ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』。有名なSFをきちんと読んでおかないとな、ということで。
この作品、2/3に圧縮できると思う。饒舌な描写が多く、そこが僕にはなんとも無駄に思えてしまうのである。
しかしSFとして作品世界を演出するためには必要な要素であることもわかる。雰囲気づくりが何より重要なんだよね。
読者を引き込むために必要であるのはわかる。が、削れるんじゃね?とも思ってしまう。こりゃもう相性の問題か。そう、僕はこの作品との相性が本質的によくない。というのも、この作品はSFが50%で、もう50%はミステリだから。
月で死体が発見されました、その死体は5万年前のものでした、でも現代の人間とほとんどかわりありません、なぜ?
そういうミステリを300ページ弱、延々と追いかけていくのだ。本当にそのミステリだけで成り立っている作品なのだ。
だからSFとミステリの中間をきれいに通っていった傑作だ。よくこんなにピッチリSFとミステリの中間を行けるなあ、
そう感心する気持ちはすごく強い。でも謎解き(答え合わせ)だけなので、結論としては僕にはイマイチなのである。以前、マサルと焼肉キャンプに行ったとき、僕の謎解きに対する姿勢についてダメ出しを食らった(→2020.8.29)。
マサル曰く、謎解きとは悩む過程を楽しむものであり、結果にいち早くたどり着くのが唯一の「正解」ではないのだ、と。
これは本当にそのとおりで、なんでもいいから最終的な答えが合っていればいーじゃん、という僕の姿勢は異端なのだ。
だから「2/3に圧縮できる、描写を削れるんじゃね?」と考えるのは、この作品に対する感想として的はずれに違いない。
重厚な描写を味わいながら主人公とともにミステリに入り込んで翻弄されるのを楽しむ、そういう余裕が大事なのだ。
というわけで、ミステリ好きの人にはこれはがっちり名作だろう。そこは理解できているので、それでヨシとさせて。
体力の限界を迎えている中、土曜授業なのであった。文化祭の展示部門と授業公開を兼ねているので、客が大量。
みなさんコロナ自粛でやることねえもんなあ、と思いつつ力を振り絞って3連発の授業をやりきる。いや本当に疲れた。午後は部活だったが、終了間際になってまたしても生徒がケガ。疲れているのは教員だけではないようだ。
この前もそうだったが、どうやら部活の終わりが見えてきた時間帯でケガすることが多いような気がする。
「高名の木登り」ではないが、終盤こそ気をつけなければいけないようだ。疲れて注意力が落ちることも絶対にある。
逆を言うと、人間はふだん無意識のうちにケガを避ける動きができているということ。不思議なものだが、そうだろう。
自分を振り返ってみても、もっとひどい事態になってもおかしくない場面がいくつかあったが、切り抜けた記憶が多い。
おそらくこれは動物全般に言えることだろう。ならばその能力を意識して高めることもできるはずだ、なんて考えてみる。
成人の日が終わってから建国記念日に至るまでの1ヶ月間は想像していた以上に荒涼としたものでありまして、
まだ半分くらいしか経過していないにもかかわらず、すでにヨタヨタになっているしだい。いや、もう、倒れそう。
先週は午前中のみだったり出張があったりで当初の想定よりもだいぶすんなりと切り抜けることができたが、
今週は土曜まで授業が詰まっているフルコースっぷり。来週も5日間まるまる仕事で部活と思うと、絶望的な気分だ。それですがり付いたのが、入浴剤なのであった。温泉タイプの入浴剤に浸かって癒される日々となっております。
ユニットバスは旅行の妄想に浸るには窮屈すぎるが、とりあえず一日分の疲れを軽減できればそれでいいのだ。
なんとかガス抜きの手段を探りながら暮らしております。面白がれることをどんどん開拓していかなければ。
今日は一日ほとんどALTと組みっぱなしなのであった。生徒たちの反応を見るに充実していたようで何よりだが、
こっちはずっと気をつかい続けて疲れた。まあ彼はやりやすい方なんだけどね、それでもこれだけ疲れるという。
他人に合わせて地味にフォローする作業を授業中ずっと続けることになるので、自分一人よりもずっと疲れるのだ。ふと思ったのは、芸能人ってずっとこんな感じなんだろうなと。番組が面白くなるように、ずっとフォローしっぱなし。
基準がつねに他人の側にあるので、自分のやりたい放題は1秒たりとも許されない。これはストレスが溜まるなあと。
教員の場合には学習内容という共通テーマがあるため、自分のやりたい放題が生徒の求めるものと素直に一致しやすい。
まあ授業の巧拙や生徒の姿勢にも左右されるが、目指しているものが最初から一緒なのでずっと気を張る必要はない。
でも芸能人はそうはいかない。明確に見えるとは限らない他人の基準に、ひたすら合わせ続けないといけないのだ。
俳優にしろお笑い芸人にしろ、他人に合わせることをずっと継続できる人って偉大だわあ、と痛感したのであった。
スカパラのSACD(→2020.12.23)のMP3化をこのたびようやく完了した。さすがに9枚分という分量はすごかった。
ただ問題はどちらかというとiTunesとiPod Touchによる曲の更新作業の方で、ここでやたらめったら時間がかかった。
元から入っていた曲を更新していくという形をとったにもかかわらず、素直にできる曲もあればそうでない曲もある。
レートはおかしくなるわアートワークはきちんと読まねーわ再生回数をコントロールできねーわで、本当に使いづらい。
それでもiTunesとiPodのコンビがいちばんマシなんだからどうしょうもない。Appleはもっと足元しっかりしろや。しかしあらためてソニー時代のスカパラを聴くと、まさに「トーキョー・スカ」の本領が発揮されていてすばらしい。
スカパラのアルバムをあらためて振り返ってみるとその紆余曲折がけっこう興味深くて、実に不思議なグループだ。
洗練されている部分とそうでない部分があって、どのアルバムもキラーチューンと捨て曲とがきっちり混在している。
そしてどんどんキラーチューンの数が増えていって威力も高まっていく印象。一方でもっさりした捨て曲も消えないが。
キラーチューンはジャズやフュージョン方面に寄ったときに発生するが、それでも無国籍な感触が残るのが面白い。
ゲストヴォーカルを迎えた『GRAND PRIX』でそのごった煮ぶりは頂点となるが、ここで歌謡曲を意識したのがさすが。
複数のルーツを持つ「トーキョー・スカ」について自覚的になった瞬間だろう。次の『トーキョー・ストラット』も、
さらに貪欲にルーツを求めて興味が拡散していって、その結果としてキラーチューンの完成度もさらに上がる感じ。
最初はカヴァーの中で遠慮がちにやっていたオリジナルが、他のジャンルと融合していくことで明らかに勢いを増すのだ。
それこそが「トーキョー・スカ」の本質というわけだ。ただ、ハイブリッドに行きすぎたという反省はありうるだろう。
これ以上のやりたい放題を続けるとスカという母体からも離陸してしまう、そういう危うさもうっすら感じさせる。
