diary 2013.3.

diary 2013.4.


2013.3.31 (Sun.)

最終日なので職場の片付けに追われる。作業をしていて非常に淋しい。だからなかなか思うように進まない。
それでもどうにか夕方までに荷物の箱詰めを終えると、運送業者を呼んで新しい職場へ持っていってもらう。

この場所が明日から自分の居場所じゃなくなる、という感覚がとっても変だ。
ある日突然、当たり前が当たり前じゃなくなることが、どれだけの違和感なのか、身をもって体験している真っ最中だ。
午前0時を過ぎたらいきなり自分が他者、という切り替わりが、なんとも不思議に思えてたまらない。
思えば自分の卒業式には次の入学式までのモラトリアムがあったので、特に気になることはなかった。
でも今回はそれがまったくないのだ。次の段階へ進むという昂揚感もまったくないし。違和感だけがする。

まあここはできるだけポジティヴに、「卒業」気分でいきたいと思う。あるいは「脱皮」。
どんなに望んでもこの場所に戻ってくることはできないので、そうなったら行った先で居場所を確保するしかないのだ。
謙虚に、かつ、ふてぶてしく。ここで過ごした日々を自分の根拠にして、たくましく船出をするとしましょう。
総じて楽しい時間を過ごさせてもらって、本当にありがとうございました。


2013.3.30 (Sat.)

今日の部活は「3年生お別れ試合」ということで設定してみた。僕自身はそういうのはあまり好きではないのだが、
なんせ僕自身がお別れしてしまう身分なので、やっておかないと生徒が混乱するだろうからやった、そんな感じだ。

3年生たちは久しぶりの部活なのだが、さすがにしっかりと今までの経験が生きていて、いい動きをする。
それに比べてふだん練習をしているはずの下級生たちは、終始圧倒されっぱなしなのであった。頼りないなあ。
今回は「ハンデ」ということで、僕と次期監督の先生が3年生側に入ったのだが、それでも結果は変わらず。
細かいことは一切抜きで、休憩を挟みながらも、とにかく時間いっぱいゲームをまわしていく。
こういうふうに何の気兼ねもなくサッカーを純粋に楽しめる時間は、この先そうそうあるもんじゃないのだ。
それをみんなわかっているので、設定された時間いっぱい、ただひたすら夢中でプレーしたのであった。

終わりの時刻になったので、いつもどおりに片付けをして、最後に集まったときに顧問の交代を発表。
併せて僕が異動することも伝える。生徒の反応は意外と薄くて、なんだか淡々と受け止めている感じである。
もしかしたら、みんなある程度予想していたのかもしれない。まあ、人生に別れはつきものだからしょうがないですよ。

しばらく職員室で片付け作業をしていたら、部員のひとりが現れて、僕にサッカーボールを渡してすぐに去っていった。
どうやら発作的にお別れプレゼントを贈りたくなったようで、そのサッカーボールにはメッセージが書かれていた。
ただ、あまりにも発作的だったようで、誤字(しかも自分の学校名を間違えとる!)はあるわ、字も汚いわ、
おまけにサッカーボールじたいが使い古したやつだわで、担任の先生を介して「やり直し!」と命じる僕なのであった。
気持ちはすごくうれしいのだが、相手のことを考えたプレゼントでないとそれはただの自己満足にすぎないのである。
中学生なんだからいいかげんその辺のことを理解しなさい、と伝言をお願いしておいた。最後まで困ったもんである。

しかしまあ、別れってのは切なくってたまんねえなあ! これでもお兄さんはけっこうへこんでいるんだよ!


2013.3.29 (Fri.)

東京に戻ってきて、職場での片付けを本格的に開始する。これまでもちょこちょこと下ごしらえをしていたのだが、
ここで一気に荷物をまとめはじめる。書類さえ整理してしまえば、あとは段ボール箱に詰め込むだけなのだ。
詰め込むためのユニットづくりをガンガン進めていく。そしていらないと判断したものはどんどん捨てていく。
表面上は作業が進んでいるようにはあまり見えないのだが、水面下ではいつでも荷物を出せる形に仕上がっていく。

書類の整理をしていると、僕が今の職場にやってきた当時のものなど、懐かしいものがどんどん見つかる。
それらを素直に懐かしがっていると作業が進まないのは、家のアルバムやマンガ『火の鳥』でよくわかっているので、
できるだけそのまままとめてしまう。で、休憩時間にこの4年間の厚みについてぼんやりと思い出してみる。
ちったぁたくましくなっているとは思うが、劇的に成長した気はしない。時間の流れの早さを思うのみである。


2013.3.28 (Thu.)

サッカー・日本代表のヨルダン戦。日本時間で26日の深夜に行われた試合だが、後で録画したのを見たので、
今日の日記ということで書いておく。長友と本田をケガで欠いてのアウェイゲーム、しかも舞台は中東。
いくらホームで6-0で勝っている相手であるとはいえ(→2012.6.8)、まったく油断できない試合だ。
日本は引き分けでもW杯出場が決まるのだが、そう簡単にはいかないだろうと思っているうちにキックオフ。

序盤から日本はよく攻めているのだが、なかなか得点するにまでは至らない。
ヨルダンもそれなりに攻めて、客観的に見れば緊迫した好ゲーム。やはりアウェイは甘くないのだ。
印象としては、ヨルダンもよく守っているけど、それ以上に日本の攻撃がアイデア不足に思える。
サイドからクロスばっかりじゃなくって、ミドルを積極的に撃ってこぼれ球に飛び込むサッカーを見たい。

先制したのはヨルダンで、前半アディショナルタイムにCKからヘッドをあっさりと決められた。
そして後半の60分、ドリブルから決められた2点目はあまりにお粗末すぎ。吉田は何をやっとるんじゃ。
困ったのは2点ビハインドになったところでハーフナー=マイクを呼ぶ采配。それで勝てるはずがないだろう。
本田がいなけりゃ別の戦術で攻めるべきなのだが、それができないという限界を突かれたように思う。
それでも69分の香川のゴールはいい連携だった。とはいえ、もっと泥臭いシュートをたくさん狙ってほしいところだ。
状況に応じて、崩しの形にこだわったり、縦に速く攻めたり、いろんな引き出しがあるといいのだが。
結局、ベタ引きのヨルダンを攻めきれないまま1-2で試合は終了。ハーフナー入れて雑なサッカーやっとるからじゃ。

しかしレーザーは汚いな。遠藤のPK失敗はレーザーが原因ではなく、相手GKのファインプレーによるものだが、
レーザーを当てるという行為は、自らGKのそのファインプレーの価値を貶めてしまうことにほかならない。
そういうことがわからないというのは、とても貧しいことだと思う。なんだか虚しくてたまらない気分になっちゃうよ。


2013.3.27 (Wed.)

異動ということで、この年度替わりはいろいろと神経を使う事態になっている。
それで親からの勧めに素直に従い、実家にちょっと帰ってのんびり過ごすことにしたのだ。
まあ僕の場合、「実家にちょっと帰って」の前に何かしらの街歩きが挟まるのは必然なのである。
今回は短い休暇を有効に活用すべく、夜行バスで名古屋に出ておいて、そこから寄り道しながら帰ることにした。
岐阜県内の市役所をこまめにつぶしつつ、最後は土岐でcirco氏と合流し、アウトレットに行こうじゃないか、と。
なぜ土岐のアウトレットに行く必要があるのかというと、時計をなくしたからだコノヤロウ(→2013.3.3)!
お気に入りの時計(→2010.12.31)をなくしてしまい、僕は今月ずっと、極限までへこみまくっていたのである。
小学生のときに川でcirco氏のアーミーナイフをなくしたときと同じくらいのへこみっぷりなのである。ハァー……

バスが名古屋駅に着いたのは6時45分ごろのこと。少し太閤口周辺をブラついてから、開店直後のコメダ珈琲店に入る。
ここで優雅にコーヒーをいただきつつ本を読みながらメシを食って時間調整をしようという魂胆なのだ。
春は天気が変わりやすいというけれど、今年は曇りやぐずついた天気がやたらと多い気がする。
旅先で雲に覆われた空の下を歩くのは、かなり気が滅入るものだ。実はまず清須市を攻めるつもりで計画を練ったのだが、
桑名でやり残したこともあるし(→2012.12.28)、それはまた次の機会にセットで、ということにしてしまう。
今日は余裕を持って岐阜県内の市役所つぶしに専念するのだ。のんびりと街を歩きましょう、と。

ほどよく時間が経ったところで名古屋から岐阜へと移動。改札を抜けると少し歩いて名鉄岐阜駅へ。
JRの高山本線と名鉄各務原線は岐阜から鵜沼まで見事に並走しており、名鉄の方が駅の数が多くなっている。
まず最初の目的地である各務原市役所はJRだと少し歩くが、名鉄だと各務原市役所前駅で降りればいいので、
わざわざ名鉄に乗ってみることにしたわけだ。名鉄の勢力圏もきちんと歩かなくちゃいけないなあ、と思う。
ちなみに、各務原は自治体名としては「かかみがはら」と読む。しかしJRの駅名は各務ヶ原で「かがみがはら」となっている。
地元でも「かがみはら」という呼び方があるなど、いまだに一定していないのだ。現代では非常に珍しい状態である。

各務原市役所前駅で列車を降りると、そのまま南へ。すると左手にいかにもなベージュの建物が見えてくる。
なかなか立派な市役所である。各務原といえば航空自衛隊の基地だ。中学生のときに家族で航空祭に行ったっけ。
あのときにはF-15の生音に感動したものだ。T-4なんかの練習機とは比べ物にならない、迫力のある音だった。
そんな自衛隊基地は市役所からわりとすぐ南にある。市役所が立派なのも、基地がある関係なのかな、と想像する。

  
L: 各務原市役所の裏側。  C: 正面より撮影。  R: 角度を少し変えてみた。正面がすごく撮影しやすい市役所だぜ。

各務原ってのも地図を見るとなんだかまとまりのない土地で、東西に並ぶ駅のどこがいちばん中心なのかよくわからない。
もともとこの辺りはかなり水はけのよい台地なので稲作ができず、明治になるまでほとんどが原野だったそうだ。
そのため、明治期になってから軍事基地・演習場や工場・大学が置かれることで発展してきた場所なのである。
ネットにあった『各務原市史 史料編』の目次を見ると、1960年代前半には市庁舎の建設が大問題となっていたようで、
「各務原市庁舎どこへゆく」「市庁舎問題ようやくピリオド」なんてタイトルがみられる。なかなか正直である。
1965年に市庁舎は蘇原古市場町から那加桜町に移転し、1972年に現在の庁舎が建てられている。意外と古かった。
1970年代前半の庁舎にしては妙にオシャレなので、調べてみて驚いてしまった。でもそれが事実のようである。

 市役所の東側は広い駐車場で、そこから側面を撮影。

市役所の撮影を終えるとすぐに駅まで戻ってくる。いちおう、JR蘇原駅の西側が各務原の旧市街地と言えそうだが、
そこまで歩く「ずく」がなかったのでしょうがない。今日はそこまで必死に街歩きをする気分ではないのだ。
そのまま名鉄で新鵜沼まで揺られる。新鵜沼といえば犬山城に行ったことを思い出す(→2009.10.13)。
犬山にはもうひとつ、明治村という観光名所があるわけで、いずれそこの建築たちを見に行かないといけないのだ。
愛知県もまだまだ訪れなくちゃいけない場所がいっぱいあるなあ、と反省しながらJRのホームで列車を待つのであった。

高山本線で美濃太田まで出る。今まで美濃太田で列車を乗り換えることは何度かあったが、下車するのは初めてだ。
自治体名としては「美濃加茂市」になる。美濃加茂市なのに美濃太田駅ということで、名称にズレがあってややこしい。
駅の開業当時は加茂郡太田町だったそうで、そのことがわかればすんなりと納得がいくんだけどね。
駅前のロータリーにはこの地で生まれた坪内逍遥の像がある。向かいのホテルでレンタサイクルを借りると南へ。
さすがに美濃太田駅は交通の要衝だけあり、駅から南へと延びる商店街は古びていながらもそこそこの勢いを保っている。
なぜか12星座をモチーフにした像が歩道に並んでいる。理由がわからないので、それはちょっと不気味な要素だ。

  
L: 美濃太田の商店街。確実に古びつつあるが、勢いはそこそこ。それにしても12星座の像が謎である。
C: 市役所敷地のすぐ近くにある旧大垣共立銀行美濃加茂支店。1952年の竣工で、古き良き銀行建築のスタイル。
R: 市役所の敷地内、いちばん東側にある美濃加茂市保健センター。1983年竣工で、それらしい規模である。

1980年代らしい規模の保健センターの奥に、旧来の3階建てで美濃加茂市役所の本庁舎は今もがんばっている。
こちらは1961年の竣工で、隣の保健センターとの対比を日本のオフィス建築20年の縮図であると思うと興味深い。

  
L: 美濃加茂市役所本庁舎。なんだか、すぐ右側にある保健センターの影に隠れちゃっている感じである。
C: 角度を変えて撮影。古いわりにはよくきれいに使っている印象だ。  R: こちらは裏側から見た西館。

せっかくなので、市役所からさらに南に入って、中山道51番目の宿場である太田宿にも寄ってみる。
脇本陣林家住宅は今もその姿をしっかりと残しているが、それ以外に歴史的な建物は数えるほどしか残っていない。
しかし道の雰囲気は昔からの街道らしさを十分に感じさせてくれる。さりげなく歴史を漂わせている空間だ。

  
L: 太田宿本陣門。ただ門が残っているだけなのだが、それだけでも立派なものだ。街もそれなりに雰囲気を漂わせている。
C: 脇本陣・林家住宅。重要文化財である。  R: 街道沿いに少し東に行くと、風情を残した店がいくつかある。

ちなみに自由民権運動でおなじみの板垣退助は、この林家に泊まった翌日、岐阜で暴漢に襲われたそうだ。
「板垣死すとも自由は死せず」と言ったのはその場にいた別の人らしいけど、ま、そんな歴史とも交差する場所なのだ。
また、坪内逍遥の父はこの太田宿の役人だったそうだ。いろいろとトリヴィアのある場所だなあと思う。

 寺とその手前の食い違い。実に「宿場!」という感じがする一角だ。

美濃太田からは太多線である。実は太多線に乗るのは初めてなのだ。これでまたJR東海の乗りつぶし率が上がるのだ。
太多線は高山本線と中央本線を結ぶ役割を果たす路線で、途中に可児市がある。可児といえば可児才蔵なのだ。
そういえば、僕は南信出身なので難なく可児を「かに」と読めるのだが、知らない人はたぶん読めないだろう。

可児駅を降りると、不思議な光景が広がっていた。かなり大規模に区画整理をやっている真っ最中のようで、
あちこちで地面が露出している中、ポツポツと建物が散らばっている。道路のアスファルトもつぎはぎだ。
なんだか、駅前がやたらと閑散としているのだ。可児駅の規模から考えて、ここまで大胆な再開発は不自然な気がする。
いったいこれはなんなんだろう、と首をひねりつつ可児市役所へと歩きだす。橋を渡って再開発のエリアを抜けても、
今度は国道沿いの郊外社会の雰囲気が漂いだす。全般的に、街並みはあまり歴史を感じさせない。少し妙な感覚だ。

 可児駅周辺の再開発の様子。なぜここまで大胆にやっているのやら。

可児市が市制施行をしたのは意外と最近のことで、1982年である。1970年代から名古屋のベッドタウンとなり、
それで人口が増えて市になったそうだ。街並みから感じる妙な感じは、それと関係があるのかもしれない。
可児市役所は可児川の左岸すぐにある。弧を描いて流れる可児川に囲まれた市街地のちょうど北端にあるのだ。
建物は西側の棟と東側の棟とで大きくデザインが異なっており、増築で今の姿になったことが容易に想像できる。
しかしネットで調べてみても、詳しい経緯どころか竣工年のデータすら出てこない。困ったものである。
市制施行や合併があると、庁舎の細かいデータが上書き保存で消去されるようなところがある。どうにかなりませんかね。

  
L: 可児市役所。西と東でデザインの異なる建物がくっついているが、市では一体として扱っている模様。
C: 駐車場越しに少し距離をとって撮影。  R: 可児川に架かる橋より撮影した可児市役所の裏側。

