diary 2015.11.

diary 2015.12.


2015.11.30 (Mon.)

水木しげる先生が亡くなったとのこと。見事な大往生である。

境港を訪れた際、とにかく水木しげるロードの賑わいぶりに驚かされた。ここまで人気なのか!と。
そして水木しげる記念館を歩きまわりながら、その理由についていろいろと考えてみた(→2013.8.20)。
深く印象に残ったのは2点。水木先生のブレない内面と、その科学的研究としての作品世界だ。

まず圧倒されてしまうのが、水木先生が不遇続きの状況にまったく動じなかったことだ。
常人とは相手にしている舞台が異なっていたと思う。とんでもなく大局的な観点で生きていたとしか思えない。
自分の信じることをただひたすらにやっていったら、世間がしっかりついてきた。そういう印象である。
信じるべきこと・ものを見定めると、まったくブレずにやり抜く。その自信の根源を知りたい。

もうひとつ、妖怪たちを系統的にまとめることで人間の内面世界を科学的にまとめた業績もまたすごい。
しかもそれが娯楽作品の世界として成立している。だからこそ、境港の街が全体として活気づくことができる。
つまり3つのレヴェルで偉業なのである。研究−作品−現実、そのすべての面で豊かな実りとなっている。

動じることなく自分を信じて、形で成果を残して、他人を幸せにする。偉人とはこういう人のことなのだと思う。


2015.11.29 (Sun.)

昼まではすごく天気がいいらしいので、休日おでかけパスでちょいとお出かけすることにした。
本庄まで行って武蔵国二宮の金鑚(かなさな)神社に参拝し、そのまま高崎線沿線の市役所でもつぶそうか、と。
あらかじめ調べておいたところでは、本庄駅近くの自転車屋でレンタサイクルを借りることができるので、
それでちょちょいと走ってやろうじゃないの、というわけである。9時ぐらいに本庄に着くように家を出ると、
高崎線の車内ではひたすら日記の画像を取捨選択。画像選びは集中力が必要だが、ここで一気にできたのは大きい。

本庄に来るのは3年前の12月以来だ(→2012.12.8)。時期もだいたい同じで、当時と雰囲気がぜんぜん変わらない。
懐かしさをおぼえつつ北口を少し進むと目的の自転車屋を発見。2時間300円で借りると快調にこぎ出して南口へ。
iPhoneのGoogleマップを参考に、穏やかな片田舎の道を進んでいくのであった。うーん、気持ちのいいサイクリングだ。

新幹線を抜けてさらに関越自動車道も抜けると、住宅・畑・ラブホテルの3要素のみで景観が形成されるようになる。
そんな中をきわめて快調に走り抜けて目的の神社を目指すが、看板などの案内が一向に出ていないのが実に不思議だ。
そのうち小山川という川にぶつかる。iPhoneで確認したら、この川の手前に神社があるという。周りを見回すと、
道から右手へ少しはずれたところに、確かにそれっぽい雰囲気の木々の塊がある。え……まさか、これ?
近づいてみたら、確かにそこには「村社 金鑚神社」と刻まれた社号標が立っていた。でもそこにあるのは小さい社殿。
なるほど、読めた。本家の金鑚神社はもっと山の中にあって、これは里の方に勧請した神社なのだ。ま、まいった。

 
L: 埼玉県の北端は、住宅と畑とラブホテルでできていた。  R: そりゃ確かに金鑚神社だけどさ……。

結局、僕が盛大な勘違いをしていたのだ。すぐその場で調べてみたら、本家の金鑚神社はここからさらに西。
自転車で行くことはできなくはないが、レンタサイクルのママチャリではちょっときつい。とりあえず駅へ戻る。
来た道を戻ろうとしたのだが、農地の中にあるややこしい住宅地をいろいろ曲がってアクセスしたせいで、
気づけば帰り道は少々遠回りに。早稲田大学の本庄キャンパスの脇を抜けて市街地まで戻る破目になった。

何ごともなかったかのようにレンタサイクルを返却すると、駅舎へと戻る。さあどうしようか。
このまま埼玉の市役所めぐりをしようか、それとももう意地でバスと徒歩で本家の金鑚神社へ参拝に行こうか。
迷ってポケットに手を入れたら、中にあるはずの休日おでかけパスがない。どこかに落としてしまったのだ。
まさに踏んだり蹴ったりである。ここから帰るまでによけいな交通費がしっかりかかってしまうではないか!

しょうがないので市役所めぐりをあきらめて、今日は本家の金鑚神社を参拝することに集中しようと決める。
バスは南口から出ているので、階段を降りてロータリーに出ると……乗るべきバスが目の前を走り去っていった。
茫然とその場に立ち尽くす。次のバスが来る時刻を調べると、なんと1時間後。今日はとことんツイていない!
しょうがないのでMacBookAirを取り出し、バス乗り場のベンチに座ってひたすら日記を書いて待つのであった。

11時5分、バスがやってきた。乗り込むと30分ほど揺られて新宿というバス停で降りる。近くにスーパーがあるが、
その先にある橋を渡ったらそこは群馬県という位置である。なかなか遠くへ来たもんだ。帰りのバス時刻を確認すると、
群馬県とは反対方向の国道462号を東へと歩いていく。しっかりと山の中へ入っていく道で、少し不安になるのであった。
でも15分もしないうちに、無事に金鑚神社の鳥居にたどり着いた。さっきの村社とはさすがにまったく風格が違う。

 
L: 国道462号を行く。車社会な雰囲気全開な道で、なんとなく不安になってしまう。  R: 金鑚神社の鳥居に到着。

時期が時期なので、七五三ということで参拝客はけっこう多い。山の中だがそれだけ支持されているんだなあと感心。
参道をしばらく進んでいくと、右手に多宝塔が現れる。1534(天文3)年に建てられており、重要文化財になっている。
多宝塔ってのは仏教の価値観による建築だから、往時の神仏習合っぷりがうかがえる。周りは銀杏で臭かったです。

  
L: 金鑚神社の多宝塔。  C: 角度を変えて見上げる。  R: 銀杏の匂いと戦いつつ坂を上って横から眺める。

参道に戻って境内へと入るが、金鑚神社はかなり独特な空間構成となっている。参道を進んで右手に拝殿があるが、
その奥には中門があるのみで、本殿はない。背後の山を御神体としているそうで、大神神社(→2012.2.18)みたいだ。
そういうかなり古い祭祀形態に加え、さっきのような多宝塔もあるわけで、パワースポット要素がてんこ盛りである。

  
L: 多宝塔前の参道はこんな感じ。  C: 授与所の前から境内を眺める。  R: 橋から右手を眺める。石積みがすごい。

しかし金鑚神社とはなんとも読みづらい名前である。砂鉄を意味する「金砂(かなすな)」が語源とのことで、
刀に使う砂鉄が採れたということらしい。まあそれだけ昔から聖地だったわけだ。きちんと参拝できてよかった。

  
L: 参道から右を向いて拝殿を眺める。  C: 拝殿を横から見たところ。小さい屋根がついているのが出入口。
R: 拝殿の奥にあるのは中門まで。すぐその後ろから山が続いており、山そのものが御神体となっているわけだ。

さて、金鑚神社は国の特別天然記念物に指定されている鏡岩が有名らしい。せっかくなので見てみようと石段を上がる。
やがて5分足らずで左手に赤っぽい岩が露出している場所に出た。確かにその表面はツルツルしている部分があり、
空の光を映してはっきりと光沢を見せている。……しかしそれだけ。まあ鏡といえば銅鏡ぐらいしかない時代であれば、
この鏡岩は非常に神秘的に見えたことだろう。しかしスマホをいじりまくる現代社会においては、「こんなもんか」だ。
まあ逆を言えば、われわれは昔の人の頭の中を追体験するだけの想像力を鍛えなければいけないわけだが。

  
L: いざ登山スタート。結局、なんだかんだでしょっちゅう山登りばっかりしているような気がする。
C: 5分ほどで鏡岩に到着。天然の現象でこの光沢というのは確かに神秘的だが、現代っ子には物足りないわな。
R: 鏡岩をまわり込むように階段があり、上から眺めてみたところ。光を反射しない角度だと、なおさらただの岩。

毒を食らわば皿まで。ここまで来たら、もうちょっとがんばって、御嶽(みたけ)山の山頂まで行ってしまうことにした。
鏡岩からスパートをかけたところに展望スペースと四阿があったのだが、木が茂ってぜんぜん展望できなかったので、
山頂まで行ったらちょっとは眺めのいい場所があるかも、と思ったわけだ。ここからさらに5分、完全なる山道を行くと、
標高343mの御嶽山山頂に到着。ここはかつて御嶽城という城だったそうで、確かにそれらしい雰囲気は残っているが、
肝心の見晴らしはほとんどさっきと変わらない状態なのであった。もうがっくりよ。今日はとことんツイてねえなあ!

  
L: 御嶽山の山頂手前はこんな感じ。トホホ。  C: 御嶽山の山頂(御嶽城址)。ご覧のとおり、見晴らしはぜんぜん。
R: それでも山頂の端っこではいちおうこんな感じで下界を眺めることができた。埼玉と群馬を一気に見られた、かな?

一気に下山して御守を頂戴して神社を後にすると、すぐ手前にあり「金鑚大師」の別名を持つ大光普照寺に寄ってみた。
その名前から想像がつくとおり、かつては金鑚神社の別当寺だったそうだ。本堂がけっこう大きくて立派なのが印象的。

  
L: 金鑚大師こと大光普照寺。  C: 境内はこんな感じでコンパクトながらもなかなか立派。  R: 本堂もなかなか。

来た道を戻ってバスに揺られて本庄駅に戻る。泣く泣く切符を買うと、帰りも車内で画像の取捨選択をして過ごす。
まあおかげで今月分の画像がばっちり決まったのはよかった。その後は有楽町の無印良品に寄って買い物をした。
有楽町の無印は大々的に本を置くようになっていて驚いた。デザイン方面の本が多くて気取った感じがしたのだが、
それはそれでまあ僕の好みでもあるので、正直うらやましい気もする。無印良品週間だと本も10%オフで買えるの?
もしそうなら、これはかなり危険ですよ。大学時代に生協で10%オフでやたらと本を買っていた過去を思い出した。


2015.11.28 (Sat.)

せっかくこっちが必死で部活のサポートをしているのに何様のつもりなのか!とブチギレる事案が発生。
いろいろ許しがたいのだが、いちばん頭に来たのはオレが話をした直後に、その内容に反する行動をとった点である。

特に部活をめぐっては、とてもとても信じられない事態が今年度に入ってからいくつも立て続けに起こっている状況で、
こういう言い方は微妙なのだが、日本人の個人と集団のバランス感覚が急激に劣化していると思わざるをえないのだ。
義務を果たすことなく(自らに課せられた義務に気づかないふりして)、権利ばかりを主張する人間が急増している。
授業でも学校生活でも「お前は何様のつもりだ!?」と言いたくなる(実際に言っているけど)事態が頻発している。
確実に、子どもや家庭というレヴェルで、日本人本来の勤勉さや謙虚さが失われている。これは非常にマズい!


2015.11.27 (Fri.)

午後に休みを頂戴して、いつもより早く職場を抜け出した。あまりにも天気がいいので、これはどこかに行かねば、と。
職場に置いてある先代のマイデジカメを片手に訪れたのは、日枝神社。久しぶりに東京十社を押さえておこうというわけ。
せっかくなので溜池山王駅から少しややこしく地下を抜けて、表参道である山王男坂の方から参拝することにしてみた。

  
L: 衆議院の議院会館の脇を抜けて日枝神社へ。  C: 山王男坂の鳥居。さすがの山王鳥居である。タクシー邪魔!
R: 石段を上っていくと神門。冬が近づいているためか、南側から照らしてくる太陽がなかなか眩しく撮りづらかった。

1478(文明10)年に太田道灌が川越の日枝神社を勧請したことで、本格的な歴史がスタートしたようだ。
その後、江戸時代になって江戸城の中に入ったり外に出たりしたが、明暦の大火で社殿が焼けてしまったため、
1659(万治2)年に現在地に移ったそうだ。当たり前だが、現在の日枝神社の周りは立派なビルだらけとなっている。
驚いたのは、七五三の参拝客が絶えないこと。平日の真っ昼間じゃねーか!と思ったが、よく考えたら子どもは就学前。
それなら両親がちょっとお休みをいただいちゃえば合理的なのである。神社って七五三でけっこう稼いでいるよな。

  
L: 境内の様子。日枝神社のすぐ北側には都立日比谷高校。うーん、一等地。  C: 拝殿を眺める。
R: 参拝を終えて裏参道から外堀通りへ。初めて参拝に来たときはエスカレーターに驚いたっけな。

なお、日枝神社の御守はちょっと独特で、守袋と中身の御守が別になっている。厄除開運や交通安全など、
祈願のジャンルごとに中身があるので、それを守袋に自分で入れるのである。複数入れちゃうのもアリなのかな。

  
L: 外堀通りに面した山王鳥居。本家の日吉大社に山王鳥居は実は1ヶ所だけだが(→2014.12.13)、こっちはぜんぶコレ。
C: 大都会のビルに囲まれる日枝神社。周囲に負けないだけの迫力があるのがすごい。  R: 西側の山王鳥居。

これで残る東京十社はあとひとつ。できれば近いうちに制覇したいものである。正直、ちょっともったいぶっている。

そのまま赤坂見附から渋谷に出て、東急ハンズで買い物。『アイドルマスター シンデレラガールズ』とのコラボ中で、
しれっとやりながらも、思ったよりは大々的にコラボしていて驚いた。土日とか戦争になっているんかなあ……。


2015.11.26 (Thu.)

このたび、ウチの中学校を近所の小学生たちに紹介するイヴェントが開催されることになったのであります。
当然、部活についても紹介することになるわけで、そのための紹介文を部員たちが書いたのであります。
全面的に彼らの自主性に任せたところ(つまり僕はノータッチということ)、できあがってきたのがこちら。

「僕たちサッカー部は、個性的な仲間とともにサッカーを楽しんでいます。
根気とロマンをたくさん持っている人はぜひ遊びに来てください。」

……ロマン? なんで?

 特に意味はないけど、朝練中の顧問(特技・ボレーシュート)。

ロマンってなんなんずら。


2015.11.25 (Wed.)

もともとお菓子はそんなに好きな方ではないのだが、仕事中に血糖値が落ちると思考能力がバカになってしまうので、
それなりにちょぼちょぼと糖分を補給しておるわけです。ブドウ糖を用意したり、circo氏オススメのナッツ類を用意したり。

で、なぜか最近の私は超・大福ブームなのである。あんこを摂取するとやる気が出るということがわかってきた。
きっかけは紫波町を訪れた際に偶然買った大福なのだが(→2015.10.1)、これが予想以上に効いたことを実感して以来、
午後にちょっと疲れてきたなというタイミングで大福を摂取。するとパワーアップといかないまでも、ペースが落ちない。
特にここ最近は小テストを連発していることもあって、採点作業がつらくて仕方なかったのだが、だいぶ元気にできている。

和菓子が効くというのがいかにも日本人じゃのう、などと思いつつ、今日も大福でがんばったのであった。
なんでここにきて、この歳で大福ブームなのか?と自分でも不思議なのだが、まあなんとかそれでうまくやっております。


2015.11.24 (Tue.)

本日は期末テストの最終日。午前中で終わって、午後からひたすら採点作業に追われる。
これだけならまだいいのだが、宿題チェック作業もあるからたまらない。休むヒマが本当にない。

この4連休でどうにかある程度、日記を片付けることができたのはよかった。まだまだ負債の清算まで先は長いが。
テストが一段落ついたので、ここからは毎日ガンガンできるだけスパートをかけていきたいものです。


2015.11.23 (Mon.)

旅行もついに最終日。今日は北九州市内を徹底的に動きまわるのだが、大いに活用することになるのが路線バス。
西鉄バス北九州の「北九州都市圏1日フリー乗車券」を極限まで使い倒すのだ。「路線バスの旅 in 北九州」ですよ。
もちろん最終日にふさわしく、ギラヴァンツ北九州の試合も観戦する。最後の最後まで中身が特濃の旅なのだ。

 早朝の小倉駅。反対側の新幹線口(北口)では新しい球技場を建設中。

7時前からバスは盛んに行き来している。そのうちのひとつに乗り込むと、中央三丁目のバス停まで揺られる。
おとといからしつこく書いているように、北九州市は5つの市が一気に合併してできた自治体である(→2015.11.21)。
それなのに「中央」を平然と名乗っているのはなんとも不思議な感じだ。地理的には北九州市全体のやや西寄り。
これはつまり、八幡製鐵所の企業城下町だった頃の名残なのだ。往時はここがまさに「中央」だったわけだ。
少し南に行ったところに八幡東区役所があるので(旧八幡市役所の所在地だ)、ちょっと足を伸ばして写真を撮影。

 八幡東区役所。八幡区が八幡東区と八幡西区に分かれたのは1974年のこと。

残った時間でさらに中央町を探検してみる。まだ8時前なので店は開いていないが、アーケードの商店街があった。
最寄駅はスペースワールド駅ということになるが、1kmほどの距離がある。にもかかわらず、商店街は今も健在。
それだけ八幡製鐵所の影響力が大きかったということなのだろう。これはぜひ、いつか昼間に歩いてみたいものだ。

  
L: 中央町のアーケード商店街入口。  C: 中はこんな感じだったり、  R: こんな感じだったり。面白い。

フラフラと歩いていたら、大衆演劇のポスターが貼ってあるのを発見。「劇団ふじ」の座長・藤仙太郎さんとのこと。
どうやら越えなくてはいけない仙太郎の壁がここにもあるようだ。こっちも15年ぶりくらいに女装して対抗してやろうか。

 じーっと見ていると自分が誰だかわからなくなってくるこの感覚がわかるか。

もうちょっとで8時、というタイミングで別のバスに乗り換え。そのまま終点の上重田まで揺られる。
なお、「かみじゅうた」と読む。朝っぱらからこんな山の中に降り立つのは当然、オレ一人なのであった。

  
L: 終点・上重田のバス停から県道62号をさらに山の中へと歩く。われながら本当に物好きというかなんというか。
C: こんな景色が見えます。あの橋のさらに先まで行くのだ。  R: 1kmほど歩いてようやく目的地に到着。

時刻は8時15分を過ぎたところ。こんな早朝に来るバカはほかにいないだろうと思ったら、意外とパラパラと現れる。
健康的にランニングしている人もいてびっくり。さすがに皆さん、車でここまで来ている模様。駐車場に車がある。
というわけでやってきたのは、河内貯水池堰堤である。石積みが思った以上に美しく、歩きながらしばし見とれる。

  
L: 河内貯水池堰堤。つまりダム。  C: ダム湖側はこんな感じ。  R: もう一丁。うーん朝靄が幻想的。

河内貯水池堰堤は八幡製鐵所の水を確保するために建設されたダム。昨日の遠賀川水源地ポンプ室と同じ目的だ。
こちらのダムは1919年に着工して1927年に完成。重機のない時代の人力作業なのに、殉職者ゼロというのがすごい。

  
L: では堰堤上を歩いてみるのだ。  C: 取水塔。高欄といい、国を代表する施設の誇りを体現したデザインだ。
R: 取水塔には「風雨龍吟」とある。設計者である工務部土木課長・沼田尚徳は漢詩を好んだとのこと。教養が溢れとる。

なお、もっと南側には南河内橋というかなり独特な美しさを持った橋が架かっているのだが、そこまで行く気力はなかった。
でも後で写真を見て激しく後悔したとさ。レンタサイクルもあるそうなので、訪問する時刻を調整するべきだったか。
ほかにも行きたいところがいっぱいあったからしょうがないけど、無理してでも南河内橋まで行くべきだったなあ……。

  
L: 反対側から振り返る。  C: ダム湖越しに眺める。  R: 下から堰堤を見上げる。靄のせいで細部が見えない……。

頃合いを見てバス停に戻り、再び中央三丁目で下車。すぐにバスを乗り換えて、国際村交流センターなるバス停で下車。
そこから八幡駅方面へ下ると、DOCOMOMO物件の八幡市民会館だ。晴れてきたのはいいが、日差しで陰影がキツい。

  
L: 八幡市民会館。  C: 正統派モダニズムでございますね。  R: 端っこには美術展示室がくっついている。

八幡市民会館は村野藤吾の設計により1958年に竣工している。第1回BCS賞を受賞している建築とのこと。
この日も何やら催し物があるようで、朝から人が出入りしていた。特に車の出入りが激しくて、これまた撮影しづらい。

  
L: 2階レヴェル。もともとの土地の傾斜がけっこうあるのだ。  C,R: さらに先へ進んでみたところ。

なお、八幡市民会館は耐震基準を満たしていないという理由により、来年3月いっぱいでの閉館が決まっている。
しかし建築物としての価値は広く認められているため、再整備についての案を募集するなどの動きがある模様。

  
L: 1階のピロティ部分。  C: 中に入るとこんな感じだった。  R: 背面。こっちはぜんぜん凝っていないのな。

これ以外にも八幡駅周辺には村野藤吾の設計した建物が複数あって、明らかに周囲との違いを感じさせる。
これらもまた、八幡製鐵所の誇りを感じさせる要素ということか。しかしながら図書館は解体の危機にある模様。

 
L: 北九州市立八幡図書館。村野藤吾の設計で1955年に竣工。市は解体撤去の方針を打ち出しているそうだ。
R: 正面より撮影。横浜市役所(→2010.3.22)のプロトタイプっぽいなと直感したのだが。

八幡駅前の交差点にそびえる福岡ひびき信用金庫本店も村野藤吾の設計で、こちらは1971年の竣工。
1983年竣工の宇部興産ビルでは権威を前面に押し出して枯渇した才能が暴走した印象だったが(→2013.12.23)、
その権威的な傾向が見えつつも、ギリギリのところで意匠の凄みを保っているようにも見える。そんな仕上がりだ。
結局のところ、村野はコンクリートの作家だったのかもしれない。素材がコンクリートだけの時代ではなくなると、
村野のセンスが権威と結びついておかしいことになる。あるいは単純にサイズの問題で、大きくなりすぎても鈍るということか。
(アントニン=レーモンドからの連想で論じた、村野藤吾の弱点についてのログはこちらを参照。→2015.11.16

  
L: 福岡ひびき信用金庫本店。後の宇部興産ビルへ至る一歩手前って感じね。朝なので光がー  C: 側面。
R: 八幡駅。現在の駅舎は黒田克樹の設計で2008年に竣工。2階から上はぜんぶ駐車場。前は博物館だったのに。

八幡駅前の交差点から少し西に入ったところにバス停があり、そこから折尾駅まで揺られる。今日は徹底してバスだぜ。
折尾駅に着くと、1916(大正5)年築の駅舎が跡形もなくなっており、愕然とした。門司港駅とはえらい扱いの差だ。
この分だと、八幡市民会館や八幡図書館も遅かれ早かれひどい扱いを受けることになるだろう。知的レヴェルが低い。

折尾駅からは北九州市営バスのお世話になり、響灘緑地を目指す。が、グリーンパークという名称もあるようで、
バスではグリーンパークの方を採用している。よくわかんないなあと思いつつ下車したら、けっこうな賑わいで驚いた。

  
L: 響灘緑地/グリーンパークの入口。  C: 園内に入るとこんな感じ。花がいっぱい。  R: 芝生広場にて温室を望む。

響灘緑地/グリーンパークは北九州市で最大の公園。1991年に頓田貯水池周辺で全国都市緑化フェアが開催され、
その跡地を整備して翌年に開園した。家族連れを中心に人がいっぱいで、北九州の憩いの場として定着しているようだ。
園内はかなり広く、大芝生広場を中心に日本庭園風の空間やアスレチックゾーン、バラ園、温室などがつくられている。

  
L: 西の方へ行くと日本庭園風な空間。  C: そうかと思えば林の中を進む場所もある。緑がいっぱいなのは確か。
R: 南ゲートから外に出ると頓田貯水池が見える。グリーンパークは頓田貯水池と直接面してはいないようだ。

滞在時間を1時間ちょっとしか確保していなかったのだが、それが失敗だったと思えるほど広くて多様な公園だ。
特に僕の好みだったのが熱帯生態園と熱帯果樹温室。温室にはその歴史込みで不思議な魅力がある(→2015.5.30)。

  
L: 熱帯生態園(右)と熱帯果樹温室(左)。  C: 温室の社会学はキリがないけど一生追いかける価値のあるテーマだ。
R: 鉄骨とガラスという無機物と緑が競演するさまは、自然と人工の対立であり共犯関係、つまり矛盾を手なずけた美である。

熱帯生態園では生物も育てており、オオゴマダラがあちこちを飛びまわっている。季節も場所も関係なく、
世界中から美しい動植物を集めて育てる。温室というのは本当に贅沢な空間だ。そりゃあ権力の象徴にもなるよ。
もうひとつ、温室のすぐ下にはバラ園があり、ここで育てられている品種の数がとにかく膨大でまいった。
公式サイトによれば約320種で2500株とのことだが、ひとつひとつ見ていくと時間を忘れてしまう。危険だ。

  
L: ランの類が咲き誇る。  C: オオゴマダラが飛びまわる。地球上の環境のいいとこ取り、それが温室の本質だ。
R: どのバラも美しかったのだが、ここでは「ハイブリッド・ティー」第1号のラ・フランスを紹介(→2015.5.30)。

