diary 2019.3.

diary 2019.4.


2019.3.31 (Sun.)

「キンプリ」って「キ○タマ、プリっと出ちゃった」の略と一緒だよな! さすがジャニーさんだな!


2019.3.30 (Sat.)

なかなか日記で扱う機会がなかったが、こんな落描きがあったのでご紹介をば。

なかなか愛されてんなあ、オレ。


2019.3.29 (Fri.)

こないだサッカー部員たちを誘ってJリーグ観戦したこともあり、興味深い話になったのでちょっとメモしておく。

きっかけは松本山雅のサッカーについて。僕なんかはもともと山雅=ロングボール放り込み戦法という印象が強く、
(キック・アンド・ラッシュな松本山雅の過去ログ →2010.4.42011.4.302013.8.42016.4.9、例外 →2015.9.12
正直そういうサッカーに対しては一段低く見てしまうところがあるのだ。監督の戦略で戦っていないなあ、と。
しかしサッカー部員の一人は、「選手個人の力で打開するサッカーだから、そっちの方がいい」と言ってのける。
なるほどこれは目から鱗だった。当たり前だが、監督目線と選手目線では見えている光景が違うのである。
選手経験のない僕はよけいにそうで、選手の能力を「これくらい」と見積もって想像したうえで戦い方を考える。
ところが選手目線だと、その見積もり自体が固定観念というわけなのだ。状況に応じて実際にやるのが現実、と。
だから細かい約束事を設定されるより、そういうものに縛られない状態でやれるサッカーの方がありがたいと言う。

まあ、考え方はいろいろである。いかにもドリブル大好きな発展途上の中学生らしい意見と見ることはできる。
しかしそういった個での判断がスポーツの醍醐味であるのもまた事実だ。僕個人の認識としては、究極的には、
個の力を頼りに相手にぶつかっていく選手目線のサッカーは、より強い相手には絶対に勝てないと考えている。
何度も何度もチャレンジを試みてはつぶされて、それを繰り返しているうちにタイムアップとなるだろう。
おそらく理想的なのは、そんな中学生の引き出しを増やす指導をすることだ。監督の見積もりで戦うのではなく、
プレーの選択肢を増やして戦う準備を練習に落とし込んでやることだろう。特に中学生年代はそうなるはずだ。
(松本山雅のサッカーは、点を取る確率が最も高いパターンに持ち込む方法を追求したシステマティックな結果だ。
 それが「勝たせる監督」ではあっても「育てる監督」ではない、という表現として出たわけだが。→2016.4.9

でも自分の好きなプレーしかやらない中学生がほとんどで、その結果として勝てればいいやと思っていることが多い。
勝つために相手を観察し、時間を考えてゲーム全体の流れを構築する、という発想ができる中学生なんてほぼ皆無。
何をどう言っても、そこを意識させることができないんだよなあ。自分の得意なプレーが決まるから楽しい、で終わり。
中学生なんてそんなもんなんだけどさ。僕としては、成長すること、その結果として勝つことを客観視してほしいのだが。


2019.3.28 (Thu.)

本日はサッカー部のお別れ試合なのであった。もちろん僕も参加したのだが、いいところがまったくなかった……。
ふだん練習に生徒と一緒に参加しているコーチはいいけど、そうでない僕の能力は落ちるばかりだ。当たり前だが。
日々の積み重ねの大切さを逆説的に突き付けられた感じですなあ。いや、それにしてもここまで力が落ちるかなあ……。


2019.3.27 (Wed.)

春休みである。平日だけど動ける。そんな貴重な機会に青春18きっぷを使って目指すのは、千葉県は白子なのだ。
もちろんメインターゲットは市役所なのだが、白子神社が位置的に狙えて、バスが日祝運休ということで決行である。
しかしながらそのまま素直に白子神社に向かうような僕ではない。上総国二宮・橘樹(たちばな)神社にリヴェンジだ。
というのも、前回参拝時にはお祭りの真っ最中で(→2018.10.7)、ふだんの境内の様子がわからなかったのである。
すでに御守は頂戴しているので、朝イチで境内の写真を撮っておこうというわけ。18きっぷならではの行動ですな。

  
L: 旧街道をまっすぐ行くと橘樹神社の境内に入っていく形。歴史ある神社ならではだ。  C: 道が神社の境内を避ける。
R: 橘樹神社の一の鳥居。まっすぐな参道に鳥居がずっと連続しているのがわかる。なかなかに壮観である。

  
L: 参道を行く。  C: 拝殿。いやあ、こんなにすっきり撮れるとは。  R: 前回とは反対側から本殿を覗き込む。

 かつての社号標をバラバラにして腰掛けられるようにしているとは。

これで気が済んだ。すっきりした気分で本納駅に戻ると、しばらく待ってから駅前にやってきたバスに乗り込む。
このバスで直接、白子神社まで乗り込もうというわけなのだ。厳密に言うと下車後に1kmほど歩くことになるが、
たいへんありがたいことにはかわりない。日祝運休ではあるが、たいへんありがたいことにはかわりない。
(でも後でよく考えたら、日祝運休なので土曜の便はあるわけだな。いやー、うっかりうっかり。)
白子中央公民館前まで揺られると、南白亀川を渡って白子神社の境内へとまわり込むように歩いていく。

  
L: 白子神社への入口。  C: こんな風景の中を歩いていく。右手が社叢。  R: 南白亀川近くまで戻って境内。

入口の看板に「白子大明神」とあったように、どこか神仏習合色を感じる神社である。境内の説明板を見るに、
白子大明神は妙見信仰としっかり結びついており、なるほどいかにも千葉県だと思う。創建は1048(永承3)年で、
白亀の上に白蛇が乗って流れてきたので神様として祀ったという話。なお、白子町の名はこの神社が由来となっている。
拝殿を横から見たら花頭窓(火灯窓)が3つ並んだデザインが施されており、寺のお堂を感じさせる形状で実に独特。
そして1762(宝暦12)年再建の本殿は、組物と彫刻が見事。いろんな要素が盛りだくさんな神社で面白い。

  
L: 境内はわりと開放的。  C: 拝殿。本体は仏教のお堂の印象がする。  R: 拝殿の側面。花頭窓(火灯窓)が興味深い。

白子神社の御守で面白かったのが、「美男美女御守」。本殿の裏、境内の北西端には末社の面足神社があるのだが、
そこに祀られている面足尊(おもたるのみこと)がたいへんなイケメンだったということで、それにちなむ御守なのだ。
そりゃもちろん頂戴しておきましたけどね。あとは有田焼ストラップの白蛇パクちゃん・白亀なばきちゃんも興味深い。

  
L: 本殿を覗き込む。  C: 横から見た本殿。組物と彫刻がすばらしい。こっちはしっかり神社建築なのが対照的でまた面白い。
R: 末社・面足神社(イケメンさま)。今さらだが顔が改善しますようにとお願いしておいた。ご利益を大いに期待したい。

帰りは途中にある白子町役場を撮影しておく。1980年竣工ということで、3階建てだがそれらしいスタイル。
敷地の南西には白子町青少年センター。ホールや図書室などがあるようで、こちらは1985年の竣工。

  
L: 白子町役場。  C: 敷地内に入って眺める。  R: 北側から眺める。車寄せ部分が意外と長い。

  
L: 北東から眺める側面と背面。  C: 背面。  R: 南東から見た背面。

  
L: 南から見た側面。  C: 内部の様子。1980年代だなあ。  R: 白子町青少年センター。

再びバスに乗り込むと茂原駅へ。ここからはひたすら青春18きっぷをかざして千葉県東岸を小刻みに動いていくのだ。
大網で東金線に乗り換えて東金駅で下車。東金市役所は以前も訪れたことがあるが(→2011.9.19)、天気が悪かった。
建物は端正なモダニズムであり、青空の下であらためて見てみたかったので再訪問したというわけである。

  
L: 東金市役所第一庁舎。樹齢350年の夫婦槇がお出迎え。向かって右が男槇、左が女槇。移植した際に当時の市長が命名。
C: 第一庁舎に近づいてみたところ。やはり細部が凝っていて、正しい昭和の証人という感じ。  R: 北から眺めたところ。

  
L: 第一庁舎の側面。  C: 少し南に行って第一庁舎と第二庁舎を一緒に眺める。  R: さらに南東から。

東金市役所は第一庁舎と別館が1965年の竣工で、僕は昭和30年代と予想していたがギリギリはずれなのであった。
裏にある第二庁舎は1992年の竣工。こちらは特に第一庁舎に合わせることのないデザインだが、やや白井晟一風かも。
いや、しっかり平成のオフィス建築なのだが、角を丸めてレンガ風味を持たせるところが若干それっぽいかなと。

  
L: 第二庁舎。こいつをしっかり建てたおかげで第一庁舎が現存しているわけです。  C: 南から見たところ。
R: 南西、敷地の外から眺めた第二庁舎の側面。この角度から見るとちょっと白井晟一っぽさを感じるってだけさ。

  
L: 西隣の東金中央公園にある小さな神社。細かいことはわからないが、なんとも面白いものである。
C: 別館。フロアマップによると現在は「サービス棟」と呼ぶようだ。  R: 北西から見た第一庁舎と別館。

  
L: あらためて第一庁舎に近づいてみる。  C: さっきと異なる角度で眺めるエントランス。  R: 中はこんな感じ。

存分に東金市役所を堪能すると、東金線をさらに行って成東へ。これまた再訪問となる山武市役所(→2011.12.17)だ。
1985年に成東町役場として竣工しており、2006年に合併によって山武市が誕生し、山武市役所となる。前も書いたな。

  
L: 山武市役所。  C: 敷地内に入って本館を撮影。  R: 本館の中に入ったところ。ふつうに役所である。

  
L: 南西に隣接する成東保健福祉センター。  C: その手前から見た車寄せ。  R: 作田川の橋から全体を見たところ。

  
L: 成東保健福祉センターを横から眺める(南側)。  C: 西から見た背面。  R: 山武市役所の背面をクローズアップ。

  
L: 正面奥が山武市役所新館で、右側が本館の背面。  C: 本館の背面。  R: 新館側から見た本館の背面。

  
L: 北から見たところ。目の前にあるのが新館なのだが、実に簡素。かなりプレハブ感がある。
C: 北にあるのぎくプラザから見た側面。  R: 東から見たところ。これにて一周完了である。

 山武市成東文化会館のぎくプラザ。山武市は『野菊の墓』で知られる伊藤左千夫の出身地。

これで山武市役所にもリヴェンジができた。でも次の市役所は初訪問なのだ。総武本線で八日市場まで揺られる。
改札を抜けると、線路と並走する国道126号線をひたすら東へ。ロードサイド店が点在するまっすぐな道で、実に郊外。
九十九里平野の北端をなぞるように歩いているわけだが、その広大さに閉口する。千葉といっても多種多様だなあと思う。

 九十九里平野の広大さを実感しながら国道126号線を行く。

15分ほどで匝瑳市役所に到着。駐車場のために少し奥まった位置にあり、隣の八日市場ドームの方がランドマークだ。
しかし建物じたいはかなり個性的。高さがないので遠目では目立たないが、見るからに細部にこだわりを感じさせる。
調べてみたところ、設計者は津山文化センター(→2011.2.192014.7.20)がDOCOMOMO入りした川島甲士とのこと。
1974年に八日市場市役所として竣工しており、2006年の合併でそのまま匝瑳市役所となったわけだ。

  
L: 匝瑳市役所。八日市場市は野栄町と合併したことで匝瑳市に。「匝瑳(そうさ)」は郡名を採ったもの。
C: 南西に入り込んで眺めたところ。これはまた個性的。屋根を出っ張らせるのは確かに川島甲士らしいのかもしれんが。
R: 西から見たエントランス。桁の幅がそのままガラスで囲まれたホール的空間となっているようだ。

