diary 2020.12.

diary 2021.1.


2020.12.31 (Thu.)

年末という実感がないのは帰省していないのはもちろんのこと、朝から晩まで日記漬けの日々を送っているからか。
すごいぜ、寝ているか日記書いているかのどっちかな生活だぜ。もはや日記を書く機械。欲望する機械ですよ。
そんな感じで2020年よサヨウナラ。来年どうなるかまったくわからんが、必死で日記を書いていることだけはわかる。


2020.12.30 (Wed.)

以前も書いたが、マンガを電子書籍に移行できないかと試行錯誤しているところである(→2020.8.18)。
いや実際には割引になっているタイミングですでにちょくちょく購入してはいるのだが、イマイチ違和感がある。
その根源にあるのはもちろん、手を使い「読む」という行為と指先で「見る」という行為の身体感覚の差異なのだが、
それだけでないものを感じている。電子書籍への完全移行は危険である、と僕のゴーストが囁いているのよ。

きっかけは、割引だったので思い切って、二ノ宮知子『のだめカンタービレ』(→2005.8.202009.11.27)と、
山田芳裕『へうげもの』(→2011.8.252013.1.122018.5.13)を買ったことだ。巻数多いし、電子化したいなあと。
しかしダメだった。いざ電子版を購入しても、単行本を売りに出せない。なぜ、僕は両者を別物と感じているのか。

実際に電子書籍を買ってみてわかったのは、電子書籍の購入とはデータを閲覧する権利を手に入れる行為であって、
物理的存在である本を所有するのとはまったく別物だ、ということだ。相手の事情に委ねられる部分が大きすぎる。
僕はその分の「瑕疵」を、「割引」という形で納得している。それで初めて釣り合いが取れていると認識している。

究極形と言える仮想通貨は「所有できない」点が決定的で、将来その点が現実との大きな齟齬を生む気がする。
(それを言ったら為替も手形もクレジットカードも似た要素はあるが。ただ、信用が重視される価値観は変わらない。)
『エンデの遺言』では老化しない利子が財の価値を目減りさせることを問題としたが(→2004.2.172006.6.5)、
それ以上の破壊力がありそうだ。仮想通貨は「量」がすべての世界。「量」こそが信用の源、そう転換している。
(そういう意味では、「所有」が意味をなさない、と言い換えられる。交換対象でないものは価値を持たないのだから。)

「所有」とは、やはり「質礙(ぜつげ、2つのものが同時に同じ空間を占めることはできない性質 →2020.5.17)」なのだ。
物理的存在というレヴェルを離れることができない。データを体験する権利を手に入れても、「所有」にはならない。
この借り受けている感覚、belongでない感覚が僕には居心地が悪くて、それで単行本を売りに出せないでいるのだ。
結局は僕の問題意識からすれば、今の時代は身体性の本質が軽んじられているってことだ、と総括できそうに思う。
電子書籍にしろ音楽データにしろ動画にしろ、真の所有者である法人がわれわれを契約のサブスクリプションで縛る。
芸術の所有者は権力者から大衆に開かれたが、今度は営利法人へと収斂しつつある。なかなかのディストピアである。
そんなふうに考える古いタイプの人間で申し訳ないけど、だからこそ本質を忘れず流されないでいる、と信じている。


2020.12.29 (Tue.)

しかしアレだな、『SASUKE』のいいところはたった1人のチャンピオンを決めるわけじゃないから、
挑戦者たちが応援し合えるところだな。個人競技だけど「みんなでクリアしようぜ」って感じが清々しくてよい。
そして見るたびに『風雲!たけし城』の偉大さを感じる。さらには『未来少年コナン』の偉大さも感じる。


2020.12.28 (Mon.)

東京ドームシティ Gallery AaMo『ゆうきまさみ展』。平日休みなら空いているだろうということで見てきた。
撮影はすべてにわたってOKだけど、おさわりはNG。というわけで僕もスマホであれこれ激写しながら見ていった。
しかしスマホの性能が悪くて使える写真がほとんどないのであった。ま、それが主目的じゃないからいいけどね。

 『鉄腕バーディー』と『究極超人あ〜る』からのスタート。

感想はとにかく、絵がうめええええっ!!! それに尽きる。最初っから完成されちゃっている感触なのだ。
展示されていたネームの段階から、もうすでにふつうに読める。ペン入れも線に迷いがない。一発で描いている。
そして『機動警察パトレイバー』で完全に頂点を極めてしまった感じ。コマ割りもアングルも非の打ち所がない。
しかもストーリーは社会派なSF刑事ドラマ(→2004.12.152018.1.15)。とんでもない作品だとあらためて実感する。
デジタルに移行しても基本は手描きのようで、それは結局、絵が上手すぎるからそうなるのだ。レヴェルが違いすぎる。
そんな感じで、生原稿の展示はひたすら絵の上手さを見せつけられる感じ。でも絵が作品として独立してはおらず、
前後の流れできちんと読みたい、という気にさせられるのだ。ゆうきまさみの絵は物語に没頭させる絵だと思う。
(対照的に、絵がマンガから独立して商売になりうる例としては、江口寿史が典型的だろう。→2016.1.272017.8.19

  
L: 創作ノート。この段階ですでに完成度が異様に高く、最も効果的な描き方が頭の中でわかっちゃっているんだなあ。
C: 『じゃじゃ馬グルーミン★UP! 』より。僕みたいなシロウトは、なんでこんな絵を描けるんだ……と溜息しか出ません。
R: 最新作『新九郎、奔る!』より。主要な部分は今も手描きで、デジタルで仕上げていることが両者の比較からわかる。

今回の目玉とされる光画部の部室再現コーナーでは、R・田中一郎の人形と記念撮影ができるようになっていた。
やはり文化部人間にとって、光画部は確かな理想郷なのである。平日だったからよかったけど、土日は大変だろうなあ。

 スマホカメラの性能が悪くて申し訳ない。オレも悔しい。

あらためて思ったのは、『機動警察パトレイバー』の特別さだ。いや、『究極超人あ〜る』も大好きだが(→2005.1.15)、
『パトレイバー』は「これを少年誌でやるのか!」という鋭さ、深さが桁違いなのだ。作品としてのレヴェルが高すぎる。
展示のクライマックスはイングラムとグリフォンのバトルシーンで、一コマ一コマに詰め込まれている緊張感が凄まじい。
内海の危険さ、野明の情熱、そしてレイバーの迫力、どれも圧倒的な描写なのだ。思わず見とれてしまったではないか。
あの高度なストーリーをこれだけの端正な絵で読める幸せ。本当に恐ろしい傑作だったことをあらためて実感させられる。
この正月休みにじっくり読もうと思う。日記を中心にやることだらけだが、なんとか時間をひねり出して浸りたい。

物販はあまり魅力的でなかった。鳥坂センパイのタオルは買ったけど。R・田中一郎の扇子くらいつくったらどうなんだ。
パトレイバーのグッズは桁違いに売れて品切れなのか、ほとんどが注文を受けて後日送付というスタイルなのであった。
でも正直、ゆうきまさみはグッズがどうこうではなくて、一番はやっぱりマンガなんだよな! 彼のマンガを読むのが一番。


2020.12.27 (Sun.)

今日は日記を書きまくり写真を整理しまくりなのであった。9時間ですよ9時間。正月もこんなんやろな。


2020.12.26 (Sat.)

もうすっかり年の瀬なのだが、年内に行けるだけ行っておこうということで、「TOKYO SWEEP!! 23区編」の第10弾。
前回の反省と冬至を過ぎたばかりで日が短いという事情から、本日は台東区のうち旧浅草区だけを走りまわるのだ。
なお、旧浅草区域は現在の台東区東部となる。東京15区時代どころか江戸時代からの伝統がしっかあるので実に濃そう。

浅草ということで、スタート地点は雷門とした。今年はコロナがしたとはいえさすがに昼間は観光客が多そうなので、
8時半くらいに現地に着けば店も開いてなくてそれなりにすっきり写真が撮れるんじゃないかと予想して動く。
思いだすとイヤな気分になるのであまり詳しく書きたくないが、雷門を占領して延々と撮影をしている変な人がいて困った。
でもまあ、そいつらが消えた後はすっきり撮影ができたのでヨシとしておく。いやー、本当に気持ち悪い連中だった。

  
L: というわけで雷門である。  C: ひと気のない瞬間を撮影できた。  R: 提灯をクローズアップ。高さ3.9m、直径3.3m。

雷門は浅草寺の総門で、正式名称を「風雷神門」という。そのとおり、風神と雷神がそれぞれ門の左右に置かれている。
最初に総門が建立されたのは942(天慶5)年とされ、焼失と再建を繰り返している。1866年(慶応元)年に焼失すると、
そこから100年近く再建されなかった。とは言っても、イヴェントで仮設の雷門が頻繁に登場していたようである。
現在の雷門は1960年竣工の鉄筋コンクリート造で、松下幸之助が寄進した。なお提灯は今年4月に奉納されたばかり。

  
L: 提灯の背面はきちんと「風雷神門」。提灯は1795(寛政5)年の再建以降に登場。銘板には松下幸之助の名が入っている。
C: まだ目を覚ます前の仲見世通り。すでに正月モードである。  R: 仲見世通りの背面。かなり統一感があって興味深い。

では浅草寺に参拝するのだ。公式サイトによると、浅草寺の起源は推古天皇の時代である628年にまで遡る。
宮戸川(今の隅田川)で檜前浜成・竹成の兄弟が漁をしていると、網に仏像が引っかかった。これを持ち帰ったところ、
地域のリーダーだった土師中知が観音菩薩像と気づいて、お堂をつくって熱心に信仰。さらに自宅を寺にしたという。
やがて645(大化元)年に勝海という僧が観音堂を整備して仏像を秘仏とし、浅草寺はどんどん発展していく。
そして942(天慶5)年に武蔵守となった平公雅が伽藍を整備し、雷門や仁王門などがつくられたとされる。
1590(天正18)年に徳川家康が江戸に入ると浅草寺は祈願所となり、江戸時代に周囲は盛り場となっていった。

  
L: 宝蔵門。かつては仁王門と呼ばれていたが、 1964年に再建されて以降は経蔵を兼ねているので宝蔵門と改称された。
C: 1973年再建の五重塔。仏舎利を納める。  R: 本堂(観音堂)は1958年の再建。境内の建物の屋根はだいたいチタン瓦葺。

さて浅草寺といえばおみくじである。僕は過去2回チャレンジして2回とも「凶」を引いている(→2008.3.202010.8.1)。
気になって調べてみたところ、浅草寺のおみくじで「凶」の出る確率は30%で、明らかに他の寺社よりも高くなっていた。
ただ、単純な比率では「吉」が最も高くて35%とのこと。せっかくなので、3回目のチャレンジに挑むのであった。
結果は──またしても「凶」! 思わず爆笑してしまったよ。こうなったらもはや浅草寺では「凶」以外引きたくないぜ!

