まる。  C: 真っ赤な仁王門。1651(慶安4)年築の国指定重要文化財である。
R: 国指定天然記念物となっている傘杉。樹齢は800年で、高さは60mある。高さのわりにはスマートな気がする。

仁王門・傘杉からさらに上っていくと、立派な石垣が目立つエリアに入る。鳳来寺は特に徳川家光の崇敬が篤く、
江戸時代に大いに栄えて多くの僧坊がこの辺りに建てられていたのだ。しかし廃仏毀釈の影響が大きく及んだ結果、
現在は松高院と医王院の2つしか建物が残っていない。僧坊跡にはひとつひとつ案内板があるが、その数に圧倒される。

  
L: 上っていくと立派な石垣が目立つようになる。  C: 医王院。1658(万治元)年に徳川家綱により建立。
R: 僧坊跡は非常に多く。鳳来寺がかつて大いに栄えていたことがはっきりうかがえる。こちらは岩本院の跡。

僧坊地帯を抜けるとラストスパートで、すぐに本堂の前に出る。石段を上りはじめて20分ちょっとということで、
かなり速いペースで本堂まで来ることができた。よかったよかった。飯田線は本数が少ないから急ぐ必要はないけど。
鳳来寺は利修という仙人により開山され、利修は文武天皇の病気平癒祈願のために鳳凰に乗って都に行ったという。
これが鳳来寺の由来とのこと。本堂は大正時代の火災の後、1974年になって再建されたもの。幅のわりに高さがない。

  
L: 僧坊地帯を抜ける。ここまで来ればあともう少し。  C: 鳳来寺の本堂に到着。  R: 向かいには田楽堂。

石段を上ることに飽きたので、鳳来寺への参拝を終えて御守を頂戴すると、先に鳳来山東照宮の方へと移動。
境内を東へ歩いていくと、見事な石垣が現れる。真ん中の石段を上るとさらに少し参道が続き、東照宮への入口となる。

  
L: 鳳来山東照宮の石垣。ここから石段を上ってさらに参道を進む。  C: 境内。石段と杉の木の存在感がすごい。
R: 石段を上りきると拝殿。いかにも家光好みだが、造営中の1651(慶安4)年に家光が亡くなり、家綱が同年中に社殿を完成。

鳳来寺には徳川家康の生母・於大の方が参拝して家康を授かったという伝説があり、じいちゃん大好きっ子の家光が、
「鳳来寺に東照宮をつくるぞー!」と権力を振りかざしたので鳳来山東照宮が創建された。が、家光は途中で亡くなり、
跡を継いだ家綱が完成させた。なかなか広く使えない土地だが、うまく利用して小さくとも見事な社殿を建てている。

  
L: 拝殿・幣殿の奥にある中門。  C: 中門から見る幣殿。こんなふうになっているのか!と興奮。しかし塗りが鮮やかだ。
R: 失礼して本殿を覗き込んだところ。拝殿・幣殿もそうだが、軒下のところの塗りがたいへん精彩で美しい。見惚れる。

創建に絡む伝説の影響か、鳳来山東照宮のいちばんふつうっぽい御守を頂戴したら、本来は受胎安産の御守とのこと。
あとは寅童子(とらどうじ)をデザインした御守もあり、なかなか個性的。寅童子とはつまり起き上がり小法師だが、
家康が生まれると鳳来寺の寅神・真達羅大将の神像が姿を消し、家康が亡くなると元の位置に戻っていたとされ、
それで家康が真達羅大将の化身だった、という伝説にもとづいた玩具なのだ。虎だ! お前は虎になるのだ!

  
L: 寅童子。授与所で大小のサイズで売っているので、お土産にいいのでは。虎よ、虎よ!
C: 参拝を終えると、鳳来寺の境内に帰りがてら景色を眺める。鏡岩と、その手前には鐘楼。
R: 鳳来寺のバス停から続く参道を見下ろす。あそこから歩いてここまで来たと思うとちょっとびっくり。

では最後にもうちょっとがんばって鳳来寺の奥の院まで上ってみよう。本堂脇の石段を上っていくと、
倒木によって大部分が壊れているのであった。いやあ怖い怖い。端っこが通れたので、するする上る。

  
L: 奥の院・鳳来寺山の山頂へと向かう石段。枝のせいで見えづらいが、石段の向かって左側が壊れている。
C: 石段の上に鎮守堂。  R: そこからすぐに旧本堂。大正時代の火災の後はこれが本堂だったわけだな。