帰りは市街地をまっすぐ南北に貫いている県道64号沿いを歩いて駅まで戻る。
ちなみに表札に「可児」とある家が何軒かあって、やっぱり可児才蔵の子孫なのかな、と思う。
そんなことを考えながら駅に到着。列車を待つ人の中に、明らかに外国人な皆さんの姿が目立っている。
さっきの美濃加茂市もそうだったのだが、可児市には自動車部品の下請工場が多くある関係で、
ブラジル・フィリピンからやってきた外国人労働者が増えているそうだ(人口の1割近いという)。
はっきりと日本のローカル線なんだけど乗るのは外国人の方が多い風景ってのは、やや妙な感じがする。

太多線で多治見に出ると、中央本線に乗り換える。多治見市役所は駅から遠いのでスルーなのだ。
まあ、いずれ中津川や恵那なんかとセットでどうにかしたいとは思っている。いつになるかは知らない。

すぐに土岐市駅に到着し、改札を抜けるとそのまま商店街を南へ歩いていく。商店街はなかなかのダメージぶりだ。
この後、circo氏と一緒にアウトレットへ行く予定になっているのだが、そういう行動が商店街を衰えさせるのね。
のんびりと歩いていく僕の横を、バスが走り去っていく。バスの行き先表示には「プレミアムアウトレット」とある。
駅を出たバスは商店街をスルーして郊外のアウトレットへとまっすぐ行くわけだ。現代はそういう社会になっているのだ。

 土岐市駅前商店街。バスがスルーして郊外へ行ってしまう……。

商店街が終わると土岐川にぶつかる。その名も中央橋を渡って左岸に入ると右折する。
道がゆるりとカーヴしはじめたところで、大きな公共建築が視線の先にいきなり現れる。
道に沿った手前はバス停になっていて、コンクリートで仕切られたその奥は広々とした駐車場になっている。
なかなか全容がつかみづらいのだが、向かって左にあるのは市役所ではなくホール建築のようだ。
その右、ホールに折り重なるようにして駐車場の先に延びているのが土岐市役所。デザインが少し複雑だ。
まずはホール建築の方に近づいてみたら、「土岐市文化プラザ」とあった。市役所の隣とは典型的だ。
それからデジカメを構えて市役所の方へと歩いてみるが、どうにも幅の広い建物で非常に撮影しづらい。
モダニズム庁舎建築の特徴をたっぷり見せてくれる事例なのだが、イマイチ顔のない感じの建物なのだ。

  
L: 市役所の隣にある土岐市文化プラザ。1982年竣工で、文化ホール機能と中央公民館機能を合体させた施設。
C: 土岐市役所。広大な駐車場から正面を撮影するが、建物に幅があってうまく収まってくれないのであった。
R: エントランス部分に近づいて撮影。バリバリのピロティで非常に面白い。実に見応えのある庁舎である。

土岐市役所は1966年の竣工。昭和で言ったら41年で、惚れ惚れするほど本当に典型的なモダニズム庁舎だ。
この建物、耐震補強が計画されて基本設計までいったのだが、昨年になってそれがいきなり中止となった。
というのも、建て替えを視野に入れて再検討することになったから。土岐市はなかなかやる気のようである。
ちなみに土岐市の歴史を調べてみると、合併の際に市役所の位置をめぐってけっこうドタバタした過去がある。
特に下石町と土岐津町が主導権争いをしたそうで、結果、各地域にハコモノが建設されることになったようだ。
最終的には旧駄知町役場に市役所を置いて1955年に土岐市となり、その2年後に市役所を土岐津町に移転させた。
(現在の土岐市役所は旧土岐津町域にある。現在の土岐市駅は開業時には土岐津駅という名前だった。)
ちなみに土岐市は合併して市制施行する際に「陶都市」を名乗ろうとして全国的に大顰蹙を買う騒ぎも起こしている。
間抜けな地名をつけようとしてトラブルが起きる事例は昔っからあるようだ。ニンともカンともである。

 
L: ピロティを抜けた裏側から撮影。  R: さらに奥にまわり込んで撮影。

土岐市役所の撮影を終えると、本日の市役所めぐりは終わり。とにかくもう動けないほど腹が減っていて、
駅前まで戻る気力もないので土岐市文化プラザの横にくっついていた店に入ってメシをいただくことにした。
が、すでに午後2時を過ぎていたせいで、ランチメニューは終わりましたとのこと。愕然としていると、
炒飯くらいならつくれますよ、とのありがたいお言葉。当然、それに甘えさせていただくのであった。
無理にお願いしたので期待はしていなかったが、なかなか家庭的な感じの炒飯で大変おいしくいただいた。
本当にありがとうございました。旅先で触れる優しさは格別でございますね。

エネルギーを充填するとcirco氏に迎えを依頼するメールを打ち、バス停でひたすら読書。
しばらくしてcirco氏は颯爽と登場し、そのまま土岐のアウトレットへ。市役所からでもけっこう近かった。

春休みということでか、アウトレットは駐車場がけっこういっぱいで大盛況なのであった。
到着するとまずはシチズンの時計を見る。僕の時計へのこだわりは、ないようである、といったところ。
とにかくチタン製であることが必須条件で、あとは文字盤が黒で派手でないデザインであればよし。
その点、なくしてしまったセイコーの時計はかなりの満足度だったので、どうしても厳しめの評価になってしまう。
まあまあかなと思うものはあったのだが、とりあえず保留ということにして、次はセイコーの時計を見る。
しかし残念なことになくしてしまったものと同じデザインの時計はなく、今回のラインナップはかなり不満。
いったんタリーズで親子ふたりでマンゴータンゴスワークルをチューチュー吸いながら頭をクールダウンさせ、
もう一度セイコーへ行ってみるけどやっぱりダメ。結局、シチズンの文字盤が太陽電池なやつに決定。
最終的に候補は2つに絞られたのだが、かっこいい方が高い。自戒の念も込めて高い方を買わせていただきました。

実家に戻るとひたすら読書。他の物にまったく興味を示さず狂ったように本をむさぼり読む僕に母は呆れていたとさ。
で、晩飯には本当に久しぶりに羽場坂のラーメン大学(→2010.3.16)で味噌ラーメンをいただいたのであった。
モヤシが縮小していたり刻んだニンジンが混じっていたりワカメが乗っていたりニンニクが有料だったり麺が替わっていたり、
昔と比べるといろいろと変化はあったのだが、基本的な部分は一緒なのであった。おいしくいただいた。

 僕の幼少期と比べるとそこそこ違いはあるが、基本的な味は一緒だった。

やっぱりラーメン大学の味噌ラーメンは僕の味覚の基本を形成しているのだ。あらためてその事実を実感した。


2013.3.26 (Tue.)

片付かない!

期限が決まっているので机の上もロッカーの中もきちんと片付けないといけないのだが、片付かない!
このままでは立つ鳥跡を濁しまくりなんてもんじゃない。今回ばかりはシャレにならないので必死に作業をする。
取捨選択しながら資料として残したいプリントを一箇所に固め、本をまとめて段ボールに詰めていく。
そうしてだんだん物が減っていくと、なぜそこにあったのかわからない所有者不明の怪しいグッズが現れる。
てやんでい! コノヤロウ!などと叫びつつ容赦なくゴミ箱にぶち込んでしまうのだが、なかなかキリがない。

そうこうしているうちにサッカー部顧問会の時刻が近づいてきたので職場を退出。
試合の指揮はもうとらないけど、組み合わせ抽選のくじは引くのだ。これが置き土産ということで気合を入れて引く。
前回の大会で変な運が発揮されてベスト8入りという結果になってしまったので、部員にとって今回はチャンスなのだ。
結果、この春に卒業した学年が優勝したものの、代替わりして弱くなってしまった学校との再戦ということになった。
正直なところ、かなり悪くない組み合わせである。きちんとやるべきことをやれば、勝負はどうなるかわからない。
そういう試合の指揮がとれないのは残念ではあるが、こればっかりはしょうがないのだ。残った日々でやるだけやるさ。


2013.3.25 (Mon.)

本日が終業式。で、それとともに本年度において僕が生徒全員と顔を合わせる最後の日でもある。
生徒に対してはその手の情報は伏せていなくてはならないようなのでいつもどおりに対応したつもりなのだが、
やはり生徒たちが学校を去って教員だけが校舎に残ると、とってもしんみりした気分になってしまう。
あとはもう、来るべき新年度に向けて片付けるだけとなるのである。そりゃあしんみりするしかないさ。

夕方になって学年会をやるので地下鉄に揺られて銀座に出る。鉄板焼きというふだん口にしないものをいただく。
アワビだのフォアグラだのきちんと高級食材をいただくのは初めてな気がする。味のレコーディングをしつつ食べる。
しかしなんといっても不思議だったのは、真っ二つで丸焼きになっているくせに、イセエビの触角が動いていたことだ。
1匹だけ、グイグイと触角が動いていたけど、あれはどういうことなんですかね。実に生命の神秘なのであった。
まあそんな具合にもちろんメシはおいしかったし、話も楽しかったし、最後まで学年の先生方といい関係でいられたし、
もう何も言うことはございません。本当にすばらしい会になってよかった。本当に本当にありがとうございました。


2013.3.24 (Sun.)

今日は日記を書きまくりだぜ。午前中に部活でしっかり体を動かした後、ひたすら書いて書いて書きまくる。
おかげで昨年10月分と11月分を書き終えた。昨日は9月分を書き終えたし、3日間で4ヶ月分のけりをつけるって、
もうどんだけすっきりした気分になれることか。来月以降もいろいろ順調に進むといいんだけどねえ。

しかし日記を書きながら思うのは、デジカメをもっと早く今のやつに替えればよかったってことだな。
以前と同じようにテキトーにシャッターを切っているだけなのだが、できあがる画像の精度がまったく違う。
デジカメを替えようって発想が故障するまでまったくなかったわけだけど、ここまで画像の満足度が違ってくると、
なんだか今まですごくもったいないことをしていたような気分になってしまう。それくらいの差を感じるのだ。
そんなわけでキヤノンサイコー。いい買い物ができたことが本当にうれしいわ。


2013.3.23 (Sat.)

今日の土曜は天気がいいけど明日の日曜は天気が崩れるという予報だったので、ぷらっと出かけることにした。
例のごとく、青春18きっぷを使った気ままな日帰りの旅である。本日のターゲットは、もうひとつの安房国一宮。
安房神社に行ったことはあるが(→2012.7.26)、同じ館山市内にある洲崎(すのさき)神社には行っていないのだ。
というわけで、洲崎神社を制覇して、帰りに内房の市役所をつぶしていくのである。

……が、見事に寝過ごしてしまったのであった。目が覚めたら、乗る予定だった電車が大岡山駅を出る1分前。
そりゃ間に合うわけがないのである。諦めてふて寝する手もあったが、やっぱり行けるだけ行こうと決意をする。
支度を整え、予定のだいたい1時間遅れで行動を開始する。その分、市役所めぐりは1ヶ所減るが、しょうがない。

予定が1時間ずれたわりには、それ以上の遅れが発生することなく館山駅に無事着いた。
ここからはバスを利用するのだ。駅でレンタサイクルを借りるという手段もなくはないのだが、
あらかじめ調べておいたバスの時刻表を見るに、けっこう距離がありそうで、自転車は非現実的な予感がある。
そんなわけで素直にバスを待って、のんびりと30分ほど揺られることにしたのであった。

バスは桜目的の観光客を館山城で降ろすと、どんどんと西へと走っていく。房総半島の端っこらしく、
道は上下左右によくくねる。車道はそれなりにきちんとしているが、歩道が狭くて自転車だと絶対つらい。
曲がりくねる道は見通しが利かないし、これはバスで正解だったわ、と安心していると海が見えてきた。

あえてそうしたというわけではないのだが、洲の崎神社前からひとつ手前のバス停である洲の崎灯台前で降りる。
そこからのんびり南に歩いて神社まで行く。釣り船を出す宿屋が点々とあって、地域性を感じる。
それぞれの釣り船宿屋は各スポーツ新聞の指定を受けているようで、それがいちいち書いてある。
釣りもしなけりゃスポーツ新聞もあまり読まない僕にはよくわからないが、そういう世界があるんだろう。

やがて洲崎神社の入口を示す看板が見えてきた。矢印に従って左を向くと、海から山へ、一直線に参道がある。
参道の先には鳥居があって、その先には門、そして石段。この石段がかなり強烈で、山の中腹に社殿が見える。
この石段を上るのか……とうなだれるのだが、そうしていてもしょうがない。意を決して、鳥居に向けて歩きだす。
ほかに何もない場所なのだが、参拝客は意外といて、3組ほど見かけた。自分ひとりだけかと思ったのだが。
千葉県民にはそれなりにきちんと信仰されているようで何より。僕も素直な心で参拝するとしましょう。

  
L: 洲崎神社の入口はこんな感じである。海岸線に沿って弧を描く一本道しかアクセスする方法がないのだ。
C: 鳥居を抜けて境内に入ると、こちらの随神門がある。けっこう立派で、さすが一宮だなと感心する失礼さ。
R: 随神門を抜けるとこの石段だ。150段あるというが、踏み面の面積がわりと狭くて上るのも下りるのもなかなか大変。

洲崎神社はその創建に役小角が関わっているという伝承がある。東京湾の入口に位置していることから、
航海の安全を願う神社として成立したのだろう。ちなみに品川神社(→2010.1.7)は源頼朝が洲崎神社を勧請したもの。
都会にある品川神社の方が規模が大きいが、言われてみれば海から丘へつながる石段という空間構成がよく似ている。
(かつて東海道のすぐ東側は海だったのだ。今も北品川駅近くには海岸線を思わせる起伏が残っている。)
そんなわけで、石段を地道に上って拝殿の前に出る。振り返ると太平洋がちらりと青く覗いているのだが、
石段・参道の両脇で生い茂る木々があまりにも元気で、海はちょっとしか見えない。見晴らしがよくないのだ。
洲崎神社の杜は神域ということで自然が保たれ、県指定天然記念物となっている。まあ、これはしょうがないか、と納得。

拝殿の方に向き直る。千木も鰹木もないその姿は、神社というよりお寺のお堂のようである。
役小角以来の修験道、つまりは神仏習合の影響だろう。でも本殿は立派なんだろうな、と思って覗き込んでみたら、
案の定、小さいながらも堂々とした姿だった。館山市の指定文化財となっており、延宝年間(1673~81)の造営とのこと。
拝殿・本殿付近の雰囲気はけっこう独特だ。なんと言っても植生が違う。シュロなど、明らかに熱帯っぽさが漂っている。
ふつうの神社の杜と比べて、周囲の木々に妙な活気があるのだ。さすがに房総半島の端っこは暖かいのである。

  
L: お堂を思わせる洲崎神社の拝殿。  C: 境内は植物たちが妙に元気だった。摂末社の配置も少し独特だ。
R: 洲崎神社の本殿。一宮の本殿は基本的にどこも立派なのだが、その例に漏れず、さすがの風格を見せてくれている。

参拝を終えると来た道をそのまま戻って、洲埼灯台まで行ってしまう。バスの時間まで余裕があるので見ておくのだ。
洲埼灯台は観光地としてそれなりの人気があるようで、地元のおばちゃんが駐車場の案内をしていた。
わざわざ来るほどのものなのかね、と思いつつ歩いていたら、目の前を茶色い動物が素早く横切った。
地元のおじちゃんもおばちゃんも目を丸くして「イタチだわ」と驚いていた。僕もびっくりだ。
当然、デジカメを準備していなかったので撮れなかったが、その姿ははっきりと脳裏に焼き付いている。
日本にはまだまだいろんな野生動物がいるんだなあ、としみじみ思うのであったことよ。

さて、矢印の案内に従って灯台への入口に向き直ると、なかなか面白い光景となっていた。
無骨だがモダンさも感じさせる石段があって、カーヴを描くその先に白い灯台が静かにたたずんでいる。
洲埼灯台は東京湾の東の門柱とも言うべき存在で、三浦半島の西の門柱・剱埼灯台とともに東京湾の境界をなす。
点灯は1919(大正8)年。白塗りの化粧でごまかしているが、灯台の歴史はけっこう古いものなのだ(→2008.9.1)。
灯台の先には展望台があって、そこから房総半島の複雑な海岸線を眺めることができるようになっている。
この日は結局、天気予報が言っていたほどいい天気ではなくって、どんどん空は暗い雲に覆われていく。
おかげで東京湾の水平線の先もすっきりしなくって、神奈川県を眺めて面白がることはできなかった。

  
L: 洲埼灯台へと向かう石段。なんだか面白いデザインですな。  C: 洲埼灯台。無人化されて中に入れなくなった。
R: 展望台より眺める東京湾、房総半島側の海岸線。手前で菜の花が咲いているのが、千葉っぽさを演出している感じ。