 
L: 本堂を別の角度から。かつての浅草寺は旧国宝の建物が多くあったが、東京大空襲によりほとんどが焼けてしまった。
R: 三度目の正直でも「凶」! 浅草寺のおみくじでは「凶」しか引いたことがないとか、たいへんオイシイではないか。

妙な満足感に浸りつつ、すぐ東隣の浅草神社へ。浅草寺の創建に関わった土師真中知・檜前浜成・檜前竹成が主祭神で、
この3柱を祀ることから「三社権現」とも呼ばれる。というわけで、浅草の三社祭はこの浅草神社の例大祭なのだ。
なお神紋は3つの網を描いた「三網」。明治の神仏分離により浅草寺から独立し、浅草郷の総鎮守となった。

  
L: 浅草神社。いろいろと大規模な浅草寺の境内とはまったく異なる雰囲気。  C: 拝殿。  R: 近づいてみたところ。

東京大空襲で建物が焼けてしまった浅草寺とは対照的に、浅草神社には徳川家光が寄進した社殿が残っている。
本殿・幣殿・拝殿ともに1649(慶安2)年の築で、国指定重要文化財である。その姿から往時の浅草寺を想像してみる。

 葉っぱの奥にある本殿は、いかにも家光好みの極彩色となっている。

御守を頂戴すると周辺を散策。まずは旧浅草区役所跡地ということで、台東区立浅草公会堂へと向かう。
1947年に浅草区と下谷区が合併して台東区が発足すると、旧浅草区役所は台東区役所浅草分庁舎として使用された。
1973年に現在の台東区役所が竣工して翌年閉鎖され、跡地に浅草公会堂が建てられた。日建設計の設計で1977年竣工。
場所は浅草寺の本坊である伝法院のすぐ南であり、浅草寺がこの地域の核そのものであることが窺える立地である。

  
L: 旧浅草区役所の跡地に建つ台東区立浅草公会堂。浅草寺の門前町のど真ん中であり、スケール感が周囲と明らかに異なる。
C: 意地で建物の正面を見たところ。  R: 今でもここに公共施設があることが、土地の歴史をしっかり伝えてくれてありがたい。

 裏の伝法院通から見た浅草公会堂。

そのまま西へ抜けると浅草六区のエリアだ。1873(明治6)年、太政官布告により全国に公園が整備されることとなった。
西洋のように近代化された公共の空間として、江戸時代にはなかった「公園」という概念がここに誕生したのである。
なおこれは廃仏毀釈の流れとも対応しており、寺の広大な境内がどんどん接収されていく(芝公園の事例 →2020.8.17)。
そして東京府は5つの公園を指定した。深川(→2002.8.25)、飛鳥山(→2002.8.31)、芝、上野、浅草の各公園である。

というわけで、ここで「東京で初めてつくられた公園5ヶ所をめぐる企画」の第4回・浅草公園編といくのだ。
「浅草六区」とは浅草公園の第六区画を意味する。上述のとおりすでに江戸時代に浅草寺周辺は盛り場となっていたが、
1886(明治19)年に浅草公園が開園すると、六区は見世物小屋や劇場などがひしめく歓楽街として大いに繁栄する。
現在の花やしきから西に行った場所には、1890(明治23)年に「浅草十二階」こと凌雲閣が竣工してランドマークとなる。
凌雲閣は1923(大正12)年の関東大震災で倒壊してしまうが、浅草の繁栄は続く。東京大空襲の後も浅草はすぐに復興。
しかし1960年代に劇場からテレビの時代と移っていき、人の流れは新宿や渋谷といったターミナル駅中心に変わっていく。
そうして浅草六区は長い低迷期に入るが、近年は往時の怪しげな雰囲気を微妙に漂わせつつ(→2008.3.20)、
再開発によって賑わいを取り戻しつつある。ちなみに1947年に公園地から解除されたため、浅草公園は現存しない。

  
L: 六区通り。街灯には浅草で活躍したコメディアンたちの顔写真が掲げられている。永井荷風もいる。
C: 「予約済」となっているところにはビートたけしが入る予定。「おいらが死んだら飾ってくれ」とのこと。
R: 左から入ると浅草演芸ホール、右から入ると色物専門の東洋館。もともとはストリップ劇場・フランス座だった。

朝の9時半という非常に健全な時間帯に浅草六区を徘徊しても、あまり意味がないような気がする。
それでも見世物小屋や劇場などに由来する非日常、コードからはずれた空気感はしっかり味わうことできる。
微妙な角度のついた街路、整理されていない状態で並ぶ店舗、道にせり出す荷物や什器などがその要因だろうか。

ここで盛り場・浅草について、吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』(→2004.12.2)の記述をまとめてみて、参考にしたい。
江戸時代の浅草は浅草寺の御開帳で賑わったが、それとセットになっていたのが観音堂裏「奥山」の見世物・大道芸である。
浅草寺で秘仏を拝んだ後は、臍で煙草を吸う女・ろくろ首・火渡り・生人形・からくりなどの見世物小屋を堪能し、
最後は吉原の遊廓で締めるというパターンが確立されていたとのこと。これは明治以降もしばらくそのまま続いたが、
公園地整備事業で見世物や芝居は六区に移転させられる。東京府は前近代の要素を排除して「公園」としての体裁を保ちつつ、
六区からの地代収入を期待したのだ。またもうひとつの流れがあり、江戸時代には「水」が非日常空間との境界となっていた。
浅草や吉原は船でアクセスする場所であり、そうして江戸の人々は〈辺界〉〈異界=他界〉に〈触れる〉娯楽を楽しんだ。
ところが明治20年代以降、主要な交通手段が水上から陸上に転換し、人々の想像力や感受性のあり方そのものも変容する。
浅草は見世物小屋など旧来の盛り場としての骨格を残しながらも、博覧会や勧工場、煉瓦街といった近代化の空間と結びつき、
複雑な発展を示していく(1890(明治23)年の凌雲閣の竣工は、その過渡期ならではのできごとということになるだろう)。
やがて資本主義が急激な発展を遂げる明治40年代に入ると、浅草における娯楽の中心は見世物から活動写真へと変化していく。
さらに大正には軽喜劇・浅草オペラ・安来節など新しい興行が登場し、浅草の娯楽は旧来の演者・観客の関係を残しつつも、
大衆的でハイカラなものとなる。活動写真や浅草オペラなどの「モダン」と、観音堂などの「伝統」が混ざり合っていたのだ。
これを支えた人々は、東京の工業化とともに地方から流入した単身の労働者である。民衆娯楽を研究した権田保之助は、
「新興の無産階級による新しい『民衆娯楽』が誕生しつつある空間であり、このような民衆娯楽地としての『浅草』の成立の条件は、
日露戦争以降の、そしてさらには第一次大戦を通じたわが国の資本主義の発展によってもたらされたものである」と述べた。
またそれだけでなく、ブルジョアやインテリを含んだ多様な階層も浅草の娯楽を求めた。演歌師の添田啞蟬坊は浅草について、
「あらゆる階級、人種をゴッタ混ぜにした大きな流れ」があり、そこでは「洋画から新時代の滋養を吸ふモダニストと、
銅銭で御利益を購ふ観音様の信者が並んで歩いてゐる」と指摘している。あらゆる階層を受け入れる浅草の雑踏の中に、
下町の下層民たちは、もうひとつの幻想としての〈家郷〉を求めた。そうした集合的な気分の醸成が共同性の交感をもたらし、
浅草を「東京の生活から逃れ、帰っていくべき場所」、いわば避難所(アジール)として感じ取ることができた。
〈触れる=群れる〉身体感覚により、種々雑多な人びとが群れ集い、相互に触れあい、語り合い、幻想の共同性が生まれる。
関東大震災の後、〈浅草的なるもの〉は〈銀座的なるもの〉(→2020.8.14)に先を譲ったが、そのまま衰退はしなかった。
昭和に入ってからも、さらに第二次大戦中も、浅草の賑わいは続く。なお吉見は〈浅草的なるもの〉の上演の特徴として、
(1)強烈な消化能力、(2)先取り的性格、(3)変幻自在さ、(4)共同性の交感、という4つを指摘している。

まとめてみて思うのは、浅草とは社会が前近代から近代へと移行する中で、変容する人々を受け止める空間だったということ。
娯楽の内容は、明治という約半世紀の準備期間を経て、見世物・大道芸から活動写真・浅草オペラへと切り替わっている。
(そして活動写真を受け継ぐ映画館は消え、浅草オペラも廃れたものの、演芸場は残り、商業施設と観光で生き抜いている。)
それに対して人々の側も、同じスピードではないものの、やはり前近代から近代へと切り替わろうとしているように思う。
区画整理や新しい建物の建設によって一気に変化してしまう空間とは違い、人々の側の変化はかなり緩やかである。
その緩やかさが〈浅草的なるもの〉の幻想の共同性の源泉だったのではないか。下町の下層民たちは前近代に生まれつつ、
近代に生きることを強制された。だから集まれば前近代の空気を漂わせ、また前近代の匂いが残る浅草へと集まった。
近代に適応できない/したくない人々、でも近代に適応しなくてはならない人々の居場所として、浅草は機能した。
最先端の娯楽と伝統的な娯楽が併存する空間、近代と前近代が併存する空間であったからこそ、人は浅草に集まった。
浅草にいれば、白黒はっきりつける必要がなかったのである。自分の好きな比率で過ごすことが許されたのである。
浅草六区が今も保つ「とっぱずれた」雰囲気は、前近代の見世物由来の空気がいまだに十分残っていることを示している。
今後、浅草の持つ前近代の空気の比率は下がっていくのかもしれない。でもおそらく、ゼロになることはないだろう。

 雷門通りのアーケードに戻ってくる。

最後に浅草の今昔の建物を見てまわる。雷門の目の前には浅草文化観光センター。まあ見るからに隈研吾ですわな。
モダンな建築としては、浅草で最古の鉄筋コンクリート造である神谷バーの神谷ビル。神谷バーは日本初のバーである。
そして松屋浅草店が入る東武の浅草駅。以前は四角い縞々だったが、東京スカイツリーの開業に合わせて昔の姿に戻った。
しかしこうして浅草寺から六区、そして駅まで動いてみると、浅草という土地の歴史がしっかり空間に残っているのがわかる。
意地で伝統を残す空間(浅草寺)、意図せず残る空間(六区)、モダンを貫く空間(浅草駅)。でもそのすべてが浅草なのだ。
あらゆる階級、人種だけでなく、過去も現在もゴッタ混ぜにしている空間。そのゴッタ混ぜが複雑であるほどそれらしい空間。
浅草はサンバカーニバルすら定着してしまうほどにゴッタ混ぜなのだ(そのサンバ自体もまたゴッタ混ぜから生まれている)。
一度本気で歩いてみるのも面白そうだ。近世から近代を経て現代まで、複雑に入り組みながらもそれぞれの要素が生きている。

