diary 2012.8.

diary 2012.9.


2012.8.31 (Fri.)

今日は朝から会議、会議のオンパレードなのであった。まあ夏休みの最終日だから当然だけどね。
2学期の1年生の動きを確認したんだけど、それはもう恐ろしいくらいのイベント三昧っぷり。
とても落ち着いて乗り切れる気がしない。絶対にどこかでテンパるにきまってるわ、と思うのであった。
しかも今年の2学期は明日からスタートなのだ。土曜日だというのに平気でスタートするのだ。容赦ないのだ。
その腹いせというわけではないのだが、新学期に向けての準備をほとんどしないで過ごした。やる気しないわー!


2012.8.30 (Thu.)

やっぱりね、こうなるとさ、生で観たいじゃん。ヤングなでしこ。
授業や部活でさんざん「なでしこのU-20はいろんな意味でヤバいぞ!」と言いまくってきたマツシマ先生としては、
世間での注目度がうなぎのぼりな現状に焦りを感じているのである。にわかファンどもめ! オレの方が前からずっと、
陽子や光やポムに夢中になってきたんじゃ!と。でも生で見たことがなかったら、それは説得力がないわけじゃんか。
ということで、あらかじめコンビニでチケットを確保しておいて、いざ自転車で出陣。場所は国立競技場。
お隣の神宮球場ではわがヤクルトスワローズが広島相手に小川監督のバースデー勝利を賭けて奮闘中で、
そこを素通りして若い女子にうつつを抜かすのはたいへん心苦しい。心の中で土下座しながらペダルをこいださ。

部活が終わって家に戻って多少モタモタしていたせいで、国立競技場に着いたらキックオフ1時間前を切っていた。
そしたらもう、やっぱり、同じことを考えている人間たちでごった返しているわけだ。凄まじい大混雑なのである。
当日券売り場の行列がえらいことになっている。思わず芥川龍之介『蜘蛛の糸』を想像してしまったわ。
荷物検査を終えてチケットを提示して中に入る。どれどれちょっと見てみるか、と思ってグッズ売り場を見て愕然。
キックオフ1時間前だというのに、「SOLD OUT」の文字が並び、ほぼすべてのグッズがすでに売り切れてしまっていた。
残っているのはクリアファイルとシュシュがいくつか。あとは何も残っちゃいない。このフィーヴァーぶりには鳥肌が立ったわ。

  
L: 夜の国立競技場。これは神宮球場側の入口だが、当日券を求める行列が長ーく延びていた。
C: 千駄ヶ谷駅側の入口。左手奥が当日券を求める皆さんの列。九十九折になっていて驚愕。すごい人気だなオイ!
R: キックオフ前の練習風景と、ゴール裏に出た大きな日の丸。客の入り具合がJリーグの試合にまったく劣っていない。

奮発して指定席にしたのだが、けっこう端っこ。でも事実上の最前列なので文句はない。アウェイゴール裏が近い。
今日の対戦相手は韓国。竹島をめぐる一連の事件によって韓国との関係は今までになく冷え込んでおり、
一部マスコミではこの日韓戦をそういう政治的文脈と絡めようとする動きも見られた(実際、街宣車がいたし)。
しかし落ち着いて考えてみてほしい。この大会は、20歳以下の女の子によるサッカーの国際大会なのだ。
少女と呼べる年代の女の子たちにそういう背景を背負わせようとするとは、どれだけ冷静さを欠いているか。
それはヤングなでしこに限らず、韓国代表の女の子もそう。そして仮に相手がどんな態度を示してこようと、こっちはこっち。
きちんとスポーツの文脈で応援し、健闘を讃えあえばいいのだ。短絡的な思考で日本人のレヴェルを下げることは、
ただ愚かなことでしかない。誇りとは相手を貶めることで得られるものではない。賢く振舞わないといけない。
もっとも、会場にいた観客たちはその辺はきちんとしている人がほとんどで、雰囲気は非常にあたたか。
いかにも会社帰り感の強いオジサンたちがめちゃくちゃいっぱいいたのであった。みなさんお好きですなあ。

  
L: メインスタンドはけっこうびっちり、ゴール裏もよく埋まっており、バックスタンドの端が空いているだけ、という感じ。
C: キックオフからしばらくして、突然神宮球場で花火が炸裂。いきなりでめちゃくちゃ驚いた。選手はよく集中切らさなかったなあ。
R: アウェイ側のゴール裏。日韓が政治的に緊張しているとはいえ、いくらなんでもこれは少なすぎないか?

キックオフすると、まずは日本がパスを軽快に回して攻勢に出る。女子サッカーを生で観るのは初めてだったが、
ふだん観ているJ2の試合にもそんなにひけをとらない印象。判断が速く連携がよくとれているので、攻撃のテンポが速い。
本家なでしこジャパンはパスサッカーが世界的に評価されているけど、ヤングなでしこはそれをすでに当然のこととして、
そのうえでさらに攻撃的であろうとする感じ。「つないでいくうちに相手の隙をつくって崩すパス」ではなく、
「多少強引でも崩しにかかる、そのためのパス」ばかり。ひとつひとつのパスが明確にゴールを意識している。
変な表現になるけど、ヤングなでしこのパスは「肉食系」なのだ。草食動物の軽やかに走り抜けるパスではない。
肉食動物の、相手を狩るための挑戦的なパスなのだ。つねにチャレンジするサッカー。だからものすごく面白い。
もちろんそれを90分続けるだけの体力は人間にはないわけで、どこかで力を抜く、バランスをとる必要がある。
しかしいきなり最初から相手に襲い掛かるパスサッカーを展開する姿勢に、観客たちは一瞬で魅了されてしまっていた。

もうひとつの特徴は、とにかくクリーンにボールを奪う技術が高いこと。決して当たり負けすることなく体を当てていき、
いとも簡単にボールを奪ってしまうのだ。韓国はヴァイタルエリアまでまったくボールを運ぶことができない。
ここまできれいにボールを刈り取るチームは初めて見たかもしれない。そうして「肉食系」の攻撃がまた始まる。
だから前半わずか8分で日本が先制しても、それはまったく当然に思えた。西川のスルーパスに柴田が追いつき、
GKの鼻先で触ったボールがそのまままっすぐゴールのど真ん中に転がっていく。ヤングなでしこは、本当に強い!

ところが韓国にも意地がある。15分、カウンターで左サイドに入り込まれ、粘りながらのクロスが上がる。
すると中央でフリーになっていた選手がいて、ヘッドで同点に追いつかれる。これはきちんと対応できたはずのプレー。
しかしイヤな流れになると思いきや、日本の積極的な姿勢はまったく衰えることがなく、右サイドの田中美南から中央へ。
受けた柴田が左足を振り抜くと、ボールはポストに当たってゴールに刺さり、日本が再度リードを奪う。
田中美南は得点こそないが、技術が高くて確実にチャンスをつくれる選手だ。選手ひとりひとりのレヴェルが高いわ。
その後は韓国が日本を押し込むシーンもあったが、どうにかギリギリのところでそれをしのぐ。見ごたえ十分の試合だ。

前半終了が近づき、きっちりと追加点がほしい37分、またしても田中美南の右サイドからの攻撃が結果を出す。
田中美南が囲まれながらもSBの高木に出すと、深い位置までドリブルで持ち上がる。そこからマイナスのクロス。
これを中央の西川がスルーしたところに逆サイドでフリーになっていた田中陽子があっさりとゴール。
大会4試合連続の5ゴール目ということで、会場は大興奮。もうお祭り騒ぎでございますよ。
ロスタイムにはFKを得て、田中陽子がスタンバイ。いやがうえにも盛り上がるスタジアム。テンションは最高潮である。
田中陽子は横の猶本へのパスを選択。そこからミドルを狙った瞬間に前半終了の笛。オジサンたちがっくり。

  
L: 先制して喜ぶヤングなでしこの皆さん。若い女子がキャイキャイ喜んでいる姿はええのう。スタンドのオジサンたちも大喜び。
C: ショートパスをつないで攻め込む日本。男子も含めておそらく日本で最も攻撃意識が高いサッカーを、ヤングなでしこはやっている。
R: 田中陽子が3点目をあげる直前のシーン。この後、中央の西川がスルーして奥の田中陽子がシュートを決めた。

せっかくなんで、試合中に撮影した皆さんの勇姿を貼り付けておくのだ。僕のカメラはコンパクトデジカメなので、
残念ながらこれくらいが限界なのである。まあ一眼レフできれいどころの選手を追っかける気はまったくないから、
こんなもんで勘弁してください。当方、ファンではあってもマニアではありませんので、あしからず。

  
L: 猶本。まじめそうでええのう。  C: 一気にスターダムにのしあがった感のある田中陽子。ここまでフィーヴァーになるとは……。
R: 前の試合はナイジェリア×メキシコ。1枚のチケットで2試合観られるので、ナイジェリアのサポーターが残って日本を応援。

数は少ないながらもアウェイゴール裏では韓国サポーターが一生懸命に応援していた。
が、それに混じって「がんばれにっぽん、がんばれにっぽん」という声が、同じくアウェイゴール裏の方から聞こえてくる。
なんだこりゃ、と思って見てみたら、残っていたナイジェリアサポの皆さんがタイコを叩きながら日本を応援していたのだった。
陽気なナイジェリアの皆さんはハーフタイムにもメインスタンドで日本の観客と一緒に盛り上がっていた。面白かったわー。

さて、光に陽子とくれば当然、ポムこと仲田歩夢(あゆ、正直親の顔が見みてみたい名前ではある)が気になる。
故障の関係でこの日サブにまわったポムは、ハーフタイムの練習になっても出てこなくてガックリ。
(最初、ポニーテールの選手が練習していたのでポムかと思ったら和田だった。ちなみに和田もけっこうかわいいぞ!)
そしたらビブスをつけたポムがタッチラインにひょっこり現れ、ほかの選手がボトルを運んでいるところに走り寄っていき、
一緒に運んであげるのであった。ポム優しいじゃんかおい!と思うのであった。ポムも活躍してくれんとなあ。

 
L: ポムこと仲田が登場。  R: 一緒にボトルを運ぶポム。キレキレのドリブルを大会中にぜひもう一度見たいなあ。

そんなこんなで後半開始。日本は攻める姿勢を崩さないが、やはり体力が消耗しているのか、だんだんと韓国ペースに。
2点のリードがあるとはいえそんなものは一瞬で消えうるので、とにかく失点をしないことが大事なのだ。
困ったことに後半の日本は徐々にセカンドボールを奪われるようになっていき、その分攻め込まれるシーンが増える。
前半のような積極的に体を当ててボールを奪いに行くプレーがすっかりなくなってしまったのだ。
日本ゴールへじりじり近づいてくる相手に対し、距離をとって構えるだけのプレーが続出。これでは押し込まれてしまう。
高い位置、少なくともボランチの位置で奪う素振りを見せないことにはズルズル全体が下がるだけになっていく。
そういうわけで、後半はきっちり韓国の攻撃をしのぎきることはできたものの、フラストレーションのたまる内容だった。

  
L: FKを蹴る田中陽子。蹴り損じてボールは大きく右へとはずれていった。これは決めてほしかったのだが。
C: 疲労のためか両SBを交代させたことで、終盤には田中陽子が左SBに入る展開に。正直、けっこう危なかった。
R: 試合はそのまま3-1で終了。喜ぶヤングなでしこの皆さんはいいが、TVカメラが平然と入っているのがなんとも。

W杯ということで、日本語より先に英語でアナウンスが入るのだが、入場者数の発表でめちゃくちゃ驚いた。
最初、「twenty-four thousand....」というフレーズが聞こえたときにはスルッとそのまま聞き流しそうになったのだが、
思い返してみて思わず声をあげてしまった。そう、この試合の入場者数は24,097人。育成年代のW杯でこの数字だ。
ヤングなでしこの人気が爆発中で日韓戦で、2万5千人近く入ってしまったのだ。これには驚愕したわ。
J2の地方クラブもこの1/3くらいコンスタントに入るようになるといいんだけどなあ。困ったもんだなあ。

というわけでヤングなでしこが順当に勝利して、史上初のベスト4入り。メインスタンドの観客たちは、
アウェイゴール裏に挨拶に行く韓国の選手たちもきちんと拍手で健闘を讃えたのであった。
まあ相手も20歳以下の女の子たちですからね、当たり前のことを当たり前にしただけですけど。
試合内容は、後半はともかく前半は本当に魅力あふれるもので、膠着状態の長いJ1よりはるかに面白いと言える。
今のヤングなでしこが展開するサッカーは、おそらく男子も含めて、「日本固有のスタイル」として認知されうるものだ。
これはリピーターが続出するだろうなあ、と思う僕も、次の準決勝がもう楽しみでたまらない。うおー辛抱たまらん。


2012.8.29 (Wed.)

中教審を廃止しないとまずいだろ! 小学校1年から英語をやるとか言い出したみたいだけど、もう、
あまりのその頭のおかしさには呆れて何も言えない。これ本当にヤバいよ! 狂人にはこれ以上何もさせちゃいけないよ!

橋下のバカが教育委員会を廃止するとか言っているようだけど、真に廃止すべきはまず中教審だ。
中教審とは「中央教育審議会」のこと。文部科学省の審議会で、教育に関することを広く審議しているのだが、
これがもう、ろくなもんじゃない。現場を知らないくせに知名度だけはある素人を集めているだけ。
知名度が高いということは、ひとつの道を極めたということなんだけど、つまりそれは視野の狭さも意味する。
そもそも、そういう人間は往々にして、人間性の豊かさよりも政治力でのし上がってきただけ、ってことも多いはずだ。
偏った価値観の連中が集まって、上からモノを言うわけだ。それがみんなにとって広く正しい結論を導けるはずがない。

そもそも審議会という手法じたいがおかしいのである。審議会を設置することで、広く意見を聞きますってことにしている。
でも、まずそのメンバーを構成する方法がよくわからない。誰がどう選ぶかが不透明で、気がつきゃ審議が始まっている。
何から何までいいかげんな制度なのに、社会的に存在意義が問われることなく通用していることが僕には理解できない。
審議会を政治の意思決定に大々的に利用しはじめたのは、1980年代の中曽根政権だという話を大学時代に聞いた。
時期的に革新ブームの後だし、派閥が傍流で弱い中曽根には「国民の声」による政策の裏付けが必要だったそうで、
以来、審議会は悪弊として完全に定着している。審議会に任せておけばいいという他人任せな国民の責任でもあるが。

とにかく、ゆとり教育を認めたのにも廃止したのにも中教審が関わっており、存在意義がないことはもう明白だ。
バカなのに権力だけはある文科省の言うことをヘイヘイとそのままスルーして、お墨付きを与えてしまう。
中教審を今すぐ廃止し、現場を無視して上から命令する文科省と国民ひとりひとりが対等に向き合う状況をつくるべきだ。
そうしてすべての教育をめぐる短絡的な方策を是正しなければならない。子どもを長期的な視野で育てないといけない。
詰め込み教育でけっこう! そうやって乾いたスポンジに次から次へと水を与えなければ、教養ある人間は育たない。
十分なインプットをしないくせにアウトプットの技術ばかりを求める教育は、大局的には思考の空洞化を招くだけである。
いま一度、全国民が「教養」という観点から教育について考えることを望む。まずは中教審の廃止からスタートだ。
そして将来的には教育学じたいも禁止すべきだ。学芸大学と教育大学も廃止、教員免許も廃止する(→2012.2.13)。
真実は、短絡的な思考とはすべて逆にある。急がば回れ。余裕のない者は、自らをどんどん追いつめて滅びるだけだ。


2012.8.28 (Tue.)

韓国に反対するのはかまわんが、日本人の品位を落とさないでもらいたい。
新大久保で日の丸持ってデモをやったバカどもがいたそうで、しかも韓流ショップと小競り合いをしたとかなんとか。
そういう連中の存在は恥そのものだ。日本人にふさわしくないから、お前らがまず、今すぐ出ていってもらいたい。

まずデモという手段がまったく美しくないわけだ(→2006.8.22)。数に物を言わせる示威行動。
裏を返せば、群れないと主張ができないというレヴェルの低さの露呈でしかない。これほど下等な方法はないのだ。
(だから僕は反原発デモに対しても無条件で反対する。あんなのただ騒ぎたいだけだろ。ほかの方法をとれよ。)
国旗の使い方も間違っている。ずいぶんと安っぽい使い方をしてくれるじゃないか。

そして韓流ショップに対する姿勢。その場にいたわけじゃないから具体的なことはわからない。
しかしデモをしていてそこにつっかかるのは反則だろう。自分の気に入らないものに対して、数を背景に脅しをかける。
それはもはや主張ではない。まぎれもなく脅迫行為だ。堅気の人間のやることではない。理性の線が引けていない。

ついでにサッカー関連でも言わせてもらうと、最近、韓国人選手のJリーグクラブ入団について、品のないコメントが目立つ。
スポーツにおいては実力が第一で、国籍は関係ないはず。僕はサッカー界がその点を徹底していることが気に入って、
サッカーというスポーツをリスペクトしていった経緯がある。だから韓国人選手というだけで批判することを許せない。
前にも書いたが(→2011.8.222012.2.12)、出自で人を差別する人間は、自分が差別されても文句を言えない。
そんな具合に自分で自分の首を締めて、自分で自分の価値を貶めていることに気づかないのか。本当に愚かだ。

今の日本の現状に、恐ろしいほどの危機感をおぼえる。教養に欠けた短絡的な思考が日本を間違いなく蝕んでいる。


2012.8.27 (Mon.)

今年の夏休みは大規模な北海道旅行を敢行したわけだが、ただ「旅行した」「楽しかった」ではイカンのである。
実際に空間を体験して感じたことを文章にしてまとめておかなければ、社会学者としては失格なのである。旅行初日、
「今回の北海道旅行中は都市間の経済的な綱引きの問題を植民地的な都市構造と絡めて考えていた」と書いたが、
それを実際に文章の形で書き出してみたいと思う。ものすごく面倒くさいんだけど、がんばってやってみる。
ベースになるのは、2年前の北海道旅行で旭川を訪れたときの記憶(→2010.8.10)。その記述を丸ごと引用してみる。

北海道内の都市配置は、本州などの城下町による都市の形成とは異なり、植民地型のネットワークを感じる。
つまり札幌という核を中心にいくつかの開拓された都市が囲み、さらにその周辺を農村が囲むという構図だ。
(ただし道南部の松前や函館は城下町型で、地理的にも札幌を中心とする植民地ネットワークの外にある。
 そして松前や函館などは港町として、海路による道南部独自のネットワーク(本州型)を形成した。)
旭川は道北における核で、周辺の各都市と札幌を結ぶ役割を果たしている。
そこにあるのは「都会の階級」で、旭川の街からは、周辺各都市を「従えている」という誇りを感じるのだ。

今回と2年前の旅行によって北海道の主要都市はあらかた体感できたはずなので、現時点での各都市の特徴を考える。
……と思って調べはじめたら、とてもとても表面的なチェックでは済まないほどに複雑な歴史が横たわっていた。
ほじくり返しだしたらまったくキリがなくって、和人がアイヌを虐げてきた歴史や屯田兵の実態についてなど、
ネット上の記述をまとめるだけでもものすごくエネルギーを使うことになってしまった。地理と歴史がまさに一体なのだ。
とりあえず、現在の北海道の都市と直接関係があると思われる江戸時代以降の歴史から、まずは見ていく。
そのうえで、各都市についての考察を加えていき、一定の結論を導き出してみる。

※ここでは日本人の大多数を占める大和民族のことを「和人」と表記する。アイヌも和人もどっちも日本人なんで。

もともと「蝦夷地」とは「アイヌの居住地」を指す言葉だった。そして、その対義語は「和人地」である。
つまり、現在の北海道の領域をそのまま単純に「蝦夷地」と呼んでいたわけでは必ずしもなかった。
北海道のうち、松前藩に代表される和人が暮らす地域を和人地、アイヌの暮らす地域を蝦夷地としていたのだ。
(当時の日本では国家観が現在ほど空間に対して厳密なものではなく、北海道を自国の一部とする考え方が希薄で、
 津軽海峡から先は定着している他民族(=アイヌ)との曖昧な境界領域、ぐらいの認識・興味でいたと思われる。)
現在の松前町のほか、函館市など道南の渡島半島周辺は和人地であり、主として和人の生活領域だった。
松前藩では和人が和人地から出ることを禁じていたが、これは松前藩がアイヌとの交易を独占するためだった。
(一方、アイヌは和人地に自由に出入りできた。でも交易できないんなら、狩猟しに来るだけになるわな。)

松前藩における和人とアイヌの交易は、蝦夷地各地の「商場(あきないば)」で行われた。米がとれない松前藩では、
藩主自らアイヌと交易したほか、家臣にも年1回の交易権を与え、これを知行としていたわけだ。これが商場知行制。
松前藩が幕府からアイヌとの交易の独占権を認められたのは1604年のことで、商場知行制は1630年ごろの成立。
なお、一口にアイヌと言っても地域によってさまざまな部族がおり、各部族の支配する領域に応じて商場が置かれた。
和人たちが船でアクセスするため商場は沿岸に設定されたが、広大な蝦夷地に61ヶ所もあったという。
(アイヌも主要食材であるサケが獲れ、船で物を運ぶのに便利な川の流域に集落(コタン)を形成していた。)
場所と機会が制限されることで自由な取引から松前藩側に優位な取引へと変化していき、アイヌの不満は増幅する。
そして1669(寛文9)年にはシャクシャインが蜂起するも、鎮圧されて締め付けはさらに強化された(→2010.8.10)。

その後、商場知行制は「場所請負制」へと移行していき、1720年ごろになるとかなり一般化したそうだ。
これはつまり、松前藩が行っていた交易を商人に委託する(商人たちが請け負う)ようになったということ。
というのも、松前藩の武士たちにとってアイヌとの交易は財政的な負担が大きく、内容も非常に複雑であったから。
武士にしてみれば、自ら交易を行うよりも慣れている商人たちに任せて運上金を取って利益を得る方が効率がよいし、
商人にしてみれば、規制が撤廃されることで利益拡大のチャンスを得られるということで、利害が一致したのだ。
この場所請負制の浸透により、商場は「場所」へと名称が変化する。この「場所」が都市の有力な起源のひとつとなる。

しかし商場知行制から場所請負制の移行、つまり商人の進出は、アイヌの生活に深刻な打撃を与えることとなった。
商人たちはより利益をあげるため、交易の交換比率をさらに自分たちに有利なように力ずくで変えていく。
それだけでなく、漁場で漁(ニシン・サケが主)をする権利も得て、低賃金かつ劣悪な環境でアイヌを働かせはじめる。
商人は場所ごとにアイヌの人別帳を作成し、管理した。こうして和人の支配域は沿岸・河口から河川流域へと拡大する。
アイヌは漁業労働力として場所周辺に強制的に集められ、働くことのできない人々は集落(コタン)に放置されたという。
このような扱いによりアイヌの出生率は低下し、さらに天然痘の流行もあってアイヌ人口は激減してしまう。
人口が減れば、民族の文化や社会の様式を次の世代に伝えていくことができなくなる。アイヌはいよいよ追い込まれる。
(たとえば、サケが豊富に獲れる石狩場所(石狩十三場所)では過酷な生活によりアイヌ人口が減ったため、
 石狩川の上流で暮らす上川アイヌを強制移住させて労働力を補充した記録がある。これは19世紀初頭の事例。)
1789年には特にアイヌに過酷な生活を強いていたクナシリ・メナシで大規模な反乱が起きる(クナシリ・メナシの戦い)。
(納沙布岬には北方領土返還を訴える碑に混じり、クナシリ・メナシの戦いで殺害された和人71名の慰霊碑がある。
 しかし、戦いの後に処刑されたアイヌ37名の碑は見当たらなかったように思う。→2012.8.18

1799(寛政11)年、幕府は東蝦夷地の場所請負制を廃止し、松前藩の統治から幕府の直轄統治へと移行する。
これはクナシリ・メナシの反乱の規模の大きかったこと、そして南下してきたロシアが開港を要求するなど(ラクスマン来航)、
蝦夷地をめぐる状況の変化に松前藩では対応できないとの判断による。1807(文化4)年には西蝦夷地も天領となる。
一方で幕府は、アイヌの和人同化を推進する方針をとる。これはアイヌがロシア側につくことがないようにする目的があり、
日本語の使用・狩猟生活から農耕生活への転換・刺青の禁止・仏教の伝播(キリスト教化の阻止)などを進めた。
蝦夷地は1821年にはいったん松前藩領に戻るが、1854(安政元)年に幕府はアメリカやロシアと和親条約を締結し、
箱館が開港されると蝦夷地の大半を再び幕府の直轄地とする。そして蝦夷地の警備を東北諸藩に振り分けた。
(大まかに南部藩:後志・西胆振・渡島北部、津軽藩:檜山、仙台藩:十勝・日高・東胆振・釧路・根室・北方領土、
 秋田藩:宗谷・留萌、庄内藩:石狩・空知・天塩・留萌、会津藩:北見網走・知床、となるそうだ。)
再度の幕府直轄化により蝦夷地の日本化はさらに進行し、和人の移民導入による開拓が進められていく。
そして場所請負制は廃止されていき、場所は村並へと変わっていく(道南から始まり、1865年には小樽が村並になる)。
村並とは「(道外における)村と同格」を意味する語で、つまり和人による都市化が行われる空間ということである。
場所請負制が正式に廃止となるのは、明治政府の開拓使設置後である1869年のこと。

1867(慶応3)年の大政奉還後も混乱は続き、翌年に榎本武揚・土方歳三ら旧幕府軍は五稜郭を占拠するが、
新政府軍と交戦して敗れる(箱館戦争)。これにより戊辰戦争が終結して、日本は近代国家へと変貌を遂げる。
明治政府は1869(明治2)年に蝦夷地を北海道と改称し、11の国と86の郡による行政区画を設定する。
もとより幕府による和人同化策を受けていたアイヌたちは、「平民」として日本国民の一員に正式に数えられた。
明治政府は近代国家として、さまざまな制度を私有権にもとづいて規定する。もちろん土地にも私有権が確立され、
狩猟生活を基本とするアイヌの伝統的な社会・文化・価値観は完全に否定されることとなった。

明治に入って以降の北海道について、都市化をめぐる動きを簡単に追っていくと、以下のようになる。
1869年に箱館は函館に改称され、開拓使出張所が設置される(現・函館市銭函)。そこを拠点に札幌を整備し、
1871(明治4)年に開拓使庁が札幌に移された。なお、それまでの2年間、北海道は分領支配が行われていた。
つまり、諸藩・士族・庶民の志願者に分割して支配させていた(開拓使の直轄地と松前藩の後身である館藩を除く)。
分領廃止後も開拓を継続したのは仙台藩(沙流郡・標津町・択捉島)・斗南藩(長万部周辺)・佐賀藩(釧路周辺)、
士族では伊達邦成(伊達市)・伊達邦直(当別町)・片倉邦憲(登別市)・稲田邦植(静内・新ひだか町)などがいる。
開拓使のトップとして北海道開発を行ったのは、陸軍参謀として箱館戦争を勝利に導いた黒田清隆。
黒田はお雇い外国人の技術指導を採り入れ、また困窮した士族を屯田兵として北方警備と開拓にあたらせた。
(黒田は開拓使長官を務めつつ西南戦争に参加し、屯田兵は戊辰戦争の敵だった薩摩の士族相手に活躍した。)
屯田兵の入植は1875(明治8)年に開始。琴似からスタートし、札幌・江別周辺に集中して入植していった。
開拓使の開拓事業には巨費が投じられ、日本初の本格的な西洋式馬車道である札幌本道の建設(1873年完了)、
炭鉱開発(ライマンが夕張炭鉱を推定したのは1874年)、開拓使麦酒醸造所(現・サッポロビール)の設立(1876年)、
札幌農学校の設立(1876年)など、北海道の開発は札幌を中心にしながらも確実に進められていった。

しかし1881(明治14)年に開拓使官有物払下げ事件が発生して黒田は辞任、翌年に開拓使は廃止となる。
これは官有の施設・設備を、退職した官吏の企業にきわめて安く払い下げる計画が発覚した事件である。
開拓使廃止後の北海道は、函館県・札幌県・根室県と農商務省北海道事業管理局の「三県一局時代」に入る。
(ただし開拓事業への専念や人口密度の低さなどの理由で、3県に正式な県議会や郡役所は設置されなかった。)
集治監が設置されはじめたのはこの時期で、樺戸(月形町)・空知(三笠市)・釧路(標茶町)がまずつくられ、
後に網走(→2012.8.19)・十勝(帯広市)の分監も設置される。集治監は囚人に強制労働を課すことで、
開拓を強力に推し進める原動力となった。また、集治監の設置が都市化の直接的なきっかけにもなった。
(たとえば帯広では、1883(明治16)年に依田勉三率いる晩成社一行27人が入植したのが街の歴史の始まりだが、
 1895(明治28)年に設立された十勝分監の受刑者により大通りが整備されたことで、市街地が形成されている。)
1886(明治19)年、3県を廃して北海道庁が設置される。札幌に本庁が、函館と根室に支庁が置かれる(廃県置庁)。
なお、1885(明治18)年から平民も屯田兵になることが認められ、入植地も根室・滝川・北見などに広がった。
屯田兵の入植は37ヶ所に及んだが、屯田兵を母体として第7師団が1896(明治29)年に札幌で編成され、
1904(明治37)年になって屯田兵制度は廃止された(ちなみに、第7師団の旭川移転は1901(明治34)年のこと)。

明治期の人口動態をみると、開拓使設置当初(1869年ごろ)は6万人弱、北海道庁設置時(1886年)は30万人、
1901年には100万人を突破するほどの勢いとなっている。東北からの移住が最も多く、北陸、四国と続くとのこと。
要因はいくつかあり、西南戦争後の松方デフレ政策による農産物価格の下落がもたらした農村の困窮や、
1889(明治22)年の十津川大水害(→2012.8.21)、1896(明治29)年の明治三陸地震などの災害も挙げられる。
地方自治の面からみると、日本では1888(明治21)年に市制・町村制が定められたのだが、北海道では適用されず。
その後、1899(明治32)年になって、北海道区制とともに北海道一・二級町村制が施行される。
北海道区制は市制に準ずるもので、施行と同時に札幌区・函館区(→2008.9.15)・小樽区が発足している。
1914(大正3)年には旭川区、1918(大正7)年には室蘭区、1920(大正9)年には釧路区がそれぞれ発足。
しかし1922(大正11)年に市制での北海道の特別扱いがなくなったため、道内の6つの区はそのまま市となった。
北海道一・二級町村制もやはり町村制に準ずるものだったが、二級町村では自治権が大幅に制限されていた。
すべての町村で完全に道外と同じ制度が適用されたのは、戦後の1946年になってから。長い道のりだったのだ。

ここまで長々と北海道の歴史についてまとめてきたのだが、それを各市のデータとして一覧表にしてみる。
表に挙げるのはとりあえず、道内人口上位10都市。これはだいたい人口10万人以上の都市と重なる。
そして10位台には札幌近郊の都市が多くあるので、その中の上位ということで千歳市・岩見沢市・恵庭市も挙げる。
さらに20位台からは著名な都市である網走市・稚内市・根室市も挙げる。基本的にはWikipediaの記事が引用元。

★人口上位10都市

  現人口 位置 市名

場所

碁盤 都市化の経緯
札幌市 191万
(1位)
石狩国(道央) アイヌ 178? 石狩十三場所の確立(うち5場所が現在の市内)
1866 大友亀太郎が創成川を開削(札幌村、現・東区)
1869 開拓使の設置、島義勇が都市建設を指導
1875 札幌周辺への屯田兵の入植開始
1882 開拓使廃止にともない札幌県庁を設置
1886 札幌県庁廃止、北海道庁の本庁が設置される
1899 札幌区設置
1922 市制施行
旭川市 35万
(2位)
石狩国(道北) 和訳
(誤訳)
  1890 上川郡に旭川・永山・神居の3村を設置
1892 屯田兵の入植
1897 上川郡役所(後に支庁)を旭川に移転
1900 旭川村が旭川町になる
1901 陸軍第7師団が旭川に移転
1914 旭川区設置
1922 市制施行
函館市 28万
(3位)
渡島国(道南) 日本語   1454 河野政通が館を建設(「箱館」の由来)
1604 松前藩のアイヌ交易独占権が認められる
1802 天領となり蝦夷奉行(後に箱館奉行)を設置
1856 再度天領となり箱館奉行をあらためて設置
1859 日本初の国際貿易港として開港、外国人居留地を設置
1869 箱館戦争終結
1882 開拓使廃止にともない函館県庁を設置
1886 函館県庁廃止、北海道庁の支庁が設置される
1899 函館区設置
1922 市制施行
1934 函館大火、市街地の1/3が焼失
釧路市 18万
(4位)
釧路国(道東) アイヌ 1604 松前藩のアイヌ交易独占権が認められる
1669 シャクシャイン蜂起、鎮圧後にクスリ場所でも交易再開
1799 東蝦夷地が幕府の直轄統治に移行
1855 クスリ場所が仙台藩の警備地となる
1869 分領支配により佐賀藩が統治(「釧路」に改称)
1884 鳥取県士族が移住開始(現・釧路駅周辺を開拓)
1885 湿地帯を埋め立て、北大通り(の前身)を整備
1897 釧路郡役所を廃止、釧路支庁を設置
1900 一級町村制により釧路町となる、初代幣舞橋架設
1909 道東の流通拠点化のため釧路港の整備開始
1917 釧路駅を現在地に移転
1920 釧路区設置
1922 市制施行
苫小牧市 17万
(5位)
胆振国(道央) アイヌ   1799 東蝦夷地が幕府の直轄統治に移行
1800 蝦夷地の防衛と開拓のため八王子千人同心が移住
1803 八王子千人同心が撤退
1873 開拓使勇払郡出張所を移転(苫小牧市の開基)
1902 二級町村制により苫小牧村となる
1910 王子製紙苫小牧工場が操業開始
1918 二級町村制のまま苫小牧町となる
1919 一級町村制施行
1948 市制施行
1963 苫小牧港が重要港湾に指定される
帯広市 17万
(6位)
十勝国(道東) アイヌ   1883 晩成社の入植
1892 北海道庁が殖民区画による市街地設計を開始
1895 北海道釧路集治監十勝分監の開設
1902 下帯広村から二級町村制により帯広町となる
1915 一級町村制施行
1933 市制施行
小樽市 13万
(7位)
後志国(道央) アイヌ  

1596 和人・八木勘右衛門が入植
1669 「オタルナイ」という地名の初出(現・星置川下流部)
17?? オタルナイ場所をクッタルウシ(現・小樽市中心部)に移転
1865 幕府がオタルナイを村並とする
1880 北海道最初の鉄道が手宮-札幌間で開通
1899 小樽区設置、小樽港開港
1906 旧日本郵船小樽支店が竣工
1922 市制施行
1923 小樽運河完成

北見市 12万
(8位)

北見国(道東)

ア→日   1872 常呂郡にノツケウシ(野付牛)村設置
1897 北光社移民団・屯田兵の入植(北見市の開基)
1909 二級町村制により野付牛村となる
1915 一級町村制施行
1916 町制施行し野付牛町となる
1942 市制施行により北見市となる
江別市 12万
(9位)
石狩国(道央) アイヌ 178? 石狩十三場所の確立(うち2場所が現在の市内)
1873 榎本武揚が農場を開設
1878 札幌郡江別村を設置
1882 江別駅開業、市街地が形成される
1884 屯田兵の再度の入植
1890 北越殖民社の野幌入植
1891 煉瓦工場が操業開始
1906 二級町村制により江別村となる
1909 一級町村制施行
1916 町制施行し江別町となる
1954 市制施行
1963 団地建設による宅地化が始まる
室蘭市 9万2千
(10位)
胆振国(道央) アイヌ

1604 松前藩のアイヌ交易独占権が認められる
1600頃? 松前藩がエトモ場所・モロラン場所を設置
1799 東蝦夷地が幕府の直轄統治に移行
1855 南部藩がモロラン場所に陣屋を築き警備
1872 室蘭海関所を設置、室蘭港開港
1880 室蘭郡役所を開設
1887 輪西に屯田兵が入植
1892 室蘭駅(現・東室蘭駅)開業
1900 一級町村制により室蘭町となる
1907 日本製鋼所室蘭製作所が操業開始
1909 北炭輪西製鐵場(現・新日鐵住金)が操業開始
1912 室蘭駅移転(3代目、現・旧室蘭駅舎)
1918 室蘭区設置
1922 市制施行

★人口10位台・札幌近郊の都市

  現人口 位置 市名

場所

碁盤 都市化の経緯
千歳市 9万4千
(11位)
胆振国(道央) ア→日

1658 弁天堂を建立
1660以降? 松前藩がシコツ場所を設置
*シコツ場所がユウフツ場所に編入
1799 東蝦夷地が幕府の直轄統治に移行
1805 箱館奉行が「千歳」と命名
1873 札幌本道(現・国道36号)開通
1880 千歳郡各村戸長役場が開庁(千歳市の開基)
1894 単独移民188団体、団結移民2団体が入植
1915 二級町村制により千歳村となる
1926 千歳飛行場の前身となる着陸場を整備
1934 千歳飛行場完成
1939 一級町村制施行、海軍航空隊が開庁
1942 町制施行により千歳町となる
1951 オクラホマ州兵師団が進駐
1952 保安隊千歳駐屯地(現・北千歳駐屯地)開設
1958 市制施行
1962 陸上自衛隊・第7師団が東千歳駐屯地に移駐
1988 新千歳空港開港

岩見沢市 8万8千
(12位)
石狩国(道央) 日本語   1878 開拓使が休泊所を設置(浴澤→岩見沢)
1883 入植開始(岩見沢市の開基)
1884 士族集団移住、二級町村制により岩見沢村となる
1889 上川道路(現・国道12号)開通
1892 岩見沢駅が現在地に移転
1897 空知支庁設置
1900 一級町村制施行
1906 町制施行
1926 国鉄岩見沢操車場開設
1943 市制施行
1953 保安隊(現・陸上自衛隊)岩見沢駐屯地開設
1956 岩見沢操車場改修
恵庭市 6万8千
(13位)
胆振国(道央) アイヌ 1604 松前藩のアイヌ交易独占権が認められる
178? 石狩十三場所の確立(シュママップ場所)
1873 札幌本道(現・国道36号)開通
1886 山口県から漁川沿いに入植
1897 漁村外一村戸長役場として独立(恵庭市の開基)
1906 漁・島松の両村を恵庭村とし、二級町村制施行
1923 一級町村制施行
1950 警察予備隊(現・陸上自衛隊)北恵庭駐屯地開設
1951 町制施行により恵庭町となる
1952 南恵庭駐屯地・島松駐屯地開設
1970 市制施行
1979 恵庭ニュータウン恵み野を造成

★人口20位台・著名な都市

  現人口 位置 市名

場所

碁盤 都市化の経緯
網走市 3万8千
(20位)
北見国(道東) アイヌ 1604 松前藩のアイヌ交易独占権が認められる
1798 アバシリ場所が谷口青山により描かれる
1872 網走郡にアバシリ村設置(網走市の開基)
1881 網走川河口部右岸に市街地を区画、払い下げ開始
1890 釧路集治監網走分監・網走囚徒外役所開設
1902 二級町村制により網走町となる
1915 一級町村制施行
1947 市制施行
稚内市 3万7千
(21位)
北見国(道北) アイヌ   1685 松前藩がソウヤ場所を開設
1807 西蝦夷地が幕府の直轄統治に移行
1859 秋田藩が統治
1870 開拓使が統治(翌年、金沢藩が統治)
1872 宗谷支庁設置(翌年廃止)
1875 開拓使出張所を設置
1879 宗谷郡役所・戸長役場が置かれる(稚内市の開基)
1900 稚内町が宗谷村より分かれて一級町村制施行
1922 稚内駅(現・南稚内駅)開業
1928 稚内港駅(現・稚内駅)開業
1949 市制施行
根室市 2万8千
(24位)
根室国(道東) アイヌ 1789 クナシリ・メナシの戦いが勃発
1790 松前藩の運上所をノッカマップからネモロに移す
1792 ラクスマン来航
1799 東蝦夷地が幕府の直轄統治に移行
1855 ネモロ場所が仙台藩の警備地となる
1869 開拓使根室出張所を設置
1875 根室町区画が完成
1882 開拓使廃止にともない根室県庁を設置
1886 根室県庁廃止、北海道庁の支庁が設置される
1900 一級町村制により根室町となる
1957 市制施行

というわけで、以上のデータをもとにして北海道の都市について考察を加えてみたい。

まずやはりなんといっても、北海道の都市形成において、「場所」の存在は非常に大きな要素である。
和人とアイヌの交易地点だったのだから、それだけで都市の要素を含むものだったのは当然のことだ。
近代化以前の日本、つまり江戸時代までの日本では、流通において海運の果たす役割は多大なるものがあった。
(たとえば北前船についてふれた、酒田と岩瀬(富山)の過去ログを参照。→2009.8.112010.8.24
サケの獲れる河口付近で漁をして暮らすアイヌと、海からアクセスする和人が出会ったのが、「場所」なのだ。
「場所」の存在が現在の都市に直接関係するわけではないが、大まかな位置の決定につながったのは間違いない。
和人地ではなかった地域で「場所」が存在した都市は、人口上位では札幌(→2010.8.92012.8.21)・
釧路(→2012.8.172012.8.18)・小樽(→2010.8.8)・江別(まだ行ってない……)・室蘭(→2012.7.1)が、
そして20位台では網走(→2012.8.19)・稚内(→2010.8.11)・根室(→2012.8.18)のすべてが挙がる。
(10位台の千歳と恵庭にも「場所」があったが、ほかの「場所」と統合されたり現在の都市と位置が異なったりする。)
明治に入って本格的に開拓の対象となっていく北海道において、「場所」の存在はまず優位にはたらいたはずだ。
特に場所請負制以降はアイヌを漁業労働力として「場所」に強制移住させてもいる。それも一種の植民都市だ。
サケが豊富な石狩平野には石狩十三場所が形成され、その中の札幌が開拓使設置時より北海道の中心とされた。
(それ以前は箱館(函館 →2008.9.15)が拠点と言える存在だったが、位置的に北海道の中心にはなりえなかった。)
というわけで、北海道の都市の多くは、「場所」の歴史の上に開拓という要素が積み上げられて成立していると言える。

しかし一方で、旭川(→2010.8.10)・苫小牧(→2012.7.1)・帯広(→2012.8.17)・北見(→2012.8.19)など、
「場所」とは関係のない都市も大都市となっている(大都市ではないが、岩見沢(→2010.8.12)もそうだ)。
上で少し述べた千歳や恵庭も、こちらに含めることができるだろう。これらの都市は明治以降の開拓に直接の起源がある。
当然ながら街路は碁盤目状に整備され、西洋由来の方法論も用いながら農業生産を通して都市は成長していく。
ただし、人口上位の大都市と10位台の都市との間には、それぞれ決定的に異なる特性がある。
上位の都市は「場所」の系譜は持たなくとも、集散地・物流拠点つまり交通の要衝として発展してきた。
一方、10位台の都市は札幌のベッドタウンという顔と、自衛隊の基地や駐屯地を持つ軍事都市としての顔がある。
そもそも開拓を行った屯田兵の歴史からして、北海道開発の歴史は軍事の歴史と重なっているのだ。
また交通の利便性はそのまま軍事的な重要性に直結する。これも北海道の都市においては大きな要素だったのだ。
(そういう意味では、明治期にいち早く軍事都市となった旭川が現在も道内2位の人口を持つのは偶然ではないだろう。)
現在の北海道について言えば、「場所」由来の都市よりも由来しない都市の方が若干強い、そういう印象を受ける。
「場所」に起源を持つ都市は、あくまで近世の海運ネットワーク(北前船)に依拠した都市ということなのだろう。
対照的に開拓で生まれた都市は、近代の陸運ネットワークに対応した都市だ。前者の衰退と後者の発達は必然なのだ。
(ただし街歩きは断然、前者の方が面白い。歴史の物語を持つ前者に対し、後者は観光資源が本当に乏しいのだ。)

最後に、個人的に北海道を象徴すると考える都市を、「場所」起源と開拓起源からそれぞれひとつずつ挙げる。
「場所」起源の象徴は、釧路である。釧路はまず釧路川以南の高台にクスリ場所の系譜を持つ住宅地が形成され、
その後に釧路川以北の湿地帯が鳥取からの移民により埋め立てられ、現在の広大な市街地が形成された歴史を持つ。
かつては北方領土に住むアイヌとの交易拠点であった根室の方が釧路よりも栄えていたのだが、
釧路港の整備により両者の立場は決定的に逆転する。釧路は北海道を代表する港湾都市として大いに成長していく。
しかし道東の中心として栄えた釧路だが、市街地を歩けばすぐにその痛ましいほどの弱体化を感じることができる。
「場所」と開拓、そして地域を代表する港となったこと。経済の発達ゆえに成長し、さらなる経済の発達ゆえに衰退する。
釧路という都市は、北海道の歴史の縮図であると同時に、日本の近代から現代の縮図であるように思える。
そして開拓起源の象徴は、旭川である。上で述べたように、多くの上川アイヌが石狩十三場所に強制移住させられた。
やがて土地にはアイヌ語の誤訳由来の和名が付けられ、屯田兵が入植して新たな歴史をスタートさせる。
20世紀に入るとが軍事基地がつくられ、都市化は一気に進んでいく。交通と軍事、2つの要素が都市を成長させる。
現在の旭川は観光都市としての側面も持つ。ただしその観光資源は近世以前の歴史に依拠するものではない。
駅前の商業空間、郊外の動物園など、歴史とは切り離された経済によって成立した空間が観光客を迎えるのだ。
やはりこの旭川という都市も、北海道の縮図であり、日本の縮図であると思う。都市は僕らにさまざまなものを語りかける。

(蛇足だが、ここまで書いてきて、江別・千歳・恵庭をまだきちんと訪れて歩いていないことが悔しくてたまらない。
 空間を実際に体験しないと理解できないことは多いのだ。いつか再び北海道を訪れて、いろいろ考えたい。)

★Wikipedia以外で参考にしたというか勝手にパクって編集させてもらったページ(ごめんなさい)

上富良野百年史
  ・第2章 先史から近世までの上富良野 第3節 アイヌ民族と上富良野 1 アイヌ民族とその生活
  ・第2章 先史から近世までの上富良野 第3節 アイヌ民族と上富良野 2 上川・富良野盆地とアイヌ民族
北海道ファンマガジン
  ・北海道史2 松前藩成立
  ・北海道史3 箱館戦争から開拓使へ
  ・北海道史4 三県一局時代と北海道庁
  ・松前藩時代のアイヌとの交易
  ・屯田兵と屯田兵村
北海道における移民文化形成に関する研究-八雲町における士族移民を例に-


2012.8.26 (Sun.)

電車に乗ってサッカー観戦しようかと思ったけど、疲れがたまるだろうからやめた。
こちとら嵐のような新学期に備えて体調を万全の状態にしておかなくちゃならんのだ。
というわけで、おとなしく家で過ごす。ヤングなでしこのスイス戦を見ながらの、優雅な夜のひととき。

そしたら田中陽子が大爆発。一試合でFKを左右両足でそれぞれ決めるって、ガンバの磯貝がやった話は聞いていたけど、
実際に見たのは初めてだ。いや、確かに田中陽子は両足どっちの精度もいいってのはもともと知っていたから、
「こいつならやりかねんなあ」と思いながら見ていたのだが、実際にやられてしまうと、もう、言葉がない。
その後も次々に追加点が入って完全なるワンサイドゲームとなった。こりゃ現地観戦してたらたまらなかったわな。
まさかここまで、見ていて楽しいサッカーをやってしまうとは。これはぜひ、どうにかして、実際に試合を観に行きたいわ。


2012.8.25 (Sat.)

というわけで、本日はe-ラーニングの試験なのである。大学の通信教育で単位を取るときとだいたい同じ要領で、
e-ラーニングが終わったら試験資格が与えられるので、指定された時間に指定された場所に行って試験を受ける。
今回は東京学芸大学が試験会場なので、中央線で武蔵小金井駅へ。大雪の審判講習会(→2011.2.11)以来か。
実は僕は学芸大学には一度しか行ったことがない(→2001.11.18)。もう11年も前のことなので、道順など覚えていない。
しょうがないので、記憶しておいたGoogleマップを頼りにトボトボ歩いていく。バスに乗れば手っ取り早いんだけど、
まあせっかくだし、久しぶりに多摩を歩いてやろうと思っちゃったのだ。多摩は私の第二の故郷でございますので。
しかし炎天下の住宅地はあまりに条件が厳しく、かなりフラフラになりつつ、どうにか大学の東門にたどり着いた。
学芸大学は思っていた以上に駅から遠く、しかも住宅ばっかりなのでランドマークが皆無でつらかった。
しかも教育学系のキャンパスなので、無機質きわまりない(→2010.9.24)。歩いていて気持ちの悪い空間だ。
教育学部なんて廃止、学芸大学も廃止、教育学は禁止!というのが僕の持論である(→2012.2.13)。
こんなところで学生生活を送った日には、オレもうどうかしちゃうよ!と思いつつ、なんとか受付に到着できた。
あまりにのどが乾いていたので、キャンパス内を軽くさまよった末、生協を発見して自販機で500mlのポカリを購入。
これでようやく息を吹き返す。それにしても学芸大学の中は緑と灰色の印象しかない。居心地悪いですよホント。

肝心の試験は持ち込みOKなうえに1時間で10問、6問以上正解で合格というユルさなのでノープロブレム。
途中退出が認められないのが切のうございました。終わると帰りはおとなしくバスに揺られて駅まで戻る。

そのまま中央線でお茶の水駅まで行く。メンテナンスに預けていた自転車を回収するのだ。
そしたら自転車の扱いが悪いとかなり厳しく指摘されてしまった。「ママチャリと同じ感覚じゃダメです」とな。
僕の感触では、自転車の初期セットの部品が貧弱すぎるように思う。前よりも確実に、部品が脆くなっている。
運転が荒いのは事実なので素直に「はい」と言うしかないのだが、納得はできない。どうしたもんかねえ。
で、秋葉原に出て中古ゲームミュージックCDを見て日記を書いてスタ丼食って帰る。


2012.8.24 (Fri.)

