diary 2020.4.

diary 2020.5.


2020.4.30 (Thu.)

俳優の志賀廣太郎氏が亡くなった。

今も思い出すのは、潤平に誘われて観に行った青年団の『東京ノート』・東京都現代美術館公演だ(→2002.11.25)。
その日のログで僕は「いろんな人間のいろんな空気を毛穴から出せるような人間になってみたい」と書いているけど、
これは志賀さんの演技を見ての感想だ。いや本当に、志賀さんの全身の毛穴から役柄の持つ空気が放出されていたのよ。
あまりにも印象的だったので、家に帰ってから名前を確認して、なるほどと。当時のネットにはぜんぜん情報がなかった。

さて数年経って、テレビに志賀さんがじゃんじゃん出るようになっているではないか。もちろん、演技の評判はいい。
そのうち情報も充実してきて、40歳を過ぎてから俳優デビューしたと知って驚愕した。それなのにあの毛穴演技なの!?と。
高橋一生もそうだけど、自分が舞台で先に知っていた俳優がテレビに出て人気が出ると気分がいいものである。
(もっとも、僕にとって高橋一生に対する現在の世間の扱いは疑問だらけだ。彼は昔の方がずっとよかったのだが……。)
テレビを通しても志賀さんの毛穴から発せられる空気は健在だった。とはいえ、やはり生で観たときの衝撃を思い出して、
本当はもっとすげえんだけどなあ……と物足りない気持ちになる。生で志賀さんの演技を観られたことは僕の自慢だ。
志賀さんは単に「いい声」じゃないんですよ。「いい声」が出る直前の空気、毛穴から発せられる空気がすごいのよ。
そして喉から出て声帯を震わせる空気がいいから、「いい声」になるんですよ。生で体験した者にはそれがわかるのだよ。


2020.4.29 (Wed.)

コロナでの学校休業はいい機会だから、9月入学にしよう!とか言っているやつは売国奴です。日本から出て行くべき。
4月入学は日本の文化のわりと根幹を成している部分だ。日本が日本でなくなる蟻の一穴のひとつになりかねない。
どうも考えの浅い人間が飛びついているようで、残念である。英語圏の慣例に合わせる必要なんてまったくない。
なんでわざわざ自分から植民地に近づくような真似をするのか。日本の独自性をもっと大切にしないといけない。
9月入学で学生たちには何のメリットがあるの? 「年度」の文化に対応した事務作業を壊すだけのメリットがあるの?
役所も学校も働いている人の現場が大混乱になるけど、それを強要してもお釣りが来るだけのメリットが本当にあるの?
そもそも、9月までに終息するの? 将来また第二のコロナが発生したときにはどうすんの? ……深く考えていないのだ。

大切なのは、コロナごときで日本の制度を変えてはならないということ。物事をそんな簡単にコロコロ変えてどうする。
(……「コロナだけに。」とは言わないよ!)
コロナを教訓に不備を変えるのはいい。しかし、コロナを理由にもともと不備のないものを変えるのは敗北でしょ。
前々から言っているように、これは本来、勝ち負けの問題ではない。われわれは動じることなく生きていくだけだ。
それなのに、コロナが過ぎ去った結果、不備のなかった部分が変わってしまったとしたら、負けだけが残ることになる。
日本のシステムがそんなに脆弱でいいの? ウイルスひとつで学校制度の根本が変わっちゃうとか、プライドないの?
9月入学になんてしたら、永遠に復興にならないんだぜ。コロナ禍が終息した後に、何も変化していてはいけないのだ。
病気が治ったときに後遺症が残っているのは嫌でしょう。9月入学なんてのは、まさにその後遺症そのものなのに。
これがわからないバカが多数派を占めないことを祈る。本当に短絡的なバカが多くて困る。ニュース見るたび嫌になる。


2020.4.28 (Tue.)

部屋の片付けをしていたら、前に買った3DS(→2016.3.4)を発見いたしました。
2ヶ月もたなかったラブプラス(→2016.9.12)のROMが挿さったままでの発見であります。
そして一緒に買った3DS版『信長の野望』も発見してしまったのであります。……そこからはもう、猿ですよ、猿。

3DS版『信長の野望』、ベースは『武将風雲録』(→2006.11.192012.11.82015.6.4)だが細かい点がけっこう違う。
戦闘は兵の数がモノを言うようで、真田幸村でも集団で来られるとどうにもならない。『水滸伝・天命の誓い』に近い。
(あ、当然ながら1582年のシナリオで真田家でプレーしています。上野国じゃなくて信濃国の大名なのね。
 個人的には上野国の大名である方が当時の真田家の状況を上手く反映できているように思うのだが。信濃国は徳川。)
そして『武将風雲録』にはなかった特殊能力の効果がかなり大きい。今からじゃとてもその細かい戦術を覚えきれんわ。
最大の違いは大名を配下にできる点。配下にならなくても解放して、後で登用できる可能性があるのは非常にうれしい。
ただ、登用できる/できないの基準がよくわからない。『水滸伝』は人気のパラメータがわかりやすかったんだけど。
武将の能力値設定はかなり極端になっている。武将は大幅に増えたが、完全な文官や武官に別れている感じだ。
特に武官が圧倒的に多く、政治力が1桁しかないのもザラ。そして政治力・戦闘力ともに50台の中途半端な武将も多い。
僕みたいに「城主は政治力70以上が条件じゃ! 足りないやつは駿河か越前か山城で教育したる!」というタイプは、
どうにもすっきりしなくて(教育コマンド自体がない)。氏真メーカーも、そもそも氏真がそこまで無能ではない。
(※氏真メーカー…今川氏真の政治力と戦闘力をとことん上昇させていく遊び。元ネタは『プリンセスメーカー』ね。)
細かい点で堪えるのが、武将の移動が月に1回しかできないこと。城主に交代して連続で移動とかできないのだ。
その代わり、移動できる範囲が隣国だけよりも広くなった。そして輸送は無制限なので、兵站はかなりやりやすい。
敵が隣接しない後ろの生産国が内政委任している間に勝手に増やした兵力を、ひたすら前にもってくるゲームである。

なんといってもいちばんうれしいのは、東北が細かく設定されて伊達・蘆名・最上以外の大名も遊べる点である。
東北各県を旅行した身としては、陸奥国・津軽家、陸中国・南部家、羽後国・安東家、磐城国・相馬家で遊べるのは、
ただただ感動。こうなると中国地方や九州北部も細かく分けてほしかったが、大名はそう増えないからまあ許容範囲。
難点は、日本列島の形が正確ではないこと。やはり正確なマップでないと、リアリティがなくてあまり燃えないのだ。
あと、『武将風雲録』に慣れ親しんだ僕としては、領地の色は昔のものを再現してほしかった。やっぱ熱量がイマイチ。
とはいえ、大雑把な感覚としては悪くない。慣れてない分だけ『武将風雲録』より休憩のタイミングがつかみづらい。猿。


2020.4.27 (Mon.)

『羊たちの沈黙』。アカデミー賞で主要5部門を独占したんだと。

連続猟奇殺人犯「バッファロー・ビル」を追うために、これまた連続猟奇殺人犯のハンニバル=レクター博士に相談。
というわけで、序盤からなんとも気持ち悪い雰囲気の映画だ。が、実際にはそこまで極端にグロというわけではない。
見せ方が上手いのだ。できるだけ直接的な描写をしないで、異様な存在の異様なあり方を描いているのである。

FBI訓練生・クラリス役にジョディ=フォスター。おとといの『タクシードライバー』(→2020.4.25)と声が一緒。
クラリスはとにかく芯の強い女性で、男社会の犯罪捜査に臆せず飛び込んでいく役どころ。優秀なのはわかるが、
それにしても活躍させすぎな気もする。しかしなんでも独りで解決してしまわないと、話の純度が落ちてしまうのだ。
この話はクラリスとハンニバルの恋にも似た心の交流が本筋。ゆえにそれ以外のキャラクターは目立たせられない。
そうなるとバッファロー・ビルの力加減が難しいところだが、顔を映すのを最小限に抑えたり、中性的にしたり、
さまざまな工夫を感じる。きわめて長時間の出番でありながら破綻のない演技をするジョディ=フォスターと、
わずか通算11分間しか登場しないのに強烈なインパクトを残すアンソニー=ホプキンス。ふたりでもってる映画だ。