  
L: そのまま左に視線を移すと議会棟。45°の角度をつけて接続することで独特なリズムが生まれている。
C: 振り返るとこれまた45°の角度で柱がくっついている。フロアマップによるとこちらの中身は階段とトイレ。
R: 北西から距離をとって眺める。こちらからだと手前にある議会棟は、この角度から見るとずいぶん無骨である。

  
L: そのまま北にまわり込んで眺める。  C: 真北から見たところ。  R: 議会棟の背面はこれまたかなり印象が変わる。

  
L: 近づいてみる。  C: 東から見た議会棟の背面。  R: 北東から見たところ。こちらの手前にはやはり45°の角度で食堂。

  
L: もう少し東に寄って見たところ。  C: 東側の側面。  R: 南東から見たところ。こっちは1階が飛び出している。

  
L: 南から見たが、高さがないので駐車場の車の方が目立っているの図。  C: 近づいてみたの図。
R: 中に入ってみた。右手に行政資料コーナー。奥の方はあまりすっきりしていないようだ。

1970年代であれば3階建てとなるとふつう町役場のスケールなのだが、八日市場市は広大な敷地を用意して、
大胆な平面プランというこだわりの市役所を建ててみせた。これは九十九里平野ならではの贅沢さであると思う。
匝瑳市が今後この建物をどれだけ大切にしていくかはわからないが、できるだけ長く使っていってほしいものだ。

 
L: 匝瑳市役所の東に隣接する八日市場ドーム。要は体育館なのだがコンサートも可能とのこと。
R: 市民ふれあいセンター。ホールやトレーニングルーム、会議室などに入浴施設まで付いている。

だいぶ日が傾いてきたが、ここまで来たらもう一丁。総武本線をさらに東へ行って、旭で下車。
九十九里平野の東端を押さえているのが旭市で、本日のラストはこちらの市役所で締めようというわけだ。

 旭駅。やっぱり犬吠埼に近くなると日が傾くのが早いのかね。

旭市役所は駅からしばらく西へ行ったところにある。駅から市役所へ向かう周辺は商店街の匂いが少し残っており、
どこか懐かしい感触がする。しかし国道126号線沿いのロードサイド店に軒並みやられてしまったのは確かで、
夕暮れの雰囲気とともになんとも切ない気持ちにさせられる。そんなこんなでトボトボ歩いているうちに到着。

  
L: 旭市役所。実に端正なモダニズム庁舎で感動してしまう。  C: 近づいてエントランス込みで撮影。  R: エントランス。

すばらしいことに庁舎の手前にあるオープンスペースというか庭の真ん中に「旭市 庁舎新築記念碑」という石碑があり、
それによると1964年の竣工。記念碑の裏面には建設事業費から設計者に施工者、あとは寄付者の名前も彫られている。
後半は工事関係者ということで市長をはじめとして関係した議員の名前がずらり。最後は助役と収入役で締めている。
このようなデータが誇らしげに残されているのが偉い。なお、設計者は富家建築設計事務所。気になって調べてみたら、
戦後の京都を中心に活躍した富家宏泰の事務所とのこと。今も京都には彼の端正なモダニズムが多く残っているようだ。

  
L: 道路を挟んで正面から見たところ。千葉県議会議員選挙のポスター掲示板の奥にある黒い石碑が旭市庁舎新築記念碑。
C: さっきと反対側から見たところ。いかにも正しい1960年代庁舎建築である。  R: 敷地の外に出て撮ってみた。

「旭」という名前は明治の町村制施行によって生まれたもので、1954年に市制施行しても2005年に合併しても、
一貫してその名を残している。由来は、「旭将軍」源(木曾)義仲の子孫で戦国武将の木曾義昌を追悼した歌、
「信濃より いつる旭をしたひきて 東の国にあととどめけむ」によるそうだ。木曾義昌は木曽谷を守って戦い続けたが、
1590(天正18)年の家康の関東移封に従って今の旭市に移封となった。秀吉が木曽谷の森林資源を狙ったとか。
単純に銚子に次いで東にあることから「旭」なのかと思っていたが、意外ときっちりとした理由をつけていた。

  
L: 交差点を挟んで南西から眺めたところ。  C: 西側の側面。  R: 裏にまわってみる。北西から見たところ。

「旭」というわりには、すっかり夕日に染まった市役所撮影となってしまった。せっかくの端正な昭和の庁舎なのに。
しかしそれだけにやっぱり新築移転の話が具体化しており、2年後に新たな市役所が竣工する予定となっている。
おそらく今のこの建物を撮影するのは、これが最初で最後となるだろう。後悔のないようにシャッターを切っていく。

  
L: 敷地の北西端にある建物群。左はよくわからないが、右奥は第2分館。
C: 北東から見た背面。  R: 川を挟んで東側の側面を中心に眺める。

中にもお邪魔してみたが、昭和の庁舎のわりには開放感がある。3階建てであまり余裕がないはずなのだが、
吹抜としている一角があり、小さいながらもそこが行政資料を閲覧できるスペースとして活用されていた。
市名へのこだわり、役所へのこだわり。どうやら旭市というところは非常にレヴェルの高い街のようだ。

  
L: 中に入ってみたところ。3階建てでコンパクトなわりにはゆったりとした空間になっている。天井は低いけどね。
C: 奥まで行ってエントランス側を振り返る。  R: 吹抜となっているこの一角は行政資料が置かれた開放スペース。

帰りに市役所と同様に端正なモダニズム建築を見かけたので入ってみた。駅からまっすぐ南に行ったところにある、
旭市民会館だ。「旭市図書館」という看板が掲げられており、ホールと両方の機能を持っているようだ。

  
L: 旭市民会館。西から見た正面。  C: 北西に寄って眺めたところ。  R: さらに北へ。側面はこんな感じ。モダン。

入口のところに設計者と施工者の名前を記した銘板があった。旭市はちゃんとしているなあ、とあらためて思う。
設計者は市役所と同じ富家建築設計事務所で、こちらは1966年の竣工だった。エントランスの吹抜が時代のわりに豪快だ。

  
L: 中に入ってみた。このまま奥へ行くと図書館。  C: 図書館入口を背にして階段を見たところ。
R: エントランスは吹抜となっており、それを階段でまわって2階へ行くのがなかなかかっこいい。いい建物だね!

東金・匝瑳(八日市場)・旭と、楽しい市役所がいっぱい見られて満足である。余韻に浸りつつ、のんびり帰る。


2019.3.26 (Tue.)

毎度おなじみとなった池袋にて練習試合。3年生が引退して以来8人で戦っているわがサッカー部だが(→2018.10.6)、
そこに転入生がやってきて9人に(→2019.2.28)。そして今回はその3年生(卒業生)たちが参加してくれたので、
11人でサッカーができる! 当たり前であることのなんとありがたいことか。部員たちもいつも以上に元気である。

しかし久々の11人だと混み合ってなかなか思うようにプレーできないのであった。いやいや、これは大誤算である。
われわれ、知らないうちに8人でやるサッカーに順応してしまっていたのだ。なるほど、本来11人のところを8人だから、
スペースを空けてプレーする習慣はできていたわけだ。でもそれが3人多くなったことで、簡単に破綻してしまった。
横から見てそれを口で指摘するのは簡単だが、現場で実際にプレーしている生徒たちが自力で修正するのは難しい。
こういう「感覚の違い」をすぐ言語化してプレーに反映させるのもまた、サッカー選手としての実力なのだと思う。
頭でわかっていても体が思うように動かないのは本当によくあること。そのズレが修正できずに時間が過ぎていく。
なんとか対処しようとする生徒もいるけど、ドリブルのことしか考えていない中学生にとっては到底別次元の話である。
結局このギャップを解決できないままで終わってしまった。ふだんから頭を使ってサッカーしないとダメってことか。


2019.3.25 (Mon.)

今年度の通常営業が終了。お疲れ様でした。僕の心はもう春休みの遠出への期待でいっぱいである。
いや、すでにこの3月に日帰りでさんざんあちこちに行っているが、休みの開放感は格別なのだ。動くぞおおぅ!


2019.3.24 (Sun.)

青春18きっぷを使っての市役所と御守の日帰り旅、本日は大田原市役所と福島の一宮へのリヴェンジである。

まず朝イチで目指すのは、那須神社。かつては金丸八幡宮という名前だったが、1873(明治6)年に現社名に改称。
那須与一が屋島の戦いで扇の的を射落とす際に「南無八幡大菩薩……」と念じたのはこちらの神社の祭神だとも。
神社の参道と国道461号の間には道の駅那須与一の郷があり、朝早いのに多くの客で賑わっているのであった。

  
L: 那須神社の参道入口。非常に長い。流鏑馬をやるにはいいのだろう。  C: 参道を行く。  R: 境内に入る。

とても長い参道を通って境内に入ると、色鮮やかな楼門に圧倒される。1642(寛永19)年の築だそうで、
黒羽藩主・大関高増によって建てられた。見るからに、日光東照宮(→2008.12.142014.10.12015.6.29)でおなじみの、
家光好みの価値観が反映された楼門である。時期も時期だし同じ下野国だし、そうなるものなんだろうと思う。

  
L: 那須神社の楼門。2014年に国の重要文化財に指定された。  C: 楼門をくぐって背面を眺める。やはり見事である。
R: 拝殿。楼門と比べるとちょっと雑。なお、手前の石灯籠も1642(寛永19)年に大関高増が寄進。附指定で国の重要文化財。

那須神社は2014年に楼門と本殿が国の重要文化財に指定された。拝殿は違うようで、確かに少し雑な印象を受ける。
しかし非常に残念なのは、その拝殿の後ろにある透塀の屋根が壊れてしまっていたことである。状態はかなり悪い。
湿度が高そうな場所で、それだけ社殿も傷みやすいのだろう。修復する資金がこちらにまでまわらないということか。

  
L: 本殿を囲む透塀の屋根が壊れていた。ここまでひどい傷み方をしているのは珍しい。なんとかならないものだろうか。
C: 壊れている隙間から本殿を覗き込む。1641(寛永18)年の築で、こちらも大関高増が建てた。  R: 反対側から見た本殿。

那須神社には那須与一が祀られているわけではないが、やはり弓矢をあしらったデザインの御守を期待してしまう。
ワクワクしながら授与所を訪れるが、特別に意識している感じはないのであった。ちょっともったいないかなあ。

 うーん、那須野が原って感じだ。

大田原の中心市街地へと戻るが、途中の蛇尾(さび)川のすぐ脇にある大田原神社に参拝する。
創建当初は温泉神社という名前だったが、大田原周辺には温泉神社がウジャウジャあり(本当にウジャウジャ)、
1545(天文14)年に大田原資清が大田原城を築城する際に城の鎮守として遷座させたものが起源とのこと。
現在は国道461号を挟んだ南側が大田原城址の龍城公園、北側が龍頭公園と大田原神社となっている。

  
L: 大田原神社への入口。  C: 坂を上がると龍頭公園。  R: 西側にある石段で横参道的に高台の境内に行くこともできる。

  
L: 龍頭公園を抜ける、もしくは西の石段を上りきるとこの光景。  C: 鳥居をくぐって左を向くと参道が延びている。
R: ここからはまっすぐだが、拝殿までは少し距離がある。木々が多いが明るく、どことなく厳かな雰囲気である。

  
L: 拝殿向かって左側。建築の神様として聖徳太子を祀っている。  C: 拝殿。  R: 近づいてみたところ。

  
L: 本殿横の林。なんとなく城跡っぽい。大田原城址の龍城公園は国道を挟んだ南側だが、こちらも城の一部だったのだろう。
C: 本殿。  R: 奥にある境内社。屋根の下で並んでいるのがなかなか独特。三峯神社がある関係で狛「狼」がいる。