さて僕はまったく興味がなくって知らなかったのだが、洲埼灯台はAKB48の『会いたかった』のPVに登場するそうだ。
さっき、わざわざ来るほどのものなのかと思ったわけだが、つまりはファンの聖地巡礼が盛んだってことなのだろう。
それ以上、どうにもコメントしようがない。そもそもPVを見たことないし。見る気もないし。ニンともカンとも。

灯台から下りてきてもまだバスの時間まで余裕があるので、展望台から見えた海岸まで行ってみることにした。
どんどん奥へと進んでいったら、妙なゲートがあって、筆で書いた文字で「お台場海浜庭園」とあった。
入場料が100円。実に怪しげである。まあ話の種ってことで、100円を払って中に入ってみた。
キャンプ場が主体のようで、砂利敷きの地面が広がっている。天気のせいもあって、大地はよけいに荒涼として見えた。
磯釣りをしている人がいたので、さらに海岸まで行ってみる。波がけっこう荒くて、飛沫が遠慮なく襲ってくる。

 
L: 地球って感じだ。  R: 磯釣りをしている人が5~6人ほどいたんだけど、釣れていたんですかね。

雲行きは怪しくなる一方で、まさか雨が降りだすようなことはないよなあ、と不安になりつつ海岸を後にする。
灯台前のバス停に着いてもまだ時間的な余裕があるので、もうひとつ先のバス停まで歩いて戻ってみる。
そこは矢尻の井戸という場所で、さっきバスから見たときにはそれなりにきちんと整備されていたので気になったのだ。

 
L: 矢尻の井戸前のバス停付近は、こんな感じで整備されている。  R: 四阿の下にあるのが矢尻の井戸のようだ。

矢尻の井戸は、源頼朝が安房に上陸したと伝えられている場所のひとつである。さっきの洲崎神社でも少し書いたが、
流刑先の伊豆で挙兵した頼朝は、石橋山の戦いで敗れてしまう。捲土重来を期して頼朝は安房国にいったん逃れ、
そこで房総半島の反平氏勢力を味方につけて反撃に出たのだ。矢尻の井戸は家来数人を連れて上陸した頼朝が、
矢尻で地面を突いて水を湧き出させ、難を逃れたと伝えられている場所なのだ。四阿の下にそれらしい井戸がある。

この周辺にはほかに何もないので、10分ほどボケーッと考えごとをして過ごす。やがてバスがやってきたので乗り込むと、
あとはぐっすり眠っているうちに館山駅まで運んでくれたのであった。これで安房国一宮は両方とも制覇したのだ。

コンビニでメシを買い込むと、内房線に揺られて次の目的地・富浦駅へ。ターゲットは南房総市役所である。
南房総市というのも実にいいかげんな名前だが、なんと7つの町村が合併して生まれた市なので仕方ない気もする。
外房と内房の「その他大勢」が合体し、先っぽの館山市だけが独立を保っている。地図で見るととっても奇妙だ。
2006年にこの状態となってから、南房総市の市役所は旧富浦町役場を利用している。よく話がまとまったもんだと思う。
富浦駅で列車を降りた客は意外といたが、ほぼ全員が「道の駅とみうら 枇杷倶楽部」行きのバスへと吸い込まれていく。
僕はひとり、駅から線路を越えてすぐそこの南房総市役所へと向かうのであった。それにしても空が暗い!

  
L: 南房総市役所(旧富浦町役場)。でっかく「本館」と書いてあってわかりやすくていいですね。
C: 角度を変えて正面玄関と向き合う。  R: 裏側の中庭はこういう感じ。役所の中庭にしては簡素だな。

まず道路に面して南房総市役所の本館があり、その奥に「別館1」が並んでいる。東側は広大な駐車場。
ずーっと奥には切妻屋根の体育館があり、少し手前に「minamiboso」とラッピングされたバスが駐車してある。
ここだけ見ると、まるで長野県北部の夏場のスキー場にでも迷い込んだような感覚になってしまう。
どうも、切妻屋根と広い駐車場のバランスが、すごくスキー場っぽい印象を与えるのだ。実に不思議だと思う。

  
L: 南房総市役所の別館1。建物に名称をここまで堂々と書いてある事例は初めて見た。わかりやすいけどね。
C: 広大な駐車場と切妻屋根が実にスキー場っぽい。  R: 富浦駅。レンタサイクルがあるのはうれしいが、使わんなあ。

いちおう原岡の海水浴場にも行ってみたのだが、特にこれといって楽しい要素があるわけもなく、
多田良の交差点まで往復してから素直に富浦駅まで戻る。とりあえず、この近辺が枇杷で有名なことはわかった。

再び内房線に乗り込むと、30分ほど揺られて大貫駅で降りる。ターゲットは富津市役所である。
寝坊しなかったら今日は君津まで行くことができたのだが、空がすっかり分厚い雲に覆われてやる気がなくなったので、
君津は千葉県立富津公園とセットで、またいずれ天気のいい日に訪れることにした。その方がフォトジェニックでいい。
とりあえず今日は富津市役所でおしまい、ということで、どうにかモチベーションを上げて改札を抜ける。
というのも、富津市役所は大貫駅と青堀駅のだいたい中間にあって、けっこう歩かされるのである。

大貫駅の北の地下通路で線路の東側に出たのだが、この地下通路が壁一面に落書きされており、水も漏れだしていて、
なんとも怖い雰囲気が満載なのであった。通路を抜けると市役所を目指して県道を北へとトボトボ歩いていくが、
まあこれがいかにもな田舎の千葉の道路で、道幅が狭くってけっこう交通量があったので面倒くさいのであった。
ガマンして歩いて国道に出ると、こっちは完全に郊外型の道路。今度は歩行者が置いてけぼりを食った感じの空間だ。
そんなこんなで駅から20分ほど歩いたところで右手に巨大な建物が現れる。さすが富津、今は亡きハマコーのお膝元だ。
郊外の道路に面し、豪快に空間をつくって富津市役所はそびえていた。池も芝生も駐車場もあって、とにかく敷地が広い。
もちろん建物じたいもやたらと大きくつくっている印象である。こんなに金をかけるとは、さすがハマコーの地元だ。

  
L: 富津市役所。まず県道から階段でアプローチするのだが、それが無駄に広い。この価値観がなんともだ。
C: 市役所の側面。  R: 裏側はこうなっている。こっちの駐車場は公用車がほとんどなのかな。

富津市役所の竣工年や設計者を調べてみたのだが、驚くほどデータが出てこない。不自然なくらいに出てこないのだ。
建物じたいはどこからどう見ても平成オフィス建築なので、データが出てこないことにかなりキナ臭さを感じる。
Wikipediaには多少の経緯が記事にあり、1971年に富津町が合併した際、相手の旧天羽町役場を役所としたとのこと。
同年に市制施行して富津市となるが、1992年に現在の市庁舎が竣工して移転した、という記述があったのがやっと。
紆余曲折を経た現在の富津市役所は、広大な土地が確保できる郊外のモータリゼーション全開な位置にある。

 富津市役所周辺は行政の中心となるべく、着々と整備が進行中。

というわけで、すっかり曇り空となってしまったし、日が差してもこれ以降は夕方の色合いになってしまうしで、
本日の市役所めぐりはこれにて終了。千葉で快速に乗り換え、そのまま東京駅へ。八重洲ブックセンターで本を買い、
無印良品で収納用品を買い、有楽町駅から帰る。今日は買い物も重要な目的で、それがきちんと果たせて満足だ。


2013.3.22 (Fri.)

昨年8月の日記をついに書き終えたぜ! 旅行にサッカー観戦に教員免許更新講習に、もうとんでもなかった。
これを乗り越えたというのは、自分の中では偉業以外の何物でもないのである。本当に、本当につらかった。
でもその分、非常に中身の濃いログになった。特に8月27日分に割り当てた「北海道の都市と歴史についての考察」は、
最後の最後まで苦しめられた分だけ、かなり充実しているはずである(→2012.8.27)。書いたことで賢くなったもんね。
そんなわけで、これからも2012年の分をできるだけ早く仕上げるべくがんばる。とりあえずは、おめでとう自分!


2013.3.21 (Thu.)

球技大会なのであった。男子は野球部を中心にけっこう荒っぽいサッカーで、球技大会だろお前ら、と主審の僕は困惑。
サッカーのクラブチームに入っている生徒の多いクラスと野球部に入っている生徒の多いクラスの対戦となったのだが、
結果はワイルドな野球部連中が押し込んで勝利。やはりスポーツは野性味あふれる性格でないとダメか、と思った。

それに対して女子のサッカーは応援が実にほのぼの。女子の部活は不思議と掛け声がヴァリエーション豊かなもので、
バレー部とバスケ部を中心に、いつも部活でやっている応援を敵味方関係なく繰り広げるのであった。本当にほのぼの。
男子とは何から何まで非常に対照的で、なんだか心が洗われる思いになってしまったとさ。


2013.3.20 (Wed.)

最近ぼんやりと考えてみたことを、ちょっくら文章にしておくのだ。

「職業に貴賤なし」とは言うけれど、実際のところ、世の中には「卑しい」とみなされている職業が確かにある。
たとえば、芸能人。たとえば、風俗業界。どちらも「卑しい」とみなされうるが、ハイリターンな構造が共通している。
なぜ、両者は「卑しい」とみなされるのか。でもなぜ、ハイリターンなのか。なぜ、ハイリターンなのに尊敬されきれないのか。
そこをぼんやりと考えていたのだ。注意したいのは、単純な「ハイリスク・ハイリターンだから卑しい」という論理ではない点。
たとえば、野球などのプロスポーツ選手を目指す場合、それだってしっかりハイリスク・ハイリターンである。
でも、プロスポーツ選手は「卑しい」とみなされない。むしろ狭き門をくぐり抜けたエリートとして尊敬される存在だ。
ということで、ハイリスク・ハイリターンは「卑しさ」の必要条件でも十分条件でもない、ということになる。
では、そもそも両者に共通している「リスク」とは何なのか。また、両者が抱える「卑しさ」の本質とは何なのか。
そこを突破口にして、社会における人間という存在の重みというか価値の根拠というか、そこを考えてみたいのだ。

風俗業界もプロスポーツ選手も、どっちも身体で勝負をしているわけだ。カラダを資本にお金を稼いでいる。
しかし「カラダを売る」という表現はもっぱら風俗業界でのみ使われる表現で、スポーツ選手に対しては言わない。
この両者が決定的に異なっている点は、身体の所有を他者に許すか許さないか、そこにある。
プロスポーツ選手の身体は、ふつうの人間には再現できない特別な動きをすることが特徴となる。
つまり、その選手でしか見られないプレー、それを観客に見せることによってお金をもらっているわけである。
対して風俗業界では、身体は客に委ねられる存在となる。自分の身体を時間制で他者に預けることでお金をもらう。
プロスポーツ選手の身体は、その選手の所有物であるところに価値がある。選手の身体は観客には不可侵なのである。
しかし、風俗業界の身体は、お金しだいで誰のものにもなりうるという可能性を開くことにより、価値を発生させているのだ。
ある意味、AVとはプロスポーツじみた価値観を伴うものだが、やはり身体を不特定多数に共有させている以上、
それは「卑しい」とみなされることになる。人間は、自分の身体を貨幣により交換可能とすることを「卑しい」と感じるようだ。
この視点をもうちょっと深めていくと、ヌードが「卑しく」なるのは衣服をすべて脱ぎ去るかどうかにあるのではなく、
裸となった身体が誰に所有されているのかによる、という考え方に至る。誰にも所有させないヌードなら、「卑しくない」のだ。

AVやヌードが「卑しさ」の境界線を示唆する事実は、芸能人という存在の本質を示している。
芸能人のヌードは珍しくないし、元芸能人のAVもいっぱいある。AVから芸能人として認知された人も少ないながらいる。
そもそも出雲阿国の時代、いや人類の歴史が始まる以前から、芸能と性的な魅力は不可分の関係にあるわけなのだ。
でもここでは単純に「芸能人は性的な魅力をふりまいてお金をもらうから卑しい」とは考えない。反例は無数にある。
こう考えるべきだ、「芸能人は自分の中の何かを他人に共有・所有させるからこそ、卑しいとみなされうる」と。
その何かが身体である場合、その芸能人の風俗業界との距離はきわめて近いものになる、ということだ。

では芸能人は自分の中の何を不特定多数に共有・所有させているのか。ズバリ、答えは「思想(精神)」だ。
自分が本質的にどういう思想を持った人間であるのかは、舞台の上やテレビの画面では発揮されることがない。
「俳優は、演出家にとって将棋のコマである」とは『演劇入門』における平田オリザの言葉だが、
(この言葉についての直接的な記述はないが、いちおう『演劇入門』の過去ログはこちら →2002.6.23
役者にとって思想や自我は邪魔になるのは事実だ(→2011.10.4)。役者の思想は、役者の可能性を狭めてしまう。
自分という人間の存在をとりあえず隠し、他者のすべてを引き受けて演じる点に役者の本質があるのだ。
そして芸能人とは、多かれ少なかれ、客の期待に沿ってキャラを演じることによって成立している存在である。
つまり、芸能人には思想を持つことは許されないのだ。思想を表明すると、反韓や反原発の某俳優のようなことになる。
身体という最も直接的な存在を相手に委ねない分だけ、「卑しさ」は風俗業界ほど強く感じられないかもしれない。
しかし、本来個人がそれぞれに所有しているであろう部分を分け合うことでお金をもらっている点は共通している。
人間は、やはりその点に「卑しさ」を見出すのだ。芸能人の「リスク」とは、実は「思想を捨てること」にあるのだ。
(ペニーオークションを宣伝した芸能人たちは、その思想のなさが「卑しさ」に通じることを体を張って証明したわけだ。)

というわけで、きわめて逆説的な形によって、人間という存在の本質を考えてきた。
もう一度結論を書くと、「身体あるいは精神(思想)をお金によって相手に委ねる」ということが、「卑しさ」の本質なのだ。
ということはつまり、「身体・精神がなければ人間として恥ずかしい」ということを人間はなんとなくわかっている、ってことだ。
これが「人格」という概念だ。「人格」とは、「何者にも侵害されない自分自身の思想や身体を持つこと」なのである。
その「人格」を、たかが金のために危険にさらしているから、風俗業界や芸能人は「卑しい」とみなされているのだ。
逆を言うと、「人格」を危険にさらしているからこそ(ハイリスク)、通常にはないハイリターンが得られるということでもある。
今回、これまで書いてきたことはすべて、考えるまでもない「当たり前のこと」なんだけど、じゃあその当たり前の根拠、
そこを論理的に考えることをみんなしているかというと、あんまりしていないわけで、きちんと考えてみよう、と。そんな感じ。


2013.3.19 (Tue.)

本日は卒業式でございました。今年の3年生は担当学年ではないものの、男子にサッカー部員が多かったので、
「準担当学年」的な接し方をしていたのでやっぱり淋しい。ついこないだ入学してきたばっかりだったのにねえ。
知ってる連中が抜けた後は、知らない連中が入ってくる。そうして学校は新陳代謝していくのだ。
そして僕はその「知らない連中」と接点を持つことはないわけで、学校にとって僕は過去の存在となるわけだ。
今日、3年生が卒業していったことで、「終わりの始まり」を強く実感することになった。
人は現在しか生きられないことがわかっている分だけ、「これが『別れ』なのか」とあらためて実感しとるよ。


2013.3.18 (Mon.)

WBCで日本が準決勝で敗退した。世間は内川の走塁の話題で持ち切りである。
そして「戦犯」となってしまった内川を擁護する意見があちこちから聞かれる状況である。

しかしウチの野球部監督は言う。「(ランナー1・2塁でダブルスチールを)行けたら行く」のサインは当たり前だ、と。
世間ではそんな曖昧な指示があるか、という意見が多いのだが、これはふだんからごくふつうにやっているそうだ。
そもそも相手キャッチャーがかなりの強肩だからって、1塁ランナーの内川が脇目も振らず全力疾走すること自体おかしい。
2塁ランナーの井端は俊足自慢の選手ではないので、その動向を見ないで走った内川があまりにもバカすぎる、との結論。
(ダブルスチールを狙った場合、常識的にキャッチャーは3塁で井端のアウトを狙うはずで、2塁で内川を刺すことはない。)
だから世間の内川擁護は「あまりにも野球を知らなすぎる」ということだし、内川のミスは非常識ということだそうだ。

野球部監督の指摘で凄かったのは、内川の走塁ミスが実は二度目であるという話だ。
日本が大勝した試合で、内川は3塁ベースを踏み忘れ、高代コーチが足跡をこっそり消したシーンがあったそうだ。
しかし内川はそのミスを反省することなく、同じく走塁でのミスをいちばん大事な場面でやらかした、というのである。
いくら打撃がよくても走塁センスが欠けていては短期決戦に勝てない。とにかく基本ができていない内川が悪い、という話。
(後日、やはり野球をよく知っているワカメに確認してみたら、監督の意見が全面的に正しい、とのことだった。)
監督曰く、「内川が泣くまで説教、泣き出しても延々と説教だよ!」というレヴェルのミスとのこと。すげえ納得。

まあそういうわけで、批判すべきときにきちんと批判できるということは大切なんだな、と勉強になったのであった。


2013.3.17 (Sun.)

