diary 2017.7.

diary 2017.8.


2017.7.31 (Mon.)

明日から部活合宿ということで、本日はその前日指導である。部活合宿は僕が教員1年目のときに初任校に存在したが、
翌年廃止になってしまって、それ以来となる(「林間学校」という扱いだった →2009.7.292009.7.302009.7.31)。
これがいまだにあるとは、さすが23区の東側だなあと思う。所変われば品変わる、その典型的な例ではないかなあ。
夏休みに入ってから、タガがはずれての個人的な旅行と仕事の実地踏査とで家には半分くらいしか帰れていないが、
なんとかがんばって切り抜けなければ。仕事であちこち行けるのは幸せなことなのである。ありがたやありがたや。



2017.7.29 (Sat.)

今週末のテーマは「茨城県」である。日帰りであちこち行ける位置にあるが、わざと1泊2日で動きまわるのだ。
茨城県というと北関東を構成する3県ということで認識され、群馬や栃木と似たものとして扱われるフシがある。
しかし正直なところ、茨城県だけは交通に妙な偏りがあって、それが僕にとってはきわめて面倒くさい要素なのだ。
具体的に言うと、鉄道駅から離れたところにある市役所が多すぎるのである。これは本当に大問題。茨城だけ特殊!
群馬も栃木も、すべての市役所が駅から徒歩圏内である(たぶん最も駅から遠い大田原市でも3km歩けばたどり着ける)。
ところが茨城ときたら! 平成の大合併の影響でクソ面倒くさいことになっとるんじゃ! 稲敷市(→2015.12.20)とか、
坂東市とか、桜川市とか、行方市とか、小美玉市とか、かすみがうら市とか、どこも駅から遠すぎるんじゃ!
つくばみらい市とか何だそれ! バカ丸出しか! おまけにこいつら、分庁舎方式が多くてどこに行けばいいのかわからん!

……で、そんな交通の偏っている新しい市のひとつが、神栖市だ。東京から行く分には簡単。東京駅からバスで行ける。
しかし、神栖市役所から隣の市へ行こうとすると、これが面倒なのである。市から市への移動がやりづらいというのは、
僕みたいなタイプの旅をするには本当につらいパターンなのだ。そこで今回は、1泊2日というクソ意地丸出しで、
茨城県の沿岸部を強引に北上しながら観光していく。徒歩もバスも列車もレンタサイクルも、もうなんでもありなのだ。

朝7時ちょうどにバスは東京駅八重洲南口を出発する。この時間、すでにJ1鹿島のサポーターが乗っていたのには驚いた。
今日の試合のキックオフは18時30分だから、僕なら昼間にできるだけ寄り道をしてからカシマスタジアムに向かうが、
ガッチガチのサポーターはそういうものではないのだ。……まあ上で書いたとおりで、東京ー鹿島間の移動は楽だけど、
鹿島から周辺地域への移動は非常に面倒くさいので、そもそも寄り道をするという発想にならないんだろうけど。

8時半過ぎ、神栖市役所のバス停で下車する。というわけで、いきなり神栖市役所からのスタートである。
神栖市は、2005年に神栖町が茨城県東南端の波崎町を編入し、そのまま市制施行して誕生している。

  
L: 国道124号越しに眺める神栖市役所。1976年に神栖町役場として竣工している。  C: 敷地に近づいて撮影してみた。
R: 敷地手前より撮影。奥のガラス主体の建物も神栖市役所の一部。埋立地っぽい大雑把さが残る( →2008.7.272008.7.28)。

当時の新聞記事には、「新市庁舎については、合併後可能な限り速やかに、土木研究所跡地に建設する」とある。
が、12年経過しても神栖町役場だった建物が市役所のままだ。完全な郊外型社会なので、うやむやでも困らないのだろう。

  
L: 正面より見据える。1970年代の町役場にしては規模が大きい。そのまま市役所になってもまったく差し支えなさそう。
C: 南西側にまわり込む。  R: 南西側。西側(写真で言うと左手)に広い駐車場が整備されており、この辺りはすっきり。

市役所のすぐ裏手は神之池緑地公園となっており、緑がいっぱい。広大な道路が広がる国道側とはずいぶん対照的だ。
しかし緑は地面のコンクリートの隙間からも元気に溢れ出ている。つまり公園なんだけど、かなりの草ボーボー状態。
やはり埋立地らしい、人間が管理しきれない植物の侵攻が目立っている(→2012.7.2)。そういう種類の土地なのだ。

  
L: 神栖市役所の背面。すぐ後ろが公園になっているとはいえ、勢いのある木々に覆われていて、表とだいぶ印象が違う。
C: 神之池緑地公園。埋立地のゼロ空間は「植物的な攻撃」を受けやすい。  R: 東側は神栖郵便局が隣接していてこの光景。

神之池緑地公園を抜けると神之池(ごうのいけ)、そして対岸の鹿島臨海工業地帯が見える。極端な光景が続くエリアだ。
そもそも「神栖」とは、「神之池」と「息栖神社」から一文字ずつ採ってつくられた地名なのだ。それが1955年のこと。
しかし、それだけ重要な存在だった神之池も、今はかつての1/7の面積しかない。1960年代に臨海工業地帯の整備が始まり、
巨大なY字型に掘り込まれた鹿島港をつくる際に出た土砂で、神之池は埋め立てられて工場用地へと変わっていったのだ。
申し訳程度に残った台形の池、その南側には公園と公共性の高い施設がつくられた。神栖市役所もそのひとつである。

 
L: 神之池。かつては豊かな水産資源をもたらす池だったが、今は工業地帯の緩衝帯。神は死んで近代になったってか。
R: 国道142号を行く。ヒューマンスケールを超えた直線道路をトボトボと歩く。郊外型店舗でも埋めきれない空間が続く。

では、神栖市役所と神之池の次は、「神栖」の名のもとになったもうひとつの場所、息栖神社に行こうではないか。
息栖神社は神栖市役所からだとほぼ真西に位置するが、道路の区画が30°ほど角度がついているので、まっすぐ行けない。
鹿島セントラルホテルの手前で左折するのがわかりやすくて損の少ないルートなので、まずは国道を延々と歩いていく。
そうして曲がると神栖市歴史民俗資料館脇の道を進んでいくが、農地が宅地化した景色が見事に続く。あと駐車場。
息栖神社に近づくにつれ、緑の空き地がどんどん目立ってくる。市役所を出て1時間、郊外をとことん肌で感じたねえ。

 息栖神社の社叢。埋立地の緑と比べると、やはり人の手が入ってそれなりに小ぎれい。

炎天下を黙々と5km歩くのはキツかったが、ほかに方法がなかったんだからしょうがない。覚悟の上での行動なのだ。
ちなみにこの後、30分歩いて鹿島セントラルホテルまで引き返します。神栖のレンタサイクルは神之池限定なのね……。
(※2019年10月から鹿島セントラルホテルでレンタサイクルが借りられる模様。これは本当にありがたいけど遅えよ。)

そんなわけで午前10時、息栖神社に無事到着。息栖神社は、常陸国一宮の鹿島神宮(→2007.12.82012.7.212014.8.30)、
下総国一宮の香取神宮(→2008.9.12014.8.30)とともに、「東国三社」に数えられる神社である。が、一宮ではない。
香取も鹿島も「神宮」だけど、こちらは単なる「神社」。鹿島神宮の摂社だったとか、どうも差がついているのが切ない。
(旧日本海軍の練習巡洋艦も、「香取」「鹿島」ときて香椎宮にいっちゃう。「息栖」じゃダメだったんですかね……。)

  
L: 息栖神社の入口。常陸利根川に面しており、歴史を感じさせる雰囲気。  C: 参道を行く。緑の勢いがすごい。
R: 神門。1847(弘化4)年築と歴史があるが、簡素なのであまり印象に残らない。鹿島と比べちゃいけないけどさ。

境内は緑がモリモリ生い茂って歴史を感じさせる参道となっているが、香取・鹿島の両神宮と比べて建物がだいぶ簡素。
かつては1722(享保7)年築の見事な社殿があったそうだが、火災に遭って現在は鉄筋コンクリートの特徴のない社殿だ。
一宮が相手というのは大変だが、ぜひもうちょっとなんとか「東国三社」らしい威厳を感じさせてほしいなあと思う。

  
L: 神門をくぐるとこの光景。境内はしっかり長いのだ。  C: 拝殿。もうちょっとありがたみが欲しい……。  R: 本殿。

息栖神社は、境内そのものよりもむしろ、その手前にある一の鳥居周辺に威厳を感じさせる要素がある。
一の鳥居は常陸利根川から掘り込んだ河岸のすぐ脇にあるのだが、その両側にも大小2つの鳥居が並んでいる。
見ると、それぞれの鳥居の足元は池になっている。今は四角形に整備されているが、かつては真水が湧いており、
海水を押しのけるほど勢いがあったので「忍潮井(おしおい)」という名前が付けられた。北側の大きい方が男瓶、
南側の小さい方が女瓶とのこと。男瓶は銚子の形、女瓶は土器の形だったそうだが、やはり今は四角形なのが切ない。

  
L: 息栖神社側から見た一の鳥居と忍潮井。右に男瓶の鳥居、左に女瓶の鳥居が見える。  C: 女瓶。  R: 男瓶。

一宮としての地位を確立している香取・鹿島の両神宮と比べると、息栖神社は本当にローカル。しかし、それだけに、
水郷地域にあった聖地としての意地もまた感じさせる。本殿や忍潮井を近代的に整備しちゃったのは実にもったいない。

 一の鳥居から常陸利根川側を見る。かつての水郷ぶりを想像するのは少し難しい。

30分かけて歩いて鹿島セントラルホテルまで戻ると、そこからバスでこれまた30分揺られて鹿島神宮駅へ。
茨城県の広大さは群馬や栃木といった内陸とはまったく別物だ。はっきりとした台地を持つ千葉県とも性質が異なる。
霞ヶ浦・利根川・鹿島灘に囲まれた水郷地域は、本質的に郊外社会なのだ。あまりにも低地で広くて水っぽいので、
空間が本質的に粗雑なのだ。漁業も工業もなんでもありのフロンティアは大雑把すぎて、のんびり歩いちゃいられない。
茨城にはヤンキーが多いというが、無法者がのさばる西部劇の世界と、どこかうっすらと共通項が見えるのである。

 鹿島神宮駅に飾られている、ジーコ来日時(1991年)の住友金属蹴球団のユニフォーム。

鹿島神宮駅からは鉄道を使って北上を続けていく。水郷地域を抜けて霞ヶ浦・北浦と鹿島灘に挟まれたエリアを北上し、
目指すは鉾田市である。鹿島臨海鉄道に乗ろうとしたら……列車のヘッドマークが、なんか見覚えのあるマークだぞ?
そして車両の側面には……なんか見覚えのある5人組だぞ? しかも水戸ホーリーホックのユニフォーム仕様だぞ?
ということで、すでにここからガルパンとのコラボが始まっているのであった。なんだか聖地巡礼じみてきちゃったなあ。

  
L: 鹿島臨海鉄道の列車。ヘッドマークに見覚えのあるマーク。  C: 見覚えのある5人組。ガルパン車両だったのね。
R: 新鉾田駅に到着し、ホームから街を見下ろす。実にのどかな住宅地。市役所はここから北へ1km弱である。

「新」鉾田駅というからには古い方の鉾田駅もあったのだが、現存していない。かつては鹿島鉄道鉾田線が走っていたが、
2007年に廃止となったのだ。ちなみに鹿島鉄道鉾田線は石岡と鉾田を結ぶ路線で、もともとは関東鉄道の路線だった。
同じく赤字で関東鉄道から切り離されて結局廃止となった鉄道に、岩瀬から土浦までを結んでいた筑波鉄道がある。
冒頭で「鉄道駅から離れたところにある市役所が多すぎる」と書いたが、その原因は両鉄道の廃止によるところが大きい。
モータリゼーションで鉄道が廃止され、そこから20年で合併により市ができる。茨城はそういうプロセスを踏んでいる。

  
L: 鉾田の商店街を歩く。こちらは旧鉾田駅へ向かう東西方向の道。  C: 緩やかに曲がる昔からの道に商店が点在する。
R: こちらは市役所へ向かう南北方向の鉾田銀座。鉾田の街は鉾神社を中心に、2つの商店街が辺となる三角形をしている。

まっすぐ市役所に行ってもつまらないので、鉾田の街の感触を確かめながら、旧鉾田駅まで歩いてみることにした。
鉾田市が誕生したのは2005年。鉾田町が中心となった合併で、中心市街地は今も「町」レヴェルの感触をしている。
緩やかに曲がる道は昔からある街道らしい雰囲気を残し、商店街が点在して意地を感じさせる街並みとなっている。
その商店街を抜けると道は大きく左にカーヴし、その内側に広大な空間があった。バスの営業所となっているが、
その敷地の端っこにあるバス停からは鉄道駅の残り香が漂っている。反対側の端っこにはホームの跡が残っていた。
遺構が残っているあたり、モータリゼーションに適応しているはずの茨城人の深層意識は、実は複雑なのかもしれない。

  
L: 鉾田駅跡。今はバス停とバスの営業所を公園のような形で間を埋めた空間となっている。  C: バス停。少し駅っぽい。
R: 道路から奥の方の端っこにはプラットホームの跡が残っていた。街も、駅の遺構も、どんどん古びている感じ。

市街地の中心にある鉾神社に参拝する。神社としての歴史は比較的新しいようで、1576(天正4)年とのこと。
その後、佐竹氏時代にはかなり荒廃したそうだが、江戸時代に入って再興されている。社殿は1846(弘化3)年再建。
住宅地のコンパクトな神社で、授与所がどこだかわからず結局御守を断念。ネットだと御朱印が出てくるんだけどなあ。
夏祭りが元気いっぱいなので、鉾神社はそれなりの規模があって、無事に御守を頂戴できるだろうと思っていたのだが。
機会があればリヴェンジしたいところである。でも茨城は本当に東京からだと妙な行きづらさがあるんだよなあ。

  
L: まず圧倒されたのが手水舎。東照宮スタイルといった感じ。  C: 拝殿。こちらも色鮮やかに塗られているのが目立っている。
R: しかし本殿は朱塗りだが落ち着いた雰囲気。昔からこんな感じだったのだろう。ここから逆算した拝殿と手水舎なのかな?

参拝を終えると、いよいよ鉾田市役所へと向かう。鉾田銀座の商店街からそのまま右へカーヴして坂を上っていくと、
高台につくられた市役所に到着。上述のように鉾田市は2005年の誕生で、市役所は鉾田町役場として1974年に竣工した。
定礎石に「この庁舎は百里基地の航空機騒音を防止するため防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律に基づいて
防衛施設庁より補助金の交付を受けて完成したものである」と刻まれているのが面白い。はっきり書いてくれて助かる。

  
L: 鉾田市役所。手前に図書館・中央公民館があり、市役所はその奥にある。公共施設が集められた高台に位置する。
C: エントランス。薄緑の屋根板は後から耐震工事のときに付けられた感触だなあ。  R: 北西側より見た正面。

  
L: 西側に寄って見たエントランス。  C: 西側より正面と側面を眺める。  R: 側面。かなり大胆な耐震補強。

  
L: 南側へとまわり込んでいく。  R: 南側より背面。  R: 東側にまわり込んで側面。これにて一周である。

側面の台形格子が非常に目立っているが、これは耐震工事によるものだろう。これがないと典型的な70年代庁舎建築だ。
図書館や公民館など公共施設を隣接させるのも当時らしい価値観だが、建物の間を徹底して駐車場としているのは特徴的。
市役所でも公共施設でも使える駐車場をたっぷりと確保している辺り、茨城のモータリゼーション慣れってことかも。

 
L: 手前から図書館、中央公民館。この左手に市役所が来て、駐車場をぐるっと囲む構図になる。
R: 市役所に貼ってあった献血のポスター。ここもまたガルパンで、しかもわざわざナースコスとな!

頃合いを見計らって再び鹿島臨海鉄道に乗り込むと、新鉾田から南へ戻る。そう、カシマスタジアムでサッカー観戦だ。
朝からたっぷり寄り道してきたが、ラストは鹿島×甲府で締める。 このカード、カシマで観るのは10年ぶりになる。
大木武率いる甲府の最後の試合となった天皇杯(→2007.12.8)。あれから甲府のサッカーは変わり果ててしまったが、
鹿島は相変わらずの勝者のメンタリティである。ジーコスピリットは偉大だなあと思いつつ車窓の風景を眺める。

 霞ヶ浦・北浦の北端が見える。やがて列車は鹿島灘の方へ。

サポーターの皆様と一緒に鹿島サッカースタジアム駅で下車。今日はとことん鹿島臨海鉄道を乗りこなしているなあ。
まずは前回(→2012.7.21)すっきり撮れなかったジーコ像を撮影する。ああこれでようやく気が済んだぜ。

 ジーコ像。これは永遠に残る銅像になるんだろうな。

さて、さらによく考えたら、僕は恒例のスタジアム一周を、カシマサッカースタジアムではまだやっていなかった。
時間的に余裕があるので、気ままにシャッターを切りながら、のんびり一周してみる。どこから見ても変わらんなあ。

  
L: 鹿島サッカースタジアム駅より眺めるメインスタンド側(西側)。  C: ゲート1、北西側より。  R: 北側。

  
L: 北側、ここがアウェイゴール裏になるのかな。  C: 北東へとまわり込む。  R: 東側に出た。ハワイ的なカフェ。

  
L: 屋根を直す工事をしているそうで。  C: 南側。正面っぽいけどホーム側のサイドスタンドになる。
R: 今回はメインスタンドでの観戦であります。やっぱりカシマスタジアムはトラックなくてデカくて立派だなあ。

一周を終えるとスタジアム内へ。練習も始まり、18時30分のキックオフに向けてだんだんとテンションが上がっていく。
やがて大型ヴィジョンに映像が出たが、鹿島の優勝回数を表す星の数のすごいこと。この貫禄は……他と比べようがない。

  
L: サポーターに挨拶する甲府の選手たち。サイドスタンドのこの一角だけに収まっちゃうのか……(鹿島サポが多すぎる)。
C: 対する鹿島のホームゴール裏。勢いがすごい。  R: 優勝回数を表す星がもう、数えきれない。強いなあ。呆れるしかない。

さて、今日の試合観戦のポイントだが……そうだ、10年前にもヴァンフォーレ甲府に在籍していた選手に注目しよう。
甲府の大ヴェテラン・山本英臣だ。大木監督時代から頼れるDFとして活躍していた選手が、今日は先発で出ている。
周りは鹿島サポばっかりだけど、僕はひとりだけオミを応援するとしよう。そのプレーぶりをじっくり見るとしよう。
(調べてみたら、10年前の天皇杯5回戦(→2007.12.8)にオミはベンチ入りしていなかった。ちょっと残念。
 なお、現在の鹿島の監督は、その試合にCBとして先発していた大岩剛である。こうやって歴史は続くのね。)

  
L: 甲府を支える山本英臣(通称・オミ)。佐久間影響下で甲府サポをやめた今でも僕が絶対的に応援している選手なのだ。
C: 鹿島はとにかく余裕を持ってボールをつなげるチームだ。前に観戦したときと比べてその凄みが理解できるようになった。
R: 前半42分、土居からのクロスを山本がヘディングするが、バーに当たる。やはりJ1は一瞬の隙が許されないなあと思う。

オミのプレーぶりはさすがで、ここは危ないというポイントを的確につぶしていく。危険な選手は早めにチェックし、
スペースをケアして入ってくるボールに対応する。オミは決して守備だけの選手ではないのだが( →2012.5.6)、
ヴェテランらしく抜群の読みで甲府の守備をまとめている。オミにクローズアップして観戦するのは勉強になる。

  
L: オミのプレーをピックアップ。レアンドロに前を向かせない守備。さすがである。  C: 危険なボールをしっかりクリア。
R: 後半はかなり霧が濃くなってきた。明日も予定がいっぱいあるってのに、雨が降ったらイヤだなあと思うのであった。

しかし相手は現時点で2位を走っている鹿島である。ただで済むはずがないわなあと思っていたら、後半開始早々得点。
オミはワンツーで抜け出した金崎を止めきれずに先制点を許してしまう。62分にも得点を奪われて、完全に鹿島ペース。

  
L: 後半開始早々の46分、鹿島が先制。左サイドを金崎に破られる。オミは完全にスピードが足りず、うーん悔しい。
C: 狭いエリアでパス交換して甲府のゴール前に圧力をかける鹿島。密集でクリアしきれないので本当に怖かった。
R: 鹿島の2点目。金崎のクロスに対して鈴木優磨が走り込み、爪先で合わせてGKの上を抜いた。FWらしいテクニカルな得点。

ディフェンスで注目している選手がいるチームが2点を奪われてしまうのは、僕としてはそうとう悔しい事態である。
あまりにも悔しいのでオミのかっこいいシーンの写真を貼り付けてやるのだ。鹿島ばっか強くても面白くないんじゃー!

  
L: ドリブルで持ち込むのは先ほど得点した鈴木優磨。オミが対応する。  C,R: きれいに体を入れてボールを奪うの図。さすが!

  
L: FKだって任されているもんね。  C: 72分、ドゥドゥのクロスにウィルソンが合わせるが、残念ながらポストに嫌われる。
R: 終了直前、ゴール前に抜け出た安部に3点目を決められる。すでにオミは退いていたが、彼がいたらなかった失点だと思いたい。

というわけで、結果は0-3。鹿島がさすがの貫禄を見せつけたのであった。有望な若手が躍動するチームはいいですね。
僕としてはせっかくオミが出た試合で完敗というのは泣けてくるのだが……。いいプレーが見られたのはよかったけどね。

 
L: 首位・C大阪をしっかり追撃する勝利をあげてみなさんうれしそう。鹿島サポにしてみりゃ大満足のゲームだわな。
R: 鹿島サッカースタジアム駅から見た夜のカシマスタジアム。見事な美しさだが、それ以上に霧がすごい。明日は大丈夫か。

鹿島臨海鉄道で一気に水戸まで出る。わざわざ水戸に泊まるのは久しぶりだなあ。明日も全力で茨城県を堪能するのだ。


2017.7.28 (Fri.)

