diary 2020.3.

diary 2020.4.


2020.3.31 (Tue.)

年度末ということで、今の職場で最後の日である。昼前に荷物を送り出すと、いったん家に持ち帰る荷物をまとめる。
しかしお別れということでお菓子やら何やらをもらいまくったので、結局リュックもバッグも飽和状態となってしまう。
なんとかぜんぶ収納しきったと思ったら、最後の最後で上履きのクロックス(→2017.4.19)がオーヴァーフロー。
クロックスだけ手に持って家に帰る破目になったとさ。文字どおりに締まらないラストとなってしまったのであった。

振り返ってみると、ここでもまたジェットコースターのような3年間だった。最初の半年は本当につらかったが、
こらえて地道にやっていったことで、事態が180°変わった。愚直にやることが実を結ぶと実感した3年間だった。
なんだかんだで自分独自の存在意義をきっちり確保できたようにも思う。実はコロナ休校のせいで時間的な余裕ができて、
新任の先生を囲んで教員どうしでゼミをやるような機会があって、そこで初めて本格的に突っ込んだ話をしたのね。
そのおかげで最後は、僕に対して「やっぱりこの人って深く考えていたんだ……」という扱いが定着してくれた感じ。
こそばゆいほどにインテリ扱いを受けて次の職場へと旅立つのであった。お世話になりました。楽しゅうございました。


2020.3.30 (Mon.)

志村けんが亡くなった。新型コロナに感染したことが伝えられており、ネットの情報をみるにどうも旗色が悪そうで、
実際にこうして訃報を聞くと、ついに事態が取り返しのつかない方向へと転がりだしてしまった、という感触がする。

気持ちを整理して、一人のコメディアンについて落ち着いて思い出を書こうか。
僕はギリギリ『8時だョ!全員集合』をリアルタイムで体験し、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』への移行を見た、
そんな世代である。もちろん『志村けんのだいじょうぶだぁ』も大好きな子どもであった。まあ基礎教養ですな。
由紀さおりや沢田研二とのやりとりはたまらなかったし、田代まさしや研ナオコとのやりとりは正座して見ていた。
ドリフ仕込みのつくり込んだ笑い(→2004.7.11)も好きだが、そこに間を熟知した演者のアドリブが乗っかると、
腹がよじれるほど面白い。もちろん「お約束」もいいんだけど、ゲストと一緒に破壊的な笑いをつくるのが好きだった。

上にリンクを貼った16年前のログではドリフを軸にして、「家父長的な制度=日本の社会性をいかりやが体現し、
志村が見世物的にそれを崩して笑いをとる」と書いた。しかし、いかりや没後の志村けんは紆余曲折を経ながらも、
いかりやのスタイルに最も忠実な後継者となっていったのが面白い。志村はさまざまなキャラクターを生み出したが、
基本的にはドリフで培われた大ボケ。そうして周囲を不条理の世界に巻き込んで翻弄するという笑いが確立されていた。
いかりやとの共通点は、「家父長的なリーダーシップをベースにしてつくり込んだ笑い」ということが指摘できる。
ただし、昭和のいかりやは権威の象徴であり、リーダーいかりやがやりこめられることで笑いが生み出された。
それに対し、平成の志村は化粧を施してカオスそのものとなる。そしてリーダーとして周囲を不条理で呑み込んでいく。
ここに時代の変化、古いが安定した秩序から不安定な世情への変化を読み取るのは、うがった見方すぎるだろうか。

志村けんの死によって、いよいよお笑いが芸能ではなくなってしまったと思う。お笑いから伝統の要素が消えて、
ただ瞬間的なスピードにより消費されていく、そういう方向への決定的な分水嶺を迎えてしまったのではないかと思う。
一縷の糸が、ついにここで切れてしまった。「守破離」で言えば、志村けんとは「破」そのものだったのかもしれない。
われわれは今後、志村けんの映像を振り返ることで、「古き良き」芸能としてのお笑いを懐かしむことになるのだろう。
その日がいつか訪れるのはわかっていた。わかっていたが、こんな突然にその日が訪れてしまうなんて想像できなかった。
しばらくは失ったものの大きさに茫然とする日が続くだろう。その穴は、過去を振り返るほどに広がるのかもしれない。


2020.3.29 (Sun.)

春休みに豊前から豊後に抜ける旅の2日目である。昨日は雨のせいで予定を大幅に変更することになったが、今日は晴天。
できるだけテンポよく国東半島周辺の市役所をまわっていくのだ。それでいて神社の御守も押さえる。やったるでー!

  
L: まずは西から見た中津市役所。前回は改修工事中だったが(→2011.8.13)、今回は早朝。なんとも運が悪いなあ……。
C: 南から見た中津市役所。  R: 東から見た中津市役所。しかしまあ、どれが正面だかわからない市役所である。

 
L: 北から見た中津市役所。いちおうこれで一周完了なのだ。いずれ豊前市役所とセットでリヴェンジしたいものだが。
R: 朝は「大分トリニータ弁当」をいただいた。まあ中津ということで鳥の唐揚げ主体の弁当。おいしゅうございました。

朝の7時に宇佐駅に到着すると、バスで宇佐神宮へ。なんだかんだで3回目の参拝である(→2011.8.132015.8.22)。
まあ豊後国一宮だし、全国の八幡宮の総本社だし、あらためて御守をしっかりチェックせねばならないのだ。
気合いを入れて参道沿いの仲見世通りを歩いていくと、「ねぎねぎ団」という文字が! これは気になるぜ……。

 ねぎねぎ団!

いつもどおりデジカメを構えつつ境内に入るが、3回目ともなるとアングルが前の写真とかぶりまくるのである。
そこで今回はなるべく独特なアングルの写真を選んで貼り付けるのだ。もうね、旅がマニアックになる一方ですよ。

  
L: とか言いながら3回同じアングルで境内入口の写真。でもこうしないと始まらないのでしょうがないのである。
C: 参道を進んで右手、初沢池と参集殿。初沢池は、奈良の猿沢池、京都の広沢池と並ぶ日本三沢の池とのこと。
R: 手水舎には日本一の水盤。山口県の誇る「徳山みかげ」で重さは24トン。国産の御影石では最大だと。

  
L: 祓所。  C: 並ぶ酒樽と焼酎の一升瓶。名前とデザインが面白いでございます。  R: 国指定重要文化財・若宮神社。

  
L: 上宮へと向かう。いい雰囲気で撮影できた。  C: 上宮。  R: 反対側から眺める南中楼門。この角度は初なのだ。

8時30分になると授与所が開いたので御守チェック。八幡大神が降臨する様子を描いた八幡神像守は以前と同じだが、
最も標準的と思われる身体健全守はデザインが変わっていた。水色とピンクで、正直世間に迎合した印象を受けてしまう。
でももちろんきちんと頂戴しておく。いや、わざわざ御守チェックに来てよかった。定期的にチェックせんといかんか。

  
L: 下宮へと向かう。  C: 下宮(御炊宮/みけみや)。  R: 戻る途中にある高倉。

前回も前々回もスルーしていた護皇神社に今回はきちんと参拝するのだ。祭神は、道鏡の野望を阻止した和気清麻呂。
漢字は違うが京都も護王神社(→2015.7.26)だった。「皇を護る」とはなるほどなあ、と思いつつ参道を歩いていく。

  
L: 表参道から東へ行ったところに護皇神社は鎮座しているが、その途中にある頓宮。境内の広さを実感する。
C: 護皇神社へとまっすぐ延びる参道を行く。長いぜ。  R: ようやく石段に到着。足腰が鍛えられますなあ。

  
L: 石段から振り返る参道。  C: 護皇神社は大尾山の中腹に鎮座する。  R: 護皇神社。特に文化財ではないけど。

参拝を終えると境内入口に戻り、観光案内所でレンタサイクルを借りる。ここからは自転車で宇佐市役所を目指すのだ。
境内西側にある呉橋や西参道の門前町を撮影する。こっちも立派で、宇佐神宮の規模の大きさにあらためて圧倒される。

  
L: 呉橋。あらためてきちんと撮ってみた。  C: 呉橋の手前にある西参道の鳥居。  R: すらりと延びる西参道。これも見事。

国道10号を西へ行き、駅館川(やっかんがわ)を渡ってすぐに小さな神社があるので寄る。郡瀬(こおりせ)神社といい、
境内のよくわからない説明文を読むに、八幡大神が小椋山(亀山)に落ち着く前、一時期こちらに鎮座していたみたい。

  
L: 郡瀬神社。  C: 拝殿。  R: 本殿は覆屋の中。現在は宇佐神宮の分霊を勧請した神社となっている。

駅館川に沿うように北上していくと宇佐市役所である。訪れるのは5年ぶりだが(→2015.8.22)、この間に変化があった。
新しい庁舎が昨年竣工し、供用開始となっているのだ。ただし外構工事は終わっておらず、旧庁舎の取り壊しはこれから。

  
L: 5年前にも撮ったけど、やはり旧庁舎もしっかり撮らずにはいられない。  C: 議会棟。  R: 旧庁舎の背面。

新旧の庁舎が共存する貴重な期間に再訪問したわけだが、正直なところ、新庁舎を撮影するのに旧庁舎がかなり邪魔。
せっかくの新庁舎をすっきり眺めるアングルがないのはストレスである。なお、新庁舎の設計は久米設計九州支社。

  
L: まずは旧議会棟の裏にある低層側から。低層といっても高層側より1階低いだけだが(高層側は5階建てだが実用は4階まで)。
C: 2020年3月現在、これが正面の南側から新庁舎を眺める限界。  R: 南西から見たところ。うーん、すっきり眺めたい!

  
L: 低層側と高層側のジョイント部分であるこちらが正面入口となる。  C: 高層側の手前から低層側の西側を眺めたところ。
R: 低層側の手前から高層側を見上げる。左手にあるコンクリートの塊こと別館のおかげで何がなんだかわからない……。

旧庁舎のおかげで正面であるはずの南側から見てもワケがわからないので、とりあえず中に入ってみることにした。
日曜日ではあるが一部の窓口が開いており、低層側の西側にある滞留スペースが開放されていた。休日はこんなものだな。

  
L: エントランス。ではいざ中に入ってみるのだ。  C: 入って右手に折れると窓口。  R: 奥へ進んでいったところ。

  
L: 低層側1階の南西端は多目的ホールとなっている。  C: 高層側との間に滞留スペース。  R: ガラスには「USA」とある。

再び外に出て一周してみる。旧庁舎は車寄せの印象が非常に強くて、これと窓を矩形の枠で強調したファサードで、
古めかしさとマッシヴさが両立されている個性派だった。それと比べると新庁舎は素直にやや無機的な印象の現代風。
宇佐神宮の要素をまったく感じさせない。変に混ぜれば悲惨なことになるけど、八幡造くらいヒントにしてほしかった。

  
L: 西から見たところ。手前に新別館があるので複雑な印象。新別館は1990年の竣工で、このまま残る。
C: 北西から新庁舎の側面と背面を見たところ。  R: 北から見た新庁舎の背面。かなり幅がある建物だ。

  
L: 北東、駅館川沿いの道から見たところ。  C: グラウンドレヴェルで見るとこうなる。  R: 南東から低層側を中心に。

新庁舎の全体をすっきり眺めることができなかったのは残念だが、旧庁舎の最後の雄姿を見られたことを喜んでおこう。
宇佐神宮に戻って自転車を返却すると、バスに乗り込み宇佐駅前をスルーして一気に豊後高田まで行ってしまう。
日豊本線を挟んで豊後高田市と宇佐市がきれいに東西にあるとはいえ、一気に行けてしまうのは楽ちんでありがたい。

というわけで豊後高田に到着である。やはり5年前に圧倒された旧豊後高田駅舎のバスターミナル(→2015.8.22)から、
まずは桂川を渡って市役所へ。新しい豊後高田市役所は東九州設計工務の設計で、2015年11月に竣工している。
前回訪問したときから3ヶ月後である。で、前も書いたが、隣の大分県豊後高田総合庁舎を改修して別館としている。

  
L: 豊後高田市役所。右が2015年竣工の本館で、左の白い建物が大分県豊後高田総合庁舎を改修した別館。
C: 本館をクローズアップ。これは北西から見たところになる。  R: 正面から見た本館。こちらが西。

  
L: エントランスの両側には仁王像。豊後高田市には70以上の石造仁王像があるそうで、案内マップまで用意してあるそうだ。
C: 南西から見たところ。  R: そのまま中を覗き込んでみる。これは南西端の滞留スペース。中央には待合ホールがある。

  
L: 南から見たところ。  C: 南東から。  R: そのまま北へとまわり込んで、北東から見たところ。

  
L: 距離をとって本館(奥)と別館(手前)を北東から一緒に眺める。  C: 別館のエントランスは北側にあるのだ。
R: 北西から見た別館。ちなみに大分県豊後高田総合庁舎としての機能は残っており、県と市の施設が一体化した格好。

撮影を終えると、市役所から道路を挟んだすぐ南にある若宮八幡神社に参拝する。川に沿ってカーヴする参道が独特で、
これは桂川を改修した影響による。そうやって結果的に180°ぐるっとまわってから境内に入る構造となっている。
旧県社だけあり、神社としての威厳は十分。神門前の石造橋や本殿とその脇の唐門などは大分県指定有形文化財である。
それだけに、御守がなかったのは残念だった。上手いこと昭和の町とコラボレーションできればいいと思うのだが。

  
L: 若宮八幡神社の鳥居。  C: 桂川に沿ってカーヴする参道。  R: 1860(万延元)年につくられた石造橋の向こうに神門。

  
L: 神門を抜けて境内に入る。開放的だ。  C: かなり幅のある拝殿。形式としては割拝殿っぽいが、通れない。
R: 裏にまわると1833(天保4)年築の本殿なのだが、手前の唐門に圧倒される。こちらは1858(安政5)年の築。

さて、旧庁舎(→2015.8.22)の跡地はどうなったのか見ておこう。2018年に御玉市民公園として整備されており、
「憩いの広場」という芝生の広場や、3on3のコート、人工芝コート、土の3種類がある「健康スポーツ広場」などがある。
昭和を売りにしている豊後高田にとって旧庁舎は昭和感あふれる最高の空間だったはずなのに、ただの無となった感じ。
黒沢映画の『生きる』(→2005.5.29)で克明に描かれたあの役所感を体験できる要素が何もないのはつまらんなあ。
『かってに改蔵』の2巻p.9で改蔵とヨシダ校長が腕貫をつけて「実にオフィスっぽい!」とはしゃいでいたけど、
あれこそ昭和の町のエンタテインメントとして必要なものじゃないのか。なんてことを豊後高田市役所の石碑を見て思う。

  
L: 御玉市民公園となった旧豊後高田市役所の跡地。こちらは「憩いの広場」。  C: 公園越しに新庁舎方面を眺める。
R: 公園の一角には「豊後高田市役所」の石碑が残されていた。これだけポツンとたたずんでいるのでよけいに物悲しい。

 隣の豊後高田市立図書館はすでに2013年に竣工していた。気づかんかった。

ではあらためて昭和の町へ繰りだすのだ。今回は街並みや建物をできるだけきれいに撮影することを目標に、
中央通りから新町通り辺りを気ままに徘徊する。迫りくるコロナもなんのその、多くの観光客が訪れていた。

  
L: アルフォンソ 昭和の町店。1921(大正10)年に旧共立高田銀行として建てられた。現在はパン屋。
C: 中央通りを行く。  R: 安東薬局。1902(明治35)年創業の老舗で漢方が得意分野とのこと。

  
L: 亀乃屋呉服店。1915(大正4)年創業の呉服店で、昔は旅館だったそうだ。  C: 中央通りをさらに行く。
R: 千嶋茶舗。1922(大正11)年創業で、鹿児島県の煎茶と宇治の抹茶が専門とのこと。看板がいいですなあ。

  
L: 5年前にも外観を撮影している昭和の町展示館(旧大分合同銀行)。  C,R: 今回は中に入ってみた。

  
L: 新町通り。昭和の町の中心部。  C: 清照別館(旧共同野村銀行)。  R: 店が並ぶ「出会いの里」。

  
L: 新町通りをさらに進んだところ。  C: 駅通り。バスターミナルからだとここが昭和の町の入口となる。
R: ボンネットバス・いすゞBX141。1957年5月13日生まれだそうだ。土日の決まった時間に街を周遊する。

都会がガンガン再開発されて個性を失う中、豊後高田のように「懐かしさ」が空間として残っているのは本当に貴重だ。
今でも十分に観光客を喜ばせているが、今後さらに存在価値が高まっていくだろう。昭和の商品をたくさん売ってほしい。

 やっぱりバスの降車ボタンが素敵である。

宇佐駅前に戻ってくると、改札を抜けて列車を待つ。と、駅名標にたいへん面白い工夫があることに気がついた。
JR九州の駅名標は赤三角矢印で前後の駅名を示すのが恒例となっているが、その間にイラストが入っていることがある。
そして宇佐駅のイラストは、宇佐神宮の南中楼門をモチーフにしつつ、「八幡総本宮宇佐神宮」という文字を配置して、
しっかり星条旗を意識している。なるほどしっかりUSAだぜ! これは本当に上手い。ホームで独り感動に浸ったことよ。

 このデザインを考えた人は本当に頭がいいと思います。

国東半島をぶった切るように南下して杵築駅へ。杵築のサンドイッチ城下町は9年前に歩いており(→2011.8.12)、
このときにかなりしっかり動きまわっている。今回は非常に時間的にタイトであり(市街地が駅から遠いから困る)、
街歩きを楽しむ余裕はまったくない。バスターミナルのすぐ近くにある杵築ふるさと産業館でレンタサイクルを借りると、
金鷹山(きんたかやま)若宮八幡社を目指して突っ走る。市街地からはだいぶ離れており、悶えながらペダルをこぐ。

  
L: 相変わらず迫力のある杵築駅。  C: 谷間の商人町を走る。道幅広げすぎだよなあ。  R: 市街地を抜けて田んぼを行く。

田んぼを抜けて少し高い集落に入ると、金鷹山若宮八幡社の鳥居が現れる。が、ここからがしっかりと長いのである。
自転車を置いてダッシュするが、長い参道は途中から石段に切り替わってこれは拷問そのもの。でもシャッターは切る。

  
L: 金鷹山若宮八幡社の鳥居。しかしここからが長い。  C: 本当に長い。  R: 石段に切り替わる。つらい。

  
L: 石段は角度がついていき、離陸しちゃいそうな気分。  C: やっと随神門に到着。1761(宝暦11)年の築。
R: 神門から振り返ったところ。海も見えてなかなかの景色なのだが、それ以上に参道に圧倒されてしまう。

金鷹山若宮八幡社は「八幡」ということで宇佐神宮からの勧請と思ったら、石清水八幡宮(→2015.3.28)だった。
宇多天皇の第八皇子・敦実親王が彫った4柱の神像を、社領のこちらに持ってきて985(寛和元)年に創建された。
派手な赤が目立つ社殿について詳しいことはわからないが、拝殿は特に唐破風の瓦がずいぶんと立派である。

  
L: 拝殿。  C: 本殿を覗き込む。  R: 向かって右に摂社・和漢将軍社。木付氏の初代である木付親重を祀る。

御守を頂戴すると急いで撤退。せっかくなので杵築市役所に寄って撮れるだけ写真を撮る。といっても地形と時間の制約で、
あまり満足できる写真にはならなかった。あらためて調べてみたら、杵築市役所は松井設計の設計で2000年竣工とのこと。

  
L: 東から見た杵築市役所。  C: 正面から見たところ。道幅が広いのにカメラの視野に収まりきらない。
R: 西から見たところ。手前の瓦屋根は商店街の店舗で市役所とは別の建物。裏は台地だし、土地の形がかなり複雑。

  
L: 日曜だけど中に入れたのでお邪魔してみる。  C: 入って左を向く。  R: 滞留スペース。

自転車を返却すると、そのまま杵築バスターミナルからバスで国東半島方面へ。奈多(なだ)八幡バス停で下車して、
目指すは八幡奈多宮だ。こちらを参拝したかったので、杵築での行動をやたらと急ぐ必要があったというわけだ。
バス停から八幡奈多宮の表参道入口まではすぐだが、ここからがけっこう長い。距離にすると300mくらいだが、
奈多海岸のど真ん中を抜けていくことになり、なんとなく不安を感じつつ歩くことになってよけいに長く感じる。

  
L: いちばん南にあると思われる鳥居。  C: バス停近くの鳥居。  R: こんな感じで松林の中を抜けていく。

奈多海岸は典型的な白砂青松の海岸で、松林から砂浜に出ると穏やかな海が広がっていて気持ちがいい。
水平線の上にうっすらと延びているのは佐田岬半島だろうか。行ってみたいけど超リアスなので車じゃないと無理だなあ。

  
L: 北を見れば大分空港を発着する飛行機が見える。  C: 沖合の市杵島が八幡奈多宮の元宮。  R: 鳥居をクローズアップ。

そんなこんなで八幡奈多宮の境内に到着。松林の中の神社というと三保の松原の御穂神社を思いだすが(→2016.3.12)、
石畳などがきっちり整備されているあちらと比べると、八幡奈多宮は白砂青松の砂っ気がそのままで野趣に富んでいる。
御守があるか不安だったが、しっかり頂戴することができた。少々無理してでも訪れた甲斐があってよかった。

  
L: 市杵島から振り返って八幡奈多宮の境内。  C: いつのものかわからないが灯明台があった。  R: 鳥居をくぐって楼門。

  
L: 楼門は1642(寛永19)年に木付城代・長岡興長が寄進した。杵築市の指定文化財となっている。
C: 拝殿。  R: 境内はこんな感じ。近代のきっちりした感じはあまりなく、大らかな印象である。

そのまま周囲を散策してみる。鳥居を中心に八幡奈多宮に関連する要素は往時の雰囲気をしっかり残していて、
歴史を感じられるのがよい。素朴だけど威厳がある、古くから崇敬されてきた神社ならではの空間だった。

  
L: 北参道の鳥居。  C: 北参道。真ん中の石は車止めか。八幡奈多宮は奈多海岸のちょうど真ん中に鎮座しているのだ。
R: 裏にまわって木々を掻い潜り、八幡奈多宮の本殿を見たところ。こちらは1881(明治14)年に建てられたとのこと。

八幡奈多宮に寄ったため、国東市役所に到着したのは15時30分。春分の日は過ぎたし西にいるので日差しはまずまず。
でも写真の色合いが夕方っぽい雰囲気になってしまうのはイヤなので、できるだけテンポよく市役所を撮っていく。
国東市役所は東畑建築事務所九州事務所の設計で、2016年に竣工している。南側にはくにさき総合文化センターがあり、
「『つなぐ』がうまれる新庁舎」をコンセプトにしたとのこと。まあ「くにさき回廊」という屋根をかけただけだが。

  
L: 国東市役所。アストくにさきと駐車場を共有しているため日曜なのに車が多く、すっきり撮影できなくて残念。
C: 近づいて南東から見たところ。  R: 正面から「くにさき回廊」ごと見たところ。案の定、この円いのが議場。

  
L: 日曜だけど中に入ることができた。  C: 西から見た窓口はこんな感じ。  R: 反対の東側から見た窓口。

  
L: 「くにさき回廊」から見た国東市役所。  C: 少し距離をとって眺める。  R: くにさき総合文化センター手前から。

というわけで、くにさき総合文化センターの方もクローズアップしてみる。ホールや図書館が入っている複合施設で、
「アストくにさき」という愛称がある。新居千秋都市建築設計の設計で、国東町時代の2001年に竣工している。

  
L: くにさき総合文化センターの手前から見た国東市役所。出っ張りで隠れてしまうのが残念なところ。
C: 北東から見たくにさき総合文化センター。  R: 角度を変えて正面っぽいアングルで。車が多いぜ。

  
L: 中に入るとこんな感じ。  C: 南東から。  R: 南から両方の建物を眺める。市役所の議場は隣のホールを意識したのかな。

  
L: 南西から。  C: もう少し西寄りで。  R: 西から見たくにさき総合文化センター。

  
L: 北から見たくにさき総合文化センター。  C: こちらは国東市役所の西側の側面。  R: 国東市役所の北側の背面。

  
L: 近づいて見上げる背面。  C: 国道213号に出て北東から見た国東市役所。  R: 国東市役所の東側の側面。

  
L: 国道に面しているベンチ。すぐ近くにバス停があるからか。  C: 南東から見た国東市役所。これで一周完了。
R: 国東市役所の窓ガラスにはPRマスコットキャラクター「さ吉くん」のシルエット。実際は全身緑色でびっくり。

 市役所の西にある大分県の国東総合庁舎。大分県庁(→2011.8.12)に似ているなあ。

せっかくなので少し東に行ったところにある櫻八幡神社に参拝する。1157(保元2)年に宇佐神宮からの勧請で創建。
残念ながら社殿について詳しいことはわからなかったが、神門は1712(正徳2)年の築で国東市の指定文化財である。
しかし金鷹山若宮八幡社といい八幡奈多宮といいこちらの櫻八幡神社といい、この地域は朱塗りにこだわりがあるのか。

  
L: 境内入口。歴史を感じさせる。  C: 神門。  R: 拝殿。残念ながら授与所は閉まっており、御守は頂戴できず。

 
L: かなり簡素な造りの神楽殿。  R: 本殿。なかなか立派である。

空港行きのバスが来るまで時間があるので、田深川に架かる国東橋をちょろっと往復。たもとに仁王像が置いてあり、
あらためて国東半島の仁王像大好きっぷりを実感するのであった。いつか両子寺に行ってみたいものである。

 
L: 国東橋の仁王像。西側(向かって左になる)のこちらが吽形。  R: 東側(向かって右になる)のこちらが阿形。

18時ちょっと前に大分空港に到着。日が沈む前にどうにか間に合った。11年前もこんな感じだった(→2009.1.10)。
やはり駐車してある車を掻き分ける感じで写真を撮る。そして空港にも仁王像がいたのであった。本当に大好きだな!

