diary 2017.7.

diary 2017.8.


2017.7.22 (Sat.)

紀伊半島縦断の2日目は、いよいよ十津川から新宮へと抜けてゴールである。しかしながら当然、寄り道しまくる。
せっかくの十津川なんだから、あちこち行けるだけ行かなきゃいかんのだ。朝から温泉に浸かってフルパワーである。
それにしても宿の朝ごはんはおいしゅうございました。これなら素直に昨日の晩も宿のメシをいただいておくべきだった、
と深く後悔するのであった。やはり旅にはケチってはいけない部分があって、その見極めができるのが賢さなのである。

 宿の車でホテル昴まで送っていただいた。第三セクター方式で1989年にオープン。

やがてホテル昴にマイクロバスが到着した。ほかの観光客もいて、僕を入れて5人の乗客を乗せて走りだす。
「世界遺産予約バス」という名前で、土・日・祝日のみの運行である。目的地は玉置(たまき)神社だ。
バスはいったん十津川温泉を経由し、そこから対岸の山の中へと入る。道は大いにくねりながら標高が上がっていき、
40分ほど細い山道を進んでいったところでついに駐車場に到着。皆さん鳥居をくぐって砂利敷きの参道を行くが、
僕はひとり、来た道を少し戻って途中にある階段へと入り込むのであった。せっかくだから玉置山の山頂を目指す。

頂上までは約700mということで、まったくと言っていいほどキツくない道だった。よく整備されていて歩きやすい。
問題はクマに注意の看板があることぐらいか。襲われたらヤダなあと思いつつ早歩きで進んだら、10分弱で山頂に着いた。

  
L: 駐車場から少しだけ離れたところにある玉置山の登山口。神社が9合目にあるので、わりとすぐに頂上に行ける。
C: 玉置山への登山道。尾根筋なので明るい林の中を行く感じ。足場も良好。  R: 玉置山の山頂。特に名物はない。

ではここから下って玉置神社の境内へと突入するのだ。先ほどとは雰囲気が異なり、勾配はだいぶ急になる。
それでも道ははっきりとわかるので、勢いよく杉林の中を下っていく。するとまずは霊石三ツ石神祠が現れる。
そこから下ると玉石社。道には簡素な木の鳥居が無数に建てられ、下から見上げると非常に独特な雰囲気を感じる。
稲荷系の奥宮(→2014.11.232016.2.5)に似た感触がなくもないが、すべてが木の色なので透明感がある。

  
L: 霊石三ツ石神祠。「玉置」の由来を思わせる磐座。  C: 玉石社。  R: 少し下って見上げた景色。

玉石社からさらに下っていくと、出雲大社玉置教会の脇に出る。出雲大社がここまで勢力を伸ばしているとは驚きだ。
実はこれ、明治の廃仏毀釈により十津川村民が大社教に属した事実を物語る。そこからまわり込むと三柱稲荷神社。
こちらは玉置神社の摂社だが、公式サイト曰く「謎が多く、説明が難しい」そうだ。独自の御守があるので頂戴した。

  
L: 出雲大社玉置教会。この辺りから人間界らしい雰囲気に。  C: 倉稲魂神・天御柱神・国御柱神を祀る三柱稲荷神社。
R: 境内から下っていくと大杉。周囲11mで高さ約50mだが、周囲に見事な杉がいっぱいあるのであんまり目立たない。

大峯修験道では、今回の僕と同様(たまたまだけど)、本殿に先んじて玉石社を礼拝するのが習わしだそうだ。
でも別に狙ったわけではないので、以降の写真は素直に駐車場から延びる参道を進んだ場合の順序で貼り付ける。

  
L: 駐車場に面している鳥居。ここから玉置神社の境内までは意外と距離があり、帰るときにかなり焦った。
C: 表参道はこんな具合。高低差のあるルートとなっている。  R: 最後はまわり込む感じでこちらの鳥居に出る。

林の中をぐるっとまわって鳥居をくぐると、石垣の上に建てられた本社が現れる。晴れていれば非常に威厳があるし、
霧が広がっていればものすごく神秘的だろう。どんな天候の下で訪れても参拝客を唸らせる魅力がある建物だと思う。
Wikipediaによれば、1794(寛政6)年の再建とみられているそうだ。山の中にあるためどうしても境内は狭めで、
本社をじっくりと眺められる場所は限られている。でもどっしり構えたその姿は、そのどの角度から見ても美しいのだ。

  
L: 玉置神社の本社。美しく撮影するにはこの角度から眺めることになると思うが、計算された建てられ方だと感じる。
C: 社務所・台所方面つまり真横から眺めたところ。  R: 本社の正面側をクローズアップ。迫力に圧倒されますな。

先ほどチラッと書いたように、玉置神社はもともと溶岩による玉石を神奈備とした磐座信仰から始まっているようだ。
これが後に吉野と熊野を結ぶ大峯奥駈道のルートとなり、江戸時代には「熊野三山の奥の院」と呼ばれるようになった。
そしてこの大峯奥駈道が強烈なのである。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録されている道で最も厳しい。
吉野からしてすでに山の中だが(→2010.3.302015.9.20)、大峯奥駈道はさらにそこから奥へと入る道なのだ。
同じ熊野古道でも、中辺路の一部で観光客に人気の大門坂の石畳(熊野那智大社への参道 →2013.2.9)なんて、
大峯奥駈道に比べりゃアウトバーンですよ、アウトバーン。後述するが、両方歩いた自分にはその落差が衝撃的だった。
途中にある大峰山・大峯山寺はガチガチの修験道空間で、いまだに全開バリバリの女人禁制をやっているくらいだもん。
玉置神社はそういう俗世と離れた雰囲気をしっかりと漂わせているのである。別世界の価値観を体感できる場所なのだ。

  
L: 反対側から眺めた本社。  C: 本社の脇にある摂末社群。  R: 本社裏の神代杉。樹齢3000年という話。

帰りのバスは11時10分発と、まだまだ時間的な余裕はある。社務所の中にお邪魔して狩野派の杉戸絵を拝見したり、
実際に大峯奥駈道をちょろっと歩いてみたり。玉置神社の境内から離れると心配なのでそんなに深入りしなかったが、
道は細くて勾配も急であり、自然と同化しかけている感じがある。少し下っただけで「これはヤバい!」と直感した。
それでももうちょっと進もうかと思ったら、ピイッ!と高く鋭い叫び声が山の中に響いた。驚いてそちらを見ると、
野生の鹿が全速力で杉林の急斜面を下って逃げていった。これはもう何があっても不思議じゃない。そそくさと引き返す。
落ち着いて考えると、かつての十津川郷士はこんな具合の山道を延々と走って京都まで行き来していたわけである。
ひ弱なわれわれとはまったく違う次元を生きていたんだなあ、とあらためて実感したしだい。大峯奥駈道は容赦ないわ。

  
L: 本社側から見た社務所・台所。こちらは国の重要文化財に指定されている。  C: 反対の三橋稲荷側から見たところ。
R: 境内から少し下って大峯奥駈道を体験してみた。辛うじて道と認識できる程度の幅に激しい起伏で、修験道の凄さを実感。

玉置神社を時間いっぱい全力で満喫すると、バスの待つ駐車場へと戻る。しかしさっき書いたように参道は意外と長く、
最後は昨年夏にケガした右足首の心配をしながらけっこうなハイペースで走る破目になった。これにはかなり焦ったなあ。

バスは来た道を戻っていくが、途中の見晴らしのいい場所で停車して景色を撮らせてくれるのであった。
昨日の日記でも書いたように、十津川村は琵琶湖よりも東京23区よりも広いのだ。視界に入る急峻な山々すべてが、
十津川村なのである。その雄大な景色を眺め、あらためて十津川という場所の凄み、世界の広さを思うのであった。

  
L: 目の前に広がるすべてが十津川村なのだ。遥か遠くにある青みがかった山々も十津川村。とにかく広大なのだ。
C: 集落を見下ろしたところ。広い十津川村の中には、このようにしていくつも集落が点在しているというわけ。
R: 十津川温泉付近に戻ってきた。厳しい自然環境とそこに生きる人々のたくましさは強く印象に残るものだった。

お昼はホテル昴のレストラン石楠花でいただく。十津川らしいものを食べたかったが、この後の予定を考えると、
あんまり時間のかかる料理は困るのである。で、「十津川」が名前に入っていた天ぷらそうめんをいただいた。
いずれきちんと十津川の郷土料理をいただける機会があるといいなあ。いや、おいしかったんですけどね。

 おいしかったのだが、当然ながら一瞬で胃袋へと消えてしまったことよ。

ありがたいことにホテル昴のフロントで荷物を預かっていただけたので、かなり身軽な状態で次の目的地を目指す。
時刻は正午を過ぎたところ。八木新宮バスの第1便がホテル昴に着くのは13時45分。それまでに戻らないといけない。
ではそんなに焦ってどこへ行くのかというと、「果無(はてなし)」という集落だ。ポスターにもなった場所だそうだ。
実はこの果無集落、ホテル昴から直線距離で南南東に1kmほど。それなら簡単に往復できそうだが、そこは十津川だ。
Googleマップだと国道168号まで出て対岸に渡って3.6kmという案内が示される。でもこれでは時間がかかりすぎる。
じゃあどうするか。柳本橋という吊り橋でショートカットするのだ。なお、果無集落は小辺路のルート上にあるので、
それで一気に登ることもできる。しかし小辺路がどれだけの山道かはわからない。さっきの大峯奥駈道の例もあるわけで。
そこで、往路は素直にアスファルトの道路で遠回りをしておき、可能ならば復路で小辺路をグイグイ下るルートをとる。
このプランでどうにか1時間半以内に果無集落への往復を収めようという魂胆だ。失敗したら、湯の峰温泉が飛ぶ。

