diary 2020.12.

diary 2021.1.


2020.12.31 (Thu.)

年末という実感がないのは帰省していないのはもちろんのこと、朝から晩まで日記漬けの日々を送っているからか。
すごいぜ、寝ているか日記書いているかのどっちかな生活だぜ。もはや日記を書く機械。欲望する機械ですよ。
そんな感じで2020年よサヨウナラ。来年どうなるかまったくわからんが、必死で日記を書いていることだけはわかる。


2020.12.30 (Wed.)

以前も書いたが、マンガを電子書籍に移行できないかと試行錯誤しているところである(→2020.8.18)。
いや実際には割引になっているタイミングですでにちょくちょく購入してはいるのだが、イマイチ違和感がある。
その根源にあるのはもちろん、手を使い「読む」という行為と指先で「見る」という行為の身体感覚の差異なのだが、
それだけでないものを感じている。電子書籍への完全移行は危険である、と僕のゴーストが囁いているのよ。

きっかけは、割引だったので思い切って、二ノ宮知子『のだめカンタービレ』(→2005.8.202009.11.27)と、
山田芳裕『へうげもの』(→2011.8.252013.1.122018.5.13)を買ったことだ。巻数多いし、電子化したいなあと。
しかしダメだった。いざ電子版を購入しても、単行本を売りに出せない。なぜ、僕は両者を別物と感じているのか。

実際に電子書籍を買ってみてわかったのは、電子書籍の購入とはデータを閲覧する権利を手に入れる行為であって、
物理的存在である本を所有するのとはまったく別物だ、ということだ。相手の事情に委ねられる部分が大きすぎる。
僕はその分の「瑕疵」を、「割引」という形で納得している。それで初めて釣り合いが取れていると認識している。

究極形と言える仮想通貨は「所有できない」点が決定的で、将来その点が現実との大きな齟齬を生む気がする。
(それを言ったら為替も手形もクレジットカードも似た要素はあるが。ただ、信用が重視される価値観は変わらない。)
『エンデの遺言』では老化しない利子が財の価値を目減りさせることを問題としたが(→2004.2.172006.6.5)、
それ以上の破壊力がありそうだ。仮想通貨は「量」がすべての世界。「量」こそが信用の源、そう転換している。
(そういう意味では、「所有」が意味をなさない、と言い換えられる。交換対象でないものは価値を持たないのだから。)

「所有」とは、やはり「質礙(ぜつげ、2つのものが同時に同じ空間を占めることはできない性質 →2020.5.17)」なのだ。
物理的存在というレヴェルを離れることができない。データを体験する権利を手に入れても、「所有」にはならない。
この借り受けている感覚、belongでない感覚が僕には居心地が悪くて、それで単行本を売りに出せないでいるのだ。
結局は僕の問題意識からすれば、今の時代は身体性の本質が軽んじられているってことだ、と総括できそうに思う。
電子書籍にしろ音楽データにしろ動画にしろ、真の所有者である法人がわれわれを契約のサブスクリプションで縛る。
芸術の所有者は権力者から大衆に開かれたが、今度は営利法人へと収斂しつつある。なかなかのディストピアである。
そんなふうに考える古いタイプの人間で申し訳ないけど、だからこそ本質を忘れず流されないでいる、と信じている。


2020.12.29 (Tue.)

しかしアレだな、『SASUKE』のいいところはたった1人のチャンピオンを決めるわけじゃないから、
挑戦者たちが応援し合えるところだな。個人競技だけど「みんなでクリアしようぜ」って感じが清々しくてよい。
そして見るたびに『風雲!たけし城』の偉大さを感じる。さらには『未来少年コナン』の偉大さも感じる。


2020.12.28 (Mon.)

東京ドームシティ Gallery AaMo『ゆうきまさみ展』。平日休みなら空いているだろうということで見てきた。
撮影はすべてにわたってOKだけど、おさわりはNG。というわけで僕もスマホであれこれ激写しながら見ていった。
しかしスマホの性能が悪くて使える写真がほとんどないのであった。ま、それが主目的じゃないからいいけどね。

 『鉄腕バーディー』と『究極超人あ〜る』からのスタート。

感想はとにかく、絵がうめええええっ!!! それに尽きる。最初っから完成されちゃっている感触なのだ。
展示されていたネームの段階から、もうすでにふつうに読める。ペン入れも線に迷いがない。一発で描いている。
そして『機動警察パトレイバー』で完全に頂点を極めてしまった感じ。コマ割りもアングルも非の打ち所がない。
しかもストーリーは社会派なSF刑事ドラマ(→2004.12.152018.1.15)。とんでもない作品だとあらためて実感する。
デジタルに移行しても基本は手描きのようで、それは結局、絵が上手すぎるからそうなるのだ。レヴェルが違いすぎる。
そんな感じで、生原稿の展示はひたすら絵の上手さを見せつけられる感じ。でも絵が作品として独立してはおらず、
前後の流れできちんと読みたい、という気にさせられるのだ。ゆうきまさみの絵は物語に没頭させる絵だと思う。
(対照的に、絵がマンガから独立して商売になりうる例としては、江口寿史が典型的だろう。→2016.1.272017.8.19

  
L: 創作ノート。この段階ですでに完成度が異様に高く、最も効果的な描き方が頭の中でわかっちゃっているんだなあ。
C: 『じゃじゃ馬グルーミン★UP! 』より。僕みたいなシロウトは、なんでこんな絵を描けるんだ……と溜息しか出ません。
R: 最新作『新九郎、奔る!』より。主要な部分は今も手描きで、デジタルで仕上げていることが両者の比較からわかる。