 
L: 大分空港にて。  R: 大分空港の仁王像。「仏の里くにさき」ということで2007年に設置されたようだ。

これで今回の旅行は終わりである。楽しゅうございました。コロナの関係で、これ以降の旅行の予定が組めていない。
もしかしたら、今年はもう旅行ができないかもしれない。でもこの春休みに思う存分動いたので、きっと大丈夫だ。
4月以降どうなるのか不安も大きいけど、しっかりとエネルギーを充填できたのでがんばれるぜ。やったるのだぜ。


2020.3.28 (Sat.)

春休みの土日、隙を見ての旅行である。コロナが日常に迫っている中、行けるうちに行っておこうというわけだ。
今回は市役所を押さえながら豊前から豊後に抜ける旅で、北九州空港からのスタートである。苅田駅から日豊本線を南下。

 行橋駅。今回の旅はここから本格的に始まるのだ。

福岡県の東側は今までほぼノーマークで、行橋市をきちんと訪れるのは初めてである。天気は悪いがワクワクする。
駅からまっすぐ東へ歩いていくと、15分ほどで行橋市役所に到着。低層の西棟と高層の東棟がセットで並ぶスタイル。
西棟は1957年竣工で、もともとはこちらが単独で建っていた。その後、1982年に東棟が増築されて今の姿になった。
茶色のタイルでけっこう統一感があるので最初わからなかったが、言われてみれば確かにそうだ、と納得できる感じ。
ちなみに「行橋」は、長峡川北岸の「行事」と南岸の「大橋」から一文字ずつ採って生まれた地名である。

  
L: 西側の前庭から見た行橋市役所。  C: 前庭のど真ん中はこんな感じで整備されている。昭和の香りがする。
R: 行橋市役所。奥の7階建てが東棟で、右手前の3階建てが西棟。西棟は竣工時には鉄骨の小さな塔が付いていた。

  
L: 少し角度を変えて眺める。  C: 西棟を西から見たところ。  R: 南西から全体を眺める。

  
L: そのまま南にまわり込んで西棟を眺める。  C: 南東から見た東棟。  R: 東から見た東棟の背面。

  
L: 北東から。  C: 北から見た東棟の側面。  R: 敷地内の駐車場から東棟を見上げる。これにて一周完了。

そのまま戻るつもりはなく、しばらく今川に沿って西へ。そうして日豊本線のすぐ手前に鎮座する正八幡宮に参拝。
住宅地の中にあるが、参道に沿って古川が流れており、そのカーヴによって境内が昔ながらの形を残している。

  
L: 旧中津街道に面する参道入口。ここからが長い。  C: 参道を行く。右側を古川が流れている。
R: 参道はさらに続く。古川のカーヴによって北側に余裕が生まれ、そこが駐車場となっている。

  
L: ようやく境内入口。  C: 拝殿。注連縄が大きい。造りも立派だ。  R: 本殿。こちらはシンプルな印象。

 八重垣社。縁結びを全力でアピールしているなあ。

これでいちおう行橋市探索は完了とする。1時間ほどうろついただけでは何もわからないが、雨も降りだしてしまったし、
どうすることもできない感じ。次は宇島を中心に豊前市を徘徊する計画なのだが、雨だとレンタサイクルが使えない。
今日は豊前市と中津市の市役所を押さえるつもりだったが、早くもプランが瓦解してしまった。いや、これは困った。
考えた結果、市役所メインの計画から神社で御守を頂戴する目的に切り替えて、別府と大分まで攻め込むことにする。
というのも、別府市では八幡朝見神社、大分市では春日神社が別表神社となっており、御守をまだ頂戴できていないのだ。
そんなわけで行橋を後にすると宇島はスルーして中津で列車を乗り換え、国東半島の南側へ。亀川駅で下車する。
せっかくなので別表神社以外でも気になる神社を押さえるのだ。まずは八幡竈門(かまど)神社から参拝するのである。

  
L: 国立病院機構別府医療センターから眺める八幡竈門神社。雨の中、あそこまで行くのか……と軽く途方に暮れる。
C: トボトボと石段を上っていく。まあ、こんなのいつものことなんですけどね。  R: ようやく境内に到着。

八幡竈門神社の石段には鬼にまつわる伝説がある。人食い鬼が出たので困った村人が、八幡神に退治をお願いした。
八幡神は鬼に対し、石段を一晩で100段つくることができたら毎年生贄をやる、できなかったら里に現れるな、と約束。
鬼は99段までつくったが、そこで夜明けを告げる鶏が鳴いて夜が明けてしまい、鬼は驚いて逃げてしまったという。

  
L: 境内の手前から石段を振り返る。晴れてりゃ絶対にいい景色なんだろうけど、ただただ悔しい気分になるのであった。
C: 気を取り直して拝殿。ちなみに右手前になで亀がいて、その年の恵方を向いているとのこと。可動式か。  R: 本殿。

御守を頂戴する際、神職さんから「きめつですか?」と訊かれた。なんだかよくわからんので「違います!」と返事。
後で知ったのだが、少年ジャンプで連載していてアニメ化もされた『鬼滅の刃』というマンガがたいへん人気があって、
主人公の名前が「竈門さん」なので、それで聖地化しているようだ。名字がかぶっているだけで聖地なの!?と呆れる。
どうやら鬼と戦うマンガらしく、さっき書いたように鬼の石段の伝説もあるので、それで聖地ってことらしい。うーん。
それよりも僕としては、大分トリニータのマスコット・ニータン生誕の地となっていることの方がはるかに重要である。
八幡竈門神社は亀川の亀山に鎮座しており、神亀年間の創建ということで、亀と縁の深い神社となっているとのこと。

  
L: 授与所には大分トリニータのポスター、必勝祈願の写真、選手のサインなどが飾られていた。こっちも聖地なのか。
C: 窓の端っこには勝守をさげたニータン人形。  R: 御神木「魂依の木」。樹齢500年のイチイガシで、幹が空洞。

別府医療センターからバスに乗り込み、鉄輪のバス停で乗り換えて火男火売(ほのおほのめ)神社へ。
別府湾を見下ろす鶴見岳の男嶽・女嶽2つの山頂を神格化した神社で、別府の地獄や温泉の守護神として知られている。
鶴見岳山頂に上宮、中腹に中宮、山麓に下宮があるが、今回は里宮である下宮に参拝。緑に包まれた雰囲気ある神社だ。

  
L: 火男火売神社の境内入口。  C: 参道を進む。非常に緑豊かである。   R: 境内はあまりひと気がなかった。

メインの神紋は大山祇系の「隅切折敷縮三文字」。これは久留島(来島)道清が社殿を再建した縁によるそうだ。
豊後水道は村上水軍の庭だったのか、と思う。僕らの感覚だと四国と九州だが、伊予と豊後の近さが実感できる。
そういえば『信長の野望・武将風雲録』でも、大友家がよく河野家を滅ぼしていたっけ。で、毛利家と伊予を奪い合う。

  
L: 神楽殿。屋根がお堂っぽい。  C: 拝殿。幕は左に「隅切折敷縮三文字」、右に「対い鶴」。鶴見岳だからか。  R: 本殿。

御守を頂戴すると、バスで別府駅へ。そこから歩いて八幡朝見神社を目指す。別府の市街地の南端、山裾に鎮座する。
駅からの距離は1kmほどだが、しっかり雨が降っているので歩くのが面倒くさい。朝見川から参道がスタートする感じだ。

  
L: 朝見川に架かる御幸橋。手前(左岸)に社号標、奥(右岸)に一の鳥居ということで、ここから参道がスタートする。
C: 進んでいくと二の鳥居。  R: 参道が長い。さっきの八幡竈門神社もそうだが、きっちり山裾に鎮座するパターンか。

  
L: 境内に入る。石段の先には見事な夫婦杉。  C: 手水舎。右の石段で「朝見八幡臺(ばはんだい)」に上る。
R: 1996年に造営された朝見八幡臺。四国や国東半島まで一望できるそうだが、いかんせんこの天気では……。

八幡朝見神社は1196(建久7)年の創建である。大友氏の初代当主である大友能直が豊前国・豊後国の守護となり、
鶴岡八幡宮(→2010.12.11)を勧請した。当初は今よりも北西に鎮座していたが、鶴見岳の噴火を受けて現在地に遷座。
1670(寛文10)年に社殿を再興、1696(元禄6)年に神殿を新築、1814(文化11)年に拝殿を造営という記述があり、
そのうえで1922(大正11)年に社殿の大改築を行っているとのこと。でも正直、これでは各建物の詳細がわからない。

  
L: 拝殿。提灯のおかげで神仏習合の匂いが漂う。  C: 萬太郎清水。  R: 本殿。彩色された彫刻が見事である。

これで5年前(→2015.8.22)のリヴェンジを果たすことができた。御守を頂戴すると別府駅に戻り、さらに大分駅へ。
先ほども書いたように大分市では春日神社が別表神社なのだが、市街地にある長浜神社もこの機会に押さえるのだ。

 大分駅。5年前(→2015.8.23)とは異なるアングルで。

まずは春日神社だ。駅から北西へ直線距離だと1.5kmと、少し面倒くさい位置にある。素直にバスで10分ほど揺られる。
春日浦のバス停は神社の裏側になるので、春日公園として整備されている境内を抜けて参拝する。なかなか規模が大きい。
豊後国の国司となった藤原世数が、860(貞観2)年に氏神である春日大社(→2010.3.282016.6.11)を勧請して創建。
1586(天正14)年には島津軍の侵攻により、1945年には大分空襲により社殿を焼失。現在の社殿は1967年の再建である。

  
L: こちらは南の表参道。  C: 右が住宅地、左が社叢と対照的な参道。  R: 神門。随身のかわりに略記の板がある。

  
L: 拝殿。唐破風が目立つちょっと独特なデザインである。個人的には、吊灯籠が春日神社らしさを感じさせると思う。
C: 拝殿向かって右には1764(明和元)年の築という絵馬堂がある。もっとアピールすればいいのに。  R: 本殿。

参拝を終えると大分市の中心市街地を南東へ歩いていく。街のでき方は線的な商店街中心ではなく、面的に広がっている。
主要な通りの広さといい、きっちり矩形になっている構造といい、大分空襲のダメージが非常に大きかったことが窺える。
と同時に、県庁所在地・大分市の強さもまた感じる。観光を引き受ける別府と、経済を牽引する大分のコンビネーション。
北九州市からも宮崎市からもかなりの距離があり、九州北東部を押さえている大分市の存在感は絶大なものがあるのだ。

 1994年にリニューアルされた府内五番街商店街を行く。

そんなことを考えているうちに長浜神社に到着である。大分県庁を境に商店街から住宅地へと空気が変わっていくが、
その一角にある穏やかな公園……と思ったら玉垣に囲まれて神社なのであった。かなり開放的な雰囲気の境内である。

  
L: 長浜神社の境内入口。南から見たこのアングルだときちんと神社だが、全体の雰囲気としては公園といった感触が強い。
C: コンパクトだが均整のとれている拝殿。  R: 本殿。なお長浜神社の創建は1406(応永13)年で、主祭神は少彦名命。

御守を頂戴して本日の雨天プランはすべて完了である。大分駅に戻る途中、衝撃的なデザインの建物に出くわした。
いったい何がどうなったらこんなことになってしまうのか。こんなことができるのか。思わず頭を抱えてしまった。

 府内アクアパークのトイレ。いや、これは……。

とりあえず別府に戻って竹瓦温泉に浸かる。そこから中津までさらに戻る。明日は晴れてくれないと困るんだけどな……。


2020.3.27 (Fri.)

神保町カレーライフの第21弾、キッチンカロリー。ヒナタ屋、エチオピア、鴻(オオドリー)、MAJI CURRY地帯にあるが、
カレーも扱う洋食のお店といった感じである。なお、神保町カレーライフは今回がとりあえずの最終回となります。

 ロースカツカレー、1000円。ライス大までこの値段。

外からだと小ぢんまりとした洋食らしい店という印象だが、いざ中に入ってみると学生向けなカジュアルな店だった。
とはいえ内装はそれなりに雰囲気がある。やはりこれまたいかにも神田らしさを体現した店なのかな、と思う。
さて肝心のカレーだが、トマトの風味が非常に強いカレーソースとなっていることが最大の特徴であろう。
カツカレー系にしては粘り気は弱めで、どちらかというとインド方面のようにカレーソースがライスに浸透していく。
しかしスパイスはほとんど強調されておらず、そこはあくまで洋食らしい、いい意味で一様な安定した味である。
カツの肉は薄めの古典的タイプで(福井のソースカツに近い →2010.8.20)、そこがまた昔ながらの洋食っぽい部分だ。

なお、お店としては、鉄板焼きの「カロリー焼」のほうがメインである模様。機会があればそちらも食べてみたい。


2020.3.26 (Thu.)

荷物を取りにくる生徒たちがポツリポツリと来るので、その対応。最後の最後で強烈なドタバタとなってしまったので、
感傷をちょっぴり上乗せであれこれ話す。これもまあ一種の修羅場で、振り返りゃいい経験になっとるでよ、なんて言う。

夜はヴェテランの先生のお疲れ様会なのであった。3年間本当にお世話になりました。いや本当にお世話になりました。
とてもいい感じで支えられたとは思っていないが、それなりに裏であれこれフォローしなかったわけでもなくて、
主に僕は男子担当として、彼らのメンタル面をいちおう一手に引き受けて面白おかしい環境づくりをしていたつもりで、
とりあえずは無事に(最後にコロナでぶっ飛んだが)生徒たちを卒業させられたので、素敵な3年間だったと信じたい。
いろいろご迷惑をおかけしたと思うけど、有終の美を飾る一助はできたと信じたい。本当にありがとうございました。


2020.3.25 (Wed.)

終業式だが、9時から1学年、10時から2学年と分けてやるので実感がイマイチ。各教室に放送でしゃべるだけだし。
しかしまあ、新型コロナは従来の常識をことごとくぶち壊してくるなあと思う。物事の本質が問われる事態である。

さて異動となるので午後は片付けをしているが、なんでか物の量が多い。現任校にいたのはたった3年間なので、
そんなに物が溜まるとも思えないのだが、いざ片付けてみると時間の厚みというものを強制的に実感させられる。


2020.3.24 (Tue.)

いいかげん、『Monty Python Live (mostly): One Down, Five To Go』(→2020.3.10)のレヴューを書かなくちゃいかん。

借金返済のためにこのライヴをやることになった、というところがいかにもあのクソジジイどもらしいのだが、
結果として伝説的コメディグループが最後の最後で自分たちの足跡を振り返る絶好の機会となったのは本当によかった。
全盛期が過去の一瞬の輝きとして記憶されるのも立派なことだが、輝かしい過去を現在が受け入れるということは、
その過去と受け入れる現在の両方が幸せになるということだ。パイソンズはスケッチにオチをつけなかったからこそ、
こういう形で完璧なオチをつけることができた。モンティ・パイソンが完成した瞬間を見たように思うのである。

20世紀ハタネズミから始まって蹴とばされるグレアム=チャップマン、そしてメンバー登場と「撮影チャンス」って。
のっけから相変わらずの悪ふざけぶりを見せてくれる。テリー=ジョーンズは病と戦っているし(後でそんな話が出た)、
クリーズもセリフが飛んだりもするが、さすがの貫禄で人気スケッチを見せてくれる。もはや様式美の雰囲気すらある。
客が期待している空気がわかるのだ。ナッジナッジ(ちょんちょん)とか、ジョーンズがパブに入った時点で拍手喝采。
ランバージャック・ソングで、今か今かと期待している客をわざとかわしてみせるペイリンなんて、阿吽の呼吸である。
メンバーたちは客の期待どおりのスケッチを再現しつつ、ミスで笑わせつつ、そして期待以上のアドリブも交えつつ、
スケッチをひとつひとつ丁寧に演じていく。シリーウォークはまあ、クリーズも歳だししょうがないと納得しておこう。
(個人的には、死んだオウムにチャップマンも参加させたことに感動した。サムズアップするペイリンに泣いた。)
そのやりとりはもはや、落語などの伝統芸能と変わらない。定番となったギャグを本人たちが演じることが価値なのだ。
これはモンティ・パイソンが古典となったことを確かめるためのライヴであると思う。だからこれできちんと終われる。

内容はヴァリエーション豊かで、人気スケッチの再演だけでなく昔の名作スケッチ映像やギリアムのアニメも挟む。
そして大いに華を添えているのがダンサーたちの見事な歌と踊りだ。これが無理なくスケッチ群をつないでいるのだ。
エリック=アイドルが『スパマロット』や『ノット・ザ・メシア』でステージ化のノウハウをつかんだ効果が出ている。
ただし歌詞は本当にお下劣極まりない。このどうしょうもない歌を全力のクオリティでやるのがすげえなあと思う。
ぶっちぎりでかっこよかったのがブラックメイルのテーマ。その前にやっていたナッジナッジ(ちょんちょん)を、
なんとラップで絡めてしまった音楽センスは本当にすごい。これはぜひiPodで持ち歩いて聴きまくりたい曲だ。

ラストは白いジャケットに蝶ネクタイで5人がステージに並ぶが、僕はそこで『ドリフ大爆笑』を思い出した。
パイソンズはもちろん『Always Look on the Bright Side of Life』を客席と一体となっての大合唱で大団円となるのだが、
ドリフだったらスクールメイツをバックに従えた『いい湯だな』の替え歌になるわけだ。……なんか、似てないか。
僕は以前、ドリフについて「社会と反社会的存在のいたちごっこが、ドリフの本質」と書いた(→2004.7.11)。
大げさな表現だが、つまりは「いかりやが体現する日本の家父長制を志村が笑い飛ばす」ってことである。
では、モンティ・パイソンは。……ほぼ同じだ。イギリスの階級社会を、帝国の権威を、ナンセンスで笑い飛ばす。
ただ、ドリフと比べるとモンティ・パイソンの方がいろいろと幅広い。彼らはマイノリティにも踏み込むし、
キリスト教にも踏み込むし、下ネタもブラックユーモアもドギツい。でも共通するものは持っていそうではある。

『Always Look on the Bright Side of Life』をみんなで歌うエンディングは、実に多幸感あふれるものだ。
そしてパイソンズがステージを去った後、スクリーンにはお約束の「Piss off!」の文字が映される。
こうして、モンティ・パイソンはモンティ・パイソンのままで、その歴史的な使命を終えたわけだ。
これでわれわれはようやく、モンティ・パイソンを過去形で語ることができるのだ。実に見事な、実に美しい大往生。
誰もが納得できて、誰もが祝福できる終わり方でやりきった彼らには、ただただ敬意を表するしかない。

特典映像で演じるガンビーのキレがまったく落ちていないのには笑った。やばいぜ、あいつら45年前のまんまだぜ。


2020.3.23 (Mon.)

『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』。見てきましたよ! 思わずパンフレットも買っちゃったよ!

