よくわかってないくせに個人名を出すと問題があると思うので誰とは言わないんだけど、意識の高い人々がいるじゃん。
IT関連企業を立ち上げて軌道に乗せるようなやり手の人々。そこからいろいろと情報発信するエネルギーのある人々。
僕にはそういう猛スピードの世の中の流れについていく気がないので、名前すらよくわからないでいるんだけど、
その辺の意識の高い皆さんが言っていることって、将来はこういう方向に動いていくとか当たっている面も多いけど、
倫理という視点が決定的に欠けていると思うのは気のせいだろうか。世間が向かっていく方向を読むのはいいんだが、
果たしてそれが本当に人間にとっての幸福につながるのかどうか、判断基準としての倫理の存在が感じられない。
むしろ倫理を「判断を遅らせるもの」として忌避しているようにすら感じる。誇り高さを感じさせないんだよなあ。スマホが最も典型的で、情報化社会で確かにスマホの重要性は増す方向性で世の中は動いているけど、
実際のところはスマホを持つにあたっての倫理がまだまだ追いついていないように思う(→2015.9.14)。
スマホを便利な道具として使っているのではなく、スマホ関連業者に使われてしまっている人ばかりだと思うが。
キャッシュレス決済も同じ。現金を持つことを卑下するような言説がまことしやかに拡散されてはいるんだけど、
ではその犯罪対策は追いついているのか。災害時に機能するのか。電子データの経済に脆弱性は本当にないのか。
そんなことを考えていると後れを取るのが今の世の中だ。勝ち馬に乗って資産を増やせば、自分は豊かに暮らせる。
意識の高い人々の行動には、そういう価値観がある。でもそれで個人単位で幸福になっても、社会は幸福なのか。結局のところ、経済学には倫理がないのだ。個人の能力を財政的な資産と結びつける価値観(新自由主義だな)が、
あまりにも幅を利かせすぎていないか。人類の歴史を見るに、現代は倫理の危機の時代であるように思えてならない。
インフルエンザで学級閉鎖が出ましたよ。こっちとしては、とにかく自分に感染しないように全力を尽くすしかない。
生徒はインフルで休んでも欠席日数にカウントされないけど、教員は容赦なく有給日数を削られますんでな。
しかも最悪でガツッと5日分いきますんでな。おまけにその分だけ授業も穴が開いて周囲に迷惑をかけることになるし。
だから学級閉鎖が出る状況には、ひたすら恐怖でおののくのみなのである。ウイルスこっち来んなと。
練習試合だけど、来たのがたった4人だぜ。他校の7人と合同チームでちょうど11人! ヤッタネ!
……もうなんというか、悲しいも呆れるも通り越して、無の境地に入ってしまいそうである。内容としては、いかにウチの守備が安定しているかが実感できた。急造チームでも要所を押さえて動くことができる。
それはつまり、サッカーの本質的な部分が理解できつつあるということだ。結果オーライ……とは言えないよなあ。
『この世界の片隅に』。あまりに評判がいいので、こりゃチェックしないとダメだろう、ということで見てきた。
広島は江波の海苔漁師の家から呉へと嫁に行ったすずさんが主人公。これを「のん」こと能年玲奈が演じる。
キャラクター的にも『あまちゃん』(→2014.1.14)における天野アキそのままじゃねえか!と思うが、
だからこそこの物語の主役たりうるわけだし、観客を最後まで何の違和感もなく物語に没頭させることができる。
世間では事務所のトラブルで干されて云々という面が強調されがちだが、適材適所が純粋かつ完璧に達成されている。感想としてはとにかく、これすごいなあ、これをつくりきったのがすごいなあ、と思うのみである。
これはすごいものを作品として世に出したものだ、とただ感心した。スケールがデカい。それは「超大作!」とか、
そういう種類のスケールではなく、描いているテーマのスケールだ。まず、ひとりの人間を深く描いている。
さらに、戦争という状態とその時代の空気を深く描いている。そして両者の関係から人間と人間の生きる時間と空間、
それらを余すことなく描ききっている。ここまで時間と空間と人間を見事に描ききれるものなのか、と驚いた。
確かに戦時中の時間がそこにあるし、呉の都市空間がそこにあるし、すずさんたちがそこで生きている。
劇中のすべてに無条件で納得ができるのだ。入り込んでしまう。いったいこの圧倒的なリアリティは何なのだろう。主人公が感性が豊かな女性なので、その目を通して見る世界はそれなりのフィルターがかかることになる。
ウサギが跳ねる海、絵の具を散らす対空砲火、気を失っている間に再生される記憶、それらは事実なのだ。
アニメーションならではの凝った演出を通しているからこそ、かえって事実が事実としてわれわれに響く。
この作品は、アニメーションの表現でできること、アニメーションのクオリティの極限がおそらく実現されている。
そして、アニメーションという手法でないと得ることのできない価値を確かに持っている作品である。
単純に考えれば、絵というオブラートがあるおかげで、描写が過度に生々しくなることを避けている、となる。
しかし実写の演技がそのまま素直に絶大なリアリティを持ってくれるかというと、そうではない。この作品の場合、
単純な実写ドラマでは再現できないレヴェルのリアリティがアニメーションだからこそ実現されている、のである。
生身の人間が演じると目に映ったものがシニフィエの限界となる。しかしアニメの絵だと受け手の脳が補足して、