  
L: 浅草文化観光センター。2012年竣工。  C: 神谷バー。ビルは1921(大正10)年の竣工。電気ブランは一度飲んでみたいが。
R: 東武の浅草駅。久野節の設計で1931年竣工。1974年の改装で外壁が白い外装材で覆われたが、2012年に開業時の外観に戻った。

浅草から南下して駒形橋へ。隅田川に架かる橋梁群は30以上あるが、勝鬨橋・永代橋・清洲橋は国指定重要文化財に、
蔵前橋・厩橋・駒形橋・吾妻橋・白鬚橋・両国橋・言問橋は東京都選定歴史的建造物となっている。それで見ておこうと。
関東大震災で木造の橋が焼けて多くの被害者を出したため、震災復興事業としてデザインを工夫した橋が架けられたのだ。

  
L: 1927年竣工の駒形橋。すぐ近くの浅草寺駒形堂にちなむ名称。  C: アーチに近づいてみたところ。実にシンプルな曲線。
R: 駒形橋と厩橋の中間地点にある駒形諏訪神社。ビルの合間でひっそりたたずんでいるが、御守などはきちんとある模様。

さらに南下すると厩橋。こちらは1929年の竣工で、3連のアーチとなっている。明かりが同じ高さで並ぶ駒形橋と違い、
厩橋の明かりは内側と外側で高さを変えてあるうえにアーチに合わせて上下している。モダンの美しさが堪能できる。

 
L: 厩橋の西詰。駒形橋もそうだが最初の明かりが予告編になっている。  R: 明かりの高さがリズムを生みだしてオシャレ。

厩橋まで来ると蔵前である。ということで藏前神社に参拝する。1693(元禄6)年に徳川綱吉が石清水八幡宮を勧請して創建。
社号標の手前、境内の玉垣には赤い字で「財團法人 大日本相撲協會」、そして東富士・千代の山・鏡里・吉葉山の名がある。
調べてみたら1954年の4横綱時代みたい。江戸時代には境内で相撲の興行が行われ、1984年までは蔵前に国技館があった。
その縁で大相撲の聖地となっているようだ。相撲との関係を特に意識した御守がないのはもったいないところである。

  
L: 藏前神社。  C: 社号標と玉垣。  R: 拝殿。社殿は東京大空襲後の再建。この地域は被害が大きかったのだ。

 
L: 本殿。斜めの角度で福徳稲荷神社。  R: 落語『元犬』の像。蔵前の八幡様で満願叶って人間になった、という設定。

南下して蔵前一丁目の交差点から東に入ると、ちょっと埋立地っぽいスケールが大きくて無機質な雰囲気。
こまごました小さなビルが並ぶ下町感のある国道6号沿いとは明らかに空間の質が異なっており、抜けると蔵前橋。
このスケールの大きさは江戸幕府の浅草御蔵や、それを管理する蔵奉行の屋敷に由来しているのだろう。
明治になると敷地の広大さを生かして政府関連の施設が置かれ、図書館・学校・火力発電所などが建設された。
蔵前国技館があったのもこの辺りで、現在は東京都下水道局の施設となっている。元祖ウォーターフロントなのだ。

 
L: 1927年竣工の蔵前橋。隅田川の歴史的な橋梁群は原色に近い色で塗り分けられているのか、と思う。
R: アーチを下から見てみたところ。機能美が全開で見惚れてしまう。リベットがたいへんにロマン。

戻って再び南へ。蔵前エリアのほぼ南端にあるのが第六天榊神社である。第六天魔王というと僕はどうしても、
織田信長の中二病的な自称というイメージが真っ先に出てきてしまうが(実際には信玄相手のブラックジョークらしいが)、
実際のところは神仏習合の名残を感じさせる興味深い社名なのだ。なお宗教法人としての正式な社名は榊神社。

  
L: 第六天榊神社。  C: 鳥居をくぐって参道を行くが、社殿の前で斜めに曲がっている。
R: 拝殿と向き合う。実は社殿はきっちり南に面しており、境内の参道で角度を調整している。

かつてこの周辺が江戸幕府の浅草御蔵だったのは上述のとおりだが、ここには図書館である浅草文庫が置かれた。
1881(明治14)年、上野の寛永寺本坊跡地に国立博物館本館(ジョサイア=コンドル設計の旧本館の方)が建つと、
博物館構内の書籍借覧場に移されて浅草文庫は閉鎖。そしてその場所に新たに設立されたのが東京職工学校である。
先行する東京大学が研究を推し進めたのに対し、こちらは日本の伝統工芸を近代産業へと発展させる目的があった。
その後、東京工業学校に改称され、1923年の関東大震災により大岡山に移転。そして1929年に東京工業大学となる。
というわけで、第六天榊神社が現在地に遷座したのは東京工業学校が移った後のことなのだ。ここが東工大発祥の地。

  
L: 境内の外に出てみると、奉納者の名前が刻まれた石を組んだ塀に神紋。  C: 御蔵前公園から見た本殿。金網が邪魔だ。
R: 敷地の南西端には「蔵前工業学園之蹟」。東京職工学校は広大な面積だったそうで、今の神社は本当にその一部だけ。

参拝を終えるとそのままいったん浅草橋駅まで行ってしまう。今まで浅草橋に来たことは数えるほどしかなくって、
浅草との間に蔵前挟んでんじゃねーか距離あるじゃねーかと思うのだが、それだけ浅草が繁華街として強烈だったのだろう。

 国道6号の先、浅草橋駅を望む。問屋街らしい昭和な雰囲気の看板が印象的。

国道6号沿いに、推古天皇の時代である600年に創建されたという須賀神社が鎮座しているので、参拝する。
祇園系であることは確かなのだがさまざまな呼び方が存在しており、笹団子を奉納するので「団子天王社」なんてのも。
1868(明治元)年に須賀神社が正式な名称となる。個人的には「団子天王社」の独自性を捨てないでほしかったが。

  
L: 須賀神社。敷地は小さいが街の神社としてしっかり整備されている。  C: 拝殿。  R: 本殿を覗き込む。

さらに浅草橋駅へ近づくと、一気に問屋街らしい雰囲気が強くなる。神田(→2018.8.6)とか日本橋(→2020.8.14)とか、
職人の世界特有の匂いに圧倒される。浅草橋の場合は特に、玩具・人形・文具などの問屋が軒を連ねているそうだ。
そういえば中学校の教員1年目、夏休みの林間学校のために花火を買いに来たことがあったっけ(→2009.7.21)。
翌年には林間学校があっさり廃止されてしまい、残念ながらお世話になったのはその一度だけだった(→2009.7.30)。
でも僕の中ではそのプロフェッショナルな仕事ぶりがけっこう強烈に印象に残っている。問屋を楽しめる通になりたいぜ。

国道6号から一本西に入ったところに銀杏岡八幡神社。その名に違わず、イチョウの葉が境内の空気を黄色に染めている。
前九年の役に向かう途中の源義家が、川で拾ったイチョウの枝を丘の上に差して戦勝祈願。安倍氏を滅亡させて戻ると、
そのイチョウが木となって茂っていたということで八幡神を勧請して創建された。1062(康平5)年の話である。
ただし当のイチョウは1808(文化3)年に文化の大火で焼失して現存しない。でも神社はイチョウにこだわっており、
神紋は「丸に三つ銀杏」。御守も御朱印帳も全面的にイチョウ推しのデザインで、たいへんすがすがしい。

  
L: 銀杏岡八幡神社。イチョウのおかげでなんとなく黄色がかっている印象。  C: 参道脇の此葉稲荷神社。  R: 拝殿。

 本殿。

今度は北へと引き返す。忘れちゃいけないのが鳥越神社だ。日本武尊を祀ってかつては白鳥神社と称していたが、
前九年の役に向かう源頼義・義家の父子が白い鳥が飛ぶのを見て浅瀬があることを知り隅田川を渡ることができたので、
鳥越大明神と改めたという話。なおもともとは鳥越山という山だったそうで、浅草御蔵の埋め立て用に切り崩された。
(先ほどの第六天榊神社はもともと鳥越山に鎮座していたが、これをきっかけに蔵前方面へと移っている。)

  
L: 鳥越神社。入口はコンパクトだが横参道型になっており、左手奥へと進んでいく。中は思ったより広い。
C: 参道突き当たりの境内社・福寿神社。稲荷系の倉稲魂命、大黒と恵比寿、菅原道真をセットで祀る。
R: 境内にて。さすがに人気のある神社なので、すでに年末年始に向けての準備が始まっておりテントが並ぶ。

鳥越神社の例大祭は6月で、都内最大級だという千貫神輿が練り歩くことで知られる。実際に約4tの重さがあるそうだ。
特に鳥越神社の神輿は担ぎ棒が短くつくられており、担ぎ手の負荷が大きいとのこと。江戸っ子の意地を感じさせる。

  
L: 拝殿と向き合う。  C: 拝殿脇に通り抜けられる裏参道。  R: 横から見た本殿。手前右に志志岐神社、左に太鼓。

御守を頂戴すると一気に北上して浅草通りの手前にある誓教寺まで行く。こちらには葛飾北斎の墓があるのだ。
「北斎翁墓」という小さな札が付いている覆屋の中に墓石があり、文字は「画狂老人卍墓」と読める。彼の最後の名前だ。
現代の知名度からすればなんとも質素な墓に感じられるが、江戸時代の一般人ならむしろだいぶいい扱いなのだろう。

 
L: 葛飾北斎の墓。  R: 失礼して正面から。北斎関連の過去ログはこちら(→2005.12.22010.9.24)。

浅草通りから北へ進んで矢先稲荷神社へ。創建は1642(寛永19)年と新しめ。徳川家光が京都に倣って三十三間堂を建立し、
その守護神として稲荷大明神を勧請したのだ。場所が通し矢の的の先ということで、「矢先稲荷」と名づけられた。
なお三十三間堂は1698(元禄11)年の大火により深川に移転し、1872(明治5)年に廃仏毀釈の影響で廃寺となっている。

  
L: 矢先稲荷神社。敷地の角を境内の入口としており、空間が有効に活用されている印象である。
C: 境内では浅草名所七福神の幟が目立っている。浅草寺や浅草神社も七福神の対象。  R: 拝殿。

周囲は住宅だらけだが、土地が平坦なことや拝殿前を広めにとっていることもあって、狭苦しいイメージはない。
浅草名所七福神のひとつで、福禄寿を祀る。しかし七福神はぜんぶで9箇所あり、福禄寿は今戸神社も祀っているのだ。