リョーシさんが上京するということで、久しぶりの姉歯祭りが開催されたのであった。
最近のわれわれはラビーが結婚する件が話題になることが多い。ラビーといえばドラえもんマニア。
(大学時代、富山で開催されたドラえもんオープンにラビーはわざわざ参加し、見事優勝したのだ!)
そんなわけでニシマッキーの発案により、今回のテーマは「藤子・F・不二雄ミュージアム」となった。
F先生ミュージアムは2011年のオープン以来大変な人気で、入館するには前売券を買わないといけない。
その前売券は入館時間が指定されており、しかもローソンでしか買えない。いろいろと面倒くさいのである。
まあ毎度おなじみ長男体質を発揮して僕が前売券を押さえておき、11時に登戸駅に集合。
(ちなみに僕はドラえもんオープンに参加していないが、予選のペーパーテストを解いたところ、
 3位相当の点数を取っていた。まあつまり、いちおうそれくらいのドラえもんマニアである。)

リョーシ・みやもり・ニシマッキー・僕と全員合流して、メシをどうしようか歩きまわっていたところ、
駅に近い蕎麦屋が営業開始。二日酔いのリョーシ氏の体調を慮って、つるっと蕎麦を手繰ることにする。
出てきた蕎麦の味は悪くなかったんだけどとにかく量が少なくて、ニンともカンとも(これは藤子Aの方のネタだな)。
ションボリしながらF先生ミュージアム行きのバス乗り場に行くと、これがけっこうな行列なのである。
前売券はまったく問題なく簡単に押さえることができたので、すでにこの段階でこれだけの人がいるのに驚愕。
バスはけっこうキッチキチに乗客を乗せて発車。F先生人気、衰えることをまったく知らないようである。

  
L: バス乗り場にて。4台あるというシャトルバスのナンバーはすべて「2112」なんだとさ。凝ってるねえ。
C: バス乗り場の足下にはオバQの足跡があった。  R: シャトルバスはボタンもドラえもん仕様なのだ。

10分弱ほど揺られて着いたF先生ミュージアムは、やはり入館待ちの行列ができていた。
並ぶより先にパンフレットを渡されるので、それを熟読しながら待つのだが、やはりこれが凝っている。
箇条書きされた諸注意の中に「ネズミの入館はお断りします」とサラッと入れているのだ。
「これは完全にディズニーにケンカを売っていますなー」などと言って笑うわれわれなのであった。
さらにスタッフの皆さんがF先生リスペクトということでかユニフォームとしてベレー帽をかぶっていたので、
「これは皆さんグリーンベレー並みの軍事訓練を受けているってことですかね」などと言って笑うわれわれなのであった。

じっくり待って建物の中に入ると、まずはモニターで注意事項。全員におはなしデンワ(音声ガイド)が渡されるが、
いろいろ面倒くさい。……なーんて思っていたら、「お静かにご鑑賞ください」の文字とともに現れたのは、
しずかちゃんのシルエット。やるわー!と思ったのだが、気がついてウケていたのはオレだけで淋しかった。

  
L: 建物の壁にもこんな工夫が。のっけからF先生ミュージアムは油断ならないのであった。
C: 施設内にあったお静かにご鑑賞くださいの図。こんな感じで細部まで凝りに凝っているのである。
R: サイン計画も実に凝っている。もちろん男子はのび太、女子はしずかちゃんのシルエット。

展示内容はまず、大広間でF先生の各作品を紹介。机と引き出しといった構成で、生原稿などが並ぶ。
端っこでは映像でマンガの描き方を解説していたが、すごい行列でまったく見る気がしませんでしたなー。
来館者はいちいち音声ガイドで確認するので回転が非常に悪い。僕はもともと音声ガイドが大っ嫌いで、
(説明でこっちの集中が切れるし、耳をつける身体的な制約がきわめて不愉快なのである。)
音声ガイドを一切無視してあちこちをフラフラと見てまわる。そうするとあっという間に見終わってしまう。
そんなわけで、作品に関する展示については大いに不満あり。まあ、マンガそれ自体を読むのが正解なのだが。
F先生の生い立ちをまとめたコーナー、趣味を紹介するコーナー、仕事部屋を再現したコーナーなどの展示は、
かなり興味深かった。落語は志ん生がお好きだったようで。リョーシ氏と感心しながら眺めたのであった。

企画展は大長編の生原稿が展示されていた。『恐竜』から『宇宙小戦争』までというストライクゾーンだったので、
それはもう舐めまわすようにじっくりと見させていただきました。とにかくもう、上手すぎて、ため息しか出ない。
また見開きの印象的な場面を展示してあるもんだから、思わず作品世界と読んだ当時にトリップしてしまうわけなのだ。
ただ、『ねじ巻き都市冒険記』の原画も展示されていたんだけど、明らかにタッチが別物で、それにはガックリ。
やはり大長編は『日本誕生』がギリギリのラインだなあ、とあらためて思うのであった(→2006.3.162007.6.5)。

展示室をひととおり見終わると、本棚と一体化したソファが置かれているエリアに出た。当然、中身はF先生全集で、
子どもたちがソファに寝そべりながら読みあさっていた。むしろこれを拡張して図書館にすべきだろ、と思うのであった。
さて、トイレに行ったみやもりから「びゅくさん、いろいろ凄いことになってるよ」と報告を受けたので、
僕もデジカメ片手にトイレに乗り込む。そしたら確かにいろいろ凄かった。証拠の写真を貼り付けてみる。

  
L: トイレのドアにあった絵。悪魔のイジワールですかね。  C: 便器の上にはこんなのが。  R: もう一丁。

さっきから繰り返し「凝りに凝っている」と書いているのだが、本当に細部までこだわっている。
マジメな話、隠れミッキーと雰囲気づくりを徹底しているディズニーのやり方もすごいと思うのだが、
F先生ミュージアムはさらに、きちんと作品を読んでいる人にはわかる工夫がたっぷりと詰め込まれており、
幼少期にF先生作品に慣れ親しんだ大人でも大いに満足できるようになっているのだ。いやはや、恐れ入った。

 
L: ガチャガチャを入れている容器は、こちらのドラえもんともうひとつ、ドラミがあった。
R: F先生ミュージアム限定のアニメを上映するFシアターの切符。鋏の跡が「F」で、もうまいりました。

Fシアターでは『21エモン』の作品世界にドラえもんとのび太がゲスト出演するストーリーが上映された。
単行本を読んでいる人なら展開はわかるけど、うまくアレンジしていて、まあよろしいのではないかと。
いちばん驚いたのは、やっぱり通りぬけ××××なのであった。いやー、これには完全に度肝を抜かれたね。
さすがにこれはネタバレにできないので、気になる人はぜひF先生ミュージアムに行ってください。

外に出て階段を上る途中、ドラえもんの石像が置いてあるのを発見。これは……ファンを刺激するねえ。
ドラえもんの重度のファンであればあるほど、思わず叫んでしまう仕掛けが満載の空間となっている。

  
L: ドラえもんの石像。ファンならこれにきちんと反応できないといかんぜ。これをつくるとは、気が利きすぎ!
C: 芝生には昼寝するパーマンとブービーがいる。  R: 裏山をオープンスペースにしている。写真撮影スポットだ。

オープンスペースがまた仕掛けばっかりで、こちとらもう、デジカメのシャッターを切りまくり。
本当にファン心理を絶妙にくすぐるものがいっぱいで、一瞬たりとも気が抜けなくて困ったよ。

  
L: 木々にまじってキー坊がいる。ウマタケも3頭ほどいて群れをなしているのであった。
C: オーオオーオーエリダバウワンコ。  R: ジャングル黒べえがいること自体に感動だよ、まったく。

さてオープンスペースに接続しておみやげ売り場とイートインのカフェコーナーとレストランがあるのだが、
レストランはなんと2時間待ちですぜ。アンキパン食いたかったのに……。みんな考えることは一緒か。
やはりメニューも凝りに凝っていて、ガラスの中ではみんな「ラーメン大好き小池さんのラーメン」をすすっていたよ。
さっきの蕎麦が足りなくて腹が減っていたので、イートインで「コロ助ぃナリ」に加えて「ドラバーガー」を注文。
ドラバーガーはふつうに高級なハンバーガーでうまかった。ドライ・ライト的なもの(33巻参照)ではなかったとさ。

  
L: コロ助ぃナリの外観。このシールが気に入って、持っていたFREITAGのDRAGNETに貼り付けちゃったよ。
C: コロ助のコロッケにはなんと、コロ助の顔が印刷されているのだ! 食わいでかってんだ、らっしゃい!
R: リョーシさんはジャイアンのソフトクリームを注文。クッキーで歌うジャイアンを再現している。

ニシマッキーは家へのお土産ということでどら焼きとアンキパンラスクを購入。

 
L: どら焼き。絵柄は3種類あるとのこと。  R: アンキパンラスク。やはりラスクだとご利益半減な感じか。

ほかにもすね肉を使ったスネちゃまシチュー(パンがスネ夫の髪型を再現した形になっている)など、
魅惑のメニューがいっぱい。レストラン・フードコートは拡張しないと非常にもったいない!
F先生全集の図書館とレストランだけでも十分客が呼べる施設になるよな、なんて具合に話すわれわれなのであった。

最後にリョーシ氏が熱望していた「きこりの泉」コーナーへ。当然、そこにいるのは「きれいなジャイアン」である。
この「きれいなジャイアン」という発想、そして「いえ、もっときたないの。」と言わせてしまうセンスが、
F先生の凄さを端的に示していると思う。やはりF先生はみんなみんなみんなかなえてくれるのである(→2007.11.9)。

 
L: リョーシ氏・きれいなジャイアン・僕で記念撮影。  R: 外には剛田武さんが発見したツチノコが!

最後はお約束のミュージアムショップ。いくら吸い上げられてしまうんだ……と戦々恐々とする僕だったが、
やっぱり無数のコロ助グッズの前に多額の出費を余儀なくされてしまうのであった。だってしょうがないじゃん!
コロ助グッズを買えるのは日本でここだけなんだぜ! 「ここが本当の大魔境なんよ!」と叫んでいたとさ。

  
L: 藤子・F・不二雄ミュージアムの外観。逆光もあって、なんだか上手く撮影できませんでした。申し訳ない。
C: 近くの川の欄干にはドラえもんが。  R: 川の対岸にはドラえもん関連のオブジェがいっぱいあるよ。

帰りは登戸駅までのんびり歩き、新幹線で岡山に帰るリョーシ氏の事情に合わせて東京駅まで行くことに。
小田急から直接地下鉄の大手町駅まで行くと、まずは丸善に寄ってリョーシ氏は本を大量に買うのであった。
それから八重洲口に出て居酒屋に入っていろいろダベる。途中でみやもり嫁のマユミさんも合流し、
幼少期のアニメや特撮の記憶をあれこれたぐる。が、気がつけば僕がここんとこ苛まれている不安感、
英語なんてもう教えたくねーよコンチクショウと酔っ払ってくだをまいてばっかりなのであった。
面倒くさくてたいへん申し訳ございませんでした。運が良かったら小説書くよ! 運が悪かったらごめんよ!
で、6月のラビ婚式での福岡遠征の際にどこへ行くか近いうちに相談しよう、ということで解散。面白かったでございます。


2013.3.16 (Sat.)

電車に乗ると、やたらと英語関連の広告が目につく。そしてそのたびに、腹が立ってくる。
不安を煽って英語をメシの種にしようとしている連中にだまされるな! ……そう声を大にして言いたい。

そりゃあ、英語をしゃべれないよりはしゃべれる方がいいに決まっている。でも、所詮はその程度なのだ。
「しゃべれればいいなあ」程度の希望を義務教育に押し付けるようなことは、あってはならない。
本当に英語が必要な人間は、自分で勉強する。語学ってのは本来、そういう姿勢じゃないと身に付かないものなのだ。
その真理をまったくわかっていないで、人間の能力を過大評価して、学校で身に付くと思い込んでいる人があまりに多い。
そもそも、義務教育の学校なんざ、まず黙って人の話を聴かせることに苦労しているレヴェルが大半なのである。
日本人は賢いと希望的観測で思い込んでいる人がいっぱいいるが、現実はそんな立派なものではございません。
ウソだと思うんなら学校の先生方に訊いてみればいい。授業参観や学校公開じゃダメ。日常生活について訊いてほしい。
子どもたちの母語であるはずの日本語の運用能力も、本当に低い。読書さようならネットこんにちはで年々落ちている。
結局は家庭での価値観や生活スタイルが決定的な要素となる。教育についての責任を教員に押し付けても無意味だ。
そういう現実を把握しないで、足下をまったく見ないで、みんな机上の空論に必死になっているのだ。本当にイヤになる。
品のない日本語しか話せない連中が、もっと品のない英語を話す。今の教育はそういう方向をひた走っているのだ。
はっきり言いましょう。人間、そんなに賢くありません。日本国内にいながらにして英語ペラペラになれるとしたら、
それは非常に特殊な環境、日本じゃないような場所、英語圏の植民地みたいな場所で24時間過ごすしかないです。
逆を言うと、日本国内にいるけど英語がペラペラになるとしたら、その環境は異常です。その日本はもう、日本じゃない。

でもその辺のことがわかっていない人は、短絡的に英語をマスターできる環境を追い求めようとする。
そして、需要に対して供給があるわけだが、もっと稼ぎたいならどんどん需要を喚起すればいい、って連中が存在している。
彼らは「ネイティブには……」「……を英語で言えますか」「日本人の英語は……」などと、どんどん不安を煽ってくるのだ。
そう、彼らにとって、英語はビジネスチャンスでしかないのだ。もちろんこっちがそれを利用できるだけの賢さがあるならいい。
でも現実を見ないで人間の能力を過大評価している人たちは、希望的観測の穴を突かれてポロッと弱気になってしまう。
そうして、ただただ金を相手に与えていい気になって、金を払った分だけ英語ができるようになるはずだと錯覚している。
金で買えるのは、あくまで機会。その機会を生かすか殺すかは、こっちがどれだけ真剣に取り組むかで大きく変わるのに。
人間、楽して能力を高めることなんてできないし、必要があれば金の多寡は関係なく自力でなんとかするものだ。
連中の金銭欲のために現実が歪められ、勘違いはより深まっていき、日本人や日本語の品位はどんどん落ちていく。
問題は、そのことに気づかない人間が多すぎること。本質を見抜けず、表面しか見ていない人間が多すぎることだ。
ま、それはつまり、国の主導によって教育のレヴェルが着実に落ちてきたツケってことですな。はい日本の負け負け。


2013.3.15 (Fri.)

安倍晋三のバカがTPP参加への第一歩を踏み出してしまったようで。
問題は農業がどーのこーのではなく、社会における各種のルールがアメリカ仕様になってしまうこと。
奥ゆかしい日本のやり方が経済の都合によって否定され、勝ち組と負け組を峻別するルールに一本化されてしまうこと。
日本のいい部分が消されて、社会はどんどん息苦しくなっていく。TPPはただそれを加速するだけの効果しかない。
目先の利益にばかりつられて、人間性や人間の尊厳ってものをまるっきり見失っていて、恥ずかしくないのかね。
安倍晋三と、何も考えないでこのバカを支持する愚か者の多さに、絶望的な気分になるよ。いやもう十分絶望しとるよ。


2013.3.14 (Thu.)