今回の目玉とされる光画部の部室再現コーナーでは、R・田中一郎の人形と記念撮影ができるようになっていた。
やはり文化部人間にとって、光画部は確かな理想郷なのである。平日だったからよかったけど、土日は大変だろうなあ。

 スマホカメラの性能が悪くて申し訳ない。オレも悔しい。

あらためて思ったのは、『機動警察パトレイバー』の特別さだ。いや、『究極超人あ〜る』も大好きだが(→2005.1.15)、
『パトレイバー』は「これを少年誌でやるのか!」という鋭さ、深さが桁違いなのだ。作品としてのレヴェルが高すぎる。
展示のクライマックスはイングラムとグリフォンのバトルシーンで、一コマ一コマに詰め込まれている緊張感が凄まじい。
内海の危険さ、野明の情熱、そしてレイバーの迫力、どれも圧倒的な描写なのだ。思わず見とれてしまったではないか。
あの高度なストーリーをこれだけの端正な絵で読める幸せ。本当に恐ろしい傑作だったことをあらためて実感させられる。
この正月休みにじっくり読もうと思う。日記を中心にやることだらけだが、なんとか時間をひねり出して浸りたい。

物販はあまり魅力的でなかった。鳥坂センパイのタオルは買ったけど。R・田中一郎の扇子くらいつくったらどうなんだ。
パトレイバーのグッズは桁違いに売れて品切れなのか、ほとんどが注文を受けて後日送付というスタイルなのであった。
でも正直、ゆうきまさみはグッズがどうこうではなくて、一番はやっぱりマンガなんだよな! 彼のマンガを読むのが一番。


2020.12.27 (Sun.)

今日は日記を書きまくり写真を整理しまくりなのであった。9時間ですよ9時間。正月もこんなんやろな。



2020.12.25 (Fri.)

終業式である! お昼は教職員の会で用意されたうなぎの弁当を食う。久々のうなぎ、おいしゅうございました。
今年はコロナによってあらゆる親睦会が吹っ飛んでしまったので、その分がうなぎの弁当となったわけなのだ。

 おいしゅうございました……。

あとはひたすら片付け。机上整理に留まらず、個人的に持ち込んだダンボールの整理にまで、移籍を見越して取り組む。
英語の受験問題集はもう使うことがないだろうから、しれっと英語科の棚に寄付しておいた。有効活用してもらえよ。
まだまだ減らせるとは思うが、とりあえず大まかにダンボール3箱を2箱強にまで削減することに成功したのであった。
今後も暇をみてどんどん整理していきたいものだ。「箱の中にある」ってことは、「どうせ使わない」だからな。


2020.12.24 (Thu.)

本日をもって2学期の授業が終了。明日は学活だの何だのがあるだけなので、これでゴールという感覚である。
正直、あとは3学期だけ我慢すれば……って感じ。なんとか平穏無事にラストスパートをかけてしまいたいものだ。

午後は年賀状づくりに奔走。例年、僕は実家から帰ってきてから郵便受けに入っている分を返すスタイルだが、
今回は帰省しないし移籍のご報告があるしで、ちゃんと元日に届くようにやれるだけやろう、と発奮したのである。
しかし職場のプリンターの性能が悪くて使えないせいで、予定が一気に狂っていくのであった。本当に困った。
(例年、職場のプリンターで印刷ホヤホヤの年賀状を手渡しでお返しするのがお約束だったのだが……。)
移籍のご報告については、これまでお世話になった皆様がいっぱいいるので、たくさん出さなきゃいかんというのに。

しょうがないので、17時過ぎでもやっている大きな郵便局へバスで行って、年賀はがきを書き損じ交換してもらう。
それからネットカフェやコンビニで年賀はがきに画像をプリントアウトできないか試行錯誤するが、見事に失敗。
バスで家に戻ると画像ファイルを加工し直して再挑戦。これがどうにかうまくいったので、そのままカフェで宛名を書く。
そして閉店時刻になったら投函。残りの住所がわからん分は、家で過去の年賀状を引っ張り出して任務完了。疲れた。

……え、クリスマスイヴ? そんな邪宗門知らんわ


2020.12.23 (Wed.)

今ごろ気づいたのだが、なんと、スカパラのエピック時代のアルバムがSACDハイブリッドで発売されていた。
妖しさ満載のデビュー当時からどんどん垢抜けていく過程が最高の音質で楽しめるんだから、それは買わねば。
CD9枚分の出費は痛いけど、それで末長く楽しめるんだからと購入。さっそくMP3化して聴いてみたのである。

SACDハイブリッドというとYMOが先行していて(→2020.6.21)、その感覚をもとに期待していたのだが、
解像度は確かに上がった感じはあるけど、特に音圧がないからか決定的に大きな差は感じないかなあ、というところ。
まあ結局はMP3化したものを聴いているだけなので、きちんと盤面で聴かないと意味がないのかもしれないが。
それはそれでMP3というものの限界を知るいい素材かもしれないなあ、なんて思う。意外と「ふつー」だった。
とはいえ良質極まりないインストゥルメンタル曲の宝庫が最高の音質で楽しめるんだからみんな買え。買え!

ここまで来たら、シングルをカップリングまでまとめた全曲集をぜひとも出してほしい。初期スカパラの本領は、
カップリングのインストゥルメンタル曲を聴いてこそわかる。聴けないままになっている名曲がまだまだ多すぎる。


2020.12.22 (Tue.)