 境内から眺める蛇尾川の左岸。

無事に御守を頂戴し、本格的に大田原の市街地へ。城下町らしく寺があったり昔ながらの商店が並んでいたりと、
どこか懐かしい雰囲気が漂う。しかし大田原市役所を目指して北西へと針路をとると、道幅が一気に広がる。
もともとが那須野が原の荒野だったからか、今でも豪快に道路を通すことに迷いがない感じを受ける。
西那須野駅から延びる道(旧国道400号)は、商店街とロードサイド店の中間のような独特の感触がして興味深い。

  
L: 大田原の市街地。寺の看板と商店が共存しており、城下町としての歴史を大いに感じさせる。
C: 中央多目的公園付近。いかにも最近になって開通した道である。  R: 西那須野駅から延びる旧国道400号。

城下町の外側、西那須野駅へと向かうポイントに大田原市役所は建っている。できたてのホヤホヤどころか、
背面である北側はまだ敷地の整備が終わっていない。設計は久米設計で、昨年竣工して今年1月4日から業務を開始。
旧市役所が東日本大震災で被災したので新築したが、那須与一を意識して弓のような弧を描くファサードとしたらしい。

  
L: 大田原市役所。まずは南東側から見たところ。  C: 正面、南側から眺める。  R: 少し西に寄って見る。

  
L: 南西から見た側面。手前がまだ工事中。  C: 少し北寄りの西から。  R: 北から見た背面。しっかり工事中である。

  
L: 北東から見た側面と背面。  C: 東から見た側面。住宅がチラホラ。  R: 南東から。これで一周完了である。

  
L: 休日も1階は開放している模様。窓口(色分けされている)が2階と3階に集められているのは、ちょっと珍しい。
C: 1階南側。手前部分は4月にカフェがオープンする予定とのこと。  R: 奥には会議室・市民協働ホールが並んでいる。

  
L: 1階東側。北にも南にも入口がある。  C: 「大田原市の思い出にご自由に撮影下さい」とのことだが、うーん……。
R: 振り返ってエスカレーター。これで2階と3階の窓口へと行くわけだ。すぐ脇に総合案内があるのは落ち着かないかな。

 
L: 南別館。  R: 市役所のすぐ手前にある大田原市総合文化会館は1969年のオープン。ちなみに旧市役所は1963年竣工。

これで大田原市はいちおう完了とする。しかしこのまま素直に西那須野駅に戻る私ではない。那須乃木神社に参拝する。
そう、下関の長府(→2007.11.42015.11.21)や東京の港区(→2016.8.4)だけでなく、那須にも乃木神社があるのだ。
那須は乃木希典が日清戦争後に暮らしていた場所なのだが、なんだかんだで人気のある人だったんだなあと思う。

  
L: 参道が長い。先ほどの旧国道400号から800mほどまっすぐ延びている。乃木通りという名前がついているようだ。
C: 神社の参道らしくなってきたけどまだまだ続く。  R: 境内入口に到着。このためにレンタサイクルを借りて正解だった。

  
L: 広々とした境内に神明造は、いかにも明治以降の価値観だなあと思う。乃木の殉死から4年後、1916(大正5)年の創建。
C: 左を向けば乃木希典像。奥は授与所で、こちらもしっかり平入。  R: 拝殿。港区と同じように威厳重視の神明スタイル。

  
L: 本殿を覗き込む。  C: 拝殿の前にある乃木希典スタンドポップ。記念撮影しろということか。
R: 授与所。非常にカラフルに御守のラインナップを紹介している。やる気があるのはいいことだ。

参拝を終えるとそのまま境内の奥へと進んでいく。神社とその東側は乃木公園として整備されており、
乃木が自ら設計した別邸がある。ただし1990年に焼失してしまい、現在の建物は1993年に復元されたものだ。

  
L: 那須乃木神社から奥へと進み、林の中を行く。  C: 静子夫人の名に由来する静沼。うーん、やはり微妙な気分になる……。
R: 乃木希典那須野旧宅。乃木は休職するたび、こちらで晴耕雨読な生活をしていたとのこと。村人とも親しく交流したそうな。

  
L: 旧宅の東側にある納屋。  C: 旧宅の背面。  R: 角度を変えて同じく旧宅背面。神社から来るとまずこの光景となる。

  
L: 農具舎。  C: 愛馬殿号愛育厩舎。  R: 石林文庫。栃木県だし、大谷石ですかな。

ひととおりまわると、東北本線の北側に出る。せっかく那須に来たのだから温泉に浸かっておきたいではないか。
ありがたいことに長寿の湯という那須塩原市営の入浴施設があるのでお邪魔する。地元住民で賑わっており、
その中に混じってのんびりと湯を楽しむのであった。いい気分で西那須野駅に戻って自転車を返却し、さらに北へ。
さて今回は西那須野の平地にある温泉に浸かったが、高原の方の那須温泉にもいつか行ってみないといかんなあと思う。
さらに塩原温泉もあるんだよなあ。温泉神社がウジャウジャあるように、「那須の温泉」といってもいろいろなのだ。
いっぺん、きちんとそれらの違いを体感しないといけない。市役所がないので行かないでいたが、もったいなかったか。

黒磯で乗り換えてさらに北へと進み、福島県に入る。今回もうひとつの目的は福島の一宮へのリヴェンジだが、
その前にリヴェンジしておきたい場所がある。白河の南湖神社である。5年前に訪れたのだが(→2014.12.23)、
御守を頂戴していないのだ。種類は多かったけど「ふつう」のものがなく、結局頂戴していなかったのである。

  
L: というわけで再び南湖にやってきた。  C: 前回は冬だったが、松が多いので春でも印象はそんなに変わらない。
R: 湖の東岸。南湖公園の石碑があり、ここが入口という感じか。右手に飲食店というか休憩所というか、そんな店が並ぶ。

新白河駅からバスの白棚線に乗り、南湖公園で下車すると南湖を東からまわり込んで神社の境内へ。
5年前とまったく変わらないなあと思いつつ参道を進み、拝殿の前へ。ちったぁ賢くなりますようにと願う。

  
L: 境内入口には松平定信像。5年前からぜんぜん変わらない。  C: 旧西白河郡役所。カフェは本日お休みの模様。
R: 参道を行く。よく考えると、両側にびっしりとおみくじが結ばれている光景はなかなか独特なのでは。

さて御守はやっぱり種類が多い。ひとつひとつ丁寧にビニールの中に入れられていて、実に几帳面な神社である。
まるで祭神である定信の真面目さを思わせるではないか。どうしても堅苦しい改革のイメージが先行する人物だが、
実際には浮世絵大好きなど頭の柔らかい面も多々あったようで。その辺のエピソードを紹介してくれるとよかったなあ。

  
L: 拝殿。久松松平家の「星梅鉢」(久松氏は菅原道真の子孫)と譜代大名ゆえの「三つ葉葵」の両方を神紋としている。
C: 本殿。  R: 翠楽園前の松平定信像。白河市民は定信大好きだな! まあ晩年に桑名(→2018.12.30)に行っちゃうけど。

参拝を終え、白棚線を終点まで乗り磐城棚倉駅へ。馬場の都都古和氣神社(→2013.8.252014.12.23)で御守チェック。
前回同様、交通安全をメインにした紅白の房と鈴に吸盤もついたスタイルなのであった。うむ、平常運転だなあ。

  
L: 馬場の都都古和氣神社の境内入口。今回は車がなかったのでスムーズに撮影できた。
C: 隋神門。  R: やっぱり湿り気の強い境内を進んでいくと、塀に囲まれた社殿に至る。

  
L: 拝殿。左隣にくっついているのは神饌殿ですかな。  C: 拝殿をクローズアップ。
R: 本殿。佐竹義宣が1594(文禄3)年に再建したとのことで、国指定重要文化財となっている。

さて、もうひとつの「つつこわけじんじゃ」である八槻の都都古別神社にも、当然参拝しなければなるまい。
しかしそこは水郡線、本数が少ないのでスムーズにいかない。まあ歩けない距離じゃないし、健康にいいだろうし、
のんびりぷらぷら行きますか!と南へ。いい天気だなァと呆けつつ田んぼの中を歩くこと40分ほどで到着。

 いい天気だなァ

八槻の都都古別神社は2回目になる(→2013.8.25)。16時近くの到着だったので授与所が閉まるギリギリで、
どうにか御守を確保できた。デザインは前回と変わらないが、色違いなどを押さえることができて満足である。

  
L: 八槻の都都古別神社の境内入口。  C: 鳥居をくぐるとこの光景。  R: 隋神門。「奥州一宮」の扁額がデカい。

  
L: 隋神門を横から眺める。徹底した朱塗りも見事だが、きっちり塗り分けられた彫刻もまたすばらしい。
C: 拝殿。やっぱり左隣は神饌殿ですかな。  R: 拝殿。隋神門も拝殿も馬場のものと少し似ているのが面白い。

  
L: 本殿を覗き込む。享保年間の再建とのこと。  C: 外から見た本殿。  R: 彫刻をクローズアップ。やはり見事である。

参拝を終えると近津駅まで行き、水郡線をのんびり水戸まで揺られる。今回も充実した旅になってよかった。
水戸駅にサザコーヒーの店舗があったので1杯頂戴する。サザコーヒーのルーツは勝田(現・ひたちなか市)の映画館で、
茨城県を中心に展開している。東京への進出も果たしており、なんだかすごく勢いがあると評判で気になっていたのだ。
ちなみに「サザ」とは、臨済宗でよく出てくる言葉「且座喫茶(=且(しばら)く坐して茶を喫せよ)」に由来。
なるほど栄西は『喫茶養生記』の人だもんな。どうせならこだわりの1杯ということで、徳川将軍珈琲を注文。

 サザコーヒーの徳川将軍珈琲。

最初のアタックというか、コーヒーらしい一発は確かにある。パンチがほかのコーヒーより早く来る感じはある。
そんでもって鼻の奥に残る香りもある。ミルクとの相性も抜群とのことなので、後半はミルクと砂糖を半分入れてみる。
砂糖はそこまで効かない感じで、乳脂肪分の上にコーヒーらしい苦味が表面に乗る印象。以上、それらしく書いてみた。
コーヒーこだわって飲んでるぜ感は大いに味わえるし、そこの付加価値をものすごく追求しているよねって話かな。
それゆえか、自社愛が強すぎるというか、いろいろこだわりの強さが露わで、正直ついていけねえぜ感もある。
「且座喫茶」を持ってくるセンスは好きだが、「且座」というには気合いを感じさせすぎかな。ライト層としては引く。

まあとにかく楽しい週末でございました。明日を乗り越えれば春休みである。いい前哨戦なのであった。


2019.3.23 (Sat.)