職員室で大ベテランの先生が言う。
「前にね、フィリピンから来た子が言ったのよ。『日本では英語の授業を日本語でやることに驚いた』って。
 確かにこれじゃ、いくら学校で勉強しても英語をしゃべれるようにならないわよねえ。私もそう思ったわぁ」
なので僕はこう返す。
「フィリピンはアメリカの植民地だったから当たり前です。日本を旧植民地と一緒にしないでください。
 彼らは自分たちのもともと持っている言語で英語を学べないんですよ。それは英語を分析できないってことです。
 僕らは自分がしゃべるためだけに英語を学んでいるんじゃない。ただしゃべれればいいってもんじゃないんですよ。
 僕らは英語をしゃべる人間を理解するために英語を勉強しているんです。だから自分たちの母語がベースなんです」
そして最後にこう付け加える。
「戦前の日本が正しいとは言いませんが、世界で日本語が通用する空間を広げようと努力する方がむしろ、
 『国際的』な姿勢だと思いますけど。無理して品のない英語をしゃべっても相手にナメられるだけですね」

人生のベテランの判断力が狂っているんだから、そりゃもうニッポン無理だわ、と絶望的な気分になっております。


2013.3.13 (Wed.)

今日はやたらと風が強くて困った。風が強い日というのは今までけっこうあったのだが、今日のは別格だった。
校庭の犬走りは完全に砂で覆われてしまっていた。さすがにこんなのは初めてのことで、大いにたまげる。

そんな強風の中、覚悟を決めて砂だらけでサッカーをやるわれわれなのであった。いや本当に凄かった。
顔じゅうの穴という穴に砂が入りこんできて、顔も髪も砂のコーティングが施されて、もう何がなんだか。
部活が終わって職員室に戻ると、砂人形と化した僕の姿に、皆さん呆れて空いた口が塞がらないのであった。
口の中はシャリシャリするし、コンタクトを入れている目はゴリゴリするし、もう笑うしかない。なんだこりゃ。


2013.3.12 (Tue.)

すべてにおいてモチベーションが上がらない。前に指一本動かせないくらいに気持ちが沈んだことがあって、
さすがにそのときほどではないのだが、どうにもなかなか気分が前向きにならないのである。
周りに迷惑がかからないように最低限の仕事はこなしているが、それ以上の何かをやるだけの気力が出てこない。
原因はどうせ、昨日の面接から続いている将来への不安と現在への惜別の思いとが入り交じって、
それで頭の中がぐちゃぐちゃになっていて、そのあまりの複雑さにすべてが面倒くさくなってしまっているのだ。
こういう状態になるということは、つまりそれだけ、この4年間は充実していたのだと解釈できるはずなのだ。
つまり僕は、とことんまでモチベーションを下げることで、現状を肯定しようとしているのだ。
われながら、ずいぶんと不器用なものだ。そう思いつつ、どうにか動いている。本当に不器用だ。


2013.3.11 (Mon.)

東日本大震災から2年となった。2年が経っても僕は被災地を訪れる勇気がない。
相変わらず原発関連のニュースを中心に、震災は現在進行形で僕たちの周りに存在し続けている。
しかし、過去のスタート地点が現在から遠ざかるのにつられて、被害のリアリティも緩やかに遠ざかっているように思う。
冷静になる時間が挟まったことで、復興をめぐるよくないニュースが見えてくるようになってきた。
そのたびに、人間の教養や知性の限界を突き付けられるようで、情けない気分にさせられる。
生きるということは本当にきれいごとではないんだけど、そこに美学を求めなければならない、そう強く思う。

放課後に異動先で面接。こっちは職場の様子をいろいろ聞くのだが、それと同時に、僕がどんな人間かも探られる。
なんといっても当方は初めての異動なのである。新学期が始まってみないとわからないことばっかりで、
それゆえにわりと受け身な返答をしていたら、「きみからはあまり気迫を感じないね」と言われてしまった。
まあそれはある意味ごもっともだが、気迫みなぎる教員がいい教員とは僕はまったく思わないのでしょうがない。
どうせ4月以降になればはっきりすることなので、テキトーに「そうですか」と返事しておく僕なのであった。
そしたら先方は「いっぱいしゃべって楽しい英語の授業をお願いします」などという狂ったことをぬかしやがったので、
「僕はそういう授業はやりません。子どもたちに教養をつけさせる授業をします」と啖呵を切ってしまったではないか。
初対面であるにもかかわらず、最後には相手に「そんなに怒らないでよ」と言われてしまったではないか。
大丈夫なのか、来年度以降のオレ。なんとも不安ばかりが募る面接なのであった。本当に心配である。

この日はcirco氏が仕事で上京していたので、そのまま近くの商店街で晩メシをいただきつつ異動や面接について話す。
冷静になってみればポジティヴに受け止められる要素が少なくない異動であるとは思うので、
地道にやっていくしかないわな、という結論になる。決まったものはしょうがないので、そこでやるしかないのだ。
その辺の心持ちについて再確認をして解散する。来年度以降、どうにかなりますよーに。


2013.3.10 (Sun.)

昨日に引き続いて静岡県にある一宮参拝だコノヤロウ!ということで、今日も早起きして電車に乗り込む。
昨日は伊豆国一宮の三嶋大社に参拝したのだが、今日は遠江国一宮の小國(おくに)神社に参拝するのだ。
遠江の一宮はもうひとつ事任八幡宮があって、そちらは昨年末に参拝済みである(→2012.12.24)。
そのときと同様にひたすら東海道線に揺られ、沼津と静岡で乗り換えてまた揺られ、やっと掛川に到着。
事任八幡宮がバスでのアクセスとなるのに対し、小國神社は天竜浜名湖鉄道・天竜浜名湖線でのアクセス。
その名も遠江一宮駅があるのだが、小國神社はそこからなんと、徒歩40分ほど。ぜんぜん最寄じゃないのだ。
素直に歩いてもいいのだが、日曜日には送迎バスが出るそうなので、ちょうどいいやとチャレンジしたしだい。

2日連続で朝早く東海道線に揺られるというのもなんだか間抜けな気分だが、青春18きっぷなので開き直れる。
沼津、静岡で乗り換えて掛川に到着。昨年末に事任八幡宮を参拝したときと同じ時刻で、タイムスリップした気分。
もっとも、昨年末は快晴だったが、今日はしっかりと曇り空である。すっきり晴れていないのが悔しい。
念のために駅前のコンビニで昼食を買い込んでおいてから、天浜線に乗り込む。1両だけのディーゼルでとてもローカル。

 
L: 天浜線の掛川駅。駅舎は別だが、JRからそのまま乗り換え可能。  R: ホームで待機する車両。うーん、1両。

席を確保して日記を書きつつのんびりしていると、ボーイスカウト的な何かか、大量の子どもたちが乗ってきた。
圧倒されているうちに列車は発車。子どもたちは大人の指示に従って、素直に集まって行儀よく過ごしていたのでよかった。
こういうところでダメな大人や行儀の悪いガキにぶち当たると気分が一気に悪くなる。イーコイーコしてやる。

そんなこんなで田園風景の中を揺られること30分、遠江一宮駅に到着。ホームの脇には花が植えられて春の気配。
見れば駅前の駐車スペースでは、いち早く河津桜がソメイヨシノよりも濃い花を満開にさせている。
もうすっかり春だなと思った次の瞬間、強烈なクシャミが出た。今年は花粉と厳しい戦いを繰り広げることになりそうだ。

  
L: 遠江一宮駅のホームにて。穏やかな春の気配が漂うのはいいが、花粉もしっかりと漂っていたのであった。
C: 駅舎は1940年竣工で、登録有形文化財になっている。シンプルな印象だが、中はしっかり。
R: 河津桜が駅舎の向かいでいい色に咲いていた。これがさりげなく咲いているとは、さすが静岡県ってことか。

駅舎の前にはワゴンタクシーとマイクロバスの中間のような送迎用の車が停車していた。
僕のほか、5名ほどが乗り込んでさっそく出発。田舎ではあるんだけど道はそれなりに整備されており、
特に困ったこともなく、するっと10分ほどで神社の駐車場に到着。確かに、歩くと面倒くさい距離だった。

さて、小國神社の駐車場に着いたのはいいが、とにかく驚いた。というのも、車がびっしり、人もびっしりだったから。
これだけアクセスの悪い田舎の神社なんだからさぞかし閑散としているんだろうなという先入観があったのだが、
実際にはまったく正反対で、大いに賑わっていたのだ。駐車場には絶えず車が入ってくるくらいの勢いである。
思えば昨年末に訪れた椿大神社(→2012.12.28)でも同じような驚き方をしていたのだが(成長せんなあ)、
小國神社はそれよりもアクセス条件が悪いわけで、これには本当に驚いた。ひとつの国に一宮がふたつある場合、
どちらかが「大」でどちらかが「小」なのは経験則でわかっていて、事任八幡宮の規模は「小」だった(→2012.12.24)。
だから小國神社が「大」であることは想像がついたのだが、ここまでの賑わい方は想像できなかった。いやはやびっくり。

  
L: 小國神社の鳥居。周りの駐車場は車で埋め尽くされていた。こんなに賑わっているとはまったく予想できなかった……。
C: 参道を行く。厚く信仰されている神社らしく、厳かな雰囲気。全国一宮等の祭神73柱を祀る全國一宮等合殿社もある。
R: 社殿の前にはおみくじが並んでいる。これはなんとも不思議な光景だ。いちばん向こうには一段低い「こどもみくじ」がある。

小國神社の参道はあくまで線的な展開で、特に境内が広くつくられているわけではないようだ。
それでも参道の西側には八王子社・宗像社・全國一宮等合殿社など、さまざまな摂末社がある。
再度鳥居を抜けると拝殿があるのが見えるが、左手にずらっとおみくじの箱が並んでいるのに驚いた。
神社のおみくじってのはけっこう個性が出るところではあるのだが、さすがにこれは珍しい。後で引いたら大吉だったよ。
そして右手には舞殿がある。舞殿は参道からそのまままっすぐ拝殿と一直線上に置かれることが多いように思うが、
小國神社の場合にはむしろ、脇を抜けてから振り返って向き合うような位置関係にある。これもまた珍しい。
拝殿の右隣には神徳殿。この辺りで交通安全の祈祷をするのか、前に車がずらっと並んでいる。神社ってのはふつう、
馬を下りて参拝するわけで(下馬)、その影響で境内には自転車も入っちゃダメだし車も入っちゃダメなところがほとんど。
ここまで堂々と車で入ってよろしいという神社はやっぱり珍しい。なかなか個性的で面白い神社だと思う。

さてそんな小國神社だが、出雲の「大国」に対する美称として「小国」と名乗っているとのこと。
琵琶湖の「近江」に対して浜名湖の「遠江」だし、遠州は微妙な対抗意識にあふれる土地なのかな、と思う。
古来より絶えず信仰されてきた神社だそうで、武田信玄の遠江侵攻の際には徳川側についたそうだ。そりゃ安泰だ。
なんでこんなに人がいっぱいなのかは最後までわからずじまい。でも天気のわりにはなかなか爽やかな気分で参拝できた。

  
L: 舞殿。参道からズレた位置にあるのは珍しいのでは。境内なのに堂々と車が停められているのがわかる一枚。
C: 拝殿。曇り空だし人は多いしで、日が差して人が少ない瞬間をじっくり待って撮影。大変でございました。
R: 神徳殿。ここも本殿と同じく大己貴命を祀っているのだが、拝殿が空いていないときにここを使うらしい。

最後に、境内の手前にある「小國ことまち横丁」に立ち寄る。ここには3つほどの店舗が集まっており、
ちょっとしたフードコートのような雰囲気の漂う一角となっているのだ。メインとなっているのはお茶屋さんで、
袋へのお茶の詰め放題を売りにしているようだ。また飲食のメニューもけっこう多彩かつ個性的である。
ショウガを使った「小國ジンジャー」、お茶をベースにタピオカを入れた「茶ピオカドリンク」などがあり、
ダジャレかよ!と思わずツッコミを入れたくなってしまうのだが、つまりよく考えてあって楽しめるってことだ。
すごいところでは、森町ということで、いかめしを売っていた。小國神社があるのは静岡県の森町なのだが、
いかめしは北海道の森町の名物(森駅の駅弁)ということで扱っているわけだ。本当によく考えていると感心する。

  
L: 小國ことまち横丁の参道側入口。まずはお茶屋さんが元気に営業中。  C: 中はこんな感じでくつろげるのだ。
R: 駐車場側から小國ことまち横丁の全体を眺めてみたところ。大量の参拝客で賑わっていてすばらしい。

せっかくなので、お茶屋のお茶ドリンクだからまずいはずがないだろうと、茶ピオカドリンクをいただいてみた。
そしたらやっぱりおいしゅうございました。お茶は甘すぎず風味がきちんと楽しめて、あんこ混じりのタピオカもいい。
上で書いたように、僕は小國神社のことをナメてかかっていたわけだが、本当にすいませんでしたと謝りたい気分である。

そんな具合にのんびり過ごしているうちに、送迎バスが発車する時刻となった。帰りの乗客は僕ひとり。
帰りは来たとき以上にあっという間で、すぐに遠江一宮駅に着いてしまったのであった。
このまま新所原方面へ抜ける列車はすぐにやってくるのだが、僕は掛川に戻る予定なのである。
そうなると30分ほどのんびりと列車を待つことになる。遠江一宮駅の駅舎には蕎麦屋が併設されていて、
11時を過ぎたので営業を開始していた。気にはなったがメニューが外に出ていなかったので、
気取ってんじゃねえコノヤロウ!ということで食べなかった。後で調べたらけっこうな人気店とのこと。うーむ。

ホームで春の気配を感じながら、のんびりとコンビニで買い込んでおいた食料をいただく。
さっき小國神社では少し青空が覗いたものの、今はもう分厚い雲がしっかりと空を覆ってしまっている。
こういう天気だとモチベーションが上がらなくって困る。しかも曇りのくせに花粉がしっかり舞っていやがる。
昨日と同じくのどが痛い。何度も何度もクシャミを繰り返しているうちに、やっとこさ列車がやってきた。
帰りはぐっすりと眠ってしまって、気がついたら掛川駅に着く直前なのであった。JRに乗り換えて東へ戻る。
一宮参拝と市役所めぐりをセットにするのはこないだの事任八幡宮のときと同じなのだ(→2012.12.24)。
本日のターゲットはまず藤枝市。そして隣の焼津市。ひとつひとつ確実につぶしていこうというわけだ。

藤枝駅に到着すると、南口から出る。藤枝市ってのもなかなか複雑なところで、市役所が駅からだいぶ遠い。
旧市街地はその市役所近辺にあるのだが、駅周辺も商店街があって核が2つある印象なのである。
今回は南口の駐輪場でレンタサイクルを貸し出しているという情報をつかんだので、それを利用して市役所を目指すのだ。
南口の駅前ロータリーに出ると、とにかくやたらと風が強い。まっすぐ南にはアピタがあって、祭りを開催中なのか、
その手前の通りが歩行者天国になっていた。でもとにかく、まずは駐輪場でレンタサイクルを借りるのだ。
駐輪場はだいぶ左手に進んでかなり奥まった位置にあり、戸惑いながら到着。係のおじさんに言って申し込む。
気のいいおじさんは「どこに行かれるんですか?」と訊いてきたのだが、この質問はけっこう困るのだ。
「市役所に行きます」と素直に言っても怪訝そうな表情を返されるのがオチなのだ。しかしだからといって、
藤枝にこれといった観光名所があるわけでもなし。しょうがないので「市役所の周辺をぷらぷらと」と返す。
すると「それなら蓮花寺池公園にも行ってみてください。花がそろそろ咲きはじめていますよ」とのこと。
それはぜひ行ってみなければなるまい。ありがたいアドヴァイスに感謝しつつ出発した。

 藤枝駅の北口。観光案内所にも寄ったが……うーん、あんまり見どころがない。

まずは駅の北口にまわり込んで、そこから国道1号を目指して走る。北口には駅からまっすぐアーケードの商店街があり、
面的な広がりはないものの、そこそこの活気となっていた。ただ、あくまでそこそこ。賑わいはまったくない。
それにしても目立っているのは日本代表MF・長谷部のポスターだ。確かに長谷部は藤枝東高校の出身だ。
そのポスターをよく見てみたら、それは今年藤枝市内で開催されるサッカー大会のスケジュール表になっていた。
藤枝がサッカーの街であることは当然知っていたのだが、ここまで地域に根ざしているとは思っておらず、驚いた。