これ、きちんと背景を知っていると、映画の完成は快挙以外の何物でもないんだよね。テリー=ギリアム監督がどれだけ、
ドン・キホーテを映画化したかったか。そして挫折してきたか。「映画史に刻まれる呪われた企画」はダテじゃない。
最初の失敗はドキュメンタリー映画『ロスト・イン・ラマンチャ』となったが(メイキング映像のはずだった →2003.6.4)、
ギリアムはこの後さらに、資金確保の失敗やら起用した俳優の病気やらで、17年も苦しい時間を過ごすことになるのだ。
まあ、その間にはモンティ・パイソンのお別れライヴで楽しそうにしていたけど(それもまたかっこいいんだよなあ)。
だからこっちとしては、「やりやがった!! マジかよあの野郎ッ やりやがったッ!!」と、思わず叫んでしまうではないか。

原題は『The Man Who Killed Don Quixote』、つまり「ドン・キホーテを殺した男」。ギリアムらしいなあと思う。
主人公はドン・キホーテをモチーフにしたCMを制作している監督のトビー。かつて自分が卒業制作で監督した作品、
『The Man Who Killed Don Quixote』をたまたま入手し、そのロケを近くで行ったことを思い出して街を訪ねる。
しかしそこでは、かつてドン・キホーテ役を演じた靴職人・ハビエルが自分をドン・キホーテだと思い込んでおり、
トビーをサンチョ=パンサとして冒険の旅に出る。ここからは……ぜひ実際に作品を見てほしい。面白いよ!
完成度が本当に高い映画になっている。荒涼とした背景、無駄なくきっちり金を使っている感じのセット、
俳優の演技もいいし、現実なのか悪夢なのかわからない曖昧さが絶妙なバランスで映像化されていると思う。

ベースになっている『ドン・キホーテ』はかつてログで書いたように、人類史上の大傑作だ(→2005.7.132005.8.2)。
フィクションと現実の齟齬がテーマだが、セルバンテスは「じゃあその現実って、本当にみんなと共有できているの?」
「あなたが生きている現実は、実はあなたが都合よく生み出したフィクションかもよ?」というとんでもねえ疑問を、
徳川家康が人生の総仕上げをやろうとしている時代にぶつけやがったのだ。そしてギリアムはそのテーマを受けて、
現実とフィクションの間で翻弄される人間をしっかり描いている。『未来世紀ブラジル』(→2012.10.3)で見せた、
彼ならではのディストピアっぽい独特の空気も感じさせながら。ネタバレ気味になるが、ラストがまた秀逸で、
構図としては憧れの姫を手に入れているのだ。そこに気づけないでいるところがまた、テーマに沿っていて上手くて。

ちなみに映画は「And now...」で始まる。モンティ・パイソンのファンにもちゃんとサーヴィスしてくれている。
(さらには、自身も演じたスペインの宗教裁判をきちんと物語の要素として織り込んでくれている。使い方も巧い。)
その「And now...」に対して、この映画を見たあなたは「for something completely different.」と言い切れるかな?
セルバンテスがぶつけてきた疑問をしっかり消化した、パイソンズの一員・テリー=ギリアムならではの傑作である!


2020.3.22 (Sun.)

春分の日の3連休旅行最終日である。これまで2日間は熊本県北部の市役所(と温泉)をテーマにしてきたが、
今日は天気がイマイチなこともあり、熊本市内の神社めぐりがテーマ。温泉の方は昨日スルーした玉名温泉に浸かるのだ。
いつものごとく朝イチでレンタサイクルを借りると行動開始。まずは5年前にも参拝した藤崎八旛宮(→2015.8.19)から。

  
L: 参道からまっすぐ行って藤崎八旛宮の境内入口。  C: 楼門。5年前には改修工事中で、リヴェンジできてうれしい。
R: 正面から見た拝殿。1877(明治10)年に西南戦争で焼失するまでは、熊本城の西隣にある藤崎台に鎮座していた。

無事に御守を頂戴すると、南下して手取(てとり)天満宮へ。水道町電停近くに大きな赤い鳥居が建っており、
上通サイドのランドマークとなっている。鳥居をくぐってそのまま進むと突き当たりに小ぢんまりとした境内。
承応年間(1650年ごろ)の創建と歴史は新しめだが、周囲と異なる湿り気をしっかりと感じさせる神社である。

  
L: 市電の通る電車通りに面する手取天満宮の鳥居。かなりの存在感がある。  C: 手取天満宮の境内入口。  R: 拝殿。

 本殿。そのまま北へ抜けられる。この神社だけ周囲と雰囲気が違う。

西へ移動して熊本城方面へ。天守の北西に鎮座しているのが、加藤神社。その名のとおり加藤清正を祀る神社だ。
清正は没後に浄池廟(北西の本妙寺に現存)に祀られたが、明治になって神仏分離であらためて神社が創建された。
場所は熊本城内だったが、熊本鎮台の設置により北の京町台に遷座。しかし1962年に熊本城内に戻ってきた経緯がある。

  
L: 大きくまわり込んで加藤神社の境内入口。観光客を中心にかなり人気があるようで、車の進入を防ぐ係の人がいる。
C: 幅広な拝殿。左の酒樽は高橋酒造の米焼酎、右の酒樽は千代の園だった。奥の本殿は木に邪魔されてきれいに撮影できず。
R: 加藤神社の境内から見た熊本城の大小天守。どちらも熊本地震(→2016.4.142016.4.16)で大きな被害を受けた。

そのまま坂を下って熊本大神宮へ。熊本城本丸の石垣がすぐ脇に迫っている、かなり余裕のない境内である。
その石垣は4年前の熊本地震により崩れてしまい(東十八間櫓も倒壊した)、今でも痛々しい姿のままとなっている。

  
L: 熊本大神宮。1876(明治9)年の創建。  C: 拝殿。  R: 本殿。もともと狭いのに石垣の崩壊で大変である。

さらに南へ行って熊本城稲荷神社。こちらは稲荷系らしい奔放さだ。1588(天正16)年に加藤清正が熊本入りした際、
熊本城の守護神として稲荷神を勧請して創建された。やはり境内に余裕がないが、複数の建物で実に賑やかな印象だ。

  
L: 熊本城稲荷神社。稲荷系にしても赤がたいへん目立っている。  C: 境内にて。顔ハメというか首ノセ?  R: 拝殿。

 
L: 南西側の神楽殿。右の鳥居は境内社方面。  R: いったん敷地の外に出て隣の駐車場から見た本殿。

熊本城周辺には神社がいっぱいありすぎだ。感じとしては明治になってから城の方へとどんどん集まってきたようで、
それだけ熊本城が市民にとって精神的に大きな存在ということだろう。次は熊本城エリアから坪井川を挟んだ南西、
山崎菅原神社へ。創建は1070(延久2)年で、先ほどの手取天満宮と同様、もともとは個人が勧請した天神様とのこと。

  
L: 山崎菅原神社。規模は小さめな印象だが、熊本の中心部にこういう開放的な境内がそのまま残っていることにびっくり。
C: 拝殿。小さめではあるが、御守の種類は多くてやる気十分。  R: 本殿。1910(明治43)年築で、空襲にも地震にも耐えた。

ではレンタサイクルのフル活用を開始である。市電のルートに戻ってそのまま一気に南東へ。熊本県庁もスルーだ。
そうして目指すは健軍神社。市電ルートから途中で分岐してまっすぐ東へと参道に入るのだが、これがなかなか長い。

  
L: 市電ルートからこの鳥居を目印に参道に入る。  C: 序盤の参道。  R: 国道57号を越えるとさらに威厳が増す。

参道は鳥居から1.2kmほど。さすが熊本市で最も古い歴史を持つ神社だけのことはあるなあと感心しつつペダルをこぐ。
やがて突き当たりに組物の見事な楼門が現れる。手前の鳥居が異様に低いが、これは楼門が見えるようにという意図だと。
だったら長い参道の途中にいくらでもマトモな鳥居を建てるチャンスがあると思うのだが。価値観がよくわからない。

  
L: 参道、ラストスパートである。  C: 突き当たりに見事な楼門。2000年の再建と歴史は新しいが、迫力はものすごい。
R: 角度を変えて楼門を眺める。平成になってからこれだけの楼門をつくれるところに、健軍神社の崇敬されっぷりを実感。

楼門をくぐっても拝殿まではまだ少し距離がある。楼門と比べてしまうと拝殿はだいぶシンプルに感じられるが、
本殿の彫刻はかなり立派であり、ポイントを押さえて整備しているということだろう。いずれ拝殿も豪華に建て直しそう。

  
L: 楼門をくぐって拝殿へ。  C: 拝殿。だいぶシンプル。  R: 角度を変えて社殿を眺める。

健軍神社の祭神は、健軍大神と健磐龍命。健軍大神は初代火国造となった、豪族の建緒組命のことである。
健磐龍命は阿蘇神社(→2008.4.292015.8.21)の祭神で、558年にこちらに勧請された。それをもって創建とするようだ。
神紋は「違い鷹の羽」で阿蘇神社と共通である。ちなみに菊池氏の「並び鷹の羽」紋は、阿蘇神社からの派生とのこと。

  
L: 健軍神社の本殿。  C: 彫刻をクローズアップ。かなり凝っている。  R: 本殿の南にある祈祷殿。

参道と市電ルートを戻って水前寺成趣園(じょうじゅえん)に突撃する。9年前にも訪れているが(→2011.8.8)、
この中に鎮座する出水神社の御守を頂戴するのである。入園料を払って園内に入る。せっかくなので曇り空だが撮影。

  
L,C,R: 水前寺成趣園。もともとは細川家の庭園だったが、版籍奉還により官有地となり、西南戦争で荒廃したとのこと。

出水神社は水前寺成趣園の北端に鎮座している。明治になって藩祖を祀る神社が流行したが、出水神社もそのひとつ。
主祭神は細川藤孝・忠興・忠利(熊本藩主の細川氏としては初代)の3代と第6代藩主の重賢(めちゃくちゃ名君)。
1878(明治11)年に出水神社を成趣園内に創建したことで、庭園全体を社地として払い下げてもらったそうだ。
つまりは成趣園と出水神社は切っても切れない関係にあるわけで、参拝するのに入園料を払うのはしょうがないのだ。
御守を頂戴すると紙袋には「浄明正直(じょうみょうせいちょく)」の文字。意味はそのまま、神道の基本ワードだと。

  
L: 園内の北側、一段高く出水神社の境内。  C: 拝殿。  R: 角度を変えてなんとか本殿を眺めようとする。

 拝殿につながっている神楽殿。

市電ルートに戻って「味噌天神」こと本村神社へ。市電の電停の名前にもなっていて、たいへん気になっていたのだ。
全国唯一の味噌の神様とのことだが、祭神は菅原道真。713(和銅6)年に疫病が流行して御祖天神を祀り創建されたが、
後から祀られた菅原道真と一体化した模様。肥後国分寺で大量に腐った味噌にこちらの笹の葉を入れたら旨くなった、
という伝承があり、「味噌天神」として定着していった。しかし残念ながら無人で御守はなかった。実にもったいない。

  
L: 「味噌天神」こと本村神社。  C: 拝殿。  R: 本殿。神社は無人で、せっかくの面白エピソードがもったいない。

白山通りを南西へ。次の目的地は別所琴平神社である。手前に歩道を挟んで摂社か末社であろう神社があり、かなり独特。
境内に入っても独特で、敷地の西端が参道、北端が社殿となっている。歩道に面した社殿の南は駐車場というか空き地で、
なぜわざわざ狭苦しく横参道にして神社を整備しているのかよくわからない。もともと善光寺の鎮守として創建されて、
その関係で社殿が奥まった位置となり、その後境内が拡張されて現在のようになった、ということだろうか。

  
L: 白山通りを進んでいくと歩道脇にこちらの神社。  C: そのまま西へ進むと別所琴平神社の参道入口。
R: 境内南側の駐車場というか空き地から見た社殿。横向きで一段高くなっているのがわかる。なんとも不思議。

別所琴平神社の御守は種類が豊富で、ふつうの御守も6色とカラバリが充実。さらに幸福黄金御守まである。
金刀比羅宮(→2007.10.52011.7.17)からの勧請だが、幸福黄金御守は勧請元のスタイルにわりと忠実な印象。

 
L: 横参道を進んで拝殿と向き合う。  R: 南側の駐車場から見た本殿。

西へ行って白川を渡ると熊本駅だが、その北に鎮座する北岡神社へ。934(承平4)年に八坂神社の分霊を勧請して創建。
熊本市内では古い歴史を持つ祇園系の神社である。1647(正保4)年、熊本藩第2代藩主・細川光尚により現在地に遷座。
1884(明治17)年に社殿をさらに高い場所へと移したそうで、その影響か、境内の建物の配置はちょっと複雑である。
祇園系なのでもともと神仏習合色が強く、寺院の伽藍感覚で社殿を整備していった価値観が残っているように思える。

  
L: 北岡神社の入口。古府中から見て北にある岡ということで、「北岡の森」と呼ばれていた。それをそのまま社地とした。
C: 石段を上がると楼門。  R: 裏から見た楼門。現在の感覚だと、そんなに広くない丘に建物を密度高めに集めた印象。

  
L: 楼門を抜けるとクランク状に丘を上っていく形になり、横参道の角度で拝殿が現れる。
C: 正面から見た拝殿。1934年の築。  R: 本殿。ちなみに敷地の東端では何やら建物を建設中だった。

では熊本市内の神社めぐり、最後の目的地へと向かう。少し離れた場所にあるのだが、そのためのレンタサイクルなのだ。
北岡神社からそのまま県道227号を西へ走っていき、トンネルを抜けて井芹川沿いにさらに突き進む。田んぼが多く、
かなりのんびりとした雰囲気となる。やがて井芹川は坪井川と合流し、その先に架かっているのが高橋稲荷大橋。
というわけで、本日最後の神社は高橋稲荷神社なのだ。1496(明応5)年に隈本城主・鹿子木親員が上代城を築いた際、
伏見稲荷神社(→2010.3.28)から勧請して創建。上代城は落城するが、1661(寛文元)年に神社が再建されて今に至る。

  
L: 高橋稲荷大橋。こっちが表参道になるようだが、渡ってからがけっこう複雑。住宅地をくぐり抜けていく感じ。
C: 大鳥居。横参道というか、本殿がこっち側にあるのでU字の参道である。  R: 鳥居をくぐると社殿はこんな感じ。

いざやってくると、その社殿は自由闊達としか言いようのない配置となっている。もはや「要塞」って印象である。
稲荷系の独特さはこれまであちこちで体験してきたが、高橋稲荷神社の独特さはもう、常識を打ち破られる感じだ。
社殿は山肌に横向きに貼り付いており、大鳥居からだとU字に動いて参拝する動線となる。大いに戸惑う。

  
L: 参道を進んで社殿への入口。今からこの要塞に入っていくのか、と思う。  C: 階段を上ると祈祷殿。左に授与所。
R: 拝殿は祈祷殿の斜向かい。つまり、ぐるっと180°回転することになる。祈祷殿には「ご本殿は左斜め後方です」と張り紙が。

社殿の中に入って階段を上ると目の前に祈祷殿が現れるが、拝殿はその左斜め後ろとなる。なんというわかりづらさ!
参道を進んで行ったら拝殿は後ろでした、というのはさすがに初めてのパターンである。これは自由が過ぎないか。
しかし神社としての規模はしっかりしており、別表神社で日本五大稲荷の一つに数えられるというのもまあわかるかなと。

  
L: さらに奥の院方面へと向かう階段。  C: 階段から見た拝殿・本殿。  R: 高橋稲荷神社の境内と熊本市西部の景色。

参拝を終えると熊本駅に戻ってレンタサイクルを返却。そのまま鹿児島本線で30分ほど北上して玉名駅へ。
目指すは昨日スルーした玉名温泉である。これで3日間温泉をコンプリートなのだ。駅からはバスを利用して温泉街へ。

  
L: 立願寺公園。ここが玉名温泉のだいたい中心となっている感じ。周辺には入浴施設や旅館がわりといっぱい点在。
C,R: 温泉街を行く。あまり温泉地として開発されている感じはないが、関連施設は確かに多い。ちょっと独特な感触かも。

地元民の多そうな市営の玉の湯に素直に浸かる。本当にまったく気取ったところのないごくふつうの入浴施設だが、
源泉掛け流しで純粋に温泉を楽しませてもらったのであった。しかしまあ、温泉3連発とは実に贅沢な3連休だったぜ。

 熊本空港でいただいた太平燕。これで熊本をしっかり堪能完了である。

大いに満足して熊本を後にする。新型コロナ関連の臨時休業に苦しめられたが、とにかくこれで北部の市役所は押さえた。
南部の市役所は再建が完了してからのチャレンジとなるので、熊本県を再び訪れるまでにはしばらく間が空くことになる。
米焼酎でも飲んで、その日をじっくりと待つことにしよう。ありがとう熊本。I shall returnなのである。


2020.3.21 (Sat.)

熊本県北部の市役所をテーマにした春分の日の3連休旅行、中日は当然ながら朝から夕方まで全力で動きまわる。
まずは福岡県との県境にある荒尾市を攻め、南下して玉名市へ。そしてそこから北東へ入って山鹿市まで行くのだ。
これで熊本県北部の市役所を完全制覇だ!というわけである(阿蘇市は5年前に訪れている →2015.8.21)。

宿を出ると、SAKURA MACHI Kumamotoへ。かつては熊本交通センター(→2008.4.28)が建っていたが、
再開発によって2019年に生まれ変わったのだ。ただ、バスターミナルの機能はしっかり受け継がれており、
まずはこちらで「わくわく1dayパス 熊本県内版」を購入する。今日は昨日以上にバスのお世話になりますので。

  
L: SAKURA MACHI Kumamoto。設計は日建設計・太宏設計事務所JV。全体が収まる写真が撮りづらい……。
C: しょうがないので中に置いてあった模型を撮影。かなり大胆な多層テラス。  R: バスターミナル部分。

バスで熊本駅に移動するが、2018年に熊本駅は新たな駅舎が完成して以前とはまったく異なる姿となっていた。
いかにも表玄関感のあるファサード(→2008.4.282011.8.82015.8.19)とは対照的な、現代的モダンスタイル。
熊本城の石垣「武者返し」を意識してデザインしたのは明白だが、正直それだけの力技という印象も否めない。
設計したのは安藤忠雄とのこと。以前の駅舎を組み合わせながら武者返しを盛り込めない辺り、つまらんなあと。

 
L: 新たな熊本駅。武者返しなのはわかるが、武者返しでしかない。どちらかというと凡庸な仕上がりかなあと思う。
R: ホームには木材を使った屋根が架かっている。木材の使用が表現の手段ではなく目的になっていると思うのだが。

鹿児島本線で荒尾駅へ。9年前の九州一周大作戦では大牟田で下車したが(→2011.8.8)、荒尾には寄っていない。
というわけで、初めての街の探検である。ワクワクしつつ改札を抜けると、万田坑の櫓のモニュメントがお出迎え。

 万田坑第二竪坑櫓のモニュメント。

というわけで、目指すは三池炭鉱万田坑跡である。営業開始が9時半なので、それより少し早めに着くように動く。
バスに揺られて万田坑前のバス停で下車するが、肝心の万田坑ステーションは新型コロナの影響で臨時休館だった。
愕然とするが、どうも無料で見学できるエリアには入れるみたい。とりあえず入れる範囲に入ってみたのであった。

  
L: 桜町トンネルの入口。桜町トンネルは、1933年に建設された大牟田と荒尾をつなぐ地下通路。全長は130mとのこと。
C: 汽罐場(石炭を燃やして蒸気を発生させる施設)跡の辺りから見た第二竪坑巻揚機室。後ろは鋼鉄製の櫓。  R: 事務所。

  
L: 第二竪坑巻揚機室に近づいてみた。1909(明治42)年の築で、万田坑の現存施設は国指定重要文化財だが、その中心。
C: 脇にある山ノ神祭祀施設。万田坑の労働者は仕事前に必ずこちらに一礼したそうだ。  R: 鉄道の軌道が残されている。

  
L,C,R: 角度を変えて眺める第二竪坑巻揚機室と櫓。なお、櫓は1908(明治41)年竣工とのこと。  R: 汽罐場跡の煉瓦。

  
L: 配電所(変電所)。大正時代の築で、煉瓦造をコンクリートで塗って仕上げている。窓の上など煉瓦が出ている箇所も。
C: 南西側の第一竪坑口。錆びた金網のフタの下では現在も地下水が管理されている。コンクリート壁は第一竪坑櫓の台座。
R: 北西端の選炭場跡。先にある黒い線が三池炭鉱専用鉄道の跡で、選り分けられた石炭は貨車でそのまま搬出された。

  
L: 第二竪坑櫓の北側、手前が安全燈室及び浴室、奥が倉庫及びポンプ室となるようだ。もちろんすべて国指定重要文化財。
C: 南西から見た第二竪坑櫓。山型に折り曲げた鉄で組んでいる。  R: そのまま近づいて第二竪坑巻揚機室を後ろから見る。

  
L: 汽罐場の煙突。煉瓦で建てられた「赤煙突」だったが(最も高いもので約49m)、現存するのはコンクリート製の土台のみ。
C: 汽罐場跡に残っている煉瓦の構造体。  R: まとまって残っている汽罐場跡の煉瓦製の壁。奥にあるのは配電所(変電所)。

  
L: 手前にある沈殿池。坑内から出た排水をいったん溜めて、石炭の粉などの不純物を沈殿させる役割があった。
C: 池の外側は散策路として整備されている。  R: 沈殿池越しに眺める万田坑跡の施設群。今は静かな歴史の証人。

帰りは歩いて荒尾の市街地へ。途中で三池炭鉱専用鉄道跡に出られる場所があったので、そこからの光景を撮影する。
かつてはこのルートが宮浦坑・宮原坑(→2011.8.8)から万田坑を経て三池港へとつながって、日本を支えていたのだ。

 三池炭鉱専用鉄道跡。このままずっと行けば三池港へと至る。

荒尾駅からさらに南下して、ようやく荒尾市役所に到着したのであった。いやー、けっこう歩かされた。
では荒尾市役所について。調べたところ、1963年の竣工で設計は三井鉱山三池鉱業所一級建築士事務所とのブログを発見。
そのブログによれば、先代の飯塚市役所(→2015.11.22)も、同じく三池鉱業所所属の建築士による設計とのこと。
鉱山の街が企業城下町となるのは当たり前だが、市役所の設計も担当したというのはなかなか興味深い歴史であると思う。
よく考えれば軍艦島(→2014.11.22)なんて典型的だが、鉱山労働者一家の生活を丸抱えしていたわけだから、
鉱山会社はあらゆる施設を建設していたのである。市役所を設計するのは当然の流れだった、ということか。

  
L: 県道126号から見た荒尾市役所の入口。  C: 敷地に入ると昭和なロータリー。後ろには万田坑の世界遺産登録の看板。
R: そのまま右手に視線を移すと荒尾市役所の本体部分。白くて四角い柱はエレヴェーター。後から設置されたのだろう。

荒尾市役所は上から見るとL字型になっており、60年代らしい3階建てながら規模は大きめ。周囲の駐車場は広いが、
高さがなくて幅があるので全容をつかみづらい。北に出ている低層部は、おそらく後からの増築ではないかと思う。
ロータリーの削られ方から類推するに、竣工当時はこの北西端を明確に正面としてデザインされていたのではないか。
しかし低層部の増築やエレヴェーターの設置により、かなり構造がわかりづらくなった。今は正面のない建物という印象。
東側には別の棟も並んでおり、地上目線ではかなり複雑な形状となっている。おかげでかなり写真の枚数を消費した。

  
L: 世界遺産看板の裏にまわって北に延びる低層部を眺める。詳しいことはさすがにわからないが、増築のような気がする。
C: 北東寄りから見た本体。3階建てはいかにも60年代の市庁舎だが、当時にしては規模は大きめ。ロータリーの削られ方に注目。
R: そのまま近寄って北側のエントランス。この右手がエレヴェーターだが、おかげで正面のない印象につながっているような。

