diary 2018.11.

diary 2018.12.


2018.11.30 (Fri.)

先日、鎌倉市近代美術館のリニューアルっぷり(→2018.11.10)を目にして出てきたテーマを考えてみたい。
それは、「現代の素材・建材でモダニズムは可能なのか?」である。しかしこれには2つの段階があると考える。
ひとつは単純に、往時の建物を再現する、ということ。そしてもうひとつは、往時の興奮も再現する、ということ。

きっかけは、鎌倉市近代美術館のリニューアルに対して、「軽さ」を感じたことだった。
時代は物理的にも倫理的にも「軽さ」を要求している。エコの観点(環境・経済の両面)から重いものが忌避される。
そしてその動きはまた、威厳の忌避という面とも重なる。前に重量と威厳の問題を考えたことがあるが(→2015.1.2)、
重さがもたらす権威性も忌避されているのだ。みんな平等、バリアをなくそう、パワハラよくない、そんな社会の流れと、
威厳の忌避は共通する要素を持っている。一般市民がどれだけそこに敏感かはわからないが、軌を一にしていることだ。
まあこれは市庁舎建築を専門に見ている僕だからそういう結論に偏ってしまうのかもしれないが、確実にそう見える。

単純に考えれば技術水準の上昇により、建材は「軽くて丈夫」という方向に進化しているはずである。
1951年の建材を21世紀にわざわざ再現することにかかるコストは莫大なものだろう。ゆえに「完全な復元」は不可能だ。
(木材の場合、個体差ということで精度が甘くなっても納得できるのが面白い。工業製品には同一だという前提がある。)
現代の建材は最初から「軽い」のである。だからそれを使ったところで、重さから発生する威厳は再現できない。
冒頭で掲げた最初の問いの答えは「NO」である。残念ながらモダニズムは死んでしまったのだ。ナンマイダー

さて今後、モダニズム建築は厳しい目でふるいにかけられつつも文化財として保護されていくことになるだろうが、
そこでの「復元」は果たしてどれだけの妥当性を持っているのだろうか。工業の恩恵たるモダニズム建築であるけど、
工業製品が前提とする同一性が確保できないのだから、木造建築以上に「復元」の精度は下がってしまうはずである。
この問題が先鋭的に現れているのは、原爆ドーム(→2008.4.232013.2.24)や軍艦島(→2014.11.22)といった、
「廃墟」の文化財だろう。これらは建築としてはすでに「死」を迎えているが、文化財としては生きている。
保護される廃墟とは逆説的な事態だ。これはつまり、物質の持つ価値もさることながら、もしかしたらそれ以上に、
「保護する」という行為じたいに意味や価値があるのだろう。保護の結果よりも、保護という行為が重要なのだ。
そう考えると、われわれはモダニズムの「軽量化」を、現代社会の善意として肯定しなければならないのだ。
文化財として生きているから変化せざるをえない。空間として存在する(be)ことを喜ぶしかない(→2013.1.9)。
空間を占めていることが認められる限り、それは受容なのである。モダニズム建築がこの先どんな形だろうと、
社会の善意として保護され、空間として利用され続けることを祈るのみである。それは価値を認める知性の問題だ。
冒頭で掲げた最初の問いの答えは「NO」でも、2つめの問いの答えが「YES」になる可能性は残されていると信じたい。

しかしまあ、新たな建材によるリニューアルすら新陳代謝と捉えるメタボリズムってのは、すごいものだったと思う。
戦後消費社会のモダニズムの文脈だからこそ生まれた発想だが、また違った形で応用できるヒントが今もありそうだ。
メタボリズムの場合には「保護」って言葉が似合わない。遠慮せず改造しまくって使い続ける方がいいのかもしれない。


2018.11.29 (Thu.)

インフルエンザの予防接種をするという生徒がいて、ああそういう時期だなあと思うわけでありまして。

ウイルスというのも興味深い存在だ。生物と非生物の間に位置しており、生物に寄生して増殖する物質と言える。
起源については「寄生のために遺伝子を消失させた細胞」「遺伝子から抜け落ちた断片」「進化した分子」など、
さまざまな説がある。個人的には、複数のルーツから収斂進化したものがウイルスという定義でまとめられている、
なんて考えているのだが、物質の側から生物に対して欲望を見せる、という点がとても興味深いのだ。
つまりはフェティシズムの反対。われわれ生物が、歪んだ愛情を物質から向けられている、なんて考えてしまう。

もしかしたら、ウイルスとは生物になりたいという欲求を持ちながら、それが果たされない存在なのかもしれない。
物質が生物に取り込まれることで共進化を期待するが、自己が増殖するだけで宿主細胞を破壊してしまう、なんて。
そうしてコピーと変異を繰り返す。宿主を生命の危機に陥れながら寄生するという矛盾。うーん、ギザギザハート。

こんな妄想、小説に書くしかないのかもしれない。フェティシズムをたっぷり盛り込んで逆噴射するのだ。
幼少期に絵本で鍛えられたアニミズムを存分に発揮してやるのだ。それを異類婚姻譚に乗っけてやればいい。
でもよく考えたら、瀬名秀明が『パラサイト・イヴ』ですでに似たことをやっていたのであった(→2005.2.3)。
ちなみにコンピューターウイルスの方では『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』がやっている(→2005.8.19)。
ぎゃふん。


2018.11.28 (Wed.)

道徳の授業で哲学概論をやったら変に好評でびっくりなのだ。まあ知識欲があるのはいいことだが。


2018.11.27 (Tue.)

今月の政治の動きはあまりにもひどい(→2018.11.22018.11.152018.11.22)。
いや、「ひどい」という言葉すら生ぬるい愚劣さだ。不自然かつ不可解な焦り方でガンガン国を売っており、
猛烈にイヤな予感がする。こんな状況にあっても党議拘束をはずせないくせに、何が保守だ。許しがたい。
将来どんな状況になっても、自民党を一度も支持したことのないオレにはきちんと発言権があるもんね。
きちんと政治を学ぶことなく、本物の保守について考えるだけの力のない人間が多すぎる。そいつらも同罪だぜ。


2018.11.26 (Mon.)

昨夜の『田原俊彦論』のイヴェントについて、より詳しく、きちんと書いておきたい。

このたび『田原俊彦論』を上梓した岡野誠さんが、その発売イヴェントとしてトークショウを開催した。
このトークショウの聞き手として登場したのが、われらが岩崎マサル。話しやすい友人ということでの指名である。
(もともとは『へんな趣味 オール大百科』(→2008.8.22009.4.19)の際の取材で知り合ったそうだ。)
マサルもわれわれの飲み会でトシちゃんの動画を見せてくるなど、岡野さんからはだいぶ影響を受けている。
それもこれも岡野さんの熱意がなせるわざなのだが、マサルは今回、その静かな熱意を引き出す役に徹するのであった。

立ち食い蕎麦で空腹対策を施しておいてから、会場となっている田原町の書店「Readin' Writin'」へ。
テーマが田原俊彦だから、わざわざ「田原町」の書店を押さえたのかな?と思いつつ店内に入ると、とってもオシャレ。
決して広くはないが、穏やかな趣味の個人の本棚をそのまま店舗にしたような雰囲気の、居心地のよい空間だった。
その真ん中にはすでに数冊の『田原俊彦論』と白のセブンチェアが2脚置かれており、もうすぐイヴェントが始まるところ。
開演ぎりぎりで店内に入ったせいで、2人と向かい合うほぼど真ん中の位置に座ることになってしまったではないか。
こういうポジションはもっと熱烈な、きちんとした田原俊彦ファンの方に押さえてほしかったのだが。お恥ずかしい。

マサルのアイデアにより、今回のトークショウは「田原俊彦学概論」という講義形式で行われたのであった。
店内のWi-Fiを利用して、レジュメに印刷されているQRコードをスマホで読み取り動画を見ながら話を進める形式。
おかげで、みんなで呼吸を合わせて動画を再生するなど、熱烈なトシちゃんファンの皆様もただ興味本位な僕も、
不思議な一体感を持って時間を過ごすことができた。トークショウもタイトルこそ「田原俊彦学概論」であるものの、
1980年代の芸能界の状況、取材した際のトシちゃんの実像、本を書くにあたっての異様に細かい点の苦労話など、
個人の経験と客観的な事実が非常にバランスよく披露される形となって、初心者にもかなり楽しめる内容となった。
この本の肝はなんといっても、ビデオ映像・雑誌記事・実際の取材など岡野さんの徹底的な資料探索ぶりにあって、
話を聞くとそこまでやるか!と笑ってしまうのだが、その徹底ぶりこそがこの本に揺るぎない価値を与えているのである。
僕みたいな中途半端で満足する人間にはいい教訓だ。努力の結晶たる作品を生み出す偉大さを実感した。

さて、今回のトークショウを通じて感じた、僕なりの「田原俊彦論」をきちんと書いておこうと思う。
トシちゃんファンの視点からすれば、田原俊彦という人は本当にクソマジメで不器用でシャイなのが十分わかっている。
でも本人は「誤解される部分も含めてぜんぶオレ」というスタンスを貫いていて、どうしても歯がゆくってたまらない。
ある意味それだけ強情だからこそ、あの怒涛の1980年代に絶対的なアイドルとして君臨できたのもまた事実なのだが。

僕は岡野さんの話を聞いているうちに、なんとなくだが、田原俊彦という人とサッカー選手の三浦知良が重なって見えた。
若くして王として君臨した姿も重なるし、年齢を重ねてもまったく変わることなく現役で活動し続ける姿も重なるし、
嘲笑される苦しい時代を経験した姿もまた重なる。カズは(最近は衰えを隠せないものの)再び広く敬意を集めているが、
トシちゃんは「復活」するのか。鍵となるのはおそらく、トークショウ中に岡野さんが何度か発言していたことだが、
「アイドルの地位」にあると思う。「1980年代当時はアイドルの地位が不当に低かった」と岡野さんはおっしゃる。
確かにそういう捉え方はできるだろうが、アイドルをめぐる評価軸じたいが揺れ続けていることの方が問題だと僕は思う。

サッカーが(日本代表に対する視線を見れば)まだまだミーハーな興味から完全に抜けきっていないとはいえ、
じっくりと裾野を広げるとともにカズの再評価を実現してきたことを考えると、「サッカー選手の地位」は上がった。
では「アイドルの地位」、それを受け止める日本の芸能界、正確に言えば「ショウビジネスの成熟度」というものは、
この40年で上がったのか? トシちゃんは現役のアイドルだからこそ、その指標となりうる絶好の存在と言えるだろう。
サッカーという世界で選手を現役でがんばる「カズ」こと三浦知良が、もはや揺らぐことのない評価を受けているように、
日本の芸能界でアイドルを現役でがんばる「トシちゃん」こと田原俊彦が、本当の「復活」を果たす日が来るのかどうか。
これはつまり、田原俊彦という偶像を通して、われわれのショウビジネスへの視線が試されている、ということだろう。


2018.11.25 (Sun.)

休日おでかけパスを利用して、御守と市役所を求めて日帰りで軽くお出かけすることにした。
まず向かったのは高尾山。8年前に姉歯メンバーで登っているのだが(→2010.5.3)、御守は頂戴していなかった。
そんなわけで朝イチで高尾山口駅に下車。知らないうちにオサレなデザインに変わっていて茫然としてしまった。

 
L: 高尾山口駅。8年も経てば変わってしまうものなのか。  R: 今回は迷わずケーブルカーに乗る。こっちは変化なし。

8年前の経験で高尾山は最初がいちばんキツいとわかっているので、迷わずケーブルカーに乗ってさっさと頂上へ。
しかしケーブルカーだと登山としての風情は皆無ですな。山の中にある寺へのただの参拝にすぎなくなってしまう。
前回はとんでもねえ混雑だったが、今回は理性的な人数。いい機会なのできちんと建物の写真を撮っておく。

  
L: まずは浄心門。  C: 抜けると神変堂。  R: 石段の男坂とスロープの女坂に分かれる地点。

面倒くさいので男坂でさっさと薬王院を目指す。うっすらと8年前のことを思い出しながら先へと進んでいく。
しかし高尾山は寺への参拝としては雰囲気があっていいが、登山としてはやはりあまり面白くないなあと思う。
どこか日常に続いてしまっているのだ。そして自然の中でちっぽけな自分と向き合う要素がないのもイマイチ。

  
L: 山門。今回はきっちり撮ってみた。  C: 左右に授与所。やる気ですなあ。  R: 御本堂。

御守を頂戴するが、いちおう周辺の建物もテキトーに撮影していく。しかしあまりにテキトーすぎて奥之院をスルー。
いつかリヴェンジしてきちんと撮影する日は来るのだろうか。少なくとも姉歯メンバーとはもうなさそうだな……。

  
L: 大師堂。  C: 御本社。幣殿と拝殿は1753(宝暦3)年の築。  R: 本殿。こちらは1729(享保14)年の築。

せっかくなので、高尾山駅の近くにある展望レストランの辺りから景色も眺めて撮影しておく。
すっきり見えるのは八王子駅ぐらいまでだが、GW真っ只中で霞んでいた8年前よりはいい感じである。

  
L: 北を見れば中央道と圏央道が交差する八王子JCT。実家に帰るときには意識していなかったけど、高尾山から見えるのね。
C: 東を眺める。  R: 高尾駅から先の市街地をクローズアップ。甲州街道のイチョウ並木が目立っているなあ。

御守が頂戴できたので下山。高尾山口駅まで戻ってくると、高尾山トリックアート美術館の前に大きな鳥居がある。
これは高尾山麓氷川神社のもので、神社らしい雰囲気はあまりないのだが、よく見ると確かに駐車場が境内だ。
もちろんこちらにも参拝して御守を頂戴する。小規模な神社だがいくつか種類があって、やる気なのがうれしい。

  
L: 高尾山口駅と高尾山トリックアート美術館の間にある高尾山麓氷川神社の一の鳥居。内側から見た角度で、神社はこの左側。
C: 境内に入るが、ほぼ完全に駐車場となっている。場所が場所だけにしょうがないのか。  R: 車の間を抜けて拝殿へ。

高尾山での時間が読めなかったので、かなり余裕を持って予定を組んでいた。意外にあっさり任務を完了できたので、
氷川神社の南にある温泉施設に突撃する。京王電鉄が運営していて駅に直結。早い時間だがそれなりに客がいた。
朝から晴天の下で浸かる温泉は非常にいいものでございました。おかげでこりゃあ最高に贅沢な休日でございますな。

 
L: 高尾山麓氷川神社の本殿。  R: 京王高尾山温泉 極楽湯。昼からはアホみたいに混雑するんだろうなあ。

すっかりいい気分で高尾駅に戻ってくると、中央本線でさらに西へ。実は私、猿橋に行ったことがないのだ。
日本三奇橋に数えられているというのに、中央本線に乗るたびにスルーしていて毎度毎度なんだか申し訳なくて。
それで今回、ちょうどいい機会なので行ってみることにしたのだ。猿橋駅があるので近いと思ったらそんなことはなく、
20分ほど東へ戻る感じで歩いてようやく到着。交通量の多い国道20号をトボトボ歩くのは地味につらかった。

  
L: 猿橋の入口。何もかもがコンパクトな山梨県らしい、小ぢんまりとした印象の観光地である。
C: 橋の手前はこんな感じ。  R: 橋の脇には祠がある。鳥居の扁額には「山王宮」とある。

ではいざ、猿橋を渡ろうではないか。全長30.9mということで、いざ歩いてみたらあっという間なのであった。
まあそれは当たり前の話で、崖の幅が狭いところを選んで橋脚を使わない構造の橋を架けているのである。
だから橋からの眺めはあまりよろしくない。むしろ猿橋は下から近づいて見て面白がるのが正しい味わい方なのだ。

  
L: これが猿橋だ! この角度だと本当にただの橋にしか見えない。  C: 近づいてみた。やはり何の変哲もない。
R: 橋の途中から東を向くとこの光景。崖の下を流れるのは桂川。神奈川県に入ると「相模川」と名前を変える。

というわけで、猿橋を見上げることができるので、そちらのスペースへ。なるほど、構造を横から見ると面白い。
岩盤に板を食い込ませて、その上に板を重ねていくことでアーチとしているわけだ。地元の伝承によるとこの構造は、
百済からの渡来人・志羅呼が、猿が互いに体を支え合い橋をつくったのを見て思いついたという。それで「猿橋」。
かなりの歴史があると思いきや、今の猿橋は1984年にH鋼を台湾産のヒノキで覆って復元したものだそうだ。

  
L: 横から見た猿橋。なるほどこの構造は面白い。  C: 近づいて見たところ。  R: 西に架かる新猿橋から見る。

まあだからといって、猿橋が独特な構造を持った貴重な橋であることに変わりはないのである。
むしろ永続的にこの橋を見られることを喜ぶべきなのだろう。ようやく実物を見られてすっきりした。

 新猿橋の欄干には橋をつくる猿たちがデザインされている。いい工夫である。

猿橋を後にすると、東に戻って上野原駅で下車。山梨県では最後に残った市役所、上野原市役所を押さえるのだ。
しかしいざ上野原に来てみると、かなり特徴的な街である。駅と市街地の高低差が、とにかくものすごい。
これは市街地が桂川(相模川)の河岸段丘上にあるためだが、沼田(→2010.12.26)に負けない極端さなのである。

  
L: 上野原駅の北口。とんでもねえ坂の途中に出入口がある。かつてはここにバスターミナルがあったそうだ。
C: 上野原駅のホームを見下ろしたところ。線路そして駅の南口と、これだけの高低差がある。びっくりだ。
R: 駅から市街地へ行くのに、私はなぜこのような道を歩いているのだろうか? 思わず首を傾げてしまう。

市役所へと向かう途中、中央道の上を陸橋で通る。中央道は河岸段丘の端を掘り下げて走っている格好なのだ。
いかにも甲斐国らしい地理的な面白さをまさに体感できる街だなあと思いつつ、市街地のメインストリートへ。
国道20号、甲州街道である。甲州街道というと都内では大幹線道路だが、上野原だと完全に昔の街道のスケール感。
かつての上野原宿の雰囲気を残したまま商店街になったのがよくわかる。弱り気味だが、古びてはいない感じだ。

  
L: 河岸段丘の端を行く中央道。上野原ICは市街地と駅の間にあり、非常に近くて便利そうだ。上りが大渋滞中。
C: 甲州街道沿いの商店街。上野原宿の雰囲気が残る。  R: 1924(大正13)年築の大正館は元映画館で今は倉庫。

Y字路を南に行って河岸段丘の西端へと向かっていくと、その手前にあるのが上野原市役所である。
石本建築事務所の設計で2004年に上野原町役場として竣工しているが、市制施行はその翌年の2005年のこと。
オープンスペースを挟んだ西側に文化ホールの「もみじホール」を併設しているのが最大の特徴だろう。

  
L: 南東から見た上野原市役所。なんともいえない色である。  C,R: 近づいてエントランス。こちらが市役所側。

  
L: 東側の側面。  C: 逆光と戦いながら北東側から眺める。  R: 北西から。こちらはもみじホールとなる。

  
L: 敷地内から見た背面。  C: 北西から側面を中心に。  R: 西側の側面。もみじホールである。

  
L: 建物の西側には池がある。  C: 南西から見たもみじホール。  R: 甲州街道を挟んで全体を眺めたところ。

一周を終えるとオープンスペースに入ってみる。なんだか先日訪れた野々市市役所と似た感じだ(→2018.11.18)。
ただ、こちらの方がコンパクトな印象である。僕はそこに「山梨県らしさ」を勝手に感じてしまうわけだが。

  
L: 西のもみじホール、東の上野原市役所の間はこのようなオープンスペースとなっている。野々市市役所っぽい。
C: オープンスペース内に入ってみる。  R: 中から東を向いたところ。こちらが上野原市役所となる。