  
L: さらに上っていくと鉄製の階段。  C: 勝岳不動。利修仙人が亡くなったとされる場所だそうだ。
R: 奥の院。倒木が直撃していて、あまりのボロボロ具合に言葉が出なかった。ちゃんと修復されるのか。

奥の院のボロボロ具合にショックを受けつつ15分で鳳来寺山の山頂に到着。ドーム状の地形に木々が生えていて、
正直あまり落ち着いて過ごせる感じではなかった。まあとりあえず、きちんと頂上まで行っておいたよ!ってことで。

 
L: 山頂へ向かう途中の岩場から見た景色。これは絶景。  R: 鳳来寺山の山頂。いちおうベンチはあるが、落ち着けないなあ。

これでいちおう、やるべきことはぜんぶやったはずである。足元に気をつけながら下山すると、
参道に戻ってちょっと入ったところにある旧門谷小学校へ寄ってみる。案内板によると江戸時代の寺子屋を引き継ぎ、
1872(明治5)年に郷学校として創立されたそうだ。1970年に廃校となったが、1925(大正14)年築の校舎は健在。
この地域の中心的な存在として、今もイヴェントなどで盛んに活用されている模様。広い校庭を囲んで建物が配置され、
なんとも懐かしい感触がする。わが母校・追手町小学校と似た雰囲気が漂っているのだ。田舎の原風景そのものだなあ。

  
L: 川を渡って集落の北側にアプローチ。  C: 旧門谷小学校。昔の校舎は長い直線状なんだよな。  R: 中央部。

  
L: 「かどや小学校 食堂」の看板が掲げられている。  C: 中を覗いてみた。  R: この渡り廊下感がたまんないぜ。

バスの時刻までのんびり過ごすと、本長篠駅へ。時間の都合で、特急のワイドビュー伊那路に揺られて豊橋に戻る。
豊橋駅に着いたら少し急いで新豊橋駅に移動して豊橋鉄道渥美線に乗り込む。いよいよ田原にリヴェンジなのだ。
終点の三河田原駅に着くと、まっすぐ北上して田原城址の巴江神社へ。松の内なら御守を頂戴できるかと思ったが、
残念ながら頂戴できず。でも賽銭箱作戦で対応していただけたのでよかった。わざわざありがとうございました。

  
L: 前回訪問時(→2017.12.29)よりはちょっと丁寧に写真を貼り付ける。城址の神社らしい荘厳な感じがよい。
C: あらためて巴江神社の拝殿。  R: 本殿を覗き込む。隣にある富多満瑠(ふたまる)稲荷社の幟の存在感がすごい。

巴江神社を後にすると、あらためて田原城桜門を振り返る。1992年に復元されたものだが、横から見ると実に重厚。
正面から見るよりもこっちの方がいいんじゃないか。きちんと史実どおりに復元されているのかどうか気になる。

 田原城桜門。正面から見た幅と横から見た厚みがあまり変わらない。

田原城址からすぐ西の崋山神社へ。こちらも前回は御守が頂戴できなかったが、今回は拝殿内に置かれていた。
写真の方は、前回はリヴェンジする気満々だったので1枚しか貼り付けていなかったが、今回は曇り空で残念。

  
L: 崋山神社の入口。  C: 社務所が入る崋山会館。  R: 拝殿。1967年の再建で、妻入のコンクリは珍しい気がする。

崋山神社の祭神は当然、渡辺崋山。画家として有名になってから田原藩の家老となり、藩政改革に大きな成果をあげた。
しかし蛮社の獄で蟄居処分となり、生活のために絵を描いたという話が出ると、藩に迷惑をかけまいと切腹してしまった。
ちなみに崋山生誕の地は千代田区の三宅坂だが(→2018.8.2)、この地名は田原藩主の三宅家に由来している。

 本殿を見てみる。玉垣でなくて物置に遮られるとは。

目的をほぼ達成したので豊橋に戻ると、あとは東海道線でのんびり東京を目指すだけである。が、二川に寄っておく。
二川宿は以前歩いているが(→2012.12.29)、そのときにいくつか神社をスルーしていたので、あらためて押さえるのだ。
まずは県道3号を少し行ったところにある二川伏見稲荷から。大きな看板が出ていて、かなりやる気を感じさせる神社だ。