本日は日直。退屈と言えば退屈なのだが、明日は教員免許更新に関するe-ラーニング(→2012.7.30)の試験なので、
それの最終調整というか最終確認というかをすればいいので、かえって有効に時間を活用することができた感じである。
一方で、考えなくちゃいけない課題(→2012.8.2)の方がぜんぜん進まない。僕の場合、変に気合を入れすぎると、
力加減がおかしくなってしまうことがよくある。それで踏ん切りがつかないでいるというかなんというか。
とりあえず最低限、文章を書いていくための下ごしらえの段階だけで済ませておく。一気にやっちゃう勇気がないのだ。


2012.8.23 (Thu.)

久々の部活で体が動かん動かん。もともとが上手くないんだから、ブランクが空くと致命的である。
指導をしつつも壁を相手に左右の足で何度も何度もボールを蹴って、体に正しい感覚を思い出させるのであった。
そうやってイメージと体の正しい使い方のズレを修正する作業に追われる。球技の運動神経のいいやつがうらやましいよ。


2012.8.22 (Wed.)

長かった北海道旅行6日間も今日でおしまい。淋しい以上に、無事にやりきろう、という気持ちの方が強い。
旅行ってのは、無事に家に着いてナンボなのだ。最後の最後まで歩ききって、有終の美を飾るのだ、と思う。
そう、初日に書いたように、僕は今日で自分の中の北海道にけりをつけるつもりでいるのだ(→2012.8.17)。
北海道について絶対的に楽しい記憶を刻み付けるべく、動いて動いて動きまわるのである。

そんな最終日は、札幌を出発してまず小樽へ。2年前の小樽(→2010.8.8)を補完すべく動く。
それから函館本線のいわゆる「山線」で長万部まで出るのだ。そこから室蘭本線で登別へ。
登別温泉を堪能してから新千歳空港へ行き、東京へ帰るという予定である。おととい同様、「移動日」色が強い。
でも最終日にふさわしく、北海道らしさを存分に味わえる旅程となっている。男マツシマ、やりきってみせまさぁ。

 北の大地 6days 6/6: 小樽・登別温泉

宿を出ると、札幌駅に向かってえっちらおっちら歩いていく。すすきのからこうして札幌駅へ向かうのも、
もうそう簡単に味わうことができなくなるんだなあと思うと、なんとなく感傷的になってしまうではないか。
それにしても、今日も朝から抜けるような青空に恵まれている。あまりに天気がよかったので、ちょっと寄り道。
いちおう昨日も訪れているが大逆光で苦労した場所にもう一度行ってみる。北海道に別れの挨拶ってところだな。

  
L: 1888(明治21)年築の北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)。詳しいことについては2年前のログを参照(→2010.8.9)。
C: 角度を変えてあらためて眺める。青い空と緑、そして赤いレンガの対比が美しい。  R: 裏側はこのようになっている。

というわけで、再び北海道庁を訪れた。朝日を浴びた赤れんがの旧庁舎は本当に美しかった。
北海道旅行の最終日にふさわしい見事な姿を見せてくれて、ただただ感動するのみだった。
そしてもちろん、1968年竣工の現北海道庁舎も撮影。こっちはモダニズム建築な分、ガラスが朝日をがっちりと反射して、
昨日の逆光とは違う撮影のしづらさがあった。でも満足できる撮影ができた。これですっきり旅に出られる。

  
L: 北海道庁舎。12階建てなのでけっこうヴォリュームがある。  C: 角度を変えて撮影。  R: 交差点を挟んで裏側を眺める。

旅行中ということですっかり忘れていたのだが、今日は平日、そして時刻は7時半過ぎ、ラッシュアワーなのである。
札幌発小樽行きは逆方向に比べればまだいいが、それでも乗客の多い時間帯であることには変わりない。
運よく座席に座ることができたので、札幌駅のキヨスクで買い込んだ食料をいただいてパワーを充填。
さすがに小樽に着くころには混雑状態もなくなっており、すっきりした気分で改札を抜けたのであった。

時刻は8時半の少し前。ここからバスで揺られて目的地でちょうどいい時間、という計算なのだ。
上で述べたように小樽には2年前にも来ているが、天気がよくない中を石原裕次郎記念館まで歩いた、
そんな過ごし方だった(→2010.8.8)。まあそれはそれで面白かったのだが、やはり冷静になってみると、
小樽の魅力を存分に味わうことができたとは言いがたい。できるだけ長く滞在し、あちこち行ってみるのだ。
というわけで、前回の裕次郎記念館が南(小樽築港が最寄駅)だったので、今度は北だ。以前circo氏と話していて、
話題に出てきた鰊御殿に行ってみるのだ。実は小樽の北部には「鰊御殿」と呼ばれる施設がふたつある。
どちらもバスの終点であるおたる水族館の近くに位置しているので、3つまとめて訪れてしまうのだ。
駅舎を出てすぐ右手にあるバスターミナルで、おたる水族館行きのバスに乗る。家族連れが数組一緒で、
カップルもいる。僕としては別にどうってことないんですが、どうってことある心理状態の方がいいんですかね?

 
L: 快晴の小樽駅。観光が好調なようで、周辺は2年前よりも開発が進んだ印象。いいことです。
R: おたる水族館(右)とその附属遊園地・小樽祝津マリンランド(左)。シブい鰊御殿との差があるなあ。

バスが終点に到着すると、まずは水族館から攻めることにした。開館時刻になったばかりで、客は少なそう。
それならテンポよくまわってさっさと鰊御殿へ移動すればいいのだ。入館料を払うと早足で中を進んでいく。

  
L: こちらはキタサンショウウオ。オオサンショウウオと違い、ふつうのサンショウウオ類はけっこう小型なのだ。
C: イワナがウジャウジャ。何がどうしてこんなすし詰め状態になってしまっているのか。もっと堂々と泳げばいいのに。
R: コツメカワウソ。周りは暗いし動きは速いし水槽に水滴があるしで、あまりきれいに撮れなかったのが残念である。

正直なところ、おたる水族館はそれほど強烈な売りがない感じである。今年になって水族館にはちょくちょく行っており、
鳥羽(→2012.3.31)にしても鴨川(→2012.7.26)にしても、興奮しながらやたらシャッターを切ったもんだが、
小樽の場合にはローカルな雰囲気が強くて淡々と見学していった。悪くはないのだが、本当に淡々と見ていったなあ。
水族館の社会学というのもマジメに考えると奥が深いものかな、と思う。究極的には設備や内装の雰囲気が重要で、
薄暗い古くささがあると一気にマイナスとなってしまう。この点で1974年竣工のおたる水族館はけっこう不利だ。
(鳥羽は豊富な展示で建物の古さをごまかすのが上手く、鴨川は新しい施設を組み合わせることでカヴァーしていた。)
そうなると展示での工夫がポイントとなる。小樽ではコツメカワウソの行動展示に力を入れているようだ。
通路を挟んで向かい合うメインとサブのふたつの水槽をトンネルでつなぎ、そこを往復する姿を見せている。
これは面白いと大いに感心したのだが、残念なことに全体的に暗い中を速く泳ぐので、写真が非常に撮りづらい。
というわけで、デジカメやケータイでの写真の撮りやすさが今後はさらに重要になると思う。撮りたくなる場所づくり。
旭山動物園で成功した行動展示だけでなく、どの分野に強いかという水族館の個性、写真撮影を考慮した展示と照明、
そういった要素のバランスが求められている気がする。水族館経営ってのはすごくシヴィアな世界だなあと思う。

  
L: 小樽ということで、さすがにニシンが群れをつくって泳いでいる水槽があった。ニシンは北海道の歴史をつくった魚なのだ。
C: イソギンチャクとカクレクマノミ。クマノミは正面から見ると少し人間っぽい顔をしている。そりゃあディズニー映画にもなるわ。
R: 最後はペリカンが登場。食ったらめちゃくちゃまずいそうだけど、まあ食わんわな。見るからに人懐っこい。

かなりのスピードでおたる水族館を抜けてしまった。つまらなかったわけじゃないんだけどね。ヒマがないだけ。
そうして満を持してすぐ東側の高台にある鰊御殿へ。まずは駐車場になっている海岸から見上げる形で撮影すると、
坂を地道に上って入口へ。その手前はちょっとした展望スペースになっており、見事な景色が味わえる。

  
L: 海岸より見上げる鰊御殿。ちなみに手前にあるのも鰊御殿。観光用に開放されているのは高台の上の方だけ。
C: 鰊御殿の入口へと向かう坂道の途中から撮影。外見はそれほど豪華な感触のしない建物だったが……
R: 入口の手前にある展望スペースより祝津の港を眺める。水族館などはこの右側、山の方に位置しているわけだ。

さっき「小樽の北部には『鰊御殿』と呼ばれる施設がふたつある」と書いた。この高台にある方が、「小樽市鰊御殿」。
もともとは積丹半島の泊村にあった建物・旧田中福松邸である。7年かかって1897(明治30)年に竣工しており、
北炭が現在の高台に移築した後に小樽市に寄贈されて今に至る(なお、小樽市鰊御殿は冬季には閉鎖される)。
鰊御殿の定義はけっこう曖昧なもので、北海道の日本海側に建てられたニシン漁の網元の邸宅、ぐらいなところか。
(以前訪れた江差町の旧中村家住宅(→2010.8.13)もニシン関連の邸宅だが、網元ではなく仲買商人のもの。)
僕の感覚では、ニシンという魚についてはカズノコの親、ぐらいの認識しかない。しかし江戸期から戦前まで、
北海道においてニシンは莫大な富をもたらす魚だったのだ。松前藩の時代にはニシンを米と同レヴェルの扱いとしており、
「魚に非ず」ということでニシンを「鯡」と書いたほどだという。留萌はカズノコで現在もがんばっている(→2012.8.20)。

明治期の建物とはいえ外見は中途半端にきれいな印象がしたので、そこまで期待せずに中に入ったら、一瞬でやられた。
襖を取り払って広々とした座敷は、もうそれだけで圧倒的。頭上で豪快に梁と桁が交差する光景に無条件で感動する。
寺ではなく、あくまで住宅としての雰囲気を保ちながらの豪快な空間構成。思わずその場で正座してしまうのであった。

  
L: 小樽市鰊御殿(旧田中福松邸)の内部。この豪快な空間構成には圧倒されるしかない。神棚がまたいいじゃないか!
C: 反対側から眺めたところ。この座敷では、大漁を祝ってヤン衆(ニシン漁の季節労働者)が宴会をしたという。
R: ニシン漁やニシンの加工に使われた道具たちが展示されている。すべてが本物の説得力にあふれる場所だったなあ。

建物の中はもう、隅々まで面白くってたまらん。1階の座敷は大量の漁民たちを受け入れられるようにできており、
その豪快な広さだけでなく、プライヴェイトとパブリックの交差する感覚がある空間となっているのが興味深い。
2階がまた面白い。窓の手前に据え付けられた手すりには洋風の意匠が施されており、それが意外としっくりきている。
しっかりと外光を採り入れた空間は非常に居心地がいい。やはり畳に正座してその雰囲気をたっぷり味わうのであった。

1階に戻ると反対側の奥へと行ってみる。玄関の脇で土産物を売っているのだが、さらにその奥が居住空間。
囲炉裏の周りにはさまざまな生活雑貨が展示されている。そして天井を見上げると、無数の梁と桁が折り重なっている。
そしてさらに奥の部屋に入ってみて驚いた。現在でいうロフトが大胆に配置されており、ヤン衆の寝床になっているのだ。
もともと鰊御殿では豪雪への対策として屋根を高くつくってあるというが、その空間がうまく生かされている。
この空間の組み立て方がもう面白くって面白くってたまらない。鰊御殿は工夫の塊のような建物なのだ。

  
L: 2階の洋風な手すり。鰊御殿は単なるニシン漁のための建物ではなく、網元の誇りを体現した建物なのだ。
C: 囲炉裏の真上の様子。梁と桁がびっしり。  R: このロフトはかなり衝撃的だった。これはぜひ、寝泊まりしてみたい!

というわけで、鰊御殿の中では大興奮してシャッターを切りまくるのであった。いやー、面白かった。
ニシン漁のもたらした富と当時の粋とが見事に味わえるすばらしい空間だったわ。わざわざ来て本当によかった。
大いに満足しながら坂を下って、そのまま南へと歩いていく。途中にも別の鰊御殿が見事に残っていて呆れた。

 こちらは旧白鳥家番屋。小樽は建築天国(→2010.8.8)ですなあ。

そしてもうひとつの鰊御殿である「小樽貴賓館」へ。こちらは旧青山政吉邸で、より「御殿」と呼ぶのにふさわしい建物だ。
先ほどの小樽市鰊御殿が実際にニシン漁の拠点として使われていたのに対し、こちらの貴賓館は完全に豪邸。
ニシン漁で莫大な富を得た家の娘さんが酒田の本間邸(→2009.8.12)に憧れて建てた別荘とのことで、まるで違うのだ。
まずは貴賓館の入口から天井画がお出迎えで、セレブ風がビュービュー吹き荒れるような雰囲気が満載である。
汗くさいバックパッカーには正直違和感だらけだ。が、気を取り直して料金を払い、いよいよ旧青山別邸の中に入る。
すると内部は徹底的に贅を尽くした美術品や調度品が取り揃えられた空間となっており、その密度たるや凄まじい。
当代随一の芸術家の作品を集めるだけの財力から、かつてのニシン漁の盛況ぶりを想像することができるのだ。
ある意味、この贅沢さは往時のニシン漁の勢いを時間を超えて実感できる、まさに最適な方法だと思う。
ひとつひとつの美術品・調度品に興味を持つのも正しいが、それ以上に、歴史を生々しく想像できるところに価値がある。

  
L: 和食レストランを併設している小樽貴賓館の「貴賓館」。高級感あふれる雰囲気だが、値段はわりとリーズナブルな印象。
C: こちらが旧青山別邸。18の部屋があるが、それぞれに特徴が異なっており、無数の美術品・調度品であふれている。
R: 中庭のアジサイも見どころ。さすがにピークは過ぎていた……って、いまは8月下旬なんですけど! 北海道恐るべし。

見学を終えるとバスに乗って小樽市街まで戻る。しかし前回の借りがあるので、途中の錦町で下車。
前回は時間がなくって中に入ることのできなかった(→2010.8.8)、旧日本郵船小樽支店に行くのだ。
まずは正面からしっかり撮影すると、中に入って入館料を払う。通路がカウンターになっており、
歴史ある銀行建築(参考までに旧唐津銀行本店をどうぞ →2008.4.26)みたいだ。風格がすごいわ。

  
L: 旧日本郵船小樽支店。前にも似たような感じで撮影しているけど許して。  C: 入口から中に入るとこんな感じ。
R: 1階はこのようになっている。奥には小樽が海外と日本を結ぶ港湾拠点だったころの資料と説明がある。気品がござった。

旧日本郵船小樽支店は1906(明治39)年の竣工。設計者は工部大学校造家学科の第一期生だった佐立七次郎。
なんせ日本郵船は今も昔も、日本の海運業のフラッグキャリアとしてブイブイ言わせ続けてきている存在だ。
外国を相手にする日本を代表する企業として、国際港湾都市・小樽の顔にふさわしい建物としてつくられたのがわかる。
2階にはさらに貴賓室があり、もう完全に貴族の邸宅の雰囲気そのもの。貴重な金唐革紙の迫力がすばらしい。
外国になめられないように懸命にふるまった当時の日本の心意気をしっかりと実感できる空間である。

  
L: 貴賓室。これはもう、一企業の支店の部屋というレヴェルではない。明治期における日本郵船の位置付けがわかる。
C: その隣の会議室。もう言葉もないですわ。  R: 奥には瓦葺附属舎がある。表とけっこう落差があるのが面白い。

単純に「豪華だねえ」という感想には留まらない。こういう豪華さでもてなすことが国を背負うってことなんだな、
相手に対する礼儀というものを究極的に突き詰めると結局はこういう方向にいくんだな、と勉強させてもらった。
内は質素に(→2011.11.20)、外は豪華に、というのが理想的なのかもしれないな、と思うのであった。


扉には日本郵船の旗の意匠がついていた。赤い2本線は郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の対等合併を意味している。

旧日本郵船小樽支店を出ると、小樽運河まで歩く。以前にも訪れているが、青空の下での訪問は初めてだ。
やはり多くの観光客で賑わっており、さまざまな国の言語が聞こえてくる。北海道は国際的に人気のある観光地なのだ。
しかしそれにしても暑い。今日はほとんど雲がなくて、直射日光がまっすぐに突き刺さるような天気である。
観光案内所の近くにある温度計のデジタル表示を見たら、なんと「34℃」なんて文字が出ている。これには言葉を失った。
晴天に恵まれたのは心底うれしいが、果たしてここが本当に北海道なのか疑ってしまいたくなるような暑さは勘弁願いたい。
まあさすがに去年の九州に比べればぜんぜん大したことはないけど、それでもやっぱりちょっとしんどい。

  
L: 小樽の運河を行く。フォトジェニックなレンガ造りの倉庫は、実はわりと狭い範囲にしか集中していないのだ。
C: 運河をこの角度から眺める構図が定番ですな。観光案内所の周辺は記念に写真を撮る外国人観光客でいっぱい。
R: レンガ造りの倉庫の反対側はこんな感じ。運河がないと一気に雰囲気がなくなって、なんだかガックリである。

時間に少し余裕があったので、運河沿いの歩道をもう一度往復。絵やクラフトの露天アーティストがのんびり営業中で、
それもまた小樽運河の風景なのだ。と、ヒマそうな露天のおっちゃんが運河から小魚を釣り上げ、カモメにあげた。
小樽運河のカモメはずいぶん人に馴れていて、近くに寄ってもあまり逃げる素振りを見せないのだ。
カモメは魚を丸呑みすると、満足したのかその場を離れる。いい客寄せになっているみたいで、なかなかの共犯関係だ。

  
L: レンガ造りの倉庫を撮ってみた。中は「びっくりドンキー」などレストランに改装されて観光客に大人気となっている。
C: 釣り上げられた魚をくわえるカモメ。この後、丸呑みにするのであった。  R: 逃げない小樽運河のカモメの図。

さすがにずっと日なたにいるのがつらくって、運河にほど近い運河プラザ(観光物産プラザ)の中へと入る。
そこには非常に充実している小樽土産の売り場とともに、大量の観光パンフレットが置かれたスペースがある。
そのパンフレットの中に、気になるものを発見。小樽のグルメといえば当然、寿司に決まっているのだが、
B級グルメとして「小樽あんかけ焼きそば」なるものがあったのだ。まあ貧乏な僕としてはそっちに行きますわな。
というわけで、急遽パンフレットに載っている店へ行ってお昼をいただくことにした。

小樽あんかけ焼きそばの起源は、1957年に小樽駅前で開店した中華料理店・梅月の五目あんかけ焼そば(炒麺)。
当時の小樽市民は、中心市街地で買物をした後に梅月であんかけ焼きそばを食べて帰る、というのが定番だったそうだ。
その影響で、小樽市内ではあんかけ焼きそばが中華料理店や食堂、ラーメン店に定着しているのだという。
できれば梅月でいただきたかったのだが、中心市街地から少し離れた場所に移ってしまっていたので断念。

都通り商店街の中華料理店でいただいた。注文すると「そば一丁!」という声。あんかけ焼きそばは「the そば」のようだ。
ちょうどお昼どきで地元住民も観光客もひっきりなしに出入りしていたのだが、かなりの率であんかけ焼きそばが出る。
パンフレットにあったあんかけ焼きそばの紹介文は、あながち嘘ではなさそうだ。確かに地元で定着しているみたい。
やがて予想よりも早くあんかけ焼きそばがやってきた。いかにも中華なスパイスの利いたスープとセットである。
いざ食ってみると、なるほど、かかっているあんは「かたやきそば」にかなり近いものがある。というかほぼ一緒。
(参考に鹿児島・山形屋のかたやきそばはこちら(→2011.8.10)。偶然か、買物ついでのB級グルメで共通しているな。)
しかし麺は、しっかり食べ応えのある焼きそばなのである。なので特別に斬新な味というわけではない。
でも確かに、ありそうだけどなかなか食えないメニューであるのは事実だ。気取らない安定したおいしさを楽しめる。
北見のところで書いたように(→2012.8.19)、ご当地B級グルメにはいくつかの類型があるのだが、
実はこういう地元住民の日常から発見されたパターンが、食ってみていちばん面白い。本当にちょっとしたことなのに、
それまで気づくことのなかった発想の転換を味わうことができるからだ。小樽あんかけ焼きそば、面白いじゃないか!

 簡単に思いつきそうなことなんだけど、それに新鮮な形で出会えるのが楽しいのだ。

世の中にはいろんな形の旨いメシがあるものだ、と感心しながら小樽駅まで戻る。荷物を取り出し、函館本線のホームへ。
発車を待つ列車の中は、片側だけが1人分の幅になっている変則的なクロスシート。いきなりの「山線」の先制パンチだ。
無事にその1人分の幅の座席に座ってiPodの準備をしていると、乗客が徐々にたくさん乗り込んできて席がすべて埋まる。
「山線」の意外な需要に驚いていると、発車時刻になって列車は北へと動きだす。のんびり、ローカルな旅がまた始まる。

函館から札幌へと向かうルートは現在、長万部から海沿いに南を走って苫小牧まで行く室蘭本線がメインとなっている。
しかし実はもうひとつ、長万部から北へ入って山の中を抜けて小樽に出る函館本線もある。これが通称「山線」だ。
もともと歴史は函館本線の方が古く、かつては函館と札幌を結ぶ幹線として大いに賑わった由緒正しい路線なのである。
ところが後からできた海沿いの室蘭本線の方が速いし人口も多いということで、今はすっかりローカル路線化しているのだ。
まあだいたい東海道線に対する御殿場線のようなもんだ。もっとも「山線」はいまだに函館本線という名称のままだが。
そう、JR北海道の路線名は非常にややこしい。便利な特急が走るルートはいろんな本線のいいとこ取りになっている。
単線ローカルな「山線」と、特急がひっきりなしに走る札幌−旭川間が、同じ函館本線というのが信じられない。

そんな僕の疑問はさて置き、列車は小樽市街を抜けきると、見事な青い海をちらりと見せてから山の中へ分け入っていく。
ここからはひたすらにローカルな雰囲気満載である。急勾配や急カーヴを軽やかにこなして列車は着実に進んでいく。
面白いのは駅の広さで、「山線」ではかつて幹線だった関係か、駅になると周囲が急に広々とした印象になるのだ。
今やすっかり規模の縮んだ無人駅でも、砂利の敷かれた面積がやたらと広くて奇妙な風格を感じさせる。
もっとも、往時の栄光はその部分でしか感じることができないのもまた事実である。それ以外は本当にローカルそのもの。

「山線」沿線に市はなく、町ばかりである。特に有名なのは倶知安町とニセコ町だろう。
この両町の間に位置するのが「蝦夷富士」こと羊蹄山。羊蹄山の雄姿を見ることも「山線」に乗った理由のひとつだ。
小樽を出た列車は70分ほどで倶知安に到着。車内のアナウンスでは英語も流れ(ニセコはスキーで国際的に有名)、
倶知安は完全に小学生があだ名で呼ぶ感じで「くっちゃん」と発音されて、それが妙に面白くて噴き出してしまった。
列車は倶知安駅で15分ほど停車。その間に駅周辺をうろつきまわったが、残念ながらイマイチ惹かれる要素はなかった。
駅からは羊蹄山がいちおう見えることは見えるのだが、駅前のホテルが完全に邪魔で、その姿をまったく楽しめない。
少しむくれてホームに戻る。反対側にニセコアンヌプリがこれまたいちおう見えるが、やや遠くて写真で撮るほどではない。
消化不良な気分でいるうちに列車は動きだす。すると少し開けた場所に出たので、そこで一気にシャッターを切りまくった。
ニセコアンヌプリにも挑戦。シャッターチャンスは何度かあったが、結局納得できる写真は撮れなかった。残念である。
真夏でスキーのシーズンではないとはいえ、ニセコで外国人観光客を降ろしたり乗せたりして、列車はさらに南へ走る。
それとともに抜けるように青かった空はどんどん分厚い雲に覆われていき、長万部に着くときには薄暗くなっていた。
広い北海道はあちこちでそれぞれに異なる天気になっているようだ。あらためてそのことを実感したのであった。

さて長万部に着いたのはいいが、室蘭本線を行く列車に乗り換えるまでの余裕がたったの4分しかない。
長万部といえば由利徹のギャグが真っ先に出てくる僕としては、町役場に行きたい気持ちはけっこうあったのだが、
そうすると後の予定にしわ寄せがいってしまうのでガマンするしかない。駅舎の撮影にとどめておこう、と改札へ向かう。
しかしさすがに長万部駅はかつての函館本線の栄光をそのまま残しており、ムダに広いのだ。改札までが遠い!
駅舎の外に出て振り返ると、そこには長万部の誇る暴言ゆるキャラ「まんべくん」の顔ハメがあった。
まんべくんはそれなりに人気があるようで、新千歳空港でもいろんなグッズを売っている。が、僕はまったく好きになれない。
Twitterでの暴言騒動が象徴的だが、グッズのひとつひとつにもなんとなく人を小馬鹿にした感じが漂っているからだ。
なんというか、キャラクターの存在価値というものをナメている感じ。そのひねくれ方がまったく気に入らないのだ。
まあでもいちおう来訪記念ということで写真だけは撮っておく。で、急いでホームへと引き返すのであった。

  
L: 函館本線のかつての栄光を感じさせる、無人駅の広さ。これは然別駅なのだが、今となっては必要以上に広い!
C: 「蝦夷富士」こと羊蹄山。倶知安を出てからしばらく、このような見事な雄姿を眺めることができた。
R: 長万部駅にあった「まんべくん」の顔ハメ。もうデザインが完全に人をナメとるもんな。ふざけんなよ。

僕はいつも旅程をケータイの空メールの形で保存していつでも見られるようにしているのだが、完全にうっかりしていて、
特急列車がホームに入線してきたのを見て初めて、長万部から乗る予定の列車が特急であることに気がついた。
知っていればあらかじめ指定席にしておいたのに……。なんだかまんべくんのせいで損した気分になってしまったわ。

室蘭本線には秘境駅評論家が1位に選出した秘境駅・小幌駅があるのだが、特急はそんなもん無視して突っ走る。
分厚い雲が空を覆うただならぬ雰囲気の中を走り抜けること1時間ほど、登別駅のホームに降り立った。
いよいよ本日最後の目的地である登別温泉へと向かうのだ。駅からは路線バスが出ており、なかなかの盛況ぶりだ。
しっかりと整備された坂道をじっくりと上っていき、途中で登別伊達時代村を経由して親子連れを加えてまた上ると到着。
しかし僕は少しでも楽をしたかったので、バスターミナルではなく第一滝本館前で降りたのであった。

というわけで、登別温泉といえば地獄谷である。路線バスに乗った辺りから空は再び明るくなり、
どうにか日が沈む前に最後の青空を拝むことができた。運がいいなあと思いつつ、地獄谷の入口へと坂をグイグイ上る。
小樽でも中国人観光客の姿は目立っていたが、登別温泉でも中国語はもうやたらあちこちから聞こえてきた。
そして大股で歩いていると、どうも暑い。いや、熱い。アスファルトで舗装されているけど、地面が熱いのだ。
僕は今回、いつもどおりにサッカー用のトレーニングシューズで歩きまわったのだが(感覚が繊細で歩きやすい)、
靴底を通してしっかりと熱を感じるのだ。さすが登別温泉、さすが地獄谷、と思ったそのとき、目の前に絶景が広がる。

 生々しい爆裂火口跡が広がる。硫黄の匂いと放射された熱が体を包み込む。

「地獄谷」という名称そのものの光景に、思わず息を呑む。茶色い岩肌に、白くなっているのは硫黄の化合物か。
それらがむき出しということは、あれほどたくましい北海道の緑が攻め込むことができないほどに過酷な環境ということだ。
ところどころで湯気がのぼっており、硫黄の匂いと熱気がこちらに迫ってくる。さらに先へ進んで遊歩道へ行ってみる。

  
L: 本日最後の日差しを浴びる地獄谷。  C: 遊歩道を先まで歩いてみた。とにかく硫黄の匂いが凄くて、もう。
R: 辺りを流れる川はいかにも化合物!って感じの不自然な青い色をたたえていた。どんな成分なんだろう。

両側を地獄に囲まれた木製の歩道は雰囲気満点。硫黄と熱気のダブルパンチに、さすがにちょっと怖い気分もする。
周囲の景色を写真に撮ってみるのだが、残念なことにそこには荒涼とした白い岩肌が写るだけ。こういった光景は、
近くで見るより遠くから眺める方が魅力的に映るものなのだ、と思う。でも匂いと熱の迫力は圧倒的で、
これは実際に訪れないと体感できない。わざわざ来てよかったなあ、と感動しつつ引き返したのであった。

せっかくなので、地獄谷の入口手前にある第一滝本館の湯に浸かることにした。値段はそれなりだが、ケチってもつまらん。
日帰りの客は裏側の質素な入口から入る仕組み。中は高級感があって、なんだか場違いな気分がしてしまう。
エレベーターで大浴場まで上がると、汗くさい服を一気に脱いで体を洗い、お湯に浸かる。
気が小さいので帰りのバスの時刻が気になってしまい、時計から目が離せない。しかしじっくり浸かって堪能する。
さすがは登別温泉、たいへんすばらしゅうございました。旅の最後にすばらしい贅沢な時間を味わうことができた。

帰りは登別温泉の商店街を抜けてバスターミナルへ。温泉街らしく川を中心に急な坂道に沿ってびっしりと旅館がある。
温泉地の都市空間というのも類型化して分析するとけっこう面白いんじゃないかって思うのであった。

 
L: 登別温泉の商店街。建ち並んでいる大きな旅館たちと比べると、規模はかなり小さいと思う。
R: 商店街の中にある閻魔堂。「地獄の審判」の時間が一日6回あって、閻魔大王が怒った表情に変わるんだとさ。

バスが登別駅に着いたときにはすっかり日が落ちてしまっていた。特急列車が来るまではまだ時間があり、
これなら温泉でもっとのんびり過ごすべきだったわ、と後悔。最後までせわしない旅だったなあ。

特急に揺られて南千歳まで行き、そこから新千歳空港行きに乗り換える。南千歳の待合室で列車を待つが、
5日前にここから旅を始めたことが、なんだか遠い過去のことのように思えた。本当に中身の濃い旅だった。
新千歳空港に着くと、飛行機の搭乗手続きを済ませてからお土産買い込みモードに突入。
時刻はもう20時近くになってしまっていて、土産店によっては店じまいを始めてしまっていた。
それでも5日前の下見が効いて、最も欲しかった土産物である「ボルタ」を購入できた。いやー、よかったよかった。

あとは職場や姉歯の仲間にいろいろ買って、さらっとメシを食って、保安検査場を抜けて飛行機に乗る。
当然のごとく寝っこけているうちに羽田に到着。こうして毎年恒例の夏休みの旅が無事に終わった。
とにかく、今回は天候に恵まれて本当によかった。北海道をしっかりと楽しむことができた。
もう思い残すことはない、とは到底言えないけど、でも自分なりにきちんと決着をつけることはできた。満足だ。

さて、買ってきたボルタを紹介しよう(ボルタについての詳細は過去ログを参照 →2012.7.1)。

  
L: サッカー部ということで買った「サッカー・ボルタ」。職場のパソコンの上に置いております。
C: 発光ダイオードを花に見立てた「告白するボルタ」。  R: 「はしゃぐボルタ」。はしゃぎすぎやろ!

ボルタ(テツプロ)のホームページを見ると北海道のわりとあちこちで買えるような印象だったけど、
実際にはボルタをぜんぜん売ってなかったよ! 赤れんが庁舎にもないし! 第一滝本館と空港にはあった。
しかしこうして手元に置いてみると、思っていたよりも面白い。3種類しか確保しなかったのがすごく残念だ。
ボルタシリーズのいいところは、誰でも思いつくボルトの人形ではあるんだけど、ポーズを工夫しているところ。
本当にいろんなポーズのものがあるので、のんびりゆっくり増やしていく野望をひっそり持つとしますかね。
ちなみに通常サイズよりもずっと大きいボルタも売っていたのだが、重くてジャマそうなので買わなかった。
ボルタシリーズもキリがなくって楽しいね。室蘭は本当にいいキャラクターを生み出したもんだわ。


2012.8.21 (Tue.)

どうも今、北海道で一番ホットな話題は、旭山動物園から脱走したフラミンゴの捕獲作戦のようだ。
なんと網走方面まで飛んでいってしまったらしく、園長が必死の捕獲作戦を展開し、テレビが付きっきりで取材。
で、おとり作戦を実行しようと別のフラミンゴ4羽をオリに入れ、逃げたフラミンゴをおびき寄せそうとしたのだが、
フラミンゴはまったく寄ってこないわ、オリがキツネに襲われて4羽のうち1羽が死んで1羽が行方不明になるわで、
これは困った……と園長が頭を抱えている。そんなニュースが昨日からひっきりなしにテレビにとりあげられている。
この一晩であまりによく見かけたので、そんなに北海道では重要なトピックなのか、と思うのであった。

そんなわけで、困った園長の様子を伝えるテレビの電源を落とし、宿の部屋に礼を言う儀式をやり(毎回やってます)、
いざ出陣。5日目の本日はいよいよ道庁所在地・札幌に突撃するのである。いやー、実に遠回りな旅であった。
札幌はやはり2年前にも訪れているのだが(→2010.8.82010.8.9)、曇り空の下での街歩きだったため、
正直なところあまりポジティヴな印象がないのである。今日はぜひ快晴の青空の下で徘徊したいのだ。どうなるか。

 北の大地 6days 5/6: 砂川・札幌

宿を出ると途中のセイコーマートで朝食を確保。そうして旭川駅へ。昨日とは打って変わってなかなかの快晴ぶりで、
この分だと札幌でも青空が期待できそうだ。いい気分で横断歩道を渡って旭川駅前に到着。せっかくなので撮影だ。

 
L: 新しい旭川駅をあらためて撮影したのだ。  R: ファサードをクローズアップ。なかなかにミニマルでオシャレ。設計は内藤廣。

時刻はまだ7時前なので、駅舎の中に入ってもキヨスク以外は開いていない。これはちょっと残念。
それでもキヨスクで昼飯用の弁当を買うことには成功。これでローカル列車に揺られる旅も少しは楽しくなる。
……そう、本日はローカル列車で札幌まで向かうのだ。旭川から札幌までは、常識的には函館本線の特急を使う。
でも少しでもいろんな風景を見てみたい僕としては、今日は常識から完全にかけ離れた行動をとるのである。
まずは朝のうちに砂川市役所へ行っておいて、滝川まで戻る。そしてここで路線バスに乗り換えて石狩川を渡るのだ。
石狩川の右岸には、左岸を走る函館本線とは見事なまでに対照的なローカル線・札沼線が走っている。これに乗るのだ。
2時間半ほどのんびり揺られて札幌入りした後は、札幌市内の観光名所で2年前に行ってない場所をひたすら攻める。
移動日に徹した昨日とは違い、今日は見どころ満載の予定である。ふっふっふ、武者震いがするぜ。

6時45分、特急で旭川を出発する。昨日降りた滝川を越えて砂川で降りる。時刻は7時半前だ。
日の出から日の入りまでが行動時間の僕だが、さすがに7時半前というのはまだ太陽の角度が浅くて撮影しづらい。
砂川には1時間ちょっと滞在できる余裕があるので、のんびりゆったりとした足取りで市役所を目指す。
しかし昨日の深川とは違い、砂川市役所は駅からけっこう近いのである。見るからに新築な病院の裏に、
いかにもモダニズム全開な庁舎建築がすぐにお目見え。さっそくデジカメを構えて撮影を開始する。

  
L: 国道12号。函館本線と並んで走る、日本一長い直線道路として知られる道だ。少し宿場町っぽく商店街ができている。
C: 砂川市立病院。2010年竣工。  R: その裏にあるのが砂川市役所。じっくり眺めると、その美しさに惹きつけられる。

第一印象は、上記のように「いかにもモダニズム」だった。が、デジカメを構えながらじっくり眺めているうちに、
そのバランスの良さに不思議と惹きつけられてしまう。ほとんどの人の目には、ただの無機質な庁舎にしか見えないだろう。
だが、見れば見るほどよくできているのだ。完成されているのである。デザインがこれ以上動かせないほど完成されている。
砂川市役所が竣工したのは1970年、設計は石本建築事務所。これは庁舎建築に強い組織事務所ならではの建物だ。
言葉で上手く表現できないところが情けないけど、そして写真でそれを上手く伝えられないところがまた情けないけど、
砂川市役所のデザインは、本当にバランスがとれている。破綻している部分、狂わせている部分が見当たらないのだ。

  
L: 向かって左側の南庁舎を中心にクローズアップ。なんだかよくわからんが、とにかく均整がとれている印象なのだ。
C: 正面よりエントランスを撮影。  R: 向かって右側、出っぱっている北庁舎。中身は案の定、議会です。

今までいろんな市役所を見てきた。いろんな時代・タイプの市役所を見てきた。そして砂川市役所は無名の存在だ。
しかし、昭和30年代庁舎をそのまま発展させた建築として、ひとつのゴールを示しているように思うのである。
非常に大げさな表現をしてしまったが、そう確信してしまったのだからしょうがない。砂川市役所は、完成形なのだ。

  
L: 側面(南側)。螺旋階段がいい味を出している。 C: 裏側はけっこう雑な色づかいなのであった。
R: 中に入ってロビー部分を撮影。この逆側には中2階があって市民ギャラリーとなっている。

本当に何の変哲もない庁舎建築なのだが、僕はめちゃくちゃ興奮しながら敷地を一周してシャッターを切ったのであった。
市役所のファサードをある程度類型化しながら眺めてきた僕にとって、砂川市役所はひとつの答えに見えたのだ。
この感情はたぶん誰とも共有できないだろう。少なくとも、僕がきちんと言語化できない限り、不可能だろう。
いつかこの感じを的確に言葉で表現できるようになりたい。まだまだあらゆる面で修行が足りないのだ。

そんなわけで、なぜか砂川市役所で大はしゃぎしてしまった。なんでこんなにツボに入ったのか、まったくわからん。
さて、時間が早いのでまだ店は開いていない。でもまだ余裕はある。というわけで、テキトーにあちこち歩いてみる。
「砂川」という名前は、アイヌ語の「オタウシナイ(砂の多い川)」という地名を日本語に意訳してできたものだ。
そしてこの「オタウシナイ」という音をそのまま日本語化させてできた地名が「歌志内」なのである。
歌志内市といえば、なんといっても日本で最も人口が少ない市として有名だ(4,224人、1万人未満は日本でそこだけ)。
実際、歌志内は砂川市の前身・奈江村から分立した過去がある。また、かつては砂川駅から歌志内線が出ていた。
いずれぜひ行ってみたいなあ、と思いつつ、通り過ぎていった歌志内行きのバスを見送るのであった。

  
L: 砂川市役所のすぐ西にある図書館(左)・公民館(右)。  C: 砂川の昔からの商店街と思しき一角。さびれとるのう。
R: アキツ(トンボのことね)が偶然、手に止まったので撮ってみた。北海道はもうアキツの季節なんだねえ。いっぱいいたわ。

のんびり砂川散策を堪能すると、予定どおりに滝川まで戻ってバスターミナルへ。滝川のバスターミナルは、
滝川駅を出てすぐ左手へと進んだところにある。思ったよりも立派な施設で、利用客もそれなりにいた。
路線図を見てみると、けっこうどこにでも行ける感じ。地元の人には鉄道よりもはるかに利便性が高そうだ。

滝川のターミナルからは、新十津川役場行きのバスに乗る。これで石狩川を渡り、札沼線に乗ろうというのだ。
バスに揺られたのは15分ほど。石狩川を渡る橋はけっこう大きく、歩くと面倒くさそうな距離がある感じ。
右岸に入ると新十津川町。まるで新興住宅地のようにきれいに区画された住宅地をまわって終点の役場に到着する。

 新十津川町役場。

「新」で「十津川」というその名前から容易に想像できるように、ここは奈良県・十津川村からの移民が開拓した町だ。
十津川は非常に強烈な個性を持った土地で、はるか壬申の乱から明治維新まで、税を免除された独立勢力だった。
というのも、十津川は奈良県の最南端に位置する村で、紀伊山地のど真ん中で完全なる山の中。米がとれない。
しかし住民たちは軍事集団として畿内の戦乱にたびたび参加し、時の権力者から有利な条件を引き出し続けたのだ。
幕末には十津川郷士が尊王側の勢力として活躍。酔っ払って新撰組とケンカしても対等に渡り合ったほどの腕前だと。
そして1889(明治22)年、大水害で村が壊滅。翌年に北海道へ入植した村民たちにより、新十津川が生まれた。
現在では十津川が「村」であるのに対し、新十津川は「町」となり、人口規模は逆転した格好となっている。
しかし今でも十津川村を「母村」と呼ぶほどに帰属意識は強く、同じ菱十紋の旗印を村章・町章に使用している。
開拓により生まれた北海道の街はどこも強烈なエピソードがあるが、新十津川のドラマは特に凄まじい印象である。

さて無事に新十津川町役場まで来たのはいいが、ここから新十津川駅までの道のりがよくわからない。
事前にきちんと調べておけばよかったのだが、例のごとく「どうにかなるんじゃねえか」精神でのん気に構えていたため、
いざ現地に放り出されたところでうろたえてしまう始末。本州と違い、北海道ということで道は全般的に広いので、
メインストリートとそうでない道の区別がつかないし、道を間違えるとよけいな距離を歩かされるしで、かなり困った。
結局は役場近くのコンビニで無事に地図を確認できた。役場から国道275号・道道625号を渡った南側にある、
空知中央病院のすぐ近くに駅があることが判明。空知中央病院は周辺で一番のランドマークなので、一安心。
どうにかある程度余裕のある状態で新十津川駅にたどり着くことができた。いやー、北海道恐るべし。

  
L: 新十津川駅。花と緑に囲まれてかわいらしい駅舎だが、周辺はガス会社関連施設ばかりで実はけっこう殺風景なのだ。
C: 駅舎の向かって右にある、コスモスに囲まれた道を行くと……  R: 札沼線の最果ての光景を目にすることができる。

というわけで写真を見てのとおり、新十津川駅の雰囲気がよくってたまらん。絵に描いたような「北海道の田舎の駅」だ。
駅にたどり着くまではガス会社の敷地でひどく殺風景なのだが、駅の一角だけは実に見事に整備されているのである。
8月にして咲き乱れるコスモスの中を抜けると最果ての風景となる。線路の先はマンションにきっちり遮られているが、
かつてこの札沼線はその名のとおり、札幌市と沼田町(留萌本線の石狩沼田駅)を結ぶ路線だった。
しかし1972年にこの新十津川から北が廃止され、現在の姿となったのである。そして札沼線は現在、
一般には「学園都市線」と呼ばれている。これは沿線に北海道教育大学札幌校や北海道医療大学などがあるためで、
石狩当別以南はかなり派手に宅地開発が進められている。しかし北半分の新十津川まではローカル色全開。
なんせ新十津川に乗り入れる列車は一日に3往復しかないのである。朝・昼・晩で、三度の飯と同じバランスなのだ。
今回はその貴重な一本に乗って札幌まで出るのである(今年の10月以降、札幌へ直通する便はなくなる予定)。

  
L: 新十津川駅のホームより南側を眺めたところ。天気がいいおかげで穏やかな雰囲気を存分に味わうことができた。
C: 駅と空知中央病院の間には夏季限定でポニー牧場が整備されていた。  R: いい感じの夏休みの朝ですな。

これからのんびり2時間半もローカル列車に揺られるわけで、トイレに行っておかないといけない。
しかし新十津川駅にそんなものはない。どうしようと思ったのも束の間、空知中央病院のお世話になることで無事に解決。
しかも運のいいことに空知中央病院には値段の安い自動販売機が置いてあり、懸案だった水分の確保もできた。
そんなわけで、非常にいい状態で札幌に乗り込む準備ができた。今日は朝から絶好調である。文句なしだ。

やがて列車はゆっくりと動きだし、新十津川を後にする。もうちょっといろいろ新十津川を見てみたい気もしたが、
今回はとりあえず札幌に決着をつけるのだ。新十津川を出てからは、ひたすら広々とした農地が車窓を占領し続ける。
基本的には田んぼが多いのだが、ときどきそこに白い花をつけたソバの畑が混じる。茎が赤いのも大きな特徴だ。
さらに青々とした緑の葉を一面に茂らせたジャガイモの畑もたまに顔を出す。本当に北海道らしい風景を楽しめる。
地元のじいちゃんばあちゃんたちを交互に乗せたり降ろしたりしながら、列車はのんびりと南へ下っていく。
抜群の利便性を持つ函館本線とはまったく対照的な性格の路線である。この差異を体感できるのも旅行の醍醐味だ。

  
L: ソバ畑。  C: ジャガイモ畑。  R: 石狩平野らしい田んぼ。やはり北海道は農地を見ているだけでも面白い。

それまでがひどく簡素な駅ばかりだったので、石狩当別駅に到着するとなんだか違和感をおぼえてしまう。
列車はここでしっかり休憩し、車両を増結して札幌へと向かう準備をするのだ。そうなりゃ当然、改札の外へ。
駅周辺でできるだけ有効に時間を過ごすのだ。駅のすぐ手前には「ふれあい倉庫(当別赤れんが6号)」があり、
地場産品直売コーナーを見て歩く。これは1941年築のレンガ倉庫を再利用した建物で、2007年にオープンした。
売っているのは食料品が多めで、良さそうなんだけど、荷物を持ちたくない僕としてはなかなか手が出ないのであった。

石狩当別から南は、もう完全にニュータウンの雰囲気。大規模な集団住宅にピカピカの公園、そんな風景ばかりとなる。
やはり北海道ということで、駅の脇にパークゴルフ場(→2012.8.17)がつくられているのもけっこう目につく。
乗降客数もさっきまでとは比べ物にならない規模となり、新川から先では高速道路の上を高架で走るようになってしまう。
石狩当別以北からはまったく想像のできない変化に、ただただ目を丸くして圧倒されながら過ごすしかなかった。
すっかり都心と郊外住宅地を結ぶ路線らしくふるまう札沼線は、確かに「学園都市線」の名称がふさわしくなっていた。

だからといって呆気にとられてボーッとしているわけにはいかない。ここからが本日最大の難所なのだ。
列車が札幌駅に到着すると、急いでホームから階段を下りて改札を抜ける。目についたコインロッカーに荷物を入れて、
急いで出口へと走る。そしたら見慣れない光景に出くわし、北と南を間違えたことを瞬間的に認識し、Uターン。
きちんと南口から駅を出ると、そのまま東急百貨店を目指して猛ダッシュをかける。1秒が惜しい旅程は今日も一緒だ。
その東急百貨店は札幌駅から少し離れた位置にあり、目的のバスターミナルはさらにその南側にくっついている。
停車しているバスの行き先表示をざっと見て確認し、バスに乗り込もうとしたその瞬間、ドアを閉められた。
まるでギャグのような絶妙のタイミングに、思わず「おい~」と情けない声が漏れてしまう。そしたらドアは開いた。
札沼線の列車が札幌駅に到着してからわずか7分。どうにか羊ヶ丘展望台行きのバスに乗ることができた。

前回の旅行で札幌を訪れた際、当然、羊ヶ丘展望台にも行きたいと思っていた。しかし天気が悪かったのであきらめた。
だから今回はぜひとも羊ヶ丘展望台を訪れたかったのだ。バスで揺られること40分弱、念願の羊ヶ丘展望台に到着。
さて実はここ、北海道農業研究センターの一部なのだ。敷地を観光客のために開放して整備しているわけである。
バスを降りるとさっそく入場料の500円を徴収される。バス料金に続いての出費ということで、正直ちょっと切ない。
でもさすがに展望台だけあり、バスは長い上り坂を辛抱強く進んでやっと到着したのだ。自転車で挑む人の姿を見ると、
やっぱバスでいいや、料金ぐらいいいや、という気になってしまう。今日は天気がよすぎて暑いからなおさらだ。

入場料を払い終えると、あらためて目の前に広がる光景を眺める。なるほど、確かにこれは絶景だ。
穏やかな芝生の丘越しに札幌の市街地が広がっているのが一望できる。手前では札幌ドームが花を添えている。
広い北海道に来たということを、これだけしっかりと確認できる場所はほかにないだろう。典型的だが、これは強烈だ。

羊ヶ丘展望台といえば、なんといってもクラーク博士像である。案の定、観光客が入れ替わり立ち替わりで記念撮影。
そしてこれまた案の定、ことごとくみんなクラーク博士と一緒に指差すポーズで写真に収まっている。
申し訳ないんだけど、見ていてそれが本当に滑稽だった。あまりにも思考が単純すぎて、ものすごく格好悪い。
一人くらい逆方向に指を差すひねくれ者がいてもいいんじゃないかと思って見ていたのだが、そんな人は皆無なのであった。
あれっていったいなんなんですかね。そうなっちゃう理由を心理学的に知りたい。みんな、ちったあ個性出していこうよ。

  
L: クラーク博士像。観光客がひっきりなしに記念撮影していたんだけど、みんな同じポーズ。恥ずかしくないのかなあ。
C: 羊ヶ丘展望台ではその名のとおり、羊が放し飼いになっている。もともと農業試験場だから当然なんだろうけど。
R: 街の反対側はこんな感じで羊ヶ丘レストハウス・オーストリア館・さっぽろ雪まつり資料館など。個人的にはイマイチ。

実際に訪れてみた羊ヶ丘展望台は、北海道らしさを心の底から実感できる絶景を味わえる場所だった。
でもほかにこれといって何もなかった。でも確かに絶景だった。でもほかに何もなかった。でも絶景だった。でも何もなかった。
そんな感じで、ただ絶景があるだけでしたなー。いや、一度訪れてみるだけの価値は確かにあるのだ。でもそれだけ。
まあなんというか、実に潔い観光名所だ。クラーク像と記念撮影して北海道に来た気分になって。いいんじゃないっすか。

バスで札幌市街に戻ってきたら14時過ぎ。まだまだ行きたい場所はいっぱいある。日が傾くまで動きまわるのだ。
そんなときには当然、レンタサイクルだ。札幌の場合、さすがに観光都市だけあって、なかなか面白い試みをしている。
撤去された自転車をレンタサイクルとして活用しているのだ。しかもすごいのは、返却期限が当日24時まで。これはいい。
札幌駅のわりとすぐ東側に広い駐輪場があって、その一角で手続きをする。変速機能のある自転車を選び、いざ出発。

まずは前にも撮影している札幌市役所(→2010.8.9)にあらためて挑戦。やはり青空をバックに撮りたいじゃないの。
軽やかにペダルをこいで大通公園へ。背の高い札幌市役所はすんなり撮影できるポイントがなく、苦労しつつ撮影。