国道1号に出ると、ひたすら北東へと走る。今回は地図を印刷していなかったので、市役所の細かい位置がわからない。
とにかく走って走って走りまくる。そしたら運のいいことに本屋があった。地図を確認してポイントを記憶する。
勢いあまってオーヴァーランしており、ちょっと戻ってから北へと入る。するとすぐに市役所の裏手に出た。
藤枝市役所は旧市街の住宅地に位置しているためか、とにかく周囲の道幅が狭っこい。しかし建物の幅がある。
調べてみたら、もともと市役所の建物は半分だけで、後になってからもう半分が増築されたようだ。
しかしわりと無理なくつないでいるので、一見するとやたらと幅のあるひとつの建物に思えてしまう。

  
L: 藤枝市役所。東館と西館に分かれており、幅がかなりある建物となっているのですごく撮影しづらかった。
C: 正面より撮影。向かって左の東館は1973年、右の西館は1988年の竣工。両者はそれとなくつながっている。
R: 裏側もだいたい似たようなデザインである。いちおう駐車場があるんだけど、それでも撮影するのが大変だ。

市役所の撮影を終えると、さっきのおじさんがオススメしていた蓮華寺池公園へと向かう。
途中で旧東海道沿いのアーケード商店街を抜ける。いかにも街道沿いの雰囲気が満載で、どことなく歴史を感じる。
さっきの駅北口にあったアーケードもそれなりにしっかりしていたが、こっちもこっちで細々とやっている。
そういう複数の商店街がそれなりに共存しているのは、藤枝ならではの光景と言えそうである。なかなか面白い。

風が駐車場の砂埃を思いっきり巻き上げる中、やっとこさ蓮華寺池公園に到着。思ったよりも広い池で驚いた。
蓮華寺池はもともと、1613(慶長18)年につくられた灌漑用の溜池とのこと。真ん中にはちょっとした山があり、
やたらと長い滑り台が設置されている。公園内は自転車の乗り入れが禁止されているので、歩いて滑り台に行ってみた。
そしたら子どもたちが大はしゃぎですべっており、僕はまるっきりペルソナ・ノン・グラータなのであった。

 
L: 蓮花寺池公園。行ってみたら、なかなか大規模な池だったので驚いた。休日で家族連れがやたらといっぱい。
R: ジャンボすべりだい。左の黄色い滑り台がいちばん長くて80mもあるそうだ。大人が独りで来るところじゃねえや。

帰りは国道1号ではなく、白子名店街から上伝馬商店街にかけての旧東海道を抜けて駅まで戻る。
さっきも書いたが、ゆるやかなカーヴと個人商店の並ぶ雰囲気が、街道の持つ歴史を今もしっかり伝えている。
しかしさすがに、すぐ南を国道1号が走っているという地理的な条件はいかんともしがたいようで、
確実に衰えが進んでいるという印象はどうしょうもない。商店街の活性化は難しい問題だと実感させられる光景だ。

  
L: 藤枝の道路の様子について。こちらは駅の北口から延びている商店街の様子。人はいないが雰囲気はそれほど悪くない。
C: 国道1号を行く。左手には中央防犯の事務所。この中央防犯のサッカー部が現在のアビスパ福岡の母体となったのだ。
R: 旧東海道の白子名店街。ユニーが撤退(駅南口に移ってアピタになったのか?)したことで大ダメージを食らったそうだ。

藤枝駅に到着すると、南口の駐輪場でレンタサイクルを返却。気のいいおじさんは元気のない僕の様子を見て、
「どうしたんですか?」と声をかけてくる。「いや、もう、花粉が凄くて……」弱々しい鼻声で返す僕。
そうなのだ。藤枝に来たときから強かった風はおさまることなく、大量の花粉やら埃やらをぶつけてくる。
僕は自転車をこぎながら、ずっとクシャミをしていたのだ。クシャミだけで疲れ果ててしまうほどのひどさだった。
おじさんは笑って「近頃はなんだかよくわからないもんまで飛んできますもんね」と言うのであった。
PM2.5でもなんでも、とにかくこの季節は本当に困る。ヘロヘロになって電車に乗り込んだのであった。

藤枝から2駅目が焼津駅である。焼津というと漁港としてとにかく有名だが、とりあえず今回は市役所なのだ。
焼津市役所も駅からは少し離れた位置にある。でもまっすぐ南に行けばなんとかなるので、特に考えずにスタート。
焼津駅から南へはアーケードの駅前通りが続いており、歩行者向けに整備されている。が、かなりの壊滅ぶりだった。

 
L: 焼津駅。駅前には足湯があった。焼津って温泉が有名だったっけか?  R: 駅の南に延びる駅前通り。さびれとる。

駅前通りをそのまままっすぐしばらく行くと、焼津市役所別館の裏手に出る。その奥に議会庁舎、そして本庁舎。
3つの建物はきれいに横に並んでいるのだ。それぞれのファサードの違いがものすごく面白くってついつい興奮してしまう。
特に個人的にツボに入ったのが議会庁舎で、そのモダン全開なデザインにはけっこう感心してしまった。
こういうものにひょっこり出くわすので市役所めぐりはやめられんのよね、と思いつつシャッターを切る。

  
L: 焼津市役所・別館。1971年竣工。  C: 議会庁舎。1968年竣工。このモダンぶりには思わず拍手だ。木がすごく邪魔。
R: これが焼津市役所の本庁舎。1969年の竣工で、議会庁舎よりも新しいのだ。地味に凝ったデザインとなっている。

  
L: 角度を変えて本庁舎を撮影してみた。  C: 側面。  R: 裏側がまた面白い。やっぱりこの建物も凝っている。

焼津市役所は老朽化と分散化が深刻な状態となっており、新しい庁舎の建設計画が持ち上がっている。
しかし(後述する産業会館も含めて)どの建物もモダニズム庁舎としてのデザインの妙味が冴えていて、
庁舎建築のファンとしては壊してほしくない気持ちでいっぱいである。面白くってたまらんのだがなあ。

そう思っていたら、涙雨ってやつなのか、さっきまでうっすらと青空が見えていたにもかかわらず、
いきなり小雨がパラつきだした。突然のことに驚くが、雨はやむことなく降り続ける。これはまいった。
周囲を一周して撮影は終わったので、最後に焼津神社を参拝して駅まで戻ることにする。
しかし地図を忘れた影響は大きく、けっこう道に迷ってしまった。まあ結局は無事に神社に着いたのだが、
ぺたーっと住宅が広がっている焼津という街の独特な部分を期せずして存分に味わった気分である。
途中でなかなかキレたデザインをしている産業会館も見られたし。解体するのがもったいない迫力の建物だ。
交通量は多いわ小雨が降っとるわで苦労したが、なんとか撮影。そこから焼津神社はすぐだった。

 
L: 今年6月から解体工事が始まる予定の焼津市産業会館。角地の立地を生かしたデザインが面白いのだが。1967年竣工。
R: 焼津神社の境内はこんな感じ。元焼津公園と境内が一体化しているためか、ちょっと独特な雰囲気がある。

焼津という地名は、野原に火を放たれた日本武尊が天叢雲剣(草薙剣)で草を薙ぎ払って難を逃れた、
という逸話に由来している。そのためか、焼津神社では日本武尊が主祭神として祀られているのだ。
きちんと神社ではあるのだが、境内が公園と一体化しているためか、ちょっと公的に開かれた雰囲気があって、
また拝殿も神社というよりは寺のような造りをしており、なかなか独特な印象のする空間となっていた。

そのまま北へ抜けて、いちょう通りで焼津駅を目指す。途中の五叉路に清水エスパルスのショップがあり、
そういうサッカー文化圏なのか、と思うのであった。藤枝MYFCがエスパルスを焼津から駆逐する日は来るか?
駅の近くには焼津黒潮温泉の入浴施設があってけっこう心惹かれたのだが、タオルもないし、パスした。
駅に着いてあらためて足湯を見て、やっぱり焼津は温泉が出るんだ、と再確認。いい観光資源じゃないか。
魚を食べることもなく、温泉に浸かることもなく、市役所だけを見て焼津を後にする。ひねくれているなあ、と思う。
まあその辺は次回への課題ということにしておくのだ。……なんか毎回そんなことばっかり書いているな。

2日連続の東海道線は楽しかったんだけれども、やっぱりなんだか間抜けだった。


2013.3.9 (Sat.)

青春18きっぷで小旅行。東海道沿いにはまだ見ぬ市役所がゴロゴロしているので、それをつぶしてやるのだ。
本日のテーマは特に「旧伊豆国」ということで、城跡に一宮に市役所にと大暴れしてやるのである。

 本日は三島駅よりスタートである。三嶋大社を意識しているねえ。

三島駅に到着すると、バスに乗り込んで国道1号を北上していく。30分ほど揺られると、山中城跡に到着。
ジョー山中じゃないよ! 山中城だよ! ……とまあ、くだらないギャグはおいといて、山中城について軽く説明。
山中城は北条氏康が築いた城で、1590(天正18)年の小田原征伐で力攻めに遭い、半日で落城している。
しかし畝堀や障子堀といった独特な防御の構造が今もしっかりと残っており、城マニアには有名な城跡なのである。
(前にテレビで城マニアで知られる春風亭昇太師匠が興奮しながら紹介していたのが、この山中城だった。)
鉄道の「て」の字もないような場所にあるのだが、さすがに国道1号沿いということでバスでアクセス可能。
三島と箱根を結ぶ路線に30分ほど揺られれば到着できるのだ。だから意外と行きづらいことはないのだ。

まずは国道の南側から行ってみる。こちらは岱崎(だいさき)出丸と呼ばれる部分が中心になっている。
城跡は一面の芝生に覆われており、春の空気が色濃くなってきたとはいえ、まだほとんどが枯れている状態。
もしこれが鮮やかな緑色だったら本当に美しいだろうな、と思う。それくらいに穏やかな光景となっていた。
とてもきれいに整備されており、400年前の壮絶な戦いがまったく想像できないくらいにのどかである。
そんな岱崎出丸の端っこまで行ってみると、地面がすり鉢状になっている場所があった。周りには木が植えられており、
それがきれいな真ん丸に刈り込まれているので、なんとも幻想的というか非現実的な印象がする。
木々の外側は一ノ堀。覗き込んだら非常に急な傾斜となっていて、底には一定間隔で橋のような筋がある。
これが山中城名物のひとつ「畝堀」なのだ。今は芝に覆われているが、かつては土と泥でかなり滑ったという。
そうやって豊臣方の兵士を撃退しようとしたわけなのだ。石垣をつくらず土塁を工夫するのが北条氏流だそうで。
すり鉢状の曲輪も、敵が上がってきた際に弓矢や鉄砲で一斉攻撃をかけるためなのだ。容赦ない土木大作戦である。

  
L: 国道1号と山中城址入口。右が南で岱崎出丸方面、左が北で本丸方面となる。  C: 一ノ堀。見事な畝堀ぶりである。
R: 三ノ丸跡にある宗閑寺には、北条方と豊臣方の双方の戦死者を弔う墓が建っている。静かに歴史を語る一角。

国道1号の反対にある本丸側には、整備された歩道を歩いていくようになっている。国道1号を歩いてもいいが、
交通量がかなり多いところに見通しのまったく利かないカーヴとなっていて、けっこう危ないのである。
途中で三ノ丸跡にある宗閑寺に立ち寄る。北条方・豊臣方双方の兵士の墓が並んで建てられている。ナムナム。

  
L: 国道1号を挟んで本丸側の入口を眺める。朝のうちはいいけど、そのうち交通量が激増してかなり危なくなる。
C: 天守台跡。木々に囲まれており、あんまりそんな感じがない。確かに周囲よりは一段高くつくられているが。
R: 北条丸(二ノ丸)。防御のことを考えてなのか、とっても斜めになっている。なんとも不思議な場所なのだ。

本丸や天守台は東海道である国道1号に近いところにあって、木々に囲まれているので狭苦しい印象なのだが、
二ノ丸である北条丸まで出てくると、視界が一気に開けてこの城に対する印象ががらりと変わることになる。
しかしその北条丸はずいぶんナナメっており、生活するのは少し大変じゃないかと心配になってしまう。
ここまで大胆に土地が平らではない城跡ってのは初めてだ。北条氏のオリジナリティが炸裂している空間だ。

さらに進んでいくと、畝堀を渡って西ノ丸に出る。これがもう本当に強烈で、言葉もなくしばらく突っ立ってしまった。
城址内の木々が徹底してきれいに丸く刈り込まれているせいだと思うのだが、空間全体が非現実的なのである。
緩やかにうねる一面の芝生に、丸い木々が点々と生えている。見下ろせば幾何学的に掘られた谷。
まるでどこか別の世界に瞬間移動してしまったような感覚になるのだ。これが日本の風景とは到底思えない。
西の空を見やれば、春の霞に裾野を隠した富士山が、うっすらと白い威容を覗かせながら浮かんでいる。
目の前の光景が信じられない。夢を見ているような気分だ。戦国時代の城郭という歴史を完全に飛び越えてしまって、
もっとずっと遠い昔の遠い異国にいるみたいだ。あるいは未来か、別の惑星か。山中ジョウントおそるべし(→2009.8.25)。
「空中庭園」という言葉がふと頭の中に浮かんできて、その響きにひどく納得がいった。そうだ、ここは空中庭園なのだ。

  
L: 西ノ丸。日本に現実にこういう光景が存在していることが、いまだに信じられないくらいに強烈だった。
C: 障子堀越しに西櫓を眺める。もうこれが何のための空間なのかわからない。時間と空間の感覚が麻痺してくる。
R: 角度を変えて障子堀を眺める。これが戦闘の際の防御を目的につくられたようには見えなくなってしまった。

しばらく夢遊病のように空中庭園をフラフラして過ごした。近年まれにみる特異な空間体験をしてしまった。
時期が時期だったので芝生は枯れた色をしていたが、緑の鮮やかな季節に来ればもっと風景を楽しめそうだ。
ぜひこれは緑一色に染まったところを見たい!と心底思ったので、暇をみてもう一度訪れることにしたい。

 山中城址より眺める富士山。なんか『がんばれゴエモン』にこんな富士山なかったか。

再びバスで三島駅まで戻ろうとするが、これがかなりの渋滞ぶり。あんまりモタモタしていると、
三島市内を見てまわることができなくなってしまう。考えた末、三嶋大社前で降りてしまうことにした。
この調子で駅まで行ってレンタサイクルを借りるよりも、観光しながら歩いて駅まで戻る方がいいという判断だ。

というわけで、いきなり三嶋大社に参拝なのである。バヒサシさんに連れられて以来、5年ぶりになる(→2008.3.22)。
当時は一宮なんて全然意識することなく、有名な神社だから参拝しようと誘われてヘイヘイとついていっただけ。
それを反省しつつ、今回はあらためて伊豆国一宮としての威厳をビシビシ実感しながら参拝するのである。

  
L: 県道22号に面する三嶋大社の大鳥居。  C: 境内の参道を行く。  R: 1867(慶応3)年築の神門。

もともと三宅島にあったからとか、大三島の大山祇神社(→2011.2.20)を勧請したとか、さまざまな説がある。
まあともかく、「三嶋」という名を冠した神社が創建されて「三島」という門前町が生まれたわけだ。
伊豆に流された源頼朝が崇敬していたことや「三島暦」を発行したことで、特に有名になったようである。
現在の社殿は江戸時代から明治時代に切り替わる時期に一気に建てられており、非常に統一感がある。
三嶋大社は伊豆半島へ出るスタート地点にあるわけで、立派な社殿たちを眺めているとなんとなく、
温泉天国として今も昔も変わらず親しまれている伊豆の人気ぶりがダイレクトに見えてくる。

  
L: 1866(慶応2)年再建の舞殿。「二十四孝」の彫刻が施されているとのこと。「二十四孝」というとまず落語を思い出す……。
C: 拝殿。1866年の築で重要文化財。さすがに威風堂々。  R: 本殿も同時に竣工しているので統一感のあるデザインだ。

境内のはずれでは、5年前とまったく変わらず陶器市が催されていた。とてもとてものんびり眺める暇などないので、
急ぎ足でテント地帯を抜けると、宝物館に寄ることもなくそのまま三嶋大社を後にする。余裕のない旅はダメだ、
そうわかっちゃいるのだが、結局今回もランニングしながらの移動を強いられるのであった。成長せんなあ。