シニフィアン以上のものを勝手に足してシニフィエを深める余地が広がる。この作品はそれを実現できているのだ。
そう、この作品の絵柄は非常に穏やかだが、受け手にはものすごく刺激的だ。受け手が積極的にリアルと感じてしまう。
認知面と感覚面で、ものすごい引力がある。これだけの領域に踏み込んでしまった作品はほかにないんじゃないか。われわれにとって戦争をめぐる大きな悲劇というと、真っ先に浮かぶのは「8月6日」で、もはや記号化されている。
そこからの「8月9日」、そして「8月15日」という流れが想起されるが、それ以前にも日本の各都市で悲劇があった。
われわれはどうしても、記号化された「8月6日」に向かってのカウントダウンとして戦時中の時間を見つめてしまう。
しかしこの作品は「8月6日」を絶対化せず、時間の流れの中で起きていた事実を克明に描いたところに価値がある。
原爆は特別ではないし、そもそも戦争すら特別ではない。われわれが今いる人間の歴史、その中の1ページであり、
当時の人々にとってはその日常が当たり前であった。この作品は「等身大の戦争」とでも表現すればいいのか、
人間ひとりにとっての適切なサイズで時代の状況を描く。当たり前を当たり前として受け止めて生きる人間の強さを描く。
よく言われる感想に「戦時中にも日常生活があったことを気づかせてくれる作品」があるが、これは半分正しい。
われわれにとって戦争はすでに苦痛の一類型として記号化されている。しかしそれはマクロな視点からの知識であり、
リアルな体験としては遠くなりすぎてしまっている。この作品はリアリティによってその事実に気づかせてくれる。
だが、この作品の意義はそれだけではないのだ。戦争という極端な状況が当たり前であった時間をリアルに感じさせて、
そこからの共感を手がかりにして、われわれに時間と空間と人間の普遍的な関係を示している。そこが凄いのだ。
端的に言えば、この作品は人間の本質を描ききっている。困難を所与としてなお生きる生命の本質を描ききっている。話が抽象的になっているので、もうちょっと具体的なところからそのことを確かめてみよう。
印象的なのは、当時の人々にとっての死の近さ、死に対する動じなさである。一見すると「諦め」に思えなくもないが、
だからこそ、極限から立ち上がってくる覚悟というか胆力というか、人間本来が持つ強さが見事に浮かび上がるのだ。
また、義理の姉・径子の人間くささが際立っている。単純に考えれば「主人公をイビるイヤな人、悪役」なのだが、
その背景をきちんと描いているから行動に納得ができる。すずとの和解や終戦時の号泣も、本当に心から共感できる。
それだけ人間を克明に描いているからこそ、物語が終幕を迎えても、この先の彼らの人生を見たい!と強く思わせるのだ。
しかしもちろん、この物語の正当な続きは、われわれ自身がいま生きている人生ということになる。それがまた凄い。登場人物ひとりひとりが確かに個として存在する一方で、彼らは関係を構築して困難と向き合っていく。
その姿に、僕はかつて北海道を旅行したときに見た「植物たちの王国」を思い出した(→2012.7.2)。
同質な集団が連携して困難をじっくりと克服していくこと。それこそが、生命の本質なのではないか、と。
その生命の本質を、僕ら人間は確かに内に秘めている。人間の本質、生命の本質がこの作品には刻み込まれている。
そう、だからこの作品は、スケールがデカい。これすごいなあ、これをつくりきったのがすごいなあ、と思うのみである。
2日連続で大車輪の仕事をこなす。さすがに疲れた。僕が忙しくなるように絶対に狙ってやっていると思う。
でもまあこっちとしては、屁でもねえぜと顔色ひとつ変えずにこなしていくのみである。相手にするだけ損。
臨機応変ぶりを見せれば差はより歴然としたものになるし、がんばっていれば味方だって増えるさ。
それにしても、これでどうにか今週も乗り切った。一歩一歩愚直にやっていくしかないねえ。
インフルエンザがものすごいことになっていて、1年生たちが軒並みダウンという状況である。
おかげで急遽、部活の中止命令が出てしまった。本日は都立高校の推薦入試日ということで、
学校が休みになったOBたちが大挙して部活に参加する予定になっていたのに、諦めざるをえなかった。
滅多にない機会でみんな楽しみにしていたのに、まさかそんなことになってしまうとは本当に残念である。
なんとかして次の機会をつくるとして、とにかくインフルをもらわないように気をつけないとなあ。
ワカメ上京時の飲み会で、「ガルパンはけっこういいぞ」とハセガワさんが言っていたので(→2016.11.7)。
あと、2年前にはバヒサシさんが大洗へガルパンの聖地巡礼をしてきたっていう話も聞いていた。
世間的には闘魂三銃士の蝶野正洋が大ハマりしていることも有名で、じゃあ一丁見てやろうと思ったのだ。
というわけで、今さらだろうけど『ガールズ&パンツァー』の感想を書くのだ。本当に今さらだよなあ。最初のカメラワークがまず確かに面白い。戦車ならではの視野で、その独特の動きと味方チームを紹介しているわけだ。
しかもこのイントロが大洗女子学園にとって初の実戦である4話と重なっているという構成もかっこいいではないか。
話はテンポよく進む。なんでこの人、メガネのレンズが片方だけなの?と思っているうちに、あれよあれよと戦車道へ。
部活でもクラスでもなく必修科目で集まったという縛りは面白い。それでキャラクターの多様性を確保したわけだ。