僕なんかはスカに思い入れがなくってインストとしての完成度それ自体に興味があるので離陸は大歓迎であるのだが、
メンバーはそうはいくまい。いま振り返ってみると、よくここで空中分解しなかったなあと思えるほどに挑戦的だ。ベスト盤の『MOODS FOR TOKYO SKA』を最後にavexに移籍すると、軽い迷走を経てロックという新たな鉱脈を見つけ、
現在に至る方向性を確立する。一度「トーキョー・スカ」をやりきった彼らは安定的に作品を生み出していくが、
その反面、アルバムごとの個性は消えてしまう。「歌モノ3部作」は歌謡曲を意識した過去への反動と見ていいだろう。
そうやってこれまでの流れを眺めてみると、avex移籍後のスカパラは確かに音楽的には収束していると言えそうだ。
拡散しながらアイデンティティを求めていた時期のスカパラが好きな僕としては、マンネリに見えてしまうわけだ。今回、SACDでソニー時代のスカパラが再発売されたことで、かつてあった彼らの冒険心を味わう絶好の機会が訪れた。
インストゥルメンタルが好きならぜひとも聴いていただきたい。あらゆるジャンルが高度に融合した遊び心の塊なのだ。
緊急事態宣言を受けて平日の部活が1時間ポッキリとなっているのだが、おかげで以前よりだいぶ楽である。
生徒の側としてはウォーミングアップが終わったところで終了という感じで消化不良に違いないだろうが、
教員の側としては確実に負担が減った。今年度は管理顧問的な形でしか関わっていないけど、明らかに違う。
結局のところ、部活に引っ張られて職場を出る時間が遅くなるのがいけないのである。早く解放されると本当に楽。まじめでやる気のある生徒たちが相手であれば、部活にある程度エネルギーを割くことはイヤではないんですけどね。
こっちが前向きになれるのであれば、それはむしろプラスになりうる。でもそうでなければ、正直きついでございます。
3月に予定されている校外学習に向けての第一歩ということで、本日はそのスローガン決めである。
……が、僕にははなはだ疑問。東京の中学校は行事ごとにやたらめったらスローガンをつくりたがるのだが、
それって必要ですかね? 気の利いたキャッチコピーをつくる能力のある生徒がいるんであればともかく、
そうでない生徒たちから広く案を募って無理やりに加工して、時間と労力をかけるわりには効果がない。
ただやっている感を出しているだけじゃないのか。自分たちが何か仕事をやっているつもりになっているだけ。
「スローガンをつくる」という行為じたいを目的にしている感じである。手段と目的を取り違える愚かさ。
そもそも教員という生き物じたい、どうでもいい言葉をあれこれ議論して自己満足する特性があるものだ。
中身のない言葉にそれだけ熱中できるのが、僕は昔から不思議でしょうがない。もっと他にやることあるだろ。
鴻上尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』。鴻上さん、いろいろやってますね。すげえや。
9回出撃して9回生還した元陸軍特攻隊員・佐々木友次氏について書いた本。講談社現代新書である。全4章。構成はきわめて明確である。この本では特に、過去の事実と個人の見解をきちんと分ける必要があるわけで、
そのことを細やかに意識しての章立てとなっている。1章はプロローグでこの本を書くに至るまでの経緯、
2章はインタヴューをもとにしたノンフィクション、3章はインタヴューそのもの、4章が筆者による見解である。
作品としてこれらすべてが一体となってもおかしくないが、それぞれきちんと分けている点に筆者の誠意を感じる。
特に3章で佐々木氏の「肉声」、鴻上氏と佐々木氏の生のやりとりを収録しているところがポイントだろう。僕も知覧(→2016.3.20)へ行ったり鹿屋(→2017.8.20)行ったりしたわけです。江田島(→2019.9.7)にも行った。
それぞれでかつてあった現実を目の当たりにして、言葉にならない思いを抱くわけです。いったいどうして、と。
2章と3章はその中の一コマを描き出すもので、圧倒的な現実に打ちひしがれるしかない。これが日本人なのね、と。
だからそれについてどうこう言うことはできない。自分にも流れ込む明確な過去として背負っていくしかないのだ。ただ、最近の中学生が生意気でしょうがねえ、いったい何様のつもりなんだ、と思っている身として、
じゃあこの時代に僕が今と同じ発想でいたら、それは「生意気」なのだろうか、とも考える。当然、答えは出ない。
また、性格最悪なうえに認知症丸出しのキチガイ校長を相手に真っ正面から戦っていた過去を振り返ってみて、
じゃあこの時代に僕が今と同じ発想でいたら、それは「不道徳」なのだろうか、とも考える。当然、答えは出ない。
当時には許されなかった「個人の意見」が正しいものとして支持を得る条件、そこを客観的に探っていくしかない。4章で鴻上氏は、先行研究(とあえて表現しよう)から特攻の実像をできるだけ冷静に検証しつつ、
日本人の直面する「世間」と「社会」、さらに集団の意識にまで踏み込んで論じていく。確かに感情でなく論理、
それをベースとするのであれば、そこまで踏み込まなければ特攻という現象が発生したことを検証できないだろう。
そして特攻を生み出した構造からわれわれは脱却できているのか、特攻というものをきちんと反省できているのか、
それを問うことはできまい。われわれが今の自分たちの立ち位置、思考の枠組みについて何も考えることなく、
なんとなく気分で物事を判断するのであれば、それは特攻を生み出した時代と何も変わらない結果となるだろう。
興味本位でなく、そこまで落とし込んでみせた鴻上氏はさすが。われわれはこれを演繹していかなければならない。
ムーンライトながらが運行を終了するというニュース。残念きわまりないが、しょうがないことであるようで。
もともと鉄っちゃんではない僕にとって、ムーンライトながらは当初まったく縁のないものなのであった。
大学1年の夏休みにクイズ研究会の1年生仲間で飯田で合宿をした際、スススの指令で乗ったのが初めてである。
その後あちこちを旅行するようになると、青春18きっぷとの組み合わせでめちゃくちゃお得に旅行できることがわかり、
帰省の際にかなりの頻度で利用するヘヴィユーザーとなったのであった。利用した回数を数えるのも面倒くさい。
これで夜に小田原まで電車を乗り継いだり(0時を越えるのが小田原なので、18きっぷを1回分使わなくて済む)、
大垣駅で早朝のダッシュをしたり(「大垣ダッシュ」、米原方面の東海道線に着席すべく他の乗客と戦うこと)、
そのようなことがなくなると思うと、楽ではあるけど、さみしい。これはマジで青春の一区切りでございますよ。アクアウォーク大垣はムーンライトながらと合わせてもっともっと利用したかったんだけどなあ。
お世話になる機会が激減どころかゼロに近くなってしまうとは。本当に残念。今までありがとうございました。
英検。責任者として雑務をこなす。英語の教員としてこれに関わるのも最後と思うとしんみり……するわけねーだろ!