  
L: 反対に西を向いたところ。こちらがもみじホールで、エントランスは向かって右奥となる。
C: 中を覗き込んでみた。これは「コ」の字の中央部で、市役所の窓口となっている。手前は待合ロビー。
R: 市役所側のエントランスホール。さっきの市役所玄関から入るとこんな感じ。開放感がかなりある。

色合いのせいでちょっと安っぽい印象の建物だが、中を覗き込んでみるに、明るくて広々としている。
市役所にホールを併設して公共性を高めたことがいい方向に出ている市役所ではないかと思う。

撮影を終えて駅に戻るが、甲州街道から少し入ったところにある牛倉神社に参拝する。
旧郷社で創建は不明だが、『甲斐国風土記』に「古郡幸燈明神」として記載されているとのこと。
祭神は稲荷系の保食神を筆頭に、祇園系の須佐之男命、春日系の天児屋根命・武甕槌命・経津主命の5柱。
「牛」が名前にあるので祇園・牛頭系かと思ったが、それがメインというわけではなさそうだ。

  
L: 甲州街道に面する一の鳥居。  C: 進んでいくと境内入口。  R: 神楽殿。境内は広場っぽくなっている。

甲州街道の上野原宿はきゅっと密度の高い商店街になっているが、そこから一歩南に入った牛倉神社の境内は、
木々に包まれているものの広場のような印象である。9月の例大祭は郡内三大祭に数えられているそうだが、
この境内はなかなかいい感じの舞台空間となりそうだ。奥の授与所で無事に御守も頂戴できてよかった。

  
L: 牛倉神社の拝殿。昔の社殿を模して明治に再建されたそうだが、千鳥破風が縦に並んで実に独特である。
C: 拝殿と本殿を横から見たところ。  R: 木をよけて本殿を眺める。それにしても公園みたいな境内だ。

上野原駅に戻ってくると、今年4月に整備が終わったばかりの南口に出て昼メシをいただいた。
あらためて桂川に近い南口から見ると、上野原駅の特殊性がよくわかる。上野原駅は5階建てのビルに見えるが、
中身はエレヴェーターと階段のみなのだ。本当にとんでもない高低差がある。なお、かつては駅と中央道の間、
まるで盲腸のような印象の河岸段丘の端っこに、関山遊郭という遊郭があった。1900(明治33)年につくられ、
中央本線の建設や戦後の進駐軍相手に威力を発揮したそうな。今は完全に静かな住宅地となっている模様。

  
L: 南口から見る上野原駅。実態は駅ビルではなく昇降棟なのがすごい。  C: 南口を見下ろす。きれいに開発されている。
R: わかりますかね? 島式ホームの真ん中が建物になっていて、各ホームに出る直前にそれぞれ改札があるという特殊な構造。

上野原を後にすると東京に戻る。立川で南武線に乗り換え、府中本町で下車。目指すは大國魂神社だ。
3年前にも参拝しているが(→2015.1.24)、武蔵国総社ということであらためて御守を頂戴するのである。
府中本町駅から大國魂神社の本殿までは直線距離で200mほどだが、さすがにきちんと旧甲州街道まで出て参拝する。
そしたら参道の脇には屋台がびっしり。お祭りとぶつかってしまったようで、境内はかなりの人出なのであった。

  
L: 旧甲州街道に面した大國魂神社の境内入口。今日は三の酉ということで、大鷲神社例祭である模様。
C: 拝殿前もこの混雑ぶり。  R: 3年前とは違う角度で本殿を見ようとするが、イマイチすっきり見えず。

無事に御守を頂戴すると、今度は京王線で聖蹟桜ヶ丘へ。3年前に自転車で大國魂神社と同日に参拝した小野神社へ。
こちらも御守探索が目的の参拝である。前回は真冬の参拝だったので寒々しかったが、晩秋だと厳かな雰囲気である。

  
L: あらためて小野神社の境内入口。武蔵国一宮としての風格を感じさせるなあ。  C: 随神門。  R: 境内を行く。

  
L: 拝殿。  C: 角度を変えて眺める。  R: 本殿。相変わらず朱塗りが鮮やかである。

ではいざ授与所へ。氷川神社に一宮の地位が移ってしまった感があるとはいえ、都内で一宮なので参拝客はそれなり。
御朱印を求める人が絶えることなく現れる感じなのだ。そんな状況を反映してか、御守も種類豊富に用意されている。
今回は東京都民として主要な御守を押さえるべく訪れたのだが、「ふつうの御守」もいくつかあって、あらためて困った。

 小野神社は御守の種類が豊富なんだよなあ。

これで本日の日帰り旅行はおしまい。御守も市役所も、さらに温泉まで、しっかり堪能させていただきました。

夜は田原町にある書店でマサルが関わるトークショウに参加。詳しい内容については明日の日記で書きます。


2018.11.24 (Sat.)

平畠啓史『平畠啓史 Jリーグ54クラブ巡礼 ~ひらちゃん流Jリーグの楽しみ方~』。
おそらく真の芸能界一のサッカー通であるDonDokoDon(と言っていいのか……)平畠氏によるJリーグクラブガイド。
平畠氏は昨年観戦した鹿児島の試合で見かけており(→2017.8.19)、話しかけときゃよかったなあと思いつつ購入。

冒頭に川崎の中村憲剛との対談があり、その後は各クラブごと4ページの配分で北から南へと順に紹介が続く。
4ページの前半2ページはカラーで写真を多用したガイド。各クラブの初ゴールを記録した選手を載せているのが独特だ。
そして後半の2ページはモノクロのコラム。その土地で出会った人々や平畠氏本人の思い出などが丹念につづられる。
サッカーとそれぞれの土地に対する平畠氏の愛情と敬意がページの全面にとにかくあふれているつくりで、
しかもそれが54クラブ分ということで、読みはじめるとその意外なヴォリュームに驚くばかりである。
Jリーグ誕生から25年、日本全国に54ものクラブが根付いていること自体にまずびっくりさせられるのだが、
そのひとつひとつに惜しみなく愛情を注ぐ平畠氏の熱量もまたとんでもないものがある。ただただ尊敬するよりない。

なんだかんだで僕も、市役所・神社とともに全国各地のJリーグのスタジアムをまわっている。
しかも、支持するクラブもないままにまわっており、ホームにもアウェイにも均等な視線で試合を観戦し続けている。
これは平畠氏とほぼ同じだが、この本を読んで思ったのは、まだまだ僕にはサッカーへの純粋な愛情が足りないってこと。
やはり市役所と神社に気を取られている分、Jリーグクラブへの愛情が薄いのである。言い換えると、観察者でしかない。
平畠氏がより深くクラブを支える人々と関わっているのに対し、僕の興味はあくまで表層、社会学的な冷ややかさなのだ。
サポーターがクラブに「狂う」のと同様、平畠氏はより深く、サッカーとサポーターに「狂う」ことができている。
その純粋さがとてもうらやましい。そしてこの本は、そんな平畠氏の貴重な経験をしっかり分かち合える仕上がりなのだ。
自分のクラブと同様に、他者のクラブにも物語がある。最大限の愛情と敬意をもってそれらを紹介する、見事な労作だ。


2018.11.23 (Fri.)

昨年も敢行された夜通し歩く大会(→2017.11.252017.11.26)の冒頭だけ参加する。さすがに全編は無理ですよ。
スペシャルに長いルートだった昨年と違い、今年は良心的な距離であるらしいが、ダメージが大きいことに変わりない。
しかし誰だ、この企画を考えた奴は。せめて3年に一度くらいなら喉元過ぎれば熱さ忘れるパターンで参加してもいいが、
毎年やるとかいいかげんにしてほしい。よく考えたら教員を巻き込む必然性もないし。正直いろいろ疑問があるなあ。


2018.11.22 (Thu.)

韓国の慰安婦財団が解散とかなんとか。功を焦って変な合意なんかするからだろバーカ、と心底思う。
国益をきちんと考えられないんだから、同じようなことが北方領土でも起きるんじゃないのかね(→2018.11.15)。
これで「保守」とか頭おかしいだろオイ(→2018.11.2)。すべてが軽い。すべてが軽薄。何もかもが浅薄。


2018.11.21 (Wed.)

テスト期間なので一日休みを頂戴する。平日だし、青春18きっぷの時期でもないし、どうすべえか。
一宮の御守確認を前提として考えた結果、鹿島神宮と香取神宮、プラス利根川下流水郷エリアの市役所めぐりに決定。
6時50分に東京駅八重洲南口を出発するバスに乗り込み、一気に鹿嶋市役所へ。これがいちばん便利なんだよなあ。

  
L: というわけで6年ぶり(→2012.7.21)にやってきた鹿嶋市役所。鹿島町役場として1969年に竣工。
C: まず南側の第1庁舎をクローズアップ。  R: 工事中のようだが気にせず南東側から撮影。

  
L: 北東から見た鹿嶋市役所第1庁舎。  C: 右を向くと第2庁舎。  R: 東側、正面から見た第2庁舎。

  
L: 北にある保健センター。  C: 北西から見た第2庁舎。側面と背面になる。  R: 西のコンビニから見た第2庁舎背面。

  
L: 北西から見た第1庁舎。  C: 南西から見た第1庁舎。  R: 南から見た第1庁舎。手前が思いっきり工事中だ。

 
L: 第1庁舎の中に入ってみた。  R: 待合スペース。後ろで耐震補強をうまくごまかしている。

鹿嶋市役所の撮影を終えると、鹿島神宮目指して歩きだす。市役所から見て鹿島神宮は北西600mほどの場所にあるが、
境内が広いので表参道から入ろうとすると大きくまわり込むことになり、道のりが約2kmに膨らむ。実に大変である。
えっちらおっちら歩いていくが、正直その広大さにイヤになる。荒野に放り出された感覚になってしまう。

 国道124号。歩行者の姿はほとんどなく、圧倒的に車ばっかり。

去年書いたように、茨城県は本質的に土地がありあまっている郊外社会なのだ(→2017.7.292017.7.30)。
同じ北関東でも、群馬・栃木とはまったく異なる感触である。この粗放的な感覚は、茨城独特のものだ。
鹿嶋市役所周辺に店舗は点在しているものの、商店街と呼べるほどの密度は感じられない空間である。
鹿島神宮駅の周辺も店舗らしい店舗はない。結局、茨城県がどこも徹底的に郊外社会となっているので、
「中心市街地」が意識されなくても特に問題はないのだ。茨城県民の空間感覚はたぶん北海道民のそれに近い。
よく「最寄駅は東京駅」と揶揄されるカシマサッカースタジアム(→2007.12.82012.7.212017.7.29)も、
この空間論理の感覚上にある。この土地で成立している鹿島アントラーズとは、きわめて茨城県的なクラブなのだ。

  
L: 鹿島神宮への参道。門前町にしては密度が薄く、どこかスカスカしている。そのスカスカが駐車場になっているのだ。
C: 鳥居。なんか4年前の前回参拝時と色が違うが? そんなにすぐに汚れるの?  R: 相変わらず見事な楼門である。

そんなことを考えている間に鹿島神宮に着いた。通算4回目の参拝なのだ(→2007.12.82012.7.212014.8.30)。
天気もいいし、平日ということでスイスイ撮影できるのがうれしい。写真を撮ってまわると御守をチェック。

  
L: 鹿島アントラーズの選手・スタッフによる必勝祈願の絵馬。やはりレジェンドの名前に圧倒されるなあ。
C: 仮殿。現在の社殿を造営する際、先につくられた。  R: 奥宮へ通じる奥参道はいつ見ても荘厳である。

今回は非常にいいコンディションで撮影できて満足である。部活用にカード型勝守も頂戴したし、バッチリなのだ。
この後はバスの予定がかっちり決まっており、あまり余裕ぶっこいていられない。参拝を終えると素早く鹿島神宮駅へ。

  
L: 拝殿。  C,R: 本殿を左右からそれぞれ眺める。なお、拝殿から本殿の間には、石の間と幣殿がある。

鹿島神宮駅に着いたが、列車には乗らない。鹿嶋・潮来・行方の3市を走る鹿行広域バスで、次の目的地を直接目指す。
鉄道だけだと動きがかなり限られてしまうが、ありがたいことに補完してくれるバスがある。駆使してやるのだ。

 
L: 鹿島神宮駅。でも今回はバスなのだ。  R: バスで北浦を横断。潮来市に入る。

潮来市役所入口のバス停で下車する。少し歩くと国道51号、そして潮来市役所である。2回目の訪問だ(→2012.7.21)。
潮来町役場として1967年に竣工している。6年前の写真と比較してみたら、がっちりと耐震補強が施されていた。

  
L: 潮来市役所。まずは敷地の外から撮影。  C: 南東、正面から見たところ。  R: 近づいて南側から撮影。

  
L: 東から見たところ。  C: 北東から見た側面。  R: 北から見たところ。

  
L: 本庁舎の北側にくっついている棟。  C: 西にある第1分庁舎。  R: 第1分庁舎を南西から見る。

  
L: 本庁舎と第1分庁舎の間に入り、西から本庁舎を見たところ。  C: 一周して本庁舎のエントランス。  R: 中の様子。

実にふつうに役所なのであった。撮影を終えると潮来駅まで歩いていくが、国道51号から少し奥まって神社がある。
素鵞(そが)熊野神社ということで、スサノオ系と熊野系を合祀したと思われる。立派だが、ひと気がなかった。

  
L: 素鵞熊野神社の境内入口。入ってすぐ左に潮来の大ケヤキ。  C: 石段を上って拝殿。幅があり、なかなか独特。
R: 本殿は板壁で覆われていた。立派な額殿があるなど潮来のプライドを感じさせる神社だが、非常に静かだ。

前川の方に出ると、何やら工事中。周辺は津軽河岸というらしいが、公園のような形に整備しているようだ。
大谷石造りの石蔵は津軽藩のものだったそうで、それで津軽河岸というわけだ。向かいには古民家の磯山邸。
完成すれば、往時の歴史を感じられるなかなか面白い場所になりそうだ。素鵞熊野神社も活性化するといいなあ。

  
L,C: 大谷石造りの石蔵。けっこうしっかり手を入れているように見受けられるが、さすがの迫力である。
R: 磯山邸。1899(明治32)年築の住宅とのこと。これまた見た感じ、かなりきっちりリニューアルされているが。

  
L: 鳥居の先には前川に架かる天王橋。つまりは素鵞熊野神社の一の鳥居だ。  C: 天王橋から見下ろす前川。
R: 工事中の津軽河岸周辺を眺める。手前側は前川あやめ園になるのかな。アヤメの季節にはどうなるんだろうか。

トボトボ歩いて潮来駅に到着するが、やっぱり列車には乗らない。というか、ここからはバスでないと行けないのだ。
今度は鹿行広域バスの「白帆あやめライン」に乗る。ちなみにさっき乗った鹿嶋-潮来の路線は「神宮あやめライン」。
「神宮=鹿嶋」で「あやめ=潮来」というわけだ。では「白帆」はというと、これが次の目的地である行方を指す。
かつて霞ヶ浦と北浦のワカサギ漁で活躍した、白い大きな一枚帆の帆引き船を、行方市の象徴としたわけだ。
そんなわけで、25分ほど揺られて麻生公民館のバス停で下車。少し北上すると、行方市役所の麻生庁舎に到着する。

  
L: 県道2号から見た行方市役所麻生庁舎。  C: 南西、正面から見たところ。  R: エントランスに近づいてみる。

行方(なめがた)市は、行方郡の麻生町・玉造町・北浦町の3町が合併して、2005年に誕生している。
西の霞ヶ浦と東の北浦に挟まれたエリアが、まるごと行方市となったわけだ。しかしおかげでイマイチ核がない。
市役所についても旧町役場をそれぞれ分庁舎として、できるだけ差がつかないように扱っている感じである。
こういうパターンがいちばん困る。それでも麻生庁舎がメインの扱いであるようなので、今回やってきたしだい。

  
L: 南から見る。不自然な位置に植栽があるが、これは敷地南側にある別棟の位置に、かつての麻生町役場があったから。
C: 南東から見た側面。  R: まわり込んで東から見た背面。正直かなり地味で、新庁舎として建てられた感じは薄いなあ。

麻生庁舎はもともと町役場であるにしても、2階建てとはずいぶん慎ましい。かつては1965年竣工の旧庁舎が南にあり、
1991年竣工の現庁舎が完成した後も使われていた影響だろう。ネットで調べてみたところ、東日本大震災により、
行方市麻生庁舎の第2庁舎が全壊した、という記述があった。現庁舎が竣工した際に旧庁舎を第2庁舎としたのか?

  
L: 北東から見た背面。  C: 北から見たところ。  R: 県道2号に面している北西側の側面。

中に入ってみると窓口はあるが、メインの市役所というよりは、支所っぽいゆったりとした雰囲気。
分庁舎方式を採用しているにしても、かなり閑散としている印象である。市長室と主要窓口に特化しているのか。

  
L: 中に入るが、なんだかちょっとゆったりしている雰囲気。  C: 待合スペース。平日だけど人がいない。
R: 鹿島アントラーズのAFCチャンピオンズリーグ優勝を祝うのはいいが、もうちょっと場所を考えようか。

これでいちおう行方市役所は押さえた、ということになるわけだが、どうにもしっくりこない。
玉造や北浦の方もきちんと様子を見ないと「行方」という場所を理解できないんだろうな、と思う。
でも行方市内をまわる市営のバスはルートが分断されていたり本数が少なかったりで、チャレンジが難しい。
やはり茨城県に適応するには自動車が必要なのである。あらためてその事実を突きつけられた気分だ。

  
L: 別棟。こちらにかつての麻生町役場があった。東日本大震災で全壊してこの別棟を建てた、と思われるが。
C: 敷地の東側にある行方市麻生保健センター。  R: 駐車場の端っこにあった観光帆引き船の案内板。なるほど。

バスの時刻までだいぶ余裕があるので、周辺を見てまわる。麻生は江戸時代には麻生藩が存在していた場所だ。
もともと高槻城主だった新庄直頼が関ヶ原で西軍に属したため改易。しかし文武に優れて人格も評価されており、
家康に許されて麻生藩を立藩したとのこと。その後、無嗣断絶になりかけるが、幕府が許して1万石で明治まで存続。
そりゃあよっぽど人格的に優れた家柄だったんだなあと思わされるエピソードである。そんな愉快な麻生藩だが、
藩庁となっていた麻生陣屋は現在、麻生小学校となっている。地図で見ると敷地の形がはっきり残っていて面白い。
その南東には家老・畑家の武家屋敷が麻生藩家老屋敷記念館として残っている。中を覗き込んだら屋根が見事だった。

  
L: 麻生藩家老屋敷記念館の門。本日は残念ながら閉館日。  C: 根性で覗き込んだ麻生藩家老屋敷記念館。屋根がすごい。
R: 麻生陣屋跡の麻生小学校。藩校・精義館が設置されて以来、小学校→高校→小学校と、一貫して学校として利用されている。

しばらく麻生の街を歩きまわるが、正直なところ「街」と言えるレヴェルではない。住宅に商店がたまにあるだけ。
これが「市」の商店街かよ、と呆れるが、これもまた茨城県の郊外社会ゆえのことなのだろう。ニンともカンとも。
しかしモーレツに腹が減ったので、メシは食いたい。幸いなことに麻生の中心部には飲食店がいくつかあって、
外見的には少々バラック感のある食堂にお邪魔した。でも出てきたラーメンは正統派でおいしゅうございました。

  
L: 麻生陣屋大通り商店街。大通り? 商店街?  C: 国道355号に出てみたが、雰囲気はあんまり変わらないのであった。
R: 見てのとおりの味。期待どおりの味。結局はこういうラーメンがいちばんうれしいわけである。余は満足である。

麻生庁舎に戻って関鉄グリーンバス・あそう号に乗り込む。東京駅と鉾田を結ぶ高速バスなのだが、
主要なバス停では乗降扱いをしており、うまく使えば利根川下流の水郷エリアを効率よく動くことができるのだ。
というわけで東京駅には戻らずに佐原駅で下車。佐原も3回目だが(→2008.9.12014.8.30)、いいものはいい。
今回は駅前案内所でレンタサイクルを確保して、佐原の街並みはもちろん、市役所から香取神宮まで押さえるのだ。