横浜FC×FC岐阜であります。大木監督率いる岐阜が三ツ沢に来るということで、観戦しないわけにはいくまい。
で、せっかくなので、わがサッカー部員たちを誘って観戦ツアーを企画したら、全員参加なのであった。偉い偉い。
ちなみにサッカー部で観戦ツアーを企画するのは8年ぶりだが(→2011.11.27)、目的はやっぱり一緒なのだ。
アウェイである岐阜寄りのバックスタンド前列に陣取ると、生徒たちはピッチがこんなに近いのか、と目を丸くする。
そのうちにウォーミングアップが始まる。ここをしっかりと見ておこう、と生徒たちと練習の様子をじっくり観察。

 
L: 三ツ沢のバックスタンドはピッチが近くていいなあ! 生徒たちはあまりの近さに驚いていたのであった。
R: 岐阜のゴール裏。「せんせー、なんでMr.マリックがいるんですかー?」「岐阜出身だからだよー」

運がいいことに、横浜FCはカズが先発。それだけでなく、レドミ(レアンドロ ドミンゲス)に伊野波に松井大輔もいる。
ちょっと前までJ1でプレーしていたビッグネームばっかりで、それを目の前で見られる幸せというのは確かにあると思う。
サッカーでは平均年齢の高いチームは批判に晒されがちだが、ヴェテランでも技術が衰えることはあまりないので、
近くでそれをじっくり見られるのはかなり魅力的なことだと思う。三ツ沢を本拠地とする横浜FCの経営戦略として、
悪くない判断だと思うのだが。特にサッカーをやっている小中学生には、ものすごくプラスになる環境だと思う。

さて試合が始まると、目の前には前線で踏ん張るカズ。部員たちはもうそれだけで大感動なのであった。よかったねえ。
ちなみにカズは積極的にコミュニケーションをとっており、おかげでチームの雰囲気は非常に良さそうである。
得点できればもちろん最高だが、全力でチャンスメイクをがんばっていて、味方を生かそうという意図が明確だ。
その献身性も部員にはいい勉強になる。わざわざ観戦ツアーを企画して本当によかったなあと、ほっと一安心。
さらには松井大輔が難しいボールをきれいに足元に収めてみせて、部員たちと一緒に顔を見合わせて大興奮する。
レドミもJリーグMVP経験者らしい絶対的な存在感を見せ、たいへん参考になるプレーが満載な試合なのであった。

  
L: 競り合うカズ。部員たちは目の前にカズがいることに興奮しまくり。まったく手を抜かない全力プレーはさすがである。
C: さらには目の前に松井。ローサも惚れるテクニックを間近で見られた。  R: 後半には今季から岐阜に加入した前田が登場。

岐阜も大木さん仕込みのパスサッカーが炸裂するとよかったのだが、横浜FCのチェックの早い守備がきっちり機能し、
岐阜の攻撃陣はいい形をぜんぜんつくれないのであった。守備でも相変わらずGKビクトルが微妙だったしなあ……。
横浜FCは後半早々、走りまわったカズからイバにスイッチ。すると岐阜の守備陣はイバに対応しきれなかった感じ。
カズのプレーに馴染んだところに高くて強いFWイバに替わったことで、岐阜は明らかに感覚にギャップが生まれていた。
特に横浜FCの追加点は、ボールを受けたイバが強引に行くと見せかけて頭脳的なトラップから冷静にパスを出し、
中央のFW松浦が落ち着いて決めてみせた。完全にイバに翻弄されていた格好である。岐阜はいいところがなかったなあ。

まあとりあえず、サッカー部顧問としては、ヴェテランたちの確かな技術をみんなでじっくり味わえてよかった。
部員たちはそれからしばらく興奮状態が続いていた。岐阜は2-0で負けちゃったけど、本当に刺激になるいい試合だった。


2019.3.22 (Fri.)

イチローが引退。わざわざ東京ドームでMLBの開幕戦かつ引退試合を開催したわけだが、残念ながらノーヒット。

それにしても、愛工大名電の鈴木一朗がここまでとんでもない選手になるとは想像ができなかった。
1991年春のセンバツで、わが長野県からは上田佳範のいる松商学園が出場し、初戦でぶつかったのが愛工大名電。
クラスの野球通からエースの鈴木一朗ってのが非常にいい選手と聞いていて、松商は毎度おなじみ1回戦負けとなるか、
みんな注目していたのだ。結果は上田が鈴木一朗をノーヒットに抑えて松商が勝利。そのまま決勝まで駆け上がった。
さすがに決勝戦はみんなで校内放送を聞いて松商を応援していたのだが、残念ながら準優勝に終わったのであった。
その後、上田はドラフト1位で日ハムに入団。鈴木一朗は4位でオリックスに入団し、すぐに野手に転向した。

しばらく名前を聞かなかったが、意外なところでニュースになった。オリックスは1994年のシーズンに仰木監督が就任。
するとオープン戦が終わってからパンチ佐藤とともに登録名を変更し、「イチロー」と名乗るというのである。
へえ、あの鈴木一朗がねえ……と思っていたら、そこから凄まじい活躍。日本初の年間200安打を達成してしまった。
かつて噂に聞いていた「非常にいい選手」は、日本プロ野球の常識を根底から覆す不世出のヒーローだったのだ。
イチローはそのまま7年連続首位打者になって、MLBに行って、そっちでもシーズン最多安打を記録してしまう。
かつて噂に聞いていた「非常にいい選手」は、MLBでも常識を根底から覆す不世出のヒーローなのであった。
なんだかんだでやはり、当時の常識をぶち破る「イチロー」という登録名が、常識にとらわれない活躍を生んだのだろう。

ここ最近は不調だったとはいえ、ずーっと活躍していて当たり前の選手だったので、引退となると喪失感がものすごい。
存在が大きくなりすぎてしまって次の仕事がどうなるのかぜんぜん見えないが、きっと賢くふるまうのだろう。
ほかのプロ野球OBとは違った形で活躍していくんだろうなあと思う。現役時代と同じくらいの伝説を期待しております。


2019.3.21 (Thu.)

こないだ房総半島に行ったばかりだというのに(→2019.3.10)、また房総である。3月は青春18きっぷの季節だからね、
これはしょうがないの。近くて遠い房総半島、青春18きっぷで日帰りするにはちょうどいい塩梅なのである。
残念ながら天気はまったくよろしくないが、本日は基本的に安房国の御守を確認するための旅なので問題ないのだ。

館山駅に到着したのが9時半すぎ。中村屋でおやつ用のあんぱんを確保すると、洲崎神社方面のバスに乗り込む。
洲崎神社は前にも訪れたことはあるが(→2013.3.23)、当時は参拝だけが目的で御守をきちんと確認していなかった。
正直あまり期待できないかなと思うのだが、もし御守があったら一宮だから押さえなければならないのである。

  
L: というわけで洲崎神社に到着。  C: 足元は砂利というより貝殻。土地柄を感じるなあ。  R: 拝殿。

参拝すべく随神門を抜けようとしたら、御札と御守の案内が貼ってあった。洲崎神社に御守があったとは!
これはわざわざ来て正解だった。ビニールに入れた簡易的な印象のものだったが、これは本当にありがたい。
観賞用と保存用で2体頂戴してしまう私。いや、さすがは一宮なのだ。どうも失礼いたしました。

  
L: 境内社。前回よりはちょっとクローズアップした感じで。  C: 少し高いところから失礼して眺める本殿。立派である。
R: 随神門に貼られていた御札と御守の案内。御守の右上は安産で右下は学業。源頼朝関連のものがあれば面白かったのだが。

参拝を終えると、バスの時間までしばらく周辺を散策。雨なので今回は灯台をスルー。浜の鳥居から海側に出ると、
開けてなかなか気持ちのいい場所に出る。晴れていればよかったのになあ。いちばん浜の方には御神石が置いてある。
木の実に割れ目が入ったような形をしているが、これが「吽形」とのこと。東京湾の対岸、横須賀に安房口神社があり、
そちらに「阿形」の御神石が鎮座しているそうだ。それで狛犬のように東京湾の入口を守っているとのこと。面白い。

 
L: 浜の鳥居から海側に出るとこの光景。天気がよければいい眺めなんだろうけど。  R: 「吽形」の御神石。

洲崎神社からさらに南下して、安房自然村へ。こちらは不老山薬師温泉という温泉があるので浸かるのである。
昼メシに海鮮丼もいただく。天気が悪いので開き直ってのんびりとした旅を楽しむのだ。贅沢な休日ですなあ。

 安房自然村・不老山薬師温泉。超ローカルなのがまたよいではないか。

すっかりリラックスすると、バスの時間を見計らって近くの布良崎(めらさき)神社へ。
こちらの祭神は先日訪れた遠見岬神社と同じく天富命(→2019.3.10)。布良崎神社は安房神社の前殿(下社)とのこと。
規模は小さく御守はなかったが、きちんと参拝して周辺を散策。穏やかな地元の神社だが、なんとなく荘厳さを感じる。

  
L: 布良崎神社。国道410号からいったん海側にまわり込み境内に入る。  C: 800年ごろに祀られたという岩座。  R: 拝殿。

 本殿。布良崎神社の社殿は1908(明治41)年の築とのこと。

さて、布良崎神社から安房神社までは1.5kmほどだが、バスを駆使して別の場所へ行く。安房国二宮・洲宮神社だ。
二宮だし旧県社だしということでそれなりの規模かなと思っていたが、確かに境内は高低差でうまく演出しており、
ただの神社ではない雰囲気が強く漂う。しかしひと気はまったくなく、御守もないのであった。うーん、残念。

  
L: 洲宮神社の境内入口。  C: 境内に入るとこんな感じ。高低差をうまく使って権威を感じさせる。
R: 石段を上ったところ。イチョウの古木と拝殿。奥には境内社が並んでいるが、詳細は不明。

  
L: 拝殿を正面から眺める。  C: 角度を変えてみる。端正である。  R: 本殿。見事な神明造だ。

参拝を終えるとバスがやってきて、ようやく安房神社へ。もう3回目なので(→2012.7.262014.9.27)慣れたものだぜ。
前回の参拝では代表的な御守1体しか頂戴していなかったので、ほかにどんな種類があるかをチェックする。
安房神社は主祭神の天太玉命がご利益の守備範囲が非常に広く、さらに妃神の天比理刀咩命が良縁や安産を担当し、
相殿の忌部五部神もいろんな業種をやっているので、なかなか種類が膨大。あらためてチェックして正解だった。

  
L: 安房神社へ至る大神宮橋。まあここからが長いのだが。  C: 一の鳥居に到着。  R: 境内を行く。

  
L: 前回とは異なる角度で上の宮を眺める。  C: 下の宮を正面より眺める。  R: 下の宮の本殿。

以上をもちまして本日の安房国神社めぐりは終了。天気がよくないと上手く撮ろうという欲がなくなるので楽でいい。
もちろん毎回それでは困るのだが、こういうのんびりした旅の目的のときにはそれでもいいかな、とあらためて思う。


2019.3.20 (Wed.)

卒業式でした。今年の卒業生たちはいい意味でバカになれる感じが僕はけっこう好きだったので、ちょっとさみしい。

はっきり書くと問題だが、昨年度現任校にやってきて、各学年のカラーがそれぞれまったく違っているのが印象的だった。
優等生ではあるがそこを意識して小さくまとまっている3年生、成績的には劣等生だけど細かいことは気にしない2年生、
そして幼稚だけど無垢で可能性を感じる1年生。僕は1年生付き唯一の男性教員として日常生活を送っていったが、
全学年で英語を教えることと、また大量のサッカー部員を通して、全体を俯瞰できる立場で彼らの成長を見ていった。
外からの評価を気にしすぎる面はあったが卒のない3年生は下の学年から見れば純粋に尊敬できる先輩であったし、
元気でありながら着実に大人な面を身につける2年生も見本になる先輩で、1年生は本当にいい影響を受けたと思う。
2年生(つまり今年の卒業生)は特に、最高学年になってからメキメキ成長していって、一緒にいて面白かった。
卑屈にならないで自分にできることを一生懸命にやるってことは美しいことだなあ、と勉強させてもらった感じだ。

さあ、これでウチの学年がいよいよ最高学年になるわけだが、この2年間のいいとこ取りを見せつけることができるか。
こうして振り返ると、今年の卒業生たちは本当にいいモデルを示してくれたと思う。2年間、楽しい時間をありがとう。


2019.3.19 (Tue.)

卒業式の前日準備。2年生たちはその準備の中心になるということで、紅白幕を張ったり椅子を出したり大忙し。
でもこっちの指示以上に動いてくれて、とってもすばらしいのであった。さすがでございますな!


2019.3.18 (Mon.)

