diary 2010.5.

diary 2010.6.


2010.5.31 (Mon.)

中学生にやたらめったら大人気な、尾田栄一郎『ONE PIECE』を読んでみた。
レヴューを一気に書くのはムチャだと思うし、体力も使うので、大まかな流れに沿って書いていくことにする。
まずは「東の海」編。ルフィが海賊王を目指して故郷を出て、偉大なる航路(グランドライン)に入るまで。

序盤はどこか初期の『DRAGON BALL』のような、牧歌的な雰囲気が漂う。
まあひねくれた見方をすれば、ルフィの仲間探しはドラゴンボール探しのようなものだ。
仲間が何人か集まれば、神龍(シェンロン)は現れなくても願い(海賊王になる)はある程度叶えられそうだ。
このマンガが少年ジャンプにおける王道のマンガを歩むつもりであれば、当然、『DRAGON BALL』は参考になる。
作者があえて『DRAGON BALL』に似た雰囲気を持たせてスタートした可能性は、実はけっこう高いと思う。

そう、このマンガは「少年ジャンプによる純粋培養の少年マンガ」なのだ。まさに「正統派」なのである。
少年ジャンプによって育った作者が、自らの作品を少年ジャンプの正統なる系譜に連なるべく、
これまでの少年ジャンプで展開されてきたものをことごとく踏襲して再現していると言っていい。そういう作品だ。
そもそも、少年ジャンプのトレードマークは海賊マークなのである。ジャンプにも単行本にも必ずいるあの海賊。
アイツの存在から「海賊のトップを目指す主人公」という設定が生まれたのではないかとすら思えるのだ。

さて、序盤の麦わらの一味のメンバーを見ていると、もうひとつの先行する作品が思い浮かぶ。
それは『ルパン三世』だ。もちろん人間関係にはかなりアレンジが加えられてはいるものの、
剣の達人、ウソつきな美女、銃の名手という設定は見事に重なる。序盤は『ルパン』の要素をうまく採り入れ、
作品が自らの力で自由に動き出せるようになるまで助走をつけていたように感じるのである。
そしてコックのサンジが登場することで『ONE PIECE』は独り立ちを果たすのだが、その経緯がやや複雑だ。
ルフィがサンジと組んでクリークと戦っている間、ナミは抜け出して別行動をとり、次の舞台へ進める。
ウソップとゾロがそれを追いかけ、話は2つに分岐するのだ。ふつうであれば、ひとつの事件の解決を待って、
次の事件を発生させる。それを同時にスタートさせたところに、この作品の独自性がある。

その独自性と関係することだなのだが、『ONE PIECE』最大の欠点は、バトルが冗長なことだ。
とにかく冗長で、その退屈さは従来のジャンプのマンガと比べてもかなりのものだと僕は思う。
おそらく、麦わらの一味が戦っている間に次の展開を考えているのではないか?というくらいに長い。
そしてここに逆説がある。歴代のジャンプのマンガは、バトルのためにストーリーがあった。
全体の世界観は戦っている間になんとなく形成されていき、そうしてストーリーが進んでいった。
しかし『ONE PIECE』では、今までの作品とは違い、バトルとストーリーは不可分の関係にはないのだ。
バトルは人間関係を深めるためにあり、ストーリーはそれとは別個のところで動かすことができる。
だから『ONE PIECE』の悪役は決して死なず、それどころか扉絵で後日談が語られ、本編に再登場もする。
バトルのためにキャラクターが使い捨てられることがない。ストーリーもバトルの犠牲になっていない。
だからこそ、バトルに力が入れられるとバランスが崩れて読者に冗長さを感じさせるのだ。
ストーリーを練り込む分だけ、時間が必要だ。そのためにバトルの描写で時間稼ぎをしているように思える。
もっとも、ここまでの書き方でわかると思うが、これは好ましいことの裏返しでもあるわけだ。
『ONE PIECE』はジャンプの正統な後継者でありながら、ストーリー重視への改革の旗手にもなっている。
(だから前述のようなストーリーの分岐は、『ONE PIECE』だからこそできた=独自性、とも言えるだろう。)

この作品が面白いのは、今までになくストーリーを重視しているから。
そしてこの作品のバトルがつまらないのは、ストーリーを停滞させる役割にしかなっていないから。
ジャンプにおける少年マンガの正統な後継者でありながら、改革者でもある作品。
そんな『ONE PIECE』が、今後どのようにして少年マンガを改革していくのか。非常に楽しみだ。


2010.5.30 (sun.)

今日は貴重な休日ですよ。日記をたっぷり書いて過ごしたのであった。
あんたその貴重な休日を、日記を書くことで消費していいのかいな、というツッコミがありそうだが、
過ぎたことを冷静に考えてまとめるという作業はそう悪いものではない。
むしろふだん軽薄な僕には必須の作業であると考えているしだい。

さて本日はサッカー日本代表のイングランド戦である。
親善試合だが、W杯本番直前ということでそれなりにけっこうな本気モードの試合になるはずだ。
今の日本が世界の強豪国相手にどれだけできるのか、是が非でも見なければならないのだ。

開始7分でCKから闘莉王が蹴り込んで先制し、ハーフタイムを1-0で折り返す。
この時期のイングランド相手にリードした状態で折り返すというのは、かなりすばらしい展開である。
しかし後半に入ってCBのオウンゴール2発で沈むというとんでもないゲームとなった。なんだこれは!?
不謹慎だが、見ていて思わず笑ってしまった。海外から見れば、もうワケのわからないチームだろう。
イングランドは失点し、そして自分たちが得点することなく勝ってしまった。でもこれだってサッカーなのだ。
まあ、ある意味では「イングランドには何もさせなかった」ということには違いないのだから、
形はどうあれ終始自分たちのペースを押し通すことができた点を評価してもいいんじゃないかと思う。

世界レベルのスピードにさらされてディフェンスが対応しきれなかったから、触ることはできても防げなかった。
2発のオウンゴールは、日本の守備が世界レベルには程遠いという事実を冷徹に告げるものだろう。
しかしながらそんな状況でも、先発したGK川島はPKを止めるなど神がかっていてすばらしかった。
ドイツのときみたいにチームがここで完成してしまわなかったことを、今は素直に喜んでおいていいと思う。

やはり日本がW杯で勝ち星をあげていくには、大木さんのスタイルを貫くべきではないか、と考える。
時間をかけずに人をかけて厚みのある速攻を仕掛け、狭いエリアでパスを回してチャンスをつくる。
つねに無数のパスコースが発生し、相手が守りきれない状況をつくる。そういうサッカー。
それを90分間やるのは無理だとわかってはいるが、ぜひとも攻撃の形として完成させたい。
本番に向けてどのように修正がなされるのか、まったくわからないけど、いい戦いを期待したい。


2010.5.29 (Sat.)

というわけで、本日は土曜授業参観である。正直、パズルを解くまでは順調だったのだが、
それを使って英語でしゃべろうのコーナーは不調。それでもまあよくがんばったよオレ、という気分だ。
しかし中学生にもなって、クロスワードパズルの存在を知らないやつってどういう環境で生きているのか。
人生いろいろ。


2010.5.28 (Fri.)

明日は授業参観ということで、レギュラーの内容ではなくちょっと特別なことをしようと思う。
で、今回テーマに選んだのはクロスワードパズル。これを解いて、会話に使うってことをやってみようと思うのだ。
ところが中学2年でショボい教科書のレベルに合うパズルがなかなかない。ネットを駆使しても見つからない。
しょうがないので自分で考えてやってみるが、これがなかなか難しい。きれいにスパッと収まらないのだ。
それでもどうにかがんばって、パズル自体は完成。ホッと一息つくが、のんびりはしていられない。
次の作業はクロスワードをでっかく印刷すること。大きめの紙とプリンターはあるので、使い方を習う。
今回は慣れているプログラムで行こう、ということで、Excelでパズルをつくったのだ。
印刷の仕方を工夫して、4つのパーツにして出力。それをうまく貼り合わせて完成。
途中から単純に、考えて部品をつくって組み立てるという作業が楽しくなってハイになるのであった。


2010.5.27 (Thu.)

待望の『GIANT KILLING』の新刊が出た。サッカーファンを中心に圧倒的な支持を集めるようになり、
アニメ化も決定したとのこと。立ち読みで偶然出会って大絶賛した身としては(→2007.11.13)、うれしい展開。

こちらは現在、回想シーンの真っ最中。クラブの看板選手だった達海がいかにしてクラブを離れるに至ったか、
そのドラマがじっくりと描かれている途中である。1巻の時点から思わせぶりだった部分が公開されたわけで、
ここをしっかり描かないと伏線失敗となってしまう重要な局面である。どう描いてくるか、続きが非常に気になる。

しかしこの達海の過去を公開してしまうと、物語の重要な謎がひとつ減ってしまうわけで、
つまりそれだけ終わりへと確実に近づくことになるのだ。お気に入りのマンガだけに、それがちょっと悲しい。
ダラダラと話がたるむのは避けるべき事態だが、今のところその気配はないので、
できるだけこのマンガには長く続いてほしいのである。読者は贅沢な生き物なのだ。


2010.5.26 (Wed.)

ヱヴァの破と一緒に注文したBlu-rayの『下妻物語』が本当に面白くって面白くってもうたまらん。
やはりいい作品は何度見てもいい。今後もヒマなときにはちょくちょく見ることにしようっと。


2010.5.25 (Tue.)

当然、予約しておいたBlu-rayの『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』が、家に届いた。さっそく見ちゃう。
映画館でのあの感動が家でも味わえるとは! あらためて内容がすごすぎてすごすぎてもう、大興奮なのであった。
いやー、このためにパソコンをBlu-ray対応にしておいた甲斐があったってもんだぜ。


2010.5.24 (Mon.)

15時間寝たので頭が痛い。あまりに痛かったので授業のネタにした。
「How long did you sleep last night?」って訊かせて、「For fifteen hours.」と答える。
ふだんグータラでしょうがないウチの生徒ですら呆れてたぜ!


2010.5.23 (Sun.)

朝のうちに出かけて日記書いて中古CD見て昼飯食って帰ってあとは本当にずっと寝てたの巻。


2010.5.22 (Sat.)

『モテキ』の総括をしよう。レヴューは以前の日記にも書いて、それはもう全面的に褒めまくった(→2010.1.5)。
その後このマンガは世間でもかなりの注目を集めるようになり、TVドラマ化まで決定。飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
しかしこのたび発売された4巻が最終巻ということで、ビシッと総括するのである。

結論はひとつ。結局、作者は物語をコントロールしきれずに自爆してしまったか、ということである。
いや、正確に言うと、物語を展開する登場人物たちをコントロールしきれなかった印象がするのだ。
評判が評判を呼び、世間の期待がどんどん膨らんでいって、それでそのプレッシャーに耐えられずにつぶれた。
そういう感じである。多様な登場人物の多様な心理が作者の手に負えないところまできてしまい、
どうにもならないまませめて小宮山夏樹の件のケリをつけようとして、逆に藤本の限界が露呈されてジ・エンド。

藤本の限界の露呈、いやむしろ男が上手く扱うことのできない女性(小宮山)の描写、これは正しいと思う。
このマンガがリアルを追求している以上、そういうタイプの女性を描くことは避けては通れない。
(これは問題意識によるもので、実は避けて通ってもいい。ただ、避けて通らなかったのがこのマンガの独自性。)
ただ、出し方が悪かった。藤本のモテ期パワーによるそこからのリカヴァーを描かなくてどうするのだ。
物語の圧力に押されて制御しきれなくなったところで小宮山の件を出してしまえば、当然、
現実の世知辛さ以上のキツい展開しか残されることがない。そうしてとってつけたようなラストに至る。
(前回のレヴューで僕は「小宮山夏樹の存在意義は僕にはイマイチわからんのでパス。」と書いている。
 そのミステリアスさが彼女の魅力であり、彼女を扱うことのできない理由であり、物語を制御できない原因だ。
 現実に確かに存在するタイプだけど、やはり僕は彼女を作中に出すべきではなかったと思う。
 小宮山はリアルな存在である分、フィクションにはうまく収まらないし、フィクションに出すメリットがないのだ。)

失敗の要素を拾い上げていくとキリがないが、小宮山の件に島田の浮気を混ぜたこともかなり大きい。
これで藤本が追い込まれちゃって、よけいに主人公・藤本が思うように動けなくなってしまった。
本筋であるはずの土井亜紀の描写も小宮山によって削られ(もっと割を食ったのはいつかちゃん)、
結局みんなが何をやっているんだかわからないまま強引にリセットして終了。これは納得がいかない。

土井亜紀という究極のヒロインをはじめとして、登場人物の心理描写のクオリティは圧倒的だ。
人間の抱える「弱さ」を独白や会話をとおして徹底的に描き出し、どんな読者も共感させてしまう。
しかしそれだけに、作者の登場人物たちへの感情移入が、物語をブレさせることになってしまった。
人間が存在し、そこに事件が発生することで人間が動き、その結果として人間が変化(=成長)する。
その軌跡が物語となるわけだ。だから物語をコントロールするためには、人間の方をコントロールする方法と、
事件の方をコントロールする方法がある。『モテキ』では、人間が非常に緻密に考えて行動するのが特徴だが、
作者の感情移入により登場人物は自らの思考を突き詰めてどんどん勝手に動いていくようになる。
そうなると事件の方でうまく対処して物語をコントロールする必要性が出てくるのだが、
こっち側でもほとんど有効な手を打つことができないまま、展開はどんどん荒れていってしまった。
作者の才能の問題と言ってしまえばそれまでだが、あまりにもバランスが悪すぎた。過度な期待をしてしまった。

長く続くマンガがいいマンガとは限らない。太く短くてもすばらしい作品はいっぱいある。
そういう価値観からすれば、このマンガは藤本幸世に対して土井亜紀を存在させただけで十分だったのだ。
藤本に対して土井亜紀がモノローグをぶつけながら接近していく、それだけでよかったのだ。
ダメな男に究極のヒロインが惚れるまでならよくあるが、そこの理由を徹底的に描き出した点に価値があった。
それだけでよかったのに、よけいなことをやりだして手に負えなくなって、急速にしぼんでしまった。
登場人物2人だけでも十分魅力的だった、いや、2人だけの方が絶対に魅力的になったのにな、というマンガ。
やっぱりフィクションは現実とは違ってどこかを省略しないと成立しないんだなあ、と思う。


2010.5.21 (Fri.)