キャラは多様すぎてさらに濃すぎる気もする。その点、『けいおん!』のバランス感覚は秀逸だった(→2011.11.16)。
男じゃむさ苦しくてドラマにならんが女子ならドラマになるわけで、『けいおん!』が掘り起こしたものは大きいのだ。
軍事兵器と女の子というギャップは確かに興味深いが、そういえば『青空少女隊』ってあったなと思い出した。
『青空少女隊』もメディアミックスの成功例だが、ガルパンはそれ以上に「売れる」要素を研究して盛り込んでいる。ガルパンは、少年マンガの文法をきっちりと押さえている作品である。エリートの血を引くが才能が開花しておらず、
挫折から成長していく主人公。メンバーたちがなんとなく戦車を操縦できてしまうのがまた少年マンガである。
仲間が順調に加わっていくのも少年マンガなら、昨日の敵は今日の友なのもまた実に少年マンガなのだ。
いろんな戦車を寄せ集めるのは戦隊モノの精神に通じるし、強い相手を弱い武器と戦略で倒す展開に男は燃えるのだ。
ハセガワさんは「一言で言うと、『部活マンガ』としての面白さ、熱さ」とまとめていたが、なるほど納得がいく。
ガルパンは正統派の部活少年マンガなのだ。「戦車はともだち こわくないよ」って森崎くんに言ってあげてください。しかし西住流戦車道家元とは。家元といったら立川流かあやとりしか思い浮かばないんですが。
ガルパンでは「戦車道」という武道・スポーツが成立している世界を舞台としており、そこには明確なルールがある。
これはつまり、以前『魔法科高校の劣等生』のレヴューで書いたことが実現した例であると思う(→2016.3.15)。
「九校戦における戦略なんかは非常によく練られていて面白い。そこだけに特化すれば名作になった可能性は高い。」
だから戦車道をめぐるドラマに特化したガルパンが面白くて名作と見なされているのは、当然のことなのかもしれない。
しかしもう一歩踏み込むと、ガルパンとは実は大きな転換点を経てしまった作品ではないか?とも思う。それはつまり、
「従来の少年マンガの部活は消費し尽くされて、新しいスポーツを生み出さざるをえない状況にある」という事実だ。
野球も、サッカーも、バスケも、バレーも、もちろん新しい作品は次々と生み出されてはいるものの、飽和している。
連綿たる名作の歴史に埋もれるよりは、どうせなら世界観を丸ごと思い切ったフィクションでやってみよう。
その発想が当たり前になってきているのだ。この事態が示すことは、僕らの感じる身体性またスポーツのリアリティが、
従来と変質しているということなのか。機械やプログラム込みの身体性がスポーツになりうると認識されつつあるのか。
(ここに『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』の「#2 暴走の証明」を重ねるのは考えすぎか。→2014.1.5)スポーツがルールによって成立している(→2009.12.28)以上、そこには論理にもとづく戦略が必ず存在する。
(野村克也は捕手としての経験をもとに野球における論理を徹底的に研究したからこそ、名監督になったのだ。
イヴィツァ=オシムは数学を専門に学んでおり、その論理的思考力が監督の能力に生かされたのは間違いあるまい。)
逆を言えば、論理的に正しい戦略がきちんと提示されれば、それはスポーツとしての説得力を持つのだ。
力で押し切る西住流と袂を分かち、論理で戦う西住みほの姿はまさに新たなスポーツを示す最高の存在である。
最初の市街戦ではコミカルに入りつつ、途中から一気にシリアスにもっていき、かつみほの凄腕ぶりを演出してみせる。
サンダース戦とプラウダ戦では決着がつくまでを緊張感たっぷりに描いてドラマ性を優先する見せ方をしているが、
決勝の黒森峰戦では満を持して、戦車道ならではの論理に基づいた戦略の妙味を徹底的に描いているのがすばらしい。
少年マンガの王道を行く、個々の味方が敵の戦力を確実に削いでいく展開をきちんとベースに置いておきながら、
圧倒的な力を持つマウスを戦車の連携で見事に仕留める。さらに最後の1対1では西部劇の手法で緊張感を高め、
伏線もちゃんと生かしたうえで決着をつけている。つまりこの作品は、情熱と論理のバランスが絶妙なのである。
スポーツのドキュメンタリー(→2012.3.10)にしろ、棋士の生き様を描いた映画(→2016.11.21)にしろ、
いちばん面白いのはやっている試合そのものなのである。そこが充実していれば、それだけで十分名作になるのだ。
試合じたいの面白さを真摯に描いたところに、ガルパンが熱く熱く支持された理由がある。もっと試合を見たいもん。
(『けいおん!』にしても、究極的には彼女たちのライヴが見たかったわけで。同じ構造だわ。→2012.1.7)後でOVAとして出たアンツィオ戦もかゆいところに手が届くデキで、絶妙なバランスを保っている。よくできている。
マミさんは格言ばっかでウザいけど、キャラクターは概してみんな魅力的。個人的には武部殿が一押しでござるな。
……余談だけどこのMacBook、「戦車道」とか「西住流」とか「闘魂三銃士」とか一発変換してイヤなんですけど。
旅していると、とにかく『さすらい』が名曲でたまらない。奥田民生のセンスはもちろん問答無用にすごいが、
特に衝撃的なのが「雲の形を まにうけてしまった」という歌詞である。この表現を見つけることができるなんて!