動物園も植物園も水族館も好きだが、対象が動かず写真を撮りやすい植物園は本当にいくら時間があっても足りない。
バラも品種ごとに特有の美しさがあり、追いかけていくと本当にキリがない。後ろ髪を引かれる思いで後にする。

帰りは折尾駅まで戻らずに、途中の東中島というバス停で下車する。ここから歩くこと10分弱で本城陸上競技場に着く。
というわけで今回の旅の最後は、ギラヴァンツ北九州の試合を観戦するのである。本日分の日記の冒頭で書いたとおり、
現在、小倉駅の北口ではギラヴァンツの新たなホームスタジアムとなる北九州スタジアムを建設している真っ最中。
つまり、今のうちに観戦しておかないと、もう本城陸上競技場でのサッカーを見られなくなってしまうのだ。

  
L: 本城陸上競技場、メインスタジアム側外観。  C: 角度を変えてもう一丁。  R: 外周はこんな感じ。

恒例のスタジアム一周をしてみたのだが、なるほど確かに本城は他のスタジアムと比べて設備が貧弱だ。
その貧弱さも含めて個性と思えば楽しいものだが、ギラヴァンツは昨シーズンJ2で5位に入ったにもかかわらず、
スタジアムがJ1規格でないことが理由で昇格プレーオフに出られなかったわけで、素直に面白がれないところか。

 アウェイ側ゴール裏にある得点板の裏側。これはすごいなあ。

スタジアム内に入るが、今日がJ2最終戦、しかも前節が終わった段階で北九州が9位で、対戦相手の長崎が6位。
J1昇格プレーオフ挑戦を確定させたい長崎のサポーターが観客席に詰めかけており、みんな鼻息が荒い。
ホームの北九州はどのみちプレーオフに出られないわけだが、待望の北九州スタジアムがオープンするまで、
やはり少しでもいい順位を維持しておきたいのは当然である。単なる最終戦ではない熱戦が期待できそうだ。

  
L: 北九州市立本城陸上競技場。典型的な陸上競技場だが、ベストピッチ賞を受賞するほどその天然芝の評価は高い。
C: プレーオフを見据えて気勢を上げる長崎サポ。  R: 数ではやや劣るが、北九州サポも勢いはすばらしい。

本城陸上競技場に電光掲示板はないので、スタメン発表はベンチ裏に板というスタイル。JリーグというよりJFLのようだ。
そして長崎のマスコット・ヴィヴィくんもアウェイユニフォームで登場。ヴィヴィくんはJリーグのマスコットの中でも、
かなりの人気を誇っているのだ。昨年のJリーグマスコット総選挙では堂々の1位。かわいいだけじゃん、と思うのだが。

  
L: スタメン発表の光景。牧歌的である。  C: 審判はこんな感じ。ちゃんと第4の審判がいるところに貼るのね。
R: 長崎のマスコット・ヴィヴィくん。九州シカとオシドリを混ぜたデザインで大人気。かわいいけどさ、それだけじゃん。

試合が始まるとプレーオフ進出がかかる長崎が優位に立つ。チャンスをしっかりとつくるものの、なぜかシュートで失速。
しっかりとボールをミートした感じのシュートにならないのである。これがプレーオフ圏内のプレッシャーなのかと思う。
そんな長崎の硬さをじっくりと確認したのか、北九州は時間の流れとともにじわじわと自分たちのペースをつかんでいく。
39分には北九州のCKがポストを叩く。そして直後の41分、中盤からの浮き球のパスに抜け出した渡が隙を衝いてゴール。
長崎は堅守を売りにしているだけに、よけいに悔しい失点だろう。対照的に北九州はふだんどおりという印象がする。

 
L: 抜け出したFW渡が先制点を決める。どこか硬さのある長崎に対し、前半終了間際のいい時間に北九州が先制。
R: 得点板のアナログな作業をクローズアップ。でもこういう牧歌的な要素が親しみやすさにも通じると思うのだ。

負けたらプレーオフ圏内から転がり落ちる可能性のある長崎は、後半に入るとさらに攻撃の圧力を強めていく。
北九州も粘りを見せるが、長崎の圧力に屈してミスをしてしまうなど、勢いは完全に長崎のものとなる。
しかしやっぱり決めきれない。シュートはGKの正面に入ったり枠からはずれたりと、硬さを感じさせる場面が続く。
そうこうしているうちに66分、北九州はFKのチャンスを得る。バーに当たったところを小手川が詰めて2点目。
長崎の守備陣がマズい!と思ったときにはもうボールに向けて走っており、きっちり端っこに蹴って決めた。

 
L: 後半に入り果敢に攻める長崎。しかし最後のところで硬さが目立ち、どうしても同点に追いつけない。
R: 対照的に、北九州はFKのチャンスから追加点。少ないチャンスを確実に仕留める勝負強さが光る。

こうなると怒濤の攻撃で北九州ゴールに迫るしかなくなる長崎だが、余裕を持って守る北九州の壁を破れない。
むしろ北九州にはカウンターをチラつかせられ、ストレスの溜まる展開となってしまう。長崎サポは荒れはじめ、
メインスタンドから審判をヤジる声に思わずキレてしまい、「うるせえよ!」と返してしまったではないか。
冷静に考えると、長崎県ってことは国見高校があるから長年サッカーを見ている人はけっこう多いはずなのだ。
だから本当に審判が誤審をしていた可能性もなくはないわけで。でも簡単にヤジるのはレヴェルが低い行為だと思う。
まあとにかく、J1に昇格してほしくないなあと感じてしまうような観戦態度の人がチラホラいたのが残念だ。

  
L: 80分、長崎はCKから相手ペナルティエリア内でボールをキープ。  C: 左サイドの古部になんとかつなぐ。
R: これを蹴り込んで長崎が1点を返した。この瞬間だけ北九州は守備の意識が中央に寄っちゃっていたね。

80分、CKを得た長崎は、中央の混戦から左サイドの古部にボールが出て、これを決めて1点差に詰め寄る。
しかしこの1点を返すのがやっとで、試合はそのまま2-1で北九州の勝利で終わった。北九州は意地を見せたね。
本日の最終戦では5位までが軒並み勝利し、長崎とプレーオフ圏内入りを争っていた東京Vと千葉が一緒に負けた。
結果、順位は変わらず6位のままで、長崎のプレーオフ進出が決定。勝った北九州は7位に上げて今シーズンを終えた。

 敗れたがプレーオフを確保した長崎サポは切り替え完了。ゲーフラが目立つなあ。

帰りはシャトルバスで小倉駅へ。バスに乗るまでの行列がけっこう長く、バスに乗ってから小倉駅までがまた長い。
本城は本城で味のあるスタジアムだとは思うが、北九州スタジアムのオープンが心待ちにされるのがよくわかる。

小倉駅に到着したときにはすでに空が暗くなっていた。晩飯に想夫恋の日田焼きそばを食べてエネルギーを充填する。
なんせここからがつらいのだ。しっかり食べてがんばって帰らないと。北九州都市圏1日フリー乗車券を再び取り出す。
今日は北九州空港から羽田へと戻るのだが、小倉駅から北九州空港までをすべて路線バスで乗り継いでしまうのだ。
小倉駅から30分ほど揺られると、寺迫口というバス停で下車。しかしここが真っ暗で何もないの。茫然としたね。
座れるベンチも置いてないので、近くの駐車場の車止めブロックに腰掛けてボーッと次のバスが来るのを待つ。
20分ほどの修行時間の後、次のバスがやってきた。今度は15分弱、朽網駅まで揺られる。 そして20分ちょいの修行。
するとようやく北九州空港行きのバスに乗ることができる。なんだかんだで結局、1時間半以上かかった。疲れた。

  
L: 寺迫口にて。ヤマダ電機とベスト電器以外には何もない空間だった。夜にこんな場所に放り出されるとどうしょうもない。
C: 朽網(くさみ)駅。同じ目的のバスを待つ人が何人かいた。ここまで日豊本線で来るんなら、楽でいいよなあ。
R: 北九州空港に着いたらすでに案内所が閉まっており、なぜかメーテルだけが座っていた。松本零士が北九州出身なんだと。

マサル御用達のスターフライヤーで羽田へ。スターフライヤーは細かいところが凝っているので嫌いではない。
しかしこれでようやく旅が終わった。今回も思う存分にやりきった。毎度毎度、贅沢に楽しませてもらっております。


2015.11.22 (Sun.)

旅行3日目、舞台は九州に移っております。昨夜は北九州市の夜景に魅せられたが、今日はいったん北九州市を離れ、
福岡県北部の市役所めぐりと洒落込むのである。まずは日田彦山線で田川市へ、次いで後藤寺線で飯塚市へ、
そして筑豊本線で直方市、中間市と押さえていく。北九州市に戻った後は気ままにあちこち見てまわるつもりだ。

7時半少し前に小倉駅を出る。途中に「採銅所」という名前の駅があって驚いた。調べてみてもっと驚いたのは、
そこが1956年まで「採銅所村」という自治体だったことだ。この辺は銅の鉱山だったり筑豊炭田だったり、
石灰岩のセメント工場もあって、いろんなものが埋まっていたんだなあと思っているうちに田川後藤寺駅に到着。
田川市役所は、田川後藤寺駅と1つ手前の田川伊田駅のちょうど中間地点にある。そこまで歩いて戻るのだ。
とりあえず、駅の近くにあるアーケード商店街を軽く徘徊してから出発。毎度のことだが、朝早すぎたのが残念。

  
L: 田川後藤寺駅。微妙な角度で道路に面しており、変に撮影しづらいのであった。平成筑豊鉄道も乗り入れる。
C: 駅の南西にアーケードの商店街。  R: 中はこんな感じ。弱体化しつつも意地を感じさせる飾り付けである。

後藤寺線があるということは、ここはもともと「後藤寺」という地名なのだ。なぜ駅名に「田川」を冠したのか。
隣の駅も伊田線(平成筑豊鉄道)があって、もともとの地名は「伊田」だ。でもこちらにも「田川」がついている。
ヒントは田川市役所が両者の真ん中にあるという事実。そう、田川市は後藤寺町と伊田町が合併してできたのだ。
合併した際に田川郡から市名を採ったが、駅名に「田川」は広域すぎる。でも旧自治体名のままでは一体感に欠ける。
それで両者に「田川」をくっつけて現在の駅名ができた。この両者対等な関係は、後でしっかり実感することになる。

 後藤寺小学校の校門前にある人形。ど真ん中だぜ。どうなのよ。

歩くこと15分ほどで田川市役所に到着。後藤寺と伊田の両駅を結ぶ直線上の丘ということで、絶好の立地か。
ちなみに住所は「田川市中央町1番1号」である。とことんまでバランスをとっているんだなあと思いつつ撮影開始。

  
L: 国道322号より、田川市役所入口。小高い丘の上である。  C: 敷地南端より眺める。  R: 東側より。

田川市役所は1967年の竣工。ネット上で調べても当初はわからなかったが、耐震診断をめぐる予算の資料を見つけ、
そこから確認できた。われながらなんという根性だと呆れてしまうわ。でもこれで竣工年をチェックする裏技がわかった。
まあ、組織の動きを探るには、金の流れをつかむのが一番。大学院時代にやっていた地道な作業を思い出すのであった。

  
L: 高層棟の足元にあるピロティ部分が玄関なのだ。  C: エントランス部はこんな具合。  R: 北側から眺める。

それにしても、田川市役所は見れば見るほどシンプル、味気ないくらいに質素な庁舎建築である。
資料によると、平成元年度と平成21年度に外壁を改修する工事を行っている。丁寧に使っているんだなあと感心。

  
L: 西側にまわり込んでみた。  C: そのまま南の方へ抜ける。  R: 国道から分かれて北へ進む道から見上げる。

わざわざ日田彦山線を越えて遠回りをしたのは、田川市役所のほかにもうひとつ見ておきたい場所があったから。
「田川文化エリア」と呼ばれる施設群である。要するに田川市立図書館と田川市美術館が並んでいるのだが、
これが公共建築百選となっているのだ。敷地を一周しつつ写真を撮っていたら、ちょうど9時半の開館時刻になった。

  
L: まずは西端のモニュメントから。田川は炭鉱の街ということでこんなんなのか。  C: 田川市立図書館。
R: 角度を変えてもう一丁。図書館はもともとここにあったものを、田川文化エリアということで増築改修。

田川文化エリアとして整備がなされたのは1991年の模様。既存の図書館を改修したほか、新規に美術館が建てられた。
それ以外にも喫茶店とモニュメントがある。設計は竹中工務店出身の建築家・徳岡昌克。選定の経緯は不明。

  
L: モニュメントの裏側にまわると図書館の側面。  C: 開放感がありなかなか居心地の良さそうな雰囲気である。
R: 図書館裏の通路。土地には高低差があり、この左側(北側)は1階分低くなっている。そこは駐車場となっている。

図書館の東側には田川市美術館。じっくりと見学する暇はなかったが、とりあえずぐるっとまわって撮影してみる。
筑豊では初の本格的な美術館ということで、筑豊にこだわったラインナップになっている模様。無駄遣いするよりはいいか。

  
L: 田川市美術館。左のところから入る。  C: 入口付近。  R: 裏手にまわって眺めたところ。

世間は連休ということで、美術館付近で何やらイヴェントがある模様。出店の準備が進められていたのだが、
「石炭ソフト」が大いに気になった。「衝撃の黒」って、そりゃそうだわ。これは食ってみたかったなあ……。

 石炭ソフトもすごいが、「神(じん)だこ」も真っ黒らしい……。

坂道を下っていくと田川伊田駅に到着。アーケード商店街から駅へと抜けたのだが、10時前で完全シャッター。
さっきの後藤寺もそうだが、10時前だとその商店街の正しい感触を味わえないのが切ない。まあ正直なところ、
10時を過ぎてもシャッターがそんなに開かないのかもしれないが。地方都市はどこに行ってもそんな状態だ。

  
L: 伊田(いた)の商店街入口。  C: 10時前だが、中はこういう状態である。  R: 田川伊田駅。

さて、田川伊田駅前にはなかなかの威厳を感じさせる神社がある。風治(ふうじ)八幡宮というようだ。
筑豊一之宮を名乗っている模様。とりあえず、田川市を代表する神社ということで当然、参拝しておく。

  
L: 駅前から見た風治八幡宮。 C: 拝殿。  R: 本殿。もともと海津見神(ワタツミ)を祀っていたところに八幡神を勧請。

さて御守を頂戴しようとして驚いた。虎柄に豹柄の御守があるではないか。薔薇の花が描かれているものもある。
気になって巫女さんに何か特別な由来があるのか訊いたが、「単なるデザインですので」という回答なのであった。
御守はカワイイ!というのが僕の持論だが(→2015.5.18)、こういうカタチで女子受けを狙ったものがあるとは。
やはり御守は面白い、とあらためて思うのであった。いちおう代表として豹柄を頂戴しておいたよ。

 まさか豹柄とは。ピンク仕様があるところがまたすごい。

残った時間はわずかだが、最後に田川伊田駅の裏側にある石炭記念公園を歩きまわる。田川は筑豊炭田の街だが、
石炭記念公園は三井田川鉱業所伊田坑の跡地とのこと。2本の煙突のほか竪坑櫓がそのままの位置に残されている。
時間がないので走りまわって撮影。じっくり見る余裕のない旅はダメだ、と毎度おなじみの反省をするのであった。

  
L: 石炭記念公園。広大な空間として整備されている中、煙突と竪坑櫓がそびえる。これらは築造された位置のまま。
C: 第一煙突(右)と第二煙突(左)。高さ45.45mで1908(明治41)年の築。国登録有形文化財になっている。
R: 伊田竪坑の櫓。1909(明治42)年の築で、高さ約28.4m。こちらも国登録有形文化財。フォトジェニックだ。

田川市石炭・歴史博物館もチラッと覗き込んだのだが、往時の生活ぶりが再現されていて面白そうだった。
ここは炭坑節発祥の地だそうで、炭鉱だけでなく炭坑節についても学べただろうに、見学できなくて非常に残念。

 こんな感じで生活空間が再現されているようだ。

急いで列車に乗り込むと、新飯塚へ移動。福岡県北部の市役所めぐり、次の目的地は飯塚市なのだ。
飯塚市役所は新飯塚駅からわりと近いが、それだけでは面白くない。隣の飯塚駅まで街の様子を見ながら歩く。
まずは駅から北に出て国道201号沿いにある飯塚市役所を撮影。1964年の竣工というわりには規模が大きい。

  
L: 飯塚市役所。  C: 正面から眺める。  R: 南東側より眺める。市役所が大規模ということは、街も大規模ということ。

正面から見えるのは南棟で、飯塚市役所本庁舎はこのほかに東棟と北棟のある「コ」の字型となっている。
しっかりと厚みもあるのだ。交通量が多かったり道幅がそれほど広くなかったりで、撮影がかなりしづらい。

  
L: 手前の駐車場から眺めてみた。  C: エントランス付近。  R: 西側から見たところ。「コ」の字ですな。

そして飯塚市役所は、新庁舎建設工事の真っ最中なのである。北側にあった第1別館の解体工事が行われ、
今度はこちら側に新庁舎が建てられる予定となっている。現在の本庁舎が取り壊されるのはその後になる模様。

  
L: 北西側から南棟の背面を見る。  C: 北棟。このさらに北側に新庁舎が建つわけだ。  R: 東側を無理やり眺める。

新庁舎が建ったらまた来るのとかもう面倒くさいんですけど……うなだれつつ市役所を後にする。ボサッとしている暇はない。
なんせ新飯塚駅に着いてから飯塚駅で次の列車に乗るまでには、61分しか猶予がない。相変わらずのイカれた旅程だ。
早歩きで遠賀川を渡ると商業施設が並ぶ飯塚の中心部を行く。往復ならいいが、一方通行だとただ通り過ぎるだけ。

 遠賀川越しに見た飯塚の中心市街地。ずいぶん都会じゃねえか。

都会だなあと思いつつ、次に目指すは曩祖(のうそ)八幡宮である。ちょうど七五三の真っ最中となっており、
境内には家族連れがウジャウジャ。ただでさえ時間がないのにすっきりした写真が撮れずにてんやわんや。
なんとか隙を見てシャッターを切り、御守を頂戴して撤退。せっかく参拝したのに慌ただしくってもったいない感じ。

  
L: 曩祖八幡宮の境内入口。  C: 拝殿。  R: 本殿を覗き込むがすっきりとは見えず。とにかく人が多かったなあ。

アーケード商店街を重点的に歩いて南下していくが、昔ながらの商店が並ぶ中に真新しい商業施設があるなど、
飯塚の街は新旧の賑わいがきれいに混じっている印象。うらやましいもんだと思いつつ歩いていく。

  
L: 曩祖八幡宮の南から始まるアーケード商店街。  C: シャッターもなくはないが、よくがんばっている印象。
R: アーケードは大胆なカーヴを描く部分も。アーケードにおけるカーヴはストレート型と比べてなんだか興味深い。

中心市街地の北東端には嘉穂劇場。せっかくなのでちょっと寄ってみた。1931年築で国登録有形文化財となっている。
外見はだいぶリニューアルされた感触だが、それもそのはず、2004年に前年の大雨被害からの復旧工事が完了している。
時間的な余裕さえあれば中をしっかり見学したかったのだが、外見だけ押さえるのでもう精一杯。切ない旅である。
そんなこんなで最後は走って飯塚駅へ。しかしゴール直前に珍しい空間に入り込み、これはなんだ!?と戸惑う。
もともとは飯塚駅前の商店街だったはずだが、すべての店がシャッターを閉めており迷路感覚。衝撃的だった。

 
L: 嘉穂劇場。鉱山労働者のための劇場というと小坂町の康楽館を思い出す(→2014.6.29)。娯楽が限られた時代だね。
R: 飯塚駅近くのシャッター通り。もはや往時の賑わいを想像するのが難しいが、これはこれで特徴があふれている。

どうにかセーフで列車に飛び乗ると、さっき下車した新飯塚をスルーして直方へ。筑豊地域の各市については、
4年前に華麗にスルーしまくっており(→2011.8.13)、今回はそのリヴェンジという要素がかなり強いのだ。
それゆえ各市の特徴というか違いをどうにかつかんでまわりたいと考えているのである。隣とどう違うの、と。
しかし直方は正直、特徴がつかみづらい。駅から南東にアーケード商店街が延びているが、特別な要素はない。
ただ、老朽化した部分を露にしながらも、人々が今も淡々と行き来している。淡々と日常生活が送られている。
北九州と飯塚に挟まれていても、焦ることなく着実に生活している印象がしたのだ。街に落ち着きを感じる。

  
L: 直方といえば、元大関・魁皇博之。駅前には像がある。近年これだけ深く愛され尊敬された力士がいただろうか。
C: 直方のアーケード商店街はやたら長い。  R: アートスペース谷尾(旧十七銀行直方支店)。1913(大正2)年ごろの築。

直方市役所は遠賀川沿いの狭い敷地に建っている。1990年の竣工で、なるほど平成らしい手堅さのオフィス建築だ。
高さがあるわりには周辺が昔ながらの商店街で狭っこいので、とにかく撮影しづらい。苦しみつつシャッターを切る。

  
L: 直方市役所。  C: これが側面なのか正面なのかわからない。  R: エントランス部をクローズアップ。

国道200号を挟んだ東側には遠賀川の河原が芝生の広場として広がっており、そこから撮影できるのはありがたい。
直方市役所は川沿いの市街地の端に、申し訳程度にぺたりとくっついているような立地だが、河原はかなり開放的。

  
L: 河原に下りて北東側から撮影。  C: 東側から。  R: まわり込んで南西側から眺める。やっぱり窮屈。

ちなみに直方(のおがた)の由来は、後醍醐天皇の皇子・尊良親王がこの地に城を築いて戦ったことによるそうだ。
天皇サイドなので「皇方(のうがた)」となったとのこと。この「皇」の字は元大関・魁皇にも引き継がれたとか。

 最後に西側から見た直方市役所。やっぱり窮屈なのであった。

帰りは筑豊本線から見ても非常に目立っていた神社に寄ってみる。多賀神社で、イザナギ・イザナミ夫妻を祀る。
田川は風治八幡宮、飯塚は曩祖八幡宮、そして直方は多賀神社。筑豊地域は各市それぞれ大きい神社がある模様。
八幡宮が多いのは同じ九州に宇佐八幡があるからわかる。でもそうなると直方のお多賀さんというのは独特に思える。

  
L: 筑豊本線すぐ脇の高台に鎮座する多賀神社。  C: 参道が陸橋で線路を越えるという珍しいスタイルである。
R: 楼門。これだけしっかりと屋根が載っているのは珍しいのでは。風治八幡や曩祖八幡よりもかなり豪快だ。

市街地を見下ろす高台に日本をつくった神様を祀るあたりがおそらく、「皇方」としてのプライドなのだろう。
やはり単純に軍神の八幡神を祀る他都市とは意識が違うのだ。立派な社殿を眺めつつ、そんなことを考える。

 
L: 拝殿。  R: やはり立派な屋根が載っている。おかげで本殿がだいぶ見づらい。

田川、飯塚、直方ときて次は中間。中間市役所も遠賀川沿いで、中間駅ではなく手前の筑前垣生(はぶ)駅で下車。
少し歩くと遠賀川にぶつかり、まずは川越しに市役所を撮影する。直方もそうだが、川に面している側は撮影が楽でいい。
特徴的なのは、市役所すぐ手前にある遠賀川の河川敷を駐車場にしていること。確かにこれは土地の節約になる。
しかし中間市役所の周辺は交通量がものすごく多く、近くからの撮影はかなり神経をつかう破目になった。

  
L: 遠賀川越しに眺める中間市役所。右が本館で左が別館。  C: 本館をクローズアップ。  R: すぐ手前から見たところ。

中間市役所は南の本館と北の別館という構成になっている。本館は1969年の竣工だが、別館の詳細はわからず。
しかし連絡通路を設けており、デザインも横縞でかなり強い共通性を持たせているのは興味深いところである。

  
L: 中間市役所本館のエントランス部分。  C: 別館の手前辺りから眺める本館。  R:本館の背面。

撮影を終えるとそのまま市役所から南下。明治日本のなんちゃらかんちゃらでこのたび世界遺産になってしまった、
「遠賀川水源地ポンプ室」を見てみようというわけである。さっそくボランティアだか市職員だかが待機していたね。
あれこれ説明を受けたのだが、新日鐵住金・八幡製鐵所が所有している現役の稼働施設という事実には恐れ入った。
1910(明治43)年に操業を開始して以来、今でも遠賀川の水を製鉄所に送り続けているのだ。現役なのがすばらしい。

  
L: 遠賀川側から見た遠賀川水源地ポンプ室。これがふつうに現役で、八幡製鉄所で使う水の70%を確保している。
C: 側面。まあそりゃ覗き込むしかないわな。  R: 東側から見たところ。これが正面ということになるのかな。

一周すると、市役所まで戻ってそれから筑豊中間駅方面へ。再開発をしたのか、妙にスカスカした印象の空間が続く。
そこから北へと針路を変えて、「屋根のない博物館」を歩く。これは1988年に旧香月線の廃線跡を遊歩道化したもので、
「もやい通り」という名称があるようだ。世界各地の石像のレプリカが設置されており、価値観の多様さは味わえる。

  
L: 屋根のない博物館(もやい通り)を行く。まあこんな感じ。  C: 石像は本当に多彩なので、正直それなりに面白い。
R: 中間駅のトイレで見かけた貼り紙。なるほどと思った次の瞬間、これを思いついた人の思考回路が少し心配になる。