  
L: 札幌市役所。  C: 冬季五輪開催記念のオブジェのところから撮影。  R: 少し離れて撮影。うーん、難しい。

札幌市役所からはテレビ塔も近いので、こちらも青空をバックにあらためて撮影しなおす。
予想以上に緑の腹巻き(テレビ父さん的に)と赤い鉄骨、そして青い空の対比が美しかった。惚れ惚れしたわ。

 
L: テレビ塔。色のバランスが最高な状態で撮影できたのがうれしい。この配色はしっかり計算されてのものだろうな。
R: 大通公園の花壇とテレビ塔。もう、どっから撮ってもフォトジェニック。天気がいいと札幌は何から何まで美しい。

うっとりと余韻に浸りながらペダルをこいで、今度は北へ。目指すは北海道大学である。
北海道大学も2年前に訪れているのだが、その際に行き忘れた場所、行けなかった場所を攻めるのだ。
まずは敷地の最も北にある「札幌農学校第2農場」だ。ここには明治期の木造畜舎などが9棟の建築が残されており、
重要文化財に指定されている。広大な北大のキャンパスも、自転車だとあっという間。意気揚々と門をくぐる。

  
L: 札幌農学校第2農場、牧牛舎(右)とモデルバーン(左)。牧牛舎は1909(明治42)年、モデルバーンは1876(明治9)年の築。
C: 牧牛舎の側面と後ろにくっついているサイロ。  R: モデルバーンにはこのような牛の頭のオブジェがある。さすがだなあ。

まず目に入るのは、非常にシンボリックな印象を残す牧牛舎。その奥には模範的家畜房(モデルバーン)がある。
どちらも中を見学可能で、牧牛舎もモデルバーンもびっしりと細かい字での説明と農業用の機械の展示がなされている。
あまりにも説明が詳しすぎて、とてもひとつひとつを読んでいく気になれないのが切ないのであった。
しかし建物は往時の風格をしっかりと残しており、その空間を体験するだけでも十分に興味深いものがある。
展示されている機械はあまりにも量が多すぎて、ひとつひとつがどう使われるのかよくわからない。
でもやはりそれだけの量を見せられるところに、札幌農学校に始まる北海道大学の開拓者精神を感じることができるのだ。

 
L: モデルバーンの1階。もうね、説明があまりにも詳しすぎて読む気がしないのが残念。PDF化してネットで読ませてほしい。
R: こちらは2階で展示されている機械類。どれがいつごろどのように使われたのかがイマイチよくわからん。面白いけど。

モデルバーンを出ると、そのまま敷地のいちばん奥にある穀物庫(コーンバーン)へ。
企画展なのか、日本のありとあらゆる地方の鍬が大量に展示されていた。鍬のサイズや形状からいろいろ類型化しており、
鍬一本でここまで研究できるものなのか、と呆れる。いや本当に、これには恐れ入ったわ。

 
L: 右がコーンバーンで、左が収穫室および脱ぷ室。1877(明治10)年築。「ぷ」とは穀物の外皮や籾殻のこと。
R: レンガ造りの製乳所。このほかにも木造の秤量室や札幌軟石造りの釜場がある。

今の北海道大学は、それはそれでさすがに旧帝大らしい落ち着いた雰囲気をしていてすばらしいんだけど、
北のはずれにある札幌農学校第2農場は、まさに札幌農学校時代の空気を味わうことのできる場所なのであった。
歴史を空間として直に体験できるというのは非常に大きい。さすがは北大、と思わされたわ。

そのままキャンパスを南下して北海道大学総合博物館へ。前回訪問時には月曜日で閉館していたのだ(→2010.8.9)。
リヴェンジマッチに胸を高鳴らせつつ中へと入る。まずは北海道大学の歴史を紹介するブースからスタートするが、
さすがに総合大学だけあって、その後の展示内容はめちゃくちゃ広い学問領域にわたっている。
文系の内容も理系の内容も見事に網羅されており、北海道大学の各方面でのレヴェルの高さを知ることができる。

  
L: 研究室をイメージしたと思われる展示室。  C: 北方民族のコーナー。これはスカンジナビア方面だな。
R: エゾシカの剥製がいきなりあったので驚いた。アイヌ方言から鈴木・宮浦カップリングまで研究範囲が広くていいなあ。

じっくりと見ていけばいくら時間があっても足りないくらいだ。へたな地方都市の博物館よりはるかに凄い内容。
いくら「社会科学の総合大学」を名乗っているとはいえ、所詮は文系学部しかない大学の出身である僕にはもう、
うやらましくってうらやましくってしょうがなかったわ。正直いまだに、総合大学には憧れがあるのだ。

 
L: 恐竜の化石は子ども受けがいいからか、けっこう力を入れて展示していた印象。実際、面白いよね。
R: ワニ型恐竜の化石に近づいて撮影ができたので、やってみた。うおー迫力あるわー。

前にも書いたように、北海道大学総合博物館はもともと理学部の本館だったのだ。
そのため、建物のすべてを博物館として開放しているわけではなく、奥の方は研究室が現役で入っている。
僕としてはそっちの部分を観察するのも面白いのだ。北大はこんな雰囲気かーと思いつつ覗き込むのであった。

  
L: 研究室のある部分はこんな感じ。同じ建物の中なのに、けっこう対照的。でも僕はこっちの方が落ち着く。
C: 最上階の天井アーチ部分。ここはエントランスから続く階段を利用した吹き抜けになっているのだ。
R: アーチの下の階段を見下ろす。白衣を着た研究者が出入りしているのを見ると、さすがだわーと思うね。

最後に、売店に行ってみる。北大はノーベル賞を受賞した鈴木章氏が大好きというか大リスペクトしているようで、
実にさまざまな鈴木章グッズを売っていたのであった。同姓同名の人は買うかもしれんけどねえ……。
国立大学好きな僕としては、何かしら北大グッズは買いたい。でもOBじゃないし派手なものを買う気はしない。
ということで、ちょうどいいアイテムを発見。でっかく「北海道大学」とイメージカラーの緑で印刷された団扇だ。
これはふつうの団扇よりもずっと涼しい気分になれそうだ。職場で使ってみることにしようと思って購入。

本当は北大植物園にも行ってみたかったのだが、北大本体があまりにも面白かったので、断腸の思いであきらめる。
かなり日が傾いてきたので、急いで自転車を西へと走らせて本日最後の目的地へ。西へ走るのでとにかくまぶしい。
しかも思ったよりも距離がある。ペダルをこいでもこいでも着かないのだ。やがて道は上り坂になりはじめ、
ウエーこれを上るんかー?と思ったところに鳥居があった。蝦夷国新一の宮・北海道神宮である。
(北1条宮の沢通にある北海道神宮の標柱も巨大な第一鳥居も、逆光がひどすぎて写真が使えなかった……。)

  
L: 北海道神宮の入口。境内は円山公園に隣接しており、つまり札幌市街の平地が終わる端っこに位置している。遠い。
C: 鳥居をくぐると広い参道。明治期につくられた神宮らしい特徴(→2009.1.82010.3.29)がここにもあった。  R: 神門。

北海道に神社がつくられたのは当然、和人の移住にともなってである。現在はそれなりの数の神社が北海道にはあるが、
規模が大きくて威厳を感じさせるものとなると、やはり数は少なくなる。その中で、北海道神宮は蝦夷国の一宮なのだ。
(※全国一の宮会が制定した新一の宮に認定されており、厳密な一宮というわけではない。新一の宮ってどうずら。)
北海道神宮の歴史は、1869(明治2)年に東京で北海道鎮座神祭が行われたことに始まるようだ。
このとき北海道開拓の守護神として大国魂神・大那牟遅神・少彦名神を祀り、翌年北海道に移して社殿を建てた。
1964年には明治天皇を合祀して北海道神宮となる。まあ非常に国のトップダウン的な色彩の強い神社であるわけだ。
なお、北海道神宮は北方のロシアに対する守りということで、社殿が北東を向いている。

神門より内側の境内は、北海道の神宮というわりにはそれほど広くないかな、という印象。
参拝したけど、やはりごくふつうの新しめの神社という雰囲気なのであった。今の社殿は1978年の再建なのだ。
たまげたのは絵馬の中にリラックマの絵馬が混じっていたこと。実際には珍しいものではないのかもしれないけど、
神社としての歴史の浅い感じとリラックマの絵馬が妙にしっくりきていて、そういうもんなのかな、と思った。

  
L: 北海道神宮の拝殿。かつての社殿は放火テロによって焼失。  C: リラックマの絵馬。調べてみたら善光寺で有名みたい……。
R: 円山公園。京都の円山公園(→2011.5.15)をモデルにしたって話だけど、何から何までぜんぜん違うぞ。

さすがにもう円山動物園に入れるような時間ではないので、円山公園を自転車で軽く徘徊して帰ることにする。
円山公園は動物園や球場があるおかげで有名だけど、実際には木々のせいか、妙に薄暗い印象がした。
各施設のある部分を抜いたらそれほど面積は広くなくって、なんだか拍子抜けしてしまった感じである。

円山公園からまっすぐに大通を東へ戻る。すると大通公園が始まるちょうど西端のところに、
いかにもな歴史的建造物があったのでちょっと撮ってみる。現在は札幌市資料館となっている建物で、
1926年に札幌控訴院(後の札幌高等裁判所)として竣工したものだ。札幌軟石という貴重な石を使っているとのこと。

 札幌市資料館。中に入ってみたかったなあ。

もう17時を過ぎているので、中に入るのはあきらめてひたすら東へと走っていく。
そのまま札幌駅前を抜けてレンタサイクルを返却する。大変便利でありがとうございました。
荷物を回収すると、のんびり歩いてすすきのへ。先月もお世話になったカプセルの宿にチェックイン。
気がつけば旅行はもう、残すところあと1日である。でもそのことを残念がるほどの体力的な余裕がないのも事実。
一日一日を精一杯楽しんで過ごす、ただそれだけだ。風呂に入って早めに休み、明日に備えるのであった。


2012.8.20 (Mon.)

本日は「移動日」である。朝7時過ぎに特急で北見を出ると、3時間ほど揺られて旭川へ。今日はこの旭川を拠点に、
深川市役所と留萌市役所を見に行くのだ。ついでということで、留萌本線終点の増毛駅にまで足をのばす。
旭川の街じたいは2年前にあちこち行っているので(→2010.8.10)、今回は特にこだわらないつもりである。

 北の大地 6days 4/6: 旭川・留萌・深川

北見から旭川までの石北本線というのも、実際に乗ってみるとなかなかマニアックな印象である。
畑を目にする時間は多いが、基本的には深い山の中を抜けていく路線で、おとといの室蘭本線といい勝負。
遠軽ではいまだにスイッチバックで座席の向きを直さないといけなくなる。面倒くさいなあと思うのだが、
改修工事をする必要性があまり感じられていないから、今もそのままになっているのだろう。
列車はやがて山の中から平地に出る。そこはもう旭川市内だ。高架でまっすぐ、ホームに着く。はて?

列車から降りて、周囲を見まわす。様子がおかしい。ここは旭川のはずなのだが、2年前とは完全に別の空間である。
僕の知っている旭川駅はもう少し、なんというかローカルな雰囲気で、ふつうの地方都市の駅にすぎなかった。
しかし、いま僕が降り立ったのは、思いっきりオシャレなプラットホームだ。屋根が覆い、鉄骨が飾りになっている。
旭山動物園を意識してか、いろんな動物が駅員の恰好をして案内をするイラストが、ディスプレイに表示されている。
似たような経験は高知駅でもしているが(→2010.10.10)、旭川の変貌ぶりは強烈だ。これが最新型の駅ってことか。
しばらくそんな具合に呆気にとられていたのだが、いつまでもボーッとしているわけにはいかないので、改札へ向かう。
頭の中で「旭川駅は改築されたんだ」と納得してはいるのだが、体がついていかない。終始戸惑いながら改札を抜ける。

改札を抜けても僕の違和感はまったく解消されない。観光都市らしくコインロッカーが便利な位置にあるのはいいし、
コンビニや弁当屋や観光案内所が以前とは比べ物にならないほど充実しているのもすばらしい。
端っこには中原悌二郎や砂澤ビッキの作品を展示する旭川市彫刻美術館ステーションギャラリーや、
アイヌ民族の伝統などを紹介する「アイヌ文化情報コーナー」があり、旭川の駅にふさわしい中身である。
でもそこに、僕はまことに勝手ながら、置いてけぼりを食った印象を感じてしまうのだった。
オレの知らないうちに……こんなに立派になりやがって……。なんだか淋しい。妙な疎外感である。

  
L: 旭川駅のホーム。ずいぶんとオシャレになっており、非常に驚いた。  C: エスカレーターもこんな具合ですよ。
R: 旭川駅の駅舎内にあるアイヌ文化情報コーナー。スペースはやや狭め。川村カ子トアイヌ記念館(→2010.8.10)に
も行くべし。

コインロッカーに荷物の一部を取り出して預けると、わずかに時間的な余裕があったので駅前を一周してみた。
新しくなったのは本当に駅の部分だけで、買物道路とデパートなどは変わっていない。でも、違うように見える。
少し買物道路に入って振り向き、いま目にしている光景と記憶の中の光景を比較して整理する。
それでようやく、新しい旭川駅前にようやく納得がいった感じ。とにかく強烈で強靭な違和感だったわ。

  
L: 工事の壁の上に無理やりカメラを出して撮影した旭川駅。これからロータリーを仕上げるつもりなのだろう。
C: 駅のすぐ東側にある北彩都病院。……こんなんあったっけ?と思って調べてみたら、2005年からここにあるそうな。あれ?
R: 旭川の買物通りは相変わらずのはずなのだが、駅での体験を引きずってまったく別の街に見えた。はて?

とりあえず一周して雰囲気をつかむと、駅に戻って駅弁を買う。今日の昼はじっくり食う余裕がないのである。
のんびり、留萌本線の車内でいただくとしよう。うーん、オレってなかなかに計画的だなあ。
……なんて思いながら、特急の自由席に乗り込む。これで深川まで出て、そこから留萌本線なのだ。
北海道では特急で通勤・通学をする人がけっこういるようで、自由席の中はそんな皆さんでいっぱいだった。意外だ。

さて困ったことに、深川駅に着いたら雨がかなり本格的な降りようになっていた。北見を出たときにはポツリポツリで、
雨から逃れるようにして旭川までやってきたというのに、旭川では雨がやんだタイミングで駅前を一周できたというのに、
深川であえなくしっかりとした雨模様となってしまった。まあ6日も旅行すれば1日くらい雨が降るもんだとは思う。
それが「移動日」である今日に当たったのは、それはそれで不幸中の幸いという気もする。だから文句は言わない。

深川を出た列車は一面の田んぼを抜けて「北一已(きたいちやん)」という惚れ惚れするほどの難読地名の駅へ。
でもそこから先になるともう、雨のせいで車窓の景色がほとんど何も見えない状態になってしまう。
なんだかただ揺られるだけのような感じで1時間近く過ごし、留萌駅に到着。列車は留萌止まりなのでみんな下車。

しかしこの留萌こそ、僕にとってはこの旅行中で最も難しいチャレンジの舞台なのである。勢いよく街へと飛び出す。
ここでのチャレンジは留萌市役所を撮影することなのだが、市役所は駅から距離があり、次の列車は30分後である。
この短時間に留萌駅まで戻ることは不可能。そこで、そのまま市役所を走り抜けて隣の瀬越駅で列車に乗るのだ。
半ば下山ダッシュ(→2008.9.9)じみたチャレンジである。が、ムダなくあちこち行くためには、避けて通れない。
折りたたみ傘を広げ、好奇心だけをエネルギーに駅から走り去る。イチかバチかのチャレンジ、いよいよスタート。

  
L: 留萌駅。留萌は若松勉の出身地なのでヤクルトファンには聖地なのだ。聖地なのに滞在時間が短くてごめんなさい。
C: 駅前のアーケード商店街。とにかく雨がひどいのと急いでいるのとで、具体的にどんな様子かはきちんと見てないです。
R: こちらはオロロンライン(国道231号)沿いの留萌市街の光景。高齢者層の皆さんの姿がやたらと目立っていたのだが。

とにかく時間がない。駅前のアーケード商店街を抜けたところに観光案内所というか土産物屋というかがあって、
そこで留萌について少し様子を探ってみたのだが、カズノコをもとにしたゆるキャラ(KAZUMOちゃん)がいちばん印象的。
さすがは現在もカズノコの国内最大の加工地だけのことはある。あとは特に売りとなるものがあまりないようで、
なんだか少し淋しくなってしまった。やはり空間的に訪れる甲斐のある場所があまりないのが留萌の弱点である。
そんな具合にあれこれ考えさせられたのだが、時間がないのでリスタート。プリントアウトしておいた地図を確認しながら、
オロロンラインまで南下する。これは実は遠回りになるルートなのだが、やっぱり無理してでも市街地を行きたいのだ。
しかし厳密には留萌の中心的な商店街はオロロンラインではなく、その一本北のようだ。時間的な余裕はまったくなくって、
非常に残念なことにそこを走ることはできなかった。もうとにかく1分どころか1秒単位の賭けだったので。
毎回毎回旅行のたびに必ずどこかで走る破目になっているのだが、今回は本当に余裕がなかった。

雨なので当然、湿度は高い。汗でぐちゃぐちゃになった状態でオロロンラインのカーヴを曲がり、市役所入口に着く。
困ったことに留萌市役所はオロロンラインからちょっと入った海岸近くなのである。この微妙な距離が恨めしい。
路面もまた北海道らしい凸凹舗装ぶりで、ところどころの水たまりがけっこうひどい。裏からまわって正面へ。
手早く駐車場から留萌市役所本庁舎を撮影すると、来た道を戻って再びオロロンラインに出る。
あとは瀬越駅にたどり着くのみだ。が、瀬越駅への入口は表示が出ていなくってよくわからない。
手元の地図と実際の施設を頭の中でマッチさせ、ここだ!というタイミングで海岸への下り坂に入る。
大きくカーヴする下り坂に、踏切の音が響いている。非常に簡素につくられたホームにたどり着くと、
その瞬間に1両だけの列車が姿を現した。思わず「間に合ったぁ~」と声が漏れてしまう。本当に際どかった。
瀬越駅周辺はちょうど工事中で、作業員の皆さんに「よかったですねえ」と声を掛けられてしまったではないか。

  
L: 留萌市役所。1962年竣工。色を塗り直したと思うが、完璧なる昭和30年代庁舎建築である。  C: 裏側はこんな感じ。
R: 瀬越駅にて。本当にギリギリのタイミングで間に合った。ここまで来るのに一度でも道を間違えたらアウトだったな。

どうにか列車に間に合ったのはいいが、増毛行きの車内では完全に虚脱状態になってしまっていた。
北海道フリーパスをなくしたんじゃないかと勘違いして凄まじく焦ったが、折りたたみ傘の中から無事発見。
そのまま呆けて終点の増毛まで。ちなみに列車の中は鉄道好きが大半のようで、みんなで増毛まで往復した。

 留萌本線は留萌より先になると海岸沿いを行くようになる。

増毛に着いたら雨がやんだ。運がいいのか悪いのか。ともかく、列車を降りて駅の周りを歩いて過ごす。
さっきから「増毛」と書いているのだが、これ、「ましけ」と読む。「ぞうもう」ではないんですよ、お父さん。
アイヌ語に漢字を無理やり当てていったことで「マシュケ(マシュキニ)」が「増毛」になったのである。
意味は「かもめの多いところ」。つまり、ニシンを狙ってカモメが集まってくる場所だったわけだ。
現在も増毛町内にはニシン漁で栄えたころの貴重な建物がいくつも残っている。もちろん余裕があれば行きたい。
でも留萌本線は留萌より先になると、もともと多くない本数がさらにぐっと減るのである。
深川市役所とどっちを取るか、ということになってしまうので、今回はあきらめることにした。かなり悔しい。

  
L: 留萌本線の最果て風景。雨がやんで空にはわずかに青い部分も見えてきた。  C: 駅のホームを振り返ったところ。
R: 増毛駅の駅舎。旧駅務室で蕎麦屋が営業をしているのがちょっと面白い。増毛を歩けなかったのはいまだに悔しいなあ。

増毛での滞在時間はわずかに8分。思う存分シャッターを切りまくると、いま来た列車にまた乗って引き返す。
さらば増毛、毛が生えますよーに、とよくわからないことを念じる間に、列車は壮大なカーヴを描いて海岸へ。
増毛湾はゆったりと遠くへ離れていって、車窓の風景は再び茫洋とした日本海となるのであった。

 記念に一発。

さっきは虚脱状態だったので、帰りはきちんと車窓の風景を味わって過ごす。瀬越までは典型的な田舎の海岸で、
何がいったいどうしたのか、廃墟になりかけている焦げた木造住宅跡があるなど、なかなか変な具合で面白かった。
未知の区間だった瀬越−留萌間はカーヴを描いて留萌の港をしっかり眺めることができ、見応えがあった。
そうして留萌から先は海を離れて山の中へ。景色は緑一色となる。そこをしばらく行くと田んぼ地帯に戻る。
途中に興味深い駅があって、恵比島駅という名前のはずなのに、「明日萌(あしもい)駅」という看板が出ていた。
実はこれ、NHKの連続テレビ小説『すずらん』で使われたセットをそのまま残したものだそうだ。
本来の駅よりも立派なセットが駅舎として存在しているのは、なかなかにシュールな光景なのであった。

さて深川駅に戻ると、そのまま改札を抜けて深川市役所の撮影を目指して歩いていく。
深川というと何が有名ってわけでもないが、「ウロコダンゴ」という名物がある。駅には専門の売店もある。
ウロコダンゴは「だんご」とはいうものの、各辺が波線になっている三角形をしているのが大きな特徴。
駅構内には深川の各種名物を扱うスペースもあったが、イマイチ惹かれずにスルー。ちょっともったいなかったか。

  
L: 深川駅。根室本線に接続する滝川ほどではないが、それなりに交通の要衝。駅舎内には深川名物を扱うスペースがある。
C: 駅前はこんな感じに小じゃれた商店街がある。でも国道233号にぶつかるとおしまい。深川は基本的には住宅が多い感じだ。
R: 深川市温水プール「ア・エール」。ウォータースライダーやトレーニングルーム、エアロビクススタジオ、入浴施設まで併設されている。

駅から深川市役所までは思っていたよりも距離があった。駅を出てからまっすぐ左へ行けばいい、と認識していたが、
途中で本当にそれでよかったのか不安になってしまうくらいの距離だった。滞在は30分ちょっとでいいだろう、
なんて考えていたのだが、結局たっぷり1時間以上かかってしまった。真っ平らなんだけど、遠かったなあ。

  
L: 深川市役所。1967年竣工。向かって左が本庁舎で、右が議会の入る東庁舎である。  C: 本庁舎。  R: こちらは東庁舎。

 深川市役所の裏側。周辺は完全に北海道らしい大雑把な住宅街だ。

どうせ2年前にも来ているから旭川市内はそんなに徘徊しなくてもいいや、と腹をくくってしまったので、
その分だけのんびりと歩いて駅まで戻ることにする。と、駅前で市役所とは反対側の方向に露店の列があるのを発見。
どうやら今日は深川神社のお祭りのようで、小中学生がいっぱい露店に群がっている。とりあえず往復。
大人はごくわずかだったのでなんだか申し訳ない気分で戻ってくる。まあこれで深川はなんとなくわかったことにしよう。
深川は街歩きをしていても特に面白みがなく、増毛を歩かなかったことをやっぱりけっこう後悔しましたとさ。

 深川には若年層がしっかりいるようで何よりです。

旭川に戻ったのは16時少し前で、特に行くところもないので西武の本屋で明日の札幌について最終確認し、
さっさと宿にチェックイン。旭川で安く泊まれる宿は限られているようで、2年前と同じ宿である。
少し休むと、ちょっと早めに晩ご飯をいただくことに。当然、旭川なので醤油ラーメンである。
2年前には行かなかった方の有名店・青葉にお邪魔する。大盛りでしっかりといただくのだウヒヒヒヒ。

 青葉のラーメンは非常に有名だよね。

食ってみて驚いた。スープ自体は釧路ラーメン(→2012.8.172012.8.18)に非常に近い醤油の風味で、
前に食べた蜂屋(→2010.8.10)の豚骨醤油とはまったく別物だったのだ。正統派の醤油味なのである。
旭川の有名店はほかにもいろいろあると思うのでもっと食べないとなんとも言えないところだろうけど、
同じ「醤油ラーメン」としてくくられているこの2店は、まったく方向性が異なっている。
旭川というとすでに「北海道における醤油ラーメンの街」というイメージができあがっているのだが、
ここまで違うとそのイメージはどうなんだろう、と思うくらいだ。有名な2店で人気のラーメンがたまたま醤油味で、
それで方向性がまったく違うのに旭川は醤油ラーメンの街ってことになっているとしたら、かなり乱暴な話だ。
まあとりあえず、青葉のラーメンはわりと僕の好みの方向性だったので満足は満足である。おいしゅうございました。

食い終わるとコインロッカーに預けておいた荷物を取りに旭川駅へ。ついでに駅舎の中をもう一度きっちり歩く。
朝は戸惑ってばかりだったが、夕方になってさすがに今の旭川駅にも慣れた。観光都市としての誇りが随所に見られ、
旭川の今後の発展がなんとなく感じられた。旭川の「北海道第2」の地位は、これからも永く安泰だろうと思う。
ところで旭川駅の周辺には、自転車で北海道旅行をしている大学生らしい集団がいっぱいいた。
他人の好みはまあ別にいいんだけど、北海道は都市と都市の間隔が広いから、自転車だと緑の中を走ってばかりで、
街歩きを楽しむ余裕はなさそうだ。そういう旅行ってどうなんずら、と思った。いや、他人の好みはまあ別にいいんだけど。


2012.8.19 (Sun.)

だいたい昨日と同じくらいの時刻に宿を出る。釧路郵便局に寄って、去年卒業した生徒への残暑見舞いを出す。
やっぱり釧路の街は道幅が広いせいで思ったよりも時間がかかり、釧路駅に着いたときにはそれほど余裕がなかった。
向かいのホームを発車する根室行きの快速はなさきを見送る。昨日はあれに乗っていたわけで、なんだか変な感じだ。
今日の僕は6時6分、やはり始発だが、網走行きの各駅停車である。3時間以上、実にかったるい。
25,500円出して北海道フリーきっぷな僕としては、カイゼル髭で「特急列車に乗せてくれたまえよ」と言いたいのだが、
釧網本線に特急は走っていないのでしょうがない。素直にのんびり、大らかな気持ちで揺られることにしましょう。

 北の大地 6days 3/6: 網走・北見

東釧路駅で分岐して、列車は北へと針路をとる。昨日以上に霧が濃くって、窓の外が薄暗い。
釧網本線はなんといっても釧路湿原を豪快に走り抜ける路線である。伝説の釧路湿原、しっかり見たいじゃないか。
しかし霧に包まれた釧路湿原はまったくフォトジェニックでないし、期待していたエゾシカもほんのちょっとしか出てこない。
昨日の根室本線の方がよっぽど釧路湿原的なイメージの車窓だったなあ、と残念がるのであった。まあそんなもんか。

 釧路湿原を行く。基本的に湿原は歩くもので、列車に乗っていても堪能できない。

釧路湿原を抜けると、列車は摩周湖の麓(といってもだいぶ距離がある)を走るようになる。
かつては「弟子屈(てしかが)」という名前だったのに「摩周」と変更させられた駅を通る。ぜんぜん近くないのにね。
その先にある川湯温泉駅で確か大鵬の出身地だったなあ、とぼんやり思っていると、なんだか匂う。硫化水素だ。
近所にはその名もズバリ硫黄山という山があるけど、ここまで匂いが漂ってくるとは、と驚いた。旅は面白い、と思う。

そんな具合に、それなりに面白がりながら山の中を抜けると、今度は一面の畑となる。右手には美しい山稜が見える。
広がる畑地とその斜里岳の対比が実にすばらしい。夢中でシャッターを切りつづける。釧網本線、全然飽きないわ。
列車は斜里岳の手前を軽くまわり込むようにして走っていき、知床斜里駅に到着する。大量の観光客が乗り込んできた。
もともとは単に「斜里」という駅名だったが、知床半島が世界遺産化して「知床斜里」となったのだ。そんなんばっか。
まあ知床半島にアクセスする玄関口は確かにここで、おかげでわかりやすくなったのは間違いあるまい。
知床半島もいつか行ってみたいけど、男一人ではしゃぐ場所じゃないんだよなあ。明らかに家族連れ向けだよなあ。

 斜里岳と畑。いかにも北海道らしい美しい景色だ。

列車はオホーツク海沿いに西へと走る。しばらく行くと、本日最初の目的地である網走駅に到着。
網走といったら、なんといっても網走刑務所。もちろん現役で健在なのだが、ここに行っても特に何かあるわけではない。
そのかわり天都山の方に「博物館網走監獄」という施設があって、いろいろ盛りだくさんという話である。
駅から少し西に行ったすき家の前に観光客向けのバス停があるので、そっちへ移動してバスを待つ。

 網走駅。札幌から特急が走っているので意外とアクセスしやすい。

ほどなくしてバスが到着。ほかの観光客の皆さんとしばらく揺られて天都山方面へ。
博物館網走監獄が最初のバス停なんだけど、やっぱりここで大半の客が降りるのであった。僕もそう。
ワクワクしながら階段を上っていくと、目の前に橋が現れた。「鏡橋」とある。網走刑務所に入る受刑者たちが、
ここで襟を正してから行くということでその名前らしい。すでに空間的な演出はここから始まっていたのであった。

入場料は1050円。窓口で料金を払う際にどこから来たか訊かれた。データをとっているみたい。熱心である。
博物館網走監獄は1983年のオープンだが、まだまだ整備が完了していないのか、それとも単なる演出なのか、
正面玄関で妙に土の部分が目立っている。実際にこんな感じだったのだろうか。よくわからない。
レンガ造りの門の前では伝説の脱獄王・「五寸釘の寅吉」が掃き掃除をしている人形がある。
これ以外にももうひとり、やはり伝説の脱獄王である白鳥由栄の脱走シーンを再現した人形も中にはあって、
なんというか、そういう度量の広さがすごく面白い。脱獄はもちろんやっちゃダメな行為なんだけど、
もはや英雄レヴェルまでいっちゃっているこの2人はある意味、殿堂入り扱いをされているようなもんだ。
もっとも、それは2人とも最後は模範囚になったことも大きいんだろうけど。僕はこういう演出、大好きだけどね。

  
L: 鏡橋を渡って博物館網走監獄へ。蓮の池を渡るのが、なんというか、現世と隔絶された印象を喚起するなあ。
C: 再現された正門(通称・赤レンガ門)。この門はしっかり厚くて、向かって左に面会者の待合室、右に受付がある。
R: 移築された1912(明治45)年築の庁舎。要するに事務所。和洋折衷の木造建築だ。現在はこの中に売店もある。

さらっと庁舎の中を見てまわると、外に出て敷地内に点在する施設をひとつひとつ見ていく。
屋外にあったもので最も衝撃的だったのは休泊所で、薄暗い中に人形があるので思わずびくっとなってしまった。
オレンジ色のツナギを着た囚人たちだけでなく、後ろに制服姿の看守がじっと立っている。これに驚かされるのだ。
博物館網走監獄はいたるところに囚人の人形がいるのだが、同じように看守の人形もいて、毎回驚いたのであった。
なお、休泊所は日帰りできない作業のときに泊まる場所。網走刑務所の囚人たちは道路建設に従事させられたのだが、
この休泊所を建てては移動してを繰り返したそうだ。そのため「動く監獄」という別名があったという。

そのまま順路に沿って、行刑資料館の中に入る。ここは網走刑務所を中心に刑務所の変遷を扱っており、
じっくり見ていくとものすごく興味深い内容になっている。まずは現在の網走刑務所内を再現した空間で、
かなりリアルに部屋の中が再現されている。中に入れて記念撮影したい放題。すげえなあ、としか言いようがない。
それから本格的に網走刑務所の歴史について、豊富な資料をもとに説明がなされるのだが、
資料が充実しすぎていて目が回りそうだ。じっくり見ていく時間がないので、できるだけ要領よく見ていくことにする。
展示スペースには当時の看守の恰好をした写真パネルがあって、本当に細かいところまで凝っている。

  
L: 休泊所の中。囚人たちは一本の丸太を枕にして眠り、朝はそれを叩くことで起こされたという。
C: 行刑資料館で再現されている網走刑務所内の部屋。これは独房だが、浪人中の寮の部屋みたいだわ。
R: 映像による網走刑務所の説明だが、最新技術を使ってめちゃくちゃ凝った演出がなされている。

明治になり士族の反乱が相次いだ結果、囚人が急増した。そこで政府は北海道に集治監(監獄)設置を計画する。
狙いは2つ。国力を高めるための開拓を囚人たちにやらせることと、その結果としてロシアに対する防衛を充実させること。
刑期を終えた囚人たちがそのまま北海道に定住すれば人口増でなおさらオッケーという考えの下、樺戸・空知・釧路と、
3つの集治監がつくられた。そして網走監獄は、釧路集治監の網走囚徒外役所として1890(明治23)年に誕生する。
人口600人ほどだった村には1200人の囚人・集治監職員とその家族たちがやってきて、網走は都市化していった。
釧路から網走に囚人が移されたのは、札幌に至る中央道路を建設するため。これが過酷極まりない重労働だったそうで、
寒さ・険しい地形・食料不足・クマの襲来といった問題に悩まされながら、道路はわずか8ヶ月という突貫工事で完成した。
1000人の労働者のうち看守も含めて200人以上が亡くなったそうで、現場に埋葬した際に目印に鎖を置いたことから、
その墓は「鎖塚」と呼ばれている。その後も5年近く強制労働は続けられたが、世間からの批判を浴びて廃止となる。
しかし、これらの強制労働のノウハウが、いわゆる「タコ部屋労働」へと引き継がれていったという。
(集治監での強制労働は全国で行われていた。三池集治監による三池炭鉱での労働の痕跡はこちら。→2011.8.8

日本の刑罰史についての展示もあり、これが近代化の視点から考えて、ものすごく興味深い内容だった。
要約すると、近世の刑罰制度は1742(寛保2)年の「公事方御定書」が基本となっていた。
「公事方御定書」を閲覧できる者は限られていたが、内容は公然の秘密となっており、各藩は参考としていたのだ。
死刑・追放刑・身体刑からなり、特に死刑については罪に応じて多様な方法が記載され、執行じたいも多かった。
(追放刑では伊豆諸島がおなじみ(→2009.8.22)。身体刑は笞打ちや入墨。入墨はつまりスティグマですな。)
ところが1755(宝暦5)年、熊本藩で画期的な動きが起きる。藩主の細川重賢は追放刑を廃止したうえに、
徒刑(懲役刑)を導入したのだ。晴れたら土木工事、雨なら作業場で手仕事。働いた分の賃金をしっかり与えて、
生活費と出所時の元手にさせたという。そしてこれを会津や佐賀などほかの藩も進んで採用したそうだ。
幕府も1790(寛政2)年に長谷川平蔵の発案による人足寄場を設立しており、労働と更正をセットで展開。
江戸時代も後半になると、後の近代化の伏線と言えるような動きが活発に起こっていたようだ。実に面白い。
犯罪者の身体を苦痛にさらす「残酷な」刑罰から、自由の剥奪と矯正・更正への移行ということで、
まさにM.フーコーの『監獄の誕生』(→2008.2.27)で述べられていた光景が、日本の江戸時代にあったのだ。
(日本にはもともと近代的な素地がふんだんにあったから、明治維新後に一気に近代化できたってことなのかねえ。)

 
L: 網走刑務所にやってくる囚人たち。脇に同じ衣装が用意されており、記念撮影ができるようになっている。すごいねえ。
R: 展示スペース。比較的新しい博物館らしく、非常にきれいにデザインされている。看守の写真パネルが印象的だなあ。

というわけで、行刑資料館の中はそれほど広くはないのだが、展示内容があまりに面白くて結局時間がかかった。
網走刑務所のネガティヴイメージを増幅する面もあった映画『網走番外地』の特設コーナーもあったくらいで。
外に出て坂を上っていくと、いきなり農作業中の皆さんが現れてびっくり。これは農場での農作業を再現したものだ。
そこから左手に行くと、二見ヶ岡農場から移築された建築物群がある。1896(明治29)年築ということで風格いっぱい。
二見ヶ岡農場では札幌農業伝習学校(現・北海道大学農学部)仕込みのアメリカ式近代農業を展開していたそうだ。
農産物は近所の奥様にも好評だったという展示があったけど、網走刑務所にはポジティヴな面ももちろんあったわけだ。
(ポジティヴという点では、土木工事の技術も高かったそうだ。作業中の脱走者もいなくて評判もよかったとか。)

  
L: 人形による二見ヶ岡農場での農作業の再現。食糧難の戦時中も、この農場は農作物を大量に生産していたそうだ。
C: 二見ヶ岡農場の建物外観。  R: 建物の内部。床にはレンガが敷かれているのだ。あとは木造となっている。

なお、こちらの食堂では刑務所の食事を再現した「監獄食」を食べることができる。最初は食べるつもりはなかったのだが、
あまりに博物館網走監獄が面白すぎて滞在時間を延ばした結果、お昼にしっかり「監獄食」をいただくことに。
700円のA定食がサンマ、800円のB定食がホッケ、この2種類しかない。ここは安くて質素なサンマにすべきだが、
「オホーツク海に面する網走でホッケをいただく」その魅力に抗うことはできず、B定食を選択したのであった。
魚はその場で焼くので出てくるまで少し時間がかかるが、その分やっぱり旨いのだ。ホッケはすごく肉厚で、
こんな立派な魚が刑務所で出てくるかよ!と本気でツッコミを入れざるをえなかった。豪華すぎるわコレ。
ホームページには「本来は、みそ汁ではなく番茶」って書いてあったけど、魚もフィクションなんじゃないの?

  
L: 二見ヶ岡農場の食堂。やっぱり囚人と看守の人形があり、隣で一緒にお仲間気分でメシを食うことが可能。
C: 「監獄食」B定食。ご飯は麦飯(麦3:白米7)。蕗が妙に旨かったなあ。ホッケが異様に豪華で、お値段相当なんだけどね……。
R: 移築されたレンガ造りの通用門。さっきの正門も、本来ならこんな感じで威厳たっぷりのはずなのだ。

さて、なんといっても博物館網走監獄のハイライトといえば、移築された五翼放射状平屋舎房だろう。
1912(明治45)年に建てられてから1984年まで、実際に網走刑務所で使われていた建物なのである。
真ん中の見張りを中心にして5方向に放射状に広がる獄舎はまさに、パノプティコン(一望監視施設)そのものだ。

 外から見た五翼放射状平屋舎房。手のひらでいうと、指と指の間から見たところ。

建物の中に入った瞬間、M.フーコーの『監獄の誕生』(→2008.2.27)の内容が頭の中にフラッシュバックした。
そして、歴史ある木造建築としての風格を保ちつつ、機能によって研ぎ澄まされたその姿に、ただただ感動した。
刑務所の建物で感動するってのも変な話なんだけど、美しいのである。本当に、これは美しい建築なのだ。
建築には本当に多様な用途がある。神社や寺院のような威厳のあるものもあれば、それこそトイレだって立派に建築だ。
その中でも刑務所というのは、かなりマイナスの要素が強い、忌み嫌われる宿命を持った建築である。
刑務所というのは暗く不潔な場所というイメージが濃い。その空間に押し込めること自体が罰とされているからだ。
しかし『監獄の誕生』で指摘されたように、近代の刑罰は身体に苦痛を与えるのではなく、精神を矯正しようとする。
近代の刑務所は、囚人の精神を矯正するためのツールなのだ。そういう意味では、美しさを備えた刑務所とは、
まったくもって理にかなったものと言えるだろう。日本人は明治になって必死で近代化を押し進めていったわけだが、
その姿勢を空間的に実現した作品としても、この五翼放射状平屋舎房はかけがえのない価値を持っていると思う。
(そういう文脈では、こないだ訪れた富岡製糸場の建築群もまったく同じ要素を持っている。要参照。→2012.8.4

  
L: 五翼放射状平屋舎房の入口。横にあるのは移築された際にとっつけられた哨舎。個人的にはない方がいいかと……。
C: 中に入ると、まず中央見張り。これがパノプティコン(一望監視施設)の中心である。すげえなあ、本物だよ。
R: 中央見張りからは各舎房がしっかりと見渡せる。ぜひ『監獄の誕生』(→2008.2.27)を読んでから訪れてくれ。

実際に各舎房の中を歩いてみる。さっきの二見ヶ岡農場の施設にも雑居房や独居房があったのだが、
こちらの方がはっきりと廊下が明るい。天窓からたっぷり光が採られており、刑務所の暗いイメージと違っている。
雑居房にしろ独居房にしろさすがに中身は悲しくなるほど殺風景だが、廊下にいる限りは素直に美しさに感動できる。
廊下側の壁は雑居房の場合、平行四辺形の断面を持った「斜め格子」となっている。うーん、パノプティコン。
そしてこれが独居房になるとさらに強烈で、矢羽根の模様のように斜め格子を組み合わせた「くの字格子」となる。
こうなると、もはやどっちからもお互いに見ることはできず、換気の役割を果たすのみとなるのだ。

  
L: 雑居房の「斜め格子」。廊下からは中を見ることができるが、部屋の中から廊下を挟んだ反対側の部屋の中は見えない工夫だ。
C: 舎房の中はこんな感じ。独居房の方が扉が厳重になっているのがわかる。  R: 独居房の中は3畳で、囚人の人形が作業中。

非常に洗練された機能を持った木造建築ということで、僕はもうそれだけでノックアウトされてしまったのであった。
じゃあこの中に入りたいかと言われれば、入りたくないに決まっているんだけどね。いやー、すごかった。

外に出ると教誨堂までの下り坂にいろいろ並んでいるので、ひとつひとつ見ていく。
さっきの五翼放射状平屋舎房とともにつくられた浴場が再現されていたので、中に入ってみる。
まずは脱衣所なのだが、やっぱりいきなり背後に看守の人形が立っていて驚いた。ホント、毎回絶妙な位置にいる。
中の浴槽でも人形が入浴中。ごていねいに刺青が入っているものもある。「くりからもんもん」の説明もあったよ。
脱衣3分、第1槽入浴3分、洗身3分、あがり湯の第2槽入浴3分、着衣3分と、計15分間で済ませても、
一日に入浴できるのは200人。かつては6月~9月は月5回、ほかは月1回の入浴だったそうだ。そんなのやだなあ。

 自由に風呂に浸かれない生活というのはとっても切ないわ。

あと強烈だったのが懲罰用の独居房。木造と煉瓦造があって、中は真っ暗になるのだ。こんなん気が狂うわ。
そして驚くほど立派だったのだが教誨堂。「教誨」とは教えを諭すということ。近代では囚人の更正が重要なので、
それだけきれいにつくられているのだ。囚人たちは「ここは神の宿るところだから」と気合を入れて建てたとのこと。
戦後には学校における講堂や体育館のような感じでも使われたそうだ。本当にきれいな建物だった。

  
L: 煉瓦造の懲罰用独居房。これは厳しい!  C: 教誨堂の外観。  R: 中はこんなに広くてきれいなのだ。

当初はさらっと軽く見てまわるつもりでいたのだが、建物も展示内容も面白い、メシも旨いということで、
結局、バスを一本遅らせてしっかり滞在したのであった。その分、網走の街歩きが犠牲になってしまうのだが、
ぶっちゃけ駅前を見た感じではそれほど問題なさそうだ。博物館網走監獄は大いにオススメできるスポットだわ。
土産物売り場で五翼放射状平屋舎房の写真集を売っており、荷物になるのであきらめたが、魅力的だったなあ。

網走の中心市街地は、桂台駅と網走駅に挟まれた位置にある。網走駅でバスを降りても歩くのが面倒くさいので、
帰りは終点のバスターミナルまで乗る。バスを降りると、まずはやっぱり網走市役所を目指して歩いていく。
開拓された空間というのは基本的には平らな土地で、帯広も釧路もそうだった(根室はもともと漁港で坂だった)。
囚人たちによって広がっていった網走の街は、やはり平坦。いや、むしろ平らな部分をきっちり都市化したという印象だ。
そして網走市役所は、その中の少し高くなっている部分を選んで建てられたような感じになっている。

ネットで網走市役所について調べてみたところ、「網走市歴史年表」のページ(網走歴史の会)が見つかった。
これが異様に詳しく、周辺自治体についても細かい情報がきっちり記載されていて、読んでいくだけで面白い。
記憶というものは簡単に薄れるもので、これだけ細かい情報がしっかりと残されていることはすばらしいことだ。
おかげで当時の動きが手にとるようにわかる。全国各地で市史のオンラインデータベース化をしたらいいのに、と思った。
で、網走市役所をめぐる記述を抜き出してみるとこんな感じ。
「1961. 8.14 市議会に市庁舎建設特別委員会設置」
「1961. 9.11 網走市庁舎建設委員会設置、委員長に鈴木芳春市議決まる」
「1961.10.20 市庁舎建設審議委員会は建設位置につき審議」
「1962. 2.24 網走市庁舎建設審議委員会は庁舎建設位置を一応現在地と決める」
「1962. 3. 7 網走市庁舎建設審議委員会は市庁舎の建設場所を現位置とする中間答申出す」
「1962. 5.15 臨時市議会で市庁舎の改築決まる、現在地に明春着工」
「1963. 1.20 札幌市で網走市庁舎建築設計競技審査会開く、岡設計事務所のトランスラーメン方式に決まる」
「1963. 2. 5 市庁舎建設資金に10万円寄付した南9東3佐藤久に紺綬褒章授与」
「1963. 5.15 市役所庁舎新築工事は大阪の松村組と1億4,800万円で随意契約」
「1963. 6. 5 網走市役所新築工事現場で地鎮祭」
「1963. 7.31 網走市庁舎建設審議委員会委員長に酒井儀一郎推薦」
「1964. 8.30 網走市役所で新庁舎への移転作業始まる」
「1964. 9. 1 網走市役所は新庁舎で執務始まる」
「1964.10. 1 網走市役所庁舎1日開放」
「1964.10.10 網走市新庁舎落成記念式挙行、総工費1億5,360万円」
これだけ詳しい情報がネットで拾えるというのは、本当にありがたい。ほかの自治体でもぜひやってほしいもんだわ。

  
L: 網走市役所本庁舎。上記のように1964年竣工、設計は岡設計事務所。色を塗り直したと思われるが、昭和なデザインだ。
C: 角度を変えて撮影。網走市役所は意外と幅が広くて、なかなかきれいに撮影できなかった。
R: これは裏側。見てのとおり、敷地には高低差がある。網走市役所は網走川を見下ろす位置にある。

 市役所に掛かっていた看板。読めん!