結論から言うと、僕にはイマイチというか、納得したくないな、っていう気持ちが強い映画だった。
この映画は上で述べたように、ホラー映画の顔をして、ある意味で恋の話なんですよ。でも恋と呼べるほどでもない。
指一本の動きでその感情を表現させるあたりが、現時点での抑制と未来への進展を仄めかせて実に巧いんだけどね。
ハンニバルがプロファイリングの見返りとして要求するのは、クラリス自身のライフヒストリー。自分をさらせ、と。
若くてまだまだ甘いクラリスは、精神科医のカウンセリングを受けるがごとく自身のトラウマを語っちゃうわけだが、
要するにこれはハンニバルが若くて美人なねーちゃんをたらしこんでいる状況なんですよね。彼女の絵も描いているし。
これは「美女と野獣」という構図を変則的に再現したもの。そういう普遍的なテーマを極端な設定で味付けしている。

そしてもうひとつ、ハンニバルの全知全能のごとき能力。隣の囚人を言葉だけで自殺に追い込む知力が示されて、
脱獄の場面ではその知力とともにかなりの運動能力を持っていることもうかがえる。過度な拘束がそれを強調する。
それを見て、僕にはどうしても「ハンニバル=レクターをヒーローとして扱わせたい心理」を感じずにはいられない。
いや、明らかに警備員の顔を食っているシーンがあるわけで、ふつうならヒーローになどなりえない異様な行動だ。
しかし、上述のようにクラリスに対する節度ある態度を強調してもいて、彼はヒーローの側に寄せて描かれている。
僕はここに一神教的なものを感じてムズムズする。人間離れした行動をとる彼は全知全能の神を表徴しているようで。
われわれが彼に対して問答無用に畏怖をおぼえてしまうような、そんなキャラクターをヒーローと呼べるのか?と。

拘束されるハンニバルを見ていて、前にログで古畑任三郎の身体について書いたことを思い出した(→2008.11.22)。
人間離れした知性を有している者は、それと引き換えに不自由な身体でなければならない。バランスがとれないのだ。
しかし彼は野に放たれてしまった。それは全知全能の神のごときヒーローなのか。それとも、ただの野獣なのか。
法による正義の執行とまでは行かなくとも罪に対する罰がありうるが、彼の行動はカニバリズムによる私的制裁なのだ。
ここのバランスが僕の中では解決できないんですよ。キャラクターという枠内で解決できるレヴェルにない存在。
だから僕にはイマイチ、納得したくない気持ちが残るのである。美女と野獣に明日はある(→2012.11.12)のか?
でも残念ながら、オレはそれに興味がない。ダークヒーローやダークファンタジーに惹かれないんでね。


2020.4.26 (Sun.)

日記なので最近の生活スタイルを記録しておくなり。

平日は最初に部屋の片付けを軽くやってから、午前中は世界史の勉強。午後に日本史の勉強。これを勤務時間いっぱい。
完全にイチからの勉強なので、ペースは非常にゆっくり。忘れてしまった基礎を焦らずに身につけている感じである。
動かなくて腹があまり減らないので、一日2食。ブランチと晩飯である。夜の8時までは日記を書く時間に充てている。
なお、英語の勉強という名目で借りている洋画だが、結局は夜の遅くにニュースを見ないで洋画を見る形となっている。

休日は朝から昼にかけてまず日記を書く。午後は完全にフリーとして、そのときの気分しだいで勝手なことをする。
夕方から晩飯までの時間でまた日記。で、寝る前の時間帯で洋画を見る。倫理の勉強は気分しだいで時間の穴埋め的に。

とはいえどうも、室内中心の生活で70年代の洋画ばかり(見てない名作が多い)見るのは精神的にはなかなかつらいし、
何より日記でのレヴューがすごく重くなって負債の清算が追いつかない。勤務時間内じゃなくて夜見ているんだから、
洋画に限定しなくてもいいじゃん、とようやく気がついた。今後は洋画の量を減らして日記を優先する予定である。


2020.4.25 (Sat.)

『タクシードライバー』。デ=ニーロがタクシーを運転するよ。

『キング・オヴ・コメディ』(→2014.2.14)のときと同じ感想である。ぜんぜんうれしくない映画だなあ、と。
主人公が社会・世間一般とのズレを抱えていて、その差が埋められなくて狂気に走る。今回も見るのがつらい。
やっぱりデ=ニーロはガンプラをガシンガシン戦わせる感じでピストルに夢中になるのである。一緒やん。
実は妄想とも解釈できる一見ハッピーエンド的な結末も一緒。主人公に後遺症が残っていない不自然さが気になる。
でもやはり観客の大半は、その結末を現実として解釈するだろう。主人公の狂気が肯定されてしまう点も一緒だ。

この映画、たぶん1970年代当時の感覚がわかるアメリカ人じゃないと、本当のキモの部分は理解できないと思う。
主人公はヴェトナム戦争を海兵隊員として戦っており、肩から背中にかけて傷がある。海兵隊は前線で戦うエリートだ。
が、それだけに心の傷は深く、不眠症に苦しんでいる。そしてニューヨークのタクシードライヴァーという仕事。
ここの感覚が現代の日本人にはわからないところだが、ウディ=アレンの『ラジオ・デイズ』(→2003.11.1)では、
父ちゃんが実はタクシー運転手でがっくり、という場面があった。それなりに底辺の仕事、という認識でいいようだ。
まとめると、主人公は学歴は「大したことない」ながらも海兵隊に所属する程度には「できる人間」である。
しかし戦争から帰ってきたら不眠症もあって就職できる仕事がタクシー運転手くらいしかない、という状況。
夜勤で夜な夜なバカ騒ぎと犯罪まみれの街に嫌悪感を抱き、こいつらを一掃できないかと鬱屈した感情を持っている。
ヒモの男が渡したクシャクシャの紙幣はその汚れの象徴で、主人公の精神的な潔癖症を示唆する小道具となっている。
(後でこのヒモ男と交渉するやりとりは、おそらくアドリブ。デ=ニーロがしつこいので明らかに困っとるやんけ。)
議員は口だけ、女とは噛み合わない、運転手仲間は現状を受け入れている。それで社会が自分の敵に見えてくる、と。
さまざまな客を乗せるタクシーを通して社会の影を描くだけでなく、その次の影にまで踏み込んでいる映画なのだ。

というわけで、『キング・オヴ・コメディ』がブラックジョークとしての落ち着きを見せていたのに対し、
こちらの『タクシードライバー』はスコセッシもデ=ニーロも若いだけあって、とっても生々しい感触である。
特に最後の銃撃シーンだけ、色調を抑えてスローでぎこちなく撮る。奇妙な血生臭さはかつての黒澤映画のようだ。
つまりはそこから主人公視点のヒーロー活劇、それも西部劇を思わせる悲劇のヒーローとしての自己満足というわけ。
ジョディ=フォスター演じるアイリスも、家に戻ったところでどうせろくでもない家庭環境であろうことがうかがえるし。
議員はガードが固いから弱い方へ銃を向けるが、今回はそれがたまたまいい方に解釈されただけ、というのが実際。
この描いているテーマが結局1970年代アメリカに収まらず、それどころか現代の日本でも通用してしまうのがすごい。
反社会的な無差別殺人事件や通り魔事件が今まで何件あったことか。普遍的になってしまった不条理をよく描いたと思う。
この映画のいちばんすごいところは、「taxi driver」という一般名詞をタイトルにしているところかもしれない。

そうそう、ニューヨークってやたらめったら地面から湯気が出てんだよなあ(→2008.5.11)。あれって何だろう? 温泉?


2020.4.24 (Fri.)