中間駅に到着すると折尾に出て、そこから東のスペースワールド駅で下車。駅のすぐ脇にある物体をじっくり見るのだ。
それは、八幡製鐵所東田第一高炉跡。このバカデカいものをそのままオブジェ・ランドマークとして残している精神がいい。
東田第一高炉は1901(明治34)年に火入れが行われたが、現在のものは1962年完成の第10次改修高炉とのこと。
これが1972年まで使用されていたそうで、解体の可能性もあったが北九州市が1994年に保存整備を決定して今に至る。

  
L: 八幡製鐵所東田第一高炉跡。これがドーンとそのまま残されている。  C: 高速の高架下から見上げる。
R: 中はこんな感じになっている。跡とはいえ巨大な工業施設の中に入れるなんて、とても貴重で衝撃的な経験だ。

これだけのものを間近で見る機会なんて滅多にないわけで、自分がふだん持っているスケール感が揺さぶられてしまう。
なんというか、もう、人間ってすげえなと。自分たちは高炉と比べるとまさにアリのようなサイズにすぎないのだが、
人間はこの装置を当たり前のようにつくってしまい、完全にコントロールしているわけである。その事実に驚かされる。

  
L: 作業中の様子を伝える人形も配置されている。  C: なんかもう、巨人の国に迷い込んだような感覚である。
R: 南側から東田第一高炉跡の全体を眺めたところ。背後を高速道路の高架が囲んでいるのがまたSF的なのだ。

スペースワールド駅周辺は、もともと八幡製鐵所工場の敷地だったのを再開発してつくった街である。
特徴的なのは街路がゆったりとしたカーヴを描くようにつくられている点で、高低差もあるので印象は非常に独特。
埋立地っぽい大雑把な感触はあまりなくて、ヒューマンスケールとそれを完全に逸脱している要素が混じり合い、
それが妙に調和しているのが面白い。この辺りは小倉に劣らず、北九州の底力を感じさせる場所ではないかと思う。

 北九州イノベーションギャラリー。佐藤総合計画の設計で2007年オープン。

さらに東へ移動して、九州工大前駅で下車。そのとおり、九州工業大学に用があるのだ。DOCOMOMO物件だ。
駅は「前」と名乗るには少し距離があるが、まっすぐ南下していくとちゃんと九州工業大学の正門にぶつかる。
ちょうど学園祭の真っ最中で、キャンパス内は人でいっぱい。これはえらいタイミングで来てしまった、と思う。
しかし躊躇している暇などない。案内板の地図をもとに、DOCOMOMO物件の記念講堂と事務棟を探す。
記念講堂はすぐにそれとわかったが、事務棟が見つからない。どうやら「事務の本部棟」は事務棟ではないらしい。
とりあえずデジカメを構えながら、記念講堂の周りをぐるっと歩きまわってみる。すごく撮りづらかった。

  
L: まずは九州工業大学の正門から。国立大学化したのは戦後だが、かなりの風格を感じさせる門である。
C,R: 記念講堂。出店のテントが邪魔だが、これに限らず木々に包まれてその全容を見渡すことはできない。

  
L: 側面。  C: 左側が背面、右側が側面。ものすごく思いきった蛇腹ぶりだ。  R: 側面。これで一周。

記念講堂の正面からまっすぐ木々の中へと入っていくと、いかにもなモダニズム建築が静かにたたずんでいた。
「鳳龍会館」という看板が掛かっているが、まずこれがかつての事務棟とみて間違いないだろうと判断して撮影。
じっくりと見てまわるが、横長のモダンな物体が地面からちょっと浮いている、その凝り方が実に面白い。
背面はちょっと複雑な形だがしっかりと採光できるつくりになっていて、周囲の木々とのマッチぶりが美しい。
設計者の清家清は東工大の人なので、個人的にはもうちょっと彼の建築に馴染みがあってしかるべきなのだが、
不勉強な僕はきちんと清家清と意識して作品を見るのはこれが初めて。記念講堂も旧事務棟も1960年の竣工で、
これは新潟市体育館(→2014.10.18)と同じ年。コンクリートによる大空間建築(→2015.5.10)の先駆的な例だ。
僕としては記念講堂の蛇腹リーゼントは洗練されたデザインとは感じないが、後進への影響は大きかっただろう。
対照的に、鳳龍会館(旧事務棟)はかなり好みである。フィリップ=ジョンソンのグラスハウスを落ち着かせたって印象か。

  
L: 鳳龍会館(旧事務棟)。  C: エントランス。コンクリ、黒サッシュ、ガラスというモダンぶりがよいではないか。
R: レンガだかタイルだかわかんねえが、茶色という側面の色の選択がまたいい。周囲の緑とも無理なく調和している。

  
L: 裏側にまわるとこんな感じ。  C: この出っ張り部分がまたオシャレ。  R: 良質なモダニズムそのものだな。

満足して九州工業大学を後にすると、そのまま戸畑区役所近くにある飛幡八幡宮まで歩くことにする。
トボトボと歩いていったら、新旧の戸畑区役所のコンビネーションに驚かされた。戸畑って建築に凝る街なのか。
新しい方の戸畑区役所は設計から工事までを一括したプロポーザルで事業者を選定し、竹中工務店のチームが当選。
そこに隈研吾事務所が入っていたわけだ。施設完成後に公共施設部分を北九州市が買い取る仕組みになっており、
それ以外では北九州市住宅供給公社の賃貸住宅と民間の分譲住宅も一体的に整備されている(2007年工事完了)。

  
L: 新しい戸畑区役所。設計は隈研吾建築都市設計事務所で、後で聞いたら潤平は設計している現場を見ていたそうだ。
C: 外壁は戸畑祇園大山笠の観覧席を兼ねている。  R: 観覧席から見た光景(浅生1号公園)。なるほど上手いことを考える。

一方、旧戸畑区役所はリニューアルされて現在は戸畑図書館となっている。もともとは1933年竣工の戸畑市役所で、
1963年に北九州市が発足した際は初代の北九州市役所となった。改修工事が終わって図書館になったのは昨年から。

  
L: 新しい戸畑区役所の屋上はこのような公園になっており、さらに集合住宅が乗っかっている。すごいもんですな。
C: 戸畑図書館(旧戸畑区役所)。中はそうとうオシャレにリニューアルされているそうだ。  R: こちらは旧図書館。

戸畑祇園大山笠の舞台となる浅生(あそう)1号公園を挟んで西側が、飛幡(とびはた)八幡宮である。
今日は福岡県内各市の代表的な神社を参拝してまわっているが、飛幡八幡宮は戸畑区(旧戸畑市)のまさに代表。
昨夜は北九州が一体となった夜景を味わったが、旧5市それぞれの痕跡や特徴を探して歩くのはすごく楽しそうだ。

  
L: 飛幡八幡宮。  C,R: 戸畑駅から区役所までは上り坂となっており、境内もそれに応じて上がっていく感じ。

参拝を終えた後に御守を頂戴したのだが、いちばんシンプルなものは4色あるはずなのに在庫がだいぶ減っていて、
理由もなく緑色ということになってしまった。神職さんが「緑なんて落ち着いていていいですよ、目に優しい」とか、
テキトーなこと言うし。でも戸畑祇園大山笠をモチーフにした御守が非常に特徴的で、一緒に頂戴しておいた。
昼に登場する幟大山笠は白、夜に登場する提灯大山笠は黒。こういうその土地ならではの御守は大変すばらしい。

 
L: 拝殿。  R: 本殿。飛幡八幡宮の山笠御守については御守特設ページを参照のこと(⇒こちら)。

最後にもう一丁、若松区の若松恵比須神社に参拝するのだ。戸畑区と若松区は洞海湾を挟んで面しているが、
この洞海湾が意外と厄介。若戸大橋も若戸トンネルも自動車専用で、歩行者は若戸渡船に頼るしかないのだ。
本来ならそれを楽しむべきなのだが、いかんせん夕方になっており、ボサッとしていると授与所が閉まってしまう。
しょうがないので少し駅の方へ歩いて浅生通りのバス停からバスに乗り込むと、そのまま一気に若戸大橋を渡る。
若松区役所前のバス停で下車すると、走って若戸大橋のたもとに戻り、若松恵比須神社に参拝。実にせわしない。

  
L: 若松恵比須神社。見てのとおり、本当に若戸大橋のたもとにある。  C: 境内の様子。  R: 反対側の鳥居。

海岸すぐ手前、橋のたもとという位置のせいもあってか、境内はかなり開放的な雰囲気。神社という伝統と、
巨大な橋という近代との対比がかなり強烈な空間だが、若松恵比須神社は淡々と日常を送っている感じ。

 
L: 本殿。  R: 若松恵比須神社のすぐ隣にある若松区役所。1990年竣工。

日の出から日の入りまで動きまわって、今日も本当に盛りだくさんだった。明日の最終日も大変なんだよな……。


2015.11.21 (Sat.)

山口県から北九州にかけての旅行、2日目もまだ山口県がメインであります。朝の5時半過ぎに列車に乗り込み、
下関から厚狭まで戻る。まだ辺りが真っ暗な中を揺られるのは、寝過ごしそうでなかなか危険である。
それでも厚狭に着いて美祢線に乗り換えると、空も明るくなって頭もそれなりに冴えてくる。調子が出てきた。

美祢線は想像以上にローカルで、印象としては夏休みに乗った樽見鉄道(→2015.8.8)に近いものがある。
山の間にある人里をひたすらのんびり進んでいく。途中の美祢駅をとりあえずスルーして、さらに北上。
そして昨日お世話になった長門市駅もスルー。……あれ? 美祢線って長門市駅が終点のはずではないか?
実は美祢線はそのまま山陰本線の仙崎支線に乗り入れてしまうのだ。というわけで、おまけのもう1駅・仙崎で下車。
思えば昨日は青海島でよけいなランニングをしたせいで、金子みすゞ記念館を見学することができなかった。
しかし今日は今日で朝早すぎてやっぱり見学ができないのである。というか、仙崎駅には7分滞在しただけでそのまま戻る。
とことん間抜けな旅だが、しょうがない。こうしないと仙崎支線が残ってしまうんでな……。乗りつぶしは業が深い。

  
L: 仙崎支線の最果て光景。  C: というわけで朝の仙崎駅。  R: 商店街を眺める。2日連続の消化不良で泣ける。

戻って美祢駅で下車。ここからがまた余裕がないのだ。バスが来るまでの14分間で美祢市役所を撮るのである。
駅から市役所までは約350m。走ればすぐなので改札を抜けるとダッシュ。国道435号は交通量がそれほど多くなく、
テンポよく撮影していくことができた。欲を言えばもうちょっとスカッと晴れてほしいが、感触としては悪くない。

  
L: 美祢市役所を国道越しに撮影。  C: エントランス部分をクローズアップ。  R: 駐車場から全体を眺める。

美祢市役所は1960年の竣工。昨日の長門市役所より古く、ぼちぼち建て替えの話が出てきそうなものだが、
そういう雰囲気はないようだ。典型的な3階建ての昭和な庁舎ではあるが、非常にきれいに使っている印象で、
外見からすると築55年以上というのはちょっと意外だ。駐車場が広くて撮影しやすいのも個人的には好きだぜ。

  
L: まわり込んで側面と背面。  C: 背面。しかしまあ質実剛健で時代性を感じさせるいい庁舎ですなあ。
R: 市役所の奥にある美祢市民会館。これまた典型的なモダンホールで、脇には形蒸気機関車C58が保存されている。

素早く撮影を終えると駅まで戻るが、あまりに要領よく撮影できたせいか、駅前でバスを少々待つことに。
やがてバスがやってくると、昨夜のうちに下関駅で購入しておいた一日乗車券をかざす。今日はこれをフル活用だ。

30分ほど揺られて到着したのは、秋芳洞。姉歯メンバーによる下関旅行で8年前に訪れたが(→2007.11.3)、
あらためて秋吉台とセットできちんと見ておこうと。コインロッカーに荷物を預けて、いざスタートである。

 秋芳洞のバスターミナル。なんかものすごく規模が大きいんですけど。

バスの都合もあるので、まずは秋吉台に上って景色を堪能し、帰りに秋芳洞に寄る、という形をとることにする。
けっこう急な坂道を走って上り、汗びっしょりになって展望台へ。これサラッと書いているけど20分かかってるからね。
スカッと晴れていれば最高の絶景なのは間違いない。でも、曇り空の下ではこれがベストの眺めではないのは明らか。
とはいえ十分に、ほかでは味わえない雄大さは楽しめる。かつて海底だった大地がゆったり広がるのをただ眺める。


展望台より。やはり緑が生い茂る季節の晴天でないと正しい魅力は味わえないのだろう。

時間的な余裕があればカルストの真ん中から展望台を眺め返すくらいしたかったが、ここまで片道20分ではどうにも。
入口からちょこっと進んで360°見渡してみるくらいしかできないのであった。まあ、この曇り空じゃなあ。

 
L: 茫洋と広がるカルストの大地。  R: 入口はこんな感じ。さっそくそれっぽい岩がお出迎えだ。

帰りはエレヴェーターで直接、秋芳洞に乗り込むことにした。もう素直に坂道を下ってなんていられないのだ。
エレヴェーターは秋芳洞のいちばん奥に下りることができるので、そこから入口まで戻る、という算段である。
まあ何が面白かったって、「秋吉台」と「秋芳洞」の2個のボタンですな。冷静に考えると、これは究極形ではないか?

  
L: 秋吉台にある秋芳洞エレベーター口。  C: エレヴェーター内のボタン。これって究極形じゃね?
R: 秋芳洞側のエレヴェーター乗り場。日本最大の鍾乳洞の奥にコレがあるというのは、ニンともカンとも。

というわけで秋芳洞に入ったのだ。8年前にも歩きまわっていろいろ写真を撮っているので、今回はダイジェストで。
しかしまあ、もう8年も経っちゃったのか。がっくりだな。マサルが今の1/2くらいの質量だったのにもびっくりだよ。

  
L: 黄金柱。  C: 洞内の大空間。やっぱり画像だとよくわからんね。  R: 大空間を振り返る。

  
L: 鍾乳洞ってアール・ヌーヴォーだよな。  C: 洞内富士。  R: 洞内を行く。右手に百枚皿が見えてきたよ。

  
L: 百枚皿。  C: 角度を変えてもう一丁。実際には500「枚」以上あるとのこと。  R: 入口付近の大空間。

秋芳洞は8年前と変わらず、やっぱり空間として圧倒的だった。まあつくられるのにかかる時間が違うもんな。
僕らは秋芳洞の奇岩たちを通して地球スケールの時間を想像するのだ。信じられない形をしているということは、
それだけ僕らの想像を上回る時間がそこにあるのだ。時間と造形の関係は正比例しすぎて変なことになると仮定してみる。

 
L: 入口のところにサギがいた。川の水が濁っているのはやっぱり炭酸カルシウムの関係なのかね。
R: 入口までの間にある土産物店地帯。8年前にマサルがトルコ石的なものを買おうか迷っていたのを思い出す。

秋吉台&秋芳洞を後にすると、下関駅までは戻らずに「城下町長府」というバス停で下車する。そう、長府。
ここも8年前に姉歯メンバーと訪れたが(→2007.11.4)、あらためてきちんと歩きまわってみようというわけ。
いよいよ今日から世間は3連休ということもあって、観光客の数はそれなり。けっこう人気があるじゃないですか。

  
L: 長府の武家屋敷群を行く。長府の特徴といえばやはりこの土塀。  C: 長屋門。  R: 高低差があるのが珍しい。

同じ山口県の防府(→2013.12.22)と長府、しかも毛利家の屋敷がどちらもあるということでややこしい。
防府はもともと「三田尻」という地名で、瀬戸内海における御船手組(毛利水軍の後身)の拠点だった。
「防府」という地名は明治になって合併で誕生している。周防国の府中であることがその由来である。
それに対し「長府」は、やはり長門国の府中であることを地名の由来としているが、長府藩として存在していた。
これは毛利輝元の養子・秀元を祖とし、長州藩(萩藩、こちらは毛利輝元の実子・秀就が継いだ)の支藩だった。
一口に「長州」「毛利家」といっても、徳山藩・長府藩・岩国領などの支藩があって実態は非常にややこしい。

  
L: 長府っぽい風景をもう一丁。  C: この路地感がたまらん。重伝建でなくても見事な街並みはいっぱいあるね。
R: 下関市立長府図書館下関文書館(旧長府町立図書館書庫)。1913(大正2)年に建てられたそうだ。

8年前にも訪れた功山寺をあらためて参拝。仏殿が国宝ということで眺めてみるのだ。1320(元応2)年の建立で、
やっぱり黒ずんでいるなあと。この功山寺と小浜の明通寺(→2010.8.20)を見て、どうも鎌倉時代の建築には、
それ以降の建築物との明確な差を感じるのだ。それは様式上の差ではなく、材質的な差だ。鎌倉期は古すぎて、
木材に生き生きした感じがなくなってくる気がする。まさに木「材」、生命から物質への変化を感じるのである。

  
L: 功山寺の総門は室町時代中期に建てられたもので、国登録有形文化財とのこと。この時期のものとしては珍しい。
C: 総門を抜けて参道を行く。自然をうまく生かしており、禅寺らしさにあふれる。  R: 山門。1773(安永2)年築。

 功山寺仏殿。木材の変質とともに建築が物質化する、そんな印象の建物だ。

武家屋敷方面に戻って長府毛利邸に入る。8年前には夕方すぎて入れなかったので、リヴェンジができてよかった。
この建物は明治も30年代に入ってからのもので(西暦ではちょうど19世紀から20世紀をまたいでいる)、
最後の長府藩主だった人物の屋敷ではあるが、長府藩の屋敷というわけではない。まあつまり単に豪邸ですな。
(防府の毛利邸(→2013.12.22)も同じで、あちらは井上馨が土地を選んで1916(大正5)年に完成した。)

  
L: 長府毛利邸入口。ほかの武家屋敷とはまったく別格。  C: 母屋を眺める。  R: 邸内はこんな感じ。

自慢の庭園も見てまわる。場所によって池だったり枯山水だったり飛び石だったりと、さまざまな表情が面白い。
個人の邸宅だが、要素が多くて密度が濃い。天気がよければもっと明るい印象になっただろうに、そこが残念。

  
L: 建物の裏側にある庭。巧いと思う。  C: 母屋の脇にある庭。  R: さすが豪邸、敷地内に高低差がある。

長府にある神社もきちんと参拝しておく。8年前には軍事面がアレがアレに思えた乃木神社も参拝なのだ。
乃木希典はもともと長府藩士で、そりゃ神社ができるだろうと。地元に敬意を表して参拝すべきだろうというわけ。
(東京の乃木神社にはまだ参拝していない。殉死を肯定するように思えてしまうので。ただ、旅順攻囲戦以降、
 彼は死ぬタイミングを探していたようにも感じられるので、単なる殉死と言い切れない要素もあるとも思う。
 しかし奥さんを一緒に死なせるのは、夫婦独自の価値観があったにせよ、やっぱりそこは納得いかない。
 とりあえず今後いろんな神社を参拝していく中で、整理がついたら参拝しようかなと考えている。)
なお、御守を頂戴する際には、神職さんが何やら呪文的なことを唱えてから渡してくれた。独特である。

  
L: 長府の乃木神社。  C: 拝殿。  R: 境内の乃木夫妻像。「希典」を「まれに見るスケベ」とか言ってすいません。

続いて忌宮(いみのみや)神社を参拝。長門国二宮にして仲哀天皇の豊浦宮跡とされる神社である。
仲哀天皇は日本武尊の息子。なお、仲哀天皇の廟が起源となっているのは福岡の香椎宮(→2014.11.24)。

  
L: 忌宮神社。そこのトラック、邪魔!  C: 鳥居をくぐる。境内が広場になっている感じ。  R: 神門。

長府の城下町は全体が東側の海に向かって下りになっているが、忌宮神社はその北側で一段高い場所にある。
境内は広く開かれており、お祭りなどのイヴェントに最適といった感じ。社殿はさらに一段高いところにある。

 
L: 拝殿。  R: 角度を変えて眺める。奥に本殿があるけど見るのはこれが限界かな。

長府の城下町をひととおり見てまわると、国道9号に戻って再びバスに揺られる。しかしやはり下関駅までは行かない。
唐戸交差点で下車して、すぐ脇にある建物を撮影開始。もともと唐戸は下関の旧中心市街地であり、歴史は古い。
平成に入って海岸沿いの倉庫を再開発し(→2007.11.4)、歴史的な建築と観光施設が向かい合う空間となった。
というわけでその歴史的な建築をクローズアップするのだ。まずは下関南部町(なべちょう)郵便局から。

  
L: 下関南部町郵便局。逓信省技師だった三橋四郎の設計で1900(明治33)年に完成。現役の郵便局舎では国内最古。
C: 正面より。なお、三橋は京都の中京郵便局(→2013.6.17)も担当している。逓信建築(→2013.5.6)の源流だ。
R: 唐戸交差点の歩道橋から見下ろしたところ。中にはカフェもあるそうだ。リニューアルがキツめなのが残念。

そして隣は旧秋田商会ビル。1915(大正4)年の竣工で、外見的には洋風。しかし中身は完全に和洋折衷なのだ。
西日本で最初の鉄筋コンクリート造の事務所建築とのことだが、屋上には日本庭園と日本家屋があるというのがすごい。
なお、秋田商会は1905(明治38)年の設立で、主に木材取引を中心とした商社活動と海運業を営む企業とのこと。
創業者である秋田寅之介自身がこのビルを設計したそうで、彼の価値観が余すことなく盛り込まれている建物だ。

  
L: 下関南部町郵便局と旧秋田商会ビルのコンビネーション。港湾都市・下関の風格を感じさせる一角である。
C: 旧秋田商会ビル。敷地面積のわりに背が高く、角を切り取ったような建物。  R: 正面から見上げる。

現在、旧秋田商会ビルは下関観光情報センターとして利用されている。1階は観光関連の展示がなされているが、
海運業の事務所らしく銀行に似た雰囲気だ。小樽の旧日本郵船小樽支店もこんなだなと思い出す(→2012.8.22)。

  
L: 旧秋田商会ビル、1階。  C: 現在は下関観光情報センターとなっている。  R: 2階へ上がる。ここまでは洋風。

奥から2階へも見学可能だが、なんとこちらは和室である。居心地のよい畳敷きの大広間となっていた。
そしてなんと、非常に運のいいことに、ふだんは非公開の屋上庭園がたまたま一般公開されていた。
屋上へ出る螺旋階段は狭くて華奢なので、係の人から合図をもらって上る。いやー、これはツイているわ。

  
L,C: 2階の大広間。1階の洋風事務所の上はこうなっているのだ。豪快だなあ。  R: 屋上へ出て塔を振り返る。

屋上へ出るとそこは本当に庭園。木々と日本家屋で密度が高くてなかなかすっきり見渡せないのだが、
芝があり、松が茂り、確かに屋上なのにしっかりとした庭になっている。洋風、和風ときて最後は庭。いやはや。
この屋上庭園、「棲霞園」という名前がついている。建築史家の藤森照信先生によれば、「1915年の屋上庭園は、
日本の屋上庭園の歩みの中では群を抜いて早い。世界的に見ても、一番か二番になるやも」なんだそうだ。
旧秋田商会ビルは何から何まで常識はずれだが、成金くささはなく、節度があるのがいい。とことん興味深い。

  
L: 屋上庭園の日本家屋。  C: 中はこんな感じである。  R: 「棲霞園」と刻まれた石碑。豪快すぎる発想だぜ。

最後は交差点を東にまわり込んで、旧下関英国領事館。中は8年前に入っているので今回はいいかなと。
外観だけ撮影しておいた。英国工務局上海事務所技師長・ウィリアム=コーワンの設計で1906(明治39)年に竣工。

  
L: 歩道橋から見下ろす旧下関英国領事館。  C: 正面から。実に壁っぽいな。  R: 側面。こっちは私的な印象。

おっとっと、下関市役所の撮影を忘れちゃいけないのだ。8年前には市役所移転が問題になっている真っ最中で、
一度は新下関への移転が決まったものの、市長選挙を経て、結局は移転しないで増築ということに落ち着いたようだ。
今まで見てきたように唐戸は下関旧市街の中心的な場所であり、下関の歴史を象徴する空間なのである。
市域を考えればバランスは悪くても、ここを譲るわけにはいかなかったろう。踏みとどまって正解のはずだ。

  
L: 唐戸の交差点から北に入ったところ。下関市役所は従来の庁舎の西側に新館を建てる選択をした。
C: まずは従来の庁舎である本庁舎本館の議会棟。  R: 本庁舎議会棟のエントランス。昭和だ。

まずは本庁舎本館からクローズアップ。前回訪問時にはこいつしかなかったが、まったく印象が変わらない。
良く言えば、古びていない。調べてみたら、コンペで設計者を決めたそうだ。1等は前川國男の事務所のメンバーである、
田中誠・進来廉・崎谷小三郎の案。竣工は1955年だが、工事している中でいろいろと変更があって大変だったとか。
建物全体をすっきり見渡せる場所がないのでわかりづらいが、遠景で見れば正統派モダニズムの佳作に映るはず。
なお、低層の議会棟は1970年の竣工と、高層の本館棟とは差がある。でもデザイン的に50年代風なのが面白い。

  
L: 本庁舎の議会棟(低層)と本館棟(高層)。議会棟は取り壊されて市民広場となるようだ。それはもったいないのでは。
C: 高層棟のピロティ部分。この建物はすっきり見渡せないことで損をしている。  R: 背面。けっこう面白いのだが。