  
L: 低層部のエントランス。  C: 低層部エントランス前から眺める本体北面。  R: 低層部を北東から見たところ。

  
L: そのまま低層部の背面(東側)に近づいてみる。  C: さらに進んだところ。奥に本体で、ここが接合部。
R: さらに進んで本体の東側の側面。黒く塗られた耐震補強が、それはそれできっちりデザインになっている。

  
L: 再び北側の敷地外。低層部と平行になっている東側の棟。  C: 敷地のすぐ東を走る鹿児島本線越しに見た東側の棟。
R: 南東からやはり鹿児島本線越しに見た東側の棟。こちらは3階建て。つまり荒尾市役所は4つの部分に分けられるのだ。

  
L: 角度を変えてもう一丁。左が本体、右が東側の棟。  C: 南側の駐車場から本体を眺める。これが従来の背面だろう。
R: 南西から見たところ。竣工当時のデザインが最もつかみやすいのはこのアングルだろう。凝った屋根の下がやっぱり議場。

  
L: 本体の西側の側面。  C: そのまま進むと西側のエントランス。というか、エレヴェーターで北エントランスと分断された。
R: 2階への階段がちょっと凝っている。今はエレヴェーターの陰だが、かつては正面入口を演出する要素だったのだろう。

なんとかいろいろ頭を使って荒尾市役所の歴史を想像してみたが、いかがなもんだろうか。
撮影を終えて、荒尾駅から鹿児島本線を戻っていく。15分ほど揺られて玉名駅で下車。9年ぶり(→2011.8.8)だが、
駅前の有害図書の白いポストと裸婦像のコンビネーションは健在だった。坂を上がらず東へ行き、目指すは繁根木八幡宮。

  
L: 繁根木八幡宮の入口。  C: 1652(慶安5)年に建てられた鳥居。熊本地震の影響でこちらが熊本県最古の鳥居となった模様。
R: 繁根木八幡宮といえばやはり、江戸時代初期に建てられたこの楼門。神仏習合による独特な雰囲気を決定づけている存在だ。

  
L: せっかくなのでさまざまな角度から撮影してみる。南西から。  C: 北の拝殿側から振り返ったところ。  R: 北東から。

繁根木八幡宮は9年前にも訪れているが、御守を頂戴していなかったのでリヴェンジである。鳥居と楼門により、
神道としてきちんと整備される前の雰囲気が漂っている。しかし拝殿・本殿は明治以降の威容を誇って対照的である。

  
L: 繁根木八幡宮の拝殿。  C: 角度を変えて眺める。多層の屋根が明治的威厳。  R: 本殿。幅がある。

次もまた神社を目指すが、一気に方向転換して北へと豪快に歩いていく。市街地を北西へグリグリと抜けて2km弱、
疋野神社へ。創建は景行天皇が巡幸した時期より古いそうで、祭神はこの地方の守護神である波比岐神とのこと。
そして境内は1300年前に玉名温泉を発見した疋野長者の屋敷跡だそうで、本殿裏には疋野長者御神陵と泉がある。

  
L: 疋野神社の一の鳥居。1980年に建てられたが、幅と高さのバランスが独特だ。  C: スロープとなっている参道を行く。
R: 進んで二の鳥居。八代城主・長岡筑後守が寄進したが、どうやら松浜軒(→2011.8.9)を整備した松井直之のことみたい。

  
L: 境内の様子。  C: 拝殿。  R: 角度を変えて拝殿と本殿を眺める。この地域の各高校が描いた干支の絵馬が飾られている。

  
L: 北東から見た本殿。1691(元禄4)年に細川綱利が造営した。  C: 本殿裏の疋野長者御神陵。  R: 脇には「長者の泉」。

御守を頂戴して参道を戻る途中、ネコに遭遇。わりとツンデレ色の強いネコで、リラックスモードでのんびりしつつ、
腰を下ろしたこちらの膝下をこすって通り抜けたり爪先に寄り添ってきたり。甘え上手さんめ、とメロメロになる弱い私。

 
L: ネコ登場。  R: こうなってしまうともう、こちらはネコの言いなりである。

断腸の思いでネコと別れると、一の鳥居が面している長者通りを東へ歩いて玉名温泉の中心部へと入っていく。
しかし温泉には浸からない。それは明日にとっておくのだ。繁根木川を渡って温泉大通りからカーヴをそのまま南へ。
そこにあるのは新しい玉名市役所なのだ。9年前に書いたとおり旧市役所の建て替え計画が進んでいたが(→2011.8.8)、
実は2009年に計画の見直しが始まっており、場所を「市民会館付近」と再決定してから設計も見直されていたのだ。
結果、基本設計は山下設計九州支社、実施設計は日総建となった模様。竣工は2014年だが、開庁は翌2015年。

  
L: 玉名市役所。繁根木川左岸の郊外に移転したことで駐車場が広々としている。周りには公共施設が集積。
C: 近づいて南東から撮影。  R: そのまま東側の側面を見上げる。すぐ隣に附属棟があるせいでこれが限界。

  
L: 抜けて北東から見たところ。背面は見事に「裏側」って感じですな。なお北側もすぐ近くに車庫があって撮りづらい。
C: せっかくなので温泉大通りを進んだカーヴの脇から見た背面。市役所の周囲が田んぼだらけとなっているのがよくわかる。
R: 道路を挟んで眺める西側の側面。ちなみにこの写真は玉名合同庁舎を背にして撮影している。公共施設集中地帯。

  
L: 南西から。  C: 距離をとって眺める。  R: 敷地内からエントランス付近を見たところ。まあ、ふつうですね。

周囲の公共施設についても撮影してみる。まずは市役所の南西、玉名市民会館。使用するフォントからこだわっており、
角度をつけてガラスを並べてかなりオサレな感じ。設計は大建設計九州事務所である。実はまだ工事が完了しておらず、
今月竣工するみたい。では今までの玉名市民会館はというと、200mほど南の玉名市保健センターの向かい側にある。
これがなかなかいい感じのモダニズムホールなのだが、新市民会館の完成によりやっぱり閉館・解体となるようだ。
1967年竣工ということで、仕方がないか。なお、設計は福岡を拠点としていたという野見山建築設計事務所とのこと。

  
L: 新しい玉名市民会館。もうほぼ竣工同然だが、コーンで入れないようにしている。コロナの影響で閉鎖ではないのね。
C: 今までの玉名市民会館。かつては2階建ての別館がくっついていたそうだ。  R: 南西から眺める。X型の柱がいいなあ。

新旧2つの玉名市民会館に挟まれた位置にあるのは、玉名市立歴史博物館こころピア。公共施設だらけだなあ。
スロープがやけに目立つ建物で、言われないと歴史博物館とは思えない。1994年の開館で、設計はなんと毛綱毅曠。
毛綱毅曠というと個人的には「釧路の都市景観をめちゃくちゃにした人(→2012.8.172012.8.18)」でしかないので、
いいイメージはまったくない。皆無。ぜひとも中を見てみたかったが、新型コロナウイルス感染症拡大防止で臨時休館中。
もう本当に観光が難しい状況になってきている。とりあえず、建物の外側をできる限りで歩きまわってみるのであった。

  
L: 道路を挟んで眺める玉名市立歴史博物館こころピア。まずそもそも「こころピア」って名前がどうなのか。
C: 南側から見たところ。  R: スロープをクローズアップ。こういう構造物は嫌いではないが、必要性はわからん。

  
L: 西側の駐車場っぽい空き地から見たところ。  C: 太鼓橋みたいな階段で屋上部分へ。コンクリートが傷んできている。
R: 白い柱は屋外展示塔「十六」ということで、中には人形や山車など玉名の歴史を象徴するオブジェが入っている。

  
L: 屋上からスロープへ。  C: いちばん高いところは展望台になっている。  R: 展望台から見た玉名市役所。

市役所や歴史博物館では、大河ドラマ『いだてん』前半の主人公・金栗四三が玉名市出身ということで熱烈アピール中。
僕は金栗四三のストックホルムオリンピックのエピソード、失踪騒ぎと55年後のマラソン完走最長タイムの世界記録、
どっちもめちゃくちゃ好きで、英語テストの長文問題にも出したくらいだ(長野県の高校入試問題を元ネタに英文を追加)。
だからアピールは嬉しいが、東京オリンピックに利用されるのはイヤな気分。玉名市は末長くアピールを続けてほしい。

 
L: 玉名市立歴史博物館こころピアにたくさん置いてある幟。  R: 市役所の車庫にあったマイクロバス。かなりの気合いだ。

玉名市役所前バス停から山鹿バスセンター行きのバスに乗り込む。玉名市の次の目的地は、山鹿市である。
昨日の菊池市の北側に位置しており、鞠智城址は実は両市域にまたがっていたのだ。今日は山鹿市の中心部を攻める。

 菊池川の川岸一面を黄色く染める菜の花。

終点までは行かず、山鹿郵便局前のバス停で下車する。ここからまっすぐ北へ行くと山鹿市役所なのだ。
雰囲気としてはかなり歴史ある商店街で、アーケードはあるけど仕舞屋ばかり。東側は区画整理をした感触もあり、
その延長線上で整備された印象の、一段高い市役所の敷地に入り込んでいく。設計は久米設計で、2014年に竣工した。

  
L: 山鹿市役所。向かって右、東側が山鹿市役所本庁。左の西側は山鹿市民交流センター。セットで竣工している。
C: エントランス。右が山鹿市役所で左が山鹿市民交流センターとなる。  R: 山鹿市役所の中はこんな感じ。

  
L: あらためて正面(南)から見た山鹿市役所。  C: 少し南西から。  R: 南東から。まあ、ふつうの庁舎建築である。

  
L: 南東の道路から見たところ。  C: 北東から東側の側面を見る。縦の線が入ってたいぶ印象が変わる。
R: 敷地を出て北東から見た背面。最上階に議場が入っているのがわかる。縦縞とガラスの横線が対照的だ。

  
L: 北から見た背面。  C: 北西から。敷地の高低差がわかる。  R: さらに西へ。手前が山鹿市民交流センター。

  
L: 西から見たところ。山鹿市民交流センターしか見えない。  C: 南西から見上げる山鹿市民交流センター。
R: 南から見た山鹿市民交流センター。かつては山鹿高等女学校(後に山鹿高等学校)がこちらに建っていた。

  
L: あらためて両方の建物を眺めつつ高低差を味わう。  C: 南東から見た山鹿市民交流センター。  R: 東に寄って見る。

山鹿市民交流センターの中にも入ってみる。1階は文化ホール、2階は「こもれび図書館」となっているが、
新型コロナ対策ということで休館中。いちおう1階は開放されていたが、学生が勉強することもなく無人なのであった。

  
L: 山鹿市民交流センター。2階の図書館への階段は閉鎖されている。  C: 進んでいったところ。右手は文化ホール。
R: そのまま1階を西側へ。市役所をシンプルにしている分、市民向け滞留空間をこちらに振っているのだろう。

観光がぜんぜんできない状況になりつつあるなあと思いつつ、八千代座へ向かう。街に観光客の姿は思ったより多く、
八千代座もふつうに開いていた。山鹿市が熊本県の観光地として一定の人気を得ていることが、しっかり実感できた。

  
L: 八千代座前の通り。構造としては、先に八千代座をつくって、後からその前に横向きの道を通した、という感触がする。
C: 正面から見た八千代座。2001年に修理が完了したそうで、なるほど小ぎれい。  R: 八千代座の側面はこんな感じ。

八千代座は1910(明治43)年に建てられた芝居小屋で、山鹿の商工会が組合をつくり、1株30円で資金を集めて建てた。
設計したのは回船問屋の主人で灯籠師(後述)の木村亀太郎。建築については素人だが各地の劇場を参考に建てたそうだ。
しかし戦後に娯楽が多様化したことで利用頻度が落ちていき、映画館として利用されるも、1973年に閉館してしまう。
雨漏りで屋根が裂けるほど、ひどい状況だったようだ。その後、老人会による「瓦一枚運動」で屋根瓦を修復すると、
復興への機運が高まっていく。1988年には国指定重要文化財となり、2001年に平成の大修理が完了して今に至る。

  
L: 八千代座を入って右、木戸口。  C: 2階の向桟敷。  R: 天井を見上げる。宣伝がいっぱいで、非常に面白い。

明治や大正の頃の劇場建築は、今までに内子町の内子座(→2010.10.12)と小坂町の康楽館(→2014.6.29)を見ている。
タイプとしては内子座と同じで、地元有志が和風を基礎に建てている印象(康楽館は同時期だが洋風の要素がある)。
それだけに、天井から提がっているシャンデリアがたいへん誇らしく見える。カラフルな宣伝の天井画や看板と、
絶妙にマッチしているのである。明治という時代の本質は、こういうところにあるのかな、と思うのであった。

  
L: 下手桟敷。  C: 向桟敷から見た舞台。洋風のシャンデリアの調和ぶりがなんとも不思議。  R: 上手桟敷。

  
L: 舞台を背にして花道から客席を眺める。  C: 地下の廻り舞台。人力で回す。  R: 花道の下、すっぽん。これも人力。

ぜひこの劇場での公演も観てみたいものだなあと思いつつ西へと抜ける。ほかの観光客と一緒に坂を南へ下っていくと、
山鹿灯籠民芸館。もともとは1925(大正14)年築の安田銀行山鹿支店として建てられており、国登録有形文化財である。
案内板の説明によると「『分離派』に位置づけられる」とのことだが、自分はそう思わない。標準的な銀行建築だろう。

  
L: 山鹿灯籠民芸館(旧安田銀行山鹿支店)。日本の分離派はもっとアール・デコに近くて作家性が出ているものだと思うが。
C: 背面。  R: 内部はこんな感じ。銀行らしい面影はあまりなく、耐震補強しつつ展示施設として割り切って改装している。

  
L: 天井には『双龍の絵』。これは熊本藩の山鹿御茶屋(休泊所)にあった、藩主・重臣用の御前湯の天井絵とのこと。
C: 階段。銀行らしいのはここぐらい。  R: 2階には鶴田一郎による山鹿灯籠まつりのポスター原画が展示されている。

さて、ここで山鹿灯籠についてまとめておく。灯籠というと寺や神仏習合色の強い神社の軒によく提がっているが、
山鹿灯籠は和紙と少量の糊だけでつくられているのが特徴。室町時代からの歴史があり、職人を「灯籠師」と呼ぶ。
祭りでは、この金灯籠を頭に乗せた女性が大量に集まって踊る 「千人灯籠踊り」がハイライトになるとのこと。
山鹿市民にとって山鹿灯籠はかなり強烈なアイデンティティである模様。街のあちこちに関連オブジェが置いてある。

  
L: 奥の別館では灯籠師の作業を見学可能。体験もできるようだ。  C: 擬宝珠部分。6つのパーツを貼り合わせている。
R: 近くにある金剛乗寺の石門。眼鏡橋の築造技術を応用している。1804(文化元)年に地元の石工・甚吉がつくったそうだ。

見学を終えるとそのまま南へ抜けて、山鹿温泉さくら湯へ。昨日の菊池温泉は1954年開湯とかなり歴史が浅いのだが、
山鹿温泉は中世初期からの歴史がある。保元の乱で敗れた源親治が山の中に鹿が集まっていたのを見て温泉を発見し、
それで「山鹿」という地名が生まれたという。現在さくら湯がある場所には上述の熊本藩の御茶屋があったのだが、
明治以降は市営のさくら湯となった。ちなみに藩主から藩知事となった細川護久は、市営化に大いに協力したそうだ。
1898(明治31)年には道後温泉本館(→2007.10.62010.10.112016.7.17)の棟梁を招いて建物を大改修している。
しかし1973年に大規模再開発によって建物は取り壊され、入口の破風だけ残してさくら湯はビル内で営業を続けていた。
往時の姿を再現した木造建築として復活を果たしたのは、2012年のこと。実に激しい紆余曲折を経て今があるのだ。

  
L: 山鹿温泉さくら湯。これは国道325号を挟んで北から見たところだが、浴場としての入口は裏の南側である。要注意。
C: 北側の入口をクローズアップ。  R: こちらが南側の入口。朝6時から日付が変わるまで営業、入浴料は350円。偉い。

 
L: さくら湯の敷地南東には薬師堂がある。その門と山鹿温泉の碑。奥には温泉プラザ山鹿があり、まさに市の中心部だ。
R: 薬師堂。いったん温泉が絶えてしまったが、金剛乗寺の住職・宥明法印が薬師堂を建てて祈祷したら復活したそうな。

温泉には後でじっくり浸かるとして、豊前街道をさらに南下する。菊池川のすぐ手前はかつての水運の拠点であり、
今も古い建物が残っているのだ。中心となっているのは千代の園酒造で、複数の建物を今も現役で利用している。
それぞれの建物の詳しいことがわからないのは少しもったいないが、山鹿の観光地としての魅力を増幅する場所だ。

  
L: 緩やかなカーヴの豊前街道・下町(しもまち)。  C: 上田の旧常田館四階繭倉庫(→2015.10.18)みたい。圧倒される。
R: 千代の園酒造。元は米問屋で、1896(明治29)年に酒造りを開始。米問屋だっただけに純米酒へのこだわりが強いとのこと。

  
L: 詳しいことはわからないが、向かいにはモダンな建物。  C: その南には麹の木屋本店と千代の園の酒造り史料館。
R: 南西から見た千代の園酒造。街道を挟んで売店・酒造り史料館の向かいになる。こちらが現在も本社であるようだ。

  
L: 木屋本店・酒造り史料館の一角。  C: 木屋本店の内部。  R: 菊池川の堤防から眺める豊前街道。

300mlの千代の園を1本買って後で飲んだのだが、酒に弱い僕でも口に含むとそのままさらりと飲めてしまって、
こんなに飲みやすい日本酒があるのかと驚いた。酒蔵を訪れたら酒の方もチェックしないといかんなあ、と思った。

街並みをしっかり味わうと、東の大宮神社へと移動。山鹿灯籠は大宮神社に奉納される灯籠から発展したのだ。
もともとは景行天皇が九州を巡幸した際に行宮を営んだ場所で、そこに景行天皇を祀ったことで創建された。
「大宮」とはその行宮に由来する名称とのこと。社殿は1756(宝暦6)年に熊本藩第6代藩主・細川重賢が再建。

  
L: 大宮神社の入口。  C: 鳥居をくぐって楼門。  R: 楼門をくぐって拝殿。こちらは1943年の県社昇格を機に建てられた。

  
L: 本殿。屋根の角度がわりと急。  C: 境内北側には石碑や石の祠で境内社がいっぱい。なかなか独特な雰囲気である。
R: 授与所(手前)と望楼が印象的な燈籠殿(奥)。奉納された山鹿灯籠を展示。なお大宮神社は「燈籠」表記にこだわりあり。

二礼二拍手一礼して御守を頂戴すると参拝完了。これで山鹿市中心部の名所はひととおり押さえたはずである。
では、市街地を歩きまわった中で見つけた山鹿灯籠関連オブジェをご紹介。アイデンティティっぷりを実感するなあ。

  
L: 山鹿灯籠仕様の街灯。  C: 郵便ポストの上に載っている山鹿灯籠。ご丁寧に中に「〒」マークが入っている。
R: 山鹿灯籠民芸館の脇に置いてあった、山鹿灯籠が描かれているマンホールの蓋。実際に街のあちこちにあるみたい。

 
L: カローラ熊本・山鹿店。山鹿灯籠をモチーフとしているように思うのだが……。  R: 看板のてっぺんにしっかり山鹿灯籠。

最後に山鹿温泉に浸かるのだ。さくら湯に戻って中に突撃。脱衣所から階段を少し下りて湯船となっているのだが、
全体を低くしている分だけ天井が高くなっていて、おそらく実際よりもかなりゆったり広い印象のする空間となっている。
客はそこそこ多かったと思うのだが、不思議とあまり気にならなかった。湯船内の仕切りの入れ方が上手いのだと思う。
さらに明治の雰囲気を意識しているということで、あえてレトロなデザインにしたポスター広告を壁に並べている。
かつて味気ないビル内での営業となった反省か、たいへん演出が上手く、良いお湯に浸かる以上の満足感があった。

存分に山鹿温泉を堪能すると、バスで1時間半ほど揺られてSAKURA MACHI Kumamotoに戻ってくる。
昨日の菊池温泉にしても今日の山鹿温泉にしても、本当にすばらしかった。さすが火の国、とメロメロな夜なのであった。


2020.3.20 (Fri.)

春分の日の3連休。新型コロナがだんだんと迫ってきているが、旅行を決行するのである。この先どうなっていくのか、
まったく予想がつかない展開になっている。動けるときに動いておかないと後悔することになるだろう、そう信じて。

で、今回の目的地は熊本県。南部は2016年の地震(→2016.4.142016.4.152016.4.16)から復興の途上だが、
まだ訪れたことのない街が多い北部は比較的ダメージが少ない印象である(市役所の被害状況をもとにした僕の偏見)。
そんなわけで、ここで熊本県北部の市役所を押さえてしまおうというわけ。さらに熊本市内の神社も押さえるつもり。
そしてなんといっても温泉である。菊池・山鹿・玉名の各市には中心部に温泉があるので、3日連続で浸かるのだ!