 芸能殿。もともとは総門だった。1968(慶応4)年築。

そのまま三島市役所へと向かう。市役所は三嶋大社から南西にあり、駅からは遠ざかる格好になる。
いざ到着してみると、まず印象的なのは敷地の端っこにある祠だ。さすが神社の街だなと思う。
今までさまざまな市役所を見てきたが、道を挟んだ向かいなどにはあっても敷地の隅というかすぐ隣というか、
そういった位置に祠があるのは初めてだ。建っている庁舎も耐震補強がしっかり施されており、
オープンスペースもなく狭苦しい駐車場と妙な調和を見せている。昭和という時代の穏やかさをなんとなく感じる。

  
L: 三島市役所。狭い敷地でがんばって駐車場をとっており、耐震補強の3階建ては町役場を思わせる空間である。
C: 庁舎のエントランスを撮影。調べてみたら1960年竣工ということで、よくこらえて使っていると思う。
R: 角度を変えて撮影。左手には消防署がくっついており、それもまた昭和な雰囲気を漂わせている。

 市役所の敷地の脇に祠がある事例は初めてだ。

三島の市街地は思ったより広く、早足で駅まで向かう。きちんと歩きまわっていないのでなんとも言えないが、
どうも三島駅・三嶋大社・三島の中心市街地は三角形を描いているようだ。今回は三嶋大社から駅まで歩いただけで、
市街地の様子を探る余裕はまったくなかった。それが非常に心残りである。いずれきちんと歩いてみたいものだ。
さて、その三角形の真ん中に位置しているのが楽寿園である。楽寿園のど真ん中を突っ切って駅へと向かうわけだ。

 もうちょっときちんと三島の商店街を歩きたかった……。

澄みきった水の流れる水路沿いに駅へ向かって歩いていく。水は本当にきれいで、道端の水路なのに鯉がいっぱいいる。
家々の入口へと架けられたコンクリートの橋の下にある日陰では、カモたちが羽を休めて浮いている。
これは大したもんだ、と思っていると水路が大胆にカーヴし、公園が現れる。道を挟んだ向かいに楽寿園の正門が現れた。
迷うことなく受付へ突撃し、300円払って園内へと入る。中はなかなか広めの回遊式庭園となっているのだ。
楽寿園に来るまでの道はずいぶんと豊かな光景で、それに慣れきった状態で園内を歩きはじめたのだが、
木々の間を抜けて現れた光景には目を疑った。何かに似ていると思ったら、それは鬼押出し(→2007.5.4)だった。
楽寿園は富士山が噴火した際に出てきた溶岩(三島溶岩)をそのまま生かして庭園としている点に大きな特徴がある。
しかし、回遊式庭園としては致命的とも言える問題を抱えている。それは、いちばん大きな池に水がないということである。
本来であれば澄んだ湧水をたっぷりとたたえた小浜池越しに楽寿館を眺めることになるはずなのだが、その水がない。
楽寿館の前に広がっているのは、荒みきった溶岩の窪み。それはそれで見るべき価値が発生するかもしれないが、
やはり本来の魅力を失った姿は痛々しくってたまらない。思わず茫然と立ち尽くしてしまったよ。

  
L: 水がほとんどない楽寿園・小浜池。1962年ごろより荒涼とした溶岩の地面が広がり、なんとも痛々しい姿となっている。
C: 楽寿館。決められた時間に玄関前にいないと中を見学できない。今回はとてもとてもそんな暇がないのでパス。
R: 楽寿園の中は遊園地(乗り物コーナー)と動物園が併設されており、子どもたちの姿が目立っていた。写真は休憩スペース。

そのままあっさりと楽寿園の中を抜けてしまって三島駅に到着。駅に着いてもしばらく、楽寿園のあまりの痛々しさに、
なんともすっきりしない気持ちになるのであった。半世紀もあの状態が続いているのは、やはり異常であると思う。

三島駅に着いてまず最初にやることは、伊豆箱根鉄道駿豆線のフリー切符である「旅助け」を購入すること。
そして、どうにかしてメシを食うこと。もう限界だ。……と思ったら、改札の隣に立ち食い蕎麦屋があった。
店の前には看板が出ていて、なんでも駅そばのアンケートで見事1位に輝いたとか。そりゃ食うしかないわな。
迷わず一番のオススメであるという椎茸そばを注文。なるほど、ちょっと厚めに切った椎茸がたっぷり乗っている。
しっかりと味の染みた椎茸と、立ち食いにしては食感のいい蕎麦がなかなかいいハーモニーを奏でている。
確かにほかの立ち食い蕎麦とは明らかに異なるクオリティである。月見で素直にその違いを味わいたい気もしたな。

 オススメという椎茸そば。確かに椎茸たっぷり、蕎麦じたいもなかなかだ。

伊豆箱根鉄道駿豆線に乗って目指すは修善寺温泉である。じっくり温泉に浸かって癒されたいのである。
しかし途中に市役所があるので、それをきちんと制覇すべくフリー切符を買ったわけなのだ。抜かりはないのだ。
たっぷりと乗客を乗せた駿豆線は快調に南下していく。最初は私鉄っぽい雰囲気満載のカーヴと短い駅間だったが、
三島市の郊外に出るとだいぶローカルな色に染まる。窓の外には壁のように山脈がそびえており、
海底のプレートがグイグイ押されるせいで山がちな地形になっている伊豆らしい景色が存分に味わえる。

やがて列車は伊豆長岡駅に到着。ここは伊豆の国市役所の最寄駅となるので、下車して改札を抜ける。
あらかじめ地図で確認してその遠さはわかっていたので、覚悟を決めて歩きだす。駅前を抜けると真っ青な鉄橋を渡り、
伊豆長岡温泉の古奈地区へと入っていく。源氏山にぶつかったら左に折れて迂回する。そうして右に曲がってまたまっすぐ。
途中で順天堂大学の病院やバスターミナルがあるけど、まだまっすぐ。バスに乗りゃよかったと後悔するも遅し。
温泉街の端を抜けてしばらく行くと、どっしりした茶色い建物が見えてくる。伊豆の国市役所である。

そのネーミングセンスにより南アルプス市とともに全国の皆さんから失笑を買った伊豆の国市は、2005年に誕生。
「伊豆の国市」という名称は一般公募で決まったそうだが、それを選ぶ基準がまったくわからない。
伊豆長岡町・大仁町・韮山町のバランスからして新しい名前をつくる必要があったのだろうが、それにしてもひどすぎる。
市役所(旧伊豆長岡町役場)のデザインもなんだかはっきりしない塊で、周囲の施設との連携も特にない。
あくまでこの地域の主人公は伊豆長岡温泉であり、役所は役所で事務的な機能だけが求められているという印象だ。

  
L: 伊豆の国市役所。1979年に伊豆長岡町役場として竣工。昭和50年代というよりは平成オフィス庁舎に近い印象。
C: 駐車場越しに眺める。周囲にはいくつか公共施設があるが、特につながりは感じない。  R: 南側から眺めたところ。

気になったので、帰りにちょろっと伊豆長岡温泉の中心部を歩いてみた。大規模な旅館が圧倒的な存在感で、
歓楽街の要素はあまり感じられない。旅館の中ですべてが済んでしまう、そんな温泉地である印象がした。
Wikipediaでは「旅館の宴会でのコンパニオン発祥の地である」って書いてあったけど、そうなの?

 山の斜面に沿って旅館の複数の建物が要塞のように並ぶ光景が壮観だった。

帰りものんびり歩いてやっとこさ伊豆長岡駅に到着。天気が絶好調でブルゾンだと暑くてかなわん。汗だらけだ。
たまらず三ツ矢サイダーを飲みながら、駅から温泉や市役所までの距離がたっぷりあったことを実感した。
サイダーを飲んでいるうちは、のどが洗われるのでそんなに気にならなかったのだが、飲み終えたらクシャミを連発。
寒気はまったく感じないし、声もまったくおかしくない。でもとにかく、のどに鈍い痛みがあってそれが鬱陶しい。
これは紛うことなき、花粉症の症状だ。僕は花粉が多いといきなり重症になってしまう体質なのである。
修善寺行きの列車を待つ間、冗談抜きで延々とクシャミをし続けたのであった。15秒に1回くらいのペースで出る。
それで変に体力が奪われてしまって、本当に疲れた。ティッシュがどんなにあっても足りない。本当に困った。

時間と体力に余裕があれば、ぜひ韮山反射炉まで行ってみたかったのだが、次の目的地があるので今回はパス。
まあ、いずれバヒさんに連れていってもらうのも楽しみがあっていいだろう。楽しみは多い方がいいと考えておくのだ。
しばらく待ったら修善寺方面の列車がやってきたのでさっさと乗り込む。中は意外とけっこう空いていた。

そんなこんなでどうにか終点の修善寺駅に到着。駅から伊豆市役所、そして修善寺温泉までは距離がある。
当然のごとくレンタサイクルを申し込もうとしたのだが、なかなか殿様商売な態度で「すべて出てます」だとさ。
だいぶイラッと来たのだが、怒ったところで事態は解決しないので、まずは伊豆市役所まで歩くことにした。
ところで現在、修善寺駅では再開発事業が始まったところだそうで、駅舎の建て替えなど大規模な整備をするらしい。
温泉を売りにしたベッドタウン化を目指しているとのことだが、さっきも書いたけど温泉まで距離があるし、
地形が全体的に狭苦しいので成否は微妙な印象である。観光客はしっかり多いけど、それじゃダメなのかね。

 修善寺駅。ちなみに伊豆長岡駅も同じデザイン。駿豆線ってそういう感じなの?

伊豆市役所は修善寺橋からその姿を眺めることができる。位置が遠くからはっきりわかるのはありがたい。
対岸に渡って地図を参考にしながら歩いていく。伊豆市は4町の合併によって2004年に誕生した。
狩野川に面している旧修善寺町役場を伊豆市役所としている。3階建てで、いかにも町役場らしい規模である。

  
L: 伊豆市役所(旧修善寺町役場)。1974年の竣工。駐車場となっている敷地じたいにかなりの起伏があるのが特徴か。
C: 角度を変えて撮影。起伏がわかるでしょ。  R: 反対側から見るとこんな感じになっているのだ。

市役所の隣には伊豆市民文化ホールがある。さらにその奥には図書館。公共施設を固めた一角となっているのだ。
すぐそこまで山が迫った地形をしており、とにかく敷地が狭苦しくて撮影がすごくしづらい。伊豆だなあ、としみじみ思う。

  
L: 伊豆市役所の裏側。狩野川にはこちら側が面しているので、修善寺橋から見るとまったくフォトジェニックでない。
C: 隣の伊豆市民文化ホール。なかなか大胆だが敷地に余裕がないので、うまく全容を見ることができないのであった。
R: 修善寺橋より狩野川越しに眺めた伊豆市役所と伊豆市民文化ホール。もうちょっとなんとかなりませんかね。

駅まで戻るとバスターミナルへ直行。修善寺温泉行きのバスに乗り込んでしばらく待つと発車。
狩野川沿いの修善寺駅から温泉街までは見事にじっとりとした上り坂になっており、自転車だとつらそうだ。
道幅も広い箇所はしっかり広いが、狭い箇所も残っている。レンタサイクルがなくてよかったかも、と思う。

高速道路を抜けると道はだんだん狭くなる。バスは気にすることなく進んでいくが、道幅は車1台分くらいになる。
そうしてきゅっと曲がると、そこはバスターミナル。山間の、しかし開けた温泉地らしい雰囲気がしっかりと漂っている。
バスが通ってきた道をそのまま進んでいくと、右手に鳥居が現れた。日枝神社だ。なんだかずいぶん窮屈だ。
参道を行くと、境内の奥はそこそこな広さになっていた。拝殿があったので迷わず参拝。

 
L: なんとも奥ゆかしい日枝神社の入口。  R: 拝殿。規模は大きくないが、まずまず小ぎれいな印象。

戻ってしばらく行くと、桂川と呼ばれているという修善寺川に出た。周囲はぱっと開けた感じになっているが、
平らな土地がないのでそこから先は見通しが利かない。観光客でごった返す中、右手には地名の由来となった修禅寺。
ここは鎌倉幕府の第2代将軍・源頼家が幽閉され、後に暗殺された場所としても知られている寺だ。
さっそく山門を抜けて境内に入ると、本堂の前では入れ替わり立ち替わりで観光客が記念撮影をしている。
また、外国人観光客の姿が非常に多く、さまざまな言語があちこちからひっきりなしに聞こえてくる。
東京からは距離があるし、修善寺温泉がどこの観光とセットになっているのか、ちょっと思いつかない。
でも確かに外国人でいっぱいなのである。なんとも不思議なもんだと思いつつシャッターを切ってまわる。

  
L: 修禅寺入口。この辺りはさすがに修善寺温泉の中心部らしく、かなりの人混みとなっていた。
C: 現在の本堂は1883(明治16)年の再建。外国人観光客がやたら多く、撮影するのも一苦労なのであった。
R: 鐘楼堂がなかなか見事なので撮影してみた。ちなみに修禅寺は空海が開いたとのこと。

さて、修善寺に来た目的はただひとつ、それはもうたっぷりと温泉に浸かってやるのである。
修善寺川の中には空海にちなんだ名前の「独鈷の湯」という足湯があるが、そんなもので満足できるはずがないのだ。
日帰りの入浴が可能な「筥湯(はこゆ)」のお世話になるのである。対岸に渡ってさっそく中へと入る。

  
L: 独鈷の湯。川で病気の父親の体を洗う少年のため、空海が独鈷で岩を砕いて湯を湧き出させたという伝説にちなむ。
C: この周辺は修善寺温泉でもいちばんの賑わいをみせる一角のようだ。いかにも山間の温泉地らしい雰囲気である。
R: 筥湯。もちろん向かって右側の物見櫓にも上ってみたのだが、残念ながらあまり見晴らしはよくなかった。

筥湯は檜造りの湯船が売りなのだ。2002年の開業ということで、木造の屋根の構造がなかなかオシャレ。
夕方の気配が混じりはじめた空の光をたっぷりと中に採り込むつくりになっており、開放感があるのもすごくいい。
それはもう存分に楽しませていただいた。そんなに金はかけていないけど贅沢な思いができている。

大満足で筥湯を後にすると、先ほどのバスターミナルまでいい気分で戻る。向かいのコンビニでお茶とアイスを買い、
バスが来るまでアイスを食って過ごすのであった。やがてバスが到着。温泉で思う存分のんびりしていたら、
次の予定まであまり余裕がない状態になってしまった。駅に着いたときには少し焦ったが、どうにかなりそうな模様。
うつらうつらしながら駿豆線に再び揺られて三島駅へ。すぐに東海道線に乗り換えて東へと戻る。
修善寺温泉の威力があまりにも凄すぎて、寝過ごさないように気をつけつつも、東海道線でもふわふわした心地で過ごす。

平塚駅で降りると、急いで改札を抜けてバス停へ。そう、本日最後はJ1・湘南×鳥栖戦を観戦するのだ。
バスに乗り込んだのはけっこう本当にギリギリで、平塚競技場に到着するとスタジアム入口に向かってダッシュ。
急ぐ大学生どもよりも圧倒的に速い走りを見せ、日頃サッカー部で鍛えている脚力をしっかりと発揮したのであった。
そうしてメインスタンドに入ったが、そこはすでに観客たちで埋め尽くされていた。自由席を甘く見ていた。
運よくどうにか1人分の空いている席が見つかったので、そこにちんまりと座らせてもらう。程なくしてキックオフ。

昨季のJ2では若さを前面に押し出した躍動感のあるサッカーで2位に入った湘南(→2012.3.42012.11.11)。
「湘南スタイル」と形容されるそのサッカーは、僕の「ランバージャック・フットボール(→2012.4.8)」に近いものがある、
そう勝手に考えている。それが今シーズンのJリーグ初観戦に湘南の試合を選んだ理由なのである。
そして対戦相手がハードワークを武器に5位に入った鳥栖ということで、熱い戦いが大いに期待できるというわけだ。
ちなみに湘南は曺貴裁監督をはじめ、高山やキリノや古林など主力選手にけっこうなコワモテが揃っている。
ユニフォームを着ているからいいが、スーツを着ていたらどこかに金色のバッジが付いていそうな雰囲気だ。
そんな外見の皆様がJリーグでも屈指の献身的なサッカーをやるのだから面白い。人は見かけによらないのね。