狭苦しい北側の道を抜けると本庁舎新館の側面に出る。梓設計九州支社の設計で今年の6月に竣工したばかり。
窓ガラスの合間に茶色を配置することで本庁舎本館との統一感を狙っており、まあこんなもんだわなと。
設計者選定がどのように行われたかは、ネット上に公開されている資料からはうかがえない。となると入札か。
先代がコンペを経て建てられたことを考えると、なんとも淋しいものである。なんとかならんかったのかね。

  
L: 本庁舎新館の側面(西側)。  C: 南側より。市役所のすぐ脇に出雲大社の分霊・大国神社がある。すげえな。
R: まわり込んで新館のエントランス。現在の議会棟が取り壊された後は、こちらが下関市役所の正式な出入口になる。

当初の移転計画を考えれば、役所を唐戸に残しただけでもよかったと言えるのかもしれない。しかしながら、
こうしてぐるっと一周してみると、建物としての魅力を感じづらい市役所になっているなあと思ってしまうのだ。
増築でリーズナブルに小ぎれいな役所をつくることができたが、地域の核になるだけの魅力は感じられない。
無理を承知で言うが、唐戸を訪れる観光客を吸収して回遊させてしまうような要素が欲しかったと思う。
そうすれば動線上の亀山八幡宮・旧下関英国領事館・旧秋田商会ビルがなお生きる。いやあ、難しいなあ。

 左が新館エントランス。右の議会棟は取り壊して広場にする予定。

市役所を後にすると、国道9号をだんだんと東へ歩いていく。壇ノ浦までに重要な神社が2つあるので参拝するのだ。
まずは近い側の亀山八幡宮。もともとここは島だったそうで、八幡神を宇佐から石清水へ勧請する途中に留まると、
「ここ気に入ったからちょっとのんびりしていこうぜ(意訳)」と神託があり、仮殿を造営したのが始まり。
その後は荒廃した時期もあったが、関門海峡の守り神ということで復活。現在は堂々の別表神社となっている。

  
L: 海沿いの一段高いところにある亀山八幡宮。  C: 鳥居。  R: 拝殿。境内からは海よりも唐戸市場がよく見える。

先へ進むと赤間神宮。こちらは8年前にもお参りして、みんなで安徳天皇を思ってシュンとなったな(→2007.11.4)。
実はもともと阿弥陀寺という寺で、安徳天皇御影堂が設置されていた。それが明治の神仏分離で神社に移行したのだ。
神社にしてはダイナミックな色づかいや竜宮門(赤間神宮のものは水天門という名がついている)など、
弁財天的な価値観が多分に盛り込まれているのは、神仏習合が根底にあるからなのだろう。水も絡んでいるし……。

  
L: 赤間神宮。  C: やはり水天門が象徴的だ。外国人観光客に人気がある模様。  R: 水天門を背に境内を眺める。

下関はもともと「赤間関(あかまがせき)」という名で、実際に1889(明治22)年に市制施行したときには、
「赤間関市」という名称だった(なお、赤間関市は日本で最初に市制施行した31市の中のひとつである)。
赤間神宮という名前には、当時の価値観が込められている。すっかり下関が定着しても、赤間のままなのが美しい。
(ちなみに「赤間関」を「赤馬関」とも書いており、こっちを略して「馬関」という別名が生まれた。)
じゃあ「下関」の由来は何なのよと思って調べたら、869(貞観11)年まで遡るらしい。こっちもかなり古い。
どうもこの地域は複数の名前が入り乱れていたようだ。下関市への改称は1902(明治35)年。理由がよくわからん。

  
L: 境内にある日本西門鎮守八幡宮。  C: 外拝殿。  R: 内拝殿を覗き込む。水も緑で原色だらけでございます。

参拝を終えると、さらに東へ抜けて関門トンネル人道へ。ここまでさんざん山口県を味わってきたが、
いよいよ本州からオサラバして九州へと入るのだ。8年前と同じく、徒歩で上陸するのである(→2007.11.4)。
いろんな神社を参拝しようとすると、この徒歩のルートがいちばん合理的なのだ。われながらよくやるわー。

 
L: というわけで、今回も関門トンネル人道を行く。  R: こっちも国道2号だぜ。閉所恐怖症にはなかなか。

思ったよりは長い780mを歩いて地上に出ると、そこは北九州市門司区。ここからは北九州の旅になるのだ。
九州に上陸してまず一発目は、地上出入口からすぐのところにある和布刈(めかり)神社。やはり海峡の守護神だ。

  
L: 和布刈神社の鳥居。関門橋がすぐ近くを通っているのがよくわかる。  C: 境内に入るのだ。  R: 授与所と社殿。

和布刈神社の「和布刈」とはワカメを刈ることで、つまりはそれだけこの辺りがワカメの名所だったのだろう。
土地が狭いので神社の規模は大きくないが、海の突端ということもあり雰囲気は独特。いかにも海の神社ですなあ。

 
L: 海に面している拝殿。  R: 海から突き出る石灯籠と関門橋。この場所ならではの風景だなあ。

関門橋をくぐって山をまわり込むと、山に半分貼り付きながらも家々が並ぶ、街らしい景色へと変わっていく。
この辺りは「旧門司」という地名で、そこから察するに門司港はこっち側から南へと広がっていったのだろう。
そんな旧門司の南端に甲宗八幡宮。由緒は亀山八幡宮と重なるが、八幡神を宇佐から石清水へ勧請する途中、
奇跡があったので神功皇后の兜をご神体に神社を創建。そのため「甲宗(こうそう)」という名になったそうだ。
現在の社殿は1958年に再建されたものだそうだが、拝殿の両側手前に櫓っぽいものがあって非常に独特。

  
L: 亀山八幡宮と対になるような歴史を持つ甲宗八幡宮。こちらも周囲より高く港を見下ろす位置にある。
C: 境内の様子。  R: 拝殿の前には左右にこのような櫓みたいな建築がある。どういう経緯があるのやら。

そのまま南下して門司港レトロに到着。8年前にはカレードリアじゃなかった焼きカレーを食べたが(→2007.11.4)、
独りでそんな洒落たものを食うのも虚しいので、パス。ざっとあちこち見てまわるが、イヴェントをやっているようだ。
門司港レトロは今日も大人気なのであった。下関はうまく門司港と連携できるといいねえと思いつつ門司港駅へ。
すると駅舎(→2008.4.25)が保存修理工事の真っ最中。工事完了は2018年3月の予定とのこと。かかるねぇ~!

  
L: 門司港レトロを行く。観光客がいっぱい。見事なものだ。  C: 門司港レトロハイマート。黒川紀章設計で1999年竣工。
R: 門司港駅は工事中。デッキ上から覗き込めるようになっているのが面白い。2012年からなので、3年経ってこの状態。

門司港を後にすると、そのまま一気に八幡駅まで行ってしまう。今日も一日曇り空に見舞われてしまったが、
夜景はそんなの関係ないもんね。というわけで、皿倉山の展望台から北九州の夜景を楽しむとするのである。
なんでも「新日本三大夜景」に選定されているんだそうだ。それはぜひとも見ておかないといけないでしょう。
八幡駅から無料のシャトルバスが出るそうなので、しばらく待って過ごす。駅からは南へまっすぐ上り坂が延びるが、
そのずっと先にはどうやら山があるようで、斜面には光の線と星印が刻まれている。あれが皿倉山か、と思う。
あちらからはこちら側がどのように映るのか。期待に胸を膨らませていると、植栽の中にネコがいるのを発見。
遊ぼうぜ!といつものように手を伸ばしたら引っかかれた。ま、野良はそれがふつうなんだけどな。ちょっとショック。
やがてバスが来たので乗り込む。ほかにも同じ目的の客がけっこういた。北九州の夜景は認知されているんだねえ。

 
L: 八幡駅前から見える、夜の皿倉山。あそこからこっちを見下ろすことになるわけか。
R: かわいい分だけ、拒否されると切ないのである。仲良くしたかったんだけどなあ。

バスを降りると、まずは山麓駅へ。ケーブルカーに揺られて5分ほどで山上駅へ。するとここでスロープカーに乗り換え。
山頂の展望台駅まで3分ほどとのことだが、これがじっとりと長い。しかも週末で観光客が多いので、けっこうつらい。
窓からはすでに北九州の夜景が楽しめるのだが、それはちょっともったいないんでないかい?とガマンするのがまたつらい。

展望台に到着すると、パノラマ撮影を開始。北九州は東から門司・小倉・戸畑&若松・八幡と海沿いに街が連続し、
西も黒崎・折尾と大きな駅が続いていく。それがそのまま眼下に延びているので、確かに夜景として見ごたえがある。


皿倉山より眺める北九州の夜景。5つの個性が溶け合い、連続して延びている。

まるで目の前に舞台があるかのようだ。光を落とした平地が広がっているが、その中でところどころに抱えている闇は海だ。
これだけのパノラマ、昼間に見ても絶対に面白い。きっとそれぞれの街の特徴を、手に取るようにつかむことができるだろう。
しかし夜景となると、それらの相違点はあいまいになってしまう。それがもったいなくも思えた。贅沢な感想ではあるが。
北九州市は1963年に5つの市が合併して誕生したが、皿倉山はその本質を光の帯として体感できる場所なのだ。
僕がいま目にしている光景は、北九州という存在そのもの。可視化された都市の実体に、ただただ魅了されていた。

 八幡駅周辺を特にクローズアップ。

本格的に寒くなってきたので、皿倉山を後にする。展望台にやってくる観光客はさらに増えている感じである。
それにしても、今まで夜景は自然(地形)と人工(都市)の調和を楽しむものと思っていたが(→2008.9.15)、
北九州という特別な街の姿を直接的に目にして、さらにその奥の深さを教えてもらった気がする。


2015.11.20 (Fri.)

11月にねじ込んだ4日間の旅行だが、訪れるのは山口県と北九州ということで、直線距離としては大したことはない。
つまりはそれだけじっくり動きまわるということである。今まで行ったことのない山口県をぜんぶつぶす勢いだ。
もっとも、それをするのに時間と手間がかかることにはそれなりの理由もある。鉄道網が意外と複雑なのである。
山陽本線、山陰本線、そして美祢線。こいつらを要領よく利用する必要があるのだ。一筆書きできないのがつらい。

朝の6時台に宿を出ると、益田駅へ。6時半発の山陰本線で8時前に萩市へと乗り込む予定なのだ。
8時というのは東萩駅前のレンタサイクル店が開く時間である。最近はレンタサイクルが行動の基準になりつつある。
益田以西の山陰本線は初めてで、分厚い曇り空の下の景色を眺めながら揺られる。旅行中は曇りが多い予報で、
それだけでどうにもテンションが上がらない。雨でなければ御の字ではあるが、ずっと曇りというのも切ないものがある。
そんな具合にイマイチな気分で海岸沿いを進んでいくが、途中でトラブルが発生。詳しくは書かないでおくが、
こんなことがあるのかとびっくり。しょうがないんだけどね、もうちょいなんとかならなかったのかと思わないでもない。

予定より10分以上遅れて東萩駅に到着。ちなみに萩市の玄関口となる駅は、萩駅ではなく東萩駅である。
萩の市街地は阿武川の三角州上に形成されており、川の対岸はどちらも山。完全に海と山に囲まれた土地なのだ。
そして城は海に突き出た山の麓にある。それはもう、まるで絵に描いたような城下町らしさにあふれる地形である。
山陰本線はそんな市街地を注意深く避けて走っており、萩駅だろうが東萩駅だろうが街から遠いことに違いはない。
そもそも鉄道で萩に来る人じたいが少ない。まあ観光資源とのバランスを考えると東萩駅が中心となってしかるべきか。

 東萩駅。萩へ観光に来る人は飛行機や新幹線からバスで来るのがふつう。

レンタサイクルというより貸し自転車という雰囲気の店で手続きを済ませると、すぐ南下して松陰神社を目指す。
名前からしてもちろん吉田松陰を祀る神社だとわかるが、境内にはなんと松下村塾の建物が現存しているのだ。
僕自身がきちんと歴史を整理して勉強していないせいで、幕末の長州藩士たちの偉業は今ひとつピンときていない。
しかし彼らが実際に勉強していた空間が現実にある、その事実にまずゾクゾクする。授業光景を想像してみる。

  
L: 松陰神社。さすがに朝から観光バスが停まっていた。  C: 松下村塾。現物ですよ、現物。よく残したもんだ。
R: 講義室。実際に久坂玄瑞やら高杉晋作やらが勉強をしていた歴史の現場だと思うと、やはり興奮するものがある。

明治維新の原動力となった人材に多大な影響を与えた人物を祀る神社ということで、境内の規模はやや大きめ。
明治に入って創建された○○神宮シリーズほどではないものの、同じ系列の価値観があるのをなんとなく感じる。
もっとも、境内の真ん中に松下村塾と松陰が幽閉されていた際の住宅が残されているので、違和感はない。

  
L: 松陰神社の拝殿。現在の社殿は1955年の再建。  C: 本殿。ここでの吉田松陰は学問の神様。そりゃそうだ。
R: 松下村塾の門人たちを祀る松門神社。松陰神社はかつて松陰の実兄が建てたこちらの土蔵造りを社殿にしていた。

参拝を終えると三角州の市街地に入るが、まずは一気に南下して萩駅を見ておく。1925(大正14)年の竣工で、
国登録有形文化財となっているのでわざわざ訪れたというわけ。風格があるけど利用者が少なすぎるのがもったいない。

  
L: 萩駅。手前にロータリーと花壇があって、威風堂々。  C: 角度を変えて眺める。利用者が少ないのが残念だ。
R: 駅舎は向かって左側に駅の機能が固まっており、中央部は資料館になっている。朝早すぎて中に入れなかった。

そのまままっすぐ北上し、市街地の中心部に入る。やはり萩市役所を見ておかなくてはならないのだ。
萩市役所は、市街地のど真ん中を東西に貫く国道191号沿いにある。ちなみに隣はDOCOMOMO物件の萩市民館で、
国道を挟んだ向かいは藩校・明倫館の跡地にある明倫小学校。この一角だけでも萩のプライドがビシビシ感じられる。

  
L: 萩市役所。高さはないけど幅があり、平べったくて撮影しづらい。手前の駐車場も広大。  C: 角度を変えて眺める。
R: 側面はこうなっている。隣の萩市民館裏から眺めたところ。建物の平面は正方形になっていて、奥行きもある。

萩市役所は隣の萩市民館と同じく菊竹清訓の設計で1974年に竣工している。確かに凝っているのが一目でわかる。
菊竹建築の傑作というと旧都城市民会館(→2009.1.82011.8.11)がまず挙げられると思うのだが、
あれと同じ上下分離型のデザインという印象を受ける。下はがっちりコンクリのモダニズムで、上ではっちゃける。
ドローンか何かでちょっと上から俯瞰して見るとまた面白いのだろうが、下からの目線では魅力がわかりづらく思う。
とはいえコールテン鋼の落ち着いた焦茶色でモダニズムをやっている、その発想は面白い。もう一息って感じだなあ。

  
L: 裏の空き地から見た背面。  C: 東隣の第3庁舎が妙にモダンだったのでびっくり。  R: 第3庁舎を正面より。

中に入ってみると、まず1階と2階をブチ抜いた大空間になっていて圧倒された。しかしやはり幅がありすぎるせいか、
1フロア分の天井高を低く感じてしまって妙な圧迫感がある。内装では焦茶色がかえってその圧迫感を強めている。

  
L: 萩市役所入口前のオープンスペース。城下町・萩という特徴を意識してか、かなり和風にまとめてある。
C: 入ってすぐの大空間。向かって左には城下町の町印が描かれた提灯が並んでおり、デザイン的に興味深い。
R: 入口を振り返ったところ。このホール部分はいいが、それ以外の部分では天井高を低く感じてしまう。

続いて西隣の萩市民館へ。さっきも書いたように、こちらも菊竹清訓の設計である。竣工は1969年。
DOCOMOMO物件ということで気合を入れて撮影しようとするが、白い色が曇り空に溶け込んでしまって、
ぜんぜん魅力的に撮れない。これだから晴れていない日に建物を撮影するのはイヤなのだ。しょうがないけど。

  
L: 萩市民館。けっこう幅のある建物で、国道191号越しでも一気にカメラの視野に収めるのがつらい。
C: 同じく国道越しに反対側から撮影してみた。  R: 側面と背面。白い屋根が曇り空と同化してつらい。

敷地をぐるっと一周すると、中に入ってみる。外壁がガラス張りになっているので内部はだいぶ明るい。
建物内には大小のホールが向き合うように配置されているが、小さい方のホールは入れ子構造状になっており、
そのせいで外部空間と内部空間のちょうど中間という印象を受ける。ガラスの外壁で外部とのつながりを維持し、
ちょっと引っ込めたところにもうひとつのマッシヴな壁をつくっているのは香川県庁舎と同じ状況だ(→2007.10.6)。

  
L: 裏側、市役所付近から見た萩市民館。  C: 国道に面した市役所側にあるエントランス。コンクリモダンだなあ。
R: 中に入るとこんな感じ。外光をたっぷり採り入れて明るい。左側の小ホールの壁が中庸な空間を印象づける。

放射状に引っぱった線に付けられた明かりがまた印象的だ。星空をイメージさせるつもりなのであれば、
それはやはりこの空間の中庸性を強調する意味を持つだろう。角を取った四角い白い屋根は宇宙船っぽい感触だが、
宇宙船の中は宇宙空間それ自体、なのか。それにしてもやはり、萩市民館も上下分離型の建築になっている。
そして建物の中では下部構造のコンクリートが剥き出しになって空間を支えている。エネルギッシュである。

  
L: 大ホール入口。鉄とコンクリでダイナミック。  C: 反対側の小ホール入口。  R: 小ホール脇、上の写真の反対側。

せっかくなので撮影ついでに、国道を挟んだ明倫小学校付近も見てまわる。藩校時代の中門だった観徳門もいいが、
僕としてはそれ以上に凄かったのが小学校の木造校舎。1935年築の国登録有形文化財とのことで、風格十分。
現在は校舎が新築されて旧校舎は保存工事中である。これは観光拠点にもなるし、非常にいい判断であると思う。

 
L: 観徳門。  R: でも個人的にはこの木造校舎に圧倒された。街の真ん中でこの校舎って本当にすごいな。

ここまでは萩市内の建築について個別に見てきたが、いよいよ本格的に萩の街並みを味わうとするのだ。
萩市内には重要伝統的建造物群保存地区がなんと4ヶ所もある。それをきちんと見てまわろうというわけだ。
まずは橋本川沿い、国道の南側にある武家町・平安古(ひやこ)から。1976年の重伝建指定第1号のひとつだが、
これが狭い! 鍵曲(かいまがり)と呼ばれる食い違いのある一本道、ほぼそれだけ。完全に線でしかない。
萩藩では武士が夏みかんを栽培していた歴史があり、その影響で土塀の向こうに夏みかんの木が今も茂っている。
その夏みかんの木々を見て「おうなるほど」と思う、それだけ。土塀と夏みかんしかありませんでしたぜ。

  
L: 橋本川と平安古地区への入口。ここを下っていった一本道が重伝建。  C: 道は細い。リアルといえばリアルだが。
R: 武家屋敷らしい塀と夏みかんの木々、それ以上のものはない。まあそれがきちんと維持されているからいいけどさ。

次は国道の北、堀内だ。その名のとおり堀の内側、萩城の三の丸跡となる。県立萩高校や萩博物館のあるエリアで、
平安古とは対象的に範囲はかなり広い。こちらは完全に面として街並みが残っており、似た印象なので迷いやすいかも。
堀内地区の建物は新しく建て替えられているものがほとんどだと思うが、塀や生垣は往時のままになっており、
生活空間としての要素はダイレクトに現在にも残っている。面としての雰囲気の残り方は日本で一番かもしれない。

  
L: 堀内地区を行く。武家屋敷の街割りが今でも見事に残っている。  C,R: しかもそれが広範囲に広がっている。

堀内を抜けると萩城址である。まずは向かいにある重要文化財・旧厚狭毛利家萩屋敷長屋を見学。長屋だった。
それから自転車で城址内へ。現在は指月公園となっているが、毛利の殿様がいたとはとても思えないひっそり感である。

  
L: この区切られた堀を渡ると旧二の丸、そして右手が旧本丸。  C: 旧厚狭毛利家萩屋敷長屋。ただただ長屋。
R: 萩城址入口。石垣が残っているが、往時の勢いがちょっと信じられない。奥の山は詰丸の指月(しづき)山。

城内のあちこちを徘徊してみるが、本当にひっそりしている。冷静に考えればここから先には海しかないどん詰まりで、
観光地にはなれど地元住民がわざわざ来るような場所ではない。かつてはもう後のないまさにこの最果ての場所から、
江戸を目指して一気に突き進んでいったわけだ。250年以上にわたって貯め込まれたエネルギーが発散された。
維新で日本が塗り替えられた後、この地にはもうそのエネルギーはひとかけらも残ってはいない、ということなのだ。

  
L: 石垣と天守の跡を眺める。  C: 天守の跡に行ってみた。  R: 礎石が残るのみ。虚脱感を覚えてしまう光景だ。

本丸跡には志都岐山神社があるので参拝してみる。本丸跡の神社ということである程度は参拝客がいるかと思ったら、
まるでひと気がないのであった。長府(→2007.11.4)や防府(→2013.12.22)とだいぶ差があるのが不思議。

  
L: 城内から眺める指月山。こりゃ自然そのものですな。  C: 志都岐山神社への参道。  R: 境内に入ったっぽい。

志都岐山神社は1872(明治12)年に豊榮神社・野田神社の分社として創建。祭神はそれぞれ毛利元就・敬親で、
つまり祖霊を山口市からわざわざ迎えたということだ。明治時代にはすでに萩の重要性がだいぶ低下していたのだろう。

  
L: 志都岐山神社・拝殿。  C: 奥の幣殿。  R: 本殿。なんだかさびしい。御守もなかったし……。

これで武家地はだいたい押さえたということで、今度は町人地へ。堀内地区のだいたい東端が萩博物館で、
ここから東側には「古魚店町」「呉服町」「油屋町」「細工町」「米屋町」など見事に町人地らしい地名が並ぶ。
昔ながらの木造建築がこちら側でもよく維持されており、じっくり見てまわる時間がないのが非常に残念だった。
それにしても9時を過ぎて観光客の姿が目立つようになってきた。土日だと絶対に観光客で混雑すると読んで、
わざわざ狙って平日に萩へ来たのに、やっぱり観光客がたくさん。ワケのわからん世界遺産化とか本当にやめてほしい。

  
L: 萩の町人地を行く。こちら側は重伝建にはなっていないのだが、木造の商店建築がよく残っている。
C: 重要文化財・菊屋家住宅。萩藩の御用商人だった。見学したかった。  R: 木戸孝允旧宅もある江戸屋横町。

旧町人地の南側には東西方向にアーケード商店街があるので歩いてみる。感じとしては本当に地方の商店街そのもの。
東端は高札場跡となっており、食い違いの跡を整備したらしいポケットパークがあった。この辺りが街の中心か。

 
L: 高札場跡。夏みかんが植えられている辺りが萩っぽさのアピールか。  R: アーケード商店街。地方都市だな。

萩の市街地の印象は、とにかく狭くて車が多い。昔ながらの街割りがしっかり残っているので道が狭いのは当然だが、
その一方で国道を中心にして幅の広い道路を大胆に通している。しかしその国道レヴェルの感覚で城下町にも車が来る。
大動脈はいいけど毛細血管はけっこう大変、そんな感じの混雑具合なのである。しょうがないといえばしょうがないが。

時間的な余裕がだいぶないのだが、やれることはやっとておかないといけない。3つめの重伝建訪問をするのだ。
萩三角州の北端は、浜崎という漁師の町である。ちょっとだけ距離があるが、そこは自転車で無理やり行ってしまう。
あまりに時間がなくて本当にぐるっとまわっただけで、旧萩藩御船倉をきちんと見なかったのは大失敗だった。
余裕のない旅行はダメだ、特に萩なんて見どころいっぱいなんだから、とあらためて反省しております。

  
L,C: 浜崎(はまさき)の街並み。なんだろね、この漁業に特有の街の匂い。  R: 立派な家がけっこう多いのだ。

それにしても萩は武家地も町人地もしっかり残っているが、漁師たちの港町もきちんと残っていて面白い。
萩が完全にどん詰まりの城下町という地形的な理由が大きいが、その分だけ近世の街の要素が凝縮されているのだ。

大慌てで萩の中心市街地に戻ると、萩バスセンター前の店で自転車を返却してそのままバスに乗り込む。
なぜそんなに無茶してバスに乗らなくちゃいけなかったかというと、最後の重伝建・佐々並市を訪れるため。
佐々並(ささなみ)は2005年に合併で萩市に入った旧旭村域で、萩往還をずっと南へ下っていったところにあるのだ。
萩市の中心部から山口市までのほぼ中間の位置である。だから山口駅か新山口駅行きのバスに乗り、途中で降りる。

南北方向の国道262号と東西方向の県道10号がぶつかる場所が、佐々並である。バスを降りると佐々並川を渡らず、
そのまま右岸の道を行く。まずは萩市役所佐々並支所でパンフレットを入手。それから東の旧宿場町を歩いてみる。

  
L: 上級藩士が宿泊した御客屋跡。建物は学校か役場っぽい感じ。現在は「世代間交流施設」として利用されている模様。
C: 集落のいちばん端っこには、藩主が宿泊した御茶屋跡。こっちは正真正銘、佐々並小学校として利用されていた。
R: 御茶屋跡の辺りから佐々並の集落を振り返る。茅葺きをそのままトタンにした家々が並ぶが、空き家が多い感じ。

