テスト返却なのであった。みっちりと解説をつけたのだが、とにかく生徒に考えてほしいのは出題の意図。
最近の子どもはテストを「評価の機会」とだけ捉え、「ミスを糧に成長する機会」とは思わない傾向が強いと感じる。
だから評価が不当だと文句を言ってくるという話をあちこちで聞く。年々、生徒(と親)の視野は狭くなっている。
僕としてはそういうことがないように、そりゃもうぎっちりと、懇切丁寧に改善の手立てを説明していくわけだ。
おかげで点数についても成績についても、文句を言われたことは一度もない。まあこの先どうなるかわかりませんが。
しかし評価が不当だと文句を言う、その神経がわからん(ごくごくたまに軸のおかしい教員はいるが、極めて稀)。
大した能力もないくせに自信だけはいっちょまえ、その根拠を知りたい。いや、知りたくもない。まず己を知れよと。
木下是雄『理科系の作文技術』。名著中の名著として知られる存在だが、僕は今まで読んだことがなかった。
このたび職務上の必要もあって読んだのだが、よくこれを読まないでやってこれたなあと自分に呆れたのであった。
どんな人もできるだけ早いうちに読んでおいた方がいい本ですね、これ。文系でも大学生なら必須レヴェルですわ。なぜ今までこの本について食わず嫌いを続けてきたかというと、タイトルの「理科系」に引っかかっていたから。
理系を捨てて社会学部に走った僕としては、もうそれだけで後ろめたかったのである。少なくとも大学時代はそう。
だから大学院に入った時点で喜び勇んで読んでいれば、僕の院生生活はまた違っていたかもしれないなあと思う。
でも生意気盛りの僕には、文系のバックグラウンドへの誇り、また「理科系」という括り自体への反発心もあって、
それでこの本を読むことがないままで就職してしまった。出版社での基礎知識になる内容も網羅している本なのにね。
というわけで、この本を避けたことで自分の変な癖を矯正できないままで来てしまったことにようやく気づいた感じ。
ついこないだもcirco氏にこの日記の読みにくさを指摘されたばかりでして。この日記は「A類」の備忘録なので許して。
問題の本質は、僕が他人向けの「B類」の文章を書こうとしない性根の方にあるのだ。書きたいように書いているだけ。筆者が「理科系」にこだわるのは、実は逆説的に「文科系」というか「文学系」の文章を大事に思っているからだ。
きちんと読むと、日本語の可能性をしっかり信じたうえで、その叙情的な要素を排除する文章を論じているのだ。
むしろ、読んでくれる他人に誤読させない日本語の可能性を整理しようという本なのである。それが「理科系」の文。
つまり筆者なりの日本語への愛情表現として「理科系」という言葉が使われている。そこには理系の誇りもあるけどね。
それがわかるともう、ぐうの音も出ません。多くの人が感覚で済ませていることを、とことん論理的に整理していく。徹底しているのは、これはあくまで自分の考えであって、採り入れるかどうかは読者の自由だ、という姿勢を貫く点。
自分にとってのベストを、読者にとってのベターとして提案している。押し付けがましくない。それが本当にすごい。
この本は「理科系」の考え方で貫かれているから、曖昧さを排除して断定的な文体を推奨し、またそう書かれている。
そうすると、筆者にとっての正義をふりかざす調子になりがちだろう。ところが、それがまったくないのである。
筆者は述語にかなり気をつかっている。「~を勧める。」「~するといい。」「~と考える。」といった表現が目立つ。
多用されているのは「~べきである。」で、これは根拠を論理的に書き連ねた最後に出されると納得せざるをえず、
気になる表現とはならない。どこかのバカ(→2021.1.11)とは品格が違う。これが教養というものなのだな、と思う。「理科系」とはあくまで筆者の定義なので、それに囚われてしまうと本当にもったいない。みんなが読むべき名著。
『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』のアニメを見てみたよ。原作は8巻の修学旅行をきっかけに、