撮影を終えると網走の街をテキトーに歩きまわって過ごす。が、昼過ぎだというのに、街を歩く人の姿はほとんどない。
今日は確か日曜日のはずなんだが……と首を傾げるが、アーケード商店街に客の姿はまったくないのである。
一方で、市役所の裏側を撮影する際に寄った道の駅・流氷街道網走は人でごった返していた。凄まじい混雑ぶり。
皆さんが観光客なのか地元住民なのかわからないが、冗談ではなく、僕が網走の街を歩いた際に見かけた人数より、
道の駅にいた人数の方が多く思えるくらいだ。網走の商業機能は道の駅ひとつで満足させられるのかって考えちゃったよ。

 
L: 永専寺に移築された網走刑務所の旧正門。開祖・寺永法専は出所者を保護する活動に生涯を尽くした。
R: 網走のアーケード商店街。日曜の昼だというのに客の姿はまったくなかった。いくらなんでもこれはひどい。

網走の街をだいぶあちこちさまよったのだが、最後にひとつ、強烈な建物を見ておく。
街を見下ろす高台(訪れた際にチャシ跡だと知った)の上に、レトロな建築がひっそりたたずんでいる。
さんざん歩いた後なので坂道を上るのは面倒くさかったが、せっかくなので見ておきたい。
というわけで訪れたのは、網走市立郷土博物館。田上義也の設計で1936年の竣工である。
時間があれば中を見てみたかったのだが、余裕がなくって外観を確認するのみとなってしまった。

  
L: 網走市立郷土博物館。  C: 正面より撮影。  R: 裏側はこんな感じで、街から見えるのはこっち側。

博物館網走監獄と比べると、肝心の街歩きについてはかなりいいかげんな描写となってしまった。
しかしそれだけ網走の街が閑散としていたのだからしょうがない。歩いていて切なかったよ。
急いで駅まで戻ると、コインロッカーから荷物の中身を取り出してFREITAGのBONANZAに詰め込む。
そして駅の窓口で特急の指定席をとる。席に腰を下ろしてしばらくすると、列車は網走駅を発車。
網走駅が街の西端にあるおかげでかなり必死に走らされた。買い込んだ飲み物を一気に飲んでようやく落ち着く。

網走に続いて訪れるのは、北見である。北海道のオホーツク海側では網走より大きい主要都市なのだが、
事前に調べた限りではこれといった名所がない。まあとりあえず、都市は歩いて感覚をつかめばそれでいい。
僕としては、北見で有名なのは「ハッカ」という印象である。そんな具合にぼんやりとしかしていない北見、
実際にはいったいどんな姿をしている街なんだろうか。ワクワクしながら50分ほど揺られて到着する。

北見駅に着くと、まず観光案内所を目指す。名所を探りつつ、レンタサイクルを申込むのである。
駅舎を出て左に進むとすぐに発見。中に入ってパンフレットと地図を確保すると、レンタサイクルの手続きを開始。
驚いたのが、保証金として3000円を預けたこと。1000円なら経験があるが、3000円というのは初めてだ。
そんなに妙な被害があるのかね、と首を傾げる。ともかくこれで移動手段は確保した。どこだって行けるぜ。

いちおう駅舎を撮影し、振り向くとデパートらしき巨大な商業施設が目に入る。でもデパートのロゴがない。
これはつまり、デパートが撤退した後の建物を行政が主体になって利用しているってことだな、と思う。
なでしこジャパンの高瀬選手を応援する垂れ幕とともに、カーリングを応援するメッセージがあるのに気づいた。
それを見てようやく、カーリングで有名だった常呂町が北見市と合併したことを思い出す。ああそうだったそうだった。

  
L: 石北本線を行く。黄色は小麦を収穫した跡だな。青空の下に緑と黄色のストライプが広がる光景が美しい。
C: 北見駅。裏側にはパーク&ライドの駐車場と貨物列車用の凄まじく広大な空間がある。北見の力を実感したわ。
R: 駅前の大雪大通(国道39号)。左手にある白い大きな建物が、きたみ東急百貨店撤退後の「まちきた大通ビル」である。

ではさっそく、北見市役所訪問からスタートである。実は室蘭市役所について日記を書いた際に、
新聞記事で北海道の市役所の竣工年と工費の一覧表が載った記事があるのを見つけ、しっかり確保しておいたのだ。
それによると、北海道で最も古いのは小樽市役所(→2010.8.8)。そして、その次に北見市役所が来るのだ。
北見市役所の竣工は1955年ということで、老朽化が非常に激しく建て替えが大問題となっているようだ。
事前にGoogleマップで調べたところ、北見市役所は駅のすぐ南西にある。それで駅前をレンタサイクルで走りまわるが、
市役所らしい建物がまったく見つからない。駅のすぐ南西にあるのは、さっきの撤退したデパート跡だ。
まさかと思って目を凝らすと、そのデパート跡に「北見市役所まちきた大通ビル庁舎」という文字があった。
こ、これが……北見市役所ってことなの……? 撤退したデパートのフロアに役所の窓口機能を持たせることは、
全国各地でわりとふつうに行われている。しかし、市役所の本庁舎扱いとなると、とんと聞かない。
あらためてGoogleマップを見るが、やはりそれで正しい。このデパート跡が、現在の正式な北見市役所なのだ。
近づいてフロア構成を確認してみたら、6階にしっかりと議場が入っている。やはりこれで正解だったのだ。

 
L: まちきた大通ビル(いちおう北見市役所)。1982年の竣工なので、老朽化の問題は今後もついてまわるだろう。
R: 裏手にはバスターミナルがある。僕としては、商業機能を持った市役所というのは理想型である。応援したい。

後になって北見市役所の移転問題についてネットで調べてみたところ、実にたくさんの情報が転がっていた。
ただ、あまりにも情報が多く、また複雑で、しかもそれが時系列が入り組んだ形でそれぞれ並んでいる。
経緯を穴のない形でまとめたものがないのだ。しょうがないので、自分なりにやってみる。間違ってたらごめんなさい。

1955年に竣工した旧北見市役所だが、1986年に開基100年記念事業の調査特別委員会が市議会に設置され、
ここで市庁舎の改築についての議論が始まった。北見市が開基100周年を迎えるのは1996年である。
要するに、「10年あればじっくり計画が練れて新市庁舎が建つでしょ」という読みだ。結果的には大ハズレだったが。
もともと旧北見市役所は図書館・公民館・遊園地を移転させてまで建てられた「白亜の殿堂」と呼ばれた建物で、
道内の市役所では初めて全館ガス暖房にしたとか、道東でいちばんの近代庁舎だとか、かなりもてはやされた模様。
北見市民の誇りとされていたようだ(今回、その旧庁舎の取り壊しに間に合わなかったのがとっても切ない……)。
それだけに新庁舎の建設は市民のプライドを賭けた事業となったのか、ほかの都市にはみられない混迷ぶりとなる。

はじまりは1995年の市長選。翌年の建設着工を訴えた現職の久島市長が、時期の見直しを訴えた新人に敗れたのだ。
(開基100年となる1996年に着工することで記念性を持たせようとした意図がありそうだ。焦りがあったか。)
そうして就任した小山市長だが、後に建設容認に転じて1998年に新庁舎(総工費85億円)のデザインをまとめる。
ところが翌年の市長選で、建設費の見直しを訴えた新人が当選する。その神田市長も2期目の2004年になって、
北見駅周辺への市庁舎移転を模索。2007年には東急百貨店が閉店し、「まちきた大通ビル」として再出発した。
そして2008年10月、まちきた大通ビルに隣接する東急インの撤退が報道されたことで、移転計画が本格化する。
まちきた大通ビルの上層階に市庁舎機能を移そうというのだ。下層階には地元の商店が入って営業しているわけで、
商業施設と市役所の夢のコラボレーションという、実に大胆なアイデアが提案されたのである。
(僕としては、それは将来的には公共施設の理想的な姿であると認識している。でも現状の法律だと常識外。)
古い庁舎を取り壊した後の土地には、すぐお隣の北見赤十字病院を新築移転させるという計画。
これで高台の現在地での建て替えか、駅周辺への移転かに焦点が移った。直線距離にして600mほどの話なのだが。
ところが、まちきた大通ビルへの移転案(市役所所在地の条例変更)は、翌11月の市議会で否決される。
2/3の賛成・可決に1票足りなかったのだ。これを受けて神田市長は辞任、年末に出直し選挙が行われた結果、
駅前移転構想に反対する小谷氏が神田市長を破って当選したのである。……でもこれで話は収まらなかった。
(神田市長は自民党系、小谷氏は民主党系。北海道第12区・武部勤VS松木謙公の代理戦争と報道された。)

2009年、小谷市長は公約を転換し、北見赤十字病院新築移転案(つまり市役所の土地の提供)を受け入れる。
市議会野党(つまり自民党系で、多数を占める。北見市議会は少数与党の「ねじれ」状態)に迫られての決断だった。
となると、新庁舎をどこに持っていくかが問題となる。小谷市長は2010年3月、高台に近い分庁舎への移転を目指し、
庁舎位置の変更条例案を提出した。しかし野党主体の議会は条例案を修正し、東急インの跡地への移転を採決する。
東急インは2010年3月31日に営業を終了。高台に庁舎を残したい市長だが、いよいよ立場は苦しくなった。
そして2011年8月、ついに市庁舎機能のまちきた大通ビルへの移転が可決した。東急イン跡の隣は駐車場で、
「(車両が上階に並ぶ)駐車場ビルを本庁舎とすることに、市民から疑問の声が上がっている」との理由により、
結局は当初の神田前市長の案が通った形となった。旧庁舎は2011年10月より本格的な解体作業に入った。
まちきた大通ビルが正式な北見市役所となるのは、合併特例債が間に合う2014年度からとなる。

以上、北見の事情をまったく知らなかった僕が、ネット上の記事を自分なりに時系列に沿ってまとめてみた。
まとめ終わって思うのは、誰も北見の「迷走」を笑うことはできない、ということ。これはどこでも起こりうることだ。
80年代のバブルがはじけて90年代の不景気に急転直下で突入したこと、郊外社会化の成熟と中心市街地の空洞化、
合併特例債目当てによる平成の大合併の進行、国政とともに揺らぐ自民党と民主党の覇権争い……。
北見が直面した問題は、日本の地方都市が翻弄されてきた問題そのもの、日本の縮図そのものなのだ。
ただ少し運が悪かった。ほかの都市よりもこじれる要素が多かった。市庁舎をめぐって混乱した北見の25年間は、
都市社会学的には極端ながらも典型的なひとつのモデルケースとして記憶されることになるだろう。

最後に蛇足ながら、2014年度に誕生するであろう新しい北見市役所についての僕個人の意見を書いておくと、
「こんなめちゃくちゃで面白い街おこしはほかにない! もともと北見は観光資源が少ないんだし、
徹底的にやりきって全国から客を集めるべきだ! 商業施設と合体した市役所を、祭りの舞台にしてしまえ!」である。
事情を知らないよそ者が無責任極まりないことを書いて申し訳ないけど、それが僕の偽らざる本音だ。
苦しい現状を笑い飛ばすことができなければ、地盤沈下は進む一方なのだ。ポジティヴになりきるしかない。
やはりこれもネットで目にした情報だが、現在、まちきた大通ビルの6階にはミニシアターが入っている。
このミニシアター、市役所機能の移転にともなって閉館してしまう可能性が高いようだ。
そんなもったいない話はない! 映画館のある市役所なんて、間違いなく全国で唯一になるのに。
ミニシアターをそのまま残し、大々的に全国に向けて宣伝してしまえばいい。絶対に話題になる。
必要なのは、とにかく北見の街にベクトルを問わず活気を、熱をつくりだすことだ。
市役所全体を観光資源にしてうまく博物館網走監獄と連携すれば、北見と網走で観光コースをつくることができる。
それくらい柔軟な発想がほしい。資源を発見し、活用することに積極的に取り組まないともったいない!

★参考にしたというか勝手にパクって編集させてもらったページ(ごめんなさい)

まちきた大通ビル - Wikipedia
朝日新聞デジタル: 築55年庁舎 政争の具 北見-マイタウン北海道
新市庁舎はどこへ・・・ 北見市の抱える問題|M26号 -全日本プロレスLOVE-
検証北見市長選 (完) 2008年12月26日の記事 == 経済の伝書鳩
北見市庁舎の歴史 2012年01月12日の記事 == 経済の伝書鳩
銀幕の灯 消さない 「シアターボイス」代表 伊藤文一さん(59)=北見市(2012.4.8 北海道新聞朝刊): てつや。
牧田実: まちづくりをめぐる政治的意思と利害表出の構造 ―北海道北見市の政治過程― (福島大学教育学部論集 第73号)

というわけなんだけど、旅行していた当時にはそんな混乱なんて知らないので、なんだこりゃ?と、
大いに戸惑いながらまちきた大通ビルを撮影。いいんだよ、全国に1ヶ所くらいこういう市役所があったって。

 北見の商店街はこんな感じ。がんばっているけど、それほど客足はない。

レンタサイクルで軽く北見駅近くのアーケード商店街を走りまわると、市役所旧庁舎跡地を探しに行く。
当たり前のことだが、建物がきちんと機能を持った建物として存在しているうちは、地図や案内板で位置がわかる。
しかしその機能を失ってしまうと、地図からは名前が消え、案内板は撤去されてしまう。
さらに建物じたいが取り壊されて消えてしまうと、もうどうしょうもない。その痕跡を探すのはかなり難しくなる。
まあ今回は運がいいことに案内板が残っていたので、それをもとに動いていく。あらかじめきちんと調べていれば、
こういう苦労はしなくて済んだんだがなあ、と肩を落としてペダルをこぐ。案内板の指す方向は上り坂。
でも旅行中の僕は、旧庁舎が「高台」と呼ばれる位置にあることを知らなかったわけで、不安になりつつ走る。

やがて僕の目の前に、広大な敷地が土と砂利で覆われている光景が現れた。「北見市役所は1955年築で、
北海道で2番目に古い」という情報は、すでに頭の中にあった。だから目にした瞬間、すべてを悟った。
「遅かったんだね」とつぶやく。しょうがないんだけど、会えなかったことが、やっぱり悲しい。

  
L: かつての市役所の敷地に隣接しているオープンスペース。この池の向こうに、堂々とした姿があったんだろうなあ。
C: 現在の旧市庁舎跡地。見事に更地となってしまっていた。奥にそびえている北見赤十字病院がここに移る予定である。
R: 角度を変えて撮影。すいません、これから新しい建物が建つというワクワク感よりも喪失感の方が圧倒的に強いです。

撮影を終えると、印刷しておいたGoogleマップを広げ、次の目的地を確認する。
さっき「もともと北見は観光資源が少ないんだし」と失礼なことを書いたが、そのうちのひとつを訪れる。
住宅街の中に木々に包まれひっそりと建っているのは、ピアソン記念館。ピアソンさんはアメリカ人宣教師。
北海道で布教活動を行ったのだが、最後に訪れた北見で15年間生活した後、アメリカに帰って亡くなった。
北見市は1914年にW.M.ヴォーリズ(→2010.1.10)の設計でつくられた旧ピアソン邸を、記念館として開放しているのだ。

  
L: ピアソン記念館(旧ピアソン邸)。  C: 裏側はこんな感じになっている。シンプルかつ上品ですな。
R: 館内の様子。ピアソンが持ち込んだオルガンなどがしっかり残されており、展示も充実している。

まずは建物の周りを一周して写真を撮りまくり、中に入る。係員の方がピアソンについて説明してくれるが、
僕の興味はヴォーリズの設計ぶりにあるので、ひととおり聞くと館内をあちこち徘徊(というほど広くない)。
とにかく何が面白いって、梁の構造である。単純に柱を通してはおらず、複雑に組み合わせているのだ。
ここをデザインとして凝るか?とウヒウヒ笑いながらデジカメのシャッターを切るのであった。
帰る際に日本全国のヴォーリズ建築マップを売っていたので、買って外に出る。別にヴォーリズマニアじゃないけど。

 見よ、この梁の変態ぶりを!

北見市内で僕の気になる場所はもうひとつあったのだが、このまま素直に行ってしまうのがもったいなく思えて、
北見のかつての名前である「野付牛(のつけうし)」の名を冠した公園まで走ってみることにした。
やはり北見も開拓された街らしく、市街地は碁盤目状の道が引かれている。が、さっき「高台」があったように、
北見の市街地は高低差がかなりあるのだ。北見駅・大雪大通が最も低く、そこから西側へはけっこうな上り坂となる。
旧北見市役所はその坂を上りきったところにあるわけだ。建物の背が高くなかった昔は、確かに一等地だったろう。
そこから野付牛公園まで一気に走っていったのだが、南北方向にも高低差はある。下って、上るのだ。
複雑な地形を残したままに矩形の街割りで都市化していったのは、今までのことを考えるとちょっと珍しい。

  
L: 緑あふれる野付牛公園。アイヌ語で「地の果て」を意味する「ヌプンケシ(ヌップケシ)」が訛って「のつけうし」だそうで。
C: 野付牛公園から旧市役所方面へと戻る。北見駅の北側はこんな感じで意外と高低差がしっかり残っている。
R: 途中にある北見市役所分庁舎。左が第一、右が第二。ここへの移転が失敗して、結局まちきた大通ビルへ。

北見のほかの街とは異なる部分に触れて、ちょっと満足してそのまま石北本線の南側へと移動する。
もうひとつの北見の名所へ行くのだ。線路にほど近い場所にあるのが、北見ハッカ記念館である。
釧路でも網走でも「北見の名物」ということで徹底的にミントグリーンで統一されているハッカ製品を見かけていたので、
(ハッカ油・クリーム・入浴剤・楊枝・紙おしぼり・ペパーミントティー・タブレットそしてもちろんハッカ飴など、種類が多い!)
不勉強な僕は、北見といえばハッカで、いまだに積極的にハッカを育てているのだと思っていた。
しかし実際にハッカ記念館を訪れてみたら、現状はまったく違っていた。もはや商業ベースでは栽培していないのだ。
冷静に考えればハッカの香り成分・メントールは化学的に合成されて工業生産されているので当たり前なのだが、
その「失われた栄光」っぷりが北見の観光資源の乏しさと重なって、よけいに悲しくなってしまったわ。

北見でハッカ生産が本格化したのは20世紀に入る前後。とにかく儲かり、一気に生産が広まった。
しかしそれだけに投機的な面も出てきて大正期には停滞したそうだ。その後、ハッカの栽培は再び盛んになり、
1939年ごろには北見のハッカ生産が世界シェアの70%を占めるほどになる。これが全盛期だった。
戦争が始まると、ハッカは不要作物として栽培が中断されてしまう。戦後には生産が復活するものの、
ブラジルや中国のハッカが世界に進出し、さらに1960年代には化学合成されたメントールが広がっていく。
北見のハッカはみるみるうちに規模が縮小し、1983年にホクレンの工場が閉鎖されて一時代が終わった。
こうしてみると、北見のハッカは栄光の歴史であると同時に、商品作物に人々が翻弄された歴史でもあるように思う。

  
L: 北見ハッカ記念館。旧ホクレン北見ハッカ工場の一角をそのまま整備して各種ハーブを植え、公園のようにしている。
C: 北見ハッカ記念館の建物は1935年の竣工。もともとはハッカ工場の研究所だったので、中はかなり質素である。
R: こちらは同じ敷地内で記念館の隣にある北見薄荷蒸溜館。ハッカを蒸留する作業工程を実際にやってみせる施設。

北見ハッカ記念館はもともとホクレンのハッカ工場の研究所で、用途が用途だけに中身はけっこう質素である。
ハッカの生産に関係する機械、ハッカの歴史や植物的な特徴の説明、工場の歴史の説明などが展示されている。
そもそもハッカとは何ぞや?と考えてみると、きちんと答えられない。ハッカは漢字で「薄荷」と書く。
「薄」が「入り交じって群がり生える」、「荷」が「地下茎の草」という意味だそうで、「ハーブ」と同じで総称なのだ。
英語だと「mint」で、シソ科で葉っぱをもむとスーッとする草を指す。だから実にさまざまな品種があり、特徴もさまざま。
もうひとつ、説明を見ていくうちにワケがわかんなくなってしまったのが、「脳」。「ハッカ脳」の「脳」。これはなんだ、と。
調べたら、精油から得られる結晶性テルペノイド化合物を指す単語「camphor」を漢字1文字で訳したものが「脳」。
(「camphor」は特にクスノキから採れる樟脳を指す単語で、「カンフル」とも言う。いわゆる「カンフル剤」のカンフル。)
この「脳」についての説明がなかったので、あちこちで「脳」を見かけるたびに首を傾げて過ごしたのであった。

記念館はそんなに大きい建物ではないので、すぐに見終わってしまう。隣の北見薄荷蒸溜館にも行ってみる。
こちらはかつてのハッカ農家のハッカ小屋をイメージして2002年に竣工した施設。その名のとおり、
収穫したハッカの草からハッカ油を蒸留して取り出す工程をそのまま見せてくれるのだ。
中に入ると、原始的な蒸留装置から改良が重ねられた装置までが大胆に並んでいて圧巻。
僕が訪れた時間は遅かったので見られなかったが、実際に蒸留作業をやってみせてくれるという。
一角には売店もきちんとあって、そこだけはミントグリーンに染まっていた。北見の誇りは十分実感できたね。

外に出ると、さすがに北海道の東側の街だけあり、もう夕方らしい日差しとなっている。東京では考えられない。
この後は特に予定もないので、植えられている各種ハッカをのんびりと眺めながら敷地内を散歩してみる。
そんな具合に僕は一仕事終えてまったりしていたのだが、ミツバチたちは必死で蜜を集めて飛びまわっていた。

 ミツバチがいっぱい、キャンディミントの花から蜜を集めていた。

駅に戻ってレンタサイクルを返却する。北見の中心部は線路によってしっかり分断されており、アクセスがよくない。
まあその分、駅裏に広がる広大な駐車場と貨物列車用のヤードを見て、北見の実力を実感できた。

日が沈んでから外に出る。今日もご当地B級グルメをいただくのだ。北見の名物として今回チャレンジするのは、
「オホーツク北見塩やきそば」である。これはもともと『北海道じゃらん』の企画からスタートした料理で、
北見市で昔から食べられていたというわけではない。しかし北見ではかなり力を入れているようなので食ってみる。
本日の宿も無線LANが使えたので、MacBookAirでどの店にするか情報収集をしておいた。本当に便利だ。
ところが困ったことに、企画でつくられた名物なので有名店がなく、どこもなかなか決め手に欠けるのだ。
さらになぜか、日曜定休の店がやたらと多いのである。まあそのおかげである程度絞ることができたのだが。
結局、写真を見ていちばんシンプルそうな塩やきそばを出す鉄板焼きの店にお邪魔することにした。

宿を出ると、閉店時刻間際になって活気がなくなってきているアーケード商店街を抜ける。
するとそこは非常に不思議な空間になっていた。北見駅周辺は東西南北が45°ズレた感じの碁盤目だが、
それより西側には正確な東西南北の碁盤目がある。このふたつの碁盤目が重なる場所に夜の繁華街があるのだ。
おかげで三角形のオープンスペースに7本の道路が入り込んでくる形になっており、また微妙な高低差もあって、
薄暗い夜には少し現実離れした印象の街の広がりを感じさせる空間ができている。昼間に写真を撮っておきたかった。

で、目的の店は、そこからほど近くてやたらとオシャレなのであった。鉄板焼きの店というよりもはやバーな感じ。
それだけにまだ開店して間もないようで、客は誰もいなかった。マジメそうなヒゲのマスターに塩やきそばを注文。
一緒にアルコールを頼めるとかっこいいんだけど、当方明日も早いので断念するのであった。締まらんなあ。

 オホーツク北見塩やきそば。食いながら、ご当地B級グルメについて考えさせられた。

「オホーツク北見塩やきそば」にはいくつか決まりがあって、北海道産の小麦を原料とした麺を使うとか
オホーツク産のホタテを使うとか、北見産の玉ねぎを使うとか、留辺蘂産の割り箸を使うとか、いろいろ細かい。
それはそれで地元経済の活性化が狙いだろうから別に文句を言うつもりはないのだが、かなり考えさせられた。

ご当地B級グルメには、ざっと考えて3つの類型があると思う。
まず、ひとつあるいは複数の有名店にわざわざ食べにくる客がいて、街の名物として認知されていったもの。
次に、もともと地元民が日常食べていたものが、名物として「発見」されて街おこしに利用されているもの。
そして、自治体や地元経済団体が主導して新たに開発され、名物として宣伝されているもの。
以上、集客能力の高い順に並べていったつもり。北見のケースは当然、いちばん下の最も客集めが難しいパターン。
(この旅行でいちばん上のパターンに当てはまるのは帯広(→2012.8.17)。最強なのはたぶん喜多方(→2010.5.15)。
 真ん中のパターンは釧路(→2012.8.172012.8.18)と根室(→2012.8.18)。北海道には真ん中が多いと思う。)
塩やきそばを食いながら考えたのだが、新たに開発された名物はどうしても既存の名物のニッチを突くことになるので、
無理があるというか、不自然さがあるのは否めない。もともと答えのない問いに無理やり答えをつくっているというか、
わざわざ食べに訪れる客を満足させる正解が見つかっていないまま試行錯誤するもどかしさ・迷いがあるのだ。
そしてその迷いがまた、「各店の個性」として客が判断する前に肯定されていることで、いっそう迷いが深まる感じがする。
抽象的すぎて何が言いたいのかよくわからないと思うけど、つまり、時間を経て淘汰される経緯を経ないと、
集客能力のある名物というレヴェルまでにはいかない、ということだ。やはり有名店(正解)がないとつらいと思う。
……こう書くと塩やきそばがイマイチだったように思われるかもしれないが、まあ確かにもうひとつパンチは欲しかったけど、
素材としては悪くないと思う。でも、核となる有名店が出ないことには知名度は上がっていかないだろうなあ。

宿に戻って写真の整理。博物館網走監獄で調子に乗ってシャッターを切りまくったせいで、えらいことになる。
これは日記を書く段階での取捨選択がきついなあ……と思っているうちに寝た。

博物館網走監獄と『監獄の誕生』&日本の刑罰史と近代化、北見市役所をめぐるあれこれのせいで、
今日の日記は本当に書くのが大変だった! これを書ききったオレ、本当に偉い! どうせ誰も褒めてくれないけどな!


2012.8.18 (Sat.)

釧路には連泊するので、荷物の中身は宿の部屋にあらかた置いてきた。必要最小限のものを詰め込んで出発する。
延々と北大通りを歩いて釧路駅に到着すると、改札を抜けてホームで始発列車がやってくるのを待つ。
そうして乗り込んだ快速はなさきが釧路駅をゆっくりと出たのは、5時55分。行き先は北海道の東端・根室だ。

 北の大地 6days 2/6: 根室・釧路

札幌から釧路までは特急がしっかり走っているのだが、釧路から先となると快速の2往復があるだけで、
基本的には普通列車しかない世界となる。行きはその快速に乗れるからいいが、帰りが普通列車になるのは憂鬱だ。
まあでもどのみち片道2時間半近くかかるわけで、それほど大きな差があるわけではないのだ。気長にいくしかない。

釧路の街は濃い霧に包まれていたのだが、根室本線は東へ進んでいってもそれが晴れる気配がまったくない。
今日の天気は大丈夫かよ、とかなり不安な気持ちになっているうちに、完全に森林地帯に入った。
木と草、ただそれだけが目の前を覆い尽くすが、今朝は濃い霧がそこにぼんやりとフィルターをかけている。
これは……眠くなりそうだなあ、と思ったその瞬間、いきなりディーゼル列車の警笛が鳴ってびっくり。
なんだなんだと驚いて窓の外を見たら、茶色い影が緑の中へと消えていった。そう、エゾシカだ。
エゾシカはニホンジカの亜種なのだが、北海道の寒い環境に適応して体が大きく200kg近い個体もいるそうだ。
道東の鉄道路線はエゾシカの侵入が非常に多いのだが、根室本線の東側は特に多いのだという。

こうなるともう、眠気なんか完全に吹っ飛んでしまう。警笛が鳴るたびに窓に外にカメラを向けてチャンスを探る。
ところがこれが非常に難しい。警笛に文字どおりケツをまくって慌てて逃げるエゾシカの姿を見かけても、
列車のスピードはそれなりに速くてピントが絞れない。またエゾシカの動きも素早く、すぐに消えてしまう。
そうかと思えば川べりでのんびり寄り添うエゾシカもいて、気がついたときには列車がサヨウナラしてしまうことも。
結局エゾシカとの戦いはこっちの惨敗となってしまった感じ。肉眼では合計2ケタ、しっかり見たんだけどなあ。

さて窓の外を眺めていてもうひとつ驚いたのが、『ルパン三世』にラッピングされた列車が走っていたこと。
根室までの途中にある浜中町は原作者のモンキー・パンチの出身地ということで、街おこしをやっているのだろう。
アニメキャラの大胆なラッピングというと、いわゆる「痛車」を見かけることがあって、あれを想像してしまう。
しかし『ルパン三世』の場合、これがめちゃくちゃかっこいい。本当に、純粋に「かっこいい」のである。
ルパンに次元に五ェ門に不二子に銭形のとっつぁんがでっかくラッピングされていたのだが、オシャレなんだわコレが。
これは『ルパン三世』がもともとハードボイルド的な要素を多分に持っているアニメだったからだろうけど、
なんというか、アニメという枠を超えたレヴェルまでいっている印象。じっくり撮影できなかったのが本当に残念だ。
まあ、『ルパン三世』についてはまた後ほど。釧路に戻ってからしっかり堪能させていただきました。

  
L: 厚岸辺りでは湿地帯を走る。これもまた、北海道らしい景色だ。思わず大興奮しながらシャッターを切ってしまったわ。
C: 浜中駅にて。こんなところにさりげなくルパンが立っている。遠いので気軽に行けないのがつらい場所だよなあ……。
R: 根性でラッピングされているルパンの絵を撮った。ルパンの場合、めちゃくちゃスタイリッシュに見えるのが不思議だ。

2時間半近く、延々とエゾシカ探しをしながら揺られたのだが、根室に近くなると鮮やかな光景も広がるようになり、
それなりに飽きることなく過ごすことができた。申し訳ないけど観光客としては、エゾシカの存在は面白くてたまらないです。

  
L: 根室に近くなると、北海道の大自然を実感できる風景も登場。空も晴れてきたし、非常にいい感じである。
C: 逃げるエゾシカの姿を根性で撮影した。後ろ姿だけど、結局まともに撮れたのはこの一枚だけだったなあ。残念。
R: 日本の最東端の駅・東根室駅。鉄っちゃんではないので別に興味はないけど、いちおう撮っておいたよ。

根室駅に到着すると、霧はすっかりなくなって恐ろしいほどの快晴。早朝の釧路はしっかりと寒かったが、
朝8時過ぎの根室もしっかりと涼しい。でもこの日差しなら、昼間はそれなりの暑さになりそうだ。
そんなことを考えながら、駅舎を出てすぐ左手にある根室市観光インフォメーションセンターへ。
便利なことに、ここはバスターミナルにもなっており、納沙布岬行きのバスもここから出る。
奥にある窓口で路線バスの往復切符を買って準備完了である。そのまま外に停まっているバスに乗り込む。
実は納沙布岬行きのバスは路線バスのほかに観光バスもあるのだが、路線バスの方が滞在時間が長いのだ。

 
L: 根室駅の最果て。ここは本当に最果てだなあ。  R: 根室駅の外観。ついにここまで来たんだなあ……。

バスの窓から根室の街の様子を眺めながら揺られる。やっぱり幹線道路がしっかりと広いのが印象的だ。
市街地をゆったり進んで根室高校のところから坂を下っていくと、景色は一変する。ひたすら、緑が広がる。
海沿いには住宅もあって、今まさに昆布を干している真っ最中だったが(日高のときと同じだ。 →2012.7.2)、
そのあまりにも豪快な風景に、日本という国の広さを見せつけられた感じだ。本当に、日本は広い国なのだ。

  
L: 根室半島はこんな感じの緑の大地なのであった。で、ところどころにチャシ(後述)跡が点在しているわけだ。
C: こんもりと木々が茂っている光景が面白かったので撮影。機会があればぜひ近づいてみたいわ。
R: 砂利の上に昆布を干す光景は日高地方とまったく一緒。トラックが豪快に昆布を運んでいるのを見た。

そうこうしている間に、バスは集落へと入る。歯舞(かつては歯舞村だったのだ)を抜けていくと、珸瑤瑁(ごようまい)。
気になったのは、道道35号沿いにはいくつか小学校があったのだが、ことごとく閉校となってしまっていたこと。
今の感触だと、もともとそれほど人が多くいるように思えないが、かつてこれらの集落にはいっぱい人がいたのだろうか。
北方領土を日本がきっちり実効支配できれば、この辺りももうちょっと活性化するのだろうか。わからない。
なんてことをつらつら考えているうちに、霧が出てきた。いや、霧が包んでいるところに入っていったのだ。
先へ進めば進むほどに霧は濃くなっていく。襟裳岬での切ない思い出(→2012.7.2)が頭の中をよぎる。
また霧で視界を塞がれるのかよ……とブルーになっているうちに、終点の納沙布岬に着いてしまった。トホホ。

納沙布岬は「のさっぷみさき」と読む。離島を除くと日本の本土の最東端となる場所である。
(以前訪れた野寒布岬(のしゃっぷみさき)は、稚内の岬である(→2010.8.11)。ややこしいなあ。)
ロシアが実効支配している歯舞群島の貝殻島まではわずか3.7kmということで、晴れていれば簡単に見えるらしい。
が、今日の霧は本当にひどくて、定番のモニュメントである「四島(しま)のかけはし」すらまともに見えない有様。
納沙布岬の碑のあるところから海を覗き込んでも、まずその海が見えないんだぜ。どんだけひどいんだコレ。

  
L: 納沙布岬といえば北方領土返還を願うモニュメント、「四島のかけはし」。でも霧がかかっちゃって……。
C: 海岸沿いの崖の上には実にさまざまな碑が並んでいる。中には蜂起したアイヌに襲われた和人の殉難碑もある。
R: 晴れていればここから北方領土をひとつひとつ確認できるのだろうけど……。海すら見えないこのひどさ。

せっかく納沙布岬まで来ておいて北方領土をこの目で見られないというのは非常に残念である。
前に宗谷岬からサハリンを見たことはあるけど(→2010.8.11)、あれはきっちりロシア領だから「外国」だった。
手の届く位置にある本来自分たちの島に行けない、という感覚を実際に味わってみたかったのだが、
これではどうしょうもない。滞在時間内に霧が晴れることを祈りつつ、北方館・望郷の家の中を見学する。

北方館・望郷の家は合体しているが、本来は別の施設で、まず望郷の家が1972年につくられた。
これは北方領土の生活に関する資料が中心。その後の1980年に北方館が併設する形でつくられた。
北方館は北方領土問題に関する解説が中心。意外と親子連れの観光客が多くいたのが印象的だった。
つい先日、香港の活動家による尖閣諸島への上陸と韓国大統領の竹島への上陸という事件が起きたばかりで、
図らずも日本という国の国土について試されている時期にこの施設を訪れることになってしまった。
僕の考えはいずれ日記に書くつもりだが、今回はとりあえず、地元の皆さんの北方領土への思いを知る、
ということに重点を置いて展示を見ていった。当たり前のことが当たり前でない、というのはつらいことだ。

  
L: 北方館・望郷の家。たったこれだけの距離も霧でうっすらになってしまうとは切なすぎるわ!
C: 2階ではこの近辺に棲む動物たちの剥製が、みんなそろって北方領土の方を向いているのであった。
R: 納沙布岬の端っこ。晴れてくれれば北方領土とロシアの巡視艇が見られただろうになあ……。

北方館・望郷の家を出ると、霧が晴れてくれることを祈りつつ、周辺の土産店をいろいろ覗いてみる。
去年の卒業生たちから暑中お見舞いが来ていたので、ちょうどいいや納沙布岬の絵はがきで返そうと思い、
何かいい写真はないかと探したのだが、はっきり言って納沙布岬は全然フォトジェニックじゃないのな!
「四島のかけはし」の絵はがきもあったけど、さすがにそれは政治的なメッセージが過剰に混じってしまうし。
そんなわけで、絵はがきについては釧路に戻ってからなんとかすることにした。うーん、あてがはずれたわ。

根室駅に戻るバスが出る時間ギリギリまで粘ったのだが、結局、霧は晴れてくれなかったのであった。
せっかくこの東の果てまで来たというのに、残念極まりない結果となってしまった。がっくりである。
午後に来ればまたいろいろ違ったのかもしれないが、釧路で探索したい場所がまだあるのでしょうがない。
結局、ここで霧と格闘していたことで、いちおう徒歩圏内のヲンネモトチャシ跡にも行けなかったしなあ。うーん。

  
L: それでもいちおう少しは霧がマシになってきたので、岬の突端を撮影。海が見えるようになったのは大きな進歩だ。
C: 納沙布岬灯台もこの有様。うっすらとした姿がわかります?  R: 納沙布岬の碑はいくつかある。これは根室市のもの。

バスは帰りも同じルートを丁寧になぞって戻る。やはり歯舞の集落を抜ける辺りで霧はなくなり、
とっても切ない気持ちにさせられるのであった。北海道の岬めぐりには霧という大敵が潜んでいるものなのね……。

根室駅に戻るとあらためて観光インフォメーションセンターで根室の市街地にある主要な観光地を確認する。
日本百名城をのんびりまわりつつある僕としては、栄えある1番の「根室半島チャシ跡群」が気になるわけで、
どっかいいチャシ跡はないかと調べてみたのだが、根室市ではそれほど極端にチャシを重視してはいないようで、
案内はなかった。百名城のスタンプは置いてあったけどね。でもスタンプ集めの趣味はないので関係ないし。
この後、釧路でチャシ跡を見る予定を組んでいるので、ここはあっさり根室市内でチャシ跡を見るのはパスする。
そうなると僕としては気になるのは明治公園のサイロぐらいなものだ。歩いて行ってみよう、とスタート。

それでもまずは市役所だ。根室市役所は駅からすぐ近く、国道44号に面したところにある。
交通量がそれほど多くないので、余裕を持って道路の反対側から撮影し、ぐるっとまわって眺めてみる。
根室市役所は1973年の竣工。シンプルながらも上の階にいくにしたがいヴォリュームアップする面白い建物だ。

  
L: 根室市役所。植物が植えられている白い鉢には緑色で択捉島・国後島・色丹島のオブジェが貼り付いている。
C: 敷地内に入ってあらためて撮影。根室の公官庁はとにかく北方領土返還を求めるスローガンで埋め尽くされている。
R: 坂を少しだけ下って側面と背面を見たところ。駅にほど近い高台の上ということで、いい立地ですな。

実は根室市の中心部は、かなり高低差がある。駅から北の海岸に向かって、けっこうな下り坂になっているのだ。
市役所はちょうどその坂が始まる高台に位置していて、中からの眺めはかなりよさそうな感触である。
市役所から東の明治公園へ行くのも、いったん緩やかに下ってからまた上る地形になっていて面倒くさい。
半島の付け根に位置する街なのでそんなものかもしれないが、なかなか強烈な印象を残した。

  
L: 市役所の脇から市街地へ向かうとこんな感じの下り坂となる。観光用の地図からは想像できない激しさである。
C: 根室はさすがにキリル文字(ロシア語表記)が満載。  R: バス停にまでキリル文字が併記されているのには驚いた。

バスに乗って根室の街が意外と大きいスケールをしているのがわかっていたので、早足で東へと急ぐ。
昨日のこともあるし、あんまりモタモタしていると根室名物を食いそびれてしまうかもしれないのだ。
豪快に下って上る道道35号の脇、歩道を行く。道幅が広いので、早足でもどうしても「トボトボ」といった印象になる。
時刻は11時近くになって、日差しが厳しい。吹いている風じたいは涼しめなのだが、暑くて汗が止まらない。
とはいえこれは日が傾けば一気に気温が下がるであろう感触だ。やはり北の大地は東京とは違うな、と思う。

そんなこんなでそれなりに時間がかかって明治公園の中に入る。ガソリンスタンドの裏からまわり込んだのだが、
そしたらいきなり例のサイロが現れた。青空と芝生の緑の間で、実に見事な茶色である。絶妙のコンポジションだ。
もともとこの明治公園は、1875(明治8)年に「開拓使根室牧畜場」として設立された北海道で2番目の牧場だった。
シンボルとなっているサイロは3つあり、第一から第三まで番号がふられている。が、建築順とこの番号は一致しない。
中央の第一サイロとその奥にある第三サイロが1936年築。でもいちばん低い第二サイロの方が古くて1932年築なのだ。
サイロの高さは第一と第三が14m、第二が12mということで、実際に見るとかなり大きくて迫力がある。
ちなみに地面の緑はタンポポが多く混じっており、5月下旬には明治公園がその黄色で埋め尽くされるとのこと。
これ以外に牧場を思わせるものが残っていないのがさみしいが、北海道らしくて印象的な空間である。

 
L: 明治公園のサイロ群。右から第一、第二、第三となる。  R: 第一サイロをクローズアップ。

撮影を終えて明治公園から出ると、下って上ってまた下り、北側の市街地へと行ってみる。
現在では道東の都会というとなんといっても釧路だが、実はかつては根室の方が栄えていたという。
でっかく開発されてスカスカになりつつある釧路と比べると、根室の市街地はまだ生活感が強い。
商店街はそれなりにダメージを食ってはいるが、坂の高低差を素直に受け入れながらこぢんまりと営業していて、
暗い雰囲気はあんまりない。街並みは確実に古びてきているけど、人がいる感触があるからだろうか。

根室ではイオンが市街地のわりと真ん中にデンと存在しているのだが、その裏側にあるのが次の目的地。
お昼ということで、根室名物・エスカロップをいただくのである。このエスカロップ、最近知名度が上がってきた。
本当に根室限定の料理なんだそうで(釧路にもない)、北海道民でも知らない人がほとんど、とのこと。
しかしご当地B級グルメブームとしては、ローカルながらも特徴のあるエスカロップは絶好のネタなのだ。食うしかない。
エスカロップ発祥の店は「モンブラン」。現在は駅前にその流れを汲む「ニューモンブラン」があるが、
もう一軒、モンブランで修行した店主が独立したという「どりあん」のエスカロップも評価が高いようだ。
どっちで食うか本当に迷いに迷ったのだが、「どりあん」の盛りつけ写真がオシャレだったのでそっちにした。
時間的に余裕があれば食べ比べしたんだけどねえ。ご当地B級グルメをどの店で食うかは難しい問題である。
なお、エスカロップの語源はフランス語で「肉の薄切り」を意味する「エスカロープ(escalope)」とのこと。
促音で「ロップ」という語尾となってしまうところに、なんとなくアイヌ語の語感の印象がする。

さて、その「どりあん」。中に入ってそのオシャレさにいきなり圧倒された。
店内は穏やかな西洋の家の明るい雰囲気を保った喫茶店、といった感じ。入った瞬間から居心地がいい。
そしてBGMで流れているのがロカビリー(だよね?)で、これがまた明るい印象を強める。これは本当にいい店だ。
当然のごとくエスカロップを注文。もうひとつの根室名物であるオリエンタルライスにも少し惹かれたが、初志貫徹。

ほどなくして出てきたエスカロップは、ご当地B級グルメというよりも「上品な洋食」なのであった。
エスカロップはまとめてしまうと単純な料理で、トンカツをバターライスの上に乗せてドミグラスソース、以上だ。
(バターライスにはタケノコのみじん切りが入る。これが「白エスカ」。ケチャップライスだと「赤エスカ」。)
「どりあん」の場合、ソテーで薄切りのトンカツ、添えられたキャベツ・トマト・ポテトのサラダ、
そして落ち着いた味のドミグラスソースの組み合わせが、正統派の洋食という雰囲気を大いに漂わせている。

 フォークでいただく。一瞬で食い終わってしまうくらい旨かった。

初めて食べるエスカロップは、なるほどこういうトンカツの食べ方もあるのか、と新しい発見だった。
トンカツというと豪快に食べたい料理だが、たまには旅情に浸ってエスカロップで食べるのもいいだろう。
もっとも、もともとおいしいエスカロップの好印象を、店内のオシャレな雰囲気が増幅させていた面は大きい。
スポーツじみた余裕のまったくない旅でおなじみの僕でも、この店ではもうちょっとゆっくりしたいと思った。
でも根室本線の本数は少なく、釧路にはまだ行きたい場所があるので、後ろ髪を引かれる思いで店を出た。
さびれかけた辺境の街にある店ではないですよこれは。東京に支店をつくってくれんかのう。

大いに感動しながら市役所脇の坂を上って駅まで戻る。気がつけば列車の発車時刻が迫ってきている。
毎度おなじみセイコーマートで飲み物を買い込むと、観光インフォメーションセンターでパンフレットをチェックして、
ホームに停車していた列車に乗り込む。釧路に戻るのが少しさみしい。納沙布岬では悔しい思いをしたけど、
エスカロップのおかげで根室の印象はかなりいいものとなった。旅の面白さをあらためて実感したなあ。

帰りは快速ではないので各駅をていねいにまわっていくが、駅間に距離があるのでそんなに時間的な差はない。
霧が晴れたおかげで景色はしっかりと堪能できたが、エゾシカの姿がほとんど見られなかったのは残念だった。
落石(おちいし)付近の丘の上に群れがいたのを見かけたけど、それっきり。まあ、どっかでまた会おうか。

昨日よりは早い時間の15時ちょい前に釧路駅に戻ってきた。その分、今日はちょっと遠くまで行くのだ。
さっき日本百名城の「根室半島チャシ跡群」について書いたが、チャシ跡があるのは根室だけではない。
釧路市内にもいくつかチャシ跡は残っているので、それを訪れて根室半島のチャシ跡にかえる、というわけだ。

そもそも、「チャシ」とは何か。実はこれ、日本百名城に城としてカウントされているものだが、
厳密にはその定義はよくわかっていないのである。アイヌに文字がなかったので、十分に資料がないらしい。
一般的には「アイヌによる砦」と考えられており、それ以外に聖地・宝物庫・会談の場としての利用があったようだ。
聖地から始まってアイヌ同士の会談の場、そして和人との戦闘に備える砦となった、という解釈が多いみたい。
チャシの跡(アイヌ語では「チャシコツ」と呼ぶ)は、根室・釧路の道東や十勝・日高の道南に多く残っている。

まず向かったのは、モシリヤチャシ跡。「お供え山」という別名があり、周辺の地名は釧路市城山。
きちんとチャシ跡を見るのは初めてなので、いったいどんな感じなんだろうとワクワクしながら歩いていく。
あらかじめ印刷しておいたGoogleマップを広げて確認しながら歩いていくと、住宅地の裏に緑の山があった。
実にさりげない登場ぶりである。まわり込んでみると、確かに「お供え山」と呼びたくなるのがわかる感じで、
鏡餅っぽい段を持った、草に覆われた山が横たわっていた。「横たわっていた」と書きたくなるだけの長さがある。
フェンスで仕切られて中に入れない。できることなら当然、上に登ってみたかったのだが、できないっぽい。
しょうがないので素直に周囲を一周するのみにとどめる。東側はしっかりチャシ跡の雰囲気だったが、
まわり込んで西側から眺めると、住宅やらコンビニやらの裏に正体不明の緑の壁がある感じ。異様だ。
モシリヤチャシ跡は、必要最小限に残した周りを一気に宅地化していった場所なのであった。

  
L: モシリヤチャシ跡。住宅地の中にいきなりこれが横たわっている光景は、なかなか異様である。
C: 東側の駐車場より眺めたところ。  R: 西側より眺める。事情がわかっていないと不思議な光景だと思う。

続いてもう1ヶ所、鶴ヶ岱(つるがたい)チャランケチャシ跡にも行ってみることにする。
のんびりぷらぷら東へと歩いていったのだが、これがけっこう遠かった。高低差もしっかりあって、
釧路駅の南に広がる中心市街地との地形の違いに驚かされた。開発されたのはこっちの釧路川左岸が先で、
つまりは現在中心市街地となっている右岸の平地は、もともとは開発しづらい湿地だったというわけだ。
何もない土地だったからこそ、後から広大な道路に矩形の街路を引くことができたのだ。土地の歴史は奥が深い。

釧路工業高校の手前に五叉路があって、そこから春採公園に向かって下っていけばいい。
チャランケチャシ跡は、春採公園の中核である春採湖の北側にぽっこり突き出して悠然とした姿を見せている。
かつてはトーモシリ(湖の中島)と呼ばれる島で、トーコロカムイ(湖の神様)の遊び場であった聖地だったそうだ。
ここがチャシ跡と確認されたのは1916(大正5)年になってから。現地のアイヌは誰も気づかなかったそうで、
そのため和人によりアイヌ語で「会談・談判」を意味するチャランケの名前が勝手に冠せられた経緯があるという。
まあつまりはそれだけ、チャシというものの定義が曖昧であるということか。

どうにかしてチャランケチャシ跡を一望の下に見たいなあと思い、博物館方面へ春採公園の中を進んでいく。
坂道を上がって快調に高さが増していくのはいいが、木々が茂って湖とチャシ跡は全然見えやしない。
結局、高い場所からこのチャシ跡を眺めることはできなかった。その代わりというわけなのか、
湖の突端に展望スペースがあったので行ってみる。行くまでの下りの道は完全に草をかき分ける感じになっており、
北海道の自然の中を駆け抜けたアイヌたちの気分を味わわせてもらったわ。後でチャランケチャシ跡の上にも立ったが、
やっぱりそこも自然のままに草木が全力で生い茂っており、北海道の植物パワーに圧倒されたのであった。

  
L: 春採湖と鶴ヶ岱チャランケチャシ跡。現在はこのように半島状に湖に突き出した円形の山となっている。
C: 展望スペースより向かい合うチャランケチャシ跡。かつてはどんなふうに利用されていたのかねえ……。
R: チャランケチャシ跡に上ってみようと草木をかき分ける。アイヌの遺跡なのになぜか地蔵があるぞ。

いちおう先人がつくった道はあるのだが、植物の勢いはかなりのもので、勢いまかせで明るい方へと出る。
するとそこには、緑に縁取られた春採湖が広がっていた。根室は晴れていたのだが、釧路に戻ったら曇り空。
おかげでそれほどフォトジェニックではない印象となってしまったが、湖に隔絶された聖地の雰囲気はわかる。
「トーコロカムイ(湖の神様)の遊び場」らしく、ベンチのひとつもなく、草木は伸び放題でそのままになっている。
近代の到来によって北海道がその姿を大きく変えた後も、ここは昔の匂いを色濃く残している場所なのだろう。

本当はもっと見ておくべきものがあるんだろうけど、これでとりあえず釧路の名所は押さえたことにする。
チャシというものをきちんと体感できたことで、僕は釧路という街に十分満足できた。市街地に戻ることにする。
……が、あらためて歩く春採公園から市街地までは、しっかり遠くてまいった。高低差もかなりあったし。
昨日訪れた「反住器」の脇を通って釧路市生涯学習センターにたどり着いたときには、けっこうな疲れをおぼえた。

さて、生涯学習センターに来たのには理由がある。この施設、3階に釧路市立美術館を内蔵しているのだ。
そしてこの美術館で「アニメ化40周年 ルパン三世展 ―This is the world of Lupin the 3rd―」を開催中なのだ。
別にこれを狙って釧路への旅行を組んだわけではないのだが、これは絶対に見なきゃ損じゃないか!
ということで、観光案内所でもらった割引券を提示して、ワクワクしながら中へと入る。

 「ルパン三世展」、いざスタート!