そもそも佐々並市とは何か。関ヶ原の合戦に敗れて領国を防長2国に減封された毛利輝元は、新たに萩を拠点とした。
その際、長門国の萩と周防国の拠点・三田尻(現在の防府 →2013.12.22)を結ぶ街道として、萩往還を整備した。
佐々並は萩と三田尻のだいたい中間ということで、宿駅がつくられたのである。なお「佐々並市」の「市」は「いち」。

  
L: 貴布禰神社のさらに先にある高台から眺めた佐々並市の街並み。現在ではひたすら石州瓦ばっかりとなっている。
C: 国道262号の脇に今も残る萩往還。昔の人はこの棚田の脇にある道を歩いて日本海と瀬戸内海を往来したのだ。
R:
御客屋跡の手前にある阿武萩森林組合の事務所。1933年にバスの停留所として建てられた、佐々並唯一の洋風建築。

まあ正直、無理して来るほどの価値は感じなかった。石州瓦の屋根は確かに美しいが、これは本来の宿場の姿ではない。
茅葺きだった家々もトタンの空き家ばかりでもはや意味がない。重伝建指定は2011年と最近だが、非常に疑問を感じる。
こんなものを見させられるくらいなら、もっとじっくり萩の城下町を見てまわるべきだった。本当にがっかりである。

  
L: 佐々並川に近い辺りは商店がチラホラ。  C: 商家の石州瓦にはどれくらいの歴史があるものなのかねえ。
R: 佐々並川を渡った北側は、久年(くどし)という集落になる。まあ石州瓦の家々には違いないのだが。

この環境に2時間弱というのはなかなか酷である。この日は佐々並にいるときだけ青空が見えて、それがまた切ない。
とりあえず近くの道の駅で昼メシのカレーを食って惚けていたのだが、重伝建に釣られるのもよくないなとまた反省。
帰りのバスに乗り込むと、そのまま東萩駅まで行ってしまう。天気のせいもあるが、萩の消化不良な感じはかなりひどい。
何十年後になるか想像がつかないが、いつの日かリヴェンジできることを期待しよう。いやもうまいったまいった。

東萩駅からはさっきの萩駅を通ってさらに西へ。山陰本線は着実に海沿いに進んでいって、長門市駅に到着。
とりあえず市役所には行っておかなければ、ということで下車。バスまでの時間に余裕がないので焦り気味である。

 長門市駅。山陰本線と美祢線を結ぶ交通の要衝。

慌ててそのまま北口から出発したせいで、長門市役所まで行くのが少々ややこしかった。微妙に斜めなんだよな。
長門市役所は市街地にありながらすぐ脇に山(城山)がくっついており、駅からだとまわり込んで行くことになる。
いつもなら敷地をぐるっと一周しながら撮影するのだが、山が邪魔で見る角度が限られるのも切ないところだ。

  
L: 長門市役所。「長門市」という名称は1954年の合併による市制施行から。2005年に合併でさらに市域を広げる。
C: 正面より撮影するが車が邪魔。でも気にしてる暇がない。  R: さらに角度を変えて撮影してみたところ。

長門市役所は1963年の竣工。現在は新庁舎の建設計画が進んでおり、設計者選定のプロポーザルが実施された。
新庁舎の設計者は東畑建築事務所で、場所は現庁舎の南側にある駐車場になるそうだ。すべての工事が終わるのは、
2019年度の予定だそうだ。まあとりあえず、今は建設工事が始まる前の庁舎に出会えたことを喜んでおくとしよう。

  
L: 内部の様子。役所だねえ!  C: 側面。  R: 背面。このまま左の方に城山がそびえているというわけ。

さて、なぜそんなに長門市役所訪問を慌てていたのかというと、仙崎方面へ行くバスが出てしまうからである。
仙崎支線はとにかく本数が少ないので、今日のうちにバスで行っちゃえというわけなのだ。市役所脇のバス停から乗車。
そのまま長門市駅を通過して仙崎へと向かうが、ひらめいた。どうせなら青海島(おおみじま)に上陸しちゃえ、と。
バスは仙崎駅からさらに北上していき、青海大橋を渡って青海島へ。ここで素直にすぐに下車すればよかったのだが、
どうにかして島の集落が見えないかなと欲張ったのがいけなかった。後で地図で確認してみて愕然としたのだが、
青海島の集落は本当に東の端っこなのである。そして島に入って次のバス停までの距離がめちゃくちゃ遠い。
「隠居所前」という誰が何をどうしてそうなったのかよくわからない名前のバス停で下車したはいいが、ほぼ山の中。
これから高低差の激しい道を走って戻るのかと思うとクラクラする。島をナメてはいけない。わかっていたはずなのに、
やらかしてしまった。もうこれはしょうがないのだ。自分で蒔いた種は自分で刈り取らないといけないのだ。

  
L: 隠居所前バス停にて。もうこれは途方に暮れるしかないですな!  C: 走って大泊まで戻ってきたよチクショー。
R: 青海大橋から眺める仙崎の端っこ。砂嘴の突端まで家々が密集している漁業の街なのがわかる。

というわけで、汗びっしょりで仙崎まで戻ってまいりました。自分が悪いんだけどね、本当につらかった。
街の端っこにある洲崎神社からスタートして、仙崎の中心部を一気に南下していく。さっき萩で浜崎を見たが、
古い建物があまりないだけで、あそこと本当に同じ感触がする。漁港独特の空気って、どう表現すればいいのか。

  
L: 洲崎神社。通りのいちばん北側から街を見守る。  C,R: 仙崎の中心的な通りを行く。漁業空間って本当に独特。

さて、仙崎といえばなんといっても金子みすゞなのだ。現在は生家跡に往時を思わせるつくりの記念館が建てられている。
しかしながら、青海島で間抜け極まりないランニングを強いられた自分には記念館に寄る時間などないのであった。
もう本当にアホである。今までろくすっぽ作品を味わったことのない金子みすゞについて勉強するいい機会だったのに……。

  
L: 金子みすゞ記念館。  C: 中は実家の書店を再現。この環境なら、そりゃ詩人の文才も磨かれるわな、と納得。
R: 仙崎駅前の風景。この街をじっくり歩きまわれなかったことは本当にもったいなかった。今日は心残りだらけだ。

仙崎支線の列車なんてないので、バスで長門市駅まで戻る。バスを待っている間に雨が降り出して、泣きたい気分。
バスは遅れ気味だったので、余裕のないまま改札を抜けて山陰本線に乗り込む。そのままぐるっと下関まで行く。
というわけで、今日の宿は下関である。下関というと岩崎マサル、そしてラビーを生んだ街である。
シーモールを背景に写真を撮ってふたりにメールを送ってみると、ラビーからはオススメの海鮮丼の紹介が来たが、
マサルからは「近くに以下の風俗店があります」というリンク付きの案内なのであった。しょうがないので、
「フライデーナイトフィーバー」とだけ書いて返す。もうさんざん自転車とランニングでフィーバーしたっての。

  
L: 夜の下関駅。いつ見てもこの教会っぽい建築の違和感がすごい。正体は結婚式場だそうだけど、これ景観破壊だろ。
C: 下関駅の周辺は地形が非常に複雑で、何がなんだかよくわからない。いま自分がどの方角を向いているかすらわからん。
R: シーモールと私。「アリバイづくり」とメールを送ったら、ラビーは「相手とかいないでしょ!」と上から目線の返事。キー!

駅周辺の商業施設をプラプラすると、ラビーが薦めてくれた店にお邪魔する。さすが下関の有名店ということで、
海鮮丼にはふぐが一切れ入っていたのであった。おいしくいただきました。これで救われた気分がちょっとしたねえ。

 その土地の名物を食すことは幸せなことです。

実質的には今日から旅行が始まったわけだが、なんとも波瀾万丈な一日だった。明日からは予定どおりにいきますように。


2015.11.19 (Thu.)

テストである。難しかったようで……。でも難しい問題と格闘するからこそ賢くなれるのよ?
簡単な問題を無事に解けてハイおしまいとか、絶対に皆さんのためにならないからね。安きに流れるな。

さて、午後は飛行機で移動である。この11月の3連休に平日1日を足して計4日間の旅行をするわけだが、
今回の最初の目的地は、山口県萩市。ここは東京からだと、アクセスにかなり手間がかかる場所なのである。
それで、どうせなら無駄なく動くために先乗りしてしまえ!ということで決断したのだ。思いきったぜ!

昼間に飛行機に乗ることは珍しいので、デジカメ片手に窓にずーっと貼り付いて離陸したのであった。
その成果が以下の写真であります。全体的に雲が厚くて、東京周辺しか撮影できなかったなあ。

  
L: 空から見る羽田空港。  C: 千葉は幕張。下の方にマリンスタジアムと幕張メッセが見える。
R: 飛行機ってのはスケールがデカい。石見空港へ行くのに、さいたま新都心のちょっと南を飛ぶんだぜ。

石見空港に到着したのは17時ごろ。1時間ほど空港内で日記を書いて過ごすと、バスで益田市街へ移動。
今夜は益田に泊まるのだ。明日の朝イチで萩に移動するので、益田には本当に泊まるだけになる。
やり残したことがいろいろあるので心苦しいが(→2013.8.17)、益田のリヴェンジは次の機会を待つ。

 
L: 石見空港。愛称は「萩・石見空港」。夜行バスの萩エクスプレスは到着が10時過ぎと遅いから困る。
R: 夜の益田市役所。改修工事をしたようで、雰囲気が少し変わっていた。こりゃあリヴェンジしないとなあ……。

晩飯を食ってから宿に行くまでにスーパーに寄ってみたら、やっぱりあったぜ白バラコーヒー。
中国地方はこの世界一旨いコーヒー飲料(→2014.7.25)を簡単に買えるからうらやましくってたまらん。

 毎日買える環境なら依存症になる危険性があるなあ。

というわけでいよいよ明日から真剣勝負が始まる。予報だと天気がよくないらしくて、それがとにかく心配だ。


2015.11.18 (Wed.)

究極の授業とは、雑談である。そこから意外な形で生徒の視野と可能性が開かれる。
生徒は本来、自力で勉強すればよく、教師はそのための刺激を効率よく与えるべき存在でしかないのだ。
自分から進んでやらない勉強に意味はない。だから究極の授業は、雑談によって勉強させる気にする授業だ。
なんだか中島敦の『名人伝』に出てくる「不射之射」のようなもんだな。世の中はだいたい逆説が真理を衝いている。


2015.11.17 (Tue.)

最近の中学生女子にはわりと腐ってらっしゃる女子もいるわけでして、僕を見つけるとするする近づいてきて、
「先生、やっぱり十四松と一松のカップリングが最高ですよね!」とか言ってくるのである。勘弁してくれ。

『おそ松さん』ってそういう方向に進化してお金を稼いでいるわけかー!!!と今ごろ納得。……これでいいのか?


2015.11.16 (Mon.)

アントニン=レーモンドの難しさについてまとめておこうかと思う。たぶんまとまらないけど。

先月、2つのレーモンド作品を見る機会があった。佐久市役所(→2015.10.17)と南山大学(→2015.10.24)だ。
時期でいうと南山大学が1964年(計画開始)で、佐久市役所が1974年(事務所の表記による)となっている。
南山大学の方は正統派モダニズムの匂いを漂わせており、佐久市役所は組織事務所のオフィス建築の匂いが濃厚だ。
10年の違いがそのような差を生んだと考えることもできそうだが、まずは時系列に沿って作品を確認していこう。
まず戦前、1926年のエリスマン邸(→2010.3.22)。1928年の旧イタリア大使館日光別邸(→2015.6.29)。
戦後は1961年の群馬音楽センター(→2010.12.262014.5.11)。1965年の新発田カトリック教会(→2009.8.12)。
ぜんぶで6つしか見ていないのにあれこれ言うのはどうかと思うが、とりあえず現時点での印象をまとめておく。

エリスマン邸はモダンそのものという印象。本当に正統派で、大正から昭和にかけての洋風住宅の王道という感じだ。
これが旧イタリア大使館日光別邸になると、一気に独自色が出てくる。中も外も装飾を前面に押し出して構成しており、
その点からいえばモダニズムではないことになる。アール・デコ的な価値観を独自に解釈した雰囲気を感じる建築だ。
戦後の群馬音楽センターでは、コンクリートの蛇腹ホールにガラス断面という、かなり思い切った造形を提示する。
そして南山大学は正統派モダニズム。もっとも、レンガの茶色とコンクリの灰色という対比は群馬と共通している。
しかしほぼ同時期の新発田カトリック教会はほとんどUFOなのであった。まあ、レンガの茶色をメインにしているか。
最晩年の佐久市役所でも茶色がメインで使われている。とはいえ、「レンガの茶色」だけをキーワードにするのは乱暴だ。

客観的にみれば、アントニン=レーモンドという人は、モダニズムを通過して独自の世界を切り開いた、
そういう評価になるのかもしれないが、僕はどうも彼に造形センスを感じないのである。特に新発田のはひどい。
旧イタリア大使館日光別邸のぶっちぎりな傑作ぶりには舌を巻くしかないが、それ以外については美しさを感じない。
群馬音楽センターの思い切りは個人的には大好きだけど、あれをデザインとして端整とは絶対に言うことはできない。
正直なところ、基本的にレーモンドはブサイクな建物をつくる人だと思う。旧イタリア大使館日光別邸は例外だろう。
言っては悪いが、レーモンドという人は、自身のセンスの欠如と格闘し続けた人ではないかと勝手に思っている。
だからモダニズムに寄ったり離れたりを繰り返し、ヒントを求めて右往左往した。このブレ方は、そうとしか思えない。
「パクリ元」(というとマズいなら「参考になる先行事例」)があればそれを生き生きと真似て、茶色と灰色で一丁あがり。
日本人の建築家が端整なモダニズムを発展させたのと対照的に、レーモンドは苦しみながら仕事をこなし続ける。
でもF.L.ライトの弟子というネームヴァリューがあるから、あとはポストモダンの時代が来つつあったから、
彼の作品は一定の評価を得ることができたのではないか。かなり厳しいことを書いたが、基本的に過大評価だと思う。
むしろ不思議なのは、なぜ彼が旧イタリア大使館日光別邸という大傑作を生み出すことができたのかだ。どうにも不自然。

レーモンドの右往左往を見ていると、やはり僕は村野藤吾を思い出す(→2012.2.262013.12.23)。
ログでは毎回「村野は商業関連の建築はいいけど、公共建築だと急に切れ味が鈍くなるねー」なんてことを書いている。
(商業関連とはいえ宇部興産ビルは宝塚市役所と同じくらい救いがたく、晩年の村野はまるでダメだと認識しているが。)
レーモンドも村野も、モダニズムの文脈に近い仕事の方が魅力的だとは思う。しかしモダニズムから離れた建築では、
両者を比べると村野の方に分があると感じる。それはつまり、村野の造形センスはレーモンドより上、ということだ。
村野の方が造形センスが優れる分、自由な発想で臨める非公共建築ではとんでもないホームランを何本も打っている。

両者に共通する弱点は、実は「時代」にあるのではないかと思う。時代とともに建築の環境は変化していく。
時代が進むにつれ、建築に用いる素材の可能性が広がっていき、コンクリートの占める割合はどんどん減っていった。
レーモンドの場合、これが直撃したと考える。コンクリートが減ることは、純粋なモダニズムからの乖離を意味する。
さまざまな素材を扱えるようになったことで、選択の余地が増えたことで、もともとセンスに欠けるレーモンドは、
何を拠り所にデザインを決定すべきか、悩みが深まることになったのではないか。素材の自由が彼を苦しめる。
(それだけに、コンクリートではない素材で旧イタリア大使館日光別邸という傑作をつくったことを不自然に感じる。)
また時代が進むにつれ、建築の規模も変わっていった。つくることのできる建物のサイズはどんどん大きくなっていく。
以前、毛綱毅曠(→2012.8.18)と安藤忠雄(→2012.10.7)から建築家の得意なサイズについて考えたが、
特に村野の場合、規模が大きくなるほど質が下がる傾向を感じる。実際のところ、村野は公共建築が苦手というよりは、
規模の大きい建築が苦手ということになるのかもしれない。昔の日本は公共団体しか大規模建築を建てられなかったが、
高度経済成長を経て企業も大規模建築を建てられるようになったわけで、村野はその流れの中で弱点を露呈した、と。

というわけで、どうにか結論らしいものが出た。レーモンドのセンス云々についてはもっと勉強して検証しないとな。


2015.11.15 (Sun.)

雨だしテストづくりに集中しながら大宮へ出かける週末。部活の買い物でしょうがないのだ。遊んでないよ。


2015.11.14 (Sat.)

雨だしテストづくりに集中する週末。神様がマジメにやれと言っている、と思うことにする。


2015.11.13 (Fri.)

『戦争を知らない子供たち』を知らない子供たち。


2015.11.12 (Thu.)

「とにかく明るい安村」という芸名を見てびっくりしたのは3月のことだった。
京阪電車で市役所をつぶしながら石清水八幡宮に参拝する途中(→2015.3.28)、中吊り広告でその名前を見たのだ。
僕としては、「そうか、この人はとにかく明るいんだ。絶対に営業向きだろうなあ……」と思うよりほかになかった。
この芸名には、そういう有無を言わせない力があるのだ。一言で特徴を納得させてしまう芸名は非常に衝撃的だった。
で、テレビで見たら、「安心してください、はいてますよ!」なのである。あまりのくだらなさに笑うしかなかった。
考えることと実際にやることの間には深くて長い溝が横たわっているわけで、実行したことには脱帽するのみである。

しかしネタをよく見ると、細かいところまで凝っていることが実に面白い。特に「ヘーイ!」という声がいい。
この「ヘーイ!」を最後に連発することで、きっちり締まって終わることができていると思うのである。
他の効果音ではダメで、「ヘーイ!」というあの声でないと成り立たない。そこまで追求していることに感心するのだ。
だから僕は、ネタじたいにもクスッと笑わされるが、あの声を見つけるまでの試行錯誤を想像してまた笑うのだ。
大のオトナがくだらないことを真剣に考える、そのエネルギーのかけ方に、素直に敬意を表する次第である。


2015.11.11 (Wed.)

本日は区の英語発表会。出場する生徒を連れて会場へ。そんでもってビデオカメラを構える。
ウチの生徒はよくがんばったと思うけど、全体についての感想は特にないです。年々ドライになるね、自分。
ただ、以前と比べて「英語圏を経験していない生徒ががんばって発表する」度合いが濃くなっている気がする。
そういう努力が見える発表会だったのはよかったのではないかなと。英語劇は相変わらずのうすら寒さだったけど。


2015.11.10 (Tue.)

『ラグランジュポイント』のCDが新たに発売されていたので購入。FCのBGMが今さら再度CD化されたことに驚いた。
肝心のゲームはやったことがないのだが、旧版のCDは昔っから持っていて、それはもうさんざん聴き倒している。
というわけで、本日は『ラグランジュポイント』のBGMについてあれこれ気ままに書いてみたいと思う。

『ラグランジュポイント』最大の特徴は、FCであるにもかかわらず、FM音源をわざわざ積んで鳴らしたことだろう。
まあコナミってのはMSXでSCC音源を自力でつくっちゃった会社なので(→2012.3.292013.1.16)、
それくらい想定内といえば想定内だが。『ラグランジュポイント』は今は亡きファミマガの読者参加企画で生まれ、
タイトルも敵キャラも公募。さらにBGMまでも公募していたのがすごい。矩形波ファンには夢のような話だわ。
そんな具合にかなりの気合を感じさせたゲームなのである。BGMの評価は高く、旧版CDは中古で1万円近くした。

あらためてBGMを聴いてみると、個人的な意見としては、わざわざFM音源を使っていることをもったいなく感じる。
いかにもコナミの曲なのだが、わざわざFM音源で鳴らさなくてもいいように思うのだ。PSG音源でも十分なはず。
舞台設定がSFであることを考えると、やわらかいFM音源の雰囲気は世界観や曲調に合っていないと感じる。
むしろFM音源にこだわることで、コナミがもともと得意にしていたものが失われてしまったように思えてならない。
それこそファルコム式にFM音源はベースとドラムに限定した方が、トガったいいデキになったのではないだろうか。
RPGというジャンルのせいもあってか、これといったキラーチューンが出づらかったのもマイナスに働いたのかも。
特に後半はメロディアスではない退屈なBGMが続くので、CDで順番に聴いていると飽きてしまうのだ。
ファミコンからFM音源の音が鳴ったことだけで十分な衝撃があったことはわかるのだが、そのレヴェルどまりで、
その先にある曲じたいの衝撃は弱かったと思う。ま、ゲームをやったことがないので、的はずれかもしれないが。

1曲ベストを選ぶとすれば、ヴェスタ外壁(Vesta's Wall)。昔っからこのBGMが、なぜか異様に好きなのである。
特に前半。あの無機質な感じがたまらない。宇宙空間っぽい印象が強くて、暗い曲調なのに妙にリラックスできる。


2015.11.9 (Mon.)

城山三郎『黄金の日日』。城山三郎は東京商大を出た先輩だからいつか読まねば、とつねづね思っていたのだが、
ふだんなかなかきちんと本を読む暇がなくって。でもこのたび、読書週間を利用して一気に読んでみたのだ。

『黄金の日日』は、城山三郎作品の中ではかなり特殊なものではないか。というのも、執筆に至る経緯がまず特殊。
もともとは1978年のNHK大河ドラマで、安土桃山時代の伝説的な豪商・呂宋助左衛門を主人公に据えている。
ストーリーはドラマスタッフ・小説家・脚本家の話し合いで練られたそうで、小説はドラマの放送開始後に出版された。
そういう経緯もあってか、読んでみての印象はかなりドライである。時系列に沿って着実に話が進んでいくが、
これといった特別な見せ場があるわけでもなく、淡々と進む。もちろんまったく強弱がないわけではないのだが、
「等速度運動」という感触なのである。以前、サッカーにおける時間とアメフトにおける時間を比較することで、
AMの時間とFMの時間について書いた(→2006.6.19)。人間が感じる時間には濃淡があり、伸び縮みするものだ。
(参考までに、そのような時間の主観的な伸び縮みをあえて捨てた映画に『真昼の決闘』がある。→2005.11.2
しかし『黄金の日日』は客観的な等速運動を最後まで貫く。冷静といえば冷静だが、盛り上がりにまったく欠ける。
だから読後感はイマイチ。正直なところ、これを城山三郎の代表作とは思いたくない。口直しに別の作品を読まねば。
まあそう考えてしまうのは、この話の本当の主人公が堺の街であるからだろう。商人の街・自由都市として栄えた堺は、
大坂夏の陣で完全に焼け野原となってしまう。この悲劇的な結末は、どんなに呂宋助左衛門が活躍しても変えられない。

この話の最も凄い点は、現実の歴史に対するフィクションの盛り込み方にある。その精度があまりにも高いのだ。
呂宋助左衛門を堺の分身とするべく今井宗久の奉公人として設定し、同僚に杉谷善住坊と石川五右衛門を置く。
とんでもない大嘘だが、時間が歴史に忠実に流れる分、嘘の組み込まれ方が読者にとってはより鮮やかに響く。
有名なエピソードを的確に回収しながら史実が淡々と綴られるが、そのど真ん中にはフィクションがあるのだ。
想像力をより駆使させなければならない小説というメディアでは不発気味でも、映像ならば破壊力が増すだろう。
根底にあるのが大胆な嘘でも、自分の知っている史実が違和感なく積み上げられていけば、興奮せずにはいられまい。
実力を認め合う友好関係からだんだんと敵対関係へ移っていく秀吉、忠義と人情の板挟みになる石田三成など、
人物の造形はステレオタイプから一歩踏み込んでいるので、そこがまた史実の持つ魅力を加速することになる。
時間が等速度で流れるから成り立つ魅力もあるものの、史実を超えられないという矛盾も内包せざるをえない。
だから作品としての仕上がりは、単純なエンタテインメントというよりは登場人物の掘り下げられた魅力を味わう、
そういう方向性になっていると思う。それだけに、何もかも報われないラストには失望させられることになる。

ドラマ化を前提とした時代小説というと、和田竜の『のぼうの城』を思い出すが(→2011.3.22)、
こちらは忍城の時間を主観的に描いており、むしろ登場人物の扱い方にドラマの匂いを残した点が特徴だ。
ドラマと小説の関係というのは、なかなか一筋縄ではいかないものがあるようだ。キリのない問答という気もする。
しかしまあ、映画をノヴェライズした『ミクロの決死圏』(→2006.2.10)を考えると、アシモフの凄みがわかる。


2015.11.8 (Sun.)

circo氏が上京してきた。作業が終わると、今回は新宿を一緒に徘徊するのであった。といっても雨なので、
地下街を中心に徘徊する。僕としては地下街というとまず名古屋で、浪人中は名駅に栄にとさんざん歩いたものだ。
しかし東京では、ほとんど地下街を歩いたことがない。なのでいろいろ新鮮である。思っていたよりずっと広い。

circo氏のお目当ては、紀伊國屋書店の地下にあるカレー店・モンスナック。ここのサラサラカレーを食いたい、と。
創業が1964年でcirco氏が大学生になったくらいの年ということもあってか、そういうノスタルジーなのかと思う。

 確かにサラサラである。

スプーンを使って本を読みつつ片手で食えるということで、カレーは本来、書店と相性がいいものなのだ。
だから神保町には無数のカレー屋があるのだ。そして新宿の紀伊國屋書店にもちゃんとカレー屋がある。
スパイスの香りは文化の香り、なんてシャレたことを考えながらおいしくいただいたのであった。定期的に食いたい。

新宿東口から西口、さらに南口へと地下だけで移動したのであった。新しい渋谷駅の地下がひどい迷路になったが、
新宿駅はもっと昔から強烈なダンジョンだったのだ。でも個性ある区画がつながっているし、昭和の匂いが楽しいし、
これはこれでものすごく面白い空間体験なんだと気づかされた。一度、姉歯のみんなで探検してみませんかね?