 
L: 4年前と比べて駅の周囲がだいぶ垢抜けた感じに整備されている。  R: 駅前の伊能忠敬像。

まずは香取市役所から。10年前には防災の日で避難訓練中だったが、今日はふつうにお仕事中である。
その10年前には写真1枚だけだったので、今回は徹底的にあらゆる角度から写真を撮りまくるのであった。
北にある水路を挟んでぐるっと一周して撮影。香取市役所は、1996年に佐原市役所として竣工している。

  
L: 南側、県道2号から見た香取市役所。  C: 敷地内の駐車場、正面から見たところ。  R: 近づいて南から見上げる。

  
L: 南西から見た側面。  C: まわり込んで背面、西から見たところ。  R: 水路を挟んで北から見たところ。

  
L: 北東から見た側面。手前は香取市佐原保健センター。  C: 東から見たところ。  R: 正面に戻って東から見たところ。

  
L: 中に入ってみる。  C: 2階に上がる階段から見たところ。吹抜ホール部分を横から見るとこうなっているわけだ。
R: 佐原消防署。榎本建築設計事務所の設計で2014年に竣工。建物じたいはシンプルだが外装をオサレにしている感じ。

だいぶ日が傾いてきたので、少し急いで佐原の街並みへ。相変わらずの時代劇のセットそのままのような雰囲気で、
これだけ長い距離を木造の建物が並んでいる光景に、やはり感動してしまう。自転車で素早く通過するのが申し訳ない。
なお、佐原は1892(明治25)年に大火があり、現在残っている建物の多くはそれ以降の建築とのこと。

  
L,C: 佐原の街並み。小野川沿いに古い建物がずっと並んでいる。  R: 「だし」と呼ばれる階段。川から荷物を揚げるのだ。

  
L: 忠敬橋たもとの中村屋商店は1855(安政2)年の築。現在は宿泊施設となっているようだ。  C: 忠敬橋から北を眺める。
R: 小野川と忠敬橋で交差する県道55号。右の建物は1914年(大正3)年築の佐原三菱館(旧三菱銀行佐原支店旧本館)。

では香取神宮を目指すのだ。県道55号を東へ爆走していると、途中で八坂神社の前を通る。当然、参拝する。
調べてみたらこの神社、実は非常に面白い習慣があり、なんと表参道が1年おきに交代するのだそうだ。
かつては西から本殿に向かう参道しかなかったが、明治になって社殿を改造した際に南の県道との間に参道を整備。
それで1年おきとしているそうだが、残念ながら今年はどっちが表参道なのかわからない。神社も無人でございました。

  
L: 八坂神社の境内入口。言われてみれば確かに妙に奥まっている感じ。  C: 拝殿。  R: 本殿。

気を取り直してさらに東へ。進んでいくと香取神宮の一の鳥居があるが、なかなかの混雑。道が昔ながらで狭いのね。
10年前には「山車会館から香取神宮まで2.2kmなんてウソだー!」なんてウンザリしながら歩いたが(→2008.9.1)、
自転車だと本当にすぐに到着できてしまう。レンタサイクルが全国的に広がっているのは本当にありがたいことだ。

  
L: 香取神宮の一の鳥居。  C: 一の鳥居から5分足らずで到着である。自転車って便利。  R: 門前の商店街。

  
L: 駐輪して商店街を行く。午後3時をまわったので、ちょっと消化試合モード。よく考えたら今日、平日なんだよな。
C: 二の鳥居。いざ参拝である。  R: 鳥居をくぐると曲がる坂道の参道。石灯籠の数が香取神宮の威厳を物語る。

  
L: 参道を進んでいくと三の鳥居。  C: 鳥居の脇にある神池。  R: 楼門前では菊祭りなのであった。

それではいざ参拝である。参道の坂道を上りきると総門、そして楼門。どちらも朱塗りであるのに対し、
拝殿と本殿は黒漆塗り。本殿は徳川綱吉造営で、なるほどいかにも家光好みを追った感触がする。
そしてやはりその本殿に合わせて建てられた拝殿もまた見事である。黒と装飾のバランスがいいのだ。

  
L: やっぱり見とれてしまう拝殿。  C: 綱吉による本殿。  R: 後ろから本殿を眺める。

参拝を終えると、総門を抜けないで旧参道で帰る。鹿島の凹型要石は見たことがあるが(→2012.7.21)、
凸型だという香取の要石はまだだ。というわけで、ちょいと拝見。なるほどギリギリ露出している鹿島とは対照的だ。

  
L: 要石。こんな感じで保護されている。  C: 覗き込んで見た香取の凸型要石。  R: 旧参道をさらに行く。

さらにその先には主祭神である経津主大神の荒御魂を祀る奥宮。位置的には本殿の手前なんだけど、あくまで奥宮。
木々に囲まれた静かな一角に鎮座しており、拝殿・本殿方面と比べると非常に簡素。でも威厳に満ちた雰囲気がある。

  
L: 奥宮の入口。  C: 奥宮。1973年に伊勢神宮が遷宮した際の古材とのこと。  R: 角度を変えて眺める。

というわけで、たいへんすばらしい平日休みとなったのであった。佐原駅まで戻って自転車を返却すると、
関鉄グリーンバス・あそう号で一気に東京駅へ。バスで水郷に出かけるのも楽しゅうございますね。


2018.11.20 (Tue.)

僕がこの世でいちばん嫌いなもののひとつに、MSゴシックがある。何の工夫もない野暮ったいゴシック。最悪だ。
そういう美的感覚でもってテストをつくっているので、当然フォントの使い分けには少しこだわりが出ているわけで。
いつもはAdobeでおなじみの小塚ゴシックをメインにしている。デザイナー界隈では評判がよろしくないものの、
タダで使えてウェイトもいろいろ、使い勝手がいい。アルファベットも見やすい。プロでない僕にはありがたい存在だ。

しかし今回、小塚ゴシックの「さ」が読みづらいという指摘を受けた。なるほど、「さ」は評判の悪い文字のひとつだ。
僕自身はそんなに違和感はないが、いちおう調べてみることにした。そこから1時間にわたりフォントの宇宙をさまよう。
現実世界に戻ったときには、ゴシック業界もいろいろ大変ねえ、とヘロヘロになっていたのであった。

それじゃあいろいろ試してみよう!ということで、今回のテストでは游ゴシックをメインにしてみた。
組んでみたら、実にふつうだ。ふつうに出版物っぽくて問題集っぽい。地味にすら感じる。いい意味でしっくりくるが、
冒険心が足りない。テストにポップさを求める僕としては、なんだか物足りない仕上がりとなった。見事に無難だけど。
サンプルの文字を見るのと実際に文章で組んで仕上げてみるのとでは、印象は大きく違ってくるものだと実感させられた。
次回は王道のヒラギノにしてみようかと思う。10年くらい前に、調子に乗って買っちゃったやつがあるので。

宇宙をさまよった結果、個人的に興味を持ったのはAXIS。でも高いのよね。Tazuganeも気になるぜ。いやあ奥が深い。


2018.11.19 (Mon.)

気多大社の境内で作業していた甲斐もあって、無事にテストをつくり終えた。よかったよかった。

仕事帰りに池袋の東急ハンズへ。目的は手袋である。ハンズで売っているやつが使い勝手がいいのだ。
ポケットに入れたり出したりをやっているうちになくすことを毎年繰り返している。今度はなくさない。


2018.11.18 (Sun.)

石川県旅行の2日目は、金沢を離れて動きまわってみる。最終目的地は、重要伝統的建造物群保存地区の白峰だ。
でもそこへ至るまで、2つの市役所を訪問する。昨日と違ってすっきり晴れて、なかなかいい感じのスタートである。

  
L: 金沢駅に到着。  C: 鼓門。  R: もてなしドーム内。朝早いとすっきり撮影できていいですなあ。

まずは7時を目処に金沢駅へ。吉野家の牛丼をいただくが、金沢の朝はなぜか吉牛比率が高い気がする。
まあとにかく、栄養補給すると移動開始だ。昨日は金沢駅から東へ行ったが、今日は西。こちらはまだ北陸本線。
3駅揺られて松任駅で下車。目指すは白山市役所だ。かつては松任市だったが、2005年に合併で白山市となった。

 駅からすぐの松任城址公園。石垣の一部が再現されて残るのみ。

松任駅の南口はかなり大掛かりな再開発がなされたようで、広々とした道に新しめの公共施設が整備され、
旧市街らしい面影はほぼない。南を走る国道8号の影響もあって、街全体が郊外社会化の波に呑まれたようだ。
市町村合併で「松任」の名前が消えて「白山」と広域化したのも、それを加速するできごとだったのではないかと思う。

  
L: 市民工房うるわし。既存の建物を改装した施設で、美術工芸方面に特化している模様。  C: 白山市松任文化会館ピーノ。
R: 駅から南に延びる中央通り(県道187号)。かつては複数の商業施設を中心とする街だったそうだが、その面影はほぼない。

カーヴを抜けた広小路の交差点あたりで東西方向に商店街が現れる。公共施設群によりむしろ駅から分断された印象で、
城下町から郊外へと空間がドラスティックにつくり変えられている、その最も劇的な瞬間を見ているんじゃないかと思う。
さらにどんどん南下していくとラスパ白山というショッピングモールがあり、道を挟んだその向かいが白山市役所。
規模はかなり大きく、真ん中がすっぽり開いてゲート状になっており、初見ではとても市役所とは思えない斬新さだ。

  
L: 南側から見た白山市役所。こちらが正面であるようだ。  C: 少し角度を変えて全体を眺める。  R: 西側の側面。

「ゲート状」と書いたが、厳密には東側の庁舎棟と西側の市民交流センター棟の2棟に分かれる構成となっている。
なお、議場は市民交流センター棟の最上部にある。設計は久米設計で、1998年に松任市役所として竣工した。

  
L: 敷地内、北西から見たところ。  C: 北側にあるショッピングモール・ラスパ白山の駐車場から見た白山市役所。
R: 白山市役所敷地内の北側にはこのようなオープンスペースが整備されている。建物だけでなくこちらも気合いが十分だ。

こちらの市役所といい駅南口周辺の再開発といい、白山市(松任)にはよくまあそんな金があるもんだと思う。
調べてみたら白山市には製造業の工場が多く立地しており、石川県内ではコマツを擁する小松市に次ぐ出荷額を誇る。
県庁所在地の金沢市よりも上だった。手取川の水と広大な扇状地が工業を支えている模様。勉強になりますな!

  
L: 北東から見たところ。  C: 東側の側面。  R: 南東より。まあ確かにバブルの気配を感じる建物ではある。

 市役所すぐ南に広がる田んぼ。もともと市役所もこんなんだったわけだ。奥は病院。

撮影を終えると駅には戻らず、そのまま東へ抜けて国道8号へ。ここからはしばらく徒歩の旅となるのだ。
バスがあれば楽なのだが、郊外と郊外を結ぶ路線なんてないのだ。5km弱、ただ黙々と東へと歩くのであった。

  
L: 完全なる郊外社会の国道8号。これは南を振り返ってアピタ松任店(左)を眺めたところですな。
C: 県道190号から北を見る。幹線道路から離れると見事に田園地帯である。  R: 野々市市に入る。

というわけで、次の目的地である野々市市に入る。前に訪れたときには野々市町だったが(→2010.8.22)、
2011年に単独で市制施行して野々市市になった。四日市市も廿日市市もあるので「市市」となるのはおかしくないが、
いざ「野々市市」となると妙な違和感がある。前半が「野々」なのに後半は「市々」でなく「市市」だからなのか。
まあ実際は「野々市町」に慣れきっていたからだろう。これにて石川郡は消滅。ちなみに「石川」とは手取川のこと。
航空写真を見ると、白山(松任)は駅を中心に市街地が同心円状に広がっており、周縁部は田んぼとなっている。
それに対して野々市は広い範囲が市街地化されている。これは北東に隣接する金沢のベッドタウンという特性による。
この宅地開発が野々市を市制施行させた原動力というわけだ。さすがは本州日本海側で最も人口密度の高い自治体だ。

県道190号をそのまま東へ行くと、野々市市役所にぶつかる。約45分の散歩だったが、見事に平坦な経路だった。
野々市市役所は駐車場が広くて撮影しやすいと思いきや、3階建てでかなり幅がある。逆光に苦しみつつ撮影を開始。
人口密度が高いわりには敷地にたっぷり余裕がある。近くまで田んぼになっていたので、もともと農地だったのだろう。
竣工は2004年で、当時は野々市町役場だった。設計は彩の国さいたま芸術劇場を手がけた香山壽夫建築研究所。

  
L: まずは北西から一周スタート。敷地の北側はご覧のとおり広大な駐車場。  C: 北東寄りから。  R: 敷地内に入る。

  
L: 東側から見たところ。白く出ている部分が議場。右の出っ張りは市長室など。  C: 南東側から見たところ。
R: 南側に出る。敷地の南側は「あらみや公園」として整備されている。イヴェント利用を意識しての芝生ですな。

  
L: 南から眺める。  C: 南西はすぐ脇が歩道となっている。  R: 近づいてみた。石川名物・八幡のすしべんが入っている。

野々市市役所は行政棟・議会棟・情報交流館カメリアの3棟を「コ」の字に配置して、中央を開けた構成となっている。
21世紀に入ってからの庁舎ということで、3階建てというスケールに町役場感を漂わせつつ最近の要素を採り入れている。
しかし機能よりは装飾性を優先している印象。「コ」の字中央のデッキスペースを掘り下げる意図がわからないし、
南側の公園との接続をゲートでわざわざ切っている。ガラスは「コ」の字の内側に限定され、かえって閉鎖的に思える。
今日は日曜日で市役所部分がお休みなので、平日はまた違った表情になるのかもしれない。気になるところだ。

  
L: というわけで「コ」の字中央のデッキスペースに入ってみる。  C: 上は3階レヴェルの通路となっているようだ。
R: 南から見た中央のデッキスペース。ど真ん中が星型っぽい形に掘り下げられている。バリアをつくる意図がわからない。

  
L: 東側の議会棟を背にして、西の情報交流館を見たところ。  C: 反対に情報交流館の端から議会棟の方を見る。
R: 市役所南側のあらみや公園。周囲はベンチとなる3段の石段でぐるっと囲まれている。犬の散歩多し。

西側の情報交流館カメリアが開放されていたので、ちょっとお邪魔する。なるべく写り込まないように写真を撮るが、
中では勉強をしている学生が多かった。自由に利用できる空間として定着しているようで、これはすばらしい。
印象的だったのは、自由に利用できるノートパソコンの数が多いこと。今の世の中、コンセントだけでいいかもしれんが。

  
L: 中央のデッキスペースから覗き込んだ議会棟1階。  C,R: 情報交流館カメリアの1階。自由に利用できるパソコンが多い。

  
L,C,R: 情報交流館カメリアの内部。休日はこのエリアに限定して開放している模様。平日の様子が気になるなあ。

情報交流館カメリアの中をひととおり動きまわると、再び外に出て市役所外観の撮影を再開する。
市役所の北西側はバス停のあるロータリーとなっていて、いろいろな機能を持たせてあるなあと思うのであった。

  
L: 西側の側面。塔を付ける意味はイマイチよくわからんなあ。建物の手前にあるのは駐輪場。
C: 北西のバス停となっているロータリー。  R: 逆光に苦しみつつ北西から少し離れて眺めたところ。

撮影を終えるとそのまま東へ抜けて額住宅前駅まで行ったのだが、市役所からすぐ東側はかなりごちゃごちゃしており、
住宅が複雑に密集して近代以前の匂い。しかし抜けるとまた、田んぼ混じりの矩形の街割りによる住宅地となる。
ややこしいものだなあと思いつつ、鶴来行きの北陸鉄道に乗り込むのであった。これもけっこう乗っているなあ。

 額住宅前駅から終点の鶴来駅まで。白山比咩神社関連でけっこう乗っている印象。

終点の鶴来駅に到着。白山比咩神社に参拝した関係でこちらに来るのも3回目だ(→2010.8.222014.12.27)。
昨日の気多大社と同じパターンである。が、今回のメインの目的はそれではない(せっかくだから帰りに寄るけど)。
鶴来駅から白峰行きのバスに乗るのだ。バスが出発するまで10分ほどの時間があるので、あらためて鶴来駅の中を撮影。

  
L: 鶴来駅。3回目ということで、意地で今まで撮ったことのない角度で。洋風木造瓦屋根の楽しい駅舎である。
C: 内部の様子。写真を載っけたのは初めてか。  R: ケース内には北陸鉄道関連のアイテムが納められている。

バスに乗り込むと、白山比咩神社の脇を通って手取川沿いの国道157号をどんどん南下していく。
手取川ダムのダム湖である手取川湖(重複表現が多い……)を抜けたところが白峰。鶴来から1時間弱の旅だった。
ここからさらに南へ行けば6.5kmほどで福井県に入ってしまうくらいに奥まった場所で、地図で見ると遠く感じるが、
実際にバスで訪れるとそこまで遠いという感触がないのは僕が麻痺しているのだろうか。冬はつらいんだろうけどね。

  
L: 白峰の中心部にある特産品販売施設 「菜(さい)さい」。食事とお土産ということで、ここを拠点に動くことになるのだ。
C: 堅豆腐ステーキ定食をいただいた。  R: 堅豆腐。仏教との絡みもあり、白峰では昔から堅豆腐が食べられていたとのこと。

11時過ぎに到着したが、まずは腹ごしらえである。白峰における観光拠点である「菜さい」でお昼をいただく。
名物である堅豆腐を中心にした堅豆腐ステーキ定食をいただいたが、食べ応えがあっておいしゅうございました。
満足すると、いざ探索開始である。白峰は山村・養蚕集落ということで重要伝統的建造物群保存地区になっているのだ。
まずは北側のエリアから攻める。白峰の集落は手取川と大道谷川に挟まれた河岸段丘に位置しているのだが、
林西寺・行勧寺・真成寺(どれも真宗大谷派)という寺が並ぶ辺りを境に、広い北側と細長い南側に大きく分けられる。
白峰は白山信仰によって栄えた集落で、登拝する人々の拠点となった歴史がある。産業としては養蚕が行われていた。

  
L: いざ白峰の北側エリアへ。手取川と大道谷川に挟まれた細長い台地状の河岸段丘いっぱい、面的に集落が広がる。
C: 昔ながらのスケール感で家々が集まっている。  R: 集落を貫くメインストリートに出た。南へ向かって緩やかな上り坂。

  
L: こちらの建物は江戸時代の築で、「与平」と屋号で呼ばれているそうだ。屋根の雪下ろしに使う大梯子が置いてある。
C: 角度を変えて眺める。左の出っ張りは「仏壇出し」。仏壇の上を人が歩かないのと、火事の際に仏壇を外へ出すための工夫。
R: 路地に踏み込んでみる。このなんとも言えない微妙な曲がり方が、いかにも近代以前の集落という感じである。

メインストリートの一本東、ちょうど「菜さい」の裏の辺りは蔵町と呼ばれており、蔵がポツポツと建っている。
蔵の周囲は畑として利用されていて、建物が集まって並ぶ表通りとはまったく違う雰囲気となっているのが興味深い。
これは火除け地の機能も兼ねているからとのこと。単なる街並みだけでなく、限られた土地を効率よく使う工夫を学べる。

  
L,C,R: 蔵町の一角。蔵の周囲はちょっとした畑として利用されている。火除け地的な機能というのもよくわかる。

  
L: 大道谷川に近い辺り。  C: 白峰ではいちばんメインの交差点と思われる。  R: 交差点から北を見る。うーん、重伝建。

集落の北側エリアと林西寺の間にあるのが八坂神社。その名のとおりスサノオ系で、ここが本来の白峰の中心だ。
というのも、もともとここは「牛首村」という名前であり、明治になって合併を機に「白峰村」となったからだ。
「牛首」とはスサノオ=牛頭天王から来た名前であり、今もこの地の名産品である牛首紬にその名を残している。