春は出会いと別れの季節ということで、職場でお世話になるのは今年度いっぱいの方からお菓子をいただいた。
そのお菓子の袋に源氏香の図が描かれていて、「これは懐かしい! そうだった、こんなのあったな!」と思い出す。

まず源氏香とは何かという話。香木の香りを楽しむ香道において、5種類の香りを聞き分ける組香という遊びがある。
この5種類の香りを右から左に5本の縦線を並べて表し、同じ香りだと思ったものの上部を横線でつなぐのである。
そうするとぜんぶで52種類の図形ができあがる( n個のものをグループで分ける方法はベル数Bnというらしい)。
これらの図形には『源氏物語』全54帖から、最初の「桐壺」と最後の「夢浮橋」を除いた名前がそれぞれ付けられている。
それが源氏香の図。デザイン性が非常に高く、家紋に使われているものもある。「初音」あたりは見たことあるはずだ。
個人的には、第1香と第5香だけが結ばれたものが「幻」となっているのが、非常にそれらしくてさすがだと思う。
で、僕はその源氏香の図を、小学生のときに誕生日プレゼントでもらった『記号の事典』で知っていたのだ。
(表意文字である漢字にはじまり記号が大好きだった僕は、定期的に『記号の事典』を眺めてニタニタしていたものよ。
 高校に入ると現代文で記号論に触れて「こんなの記号じゃねえだろバーカ」とキレたこともある。
 大学に入ってゼミを選ぶ際、師匠に「記号を研究できませんかね」と相談して「難しいね」と言われたこともある。
 まあとにかく、デザインの要素を大いに持ちつつ「意味」を表現するツールである記号が大好きだったのである。)

もらったお菓子の袋を眺めつつ、あらためて源氏香の図のデザインとしての完成度にうっとりするのであった。
図形としての面白さと美しさを兼ね備えているうえに、『源氏物語』から名前を採るセンスがお洒落極まりない……。
そんな僕の様子を見た女性の先生に「大丈夫ですか」なんて言われちゃったので、源氏香の図について説明。
案の定「なんでそんなこと知ってるんですか」という反応で、こりゃもうそういう環境で育ったんでしょうがない。

ちなみにあれだけ大事にしていた『記号の事典』だが、今はなぜか潤平の所有物となってしまっている。
まあもともと潤平所有だったものを現在僕が持っている方が圧倒的に多いので、文句言えないかなと思っている。


2019.3.17 (Sun.)

さあ今年もサッカー観戦がんばるぞ!ということで、選んだカードは湘南×仙台。湘南スタイルを研究するのだ。
じゃあそれまではどうしようか。……うーん、市役所めぐり。小田急沿線はまだまだ手付かずなので、いざ出陣なのだ。

朝の6時半より前に電車に乗り込み、2時間かけて小田原に到着。ここで乗り換えるのは、伊豆箱根鉄道の大雄山線。
乗るのはまったくもって初めてだ。たまに農地が混じる住宅地を20分ほど揺られて終点の大雄山駅へ。あっけない。

  
L: 大雄山駅の最果て光景。天狗関連の土産物をアピールする広告が目立つ。  C: 大雄山駅。三角駅舎ですなあ。
R: 大雄山駅前の様子。都会とまでは言わないが、終着駅にしては商業が盛んな印象。周囲は住宅だらけだが。

大雄山駅から直線距離で300m足らずのところに、南足柄市役所がある。本日最初のターゲットはこちらなのだ。
「南足柄市」という名前からして平成の大合併っぽいが、どっこい1972年の市制施行で、それなりの歴史がある。
南足柄市役所は1986年の竣工であり、設計者は指名コンペによって佐藤武夫設計事務所が選ばれたという。

  
L: 南足柄市役所に東からアプローチ。向かって右(北)の行政棟と左(南)の議会棟をガラスのアトリウムがつなぐ。
C: 近づいて北から眺めたところ。エントランス前は「市民広場」だが、ほとんど単なる通路となっている感じ。
R: 市役所の北には南足柄中学校が隣接しており、そのグラウンドから見た行政棟の側面。まったくもって特徴がない。

  
L: 北西から見た行政棟。  C: 西から見たところ。  R: 敷地外に出て南から眺める。ガラスの左が行政棟、右が議会棟。

  
L: 再び敷地内に入り、議会棟側からガラス部分を見たところ。南側から太陽光をしっかり入れる工夫をしているわけだ。
C: 議会棟の南側はこのような細長い庭園となっている。  R: エントランスに戻ってきた。ガラスが豪快である。

  
L: 南足柄市の金太郎シンボルマーク。市制施行20周年記念事業で選ばれたが、ずっと見ているとゲシュタルト崩壊する。
C: エントランス前に置かれている「ソーシャルソファ」。姉妹都市・ティルブルグ市のあるオランダではよくあるものだとか。
R: 角度を変えて眺める。オランダでつくられ、船で6週間かけて運んできたそうだ。確かに素人のつくった仕上がりではない。

では中に入ってみる。日曜日ではあるものの、アトリウム内はきちんと開放されており、動きまわることができる。
屋根もガラスにトラス構造で、しっかり光が入って閉庁日らしくない。しかし金太郎関連のものが置いてあるだけで、
せっかくの空間をまったく活かしきれていない印象。何かイヴェントでもやりゃあいいのにと思う。もったいない。

  
L: アトリウム内。  C: 金太郎が乗っている神輿。奥にも金太郎。南足柄市は「金太郎のふるさと」を前面に出している。
R: ど真ん中に展示されているのは、金太郎まつりに登場する「金太郎ねぶた」。なぜねぶたなのかはわからないけど。

  
L: 南から見たアトリウム。右が議会棟になる。  R: 行政棟の1階。  R: ここにも金太郎がいる。だいぶかわいらしいな。

というわけで、南足柄市はひたすら金太郎推しなのであった。しかし金太郎も有名なわりにはストーリーが曖昧で、
成長して頼光四天王のひとり・坂田金時になって、酒呑童子の退治に参加したよ!くらいなものである。
元気がありあまっている健康優良児の理想的なモデルとして引っ張りだこだったのだろう。タコは哺乳類だモーン!

 市役所向かいの南足柄市文化会館・金太郎みらいホール。また金太郎かよ!

せっかくここまで来たのなら大雄山最乗寺に参拝すべきだったかもしれないが、私の頭は次の市役所のことでいっぱい。
大雄山線には乗らず、バスで小田急の新松田駅へ移動し、腹が減ったので駅そばを食って秦野市域へと入るのであった。
さて、秦野市には中央運動公園があり、こちらが日本の都市公園100選に入っている。それでちょっと歩いてみようと。
そしてそのまま秦野市役所まで行ってみようと。新松田から1駅の渋沢で下車すると、またもバスのお世話になる。
なかなかに小刻みな移動である。まあ地元住民の感覚を追体験している、ということにしておこう。

  
L: 秦野市中央運動公園に到着。しかしながら「カルチャーパーク」という愛称の方をメインにしているようである。
C: 秦野市文化会館。なるほど確かに運動だけじゃないのね。  R: けやき広場の奥にあるのは秦野市総合体育館。

  
L: 公園内。ジョギングコースがしっかり整備されている。  C: テニスコート。  R: プール。

「カルチャーパーク」を懸命に名乗っているが、やはり運動施設が目立っている。運動だけじゃないよ!ということで、
間を緑や文化的要素でがんばって埋めている印象である。周辺には工場も多く、秦野盆地の広大さに圧倒されつつ歩く。

  
L: 公園の中心部。わざと運動の要素を避けて整備している感じ。  C: 東側にはバラ園。  R: その隣は結局、野球場。

  
L: 中央子ども公園。自動販売機のある屋根の上には……ペコちゃんとポコちゃんがいる。よいこはマネするなよ!
C: 実はネーミングライツで「ペコちゃん公園はだの」となっている。全国のカントリーマアムの9割以上は秦野工場産だと。
R: 公園の脇、そして秦野盆地の中央を走る水無川。その名のとおり、まったく水が流れていないのであった。こりゃすごい。

水無川の本当に水の流れていないっぷりに驚きつつ、東に進んで秦野市役所を目指す。どうやら水無川は、
運動公園付近が最も流量が少なくなるようで、市役所辺りまで来るといちおうは水が流れている感じとなる。
扇状地の盆地ではおなじみの伏流水がここまではっきり実感できるとは。地理的にも面白いところだと思う。
感心しているうちに秦野市役所に到着。1969年の竣工で、高度経済成長期の庁舎をそのまま5階建てにした感じ。

  
L: 秦野市役所。高度経済成長期の昭和庁舎建築をそのまま5階建てにスケールアップさせた感じ。撮影しやすい!
C: 敷地内に入って撮影。しかしまあ見事にシンプルな庁舎である。  R: 南東から側面を中心に見たところ。

  
L: まわり込んで北東に出る。  C: 北から見た背面。こちら側は余裕のない住宅地で撮りづらい。  R: 北西から。

  
L: 南西。これにて一周完了。  C: 最近整備されたっぽい石積みの塀。手前には水を流して親水空間としている。
R: 水無川を挟んで眺めた秦野市役所。中央運動公園といい市役所といい、秦野は主要施設を水無川沿いに並べている感じ。

  
L: 西庁舎。もともとは1981年竣工の日本赤十字社の建物で、2002年に秦野市が取得して西庁舎とした経緯がある。
C: 西庁舎の背面。  R: 東庁舎。こちらは1990年の竣工だが、ぶっちゃけあんまり平成を感じさせない外観である。

おっと肝心なことを忘れていた。わかっちゃいるだろうが、秦野市の読みは「はだの」である。しかしながら、
同じ「秦野」でも、かつて東京都知事選で美濃部革新都政を倒すべく送り込まれた元警視総監は「はたの」氏だった。
(この辺の知識は実家にあった『サザエさん』で身につけた私。ありゃあ昭和史についての最高の教材ですぜ。)
渡来人の秦氏は肌触りのよい布をつくる技術を持っていたことから、「肌」から「はだ」という読みになったという。
名字としては「はた」と濁らない方を一般的だと感じるが、濁る音の方が地名としてしっかり残っているのは興味深い。

市役所の撮影を終えると水無川の右岸に渡って南下し、自称・関東三大稲荷の白笹稲荷神社を目指す。
盆地の端から山へと入っていく途中に境内の入口があり、周囲の住宅と比べるとなかなか開けた感じの空間だ。
広い参道は脇を駐車場としており、いかにも稲荷らしい自由な雰囲気が漂う。鳥居をくぐって下っていくと、
左に曲がって境内。わざわざ上って下ってまわり込む形で境内に入るのが、なんとも不思議である。

  
L: 坂を上ると左手に白笹稲荷神社の鳥居。ここから下って左に曲がると境内である。
C: ぐるっと一周してアクセスすることになる境内。  R: 拝殿。やはりどこかお堂っぽい。

さて授与所に行くと、萌え系の授与品が気になる。秦野萌酒「清酒 いなり」のキャラクターで「白笹すずな」とのこと。
地酒メーカーのキャラとはいえ、やはり稲荷は自由だなあと思うのであった。稲荷と妙見は本当に神道なのか疑問。

 
L: 本殿を覗き込む。こちらはもう、見るからにお堂。  R: 白笹すずなの御守と絵馬。やる気ですなあ。

参拝を終えると、道が複雑に曲がる住宅地を半ばさまよいながら、なんとか秦野駅までたどり着くことができた。
実際にじっくり歩いてみると、盆地の地理的特徴を味わえて面白い。神奈川の中でもちょっと独特な雰囲気があるね。

 秦野駅から北口広場を眺める。ここから100mもないところを水無川が流れている。

今日は本当に小刻みにいくのだ。秦野から1駅、東海大学前で下車。目指すはそう、東海大学なのだ。
「東海大学湘南キャンパスと校舎群」ということでDOCOMOMO物件となっているので、見てみようというわけ。
グランドデザインと校舎の設計を担当したのは、分離派建築会のメンバーにして逓信建築のエースだった山田守。
実は逓信省時代に東海大学創立者・松前重義の先輩だった関係もあって、東海大学の理事や教授を務めていたのだ。
山田守というと、大胆な曲線を用いたモダニズムという印象で、聖橋や京都タワーが有名(→2010.1.92010.3.26)。
NTT西日本高松診療所(旧高松逓信病院 →2010.10.11)やNTT西日本九州病院(旧熊本逓信病院 →2011.8.8)もそう。
あとは東京オリンピックの柔道会場だった日本武道館。直線的なところでは大和郡山市役所が挙がる(→2010.3.29)。
「東海大学前」という駅名のわりにはキャンパスまで少し距離があり、少し迷いつつ住宅地を抜けて北門から入る。

  
L: まずは1号館。いきなりウルトラマンが現れた、くらいのインパクト。  C: 近づいてみる。これは山田守の曲線だ。
R: 1号館はY字型の建物。先行する代々木キャンパスではX字型の校舎(2号館)を建てており、それに続くものとのこと。

いきなり現れた1号館(1963年竣工)は山田守らしさ全開の曲線モダンで、度肝を抜かれた。東京大学の安田講堂しかり、
一橋大学の兼松講堂(→2015.1.24)しかり、早稲田大学の大隈講堂しかり、大学にはシンボルとなる建物が存在する。
それがどのような様式で建てられているかが大学の精神を象徴する重要な要素となっているものだが、
東海大学は名古屋大学の豊田講堂(→2015.10.24)と同じくモダニズムで進取の精神を示しているというわけか。

  
L: やっぱり近づいてみる。  C: 少し距離をとってエントランスを眺める。  R: 正面から。トラックが邪魔!