2015.11.7 (Sat.)

本日の午後の部活はコーチのツテで小学生相手の練習試合。これがまさか負けから入るとは。
その次の試合で引き分けて、ようやく調子が出るという有様。本当にひどいものである。
思えば先月まで新人戦をやっていたはずで、公式戦の緊張感を通してそれなりに成長をしたはずだ。
でも1ヶ月経たないうちに元に戻ってしまうとは。いや、新人戦の前よりひどいかもしれない。
自分の力を客観的に捉えてそれを維持する能力すらないのか。何も考えないでボール蹴ってるのがバレバレだよ。


2015.11.6 (Fri.)

ワカメが薦めていた『四畳半神話大系』のアニメをようやく借りてきてぜんぶ見たので、そのレヴューを。
(なお、原作の小説のレヴューはこちら(→2014.9.29)。近年まれに見る面白さだったなあ。)

まず、とにかくしゃべりが速い。原作では主人公の語り口のまどろっこしさが魅力となっているのだが、
アニメという尺が限定されたメディアだと早口で解決することになるのか、と思う。そこは強い違和感があった。
またアニメということで、原作では4話構成だったのが10パターンの世界と、内容が大幅に付け加えられている。
これが最後を除いていちいちバッドエンド、正確にはエンドしきらない感じで巻き戻すのでストレスが溜まる。
原作を知っているからついていけたが、そうでなかったら途中で投げ出していたかもしれない。
そんな具合に、原作とは別に新たに付け加えられたエピソードへの拒否感はあまりなかったのだが、
演出面での凝り方が受け付けなかった。ノイタミナとは相性が悪いのか(→2012.2.152012.11.92012.11.15)。

ラストで小津の顔を変えちゃいかんだろ!と思った。やはり僕としては小津には小悪魔でいてほしいのである。
逆に「私」が一瞬、小津の顔になったことで、それはつまり「私」が小津の超人的な要素を自ら身につけた、
大学生活を極限まで楽しんでいるということか、とまあ納得できなくもなかったのだが、蛇足だったなと思う。

結局、原作が面白すぎるのである。アニメ化した意欲は買いたいが、そもそもアレを超えるのは無理なのだ。
だからアニメ化されたことで小説をなぞった映像を楽しむ人ならそれなりに満足がいくのかもしれないが、
こちとら「私」並みにあれこれ想像力がはたらいちゃう人間なので、かえってアニメという枠で矮小化されただけ。
原作の面白かった部分が変えられてしまった、という残念さの方が大きいのである。ま、その程度の作品だ。

とはいえやっぱり明石さんが大変よろしい。よろしいんだけど高垣楓にしか見えないオレはもうダメかもしれん。


2015.11.5 (Thu.)

落ち着いたところで『アイドルマスター シンデレラガールズ』について総括しようかね。
1期が終わった時点ですでにログを書いたけど(→2015.4.11)、あらためて気づいたことなどをつらつらと。

まず1話のつくりが本当に丁寧で、それで引き込まれてしまったところがかなりある。
卯月の笑顔と凛のスタートをとにかくじっくり描く内容で(未央すら最後にちょこっとだけ出る程度)、
ここを登場人物を絞って焦らずやったことで、「はじまるぞー!」というワクワク感がより強まったように思う。
花の描写や花言葉にもそうとうこだわっているようで、そういう「読む楽しさ」も存分に込められていた。
そして2話でようやくオープニングが登場するが、実はこれが13話のライヴの準備シーンだったとは思わなんだ。
目を細めた卯月の破壊力がまた秀逸。そんな具合に、労力をかけてつくっているのがわかるから惹かれたのだ。
3話ではなんといっても、フライドチキンに「臆病者、飛んでいけ!」という意味を込めた点にやられた。
この3話までの流れですっかりノックアウトされてしまった。ここまでつくり込むとは!と、ひたすら感心。
4話はCPの紹介、5話はメンバーの不安の吐露と回復を描いておいて、6話で一度壊しておく。7話で再生。
8話からは各ユニットのエピソードを描いていき、12話で合宿、13話でライヴ。1期のシリーズ構成は完璧だ。
主人公グループが14人というのはどう考えても多いのだが、過不足なく動かしきったことに、素直にやられた。

で、2期である。こちらは大きく2つに分かれる構成になっている。前半では先輩たちをクローズアップする。
これは1期でできなかったことをやっている印象。秀逸なのは14話と17話。14話は1期と2期をつなぎつつ、
美城常務の登場というシリアス、ストーカー騒動というコメディ、さらにトラプリの出会いまでも描いており、
中身がすごく濃い。冷静に振り返ると、これだけの内容を収めきったのか、と呆れてしまうほど見事な手腕だ。
15話では楓さんの魅力を描ききる。16話のウサミンは苦手なのでパス。なんで人気があるのか全然わからん。

17話についてはちょっと力を入れて書いてみたい。美嘉・莉嘉の姉妹とみりあが主人公だが、
芸能人として自分のあるべき姿(→2013.3.20)や家族の中での位置など、三者三様に悩みを抱えている。
それらの共通項としては「自分の希望と他者からの要求のズレ」ということになるが、ここのリアリティが見事。
そして悩む莉嘉に対してきらりと杏はそれぞれの意見を提示するのだが、これが正反対だがどっちも正しい。
しかもふたりとも莉嘉にそれを押し付けないところがまた正しい。結果、莉嘉は弁証法的な解決を自分で見つける。
みりあは美嘉との交流の中で成長し、美嘉はみりあに弱さをさらけ出し、莉嘉の行動をヒントに答えを見つける。
(余談だが、いわゆる「ふひひ★」のシーンを盛り込んでなお感動的な話に仕上げている点が驚異的である。)
他者の行動をヒントにして自分で解決を見つける、その好循環がものすごく鮮やか、かつ自然に描かれている。
ストーリーの展開上、生み出すのは本当に大変だったと思うが、ラストの1枚絵の説得力が圧倒的だ。
おかげでものすごい爽快感を味わわせてもらった。キャラクターの造形と生かし方が本当に上手い回だった。

18話でKBYD、19話でなつきちの魅力を描き出す。ここまでが2期の前半ということになるだろうか。
20話からは常務率いるクローネが動き出し、満を持してトラプリが始動。CPとの単純な対決の構図でなくなり、
メンバーもそれぞれに成長を見せていく。21話では13話のラブランコを伏線として回収したのが豪快で見事。
22話はなんといってもトラプリなのだが、一方で卯月が着実に病んでいく。この辺から個人的には違和感大。
23話で卯月の仮面がはがれて24話で『S(mile)ing!』。25話のライヴで大団円、というのが大まかな流れ。

2期はなんといっても美城常務がキーパーソンだが、1期の時点で存在していた先輩後輩の枠を無理なく崩すには、
絶対に必要なキャラクターだったのは間違いない。軸になるのはやはりトライアドプリムスをどう出してくるかで、
ここから逆算して美城常務が生まれたと思われる。なので僕は美城常務に対しては、違和感も嫌悪感も特にない。

むしろ僕が2期で大いに疑問を感じるのは、「卯月が病む必要があるのか?」「対話が成立していないのでは?」
この2点である。まずは前者の疑問から。物語はCP解体の危機から、クローネとの共存と個々の成長へと軸が移る。
その中で、自分には笑顔しか取り柄がないと思い込んでいる卯月が周囲への劣等感から心の調子を崩してしまう。
僕にはこれが、後で感動を誘発するための無理なマイナスにしか思えないのだ。卯月が復活したよ! よかったね!
……ってやっておいて最後のライヴにもっていく、その構成ありきで盛り込まれた不自然さを感じるのである。
当然、卯月の復活には凛と未央が関わるが、彼女たちのやりとりが卯月を奮い立たせるほどのものとは思えない。
17話ではあれだけ血の通った、リアルな悩みを生きるキャラクターたちを描くことができていたにもかかわらず、
病む卯月と復活を願う仲間たちのやりとりにはまるでリアリティを感じられない。制作側の都合で動く人形だ。
卯月のV字回復で安いお涙を頂戴するよりも、たとえばポジティブパッションの成長をもっと詳しく描くべきだった。
個性のぶつかり合いから思わぬ成長を遂げる姿を描く方が、もっともっとキャラクターの魅力を出せるはずなのに。
卯月が病んでいた3話分をほかのキャラクターの成長に使った方が、作品としての完成度は絶対に高まっただろう。
(25話ではフェスの形でキャラクターが総動員されるが、単なる顔見世で終わってしまったのは否定できまい。)

卯月への疑問は、後者の疑問「対話が成立していないのでは?」とも強く関係している。終盤に展開されるセリフは、
僕には空回りにしか感じられないのだ。せっかくの見せ場で、人間どうしのリアルな会話にまったくなっていない。
典型的なのが、美城常務とプロデューサーの間で何度も交わされる、通称「ポエムバトル」である。
たとえ話なのか何なのかよくわからないセリフで常務もプロデューサーも自分の意見を主張するのだが、
それってつまり、自分の言いたいことを自分勝手に言っているだけで、解釈を相手に投げているのだ。
そんなものは単なるモノローグ(独白)であって、ダイアローグ(対話)として成立していないのである。
このポエム傾向は、卯月・凛・未央の間にも見られる。まず卯月が徹底的に逃げて、まともに会話することを拒む。
卯月は頑に恒例の「がんばります!」でシャットアウトするが、それに対して投げかけられるのは凛の感情であり、
未央の許しである。3人ともセリフを発してはいるが、基本的には自分の言いたいことを言っているにすぎない。
そして卯月は「笑うなんて誰でもできるもん」と泣きじゃくるが、そこに至るまでもすべて卯月の独白でしかない。
(世間ではここを名場面と見なす向きが多数派のようだが、僕にはその発想がまったく理解できない。)
次の話ではCPの仲間が卯月を勇気づけるが、やはり基本的には皆さん心情の吐露。自分のことを一方的に言うのみ。
人間であれば互いの論理性を擦り合わせることで、互いに共通する論理性を新たにつくりだす。これが対話だ。
しかし予定されたセリフを言うだけでの独白では、人形が何体その場にいたとしても何も変化するものはない。
結局、卯月は最初から最後まで独白だけでV字回復を果たしているのである。実は復活に他者を必要としていない。
そして最後、季節が変わってエピローグに入るのだが、ここがまた言いっ放しのモノローグ連発となっているのが残念だ。
CPメンバーが質問に対して「○○だから」と理由を答える形が多いのだが、僕には一方的な言い訳の羅列に聞こえる。
その断片をつなぎ合わせただけなので、話が進んでいるようで実は進んでいない。それは成長ではないのだ。
(物語の中で、他者とのやりとりを通して登場人物が変化することを「成長」という。 →2012.2.152015.2.12
17話は本当に見事な成長の物語だったのに、終盤ではまったく正反対のご都合主義を見せつけられたわけだ。

ということで、正直なところ、2期の後半はかなり違和感を抱えて見た。17話と22話のトラプリが頂点だったね。
1期が終わった時点では手放しで絶賛だったけど、最後は自分には消化不良だった。これで満足はしたくないよ、と。
世間が卯月バンザイな感じで反応していたので、だいぶ感覚にズレがあるなあと淋しい気分になったものだ。
制服での『S(mile)ing!』も、とってつけたようにしか感じなかったし。歌でごまかすのか、と思ったほどだし。
(僕としては強い卯月が好きなので、僕の中の卯月像に病んでしまう姿が見つけられない、ということなのかもしれない。)
まあ僕はここまで書いてきた自分の見解には自信があるので、齟齬は齟齬のままでいいやと開き直っております。

最後にどうしても書いておきたいのが、きらりのスタイルの良さである。スーパーモデル体型の描写がすごい。
自分が最初にこのキャラクターを知ったときには、あまりのぶっ飛び方に正直もう勘弁してくれと思ったもんだ。
しかしアニメでは常識をベースに圧倒的な包容力を持つ存在として描かれたので、肯定的な評価が一気に増えた。
でも本当に注目すべきは、その体型描写だと思うのである。素人目にも絶妙のバランスとなっているのがわかるし、
細部も指先までこだわり抜いて描かれている。ひとつひとつのポーズが絵になるように意識して描かれている。
このデザイン上のこだわりが、キャラクターへの肯定的な説得力をそうとう強く後押ししていたと思う。感心しました。


2015.11.4 (Wed.)

なんだかんだで全国あちこちに行っていると、「今まで行った中でよかった場所ってどこですか」という質問をもらう。
こちとら何を基準に「よかった」なのか、その求めるところがあまりにも曖昧なので、答えるのに非常に困るのである。
かっこいい建物がある場所なのか、古い街並みが残っている場所か、B級グルメがおいしい場所か、景色のいい場所か、
せめてその基準まで言及してもらわないことには、こっちとしては答えようがない。そもそもが勝手な一人旅だし。

僕の基本的なスタンスとしては、「どこもそれなりによい」というのが絶対的な回答なのである。
あちこちに行けば行くほど無知を自覚させられるし、見るべきものを見落としている可能性を実感させられる。
だから安易に比較はできない。好みの問題だってあるわけだし。ここもよい、ここもよい。そうならざるをえない。

もちろん、旅をしている最中にはいろいろ考える。過去の経験と照らし合わせて判断することだってしょっちゅうだ。
でもやっぱり、究極的には、どんな場所であれ素直に楽しむ心持ちが望ましいと思う。プレーンな心境で受け止める。
あれと比べてどうだ、これと比べてどうだ、ではなく、一定の基準を超えたと感じたらこれはすごいと素直に楽しむ。
その経験を積み重ねて、土地それぞれの絶対的な魅力を並べて楽しむ、そういう構え方が最もお得なのではと思う。
自分の中で魅力を感じる基準づくりをまた楽しむ。自分と空間が響き合うから旅は楽しいのだ。空間だけでは語れない。


2015.11.3 (Tue.)

北海道の最終日は、これも無茶な話だが、帯広からスタートして室蘭まで行ってから、新千歳で帰る。アホか。
でも北海道に来ることなんてそうそうないから、それぐらいの贅沢は許してほしいのである。ホントすいません。

ぱんちょうの豚丼の借りを返す目的(→2012.8.17)もあって帯広を訪れたのだが、それ以外にも見たい場所がある。
まずはバスに揺られて市街地のずっと南西にある「帯広の森」へ行く。都市景観100選ということで行ってみるのだが、
具体的に何がどう都市景観なのかはわからない。それを確かめてみようというわけだ。われながら、のんきな旅である。

 帯広駅。帯広はバスがけっこうややこしくて、初心者にはつらい。

どのバスに乗ればいいのか混乱したものの、結果的にはちょうどいいバスに乗ることができた……と思う。
帰りに困ることがないように、注意深く外の景色を観察しながら揺られること40分ほど、帯広の森運動公園に入る。
実は「帯広の森」は全体が8ブロック、400ha以上の広大な領域を占めている。運動公園はその一角なのである。
バスを降りると、とりあえず運動公園を東西に走る道路を戻ってみる。やっぱり北海道は容赦なく広かった。

  
L: 帯広の森運動公園。バスを降りて途方に暮れる。  C: 来た道を東へ戻ると運動施設がいろいろ。これは研修センター。
R: 10分ほど歩いたら運動公園の入口に戻ることができた。北海道は徒歩のスケールを逸脱しているから困るわ。

そのまま南下していくと、緑の畑が広がっている光景が見えるようになる。実に北海道な気分である。
北海道の西側はなんだかんだで稲作地帯だが、帯広くらい東に来ると期待どおりの景色を見ることができて楽しい。
道がカーヴしはじめたところで東に入る。位置で言えば陸上自衛隊・十勝飛行場の南側だが、しっかり森である。

  
L: 道道1084号。北海道らしいまっすぐな道である。左が運動公園、右が帯広の森。正確には両方とも帯広の森だけど。
C: 北海道も帯広まで来るとそれっぽいイメージどおりの景色が味わえるぜ。  R: 帯広の森の事務所・はぐくーむ。

帯広の森は、いつもの僕だったら「ただの森じゃねーか!」と絶望感にかられるくらいに純粋に森なのだが、
もう楽しくて楽しくてたまりませんでしたね。まず、天気がすごくよかったので、本当にいい気分になれる。
そしてなにより、エゾリスである。昨日の芦別市役所ではしゃいだが、帯広の森のエゾリス密度はその比ではない。
ウジャウジャとはいかないが、それなりに見かけることができる。かわいい姿がたまらんなあ、と思いきや、
その鳴き声はまるで子犬のような低い声で「ゴウッ」って感じでちょっと幻滅。威嚇してんだからしょうがないけど。

  
L: 帯広の森を行く。天気がいいから本当に最高だったが、これ雨だったらたまったもんじゃないな、という気も。
C: さらに北の方ではこんな感じに。こういう木々の枝の上をエゾリスが闊歩するのだ。  R: か、かわいい……。

林を抜けて十勝飛行場の脇辺りに出るとまた雰囲気が変わる。それも含めて自然がやたらといっぱいなので、
散歩やランニングするにはいいだろう。最後はバスが少しピンチで僕も走る破目になり、汗びっしょりで乗車。
11月の北海道とは思えない状況である。でもまあ、最高の自然を満喫できたので、わざわざ来てよかった。

帯広駅に戻るとだいたいいい感じの時間帯、ということで、レンタサイクルを借りてから「ぱんちょう」へ。
夏休みには長蛇の列ができていたのだが(→2012.8.17)、さすがにまだ開店直前だからか、店の前に人はいない。
独りで開店を待つのもちょっと虚しいので、バスの案内所脇でひなたぼっこしながら様子を探って待っていると、
2人組がやってきて店の前で待機。よっしゃ!と横断歩道を渡ってその後ろにつくのであった。さあ来い、ぱんちょう。
5分ほどで開店したが、待っていたのは僕を含めて3組ほど。これなら無理して帯広の森で汗だくになることもなかったか。
さあこれで3年前の借りが返せるぜ、返すならせっかくだからいちばん豪華にいくか!と、松竹梅の上をいく「華」を注文。
しばらく待ってやってきたのは……うおおお、まさに豚肉が丼の上で「華」となっているではないか! ありがたや。

 
L: 「華」の豚丼がやってきました。もはやフタがフタである意味がない。これはむしろ文鎮である。
R: フタを開けるとこうなっている。そう、まさに「華」。肉はぜんぜん脂っこくなくて、いくらでも食える。

至福の時間でございました。もう何も言うことはございません。ただただ、ありがとう十勝、ありがとうぱんちょう。

惚けつつ自転車にまたがると、帯廣神社を目指して市街地をひたすら北へと走っていく。碁盤目の街はただただまっすぐ。
そうして真っ正面から帯廣神社の鳥居をくぐり、そのまま境内へと突撃していく。スタイルは典型的な街はずれの神社だが、
街の規模が大きいのでそれに応じて堂々とした雰囲気が漂う。昨日の神社たちよりもひとまわり大きな迫力がある感じ。

  
L: 帯廣神社、一の鳥居。碁盤目状の開拓空間に鳥居というのは当然といえば当然なのだが、珍しいようにも思う。
C: 国道38号越しに眺める帯廣神社。北海道は大きい都市にひとつずつ別表神社がある感じなのね。  R: 神門。

神門をくぐると拝殿。昨日の神社はどこも本殿と拝殿が一体化していたが、帯廣神社はさらに防寒が完璧だった。
鉄筋コンクリートでがっちりつくられており、後ろ側は完全に近代的建築物。本殿はその建物の奥で見えなかった。

 帯廣神社の拝殿。周囲が一段低くしたコンクリ建築で、完全に居住できる空間。

無事に参拝して御守も頂戴できたのだが、帯廣神社でいちばんうれしかったのは、エゾリスとのコミュニケーションだ。
直接触れ合えたわけではないが、すぐ目の前を素早く通り抜けたと思ったらこっちを振り返る、それが堪能できる。
もし新鮮なクルミか何かを持っていれば、それをもらいに来たかもしれない。野生動物なんであげちゃダメだけどね!

  
L: 帯廣神社のエゾリス。ものすごくすばしっこくて、なおかつ近くに来るので、撮影するのが本当に大変だった。
C: 木の実をかじるエゾリス。帯広の森より人に馴れているので、もう、シャッター切りまくりですよ。
R: こっちを眺めるエゾリス。耳が長いのでウサギっぽい。角度によって見え方がいろいろ変わる動物だなあ。

のんびりできる時間いっぱい、エゾリスを撮って過ごすのであった。いやもうかわいくってかわいくってたまらん。
でもあまりにも素早すぎるので、飼いたいという気はまったく起こらない。こっちがついていけないスピードなのよ。

残った時間で帯広市役所の撮影に再挑戦。前回訪問時は曇天模様で、あまり魅力的に撮れなかった(→2012.8.17)。
今回はこれでもか!ってほどに澄んだ青空の下で撮影できて満足である。青すぎて建物も青みがかっちゃったけどね。

  
L: というわけで帯広市役所にリヴェンジ。  C: 交差点を挟んで南東から。  R: 背面にまわり込んだところ。

  
L: 背面。  C: さらに水道庁舎・議会棟を交差点越しに。  R: 水道庁舎・議会棟の側面。北から見たところね。

  
L: 水道庁舎・議会棟のエントランス。  C: 敷地内から水道庁舎・議会棟をクローズアップ。  R: 振り向いて本庁舎。

残った時間で帯広の市街地をあてもなくサイクリング。3年前には根室本線より南側を歩きまわっていたので、
あらためて走りまわる帯広はなかなか新鮮である。道は広めだがぎりぎりのところで閑散とした印象を回避している。

  
L: 無限に続く青信号。北海道の本領発揮である。  C: 六花亭サロンkyu(旧三井金物店) 。1912(大正元)年の築。
R: 十勝信用組合・本店。この建物、1933年に建てられた当時は安田銀行の帯広支店だったそうだ。

  
L: 藤丸さん。こういう百貨店が元気じゃないと街は一気に衰退するもんな。全力でがんばってほしい店。
C: 広小路アーケード。  R: 帯広駅近くの商店街。帯広は北海道らしい広さと賑わいの密度が共存する街だ。

やれるだけやりきった状態で特急列車に乗り込む。しかし冒頭で書いたとおり、せっかくの北海道なので、
南千歳で特急を乗り継いで室蘭まで突撃なのである。さすがにこれは、空前絶後の贅沢な移動だと思う。

2時間ほど車内で日記を書きまくり、南千歳のホームで次の特急を待つ。しかしこれがぜんぜん来ない。
なんと30分近くの遅れということで、さすがはJR北海道、と呆れるしかない。けっこう寒かったなあ。
ようやくやってきた特急に乗り込んで1時間、やはり日記を書きまくり、東室蘭で降りる。支線で1駅、輪西で下車。
輪西といえばボルタ(→2012.7.12012.8.222013.7.22)である。そう、ボルタの聖地・ボルタ工房なのだ。
オリジナルのボルタもあるというので、わざわざ来たのだ。駅から東、ドラッグストアの手前がその現場である。

  
L: ボルタ工房の外観。ごくごくふつうの建物である。  C: 奥で展示・販売されているボルタたち。全種類が並んでいる。
R: 手前が展示スペースで、この左手が工房。いやあ、ついにここまで来てしまったか。感慨深いものがあるぜ。

わりかし閉店間際のタイミングでお邪魔したのだが、今日は海外からの客が大量にボルタを買っていったそうで、
残っていたものはそれほど多くはなかったようだ。でもいい感じのポーズをとっているボルタがいくつか買えて満足。
ドラマーとしては、ボルタ工房でしか入手できない「ドラムセット・ボルタ」がいちばん欲しかったのだが、無事ゲット。
もう思い残すことは何もないぜ、という気持ちである。しかしわざわざ海外からボルタのために来るか。すげえな!

東室蘭駅まで戻ると、まっすぐ歩いて道南バス東町ターミナルへ。ここからバスで新千歳空港まで行くわけだ。
すでに空が真っ暗な中、登別、苫小牧を抜けて空港へ。登別温泉やベビーフェイスプラネッツへ寄れないのが切ない。
そうして新千歳空港に到着すると、メシを食ってお土産を買ってサラッと羽田に撤収。夢のような3日間だったわ。


2015.11.2 (Mon.)

北海道で過ごす3連休、中日は市役所めぐりなのだ! けっこう無茶な旅程なのだが、せっかく北海道に来ているのだ、
悔いのないように動きまくるしかない。本日は札幌を出発し、三笠・歌志内・赤平・芦別・富良野と市役所をつぶし、
最後は帯広へ。わざわざ帯広まで行くのは自分でもどうかと思うが、豚丼の借り(→2012.8.17)もあるし、
根室本線に微妙な残りがあるのが気持ち悪いしで、強行突破なのである。北海道は広いからしょうがないんだい!

