diary 2010.7.

diary 2010.8.


2010.7.31 (Sat.)

午前中に部活が終わって、さあどうしようかと。
青春18きっぷもあるし、久しぶりに甲府でサッカーを見ようかと思い立つ。
今シーズンはまだ1試合も観ていない。ここで観ておかないと、次のチャンスがいつになるかわからないのだ。

新宿駅で昼メシを食ったら電車の接続が良くないタイミングでの移動になってしまった。
高尾で30分以上待たされたので、日記を書いて過ごす。そのまま大月行きの電車の中でもひたすら日記書き。
大月駅に着くと次の電車までやはり30分近くの時間が空いたので、大月市役所を撮影することにした。
ちょうど大月の街は阿波踊りがあるようで、駅前は車の往来が激しい。地味な大月がどう盛り上がるか、気になる。

それにしても空が暗い。時刻はまだ午後2時半だというのに、まるで日食にでもなったかってくらいの暗さなのだ。
新宿を出るときにはうっすらと雨が降っていたので、こりゃこっちでも降るかもしれないなあ、と思う。
でも思うだけで、そこはやはり市役所を撮りたいという欲望の方が強いから、街を西に歩いて市役所を目指す。
そうして街中にひょっこり現れた大月市役所は、完全に昭和30年代前半のスケール。
こんなものが21世紀になってもまだ残っているとは!というくらいに貴重な事例だ。
これはすごいなーとうなりつつデジカメのシャッターを切る。そうして角度を変えて撮影していく。が。
途中でデジカメを構える手に冷たい感触がし、足下のアスファルトには黒い斑点ができていく。
そして次の瞬間、文字どおりの豪雨、雨粒が叩く地面が真っ白に見えるほどの大雨が一気に来た。
市役所の向かいにあるしもた屋の軒先で茫然とそれを眺めることしかできなかった。ゲリラ豪雨に襲われたー!

まずいときにはまずいことが重なるもので、僕は家に折りたたみの傘を忘れてきたのであった。
雨の勢いはすさまじく、撥ね返ってはこっちの足下を少しずつ浸食してくる。
あぐらをかいて座り込んで雨がやむのを待つが、雨の勢いは衰えず、むしろ水が道路にあふれている始末。
日記を書くべくパソコンを取り出しても、万が一濡れたら大問題だし、どうすることもできない。
それで結局、1時間ほどその場で座ってボケーッと考えごとをして過ごすのであった。間抜けだ。実に間抜けだ。

  
L: 雨がやんでから再度撮影した大月市役所。こっちの方が明るくっていいや。これは東側の側面で、とても市役所に見えない。
C: 正面から見た大月市役所。阿波踊りの提灯がジャマである。しかしこれは完全に「町役場」のスケールだ。
R: 昭和30年代のスケール、そして建築様式。こんなのがまだしっかりと残っているんですなあ。

雨がほぼやんだところで再度市役所を撮影すると、来た道を戻って大月駅へ。
しばらくして甲府行きの普通列車が来たので乗り込む。なんだかんだで疲れたようで、よく寝た。

 雨上がりの大月駅。おかげで空もだいぶ明るくなった。

甲府に着くと近くのカフェで軽く日記を書いてからバスに乗り、小瀬に乗り込む。
そしたらバスに甲府市役所移転のお知らせが貼ってあって大いに驚く。でもすぐに、そうか無理もないよな、と思う。
新しい甲府市役所はどんな姿になるのだろうか。県庁所在地めぐりが終わりそうになったというのに、
これでまた調査し直さなくちゃいけないわけだが、それもまたよし。楽しみが増えたと思えばいいさ。

さて現在、甲府はJ2で2位につけている。夏休みでこの順位なら、けっこう混んでいるはずだ。
そう思って陸上競技場前に出たら、やっぱり人でいっぱい。2位ということもあってか、どこか活気がみなぎっている。
本日の相手は東京ヴェルディ。東京在住の僕がわざわざ甲府に来てヴェルディを迎え撃つというのも変な話だ。
でもまあ、甲府を応援することに決めちゃった以上、それは当たり前のことなのである。
ヴェルディは現在、非常に深刻な経営危機のただ中にいる。甲府も経営危機は過去に経験しており、
そういう経緯もあってか試合前のスタジアムではヴェルディへ向けての応援メッセージが読み上げられた。ええのう。

  
L: 試合前の小瀬陸上競技場。心なしか、2位ということもあって、去年よりも活気を感じる。
C: 久しぶりに眺める小瀬のピッチ。今日はいったいどんなドラマがここで展開されるのだろう。
R: 大人気のヴァンくんとフォーレちゃん。その安易さはもうちょっとなんとかなりませんかねえ……。

試合が始まると、まずは甲府が怒涛の攻撃を見せる。ヴェルディは防戦一方に追い詰められるが、
甲府は最後のところを決めきれない。とにかく圧倒的に攻めているのだが、まさにゴールが遠いのである。
そうこうしているうちに一瞬の隙を衝いてヴェルディが平本のヘディングで先制。
その鋭さによって守備が文字どおりに「こじ開けられて」しまった。そのままハーフタイム。
そして後半に入るが、甲府の迫力はより減ってしまった印象である。ハーフナー マイクの高さを頼りに、
どんどん前線にボールを送るのだが、精度を欠いて惜しいプレーの続出。でも迫力が足りない。
終盤になるとヴェルディの実にイヤらしい時間稼ぎを目の前で連発されて甲府サポの怒りが爆発。
確かに時間稼ぎは勝つために必要な技術かもしれないが、甲府は伝統的にそれを認めないクラブなのだ。
ボールを蹴るよりも倒れたりムダな動きをしたりする方が得意なクラブなど、僕は絶対に支持できない。
結局、0-1のままタイムアップ。攻めきることのできなかった甲府は、連続無敗記録が14試合でストップ。

 
L: 終盤にパワープレーで攻め込む甲府。だが、最後までゴールを割ることができなかった。
R: 久しぶりの敗北ということでサポーターは非常に優しく選手たちを励ました。

さっきも書いたが、僕が今シーズンの甲府のゲームを観るのはこれが初めてである。
感想は、とにかく、がっくりきた。それは、甲府が僕の知る甲府ではなくなっていたからだ。
とはいっても、4-3-3にこだわらなくなり、狭いエリアでショートパスをつながないことに腹を立てているのではない。
昔の甲府なら絶対に選択肢に入ってこなかったサッカーを、今の甲府は積極的に志向している。
それは、ハーフナー マイクという背の高いFWに向けてボールを放り込むというサッカーだ。
別にハーフナー個人は嫌いではない。でも、ハーフナーのそのやり方だけを頼りにする戦術は、醜くて嫌いだ。
まあつまりは、甲府のサッカーがごくふつうの味気ないサッカーになってしまっているのである。
ふつうに(J2では)高い能力の選手を並べたサッカーをやっている。ただそれだけなのだ。
どこか一時期の浦和に似た印象がした。個の力で守って、個の力で攻めきるだけのサッカー。
いい選手をそろえれば勝てるという理論だけで成り立っているようなサッカー。
オレはそんなものを見るために青春18きっぷを使ってわざわざ甲府まで来たわけじゃない!

J2で2位であろうと関係ない。僕は内田監督の更迭を要求する。
このサッカーは、J1に上がったとしても、近いうちにまたJ2に落ちる。
具体的に言えば、選手の組み合わせの運が悪かったとき、間違いなく何もできないままJ2に落ちる。
前回甲府がJ2に落ちたとき、日本中のかなり多くのサッカーファンから惜しまれたのは、
甲府しか思いついていなかったスタイルを堂々と提案し、それを貫きとおしたからだ。
今の甲府がJ1に上がっても、たぶん多くのサッカーファンはその姿を目にして落胆するだけだろう。
降格して惜しまれるチームと、昇格して落胆されるチーム。残念ながら今の甲府にはそれだけの差がある。
「J1にふさわしくないチーム」とは言わない。J1にふさわしいのはJ2で3位以内に入ったチームだからだ。
ただ、「日本の多くの人から応援されるのにふさわしいチーム」かどうかはわからない。僕は否定的に考える。
「山梨の多くの人から応援されるのにふさわしいチーム」で終わりたければ、どうぞお好きなように。


2010.7.30 (Fri.)

僕は生まれてこの方「栄養ドリンク」というものを飲んだことがないのだが、このたび初めてレッドブルを飲んだ。
というか飲まされた。この飲むに至る経緯もまたよくわからなくて、まあ何と言うのか、その場の勢いってやつだ。

今日は某所で某イベントがあり、それに職員一同参加するように要請されたので、しょうがないので参加した。
で、まあずっと会場で文庫本を読んでいたのだが、昼休みに出た帰り、何か飲み物を買おうということになったのだ。
湿っぽくって暑い日だったんだけど、僕は特に飲みたいものもなかったのでそのまま突っ立っていたら、
なぜか翼を授けると評判のレッドブルを手渡されたのだ。あの会場でギンギンで読書ですか僕ぅー!?
しょうがないので飲む。味としてはオロナミンCやデカビタCやリアルゴールド路線だった。
「バモラー!」などと叫ぶしょうもないボケを挟みつつ会場に戻るが、確かにまあ妙に汗をかいた気がする。
で、午後も読書に勤しんだ。ギンギンの集中力を発揮して、周りの皆さんは半ば呆れていましたとさ。


2010.7.29 (Thu.)

今日はサッカー部で他校と練習試合をする予定だったのだが、雨でお流れ。生徒もがっくりだが僕だって残念だ。
まあまた地道に練習を続けて来るべき日に備えるとしようではないの。

いいかげん、大阪で観た演劇のレヴューを書いておかないといけない(→2010.7.18)。
というわけで、sunday『サンプリングデイ』。sundayとしての演劇の公演は、まだ通算3回目らしい。
sundayについては前にも書いたが(→2007.8.29)、正直僕は「もうダメかな」と思っていたのである。
しかし第2回公演『ニューデリーの恋人たち』を観た潤平から「復活したと言っていいと思う」と情報が入り、
よしそれなら大阪まで行っちゃうぜ!ということで関西旅行を敢行したわけだ。だからこれが一番の目玉だった。

あらすじが非常に書きづらい。舞台上にはさまざまな日用品が置かれているが、かといってそれは部屋ではない。
舞台の床は黒地に白い線がいくつも引かれている。この空間が、あらゆる場所に変化するのだ。
5人の役者が日用品を使ったり動かしたりしているうちに、演劇は始まる。それはまず、体験談の形をとる。
スタンドマイクの前で語られた話が演じられていくのだが、複数の役者の複数の体験談が入り乱れる。
時には虚実ない交ぜ、役者が自分自身の身の上話として語る話すらある。
どれも同じある一日の話なのだが、それらは絡み合ったり並行したり時間軸を前後したりしていきながら、
個々人の日常の関係性が観客たちの目の前にゆっくり提示されていく、という仕組みの演劇だ。
100人ほどの登場人物を5人の役者が「サンプリング」しながら物語は展開していくというわけなのだ。

本来このスタイルは世界一団時代からの得意技で(『地球人大襲来』のログ参照 →2002.1.122002.1.14)、
そこに身体をベースにした想像力の刺激によって、見えないものを見させてしまうところが醍醐味だったのだが、
この『サンプリングデイ』についてはあくまで現実にある世界が舞台なので、身体性は強くない。
また、今回はストーリーの数にこだわっており、軸となるメインストーリーが用意されていない。
そういうわけで、僕の感想としては、「まだリハビリ中なのかなあ」といったところだ。
全盛期の圧倒的な実力の片鱗は確かに見せてくれたんだけど、まだまだこの程度で満足はできないのだ。

演劇とは演じられるものなので、本質的にフィクションだ。
(そういえば平田オリザの『東京ノート』(→2002.11.25)はリアルさを徹底的に追求していたが、
 それはやはりフィクションの足場でのこと。リアルを求めたからこそ、設定は大胆なフィクションとなっていた。)
『サンプリングデイ』では、あえてフィクションとノンフィクションの境界をブレさせることにより、
終演後に観客自身の置かれている日常を客観的に見つめさせ、各自に穏やかに今を肯定させる、
そういう共感を目指して編み上げられた物語だったと僕は解釈している。
なるほど、それはなかなかオトナな演劇だ。しかし僕はオトナゆえの「無邪気なエンタテインメント性」の欠如が、
やっぱり物足りなく思えてならないのだ。想像力の行使される範囲が、かつてより限定されているから。
演劇にとって現実とは天敵というか究極の溶媒なのだ。自由な想像は、いつも現実によって溶かされる。
(人は現実を忘れるために演劇を観た。それが「カタルシス」。現実はいつも人の思考を醒め/冷めさせてしまう。)
下手に現実を演劇の中に取り込もうとすると、どんな名人であろうと失敗してしまう(→2010.6.30)。
そういう難しさに真っ向からチャレンジし、結果的にはやっぱり想像力は硬直してしまった。
だが、まあ、そういう苦い経験(勝手に決めつけちゃっているが)を僕も味わえたのは、貴重な機会だった。
言ってみれば、制作サイドの経験を、僕がサンプリングして共有すること自体には成功したのである。
むしろそこに成功したことに、この演劇の意義はあったのだろう。

帰る際に、潤平が言っていた『ニューデリーの恋人たち』のDVDを買った。
応対してくれたのは、実際にさっきまで舞台に立っていた赤星さん。僕は彼こそ究極のイケメンだと思っている。
だからなんだかすごく緊張してしまったよ。役者さんがこういうめちゃくちゃ近い距離にいるってのは、
やはりこれもお互いの日常の交差ってことになるだろうけど、演劇(∋役者)は現実離れしていてほしい気もするし、
純粋にうれしいって気もするし、複雑である。演劇と現実の問題はまことに難しいものだ。


2010.7.28 (Wed.)