パンフレットの説明によると、「原作漫画とアニメーション、『ルパン三世』の両面の魅力に迫る初の本格的な展覧会。
クールでアクション満載、ポップでコミカルな『ルパン三世』をエキサイティングに紹介します。」とのこと。
まずは等身大のルパン一味と銭形のとっつぁんの人形がお出迎え。展示スペース内は撮影禁止だが、これは撮りたい。
のっけからウズウズさせられて、いざ展示を見ていく。まずは「アニメーションの世界」ってことで、
3回にわたるTVシリーズの企画書・設定画などが並べられている。そして、いきなりこれが凄い。ゾクゾクしたわ。
TVシリーズの第1期といえば大塚康生が作画監督で、この人の描くルパンの表情が僕はめちゃくちゃ大好きなのだ。
もともと僕は小学校時代の夕方に再放送されていた第2期で『ルパン三世』を好きになった一般人なのだが、
この後、絵の上手い皆さんがそれぞれ魅力的なアレンジを加えていくけど、その土台をつくった大塚ルパンが好きなのね。
正直、もっと量が欲しかったのだが、TVシリーズ3つに映画もあるので資料は膨大。第1期だけで満足しちゃいかんのだ。
しかし第1期に限らず、アニメの設定画を描く人って、どうしてあんなに、信じられないくらいに絵が上手いのか。
一発でポップな線を引けてしまう、その繊細さと大胆さがたまらない。セル画には全然興味が湧かないのだが、
鉛筆で描かれた生の線画を見ると、圧倒的な才能の違いに、もう気持ちよくなってしまうくらいだ。堪能したわー。

しかし衝撃はこれだけでは終わらない。続いて「原作『ルパン三世』コミックの世界」ってことで、
モンキー・パンチの描いた生原稿が展示されていた。僕はモンキー・パンチの漫画家としての能力には少し懐疑的で、
コマとコマの間の飛躍というか、絵と物語の時間の流れ方に奇妙な不一致を感じていて、それが少し気持ちが悪い。
かなりひどい表現で書いてしまったが、でも正直、「アニメ化で救われた人」という失礼な印象を抱いていたのである。
そんな僕の違和感だが、展示されていた無数の扉絵をひとつひとつ眺めているうちに、はっきりとその正体がわかった。
結論から言うと、モンキー・パンチは絵が上手すぎるのだ。漫画家としての絵の上手さではなく、版画家としての上手さだ。
『ルパン三世』原作の扉絵は、どれも作品として恐ろしいほどのレヴェルで完成されているのである。
一枚の扉絵じたいがきちんと物語を持った作品になっている。ものによって差はあるが、構図の取り方もどれも巧みなのだ。
基本的にはルパンと美女の絵が多いが、ルパンは軽妙闊達にして鋭く描かれ、美女は本当に現代的な美しさにあふれる。
40年くらい前の扉絵だから昭和っぽい古びた感じがあるけど、描かれている女性が今でも通用する美女ばかり。
いったいこれはなんなんだ!?と驚愕させられた。ここまで想像力をかき立ててくる扉絵なんて、ほかに見たことない。
それでわかった。モンキー・パンチの絵は、扉絵と同様、一コマ一コマに過剰に物語が盛り込まれちゃっていて、
その分だけ漫画としての流れは完全に混乱してしまっているのだ。ひらたく言うと、絵に魂が入りすぎちゃっている。
アニメではさすがにモンキー・パンチの絵は再現できなかったが、むしろ大塚康生がうまくカリカチュアライズして、
キャラクターの魅力をきれいに引き出していったんだと思う。そうして条件が揃って、やっときちんとした物語が流れ出す。
『ルパン三世』がTVの第2期になって国民的人気を得たのは当然のことで、物語が整理されるまでの時間が必要だった。

というわけで、『ルパン三世』の人気の構図は前に二次創作との関連で書いたことがあるけど(→2007.11.9)、
そういう「みんなでルパンをつくりあげていった」状況が生まれる過程がなんとなくわかって興味深かった。
あともうひとつ思うのは、「モンキー・パンチ」というペンネームだからこそ成功したのだろう、ということ。
本人は名前に納得がいっていないらしいが、モンキー・パンチという強烈な単語が組み合わされた名前の原作者によって、
猿顔の主人公の活躍が描かれたってことはつまり、ルパン三世とモンキー・パンチの境界線が曖昧になったってことだ。
作者がいるのかいないのか、いや主人公自身が作者なんじゃないか、そうしてフィクションと現実の境界が揺さぶられた。
それによってルパンというキャラクターの存在感がぐっと増して、ルパンが誰もが知る存在にまでなったと思うのだ。
(もちろん山田康雄の演技を忘れちゃいけない! 二枚目と三枚目が完全に一体化した人格は、彼の演技ならではだ。
 さらに、大野雄二によるテーマ曲も重要な要素だ。ルパンをめぐるもの、すべてのクオリティの高さには驚かされる。)

いやー、それにしても『ルパン三世』の扉絵は凄かった。作品として部屋に飾っておきたい、そういうレヴェルだわ。

……という具合に余韻に浸りつつ、大満足で幣舞橋への下り坂を歩いていくのであった。
そのまま釧路フィッシャーマンズワーフMOOの中に入る。1階は土産物店がとっても充実しており、いろいろ見ていく。
しかし、思わずずっこけてしまったのが、熊本の人気キャラ「くまモン」(→2011.8.9)のキーホルダー。
「北海道に出張に来たモン」って、北海道土産にまでお前は出てくるのか!と。いやー、呆れたわ。
そんなこんなで、生徒向けの絵はがきを無事に購入。宿に戻って画像を整理しながら残暑見舞いを書くか。

本日の晩メシは、昨日に引き続き釧路ラーメンをいただくのである。今日こそ「銀水」にチャレンジなのだ。
少し早めに店に入ると、迷うことなく醤油ラーメン大盛を注文。わりとすぐに出てきて、いざ、いただきます。

 こちらは「銀水」の釧路ラーメン。

昨日の「河むら」と大きく異なっている点は、細麺ながらも平打ちであること。僕としてはこっちの方が好み。
やはりスープは醤油の風味が非常に強い。あっさりしていてそこもまた好みなのであった。おいしゅうございました。

最後に、昨日の日記で書いた疑問について、僕の見解を述べておくことにしよう。
それは、毛綱毅曠という建築家に対する疑問である。どうしょうもない「釧路フィッシャーマンズワーフMOO」と、
面白くってたまらない「反住器」。「反住器」は1972年の作品で、「MOO」は1989年の竣工である。
この15年ほどの時間で、毛綱毅曠の何が変化してしまったのか? そもそも毛綱毅曠とは優れた建築家であったのか?
昨日の日記でも書いたように、釧路市内には毛綱毅曠が設計した建築がいくつも点在している。
それらを紹介しながら、かなり辛口にはなるが、建築家の人生、建築家と都市の関係について考えてみることにする。

  
L: 釧路市立博物館(1984年)。春採公園の高台にある。丹頂鶴をモチーフとしており、日本建築学会賞を受賞。
C: 釧路キャッスルホテル(1987年)。釧路川のすぐ左岸にあり、幣舞橋にも近い。船をイメージしたんだとさ。
R: 釧路フィッシャーマンズワーフMOO(1989年)。西武も出資・出店したがバブルで撤退。現在は役所の機能も入る。

これら3つの建築は、毛綱毅曠の設計による。年代順に左から並べてみた。
これ以外にも釧路市湿原展望台(1984年)、釧路公立大学(1988年)などの作品が有名である。
彼の特徴は、「天・地・人」やら「乾坤」やらの非常に抽象的な概念からデザインを決定していくこと。
その結果、かなり独創的な外見の建築ができあがっているのだが、洗練されているかというと、その逆であると僕は思う。
またデザインに凝っている分、建物の維持管理にコストが多くかかるという指摘もある。公共建築では大きなマイナスだ。
現在、釧路に点在している毛綱の主要な建築群は、1980年代半ばから末にかけて集中して建てられている。
つまりこの独創的な建物は、バブル景気の後押しを受けてつくられたという背景が容易に想像できる。
毛綱毅曠という建築家は、ポストモダンの旗手である以前に、バブルに乗った/乗せられた人だったのではないか。

死人に口なし、勝手なことを書いて恐縮だが、「反住器」の成功は毛綱毅曠という建築家の人生を歪めたと思う。
この人にデザインのセンスはない。でも建築は評価され、抽象的な理由をデザインの根拠として次のステップに進んだ。
ここに僕は失礼ながら、「不幸」を感じずにはいられないのだ。機能により機能を否定する住宅という作品で世に出て、
次のステップは規模の大きな建築となる。しかし、すでに毛綱の「反住器」は、完成された結論であった。
空っぽの毛綱は抽象的な概念を引っぱり出してデザインの根拠とする。時代はバブル。何でも許される風潮があった。
生まれ故郷の釧路は道東における最大都市である。周囲の都市を従える道東の中心としての矜持をハコモノで示した。
生まれた時代がよかったということになるのか、生まれた場所がよかったということになるのか、それはわからない。
とにかく、踊り踊らされる毛綱は、1980年代の釧路という街に次々と自らの記念碑を建てていくチャンスを得たのだ。

もっとも、あの時代にも良識を持った人は少なからず存在していたようで、毛綱のデザインは物議を醸していたようだ。
残念ながらネットで調べた限りでは、当時の紛糾は見えてこない。毛綱に肯定的な建築サイトが散見されるのみだ。
しかし僕には、毛綱の軌跡は「反住器」を超えようともがく悪あがきにしか見えない。住宅のサイズであれば、
破綻なくデザインをまとめられて、まだよかったのかもしれない。しかし巨匠となった彼は公共建築を設計し続ける。
そのたび、釧路の街には彼独特のベージュをした難解な建物ができていく。残念なことにバブルがはじけるまで、
ほとんどの人がそれを「都市景観の破壊」と捉えることができなかった。いや、今もそのままなのかもしれない。
釧路の街を歩いた僕の感想はただひとつ、「ひとりの建築家によって台無しにされた街」ということだ。それだけ。
昨日の日記で書いたように、釧路フィッシャーマンズワーフMOOの安っぽさと無神経さはとても許せない。
釧路市博物館を見たときにはイサム=ノグチ(→2010.8.9)と同じ種類の独りよがり、「反公共性」を強く感じた。
そして釧路キャッスルホテル。公共建築でないとはいえ、これには呆れて開いた口が塞がらなかった。
極端な表現で申し訳ないが、釧路の街で毛綱がしでかしたことは犯罪行為でしかない。これは都市景観への犯罪だ。

以下の建築の写真を見てほしい。3つとも、毛綱が釧路に残した後遺症ともいうべきものである。

  
L: NHK釧路放送会館(1964年)。設計は山下設計。  C: 釧路全日空ホテル(1993年開業)。設計はフジタ一級建築士事務所。
R: 釧路市生涯学習センター(1992年)。「まなぼっと幣舞」という愛称がいちおうある。設計は久米設計。

この3つの建築は、どれも毛綱が設計したものではない。しかし、無神経な色彩は、明らかに毛綱に呼応したものだ。
1964年と毛綱が活躍するよりだいぶ古い時期の建物である釧路のNHKは、毛綱の色に染め上げられてしまっている。
バブル崩壊後の1993年に開業した全日空ホテルは、ラムサール条約の国際会議に合わせて開業している。
世界に対する釧路の顔という役割を持ったホテルがこの有様である。ちなみに、市役所横のプリンスホテルもベージュだ。
最後に、さっき「ルパン三世展」で訪れた生涯学習センター。これは久米設計による建物ではあるものの、
どこからどう見ても毛綱のデザイン手法を意識している。意識しながらガラスを多用してみせる辺りが組織事務所らしい。
これらの建築は、毛綱の建築と一緒になって釧路の都市景観を積極的に破壊しているように、僕には思えてならない。

さっき、「生まれた時代がよかったということになるのか、生まれた場所がよかったということになるのか」と書いた。
でもそれは、毛綱毅曠というひとりの建築家に限った話だ。良識ある釧路市民にとって、彼の存在は不幸でしかない。
たったひとりのワガママによって、ここまで大規模に空間を痛めつけることができるのか、と恐ろしくなった。背筋が凍った。
建築家という生き方、そして建築家と都市の関係、ひいては住民との関係。釧路の街が示唆するものはとても大きい。


2012.8.17 (Fri.)

昨年7月の四国と8月の九州がそうだったように、今年も「けりをつけるため」の旅行に出る。
もうこれでこの地方はしばらく打ち止めだ!となるわけである。それは楽しいけど、ひとつひとつが切ない旅だ。
さてこのたびけりをつけるつもりで訪れるのは、北海道だ。今後しばらく北海道を訪れる必要がないように、
しっかりと楽しませてもらうのだ。雨に祟られた2年前、梅雨から逃げた先月と合わせて、完璧な旅をしよう。

始発電車に乗って羽田空港へと向かう。蒲田を早足で抜けると京急蒲田のホームへ。南から来た青い電車は、
スイッチバックして逆向きで羽田空港へと走っていく。京急蒲田は高架化して以降、いろいろと複雑になっている。
前回は少し慌てたが(→2012.6.30)、今回はわりと余裕を持って保安検査場を抜けることができた。
しかし機材のトラブルがあったようで、搭乗手続きが中断される。バスで飛行機まで移動して乗り込んでも、
なかなか動き出さない。結局、30分ほど遅れての離陸となった。飛行機は出発遅れがわりかし多くて困るが、
無理に飛ぶともっと怖いので、こればっかりはしょうがない。ぐっすり寝ておいて力を貯め込んでおく。

ジュースのサーヴィスをスルーされてしまうほどに熟睡し、気がつけば着陸態勢。北海道は雨雲の下だった。
紫外線いっぱいの眩しい世界から、視界ゼロの白を抜けると、光を遮られた緑の大地が広がる世界へと変化する。
前にこの光景を目にしてから2ヶ月足らずということで、若干の罪悪感をどうしてもおぼえてしまう。
でも背筋がゾクゾクしたのはそのせいだけではなくって、しばらく北海道に来なくなることへの緊張感もあった。

20分遅れくらいまで取り戻して飛行機は新千歳空港に着陸した。まずは地下の駅に行き、みどりの窓口へ。
少し緊張しながら「北海道フリーパス」を購入する。25,500円也。でもこの切符にはそれ以上の価値があるのだ。
なんせ7日間特急でもなんでも乗りたい放題、指定席も6回まで無料で利用できる。フル活用するしかないだろう。
切符を発行してもらうのと同時に、帯広までの指定席と釧路までの指定席も予約する。これで準備OKだ。
少し時間があまったので、帰りにまごつかないように、開店したばかりあるいは準備中の土産物店を下見しておく。

9時19分、予定どおりに新千歳空港を出発。次の南千歳で快速エアポートを降りると、10分待って特急に乗り換える。
釧路行きの「スーパーおおぞら」だ。でも僕の目的は街歩きなのだ。まず最初の目的地は、途中にある帯広だ。

 北の大地 6days 1/6: 帯広・釧路

新夕張までは前回の旅行で来たことがある。でもそこから先は初めてなので、緊張しながら発車を待つ。
新得までの区間は石勝線。こないだトンネルで脱線事故を起こした関係で、減速運転するので少し遅れるという。
それならダイヤ改正のときに遅れを前提で組めよと思うのだが、どうも鉄道屋さんのその辺の感覚がわからない。
そしてこの新夕張~新得の区間は、特急しか走らないことでも知られる。青函トンネルと同じパターンだ(→2008.9.15)。
したがって青春18きっぷでの乗車が特例として認められるのだが、北海道フリーパスの王侯貴族な僕には関係ない。
ゆったりと指定席にふんぞり返りながらコアップガラナをちびちび飲むという、実に優雅な時間を過ごすのであった。
それにしても占冠、トマム、そして新得へと続く石勝線は凄い。道路と並走したりしなかったりしながら、
ひたすら緑とトンネルの中を抜けていくのみである。北海道でもいちばんたくましい山岳地帯を抜けるだけあり、
人里の気配というものが感じられないのだ。占冠・トマムの駅の周囲は建築物やコンクリートの構造物があるが、
それ以外は野生の世界となっている。占冠とトマムの陸の孤島ぶりに、なんだか震えてしまったわ。

長い長いトンネルを抜けて新得駅を越えると、特急はいわゆる十勝平野を快調に走っていくようになる。
それは僕らが想像する、いかにも北海道らしい風景だ。大地に広がるのはトウモロコシだったりジャガイモだったり。
イネよりも濃い緑がのんびりと延びている姿を見ていると、「ああこれこそが北海道だ」という感覚になるのだ。
北海道は僕らが思っているよりもずっと稲作が盛んで、石狩平野はひたすら田んぼが広がっている(→2010.8.10)。
でもそれより東に来ると、ようやく本州とは異なるダイナミックな風景が主役となる。旅情をかき立てられる。

 こういう「北海道らしい景色」は道東に来ないと見られないね。

たっぷり2時間、景色を眺めながら過ごしていたら、帯広駅に到着した。本日最初の目的地はここだ。
改札を抜けると右と左、どっちに行けばいいのかわからない。こういうのがいちばん困る。
しょうがないのでテキトーに右へ行ってそこから駅舎を出る。北側に出ればいいだろう、という大雑把さ。
しかしこれが判断ミスだった。時刻はすでに11時半をまわっており、素直にメシを食えばよかったのだ。
帯広名物といえば、なんといっても豚丼。豚丼の元祖の店が駅前にあって、そこに真っ先に行くべきだった。
昼飯を後回しにして、重い荷物を背負ったままで、とりあえず北に向かってグイグイ進んでいったのであった。

帯広の駅前ロータリーは空間にたっぷりとゆとりがあって広い。そのまま道路も幅が広い。北海道はみんなそうだ。
本州のスケール感とはぜんぜん違うなあ、とあらためてその感じを味わいながら進んでいく。
とりあえずメインストリートと思しき道を行ったのだが、スケールが大きいわりにさびれた感覚はない。
でも一歩奥に入ると、その大雑把な感覚のまま店がポツリポツリと点在する光景となり、落差に驚く。
帯広は札幌からそれなりに離れているので、周辺の田舎から人を吸い寄せることができているのだろう。
メインストリートの賑やかさはその能力の証明であり、一歩奥の穏やかさはその限界の証明と言えそうだ。
今回の北海道旅行中はずーっと都市間の経済的な綱引きの問題を植民地的な都市構造と絡めて考えていたのだが、
この帯広を皮切りに、釧路・北見・旭川と訪れることで、ある程度は具体的にイメージができた。
これについては、いずれまたきちんと詳しく書くことにする。手間がそうとうかかりそうだが。

  
L: 帯広駅。周りには人がいっぱい。駅前が栄えているということで、帯広の都市としての格を感じさせる光景だった。
C: 平原通を行く。北海道のほかの街と比べて活気はある方だと思う。が、この通りに集中しているだけだった。
R: 平原通をまっすぐ進んだ先にあるデパート・藤丸。デパートが元気というのが、帯広の活気の何よりの証拠だ。

驚いたのだが、帯広ではまだ中心市街地のデパートが健在なのだ。ほかの街ではどんどん大型店が撤退しているが、
帯広では地元資本の藤丸が元気に営業中。駅の反対側には長崎屋もある。僕には懐かしくてうれしい光景だ。
とりあえず藤丸の本屋でガイドブックを手に取り、帯広の主要な観光地や店をあらためて確認しておく。
そうして藤丸を出ると今度は西へと針路を変えて、帯広市役所を目指す。さっき駅へと入る特急の窓から、
それっぽい巨大な建物が見えたのだが、果たして帯広市役所はそれだった。敷地を一周しながら撮影していく。

  
L: 帯広市役所。設計は北海道日建設計と小野設計で、1992年の竣工。11階は展望ホールと、いかにもな平成オフィス建築。
C: 正面から見るとこんな感じ。  R: 向かって右隣は水道庁舎・議会棟。これまたいかにもですなー。

 裏側から見たところ。巨大なので道幅があっても撮影しづらかった。

市役所を撮り終えると、そのまま西へとさらに進んでいく。せっかくだから、競馬場まで行ってみることにしたのだ。
帯広の競馬といったら、全国で唯一の「ばんえい競馬」である。これはふつうのサラブレッドによる競馬ではない。
「ばんえい」は漢字で「輓曳」と書く。「輓」は車やソリを引くことで、「曳」も引くこと・引きずることだ。
体重1t前後の大型馬が鉄ソリを引いて200mの直線(途中に2ヶ所の坂がある)を走る、世界で唯一の競馬なのだ。
本当なら実際にレースをしているところを観戦したかったのだが、本日のばんえい競馬はナイターでの開催。
さすがに夜まで帯広にはいられないので、施設をひとまわりすることでお茶を濁すとするのだ。

広々とした道をのんびり歩いて競馬場の敷地に到着。市街地の広々とした感覚からすると、比較的近かった。
競馬場の東側は「とかちむら」という商業エリアになっており、その一角に馬の資料館がある。
軽くさらっと見学したのだが、ばんえい競馬の紹介というよりも帯広における馬の存在の説明がほとんどだった。
そうしていよいよ競馬場の中へ。去年、スカパラ目当てで大井競馬場に行ったけど(→2011.8.3)、
やはり同じ地方競馬ということでか、雰囲気はそれにかなり近い。実際、中では地方競馬を中継していて、
馬券も買えるようだった。おいちゃんたちがテレビにかじりついている光景もあった。そういうものか。

  
L: 帯広競馬場。現在、ばんえい競馬を行っているのは世界でここだけ。それにしても毒々しい色だな。なんとかならんのか。
C: 記念撮影ゾーン。こんな感じで、騎手は馬ではなくソリに乗るのだ。馬もずんぐりしているし、ふつうの競馬とまったく異なる。
R: 帯広競馬場の中はこんなん。ふつうに競馬場っぽい大雑把な雰囲気である。わりと人がいたことに驚いた。

スタンドに出てみた。時間が早すぎて、こちらにはまだ誰もいない。目の前に広がる独特な光景を独り占めしている気分。
なんといっても、まず目立っているのが、ばんえい競馬ならではの直線コース。真ん中の山(第2障害)が小さく見えるが、
近づいてみたらきっと「重いソリを引いてこれを越えるの!?」と驚いてしまう大きさなのだろう。
もともとばんえい競馬は、北海道を開拓していた時代に馬に材木を引かせていたことが起源となっている。
形を変えながらもそれがしっかり残っているということは、つまりそこに北海道民の開拓者精神の矜持があるわけだ。
ばんえい競馬ではふつうの競馬とはまったく違い、人間が歩くのよりも遅いスピードで馬が力強く進んでいくという。
スタンドを馬と一緒に移動するファンもいるそうで、このコースを見ていると、実際のレースが見られないことが悔しくなる。


スタンドから見た光景を無理やりパノラマにしてみた。

競馬場を後にすると、このまま駅前まで戻るのがなんとなく惜しく思えて、緑ヶ丘公園まで歩いてみる気になった。
まっすぐ南下すればいいだけなので、無心でトボトボと歩いていく。周囲は完全なる住宅街である。
が、それは北海道に特有の住宅街なのだ。正確に言うと、いかにも北海道らしい空間構成の住宅街、なのだ。
歩いている間、ずっとそのことについて考察していたのだが、ある程度結論が出たのでちょっと書いておこう。

まず第一に、われわれの(本州以南の)住宅の間は「路地」といった程度の幅の道が走っているものだが、
北海道の場合は「路地」と表現するにはやや広い。そして、その道路に接続して前庭がある。これが最大の特徴。
要するに、土地に余裕がありまくっているということである。北海道はひとつひとつが広いなあ、と思う。
また、道路のところどころから緑の雑草が噴き出しているのだが、この量が全体的に多い。雑草が塊状である。
いや、よく見るとアスファルトやコンクリートによる舗装が、北海道では非常に甘いのだ。舗装が徹底していない。
アスファルトの舗装はかなり継ぎ目が目立っており、そもそも路面じたい、平らなところが驚くほど少ないのである。
中心市街地を離れると、元の地形にそのままアスファルトをかぶせただけ、という「土の感触」を残した道ばかりだ。
(舗装に関する僕なりの考察はこちらを参照(→2010.5.16)。舗装とは、空間から始まる近代化の第一歩なのだ!)

たとえば埋立地では人間の管理の行き届かない部分で植物が跋扈するわけだが(→2008.7.27)、
北海道の場合には人間の管理できる範囲を土地のスケールが超えているためか、似た感じで植物が勢いづいている。
この点に、「狩猟民族であったアイヌの土地」という匂いを僕は感じるのだ……というのは飛躍しすぎだろうか?
農耕民族の僕らは整理した空間で植物を管理するが、北海道ではとても空間を整理しきれるもんじゃない。
それでどうしても周縁部の造成が甘くなり、そこを管理から逸脱しようとする本性を持つ植物(→2012.7.2)が狙う。
対照的に狩猟民族のアイヌは植物と真っ向から戦うことはせず、植物や空間をそのままに維持して理解しようとした。
北海道の舗装が不十分な道路や雑草の存在を許す砂利の前庭を見ると、僕はアイヌの価値観を想起させられるのだ。

  
L: 帯広市役所近くの歩道。舗装の不十分さと塊状の雑草に注目。近代以前の価値観がここに生きている、と思うのだ。
C: 競馬場から緑ヶ丘公園へ向かう途中の住宅地。砂利の前庭は北海道の住宅の大きな特徴。実に「あいまいな」空間領域だ。
R: 緑ヶ丘公園から帯広駅へと延びる公園大通りの中央分離帯。歩道との間にある街路樹の下でも草木が生い茂っている。

最も象徴的だったのは、公園大通りを歩いていたときのこと。おばあちゃんがひとり、歩道脇の街路樹の下へ行ったのだ。
何だろうと思ったら、そこに植えてあった低木についていたミニトマトっぽい実を採って、持ち帰ったのである。
じっくり見てみたけど正直、ふつうこれ食わないだろう、という感じで、あまりおいしそうではない実だった。
ここに、北海道における植物との付き合い方が象徴的に現れていると思う。植物は勝手に生えるものだし、
人間はそれを勝手に利用するものだ、という感覚。これをばあちゃんが道端の草木でカジュアルにやったのが衝撃的だった。

(※念のために書いておくけど、「アイヌが道端の草木から実を採って食う」みたいな変な解釈はしないでください。
  ばあちゃんがアイヌだって確証もないし。僕が言いたいのは、北海道は独特の空間感覚を喚起するってことと、
  その空間感覚はこの地で活躍した狩猟民族のものにフィットしていたってこと。それを「近代以前」と表現したけど、
  僕は近代が近代以前より優れているとはまったく思っていません。近代化で失ったものの方が大きいと思っている。
  確かなのは、近代を経ている現代は狩猟民族に厳しい時代だということ。道徳も近代化されちゃったからねえ。
  まあ和人にだって漁師はいるし、アイヌだって農業をやっていたし、単純な二項対立で考えちゃってすいませんね。)

狩猟民族と農耕民族の空間感覚の違い、そういった考えるポイントが、北海道の街並みにはビシバシ埋め込まれている。
なんでもないはずの住宅地を歩きながら、僕はひとり勝手にあれこれ考えながら歩を進めていくのであった。

緑ヶ丘公園では帯広市百年記念館の博物館的な展示を軽く見ていく。晩成社の壮絶ながんばりが印象的だった。
そのまま駅に向かって公園内を歩いていったのだが、芝生の上ではじいちゃんばあちゃんがゴルフを満喫中。
長野県における「マレットゴルフ」(→2011.4.30)のようなものかな、と思いながら通り過ぎたのだが、
帯広に限らず北海道では公園内のやたらあちこちにゴルフコースがつくられている光景が目立っていたのであった。
調べてみたらこれは1983年に十勝地方の幕別町で考案された「パークゴルフ」というスポーツのようだ。
パークゴルフのコースは北海道の土地の広さに呼応してか、道内の本当にあちこちにあった。

  
L: 帯広市百年記念館。中は博物館など。  C: 緑ヶ丘公園のパークゴルフコース。北海道内はパークゴルフのコースでいっぱい。
R: 帯広駅西口にある、とかちプラザ。調べてみてもイマイチ正体のわからない施設なのだが、妙にオシャレなので撮影しておいた。

緑ヶ丘公園から帯広駅までは予想外に距離があり、戻ってきたときにはけっこう疲れてしまっていた。
疲れたときには栄養補給だ、ということで、駅を抜けて北口に出て豚丼をいただくことにする。
帯広の豚丼の元祖といえば、駅前にある「ぱんちょう」という店だ。十分腹も減ったし、いっちょ行くか!

……と思ってロータリーから横断歩道を渡ろうとして、唖然としてしまった。行列がしっかりできているではないか。
腕時計を見る。13時40分。さっき帯広駅に着いたときに真っ先に行っていれば、何の問題もなかったのだ。
とまあ、後悔していてもしょうがないので列の最後尾に並ぶ。10分だ。10分待って、どれくらい進むかで決める。
帯広発の特急が14時14分発なので、今から30分で食って……厳しいかなあ。腕組みしてじっと待つ。
そのうち、店の人が列に並ぶ人たちに何人連れかを訊いてきた。いい機会なので、あと何分くらいかかりそうか訊く。
「そうですねえ、30分くらいでしょうか」うーん、ギリギリアウトだなこりゃ。さっきから全然進んでないしな。
せっかく帯広まで来たのに、こりゃ諦めかー?……と思ったそのとき、「JRですか?」「はい、指定席とってます」
「じゃあ、お持ち帰りでよろしいですか?」「え、いいんですか? ……じゃあ、ぜひ」「それじゃこちらへ」
ということで、きちんと並んでいる皆さんを尻目に店内で待つことに。もう本当に申し訳なくって申し訳なくって。
前に明石焼でも同じようなことがあったけど(→2009.11.21)、豚丼が持ち帰りOKとはみんな思っていないだろうから、
比べ物にならないくらい申し訳ない。恐縮してたらお茶を出してくれたおばちゃん曰く、「これでも今日は少ないですよ」。
帯広豚丼の人気すげー! もう本当に僕の認識の甘さが申し訳なくってたまらん。みんな豚丼のために帯広に来るんだな。
ちなみに「ぱんちょう」では店員の女性の皆さんが全員白いエプロン姿で非常に白衣の天使的な雰囲気なんですよ。
年齢的には僕の倍近い皆さんばかりなんだけど、「おねえさん」と言いたくなる感じの丁寧な接客をされてました。
地方のB級グルメって多少ワイルドな接客が「味」な要素もあるけど、「ぱんちょう」に関してはひたすら上品。
で、僕が「指定席とってます」って言ったせいか驚くほど早く豚丼を出してくれて、また恐縮しきり。
並んでいた皆さん、本当に申し訳ありませんでした。いつか絶対、きちんと並んで店内で食わせていただきます。

でもまあ、おかげでもう一回、帯広の中心市街地をざっと歩いて雰囲気をしっかりつかむことができた。
余裕を持ってホームで特急を待っていると、「特急はトンネルの減速運転のため遅れております」とアナウンスが入る。
そうだった、石勝線・根室本線のスーパーおおぞらはダイヤから遅れて当然なんだった。思わずずっこけてしまったわ。
でも「ぱんちょう」は店内も混み合っていたし、持ち帰り豚丼弁当にしてもらって正解なのかな、と思うことにする。
10分近く遅れて到着した特急列車に乗り込むと、さっそくおいしく豚丼をいただくのであった。
さすがに「ぱんちょう」の豚丼は、豚肉の厚切りを単にご飯の上に置いただけじゃなかった。タレの焦げた風味がいい。
焦げたタレはうなぎの蒲焼きのそれに近い香りがするのだ。味が深いなあ、と感動しながらあっという間に平らげた。

 
L: ぱんちょうの行列。これでも少ない方だそうで……。豚丼と人気店のパワーを完全にナメてましたすいません。
R: お持ち帰りにしてもらった豚丼。あまりに旨くて、一瞬で食い終わってしまったわ。ありがとうぱんちょう!

というわけで、いきなり初日の最初っから、旅先での人の優しさに感動させられてしまったのであった。
余韻に浸りながら特急列車に揺られること1時間半、釧路駅に到着である。今日はこのまま釧路に泊まるのだ。

さて、釧路。釧路と言えば、まずはやっぱり釧路湿原。ではほかの名所はというと……あんまりない。
まあ釧路に限らず北海道ってのは市街地にこれといった名所のない街が多いところなのでしょうがないが、
(そういう意味では帯広もまったくそうなのだ。帯広周辺は本当にこれといった観光名所がなかった!)
釧路は釧路川に架かる幣舞橋と釧路駅までの間に市街地があるだけで、あとは住宅ばっかりなのである。
とりあえず釧路に着いたのが16時近くなので、もうあまりあちこちに行ける時間ではない。
ここは場所をきっちり絞って、遠いところについては明日攻めるということで割り切るのだ。

駅舎を出ると左手にバスターミナル。けっこう大きめな印象だ。そしてバスターミナルへ行くと見せかけて、
ぐいっと右に曲がるとこれが北大通り。これが釧路の背骨といっていい存在だが、やはり幅がとても広い。
北海道の主要都市はみんなこんな感じだなあ、と思いながら南へと歩いていったのだが、はっきり言って、寒い!
寒いというとちょっと極端だが、しっかり肌寒いのである。シャツ1枚だと腹が冷えてしまう感じの温度なのだ。
関西も関東も本州は猛暑の真っ只中なのだが、さすがは北海道である。僕が思っている以上に涼しい。
釧路の市街地では延々とスピーカーからラジオ的な音声が流れており、なんとなくそれを聞きながら市役所を目指す。

  
L: 釧路駅(写真は翌朝に撮影したもの)。さすがに交通の要衝らしい規模だ。隣のバスターミナルも大きめ。
C: これも翌朝の撮影なのだが、釧路駅はホームに出る前にガラス戸がある。冬の寒さ対策ってわけなのね。
R: 北大通りはこんな感じ。北海道の中心都市はとにかく道幅が広い。その分、衰退すると大変なのだが。

まずはやっぱり釧路市役所である。石本建築事務所の設計で、1965年の竣工である。
竣工から50年近くということで、足下が耐震補強でがっちりと固められている。ここまでしっかりやっていると、
竣工当時の面影からそうとう変化してしまっているだろう。耐震補強のファサード問題(→2012.4.1)を思う。

  
L: 釧路市役所を正面より撮影。ベンチの置かれたオープンスペースでは、おばちゃんたちがしっかりとくつろいでいた。
C: 正面からだとよく見えないので、角度を変えて玄関を眺める。でもやっぱり停めてある車が邪魔でよく見えないのであった。
R: 北東側、つまり建物の裏側を見たところ。これがいちばん建物の全容をつかみやすい角度だな。右手奥はプリンスホテル。

さっき「釧路には湿原以外の名所があんまりない」というようなことを書いたのだが、探せばなくはない。
というわけで、今回僕がテーマとしたのは、毛綱毅曠(もづな・きこう)という釧路出身の建築家の作品群である。
彼が母親のために建てたという住宅「反住器」はDOCOMOMO物件となっているので、まずそれを見ようというわけだ。
ところが「反住器」は住宅ということで、ネットで調べてもどこにあるのか所在地がなかなかわからない。
結局、釧路市内の毛綱作品をまとめたマップをPDFファイルで発見して場所を把握できた。これは面倒だったわ。

市役所の撮影を終えるとそのまま南下する。釧路川に突き当たったところにあるのが、釧路フィッシャーマンズワーフMOO。
僕が直接目にする初めての毛綱毅曠の作品なのだが、目にした瞬間、言葉を失ってしまった。これはひどい、と。
ファサードのデザインはやたらと複雑に装飾され、どう考えても維持管理が大変そうだ。古びるとみすぼらしくなりそうだし。
実際、近くで見ると汚れが目立つ。金沢21世紀美術館(→2010.8.22)と同じ、許せない「安っぽさ」がする。
何より問題なのは、その色だろう。無神経極まりない明るいベージュが、街並みの機微をぶち壊しにしている。
ただただ、呆れるしかない。それでもなんとか冷静にシャッターを切りながら、幣舞橋の方へと歩いていく。

  
L: 釧路フィッシャーマンズワーフMOOを正面より撮影。原広司もひどいが、この建物もそれに近いひどさがある。
C: 幣舞橋より眺めるMOO。手前にあるのは全天候型植物園・EGG。地元のよさこいチームがその前で練習中だった。
R: EGGの中はこんな感じ。苫小牧のサンガーデン(→2012.7.1)と比べると、かなり窮屈な印象である。

北大通りをそのまま南下したところで釧路川に架かっているのが、幣舞(ぬさまい)橋だ。釧路のシンボル、らしい。
幅が広くて立派な橋だが、途中には裸婦像がいくつかあって、それが幣舞橋の価値を高めているみたい。
僕としてはブロンズ像よりも実物のねーちゃんの方が柔らかいしあったかいしで、この手の芸術にあまり興味はない。
まあ単純に、立体塑像は僕の得意分野なので嫉妬しているだけなんだけど。オレだって上手くつくれるもん、と。
幣舞橋を渡った釧路川の左岸にはちょっとした丘があって、そこは公園になっており、橋と街を眺めることができる。

  
L: 幣舞橋の親柱。現在の幣舞橋は1977年竣工の5代目とのこと。別にどうってことない広い道路って気もしますが。
C: 裸婦像だけなら撮らなかったんだけど、頭にとまったカモメが妙にしっくりきていて面白かったので撮った。
R: ぬさまい公園より眺める幣舞橋。ちなみに、ここに至る階段には「出世坂」って名前がついている。

幣舞橋を渡るといきなり坂道になっており、それを上りきったところに釧路市生涯学習センターがある。
まあこの建物については明日詳しく書く。で、この釧路市生涯学習センターの先にある住宅地が富士見。
釧路から富士山が見えるわけねーだろ羊蹄山すら無理だろと思うのだが、高台にそういう名前をつけるのが日本人。
この富士見の1丁目に「反住器」があるのだ。地番をチェックしながら歩いていくと、四角くて真っ白い背中を発見。
まわり込んで砂利敷きの路地を行くと、アパートと住宅の間に挟まるように、「反住器」はちんまり収まっていた。

  
L: 表通りから少し奥まった位置、いかにも住宅地らしい路地に面して「反住器」は建っていた。今どきとしては違和感ない住宅だが。
C: 「反住器」。白く塗られているが、外側はブロックを積んでつくってある。近くで見てみると、手づくり感覚が非常に強い。
R: 角度を変えて眺める。「反住器」は現在、毛綱毅曠の事務所釧路出張所となっているみたい(毛綱本人は2001年没)。

「反住器」は1972年の作品で、当時だったら住宅地にいきなりこの外観は、かなり衝撃的だったと思われる。
Wikipediaの説明によれば、 「反住器」は8m角の立方体の中に4m角の立方体の部屋が内蔵されていて、
さらにその中に1.7m角の立方体の家具があるんだそうだ(「毛綱毅曠」の項)。つまり三重の入れ子構造になっている。
窓は立方体の面を大胆に斜めにカットしたデザインで確保。見た感じ、けっこうしっかり光が入っていそうだ。
中を軽く覗き込むと、4mの部屋のところにも表札があったり、その脇にはいきなり和室の引き戸があったり、
外部空間と内部空間が複雑に交差していて、めちゃくちゃ面白い使い方になっている。なるほどこれは傑作だ。
さすがにDOCOMOMO物件に選出されるだけのことはある!と大いに納得。でもそれだけに、不思議でならない。
こんな面白い建物をつくった建築家が、どうしてさっきのMOOのような下らない建物をつくるようになってしまったのか。
まあこれについてはさっきの生涯学習センターも含めて明日の日記で詳しく考察することにしましょう。

 「反住器」の裏側。最初に確認したのはこっち側で、われながらよくわかったなあ。

「反住器」をチェックしたところで本日の釧路探索はこれでストップとする。気づけばもう17時近い。
宿にチェックインして一休みすると(ずーっと重い荷物を背負ってよく歩いたわ)、街へと再び繰り出すのであった。
釧路は道東における最大の都市であるが(人口は北海道で4位)、対照的に市街地はだいぶ弱まっている。
繁華街と呼べる地域は釧路川右岸の「末広」に集中しているが、そこもデパートは撤退済みで雰囲気はやや暗い。

釧路の名物というと「炉端焼き」ということになるのだが、これはさすがに一人旅ではきつい。
そこで北海道第4のラーメンとも称される「釧路ラーメン」をいただくことにするのだ。醤油味だそうである。
(室蘭のカレーラーメンも「北海道第4」の地位を目指していることをお忘れなく(→2012.7.1)。)
ざっと調べた限りでは有名店は2軒あるのだが、元祖の「銀水」がなぜか本日の営業を終えてしまっていたので、
そこから派生した店だという「河むら」へ行ってみる。迷わず醤油ラーメンを大盛で注文する。

 こちらは「河むら」の釧路ラーメン。

釧路ラーメンの特徴は醤油の味が利いたスープに細いちぢれ麺。ほかにあまり例のない組み合わせというが、
その特徴は米沢ラーメン(→2009.8.10)にかなり近い。でも確かにスープは醤油本来の味がよく出ている。
というわけで、おいしくいただいた。テレビでは日ハム×ロッテ戦をやっていたけど、みんな必死で見ていたのが印象的。

宿に帰る途中、セイコーマートに寄って夜食と明日の朝食を買ったのだが、店内が夜のねーちゃんばかりでまいった。
釧路は道東最大の都市ということで、昼間は弱体化しても夜の勢いはまだまだ凄まじいものがあるようで。
しかし水商売のねーちゃんってああいうふうに品がないものなのかね。あんなのと酒飲んで楽しいもんなのか?

そんな具合に首を傾げつつ宿に戻る。今回の旅行ではいつもどおりにMacBookAirを持ってきているのだが、
宿は無線LANに対応しているということで、試しに操作してみたら、するっとネットにつながってしまった。
ふだんスタンドアローンで使っているので、MacBookAirでネットをするのは初めてである。いろいろびっくり。
テレビのない部屋だったけど、Yahoo!につないでニュースをチェックすれば問題なし。めちゃめちゃ快適だったわ。
ネットにつながってなくても不満はないけど、つながるとMacBookAirは本当に便利だ。かなり興奮して過ごしたわ。


2012.8.16 (Thu.)

毎回恒例、青春18きっぷでのんびりと東京に戻るのだ。朝8時過ぎに家を出ると、飯田駅で見送りのcirco氏とお別れ。
そして列車に揺られて北へ。駒ヶ根駅で乗り換えて、飯田線の終点・辰野に着いたのが10時半ごろ。気長な旅である。
程なくして辰野から岡谷へ移動。岡谷でしばらく待ってから、本格的に中央本線に揺られる。
飯田線の後に中央本線に乗ると、格の違いというものを実感させられて切ない。まあ当然のことなんだけどね。

さて今回も寄り道をするのだ。飯田へ帰省する際も一宮めぐりをしたが(→2012.8.112012.8.122012.8.13)、
東京へ戻る本日も一宮に参拝するのである。本日のターゲットは、甲斐国一宮・浅間神社なのだ。
長野県のお隣の一宮であるにもかかわらず、かつてサッカー観戦で山梨県には何度も来ていたにもかかわらず、
今まで甲斐国一宮をスルーしていたのは、甲府から少し離れた位置にあるから。なかなか「ついで」では行けない場所だ。
最寄駅は石和温泉。首都近郊の温泉ということで利便性はいいのだが、わざわざ独りで温泉に行く習性もないし。
まあでも今回、帰省のついでということで、わざわざ寄ってみることにしたのである。

13時少し前に石和温泉駅に到着。駅を出てすぐに、イオンのショッピングモールがお出迎え。これは便利な立地だ。
まずはとりあえずメシだ!ということで、迷わずショッピングモール内を徘徊し、中華料理店に入る。
けっこう家族連れで混み合っており、これはけっこう時間を食うかもと思っていたら、炒飯セットはあっさり出てきた。
おいしくいただいてやる気を充填すると、駅に戻って観光案内所でレンタサイクルを借りる。いざスタートだ。

石和温泉があるのは「笛吹市」だ。山梨県は平成の大合併で地名が大きく変化したので困る(→2005.9.3)。
笛吹市は2004年に石和町・御坂町・一宮町・八代町・春日居町・境川村が合併して誕生した。
2006年にはさらに芦川村を編入している。市名の由来は辺りを流れる笛吹川で、市役所は旧石和町役場。
駅からまっすぐに南下して、その笛吹川にぶつかったらちょこっと右折。それで笛吹市役所に到着なのだ。
途中の道にはいかにも温泉街らしく旅館が並んでいた。石和温泉は利便性の良さを生かして繁盛しているようだ。

 
L: 笛吹市役所。昭和30年代の町役場建築をガラスで大胆にリニューアルした、という印象である。
R: 角度を変えて撮影。合併すると庁舎のデータをネット上で調べるのが難しくなるからイヤだわー。

そのまま笛吹川を渡って南側の左岸へと移る。右岸が温泉街となっていたのに対し、左岸は完全に郊外社会。
国道20号・勝沼バイパスが中央高速道路と並んで走っており、空間のスケール感は完全に自動車のものとなっている。
歩行者は土によって構成される田んぼと果樹園と、アスファルトで構成される規模の大きな道路の間で翻弄される。
レンタサイクルでもそれは同じで、途中でどの道をどの方向に進めばいいのか派手に迷って大いに困った。
いちおうGoogleマップを印刷したものを用意していたのだが、それでも迷ってしまったくらいに複雑だった。
特に一宮御坂ICのところは複雑極まりなく、炎天下で途方に暮れて右往左往。車を優先しすぎて本当に迷惑だ。

 
L: 笛吹川を渡る。市街地は右岸に集中、左岸は田園地帯。  R: 山梨県はどっちを向いても扇状地じゃのう。

国道20号は、なだらかに下って盆地を形成する扇状地のちょうど末端辺りを横断するように走っている。
したがって道路沿いに大規模ロードサイド店舗に混じって、ブドウの果樹園がいくつも並んでいるのだ。
これは非常に山梨県らしい光景だ。ブドウの木がつくる日陰は果樹園の販売所と客の駐車場になっており、
品定めをしている客がちょぼちょぼといる。自分が今、山梨県を走っていることをこれほど実感できる場所はあるまい。

そんな果樹園地帯をひたすら東へ進んでいくと、浅間神社の一の鳥居がある。さすがは一宮らしい目立ち方だ。
ここから扇状地の地形に合わせて自転車で下っていくと、山梨県らしいせせこましい田んぼと住宅の中に、神社が現れる。
一宮の多くは敷地が広く、まず参道からして威厳たっぷりにつくっているものなのだが、浅間神社はまったく違う。
前に「甲府はすべてのスケールが小さくできている。」と書いたが(→2005.9.24)、それは甲府に限った話ではなく、
山梨県はなんでもそうなのだ。一宮すら、どこにでもありそうな村の神社と大してスケールが変わらないのである。
道幅も狭けりゃ境内も狭い。甲斐国の一宮はここだけなんだから、もっとでっかくつくりゃいいのに、と思いつつ参拝する。

  
L: 国道20号沿いにある浅間神社・一の鳥居。浅間神社で大きいと呼べるものはこいつだけですな。
C: 浅間神社。周囲の道幅は狭く、あまり一宮らしさを感じさせない空間となっている。山梨県はなんでも小さい!
R: 境内の様子。浅間神社は横参道になっているのであった。何もそんなにコンパクトにせんでも、と思う。

ちなみに浅間神社はかつてもっと山の中にあったのだが、865(貞観7)年に現在地に移された。
旧社地には山宮神社が摂社として今も残っており、その本殿は重要文化財に指定されている。
当然、できればそっちにも行ってみたかったが、さっきの一宮御坂ICとの格闘と扇状地の坂を上る面倒くささ、
あとは盆地特有のクソ暑さといったさまざまな要因から面倒くさくなってしまい、今回はパスすることにした。

 
L: 浅間神社・拝殿。参道をまっすぐ進んで回れ左。  R: こちらは神楽殿。狭い中、コンパクトに社殿が揃えられている。

市役所も見たし、一宮も参拝した。ということで、駅まで戻る。果樹園と田んぼの中をうねうね曲がる道を行き、
石和温泉駅方面へ。駅の東側・桜温泉通りに出たら、かなり大きい旅館がずらっと並んでいる。たまげた。
僕にとって石和温泉というのは単に帰省の際の通過点であって、今まで特に意識することがない場所だった。
でもこうして実際に走ってみると、温泉地としての確かな存在感を実感できる。わざわざ寄ってよかった。

あとは列車を乗り継いで東京を目指すだけ。各駅停車なので高尾に出たときにはけっこうフラフラ。
やっぱり特急を使わないで東京まで戻るのは大変だわ、とあらためて自覚しましたとさ。
でも疲れている間もなく、明日からはいよいよグランツーリスモなのだ。しっかり寝て英気を養うのであった。


2012.8.15 (Wed.)

ピザ。ウホホホホーイ!


2012.8.14 (Tue.)

旅の疲れなのか実家の安心感なのか、ほとんど一日中寝とったわ。

むっくり起きたら『ドラえもん』の単行本を読んでいく。大長編ではなく、ふつうの『ドラえもん』。
実家にあるマンガなので当然、幼少期から何度も何度も読んでいるのだが、あらためて噛み締めて読んでいく。
『ドラえもん』の単行本では、最後に少し長めのエピソードが収録されていることが多い。
36巻に収録されている「天つき地蔵」の完成度の高さに圧倒される。この時期のF先生は脂が乗りきっているわ。
しかし45巻の最後、「ガラパ星からきた男」は完全に救いがたいデキで、F先生の病状の深刻さに泣けてくる。
実家には全45巻中1/3くらいしかないんだけど、あらためて、全巻しっかり読みたい気分になった。


2012.8.13 (Mon.)