朝の6時に札幌を出ると、1時間弱で岩見沢へ。ここからバスに乗って目指すは三笠市である。地図を見るとわかるが、
三笠市は三方を山に囲まれており、西の岩見沢から奥へ進んだどん詰まり、と表現するよりないような街である。
この地理的な特性と南に夕張があることから察しがつくとおり、炭鉱で栄えた歴史を持つ。ゆえに衰退も激しい。
人口は1万人を割り込んでおり、全国で2番目に人口の少ない市となっている。でもそこに市役所があるから行くよ!

 まっすぐ延びる道道116号をひたすら行く(バス車内から撮影)。

30分ほどで三笠市民会館のバス停に到着する。三笠市の構造はかなり特徴的で、ど真ん中に中央公園が配置され、
その西側に三笠市役所、東側に三笠市民会館がある。道道から南側の区画は中央公園から同心円状と広がっており、
道路もやや放射状に延びている。いくら北海道の人工的な炭鉱都市とはいえ、ここまで徹底しているのはすごい。
(ネットであれこれ調べていたら、この構造は1950年代の区画整理によるもの、という記述を発見した。)
とりあえず市役所から撮影していく。朝早すぎるし、もともと緯度も高いし、11月だし、太陽が低くて困った。

  
L: 道道116号を挟んで眺める三笠市役所。北東側から眺めたところ。  C: 北側の出入口。  R: クローズアップ。

というわけで、見てのとおり三笠市役所はきわめて独特な形をしている。幅が広くて撮影しづらいことこの上ないが、
これはつまり建物が上から見るとY字型になっているのである。土地に余裕がありすぎるからこそできることだ。

  
L: 西側から眺めたところ。大規模に改修工事中。  C: 南西側より。  R: 南側。建物も道路も独特すぎる。

敷地を一周して眺めるが、これはもう、市役所というよりパノプティコンそのものである。典型的な例はもちろん、
網走監獄の五翼放射状平屋舎房だ(→2012.8.19)。あの構造がそのまま市庁舎建築として採用されているのだ。
日本全国いろんな市役所を見てきたが、刑務所の方法論と同じつくられ方をしている市役所ってのはもちろん初めて。
ちなみに「三笠」という地名は、明治時代にあった空知集治監の裏山が奈良の三笠山に見えたことが由来だそうだ。
集治監は政府直轄の刑務所のこと(→2011.8.8)。まさかその経緯にもとづいてのデザインじゃあるまいな。

  
L: 中央公園に面する東側にまわり込む。  C: 正面玄関はこちら側のようだ。工事中なのがもう本当に悔しい。
R: エントランス。「三笠市役所」という看板が質実剛健で刑務所っぽさを加速させる。防寒のため二重構造。

三笠市役所は1956年の竣工。ということは、竣工当時は三笠町役場だったわけだ(市制施行は翌年の1957年)。
設計者は誰だかわからないが、わざとパノプティコンにしたのであれば、これはそうとうに挑戦的な人だと思う。
(これまたネットでいろいろ調べていたら、山田守のY字型平面を模した、というエピソードを発見。)

  
L: 8時を過ぎて中に入ってみた。  C: 建物中央の階段。塔屋に上がってみたい。  R: 延びるよ延びるよパノプティコン。

少し時間的な余裕があったので、中心市街地と思われる幾春別川の右岸を歩きまわってみる。後になって知ったが、
旧三笠駅(開業当時は幌内太(ほろないぶと)駅、北海道内で5番目に古い駅だった)は左岸のすぐ近くにあった。
きちんと往時の雰囲気を再現しているそうなので、そこまで足を延ばさなかったことを後悔している。まいった。

  
L: 三笠市民会館。こちらは1969年竣工。手前のバスターミナルが現在の三笠市における交通の中心となっている。
C: 中央公園。三笠は歴史ある炭鉱の街だけあり、『北海盆唄』発祥の地。盆踊りの櫓がほぼ中心に常設されている。
R: 幾春別川に架かる橋にはアンモナイトの像が乗っていた。三笠市は石炭だけでなく化石もたくさん採れるのだ。

最後に同心円状・放射線状の道路が織りなす景観を撮影しておく。直線の道路はやたらと見通しがいいのが特徴か。
まず中心市街地には高低差があまりなく、道路どうしは複雑な角度で交差しているが、直線じたいがよく保たれている。
家々はやはり道路に対してセットバックが標準となっており(→2012.8.172013.7.14)、いかにも北海道っぽい。
三笠は市役所じたいも興味深いし、機会があれば今度はもっときちんと味わいたい街だ。早朝訪問はもったいなかった。

  
L: 中央公園を中心に同心円状になっている道路。住宅が並ぶ。  C: 中央公園から南に延びる商店街。
R: その逆、商店街から中央公園を見たところ。道路が公園をぶち抜いてさらに北に延びているのがわかる。

岩見沢駅に戻ってくると、5年前(→2010.8.12)にはきちんと見なかった駅舎の中をいろいろ探検してみる。
動ける部分はそんなに広いわけではないのだが、どこから見てもオシャレな印象でまとめているのは見事だと思う。

 
L: 岩見沢駅。幅のある建物だが、中で自由に動ける部分は少ない。  R: 休憩スペース。オシャレだな。

砂川駅へ移動すると、国道12号を横断して砂川市立病院へ。砂川市役所は個人的にかなり好きだ(→2012.8.21)。
でもすでにしっかり見ているし、そんなに時間的な余裕があるわけでもないので、寄り道はしないでおく。

 国道12号。見事な直線だが、悲しい歴史を忘れてはならない(→2012.8.19)。

なんで病院に行くのかというと、そこにバス停がくっついているから。病院の建物の中に待合室が入っているのだ。
高齢化の進行もあって、地方都市のバス交通で病院が拠点となっている例はいくつかあるが(→2013.8.18)、
ここまで徹底しているのはそうそうないだろう。おばあちゃんたちをしばらく待って、やってきたバスに乗り込む。
前回砂川を訪れたときに歌志内行きのバスを見て「いつか乗りたい」と思ったが、今日がそのときなのである。

バスは上砂川を経由して、もう一本北にある集落へと入る。実に細長く、一本道の両側に家々が延々と並んでいる。
似たような風景がずーっと続いていくのだが、山に挟まれた道のすぐ両側に建物が並ぶ奥行きのないこの光景こそ、
「歌志内らしさ」ということになるのではないか、と思う。細長い一次元的構造が、いかにも炭鉱の街らしい。
(どれくらい長いかGoogleマップを利用して調べてみたら、7km以上あった。常軌を逸した細長さである。)
そうして砂川市立病院を出てから40分ほど揺られたところに歌志内市役所はある。全体からはだいぶ東、赤平寄りだ。

  
L: 歌志内市役所前。歌志内はこんな感じの一本道が延々と続く都市構造になっているのだ。まさに北海道の山の中。
C: 市役所の北側にある旧図書館。詳しいことは後述する。  R: 北東より。左が歌志内市役所、右が旧図書館。

市役所マニアとしては、歌志内市役所というのはある意味、究極の場所のひとつである。そう、ご存知のとおり、
歌志内市は日本で最も人口の少ない市だからだ。大学時代に「地域・都市社会学」の授業で先生から訊かれ、
「歌志内っス」と答えたときには6000人ぐらいいたのだが、現在はなんと3000人台になってしまっている。
この20年弱(まず20年弱という時間の経過にイヤになるのだが)でそこまで減ったことに愕然とならざるをえない。
そんな人口最小都市・歌志内はどんなところなのか実際に見てみたい!と、鼻息荒く訪れたわけである。

  
L: 歌志内市役所を正面(東側)より眺める。曇っているのが本当に残念だ。  C: 近づいて見上げてみたところ。
R: 中にもお邪魔してみたが、やっぱりコンパクトなのであった。規模からいえば村役場と変わらないもんなあ。

調べてみたら、歌志内市役所は少し複雑な経緯を持っているようだ。かつては1953年竣工の庁舎を使っていた。
その向かいには歌志内市民会館が1967年に建てられたが、後にこれを市役所別館として利用するようになった。
そして2007年に庁舎が閉鎖されると、市役所別館がそのまま新しい市役所となって今に至っているようだ。
現在の市役所の前にはけっこう広い砂利の空間が駐車場として開放されていたが、これが旧庁舎の跡地なのだ。
人口に合わせて市役所もダウンサイジングしたというわけである。それなら2007年以前に訪れたかったなあ。
(岡田設計(富良野市役所のところで詳しく述べるが、岡田鴻記の事務所)の公式サイトには、1989年の項に、
 歌志内市役所についての記録がある。当時、庁舎新築の計画があったのだろうか。市史があればわかるのだが。)

  
L: ペンケウタシュナイ川越しに南東側から眺める。歌志内の市街地はペンケウタシュナイ川に沿って延びているのだ。
C: 南側から眺めた側面。  R: 西側から眺めた背面。歌志内市役所の詳しい経緯を知りたい。市史がありゃ一発なのだが。

市役所の撮影を終えると、歌志内の市街地を歩きまわってみる。日本一人口の少ない市、いったいどんなんだろうか。
本町の辺りがいちばん中心に思えたので、そこを重点的にぐるぐると。商店はなくはないけどひどく弱体化しており、
相対的に郵便局・消防署・歌志内市郷土館「ゆめつむぎ」といった公共系のきっちりしている感じが強く印象に残る。
後で調べたらそれもそのはず、上記の施設は歌志内駅の跡地につくられたのだ。歌志内線の廃止は1988年のことだ。
なお、月曜日なので「ゆめつむぎ」は休館日。歌志内らしさとは何か、しっかり勉強できなかったのは残念である。

  
L: 歌志内の中心市街地と思われる本町に入る。南側の道道114号は一段低く、住宅が北海道らしい距離感で並ぶ。
C: こちらは北側で一段高い道道691号。郵便局・消防署・郷土館が並んでおり、歌志内のメインストリートとなっている。
R: 歌志内市郷土館「ゆめつむぎ」は1997年にオープン。炭鉱の街・歌志内の暮らしぶりをテーマとしている模様。

北側の山裾には歌志内市コミュニティセンターがあるのだが、その西隣にある丘の上が歌志内神社。
せっかくなので参拝したのだが、社殿に至るまでの参道がなかなかワイルドなのであった。しょうがねえけどよ。

  
L: 歌志内神社。夕張(→2012.6.30)とか室蘭(→2012.7.1)とか、北海道の神社は市街地の端の丘に鎮座している印象。
C: 石段の途中には枝が横たわり、上りきったら一面の落ち葉。ヒー  R: 社殿。祭神は大山祇神・大國主神・茅野姫神の3柱。

歌志内神社からは一列に並んだ家々を一望できた。街が山に挟まれた本当に狭い範囲に延びているのが一目瞭然。


ペンケウタシュナイ川に沿って延びる住宅たち、それが歌志内を形成している。

歌志内市コミュニティセンターにも入ってみる。1986年に中央公民館として建てられたが、今年ここに図書館が移転。
「コミュニティセンター」という名称への変更は、実はこの図書館の移転が契機となっているのだ。
上で述べたように図書館はもともと市役所(竣工当時は市民会館か)の隣にあった。それが維持できなくなった。
思えば夕張も同じ状態で、あちらは保健福祉センター内の図書コーナーという形になった(→2012.6.30)。
健康で文化的な最低限度の生活とはいうが、図書館を従来の形で維持できないというのは、かなりマズい事態だ。
戦後、行政が文化面を拡充させる中で、図書館の設置というのはひとつの目安となっていた。誇りだったのだ。
(この辺の事情、図書館が自治体内につくられ、それが複数に拡大していく過程は自分の修士論文で扱った。)
少子高齢化や人口の減少、限界集落の問題は、今後一気に日本を襲ってくる。背筋の凍る思いでその光景を見た。

  
L: 歌志内市コミュニティセンター(旧・中央公民館)。今年、図書館がこの中に移転したことで名称が変更された。
C: 現在の図書館。ひとつの建物から、建物内の一角へ。文化的には危機的な状況だが、本当に余裕がないってことだ。
R: コミュニティセンター前にも商店がいくつか。でも街全体の雰囲気としては、寂れかけているリゾート地に近い。

最後に市街地の端っこにある公園の辺りをフラフラする。そしてどうすりゃいいのか考える。しかし難しい。
歌志内は砂川と赤平の間で、交通の便は悪くないのだ。しかし両都市とも規模は大きくないので頼りにはならない。
(北海道の都市は植民地型のネットワークを形成しているが(→2010.8.102012.8.27)、そのモデルで考えると、
 歌志内の置かれている立場は「孫請けのさらに下」ぐらいの位置になるので、どうにもこうにも……。)
しかも歌志内の都市空間というか住民の居住しているエリアは、ほかに例がないくらい細長い。特殊な細長さだ。
核をつくっても線状なので、その影響がなかなか行き届かない。もともとが地理的な難しさをたっぷり抱えているのだ。
かつては炭鉱があったから街が成り立っていたが、本来は街があることが不自然な土地なのだ。イヤな言い方だが。
だから炭鉱級の大きな理由(つまり、産業)がないと、歌志内の復活は不可能だろう。悲しいが、それが結論だ。

  
L: ゆめつむぎの東側にある広場というか公園というか。おそらくここはかつて、歌志内駅の施設だったのだろう。
C: 北側に並ぶ住宅。この同じ建物が並んでいる感じが、実に炭鉱っぽい(→2012.6.302013.11.30)。
R: 大正館。もともとは酒店のレンガ造りの蔵で、1920(大正9)年築。過疎化で手放された生活用具を収蔵しているそうだ。

やってきたバスに乗り込み、そのまま東へと抜ける。トンネルを抜けると根室本線と国道38号にぶつかり、それを北へ。
程なくして市街地に入り、赤平駅に到着。しかし駅舎を見て驚愕せざるをえなかった。あまりにも趣味が悪すぎる。
赤平駅は1999年に「赤平市交流センターみらい」という施設とセットで改築されたのだ。設計は北海道日建設計だと。

  
L: 赤平市街。歌志内の後に訪れたからか、よけいに都会に感じてしまう。人口は11,000人なので超・小規模なのだが。
C: 赤平には30分ほどしか滞在できずあまり歩けなかったが、市街地が面的に広がっているので、それだけで満足。
R: 問題の赤平市交流センターみらい(赤平駅)。6階建てで、ホールやら会議室やらが入る典型的な公共施設だ。

時間がないので小走りで行動を開始する。赤平市街は蛇行する空知川によっていくつかに分けられているが、
駅のあるエリアのいちばん西側に赤平神社があるのでまず参拝。そこから少し戻って赤平市役所を撮影する。
残念ながらできることはそれくらいだ。赤平神社は街の規模のわりに境内が長く、炭鉱が栄えた過去をうかがわせる。

  
L: 赤平神社。位置的には赤平市役所の裏側という感じ。見てのとおり参道が長く、境内はわりと広い印象。
C: 拝殿。コンクリートでがっちりつくってある。  R: まわり込んで本殿。「赤」平なので赤い御守を頂戴した。

次いで赤平市役所である。もともと赤平は歌志内から独立した経緯があるが、現在の印象としては歌志内より都会だ。
昭和電工・北海道炭礦汽船・住友石炭鉱業という3つの大手企業が石炭を採掘し、街を開発した影響があるのだろう。
ちなみに「赤平(あかびら)」はアイヌ語で「山稜の崖」を意味する「アカピラ」が由来。「ピラ」が「崖」なのだ。
(二風谷のある平取町(→2013.7.23)も「崖」を意味する「ピラ」である。だから「平」を「びら」と濁って読む。)

  
L: 赤平市役所。  C: 駐車場の端っこから眺める。南側(左手前)にはコミュニティセンターを併設している。
R: 角度を変えて南西側から撮影。この側面入口みたいなのが、実は正面玄関である。ふつうは幅のある側につくるが。

赤平市役所は1981年の竣工だが、コミュニティセンター部分はその翌年に完成しているようだ。
さっきの赤平市交流センターみらい(赤平駅)もそうだが、赤平はどうもレンガ的な外観にこだわりがある模様。

  
L: 北東側にまわり込む。  C: 北西側より眺めたところ。  R: 赤平神社のある西側から見るとこうなっている。

急いで赤平駅まで戻ると、バスに揺られて芦別へ。本当は鉄道がよかったが、根室本線は昼間ぜんぜん走らないのよ。
30分ほどで芦別駅近くのバス停に到着。芦別は赤平より道が広くて都会な印象だが、実際は人口が少し多いくらい。
市街地はほぼ東西南北の方位に従った碁盤目状となっており、いかにも北海道の入植地らしい構造をしている。
芦別駅に出る十字路が基準点だが、芦別市役所はそのちょっと北東にあり、手前は小規模だが公園となっている。

  
L: 芦別市役所。この構図で撮ろうとしたら目の前をエゾリスが通ってびっくりした。ふつうにいるもんなんだね。
C: 南西側より。  R: 裏手にまわり込んで南東より。後ろにくっついているのは消防署だが、議会も入っているみたい。

さっそく撮影しようと公園を抜けて市役所の前に出たら、目の前を小さい影が飛び跳ねた。慌ててカメラを構えると、
なんとエゾリス。市街地に齧歯類が現れるとか、ここはニューヨーク(→2008.5.8)か。……あ、鎌倉にもいるか。

  
L: 背面をクローズアップ。  C: 北側から眺める裏手の消防署。公式サイトの庁舎案内図だと議会棟っぽいのだが。
R: 一周して北西側より眺めたところ。側面にけっこう厚みがあるのがわかる。役所らしい役所は個人的に好きよ。

芦別市役所は1969年の竣工。スタイルとしては典型的で、3階建てというのは市役所としては規模が大きくないが、
側面の厚みもあるし、建物としてはそんなに小さくはない。手前の公園のおかげでだいぶ撮影しやすく感じるけど、
北海道的な余裕のある街割りじゃなかったら圧迫感があるかもしれない。まあ、撮りやすいのはありがたいことだ。

  
L: エントランス部分をクローズアップ。「芦別市総合庁舎」という表記が独特。  C: 中身も実に役所である。
R: 目の前を横切ったものがよくわからないままシャッターを切ったらエゾリスだったの図。われながらよく撮った。

思う存分に市役所を撮影すると、街の中心を貫く国道452号に出てひたすら北へと歩いていく。
さっきバスの中から確認したのだが、蘆別神社がかなり堂々たる鎮座ぶりだったので、これは参拝しなきゃと。
ひたすら広くてひたすらまっすぐな道を5分ちょっと歩いていくと到着である。歌志内のような丘の上でもなく、
赤平のような街はずれでもなく、市街地の中でメインストリートに面しているせいか、よけいに迫力を感じる。
本州ならとりたてて珍しい立地でもないのだが、北海道だと珍しいと思う。それだけ厚く崇敬されてきたってわけだ。

  
L: 蘆別神社。北海道の神社で市街地の真ん中にあるのは珍しいのではないかと思う。  C: 拝殿。この高さが斬新。
R: 拝殿の高さから見下ろす社務所。規模の大きい木造で、なんだか学校建築みたいだ。渡り廊下も堂々たるもの。

渡り廊下をくぐって本殿も見てみたのだが、コンクリートのブロック塀でかさ上げしているのがこれまた独特。
まあたぶん、それだけ雪がしっかり降るってことなんじゃないかと思う。確かにこれなら腐食もしづらいだろう。
いろいろ感心しながら御守を頂戴したのだが、デザインはさっきの赤平神社と一緒だった。こっちは紫を頂戴した。

 本殿。土台がコンクリートブロックってのは初めて見るわ。

残った時間で芦別の市街地をあちこち歩いてみる。最初は国道452号の広さとまっすぐさにただ圧倒されていたが、
一歩中に入ったら北海道らしい住宅地が延々と広がる光景になっていたり、しっかり商店が営業していたりと、
きちんと活気を感じる。芦別も歌志内からの独立組だが、はっきりと芦別>赤平>歌志内という序列があるなあ。

  
L: メインストリートの国道452号。実に広くてまっすぐである。芦別駅以南は根室本線に沿ってちょっと曲がる。
C: 実に北海道らしい住宅空間なのだが、何がすごいって「止まれ」標識の規則正しすぎる並び方である。
R: 芦別の市街地にはあちこちに星のマークがある。これは芦別市が1984年に「星の降る里」を宣言したため。

さて、芦別に来て「ああ」と気づいたことがある。実は歌志内でも赤平でも小さい虫の多さに辟易していたのだが、
芦別でやっとそいつの正体がわかった。雪虫だ。アブラムシの一種で、代表的なものはトドノネオオワタムシとのこと。
僕は今まで雪虫を見たことがなくて、芦別で白い蝋物質を身にまとった連中を目にして、これがそうか!と認識できた。
フラフラ舞っているところに手を当ててキャッチする、というやり方で、フォトジェニックな個体を捕まえる。
そんな具合にしばらく格闘したのだが、小さいのできれいに撮るのがけっこう大変だった。すぐに逃げるし。
僕は初雪虫なのではしゃいで捕まえたが、地元の人にとってはコイツらはたまったもんじゃないなあとも思う。
自転車に乗っていたら全身に引っ付いてくるだろうし、穴という穴に入ってきてしまうだろう。絶対にコレ大迷惑だわ。

  
L: 雪虫を捕まえてみた。大きいやつでこれくらいのサイズ。  C: アップにしてみた。まあ、アブラムシです。
R: 芦別駅。なんでか知らないけど五重塔がある。実は芦別商工会議所による電話ボックス。……芦別、大丈夫か?

今度は鉄道で山の中を抜けて南下。空知川沿いではあるが、炭鉱都市とは一味違う富良野が次の目的地である。
富良野は前に一度訪れたことがあるが、雨の中をトボトボと市役所まで往復しただけ(→2010.8.12)。
今回は雨が降っていないからまだいいけど、天気のせいでやっぱりなんだか冴えない印象になってしまった。

 撮ってみたら前回と同じアングルの富良野駅。人間、大して成長しないもんだな。

とはいえ、富良野の中心市街地にこれといった名所がないのも事実なのである。純粋な開拓生活空間だ。
郊外に行けば、いかにも北海道っぽい観光スポットがいろいろあるのだろうが、そもそもそんなものに興味がない。
『北の国から』だって一度も見たことがない。世間がなんでそんなに盛り上がっていたのかもわからない。
そんなことを思いつつ市役所へ向かって歩いていくが、なんだかどうも前回と雰囲気が違うのである。
駅前の辺りは相変わらずごちゃごちゃした古い店舗が並んでいるが、国道38号に近づくと妙にすっきり。
なんだかおしゃまな感じで真新しい店舗や歩道が整備されているではないか。かなり大規模な再開発である。
国道38号まで出ると、富良野病院跡地につくられたフラノマルシェ。実はフラノマルシェのオープンは2010年で、
前回訪問時にはできたてのホヤホヤだったはずなのだ。……記憶にない。市役所からすごく近いのに。
そしてフラノマルシェの北側にフラノマルシェ2がオープンしたのは今年の6月。かなり思いきった開発ぶりだ。
両者に特徴的なのは、やたらとオシャレなカフェやらレストランやらテイクアウト店舗やらが集まっていること。
まあ富良野の自慢は農産物と観光なので、両者がタッグを組めばそうなるのは当然のことなんだろうけどね。

  
L: 富良野駅近くはこんなんなのにね。その名も「へそ歓楽街」。こっちの方がつくられた観光地よりいいだろうに。
C: フラノマルシェ2と周りの商店街。  R: フラノマルシェはサンクンガーデンに店舗を散りばめた構成になっている。

そんなこんなで富良野市役所に到着。前回は雨でとても敷地を一周する気になれなかったが、今回はきちんとやる。
富良野市役所の竣工は1969年、設計は岡田設計。これは歌志内で述べたように、岡田鴻記が設立した設計事務所。

  
L: 富良野市役所。建物の前に安易に駐車場を配置しないのは立派である。  C: 正面より眺める。
R: 少し角度を変えて撮影。岡田鴻記は、初期は端整なモダニズムだったが、どんどん世俗化していった印象。

岡田鴻記はDOCOMOMO物件にも選出されている北海道帝国大学理学部附属臨海実験所の共同設計者である。
(現在は「北海道大学北方生物圏フィールド科学センター水圏ステーション厚岸臨海実験所」というクソ長い名称だ。)
北海道帝国大学営繕課時代に学内の多くの施設を設計しており、北海道開発大博覧会を機に事務所を設立すると、
その後もジャンルを問わず膨大な数の建物を北海道内に建てていった人物だ。なお、彼の庁舎建築は町役場が多い。

  
L: もうちょっと側面寄りで。  C: 側面と背面。  R: 反対側。見るべきものがまったくない。

岡田設計の公式サイトを見ると、何より目を惹くのはその社名に使われている、モダニズム精神あふれる書体である。
しかし掲載されている写真を見ていくと、正直なところ魅力的なのは1950年代までで、1960年代以降は平凡になり、
単なる組織事務所の仕事でしかなくなる。鉄筋コンクリート建築の一般化とともにデザイン上の工夫が枯渇していく、
そういう劣化が痛々しいほど見て取れる。岡田鴻記はモダニズム建築における作家性を考えさせる建築家、なのか。

  
L: 一周してみた。  C: 中の様子。入って左手は富良野市行政情報コーナー。スペースを確保しているのは偉い。
R: 右手の窓口空間。ど真ん中に吹抜っぽく階段を配してはいるものの、全体的には平凡な空間である。

市役所の北には富良野神社があるので参拝しておく。1902(明治35)年に祠が建てられて、5年後に現在地に移転。
祭神は大國魂神・大己貴神・少彦名神の3柱となっており、いかにも開拓地の精神的支柱といった感じの神社である。
威風堂々とした参道を確保するために、国道に沿わせた形の境内になっているのもまた開拓地的だと感じるところだ。

  
L: 富良野神社の入口。参道は国道38号と平行になっている。  C: 拝殿。なかなかの迫力。  R: 角度を変えて眺める。

なお、現在の社殿が建てられたのは1936年とのこと。やはり雪への対策なのか、少し高めに持ち上げられている。
拝殿は木造でやや大きめにつくられているので、なかなかの迫力がある。北海道の神社建築もいろいろ面白いな。

 本殿。北海道は寒いから拝殿と一体化するのかな。

富良野に来た時点ですでに時刻は15時ちょい前で、できることなら明るいうちに帯広まで出たかったのだが、
のんきな根室本線がそれを許してくれるはずもないのであった。フラノマルシェ2でコーヒーを飲みつつ日記を書く。
列車が駅を出たときにはすでに薄暗かった。富良野以南は初めてなので、できればしっかり景色を見たかったのだが。
まあどうせ畑と道路と山とトンネルで景色が構成されているだろうから、と自分に言い聞かせる切なさよ。

帯広駅に着いたのが19時25分。いつもならメシ食って宿に入って画像を整理して就寝、となるところだが、
今日はその前にもう一丁行っておきたいところがあるのだ。駅のバスターミナルから西へと揺られて帯広競馬場へ。
帯広の競馬といえば当然、ばんえい競馬である。前回帯広に来たときも競馬場じたいは見ているが(→2012.8.17)、
今回はナイター開催に合わせて来たわけだ。やっぱり実際に馬がそりを曵いているところを見ておかないとねえ!