もちろん他の部分の歌詞もいいのだが、このワンフレーズの破壊力はとにかく特別な響き方をしてくるのである。
僕なんかはそんなに感性豊かではないので、実際に雲を眺めて旅に出ようなんて気持ちにはならないはずなのだが、
奥田民生が雲に対して「真に受ける」という言葉を選択してしまったことで、恐ろしく納得させられてしまったのだ。
つまり、実際の雲でなくても、さまざまに形を変えて意味を乗せ、旅を誘ってくるシニフィアンがあちこちに漂っていて、
それを僕らが勝手に「真に受ける」、そして旅に出る、そんな真理をズバリと言い当てられてしまったのだ。
それでいてわれわれは「雲」と聞けば当然に空に浮かぶシニフィエなアイツを思い浮かべずにはいられないわけで、
そこにあるのはすでに旅の間の空なのだ。日常に潜む旅の種と、非日常である旅の象徴とが、時間や因果をひっくり返し、
僕らの目の前に現れる。「雲の形を まにうけてしまった」とは、旅の原因と旅の結果を同時に描いた表現なのだ。
この二重構造によって、旅の連鎖が始まる。旅の結果が次の旅の原因になる。だから、さすらう。
これほどまでに端的に、完璧に、主題を描ききった歌詞はないだろう。そして旅の途中に聴くと、本当に突き刺さる。
そう、僕は奥田民生の言うとおり、雲の形を真に受けてしまったのだ。この表現が一番納得できてしまうのである。
熱海ロマンの『エロ本編集者の悲劇』(そんなマサルも今は事件記者で時間の流れの残酷さを感じる)の元ネタは、
The Presidents of the United States of Americaの『Video Killed the Radio Star(ラジオスターの悲劇)』である。
そのカヴァー元であるオリジナルは、当然、The Buggles。これらPUSA版にしてもバグルス版のどちらにしても、
聴いていると歌詞のある部分が毎回引っかかるのだ。それは、「You were the last one」という部分。
これが油断すると「You are the past one」に聴こえてしまい、どうにもならないくらい悲しくなってしまうのだ。
実際、自分はもうラジオをぜんぜん聞かない生活をしているので、そのとおりではあるのだが。これはちょっとね、と。
人工芝の学校にお邪魔して練習試合である。あまりに天気がいいので自撮りなんぞをしてみる。
たまにはこうして、マジメに仕事をしているところをアピールしてみるのだ。感傷的ですかね。たまには日常の一部を切り取ってみようか。
試合は20分×5ゲーム。お互い人数が足りなくて8対8である(しかもこっちは大人がGKに入る有様)。
人工芝にスパイクだと、昨年夏にやらかした捻挫のせいで右足首がまだ痛い(→2016.7.30)。困ったものだ。
肝心の結果は最初の2つがスコアレスドロー。あとはこっちが勝ったが、まだ内容がどうも安定しない。
自分たちがどう有利なのかどう不利なのかという局面の捉え方、状況に最適なプレーの選択がまだまだである。
できることの最低限の水準が上がっており、以前に比べればずっといいのは確かだが、もっとできるはず。◇
自転車だったので、せっかくなので神社を参拝してまわる。そろそろいい頃合いだろうと荏原神社に行ったら、
案の定、寒緋桜が最高潮を迎えていた。前にも撮影したことがあるけど(→2010.1.23/2015.6.28)、
本当に見事なものだ。神社の脇を通った人がことごとく見とれてカメラなりケータイなりを構えるのが微笑ましい。
L: 荏原神社。なんだかんだでこの時期にはちょくちょく来ている。 C: 恵比寿様の像と寒緋桜。御神木である。
R: こちらも何度見ても見事な拝殿。窓ガラスに寒緋桜が映り込むのを見ると、それはそれで悪くないなあと思う。御守を頂戴したが、僕の記憶違いだったのか何なのか、柄は寒緋桜ではなくただの桜だった。正直、残念である。
せっかくなので寒緋桜のものもつくってほしい。僕にとって荏原神社といえば寒緋桜なので。けっこう見に来ている。
L: 目黒川の川面で反射した日の光が寒緋桜をゆらゆらと照らす。冬来りなば春遠からじ、ですか。
C: やっぱりメジロがいたよ。 R: でも体の大きいヒヨドリがメジロを追い出そうと飛びまわる。そのまま第一京浜を南下していって、大田区に入ったところで目的の神社に参拝。磐井神社である。
近いうちに大田区の旧郷社を押さえてみたいなあと思っているのだが、磐井神社だけ離れているので本日参拝。
L: 磐井神社は国道15号(第一京浜、旧東海道)沿いにあるのだ。 C: 境内入口。 R: 拝殿。やはりさすがに立派。磐井神社は延喜式内社で、かつては「鈴ヶ森八幡宮」という呼ばれ方もしたそうだ。実際、西側の交差点には、
「八幡通り入口」という名前がついている。鈴ヶ森刑場跡は品川区だが、地名の由来である磐井神社は大田区なのね。
L: 角度を変えて社殿を眺める。1954年の再建とのこと。 C: 境内の奥には地名のもとになった「鈴石」などがある。
R: 左は神楽殿で、右が境内社の海豊稲荷。それにしても後ろの高層マンションとの対比がなかなか強烈である。現在の神社名は「磐井」という古い井戸の名前から採られたそうだ。水に関連してか、境内の南側には笠島弁天社。
周囲は往時の姿が想像できないほどに開発されきっているのだが、それでも神社はその存在をしっかりと守っている。
空間として確かにその場所を占めていることが重要なのだ。都会の神社は都会の神社で独自の進化をしているわけだ。