終わってくれてせいせいしたわ。公立学校がやるべきものではないだろうに。もう二度と関わりたくないです。
このご時世に出張。1ヶ月後も状況が変わらないだろうから今やっちゃえ、ということで招集がかかったようだ。
僕としては、出張はいい気分転換になるから大歓迎なんですけどね。これが今年度最後かな、と思いつつお出かけ。
道徳の授業で若手教員のサポートに入ることになった。まあこれは若手の道徳の授業を見学するような感じである。
他人の道徳の授業についてあれこれ言えるほど僕は偉くもないし、正直そもそも興味がない。好きにやれば、って感じ。
ただ、見ていて、僕の場合はトークに細かいジャブのようなギャグを入れたがるなあというのは自覚した。
「あ、今ここボケを入れられたのに」「これはこの角度から一発決めておきたい」等々、そればっかり考えていた。
道徳にも指導案があって落としどころがあるんだけど(教科化したし)、もっていき方がギャグ中心なのである。道徳の授業にも題材がいろいろあるが、個人的に誰かが書いたフィクションの素材は苦手である。面白くないんだもん。
他人の考えた枠組みにみんなでハマりにいくのは、映画を見て感動に誘導させられるような気持ち悪さがある。
自分で好き勝手に考えているようで、実はテーマに沿った手のひらの中で格闘している、そういうのが理想である。僕が今までにやった道徳の授業の中で、納得のいく内容になったなあと思えたものは2つある。
ひとつは工藤直子『てつがくのライオン』で、これをテーマとして振られたときには、もうどうしようかと。
しょうがないので中学生相手に噛み砕いてプラトンのイデア論を紹介し、「ライオンのイデア」を手がかりにして、
自分にとって理想の自分と他人から見た自分との差、そこから「自分らしさ」について考えてみよーか、
なんて具合にもっていったのであった(→2018.11.28)。生徒は予想外に哲学に食いついて、かなり好評だった。
(アニメ『アイドルマスター シンデレラガールズ』17話(→2015.11.5)を出して暴れるほどの余裕はなかったぜ。)
もうひとつはピューリッツァー賞でおなじみの「ハゲワシと少女」が見開きで出ている、それだけの素材で、
ふつうなら「目の前の少女をまず助ける」「写真で世界に伝える方を優先する」、どっち?という内容でいくだろう。
でもそんなの全然面白くないので、それは導入に留め、この写真を撮ったケヴィン=カーターの最期を紹介し、
誰が彼を殺したのか、という方向へ踏み込む。で、最後に彼の同僚が書いた撮影当時の状況を種明かししてから総括。
テーマは多少拡散するが、メディア論も含めて正義とは何よ、ということを広い視野で考えられる(→2019.2.20)。
やはり僕の場合には、ある程度自由度の高い素材をやらせてもらった方が中身の濃い授業ができるようだ。道徳の授業でいちばん重要なのは当事者意識だと思っております。自己を振り返り、他人の立場を想像できる当事者意識。
なーんかもう、やることなすこと半人前のくせして一丁前の権利を主張するガキが多くて困る。
何が根拠で、先生相手に対等だと言わんばかりの生意気な態度をとれるのか。まったく理解ができない。
オレもかつては生意気な中学生だったのは否定しないが、目上への敬意は絶対に保っていたはずだ。なぜ目上の人が偉いかといえば、その人が自分以上の経験を持っているからで、それを尊重しているのだ。
自分を基準にするのはいいが、他人に対して自分と同じように大切に扱い、その経験を尊重する、その発想がない。
つねに自分のことしか考えない、相手の立場に立つだけの想像力がない。そんな人間が増殖していてイヤになる。
生徒手帳をボケッと眺めていたら、いま勤めている学校の校歌を日夏耿之介先生が校閲しているのに気がついた。
東京ではこの辺に住んでいたようで、それでその縁か、と納得。でも「介」の字が「助」と間違っていたので、
副校長に訂正をお願いする。そしたら、なんでそんなことに気がつくんだ、という顔をされたので、
「いや、日夏耿之介の家が僕の実家と同じ町内にありまして」「実家どこなの」「飯田です、長野県飯田市」
「飯田? 飯田なの?」「はい、ぼく飯田高校です」「……私、飯田で生まれたんだけど」「え!!」
思わずシェーに近いポーズをとってしまったよ。母親の実家で出産のパターンと思われるけど、びっくり。
で、しかも。「いとこが飯田高校の副校長なんだよね」これまたびっくり。こんな形で世間の狭さを実感するとは。副校長は僕が初任校時代にサッカー部の顧問どうしということでお世話になった方だが(→2020.4.1)、
まさかこんなご縁があったとは。非常に温厚で尊敬できる方で、なんともうれしいことではないか。
オルテガ=イ=ガセット『大衆の反逆』。今まさに読まなくちゃいけない本だと思ったので読んだ。
1929年刊、ロシア革命が過ぎファシズムが勃興している時代の本だが、まさに現代、そして現在をえぐる名著だった。
どのような形でレヴューを書くべきか迷ったのだが、本文の趣旨をそのまま縮小してなぞってもしょうがないし、
今こそみなさんこの本をきちんと読むべきだと思うので、引用を混ぜつつ書き散らして読む気を喚起してみたい。あらかじめ訳者のあとがき・解説をふまえて、オルテガの基本的な考え方を押さえておくことは極めて有効である。
全編通して読めばわかるが、オルテガの哲学は一貫しており、その思考の枠組みを理解することが読者の目標となる。
その哲学は、いい意味でのモダニズムである。過去から未来への「進歩」を非常にポジティヴなものと捉えている。
(ただしその分、ヨーロッパ中心主義を徹底的にやっている。まあ時代が時代だし趣旨が趣旨なので仕方ないが。)
根底にあるのは、エネルギッシュな「生(vida)」への絶対的な肯定だ。「生とはこれすべて、
自己自身たるための戦いであり、努力である。わたしがわたしの生を実現する上で直面する障害こそ、
まさにわたしの能力を目覚めさせ、行動を喚起するものなのである。」(p.140)
人は困難に立ち向かうことで成長し、またその人生を意味のあるものとすることができる。対象は人それぞれだが、