  
L: 拝殿の天井には『日本馬乗史百図』。通し矢の神社なので、弓術と関連の深い馬術の絵が奉納されたとのこと。
C: 矢先稲荷神社の御守。柄にこだわりがあるのがよい。勝守は当たり矢のデザイン。  R: 後で裏から見た本殿。

さらに北上して秋葉神社へ。こちらは都会ではかなり珍しい、見事な横参道だ。ここだけ砂利道なのがまた雰囲気がある。
そして拝殿の扉には「当社は『秋葉原』の名称の由来となった神社です」とある。そのとおりなのだが、経緯がややこしい。
まずかつての秋葉原は火除地だった。そこに1870(明治3)年、明治天皇の勅命で皇居の紅葉山から鎮火三神を勧請する。
だから正しくは「鎮火社」だが、せっかちな江戸っ子は「火防の神様つったら秋葉権現(→2016.10.22)だよな!」と誤解。
それで火除地が「秋葉っ原」と呼ばれるようになり、地名として定着してしまい、神社の名前も秋葉社になってしまった。
その後、1888(明治21)年に東北本線の新たな駅・秋葉原駅をつくるために境内地が払い下げられて、現在地に移転した。

  
L: 秋葉神社、横参道の西側入口。祭神は火産霊大神・水波能売神・埴山比売神で、秋葉権現とは今も一切関係がない。
C: 参道を進んでいくと拝殿。本殿は建物に囲まれて千木しか見えない。  R: 拝殿を正面から見たところ。

秋葉神社から東へ行くと合羽橋道具街である。南北約800mの長い商店街で、調理器具関連の問屋街として知られる。
1659(万治2)年に新堀川がつくられ(関東大震災の後に暗渠化)、その両岸に古道具商が集まって大正初めに街ができた。
合羽橋の名は、武士が内職でつくった雨合羽を橋に干した説と、掘割を整備した合羽屋喜八に由来するという説がある。
河童たちが合羽屋喜八を手伝ったという伝説もあるためか、「かっぱ橋道具街」のひらがな表記が一般的であるようだ。

  
L: 合羽橋といえばニイミのジャンボコック像。これがなかったら合羽橋の商店街は長すぎてつかみどころがなくなると思う。
C: メインストリートはこんな感じ。いかにも問屋街の雰囲気。  R: 東西方向のかっぱ橋本通り。東京スカイツリーが見える。

道具を扱う問屋街なんてもう大好きに決まっているが、実はこれまでに合羽橋を訪れたことはほとんどなかった。
というのも、土日は開いていないイメージが強かったからだ。今回週末、それも年末に来てみたら、だいたいの店が営業中。
長い商店街であるにもかかわらず、コロナもなんのそのという勢いで活気にあふれているのであった。うわー、楽しい!

  
L: 典型的な合羽橋の店先。たまらないですなあ。大阪の千日前道具屋筋商店街も楽しゅうございましたね(→2010.7.18)。
C: 食品サンプルとはまた強烈な魔窟が。  R: オシャレな店舗もあって、さまざまな雰囲気が味わえるのがたまらない。

そのまま北へ抜けると浅草寺方面に戻り、わざわざ花やしきの入口をかすめる。お昼近くということでしっかり営業中。
さすがにソロで寄っている余裕はないが、機会があればマサルとのんびり再訪問してみるのも面白いかもなあ、と思う。

 花やしきの入口。熱海ロマンのロケではお世話になりました(→2001.6.16)。

隅田川の手前、「待乳山聖天」こと本龍院へ。境内は小高い丘の上となっており、雰囲気としては神社っぽさがある。
「待乳山」というのもwaiting for oppaiということでよくわからない名前だが、周囲が泥だらけだけどここだけきちんと土、
それで真土(まつち)という説があるそうだ。龍が山を守護したので、浅草寺の山号「金龍山」の由来になったとも。
なお待乳山の標高は10mで、東京で最も低い山である。この近所で生まれたそうで、「池波正太郎生誕の地」の碑があった。

  
L: 「待乳山聖天」こと本龍院。浅草寺の子院で、十一面観世音菩薩が大聖歓喜天の姿となり、この山に降臨したとのこと。
C: 石段を上って境内。提灯に描かれている大根と巾着は待乳山聖天のアイデンティティ。  R: 本堂を眺める。

 
L: 本堂の奥。神社ではないので本殿ではないが、やっぱり神社っぽい。  R: 道灌稲荷跡。なぜ祀るのをやめたのか。

御守を頂戴すると東京都立浅草高等学校へ。なぜわざわざやってきたかというと、ここが穢多頭・弾左衛門の屋敷跡だから。
関八州と伊豆国の被差別民を統轄していたというから絶大な権力を持っていたわけだ。さて実際に来てみたはいいけど、
特にそちら方面の知識もないし、往時を思わせるような痕跡は何もないしで、ただ途方に暮れるだけなのであった。

 
L: 山谷堀公園。かつては山谷堀という水路で、ここを「猪牙舟(ちょきぶね)」で通って吉原へ遊びに行ったそうだ。
R: 東京都立浅草高等学校。周囲もしっかり住宅地で、往時を思わせるような要素は何もないのであった。

すぐ東が今戸神社。1063(康平6)年に源頼義・義家親子が京都の石清水八幡宮を勧請して創建したとのことで、
時期的には前九年の役から帰るときか。銀杏岡八幡神社といい、鳥越神社といい、前九年の役関連の神社が多いなあと思う。
境内には多数の黒猫の人形が置いてあり、そんなに猫が大好きなのか、とびっくり。かなりの気合いを感じさせる。

  
L: 今戸神社の境内入口。都道314号に面して斜めの参道となっている。関東大震災や東京大空襲の影響でそうなったのか。
C: 境内を行く。左手に浅草高校。この先が弾左衛門の屋敷跡となるようだ。しかし斜め参道とは珍しい。  R: 拝殿。

 
L: 角度を変えて眺める拝殿と本殿。  R: 境内にはこんな感じの黒猫の人形がいっぱい。気合いを感じる。

隅田川沿いに北上していくと白鬚橋である。橋の名前は左岸にある白鬚神社に由来するが、墨田区なのでスルーなのだ。
最初は1914(大正3)年に地元住民が会社をつくって木造の橋を架けたそうで、1925(大正14)年に東京府が買い取る。
その後、明治通りが隅田川を横断する箇所だから鉄橋に替えようということで、1931年に現在の橋に架け替えられた。
ちなみに僕が橋を眺めていたとき、複数の警察官と何かが川に浮いているみたいなことを言っている人が現れて、
何やらおっぱじめたのだが、僕は何も見ていないので何もわかりません。何も聞こえません。あーあーあー。

 白鬚橋。僕は何も見ていないけど、旧浅草区すげえなとは思った。

そそくさと白鬚橋を後にすると、そのまま明治通りから少し南に入って平賀源内の墓にお参りする。
平賀源内といえば讃岐が生んだ翔んでるなんでも屋だが、江戸時代中期の限界に挑戦した人というイメージ(→2015.5.2)。
殺人事件で投獄された1ヶ月後に破傷風で亡くなったとされるが、なんともいろいろと謎を感じさせる最期である。
友人の杉田玄白が葬儀を行い総泉寺に葬られたが、総泉寺が移転した後も墓所はそのまま残されて国の史跡となっている。

  
L: 平賀源内の墓。閂を自分ではずして中に入るスタイル。  C: 中はこんな感じ。  R: 墓石。手を合わせる。

西へ行くと玉姫稲荷神社。760(天平宝字4)年の創建とされ、空海が描いた稲荷像を新田義貞が襟掛にしており、
執権・北条高時を追討する際にそれを宝塔に入れて奉納したので、玉姫稲荷神社という名前になったとのこと。
境内は木々が点々としていて広めな印象。しかし社殿からは稲荷らしい湿り気をそこはかとなく感じる。
本殿の脇で猫が寝ていたが、御守を頂戴して戻ろうとしたらそいつが目の前でネズミを捕まえて去っていった。
一瞬のできごとで圧倒されてしまった。さすが「あしたのジョーのふるさと」、野性味あふれる経験だったぜ。

  
L: 玉姫稲荷神社の境内入口。  C: 境内は広くてあっさりしている印象だが、稲荷らしい雰囲気ははっきり。  R: 拝殿。

  
L: 境内社の口入稲荷神社。もともとは吉原の口入れ屋に祀られていたそうで、それでそんな名前なのか。
C: 「あしたのジョーのふるさと」ということでジョーと白木葉子のポップが。ジョーが丹下段平と出会ったのが隣の公園だと。
R: 本殿。よく見ると本殿下のコルゲート屋根に猫がいる。まさかこいつがこの後ネズミを見つけて一瞬で仕留めるとは。

さて『あしたのジョー』ということで山谷である(究極のSMマンガとしての『あしたのジョー』 →2011.10.14)。
日本三大ドヤ街のひとつとされ(あとは横浜の寿町と大阪の釜ヶ崎)、高度経済成長期から労働者の街として知られる。
訪れたのは今回が初めてだが、釜ヶ崎(→2006.4.92010.7.18)に比べるとまるっきりマイルドな雰囲気だった。
簡易宿泊所というか、安くてたまらない宿が高めの密度で点在しているだけ。新築のマンションが混じる箇所もある。
釜ヶ崎のような「ピーク」は完全に過ぎ去っており、コロナという事情を差っ引いてもドヤ街から変質していると感じる。

  
L: とりあえず手当たりしだいに撮影してみる。ドヤ街らしい簡易宿泊所の中に小ぎれいなマンションという例。
C: なかなかの密度で簡易宿泊所が集まっているエリア。しかしどうしょうもない汚れを感じさせる空間とはなっていない。
R: 城北労働・福祉センター。あいりんとだいぶ雰囲気が違う。「センターは仕事をふやせ!」という左翼文字の看板が出ている。

西に抜けて土手通りにあるのが「あしたのジョー像」。ちばてつやのタッチはなかなか立体化しづらいと思うが、
その困難さがはっきりと出た微妙な表情をしている。少しルパン三世が混じっているような気がしてしまうのであった。
そして少し南に行くと吉原大門の交差点。脇には見返り柳が立っている。先ほどの山谷堀公園と土手通りは並走しており、
まっすぐ北上していくとこちらの吉原大門の交差点に着くようになっている。今は完全に真っ平らで往時は偲べないが、
そういう歴史が確かにあったわけだ。旧浅草区はしっかり広いが、特にこの周辺は注意深く探らないと痕跡が見えない。