もこっちがモテモテでえらいことになっているが(→2020.1.1/2020.3.14)、アニメは4巻の1年生までで終わる。
つまり自分の高校に友達が存在せず、他校に通っているゆうちゃん(天使)だけが頼り、という状況である。
そのため、ぼっちとして苦しむもこっちを純粋に味わうアニメとなっている。うーん、自ギャグの詩。もともと海外のぼっち間で人気が出て逆輸入で日本でも話題になったわけで、そこをアニメ化した意義は大きい。
アニメの多様性という点で非常によいと思う。その後のもこっちモテ展開はどうせ美少女動物園扱いを食らうだけなので、
もはや再アニメ化せんでもいいのである。ペーソスにしてユーモアなもこっちの格闘を映像で残した、それでよいのだ。内容もよくできていると思う。どうしてももこっちのモノローグ中心となってしまうが、表現に工夫が多いし。
オープニング曲の異様なハマり方もよい。個人的には各話ラストの鷹の爪団みたいな黒木姉弟のやりとりが妙に好きで、
最終話でそれが本編に流れ込んできたのは巧いなあと。狭い世界観の中、やれることをできるだけやっている感触。
自分から進んで繰り返し見るかというとそれはないが(だからそりゃまあDVDは売れないだろうなあと思う)、
質の高い映像化ということで、ネット時代には動画として一定の評価を得つづけるのではないでしょうか。ところで単行本8巻の表紙って、これ絶対に『Abbey Road』だよね(向きが逆だけど)。いや、すごく好きです。
本日はテスト最終日で、日本史Bの出番。50分で全100問を解かせるというハードな内容になってしまったが、
思っていたよりはできていたのであった。満点近くとった生徒もいたし。偉いなあ、と感心するしかないぜ。
ちょっと無茶ではあったが、これで各種データがとれたのでヨシ。誰がどれだけ日本史が得意なのか、不得意なのか、
漢字が書けない程度、文章力といった個人データから、問題作成・配点の塩梅といったこっちの事情までいろいろ。
期末テストでは問題をつくる労力が単純に3倍になるので、いかに省エネしていくかのヒントがわかったのは大きい。帰りは駅の反対側にある温泉施設に寄る。大田区から川崎、横浜にかけてはモール泉(→2014.8.21)が出るようで、
温度的には鉱泉だがそれを加温した「黒湯」を売りにした施設が点在しているのだ。これがなかなかよかった。
少しずつではあるが、日常生活の摩擦を減らす要素が見つかってきつつある。うまくやりくりしていきたいものだ。
『はらぺこあおむし』でおなじみのエリック=カールが亡くなった。テレビやネット記事でも意外に扱いが大きく、
最近になってグッズもよく見かけるようになったし、それだけお世話になった人が多かったんだなあと思う。4年前に世田谷美術館の『エリック・カール展 The Art of Eric Carle』を見に行ったが(→2017.7.1)、
際立つ作家性が非常に印象に残った。唯一無二のことができる芸術家が、絵本というフィールドで無双したわけだ。
しかも『はらぺこあおむし』は仕掛け絵本(初版が日本で印刷・製本されたエピソードが盛んに紹介されている)。
単なる絵本の枠を超える要素がみっちり詰まっていたのだ。魅了されて当たり前のクオリティだとあらためて思う。
大阪の国立民族学博物館では、世界各国の言語を紹介するのに『はらぺこあおむし』が使われており(→2013.9.29)、
その普遍的な価値がうかがえる。時代を超える偉大な古典をありがとうございました。
『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』のアニメ全15話を見ましたのでその感想を。……と言いたいところだが、
ただただ「なんだこりゃ」なのであった。設定の妄想度合いがひどすぎて。幼稚性すら感じる。さすがラノベ原作。
しょーがないんだ、しょーがないんだ、これは妹のためだから、と言い訳するシスコン兄貴を延々と見せられてゲンナリ。