次回のテストに向けて思いついたことがあったので、その資料という要素も兼ねて、英英辞典を買った。
そしたらもうこれが面白いのなんの。美しい英語のオンパレードで、読み応え抜群なのである。

英語を英語で説明するという行為はかなり難しいことのように思われるかもしれないが、
そんなものは国語辞典や広辞苑などと一緒で、似た言葉を並べることで解決できるものなのだ。
そしてこの説明が例外なく簡潔で、そのシンプルにまとめられた英語の美しさに圧倒されているわけである。
前にも日記に書いたが、英語とは「いかに削るか」の言語である(→2009.12.4)。
そういう観点からすると、英英辞典に載っている説明はもう、すべからく美しい。どの項目を読んでもそう。
英語の使い方、単語の選び方、ともに目からウロコがボロボロ落ちている状態である。

もちろん大前提として、ある程度の単語力がないと言い換えた英語がわからないという事態になるので、
初心者にオススメできるわけではない。しかし大学受験やある程度難しい高校受験というレベルであれば、
英英辞典を読むという行為はめちゃくちゃ有効だろう。英語の教師が今さら気づくなボケ、と怒られそうだが、
すいません今さら気づきました。これすごくいいわあ。そういうわけでみんな、英英辞典を読もうぜ!


2010.5.20 (Thu.)

というわけで本日が中間テストなのである。結果はもう、見事に泣けてくるほどに上下真っ二つ。
要するに日ごろきちんと宿題をやっているグループとそうでないグループとに分かれている感じなのだ。
もっとも、これは英語に限らず数学もそうで、「フタコブラクダがいる……」と数学の先生と嘆き合うのであった。
上をもっと引き上げることもやりたいし、当然きっちり下も救っていかなければならないし。
ガマンして宿題を続けてくれればそのうち英語っぽさに慣れてきてどうにかなるようになるのだが、
それがわからない連中がいっぱいいるのがなあ……。もう本当にどうすりゃいいのか。


2010.5.19 (Wed.)

補習にテスト作成にもうヘロヘロですよ。テスト1週間前には部活動がストップするのでそこが勝負となるわけだが、
今回は問題つくるのにやたらと時間がかかるし補習は飛び込んでくるしで、非常に大変だった!
やっぱり主要3科目ってのはキツいんだよ!と声を大にして言いたい気持ちになったのだが、
よく考えたら学年分だけ複数のテストをつくらなくちゃいけない先生も多いので、ぐっとこらえる。
グチを叫んだっていいことないもんな。そこはガマンするのがオトナってもんだよな。


2010.5.18 (Tue.)

本年度よりお世話になる新しいALTが登場。やたらめったら背が高い(192cm)。
昨年度お世話になった方がとてつもなく評判がよく、実際にものすごく勉強になったので、
これは生徒たちも無言のうちに比較しちゃって大変だよなあ……なんて不安になっていたのだが、
いざ授業をやってみると、これがなかなかすばらしいじゃないですか!
昨年度の方は昨年度の方で良さがあったが、今年度の方も今年度の方なりの良さがあってすごくいい。
おかげで不安は杞憂に終わり、非常に好ましいスタートを切ることができたのであった。

しかしこうして考えてみると、外国の方が日本でうまくやっていくコツって、
まず第一にマジメであることだと思う。少々要領が悪くても、マジメさが伝われば大目に見てくれて、
あれこれフォローを入れてくれるようになると思うのだ。なんだかんだで気のいい民族だよな、われわれ。


2010.5.17 (Mon.)

あまりにもデキが悪いので、補習をやってみました。僕としては英語の初歩の確認をしたつもりなのだが、
連中がふだん勉強をサボりまくっているためか、想定していたほどの効果はなかった模様。
人の話を聞いてその場ではなるほどと納得するのだが、後で自分ひとりで考えてみると、できない。
そもそも、後で自分ひとりで考えるという行為をやらないので、きれいさっぱり忘れる。そんなんばっか。
「考える」ということが、そんなに難しいことだなんて想像したことがなかったので、そのギャップに戸惑っている。
人間として生まれたからには、他人から言われなくても考える時間を持つことは当たり前だと思っていたが、
実際のところはどうなんですかね。冷静になってみるとひどいことを書いているようだけど、ここは譲れない本音。


2010.5.16 (sun.)

朝、予定よりも少し早めに宿を出る。やはり今日も快晴で、すでに青空が眩しい。
5月は夏と同じくらい紫外線が強いというが、なるほどその事実を実感できる見事な晴れっぷりである。
昨日の日記でも書いたとおり、会津若松から湯野上温泉まで行って大内宿に直行。
昼過ぎまでのんびり滞在し、その後は東京に戻りつつフリー切符で寄り道をするというプランだ。

会津若松駅まで来たところで腹が減った。今日の行き先は見事に田舎の駅ばっかりで、
どうせコンビニや売店などないだろうから今のうちに食いだめをしておこう、と考える。
そうなりゃドムドムのハンバーガーを食うしかない。列車が出るまでハンバーガーを頬張って過ごした。
よく晴れた休日の朝の風景を眺めながら、パンフレットを読むなどして時間調整。優雅なものである。

フリー切符をかざして改札を抜けようとすると、駅員は一瞬だけ戸惑って、すぐに理解して通してくれた。
こんなに便利なのに、利用者はそう多くないってことだろうか。なんとももったいないものだと思う。
クロスシート4人がけの席をがっつり占領すると、列車は動きだす。高さはないのに街を見渡すことができた。
そのうちに列車は只見線と分岐して会津鉄道の線路を南下していく。昨日見た風景を復習する。

 会津のマスコット、あかべぇ。あちこちにあかべぇグッズがあるのだ。

あまりにいい陽気だったためか、気づけば居眠りをしてしまっていた。
ふと気がつくと、列車は駅で停車中。どこの駅だろうと外に目をやると、「温泉駅」という文字がぼんやり見えた。
まさか、と思って目を凝らすと、「湯野上温泉駅」とある。慌ててバッグとiPodを拾い上げるとホームに出た。
指宿枕崎線(→2009.1.7)以来の大ピンチだった。荒い息で呆けていると、女性の駅員に危なかったですね、
と声をかけられた。なんだか非常に恥ずかしいが、あらためて自分の悪運の強さを感じたできごとだった。

さてそんな湯野上温泉駅だが、実はかなり特徴のある駅なのだ。大内宿の(いちおう)最寄駅ということでか、
駅舎が茅葺き屋根となっているのである。内部には囲炉裏があって、火が焚かれている。
そのそばには大量のマンガ、有料のお茶や菓子があり、その向かい側には充実した土産物売り場がある。
こういう事例は初めて見た。さすがは有名な観光地の玄関口、と妙に感心してしまった。

  
L: 湯野上温泉駅の駅舎をホームの側から眺めたところ。  C: 駅舎内部。囲炉裏の煙で虫を防ぐ。が、非常に煙い。
R: 湯野上温泉駅の駅舎外観。画面左手の先にはタクシーが何台か並んでいる。右手の駐車場にはバスが停車。

駅舎を面白がり終えると、バスの停車場へ行って猿遊号の受付をする。イギリス製の車で、雰囲気抜群。
ちょっとしたワゴン車くらいのサイズだったが、窓枠が木製であるなど、実にオシャレなのである。
乗客は僕がいちばん若く、男性ばかりだ。一人旅の人もいるようで、なんだか安心するのだった。

運転手のほかに車掌が同乗し、あれこれその場で説明をしてくれる。これがなかなか興味深い。
大内宿はなんといってもゴールデンウィークに異常に混み合う観光地なのだが、先週もすごかったそうだ。
県道329号は大渋滞でまったく動かず、みんな途中で歩き出してしまうらしい。
だから臨時のトイレが道の脇に設置されるのだという。スイスイ走るバスの中では想像がつかない話だ。
また、東北地方は昨日あたりからやっと暖かくなってきたという。おとといは雪が舞ったのだそうだ。
今日はまさに春先のちょうどいい気温だったので、やっぱりそれも想像がつかない。
窓の外に目をやると、道路に沿うように緑の渓流が走っている(もちろん本当は、道路が渓流に沿っているのだが)。
釣りをしている人がチラホラいるが、なかなか見事な美しさで目を奪われる。車掌に言わせると、
「青森の奥入瀬(おいらせ)渓流にすごく似ている、と皆さん口をそろえておっしゃいますね」とのこと。
それはちょっと見比べてみたい。でも十和田湖かあ……。遠いなあ……。

そうこうしている間に大内宿に到着。歩きだとかなり厳しい距離も、車だと本当にあっという間である。
時刻は10時ちょっと前。ここからだいたい3時間ほど大内宿に滞在し、あちこち歩きまわる予定なのだ。
バスの停留所は大内宿の入口から国道側を少し行ったところにあるのだが、憧れを持っている場所なので、
わざわざ入口のところまで戻ってから進んでいく。序盤はやや古びたアスファルトの道が続くが、
何軒か伝統的な古民家(だけど店舗)を通り過ぎたところで、いよいよ土の道へと切り替わる。
道の両脇には石が並べて埋め込まれており、家との間の一段低いところが堀というか水路となっている。
かなりの清流ぶりだ。さっきの車掌の話によれば、大内宿より上流には誰も住んでいないので、
自然のままのきれいな水がたっぷり流れているのだそうだ。これがさっきの渓流に流れているわけだ。

  
L: 今回お世話になった猿遊号。オシャレやわ。  C: 大内宿入口。ここからある程度進んでいくと、土の道となる。
R: さあ、いよいよ本格的に大内宿って感じになってきた。のんびりゆっくり過ごすぜー!