  
L: 八坂神社。奥まりすぎている土地だからか、御守はなかった。  C: 岩を利用した手水鉢が威厳たっぷり。  R: 拝殿。

 本殿は覆屋の中。豪雪地帯だからそりゃそうだわなと。

八坂神社の南に隣接しているのが林西寺。白峰における最古で最大の寺である。いかにも加賀国らしい本堂は、
1863(文久3)年の再建とのこと。この林西寺で最も有名なのは、廃仏毀釈の嵐の中で守られた白山下山仏である。
かつての白山は神仏習合で修験道の聖地だったが、明治になると白山の山頂一帯にある仏像が破壊されそうになる。
そのピンチを救ったのが時の林西寺住職というわけ。旧加賀国は浄土真宗が強かったことも仏像保護にはたらき、
8体の仏像を下山させることができた。現在は本堂の隣にある白山本地堂でそれらの仏像を拝観することができる。

  
L: 八坂神社の境内から見た隣の林西寺。  C: 北側は石垣で保護されている。  R: 山門は簡素な印象。

  
L: 本堂。前に大聖寺(加賀市)を歩いたときに旧加賀国の寺について体感したが、あの迫力(→2015.12.30)だ。
C: 角度を変えて眺める。  R: 本堂の中。欄間の彫刻がすごい。井波彫刻とのことで、なるほどと納得。

  
L,C: こちらは林西寺の庫裏。1855(安政2)年築とのことだが、ずいぶんきれい。ベージュの土壁が白峰らしいスタイル。
R: しっかり雪囲いで保護されている林西寺の白山本地堂。神仏分離令で白山から下ろされた十一面観音像などがある。

林西寺のすぐ南には行勧寺。本堂はすでに雪囲いが施されているが、道路に面した庫裡がたいへんフォトジェニック。
屋根は春休みに佐渡の宿根木で見たのと同じ石置木羽葺き(→2018.3.30)で、白峰では唯一残っているものだという。

  
L: 行勧寺。板で囲まれているのは、やはり雪囲い。  C: 通りに面して庫裡。  R: 背面はこんな感じ。

ここから南が白峰の南半分となる。まずは圧倒的な存在感を誇る旧山岸家住宅である。牛首村御三家の筆頭であり、
白山麓18ヶ村を治める大庄屋だった。生活スペースは主に1階で、2階と3階は物置や養蚕の作業場として利用された。
主屋は1840(天保11)年に建てられ、1893(明治26)年に現在地に移築。板蔵・味噌蔵・浜蔵も残っている。

  
L: 旧山岸家住宅。まずは南から見た妻側。  C: 南東から。  R: 東から。建物も見事だが、石垣と門もものすごい威厳。

白峰の南側エリアは、西の山と東の手取川の間にある河岸段丘を通る道に沿って、集落が成立している。
北陸を代表する霊山である白山は、平安時代に登拝のための禅定道(ぜんじょうどう)が開かれたが、
北からの加賀禅定道、西からの越前禅定道、南からの美濃禅定道と3つの登山道が開かれるほど参拝者が多かった。
白峰は越前禅定道から少し北に入ったところに位置しており、越前からの登拝者を迎える役割も果たしていた。
(ちなみに加賀禅定道は国道360号方面から登っていく道となっており、白峰を経由することはない。)

  
L: 白峰の南側は手取川より一段高いところにある。崖の上は旧山岸家住宅の浜蔵。左の低いところにある建物は店舗か何か。
C: 白峰郵便局。それっぽく新築したな、と思ったら、第1回いしかわ景観大賞を1994年に受賞していた。その頃の竣工かな。
R: 旧山岸家住宅・白峰郵便局の辺りを抜けると、いよいよ白峰の南側エリアに入る感じになる。こちらは線的な集落だ。

加賀国だが越前禅定道との関係性が深いことから、白峰は加賀藩と福井藩のどちらに所属するかで争いが絶えなかった。
福井藩はなんといっても家康の次男・結城秀康以来の親藩。対する加賀藩は外様だが100万石を誇る前田家である。
結局、幕府は白峰を天領とすることで事態を決着させる。この白峰をめぐる激しい戦いは、白山信仰の強さを物語る。
そして白峰の南側が細長く成立しているのは、越前禅定道が栄えた確かな歴史を示すものであると思う。

  
L: 雪だるまカフェ。明治時代初期の木造家屋をカフェにしたそうだ。  C: 雪だるまカフェの側面。
R: こちらの家は、雪を手取川の方へ落とすように、屋根を片流れとしている。豪雪地帯らしい工夫だ。

  
L: 白峰の南側の標準的景観。背後の傾斜に合わせて石垣で高くしたところに住宅を建てている。
C: さらに進んだところ。このまま延々と進んでいけば、いずれ越前禅定道に合流するというわけだ。
R: 失礼して住宅を1軒クローズアップ。1階は板壁、2階は黄土色の土壁。窓の前には雪囲いを装備する柱がある。

  
L: 通りはだいたいこんな感じ。  C: 石垣をクローズアップ。ちなみに上は畑になっている。
R: 山側に上って白峰南側の家並みを見下ろす。集落の山に囲まれ具合がわかってもらえるかと。

最後に白峰の冬への備えである雪囲いをクローズアップ。豪雪地帯の白峰は、多い年には4mの積雪があるそうで、
着実に準備が進められている模様。ちなみに白峰では開き直って1990年から「雪だるま祭り」を開催している。

  
L: 雪囲い。  C: 横型の雪囲い。  R: これは北側エリアの路地。雪囲いに使う板が電柱に立てかけられている。

以上で白峰の重伝建散策は終了。時間に余裕があったこともあって、なかなかに濃い内容になったのではないかな。
林西寺できちんと白山下山仏を拝むと、待望の総湯に突撃である。珍しいというナトリウム炭酸水素塩温泉とのこと。
存分に歩きまわってのんびり浸かるというシチュエーションだけでも最高なのに、泉質もまた最高。たまりませんぜ。
惚けた状態で白峰の中心部に戻ると、首輪をつけたネコがいた。飼われているネコは遊んでくれるので楽しい。
さっそく背中から猫じゃらしを取り出すと、目の前で動かす。いい反応を見せてくれてお兄さんはうれしいよ。

  
L: 白峰温泉総湯。いい湯でございました。2008年オープンの建物も清潔感があって言うことなし。

C: 白峰の中心部に戻ってみたらネコがいた。コンニチハ。  R: 猫じゃらしで遊ぶ。楽しいなあ。

そんなこんなでバスの時間になったので乗り込む。重伝建は勉強になって楽しいが、温泉があるとかもう最高。
白山登拝とセットで温泉や歴史を味わうことができたら、なお素晴らしいんだろうなあと思う。ネコもいたし。

帰りのバスは鶴来ではなく、一の宮バス停で下車。さっきも書いたとおり、ここまで来たら白山比咩神社にも参拝だ。
白山比咩神社も3回目になる(→2010.8.222014.12.27)。白山比咩神社は手取川扇状地の「扇の要」の位置にある。
ここから南に行くと加賀禅定道となるし、北へ行けば鶴来の集落を経て広大な手取川扇状地へと出ることになるのだ。
扇状地のいちばん奥に里宮を配置しているのが、なんとも象徴的であると思う。気分を新たに二礼二拍手一礼。

  
L: 国道157号から見た白山比咩神社の入口。  C: 進んでいって鳥居。もう3回目なんだよな。  R: 参道を上っていく。

  
L: 参道の脇にある琵琶滝。小さいが、雰囲気がよい。  C: 拝殿。本殿は屋根を工事中なのであった。
R: 境内を北側に抜けて駐車場から振り返る。この右側には宝物館があるのだが、残念ながら閉館していた。

参拝を終えるとそのまま鶴来の中心部に出る。東の山裾に鎮座している金劔宮にも参拝するのだ。
南側の女坂からアプローチしたのだが、途中にトンネルがあって驚いた。石段の途中を県道103号が走っており、
その下を通過する形になっているようだ。おそるおそる通り抜けて境内に入る。なんとも独特なスタイルだ。

  
L: こちらは後で撮影した表参道・男坂の入口。  C: 南参道・女坂の途中にあるトンネル。  R: 中を覗き込む。

  
L: トンネルの境内側出入口。  C: 県道103号からあらためて金劔宮の境内を見る。  R: 拝殿。防寒仕様である。

  
L: 本殿。覆われている。  C: 左手前が天乃真名井、中央が恵比須社。  R: 境内社も防寒仕様。むしろ防雪か。

御守を頂戴すると、鶴来駅まで戻る。鶴来支所を眺めつつ、今日も盛りだくさんだったなあと思うのであった。
終点の野町まで30分、のんびり揺られる。野町駅に着いたら17時過ぎということで、すっかり暗くなっていた。
香林坊まで移動すると、石川四高記念文化交流館がライトアップされており、ええ雰囲気ぶっこいているのであった。
さて本当はそのすぐ近くにあるターバンカレー総本店で金沢カレーをいただきたかったのだが、運悪くお休み。
ションボリしつつもうひとつの目的地である香林坊東急スクエアへ。かつてのKOHRINBO109である(→2006.11.3)。
まずは12年前の写真がブレブレだったので、あらためて「グランドフロア(GF)」の写真を撮り直す。
そしてそのグランドフロアに入っている東急ハンズ金沢店を探検する。ワンフロアのハンズということで、
典型的な県庁所在地オシャレ特化型という印象。ボディケア関連が広くて工具は棚のほんの一部と最小限。
ハンズの薄い部分のみが展開されていて、残念ながらハンズならではの「濃さ」はイマイチ。しょうがないけど。

  
L: ライトアップされている石川四高記念文化交流館。四高は「よんこう」ではなく「しこう」と読むのが正しいそうだ。
C: KOHRINBO109が香林坊東急スクエアと名前が変わってもグランドフロア(GF)の存在は変わらず。リヴェンジ撮影。
R: そのグランドフロアに入っているのは東急ハンズ金沢店。典型的なワンフロアハンズだが、GFを押さえたのはさすが。

香林坊から金沢駅までバスで移動。北陸新幹線の開業によって金沢駅は大幅に拡張されており、土産物売り場も広大。
金沢は観光に強い都市だけあって、売り場の見せ方が上手いなあと思う。特に高級感の演出に力が入っている印象。
地酒を扱う「金沢地酒蔵」には地酒バーが併設されており、これにはちょっと惹かれた。強けりゃ絶対飲むんだが。
奥にはレストランが並んでおり、結局晩メシは東京でも食えるはずのゴーゴーカレーになるのであった。

 
L: ゴーゴーカレー金沢駅総本山。  R: 金沢の金箔をイメージした皿の兼六カレー。メジャーカレーと違うのは皿ってことね。

金沢市内の神社の御守とターバンカレーは次回の宿題ということで。今回も楽しい旅行でございました。


2018.11.17 (Sat.)

旅行である! 今週はテスト前で部活がない、ということでの旅行なのだ。行けるときに行く!
今回の目的地は、金沢である。3年前からJ2で戦っているツエーゲン金沢の試合観戦に合わせていろいろまわる。

しかし夜行バスから降り立った金沢は、地面が濡れている状態なのであった。ついさっきまで雨が降っていた感じ。
これは……困った。今日はレンタサイクルで金沢市内のあちこちをまわる予定を考えていたのだが、
濡れた路面を時間を気にして走りまわるのはちょっと不安だ。それならいっそ、思いきって予定を変更して、
気多大社で御守の確認をしておこうか……。素早く確認して羽咋行きの予定を組んでみる。行けそうだ。
というわけで、かつて北陸本線だったIRいしかわ鉄道と七尾線で、一気に羽咋へと向かう。

  
L: 境内入口。なんだかすっかりおなじみになっちゃったな。  C: 神門。  R: 独特な妻入の拝殿。1653(承応2)年の築。

朝イチでの訪問なので、レンタサイクルではなくバスで気多大社へ。帰りのバスの時刻の関係で、かなり余裕がある。
のんびり境内を散歩しつつ参拝し、授与所が開くまでテストづくり。旅先でテストづくりなんて勿体ない気がするが、
いつもと比べたら超気分転換なので作業がグイグイ進む。これはこれで有意義な旅行の時間なのかもしれないなと思う。

  
L: 1787(天明7)年築の本殿を覗き込む。きちんと本殿を眺めるのは初めてか。神門・拝殿・本殿などは国指定重要文化財。
C: 入らずの森の手前。横から見たところになる。  R: 摂社の菅原神社。社号標があるなど、境内社の中では存在感がある。

なんだかんだで気多大社も3回目である(→2010.8.232014.12.27)。単立神社らしく御守の種類が多いこともあり、
チェックするのが本当に大変。金もかかるし……。こちとらすっかり気多大社の思う壺ですよ。ドMな趣味だよ、マジで。

 見よ、この御守の多さ! 種類も多いし、色違いも多い。つらい……。

御守を頂戴してからもバスを待ちながらテストづくり。するとだんだん雲から青空が見えるようになってきた。
この後は市役所の撮影があるので、そこできっちり晴れてくれればいい。ポジティヴに事態を捉えよう。

七尾線のことを考えるとちょっとタイトだが、そこは根性。あえて羽咋中央のバス停で下車し、羽咋神社に参拝。
祭神・磐衝別命の墓とされる御陵山古墳の手前に鎮座する、式内社で旧県社である。素早く参拝して御守を頂戴する。

  
L: 羽咋神社の境内入口。後ろに古墳があるためか、拝殿の大きさのわりに境内の奥行きには余裕がない感じ。その分高いのか。
C: 拝殿。防寒仕様が石川県らしいなあと思う(→2015.12.30)。  R: 本殿を覗き込むが、がっちりした覆屋なのであった。

 おまけの羽咋市役所。さあ、駅へ急ぐぜ!

七尾線を南に戻るが途中の宇野気駅で下車。2004年の合併で「かほく市」となっているが、それ以前は宇ノ気町だった。
しかしわからないのが、同じ「うのけ」でも「宇ノ気」と「宇野気」の表記があることだ。しかもだいたい五分の頻度。
市名の「かほく」は河北郡が由来だが、ひらがななのが知性を感じさせない残念さである。西田幾多郎の故郷なのに。
ちなみに河北郡はもともと加賀郡という名で、律令制がスタートした頃は越前国加賀郡だった。実は加賀国は、
令制国では最後に建てられた国なのだ。かつての北陸は、東北地方と同じくらいの辺境という感覚だったのだろう。
それが律令制に組み込まれて細分化されていったわけだ。対照的に、東北地方の細分化は明治になってからとなる。

  
L: 宇野気駅。でもすぐ近くの小中学校は「宇ノ気」。  C: 駅前の西田幾多郎像。隙のない構えである。
R: 駅前にある「生い立ちの地」。西田幾多郎は3歳から13歳までをこちらで過ごしたとのこと。

駅から5分ほどで、かほく市役所に到着である。旧宇ノ気町役場が市役所となっているのだが、見るからに構造が複雑。
ネットで調べたところ、2008年3月にまとめられた「かほく市庁舎整備方針」がPDFファイルで運良く見つかった。
それによると、かほく市役所は1975年竣工の本庁舎、1974年竣工の東庁舎、1980年竣工の議会庁舎の3棟からなる。
そして市庁舎の新築はせずに宇ノ気庁舎の増改築で対応する、とある。なるほど、文書中の航空写真を見ると、
東庁舎の手前(西側)が駐車場とオープンスペースになっており、ここに新たなオフィスが増設されたってわけだ。
さらに調べてみたら建設工事を行った会社のサイトがあり、この増築部分は2012年の竣工と判明。資料があるってステキ。

  
L: かほく市役所。右が東庁舎の増築部で、左が本庁舎。本庁舎の方が1年差で東庁舎より新しいってのも、よく考えると謎。
C: 角度を変えて南西から眺める。増築されて東庁舎が本庁舎ときれいに並ぶ形になった。以前は駐車場とオープンスペース。
R: 本庁舎(右手前)と議会庁舎(左奥)。実は議会庁舎の中に議場はなく、この本庁舎の2階、せり出している部分にある。

  
L: 東庁舎の増築部をクローズアップ。  C: あらためて南西から眺める増築部。  R: 南東から見た東庁舎。

  
L: 東にある宇野気公園から見た東庁舎と本庁舎の背面。  C: 東庁舎の背面。  R: 北東から見た東庁舎と本庁舎。

  
L: 角度を変えてもう一丁。  C: 本庁舎の背面をクローズアップ。右側も本庁舎の一部。  R: 倉庫を挟んで北からもう一丁。

  
L: 一周して北西から。左が議会庁舎で右が本庁舎になる。  C: 議会庁舎。1階は主に食堂、議会関係は2階の一部。
R: そのまま右を向いて、西から見た本庁舎。この2階部分が議場である。しかしまあ、複雑な構造をしている市役所だ。

  
L,C: 議会庁舎のすぐ北に隣接する、かほく市宇ノ気生涯学習センター。  R: 南には、かほく市宇ノ気保健福祉センター。

突発的な気多大社参拝だったが、かほく市役所を押さえることができてよかった。正午過ぎに金沢駅に戻ってくると、
軽く昼メシをいただいて西口からバスに乗り込み、石川県西部緑地公園陸上競技場へ。会場はかなりの盛り上がりだ。

  
L: 石川県西部緑地公園陸上競技場に到着。  C: メインスタンド前には噴水。気合いを感じる。  R: メインスタンド。

では恒例のスタジアム一周を開始。石川県西部緑地公園陸上競技場は、典型的な国体仕様の県営陸上競技場だ。
オープンは1974年。前年に開催された日本海博覧会の会場をスポーツ施設を中心に整備した、西部緑地公園の中にある。
金沢駅・石川県庁(→2010.8.22)・西部緑地公園で直角二等辺三角形が描ける感じの位置関係だ(駅-公園が斜辺)。

  
L: アウェイ側ゴール裏にある大型スクリーン。横23m×縦8.3mで「日本海(側)最大級のスクリーン」とのこと。
C: 提灯にはフルール・ド・リスをヒントにしたツエーゲン金沢のシンボルマーク(石川県の県花・クロユリ)。暖簾もある。
R: バックスタンド側の出入口。固く閉ざされており、まあ特に何かがあるわけではございませんな。

  
L: さらに一周を続ける。  C: ホーム側のサイドスタンド周辺は、出店がそれなりに充実している感じ。
R: メインスタンド側に入場してから来た道を眺める。さっきの噴水が中央にあるが、見えないくらいの賑わいである。

一周を終えて中に入る。最近は、初観戦のスタジアムについてはメインスタンドにすることが多い。
見え方を確認すると、さっきの賑わいが非常に気になるので、いったん外に出てスタジアムグルメを物色してみる。

  
L: メインスタンド中央から見たピッチ。やっぱりトラックの存在感が大きい。  C: メインスタンドの端から見たところ。
R: よく見ると、バックスタンドにはなぜか土器が。第46回石川国体(1991年)のときに「お魚土器」を炬火台にしたそうだ。

ふらふらと歩いていたら、「能登かき」の出店を発見。3個500円って、すごくリーズナブルじゃないか?
しかもワンカップの宗玄まである。見事な能登づくしじゃないか! 気がついたら迷わず頂戴しておりました。
試合前から満足度がMAXになってしまう取り合わせで、石川県に来てよかったー!と心の底から思ったとさ。

 自分でも意外だが、こういう喜びがわかる人間になってきた。

真剣な選手とサポーターの皆様には申し訳ないのだが、もうツエーゲンが勝とうが負けようが、断乎オレは幸せである。
ウェヒヒヒヒと上機嫌になりつつメインスタンドに戻ると、両チームの練習が始まった。試合前、もっとも穏やかな時間。
こちとら牡蠣と日本酒のおかげですっかりゆるみまくりである。すると、予想していなかった展開が目の前で始まった。
不勉強な僕は知らなかったのだが、ツエーゲンでは昨年から「ヤサガラス劇場」を展開中。本日は今シーズンの最終節で、
1年間繰り広げられてきたプロレスが結末を迎えるという重大局面だったのだ。呆気にとられつつシャッターを切る。

 
L: 練習する両チーム。晴れてきて、いい感じのフットボール・ウィークエンドになった。
R: ……と思ったら、あれ? 何か小芝居的なものが始まったぞ? いかにもな悪役が登場。

現れたのは全身黒ずくめのキャラクター・黒ガラス。このプロレスにおける悪役であるヤサガラスの父で、悪の化身だ。
するとアウェイゴール裏のスクリーンに、ツエーゲン金沢のマスコットキャラクターであるゲンゾーが映し出された。
そしてなんとゲンゾーは、いかにもなヒーローの「ゲンゾイヤー」に変身。頭身が! 違いすぎるやろ!