妹もかわいくないし。中の人は圧倒的にかわいいのにねえ。妹にとって都合のいい兄、というのはまあいいとして、
その兄にとって妹がどんな存在なのか。兄が尽くしまくるのに、「家族だから」という理由が、実は欠如している。
ここがおかしい。表面上は家族愛で動いているが、実際のところは兄の行動には「打算がない」だけであって、
同じ理屈で黒猫に対しても動いている(まあこの「打算のなさ」がいかにもラノベの主人公らしい部分だ →2020.4.3)。
つまり「打算がない」行動は、兄(=作者・読者)の自己満足のためなのだ。相手のためというエクスキューズだけど、
実は自分のやりたいことだからやっているだけ。ここをごまかして妹に尽くす姿を正当化するのが本当に気持ち悪い。高坂兄妹とあやせが自分のことしか考えていないのに対し、黒猫と沙織・バジーナは純粋に友情で動くキャラである。
結果、作中で最もいい女は沙織・バジーナで、かわいいのは黒猫となる。この2人に兄が混じって同じ行動をとるのが、
またずるいところなのだ。沙織と黒猫を使ってセルフィッシュロンダリングしている構図が非常に汚いと思う。
僕には黒猫がかわいいだけのアニメでしたなー。で、妹をダシに黒猫との関係を引っ張れる話なのもまたずるいわ。主題歌はかなり好きなんですよ。でも歌い方だけがすごく嫌い。なんでアニメの人はああいう歌い方すんのかな。
まっすぐに声を出さずに鼻にかけた裏声に近い形で逃げる感じ。まあそれがアニメファンの好みってことなんだろうけど。
本日より中間テスト開始である。中学と似ている面もあれば、ぜんぜん違う面もある。まだまだ慣れない。
午後に休みをとったら顎関節症が劇的に改善してやんの。これがずっと続けばいいのだが、そうもいかないんだろうなあ。
2018年8月の宮城旅行の画像を加工しているけど、これがとんでもない量で、本当にキリがない。
加工しながら「いい旅行してるなあ」としみじみ思うんだけど、おかげで収拾がつかないよ。
日記が書き上がるのはいつになるやら。今年の夏はこのタイムスリップで終わるんですかね。
テストつくり終わったー! 週明けの教員間チェックを無事に抜けてくれることを祈るばかりである。
しかし游ゴシックを使うとデザインが一気にセンター試験っぽくなってしまう不思議。堅実だが朴訥に過ぎる。
これまで小塚ゴシックばっかり使ってきたし、日本史だし、ということで游ゴシックにしたのだが、どうだろうなあ。
同じゴシックでも文や文章としてまとまると、明らかに印象が変わるのが恐ろしい。奥が深すぎる(→2018.11.20)。
明朝体もやっぱり印象が違って、小塚明朝は文章となるとどうもイヤミな癖がある。その点、ヒラギノはさすがの安定感。
そんなところにばかりこだわっているから顎関節症になるくらい追い込まれるのだ、と言われればそれまでだが、
そこはやっぱり元出版社勤務ということで手を抜けない部分なのだ。ポップなデザインは重要なのだよ(→2018.8.5)。日本史だけでなく世界史と現代社会もつくらなくちゃいけなくなる期末テストが本当に怖い……。
中二病なので自分のマークをつくってみたよ。こないだの家紋(→2020.12.14)とはまた別で、名付けて「松仙マーク」。
ご想像のとおり、テストづくり中に現実逃避してイラレでつくった。
どの辺が「松」なのかというと、木偏を省略して「公」であり、どの辺が「仙」なのかというと、「人偏に山」なのだ。
ついでに言うと三角で「島」でもある。「嶋」でも「山」「鳥」と解釈できるデザインに仕上がっていると思うわけです。
あと、個人的には顔の三角ぼくろも意識していないことはない。まあ理由というのはいくらでも付け足せるものだね。
シトロエンは関係ないです。ヒュンメルとかシェブロンとかも関係ないです。イマイチ使いどころがないけど、どうずら。◇
さて、どうやら『艦これ』ではついに宗谷が実装されたらしいではないか。これはうれしいが、確保はいつになるやら。