まずはゆったりとした足取りで、大内宿の道を奥まで歩いてみることにする。
ガイドブックに書かれているような「昔ながらの街並み」「江戸時代の雰囲気」を堪能すべく、
僕の中の街歩き受信アンテナを最大感度にして進んでいく。が、どうも違和感があるのである。
並んでいる建物がすべて一気通貫に茅葺き屋根の木造古民家とはなっていないし、鉄製の物見櫓もある。
地面に目を落とせば、土の中のところどころに鉄製のマンホールの小さなフタが埋まっている。
古民家を見れば店先にびっしりと土産物が並べられており、それは往時の雰囲気とは相容れない印象なのだ。

たぶん、江戸時代の街並みをきちんと再現するのであれば、テーマパークで実行できる。
いやむしろ、テーマパークという管理の行き届いた空間の中でないと完全な再現はできないのだ。
つまり、ガイドブックの表現をそのまま現実空間として味わいたいのであれば、テーマパークに行くべきなのだ。
太秦辺りで入場料を払った方が、実は完全な過去の雰囲気を味わうことができるということなのだ。
(もっとも、奈良県橿原市の今井町(→2010.3.29)だけは例外と言えるだろう。あそこだけは今も本物のままだ。)

しかしそこから、大内宿に対する自分の中での評価が逆説的に固まった。
「大内宿は、明治以前の風景と現代の風景が高度に融合した、かけがえのない場所なんだ」と。
現代の人間がそこで生活している限り、現代の空気を排除することなど絶対にできっこない。
大内宿の価値はむしろ、近世と現代という稀有な組み合わせを、美しさを損なわないまま実現した点にあるのだ。

  
L: 大内宿を行く。そこにあるのは完全な江戸時代以前の姿ではない。しかし、だからこそ美しいと僕は思うのだ。
C: たとえば、レンガ造りの建物を再生したような、そういう類の美しさ、かっこよさにあふれている。今に生きている。
R: だいぶ奥に進んで行き止まりが見えてきた。この辺まで来ると、まあ確かに近世っぽい印象がしなくもなくなるかな。

いちおう、大内宿がこのようにかつての宿場の姿を残している理由についてきちんと書いておこう。
大内宿は、日光と会津を結ぶ最短経路である会津西街道(南山通り・下野街道とも呼ぶ)の宿場だ。
会津の大名が参勤交代の際に通過するルートとなって栄えたのだという。
しかし明治維新の後、「土木県令」でおなじみの三島通庸により会津三方道路が整備され、
大内宿はそのルートからはずれてしまった。そのため大内宿は山間の僻地となって取り残されてしまう。
ところがそれが幸いし、江戸時代の宿場町の雰囲気がそのまま保たれることとなったのである。

大内宿のいちばん奥にある建物から左へ行くと、神社への石段がある。
これを上りきったところから眺める大内宿の姿がまた絶景なのだという。これはもう、見てみるしかない。
石段は昔ながらのものなのでけっこう急だが、それほど長いわけでもない。ちょっとやる気を出せばすぐに上れる。
神社に軽く参拝すると、そこからほんのちょっとだけ奥へ進んだ位置まで行ってみる。そして家々を眺める。
すると見事に連なる茅葺き屋根が目に飛び込んでくる。これはまさに、江戸時代以前の風景そのものだ。
日本のなんでもない一地方が積み重ねていた「かつての当たり前の光景」が、今まさに目の前にあるのだ。
まるでタイムスリップをしたかのようだ。空間の距離をとることで、時間が離れた。そう思えた。
さっき真上で書いたことと正反対になってしまっているが、こうして少し遠くから眺めると、歴史が直に見えるのだ。

  
L: 石段を上っていくと……  C: 神社に到着。ここからちょっとだけ先へと進むと、絶景を望むことができる。
R: 何百年も前の日本はこうだった、と素直に思える光景。目の前には歴史が広がっているのだ。

 ズームしてみたところ。うん、やっぱり歴史だ。

満足いくまでたっぷりと歴史そのものの光景を味わうと、石段を降りて元の位置まで戻る。
やっぱりゆったりのんびり歩きながら、今度はそれぞれの建物をじっくり眺めながら歩く。
途中の大内宿本陣跡には大内宿町並み展示館(本陣を復元した建物)があるので、もちろん見学。
中の展示は大内宿で使われていた民具(かなりの量)や茅葺き屋根についての説明が中心。
大内宿の古民家はどれも現役の住宅なので、中は見学できない。だからこの展示館は貴重な存在なのだ。
あちこち見てまわって雰囲気を味わう。しかしこういう家を今も何十という単位で維持しているのは本当にすごい。

  
L: 大内宿のいちばん奥のところから逆に入口側を眺めたところ。  C: ちょうど屋根の葺き替えをしていた古民家。
R: かつてあった本陣を復元したという大内宿町並み展示館。公衆トイレはこの裏にしかないとのこと。要注意だ。

  
L: 大内宿町並み展示館の内部。稲作関係の民具が展示されている。追手町小学校の資料室を思い出してしまった。
C: 虫の被害から屋根を守るために、つねに囲炉裏には火が入っている。だから建物の中は煙いのだ。
R: 2階というかロフトの様子。大内宿はかつて養蚕をしていたので、その関係の民具がいっぱい置かれている。

古民家の細部をいろいろと見ていくと面白い。たとえば屋根。てっぺんに「水」と書かれているのだが、
これは火除けの縁起を担いだもの。大内宿の街並みは、そんな高い防災意識に支えられているのだ。
また、かつて名主だった家の軒先にはブンブンブン♪どころでは済まないたいへんな騒ぎで虫がたかっている。
これはマメコバチというハチの一種で、農作物の受粉のために飼育されているのだ。
このハチ、針を持たないので刺される心配がなく、繁殖期以外はヨシを切ってつくった巣穴から出ないので、
非常に管理がしやすいとのこと(しかもミツバチの82倍働くと説明にあったが、その基準がイマイチわからん)。
これがちょうど今まさに繁殖期で、すさまじい大騒ぎの真っ最中。うっかり者に何匹か踏まれていてかわいそう。
小柄なマメコバチは非常にかわいく、飛んでいる姿も歩いている姿もどこか愛嬌がある。ちょっと飼いたいかも。

  
L: 茅葺き屋根のてっぺん部分に書かれている「水」。こういう縁起担ぎが、さすがにいまだに健在なのだ。
C: ヨシを切ってつくったマメコバチの巣。ものすごい量のマメコバチがひっきりなしに出入りしている。
R: 地面にいたマメコバチをクローズアップして撮影。こんな感じのやつがあっちこっちでやたらめったら交尾。

奈良・京都旅行の反動もあって、できるだけゆっくりと歩いてメインストリートを往復したり、ジグザグに行ったり。
それぞれの古民家兼店舗を隅から隅まで観察しては歩いていったのだが、これが全然飽きることがない。
売っているものは店によって共通しているものが多い。十念(荏胡麻)味噌を使ったものが特に目立つ。
玉コンニャクを醤油で煮て味付けしたものもポピュラーだ。あとは妙にイナゴの佃煮があちこちにあったのが印象的。
土産物ではいかにも地元の名物をパックしたものだとか、民芸品などが非常にたくさん並んでいた。

  
L,C,R: 大内宿の古民家はこのような感じである。生活空間なので、窓ガラスはわりとしっかり入っている。

宿場からはずれたところに、高倉神社という神社があるので行ってみる。
通りに大きな鳥居があって、そこからまっすぐ横に出ればいいので迷うようなことはまったくない。
宿場町の奥行きを抜けると、純粋な田舎の風景が広がる。これまた正しい日本の田舎といった風情なのである。
田んぼではカエルが大合唱。水路の土手に目をやれば、ツクシをはじめとするさまざまな野草がびっしり。
自分が上飯田の白山町に住んでいたころはこんなのは当たり前の風景だったのだが、
いつしかそれはすっかり遠いものになってしまったという事実を思い出す。東京とはもう別世界だ。

  
L: 高倉神社への参道はこの鳥居をくぐってから。  C: 目の前に広がる「正しい日本の田舎」。
R: 僕はこっち(田舎)側の人間なので、こういう風景を見ると原点に戻った気分になる。もちろん都会も好きだが。

高倉神社の鳥居をくぐると、石段を上っていく。面白いことに途中に水路がカーヴを描いて目の前を走る。
これが手水代わりということらしく、立てられた筒にひしゃくが差してあった。これは珍しい。
まあもともと手水は川の水で身を清める行為を簡略化したものなので、考えようによってはこれが正しいのだ。
さらに進んでいくと、社殿が現れる。歴史があって立派、という風情はないものの、周囲の雰囲気がいいので、
なかなか神秘的である。いかにも田舎の集落のはずれにある神社といったたたずまいで、ご利益がありそうだ。
二礼二拍手一礼して参拝すると、来た道をのんびり歩いて大内宿の中心部まで戻る。

  
L: 高倉神社は木々に包まれ神秘的。  C: 問題の水路。もちろん水はめちゃくちゃきれい。
R: 石段を上っていった先にある社殿。いかにも田舎の集落のはずれ、地元住民に手厚く信仰されている雰囲気抜群。

中心部に戻った頃には、お昼もだいぶ近づいてきた。どうせメシどきには観光客で混み合うに決まっている。
それは非常に面倒くさいので、さっさと早めに昼食をいただいてしまうことにした。
さて大内宿の名物といったらなんといっても蕎麦のようで、あちこちに蕎麦屋が点在している。
いやむしろ、蕎麦以外の食事ができる店がほとんどないのである。もうこりゃ蕎麦を手繰るしかない。
そう思って店を物色するが、どこに入るか大いに悩む。中華街と同じで、どこに入ればいいか見当がつかない。
迷いに迷った挙句、ネギを箸代わりにするなどのパフォーマンスを一切せず(そういう蕎麦が名物らしいが)、
ウチは蕎麦じたいの味で勝負するぜと強く訴えている店に入って、もりそばの大盛を注文した。
当然、店の中は古民家をそのまま利用しており、生活感が強く漂っているのがすごくいい。
メインストリートに面した一角では蕎麦打ちのパフォーマンスが行われていたのだが、
そんなもんを見るよりも家の中をあちこちジロジロ眺める方が圧倒的に面白い。いくらでも飽きずに待てる。
出されたゼンマイのおひたしをチビチビ食べながら蕎麦茶を飲んで、実に愉快に蕎麦を待った。

  
L: 古民家そのまんまの店内。囲炉裏ではイワナを塩焼き中。この空間を体感できるだけでも楽しい。
C: 左を向いたらこんな感じ。仏壇がいいですな。それにしても「岩魚(イワナ)の骨酒」とはまた強烈な。
R: 出てきた蕎麦(大盛)。なかなかのヴォリュームで、蕎麦独特の風味をしっかり楽しめたのであった。

蕎麦じたいの味で勝負というコンセプトであるためか、蕎麦つゆがずいぶんと薄めだった。が、確かに旨い。
やはりその場で蕎麦を打っているためか、コシが強くて風味も豊か。言うだけのことはあるなあ、と思った。
最後は当然、蕎麦湯を飲んで余韻を味わう。なんとも贅沢な休日だなあ、と呆けるのであった。

満腹になって落ち着くと、特に目的を設定することなく、ふらふらとあちこちの店を見てまわる。
そうして「大内宿とは何ぞや」という問いに対する答えをゆったりと探してみる。
たっぷりと5月の日差しが降り注ぐ中、ツバメやマメコバチが自由に飛びまわっている。
商品が隙間なく並べられた古民家の手前には花や木が植えられ、街並みに見事な色彩を添えている。
清冽な水は足下を絶えず流れ、さまざまな年齢層の観光客が軽やかな足取りで行き交う。
生命の躍動感にあふれており、きっと、今が一年でいちばんいい季節なのだろうと思う。
特に動植物のエネルギーがすごい。嘘をつくことのない彼らの活動が、街全体に活気を与えている。
話によると昨日はかなり寒かったらしいのだが、少なくとも今日の大内宿の姿を見る限り、
現時点で最もユートピアに近い場所はここなんじゃないか、と思えてくるほどにすべてが輝かしい。

  
L: 大内宿の雰囲気づくりということで、最初期の郵便ポストが再現されている。もちろん投函可能である。
C: ラムネやサイダー、ビールがこのように冷やされている。店で金を払ってから自分で取るというシステム。
R: たくさんのツバメがそこらじゅうをビュンビュンと、めちゃくちゃ活発に飛びまわっていた。

そうして歩いているうちに、ふとひとつの結論が僕の頭の中に浮かんできた。
それは「大内宿とは何ぞや」という問いに対する解答ではなかった。もっとスケールの大きい答えだった。
大内宿ではそれぞれの店先に机や長椅子が置かれ、観光客は自由に座ることができる。
魔法瓶に入っているお茶を自由に飲むこともできる。そうして思い思いに大内宿での時間を過ごすことができる。
メインストリートに沿った水路と店(古民家)の間にあるスペースが、ほぼすべてそのように利用されているのだ。
いわば、住宅兼店舗の前庭を公共空間として差し出しているわけである。ここにカギがある。

結論から言うと、われわれ日本人の空間認識は近世以前と近代以降では大きく異なっており、
その事実をこの大内宿は明確に示している、ということである。僕が思うに、大内宿の街並みの本領は、
実は茅葺き屋根の古民家の連続性にあるのではない。むしろ、土の道と前庭の公共的な利用状況にあるのだ。
大内宿の土の道は、いわゆる「道路」ではないのだ。誤解を恐れずに言うならば、これは「公園」なのだ。
土の道が砂利を経てコンクリートやアスファルトで舗装されること。ここに、決定的な空間認識の変化がある。
たとえば江戸時代には道に木戸が設置され、夜には木戸が閉められた。当時、道は「内部空間」だったのだ。
しかし明治維新を経た近代から、道は「外部空間」へと変化していく。道の舗装は、それを決定づける行為だった。
舗装された道は誰のものでもない「外部空間」である。道路の舗装こそが、近代化の決定打になったのではないか。
そして、この近世の「内部」と近代の「外部」は、どちらも「公共性」という言葉でくくることが可能なのである。
つまり、そこから逆に、公共性というものが近世と近代で完全に変質してしまったという事実を読み取ることができる。
(内と外の判別を程度に応じて変化させることのできる近世と、両者を峻別することから始まる近代の差異。
 これは公私の混同・区別へと通じる。空間認識の変化と政治・生活スタイルの変化は表裏一体なのだ。)