ご存知のとおり僕は重度の高所恐怖症なので、地元の皆様向けの吊り橋は正直かなり難度の高いチャレンジとなる。
しかしここで昨日の経験が生きるというわけなのだ。谷瀬の吊り橋と野猿での経験が僕には最高の特訓となっていて、
柳本橋を思っていた以上にスンナリと渡ることができた。そこから林の中の道を抜けると小辺路の登山道入口に出た。
ここからはジョギングで坂を上っていく。時間はかかるが着実に進む。山道は去年の捻挫のトラウマがあるんだよね。

  
L: 柳本橋を行く。一度に渡れるのは5人まで。谷瀬と比べてかなり規模は小さいが、周囲に金網がないのでやはり怖い。
C: アスファルトの道でぐるっと遠回り。これは車の方が怖いかも。  R: 振り返ると紀伊山地の山々の中にわずかに川。

  
L: 途中にある「めん滝」。晴れているとたいへんいい雰囲気。  C: このヘアピンカーヴがめん滝の入口なのだ。
R: 柳本橋を渡って25分ほどでバス停(その名も「世界遺産石碑前」)に到着。このすぐ左手がもう果無集落だ。

柳本橋を渡って25分ほどで、果無集落の入口に到着。思っていたよりもかなり速いペースで、ほっと一安心。
ここからはひたすらバッシャバッシャとカメラのシャッターを切っていく。夢中で目の前の景色を記録していく。

  
L: まずは果無集落の入口、よくある構図の写真。集落というほどの規模ではないが、尾根を切り開いて家がある。
C: 反対側、果無峠方面を眺めたところ。この路地が小辺路の一部なのだ。  R: 小辺路を少し上がった光景。

せっかくのいい景色なので、パノラマ写真をつくってみた。山の奥深くってことがわかってもらえるかと。


上の写真とほぼ同じ位置からパノラマ撮影。


こちらはもう少し先に進んだところでパノラマ撮影した写真。見事に尾根が道となっているのだ。

  
L: 上の写真をパノラマしないヴァージョン。  C,R: 先へ進むとこんな感じ。かつて家が並んでいたのか。

  
L,C,R: 花々の美しさもたいへん印象的だった。山の中を抜けてこんな集落に出れば、それはもう桃源郷のようなものだろう。

  
L: 小辺路は家の中庭を通る形になっている。手前の丸太をくり抜いた流し台にはきれいな水が溜まっている。
C: 家の座敷は庭に面した部分が開放されており、一休みして熊野古道や果無集落の写真集を見ることができる。
R: 山の尾根なのに田んぼがある。これはちょっと信じられない光景だ。日本における究極の眺めのひとつだろう。

  
L: 田んぼの端っこ(西側)から振り返る。  C: 反対側の端っこ(東側)は小辺路の石畳。これまた美しい。
R: 田んぼを後にして小辺路を下っていく。果無集落はどこか現実離れした天空の小さな桃源郷なのであった。

時間的な余裕があるので、帰りは小辺路を下っていく。先ほどの大峯奥駈道とは異なり、石畳の道となっている。
とはいえ石の向きはかなりのランダムぶりで、足首の捻挫がトラウマとなっている自分には非常に厳しい条件。
しかも勾配はけっこう急である。ときどき見える景色に癒されながら、焦らず一歩ずつ丁寧に下っていく。

  
L: 途中の展望スペースから眺めた景色。ゆったり流れる十津川と、オレンジの屋根は特別養護老人ホーム・高森の郷。
C: 小辺路の石畳。なかなかの角度とランダムな石の並びがわかると思う。熊野古道らしい雰囲気は存分に味わえる。
R: 小辺路からアスファルトの道に戻ってきた。時間と空間を飛び超えた気分になる小旅行なのであった。

というわけで、かなりの緊張感でスタートした果無集落へのチャレンジだったが、終わってみれば順調そのもの。
20分ほどの余裕を残してホテル昴に戻ることができた。バスが来るまでジュースを飲みつつお土産を見繕う。

やがてバスが到着すると、昨日ホテル昴に宿泊した皆様とともに乗り込む。これで十津川とお別れと思うと、
さすがに感傷的な気分になる。できる限りで動きまわったけど、もっといろいろやれたんじゃないかって気がする。
でもまあそれはまた次の機会が来ることを祈るとするのだ。十津川は魅力いっぱいで、一人旅だともったいない場所だ。

バスは国道168号を順調に南下していき、最南端の「七色」という集落を通過する。やはり住宅が急斜面にへばりつく、
十津川らしい場所だった。ちなみに玉置神社へのバスの運転手さんが教えてくれたのだが、「七色」という集落名は、
よく虹が出ることからついたそうだ。十津川ならどこでも虹がいっぱい出そうに思うのだが、面白いものである。

七色の集落から国道に戻ると、すぐにトンネルに入る。このトンネルが県境で、いよいよ和歌山県に入ったのだ。
非常に興味深いことにそれまで曲がりくねっていた道は、トンネルをいくつも通過することもありずいぶん直線的になる。
そして何より、川の広さが明らかに変わる。碧色を湛えた川の両岸が急峻な緑でV字に刻まれていた十津川とは異なり、
和歌山県に入って名を変えてからの熊野川(新宮川)では、流れる水の両側に広大な砂地が広がっているのである。
山々の間隔もずいぶん余裕があり、景色から厳しさが消える。県をまたぐとここまで変わるものなのかと驚いた。

 熊野本宮大社の東側、バス停から国道に戻るところ。十津川とは別世界の広さだ。

当然、本宮大社で下車して参拝したい気持ちはあった。4年前には工事で見られない箇所もあったし(→2013.2.10)。
しかし今回はその4年前に車窓から見て大いに興味を惹かれた、湯の峰温泉を優先することにした。硫黄の匂いが凄い。

  
L: 湯の峰温泉のメインストリート。東側の四村川沿いには温泉施設や寺があり、西側には旅館が並んでいる。
C: 四村川。温泉が通るパイプが複雑に走り、周りは硫黄で変色している。  R: 反対側はこんな感じで落ち着いている。

  
L: 四村川のすぐ脇にある源泉「湯筒」。卵を買った観光客は、ここで温泉卵を自分でゆでるというわけ。
C: 手前が東光寺、奥が公衆浴場。源泉かけ流しのくすり湯がある。  R: 東光寺。やはり薬師如来を祀る。

湯の峰温泉の象徴と言えるのが、日本最古の共同浴場とされる「つぼ湯」だ。公衆浴場の向かいの受付でお金を払うと、
番号札を渡される。入浴は30分交替制であり、客は自分の番号札をつぼ湯の入口に掛けておく仕組みになっている。
こうすることで客はそれぞれ自分の番がどれくらい先になるか自動的にわかるのだ。よくできているもんだ、と感心する。

  
L: 湯胸茶屋。もともと東光寺の薬師如来の胸から温泉が出ていたので「湯胸」と呼ばれ、それが「湯峰」に転じたという。
C: つぼ湯の外観。世界遺産の一部になっている温泉はここだけだってさ。  R: 自分の番が来たので中に入ってみた。

  
L: つぼ湯の湯殿。湯加減は最高だった。  C: お湯の中から横の岩場を覗く。  R: 自撮りしてみた。

小栗判官も生き返ったという湯の峰温泉のお湯は実にすばらしいのであった。わざわざ寄って大正解だった。
温泉から上がると湯胸茶屋で一服。その後、東光寺で御守を頂戴しようとブザーを押したが、なかなか人が来ない。
様子をうかがうべくその場を離れようとしたら、さっき湯胸茶屋にいたおばさんが現れて御守を渡してくれた。
お忙しいところすいません。おかげさまで、思う存分に湯の峰温泉を満喫することができた。ありがたや。

17時を過ぎて夕方の気配が濃くなってきた中、バスは湯の峰温泉を後にする。車窓の景色はすっかり穏やかで、
山の中でも十津川では考えられない平らな土地の多さ、そして下流の雄大な川幅に、旅の終わりを実感させられる。
バスも新宮市に入ってからはほとんど特急状態で、バス停の間隔は異様に大きくなる。終わりってのはあっけないものだ。

  
L: 湯の峰温泉から再び山の中に入るが、十津川と違って和歌山県はなだらかである。同じ紀伊半島でもずいぶん異なる。
C: ゆったりと流れる熊野川。十津川の下流だが、同じ川とは思えない様相だ。  R: 途中でツチノコを発見したよ!