日本海から太平洋までやりたい放題を繰り広げた今回の帰省の旅も、今日でおしまい。
名古屋を出ると、素直に豊橋から飯田線で実家まで帰るのだ。……が、当然、寄り道をするのである。
飯田線で一宮といったら、三河一宮。まずはここに参拝。3日で5ヶ所の一宮に参拝とは自分でもハードだと思う。
で、せっかくなので長篠城でも降りて長篠城址まで歩いてみる。そうしてのんびり午後に飯田に到着しようという計画。

まずは東海道線で豊橋まで出る。さすがにお盆の帰省シーズンということもあってか、豊橋駅は混雑気味。
特に飯田線のホームが、飯田線のくせにかなり混雑していて驚いた。けっこう満員気味になりつつ発車する。
しばらく揺られて三河一宮に到着。数人の乗客とともに僕も降りる。ほかの皆さんは地元民らしくちりぢりに去っていく。
僕は案内板に従って、まっすぐに東へ歩いていく。5分もしないうちに目的地の森が見えてきた。

  
L: 三河一宮駅。見てのとおり、神社を意識してのデザインとなっている。1990年の竣工とのこと。
C: 国道151号を挟んで撮影した砥鹿神社。交通量が多くて、撮影できるまでけっこう待たされたのであった。
R: 鳥居をくぐって境内を歩く。なかなか見事な森が印象的だが、途中でふつうに道路が交差していて驚いた。

三河国一宮は、砥鹿(とが)神社。本宮山の山頂に奥宮があるのだが、当然ながら今回訪れたのは里宮の方。
国道151号のすぐ脇にあり、東名高速の豊川ICがとても近いので、交通の便はかなりいい。交通量も非常に多い。
木々が生い茂るその森は、国道を挟んで眺めてもなかなかの迫力がある。鳥居をくぐるとさらに勢いが増す印象。

そんな青々とした緑の中をまっすぐ進んで神門をくぐると、開けた場所に出る。左手には社殿が2つ並んでいる。
手前の西側にあるのが、摂社の三河えびす社。規模からいえば、奥の東側にある砥鹿神社の拝殿にも劣らない。
摂社がこれだけの規模で仲良く並んでいるというのは珍しいと思う。まずはこちらから参拝。
続いていよいよ砥鹿神社に参拝である。正面にまわって参道を歩いて近づいていき、二礼二拍手一礼。
砥鹿神社は全国での知名度はそれほどないが、当然ながら三河地方ではブイブイ言わせている神社である。
三河国には縁もゆかりもない僕としては、特にこれといってわざわざここでお願いしたいことがあるわけではない。
それでも境内の緑の勢いはとても印象的で、なかなか居心地がいい。のんびり過ごして一宮ぶりを満喫した。

  
L: 摂社・三河えびす社。  C: こちらが砥鹿神社の拝殿。  R: 表神門を抜けて境内を出る。緑と砂利と、メリハリのついた神社だ。

参拝を終えると、のんびりと来た道を戻る。それでもけっこうたっぷり待ってから、次の列車がやってきた。
それにしても三河一宮駅は異様に虫の死骸が多かった。線路をまたぐ歩道橋はもう、悲惨なことになっていた。
いったいどうしてこんなことになっとるんずらか、と駅の西側に広がる田園風景を眺めつつ首を傾げる。

お盆の時期の飯田線はやはりナメてはいけないようで、列車の中はなかなかの混雑具合。
ここから1時間弱揺られて次の目的地である長篠城を目指すのだが、困ったことに雨が降り出してしまった。
雨の勢いはそれほど強くないようだが、せっかくわざわざ名所を訪れようというときに雨ではやる気がそがれる。
雨がやむと信じて長篠城址観光を強行するか、とりあえず終点である本長篠まで行って態勢を整えるか。
本長篠が都会であれば、駅近くの食堂かどっかで栄養補給をすることができる。メシの問題は重要なのだ。
でもどうせ飯田線だから、飯田までメシの食える都会はないだろう、と考えて長篠城で降りた。
僕のほかには、やはり長篠城址目的と思われる2組のお年寄り夫婦と帰省らしき学生1名が一緒に降りたのであった。
瞬間、雨の勢いが猛烈に強まり、完全に身動きが取れなくなってしまった。なんたる展開。
不幸中の幸いで、長篠城駅には駅舎というにはあまりに小規模だが、城門の形をした休憩所があった。雨はしのげる。
その中に6名とも足止め状態となってしまう。これは本長篠へ行っておくべきだったか、と思う僕。
しょうがないのでMacBookAirを取り出して日記を書きはじめる。そのうちに1台の車が到着し、
男子学生を乗せて去って行った。途方に暮れる老夫婦2組と、割り切ってキーをたたく僕。妙な取り合わせだ。
やがて1組がガマンできずに傘を取り出し、外へと出ていった。しかし僕はこの雨では出る気になれない。

そんな具合に過ごしているうちに、奇跡的に雨が弱まり、空が明るくなった。チャンス!
すぐにMacBookAirをしまうと、折りたたみ傘を取り出して外へと飛び出した。そんなに時間的な余裕はないが、
長篠城址に行って帰ってくるくらいのことはできるだろう。早足で線路沿いに歩くと5分ほどであっさり長篠城址に到着。
草と木によって全面が緑色に覆われているが、残っている石垣や土塁に囲まれた地形は、まさしく城跡そのもの。
反対側を見れば、そこにはいかにも資料館らしい建物がある。長篠城址史蹟保存館ということで、中に入ってみる。

長篠というと、武田勝頼の騎馬隊相手に織田信長の三段鉄砲が炸裂した「長篠の合戦」をまずは思い浮かべる。
この設楽原の本戦に先立って、長篠城では籠城戦が展開されていた。このとき長篠城を守っていたのは奥平信昌。
奥平家はもともと徳川家に仕えていたが、武田信玄に攻め込まれてその軍門に下った。そして勝頼の代になると、
再び徳川家の側につく。当然、勝頼が許すわけもなく、500名の奥平勢が守る長篠城に1万5千の大軍で攻め込んだ。
落城寸前に追い込まれた奥平軍は、岡崎の家康に援軍を要請。その使者こそが鳥居強右衛門(すねえもん)なのだ。
強右衛門は川を潜って脱出に成功すると、家康に長篠城の窮状を伝える。そこには運よく織田信長の援軍も来ており、
勝頼との決着をつけるべく4万近い織田・徳川の連合軍が長篠へと動き出す。強右衛門はこのことを報告しに戻るが、
武田軍に捕まってしまう。勝頼は奥平軍の戦意を喪失させるべく、長篠城に嘘の報告をするように強右衛門に迫る。
しかし強右衛門は辛抱して援軍を待つように、城に向かって大声で叫んだ。当然、強右衛門はその場で殺されてしまう。
死を覚悟した強右衛門の行動に奮起した奥平軍は見事に持ちこたえ、織田・徳川の連合軍は武田軍を壊滅させた。
その後、奥平家は大名として厚遇され、最終的には豊前国の中津を治めて明治維新を迎える(→2011.8.13)。
長篠城址はその鳥居強右衛門の悲劇の現場ということで、長篠城址史蹟保存館でも別格の扱いを受けていた。

  
L: 長篠城駅。いきなりひどい雨に降られたが、どうにかこの中で無事に過ごすことができた。感謝感謝。
C: 長篠城址史蹟保存館。瓦屋根に白壁で城を意識した建物だが、がっちりとピロティ。中はやっぱり昭和モダン。
R: 長篠城といえば鳥居強右衛門でしょう! 無名の足軽だったが、忠義の武士として一躍有名となった悲劇のヒーロー。

長篠城址史蹟保存館は帰省したと思われる子どもたちでごった返しており、なかなかの盛況ぶりだった。
鳥居強右衛門の墓をめぐる散歩コースも設定されているようで、現代でも鳥居強右衛門の存在感は大きいままだ。
新城市には「すねえもんトースト」やホットドッグの「強右衛門ドッグ」などのB級グルメもあるそうな。
さらには「男 強右衛門」というふんどし一丁のキャラクターまでおり、景品にふんどし型タオルがつくられた実績もある模様。

展示をひととおり見終わると、あらためて長篠城址を軽く歩きまわってみる。
往時の激しい戦いがまったく想像できないほどに穏やかな光景に、時間というものの絶対性を思うのであった。

  
L: 長篠城址、本丸跡。  C: 反対側の土塁。鳥居があるのは、かつてこの上に神社があった名残か。  R: 土塁の上の様子。

運のいいことに、近くの国道に出るとコンビニがあった。昼メシを買い込んで駅まで戻る。
やってきた飯田線の列車はやはり帰省シーズンらしい人口密度なのであった。それでも要領よく座ってメシをいただく。
再び降り出した雨のせいで、車窓の秘境駅たちはよけいに物悲しい雰囲気が漂っていた。わざわざ降りる気にはなれない。
そんなこんなで15時前には無事に飯田駅に到着。のんびりと市街地を歩いて実家を目指す。

驚いたのは、道路をぶっ通す計画になっていると思われる場所で、地面がかなり大胆に掘り返されていたことだ。
遺跡の発掘調査なのか、地面には幾何学的に掘られた跡が残っていた。これはいったいなんなんだろう。

 箕瀬遺跡(→2008.6.27)の続編ですかね。

まあそんな具合に、見慣れた光景と見慣れない光景との落差に毎度複雑な感情になりながら実家に入る。
で、circo氏に訊いてみたら江戸時代のものだとかなんとか。箕瀬と距離は近いけど、時代はずいぶん違いますな。

晩メシは「徳山」で焼肉だ!ということで、circo氏と一緒に中央通りへ。
前にも書いたように徳山はもはや飯田の誇る大人気店なので(→2009.8.14)、店内は大盛況。
しかし周りの客の注文はサガリ(飯田ではハラミのことをこう呼ぶ)だのタン塩だのロースだのと、
徳山というものをまるでわかっちゃいねえものばかり。われわれは男らしく黙々とモツをいただくのであった。

 日記のネタということでデジカメ撮影に余念のないcirco氏。

そしたらお店からサーヴィスってことで、サガリを一皿ご馳走になってしまった。……うーむ、やっぱり旨いなあ!
でも帰り際、ほかにも「徳山っていったらモツだよね」と言う正しい客がいたので、なんだか安心した。

家に戻ると、サッカー・U-20女子代表の試合をテレビでやっていたので、当然観戦する。
女子でU-20であるにもかかわらず、本大会前の親善試合をゴールデンタイムでテレビ中継するなんて、信じられない。
でもフジテレビは、U-20の商品価値がわかっているのだ。さすがはそういうところに鼻が利くフジテレビだと感心する。
今回は岩渕も京川もいないが、仲田歩夢・猶本光・田中陽子といった、かわいくて実力もある選手が揃っているのだ。
「AKBよりこっちだろ!」と、前々からU-20に注目していた僕は、あれこれ解説しながら家族で試合を見る。

ところがウチの母親のサッカー応援がひどいことひどいこと。選手たちが20歳前後の女の子であるにもかかわらず、
「頭が悪そう」「頭がよさそうだけど実はバカなんじゃない?」「ジャイ子級」の3種類にまとめてしまうのである。
猶本が空いているスペースを見つけてパスを出すけどつながらないと、「やっぱり実はバカなんじゃない?」と言い、
エースの田中陽子にいたっては、「ほら、こういう精悍な感じの犬おるら」ときたもんだ。それはひどすぎるだろ!
まあそういうわけで、次から次へと飛び出す暴言に、思わず頭を抱えてしまったわ。いやひどい。


2012.8.12 (Sun.)

飯田に実家があるくせに、なんで塩尻に泊まるんだ!?と言われたら、「いや、木曽路を通りたくって……」
そう答えるしかない。では木曽のどこを訪れるのかというと、今回は完全にスルーして岐阜県まで抜けるのである。
すいません、いずれ木曽をきちんと歩きたいと思ってはいるんだけど、木曽といっても範囲は非常に細長いので、
どこに焦点を絞るかまだ自分の中で固まっていないのだ。木曽は近くて遠いうえに奥が深い。許して。
ある意味、車窓からの風景で雰囲気を下見したんですよ今回は。いずれちゃんと行きますんで。許して。

というわけで、9時ちょい前に中津川駅に到着。しかし中津川市役所は駅からめちゃくちゃ遠いので、
そのまま名古屋方面へと向かってしまう。そうして名古屋駅に着いたのがだいたい10時半。
昨日は日本海の港町にいたのに、今朝はもう太平洋側の大都会である。せわしないったらありゃしないぜ。
で、間髪入れずに西へ進んで大垣へ。そこからさらに西へ行って、降り立ったのは垂井駅。
目的地は美濃国一宮・南宮大社。まあ要するに、長野県周辺の一宮をつぶしながら帰省する魂胆なのね。

垂井駅から南宮大社までは地味に距離があった。地方の穏やかな住宅地を抜けると、国道21号が現れる。
けっこう待たされてそれを渡ると、新幹線のガードを抜けて、また穏やかな住宅地となる。
まっすぐ南に行けばいいだけなので迷わないが、似たような景色を歩くのはどうも不安になる。
そうしているうちに、無事に山の麓にある南宮大社にぶつかった。祭りが近いのか、それっぽいテントが並んでいる。
駐車場はそれなりに広いが、けっこうな埋まり具合で驚いた。参拝客はしっかり多いようだ。

  
L: 新幹線のガードからすぐ近くにある大鳥居。これとは別に、駅の北側には重要文化財の石鳥居がある。
C: 南宮大社に到着。参拝客がけっこう多いようで、周辺には商店が何軒も点在している。さすが一宮だ。
R: 駐車場の脇にすぐ楼門がある。建てたのは徳川家光ということで、さすがに非常に豪勢なつくりである。

楼門を抜けると広々とした砂利敷きの境内となる。社殿は鮮やかな朱色が目を引く。
南宮大社に祀られているのは金山彦命で、鉱山や金属工業関係の神様として信仰されているのだ。
そうなると企業からの大規模な寄進なんかがあるんだろうなあ、と思いつつ参拝するのであった。
南宮大社はその立地から無理もないけど、関ヶ原の戦いに巻き込まれて社殿を焼失した歴史があるそうだ。
しかし徳川家光が1642(寛永19)年に社殿を再建しており、それが今も残って重要文化財になっている。
実際に訪れてみると、確かに家光らしく規模の大きい立派な建物が並ぶ空間なのである。

 
L: 回廊と拝殿。手前にあるのは高舞殿。ぜーんぶ重要文化財。  R: 拝殿をクローズアップしてみた。

参拝を終えると、のんびりと北へ歩いて垂井駅まで戻る。さっきは南口から出発したので、
今度は北口へまわり込んでみるか、と思ったら、そっちがメインの入口でレンタサイクルを貸し出していた。
これには思わずがっくり。レンタサイクルを借りていれば、かつて南宮大社の神宮寺だった朝倉山真禅院、
さらには竹中半兵衛重治ゆかりの地・竹中氏陣屋まで行けたかもしれないのに。まいったなあ。

さて垂井から大垣まで戻ると、ファストフード店で今後の作戦を整理しながら昼メシをいただく。
いちおうあらかじめ計画は練っていたのだが、事態はけっこう流動的で、どこまでやるかを確認する。
そうしているうちにバスの時刻になったので、駅前のバスターミナルへ移動。目指すは岐阜羽島駅だ。
途中でパナソニックの太陽光発電施設・ソーラーアーク(もともとは三洋電機が2002年に建てたもの)に驚愕しつつ、
バスに揺られること30分弱、岐阜羽島駅に到着。といっても新幹線に乗るつもりなどさらさらない。
岐阜羽島駅の脇にある、名鉄の新羽島駅のお世話になるのだ。ここから2駅のところに目的地がある。

 
L: JRの岐阜羽島駅。新幹線専門の駅である。  R: その脇にある名鉄の新羽島駅。規模がまったく違うなあ。

降りたのは、その名も羽島市役所前駅。そうなのだ、わざわざ羽島市役所を見に来たのである。
でも羽島市役所にはそれだけの価値がある。設計したのは坂倉準三。堂々のDOCOMOMO物件なのだ。
合併によって羽島市が生まれたのは1954年。もともとの地名は羽栗郡と中島郡で、明治になって両郡が合併し、
1文字ずつ取って「羽島」という郡名が生まれた。その羽島郡の多くの町村が合併して羽島市になった。
市役所がある中心の竹鼻町はもともと竹ヶ鼻城の城下町で、坂倉はここの造り酒屋に生まれたのだ。
面白いのは坂倉の経歴で、東京帝大の美術史科を卒業してから建築家になったという。

かつては賑やかだったのだろうが、すっかり仕舞屋ばかりになってしまった旧商店街を東へ進む。
しかしこの旧商店街はシャッターばかりのアーケードとは違い、落ち着いた住宅地として再生している印象。
名古屋方面への交通アクセスが充実しているだけに、このような変貌ぶりとなったのだろうと思いつつ歩く。
すると右手に羽島市役所への道が現れた。羽島市役所は少し奥まった位置にあり、その分写真に撮りやすい。
これはけっこう重要なことで、堂々たるファサードを市民に見せつける、その余裕が誇らしげでいい。

  
L: 敷地の北側から見た羽島市役所。こっちが正面ですな。  C: 駐車場へのスロープを少し上って撮影。
R: 東側より竹鼻中学校を背にして撮影。大胆なスロープと望楼によるコンクリートの迫力が非常に印象的である。

羽島市役所は1958年の竣工。3階建ての鉄筋コンクリート庁舎が全国に建てられつつある時期の作品だ。
しかしそのような庁舎のほとんどが無難なシンメトリーに収まっているのに対し、やはり巨匠のデザインは大胆。
非対称でありながらバランスを感じさせるのは、エントランスのピロティとガラスのファサードによるものか。

  
L: 東南側より撮影。モダン建築のさまざまな要素がしっかりと詰め込まれた贅沢なつくりであることがよくわかる。
C: 少し南に寄って撮り直してみた。色のバランスもよく考えてあると思う。  R: エントランスへのスロープ。きれい。

この建物は市庁舎として建てられているが、当初は公民館・図書館・消防事務所などの機能も有していたそうで、
当時としては非常に珍しい複合公共建築としてつくられている。最先端の発想を空間に反映させた貴重な事例なのだ。
たとえば丹下健三のシティ・ホール概念を具現化した先代の東京都庁舎(丸の内)は1957年竣工で(→2010.9.11)、
それをさらに進めた香川県庁舎(現・東館)は1958年の竣工(→2007.10.6)である。また市庁舎建築でいったら、
倉吉市庁舎が1956年竣工である(→2009.7.19)。つまり羽島市役所は、鉄筋コンクリートによるモダンな建築表現と、
戦後民主主義の地方自治における発露、そういう時代の空気を空間的に記録した作品の系譜のど真ん中にあるのだ。

  
L: エントランスからガラス越しに中を覗き込んでみた。小規模ながらもきっちり吹抜をつくって開放感を演出。上手い。
C: エントランスの手前から池を見下ろす。  R: 敷地の南側に広がる駐車場から見る。正直、木が邪魔だなあ……。

とにかく志の高さが随所に見られる市役所建築で、どこから眺めても面白い。わざわざ見に来た甲斐があった。
残念なことに、市役所が単なる行政の事務オフィスとみなされるようになってしまって久しいが、
市役所というのは本来は、住民の自分の住んでいる地域への誇りが空間として具現化したものであるべきだと思う。
(そのためには住民の政治というか統治への参加が不可欠。本来、自分で統治することを「自治」というのだ。
 ちなみにNPOはそれをはっきり可視化する制度だ。これは大学院時代に研究したなあ。→2002.10.272003.4.17
それはソフト面であれば祭りであったりサッカークラブであったりするが、ハード面が軽視される風潮が非常に強い。
羽島市役所は、地元のプライドが公共建築として歓迎されていた「最後の時代」の象徴、僕にはそう思えた。

  
L: 敷地西側の駐車場より側面を撮影。  C: まわり込んで北西側より撮影。いやー、これは傑作でございますね。
R: 敷地内の北にある中庁舎。すぐ近くには北庁舎もあり、羽島市役所の分散ぶりはなかなか。でも意地で坂倉建築を残している。

感動しながら羽島市役所を後にすると、名鉄のターミナルである笠松駅へ。しかし単に名鉄のターミナルというだけで、
駅周辺にこれといって面白いものはまったくないのは残念だった。素直に乗り換えて名古屋方面へと向かう。
さてここで選択肢が2つ。清洲城址と清須市役所を見に行くか、それとも尾張国一宮を完全制覇するか。
まあ正直、どっちでもよかったんだけど、次に実家に帰るのはおそらく年末になりそうで、
真清田神社には3年前の年末に行っているから(→2009.12.29)また年末に訪れるのはつまらんわ、ということで決断。
今回は清須をスルーして一宮を歩くことにした。というわけで、名鉄一宮駅で降りる。

なぜか無性にサイダーが飲みたくなって、駅のコンビニで購入。蒸し暑い日にはなぜかサイダーがうれしい。
ペットボトルを片手にぶら下げながらトボトボ西へと歩いていき、国道155号に出ると今度はひたすら南へと歩く。
真清田神社とは完全に逆方向である。でも実は尾張国一宮はもうひとつあるので、これでいいのだ。
しかしまあこのもうひとつの尾張国一宮がけっこう駅から遠い。そして何より、案内がまったく出ていない。
まあ規模の小さい神社だということはわかっていたので、プリントアウトしたGoogleマップを参考に、
根気よく歩いていく。そしてこの辺だ、と当たりをつけて左折して住宅地の中へと入り込んでいく。
結果としてはそれで大正解だったのだが、地味な方の一宮を探訪するのは非常に根気のいる作業である。

その「もうひとつの尾張国一宮」は、大神(おおみわ)神社という。これはもう、その名のとおり、
もともと大和国にあった大神神社(→2012.2.18)を勧請したものが起源となっているようだ。
かつてはもっと規模が大きかったらしいのだが、戦国時代に社殿を焼失してから荒廃してしまったとのこと。
で、現在はすっかり「地元の神社」といった雰囲気に収まってしまっている。こりゃ見つけづらいわ。

  
L: というわけで、もうひとつの尾張国一宮・大神神社。穏やかな住宅地に完全に同化している神社である。
C: 鳥居をくぐって境内の様子を撮影。それでも参拝者は地元民らしき人々を中心にいて、つねに誰かいる感じ。
R: とても一宮って感じのない拝殿なのであった。しかしナメてかかると驚かされることになるのだ。

神職は常駐していないというが、一宮目的で参拝する人はそれなりにいるようで、きちんとチェックはしているみたい。
御朱印は必要ないかとおっちゃんに声をかけられた。でも僕は単純に神社の雰囲気をつかみに来ているだけなので、
お断りして気ままにのんびり参拝するのみに留めた。よく見てみれば、境内はきちんときれいに整えられているし、
規模は小さくとも手入れはしっかりと行き届いている。一宮にふさわしく崇敬を集めているんだなあ、と感心した。
そして境内を出て裏側にまわってみて、驚いた。そこには拝殿からは想像できないほど立派な本殿があったのだ。
僕は神社の建物、特に拝殿ばっかり見てきているが、それ以外の部分をきちんと見てこそ意義があるのだ、と痛感。

 
L: 大神神社の本殿。拝殿からは想像できない立派さに驚いた。  R: 周辺はこんな感じで完全に住宅地。

大神神社を後にすると、そのまま東へ進んで名鉄の線路2本とJRの線路1本を越え、一宮の中心市街地に入る。
前にも来たことがあるのだが(→2009.12.29)、大規模なアーケードの商店街を抜けたところに真清田神社はある。
でもその前に、新庁舎の建設計画が本格化したという話を聞いていたので一宮市役所に寄ってみることにした。
一宮市役所は1930年竣工の旧館と10階建ての南棟、もともと銀行だった西分庁舎などからなる。
この西分庁舎だけは残して、あとは新庁舎に建て替える計画となっているのだ。現在はまだ基礎工事の段階で、
旧館も南棟もしっかり残っていた。なんだか安心。僕としてはリニューアルした西分庁舎よりも旧館残せよって感じ。
でもどうしょうもないんだよな。昭和モダニズムへの評価が不当に低い現実、なんとかなりませんかねえホントに。

  
L: 一宮市役所にて。現在は旧館・南棟の手前にある空間を基礎工事中。道路に面したこの場所は駐車場になる予定。
C: 角度を変えて眺める。一宮市役所は旧館はもちろん、南棟もけっこういい味の建物なので、建て替わるのは本当に残念。
R: 一宮市といえば本町商店街のアーケード。いつかアーケードというものが近代遺産になる日が来るかもしれないのでがんばれ。

というわけで真清田神社に到着。すっかり年末モードだった前回訪問時とは違い、今回はしっかり日常の姿だ。
広々とした参道から楼門を抜けて、やはり広々とした境内をのんびり歩きまわりつつ参拝するのであった。

  
L: 真清田神社の手前はアーケードの広さをそのまま受けて広場となっている。朝市も行われているみたい。
C: 楼門。かなり立派な印象で、1961年竣工というのが信じられない。といっても、もう50年以上経っているのか……。
R: これまた広々としている境内。天下人も輩出した尾張の誇りがこの空間を軸に連綿と続いているのね。

もともとは尾張氏が祖先の天火明命を祀ったこの神社を中心に開拓を進めた結果、国名が「尾張」になったとか。
(真清田神社のホームページには、「『尾張』とは土地を開墾するという意味」と書いてあった。)
それだけ真清田神社の存在感というのは大きいわけだ。「一宮」という地名は全国各地にまんべんなくあるが、
その中でもいち早く「一宮市」という名称を独占してしまったのはさすがなのだ。なんて思いつつ参拝を済ませる。

 
L: 拝殿に近づいてみたのだ。  R: 角度を変えて眺める。うーん、立派だ。

尾張一宮駅へと戻る道はすばらしい逆光ぶり。駅舎は大規模な工事中で、凝った新しいファサードに変わっていた。
どうにか撮影してやろうと悪戦苦闘してシャッターを切った。東西方向に面する建物は朝と夕方に撮影しづらくて困る。

 新しい尾張一宮駅。かなり本気なつくりである。

名古屋まで出ると、そのまま大須へ直行してアーケードの商店街をブラつく。
少し早いけど晩メシに寿がきやラーメンの大盛をいただくのであった。ま、当然の選択だな。

 寿がきやラーメンを食うたびに写真に撮っとるわ。

今回は栄のはずれの歓楽街にある宿を押さえたのだが、まあ名古屋の夜の元気なこと元気なこと。本気で呆れた。


2012.8.11 (Sat.)

ロンドン五輪のサッカー日本代表が韓国に敗れたのを見たのは、長岡駅の待合室の中だった。
長岡駅の待合室はベンチで寝るやつがいないように、ごていねいに肘掛けが細かい間隔でついている。
しょうがないから床に寝転がることになるわけだが、前にそれでつらい思いをした僕は(→2012.3.25)、
あらかじめ買っておいたエル・ゴラッソを敷いて寝たのだ。タブロイド判のサイズは小さいなあ、と思いながら。
6時になって待合室のテレビに電源が入ると、日本は0-2で負けていた。アナウンサーが悲痛な声で絶叫する。
でも僕はわかっていた。日本が韓国に勝てないことを。それは日本が弱いからでもないし、韓国が強いからでもない。
韓国はこの戦いに勝つために、ありとあらゆる手段を講じてくるだろう。そう、ありとあらゆる手段を、だ。
日本が勝つには意地でも無失点で守りきってPK戦に持ち込むしかない。そのPKも蹴り直しを命じられる可能性があるが。
とにかく、僕の感覚では予定調和的に、日本は韓国に敗れた。結果論だが、メキシコに勝てなかったことがすべてだ。
本番前にメキシコと練習試合をやったことでスペインには勝てたが、それが慢心につながったのかもしれない。

長岡を出る信越本線の始発は6時39分発。日本が敗れた瞬間を見届けてから、青春18きっぷをかざして改札を抜ける。
ぼんやりと上記のようなことを考えながら駅前にあるコンビニへと向かう。長岡にはちょぼちょぼ来ているせいか、
あまり久しぶりという感じがしない(→2009.8.132011.10.8)。慣れたもんだぜ、と思いつつ朝メシを購入。

のんびり音楽を聴きつつ1時間半ほど過ごし、終点の直江津に着く。気がついたら寝ていて、電車を降りても寝ぼけたまま。
なかなか頭がうまく回らない状況が30分ほど続いた末、そうだ、レンタサイクルを借りなければ!となる。
ところが困ったことに、直江津ではJRの改札でレンタサイクルを貸し出しているのだが、これがまるで融通が利かない。
きっちり9時にならないと手続きを進めてくれないのだ。今は盆の時期で乗降客がふだんより多く混雑しているから、
要領のいい人ならレンタサイクルのやりとりなんて早めに済ませて本来の仕事に支障が出ないようにすると思うが、
そういう工夫を一切せず、お役所的対応に終始。こういうところで仕事のできる/できないが出るよな、と思うのであった。
そんなこんなでレンタサイクルを借りたときには、次の列車が出るまであと46分となってしまっていた。
こうなりゃ気合ですっ飛ばすのみである。道はわかっているので、一気に直江津市街を西へと走り抜けていく。

 直江津市街の雁木(→2011.10.9)。うーん、雪国だねえ。

僕がそこまで必死になって直江津の街を走ったのは、前回訪問できなかった場所(→2011.10.9)にリヴェンジするため。
前回歩けけども歩けどもたどり着くことのできなかった場所、五智まで自転車で行っちゃおうというわけである。
あれだけ苦労したはずの距離も、気合の入ったレンタサイクルだとあっという間だ。10分ほどで五智国分寺前に到着。

  
L: 五智国分寺の山門。1835(天保6)年築。木をそのままの姿で柱に使っているのが非常に独特である。
C: 未完成の三重塔。でもかなり立派。五智国分寺の建物は全般的に、地味ながらも風格がある感じ。
R: 1997年に再建された本堂。鎌倉時代の寺をモデルにして、当時の工具を使って建てられた逸品。

五智国分寺というだけあって、越後国の国分寺の流れを汲んでいるそうだが、詳しいことはわからない。
1207(承元元)年からは、越後に流罪となった親鸞が7年ほどこの辺りで過ごしている。
そして現在の位置で寺を再興したのは上杉謙信で、1562(永禄5)年のことだそうだ。
しかし火災のせいで、最も古い建物は経蔵の1693(元禄6)年。面白いのはその対面にある三重塔で、
1856(安政3)年に着工したものの、いまだに完成していないそうだ。でもさすがに風格がある。
五智国分寺の周囲は完全に「田舎の住宅地」で、境内の中はそれに合わせてややコンパクトな印象である。
しかし建物ひとつひとつを見てみると、地味な立地からは信じられないくらい凝っていて、迫力がある。
あまりに穏やかなので観光地的な匂いがほとんどしないのだが、その分だけまた底力を感じさせる場所だった。

ここからもうひとつの越後国一宮である居多(こた)神社はすぐそこ(弥彦神社のログはこちら →2011.10.8)。
五智国分寺とセットで直江津の一大パワースポットを形成している、といったところだろう。
古くは居多を「けた」と読んだそうで、能登国や越中国の一宮である「気多」と同系統という説もあるそうな。
もともとは海沿いに社殿があったが、海岸浸食で1879(明治12)年に現在地に移転したとのこと。
参道は坂道になっていて、一気に下ると道を挟んで境内が現れる。石段を上ってみてびっくり。
境内が、妙に広々とした芝生となっているのだ。砂利ならともかく、なかなかこういう芝生の神社は珍しい。

  
L: 五智国分寺からそのまま南に行くとすぐ右手に参道が出現。  C: 境内の様子。芝生ですっきりとした空間となっている。
R: 真新しい拝殿をクローズアップ。数百年後にはどんな感じになっているんだろうね。向かって右に寄っているのは出雲大社風。

社殿が妙に新しいと思ったら、2008年にできあがったばかり。なかなか独特な形をしている。
境内も建物も新しく整備されたばかりという印象だが、それはそれで清潔感と神聖さが両立されており、
なかなか居心地のよい場所である。「日本人の聖地の空間的なつくり方」という点で、興味深い事例である。
思っていた以上に小規模な神社だったが、それが管理しやすいコンパクトさといういい方向にはたらいていた。

これで前回訪問の借りを返すことができた。大いに満足しながら駅まで戻る。さんざんしつこく手続きを迫っておいて、
たった40分ほど借りただけということで、さすがの僕も、今回のレンタサイクル返却は気恥ずかしかった。
でも世の中にはそういうやつもいるのである。その心理もぜひわかってほしいものなのだが。……特殊すぎますかねえ。

 浜善光寺こと十念寺に寄る。謙信が善光寺を信玄から守ろうと移したのが起源。

直江津を出ると、目指すは糸魚川。ここも前に来ているので(→2011.10.9)、街歩きはパスとするのだ。
電車を降りるとそのままホームを先へと進み、大糸線のホームへ。大糸線の北半分の扱いはわかっているつもりだが、
実際にそれを体験すると、やっぱり切なくなる。北陸本線と非電化の地方交通線じゃ差があるのはしょうがないけど……。

 大糸線のホームには車止めがあるってのはなあ。切ないなあ。

北陸新幹線の開業が2014年と迫っている。新幹線が開通すると在来線は良くて第三セクター化、悪けりゃ廃止だ。
で、今まさにその廃止の危機にさらされているのが大糸線のJR西日本(非電化)区間なのだ。どのくらい危機かというと、
JRが今まさに乗客の調査をやっていて、僕もどこから来てどこまで行くのか訊かれたのであった。
「東京から来て飯田まで帰省します」と言った僕の言葉は大糸線の存続にどれだけ寄与できるものなのか。無理か。
まあ今回こんな無茶な帰省ルートを実行しているのは、廃止される前に大糸線に乗っとくか、ってのも一因なんだが。

10時43分に糸魚川駅を出た列車は、お盆に近い時期ってこともあってけっこうな乗車率なのであった。
大きなバックパックを背負っている人が多く、登山目的での利用が盛んなことがよくわかる。
のん気に窓の外の景色を眺めて過ごしたのだが、大糸線北半分の景色は見事に3種類である。山と川と水力発電所。
人里はあっても山と川の間に少々へばりついている程度で、水力発電所がこまめに現れてなかなかの存在感を見せる。
でもそれは非常に特徴のある景色で、僕はなかなか楽しませてもらった。廃止にはしないでもらいたいなあ。

  
L: 糸魚川駅を出てわりとすぐに現れる工場。思わずデジカメのシャッターを切ってしまったわ。機能美だなあ。
C: 大糸線の北半分では水力発電所が頻繁に現れる。  R: 山と川、そしてその間にある道路とか覆道とか。

列車は1時間で南小谷に到着。バックパック組がやたらと多くて駅は混雑気味。僕はそんなに登山がブームとは知らず、
その勢いに圧倒されるのみであった(こないだ富士山に登ったが(→2012.7.15)、ブームは富士山だけじゃないのね)。

 滅多に来ない場所だから、いちおう駅舎を撮っておくのだ。

南小谷からはJR東日本。さすがに同じ大糸線でも電化区間はソフトな印象で、より人里の雰囲気が強くなる。
途中で木崎湖の湖岸を走ったのだが、小学生くらいのときに親戚と泳ぎに来たことを思い出した。
景色も見事だったのでぜひ撮影したかったんだけど、それができないくらいに車内が混んでいたのは予想外。
そんな感じで揺られること1時間、信濃大町駅に到着。ここで降りて、まずはメシである。
素早く腹を膨らませたかったので駅そばをいただいたのだが、月見そばを注文した後で「特上」の存在に気づく。
ちゃんとした麺なので茹でるのに3分ほどかかるというが、ふつうの月見が320円で特上の月見が360円。
それならどう考えても特上にすべきだ。大いに悔しがりつつふつうのそばをおいしくいただいた。特上、気になるわ。

食べ終わるとさっそくレンタサイクルの申し込み。信濃大町駅では観光案内所で無料で自転車を貸してくれる。
手続きをするといざ出陣。目指すは国宝・仁科神明宮である。やはり長野県人として、県内の国宝は見ておかなくちゃ。
しかしこれ、さらっと書いているけど、とんでもない距離があるのだ。仁科神明宮の最寄駅は安曇沓掛駅。
これ、信濃大町駅から南に3駅め。しかもそこから徒歩で30分。これを自転車で一気に行っちゃおうというのだ。
こないだの三弦橋で懲りていないのか(→2012.6.30)、とツッコミが入りそうだが、そう、懲りていないのである。

大町なので地形は全体的に、北から南へとゆったりとした下りになっている。国道147号に出ると、
これを車とさほど変わらないスピードで一気に下っていく。いやー、自分で言うのもナンだけど、速かったねえ。
15分ほどで安曇沓掛駅まで行くと、そこから左折して高瀬川を渡る。一面に田んぼが広がる中を突っ切り、
対岸の山の中へと突っ込んでいく。やはり由緒ある神社なので、平地から山へ少し入った位置にあるのだ。
汗びっしょりになりながらペダルをこぎ、黙々と仁科神明宮を目指す。まあ正直、なんで毎回こんなんなんだ、
と自分で思わなくもないのだが、ゴールには必ず自分の想像を超えるものがあるので懲りずにチャレンジしてしまうわけだ。

  
L: 信濃大町駅。家族連れにバックパックを背負った人々でごった返していた。こんなに活気のある場所だったとは……。
C: 国道147号に入ってしばらくすると現れる昭和電工の工場にて。この古い門を残しているってのがいいよなあ。
R: 安曇沓掛駅から国道を離れて田んぼの中を突っ切る。これが安曇野(の北のはずれ)なのか、と思う。

仁科神明宮は大町市にあるのだが、池田町との境界のすぐ手前のところから山に入っていく。
道は突然曲がりくねり、小さい案内板だけを頼りにただひたすら夢中でペダルをこいでいく。
そうして宮本の公民館のところに鳥居があるので、それを抜けて根性で坂を上がっていけば、境内の入口に到着する。

  
L: ヒイヒイ言いながら坂を上って、どうにか鳥居があるところまで来た。左手の建物が宮本公民館である。
C: ラストスパートでがんばると現れる境内。右側は駐車場になっており、タクシーがヒマそうに停車していた。
R: 境内を進んでいくと、左に折れて坂を上っていくようになる。雰囲気は木々に包まれて縄文っぽい感触。

長野県では少し前まで雨が降っていたせいか、境内は木々のもたらす湿り気により縄文っぽい雰囲気が加速されていた。
参道を進んで石段を上りきると、そこは完全に木々が主役の空間となっている。太陽は厚い雲が隠されたままで、
空の薄暗さが自然の存在感というか、息をひそめる木々の向こうに人間よりも大きいものが存在する印象を強める。
二礼二拍手一礼すると、広くはない境内のあちこちを観察して歩いてみる。そして国宝の本殿を覗き込む。
僕は神社の本殿よりも拝殿の方が好きだ。本殿は純然たる「神様の居場所」なわけで、われわれ人間には遠い。
それよりは神様と人間のインターフェイスである拝殿の方に興味がいくのだ。しかし横から国宝の本殿を見て、
きちんと本殿にも興味を持っていかないとダメなのかなあ、と思う。勉強にはキリってもんがない。

  
L: 無数の境内社が息をひそめる。自然と多神教の関係がはっきりと可視化された光景って印象だ。
C: 歴史を感じさせるシンプルな神門。ここでお参りをするのだ。  R: 蚊と戦いながら撮影した、国宝の本殿。

わかっちゃいたけど、帰りは来たときよりもずっとつらい。曲がりくねった坂を勢いよく下って高瀬川沿いの平地に出て、
橋を渡って安曇沓掛駅の脇を抜ける。たまらず自動販売機で水分補給すると、じっとりとした上り坂の国道147号を走る。
無心でペダルをこぐこと30分、無事に信濃大町駅前まで戻った。細かく描写してもつまらんのであっさり書いたが、
これはなかなかにつらい時間だった。やはり途中にウキウキするような要素がないのは淋しいもんだなあ。

計画では十分に滞在時間を準備したつもりだったが、仁科神明宮は甘くなく、大町市街を満足に味わえない状況に。
しょうがないのでポイントを絞って大急ぎでまわる。できれば母親の実家探索や祖母の墓参りをしたかったのだが。
そのまま国道147号を北上し、さっさと大町市役所へ行ってしまう。1977年の竣工だが、きれいにしてある印象。

  
L: 大町市役所の議会棟。  C: 大町市役所本庁舎。  R: 角度を変えて正面より撮影。周囲はのんびりしている田園風景。

 裏手はこんな感じである。

国道147号に戻る途中で大町高校を撮影。ウチの母方の親戚一同はみんなここの卒業生なのである。
ウチの母親にも女子高生の時代があったということに驚愕するが、きっとどうでもいい感じの生徒だったに違いない。

 
L: 長野県大町高等学校。ウチの母方の親戚一同はみんなここの出身。ちなみに乙葉もここのOGだよ!
R: 竈(かまど)神社の境内前にある石造の物見櫓。circoさん、これってけっこう珍しくないですかね?

本当に時間がないので猛スピードでさらに北上していく。途中で国道を離れて農地をまっすぐに突っ切ると、
若一王子(にゃくいちおうじ)神社に到着。実は少し前、ここで子どもの乗る流鏑馬の馬が暴れる事件が起きたのだが、
そんなことがあったとはまったく思えないほどに境内は静かに落ち着いていた。人がほとんどいない。
ちなみに母方の親戚の男子は、代々その流鏑馬に参加しているんだそうだ。大町では格式のある神社なのだ。
もともとこの神社はかなり神仏習合の度合いが強かったらしく、はっきりと神社ではあるものの、
確かに境内の空間構成はなんとなく寺っぽさを感じさせる。鳥居と三重塔の組み合わせが非常に強烈である。

  
L: 若一王子神社にて。神社の鳥居の横に、いかにも寺っぽい雰囲気の三重塔。なんとなく「伽藍」な印象のする境内だ。
C: 拝殿。もともと伊勢神宮にある社殿を移築したそうだ。  R: 逆光に苦しみつつ撮影した三重塔。なかなか立派だ。

大急ぎで信濃大町駅に戻るとレンタサイクルを返却し、素早くコインロッカーから荷物を取り出して電車に乗り込む。
どうにかなるんじゃないかと思って予定を組んだのだが、仁科神明宮はあまりに遠く、あてがはずれた。
おかげで大町の市街地を味わうことがまったくできなかった。これはぜひとも近いうちにリヴェンジしなければ。

大町を出ると、穂高駅で降りる。本日の最後は穂高神社を参拝して締めようというわけだ。
実は、もうひとつ先にある豊科駅で降りて安曇野市役所を攻めようか、かなり迷った。
しかし市役所と神社を比べた場合、曇り空でもフォトジェニックなのは神社の方、ということで神社にしたのだ。
驚いたことに、穂高駅は観光客でいっぱいだった。駅前も店が多く、夕方なのにけっこうな賑わいなのである。
特にレンタサイクル屋が繁盛しているようで、若い兄ちゃんが何人も元気に働いていたのには驚いた。
でも駅前の観光案内板を眺めながら冷静に考えてみると、これは確かに納得のいくことなのだ。
武器になるのは美術館にワサビ農園、そして蕎麦。それらのポイントをレンタサイクルでまわるプランが成立している。
車でちょっと行けば温泉だってある。東京から適度な遠さの田舎が、「安曇野」という地域名でうまくブランド化している。
もともと「安曇野」の名を冠した自治体は存在しなかったが、明科町・豊科町・穂高町・三郷村・堀金村が合併し、
2005年に「安曇野市」という新たな市が誕生した。それぞれの旧来の地名が存在感を失ったのはさみしいが、
かわりに地図にはっきりと「安曇野」の名が書かれるようになった。やはりこのことは大きいと思う。

穂高神社は穂高駅からまっすぐ東へ進んだところにある。その県道がまた小ぎれいに整備されており、
確かに規模としては「市」ではなく「町」レヴェルなのだが、きちんと観光地らしい活気に満ちている。
もともと安曇野には詳しくなく、しかも長野県を出てから15年以上経っている僕には、意外な光景だった。
妙に感心しながら歩いていくと、すぐに穂高神社の駐車場に到着。きちんと表参道にまわり込んで参拝スタート。

  
L: 穂高駅。しっかり観光の拠点である。  C: 穂高神社付近から穂高駅方面を眺める。県道309号はなかなか元気。
R: 駐車場から道祖神の並ぶ路地を抜けて、正面へとまわり込む。穂高神社は規模が大きいなあ、と感心。

穂高神社は「日本アルプスの総鎮守」とされているんだそうだ。安曇野の歴史と深く関わっている神社で、
もともと九州の北部にいた安曇氏がこの地に移ってきたため、海なし県にもかかわらず船の祭りをやっている。
そして船の安全祈願が車の安全祈願へと変化したことで、交通安全にご利益がある神社として知られるようになった。
さらには「ものぐさ太郎」のモデルとなった信濃中将も祀っており、観光のネタには事欠かない神社なのだ。

  
L: 木々に包まれた境内は、参拝客がそれなりに多いにもかかわらず落ち着いている。さすがに雰囲気あるなあ。
C: 手前が神楽殿、奥が拝殿。  R: 現在の拝殿は2008年に竣工したばかりなのでとってもピカピカ。末永くがんばれよー。

穂高駅まで戻るが、松本行きの列車が来るまでには時間があり、しばらくぼんやりと過ごす破目に。
真夏とはいえ、もともとの天気が良くないので、空は時が経つにつれてだんだんと暗くなっていく。
そうなると、レンタサイクルでの安曇野観光がとてもうらやましく思えてくる。
ずっと前に家族で大町に行ったついでに車でこの辺の美術館に行った記憶があるのだが、
その記憶をきちんと更新して確かなものにしたいなあ、という気になるのであった。
大町もそうなんだけど、中途半端に記憶があると、かえって不正確な形で編集されて残ってしまうものだ。
いつかちゃんとまわりたいなあ、と思いつつ、安曇野の地を後にする。長野県は広いとあらためて思う。

松本に出ると、毎度おなじみの蕎麦屋で晩飯をいただく。相変わらず確かな味に満足するのであった。
ちなみに、後で知ったことだが、僕には大いに参考にさせてもらっているサッカーブログがあって、
そのブログ主は松本山雅の試合を観戦した際に、どうやらこの店で蕎麦を食ったらしいのだ。
ところがそのブログでは、「駅そばとの違いがわからない」との非常に厳しい評価が下されていた。
でもそれは、どれだけ蕎麦の味がわからないんだよ!と驚愕してしまうような凄まじい味オンチぶりである。
サッカーについては本当に参考になるログが満載で、毎回心底感心させられるブログなので、
こんなところで意外な弱点を見せられると、なんとも複雑な気分になってしまう。
僕はサッカーはそこまでわかっていないけど、蕎麦ならそれなりにきちんとわかる……つもりだ。
なんというか、どんな人にも弱点はあるもんだなあ、と思うのであった。世の中、いいバランスでできている。

 松本山雅を応援するスタンドポップとともにパチリ。

明日の予定を考えると、松本に泊まるよりも塩尻まで行く方が都合がいい。というわけで塩尻まで移動。
塩尻は交通の要衝だけあり、駅の近くに宿屋がしっかりある。その中のお安い宿に泊まったのであった。
飯田に実家があるのに塩尻に泊まるというのは、かなりひねくれた行動なのだが、しょうがないのだ。許してたもれ。


2012.8.10 (Fri.)

なでしこジャパンの銀メダルが悔しくて悔しくてしょうがない。分厚い現実という壁に打ちひしがれる朝なのであった。
とはいえ1点目の失点は完全に油断だから、あれを決められているようじゃ金メダルに値しないってことなのか、とも思う。

しかし体格も大きくて速くて強いアメリカは、ひとつひとつのプレーに迫力がある。
小さいなでしこジャパンには、どこかプレーに悲壮感をおぼえてしまう。特に前半8分に先制点を食らってしまうと、
そこからのなでしこのプレーが必要以上にけなげに見えてくる。パスをよくつないで攻めているのだが、
一瞬のカウンターがことごとく大ピンチになってしまう恐怖感があるので、もうまともに見ていられない。
準決勝・フランス戦もそうだったけど(→2012.8.6)、僕が勝手にネガティヴに試合を受け止めているだけなのだが。
後半が始まってしばらく経った54分、アメリカがミドルで追加点。ただの一視聴者にすぎない僕には悪夢のような展開で、
勝利をあきらめてしまいそうな気持ちになる。でもピッチ上の選手たちはそんな絶望感とは無縁でいることを祈るしかない。

そして63分、パスをつなぎにつないで隙をうかがうと、縦に入って澤へのクロス。このシュートがこぼれたところに大儀見。
時間的には追いつく余裕はあるのだが、なんせ本気のアメリカが相手なので「こりゃいけるぜ!」という気になれない。
それでも83分、岩渕がボールを奪った瞬間は完全にポジティヴな気分になった。同点を確信した。
しかし放ったシュートはGKソロのファインセーヴに遭う。そして再び絶望的な気分に呑まれてしまう。

なでしこジャパンが銀メダルに輝いたということは、これはとんでもない快挙だと素直に思う。
女子W杯で優勝して以降、相手チームの目の色が明らかに変わったのだが、それを真っ向から受けてのこの結果だ。
さっき「悲壮感」と書いたけど、それはW杯優勝以降についてまわるようになったと僕は感じている。
僕が勝手になでしこジャパンのプレーで悲しくなっているだけなのだが、どうしてか、そういう気持ちが拭えない。
きっとまだまだ成長する余地があって、もっと優位にプレーできるようになる日が来る。そう前向きに捉えておきたい。


2012.8.9 (Thu.)