  
L: 阿蘇山上空にて。12年前に登ったっけ(→2008.4.29)。こうして見ると、いつ噴火するかわからない迫力がすごい。
C: 阿蘇山の外輪山。カルデラの底が農地になっているのに対し、外輪山の内側が森林、外側が荒地と、かなり差がある。
R: ざっくり右奥が菊池市で左手前が合志市だと思うのだが、溶岩台地が侵食された感じか。菊池市は扇状地上にある。

 空港から見て南西方面になるのかな。熊本市街の南側を望む感じ。

熊本空港に着陸すると、空港ライナーでまずは肥後大津駅へ。本日最初の目的地は合志(こうし)市なのだが、
こちらの市役所、時間的にうまくアクセスする手段がない。結局は肥後大津駅からタクシーとなるのであった。無念。

  
L: 熊本空港に到着。記念に撮っておく。  C: 肥後大津駅へ向かうバスから撮影する阿蘇山。煙を吹いておりますね……。
R: 肥後大津駅。むしろ青い看板の「阿蘇くまもと空港駅」という文字の方が圧倒的に大きい。サッカーの強い大津高校が近い。

熊本空港は熊本の中心部へのアクセスに特化していて、周辺施設や自治体へのアクセスは悪い印象だ(→2008.4.29)。
合志市は2006年に合志町・西合志町が合併して誕生したので、もともと「町」レヴェルの場所なんて直で行けっこない。
でもスケジュール的に最初に押さえておきたかったのだ。我慢してタクシーで合志市役所に乗り付けるのであった。
合志市役所は1990年に合志町役場として竣工。かつて「こうし」は「かはし」と呼んだらしいが、合志郡として定着。

  
L: 合志市役所。まずは南側の駐車場から見たところ。  C: 敷地内に入る。  R: 少し西にずれて眺めたところ。

  
L: さらに南西へ。  C: 北西から見た側面と背面。  R: 北東にまわり込む。右にくっついているのは防災拠点センター。

  
L: 東側の側面。   C: 南東に戻ってきた。  R: では市役所の中へと入ってみるのだ。

  
L: 車寄せ。いかにも平成である。  C: 中はこんな感じ。  R: 祝日だが中を覗けるのはありがたい。

合志市役所の東隣は、合志市総合センター「ヴィーブル」。1995年竣工で、フランス語で「生きる」という意味だと。
1階に福祉系のセクションが入っているほか、複数の施設を合体させた福祉・文化・体育の総合拠点となっている。
具体的には、総合体育館・文化会館・中央公民館・福祉会館・合志図書館・合志歴史資料館・トレーニングルームと、
もうなんでもあり。役所とホールのセットは1970年代以来の定番パターンだが、ここまで詰め込んだのは珍しい。

  
L: ヴィーブルの北側は総合体育館。  C: 市役所を向いている南西側がエントランス。
R: 少し離れて南西から全体を眺めたところ。見てのとおり、複数の棟から構成されている。

撮影を終えると北へ歩くこと1.5km、竹迫(たかば)日吉神社に参拝する。特別に有名な神社というわけではないが、
1200(正治2)年に合志郡の地頭だった中原師員(鎌倉幕府の第4代将軍・九条頼経の腹心として活躍)が創建し、
周辺の氏神として崇敬されている神社である。神職さんにはよくしていただいた。御守が無事に頂戴できてありがたい。

  
L: 境内入口。  C: 楼門。安土桃山時代に建てられたと推定されている。  R: 角度を変えて眺める。

  
L: 拝殿。  C: 角度を変えて全体を眺める。社殿は宝永年間の再建とのこと。  R: 本殿をもう一丁。

参拝を終えると、さらに北東の竹迫城跡公園へ行ってみる。竹迫城は先ほどの中原師員が築いた城で、
戦国時代初期までは子孫の竹迫氏が治め、後に合志氏が城主となる。土塁中心で石垣のない中世の城である。

  
L: 「竹迫」ということでか、さまざまな竹が植えられた竹植物園が整備された一角。  C: 上から見下ろしたところ。
R: いちばん高い本丸跡。石碑には「合志城阯」とある。ベンチも置かれて、いかにも城跡を公園にしました、という雰囲気。

  
L: 北側の土塁跡は遊び場になっている。地元の皆さんがそりを持ってきており、その遊び方が定着している模様。
C,R: いかにも中世の城跡らしい曲線。これがしっかり残されている辺りに、地元のプライドを感じる。

最後に竹迫日吉神社の裏手にある豊岡宮本横穴群を見てみる。約1500年前、古墳時代後期の有力者の家族墓だそうだ。
31体分の人骨のほか、貝輪・金環・ガラス玉・鉄鏃といった副葬品が発掘されている。手を合わせつつ見学する。

  
L: 豊岡宮本横穴群。2003年、塩浸(しおひたし)川の法面保護工事の際に発見された。  C: 横穴群と脇を流れる塩浸川。
R: 工事で削ってしまったため、それで内部を見やすくなった7号墓。なお、この穴からは人骨も副葬品も出土していない。

合志市役所に戻ると、コミュニティバスに乗って熊本電気鉄道菊池線の終点である御代志(みよし)駅へ。
かなり特徴的な駅で、列車のプラットホームとバス停が合体している。おそらく昔は駅舎があったが撤去されて、
ホームがそのまま駅舎代わりとなったのだろう。結果として、少しBRTの駅っぽくなっている(→2018.8.18)。

  
L: 御代志駅。奥に列車が停まっている。手前側がバスのロータリーとなっているが、おそらく元は駅舎があったのだろう。
C: ホームにて。なかなか不思議な光景である。  R: 菊池線の最果て光景。かつてはこの先の菊池駅まで線路が延びていた。

熊本電鉄バスに乗り換えて国道387号を北上し、菊池市を目指す。かつては菊池線がそこまで延びていたのだが、
1986年に廃止されている。30分ほど揺られて、中央通りのバス停で下車。そこから歩いて、まずは菊池市役所へ。

  
L: 菊池市役所に到着。これは北西から見たところで、増築部分となる。  C: 西から見た増築部分。  R: エントランスから。

菊池市は2005年に新設合併した際、新しい市役所を3.5kmほど南の菊池グリーンロード周辺に建設する予定としていた。
しかし1968年竣工の本庁舎を増改築する方針に変わり、北側に新たな庁舎をくっつけた。設計は梓設計で、2016年竣工。

  
L: 中に入るとこんな感じ。  C: 南側は1968年竣工の建物を改修している。   R: 南西から菊池市役所全体を眺める。

  
L: あらためて南西から。こちらの3階に議場が入っている。  C: 南東から。  R: 北東から。こちらは2016年竣工部分。

  
L: 駐車場から距離をとって北側を眺める。  C: 西寄りで眺める北側。  R: 北西から。これにて一周完了である。

市役所を撮り終えると、北東にある菊池神社を目指して歩いていく。もともとは菊池氏が本拠とした菊池城であり、
急峻なわけではないが市街地を見下ろすどっしりとした山がそのまま山城として利用されていたのがなんとなくわかる。
とりあえず国道387号で登っていくが、広い山全体が山城の雰囲気を残したまま公園として整備されており、
スケールが大きくて戸惑った。麓の「ふるさと創生市民広場」もやたらと広大だ。これが南朝の雄・菊池氏のプライドか。

  
L: 国道387号で菊池城址の菊池公園に入る。  C: 麓の「ふるさと創生市民広場」を見下ろす。  R: 菊池神社の南側参道入口。

菊池神社の参道は「ふるさと創生市民広場」の脇を通る西側が表参道だったので、あらためてそちらから参拝する。
神社に主祭神として祀られているのは、南朝方で戦った菊池武時・武重・武光の3代。菊池氏は16世紀初めに没落したが、
明治の南朝顕彰ブームに乗って1870(明治3)年に菊池神社が創建されて、建武中興十五社のひとつとなっている。

  
L: あらためて菊池神社の表参道入口。  C: 街灯には菊池氏の家紋「並び鷹の羽」。  R: 電話ボックスもやる気である。

  
L: 参道を行く。やたら長いレッドカーペットだが、今年は神社創建150年、菊池氏発祥950年ということでそうなっているのか。
C: やっとこさ二の鳥居に到着。  R: 石段を上って南からの参道と合流する。明治にしても、なかなか独特な空間構成である。

  
L: 参道の合流点から見上げる神門。  C: くぐって拝殿。  R: 奥の本殿。いかにも明治らしいかっちりした感じ。

参拝を終えると、ふるさと創生市民広場へ。その名前からしてふるさと創生事業の1億円で整備したのかと思ったら、
どうもその真ん中にある菊池武光公騎馬像に大部分を突っ込んだらしい。騎馬像として日本一の大きさなんだとさ。
菊池武光は菊池氏の中でも最も活躍した武将で、懐良親王(→2011.8.9)を迎えて大宰府を制圧するほどの力を誇った。
しかし室町幕府が九州探題として送り込んだ今川了俊によって大宰府を奪われ、勢力が弱まっていく中で亡くなった。
(その後、征西将軍職を良成親王が継ぐが、九州の南朝方はどんどん追い詰められていくことになる。→2017.8.6

  
L,C: ふるさと創生市民広場。テントでくつろぐ家族連れ多し。  R: 菊池武光公騎馬像。皇居の楠木正成を意識しているな。

残った時間で菊池市の中心部を動きまわる。もともとこの辺りは「隈府(わいふ)」という地名であり(隈府町)、
今でもあちこちでその文字を見かける。熊本はもともと「隈本」だったからそれで隈府なのかなと思ったが、
さすがに距離があってその解釈は無理があるようだ。実際は「隈部の府」で隈府とのこと。菊池城は別名を隈府城という。
古い建物が多く残っていて、「菊池」という漠然とした地名に対する反発心と、そうは言っても菊池氏に対する誇りと、
なかなか複雑な感情が透けて見える。隈府という「府」を強調した地名は、その両者を止揚するのにもってこいのようだ。
(どうでもいいが「わいふ」と聞くと、伊集院光がラジオで言っていた「猥褻な婦人と書いて猥婦」を思いだしてしまう。)

  
L: 資料館のある「わいふ一番館」。残念ながら新型コロナ感染対策ということで閉まっており、見学できず。
C: 将軍木と頓宮。将軍とは征西将軍、つまり懐良親王のこと。  R: 菊池松囃子能場。街角にいきなり能舞台。

  
L: 旧松倉家住宅主屋。1932年に建てられた仕出し屋さんの住宅で、国登録有形文化財となっている。
C: 髙木(たかき)医院。1931年の築で、こちらも国登録有形文化財。これは南西側。  R: 道路に面した北西側。

菊池温泉・市民広場前のバス停から山鹿温泉行きのバスに揺られること10分弱、一寸榎のバス停で下車する。
面倒くさいがここから1.5km、西へと歩く。周囲は完全によくある田舎の農地と山。不安になりつつ歩いていく。

 こんな感じの道を行く。

やがて行く先に何やら塔のような建物が現れる。そのうち両脇を固めていた木々が終わってパッと視界が開け、
少し観光地然とした雰囲気の空間となる。鞠智城(きくちじょう)である。点在する建物たちは妙にきれいで、
いかにも復元整備された感触が強い。まあ、それはそれで全盛期のリアリティを感じられると言えばそうなのだが。

  
L: 温故創生館。熊本県が2002年につくった施設で、鞠智城についての展示を行なっている。新型コロナウイルス対策で閉館中。
C: 温故創生之碑。中央に防人、周囲に360°で防人の妻子・憶礼福留(鞠智城築城を指揮した百済の貴族)・巫女・鳳凰を配置。
R: 鞠智城址のシンボルとなっている八角形鼓楼。ここで見張りをしたり、鼓の音で時を知らせたりしたという。

鞠智城が築かれた年はわかっていないが、663年の白村江の戦いで倭・百済遺民連合軍が唐・新羅連合軍に大敗した後、
天智天皇が大野城(→2017.8.5)や水城など、九州に防衛施設を多数建設している。鞠智城もその一環というわけだ。
特に鞠智城の場合は、大宰府を意識して物資を貯蔵する兵站拠点という意味合いが大きかったとされている。
当時の空間スケールだと違和感がなかったのかもしれないが、現代の感覚だと異様に広範囲に防衛拠点を築いた感じ。
よっぽど天智天皇が神経質だったのか、唐や新羅の勢いが本当に強烈だったのか……。いろいろ想像しながら歩きまわる。

  
L: 米倉。この周りから大量の炭化した米が見つかったので、米倉として再現したそうだ。高床の校倉造りとなっている。
C: 兵舎。防人たちが暮らしていた空間を再現。   R: 板倉。兵舎に近いので武器などを保管するための倉庫として再現。

  
L: 長倉(ちょうそう)と呼ばれる大規模な倉庫だったと思われる宮野礎石群(手前)と、八角形鼓楼・米倉。
C: 板倉の辺りから南側を眺める。土を積み上げて叩いて固める大陸伝来の技法「版築」で築かれた土塁が見える。
R: 当時の建築技法で建てられている長者山展望広場休憩所。一見すると寺のような雰囲気で、建築史的に興味深い。

  
L: さらに西の灰塚展望所へと向かう道。  C: 灰塚展望所。  R: こんな景色が広がる。当時からあまり変わってなさそう。

大野城は山をそのまま防衛拠点としていたのに対し、鞠智城はある程度開けている丘の上に多数の建物を並べており、
多賀城(→2013.4.28)や秋田城(→2016.7.31)といった、国府の機能を兼ねた東北の城柵に近い雰囲気がある。
大宰府・大野城から離れている分だけ「やっぱ攻めてこないんじゃね?」という穏やかさを感じる空間となっている。
鞠智城は10世紀後半には役割を終えたというが、荘園や武士の時代になって国内事情が変化したことを反映してそうだ。

16時過ぎ、菊池市の中心部に戻ってくると、待望の菊池温泉に浸かる。ふるさと創生市民広場近くの旅館にお邪魔し、
広々とした内湯も露天も独占状態。湯加減も絶妙で、もう何もかも最高なのであった。蕩けるほど浸かって大満足。

 
L,R: あまりに感動してわざわざ撮ってしまった。湯量豊富、無色透明だけどエメラルドに輝くんだと。でも本当にいいお湯。

夢見心地で旅館を後にすると、近所でネコに遭遇。バスを待ちつつ、ネコたちと静かに戯れるのであった。
温泉の余韻でフニャフニャしている僕はネコにとってはそうとう珍妙だったようで、なんだか呆れられた視線を感じた。

 僕にとって温泉はネコにとってのマタタビ級なのだ。少し呆れ気味か。

バスで御代志駅に戻ると、熊本電鉄に揺られて終点の藤崎宮前駅へ。そこから上通で熊本ラーメンをいただいた。
初日に非常にいい天気で2つの市役所を押さえることができた。しかも菊池市は僕が想像していた以上に面白い街だった。
何より温泉が最高だった。こんな楽しい旅行ってねえよー!と唸りながら眠りにつく。旅行を決行して本当によかった。


2020.3.19 (Thu.)

卒業式でした。戦争や震災などで例年どおりに行えないことはあっただろうけど、全国一斉にイレギュラーというのは、
さすがに近代以来ほとんどないことなのではないか。それくらい、落ち着かない気持ちを無理に抑えての卒業式だった。

まず、生徒が学校に滞在できるのは3時間ということで、練習で1時間、本番で1時間、まとめの学活で1時間と設定。
来賓はもちろんナシで、来場できる家族も2名までに限定。在校生もナシなので答辞が「卒業生代表の言葉」になった。
練習の1時間では、礼のタイミング、証書授与での動き方、歌の練習をぜんぶやる。イマイチ緊張感に欠けていたので、
マイクで怒鳴ったり。声がぜんぜん出ていないので、メロディよく知らんけど一緒に歌ったり。やれるだけやっておく。

そして本番。在校生がいないと拍手が薄くてけっこうつらい。しかし卒業生たちは堂々と歩き、証書を受け取り、
歌も見違えるほどの声量で、逆境にもまったく屈することなく感動を巻き起こして体育館を去っていったのであった。
「非常事態のわりには」とか「準備不足のわりには」という条件付きではない、見事な卒業ぶりだった。よかった……。

例年であれば校庭で歓送があるわけだが、今年は昇降口からそのまま退出。しかし玄関先で記念撮影タイムとなり、
なかなか3時間で撤収まで完了というわけにはいなかった。しかしまあ、こればっかりはしょうがあるまい。
卒業式がせわしなくって名残惜しけりゃ、その分だけ頻繁に同窓会をやればいいのである。いずれのんびり再会しよう。


2020.3.18 (Wed.)

二次創作について前にがんばって書いたことがあるけど(→2007.11.9)、ふと思ったことがある。
それは、「究極の二次創作」はテクモの『キャプテン翼II』(FC)なのではないか、と。原作への愛情を深く感じるし、
そのうえでオリジナル要素を絶妙なバランス(それっぽさ)で加えていて、なおかつすばらしい完成度を誇っている。
元ネタの荒唐無稽な世界観をまったく違和感なく再現していて、それでいてゲームとしても抜群に面白い(→2008.9.17)。
ぶっちゃけ、二次創作であるテクモの方が元ネタよりも支持されているわけで、これこそ二次創作の究極形ではないかと。
なんというか、ここまで「正統/正当な進化」を遂げた存在って、そうそうないと思うのだ。うわ、遊びたくなってきた。


2020.3.17 (Tue.)

昨日公開した『逆説を見抜く。』について、社会の先生から「社会はないんですか……?」と訊かれたのであった。

僕としては、あまり長くなっても格好悪いので、とりあえず主要3教科に絞って書いたのが『逆説を見抜く。』なのだ。
というのも、国・数・英は人間の性格や能力に直接関わってくる教科だから。いちばん基本的な部分を構成する教科だ。
思考の細かい経緯は、10年前のログにすでにまとめてある(国語 →2010.8.2、数学 →2010.8.3、英語 →2010.8.4)。
またそこに至るまでの経験も、塾講師時代のログで書いている(国語 →2004.4.30、数学 →2004.6.21)。参照されたし。

国・数・英の3教科に対し、理科と社会は方向性の異なる意義を持っている。それは、「科学である」ということだ。
人類が今まで積み上げてきた英知を受け止め、それを次へつないでいくこと。そこに理科と社会は関わっている。
ここで重要になるのは、プロセスの再現性だ。つまり、人類みんなが同じ知を共有できる手続きが必要なのである。
これがないと科学とは言えない。宗教上の奇跡では困るのだ。僕が社会学部から理系の大学院に進んで苦しんだのは、
論文には科学としての正統性が求められるという点。感性だけでは科学はできない、とさんざん思い知らされたものだ。
(和辻哲郎の『風土』はたぶん正しいが、彼の天才的な感性だけで成立しているので、科学的ではない。→2008.12.28
人類の一員として受け継がなければならない科学のセンスや好奇心を養うのが、理科と社会を学ぶ意義である。
具体的には、理科では物質と物質、人間と物質の関係性を扱う(→2010.8.5)。つまり物質を主な切り口としている。
それに対し、社会では人間と人間、人間と物質の関係性を扱う(→2010.8.6)。つまり人間を主な切り口としている。
どちらも膨大な知の蓄積が存在しており、国・数・英で鍛えられる力と比べると、2次的な段階での能力となる。

さてそうなると、実技教科はどうなんだ、ということになるだろう。答えは簡単で、「人生を豊かにしてくれる」。
美術も音楽も保健体育も技術家庭も、どれもわれわれの人生を豊かにしてくれるものだ。できるに越したことはない。
(しかしこうしてみると、学校で勉強する9教科は本当によくできている。見事に完成されているのである。)

以上は必ずどこかで生徒全員に話している内容だ。そして、「勉強ができるということは魅力的な人間になることだ」、
そうまとめる。ただし、人間には得意不得意があるので、すべての教科が得意である必要はない、と続ける。
自分が不得意な部分で他人に頼ること、また他人が喜んで手を貸してくれる人間になることが大事、これが結論である。


2020.3.16 (Mon.)

逆説を見抜く。

ぎゃくせつ【逆説】 一見、真理にそむいているようにみえて、実は一面の真理を言い表している表現。

物事には原因と結果があり、それをまとめて「因果」という。
この因果を捉える力が、きみがふだん数学の授業で鍛えている論理的思考力だ。
結果から正しい原因を分析し、原因から正しい結果を推測する。
現在に至る過去、現在から至る未来。
一時の感情や利己的な心に流されることなく、澄んだ目で現実を見つめなければ、
きみは誤りに満ちた世界を生きることになるだろう。

蜘蛛の巣のように複雑に編み込まれた因果により、世界のすべては繋がっている。
いま、指先で糸を弾けば、それは波となってどこまでも広がっていく。
そのずっと先にある光景が、きみには見えているだろうか。
そこにいる他者の姿とその心のあり方を思う力こそ、きみがふだん国語の授業で鍛えている想像力だ。

また、世界の端々からきみの手元に、反作用の波が返ってくる。
波は必ず共鳴し、干渉し、きみの求める純粋な音色が響くことはない。
それでも因果の糸を弾くきみは、この世界に存在する無数の他者とどのように共鳴し、干渉し、
可能な限りで美しい音色を奏でることができるのか。
ふだん英語の授業で鍛えている柔軟性をもって、他者と共に生きる知恵を磨かなければならない。

他者と生きる世界は複雑だ。
一見、正しそうな因果が実は真理から遠く、無関係に見えるものが深い因果で結ばれていることは、決して珍しくない。
また、実際は原因と結果が逆であることも、よくある真理だ。
世界を動かす逆説を見抜く力を、大切に育ててほしい。
卒業おめでとう。

(version 2.71β)


2020.3.15 (Sun.)