最後の最後まで八木新宮バスを面白がる。整理券番号と運賃の画面表示は30が限界なので、4パターンにもなる。
そしてまた金額も大変なことになっている。6時間半走りきる八木新宮バスは、ここまですごいことになってしまうのだ。

 
L: 整理券番号と運賃の画面表示。大和八木から新宮駅までぶっ通しで乗ると5250円。安いと思っちゃうなあ。
R: 整理券番号は3桁の109番まで行く。107番と108番の金額差はつまり、新宮側が特急状態になることを示す。

バスは静かに新宮駅に到着。僕は感慨に浸りながら運転手さんに「168バスハイク乗車券」を渡したのだが、
運転手さんはスルッとそれを受け取っておしまい。あまりに呆気なくて突っ立っていたら不思議がられたほどだ。
まあつまりは観光目的のバスではなく、あくまで生活のためのバスということなのだろう。そう納得して降りた。
実は途中下車を一切しないでひとつの便を完乗すると記念の証明書がもらえるらしいが、それは本当にもったいない。
十津川の土を一歩も踏まずにバスの中で景色だけを眺めて過ごすなんてありえないよなあ、とあらためて思う。

 
L: 新宮駅に到着してバスを記念に撮影。一日3本、このバスは紀伊半島を縦断しているのである。お疲れ様です。
R: 時刻は18時半を過ぎたところ。満足感に包まれつつ夕暮れの新宮駅を眺める。2日間、本当にやりきった。

思う存分やりきった2日間だが、なんと旅はこれで終わりではないのである。蛇足かもしれないが、もう少しだけ、
やりたいことをやるのだ。いつもの旅行なら翌日のことを考えて一日を終えるが、今夜は十津川の記憶に浸るとしよう。


2017.7.21 (Fri.)

僕にはずっと、どうしても行ってみたい場所があった。それで暇をみてはあれこれ計画を練っていたのだが、
どうやらすべてが僕の目論見どおりに動けるらしいことがわかり、それでこの夏休みに決断したのである。
日本一距離の長い路線バス「八木新宮バス」に乗って十津川村に行こう! そして玉置神社にも行こう!……と。

まずその「八木新宮バス」について軽く説明を。その名のとおり橿原市の近鉄八木駅から新宮市までを結んでいるが、
全長166.9km、停留所の数は167、途中で3回の休憩を挟みながらの行程は約6時間半かかるという路線バスなのだ。
(前に大和高田でこのバスが行き違うのを見かけたことがあった。あのバスについに乗るのだ! →2015.9.20
しかしさすがにずっとバスの中で過ごすのはもったいない。この路線バスが縦断する十津川村といえば、
伝説の十津川郷士で知られる村である(北海道の新十津川町へ行ったときのログはこちら →2012.8.21)。
壬申の乱から明治維新まで一貫して朝廷側につき税を免除されてきた独立勢力の村。しかも紀伊山地のど真ん中で、
北方領土を除けば日本で最大の面積を誇る村だ。琵琶湖よりも東京23区よりも広いのだ。いったいどんな場所なのか。
うれしいことに、十津川村は温泉がいくつかあって、それなりにリーズナブルに宿泊ができる。行くしかないでしょう。
すべての都道府県を制覇してだいたいの街は感覚的につかんでいる僕にとって、これは久々に完全なる未知な土地だ。
高鳴る気持ちをどうにか抑えつつ夜行バスに乗り込むと、朝7時前の曇り空の下、大和八木駅前に転がり落ちた。

 おはようございます。

大和八木駅は近鉄の一大ターミナルであるくせに、落ち着いて時間調整できるカフェがないのが最大の欠点である。
近くのコンビニで朝食と非常食(今回これ重要)を買い込むと、バス乗り場のベンチで栄養補給してしばらく過ごす。
困ったことに、八木駅の奈良交通案内所は9時にならないと開かないのだ。晴れてりゃ橿原市役所を撮ったんだけど。

9時になるとほぼ同時に案内所へ行って「168バスハイク乗車券」を購入。2日間有効で片道の乗り降りが自由という、
八木新宮バスに乗るには間違いなくマストアイテムとなる乗車券だが、出てきたのは恐ろしく質素な紙切れだった。
ただ名前が印刷してあるくらいで、油断したら簡単になくしてしまいそうだ。もうちょっとなんとかならんものか。

 何はともあれ、新宮に向けて出発である。

八木新宮バスは一日3本。9時15分に八木駅を出発する第1便に乗り込むと、10時31分に五条駅で下車。
1時間ちょっとでいきなり下車かよ!とツッコミが入りそうだがしょうがない。五條は見所の多い街なんですよ。
(五條市は「五條」の表記だが、JRの駅は「五条」という表記。面倒くさいけどいちおう使い分けています。)
五条駅は市街地から少し離れた高台にある。バスを降りるとさっそく観光案内所でレンタサイクルを申し込み、
いざ出発である。次のバスは13時6分発なので、2時間半ほどしか観光できる時間がない。かなりキツキツだ。

  
L: 五条駅から市街地へ向かって下っていく。郵便局の奥にはイオンがあって、バスセンターが併設されているのだ。
C: 国道24号、五條の市街地を行く。これは晴れてきた帰り、東側の写真だな。この辺りはわりと新しい商店街。
R: 同じく国道24号の西側。右側(北)は拡張工事をしている模様。以前は家がノコギリ状に道路に面していたようだ。

五條で最初に訪れたのは、栄山寺だ。梵鐘と八角堂という2点の国宝があるほか、重要文化財も何点かある。
吉野川(紀の川を奈良県内では吉野川と呼ぶ)の上流側に沿って奥まった位置だが、レンタサイクルだとすぐである。

  
L: 国宝の梵鐘。フツーに吊り下げられているのがすごい。917(延喜17)年の作で、小野道風の書を刻んである。
C: 石塔婆(石造七重塔)。これもフツーに置いてある重要文化財。  R: 静かにたたずむ塔ノ堂(大日堂)。

早朝はあまり天気がよくなかったのか、うっすら湿っぽさが残っている。でもそれがいかにも歴史を感じさせる。
栄山寺は藤原南家の菩提寺だそうだが、境内は木々がよく茂っていて貴族の邸宅っぽいプライヴェイトな雰囲気だ。

  
L: 境内をさらに奥へと進む。緑が多くて全体的に閉じた雰囲気。貴族の邸宅を仏教の価値観でアレンジした感触が漂う。
C: 1553(天文22)年築の本堂。手前の石灯籠は重要文化財。  R: 本堂に上がってみた。木材の古び方が美しい。

本堂の中にもお邪魔してお参りすると、さらに境内の奥にある八角堂へ。敷地に余裕がまったくなくてきれいに撮れない。
それでも意地でどうにかカメラに収めると、もう一度ぐるっとまわったり近づいたりして奈良時代の感触を大いに味わう。

  
L: 正面からだと木々が邪魔でよく見えない。近づいて見上げる形になってしまう。  C: 背面は見やすいのだが。
R: 柵にいたカマキリと戦うの巻。カマキリと同レヴェルでやりあう私。蟷螂の斧ということで引き分けで終わった。

栄山寺を後にすると、今度はまったく反対側の市街地へ向かう。重要伝統的建造物保存地区・五條新町があるからだ。
国道どうしが交わる本陣の交差点には古い道標があり、それを合図に南下するとさっそく見事な木造建築が現れる。

 五條は伊勢と高野山を結ぶ線上にある。この道標、文字を掘り抜いているのが面白い。

というわけで、まずは五條新町の入口にある建築から。通りの東側はナカコ将油で、向かいの西側にある住宅もすごい。
現役の個人住宅なので詳しい説明はなかったのだろうが、のっけから大迫力ですっかり圧倒されてしまった。

  
L: ナカコ将油。こちらの蔵造りの店舗が五條新町の入口向かいにどっしりと構えている。
C: 現役の個人住宅と思われる。  R: 近くの栗山家住宅。入口にまずこれらの建物があって圧倒された。

正確に言うと五條新町は東の「五條」と西の「新町」に分かれているが、伝統的な建築が一体的に長く連続している。
もともとは五條が先で、後に松倉重政が入った二見城の城下町として新町ができ、それがつながったとのこと。
通りは近代以前の幅のまま、国道に並行して1km弱もの長さをまっすぐ延びている。なんとも壮観なものである。

  
L: 山本本家。こちらの「神代杉」は後で十津川村で頂戴した(十津川は米が穫れないので五條で酒をつくっているようだ)。
C: 五條新町、五條の街並み。これは見事である。  R: 途中にある庭を覗き込んだ。おしゃれだなあと思う。

途中、新町松倉公園というポケットパークがあったので、そこから吉野川に出てみる。そうして堤防から街を見返すと、
実はそれぞれの建物が独特な2階建て構造になっているのがわかる。堤防に面する側にはガレージなどの1階があって、
通りに面しているのは2階レヴェルなのだ。まあそれはもちろん、現在の堤防ができてからの増築であるのだが。
では堤防ができる以前はどうなっていたかというと、新町松倉公園周辺を中心に、今もわずかに石垣が残っている。
本当にわずかで露わになっている部分は非常に少ないが、これらと表の街並みとで往時の姿を想像してみる。

  
L: 新町松倉公園。新町ができるきっかけとなった松倉重政の碑がある。ベンチが申し訳程度にある残念な設計。
C: 吉野川の堤防上から眺める新町(中央が新町松倉公園)。現在はかつての石垣をつぶして住宅が張り出している。
R: しかしよく見れば、今もわずかに往時の石垣が残っている。この石垣こそ、かつての街の姿を示す証拠なのだ。

さらに西へと歩を進めてみる。感触としては、こちらの方が新しい建物が多そうに思える。住宅らしい住宅も多い。
しかしその分、観光客相手に店舗として元気に営業している店もしっかりと点在している。なかなかやる気を感じる。

  
L: 新町橋を渡る。この辺りはまっすぐな道に伝統建築と住宅が入り混じる。  C: 長い通りだが歩きがいはある。
R: 新町の終端近く。この先にある坂を行くと最終的には国道24号に合流。昔ながらの雰囲気がよく残った街だった。