本日は日直なのである。ただひたすらに職員室で待機して何かあったときに備えるという仕事だ。
でもまあ、正直言ってヒマ! いや、何ごともないということほどありがたいことはないのだ。
だから日直でヒマというのは大変うれしいことなのだ。なんとなくエヴァンゲリオンでお馴染みの、
「神は天に在り、全て世はこともなし」という言葉を思い出しつつ過ごしていたことよ。


2010.7.27 (Tue.)

注文しておいたサッカー部のユニフォームが届いた。今頃ユニフォームを新調したのかよ、と怒られそうだが、
僕としては部員の数がハッキリ確定するのを待って部費を徴収させてもらってそれからのことだったので、
7月中に間に合ってよかったよかった、といったところである。いちおう熟慮の末のこの時期なんですよ。

ユニフォームの色については多数決で「青と白」に決定していた。
中には「赤の方がいい」というやつもいたのだが、いざ仕上がったユニフォームを目の前にすると、
すぐに納得してしまった。やっぱりユニフォームってのは特別なものなんだなあ、と思うのであった。
僕は中学のときにテニス部で、ユニフォームに対するこだわりの薄い生活だったので、ちょっとうらやましい。

ちなみに背番号の書体は、ひと昔前のアルゼンチンのスタイル。
野球にもよくある感じのシンプルな数字の両側を線で囲ったやつで、いかにも部活っぽい書体のものだ。
流行に左右されないやつとなると、どうしてもこれが一番だと思うのである。
うーん、やっぱりユニフォームっていいですなあ。なんかこう、引き締まる。


2010.7.26 (Mon.)

「男子はだまってなさいよ!」というコントユニットで『天才バカボン』をやるというので観に行った。
部活が終わって自転車で爆走して五反田に行き、そこから渋谷まで山手線に揺られる。
そして渋谷で京王井の頭線に乗り換えて下北沢で降りたのだが、もう下北沢が鬼のような迷路っぷりを発揮。
本多劇場はドコデスカー!?と絶叫したい気分を抑えて必死で走りまわり、なんとか入口を発見。
そしたらそれは裏口だったらしく、よくわからない店の並ぶ通路を抜けるとやっとこさ劇場に入ることができた。
全身これ汗まみれになって客席へ。席はお世辞にもいいとは言えない端っこの端っこ。少しガッカリ。

バカボンのパパ役が松尾スズキ、バカボンのママ役が釈由美子、バカボン役が荒川良々。
それ以外にキングオブコメディの今野浩喜や元ジョビジョバの坂田聡らが舞台に出たり入ったり。
松尾スズキはテキトーにバカボンのパパを再現している感じだが、さすがその脱力感がいい方に作用している。
荒川良々はテレビで見せるいつもどおりの演技で(もちろん坊主頭のままだ)、
まあこれは彼の持つ天性のバカボン的要素をそのまま出させればいいので違和感なく受け止められる。
そうなると初めての舞台という釈由美子にかかるプレッシャーが大きくなりそうなのだが、
賢明なことにバカボンのママの声を再現するところから逆算した演技を徹底していて、文句なし。
まあ全体的には「ぼくたちの天才バカボン」という公的な二次創作として一定のレベルを維持していたと思う。
きちんとバカバカしくって素直に面白かったですよ。原作からの逸脱も行儀よくこなしていたし。

いちばん感心したのは、本多劇場の観やすさ。端っこの端っこの席だったのに、問題なく楽しめた。
まあ内容が会社帰りの息抜きには最適なバカバカしいもので、細部までこだわって観なくてよかった、
という面は少なからずあったが、それにしても遠くの舞台が快適に見えたのはうれしかった。
さすがは演劇の街・下北沢を代表する劇場である。たどり着くのが難しいのが唯一の難点ですな。


2010.7.25 (Sun.)

しかしまあ、自分で決めたことではあるのだが、土日も部活じゃ休みって感じがしねーぜオイ。
もちろん一日ぜんぶが部活でつぶれるわけではなく、確実に半日は自由があるのだが、
それにしてもやはり、これはオーヴァーワークだと思う。しっかり息抜きせんとなあ。


2010.7.24 (Sat.)

僕には細かいことがよくわからないが、僕の勤めている区では地区でそれぞれ祭りが開催されるようだ。
だいたいその地区の学校を借りてやるようだが、そこにウチの生徒がボランティアで参加することになっており、
僕も顔を出しに行く。で、生徒たちは地区の保護者の指示を聞きながら焼きそばをつくったのだが、
その間に僕は何をしていたのかというと、遊びに来た卒業生とダベったり、生徒とダベったり。
1秒たりとも人の役に立つようなことをしませんでした。なんだか申し訳ない気もするが、それでいいのだ。
だって生徒よりも先生が必死になってやっちゃあ意味がないでしょう。生徒が主体的にやんないと。
まあそんなことを主張するまでもなく、生徒たちは自分からものすごくよくがんばっていてすばらしかった。
生徒の動きが悪けりゃ「こうやるんだよ!」とこっちが動いちゃうわけだけど、その要素がゼロだったんだよね。
とても充実した時間だったと思いますよ。はい。


2010.7.23 (Fri.)

本日は学年の納め会が行われたのであった。いつも以上に和やかな雰囲気で、緊張せずに楽しめた。
学年の先生方で旅行に行きましょうという話が出て、どうせならぜひ海外(近場の)に行こう!となる。
どうも皆さん僕が通訳として活躍することを期待されているようなのだが、さすがに過度な期待をされると困る。
まあでも、これは実現したら面白そうだ。いい気分で旅行に行けるようにがんばりましょうなのである。


2010.7.22 (Thu.)

今日の部活は、特別だった。何が特別だったのかは具体的には表現しづらい。でも本当に特別なサッカーだった。

夕方16時から校庭に出て、いつものとおりにアップして練習メニューをこなしていく。最後にはゲームをやる。
今日は参加した生徒が偶数だったので僕はゲームに加わらず、外から指示を出していった。
ゆっくりと空が暗くなっていくのと反比例して、部員たちの集中力は上がっていく。研ぎ澄まされた集中力だった。
僕の指示だけでなく、部員たちの間でも積極的に声が出てプレーが修正され、それが的確に作用する。
空いているスペースも十分に利用して、意図のこもったパスが正確につながり、ファインプレーが続出する。
どちらか一方のチームが点を取りまくるわけではなく、両方のチームがレベルの高いプレーで競り合っている。
オレたちのサッカー部は、かくも美しきサッカーを体現できる部活だったのか、と見とれてしまった。

時間が来たのでゲームを終了し、片づけを済ませて集まる。
やはり部員たちもみな、今日の部活がどれだけ特別だったかわかっているようだった。充実感がみなぎっている。
何をどうすれば今日のような高い集中力の部活ができるようになるのかは、残念ながらまだわからない。
しかしとにかくこれをどんどん再現できるようにしないといけない、と強く思った。


2010.7.21 (Wed.)

本日より夏休みに突入したので、同時に補習もスタートなのである。
土日を挟んで5日間にわたって勉強が苦手な生徒のために特別メニューを実施するのだ。
ちなみに僕は今回、be動詞と一般動詞の区別を徹底的に鍛えることにしたのだが、
参加する生徒が予定していたよりも少なくてがっくり。この姿勢、どうにかならんもんかねえ。

午後にはサッカー部でも補習がスタート。真昼間の暑い時間帯はクーラーの効いている学校で勉強なのである。
これは去年、保護者に頼まれてやったらなかなかよかったので、年度当初からサッカー部の予定に入れたのだ。
偉いのは、みんな騒がず集中を切らさずに持ってきた課題を自分たちなりに黙々とこなしているところで、
こいつら大したもんだとちょっと感動したのであった。おかげでほかの先生方からも非常に評判がいい。
学校全体でこういう雰囲気をもっとつくっていけたらいいよなあ、と思う。
まあそれを狙ってサッカー部を動かしているんだけどね、いちおうは。


2010.7.20 (Tue.)

終業式。部活があるので校内に活気が残っているところはいつもと変わらないのだが、やはりどこか穏やか。
午後はいつもとは比べ物にならないほどゆったりとした気分で過ごしたのであった。いつもこうならいいのに。


2010.7.19 (Mon.)

朝早く新宿に戻ってくると、電車で家に帰り、軽く支度を整えてから学校へ。
海の日なので授業はないのだが、部活はあるのだ。8時っから運動かよーと思いつつ着替えて校庭に出る。
しかし、やはり旅行はかなり強烈だったようで、日ごろ夏バテ気味だったこともあり、すぐに動けなくなる。
そしたら運のいいことにOB連中が大挙して押し寄せてきたので、「よきにはからえ」モードに突入。
去年の部員9人中7人も来てくれたので、ふだんよりもずいぶんと練習に厚みのある感じがする。
現役の連中も楽しそうだしOBの連中も楽しそうだし、「あーこういうのが小さな幸せってやつなんだねー」と思う。
いつか振り返ってみたときに、この時間はきっとかけがえのない素敵なものとなっているのだろう。
こういう時間が今後も増えていくといいですなあ、と妙に達観しつつ練習に参加するのであった。

さて夜は祭りのパトロール。去年はアレがアレしてポリスの強さを実感したりなんかしたこともあったのだが、
まあそうそう毎回トラブル続きって祭りでもないし、皆さん注意深くやってくれているので、何ごともなく終了。
平和なパトロールであれば、見慣れた顔にも懐かしい顔にも会えるので、それほど悪いもんでもないのだ。


2010.7.18 (Sun.)

朝起きるとさっさと支度を整えてチェックアウト。まだそれほどひと気のない三宮を歩いて駅まで行く。
大阪へはJRより安いから、阪急で行くことにした。ホームでしばらく待って、電車に乗り込むとすぐに爆睡。
気がつけば梅田に着くところだったので、気合を入れて降りる。コインロッカーに荷物を預けて、
一日乗車券を買ってから地下鉄に乗り込む。今日は昨日よりも長い一日になる。

なぜ早朝に動きだしたのかというと理由は簡単で、あまり遅い時間には行きたくない場所を訪れるからだ。
それはズバリ、あいりん地区であり、飛田新地である。両者にある「気になる建物」の写真を撮りたかったのだ。
わざわざ写真に撮らなくても、と思われるだろうけど、建築的にも都市社会学的にもどうしても気になるので、
ちょっとがんばって撮影することにしたのである。撮影したうえで、いずれしっかり考えてみたいと思うのだ。

地下鉄・動物園前駅で降りてから、JRの新今宮駅方面へ少し歩く。
阪堺の踏切を越えると、道の南側はもうすっかりドヤ街の雰囲気に染まっている。
僕はその印象を一言で、「カサついている」と表現することがよくある。自分でもきちんと考えたことがないのだが、
おそらく街並みがほとんどケアされていない状態が、カサついた肌の皮膚感覚と共通しているからだと思う。
こうして考えると、なんだかんだで僕らが当たり前に思っているふつうの住宅街や商店街は、
かなりの頻度で掃除されているということに気がつく。街の住人の細やかな善意が環境をつくっているのだ。

あいりん地区の大通り側は簡易宿泊所のほかに工事現場向けの衣料品・作業服を扱う店などが目立っている。
一歩中へと入ってみる。自転車がやたらめったら駐輪してあり、歩道と車道の間を明確に区切っている。
労働者のみなさんの朝は早く、ほかの街ならまずひと気のないはずの時間帯に訪れているにもかかわらず、
実に多くの人々が歩きや自転車で行き来している。もちろん、全員が男性である。
年齢層はおじさんというよりはおじいさん。やや緊張しながら南へと下っていくが、人の姿は途切れない。
三角公園(萩之茶屋南公園)の辺りなんか、7時前だというのになかなかの賑わいだった。
その公園を過ぎてちょっと行くと、突然街並みが変化する。カサついた印象が急に弱まり、
完全な住宅地となるのだ。簡易宿泊所はまったくなくなり、主を持つ家がずっと続くようになる。

  
L: 新今宮駅前の、あいりん労働公共職業安定所。ピロティがものすごく大胆なモダンスタイル建築だ。
C: あいりん地区の通りのひとつ。自転車と簡易宿泊所だらけなのだが、これだとちょっとわかりづらい。
R: 要塞に例えられることもある西成警察署。足下の柵や格子が周囲と比べて異様な印象を加速する。

大通りに出て、ようやく足を止めて深呼吸。予想していたより人が多く、緊張して疲れた。
そのまま高速道路の高架を目印にして、東へ歩いていく。すでに日差しは鋭く、汗が吹き出る。
次の目的地は飛田新地。左手を意識しながら歩いていくと、合間合間に独特の街並みが見えてくる。
この場所が本格的に騒がしくなるのは夜なので、今はほぼ無人という非常に撮影しやすい状態。
やや緊張しながらもその中へと入っていく。整然としているので、かえって軽く迷う。
目的の建物は一帯の南東にあるはずで、区画と朝日から方向を割り出し、歩いていく。
すると目の前に見事な和風建築が現れる。鯛よし百番という名の料亭で、かつては遊郭だった。