大内宿では舗装されていない裸の土の道がメインストリートとなっており、両脇を水路が通っている。
この水路は、道を外部空間としての道路たらしめる要素とはまだなっていないのだ。
(かつては道の両脇ではなく、中央に一本の溝があった(参考までに、島原の武家屋敷を参照 →2008.4.28)。
 しかしそれは1886(明治19)年に埋め立てられ、代わりに両側に側溝が掘られて現在の姿となったのだ。
 だからこの点をきちんと復元しないことには、厳密には「江戸時代の宿場町の雰囲気」とは言えないのだが……。)
公共に差し出され緩衝地帯となっている前庭がなめらかに連続し、宿場全体を一種の「公園」として機能させている。
垣根や壁といった物理的な区切りが近代以降の日本の住宅地においては当然の処理技法として広まっているが、
ここにあるのは物理的ではなく、来客者任せの心理的な区切りである。それは「内部空間」のゆるやかな広さである。

長々と書いてきたけど、もう一度まとめてみる。
大内宿が美しいのは、現代の価値観を受け入れつつも、近世の「内部空間」で全体が統一されており、
両者がバランスのよい融合ぶりをみせているからだと思う。観光客は茅葺き屋根の古民家に目を奪われているが、
実際にはその古民家たちを配置させている(ゲシュタルト的に言えば)地の部分、
つまり土の道と前庭の持つ豊かな公共性を無意識のうちに味わっており、それが最大の魅力となっている、
そう僕は考えるわけである。うーん、いかにも東工大の社会工学科らしい考察をしてしまったぜ。

  
L,C,R: 店舗である古民家と、その前庭の利用状況。大内宿ではこのような公共空間が当たり前となっているのだ。

ひとつの結論に至り、満足して残り時間を過ごす。饅頭やら玉コンニャクやらをかじりながら散歩する。
せっかくなので、ラムネもいただく。そんな僕の目の前をかするようにツバメやマメコバチが飛んでいく。
そうやって時間いっぱい、ただただ大内宿の空気というものを体に染み込ませるのだった。

 ではまたいつか会おう、大内宿。

猿遊号の発車時刻ギリギリにバス停に戻る。車掌さんは僕が大内宿をたっぷり堪能したのを理解したようで、
そんなに慌てなくていいですよ、と笑顔で迎えてくれた。車に乗り込むと、ヨーロッパ系の観光客が3人いた。
イマイチ聞き取れなかったのだが、英語のようなフランス語のような会話を繰り広げていた。
来た道を戻って湯野上温泉駅に着くと、運転手と車掌は日本人らしい発音で「See you.」と彼らに声をかける。
僕も英語の授業が終わるときにいつも言っている言葉なのだが、純粋に、いい意味だな、と思った。

湯野上温泉駅でしばらく呆けると、やがて上り列車がやってくる。
乗り込んで茅葺き屋根の駅舎に別れを告げると、列車は国道から離れて林の中へ。
次の駅・塔のへつり駅は林の真っ只中である。ここで降りて、駅名になっている「塔のへつり」へ向かうのだ。
ちなみに駅舎はホームの脇にくっついているのだが、どちらかというと駅舎というよりはコインロッカー置き場だ。

塔のへつり。実に変な名前だ。「へつり」とは会津の方言で、川に迫った険しい断崖のことだそうだ。
いちおう漢字で「山」の下に「弗」と書くのだが、あまりにマニアックなので規格によっては出てこない。
塔のへつりは大川の浸食と風化によってできた断崖で、国の天然記念物にも指定されている。
僕は正直、それほど大きな観光地ではないだろうと踏んでいて、それで大内宿である程度食いだめをしたのだが、
実際に訪れてみると、長瀞渓谷(→2009.5.4)を短縮化した感じのまずまず元気な土産物屋が集まっていた。
車のロータリーを囲むように店は円形に並び、奥には飲食店もちゃんとある。意外と繁盛していたのだった。

  
L: 塔のへつり・入口のロータリー。車がテンポよくやってくる。観光バスも多い。立派な観光地だった。
C: 吊り橋へと向かう階段から撮影した塔のへつり。  R: いざ吊り橋を渡らん。手すりの高さが低いー。

まあ、ご存知のとおり僕は重度の高所恐怖症であるのだが、せっかく来たからには行かなきゃ損!
という貧乏くさい意識がはたらくので、ここは歯を食いしばって吊り橋を渡り、対岸の断崖まで行ってみる。
すれ違うにはやや狭く、微妙に縦に揺れる吊り橋は、正直なかなかイヤな感触だった。
対岸に渡りきると、浸食を受けた岩の上を歩いて大きくえぐれた部分まで行く。
そこから脇に石段があり、これを上ると虚空蔵の祀られた岩穴へと至る。
さらにちょっと奥へ進むと吊り橋まで出るためにさっき下りた石段と対岸が見渡せる岩があり、
その上で深呼吸をしてみる。まあ正直、塔のへつりは心の底まで響く絶景とは感じなかったのだが、
鮮やかな新緑と川の色、豪快な岩肌、そして青く突き抜ける空の取り合わせは乙なものだった。

  
L: 吊り橋を渡ってから眺める大川と変な形の岩たち。  C: 浸食によって豪快にえぐれた岩。
R: 石段を上ると虚空蔵が祀られた一角に出る。まあ、せっかく来たからにはお参りしておかないとね。

帰りに吊り橋を渡っていたら、よっぽど腰が引けていたのか、すれ違ったおじさんに笑われた。恥ずかしい。
戻ってロータリーの辺りをウロウロしていたら、とんでもない土産物を発見。思わず撮影してしまった。

 こんなの売るなよ。

林の中の駐車場を抜けて塔のへつり駅まで戻る。やってきた列車は野口英世仕様(ふるさと列車)で、
車両全体に野口英世の母・シカの手紙全文がラッピングされていた。が、僕には『耳なし芳一』にしか見えなかった。
列車はずっと南下していって、会津田島駅に到着。いったん降りて、改札を抜ける。
駅舎がだいぶ立派だが、ここはもともと南会津地方の中心地なのだ。かつては田島町という名前だったが、
平成の大合併を経て今は南会津町となっている。さてなぜここに寄ったのかというと、旧南会津郡役所があるから。
1885(明治18)年築という木造近代建築が今もひょっこり残っているので、行ってみることにしたわけだ。
あらかじめ調べた感触ではそこそこ歩きそうな予感がしたのだが、実際にはけっこう近かった。

  
L: 野口英世ラッピングな会津鉄道の列車。しかしこれはどう見たって耳なし芳一でしょう。
C: 妙に立派な会津田島駅。売店も観光案内所も土産物売り場も充実していて、しかも2階がレストラン。
R: せっかくなので南会津町役場にも寄ってみた。田島陣屋跡に建っているという由緒の正しさ。

旧南会津郡役所を目指して駅から西へと歩いていったのだが、古い木造の旅館建築が多いことに驚いた。
現役で営業しているかどうかは別にして、今も往時の街道の雰囲気を感じさせてくれるのである。
街道沿いには造り酒屋もあり、地方の誇りをしっかりと今も保っている印象のする街並みだった。

旧南会津郡役所があるのは福島県の南会津合同庁舎の敷地内。うす緑の壁面に赤茶色の屋根で、
正直言って最初に見たときには思わず腰が砕けてしまった。気を取り直し、入場料200円を払って中に入る。
展示は地元の歴史を紹介したものがほとんど。直江兼続の弟・大国実頼が城主だったという鴫山(しぎやま)城、
そして農民一揆・南山御蔵入騒動の展示にかなり力がこもっていた。特に後者については非常に詳しく、
江戸時代の農民が置かれた状況がかなりのリアリティをもって理解できた。
(この事件を紹介するとかなり長くなりそうなので、詳しくは旧南会津郡役所のHPを参照。申し訳ない。⇒こちら
肝心の建物じたいは、かなりがんばって修繕されているがところどころに衰えがきている。
でもやっぱり木造の洋風建築というのはどこか和風の抜けきらない愛嬌があって面白いのである。

  
L: 旧南会津郡役所。色づかいはもともとこうなのだろうか? 旧函館区公会堂(→2008.9.15)もそうだが、非常に疑問。
C: 裏手から眺めた旧南会津郡役所。右手に並ぶ6体の地蔵は南山御蔵入騒動の犠牲者を祀ったものだ。
R: というわけで、裏手にある南山御蔵入騒動の慰霊碑。地元では非常に衝撃的な事件だったようだ。

会津田島駅に戻ると、会津鉄道・野岩鉄道で鬼怒川温泉駅まで南下。
ここで少し時間が空いたので、改札を抜けて駅前を歩きまわってヒマをつぶす。
明日が休みならテキトーに宿でもとって温泉三昧といくのだが、それができないのが切ない。
あまり遠くに行っても戻るのに時間がかかるし温泉に入る余裕がないのが悔しくなるしでつらいので、
本当に駅前周辺だけをブラブラして過ごすのであった。意外と何もなくってガッカリ。
いつか機会があったら、ここの温泉に入ることを目的にして、再び訪れたいものだ。

  
L: 鬼怒川温泉駅。  C: 駅前に立っている鬼怒川温泉のイメージキャラクター・鬼怒太(きぬた)像。
R: 足湯があったけど、全身じっくり浸かれないのが悔しいから入らなかったのであった。

夕日が山に隠れてから電車は鬼怒川温泉を離れる。車内ではずっと中間テストの構想を練って過ごした。
特急ではなかったので、東京に戻るまでしっかり時間がかかった。そんでもってかなりヘロヘロ。
歳のせいだとは思いたくないが、特急がいかに楽な乗り物なのかをしっかりと実感させられた。

三社祭の興奮冷めやらぬ浅草に着くと、そのまま地下鉄でまっすぐに帰宅。
相変わらず慌しくってしょうがない旅行だったのだが、終わってみるとまるで夢のように楽しい時間だった。


2010.5.15 (Sat.)

テスト前で部活がない! 自由に時間を使える!ということで、京都・奈良日記を書き終わらないうちに旅に出る。
今回のターゲットは「大内宿」だ。個人的には、その存在を知ってからずっと行きたかった場所なのである。
というのも、重要伝統的建造物群保存地区でも特に江戸時代の宿場の雰囲気をよく残していると言われるからだ。
ちょっと調べて写真を探してもらえばそれが理解できると思う。土の道に茅葺き屋根の家々が並んでおり、
今の日本にこんな風景が本当に残っているとは!と驚くはずだ。これはもう、行ってみるしかないじゃないか。

しかしながら、車を持たない人にとって大内宿は非常にアクセスしづらい場所なのである。
まず東武で鬼怒川温泉まで行き、その先の野岩鉄道に乗り、さらに先の会津鉄道まで進まなくてはならない。
そして会津鉄道で会津若松まで行く途中に湯野上温泉駅という駅があるのだが、ここで下車するのだ。
最大の問題はここからで、大内宿まで行ってくれる路線バスがない。歩くにはちょっと距離的につらい。
それでタクシーに頼るとなかなかの散財となってしまう。これは困った。
……なんて思いながら、間違って降りた坂戸駅の構内を時間つぶしにふらふら歩いていたら(→2010.4.10)、
東武鉄道の観光パンフレットを発見。そしたらそこには大内宿観光のいいプランが載っているではないか。
これで決意が固まった。姉歯祭りで池袋を訪れた際に手続きをし(→2010.5.2)、いざ本日出陣なのだ。

今回、用意したのは「ゆったり会津 東武フリーパス」という切符。浅草から喜多方まで6990円で往復でき、
しかもフリーの区間が下今市から喜多方までと非常に広い。おまけに有効期限が4日間という気前の良さ。
これを土日の2日間しか利用しないのは本当にもったいなく思える。でもまあ、こればかりはしょうがない。
湯野上温泉から大内宿までは、1000円で往復できる「猿遊号」というタクシーを利用する。
(これは東武の旅行代理店からでないと申し込めないので注意が必要だ。)
で、浅草発のいちばん早い特急に乗って鬼怒川温泉に行き、そこからは快速で一気に喜多方まで突っ切る。
着く頃にはちょうどお昼になっているので、ラーメンを食べてから会津若松に引き返し、初日を終える。
大内宿には満を持して2日目の朝に乗り込み、十分に堪能してから帰るというプランを立てた。われながら完璧だ。