さて、この五條新町の街並みにはかなり異質なものがしっかりと横たわっているので、それについてふれておく。
近代以前の雰囲気をよく残す通りの中を、かなり強烈な存在感でコンクリートの橋がドカンと横切っているのだ。
こいつの正体は五新鉄道の高架。五新鉄道とはその名のとおり五條と新宮を結ぶ鉄道として計画された路線で、
つまりは「八木新宮バス」を鉄道でやろうとしていたわけだが、案の定採算が見込めずに未成線で終わった。
とはいえ五條から城戸(西吉野)までは線路が引ける状態ができていたので、かつてはBRT的にバスが走っていた。
しかし結局それも2014年に運行が終了。それでも地元ではこの夢の跡をわりとあたたかく見ているようで、
橋脚には「幻の五新鉄道」という説明板が貼り付いていた。古い街並みと妙にマッチした光景は独特の魅力がある。

 五條新町の真ん中に横たわる五新鉄道の高架。和風スチームパンクの香りというか。

街並みを存分に楽しむと、国道24号に戻ってその北側にある五條市役所へ。これがまた古き良き役場建築なのだった。
敷地の南側を駐車場として開放し、コンパクトな直方体としてスッキリ立っている。壁面の時計が高度経済成長っぽい。
そしてよく見ると東側には鉄骨が錆びきっているが、ミース風のサッシュによる展望階がくっついている。これは面白い。

  
L: 五條市役所。敷地の南西端が入口となっている。  C: そのまま本庁舎を眺める。  R: 正面から見たところ。

五條市役所の竣工は1961年とのことだが、増築を繰り返して実際にはかなり複雑な形をしている。
まず本庁舎は北側(つまり裏側)に増築部があり、さらに駐車場を囲むように東側にも増築がなされている。
いちばん古い南側部分は意地できれいにしてあるが、この増築部分もよく見るとかなり老朽化が激しい。

  
L: 東側の増築部。  C: 反対側(敷地外)から見た東側部分。  R: 背面。北側も増築しているのだ。

南側の建物はシンプルで美しく、1960年代初頭の典型的な市庁舎モデルケースであると感じる。
しかしさすがにこのままで済むわけもなく、建て替えの計画が進んでいる状況である。個人的には残念だなあ……。

  
L: 北側の増築部。ぐるっとまわり込んで北西側から見たところ。  C: 南北ジョイント部。なかなか豪快である。
R: 南側の側面。五條市は庁舎南側を「顔」と意識していたのか、増築部より古い部分の方をきれいにしている。

新しい庁舎は五条駅の真西にある五條高校の跡地に建てられることが決まっており、2021年度に運用開始予定。
なおこの新庁舎には、国の施設であるハローワークと、県の機関である保健所・土木事務所などが入ることが、
後日報じられた。それによって建設費も面積に応じ、市と県で7:3の比率で分担することになっているそうだ。

  
L: 本庁舎の展望階部分をクローズアップ。こういうものがくっついている事例はほかに見たことがないような。
C: 玄関脇に五條市のゆるキャラ・ゴーちゃんの像。合併した旧西吉野村・旧大塔村のマスコットとユニットを組んでいる。
R: 中に入るとこんな感じ。つまり東側の増築部に直接入る構造なのだ。主要な機能はほぼ東側にあるようだ。

素敵な国宝、素敵な街並み、素敵な市役所を見てホクホクしながら来た道を戻り、昼飯を済ませてイオンでお買い物。
ここで水分のほか、今夜の晩メシを買い込んでおくのだ。隣のバスセンターを「どうせ後で来るけど」と尻目に、
満足のいく買い物を済ませると坂道を上がって五条駅まで戻る。自転車を返却してしばらくするとバスが到着。
「168バスハイク乗車券」をかざして乗り込むと、バスはイオン隣のバスセンターを経由して、いよいよ南へ針路をとる。
168という数字はつまり、国道168号のこと。ここから新宮まで、この国道168号で一気に紀伊半島を縦断するのだ。

吉野川(紀の川)の支流である丹生川(和歌山県にも同名で紀の川に注ぐ丹生川があるのでややこしい)に沿い、
国道168号も曲がりくねって走っている。さすが国道、山地のど真ん中を行く道だが道幅はしっかりとられている。
しかしこのバスは路線バスなので、ときどき集落にあるバス停を目指して国道から脇の道に入るのだが、
これがかなり細い。細くて古びた道をしばらく行くと、また堂々たる国道に戻る。それをずっと繰り返すのだ。
また、厳しい地形ということもあって、あちこちで道路工事をしているのを見かける。台風のたびに崩れ、直し、
それを延々と繰り返す終わりのない工事。でもやらないわけにはいかないのだ。奈良県南部は土木天国だぜ。

  
L: 車窓から見た道路工事の様子。大変である。  C: 橋が3つ交差している光景なんて初めて見たよ。これ凄くないか?
R: 細い道から国道168号に戻ったところ。国道についてはかなり力を入れて整備しており、とっても快調に走れる。

五条駅を出て2時間弱、右手に何かが見えた。谷瀬の吊り橋だ。やがてバスは上野地という停留所で休憩時間をとる。
それが20分ということで、つまりは観光客に谷瀬の吊り橋を往復してくる時間を与えていると解釈できるわけだ。
ご存知のとおり僕は重度の高所恐怖症なので吊り橋なんざまっぴら御免なのだが、さすがに今回は好奇心が勝った。
むしろ20分しか猶予がないことで踏ん切りがついたのである。というわけで、谷瀬の吊り橋、往復してきました。

  
L: バスの車窓から眺める谷瀬の吊り橋。こうして見ると強烈である。  C: 吊り橋の入口付近から眺める。
R: いざ行かん! こうして見る分にはそれなりにガッチリしているように見えるんだけどね、足元がね……。

谷瀬の吊り橋は1954年に竣工したが、地元の住民が資金を出し合って建設した、まさに生活のための橋だ。
全長297.7mは、竣工当時日本一の長さだったそうだ。で、この橋の何がすごいって、幅が板4枚しかないのだ。
地元の人や郵便局員はこれをバイクで走るってWikipediaに書いてあるけど、もう頭がおかしいんじゃねえかと。
周りはガッチリと金網を張ってあるので気合いでどうにか渡ることができたけど、風があったらどうだったか……。

  
L: 足元こんなんですよ。でも十津川の吊り橋はみんなこういう構造。  C: 中間地点辺りで見た景色。
R: 対岸にたどり着いて振り返ったところ。日記を書いている今も手のひらにはじんわりと汗がにじんでおります。

時間内に無事にバスまで戻ることができてよかったよかった。出発したバスは集落を抜けて国道168号に戻る。
やはり道は川(十津川、和歌山県に入ると熊野川と呼ばれる)に沿って、延々とくねり続けるのであった。

 上野地郵便局の裏がバス停。集落の道はずっと坂道である。

やがてバスの窓から風屋ダムが見えた。気象庁の天気予報だと奈良県南部の地名は「風屋」となっていて、
なるほどこの辺りなのかと思うのであった。紀伊半島ってのは通ってみると本当に大きくて広いと実感する。

 風屋ダム。このダムの建設は国道168号の整備にもつながった。

やがてバスは十津川村役場を通過。素直にここで降りておけばよかったのだが、なぜか次まで待ってしまったのだ。
広い広い十津川のサイズを理解していなかったとしか言いようがない。まあ実際に歩いてみたかったんだけど。
で、けっこう揺られて「こりゃしまった!」と思いつつバスを降りると、北の役場を目指して歩きだすのであった。

 
L: まあ見事に山の中である。国道168号もこの辺までくると道幅が狭くなる。  R: ものすごいスラロームっぷり。

のんびり歩いていくと、対岸に集落が見えてきた。小原の集落で、中心には十津川第一小学校があるのだが、
対岸からだと山麓のわずかに緩やかになった場所に家々が貼り付くように点在しているように見える。
さらに進むと大きく曲がった十津川の内側に学校がある。これは十津川中学校。なんとも大胆な立地だと思う。
不思議なのは川の水の色で、ちょっとでも深くなると琳派の「たらしこみ」そのままに、日本画のような碧色を湛えるのだ。

  
L: 山と川に挟まれる小原の集落。  C: 十津川の大きな弧とその内側の中学校。
R: そのすぐ右手を見ると、村役場近くの集落が目に入る。そして川の色に目を奪われる。

村役場まで戻った頃にはだいぶ夕方の日の傾きぶりとなってしまった。光の加減に苦労しながら撮影する。
先ほどの中学校と同様、村役場も弧の突端にあり、川はここでしっかりとS字を描いているというわけ。
つまり道路がなかなかの鋭いカーヴとなっていて、少し角度をつけないと全体がカメラの視野に収まらない。
道を挟んだ村役場の反対側は歴史民俗資料館だが、これは一段高い場所となっており、後ろに下がれないのだ。
十津川は米が作れないというけど、本当に平地がないなあ!と思ったのだが、後で役場の裏側を見て驚愕した。

  
L: 十津川村役場。手前の道路がなかなかのカーヴだが、そういう場所じゃないとまとまった平らな空間にならないのだ。
C: 敷地内に入って近づいてみた。  R: エントランス部。村章はもちろん、十津川の象徴である「菱十」の紋だ。