L: 笠島弁天社。往時はどんな姿をしていたのだろうか。現在は意地で周囲を池で囲んだ島をやっております。
C: 裏手の駐車場から眺めた社殿。 R: 南西側には山車蔵らしき建物が並ぶ。都会の神社もがんばってますな。あとは大森でひたすら日記を書いて過ごすのであった。久しぶりに訪れた大森はけっこう変わっていて驚いた。
最近は日記を書いてばっかりでサイクリングを全然していないもんなあと反省。ずくを出さないといかんね。
TSUTAYAの旗の台店が昭和大学のせいで消滅していたことを知る。しばらく行かなかった間に跡形もなくなっていた。
これはなかなかのショックである。本にしろCD・DVDのレンタルにしろ、最も身近で頼れる存在だったのが消えた。
思えば、凄まじく便利だった大岡山駅直上のTSUTAYAも、東急病院の移転によって消えてしまった過去がある。
近場の本屋がどんどん消えていくのは、重大な問題である。オレの健康で文化的な最低限度の生活が脅かされている。
怖いもの見たさの話。
離島の地図を見ていると怖くなる、という話は以前にも書いたとおりである(→2002.8.27/2006.7.28)。
たまたま受験の過去問にアーネスト=シャクルトンの脱出劇が出てきたのが、今回の「怖いもの見たさ」のきっかけ。
こういうエピソードに触れられるから英語の長文って面白いんだよなーと思いつついろいろ調べているうちに、
怖いもの見たさで世界のあちこちの離島について数珠繋ぎにネットで見ていって、なんとも言えない気分になる。ケルゲレン諸島はなかなか怖いが、面積があるのでまだいい。有人島ではトリスタンダクーニャ。生活が想像できない。
そしてなんといっても究極の離島はブーヴェ島。Googleマップで探そうとしても、画面いっぱいに水色が続くばかり。
そんな中で、あてもないまま探す作業はまさしく孤独な航海。圧倒的な「無」に囲まれる恐怖は本当に耐えられない。
吠える40度、狂う50度、絶叫する60度なんて言葉があるが、実際の光景を想像することなんて怖くてできないどころか、
もうその文字の並びを見るだけで背筋に冷たいものが走る。南氷洋の孤独感は凄まじいものがある。この文章を書いている今も、キーを叩く手には汗がじっとりにじんでいるのだ。いやもう本当に怖い怖い。
自分の住んでいるアパートが売却されて所有者が変わった、という通知が郵便受けに入っていた。
いきなりのことだったのでひどく驚いた。というか、この17年間まったく変わらず、今後も変わることがない、
そう当然のように思っていたことがひっくり返されたので、「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」
なんて一節が頭に浮かんでは消えるのであった。とにかく家賃の値上げだけはないように祈るばかりである。しかし冷静に考えてみると、アパートごと自分が売られてしまったような感覚がしないでもない。
居住者のいないアパートなんて何の価値もないもんね。自分の存在が金額の価値として計算され、空間ごと売却された。
この感覚はそれはそれでなんとも面白いのだが、一方でそっと背筋に冷たいものが走るのも確かだ。人身売買って深いな。
森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』。なんかもう、読書なんて久しぶりですよ。いかんなあと反省しつつ読む。
というのも、図書委員の子から「学校にある本でオススメのものを1冊紹介してください」と頼まれたはいいものの、
いざ図書室で物色してみたらマトモな本が全然ないのな。前の学校では僕の推薦図書を何冊も買わせたわけだが、
まったく関与しないとなるとこういう状況になるのか、と思う。小説はどうにかそれなりの数がいちおうあるものの、
とても内容が充実しているとは言えない。そんな中で森見登美彦を見つけたので、これしかないなと中身を確かめたわけ。まあとにかく『四畳半神話大系』(→2014.9.29)がぶっちぎりの面白さなので、大いに期待してページをめくる。
今作も4章構成で、先斗町での宴会リレーと飲み比べ、下鴨神社古本祭りでのガマン大会、大学の学園祭での騒動、
そして風邪の嵐。やはり樋口さんと羽貫さんのコンビが暗躍するのであった。ノリはまったく一緒なのである。
結論を言うと、安定した面白さはあるが、『四畳半神話大系』の凄みには遠く遠く及ばない。きちんと面白いけどね。
特に3章での学園祭の混乱ぶりとその伏線回収は作者の本領が存分に発揮されており、これだけでも読む価値はある。
しかしパラレルワールドを見事に帰納させた『四畳半神話大系』と比べると内容は散漫である。小津の不在も大きい。思うに、職業としての作家が食べていくためには、構造上、固定ファンを確保することが第一になってしまう。
好みのミュージシャンのCDをついつい買ってしまうのと同じ構造があるのだ。作家の名前で本を買っちゃう人がいる。
現代では、この度合いが強烈な人ほど読書家という傾向がありそうだ。でもそれは狭い種類での満足でもあると思う。
たとえば「ハルキスト」とか(→2005.9.7)。音楽を聴くような感覚で、作者の文章の世界に揺られて満足しているわけだ。
(まあそもそも、芸術家とパトロンの関係なんてそんなものだが。産業革命を経て大衆がパトロンになったのよね。)
しかし、「1人の作家につき1冊の代表作を読んでいけばいいじゃん、そうして1人でも多くの作家の本を読んでいきたい」