朝起きると支度をととのえて家を出る。1泊なので、学校から持ち帰ったFREITAGのLEO()でお出かけである。
底抜けの快晴で、それだけで足取りが軽くなる。中延で乗り換えて浅草線で浅草に出ると、なんだか騒がしい。
まだ8時前なのだが、やけに道行く人たちが活気づいているのだ。それもそのはずで、この土日は三社祭なのだ。
まるで祭りを避けるようにして浅草を脱出するのが妙におかしく思えた。

 三社祭を控える浅草は底抜けの快晴だった。

ふだん特急になんて乗ることはないので、変に緊張しながら改札を抜ける。
東武の特急はホームにも切符のチェックをする改札があり、それを通過するだけで贅沢な旅をする気分になる。
指定の座席を見つけて荷物を置いたら列車が動きだす。これ見よがしに隅田川を渡って墨田区役所と向き合い、
ちょっと行ったらすぐに東京スカイツリーの足下を通る。土曜日も関係なく工事は進んでいるようだ。
やがてすぐに列車のスピードは上がり、狭苦しい線路を飛ぶように走り抜けていく。
北千住と春日部で乗客をたっぷり乗せると車内の座席はすべて埋まってしまった。

音楽を聴きながら車窓の景色を眺めてぼんやり過ごしていたら、栃木駅に到着してしまった。
栃木には二度ほど来ているので(→2005.11.132008.8.20)、素通りするのになんだか違和感がある。
日光方面へと分岐する下今市を過ぎると、もうあっという間に鬼怒川温泉である。ここで特急はおしまい。
向かい側のホームに停車している喜多方行きのAIZUマウントエクスプレスに乗り込む。
鬼怒川温泉目的の客がけっこう多かったようで、特に混雑もなく席に座ることができた。

新藤原から先は野岩鉄道だ。やたらめったらトンネルで山の中を抜けていく鉄道である。
会社員時代に社員旅行で龍王峡に行ったことがあるのだが(→2006.10.21)、
あのとき駐車場に地下へ降りる駅があって驚いたけど、それってここかー!と思い出すのであったことよ。
そんな具合に栃木県を脱出して福島県に入る。気づけば鉄道会社は会津鉄道になっているのだが、
鉄っちゃんじゃない僕にはその辺の機微というかがまったくわからない。ぼんやり景色を眺めて過ごすだけ。
山と山に囲まれているけど伊那盆地とは違って広いなあ、と思っているうちに西若松を通過。
ここからはJRの線路に入ってしまい、そのまま会津若松を通って喜多方まで行くというわけだ。

会津若松でがっつり停車してから列車は発進、終点の喜多方駅に着くと素早く降りて改札を抜ける。
もう喜多方の主要部の地図は頭の中に入っている。市役所方面へと早足で歩いていき、目的地を目指す。
今回は最も有名な喜多方ラーメンの店のひとつ、坂内食堂でお昼をいただくのだ。
ゴールデンウィークが過ぎたとはいえ、ちょうどお昼どきにどれだけ混むか想像がつかない(→2007.4.29)。
若喜商店を目印に東へ進んでから左折するとそこは……やっぱり行列。うなだれつつ最後尾に並ぶ。
しかし予想よりも回転がよく、比較的あっさりと店舗内に入ることができた。が、そこもまた行列。
しばらく並んでレジの前で注文と同時に金を払い、席が空くのを待つ。なかなか珍しいシステムである。
店内はラーメン屋のわりに広く、テーブル席と座敷が大半を占める。独り者にはややさみしい。
席に案内されてちょっと待ったらラーメンが来た。注文してからはかなり早い。回転がいいのもわかる。
さて、喜多方ラーメンということで正統派の醤油ラーメンを想定していたのだが、スープの色が薄い。
実際に食べてみたらスープの色のとおりに塩ラーメンだった。誰が何と言おうとこれは塩ラーメンだ。
しかし、たっぷりと量のある大盛を、あっさり風味のまま最後まで飽きずに食わせるというのは実は難しく、
それをきっちり食べさせてくれるというのはやはり偉大である。おいしゅうございました。
むしろ、東京にある坂内系のチェーン店は、東京ラーメンのアレンジが加えられていると考えるべきだろう。
まあ僕としては、どっちもおいしいので味に違いがある方が面白くっていいや、といったところだ。

  
L: 今日も混んでる坂内食堂。しかしいつ行っても必ずバイクの人たちがいるのね。まあ、いい季節だしなあ。
C: 支那そば大盛、800円。東京のチェーン店とはスープがまったく違っていた。  R: おいしゅうございましたよ。

思ったよりも早く昼メシを完了することができたので、若喜商店周辺をのんびり見てまわる。
名家に生まれるのも大変だなあ、なんて失礼なことを考えつつレンガ蔵を覗き込んでみたり、
昭和の香り漂う懐かしいおもちゃやら何やらをひやかしてみたり、会津土産を物色してみたり。
時間がほどよく経ったところで駅まで戻って改札で例のフリー切符を偉そうに提示すると、会津若松へ。
喜多方へはホントにラーメンを食いに行っただけなのであった。次はどこの店にしようか。

会津若松駅に着くと、とにかくのどが渇いたので売店に直行。地元の牛乳「べこの乳」を飲む。
低温殺菌具合がなかなかよろしく、久々に濃い牛乳の風味を堪能することができた。
時計を見るとだいたい午後の2時ということで、これなら会津若松を存分に歩きまわることができる。
前回はレンタサイクルで街中を爆走したのだが(→2007.4.29)、今回はすべて歩きで済ませることにする。
会津若松の観光地は広くあちこちに点在しているので正直、歩くのはかなりハードなのだが、
重要なのは明日の大内宿なのだ。それに、京都・奈良であまりに激しく動きすぎたために、
時間に追われながら量をこなす観光スタイルに飽きてしまっていた。のんびり行くのだ。

 
L: 会津若松駅。でも昔ながらの商店街は七日町駅に、鶴ヶ城は西若松駅に近い。飯盛山もここから距離がある。
R: 会津若松駅の近くにはドムドムがある。昔は飯田にもあったんだぜ。もう、ものすごく懐かしい。がんばれドムドム。

知っている道なのでどうということはないが、もし初めて歩いていたらずいぶん不安になっていただろう。
それくらい、駅から野口英世青春通りまでは遠い。会津若松が広い街であることをあらためて実感する。
しかし今日は本当に天気がいい。青い空に、使い古されている感触の街並みがよく映えている。
ぼけーっと散歩するには絶好の日だ。自由とはええもんじゃのう、とつぶやいてみる。

 
L: 野口英世青春館(会陽医院跡)とか福西伊兵衛商店とか。野口英世青春通りの中心的な部分である。
R: 野口英世青春広場。中央にあるのは野口英世の像。街中の空き地をムリヤリ公園にした感じ。

鶴ヶ城に行く途中で会津若松市役所に寄ってみる。前回来たときにも訪れているので画像が重複するが、
まあ気にしない。デジカメが違うし天気もいいし、こっちの方がいいんじゃないか、と思ってシャッターを切る。

  
L: 会津若松市役所。  C: 正面より。  R: 角度を変えてもう一発。できるだけ残していってほしいなあ。

北出丸大通りに出ると、かつて武家屋敷が並んでいた雰囲気が今も強く残っている。
豊かな緑とレンガ塀が醸し出す風格はやはり違うのである。

 雰囲気がわずかに角館(→2008.9.13)に似てないですかね?

そうして鶴ヶ城に入る。実は現在、鶴ヶ城は落城当時と同じ赤瓦に戻す工事が行われている真っ最中である。
でも中に入ることはできるので、3年前には上らなかった天守の展望台から街を眺めてみることにした。
天守の中はわりと新しめの小ぎれいな博物館的展示がなされており、ざっと目を通しながら上を目指す。
新緑の季節に文句なしの天気ということで、最上階から外を見た瞬間、思わず声が漏れた。
それは僕に限ったことでなく、やってきた観光客はみんなそうだった。街も、緑も、空も、山も、輝いている。
本当に、キラキラと輝いて見えたのだ。今という時間が景色を構成する物体ひとつひとつを覆って艶を与えている。
あまりに美しすぎて高所恐怖症がすっかり吹っ飛んでいた。人間ってのは現金なものだ。

  
L: 鶴ヶ城天守より山形県境方面を眺める。雪をかぶった山脈がきれいだ。
C: 言わずもがな、磐梯山。天守から見ると360°すべてを山が囲んでいるのだが、その中でもまったく別格の存在感。
R: 芝生が広がる本丸を眺める。瓦工事のクレーンはご愛嬌。

天守を出ると、会津松平氏庭園こと御薬園(おやくえん)に行ってみることにする。
鶴ヶ城の本丸から出るときに地図を覚え込んで歩きだしたのだが、歩いてみるとかなりの距離があった。
ホントに大丈夫かよ、と不安になるがどうしょうもない。そのうち広い県道64号に出て途方に暮れるが、
実はそれで正しく、しばらく歩いたら看板が出ていてほっと一安心。まったく問題なく到着できたのだった。

  
L: 御薬園入口。  C: 御薬園の名のもとになった薬草園。ものすごくたくさんの種類の植物が育てられている。
R: 敷地の大半は回遊式庭園。戊辰戦争時には新政府軍の野戦病院となったため戦火を免れたそうだ。

 庭園の真ん中にある茶室・楽寿亭。1696(元禄9)年築。

敷地北側の薬草園は僕にとっては非常に面白かった。実にさまざまな種類の薬草が育てられており、
名前を見るだけでも楽しい。意外なものが薬草だったり、猛毒の草が育てられていたり、美しい花が咲いていたり。
前に植物園が実は日本の縮図であることに気づいて面白がったことがあったけど(→2006.8.26)、
きちんとじっくり味わえば、植物園というものは飽きることがない。あらためてそのことを実感するのだった。

御薬園を出ると、もう夕方5時近く。今日の観光はもうこれでおしまいだな、と思い、
そのまま県道沿いの本屋に入って旅行ガイドを探す。今晩のメシをどうするか、方向性を決めるためだ。
それでパラパラとページをめくっているうちに、ある写真に目が留まった。「さざえ堂」である。
白虎隊の悲劇の地として知られている飯盛山に「さざえ堂」と呼ばれる建物があるのだが、
これが実に変な建物で、写真を見れば見るほど気になって仕方がなくなってくる。
正直なところ、僕は白虎隊の悲劇をそれほど重視していない。だって、会津で悲しい目に遭ったのは、
白虎隊だけじゃないから。白虎隊は会津の悲劇の一部分にすぎないのだから。
それゆえに飯盛山は今回はパスするつもりでいたのだが、「さざえ堂」があるんじゃ仕方がない。
ガイドによれば、運のいいことに「さざえ堂」は日没まで開いているということなので、
決意を固めて本屋から飛び出し、できる限りの早歩きで北を目指すことにした。

黙々と歩き続けること30分弱、飯盛山のふもとにたどり着いた。
白虎隊の墓や自決の地は山腹にあり、ふだんはエスカレーターで近くまで行くことができる。
が、もう5時を過ぎているのでエスカレーターの運転は終了。石段を延々と上っていくしかなくなっている。
昨日のスクワットが効いてふとももが筋肉痛なので、もう絶望的な気分である。
でも看板をよく見たら、さざえ堂へは迂回が可能とわかったので、裏手(本当はこっちが参道らしい)へまわる。

 筋肉痛にこの石段は拷問でしかない……。

最終的には同じ高さを上るのだが、石段の分がスロープになっている部分があるだけ裏手の方がマシだ。
大股でグイグイと進んでいくと、境内をぐるっとまわって小規模な石段を上っていった先に、それがあった。
旧正宗寺三匝堂、通称「さざえ堂」である。1796(寛政8)年、郁堂という僧侶が考案して建てたという。
この建物、何がとんでもないって、その内部構造である。まず右回りに上り、3層分上ったところでてっぺんに着く。
そのまま行くと今度は左回りの下りとなり、入口とは正反対の位置にある出口に出るのである。
完全に一方通行で、まったく他者とすれ違うことなく参拝ができるということで、こんな例はほかにない。
(レオナルド=ダ=ヴィンチの設計による二重螺旋階段がフランスにあるらしいが、それくらいだとか。)
この内部構造を反映して、外観も実に独特な姿になっている。この想像力には脱帽するしかあるまい。

  
L: さざえ堂の外観。18世紀末の日本でこれをつくっているのだ。ものすごいことだと感心するしかないでしょう。
C: 角度を変えて撮影。スロープの内部を反映した外観だが、かなり秀逸なデザインにまとまっていると思う。
R: 内部はこのようなスロープになっている。歩くとギシギシ大きく鳴って、正直ちょっと不安になる。