  
L: 鯛よし百番。大正中期に遊郭として建てられ、国の登録有形文化財にもなっている。とにかく圧倒的な存在感だ。
C: コンクリートのモダン部分との接続はこんな感じ。遊郭らしく細部までとても凝っているのだ。
R: 裏手のモダン部分を撮影してみた。表とは対照的に目立たないようにできているが、やはり味があるのだ。

 東側はけっこう大胆に切り取っているのであった。こりゃびっくり。

鯛よし百番は潤平に言わせると「ものすごく機能的」なんだそうだが、建築が専門でない僕に、
ファサードからそこまでは読み取れない。ただその有無を言わせぬ迫力の前にうなることぐらいしかできない。
中もかなりすばらしいらしいので、いつか中の様子をじっくり味わう機会を持ちたいものだ。

撮影を終えると、デジカメを隠し持って飛田新地の中を歩きまわってみる。
さすがにこの時間だとどこも開いていないし、プラプラと無目的に歩いていても怒られることもない。
大半はこの街本来の目的を果たすためだけにつくられたファサードをしているが、
それでもやはり和風のものが多く、「遊郭」という言葉の雰囲気をしっかりと残している。
しかし一方で、ものすごくモダンで見事な事例もある。色つきのガラス窓が円くとられていたり、
角地である立地を生かして王冠を思わせる工夫を入れてみたり、とにかく美しい。
現役の店舗なので日記には出さないでおくが、この名建築が今後も正当に評価されることを望む。

ひととおり歩いて満足すると、北側の新開筋商店街を通って右折し、動物園駅まで戻る。
以前にも大阪は「清を不自然だと見抜いている街」と書いたが(→2004.8.10)、訪れるたびその思いは強くなる。
きれいな面だけでは済まされない、人間の本性が街という形で現れているのだ。

 新開筋商店街。この「異様さ」もまた人間の本質なのだ。

大阪環状線のガード下を抜けて、そのまま新世界に入る。しかしまだ朝早いため、どの串カツ屋もやっていない。
とにかく腹が減ったので、近所の喫茶店に入ってモーニングセットをいただくことにした。
そういうのってたいてい馴染みの客ばかりだろうから、なかなか初心者には難しいかなと思ったが、
まったく自然に注文して食事できたのであった。昨日買った北海道のガイドブックを熟読して過ごす。

9時に近くなったので、通天閣へ行く。さすがに開業時間なら猛烈な行列ができることもあるまい(→2009.11.22)。
読みは当たったのだが、通天閣の下には20人くらいが開業を待っていた。なんとなく行列ができはじめるところで、
僕も要領よくその中に並ぶ。やがてエレベーターが動き出し、係員の指示で第1陣が乗り込む。僕はその次だ。
通天閣の内部はなかなか複雑で、まずは断面が円形のエレベーターで2階に上がるのである。
そこから今度は外の見えるエレベーターで一気に5階の展望台まで行くのだ。ちなみに展望台は5階と4階で、
帰りは4階からエレベーターに乗り込む。だから厳密に言うと、通天閣は3階と4階の間が猛烈に空いており、
まるで立ち上がったダックスフントのような階数をしているのである。

現在の通天閣は2代目になる。東京タワーと同じ内藤多仲の設計で、1956年に完成した。
塔の高さはちょうど100m。初代の通天閣はエッフェル塔と凱旋門を模して1912(明治45)年に建設されたが、
1943年に火災が発生して橋脚を傷めたことをきっかけに、軍の資材として供出されてしまったのである。
そんな悲しい過去を乗り越えて再建された通天閣は、やはり大阪の人には特別な存在なんだろうなと思う。

 
L: 朝の新世界から眺める通天閣。  R: 5階に鎮座するビリケン。

エレベーターに乗って5階の展望台に着く。そこに広がっているのは、東京に次ぐ都会の見事な姿。
まずは東を眺めると、足下に緑の塊が見える。天王寺動物園と大阪市美術館だ。
天王寺駅周辺のビルとの対比が実にすばらしい。南にはさっき歩いた西成の街がある。
地上を歩くとカサカサしている雰囲気も、空から眺めるとすっかり消えてまったくふつうの街と変わらない。
休日の朝の大阪を思う存分に味わうことができた。通天閣に猛烈な行列ができるのも無理もない。これはいい!

  
L: 天王寺動物園と、天王寺駅・阿倍野方面のビル。大阪らしいごちゃごちゃしたエネルギーが伝わってくるようだ。
C: 南には西成の街。こうして見ると、何ひとつほかの街と変わらない。  R: 北を眺める。やはり御堂筋の辺りは都会。

展望台を何周かして大阪をしっかり堪能すると、エレベーターで2階に戻る。2階は案内表示が複雑で、迷った。
どうにか地上に出ると、そのまま地下鉄に乗って大阪城を目指すことにする。今日はバリバリ歩くのだ。
さて、大阪城の最寄駅ってのもわかりづらい。今回はけっこううっかりしていて、
いつも関西旅行では持ち歩いているマップを家に忘れてきてしまったのだ。だから勘で歩いている。
JRだと大阪城公園という駅が大阪環状線にあるからそこで降りればよさそうだが、
地下鉄だとどうすればいいのかよくわからない。とりあえず、直感で森ノ宮駅で降りることにした。

森ノ宮駅の改札を抜けると大阪城はこちらの出口、と案内があった。どうやら当たりのようだ。
地上に出ると、すぐに大阪城公園の入口が現れる。直接大阪城に正面から乗り込むよりも、
軽く周囲の公園を散歩してから城に行きたかったので、のんびりゆっくり歩いていく。
途中で大阪城ホールの脇を通る。公園内の道からだと石垣があるだけで、建物の全容がよくわからない。
景観に配慮してそういうふうにつくられているのだが、それはそれでちょっと物足りない。
あまりに天気がよくって公園を一周するほどの気力がなくなったので、左手に天守が見えたところで堀を渡る。

  
L: 大阪城公園。木々が多く植わっており、ジョギングする人が非常にたくさん。木陰では楽器の練習をする人も。
C: 大阪城は門がいくつか残っており、重要文化財の指定を受けている。といっても、すべて徳川家の手による門だ。
R: 大阪城を搦手である北東側から眺める。鉄筋コンクリートの再建天守も、こうして見ると立派なものだ。

僕も勘違いしていたのだが、現在の大阪城の構造は徳川家によってつくられたものである。
よく考えれば大坂夏の陣で落城しているので当たり前だが、その際に大坂城はかなりキツく破壊されたようで、
今の大阪城はその後に徳川家が再構築したものなのである。豊臣秀吉ゆかりのものは、すべて土の下だ。
(もともとここは戦国時代に石山本願寺があったところである。そこに秀吉が大坂城を建て、壊され、再建された。
 ちなみに江戸時代の大阪城は幕府の直轄となっており、城主は将軍で城代が城を預かる形になっていた。)
現在の再建天守は1931年に市民の寄付により竣工したもので、なんでもわずか半年でそのお金は集まったそうだ。
鉄筋コンクリートで中にはエレベーターすらあるのでありがたみを感じられないが、国の登録有形文化財である。
再建天守もしっかりと建築物としての価値を認められる時代に入ってきたということなのだ。

チケットを買って中に入ると博物館的な展示の見学もそこそこに、ハイペースで最上階まで上っていく。
エレベーターを使わず階段で行ったのは、行列に並ぶのがイヤだったのと意地の問題である。
最上階の展望スペースは上下に網が張られているものの、特別見づらいということはない。
隙間からデジカメを構えつつ、大阪らしいさまざまな建物があちこちにあるのを眺めるのであった。

  
L: 大阪城から見た大阪府庁。白くて真四角。たぶん大阪府庁を最もしっかりと味わえるのは、ここから眺めた場合だろう。
C: 大阪城ホール。大坂城築城400年記念で1983年に竣工した多目的アリーナ。正式名称は「大阪城国際文化スポーツホール」だと。
R: 正面から眺めた大阪城。そういえば、中に入ったのは高校時代にクラス旅行(飯田高校には修学旅行がない)で来て以来か。

そしてもうひとつ、大阪城の本丸跡には名物建築が残っているのである。これを無視するわけにはいかない。
それは、旧大阪市立博物館である。もともと旧陸軍の第4師団司令部として建てられたのだが、これが健在なのだ。
竣工したのは1931年なので実は隣の大阪城天守と一緒なのだが、こちらの方が明らかにオンボロである。
現役で使用されているわけではないので無理もないが、しかしこれをこのままにしておくのはあまりにもったいない。
2001年に大阪歴史博物館の開館にともなって閉館してから10年近く経った。早く次の利用を始めてほしいと思う。

  
L: 旧大阪市立博物館(旧陸軍第4師団司令部)。軍がつくっただけに、めちゃくちゃ丈夫らしい。
C: 正面から眺める。大阪城は記念撮影する人でいっぱいだが、こっちは誰もが無視。実にさみしい。
R: 重要文化財の櫓。なんだかんだで大阪城には貴重な文化財が多く残っているのである。

ところで大阪城本丸跡の入口では、中国人が中国語の大音声を流し、中国語のビラだか新聞を配っている。
中国政府に反対する運動だかなんだかよくわからないけど、この行為はかなり問題があるのではないか。
大阪城は中国人観光客が多く訪れる場所ということで、ここでそういう運動をやっているのかもしれないが、
日本の貴重な文化財がある場所でやるのは、こちらの国に対して完全に敬意を欠いている行為であると思う。
これは日本としては、早急に取り締まらないと恥ずかしい。やりたいんなら自分の国の観光地でおやんなさいよ。

気を取り直して本丸跡を出ると、そのまま豐國神社に直行。まあせっかくだから、お参りしないとね。
かつては中之島にあったというが、1961年に現在地に移転。大きな豊臣秀吉像が非常に目立っている。

 豐國神社本殿。コンクリート製です。

大阪城に来たということは、外堀を挟んですぐ西に大阪府庁があるということだ。当然、寄ってみる。
大阪府庁は以前にも訪れて写真も撮っているのだが(→2007.2.12)、あれじゃ消化不良ということで、
あらためていろいろ撮っちゃうのである。建物じたいが大きいので苦戦しつつもシャッターを切っていく。

  
L: 大阪府庁を交差点の斜向かいから撮影してみた。  C: もうちょっと近づいて撮影してみた。
R: 正面から撮影。すぐ手前が客待ちタクシーの溜まり場になっているのだが、そこから強引に撮影。なかなかである。

  
L: もっと近づいて正面から見たところ。  C: 南側の側面。四角いなあ。  R: こちらは別館。やっぱりあらためて撮影。

大阪城は高校時代以来の訪問だった。それならもうひとつ、高校時代以来の訪問をしてみよう。
地下鉄に乗ると、そのまままっすぐ西へと向かう。目的地は非常に有名な水族館、海遊館である。
思えば高校時代のクラス旅行はずいぶんとムチャな旅行だった。前述のように飯田高校には修学旅行がなく、
各クラス単位で勝手に行き先を決めることのできるクラス旅行が代わりにあったのだ。
(修学旅行は戦時中になくなり、以来そのまま再開されていないのである。こんなひどい話があるかってんだ。)
ところがこれがケチくさいことに、クラス旅行は1泊2日なのである。高校生なのにそりゃないよ、と私は言いたい。
で、当時の僕のクラスでは「こうなりゃ意地だ。限界に挑戦するのだ!」ということで、大いに意地を張り、
1泊2日で旅を満喫するには物理的限界である大阪を行き先に選び、さまざまな観光地を強行軍でまわったのである。
(こうやって書くと今の僕も当時とぜんぜん変わっていない感じだ。でも当時はクラス全員の総意だったんだよなあ。)
そのときの目的地のひとつが海遊館。水族館などというハイカラな施設に縁遠かった当時の僕は、かなり楽しかった。
そんなわけで、じゃあもう一回行ってみるかな、という気になったのだ。

地下鉄は西へと進んでいくと、やがて地上に出る。そうしてしばらく行くと、大阪港駅に到着。
改札を抜けたら案内板が出ていた。「海遊館は現在、入場40分待ちです」ギャー!
よく考えてみりゃ、そりゃそうだ。夏休み直前(もしくは最初)の週末なのである。ただで済むはずがない。
ここまでは午前中だったので比較的スイスイいったが、気がつけばもうすぐ正午になろうかという時間なのだ。
それでも一縷の望みで天保山ハーバービレッジ方面へと早歩き。観覧車で曲がって商業施設の外側を行く。
そうして現れた海遊館の建物はかなり大きい。おおーこりゃ見事だ、ととりあえずデジカメのシャッターを切る。
さらに進んでいってさあ勝負!と、海遊館と向き合う。手前には黄色いテント。そして行列。
行列の行く先を見つめると、目の前のテントはずっと右手に続いていて、階段を上っていって、
上から見たら大きな「コ」の字を描くようにしてようやく入口。「現在50分待ちです!」と拡声器の声。
せっかく大阪に来て海遊館に入らないのももったいないが、ここで1時間以上ボケッとするのはもっともったいない。
大阪湾をしばらく眺めて気を紛らわすと、おとなしく大阪港駅まで引き返すのであった。こりゃ無理だわ。