YouTubeに上がっているイザワオフィス公式『志村けんのだいじょうぶだぁ』#1~#3を泣くほど大笑いして見ている。
放映されていたのが1987年から1993年ということで、僕の小学校高学年から高校に入るまでを直撃している番組だ。
毎週欠かさず見ていたとは言い切れないが、それでもかなりの確率で見ていたはずである。ところがあまり懐かしくない。
志村も若いし服装もバブルを彷彿とさせるしで、そういう意味で時間の経過は感じるが、現在の感覚でも楽しめるのだ。

この貴重な作品がお蔵入りすることになってしまった最大の理由である田代まさしが、忖度なしで全編に登場する。
僕は田代が大好きで、志村と絡まなくても小道具のボケや鋭いツッコミが本当に好きだった。最も印象に残っているのは、
『バカ殿』でふたりとも本当に酒飲んでいてベロベロで、志村が延々と「田代、お前は耳が小さいのう」と絡むやつだ。
そして今、インターネットを介して繰り広げられているのは、あの楽しかった時間そのものだ。面白いが、切ない。

あらためて見てみると、当時の志村のギャグが現在(過去になってしまったが……)と異なっていることに気がつく。
田代まさしのツッコミはボケる志村と対等なのである。だからテンポがいい。明らかにアドリブであるものも多くて、
志村が楽しそうにしているのがよくわかる。訃報の後のニュース記事ではドリフ時代を振り返る流れもあって、
「徹底的につくり込んだ笑い」という評価がなされているものが多い。しかし、あくまでそれは最近の話なのだ。
田代と組んでいたこの時期は、阿吽の呼吸のアドリブがとにかく全盛だ。友達とのじゃれ合いの延長という感じ。
若さゆえの勢いもあって、見ている者を仲間として引き込んでいく力がある。前も書いたが『8時だョ! 全員集合』で、
志村は家父長制を笑い飛ばす役割だった(→2004.7.11)。それが、友達からなる緩やかなファミリーをつくりつつある。
(店の名前とかチームの名前とか、やたらと「あけぼの」なのはなぜだろう? 当時っから不思議で仕方がない。)

近年の志村はダチョウ倶楽部を起用していたが、彼らでは大御所となった志村に田代のようなツッコミを入れられない。
そこにあるのは、志村のボケにただ翻弄される肥後さんと竜ちゃん。ギャグの質が明らかに変化しているのである。
ただし、志村の演技力は跳ね上がっている。また、返すダチョウの演技も的確。特に竜ちゃんの演技力は特筆ものだ。
つまり、志村はダチョウと組むようになってから喜劇役者として開花したのではないかと思う。田代を失ったことで、
志村の笑いは変化を余儀なくされたのだ。その基本となっているのはもちろん、ドリフでの経験ということになる。
面白いのはそうして自身のスタイルを変化させる中で、いかりや長介の跡を最も忠実に受け継いだ存在となったことだ。
つくり込んだ笑いの追求、俳優としての演技力もそうだし、舞台の座長として活躍する姿は一家の家長そのものだ。
だから志村けんという人は、長い時間をかけて喜劇俳優としての能力をすべて学んで極限まで高めた人だと思う。

状況が落ち着いたらまたじっくりと、彼が人生をかけて吸収していったさまざまな笑いのパターンを堪能させてもらおう。
今しばらくは、彼が若き日に追求していた形の笑いを楽しみたい。志村けんの笑いを振り返ることは、最高の贅沢なのだ。


2020.4.23 (Thu.)

『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画を見たよ。ダグラス=アダムズの原作のレヴューはこちら(→2014.2.16)。

原作とはイマイチ合わなかったので期待しないで見るが、映像化されているとやっぱりわかりやすい。
マクルーハン的には文章は「ホット」、映像は「クール」なので、よけいなエネルギーを使わなくて済むのだ。
映像化で特にがんばっているのはデザインの部分だと思う。とてもモダンなアニメーションが純粋にかっこいい。
(ちなみに、これが『モンティ・パイソン』だとギリアムのアニメになるのでとんでもない。疲れてたらまんわ。)
主人公・アーサー=デントの冴えない感じは絶妙だし、ヒロインのトリリアンはしっかり美人である。
無限不可能性ドライヴ(いわゆるワープ)の影響でソファになったり人形になったりする演出も面白い。
優れたセンスで原作がアレンジされていると思う。全体的にオシャレな仕上がりになっていて好感が持てる。

地球での舞台はイギリスなので、風景をはじめとする質感がやはり『モンティ・パイソン』くささを感じさせる。
ヴォゴン人に申請書を提出する辺りは、新型ガス調理器のスケッチ(第2シリーズ第1回)を思い出さずにはいられない。
これは『モンティ・パイソン』に限らずイギリスのギャグの特徴なんだろうけど(アメリカはどうなんだろう)、
「些細なことや下らないことをできるだけもったいぶって大袈裟にバカバカしくやる」傾向が全体的に目立つ。
かつて桂枝雀が指摘したところの「緊張と緩和」を、威厳という要素で味付けするのがイギリス好みってことか。

あともうひとつうっすら感じるのは、どんなにギャグにまみれても、人生についてはちょっとだけマジメに語りたがる、
そういうところがある点。モンティ・パイソンも『人生狂騒曲』(原題「The Meaning of Life」 →2009.8.8)で、
人生の意味について、"Try and be nice to people, avoid eating fat, read a good book every now and then,
get some walking in, and try and live together in peace and harmony with people of all creeds and nations."
そうズバリ語っていたではないか。まああいつらはその直後にメモを破り捨ててチンコの話を始めちゃったけど。
どうも「照れ」が抜けないんだよなあ。僕もそういう人間なので、そこがイマイチどうもね。自分を見るようで。


2020.4.22 (Wed.)

週1回の出勤の日である。先週に引き続き、副教材の移動と整理を手早く済ませると、音声データの確認作業。
1年生の教科書から3年生の教科書まで、どうにかなんとか終わらせることができたのであった。よかったよかった。

英語科でSCRABBLEを買えないかと画策したのだが、事務室と相談したら倉庫にあることが判明したのであった。
よく把握しているなあと驚く。こちとら自分の荷物さえ怪しいのに、すばらしい記憶力をお持ちでいらっしゃる。
さて、実際に見てみたらSCRABBLEは4倍のボーナス(quadruple score)まである大型版というか豪華版なのであった。
そこまで持ち込んだらインフレになりそうな気もするが、盛り上がることは間違いない。遊べる日が来ることを祈ろう。

『オーシャンズ11』。1960年公開のフランク=シナトラ主演の映画を豪華キャストでリメイクして話題になったやつ。

やることがハッキリしているので最初からテンポがいい。仲間は全員で11人なので、モタついている暇などないのだ。
しかしながら何をしているのかよくわからない場面が多い。仲間の個性を見せたいんだろうけど、かっこつけ優先で、
基本的な設定が見えづらいのだ。たとえばブラッド=ピット。ポーカーをやっているんだけど、みんな俳優っぽいけど、
彼らはルールがぜんぜんわかっていない。正解は「ブラピが俳優たちにイカサマポーカーを教えている」なのだが、
映画の該当シーンだけを見てそれが理解できなかった。ほかのメンバーもだいたい同じ調子で、紹介がイマイチ杜撰。
何のスペシャリストかわかるメンバーはまだいいが、何をする人なのかよくわからないまま参加する感じのメンバーも。
確かにぜんぶを説明するのはかっこ悪いが、もったいぶりすぎて本質を見失っているように思える。まあそれは僕が、
「特に白人の顔を覚えるのが苦手」(→2020.4.17)ということもあるけど、きちんと個性と役割をまとめてほしかった。
活躍している場面(犯行の場面)からのスカウト、という流れをもう少し徹底してほしかったなあと思うのだ。

ラスヴェガスのカジノの金庫を狙うが、核ミサイル施設並みの警備網。ボクシングのヘヴィー級タイトルマッチの日に、
これを破ろうと計画する。もうひとつ、オーシャン(ジョージ=クルーニー)の元奥さん(ジュリア=ロバーツ)が、
カジノのオーナーと付き合ってるのでそっちもなんとかしようと。このふたつの課題をいかに解決するかが見どころ。
この手の傑作は『スティング』(→2004.11.182015.3.18)があるからなあと、どうしても比較しながら考えてしまう。
申し訳ないけど、こちらの『オーシャンズ11』は『スティング』のときほどストーリーに入り込むことができなかった。
いろいろ細かい問題が発生するのは同じだが、「ピンチでドキドキ→なんとか切り抜けた!」ばっかりなのである。
ピンチで引っ張るだけでなく、「あ、これは上手い!」や「いやー賢いなあ」をリズムよく混ぜていくのが大事なのだ。
その繰り返しがグルーヴになって、観客は物語に入り込んでいくものなのだ。小さい成功体験の量が足りないと思う。

とはいえ、僕がなんとなく乗りきれないというだけで、筋書きはよく練ってあるし、決してつまらないわけではない。
ライナス(マット=デイモン)のキャラ造形はやや型通りだが、本番に強いところはきちんと表現できているし。
それぞれのメンバーが存分に活躍するので(クルーニー・ブラピ・マット=デイモンが目立つのはまあしょうがないが)、
クライムアクションとしての完成度は十分及第点だろう。SWATが警察なのかカジノの私兵なのかわからん動きだな、
なんて思ったのだが、なるほどそういう手かと納得。物語の中心となる作戦も、無理なくできていると感じさせる。
ただ、悪くないけど、この話ってもっともっと面白くできそうだなあ、という感触がどうしても残ってしまっている。
奇を衒ったカメラワークなどがない王道のつくりだが、それだけに物事が淡々と進みすぎる感じを受けてしまうのだ。
ピンチの量は確保されているので、もうちょっと爽快感のある演出で活躍を描いてほしかったなと、その余地を感じる。

さて、いろいろ調べていく中で、ルーベン(作戦の出資者)が昨日見た『M★A★S★H』のトラッパーか!とびっくり。
さらにはカジノオーナー・ベネディクトが『アンタッチャブル』(→2005.6.19)のストーン刑事か!とまたびっくり。
『狼たちの午後』で気づいたが、そういう出演者重視の楽しみ方もあるのだ。というか、そっちの方が一般的なのか。
白人の顔の判別が苦手な僕はそういう情報に疎くて。続編にはアル=パチーノも出るらしいので、ぜひ追っかけてみたい。
出演者もスタッフも、みんな仲良くないと続編つくれんもんな。そういう雰囲気のよさを感じられる点もよいと思います。


2020.4.21 (Tue.)