  
L: 片方の通路からもう片方の通路を眺める。中心部はこんなふうに、いちおう通り抜け可能になっている。
C: てっぺんの部分。ここを通過すると上りが下りに、右回りが左回りになるのである。
R: 足下に注意して下っていく。実に衝撃的な空間体験だった。これはぜひ皆さんにも味わってほしい。

400円納めて中に入り、上って、回って、下って、回って、出てきて、とにかく興奮した。これはすごい、と。
フランク=ロイド=ライトのグッゲンハイム(→2008.5.9)よりも150年ほど早く、もっと変なことをやっているのだ。
こういうことを思いつくのがまずすごいし、実現したのがもっとすごい、そしてきちんと残っていることもすごい。
建築に興味のある人なら絶対に訪れてほしい建物である。このためだけに会津若松に行っても損はしない。
(ただし、さざえ堂は無数の落書きの被害に遭っている。かけがえのない価値を持つ作品に対し、
 そのような心無い行為を平然と行う連中を絶対に許すことはできない。被害がひどくて怒りが止まらない。)
ちなみにこの日は5時半少し前になってさざえ堂の拝観が終了。これがどうやらリミットのようだ。

そのまま白虎隊関連の史跡も訪れる。まずは墓。自決した隊士の墓が一列に並ぶ。
右手奥には戦死した隊士の墓がまた一列に並んでおり、なんともやりきれない気分になる。
周囲には外国から贈られた白虎隊の悲劇を悼む碑がいくつも建っていたが、
並ぶ墓石の悲しさの前にはまったく無力であるように思えた。そしてこの悲劇は、会津の悲劇の一部なのだ。
墓から南の方へと進んでいくと、白虎隊自決の地がある。とても見晴らしがよく、鶴ヶ城もしっかり見える。
いやむしろしっかり見えてしまったことで悲劇が発生したわけで、再びやりきれない気分になるのだった。
しかし白虎隊の方は妙にカップルで来てる連中が多かったなあ。デートで来るのは違うだろ?と思うのだが。

 
L: 白虎隊、隊士の墓。  R: 白虎隊自決の地。もうこの辺は何から何まで切ない。

今度こそ本当に観光はおしまい、である。のんびり歩いて市街地まで戻り、腹を減らす。
神明通り(国道118号)のデパートは、今はTSUTAYAが入っており、そこであらためて旅行ガイドを見る。
調べてみたところ、どうやら会津若松でもソースカツ丼が名物となっているようだ。
そうと決まれば話は早い。いくつか店をピックアップし、候補を絞って行ってみる。

 うむ、ソースカツ丼だ。

駒ヶ根では量をめぐって熱い競争が展開されていたのだが、会津若松ではそうでもないらしく、
ちょっと足りないかなあ、という印象。でもまあ、それはおいしかったからそう感じただけかもしれない。
宿で風呂に入ってのんびり湯船に浸かりながら、充実した一日を振り返って呆けるのであった。


2010.5.14 (Fri.)

ある事情から、今日は帰りの学活が終わってから生徒と一緒にスクワットを300回やる破目になった。
まあなんだかんだ、勢いでどうにかできちゃったのだが、その後の太ももがもう完全におバカ。
これ以上足を太くしてどうすんだ、と思うのだがどうしょうもない。うーむ強烈ゥ!


2010.5.13 (Thu.)

休み時間、力士体型(素直にカタカナ2文字を書けばいいのだが)の生徒2人がオレをプレスしてきやがる。
具体的に書くと、片方がオレの背後をやたらめったらとろうとするのである。
で、もうひとりがその動きに合わせて、オレが油断をした隙に突撃。肉塊に挟まれることしばしばなのだ。
冗談めかして書いてはいるが、どちらも体重90kg前後と思われるので、この衝撃は半端でない。
マトモに食らったら内臓破裂になってしまう可能性だってなくはない。それくらいに凄いのである。
しかもしつこい。休み時間いっぱい、廊下にいようが教室にいようがおかまいなしで隙をうかがってくる。
一瞬たりとも気が抜けないので、最近の昼休みはどうも体力回復のチャンスになっていない。
まあそれがあいつらなりの親しさの表現なのはわかっているので、本気で文句を言うわけにもいかない。
とりあえずは連中が飽きるまで待つことにするのである。まったく手のかかる連中ですこと!


2010.5.12 (Wed.)

今日の僕は朝からダメ人間でした。一日中ずっと自己嫌悪でした。困ったもんだ。


2010.5.11 (Tue.)

そろそろ発音記号にも慣れておかないとな、ということで、本日の英語の授業は発音記号をテーマにする。
が、どうも生徒たちの反応が悪く、まったくもってピンときていないようだ。
まあ確かに塾で教えていたときにも発音記号を苦手にしている生徒は多かったのだが、
あのときよりもさらに勉強が苦手な子どもの多い今の学校では、非常に厳しい面があるのもわかるのだ。

そもそも僕は、学校で英語を教えるのは教養を伝える手段だからだ!と割り切っているので、
その点から考えると発音記号の重要さは避けては通れないのである。
なので多少わからなくったって、そんなもんは強行突破で教えておくのだ。
今わからなくても、後で振り返って納得できればそれでいいのだから。

そういうわけで、教室全体にさまざまな「?」マークが浮かんでいる中、授業は終わった。
がまんして慣れていけば、いつか「ああそっか」とわかって教養が増す瞬間があるはずで、
今は地道にそのための種を蒔いておくしかないのである。がまんせい。


2010.5.10 (Mon.)

本日はサッカー・南アフリカW杯に参加する日本代表メンバーの発表があった。
昼に発表されたので生徒たちは情報を手に入れる機会がないのだが、こっちはネットがあるもんね。
そんなわけで、それを利用してクイズをやってみたのであった。
23名のメンバーを当てていくわけだが、外した数だけランニングが増える。
きちんと代表の動向やJリーグをチェックしていれば、そんなに難しくはない。
ちゃんとサッカー部として興味を持たないとダメ!ということでやってみた。

ところがどっこい、中学生ってのは海外組やJリーグの本当に有名な選手しか知らないんでやんの。
スタメン起用の多かった選手以外、名前がぜんぜん出てこない。ダメのダメダメである。
そんなわけで、川口の選出は確かに驚いたが、それ以外のところでも大して当たらず、
いつもより10周ほど多いランニングでヒイヒイ言うのであった。えーい情けない!


2010.5.9 (Sun.)

藤原伊織『テロリストのパラソル』。江戸川乱歩賞と直木賞のW受賞作。
それがどれぐらい凄いのかは、読書家ではない僕にはよくわからん。

かつて学生運動の末期に事故で爆弾を爆発させてしまった男が主人公。
指名手配者となった彼は名前を変えて隠れるようにして暮らし、今は新宿でアル中のバーテンとなっていた。
晴れた日には公園でウィスキーを飲むという日課のとおりに新宿中央公園で酒を飲んでいたある日、
そこで爆弾を使ったテロが発生する。現場に指紋のついた酒瓶を残してしまった男は、
容疑者として再び警察に追われることになる。しかも犠牲者の中にはかつての全共闘時代の仲間がおり、
男はいわば「ハメられた」状況の中で、さまざまな立場の人物と協力つつ事件の真相に迫っていくという話。

全共闘時代の人間関係の記憶が蘇っていく中で、しみったれた現在がハードボイルドな状況に変化していく。
そうさせているのは登場人物がことごとくインテリだから。あまりにもインテリばっかりで首を傾げたくもなるが、
それ以上に物語の展開が魅力的なので「面白けりゃいっか」という気分で読ませてくれる。
作品は徹底して主人公の一人称。「言葉(文)は1次元」と前に日記で書いたが(→2005.10.182009.2.18)、
見事にその1次元の曲線で、主人公を取り巻く罠を主人公の視点のままで巧妙に浮かび上がらせる。
そのせいで、主人公だけはわかっているが読者がまだ気づいていない事実の説明が遅れることがあり、
(物語にどっぷり浸かっていると、主人公=読者のことと錯覚してしまいやすいのだが、この話はそうではない)
事件の全容がつかめるまで何度か戻って読み返すことがあったのだが、まあ許容範囲だろう。

純粋に面白かった。アナクロとみせかけて鋭いところはきっちり鋭い主人公を軸にして、
絶対的なヒロインであるかつての同棲相手の娘・塔子を用意して物語を華やかに彩らせ、
結局は義理人情で動いてしまうなんだかんだで頼れるヤクザ・浅井の存在が読者に安心感を持たせる。
ヒントをくれるホームレスの面々も、もちろんインテリ。頭のいい人たちが主人公をがっちり支えている。
そうして姿のみえない敵の全容を暴こうとするわけだが、この姿の見えないぶりが実に徹底していて、
その部分が特に、この作品のミステリとしての秀逸さを極めて高いレベルとしているように思う。
最後にきて一気にヴェールが剥ぎ取られるのだが、そこでの伏線の回収ぶりがとっても豪快だ。
やはりミステリなので長台詞での説明になってしまうのだが、過去から現在の隔たりがクッションとなって、
自然と受け止めることができるように思うのである。そこまで計算してやっているとすれば、恐ろしい。

非常に頭のいい人ばかりが出てくるので(非常に頭のいい人しか出ないので)、とてもテンポがいい。
だから社会学的にも読める、分析できるというよりは、純粋に娯楽作品という仕上がりになっている。
それはつまり、寄り道をしないで、作者の精神力で物語を無事にコントロールしきったということでもある。
話は複雑に入り組みつつも、1次元の文章を徹底してやりきる。いろんな点で、実にかっこいい作品である。


2010.5.8 (Sat.)

今日の部活ではポジションが足りない都合上、GKをやった。
いちばん後ろからプレーを見ていて、「ああ、サッカーって言語だ」と思ったので、
このことについてちょっと詳しく書いておきたい。

あらためて書くが、サッカーは言語だと思う。というのも、すべてのパスには意図があるから。
受け手がどう取るかという問題も含めて、それは言葉を相手に投げかける様子にすごくよく似ている。
そう、すべてのパスには意図がある。ボールをこういうふうに扱ってほしい、あるいはもっと単純に、
ボールをゴールにまで入れてほしい。どんなパスにも最低限、思いというものが込められているはずだ。
味方に対してパスを出すときには、それが苦し紛れのクリアに近いものでない場合には、
次にどのように攻撃を展開していくかのヴィジョンがあるはずで、それが共有されることが必要になる。
これはつまり、音声が発せられ、相手に受け止められ、次の行動に作用していく、それとまったく同じなのだ。
すべての言葉には意図が込められ、そしてすべてのパスにも意図が込められている。

そのことに気づいた瞬間、パスを受ける、そしてパスを出すということがいかに大切なことか、実感することになる。
できるだけ、相手の受けやすいパスを出すことが求められる。相手のことを考慮した優しさがなければならない。
それは、相手に意図を読み取ってもらえる言葉を発することと一緒なのだ。誤読を避け、正確に伝える努力。
安っぽい言葉で言えば、それがコミュニケーションの本質ということになるのだけど、実際そういうことなのだ。
「言葉のキャッチボール」というフレーズはまったく比喩ではないのだ。見えないボールを、確かにやりとりしている。

ところで村上龍と中田英寿の対談のタイトルに『文体とパスの精度』というものがあるのだが、
後ろからサッカーを眺めていてそのタイトルがどうしても頭から離れなかった(でも読んだことはない)。
あー、そういうことだったのかー、とグラウンドの上でひとり納得するのであった。


2010.5.7 (Fri.)

先月の遠足のときに思ったことを、あらためてきっちり書いてみたい。
本日のテーマは、「首都高は昭和である」ということだ。

ふだんから車で首都高を利用している人ならそんなの当たり前じゃん、と思うことかもしれないが、
めったに首都高を利用するどころか車に乗る機会すらない自分には、たまの首都高が衝撃なのである。
バスでの帰省でどんどん拡張されていく中央道などに慣れていると、首都高の狭いことに驚かされるのだ。
特に地下のトンネルなんか完全に東京オリンピックの頃の雰囲気を残しており、これは昭和だ、と思う。

まずスケール感。今の車のスケールからすると、かなり小さい。地下鉄銀座線レベルとは言わないが、
軽自動車にぴったり、という感じなのである。逆を言うと、日本の車は徐々に大きくなってきたことが、
首都高のスケール感から読み取れるということでもある。あらためて考えるとこれは面白いことだ。
そしてもうひとつ、ルートの問題だ。首都高は東京オリンピックのために突貫工事でつくられており、
そのルートは用地の確保が簡単だった川の上に設定されているところが多い。
そのために狭い範囲にカーヴがたくさん、おまけに高低差もたっぷりというルートができあがった。
今ならこんなムチャは絶対しないだろうという激しさがあって、それはそれで面白いのも事実だが、
しかしその大雑把な感覚に昭和の匂いを感じずにはいられないのである。

自分で車を運転することがないのでなんとも残念なのだが、世の中には首都高マニアもいるわけで、
ヒマをみてはそういう趣味の本をいろいろチェックして研究してみたいと思っているしだい。


2010.5.6 (Thu.)