この「生」を生きる人の姿勢を「貴族的」と表現し、実現した人を「少数者」として讃える。そういう価値観だ。これと対置されるのが、「大衆」である。冒頭、オルテガは言う。「大衆が完全な社会的権力の座に登った」と。
そしてこれを「遭遇しうる最大の危機」とする。「今日の特徴は、凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、
凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにあるのである。」(pp.21-22)
ここで言う「凡俗」とは上記のような「生」を生きることのない者、また歴史に対する敬意と配慮のない者を指す。
「歴史とは、自分の背後に多くの過去すなわち経験をもつということである。」(p.129) 歴史的知識こそ、教養だ。
面白いのは、オルテガがモダニズム的進歩主義史観の文脈から、この大衆の登場を必然的なものと見ている点だ。
特に、自由主義的デモクラシーと技術に支えられた19世紀の文明が自動的に大衆を生み出した、とオルテガは語る。
それゆえ、大衆の反逆というこの情況を、「勝利と死の双面をもつ可能体」と言う。モダニズム的にポジティヴなのだ。自由主義。オルテガはこれを「運命の真理」とまで呼んで肯定する。ギリシャ・ローマから連綿と続くヨーロッパ、
その文明がよりよい生活を追求した末に到達したものだ。オルテガはまず、文明とは共存への意志であるとする。
「人間は自分以外の人に対して意を用いない度合いに従って、それだけ未開であり、野蛮であるのだ。
野蛮とは分離への傾向である。」(pp.106-107) そして政治において最も高度に共存への意志を発揮したものが、
自由主義的デモクラシーであるとする。それは至上の寛容さで、自分を犠牲にしてまでも多数者が少数者に権利を与え、
敵との共存の決意すら表明するという。しかし実際に行うことはあまりに複雑で難しく、地上に根を下ろしえない。
大衆は、大衆でないものとの共存を望まない。オルテガはロシア革命とファシズムに、自由主義への反動を見る。
そして大衆は他者への配慮に他ならない間接的な手続きを否定し、「直接行動」に出て社会的な生に介入する。
これは自由主義へと至る知の蓄積と戦いに対する挑戦、つまり歴史に対する敬意と配慮の欠如であるというわけだ。技術。これもまたヨーロッパ文明が積み上げてきたものである。「科学」に近いが、より実践の色合いが強い語だ。
ヨーロッパ文明は科学・技術・産業を発展させ、人々に恩恵を与えてきた。1800年に1億8000万人だったその人口は、
1914年までに4億6000万人にまで増大した。しかし技術の進歩により科学者の専門化が進み、機械化が進んだことで、
自らの専門分野以外については無知であることに気づけない傲慢な専門家が増えた。また技術を享受する大衆も、
文明の利器をあたかも最初から存在している自然物であるように扱う。オルテガは、「世界は文明開化しているが、
しかしその住民は未開なのである。」(p.114)と痛烈に批判する。また、「平均人が科学から受ける恩恵と、
平均人が科学に対して抱く――いや抱かないというべきであろう――感謝の念の不調和」(p.120)を指摘する。
これもまた、歴史に対する敬意と配慮の欠如だ。自由主義と技術の軽視は、オルテガにとって野蛮性への後退を意味する。オルテガはさらに、国家という仕組みにも目を向ける。「国家(state)」は均衡状態、安定状態を意味するものだ。
これは人間に対して贈り物のように与えられたものではなく、成員相互の協力により成り立ってきたものである。
そして、国家は民族の想像力による「真の創造」とする。しかし大衆は、今ある国家を所与のものと受け止める。
それどころか、大衆は実際に自分が国家であると信じており、国家を動かして創造的な少数者を押しつぶそうとする。
さらにオルテガは国民国家という概念を持ち出す。これが非常にわかりづらい。国民国家については、「社会的権力と
それによって支配されている集団との『言質的一致』を意味する」(p.243)とある。また、以下のような記述もある。
「けっして完結することはない」「つねに形成の途上にあるか、あるいは崩壊の途上にあるかのいずれかであり、
第三の可能性は与えられていない」(p.251) 個人的には自由主義の文脈上にある国家を指すと見ているが、どうか。
したがって、現在の大衆の反逆についても国民国家の現象と言える。それだけに、貴族的な少数者による攻撃により、
大衆が導かれることになれば情況は変わる。オルテガはヨーロッパのより大きな枠組みからそれが展開されることを、
歴史を包括する超克を、期待しているようである。もちろんそれは、EUなどというようなチンケな集合体などではない。
(この点、解説が盛大な空振りをしているのがみっともない。EUをこの文脈に置くのはそうとうな阿呆である。)議会に突入する米国民(直接行動)、スマホ漬けの人々(技術への無知)、生意気な中学生(慢心しきったお坊ちゃん)、
そういった面々をふだん目の当たりにしている僕からすると、オルテガが第2次大戦前に指摘した「大衆の反逆」は、
まさに今こそ説得力を持って迫ってきているように感じる。あれだけの戦争を経験しても大衆は変わらなかったどころか、
さらにその度合いを強めているように思える。そしてモダニズムは前世紀の遺物として顧みられなくなってしまっている。
「他のあらゆる時代に優り自分自身に劣る時代」
「きわめて強力でありながら、同時に自分自身の運命に確信のもてない時代」
「自分の力に誇りをもちながら、同時にその力を恐れている時代、それがわれの時代なのであろう。」(p.49)
「われわれの時代はいっさいの事象を征服しながらも、自分を完全に掌握していない時代、
自分自身のあまりの豊かさの中に自分の姿を見失ってしまったように感じている時代なのである。」(p.60)
なるほど大衆を主役とする社会は、歴史的な必然であった。このことをポジティヴにとらえるのは、おそらく正しい。