  
L: サポーターの思いによって変身するゲンゾー。  C,R: ゲンゾイヤーだ! 酔っ払いのわりにちゃんと撮っているな、オレ。

酔っ払っていることもあって(まあそれはあまり関係ない気もするが)、話についていけない僕。
しかしそんな僕を置いてけぼりにして、ゲンゾイヤーは黒ガラスと小芝居じゃなかったバトルを繰り広げる。
なるほどよく考えると、変身ヒーローというのは今までのマスコットにはまったくなかった要素だ。巧い。
金沢のサポーターはこのプロレスをホームゲームごとに見ることになるわけだ。それは非常に面白いと思うけど、
僕みたいな一見さんやアウェイサポにはあらすじが欲しいところである。いきなりクライマックスなのはつらいですよ。
(※きちんと公式で動画配信しているが、わかりやすくまとめられていないので結局、個人ブログが頼り……。)

  
L: というわけで現れたゲンゾイヤー。まさかJリーグクラブのマスコットがこういう方向性に行くとは思わなかった。
C: Jリーグでこれは斬新。  R: 「私とともに来い、Jリーグを支配するために」と黒ガラス。わかったようなわからんような。

  
L: じゃんけんをしているわけではなく、ゲンゾイヤーの攻撃を黒ガラスが受け止めているところ。
C: まるで歯が立たないゲンゾイヤーを救うべく黒ガラスの前に立ちはだかるナンシー。フランス育ちの帰国子女とのこと。
R: やられるゲンゾイヤー。黒ガラスはナンシーを連れて退場。続きはハーフタイムだが、すいません写真を撮り忘れました。

そしてスタメンが発表される。今回の試合観戦で僕が最も楽しみにしていたのは、MF清原翔平なのだ。
なぜこの選手に思い入れがあるのかというと、話は6年前に遡る。まだ改修前の南長野でJFLの試合を観戦した際、
長野の対戦相手だったSAGAWA SHIGA FCで大活躍した選手こそ、清原翔平その人なのである(→2012.10.14)。
その試合は前半終了時点で重苦しいスコアレスの展開だったが、清原は後半開始と同時に投入されると見事に躍動。
ひときわ小さい選手だが(165cm)、ボールを持ったときの積極性が非常に印象的で、2ゴールを決めてみせた。
(ちなみに8年前、飯田の松尾総合運動場に当時JFLの松本山雅が来たときにSAGAWA SHIGA FCと対戦したが、
 清原はベンチ入りしたものの出場はしなかった。当時のデータがちゃんとある山雅ありがとう! →2010.4.4
しかしこの2012年シーズンをもってSAGAWA SHIGA FCが活動休止となってしまう。すると清原は金沢に移籍、
2013年と2014年に2年連続でチーム内得点王となる活躍をみせたのだ。いやあ、これは嬉しかったなあ。
その後、C大阪と徳島を経て今年から金沢に復帰。金沢にとって重要な選手だが、SAGAWA時代から知ってたオレ偉い。
たまたま観た試合で「あ、この選手いいなあ」と思ってチェックしたらトントン拍子に出世して活躍してとなると、
自分の見る目を褒められたような、なんとも言えないいい気分になりますな。僕にとって清原はまさにそういう存在だ。

 大写しになるMF清原。金沢での活躍は知っていたが、ようやく見に来れた。

試合が始まると、最終戦ということもあってか両チームとも積極的に攻める展開に。すると14分、金沢が先制。
スローインから一気に水戸陣内に入ると、相手ディフェンスが密集していた隙を狙って裏のスペースにスルーパス。
これをFW杉浦がドリブルで運びながらGKの逆を突くシュートを決める。動いているのと逆方向へ、技ありの一撃だ。
対する水戸もよく攻めてFKを二度獲得するなど圧力をかける。そして37分、テンポよくつないで左からクロスを入れ、
10番の木村がしっかり合わせて同点に追いつく。どちらも相手の守備を上回る攻撃が実を結んだ形の得点だが、
ディフェンスの対応という点ではちょっと甘かったのではないかなあと。甘さを見逃さなかったということか。
後半アディショナルタイムには途中出場の金沢FWマラニョン(かつて甲府にいたマラニョン先生とは別人)が、
再び水戸を突き放す。DFがクロスにヘッドで対応するも、うまく飛ばなかったところをマラニョンがボレー。

  
L: 14分、金沢がスローインから一気に相手の守備陣を破って先制。ディフェンスが密集したところをきっちり抜けてみせた。
C: 前半アディショナルタイムに金沢が再びリードを奪う。クリアしきれなかったボールがマラニョンの目の前に転がる不運。
R: リードして前半を終えることになった金沢のゴール裏は喜び爆発。今シーズンの金沢はホームでなかなか勝てなかったのだ。

ハーフタイムは「ヤサガラス劇場」の続き。悪役のはずのヤサガラスだが、会場のヤサガラスコールに応えて登場する。
『ドラゴンボール』のBGMを背景に、なんとゲンゾイヤーと共闘して黒ガラスに立ち向かう。オラ、ついていけねえぞ!
最後はヤサガラスが黒ガラスを羽交い締めにし、サポーターのエネルギーを集めたゲンゾイヤーがヤサガラスごと退治。
それは『ドラゴンボール』というより『独眼竜政宗』だなあ(粟之巣の変 →2018.9.17)と思うが、とにかく悪は滅びた。

さて前半でオープンな展開を確信したのか、後半も両チームは積極的に攻めるサッカーを見せる。
が、パスが引っかかりまくるのが気になる。どちらもなかなか決定的なチャンスをつくれず、ちょっともどかしい。
僕としては清原の活躍が見たいのだが、なかなかマークが厳しい。そんな中、マラニョンがバーに当てる惜しいシーンも。
そのままじわじわ時間が経過していった後半43分、金沢が右サイドでFKを獲得。水戸がクリアしきれずこぼれたところを、
MF金子がねじ込んで勝負あり。続投が決まっている金沢の柳下監督にとっては、来季につながる勝ち方と言えそう。

  
L: 最後の最後で金沢がダメ押し。パスが引っかかりまくる試合だったが、ゴール前で貪欲な金沢がきっちり結果を残した。
C: ゴールの演出。メンバー発表でもそうだったが、今シーズンの金沢はマンガ的なイラストを生かしたデザインが特徴的。
R: 清原のドリブル。積極的にボールに触って攻撃を活性化させようとしていたが、残念ながらこの日は不発。

印象的だったのは、スタジアム全体が終始ポジティヴな雰囲気に包まれていたことだ。なんというか、上品だった。
失点しても荒れることなく、どこか余裕を感じさせる。そして「ヤサガラス劇場」に対しても暖かい目を向ける。
一足飛びに強くなることはないが、このポジティヴな雰囲気を保ち続ければ安定して成績が伸びていくんじゃないか、
そう思わせるスタジアムだった。まあ先月試合を観戦したスタジアムが荒っぽかったんで(→2018.10.28)、
よけいそう思えたのかもしれんが。金沢は日本海側でトップレヴェルの観光都市だし、ポテンシャルはかなりある。

 
L: ヤンツーこと柳下監督。金沢はヤンツーさんの下で着実に力をつけていると感じるが、果たして。
R: メインスタンドのサポーターと勝利の喜びを分かち合うゲンゾイヤー。正直、ゲンゾーよりこっちが好き。

非常にいい気分で金沢駅まで戻ると、宿を目指して歩く。今回の旅行では、晩メシはひたすら金沢カレーの予定。
(東京で食える金沢カレーまとめ。チャンカレ →2017.10.25、アルバカレー →2017.10.26、ゴーゴーカレー →2017.10.27
まだ食ったことのない店がいいなあということで、近江町の金沢エムザにあるゴールドカレーにお邪魔してみた。
味は非常に標準的で、それもそのはず、調べたらカレーのチャンピオン(チャンカレ)から独立したグループとのこと。
後発組らしくメニューのヴァリエーションがたいへん豊富で、ハントンライス風や各種揚げ物、牛すじまで網羅する。

 ゴールドカレー。味じたいは非常にふつうな印象。カツがサクサク。

以上をもって初日は終了。予定を変更しても中身がぎっちりの旅行になるのであった。まあ、さすが金沢だね。


2018.11.16 (Fri.)

今日も今日とて出張である。気分転換になるのはいいけど、学校でやりたい作業は思うように進まないなあ。


2018.11.15 (Thu.)

ロシアと領土をめぐって交渉とか言うけど、これをもし非自民政権がやったらものすごい批判の嵐だろうに、
そのダブルスタンダードはいったいなんなのだ、と呆れております。ただ印象だけで反射的に反応しとりゃせんかと。
元KGBのプーチン相手に、立法と行政の区別がつかないお坊ちゃんがまともに交渉できるわけがないだろう。
功を焦る首相の拙速な行動をなんとなく雰囲気で黙認してしまう日本は本当にバカばっかりだと悲しくなる。
これで自民党が保守とか(→2018.11.2)、物事が見えてなさすぎだろう。頼むから真実から逆算して考えてくれ。


2018.11.14 (Wed.)

本日は研修ということで講演会。去年評判がよかったのか(→2017.11.15)、講師は今年も同じ元NHKプロデューサー。
内容としては、得るものは確かに多くてなるほどと思うんだけど、2回目ということで正直ネタ切れ感はあったかなあと。
冷静に考えると基本的に上から目線で、あまりいい感触が残らなかったかなと。間違いなく頭のいい方だとは思うが、
言葉も攻撃的なものが多かったし、テレビ業界ってこういうもんなのねと思うのであった。染み付いているんだろうなあ。
まあ、そこも含めて勉強になったので、自分としては他山の石ということで気をつけようと思う。


2018.11.13 (Tue.)

いよいよ本格的にテストづくりを始めたのだが、疲れた疲れた。今までつくってきた分の財産があるおかげで、
ある程度はテンポよくつくれはするけど、やはりじっくりとつくり込んでいくのは疲れる作業だ。それなりにヘロヘロ。


2018.11.12 (Mon.)

五百蔵容『サムライブルーの勝利と敗北』。とんでもない試合分析力を持っている人によるロシアW杯各試合の解説本。
筆者の前著である『砕かれたハリルホジッチ・プラン』(→2018.5.31)でも提示されている問題意識をもとにして、
西野ジャパンさらには日本サッカー全体の抱える構造的欠陥(ポジティヴな要素が皆無なわけでもないが)を暴き出す。
(いちおう参考までに、ロシアW杯における日本代表の各試合について、僕の感想にリンクを張っておく。
 コロンビア戦 →2018.6.19、セネガル戦 →2018.6.25、ポーランド戦 →2018.6.29、ベルギー戦 →2018.7.3

詳しいことについては、当然ながらこの本を読んでもらうよりない。僕が内容を要約したところで何にもならない。
それにしても、毎度のことながら、この人の的確な分析力には呆れるばかりである。よくそこまで深く読めるものだと。
ここまで深いレヴェルでサッカーを見ることができれば、すべての試合がきっと楽しくてたまらないだろう。
僕らが局所的な「いいプレー」「ダメなプレー」しか判断できないのに対し、筆者は戦略と戦術を正確に読み取る。
その視点のベースにあるのはポジショナルプレーの概念。これを獲得しようと努力しながら観戦しないといけないのか。

この本を貫いている視線はけっこう独特である。つねに日本代表と戦う対戦相手のロジックから入るのだ。
裏を返せばそれは、もはや世界標準となっているポジショナルプレーの概念を日本が保有していないということ。
コロンビアが、セネガルが、ポーランドが、ベルギーが、いかにして反ポジショナルプレーの最右翼にいる日本をハメて、
敗北させようとしたかの記録である。では日本の反ポジショナルプレーを最も具体的に体現しているサッカーはというと、
おそらく狭いエリアを個人の技術で抜けようとする大木武のサッカーであろう。個人的にはかなり悲観的な結論であるが。
もっとも、文中にもあるように、その非論理的な日本のサッカーが論理の隙を衝いたことで点を奪ったのもまた事実だ。
究極的には、ポジショナルプレーの論理性と日本的サッカーの非論理性の使い分けが目指される地点なのかもしれない。
でもそれにはまず、ポジショナルプレーの論理による日本対策をきちんと勉強することから始めなければなるまい。
少なくとも現時点で海外レヴェルではこういうことを考えていますよ、という客観視をするには最高の教科書である。


2018.11.11 (Sun.)

午前中に僕の働いている学校で区の総合防災訓練が行われるということで、仕事として参加したのであった。
面倒くさいわあ……という気持ちも正直なくはないが、防災訓練は大事という意識の方がはるかに上回っているので、
ボランティアで参加した生徒を撮影しながらそれなりにきちんと見てまわる。結果的にはいい勉強になったと思う。
参加賞ということで防災グッズの入った防災リュックを頂戴したが、どんだけ予算をつけているのだ!?と驚いた。

この訓練の一番の目玉は、陸上自衛隊によるカレーの炊き出しなのであった。あくまでも訓練の一環なのだが、
閉会式後、ちょうどお昼のタイミングに合わせておかわり自由でふるまわれ、大変おいしくいただいたのであった。
まず、1杯の量が意外と多い。そして入っている豚肉も多い。不思議なのは、いつまでも熱々でなかなか冷めないこと。
寒い場所での炊き出しも想定していて、冷めづらいようにつくっているのだろうか。猫舌の皆さんは苦しんでいたが。
なるほどこのカレーを食べれば元気が出るわと思いつつおかわり。食は生きるうえでの基本なのだと実感できる味でした。


2018.11.10 (Sat.)

上京してきたcirco氏と鎌倉へ。

まずは鎌倉駅西口の時計台を見たいというのでご案内。中学校の遠足では定番のチェックポイントだが、
狭苦しいうえに喫煙所にもなっていて、なかなか雰囲気のいい場所ではない。私は正直ナメていた。
実は時計台はもともと1916(大正5)年築の鎌倉駅旧駅舎にあったもので、1968年に現在地に移されたのだ。
そもそも鎌倉駅周辺が狭苦しい場所なのでどうしょうもないが、それにしてもこれはちょっとねえ、なんて話になる。

そのまま市役所前の横山隆一おしゃれスタバ(→2010.12.112018.9.14)で一服。circo氏も感心した様子である。
近年スタバは積極的に既存建築のリニューアル店舗を出しているが、その第1号がこの鎌倉の横山隆一スタバなのだ。
ここを訪れただけでも今回のcirco氏の上京には意味があったのではなかろうか。実体験できてようござんしたな。

では鶴岡八幡宮に参拝がてら鎌倉市近代美術館の様子でも見に行きますか、と東口に出て小町通りを歩いてみたが、
あまりの混雑ぶりに閉口するのであった。10年前も人は多かったが(→2008.9.3)、ここまでひどくなかったような……。
店を物色しながら歩くのであればまだいいかもしれないが、八幡宮へとまっすぐ歩こうとして人混みに遮られる状態は、
さすがにちょっと困りものだ。母親とともにテレビっ子な生活を送るcirco氏は、テレビの影響と分析していたが。

鎌倉市近代美術館は鶴岡八幡宮の境内西側にある。もともとは国有地だったそうだが、現在は鶴岡八幡宮が土地を所有。
おととし借地契約が切れたことをきっかけに、建物が老朽化したこともあって、美術館は閉館となった(→2016.2.5)。
当時の僕は事態をよくわかっていなかったのだが、建物はそのまま鶴岡八幡宮に譲渡され、八幡宮側でリニューアル。
来年3月に鶴岡八幡宮が運営する新たな施設として生まれ変わる模様。東の鎌倉国宝館と連携したら面白そうだが。

 リニューアル工事がある程度進められた現在の建物。なんだか軽い。

平家池越しに軽く眺めただけだが、リニューアルはけっこうキツめな印象。以前と比べてなんだか軽い感触がする。
でも冷静に考えれば、1951年の建材を21世紀にホイホイ手に入れることなどできないのだ。完全な復元は不可能なのだ。
となると、「現代の素材・建材でモダニズムをやることは果たして可能なのか?」なんて命題が浮かんでくるではないか。
石段を上って参拝しつつ、「それってけっこう興味深いことだねえ」なんてcirco氏と話すのであった。濃い休日だったぜ。

帰りの鎌倉駅のホームは、身動きがまったくとれないほど人でいっぱい。毎週末こんな具合なのか?と呆れるのであった。


2018.11.9 (Fri.)

昨日の日記で御守収集の現状について書いたけど、いい機会なので少しばかり、御守について僕の見解を論じてみたい。

狂ったように旅に出ては神社を参拝しているが、実際のところ何かを神様にお願いしたいわけではない。
「世界が平和になりますように」とか「ちったぁ賢くなりますように」とか思わないこともないのだが、
基本的には何もお願いしていない。お願いしだしたらキリがない。欲にまみれて参拝するのはスマートに思えない。
でもそれはあくまで僕個人の価値観であり、他人に強制するつもりはない。たまに長々と祈る欲深い人がいて、
「そこに必死になるよりまずお前が努力しろよ」とツッコミを入れることもあるが、他人には他人の事情もある。
人間が自分より大きい存在を想定し、無力をさらけ出して信じるという行為は、それはそれとして美しいことである。
だから僕は、神やら仏やらを信じるというよりは、人間の「信じる」という行為を面白がって肯定している、
そんなスタンスなのである。その方法論を強制するから宗教は面倒くさいが、「信じる」という行為じたいは信じている。

ご存知のとおり、日本の神社は自然崇拝からスタートしている。山とか磐座とか、自然の中に感謝や驚異を見出し、
それを聖なるものとして世俗の日常から切り離す。これが固定化していくことで、禁足地などが生まれるわけだ。
やがて順序が逆転し、近づきがたくなった対象はさらに聖性を研ぎ澄ませていく。さらには権威までも帯びていく。
そうして権威が一人歩きし、自ら聖性を声高に主張して再生産を始める。まるで最初からそうであったかのように。
しかし実際のところ、参拝客がいなければ神社は運営できないのである。信じる人間がいなければ、聖性も何もない。
きちんとした神社は、御守を頂戴する際に「お参りご苦労さまです」とか「お気をつけてお帰りください」とか、
参拝に対する感謝の声をかけてくれるものだ。世俗の側が聖性を認めて支えていることを理解しているのである。

御守とは、神社の聖性のおすそ分けであると同時に、われわれの日常=俗性への配慮のしるしである、と僕は考える。
だからその神社の祭神独自のご利益を反映したり、その土地ならではの図案を施したりしている御守を歓迎する。
それは、自分を食わせてくれている参拝客や社会に対する、神社側からの配慮の証拠にほかならないからだ。
きちんと趣向を凝らした御守からは、わざわざ訪問してくれてありがとう、頼ってくれてありがとう、という、
神社からのあたたかな気持ちを感じるのである。僕はそういう気持ちに触れるのが好きだから、御守を集めているのだ。
ごくたまに、御守の扱いが雑な神社がある。御守が汚れていても、日焼けしていても、平気でいる神社があるのだ。
僕にはそれが許せない。こちらの「信じる」気持ちにきちんと応えていないではないか、そう思うからだ。
御守を通してわれわれは、参拝の記憶を、旅の記憶を、聖性を信じる気持ちを、持ち帰る。また、それらを思い出す。
そのとき、「その神社にしかない個性」が御守に刻まれていることが、意義のあるものであるとわかるだろう。
そこには間違いなく、神社の聖性を信じ、世俗の支えを信じる、お互いの信頼関係と呼べるものがあるのだ。

 東急ハンズで見かけた「福福リップ」。リップクリーム入りの御守袋だ。

インバウンドの効果もあってか、最近は和風テイストのデザインで海外からの評価を目指す事例が増えている。
御守もその流れの中で、注目されるようになってきているのではないかと思う。そしてそれは、好ましいことなのだ。
世俗があるからこそ、聖性が成り立つ。その相互依存関係を無視して権威を振りかざすのは、滑稽極まりない。
豊かな御守のデザインは、豊かな信頼関係の産物なのである。美しい神社と美しい御守に、もっともっと出会いたい。


2018.11.8 (Thu.)