さまざまな角度から写真を撮りつつ眺めるが、曲面を描きつつ端正なモダニズムをやりきるという点では、
やはり山田守が第一人者であると実感する。ポストモダンの下品さとはまったく別次元の美しいカーヴに見惚れる。
かつてNTT西日本九州病院(旧熊本逓信病院)で圧倒されたカーヴが、一般解として提示された感触である。
「曲げるモダニズム」の完成形というのは極端かもしれないが、巨匠が普遍的な領域にたどり着いたのがわかる。

  
L: たぶんいちばんフォトジェニックな角度。  C: 距離をとるとこんな感じ。  R: 「山田噴水」越しに見た1号館。

中にお邪魔してみると、これが驚くほど殺風景。機能が装飾として感じられる外観とはかなり対照的に、
内装にはあまり興味がなかったのかなと思う。通路が広くとられているのはいいが、それに対して天井が低すぎる。
結果、かなりの圧迫感をおぼえることになる。実際に使ってみないとなんとも言えないが、ちょっと残念である。

  
L: 案内図。左回りにA翼(右下)・B翼(上)・C翼(左下)となっている。「翼」とは面白い表現だ。
C: B翼側から中央を見たところ。圧迫感がすごい。  R: 階段。なんか、あんまり美しくないなあ。

1号館の徘徊を終えると、キャンパスを東に進んでほかの校舎たちをチェックしていく。
1号館の東隣は4号館で、松前記念館を挟んで2号館。2号館は上から見ると二枚貝のような形をしている。

  
L: 4号館(1967年竣工)。直線と曲線がバランスよく融合した感じ。  C: 松前記念館。  R: 2号館(1964年竣工)。

2号館の東隣が3号館で、奥に14号館がくっついている。高層化した四角形に円柱を付けた大胆なデザイン。
しかしあまりにも大雑把すぎて、この辺になるとネタ切れというか、少し粗製乱造な気配を感じてしまう。
もうこれくらいでいいか、ということで西に戻ってきて、キャンパスの縦断を開始。8号館は高低差のある地形に合わせ、
正面を複数持っている印象の建物となっている。いかにも食堂などが入っている学生生協っぽい建物だと思う。

  
L: 西側から見た3号館(1966年竣工)。  C: 東から見るとこうなる。  R: 8号館(1970年竣工)。

キャンパスを南下して運動施設を抜けると、デザインの揃った低層の建物が目に入る。外側にスロープが付いていて、
質実剛健な本体に曲線のリズムをしっかり与えている。北からE館・F館・G館で、E館は最近塗り直したのか妙に白い。

  
L: E館。こいつだけ妙にきれい。  C: 奥にあるF館を北西から見る。  R: F館の背面。南西から見たところになる。

通りを挟んだ反対の西側には、5号館。側面をE館・F館・G館と対称になるように揃えていて、そのこだわりに驚く。
E館からG館は1966年から毎年1棟ペースで建てられているようで、1968年竣工の5号館はそれに合わせたということか。

  
L: 5号館の背面。北東から見たところ。通りを挟んだE館・F館・G館と対応したデザインとなっている。
C: こちらは5号館の正面。  R: 6号館。3つに分かれているようで、10号館が竣工した後の1971年に完成。

  
L: 総合体育館(1968年竣工)。  C: COM SQUARE(2002年竣工)。  R: 振り返って眺める。大学らしい空間。

いったん南門から出るが、東海大学の建物はその外側にもあった。規模の大きい大学だなあと呆れる。
なお、この日はオープンキャンパスをやっており、高校生に混じって構内を徘徊。楽しゅうございました。

  
L: 南門からキャンパスを眺める。  C: ものつくり館。かつての円形食堂を改装したそうだ。  R: 国際会館。

ひととおり見学を終えると、北門から出て東海大学前駅まで戻る。帰りは下り坂だし道は広いしできわめて順調。
東海大学前駅を後にするとまたしても1駅、鶴巻温泉で下車。温泉に……浸かりたいっ……!ということで、
せっかくなので陣屋で日帰り入浴しちゃうのである。歩いていくといきなり緑が鬱蒼と茂る一角が現れ、
係の方が太鼓を叩いてお出迎え。なるほど、これが「陣屋事件」のアレか、と思いつつ中にお邪魔する。

  
L: 陣屋に行っちゃうぜ! 提灯の脇に太鼓がありますね。  C: 庭の中を抜けていくのだ。  R: 風情がある。

「陣屋事件」とは、あの升田幸三が名人・木村義雄との王将戦を宿と新聞社の対応が悪いとして対局拒否した事件で、
かっこいいのはその後、和解して「強がりが 雪に轉んで 廻り見る」と詠んだこと。お茶目に落とすところがいいのだ。

  
L: 陣屋の将棋関連コーナー。升田幸三の絵がある。  C: 上杉謙信が使ったという槍が展示されていた。
R: 鞍と鐙もあったのだが、六文銭が描かれているではないか。いったいどういうものなのか、非常に気になる。

さて肝心の温泉だが、鶴巻温泉の泉質はとにかくカルシウムが豊富で、世界一の含有量を誇るという。牛乳並みだと。
ゆっくり浸かって歩いた疲れを癒しつつ、『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』のしずかちゃんの牛乳風呂を想像する。
時間的にも空いているのがまた最高。存分に楽しむと、風呂上がりにサーヴィスのジュースをいただいてまた最高。
幸せな気分で陣太鼓に見送られ、駅まで戻るのであった。そしてまた1駅だけ東に移動して伊勢原駅で下車。
南口から出ているバスで南下し、目指すは平塚市総合公園。満を持してのサッカー観戦である。湘南スタイルを勉強だ!

  
L: キックオフ前、湘南カラーである黄緑色の風船が放たれる。数がたいへん多く、かなり壮観なのであった。
C: 湘南がボールを持つと優位な印象。  R: 仙台がボールを持つと攻めあぐねている印象。こりゃバイアスですかね。

湘南は早めに中盤に預けて打開。時間のかかる逆サイドは選択せず、サイドと中央での素早い崩しを志向する印象。
前半終了間際の1点目はそのサイドとのワンツーが決まった形で、DF小野田がドリブルで持ち上がって左の山崎に展開、
それを返したところに小野田自身が走り込んでゴール。ちなみに小野田はJFL今治からのレンタルでJ1初出場とのこと。
仙台は3バックとアンカーのシマオでじっくり持ち上がるが、湘南は出足の早い守備で対応する格好である。

後半に入って湘南は追加点をあげる。左サイドでボールを受けた梅崎が得意のドリブルで中央に寄って引きつけ、
ディフェンスラインの前にいたDF山根にパス。少し蹴り出してタイミングをずらしたシュートが決まって2点目。
湘南は2点とも、ドリブルで持ち上がった後でDFが点を決めるという、非常に「らしい」得点である。

その後の仙台はFW阿部が違いをみせて湘南を追い込む。いちばん危険なのは石原なので、湘南はそこを徹底的に抑える。
仙台はハモン ロペスがヘッドで意地の1点を返すが、そのシーンは湘南が全員自陣の中にいてスペースがなく、
かえって動きづらいうえに人任せになりやすい状況だった。まあそこで点を取りきれるハモン ロペスを褒めるべきだが。

そんなわけで2-1で湘南が勝利。若い選手が走るサッカーはすがすがしい。そしてそれに混じっている梅崎がかっこいい。


2019.3.16 (Sat.)

部活をやっていたら最後のゲームのタイミングで突然の雨。この天気の不安定さが、春らしい春だなとも思う。
この春は、青春18きっぷで日帰りの遠出の予定をそれなりに組んでいるが、天気しだいで変更することしばしば。
予定を変更してBプランをやりきることも面白いには違いないが、当然、残念な気持ちは引きずることになる。
はっきりしない天気の下で煮え切らない気持ちを抱えるから、わかっちゃいるけど存分に楽しめる旅にはならない。
春ってのはいろんな感情が交錯する季節だが、今年は天気に翻弄されながらその思いをよけいに強く感じている。


2019.3.15 (Fri.)

ここ最近は本当に疲れているなあと。本来なら腹立たしくってしょうがないことが起きたのだが、
怒りの感情が思ったほど湧いてこない。まったく腹が立たないわけではないのだが、そのエネルギーが不十分。
だからガス欠気味に「はあそうですか」で済んでしまう感じ。ある意味それは冷静な対処と言えなくもなくって、
その点だけ見るとそれはそれでポジティヴな要素ではある。しかし手放しで歓迎できるポジティヴさではない。
マイナスのマイナスが結果として微妙なプラスとして作用しているだけなので、やっぱり妙にモヤモヤは残る。
弱化した怒りと疲れという二重のモヤモヤが残るのだ。これはこれで健全な感触ではない。イヤなものである。


2019.3.14 (Thu.)

決めなくちゃいけないんだけど来年度以降の予定が決まらない。本当にぜんぜん見えない。
部活の影響で2連休で動ける日が少ないのが悩ましい。この点は前任校にいたときよりも確実に困る点だ。
朝練がないかわりに放課後の部活が週1日多くて、これが日記についても非常に大きな影響を与えている。
旅行については、できるだけ市役所探訪を優先させていこうとは思っている。とにかく早くケリをつけたい。
しかしあちこちで建て替えが進んでいることもあって、効率のよい旅行の条件がどんどん複雑化している状況だ。
首都圏日帰りで近場をしらみつぶしにまわっていくにはいい機会なのかもしれないが。悩ましいものである。


2019.3.13 (Wed.)

ピエール瀧の件はただただ残念ですね。思ったよりもショックを受けている自分がいる。

電気グルーヴについては以前のログで書いたとおり、少し微妙な感触があるんですよ(→2016.1.7)。
初期のアングラくさい「毒」が僕は好きではなかったが、「毒」を維持しつつもテクノとしてどんどん洗練され、
それと並行してピエール瀧は俳優として開花していった。電気グルーヴは単純に音楽シーンだけではダメで、
ピエール瀧が「瀧」として「毒」を中和する作用をもたらしていったことに意味があると僕は思っていたのだ。
それだけに、すべてがぶち壊しになってしまった今回の事件には、思った以上のショックを受けざるをえないわけで。

東京ガスのCMだったと思うのだ。ピエールは織田信長の役で、明智光秀に裏切られると分かって本能寺に戻る。
みやもりなんかと「なにピエールのくせして泣かせにきてんだよ」と話した記憶があるのだが、あそこからなのだ。
あそこから着実に、ピエール瀧は世間に必要とされていった。それはアングラ的な自己満足とは正反対の方向で、
その動きがあったからこそ僕は電気グルーヴの音楽性を肯定できていたのだ。それを裏切られたから、ショックなのだ。
嫌いから好きになっていったものが根っこから虚像だと知らされた痛みが、僕の中でまるまるじっとり居座っている。
光秀に裏切られた信長は「是非に及ばず」と言ったそうだが、僕はとても、そんな簡単に納得できないよ。


2019.3.12 (Tue.)