上智大学の教員免許更新講習3日目、「キリスト教ヒューマニズムと人間の尊厳(3)」。
昨日は先生方がそれぞれ自分の得意なことを思うがままにしゃべるという、いかにも大学っぽい授業だったのだが、
最終日の本日もまったくそんな感じなのであった。でもそれくらいの方が面白いんだよな。
大学の授業は本当に久しぶりに味わったけど、なんというか、非常に“オトナ”でいいわ。
(※本日のログについても、以下に書いてある内容は講義の要約であり、僕自身の考えとは異なるものであります。)

本日最初の時間は、ヴァティカン(バチカン)について。今年は日本・ヴァティカンの国交回復60周年にあたるとのこと。
実際にヴァティカンに留学した先生による四方山話で、実体験にもとづく気ままなトークなので面白くってたまらなかった。

ヴァティカンとは全世界のカトリックの総本部。ローマにあるってことが重要(ローマ帝国との歴史的な関係があるので)。
世界最小の独立国家であり、ペトロとパウロが殉教した土地でもある。「自由に話のできる場所」である。
(ペトロの殉教した地は競技場だったためオベリスクがある。パウロの殉教した地は当然、今のサン・ピエトロ大聖堂。)
ヴァティカンはローマ市街地からテベレ川を挟んだ西側にある。異なる宗教(ミトラ教)の神殿の上に教会をつくっちゃおう、
ということでサン・ピエトロ大聖堂がつくられ、ヴァティカン美術館(システィーナ礼拝堂は先に見ちゃうのが通だとさ)、
バチカン宮殿、サン・ピエトロ広場などがひしめいている。ほかにはスイス衛兵なんかも有名。
ちなみにローマ教皇を決める選挙であるコンクラーヴェとは、「鍵がかけられている」というような意味とのこと。

2008年現在の世界の宗教人口でキリスト教は堂々の第1位であり、22億5400万人で全人口の33.4%を占めている。
そのうちカトリックが約半分の11億3040万人(16.7%)、プロテスタントが3億8500万人(5.7%)。
日本におけるカトリックとプロテスタントの比率はだいたい3:7で、プロテスタントの方が多い。
ちなみにイスラムは第2位で15億人(22.2%)。1997年と比べると4.3億人増となっているそうだ。
仏教は3億8400万人(5.7%)。インドを押さえている関係で、ヒンドゥー教の方が多い(9億1360万人、13.5%)。

日本とキリスト教の関係は、フランシスコ=ザビエルより始まる(なお、イエズス会は上智大学を開設している)。
教科書でおなじみのザビエルの肖像画は、日本における洋画の起源のひとつ。高山右近の領地だった寺から発見され、
現在は神戸市立博物館にあるとのこと。1935年にこの絵を買い取った人は、別荘を売却までして購入したそうな。
ザビエルは武士の高潔さ・プライドなどから日本人のキリスト教受容の資質を見抜いた。が、厳しい寒さに閉口したそうな。
井戸端での路傍伝道を進めるが、神のことを密教の最高仏である「大日(如来)」と訳したために誤解を受ける。
その後は「デウス」とラテン語をそのまま使うが、今度は「大嘘(でーうそ)かよ」とのツッコミを受ける。

大名レヴェルでの布教を進めたのは、1579年に来日したヴァリニアーノ。織田信長・大友宗麟・高山右近らと会見し、
日本文化の理解に努める。『日本の風習と流儀に関する注意と助言』という小冊子を著すなど、かなりの理解者だった。
ヴァリニアーノは有馬や安土にセミナリヨを設立するなど、日本人司祭の育成を積極的に押し進めようとした。
また天正少年使節を発案し、日本人にヨーロッパを見せるとともに、ヨーロッパに日本を知らしめようとした。
ヴァリニアーノはインドのゴアまで少年使節と同行した。その後も何度か日本を訪れている。
大友宗麟によって選び抜かれた少年使節たちはヨーロッパでその賢いところを存分に見せ、かなりの歓迎を受けたという。
ちなみに彼らのふだんの衣服は着物。首を見せるのは失礼だったので、着物の上に例のフリフリをつけていた。

近年の主要なローマ教皇には、ヨハネ23世がいる。イタリアの小作農の出で、
候補者とは思われていなかったものの、1958年のコンクラーヴェで76歳で教皇に選出された。
キリスト教の宗派内での対話・和解を進め、新しいカトリックの方向性を示したとのこと。
ついこないだの2005年までがんばっていたのが、ヨハネ=パウロ2世。通称「空飛ぶ教皇」。
それだけ世界各地で活動し、プロテスタント諸派との会合を持ったり東方正教会との和解に努力したりした。
1986年には教皇では初となるローマのシナゴーグ訪問をし、80年代後半には旧共産圏諸国の民主化運動をサポート。

最後に元・駐ヴァティカン大使の上野さんの論説文を読む。ヴァティカンは意外と宗教ばっかりの場所ではなく、
キリスト教の価値観に縛られることなく「自由に話のできる場所」であるそうだ。
しかし日本では駐ヴァティカン大使は引退前の人が任命されることが多く、そこに外交センスの欠如が現れている。
外交センスのなさとはつまり、宗教センスのなさに通じる。日本はいわば「無菌状態」であり、
そのままの感覚で世界に出るのは危険ですらある。宗教への理解なしでは世界を理解することはできない。
宗教は相手を知る有効な手がかりとなる。また、ヴァティカンは強い「過去へのこだわり」を持っている。
たとえば江戸時代初期に処刑されたキリシタン188人を列福したのはつい最近のことで、500年前や1000年前も、
半ば「現在のこと」であるような感覚で扱う。過去を切り捨ててしまわず、過去に敬意を払う文化が根付いている。

感想: 先生個人の話と歴史の話がざっくばらんな雰囲気の中で織り交ざる、興味深くて参考になる授業でした。

続いては「ケア」の立場から見た人間観についての講義。大学時代にゼミでやった鷲田清一の影響が強い内容。

まず人間の尊厳の「尊厳」とは何か、というところから。英語では「dignity」という語になるとのこと。
「di」が「分ける」を、「gni」が「知る(know)」を意味し、つまり「区別して知る」ということになるそうだ。
そこから「別のものと区別される固有性」、さらに「侵しがたい価値・権威」を意味するようになる。
そして「かけがえのなさ=ひとりひとりの存在価値」へと意味が広がっていくとのこと。
サン=テグジュペリ『星の王子さま』には「かんじんなことは、目には見えないんだよ」という有名な一節があり、
また「あんたが、あんたのバラの花をとても大切に思ってるのはね、そのバラの花のために、ひまつぶししたからだよ」
というフレーズもある。名言の文脈を知ろう、ということで、人間の尊厳についてこれらの文をもとにして考える。
目に見えるということは、比較可能であるということ。相手を利用価値で測る、道具や手段として見なすことにつながる。
さらにこれは相手を支配、コントロールする考え方へとつながっていく。この「利用価値」に対するのが「存在価値」。
存在価値は見えにくい、目では気づけないもので、時間の共有によって認めることになるものである。
バラの花のためにひまつぶしをするということはつまり、相手のために時間を行使したということを意味する。
また、パスカルの『パンセ』では、「人間はひとくきの葦にすぎない」とある。葦は群生する植物である。
しかし「だが、それは考える葦である」とある。これは自らの弱さ・限界を自覚できるということである。
自らの弱さを自覚している限りにおいて尊厳がある、ということ。そして「われわれの尊厳」と複数形が用いられるが、
ここには他者との支え合いが意識されている。弱さの自覚に立ち、ともに支え合うからこそ、尊厳があるということ。
人間の尊厳は個人に内蔵されているものではなく、かかわりの場(場の共有)の中で発見される。

続いて、コントロールする教育からケアする教育へ、ということで、ケアという言葉について。
英和辞典で「care」を引くと、まず1番目に「心配」とあり、2番目が「関心・配慮・注意」と続く。
3番目で「世話・保護・管理」と来て、4番目が「関心ごと・責任・用事」となっている(研究社のやつ)。
つまりケアには多義性・階層性がある。具体的には、(1)認知、(2)欲求、(3)行為ということになる。
しかしながら「しない」というケア、「見守る」という選択肢もある。これは長期的な行為のため、という視点。
なお、「care」と「cure」の違いとしては、「cure」は垂直・一方向であるのに対し、「care」は水平・双方向的。
「care」は「cure」と違って、「与える」のではなく「応答する」ということである。

教育とは本質的に利用価値の側に根ざしているもので、「模範」という暴力的なモデルが存在している。
これはずいぶんと理想化されているもので、この「模範」というモデルに子どもを追いつめていないか。
そもそも教員自身がけっこうこのモデルに追いつめられているところがある(誰が追いつめているのやら)。
1980年代フェミニズムの影響を受けた「ケアの倫理」という考え方があるが(ギリガン)、
これは上から正義を振りかざす男性の道徳観である「正義の倫理」に対するものである。
この「ケアの倫理」から踏み込んで、「ケアの哲学」へと進化させたい。そのために、他者とともに生きる現場、
当事者研究を進めて、ケアされる側の視点に着目し、もっと有効に活用していく必要がある。

『ルカの福音書』の中の「善きサマリア人のたとえ話」からケアについて考えてみる。
追い剥ぎに襲われた人が祭司とレビ人(下級祭司)には無視されたが旅のサマリア人には助けられたという話だが、
祭司とレビ人は、(1)認知、(2)欲求まではしている。何らかの理由により、違うものをケアした、と考える。
しかしサマリア人は「その人を見て憐れに思い」とあり、襲われた人に共感して(3)の行為に至った。
また、メイヤロフ『ケアの本質』では、「一人の人格をケアするとは(中略)、その人が成長すること、
自己実現することをたすけることである」とある。つまり、その人の存在価値、尊厳を汲み取るということ。

で、この講義で出た話。宗教とは、知的生命体としてのモラルの維持の問題である、とのこと。なるほど。

感想: 結局、コミュニケーションとは相手の話を聴く能力、受け手としてのスキルだと思う(→2012.2.11)。

いよいよ最後の講義は、仏教とキリスト教の比較から人間の尊厳について考えてみよう、という内容。
しかしながら、たとえば「愛」とはキリスト教においてはきわめて重要かつ本質的なものなのだが、
仏教における「愛」はポジティヴな意味でもネガティヴな意味(執着)にも使われる。単純に比較はできないのだ。
(これは訳し方の問題でもあるが、そもそも概念を一対一対応で訳すことが不可能なのだからしょうがない。)
それでも、両者に共通している部分から、洋の東西を問わない人間の尊厳を根拠づけようという試みをする。

まずは仏教から。いわゆるブッダ(buddha)とは「目覚めた者」という意味だが、ゴータマ=シッダッタ自身も指す。
ゴータマは人々に慈悲の倫理を説いたが、慈悲の「慈」は「maitri=純粋な友情」を意味し、
「悲」は「karuna=うめいて痛む・悲しむ」、そこから「ほかの人の苦しみに共感する」ことを意味する。
王族出身のゴータマは、厳しい修行を通じ、社会の最底辺から世の中を眺めるという経験をしている。
そしてゴータマは35歳のとき、あらゆる生き物はダルマのはたらきに平等に生かされている、と悟りを開く。
ダルマ(dharma)とは「真実・法」のことで、「大いなる生命のはたらき」といったもの。
最もブッダに近い仏典のひとつである『スッタニパータ』では、あらゆる生き物が楽しくなるようにしよう、とある。
「楽しくなるようにしよう」とは、平和・平安の状態にあることを指す。そしてこの部分で特徴的なのは、
すでに生まれたものだけでなく、これから生まれようとするものも楽しくなるようにしよう、とある点。
これは(わが子に向けられるものに限らない)母親の愛が純化・普遍化した「慈悲」そのものである。

インドといえばカースト制。ヴァルナ・ジャーティ制ともいう。ヴァルナ(vana)とは肌の色、
ジャーティ(jati)とは出自・職業のこと。主として、司祭のバラモン、武士のクシャトリヤ、平民のヴァイシャ、
奴隷のシュードラの4階級からなる。『リグ・ヴェーダ』の伝承によると、これらの4階級は巨大な原人のそれぞれ、
口(バラモン)、腕(クシャトリヤ)、腿(ヴァイシャ)、足(シュードラ)から生まれた、とされる。
仏教には「仏性(ほっしょう)」という言葉があり、仏となる(真理に到達する)可能性が万人に開かれている(大乗)。
また有名な「天上天下唯我独尊」とは「私は師匠なしで悟りを開いたぜ」という意味だと後に言ったそうで、
カースト制に代表される従来のインドの価値観に対し、ブッダが猛烈なアンチテーゼを投げかける姿勢が貫かれている。
さて、ブッダが生きた時代の背景にはインド社会の転換期という要素があった。都市の繁栄と流通ネットワークの形成、
バラモンの権威が低下して新興階級が台頭する一方、十六大国が抗争を繰り広げる戦乱の世でもあった。
ブッダは死や苦しみが蔓延している光景の中を生きていた。そのためか、仏教ではシャーンティ(古インドで「平和」)、
中国語では「寂静(じゃくじょう)」と表現される「心の平和」が仏教的平和観となった。
(ユダヤではシャロームという語があるが、「平和・繁栄・正義の実現・勝利」を意味し、戦いに勝って得る平和である。)

ブッダは彼が生きた時代の背景もあって、慈悲の倫理にもとづき不殺生・非暴力の立場を主張する。
やはり原始の仏典である『ダンマパダ』には「わが身にひきあてて」という表現が出てくるが、
これは「わが身に置き換えて」ということである。他者や生物をわが身に置き換えて、殺してはならない、と説く。
バラモン教の儀礼には動物の生け贄(供犠)システムがあった。これを仏教は慈悲の立場から批判している。
人間も動物もダルマのはたらきにより平等に生かされている、と考えているのだ(共生の世界観)。
「縁起」という言葉は「因縁生起」を略したものである。これは、あらゆるものは直接的原因と間接的条件によって、
生まれる/変化する、ということを意味する(この間接的条件のことを「縁」と呼んでいる)。
また、ブッダの慈悲は、それぞれの人が自分で気づいたり納得したりする契機をつくるという形で現れている。
ブッダは最晩年に「自らを島とし、法(ダルマ)を島とせよ」と説いたが、これは自らを大河の中の中州のように確立し、
そのために法(真実)を拠り所にして生きなさい、という意味である。自己には捨てるべき自己と守るべき自己がある。
捨てるべき自己とは、煩悩にまみれた自我的自己のこと。守るべき自己とは、法に生かされた真実の自己のこと。
この真実の自己を探究することが、仏教において、人間に求められていることである。

続いて、キリスト教について。イエスのメッセージは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
という文章に要約される。「神の国」の本来の意味は「神の支配」であり、「神の愛が支配する領域」を指す。
それはいわゆる天国や死後の世界ではなく、この地上に実現されるべきものである(「み国が来ますように」)。
イエスの説く「神の国」は他民族に対するユダヤ民族の勝利ではなく、律法を守るかどうかで善人か悪人かが二分される、
すべての民族に対して開かれたものであり、貧しい人々や罪人にとっての終末論的な希望(神の愛の深さ)を示している。
イエスは隣人愛の対象を特定しないばかりか、迫害する者のために祈り、敵をも愛せよと命じている。
(この平等・無差別の愛は善人傍機、悪人・罪人こそ救済していくという悪人正機説にも通じるものがある。)

イエスは罪人や徴税人(「ローマの犬」として差別の対象だった)とも食事を共にした。当時のユダヤ教では、
日常の食事も宗教的な行為であり、何を食べるかだけでなく誰と食べるかについても関心が寄せられた。
そのため、共観福音書(ヨハネ以外つまりマタイ・マルコ・ルカの3つ)にはイエスのこの行為が非難された記述がある。
つまりこれは創作ではなく事実であると考えられる。「神の国」という言葉には食卓・宴会のイメージがあるが、
イエスが差別された人々と食卓を囲んだことは、神が罪人たちを無条件に愛することを象徴する行為である。

以上のことから、仏教とキリスト教における人間理解をまとめる。キリスト教は、神と人間の関係性を第一とする、
対話型の刑事宗教である。人間は「神の似姿(imago Dei)」として創造されたからこそ尊厳があり、
神と特別な関わりを持つ自由(と責任)の主体と見なされた。これは後に「人格」の概念に発展して近代思想につながる。
一方、仏教は神や超越者を立てず、真実の自己の覚醒を目指す悟りの宗教。「縁起」「無常」の思想を説く仏教は、
あらゆるものは相互に関わり合って存在しており、何ものにもよらずに自存するものはない、とする。
(曹洞宗の道元は、自己と他己を論じた。自他は対立する関係ではなく、「己」によりつながっているとする。)
キリスト教の世界観には「神→人間→自然(動植物・物質)」という階層的な価値観があるのに対し、
仏教にはそうした価値観がない。特にインドでは輪廻の思想が底流にあるので、人間と他の生物の区別は明確でない。
ただし「盲亀浮木」のたとえがあるように、人間としてこの世に生まれることは決して当たり前のことではなく、
かけがえのない人生を大切にしてブッダの教えを信じて生きよ、という考え方がある。

聖書では、すべてのものは神の愛によって造られたと考える。キリスト教における「人間の尊厳」の根拠は、
創世記の「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」という箇所。この「我々」とは、現在の一般的な解釈では、
セム的話法から「熟慮の複数形」と呼ばれている。これは人間を創造する際、神が熟慮を重ねて計画を練り、
人間に対して特別な愛と配慮を注いだものとして理解されている。こうして「神の似姿」として創造された人間には、
同時に自然界の支配権が付与されている。これが現在の環境破壊をもたらしたのではないか、という指摘もある。
しかしそもそも聖書において、人間が自然を支配するとは、羊飼い(王)が慈しみと奉仕の心で群れ(臣民)を世話し、
緑の草地や憩いの水辺に連れて行くといったイメージである。つまり「似姿」の被造物である人間は神の代理者で、
神の慈愛と正義を臣民にもたらすべき責任と地位のある「信託管理人」として描かれているのである。

キリスト教では、人間が神によって創造されたのは、神とともに永遠のいのちを生きるため、である。
聖書では、エデンからの追放により神から離反した人間を和解させるためには、仲介者イエスの存在が不可欠とされる。
父なる神は人類の救いのために独り子イエスを遣わし、イエスの死と復活によって人類は神と和解しえた、とする。
こうして神の永遠のいのちを約束された人間は、イエスの教えに従い愛を実践し、自己実現の道を歩むことが求められる。

最後に、参考として神道における食事「共飲共食」の思想について。日本では1990年代より、
個食(孤食)化の問題が指摘されているが、もともと日々の食事は家族の和合・連帯に欠かせないものである。
たとえば、イザナミは黄泉の国のかまどで煮炊きしたものを食べてしまったのでこの世に戻れなくなってしまった。
また柳田國男によれば、食事時には家族も奉公人も一箇所に集まり一つ鍋の飯を食べることが普通のことであった。
一般に、年中行事や祭りは神を迎えまつる神聖な時間・空間であり、直会など神人共食のイベントは、
食物を通して神のいのちにあずかる人間の聖性の原点と考えられる。この点はキリスト教のミサ、聖体拝領に通じる。
なお、キリスト教ではイエスが最後の晩餐でパンと葡萄酒を手に取り行った動作や言葉を起源として、
イエスが自分の死後も「私の記念としてこのように行いなさい」と弟子たちに命じたことから、聖餐式が発展した。
このことは「ユダヤ教の一派」から「新しい神の民」への自覚を与え、キリストの教会を形成する原動力となった。

感想: やっぱり本場で勉強するのは違う。おかげでキリスト教の価値観への理解がさらに深まったように思う。

キリスト教的な価値観をじっくりと体験したうえで思ったことをつらつらと。

まず、キリスト教つまり一神教ってのは、本質的にはきわめて単純である、ということ。すごくシンプル。
一神教の信仰は、神と自分の関係をひたすら問い続けることに終始するように感じた。つまり、論点がすごく少ない。
だから僕の感覚からすると、その物事を見つめる根底の部分があまりにも単純すぎて、怖くなるくらいだ。
物事に絡んでいる要因をできるだけ細かく丁寧にたくさん拾い上げたい僕の価値観とはまったく違って、
一神教にもとづいた世界観では、つねに自分の上位(背後)に神がいて、それとの対話でベクトルが定まるように思う。
神−自分−物事という直線上でしか動けない感じがつきまとうのだ。すべてをその構図で片付ける単純さを感じる。

だがそれゆえにブレが少なく、意志が強いのもまた確かだ。これは本当にそう思った。
絶対的な存在である神を規定するがゆえ、神を信じて行動する自分もまた絶対的に正しく行動ができる。
つまり、神を信じることにより、ゆるぎない自信を簡単に得ることができるわけだ。このメカニズムが非常に賢い。
人間とは食物連鎖を脱して以来(たぶん)、自信の持てない生き物だから、万物の霊長としての自信をどう得るか、
そこを一生懸命考えてきたと思うんだけど、一神教は自己の存在について最も効率よく自信を与えてくれる論理なのだ。
そして神を信じることで神に守られる自分を自覚し、自分の信じる正義を善行という形で実行することができる。
マザー・テレサなんかがその典型例だが、困難をものともせずに善行に生きた聖人の姿を目にすると、
一神教とは、善い方向へと人間(個人も全体も)を動かすためには実に洗練された仕組みであることを実感させられる。
キリスト教が現在も国境・民族を超えて多くの人に支持されているのは、この利点が本当に大きい。
それこそ講義のテーマだった「ヒューマニズム」つまり「道徳」という視点からすると、一神教は倫理的に機能すれば、
人類を個々のレヴェルからゆるぎない自信を持って善行に励ませるシステムとして構築してしまうことが可能なのだ。
これは凄い。ひとりひとりの人間を効率よく「善行する主体」として再生産し、社会を改善する装置。そう言える。

そう考えると今の日本人のテキトー(素朴)な宗教観は、不安定だし普遍性もないし、よくここまで残ってきたな、と思う。
でも逆に、僕は日本人のそういうところがむしろ、人類史における価値を持っていると考えている。もう、誇っちゃう。
ただ、キリスト教(一神教)が自信を持って善行に邁進できるシステムであることについては、うらやましく思いたい。
だから日本人は宗教に対して現状のプレーンな態度を維持したいのであれば、新しい宗教を模索するのではなく、
世界のさまざまな宗教の価値観をきちんと理解した上で、それにひけをとらない日本人の倫理観を確立すべきだと思う。
これは、大きな可能性を持った考え方ではないか。自分たちより上位の存在(神)を設定するかどうかを問題とせず、
神の種類や信仰の形式によらない、人間の人間による人間のための慎ましくてフレキシブルな倫理観を確立できれば、
けっこう世界をいい感じにできるのではないか。既存の宗教の下位レヴェルに挟み込む、日本発のやわらかい倫理観。
言ってみれば、異なるハードやOSをまたいでも無理なくアプリケーションを動かすことのできるミドルウェアのような。
資本主義が地球を席巻しまくって、原理主義(イスラムだけじゃないよ)が一般市民を地球のあちこちで蹂躙しまくって、
環境問題が地球全体のものとなっている昨今、潜在的な需要はあると考える。日本にはそれができると思うんだけどな。

まあとにかく、キリスト教が目指すものはなんとなく理解できた。すばらしい時間をありがとうございました。


2012.8.8 (Wed.)

上智大学の教員免許更新講習2日目、「キリスト教ヒューマニズムと人間の尊厳(2)」。
これはまとめていくのが非常に難しい内容だったので、レジュメのポイントと僕のメモを中心に扱い、
時には箇条書きも交えて書く。もう完全に僕専用の備忘録なんだけど、この日記じたいがそんなもんなので、いいのだ。
(※昨日のログ同様、以下に書いてある内容は講義の要約であり、僕自身の考えとは異なるものであることに注意!)

たとえばマザー・テレサは「中絶は絶対ダメ、命はすべて神様からの贈り物だ」ってことで活動していたが、
これは新約聖書のイエスの言葉そのままに生きる姿勢。すべては神の望みどおりで、望まれなかった命もうまく育つはず、
障害を受け入れることで新たな段階へと進むことができる、そういう発想。非常にシンプルな原理にのっとっている。
人間は神の意志を受け取り成長していくことに価値があり、誰も邪魔できない、という考え方から人権が生まれる。
その人権の根源は、人間ひとりひとりが持つ尊厳にある。キリスト教(カトリック)ではこの「人間の尊厳」が重要になる。
神の権威を通して、その被造物である人間の尊厳が認められる。しかし、人権は神が不在でも論理的に成立する。
近代の合理主義的な人権観(フランス革命の人権宣言)では神との関わりは考慮していない。

人間の尊厳は、人格の尊厳として理解される。人格=ペルソナ(persona)は、「per」と「sona」に分かれるが、
「per」は「through」、「sona」は「sound」の意。つまり「音を通して」→対話により響き合うという意味合い。
ペルソナはラテン語で「響く・仮面」を意味し、内面を隠して社会に対する外面を現して、「理性を持った自立者」となる。
人間は関係の中で成長していく存在で、自己/家族・友人/学校・地域・社会/神といった各次元での対話がある。

上智大学の設置者であるイエズス会(フランシスコ=ザビエルでお馴染み)では宗教と文化・科学を分離して考え、
教育により能力を高めつつ信仰を深めるのがキリスト教ヒューマニズムである、という立場をとっている。
これは神と人間との距離感がポイントとなる。なお、クリスチャン(Christian)とは神を中心に生きるということであり、
ヒューマニズム(Humanism)とはルネサンスで生まれた言葉で、「人間中心主義」を意味している。
つまり、「キリスト教ヒューマニズム」とは、言葉として本来は矛盾している可能性もある……。

人間・人格の尊厳の根拠として、人間が「神の似姿」であることがある。神の「像(imago)」から「似姿」への成長。
(創世記の第1章には「我々にかたどり(←像)、我々に似せて(←似姿)、人を造ろう。」という記述がある。)
真の「神の像」そのもの、神の御子であるキリストが、命がけで愛し「像」から「似姿」へ成長していく存在であるがゆえに、
人間には尊厳がある、と考える。「似姿」とは、神の代理人(あくまで被造物)という立場である。
人間は神にかたどられているのでペルソナとしての尊厳があり、人生とは神に応答して神を探求・模索していくもの。
(ただし、近代合理主義では人間が神の似姿であることを理由として傲慢にふるまった過去もある(F. ベーコン)。)
そして人間の価値と尊厳を脅かす個人的・社会的分裂の根源にある人間の心の傷を、信仰の観点から罪と呼ぶ。
なお、創世記は1章より2章の方が古い(1章はB.C.580ごろバビロン捕囚の時期で、2章はB.C.1000~900)。
1章は祭司文書からのもので、一週間のリズムが述べられ、希望のない状態から祝福された状態が描かれる。

参考例として、「ドイツ基本法」における人権の基礎としての人間の尊厳の思想を挙げる。
「神」という語が登場するのは前文のみ。第1条は「人間の尊厳」と題され、「人間の尊厳は不可侵である。」で始まる。
(日本国憲法に「人間の尊厳」という語はない。ただし第13条に「個人の尊重」がある。日本における宗教の欠如?)
続く第2条では「行為の自由、人格の自由」と題し、「自らの人格の自由な発展を求める権利を有する。」とある。
これはキリスト教的な成長観を反映していると考えられる(日本の教育基本法にも「人格の完成を目指し」とある)。

人格の尊厳は、人間の(良心の)中に植え付けられた「文法」としての「自然法」に基づく。
つまり、人間の中にある神の知恵を知る、ということが「法」である。法に合う(just)→正義(justice)。
理性を有する被造物である人間は良心の奥底に法を見出すが、これは人間が自らに課したものではなく、
神によって刻まれたものであり、それに従うことが人間の尊厳である。これを具体的に実行すると、人権の尊重となる。

まとめのまとめ:
「人間の尊厳」とは、キリスト教的には、人権の基礎としての法律上の規定を超え、自らを人格的に成長させることで、
他者の内にも自分と共通の人間性を見出し、愛に基づく人間どうしのつながりを得ることで達成される。
「人間の尊厳」を達成するために敵をも愛する「ゆるし」を実行し、被造物の領域から神の領域へと成長・発展する。

感想: 理想が高くっていいですね。

次はうれしいことに、「建築史の観点から見るキリスト教的人間観」だ! もう面白かったのなんのって。
で、これについてはあれこれログで書きながらも、講義を聴きながら描いた絵を直接貼り付けていくことにする。
(講義はけっこうテンポよく進んでいくし、こっちは一言も聞き漏らすまいとやたらめったらメモをとりまくるしで、
よくあんな短時間でこれだけきっちり絵が描けたなあと自分で惚れ惚れするくらい。本当に大変だった。)

1. ギリシャ建築(B.C.7世紀~B.C.2世紀)

特徴は、柱(column)による支え、そして調和性(harmony)と対称性(symmetry)による普遍的な美の追求である。
たとえば重厚なパルテノンは柱が多く、内部空間は広くない。これはつまり、パルテノンは外から眺めるための建築であり、
人間はそこに参与しない価値観を示している。いちおう中に神像が置かれていたが、儀式は外で行われている。
なお、神殿は建設場所の自然環境に応じ、アポロンやアテナなどギリシャ神話の各神々を意識した様式でつくられた。
建築において、ピタゴラスによる数学(幾何学)やプラトンによる哲学などを神話と統合し、普遍的な価値を得ようとした。
たとえば壁の前にあえて列柱を並べることで普遍的な美を実現しようとしている建築が現在もあるが(ホワイトハウスなど)、
壁が支えになるので当然、構造的に柱は不要である。つまり、ギリシャ建築由来の威厳を示す視覚的な意図しかない。

 ギリシャ建築の例。パルテノンが典型例。

そのギリシア建築における円柱のオーダーは、ドリス式・イオニア式・コリント式の3種類でおなじみ。
ドリス式は「男性の身体に比例する強さと美しさ」を示し、下部が太くて造形的にはシンプル。
イオニア式は「ほっそりとした女性」を示すもので、伊達巻きみたいな部分はもともと花をイメージしたもの。
コリント式は「繊細な若い女性」を示す。以上、ウィトルウィウスの『建築について(建築十書)』における記述。

 ギリシャ建築といえばコレだな。大学時代にもやったわ。

ギリシャ建築では神々の世界・イデアの世界が追求されて、やや内向的な傾向があると指摘できる。
「健全な精神は健全な肉体に宿る」と言わんばかりに、理想的な人間の身体を建築の各部分に投影している。
たとえばポリクレイトスの彫刻は当時のギリシャ人の理想の身体像を示しているが、建築にもこの価値観が反映された。
柱と梁による明瞭な輪郭と量塊(mass)を持った神殿は、神話と哲学と科学の世界を統合する人間の姿を示す。

2. ローマ建築(B.C.2世紀~A.D.4世紀)

特徴は、壁と天井による囲い。この工学的な工夫により内部空間の十分な利用が可能となり、建築は実用的となる。
ローマ建築では、ギリシャ由来の柱とアーチが組み合わされ、アーチは天井を支えるヴォールト(丸天井)に発展した。

 柱で支えるギリシャ建築と、アーチで支えるローマ建築の違い。
※わかりにくいけど図中の矢印は荷重です

 ローマ建築はアーチを工学的に多用しているのだ。

神殿・共同浴場・競技場など、アーチによって巨大な内部空間を持つ建築がつくられるようになった。
ギリシャ建築では装飾としての柱が重視されたが、ローマ建築においては囲いのための壁が重要な要素となった。
なお、ローマは帝国として地中海沿岸各地に植民都市をつくる。「すべての道はローマに通ず」という言葉があるが、
ローマと各都市をつなぐ道路網や、アーチを利用した水道システムがつくられた。自然は人間に属するという価値観となる。


ローマの植民都市は南北方向のメインストリートを「カルド」、東西方向のメインストリートを「デクマヌス」と呼んだ。

世界の中心と広がり、遠征軍の出発と帰還のシンボルとして、アーチを利用した凱旋門がつくられるようになる。
凱旋ということで軍の勝利を記念したものだったが、そこから「キリスト教的な愛の勝利」へと解釈が進んでいき、
教会建築にアーチが使われるようになる。これは建物内部の空間を「体験する空間」へと変化させることとなった。

 アーチが「勝利」を意味する要素へと転化したということか。

パンテオンは、柱の強調・ペディメントというギリシャ的な入口と、ローマ的な内部空間の統合である。
2次元の曲線だったアーチから3次元の曲線(球面)のドーム(ヴォールト)へと進化することで、
広々とした内部空間をとることが可能になった。この空間を通して人間は天の世界とつながる。

 パンテオン。A.D.128年にハドリアヌスが再建。

ローマ人は理想の追求よりも、能動的に歴史に参与しながら神の意志に従うことを考えた。
ギリシャ人が理念的・観念的で「what」を問うたのに対し、ローマ人は実践的・具体的で「how」を問うた。
プリマポルタのアウグストゥスは現実に生き、生を積極的に考えたローマ人の理想を示している。

3. 初期キリスト教建築

A.D.4世紀にはローマ帝国でキリスト教が国教化され、初期キリスト教建築が成立する。
(この価値観は中世になって、ロマネスク建築やその後のゴシック建築へとつながっていくことになる。)
初期キリスト教建築の特徴には、長方形に代表される長軸的空間(バシリカが典型例)と、
正方形・円・ギリシャ十字に代表される集中式空間(線対称で点対称で放射状)がある。
内部空間は礼拝を行うための空間であり、イエスに倣いイエスに変容していくことを体験する空間となる。
つまり、イエスの実存と合致して神の許しを得ることが、建築の中心に到着することで体験されたのである。
教会建築は中心と通路を要素として建てられ、動く空間と留まる空間の調和は新たな秩序を与えた。

教会は神の国の模型として考えられた。内部は外部から遮断され、モザイクや上部からの採光は宗教性を高める。
長方形は「動き」つまり巡礼の旅を、集中式は「静寂」つまり到着を意味する。そしてドームは天へ昇ることを象徴する。

 ※建物の内部から見ているのでドームの天井が凹になっているってことね。

あとは細かい補足を箇条書きでいくつか。

西方キリスト教はラテン語しか認めておらず、宗教改革(つまりカトリック・プロテスタントの分裂)まで、
ある程度のまとまりを保持していた。それに対して東方キリスト教はギリシャ語やコプト語(エジプト)など、
伝わった現地の言語を認めていた。なお、ギリシャは当時の学問の中心であった(ヘレニズム文化)。
そんなわけで、東方キリスト教は言語的・文化的な多様性を持っていた。

ルネサンス期にはギリシャ・ローマ建築のリヴァイヴァルが盛んになされた。これによりバロック建築が生まれる。
そこからさらに、新古典主義建築と、中世の価値観を取り入れたゴシック・リヴァイヴァルへと進んでいった。

教会の庭は、「アダムとイヴが追放された楽園が、イエスの力によって再現された空間」という意味を持っている。

キリスト教的ヒューマニズムは、ギリシャ的な完成された理想形でもなく、
ローマ的に外にはたらきかける型でもなく、言語・文化・社会を超えて生きる力を与える人間像ということ。

感想: 大変楽しゅうございました。神社もいいけど、海外の本場の教会建築を見て見て見まくりたいぜ!!

最後は人間性の観点から人間の尊厳について考える内容。まずは聖書における人間理解について。
聖書とは人間探求の古典である。上で述べたように、聖書の1章と2章はそれぞれ別の時期につくられたもの。
それぞれ経験をもとにした語りがまとめられ、意味が紡がれる。そして創世記には人間の創造が2回出てくる。
根拠は、1章が「神は~」であるのに対し、2章が「主なる神は~」と書かれていること。ただし両方とも“真実”。

1章はB.C.587年以降のバビロン捕囚時代に成立したものと考えられ、混沌の中で見出される希望を示している。
1章にはパターンがあり、(1)神の言葉→(2)実現→(3)祝福→(4)日にちの指示となっていて、混沌からの秩序を示す。
バビロン捕囚の混沌の中、「世界は善きものとしてつくられたはずだ」という、最も深い部分での存在肯定がある。
存在・生命へと呼び出されるのはつまり、神が望んだこと。存在を肯定する「声」があった。
(ちなみに、「我々にかたどり、我々に似せて、人をつくろう」のように「我々」と複数形であることの理由は、
 古代神話の名残、敬称であるため、神が熟慮したから複数になっている、などの説が提案されている。)
神に「似ている」人間は自由な存在で、無条件に愛することのできる存在である(『タルムード』)。
ほかは命令形で存在させたが、人間については命令形ではない。
2章では弱くはかない存在、一人ひとりが神に直接呼び出される存在として示されている。
他者は、一人でいるのはよくないからと、神からの恵み・贈り物として与えられたものである。
なお、聖書における創造は、神の敵対者がいない、世界や人間が善いものとして創造されている、
偶然の産物でなく神の「手づくり」である、などの特徴がある。混沌から秩序への希望が示されている。

続いて、現代の人間性をめぐる考え方について。フロイトは快楽原則に従う無意識のエネルギー・衝動を重視したが、
『夜と霧』でお馴染みのヴィクトル=フランクルは、意味を志向する人間像を提示した。
信仰に関係なく、人間を超えるものからの呼びかけに応える特性を持つ、無意識の精神性について論じた。
フランクルは収容所での経験、人間的なものをすべて奪われた状態でも残された人間の崇高さに目を注ぐ。
人間の有限性とは独自性(唯一性)であり、その人によって実現されるべき“意味”が待っている。
自己中心的な自己を否定し、自己超越的になったときに初めて真の自己が実現できる、とする。

そして、キリスト教ヒューマニズムについて。キリスト教ヒューマニズムとは、イエスを通してもたらされる解放、
「愛された者として生きよ」つまり「一人ひとりが大切である」という、イエスの徹底したヒューマニズムのこと。
神が与えた独り子はそれほどまでにこの世を愛しているという、イエスの生き様そのものである。
物語と通過儀礼の関係から考えると、それは「人間になる」歩みである。それまでの自分が否定され、
自分自身の弱さや醜さと向き合う。物語とはつまり、“成長の物語”である。
別離→移動→統合、出発→行動→帰還(共同体に戻り“大人”の一員となる)、誕生→死→再生などの類型。
(ちなみに通過儀礼は、水を通る特徴があるとか。旧約聖書「出エジプト記」のモーセなんかが典型的。)
人間らしさとは何か。問う、知る、考える、選ぶ、行動する。名誉や成功への衝動から解き放たれていく、
恐れや偏見により自らを閉ざしてしまうことなく、むしろ正義や真理、愛の実現のため自らを差し出すこと。
弱くいたらぬ自分も許され受け入れられ愛されていることを知ること、
自分が愛され受け入れられているように他者を愛し受け入れること。

感想: めちゃくちゃネガティヴな状況だからこそ、めちゃくちゃポジティヴを目指したってことでよろしいか。


2012.8.7 (Tue.)

教員免許更新のため、上智大学にお邪魔しております(→2012.5.11)。3日間お世話になるのだが、本日はその1日目。
選んだ講義は「現代英米映像文化」ということで、要するに映画を見てあれこれ論じる、いかにも大学な感じの授業。
いちおう英語の授業で多少は活用できるかな、と思って申し込んだのだが、あんまりそういう方向性ではなかったな。
まあその分だけ、時代背景をきちんと押さえたうえで映画を見るという、趣味を高めることには大いに役立つ内容だった。
というわけで、以下はその講義の内容を要約。備忘録ということで書き付けておくのである。
(※したがって、以下に書いてある内容は講義の要約であり、僕自身の考えとは異なるものであることに注意!)

1979年にイギリスではサッチャー政権が誕生し、1983年にはNational Heritage Actが制定されるなど、
イギリスの伝統を守る動きが活発化する。これは世界的な新自由主義の傾向と軌を一にしている。
その中でヘリテージ映画(Heritage Film)が成功を成功を収める。特徴は、かつての大英帝国の栄光を意識しながら、
イギリスの強さをテーマとすること。懐古的、田園風景の描写、古き良きイギリスの姿を強調する作品がつくられた。
その嚆矢が『炎のランナー(Chariots of Fire)』(1981)。アカデミー賞を受賞するヒットでイギリスに逆輸入された格好で、
イギリスのエリートによるアマチュアリズムがアメリカのプロフェッショナリズムを打ち破るストーリーが受けた。
(テーマ曲は映画音楽史上、エレクトロニクスの使用という点で革命的。1979年だからYMOも全盛期だった頃だな。)
以後、「イギリスらしさ(イングランドらしさ)」を強調する作品がつくられるが、芸術面で高い評価が得られたわけではない。

1990年代後半にはヘリテージ映画とは真逆のアプローチをするような映画が目立つようになる。
『フル・モンティ』(1997)ではイングランド北部の工業都市・シェフィールドで揺らぐ労働者階級の男性が描かれ、
ヘリテージ映画とはまったく対照的に、サッチャリズムの負の遺産とでも言うべき現実がテーマとなっている。
これらの映画はハリウッドなどグローバルな資本によりつくられている(そして売れている)側面もある。
一方でアメリカと関わりあうことで生まれる新しいイギリスの姿がロマンティックコメディとして描かれた作品も生まれた。
さらに『ハリー・ポッター』シリーズは子どもの世界観が従来と異なっており、新自由主義的な要素を含んでいる。
(当時のブレア政権は労働党だったが、本来福祉を重視する労働党のはずが、新自由主義的傾向を押し進めた。)
ヘリテージ映画にあるような古いイギリスではなく、グローバルな視点から見た新しいイギリスのイメージが投影されている。
結論としては、「localがnationalから離れて、transnationalな文脈でglobalに売り出される」という指摘。
それがヘリテージ映画以後の流れ、「ポスト・ヘリテージ映画」の特徴であるとしている。

さてここで困ったことに、この講義では世界規模に広がるアメリカ型の資本主義を「帝国アメリカ」と名付けて論じていく。
そんな左翼じみた偏った用語を使うのは、冷静さを欠いておりまったく学術的でない。このアメリカ型資本主義とはつまり、
多国籍に展開していく企業ネットワークのこと。これを「帝国アメリカ」とくくるとは、いったいどういう神経をしているのか。
まあとにかく、この世界規模(グローバル)の資本主義に適応した多国籍企業の手法・文化・価値観が分析対象なのだ。
とりあえず、僕は講義に登場した表現から「多国籍企業文化」と呼ぶことにする。確かにアメリカ発祥ではあるけどさ。

多国籍企業文化は、「使える」ローカルなトピックを取り出してはグローバルな市場に流通させることを行っている。
具体例として『キンキー・ブーツ』(2005)と『カレンダーガールズ』(2003)が挙げられている。どちらも実話が元である。
『キンキー・ブーツ』は窮地に陥った伝統的(Heritage的)ブーツメーカーの跡取り息子がゲイ向けのブーツをつくる。
これがミラノのファッションショーに出展されるということで、localとglobalの交錯がテーマとなっている。
(キンキー(kinky)とは「風変わりな(変態な)」の意。イギリスのThe Kinks(→2003.12.27)のkinkですな。)
『カレンダーガールズ』は伝統的婦人会(Women's Institute)の50~60代女性たちがヌードカレンダーで金を集める話。
このカレンダーが世界的に売れた点からしてglobalなのだが、これが多国籍企業文化を代表するハリウッドで制作された。
このように、現代の映画産業は多国籍企業文化の先鋭として機能すると同時に、そういう社会状況を映す鏡にもなる。

続いて講義は、あの『タイタニック』(→2003.3.31)でヒロインを演じたケイト=ウィンスレットの背負う役柄のイメージから、
ロマンティック・コメディ映画の臨界点を探る。というのも、K.ウィンスレットは『ハムレット』のオフィーリア役をはじめ、
1996年以前にはヘリテージ的な役柄を演じていたのが、『タイタニック』以降はポスト・ヘリテージ的になるとのこと。
講義では『タイタニック』(1997)と『ホリデイ』(2006)における彼女の役柄を分析することでポスト・ヘリテージ性を探る。

『タイタニック』はまず、沈没したタイタニック号の中にある財産を探す場面から始まる。これはアメリカのアドヴェンチャー的。
物語はその「外側」から、イギリスのヘリテージ的な「内側」を回顧する構造である。この点が多国籍企業文化的なのだ。
1912年建造のタイタニック号は大英帝国の威信と産業力の象徴であり、船長も古き善きイギリス人のイメージを反映。
主人公ジャック(ディカプリオ)はアメリカ中西部出身の青年の典型。ローズ(ウィンスレット)は貴族の血を引くアメリカ人で、
金がなくて望まない結婚をする設定。その婚約者でピッツバーグの鉄鋼王の息子・カルはアメリカの新興財閥を象徴。
アメリカにおいても階級は存在し(成金がバカにされる場面あり)、文化面から格を上げようと必死(美術館つくりまくり)。
当時は台頭するアメリカにイギリスが押されつつある状況で、多国籍企業文化の進出の端緒が描かれている、と読める。
積極的なCG使用もハリウッド的。ジャック=旧来のアメリカ、カル=新たなアメリカ、イメージの二重性も指摘できる。
ヘリテージ的要素とアドヴェンチャー的要素を両方持つこの映画は、ロマンティック・コメディの臨界点を示す。
(ロマンティック・コメディとは、対立する2つの勢力に属する男女が言語行為の交換を経て障害を越え、結ばれる物語。)
つまり、ロマンティック(=ありそうにない)喜劇のロマンスはこれ以上続けられない、という地点まで来たということ。

ここまでが講義の前半戦。昼メシ食って後半戦に突入。

19世紀まで → 国民国家を主体とする帝国主義がアジア・アフリカに植民地をつくって財を搾取する
20世紀以降 → アメリカに代表される多国籍企業文化が資本主義の浸透を通じて世界の覇権を握る
ハリウッド映画関連企業は、メディア・通信・デジタル機器・広告など多数のビジネスに関わる企業グループの一端である。

『タイタニック』に続き、『ホリデイ』におけるK.ウィンスレットからロマンティック・コメディの臨界点を分析する。
登場人物は、アメリカ人女性・アマンダ(C.ディアス)…現実的でやり手のハリウッドの映画予告制作会社社長、
イギリス人女性・アイリス(K.ウィンスレット)…文学少女系な性格の保守系新聞『デイリー・テレグラフ』のライター、
アメリカ人男性・マイルズ(J.ブラック)…アマンダの友人でハリウッドの映画音楽の作曲家、
イギリス人男性・グレアム(J.ロウ)…文芸編集者でアイリスの兄。で、ヒロイン2人がクリスマス休暇に互いの家を交換する。
(余談だが、いつも髪を切っている美容院で流している映画はこれだったのか!と講義で見て初めてわかった。
 あと、『スクール・オヴ・ロック』(→2012.1.27)を見ると、ジャック=ブラックはラブコメに出るなよ!と思ってしまう。)

マイルズが映画に合わせて作曲するシーンでスタート、そこにはロマンティック・コメディへのメタ的な考え方が指摘できる。
実際に先行するロマンティック・コメディに対するセリフや登場人物がロマンティック・コメディについて論じる場面もある。
古風なアイリスと現実的なアマンダの対比からイギリス対アメリカの構図を読み取ることができる。
しかしアマンダはポスト・フォーディズム体制下の労働者。フォーディズムでは工場の外に出れば余暇があったが、
ポスト・フォーディズムでは労働が時間的には24時間体制、空間的にも制約を受けなくなる。社会は労働の下に置かれ、
社会全体が政治から切り離されるようになり、社会全体が商品取引ネットワーク化し、政治は一部のエリートが独占する。
実はヒロイン2人はどちらも新自由主義による多国籍企業文化によって翻弄されている、と言える。
アイリスはハリウッド関係者により変容し、アメリカ的価値観を披露する。その際に彼女の「イギリス的魅力」を発見し、
それをアメリカ化した形で表現させるのが、ハリウッドの映画産業に関わる男性である点が重要である。
「アメリカがイギリスを新しい形で売り出す」構図である。再ブランド化によってグローバル化し、イギリスの中で復活する。

エンディングではロマンティック・コメディの成立を不透明にする要素が見え隠れしている。今後、疎遠になる可能性もある。
新自由主義的なポスト・フォーディズム体制によって空洞化したアマンダの身体がロマンティック・コメディを困難にしている。
しかしふたりが出会ってコメディの発端となったインターネット(サイバースペース)は、現代のユートピアとして機能している。
したがって、本当に「ロマンティック」なのは、大西洋を越えてつながった30代白人女性の絆であり、
それを可能にしたサイバースペースがロマンティック・コメディの臨界点を指し示しているのではないか。

最後の時間では、西部劇から『インディペンデンス・デイ』への変遷を通してアメリカの変遷を見る。
西部劇の定義は「1840年から1900年までのアメリカ極西地域の雰囲気・価値・存在条件に密着したアクション映画」。
1925年と1935年に本数としてピークを迎え、1952年の時点では108本。1977年になるとわずか7本。
しかし1990年代になり、『ダンス・ウィズ・ウルヴズ』『許されざる者』『ラスト・オヴ・モヒカン』など復調の兆し。
アメリカの西部劇は、銃による殺人を英雄的な行為と讃えており、ネイティヴアメリカンやメキシコ人を差別して、
彼らへの帝国主義的な侵略を「無垢なアメリカの勝利」とする。アメリカのアイデンティティ共有への欲望を示すもので、
1950年代に西部劇が必要とされたことは冷戦状況を反映しており、正当な暴力の物語はガス抜きとして機能した。
(これについて僕は「短絡的!」と思う。西部劇の名作は例外なく、「反社会的存在の現実に対する敗北」を描く。)

『駅馬車』(1939)におけるアメリカ像について見ていく(参考までに僕のレヴューはこちら →2005.6.16)。
牧場育ちのリンゴ・キッド、ヴァージニアから来た大尉の妻、南部出身のギャンブラー、白人の娼婦、銀行家、酒の商人、
保安官、御者というメンバー構成はアメリカの縮図である。それと「アパッチ」「ジェロニモ」らネイティヴアメリカンとの対立。
また、文明・都市・法・秩序と荒野という対立軸もある。その中でガンマンという存在は、個人主義・反全体主義的。
自由でイノセントな主体を持つ権利を擁護し、新自由主義の「何をするにも自由」というアイデンティティを準備している。

1980年代以降は英米で新自由主義化が進行。福祉国家の限界を指摘し、「小さな政府」への移行を目指した。
また、官僚制を批判して競争原理・市場原理主義を導入した。1993年からのクリントン政権(民主党)は、
従来のネオコンとは異なる価値観を示したように見せつつ、リベラルでありながら新自由主義を「先進自由主義」へシフト。
(1997年にはイギリスで労働党のブレア政権が誕生するが、やはりクリントン政権と同様の流れが指摘できる。)

1990年代には大災害(ディザスター)映画が流行する。代表的な作品は『インディペンデンス・デイ』(1996)、
『アルマゲドン』(1998)、『ディープ・インパクト』(1998)など。『タイタニック』(1997)もこの系譜に入る。
ディザスター映画の特徴は、登場人物が危機の中でリスクを冒して自らの未来を切り開く個人主義者であること、
それぞれが「真の自分」を見つけ出す「自己実現」の物語と見ることができ、これは新自由主義的な価値観につながる。
(1995年にはGATTの終了によってシネコンがつくりやすくなり、ハリウッドの世界進出が加速する背景があった。)
『インディペンデンス・デイ』は白人大統領・ユダヤ人技師・黒人パイロットが主役の「人種とジェンダーのメロドラマ」。
男らしさや女らしさの差異と異性愛の成就も描かれる。宇宙人の襲来により逆説的に獲得された文明の調和がゴール。
大統領の演説では人種を超えた共通の利益が強調されるが、メキシコ系人物の死が忘れられ、包摂と排除がみられる。
結論としては、ディザスター映画の大災害とは、押しとどめることのできないグローバル化の波であり、リスク社会の誕生だ。
新自由主義によってもたらされた競争リスク社会では、個人は起業家精神を持って自己実現を図ることが求められる。

ちなみにハリー・ポッターの価値観は新自由主義的な思想を反映したものとなっている。
「教養としての教育」が否定され、スキルや資格としての魔術の勉強が描かれる。生徒たちは自立することが求められる。
また、ハリーたちは単純な施しはせず、助成という形をとって支援を行う場面がある。これは新自由主義的な発想。

感想: 非常に左がかっている。

まあでも、ポストフォーディズムの労働形態については、いわゆる「ブラック企業」の問題とともに考える必要があるわな。
グローバルな資本主義に徹底的にもとづいた新自由主義の進行は、教育や就職などの場面に圧力をかけてきており、
(初等教育にまで英語教育を要求するのもそう。たかが経済が教育にまで口を出すんじゃねえよ、と僕は思うんだけど。)
僕にはそれが好ましいものには決して思えないんだよね。労働する身体に対し、社会がどんどん無理を要求している。
身体は機械ではないので、新自由主義とグローバルな資本主義が要求する労働に耐えられなくなる瞬間がいつか来る。
労働によって身体も精神も消耗して、少子高齢化も進行して、「使えない身体」が日本や世界を覆い尽くすことになる。
そうなったら政治や経済はどう収拾をつけるのか、この点が実は将来、ものすごく大きな課題として立ちはだかるだろうね。


2012.8.6 (Mon.)

午前中は部活の予定で、スタート時には問題なかったのだが、途中で大雨が降り出して中止にした。
雨はやんだことにはやんだのだが、グラウンド状態が回復不可能なレヴェルまで一気にやられたので苦渋の決断である。
そしたら昼近くになってもう一度、凄まじい勢いで雨が降ってきた。ここんとこ晴れが続いていたので、やられた気分だ。

午後は健康診断で区役所に行く予定になっていたのだが、雨のせいでバスに乗らざるをえなくなった。しょんぼり。
でも健康診断じたいは非常にスムーズに終了。雨のせいで回避した人が多かったような気がする。だとしたらラッキーかな。
しかしながら体重が再び増加していたのは非常にショックだ。1学期は忙しくてストレス満載で食わなきゃもたなくって、
それでこうなっちゃったか、と思い当たるフシはある。2学期以降はなんとか改善していかないといけない。心底困ったわ。

深夜にロンドン五輪・女子サッカーのフランス戦。なでしこは2点先行するものの、フランスの猛攻にさらされる。
こないだのブラジル戦(→2012.8.3)では組織的な守備が恐ろしいほど機能していたので安心して見ていたのだが、
この試合は本当に心臓に悪かった。なんでここまで苦しい目に遭わなくちゃいかんのだ、と言いたい気持ちだったわ。
それでも勝ちきるなでしこの皆さんには、もうなんというか、尊敬を通り越して崇め奉るしかない気分である。
あなたたちは凄すぎる。サッカーの神様はこのすごい女の子たちを優勝させなきゃいかんよ。世の中そうでなきゃいかんよ。


2012.8.5 (Sun.)