GWが明け、久々の授業でヘトヘトである。いきなり4時間連続だったこともあり、肩で息をするほど。
その後にALTとの打ち合わせがあって、部活。今日からもうひとりサッカー部員が増えた。
もはやすっかり「一大勢力」と形容するのにふさわしい。これはこれでプレッシャーである。


2010.5.5 (Wed.)

仕事したくねー!と思いつつ今日も学校でサッカー。
しかしGW中の練習がしっかり続いたせいか、みんなフラフラで早めに切り上げることに。
その後は大岡山周辺でひたすら日記を書いて過ごす。今年のGWは充実していたと言えるのかなあ。


2010.5.4 (Tue.)

GW中もわりとめいっぱい部活の予定を詰め込んだので、本日も体力の限界までサッカー。
しかし終わった後にはせっかくの休日だから、秋葉原へ行ってみることにした。
さて秋葉原でいまの僕が行くところといえば、DVDを冷やかしたり、マンガの新刊をチェックしたり、
あとはなんといっても中古のゲームミュージックCDをあさってみたりと、その程度。
やっぱりなんだか昔ほど楽しくないなあ…、という思いを抱くのであった。でも来ちゃうんだよなあ。
国立でさんざんお世話になったスタ丼の店が秋葉原にもできていたので、晩飯はそれにする。
しかしどうも、切ない。昔のように舌がピリピリするほどニンニクが効いていないとか、そんなんじゃなくて、
なんというか、昔と同じようにやっても同じにならないことが切ないのである。
でもそれを受け入れなければ、もっと切ないことになる。これが時間の流れというものなんだなあ。


2010.5.3 (Mon.)

姉歯祭りの2日目である。これまた掲示板やらメールやらで高尾山に登ることが決まったので、
10時高尾山口駅集合に間に合うように家を出る。常識的に考えれば溝の口に出て南武線で分倍河原、
というルートが最短になるのだが、調べてみたら目黒に出て山手線に乗り換え、渋谷で井の頭線に乗り換え、
明大前で京王線に乗り換え、最後に北野で高尾山口行きに乗り換えるのが最も安いと判明。
しょうがないのでそっちの最安ルートでちまちま進んでいくのであった。

 井の頭線の渋谷駅近くにある岡本太郎『明日の神話』。いい場所見つけたな。

明大前で京王線に乗り込んだときからイヤな予感がした。いかにもピクニック的乗客がいっぱいいるのだ。
まさかこいつら全員高尾山に登るつもりじゃないだろうな、と思っていたのだが、その予想はほぼ的中。
さらにJR中央線との乗り換えになる高尾駅でも登山客がいっぱいに乗り込んできて、さながら通勤ラッシュの様相。
高尾山は世界一の登山者数を誇ると言われており、GWで快晴といったらそりゃあもう条件がそろいすぎているが、
それにしてもこれはないだろう、と駅に着く前から呆れ果ててしまった。9時40分、いちおう高尾山口駅に到着。

 
L: 渋谷か新宿レベルの混雑ぶりとなっているGWの高尾山口駅。これはありえないだろう、と言っても仕方がない。
R: 高尾山へ向かう道はご覧のありさま。なんかもう、すべてがイヤになってくるぐらいの混み具合だ。

ニシマッキー・リョーシさんと合流するが、みんなあまりの混雑ぶりに呆れているのであった。
そのうちにマサルもやってきた(遅刻しないために徹夜したそうだ)。開口一番、「もう何よコレ、来るんじゃなかった!」
マサルはtwitterをやっているようで、待っている間もあれこれ思いついたことをそのままつぶやいていた。
テンガロンハット風アウトドア帽子をかぶっている僕の写真を撮り、「ハリウッドザコシショウがいたよ!」などと書き込み。
そんなことをしているうちに約束の10時が過ぎ、ようやくみやもり・えんだうがやってきた。これでメンツがそろった。
「もうこのまま帰っちゃおう」という意見は僕とマサルの2名だけで、あえなく否決されたのであった。
で、人混みにウンザリした気分になりながらも高尾山への登山がスタート。表参道である1号路を行く。

  
L: 高尾山への本格的な登山口。それにしてもこの人混みには呆れるしかない。みんなもっとほかにやることあるだろ!
C: ケーブルカーの清滝駅。われわれは目もくれずに右手の登山口から先へと進むのであった。
R: 登山なのだが行列に並んでいる錯覚がする。せっかくの緑も鳥のさえずりも爽やかな風もすべてかき消される感じである。

高尾山の登山道は、序盤はかなり急である。僕やえんだうなんかは大股でグイグイ登っていくのだが、
不摂生で体力の落ちているマサルはだいぶ苦しそうだ。「もう帰りたいわー」とつぶやきながら足を動かすのであった。
以前、鬼押出しを訪れた際に、来ていた子どもが「ぼくどうしてこんなところに来なくちゃいけないの?」(→2007.5.4
という名言を残したが、マサルも「僕なんでこんなん登らなくちゃいけんのよ」と何度もこぼしていた。あきらめろ。

 
L: 金比羅台から眺める多摩地区。これは絶景だ。
R: マサルのリュックはトゲトゲのついたデザインで、ほかの登山客に衝撃を与えていたよ。

リフトの山上駅付近まで来て、一息入れる。さすがにこの一帯は店もいくつかあっていっそう賑やかだ。
和製マラドーナこと岩崎マサル(似てると言ったらマサルは「僕、和マラ!」と何度も繰り返すのであった)は、
息も絶え絶えになって呆けていた。それでも店で売っている食べ物を見ては「僕これ食べたい」と言い張り、
みんなから「帰りにしとけ、な?」と説得されていた。ま、たまには運動しなきゃな。

  
L: リフトの山上駅。道を挟んだ反対側にはケーブルカーの高尾山駅がある。
C: 茫然とする和製マラドーナこと岩崎マサル。Tシャツの胸には「SEX DRUGS ROPPONGIHILLS」の文字が。
R: この一帯は食べ物を売る店が出ていて賑わっている。しかしまあ登山客の多いこと多いこと。

  
L: リフト山上駅付近より眺める多摩地区の景色。多摩ニュータウンがよく見える。
C: 少し先に進んだところにあるサル園・野草園。明治製菓の「カール」のキャラクターがフィーチャーされていた。
R: たこ杉。確かにタコっぽい。近くには業者が建てたタコを慰霊する碑がある。

 浄心門。この先、石段の男坂とスロープの女坂に分かれる。

ケーブルカーやリフトの駅を過ぎてからは急な坂道はなくなり、かなり平坦な道がほとんどになる。
登山道というよりむしろ、薬王院への参道という印象が強くなる。つまり、ケーブルカーやリフトを使えば、
少しも苦しい思いをすることなく済んでしまうだろう。最初のところさえがまんできれば、後は楽。
高尾山が大人気の理由もその辺にありそうだ。……なんて思っているうちに薬王院に到着。
薬王院では奉納された杉苗を植えているんだかなんだかで、奉納した人の名前が掲示されていた。
一万本、一万五千本、二万本……と数は増え、十万本のところには「八王子市 北島三郎」の文字が。
おおーさすがサブちゃん、とみんなで感心するのだった。そしてクイズ研究会らしく、
「サブちゃんの本名ってなんていったっけ?」と首を傾げるのだった。

  
L: 薬王院の山門。  C: 境内にある天狗の像。いかにも高尾山らしい感じがする。
R: 大本堂。1901年築とのこと。薬師如来と飯縄権現を祀っており、神仏習合の匂いがする建物。

 近くの大本坊には天狗の面と人形があった。

せっかく薬王院に来たのでみんなで参拝。しかしここが寺なのか神社なのかイマイチよくわからずみんなで戸惑う。
真言宗で飯縄権現ということで、神仏習合がかなり顕著なのである。結局、寺スタイルでお参りするのだった。

薬王院の境内を抜けるとまた山道に戻る。あとは高尾山の頂上を目指すだけだ。
頂上を目指す人の数があまりに多すぎて、やっぱり登山をしているという実感がなんとなく遠いのだが、
とにかく前へと進んでいく。途中の女子トイレは尋常でない行列になっており、男でよかったと思いましたスイマセン。

いちばん最初の強烈な坂を体験したせいか、まったく手ごたえのないままにあっさりと頂上に到着。
頂上に来ても人混みのすごさは相変わらずで、とても落ち着いてお昼を食べてなんていられない状態だ。
とりあえず頂上の印らしきものを発見したのでみんなで記念撮影し、空いている場所を探して腰を下ろす。
えんだうさんが持ってきたエルゴラッソ(サッカー新聞)を下に敷いてコンビニ弁当を思い思いにいただいた。

  
L: たぶん高尾山の山頂であることを示すもの。人が座ったり寄りかかったりして真っ当な扱いを受けていないのであった。
C: 喜ぶマサルと僕。(リョーシさん撮影)  R: 頂上に着いたので記念撮影。右端に天狗がいるぞ!

 
L: メシを食おうとするが空いている場所がなくて困惑するわれわれ。山の頂上とは思えない混雑。(リョーシさん撮影)
R: ランチタイム。マサルは『暴れん坊天狗』にチャレンジし、僕はエルゴラッソの甲府の記事に夢中。(リョーシさん撮影)

天狗が棲むという高尾山に来ているということで、マサルは背負っていたトゲトゲリュックからパソコンを取り出し、
『暴れん坊天狗』をプレーすべく電源を入れる。しかしコントローラーの調子が悪くて断念したのであった。
それでもマサルはコンビニで買ったというちまきをかじって憂さを晴らしていた。
昼を食べ終わると少し気分が落ち着いてきた。トイレのついでにフラフラあちこち人混みをかき分けてデジカメで撮影。
山の頂上とはとても思えない混み具合で、高尾山の標高はGWのたびに削れて低くなってるだろ、と本気で思う。

  
L: 高尾山山頂にある二等三角点。  C: 展望台からは富士山をうっすらと望むことができた。
R: 山頂の様子。ひどい混み具合で、のんびりメシ食っていられない状況である。

  
L: ソフトクリームを食べてご満悦のハリウッドザコシショウこと私。
C: スカートを穿いていないのにスカートの裾をつまむポーズをとるあのねのね原田ことマサル。
R: 直立不動でソフトクリームを舐める千原ジュニアことえんだうさん。(以上3枚ともリョーシさん撮影)

長い行列に並んでソフトクリームを食べると、もうやることもないので、いざ下山。
なんとなく、来たときと同じ1号路で戻ることにしたのだが、これが超がつくほどの大誤算。
午後になって登山客はさらに増えたようで、細い山道ではまったく身動きが取れなくなってしまったのだ。
首都高の渋滞なんかとまったく同じ状態で、ちょっと進んでは止まり、しばらく経ってまた動き出してすぐ止まる。
それを延々と繰り返す。このストレスは山道の坂を登るよりも疲れる!と愚痴をこぼすがどうしょうもない。
結局、大渋滞は薬王院を抜けるまで続いた。僕らは帰りだからまだいいが、行きであの渋滞だと本当につらい。
薬王院の山門から出ても混雑はしばらく続き、土産物を見る余裕などとてもないのであった。

薬王院を抜けてしばらく行った後は非常に快調。ゆるやかな下りというのは歩くには最も楽ちんで、
のんびりとあれこれダベりながら歩いていたらリフト山上駅・ケーブル高尾山駅の一帯に出た。
ここで一休みを入れる。ここには「あなたを見てインスピレーションの言葉を書きます」というノリヤス的な店があり、
マサルは喜んで1200円払ってインスピレーションしてもらうのであった。こういう金をケチらないのはすごい。
書きあがったものを見せてもらったら本名の「多」という文字の後にあれこれコメントがついていたのだが、
まあなんというか、いい商売だなあと。どうせマサルは2日と経たないうちになくすんだろうな。

 
L: 細い山道を埋めるすさまじい大渋滞。えんだうが後でニュースになっているのをケータイで確認。
R: インスピレーションしてもらっているマサル。こういうことにサラッと1200円出しちゃえるのがすごい。

さすがに最後の下り坂はなかなか強烈だったが、どうにか無事に下りていくことができた。
(でもマサルは「僕はもう二度と来んわ!」と何度も繰り返しこぼしていたのであった。)
高尾山口駅に戻ってきたときには全員フラフラ。山に疲れたというよりは人混みに疲れた。
駅に着いても人混みは相変わらずで、このまま満員電車に揺られて帰るのは勘弁願いたかった。
そしたら運よく、近くの日帰り入浴施設行きの無料バスが停まっているのを発見したので、
採決をすることなく全員すんなり乗り込むのであった。うまい商売するなあ、と感心する。