しかし自由主義や技術を扱うには、現状のわれわれは成熟が足りていない。それにふさわしい思惟が足りていない。
まずはその状況を受け止めること、無知の知とも言える謙虚な教養を地道に育てていくことが必要なのではないか。
自らの力が及ばない部分を認める余裕を持つこと。そのうえで、節度を持って考え続けることが必要なのではないか。
それはまことに「人間らしい」ことである。これまで人間が理性を発揮してきた歴史の中に立ちましょうってことだ。
寺と神社、御守について、今のところ感じていることを、独断と偏見をもとにまとめておこうと思う。
明治の廃仏毀釈までごっちゃになっていた寺と神社だが、今でもごっちゃの要素を残しているところは多い。
僕が参拝してみて思うのは、基本的に、寺っぽい神社はあるけど、神社っぽい寺はない、ということだ。
(強いて言うなら、境内に巨大な鳥居を持つ豊川稲荷(豊川閣妙厳寺)くらいか。→2009.12.30/2014.12.29)
やはり本地垂迹説は強かった、という気もするが、寺=仏教の方が宗教としての自覚が強いからだ、とも思える。
そして神仏習合が進むうえで強力な後押しとなったのは、密教だ。もともとインド方面の世界観が混じった密教は、
日本古来の価値観もうまく取り込んでいく。さらに密教と山岳信仰が結びついた修験道なども生まれていく。
明治に入って禁止されたこともあり現在の修験道はだいぶ弱まっているが、それでも神社により影響は色濃く残る。
そしてなんとも独特な印象を与えているのが、妙見信仰である。これももともと妙見菩薩を信仰する仏教なのだが、
中国の道教を経ているので、密教・修験道とはまた違う方向性を持っている。それが廃仏毀釈で神社化したため、
極端なことを言うと、仏教をもとにした新たな宗教とでも言えそうなくらい独特な世界観となっていると思う。
(個人的には、相馬三妙見が強く印象に残っている。東京を気にしない感じというかなんというか。→2019.4.7)
ということで、系統は主に3つ。日吉大社(→2015.11.27)・日枝神社(→2014.12.13)などが典型的な「密教系」、
出羽神社(→2014.8.24)・雄山神社(→2015.8.1)・熊野三山(→2013.2.9/2013.2.10)などが典型的な「修験道系」、
千葉神社(→2016.12.25)・相馬三妙見などが典型的な「妙見系」。ざっくりとそんな分類はできると思う。以上が寺=仏教から見た神社ということになるが、逆に神社を主眼に置いて見つめてみても、系統が存在する。
それは、祭神によるクセである。最も仏教に近いのは「稲荷系」。もとは宇迦之御魂神/倉稲魂命という神様で、
これが仏教の荼枳尼天と強烈に習合している。やはりメシの確保は人間にとって最大の問題なのだと思わされる。
次いでクセがあるのがスサノオ、「祇園系」。祇園精舎の守護神・牛頭天王がスサノオと習合したのだが、
さらに蘇民将来の逸話と結びついて疫病の神となった。やはり疫病は人間にとって大きな問題なのだと思わされる。
もうひとつ挙げると、弁財天も独特である。こちらは宗像三女神の市杵島姫神と同一視されることが多いが、
上記2柱と比べると度合いは弱く、廃仏毀釈によって弁財天を市杵島姫神に変えた、という一方通行的な感触がする。
したがって、もともと弁財天だったので仏教らしさが残った、とするのが正確だろう。「弁天系」としておくか。
なお、八幡神も習合度合いは高いのだが、とにかく数が多いのでその発現度合いは神社によってさまざま。そういった神社の特徴を体感するのは、やはり建築面が最大の要素となる。建築から思想を読むというのは、
僕が大学時代から一貫して取り組んでいるテーマなので、ここは今後じっくり研究していきたいところである。
仏教の価値観を残す神社で最も象徴的なものは、吊灯籠だろう。軒下にこれがあると、ぐっと寺っぽい印象となる。
なぜなのかは正直わからないが、吊灯籠の有無で仏教の影響が読める。今のところは僕の野生の勘でしかないが。
楼門も寺っぽさを強調する要素だが、神社のものは大寺院と比べるとまだコンパクトだからか、印象としては弱め。
地味なところでは、瓦は仏教と一緒に中国から伝来したので寺で多く使われており、寺っぽさの要素となる。
逆に神社らしさという点では千木(と鰹木)の視覚効果がかなり大きい。神社の建築的アイデンティティはたぶんここ。
また、拝殿の正面に破風を付けると神社らしさが増す。これはむしろ、寺院建築ではお堂の正面に破風がほとんどない、
とする方が正確かもしれない。そして上記の分類では、「稲荷系」と「妙見系」が建築的に独自の特徴を持っている。
「稲荷系」は発想の自由度が高く、コンクリートの使用に躊躇がない。それどころか、懸造をコンクリートでやる。
祐徳稲荷神社(→2014.11.23)と草戸稲荷神社(→2016.7.21)はその好例。高橋稲荷神社(→2020.3.22)も自由である。
「妙見系」はまだうまく言語化できないのだが、千葉神社(→2016.12.25)と浅草鷲神社(→2020.12.26)では、
寺の伽藍配置を思わせる点と2階建ての社殿を持つ点が共通する(鷲神社は妙見菩薩の長国寺から独立した経緯がある)。
前に「武士の妙見信仰が近代化と国民皆兵を進める明治政府には邪魔だった」という仮説を書いたが(→2019.4.7)、
それがどのような価値観と結びついて空間的に再生産されたのかについては、まだまだ勉強が必要な段階である。
なお、寺の伽藍は飛鳥寺(法興寺、→2011.9.10)から始まっており、仏塔や堂宇が明確な意図をもって配置された。
密教系の山岳寺院でもそれは同じで(→2016.5.23)、むしろ空間的な制約を喜んで宇宙を表現していた節がある。
神社の場合、摂末社の配置にその影響を感じる。小さい磐座や遥拝所もそうして神社に結びつけられたのではないか。御守については、寺の方が比較的発想が自由で、神社の方がステレオタイプな御守を出している、と言える。
寺の場合、 祀っている仏様ごとに御守があることは珍しくなく、そのため堂宇ごとに限定となっている例も多い。