エピソードに触れるだけで楽しくなってしまう船が注目されると、それだけでほっこりしてしまう。見に行きたいねえ。
日本史の問題づくりは、いざやってみると、クイズでいうところの最終限定が難しい。
出題者には「こう答えてほしい」という想定した解答があるけど、そこへ誘導するためには論理的な詰めが必要だ。
答えがひとつのコースに絞れなかったら、それは悪問なのである。ピッチャーの球を受けるキャッチャーのごとし。
ストライクを取るために、できる工夫はぜんぶやっておかないといけない。なんでもピッチャーのせいにできないのよ。
今回が初めての実戦なので、その辺の機微が正直まだまだわからない。それでいろいろ考えすぎて苦しんでおります。
テストづくりで完全に消耗しきっている。行きも帰りも電車の中でスヤスヤ。よく乗り過ごさないで済んでいると思う。
授業が日本史・世界史・現代社会のフルコースなのと、教務系の仕事がガンガン舞い込んでくるのとで、休む暇がない。
そして放課後は問題づくりに没頭し、家に着いたら風呂に入る力だけが残っている。あがったら即、寝ている感じ。
顎関節症もキツい。これは結局、顎の骨というよりは筋肉・神経の問題であるみたい。つまりはストレスなのだ。
確かに風呂に入ってリラックスしている間だけ、症状が信じられないほど改善する。でも朝起きると元に戻っている。
対策としては今の生活に慣れるしかないのだが、それまでどうしたものか。せめて顎関節症だけはなんとかしたい。
田村正和が亡くなったとのことで。僕はやっぱり、『古畑任三郎』だなあ(→2008.11.22/2008.12.27)。
詳しいことは過去ログで書いたとおりなのでそっちを参照していただきたい。……うーん、亡くなってしまったか。田村正和がすごいのは、他人から自分がどう見えているかが完全にわかっているところ。「型」の演技をするのも、
おそらくそれが理由だろう。誰が見ても納得できる「型」をつくりあげておき、それを自分の身体で再現するわけだ。
これを一般人が身につけるのは、かなり難しいことだと思う。父親が阪東妻三郎だからこそできた、先天性のものだ。
僕は田村正和自身の演技力にはイマイチ疑問があるが、なんせ「型」の説得力が凄まじいので納得せざるをえない。
そういうものすごい力技を持っている俳優は、さすがに今後現れないのではないかと思う。そしてなんといっても、
その「型」ではない部分をまったく見せないままで人生を終えたこと。とんでもねえ俳優だったなあとあらためて思う。
しかしこうしてのたうち回りながらテスト問題をつくっていると、中学校でご一緒した社会の先生の偉大さがわかる。
実は将来参考になるはずと考えて、4年前の異動の際、その先生がつくった社会の過去問をすべてコピーしておいたのだ。
われながらファインプレーである。計画的犯行である。こうも上手くいくとは。で、あらためて読み込んでみるが、
毎年毎年きちんと出題の仕方を変えている。社会なんて教える内容が変わるわけでもないのに、丁寧につくっている。
その先生は生活指導主任で学年主任でめちゃくちゃ忙しかったはずなのに、ここまでできるものなのかと驚いた。
いや、ものすごく能力の高い方なのは十分わかっていたけれど、それにしてもすごい。ただただ驚嘆するのみです。
テストづくりを始めるが、勝手がわからないのでなんとも。ほかの先生のをパク……参考にするのだが、
どうしても不思議なのが問題数がやけに多いこと。確認してみたところ、なんと189点満点だったというオチ。
これはずいぶん潔いシステムだなあと思うのであった。オレは189点分も問題を用意できないなあ……。
ここ最近のニュースだの世間の動きだの、すべてに言えることをまとめてしまうと、
「他人を自分の思いどおりにすることは決してできない」ということを突きつけられているのだと思う。
オリンピック、コロナ対策、マスコミへの文句、各種の差別、海外の政治・軍事問題、ぜーんぶそう。自分の思いを他人に提案するときには、相手を納得させるだけの素材を用意する必要がある。