という発想の僕には、そういう習慣がまったくない。そもそもが、文章の世界に揺られるのが読書の目的じゃないし。
だから感想は、森見ワールドとか言って固定ファン相手の守りに入ってんじゃねーよ、というところに落ち着く。
同じような作品を読んでも飽きるだけなのだ。それよりは違う面を次々と繰り出していくクリエイターに僕は惹かれる。『夜は短し歩けよ乙女』は確かに面白みを持っている。でも『四畳半神話大系』には劣るし、成長がみられない。
この作者はもっともっと面白いことができる人だと思うのだが。すごく期待しているんだけどなあ。
書こうと思って毎回うっかり忘れていたEBウイルスの話をさせてくれ。
EBウイルスはガンや自己免疫疾患をはじめとする、さまざまな病気を引き起こす原因となる。命に関わるケースもある。
しかし日本人はほぼ全員がこのウイルスに感染しているとのこと。特に子どもの頃に知らないうちに感染するそうだ。
その際、周囲の物や自分の体の大きさが実際とは異なるものとして知覚される症状が出るというのである。
この症状にはルイス=キャロルの作品から採った「不思議の国のアリス症候群」という名前がついている。僕にはこの「不思議の国のアリス症候群」の記憶がわりとはっきり残っている。まだ白山町で暮らしていたときのことで、
熱にうなされていたんだか、単なる夢として出てきたのか、ふつうに過ごしているときにいきなり出現したのか、
とにかく交差点に設置されていたランプ(正式には自発光道路鋲というらしい)が視界いっぱいに見えたのだ。
画像検索しても型が古すぎるのか、当時のものは見つからない。交差点に埋まっていて、断面が台形の方墳型で、
表面の鉄は学校の鉄棒と同じように焦げ茶色に錆びていて、鈍く点滅するアレである。それが目の前を塞いだのだ。こういうやつ。本物は車に踏みつけられて表面がベコベコ、地面にめり込み気味。
あとは、母が好きだったというアザミの花。あの紫のトゲトゲが視界いっぱいに広がって揺れていた。
その2つに僕の視覚は完全に支配されてしまった記憶が残っている。あまりに強烈で、それで今でも覚えている。
視線が足元にばかり向いている幼少期だからこそ、この2つが対象となったのだろう。もしかしたら実際は、
ほかにもいろいろ巨大に見えたのかもしれない。でも交差点ランプの幾何学的な形が気に入っていたのは確かだし、
さまざまな花がいろいろ咲いていた中で「母が好き」という要素でもともとアザミが強く印象に残っていたのだろう。
それで結果的に、僕の記憶が編集されて2つの対象に絞り込まれたということなのかもしれない。不思議の国のアリス症候群の話を聞いて、35年以上経って、ようやく記憶の謎が解けたと驚いた。ウイルスのせいとは。
あまりに寒くて寒くてたまらない昨今、家では布団をかぶってついにアルコールを摂取するようになってきた。
「酒は苦手」と公言している自分でも信じられない行動なのだが、半ばヤケでチビチビと摂取しております。
経験上、最も量が入るアルコールの種類は日本酒なのだが、体があったまるのは焼酎。ゆえに焼酎を摂取している。
初めて焼酎を飲んだときには「こんなのただのエタノールじゃねえか!」と叫んだものだが、それでいいやと摂取。
そもそもが飲みたくて飲むわけではないし、味の違いがわかるほど酒に強くないし、麦やら芋やら区別つかないし。
お湯を沸かしてタンブラー(チタン製、そこはちょっとこだわった)に入れて焼酎をちょろっと足したうえで摂取。
銘柄はよくわからんので、南九州に行きたいからそっち方面の人気っぽいやつ、という非常にいい加減な選び方である。
そんなわけで今日も南九州への旅行を夢見つつアルコールを摂取摂取。全身ピンクに染まったらおやすみなさい。
なんとかがんばって、休日には旅行一日分の日記をアップロードできるようにと努力をしている。
先週の3連休には、昨年4月の広島・島根・山口への旅の続きをどうにか仕上げることができた。
そして今日は、昨年9月の三陸沿岸旅行についてやっと書き上げた。内容が重い分だけ苦労したが、その甲斐あって、
それなりの考察を多く含んだ内容になったはずだ。あの衝撃をようやく言語化して形に残せたと思うと感慨深い。僕は鈍いし想像力がはたらかないので、被災地の皆さんにとって失礼になる内容を含んでいるかもしれない。
しかし、あの場で感じたことや考えたことは素直に書いた。この日記を気にしている人はぜひ、読んでいただきたい。
感想は要りません。あなたもぜひ三陸沿岸の街を訪れて、僕の書いたことの当否のほどを確かめてみてください。★ 三陸沿岸旅行1日目:釜石・大船渡 →2016.9.18/2日目:陸前高田・気仙沼 →2016.9.19
百人一首大会である。今年はたまたま、理科の先生や保護者の方と戦うことになったのであった。
結果は、55対18対12(5枚残り)で私の圧勝であります。訓練されてない相手だからもっと取りたかったけどね。僕が中学生のときにも百人一首大会があって、他クラスに遠征する攻撃陣と自クラスで迎え撃つ守備陣に分かれた。
なぜかウチのクラスは百人一首に強く、1年生のときも2年生のときも校内全クラスを相手に優勝していたのであった。
3年生のときに僕は大会を主催する立場の学芸委員長だったので、担任と策を練って生徒を配置し、ぶっちぎりで3連覇。
強い生徒を守備陣に置く作戦が奏功したのであった。個人的な成績は1年目で26枚、2年目で49枚、3年目で51枚で、