こないだ(→2020.4.7)の睡眠時無呼吸症候群の検査結果を聞きにいく。結果は……重症と認定される数値の2倍!
CPAP確定! あーあ……。まあ実際に日常生活に影響出とるからね、しょうがない。前向きにいこう……。

『M★A★S★H マッシュ』。朝鮮戦争時の軍医たちが主人公のブラックコメディ映画である。
主人公のホークアイがグレアム=チャップマンにしか見えねえ。チャップマンなら絶対にやりそうなんだもん。
(演じているのはドナルド=サザーランドで、『24』のジャックバウアー役・キーファー=サザーランドの父親。)

これ『こち亀』ですね。アメリカの『こち亀』、そんな感じ。職業も時代も国も違うけど、ノリは近いものを感じる。
腕は抜群にいいけどイタズラ大好きな軍医たちが巻き起こすトラブル満載の陸軍移動外科病院(MASH)が舞台である。
ストーリーはオムニバス的で、どことなくテレビドラマの雰囲気を感じる。最初はシリアスっぽい雰囲気だったが、
主人公3人につられて部隊全体が変態化していく。責任者のブレイク中佐も序盤は厳しい人かと思わせておいて、
実際は完全にそっち側の人なのであった。クソマジメだったホットリップスも最後は完全に呑まれているくらいで。
陰湿さがあまりなくて、確かに頭のいいやつがやりそうだけど、低レヴェルの悪ふざけが次から次へと繰り広げられる。
仲間の悩みを解決するのも全力でのおふざけを通してだ。とにかく彼らは面白がるためなら労力をまったく惜しまない。
頭がよくって仕事ができれば、どんなに非常識でも構わない、という世界。むしろ人生、全力で楽しんでます、と。
上意下達の軍隊では本来ありえない職場環境で、主人公たちは生き生きとイタズラを繰り広げつつ、仕事も全力でこなす。

この映画を「ブラックユーモアで包んだ反戦映画」と見ている人がいるようだ。しかし僕はまったく賛成できない。
マジメな人はこの映画の背景をきちんと見て、こんな下らないイタズラでガス抜きしないとやっていられない状態、
そう考えるのだろう。わからんでもないが、こういう連中は平和だろうと戦争だろうと全力でふざけ続けるものだ。
ふざけるチャンスがあったらふざけておかないともったいない、そういう人種が確かに存在するのである。
(僕もわりとそっち側で、職場でどれだけブラックジョークを連発してきたことか。生徒も教員も呆れていたぜ。)
賭けフットボールの試合で相手に薬物を注射するような映画が反戦映画であるはずがない。これは純粋なコメディ映画、
そう考えないと作り手に失礼なのではないか。頭のいいやつのやりたい放題を素直に面白がっておけばいいのだ。
そして帰国命令が出たとたんに、仲間とはしゃげなくなって寂しくなってしまうみんなの姿にホロリとすればいいのだ。

気になるのは、作中での日本の妙な存在感である。スピーカーからは暁テル子『東京シューシャインボーイ』をはじめ、
歌謡曲や和製ジャズが流れる。また、小倉でゴルフだ芸者だ手術だと浮かれまわるが、明らかに中国と勘違いしている。
朝鮮戦争中のアメリカなんてそんなもん、かもしれないが、それはそれで興味深い部分である。特に歌の扱いが気になる。
あと、終盤のアメフトシーンが冗長でつまらないという人が多いが、しょうがない。アメリカ人はアメフト大好きだから。
ただ、アメフトがある程度わかると、救いがたいグダグダな試合ぶりとそのギャグ時空に持ち込んだMASHの上手さ、
それが理解できるはずだ。何より、MASHが最後の最後でチームとしてひとつにまとまっていく経緯そのものだ、略せない。

さて、この映画はおそらく唯一無二の終わり方をしている。これまで医学講演会の予定や週末の映画の予定を告知し、
『東京シューシャインボーイ』や和製ジャズを流し、覚醒剤泥棒(もちろん内部の犯行)に対する注意を呼びかけ、
ホットリップスのベッドシーン音声を流してきたスピーカーだが、最後に呼ぶのはMASHのメンバーたちの名前なのだ。
バカ騒ぎしてきた仲間たちとの時間を振り返ると同時に、われわれからドラマから現実へ戻ることを呼びかける。
やはり映画よりはドラマ的な演出で、スパッとMASH時空を断ち切るのである。そして夢から醒めたわれわれは気づくのだ、
ああこれは青春ドラマだったんだ、と。悪ふざけに明け暮れていた理想の時間を描いた青春ドラマを見ていたのだ、と。


2020.4.20 (Mon.)

日本史を勉強していると、旅行の経験が生きて「ああ、アレがこれなのね」ってなるのは強みではあるなあと思う。
学生のときにはなかったリアリティを感じられるのは楽しいところだ。出てくる内容は重箱の隅ばっかりだけどね。
あとは手塚治虫の『火の鳥』も読みたくなってくる。日本史における人間関係をつかむには最適の素材だと思うなあ。

『ロッキー』。実は今までまったく見たことがなかったので、きちんと見るのである。

さて『ロッキー』というと、イメージは2つである。「エイドリアーン!」と、生卵ガブ飲みからのロードワーク。
よくわからんけど、この2つのシーンがたぶん入っているはずなので、それをのんびり待ちながら見ていくのであった。
しかし話はなかなか進まない。シルヴェスター=スタローンは『モンティ・パイソン』のガンビーみたいなしゃべり。
やたらと「〜, you know?」とセリフの最後にくっつけるのが気になる。ロッキーさん、頭が弱いってことなのだろうか。
エイドリアンも年増で冴えない。脚本書いたやつの顔が見たいぜとか言ってみる(※もちろん知っててボケています)。

結論から言うと、これはすごいアメリカだなあと。映画DVDを見るようになってからのここ最近のレヴューで、
半分くらいの作品でそう書いているような気がするけど、昨日もそんなようなことを書いたような気がするけど、
これまたすっごくアメリカな映画なのだ。事実なんだからしょうがない。こっちはわかりやすくポジティヴなアメリカ。
まず舞台がフィラデルフィアだ。ここはアメリカ合衆国建国ゆかりの地で、ワシントンD.C.ができるまでは首都だった。
チャンピオンのアポロはまず名前からしてアポロ計画。アメリカンドリームを強調して対戦相手を決めちゃうし、
(「イタリアの種馬」って。でも「Italian Stallion」で「イタリア系のスタローン」を示唆するあたり本当に上手い。
 ちなみに個人的には、『シティーハンター』における「新宿の種馬」の元ネタではないかと思うのだが……。)
入場コスチュームもジョージ=ワシントンだし全身星条旗だしアンクル・サムの「I WANT YOU for U.S. ARMY」だし。
そこまでやると、アフリカ系だけど変なこと考えず前向きに歴史をちゃんと勉強しました!というキャラクターになる。
使われているのもゴングじゃなくて自由の鐘だし、リングも独立時の13星の星条旗だし。アメリカンリヴァイヴァル、
そう言いたくなるほどに、アメリカのポジティヴな面を出してくる。70年代の混迷を全力で振り切ろうとしている。