実地踏査も3日目、やっとこさ最終日である。個人的な旅行なら感傷に浸りつつ帰り支度をするところだが、
なんせ仕事なので無意識に神経をつかってばかりでたまらない。ようやく解放されるのだ……という感情である。

宿泊施設を後にすると、本日最初の目的地である八ヶ岳中央農業実践大学校へ。3年前に来たので(→2014.6.7)、
だいたいの勝手はわかっている。手続き関係が変わっていないことを確認すると、軽くあちこち散歩して完了。

 子ヤギはいつ見てもかわいいものだ。

次は「三代校舎ふれあいの里」という施設。「三代校舎」とはつまり、明治・大正・昭和の校舎を指している。
それぞれの時代に建てられた校舎が並んでいるのは日本でここだけ、という話である。確かにそれは貴重だ。
明治に建てられた校舎は「津金学校」という名称。1875(明治8)年築の擬洋風建築で、歴史資料館となっている。
大正に建てられた校舎は、そのものズバリの「大正館」。1924(大正13)年築で、農業体験施設となっている。
外観は往時のままだが、中身はリニューアルされている。そして昭和の校舎は、「おいしい学校」という。
時代が下るにつれて日本人がバカになっていると以前書いたが(→2014.7.21)、この名称もまたそう感じさせる。
元の学校は1953年築だったが、2000年に新築のイタリアンレストラン・宿泊施設としてオープンしたとのこと。
お昼はこちらでほうとうを自分たちでつくっていただく。3年前にも別の施設でやったことだが(→2014.6.9)、
山梨県の体験施設では定番なのだろう。ブサイクに切っても問題ないほうとうなら、中学生にはちょうどいいもんな。

  
L: 1875(明治8)年築の津金学校。  C: 往時の教室を再現した箇所。  R: 玄関の真上、ポーチはこんな感じである。

ほうとうが茹であがるまでの間、せっかくなので津金学校を見学させてもらう。趣味と実益を兼ねているなあ、自分。
副校長も置いてあった昔のオルガンに触ってみるなど、興味津々のご様子。中でもいちばん面白かったのが、太鼓楼だ。
つまり現在のチャイムのかわりに太鼓を叩いていたわけだ。今もきちんと太鼓がぶら下がっているのがいい。

 太鼓楼の太鼓。中に入れるのもうれしいし、きちんと太鼓があるのもうれしい。

ほうとうができたということで、見学終了。3年前みたいに常識はずれな量ではなく、きちんと理性的な量で安心。
やっぱり自分でつくるメシより他人がつくってくれたメシの方が旨いと思う(他人が炊いたメシがいちばん旨い)。
今回のほうとうづくりに自分はそんなに熱心に関わっていないので、おいしゅうございました。

 山梨県らしい山の幸をいただく。

あとはもう、ひたすら東京を目指すだけである。バスの中でぐっすり寝っこけて、気がついたら東陽町なのであった。
いやー、疲れた疲れた。そして明日からは……1泊2日で茨城県へ突撃の予定である。全力で体を休めなければ……!


2017.7.27 (Thu.)

無呼吸で本当にすいません。

実地踏査2日目は登山である。車山に登る予定が組まれていたのだが、突如、編笠山へ登ろうと偉い人が言い出した。
(編笠山は八ヶ岳連峰の最南端に位置する山。昨日登った入笠山のだいたいトイメンと思えばよい。)
われわれは来年、車山に登るつもりである。下見なんだから車山に行かなきゃダメだろ、と僕はお断り。そらそうよ。
しかし、なんだかんだで半分弱の人が編笠山方面へ突撃するのであった。天気が悪いのに元気だなあと思うわ。

  
L: というわけで車山。見事に頂上がガスっとる。  C: リフトでいきなり山頂へ。何も見えん。  R: こちらも二等三角点。

車山は体力的にまったくつらい要素がない。蝶々深山を経て八島湿原まで出るハイキングコースをゾロゾロ歩く。

 
L: 振り返ると白樺湖周辺が見えた。  R: 定番のコースを歩いて蝶々深山を目指すの図。天気が冴えないとどうにも……。

天気が悪いので、あちこちに泥の水たまりがあるのが面倒くさい。そんなこんなで山を下りきると八島湿原である。

 
L: 八島湿原。  R: どんどん霧がかかってくるんですけど。

ビジターセンターに到着してハイキングは終了である。土産物屋に入ったら、定番のお菓子のほかに謎の土産物を発見。
まずは、万治の石仏(→2014.8.17)を萌えキャラ化したという「阿弥陀万里(あみだ・まり)」のフィギュアである。
下諏訪町のご当地萌えキャラだそうだが、もうなんでもありのヴァーリ・トゥードになっとりゃせんか。いやはや。
さらに万治の石仏をキャラクター化したご当地プラモデル「万念君」も、隣に置いてあった。ご……ご当地プラモデル!
これまたヴァーリ・トゥードである。地元の牛乳を飲みつつ、キャラ商売(→2013.9.30)はキリがないなあと呆れる。

  
L: 阿弥陀万里フィギュア、650円。  C: 万念君のご当地プラモデル、1240円。買うやつおるんか?  R: 八ヶ岳乳業の牛乳。

本日の最後は、スパティオ小淵沢に併設されている体験工房で話を聞く。とにかく体験できるコースが豊富なのが特徴。
ただしお値段はやや高めな印象。希望人数と好み体験のバランスがとれるかどうかもあるので、ちょっと大変かもと思う。
お隣というか同じ敷地内の「道の駅こぶちざわ」は地元の食材がいっぱいで大賑わい。お土産を買い込む先生もいた。
僕は……食材を買ってもしょうがないので、やっぱり牛乳をいただいたのであった。高原だと飲んじゃうよね、牛乳。

 八ヶ岳山麓牛乳。こちらも八ヶ岳乳業の製品だが、販売先が限られているみたい。

編笠山班はなかなかハードな登山だったそうで。天気がよければいいんだろうけどね、梅雨時はとてもとても。


2017.7.26 (Wed.)

2年生の宿泊行事は諏訪・富士見町周辺での移動教室であります。で、その1年前に下見しとけ、ということで、
本日はその実地踏査1日目。区内の中学校から1人ずつ人身御供が集まって2泊3日なのだ。区役所集合でバスで連行。
もっとも、お目付役側でウチの副校長も参加するので、僕としてはたいへんありがたい。おんぶにだっこでいくぜ!

バスはいきなり入笠山の沢入登山口に乗りつけて、そのまま登山スタート。まあそれ自体はどうということはないが、
果たして来年登るかどうかわからない山にいきなり連れてこられてテンションが上がるはずもない。淡々と頂上へ。
山頂に着いても分厚い雲が視界を覆っていて、ニンともカンとも。梅雨時の登山とはうれしくないものだなあと思う。

  
L: 途中の入笠湿原。晴れたのここだけ。  C: 入笠山の山頂。雲がなあ……。  R: とりあえず二等三角点を撮影したよ。

入笠山は赤石山脈(南アルプス)最北端で、晴れてりゃ諏訪湖と盆地を一望できるのだが。残念である。
(杖突峠(→2006.8.16)からの眺めがそれに近い。この写真、手作業で無理やりパノラマに加工したなあ……。)

 いちおう、分厚い雲の下にある諏訪湖はちょこっとだけ見えた。

下山すると、茅野市尖石縄文考古館へ。周りの皆さんが淡々と見学しているので、あまりはしゃぐ感じにもならず、
土器をちょろっと撮影するだけで終了。国宝の土偶2体の写真をきちんと撮らなかったことを今になって大後悔している。

 こりゃまた思いきった造形だなあ。

見学を終えると、区の宿泊施設へ移動。富士見町に移動教室専用の宿泊施設を持っているそうで、豪快なものだなあと。
しかし残念ながら老朽化によって閉鎖予定で、来年度が最後になるとのこと。メシ食って軽く酒飲んで寝るのであった。



2017.7.23 (Sun.)

紀伊半島縦断の2日間はもう本当に面白かったが、せっかくだからもう一日分足して、まだ見ぬ市役所を訪れるとする。
実際のところ、紀伊半島を縦断しただけだと東京に戻る手段が夜行バスだけになってしまって体への負担が大きいので、
新幹線の範囲まで戻る一日分を付け加えたってことである。そう、しょうがないので一日足したのだ。ウェヒヒヒヒ。

さて、今いるのは新宮市だが、本日最初の目的地は田辺市である。同じ和歌山県とはいえ新宮は東端で、田辺は南西端。
紀伊半島を突っ切る厳しさは一昨日と昨日イヤというほど体験しており、素直に紀勢本線で海岸沿いを行く予定である。
しかし特急くろしおのお世話になっても2時間かかる。和歌山県というか旧紀伊国というか牟婁郡の凄まじさを感じる。

特急くろしおは新宮駅を6時半に出るが、その前にやっておきたいことがある。昨日、急遽それが発生してしまったのだ。
僕はぜんぜんチェックしていなかったのだが、なんと、新宮市役所が新しくなっていたのである。これは撮らねば!
(前回訪問時のログを確認したら、プロポーザルで設計者が佐藤総合計画に決まったことを把握してやんの。忘れてた。)
厳密に言うと竣工直前のタイミングらしく、まだ供用開始になっていないようだ。でも次いつ来れるかわからんもんね。

宿を出るとまず通りに出て、山腹にある神倉神社のゴトビキ岩(→2013.2.9)を撮影する。遠くからでもはっきりわかる。
4年前に地元の方に指摘されたとおり雑な参拝だったので、いつかリヴェンジできますようにと手を合わせるのであった。

 新宮の街を見下ろしている神倉神社のゴトビキ岩。存在感は抜群である。

ではいよいよ新・新宮市役所の撮影である。時刻は6時15分ほどだが、夏至を過ぎてまだ1ヶ月くらいだからか、
すでに十分に明るい。下手すりゃ冬の正午からはずれた時間よりも、光の加減が良いかもしれないなあと思いつつ撮る。

  
L: 新宮市役所(となる予定の建物)。  C: 南側、正面より眺めたところ。  R: 東側へと移動していく。

  
L: 東側に隣接する低層棟と一緒に眺める。  C: 反対の南西側より撮影。やっぱり朝6時台は太陽が低くて大変だ。
R: 少し西へとズレて撮影。太陽が電柱にぶつかる角度でどうにか撮影したところ。角度が限られる撮影はつらい。

  
L: 西側、側面を撮影。  C: 背面にまわり込んで北西より撮影。  R: さらに距離をとって背面を眺める。竣工直前。

ギリギリまで粘って撮影すると、急いで駅へ行って特急に乗り込む。特急とはわれながら贅沢なものだと思うが、
紀伊半島ってのはそうしないととてもやっていられないぐらい距離があるのだ。ケチっちゃいけない部分である。

紀伊田辺駅に到着したのが8時31分。市街地はやはり4年前に歩いたので(→2013.2.10)、だいたいの位置関係はわかる。
最初のターゲットは、その4年前にも訪れている闘鶏神社だ。御守を頂戴していなかったので、ぜひいただこうというわけ。

  
L: 闘鶏神社の一の鳥居。  C: 鳥居を抜けると馬場である。闘鶏神社は市街地にあるので、この規模の馬場が残るのはすごい。
R: 闘鶏神社の境内入口。熊野三山のすべての祭神を祀る別宮的存在ということで、さりげなく歴史と威厳を感じさせる。

あらためて境内をじっくり散策してまわる。闘鶏神社は市街地に鎮座しているが、この一角だけ木々が鬱蒼としており、
今も特別な空間であり続けていることがうかがえる。田辺城は会津川の河口左岸に位置していたが(水門だけが残る)、
城下町の発達につれて東へと市街地が拡大していき、闘鶏神社を取り残して宅地化が進んでいったというわけだ。

  
L: 境内の様子。社殿が南側に集まっており、長い玉垣で囲まれている。6棟が西殿・本殿・上殿・下殿・八百萬殿の順に並ぶ。
C: 拝殿を眺める。やはり神仏習合っぽいデザイン。  R: 本殿を覗き込んでみた。1661(寛文元)年築と、ひときわ古い。

闘鶏神社の社殿の配置は非常に独特。鳥居をくぐると右手、つまり南側に玉垣があり、その奥に社殿が並んでいる。
実はこれ、1889(明治22)年の大水害に遭う以前の熊野本宮大社(→2013.2.10)とまったく同じ配置になっている。
玉垣のせいで一見すると地味な印象もあるが、近づいてみるとやはり他にない要素なので、異様な雰囲気が漂う。
なんというか、タダモノではない感触に圧倒されるというか。妻入と平入の対比もまた興味深いところである。

  
L: 並ぶ社殿。だいたいが18世紀前半の築で、6棟そろって国指定重要文化財。熊野の聖性がビシビシ伝わってくる。
C: 「熊野」を神社名に入れるような単純なことをせず、源平合戦のエピソードを優先しているところがかっこいいと思う。
R: 藤厳神社。紀伊田辺藩・初代藩主の安藤直次を祀る。徳川頼宣が紀伊に入った際に附家老として田辺にやってきた。

御守を頂戴する際に「1体」と数えたところ、職業を訊かれた。教員やっとりますが、と答えると、さすがですねと。
きちんと御守の助数詞を知っているからどんな人なのか気になったそうで。そんな大したことではないんですけどね。
単なる御守マニアなだけなんですけどね。まあでも、褒められて悪い気はしないのだ。いい気分で闘鶏神社を後にする。

 
L: 闘鶏神社の御守。ニワトリのデザインは小さいもののみでちょっと残念。下のカラフルな肌守も面白い。
R: 鳥居を抜けた参道沿い、弁慶生誕の碑がある大福院のお堂。かなりひどい状態なのだが、なんとかならんのか。

せっかくなので田辺市役所を撮影する。4年前にも撮っているけど、カメラの性能に納得がいっていないのね。
田辺市役所は海のすぐ近くという立地と老朽化により、市役所庁舎の移転の方針が決まっている状況である。
闘鶏神社から東へちょっと行ったところにあるオーシティ田辺が有力な移転候補地となっているようだ。
建設が始まるのはまだ先の話なので、とりあえず現在の田辺市役所の勇姿をしっかり記録しておこうと思う。

  
L: 田辺市役所。1970年竣工なので確かに古いが悲観するほどでもない。結局は海に近すぎる立地が問題なんだろうな。
C: 敷地内に入ってみて撮影。実は大胆なピロティ。  R: 正面から眺める。西隣が紀南文化会館だから狭苦しい印象。

  
L: 田辺市役所はスロープで2階のエントランスに直接入れる構造が独特。  C: スロープ上より眺める。  R: 2階レヴェル。

 
L: 北西側から見た背面。市役所の西側は紀南文化会館で完全に遮られている。  R: 東側からわずかに見える側面。

市役所の西隣で交差点に面している紀南文化会館もいちおう撮影。1984年竣工ということで、それらしいスケール感。
ホール施設を市役所に隣接させる手法は珍しくないが、市役所が完全に存在感を失ってしまうほど立派につくるのはまれ。
和歌山県第二の都市として、それだけの気合いを入れたのだろう。だいたい紀南文化会館って名称からして気合い十分。

  
L: 紀南文化会館。  C: 正面から眺める。  R: 東側より。駐車場の分だけ奥まった田辺市役所は存在感が削られている。

さて田辺には「田辺の三奇人」なる言葉が存在するそうだ。それすなわち、武蔵坊弁慶・南方熊楠・植芝盛平とのこと。
だいぶ時代に偏りがあるし、「偉人」という括りでよさそうな気もするが、それだと超人性が表現できないのだろう。
まあこの3人は紛れもない超人ばかりなので、「奇人」で納得するよりない。いやホント、とんでもないメンツだなあ。
で、何が言いたいのかというと、南方熊楠顕彰館へ行ってみたら開館時刻が10時で泣く泣く諦めたということだ。
なんで9時からやっていないのかと。ふつう9時からだろと。こんなところで奇人ぶりを発揮しなくてもいいのにと。

 
L: 南方熊楠顕彰館。南方熊楠邸をもとに2006年にオープンした。  R: 中を覗いたらすげえ面白そうな建物。入りたかった……。

列車は紀伊田辺駅を10時6分に出発するので、南方熊楠顕彰館を諦めたとはいえ、そんなに余裕があるわけではない。
田辺の商店街は場所によってけっこう雰囲気が違うので、4年前の記憶とともにそれを確認しながら駅まで歩いて戻る。

  
L: 駅前のアーケード商店街。  C: そのまま南に延びるアオイ通り商店街(県道206号)。かつては道幅が狭かったそうだ。
R: 東西方向の銀座商店街。2000年に「アートパークシティ(芸術公演都市)」を標榜してリニューアル。おしゃれではある。

田辺を後にすると、紀勢本線は海と山をしっかりと満喫して次なる目的地の御坊市へ。しかし御坊駅は市街地の北端。
そこで頼りになるのが紀州鉄道である。紀州鉄道は、御坊駅から西御坊駅まで2.7kmの紀州鉄道線を走らせている私鉄だ。
「日本最短のローカル線」を名乗っているそうだが、その実態はなんと、東京に本社を置く不動産会社なのである。
これはつまり、不動産会社が「鉄道会社を保有している」という信用価値を獲得するために鉄道会社を買収したから。
現代の日本では鉄道系の不動産会社が多数活躍しているが、鉄道会社を保有してそれと同じ土俵に上がろうというわけ。
もっとも今年の1月には脱線事故を起こしており、対策として枕木の交換を進めているとか。廃線にならなきゃいいが。

せっかくなので、終点の西御坊までわざわざ揺られて、そこから御坊市役所を目指す。松原通りを東へ歩いていき、
突き当たりをぐるっとまわり込んで本願寺日高別院へ。この寺が、「御坊」という地名の由来となったのである。
もともとこの地域は日高郡に含まれており、明治になって郡役所が置かれた村が「御坊村」を名乗ったのだ。
ちなみに「御坊」は「別院」の古い名称で、本山に準じるクラスの寺のこと。浄土真宗は全国各地に別院を置いている。

  
L: 西御坊駅にて。かつてローカル私鉄は全国各地にあったが、この規模がいまだに残っているのは奇跡としか思えない。
C: 本願寺日高別院の正門。建物はまるごと御坊市指定有形文化財となっている。  R: 本堂は1825(文政8)年の築。

「The 御坊」な地名だけに、さぞかし規模の大きな寺なのだろうと思ったら、穏やかな地方都市相応のお寺という感じ。
確かに建物は立派だが、いかんせん都会や県庁所在地レヴェルの別院などと比べると見劣りするし、活気はイマイチ。
周りの門前町が過疎化の波で干からびているのと同じ感触の古び方である。まあしょうがないんだけど、やるせないなあ。

  
L: 本願寺日高別院へ至る門前町の通り。往時の雰囲気はしっかり漂わせているが、市街地衰退の波が直撃している。
C,R: かつては商店街だったのだろうが、仕舞屋だらけ。老朽化した木造建築ばかりが目立ち、将来が本当に不安な街並み。

御坊市役所を目指して西へと針路変更。すると途中で、紀伊御坊駅から南に延びる本町商店街にぶつかった。
さっきの門前町と比べると、こちらはまだまだどうにか営業中。しかし昭和の匂いがまったく更新されていない。
紀伊半島は山がちで、外周の海沿いの街はどこも限られた平地でやりくりしているのだ。栄える条件が厳しすぎる。

  
L: 御坊の本町商店街。炎天下でよけいに干からびて見えるというか。  C: 昭和の匂いはいいけど、ほとんど更新されないまま。
R: 「ごぼうめがね」ってひらがなで書くと、フレームがゴボウでできているメガネを想像してしまうんですが。ゴボウメガネ。

商店街を往復すると、再び西へと歩く。途中で御坊市民文化会館の前を通りかかったのだが、なかなかモダン。
耐候性鋼でわざと錆びさせる屋根が印象的だが、調べたら1984年オープンと、思ったよりもずっと新しい建物だった。

 
L: 御坊市民文化会館。外観のデザイン的には1960年代っぽい印象だったが。  R: 東側から眺めたところ。

紀州鉄道の線路を越えると御坊市役所の背面である。そこから国道42号に出て、敷地の西側へとまわり込む。
ここまで紀州鉄道といい日高別院といい商店街といい、「弱っている御坊」という印象が強かったのだが、
市役所はそれとは対照的にかなり豪快なスケール感である。本庁舎と議会棟はどちらも1973年の竣工。

  
L: 御坊市役所。左が本庁舎で、右が議会棟。両者の側面を見ると、確かに統一感を持たせた仕上がりだ。
C: 敷地の南側から撮影。本庁舎を北に、議会棟を東に寄せて駐車場を確保しているので、撮影しやすい。
R: 少し東側に動いて撮影。本庁舎と議会棟は、敷地の端にカギカッコ型で配置されているのがわかる。

本庁舎をクローズアップしてみるが、とにかく大きい。本庁舎の手前は十分に広い駐車場となっているが、
カメラの視野に収まらない。ファサードの白とタイルの黒が好対照で、しっかり凝ったデザインとなっている。
白の部分に注目すると1960年代以来のモダンさをそのまま4階建ての規模に拡張したシンプルさであるし、
黒の部分に注目するとそのシンプルさを部分的にタイルで包み込む1970年代らしいおしゃれさがうかがえる。

  
L: 御坊市役所本庁舎。  C: カメラの視野に収まらないが、真正面から見るとこうなる。建物じたいはシンプル。
R: 議会棟側から見たところ。市庁舎建築が大型化していくちょうど過渡期のデザインという印象。興味深い事例だ。

本庁舎を実際には手堅くまとめているのに対し、議会棟はかなり冒険している印象である。まずピロティ。
そして象やマンモスのような外観。本庁舎では側面にしか使わなかったタイルで全身を覆って独自性を発揮する。
屋根の形からして中身はホールを応用したような議場であるのはわかるが、かなりのインパクトである。

  
L: 議会棟の側面。大胆なピロティだ。  C: 斜めの角度で眺める。  R: 南側から見る。象か何かの顔みたいだ。

議会棟の下に潜ると、座席が並ぶ形のベンチが中心の柱を囲むように配置されていた。来庁者が自由に休める空間だ。
議場の真下にそのようなスペースをつくるとは、なかなか気が利いているではないか。圧迫感はあるが、悪くない。

 
L: 議会棟のピロティ下。ベンチが置かれて自由に休める。それにしても打ちっ放しのコンクリートが豪快だ。
R: 駐車場のど真ん中にある中庭にて。御坊市名誉市民第1号の日系2世・和田勇氏を顕彰するレリーフがある。