暇をみて家にある御守の整理をしているのだが、いよいよ大変なことになってきている。
紫外線で激しく色落ちする御守もけっこうあるので東急ハンズで売っていた黒い巾着袋に入れているのだが、
パンパンになった巾着袋がどんどん増殖している状況なのである。あれだけ必死に集めていれば当然の帰結だが。
「北海道・北東北」「南東北」「北関東」「東京」「南関東」「甲信」「北陸」「東海」「愛知」「京都」「兵庫」
「近畿」「中国」「四国」「九州北」「九州南・沖縄」「お寺」ということで、3.5リットルが現在17袋である。
マニアとは恐ろしいものだ、と自分で自分に呆れている始末。これ以外にまだ撮影していない新入りも多数。
さらに頭が痛いのは、その東急ハンズの巾着袋が生産終了してしまったことだ。いずれ対策を考えなければ。

でもまあ、まずは御守コレクションのページをきちんと更新していくことが大事でございますね。
そしてそれぞれの御守について、どこがどう面白いのかもきちんと説明をつけていかねば。ヒー


2018.11.7 (Wed.)

先日の研究授業でつくりはじめた英語の課題である鎌倉ポスターを、ほぼすべての班がどうにか完成させた。
正直なところもっと時間がかかると思っていたが、生徒たちは予想をはるかに超える意欲で取り組んでくれた。
英語が苦手な生徒も積極的な姿勢で前向きにやってくれたので、どの班もきちんとしたものに仕上がった。
担当者としては申し訳ない気分である。みんなのことナメててゴメン、と。自分の疑い深さが恥ずかしいほどだ。
来年の修学旅行ではまた何かやることになるかもしれないが、ここで非常にいい経験が積めた感じである。


2018.11.6 (Tue.)

区で開催される英語学芸会の司会をやるために一日出張。しょうがないことと納得はしていた仕事なので、
イヤではあるけど覚悟はできている。そんな感じで自分としてはそれなりに前向きに取り組むのであった。
……が。本番では噛みまくって本当に申し訳ないのであった。英語を読むリズムがいいと褒められはしたが、
いかんせん噛んで噛んで噛みまくってもう情けないったらありゃしない。練習をまったくしなかったわけではないが、
やはり深層意識ではこの仕事をナメていたんだと思う。一生懸命にやっていた生徒や他校の先生方に申し訳なかった。

で、英語学芸会じたいについての感想。この区はいい意味で素朴であり、必死でないところが本当にいいなあと思う。
前にいた区が全力で自分たちから植民地化にまっしぐらなバカさ加減(→2013.11.132016.11.9)だったせいもあり、
個人的にはあまりいい印象のないイヴェントだ。しかしこの区の場合、生徒の一生懸命さがとても印象に残る内容で、
英語圏特有の感覚よりもわれわれ日本人の努力を評価する本質が大切にされていた。参加できてよかった、むしろ。


2018.11.5 (Mon.)

起きてから朝食をいただくべくエレヴェーターで1階へ。そこにいたのは大量の韓国人観光客なのであった。
対馬の韓国人観光客の多さについては噂で聞いていたが、本当に多い。昨日の夜に少し歩いただけでも多かったが、
いざ食堂がやたらめったら韓国語が飛び交う空間となっているのを目の当たりにすると、圧倒されてしまう。
朝食はごく一般的なバイキング形式だが、ご飯茶碗がなかった。おかず用だと思っていたプレートに盛り付けるようだ。
今日は昼メシが食えそうにないので、大量のご飯をプレートの上に盛り付ける。……なんとも変な気分である。
大量の白米に味噌汁をいただくと、食器を返す。係のおばちゃんは僕の「ごちそうさまでした」という日本語を聞いて、
表情がほころんだように見えた。対馬の宿にご飯茶碗がない、その事実に僕はどうにもムズムズしてしまう。
日本人観光客よ、どんどん対馬に行け。日本なのにご飯茶碗が必要とされないなんて、あまりにも淋しすぎる。

チェックアウトして外に出る。ありがたいことに最高の晴天で、まさにツーリング日和だ。……そう、ツーリング。
今日は一日、バイクを借りて対馬を動きまわるのである。まあバイクといっても50ccのスクーターですけどな。
地図で確認してほしいのだが、対馬国一宮の海神神社はとんでもないところにある。厳原港から、約50km。
これはさすがに自転車では無理だ。そしてバスは平日のみの一日2本で、しかも滞在可能時間は10分もない。
もう、バイクを借りるしか手はないのである。で、そのバイクを貸してくれる事務所が日曜休業なので、
開校記念日で平日休みが取れるこのタイミングでの対馬訪問となったわけだ。バイクは八丈島(→2009.8.24)以来かな?
緊張しつつ手続きを済ませると、ヘルメットをかぶり、基本的な動きを確認していざスタート。始まってしまった。

さっそく対馬市役所へ。1974年に厳原(いづはら)町役場として建てられ、2004年に合併して対馬市役所となった。
一島一市の対馬市で旧厳原町役場が市役所となったのは、厳原が対馬で最大の街だから。かつては国府があったという。
なかなか来られない場所なので、気合いを入れてじっくり撮影していく。天気がよくて本当にうれしい。

  
L: 対馬市役所。まずは北東から見たところ。  C: 少し真ん中へ。  R: 正面、東側から見たところ。

  
L: 南東から。  C: 敷地内に入って南東から見た側面。  R: 南西から見た背面。

  
L: 西側の駐車場越しに見た背面。  C: 北西から見たところ。  R: 北東から側面をメインに。これにて一周。

  
L: では中に入ってみるのだ。1階は少し高くつくってあり、階段を上ってアプローチする。  C: 中はこんな感じ。
R: 庁舎内には竹富町から贈られたイリオモテヤマネコの像が飾られていた。日本の野生ヤマネコは対馬と西表島にのみ生息。

ではいよいよ本格的にツーリングをスタートするのだ。当然、厳原には後で戻るので、本格的な厳原観光はそのときだ。
昨日の壱岐に引き続き、国道382号を北上していく。そう、国道382号は対馬から壱岐を縦断する海上国道なのだ。
しかし厳原から離れると、しばらくは観光の要素が正直あまりない。久々すぎるスクーターの運転に慣れること、
まずはそれだけに集中するのであった。でも赤信号で停車するたびに、感覚がリセットされるのが地味につらい。
信号が青になると後続の車に先に行ってもらってから、余裕を持ってアクセルを回すスタイルで着実に進む。
そして後ろに車が現れると焦る。車にとって迷惑にならない駆け引きというか暗黙の了解がイマイチわからないのだ。
また、パトカーが思ったよりも頻繁に対向車線に登場。長崎県の離島の治安維持が徹底されているのは素晴らしいが、
こっちとしてはどれくらい飛ばすと捕まるか基準がよくわからないので、それでまた緊張状態になってしまう。
ある程度慣れてきたところで調子に乗らないように慎重になる、その繰り返しで、だいぶ精神的に疲れたのであった。

そんなこんなで1時間、和多都美(わたづみ)神社に到着である。境内は浅茅(あそう)湾のほぼ北端、
浅瀬となっている小さな入江に面している。その浅瀬には鳥居が3つ、だいたい等間隔で並んで境内へと続いている。
まるで飛行機の着陸を待つ空港の滑走路のようだ。そうやって神様が境内に降り立つさまが、なんとなく想像できる。

  
L: 和多都美神社。  C: 海側を眺めると鳥居が縦に並んでいる。僕はなんとなく、飛行機の着陸を待つ滑走路を思い浮かべた。
R: わかりづらいアングルで申し訳ないが、三柱鳥居。鳥居の下にある鱗状の亀裂の入った磐座・磯良恵比須が祀られている。

祭神は彦火々出見尊つまり山幸彦と、その妻・豊玉姫命。姫の父である豊玉彦尊(ワタツミ)がこちらに宮殿をつくり、
なくした釣り針を探してやってきた山幸彦と結婚したという話。ちなみに合併前にはこの辺りは豊玉町であり、
和多都美神社の影響の大きさがわかる。やはりちょっと独特な雰囲気で、どこか原始的というか、歴史を感じさせる。

  
L: 境内に入る。  C: 拝殿。  R: 角度を変えて眺める。石垣で一段高くつくられており、さらに床束で持ち上げている。

和多都美神社の南側には烏帽子岳展望所があり、スクーターで行ってみようかと思う。しかし勾配がきついのと、
時間が読めないのと、車が入れなくなっているっぽいのとで、怖気付いて断念。気になって後で調べたところ、
烏帽子岳展望所は浅茅湾を眺めるのに最も良い場所らしく、非常に悔しい思いをするのであった。

  
L: 和多都美神社の本殿。  C: 和多都美神社付近の浅茅湾。烏帽子岳展望所には行っておくべきだった……。
R: 対馬市役所豊玉庁舎、つまりは旧豊玉町役場。なお、合併後の対馬市議会はこちらにある。

国道に戻ってさらに北上。三根川を渡って峰町の中心部に入り、そのまま県道48号を西へと突き進む。
道路は入り組んだ海岸線に沿って曲りくねり、やがて山の中へ。集落を抜けると再び海に沿った道となり、
まったくひと気のない浜辺に出た。沖に小さな船が浮かんでいるものの、そのほかには本当に人の気配がない。
少しくらい物好きな観光客がいてもいいはずなのに、陸地は完全なる無人。世界に一人、取り残されたような気分だ。

  
L: なんだか急にひどく寂しくなって、思わずスクーターを記念撮影してしまった。こいつのおかげで行きたい場所に行ける。
C: 木坂の湾。岬の頂上近くに展望台が見えるが、完全に無人。音を発するのは海を抜ける風だけで、世界に取り残された気分。
R: 沖合にポツンと浮かぶ船のほかに、人間の存在を示すものがない。いま流れている時間は、現実と同期しているのか?

僕にとって最後の一宮である海神神社はすぐそこだ。巡拝の旅が終わってしまうことを惜しむ気持ちはもちろんあるが、
それ以上に違和感が大きい。車も人も現れる気配はまったくなく、ただ荒涼とした対馬の海岸がそこに存在しているだけ。
波が迫り、風が吹いているから時間が流れていることはわかるが、まるで夢の中の光景と思えるほどに現実感がない。
『ドラえもん のび太と鉄人兵団』の鏡面世界にいるようだ。周囲の人工物だけ残して、人間が消えてしまった錯覚。
茫然としていると、目の前にネコが1匹飛び出した。残念ながらツシマヤマネコではなく、白黒ハチワレの野良ネコだ。
そいつは僕を見て、慌ててススキの中に逃げ込んだ。それで時間の流れが元に戻った感じがした。はっと我に返る。
野良ネコはツシマヤマネコの生息域を圧迫するのであまりよろしい存在ではないのだが、つられてそちらへと歩くと、
ススキの向こうに海神神社の鳥居が見えた。ああ、そうだ。一宮巡拝の旅を、きちんと完了させなければいけない。

  
L: 海神神社の遠景。神社の周囲は「野鳥の森」となっている。  C: 我に返って海神神社へ。こちらが境内入口。
R: 鳥居の前から海側を振り返ったところ。人間の痕跡はあってもひと気がまったくない、不思議な空間だった。

鳥居をくぐって海神神社の境内に入る。神社というよりは、山麓公園の遊歩道といった雰囲気である。それもそのはず、
この辺りは神社の境内であると同時に「野鳥の森」ということになっている。「千古斧を入れない原生林」とのこと。

  
L: 鳥居のすぐ脇にある峰町ふるさと宝物館。6年前にここから仏像が盗まれる事件が発生。気をつけてくださいよ……。
C: 参道なんだけど、確かに野鳥観察路という印象もある。  R: 授与所。さすがに無人だったが、御札も御守も充実。

参道を奥まで行ってようやく手水舎が登場。そして少し角度を変えて石段が始まる。特にキツいわけではないが、
なかなか距離がある。木々は勢いよく茂っているが、全体的に明るい。確かにこれなら野鳥観察にはもってこいだ。

  
L: いちばん奥まで行くと本格的な参道の雰囲気に。  C: 石段を上る。勾配はゆったりとしているがちょっと長い。
R: ラストの鳥居。扁額には「海神神社」とあるが、「海」が「毎」の下に「水」という表記になっていて面白い。

石段を上りきると、左斜め前に拝殿が現れる。これがかなりの迫力。社殿は1921(大正10)年の築だそうで、
目の前に迫ってくるように感じられて圧倒される。本当にひと気のない場所で、えらい僻地に来たなあと思っていたが、
そこにあったのは見事な風格を漂わせる社殿だった。さすがは一宮だなあ、と唸ってしばらくその場に立ち尽くす。

  
L: 海神神社の拝殿。石段を上りきると、勢いよく茂る枝の間から堂々たる拝殿がいきなり現れて驚かされた。
C: 少し角度を変えて拝殿を眺める。さすがは一宮の風格。  R: 失礼して拝殿の中を覗き込んだところ。立派である。

これにてすべての一宮を参拝完了である。実に長い道のりであった。一宮巡拝をいつからスタートしたか、
もうすっかり忘れてしまっているのだが、過去ログを見るに、2010年ぐらいからちょくちょく参拝している感じである。
しかしその後で御守に目覚めたことで、2周目を強いられた神社も。ガッツリ山にも登ったなあ。ひどい捻挫もしたなあ。
振り返ってみればつらい旅路であった。まあ、それ以上に楽しかったけどね。知識がついたのがいちばんのご褒美かな。
一宮巡拝の締めが海神神社というのは、僕にとってはよかったと思う。わざわざバイクを借りて走る冒険ってのがいい。
誰にも邪魔されることなく、好きなだけ感傷に浸ることができるのもいい。これで終わったけど、終わった感じがしない。
事故を起こさず無事に厳原まで帰らないといけない。そして無事に東京まで帰らないといけない。帰ったら帰ったで、
日常が続いていって、きっとまた何かの挑戦が始まるのだ。そのとき、全国各地の一宮と再会する日もあるだろう。
特別だった一宮巡拝の旅は、今度は僕の日常を構成する要素になるのである。それを成長と捉えても、差し支えあるまい。

  
L: 海神神社の拝殿と本殿。  C: 本殿。やはり一宮だなあと思わされる迫力。  R: 本殿から横一列に並ぶ摂末社。

気が済むまで社殿を眺めて、長い参道を戻って、御守を頂戴して、海神神社の境内を後にする。終わったが、終わらない。
終わった気になってもいいし、2周目を夢見て気長に過ごしてもいい。沢木耕太郎『深夜特急』(→2010.2.19)の結末、
まさにあれと同じ心境ではないかと思う。でもこの心境は、旅に対して納得しなければたどり着けないものなのだ。
納得できるだけのものを、今の自分は手にしている。それはとても贅沢なことだ。その事実と青い空に、僕は目を細める。

海岸へと近づいていき、木坂の藻小屋に寄る。ここだけが日本とは思えない景観になっていた。大陸の匂いがする。
実際は住民が畑の肥料にする藻を貯蔵した納屋と船の倉庫を兼ねたもので、屋根は復元だが石積みは往時のままだ。
石は隙間なくきれいに積まれており、それだけに台風の激しさがうかがえる。対馬の歴史を想像しながら一周してみる。

  
L: 木坂の藻小屋。大陸の匂いがする。  C: 側面。こちら側が海に面している。  R: 中を覗き込んだところ。

最後に記念ということで海神神社を遠景で撮ったら、さっきの白黒ハチワレの野良ネコが偶然写り込んでいた。
海神神社を独り占めした気分でいたが、こいつがいたか。一宮完全制覇の証人になってくれたか。

 ツシマヤマネコいじめんなよ!

できることなら対馬の北端まで行ってみたかったが、それをやったら帰りの飛行機に間に合わなくなってしまう。
対馬の長さを実感しながら来た道を戻るのであった。さすがに復路はだいぶ慣れた感じで運転することができた。
厳原を目指して順調に国道382号を南下していく。海神神社から1時間ほどで、万関橋まで戻ってきた。
実は対馬は、厳密には3つの島に分かれている。もともとは1つだったのだが、1672(寛文12)年に大船越瀬戸が、
1900(明治33)年に万関瀬戸が開削されて3分割された。万関瀬戸を境目に、北を上島、南を下島としている。
万関橋から万関瀬戸を見下ろす。西を向けば浅茅湾の片鱗がうかがえて、とりあえずはそれで満足しておく。

  
L: 万関橋。その名のとおり万関瀬戸に架かる。  C: 万関瀬戸、西を見る。浅茅湾はこの奥だ。  R: 東は久須保浦。

万関橋からは30分ちょっとで厳原に戻る。厳原の中心にある厳原八幡宮神社にあらためて参拝する。
実は朝イチで訪れていたのだが、韓国人観光客に占領されていたこともあり、落ち着いて参拝できなかったのだ。

  
L: 厳原八幡宮神社。正式名称は「八幡宮神社」で、国道382号はこちらの交差点が対馬における終点である。
C: 境内を行く。これは午後になってからの光景。  R: 石段を上って神門をくぐる。横参道的な空間配置。

午後の境内は静かで、朝になぜあんなに騒がしかったのか理解ができない。不思議に思いつつ二礼二拍手一礼するが、
拝殿脇に空き缶が置かれているのに気がついた。見るとハングルが印刷してある。いや、もう本当に頭に来る。
無事に御守を頂戴できたが、もし自分が神職だったらこんなの耐えられないと思う。この状況はおかしいですよ。

  
L: 神門を抜けたところ。  C: 近づいて拝殿。  R: 奥の本殿を覗き込む。

朝には境内を散策してまわることができなかったので、その分を今、取り返すように歩きまわる。
それにしても信じられないのは、朝、韓国人観光客たちが境内の石段に平然と腰掛けていたことである。
ガイドの説明を聞いていたようだが、いや、もう、話にならない。朝から本当に不快な気分にさせられた。
そんな彼らは八幡宮神社を後にしてどこへ消えたのか。できれば二度と遭遇したくないものである。

  
L: 境内社ひとつひとつに石段があるのが独特だ。  C: 菅原道真と安徳天皇を祀る天神神社。なんとも不思議な取り合わせ。
R: これは朝に撮った写真。石段に腰掛けて社殿に尻を向ける。彼ら特有の蛍光ジャンバー(→2008.4.29)もチラホラ目立つ。

帰りはバスで空港に向かうので、ここでバイクを返却。近くのガソリンスタンドで満タンにして返したのだが、
あれだけ走ってガソリン代はわずか264円なのであった。スクーターってすごい乗り物だなあ、と心底驚いた。
感傷に浸りつつ歩いて中心市街地に戻ると、あとは時間の許す限り厳原の街を歩きまわってみる。

  
L: 厳原港ターミナルビル。ターミナル部分はそんなに大きくなく、併設されている役所の方が存在感があるかな。
C: 中心市街地を流れる厳原本川。小さい魚が元気に泳いでいる。  R: 市街地に鎮座している浜殿神社。