まだ鼻水が止まらない。続く症状がないので風邪ではないようだが、日にポケットティッシュを3個消費するとなると、
さすがに放っておけない。仕事終わりに近くの耳鼻科に寄って診てもらうのであった。最近、医者に行ってばかりだ。

で、結論としてはアレルギー鼻炎であるようだ。原因はよくわからないが、寒くて調子がよくない可能性もあるそうで。
はっきり「加齢」と言われるとヘコみますね。運動不足でストレス満載だとガタが来ますわな。日々よわよわですよ。
とりあえず薬を出してもらったので、しばらくそれでやっていくのだ。しかしまあ、エネルギー不足でいけない。

コロナの第3波の影響により、冬休みの部活がなくなった。しっかり日記を書かせていただきますよー


2020.12.21 (Mon.)

朝イチで受診して、小腸が小康状態であることを確認。発症の原因がわからないのが困る。

一晩明けても長野パルセイロがJ2に昇格できなかったことが悔しい。信州ダービーを熱望している僕としては、
ただただ「悔しい」以外の言葉が出てこない。いや、本当にショックで。上がったのが相模原ってのもちょっとね。


2020.12.20 (Sun.)

M-1グランプリを見たんだけどね、うーん……。決勝9組の面々を見た段階で、今年は凄まじく小粒だなあと。
まともな漫才師が一組もいない。これは恐ろしいことになるんじゃないかと思いつつ、テレビの前に陣取る。

終わってみたら案の定、細かいことを書く気すら失せる惨状なのであった。腕がない人たちの大声大会。
マヂカルはもちろん、見取り図も結局動きでごまかしているだけ。今回は本当に消去法の選択だったと思う。
審査員の悩みっぷりで印象的だったのは銀シャリのときだったか(→2016.12.4)、みんな面白くて困っていたが、
今回は完全にそれと真逆。チャンピオンを決めなくてはいけない苦しみ。皆さんの最後のコメントの正直なこと。

個人的に最も評価しているのはインディアンス。彼らがトップバッターのおかげで、現場はどれほど助かったことか。
前回よりツッコミの比率を上げてうまく中和していたし、これは高く評価しないといけない。あとはみんなダメです。
なお、錦鯉は昭和なので治外法権。それにしても和牛はもったいなかったねー! 短気は損気としか言いようがない。


2020.12.19 (Sat.)

絶賛絶食中である。食欲がないのでつらくないのが不思議。腹痛じたいは収まったが、腹部に違和感があるのは変わらず。
本当ならしっかりと日記を書く週末にしたいところだったが、調子が上がるまで勘弁願いたい。申し訳ございません。

……夜になって、純粋に腹が痛いのか、空腹のせいで腹が痛いのかわからんくなってきた。なんでもいいから食いたい。
浪人中に実感したけど、食とはそのままモチベーションに直結するんだよなあ。軍隊もメシが士気に関わるというし。
食べることのありがたみを実感しております。とりあえず今は、このつらい経験をしっかり記憶しておくとしよう。


2020.12.18 (Fri.)

朝起きたときから腹痛があったのだが、そんなにひどくなかったので出勤。2時間目までは授業をやったのだが、
「これ以上は無理だ!」となってギヴアップ。息も絶え絶えになりながら病院に直行したのであった。いや、キツかった。
ベッドで横になり安静にしていたらだいぶ楽にはなったけど、こんなに苦しむとは思っていなかったので反省である。
診てもらった結果、小腸のイレウス。よくわからないのでいろいろ小ボケが浮かんだけど、口に出せるほど元気ではない。
とりあえずヘイヘイヘイとうなずいていったら、先生は「今日と明日は絶食」と恐ろしいことをおっしゃる。
本当は入院して様子を見たいらしいが、きちんと絶食しますということで入院は回避。いやはや、まいった。


2020.12.17 (Thu.)

昨日っから鼻水が止まらない系の風邪である。とりあえず漢方の小青竜湯を飲んでみたけど、効いているのかどうか。
自分の場合、風邪は喉から始まって悪寒へと続き、一気に悪化していく。鼻水からというのはきわめて珍しいのだ。
なんとか悪化しないで済むといいなあ、と思うのだが、イマイチ調子が上がらない。困ったものである。


2020.12.16 (Wed.)

いきなりのGoToトラベル全国一斉一時停止。まあそもそも「GoToトラベル」って名称じたい変なんですが。
何の根回しもなくいきなり全国一斉休校にした安倍も仕事のできないガキンチョだったが(→2020.2.27)、
菅までもがこんなにもガキだとは、ちょっとびっくり。官房長官時代は食えないイメージだったが、ガキすぎる。
支持率だけで右往左往って、恥ずかしくないのかな。リーダーとしての決断を履き違えすぎていて驚いた。
今の政治家には本当にマトモな人間がいない。菅でコレとか、少なくとも与党には誰もいないことがよくわかった。

とはいえ、これはわれわれの問題なのである。イメージだけで投票し、あとはお任せ、知らんぷり(→2020.5.22)。
政治家や政党が自分たちに何かしてくれると考えている人たちは、巣の中で口を開けている雛鳥なんかと同レヴェル。
自分が立候補しないで政治を人に任せるのであれば、しっかり勉強してイメージに左右されることなく、
政治家や政党を育てなきゃいかんぜ。そうして自分の意思を政治に反映させていく。その原点が問われ続けているのよ。


2020.12.15 (Tue.)

退職届をもらったよ。記入して提出するのだが、なんというか、着実に事態は進んでいますなあ。善哉善哉。


2020.12.14 (Mon.)