今日も今日とて青春18きっぷでの日帰り旅である。今回のテーマはズバリ、「茨城サイクリング旅」なのだ。

何度か日記で書いてきたように、茨城県の郊外社会っぷりは凄まじい。同じ北関東でも明らかに栃木・群馬とは異なる。
土地がとにかく広大で人口密度が低く、モータリゼーションの進行によって赤字にあえぐ鉄道が廃止されていく。
やがて合併により市ができるが、もともと「町」レヴェルだった街の規模は変わらず、荒野に集落が点在したまま。
しかし市役所という結果は発生するため、どうにかして訪れなければならないのである。市役所マニアは本当につらい。
(これまでの苦闘の記録はこちらを参照。バスと徒歩を駆使してばっかりだ。→2015.12.202017.7.292018.11.21

ところがそんな茨城県には、「つくば霞ヶ浦りんりんロード」なるものが存在するのである。
これはかつての筑波鉄道の廃線跡をサイクリングロードとして整備した「つくばりんりんロード(→2015.1.10)」と、
霞ヶ浦を一周するサイクリングロードである「霞ケ浦自転車道」を統合し、2016年に誕生した(茨城県道505号)。
茨城県はこの事業にかなり力を入れており、昨年から始まったナショナルサイクルルート制度の第1弾ということで、
「ビワイチ(琵琶湖一周ルート)」「しまなみ海道」とともに指定を受けている。サポート体制も充実しており、
レンタサイクルを借りることもできる。というわけで、今回はそれを利用して市役所めぐりをかますのである。

朝の9時に常磐線の高浜駅に到着。石岡の1つ手前、霞ヶ浦のほぼ北端にあり、ふだんなら絶対に降りることのない駅だ。
まずはここから東へ恋瀬川に沿って歩いていき、いづみ荘という割烹旅館にお邪魔する。ここで自転車を借りるのだ。
穏やかな片田舎の割烹旅館を朝イチで訪れるなんて初めてなので緊張するが、わりとスムーズに手続き完了し、いざ出発。
最初の目的地は小川鎮守の素鵞神社。県道144号で霞ヶ浦沿いからそのまま東に入り、旧玉里(たまり)村域を抜ける。

 
L: いづみ荘。対応していただいてありがとうございました。  R: 県道144号を爆走する。この開放感、茨城県だなあ。

園部川を越えて旧小川町域に入るとすぐそこが中心部。木造の古い建物が点在する中を抜けて坂を上っていくと、
廃校となった小学校の校舎脇に鳥居が現れた。これが素鵞(そが)神社だ。響きからわかるように祇園・牛頭系である。

  
L: 「鎮守素鵞神社」の社号標。ここから東に入っていく。  C: 廃校となった旧小川小学校の校舎脇に境内。
R: 鎮座地は旧小川城の外曲輪とのこと。つまり旧小川小学校は小川城址。一時期、戸沢政盛(→2018.8.17)が入った。

授与所が開くのが10時ということでしばし待つ。境内には他にも待っている人がいて、そんなに人気なのかと思う。
素鵞神社の御守のほか、百里神社と耳守神社の御守も頂戴する。百里神社は百里原海軍航空隊の守護神として創建され、
御守・御朱印帳のデザインは正面から見たF-4ファントムII。個性派の御守の中でも群を抜くセンスに仕上がっている。

  
L: 素鵞神社の拝殿。1934年の竣工。  C: 本殿。こちらは1899(明治32)年の築とのこと。
R: 百里神社の御朱印帳。御守もこれと同じデザインとなっているが、たいへんなインパクトである。

ではきちんと参拝に行くのだ。まずは耳守神社だが、国道355号を西に戻り、少し北に入る。距離にして3.5kmほど。
千葉県の台地ほど大規模ではないが、平らな田んぼと木々が覆う丘陵の組み合わせは似たものがある(→2008.9.1)。
そんな小さい山を迂回するようにまわり込んだ先に、耳守神社は鎮座している。耳にご利益のある神社は珍しく、
石段の脇には「日本一社 耳守神社」という社号標がある。耳の聞こえなかった千代姫(平国香のひ孫)が、
神様のご利益で聞こえるようになり、亡くなるときに「耳の病から人々を守りたい」と願って創建されたという。

  
L: 耳守神社。地元では耳千代姫がなまって「みみっちょ様」と呼ばれているとのこと。  C: 拝殿。  R: 本殿。

次は百里神社だ。名前や経緯からして航空自衛隊の百里基地、つまりは茨城空港まで行かねばならないのである。
いくら御守のデザインがいいからって、御守を頂戴だけして参拝しないなんてありえないので、がんばるしかない。
素鵞神社の東、5kmちょっと。耳守神社からだと9km弱となる。まあサイクリングは楽しいし、健康にいいし。
国道355号で小川に戻って県道59号を東へ。そのまま県道144号にスイッチする辺りから建物が増える感じになる。
広々とした県道359号に入ると空港へ向けてラストスパート。でも周囲は畑ばかりで、その点に茨城っぷりを実感する。

  
L: 空港に入る直前に一本北へ。そこが百里原海軍航空隊の旧入口なのだ。  C: 左手に百里神社。  R: 祠じゃないの。

茨城空港の北西にある空き地の一角、そんな場所に百里神社は鎮座している。コンクリート塗りの祠でしかなく、
呆気にとられる。もともと「百里原(ひゃくりがはら)」とは常陸台地東部、行方・鹿島・東茨城3郡にわたる森林で、
水戸藩が領有して薪の供給源となっていた。つまり人がほとんど住んでいなかったわけだ。広大な茨城らしい場所だ。
もともとがそういう場所だったので飛行場にできたし、神社の歴史も浅いし、その分だけ復興も遅れているのだ。
社殿の脇には「百里神社整備事業奉賛募金のお願い」の看板があったが、空港敷地内への遷座を考える方がいいと思う。

  
L: 鳥居をクローズアップ。  C: 社殿。戦後この地を所有した人が鳥居とともに修繕したという。  R: 背面。

せっかくなので茨城空港にも寄っておく。こんな機会でもないと、わざわざ来ることなんてまずないだろうから。
1966年に航空自衛隊百里基地が設置され、羽田・成田の負担を減らすべく民間共用化した茨城空港として2010年に開港。
正直なところ成田よりも遠い空港に存在意義があるのか疑問である。東京に直通する常磐線支線がないと無理だろう。

 茨城空港。もともとモータリゼーションな茨城県民にはいいかもしれんが。

茨城空港の駐車場脇は茨城空港公園として整備されており、F-4ファントムIIが2機置かれている。これには興奮。
F-4は米海軍と空軍の両方だけでなく航空自衛隊でも採用された傑作戦闘機。冷戦時の西側諸国で広く採用された。
運用開始は1960年なのだが戦闘機なのに40年以上ふつうに飛んでおり、百里基地では今月ようやく退役になるらしい。
あまりにも傑作すぎて他の戦闘機の出番が減った感すらある。中学生のときにF-4のプラモつくったっけなあ。

  
L: F-4EJ改 要撃戦闘機。  C: 横から見たところ。  R: ケツ。F-4というとこの水平じゃない水平尾翼だと思うのね。

  
L: RF-4EJ 戦術偵察機。  C: やはりシャークマウスはいい。  R: 日本のカモフラ塗装は色が明るいのが特徴だと思う。

興奮したら腹が減った。茨城空港の手前には、なんとセイコーマートがあるのだ! しかもホットシェフもあるのだ!
というわけで、ランチはホットシェフの大盛豚丼である。これを公園のF-4を眺めながらいただく。贅沢なものである。
北関東に存在するセイコーマートについては前も書いたが(→2014.12.72017.7.30)、茨城県には80店ほどある。
1970年代に酒屋がコンビニ化する中で、茨城県のチェーンが先行するセイコーマートにノウハウを学んだことが発端。
大洗港と苫小牧港を結ぶ航路の存在によって物流が維持され、現在は茨城空港と新千歳空港で強化された格好である。
つまりセイコーマートは茨城の野菜や本州の製品を北海道に送り、北海道からは独自の商品を茨城に送っているのだ。
このWin-Winな関係があるから茨城県のセイコーマートが成り立っているのである。いやもう本当にうらやましい。

 
L: セイコーマート 茨城空港前店。ロジスティクスの真髄を見た。  R: ホットシェフの大盛豚丼。最高である。

幸せな気分で茨城空港を後にすると、北西へと針路をとる。目指すは旧美野里町役場の小美玉市役所だ。
これがまた10kmと距離があるのだが、そこはホットシェフパワーで解決。派手な高低差がないのが救いである。

  
L: 小美玉市役所に到着。手前が国道6号で交通量が多い。国道6号は後からまっすぐ通したのか余裕がない感じ。
C: 敷地内に入ってから広めの駐車場という余裕に茨城を感じる。  R: 左手に美野里公民館。だいぶ四角い。

小美玉(おみたま)市は、2006年に小川町・美野里(みのり)町・玉里村が合併して誕生した。
玉里はヤマトタケルが「水のたまれるところ」と言ったのが由来だが、美野里は1956年にできた比較的新しい名前。
そんな経緯があるので「小美玉」という新たな合成地名になることへのアレルギーが少なかったのかもしれない。
もっとも住民に公募した際は「百里市」が1位だったそうだが。古い地名を大切にできないのは、教養のなさの現れ。

  
L: 近づいて南から前庭ごと見る小美玉市役所。  C: 角度を変えて南東から。  R: 東側の側面。高さはないが、面積はある。

上述のとおり、小美玉市役所はもともと美野里町役場だった。桂建築設計事務所の設計で1974年に竣工している。
かつては400mほど東の貴布禰神社の向かいにあったそうだが、堅倉小学校跡地である現在地に移ってきたとのこと。

  
L: 敷地北東にある分庁舎。もとは美野里地区農業改良普及所だったそうだ。この建物を避けるように市役所は建っている。
C: 分庁舎の入口。ガラスでがっちりと覆われて防寒仕様となっている。  R: 東から分庁舎ごと眺める市役所の側面。

  
L: 北東から見たところ。手前が分庁舎。  C: 北から見た背面。  R: 北西にまわり込む。西に低層棟が出ているのだ。

  
L: 西から見た側面。  C: 南西。この角度がいちばん全体をつかみやすい。  R: 南西側に池がくっついている。

  
L: 中を覗き込む。  C: 無骨な外観とは対照的にホールとコンクリートの板枠が凝っている。  R: エントランス。

撮影を終えると次は石岡市役所まで8.5kmの旅。ルートとしては国道6号を南西へ行くだけなので単純だが、やはり遠い。
しかも歩道が細めなので、走るのに神経を使う。石岡市内に入ってロードサイド店舗が増えると多少改善したのが救い。

 途中、筑波山(→2015.5.30)の美しさに見惚れる。

石岡市役所に到着。5年前に訪れたときは東日本大震災の影響でまるまる使用禁止になっていたが(→2015.1.10)、
久米設計の設計による新庁舎が2018年に竣工。外観は筑波山をイメージしているそうだが、切妻をずらしただけでは?

  
L: 石岡市役所。もともと駐車場の広い市役所だったが、新しい庁舎になってもかなり余裕を感じさせる。茨城県的かな。
C: 駐車場、北から眺める。北西と南東、2つの切妻屋根の棟をずらして配置しており、手前をエントランスとしている。
R: エントランスに近づいたところ。ちなみにこの左手前は芝生のオープンスペースとなっている。防災を意識したっぽい。

  
L: エントランス。六角形の天井はなんだかエヴァンゲリオンっぽく思えてしまいますな。知らない天井だ。
C: 中に入ってエントランスホール。天井の模様は連続させているという工夫。広々とした印象を与える。
R: 奥の方を覗き込むと、こちらが窓口空間(市民ロビー)。素材感をうまく生かした建物になっていると思う。

  
L: そのまま外側を眺めるとこんな感じになる。休日でもしっかり開放されているのはありがたいことです。
C: もう一度外に出て、駐車場の端から眺める。  R: 北西の一段低くなっている駐車場から眺めたところ。

  
L: 近づいてみる。外階段が打ちっ放しコンクリートでなかなか豪快。   C: 南西から。2棟をずらしているのがわかる。
R: 南側は余裕がなく、通り抜けて南東から見たところ。土地の高低差を利用して南面を多くとっているわけだな。

  
L: いったん敷地を出てモスバーガーの裏から見た石岡市役所の南面。こうして見ると、なんとなく体育館建築っぽさを感じる。
C: やはりこれも敷地外、ホテルルートイン石岡の前から見た東側の側面。  R: 敷地の高低差がよくわかる階段とスロープ。

平日に来ないとなんともわからない面もあるが、久米設計の気合いを感じさせる庁舎建築になっていると思う。
デザインのこだわりや工夫が伝わる、なかなか興味深い市役所だった。石岡市民の感想を聞いてみたいところだ。
そんなことを考えながら常磐線の西側に出て、石岡駅前へ。やはり石岡ステーションパークの存在感が絶大である。

 
L: 駅に隣接する石岡ステーションパーク。1階はバスターミナルだが、どういう経緯でつくられたのか知りたい。
R: 上はイヴェントが開催されるオープンスペース。面白い空間だと思う。真ん中にあるのは石岡からくり時計。

5年前に石岡を訪れたときには市街地探索をすっぱり放棄していたので(→2015.1.10)、今回はそのリヴェンジである。
完全に郊外社会化している石岡駅の東側とは対照的に、西側は昔ながらの市街地。駅から坂を上った国道355号沿いは、
旧水戸街道の宿場町としての歴史をしっかり感じさせる街並みとなっている。これをスルーした自分のアホさに呆れる。

 国道355号・中町通りの商店街。道の広さとまっすぐさに注目。

中町通りが昔ながらの雰囲気を残しつつもまっすぐ広い道になっているのには、理由がある。
1929年の石岡大火で中心市街地の4分の1が焼失してしまったが、復興にあたって道路が拡張されたというわけ。
空間的になんとなく川越(→2008.8.192010.4.11)と似た印象を受けるのは、そのせいかもしれない。
しかし川越が明治から大正にかけての復興で蔵造りの街並みとなっているのに対し、石岡は昭和初期。
結果、石岡の商店街は看板建築の宝庫となっているのである。国登録有形文化財が多数点在している。

  
L: 左から十七屋履物店(1930年)・久松商店(1930年ごろ)・福島屋砂糖店(1931年)。中町通りを象徴する一角。
C: すがや化粧品店(1930年ごろ)。  R: 丁子屋。こちらは火災を免れた江戸末期の築。「まち蔵 藍」として営業。

  
L: 中町通りに鎮座する金刀比羅神社に参拝する。  C: 拝殿。  R: 本殿。神職さん不在で御守を頂戴できず。無念。

さて、石岡は常陸国の国府が置かれた場所であり、常陸国の総社もある。ということで、常陸國總社宮へ。
中町通りから西へと坂を下って500mほどで旧参道入口。しかし常陸国府跡である石岡小学校脇から入るのが表参道だ。
大正時代に整備されたそうで、あらためて坂を上ってそちらへとまわり込むのであった。なかなか荘厳な雰囲気である。

  
L: 常陸國總社宮の大鳥居。  C: 参道は雰囲気がある。  R: すぐ右手は常陸国府跡の石岡小学校。さすがは総社である。

  
L: 随神門。本殿と同じく1627(寛永4)年頃に造営され、境内最古の建造物のひとつ。屋根がすごいことになっている。
C: 横参道になっており、進んでいくと拝殿と本殿を横から見ることになる。  R: 拝殿。こちらは1985年の竣工。

御守を頂戴するが、目を惹くのが手塚治虫『火の鳥』ヤマト編の授与品である。なんで手塚なのかと思ったら、
手塚治虫の先祖・手塚良庵(良仙、『陽だまりの樹』の主人公のひとり)が常陸府中藩の侍医だった縁による。
授与品はヤマト編のオグナ(ヤマトタケル)をフィーチャーしているが、主祭神に日本武尊は入っていないのが残念。
まあ総社だからなんでもありなんだろうけど。境内には日本武尊腰掛石があるので、それで押し切ったようだ。

  
L: 拝殿前から境内を振り返って眺めたところ。神楽殿(手前)や社務所(奥)が横参道に向かって並んでいる。
C: 手塚治虫『火の鳥』ヤマト編の御守。『陽だまりの樹』も用意すべきでは。  R: 坂を下ったところに旧参道入口。

こだわった御守が頂戴できるのは素直にうれしい。ホクホクしつつ次の目的地、かすみがうら市役所の千代田庁舎へ。
道のりにして6km弱。恋瀬川を渡り、かすみがうら市に入ったところには恋瀬橋ロードパークがあってちょっと一服。

 
L: 恋瀬川から見た筑波山。男体山(左)と女体山(右)の2つの峰が、はっきりと見える。
R: 旧恋瀬橋の親柱と欄干。1931年に完成したが、2001年に新たな橋に架け替えとなり、保存されている。

そんなこんなで、かすみがうら市役所の千代田庁舎に到着。かすみがうら市は霞ヶ浦町と千代田町の合併により、
2005年に誕生した。しかし政治的配慮によって市名はひらがな表記となった。まるで知性を感じさせない話である。
かすみがうら市の形を見ると、常磐線を挟んで見事に東西に分かれている。おかげで合併後の市役所もしっかり分庁舎で、
どちらがメインなのかわからない状態となっている。なお、千代田庁舎は1974年に千代田町役場として竣工している。

  
L: かすみがうら市役所千代田庁舎。  C: 近づいて撮影。北東から。  R: さらに東から近づいて見上げる。

  
L: エントランス。このピロティ感が1970年代だなあと思う。  C: 軽く中にお邪魔する。ずいぶん広々としている。
R: もうちょっと奥まで行ってみる。天井に圧迫感があるのはしょうがないが、なかなか開放的な感じで興味深い。

  
L: 再び外に出て外観を眺める。北から見たところ。なお案の定、3階の出っ張り部分が議場である。
C: 距離をとって全体を眺めたところ。  R: 北西から見たところ。ここから南側は一段低くなっていく。

  
L: 北西、一段低い駐車場から。  C: 裏側にまわり込んで南西から。  R: 南から見たところ。手前の防災センターが邪魔。

時刻は15時に近づいてきて、日差しがだんだんと夕方の気配になってきている。もう一踏ん張りなのだ。
せっかくなので、ここでさんざんお世話になっている自転車を記念に撮影。快適に楽しませてくれてありがとう。

 つくば霞ヶ浦りんりんロードの広域レンタサイクルは本当にありがたい。

南下すること7km弱、土浦の八坂神社へ。土浦一高のわりとすぐ西に鎮座しており、土浦城から見ると真北に当たる。
水戸街道と筑波山へ向かう筑波街道とのほぼ分岐点という位置になる。周辺の真鍋は1940年に土浦市と合併するまで、
真鍋町として独立していた。今も土浦の中心部とはまた別に、八坂神社を中心に旧来の街が残っている感触がある。
土浦は街じたいがかなり独特だが(→2015.1.10)、土浦の総鎮守がこんなに離れているのもその要因である気がする。

  
L: 土浦総鎮守の八坂神社。周辺は昔ながらの集落という感じ。  C: 参道を進んでいく。  R: 拝殿。

拝殿は1728(享保13)年に土屋陳直が造営。本殿は1700(元禄13)年に土屋政直が造営したとのこと。
本殿の彫刻が見事だが、これは1801(享和元)年に土屋英直が拝殿・鳥居を修復した際に施したものだという。

  
L: 本殿。  C: 彫刻が見事なのでクローズアップ。  R: 背面。拝殿・幣殿・本殿は土浦市指定有形文化財となっている。

これで本日予定していた場所はすべてまわった。呆けつつ国道125号を南下して土浦の中心市街地に入る。
あとは駅に行って自転車を返却するだけである。高名の木登りの逸話もあるように、最後まで気を抜かないことが肝心。

  
L: 土浦城址。土屋氏が土浦藩主を務め(途中で政直が藤枝の田中藩に転封となるが戻ってきた)、明治維新を迎えた。
C: 土浦の中心部。近世・近代・現代が混じり合った独特な街。  R: これは略称ではなくて正式な名称なのか?

土浦駅前に到着。土浦市役所となった旧ウララについては5年前にすでに詳しく書いているが(→2015.12.20)、
せっかくなのであらためていろんな角度から撮っちゃう。ただ、あまりにも大きすぎて、やっぱりうまく撮影できない。

  
L: 北西側から見た土浦市役所の側面。西側はウララ時代からの立体駐車場で、その上は超高層マンションとなっている。
C: かつてセブン&アイ・ホールディングスの印があったてっぺんの看板は、全力の「土浦市役所」アピールに変化した。
R: エントランス。「URALA」「土浦市役所」「KASUMI」「ダイソー」の文字に加えて電光掲示板で、情報が溢れている。

  
L: 土浦駅へと向かう県道275号沿いに大きなトラス構造の屋根。「うらら大屋根広場」という名前が付いている。
C: 5年前とまったく同じ構図で申し訳ないけど撮っちゃう。  R: 土浦駅に面している東側。これが市役所なあ……。

ようやく土浦駅に到着。これにて本日の大冒険は終了なのだ。……が、駅ビルのペルチ土浦が大変貌を遂げていた。
今は「プレイアトレ土浦」という名称になり、中は全力で自転車推し。これもつくば霞ヶ浦りんりんロードの影響で、
土浦駅は日本最大級のサイクリングリゾートということで生まれ変わったのである。2年前からこんな感じらしい。

  
L: 土浦駅の1階は完全にサイクリング拠点になっている。呆然としつつ自転車を返却したのであった。
C: プレイアトレ土浦の2階と3階は複合施設「STATION LOBBY」となっている。すっかりオサレに染まっちまって。
R: 「STATION LOBBY」の内部。青い線はつまり、館内への自転車の持ち込みが可能であることを示している。

  
L: 土浦駅側に出て、入口を振り返ったところ。駅からそのまま自転車を持ち込める仕様となっているのだ。
C: 改札前の辺りから見た「STATION LOBBY」入口。  R: 土浦駅のホームにて。ここまで全力で自転車推しだとは。

というわけで、総距離約55kmの大サイクリングとなってしまったのであった。存分に楽しませていただきました。
これもつくば霞ヶ浦りんりんロードのおかげである。広大な「茨城県らしさ」を体験する手段として大いにアリですな。


2020.3.14 (Sat.)

雨でほぼ一日中ぐったりしておりました。『ワタモテ』(→2020.1.1)の最新巻を読んでおりました。うぇーい。
みんなかわいいし、いい子だし、優しい世界でいいですね。喪165とか青春の一番いいところそのものじゃないか。
心を落ち着けてほっこりするマンガというと管見では『ARIA』(→2008.5.22)なんかが思いつくところなのだが、
くだらないギャグで笑える分、キャラクターがいい感じに増殖・暴走する分、『ワタモテ』の方が好みかな。癒される。

そういえばもうひとつ、『ワタモテ』を読んでいるうちに思い出すマンガがあった。『けいおん!』(→2011.3.19)だ。
男性がほとんど存在感を示さない中で、ひたすら穏やかな世界で繰り広げられる、女子高生たちのわちゃわちゃした日常。
アニメ版(→2011.11.162012.1.72012.2.17)はさらにその特徴を押し進めており、3年2組全員の設定まで用意された。
正月、読んでいる最中に潤平から感想を訊かれ、「現時点では『けいおん!』を思い出すなァ」と答えたものである。

『けいおん!』は軸がブレない。あずにゃんが加入したところで、放課後ティータイムは放課後ティータイム。
軽音部のメンバーだけで話が進み、軽音部の活動(<軽音部の日常)だけで話が進み、そのまま3年間が過ぎていく。
それに対して『ワタモテ』は大きな振幅をみせる。完全ぼっちの1年生、交友関係が広がる2年生、モテまくりの3年生。
1巻から読みはじめた当初は、まさか『けいおん!』を思わせる方向へとシフトしていくとはとても考えられなかったが、
うまく軟着陸して魅力的な世界を構築してくれたものだ。しかし『けいおん!』が徹底して閉じた世界であるのに対し、
『ワタモテ』の世界は緩やかに開かれている。17巻現在では、佐々木風夏がもこっち時空に引き込まれているところか。
軽音部のような軸が存在しない『ワタモテ』だが、実際には黒木智子という個人そのものが軸となっている。
モブキャラクターは黒木智子と接することで個性あるキャラクターに変化し、互いの肯定を通して関係性が強固になる。
そうして『ワタモテ』の開かれた世界は、黒木智子という軸を中心に、信頼関係の渦をどんどん拡大していく。
だから正月のレヴューで書いたように、『ワタモテ』とは、むしろもこっちの周囲の成長を描いているマンガなのだ。

もこっちが成長したことで『ワタモテ』は『けいおん!』に近づいていき、さらに発展的な動きをみせている。
『けいおん!』はその閉鎖性から、高校を卒業したことでの「崩壊」を避けることができなかった(→2014.7.16)。
しかし、『ワタモテ』は開かれている(最初から開かれていたわけではなかったのが面白いところではあるが)。
彼女たちがどこに向かい、どのように物語を紡いでいくのか。大いに注目するに値する作品だとあらためて思った。


2020.3.13 (Fri.)