 
L: 海遊館。やっぱりすさまじい行列ができていた……。ここにひとりで並ぶのなんて無理だ。
R: ボートレースのイベントをやっていた。そこに大阪港内を周遊する帆船型観光船・サンタマリアが登場の図。

気を取り直して次の目的地へ。大阪湾まで来ているのだから、僕には行かなくてはならない場所がある。
大阪府知事が橋下徹になってよくニュースの話題に登場するようになった問題がある。
それは、大阪府庁舎の移転問題だ。もともと現在の大阪府庁舎は古くて狭くてあちこちに分散しており、
実は新庁舎を建設する計画がかなりのところまで進んでいたのだ。設計者は黒川紀章のはずだった。
しかしあまりの財政難により実行できない状態が長らく続いていた状況なのである。
そして橋下知事は、ひとつの提案をする。それは大阪府庁を大阪湾にあるWTCビルに移転させるというものだ。
もともとオフィスビルとして期待されていたWTCは、できあがったのはいいが恐ろしくスッカスカな状態で、
こりゃもう府が入るしかねえぜ、というわけである。確かに案としては実に合理的だと思う。
しかしとにかく交通の便が悪い。大阪の中心部から離れた、開発がまだまだ立ち遅れている埋立地にあるのだ。
なるべくならそんなところに行きたくないよ、ということで議会は否決。膠着状態となっていたのだ。
それでこのたび、WTCをあくまで第二庁舎として利用することで話がついたのである。
将来的にはそのまま本庁舎となる可能性が少し高くなった。そりゃもう、行くしかないじゃないの。

WTCがあるのは、トレードセンター前駅。地下鉄からニュートラムに乗り換えた先である。
埋立地をニュートラムで行くというのは、実にゆりかもめ的である。まあつまり、そういう場所なのだ。
それにしても乗客に若い女性が多い。それもみんな、茶髪のねーちゃんばっかりなのである。
これはいったいどうしたことか。彼女たち向けの観光地らしい場所なんてこの先ないはずなのに。
僕は乗客たちの雰囲気を観察してあれこれ推理しちゃう人間なので、この事態からさまざまな可能性を考える。
しかしなかなかきっちりした答えが出ない。そうこうしているうちに目的の駅に到着したので降りようとすると、
若いねーちゃんたちもみんな降りるのな! うーん、みんなそんなに大阪府庁舎の行く末が気になっているのか、
と思ったら、答えは「隣のATCでネイリストの認定試験がある」なのであった。うわーすげー納得!

気を取り直して(さっきから気を取り直してばっか)、WTCの撮影に入る……その前に、
まずは小手調べということで、いかにも埋立地な風景や、やたら敷地面積のあるATCを撮ってみる。
ATCとは「アジア太平洋トレードセンター」のこと。大型展示場やアウトレットモール、オフィスなどの複合施設だ。
その名のとおり本来は貿易目的で大阪市により建設されたのだが、高い賃料と交通の便の悪さで撤退が相次ぎ、
今はイベントやアウトレットモールで人が来ることが多くなっているようだ。まあこりゃ、無理もない話だ。

  
L: WTCのふもとの歩道。極めて埋立地的な光景である。埋立地についての過去ログはこちらを参照(→2008.7.28)。
C: ATCのITM棟。  R: ATCのO's棟。こちらではオープンスペースを使って何やら音楽イベントをやっていた。

いよいよWTCの撮影に取り掛かる。知っていたが、あらためて見ると実に背が高い。広角の視野にギリギリ収まる。
東京都庁もケタはずれのスケールだが、WTCは厚みがない分、背の高さが強調されているように思う。
また、都庁と違って周囲に背の高いビルが乱立しているわけでもない。その分やはり、高さを感じる。

  
L: 北西側から見上げたWTC。  C: 南西側から見上げたWTC。とにかく背が高いのである(高さ256.0m)。
R: WTCの裏側。周囲は埋立地らしく空き地だらけで、まだまだ開発途上。そんな場所にそびえ立つ。

そもそもWTCについては、その構想じたいからきちんと書いておいた方がいいだろう。
かつては「大阪ワールドトレードセンタービルディング」が正式な名前で、通称は「コスモタワー」。
しかしこの6月より正式名称が「大阪府咲州(さきしま)庁舎」となった。つまり府の第二庁舎なのである。
これは大阪府がWTCを購入して知事室と議会以外のすべての部局を移転の対象とする方針によるものだ。
さてWTCと聞けば、2001年9月11日のテロで崩壊したニューヨークのミノル=ヤマサキ設計のビルを想像するはず。
ところが実は「ワールド・トレード・センター」という名のビルは世界各地にあり、みんなで連合をつくっているのだ。
なるほど言われてみれば、確かに東京にも「世界貿易センタービル」が浜松町にある。
大阪の場合は大阪市港湾局が中心となり、第三セクター方式で建設した。竣工したのは1995年、
設計は日建設計とマンシーニ・ダッフィ・アソシエイツによる。しかし交通の便の悪さとバブル崩壊により、
できあがったWTCはスッカスカ。しょうがないので大阪市の行政部門をいくつも移転させてムリヤリ使っていた。
そこで庁舎を新規に建設できない府が購入して大阪府庁舎にしちゃえ!という話が出ていたわけである。

 
L: エントランスのホールというかアトリウム。  R: ちょっと上がって入口側を振り返ってみたところ。

周囲の撮影を終えたので、さっそく中へと入る。正式に庁舎となったせいなのかもともとなのか、
あんまりひと気がない。WTCじたいは本来オフィスビルなので、まあこれはもともとこうなんだろう、きっと。
最上階の55階は展望台になっているので行ってみる。料金を見たら800円ということで、これはなかなか。
庁舎になったんならタダでサービスしやがれチクショーと悪態をつきつつチケットを買い、奥へと進んでいく。
そしたら自動改札機のところでおねーさんがエレベーターに案内してくれた。ヒマでしょうがないんだろうな、と思う。
僕一人しか客がいないのに、なぜか猛烈な行列だったエンパイア・ステートビルのことを思い出した(→2008.5.8)。
そんなに雰囲気が似ていたというわけでもないのだが、なんでだろう。

エレベーターは53階まで上り、そこからはエスカレーターに乗り換える。
このエスカレーターがかなりSFチックな雰囲気を漂わせているくらいに長く、妙に面白かった。
乗っている客が僕だけだったのも、その印象を加速していたんだと思う。
そしてようやく55階に出る。すると意外にもそこそこ客がいた。これにはちょっと驚いた。
比較的新しい建物なので、展望台はなかなか小ぎれいだ。今朝は通天閣から大阪の街を眺めた。
通天閣は当然、大阪のど真ん中にあるのでどっちを向いても面白かった。でもWTCは大阪湾の埋立地にあるので、
市街地からは距離がある。その分、知っているランドマークを探す楽しみが減ってしまっているのが残念だ。
景色としては悪くないのだが、いかんせんその景色を身近に感じる要素が少ないので、どこか散漫としているのだ。

  
L: すぐ南側を眺めたところ。  C: こちらは北西。なにわの海の時空館のドームがなかなか強烈なインパクトだ。
R: 東側、大阪の市街地を眺める。左にある観覧車は天保山。海遊館もよく見える。しかしそれ以外はよくわからない。

将来、正式に大阪府庁舎になる可能性のある建物をしっかり押さえたので満足してニュートラムに乗る。
終点の住之江公園駅で再び地下鉄に乗り換えると、いよいよミナミこと難波に突撃するのだ。
前回はここで雨が降ってハイ終了となったわけだが(→2009.11.22)、その借りを返すときが来たのである。
地上に出ると、さすがにすごい人の波だ。さすが休日のミナミ、足の踏み場もないほどの混雑ぶりだ。
するすると合間を縫って道頓堀を目指す。やっぱりここに来なけりゃ大阪に来たって気がしない。
道頓堀は架かっている戎橋とともに大改修が行われ、2007年に工事が完了。ずいぶん雰囲気が変わったそうだ。
それをこの目で確かめないことには気が済まないのだ。人混みを抜けると、まずはその戎橋を渡ってみる。
そしてスロープと階段を下りて、道頓堀のたもとまで行ってみる。すごい、まったく前と違っている。

  
L: 戎橋。グリコの看板も雪印も健在だが、橋じたいはものすごくガッチリとして丈夫な感じになった。
C: 改修が終わった道頓堀。「とんぼりリバーウォーク」という遊歩道がつくられてずいぶんオシャレになったもんだ。
R: とんぼりリバーウォークを歩いてみる。ふつうにいいなコレ。

おおーこれが新しい道頓堀かーと感動しながら歩いていたら声をかけられる。
大阪市の職員がこの遊歩道の活用法についてアンケートをとっているのだ。正直に答える僕なのであった。
そしたら粗品ってことで小さいティッシュ箱やらウェットティッシュやらをくれた。かさばるのだが、もらっておく。
しかしそれにしても道頓堀はずいぶん変わった。遊覧船がわりと盛んに行き来しているし、
遊歩道に面して店の入口ができているし、かなり可能性を感じさせる場所になった。
こないだのW杯・デンマーク戦後には飛び込んだ人もいたようだが、そういう本来の機能(?)を残しつつ、
新しい要素をプラスしたポジティヴさは、歩いていて本当に気持ちいい。これはいいなあ、と何度もつぶやいた。

  
L: 戎橋の東側に架かる太左衛門橋。木造の欄干を付け足していて、これがまたいい雰囲気を醸しだしている。
C: 太左衛門橋。ちょっとの工夫が大きなプラスを生む。  R: 難波の人混み。まさに大阪って感じだ!

難波の人混みの中に戻り、しばらくぐるぐる歩いて過ごす。まあ、無意味と言えば無意味な行為だが、
こうしてただ歩いて息をしているだけでも、大阪独特の活気が僕の中でうごめきだす。
その感覚を味わうことこそ、僕にとって「大阪を訪れる意味」そのものなのだ。だから無意味ではないのだ。

そもそもなぜこの休みに大阪を訪れようと思ったのかというと、それは演劇を観るためである。
かつて僕は「世界一団」の演劇を毎回欠かさず観ていたのだが、世界一団は第一期の活動を終了してしまい、
大阪を拠点にしたまま「sunday」という名で規模をやや縮小してあらためてがんばっているのである。
sundayになった後の作品もDVDでチェックしたこともあるが(→2007.8.29)、正直そのときは期待はずれで、
それでしばらく活動を追っかけるのをやめてしまった。しかしこないだ潤平から「復活したと思う」と情報が入り、
じゃあいっちょ大阪まで観に行っちゃおうか!と決心をしたというわけなのだ。昨日の神戸は本来、そのおまけ。
で、そのsundayの公演が行われる劇場があるのが、この難波なのだ。
「精華小劇場」という名前で、どれどれどんな場所だろうと思って行ってみたらびっくり。学校なのである。
つまり統廃合により使われなくなった学校の校舎を劇場として利用しているというわけだ。
精華とは元の小学校の名前のようだ。昨日の神戸のログでも書いたけど、学校の再利用は奥が深いと実感。
それにしても難波の繁華街の本当にど真ん中に学校があったわけで、生徒はどんな気分で通っていたのだろう。
その気持ちを想像してみようとするのだが、難波があまりに都会すぎて思いつかない。

さて上記のように、僕は難波を大阪の大阪らしい部分と捉えているのだが、その理由のひとつが吉本興業だ。
難波駅から見て奥に進んだところ、いわゆる千日前と呼ばれるところになんばグランド花月(NGK)があるのだ。
高校のクラス旅行で「大阪らしいところに行くぞ!」ということで、ここに入って新喜劇を観たものだ。
東京だとどうしても演芸場は落語がメインで色物があって……ということになるが、大阪はなんでもあり。
時間があればここに入ってコテコテの大阪を体験するのもよかったかなあ、と思いつつ歩き続ける。

NGKのすぐ南から始まるアーケードが、千日前道具屋筋商店街。いわば大阪の「合羽橋」である。
合羽橋にもひけをとらない魅力的な調理器具のオンパレードで、見ているだけでも十分面白い。
キタが標準的な繁華街の姿を崩さないのに対し、ミナミはエネルギッシュなうえに雰囲気が雑多だ。
そういう個性がモザイク状に絡み合っているのが本当に楽しいのだ。やっぱり大阪に来たらミナミを歩かねば。

  
L: 精華小学校……今は精華小劇場。学校の再利用としてはかなりかっこいい例だと思う。箱を埋める中身の質が重要ですな。
C: NGKこと、なんばグランド花月。「笑いの殿堂」と呼ばれている、ある意味で大阪の核となっている施設。
R: 千日前道具屋筋商店街。ちなみに千日前という名の由来は「千日念仏を唱える寺の門前町」だそうだ。

千日前道具屋筋商店街をまっすぐ抜けると、日本橋(にっぽんばし)のでんでんタウン。いわゆる大阪の秋葉原的存在。
かつて江戸時代には大坂最大のスラムで、戦前は神保町と並ぶ古書店街だったというが、今はその面影はない。
(新世界が第5回内国勧業博覧会の会場となった際にスラムを一掃した。新世界にはその後、通天閣ができる。)
僕が電気街でやることといったらもはやひとつ。中古のゲームミュージックCDをひたすら見てまわるのであった。
以前と比べて品揃えは回復しつつある印象。東京とは妙に相場が違っており、ずいぶんお得な買い物ができた。

  
L: 高島屋東別館(旧松坂屋大阪店・1934年竣工)。なかなか見事なのだが、吉野家の看板が本当にジャマ!
C: でんでんタウン。秋葉原よりも「長くて細い」イメージ。秋葉原と比べるとメイドがほとんどいないのが特徴か。
R: 通称「オタロード」(正式名称・日本橋筋西通商店街)。でんでんタウンの道一本西側で、マニア向けの店が並ぶ。

こんな具合にあちこちをフラフラ歩いて劇場の開場までの時間を過ごす。難波には空いているカフェがなく、
しょうがないので歩いて時間をつぶすしかなかった。なんともブサイクなものである。
演劇についての感想はそれなりの分量になると思われるので、また日を改めて書きたい。

観劇後は少し急いで梅田に戻り、メシを食ってバスに乗り込む。夜行バスでの往復は実にせわしない。
まあでも、十分楽しむことができたから満足である。明日の部活はがんばらなくっちゃ……。


2010.7.17 (Sat.)