先生方と話していて、家紋の話になったよ。ウチは僕の代から放射能マークにしました、と言ったら「はぁ」って反応。

もともとマツシマ家の家紋は「丸に剣片喰」。若き日のcirco氏はバイクのヘルメットでおでこの位置につけていた。
最近では潤平がきちんと結婚式で使っていたなあ。これで安心して潤平にそっちの家紋を任せられるというものよ。

僕が中学生のときには、年賀状に紋付袴の自分の絵を描いていて、その紋を放射能マークにしていたのだ。それが最初。
あのミニマルかつ危険、という象徴性が好きでして。以来、僕は「放射能」を家紋ということにしているのである。
circo氏は「それは直接的すぎるから、せめて『丸に放射能』くらいにしろ」と言うのだが、それでは魅力が半減なのだ。
というわけで、相州(仮)マツシマ家の家紋は「放射能」なのである。どうせ一代限りの家紋ということで許してくれ。

 
L: マツシマ家:家紋「丸に剣片喰」  R: 相州(仮)マツシマ家:家紋「放射能」

ディズニー好きが洲浜紋の一種ということでネズミの頭部のシルエット的なものを家紋にしたらディズニー怒るんかなあ。


2020.12.13 (Sun.)

パナソニック汐留美術館『分離派建築会100年展』。コロナ以降で美術館に行ったのはこれが初めてかな。

分離派がどこから分離しようとしたのかというと、構造面や機能面を重視しようという当時の建築業界の考え方。
元ネタはもちろんドイツ・オーストリアの分離派(ゼツェッション)。直接的な関係があるわけではないものの、
結果的にモダニズムへの流れという点で共通する面はある。分離派建築会は建築の芸術性を主張したグループで、
特に有名なのは石本喜久治(公共建築でおなじみの石本建築事務所の創始者)・堀口捨己・山田守・山口文象あたり。

まず彼らが分離したがる背景となった状況、また後藤慶二の豊多摩監獄など先行する動きを紹介。
そして分離派建築会の面々の卒業制作が展示されるが、これが面白い。山田守のドームは1920(大正9)年とは思えない、
ほとんどオーパーツな発想だし、石本喜久治による納骨堂は置かれている像の描き方の時点でもう明らかに非凡すぎて。
堀口捨己の直線と曲線のバランスも見とれてしまう素晴らしさ。格の違いをイヤというほど見せつけられる図面だった。

彼らが世に出る契機として、やはり重要なのは関東大震災だろう。耐火・耐震性が求められる建築をつくる中で、
機能とともに造形美をどのように求めたか、各メンバーの個性が興味深い。やはり山田守の造形センスが圧倒的だ。
ちなみに京大がフィルムで持っているという関東大震災の映像が非常に興味深い。街並みや人々の服装など、
当時の「当たり前の光景」が垣間見えて、食い入るようにずっと見てしまった。もっと手軽に見られるといいのだが。

昭和に入って圧倒的なのが、石本の東京朝日新聞社と白木屋百貨店。白木屋は火災で有名だが(今のコレド日本橋の位置)、
思っていた以上に洗練されていたモダニズム建築で、なるほどこれが竣工してすぐ焼ければそりゃトラウマだわ、と納得。
石本の作品はやはり組織事務所的というか、作家性をあまり感じさせないで上質なモダニズムでまとめる、という感じ。
ただそれは誰にでもできるわけではなく、見ているとモダニズムがいちばんデザインセンスが出るよなあと思わされる。
装飾性がとことんまで研ぎ澄まされていて、ごまかしが効かない世界なのだ。その静かな凄みが石本にはあって楽しい。

さて、分離派建築会は1928年の第7回展覧会をもって活動が自然消滅してしまう。みんな偉くなったこともあるし、
各メンバーの興味が多様化していったこともあるし、そもそも分離派の問題意識じたいが時代の波に呑まれたこともある。
しかしその分離派建築会の影響が時代を超えて直撃している人物がいた。手塚治虫だ。こりゃもう、間違いなくそう。
展示では最後に大阪市立電気科学館が登場し、手塚治虫が幼少期に通ったエピソードを紹介しているが、順当な締めだ。

パナソニック汐留美術館は初めてだったが、コンパクトな空間でも情報量の多い展示、しかも狙いが明確ということで、
非常に充実した内容だったと思う。今後も面白い展覧会をやってくれるんじゃないかと期待してしまうぜ。


2020.12.12 (Sat.)

『ザ・細かすぎて伝わらないモノマネ2020』。今回も大爆笑なのであった。いやー、笑った笑った。

前にも書いたけど(→2006.9.28)、この番組って「あるあるネタ」と「シチュエーションコント」と「モノマネ」が、
なんでもありの状態で投げつけられるので飽きることがない。すでにあるものを組み合わせて新たなものを発明する、
まさにその最高の例なのではないか。しかもオチで物理的に落として、芸の時間を純粋に保つ工夫まで効いている。
「細かすぎて伝わらないモノマネ」というタイトルになってはいるものの、実際は高度な笑いの形態なのではないか。
研ぎ澄まされて唯一無二の魅力を持っている番組だと思う。お笑いというものの奥深さを感じさせてくれますよ、本当に。


2020.12.11 (Fri.)

『カプコンアーケードスタジアム』のラインナップに驚く。……こりゃNintendo Switch買うわ。買わざるをえないわあ。


2020.12.10 (Thu.)