  
L: あしたのジョー像。  C: 吉原大門の交差点。吉原へ向かう道は極端な曲がり方をしている。  R: 見返り柳。

今回はあくまで旧浅草区に焦点を当てており、吉原の歴史探索を本格的にやるつもりはないのである。
ソープランド街の写真をあれこれ撮ってもガサガサしているだけで面白くないので、仲之町通りをそのまま西へ。
吉原におけるメインストリートになるかと思うのだが、なるほどラブホテル的看板やファサードが点在しており、
ピンクとブルーのネオンがきらめく木造建築の飛田新地(→2006.4.9)とはぜんぜん違うことがちょっと興味深い。
感触としては地方都市の繁華街で見かけるオトナ向け飲み屋の外観っぽさがあるなあ、なんて思うのであった。
で、その仲之町通りはソープ街を抜けて住宅地に戻ると、また変な曲がり方をする。その手前が吉原神社だ。

  
L: 吉原神社。敷地はかなり狭苦しい。  C: 境内に入って拝殿。  R: まわり込んで本殿。

 社殿脇の末社・お穴様。地中にいて神社の土地を守っているとのこと。

ここできちんと吉原についてまとめておこう。徳川家康が江戸に入ると城下町の整備が急いで進められたが、
働き手として集まった男が圧倒的に多く、遊女屋も増えていった。しかし都市の拡大により移転を繰り返したため、
1617(元和3)年に庄司甚右衛門が幕府の許可を得て、遊女屋を日本橋人形町に集めて遊廓をつくったのが始まりである。
この場所は葦(あし)が生い茂った原っぱであり、葦だと「悪し」に通じるということで、遊廓は「吉原」と命名された。
しかし日本橋が江戸の商業の中心となっていったため、1657(明暦3)年の明暦の大火を受けて幕府は移転を命令する。
それが浅草寺裏の千束田んぼで、「吉原」の地名ごと移って文化サロンの様相を呈すほど大いに賑わった(新吉原)。
その新吉原には、大門に吉徳稲荷社、北隅に榎本稲荷社、東隅に明石稲荷社、西隅に開運稲荷社、南隅に九郎助稲荷社の、
計5つの稲荷神社が祀られていた。これらを合祀して1881(明治14)年に創建されたのが、吉原神社である。
さらに1935年には遊廓に隣接していた吉原弁財天を合祀したが、弁財天は弁天池跡に境外末社として残っている。

  
L: というわけで弁天池の跡に来た。現在も近くに花園公園があるが、正式名称は「新吉原花園池」といった模様。
C: 観音像。関東大震災で池に飛び込み溺れて亡くなった人々(490人もいた)を供養する。  R: 吉原弁財天への参道。

 吉原弁財天の本宮社殿。ちなみに壁画を描いたのは東京藝大の学生だと。

旧浅草区の最後を締めるのは、鷲(おおとり)神社である。11月に開催される日本最大の酉の市でたいへん有名。
祭神は阿波国を開拓した天日鷲命で、戦勝を祈願した日本武尊も祀っている。北隣にある長國寺との関係が深く、
明治の神仏分離で独立した経緯がある。長國寺は鷲妙見大菩薩を本尊としており、鷲神社は表立って主張していないが、
神紋を九曜紋と月星紋とするなど明らかに妙見系の神社である。妙見といえば千葉神社(→2016.12.25)が親玉的存在だが、
あちらと同じように社殿の造りの自由さがふつうの神社にはない価値観を暗示している。実に独特な雰囲気が漂っている。

  
L: 鷲神社の入口。国際通りに面する叉木からしてふつうの神社ではない。提灯には妙見系ならではの月星紋が描かれている。
C: 叉木の裏に大鳥居。扁額には「鷲宮」とあるが、神仏分離の際に妙見信仰を隠す事情(→2019.4.7)があったのではないか。
R: 参道を進むと天保10年に建立されたという鳥居。足元にやっぱり月星紋。その先にはもう一度叉木があって独特な空間だ。

  
L: 拝殿前は広場っぽい空間。右が拝殿だが、左に神札授与所を兼ねる神楽殿があり、両者の間を渡殿がつないでいる。
C: あらためて拝殿と向き合う。神明造スタイルであるがあちこちに月星紋。  R: 御守。奥のゴルフ守2000円が異彩を放つ。

 わざわざ裏通りにまわり込まないと本殿が見られないが、行けばはっきり見られる。

以上で旧浅草区はおしまい。かなり粗っぽいまわり方だったにもかかわらず、今も残る前近代的雰囲気はけっこう味わえた。
なぜ旧浅草区にはその「濃さ」が残っているのかは、もっと厳密に実地踏査してみないとわからないだろうけど、
やはり浅草の「伝統」と「モダン」の混在が許されてきた歴史にヒントがあると思う(それは現在の吉原にも通じる)。
浅草の手にかかってしまうと、前近代も近代も「人間の一面」ということで等価に扱われてしまう、そんな感触をおぼえる。
社会学が人類にとっての近代化を言語化する学問であるならば、旧浅草区にはその最も濃密な手がかりが生きているのだ。
実際に、自転車で走っていて皮膚感覚でこれほど刺激的な区は初めてだった。口を開けて待ち構える前近代に呑まれそうで。
しかし明治維新の後、大正モダンに第二次世界大戦、昭和の高度経済成長、平成のバブルと不景気、そういった激しい波が、
浅草の姿を大きく変えていった。でもまだ、人間の側に〈浅草的なるもの〉が残っている。これはそう簡単に消えはしない。
手を替え品を替え、姿を変え形を変え、人間と空間は歴史を積み上げる。しかし人間の生き物としての変わらない本質は残る。
空間を通じて〈浅草的なるもの〉を読むことは、人間の本性を読むことに他ならない。そしてその結果を言語化すること。
やりきるには経験も能力も圧倒的に不足しているが、浅草はまだ待ってくれている。それを確かめられたとは思っている。


2020.12.25 (Fri.)

終業式である! お昼は教職員の会で用意されたうなぎの弁当を食う。久々のうなぎ、おいしゅうございました。
今年はコロナによってあらゆる親睦会が吹っ飛んでしまったので、その分がうなぎの弁当となったわけなのだ。

 おいしゅうございました……。

あとはひたすら片付け。机上整理に留まらず、個人的に持ち込んだダンボールの整理にまで、移籍を見越して取り組む。
英語の受験問題集はもう使うことがないだろうから、しれっと英語科の棚に寄付しておいた。有効活用してもらえよ。
まだまだ減らせるとは思うが、とりあえず大まかにダンボール3箱を2箱強にまで削減することに成功したのであった。
今後も暇をみてどんどん整理していきたいものだ。「箱の中にある」ってことは、「どうせ使わない」だからな。


2020.12.24 (Thu.)

本日をもって2学期の授業が終了。明日は学活だの何だのがあるだけなので、これでゴールという感覚である。
正直、あとは3学期だけ我慢すれば……って感じ。なんとか平穏無事にラストスパートをかけてしまいたいものだ。

午後は年賀状づくりに奔走。例年、僕は実家から帰ってきてから郵便受けに入っている分を返すスタイルだが、
今回は帰省しないし移籍のご報告があるしで、ちゃんと元日に届くようにやれるだけやろう、と発奮したのである。
しかし職場のプリンターの性能が悪くて使えないせいで、予定が一気に狂っていくのであった。本当に困った。
(例年、職場のプリンターで印刷ホヤホヤの年賀状を手渡しでお返しするのがお約束だったのだが……。)
移籍のご報告については、これまでお世話になった皆様がいっぱいいるので、たくさん出さなきゃいかんというのに。

しょうがないので、17時過ぎでもやっている大きな郵便局へバスで行って、年賀はがきを書き損じ交換してもらう。
それからネットカフェやコンビニで年賀はがきに画像をプリントアウトできないか試行錯誤するが、見事に失敗。
バスで家に戻ると画像ファイルを加工し直して再挑戦。これがどうにかうまくいったので、そのままカフェで宛名を書く。
そして閉店時刻になったら投函。残りの住所がわからん分は、家で過去の年賀状を引っ張り出して任務完了。疲れた。

……え、クリスマスイヴ? そんな邪宗門知らんわ


2020.12.23 (Wed.)

今ごろ気づいたのだが、なんと、スカパラのエピック時代のアルバムがSACDハイブリッドで発売されていた。
妖しさ満載のデビュー当時からどんどん垢抜けていく過程が最高の音質で楽しめるんだから、それは買わねば。
CD9枚分の出費は痛いけど、それで末長く楽しめるんだからと購入。さっそくMP3化して聴いてみたのである。

SACDハイブリッドというとYMOが先行していて(→2020.6.21)、その感覚をもとに期待していたのだが、
解像度は確かに上がった感じはあるけど、特に音圧がないからか決定的に大きな差は感じないかなあ、というところ。
まあ結局はMP3化したものを聴いているだけなので、きちんと盤面で聴かないと意味がないのかもしれないが。
それはそれでMP3というものの限界を知るいい素材かもしれないなあ、なんて思う。意外と「ふつー」だった。
とはいえ良質極まりないインストゥルメンタル曲の宝庫が最高の音質で楽しめるんだからみんな買え。買え!

ここまで来たら、シングルをカップリングまでまとめた全曲集をぜひとも出してほしい。初期スカパラの本領は、
カップリングのインストゥルメンタル曲を聴いてこそわかる。聴けないままになっている名曲がまだまだ多すぎる。


2020.12.22 (Tue.)

まだ鼻水が止まらない。続く症状がないので風邪ではないようだが、日にポケットティッシュを3個消費するとなると、
さすがに放っておけない。仕事終わりに近くの耳鼻科に寄って診てもらうのであった。最近、医者に行ってばかりだ。

で、結論としてはアレルギー鼻炎であるようだ。原因はよくわからないが、寒くて調子がよくない可能性もあるそうで。
はっきり「加齢」と言われるとヘコみますね。運動不足でストレス満載だとガタが来ますわな。日々よわよわですよ。
とりあえず薬を出してもらったので、しばらくそれでやっていくのだ。しかしまあ、エネルギー不足でいけない。

コロナの第3波の影響により、冬休みの部活がなくなった。しっかり日記を書かせていただきますよー


2020.12.21 (Mon.)

朝イチで受診して、小腸が小康状態であることを確認。発症の原因がわからないのが困る。

一晩明けても長野パルセイロがJ2に昇格できなかったことが悔しい。信州ダービーを熱望している僕としては、
ただただ「悔しい」以外の言葉が出てこない。いや、本当にショックで。上がったのが相模原ってのもちょっとね。


2020.12.20 (Sun.)