たとえば東寺(教王護国寺)の場合、弘法大師・薬師如来・大日如来・不動明王それぞれに御守がある(→2015.2.1)。
二月堂もワケわからんほどあったし。二月堂は東大寺のお堂なんだけど、御守は東大寺とは別のものばっかり。
また、守袋と中身が別という本来のスタイルも多い。願いの内容に応じた中身を、袋を選んで入れるというわけだ。
ただし日枝神社など、仏教の影響が残る神社でもそうなっているところはある。ちなみに浄土真宗には御守がない。
これは「物に頼ってんじゃねえよ、物に心を惑わされてんじゃねえよ」という考え方による(だいぶ乱暴な表現だが)。
なお、神社も神社本庁から離れた単立神社になると、御守の自由度がかなり増す。氣多大社がその典型(→2014.12.27)。
祭神によるデザインという点では、「稲荷系」が最も特徴的か。稲束(神紋含む)か宝珠が描かれることが多い。以上つらつらと書いてきたが、総括すると、寺の方が神社よりはるかに自由奔放にやっているという印象である。
だいたい住職のやりたい放題がそのまま通用している感じ。それに比べると神社の方はおしなべておとなしい。
これはつまり、寺では裁量が住職・僧侶単位となっており、結果として自由度が高くなっているのに対し、
神社では裁量が祭神単位となっていることで、自由度が狭くなっていると思う。寺は各宗派に属しているが、
そもそも宗派に違いがあるので多様性が最初からある状態なのである。仏教という強固な枠があるものの、
宗派の違いが大きいので個々の逸脱が目立たないというわけだ。それに対して神社は神社本庁が唯一のトップである。
神社における寺(仏教)の要素が強く見えるのは、そもそもの逸脱が少ないから他の要素が目立つということだろう。
いかにも神社は家父長的で個人の好みが見えづらく、最初から宗派に分かれている寺は個人の好みが見えやすいのだ。
なんだか宗教社会学というよりは社会心理学に片足を突っ込んでいるような気がするが、今のところそんな感じ。
前々から思っていたのだが、面白い本とつまらない本はバイオリズム的な調子の良し悪しと関連している気がする。
いや、本だけではない。マンガにしろ映画にしろ、作品全般に言えることだと思う。当たりはずれには、波がある。
常識的に考えれば、当たりはずれは作品じたいの持っている属性であるから、ランダムであるはずなのだ。
しかし、面白い作品はある程度まとまってやってくるし、逆もしかり。なんとなく、波があるのを感じる。
運気とまでは言わないけど、僕自身のリズムに妙に対応している気がするのである。なんだか、同調している。それはつまり、こっちの調子によって作品に対する評価がブレる可能性が存在するわけだ。これはうれしくない。
なるべくそのときの気分で左右されないように作品に触れているつもりだが、正直ブレがあるのは否定できない。
ただどちらかというと、面白い作品に当たるから調子が上がり、つまらん作品に当たるから低調になる、という感触だ。
もしかしたら、面白い作品を選んだときは調子がいいし、つまらん作品を選んだときは調子が悪い、のかもしれない。
この双方が絡み合って、波ができるのではないかって気もする。いい流れとよくない流れは、確実に存在するのだ。そうなると、できるだけ面白い作品に触れる機会を増やすことが大事になってくる。絶対数が多くないとダメだ。
マイナスをひっくり返すには、プラスに触れるしかない。そうして、いい気分になる機会を増やすしかないのだ。
新しいALTはなかなかエネルギッシュ。それでいてメリハリがついているので、こちらとしてはかなりやりやすい。
そして何より、ギャグにおけるジャパニーズ「お約束」をきちんと理解している点がたいへんすばらしい。
これはけっこうすごいと思う。生徒とのボケとツッコミで授業の求心力を確保する僕のやり方にかなり近いものがある。
そしたら授業が終わって生徒たちから「雰囲気が似ている」と言われたよ。うん、まあ、わかる。
カフェも営業が夜8時までじゃ日記がぜんぜん進まねえよ。僕みたいに自宅だとサボっちゃう人間には厳しいものがある。
Flash Playerのサポート終了によって、ふだん授業で使っているデジタル教科書を起動できなくなってしまった。
これはFlashコンテンツの実行が今日からブロックされるようになったため。つまり、予想はできたはずの事態だ。
にもかかわらず、今日の夕方になってようやく区の教育委員会から通知が来る始末。何がICT化だ、と呆れ果てる。
僕はコロナの休業期間中に教科書の音声CDをすべてiTunesに入れる作業を済ませていたので(→2020.4.13)、
授業へのダメージは最小限に食い止めることができた。閃輝暗点を発症するくらいがんばったもんね(→2020.4.14)。
ほかの先生から「さすが用意がいいですね」と言われたが、なんのことはない、僕はICTなんて信用していないだけだ。
そんな感じで、頭の悪い行政に足を引っ張られながらも、たくましくやりくりしております。あと2ヶ月半の辛抱よ。
外山滋比古『思考の整理学』。昨年亡くなったということで文庫本が積まれていたので読んでみた。
まず最初の「グライダー人間」のくだりからウンザリ。外山滋比古はもうちょっと頭のいい人だと認識していたが、
どうやらそうではなかったようだ。文部省の役人にありがたがられるタイプの典型的なエセ知識人、という印象。
結局この本、本質的に頭のよくない人が自慢気に書いたものを、本質的に頭のよくない人がありがたがっているだけ。
自分がその「グライダー人間」に崇拝されていい気になっている構図に気づけていないのが、本当にかっこ悪い。この本が不快である要素はいくつかある。まず、対象やその周辺を貶めて持論を展開する、否定から入ることが多い点。
しかもその否定はただの決めつけにすぎず、一面的な見方からのものが多い。冒頭の「グライダー人間」もそうで、
近年の学校教育に対して自分で飛ぶ飛行機能力を育てない、と批判する。が、そもそも学校に期待する方がおかしいのだ。
創造性については、学校以外の場を用意して(本来なら部活もそう)、多様な学びの機会を用意するのが正解である。