本日の2年生の授業は、都合によりいつもの少人数クラスではなく各クラス単位なのであった。
ふだん担当していない生徒もいる中で教科書の読解をやったのだが、生徒たちから非常にいい評判をもらった。
わざわざそれを言ってくるあたりいい子たちだなあと。僕も感謝の言葉はきちんと伝えるようにしなければ、と思う。

まああんまり詳しく書けないけど、教え方がお上手でないという声があがっている先生が複数おりまして。
共通するのは結局のところ、生徒たちがどういう感触で自分の授業を受けているかが理解できていない、ということ。
その点、自分はどうなのかと考えてみると、この点に関しては天性のものがあると自分で思う。生意気だが、本当にそう。
テーマと生徒という両方の特性から導き出される、生徒たちを理解させる最適な手順が自分には直観的にわかるし、
イラストによる図解、聴きたくなる声の出し方や間の取り方、しゃべりの技術、どれをとっても超一流であると思う。
自分の決めた段取りを生徒にやらせて満足している連中とはレヴェルが違うのだ。正直、一緒にされたくないです。
教え方ってのは人から習うものじゃなくて、自分で発見して使うものだとずっと思っているんだけどね(→2015.10.8)。
僕が教育学というものに批判的なのは、その考え方によるところが大きい(参考までに、教育学禁止論 →2012.2.13)。

これはやはり天職なのである。残念ながら。僕自身はもっとクリエイティヴな方面で仕事をしたかったのだが。
でも他人から何ひとつ習うことなく超一流でこなせる仕事はコレなのよね。その分、趣味に全振りで生きております。
塾で教えたことでいろいろ間違っちゃったなあ。今までの経験だけで食べていけちゃう、努力しないで食べていけちゃう。
言っておくが、僕は「学ぶことはもうない」と思っているわけではない。今までの積み重ねを誇っているということだ。
小学校の宮下先生に始まって、ずーっと先生方のいいとこ取りをしてきて、「自分ならどう教えるか」を追求してきた。
ずっと友達から聞かれる立場だったこともあったし、どういう説明が相手にとってわかりやすいかはつねに意識していた。
そういう視点で12年間を過ごしたところで浪人し、話を聞かせる技術や効果的な授業の構成を学んだというわけだ。
悪いけど、ほかのみなさんとは積み重ねてきたものが違うんだわ。授業について考えてきた時間の密度が違うんだわ。
教師に対して自分から質問したのは高校時代の数学の一度だけ。「これってこういうことですか?」そうだ、との返事に、
「じゃあそう教えてください」と返す。そういう生徒だった。より多くの人を納得させる方法は何なのかが焦点だった。
構造主義的な本質をつかみたがる性格のせいで、気がつけば教えることについての天才になってしまっていた。
まあその分、生徒に説明しきれなかった授業、消化不良な授業なんかは、終わった後に本気で悔しいんですけどね。
相手を抑えられなかった投手や負けた棋士と同じようにうなだれていますよ。上手くできるのが当たり前だから。

歓迎されているうちが花なので、今はとりあえず教えることでメシを食う。でもそれ以外の才能も見つけたいね、正直。


2020.12.9 (Wed.)

アンジュルムの船木結さんがハロプロを卒業したそうで。もちろんファンとして追いかけていたわけではないんだけど、
かつて英語を教えた身ですので。お疲れ様でした。時代がハロプロに逆風な中、きちんとやりきったようでよかった。

船木が転入してきたのは僕が副担任でついていた学年の1つ下なのだが、そこにサッカー部員が多かったこともあって、
わちゃわちゃした雰囲気の中で言葉を交わすこともあった。そんなに頻繁ではないけどね。明るい雰囲気の学年に、
しっかりと溶け込んでいたなあと思う。彼女が3年になるタイミングで僕は異動したけど、間違いなく楽しかっただろう。
授業をやろうと教室に入ったら体育の短パンが床に落ちていて、「誰のじゃー! 名前は?」と見てみたら「船木」とあり、
「船木、お前かー!」とツッコんだのが今でも記憶に残っておる。ツッコミつつ「これ何てエロゲ?」と思ったもんよ。
(この話をしたときにナカガキさんとかワカメとかハセガワさんに疑いをかけられたが、僕は断じて紳士でござったぞ。)
楽しく過ごしている生徒を見るとこちらも楽しい。その意味で、僕も船木のいた学年といるのはとても楽しかった。

これからも、あなたが過ごした中学校時代と同じような、新たな仲間とも楽しく過ごせる日々を。


2020.12.8 (Tue.)

『鬼滅の刃』最終巻を読んだが、物語じたいに対する感想は前に書いた内容(→2020.11.13)で十分な気もする。
最後にいきなり学園ドラマになって驚いたが、やはりそれは『新世紀エヴァンゲリオン』がやってみせていることだ。
魅力的なキャラクターを構築した者にのみ許される贅沢ではある。そしてこれを、作者の母性であると僕は読む。
だが僕がどうしても気になるのは、なぜわざわざ無惨みずからが竈門家を狙ったのか?という、その論理的な理由だ。
また、なぜ禰豆子には太陽の光を克服する力があるのか? そこがつながらないし、わからない。謎は残ったままだ。
(継国縁壱がかつて暮らした家だから襲ったのか? 禰豆子の父がヒノカミ神楽をマスターしとったからか? わからん。)
そしてさっそくスピンオフが同時発売である。画力が上がったなあと思ったら、描いているのは別の人なのであった。

僕としては作品それ自体よりも、これだけの社会現象を巻き起こしているという事実と、その要因にこそ興味がある。
社会学者の端くれとして、『鬼滅の刃』の何が新しく、何が世間に支持されているのか、そこをできる限り掘り下げたい。
掘り下げるにあたってのスタート地点は2つ。「少年マンガにおける主人公像」と「『NARUTO』からの発展性」だ。