M-1グランプリを見たんだけどね、うーん……。決勝9組の面々を見た段階で、今年は凄まじく小粒だなあと。
まともな漫才師が一組もいない。これは恐ろしいことになるんじゃないかと思いつつ、テレビの前に陣取る。

終わってみたら案の定、細かいことを書く気すら失せる惨状なのであった。腕がない人たちの大声大会。
マヂカルはもちろん、見取り図も結局動きでごまかしているだけ。今回は本当に消去法の選択だったと思う。
審査員の悩みっぷりで印象的だったのは銀シャリのときだったか(→2016.12.4)、みんな面白くて困っていたが、
今回は完全にそれと真逆。チャンピオンを決めなくてはいけない苦しみ。皆さんの最後のコメントの正直なこと。

個人的に最も評価しているのはインディアンス。彼らがトップバッターのおかげで、現場はどれほど助かったことか。
前回よりツッコミの比率を上げてうまく中和していたし、これは高く評価しないといけない。あとはみんなダメです。
なお、錦鯉は昭和なので治外法権。それにしても和牛はもったいなかったねー! 短気は損気としか言いようがない。


2020.12.19 (Sat.)

絶賛絶食中である。食欲がないのでつらくないのが不思議。腹痛じたいは収まったが、腹部に違和感があるのは変わらず。
本当ならしっかりと日記を書く週末にしたいところだったが、調子が上がるまで勘弁願いたい。申し訳ございません。

……夜になって、純粋に腹が痛いのか、空腹のせいで腹が痛いのかわからんくなってきた。なんでもいいから食いたい。
浪人中に実感したけど、食とはそのままモチベーションに直結するんだよなあ。軍隊もメシが士気に関わるというし。
食べることのありがたみを実感しております。とりあえず今は、このつらい経験をしっかり記憶しておくとしよう。


2020.12.18 (Fri.)

朝起きたときから腹痛があったのだが、そんなにひどくなかったので出勤。2時間目までは授業をやったのだが、
「これ以上は無理だ!」となってギヴアップ。息も絶え絶えになりながら病院に直行したのであった。いや、キツかった。
ベッドで横になり安静にしていたらだいぶ楽にはなったけど、こんなに苦しむとは思っていなかったので反省である。
診てもらった結果、小腸のイレウス。よくわからないのでいろいろ小ボケが浮かんだけど、口に出せるほど元気ではない。
とりあえずヘイヘイヘイとうなずいていったら、先生は「今日と明日は絶食」と恐ろしいことをおっしゃる。
本当は入院して様子を見たいらしいが、きちんと絶食しますということで入院は回避。いやはや、まいった。


2020.12.17 (Thu.)

昨日っから鼻水が止まらない系の風邪である。とりあえず漢方の小青竜湯を飲んでみたけど、効いているのかどうか。
自分の場合、風邪は喉から始まって悪寒へと続き、一気に悪化していく。鼻水からというのはきわめて珍しいのだ。
なんとか悪化しないで済むといいなあ、と思うのだが、イマイチ調子が上がらない。困ったものである。


2020.12.16 (Wed.)

いきなりのGoToトラベル全国一斉一時停止。まあそもそも「GoToトラベル」って名称じたい変なんですが。
何の根回しもなくいきなり全国一斉休校にした安倍も仕事のできないガキンチョだったが(→2020.2.27)、
菅までもがこんなにもガキだとは、ちょっとびっくり。官房長官時代は食えないイメージだったが、ガキすぎる。
支持率だけで右往左往って、恥ずかしくないのかな。リーダーとしての決断を履き違えすぎていて驚いた。
今の政治家には本当にマトモな人間がいない。菅でコレとか、少なくとも与党には誰もいないことがよくわかった。

とはいえ、これはわれわれの問題なのである。イメージだけで投票し、あとはお任せ、知らんぷり(→2020.5.22)。
政治家や政党が自分たちに何かしてくれると考えている人たちは、巣の中で口を開けている雛鳥なんかと同レヴェル。
自分が立候補しないで政治を人に任せるのであれば、しっかり勉強してイメージに左右されることなく、
政治家や政党を育てなきゃいかんぜ。そうして自分の意思を政治に反映させていく。その原点が問われ続けているのよ。


2020.12.15 (Tue.)

退職届をもらったよ。記入して提出するのだが、なんというか、着実に事態は進んでいますなあ。善哉善哉。


2020.12.14 (Mon.)

先生方と話していて、家紋の話になったよ。ウチは僕の代から放射能マークにしました、と言ったら「はぁ」って反応。

もともとマツシマ家の家紋は「丸に剣片喰」。若き日のcirco氏はバイクのヘルメットでおでこの位置につけていた。
最近では潤平がきちんと結婚式で使っていたなあ。これで安心して潤平にそっちの家紋を任せられるというものよ。

僕が中学生のときには、年賀状に紋付袴の自分の絵を描いていて、その紋を放射能マークにしていたのだ。それが最初。
あのミニマルかつ危険、という象徴性が好きでして。以来、僕は「放射能」を家紋ということにしているのである。
circo氏は「それは直接的すぎるから、せめて『丸に放射能』くらいにしろ」と言うのだが、それでは魅力が半減なのだ。
というわけで、相州(仮)マツシマ家の家紋は「放射能」なのである。どうせ一代限りの家紋ということで許してくれ。

 
L: マツシマ家:家紋「丸に剣片喰」  R: 相州(仮)マツシマ家:家紋「放射能」

ディズニー好きが洲浜紋の一種ということでネズミの頭部のシルエット的なものを家紋にしたらディズニー怒るんかなあ。


2020.12.13 (Sun.)

パナソニック汐留美術館『分離派建築会100年展』。コロナ以降で美術館に行ったのはこれが初めてかな。

分離派がどこから分離しようとしたのかというと、構造面や機能面を重視しようという当時の建築業界の考え方。
元ネタはもちろんドイツ・オーストリアの分離派(ゼツェッション)。直接的な関係があるわけではないものの、
結果的にモダニズムへの流れという点で共通する面はある。分離派建築会は建築の芸術性を主張したグループで、
特に有名なのは石本喜久治(公共建築でおなじみの石本建築事務所の創始者)・堀口捨己・山田守・山口文象あたり。

まず彼らが分離したがる背景となった状況、また後藤慶二の豊多摩監獄など先行する動きを紹介。
そして分離派建築会の面々の卒業制作が展示されるが、これが面白い。山田守のドームは1920(大正9)年とは思えない、
ほとんどオーパーツな発想だし、石本喜久治による納骨堂は置かれている像の描き方の時点でもう明らかに非凡すぎて。
堀口捨己の直線と曲線のバランスも見とれてしまう素晴らしさ。格の違いをイヤというほど見せつけられる図面だった。

彼らが世に出る契機として、やはり重要なのは関東大震災だろう。耐火・耐震性が求められる建築をつくる中で、
機能とともに造形美をどのように求めたか、各メンバーの個性が興味深い。やはり山田守の造形センスが圧倒的だ。
ちなみに京大がフィルムで持っているという関東大震災の映像が非常に興味深い。街並みや人々の服装など、
当時の「当たり前の光景」が垣間見えて、食い入るようにずっと見てしまった。もっと手軽に見られるといいのだが。

昭和に入って圧倒的なのが、石本の東京朝日新聞社と白木屋百貨店。白木屋は火災で有名だが(今のコレド日本橋の位置)、
思っていた以上に洗練されていたモダニズム建築で、なるほどこれが竣工してすぐ焼ければそりゃトラウマだわ、と納得。
石本の作品はやはり組織事務所的というか、作家性をあまり感じさせないで上質なモダニズムでまとめる、という感じ。
ただそれは誰にでもできるわけではなく、見ているとモダニズムがいちばんデザインセンスが出るよなあと思わされる。
装飾性がとことんまで研ぎ澄まされていて、ごまかしが効かない世界なのだ。その静かな凄みが石本にはあって楽しい。

さて、分離派建築会は1928年の第7回展覧会をもって活動が自然消滅してしまう。みんな偉くなったこともあるし、
各メンバーの興味が多様化していったこともあるし、そもそも分離派の問題意識じたいが時代の波に呑まれたこともある。
しかしその分離派建築会の影響が時代を超えて直撃している人物がいた。手塚治虫だ。こりゃもう、間違いなくそう。
展示では最後に大阪市立電気科学館が登場し、手塚治虫が幼少期に通ったエピソードを紹介しているが、順当な締めだ。

パナソニック汐留美術館は初めてだったが、コンパクトな空間でも情報量の多い展示、しかも狙いが明確ということで、
非常に充実した内容だったと思う。今後も面白い展覧会をやってくれるんじゃないかと期待してしまうぜ。


2020.12.12 (Sat.)

『ザ・細かすぎて伝わらないモノマネ2020』。今回も大爆笑なのであった。いやー、笑った笑った。

前にも書いたけど(→2006.9.28)、この番組って「あるあるネタ」と「シチュエーションコント」と「モノマネ」が、
なんでもありの状態で投げつけられるので飽きることがない。すでにあるものを組み合わせて新たなものを発明する、
まさにその最高の例なのではないか。しかもオチで物理的に落として、芸の時間を純粋に保つ工夫まで効いている。
「細かすぎて伝わらないモノマネ」というタイトルになってはいるものの、実際は高度な笑いの形態なのではないか。
研ぎ澄まされて唯一無二の魅力を持っている番組だと思う。お笑いというものの奥深さを感じさせてくれますよ、本当に。


2020.12.11 (Fri.)

『カプコンアーケードスタジアム』のラインナップに驚く。……こりゃNintendo Switch買うわ。買わざるをえないわあ。


2020.12.10 (Thu.)