この映画は本当に単純明快だ。最初にクリンチだらけでバッティングまで入るひどい内容の試合を出しておいて、
さらには借金取りで日銭を稼ぐ姿まで描く(ただし無理な取り立てはしない)。冴えない不器用な男・ロッキー。
エイドリアンも冴えないが、メガネをはずせば美人だぜという古典的なパターン。そしてめぐってきたチャンスには、
全力を尽くしてみせる。ジムのミッキーも金貸しガッツォも協力してくれるぜ。最初はヘロヘロのロードワークも、
みんなのおかげでどんどん様になっていくぜ。オレンジも飛んでくるぜ。そして何より、効果絶大なのがテーマ曲だ。
シンプルだが力強い曲に合わせてロッキーが仕上がっていく。この映画が成功した理由の半分以上はテーマ曲にあるね。
協力しつつもどん底から自力で這い上がっていく、そんなサクセスストーリーを全身全霊でやっているってわけだ。

世紀の試合が始まる頃には、もはやロッキーさんはガンビーみたいなしゃべり方もしないし、顔つきも精悍である。
アポロという最大の困難に対し、ロッキーは最後まで立っていることで自己の存在を証明する、というゴールを設定する。
相手に勝つのではなく、今までの自分に勝つのだ、とロジックを組み立てるのだ。試合に負けても勝負には勝つよ、と。
冷静に考えて、ロッキーは失うものが何もない。この映画の上手いところは、そういう方向に話を持っていったところだ。
肝心の試合は、正直言ってどっちもガードがたいへん甘い。ヘビー級のパンチがそんなにきれいに入りまくって、
15ラウンドもやって無事で済むかよ、と言いたくなってしまうではないか。メイクはすごいことになっているが。
試合に負けてしまっても、自分に勝ったかどうかが鍵なのだ。エイドリアンが認めてくれればそれでいいのだ。
難解で内省的な70年代が半分を過ぎたところで、シンプルなサクセスストーリーへの時代の渇望を見抜いたスタローン。
キャラクターを優先して80年代にシリーズ化されたのはさすがなのである。まあでも、MVPはやっぱりテーマ曲ですな。


2020.4.19 (Sun.)

『狼たちの午後』。原題は「Dog Day Afternoon」で、「dog days」とは夏のいちばん暑い時期を指す言葉であり、
おおいぬ座のシリウスが日の出とともに現れ、日の入りとともに沈む時期がクソ暑い時期と重なることからの表現。
したがって「狼」はぜんぜん関係ない。ダメな犬たちが暑さでぐったりしている、そんな感じはよく出ている映画。

不思議な映画である。僕はものすごく面白いとは思わないのだが、アル=パチーノの熱演に引き込まれて目が離せない。
オープニングで注釈が入るが、この映画は1972年8月22日に実際に発生した銀行強盗をそのまま再現したものだ。
徹底したドキュメンタリータッチであり、現場でのやりとりをすべて目撃しているような気分になってしまう。
監督はシドニー=ルメットということで、なんとあの名作・『十二人の怒れる男』(→2009.7.5)と同じ人なのだ。
しかしやっていることは正反対。『十二人の怒れる男』が現場に行かず事件を暴く究極の安楽椅子探偵なのに対し、
『狼たちの午後』は事件現場の再現そのもの。両者はまさに対極にあるのだ。俳優の全力のドラマである点だけが共通。

主人公たちが企んだ銀行強盗は、最初から見事にグダグダ。3人で押し入ったはずが、怖気づいていきなり1人減る。
銃を構えてもリボンが邪魔だし、防犯カメラに対するスプレーも届かないし、そもそも肝心の金がぜんぜんない。
落ち着いているように思えた相棒も、実は非常に神経質で、かえって何をしでかすかわからない危なさが漂う始末。
この「思ったようにコトが運ばない」という感触は、主人公たちだけでなく、事件全体をじっくりと包み込んでいく。
彼らのあまりの間抜けさと強硬でない態度に、人質たちとは妙な連帯感が生まれる。いわゆるストックホルム症候群だ。
そして警察との交渉の際、主人公が前年に発生したアッティカ刑務所の例を持ち出したことで、群衆も賛同しはじめる。
「劇場型犯罪」という言葉があるが、マスコミの取材も入って、現場はもはや劇場そのものになってしまっている。
ノリノリの群衆、暴れる野次馬、動きまわるマスコミ。主人公はまるでヒーローのように祭り上げられてしまう。
現場の銀行は完全に包囲されているものの、両者ともに手荒な手段は避けたく、出口の見えない膠着状態が続く。
そんな中で「思ったようにコトが運ばない」流れが最高潮に達するのが、警察が「主人公の奥さん」を連れてきた瞬間。
その前に太った女性が「奥さん」として描かれていたにもかかわらず、登場するのはなんと、女装した男なのである。
実は主人公は女性とはすでに別れており、現在はこちらのオカマさんが結婚相手なのだ。性転換手術費用の捻出が、
銀行強盗の目的のひとつ。これでさらに、ゲイの人権活動家たちが現場に押しかけることになる。怒涛すぎる展開だ。
主人公たちは海外への逃亡を要求するが、無事に銀行を脱出し、空港まで移動し、アメリカから逃げ出せるのか。

映画の冒頭で、1972年8月22日の午後があらゆるカットで描かれる。何気ない日常のワンシーンが断片として続くが、
時代は混迷の70年代だ。この特殊な銀行強盗も、70年代のワンシーンということなのだ。とても象徴的なワンシーン。
邦題だとわからないが、映画のタイトルは固有名詞ではなく一般名詞である。つまりちょっと特殊ではあるものの、
それゆえに70年代らしいアメリカの日常が染み出している「ある暑い日の午後」なのだ。それをそのまま描いている。
銀行強盗を通して見える背景は、実に濃い。ヴェトナム帰還兵の苦しみ、刑務所暴動にみる差別と行政の行き詰まり、
ストックホルム症候群も群集心理もリアルである。もちろん、隠しきれなくなっている矛盾としてのゲイ問題も。
主人公の母親も元妻も、他人の話をまったく聞かずに自分の都合だけをまくし立てる。個人主義とは自分勝手なのか。
うだるような暑さがスクリーンを通して伝わってくるようだが、そこには70年代アメリカの矛盾が「べったり」と、
そう、肌にまとわりつくような質感で表現されているのだ。ルメット監督の狙いは、まさにそこにあるというわけか。
一見するとコメディじみた犯罪劇だが、なぜ真剣勝負が屈折してコメディのように見えてしまうのか。そんな70年代。

「事件の犯人に似ているから」という理由で起用されたというアル=パチーノだが、その演技力はすさまじい。
イジワルな言い方をするとこの映画は「究極の再現ドラマ」だが、彼が主演だからこそ特別になっている気がする。
彼だからこそ、ヒーローに祭り上げられてしまう存在感にも納得がいく。犯罪が終焉を迎えたそのラストでは、
緊張から解放された安堵と圧倒的な権力で押さえつけられる怒りと友人を失った後悔と、すべてが表現されている。
ちなみに相棒役のジョン=カザールはパチーノと実際に10代からの友達とのこと。この映画がつくられる3年前には、
『ゴッドファーザー』(→2006.5.11)で兄弟役。そんな細かいところなんて覚えていないが、面白い仕掛けだったのね。


2020.4.18 (Sat.)

『ロボコップ』。あらためてきちんと見てみることにしたのだ。ハリウッド娯楽映画再評価キャンペーン。

当時の懐かしいコンピューター・グラフィックスに乗せて、1980年代が夢想する未来が次々に登場する。
ニュースはいきなり核の使用を報じ、宇宙開発の現状を報じ、CMはヤマハの人工心臓だ(ヤマハという選択も上手い)。
さらには「やられる前にやれ」なんて調子で家庭向け核戦争ヴィデオゲームのCMまで出てくる。これらはすべて、
よく考えたうえでの演出だ。ひとつは、社会全体のレヴェルで暴力が増した未来となったことを示す工夫だ。
これは後述するが、作品内の暴力描写を肯定させる観客の心理的なラインを引き上げるためでもあると考える。
そしてもうひとつは、企業が今よりもはるかに力を持っている社会となったことを示す工夫である。新自由主義だな。
実際にオムニ社内では、それまで行政がやっていたことに進出して利益を上げてきたことが強調されている。
だからデトロイト市警の民間委託も実にスムーズな設定となっているし、むしろ1980年代当時よりも現代の方が、
十分に説得力を感じられる状況だろう。警官たちは後にストを起こすが、公務員である前にまず労働者ってことだ。
さらに舞台がデトロイトなのも巧妙で、凋落した自動車産業の街ということで治安の悪い都会という前提に合うし、
またそれだけにロボコップを生み出す技術がありそうでもある。こうして、SFらしいディストピアの条件が揃った。