少年ジャンプにおいて、『ONE PEICE』は「太陽」である(→2010.5.312010.6.12010.6.52010.6.62010.6.10)。
その連載開始に遅れること2年、長らく「月」の役割を演じてきたのが『NARUTO -ナルト-』となる(→2019.7.22)。
両者は主人公の造形で共通点を持っていた。それは組織のリーダーである(を目指す)動的な少年、という点だ。
これは実に正統派の造形である。源流は特撮ヒーローまで遡れるかもしれないが、少年マンガの文法に即している。
特に『NARUTO』では熱いレッド(ナルト)とクールなブルー(サスケ)という対立的な構図をしっかり持ち込んだ。
この構図は『SLAM DUNK』における花道と流川の関係性もヒントとなっていると考えるが、主人公はレッド側にあった。
『ONE PEICE』のルフィがすでに絶対的なリーダーであるのに対し、ナルトは火影というリーダーを目指す存在だ。
未踏の地を海賊船で進むルフィに対し、ナルトには帰るべき里がある。そしてその里の秩序を再構築するのが目的となる。
(この設定がカカシに割を食わせる。火影とはゴールであり、カカシが火影となった瞬間、主人公が入れ替わってしまう。
 それを回避すべく作者はキャラクターを動かすが、ナルトの活躍を描くほどカカシの立場は不安定なものとなる。
 少年マンガの文法で、弟子とともに成長する師匠を描くのは難しい。『NARUTO』にはその苦労がにじみ出ている。)
「攻める主人公」という基本的な造形を同じくしながら、『NARUTO』は『ONE PEICE』を避ける工夫を慎重に重ねている。

やがて『NARUTO』が連載を終了すると、その1年3ヶ月後に『鬼滅の刃』の連載が始まり、「月」の位置を占める。
いまだ健在である『ONE PEICE』に対し、『鬼滅』はまず先行事例である『NARUTO』の路線を踏襲する戦略に出る。
具体的な点は前回(→2020.11.13)書いたとおりだ。炭治郎・善逸・伊之助の3人と柱、五行思想的エレメントの利用など。
しかし『鬼滅』は『ONE PEICE』を避ける工夫を進め、さらに差別化を図る。 決定的なのは、「守る主人公」像だ。
炭治郎はとにかく守る主人公だ。妹を守り、鬼殺隊という秩序を守り、生まれてそして死ぬという生命の倫理を守る。
以前のジャンプであればおそらく、猪突猛進の伊之助やひとつの技を磨く善逸が主人公のキャラクター性となるだろう。
これは「動的な攻める少年」から「静的な守る少年」への大転換である。花道/流川に代表される対立構造からの脱却だ。
このことは物語のかなり早い段階から明示される。炭治郎の最初の出会いは、流川−サスケ系統の富岡義勇である。
そして炭治郎は義勇と対立することはない。ライヴァルの関係になることはなく、後輩としてずっと先輩を立て続ける。
むしろ炭治郎が派手にケンカするのは鬼にストレートな怒りをぶつける不死川実弥で、この点でも義勇と同じ側にある。
(ちなみに「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」はまったく名ゼリフと思わない。意味不明。完全に空振りしている。)
『ONE PEICE』ではルフィが天竜人の秩序に挑み、『NARUTO』ではナルトが火影となることで里の秩序の再建を目指す。
しかし炭治郎は徹底して秩序を守る側にまわる。社会学的に着目しなければならないのは、まさにこの部分であろう。
また秩序という点では、『鬼滅』が大正時代という和洋折衷の時代を舞台としながら国際性がない点も注意しておきたい。
『ONE PEICE』はいちおうは異文化交流の連続だし、『NARUTO』では外交戦略が直接的に描かれる場面もある。
そもそもナルト自体を移民として読める(それが外国でウケた要因でもある)。しかし『鬼滅』の舞台背景は単純だ。
異文化交流は少なからず秩序の譲歩という要素を持つ。これが混じると「守る主人公」の物語の軸がブレてしまう。
太陽が無惨を焼くまで戦い続けるという解決も象徴的だ。極言すれば、炭治郎は「ただ守っていればいい」のだ。
だからこそ、『鬼滅』は23巻で終わることができた。ある意味、ジャンプが23巻で守りきった、と言えるかもしれない。

「守る主人公」の物語がなぜここまでの社会現象となったのは、社会学的に非常に興味深いことだ。
pixiv百科事典からたどれる読書ブログではその理由を「偶然」と一刀両断していて、確かに納得できる部分も多い。
(ちなみにそのブログと僕の見解でまず共通する点は、元ネタの圧倒的な多さ(→2020.11.13)による知覚的流暢性だ。)
が、やはりそれでは面白くないのだ。社会学者として、自己満足できる理由を見つけたい。2つのレヴェルを想定する。
ひとつは、マンガ自体に内在する要素。もうひとつは、マンガをめぐる外側つまりわれわれの側にある要素。

まずはマンガに内在する要素。この作品では秩序の構築が欠如しているとすでに書いた。それすなわち、政治の欠如だ。
炭治郎の戦いは守るための戦いであり、仲間とうまく生きていくことが優先順位の高い位置に設定されている。
従来の少年マンガにありがちな、理想のために対立する構図を解消する場面はない。ゲスな無惨を倒す、それだけ。
無惨は「私に殺されるのは大災に逢ったのと同じだと思え」と言う。まるで『シン・ゴジラ』(→2016.8.23)のようだ。
なるほど震災や温暖化による異常気象など災害が目立つ中、それらに対する潜在的な怒りはある(さらにコロナまで……)。
リアルな災害は政治で緩和していくしかないが、 『シン・ゴジラ』も『鬼滅』もその直接的な解消を願望として描く。
そこに政治は存在しない(鬼殺隊は政府非公認組織である)。あの手この手で絶対悪を排除することだけが解決法なのだ。
(そういえば最後に無惨を押さえつける方法は 『シン・ゴジラ』そっくりだ。『鬼滅』はどこまでもいいとこ取りだ。
 しかしその「名もなき人々が体を張って圧倒的な災厄を止める」という構図の原点は、実は福島の原発だろう。)
災厄に対抗するためには強くなるしかない。このマンガでは執拗に、徹底的に虐げられる無力な人々が描かれる。
そして富岡義勇は「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」と言う。でも完全にこれは自己責任論を押し付けているだけ。
後から柔らかい言葉で独白するが、内容は同じである。やられたくなかったら、やる側に立て。要は弱肉強食なのだ。
政治の欠如、自己責任論、そして秩序の遵守。僕の感覚を通して社会学的に見ると、この世界観はちょっと厳しい。
炭治郎の従来の主人公にはない優しさがよくクローズアップされるが、設定された状況は以前よりシヴィアな社会だ。
ゆえにこの世界観が受け入れられているということは、閉塞的な社会状況がまだまだ肯定的に続くことを意味するだろう。