青春18きっぷで日帰り旅なのだ。本日のターゲットは、新しくなった沼田市役所と重伝建の六合(くに)赤岩である。
9時を目処に沼田に着くように電車を乗り継いでいく。平日で高いけど、グリーン車での日記作業ははかどるなあ。

 
L: 沼田駅に到着。そういえば10年前(→2010.12.26)は工事中だったなあ。  R: この高低差こそ沼田なのだ。

まずは沼田を代表する神社ということで、榛名神社に参拝である。沼田というと強烈な河岸段丘に決まっているが、
榛名神社が鎮座するのは段丘の下側で、沼田城址の真西という位置になる。榛名神社の公式サイトによると、
もともと現在の社地には薄根大明神こと菅原道真が、沼田城の位置には寶高大明神こと日本武尊が祀られていた。
しかし1529(享禄2)年に沼田万鬼斎顕泰が沼田城を築城するため、埴山姫神とともに寶高大明神を現在地に遷座した。
なお、上毛三山の榛名神社(→2016.3.30)も埴山姫神を祀っており、榛名山御師の活動により信仰が広がったという。
距離的には赤城山の方が近いのだが。その後、1908(明治41)年に諏訪大神を合祀して現在の主祭神4柱が確定した。

  
L: 榛名神社・平成の大鳥居。ここから県道262号は境内を避けて北上。  C: 二の鳥居。  R: くぐって参道。

  
L: 境内に入る。  C: 左手に神楽殿と授与所。でもふだんは開いていなくて、参集殿で頂戴するスタイルみたい。
R: 社殿全体を眺める。独特なむくり屋根は拝殿と参集殿の間にあり、通り抜けるだけの構造でなんとも不思議。

  
L: 拝殿。旧県社にしてはコンパクトである。1918(大正7)年の築で、神社を荒らすネズミを退治するという蛇の彫刻がある。
C: 本殿。1529(享禄2)年に沼田顕泰が建立し、1615(元和元)年に真田信之が改築した。彫刻は左甚五郎作と伝えられる。
R: 面美(めめよし)様。800年前の作とのこと。埴山姫神を彫ったとされ、面美様を撫でた手で顔を撫でると美人になるそうな。

御守を頂戴するとそのまま東の沼田城址を目指す。河岸段丘を上るのはキツいが、振り返ると景色はなかなかのもの。
本当は段丘全体を眺められる場所があるといいのだが、沼田周辺は有名なわりにはヴューポイントがない気がする。

 途中から見た景色。電線が邪魔なのだが画像を縮小すると消えて見える。

というわけで、10年ぶり(→2010.12.26)の沼田城址である。大河ドラマで『真田丸』をやったこともあってか、
冠木門をくぐって左手の沼田市観光案内所には真田グッズがいっぱい。観光資源として充実していて何よりである。

  
L: 沼田城址である沼田公園の入口。10年前は冠木門ではなかった。「天空の城下町 真田の里 沼田」なんて堂々と書いてある。
C: 『戦国無双 〜真田丸〜』のポップスタンドが置いてあった。  R: 公園内の様子。10年前も似たような写真を撮ったなあ。

  
L: 沼田城西櫓台の跡。  C: 石垣を覗き込む。1681(天和元)年、沼田藩取り潰しの際に破却されず埋められていたもの。
R: 真田信之と小松姫の像。もっと上手くつくれなかったのかと思う。小松姫が武装した姿なのは褒めるべきポイントだが。

 観光案内所内の沼田城の模型。きちんと聖地らしくなってくれてうれしい。

沼田小学校の南にある旧沼田市役所に寄ってみる。1964年竣工で、10年前もそうだったが、だいぶ傷みが激しい。
近いうちに取り壊される雰囲気が満々で、その最後の勇姿をじっくりと眺めることができたのはよかった。

  
L: 南西から眺める旧沼田市役所。  C: 南から見たところ。  R: 南東から。今までお疲れ様でした。

そのまま南下して須賀神社に参拝。10年前にはかわいい子猫がいたが(→2010.12.26)、今はどうしているのか……。
しかし須賀神社はしっかり街中の神社だが、無人で御守がないのが残念である。天狗のお面でデザインができるだろうに。

  
L: 須賀神社。どちらかというと神社というより城下町の公園という要素が強い印象。  C: 彫刻が見事な拝殿。  R: 本殿。

ではいよいよ新しくなった沼田市役所にお邪魔するのだ。新たな沼田市役所は、段丘を上がった入口に位置している。
かつてここには商業施設・グリーンベル21がそびえていたが、これをかなり大幅に改修してリニューアルしたのである。
グリーンベル21は1993年の竣工だが、プランツアソシエイツの設計で昨年5月に複合施設「テラス沼田」としてオープン。
建物全体のシルエットは確かに商業施設のそれだが、細部のデザインはきちんと現代風の庁舎として仕上がっている。

  
L: 沼田市役所の入る複合施設「テラス沼田」。グリーンベル21をほぼスケルトン状態にまで解体して改修したそうだ。
C: エントランス。沼田市役所は3階からなので、このピロティ部分は厳密には市役所とは別の施設ということになるわけで。
R: 国道120号を挟んだ南側の駐車場。こちらも1993年にグリーンベル21の駐車場として建てられたものをリニューアル。

  
L: 少し角度を変えて南寄りで眺めるテラス沼田。  C: 南面。かなり大掛かりな改修だったことが窺える。
R: 南東から見たところ。周囲は国道に沿って店舗と住宅が混在しており、スケール感のズレがなかなか独特。

  
L: 東から見たところ。まったく窓がない。  C: まわり込んで北東から眺める。  R: 北西から見てこれで一周。

複合施設「テラス沼田」としては、まず1階が「まちの広場」である。中央部は「防災広場 ミッテ」というようだ。
入口には大きく「NUMATA DINER」なんて文字があって、つまりはフードコートなのだが、そんなに大規模ではない。
これとは別に端っこに薄暗い福祉カフェがあるなど、なんともポテンシャルを活かしきれていない空間となっている。
1〜2階は鉄骨吹抜空間となっているが、元の高さがないので圧迫感が残ってしまっている。これをうまくごまかす、
そんなデザイン上の工夫があればよかったのだが、ミニマルにまとめているのがかえって殺風景な印象を与えている。
まず暗さをなんとかしないといけなくて、できれば2階レヴェルに通路を走らせたい。せっかく鉄骨があるんだから。
たとえば鉄骨のスクエア1個に浅めの水槽でもつくって魚を泳がせつつ、上から光を照らして床面に揺らめかせるとか。
人を集めるアイデアの練り込みがまるで足りない。やるんならもっと徹底して客を呼ぶ工夫をしてほしいものだ。

  
L: 国道に面する南側の入口から1階に入る。  C: 南側にはフードコート「NUMATA DINER」。  R: 中はこんな感じ。

  
L: 1階中央部「防災広場 ミッテ」はこんな感じ。鉄骨吹抜空間は個人的には面白いと思うが、暗くて圧迫感があって残念。
C: 東側にある「沼田市福祉カフェippo」。「NUMATA DINER」と分けているせいで、入りづらくなっているように思う。
R: 2階は沼田市歴史資料館。もちろん中を見てみたかったが、新型コロナの影響により臨時休館中なのであった。

テラス沼田の3〜5階が沼田市役所である。窓口は3階に集約し、4階に市長室など執務スペースをまとめ、議場は5階。
暗ったい下部構造と比べ、こちらの吹抜は最上階の7階まで通じていて明るい。上階に窓口と大胆な吹抜という構造は、
黒川紀章の寒河江市役所(→2019.10.28)を思いだす。あちらは1階が議場、2階が窓口、3階以上が執務スペースだった。
「議員が市民を支え、行政が市民の傘になる」という理念だ。対照的にテラス沼田は暗ったい市民スペースを下に置き、
市役所のいちばん上が議場という構成である。まあ6〜7階はNPOや青年会議所、商工会議所のオフィスになっているけど。
なお、7階の南側は「トレーニングプラザ」としてミズノウエルネス沼田が入っている。筋肉がすべてを解決するのか。

  
L: 2階南側、吹抜の外側に位置する「コモンテラス」。やはり暗くて圧迫感がある。全体的にアイデア倒れが目立つ。
C: 3階に上がって沼田市役所の窓口。こっちはずいぶん明るくつくっているなあ。  R: 3階から上の吹抜は明るいのね。

国道の交差点の脇には天王石がある。沼田城主となった真田信幸が1590(天正10)年に市場を開かせるにあたり、
この場所に牛頭天王を祀る社殿をつくった。その後、1611(慶長17)年に沼田城を改築する際、社殿を移転させた。
それがさっきの須賀神社ってわけだ。しかし御旅所ということで、旧社地の印となるこの天王石を置いたという話。

 沼田の歴史をじっと見てきた天王石。

最後に10年前とは逆方向で、河岸段丘ショートカット階段を下りていく。そういえば沼田駅も新しくなったけど、
ここだけはまったく変わらない。なんとも不思議なタイムトンネルのように思いつつ歩いていくのであった。

  
L: 河岸段丘ショートカット階段。  C: ここだけは本当に変わらないなあ。  R: 段丘下側の出入口。

沼田を後にすると20分ほど揺られて南に戻り、渋川駅へ。せっかくの青春18きっぷなので、渋川市役所も撮影するのだ。
残念ながら空は雲に包まれてすっかり曇ってしまった。青空の下の市役所をきちんと記録したかったが、しょうがない。

  
L: 渋川市役所。まずは敷地の外から。  C: 10年前(→2010.12.26)とほぼ同じアングルで。  R: エントランス。

  
L: しかしこの車寄せ、仮設感がすごくないか?  C: 中をちょいと覗かせてもらう。   R: 玄関入って右手の市民ホール。

調べてみると「渋川市施設カルテ」という資料が出てきて、それによると本庁舎本体の竣工は1966年でいいようだ。
しかし西側に増築された部分があり、こちらは1989年の建設。そして北東の市民ホールは1990年に増築されている。
先ほどの旧沼田市役所は1964年の竣工だったが、渋川市役所の本庁舎本体はどことなく似ている印象を受ける。

  
L: まずは北側にまわり込む。渋川市役所本庁舎は3つの建物を東西に並べて構成されている。左は市民ホールで、右も増築部。
C: 本庁舎の真ん中の棟(本体)を北西側から見たところ。  R: 右を向いていちばん奥に位置している西増築部を眺める。

  
L: 敷地の北西端にある西棟。こいつが地味にモダンというか、工夫を感じさせる建物なのだ。1989年の竣工らしい。
C: いったん敷地の外に出て北西から眺める本庁舎の西増築部。   R: ちなみに敷地内の端っこからだとこうなる。

  
L: 南西から見た本庁舎の西増築部。  C: 右を向いて南西から眺める本庁舎の真ん中の棟。  R: 南東から眺めたところ。

  
L: 本庁舎の真ん中の棟は南側を半地下にしているようだ。  C: 全体を南東から眺める。見てのとおり、手前の3階が議場。
R: 最後に東側から見たところ。こうして見ると、エントランスは市民ホール増築時に取っ付けられたのかもしれない。

渋川駅に戻ると吾妻線で70分、長野原草津口駅へ。平日だが観光客もけっこういるし、タクシーも多く停まっている。
ふつうの人ならここから草津温泉へと向かうのだろうが、僕のターゲットはあくまで赤岩。六合地区路線バスを待つ。

 長野原草津口駅。見た感じ、卒業旅行の大学生が多い印象。

国道292号を10分ほど北上し、南大橋というバス停で下車する。そうして白砂川を渡った対岸にあるのが赤岩だ。
坂を上っていくと木造の住宅がぎゅっと集まっているいかにもな景色。ここから白砂川に並走して南北に家並みが続く。
つまりは河岸段丘の上につくられた集落というわけだ。でも土地に高低差はけっこうあって、変化に富んでいる感触。

  
L: 六合赤岩の入口。ちなみに「六合」の名は草津村から独立する際、赤岩を含む6つの大字を合わせたことに由来する。
C: メインストリート(赤岩本道)沿いの毘沙門堂。  R: 赤岩の中心部はこんな感じ。とても穏やかな印象の里である。

住宅をよく見ると、2階建てで窓をしっかりとっているものが多く、規模は大きめ。大部分は幕末以降の養蚕農家で、
明治になって日本が生糸を大量に輸出したことでこの辺りもばっちり潤った、そんな歴史を示す証拠なのだろう。
1階よりも2階がひとまわり大きいが、これは1階部分の梁を外側に出す「デバリ(出梁)」という構造である。
そうすると2階を広くつくることができるというわけだ。その広くなった分を縁側というかベランダとしているのだ。
そしてさらに2階の梁も外に出し、屋根裏を広くする。よく見ると、出っ張っている妻側が外から柱で支えられている。
カイコを育てる上階を広くするのは養蚕農家の特徴で(→2013.5.112016.2.11)、赤岩の洗練された様式が興味深い。

  
L,C,R: 赤岩の養蚕農家の例。ガラス戸前提のつくりはどうみても近代以降の発想。養蚕農家の完成形と言えるのかも。

六合赤岩の中で最も重要な建物は湯本家住宅である。集落の中では珍しく土壁の土蔵造となっているが、
これは1803(享和3)年の大火の後に再建されたため。1806(文化3)年に2階建てでつくられたが、
1897(明治30)年に3階が蚕室として増築された。なるほど、よく見ると2階と3階の間に線が入っている。
ちなみに逃亡した高野長英をこの建物の2階で匿っていたという。湯本家は江戸時代から医者を務めていたそうだ。

  
L: 湯本家住宅。  C: 敷地内に入って撮影。2階と3階の間に線がある。  R: 正面から見たところ。

  
L: 旧稚蚕飼育所。卵から孵ったばかりの蚕の飼育は難しく、共同で飼育するために1962~1963年に建てられた施設。
C: 裏山から眺める赤岩の集落。河岸段丘上に家が並んでいる。  R: 気抜きの越屋根(→2015.10.17)がある住宅。

2階が見学用に開放されている「かいこの家」にお邪魔する。実際に使った道具が広い室内いっぱいに置かれているが、
ガラス戸なので中がたいへん明るい。建物じたいは1932年の築で、戦前モダンと伝統産業が交差するバランスを味わう。

  
L: かいこの家。土地の高低差を利用して、右の道路からそのまま2階に入って見学する。河岸段丘らしい工夫だと思う。
C: 2階の中はこんな感じ。実に明るい。  R: 部屋は広いが、この一室でぜんぶやるので道具と説明の密度はかえって濃い。

  
L: 当時のものがそのまま置いてあるのがうれしい。  C: 機織り機。  R: 屋根裏にカイコのいる蔟(まぶし)を置いている。

2時間ほどの滞在時間ということで、春を感じつつのんびり散策する。集落の南端にある赤岩神社をゴールとするが、
鳥居をくぐってからが長かった。完全に山道で不安になりつつ進んでいくと、ようやく石段。拝殿は上りきった先で、
本殿はさらにそこから上がっていったところなのであった。何もこんな離れたところにだけ神社を残さなくても……。

  
L: 東堂。地蔵尊を中心にいろいろ祀る。  C: 何のお堂かと思ったらゴミ集積所だった。景観を守る上手い工夫だなあと。
R: 集落の南端にある赤岩神社の入口。かつて赤岩には5つの神社があったが、1908(明治41)年にこちらの飯綱神社跡に合祀。

  
L: 鳥居をくぐってからが長いのであった。  C: 林に入ってしばらく進んでから石段。  R: 拝殿と本殿。ヒー

再び空が曇ってきたので、散策を終えて白砂川の右岸に戻る。最後に対岸から赤岩の集落を眺めてみたのだが、
外から見ると木造養蚕住宅は意外にもそんなに目立たず、ごくふつうの住宅地とあまり変わらない印象だ。
ただ、山と川の間で波線のように住宅が途切れることなく続いている光景は、さすがの河岸段丘である。

 対岸から眺める六合赤岩。

バスに揺られて長野原草津口駅へ戻る。帰りの吾妻線ではノムさん追悼特集の『Number』を読んで涙ぐむのであった。


2020.3.12 (Thu.)

いいかげんどうにかしないといけないので、あらためて睡眠時無呼吸症候群の検査を設定すべく医者に行く。
なんと、15年ぶりですぜ(→2005.10.29)。もうあれから15年が経過したのかとびっくり。時間の流れが遅い男だぜ。
で、その15年前にはスリープスプリント(マウスピース)をつくったのだが(→2005.12.142005.12.21)、
バカな私はそれを紛失してしまったのである。スリープスプリントは顎と前歯の調子が悪い日につくったこともあって、
装着した翌朝に顎と前歯の調子が悪くなる現象にも長く悩まされていたし、このたび意を決して再検査することにした。
この結果をもとに、よりよいスリープスプリントがつくれれば万々歳なのだ。しかし15年経って体重も増えており、
CPAP(寝るときつける呼吸器)のお世話になる可能性もかなり高そう。それだけは避けたいのだけど、うーん……。


2020.3.11 (Wed.)

今年はコロナ禍の真っ最中で迎えた3.11ということで、9年前にもあった非日常性をまざまざと思い知らされている。
そう、なんでもないはずの日常が、いきなり非日常の緊急事態へと落とし込まれていく感覚。世界が切り替わった感覚。
戦っているわけではないのに、何かと戦っているかのような息苦しさを強制される感覚(→2011.3.132011.3.14)。
(これについてはっきりと「戦い」と言い切った総理大臣は頭がおかしいと思う。壮大な勘違いぶりがうかがえる。)
こういった非常事態に対して僕らがすべきことは、できるだけいつもどおりに生活することだ。一切、ひるむことなく。
プロメテウスによってもたらされて以来の理性という火を絶やすことなく、ただ日々を送ることだ(→2005.10.25)。
いつもどおりの生活ができない人に対しては援助が図られるべきで、そうして全体が調子を落とすことなくやっていく。
非日常には、日常で覆い尽くして対抗するしかない。できるだけ、高度で、教養ある、豊かな日常を。今こそ。

9年が経った。来年には2桁の数字となり、それだけ過去が遠くなる。その頃には今のコロナも遠くなるのだろう。
だからこそ、本当に求められている、高度で教養ある豊かな日常の質感を、今のうちに確かめておかないといけない。


2020.3.10 (Tue.)

コロナウイルスが猛威を振るう中、テレワーク(時間や場所の制約を受けずに働く形態)が推奨されている模様。
で、実は教員でも申請をすればテレワークが可能ということで、今日は実際にテレワークしてみました。
ちなみに扱いとしては、「自宅への出張」とのこと。これもまた面白いですなあ。

8時10分が出勤時刻なので、そのちょっと前に電話を入れて、いざ業務開始であります。
ふだん余裕がなくてできないことをやろうと、担当部活であるサッカーの練習に関連するDVDをじっくり見て過ごす。
それからあらためて『ロストフの14秒』(→2018.12.24)を見る。「サッカーの上手さ」というものを再確認する。
お昼も電話を入れる。夏休み中なんかは午後の仕事が13時15分スタートということになっているので、それくらいに電話。
午後は担当科目の英語に関するDVDを見る。正直言うと、『Monty Python Live (mostly): One Down, Five To Go』です。
買ったはいいけどなかなか見る気になれなかったが、テリー=ジョーンズが亡くなったこともあって(→2020.1.24)、
いい機会なのでしっかりと見た。内容についてはまたいずれ。英語科の教員として、英語作品の映像を見ることは、
やっぱり定期的にやらないといけないわ、と思った。英語の字幕がついているのもDVDの勉強になるところなのよね。
そんな感じで16時40分、業務終了の連絡を入れてテレワークが終了。家でじっくりと勉強するには最高だわ、これ。

教育公務員特例法の第21条、「教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない」、
これを久々に思う存分発揮させてもらった。性悪説で縛り付けるんじゃなく、もっと自由に勉強させてほしいものだ。


2020.3.9 (Mon.)

午前中は4月からの異動先で面接。トラブルになりそうな要素を挙げていったら、先方は不安そう……。申し訳ない。
まあ、洗いざらい正直に話したので、抱えさせてしまった不安を上回る事態が発生することはないでしょう。たぶん。
しかし冷静に考えると、面接試験ってこの正反対をやればいいわけか。不安を一切抱えさせない自己アピールね。
本当に面接試験ってのは、やる側にとっては単なるおまじない程度でしかないなあ。無意味だが、賢く慣れなければ。

職場に向かう途中、神保町でランチである。これは当然、今までなかなか機会のなかった店に寄る絶好のチャンス。
というわけで神保町カレーライフの第20弾は、新世界菜館。そう、交差点のすぐ近くにある中華料理店である。
中華の店でカレーが食えるのかよ!?と思うかもしれないが、そこは神保町。食えるのである。やっと訪問できたよ。

 中華風カレーライス、大盛で1100円。

一口食べてまず思ったのは、「これは蕎麦屋のカレーっぽい!」ということ。カレー南蛮の上、あのイメージ。
中華らしく鶏ガラスープを使っているとのことだが、独特な要素はそれだけではない。片栗粉で粘りを出している。
半熟卵もいいアクセントになっているし、適度に溶けたタマネギがたっぷり入っているのもまた絶妙である。
これはクセになり、定期的に食いたくなるタイプのカレーだ。第一印象としては家庭や食堂のカレーに近いけど、
きちんとした中華料理店らしい細部へのこだわりが、その路線のトップクラスへと一気に引き上げているのがわかる。
食べ終わるとしっかり体が熱くなるので、スパイスもちゃんと利かせてある。カレーの多様性を実感させられる味だ。
ランチタイムの定食ではミニカレーも選べるようになっていて、けっこう人気がある模様。見事な店の個性だと思う。


2020.3.8 (Sun.)

天気は悪いが青春18きっぷはある。じゃあ久しぶりに磐城石川の石都々古和気神社へ御守の確認にでも行くかなあと。
水郡線が台風の影響でぶった切られているので、必然的に郡山回りになる。列車の中では写真を整理して過ごせばいい。
朝イチで出発し、東北本線を乗り継いで郡山に着くと、2時間半ほど駅ビルのカフェで写真整理の作業を続行する。
そして昼メシをいただく。郡山ではどうしても、南側の駅ビル内にある店で海鮮丼を食ってしまうね。

 日替わり丼。これを900円で食えるのが信じられない。

水郡線に揺られて磐城石川で下車。しばらく歩いて石都々古和気神社に到着すると、さっそく参拝である。
写真は以前のログで貼り付けているので(→2013.8.252018.1.7)、今回は最低限で。相変わらず巨石たちが面白い。

  
L: 石都々古和気神社の入口。  C: 拝殿。  R: 覆屋の中の本殿はやっぱり見事なのであった。

さて、肝心の御守である。少し離れたところにある(駅に戻る感じ)社務所に突撃するが……デザインが変わった!
前回訪問が2年前なので、そんなに短いスパンで御守を変えられてしまうと、こっちとしては大変厳しいのである。
やはりこう、一宮を名乗るのであれば、工夫のない定番のデザインではなく、独自のデザインを研ぎ澄ませてほしい。

ありきたりなデザインになってしまったので、ションボリしながら郡山まで揺られる。帰りも各駅停車を乗り継ぐが、
途中の新白河でまとまった時間が取れた。少し早いが、ここで晩メシをいただくのだ。新白河駅の名物といえば、
なんといっても白河ラーメンだと思っている。ちぢれ麺の正統派醤油ラーメンで、これが手軽なのに旨いのだ。

 新白河駅では駅蕎麦よりも白河ラーメン。ナメてかかれない旨さ。

帰りも列車内ではできる限りで写真の整理。地味ながら着実に進んだが、全体の課題が膨大なのを再認識。つらい。
なんとかして日記の負債を解消していかないとなあ。密度の濃すぎる旅行を頻繁にやりすぎているからイカンのだが。


2020.3.7 (Sat.)