本日の2年生の授業は、都合によりいつもの少人数クラスではなく各クラス単位なのであった。
ふだん担当していない生徒もいる中で教科書の読解をやったのだが、生徒たちから非常にいい評判をもらった。
わざわざそれを言ってくるあたりいい子たちだなあと。僕も感謝の言葉はきちんと伝えるようにしなければ、と思う。

まああんまり詳しく書けないけど、教え方がお上手でないという声があがっている先生が複数おりまして。
共通するのは結局のところ、生徒たちがどういう感触で自分の授業を受けているかが理解できていない、ということ。
その点、自分はどうなのかと考えてみると、この点に関しては天性のものがあると自分で思う。生意気だが、本当にそう。
テーマと生徒という両方の特性から導き出される、生徒たちを理解させる最適な手順が自分には直観的にわかるし、
イラストによる図解、聴きたくなる声の出し方や間の取り方、しゃべりの技術、どれをとっても超一流であると思う。
自分の決めた段取りを生徒にやらせて満足している連中とはレヴェルが違うのだ。正直、一緒にされたくないです。
教え方ってのは人から習うものじゃなくて、自分で発見して使うものだとずっと思っているんだけどね(→2015.10.8)。
僕が教育学というものに批判的なのは、その考え方によるところが大きい(参考までに、教育学禁止論 →2012.2.13)。

これはやはり天職なのである。残念ながら。僕自身はもっとクリエイティヴな方面で仕事をしたかったのだが。
でも他人から何ひとつ習うことなく超一流でこなせる仕事はコレなのよね。その分、趣味に全振りで生きております。
塾で教えたことでいろいろ間違っちゃったなあ。今までの経験だけで食べていけちゃう、努力しないで食べていけちゃう。
言っておくが、僕は「学ぶことはもうない」と思っているわけではない。今までの積み重ねを誇っているということだ。
小学校の宮下先生に始まって、ずーっと先生方のいいとこ取りをしてきて、「自分ならどう教えるか」を追求してきた。
ずっと友達から聞かれる立場だったこともあったし、どういう説明が相手にとってわかりやすいかはつねに意識していた。
そういう視点で12年間を過ごしたところで浪人し、話を聞かせる技術や効果的な授業の構成を学んだというわけだ。
悪いけど、ほかのみなさんとは積み重ねてきたものが違うんだわ。授業について考えてきた時間の密度が違うんだわ。
教師に対して自分から質問したのは高校時代の数学の一度だけ。「これってこういうことですか?」そうだ、との返事に、
「じゃあそう教えてください」と返す。そういう生徒だった。より多くの人を納得させる方法は何なのかが焦点だった。
構造主義的な本質をつかみたがる性格のせいで、気がつけば教えることについての天才になってしまっていた。
まあその分、生徒に説明しきれなかった授業、消化不良な授業なんかは、終わった後に本気で悔しいんですけどね。
相手を抑えられなかった投手や負けた棋士と同じようにうなだれていますよ。上手くできるのが当たり前だから。

歓迎されているうちが花なので、今はとりあえず教えることでメシを食う。でもそれ以外の才能も見つけたいね、正直。


2020.12.9 (Wed.)

アンジュルムの船木結さんがハロプロを卒業したそうで。もちろんファンとして追いかけていたわけではないんだけど、
かつて英語を教えた身ですので。お疲れ様でした。時代がハロプロに逆風な中、きちんとやりきったようでよかった。

船木が転入してきたのは僕が副担任でついていた学年の1つ下なのだが、そこにサッカー部員が多かったこともあって、
わちゃわちゃした雰囲気の中で言葉を交わすこともあった。そんなに頻繁ではないけどね。明るい雰囲気の学年に、
しっかりと溶け込んでいたなあと思う。彼女が3年になるタイミングで僕は異動したけど、間違いなく楽しかっただろう。
授業をやろうと教室に入ったら体育の短パンが床に落ちていて、「誰のじゃー! 名前は?」と見てみたら「船木」とあり、
「船木、お前かー!」とツッコんだのが今でも記憶に残っておる。ツッコミつつ「これ何てエロゲ?」と思ったもんよ。
(この話をしたときにナカガキさんとかワカメとかハセガワさんに疑いをかけられたが、僕は断じて紳士でござったぞ。)
楽しく過ごしている生徒を見るとこちらも楽しい。その意味で、僕も船木のいた学年といるのはとても楽しかった。

これからも、あなたが過ごした中学校時代と同じような、新たな仲間とも楽しく過ごせる日々を。


2020.12.8 (Tue.)

『鬼滅の刃』最終巻を読んだが、物語じたいに対する感想は前に書いた内容(→2020.11.13)で十分な気もする。
最後にいきなり学園ドラマになって驚いたが、やはりそれは『新世紀エヴァンゲリオン』がやってみせていることだ。
魅力的なキャラクターを構築した者にのみ許される贅沢ではある。そしてこれを、作者の母性であると僕は読む。
だが僕がどうしても気になるのは、なぜわざわざ無惨みずからが竈門家を狙ったのか?という、その論理的な理由だ。
また、なぜ禰豆子には太陽の光を克服する力があるのか? そこがつながらないし、わからない。謎は残ったままだ。
(継国縁壱がかつて暮らした家だから襲ったのか? 禰豆子の父がヒノカミ神楽をマスターしとったからか? わからん。)
そしてさっそくスピンオフが同時発売である。画力が上がったなあと思ったら、描いているのは別の人なのであった。

僕としては作品それ自体よりも、これだけの社会現象を巻き起こしているという事実と、その要因にこそ興味がある。
社会学者の端くれとして、『鬼滅の刃』の何が新しく、何が世間に支持されているのか、そこをできる限り掘り下げたい。
掘り下げるにあたってのスタート地点は2つ。「少年マンガにおける主人公像」と「『NARUTO』からの発展性」だ。

少年ジャンプにおいて、『ONE PEICE』は「太陽」である(→2010.5.312010.6.12010.6.52010.6.62010.6.10)。
その連載開始に遅れること2年、長らく「月」の役割を演じてきたのが『NARUTO -ナルト-』となる(→2019.7.22)。
両者は主人公の造形で共通点を持っていた。それは組織のリーダーである(を目指す)動的な少年、という点だ。
これは実に正統派の造形である。源流は特撮ヒーローまで遡れるかもしれないが、少年マンガの文法に即している。
特に『NARUTO』では熱いレッド(ナルト)とクールなブルー(サスケ)という対立的な構図をしっかり持ち込んだ。
この構図は『SLAM DUNK』における花道と流川の関係性もヒントとなっていると考えるが、主人公はレッド側にあった。
『ONE PEICE』のルフィがすでに絶対的なリーダーであるのに対し、ナルトは火影というリーダーを目指す存在だ。
未踏の地を海賊船で進むルフィに対し、ナルトには帰るべき里がある。そしてその里の秩序を再構築するのが目的となる。
(この設定がカカシに割を食わせる。火影とはゴールであり、カカシが火影となった瞬間、主人公が入れ替わってしまう。
 それを回避すべく作者はキャラクターを動かすが、ナルトの活躍を描くほどカカシの立場は不安定なものとなる。
 少年マンガの文法で、弟子とともに成長する師匠を描くのは難しい。『NARUTO』にはその苦労がにじみ出ている。)
「攻める主人公」という基本的な造形を同じくしながら、『NARUTO』は『ONE PEICE』を避ける工夫を慎重に重ねている。

やがて『NARUTO』が連載を終了すると、その1年3ヶ月後に『鬼滅の刃』の連載が始まり、「月」の位置を占める。
いまだ健在である『ONE PEICE』に対し、『鬼滅』はまず先行事例である『NARUTO』の路線を踏襲する戦略に出る。
具体的な点は前回(→2020.11.13)書いたとおりだ。炭治郎・善逸・伊之助の3人と柱、五行思想的エレメントの利用など。
しかし『鬼滅』は『ONE PEICE』を避ける工夫を進め、さらに差別化を図る。 決定的なのは、「守る主人公」像だ。
炭治郎はとにかく守る主人公だ。妹を守り、鬼殺隊という秩序を守り、生まれてそして死ぬという生命の倫理を守る。
以前のジャンプであればおそらく、猪突猛進の伊之助やひとつの技を磨く善逸が主人公のキャラクター性となるだろう。
これは「動的な攻める少年」から「静的な守る少年」への大転換である。花道/流川に代表される対立構造からの脱却だ。
このことは物語のかなり早い段階から明示される。炭治郎の最初の出会いは、流川−サスケ系統の富岡義勇である。
そして炭治郎は義勇と対立することはない。ライヴァルの関係になることはなく、後輩としてずっと先輩を立て続ける。
むしろ炭治郎が派手にケンカするのは鬼にストレートな怒りをぶつける不死川実弥で、この点でも義勇と同じ側にある。
(ちなみに「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」はまったく名ゼリフと思わない。意味不明。完全に空振りしている。)
『ONE PEICE』ではルフィが天竜人の秩序に挑み、『NARUTO』ではナルトが火影となることで里の秩序の再建を目指す。
しかし炭治郎は徹底して秩序を守る側にまわる。社会学的に着目しなければならないのは、まさにこの部分であろう。
また秩序という点では、『鬼滅』が大正時代という和洋折衷の時代を舞台としながら国際性がない点も注意しておきたい。
『ONE PEICE』はいちおうは異文化交流の連続だし、『NARUTO』では外交戦略が直接的に描かれる場面もある。
そもそもナルト自体を移民として読める(それが外国でウケた要因でもある)。しかし『鬼滅』の舞台背景は単純だ。
異文化交流は少なからず秩序の譲歩という要素を持つ。これが混じると「守る主人公」の物語の軸がブレてしまう。
太陽が無惨を焼くまで戦い続けるという解決も象徴的だ。極言すれば、炭治郎は「ただ守っていればいい」のだ。
だからこそ、『鬼滅』は23巻で終わることができた。ある意味、ジャンプが23巻で守りきった、と言えるかもしれない。

「守る主人公」の物語がなぜここまでの社会現象となったのは、社会学的に非常に興味深いことだ。
pixiv百科事典からたどれる読書ブログではその理由を「偶然」と一刀両断していて、確かに納得できる部分も多い。
(ちなみにそのブログと僕の見解でまず共通する点は、元ネタの圧倒的な多さ(→2020.11.13)による知覚的流暢性だ。)
が、やはりそれでは面白くないのだ。社会学者として、自己満足できる理由を見つけたい。2つのレヴェルを想定する。
ひとつは、マンガ自体に内在する要素。もうひとつは、マンガをめぐる外側つまりわれわれの側にある要素。

まずはマンガに内在する要素。この作品では秩序の構築が欠如しているとすでに書いた。それすなわち、政治の欠如だ。
炭治郎の戦いは守るための戦いであり、仲間とうまく生きていくことが優先順位の高い位置に設定されている。
従来の少年マンガにありがちな、理想のために対立する構図を解消する場面はない。ゲスな無惨を倒す、それだけ。
無惨は「私に殺されるのは大災に逢ったのと同じだと思え」と言う。まるで『シン・ゴジラ』(→2016.8.23)のようだ。
なるほど震災や温暖化による異常気象など災害が目立つ中、それらに対する潜在的な怒りはある(さらにコロナまで……)。
リアルな災害は政治で緩和していくしかないが、 『シン・ゴジラ』も『鬼滅』もその直接的な解消を願望として描く。
そこに政治は存在しない(鬼殺隊は政府非公認組織である)。あの手この手で絶対悪を排除することだけが解決法なのだ。
(そういえば最後に無惨を押さえつける方法は 『シン・ゴジラ』そっくりだ。『鬼滅』はどこまでもいいとこ取りだ。
 しかしその「名もなき人々が体を張って圧倒的な災厄を止める」という構図の原点は、実は福島の原発だろう。)
災厄に対抗するためには強くなるしかない。このマンガでは執拗に、徹底的に虐げられる無力な人々が描かれる。
そして富岡義勇は「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」と言う。でも完全にこれは自己責任論を押し付けているだけ。
後から柔らかい言葉で独白するが、内容は同じである。やられたくなかったら、やる側に立て。要は弱肉強食なのだ。
政治の欠如、自己責任論、そして秩序の遵守。僕の感覚を通して社会学的に見ると、この世界観はちょっと厳しい。
炭治郎の従来の主人公にはない優しさがよくクローズアップされるが、設定された状況は以前よりシヴィアな社会だ。
ゆえにこの世界観が受け入れられているということは、閉塞的な社会状況がまだまだ肯定的に続くことを意味するだろう。