最後に敷地の北側に再び出て、本庁舎の背面を撮影する。黒と白の対比がよりはっきりして、見事な姿である。
色合いとしてはペンギンっぽいところがあるのだが、規模が大きいのでシャチやクジラといった感じもある。
見れば見るほど、上手い凝り方をしている建物だと思う。シンプルさを保ちながら、しっかり個性を出している。

  
L: 北西側より眺める。ペンギンっぽいけど、デカい。  C: 敷地の北東端から見上げる本庁舎の背面。
R: 議会棟も込みで、北東側から見たところ。こうして見ると、本庁舎と議会棟の統一感がはっきりわかる。

御坊市での滞在時間はあまり取れなくて、最後はかなり大急ぎで御坊駅まで戻ることに。いやー、必死で走った走った。
紀州鉄道線は御坊駅の次が学門駅で、駅間の距離は1.5kmと全線の半分以上を占める。御坊の市街地は学門駅周辺からで、
それまでの空間は見事に農地オンリー。そこを一気に突っ切りどうにか間に合った。最後の最後で御坊らしさを実感した。

御坊駅から列車に揺られること30分、箕島駅に到着である。和歌山県の箕島といったら箕島高校が野球で有名で、
真っ先に名前が挙がるのが西武で活躍した東尾修。あと、ヤクルトでも活躍してくれた吉井理人も箕島高校なのだ。
しかし市名は「有田(ありだ)市」。これは箕島町が中心となって合併した際、郡名の「有田」から名前を採ったから。
有田みかんが全国的に有名で、なるほど山の斜面には等高線の走査線が走っている。八幡浜と一緒だ(→2016.7.17)。

 水平な線が山肌を削るように走っている。みかんの名産地特有の景観だ。

箕島駅から商店街をまっすぐ南下して、有田川にぶつかったところで東へと針路を変える。有田市役所はすぐそこだ。
印象としては、丹下健三の香川県庁舎(現・東館 →2007.10.62015.5.3)をミニチュア化したような感じである。

  
L: 有田市役所は1987年竣工。有田川(南)側から見ると、丹下先生の香川県庁舎っぽい印象なのだが。
C: 南西より眺める。  C: 南側から。川に面しているので場所に余裕がなく、正面からの撮影はかなり厳しい。

精細な写真でないとわかりづらいが、ピロティの柱と回廊状のベランダ部分はコンクリートで、あとはタイル仕上げ。
背面にまわると香川県庁舎東館との違いははっきりして、屋根を見るとなるほどこれは1980年代っぽいなあと納得。

  
L: 南東側から眺める。  C: 裏手にまわると香川県庁舎東館との違いがはっきりする感じ。屋根が80年代風だ。
R: 北から見た背面。国道480号は有田川の堤防上にあるので、背面側は1フロア分低くなっているというわけだ。

設計は富松助六(富松建築設計事務所)。和歌山県で活躍した建築家で、和歌山県民文化会館の設計で知られるようだ。
かつては市役所に隣接して同じ富松助六設計の旧有田市民会館があったが、現在は新築の消防庁舎となっている。

  
L: 北西側より。屋根は結局、議場が載っている分こうなったのだろう。個人的には屋根の処理を惜しく感じる。
C: 対岸から眺めた有田市役所。  R: 距離をとって後ろのみかん畑とともに。市役所の手前は2014年竣工の消防庁舎。

消防庁舎の北側には新たな有田市民会館がつくられている。ホールのほか、2階には図書館がある複合施設となっている。
オープンは6日後ということで、周辺の整備がまさにラストスパートといったところ。中はどんな感じなのか気になるねえ。

  
L: 有田市民会館。指名参加希望型プロポーザルで徳岡設計・アール企画・Spazio JVを設計者に選定している。
C: 正面より。  R: 箕島中学校のグラウンドがあるので西側からは非常に見づらい。せっかく凝っているのになあ。

有田川を渡って左岸へと移動するが、その前に交差点にある有田市文化福祉センターを撮影。実はこの建物、
4階に有田市郷土資料館と有田市みかん資料館があり、入口には上段に「郷土」、下段に「みかん」と併記されている。
有田のみかんが重要な産業であると再認識。みかんといえば和歌山と愛媛で、和歌山のみかんは有田が支えているのだ。

 有田市文化福祉センター。でも、みかん資料館に入る時間的余裕がなかった……。

有田川の左岸は矩形に道路が走っており、農地と郊外型店舗が入り混じっている。箕島を中心とする市内各地から、
皆さん車でこの辺りに買い物に来るんだろうなあと思いつつ歩いていく。さて、こっち側に来た目的は浄妙寺である。
郊外地帯から山へちょっと入ったところにあるのだが、境内は緑が多くてまるで公園のような雰囲気だ。居心地がいい。
鎌倉時代の築である本堂(薬師堂)と多宝塔が国指定重要文化財。確かに古びた感触がそれらしい風格を感じさせる。
しかし緑豊かな境内がみずみずしい印象にまとめる。みかんを育てる温暖な土地ならではの見事な対比だと感心する。

  
L: 浄妙寺の境内。緑が元気いっぱいで、有田が温暖な土地であることを実感させる。雰囲気はもはや公園のそれだ。
C: 本堂(薬師堂)。  R: 多宝塔。秀吉の紀州侵攻に遭うも、薬師堂とともに残った。どちらも江戸時代に改修されている。

以上で有田市の徘徊を完了とする。できれば海南市にも寄りたかったが、現在は新庁舎が竣工直前というタイミング。
それならいずれ、きちんと竣工した後に行くとするのだ。しかし市役所の新築ラッシュは本当に頭の痛い問題である。

 紀勢本線から見た和歌山マリーナシティ。

残った時間は御守頂戴にあてるのである。まずは4年前にも訪れている、紀三井寺(→2013.2.10)を再訪問する。
駅からちょいと歩くが、要領はわかっている。より南側にある正式な山門からがんばって石段を上がっていく。
相変わらず本堂が見づらい。前回は冬だけど枝が邪魔で、今回は夏だから葉っぱがワンサカ。ま、それが紀三井寺だ。

  
L: 紀三井寺への参道。  C: 石段。しかしよく見ると石垣が見事だなあ。  R: 本堂。春には桜のトンネルかな。

紀三井寺で御守を頂戴すると、そのまま北へと歩きだす。本日のラストはちょっと大変だけど、がんばって歩くのだ。
目的地は、竈山神社である。紀三井寺が貼り付いている山が名草山で、これをぐるっと90°北にまわり込むというわけ。
名草山のせいで右側がまるで壁のようになっている住宅地をひたすら北上すると、和田川という川にぶつかった。
ここから延々と県道142号を東へ行く。時刻は15時前後で、なかなかの炎天下である。無心で歩いているとやっと到着。

  
L: 竈山神社の入口。  C: 神門。現在の規模の境内が整備されたのは1938年ごろだそうだが、なるほど近代神宮の香り。
R: 拝殿。社殿は1939年の造営ということで、やはり近代神宮らしい計算された美を感じる。空間的に余裕があるのよね。

竈山神社に参拝するのは5年ぶりだ(→2012.2.24)。日前宮・竈山神社・伊太祁曽神社で和歌山三社参りとなるが、
一宮である日前宮と伊太祁曽神社はすでに御守を頂戴している(→2014.11.8)。本日、残りの竈山神社を押さえるのだ。
二礼二拍手一礼して授与所へ行くと、うーん御守の種類が豊富。特に「ふつうの御守」が多くて、大いに困ってしまう。
とりあえず標準的と思われる、手前にあるものを1体ずつ頂戴した。サーヴィス精神が旺盛なのも、ちょっと困るなあ。

  
L: 本殿を覗き込む。よく見えない……。  C: 竈山神社はふつうの御守がヴァリエーション豊か。  R: 竈山墓。

以上をもちまして、紀伊半島縦断+αの旅は終了である。紀伊半島西側沿岸の市はこれでだいたい押さえた格好だ。
しかし海南市は市役所を新しくしちゃうし、淡嶋神社まで参拝することはできなかったし、まだまだ課題は残っている。
いつかリヴェンジしたいなあと思いつつ、新大阪駅で買った白バラコーヒーをすすりながら新幹線に揺られるのであった。


2017.7.22 (Sat.)

紀伊半島縦断の2日目は、いよいよ十津川から新宮へと抜けてゴールである。しかしながら当然、寄り道しまくる。
せっかくの十津川なんだから、あちこち行けるだけ行かなきゃいかんのだ。朝から温泉に浸かってフルパワーである。
それにしても宿の朝ごはんはおいしゅうございました。これなら素直に昨日の晩も宿のメシをいただいておくべきだった、
と深く後悔するのであった。やはり旅にはケチってはいけない部分があって、その見極めができるのが賢さなのである。

 宿の車でホテル昴まで送っていただいた。第三セクター方式で1989年にオープン。

やがてホテル昴にマイクロバスが到着した。ほかの観光客もいて、僕を入れて5人の乗客を乗せて走りだす。
「世界遺産予約バス」という名前で、土・日・祝日のみの運行である。目的地は玉置(たまき)神社だ。
バスはいったん十津川温泉を経由し、そこから対岸の山の中へと入る。道は大いにくねりながら標高が上がっていき、
40分ほど細い山道を進んでいったところでついに駐車場に到着。皆さん鳥居をくぐって砂利敷きの参道を行くが、
僕はひとり、来た道を少し戻って途中にある階段へと入り込むのであった。せっかくだから玉置山の山頂を目指す。

頂上までは約700mということで、まったくと言っていいほどキツくない道だった。よく整備されていて歩きやすい。
問題はクマに注意の看板があることぐらいか。襲われたらヤダなあと思いつつ早歩きで進んだら、10分弱で山頂に着いた。

  
L: 駐車場から少しだけ離れたところにある玉置山の登山口。神社が9合目にあるので、わりとすぐに頂上に行ける。
C: 玉置山への登山道。尾根筋なので明るい林の中を行く感じ。足場も良好。  R: 玉置山の山頂。特に名物はない。

ではここから下って玉置神社の境内へと突入するのだ。先ほどとは雰囲気が異なり、勾配はだいぶ急になる。
それでも道ははっきりとわかるので、勢いよく杉林の中を下っていく。するとまずは霊石三ツ石神祠が現れる。
そこから下ると玉石社。道には簡素な木の鳥居が無数に建てられ、下から見上げると非常に独特な雰囲気を感じる。
稲荷系の奥宮(→2014.11.232016.2.5)に似た感触がなくもないが、すべてが木の色なので透明感がある。

  
L: 霊石三ツ石神祠。「玉置」の由来を思わせる磐座。  C: 玉石社。  R: 少し下って見上げた景色。

玉石社からさらに下っていくと、出雲大社玉置教会の脇に出る。出雲大社がここまで勢力を伸ばしているとは驚きだ。
実はこれ、明治の廃仏毀釈により十津川村民が大社教に属した事実を物語る。そこからまわり込むと三柱稲荷神社。
こちらは玉置神社の摂社だが、公式サイト曰く「謎が多く、説明が難しい」そうだ。独自の御守があるので頂戴した。

  
L: 出雲大社玉置教会。この辺りから人間界らしい雰囲気に。  C: 倉稲魂神・天御柱神・国御柱神を祀る三柱稲荷神社。
R: 境内から下っていくと大杉。周囲11mで高さ約50mだが、周囲に見事な杉がいっぱいあるのであんまり目立たない。

大峯修験道では、今回の僕と同様(たまたまだけど)、本殿に先んじて玉石社を礼拝するのが習わしだそうだ。
でも別に狙ったわけではないので、以降の写真は素直に駐車場から延びる参道を進んだ場合の順序で貼り付ける。

  
L: 駐車場に面している鳥居。ここから玉置神社の境内までは意外と距離があり、帰るときにかなり焦った。
C: 表参道はこんな具合。高低差のあるルートとなっている。  R: 最後はまわり込む感じでこちらの鳥居に出る。

林の中をぐるっとまわって鳥居をくぐると、石垣の上に建てられた本社が現れる。晴れていれば非常に威厳があるし、
霧が広がっていればものすごく神秘的だろう。どんな天候の下で訪れても参拝客を唸らせる魅力がある建物だと思う。
Wikipediaによれば、1794(寛政6)年の再建とみられているそうだ。山の中にあるためどうしても境内は狭めで、
本社をじっくりと眺められる場所は限られている。でもどっしり構えたその姿は、そのどの角度から見ても美しいのだ。

  
L: 玉置神社の本社。美しく撮影するにはこの角度から眺めることになると思うが、計算された建てられ方だと感じる。
C: 社務所・台所方面つまり真横から眺めたところ。  R: 本社の正面側をクローズアップ。迫力に圧倒されますな。

先ほどチラッと書いたように、玉置神社はもともと溶岩による玉石を神奈備とした磐座信仰から始まっているようだ。
これが後に吉野と熊野を結ぶ大峯奥駈道のルートとなり、江戸時代には「熊野三山の奥の院」と呼ばれるようになった。
そしてこの大峯奥駈道が強烈なのである。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録されている道で最も厳しい。
吉野からしてすでに山の中だが(→2010.3.302015.9.20)、大峯奥駈道はさらにそこから奥へと入る道なのだ。
同じ熊野古道でも、中辺路の一部で観光客に人気の大門坂の石畳(熊野那智大社への参道 →2013.2.9)なんて、
大峯奥駈道に比べりゃアウトバーンですよ、アウトバーン。後述するが、両方歩いた自分にはその落差が衝撃的だった。
途中にある大峰山・大峯山寺はガチガチの修験道空間で、いまだに全開バリバリの女人禁制をやっているくらいだもん。
玉置神社はそういう俗世と離れた雰囲気をしっかりと漂わせているのである。別世界の価値観を体感できる場所なのだ。

  
L: 反対側から眺めた本社。  C: 本社の脇にある摂末社群。  R: 本社裏の神代杉。樹齢3000年という話。

帰りのバスは11時10分発と、まだまだ時間的な余裕はある。社務所の中にお邪魔して狩野派の杉戸絵を拝見したり、
実際に大峯奥駈道をちょろっと歩いてみたり。玉置神社の境内から離れると心配なのでそんなに深入りしなかったが、
道は細くて勾配も急であり、自然と同化しかけている感じがある。少し下っただけで「これはヤバい!」と直感した。
それでももうちょっと進もうかと思ったら、ピイッ!と高く鋭い叫び声が山の中に響いた。驚いてそちらを見ると、
野生の鹿が全速力で杉林の急斜面を下って逃げていった。これはもう何があっても不思議じゃない。そそくさと引き返す。
落ち着いて考えると、かつての十津川郷士はこんな具合の山道を延々と走って京都まで行き来していたわけである。
ひ弱なわれわれとはまったく違う次元を生きていたんだなあ、とあらためて実感したしだい。大峯奥駈道は容赦ないわ。

  
L: 本社側から見た社務所・台所。こちらは国の重要文化財に指定されている。  C: 反対の三橋稲荷側から見たところ。
R: 境内から少し下って大峯奥駈道を体験してみた。辛うじて道と認識できる程度の幅に激しい起伏で、修験道の凄さを実感。

玉置神社を時間いっぱい全力で満喫すると、バスの待つ駐車場へと戻る。しかしさっき書いたように参道は意外と長く、
最後は昨年夏にケガした右足首の心配をしながらけっこうなハイペースで走る破目になった。これにはかなり焦ったなあ。

バスは来た道を戻っていくが、途中の見晴らしのいい場所で停車して景色を撮らせてくれるのであった。
昨日の日記でも書いたように、十津川村は琵琶湖よりも東京23区よりも広いのだ。視界に入る急峻な山々すべてが、
十津川村なのである。その雄大な景色を眺め、あらためて十津川という場所の凄み、世界の広さを思うのであった。

  
L: 目の前に広がるすべてが十津川村なのだ。遥か遠くにある青みがかった山々も十津川村。とにかく広大なのだ。
C: 集落を見下ろしたところ。広い十津川村の中には、このようにしていくつも集落が点在しているというわけ。
R: 十津川温泉付近に戻ってきた。厳しい自然環境とそこに生きる人々のたくましさは強く印象に残るものだった。

お昼はホテル昴のレストラン石楠花でいただく。十津川らしいものを食べたかったが、この後の予定を考えると、
あんまり時間のかかる料理は困るのである。で、「十津川」が名前に入っていた天ぷらそうめんをいただいた。
いずれきちんと十津川の郷土料理をいただける機会があるといいなあ。いや、おいしかったんですけどね。

 おいしかったのだが、当然ながら一瞬で胃袋へと消えてしまったことよ。

ありがたいことにホテル昴のフロントで荷物を預かっていただけたので、かなり身軽な状態で次の目的地を目指す。
時刻は正午を過ぎたところ。八木新宮バスの第1便がホテル昴に着くのは13時45分。それまでに戻らないといけない。
ではそんなに焦ってどこへ行くのかというと、「果無(はてなし)」という集落だ。ポスターにもなった場所だそうだ。
実はこの果無集落、ホテル昴から直線距離で南南東に1kmほど。それなら簡単に往復できそうだが、そこは十津川だ。
Googleマップだと国道168号まで出て対岸に渡って3.6kmという案内が示される。でもこれでは時間がかかりすぎる。
じゃあどうするか。柳本橋という吊り橋でショートカットするのだ。なお、果無集落は小辺路のルート上にあるので、
それで一気に登ることもできる。しかし小辺路がどれだけの山道かはわからない。さっきの大峯奥駈道の例もあるわけで。
そこで、往路は素直にアスファルトの道路で遠回りをしておき、可能ならば復路で小辺路をグイグイ下るルートをとる。
このプランでどうにか1時間半以内に果無集落への往復を収めようという魂胆だ。失敗したら、湯の峰温泉が飛ぶ。

ご存知のとおり僕は重度の高所恐怖症なので、地元の皆様向けの吊り橋は正直かなり難度の高いチャレンジとなる。
しかしここで昨日の経験が生きるというわけなのだ。谷瀬の吊り橋と野猿での経験が僕には最高の特訓となっていて、
柳本橋を思っていた以上にスンナリと渡ることができた。そこから林の中の道を抜けると小辺路の登山道入口に出た。
ここからはジョギングで坂を上っていく。時間はかかるが着実に進む。山道は去年の捻挫のトラウマがあるんだよね。

  
L: 柳本橋を行く。一度に渡れるのは5人まで。谷瀬と比べてかなり規模は小さいが、周囲に金網がないのでやはり怖い。
C: アスファルトの道でぐるっと遠回り。これは車の方が怖いかも。  R: 振り返ると紀伊山地の山々の中にわずかに川。

  
L: 途中にある「めん滝」。晴れているとたいへんいい雰囲気。  C: このヘアピンカーヴがめん滝の入口なのだ。
R: 柳本橋を渡って25分ほどでバス停(その名も「世界遺産石碑前」)に到着。このすぐ左手がもう果無集落だ。

柳本橋を渡って25分ほどで、果無集落の入口に到着。思っていたよりもかなり速いペースで、ほっと一安心。
ここからはひたすらバッシャバッシャとカメラのシャッターを切っていく。夢中で目の前の景色を記録していく。

  
L: まずは果無集落の入口、よくある構図の写真。集落というほどの規模ではないが、尾根を切り開いて家がある。
C: 反対側、果無峠方面を眺めたところ。この路地が小辺路の一部なのだ。  R: 小辺路を少し上がった光景。

せっかくのいい景色なので、パノラマ写真をつくってみた。山の奥深くってことがわかってもらえるかと。


上の写真とほぼ同じ位置からパノラマ撮影。


こちらはもう少し先に進んだところでパノラマ撮影した写真。見事に尾根が道となっているのだ。

  
L: 上の写真をパノラマしないヴァージョン。  C,R: 先へ進むとこんな感じ。かつて家が並んでいたのか。

  
L,C,R: 花々の美しさもたいへん印象的だった。山の中を抜けてこんな集落に出れば、それはもう桃源郷のようなものだろう。

  
L: 小辺路は家の中庭を通る形になっている。手前の丸太をくり抜いた流し台にはきれいな水が溜まっている。
C: 家の座敷は庭に面した部分が開放されており、一休みして熊野古道や果無集落の写真集を見ることができる。
R: 山の尾根なのに田んぼがある。これはちょっと信じられない光景だ。日本における究極の眺めのひとつだろう。

  
L: 田んぼの端っこ(西側)から振り返る。  C: 反対側の端っこ(東側)は小辺路の石畳。これまた美しい。
R: 田んぼを後にして小辺路を下っていく。果無集落はどこか現実離れした天空の小さな桃源郷なのであった。

時間的な余裕があるので、帰りは小辺路を下っていく。先ほどの大峯奥駈道とは異なり、石畳の道となっている。
とはいえ石の向きはかなりのランダムぶりで、足首の捻挫がトラウマとなっている自分には非常に厳しい条件。
しかも勾配はけっこう急である。ときどき見える景色に癒されながら、焦らず一歩ずつ丁寧に下っていく。

  
L: 途中の展望スペースから眺めた景色。ゆったり流れる十津川と、オレンジの屋根は特別養護老人ホーム・高森の郷。
C: 小辺路の石畳。なかなかの角度とランダムな石の並びがわかると思う。熊野古道らしい雰囲気は存分に味わえる。
R: 小辺路からアスファルトの道に戻ってきた。時間と空間を飛び超えた気分になる小旅行なのであった。

というわけで、かなりの緊張感でスタートした果無集落へのチャレンジだったが、終わってみれば順調そのもの。
20分ほどの余裕を残してホテル昴に戻ることができた。バスが来るまでジュースを飲みつつお土産を見繕う。

やがてバスが到着すると、昨日ホテル昴に宿泊した皆様とともに乗り込む。これで十津川とお別れと思うと、
さすがに感傷的な気分になる。できる限りで動きまわったけど、もっといろいろやれたんじゃないかって気がする。
でもまあそれはまた次の機会が来ることを祈るとするのだ。十津川は魅力いっぱいで、一人旅だともったいない場所だ。

バスは国道168号を順調に南下していき、最南端の「七色」という集落を通過する。やはり住宅が急斜面にへばりつく、
十津川らしい場所だった。ちなみに玉置神社へのバスの運転手さんが教えてくれたのだが、「七色」という集落名は、
よく虹が出ることからついたそうだ。十津川ならどこでも虹がいっぱい出そうに思うのだが、面白いものである。