  
L: 二川伏見稲荷。  C: 堂々とした拝殿である。  R: 対して本殿はよく見えない……。

二川伏見稲荷はその名のとおり京都の伏見稲荷大社(→2010.3.28)からの勧請だが、1910(明治43)年の創建で、
だいぶ最近にできた神社である。拝殿までは非常に立派だが、覗き込んだ本殿は一部分が見えるだけだった。
しかし社殿の脇にはかなり気合いの入った稲荷の杜がつくられており、赤い鳥居が並んで実に独特な雰囲気。
稲荷ならではの異質な空間がしっかりと味わえるようになっていた。非常にうまく整備されていると思う。

 山の中に鳥居と境内社が配置されている異界っぷりは見事である。

二川伏見稲荷のすぐ南東が、大岩神明宮。こちらは698年創建とだいぶ歴史がある。大岩とはこの辺りの地名で、
1712(正徳2)年に二川宿の中心に近い現在地に遷座した。豊橋でも屈指の大きな神社で境内もかなり堂々としているが、
ひと気はほとんどなくて、なんともアンバランスな印象である。無事に御守を頂戴することができたからよかったけど。

  
L: 大岩神明宮。  C: 歴史ある神社ということで、境内は非常に立派。  R: 拝殿。これぞ神明宮という感じ。

 境内社。みんなこの形で建てられているのは独特だが。

参拝を終えると二川宿を散策しながら東へ。前に訪れたときと同様(→2012.12.29)、気ままにシャッターを切る。
なるべく前回とは異なる建物をクローズアップしてみたつもりだが、雰囲気は伝わっておりますかね?

  
L: 二川宿をアピールする暖簾など。  C: 西駒屋。前回とは異なる角度で撮影。  R: 二川宿まちなか公園。

  
L: 二川宿本陣資料館。  C: 旅籠屋清明屋の中はこんな感じ。  R: 裏から見た二川宿本陣資料館の内部。

  
L: 駒屋。宿役人や村役人を務めた田村家の住宅を豊橋市が整備して一般公開。カフェや土産物店を併設している。
C: 主屋の内部。1814(文化11)年の築とのこと。  R: 敷地は南北に長く、複数の建物が両脇に建てられている。

  
L: 主屋の先には明治末期から大正期にかけて建てられたという来客用の離れ座敷。この先には土蔵が3つほどある。
C: 隣の東駒屋。かつて味噌・醤油を製造・販売していた。  R: 通りはこんな感じ。風情がしっかり残っている。

二川宿のほぼ東端にあるのが二川八幡神社。1195(永仁3)年に鶴岡八幡宮(→2010.12.11)から勧請されたとのこと。
現在は二川の氏神だそうだが、二川宿は1644(正保元)年に西に移動された経緯があるので、それで端っこなのか。
東海道から塀と石垣に囲まれた参道が長く延びているところに確かな風格を感じるが、御守はなさそうだった。残念。

  
L: 二川八幡神社。東海道に面する入口はこんな感じ。  C: 長い参道を進むと拝殿。  R: 本殿。幣殿が長いなあ。

だいぶ歩いたが新所原まではこの2倍くらいの距離があるので、素直に二川駅までトボトボと戻るのであった。
途中、部屋の中であったかそうなネコと遭遇したが、ガラスに遮られて遊ぶこと能わず。無念である。

 お前はあったかそうでいいなあ。

各駅停車でのんびり東京まで戻る。いちおうはリヴェンジ達成ですっきり。いい週末なのであった。


2019.1.5 (Sat.)

『艦これ』の「新春鎮守府JAZZ祭り2019」が日本武道館で開催されたそうで。
Toshlと伊東たけしが出演したとのことで。……うらやましい。これはチャレンジすべきだったかー。


2019.1.4 (Fri.)

ひと気のない中で日直をやりつつ雑務をこなす。


2019.1.3 (Thu.)

せわしなく東京に戻るのであった。


2019.1.2 (Wed.)

本日は高校の同級会なのであった。過去ログをひっくり返してみるに、5年ぶり(→2014.8.16)になるのか?
今回は、シンカイ先生が最近凝ってらっしゃるというけん玉が炸裂。他人に披露できる趣味があるのがうらやましい。
われわれにしてみれば、先生が楽しんでいる、というのがいちばん嬉しいのである。よかったよかった。

しかしシンカイ先生、ぜんぜん老けてねえのが怖い。僕らが高校生の頃からまったく変化していないではないか。
冗談抜きで、シンカイ先生のところだけ時空がねじ曲がっている感覚なのであった。いったいどういうことなのか。


2019.1.1 (Tue.)

起きたら午後になっているダメすぎる正月なのであった。年々ひどくなっていくような気がするが、どうしょうもない。


diary 2018.12.

diary 2019

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