ついに花粉症が鼻にも来た。とめどなく鼻水が流れる。これは近年まれにみるひどさである。
のどの方の症状は明らかに弱まっているので、これは花粉の種類の違いによるものなのだろう。
あっちはあっち、こっちはこっちで確実にやられている。どうにかならんもんですかね。


2019.3.11 (Mon.)

震災から8年、あっという間だ。自分が被災地を訪れて(→2016.9.182016.9.19)からも2年半、あっという間だ。
自分が目にした光景は、2年半でどうなるようなものではなかった。そして地方の弱体化は加速度的に進んでいる。
本当の「復興」とは、日本の衰退が止まらないことには、なしえないはずである。それはいつになるのだろうか。

今年の春は福島県の浜通りに行く予定を立てている。福島第一原発よりも北側にある相馬・南相馬(原町)は、
被災地という文脈で語られることはほぼない。そのあたりの機微を少しでも感じられるといいが。感性を磨かねば。


2019.3.10 (Sun.)

天気がどうにかもちそうなので、青春18きっぷを利用しての外房計画を実行するのであった。
本日はまず、大多喜町を目指す。DOCOMOMO物件である大多喜町役場は5年前にも見ているが(→2014.8.3)、
あらためてきちんと見てみようというわけ。さらに夷隅神社の御守を確認しておこうというわけだ。
戻ったところで、これまたあらためていすみ市役所を訪問し、しっかり写真を撮るのである(→2011.9.19)。
ここまで来たら、お昼には勝浦タンタンメンをいただくのだ。最後は館山へまわって鶴谷八幡宮に参拝。

始発で出発し、いすみ鉄道の大多喜まで3時間強。やはり房総半島は遠いなあと思いつつ歩いていく。
駅から南へ200mで大多喜町役場に到着である。天気は5年前の方がいいが、撮影のコンディションは悪くない。

  
L: 北西から見た大多喜町役場。今井兼次の設計で1959年の竣工。現在は国登録有形文化財となっている。
C: 西から見た側面。  R: 敷地に入って眺める。西側は平屋になっているんだよなあ。高度経済成長期っぽい。

  
L: 中庁舎(旧庁舎)の西端部。  C: 東端部は地形に合わせて地下1階がある。  R: 地階の中身は議会。これは面白い。

  
L: 前回と同じように中庭を眺める。高低差をうまく魅力的に使っている。  C: 少し離れて東から眺める。
R: エントランスから延びている庇に対応する壁を内側から見たところ。手づくり感のあるモダニズムの好例ですな。

  
L: 庇の下から東側を眺める。  C: 庇の下から西側を眺める。  R: 中庁舎のエントランスから内部を覗き込む。

  
L: 下がって南東から眺めた本庁舎。千葉学建築計画事務所の設計で2011年に竣工している。
C: 中庁舎の裏から入り、さっきと反対側の南西から見た本庁舎。  R: 北西から見た本庁舎。

これは平日に来て、きちんと建物の中に入って中庁舎と本庁舎を味わうのが正しいんだろうなあと思う。
がんばって撮影したけど5年前からあまり自分自身に進化を感じることができず、とぼとぼ歩いて夷隅神社へ。
本殿の脇で何やら小規模な朝市が開催されていたが、肝心の御守はふだん置いていない模様。これは意外だった。

  
L: 夷隅神社の境内入口。  C: 立派な参道を行く。  R: 拝殿。相変わらず立派だが、御守がないのが非常に残念。

  
L: 本殿。  C,R: 本殿のすぐ近くでやっていた朝市の様子。どうやら地元に完全密着している感じである。

参拝を終えると駅まで戻る。途中にあった大多喜小学校がなかなかにポストモダンで思わず撮影してしまった。
伝統を意識して残念なデザインになる小学校は多いが、大多喜もそうなってしまったか。城下町の誇りと役場のセンス、
それらについては文句はないが、別個だからいいのである。足し算にした瞬間にブサイクな公共建築ができあがる。
そうなってしまうと、昔の人の賢さと今の人の愚かさの差異が現実の空間に残酷なまでに現れてしまうのだ。

 たいへん残念な大多喜小学校。

あーあ、という気分で大多喜駅に戻り、列車の停まっているホームへと向かう。が、何か様子がおかしい。
なんじゃいなんじゃいと眺めていると、なんと何かのテレビ番組の撮影をやっているのであった。うわあ面倒くせえ。
しかしこの列車に乗らないとこの後の予定が大幅に崩れてしまうので、仕方なしに同じ列車に乗り込むのであった。
われわれ一般の乗客は車両の前半分に追いやられ、後ろ半分にテレビ勢が陣取り、いすみ鉄道の景色についてトーク。
シートに座っているのは石原良純と日テレの水卜アナ、あと若い男女の4人組なのであった。若い男女はよくわからんが、
水卜アナが「カレンちゃん」と言っていたのでなるほどこれが滝沢カレンかと思うのであった。残りの男はマジで知らん。
で、水卜アナは色白でふつうにかわいかったでござるよ。滝沢カレンは目の辺りが「歌舞伎かよ」って感じの化粧だった。
カメラの回っていないところで花粉症に苦しんでいたのでなんとなく同情してしまった。良純はまあ、どうでもいい。
国吉駅で停車中にホームをうろついていたら、「いすみたこ飯研究会」の駅弁を売っていたので思わず買ってしまった。
もしかしたら車窓越しにその姿が映っちゃったかもしれん。ウチの親とかチェックしている番組だったらヤダなあ。
さて、どうやらこの番組では線路沿いにある菜の花がきれいーってのを紹介したいようでひたすらやっていたけど、
正直大したことはなかった。線路沿いの菜の花なら、指宿枕崎線(→2009.1.7)という絶対王者がいるからねえ。
(調べてみたら、線路沿いの菜の花については、いすみ鉄道よりもむしろ小湊鉄道の方が有名みたいでやんの。)
中途半端な菜の花よりも、たこ飯の駅弁の方がずっと魅力的だった。オレがタレントでも花よりたこ飯で食ったろうな!
列車内での撮影が完了したテレビ勢は大原まで行かず、途中の駅でそそくさと下車して次の現場へ向かったのであった。
最後に残った水卜アナが「乗客の皆様、ご迷惑をおかけしました」と一礼。アナウンサーも大変ですね。結婚してくれ。

 いすみ鉄道のムーミン谷。どうせなら速度を落としてくれよ……。

列車は何ごともなかったように大原駅に着き、僕も切り替えていすみ市役所へ。そしたらこっちはこっちでイヴェント中。
「ONSEN・ガストロノミーウォーキング」とか書いてある。温泉と食文化を楽しんで歩くというコンセプトらしいが、
いすみには温泉ねーだろ!とツッコミを入れざるをえないのであった。なんだかワケのわかんないことやっとるなー。

  
L: 東から見たいすみ市役所。橋を渡って坂を上っていくのだ。  C: 敷地内に入る。すっかりイヴェントモード。
R: 南西から全体を眺めたところ。市役所の向かって左にくっついているのは、大原保健センター。

気を取り直して、いすみ市役所を撮影してまわる。建物を撮影する段になって曇り空になるとはツイていない。
イヴェントも邪魔くさいし、エントランスも工事中。下がるテンションをなんとか盛り上げてシャッターを切る。

  
L: 南西から見たいすみ市役所。1983年に大原町役場として竣工している。2005年に合併して市役所となった。
C: 北西側にまわり込む。これは保健センターごと眺めたところ。  R: 近づいて、いすみ市役所の背面を見る。

  
L: 螺旋階段が内蔵されているのは面白い。裏側にしておくのはもったいない気がするなあ。
C: 東側の側面。さっき見上げたのはこちらの面。  R: 南側、正面。エントランスの工事が悔しい。

  
L: 中に入って左側はこんな感じ。1980年代らしい吹抜ホール空間。元町役場というよりは、しっかり市役所のスケール感。
C: 入って正面。イヴェント中だから入れたのか。  R: 右側。ポスターは「いすみ大使」を務める仮面女子。……なんで?

帰りはメインストリート沿いにあるモダンな建物を撮影。「ギャラリー泉」という看板が掛かっているが入れない。
調べたところ、向かいにある杉玉の見事な木戸泉酒造の旧社屋で1930年ごろの竣工とのこと。なるほどアール・デコだ。

 
L: 木戸泉酒造。杉玉の迫力がすごい。  R: ギャラリー泉。外観はかなりきれいにしてあるが、中はどうなんだろう。

大原を後にすると、南下して勝浦へ。市役所は7年前に撮影済みで(→2012.7.26)、曇り空なので今回はスルー。
となると、まずはとりあえず神社である。勝浦を代表する神社である遠見岬(とみさき)神社に参拝するのだ。
さてこの遠見岬神社、もともとは富貴島という島に鎮座していた。しかし1601(慶長6)年の大津波で壊滅して移転、
さらに1703(元禄16)年には大地震で富貴島が海没してしまった。それがトラウマなのか、現在はしっかり丘の上。

  
L: 遠見岬神社の参道入口。勝浦の市街地を突っ切ったどん詰まりから上っていくというロケーションである。
C: 途中にある稲荷社。岩肌をくり抜いているのと、その岩肌の見事な壁っぷりと、なんとも印象的な光景だ。
R: 境内の直前から眺める勝浦の街並み。山に囲まれた平地を建物が埋め尽くしている。実に壮観である。

遠見岬神社の祭神は天富命で、阿波国を開拓した後に房総半島にやってきて開拓した神様である(勝浦は上総国)。
以前書いたように、千葉の「安房」は徳島の「阿波」から忌部氏が移って開拓したことによる名前だ(→2018.2.11)。
安房神社(→2012.7.262014.9.27)の祭神である天太玉命がいちばんの祖先で、天富命の代に房総に来た感じか。
二礼二拍手一礼を終えると石段を下りる。授与所は一の鳥居を入ってすぐのところにあり、御守を頂戴する。
「勝」浦ということで勝守にちょっとこだわりを感じさせるのがよい。その場所ならではの工夫があるのは素敵だ。

  
L: 境内の入口。  C: 拝殿。遠見岬神社の社殿は1849(嘉永2)年の築とのこと。  R: 本殿を眺める。

さあ、ではいよいよB級グルメの勝浦タンタンメンだ。前回は朝市もあってタンタンメンをいただく余裕がなかった。
しかしあれから7年、けっこうあちこちで「勝浦タンタンメン」の文字を見かけており、悔しい思いをしていたのだ。
勝浦タンタンメンの発祥ははっきりしており、「江ざわ」という店である。ゴマを使った芝麻醤が手に入らず、
ラー油を中心に試行錯誤した結果生まれたそうで、体が温まるメニューとして漁業関係者に受け入れられて広がった。
さてそうなると、やはり元祖の江ざわで食いたい。しかしこれが遠いのだ。駅から国道297号を北上すること6km以上。
バスを使うことも不可能ではないが、本数が少ないので大幅に時間をとられることになる。で、レンタサイクル。
市街地から坂を駆け上がり、山の中を突っ切る国道をひたすらに行く。道路じたいは走りにくいことはないが、
千葉の無骨な山間部を延々と走るのはやっぱり気合いが必要なのであった。まあ、食欲で走り抜けましたな。

到着すると、駐車場は車でいっぱい。脇にはバイクも数台駐まっている。店の脇のベンチに座っている人もいて、
その繁盛ぶりに大いに驚く。さっそく受付をするが、なんと客が多すぎて、携帯電話で呼び出すスタイル。
みんな車で来て受付をして、番が来るまで車でどこかへ出かけて時間をつぶし、呼び出されたら車で戻るというのだ。
独りレンタサイクルでやってきた自分はまったくもってイレギュラーなのである。座って待たせてもらえたからいいけど。
で、待つこと1時間弱、待望の勝浦タンタンメンは「ラー油!」「ネギ!」「ひき肉!」「玉ねぎ!」という正直さ。
これは見るからに辛そうだ……と思って食べてみると、むしろ鶏ガラですかな、醤油ベースのスープの味が強く、
辛さよりもラーメンとしての旨さの方が際立っている。見た目のインパクトからは考えられない繊細さなのである。
醤油ラーメンとしての旨さが根底をしっかり支えているから、ラー油をたっぷり入れても成立するというわけなのだ。
風味と歯ごたえのあるネギ、旨味の凝縮されたひき肉、甘みのある玉ねぎと、具材のバランスがたいへんよい。
夢中で一気に平らげたのであった。これはわざわざレンタサイクルで6.5km走る価値がありますよ。感動するレヴェル。

  
L: 江ざわの外観。客が殺到するから市街地に店を出せないのではないかと思う。勝浦の狭苦しい市街地だったら大混乱だ。
C: 江ざわの勝浦タンタンメン。構成要素がはっきりしている見た目だが、驚くほど繊細な旨さ。  R: ごちそうさまでした!