七色の集落から国道に戻ると、すぐにトンネルに入る。このトンネルが県境で、いよいよ和歌山県に入ったのだ。
非常に興味深いことにそれまで曲がりくねっていた道は、トンネルをいくつも通過することもありずいぶん直線的になる。
そして何より、川の広さが明らかに変わる。碧色を湛えた川の両岸が急峻な緑でV字に刻まれていた十津川とは異なり、
和歌山県に入って名を変えてからの熊野川(新宮川)では、流れる水の両側に広大な砂地が広がっているのである。
山々の間隔もずいぶん余裕があり、景色から厳しさが消える。県をまたぐとここまで変わるものなのかと驚いた。

 熊野本宮大社の東側、バス停から国道に戻るところ。十津川とは別世界の広さだ。

当然、本宮大社で下車して参拝したい気持ちはあった。4年前には工事で見られない箇所もあったし(→2013.2.10)。
しかし今回はその4年前に車窓から見て大いに興味を惹かれた、湯の峰温泉を優先することにした。硫黄の匂いが凄い。

  
L: 湯の峰温泉のメインストリート。東側の四村川沿いには温泉施設や寺があり、西側には旅館が並んでいる。
C: 四村川。温泉が通るパイプが複雑に走り、周りは硫黄で変色している。  R: 反対側はこんな感じで落ち着いている。

  
L: 四村川のすぐ脇にある源泉「湯筒」。卵を買った観光客は、ここで温泉卵を自分でゆでるというわけ。
C: 手前が東光寺、奥が公衆浴場。源泉かけ流しのくすり湯がある。  R: 東光寺。やはり薬師如来を祀る。

湯の峰温泉の象徴と言えるのが、日本最古の共同浴場とされる「つぼ湯」だ。公衆浴場の向かいの受付でお金を払うと、
番号札を渡される。入浴は30分交替制であり、客は自分の番号札をつぼ湯の入口に掛けておく仕組みになっている。
こうすることで客はそれぞれ自分の番がどれくらい先になるか自動的にわかるのだ。よくできているもんだ、と感心する。

  
L: 湯胸茶屋。もともと東光寺の薬師如来の胸から温泉が出ていたので「湯胸」と呼ばれ、それが「湯峰」に転じたという。
C: つぼ湯の外観。世界遺産の一部になっている温泉はここだけだってさ。  R: 自分の番が来たので中に入ってみた。

  
L: つぼ湯の湯殿。湯加減は最高だった。  C: お湯の中から横の岩場を覗く。  R: 自撮りしてみた。

小栗判官も生き返ったという湯の峰温泉のお湯は実にすばらしいのであった。わざわざ寄って大正解だった。
温泉から上がると湯胸茶屋で一服。その後、東光寺で御守を頂戴しようとブザーを押したが、なかなか人が来ない。
様子をうかがうべくその場を離れようとしたら、さっき湯胸茶屋にいたおばさんが現れて御守を渡してくれた。
お忙しいところすいません。おかげさまで、思う存分に湯の峰温泉を満喫することができた。ありがたや。

17時を過ぎて夕方の気配が濃くなってきた中、バスは湯の峰温泉を後にする。車窓の景色はすっかり穏やかで、
山の中でも十津川では考えられない平らな土地の多さ、そして下流の雄大な川幅に、旅の終わりを実感させられる。
バスも新宮市に入ってからはほとんど特急状態で、バス停の間隔は異様に大きくなる。終わりってのはあっけないものだ。

  
L: 湯の峰温泉から再び山の中に入るが、十津川と違って和歌山県はなだらかである。同じ紀伊半島でもずいぶん異なる。
C: ゆったりと流れる熊野川。十津川の下流だが、同じ川とは思えない様相だ。  R: 途中でツチノコを発見したよ!

最後の最後まで八木新宮バスを面白がる。整理券番号と運賃の画面表示は30が限界なので、4パターンにもなる。
そしてまた金額も大変なことになっている。6時間半走りきる八木新宮バスは、ここまですごいことになってしまうのだ。

 
L: 整理券番号と運賃の画面表示。大和八木から新宮駅までぶっ通しで乗ると5250円。安いと思っちゃうなあ。
R: 整理券番号は3桁の109番まで行く。107番と108番の金額差はつまり、新宮側が特急状態になることを示す。

バスは静かに新宮駅に到着。僕は感慨に浸りながら運転手さんに「168バスハイク乗車券」を渡したのだが、
運転手さんはスルッとそれを受け取っておしまい。あまりに呆気なくて突っ立っていたら不思議がられたほどだ。
まあつまりは観光目的のバスではなく、あくまで生活のためのバスということなのだろう。そう納得して降りた。
実は途中下車を一切しないでひとつの便を完乗すると記念の証明書がもらえるらしいが、それは本当にもったいない。
十津川の土を一歩も踏まずにバスの中で景色だけを眺めて過ごすなんてありえないよなあ、とあらためて思う。

 
L: 新宮駅に到着してバスを記念に撮影。一日3本、このバスは紀伊半島を縦断しているのである。お疲れ様です。
R: 時刻は18時半を過ぎたところ。満足感に包まれつつ夕暮れの新宮駅を眺める。2日間、本当にやりきった。

思う存分やりきった2日間だが、なんと旅はこれで終わりではないのである。蛇足かもしれないが、もう少しだけ、
やりたいことをやるのだ。いつもの旅行なら翌日のことを考えて一日を終えるが、今夜は十津川の記憶に浸るとしよう。


2017.7.21 (Fri.)

僕にはずっと、どうしても行ってみたい場所があった。それで暇をみてはあれこれ計画を練っていたのだが、
どうやらすべてが僕の目論見どおりに動けるらしいことがわかり、それでこの夏休みに決断したのである。
日本一距離の長い路線バス「八木新宮バス」に乗って十津川村に行こう! そして玉置神社にも行こう!……と。

まずその「八木新宮バス」について軽く説明を。その名のとおり橿原市の近鉄八木駅から新宮市までを結んでいるが、
全長166.9km、停留所の数は167、途中で3回の休憩を挟みながらの行程は約6時間半かかるという路線バスなのだ。
(前に大和高田でこのバスが行き違うのを見かけたことがあった。あのバスについに乗るのだ! →2015.9.20
しかしさすがにずっとバスの中で過ごすのはもったいない。この路線バスが縦断する十津川村といえば、
伝説の十津川郷士で知られる村である(北海道の新十津川町へ行ったときのログはこちら →2012.8.21)。
壬申の乱から明治維新まで一貫して朝廷側につき税を免除されてきた独立勢力の村。しかも紀伊山地のど真ん中で、
北方領土を除けば日本で最大の面積を誇る村だ。琵琶湖よりも東京23区よりも広いのだ。いったいどんな場所なのか。
うれしいことに、十津川村は温泉がいくつかあって、それなりにリーズナブルに宿泊ができる。行くしかないでしょう。
すべての都道府県を制覇してだいたいの街は感覚的につかんでいる僕にとって、これは久々に完全なる未知な土地だ。
高鳴る気持ちをどうにか抑えつつ夜行バスに乗り込むと、朝7時前の曇り空の下、大和八木駅前に転がり落ちた。

 おはようございます。

大和八木駅は近鉄の一大ターミナルであるくせに、落ち着いて時間調整できるカフェがないのが最大の欠点である。
近くのコンビニで朝食と非常食(今回これ重要)を買い込むと、バス乗り場のベンチで栄養補給してしばらく過ごす。
困ったことに、八木駅の奈良交通案内所は9時にならないと開かないのだ。晴れてりゃ橿原市役所を撮ったんだけど。

9時になるとほぼ同時に案内所へ行って「168バスハイク乗車券」を購入。2日間有効で片道の乗り降りが自由という、
八木新宮バスに乗るには間違いなくマストアイテムとなる乗車券だが、出てきたのは恐ろしく質素な紙切れだった。
ただ名前が印刷してあるくらいで、油断したら簡単になくしてしまいそうだ。もうちょっとなんとかならんものか。

 何はともあれ、新宮に向けて出発である。

八木新宮バスは一日3本。9時15分に八木駅を出発する第1便に乗り込むと、10時31分に五条駅で下車。
1時間ちょっとでいきなり下車かよ!とツッコミが入りそうだがしょうがない。五條は見所の多い街なんですよ。
(五條市は「五條」の表記だが、JRの駅は「五条」という表記。面倒くさいけどいちおう使い分けています。)
五条駅は市街地から少し離れた高台にある。バスを降りるとさっそく観光案内所でレンタサイクルを申し込み、
いざ出発である。次のバスは13時6分発なので、2時間半ほどしか観光できる時間がない。かなりキツキツだ。

  
L: 五条駅から市街地へ向かって下っていく。郵便局の奥にはイオンがあって、バスセンターが併設されているのだ。
C: 国道24号、五條の市街地を行く。これは晴れてきた帰り、東側の写真だな。この辺りはわりと新しい商店街。
R: 同じく国道24号の西側。右側(北)は拡張工事をしている模様。以前は家がノコギリ状に道路に面していたようだ。

五條で最初に訪れたのは、栄山寺だ。梵鐘と八角堂という2点の国宝があるほか、重要文化財も何点かある。
吉野川(紀の川を奈良県内では吉野川と呼ぶ)の上流側に沿って奥まった位置だが、レンタサイクルだとすぐである。

  
L: 国宝の梵鐘。フツーに吊り下げられているのがすごい。917(延喜17)年の作で、小野道風の書を刻んである。
C: 石塔婆(石造七重塔)。これもフツーに置いてある重要文化財。  R: 静かにたたずむ塔ノ堂(大日堂)。

早朝はあまり天気がよくなかったのか、うっすら湿っぽさが残っている。でもそれがいかにも歴史を感じさせる。
栄山寺は藤原南家の菩提寺だそうだが、境内は木々がよく茂っていて貴族の邸宅っぽいプライヴェイトな雰囲気だ。

  
L: 境内をさらに奥へと進む。緑が多くて全体的に閉じた雰囲気。貴族の邸宅を仏教の価値観でアレンジした感触が漂う。
C: 1553(天文22)年築の本堂。手前の石灯籠は重要文化財。  R: 本堂に上がってみた。木材の古び方が美しい。

本堂の中にもお邪魔してお参りすると、さらに境内の奥にある八角堂へ。敷地に余裕がまったくなくてきれいに撮れない。
それでも意地でどうにかカメラに収めると、もう一度ぐるっとまわったり近づいたりして奈良時代の感触を大いに味わう。

  
L: 正面からだと木々が邪魔でよく見えない。近づいて見上げる形になってしまう。  C: 背面は見やすいのだが。
R: 柵にいたカマキリと戦うの巻。カマキリと同レヴェルでやりあう私。蟷螂の斧ということで引き分けで終わった。

栄山寺を後にすると、今度はまったく反対側の市街地へ向かう。重要伝統的建造物保存地区・五條新町があるからだ。
国道どうしが交わる本陣の交差点には古い道標があり、それを合図に南下するとさっそく見事な木造建築が現れる。

 五條は伊勢と高野山を結ぶ線上にある。この道標、文字を掘り抜いているのが面白い。

というわけで、まずは五條新町の入口にある建築から。通りの東側はナカコ将油で、向かいの西側にある住宅もすごい。
現役の個人住宅なので詳しい説明はなかったのだろうが、のっけから大迫力ですっかり圧倒されてしまった。

  
L: ナカコ将油。こちらの蔵造りの店舗が五條新町の入口向かいにどっしりと構えている。
C: 現役の個人住宅と思われる。  R: 近くの栗山家住宅。入口にまずこれらの建物があって圧倒された。

正確に言うと五條新町は東の「五條」と西の「新町」に分かれているが、伝統的な建築が一体的に長く連続している。
もともとは五條が先で、後に松倉重政が入った二見城の城下町として新町ができ、それがつながったとのこと。
通りは近代以前の幅のまま、国道に並行して1km弱もの長さをまっすぐ延びている。なんとも壮観なものである。

  
L: 山本本家。こちらの「神代杉」は後で十津川村で頂戴した(十津川は米が穫れないので五條で酒をつくっているようだ)。
C: 五條新町、五條の街並み。これは見事である。  R: 途中にある庭を覗き込んだ。おしゃれだなあと思う。

途中、新町松倉公園というポケットパークがあったので、そこから吉野川に出てみる。そうして堤防から街を見返すと、
実はそれぞれの建物が独特な2階建て構造になっているのがわかる。堤防に面する側にはガレージなどの1階があって、
通りに面しているのは2階レヴェルなのだ。まあそれはもちろん、現在の堤防ができてからの増築であるのだが。
では堤防ができる以前はどうなっていたかというと、新町松倉公園周辺を中心に、今もわずかに石垣が残っている。
本当にわずかで露わになっている部分は非常に少ないが、これらと表の街並みとで往時の姿を想像してみる。

  
L: 新町松倉公園。新町ができるきっかけとなった松倉重政の碑がある。ベンチが申し訳程度にある残念な設計。
C: 吉野川の堤防上から眺める新町(中央が新町松倉公園)。現在はかつての石垣をつぶして住宅が張り出している。
R: しかしよく見れば、今もわずかに往時の石垣が残っている。この石垣こそ、かつての街の姿を示す証拠なのだ。

さらに西へと歩を進めてみる。感触としては、こちらの方が新しい建物が多そうに思える。住宅らしい住宅も多い。
しかしその分、観光客相手に店舗として元気に営業している店もしっかりと点在している。なかなかやる気を感じる。

  
L: 新町橋を渡る。この辺りはまっすぐな道に伝統建築と住宅が入り混じる。  C: 長い通りだが歩きがいはある。
R: 新町の終端近く。この先にある坂を行くと最終的には国道24号に合流。昔ながらの雰囲気がよく残った街だった。

さて、この五條新町の街並みにはかなり異質なものがしっかりと横たわっているので、それについてふれておく。
近代以前の雰囲気をよく残す通りの中を、かなり強烈な存在感でコンクリートの橋がドカンと横切っているのだ。
こいつの正体は五新鉄道の高架。五新鉄道とはその名のとおり五條と新宮を結ぶ鉄道として計画された路線で、
つまりは「八木新宮バス」を鉄道でやろうとしていたわけだが、案の定採算が見込めずに未成線で終わった。
とはいえ五條から城戸(西吉野)までは線路が引ける状態ができていたので、かつてはBRT的にバスが走っていた。
しかし結局それも2014年に運行が終了。それでも地元ではこの夢の跡をわりとあたたかく見ているようで、
橋脚には「幻の五新鉄道」という説明板が貼り付いていた。古い街並みと妙にマッチした光景は独特の魅力がある。

 五條新町の真ん中に横たわる五新鉄道の高架。和風スチームパンクの香りというか。

街並みを存分に楽しむと、国道24号に戻ってその北側にある五條市役所へ。これがまた古き良き役場建築なのだった。
敷地の南側を駐車場として開放し、コンパクトな直方体としてスッキリ立っている。壁面の時計が高度経済成長っぽい。
そしてよく見ると東側には鉄骨が錆びきっているが、ミース風のサッシュによる展望階がくっついている。これは面白い。

  
L: 五條市役所。敷地の南西端が入口となっている。  C: そのまま本庁舎を眺める。  R: 正面から見たところ。

五條市役所の竣工は1961年とのことだが、増築を繰り返して実際にはかなり複雑な形をしている。
まず本庁舎は北側(つまり裏側)に増築部があり、さらに駐車場を囲むように東側にも増築がなされている。
いちばん古い南側部分は意地できれいにしてあるが、この増築部分もよく見るとかなり老朽化が激しい。

  
L: 東側の増築部。  C: 反対側(敷地外)から見た東側部分。  R: 背面。北側も増築しているのだ。

南側の建物はシンプルで美しく、1960年代初頭の典型的な市庁舎モデルケースであると感じる。
しかしさすがにこのままで済むわけもなく、建て替えの計画が進んでいる状況である。個人的には残念だなあ……。

  
L: 北側の増築部。ぐるっとまわり込んで北西側から見たところ。  C: 南北ジョイント部。なかなか豪快である。
R: 南側の側面。五條市は庁舎南側を「顔」と意識していたのか、増築部より古い部分の方をきれいにしている。

新しい庁舎は五条駅の真西にある五條高校の跡地に建てられることが決まっており、2021年度に運用開始予定。
なおこの新庁舎には、国の施設であるハローワークと、県の機関である保健所・土木事務所などが入ることが、
後日報じられた。それによって建設費も面積に応じ、市と県で7:3の比率で分担することになっているそうだ。

  
L: 本庁舎の展望階部分をクローズアップ。こういうものがくっついている事例はほかに見たことがないような。
C: 玄関脇に五條市のゆるキャラ・ゴーちゃんの像。合併した旧西吉野村・旧大塔村のマスコットとユニットを組んでいる。
R: 中に入るとこんな感じ。つまり東側の増築部に直接入る構造なのだ。主要な機能はほぼ東側にあるようだ。

素敵な国宝、素敵な街並み、素敵な市役所を見てホクホクしながら来た道を戻り、昼飯を済ませてイオンでお買い物。
ここで水分のほか、今夜の晩メシを買い込んでおくのだ。隣のバスセンターを「どうせ後で来るけど」と尻目に、
満足のいく買い物を済ませると坂道を上がって五条駅まで戻る。自転車を返却してしばらくするとバスが到着。
「168バスハイク乗車券」をかざして乗り込むと、バスはイオン隣のバスセンターを経由して、いよいよ南へ針路をとる。
168という数字はつまり、国道168号のこと。ここから新宮まで、この国道168号で一気に紀伊半島を縦断するのだ。

吉野川(紀の川)の支流である丹生川(和歌山県にも同名で紀の川に注ぐ丹生川があるのでややこしい)に沿い、
国道168号も曲がりくねって走っている。さすが国道、山地のど真ん中を行く道だが道幅はしっかりとられている。
しかしこのバスは路線バスなので、ときどき集落にあるバス停を目指して国道から脇の道に入るのだが、
これがかなり細い。細くて古びた道をしばらく行くと、また堂々たる国道に戻る。それをずっと繰り返すのだ。
また、厳しい地形ということもあって、あちこちで道路工事をしているのを見かける。台風のたびに崩れ、直し、
それを延々と繰り返す終わりのない工事。でもやらないわけにはいかないのだ。奈良県南部は土木天国だぜ。

  
L: 車窓から見た道路工事の様子。大変である。  C: 橋が3つ交差している光景なんて初めて見たよ。これ凄くないか?
R: 細い道から国道168号に戻ったところ。国道についてはかなり力を入れて整備しており、とっても快調に走れる。

五条駅を出て2時間弱、右手に何かが見えた。谷瀬の吊り橋だ。やがてバスは上野地という停留所で休憩時間をとる。
それが20分ということで、つまりは観光客に谷瀬の吊り橋を往復してくる時間を与えていると解釈できるわけだ。
ご存知のとおり僕は重度の高所恐怖症なので吊り橋なんざまっぴら御免なのだが、さすがに今回は好奇心が勝った。
むしろ20分しか猶予がないことで踏ん切りがついたのである。というわけで、谷瀬の吊り橋、往復してきました。

  
L: バスの車窓から眺める谷瀬の吊り橋。こうして見ると強烈である。  C: 吊り橋の入口付近から眺める。
R: いざ行かん! こうして見る分にはそれなりにガッチリしているように見えるんだけどね、足元がね……。

谷瀬の吊り橋は1954年に竣工したが、地元の住民が資金を出し合って建設した、まさに生活のための橋だ。
全長297.7mは、竣工当時日本一の長さだったそうだ。で、この橋の何がすごいって、幅が板4枚しかないのだ。
地元の人や郵便局員はこれをバイクで走るってWikipediaに書いてあるけど、もう頭がおかしいんじゃねえかと。
周りはガッチリと金網を張ってあるので気合いでどうにか渡ることができたけど、風があったらどうだったか……。

  
L: 足元こんなんですよ。でも十津川の吊り橋はみんなこういう構造。  C: 中間地点辺りで見た景色。
R: 対岸にたどり着いて振り返ったところ。日記を書いている今も手のひらにはじんわりと汗がにじんでおります。

時間内に無事にバスまで戻ることができてよかったよかった。出発したバスは集落を抜けて国道168号に戻る。
やはり道は川(十津川、和歌山県に入ると熊野川と呼ばれる)に沿って、延々とくねり続けるのであった。

 上野地郵便局の裏がバス停。集落の道はずっと坂道である。

やがてバスの窓から風屋ダムが見えた。気象庁の天気予報だと奈良県南部の地名は「風屋」となっていて、
なるほどこの辺りなのかと思うのであった。紀伊半島ってのは通ってみると本当に大きくて広いと実感する。

 風屋ダム。このダムの建設は国道168号の整備にもつながった。

やがてバスは十津川村役場を通過。素直にここで降りておけばよかったのだが、なぜか次まで待ってしまったのだ。
広い広い十津川のサイズを理解していなかったとしか言いようがない。まあ実際に歩いてみたかったんだけど。
で、けっこう揺られて「こりゃしまった!」と思いつつバスを降りると、北の役場を目指して歩きだすのであった。

 
L: まあ見事に山の中である。国道168号もこの辺までくると道幅が狭くなる。  R: ものすごいスラロームっぷり。

のんびり歩いていくと、対岸に集落が見えてきた。小原の集落で、中心には十津川第一小学校があるのだが、
対岸からだと山麓のわずかに緩やかになった場所に家々が貼り付くように点在しているように見える。
さらに進むと大きく曲がった十津川の内側に学校がある。これは十津川中学校。なんとも大胆な立地だと思う。
不思議なのは川の水の色で、ちょっとでも深くなると琳派の「たらしこみ」そのままに、日本画のような碧色を湛えるのだ。

  
L: 山と川に挟まれる小原の集落。  C: 十津川の大きな弧とその内側の中学校。
R: そのすぐ右手を見ると、村役場近くの集落が目に入る。そして川の色に目を奪われる。

村役場まで戻った頃にはだいぶ夕方の日の傾きぶりとなってしまった。光の加減に苦労しながら撮影する。
先ほどの中学校と同様、村役場も弧の突端にあり、川はここでしっかりとS字を描いているというわけ。
つまり道路がなかなかの鋭いカーヴとなっていて、少し角度をつけないと全体がカメラの視野に収まらない。
道を挟んだ村役場の反対側は歴史民俗資料館だが、これは一段高い場所となっており、後ろに下がれないのだ。
十津川は米が作れないというけど、本当に平地がないなあ!と思ったのだが、後で役場の裏側を見て驚愕した。