ではマンガをめぐる外的な要素は何か。僕は女性の購買力の活発化が背景にあると考える。月並みだが、それが大きい。
まずこのブームはマンガ先行でなく、アニメがなければ成立していない点。数年前の『おそ松さん』を見て感じたのは、
女性はアニメについてアクセシビリティが高いという点だ。少年マンガを読む女子が少ないと言いたいのではない。
マンガよりもアニメの方がアクセスしやすいということだ。そして女性の消費行動は、表層的な傾向を帯びている。
たとえば神社で言うと、男性が歴史を掘り下げて分析したがるのに対し、御朱印集めなどどこか「軽さ」があると思う。
またヴィジュアル的な「映え」、さらには同じ名前へのこだわりなど、意味を読むよりも意味付ける方を好む傾向がある。
一例を挙げると、主人公の姓と同じだからと竈門神社を聖地化してしまう感覚。太宰府の竈門神社(→2017.8.5)も、
別府の八幡竈門神社(→2020.3.28)も、マンガと無関係なのに人が殺到する(オレも授与所でそうなのか訊かれたもん)。
こないだは糸島の桜井神社に行ったけど(→2020.11.14)、「嵐三社巡り」をやっている女性が多数いて引きましたもん。
名前が同じってだけで歴史を無視して同類とくくってしまえるのは、ちょっと僕には理解しがたい感覚だ。学問的でない。
まあ思いっきり暴論なのは自覚しているのだが、しかしそういう特性を持つ女性たちが大きな購買力を持つようになった。
コロナでインバウンドがすっぽり消えたことで、それがはっきり可視化された、そういう事態ではないかと思うのだ。
そして「儲かりゃなんでもいいや」と受け止める社会。『鬼滅』の的外れなブームはそういう思潮の現れではないか。
それは新自由主義を経て資本主義が以前とは違う段階に入った状況を示しているように僕には思える。ハーコリャコリャ。


2020.12.7 (Mon.)

人権研修にお出かけ。そんなに高度な内容ではなかったが、今まで個人的に勉強したことからいろいろ考える。

セクシャリティについての自由は、憲法などが保障する自由権のうち「精神的自由」にあたるものだと理解。
これは経済的自由などより優越的な地位にあるため、規制については厳格に判断される。つまり、差別はイカンです、
という言説がより強く通用するわけだ。家族や社会が個人のセクシャリティをあれこれ規制するのはよくない、と。

そこは納得がいったのだが、ではその個人の価値観を社会に対して押し付けて変革を求めることは可能なのだろうか。
個人の主張は、表現活動や政治活動を通して合法的に行うことができる。しかし、個人の「精神的自由」を集合化し、
「社会はぼくたちの価値観を受け入れるべきだ、だってそうしないことはぼくたちの精神的自由を規制することだから」
と主張することは、果たして正当と言えるのか? 価値観の変革の強制は、他者側の「精神的自由」の規制ではないのか?
簡単に言うと、セクシャルマイノリティの価値観に同意できないことを、断罪することは不可能ではないかってことだ。
彼らの主張はしばしば、性差を前提とする既存の文化への挑戦という形で発露している。マジョリティ側からの反発は、
彼ら固有の価値観じたいに対する否定なのか、文化への挑戦に対する否定なのか、対象をきちんと見極めるべきだろう。

究極的には、個人レヴェルで「どうぞご勝手に」以上にはなりえないのである。矯正も変革も不要である。
何人も、何人に対しても、思想を押し付けることはできない。発信するのは自由だが、受容するかは各自の判断だ。
そして発信する本人の自由を侵害しない限り、既存の文化への挑戦に対する不支持を「差別だ」と言われる筋合いはない。
ヴォルテールの言葉に、「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る。」がある。
順序をひっくり返そう。「私はあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る、だがあなたの意見には反対だ。」


2020.12.6 (Sun.)

最近、MacBookの変換が変なのである。全角でアルファベットの文字を変換すると、勝手に単語が出てくるのだ。
つまり、キーを打ち間違えた状態で変換するたび、よけいな単語が出てくる。前はこんなことなかったのだが……。
とりあえず片っ端からアルファベットを変換して確認してみたところ、こんな具合なのであった。

w → 白峯神宮  r → Q.  t → 号線  y → 上州一ノ宮  p → PK  s → コレド  d → 伊和神社

f → インドカレー  g → d  h → ウノセロ  j → 大隅線  k → 嘉麻市  z → 鈴木其一

b → アエルワ️  m → キュラー

……ワ ケ が わ か ら ん !!

確かに出てくる単語はいかにもオレのMacって感じだが、しかしいったいこれはなんなんだ。キュラーって何だよ?
gを変換したらdが出てくるとか、おかしすぎるだろ! ツッコミどころが多すぎて、もう笑うしかないです。


2020.12.5 (Sat.)