いちばん最近の旅行が5月半ばの大内宿。そこからわずがに2ヶ月のブランクだというのに、
旅行をするのがずいぶんと久しぶりに思える。もはやすっかり旅行ジャンキーだなあと自分でも思う。
それだけに慣れない土地を訪れているときの昂揚感、ウハウハ感といったらもう、尋常ではないのだ。
高速バスを降りて大阪駅桜橋口と対面すると、待望の「自由」に胸が躍る。
関西に滞在するのは今日と明日の2日間。で、今日は神戸を中心に歩き、明日は大阪を歩く。
まあ個人的には昨年11月(→2009.11.22)のリベンジのつもりである。デジカメで、記録をとっていくのだ。

大阪から神戸へと向かう途中で、尼崎に寄ってみる。昨年11月で市役所は押さえたものの(→2009.11.21)、
いわゆる尼崎の市街地(『下妻物語』で言うところの「ジャージーカントリー」)を体験することはできなかった。
JR尼崎駅の周辺ならそういった風情を味わえるんじゃないか、と単純に思ったわけである。
それでわざわざ、尼崎駅で電車から降り、改札を抜けてウロウロ歩きまわってみる。
が、南口はロータリーの周辺だけが賑わっている感じだし、北口なんかブリブリに再開発が終わったところで、
どっちを見ても「商店街」と形容できるような場所がないのである。皆無なのである。
きれいに整備された空間だけが目の前に広がっており、ここには工業地帯の下町のイメージのかけらもないのだ。
自分の中の脳内尼崎が、まるではかなく蜃気楼のようにゆらめくユートピアみたいに思えるのであった。
本当にあるのか、ジャージーカントリー。いつか僕はそこにたどり着くことができるのか?

 尼崎駅北口の再開発が終わったあとにできた巨大商業施設。

電車に戻っても尼崎ショックでボケーッとしており、気がつけば三ノ宮駅に着いていた。
神戸はなんだかんだでそこそこ歩いているので、もはやあまり「冒険」という感じがしない。
が、それでもろくすっぽ訪れたことのない区域がいくつか残っているので、そこを今日は攻めるのだ。

というわけで朝イチで攻め込んだのが、北野。
三宮からそのまままっすぐ北へと坂を上がっていくと自動的に着いてしまう観光名所なのである。
北野ってのは要するに、横浜で言うところの山手にあたる(→2010.3.22)。
横浜の関内と山手の関係は、そっくりそのまま神戸の旧居留地と北野の関係に等しいのだ。
明治になってやってきた外国人たちが丘の上に住宅をつくりまくって、それが「異人館」として今も残る区域である。
ちなみに「北野」という地名の由来になったのは、街の中心部にある北野天満神社だ。
これは平清盛が神戸の港を整備する際に京都から勧請したもので、とても由緒のある地名なのである。

三宮から北野へと至る北野坂の入口で、異人館のチケットを安く売っているのを発見する。
おうこりゃあいいや、と即座に購入。そしたらあまりの即決ぶりに圧倒されたのか、おばちゃんが100円まけてくれた。
いい気分で坂道を上っていく。三宮の繁華街らしい雰囲気はあっという間に消え去り、
それに替わって落ち着き払った高級住宅街の匂いが猛烈に漂いだすようになる。実に見事な変身ぶりだ。
周囲を見ると、結婚式場が多い。なるほど北野のオシャレな雰囲気の中で式を挙げようという連中がいるってわけだ。
面白かったのは、異人館をそのままスターバックスコーヒーの店舗にしてしまった事例があったこと。
1907(明治40)年築の北野物語館(旧フロイドリーブ邸)は、阪神・淡路大震災によって全壊してしまった。
それを2001年に今の場所で再建して、昨年からスターバックスの「神戸北野異人館店」として利用しているのだ。

 
L: 北野坂を行く。三宮からちょっと入っただけなのに、騒がしさは見事に消えて雰囲気がガラリと変化するのだ。
R: スターバックスコーヒー神戸北野異人館店(旧フロイドリーブ邸、北野物語館)。店内はスタバかつ異人館で独特。

北野通りに出たので右に曲がって東の方へと歩いていく。と、またしても異人館のチケット売り場が現れた。
よく確認してみたら、さっきの売り場とは別系統のようで、こっちはこっちでグループができているようだ。
なんとも複雑な観光地事情である。こちらは「うろこの家」グループ9館すべて行ける3500円のチケットを筆頭に、
7館だったり5館だったり自分で行く箇所を選ぶことのできるチケットなど、何種類かを売っていた。
ぜんぶ行くのは金額的に勘弁願いたかったので、5館のチケットを購入した。どれを選ぶかは自分しだい。

さっそく、売り場のすぐ近くに3つ並んでいる異人館を外見で物色する。
イギリスの内装自慢の「英国館」、フランスがテーマの「洋館長屋」、世界各地で狩りをした人「ベンの家」。
2軒を左右対称にした形が面白かったので、まずは洋館長屋に入ることにした。
中はフランスの調度品が揃えられていたが、名前のとおりにどこか狭苦しいのがほほえましかった。
ルイ・ヴィトンの初期のトランクも展示されていたが、まあ特にこれといって見どころはなかったかなあ。

  
L: ベンの家(旧フェレ邸)。1902(明治35)年築。中には珍しい動物たちの剥製があるそうだ。
C: 仏蘭西館(洋館長屋、旧ボシー邸)。1908(明治41)年築。もともと外国人向けのアパートで、旧居留地から移築。
R: 英国館(旧フデセック邸)。夜はバーになるそうな。シャーロック=ホームズの部屋が再現されているという。

通りを挟んで反対側には旧パナマ領事館。ヨーロッパでなく「パナマ」ってのが気に入った。中に入ってみる。
公開している場所はそれほど広くなく、中ではなぜか日本の茅葺き住宅の模型が展示されていた。
しかしさすがに領事の執務室はシンプルなコロニアル空間となっており、いかにも熱帯地域のオフィスらしい。
やはりゴテゴテの内装となっているヨーロッパの異人館とは違っていて、雰囲気を味わうことはできた。
マヤやアンデスの土器・土偶などもちょこっと展示されていたが、それはなくてもよかったように思う。

  
L: 旧パナマ領事館(旧ヒルトン邸)。  C: 領事の執務室。内装がシンプルなのが、なるほど「パナマ」って感じだ。
R: 近所にあるラインの館(旧ドレウェル邸)。1915(大正4)年築で、ここは無料で歩きまわることができる。

天神坂を上って北野町広場を目指す。ここまで来てしまうともう完全に住宅街で、どの路地も非常に狭い。
観光地を訪れているというよりは、本当に人の家が並ぶ一角をウロウロしている感覚になる。
前に尾道を訪れたときにも似た感じを覚えたが(→2008.4.23)、さすがに神戸・北野のほうが高級である。
何の変哲もない路地にいきなりしっかりした歴史ある洋風住宅がポコポコと現れるのだ。
なるほどやっぱり神戸は違うねえ、と感心しながら歩いていたら、北野町広場に出た。

一段低くつくられた(それでも街を見下ろせる)広場に面しているのは、重要文化財・風見鶏の館。
ドイツの貿易商・トーマス氏の旧邸で、観光地・北野のさきがけとなった存在である。
せっかくなので中に入ってみる。部屋ひとつひとつのつくりが余裕があって広い印象を受ける。
なるほどこれはしっかり豪邸ですなーと思いながら見てまわる。しかしまあ、入館料を払って人の家を見る、
というのもなんだか変な話だなあ、と思う。僕はこの行為のどこに価値を見出して対価を払っているのか。
これはきちんと考えるとなかなか難しい問題である。そんな具合に腕組みしながら風見鶏の家をあとにする。

  
L: 北野町広場より見た、旧トーマス邸「風見鶏の館」。名の由来はそのまま、尖塔についている風見鶏から。
C: 内部はこんな感じである。ほかの異人館に比べると、ずいぶん部屋がゆったりとしていて広く感じる。
R: これは北野天満神社から見下ろした風見鶏の家。全体を眺めるにはここから見るのがいちばんいいかも。

北野にはもうひとつ重要文化財の旧邸宅があって、それは外見の色から「萌黄の館」と呼ばれている。
元の家主はアメリカ総領事シャープ氏で、風見鶏の館とセットの入館料が500円となっている。
ここはなんといっても、2階ベランダが抜群に気持ちいい。神戸の街を眺めることもできるのだが、
何よりベランダに出るだけですごく心地よいのである。和風住宅の縁側の気持ちよさに通じるものがある。
室内はしっかり冷房が効いていたのだが、それよりも外気の日陰の温度になっているベランダの方が快適だ。
しばらく神戸の街を眺めながら、ベランダを抜ける穏やかな風を味わって過ごした。

 
L: 旧シャープ邸「萌黄の館」。1902(明治35)年築。緑が多く、裏手の庭はかなり涼しくなっているのだ。
R: 2階ベランダ。豪華な内装にはまったく惹かれないが、ここは正直うらやましくって仕方なかった。

ここからさらに急な坂を上っていったところに、さっきいちばん最初にチケットを買った異人館がある。
なるほどこんな奥の方にはなかなか来ないよなあ、麓の三宮で安く売って稼がないとダメだよなあ、と納得。
まずは香りの家オランダ館。オランダの異人館というだけではインパクトがないと判断したのか、
香りをテーマに体験・実践できるコーナーがあった。当然、建物の中は猛烈な香りに包まれていた。
といっても不快な香りではなく、今までに嗅いだことのない種類だったので妙に新鮮だった。
次いでバイキングとアンデルセンについて展示しているデンマーク館。建物がそれほど大きくないこともあり、
展示内容は個人的にはやや不満。もっと詳しくやってほしかった。しかしアンデルセンが一生ずっと、
まったくモテないままだったとは。国葬までされた偉人なのになあ。人生いろいろだなあ。
最後に、奥にあるのがウィーンオーストリアの家。こちらはモーツァルトについての展示ばかり。
貧弱な展示とは対照的に、オーストリア土産がワインを中心にすさまじく充実していたのであった。

 
L: 香りの家オランダ館(旧オランダ領事館)は妙に庶民的。面白かったのは全面タイル張りのキッチン。
R: かなり強烈な香りが家の中に充満している。しかしまあ、香りってのも奥の深い世界だ。

上記3つの異人館とは別グループで、親玉的存在と言えるのが「うろこの家」。
説明によると、元は1905(明治38)年頃に旧居留地に建てられた外国人向けの高級借家なんだそうで、
後に北野に移築してハリヤー邸となった。天然石を並べた外壁が魚の鱗に似ているので、
「うろこの家」と呼ばれているのだそうだ。なるほど、実際に見てみるとこれは見事に鱗である。
注意しなくてはいけないのは、うろこの家に入ると隣接する「うろこ美術館」にも入ったと見なされて、
チケットを2館分消費することになる点だ。だから僕は今回、覚悟を決めて5館チケットのうち2館分を使ったわけだ。
で、肝心の中はどうかというと、さすがに見どころがきちんとあって興味深い。
1階ではマイセンの皿が大量に戸棚の中に展示されており、実に壮観である。
そして2階ではハリヤー氏の趣味が反映されて、古いゴルフクラブにラケット、スキー板、クリケットのバットと、
さまざまな木製スポーツ用品が展示されており、かつての雰囲気をしっかりと味わうことができるのだった。

  
L: うろこの家。外壁は確かに鱗そのものである。向かって左にあるのはうろこ美術館。別に入りたくなかったけど……。
C: 1階は皿屋敷となっているのであった。  R: かつての趣味人の部屋を覗くのは、かなり面白い。

うろこの家からいったん出ると、すぐ隣にある入口へ。こちらは「うろこ美術館」である。
有名どころの画家の作品を根性で1点ずつ集めており、訪れるだけの最低限の価値は感じさせる。
3階は展望スペースとなっており、ここから見渡す神戸の街並みはなるほど確かに見事なものだ。まあでも、それだけ。