  
L: 十津川村役場。手前の道路がなかなかのカーヴだが、そういう場所じゃないとまとまった平らな空間にならないのだ。
C: 敷地内に入って近づいてみた。  R: エントランス部。村章はもちろん、十津川の象徴である「菱十」の紋だ。

  
L: 反対側から眺めたところ。  C: 歴史民俗資料館から見下ろしたところ。ふつうこの角度で撮れる役所はない。
R: 橋の途中から眺めた十津川村役場の裏側。地下2階分の高低差と張り出した駐車場に圧倒される。これはすごい。

道を挟んだすぐ向かいの歴史民俗資料館は、村役場をしっかり見下ろせるほどの高低差がある。
そして川の方にまわり込むと、実は村役場は川に面した崖に食い込むようにして建てられているのがわかる。
さらに壁面に棚を取り付けるようにして、崖の上に駐車場を確保している。十津川は本当に平地がないのだ。
先ほどの中学校も村役場も、蛇行する川の内側に建てられている。つまり、平地はそこにわずかにあるだけなので、
公共性の高い建物をこの貴重な平地に優先して配置しているというわけだ。これは本当に厳しい環境である。

  
L: 村役場の玄関。左は十津川のゆるキャラ・郷士くん。  C: 中に入って左を見たところ。ふつうの役場である。
R: 入ってすぐ正面。木材をふんだんに使って林業をアピールしている。確かにソフトな印象になるなあと思う。

せっかくここまで来たので、ぜひ勉強させていただこう!と歴史民俗資料館にもお邪魔した。遅い時間にすいません。
1階は世界遺産に含まれている熊野参詣道(小辺路)と大峯奥駈道の説明、明治の大水害、昔の暮らしについてなど。
そして2階は十津川郷士がメイン。有名人を輩出したわけではなく、村全体で一体的に動いていた点が特徴的だと思う。
実際に訪れていかに平地がないかを実感できると、十津川郷士の強いアイデンティティとタフネスぶりにも納得がいく。

  
L: 国道168号にて。左が歴史民俗資料館、右が村役場。かなり土地を削って役場のための平地を確保したのがわかる。
C: 歴史民俗資料館を見上げる。  R: 1階、昔の暮らしについての展示。これはまあ全国どこも似たようなものかなと。

最終便のバスが来るまでの時間は、役場からすぐ近くにある道の駅 十津川郷でのんびり過ごす。お土産を見たり、
足湯に浸かったり。足湯はここから近い湯泉地温泉から引いているのか、かなり硫黄の匂いが強くて効きそう。
さっき役場前でバスを降りておけばそっちまで浸かりに行く時間があったかもしれないなあ、と思うのであった。

  
L: 道の駅 十津川郷。正面側はなんのことはない建物だが……  C: 裏手を見たらやっぱり超がんばって建っていた。
R: バスに揺られつつ十津川高校付近で振り返ったら虹が出ていた。十津川にものすごく歓迎された気分である。

バスは十津川温泉で10分間の休憩。奈良交通の営業所があり、十津川における交通の拠点となっているようだ。
十津川で宿泊しようとすると、この十津川温泉の周辺が最も充実しているようである。当然、できる限りで散策する。

  
L: 十津川温泉。右の方でバスが停まっているが、ここが奈良交通の営業所。道路沿いに商店も点在。
C: 営業所から役場方面を眺める。  R: 奈良交通の営業所の中はこんな感じ。なんだか落ち着くぜ。

  
L: いい機会なのでバスを撮影。大和八木から新宮まで経由する自治体のゆるキャラがラッピングされている。
C: 新宮市「めはりさん」、田辺市本宮町「八咫之助・八咫姫」。田辺市旧市街には「たなべぇ(→2013.2.10)」がいるもんな。
R: 十津川村「郷士くん」。五條市「ゴーカスター」は上述の「ゴーちゃん」と「カッキー(旧西吉野村)」「星博士(旧大塔村)」のユニット。

  
L: 御所市「ゴセンちゃん」、葛城市「蓮花ちゃん」。  C: 大和高田市「みくちゃん」、橿原市「さららちゃん」。
R: 後ろには和歌山県「きいちゃん」、そして奈良県「せんとくん」。日本は完全にゆるキャラの国だ(→2013.9.30)。

18時半を過ぎ、バスは十津川温泉を出発する。5分ちょっとで、だいぶ規模の大きい建物であるホテル昴に到着する。
本日お世話になる宿はここから徒歩圏内なので、下車して山の中の道をのんびりと歩いていく。見事にひと気がない。
道は十津川の支流に沿っているが、途中で面白いものを発見した。「野猿(やえん)」である。とんねるずは関係ない。
野猿はかつて川を渡るのに使われていた装置で、要するに滑車のロープを自力で引っ張って移動する仕組みである。
せっかく十津川に来ているんだから、と挑戦。空中のど真ん中で景色を撮るなど、独りでやりたい放題をして楽しむ。
なんとか往復して戻ってきたときには、もう腕はパンパンなのであった。これは思った以上に鍛えられる装置である。

  
L: 野猿。この中に入ってロープを引っ張ると前に進むという仕組み。  C: ど真ん中の辺りで川を眺める。
R: 対岸を振り返る。往路ですでに腕が痛くなっており、これからこの距離を戻らなくてはいけない現実に愕然とする。

まあ野猿で遊んでいたのはなんだかんだで10分足らずだったが、そこからさらに山の中へと入っていくこと10分、
無事に本日の宿に到着したのであった。ところが宿の方によると、僕が野猿でウホホホーイとアホ面で遊んでいる間、
ホテル昴まで迎えの車を用意していただいていたそうで、たいへん申し訳ないのであった。僕は徒歩に慣れているけど、
十津川は山の中だからということで配慮してくださったのである。小笠原のときもそうだったけど(→2012.1.2)、
われわれが非常にアクセスしづらい場所で生活している人は、遠路はるばる訪れる価値を知っているので客に優しいのだ。

十津川で宿泊する場所はいろいろあるけど、今回選んだ宿の最大の決め手は温泉である(あと正直、値段もある)。
満点の星空を眺めながら温泉に浸かることができるという触れ込みで、それはもう本当に最高でございました。
紀伊山地の急峻な山々で光が遮られるため、十津川の星空は非常に純度の高い美しさなのだ。時間を忘れて浸かる。
もともと目が悪いので、コンタクトでも星粒ひとつひとつをしっかり見ることができなくて、それが悔しくてたまらない。
友人たちの顔を思い浮かべつつ、こんな最高に楽しい経験を一人で味わっちゃってすいませんな、と思うのであった。
この日記を読んでいる皆様は、ぜひ十津川を訪れてほしい。温泉に浸かって星空を眺め、日本の広さを感じてほしい。


2017.7.20 (Thu.)

本日よりやっとこさ夏休み。ここに来るまで本当に長く苦しかったが、振り返れば早い感じがするのも事実である。
するってぇとつまり、この夏休みが過ぎてしまうのもあっという間ということなのだ。有意義に過ごさねばなるまい。


2017.7.19 (Wed.)

明日から夏休み期間ということで、仕事が終わるとお疲れ様会である。ゾロゾロ歩いて10分ほど、近くの繁華街へ。

異動して時間が経って慣れてきたおかげで、いろいろと面白い話が聞けた。非常に収穫の多いお疲れ様会だった。
ふだんからはまったく想像もつかない多種多様な趣味の話が校長から出てきて、こんな面白い方だったのか!と驚く。
僕としては日常の職場でそういう面を発揮していただいた方が絶対に楽しくなるし、生徒も喜ぶに決まっているし、
めちゃくちゃもったいないなあと思う。でもまあ、ポリシーもあるだろうし、仕方ない。責任者ゆえの何かがあるのだ。
とりあえず、上っ面だけでなく実際の内面まできちんと理解できたことは大きい。いやー、本当によかった。


2017.7.18 (Tue.)

夏休みまであと2日。耐えるのだ。耐えるのだ。


2017.7.17 (Mon.)

中国地方を逆三角形で動く旅、最終日は鳥取からまだ乗ったことのない路線を駆使して、スタート地点の岡山へ戻る。
しかも途中には若桜鉄道という旧国鉄の第三セクター鉄道がある。せっかくだからそこにも寄ってみるとするのだ。
しかしまずは、鳥取市内でまだ訪れていないところを押さえておきたい。朝イチでバスに乗り、国道9号をどんどん西へ。

白兎神社前というバス停で下車する。そのまま、白兎神社が目的地である。周辺の白兎海岸も散策してみようと。
バス停からすぐのところに「神話の里 白うさぎ」という道の駅があり、まずはそこでパンフレットを眺めて一休み。
頃合いを見計らって神社へと向かうが、あっちこっち全力で縁結び要素満載なのである。ウンザリでございますよ。

  
L: 白兎海岸は『因幡の白うさぎ』の舞台とされる場所。大国主命と白兎うさぎ像の脇には「恋人の聖地」の文字が。また桂由美か!
C: 周辺は縁結びムードが爆裂しており、郵便ポストもこんな具合。浮かれてんじゃねえー!と稲中ばりに暴れたくなってくるわい。
R: 道の駅「神話の里 白うさぎ」の名誉駅長「命(みこと)」。勤務時間は8:30〜19:00だが、4時間休憩があるようだ。

白兎神社の祭神は白兔神こと因幡の白うさぎ。大国主命と彼の最初の妃・八上比売のとの仲をとりもったということで、
周囲は縁結びで浮かれまくっているのだが、神社じたいは意外と落ち着いている感じ。うさぎの彫刻がいっぱいあるが、
それくらい。社叢は日本海岸の原始林景を今に残すということで国天然記念物に指定されており、その雰囲気が強い。

  
L: 白兎神社の入口。  C: 参道を行く。確かに緑の勢いが印象的だ。  R: うさぎの彫刻がいちいちかわいい。

白兎神社の境内は、厳密に言う場合の鳥取砂丘の西端部となる。観光地としての鳥取砂丘(→2009.7.192013.8.22)は、
その真ん中やや東側の一部分にすぎない(植林や農地開発、あとは空港建設によって、表面上はだいぶ削られた格好)。
参道脇には白うさぎが体を洗ったという身洗池(みたらしいけ)がある。こちらは日照りや豪雨でも水位の増減がない、
不増不減の池とされている。湧き出た地下水が上層の砂のところで浸み出るのでそうなってんじゃねえかなあ、と思う。

  
L: 大国主命と八上姫の砂像。傍にはちゃんと白うさぎがいる。  C: 参道。  R: 身洗池。あんまりきれいそうじゃない……。

白兎神社の社殿は妻入で大社造を思わせる。1890(明治29)年に建立されたそうで、小ぶりながら歴史を感じさせる。
縁結びで観光客相手に売っている神社なのかと思っていたが、実際は『古事記』の雰囲気を守る立派な神社なのであった。
もうひとつ印象的だったのが、ニッポンハナダカバチ。絶滅危惧II類に指定されている蜂で、腹が青みがかった縞模様だ。
これが本殿の周りにいて、なんとも幻想的に思えた。攻撃性はないので、参拝の際はぜひかわいがってやってください。

  
L: きちんと歴史を感じさせる白兎神社の拝殿。尼子残党から秀吉配下となった亀井茲矩が再興した、由緒ある神社なのだ。
C: 角度を変えて眺める。  R: 本殿を見上げる。ニッポンハナダカバチは素早くて、うまく写真を撮れなかったのが残念。

さて御守である。縁結びばっかりかと思いきや、そんなことはまったくなく、非常に豊富なラインナップだった。
先入観とはいけないものだなあと大いに反省するのであった。まあでも、きちんと参拝できて本当によかった。

  
L: 種類が豊富な御守。病気平癒御守や合格守ではうさぎがデザインされている。  C: 境内のナデシコ。きれいなものだ。
R: 一輪をクローズアップしてみた。「撫でし子」ということでかわいがられてきた花ということに納得がいく姿である。

時間があるので、周辺を散策する。国道9号のトンネルの手前から海に突き出た岬の方へ。そこからまわり込んで、
トンネルの真上辺りにある気多ノ前展望広場まで行ってみた。そしたらありましたよ、「恋人の聖地」名物の鐘が。
少子化対策と地域活性化で活動しているのはわかるんですけどね、一人旅で見かけるとなんかムカつくのよね。

  
L: 気多ノ前展望広場にある「恋人の聖地」の鐘。なんかぜんぜんオシャレ感のない場所なので許してやる。
C: 気多岬から眺める白兎海岸。これもまた、鳥取砂丘の一部なのである。天気がもうちょっと良ければねえ。
R: 白兎海岸の海に浮かぶ淤岐ノ島(おきのしま)。白うさぎはここからワニザメの背中に跳び乗ってきたという話。

鳥取駅まで戻ってくるとレンタサイクルで市街地を徘徊。まず最初は、鳥取東照宮(→2013.8.22)の御守を頂戴する。
東照宮なので主祭神は東照大権現こと徳川家康だが、池田忠継・忠雄・光仲・慶徳を配神として合祀している。
前回訪問時も写真を撮っているのだが、国指定重要文化財の社殿をあらためてきちんと撮影してみるのだ。

  
L: 樗谿公園脇の道をどんどん奥へと進んでいくと、鳥取東照宮の入口となる。正面の権現茶屋が授与所を兼ねる。
C: 参道を行く。雰囲気としては完全に公園のそれである。  R: 随神門。参道に対してずいぶん角度がある。

創建したのは初代鳥取藩主・池田光仲。曾祖父である家康に対する敬意、長く江戸で育った光仲の威厳を示す目的、
またもともと豊臣家臣だった池田家の幕府への恭順を示す目的など、さまざまな要因があっての東照宮勧請とのこと。

  
L: 隋神門を抜けると一気に神社らしい雰囲気となる。  C: 拝殿。あまり東照宮らしさを感じさせないふつうの社殿だ。
R: 対照的に本殿は装飾がたっぷり。なお、本殿・拝殿・幣殿・唐門は国指定重要文化財で、すべて1650(慶安3)年の築。

参拝を終えると、ずっと気になっていたけど入ったことのなかった施設「わらべ館」にお邪魔する(→2013.8.22)。
もともとは置塩章設計の鳥取県立図書館だったが、保存が難しかったことから外観を復元して蘇らせたという建物だ。
鳥取県立童謡館と鳥取市立鳥取世界おもちゃ館の複合施設で、1995年にオープンしている。子どもを中心に人気がある。

  
L,C: わらべ館の外観。新たにつくり直されたというわりにリニューアル感はそこまで強くなく、適度に古びている感じ。
R: しかし内部はしっかり現代の建物である。大胆な螺旋のスロープで、上階にアクセスできるようになっている。

1階が童謡の部屋で、2階と3階がおもちゃの部屋。正直、動揺の展示にはあまり興味を惹かれることはなかったが、
おもちゃの展示が面白いのなんの。カメラのシャッターを切る手が止まらないくらい、気になるものがいっぱい。
なるほど、おもちゃとは文化史そのものなのだ。世界のおもちゃは地理的に、日本のおもちゃは歴史的に、
知育玩具は数学的そしてデザイン的に、見るべきものだらけなのである。量があるのでずっと触発されっぱなし。

  
L: 3階、おもちゃの世界。この空間いっぱいにさまざまなおもちゃが展示されており、おもちゃの「深さ」を実感させられる。
C: 知育玩具。見ているだけで面白い。  R: このジャンルの王者は、なんといってもネフ(Naef)。その作品群もしっかり展示。

  
L: 日本の郷土玩具。娯楽の少ない時代の方が、高い密度で豊かさが宿っていたんじゃないかと思ってしまう今日このごろ。
C: 世界の人形。しかし人形ってのも恐ろしく奥の深い世界だな。日本だけでも土偶からフィギュアまで、キリがない。
R: リカちゃん人形。初代の発売は1967年7月。男子的には『ウルトラマン』と『ウルトラセブン』の間の時期となる。

  
L: 乗り物の世界。船にボートにトラックに列車と、子どもってのは常に乗り物に魅せられてきたものだと再認識。
C: ヒーロー物の人形と怪獣のソフビ。デザインという言葉の奥深さに圧倒されるね。  R: ウルトラ兄弟も勢揃いである。

おもちゃという存在は知的生命体の知的な行為による産物であるわけで、その厚みにとことん圧倒されてしまった。
フラフラになりつつ自転車にまたがると、鳥取駅へと戻っていく。でもその途中にも気になる建物がいろいろあって、
これまた前回入れなかった鳥取民藝美術館を見学することができた。民藝の作品もいいが、1957年築の建物もまたいい。
その作品と空間の双方から醸し出される独特な落ち着きを味わうだけでも面白い。しかし優雅なものだなあと思う。

  
L: 五臓圓ビル。旧県立図書館(わらべ館)に影響されて、1931年に建てられた。国登録有形文化財で、地元では人気な模様。
C: 鳥取民藝美術館。これも国登録有形文化財。向かって左手前のモダンな建物は童子地蔵堂。  R: 鳥取民藝美術館の入口。

ギリギリまで鳥取の街を堪能すると、因美線で南下。8年前には「淫靡な因美線」とか言って喜んでいたが(→2009.7.19)、
乗るのは初めてなのでワクワクしつつ揺られる。列車は途中の郡家(こおげ)駅で止まる。若桜鉄道が出るまで22分、
せっかくなので周辺を歩きまわってみることにした。とりあえず、八頭町役場まで往復してみよう。いざ出発である。

 
L: 郡家駅。2015年に「ぷらっとぴあ・やず」というコミュニティ施設と一体化して整備された。オサレですな。
R: 内部の様子。まあ要するに、列車を待つ高校生たちが勉強できる場所って感じ。地元の特産品も売っている。

……特に何もないまま八頭町役場に到着してしまった。県道293号はいちおう商店街らしい雰囲気はあるものの、
実際に機能している店はほとんどなく、銀行の支店が目立つ程度。国道まで出ればまた感じが違うんだろうけどね。

  
L: 八頭町役場。八頭町は2005年に合併して誕生。合併前には郡家町役場だった。  C: 敷地内から撮影。
R: 敷地の端っこ、交差点に面した箇所にある安藤伊右衛門顕彰碑。私財を投じて用水路をつくったとのこと。

駅に戻ると若桜鉄道で終点の若桜へ。途中の安部駅は『男はつらいよ』のロケ地ということで、寅さんの人形があった。
若桜鉄道は駅舎や橋梁をはじめ多数の国登録有形文化財を抱えているが(駅舎だけで6駅)、本数が少ないこともあり、
いちいち見ていくのが非常に難しい。なんとかならないものかと思うが、沿線にこれといったものがないし、どうにも。

  
L: 安部駅の寅さん人形。  C: 若桜駅に到着、ホームから最果ての光景を眺める。  R: 若桜駅。こちらも国登録有形文化財。

若桜駅に着くと、しばらく待ってから若桜町営バスに乗り込む。不動院岩屋堂が国指定重要文化財なので見てみようと。
しかし定刻にバスに乗り込んだのは僕だけで、なんだか淋しいのであった。それでも運転手さんが非常に親切な方で、
せっかくなので終点まで往復してみないかと誘われた。バスは岩屋堂から南の吉川という集落に行って引き返すので、
テンポよく見学すれば同じバスに再び乗ることが可能なのだ。それで終点まで行って、またそのまま駅まで戻ればいい。
なるほど、鉄道でどん詰まりの若桜だが、さらにとことん行ってみるのも面白い。その案に素直に乗っかることにした。

駅を出発すると、バスは若桜のメインストリートを進んでいって役場前を通過。八東川を渡ると国道に合流する。
学校のところで左折して東へ進めば氷ノ山、そして兵庫県へと入っていくが(伊勢道)、そっちへは行かない。
まっすぐ南下して5分ちょっと、岩屋堂バス停に到着である。本当は往路と復路ではバス停の場所が違うのだが、
岩屋堂の前で待っていればそこで乗せるから、と言ってくれた。旅先での親切は本当にありがたいものです。

  
L: 吉川川越しに眺める不動院岩屋堂。木々に囲まれてよくわからない。  C: 近づくとこう。なるほど、投げ入れてますね。
R: カメラを縦に構える。三仏寺と違って、こちらは安全なのがいいね。まあ、あっちにもいずれ行きたいとは思っているが。

さて、不動院岩屋堂である。三朝町の三徳山三仏寺(最も有名な国宝のやつ)、宇佐市の山奥にある龍岩寺とともに、
「日本三大投入堂」に数えられているそうだ。三仏寺のような断崖絶壁の窪みにはまり込んでいるわけではないので、
迫力はどうしても劣る。しかしやや節理っぽく角ばった岩肌と緑は水墨画のような感触で、厳かな雰囲気を漂わせる。
残念な点は、眺める角度がどうしても限られてしまうこと。もうちょっと高いところから水平に見たかったなあ。

  
L: 岩屋堂をクローズアップしてみた。源頼朝の再建と伝わるが、室町時代初期の建立と推定されている。古いが、きれい。
C: 向かって右側には岩屋神社。やはりこちらも岩の窪みに社殿が食い込んだ形で建てられている。  R: 拝殿側面と本殿。

見学を終えると戻ってきたバスに拾ってもらって、国道29号をどんどん東へと進んでいく。終点となっているのは、
落折(おちおり)という集落。名前からしてそのままだが、運転手さん曰く、ここの住人は全員「平家」姓とのこと。
そうなると俄然興味が湧いてくるが、のんびり下車する暇はない。僕もいちおう母方が藤原姓の落人の子孫だし、
父親のcirco氏はこの手のサンカ伝承が大好きだし、非常に気になる。とりあえず車窓の写真でガマンするのだ。
なお、落折から戸倉峠を越えて行くと、山崎(宍粟市 →2014.2.23)そして姫路(→2009.11.212014.2.22)に至る。

 
L,R: 落折の集落。平清盛の異母弟・経盛の最期の地という伝説もある。かつては木地師の集落であったとも。

思わぬ収穫(まあそれが僕が無知だからなのだが)に大喜びしながらバスに揺られる。運転手さんといろいろ話したが、
地元の方の生の声が聴けるのは本当に面白い。余裕のない、上っ面を舐めるだけの旅をしていてはイカンのである。