土曜授業で3連発でもうヘロヘロだったんで、雨だけどどこか遠くへ行きたくて、帰らずそのままバスに乗って川崎へ。
バスは僕がかつてよく自転車で通ったルートを忠実になぞって、国道1号から府中街道に入り、ラゾーナの脇で停車する。

スタ丼を食うべく地下のアゼリアを移動していると、中にある店でドラえもんグッズを売っているのを見てしまった。
やはりマンガのコマをそのまま商品化されてしまうと、こっちは弱いのだ。バッグにハンカチにタオルを買ってしまう。
今年は『ドラえもん』連載開始50周年ということで各種グッズを売っているけど、小学館はどれだけ儲けてんだろうな。

スタ丼を食って満足すると、京急に乗り込む。ふだんなかなか行かないところに行きたくて、横須賀へ行ってみた。
寒くて雨なので軍港めぐりはパス。それでも面白いグッズはないかなと見てみるが、いい感じのものはないのであった。
前はもうちょっといろいろあった気がするが。チケット売り場も移転していて、コロナによる観光業の縮小を感じる。

温泉に浸かりたいなあと思って調べたら、野比温泉なるものがあるとのこと。今日は結局なんだかんだでドラえもんだ。
YRP野比に降り立つのは初めてである。住宅地を抜けて10分ほど国道沿いを歩くと、昭和な日帰り入浴施設が現れる。
お湯は少し黒めでぬるぬる、ぬるめの温度をとことんまで浸かって呆けるのであった。なかなかよろしゅうございました。


2020.12.4 (Fri.)

宅八郎が亡くなっていたのか。宅八郎というとやっぱり『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』での印象が強くて、
ノリのいい人がサーヴィス精神全開で業界の要求に応えてエキセントリックに当時のステレオタイプなおたく像を演じた、
そう思っているんだけど、どうなんですかね。当時のおたくは世間にとって「他者」だったから、それができた。
「宅八郎」って芸名が絶妙すぎた。元ネタのたこ八郎とは別ヴェクトルの強烈さと、シンプルな名前とのバランス。
今の時代から振り返ると、宅八郎が一人で背負いこみ過ぎてしまった気がする。いろいろもったいなかった。

宅八郎が目立たなくなっていったのと前後して世間ではサブカル的なものが流行し、時代はおたく化していった。
それまでは大っぴらにできなかった趣味が市民権を得て、今では当たり前のようにカルチャーとして語られている。
これを社会の幼稚化として一刀両断することはもちろんできるけど、文化の多様性とポジティヴに捉えることもできる。
いい時代と言えばいい時代なんだけど、一方で「それは裏でひっそりやるからいいんじゃないの」と思わないこともない。
まあ独身でいまだに好き勝手やっている自分が言えることではまったくないんだけどね、でもやはり少し考えてしまう。
時代が「宅八郎」というスケープゴートを必要としなくなってしまった、という面はあると思うわけだ。少なからず。
そしてそういう流れの中で、宅八郎が柔軟に「消費されない宅さん」を見せられなかったことを残念に思うのだ。
渋谷区長選がその機会にならなかったのはもったいなかったよなあ。時代の方が宅さんよりもっとおたくなんだもんな。

おたくな人間の端くれとして、先駆者に哀悼の意を表します。


2020.12.3 (Thu.)

春休みを中心に旅行の予約を入れていく。この年末年始については結局、帰省を自粛することに決まったので、
ストレス発散ということで旅行がよけいに楽しみでしょうがない。僕の旅行スタイルは徹底して個人行動なので、
旅先でも迷惑をかけることはないはずだ。外で動きまわるだけで、濃厚接触ゼロの旅行が成り立ちますのでな。
現状が多少マシになっているはずの未来に賭けて予約を入れる。この12月と1月でどうにか収まってほしい。

さて予約作業をしていて衝撃的だったのは、運行している夜行バスがかなり少なくなってしまっていることだ。
そんなに規模の大きくない(といっても県庁所在地レヴェルの)地方都市への夜行バスが、かなり休止している。
そこで飛行機中心の交通手段となるのだが、こっちは少しでも客を確保したいからか、運賃が意外にリーズナブル。
下手したらふだんの夜行バスの運賃と変わらんなあ、と思いつつ予約を入れていく。いや、いろいろ非常事態ですわ。


2020.12.2 (Wed.)

英語の1年生パフォーマンステストが意外とよい。特に、おとなしいと思っていた女子たちの度胸に驚いた。
また、ハキハキした発表でクラス全体を引っ張ろうとする生徒がいるのもよい。来年もその勢いでがんばるのだぞ。


2020.12.1 (Tue.)

ネットの回線が急に遅くなる事件。ここ最近、調子がよくないかな?と思うことがチラチラあったのだが、
週末あたりからは完全におかしくなっている。まあ実際に困るのは『艦これ』やっているときくらいなんだけどね。
それくらいふだんは通信速度を求めない生活をしている。でも今はイベント中ですので。シロッコは確保したけど、
このままだとシェフィールドの確保がままならないのであります。ワシントンなんて夢のまた夢ですよ。

ネットの調子がよくない事実に対し、考えられる原因がいくつもあるのが困る。物理的でないので特定するのが難しい。
とりあえずLANケーブルを新調したけどイマイチ。となるとルーターか、パソコン本体か、まさかのプロヴァイダーか。
しばらく様子を見て対処を考えることにする。LANケーブルはだいぶ古いのでこれが原因の可能性が高いと思うけど、
今の時代、ケーブルの経年劣化が通信速度の遅さにつながるなんてことあるの? よくわからんなあ。お手上げだよ。


diary 2020.11.

diary 2020

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