5館チケットはあと1箇所を残すのみとなった。どこに行こうか迷いつつ、うろこの家を出る。
三ノ宮駅にあった「北野観光ガイドマップ」を広げ、裏に書いてある説明を熟読して考える。
で、ロダンからガンダーラの仏像、アフリカの原始美術まであるという山手八番館(旧サンセン邸)に入ることにした。
いざ行ってみると、狭い坂道を上がりきったところにガッチリと行列ができており、いつ入れるかわからないくらい。
みんなが並んで待っているスペースには屋根がつくられ、そこから霧を出して暑さ対策をしているくらいなのだ。
茫然とその様子を眺めていたら、入口の係員から「男性お一人でしたらすぐ入れますよ」と声をかけられる。
なんだかよくわからないけど渡りに船、ということでチケットを提示し、穴を開けてもらってさっさと入館。

中に入るとまた行列。ところが不思議なことに、並んでいるのは全員女性なのだ。「……トイレ待ち?」
首を傾げていると、男性はこちらですよ、とまた声をかけられた。見ると、部屋の隅っこには椅子があり、
どうやらこれに座る順番を待っているようなのだ。何がなんだかわからず、どういうことか係員に訊いてみる。
「男性のお客様は少ないので、並んでいただかなくても結構ですよ」という言葉とともに、
もうひとつの隅っこにある椅子を指し示される。男性は少ないから? 論理的に考えて訳がわからない。
とりあえず、僕にはこれが性差による差別に感じられたので、瞬間的にものすごく不快になった。
それで奥にある次の部屋へ行こうとしたら、後ろから「座らなくていいんですか?」と声がかかった。
僕は「性別でどうこう言うのはイヤなんで結構です」と言い残してその場を去った。

思うに、これはどうも、いわゆるひとつの「パワースポット」ってやつなんじゃないか。
おそらく開運だか幸福だかをもたらす椅子があって、山手八番館に来る人はそれに座ることを目的にしている。
この手の話題は女性の方が好む傾向があるわけで、それであの偏った行列ができていたのではないかと思うのだ。
もし本当に「パワースポット」であるなら、冷やかし半分ではあるけど、正直言って座ってみたい気もする。
でもやっぱり、そこで男性と女性に分けて女の子を突っ立たせておく根性は絶対に気に入らない。
だから僕は、てやんでぇ、そんなモンに座れるかってんでい!となったのだが、その判断はずっと変わらないと思う。

山手八番館に対する不信感というかなんじゃこりゃという気持ちは、その後もずっと続いた。
ガンダーラの仏像の展示もタイの古い仏像の展示も、部屋との相性がかなり悪く、そこにある必然性を感じさせない。
もちろん、アフリカの美術もそうだ。すべてが、西洋による文化遺産の略奪の結果にしか感じられないのだ。
ただ珍しいから市場価値があるからという理由で並べられており、作品の意図とかけ離れた扱いとなってしまっている。
その気持ち悪さがかなりひどくて、半ば飛び出すようにして建物をあとにした。

  
L: うろこ美術館から眺める神戸の街。なかなかよろしいのだが、展望所なのに筋入りのガラス越しだったのはいただけない。
C: 山手八番館にあった、いかにもエキゾチックなオブジェ。でも、ただ面白がられるだけの存在にされてしまっている。
R: 旧中国領事館(旧チン邸)。中国美術が幅広く集められているらしい。こっちに入っておくべきだった、と本気で後悔している。

いったん北野町広場に戻って天神様に参拝して、ガイドマップにあった気になる施設をあれこれ見ながら坂を下る。
まずは北野通りにあるジャイナ教の寺院。ジャイナ教といったら地理の教科書の中でしか見たことがない。
そんなもんが本当に日本で物理的な存在として現れているなら、それは絶対にこの目で確かめておきたいじゃないか。
それで行ってみたら、見事に真っ白なのだ。インドっぽい装飾に包まれながら、何ひとつ色がついていないのである。
中を覗いてみたらインドの文字だらけで実に本格的。漂ってくる香りも、南アジア風で今まで嗅いだことのない香りだ。
だから言葉できちんと形容できないのが切ない。とにかく、日本の街の中にいきなりインドの特殊な一部が現れて、
それでいて北野という場所のおかげなのかそれほど強烈な違和感がなく受け入れられているのが面白かった。
その後は異人館通り(山本通り)に出て、西へと歩いていく。シュウエケ邸はなぜか休みのようでがっかり。
三宮方面に歩いていたら途中で小学校を改装した「北野工房のまち」という施設があり、何やらイベントをやっていた。
校舎の面影を極力残して1998年にオープンしたそうで、中は神戸ブランドの有名店が販売・製作体験をやっている。
通信教育のレポートでも書いたが(→2007.8.142007.8.28)、学校建築の再利用はもっとしっかり分析したい事象だ。

  
L: ジャイナ教の寺院。ジャイナ教といえばマハーヴィーラで不殺生で無所有。その価値観がこの建物を生んだわけだ。
C: シュウエケ邸(旧ハンセル邸)。1896(明治29)年築で、今も現役の住宅なのである。
R: 北野工房のまち。「神戸ブランドに出会う体験型工房」だそうだ。神戸はさすがに上手いことをやるもんだ。

さて、これでひととおり北野観光も完了した。わりとしっかり見てまわっていたためか、とにかく疲れた。
夜行バスでの疲れと街歩きの疲れと建築物に圧倒された疲れと単純にキツい坂を上った疲れと、
ありとあらゆる疲れの要素が一気に襲ってきて、三宮に戻ったときにはもうヘトヘトになっていた。
それでも時間がもったいないということで根性を振り絞り、生田神社を参拝。
関東の人間には、「あー、藤原紀香と陣内智則の……」というアレが真っ先に出てきてしまう場所だが、
「神戸」という街の名前を生むきっかけとなった由緒ある神社なのだ。しっかりお参りしておいた。

 生田神社。ご利益は……きちんとあると思う。

神戸でろくすっぽ訪れたことのない地域はほかにもいっぱいあるのだが、すっかり疲れてしまっていたので、
残りは神戸駅周辺をプラプラしてみることにした。電車に乗って神戸駅まで行く。もはや歩く気力がない。

神戸駅から海側に出ると、神戸ハーバーランドである。旧国鉄の湊川貨物駅跡地を再開発した場所で、
まあはっきり言って、横浜におけるみなとみらい的な存在感の場所である。やはり神戸は横浜に似ている。
大雑把な街路に巨大な施設がドカンドカンと点在しており、ヒューマンスケールを逸脱している。
とりあえず三菱の倉庫跡地を再開発した神戸モザイクに行ってみる。
対岸には神戸ポートタワーや神戸海洋博物館などメリケンパークがよく見える。
体力があればそっち側をくまなく歩きたいのだが、それができないくらいに消耗しきっていたのであった。
神戸モザイクの南端には小規模な遊園地・モザイクガーデンがつくられ、立派な観覧車がまわっていた。
ここから神戸港全体を眺めるのも非常に楽しそうだ。いずれやってみたい気もする。

  
L: 神戸ハーバーランド側から眺めた神戸ポートタワー(赤)と神戸海洋博物館(白)。体力があれば行きたかったが……。
C: メリケンパークは1987年にメリケン波止場とポートタワーの間を埋め立てて造成。写真は神戸メリケンパークオリエンタルホテル。
R: 神戸モザイク。ヨーロッパの街路を思わせるつくりの部分が印象的。名前のとおりに面白いツギハギ感覚のある場所だ。

 神戸モザイク南端の遊園地・モザイクガーデン。

さらに街歩きをもう一丁。神戸駅に戻ると地下道に入り、そのまま延々と西へと歩いていく。
地上は歩くとすさまじく暑いので(こないだまでずっと梅雨だったのにいきなり明けやがった)、地下だけで行く。
目的地は新開地だ。かつては神戸の中心市街地、高度経済成長後には見捨てられたようなスラム、
今はまちづくりが盛んに行われてイメージアップが図られている、神戸の中でもかなり特徴的な過去を持つ街だ。
面白いことに、その新開地へはJR神戸駅からそれなりの距離があるのに、地下だけを歩いて行けてしまうのである。
JR神戸駅に程近い高速神戸駅と新開地駅を結ぶこの地下通路は、「メトロこうべ」という商店街になっているのだ。

このメトロこうべ、かなり強烈である。これは個人的な見解だが、地下空間というのはつくられた時代を反映する、
言い換えれば、つくられた時代のまま時間の流れがストップしてしまうところがあると思う。
最近つくられた地下街なら平成の匂いがするが、昭和につくられた地下街なら昭和の匂いが色濃く残る。
表面上はきれいにリニューアルされても、隅っこのところに決して落とせない"時間の汚れ"がこびりついている。
メトロこうべがつくられたのは1968年だが、今もその時代の雰囲気が大いにトンネルの中を包んでいるのだ。
(そういう点では、メトロという近代的な響きが日本語に取り込まれた「メトロこうべ」という名称は実に絶妙である。)
感覚的にはガード下の空間に似た感触がする。でもガード下よりも、純粋な通路としての印象がまだ強い。

メトロこうべでまず驚いたのは、壁をびっしりと固めている古本屋である。一面がやたら長い書棚となっており、
そこに古本が延々と並べられているのだ。内部空間なのか外部空間なのか、自分の感覚がかき乱される。
さらにすごいのが卓球場である。ここはメトロこうべの象徴的な場所になっているそうなのだが、
地下のトンネルの中にいきなり金網張って卓球場ってのは、さすがにこれには度肝を抜かれた。でも昭和っぽい。
そしてゲームセンターまである。これまた内部空間と外部空間の区別の感覚を揺すぶられる立地だ。
中はメダルゲームが半分を占めていたりネット対戦ゲームがあったりとごくふつうのゲーセンだったが、
それでもおじいちゃんが『大魔界村』をプレーしているなど、やはりどこか時間の感覚が狂っていた。

  
L: メトロこうべの古本屋。地下通路の中にものすごく大規模に展開していて、これには驚かされた。
C: 卓球場。ふつうに流行っていたよ。  R: ゲーセン。ガード下のような通路にゲーセンとは、なんともオープンな。

メトロこうべの終点は、新開地駅。ここから北側の地上に出ると、そこはアーケードの商店街だった。
あらためて地上の横断歩道を渡って、新開地の南側のエリアを歩いてみる。が、いきなりカサついた雰囲気。
競艇の場外発売場がある関係で、昼間っからボート好きのおじさんたちが盛り上がっているのだった。
とはいえ、街路じたいは緩やかなスラロームを描いており、並木も多くて落ち着いている。
建物はいかにも再開発しましたと言わんばかりの高層マンションがいくつも並んでいて、
僕が事前に想定していた新開地のイメージ(ちょっと怪しげな匂いのする元繁華街)とはずいぶん違っていた。
スラム時代の価値観により"汚染"された「土地の雰囲気」を完全に抹消するために、
その下にわずかに薄く残っていたモダンの賑わいという「地層」までも根こそぎ剥ぎ取った、そういう印象がする。
(それくらい強引にやらないとスラム状態を改善することができなかっただろうことは理解できるにしても、だ。)
今の新開地に漂う雰囲気は、人工的な無菌状態を思わせる奇妙な清潔感と競艇好きのおじさん、という、
本来相容れないものがムリヤリ同居している不自然さが充満していて、変に現実感がなかった。

  
L: 最も南側にある新開地の入口ゲート。古き良きモダンな時代を思わせるように工夫がなされている。
C: 旧神戸瓦斯本社。渡辺節設計で1937(昭和12)年竣工。現在は大阪ガスの事業所となっているとのこと。
R: 阪神淡路大震災を機に大衆演劇専門となった新開地劇場。上にマンションってのが今の新開地らしさだ。

  
L: 映画館の新劇会館。かつて新開地には劇場も映画館もたくさんあったそうだ。
C: 新開地センター商店街入口。競艇の場外発売場があるのでこの一帯はやや荒っぽい雰囲気。
R: 新開地商店街。国道28号の北側はこのようなアーケードになっている。パチンコ屋多し。

国道28号を渡って新開地の北側へ戻ると、アーケード商店街ということもあって雰囲気は少し変わる。
さっきの妙な清潔感はなくなり、歩いていて純粋な賑やかさがなかなか心地よい。
神戸というよりは、大阪という感じである。気取らない大阪の下町らしさ、エネルギーが漂っている。

新開地をひととおりまわった後は、三宮に戻って休む。もういいかげん体力の限界に来ており、
クーラーの効いたカフェに入ってゆっくり日記を書こうと思ったのだが、うつらうつらしてしまって結局書けず。
さらに本屋に行って北海道旅行のためのガイドブックを立ち読みで選んでから購入。
ガイドブックは友人との旅行のときにしか買ったことがなく、一人旅はいつも暗記で済ませているのだが、
今度の北海道旅行はそれだけ気合が入っているということなのである。やったるでー

18時を過ぎて、三宮駅前のバスターミナルに移動。あらかじめ調べておいた18系統の路線バスに乗る。
行き先は、摩耶ケーブル下。そう、本日最後は摩耶山の掬星台(きくせいだい)展望台から夜景を眺めるのだ。
すでに長崎・稲佐山(→2008.4.27)と函館・函館山(→2008.9.15)は制覇しているので、
これで日本三大夜景を完全制覇ということになるのだ。……まさか3つとも独りで見るとは。