  
L: 反対側から眺めたところ。  C: 歴史民俗資料館から見下ろしたところ。ふつうこの角度で撮れる役所はない。
R: 橋の途中から眺めた十津川村役場の裏側。地下2階分の高低差と張り出した駐車場に圧倒される。これはすごい。

道を挟んだすぐ向かいの歴史民俗資料館は、村役場をしっかり見下ろせるほどの高低差がある。
そして川の方にまわり込むと、実は村役場は川に面した崖に食い込むようにして建てられているのがわかる。
さらに壁面に棚を取り付けるようにして、崖の上に駐車場を確保している。十津川は本当に平地がないのだ。
先ほどの中学校も村役場も、蛇行する川の内側に建てられている。つまり、平地はそこにわずかにあるだけなので、
公共性の高い建物をこの貴重な平地に優先して配置しているというわけだ。これは本当に厳しい環境である。

  
L: 村役場の玄関。左は十津川のゆるキャラ・郷士くん。  C: 中に入って左を見たところ。ふつうの役場である。
R: 入ってすぐ正面。木材をふんだんに使って林業をアピールしている。確かにソフトな印象になるなあと思う。

せっかくここまで来たので、ぜひ勉強させていただこう!と歴史民俗資料館にもお邪魔した。遅い時間にすいません。
1階は世界遺産に含まれている熊野参詣道(小辺路)と大峯奥駈道の説明、明治の大水害、昔の暮らしについてなど。
そして2階は十津川郷士がメイン。有名人を輩出したわけではなく、村全体で一体的に動いていた点が特徴的だと思う。
実際に訪れていかに平地がないかを実感できると、十津川郷士の強いアイデンティティとタフネスぶりにも納得がいく。

  
L: 国道168号にて。左が歴史民俗資料館、右が村役場。かなり土地を削って役場のための平地を確保したのがわかる。
C: 歴史民俗資料館を見上げる。  R: 1階、昔の暮らしについての展示。これはまあ全国どこも似たようなものかなと。

最終便のバスが来るまでの時間は、役場からすぐ近くにある道の駅 十津川郷でのんびり過ごす。お土産を見たり、
足湯に浸かったり。足湯はここから近い湯泉地温泉から引いているのか、かなり硫黄の匂いが強くて効きそう。
さっき役場前でバスを降りておけばそっちまで浸かりに行く時間があったかもしれないなあ、と思うのであった。

  
L: 道の駅 十津川郷。正面側はなんのことはない建物だが……  C: 裏手を見たらやっぱり超がんばって建っていた。
R: バスに揺られつつ十津川高校付近で振り返ったら虹が出ていた。十津川にものすごく歓迎された気分である。

バスは十津川温泉で10分間の休憩。奈良交通の営業所があり、十津川における交通の拠点となっているようだ。
十津川で宿泊しようとすると、この十津川温泉の周辺が最も充実しているようである。当然、できる限りで散策する。

  
L: 十津川温泉。右の方でバスが停まっているが、ここが奈良交通の営業所。道路沿いに商店も点在。
C: 営業所から役場方面を眺める。  R: 奈良交通の営業所の中はこんな感じ。なんだか落ち着くぜ。

  
L: いい機会なのでバスを撮影。大和八木から新宮まで経由する自治体のゆるキャラがラッピングされている。
C: 新宮市「めはりさん」、田辺市本宮町「八咫之助・八咫姫」。田辺市旧市街には「たなべぇ(→2013.2.10)」がいるもんな。
R: 十津川村「郷士くん」。五條市「ゴーカスター」は上述の「ゴーちゃん」と「カッキー(旧西吉野村)」「星博士(旧大塔村)」のユニット。

  
L: 御所市「ゴセンちゃん」、葛城市「蓮花ちゃん」。  C: 大和高田市「みくちゃん」、橿原市「さららちゃん」。
R: 後ろには和歌山県「きいちゃん」、そして奈良県「せんとくん」。日本は完全にゆるキャラの国だ(→2013.9.30)。

18時半を過ぎ、バスは十津川温泉を出発する。5分ちょっとで、だいぶ規模の大きい建物であるホテル昴に到着する。
本日お世話になる宿はここから徒歩圏内なので、下車して山の中の道をのんびりと歩いていく。見事にひと気がない。
道は十津川の支流に沿っているが、途中で面白いものを発見した。「野猿(やえん)」である。とんねるずは関係ない。
野猿はかつて川を渡るのに使われていた装置で、要するに滑車のロープを自力で引っ張って移動する仕組みである。
せっかく十津川に来ているんだから、と挑戦。空中のど真ん中で景色を撮るなど、独りでやりたい放題をして楽しむ。
なんとか往復して戻ってきたときには、もう腕はパンパンなのであった。これは思った以上に鍛えられる装置である。

  
L: 野猿。この中に入ってロープを引っ張ると前に進むという仕組み。  C: ど真ん中の辺りで川を眺める。
R: 対岸を振り返る。往路ですでに腕が痛くなっており、これからこの距離を戻らなくてはいけない現実に愕然とする。

まあ野猿で遊んでいたのはなんだかんだで10分足らずだったが、そこからさらに山の中へと入っていくこと10分、
無事に本日の宿に到着したのであった。ところが宿の方によると、僕が野猿でウホホホーイとアホ面で遊んでいる間、
ホテル昴まで迎えの車を用意していただいていたそうで、たいへん申し訳ないのであった。僕は徒歩に慣れているけど、
十津川は山の中だからということで配慮してくださったのである。小笠原のときもそうだったけど(→2012.1.2)、
われわれが非常にアクセスしづらい場所で生活している人は、遠路はるばる訪れる価値を知っているので客に優しいのだ。

十津川で宿泊する場所はいろいろあるけど、今回選んだ宿の最大の決め手は温泉である(あと正直、値段もある)。
満点の星空を眺めながら温泉に浸かることができるという触れ込みで、それはもう本当に最高でございました。
紀伊山地の急峻な山々で光が遮られるため、十津川の星空は非常に純度の高い美しさなのだ。時間を忘れて浸かる。
もともと目が悪いので、コンタクトでも星粒ひとつひとつをしっかり見ることができなくて、それが悔しくてたまらない。
友人たちの顔を思い浮かべつつ、こんな最高に楽しい経験を一人で味わっちゃってすいませんな、と思うのであった。
この日記を読んでいる皆様は、ぜひ十津川を訪れてほしい。温泉に浸かって星空を眺め、日本の広さを感じてほしい。



2017.7.15 (Sat.)

夏休み直前、海の日がらみの3連休であります。Googleマップを睨んでどこへ行こうかあれこれ考えた結果、
伯備線にまだきちんと乗ったことがないぞ、となる。サンライズ出雲で寝ている間に通ったことはあるのだが、
意識がある状態で車窓の風景を眺めたことはないのである(倉敷ー総社と新見ー備中神代は通過済み)。
ほかにも中国地方を縦断する路線では、因美線と津山線もまだだ。じゃあこの3日間でこの三角形を制覇しよう!となる。
鳥取県内(一部は島根県)には、ぜひとも押さえておきたい市役所・神社・街並み・施設などがまだまだあるのだ。

夜行バスに揺られて到着したのは、岡山駅西口。学割が効く夜行バスはええのうと思いつつ、すぐに改札を目指す。
なんせ移動距離が長いので、テンポよく動かないといけないのだ。本日最初の目的地は総社。総社市の備中総社ね。
3年前にも訪れてレンタサイクルをかっ飛ばしているのだが(→2014.7.24)、なんと御守を頂戴していなかったのだ。
東総社駅から徒歩でアクセスするが、時間が少し早いので周辺を散歩する。まちかど郷土館は相変わらず魅力的。

  
L: まちかど郷土館(旧総社警察署)。  C: 反対側から眺めたところ。  R: この周辺にはいい感じの建物が多いんだよな。

9時近くになったので、備中総社の境内にお邪魔する。「總社」が正式名というのは以前書いたとおり(→2014.7.24)。
東と南の2つの参道が交わる構造は、やはり複雑で楽しい。御守も無事に頂戴できて、これで胸のつかえが取れた感じ。

  
L: 備中総社の池はけっこう存在感があるのに、前回なぜか写真を貼り付けなかったので、ここでリヴェンジ。
C: 拝殿。左側に備中神楽に登場する神様たちの面が並んでいて興味深い。  R: 本殿だけをクローズアップ。

列車は9時8分に東総社駅を出るので、急いで駅まで戻るのであった。授与所が9時には開いていて本当に助かった。

 吉備線がいつのまにか「桃太郎線」なんて名前になっていて驚いた。狼狽したよ。

総社駅で乗り換えて、いよいよ伯備線である。特急で揺られることわずか16分で、備中高梁駅に到着。
高梁市には6年前に男3人ブラ珍クイズ旅で来ているのだが、あのときブサイク発言を連発していたラビーのみが結婚し、
善行を積むリョーシさんと僕はいまだ独身というのが信じられない(ラビーの救いがたい言動はこちら →2011.2.19)。
そしてこの6年で変化したのは僕たちとラビーの立場だけではない。高梁市役所も新しくなっているのである。
残念ながら時間的に備中松山城まで行く余裕はないが、市街地をできるだけあちこち歩きまわってみるのだ。

  
L: まず驚いたのが備中高梁駅。高梁市図書館が直結しており、中にはスタバまである。TSUTAYAが指定管理者なのね。
C: 備中高梁駅。図書館は奥の方ね。  R: 市役所前から見える備中松山城の天守閣。電線の合間をかいくぐって撮影。