入浴施設も混んでいたが、高尾山の異常さと比べれば知れたものである。
しっかり汗を洗い流し、風呂上りにはビン牛乳を一気に飲んで、しっかりリフレッシュした。
(体も頭もスッキリできたようで、僕は体を洗っている最中に突如、北島三郎の本名を思い出し、
 「大野穣!」と周りにいたみやもりやえんだうに大声で言うのであった。まあ、よくあることだよね。)
そしてやはり無料の送迎バスで八王子駅まで出て、少し歩いて京王八王子駅まで移動。
それで新宿まで出て丸の内線に乗り、大手町で東西線に乗り換えた。
なぜ東西線に乗ったのか。それは浦安駅で降りるためである。なぜ浦安駅で降りるのか。
それはみやもり邸を襲撃するためである。長年の課題であったみやもり邸襲撃が、今、実現する!
(途中で明日の仕事がある関係でえんだうが帰っちゃったのが残念だが、まあしょうがない。)
浦安駅で降りると近くの西友で食料と酒を買い込む。あまりにもいろいろ安いので驚いた。
ウチの近所にも西友できねーかな、と思う。まあできたらできたでたくさん買いまくっても困るのだが。

会社から斡旋されたというマンションの一室がみやもり邸である。駅に近くてきれいで一同うらやましがる。
中に入るとさっそく奥様がキッチンであれこれ準備中。こっちはこっちで買ってきたものをコタツに広げる。
で、頃合を見計らって僕は洗面所の方へ。今まで背負っていた荷物を取り出し、変身を始める。
(つまり、僕はクラウザーさん変身セットを背負って高尾山に登っていたのだ。かなりの体積を占めて困った。)
リビングからは「アイツはやると言ったら絶対にやるぞ」「一度決めたら絶対やる」という声が聞こえてくる。
変身を終えて満を持してクラウザーさんがリビングに登場するが、まあなんというか、出オチ。
「もう2回やったから減価償却は済んだよね」なんて冷たい声まで出てくる始末。
クラウザーさんはそんな声にめげることなくおいしく料理をいただくのであった。

  
L: クラウザーさん、みやもり邸を襲撃! 結婚式以来の登場だが(→2009.9.20)、周囲はもうすでに冷めていた……。
C: おいしそうな料理を前にうれしそうなクラウザーさん。額の文字が「山」なのは「練習してなかったし、山登ったし」とのこと。
R: 物を食べようとすると口の中に金髪が入ってくるらしく、悪戦苦闘するクラウザーさん。それでもガンガン食べる。

ところでみやもり邸にはみやもりと奥様がそれぞれ集めたと思われるマンガが本棚いっぱいに並んでいたのだが、
どうも『ラブひな』の存在はみやもりにとってやはり恥ずかしいものだったらしく(→2008.8.19)、
奥様も知らないところに隠してあるとのこと(奥様はみやもり所有のヘンなビデオの在り処は把握していたのだが……)。
さらにみやもり所有の紺野あさ美写真集が奥様によってわれわれの前に差し出され、そのまま鑑賞会が始まる。
隠しごとがあるんだかないんだかよくわからん、なかなか愉快な夫婦生活を送っているようだ。

ちょうどテレビでは『Qさま!!』の漢字スペシャルをやっていて、クイズ研究会であるわれわれは当然夢中で見る。
僕が「オレはこの手の問題に日本一強いぜー!」と言ったらマサルがデカい口たたくなと噛み付いてきたので、
ちょっと本気出して解答者よりも速いテンポで答える。が、全問解けるわけもなく、マサルにそのたびいろいろ言われた。
(でもふつうの人よりは明らかに速かったし正解率も高かったよね? ああいう知能系の問題は好きなのだ。)

帰る際、テンガロンハット風の帽子にFREITAGの僕や、面白Tシャツにトゲトゲリュックのマサルを指し、
(マサルは「バスガス爆発」「生麦生米生卵」など早口言葉を記号にした柄に着替えた。背中は「新春シャンソンショー」。)
「あなたももっとオシャレにしなさいよ!」と奥様がみやもりを叱っていた。いや、オレらを指してオシャレって言われても……。
僕もマサルも気に入ったものを身につけているだけだけど、女性にはそういう一味違うところがオシャレに映るんですかね。

まあとにかく、朝から晩までみっちりと楽しい一日でした。次回もまたぜひ皆さんよろしく。


2010.5.2 (Sun.)

このゴールデンウィークにおける姉歯祭り(HQSの同期会)は、「としまえん」がテーマに決まった。
僕がたまたまテレビでとしまえんを扱った番組を見て、「としまえんにしよう」と提案したらそのまま通ったのだ。
この機会に合わせてリョーシさんが上京したのだが、残念なことに仕事やら何やらで、
としまえんに行けたのは僕とリョーシさんとニシマッキーの3名のみ。スケジュール合わせ上手だけの参加である。

まず僕とリョーシさんが池袋で合流し、豊島園駅に移動。僕がコンビニで買い込んだ食料を胃袋に収納し終えると、
ニシマッキーが合流。あらかじめリョーシさんが金券ショップで購入しておいた割引券を使って中に入る。
しかしながら僕は提案者のクセしてとしまえんの中に何があるかなどはまったく知らず、
中に入ってからジェットコースターだの何だのがあることを初めて知るという始末なのであった。
マサルめ、うまく逃げたな。

絶叫マシン大好きなニシマッキーがグイグイと先導してあれこれ乗ることに。
リョーシさんも「(のりもの1日券の)もとをとらなきゃ!」と積極的である。
対照的に僕は高所恐怖症の関係で絶叫マシンは苦手科目なので及び腰。
しかし来ちゃったからには体験しておかないともったいない、という考え方なので、
唇を尖らせたかわいくない表情でふたりの後にくっついて列に並ぶのであった。

まず最初は、フライングパイレーツ。まあ要するに船型の特大集団ブランコといった感じのアトラクションである。
振り子の運動エネルギーがゼロになり、位置エネルギーが最大になるあの一瞬の静止状態がたまらん、
とニシマッキーは言う。しかしそんなもん高所恐怖症にとってはたまったもんじゃないのだ。
しかも最悪なことに、この日は僕の健康状態がそれほどよくなかったのか、おでこのところがくすぐったい。
(僕はたまに「おでこムズムズ状態」になる。急激なスピードの変化があるとおでこがムズムズしだすのだ。
 こうなったらおでこに手を当てて押さえないと気分が悪くなる。昔から車酔いの前兆としてたまに出る。)
喜ぶニシマッキー&リョーシとはまったく逆に、のっけから揺られまくって僕はヘロヘロ。

次はコースター系だ!ということでサイクロンの列に並ぶ。GWということもあり人出はかなりのもの。
30分待ちだったのだが、気長に根気よく過ごしていざ乗り込む。そしたら激しいアップダウンが何度もあり、
こっちでもおでこムズムズ状態に大いに苦しめられたのであった。でもニシマッキーは物足りなさげ。
並んでいる間に目についたコークスクリューに並ぶ。時間は短いがグルグルとジャイロ回転が強烈そうだ。
最初のアップダウンでは苦しんだものの、短くスパッと終わるので「だいぶ紳士的だねえ」とほっと一息。

そのうちに12時になり遊園地名物であるヒーローショーの始まる時間となる。気になるので行ってみる3人。
本日は『ポケットモンスター』のショーということでどんな物体が出てくるのか期待して見てみたら、
ピカチュウもサトシもかなりデキがよくってびっくり。さらにピチューとニャースも出てきたのだが、
やっぱりデキがよくって3人とも感心するのであった。それにしても中の人は大変ですなあ。

  
L: としまえん入口。1926(大正15)年開園。豊島氏が治めた練馬城の跡地にあるそうだ。
C: 園内の様子。いかにも遊園地らしく賑わっている。青い構造体はサイクロンのルート。
R: ポケモンの着ぐるみはどれもクオリティが高かった。おともだちが大興奮なのであった。

行列が長すぎてフリュームライドはあきらめ。でもイーグルでグリングリンと振り回されたのでヨシとする。
最大で75°まで上がるというパイレーツ(フライングパイレーツと同じ系統だがやや小さめ)が強烈で、
ニシマッキーに言わせると運動エネルギーがなくなったときの静止状態が絶妙だという。
しかしまあ僕にとってはおでこムズムズ具合がMAXになるわけで、この時点でけっこうグロッキーだった。

そして最後に乗ったのがウェーブスインガー。簡単に言えばブランコをグルグル回すアトラクションで、
乗っている間は良かったのだが、減速してさあ終わるぞ、となったときにすさまじく酔っ払ってしまい、
僕はこれで完全にダウンしてしまった。昼メシのカレーを残してベンチで横になる有様なのだった。
結局、としまえんを出て隣の温泉入浴施設にリョーシさんとニシマッキーが入っている間もグロッキー。
脳みそが動いているから酔いが消えないんだ、ということで仮眠をとったら多少マシになった。

一度乗り物酔いを発症してしまうと、なかなかしつこくその状態は続く。
池袋に出て東武の旅行代理店で手続きをし、ハンズであれこれ見てまわったのだが、
その間も元どおりにスッキリすることはなかった。いやはやこれには参った。

その後は新宿に出てみやもりと合流し、4人で飲み屋に入る。
飲み放題にしたのだが、やたらと料理の値段が高い店で、みんな酒ばっかり飲んでいた。
僕は当然酒など飲めるはずもなく、ビールをちびちびとすするのが精一杯。

2時間経ったところでマサルとも合流。今度は安いことでおなじみの居酒屋チェーンに入る。
さすがにこの頃にはある程度回復してきたので、マサルと一緒にあれこれ注文して食いまくるのであった。
ちなみにマサルは「ショタコン(池波正太郎コンプレックス)」と称して断固として醤油にワサビを溶かそうとしない。
刺身などに直接ワサビを乗せてから軽く醤油をつけて食べるやり方を妙に徹底していたのだが、
調子に乗って大量のワサビを乗せては悶え、またワサビをたっぷり乗せては悶えの繰り返し。
久々のマサルの大暴れのおかげで一同腹がよじれまくってしっちゃかめっちゃかなのであった。

  
L: 「『男の作法』なんよ、僕ショタコン(池波正太郎コンプレックス)なんよ」と突如言い出してワサビを食い物に乗せる。
C: さもうまそうにいただくマサル。  R: ……が、少しずつ表情に変化が現れはじめる。

  
L: 苦しさをごまかして、いかにも食通っぽく首を傾げてみせる。  C: しかし2秒もしないうちに耐えられなくなり……
R: メガネを取って泣きながら全力で咳き込むマサルなのであった。以上、これを最初から延々と懲りずに繰り返す。

マサルは飲むたびに大爆発をするのだが、それにしても近年まれに見る大爆発というか大暴発ぶりだった。
いやー、キレてたなー。同席していなかった人は残念でした。録音しておけば面白かったなあ。


2010.5.1 (Sat.)

今日はテニス部の面倒をみて、それから以前ウチの学校の講師をやっててサッカー部のコーチだった方とメシ食って、
その後サッカー部の練習をやった。コーチだった方は僕の想像のつかないレベルのガチゴチの体育会系なのだが、
かえってそういう体育会系の人は文化系の人に対して優しいところがあって、面白くあれこれ話をしたのであった。
ちなみにその方は僕の校内アナウンスの声が美声でたまらないと会うたび本気で言ってくれて、
当方自分の声はまったく好きではないのでいえいえそれほどでもと言うのだが、
そんなに僕はマイクを通すといい声してるんですかね?

今日のサッカー部の練習には、この3月に卒業したOB2名が参加してくれた。
僕が中学生だったころには高校生になった人間が中学の部活に顔を出すなんてことは一切考えられなかったが、
地元で教育実習をしたときにもそういう場面はあったので、今は一般化したんだろう、と納得しておく。

さて、この日記で何度も書いているように、サッカー部は後輩がいなくて絶滅寸前という状況だったわけで、
僕が粘って今年は部員がいっぱいいる、という現状が、OB連中には思わず頬っぺたをつねりたくなる感じなのだ。
そんなわけで、OB現役双方とも、かなり緊張した面持ちで練習が始まった。
でも5分と経たないうちに打ち解けて、OB連中はニヤニヤニヤニヤ、まるで孫を見るおじいちゃんのような目をして、
優しい口調でアドバイスを出しているのであった。こいつら本当に後輩が欲しかったんだなあ、と実感。
いやー、サッカー部を存続させてよかったわーと、あらためて心の底から思ったことよ。


diary 2010.4.

diary 2010

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