試合が始まって、圧倒的に攻めるのは鳥栖。自信たっぷりにボールを保持して湘南ゴールにガンガン襲いかかる。
対照的に湘南はどこか消極的だ。ラインこそきわめて高く守っているが、プレスにあまり行かないのである。
かつては湘南の方が鳥栖よりも「格上」であったのだが、鳥栖が1年間のJ1生活を送ったことでかすっかり立場が逆転。
明らかに鳥栖の方がはっきりと「格上」としての余裕を漂わせながら戦っている。なんとも不思議な光景だった。
鳥栖はディフェンスラインからロングボールを蹴り込んだり、左の攻撃的MFである10番・金民友経由でゴール前に迫ったり、
湘南の守備の隙をチクチクと突いてくる。金民友のセンスは相変わらずで(→2011.8.6)、気の利いたパスをポンポン通す。
それらを湘南は3バックだか5バックだか6以上バックだかわからないディフェンスで、体を張ってギリギリのところでしのぐ。

  
L: 試合が始まると鳥栖が圧倒的に優位に立つ。余裕を持ってボールを回す鳥栖に対し、湘南は妙に受け身になっていた。
C: 指示を出す曺貴裁監督。非常に若頭的な外見だと思います。  R: 鳥栖は藤田のロングスローが炸裂。確かにすげー飛ぶわ。

フィード、金民友、そして藤田のロングスローと、鳥栖はあらゆる手段で湘南を押し込みにかかる。
湘南の守備は本当に徹底しており、ハーフウェーラインとバイタルエリアの手前の2ヶ所に、
非常に薄いが両サイドをぴっちり閉じたブロックをつくってそれに対抗する。つまり、ラインがめちゃくちゃ高い。
ブロックはそのままでボールホルダーに食いつかないので、鳥栖は湘南の薄い膜を破るような攻撃になる。
だが、鳥栖がサイドを突破すると中央や逆サイドからペナルティエリア内に救援が入ってきて、最後のところでカット。
さすがに湘南も何度かカウンターを仕掛けたものの、前半はほとんど鳥栖が攻める光景だけで終わった感じである。

ところが先制したのは湘南だった。後半の50分、モヒカンをなびかせて(?)キリノが右サイドを突破。
そこからきれいにゴール前へ折り返したところにニアで梶川が飛び込んだのだ。あまりにも素早く、また美しいゴール。
デジカメを構えていたのだが、速すぎてきれいに撮影できなかったのが残念だ。スタジアムはファインゴールに盛り上がる。
待望の先制点を挙げた湘南は、広くて薄い守備を継続して逃げ切りを図る。今日の湘南はあまりプレスに行かないので、
それほど体力を消耗しないんじゃないかと思って観戦していたのだが、実際には選手はかなり激しい疲労があったようだ。
特にサイドの選手はダッシュをかける位置がいつもより低かったことで非常に大きい負担がかかっていたそうだ。
そんなことに気づかず「湘南ぜんぜん走ってねーなー」と思っていた僕はまだまだ修行が足りないってことなのだ。
ただやはり、押し込まれることにより発生する本来不要な走りが湘南の体力を過度に奪っていたことは事実だろう。

終盤の82分、それまでギリギリのところで体を張っていた湘南の守備に穴が開いた。
左サイドから出たボールに途中出場の野田が合わせて、鳥栖が同点に追いついたのだ。
最後の最後で守りきれなかったというのは、湘南のようなチームにとってはかなりのダメージになってしまう。
試合はもう完全に鳥栖の勢いとなっていたのだが、湘南はアディショナルタイムをどうにか守りきって同点で終了。

 
L: 薄くて広い湘南の守備。非常に高いラインと両サイドまでしっかり閉じる守備はかなり独特である。
R: 82分、野田のゴール。なんだか決定的瞬間が撮れてしまった。湘南は最後のところで粘りきれなかったなあ。

これがJ2とJ1の違いってことなのか、湘南はその走りを勝利に結びつけることはできなかった。
対照的に鳥栖はがまん強く相手の隙を狙い続けて、その集中力が破れる瞬間を結果に結びつけた。
J2で鍛えた戦法の湘南と、J1でもまれて隙を確実に衝くことを覚えた鳥栖。その戦いはドローに終わった。
この事実はポジティヴに捉えることができることなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
ただ、僕としては湘南が明らかに受けにまわっていたことが気になった。
同じハードワークするチームとして鳥栖の体力を恐れていたのか、本来の積極性は感じられなかった。
押し込まれることでも体力はよけいに消耗する。82分の湘南の失点は必然だったように思えてならないのだ。
まあとにかく、まだまだ自分が勉強不足であることを痛感した試合だった。見応えはあったけどね。

ところで湘南はこの試合での梶川のゴールパフォーマンスをきっかけに胸スポンサーがついたとのこと。よかったね。


2013.3.8 (Fri.)

花粉で目がー! のた打ち回っておりますよ。

僕はいちおう花粉症なのだが、ふだんは症状が出ることはない。が、一定量を超えると一気に出る(→2005.3.18)。
今年は花粉の当たり年ということで、来るかな来るかなと思っていたら、今日になって一気に来やがった。
それで定期的に目薬を流し込んで対処をしているのだが、なかなかキリがなくて困っている状況である。
もうこうなったらサナダムシでも飼ってやろうかコノヤロウ、というくらいまいっております。


2013.3.7 (Thu.)

これで中学校での英語の授業は終わりです、という3年生のクラスが出はじめる。
で、昨日の日記に書いたようにインフル禍の真っ最中ということもあって、気づけばサヨウナラな生徒もいる。
最後の授業ってことでいろいろ熱く語ってもいいんだけど、面倒くさいのでスクラブルをやっておしまい。
(いちおう生徒からは「語るかスクラブルかどっちかがいい」という要望が出ていたのだが。)
そのあっさり度合いは『稲中』の最終回のごとしである。ハイおわりおわり、と。
まあ言いたいことは授業中に機を見ていろいろ言っているので、特に今さらかしこまってもねえ。照れくさいだけだし。
あらためてひとつ、簡単に言っておくことがあるとすれば、「世の中の逆説を見抜ける人間になってね」ぐらいかねえ。
短絡的に結論を求めるのはよろしくない。原因と結果、その因果関係を正確に把握できる人になってくれればいい。
世の中のことってたいてい逆説的に動くから、柔軟に逆の可能性に気づけるようになれればいいんじゃないでしょうか。
そんくらいですな。まあ僕はつねにそういう姿勢で教えているから大丈夫とは思っとりますが。


2013.3.6 (Wed.)

3年生が今になってインフル大流行中なのである。受験とかぶらなかった点は素直によかったのだが、
今度は卒業式への参加が危ぶまれる事態になりかねないのだ。これも一難去ってまた一難ってやつなのか。
中学3年生っていろいろイヴェントがいっぱいあって大変ですなあ……なんて具合に他人ごとのように眺めていたのだが、
「いや、あなたは毎年インフルが流行するたびに倒れているでしょ」と保健室からツッコミが入って「おお!」と。
今の仕事になるまでインフルなんてかかったことなかったんだけどなあ。こわいこわい。


2013.3.5 (Tue.)

3年生を送る会で今年もネタにされましたとさ(→2012.3.6)。
1年生担当の教員が3年生を送る会でモノマネされるなんておかしーじゃねーか!と予防線を張っていたつもりなのだが、
「今年の3年生男子はサッカー部員が多いから、サッカー部員のマネするついでにマツシマもやっちゃう」という論理で、
見事にやられてしまったのであった。それならそれできちんとほかの先生も餌食にしてあげるべきだと強く言いたいのだが、
なんだかんだで血祭りにあげられたのは結局オレだけだった。勘弁してくれ。しかもみんな「似てるー」と悲鳴をあげるけど、
オレにはどの辺がそっくりなのかぜんぜんわからねえ。まあ3年生がそれで喜んだんならいいんじゃないっすかね。


2013.3.4 (Mon.)

実はUNICORN『UNICORN SME ERA-remastered BOX』を買っていたのだが、これが実にいいのよ。
中身は再結成前のUNICORNのオリジナルアルバムぜんぶに再結成後のリミックスとDVDがおまけについたもので、
ファンにしてみれば内容的には特に目新しいものはない。でも、いい機会だからアルバムをきちんと持っておこう、
という僕のような人間にしてみれば、これは非常にありがたいセットなのである。即断即決で買ったわけだ。

さて聴いてみると、音質が飛躍的にいいのである。正直ここまでいい音がするとは思っていなくて、ものすごく驚いた。
(ただしBlu-spec CDの『I LOVE UNICORN ~FAN BEST~』に比べると劣る。とはいえ、すばらしい音質だ。)
UNICORNはついては、5人の個性のぶつかりあいによるクリエイティヴィティのバランスがよくってそこが好きだったが、
このリマスター音源によってあらためてそのテクニックの高さ、UNICORNならではの音のつくり方のよさが実感できる。
もともとスネアの音でその人とわかる川西幸一のドラムスは大好きで、僕が最も尊敬しているドラマーなわけだが、
彼のパフォーマンスをに耳を凝らしていると、EBIのベースがぐいぐい来るのである。これは前の音源にはなかった要素だ。
ギターの音質も向上しているし、キーボードのバック演奏も新たな発見がたっぷりあって面白いのである。
でもそれ以上に、ベースが本来の音を聴かせるようになっていることがすごく大きい。実に美しい響き方なのだ。
UNICORNは本当はこういう音だったのか!と、聴きながら目からウロコがボロボロ落ちている。そんな状態になっている。
いつまでも音が古びることなく残る、というのは贅沢なことだなあ、と思いながら聴いているしだい。


2013.3.3 (Sun.)

まずはこちらの写真からご覧ください。

 嬬恋村役場。

群馬県は嬬恋村役場です。嬬恋村を訪れるのは2007年のゴールデンウィーク以来になりますな(→2007.5.3)。
なぜわざわざ嬬恋村まで来たのかというと、まあ特に大きな理由はなくて、日記を書こうと思ったからであります。
この3月は大掛かりな旅行ができそうにないので、その代わりってことで青春18きっぷによる日帰りの遠足を、
ちょこちょこやって気を紛らわそうと考えたわけです。で、その第1弾が吾妻線というわけなんですな。

困ったことに吾妻線は終点の大前駅まで行く列車がきわめて少なく、自宅を9時ちょい前に出て間に合ってしまう。
11時43分に高崎を出てからのんびり揺られること1時間半以上で、ようやく大前駅に到着するのだ。
当然、帰るのにも1時間半以上かかるわけで、高崎まで戻ったときには15時半を過ぎてしまう。
僕としては吾妻線ついでにザスパ草津改めザスパクサツ群馬の試合でもうまく観戦できないかなと思うのだが、
Jリーグが開幕したばかりのこの時期、15時半にはもう試合は終わっとるっつーのよ。だから覚悟を決めて、
今回は吾妻線に乗っておしまい。これじゃ鉄っちゃんじゃねえかと思うのだが、どうしょうもないんだよね。
しょうがないから初体験の吾妻線では車窓の風景を楽しむとして、それ以外の時間はひたすら日記を書きまくる。
電車内でブリブリと日記を書き倒してしまえば、それはそれで有効な時間活用には違いないのである。

さてその吾妻線の沿線風景は、南にある信越本線と同様に、見事なまでに「The 群馬の田舎」そのものだった。
山に囲まれているけどその山までの距離は長野県ほど狭苦しくなく、やはり稜線は複雑な図形を描いている。
さすがに信越本線の妙義山付近ほどではないものの、十分に複雑と言える山並みをしていた。
そんな山の中を通るためか、けっこう大胆な土木構造体たちが目立っていたのも実に印象的だった。
中には興味深いデザインのものもあり、それらをきちんと鑑賞してまわるのも面白そうだ。

終点の大前駅はまだまだ雪があちこちに残っていた。嬬恋は寒いんだなあ、と実感しつつ村役場まで歩く。
村役場で写真を撮ると、そのまま駅まで戻ってハイ発車。帰りはひたすらMacBookAirのキーをたたく。

  
L: 大前駅のホームから恒例の最果て写真を撮る。  C: 吾妻線終点・大前駅。ここに来るのがどれだけ大変か。
R: 駅から嬬恋村役場へと向かう途中、橋のところで振り返って駅周辺を撮影。雪が目立っているなあ。

高崎でも特にやることなどないので、やはり日記を書きまくって東京まで戻る。集中して取り組みすぎたせいか、
かなりひどく疲れてしまった。おかげでものすごいポカをやらかしてしまう。悔しいので詳細は書かないが、
自分の間抜けさが情けなくてしょうがない。日記は進んだけど代償が大きすぎて、ションボリしておりますよ。


2013.3.2 (Sat.)

校外学習から帰ってきたら、すぐに切り替えて3年生を送る会の準備である。スケジュールにまったく余裕がない。
教員が呆れているほどのタイトなスケジュールであるにもかかわらず、生徒たちは非常によく取り組んでいる。
素直で偉いねえ、と思うのであった。僕なんかぜんぜん考える暇がなくって効果的に動けていないのにねえ。

いよいよ本日、J1が開幕した。今年もどうにか月に一度は観戦に行きたいと思っているのだが、
何がどうなるかわからないのが正直なところ。とりあえず今年も最後まで熱い戦いになることを期待したい。


2013.3.1 (Fri.)

本日は1年生の横浜校外学習。去年までは丸一日のスケジュールだったのに、今年はなぜか午前中のみ。
おかげで現地に滞在できるのはたったの3時間だけということで、いろいろと強行軍なのであった。
しかも見学予定の施設って9時半か10時のオープンばっかりで、せわしないったらありゃしない。まいったまいった。
おまけに横浜駅での乗り換えがもうとんでもない大混雑でヘロヘロ。よくアレを無事に切り抜けたもんだ。

横浜に到着した当初はがっちりと曇り空だったのだが、しばらく経ってから日が差すなど、悪くないコンディションに。
……なんて思っていたら猛烈な勢いの春一番が吹きはじめて、海風にビル風でめちゃくちゃ大変なのであった。
細かいゴミと花粉の影響でなんとなく目がシバシバする。いやはや、ニンともカンとも。

 生徒を激写するオレが激写し返されたの図。

生徒たちの様子を探りつつ、今まで日記であまり扱ったことのない横浜の建築を中心に、気ままに撮影してまわる。
(参考までに、前に個人的に横浜を自転車でブラついたときのログはこちら。→2006.5.212010.3.22

  
L: 横浜市開港記念会館の裏側。設計は山田七五郎と佐藤四郎で、1917(大正6)年の竣工。やっぱり見事だな。
C: 交差点を挟んで眺める。これがいわゆる「ジャックの塔」。前に日記で扱った際のログはこちら(→2006.5.21)。
R: 日本大通り沿いの横浜情報文化センター(旧横浜商工奨励館)。ファサード残し高層オフィスビルのはしり。

  
L: 左は神奈川県庁本庁舎(いわゆる「キングの塔」)、右は新庁舎。2つ並んだところを撮影。どっちも時代を反映した建築だ。
C: 横浜港発祥の地と言える波止場・象の鼻。今は「象の鼻パーク」となっている。右は横浜港大さん橋国際客船ターミナル。
R: 象の鼻の突端まで行ってみた。その先には横浜税関本関庁舎(いわゆる「クィーンの塔」)と神奈川県庁新庁舎。

  
L: 日本郵船歴史博物館となっている横浜郵船ビル。日本郵船については小樽のログも参照のこと(→2012.8.22)。
C: 横浜第二合同庁舎(旧横浜生糸検査所)。横浜は絹の輸出港として栄えたのだ。富岡製糸場のログ参照(→2012.8.4)。
R: 東京藝術大学大学院映像研究科(旧安田銀行横浜支店)。藝大は首都圏のいろんなところに進出しとるなあ。

  
L: 1904(明治37)年竣工の神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店本館)。これは……物凄い建築だ。圧倒される。
C: 側面もこのように手抜きが一切ない。そりゃあ重要文化財だわ。  R: しかし正面玄関から入るとコレ。なんだか拍子抜け。

 建物の裏側はこんな感じでかなり落差がある。うーん……。

大さん橋や山下公園周辺では激写合戦が繰り広げられたのだが、その後は生徒たちとはなぜかあんまり会うことがなく、
滞在時間の後半はただ関内駅周辺をウロウロするのみとなってしまうのであった。そんな僕に風は容赦なく吹き付ける。

 ベイスターズ仕様の関内駅。

集合時刻近くになっても生徒たちはぜんぜん駅に来なくて少し不安になったのだが、直前になって一気にやってきた。
まったくトラブルもなく済んでよかったよかった……と思ったら、特別快速に乗っちゃって急遽乗り換えの必要が出たり、
ホームの端で待っていたら車両の数が少なくてみんなで走って乗り込む破目になったりと、最後まで気が抜けない展開。
いやー、疲れましたわ……。


diary 2013.2.

diary 2013

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