新しい高梁市役所は駅から歩いて10分もしないところにある。手前がオープンスペースとなっており、遊具もある。
こういう配置の場合、だいたい手前は駐車場となるものなので、子どもが遊べる公園としているのは非常に珍しい。
おかげでこっちも撮影がしやすいし、ありがたいことこの上ない。惜しむらくは電線がけっこう邪魔なことか。

  
L: 高梁市役所。手前を遊具のある公園(正宗公園)としている例は珍しい。電線が邪魔なのが惜しいなあ。
C: 角度を変えて眺める。垂れ幕には「祝 野球殿堂入り 平松政次氏」。カミソリシュートの平松投手は高梁出身でしたか。
R: では左回りに一周してみるのだ。正宗公園越しに南西側から。それにしても開放感満載の公園だなあ。

設計は山下設計関西支社と建築事務所双南舎のJVによる。大手組織事務所と地元の事務所が組んだわけだ。
おそらく地元の設計事務所を入れることが条件になっている、よくあるパターンであろう。竣工は2015年。

  
L: 西側へとまわり込む。  C: 北西側より。  R: 北側から眺める背面。正面とわりと差がある。

面白いのは1階東側で、テラスとなっており椅子とテーブルが置かれており、閉庁日でも自由に利用できる点。
せっかくならもう一歩踏み込んで、カフェ的な要素を入れると正宗公園とセットで魅力が増しそうに思うのだが。
高梁市には備中松山城や古い街並みがあるんだから、うまく観光客の拠点とする工夫ができればいいのに。
駅隣接の図書館に力を入れるのも悪くないが、そこに資源が限られて旧市街地に広がっていないのは残念だ。

  
L: 北東側より。  C: 東側から眺める。テラスが面白い。山田方谷をモデルにしたゆるキャラ「ほうこくん」がいる。
R: テラス内部はこんな感じ。居心地がよさそうだが、土日はただ何もない空間になってしまうのがもったいない。

市役所の撮影を終えると、時間の許す限り街歩きだ。高梁市は備中松山城の城下町であり、高梁川沿いに北上すれば、
昔ながらの街並みに至る。でもまずはその手前の高梁市郷土資料館を再訪問。洋風木造建築は城下町の文化度を示す。

  
L: 高梁市郷土資料館(旧高梁尋常高等小学校本館)。前回訪問時( →2011.2.19)より周辺がすっきりした気がするが。
C: どうしてもこの角度で撮影してしまうなあ。相変わらずどこかカエルっぽい。  R: 側面と背面をあわせて撮影。

高梁市で今も残る城下町らしい街並みは、紺屋川の辺りから始まる。かつて備中松山城の外堀の役割を果たしており、
川沿いは「紺屋川(こうやがわ)美観地区」という名称で親しまれている。「日本の道100選」にも選ばれている。

  
L: 紺屋川。川面まで下りられるのがいい。  C: 高梁基督教会堂。1889(明治22)年の築で、岡山県最古の教会。設計は吉田伊平。
R: 備中松山藩の藩校・有終館の跡。二度の火災に遭い、山田方谷が1851(嘉永4)年にこちらに移した。現在は幼稚園となっている。

紺屋川に跨る伯備線を抜けて右岸にあるのが頼久寺。「小堀遠州」こと小堀政一が備中松山城の城主となった際、
城が荒れていたのでこちらの寺を仮住まいとし、庭園をつくった。もともとは備中国の安国寺とのことである。

  
L: 頼久寺の入口。確かにずいぶんと凝った造りである。  C: 境内。  R: ガラスには山と舟の帆か何かが描かれていた。

ではいざ中にお邪魔して庭園を拝見。頼久寺庭園は蓬莱式庭園ということで、神仙思想の蓬莱山を表現した庭園である。
建物の間にある小さなスペースからすでに物語は始まっており、ゲシュタルト的に図と地がひっくり返されそうで面白い。

  
L: 建物の間にある中庭部分からすでに蓬莱空間は始まっている。  C: 中庭を見ながらまわり込んだところ。
R: さらに進んで振り返る。建物の間に庭園があるのではなく、庭園が表象する蓬莱山が建物を浮かべているのだ……。

小堀遠州が20代後半から30代にかけて作庭した庭園ということで、もうそれだけで非常に興味深いではないか。
いい意味で若さを感じさせるエネルギッシュな庭である。遠くに浮かぶ理想郷が鮮やかに表現されているのがいい。

  
L: 中庭側から庭園のハイライト部分へ近づいていくとこんな感じ。前に見えるのはサツキを刈り込んだ青海波。
C: 庭園のハイライト部分。南にある愛宕山を借景とする蓬莱式庭園である。  R: 右(正面)が鶴島、左奥が亀島。

頼久寺を後にすると、そのまままっすぐ北上して「石火矢町(いしびやちょう)ふるさと村」の界隈を歩く。
江戸時代には中級武士の屋敷が建ち並んでいたエリアで、重伝建ではないが岡山県指定の町並み保存地区となっている。

  
L: 石火矢町の武家屋敷通り。  C: 進んでいくとこんな感じ。行った先にあるのは御根小屋跡に建つ岡山県立高梁高等学校。
R: では高梁高校に近い側にある旧折井家から見学するのだ。通りに面する長屋門が、なんとも威厳を感じさせる。

現在の石火矢町では武家屋敷2軒が市の施設として見学可能となっている。入館料は両方の共通券で400円である。
まずは通りをまっすぐ北上していき、備中松山城の内堀となっている小高下谷川にぶつかって止まるまで進む。
この先はかつて御根小屋と呼ばれた場所で、藩主の御殿と武家屋敷があった。備中松山城の天守はさすがに不便なので、
ふだんは麓の御殿で生活したのだ。現在は岡山県立高梁高等学校となっている。その手前の武家屋敷・旧折井家から見学。

  
L: 武家屋敷・旧折井家。長屋門をくぐるとこの光景。  C: 玄関に入るといきなり武士ロボットがお辞儀して出迎え。超驚いた。
R: 一家団欒はいいのだが、いかんせん人形が日本人離れしたお顔立ち。息子の髪型はリーゼント(正確にはポンパドール)か?

  
L: やはり中級武士の生活空間は質素な暮らしぶりだなあとあらためて思う。  C: 土間。  R: 庭。

通りの中ほどにあるのが、もうひとつの武家屋敷である旧埴原(はいばら)家。こちらは江戸時代中期の築とやや古い。
藩主・板倉勝政の生母の実家であるため、寺院や数寄屋風の要素を取り入れた建物となっているのが特徴とのこと。
こちらは玄関に入るとロボットのお出迎えはなく、代わりにあるのが山田方谷の書を彫り写した板。ところがこれ、
方谷がわずか4歳のときの書だというから恐れ入る。凡人はもう、完全にやる気をなくしてしまったよ。

  
L: 旧埴原家。  C: 玄関にある山田方谷4歳の書「風月」。旧埴原家は山田方谷資料室も併設。  R: 庭と母屋。

ここで山田方谷について少々。幕末の学者であり、備中松山藩の財政改革を成功させた人物でもある。
さらに幕府で老中も務めた藩主の板倉勝静が五稜郭まで行っちゃうと(松平定信の実の孫なので立場上致し方ないが)、
領民を守るべく強制的に藩主を交代させて戦火を免れている。勝静も利発な人なのでこの引退劇を素直に受け入れ、
主君と領民の板挟みで苦渋の選択をした方谷は、明治維新後には一切の誘いを断って一教育者として亡くなった。
学者としても政治家としても実績を残し、時代の渦に巻き込まれながらも人々を守りきった確かな偉人である。

  
L: 現在は無料休憩所となっている、高梁市商家資料館 池上邸。かつて醤油の醸造を行っていた豪商の邸宅である。
C: 往時の雰囲気を残す内部。  R: 奥の方の休憩スペース。本当に純粋な休憩所となっていて少々もったいない。

残った時間で城下町を気ままに歩きまわる。高梁川沿いの国道313号から一本東に入った本町通りは古い商家がよく残り、
同じ南北方向の通りでも石火矢町の武家屋敷と対照的で面白い。武家地と商人地が高低差を持って並行しているのは、
平地が非常に狭い備中松山ならではの現象なのであろう。商人地では、高梁市商家資料館 池上邸の中を動きまわる。

  
L: 奥へ進むと商家資料館。  C: 邸内にも高低差があり、それを利用した庭園がなかなか見事である。  R: 本町通り。

本町通りをそのまま北上し、市街地の最北端にある八重籬(やえがき)神社まで行ってみる。位置としては、
備中松山城の本当に麓といった辺り。18世紀後半の備中松山藩主・板倉勝政が、名奉行として知られる板倉勝重、
その子である板倉重宗(こちらも名奉行)の板倉家宗家の初代と2代を御根小屋に祀ったのが起源である。

  
L: 横から眺めた八重籬神社の全体像。手前は国道に面した駐車場となっているのがなんとも独特である。
C: 拝殿。  R: 本殿。境内にひと気はなく、御守などもまったくないのは非常に残念だった。

あとは駅に向かって引き返しながら、いろいろと面白がって歩く。高梁高校の西側、高梁日新高校の北側には、
かつて御根小屋へとアプローチした御殿坂という広い坂道が残っており、往時の威厳をしっかり今に伝えている。
また、高梁市内には恵比寿を祀る祠が7つあり「七恵比寿」と呼ばれるが、そのうち3つは川に架かる橋の上に鎮座する。
これがかなり独特な存在感を漂わせているのだ。高梁の街並みはもっともっと知名度があってもいいと思うなあ。