これが拒否されたとき、素材が不足していたと考えるか、納得してくれない相手が悪いと考えるか。
前者の姿勢を貫いてさらなる素材を求めることが教養・知性であり、人間としての懐の深さだと僕は考える。
後者のままで留まっている人が、そこから成長することは永遠にない。それが真理なのだ。(参考までに、他人の思いどおりに振る舞うことでお金をもらうことについては過去ログ参照 →2013.3.20)
昨日から突然、顎の噛み合わせの調子が非常に悪い。噛むといちいち痛いので、物を食べるのが地味につらい。
もともと右顎に微妙なズレを長らく感じていたのだが、急にひどくなった。原因がわからないから困る。まいった。
『PUI PUI モルカー』を見てみたよ。モルモットの車である「モルカー」たちを描いたストップモーションアニメ。
見ていない人には、この「モルモットの車」という表現が何がなんだかだと思うのだが、そうなんだからしょうがない。
モルモットにして車。メシも食えば排泄もする。でも人間が運転している。この人間の混ぜ方が天才的だと思う。
「よくわからないもの」を「よくわからないもの」のままで話を進めていける想像力は、特別なものだと思うのだ。
大半の作品は、設定・定義を掘り下げることで物語を進めていくものだ。謎と解決のカタルシスで受け手を引っ張る。
しかし、一度決めた設定・定義を振り返ることなく積み上げていくことも、確かに可能なのだ。その凄みを味わえる。序盤についてはネット上で「人間は愚か」という感想がひたすら繰り返されており、実際そのとおりである。
ところが中盤からはっきりと、人間抜きで、キャラクター性を持たせたうえでのアドヴェンチャーが繰り広げられる。
なんだかあんまりほかのアニメと変わんなくなっちゃったなあと思いつつ見ていったら、最後でまた人間が出てきた。
人間を出すと話がシニカルに行ってしまうので、監督がそれを避けたということだろうか。「揺れ」を感じる。
これはつまり、「訴えたいことがない」ということなのだと思う。人間に対してシニカルになったのはたまたまで、
それを訴えたいわけではない。だからキャラクターアニメにも振れる。でもそれはカワイイだけでしかない。
だから最終話で人間を出して差別化をしたのだろう。良く言えば柔軟だが、悪く言えばモルカー動かしたいだけ。
モルカーは手段でなく、目的になっちゃっているわけだ。テーマ性の欠如が非常にもったいない作品だなあと思う。というわけで、僕の評価としては「もっと鋭くやれるのに中途半端だったなあ」といったところである。
いや、カメラワークやアニメとして動かしていく技術はものすごい。才能というものの恐ろしさを残酷なまでに感じる。
それだけに、モルカーを動かすことで満足してしまっていることをもったいなく感じる。過大評価はしたくない。
まあ監督さんはこれからですよね。モルカーで満足するのか、手段と目的をそれぞれ追求していくのか。
天才的なものを持っているからには、ぜひ苦しんでいただきたい。天才にしかできない苦しみを突き抜けていただきたい。
本日は身体測定で授業なし。でも変に疲れた。中学でもおなじみだった視力検査の担当だったけど、高校でもやるのね。
環境が変わっても、「視力検査で『横!』って答えた生徒がいましたよ」という話は鉄板でウケるのであった。
過去問を研究・分析するなどテストづくりの準備を始めているけど、先生によっていろいろクセがあるなあと。
いや、自分も英語のテストではやりたい放題やっていたわけで(地頭が問われるテストで復習すると力がつくテスト)、
高校ならもっとフリーダムになるわなと思いつつ、出題形式の引き出しを増やすための読み込み作業をしております。
知識穴埋め問題だけでなく、地図を使ったり年表を使ったり写真を使ったり論述入れたりしてみたいお年頃なのです。
とりあえず、出したい問題を箇条書きにすることからやっている。デザイン組むのにどれくらい時間がかかるかなあ。
イニエスタ契約延長ありがとう! この契約が終わるまでに、なんとか2~3試合ぐらい観たいなあと思う。