僕もよく覚えているが、『ロボコップ』が公開されると爆発的なブームが起きた。テレビでも繰り返し放映された。
子どもにとってはアクションヒーローの系譜に入ってくるデザインで、しかも適度にアメリカナイズされた感じがある。
(後になって知ったが、実際に『宇宙刑事ギャバン』から許可をとってのデザインだそうだ。そりゃ日本で受けるわ。)
でも唇だけが人間という半端さもまたツッコミどころなのである。お前はライダーマンか、と思った人もいただろう。
そう、ロボコップは日本人から見ると適度に「ユルい」。バリバリに銃をぶっ放すメタリックなゆるキャラにも見える。
だから吹越満のモノマネも芸として成立していたわけで。ロボコップは「かっこいい」のではなく、「面白い」のだ。
また、当時の日本はガンダムが2頭身の「カワイイ」キャラクターへとSD(スーパー・ディフォルメ)化されていた。
その文脈で、ロボコップだって自然とSD化できてしまうのである。2頭身への描き替えは人間でもできなくはないが、
人格がある以上、キャラクター化は限界がある(→2013.3.20)。その点、ロボコップはキャラクターの側にある存在だ。

そうでありながら、『ロボコップ』が描いているテーマは普遍的なもので、SFでの人間性の追求という王道なのである。
そして脚本の完成度が高い。押さえるべきものをすべて押さえており、話の流れに文句をつけるところがないのだ。
われわれがなんだかんだで『ロボコップ』を見てしまうのは、その2点が大きい。つまり、本当によくできている。
死体を使った製品・ロボコップとして再生したマーフィが自分の顔と名前を取り戻す、というあらすじだが、
まず記憶を蘇らせる(この辺が示唆するものだ →2005.8.192014.9.12)。自己同一性が確保されるというわけだ。
そして自分を撃ったクラレンスを逮捕し、黒幕のジョーンズに迫る。実はこれ、感情による仕返しなのである。
しかしまだプログラムが優先されている存在なので、ロボコップは法律を遵守する。つまり仕返しだが犯人を殺さない。
ここのバランス感覚が上手い。そして秘密になっていた第4の指令により、オムニ社の重役・ジョーンズは逮捕できない。
(これまた上手くて、企業が法を上回ってしまう問題点が示唆される。それが実現されちゃっているからディストピア。)
この後、警察からめちゃくちゃに銃撃されるロボコップに同情する人も多かったはずだ。人間性を取り戻しつつあるのに、
それが言葉もないままに仲間から否定されるシーンである。人間の心を持った怪物、なんて普遍的なテーマも垣間見える。
やがてロボコップは人間の顔と声を取り戻し、ヒーローとしては異様な姿で戦う。でもそうでなければならないのは明白。
そして最後、第4の指令の伏線も回収され、自らの名前を口にして物語が終わる。社長の仕草とセリフもいいのよ。
まったく無駄のない、それでいて足りていないものもない、完成された構成である。何度見ても飽きることがない。

暴力シーンが過剰で苦手だ、という人もいるだろう。実際これ、暴力描写をやりたい、という動機は否定できまい。
廃液で溶けるエミールとかなくてもいいのよね。見ちゃうけど。ただ、ロボコップはふつうの攻撃を受け付けないので、
常識レヴェルを超えた暴力はどうしても必要ではある。そういう過剰な暴力の社会でないとロボコップが生まれないのだ。
あとはまあ、殺人マシーンでしかないED-209のカワイイ的描写も皮肉の効いているところ。クラレンスの一味だって、
悪役たちが迷うことなく悪に振り切っているので変に清々しい。彼らにもまた妙な愛嬌を感じてしまうんだよなあ。
そして相棒の婦警がアン=ルイスなのに小池百合子。全体的なB級感が不思議なアットホームさを醸し出しているような。
たぶん物語の完成度が高いから、誰一人欠けてはいけなくて、登場するものすべてに魅力を感じさせるのだろうな。


2020.4.17 (Fri.)

『シャイニング』。「シャイニング娘。」とか好きだったけど、見たことなかったんで、見る。

のっけから映像美である。いかにも氷河地形な川に沿って飛んでいく。まるでドローンの映像を見るようだ。
この映画では3次元的に進んでいくカメラによる映像がふんだんに使われている。キューブリックが面白がって、
やたらめったら使っているような気もする。しかし秀逸なのは、そのカメラが移動していった先での演技である。
カメラがずーっと動いていって止まる、そこでの見せ方。俳優が何歩進んだところで、どの角度で撮るか。
そういった細かいところがかなり研究されている。動いた先でいちいちベストなアングルが追求されていると感じる。

まあとにかく不気味でこえーし、音楽がうるせーし。ホラーというよりはサンペンス要素が強いのではないか、と思う。
観客の不安感を非常に上手く引っ張る。キューブリックならではの整理された映像により、全体的に見通しがいい。
だから恐怖という「現在」の表現よりも、次にどうなるのかという「未来」の展開に対する不安感がより強くなる。
言い換えると、怖い映像をつくるホラー作品ではなく、全体の気味の悪さを世界観として表現する作品、という印象だ。
その「未来」への不安感が延々と引っ張られる構成なので「サスペンス(suspend=引っ張る)」であると思うわけで。

結論から言うと、これ結局はジャック=ニコルソンの顔芸なんですよね。それだけで成り立っている作品である。
そりゃ原作のスティーヴン=キングは激怒して当然だ。キューブリックは映像で観客を引っ張ることにしか興味がない。
タイトルでもある不思議な能力・シャイニングはほぼ不発に終わるし。ホテルから逃げ出したところでハイおしまいと。
だからホラーとしての論理性は破綻状態である。でもその穴について、あーでもないこーでもないと議論して楽しめる。
それでいいじゃん、と。本来であれば、ホテルの異常な空間が人間を呑み込んでしまうところに恐怖があるはずだ。
しかしキューブリックはその描写を80%くらいで抑えてしまう。インディアンの墓にぶっ建てたホテルと説明があり、
実際に主人公のジャックを引き込む謎のバーテンはインディアン系の顔だ。ホテルの内装もインディアン的な柄だ。
(その中で、キューブリック好みのミッドセンチュリーはトイレの中だけに限られている。それもまた象徴的だが。)
空間に棲む悪夢が悪夢を呼んで、ジャックを呑み込む。鏡の中の「あちら側」は、いつしかこちら側になっている、
という表現もしっかりなされている。彼らは「correct」という単語で自分たちの世界こそが正しいと主張する。
黒人を差別する用語からも「あちら側」の強い意志が示される。ホテルが諸悪の根源であることは、うっすらわかる。
しかしそれがはっきり示されることはない。去年の冬は問題なかったのに、なぜ今年のジャックは呑まれちゃったのか、
という疑問は解決されないのだ。ジャックだからいかんかったのだ、ということが最後の写真で暗示されるが、
ここであえて論理的に破綻させて観客の議論のポイントをつくっているように思うのである。それってずるくないか。
呪われたホテルの逆鱗に触れた理由が示されないから、観客は困ってしまう。原因がないのに結果だけがあって、
「結局よくわからないから怖い」という変則的な形でのホラーとなっているように思う。それってどうなんだろう。

斧で開けたドアの穴から顔を覗かせるジャック=ニコルソンという構図は非常に有名で、それ以外にもこの作品は、
さまざまなギャグやオマージュの元ネタとなっている(最後の凍死体はもはや、志村けんそのものに見える……)。
それはつまり、作品本来の脈絡を無視して引用しても、単体で通用する印象的なカットが多いということなのだ。
むしろキューブリックは原作の脈絡をあえて破綻させることにより、後世に残る元ネタ集を完成させたというわけだ。
「All work and no play makes Jack a dull boy.」という諺すら(日本語では「よく遊びよく学べ」が対応するとされる)、
この映画ではネタとして再生産されている。『シャイニング』は本来スティーヴン=キングが懸命につくった作品なのに、
完成度の低いキューブリックの方が有名になってしまった。そりゃあ激怒するのも無理はない。同情せざるをえない。

今週は映画のDVDを見てはあれこれ偉そうなことを書いているので(自分でもある程度はよく読めていると思うが)、
そうでもないぜ!という点を正直に告白しましょう。無知を隠さない、というのがこの日記のポリシーなのでな。
僕は俳優や女優がちょっとメイクを変えるとすぐに誰が誰だかわからなくなる。特に白人の場合、けっこうひどい。
(「この人、ジョニー=デップに似てないか?」「それジョニー=デップ本人だよ」みたいなことがよく起きる。)
おかげでこの映画のラスト、過去の写真に写っているのがジャックと最初わからず、「これジャックなら面白いのに」
と思ったのであります。で、ネットで調べてようやくジャック本人と理解したわけで。私、アホでありますか。


2020.4.16 (Thu.)