   
L: 御殿坂。  C: 紺屋川に架かる橋の上に鎮座する蛭子神社。  R: こちらも紺屋川の上だが、より高梁川寄りの蛭子神社。

  
L: 高梁川沿いの国道313号。瓦を載せた和風の壁が堤防として長ーく続いている。車だとかなり印象的な景色のはず。
C: 方谷橋から眺める高梁川。山に囲まれた川沿いの城下町には親しみを覚える。  R: 高梁栄町商店街のアーケード。

時間いっぱい高梁の街を満喫した。駅に戻ると特急で一気に米子まで行ってしまう。時間がもったいないのね。
米子は4年ぶりだが、前回やり残したことをやるために来たのだ。それは、米子市公会堂にリヴェンジすること。
村野藤吾設計の名建築だが、前回訪問時には改修工事の真っ最中だったのだ( →2013.8.20)。無念を晴らす時が来た。
特急やくもが米子駅に到着すると、境線に乗り換えて富士見町へ。ここから南西へ500m弱で米子市公会堂に到着。

  
L: 米子市公会堂。苦節7年くらい? ようやく実物を拝むことができた。改修設計は日建設計が担当し、工事は2014年に完了。
C: 南側へとまわり込んでいく。手前が土や芝のオープンスペースとなっているのがいいなあと思う。  R: さらに南へ。

米子公会堂は1958年の竣工。米子市公会堂市民会議の公式サイトには、さまざまなエピソードが記載されている。
それによると、「一世帯が毎日一円を貯めて公会堂を」という一円募金運動を行って3000万円の寄付を集めたそうだ。
設計を依頼された村野はその話を聞いて設計料を返上、寄付したという。村野は金のかかる建築家というイメージだが、
その分だけ質の高い作品を生み出してきた人だ(それだけに予算の制約が強い公共建築を苦手とする印象 →2015.11.16)。
そんな村野に設計を依頼する米子市民の気合いと、その気持ちに情で応える村野。ブラックジャックみたいじゃないの。

  
L: 側面。なるほど、言われtみれば確かにグランドピアノっぽい。  C: 側面にぐっと近づいてみたところ。
R: 2階レヴェルに上がって南西側の低層棟を眺めたところ。こちらは非常にモダン。ホール部分と好対照である。

米子市公会堂の外観は、グランドピアノとブラジルの教会をイメージしているという。これは村野が設計の前年に、
南米を旅行したことが影響しているとのこと。そして表面に貼られたタイルは石州瓦を特注で焼いたものだそうだ。
そういったローカルさのある手作り感を大切にするのは、まさに絶好調のときの村野ならではの手法である。

  
L: 敷地の内側から見た低層棟。  C: 最もホールに近い部分はカフェとなっている。  R: カフェ付近から見る。

それにしても、米子という街は実に特徴的であると思う。東京に対する大阪、浦和に対する大宮、前橋に対する高崎。
誇り高き商都は多いが、こと米子については、建築を通してプライドを表現する性格が強いと指摘できるのではないか。
象徴的なのが、旧市庁舎である米子市立山陰歴史館だ(→2009.7.192013.8.20)。「米子」ではなく「山陰」の歴史館。
そこに「米子は山陰随一の商業都市である」という誇りを感じずにはいられない。松江や鳥取という県庁所在地を相手に、
一歩も退いていないのだ。また、統一感のあるデザインで市役所・図書館・美術館を集中させた点にもプライドを感じる。

  
L: 今度は反対側にまわり込むのだ。北から西へと移動する。  C: 真北辺りから見たところ。  R: 西から見る背面。

そして米子市公会堂も、「山陰一の文化の殿堂」として建設されている。市民からの寄付は上述のように3000万円だが、
建設費は実に1億7600万円もかかっているのだ。当時の米子市は財政再建団体にこそなってはいないが大幅な赤字体質で、
そんな状況でも寄付を大幅に上回る資金を出し、しかも村野藤吾に設計を依頼して自前の公会堂を建ててしまうあたり、
つねに政治で先行する両県庁所在地に対する猛烈な対抗心がはっきりと現れているではないか。米子の魂そのものか。

  
L: 国道9号に面する南東側の低層棟入口。  C: ホワイエ。村野は1980年に改修設計も手がけており、その際に内装を変えたそうだ。
R: ホール内部を覗き込んでみた。2014年完了の改修工事で、天井を旧来のデザインのまま新しい素材でつくり直したとのこと。

これで気が済んだ。しかしまだまだ日は高く、十分動ける時間帯である。富士見町駅に戻るとなんと列車が遅れていた。
おかげで本来なら間に合わなかった列車に乗れることになり、そのまま米子駅で乗り換えて島根県は安来市に突入。
安来市役所は4年前に訪れたが、建て替えが決まっていた(→2013.8.19)。で、今月その新庁舎が竣工するのだ。
いい機会なので竣工直前の姿を見ておこうというわけ。駅から国道180号を西へ行くと、堂々たる新庁舎が現れる。

  
L: 新しい安来市庁舎。今月の31日に業務を開始する予定と、まさに竣工直前である。なお、設計は佐藤総合計画。
C: 国道越しに撮影すると電線がクソ邪魔なので、敷地に入り込まない範囲で近づいて撮影。  R: 少し西へとズレる。

  
L: そのまま側面へとまわり込んでいく。  C: 駐車場越しに眺める側面。  R: 背面へ。西から見たところになる。

  
L: 背面。駐車場がまだ整備中なので撮影できる角度が限られていてけっこう苦労した。  C: 南西側入口。
R: 南側、市役所の脇を流れる川に架かる橋の上から見たところ。こちら側には木々が植えられているのね。

  
L: 南東側側面。  C: もう一丁。  R: 東側から見たところ。これで一周である。

新しい庁舎の完成はめでたいが、いかにも昭和の雰囲気を残す旧庁舎がこれから解体されると思うと残念でもある。
せっかくなので、4年前にも撮影しているが、あらためてその勇姿をしっかりとデジカメで保存しておくとしよう。

  
L,C,R: こちらの建物が安来市役所でいられるのも、もうあと2週間ちょっと。1956年竣工だもんなあ。歴史の証人よ。

  
L: まったく余裕なく国道沿いに建つ姿、飾りっ気のなさ、3階建て、望楼。質実剛健な昭和の役所がまたひとつ消える。
C: 背面。こっち側だけ3階にいきなり装飾が現れるのがいいのだ。議会かな?  R: 近づいてみるけど、うーんシンプル。

そういえば異彩を放っていた3号棟は、なんとまだ健在だった。といっても今の本庁舎と運命を共にするんだろうけど。
ここは素直に、余命が延びていたことを喜びながら笑顔で別れるとしよう。さらば3号棟、楽しい建物だったよ!

 
L: 生き延びていた3号棟。全身コルゲートのイカしたヤツさ。  R: これで本当に見納めか。アディオス、アミーゴ!

市役所の撮影を終えると、山陰本線をまたいで南へちょっと寄り道。安来神社に参拝するのだ。
市街地にあるし市の名前を冠する神社だしということで訪れたのだが、ネットで調べても詳しい情報が出てこない。
しかしあまりにも独特な形の隋神門といい立派な拝殿といい、ふつうの神社ではないのは一目瞭然。いったい何なんだ?

  
L: 安来神社の鳥居。  C: 隋神門。このような形式は今まで見たことないのでびっくり。  R: 注連縄の迫力がすごい拝殿。

運よく宮司さんがいらしたので御守を頂戴することができたが、社殿を見れば見るほど不思議な神社である。
せっかくだからいろいろ話を聞いておけばよかったなあと今になって思う。祭神がスサノオ、ぐらいしかわからん。

  
L: 本殿脇にある境内社の稲荷社。  C: 本殿。こちらも珍しい形。  R: 本殿の脇、稲荷社と対の位置にある境内社たち。

市役所の脇を通って北上し、中海のほとりに出る。和鋼博物館にお邪魔して和鉄や和鋼についてお勉強するのだ。
現在の和鋼博物館は1993年のオープンで、設計は宮脇檀。市立図書館とくっついた建物となっているのが特徴的。

  
L: 和鋼博物館。向かって左側に図書館がくっついているので全体の幅があり、撮影ポイントを見つけづらい建物だ。
C: エントランスの様子。ヤスキハガネ製の刃物を売っており、手頃な値段の包丁を買いそうになったがギリギリこらえた。
R: 実際に踏める天秤鞴(ふいご)が置いてあった。出雲地方では現在でも、たたら製鉄が特別な誇りとなっているのだ。

そもそも、一口に「鉄」といってもさまざまな種類があるものだ。われわれがイメージする「鉄」はまず「鋼」である。
砂鉄が原料、木炭が燃料の日本のたたら製鉄は、西洋の製鉄法より不純物の少ない鋼、「和鋼」をつくることができた。
しかし明治維新後には安価な西洋の鋼鉄に押され、また日本も官営製鉄所で高炉による製鉄を大規模に行ったため、
たたら製鉄は姿を消してしまう。なんだか、和紙が洋紙に追いやられていった歴史を見ているような気分である。
同じ系統の製品であっても、日本と西洋で明確な違いがあるという点も、両者に共通しているではないか。
和紙は現在でも伝統工芸品として細々と生産されているが、和鋼の生産技術はほぼ失われてしまっている状況である。
西洋流の鋼鉄で需要がまかなえてしまうのでしょうがないのだ。和鋼でないとダメなのは、日本刀くらいなもので。
しかし和鋼はその優れた性質から、希少な素材としての需要が今もある。そんな和鋼の伝統を現代の技術で再現するのが、
日立金属安来工場のヤスキハガネというわけだ。個人的に面白いのは、「白紙」「黄紙」「青紙」という名前である点。
かつて識別のために付けられていたラベルの色が正式名称となっているのだ。和鋼の矜持を感じさせる部分である。
うーん、やっぱり記念に包丁を買っておけばよかったかな。どうせほとんど使う機会なんてないけどさ……。