3年目でようやく50枚の壁を突破できたので一安心。それでもどうしても勝てない強い女子がクラスに2人いたもんなあ。まあそのころの財産でどうにか面目は保った感じである。上の句と下の句のつながりはそこそこ記憶に残っているが、
いざ読み上げられると、どこにどの札があるのかがぜんぜんわからなくってかなり苦労した。短期記憶がバカだとつらい。
強い生徒に負けないくらい強くなりたい気持ちもあるけど、札の探索が本当に苦手なので、それはもう来世でいいです。
最近は入試改革なんかで「知識偏重」とか言って、ものすごい勢いでどんどん制度を改悪している。
勉強ができないやつがたまたまトップに立って、腹いせに愚民化を進めているんじゃないかと思ってしまうほどに、
この勢いは強烈だ。そして勉強に自信の持てない連中がそれに同調しているから、なおさらタチが悪い。「知識偏重」のどこが悪い!と私は言いたい。知識がないと、そもそも気づけないことが世の中にはいっぱいある。
知識があること、モノをたくさん知っていることは、純粋に偉いのである。これは正しく歳を重ねた結果だから。
他人よりも鋭い感性で多くのことに気づき、それを知識として獲得してきた人間が評価されるのは当たり前のことだ。
そうして多くの知識をもとにして、人間は判断を下す。知識のない人間はそれだけ偏った判断に陥ることになる。
勉強ってのはそもそも、感性でやるものである。だから知識の多寡は、かなりの精度で感性の優劣と結びついている。
周囲に迷惑をかける判断を下す人間がトップに立たないようにするために、知識が目安となるのだ。それが本質だ。
だから「知識偏重」を否定することは、この国の将来の方向性に大きな禍根を残すことになる。当たり前の話だけどね。
最近のマンガ業界はいわゆるダークファンタジーが全盛である。しかし僕はダークファンタジーとはとことん相性が悪い。
以前、『進撃の巨人』を勧められたことがあり、軽い気持ちで手に取ってみたらもう序盤の数ページからしてダメ。
まず絵があまりにも酷かった、というのも拒絶反応の一因ではあったが、それ以上に設定が受け入れられないのである。
なんでこんな根暗な設定を喜べるのかが理解できない。もともとファンタジーがダメなところにダークもダメということで、
これは本当に相性の悪いジャンルなのである。転生モノもバカバカしいと思っているが、ダークファンタジーも本当にダメ。ダークファンタジーとの相性の悪さというものをいちばん最初に自覚させられたのは、岩明均『寄生獣』だと思う。
当時僕らは高校生で、クラスでは野口っつぁんが『ああっ女神さまっ』が大好きで、毎月アフタヌーンを買っておった。
(余談だが、野口っつぁんはスクルド推しで、仙太郎くんの名前が判明したときの機嫌の悪さは異様であった。
僕に対してのみ異様に不機嫌だったので「まさか先月の自転車少年、『仙太郎』って名前じゃあるまいな?」
と言ったらビンゴで、まさかそんな予測が当たるとは思わなかったので自分で自分に驚いたのは懐かしい記憶。)
で、話が逸れたが、『寄生獣』は当時のアフタヌーンでも一二を争う人気だったので、僕もいちおうあらすじは追っていた。
しかしやっぱり内容の路線が路線なので好きではないのである。物語の持っている意義は大いに認めていたんだけど、
社会学的な勘で認めていただけで、まったく好きではなかった。「好きではないが、わかる」という感覚で接していた。
思うに、現在隆盛中のダークファンタジーの源流のひとつに、『寄生獣』を位置付けることは確実に可能だろう。
グロテスクなパラレルワールドを用意することで現代社会を問い直すという価値観に、『寄生獣』は先鞭をつけた。
あれから20年経って振り返ると、『寄生獣』はやっぱりレヴェルが高かったなあと思う。マンガの鋭さそのものだ。相性の悪さということでその次あたりに来たのが『ベルセルク』。僕はくわばらくわばらと近寄らなかったのだが、
深夜アニメがヒットしてからの「蝕」でして、いやもういまだにくわばらくわばら。ごくごく個人的な感触としては、
『寄生獣』や『ベルセルク』辺りの動きからダークファンタジーというジャンルがメジャー化したように思うのだが。
ライトとダークの間を縫うようにして成立したのが『鋼の錬金術師』(→2011.10.15)という気がしている。
まあマンガにおけるダークファンタジーは結局のところ手塚治虫から指摘できるものだとは思うのだが、
世紀末のグランジ感覚から着実に、世紀を跨いだ不景気やらテロリズムの浸透やらの影響を長々と受け続けて、
一般化・量産化が進んでありとあらゆる根暗な設定が生み出されている。困ったものである(本当に個人的な感想)。さて、ダークファンタジー史で最も影響力を持っている作品はというと、これは『ジョジョの奇妙な冒険』だろう。
友情・努力・勝利の少年マンガ雑誌なのにタイトルに「奇妙」なんて単語が入る点からして、実にダークである。
(フジテレビ『世にも奇妙な物語』についてもダークファンタジーの文脈できちんと考察しなきゃいけないなあ。)
前も日記に書いた気がするが、僕は波紋でウリィィィィとやっているうちは面白がって読んでいたのだが、
スタンドが出てきてつまんなくなって完全に離れたという異端中の異端児で、いまだに主流派の皆様とわかりあえない。
やっぱり根底の部分でダークファンタジーとは相性が悪いのだ、と思うしかない。3章以降のキャラはよく知らんが、
ディオやカーズの方がそうとうダークだとは思うのだが、スタンドでワケがわかんなくなっちゃったのね。