部活が終わって青春18きっぷをかざして改札を抜けると電車に飛び乗る。今日もサッカー観戦だぜ!
ターゲットは水戸×山形。序盤に好調だった山形の試合をどうしても観たかったのだ。で、水戸まで行くのだ。
上野で常磐線に乗り換えると、2時間ほど揺られて水戸駅に到着。キックオフは18時で、少し時間がある。
となれば当然、水戸市役所と茨城県庁にリヴェンジするのだ。前回訪問(→2006.8.27)から6年、何が変わったか。

水戸駅南口ではレンタサイクルを貸し出している。駐輪場の東棟にあるという情報はネットで得ていたので、
ペデストリアンデッキを下りて入口を探す。が、見つからないまま一周したら、階段・エスカレーターを下りてから、
ちょっと戻った位置にあった。これはめちゃくちゃわかりづらい。案内板をきちんと出してほしかった。
自転車は16時までの返却だが、2時間あれば十分だ。地図をくれたので、それをもとにまずは一気に水戸市役所へ。
水戸駅の南口はどうしてこんなに道幅の広い郊外型社会になっているのかねえ、と思いつつ走ったらすぐ到着。

水戸市役所は1972年の竣工。佐藤武夫設計事務所の設計である。昭和40年代後半ということで、
同じ敷地の中に市民会館がセットで建てられている。でも市役所と市民会館に囲まれた空間はひたすら駐車場。
革新市長ならオープンスペースになるだろう。僕はそこに、保守が強かった県庁所在地としての論理を見てしまうわけだ。
だがその駐車場もプレハブの庁舎が2つ建てられ、6年前に比べて強引に縮小されていた。
実はこれは、昨年の東日本大震災で被災した影響で、プレハブに機能を移さざるをえなかったようだ。
東日本大震災は日本の公共建築史においても、かなり大きなターニングポイントとなっているようだ。

  
L: 水戸市役所。前に来たときはもっと駐車場が広々としていたが、プレハブ庁舎が2つできて現在はやや窮屈。
C: 正面より撮影。今日は「水戸黄門まつり」ということで、市役所の駐車場も開放されているのであった。
R: 市役所の敷地入口のところから撮影するとこんな感じ。築40年になるけど、きれいな色を保たせていると思う。

  
L: 水戸市役所の裏側はこんな感じで、正面から見たときとデザインがほとんどまったく一緒である。
C: こちらは市役所のすぐ東側にある水戸市民会館。市役所と同時に竣工している。もちろん佐藤武夫設計事務所の設計。
R: 水戸市民会館の裏側。やはり正面と同じデザイン。それにしても、オープンスペース的発想がまったくないんだねえ。

というわけで、6年前と比べて水戸市役所は駐車場が狭くなった以外に特に変化はなかったのであった。
お次は茨城県庁である。茨城県庁の遠さは6年前にイヤというほど実感済みで、それでレンタサイクルなのだ。
しかしこれがまあ、レンタサイクルでも遠い遠い。逆川沿いには相変わらず郊外らしい幅の広い道が豪快に通るが、
急に土の気配が強い桜の木々を抜けることになる。それでようやく国道50号バイパスに出るが、さらに西へひた走る。
地方都市ではおなじみのロードサイド店舗が隙間なく両側を埋める光景は、夏の日差しを遮ってくれない。
背の高い茨城県庁が大きくなっていくペースは非常にゆっくり。これは水分を積極的に補給していかないとマズい。
よく6年前にはこれを歩いたもんだ、と過去の自分に呆れた。で、適度なところで南に入ろうとするのだが、
国道50号バイパスから茨城県庁へきれいに入る道は思ったほど整備されておらず、細々とした道を抜けていく感じになる。
6年経っても茨城県庁周辺は陸の孤島のままなのか、と思っていると、官公庁の施設が点在していた。
なるほど多少は開発が進んでいるようだ。植えられた街路樹も、ずいぶんと元気に育っている。
でもやはり正直なところ、国道50号バイパスの猥雑さと断絶した奇妙な清潔感が、違和感となって迫ってくる。

  
L: 茨城県庁の裏側。国道50号から田舎っぽい輪郭の曖昧な住宅の点在するエリアに入ったところで撮影。
C: 6年前にも同じような角度から撮影しているが(→2006.8.27)、当時と比べて緑の勢いがずいぶん目立っている。
R: ちょっと進んで南東側より撮影。手前にあるのは茨城県議会議事堂。正直、無個性だなあ。

前回訪問では茨城県庁の庁舎じたいは2枚しか画像を貼り付けていない。さすがにそれは少ない。
というわけで、さまざまな角度から茨城県庁舎を撮影してまわる。が、周囲は店の数は確かに増えているものの、
場所が場所なので当然ながら賑わっているという感じはない。なんだかつまんない空間ができあがっている。

なんでこんな遠いところに県庁をおっ建てたんだと思ったら、もともとここは林木育種センター(森林総合研究所)とのこと。
材木を育てるってことはつまり、ドカンと広大な土地があったのだ。それを県庁舎を中心に開発していって、
一大官庁街をつくりあげようってことになったわけだ。そうして1999年に現在の茨城県庁舎は竣工した。
設計は松田平田設計ということで、言われてみればなるほどいかにもそれっぽいオフィスタワー建築だ。
ちなみに県庁舎の前にある広大なオープンスペースは、旧林木育種センター時代の樹木をそのまま利用したそうだ。

  
L: 茨城県庁舎の手前には広大なオープンスペースというか前庭があるのだ。それ越しに撮影してみたところ。
C: 茨城県庁前の道路の様子(県庁南大通り)。人の気配も交通量も、なくはない、という程度。
R: こちらは茨城県警本部。県庁舎を中心に、東に議事堂、西に県警本部という典型的な配置なのだ。

敷地内に入ってしばらく歩いてみる。と、何やら青い服を着た賑やかな団体がやってきた。
同じ青い服でも僕にはその2種類の違いがわかる。片方は水戸ホーリーホックの、もう片方はモンテディオ山形のユニだ。
おそらく茨城県庁の展望ロビーに行ってきたサポーターどうしなんだろうけど、それにしても妙に仲がいい。
もともと水戸と山形のサポは仲がよく、試合前に面白いかけあいが展開されたこともあるという話だ。
僕としてはちゃんとその情報を仕入れたうえで水戸×山形の試合を選択したわけだが、ここまで仲よしとは。
いざ茨城県庁の中に入ると、入口の近くに茨城県をPRするスペースがあることに気がついた。
そしてそこには、鹿島アントラーズと水戸ホーリーホックのコーナーがあった。日本はサッカーだらけになりつつあるねえ。

  
L: 茨城県庁・行政庁舎を手前の広場から見上げる。  C: こちらは茨城県議会議事堂。
R: 県庁2階(正面エントランスから入ると2階になる) にて。茨城もサッカーどころになりつつあるか。

前回訪問時にも写真を撮っているけど、いい天気だしせっかくなので行政庁舎25階の展望ロビーへ行ってみた。
相変わらず県庁の南側には茨城らしい平坦な田園風景が広がっている。その端っこが潮来(→2012.7.21)ってわけだ。
そして北側は水戸市街。びっしりと建物で埋め尽くされており、南側との極端な違いにあらためて呆れる。
東側にはかすかに水平線が見え、西側には筑波山をはじめとする山々。茨城県の個性を味わうのであった。

  
L: 25階の展望ロビーの様子。親子連れがちょこっといたなあ。  C: 南に広がる田園風景。  R: 北の水戸市街。

満足すると、茨城県庁を後にする。延々と自転車を北へとこいで、目指すは偕楽園公園だ。
前も書いたが、偕楽園じたいは丘の上だけ。千波湖周辺の千波公園と西側の拡張部を合わせて偕楽園公園である。
徒歩でトボトボ移動した前回と比べると、レンタサイクルで偕楽園公園を行くのはとっても快適だ。
好文亭を中心に何枚か写真を撮ると、そのままするっと千波湖へと抜けてしまう。

  
L: 偕楽園公園・拡張部。本当に広い。  C: 自転車で行くのは本当に快適。千波湖の脇でもレンタサイクルを貸している。
R: 丘の上にある好文亭と桜川を泳ぐ白鳥を撮影。今回は偕楽園の本園にまで行く時間がなかった。とっても残念である。

茨城県庁が常軌を逸した遠い場所にあるせいで、千波湖を一周する時間すらなかった。
とりあえず千波大橋まで行くことにしたので、南側を半周しただけである。6年前とぜんぜん変わっていないね。

  
L: 6年前にはなかった気がする、水戸黄門の像。  C: 千波湖越しに眺める水戸市街。千波湖は市街地の真南にあるのだ。
R: これまた千波湖越しに眺める偕楽園・好文亭。千波湖は水が明らかに土色なのがもったいない。水質良くすりゃいいのに。

千波大橋を渡って線路を越える。そうして水戸の市街地に入る。が、水戸黄門まつりの真っ最中で、
とてもじゃないが自転車を乗りまわせそうにない。時間もないし、ポイントを絞ってあちこち行くのだ。
というわけで、黄門さん通りを横断してそのまま茨城県庁三の丸庁舎を目指す。要するに、旧県庁舎だ。
三の丸庁舎はその名のとおり、水戸城址の三の丸跡にある。城址の空堀は今もしっかり健在なのだが、
残念なことにそれくらいしか城跡であることを感じさせるものがない。弘道館の頃からそうなんだけど、
水戸の皆さんは教育熱心で、城址の大半を学校と県立図書館という教育施設に使ってしまっているのだ。

 黄門さん通り(国道50号)は水戸黄門まつりで大賑わい。

で、茨城県立図書館から北へ行って驚いた。三の丸庁舎が、灰色のシートに完全に覆われてしまっていた。
歴史ある建物だけに改修工事をしているんだろうけど、わざわざ訪れてコレってのは非常にショックである。がっくりだ。
……そんな僕の前に、代わりと言ってはなんだが、非常に特徴的な建築物が現れた。最初用途がわからなかったが、
よく見ると水道関連の施設のようだ。後で調べたら、1932年竣工の水戸市水道部低区配水塔。
設計したのは水戸市の技師・後藤鶴松で、要するに水戸市内の低地域向けの配水塔なんだそうだ。
国の登録有形文化財になっているとのこと。僕はよけいな装飾はいらない派なので、それほど好印象ではない。

  
L: 茨城県立図書館。実はこの建物、旧茨城県議会議事堂とのこと。こういう転用のパターンは初めて聞いたわ。
C: 改修工事中の茨城県三の丸庁舎(旧茨城県庁舎、前回訪問時の写真はこちら →2006.8.27)。置塩章設計で1930年竣工。
R: 水戸市水道部低区配水塔。調べたらけっこう人気があるみたいだけど、正直なところ僕はそれほど好きではないな。

最後に水戸芸術館に寄っておく。磯崎新の設計で1990年に竣工、公共建築百選にも選ばれている。
美術館・コンサートホール・劇場が複合した施設なのだが、外からだと高さ100mのタワーが異様に目立つ。
千波湖からもはっきりと見えるほどのランドマークなのだ。市制100周年記念だから100mなんだとさ。チタン製。
水戸芸術館は小学校跡地に建設されたが、単なるハコモノではなく、かなり運営面で力を入れているらしい。
でもまあ正直、あんまり興味が湧かない。だって磯崎新だもん。磯崎はあれこれ難しいことを論じているけど、
デザインのセンスは全然ないと思う。建築家が本業でブサイクな建物(→2011.8.12)つくっていちゃダメだろ。

 
L: 水戸芸術館は水戸黄門まつりの重要な舞台となっているようだ。でも建物じたいはブサイクだと思います。
R: 建物本体と比べると、タワーのデザインは面白い。三角錐を見るとテトラパックの牛乳を思い出す。

レンタサイクルの返却時刻は16時ということで、それに合わせて水戸駅の北口に出たのだが、
どんなに探しても南口に出るルートがない。地下駐輪場のおっちゃんに聞いたら「千波大橋を渡ってください」だと。
これはありえない!と内心めちゃくちゃ腹が立った。県庁所在地で、レンタサイクル貸していて、これはないだろう。
水戸市にしろ茨城県にしろ、この問題はきちんと早めに解決していただきたい。三の丸庁舎より先に直せよな。
……というわけで、結局さっき渡った千波大橋を逆方向にまた渡って水戸駅南口へとまわり込む。もうがっくりだよ。
返却が少し遅れたけど、駐輪場のおじいちゃんたちはソフトに対応してくれたのが救いである。ありがとござんした。

水戸×山形の舞台である水戸市立競技場(面倒くさいので以下、K'sスタ)行きのバスは北口のバスターミナルから出る。
大汗をかいて北口へと歩いていき1階へと下りると、その4番乗り場にはしっかりと行列ができていた。
水戸ホーリーホックってこんなに人気があるの?と思ったのだが、現実に行列は長く延びている。
バスは先にチケットを買ってから並ぶ仕組みになっているようだ。往復パスが900円。それだけ遠いってことだ。
K'sスタはさっきレンタサイクルで行った茨城県庁のさらに西である。イヤになるくらいの遠さなのがわかる。
やがてバスは発車。スタジアム行きは30分に1本くらいのペースで出るのだが、乗客はだいたいいっぱいって感じ。
困ったことに今日は水戸黄門まつりで、バスは迂回ルートを行く。気長にいこう、と切り替えるのであった。

大工町から先はどこが県庁所在地やねん、と言いたくなるような田舎の風景となる。これが茨城ってことか。
そしてしっかり30分揺られて着いたK'sスタは……周囲を青々とした田んぼに囲まれたスタジアムだった。
ふつうはスタジアムの周囲には駐車場がつくられ、ある程度敷地には余裕を感じさせるものだと思う。
しかしK'sスタは、スタジアムのすぐ手前まで田んぼなのである。これだけ敷地に余裕のないスタジアムは初めてだ。
Jリーグとはプロのサッカーリーグであるはずだが、JFLを思わせるくらいに牧歌的である。

僕が「牧歌的」と感じたのは、水戸の対戦相手が山形であることも一因であるだろう。
山形から大量のサポーターたちがやってきており(アウェイのツアーバスで8台分以上という凄まじさ)、
ホームの水戸サポと混じって和気あいあいとしていたり、ゴール裏の日陰でのんびりしていたり、
みんなそれぞれ穏やかに過ごしているのだ。あまりのローカル色の濃さに、ただただ驚くしかなかったよ。
まあでも地方それぞれのサッカー事情を目にするのは、純粋に都市社会学的に面白い。水戸は興味深い街だ。

  
L: 田んぼの中にそびえる水戸市立競技場(ケーズデンキスタジアム水戸)。立地からしてとんでもなく牧歌的だ。
C: バックスタンド側の売店の様子。グッズ売り場も地元のおばちゃんによる焼きそばも、ローカルな雰囲気満載だ。
R: 水戸ホーリーホック牛乳、100円。こういう商品は珍しい。おいしくいただきました。コーヒー牛乳もあるよ。

ほかのJリーグクラブとの違いに圧倒されっぱなしだったのだが、スタンドに入ってもっと圧倒された。
僕はバックスタンドに入ったのだが、そこには見るからに一番アッツアツのサポーターたちがいたのだ。
なんだこりゃ、ふつーこういう皆さんはゴール裏だろ?と思って振り返ると、そこは狭苦しい芝生。
気にせずGKが練習を始めているのだが、この雰囲気はもはやJリーグではない。もうほとんどJFLだ。
でも反対側のゴール裏にはびっしりと山形サポが埋め尽くしている。いくらなんでも所変われば品変わりすぎである。

  
L: K'sスタのゴール裏は芝生席。ぽつりぽつりと家族連れがいる中で、まったく気にせずGKがウォーミングアップ中。
C: というわけで、水戸サポーターはバックスタンドに陣取っているのだ。選手の挨拶に元気に応える皆さん。
R: 反対側のアウェイゴール裏。山形サポの数は水戸と同じかそれ以上。山形から茨城ってけっこう遠いはずだけど?

バックスタンドのチケット代は1500円。メインスタンドは2000円。500円ケチったことを全身全霊で後悔するほど、
西日はめちゃくちゃ強烈なのであった。あまりにも日差しが強いので、マトモに目を開けていられないくらいだ。
結局、試合開始後10分を経過するくらいまで、西日の大暴れは続くのであった。いやはや、これにはまいった。

  
L: K'sスタの中はこんな感じ。屋根はホントに取って付けたような感じ。西日が凄まじくって撮影にはかなり苦労した。
C: J2に降格した山形を率いる奥野監督。鹿島出身ということで、勝ち方を知っていることが期待されている監督だな。
R: こちらは水戸を率いる柱谷哲二監督(ヴェルディで闘将だった方。スイカップとイチャイチャしていない方)。

さて肝心の試合だが、キックオフ直後から水戸が勢いに乗って攻める。山形の4バックに前線からプレスをかけまくる。
これがうまくハマって水戸が何度もシュートまでもっていく。そして6分、ショートパスをつないだ水戸が先制する。

僕の記憶だと、山形は今シーズン序盤に4-3-3で大暴れしていたはずである。
しかし、すぐそこで今まさにプレーしている選手たちは、どっからどう見ても4-1-3-2のフォーメーションなのだ。
両SBがわりと積極的に上がる4バックのディフェンス、その前にルーキーの宮阪がアンカーとして入っている。
宮阪の前は3枚で、SBと連動しながらサイド攻撃をする。そしていちばん前が2トップ。以上、4-1-3-2だ。
僕としては4-3-3での戦い方を観ておきたかったので、この変化はけっこう残念である。まあしょうがないけど。
対する水戸はオーソドクスな4-2-2-2。ショートパスをつなぐサッカーを目指しているのが一目瞭然で、
とにかくディフェンスがクリアをしない。ボールを奪うと中盤にパスを出し、それを細かくつなぎたがる。
しかしクリアで相手を広げる工夫がないので、狭いエリアでパスを2,3回つないでは引っかかる、その繰り返しとなる。
ショートパスをつなぐサッカーといえばなんといっても大木監督の京都だが、京都ほど足下の技術を磨けていない。
水戸はボールをうまく受けてはいると思うが、そこから狭いエリアで相手を抜くための工夫がないので前へと進めない。
そうこうしているうちに山形はサイドから迫力のある攻撃を展開するようになる。水戸はだんだん受け身になっていく。

  
L: 水戸はガンガン前からプレスをかけていく。対する山形はサイドとアンカーの宮阪でうまくいなして攻める。
C: K'sスタは陸上のトラックがあるものの、意外とピッチをかなり近く感じることのできるスタジアムだった。
R: 選手たちの迫力あるやりとりが堪能できた分だけ、戦術的な勉強は正直おろそかになってしまったわ。

水戸の動きが大胆だったこともあってスローなスタートとなってしまった山形だったが、だんだん実力を発揮していく。
相手のプレスのタイミングがつかめてくると、それをうまくいなしながらサイドから水戸陣内へと入り込むシーンが増える。
空回りで徐々に足が止まっていく水戸に対し、山形はボールを奪っては深い位置まで持っていくようになる。
そして前半終了間際、左からのクロスに永田がヘッドで同点ゴールを奪う。山形の地力を感じたプレーだった。

後半に入ってもやっぱり山形ペースで、75分にまたしても永田がゴール。永田は左サイドから中央までを広く走りまわり、
勢いの弱まった水戸の守備をどんどん突いていくプレーが目立っていた。水戸も積極的に選手を替えて活路を探るが、
ショートパスをつなぐことへのこだわりがそのまま攻撃の停滞へとつながってしまっていた印象である。

  
L: ゴールシーンの写真3連発。まずこれは試合開始6分、水戸の先制ゴール。パスをつないでの、狙いどおりのゴール。
C: 後半の75分、山形の永田がシュート。水戸の守備を押し込みきってのゴールで山形が逆転に成功した。
R: 後半ロスタイム1分、よくわからんけどGKがファンブルしたボールを水戸の山村がゴール。何が起きたのかサッパリ。

ところがサッカーってのはやっぱりわからないもので、終盤になって最後の力を振り絞った水戸は、
前線のプレスから始まる守備をもう一度徹底しだす。するとリズムが戻ってきて、山形が受身になる場面が出てくる。
水戸はCKなどで惜しいシーンをつくっていき、山形のラインはじわじわと下がっていく。そしてロスタイムに入って1分、
積極的にゴール前に放り込む水戸の攻撃が続いた後、よくわからない形でボールが山形ゴールに吸い込まれた。
どうやらイレギュラーしたボールを山形GKがファンブルしてしまったようで、それを水戸の選手が押し込んだようだ。
水戸サポには悪いけど、「なんだこりゃ」って感じの冴えない同点劇。まあでも、ドローはドローである。

 J1広島へ移籍する塩谷は今日が水戸でのラストゲームだったのだ。

前に「牧歌的だなあ」と感じた徳島×東京Vも2-2だったし(→2011.7.16)、昨日の浦和×F東京も2-2だった。
思うに、2-2というスコアには、多分に「自作自演」という要素が含まれているのではないか。追いついた側の自作自演。
1点ではなく2点を奪われるのには、理由がある。守備に何かしら問題があるということを意味しているのだ。
もちろん2点を奪ったこと自体は褒めるべきことだが、そのことで問題点が隠されてしまうのはいただけない。
サッカーってのは、「2点を奪われるかどうか」が焦点となるスポーツなのかもしれないな、と思うのであった。

帰りはさっさとバスに乗ったはずなのだが、K'sスタから出た道では帰る車の渋滞でまず時間がかかり、
市街地に入ったら水戸黄門まつりによる交通規制のせいで迂回する渋滞で時間がかかり、水戸駅に着いたらヘトヘト。
午前中の部活から始まって、茨城県庁までのレンタサイクルでの移動、バスでの渋滞と、ハードな一日でござった。


2012.8.4 (Sat.)

今年の夏休みで、何も予定のない日というのは実はけっこう少ない。隙を見ては旅行をねじ込んじゃっているので。
で、今日はその何も予定のない日だったが、だからって何もしないで呆けていられるほど落ち着いている人間ではないので、
Jリーグの試合日程をまず眺める。首都圏で気になるカードを探すと、「浦和×FC東京」を発見。よし、観戦してみよう。
試合は18時キックオフということで、では昼間は何をしようかな、ということで次にGoogleマップを眺める。
朝イチで大岡山を出て、青春18きっぷを使って行ける場所をあれこれ考えてみる。この作業がいちばん楽しいのね。
今回の条件は、キックオフの1時間前に浦和美園に着いていること。大宮を軸にできるので、群馬も栃木もOKだ。
栃木は栃木で気になる場所はいっぱいあるけど、青春18きっぷということで考えると、今回は群馬に軍配があがる。
というわけで5時過ぎに家を飛び出し、山手線で軽く揺られてから高崎線に乗る。高崎で信越本線に乗り換える。

信越本線が長野新幹線開通の影響で碓井峠のところでぶった切られた話は前に書いたわけで(→2010.3.13)、
つまり横川方面への信越本線に乗るのは2回目ということである。前回は終点でバスに乗り換えて軽井沢に行ったが、
今回は終点の手前・西松井田で途中下車。なんでそんな中途半端なところで降りたのかというと、役場を見たいからだ。
松井田町は2006年に合併で安中市の一部となったが(実はいまだに旧松井田町民は独立したい意向が強いらしいが)、
この旧松井田町の旧町役場がDOCOMOMO物件なのだ。というわけで本日最初の目的地は旧松井田町の旧町役場。

歩道橋にプレハブを生やした程度の西松井田駅を後にすると、まずは旧松井田町役場で安中市役所松井田支所へ。
瓦屋根になんかしちゃって妙に和風テイストの強い役場である。いちおう正面からのショットを撮影しておく。

 
L: 西松井田駅。けっこうワイルドな構造をしておりますな。  R: 安中市役所松井田支所(旧松井田町役場)。

しかし僕の目的はこいつではないのだ。これではなく、旧松井田町の旧町役場の方がターゲットなのである。
とはいえ「旧役場」ということでの案内板は出ていない。現在は「松井田町文化財資料室」という名前になっている。
位置は少し奥まっており、ややわかりづらい。線路沿いの道から一本入った旧街道まで出ると大きめの看板がある。
その旧街道が松井田宿としての雰囲気を残しているのは表面だけで、すぐに田舎の緑の風景となる。
松井田町文化財資料室は、そんな緑に囲まれているちょっとした高台にあった。手前の消防団詰所の方が目立っている。

  
L: 旧松井田町役場は少し高い位置にある。前面を木々に遮られていて、役場としての風格が消えかかってしまっている。
C: 少し角度を変えて、ファサードが収まるように撮影してみた。やはりDOCOMOMO物件、タダモノではない雰囲気だ。
R: さらに建物に近づいてファサードのカーヴっぷりを強調して撮影。細かいところが非常に凝っている。

旧松井田町役場は白井晟一の設計で1956年に竣工。「畑の中のパルテノン」と呼ばれたそうで、
なるほど遠くから眺めれば、鉛直方向のまっすぐで白い柱と切妻屋根がつくる三角形がギリシャっぽさを演出している。
しかし近づいてみると、水平方向の大胆なカーヴとはみ出したバルコニーの迫力に圧倒される。
丸穴の装飾もモダニズムのおとなしさから豪快に逸脱する根拠だ。デザインの説得力が段違いだ。実に力強い。

 側面を撮影。だいぶ傷んできているのが一目瞭然だ。

実は旧松井田町役場を探すのに少し手間取ってしまい、西松井田駅に戻ったのがけっこうギリギリになってしまった。
終点の横川駅に到着すると、駅周辺の光景を撮影してまわる。鉄道ファンがそこそこいたけど気にしない。

  
L: 横川駅の最果て。かつてはここからさらに線路が先へと延びていたのに、無残にぶった切られてしまったわけだ。
C: 前に横川駅に来たときにも撮影している(→2010.3.13)「おぎのや本店」。今度は角度を変えてみました。
R: おぎのや本店前の側溝のフタなんだけど、これってアプト式のラックレールをリサイクルしているよな?

横川駅とはそれ即ち、「おぎのや帝国」である。「峠の釜めし」さえ食っていればゴキゲンな僕としては(→2009.9.5)、
おぎのや帝国は聖地にほかならない。というわけで、西松井田駅で引き返すことなく終点の横川駅まで来た理由は2つ。
ひとつは、「峠の釜めし」を買い込むこと。もうひとつは、横川駅のおぎのや帝国ぶりを体験すること、である。
横川駅近辺で「峠の釜めし」を買うことのできる場所は4~5ヶ所ほどある。テントの出店も含めれば、もっとある。
本店は駅舎を出てすぐだが(→2010.3.13)、今回僕はあえて国道18号沿いにあるドライブインに行ってみることにした。
気分的には「おぎのや帝国の本殿・おぎのやランド」である。ところが、歩いて行こうとすると、これがけっこう行きづらい。
横川駅周辺は駐車場だらけで、高低差もあったりして、一見すると近い場所でもなかなかたどり着けないのである。
苦労しておぎのやのドライブインにたどり着いたときにはなぜかクモの巣まみれになっていた。しかしそこに、
「峠の釜めし丼」 「峠の釜めしステーキ」「峠の釜めしバーガー」「峠の釜めしカレー」「峠の釜めしさしみ」などの
魅惑のメニューはなく(このギャグがわからない人は『ドラえもん』33巻のドライ・ライトの話を読んでくれ)、
ふつうに群馬と長野の土産物を扱うほかはフードコートがある程度であった。まあ、過剰な期待をした僕が悪いのだが。

 
L: 横川駅周辺に広がる駐車場より眺める壁のような山。訪れるたび、群馬県西部の稜線は独特だと思う。
R: おぎのやのドライブイン。中はごくふつうのドライブインで拍子抜け。食いたかったな、峠の釜めしステーキ。

横川駅前のテントで峠の釜めしを2個買っちゃう。ひとつは昼飯用、もうひとつは晩飯用なのだ。まいったか。
いちおう目的は達成したので、満足して横川駅を後にする。乗客が次々乗り込んできて満員状態になって驚いた。
どうやら今日は高崎で花火大会があるようだ。旅先で祭りに出くわすのは、日常を見たい僕としてはうれしくない。

高崎に着くと、西口の手前にひっついている上信電鉄の入口へと歩いていく。これまた2回目なので(→2010.12.26)、
迷うことなくかなり奥まった位置の切符売り場へ。そして窓口で「富岡製糸場のやつ1枚ください」と言う。
上信電鉄では、富岡製糸場の最寄駅である上州富岡までの往復切符と製糸場の入場券をセットで発売しているのだ。
上信電鉄は運賃がやたらと高いので、これは非常にありがたいサーヴィスである。というわけで、上州富岡まで揺られる。

上州富岡駅に着くと、さすがに上信電鉄では中心的な駅だけあって、けっこうな量の乗客が降りた。
そしてこれまたけっこうな量の人が、そのまま富岡製糸場を目指すわけだ。富岡製糸場は世界遺産候補になったことで、
すでに人気の観光地となっているようだ。どうも日本人は「世界遺産」って言葉に弱いよなあ……と思う僕も行くけどね。

でもその前にやっておかなくちゃいけないことがある。それはもちろん、富岡市役所の撮影である。
富岡市役所は1963年の竣工で、3階建て無彩色。感動的なくらい典型的な昭和30年代鉄筋コンクリ庁舎だ。
さすがにこのままで済むはずはなく、公募型プロポーザルで設計者選定をしている真っ最中である。
お願いだから、富岡製糸場を意識したポストモダン建築にだけはしてほしくないものだ。どうなることやら。

  
L: 富岡市役所。涙が出そうなくらい典型的な昭和30年代の庁舎っぷりである。  C: 側面はこんな感じである。
R: 裏側はこんな感じになっている。周りに駐車場が多くて撮影しやすいのも好印象な市役所なのであった。

ちなみに富岡市役所の真向かいは、地元の野菜などを扱っている「おかって市場」という店になっている。
この建物は、かつての富岡小学校の校舎とのこと。敷地の周囲は明治・大正期の倉庫で固められており、
田舎育ちにはどこか懐かしい雰囲気を感じさせる一角となっている。駅周辺でもっと宣伝すればいいのに。

  
L: おかって市場。富岡製糸場を訪れる観光客をうまく誘導できていない印象。ものすごくもったいない!
C: 富岡の商店街を行く。実に昭和である。  R: 時計店なのだが、この建物はすごい。モダンだった富岡の香りを感じる。

富岡の市街地をのんびりと南下して、案内に従ってちょっと西へ入ると富岡製糸場の表門がさりげなく現れる。
規模の大きい工場であるにもかかわらず、周辺の住宅地とは塀と狭い道を挟んでいるだけなのである。
まあこれはつまり、もともと農地であったであろう富岡製糸場の周辺が、そのまま宅地化したってことなのだろう。
敷地内は老若男女でけっこうごった返している。受付でさっきの切符を見せてハンコを押してもらい、観光スタート。

  
L: 富岡製糸場の表門。周辺は見事に住宅ばかりで、中に入ると空間的なスケールが一気に変わるのが面白い。
C: 入って左の検査人館。これはすごくいい。中を見学できないのは非常に残念。  R: 東繭倉庫から見学スタートなのだ。

入口から真っ正面に見えるのは東繭倉庫。まずはこの中にある展示を見て、富岡製糸場についてのお勉強である。
富岡製糸場は、1872(明治5)年に操業を開始した日本初の機械製糸工場だ。開国したばかりの日本にとって、
絹は主要な輸出品だった。が、ついさっきまで江戸時代だったわけで、品質は近代化された西洋のものより劣っていた。
そこで富国強兵殖産興業な明治政府は、養蚕の盛んな土地に近代的な製糸工場を急いで建設したわけである。
建設にあたってフランス人技師ポール=ブリューナを招聘し、繰糸機や蒸気機関などを輸入して一気に完成させた。
富岡製糸場は政府の主導によって近代化の模範的モデルとしての役割を果たすこととなったのである。
この点が世界遺産登録推薦の根拠ということになる。で、その後1893(明治26)年に三井家へ払い下げられ、
最終的には片倉製糸紡績会社(現在の片倉工業)の所有となり、つい最近の1987年まで操業を続けていたのだ。
ちなみに片倉財閥は、諏訪に片倉館(→2010.4.3)を建設したことで長野県民にはおなじみの存在である。
片倉工業はさいたま新都心東側の土地を所有しており、その関係で大学時代には聞き取り調査にも行ったなあ。

  
L: 東繭倉庫内の展示の様子。貴重な建築空間を利用しながら、上で書いたようなことが図版などを用いて詳しく説明されている。
C: 中で実際にカイコが桑の葉っぱを食っているのがいいね!  R: 絹糸を紡ぐ様子が実演されている。富岡やる気だな。

外に出てさらに奥へと進むと、西繭倉庫に圧倒される。全長は実に104mということで、すらりと建っているその姿からは、
当時の日本人が感じた「近代」の迫力をしっかりと追体験できる。そんな具合に遠景を眺めても見事なのだが、
近づいてみてもまた面白い。というのも、さっきの東繭倉庫も西繭倉庫も、非常に珍しい「木骨煉瓦造」なのである。
これはその名のとおり、木材による骨組みをもとにレンガを積んでいったということ。こんな事例は初めて見た。驚いたわ。
で、屋根はしっかり日本瓦で葺いてある。ある意味、擬洋風建築の進化形と考えることもできそうだ。いやー凄い。

  
L: 東繭倉庫を出てからしばらく行くと、パッと現れる西繭倉庫。印象に残るような空間体験をさせる形になっているね。
C: 西繭倉庫をクローズアップして撮影。木材を組んだところにレンガを積んでいるのがわかりますかね。これは珍しい。
R: 鉄水槽。下の石段で少し傾けている。建物同様、こちらもしっかり重要文化財に指定されているのだ。

文化庁によって世界遺産へ推薦されたことで、富岡市サイドはかなりのやる気になっているようである。
展示のひとつひとつ、職員や係員の皆さんひとりひとりに気合を感じる。まあ、活気があるのは非常にいいことだ。
今後はさらに観光客が増えていくのだろうけど、うまく街おこしをしていってほしいと心から思う。

  
L: 女工の皆さんが暮らしていた女工館。政府が模範としただけあり、労働環境は非常に良好だった模様。
C: 繰糸場の外観。  R: 中に入ると細長い建物内に機械が並んでいる。仕方がないだろうけど、このカヴァーはないわ。

全体的に説明は詳しくなされているんだけど、個人的な感想を言えば、やや物足りなさを感じる。
これはあくまで僕個人の興味関心に基づいた意見なんだけど、この富岡製糸場は近世と近代の交差点なのだ。
明治維新によって一気に近代へと変化を受け入れた日本の姿が、現状の展示からはまだまだ見えてこないのだ。
当時の日本人の戸惑い、あるいは喜び、そういった「感情」の部分が弱い。これは難しい要求なんだけどね。
たとえば女工たちは、和装で機械を使っていたわけだ。そのイラストは実際に展示されていたけど、強調はされていない。
もし今の僕らが実際にその光景を目にしたら、江戸を引きずったモダンに間違いなく猛烈な違和感をおぼえるはずだ。
その近代化の瞬間、狭間ゆえのドラマを見せてほしいのだ。ハード面の木骨煉瓦造だけではまだ弱いのである。
ぜひ、ソフト面で当時の日本人たちが感じたものを再現してほしい。それができれば、ここはかけがえのない価値を持つ。

まあでも全体的には面白かったし、建物もすごくきれいに残っていたので、かなりいい気分で駅まで戻る。
上州富岡駅ではベンチに座って電車を待っている間、お昼ご飯ということで峠の釜めし(1個目)をいただく。
食いながら駅舎の中を見回してみるが、実に昭和だ。古きよき時代の駅らしい雰囲気、今後も絶対に残してほしい。

 とっても昭和な上州富岡駅の中。21世紀の今では貴重な空間である。

峠の釜めし(1個目)を食って満足すると、しばらくして高崎行きの列車がやってきた。
中は祭りだか花火大会に向かう学生が多く乗っており、なんだか青春な感じに悔しい気分になるのであった。
というわけで当然、ふて寝して高崎までやり過ごす。高崎に着いたらJRに乗り換えて大宮まで戻る。

大宮では軽くLOFTの中を散歩して時間調整。そうして京浜東北線に乗り換えて南浦和まで行く。
南浦和で武蔵野線に乗り換えるのだが、この時点ですでに赤いユニを着込んだレッズサポがいっぱい。
若者もおっさんも子どももいる。だが、彼らのうち1/4くらいが東浦和で降りてしまった。
東浦和から埼スタまで歩くつもりなのか。僕は素直に東川口で埼玉高速鉄道に乗り換えることにする。
が、地下にある埼玉高速鉄道の駅に着くまでは、レッズサポばっかりですでに大混雑だった。いやはや、まいった。
終点の浦和美園までのたった1駅の大混雑をやり過ごすと、駅舎から外に出る。しかしそこも赤一色だ。
そして何より一番まいったのは、浦和美園駅から埼スタまでの距離である。駅からバスが出ているのも納得で、
たっぷり1km以上歩かされたのであった。埼スタまでは前に自転車で来たことがあるけど(→2009.3.18)、
浦和美園駅からの距離の記憶がすっかり編集されてしまっており、「こんなに遠かったか!」と呆れるのであった。

そんなこんなでどうにか埼スタに到着。正式名称は「埼玉スタジアム2002」で、その名前からわかるように、
2002年の日韓W杯のために建設されたサッカー専用のスタジアムなのである。今も日本代表がよく試合する。
収容人数はなんと、63,700人。国内の球技専用スタジアムでは最大である。それだけに、巨大すぎて困った。
指定されたバックスタンドの席までが、本当に遠かった。階段を上っても上っても全然着かないんだもん。
ようやくたどり着いたときに見た「6F」の表示に泣きそうになったわ。帰るときのことを考えるとよけいにゲンナリ。

  
L: 浦和美園駅から埼スタまでの道を行く。スタジアムはわりと近くに見えるが、実際に歩くともう笑えてくるほど遠い。
C: やっとこさ到着なのだ。駅を出てからここまできっちり15分かかった。黙々と15分歩くのはつらいぞ!
R: バックスタンドの指定席に着くまでもまた一苦労。で、そこから見下ろすゴール裏の浦和サポ。うねうね波打っとるよ。

さて、埼スタに来ておいて言うのはなんだが、僕には浦和レッズを応援する人の気持ちがわからない。
いや、そりゃまあ確かに、1993年のJリーグ初年度には、僕は確かに浦和レッズを応援していた。
でもその理由は「どうしょうもなく弱いから」なのであった。今の金満レッズを応援する理由は何ひとつない。
僕にとって浦和レッズよりも応援したくないチームは、もう読売ジャイアンツしかない。それくらい好きじゃない。
(ああ、ここまで書いて思い出した。東京ヴェルディも好きじゃない。でもやっぱり浦和の次くらいだな。)
じゃあなんでわざわざ埼スタまでレッズの試合を観に来たのかというと、ペトロヴィッチのサッカーへの好奇心、
あとはやはりレッズサポのレッズサポっぷりをきちんと体験しておきたい!という社会学的興味関心である。

試合開始前、ウォーミングアップで対戦相手のFC東京の選手が現れると、浦和サポはさっそくブーイング。
この段階で相手にブーイングを浴びせる光景は初めて見た。これはちょっとみっともないなあ、と思う。
挨拶したエメルソンには半分拍手をしていたけどね。で、FC東京のスタメン発表に対してももちろんブーイング。
FC東京ゴール裏は五輪代表のエジプト戦が今夜ということで、権田コールと徳永コール。その後は日本コール。
でもやっぱり、浦和サポはこの日本コールに応えてあげられない。ここはきちんと一緒にコールしてほしかった。
というわけで、僕の浦和サポに対する印象はまったく改善されることはなかったのであった。
アウェイへ乗り込んでくる相手への敬意を感じられないのは、個人的には非常に残念である。

さて試合が始まると、浦和はさっそくペトロヴィッチらしい3バックでのボール回しをスタートする。
左から槙野・永田・坪井の3バックでボールを交換し、隙をみてはサイドへとロングパスを送っていく。
ボランチの阿部からもロングボールは出る。そうして右サイドの平川、左サイドの宇賀神にボールが収まると、
ドリブルでFC東京のディフェンスラインを下げていく。中央では梅崎とマルシオ=リシャルデスが隙をうかがっている。
FC東京は高いラインを維持して守ろうとするが、その分だけ破られたときの対応で後手にまわった印象だ。
前半11分にショートコーナーでゴール前が混乱すると、そこからのこぼれ球を宇賀神がきれいに叩き込んでみせる。
あまりに鮮やかすぎてシャッターを切れなかった。攻撃がハマってリズムのいい浦和が難なく先制する。

  
L: 浦和はディフェンスラインの3人にボランチを加えた4人でまずボールを保持する。後ろで徹底的にボールを回すのだ。
C: そうしてディフェンスラインからサイドのプレーヤーへ一気にロングパスを送る。対応する相手DFを下げて中盤を空ける、という仕組み。
R: 相手がボールを持つと、浦和は素早く前列4人・後列5人のブロックを形成。広島(→2012.4.28)もこんな感じの守備だったな。

その後も浦和は完全にペースを握って余裕のある攻撃を続ける。35分には追加点を奪ってみせる。
斜めに動いた梅崎がボールを受けると、それを中央に出す。そこにマルシオ=リシャルデスが飛び込んだのだ。
FC東京は攻撃しても浦和のブロックで食い止められて止まってしまう。対角線のロングパスは1回も出なかった。
浦和はボールを奪うとディフェンスに戻し、そこから毎回ロングボールを送ってFC東京をピンチに陥れる。
正直言って、FC東京のあまりの学習能力の低さにイライラしっぱなしの45分間だった。

  
L: 独特のサッカーを浦和でも展開するペトロヴィッチ。どうでもいいけど、コーチングエリアに椅子を持ち込んで座る監督は初めて見た。
C: 35分、梅崎からのボールにマルシオ=リシャルデスが反応してゴール。この時点では浦和の大量得点勝利の空気を感じたのだが。
R: ハーフタイムの埼玉スタジアム2002。とってもきれいだったので撮影してみた。埼スタは意外と観やすかったけど、いろいろ遠い……。

前半途中から、試合を観戦する僕の思考回路はひとつのテーマだけについて焦点を絞っていた。
「僕がFC東京の監督なら、どうやって事態を打開するのか?」……そればっかり考えていた。
プロの試合なので僕の思いどおりにいくわけはないだろうけど、それでも思考実験として考えてしまうのだ。
で、出てきた結論は2つ。ひとつは3トップ気味にして浦和の3バックを止めてしまい、中盤勝負を挑むこと。
まあこれは浦和の中盤の能力を考えると無茶もいいところなのだが、前半のFC東京はあまりにも動きが悪すぎた。
浦和の3バックに対して前線がプレスに行ったシーンが一度もなかったのだ。そりゃあやりたい放題にやられるだろう。
そしてもうひとつの結論は、こっちもペトロヴィッチのサッカーをマネしてしまう、というものだ。
付け焼き刃なのでやっぱり危険極まりないが、こっちも3バックにしてさらに両サイドに選手を配置してしまい、
平川と宇賀神の動きを抑えてしまえばいい。この2つのアイデアは両立できないが、時間帯で変化をつけるのもアリだろう。
ハーフタイムに峠の釜めし(2個目)をいただきながら、僕はそんなことを考えていたのであった。

ハーフタイムが終わり、FC東京のポポヴィッチが出した答えは、なんと、僕の発想にかなり近いものだった。
サイドプレーヤーの中村北斗を入れて3バック+両サイドに選手を配置という、僕の2番目の策を実行してきた。
3バックからはロングボールも出る。そう、ポポヴィッチは浦和にペトロヴィッチ型のサッカーで挑んできたのだ。
これが機能すると見るや、ポポヴィッチは渡邉千真に代えて梶山を中盤に投入する。すると梶山のところでボールが収まり、
FC東京は完全に前半とは異なる攻撃的なチームへと変身してしまった。中盤勝負ということで間違ってはいなかったが、
ポポヴィッチは浦和の3バックは相手にしないで、むしろゼロトップ気味にすることで中盤を制したのだ。
さらにこのことでFC東京は2列目からの攻撃が活性化し、浦和の守備は的を絞ることができなくなった。
僕の2つのアイデアは両立できないのに対し、ポポヴィッチはきちんとポイントを押さえて両立したわけだ。すげー。

浦和は完全に攻撃のリズムを失ってしまった。3バックでボールを回すシーンは完全になくなり、
ボールを戻されたディフェンスの選手は勝手に上がっては中盤で自滅することを繰り返すようになってしまう。
一度歯車が狂うとここまで崩壊してしまうものなのか、と恐ろしくなった。一気に無策となってしまった浦和に対し、
FC東京はルーカス・石川に加えて長谷川・梶山・米本までもが危険な位置まで入り込む攻撃を繰り広げるようになる。
また、守備面ではボールを保持しようとする浦和の選手に積極的にプレスをかけるようになった。
こうなるとゲームは当然、FC東京のものとなる。しっかりと人数をかけた攻撃で60分に1点を返すと、
72分にはルーカス・石川が相手ディフェンスを押さえ込んだところに長谷川が飛び込んで同点に追いついてしまった。

  
L: 後半に入るとなんと、FC東京が「ペトロヴィッチ的なサッカー」を展開するようになる。3バックでボールを持って攻撃をビルドアップ。
C: 我を忘れたのか、浦和の攻撃はふつうのJリーグの攻撃となってしまう。サイド攻撃は影を潜め、中盤でつぶされる光景ばかりとなる。
R: 72分、長谷川アーリアジャスールのゴールでFC東京が追いつく。浦和の2点目(上の写真)と形が酷似しているのは偶然ではない。

冷静さを欠いた浦和が3点目を入れられるはずもなく、FC東京の逆転を防ぐので精一杯。
結局このまま2-2で痛み分けとなった。FC東京も前半の体たらくを考えると褒められたもんじゃないぞ。
それにしても、サッカーってのはこんなに簡単に流れが変わってしまうスポーツなのか、とあらためて実感した。

ところで今日の試合で浦和のペトロヴィッチサッカーへの対抗策をあれこれ考えることができたのは、
埼スタが意外と観戦しやすいスタジアムだったことが大きい。バックスタンドからだと、きれいに俯瞰で見渡せる。
実際、周囲の観客たちもかなり踏み込んだ戦術論をそれぞれに展開していた。そういう楽しみ方ができるスタジアムだ。
でも、こうして俯瞰で眺めれば把握できることも、実際にピッチサイドに立っているとなかなか見えてこない。
監督というのは、ピッチサイドにいながら俯瞰でゲームの流れを把握できないといけない商売なのである。
そういう点では、僕はまだまだだなんだよなあと思わされた。一人前の監督への道のりは遠い。

帰りは埼スタから浦和美園駅までの道を必死に走ってできるだけ早い電車に乗って帰る。
どうにか五輪代表のエジプト戦が終わる前に家に戻ることができた。よかったよかった。

で、そのエジプト戦。1-0から吉田と大津のきれいなヘッドが2連発で、思わず叫んじゃったぜ。
相手が退場者を出していたとはいえ、3-0というスコアで準決勝進出を決めたのは本当にすばらしい。
次は因縁のメキシコ戦ということで、なんとか勝って決勝まで行っちゃってほしいねえ。期待しとるわ。


2012.8.3 (Fri.)

なでしこのブラジル戦。前評判どおり、ブラジルはマルタを中心に攻撃が凄いんだけど、
なでしこの守備はそれを上回る粘りをみせる。組織での対応が非常にしっかりしていて、本当に穴がない。
これだけ高度に連動して守備ができるのはすばらしい。思わず見とれてしまうのであった。
試合後にブラジル側から守備的なサッカーだと批判があったようだが、それは単なる負け惜しみにしか聞こえない。
高度な組織的守備を軸にした鋭いカウンターだって、そう簡単にできるもんじゃないのだ。
むしろ、パスサッカーだけではないなでしこのもうひとつの側面を見て、もっとなでしこを好きになってしまったよ。

そんな具合に、なんだかんだで今回のロンドンオリンピックはけっこう見ているです。
柔道の凋落に始まって水泳での金以外のメダル連発と、なかなかもどかしいオリンピックなのだが、
男子のサッカーでスペインを破ってから(→2012.7.27)つられてオリンピック自体をチェックしている状況である。
おかげで職場での昼間が地味につらい。8月で夏休みだからいいものの、授業があったら体力的にかなり厳しかっただろう。
いや、むしろ夏休み期間中だからそれなりにオリンピックをチェックする気になっているのかもしれない。
まあとりあえず、選手たちのがんばりは見事で、十分に楽しませてもらっている。がんばれニッポン。


2012.8.2 (Thu.)

去年も行った説明会(→2011.8.4)に今年も参加。今年は異動可能対象になったので覚悟が違うのだ。
ある程度要領はつかめているので次から次へと話を聞くが、やはり現場に行ってみないとイマイチぴんとこない。
表面的な部分しか見えてこない印象である。ふだんなかなか時間的余裕がないのがいけないのだが、
もうちょっと自主的に情報を仕入れないとなあ、と反省する。とはいえ本当にヒマがないんだよなあ……。
なんだかんだで心理的な余裕がないのもよろしくない。

ところで、こっちが話を聞いているはずなのに、途中でまるで面接試験をやるようなスタイル(それも圧迫気味)になって、
挙句の果てに「君からはあまり魅力を感じないね」と言ってくる偉い人がいたのにはたまげた。
それはそれで本番の面接のシミュレーションになるので別に「ああそうですか、そりゃ失礼」ぐらいしか感想はないけど、
説明会にそういう姿勢で臨む神経ってどうなんずら、と思う。まあ深く関わる気はございませんので関係ないけどよ。


2012.8.1 (Wed.)

8月になってしまった。今年は不思議と、8月に入っても「夏休みだ!」というワクワク感がない。
というのも、いつもに比べてスケジュールが埋まっている印象が強いからだ。なんかこう、解放されている感じがしないのだ。
むしろ、「あと1ヶ月でまた怒涛の日々に戻っちゃうんだ!」という悲壮感の方が強いくらい。これは健全ではない。

土曜授業の関係で1学期は本当に忙しく、その分しっかりと休んでやりたい気分なのである。
でもスケジュールを見ると、教員免許の更新だとか部活だとかで予定がしっかり入っている。余裕のない感じ。
まずいのは、旅行だとかサッカー観戦の予定だとかもスケジュールに入れてあるのだが、それが半ば義務に思えること。
本来であれば息抜きや娯楽であるはずのことが、半ば「やらなければならないこと」として、すでに予定に組まれている。
この日は本当に何も予定の入っていないまっさらな日です、という日がないのだ。そのせいか、息が詰まる感じがする。

欲張りすぎたか、と思う。夏休み前に考えていた「あれもしたい、これもしたい」という思いを、きっちり込めすぎたか。
とはいえ、じゃあいきなり自由を突きつけられたとしても、どうせメインで考えるのは、たまっているこの日記のことだろう。
結局、趣味嗜好のヴァリエーションが狭いのである。この夏休みを、人間としての幅を広げるきっかけにしたいものだわ。


diary 2012.7.

diary 2012

index