摩耶ケーブル下のバス停はケーブルカー駅の目の前にあり、ここで大半の乗客が降りた。
まずはケーブルカーに乗って「虹の駅」へ行き、そこからちょっとだけ歩いて次はロープウェイに乗る。
ロープウェイの行き先は「星の駅」で、そこから何十歩か進んでいけば掬星台である。
ケーブルカーとロープウェイという2種類の乗り物を使っているためか、すべて往復で1500円もする。
北野の異人館もそうだったが、神戸観光はなんだかんだでけっこう金を搾り取られてしまうのでかなわない。
とはいえケーブルカーはなかなかの迫力で、アナウンスによれば角度は27°ほどだというのだが、
まるで垂直な壁を登っているかのような錯覚がする。木々に囲まれ下界の景色を見ることはできないので、
ただひたすら壁に向かって車体がせり上がっていくのを眺めて「おおおおおー」と声をあげるのであった。
またロープウェイも小型で、係員がおらず客だけが詰め込まれるので妙にスリルがあった。

そんなこんなで掬星台に到着。あちこちでクラフト屋が何やら自分の作品を売っていたのだが、
今日はイベントがあったのかそれともいつもそうなのか、よくわからない。とにかく、賑わっていた。
手前のロープウェイに近い側の展望台はすでに夜景待ちの人が集まりはじめていたので、
奥の方にある展望台まで行って東も西も見渡せる角っこのポジションを押さえる。
夏至が過ぎて1ヶ月も経っていないので、空が暗くなるまでまだまだ時間がかかりそうだ。
iPodを取り出し、音楽を聴いて過ごす。が、さすがに標高があるためか、やや肌寒かった。
振り返ると掬星台は夕焼けで燃えているかのようだ。そして雲が出てきて、僕らのいる場所を抜けていく。
体に当たった雲のかけらが湿り気を残し、おかげで手のひらが妙にペタペタする。ここは確かに、山の上なのだ。

  
L: ケーブルカー。坂というものは実際の角度よりも急に感じるものだが、それにしても絶壁を登るようで迫力があった。
C: 掬星台。神戸市都市整備公社は2011年度で摩耶ケーブル線の経営から撤退するらしいので、ここに来づらくなるかも?
R: 夕焼けで燃え上がっているように見える掬星台。日が落ちたら落ちたで光を使ったイルミネーションがある。

この時点でも、もう十分美しい景色である。右の三宮から阪神工業地帯の各都市がなめらかに連続し、
左の大阪方面へと続いている。その先にはさらに和歌山方面へとつながっていくわけで、
関西の連続している都市部が視界の中にしっかり収まっている、その光景を目にした感動はなんとも形容しがたい。


まだ明るいうちに撮影した、掬星台からのパノラマ写真。神戸港から大阪湾までが一気に見渡せてすばらしいの一言。

やがて空が暗くなり、足下の街の中から光の点が現れだす。空の色も海の色も深くなり、光が都市の輪郭となる。
見れば、視界のずっと先には大阪湾の描く弧がずっと伸びていて、水平線の上に光の線を浮かべている。


空が暗くなりはじめた状態の神戸の街。

日が沈みきり、空がすっかり太陽の影響から抜け出すと、闇の中に光が浮かぶようになる。
東京のどこかギラギラした夜景とは違い、掬星台から眺める夜景はとても静的だ。
静かで、小さくて、でも確かな強い光が、海と山に囲まれた土地を極めて繊細に彩っているのである。
いつまで経っても見飽きることがない。目の前に広がる光景を、無言のまま見つめて過ごすのみだった。


いわゆる「1000万ドルの夜景」である。本物はこんな写真なんかとは比べ物にならない見事さなんだけどなあ。

帰りのバスに間に合うようにしっかり余裕をみて帰る。もうちょっと混雑するのかと思ったが、
意外とスムーズにロープウェイに乗り、ケーブルカーに乗り、バスに乗ることができた。
それにしても夜景というものは面白い。自然の地形という制約を受けたうえでの人間の活動領域が、
これ以上ない形ではっきりと現れるものだからだ。ただ単純に「キャーキレイ」と感動することもできるし、
いろいろと深く読むこともできる。さっき掬星台から眺めた三宮へと向かうバスの中で、そんなことを考えていた。


2010.7.16 (Fri.)

アメリカから来ていた先生がいよいよ帰っちゃうということで、送別会が行われたのだった。
和食はオールオッケーということなので、近所の寿司屋で生もの三昧。喜んで食べてくれて何よりだ。
酒が入ればもう、英語しゃべれないけど、英語しゃべっちゃうよ!ということで、周りの先生方の通訳をしつつ、
わかったりわかんなかったりでガッハッハなのであった。まあ本来、コミュニケーションとはかくあるべきであろう。
そんなわけで、長かった4週間もこれでおしまい。お互いに笑顔で別れることができたのは幸せなことだと思う。


2010.7.15 (Thu.)

W杯で日本は16強に入ったのだが、今後の日本代表の方向性についてあちこちでの論調を見てみると、
「めでたいことだけど、このままじゃいかんよ」というものが多いようで一安心。
守備ブロックをつくって守るサッカーが一定の効果を発揮したことは認めつつも、
やはり攻撃をもっと積極的にやっていく必要があるという意見が非常に多いのだ。
W杯ではほとんどの時間で大木さんのサッカーとは真逆のサッカーが展開されたわけだけど、
世間では攻撃サッカーが否定されたわけではないようだ。よかったよかった。
とはいっても大木さんのサッカーはかなりのリスクを冒すことになるので、代表レベルということを考えれば、
それを受け入れるほどの度胸がある人はそれほど多いわけではなさそうだ。難しいものだ。
とりあえずは、日ごろのJリーグで攻撃サッカーがより多く展開され、洗練されていくことが必要だ。
そういう観点から試合を観ないことには、いくら口で言っても始まらないのである。
4年後に向けてわれわれだって勝負なのである。がんばれわれわれ。がんばれ大木さん。


2010.7.14 (Wed.)

夏休み中にグラウンドをマトモに直すことになり、10日間ほど部活ができないことが判明。
よそに行って練習やら試合やらをやることになるのだが、そんなに都合よくスケジュールが立てられる保証はない。
こっちとしてはどこへ旅に出ようかウヒヒヒヒ、と皮算用に勤しむ毎日を送っているわけで、
予定が狂って大いに悩まされるのであった。この際、ぜんぶ休みにしてやる!ってわけにもいかないんだよなあ…。


2010.7.13 (Tue.)

今回のW杯で唯一「負けなかったチーム」は、ニュージーランド(3戦3分け)。……なんというトリヴィア!


2010.7.12 (Mon.)

オランダ×スペイン。1ヶ月の長きにわたったW杯も、今日の決勝戦でおしまいである。

ねちっこくしぶとく勝ち続けてきたオランダと、1-0で辛勝を積み重ねてきたスペインの対戦。
どっちが勝っても初優勝だが、スペインは決勝進出じたいが初めてだ。オランダはヨハン=クライフ以来の決勝戦。
ちなみに今のスペインのパスサッカーはクライフがバルセロナの監督時代に植えつけたもので、
したがって「クライフの遺伝子対決」なんて表現をしているメディアもあるようだ。

結論から言ってしまえば、この決勝戦はなんとも美しさに欠ける内容となってしまった。
テンションが上がってプレーが激しくなってしまうのはわからないでもないのだが、それにしても荒っぽい。
オランダの選手を中心にイエローカードが乱れ飛ぶ。これがミスジャッジならそれもまた問題だが、
出されて当然というプレーが多かったのが、またなんともやるせない展開である。せっかくの決勝戦だというのに。

試合は両チーム無得点のまま延長戦にもつれ込み、延長後半にはF.トーレスが登場する。
オランダは2枚目のイエローで1人退場したこともあり、流れはなんとなくスペインという感じになる。
そしたら残り5分を切ったところでイニエスタが決勝ゴール。一瞬の隙を衝き、見事に決めてみせた。
酷な言い方になるのだが、オランダは汚いプレーをした分だけ、それ相応の「罰」を受けたといった印象である。

延長戦まで試合が延びたせいで、少し慌てて職場へと向かう。
時差の関係でなかなか厳しいテレビ観戦が続いたが、チェックできる限りはチェックした。
やはり世界トップレベルの試合には必ず見どころがあり、それを十分堪能させてもらった1ヶ月だった。
この贅沢を味わえるのはまた4年後だが、果たして日本代表はそのときどうなっているやら……。


2010.7.11 (Sun.)

『王立宇宙軍 オネアミスの翼』。タイトルだけはけっこう前から知っていたが、このたびようやく中身を見た。
この作品をつくるためにGAINAX(ナディアやエヴァやプリンセスメーカーの会社)が設立されたんだそうな。

舞台は地球によく似ているけどまったくの別世界。主人公のシロツグは王立宇宙軍の軍人。
宇宙軍といっても実際に宇宙で活動しているわけではない。そもそも機械文明が発達している途上であり、
将来宇宙に到達したらという仮定の下に、日がな一日トレーニングに明け暮れてぼんやり過ごすだけの集団。
しかしシロツグは宗教を熱心に信仰する少女・リイクニと出会ったことで発奮し、本気で宇宙を目指す。
それまでだらけていた面々は彼の熱意に引き込まれ、ロケット開発が一気に進んでいくことになった。
ところが計画は隣国との政治問題に利用され、軍事衝突の危険により発射が危ぶまれることになる。
それでもさまざまな人の思いを乗せたロケットは打ち出され、シロツグはメッセージを世界に送る。という話。

現実とは異なる世界が舞台ということで、その描き方がものすごく徹底していて興味深い。
同じ人間、しゃべっているのは日本語だが、彼らの日常はことごとく現実と異なる設定のもとで送られている。
フィクションの組み方という点で、このやりきりっぷりは見事なものだ。世界観がしっかり構築されている。

話の内容じたいについては、賛否両論、人によって完全に好みが分かれる作品だと思う。
作品のハイライトはなんといっても、王立宇宙軍の面々と計画を進めていくライトスタッフ的な部分。
まるで後の『ウォーターボーイズ』(→2005.5.22)に通じるような、爽快な展開が見ていて非常に気持ちいい。
しかし反面、リイクニとのシーンが妙に歯切れが悪く感じられる。リイクニいらんやろ、と思ってしまった。
ヒロインのリイクニに感情移入できるのであればまた感触も違うものになるんだろうけど、
うーんどうも宗教にハマっている女の子というのは……僕はダメでした。
ヒロインの特徴云々で作品全体を評価してしまうのは少々乱暴だとは思うのだが、でもやっぱりダメ。
ラストシーンも、僕は地上に帰還してそこからが肝心だと考える人間なので、尻切れトンボに感じた。
若さの勢い(製作スタッフの平均年齢は24歳だったそうだ)とエンタテインメントは両立が難しいものなのか。
なかなか難しい課題を残した作品であるように思う。が、24歳でコレってのは、やっぱりすごいね。


2010.7.10 (Sat.)

久しぶりに嘉門達夫の曲を聴いてみたのだが、なんというか、僕は嘉門達夫でラップというものを学んだ気がする。
嘉門達夫の曲にはよく、『魚屋のおっさん』のようにネタのセリフを曲に乗せて成立させているものがあるのだが、
これが意外とリズム感よく展開されているのである。中学生のときにはけっこう好きで聴いていたので、
ああオレにとってのラップとは嘉門達夫だったのか、とあらためて思ったしだい。
マサルも嘉門達夫はよく聴いていたようなので、熱海ロマンとか、まあ、ああなるわな、と。


2010.7.9 (Fri.)

宮崎アニメでまだ見ていないものがあったのに気がついたので、『ハウルの動く城』を借りてみた。
かつて伊集院光がラジオの中でブスを形容するのに、おばあさんに変えられてしまったソフィではなく、
「動く城」の方を使っていたのが今でも印象に残っている。もうあれから6年が経ったのか。

物語は非常に難解。なぜかというと、物語じたいが論理的に動いていかないから。
言い換えると、理由と結果がまったく一致しないからだ。ある事実が生じており、その原因が示されても、
魔法というフィルターを通るせいなのか、それがすっきりと一本筋が通っているように見えない。
また物語の展開も、とても気まぐれに思える。これまた、物語の軸である魔法とは非論理的なものだから、
という理由づけをすれば「はいそうですか」と言わざるをえない。だから人によってはかなりキツい内容だ。
反面、魔法の非常識さ(非科学的な性質)は、とてもよく映像化されていると思う。
まあこういう作品は、素直につくり手の用意する流れを受け止めていくしかない。

ソフィは基本的に老婆の状態となってしまうが、ときどき若返った状態になる。
さらに髪も老婆の状態を経たからか、銀色になって若返る。どうしてそうなるのか、それが何を意味するか、
その理由を推測していくとキリがない。逆を言えば、謎として楽しむことができる。
かつての『エヴァンゲリオン』がそうだったように、それぞれの解釈を出し合って議論する楽しみはある。
なんてったって魔法が挟まっているのだ、それを都合よく捉えれば、いくらでも話が広がっていく。

個人的な好みでいえば、この作品はハズレ。謎解きの楽しさは確かに認めるが、
ラストで悪役があっさり引き下がり、そこがご都合主義にしか思えず、どうしても納得いかないのだ。
魔法のせいでか、登場人物の思考回路まで支離滅裂に感じられてしまうのである。
やっぱり人間は論理的思考と不合理をハシゴするから面白いわけで、片方に寄ってしまっては、
それは人間を描いた作品であるとは思えないのだ。時間や空間がどんなに現代と異なっていても、
古典となる作品はすべからくコンテンポラリーな問題意識、つまりどこまでいっても変わることのない
人間(というか人間性)の本質を描き出す点が共通しているものだ。その点において、完全にファウル。

この作品は、実は舞台向きかもしれない。役者の力と舞台空間とセリフが噛み合えば、
論理性なんてものは軽く想像力で吹っ飛ばすことができる。実際、そういう演劇をたくさん観てきた。
きちんとうまく準備をすれば、ハウルの魔法だらけの世界観は舞台上で再現できるだろう。
そして論理をはるかに超える(つまり後から言葉で表現しきれない)ライヴの感動が得られるだろう。
キャラメルボックスあたりが手を挙げそうな気がするなあ。もっとオープンな劇団にやってほしいけどね。

ま、結局いちばんモテているのはハウルではなくソフィなのであったってオチかい!