米子に戻ると、そのまま駅前のバス停へ。せっかく米子に来ているのだから、皆生温泉に浸からなければなるまい。
バスに揺られて皆生温泉の観光センターに到着すると、海岸線を眺めつつ歩く。18時半近いのに明るいなあ。

 
L: 皆生温泉。相変わらず海沿い以外、温泉街らしさがない。それにしても、どじょう掬いまんじゅうの看板が目立つなあ。
R: 皆生海岸にて。海の向こうに見えるのは島根半島の東端、美保関の辺り。美保神社に参拝してイカ食いてえ( →2016.7.24)。

皆生温泉といったら僕には東光園しか考えられないのよね。いつかきちんと宿泊したいと思いつつ今回も日帰り入浴。
前回は早朝の訪問だったが、今回は夕暮れ。昼間はあちこち動きまわるのでどうしても極端な時間になってしまう。
露天風呂は盛況で、客の話を聞いていると、どうも皆さんトライアスロン大会に参加する人たちみたい。
皆生温泉といえば日本で初めてトライアスロンが行われた聖地。ちなみにその初回大会の優勝者は高石ともやだってさ!

  
L: 夕暮れの東光園。メタボリズム建築はもっともっと評価されていいはず。日本建築がいちばんポジティヴだった時期だと思う。
C: 中には米子高専の学生たちがつくった東光園を紹介するパネルを展示する部屋があった。  R: こちらは東光園の模型。

たいへんヴォリュームのある一日を終えて、ほっと一息。明日も明日で全力で動きまわる予定。温泉パワーでがんばる。



2017.7.9 (Sun.)

何の予定も入っていない休日というのは本当に久々という気がする。それくらい夏季大会は大変だった……。

朝は日記を書いて、昼前に出光美術館でやっている『水墨の風 ―長谷川等伯と雪舟』を見にいく。
特に詳しいというわけではないのだが、水墨画は好きなのだ。等伯と雪舟なら、もう無視できないわけで。
通信教育の学生証を見せて入館。最近の美術館ブームは「元を取ろう」という貧乏根性の現れでもある。

全体はいくつかの章に分けてあったのだが、第1章が雪舟で第2章が等伯。いきなり!クライマックスである。
しかも展示の最初が玉澗、次いで雪舟『破墨山水図』、そこから牧谿という並びで、もうこれでいいんじゃねえかと。
第2章では、等伯が日本にいない叭叭鳥を描くかわりに『松に鴉・柳に白鷺図屏風』でカラスを描いたことから、
水墨画の日本化をテーマとする内容。その後は室町時代の水墨画、江戸時代の水墨画へと進んでいく。

感想としては、「水墨の風」というタイトルだけど、風を感じさせるまとめ方ではなかったなあといったところ。
雪舟も等伯も作品点数が少なくて不満。まあどっちもたっぷり持ってくるのが難しいビッグネームではあるが。
上記のように最初からフルスロットルすぎて、尻すぼみ感がかなり強いのもまた残念なところである。
雪舟も等伯もあんまりないし、それ以外にもこれといったものがないしで、かなりの期待はずれだった。

本編よりも興味深かったのは、陶片室。それこそ縄文土器からアジア各地の陶片が自由に見られる仕組みなのだ。
陶片ということで完成品と違い、どこか気楽に眺められるのがいいのかもしれない。また、純粋な美術というより、
科学の目での観察に切り替わるのも面白い。土器が土師器・須恵器へと進化し、釉薬を使った陶磁器となる。
考えてみればその変化はけっこう劇的なものがあるのだが、あまりきちんと勉強してこなかったように思う。
そして海外との交易で長らく大人気だった中国製に対し、伊万里がヨーロッパに渡るようになったり、
鍋島藩直営の焼き物が献上品として生産されたりと、政治や経済との関わりが見えて楽しませてもらった。

あ、ルオーは嫌い。根暗・ヘタウマ・宗教画と、苦手の三冠王ですわ。



2017.7.7 (Fri.)

将棋ブームなようで。世間では藤井四段と「ひふみん」こと加藤一二三九段が人気の双璧となっているが(あと勝負メシ)、
もちろんお二人とも本当にすごいんだけど、僕としてはどちらかというと対戦相手やその周りの方に興味がある。
いろんな棋士たちのいろんなエピソードにいっぱい触れられるのが楽しい。このブームをほっこりと眺めております。

もともとのきっかけは電王戦の時期に遡る。マサルに誘われてニコニコ超会議まで行ったもんね(→2014.4.27)。
(その前年には天童に行って天童駅に併設されている天童市将棋資料館にも行っているもんね(→2013.5.12)。)
マサルも僕も将棋はできないんだけど(僕は金将と銀将の動きがいまだに覚えられない。成りとかもう無理だ)、
結局は棋士が面白いのだ。もう皆さん個性派すぎて。キャラが濃すぎて。そこをマサルと面白がっていたわけだ。
それ以来ちょこちょこと知識を仕入れていたので、どんな棋士がどんなふうに面白いかはそれなりに知っているのだ。

しかしこうして藤井四段ブームが起きたりひふみんブームが起きたりすると、マサルの先見の明に脱帽せざるをえない。
僕からすると完全に、時代がやっとマサルに追いついたって感じなのよ。棋士が個性的で面白いのは当然でしょ、と。
猛烈に頭のいい人が意図したり意図しなかったりで変なことをやっていたり常人離れした凄みを見せつけたり。
しかし根底には当然、面白さ満載の将棋という完成された競技がある。やはり頭脳ゲームは高度なスポーツなのだ。
だからいちばん面白いのは試合そのものなのである。僕もブームに乗っかって、いつか将棋を観戦したいと思っております。
サッカー観戦もいいけど、将棋観戦もいいよね。そうやって楽しめる要素がどんどん増えていくのが幸せってことよ。



2017.7.5 (Wed.)

究極的には、「何を教えるか」でもなく、「どう教えるか」でもなく、「誰が教えるか」だと思うんですよ。
そういう人に私はなりたいわけでね。演劇と同じように、時間と空間を共有するliveを極めたいものです。



2017.7.1 (Sat.)

主に部活のせいでなかなか週末が自由にならないのだが、どうにか隙を見て美術鑑賞の時間を確保する。
世田谷美術館でやっている『エリック・カール展 The Art of Eric Carle』が明日までなので、意地で行ってきた。

9時半までは用賀の世田谷ビジネススクエア内にあるカフェでこないだの旅行の写真を整理して過ごす。
そうして開館時刻の10時よりちょっと早めに着くように雨の砧公園を突っ切ったのだが、すでにすごい行列。
後で知ったのだが、世田谷美術館はJリーグのQRチケットと同じような要領でチケットの発券手続きができるみたい。
ストレートに入館を待つ列に並ぶみなさんを横目に見つつ、チケット販売の列に並ぶのであった。うーん情報弱者。
客層は圧倒的に小さい子どもを連れている人々で、どうやら絵本を読む感覚で展示を見ていっているようだ。
純粋に美術鑑賞したいこっちとしては、「だったら絵本でいいじゃんー」と言いたい。混雑を助長しないでよ……と。
しかし土日に来ておいてそれはワガママな欲望でしかない。会期終了間際ギリギリに来る方が悪いのだ。トホホ。

親子連れの長い列の隙をうかがい、じっくり見られるところからヒョイヒョイ見てまわったのだが、非常に面白い。
今回じっくり見てなるほどと思ったのだが、エリック=カールは貼り絵の人なのだ。レオ=レオニがちぎるのに対し、
エリック=カールはトレペ(トレーシングペーパー)に色を塗ったものを切って貼っていくスタイルである。
その切ったパーツのつくり方がまず上手い。動物の体節や水の流れなどが的確に表現されている。動きに忠実なのだ。
そして何より、原色の鮮やかさを活かしながらも少しずらして自分の色にしていく、その色彩感覚が抜群にいい。
この2つのオリジナリティから独自の作品を生み出していくわけだ。少しばかりゲスな感想で申し訳ないのだが、
「なるほどこれはお金になるわ!」と思いながら作品を見ていった。絶対に売れる作家だな、ということ。
エリック=カールはブラウエライターあたりのドイツの美術運動(まあつまりバウハウス一歩手前って感じ)から、
かなり大きな影響を受けたそうだ。そこにアメリカの明るさを組み合わせて作風を成立させたということだろう。
どこか暗ったい美術運動からスタートし、絵本という分野で「売れる」自分の居場所を確立した感性に脱帽である。

ミュージアムショップにはこれといった品物はなかった。そもそもが、特設の売り場じたいがわりと小規模。
世田谷美術館はそっちでガッポリ稼ぐつもりはないみたい。せっかくのエリック=カールなのにもったいない。


diary 2017.6.

diary 2017

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