 やってきました帯広競馬場。ナイター開催ありがとう!

ふだん競馬場になんか行かない僕なので(これくらいのイヴェントをやってくれないと行かない →2011.8.3)、
競馬がどういう感じで行われているものなのかよくわからないのである。レースとレースの間って意外と空くもので、
それでのんびり一日かけてやる感じなので、最終レースのひとつ前のタイミングで見学することができたわけである。
さて、競馬場に来たからにはやっぱり馬券を買わないことにはつまんないので、マークシートに苦戦しつつ挑戦。
途中の倍率を参考にして500円買ってみた。100円ほどケチくさくなく、1000円ほど大物ではないこの中途半端さ。

無事に買い終わると、外に出る。ばんえい競馬は走路のすぐ手前まで行けるので、そこでレースの開始を待つ。
やがて馬が揃ってレース開始。本当にすぐ目の前を馬が進んでいくのがすごい。スピードもそんなに速くないので、
一緒に歩いて応援できることにも驚いた。ばん馬の力強さの勝負はサラブレッドの勝負とはまったく別世界だ。

  
L: 第1障害を軽々とクリアするばん馬たち。  C: 平地部分。でもここは実はそこまで重要というわけではないみたい。
R: コースを行くばん馬たち(右)と応援する観客たち(左)。一緒に歩いて応援できるというこの仕組みには驚いた。

ばんえい競馬における最大の見どころは第2障害なのだ。みんな第2障害の手前でいったん止まるのである。
そしてそこから呼吸を整えて坂を上っていく。まさかレース中に止まるなんて思っていなかったのでこれにもびっくり。
しかし覚悟を決めてから一気に坂を上っていくその力強さはなかなか感動的なのだ。これは本当に独特な文化だと思う。

 第2障害を越える。500kgから1000kgまでの重さを曵いているからすごい。

しかし競馬は競馬なんで、買っていた馬が負けて騎手を大声でなじるような品のよろしくない客がいるのも確か。
僕は素直に500円を輓曳競馬文化全体に寄付したと思ってますんで。もうちょっと寄付してもよかったかなと。
帰りは無料の送迎マイクロバスで帯広駅まで戻る。きちんと帯広でこの場所独自の文化に触れられて満足である。


2015.11.1 (Sun.)

毎年恒例、合唱発表会の振替休業日なのだが、今年はうまく日曜日と祝日の間に挟まってくれたおかげで3連休!
これまた恒例のどこへ行こうかウヒウヒ状態になってしまうわけだが、今回はわりとあっさり決まっていた。
……北海道である。本当は6月に行きたかったが、サッカー部が夏季大会を粘り強く勝ち進んだおかげで計画が頓挫。
その借りをここで返そうというわけなのだ。これより遅くなると雪がチラつくだろうということで決行したのだ。

さて夏休みは天気が悪くてサッパリだったが、今回は天気がよかったので、離陸時の東京近郊をあれこれ撮影してみた。
ナイス航空法改正。都市が人間のスケールから地図のスケールへと変化する、そのプロセスを記録できるのって素敵。

  
L: まずは離陸してすぐの羽田空港。  C: 飛行機はお台場の上空へ。  R: 右に旋回して葛西臨海公園。うーん江戸川区。

  
L: 夢の国を見下ろす。上の方がランドで、手前がシー。上空からだと駐車場の広大っぷりがすごいですわ。
C: やがて飛行機は北へと針路を変え、千葉県の上空から横向きに東京を眺める。左のずっと奥には富士山が見える。
R: 宇都宮の上空から奥日光を眺める。こうして見ると、中禅寺湖って火山活動で堰き止められたのがよくわかる。

まあそんな具合に飛行機から見える景色を存分に堪能したのであった。飛行機移動はこれがあると楽しさ倍増だね。

定刻どおりに新千歳空港に到着。いつもならすぐに地下の駅へ向かうところだが、今回は外に出てバスを待つ。
11月に入った北海道は、予想どおりにしっかり寒い。東京だと大袈裟に思える防寒装備もばっちりビンゴなのであった。
やがてバスがやってきたので乗り込む。行き先は札幌の郊外、真駒内。1972年開催の札幌オリンピックのメイン会場だ。

 地下鉄・真駒内駅前にあるモニュメント。札幌オリンピックは今も道民の誇りか。

真駒内駅のターミナルでバスを降りると、次に乗るバスが来るまでの時間で駅周辺を歩きまわってみる。
しかしめぼしい要素はなく、駅構内にあるコンビニで昼飯の買い物。コンビニというものはけっこう地方色が豊かで、
棚に並ぶ商品を見ながらその土地の特徴を読み取るのも楽しいものである。おにぎりの種類なんか典型的ね。

それにしても、真駒内駅じたいも構内の店も、出入口がことごとく自動ドアで区切られていて防寒対策がばっちり。
それで「ああ北海道に来たんだ」と実感する。駅やバスターミナルを行き来する人たちはすっかり冬の装いである。
人々はほとんどみんな帽子やマフラーを身に着けて厚着をしており、その姿を見ているとどこか郷愁を感じる。
「ああそうだ、僕が子どものときの飯田の冬はこんな感じだった」と思い出した。温暖化が始まるよりも前、
1980年代の、昭和の、街行く人たちはこういう恰好だった。色合いが少し派手でもっさりとした線を描く防寒着たち。
見てくれよりも機能がいちばん。そのイマイチ垢抜けない感じが、まるでタイムスリップしたような感覚を呼び起こす。

やがてバスがやってきた。終点の芸術の森センターまで揺られる。というわけで、本日最初の目的地は「札幌芸術の森」。
ここが公共建築百選なので行ってみるのだ。といっても最初から予定していたわけではなく、偶然行けることになった。
今日はこの後、J2の札幌×千葉戦を観戦する予定なのだが、会場が厚別から札幌ドームに変更されたおかげなのだ。
もっとも僕としては、ドームよりも少ない厚別での試合観戦チャンスを狙って旅行を設定したので、少し残念でもある。
一説によると、北海道日本ハムがCSでソフトバンクに負けたからコンサがドームを使えるようになったとか。ホントかよ。

バスは札幌芸術の森の敷地内に入っていき、終点の芸術の森センターに到着。ここから入口まで戻りつつ見てまわる。
滞在時間は1時間弱ということで、あまり余裕はない。毎度おなじみ、できるだけ効率よく施設を見ていくのである。

  
L: いちばん奥にある野外ステージ。  C: 手前にアートホール。この辺は音楽に関連した施設ってことになるのかな。
R: 芸術の森センター。野外美術館の入口にもなっている模様。時間がなくて、さすがにそこまでは行けなかった。

今年の2月には高知県を訪れて、「なぜこんな中途半端な時期にオレは高知に来たんだろう?」なんて悩んだが、
旅を続けるうちに「東京では触れることのできない一足早い春の感触を味わう」という答えを見つけた(→2015.2.28)。
今回、札幌芸術の森を歩いていて、それと同じ答えを見つけた。ここにあるのは、まさに「晩秋」そのものだった。
ふだんあまりになめらかな変化で気づくことのできない「季節」というもの、それを本当に深いところで実感している。
それと同時に、かつて自分が親しく接していたもの、でも今は失ってしまったものを、はっきりと見つけることができた。
真駒内で触れた晩秋には、冬へ向かう直前の生命のきらめきと、僕が子どもだった頃の当たり前が確かに存在している。

  
L: 芸術の森センター・野外美術館前の広場。何やら犬関連のイヴェントをやっているようで、それなりの賑わいだった。
C: 左が工芸館で、右が陶工房と木工房。青空も緑も紅葉もすべて鮮やかで、晩秋の北海道をしっかり堪能させてもらった。
R: 札幌芸術の森美術館。1990年開館で、設計は久米建築事務所(現久米設計)・日本都市開発設計のJVとのこと。

さて僕がなぜそんなに急いで動きまわっていたのかというと、札幌芸術の森美術館の企画展が見たかったから。
内容をぜんぜん知らないで訪れたのだが、偶然にしてはあまりにも気になるテーマで、これは絶対見たい、となった。
それはズバリ、「スイスデザイン展」。こりゃもう見ないわけにはいかないでしょう。嬉々として中に入る。

展示はまず、ポスターから始まる。これがいい。手づくり感覚あふれる、その時代に最先端だったデザインが目白押し。
観光立国スイスの魅力をデザインの閃きに乗せて送る作品ばかりで、どれも見ていて飽きないし、集まると本当に壮観だ。
またあの有名なスイス鉄道時計に代表されるように、スイスの交通機関もまた名デザインの宝庫なのである。
個人的にこれはすごい!と思わされたのが、スイス航空のビジネスレポートの表紙。トリミングした構図がとにかく大胆。
それらが一段落つくと、ヴィクトリノックスのアーミーナイフやらシグのアルミボトルやら、これまたおなじみの面々。
さらに当然のごとくFREITAGが登場。BONANZAを背負っている僕は周りからはコレ目的に見えるんだろうなあ。
そしてネフ。僕は立体造形が得意分野だが、ネフのおもちゃはもう究極なので、その想像力にはため息が出るのみである。
ネフは単純な立体構造や図形を、少しの動きでまったく新しいものにしてしまう。ほかのおもちゃとレヴェルが違うのよ。
スイスはヘルベチカの国なのでタイポグラフィも扱い、マックス=ビルも登場。最後は妙に力の入ったル・コルビュジェ特集。
結局、時間の都合でじっくり見られなかったことがあまりに悔しかったので、図録を買って外に出たのであった。
旅行中に重い荷物を増やすことはありえない行動なのだが、こればっかりはしょうがない。背負って歩くだけの価値がある。
スイスと日本、僕はどちらもそうとうハイレヴェルなデザインセンスを持っている国だと認識しているのだが、
それはもう、国旗を見れば一目瞭然だ。日の丸はデザインとして究極だし、スイスもミニマル。響き合うものがあるはず。

スイスデザインの魅力に惚けてばかりもいられない。最後にもう一丁、札幌芸術の森には見ておくべきものがある。
1913(大正2)年築、有島武郎旧邸である。住んでいた期間は数年とのことだが、有島武郎自らが設計したそうだ。
有島武郎の最期っつーと、まあ、波多野秋子とのアレなのだが、現場は軽井沢なんで、ここではないです。念のため。

  
L: 正面より撮影。木々に囲まれた中に移築されているので、全体の雰囲気は往時とは異なっていると思われる。
C: 角度を変えて眺める。独特なフォルムだな。  R: 室内の様子。外見は洋風だが、和室もちゃんとある。

そういえば前に、北海道開拓の村でこれとは別の有島武郎ンちを見たことがある(→2013.7.14)。
あっちは当時の北海道によくあるタイプの木造住宅で、それに比べるとかなり立派である。さすが北大の先生。

 階段のところがなかなか個性的。小さく上ってくるっと回るとは、なるほど。

どうせ大したことないだろうと高をくくって訪れた札幌芸術の森だったが、スイスデザイン展のせいでうれしい誤算。
帰りのバスにはちょっと後ろ髪を引かれる思いで乗り込むのであった。偶然とはいえ、きちんと来ることができてよかった。

真駒内駅に着くと、そのまま今度は別のバスに乗る。札幌ドーム行きの特別便である。そう、J2の札幌×千葉戦だ。
コンサドーレ札幌の試合では、試合会場へ向かうシャトルバスがけっこういろんな場所から出ている。便利でいいねえ。
真駒内から札幌ドームまでは、多少くねってはいるものの、北海道道82号をそのまま行けば着いてしまう。
意外とあっさり着くもんだな、と思いつつバスを降りると、そこは札幌ドームの裏手側だった。軽く散歩して正面へ。

  
L: 「ホヴァリングサッカーステージ」が中に入っているときはこんな感じ。野球のときは過去ログ参照(→2010.8.8)。
C: 飛び出ている展望室をクローズアップなのだ。  R: コンサドーレモードとなっているエントランス部分。

札幌ドームでは5年前に野球観戦をしているが、サッカー観戦は初めてである。どっちが一塁側でどっちが三塁側で、
どっちがメインスタンドでどっちがバックスタンドなのか、正直あまりよくわからないままで中に入って席を確保。
ど真ん中のピッチでサッカーが行われることには変わりはないのだが、いろいろ勝手が違って新鮮である。

  
L: ドーム内。雰囲気としては、どちらかというとサッカースタジアムよりは野球場のそれかなあ。やっぱり独特。
C: 1階席の上段からピッチを見下ろしたところ。こうなっているのか! どっちがホームベースなのかわからん!
R: 1階席のいちばん前からピッチを眺める。なるほど、まさしくステージである。舞台でサッカーって、なんか違和感。

全国あちこちのスタジアムをまわっているわけだが、さすがに札幌ドームはほかにはない要素が満載である。
客席のどの部分がどのように増設されているか、詳細はつかめないが、明らかに傾斜が異なっているのがわかる。
上段の方は傾斜が急で観戦しやすいが、手前の方へ行くとだいぶ傾斜が緩くてかなり見づらい。しょうがないのだが。
そんな具合に、練習が始まって観客が集まりだすまでの間、カメラ片手にあちこち観察。よくつくったなあコレ。

  
L: 反対側のメインスタンド側を眺める。オレンジ線のところで席が増設されているのか、明らかに傾斜が異なる。
C: バックスタンド側を眺めたところ。やはり傾斜に違いがある。  R: ジョイント部をクローズアップ。うーん、すごい。

やがて選手たちがステージに登場して練習を開始。やはりはっきりと舞台上でボールを扱う姿には違和感をおぼえる。
選手たちは軽快な動きを見せていたが、アウェイチームには違和感をおぼえる選手もいるんじゃないかと思うのだが。
……そんなことを考えながらマッチデープログラムを開いてみると、札幌は選手一覧のところがまたなんとも個性的。
上から下へと視線を移していくと、背番号36番でMF松山光。顔写真のかわりに高橋陽一の絵が入っている点以外は、
ほかの選手とまったく変わらない扱いである。これは札幌が「松山光プロジェクト」をやっているからだろう。
さらに背番号77番には馬の写真。ポジションはFWで、名前はチッチ、5歳の牡。ノーザンホースパークのポニーとのこと。
マスコットのドーレくんも、背番号CSのGKとして入っている。何でもアリだな、コンサドーレ。

さて、ここでこの札幌×千葉戦についてまとめておこう。現在、札幌が13位で千葉が8位。ごくふつうの中位の対戦だが、
どちらもプレーオフ進出の可能性を残しているのでテンションは高め。札幌はひとつも負けられない苦しい状態となっており、
ここでプレーオフ有力候補の一角である千葉を叩き、そこから一気に勢いに乗っていく、それしかない状況なのである。
意図してかどうなのか、札幌ドームでは重めの映画音楽っぽいBGMが多用されていて、じっとりと緊張感を煽ってくる。

  
L: 札幌にやってきた天才・小野。やはり観客は彼のプレーを中心に見ている感じである。今日はどんな活躍を見せるか。
C: 左から河合・稲本・森本。J2とはいえ名のある選手たちがいっぱいなのだ。特に小野と稲本の黄金世代には注目だぜ。
R: 試合が始まると札幌は小野を軸に攻める。小野にボールが入るとやはり、特別な期待感が湧いてくるのだ。

試合は序盤から見応えのある展開に。札幌は小野を軸に、パスの受け手が何人も相手陣内に入り込むサッカー。
千葉はその攻撃をきちんと止めると、選手の高い能力を生かして素早くカウンターを返していく。どちらかというと、
札幌の攻撃がやや精度を欠くのに対し、千葉の方がシュートまでやりきる感じが強い。千葉の方が相手を脅かせている。
しかし札幌のプレーぶりはなんとなくポジティヴ。言葉で上手く表現できないのだが、チャンスを楽しめている感じなのだ。
これも小野が司令塔となっている効果なのだろうか。いつか点が取れるだろう、という自信めいたものを感じさせる。

ところが前半アディショナルタイム、浮き球に抜け出した千葉の森本を札幌GKが引っ掛け、PKとなってしまった。
これをネイツ=ペチュニクが落ち着いて決めて、千葉がリードしてハーフタイムを迎えることに。なんだかイヤな流れだ。

 前半アディショナルタイムに千葉がPKで先制。札幌はもったいなかったなー。

後半開始直後から、札幌は積極的に攻める。小野のシュートやCKからチャンスをつくるも決めきれず。
64分にはクロスをつないでFW荒野がヘッド。ゴールを割ったかに見えたがGKが弾いてノーゴールの判定。
それでも札幌はひたむきに攻め続け、5分後にワンツーから短いクロスに福森が頭で反応。これが決まって同点に追いつく。
前半は千葉のDF陣を破れなかった札幌の連携だったが、ここにきて、人数をかけたその攻撃が迫力を増している。
しかしまたその5分後に千葉の金井がクロスを上げると、これがそのままゴール。GKの前には森本が走り込んできて、
ちょうど虚を衝かれた格好になってしまった。今日の札幌はなかなか不運な展開である。でもやはりどこかポジティヴ。

  
L: 果敢に攻める札幌は、小野のパスを起点に最後は荒野がヘッド。しかしゴールは認められず。うーん、残念。
C: それでも札幌は粘り強く攻撃を展開し、69分に同点ゴール。札幌はゴール前に選手が集まっており、必然のゴールだ。
R: しかし5分後に金井のクロスがそのままゴールして千葉が突き放す。あまりに急だったんで写真がブレた。

千葉としては残り時間をなんとか抑えたい。対する札幌は勝ち点3をもぎ取るより他にないので、ここからはもう、
攻めて攻めて攻めまくる。不思議なのは、なぜか攻撃に余裕があることだ。しっかりと人数をかけるサッカーだが、
それが非効率に見えない。焦って雑になることがまったくないし、ゴールへと向かう意識も明確なのがわかる。
だから観ていて「このまま逆転までもっていっちゃうんじゃないか?」という、根拠のない予感があったのだ。
千葉のプレーぶりに隙があるわけでもないし、小野が特別にキレているわけでもない。でも、何か雰囲気がある。
まあそれは僕が後半から北海道名物のサッポロクラシックで一杯やっていい気分になっていたせいかもしれないが、
札幌のプレーはひとつひとつが妙にポジティヴなのだ。チームとしての一体感、あるいは信頼感があったように思う。

  
L: 小野の柔らかいFK。  C: 札幌ゴール前の混戦。なんという人口密度だ。千葉は効果的なポジションを取れてないなあ。
R: 千葉の2点目からわずか2分後、札幌が追いつく。これはその直前の瞬間で、右にいる石井が滑り込んでゴールを決める。

というわけで、千葉の2点目からわずか2分後、札幌は再び同点に追いついてしまった。シュートを千葉DFがブロック、
そのこぼれてきた球をロブでペナルティエリアに入れると、ヘッドで折り返して最後は石井が詰めてゴール。
やはり札幌は連携がモノを言ってのゴールである。前半とは違い、ゴール前に人が多く入り込める展開になったことで、
千葉はその勢いを止められなくなってしまっている。こうなればもう、地の利も生かして逆転勝利を目指すのみだ。

そして試合は4分間のアディショナルタイムへ。最後の最後で札幌はCKのチャンスを得ると、GKも上げて勝負に出る。
このCKはいったん外に弾かれるが、キッカーに再び戻してクロスを上げると、札幌なのに沖縄出身の上原のヘッドが炸裂。
不運な展開を自らの手で撥ね返し、本当に本当のラストワンプレーで逆転勝利を決める、最高に劇的な試合となった。
札幌に縁もゆかりもない自分だが、さすがにこれには立ち上がって叫んでしまったではないか。サポの血は沸騰したわなあ。

  
L: ラストワンプレー、ボールはまさかの弧を描いてゴールへ吸い込まれる。  C: それと同時にタイムアップの笛が鳴る。
R: 歓喜の札幌の皆さん。札幌がプレーオフに進出するかはわからないが、間違いなく今シーズンのベストゲームだろう。

なんだかんだで今までいろんな試合を観戦してきたが、さすがにここまで劇的な展開となったものは初めてだと思う。
不思議と試合開始直後から妙な予感があって、札幌が千葉を破るんじゃないかという漠然とした雰囲気を感じていたが、
まさかこんな凄まじい形で実現されるとは当然、思わなかった。これで札幌がプレーオフまで進めるかというと、
正直世の中そんなに甘くないと思う。条件が厳しすぎる。しかし、この札幌の逆転劇を許してしまったことによって、
千葉がプレーオフ争いから脱落する運命になったのは確かだろう。さすがにこの敗れ方はダメージが大きすぎる。

  
L: それでもあきらめずに選手達にエールを送る千葉サポーター。無情なヒーローインタヴューを背に選手たちは引き上げる。
C: 歓喜に沸く札幌のゴール裏。札幌はもう、信じるしかないもんな。  R: 帰り際、夕日を浴びる札幌ドームを眺める。

せっかくの北海道、まだまだこれで終わりではないのだ。余韻に浸りつつ地下鉄に揺られると、大通で乗り換えて、
円山公園駅で下車。そう、北海道神宮の御守を頂戴しなければならないのである。急ぎに急いで到着したのはいいが、
なんと16時ちょい過ぎだというのに授与所が閉まっていた。参拝客はそれなりにいるのだが、神門の扉も閉まっている。
「ハァ!?」と思わず声を出してしまったではないか。今日から11月ということで、北海道は完全に冬モードのようだ。
神社も16時には閉まってしまうということか。オイオイオイオイ、冗談じゃねえよオイ!と授与所付近で様子を探ると、
ほかにも中国からの観光客と思しき女性グループやら七五三の家族連れやらがやってきて、結局授与所が開いた。
いやあ、本当にどうなるかと思ったわ。それにしても御守ってアジア系の観光客に大人気だよね。クールジャパンだよね。

  
L: 北海道神宮に参拝するのは2回目(→2012.8.21)。今回も夕方の訪問となったのであった。しょうがないよね。
C: 神門付近。まさか16時で閉まってしまうとは。  R: 円山公園の入口。前も書いたが、なんか薄暗い印象しかない。

これで所期の目的はすべてクリアした。それじゃ久々に味の三平の味噌ラーメンをいただくか、と中心部に戻る。
晩メシにはちょっと早い時間だが、今日も一日しっかり動きまわって腹が減ったからしょうがないのだ。
味の三平の味噌ラーメンはやはり、玉ネギとひき肉が感動的な旨さである。何度食ってもそのたび感動しとるな。

 この写真を見るたびに食いたくなるんだよきっと。

満足して外に出ると、すっかり空が暗くなっている。そしてテレビ塔が光り輝いている。その姿を見て、
「ああ、札幌って日本新三大夜景だかなんだかに選ばれたっけ」と思い出す。展望台には前に上がったが(→2010.8.9)、
夜景は見たことがない。というわけで、迷わずチャレンジするのであった。お一人様とか別にさびしくないもん。

 17時過ぎでこの暗さ。北海道は日が沈むのが早いなあ。

で、いきなり結論。札幌の夜景はど真ん中のテレビ塔から見ても、まああんまりきちんと味わえない。
そもそも夜景ってのは、もっと客観的に眺めるものなのである。中からじゃなくて、外から見ないとダメなのだ。
どうやら札幌の夜景は藻岩山から眺めるのが正しいようだ。うーん、しまった。残念至極である。

  
L: 南西、すすきの方面を眺める。  C: 西側、大通公園を眺める。この光の帯の先に北海道神宮があるわけだ。
R: 南東側。豊平川を渡る車たちが光の帯をつくる(やや右奥)。まあご覧のとおり、単なる都会の夜なのであった。

消化不良な気分で3階に降りると、テレビ父さんのほほんパークに遭遇。これで一気に機嫌が直る僕。単純である。
本当に何から何までテレビ父さん漬けで、ファンにはたまらない一角となっている。うむ、余は満足じゃ。

  
L: テレビ父さんのほほんパーク。  C: 椅子もテーブルもテレビ父さん。  R: 空き容器入れの口の形が秀逸なのだ。

こんな感じで北海道の初日は終了。明日は北海道の市役所を徹底的につぶしていく予定である。やったるぜよ。


diary 2015.10.

diary 2015

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