ホームの神戸で観戦できれば最高なんだけどね。なるべく早くその日が来ることを祈るのみである。
本日はオンライン授業日なのであった。去年経験されている先生方はいいけど、こちとら何もかもが初めてなのだ。
とりあえず、凝ったことはしないでふつうに出席確認してプリントの続きを解説しつつ写真も見せる、そんな感じ。
やっていて、これは教師になったと妄想している人が独り言で授業っぽいことをやっとるのと変わらんやんけ、と思う。
頭の片隅ではそんな思いを抱えつつも、ふつうに授業をやっていく脳内並行感覚。なかなかにカオスでございました。
ユーチューバーとかいつもこんなことしとるんか。目の前に人がいないのに見られている感覚ってのは難しいですなあ。
それにしても画面に映る自分は太って見えていけませんな。いや、実際に太ったんだが。節制に努めねば。
休みってのは本当にいいものですなあ。ゴールデンウィークとこの週末のおかげで、ずいぶん楽になった気がする。
ここから夏休みまでは「死のロード」って感じだが、よけいな力を抜いて、なんとかうまくやりくりしていきたいものだ。
ゴールデンウィークから引き続き、どこかへ出かけることもなく日記と部屋の片付けに集中する。
いま課題となっているのは、膨大な量になっているCDの処遇だ。手元に残しておきたいものと、実家送りのものと、
売却してしまうものと、分けないといけない。しかしその前にMP3化がきちんと完了しているかどうか確認が必要で、
そこでも手間がかかっている状況なのだ。iTunesはiTunesで、アートワークを中心にやるべき作業がてんこ盛り。
こういうのは日記と同じで、一気にやろうとするのではなく、毎日少しずつ進めていくのが一番なんだけどね。
懐かしい曲に引っかかるという罠に悪戦苦闘しておりますが、着実に減らしていけるようにがんばります。
今日は日本史はなかったが、現代社会でタービンで発電する仕組みを説明し、世界史でルネサンスの作品の意義を語る。
社会科が物好きに向いている教科であるとはいえ、今まで貯め込んできたものを毎日フル活用しておるわけです。それにしても、10代の頃は、自分が美術史がある程度得意な人間になるなんてまったく思っていなかったなあ。
circo氏と潤平は高校時代に美術班に所属していたのだが、僕は興味ゼロでひたすら左打席での素振りとDTMだった。
絵についてはどう転んでも潤平に勝てないので(立体造形なら勝てる)、それで勝手に諦めちゃっていたところはある。そんな僕が美術方面に興味を持つようになったきっかけははっきりしていて、大学1年のときになぜか見に行った、
東京都現代美術館の「ポンピドー・コレクション展」なのだ。ネットにきちんとアーカイブが残っていた。偉いぜ現美。
これが質・量ともにすばらしいもので、実家に報告したら当時高校生だった潤平がこのために上京してきたんでやんの。
現美は常設展のレヴェルも高くて、それで「美術って実は面白いんじゃないか?」と思いはじめたというわけだ。
それからは、気が向いたらちょこちょこ都内の美術館に行くようになったのだ。そうやって量を体験していくうちに、
だんだん体系立てて理解できるようになる。なんとなくだった自分の好みについても客観的に位置付けられるようになる。
初めての海外旅行も、美術館・博物館めぐりということで行き先をニューヨークにしたもんよ(→2008.5.8/2008.5.9)。
そうやっていつの間にか得意なものにできたわけだ。興味を持つこと、継続することの大切さを実感するのであった。
来週の日本史オンライン授業に向けて進度を調整しつつ展開を考える。もちろん他の科目の準備も同時並行だ。
オンライン授業は生徒の反応がよくわからない状態で進めることになるので、あらかじめ展開を予想して、
脚本を用意しておかないといけない。しっかり手順を決めておかないと、ドッチラケになるのが目に見える。
ざっくりとプランを練ってみたのだが、業界ではそれを「指導案」と呼ぶことに後で気がついた。ワァ~オ!