駅までは戻らず、八東川から町の中心部に入ったところにある若桜町役場で下ろしてもらう。せっかくだから撮影だ。
昔ながらのスケール感をしっかり残した街並みなので、道路を挟んでも撮りづらいし、敷地内も駐車場が狭くて大変。

  
L: 若桜町役場。1962年竣工。  C: エントランス付近を正面に。  R: 角度を変えて撮影。みっちり詰まっているなあ。

一国一城令で廃城になったとはいえ、若桜鬼ヶ城の麓に位置しているこの場所は、昔からの行政の中心なのだろう。
川で区切られた宿場町の端っこで山城の真下という好位置にギッチギチの役場があるのは、プライドを感じさせる。

  
L: 背面にまわり込んでみた。  C: 八東川側から本通り沿いに行くとこの角度。  R: 裏手には1980年竣工の保健センター。

役場の撮影を終えると街を歩いてみる。若桜の街は明治期に二度の大火に遭い、歴史ある建物が焼失したそうだ。
それでも本通りは今も街道らしさを十分に感じさせるのが興味深い。また、その大火の影響によってつくられた通り、
仮屋通りや蔵通りが実にフォトジェニックである。本当はそれらがもっと多く残っているとよかったのだが。

  
L: 若桜駅から延びる駅前通り。こちらは広々としていて明らかに近代の産物である。旧市街で広い道はここくらいだが。
C: 左に曲がって本通り。建物は更新されているが、往時の宿場町の雰囲気が残る。  R: 半分より奥まで進んで振り返る。

  
L: 昭和おもちゃ館。  C: 休憩交流処かりや。明治20年ごろ築の民家をリニューアル。道路との間にあるのがカリヤ(仮屋)。
R: こちらもカリヤのある民家。カリヤとはつまり雁木(→2011.10.92014.6.28)のこと。かつては800m近く続いていた。

  
L: 案内板には鬼が引っついていた。  C: 蔵通り。本通りの背面になるので、非常に路地っぽい雰囲気である。
R: 西方寺。蔵の道を挟んだ反対側には寺が並んでいる。つまり、寺通り=蔵通りというわけ(だから案内板で等距離)。

市街地からそのまま飛び出て、国道482号を越えて、八東川も越えてしまう。そこにあるのは、意非神社。
「おいじんじゃ」と「いひじんじゃ」という2つの呼び方があるようだ。そりゃ、「おいじんじゃ」の方が面白いでしょ。
日本一の大きさの幟があるそうだが、この日は不発。無人なのも残念なのであった。まあきちんと参拝しましたが。

  
L: 意非神社の大鳥居。木製の鳥居としては日本で五本の指に入る大きさとのこと。2011年完成と、かなり新しい。
C: 幟の掲揚台。来たら肝心の幟がなくてがっかり。  R: 社殿。2013年の式年遷宮で解体された伊勢神宮の古材で再建。

最後に反対側の街はずれにある若桜神社へ。いざ境内に入ったら、これがなかなかとんでもなかった。
しばらく進むと石段がスタートし、神門を抜けても石段が延々と続くのである。崩れている箇所もなく、
きれいに並んでいるものの、距離が半端なくって上りきったらもうヘロヘロ。いや、これは予想外だった。

  
L: 若桜神社の境内入口。ここからあの石段は想像がつかなかったなあ。  C: 鳥居をくぐるとこんな感じ。  R: 神門。

石段を上りきると社殿のある広場へと出るのだが、木々に囲まれて荘厳な雰囲気。もっとゆっくり味わいたかった。
帰りの列車の時刻が迫っており、慌てて参拝して写真を撮って石段を駆け下りて全速力で駅まで戻って滑り込んだが、
本当にもったいなかったと思う。若桜鬼ヶ城とあわせて、いつかリヴェンジしてみたいなあと思いつつ列車に揺られる。

  
L: 石段が延々と続いて、いやもう大変だった。  C: 石段を上りきると社殿。寂しい感触もするが、それ以上に荘厳だった。
R: 拝殿からまわり込んで本殿を眺める。やはりこちらも立派で、もっと時間をかけてしっかり見ておきたかった。

若桜を後にすると、郡家に戻って即、乗り換え。智頭まで揺られて、また乗り換え。しかし智頭急行のわけがない。
さらにローカル化した因美線で山の中をゴリゴリと南下していくのである。そうしてようやく津山に到着なのだ。

 津山駅前。3年前(→2014.7.20)からガラリと変わっていて激しく驚いた。

津山駅周辺を歩いていてとにかく目立つのが、「B'z」「祝・凱旋」という文字。なるほど、そういうことかと。
B'zの稲葉氏が津山出身で、近く凱旋公演をするので地元は大興奮しているわけか。幟を一瞥するだけでよくわかる。
しかしデビューしてから30年近く経っていて、もうすでに天下をとって久しいというのに、こんなに興奮しているとは。
むしろ今までやっていなかったのが不思議である(調べたら、デビュー翌年に学園祭でライヴをやって以来みたい)。
駅周辺での様子を見ていると、すごく純粋な期待感にあふれていて、この興奮ぶりが本当に微笑ましくてたまらなかった。

  
L: B'zの凱旋公演を告知する幟。稲葉氏が横国大卒で数学の教員免許を持っている話は知っていたが、津山の出身だったのね。
C: 街には幟が立ちまくりである。全力での喜びっぷりが微笑ましくって。  R: 駅のでっかい看板。市民の皆さんよかったねえ。

津山では1時間ほど滞在時間があるので、ここで晩飯をいただく。駅近くのホテルにトマト&オニオンが入っているので、
おいしくハンバーグをいただいた。そしたらトマトを丸ごと1個使ったサラダが死ぬほど旨くて。これは毎日食いたいわ!

 毎日これが食えたらどれだけ幸せなんだろうか。

因美線を制覇した次は、津山線なのだ。夕暮れの光の中、津山線は川に沿ってゆるゆると山間を南下していく。
田んぼとのんびりとした集落とがだんだん高度を落としながら連続している光景は、やっぱり独特なものがある。
そして車窓の風景は、以前リョーシさんの車に乗せてもらったときに見たものと同じなのだ(→2014.7.26)。
そのときの楽しい記憶を思い出しながら、1時間ほど揺られると岡山駅に到着である。スタート地点に戻ってきた。

 亀甲駅のカメ頭(わざと漢字で書かない)。なんかお前、ベッキーに似てないか?

岡山駅からは新幹線で、3時間で東京へ。夏の始まりにふさわしいグランツーリスモが終わった。旅は……楽しいっ……!


2017.7.16 (Sun.)

朝、まず最初にやったことは、米子駅のバスターミナルで1日乗車券を購入することだった。今日はこれに頼るのだ。
中国地方を逆三角形で動く旅の2日目は、鳥取県内を西から東へ移動する。が、ふつうに移動などするはずがない。
大山の麓にある伯耆国二宮・大神山神社を参拝するのである。さらに農村集落の所子、名和神社も押さえる。

バスは7時20分に米子駅を出発すると、1時間弱で終点の大山寺バス停に到着。大神山神社の奥宮の最寄りである。
大神山神社には奥宮と本社があり、まずは奥宮から攻めたというわけ。駐車場は広く、思ったよりも車が多い。
そんなに人気のある場所だとは思っていなかったので、これにはかなり驚いた。立派な観光地じゃん!と。

  
L: 大山寺へ向かうバスの車内より。行く手にあるのは山陰の象徴・大山。雲がかかってしまっているのは残念である。
C: ラストスパートの光景。山を切り開いている感じ満載。  R: 大山寺バス停近辺の駐車場。来てみたらけっこうな賑わい。

よく見ると、ここにいる人たちは2つの類型に分けることができる。派手な色のトレッキングウェアに身を包んだ人と、
そうでない人と。そう、この大山寺バス停は、大山への登山口なのだ。登山する気がなかったので調べていなかったが、
ここから3時間弱で山頂の弥山まで行くことができる。多くの人はそれを目的にここに来ているというわけだ。
なるほど、そうとわかれば大山への登山も興味深い。しかし今日はほかにも行きたい場所がたくさんあるのだ。
モンベル大山店(こんなところにモンベルがあんのかよ!と驚いた)から登山道へ向かう人々と別れ、石畳の坂を上る。

  
L: 駐車場から参道へ入ったところ。  C: 参道はなかなかの急坂。  R: モンベルは佐陀川の脇にある。床固工が目立つ。

坂をまっすぐ上りきると、大山寺の山門がお出迎えである。しかしそこから左に曲がって、鳥居をくぐる。
まずは大神山神社の奧宮から参拝するのだ。緩やかにカーヴを描く上り坂の参道がさらに続いていくが、
苔も木々もエネルギッシュで明るい湿り気を感じさせる。丁寧に整備された石畳とともに、風格を大いに感じさせる。
実はこの参道、皇紀二千六百年の記念事業で整備されたそうだ(昭和15年)。非常に雰囲気がいい参道である。

  
L: 大山寺の山門から左を向くと、大神山神社奧宮の鳥居。  C: 参道は湿り気を感じさせるが、みずみずしいという印象。
R: 大山は奈良時代から修験道の修行の場だったが、参道がしっかり整備されているのが印象的。威厳を感じるなあ。

やがて神門が現れる。下から見上げても立派だが、通り抜けて振り返っても妙に立派である。裏表がない感じの門だ。
実際、扉は逆向きに開くという。調べたらもともとは大山寺本坊・西楽院の門で、廃仏毀釈の際に神社の神門となった。
そしてなんと、元あった向きのままで移築したせいで、表裏が逆の状態になってしまったとのこと。いい加減だなあ。

  
L: 神門を見上げる。  C: 実に立派だが……  R: 振り返って見ても立派。というか、本来はこっちが表側。妙だと思ったわ。

そんなオモシロ神門を抜けると巨大な奥宮拝殿が現れる。1805(文化2)年築、国指定重要文化財の迫力は凄まじい。
参道も立派だったが、拝殿の豪壮さもそれにまったく劣らない見事さだ。しばらく立ち尽くして見とれてしまった。

  
L: 神門から眺める最後の石段と奥宮拝殿。  C: 正面から見据えるが、その迫力に圧倒される。  R: 角度を変えて眺める。

いかにも神仏習合らしい建築で、長廊は両翼約50mというとんでもない規模。それに比べると本殿はおとなしめで、
拝殿の後ろにひっそりくっつく権現造である。もともと大山じたいが御神体だった経緯があるからかもしれない。

  
L: 拝殿の長廊全体が収まるように撮影してみた。とにかく規模が大きい。  C: 側面。手前が長廊、奥が本殿。
R: 本殿をクローズアップ。本殿が幣殿を介して拝殿と一体化した権現造で、これがまた神仏習合。でもこちらは小規模。

拝殿に向かって左側、一段低いところに末社・下山神社が鎮座する。こちらも1805(文化2)年築で国指定重要文化財だ。
本殿が奥宮のそれによく似ているが、奥宮への毎月の参拝を長年欠かさなかった渡辺源五照政を祀っているので、
意図してそうしたのだろう(参拝した帰路に不慮の争いで殺されてしまい、僧侶がその死を惜しんで祀った)。

  
L: 下山神社。  C: 奥宮の本殿にわざと似せている感じ。  R: 境内脇の行者登山口。大山頂上まで3kmだと。近いやん。

いろんな角度から奥宮を眺めてたっぷり堪能し、御守もしっかり頂戴すると、石畳の参道を下っていく。
鳥居を抜けると、今度は大山寺への参拝である。廃仏毀釈で一度は大山寺の号を廃絶することとなったが、
1903(明治36)年に再び大山寺となる。しかし1928年に火災で本堂を失うなど、かなり苦労があった寺である。

  
L: 大山寺の山門。  C: 山門を抜けて石段脇の木々と寺号標を眺める。いい雰囲気だ。  R: 途中の授与所。右端に懸造が見える。

上で述べたとおり大神山神社奥宮への参道は上り坂だが、大山寺の境内を北に迂回している。それはつまり、
大山寺の境内はけっこうな高低差があるということでもあるのだ。まず授与所が石段の途中にあって、
本堂はさらにそれより高いところにある。本堂の手前にはすっきりとした空間があるが、実はこれ、懸造の上。
がっちりとしたコンクリートで支えられているおかげで、余裕のある配置となっているのだ。もしこれがないと、
境内はかなり狭苦しい状態になってしまうはずである。いいところはほとんど大神山神社に持っていかれてしまった。

 大山寺の本堂。火災を経て1961年に再建された。

せっかくなので、金門と賽の河原にも行ってみた。大神山神社奥宮の参道からはずれて佐陀川へと下りていくのだが、
かなり草が勢いよく生い茂っており、こんなところに来る奴おるんかと思いつつ進んでいく。パワースポットらしいが。
どうにか河原まで来るが、積まれた石よりも草の方がはるかに目立っている状態。金門も木々の勢いの方がすごくて。
パワースポットぶりをイマイチ実感できないまま、バス停方面へと戻るのであった。ニンともカンともである。

  
L: 手前の平地が賽の河原。奥の大山がガスで見えないのが非常に残念。  C: 賽の河原。草ボーボー。  R: 金門。木々ボーボー。

帰りのバスが来るまで、大山自然歴史館や大山ナショナルパークセンターを見学したり、駐車場を散歩したりする。
しかし予定時刻になっても一向にバスは来ない。痺れを切らしてバス会社に電話したら、大幅に遅れているとのこと。
そこで昨日の皆生温泉を思い出す。そうだ、トライアスロンだ。その影響を直に食らってバスが遅れているわけだ。
結局、20分ほどの遅れでバスはやってきた。これは大神山神社の本社をそうとうテンポよく参拝しないとマズい。

 
L: 大山自然歴史館から眺める皆生海岸。これがすっきり見えれば絶景なのだが。大山の山頂から見るのは最高だろうなあ。
R: 駐車場から見上げる大山ナショナルパークセンター(左手前)と大山自然歴史館(右奥)。大山が見えないのが残念。

本宮バス停を降りるとジョギングで大神山神社の本社へと向かう。さっき述べたとおり、奥宮は修験道の修行の場だ。
しかし冬になると雪で閉ざされてしまうため、祭事を執り行うには非常に不便。それで麓に冬宮が設けられたのだ。
これが現在の本社というわけである。奥宮が参道を大規模に整備されて大いに威厳を漂わせていたのに対し、
本社はわりとふつうの神社という感触。確かに境内は広いが、どこか開放的で大雑把な空間となっているのだ。

  
L: 大神山神社の本社、境内入口。境界部分が大雑把な田舎の神社っぽさが強い。  C: しかし境内は広くて余裕を感じさせる。
R: 神門。ここでまた玉垣を配置して境内を区切っている点は珍しい。本社がこちらに成立したのは1653 (承応2)年とのこと。

とはいえ、さすがに社殿はタダモノではない風格を漂わせている。奥宮が参道といい社殿といい見事すぎるので、
どうしてもそっちばかりが目立ってしまうのだが、本社の方の社殿もなかなかのものだ。詳しい情報がないのが悲しい。
特に神門から内側の空間構成は独特で、奥宮との対比でわざわざ特徴を持たせたのか、気になるところである。

  
L: 神門を抜けて拝殿。手前の木がやたら元気なのだが。拝殿と向かって左にアーチで隣接する社殿もまた独特。
C: 角度を変えて眺める。  R: 拝殿をクローズアップ。手前の狛犬が微妙に洋風な顔立ちなのも珍しい。

天気が良くなってきたこともあり、境内の雰囲気は非常に明るい。落ち着いた里宮といった感じで居心地がよい。
残念なのは、授与所が閉まっていたこと。大山がデザインされた御守、せっかくなので頂戴したかったんだけどなあ。

  
L: 本殿の側面(東側)。本社の本殿は妻入の大社造で、奥宮とだいぶ違う。  C: 反対側の側面(西側)。左が拝殿で右が本殿。
R: 御守は奥宮と一緒な模様。しかし授与所が閉まっていたので追加で頂戴できなかった。大山デザインの健康守が気になる……。

来たときのバスが遅れたからといって、帰りのバスも遅れるとは限らない。少し急いでバス停へと戻る。
そしたら途中でトライアスロンのトップっぽい集団に遭遇。晴れてきて選手も大変だが、スタッフも大変だよ……。

  
L: 本社へと至る尾高の街並みは、なかなか歴史を感じさせる。  C: 交差点を曲がるトライアスロンの参加者。
R: ボトルのポイ捨て場所が指定されているものなのね。暑くなってきて大変だけど、スタッフも大変だよこれは。

案の定、帰りのバスはほぼ定刻どおりに来やがった。まあそうじゃないと困るんだけど。伯耆大山駅北口まで揺られると、
近くのスーパーで昼飯を確保して一休み。頃合いを見計らって伯耆大山駅にまわり込み、山陰本線に乗って東へ。

 車窓から眺める大山。やっぱり山頂付近は雲に隠れてしまっている。

10分足らずで大山口駅に到着し、途中下車。わざわざそうした理由は、ここに所子(ところご)という集落があるから。
大山町所子は、2013年に重要伝統的建造物群保存地区に指定されたのだ。じゃあせっかくだから行ってみようってわけ。
成層火山の大山が日本海まで沈み込む、その裾野にある集落なので、大山口駅から所子までは緩やかな上り坂である。
重い荷物を背負ってじっくり歩いていくのはなかなか面倒くさい。距離としてはまったく大したことないはずなのだが。
しかし景色は抜群に美しい。ゆったりとした平地を満たす田んぼは、見渡す限り広がる緑の波となって風になびいている。
正しい日本の夏の姿、そのものだ。緑の先には家が集まっている一角がある。あれが所子なのだろう。田んぼから眺める。

  
L: 大山へと延びる道から田んぼに入って見た景色。これは海側を見たところ。水平線の上にあるのは島根半島、美保関か。
C: 山側へと視線を移すが、一面に広がる緑の波が本当に美しい。  R: 正面に見えるは所子。家々と木々が混じっている。

まずは賀茂神社に参拝することにした。大山ICの手前にあるが、木々が生い茂って昔のままという雰囲気だ。
所子はかつて賀茂御祖神社(下鴨神社)の社領だったそうで、神社が勧請されたのも当然の流れというわけか。
境内の湿り気は周辺の生き物たちにとっても貴重なものであるようで、アマガエルがぴょこぴょこ跳ねていた。

  
L: 賀茂神社。ひと気はぜんぜんないが、所子にとって非常に重要な神社。  C: 拝殿。  R: 破風の雲の彫刻が印象的な祠。

参拝を終えると、所子の集落へと入っていく。南端にあるのが国登録有形文化財の美甘家住宅で、庭園を覗ける。
それにしても美甘(みかも)家とはかっこいい苗字である。室町時代末期からこの地の豪族としてがんばっていたとか。

  
L: 美甘家住宅。  C: 公開されている庭園。富士山の溶岩を使っているとのこと。  R: 所子集落の中にある薬師像。

ここから本格的に所子の集落となるが、とにかく道が複雑に曲がっている。地図を見るとわかるが、家並みに沿うと、
北西から南東へ細長い集落となっている。しかし面白いことに、賀茂神社からまっすぐ北に延びる線上には家がない。
これは「神さんの通り道」と呼ばれており、この線上に建物を建ててはいけない決まりになっているそうだ。
そしてこの線が、所子の古い集落「カミ(南東側)」と新しい集落「シモ(北西側)」を分ける境界になっている。

  
L: 所子集落の内部。曲がる道を挟んで昔ながらの家々が並んでいる。  C: 所子公民館前。手前の石は力自慢に使った力石。
R: 旧所子郵便局。明らかに個人の邸宅で、門脇家(分家のひとつ、通称「店門脇家」)が自宅の一角を郵便局とした名残である。

「カミ」の集落は、歩いていてどこか懐かしさを感じさせる。古き良き日本の農家、そのものなのである。
しかし家々は立派で、街としての機能があったことがわかる。農家と街が合体した光景は、確かに独特なのだ。

  
L: 「神さんの通り道」のちょい手前の光景。つまり「カミ」の終端部。行く手に見える家々は「シモ」の集落というわけ。
C: 「シモ」の集落を行く。手前には洗い場がある。集落内の水路は「ツカイガワ」と呼ぶそうだ。  R: 「シモ」の南端。

「カミ」が適度に生活感のある家が中心なのに対し、「シモ」ははっきりと豪邸が中心の空間である。
国指定重要文化財の門脇家住宅をはじめ、文化財レヴェルの住宅がほかにも2軒。ちなみにこれらも門脇家である。
いちばん大きい国指定重要文化財の住宅が通称「本門脇家」で、隣が「南門脇家」、向かいが「東門脇家」。
つまり、「シモ」の方は大庄屋だった門脇家とその分家が中心となって、後から形成された集落というわけなのだ。

  
L: (東)門脇家住宅。主屋はこの奥。  C: (本)門脇家住宅の周辺。塀があるので「カミ」とはけっこう印象が違う。
R: (本)門脇家住宅。1769(明和6)年に大庄屋の役宅を兼ねた住宅として建てられた。ここが核となり「シモ」ができた。

単純に古きよき日本を感じさせるだけでなく、歴史的な経緯をしっかりなぞることができるのが所子の面白さだ。
そして集落から離れて田んぼの方へ行けば、一面の緑と大山という絶景を味わうことができる。北には海だって見える。
わざわざ歩きまわるだけの価値は十分にあった。新たな発見がうれしい。日本には興味深い場所が本当に多いなあ。

大山口駅から1駅東、名和駅はけっこうな急坂の途中にあり、なかなか独特な雰囲気。海と家々を見下ろせるのはいい。
さて伯耆国で名和といえば名和長年。「三木一草」と称された南朝方の忠臣の一人で、隠岐を脱出した後醍醐天皇を迎え、
鎌倉幕府方と戦った人である。もともとはこの辺りで海運業を営んでいたのが、武装して悪党となった経緯があるようだ。
長年は大山北端の船上山に籠り、天皇を追ってきた隠岐国守護の佐々木清高を撃退した。これで天皇方が完全に勢いづき、
追討軍として派遣された足利高氏も幕府を裏切り六波羅探題を破るなど、後醍醐天皇が京都に戻るきっかけをつくった。
結局はその足利尊氏(後醍醐天皇の偏諱を受けて高氏から尊氏に改めたのだが)に敗れて長年は亡くなってしまうのだが、
地元住民が長年の邸宅跡に建てた祠を鳥取藩主・池田光仲が神社とし、明治の南朝復権の流れで名和神社が整備された。
というわけで、名和神社に参拝するのである。建武中興十五社はなんだかんだで、歴史の勉強になるありがたい存在だ。
でも参拝するのが大変な場所が多いんだよなあ。地方の豪族が絡んでいるのでけっこうとんでもないところにあるのね。