  
L: 県道24号・大町通り。対馬のメインストリートで、この先に行った厳原八幡宮神社前で国道に切り替わる。
C: 観光情報館 ふれあい処つしま。食事も土産もあり、バスターミナルも兼ねる。コインロッカーがありがたかった。
R: その北には、いづはらショッピングセンター ティアラ。対馬市交流センターがメインの施設で、2006年にオープン。

厳原の史跡は、対馬市役所からさらに西へ行った辺りがメインのようだ。行ってみると、対馬博物館が建設工事中。
敷地のいちばん端っこ、金石城の石垣の上からじっくりとつくりはじめているようだ。完成はまだまだ先とのこと。
さらに山の方へと歩いていくと、かなり個性的な城門が現れる。天守の代用だったという金石城櫓門(復元)である。
昨年、安来神社で見た門を思い出す(→2017.7.15)。櫓部分は新しい感触だが、足元の石垣は本物で、やはり見事だ。

  
L: 建設中の対馬博物館。金石城の石垣を生かして建てる模様。設計は石本建築事務所・トータルメディアJV。
C: 奥には解体を待つ旧長崎県立対馬歴史民俗資料館。その上に清水山城の石垣が見える。  R: 復元された金石城櫓門。

金石城櫓門をくぐると公園となっており、さらに先へ進むと旧金石城庭園。金石城は対馬を支配した宗氏の居城で、
朝鮮通信使を迎える関係で近世城郭としての整備がなされたとのこと。庭園は発掘調査を踏まえての復元である。
建物との組み合わせで見てみないと正直ピンとこないところもあるが、池を中心に巨石が点在して雰囲気は悪くない。
センスのいい人がアレンジして復元したら、往時の庭園よりもいいものができちゃった、となる可能性は否定できない。
それはそれで名園の誕生なので歓迎すべき事態となるのか? ムムム。まあつまり、今後の再整備に期待である。

  
L: 旧金石城庭園。  C: 奥の方から振り返ったところ。今はまだ遺構としての雰囲気が強い。雰囲気はいい感じ。
R: 奥にある搦手門跡から出て振り返る。石垣が残っているので説得力がある。うまく復元していってほしいなあ。

金石城の搦手門跡から出て金石川を渡ると、万松院というお寺がある。こちらが宗氏の菩提寺である。
まず山門が独特。なんだか三ツ鳥居を想像させる形状で、左右両側だけ朱塗りとなっている。仁王もちゃんといる。
奥からまわり込むと境内に入ることができ、そこから百雁木と呼ばれる石段を上って宗氏の墓所へと向かう。

  
L: 万松院の山門。対馬最古の木造建築とのこと。  C: 本堂。火災で焼失したため1879(明治12)年の再建。
R: 百雁木の石段を上って対馬藩主宗家墓所へ。几帳面に積まれた石と木々が調和してたいへん美しい。でも長い。

木坂の藻小屋から思っていたことだが、対馬の石垣・石組みは美しい。よく見るとさまざまな大きさの石があるが、
全体として眺めるときっちりとした直線的な印象がする。かなり緻密に計算して石が積まれているということだ。
百雁木も含めて対馬藩主宗家墓所ではそのセンスが遺憾なく発揮されており、墓石よりむしろそっちに目が行く。
対馬は山がちな地形もあって、木々をはじめとする自然の力をよく実感できる場所だが、石組みもなかなかのものだ。
自然を背景に人為の美しさが魅力を放つことはよくあるが、対馬では特に石垣・石組みが隠れた主人公であるようだ。

  
L: 対馬藩主宗家墓所の中御霊屋。石組みの美しさに圧倒される。  C: 樹齢1200年という大スギが3本あるが、そのうちの2本。
R: いちばん高いところにある上御霊屋。こちらは21代目で対馬府中藩の第3代藩主・宗義真夫妻の墓。中興の祖なので大きめ。

これでいちおう厳原観光は完了ということにする。本当はもっとじっくり動きかったのだが、安全策ということで、
空港へ向かうバスに1本余裕を持たせる。空港で慌てるのもイヤだし。コインロッカーの荷物を回収してバスに乗る。

 先ほどチラッと見えた清水山城の石垣をクローズアップ。次回はぜひ登りたい。

バイクだと国道382号を一直線で行けてしまう対馬空港だが、バスだと阿須湾をまわっていくのでゆったりペース。
でもその分、スルーしてしまった海沿いの日常の光景を確かめながら対馬の旅を締める印象となる。ありがたい。
そうして予定どおりに対馬空港に到着すると、土産物を見たり外の景色を見たりしてのんびりと過ごす。

  
L: 対馬空港。愛称は対馬やまねこ空港。  C: 搭乗口の案内。ここでもヤマネコ仕様なのであった。
R: 窓から外の滑走路を眺める。丸っこいが複雑な形の山脈が二重三重に取り巻いている。対馬らしい景観。

バイクを返却する際、「いい天気だし、風もないし、よかったですね」と言われた。事実そのとおりだが、
僕がその境地に至ったのは帰りに対馬空港入口を通過した辺りだろうか。最高のコンディションだったのに、
それを客観的に味わうことがなかなかできなかったのが悔しい。慣れないバイクにどうしても緊張してしまい、
次々と飛び込んでくる対馬の風景を落ち着いて眺めることができなかった。振り返ると、本当に楽しい時間だったが。
そもそもやはり、スクーターで半日ちょっとの行動では、対馬の魅力を理解するのにはどうしても不十分である。
烏帽子岳展望所、金田城、対馬の北端など、行けなかった場所だらけだ。できれば温泉にも入りたかった。
いつになるかはわからないが、絶対にまた対馬に来たい。そのときには……やっぱり、バイクで走りたい。
できれば2日間まるまる、あるいはそれ以上でもいい。対馬の隅から隅までバイクで走りまわりたい。

  
L,C: 飛行機がやってきた。プロペラ機だ! ボンバルディアDHC8-Q400。プロペラ機に乗るのは初めてなので大興奮だ。
R: 荷物受取所にはツシマヤマネコとカワウソの人形。ツシマヤマネコは対馬に100頭ほどしかいない。がんばれ。

やってきたのがプロペラのボンバルディア機なので大興奮。もともとはデ・ハビランド・カナダが開発した機体で、
デ・ハビランドといえば木製(!)爆撃機であるモスキートでおなじみ(『1941』の2P機体として僕の中でおなじみ)。
対馬側ではジェット機が撤退してプロペラ機に置き換わったことは「格下げ」と受け止められているようだが、
僕としては最高に旅情が掻き立てられる要素である。舐めるようにプロペラを眺めながら小型のタラップで機内へ。

  
L: いよいよ搭乗。ジェット機と比べて低く、ショッピングカートみたいなサイズ感のタラップで機内に入る。
C: 離陸すると窓の外には浅茅湾の絶景。展望所からこれを眺められなかったことを心の底から後悔した。
R: でも残念ながら、最高に旅情が掻き立てられる要素であるはずのプロペラが邪魔! これはぜひ、リヴェンジせねば……。

離陸すると窓の外の浅茅湾が本当に美しい。でもプロペラが邪魔でぜんぜんきれいに撮影できないのであった。
最初からボンバルディア機と知っていれば席を後ろにしたのに……。でもやはり、これは展望所から見たかった。
浅茅湾のリアス式海岸としての美しさはおそらく日本一だろう(英虞湾もよさそうだが開発が進んでいるからなあ)。
いつかまた対馬を訪れて、バイクで縦断して温泉に入って浅茅湾を堪能する。ツシマヤマネコに会えたらなおよい。
福岡空港へ向かうボンバルディア機の中で夕日を浴びながら、そう固く心に誓うのであった。


2018.11.4 (Sun.)

一宮巡拝を完遂する旅行、本格スタートである。最後に残ったのはやはり島、壱岐と対馬である。
どちらも長崎県ではあるが、実は福岡からアクセスするのが最も標準的なのだ。玄界灘の先なので当たり前だが。
博多港から船でまず壱岐に行き、さらに対馬へと向かう。まさしく日本史の教科書をなぞるようなルートである。

  
L: ジェットフォイルのターミナル。  C: 博多ポートタワー。内藤多仲の設計で1964年に竣工。意外と由緒正しいのだ。
R: 海側から見たベイサイドプレイス博多の商業施設。「ベイサイドプレイス博多」はポートタワーやターミナルを含めた総称。

朝イチで博多から壱岐へ向かうには前乗りするしかなかったわけだ。7時前にバスに乗り込み、早めに博多港に入る。
ジェットフォイルの乗船券を購入すると、朝日を浴びる海を眺めながらコンビニおにぎりを食べて出航時刻を待つ。

 ジェットフォイル「ヴィーナス2」。壱岐まで70分とはさすがの速さ。

ジェットフォイルは8時に博多港を出る。飛行機の客席のような船内ではあちこち歩きまわるわけにもいかず、
窓の外の海を眺めているうちにうつらうつら。郷ノ浦に入港する直前になって本格的に目が覚めるのであった。
夢見心地で上陸すると、大漁旗でつくった羽織を着た子どもたちが踊っているのであった。すごい歓迎ぶりだ。
そしてすごい沖縄っぽい。幟には「#HY壱岐」とあって、これはつまり公演で壱岐に来たHYを歓迎する催し。
なんだよ、オレに対する歓迎じゃないのかよ、と苦笑い。それよりまずレンタサイクルを確保しなくちゃいけない。
今日は壱岐を自転車で縦断するのだ、少しの時間のロスももったいないのである。気合いを入れてペダルを踏み込む。

  
L: HYを歓迎する皆様。それで沖縄風だったのか。これが壱岐のオリジナルな文化かと勘違いしそうになった。
C: 少し離れて眺める郷ノ浦港フェリーターミナル。  R: 郷ノ浦大橋から眺める郷ノ浦の市街地。さあ行くぞ!

壱岐は現在、一島一市となっているが、かつては郷ノ浦町・勝本町・芦辺町・石田町の4町が島内に存在していた。
郷ノ浦町が南西、勝本町が北西、芦辺町が北東、石田町が南東といった感じである。今回は郷ノ浦から勝本に出て、
最後に芦辺から対馬へと向かう。残念ながら印通寺(いんどうじ)港を擁する石田へ行く余裕はない。自転車だもの。
旧4町で最も規模が大きいのが今いる郷ノ浦で、壱岐市役所もこちらにある。まずは市街地にある塞神社に参拝。

  
L: 郷ノ浦の商店街は永田川沿いにある。奥に塞神社。  C: 塞神社。  R: 境内に入る。拝殿の手前に何かが勃っている……。

壱岐に上陸していきなりの先制パンチにビビりつつ二礼二拍手一礼。もともとは猿田彦が庚申信仰と結びつき、
疫病を塞いだり道路を守ったりする防塞の神様ということで「塞神社」となったわけだ。道祖神とも関連がある。
その猿田彦は天宇受売命(あめのうずめのみこと)と結ばれたわけだが、こちらの塞神社では両者を一体化させ、
猿女君(さるめのきみ)として祀った。それで夫婦和合やらそっちの方面が強調されたのではないかと思われる。
説明板によると明治末期までは、壱岐島に上陸した男はちんちんをこちらの女神に見せる風習があったんだと。
なお、肝心の御守は近くの海産物&土産物店で頂戴できる。店先に強烈な目印があるのでわかると思います。

 
L: その目印。いやはや、これはまた元気なものだ。  R: 郷ノ浦の商店街。昔ながらという感触。

商店街の北端から坂道を上っていくと壱岐市役所である。しかし残念ながら改修だか塗装だか、工事の真っ最中。
せっかく遠路はるばるやってきてふだんの姿が見られないのは本当にへこむぜ。いつかリヴェンジしたいものだが。
なお、壱岐市役所は1975年に郷ノ浦町役場として竣工している。2004年に合併してこちらが市役所となった。

  
L: 壱岐市役所。へこみつつ撮影開始。これは南東から見たところ。  C: 正面、東から。  R: 北東から。

  
L: 敷地内に入って南東から見上げる。  C: 北東から見上げる。組んである足場のせいで見事にファサードが見えん。
R: 斜向かいの國津意加美(くにつおかみ)神社から見た壱岐市役所。西側に山が迫っており、背面にまわり込むことは不可能。

 國津意加美神社。無人なのであった。

空も曇っているし、市役所も工事中。テンションはだだ下がりである。しかし壱岐での滞在時間は限られている。
気を取り直して坂道を上りきり、次の目的地へと向かう。国道382号に出ると、ひたすら東へと走り続ける。
そのまま国道を進むと印通寺まで行ってしまうので、東の方角をキープしつつ田んぼ地帯の中へと入っていく。
壱岐島は全体が溶岩台地だが、侵食と堆積によって、現在は山の間を田畑が埋める複雑な地形となっている。
しかし壱岐最大の河川である幡鉾川の流域はしっかりとした平野であり、広大な稲作地帯となっているのだ。
そしてその中の微高地にあるのが、原の辻(はるのつじ)遺跡だ。周囲の農地を見下ろす絶好のポジションで、
往時の建物がいくつか再現されていることで、かなりの説得力が感じられる。なるほど、ここが一支国の中心か。

  
L: 原の辻遺跡。これは端から中央部を見たところ。  C: 逆に、最も高い中央部から周辺部を見たところ。
R: 遺跡内に再現されている竪穴式住居や高床倉庫などの建物。なるほど、これらのおかげで歴史が見えてくる。

「一支国」とは『魏志 倭人伝』に登場する国で(「一大国」と誤記しているようだが)、「いきこく」と読む。
つまりは壱岐のことだ。帯方郡から倭国への道のりを紹介する文で、対馬国と末廬国(松浦)の間に出てくる。
竹や木、草むらが多くて、3000ほどの家があったそうだ。田んぼはあるけど食べていくには十分でなく、
周辺から米を買っていたとのこと。壱岐は全体的に山がちだから、原の辻の平野だけでは賄えなかったのか。
大陸と九州・本州を結ぶ要衝として、当時はかなりの都会だったわけだ。遺跡を眺めてその過去を想像してみる。

 
L: 再現された物見櫓。  R: 少し離れて農地の方から原の辻遺跡を眺める。弥生時代もこんな光景だったんだろうなあ。

原の辻遺跡から平野の北端へ行き、そこから坂を上って壱岐市立一支国博物館へ。長崎県の考古学研究拠点でもある。
黒川紀章建築都市設計事務所の設計で2010年に開館している。屋上緑化で原の辻をイメージしているのかと思うが、
外観についてはこれといって特筆すべき要素はない。中は最近の博物館らしく、照明を生かしたきれいな展示が目立つ。
展示を見ていくと、最後はガラス越しに原の辻遺跡を遠景で眺めて締める構成。工夫されたストーリー展開である。

 
L: 壱岐市立一支国博物館。残念ながら中の展示の様子は撮影禁止。  R: 壱岐市立一支国博物館から見た原の辻遺跡。

ではいよいよ一宮参拝に向かうのだ。まず、壱岐国一宮は天手長男(あめの/あまのたながお)神社なのだが、
元寇の影響もあって所在不明となってしまった。現在の天手長男神社は江戸時代になって比定されたもので、
そこから社殿が建てられたが、どうも間違っていたらしい。本当のところは、平野の北西端にある興(こう)神社が、
かつての一宮つまり本来の天手長男神社だったようだ。「こう」とは「国府」を指しているとのこと。なるほど。
そんなわけで、まずは博物館から西に行ったところにある興神社に参拝。坂を下って平野に戻ると一気に西へ。

  
L: 興神社の境内入口。  C: しっかりと参道が延びている。  R: 進んでいくと二の鳥居。古来の神社って感じだなあ。

興神社は完全に無人だったが、御札と御朱印がきちんと置いてあった。残念ながら御守はなかった。
せっかくなので、御朱印を頂戴しておく。しかし覆屋の中の本殿はきちんと彩色が残っており、風格がある。
勘違いがなければこちらが今も一宮として広く認められていたかもしれないわけで、なんとももったいない。
でもここまで来る物好きはその辺の事情を知っているだろうから、こうしてたまの来訪者を静かに迎えるのも、
それはそれで美しいことなのかもしれない。でもまあ両方とも一宮にするとか、やれることはあるような気はするが。

  
L: 拝殿。瓦屋根は立派だが、全体的に簡素。  C: 本殿の覆屋。掃除道具入れや幟の竹筒置き場になっとる。
R: 中を覗き込んだらさすがに本殿は立派だった。かつての彩色がよく残っており、往時の勢いが偲ばれる。

参拝を終えるとそのまま県道173号を行き、途中で西に入って国道382号へと近づく。国道の手前が天手長男神社だが、
先に南側の天手長比売(あめの/あまのたながひめ)神社跡に寄る。田んぼを挟んでちょうど向かい合う位置にあり、
これが天手長男神社の所在地が誤解される要因になったのだろう。確かに天手長男と天手長比売と言いたくなる配置だ。
この位置関係があるから、現在の天手長男神社についても一宮として、みんなある程度納得しているわけか。

  
L: 天手長比売神社跡、境内入口。実際は本来の天手長比売神社の所在地は不明だが、祭祀空間だったのは確かだろう。
C: 石段を上がるとこの光景。うーん、雰囲気あるなあ。  R: 祠が置かれていた跡地か。1965年に天手長男神社に合祀。

 天手長男神社の前から見た天手長比売神社跡。見事に向かい合っている。

ではいざ天手長男神社に参拝。参道と石段は意外と長く、苔生して滑りやすそう。両側の竹林の勢いが強いこともあり、
ちょっと不安になってしまう感じである。しかし行く先に鳥居が見えるので、それを信じて気をつけつつ上っていく。
その鳥居にはなぜか宝珠の下に「寶満神社」と書かれた扁額が掲げられていたが、そこを駐車場に向かう車道が横断。
車だといろいろ楽でいいなあ、と思いつつラストスパートをかけて拝殿の前に出るのであった。そしたら晴れてきた。

  
L: 天手長男神社の入口。ここからがけっこう長い。  C: こんな中を行く。  R: 後で見た西側の車道入口。車は楽でいいな。

天手長男神社も先ほどの興神社と同じく、妻入の簡素な拝殿となっている。そしてやはり無人なのであった。
しかし拝殿内に御守がちゃんと置いてあって一安心。物好きな参拝者が多いとみえて、無人なのに種類が多かった。
こっちもせっかくの離島の一宮ということであれこれ頂戴していく。けっこうな出費になってしまったではないか。

  
L: 車道を越えてラストスパート。  C: 拝殿の前に出る。簡素。  R: 本殿は覆屋の中で、覗き込むことが不可能だった。

天手長男神社は円墳を思わせるきれいな円形の丘の中心に鎮座している。それはそれとして曰くありげだが、
神社としては珍しい。奥の方に神木にしては細い木が一本祀られていたが、もともと何かの祭祀空間だったのだろう。
一支国といい天手長男神社といい、壱岐の歴史の古さゆえの考古学に巻き込まれてなんだか眩暈がするほどだ。

  
L: 社殿向かって左奥にある境内社。  C: 祭祀空間。いやあ、わからん。  R: 御守の種類は多い。まあうれしいけど。

これで壱岐の一宮を攻略したのだ。でも実は壱岐は神社が非常に多い島で、なんと150社以上もあるとのこと。
あまりにも数が多すぎるために把握しきれなくなって、一宮がわからなくなってしまったということなのか。
壱岐市観光サイトでは「四十二社巡り」という恐ろしい企画が紹介されているが、そんな数をこなせるわけがない。
とりあえず、Googleマップのクチコミ50件以上を目安に寄っていくことにした。いや、もう、キリがない。

 国道382号に出る。ロードサイド店舗多し。

国道に出てしばらく北上すると、右手に住吉神社。大きな看板も出ており、だいぶ規模が大きそうだ。
境内は国道よりぐっと低い位置にあり、坂を下って駐車場に入る。さっきの一宮コンビの10倍くらいデカい感じ!