本日より本格的に勉強(→2020.4.7)を開始するよ! あらかじめ買っておいた本を広げて、いざ気合いを入れる。

 やったるでー!

……お気づきになられましたでしょうか? いや、教科の話ではなくってですね、これらの本、ぜんぶ学研から出てるの。
もちろん内容は立ち読み段階でチェックしていて、それでいてデザイン的にもやる気の出る工夫のある本を選んだら、
なんと5/5の確率でぜんぶ学研から出ていた、と。恐るべし。なんかオレ、学研の手のひらですげえ踊らされている気分。

『スラムドッグ$ミリオネア』。評判がいいようなので見てみる。

とにかくつらいのである。オープニングからやたらめったら殴る。殴りまくる。しかもそれが警察ときたもんだ。
というのも、「クイズ$ミリオネア・インド版」に出場したスラム出身の青年が全問クリアまであと1問まで来たから、
こりゃイカサマしてんだろってことで逮捕されて尋問、いや拷問を受けているから。状況はわかったけど、暴力が過剰だ。
しかしそれがインドの現実ということなのだろう。話はすべてが不穏な空気に包まれて進む。正直、見るのがつらい。
青年がクイズに正解し続けたのは、生きていく中で経験したことが背景にあったから。でもそのぜんぶがつらい経験。
生活環境としては最悪のスラムなんだからしょうがないのだが、見ているこっちは安心できる瞬間がまったくない。
途中からはもう、「こいつは今クイズ番組に出ているんだから、やられない!」と開き直って見ていたのであった。
そうしないと見ていられないくらいにハードな人生なのである。でも主人公はその実直さで強運をつかみ続ける。

序盤、スラムを走り抜ける子どもたちが、さまざまなカットで描かれる。そんなに似ているわけではないのだが、
印象に残る感じが『イージーライダー』(→2005.9.9)っぽいなと感じる。映像のつくり方がそうとう上手いなあと思う。
ところどころで工夫したアングルを用意し、観客にインパクトを与えるのも特徴だ。監督はダニー=ボイルということで、
世間的には「『トレインスポッティング』の人」という扱い。そういえばワカメが薦めていたっけ。それも見なきゃなあ。
列車から落ちて転がっていくうちに時間が経過する演出も面白いし、細かいところにいちいち職人芸を感じるのである。
伏線の仕掛け方も確かな手腕を感じさせる。最後の問題に出るのが三銃士というのは(やべえ、これネタバレか?)、
問題として簡単すぎないかとクイズ研究会の私は思うのだが、それは『アニメ三銃士』で育った世代だからか? 夢冒険!
伏線でも答えを最後まで隠していたのも上手いし、そこにテレフォンを残しておく(僕は気づいていたよ!)のも上手い。
実在する番組の特性をよく生かしており、本来は強烈なファンタジーであるこの物語に確かなリアリティを与えている。
ミステリ的見地からすれば、クイズという直接的な謎とスラムでの人生という直接的な都市生活の描写が噛み合っており、
これは謎を通して都市と人間を描き出すという正しい意味でのミステリなのかもしれない。薄っぺらくないってことだ。
ちなみに、この監督の伏線の巧さが最もよく出ているのは、最初に示される4択をエンディングの監督紹介に使うところ。
そんな手があるのか!と驚愕してしまった。考えてみればこの作品、伏線だけでできた話なのだ。ただひたすらに巧い。

最後の最後までぜんぜん安心できないのね。でも冷静に考えると、実は深い愛情がとことん描かれた作品でもある。
主人公のヒロインに対する凄まじく実直な愛はもちろん、なんだかんだで兄貴は弟を守るために体を張りまくっている。
弟が素直でいられるのは、兄貴がダークサイドをぜんぶ引き受けてきたから。すべては弟を生かすための行動であるのだ。
そしてこれまで味方ゼロという環境で育ってきた主人公だが、最後はみんなが彼の味方になっているのも巧みなところだ。
(インド映画恒例のダンスシーンが最後にあるのだが、そこで兄貴にも踊ってほしかったけど、ダメかなあ? ダメなのか。)
清濁併せ持つインド、そしてムンバイを、たくましく生きる兄弟を通して描き、強烈なエンタテインメントに仕上げる。
すごく極端であるけど、それもまたインドの真の姿なのだろう。あちこちにインド映画への敬意を感じさせるのもいい。
喜怒哀楽、どれもがものすごいエネルギーを持った映画である。それだけにちょっと疲れる。これ、夢冒険すぎませんか。


2020.4.15 (Wed.)

水曜日が当番になっているので、本日は職場に出勤。管理職2名と各学年に1名ずつ、そしてウチの学年だけ2名。
あまりにも人が少ないが、それが望ましいのだからしょうがない。午前中は副教材の移動と整理をやったものの、
その1時間を除いたあとは、延々と音声データを教科書と照らし合わせる確認作業である。それでも終わりきらない……。

『許されざる者』。クリント=イーストウッド監督・主演で「最後の西部劇」とのこと。西部劇見るの久々だな。

衝撃的な暴力シーンをいきなり持ってくるのでビビってしまった。冒頭にインパクトを持たせるという作戦なのか。
発端の部分を丁寧に描いていることは間違いないのだが、「娼婦たちが賞金稼ぎを頼ってカウボーイに復讐したい、
それを保安官は阻止したい」という構図が理解できるまで、自分には少し時間がかかってしまったよ。
直接的な説明セリフを出さない正統派の描き方なのかもしれないが、もうちょっと親切さが欲しかったなあ。
バカ正直に時間を経過させているが、映画としては中盤に大したヤマ場もなくダラダラしていて非常に眠いです。

僕はキャラクターにまったく魅力を感じなかった。ジーン=ハックマン演じる保安官はさすがだなあとは思ったが。
絵に描いたような男やもめのガンマンに、絵に描いたような頼れる黒人の相棒。さらには絵に描いたような若造も。
武勇伝を語りたがる側のキャラクターは例外なくしょうもなく、武勇伝を忘れたい側のキャラクターは桁外れに強い。
学芸会かな?と思ってしまうような安い人物造形である。いかにもアメリカ的な単純明快さ、ということなのか。
そんなマッチョなアメリカの価値観を、イーストウッドが純度100%で演じる。こんなにコテコテなアメリカは、
『アラバマ物語』(→2006.10.10)以来だ。古き良きアメリカというシチュエーションをやりたいだけでは、と思う。
ヤクザ映画を撮りたいだけの北野武とやっとることが変わらんのではないかな。幼稚なレトロ趣味にしか思えない。

個人的に興味深かった点を挙げてみる。保安官が体現する法と秩序に、賞金稼ぎによる私刑が殴り込みをかける。
これは罪と罰の概念からして、どうなんだろうか。娼婦の顔を切り刻んだカウボーイに保安官が出した裁定は、
身体的刑罰ではなく、経済的な刑罰である。近代的だ。ところが保安官は後で、死ぬまで拷問をかける一面も見せる。
やっていることが一貫していないではないか。そして傷つけられた娼婦側は納得できずに賞金稼ぎを頼るのだが、
保安官は娼婦たちを罰することはなく、やってきた賞金稼ぎに対して殴る蹴る。このワンクッションがまた不思議だ。
そして何より面白いのは、保安官が賞金稼ぎを殴ったり蹴ったりできる根拠が、「銃を預けないこと」なのである。
われわれ日本人からすると保安官の姿勢は秩序を優先しているように解釈できるが、アメリカ社会的には保安官が、
「銃を規制してくる人間」と映る仕組みなのだ。自分は銃で脅しておいて、こっちの銃を奪う不公平なヤツ、と。
これまたアメリカ的マッチョである。法律本来の高度な論理性はそこになく、観客の感情が優先されているなあと。

主人公は最後、酒を呷ることで自らを律していたタガをはずし、かつてのモンスターに戻るというわけだ。
なんだか変身ヒーロー願望が透けて見える。つくづく幼稚な話だと思う。何も考えずに「ガンマンかっけー」
なんて言って満足できる人ならいいかもしれないが、連綿と続く西部劇の名作を見てきた自分にはお笑いでしかない。
優れた西部劇は必ず、アウトローの一瞬の輝きと永い苦しみを描いているものだ(→2005.6.302005.12.3)。
日本でも黒澤明の『七人の侍』(→2005.4.9)は、きちんとそこを理解していた。ちなみに日本でいちばんの西部劇は、
実は『あしたのジョー』(→2011.10.14)なのだ。イーストウッドは所詮、マカロニウェスタン止まりよ(→2005.11.19)。
「最後の西部劇」を名乗るのは勝手だが、こんな学芸会はもう最後にしてもらいたい。西部劇の質を落とさないでくれ。

なお、音楽はレニー=ニーハウス。吹奏楽部レンタル移籍時はお世話になりました(→2016.4.22)。まだ生きとったんか。


2020.4.14 (Tue.)