余韻に浸りながら勝浦駅へ戻ると、「B.B.BASE」と書かれた車両が停まっており、なんじゃこりゃと首を傾げる。
調べると正式名称は「BOSO BICYCLE BASE」だそうで、自転車を持ち込めるサイクルトレインに特化したもの。
なるほど、この列車があれば江ざわの勝浦タンタンメンも食べ放題だぜ。問題は起点の両国駅まで行く方が遠い点か。

 B.B.BASEの車両。そんなに人気のあるものなんですかね。

そのまま外房線を南下。鴨川まではトンネルが多く、トンネルの中こそ「虚無」なのでは、などと考えてしまう。
穴を開けるまでもともとなかった空間だし、電波も通らんし温度も一定だし。絶対的な安定とはいったい何なのか。
そんな思考を呼び起こすのは、行川アイランド駅がやたら怖かったせいかもしれない。おせんころがしもあるし……。

鴨川で内房線に乗り換えて館山へ。旧街道をひたすら北上して、目指すは鶴谷(つるがや)八幡宮である。
安房国総社で旧県社ということで、さすがに規模が大きい。一の鳥居周辺は、なんだか広場のような雰囲気がする。
まっすぐ延びる参道を行くが、この堂々とした感じは安房神社(→2012.7.262014.9.27)と共通していると思う。

  
L: 鶴谷八幡宮の一の鳥居。  C: 参道を進んでいく。  R: 二の鳥居。ここから神社の境内らしくなる。

  
L: 立派な御神木だが足元を固められているのは珍しい。  C: 社殿を眺める。左が拝殿、右は安房神社遥拝所。
R: 拝殿を正面から眺める。かつての拝殿は関東大震災で倒壊したそうで、現在のものは1932年の再建。

  
L: 拝殿の天井に施されている彫刻「百態の龍」。非常に独特な発想で興味深い。シンプルな建物だが細部が凝っている。
C: 本殿。こちらは1721(享保5)年の築。  R: 安房神社遥拝所。総社なので一宮に敬意を表しているということか。

これにて本日の冒険は終了。お疲れ様でした。館山から東京まで、勝浦タンタンメンの余韻に浸ってのんびりと帰る。


2019.3.9 (Sat.)

練習試合で「南葛」こと南葛飾高校へ。高橋陽一の出身校であり、『キャプテン翼』の元ネタとなったあの南葛ですよ。
校門の近くには翼くんの像があって、一緒にツインシュートを撃てるという仕組みになっているのであった。
部長(いつもツッコまれ役)が何を血迷ったのかキャプ翼グッズの南葛シャツを着てきちゃったので、
「おい撮ってやるよ」と言ったのだが、「勘弁してください」と徹底して遠慮。せっかくなのにもったいない。

それはさておき練習試合。この場を用意してくれた南葛飾高校だけでなく、他区の中学校とも対戦できるチャンス。
かなり貴重な機会ということで生徒たちは意欲的に取り組んだのであった。さすがに高校生にはボコられたものの、
1点もぎ取ったのはすばらしい。ふだん惜しいシュートの多い部長が、いいところを見せて得点。南葛シャツのおかげか。
高校生は確実にボールを収めてからしっかりつなぐサッカーで、非常に参考になるプレーを見せてくれたのもありがたい。
2年前のブロック大会ではけっこうヤンチャなイメージのあった他区の中学校も、何から何までたいへんクリーン。
僕は試合前に守備意識についてコメントしていたのだが、中学生相手の失点は1つだけに抑えてみせたのは大きい。
激しいプレッシャーの中でもわりときっちりボールをコントロールできていて、基本技術が高まっているなあと実感した。

というわけで、収穫だらけの非常に有意義な練習試合となったのであった。ありがたいことです。


2019.3.8 (Fri.)

花粉症がのどに来て困る。花粉は多いと一気に来るタイプ(→2005.3.18)なのは変わらないが、明らかに昔と症状が違う。
かつては目と鼻を同時にやられてひたすらくしゃみだったが、今はのどが重苦しいかゆみで荒らされる感じなのである。
仕方がないので、うがいで花粉を洗い流した気分になって対症療法としている。体質の変化とは不思議なものだなあ。


2019.3.7 (Thu.)

雨がずっと続いて非常に憂鬱であります。部活もせっかくグラウンド全面使える木曜日のはずが筋トレに。
そうなると僕の出番はほとんどないので、英語のノートチェックやら明日の送別会のヴィデオカメラ確認やら、
やらなくちゃいけないけど後回しになっていたことをちょこちょこと進めて過ごす。部活的には困った雨だが、
個人的には恵みの雨と言えなくもないのが少し申し訳ない。慢性的な人手不足が悪いんだ。そういうことにするのだ。


2019.3.6 (Wed.)

来年度の部活について会議があり、終了時刻が早まる方針が固まった。これは非常にありがたい。
日記が飽和状態でまったく改善されないまま3月に突入してしまった現状を鑑みるに、奇跡が起きた気分である。
なんとか少しでも効率のよい生活スタイルを構築し、日記を書き進めていきたい。やる気出た!


2019.3.5 (Tue.)

お気づきの方もいるかもしれませんが、このページのみ試験的に「Noto Sans CJK」フォントを使用しております。
こないだ日記で書いた「Noto」シリーズ(→2019.2.21)、実際にやってみるとどうなのか、試してみたくなったのだ。
ブラウザで見る側が対応していなけりゃ従来と何も変わりないのかもしれないけど、いかがなものでしょうか。
従来はUIゴシックというプロポーショナルが最も効くフォントだったので、だいぶ幅をとるなーという印象。

いろいろ見てみたら「Noto」シリーズは面白くて、ヒエログリフや線文字B(→2015.10.3)まで押さえてやんの。
世界中すべての言語の文字に対応させようという極めて野心的な試みであり、言語的多様性保持の観点からすれば、
たいへんすばらしい挑戦であると思う。Googleは好きではない部分もあるけど、この点については大いに支持したい。
特に問題がなければ、将来的には過去ログも全面的に「Noto」化するかもしれない。しばらく様子見といきますか。

(※その後、2019年10月に全ページのフォントをNoto Sans CJKに変更しました。皆さんもぜひインストールを。)


2019.3.4 (Mon.)

今日の英語の授業は困ったときの英作文道場ということで、一年間の復習ができる英作文問題を即興で出していく。
「マツシマ先生は○○先生よりも人気がある」だの、「マツシマ先生はすべての先生たちの中でいちばん若い」だの、
「マツシマ先生は多くの生徒から愛されている」だの、(勉強になる)バカ例文を勢いよく出題していたのだが、
よく見たらノートの端っこに「この英文はフィクションです。実在する人物・団体とは一切関係ありません。」
と書いている生徒がいて爆笑。これは非常にうまいツッコミだわと大いに感心したのであった。うーん、やりおるわい。


2019.3.3 (Sun.)

雨ということで、どこにも出かけず引きこもって過ごす。昨日でエネルギーをかなり使ったこともあるし。
かといってサボっていたわけではなく、ひたすら御守の写真を撮って整理する作業をしていた。本当に膨大な量だ。
しかもここから写真の画像を加工しなくちゃいけないのである。未加工の写真が溜まりに溜まって手に負えない。
早くネット上で紹介したい美しい御守がいっぱいあるのに、まるで進まない。もう本当にすいません。追いつかん。


2019.3.2 (Sat.)

初任だったクラスの同級会が開催されたのであった。ちょうど10年前か、教員になってから3年間入ったクラス。
成人式にも顔を出したが(→2017.1.9)、それ以来だ。今回は先生方の勢揃いがうれしい。皆さんぜんぜんお変わりない。
生徒たちもずいぶん元気そうである。さすがに顔つきは大人っぽくなっているが、精神的にはまだまだな感触も少々。
それにしても女子たちに開口一番「まだ捕まっていないんですか」と言われるのは微妙に凹むぜ。

生徒たちはぼちぼち大学を卒業するタイミングということで、もちろん働きだして落ち着いてきた生徒たちもいて、
学生生活を振り返りつつ社会人としての展望なんかも話に出てきて、なるほどそういう時期だよなあと思う。
自分の場合は入院(大学院入学)してもうちょっと好き放題していたので、その点は彼らの方がきちんとオトナだ。
この10年で大した成長がみられない自分と比較して、置いてけぼり感覚も当然味わう。なかなかに切ない。
とはいえ、ある意味同じような目線で話すことのできる関係になったわけで、そこは純粋にうれしく、また楽しい。
喜怒哀楽の「怒」はないけど、それ以外の3つはふんだんに盛り込まれた時間だったなあ。

さて、驚いたのはサッカー部に引き込んだ生徒が「ビュクシーフラットライン」と言って僕の日記を知っていたこと。
いったいどこからどうやってたどり着いたのやら。これはなかなか衝撃的である。まあ彼らなら知っていてもいいけど。
読むならちゃんと読んでいただきたい。この辺の約束(→2006.8.212014.8.18)は、きちんと守ってちょうだいね。


2019.3.1 (Fri.)

鎌倉遠足のときは消化不良だったけど(→2018.9.5)、こっちにも意地ってものがあるのだ。
いよいよ修学旅行の事前学習を始めなければならないわけで、もう徹底的に学習させたろうやないけ!と。

まずは資料ということで、8年前に担当していた学年(僕が教員になって初めて入った学年である)の事前学習をコピー。
これが本当に凝った内容に仕上がっていて、絶好のお手本と言えるものなのだ。苦労した分、クオリティが非常に高い。
あらためて、彼らがなんだかんだ根性全開で食らいついてやりきった偉大さに感服するのであった。実に偉かった。
で、最初にこのお手本を数枚ずつ生徒全員に渡して、「お前らこれをやるんだ」と宣言。生徒たちは衝撃を受けつつも、
最高のお手本に対して静かな対抗心を燃やしている雰囲気がしなくもない。まあ悪くない感触である。

インパクトを与えたあとは盛り上げなきゃね、ということで、くじ引きでそれぞれの担当を決めていく。
あらかじめ生徒の数だけテーマを用意して番号をふっておいたので、それを順番に引いていかせる仕組みである。
どんなテーマが当たろうと自己責任なのだ。従容として受け入れるしかないのだ。そんなに難しいテーマはないけどね。
生徒たちはさすがに京都や奈良に詳しくないが、きちんと興味があるようで、はいわかりましたと素直に受け入れる。
ここから各自しっかり調べて、それぞれのテーマの専門家になってもらいたいものだ。どう仕上がるか楽しみである。


diary 2019.2.

diary 2019

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