ゴールデンウィークも今日が最終日である。なんとも贅沢極まりない5日間だったなあと思う。
明日からの平日を2日間やり過ごせばまた週末ということで、根を詰めずに日記を書き、部屋の中の物を片付ける。
とにかく床に直置きしているものをなんとかしないといかん。どんどん領土を回復していってレコンキスタである。
あとは未整理の御守をまとめていく。これでようやく、方向性が見えてきたかな、という感じ。引き続きがんばる。
読みづらい天気が続いて大変である。どこかにお出かけするわけではないので大迷惑というほどではないが、
いつ雨が降ってくるのかわからなくて、夕方の「カフェで日記書き→晩飯」という流れをつかみづらい。微妙に困る。
特に先週末は「うおー市役所撮りに行きてえー!」と叫びたくなるほどの快晴からの急変だったのが信じられなかった。
しょうがないので夜は部屋の中のよけいな物を減らしていくことに集中しているが、なかなかペースが上がらない。
特に今は、ゴミは出ているが室内が整理できていないという段階なので、途方に暮れつつ地道に取り組んでいる感じ。
「大事の前の小事」ってやつですかね、本当に細かい部分の整理をやっている。ここから一気に行けるといいが。ところで日記の方は、やっとこさ旧麹町区を書き上げた。東京ってのは歴史がありすぎて、まとめるのが本当にキツい。
通勤用ということで新たなFREITAGを購入してしまいました。今回はHAZZARDです。銀色ベースです。
HAZZARDを買う日が来るとは思わなかったなあ。
ほぼ毎日使っていたBOBの傷みがけっこう厳しくて、通勤は歩きの時間が長いので、もう背負っちゃおうかなあと。
(調べてみたら、BOB買ったのって7年も前かよ! もっと最近だと思ってた(→2014.3.30)。そりゃ傷むわなあ。)
部活を必死でやることもないし、そうなるとコンパクトで雨に強そうなものがいいなあ、ってことでHAZZARDです。
よく考えたら15年モノのDRAGNETでもいいような気もするが、仕事とプライヴェイトは分けましょうってことで。
本やプリントの持ち運びが多くなりそうなので、どんどん便利に使っていこうと思っております。……何個目だ?
いっそのこと、FREITAGのコレクションページをつくってしまおうか。でも総額おいくらとか考えると怖くてできねえ。今回久々にFREITAGをチェックして驚いたのは、知らんうちにBONANZAが復活していたこと。これは本当にうれしい。
新しいものを買うわけではないけど、やっぱりBONANZAは便利ってことだね。あれは旅行に最高のバッグだよ。
本日ようやく2018年7月分の日記を書き終えたのであった。本当にすいません。かなりがんばっちゃいるんですけどね。
この一月分を仕上げるのに2ヶ月半ほどかかったわけで、日記を放置することの恐ろしさを痛感しております……。
8月は8月で旅行に千代田区めぐりにと手間のかかる内容になっていて、いつ書き上がるかまったく想像もつかない。
授業準備に部屋の片付けに日記の清算と、毎日やることだらけで大変。まあぜんぶ自業自得なんだけどね。
ゴールデンウィークが本格的にスタートなのだが、こちとらそんなの関係なくひたすら日記と片付けである。
今日は各種荷物の受け取りを集中させたので、不要物を整理しながらも物が増えるという少々微妙な感じに。
まあ全体の量を減らせばいいだろう、ということで割り切って作業に勤しむ。思い切っていろいろ捨てるが、
それはやっぱりこれまで買い込んできたことの否定でもあるので、過去を振り返ってしまい、なかなかに切ない。