視野が狭いから従来の学校で解決する発想にしかならない。それで学校教育じたいがおかしくなる。文部省好みである。出てくる例も曖昧なものが多く、検証不可能な又聞きが目立つのも困った点だ。「ある有名な~」「~だそうだ」など。
それを論拠とされると、読み手としては筆者が事実を自分に都合よく捻じ曲げているのではないか、という不安が残る。
そのくせ、「~である」という断定は力強い。的を射ていることももちろんあるが、独善的な感触の箇所もまた多い。
特に、論の前提の部分で視野が狭いことが多い。「本当にそうか?」と言いたくなるような前提を強引に展開していく。
p.175にある一文には、思わず笑ってしまった。そこには、「クロード・ベルナールという生理・医学者は、
『自分の観念をあまりに信頼している人々は発見をするにはあまり適していない』とのべている」とある。
はて、これはいったい誰のことだろう? でも筆者はきっと聞く耳を持たないのだろうな。よく読むと、先ほどの記述とは正反対となっている内容を平気で書いているのもまた、こちらを戸惑わせる点である。
そりゃあ人により向き不向きがあるから正解はひとつとは限らないが、自分の正義を押し付ける文体でそれをやるので、
こちらとしては、矛盾を抱えているくせに自分に甘く批判の余地を与えない、という印象を受けることになる。
それはつまり筆者自身が、読者が自分に従う「グライダー人間」であることを無意識に要求している、ということだ。
まあ頭のいい人なら、言われなくてもわかることばかり自慢する内容なので、読んでいても退屈ではないかと思う。
この本に引っ張られる人は、それは自分の知への接し方がイマイチだからなのだ、と危機感を持つべきだろう。
方法論じたいは、毎日アウトプットする必要のあるラジオパーソナリティみたいな人には便利かもしれないけどね。本当に賢い人ならまったく相手にしないであろう本。時間の無駄以外の何物でもなかったな。
せっかくの3連休なのに、日記がバーンアウト症候群。気分転換に御守をがんばってはいるが、なんせ量が膨大で。
これまた終わりが見えない無間地獄である。今年はどうにか1日1社ペースでコツコツやっていきたいと思います。
土日はどっちかで2時間限定、という条件で部活である。が、さっそく長引かせてケガ人が出る。どうかと思うわ。
「緊急事態宣言ごっこ」って感じだよね、お互い。
授業が始まったけど、コツコツがんばっております。この3学期が最後なのだ。まさにラストスパート。ふんばるぜ。
御守コーナーの改善作業に追われております。どう考えても1フォルダあたりの画像の量が多すぎるので、
細分化したフォルダに仕分ける作業が主。ファイル名も管理しやすく変えて、それらにともなうリンクの修正もやる。
今のうちにやっておかないとタコツボ化してどうにもならなくなる。今週はこの作業に専念するつもりなのだ。
新年初出勤で、午前中は打ち合わせ三昧。午後になって陽性の連絡が入る。隣り合わせの生活をしていると実感する。
押切蓮介『ハイスコアガール』。ソムリエ(潤平)もワカメたちもオススメしていたので。ようやく読んだ。
まず最初に、私が盛大な勘違いをしていたことを書いておきます。このマンガ、SNKに怒られたじゃん。
そのニュースだけ知っていたので、てっきり「昔を懐かしがってゲームを紹介するうんちくマンガ」だと誤解していた。
そんな状態で読んでみたら、内容がぜんぜん違うではないか。純粋なラブコメではないか。で、結論。あまり合わない。ラブコメに対する文句から行くか。ヒロイン・大野の現実離れしすぎた設定に最後までなじめなかった。
時代背景が徹底してリアルなので、大野のフィクションぶりとのバランスがつかめず、僕には楽しめなかったなあ。
もうひとりのヒロイン・日高も男(ハルオ)にとって都合のよすぎる造形だし。舞台設定は現代の感覚なんだけど、
肝心のラブコメの進め方が昭和的な御都合主義で。絶対に倒したいライヴァルがきれいな女の子で……ってのはわかる。
現代のeスポーツの源流と言える格闘ゲームでの真剣勝負で結ばれた関係ってのは、これは描きがいのあるテーマだ。
でもガチガチのお嬢様で、しかもアンチテーゼたる姉が自分の母と跳梁跋扈。ここはギャグとして面白いんだけど、
ヒロインとの関係で考えると意味がわからん。大野はしゃべらんからね、「どうして?」がぜんぜん解消されない。
これは作者の好みによるのではないかと邪推する。たぶん「ゲームが天才的に上手いミステリアスな美人」が好きで、
そこを強調しすぎた、あるいは掘り下げて解体していく度胸がなかった、と思うのだ。日高とのバランスも悪すぎる。このマンガで特に評価されていると思われるのは、ゲームキャラクターたちを通した心理描写だろう。
さらにはキャラクターたちがそれぞれのセリフを使って主人公を応援する場面もある。ここは非常に上手い部分だ。
僕もいちおうはガイル使いだが(理由は「軍人だから」)、キャラクターの声が聞こえてくるほどはやり込んでいない。
その点、ハルオがそこまでゲームの世界に入り込んでしまっていることを示す演出としても、優れていると思う。
またそうすることで、当時少年だった皆さんが物語を肯定するきっかけづくりにもなっている。なかなか巧妙なのだ。
しかしながら、この手法が非常に上手くハマったことで、ストーリー本体が過大評価されているように思えてならない。
なんというか、対戦する場面の緊張感もいいし、本当にラブコメ部分だけが邪魔。なんであんな設定にしちゃったのか。僕はこの時代には熱狂的なカプコン・コナミ党で、そのために最後まできっちり読み切ることができたのが正直なところ。
もしこれが『ストII』ではない別のゲームが中心だったら(それはありえないが)、間違いなくドロップアウトしていた。
1990年代前半のノスタルジーに浸るにはラブコメ要素が邪魔で、ラブコメをやるんなら過去な分だけリアリティが必須。
結局これ、現代人が1990年代のゲームをやる「なろう」系なんだよね。異世界転生。僕には据わりの悪いファンタジーだ。