ではマンガをめぐる外的な要素は何か。僕は女性の購買力の活発化が背景にあると考える。月並みだが、それが大きい。
まずこのブームはマンガ先行でなく、アニメがなければ成立していない点。数年前の『おそ松さん』を見て感じたのは、
女性はアニメについてアクセシビリティが高いという点だ。少年マンガを読む女子が少ないと言いたいのではない。
マンガよりもアニメの方がアクセスしやすいということだ。そして女性の消費行動は、表層的な傾向を帯びている。
たとえば神社で言うと、男性が歴史を掘り下げて分析したがるのに対し、御朱印集めなどどこか「軽さ」があると思う。
またヴィジュアル的な「映え」、さらには同じ名前へのこだわりなど、意味を読むよりも意味付ける方を好む傾向がある。
一例を挙げると、主人公の姓と同じだからと竈門神社を聖地化してしまう感覚。太宰府の竈門神社(→2017.8.5)も、
別府の八幡竈門神社(→2020.3.28)も、マンガと無関係なのに人が殺到する(オレも授与所でそうなのか訊かれたもん)。
こないだは糸島の櫻井神社に行ったけど(→2020.11.14)、「嵐三社巡り」をやっている女性が多数いて引きましたもん。
名前が同じってだけで歴史を無視して同類とくくってしまえるのは、ちょっと僕には理解しがたい感覚だ。学問的でない。
まあ思いっきり暴論なのは自覚しているのだが、しかしそういう特性を持つ女性たちが大きな購買力を持つようになった。
コロナでインバウンドがすっぽり消えたことで、それがはっきり可視化された、そういう事態ではないかと思うのだ。
そして「儲かりゃなんでもいいや」と受け止める社会。『鬼滅』の的外れなブームはそういう思潮の現れではないか。
それは新自由主義を経て資本主義が以前とは違う段階に入った状況を示しているように僕には思える。ハーコリャコリャ。


2020.12.7 (Mon.)

人権研修にお出かけ。そんなに高度な内容ではなかったが、今まで個人的に勉強したことからいろいろ考える。

セクシャリティについての自由は、憲法などが保障する自由権のうち「精神的自由」にあたるものだと理解。
これは経済的自由などより優越的な地位にあるため、規制については厳格に判断される。つまり、差別はイカンです、
という言説がより強く通用するわけだ。家族や社会が個人のセクシャリティをあれこれ規制するのはよくない、と。

そこは納得がいったのだが、ではその個人の価値観を社会に対して押し付けて変革を求めることは可能なのだろうか。
個人の主張は、表現活動や政治活動を通して合法的に行うことができる。しかし、個人の「精神的自由」を集合化し、
「社会はぼくたちの価値観を受け入れるべきだ、だってそうしないことはぼくたちの精神的自由を規制することだから」
と主張することは、果たして正当と言えるのか? 価値観の変革の強制は、他者側の「精神的自由」の規制ではないのか?
簡単に言うと、セクシャルマイノリティの価値観に同意できないことを、断罪することは不可能ではないかってことだ。
彼らの主張はしばしば、性差を前提とする既存の文化への挑戦という形で発露している。マジョリティ側からの反発は、
彼ら固有の価値観じたいに対する否定なのか、文化への挑戦に対する否定なのか、対象をきちんと見極めるべきだろう。

究極的には、個人レヴェルで「どうぞご勝手に」以上にはなりえないのである。矯正も変革も不要である。
何人も、何人に対しても、思想を押し付けることはできない。発信するのは自由だが、受容するかは各自の判断だ。
そして発信する本人の自由を侵害しない限り、既存の文化への挑戦に対する不支持を「差別だ」と言われる筋合いはない。
ヴォルテールの言葉に、「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る。」がある。
順序をひっくり返そう。「私はあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る、だがあなたの意見には反対だ。」


2020.12.6 (Sun.)

最近、MacBookの変換が変なのである。全角でアルファベットの文字を変換すると、勝手に単語が出てくるのだ。
つまり、キーを打ち間違えた状態で変換するたび、よけいな単語が出てくる。前はこんなことなかったのだが……。
とりあえず片っ端からアルファベットを変換して確認してみたところ、こんな具合なのであった。

w → 白峯神宮  r → Q.  t → 号線  y → 上州一ノ宮  p → PK  s → コレド  d → 伊和神社

f → インドカレー  g → d  h → ウノセロ  j → 大隅線  k → 嘉麻市  z → 鈴木其一

b → アエルワ️  m → キュラー

……ワ ケ が わ か ら ん !!

確かに出てくる単語はいかにもオレのMacって感じだが、しかしいったいこれはなんなんだ。キュラーって何だよ?
gを変換したらdが出てくるとか、おかしすぎるだろ! ツッコミどころが多すぎて、もう笑うしかないです。


2020.12.5 (Sat.)

土曜授業で3連発でもうヘロヘロだったんで、雨だけどどこか遠くへ行きたくて、帰らずそのままバスに乗って川崎へ。
バスは僕がかつてよく自転車で通ったルートを忠実になぞって、国道1号から府中街道に入り、ラゾーナの脇で停車する。

スタ丼を食うべく地下のアゼリアを移動していると、中にある店でドラえもんグッズを売っているのを見てしまった。
やはりマンガのコマをそのまま商品化されてしまうと、こっちは弱いのだ。バッグにハンカチにタオルを買ってしまう。
今年は『ドラえもん』連載開始50周年ということで各種グッズを売っているけど、小学館はどれだけ儲けてんだろうな。

スタ丼を食って満足すると、京急に乗り込む。ふだんなかなか行かないところに行きたくて、横須賀へ行ってみた。
寒くて雨なので軍港めぐりはパス。それでも面白いグッズはないかなと見てみるが、いい感じのものはないのであった。
前はもうちょっといろいろあった気がするが。チケット売り場も移転していて、コロナによる観光業の縮小を感じる。

温泉に浸かりたいなあと思って調べたら、野比温泉なるものがあるとのこと。今日は結局なんだかんだでドラえもんだ。
YRP野比に降り立つのは初めてである。住宅地を抜けて10分ほど国道沿いを歩くと、昭和な日帰り入浴施設が現れる。
お湯は少し黒めでぬるぬる、ぬるめの温度をとことんまで浸かって呆けるのであった。なかなかよろしゅうございました。


2020.12.4 (Fri.)

宅八郎が亡くなっていたのか。宅八郎というとやっぱり『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』での印象が強くて、
ノリのいい人がサーヴィス精神全開で業界の要求に応えてエキセントリックに当時のステレオタイプなおたく像を演じた、
そう思っているんだけど、どうなんですかね。当時のおたくは世間にとって「他者」だったから、それができた。
「宅八郎」って芸名が絶妙すぎた。元ネタのたこ八郎とは別ヴェクトルの強烈さと、シンプルな名前とのバランス。
今の時代から振り返ると、宅八郎が一人で背負いこみ過ぎてしまった気がする。いろいろもったいなかった。

宅八郎が目立たなくなっていったのと前後して世間ではサブカル的なものが流行し、時代はおたく化していった。
それまでは大っぴらにできなかった趣味が市民権を得て、今では当たり前のようにカルチャーとして語られている。
これを社会の幼稚化として一刀両断することはもちろんできるけど、文化の多様性とポジティヴに捉えることもできる。
いい時代と言えばいい時代なんだけど、一方で「それは裏でひっそりやるからいいんじゃないの」と思わないこともない。
まあ独身でいまだに好き勝手やっている自分が言えることではまったくないんだけどね、でもやはり少し考えてしまう。
時代が「宅八郎」というスケープゴートを必要としなくなってしまった、という面はあると思うわけだ。少なからず。
そしてそういう流れの中で、宅八郎が柔軟に「消費されない宅さん」を見せられなかったことを残念に思うのだ。
渋谷区長選がその機会にならなかったのはもったいなかったよなあ。時代の方が宅さんよりもっとおたくなんだもんな。

おたくな人間の端くれとして、先駆者に哀悼の意を表します。


2020.12.3 (Thu.)

春休みを中心に旅行の予約を入れていく。この年末年始については結局、帰省を自粛することに決まったので、
ストレス発散ということで旅行がよけいに楽しみでしょうがない。僕の旅行スタイルは徹底して個人行動なので、
旅先でも迷惑をかけることはないはずだ。外で動きまわるだけで、濃厚接触ゼロの旅行が成り立ちますのでな。
現状が多少マシになっているはずの未来に賭けて予約を入れる。この12月と1月でどうにか収まってほしい。

さて予約作業をしていて衝撃的だったのは、運行している夜行バスがかなり少なくなってしまっていることだ。
そんなに規模の大きくない(といっても県庁所在地レヴェルの)地方都市への夜行バスが、かなり休止している。
そこで飛行機中心の交通手段となるのだが、こっちは少しでも客を確保したいからか、運賃が意外にリーズナブル。
下手したらふだんの夜行バスの運賃と変わらんなあ、と思いつつ予約を入れていく。いや、いろいろ非常事態ですわ。


2020.12.2 (Wed.)

英語の1年生パフォーマンステストが意外とよい。特に、おとなしいと思っていた女子たちの度胸に驚いた。
また、ハキハキした発表でクラス全体を引っ張ろうとする生徒がいるのもよい。来年もその勢いでがんばるのだぞ。


2020.12.1 (Tue.)

ネットの回線が急に遅くなる事件。ここ最近、調子がよくないかな?と思うことがチラチラあったのだが、
週末あたりからは完全におかしくなっている。まあ実際に困るのは『艦これ』やっているときくらいなんだけどね。
それくらいふだんは通信速度を求めない生活をしている。でも今はイベント中ですので。シロッコは確保したけど、
このままだとシェフィールドの確保がままならないのであります。ワシントンなんて夢のまた夢ですよ。

ネットの調子がよくない事実に対し、考えられる原因がいくつもあるのが困る。物理的でないので特定するのが難しい。
とりあえずLANケーブルを新調したけどイマイチ。となるとルーターか、パソコン本体か、まさかのプロヴァイダーか。
しばらく様子を見て対処を考えることにする。LANケーブルはだいぶ古いのでこれが原因の可能性が高いと思うけど、
今の時代、ケーブルの経年劣化が通信速度の遅さにつながるなんてことあるの? よくわからんなあ。お手上げだよ。


diary 2020.11.

diary 2020

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