  
L: 住吉神社の鳥居。歩行者はここから石段で下る。  C: 坂を下って境内入口。非常に立派で一宮が霞むレヴェル。
R: 境内の参道を行く。鳥居や木々など昔からある要素をうまく採り入れて境内を整備している印象がする。

それもそのはず、住吉神社は旧国幣中社で現在は別表神社なのであった。そりゃあ境内整備の勢いが違う。
三韓征伐の帰路に神功皇后が壱岐に上陸して住吉三神を祀ったのが由緒であり、「日本初の住吉神社」を自称する。
日本三大住吉は筑前(博多)・長門(下関)・摂津(大阪)と海路の要衝に鎮座するが、なるほど壱岐も重要だ。
でもこちらは一宮ではないし、壱岐の一宮は行方不明になったし、ややこしい。でもさすが壱岐最大の神社の風格だった。

  
L: 拝殿。一宮コンビと同じく妻入で、これが壱岐の文化か。  C: 一段高いところにある本殿。風格がすごい。  R: 授与所。

住吉神社を後にするとさらに北上。県道174号との亀石交差点は東へ行けば芦辺港、西へ行けば湯本浦ということで、
国道382号の中でも重要な交差点のようだ。まずは東に入り、月讀神社まで行ってみる。後で戻るので下り坂が切ない。
さてやってきた月讀神社だが、完全に林の中にあってなんとも不思議な感じ。しかも石段を上りきってすぐが拝殿で、
空間的な余裕がまったくない。むしろさっきの一宮コンビの方がずっと厳かである。でも参拝者は多いようだ。

  
L: 月讀神社。林の中に社殿があるのが不思議。  C: 石段から見上げる拝殿。  R: 上りきって横から見た拝殿。

授与所には神職さんがおり、置いてある御守も多かった。先ほどの天手長男神社と共通するものがあったので、
おそらく月讀神社の方をメインにやっているのだろう。でもそれだけ人気がある理由が正直よくわからない。
式内社で名神大社の月読神社に比定されているものの、雰囲気としては山腹の祠を拡張しただけという感じ。

 本殿。手前では何やら石が祀られているが。

月讀神社から西に戻って國片主神社に参拝する。境内は無人で、後で見たら公式サイトが月讀神社と合同だった。
壱岐七社のひとつに数えられており、少し開けたところに境内がきれいに整備されていて社殿も堂々たるもの。
しかし実際はこちらも後になってからの國片主神社との比定である。丁字路だし、立地がすばらしいので納得はいくが。

  
L: 國片主神社。県道172号と174号がぶつかる丁字路にある。  C: 拝殿。やはり妻入。  R: 本殿。

さらに西へと戻ると、鬼の窟(いわや)古墳がある。壱岐島でもこの辺りは古墳が非常に多いのだ。
鬼の窟古墳は6世紀後半~7世紀前半に築造された横穴式の円墳で、石室の全長は16.5mと長崎県で最長。
竪穴式の古墳と比べると横穴は追葬が可能という利点があるが、一族みんなをここに葬ったということか。

  
L: 國片主神社の隣には壱岐国分寺(島分寺)跡。国府・興神社からはだいぶ離れた位置にある。
C: 鬼の窟古墳。西都原にも同じ名前の古墳があったっけな(→2016.2.26)。  R: 中はこんな感じ。

国道382号に戻るとそのまま西へと抜けてしまう。目指すは湯本浦、つまりは温泉! 浸かってやるのだ。
大きく曲がりくねる県道174号の坂を下っていくと、海が見えた。郷ノ浦以来、久しぶりの海である。
ちなみに壱岐では、すべての地名に「触(ふれ)」と「浦」のどちらかが付く。「触」は農業の土地、
「浦」は漁業の土地を指す。そんな個性的なルールが今でもきちんと守られているのがすごい。
湯本浦では港の西にある湯ノ山公園を中心に多くの宿泊施設がある。今回は港の北側にある温泉にお邪魔した。
この辺りのお湯は鉄分を多く含んで赤褐色をしている。有馬温泉の金湯(→2018.7.16)に似た印象だが、
なぜかやたらとお湯の温度が低かった。まあ自転車を全力でこいでいる身としては、結果オーライではあったが。

  
L: 湯本浦を眺める。壱岐で温泉というとこの辺りが基本であるようだ。  C: 山口温泉。隣もすこやか温泉で温泉。
R: 温泉を出ると国道への復帰を目指して上り坂を行く。こちらはその途中で見かけた壱岐牛の皆さん。

国道に復帰してさらに勢いよく北上する。そして壱岐島のほぼ北端・勝本浦に到着。やはり最後はヘアピンカーヴで、
坂を下って港に出る。郷ノ浦から勝本まで、自転車で壱岐の縦断をやりきった。まだまだこれで終わりではないけどね。

 
L: 港を見下ろす勝本城址の向かいに壱岐市役所勝本支所。もともと勝本町役場だったのか。ここから下ると港である。
R: 勝本港を見下ろす。多くの漁船が停泊しており活気がある。江戸時代の朝鮮通信使はこちらに寄港したとのこと。

さて、勝本に入ったらそこは何やらお祭りの真っ最中。「勝本朝市まつり」と書かれた特設ステージができていた。
時刻はすでに14時になろうというところで、昼メシをなんとかしないといけない。屋台のハンバーガーをいただき、
ちょっと一休み。ペースとしては悪くない。勝本朝市周辺を面白がりつつ撮影してまわると、次の目的地へと向かう。

  
L: 勝本では駐車場に特設ステージができていた。  C: 港から一本入った勝本の商店街。港町らしい風情がある。
R: 勝本朝市の中。午後だけど営業しているのはお祭りだからか。海産物がメインのようだが奥の入口には花なども。

港の海岸線に沿って北上していくと、壱岐国二宮とされる聖母宮(しょうもぐう)にたどり着く。
特徴的な名前だが、祭神は息長足姫尊(神功皇后)・足仲彦尊(仲哀天皇)に住吉三神ということで、
これは神功皇后にちなんだものであるわけだ。地名の「勝本」も、いい風が吹いたので「風本」としたが、
三韓征伐を終えて戻った際に「勝本」と改めた、という話。いかにも壱岐らしい由緒を持った神社なのだ。

  
L: 聖母宮の鳥居。いかにも歴史を感じさせる石鳥居である。  C: 西門。1592(天正20)年に加藤清正が建てたそうだ。
R: 神社の向かいにある石垣。防風対策だと思われるが、南の島のような印象。この辺りは昔ながらの道幅って感じ。

境内に入る。拝殿は平入で、これまで多くあった妻入スタイルとは異なる雰囲気だ。本殿は1752(宝暦2)年の築で、
現在は覆屋の中である。長崎県指定有形文化財となっており、彫刻に極彩色が施されているとのこと。

  
L: 手水にシャコガイ。こんなの初めて見た。  C: 拝殿。  R: 本殿は覆屋の中。

参拝を終えると、勝本を後にする。先ほどの坂道をがんばって上って今度は南東へ。電動自転車様様だなあと思いつつ、
県道23号を快調に走っていくと、途中で石碑を発見。自転車を停めて近づいたら「文永の役 新城古戦場」とあった。
文永の役は1274(文永11)年、元寇の1回目である。壱岐守護代・平景隆が応戦し、この一帯が激戦地となったのだ。
圧倒的な兵力の元軍に対して景隆側は100騎ほどであり、敗れた景隆は自害。壱岐は対馬に続き、元軍の手に落ちた。
生き残った壱岐の島民はわずか数十人という話。「元寇千人塚」と彫られた石碑もあり、手を合わせずにはいられない。

 文永の役 新城古戦場の碑。壮絶な歴史に直面して言葉を失う。

箱崎八幡神社を合図に県道から別れて北東へ。男嶽(おんだけ)神社を目指すが、まずは手前の女嶽(めんだけ)神社だ。
舗装されてはいるものの完全に山道となっている中を突き進んでいき、どうにか到着。新しめの妻入拝殿、その先に本殿。
それだけなのであった。奥には巣食石(すくいいし)という巨石があるのだが、そこまで行く余裕がなかった。

 女嶽神社。祭神は天鈿女命で、男嶽神社の猿田彦命に対応している。

あらためてまわり込んで男嶽神社へ。まず目に入るのは鳥居の脇に建っている展望台である。これは後で上るとして、
きちんと参拝するのが先なのだ。参道は思っていたより開けており、授与所にもさまざまな御守が置いてあった。

  
L: 男嶽神社へと向かう道。右から来て左へ上る。じっとりした坂は電動自転車でも大変なのであった。
C: 男嶽神社に到着。境内入口の脇には展望台。後で上ってみるのだ。  R: いざ鳥居と向き合う。

拝殿で参拝を済ませ、どれ本殿の様子はどうだろう、と裏にまわり込んだらびっくり。無数の石像が並んでいる。
よく見ると、それらはみんな猿の石像だった。なるほど祭神である猿田彦命にちなんで、ということか。
その数、260体以上で、すべて参拝者が置いていったものだそうだ。見ざる言わざる聞かざるの三猿が多い。

  
L: 境内の様子。場所が山の上であるわりには開けている印象。立派である。  C :拝殿。手前には狛犬でなく猿がいる。
R: 拝殿の裏にいる猿たち。これだけいるとかなりの迫力だ。かつては石の牛を奉納したが、明治から猿になったという。

拝殿裏には御神体だという岩がある。磁石を狂わせるパワースポットとのことだが、なかなか逞しいのであった。
先ほどスルーした巣食石もそうだが、壱岐には磁石を狂わせる岩がチラホラあるそうだ。溶岩台地ということで、
富士の樹海なんかと同じような状態なのだろうか。そして本殿は覆屋の中だが、その周りにも猿たちがいる。
稲荷神社の狐と同じような感じで独特の雰囲気を醸し出している。元は自然崇拝だろうが、人工物が意味を増幅する。

  
L: 猿たちは1体1体顔が違うので、それらを観察していくのも面白い。  C: 拝殿裏の御神体。おさわりOKとのこと。
R: 本殿は覆屋の中。こちらの周りにも石の猿たちがいて、稲荷神社の狐に近い神秘性を感じさせるではないか。

では展望台に上ってみる。男嶽神社が鎮座するのは標高168mの男岳で、これは壱岐島で3番目に高い山になる。
壱岐は突出して高い山がなく、溶岩台地の隙間を細長い農地が埋める。先日の阿武隈山地(→2018.9.17)に少し似るが、
侵食はそれほど激しくないようで、緑に包まれた凸部が視界いっぱいにモコモコと広がる光景となっている。
いかにも離島らしい原始的な景色であると思う。一支国の時代からずっとこんな風景だったのだろうか。


展望台からの眺めをパノラマで撮影してみた。だいたい西向き。

北西を向けば対馬が見える。日本の果てが、水平線の上に見えている。そして、そこにこれから行くのだ。
今年は一宮巡拝を完遂する目的もあって離島をテーマに動いているが、そのラスボスと言える対馬がそこにある。
目の前の壱岐と同じように、とりたてて高い山があるわけではない。しかし、対馬の稜線はしっかりと長く延びて、
茫洋とした海の上に確かな姿を見せてくれている。その存在感が頼もしい。対馬が悠然と、僕の訪問を待っている。

  
L: 芦辺港。これからあちらに向かうわけです。  C: 南西方向。壱岐島が溶岩台地であることがなんとなくわかる。
R: 北西の海の向こうには対馬が見える。なだらかだが確かな稜線がしっかり延びていて(本当は右にもっと長い)感動的だ。

男嶽神社を後にすると、いよいよ壱岐における最終チェックポイントである芦辺港へと向かう。
方角的にはそのまま南下すればいいのだが、安易に細い道に入るとどんな高低差を味わわされるかわからない。
素直に来た道を戻って県道に出て下っていくと、ほどなくして川沿いの集落に出る。川には漁船が一列で停泊しており、
いかにも港町の雰囲気である。そのまま右岸をまわり込めば芦辺港だが、橋を渡ってちょっと寄り道。
湾の端にある壱岐神社に参拝するのだ。創建は1948年と戦後のことで、1952年に壱岐護国神社を併せて祀る。

  
L: 壱岐神社。芦辺港の端、少し高い丘に鎮座する。  C: 境内を行く。「少貮資時」の幟がある。  R: 拝殿。

祭神は、元寇の際の上皇・天皇であった亀山天皇・後宇多天皇父子と、壱岐国守護代・少弐資時の3柱。
少弐氏の名は大宰少弐に由来し、大宰府の責任者として一族で元寇を戦った。文永の役では元軍を無事撃退するが、
弘安の役で少弐資時は19歳の若さで戦死してしまう。その悲劇的な死のせいか、壱岐神社では主人公の扱いである。
祖父で2代目当主の少弐資能も弘安の役で負った傷がもとで亡くなっているのだが。まあ何にせよ、二礼二拍手一礼。

  
L: 本殿。戦時中の1944年に建てられた。  C: 御守は無人販売スタイルだが種類がなかなか豊富なのであった。
R: 奥の方にある少弐資時の墓。中は石が積まれた独特の形状の墓となっている。周囲は少弐公園として整備されている。

無事に芦辺港に到着できた。対馬への乗船券を確保すると、近くにあるイオン壱岐店で土産の焼酎を見繕う。
壱岐は麦焼酎発祥の地とされているのだ。でも後で気づいたが、壱岐焼酎って壱岐以外でもふつうに買えるんでやんの。
あまり珍しいものではなかったようで、そんなに慌てて買う必要はないのであった。広く人気があるってことかね。
あとはフェリーの方のターミナルにある土産物店で、壱岐焼酎の100ml飲み比べセットを自分用に購入。

芦辺港を出航したジェットフォイルは快調に対馬海峡を進んでいく。すると右手に島が浮かんでいるのが見えた。
この位置関係から見える島といえば、沖ノ島だ。先月、筑前大島から遥拝したばかりの沖ノ島(→2018.10.29)。
いちおう想定はしていたが、実際に見えるとやはり込み上げてくるものがある。あらためて拝んでおいた。

  
L:ジェットフォイルから見た沖ノ島。全力でズームして撮影してみたが、いやはや神々しいですなあ。
C: ついに対馬に上陸。この先の厳原大橋を渡って中心市街地へと入る。  R: 対州そば。ふつうに旨い蕎麦。

1時間ほどで厳原港に到着。ついに対馬にまで来てしまった。厳原本川沿いの商店街を散策して宿へ向かう。
晩メシをどうするかが問題だったが、ショッピングセンター内のうどん店で「対州そば」の文字を発見。
迷わず入っていただく。離島である分だけ、対州そばは原種に近い特性を残しているという話なのだが、
ふつうにおいしゅうございました。違いを感じられるほど私の舌は敏感ではなかったですなあ。少し悔しい。
ともあれ、非常に充実した初日はこれにて終了。明日は対馬を全力で動くが……韓国人観光客、多すぎやしませんかね?


2018.11.3 (Sat.)

午後に部活をやってから、福岡に移動する。今回は一宮参拝を完遂する旅行ということで、ちょっと緊張気味である。
2週連続で福岡に来ていることに罪悪感がなくもないが、飛行機の福岡便は大阪までの新幹線とお値段が大して変わらない。
うまくすればそれよりも安いのである。中国・四国の県庁所在地に行く夜行バスより安いことだってあるのだ。
だから許していただきたい。五十歩百歩で、支出していることに変わりはない、という冷静な分析は置いておくのだ。

宿に着いてニュースを見たら、ソフトバンクが広島を破って日本一に輝いたとのこと。うーん、やっぱり強い。
シリーズMVPがキャッチャーの甲斐ということで、育成出身の選手では初となる快挙だそうだ。おめでとうございます。
しかしそれ以上に意義があるのが、いわゆる「甲斐キャノン」と呼ばれる盗塁阻止を理由にMVPに選ばれたという点だ。
今まで日本シリーズのMVPってのは、だいたいバッティングやピッチングでの活躍が評価されて決まっていたはずで、
キャッチャーがランナーを刺しまくったという観点での選出は聞いたことがない。これはとてつもなくすごいことだ。
もちろん広島のハイレヴェルな機動力野球が前提にあって、それを完全に封じ込めたことでの評価というわけだが、
そういうMVPがきちんと成立した点、そしてこのMVPについてあらゆる野球ファン全員が納得できている点に、
この野球というスポーツの深みをあらためて感じるのである。「野球ってすげえな」とあらためて思わされる、
そんな通好みなシリーズにふさわしい、日本野球を進化・深化させる価値のあるMVPと言っても過言ではあるまい。


2018.11.2 (Fri.)

安倍が移民を受け入れようとしているのに、自称「保守」の皆さんはダンマリ。なんなんですかね、これは。
先日のLGBT研修(→2018.10.26)でも考えたことだが、日本人は政治学をまったく理解できていない。
無知であることに気づけていない、その謙虚さにまるで欠けるさまは、国際レヴェルで見て致命的であると思う。

かつての日本は確かに「保守×革新」であった。しかし冷戦崩壊で革新が消えたことで、対立軸はすでに変化したのだ。
そこで出てきたのは「保守×リベラル」という構図。先月書いたように、保守とは多数者の権益を重視する考え方、
リベラルとは少数者への配慮を重視する考え方を指す。でも日本の場合、保守だったのがリベラル化したのが実態だ。
トランプは白人の利益を主張する分だけきちんと保守だが、自民党は保守ではまったくない。リベラル政党なのである。
野党がだらしなく見えるのは、保守が本来やるべきことを自民党がやらないで、野党のやるべきことをやっているから。
そうして政治ではなくアメリカ主導の経済で既得権益を守りたい層が、「保守」という隠れ蓑でごまかしているだけ。
政治的に見れば日本は保守が完全に抜け落ちている。結局これ、本物の保守はアメリカと対等を目指すものだからね。
本物の日本の保守はアメリカには都合の悪いものだから、自民党が自分を保守ということにして羊頭狗肉しているだけ。
家父長制の父親役をアメリカにやってもらって(→2015.10.21)それで「保守」とか、情けなくって涙が出るわ。

前も書いたが、政治は「現実×理想」という構図で考えるのがよい(→2007.2.22)。
感情や雰囲気を排除して、保守という言葉について冷静に考えることは、冷戦以降は難しくなっている。
大雑把な二項対立の片翼である、保守という都合のいい概念は、実はもう成立していないと考えた方がいい。
「保守」という用語は、もはやファッションでしかないのである。中身を隠すだけの装飾、ファッションでしかない。
現実に存在するのは細かな「現実×理想」の対立であり、これを積分的に積み上げていくことが必要である。
言い換えると、保守という大きな旗の下に各政策がある時代は、もうすでに終わってしまっているのだ。
今は個別の政策問題の方が大きくなってきており、それを保守という概念でまとめるのに適した状態ではなくなっている。
冷戦崩壊時に多数者が支持していたことで、自民党は「保守」という看板を掲げ続けることができていた。
しかし、いいかげんその状態が機能不全を起こしていることを、日本人は客観的に分析しないと痛い目に遭うだろう。
もはや保守という概念じたいが、現実の前に敗れる理想でしかない。実際には、保守は冷戦とともに消えていて、
少数者側に数えられた革新が消えたことは強調しても、多数者側は保守も同時に消えたことを認めなかったのだ。
そして多数者側は自己を正当化するために、リベラルという概念を新たに生み出して保守をそこに対置したわけだ。
今さら「保守」を自称することは、いまだに冷戦をベースに物事を考える時代錯誤ぶりを自認することに等しい。
多数者側が保守の定義を微妙に操作したことに、日本人はまだ気づけていない。実態としてはそんなところだろう。
ファッション「保守」は近隣諸国を持ち出して、二項対立のシンプルな構図から自己を正当化しようとする。
しかし本当に対処すべき問題は、そこだけでは済まないのだ。やらなくちゃいけないことは、もっと多岐にわたっている。
理想を忘れることなく現実に対処することが、優れた政治である。求められるのは両者を見誤らないバランス感覚だ。
「保守」という心地よい響きに思考停止することは、非常に危険である。もはや「保守」は、現実と対立すらしている。


2018.11.1 (Thu.)

今日から冬時間(部活が18時まで)だ! なんとかして少しでも日記を進めなければ! 30分の積み重ねをがんばる!


diary 2018.10.

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