長谷川晶一『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』。発売とほぼ同時に購入していたのだ。
1992年と1993年の日本シリーズについては、この日記でも何度か書いてきた(→2004.9.26/2020.2.18)。
特に1992年の王者・西武をあと一歩まで追い詰めながらも敗れた記憶は強烈で、あれで完全にヤクルトファンになった。
大人になってからは1992年と1993年の日本シリーズのDVDを買い、たまに見てはあの壮絶な戦いを振り返っていた。
さて最近になって、ネットニュースでこの2年分の日本シリーズについて書かれた記事をよく目にするようになり、
そのたびに無数の共感的なコメントがついているのを見てきた。ああ、やっぱりみんなそうだったんだなあと実感する。
過去に数多の名勝負が演じられてきた日本シリーズだが、あの2年間の日本シリーズはやはり特別なものだったのだ、と。
そしていよいよ、そのネット記事で披露されていた取材が実を結んだ、待望の一冊が出た。むさぼるように読んだ。著者の長谷川さんは筋金入りのヤクルトファンだが(→2017.6.13)、多くのヤクルトファンがそうであるように、
当時の西武ナインに対しても最大限の敬意を払って公平な立場で取材している。そうして事実を深く深く掘り下げる。
そうして生まれたこの本は、単なる14試合のドキュメンタリーに収まらない内容となっている。これは群像劇なのだ。
綿密な取材であらゆるシーンを各選手・両監督の視点から再現している。こんな贅沢なことがあっていいのだろうか、
というくらいに一瞬一瞬の場面が濃い密度で描かれる。ここまで立体的に真剣勝負の時間をつかみ取れるのか、
そう驚かされるほどである。これはもう、歴史の研究書なのではないか、とすら思わされる。それくらい緻密なのだ。1992年の日本シリーズが、打撃戦あり投手戦あり完封リレーにシーソーゲームに延長サヨナラに1点差ゲームと、
野球の魅力的な要素が詰まりに詰まった内容ばかりだったのに対し、1993年はやや雑。正直、そういう認識でいた。
しかしこうしてきちんと振り返ってみると、確かに目立つミスもあったが、力が拮抗しているゆえ、という印象がする。
一進一退のゲームが多く、いわゆる脇役まで活躍しての総力戦。あの西武がもはやなりふり構わず泥臭く戦っていて、
両軍ともにしぶとすぎるがゆえの、綺麗事では済まない戦いに思えてくる。壮絶な殴り合いそのもの、という感じ。
その後はヤクルト投手陣が故障で苦しんだり西武も選手流出が止まらなかったりと代償はあまりにも大きかったが、
プロ野球選手という超人たちが心身を削って戦った記録と記憶は、伝説として今後も永く語り継がれるはずである。
その決定版とも言える歴史書が世に出たことを、心から喜びたい。大袈裟ではなく、本当にそれだけの価値がある。最後、この本では「いったいどちらが強かったのか?」というイジワルな質問が選手たちに投げかけられる。
僕個人の感触としては「そりゃまあ西武だろうな」とは思うのだが、一方でセ・リーグには巨人というチームがあり、
日頃これを相手に戦わなくてはいけない苦しみがあるのも事実だ(→2020.2.18)。ヤクルトはここでだいぶ消耗した。
だから、西武ほどの圧倒的な王朝を築けなかったが、その西武と完全に拮抗するだけの力があったのは確かだとも思う。
しかし辻やナベQがヤクルトに来たときは本当にうれしかったなあ。僕にとって当時のヤクルトの選手も西武の選手も、
みなすべからく神様なのである。そんな神様たちが今のプロ野球界で指導者として活躍しているのが大変うれしい。
できればヤクルトのOBにもっとがんばってもらいたいが。あの日本シリーズは、遺伝子を残してまだまだ続いている。
御守の写真加工作業と並行して、『機動戦士ガンダム』の劇場版3作を見る。TVシリーズは前に見たが(→2013.5.2)、
劇場版を見るのは初めて。前に「前半のガンダムは全体的に間延びしていてフラストレーションがたまる」と書いたが、
圧縮されたことでその不満が解消された。が、「セリフが噛み合っていない感じ」は減ったものの、どうしても残る。
とはいえ「ファーストガンダム」を復習するには格好の素材である。やっぱりランバ=ラルがめちゃくちゃかっこいい。さらに勢いで、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』を見る。これを「ファーストガンダム」の直後に見るということは、
一度やってみたかったことなのだ。『Z』と『ZZ』をすっ飛ばすのは強引だが、やってみるとそれはそれですごくいい。
ミライさんを客観的な定点にして、登場人物全員の成長がわかる。特にカムランさんの出し方が非常にいいですな!
内容も『機動戦士ガンダム』劇場版同様の圧縮ぶりで、若干駆け足な感はあるものの、ずっと話に惹きつけられる感じ。
しかしクライマックスの、クェスがチェーンがハサウェイが、の部分はやっぱりひどい。みんな救われんなあ。
この一連のぐちゃぐちゃは、個人的には「ファーストガンダム」におけるザビ家の最期のぐちゃぐちゃを思わせる。
アムロとシャアの最後のやりとりもすごい。これだけ大人気のシリーズになって、結末をつける作品のラストで、
出てきたのが結局ララァを殺された恨みつらみだもんなあ。究極のスケコマシと戦った『Z』もすごいが(→2014.5.28)、
究極のライヴァルを持ち上げて持ち上げて持ち上げた末に、単なるロリコンとして葬り去るってのは豪快過ぎてもう。
アムロが地球を救うヒーローをやり遂げる一方で、シャアが『ガンダム』を人間ドラマに押し留めた、という評価は、
可能であると思う。その2つの面を同時にやった点がさすがなんだろうな。大人気のシリーズによくケリをつけたものだ。あ、いちばん驚いたのは、ギュネイ=ガスを演じているのが山寺宏一という事実。すげえ、すげえよ……。
新年あけましても日記漬けです。今までサボっていた御守の写真をひたすら加工しているのだが、量がぜんぜん減らない。
これこそ毎日コツコツと作業しなければいけないものだった、と実感しながら泣いています。われながら恐ろしい趣味だ。