吸血鬼など外部としての「人外」だったのが、スタンドによって登場人物が「人外」を取り込むことになった、
その点が受け付けなかったということか。そうなるとダークさの定義も多層的な感じになってくるわけだが。
(『進撃の巨人』がジャンプへの持ち込みで断られたのは有名な話だが、ジョジョとの違いが気になるところだ。)考えるのが面倒くさいので、ここでいったん終了。まあ社会学的にはそうとう骨太で興味深いテーマではある。
今日はまだ授業のコマ数が少なかったからいいけど、それでも久々の授業でしっかり疲れた。
3学年分のプリントづくりがつらいです。英語は教科書が改訂されるとほぼすべてがパーになるのが悲しい。
新学期だよ! いきなり小テストをやったわけだが、採点作業がけっこう疲れるので独りでスンスン泣く。
いや、まあ、自業自得ではあるんですけどね。宿題のノートチェックもあるし、一気に来るのが本当につらい。
成人の日である。
いつもの僕にとっては3連休になるありがたい日、という程度の認識しかないのだが、今年はそうはいかない。
僕が中学校の教員になって初めての卒業生たちが20歳になったからだ。それで成人式に軽く顔を出してきたというわけ。久しぶりに会った連中はさすがに二十歳相応の顔つきをしているが、開口一番「まだ教員やってるんですか」とはなんだ。
会うやつ会うやつみんなそう声をかけてくる。そんなにオレはノマド体質に見えるのか、と思い知らされるのであった。
男子は男子で背が伸びている者は少数で面影たっぷり、女子も着飾っているのがしっくりきているが面影十分あるしで、
お互いそれほど変わり映えがしないなあ、と思う。お世話になった先輩の先生方がぜんぜんお変わりないのもうれしい。
まあとりえあず、女子の連中が中学生当時とまったく同じ悪態をついてくるのがなんともである。本当に相変わらずだな。
それぞれに充実した大学生活や社会人生活を送っている模様。とにかくみんな元気そうで何より。なんだかんだで、こっちがいちばんエネルギーをもらったのは間違いない。明日からまたがんばろう、という気になれたかな。
お互い、もうちょいオトナになれたらまた会おうではないか。
今日も日記! 9ヶ月前のことを、さもついさっきのことのように書くという離れ業をやっております。
とはいえ写真をきっちり撮っているので、見ればそれなりに記憶は鮮明に蘇ってくるのよね。便利なものである。
あとはネットで検索をかければ細かい裏も取れるし。何よりGoogleマップのストリートビューはものすごく強力ね。
そんな具合にあの手この手で日記を書いております。世間的にはこの能力、なーんの役にも立ってまへんが。
世間は3連休! オレは日記! 買い物には出かけたけど旅には出ないで負債の処理に取り組んでいるわけです。
まあ旅に出ないのはもうひとつ、MacBook買っちゃったから財政を緊縮しているという理由もあるんだけど。
しかし書けば書くほど、まだ残っている分の多さに戦慄を覚えるぜ。完済できる日は来るのか?
学年の先生方と新年会でございました。築地でオシャレかつ大変おいしい料理をいただいた。とろけたねー。
ここ最近は自分のだらしなさに自己嫌悪を連発していたのだけど、どうにか救われたと勝手に思っております。
しかし話題がどうしても「モテようとしなさいよ」方面になるのがなんとも。心配されるうちが華なんだけど……。
今年も職場で慌てて年賀状をつくるダメっぷりを発揮しております。もう本当に申し訳ない。
部活の方は本日が蹴り初め。ろくすっぽ走っていないくせに股関節が痛くなるという情けなさ。
正月にひたすら寝てばっかりいた悪影響が思いっきり出ている格好である。劣化しとるぞなもし。
東京へ戻る途中にベルディのピザをいただくのが毎年恒例の行事なのだが、残念ながら今年はタイミングが合わず。
どうするどうすると言いつつ北上していき、岡谷に入ったところで観光荘に寄ってみたらどうにか食えそうで、
しばらく待った後でおいしくうな重をいただいたのであった。観光荘のうな重なんて何年ぶりなんずら。
L: 岡谷で大人気の、観光荘のうな重(松)。客は地元民が多いみたい。 R: ほれ、アップにしてやるぜ!正直なところ、ここ最近はいろいろと滅入ってしまうことが目白押しだったが、おかげでちょっとやる気出たね。
現状を劇的に好転させる手段はまったく思い浮かばないのだが、これでちょっとは耐えられる。なんとか我慢だ。
しかし実家に帰るたび、自分のロングスリーパーぶりに呆れる。寝すぎて頭が痛いから寝て治す。そんな日々。
なんだかよくわからんけどドラ2の七対一をツモって浮いたからヨシ。年が明けてもひたすらに麻雀である。
飯田市内の焼肉屋をいろいろ「取材」しているcirco氏がどうしても行きたいと言うので、鼎の焼肉屋へ。
ところが現場に着いてみてびっくり、そこはかつて僕らがさんざん通ったCDとビデオのレンタル屋だったのだ。
建物は当時のままなんだけど、中はしっかりと、靴を脱いで上がるタイプの個室焼肉屋になっていたのである。
元日から営業しているとは焼肉業界も大変だなあと思いつつ、肉やらモツやらを味わうのであった。旨かったです。
そりゃまあ20年も経てばいろいろ変化はあるはずなのだ。でもやっぱり、不思議な気分は消えなかったなあ。
もっとも、それは決して悪い感触ではなかった。20年以上経ってもお客さんが来て店舗として残っているわけで、
店内にはしぶとく愛されている空間らしい、なんとも言えない安心感が漂っていたのだ。幸せなことだと思ったなあ。