  
L: 坂道を上っていくと名和神社である。  C: 境内入口。  R: 鳥居をくぐって境内。なるほど、近代に整備された感じ。

社殿の完成は1882(明治15)年とのことで、参道なんかがきっちりと整備されているのは確かに近代の感触である。
さすがに各種神宮(近江 →2014.12.13、明治 →2015.5.10、橿原&吉野 →2015.9.20、宮崎 →2016.2.26)ほどではないが、
ある程度の法則性というか、神社空間づくりの文法というようなものを感じる。研究しがいがあるかもしれない。

  
L: 楼門。  C: くぐると拝殿。  R: 本殿を覗き込むが、蜂が勢いよく飛び回っていて怖かった。これが限界。

もちろん御守を頂戴したのだが、ここで「おおっ!」と思わず唸ってしまうことがあった。御守はだいたいの場合、
白い紙袋に入れて渡されるものだ。しかし名和神社では、神職さんが一枚の紙を折りたたんで袋をつくるのだ。
このパターンは初めてで、いつも以上にありがたさを感じる工夫なのであった。そしてその紙もまたかっこよくて、
名和氏の家紋である帆掛船が印刷されている。これは後醍醐天皇から与えられたもので、名和氏の特性がうかがえる。

 
L: 名和神社の神紋にもなっている、名和氏の帆掛船。  R: 御守を入れる紙袋に印刷されている帆掛船。これはかっこいい。

列車が来るまで余裕があるので、名和の街をふらっと歩いてみる。坂を下っていけば集落があるので、気ままに散歩。
さすがに名和氏時代の痕跡がはっきり残っていることはないだろうが、歴史を思い浮かべて歩くのも、乙なものだろう。

  
L: 名和駅から眺める家並み。その上に水平線が見えるのがまたいいではないか。  C: 名和神社からの坂を下るとこの景色。
R: 坂を下りきって神社の方を振り返る。実際に歩くとけっこうな急坂で、それが神社からさらにずっと先、大山へと続くのだ。

県道269号を往復してみたのだが、雰囲気は漁村のそれである。道は海岸線をきれいになぞって曲がっていて、
それが旧来の街道らしさをちょうど感じさせる具合となっている。名和氏の頃から道は変わっていないんじゃないか。
海岸沿いの道に出ると漁港があり、後醍醐天皇御腰掛けの岩があった。この辺りの地名は「御来屋(みくりや)」で、
もちろん後醍醐天皇が上陸したことに由来する。訪れてみたら、穏やかに歴史を感じさせる場所なのであった。

  
L: 名和駅から県道269号を行く。この辺りは山陰道の御来屋宿であり、その東端に御来屋駅(名和駅の隣)がつくられた。
C: ボケーッと海を眺める。島根半島の存在感は格別だ。かつて名和長年は海から流れ着いた後醍醐天皇をここで保護したのか。
R: 後醍醐天皇御腰掛けの岩。隣の石碑には長年に詠んだ歌「忘れめや 寄るべもなみの荒磯を 御船の上にとめし心は」が彫られている。

列車が来たのでのんびり揺られて鳥取駅まで。いったい何回目なのか。山陰大好きだなオレは、と自分で自分に呆れる。
メシを食おうと外に出たが、駅周辺にはいろいろと魅力的な店があってけっこう迷う。人が少ないと揶揄される鳥取だが、
若い人は意外と野心的というか、積極的に新しい商売をやろうとしている印象がある。魅力的だと思うんだけどなあ。

  
L: 鳥取駅。山陰は落ち着いているし、文化度の高さが今も感じられるし、温泉いっぱいあるし、けっこう好きなのよね。
C: 今回は豚丼をいただきました。鳥取はチャレンジングな店が多い印象。  R: 今回泊まった宿もカフェを併設してやる気。

さあ皆さん、鳥取といえばまず最初に思い浮かぶのは……そう、白バラコーヒー(→2014.7.252015.11.19)ですね!
あのスターバックスの鳥取進出を長年阻み続けていたという伝説でおなじみの、世界一旨いコーヒー飲料である。
ちなみにマツシマ家では、かつてお中元・お歳暮に大山乳業協同組合のアイスクリームセットを贈っていたのだ。
で、そのついでということでウチの冷凍庫にもちょこちょこ入っていることがあって、やたら旨かった記憶がある。
当時の僕は知らなかったが、大山乳業協同組合のブランド名こそ「白バラ牛乳」。幼少期からすでに魅了されとったのね。
さて聖地・鳥取に来ているからには、ぜひ1リットルの白バラコーヒーを確保して、部屋でチビチビやりたいじゃないの。
それで地元のスーパーで売り場に行ったら……ウホーッ! これこそ桃源郷ではないか! しかもお値段がとってもお安い!

 ファンならば悶絶せずにはいられない光景である。

白バラコーヒーの唯一の難点は、牛乳成分がちゃんとしすぎているので、調子に乗って飲みすぎるとお腹を壊す点だ。
なんだかバラムツみたいだ。いや、それはさすがに白バラコーヒーに失礼すぎるか。安部公房『砂の女』の冒頭の文、
「罰がなければ、逃げるたのしみもない」を思い出す。砂丘は関係ないけど、まとまった気がするところでこれにて。


2017.7.15 (Sat.)

夏休み直前、海の日がらみの3連休であります。Googleマップを睨んでどこへ行こうかあれこれ考えた結果、
伯備線にまだきちんと乗ったことがないぞ、となる。サンライズ出雲で寝ている間に通ったことはあるのだが、
意識がある状態で車窓の風景を眺めたことはないのである(倉敷ー総社と新見ー備中神代は通過済み)。
ほかにも中国地方を縦断する路線では、因美線と津山線もまだだ。じゃあこの3日間でこの三角形を制覇しよう!となる。
鳥取県内(一部は島根県)には、ぜひとも押さえておきたい市役所・神社・街並み・施設などがまだまだあるのだ。

夜行バスに揺られて到着したのは、岡山駅西口。学割が効く夜行バスはええのうと思いつつ、すぐに改札を目指す。
なんせ移動距離が長いので、テンポよく動かないといけないのだ。本日最初の目的地は総社。総社市の備中総社ね。
3年前にも訪れてレンタサイクルをかっ飛ばしているのだが(→2014.7.24)、なんと御守を頂戴していなかったのだ。
東総社駅から徒歩でアクセスするが、時間が少し早いので周辺を散歩する。まちかど郷土館は相変わらず魅力的。

  
L: まちかど郷土館(旧総社警察署)。  C: 反対側から眺めたところ。  R: この周辺にはいい感じの建物が多いんだよな。

9時近くになったので、備中総社の境内にお邪魔する。「總社」が正式名というのは以前書いたとおり(→2014.7.24)。
東と南の2つの参道が交わる構造は、やはり複雑で楽しい。御守も無事に頂戴できて、これで胸のつかえが取れた感じ。

  
L: 備中総社の池はけっこう存在感があるのに、前回なぜか写真を貼り付けなかったので、ここでリヴェンジ。
C: 拝殿。左側に備中神楽に登場する神様たちの面が並んでいて興味深い。  R: 本殿だけをクローズアップ。

列車は9時8分に東総社駅を出るので、急いで駅まで戻るのであった。授与所が9時には開いていて本当に助かった。

 吉備線がいつのまにか「桃太郎線」なんて名前になっていて驚いた。狼狽したよ。

総社駅で乗り換えて、いよいよ伯備線である。特急で揺られることわずか16分で、備中高梁駅に到着。
高梁市には6年前に男3人ブラ珍クイズ旅で来ているのだが、あのときブサイク発言を連発していたラビーのみが結婚し、
善行を積むリョーシさんと僕はいまだ独身というのが信じられない(ラビーの救いがたい言動はこちら →2011.2.19)。
そしてこの6年で変化したのは僕たちとラビーの立場だけではない。高梁市役所も新しくなっているのである。
残念ながら時間的に備中松山城まで行く余裕はないが、市街地をできるだけあちこち歩きまわってみるのだ。

  
L: まず驚いたのが備中高梁駅。高梁市図書館が直結しており、中にはスタバまである。TSUTAYAが指定管理者なのね。
C: 備中高梁駅。図書館は奥の方ね。  R: 市役所前から見える備中松山城の天守閣。電線の合間をかいくぐって撮影。

新しい高梁市役所は駅から歩いて10分もしないところにある。手前がオープンスペースとなっており、遊具もある。
こういう配置の場合、だいたい手前は駐車場となるものなので、子どもが遊べる公園としているのは非常に珍しい。
おかげでこっちも撮影がしやすいし、ありがたいことこの上ない。惜しむらくは電線がけっこう邪魔なことか。

  
L: 高梁市役所。手前を遊具のある公園(正宗公園)としている例は珍しい。電線が邪魔なのが惜しいなあ。
C: 角度を変えて眺める。垂れ幕には「祝 野球殿堂入り 平松政次氏」。カミソリシュートの平松投手は高梁出身でしたか。
R: では左回りに一周してみるのだ。正宗公園越しに南西側から。それにしても開放感満載の公園だなあ。

設計は山下設計関西支社と建築事務所双南舎のJVによる。大手組織事務所と地元の事務所が組んだわけだ。
おそらく地元の設計事務所を入れることが条件になっている、よくあるパターンであろう。竣工は2015年。

  
L: 西側へとまわり込む。  C: 北西側より。  R: 北側から眺める背面。正面とわりと差がある。

面白いのは1階東側で、テラスとなっており椅子とテーブルが置かれており、閉庁日でも自由に利用できる点。
せっかくならもう一歩踏み込んで、カフェ的な要素を入れると正宗公園とセットで魅力が増しそうに思うのだが。
高梁市には備中松山城や古い街並みがあるんだから、うまく観光客の拠点とする工夫ができればいいのに。
駅隣接の図書館に力を入れるのも悪くないが、そこに資源が限られて旧市街地に広がっていないのは残念だ。

  
L: 北東側より。  C: 東側から眺める。テラスが面白い。山田方谷をモデルにしたゆるキャラ「ほうこくん」がいる。
R: テラス内部はこんな感じ。居心地がよさそうだが、土日はただ何もない空間になってしまうのがもったいない。

市役所の撮影を終えると、時間の許す限り街歩きだ。高梁市は備中松山城の城下町であり、高梁川沿いに北上すれば、
昔ながらの街並みに至る。でもまずはその手前の高梁市郷土資料館を再訪問。洋風木造建築は城下町の文化度を示す。

  
L: 高梁市郷土資料館(旧高梁尋常高等小学校本館)。前回訪問時(→2011.2.19)より周辺がすっきりした気がするが。
C: どうしてもこの角度で撮影してしまうなあ。相変わらずどこかカエルっぽい。  R: 側面と背面をあわせて撮影。

高梁市で今も残る城下町らしい街並みは、紺屋川の辺りから始まる。かつて備中松山城の外堀の役割を果たしており、
川沿いは「紺屋川(こうやがわ)美観地区」という名称で親しまれている。「日本の道100選」にも選ばれている。

  
L: 紺屋川。川面まで下りられるのがいい。  C: 高梁基督教会堂。1889(明治22)年の築で、岡山県最古の教会。設計は吉田伊平。
R: 備中松山藩の藩校・有終館の跡。二度の火災に遭い、山田方谷が1851(嘉永4)年にこちらに移した。現在は幼稚園となっている。

紺屋川に跨る伯備線を抜けて右岸にあるのが頼久寺。「小堀遠州」こと小堀政一が備中松山城の城主となった際、
城が荒れていたのでこちらの寺を仮住まいとし、庭園をつくった。もともとは備中国の安国寺とのことである。

  
L: 頼久寺の入口。確かにずいぶんと凝った造りである。  C: 境内。  R: ガラスには山と舟の帆か何かが描かれていた。

ではいざ中にお邪魔して庭園を拝見。頼久寺庭園は蓬莱式庭園ということで、神仙思想の蓬莱山を表現した庭園である。
建物の間にある小さなスペースからすでに物語は始まっており、ゲシュタルト的に図と地がひっくり返されそうで面白い。

  
L: 建物の間にある中庭部分からすでに蓬莱空間は始まっている。  C: 中庭を見ながらまわり込んだところ。
R: さらに進んで振り返る。建物の間に庭園があるのではなく、庭園が表象する蓬莱山が建物を浮かべているのだ……。

小堀遠州が20代後半から30代にかけて作庭した庭園ということで、もうそれだけで非常に興味深いではないか。
いい意味で若さを感じさせるエネルギッシュな庭である。遠くに浮かぶ理想郷が鮮やかに表現されているのがいい。

  
L: 中庭側から庭園のハイライト部分へ近づいていくとこんな感じ。前に見えるのはサツキを刈り込んだ青海波。
C: 庭園のハイライト部分。南にある愛宕山を借景とする蓬莱式庭園である。  R: 右(正面)が鶴島、左奥が亀島。

頼久寺を後にすると、そのまままっすぐ北上して「石火矢町(いしびやちょう)ふるさと村」の界隈を歩く。
江戸時代には中級武士の屋敷が建ち並んでいたエリアで、重伝建ではないが岡山県指定の町並み保存地区となっている。

  
L: 石火矢町の武家屋敷通り。  C: 進んでいくとこんな感じ。行った先にあるのは御根小屋跡に建つ岡山県立高梁高等学校。
R: では高梁高校に近い側にある旧折井家から見学するのだ。通りに面する長屋門が、なんとも威厳を感じさせる。

現在の石火矢町では武家屋敷2軒が市の施設として見学可能となっている。入館料は両方の共通券で400円である。
まずは通りをまっすぐ北上していき、備中松山城の内堀となっている小高下谷川にぶつかって止まるまで進む。
この先はかつて御根小屋と呼ばれた場所で、藩主の御殿と武家屋敷があった。備中松山城の天守はさすがに不便なので、
ふだんは麓の御殿で生活したのだ。現在は岡山県立高梁高等学校となっている。その手前の武家屋敷・旧折井家から見学。

  
L: 武家屋敷・旧折井家。長屋門をくぐるとこの光景。  C: 玄関に入るといきなり武士ロボットがお辞儀して出迎え。超驚いた。
R: 一家団欒はいいのだが、いかんせん人形が日本人離れしたお顔立ち。息子の髪型はリーゼント(正確にはポンパドール)か?

  
L: やはり中級武士の生活空間は質素な暮らしぶりだなあとあらためて思う。  C: 土間。  R: 庭。

通りの中ほどにあるのが、もうひとつの武家屋敷である旧埴原(はいばら)家。こちらは江戸時代中期の築とやや古い。
藩主・板倉勝政の生母の実家であるため、寺院や数寄屋風の要素を取り入れた建物となっているのが特徴とのこと。
こちらは玄関に入るとロボットのお出迎えはなく、代わりにあるのが山田方谷の書を彫り写した板。ところがこれ、
方谷がわずか4歳のときの書だというから恐れ入る。凡人はもう、完全にやる気をなくしてしまったよ。

  
L: 旧埴原家。  C: 玄関にある山田方谷4歳の書「風月」。旧埴原家は山田方谷資料室も併設。  R: 庭と母屋。

ここで山田方谷について少々。幕末の学者であり、備中松山藩の財政改革を成功させた人物でもある。
さらに幕府で老中も務めた藩主の板倉勝静が五稜郭まで行っちゃうと(松平定信の実の孫なので立場上致し方ないが)、
領民を守るべく強制的に藩主を交代させて戦火を免れている。勝静も利発な人なのでこの引退劇を素直に受け入れ、
主君と領民の板挟みで苦渋の選択をした方谷は、明治維新後には一切の誘いを断って一教育者として亡くなった。
学者としても政治家としても実績を残し、時代の渦に巻き込まれながらも人々を守りきった確かな偉人である。

  
L: 現在は無料休憩所となっている、高梁市商家資料館 池上邸。かつて醤油の醸造を行っていた豪商の邸宅である。
C: 往時の雰囲気を残す内部。  R: 奥の方の休憩スペース。本当に純粋な休憩所となっていて少々もったいない。

残った時間で城下町を気ままに歩きまわる。高梁川沿いの国道313号から一本東に入った本町通りは古い商家がよく残り、
同じ南北方向の通りでも石火矢町の武家屋敷と対照的で面白い。武家地と商人地が高低差を持って並行しているのは、
平地が非常に狭い備中松山ならではの現象なのであろう。商人地では、高梁市商家資料館 池上邸の中を動きまわる。

  
L: 奥へ進むと商家資料館。  C: 邸内にも高低差があり、それを利用した庭園がなかなか見事である。  R: 本町通り。

本町通りをそのまま北上し、市街地の最北端にある八重籬(やえがき)神社まで行ってみる。位置としては、
備中松山城の本当に麓といった辺り。18世紀後半の備中松山藩主・板倉勝政が、名奉行として知られる板倉勝重、
その子である板倉重宗(こちらも名奉行)の板倉家宗家の初代と2代を御根小屋に祀ったのが起源である。

  
L: 横から眺めた八重籬神社の全体像。手前は国道に面した駐車場となっているのがなんとも独特である。
C: 拝殿。  R: 本殿。境内にひと気はなく、御守などもまったくないのは非常に残念だった。

あとは駅に向かって引き返しながら、いろいろと面白がって歩く。高梁高校の西側、高梁日新高校の北側には、
かつて御根小屋へとアプローチした御殿坂という広い坂道が残っており、往時の威厳をしっかり今に伝えている。
また、高梁市内には恵比寿を祀る祠が7つあり「七恵比寿」と呼ばれるが、そのうち3つは川に架かる橋の上に鎮座する。
これがかなり独特な存在感を漂わせているのだ。高梁の街並みはもっともっと知名度があってもいいと思うなあ。

   
L: 御殿坂。  C: 紺屋川に架かる橋の上に鎮座する蛭子神社。  R: こちらも紺屋川の上だが、より高梁川寄りの蛭子神社。

  
L: 高梁川沿いの国道313号。瓦を載せた和風の壁が堤防として長ーく続いている。車だとかなり印象的な景色のはず。
C: 方谷橋から眺める高梁川。山に囲まれた川沿いの城下町には親しみを覚える。  R: 高梁栄町商店街のアーケード。

時間いっぱい高梁の街を満喫した。駅に戻ると特急で一気に米子まで行ってしまう。時間がもったいないのね。
米子は4年ぶりだが、前回やり残したことをやるために来たのだ。それは、米子市公会堂にリヴェンジすること。
村野藤吾設計の名建築だが、前回訪問時には改修工事の真っ最中だったのだ(→2013.8.20)。無念を晴らす時が来た。
特急やくもが米子駅に到着すると、境線に乗り換えて富士見町へ。ここから南西へ500m弱で米子市公会堂に到着。

  
L: 米子市公会堂。苦節7年くらい? ようやく実物を拝むことができた。改修設計は日建設計が担当し、工事は2014年に完了。
C: 南側へとまわり込んでいく。手前が土や芝のオープンスペースとなっているのがいいなあと思う。  R: さらに南へ。

米子公会堂は1958年の竣工。米子市公会堂市民会議の公式サイトには、さまざまなエピソードが記載されている。
それによると、「一世帯が毎日一円を貯めて公会堂を」という一円募金運動を行って3000万円の寄付を集めたそうだ。
設計を依頼された村野はその話を聞いて設計料を返上、寄付したという。村野は金のかかる建築家というイメージだが、
その分だけ質の高い作品を生み出してきた人だ(それだけに予算の制約が強い公共建築を苦手とする印象 →2015.11.16)。
そんな村野に設計を依頼する米子市民の気合いと、その気持ちに情で応える村野。ブラックジャックみたいじゃないの。

  
L: 側面。なるほど、言われてみれば確かにグランドピアノっぽい。  C: 側面にぐっと近づいてみたところ。
R: 2階レヴェルに上がって南西側の低層棟を眺めたところ。こちらは非常にモダン。ホール部分と好対照である。

米子市公会堂の外観は、グランドピアノとブラジルの教会をイメージしているという。これは村野が設計の前年に、
南米を旅行したことが影響しているとのこと。そして表面に貼られたタイルは石州瓦を特注で焼いたものだそうだ。
そういったローカルさのある手作り感を大切にするのは、まさに絶好調のときの村野ならではの手法である。

  
L: 敷地の内側から見た低層棟。  C: 最もホールに近い部分はカフェとなっている。  R: カフェ付近から見る。

それにしても、米子という街は実に特徴的であると思う。東京に対する大阪、浦和に対する大宮、前橋に対する高崎。
誇り高き商都は多いが、こと米子については、建築を通してプライドを表現する性格が強いと指摘できるのではないか。
象徴的なのが、旧市庁舎である米子市立山陰歴史館だ(→2009.7.192013.8.20)。「米子」ではなく「山陰」の歴史館。
そこに「米子は山陰随一の商業都市である」という誇りを感じずにはいられない。松江や鳥取という県庁所在地を相手に、
一歩も退いていないのだ。また、統一感のあるデザインで市役所・図書館・美術館を集中させた点にもプライドを感じる。

  
L: 今度は反対側にまわり込むのだ。北から西へと移動する。  C: 真北辺りから見たところ。  R: 西から見る背面。

そして米子市公会堂も、「山陰一の文化の殿堂」として建設されている。市民からの寄付は上述のように3000万円だが、
建設費は実に1億7600万円もかかっているのだ。当時の米子市は財政再建団体にこそなってはいないが大幅な赤字体質で、
そんな状況でも寄付を大幅に上回る資金を出し、しかも村野藤吾に設計を依頼して自前の公会堂を建ててしまうあたり、
つねに政治で先行する両県庁所在地に対する猛烈な対抗心がはっきりと現れているではないか。米子の魂そのものか。

  
L: 国道9号に面する南東側の低層棟入口。  C: ホワイエ。村野は1980年に改修設計も手がけており、その際に内装を変えたそうだ。
R: ホール内部を覗き込んでみた。2014年完了の改修工事で、天井を旧来のデザインのまま新しい素材でつくり直したとのこと。

これで気が済んだ。しかしまだまだ日は高く、十分動ける時間帯である。富士見町駅に戻るとなんと列車が遅れていた。
おかげで本来なら間に合わなかった列車に乗れることになり、そのまま米子駅で乗り換えて島根県は安来市に突入。
安来市役所は4年前に訪れたが、建て替えが決まっていた(→2013.8.19)。で、今月その新庁舎が竣工するのだ。
いい機会なので竣工直前の姿を見ておこうというわけ。駅から国道180号を西へ行くと、堂々たる新庁舎が現れる。

  
L: 新しい安来市庁舎。今月の31日に業務を開始する予定と、まさに竣工直前である。なお、設計は佐藤総合計画。
C: 国道越しに撮影すると電線がクソ邪魔なので、敷地に入り込まない範囲で近づいて撮影。  R: 少し西へとズレる。

  
L: そのまま側面へとまわり込んでいく。  C: 駐車場越しに眺める側面。  R: 背面へ。西から見たところになる。

  
L: 背面。駐車場がまだ整備中なので撮影できる角度が限られていてけっこう苦労した。  C: 南西側入口。
R: 南側、市役所の脇を流れる川に架かる橋の上から見たところ。こちら側には木々が植えられているのね。

  
L: 南東側側面。  C: もう一丁。  R: 東側から見たところ。これで一周である。

新しい庁舎の完成はめでたいが、いかにも昭和の雰囲気を残す旧庁舎がこれから解体されると思うと残念でもある。
せっかくなので、4年前にも撮影しているが、あらためてその勇姿をしっかりとデジカメで保存しておくとしよう。

  
L,C,R: こちらの建物が安来市役所でいられるのも、もうあと2週間ちょっと。1956年竣工だもんなあ。歴史の証人よ。

  
L: まったく余裕なく国道沿いに建つ姿、飾りっ気のなさ、3階建て、望楼。質実剛健な昭和の役所がまたひとつ消える。
C: 背面。こっち側だけ3階にいきなり装飾が現れるのがいいのだ。議会かな?  R: 近づいてみるけど、うーんシンプル。

そういえば異彩を放っていた3号棟は、なんとまだ健在だった。といっても今の本庁舎と運命を共にするんだろうけど。
ここは素直に、余命が延びていたことを喜びながら笑顔で別れるとしよう。さらば3号棟、楽しい建物だったよ!