青春18きっぷ片手に、さあどこへ行こうか。天気があまりよくないので、市役所よりは神社かなと考える。
市役所はやはり、青空の下で少しでも良いコンディションで記録を残したい。その点、神社はそれ自体に威厳があり、
天気のことはあまり深く考えなくてもいい、という優先順位が僕の中にあるのだ。さすがに雨は避けたいが。

いろいろ考えた結果、お出かけ休日パスの有効範囲よりも遠い、青春18きっぷならではの場所ということで、
富津公園と高家神社をピックアップすることにした。富津公園は、6年前(→2014.9.27)のリヴェンジである。
明治百年記念展望塔まで歩いたはいいが、肝心の富津元洲堡塁砲台跡を完全スルーしていたので、今回はそちらへ。
そして高家神社は内房線で館山よりも先、安房鴨川寄りである。こりゃもう青春18きっぷでないと無理な場所だ。

君津の1つ先、青堀駅で下車。ここまで来るのに約2時間半である。千葉県は広大だなあと毎度おなじみのことを思う。
千葉駅のコンビニで買い込んだおにぎりをもちゃもちゃと食べてバスを待つ。本日の旅程は時間に余裕があるのだ。
やがてやってきたバスに乗り込んだはいいが、雨が降り出してしまった。今日は曇りでもつ予定だったのになあ……。
終点の富津公園に着くと、バスはそのまま駐車場へ。目的地の富津元洲堡塁砲台跡はその反対側、道路のすぐ南にある。
しかし雨の中でデジカメのシャッターを切る気は起きない。風もあって寒いので、近くのトイレ脇で雨がやむのを待つ。
滞在予定時間は70分なので気長に待つが、変質者と思われそうでつらい。15分ぐらいして、我慢できずに動きだす。

  
L: 正面入口から見た富津元洲堡塁砲台跡。富津公園的には「中の島」という名称になっているようだ。
C: 入口に近づいていったところ。  R: 中に入って振り返る。すっかり公園化されている。

富津元洲堡塁砲台跡は周囲を池に囲まれ、上空から見ると野球のホームベースを縦に圧縮したような五角形をしている。
だいぶいびつで差はあるが、印象としては函館の五稜郭(→2008.9.152014.3.222017.6.25)に近くないこともない。
五稜郭の完成は1866(慶応2)年だが(工期は9年ほど)、富津元洲堡塁砲台の完成は1884(明治17)年(工期3年弱)。
幕末の混乱から西洋流の近代化に至る変化を経た20年、富津元洲堡塁砲台にはそれがそのまま反映されているわけだ。

  
L: 中の島展望台。残念ながら老朽化で立入禁止。  C: その北側、左翼観測所方面。下はレンガ造りの地下室があるそうだ。
R: うっすらと水平線が見える。さらに高い展望台から景色を見たかったが、こんな曇り空では本来の眺めではないんだろうな。

富津岬は東京湾防衛の最重要拠点である。黒船で開国を迫られた経験を考えれば、ここに砲台というのはわかる話だ。
そのため、かつて富津岬は丸ごと海軍の軍用地となっていた。軍事機密なので戦前の地図では富津岬が削除されていた、
という話もある。鉄道も富津岬付近では窓を塞いでいたとか。1890(明治23)年には、岬の沖合に第一海堡が竣工。
しかし明治末期には砲台じたいが時代遅れとなり、1915(大正4)年の除籍後に元洲堡塁砲台跡は大砲の試射場となった。

  
L: 北西側から正面入口の橋を眺める。  C: 北西端から見た富津元洲堡塁砲台跡の内部。  R: 北東端より。右端の白いのがトイレ。

富津岬一帯が千葉県に払い下げられて富津公園となったのは戦後のことで、1951年に県立の公園として開園した。
砲台跡は最も外側がいちばん高くなっており、そこからぐるっとまわって中央へと下りていく形状となっている。
真ん中にはトイレもあって、雰囲気はすっかり公園そのもの。往時の施設を説明するような案内板はまったくなかった。

  
L: かつて堡塁だった要素はあちこちに残っている。説明がないのがもったいない。  R: 最上部に残る半円状の遺構。
R: 北西側から見た富津元洲堡塁砲台跡。ちなみに、池の水は海水を引いてきたもの。カモなど水鳥たちがいっぱい。

なお、千葉県の形をそのままゆるキャラ化した「チーバくん」だが、富津岬はちょうどチ◯コの位置となる。
そのため、戦前よろしく富津岬はチーバくんの体からは抹消されている。まあしょうがないね、砲台だし。ドーン!

帰りの木更津駅行きバスがやってくるが、素直に青堀駅で降りるような私ではない。そのままもうちょっと揺られ、
神門(ごうど)というバス停で下車。目指すは人見神社だが、目の前にはしっかりと山がそびえる。……アレなの?

 小糸川越しに眺める獅子山(人見山)。神社はこの山頂であります。

雨はすでにやんでいるが、地面は濡れたまま。サッカー用のトレーニングシューズは滑るシチュエーションだ。
尾瀬での苦すぎる経験(→2019.9.23)もあって、一歩一歩慎重に上る。後でわかったが、車向けの裏参道だったみたい。

  
L: 神門バス停からだとこのルート。右側の山です。  C: 微妙に滑りやすい道を行く。  R: さらに進んでいく。

坂道からだと本殿の裏側に出る。そこで目にしたのは、見事な絶景だった。さっきの富津岬では消化不良だったが、
山はさすがの高さで、東京湾へ向かって収束する前に広がっている富津の平野部が一望できる。これには見とれた。

 
L: 富津岬に向けて延びる前に広がる市街地。君津の製鉄所も見えて、千葉らしい景観をとことん味わうことができる。
R: こちらは拝殿側から眺めた南側の景色。平野と入り組んだ房総丘陵の対比がまた非常に千葉らしい景色である。

さて神社に参拝しようとしたら、拝殿から本殿まで改修工事の真っ最中。社務所併設の仮殿で二礼二拍手一礼する。
人見神社の「人見」とは、相模から上総に渡った日本武尊が「不斗(ふと)見そらし給う」たので「ふとみ」、
それが転じて「人見」となったという話である。このとき妻の弟橘比売が入水して難を逃れたエピソードが有名で、
「袖ヶ浦」「木更津」「君津」「富津」と内房(旧君津郡)の地名はだいたいこれ関連。そもそも「吾妻」もそうだな。

  
L: 拝殿。工事中。  C: 参拝は仮殿で。左側が授与所。  R: 本殿も工事中。残念だがしょうがない。

人見神社の祭神は天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神の造化三神ということで、千葉県らしい妙見信仰の神社だ。
境内には拝殿と並んで観音堂があり、明治の神仏分離後は本尊だった妙見菩薩をそちらに祀っているそうだ。
なお、御守には妙見信仰らしい価値観がきちんと反映されていて、勝守には北斗七星があしらわれていた。
人見ということで「ひとみ」の御守もあった(「妙見」は「優れた視力」を意味しており、その点からも納得)。
こういう御守を頂戴するのはうれしい。バスの時間まで、のんびりと景色を楽しませてもらった。

  
L: 観音堂。  C: 手前には二等三角点もあったよ、circoさん。  R: 帰りは石段の表参道を下る。

石段を下っていったら最後のところにある金毘羅神社付近で枝の伐採作業をやっているらしかった。
それ関連の車が境内入口をがっちりと塞いでくれやがって、社殿に加えてまたも写真が残念な結果に。トホホである。

  
L: この石段を上るのが表参道らしい。  C: 金毘羅神社。  R: 南側の境内入口。もっとデリカシーのある駐車をしてくれ。

バスを待って青堀駅まで戻ったが、実際には駅から十分歩ける距離だった。それなら前の列車に乗りたかった……。
青堀駅で40分ほど待って、館山行きの列車に乗り込む。館山では駅近くの中村屋で昼メシのパンを調達して食べる。
準備が整ったところで、さらに内房線を奥深くへ。内房と外房の境界は洲崎灯台(→2013.3.232019.3.21)らしいが、
内房線と外房線の境界はかなり東へまわり込んだ安房鴨川駅である。太平洋寄りの「内房線」は違和感があるなあ。

館山駅から2つめの千倉駅で下車する。かつては千倉町が存在していたが、現在は館山市を包囲する南房総市の一部。
千倉駅で下車するのは初めてだ。2007年竣工という駅舎がとってもモダンで驚いた。観光案内所が併設されており、
レンタサイクルがあった。それも魅力的だったが、当初の計画どおりのんびり歩いて高家神社を目指すことにした。

  
L: 千倉駅。旧千倉町は南房総市内で最大の人口を誇るとのこと。  C: コンクリート打ちっ放しのファサード。
R: 駅舎内。奥に観光案内所がある。レンタサイクルがあるのはいいが、南房総市は自転車には広すぎる。

駅から南に延びる道は高台にあるようで、左手には水平線が見える。車の交通量のわりに道は狭くて少しつらい。
高家神社は右の山側にあるので、最短距離に近い、よりローカルな道にスイッチしてトボトボと歩いていく。
農地と住宅地がそれぞれの特徴を際立たせている風景の抜けると、丁字路に出た。これを右折してすぐに到着だ。

  
L: 高家神社の参道。  C: 境内入口。  R: 進んでいくとこの光景。花が飾られており、境内の雰囲気は非常にいい。

高家神社は「たかべじんじゃ」と読む。日本で唯一とされる料理の神様を祀る神社ということで知られている。
式内社ではあるが長く所在不明となってしまっており、江戸時代になって鏡が見つかったことで神社がつくられ、
さらに後になってその鏡に「御食津神 磐鹿六雁命」と書かれていたことで高家神社として復活した、という経緯がある。
磐鹿六雁命は、景行天皇と安房を訪れた際にカツオとハマグリを捕って料理したそうで、それで料理の神とされる。

  
L: 授与所にて。高家神社はあちこちに花が生けられていて、それが境内になんとも言えない穏やかな雰囲気をもたらしている。
C: 拝殿。見事な茅葺き屋根はかなりの迫力がある。  R: 角度を変えて眺める。境内も社殿も実にフォトジェニックな神社だ。

当方、とりたてて料理に願い事があるわけではないが、味覚に鋭敏でありたいし、要領のよい人間にはなりたい。
料理ができる人というのは、優れた味覚を持ったうえで、物事の手順が理解できる数学的センスのある人だと思うのね。
まあこの先、他人に迷惑をかけない程度に害のないものを提供できるようにはなりたいものだ、と二礼二拍手一礼。
せっかくなので、御守も料理関連のものをしっかりと頂戴しておく。ヤスキハガネ包丁、きちんと使っていかないとね。

  
L: 本殿を覗き込む。千木が長い。  C: 脇にある包丁奉納殿。  R: 包丁塚も左右で2つあった。深い信仰が伝わるなあ。

神社で他人が奉納した絵馬を見るのはわりとゲスな行為だと思っているのだが、高家神社では拝殿の向かいにあって、
ついつい見てしまった。しかしそこに書かれている願いはどれも、「自分の料理で他人を幸せにできるように」という、
美しいことこの上ない内容ばかりなのであった。ほっこりした気分で千倉駅まで歩いて戻る。いい休日であった。


2020.3.6 (Fri.)

病的にペペロンチーノを食いたくなる日はないか? そうだよ、いわゆる「絶望のパスタ」だ。
諸説あるが、絶望的に金がなくてもニンニクと唐辛子があればなんとかなるパスタ、として知られるアレだ。
もっとも、それだけに本場イタリアではレストランのメニューにないほどにショボいものとして扱われているらしいが。
これをどうしても食いたくなる日が定期的にやってくるのだ。シンプルなだけに旨い、そんなペペロンチーノを食いたい。

晩メシに気軽に入れる店を探してはペペロンチーノに挑んでいるのだが、やはりそもそもの扱いがよくないものなので、
なかなか納得のいくペペロンチーノに出会えない。最もマシなのがセブンイレブンの大盛のやつ、という始末である。
じゃあ自分でつくってやろうかと茹でたこともあるが、市販のソースとパスタの量のバランスがわからなくて失敗続き。
いちばん細いパスタを茹でたはいいが、台所の隅にそのかけらが乾いて残ってハリガネムシみたいにひっついている。
本物のハリガネムシは気持ち悪いぞー。鎌首もたげるように、明らかに意思を持ってこっちの様子をうかがってくる。
……これ以上書くと本気で食欲をなくすのでやめておくが、とにかく外食でも手づくりでもなかなかうまくいかない。

そういえばフェラーリの創業者・エンツォ=フェラーリは言っていた、「物事は少し足りないくらいがいい」と。
ペペロンチーノを食いたいからって、いい歳こいて量で満足を得ようとする僕の方針が間違っているのかもしれない。
そもそもシンプルすぎるから店も扱いに困るのだろう。やや濃いめをちょっと少ないくらいで味わうのがよさそうだ。


2020.3.5 (Thu.)

ミニオンの魅力がわからない……。あれのどこがかわいいの? ジム=ヘンソン信奉者の僕にはまるで理解できない……。


2020.3.4 (Wed.)

生徒は自宅学習ということで、ウロウロと出歩いていないか自転車で近所を見回りをするのであった。
いや、まあそりゃあ確かに本来なら学校内で授業をやっている時間だから、それは職務として妥当であるのはわかる。
わかるのだが、公園などを中心に見回りというのはやはり、仕事としてどうなんだろうという疑問は浮かんでくる。
僕としてはこういう降って湧いた時間は「教材研究チャーンス!」ということでじっくり腰を据えてやりたいのだが、
なかなか素直にそうさせてくれないのがもどかしいところである。教員は自らブラックを志向するのね、なんて思う。


2020.3.3 (Tue.)

ペストの流行と今回のコロナを結びつけてメッセージを発したイタリアの校長は教養があるなあと感心する。
それに比べて日本は総理大臣が率先して大慌て、そんでもって脊髄で反応して上意下達(→2020.2.27)だもんな。
(問題は休校という判断の是非ではなく、休校という判断の「重さ」を理解できていない点にある。念のため。)
日本国民として本当に恥ずかしい。こんなバカが選挙で総理大臣になっちまうんだもん。本当に恥ずかしい。

今回の新型コロナウイルスの感染拡大という事態は、ふだんからの民度・教養がはっきり問われていると思う。
われわれが民主主義の主体たる成熟した市民かどうか、citizenという単語にふさわしい能力を持っているかどうか、
それが徹底的に問われている事態だと思う。パニックにならずに、十分な対策を施したうえで冷静に過ごすこと。
落ち着いて、ペストの時代よりも進歩した姿勢を示すこと。それだけでいいのだ。一人前のオトナとして当たり前のこと、
それをみんなが実践できる国かどうかが問われている。トップがバカでもみんなが賢いことを示せれば、それでいい。


2020.3.2 (Mon.)

生徒のいない学校に出勤である。やはり仕事を奪われるというのは気分のいいものではない。ずっと机上整理で過ごす。
今回の全国一斉休校という施策じたいは、否定も肯定もしない。新型コロナウイルスはまだまだ得体が知れないので、
やるんならやれば、といったところである。ただ、何の準備もなしにやった上で及び腰なのは、バカ丸出しだと思うが。
問題はむしろ、休校により授業がなくなるリスク、未来ある子どもが学習機会を失うリスクを受け止めない姿勢だろう。
「非常時だから休校措置はやむをえない」という声を発する者ほど、このリスクを軽視しているように感じるのである。
1ヶ月間まるまる学校で勉強しないリスクを、きちんと正当に把握してほしい。休校と天秤にかけろと言うつもりはない。
勉強しないというリスクを、しっかり背負ってほしいのだ。日本国民全員に、後ろめたさをうっすら感じてほしいのだ。
その後ろめたさを自分の中で保持して、休み明けに勉強をがんばってほしいのだ。そこが守られるのなら、休校でいい。

神保町カレーライフの第2弾その2、スマトラカレー 共栄堂(→2019.10.31)のタンカレーをいただく。
3類型の分析をしてみて(→2020.1.12)、共栄堂はもう一度きちんと食ってみないといけない気がしたのである。
あの図では「スマトラ」なのでインド側に置いたけど、お値段的にも明らかに浮いているし、あらためてどうなのかと。

 タンカレー、ライスもソースもふつうサイズ。お値段は1750円だぜワァ~オ!

タンカレーは共栄堂が自ら「最強」と称しているカレーだ。お値段相応にタンがしっかり入っており、上には松の実。
ライスにかけていただいていくが、まあタンが柔らかいこと。柔らかすぎてタン独特の歯ごたえはあまり感じられない。
そうなると個人的にはタンである必然性が揺らいでくるが、高級感がものすごい。欧風カレーのそれに近い雰囲気だ。
やはりあの図で表現したとおり、共栄堂の立ち位置は非常に独特なのである。スパイス重視のカレーではあるものの、
はっきりとヨーロッパ志向を感じるのだ。洋食とは異なる存在だけど、洋食になりたい。そういうカレーに思えた。
しかしスパイス重視で「インド」だと高級感を出すことができない。「スマトラ」はそのエクスキューズという気もする。
昨日マサルと食ったアカシアの極辛カレーは、洋食屋なのにスパイスが絶品のチキンカレーだった。つまりインド的。
でもアカシアは洋食屋だから「インド」の文字を出さない。洋食屋が華麗に飛び越えた矛盾に、共栄堂は直面している。
「インド」から少しずらして、インドネシア。それで、「スマトラ」なのか。とにかく、唯一無二の味なのは確かである。


2020.3.1 (Sun.)

このご時世にマサルと遊ぶのであった。しかしわれわれ、これといってテーマがない。じゃあ謎解きで、となる。
そんなわけでこのご時世に新宿集合。すると日曜の朝10時半だというのに、本当に人通りが少ない。震災以来かなあ。
紀伊國屋書店前を通りかかって、ちょうどいいやと撮影してみる。いつもだったら人が途切れることなんてないもんね。

  
L: 前川國男設計、紀伊國屋ビルディング。1964年竣工。DOCOMOMO 208選。3年前には東京都選定歴史的建造物に選定された。
C: エントランス部分。  R: さらに拡大。ちょうど『のび太の新恐竜』のフェアをやっていたのであった。面白い空間だな。

とりあえず1階部分を抜ける。書店だけでなくさまざまなテナントを入れてパサージュ的にしている点はやはり斬新。
抜けてアドホック側から振り返ると、出入り口部分はいいのだが、そこから上階はなんともテキトー。不思議である。

  
L: 1階を抜ける。「紀伊國屋ビル 名店街」の文字がモダニズム。  C: ガラス天井ではないのでパサージュではないが、それっぽい。
R: 抜け出てアドホック側から眺める。表と比べるとずいぶんテキトーである。竣工当時はどんな感じだったんだろう? 気になる。

約束の10分遅れでマサルと合流。もともと遅れたのはマサルの方だぜ、念のため。でも午前中に起きたから偉い偉い。
TOKYO MYSTERY CIRCUS は2年ぶりである(→2018.3.42018.4.22)。歌舞伎町のやつはもう終わってしまっている。
どれを遊ぶか考えるが、こないだの英語のテストで中学生がスヌーピーを答えられなかったことに僕は憤慨したので、
「スヌーピーと秘密のレシピ」に挑戦。もうひとつ「謎解きサーカス団」もあったが、第2弾をやるというひねくれぶり。

まず最初のタスクは、ビルの1階から4階までスヌーピーのきょうだいがいて、そこからヒントをもらうというもの。
しかし4階まで行くのが面倒くさいマサルは、1階のカフェで休憩ついでに、売店で売っていたカードゲームを買う。
面白そうやん!ということで、ふたりでそのゲーム『タギロン』を開始。ヒントカードをもとに5つの数字と色を当てる、
というゲームで、2回戦って1勝1敗なのであった。ってか、謎解きの途中で発作的に欲しくなったカードゲームやるか?
もっともその間、ペーパーだけ見て解けるものは上階に行かずにその場でさっさと解いちゃう私も私でありますが。
きちんとルールを守って解かないとダメなんよ!と窘めてくるマサルは、なんだかんだでさすがの法学部である。
対照的に、ルールそのものを疑ってかかり、横紙破りで最短距離の分析を目指す私はいかにも社会学部なのであった。
「秘密のレシピ」は3段階の謎解きになっており、最後の3段階目がなかなか大変だった。閃いたけど上手くいかなくて。
きちんと正しい手順を踏もうとして苦しむマサルと、苦しむのが面倒くさいので答えの可能性があるものを絞り込み、
「■■■■」が答えに決まっているからもう行こーぜと何度も囁く私と、今回も性格の違いが完全に出たのであった。

  
L: 謎解きの途中でカードゲームを始めてしまうわれわれ。『タギロン』は悪くはないけど、ちょっと飽きる感じかなあ……。
C: ウッドストックのクッキーにご満悦のマサル。  R: 今回も謎解きでワープを連発する私。まあ結局、正解だったけど。

近くの海鮮丼の店で昼飯。マサルは惹かれたウニ丼に突撃するのであった。相変わらず食うことに金を惜しまんな。

 ウニ丼に舌鼓を打つマサル。

さて、午後はマサルがぜひやりたいと言う「リアル脱出ゲーム×オールナイトニッポン」に挑戦する。4人でやるので、
先に申し込みをしていたカップルさんと合流してのチャレンジ。突然現れた40代独身コンビが相手でたいへん申し訳ない。
内容は短い時間でいろいろギミックを詰め込んでようつくるなあと。最初のところで息が合わずに混乱したが、
(個人的には半分答えがわかりかけていたのだが、やっぱり備え付けてあるものに手を出すのは苦手なのだ……。)
後半はテンポよく巻き返して無事に脱出成功。組む人数が多くなると攻略が安定するなあと思うのであった。

 
L: ブースの中であれやこれやの謎を解く。  R: 中で記念撮影していただきました。

最後は外に出るという「ガンダム起動作戦」に挑戦。シネシティ広場(旧コマ劇前広場)を使ったARもあり、
現代のエンタテインメントは多種多様になっておるのう、と思う。ま、LINEすらやらない僕には無理ですな。

 こんな感じでガンダムが新宿に立つ。

その後はこちらも毎度おなじみクイズマジックアカデミー。マサルがまたヒドい名前でキャラを登録。
しかしネットワーク対戦してみると、全盛期と比べてだいぶ過疎が激しくなっていた。切ないなあ。
マサル曰く、みんなクイズは無料アプリでやる時代なんだとさ。なんでもかんでも無料、イクナイ。
それにしても久々のクイズだったが、自分の実力が驚くほど落ちていて泣けた。お弱くて申し訳ございません。

 
L: 洋食屋 新宿アカシア。1963年創業とのこと。なんか雰囲気がそれよりもっと歴史ありそうな感じなんだけど。
R: ロールキャベツが有名だが、気になった極辛カレーとセットでいただいた。洋食屋なのにスパイスが旨いカレー。

晩飯はマサルの希望でオシャレな新宿アカシアでロールキャベツと極辛カレーをいただき、喫茶店でダベる。
過去を振り返ったり近況を報告したりで、そのうち早起きしたマサルが眠くなって解散となるのであった。
近いうちにみんなで忘年会兼新年会をやらないといけないなあ、となる。コロナが終息せんとダメかなあ。


diary 2020.2.

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