2010.7.8 (Thu.)

ドイツ×スペイン。優勝に向かってまっしぐらのドイツと、攻撃サッカーを標榜しながら1-0でしか勝てないスペイン。
この対戦はEURO2008の決勝戦と同じカードで、そのときにはスペインがドイツを下している。
しかし今のスペインはそのときほど攻撃が機能していないし、ドイツの攻撃は恐ろしく鮮やかだしで、
下馬評ではドイツが勝つだろうという予想が多かった。今回のドイツは本当に美しくて強いのだ。

5日前、ブラジルがオランダに敗れたのは、その崩壊ぶりもあってなかなか衝撃的だった。
そして今日はそのときほどの衝撃はないものの、でもどこか似た印象の不可解さを感じる展開となった。
それはドイツがあまりに動けてなかったということだ。サボっているんじゃないか、と思えるほど動きが鈍い。
肝心のエジルにしてもそのほかの選手にしても、一歩を踏み出すのが遅いし小さい。
すべてのプレーが緩慢で、そこにわずか4日前にアルゼンチンを弄んだドイツの面影はまったくなかった。
こないだのブラジルもそうだが、どうしてこんなに急に調子が落ちてしまうのか。まったくわからない。

後半28分にプジョルがCKからのワンチャンスを決めてスペインが先制。試合はそのまま1-0で終わってしまった。
ドイツは結局、最後まで輝きを失ったままで、それまでの華麗さが信じられないくらいの有様だった。
W杯は決勝トーナメント以降、負けることは許されない。世界最高峰のカップ戦という究極の緊張感が続くストレスは、
常人の想像を超えているということか。そうでなけりゃ説明がとてもつかない、ドイツの不可解なスランプだった。


2010.7.7 (Wed.)

そんなにジョニー=デップはかっこいいのかね、と思い『チャーリーとチョコレート工場』を借りてきた。
世間ではセクシーセクシーと騒いでいるけど、僕にはその辺の感覚がよくわからないので、
ちょっくら勉強してみようと思い立ったわけだ。で、どの辺がセクシーなのか研究してみることにする。

主人公のチャーリーはまあいいとして、どうしても、父親がWコロンのねづっち(すごく速く整う人)に、
母親が大竹しのぶにしか見えない。そしてメガネのおじいちゃんはウディ=アレン。
一度そういうイメージが染み付いてしまうとそれはもう払拭しがたく、変な印象が残ってしまった。
話はT.M.Revolutionことジョニー=デップが演じるラリー=ウォンカが自分のチョコレート工場の跡継ぎを決める、
というもので、やっぱり最後までラリー=ウォンカは西川貴教にしか見えないのであった。
ウンパ・ルンパの歌を背景に、僕の頭の中では「西川貴教=T.M.Revolution=ウォンカ=デップ」という、
もうめちゃくちゃな四段論法がずっとぐるぐる回っているうちに終わってしまった。

細部については、悪い子たちをバカにする歌が、いかにもアメリカ映画だなあと思った。
向こうのショウビジネスって、日本人にはどうでもいいそういう部分にやたらと凝る気がする。
人をバカにすることに労力を割くというのは個人的には好きではないことなので、違和感があった。

エンディングのクレジットを見て、「ジョニー=デップ(Jonny Depp)」の最後に「A」を足すと、
「ジョニー=出っ歯」になることに気がついた。気に入った誰か出っ歯の人は、ぜひ使ってみてください。


2010.7.6 (Tue.)

今日はウチの学年の水泳大会なのであった。今どきの中学校では水泳大会をやる方が珍しいらしい。
でも生徒たちは嫌がることなどまったくなく、大いにやる気を出してプールに入っていくのであった。いいことだ。

午前中は天気が悪くて開催が危ぶまれたのだが、メシを食い終わらないうちにみるみる晴れていって、
午後になったら超がつくほどの快晴となった。まぶしいし暑いしで、プールに入る連中が正直うらやましい。
今回は従来のレースや碁石拾いに加えて水球が競技のラインナップに登場。これが凄かったのだ。
まず最初は女子からで、主にバスケ部の連中が地力を生かして活躍してみせる。
そして後半、男子の番になるとファインプレーが続出してもう大騒ぎになるのだった。
空いているスペースにパスを投げてそこに泳いでいくのはサッカーの練習にもいいなあ、と思っていたのだが、
あまりに試合が白熱して担当の先生も同点ということで予定にはない延長戦を宣言。大変な盛り上がりだった。
そして最後のリレーが終わって得点を集計したら、なんと1点差で決着というできすぎな結果が出た。
すべてが終わって生徒たちは疲れて呆けていた。まあ非常に充実したイベントになってよかったよかった。


2010.7.5 (Mon.)

楽天が社内の公用語を英語にするとかなんとかほざいていることがニュースになっているわけだが、
英語をしゃべる「メリット」ではなく「リスク」を考えたことがあるのかと私は問いたい。

日本人は英語にコンプレックスがあるからか、英語を話せないということに対して負い目を感じている。
よくあるパターンは、英語を話せないことから始まっていって、日本人はこういうところがダメだ、
という議論になってしまうこと。果たしてこの議題は生産的なものだと言えるのだろうか。
あれこれ言ったって日本人は相対的に見て、シャイで内向きなんだからしょうがない。
その要素は、日本人における美点である細やかな配慮や勤勉さに通じるものだと僕は思う。
日本語の思考回路をもっと客観的に評価し、そのうえで英語と比較するという視点を持って、
そこまでいってから英語を公用語にするくらい慎重でないと、日本語のメリットを殺しての経営になるだろう。

むしろ日本語を世界中で通用させようぜ、ぐらいの気概であるべきなんじゃないのかね、と僕は思う。
(まあそれが戦前の朝鮮や台湾、南洋諸島で繰り広げられた日本語教育に通じてはいかんのだが。)
言語とは人間の最も根本的な部分だ。その部分を外国に譲って世界的企業を目指したところで、
そんなものはかえって世界の表面を流浪するだけの根無し草になってしまうだけではなかろうか。
自らを生み出した言語を誇る姿勢こそ、むしろ国際的に評価される軸、根源であるのではなかろうか。
てめえの思考の元となる言語を大切にしない人間が、他人の思考を尊重できるとは考えられないのだ。
高度経済成長期に日本人が日本語で格闘しながら世界を相手に存在感を示していったのと、
まったく正反対の状況が生まれつつあるように思う。そしてそれは、自ら植民地化を進める行為に思える。

言語とは思考そのものであり、その先の身体へと通じる。英語の思考は日本語の思考とは異なっている。
その辺の事実を社会学的に検証するプロセスをすっ飛ばして安易に英語化を進めるのは、
冷静に考えると危機的な状況であると思うのだ。どうしても英語を話せる人材を育てたいのなら、
中学校レベルの英語はもっと比較言語社会学的な分析をふまえて学術的な内容にする方が実は効率がよく、
高校や大学あたりで無償の語学留学を全学生に保証する方が確実だ。というか、それしか方法はない。
いちばん間違っているやり方は、中学校の英語の授業で会話重視と称したお遊戯の時間をとることと、
高校の英語の授業をすべて英語でやりなさいという絶望的に短絡的な改革を推し進めることだ。
義務教育とはすべて、教養のためにある。教養をベースにした実用の知識は、次の段階にとっておくべきだ。
英語を話すということは当然、実用の知識である。教養なき英語がビジネスで通用するはずがないでしょう。


2010.7.4 (Sun.)

実父・circo氏が上京してきた。なんでも箱根で同級会があるそうで、そのついでにやってきたのだ。
例のごとくメシを食った後、新宿に出て東急ハンズを歩きまわる。circo氏は主に自転車用品を見ていた。
やっぱりハンズは面白いなあ、と親子そろって再確認するのであった。いつものパターンである。
で、その後は小田急に乗って箱根を目指すcirco氏を見送ってから帰る。


2010.7.3 (Sat.)

アルゼンチン×ドイツ。ドイツがやたらめったら強いことは、こないだのイングランド戦でもう十分にわかっていた。
ブラジルがオランダに敗れた今、世間的には優勝候補の最右翼と言える存在となっている。そして僕もそう思う。
グループリーグでセルビア相手に不覚をとったとはいえ、判定に泣かされた部分もあった。
伝統の粘り強さに華麗なパス回しがミックスされた現在のドイツのサッカーは、
現時点では世界で最も「穴の少ない」サッカーなのだ。本当に隙のないチームとなっている。
アルゼンチンはマラドーナ監督が記者会見と試合中のリアクションを除けば特に目立った行動をとっていないおかげで、
選手がのびのびプレーして好調を保っている。マラドーナの無策が奏功している個人技のアルゼンチンを、
躍動感あふれる組織サッカーを展開するドイツがどう攻略するか。そういうゲームだ。

試合開始からわずか3分、FKからドイツが先制する。ミュラーがちょびっと触って、
拍子抜けするほどあっさりと点が入ってしまった。以後、攻撃は3トップ任せのアルゼンチンに対し、
中盤での軽快なパスワークからドイツは多彩な攻めを見せる。力の差はもはや明らかだった。
エジルを中心に好調なFWやMFがどんどん連携して攻め込むドイツとは対照的に、
アルゼンチンの攻撃からはまったく戦術というものが見えてこない。散発的で、単調。
終わってみれば至極当然の4-0というスコアが残った。これは選手ではなく、監督の実力差だ。

ドイツは若手と中堅が息の合ったプレーを見せているのだが、素人目にもエジルの凄みはよくわかる。
エジルがいなかったらドイツはいかにもゲルマン魂で勝負する従来のチームだったと思うのだが、
スピードに乗って味方の攻撃を自在に操ることのできる司令塔が入ることで、
パスを受ける側の動きの切れ味が鋭くなっているのだ。見ていて痛快なサッカーをしている。
才能ある選手がひとり入るだけでチームってのはまったく別の生き物になる、という事実がよくわかった。


2010.7.2 (Fri.)

オランダ×ブラジル。ドゥンガ監督のもと、規律を重視した組織サッカーで隙をみせることなく勝ってきたブラジル。
対するは珍しく内紛のないまま、華麗というよりはしぶとい強さを発揮してきたオランダ。
下馬評ではブラジル有利という声が多い。確かに、ブラジルの方がベースになる個の力がありそうだ。
僕もブラジルが勝つと思う。でもオランダのしぶとさも気になる。これは準々決勝でも屈指の好カードだ。

前半わずか10分に、なんでそんな!と声が漏れてしまうくらい見事にブラジルが先制。
オランダ守備陣の一瞬の隙を衝いて大きな縦パスがピッチの中央を切り裂く。
後ろからのボールをロビーニョがきれいに決めた。やはりブラジルってのは恐ろしい、とあらためて思う。
そのまま明らかにブラジルペースのまま前半が終わった。本当に強い。

しかし、試合は後半に入ってまったく異なる様相を見せるようになる。ブラジルがオウンゴールで失点すると、
まったく焦る必要などないのに、急に浮き足立ってしまう。それまでの組織プレーに翳りが見えだす。
スナイデルがイヤらしく(やっぱり偏見)ヘッドを決めると、完全にブラジルの調子は狂ってしまった。
(どうでもいいが、スナイデルのゴールはぜんぶイヤらしく見える。それだけ「効いている」ってことね。)
後半28分には相手を踏みつけるプレーでレッドカードが出て、ブラジルは10人になる。この時点で完全に勝負あり。
2-1というスコアでオランダがブラジルを倒したという事実は、きちんと試合を見た人間には妥当なものに映ったと思う。

ドゥンガが徹底した組織的なサッカーが、たったひとつのオウンゴールで崩壊してしまった。
もともとブラジルには向かなかったんだ、という意見もあるのかもしれないが、
それにしてもここまで脆く崩れてしまったのはショックだった。これがW杯ということなのか。

それにしても、どんどん試合運びが難しくなっていく中、審判はよくがんばったと思う。
西村主審はかつて甲府の試合でめちゃくちゃなジャッジをやらかしたこともあって(→2008.4.6)、
大丈夫かよオイ、と思いながら見ていたのだが、毅然とした態度でよく試合をコントロールしていた。
ぜひぜひその調子でJリーグでもすばらしいジャッジを広げていってほしい。


2010.7.1 (Thu.)

生徒が! 勝手に! 『トモダチコレクション』にオレを登場させている!
クロワッサンが好物という設定になっているらしい。「チャーハンがないんだもん」だと。
「コノヤロー、ギャラを払えギャラを」と言ったら、「やだよー」と断られた。うーむ。
ゲームの中のオレはどっかの女の子と勝手に熱愛でも繰り広げているのだろうか。きゃああああ


diary 2010.6.

diary 2010

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