 
L: 生き延びていた3号棟。全身コルゲートのイカしたヤツさ。  R: これで本当に見納めか。アディオス、アミーゴ!

市役所の撮影を終えると、山陰本線をまたいで南へちょっと寄り道。安来神社に参拝するのだ。
市街地にあるし市の名前を冠する神社だしということで訪れたのだが、ネットで調べても詳しい情報が出てこない。
しかしあまりにも独特な形の隋神門といい立派な拝殿といい、ふつうの神社ではないのは一目瞭然。いったい何なんだ?

  
L: 安来神社の鳥居。  C: 隋神門。このような形式は今まで見たことないのでびっくり。  R: 注連縄の迫力がすごい拝殿。

運よく宮司さんがいらしたので御守を頂戴することができたが、社殿を見れば見るほど不思議な神社である。
せっかくだからいろいろ話を聞いておけばよかったなあと今になって思う。祭神がスサノオ、ぐらいしかわからん。

  
L: 本殿脇にある境内社の稲荷社。  C: 本殿。こちらも珍しい形。  R: 本殿の脇、稲荷社と対の位置にある境内社たち。

市役所の脇を通って北上し、中海のほとりに出る。和鋼博物館にお邪魔して和鉄や和鋼についてお勉強するのだ。
現在の和鋼博物館は1993年のオープンで、設計は宮脇檀。市立図書館とくっついた建物となっているのが特徴的。

  
L: 和鋼博物館。向かって左側に図書館がくっついているので全体の幅があり、撮影ポイントを見つけづらい建物だ。
C: エントランスの様子。ヤスキハガネ製の刃物を売っており、手頃な値段の包丁を買いそうになったがギリギリこらえた。
R: 実際に踏める天秤鞴(ふいご)が置いてあった。出雲地方では現在でも、たたら製鉄が特別な誇りとなっているのだ。

そもそも、一口に「鉄」といってもさまざまな種類があるものだ。われわれがイメージする「鉄」はまず「鋼」である。
砂鉄が原料、木炭が燃料の日本のたたら製鉄は、西洋の製鉄法より不純物の少ない鋼、「和鋼」をつくることができた。
しかし明治維新後には安価な西洋の鋼鉄に押され、また日本も官営製鉄所で高炉による製鉄を大規模に行ったため、
たたら製鉄は姿を消してしまう。なんだか、和紙が洋紙に追いやられていった歴史を見ているような気分である。
同じ系統の製品であっても、日本と西洋で明確な違いがあるという点も、両者に共通しているではないか。
和紙は現在でも伝統工芸品として細々と生産されているが、和鋼の生産技術はほぼ失われてしまっている状況である。
西洋流の鋼鉄で需要がまかなえてしまうのでしょうがないのだ。和鋼でないとダメなのは、日本刀くらいなもので。
しかし和鋼はその優れた性質から、希少な素材としての需要が今もある。そんな和鋼の伝統を現代の技術で再現するのが、
日立金属安来工場のヤスキハガネというわけだ。個人的に面白いのは、「白紙」「黄紙」「青紙」という名前である点。
かつて識別のために付けられていたラベルの色が正式名称となっているのだ。和鋼の矜持を感じさせる部分である。
うーん、やっぱり記念に包丁を買っておけばよかったかな。どうせほとんど使う機会なんてないけどさ……。

米子に戻ると、そのまま駅前のバス停へ。せっかく米子に来ているのだから、皆生温泉に浸からなければなるまい。
バスに揺られて皆生温泉の観光センターに到着すると、海岸線を眺めつつ歩く。18時半近いのに明るいなあ。

 
L: 皆生温泉。相変わらず海沿い以外、温泉街らしさがない。それにしても、どじょう掬いまんじゅうの看板が目立つなあ。
R: 皆生海岸にて。海の向こうに見えるのは島根半島の東端、美保関の辺り。美保神社に参拝してイカ食いてえ(→2016.7.24)。

皆生温泉といったら僕には東光園しか考えられないのよね。いつかきちんと宿泊したいと思いつつ今回も日帰り入浴。
前回は早朝の訪問だったが、今回は夕暮れ。昼間はあちこち動きまわるのでどうしても極端な時間になってしまう。
露天風呂は盛況で、客の話を聞いていると、どうも皆さんトライアスロン大会に参加する人たちみたい。
皆生温泉といえば日本で初めてトライアスロンが行われた聖地。ちなみにその初回大会の優勝者は高石ともやだってさ!

  
L: 夕暮れの東光園。メタボリズム建築はもっともっと評価されていいはず。日本建築がいちばんポジティヴだった時期だと思う。
C: 中には米子高専の学生たちがつくった東光園を紹介するパネルを展示する部屋があった。  R: こちらは東光園の模型。

たいへんヴォリュームのある一日を終えて、ほっと一息。明日も明日で全力で動きまわる予定。温泉パワーでがんばる。



2017.7.12 (Wed.)

備忘録ということで、経済学のリポートをいつでも見られるように、ここに掲載しておく。
まあつまりは、僕が経済学の基本について忘れてしまった場合に復習できるように、というわけ。
それなりにわかりやすい仕上がりになっているとは思うので、よかったらどうぞ。

XとYの2財を購入して得られる効用は、それぞれの購入量の組み合わせによりさまざまな値をとる。
同じ値の効用となる2財の購入量の組み合わせをグラフ上の曲線として表したものを、無差別曲線と呼ぶ。
「無差別」とは、曲線上のどの組み合わせでも違いがないことを示している。
効用の値をUとした場合、X財の購入量xとY財の購入量yの積で表すことができる。

Uxy

これをxy平面上の曲線で表すためにyについて解くと、

yU/x

となり、この曲線は反比例の双曲線となる。
xyは負の数にならないので、グラフは第1象限に限られる。
したがって、これは右下がりで原点に凸な曲線である。
また、効用の値であるUが大きければ大きいほど曲線は原点から離れるため、
無差別曲線は原点から遠いものほど効用が大きく選択順位が高くなる。

次に、一定の予算Mによって購入できるXとYの2財の範囲を示す予算線を描く。
X財の価格をpxとすると、購入量がxの際の支出はpxxとなる。
同様に、Y財の価格をpyとすると、購入量がyの際の支出はpyyとなる。
2財を購入する際の支出pxxpyyは予算Mを超えてはならないので、

Mpxxpyy

という式が成り立つ。これを、xを横軸、yを縦軸とするグラフに直すと、
M/px, 0)、(0, M/py)、原点を頂点とする直角三角形を描く。
この斜辺が、予算M全額を支出して2財を購入できる予算線となる。
数式で表すと、次のような右下がりの直線になる。

y=ー(px/py)xM/py

この予算線の範囲内で効用を最大にする購入量の組み合わせは、
1点で予算線と接する無差別曲線によってもたらされる。
先に述べたとおり、無差別曲線は原点から遠いものほど効用が大きい。
そのため、2点で予算線と交わっているうちは効用が最大ではないことになり、
また予算線から離れてしまえば予算オーバーで購入不可能となるからである。
この予算線と無差別曲線の接点が最適消費点であり、このときのxyの組み合わせが最適消費量となる。


【fig. 1】予算線と無差別曲線の接点が最適消費点となる

予算線と無差別曲線が接する最適消費点では、無差別曲線の接線が予算線の傾きと等しくなる。
無差別曲線の接線はdy/dxつまり限界代替率であり、予算線の傾きはpx/pyつまり相対価格である。
したがって、限界代替率と相対価格の両者が一致することが、最適消費点であるための条件となる。

そして消費者の所得が増加した場合、傾きはそのままで予算線が原点から離れる方向に移動する。
それにともなって最適消費点も無差別曲線とともに原点から離れる方向へと移動する。
このようにして所得の増加により移動する最適消費点が描く軌跡を、所得-消費曲線という。


【fig. 2】所得の増加により移動する最適消費点が描く軌跡を所得-消費曲線という

なお、この曲線の形は、XとYの2財の性質により変化する。
所得の増加にともない財の需要が増加する比率を需要の所得弾力性というが、
これがプラスの値をとる財、つまり所得増により需要増となる財を上級財という。
特に、所得弾力性が1より大きい場合には奢侈品、1より小さい場合には必需品として区別される。
それに対して所得弾力性がマイナスの値をとる財、つまり所得増が需要の減少をもたらす財を下級財という。
この所得と需要の関係をそれぞれ横軸と縦軸にとった際に描かれる曲線をエンゲル曲線といい、
上級財は右上がりの曲線、下級財は右下がりの曲線となる。


【fig. 3】エンゲル曲線のそれぞれのパターン

所得-消費曲線は、XとYの2財がともに上級財のときには右上がりの曲線となる。
それに対し、片方が下級財であるときには右下がりの曲線となる。
特に、X財が上級財でY財が下級財のときには傾きが緩やか、逆にX財が下級財でY財が上級財のときには傾きが急になる。
なお、XとYの2財が代替可能であることが前提となっているため、2財がともに下級財となることはありえない。


【fig. 4】所得-消費曲線のそれぞれのパターン

経済学は苦手中の苦手なので、たまに読み返して記憶のテコ入れをしなければ。面倒くせえなあ。


2017.7.11 (Tue.)

『陸海空 こんな時間に地球征服するなんて』の「部族アース」がすごい。これ、きわめて良質なドキュメンタリーだ。
僕なんかは誇張抜きで、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』(→2010.3.17) 以来の衝撃を受けているんだけど。
さすがに本家の文化人類学的な厳密さには劣るが、資本主義が猛威を振るう21世紀のアマゾンに映像で切り込む、
その純粋な興味関心は本家にまったく負けないものがあると評価したい。どこまでも本気のナスDは、本物だ。
視聴者はどうしてもその強烈なキャラクターに目がいってしまうが、現地の人とかなりの度合いで同化できる、
その能力を通して現地の価値観がわれわれにストレートに伝わってくる仕組みになっているのがすごいのだ。
ほかのよくあるドキュメンタリーのように、客観的に紹介するふうを演じてフィルターをかけているのではなく、
ナスDから対象に入り込んでいってそれに対する現地の反応の仕方まで込みで事実をつかみ取ろうとする。
段違いのリアリティで、日本の裏側で実際に営まれている生活を追体験できる。ものすごい番組を目の当たりにしている。

九州の豪雨にショックを受けている。まさか梅雨の中の1日、集中豪雨でここまでひどい被害が出るものだとは。
以前から日田彦山線で英彦山神宮に参拝する計画をうっすら描いていて、湯布院から日田経由というルートもいいなあと。
どうしたら楽しめるかいろいろと考えていたのに、それが一瞬で消し飛んだ。もちろん現地の生活がいちばん大事だ。
しかし旅行でその土地の魅力をおすそ分けしてもらうのが趣味の僕にとって、その機会が持てないことがつらい。
どうにか早くすべてのものが復旧して、以前と変わらぬ魅力をきちんと味わえる日が来ますように。



2017.7.9 (Sun.)

何の予定も入っていない休日というのは本当に久々という気がする。それくらい夏季大会は大変だった……。

朝は日記を書いて、昼前に出光美術館でやっている『水墨の風 ―長谷川等伯と雪舟』を見にいく。
特に詳しいというわけではないのだが、水墨画は好きなのだ。等伯と雪舟なら、もう無視できないわけで。
通信教育の学生証を見せて入館。最近の美術館ブームは「元を取ろう」という貧乏根性の現れでもある。

全体はいくつかの章に分けてあったのだが、第1章が雪舟で第2章が等伯。いきなり!クライマックスである。
しかも展示の最初が玉澗、次いで雪舟『破墨山水図』、そこから牧谿という並びで、もうこれでいいんじゃねえかと。
第2章では、等伯が日本にいない叭叭鳥を描くかわりに『松に鴉・柳に白鷺図屏風』でカラスを描いたことから、
水墨画の日本化をテーマとする内容。その後は室町時代の水墨画、江戸時代の水墨画へと進んでいく。

感想としては、「水墨の風」というタイトルだけど、風を感じさせるまとめ方ではなかったなあといったところ。
雪舟も等伯も作品点数が少なくて不満。まあどっちもたっぷり持ってくるのが難しいビッグネームではあるが。
上記のように最初からフルスロットルすぎて、尻すぼみ感がかなり強いのもまた残念なところである。
雪舟も等伯もあんまりないし、それ以外にもこれといったものがないしで、かなりの期待はずれだった。

本編よりも興味深かったのは、陶片室。それこそ縄文土器からアジア各地の陶片が自由に見られる仕組みなのだ。
陶片ということで完成品と違い、どこか気楽に眺められるのがいいのかもしれない。また、純粋な美術というより、
科学の目での観察に切り替わるのも面白い。土器が土師器・須恵器へと進化し、釉薬を使った陶磁器となる。
考えてみればその変化はけっこう劇的なものがあるのだが、あまりきちんと勉強してこなかったように思う。
そして海外との交易で長らく大人気だった中国製に対し、伊万里がヨーロッパに渡るようになったり、
鍋島藩直営の焼き物が献上品として生産されたりと、政治や経済との関わりが見えて楽しませてもらった。

あ、ルオーは嫌い。根暗・ヘタウマ・宗教画と、苦手の三冠王ですわ。



2017.7.7 (Fri.)

将棋ブームなようで。世間では藤井四段と「ひふみん」こと加藤一二三九段が人気の双璧となっているが(あと勝負メシ)、
もちろんお二人とも本当にすごいんだけど、僕としてはどちらかというと対戦相手やその周りの方に興味がある。
いろんな棋士たちのいろんなエピソードにいっぱい触れられるのが楽しい。このブームをほっこりと眺めております。

もともとのきっかけは電王戦の時期に遡る。マサルに誘われてニコニコ超会議まで行ったもんね(→2014.4.27)。
(その前年には天童に行って天童駅に併設されている天童市将棋資料館にも行っているもんね(→2013.5.12)。)
マサルも僕も将棋はできないんだけど(僕は金将と銀将の動きがいまだに覚えられない。成りとかもう無理だ)、
結局は棋士が面白いのだ。もう皆さん個性派すぎて。キャラが濃すぎて。そこをマサルと面白がっていたわけだ。
それ以来ちょこちょこと知識を仕入れていたので、どんな棋士がどんなふうに面白いかはそれなりに知っているのだ。

しかしこうして藤井四段ブームが起きたりひふみんブームが起きたりすると、マサルの先見の明に脱帽せざるをえない。
僕からすると完全に、時代がやっとマサルに追いついたって感じなのよ。棋士が個性的で面白いのは当然でしょ、と。
猛烈に頭のいい人が意図したり意図しなかったりで変なことをやっていたり常人離れした凄みを見せつけたり。
しかし根底には当然、面白さ満載の将棋という完成された競技がある。やはり頭脳ゲームは高度なスポーツなのだ。
だからいちばん面白いのは試合そのものなのである。僕もブームに乗っかって、いつか将棋を観戦したいと思っております。
サッカー観戦もいいけど、将棋観戦もいいよね。そうやって楽しめる要素がどんどん増えていくのが幸せってことよ。


2017.7.6 (Thu.)

穏やかに穏やかに研究授業。異動した年にいきなり研究授業をやらされるのは腹が立つが、そこは穏やかに穏やかに。

夜は前任校に顔を出し、GK用のユニフォームとボトルを借りる。サッカーはGKにしろフィールドプレイヤーにしろ、
1stと2ndの2種類のユニフォームを揃えることがルールである。しかしウチは今までどちらも1stだけしかなかった。
これには呆れたが、2ndユニの準備を渋る保護者たちにはもっと呆れた。それでいてブロック大会に出ちゃうんだから、
対戦校や専門委員の先生方には本当に迷惑な話である。しょうがないからせめてGKだけでも前任校から借りたってわけ。
さらにボトルが1本もないのもひどい話で、今まで夏場の試合をどうやってしのいでいたのか不思議でしょうがない。
とりあえず次の試合だけ限定ってことで借りるが、ボトルはふだんの練習でも使うものだから本当に申し訳ない。
なんというか、サッカー部としての基本的な部分の未熟さをあらためて痛感する。自分が変えていかなくちゃいかん。


2017.7.5 (Wed.)

究極的には、「何を教えるか」でもなく、「どう教えるか」でもなく、「誰が教えるか」だと思うんですよ。
そういう人に私はなりたいわけでね。演劇と同じように、時間と空間を共有するliveを極めたいものです。



2017.7.3 (Mon.)

都議会議員選挙。都民ファーストの会が大勝とか、都民がバカばっかりなのが白日の下に晒されて恥ずかしい。
……え? もうすでに選挙前からご存知であると? まあ知事選が毎回単なるお祭り騒ぎだもんね。ホント、お恥ずかしい。


2017.7.2 (Sun.)

本日よりサッカーのブロック大会である。23区東部の4つの区で試合を行い、都大会出場チームを決めるのだ。
異動してきたばっかりでようわからんままに1回戦に臨んだわけだが、相手は別の区の大会を優勝した学校である。
しかしこの区はグラウンドが確保できないことで苦しんでいるそうで、そんなにレヴェルが高くないらしい。
というわけで、どうも実際のところ、ウチは組み合わせが恵まれているそうで。区大会の勢いで勝ち抜けたいところだ。

ブロック大会の会場は河川敷で、ほとんど日陰がない。唯一といっていい木陰に荷物を集中させる大混雑ぶり。
冗談ではなく、油断すると一瞬で脱水症状になってしまうかもしれない。選手もつらいが引率教員もつらい状況だ。
で、肝心の試合は2-1で勝利。きちんと実力を発揮できていて、区大会での戦いぶりからすれば順当なところだろう。

別の試合では副審を担当したのだが、湿度が高すぎて非常につらかった。生徒同様に引率教員も戦っているのよね。


2017.7.1 (Sat.)

主に部活のせいでなかなか週末が自由にならないのだが、どうにか隙を見て美術鑑賞の時間を確保する。
世田谷美術館でやっている『エリック・カール展 The Art of Eric Carle』が明日までなので、意地で行ってきた。

9時半までは用賀の世田谷ビジネススクエア内にあるカフェでこないだの旅行の写真を整理して過ごす。
そうして開館時刻の10時よりちょっと早めに着くように雨の砧公園を突っ切ったのだが、すでにすごい行列。
後で知ったのだが、世田谷美術館はJリーグのQRチケットと同じような要領でチケットの発券手続きができるみたい。
ストレートに入館を待つ列に並ぶみなさんを横目に見つつ、チケット販売の列に並ぶのであった。うーん情報弱者。
客層は圧倒的に小さい子どもを連れている人々で、どうやら絵本を読む感覚で展示を見ていっているようだ。
純粋に美術鑑賞したいこっちとしては、「だったら絵本でいいじゃんー」と言いたい。混雑を助長しないでよ……と。
しかし土日に来ておいてそれはワガママな欲望でしかない。会期終了間際ギリギリに来る方が悪いのだ。トホホ。

親子連れの長い列の隙をうかがい、じっくり見られるところからヒョイヒョイ見てまわったのだが、非常に面白い。
今回じっくり見てなるほどと思ったのだが、エリック=カールは貼り絵の人なのだ。レオ=レオニがちぎるのに対し、
エリック=カールはトレペ(トレーシングペーパー)に色を塗ったものを切って貼っていくスタイルである。
その切ったパーツのつくり方がまず上手い。動物の体節や水の流れなどが的確に表現されている。動きに忠実なのだ。
そして何より、原色の鮮やかさを活かしながらも少しずらして自分の色にしていく、その色彩感覚が抜群にいい。
この2つのオリジナリティから独自の作品を生み出していくわけだ。少しばかりゲスな感想で申し訳ないのだが、
「なるほどこれはお金になるわ!」と思いながら作品を見ていった。絶対に売れる作家だな、ということ。
エリック=カールはブラウエライターあたりのドイツの美術運動(まあつまりバウハウス一歩手前って感じ)から、
かなり大きな影響を受けたそうだ。そこにアメリカの明るさを組み合わせて作風を成立させたということだろう。
どこか暗ったい美術運動からスタートし、絵本という分野で「売れる」自分の居場所を確立した感性に脱帽である。

ミュージアムショップにはこれといった品物はなかった。そもそもが、特設の売り場じたいがわりと小規模。
世田谷美術館はそっちでガッポリ稼ぐつもりはないみたい。せっかくのエリック=カールなのにもったいない。


diary 2017.6.

diary 2017

index