昼前に突然、目がおかしくなった。視野の右外側と右下1/3が、いきなり激しくビカビカと激しく点滅しはじめた。
三角のドット、またそれで構成される六角形の外枠が視界に貼り付いている。白・緑・赤。青以外の光の三原色が、
電飾のように入れ替わる。目を閉じても闇の中でビカビカが光って見えているってことは、目ではなく脳の問題だ。
え、オレ一生、視野がこのままなの?と愕然とする。曲がりきらない右手人差し指に続いて、こんなことが。

結局は10分ほどで治ったからよかったが、しばらく視野が亀裂のある感じでゆがんでいて、本当に怖かった。
後で振り返ってみると、足が痺れるのと同じ感じで、視神経が痺れたのではないかと思う。ずーっと同じところを見て、
CDの取り込み作業をやっていたので。もう二度とゴメンだが、足の痺れが視覚化されるとどんな感じかは理解できた。
午後は適度なタイミングで視線をはずしながら作業を継続。18時近くなってようやくすべて終わった。変に疲れた。

『メメント』。なんか記憶がもたない人が主人公らしい、程度の知識で見はじめるのであった。
そしたら必死で振るポラロイド写真の色が薄くなっていくじゃないか。なるほど、これは逆回しか!
ということは、本来なら結末となるシーンで始まるということだ。凝った構成なんだなあ、と思いつつ見る。
主人公を記憶喪失の他者にすることで、観客に対して自然な状況説明をするとは巧妙だなあと思う。
時間がだんだん戻ることで、より緊迫感を持って観客に主人公の行動を追体験させる仕組みなのである。

ところが見ていくうちに、気づいてしまった。ふつうのミステリが謎かけなら、これはいきなりの答え合わせなのだ。
延々と答え合わせの作業に付き合わされている感じがしてしまった。こうなるともう、話に入り込めないし、
どうせ帰りつくのは妻が殺されるシーンだろうし。すでに救いがない設定なので、何がどうなっても話が暗い。
この見せ方だと時間経過のテンポが悪いこともあり、飽きてきた。簡単な内容を複雑にやっているだけでは、と思う。

そしたらさすがに敵もさるもの引っ掻くもので、最後にひっくり返してきた。でもやっぱり、後味が悪い。
がんばってつくってあるので文句を言いづらいが、実はメインの問題が記憶障害ではなく妄想だったというね。
努力は買うよ、買いますけど、手段が目的になっている映画だし、ミステリ嫌いのオレには合わないなあ、で終わり。


2020.4.13 (Mon.)

本日よりローテーション勤務がスタートである。当番でない僕は、勤務時間中ずっと家にいないといけないのだ。
ただ、やるべき仕事はきちんとある。用意しておいた教科書の音声CDを、iTunesに取り込まないといけない。
今年は3学年すべてを担当するので、CDはぜんぶで15枚になる。これをすべてiPod nanoで使えるようにするために、
取り込んだトラックのひとつひとつにページ番号とタイトルをつけていくのである。いや、さすがに量が膨大。
この作業だけで一日終わったが、それでもまだ完了しねえんでやんの。いいとこ2/3といった感じか。つらい。

連日の映画(DVD)鑑賞は、英語の勉強という名目で用意したものである。ゆえに洋画ばっかりなのだ。
あとはまあ、僕個人の考えとして、「名作映画を見る経験は名著と同じくらい教養に直結する」と思っているので。
上で書いたように今日は昼間に見る暇がなかったから、夜になって部屋の明かりを消して、いざチェック開始。
本日のお題は『グレイテスト・ショーマン』。ツタヤで手当たり次第にブルーレイを借りてきて、見てみようと。

見はじめて序盤の展開の速さに驚愕する。あまりにも話の進みが速すぎて、考えが追っつかない。読めない。
そしたらなんと、主人公は見世物小屋を始めようとするじゃないか。なんて際どいテーマの映画なんだ!と驚く。
しかしこちらの驚きを置き去りにするように話は進む。歌と踊り(というか動き)でグイグイ引き込んでいく。
面白いのは19世紀の設定であるのに、流れる音楽は完全に現代のものであること。それだけ彼らが斬新なのだ、
という表現だろうか。実在の人物をモデルにしたフィクションであることを忘れさせないためでもあるのだろう。

この作品は、ミュージカルの特性がとことんまで出ている作品だと思う。展開の速さが許される点もそうだし、
白黒はっきりしている世界観もそうだ。西洋の娯楽文化が紡いできたものの厚みをしっかり感じさせるデキだ。
今まで見た映画で「文化としてのミュージカル」をいちばん感じたのは、『雨に唄えば』(→2005.5.16)かな。
あれにだいぶ迫っている感触だ。そしてもうひとつ、『オズの魔法使い』(→2005.4.24)も思い出すのだが、
それはファンタジー世界の表現として小人症の俳優が起用されているからだろう。そういう文化があるなあ、と。
これが日本だと成立しないとまでは言わないが、かなり難しいものがあると思う。彼らがいるのは、ショウの文化。
日本の見世物小屋が「見せるだけ」で成立する点、また芸能についてだけ見ても差別と不可分だった点からして、
バーナムのサーカスはスタート地点が違いすぎるのだ。日本に根付いたショウというと宝塚だろうが(→2012.2.26)、
見世物小屋をそこのレヴェルまでもっていくのにはどれだけの飛躍が必要になるのか、まるで想像がつかない。
強いて言うならミゼットプロレスがあるかもしれないが、もはや風前の灯。つまりそれだけショウの文化が強いのだ。

物語は絶好調からピンチ、そして復活へというベタな筋をきっちりと踏んでいく。ミュージカルだからそれでよかろう。
復活への鍵となったのは、主人公のバーナムが一緒に演じる側にいたことだと思う。演じさせる側ではなく、演じる側。
あとは批判されても継続していたこと。一時的な金もうけではなく、ショウとしてきちんと継続していたことも大きい。
そういった要素はちゃんと描いているのでわかるが、展開が速い分だけ見せ方が雑になった面があるのは否めない。
ドラマティックに仕立てたかったのだろうが、団員たちからの信頼シーンをあらかじめもう少しきちんと描いていれば、
すんなり納得できた人も多いだろうに、と思う。ご都合主義的な印象をどうしても与えてしまうのがもったいない。
とはいえ、2代目となるフィリップの成長物語にもなっている点は見事である。これにてShow must go onってわけだ。

まあでもやはり、ヒュー=ジャックマンが楽しそうに歌って踊る、実際の彼らのショウがいちばん見たいところである。
そう思わせた、魅力を感じさせた、という点でこの作品は良作なのだろう(だから僕にとってのベストは前半1/3だ)。
あとはまあ……「できた嫁がいるやつは勝ち組」。結局はそれに尽きるのではないでしょうか。ニンともカンとも。


2020.4.12 (Sun.)

『ボディガード』。えんだああああああ

結論としては、これは1980年代を全盛期としたハリウッド娯楽映画の最高傑作の領域に達した完成度だと思う。
「大スターの女を守る男」という物語の構図はいかにもなラヴロマンスの理想形で、批判されやすいポイントである。
でも、その「陳腐」な構図がどれだけ丁寧な玄人芸で仕上げてあるかがわかると、素直に脱帽せざるをえないはずだ。
確かにやっていることは定番かもしれないが、とことん洗練されているのである。そこをちゃんと見抜かないとね。

冒頭の入り方からして秀逸だ。銃声から入り、モノクロに近い色づかいの中、低い視線から俯瞰へと移るカメラワーク。
これだけ簡潔に、これだけ劇的に、主人公の凄腕ぶりを表現できるものかと驚いた。話の進むテンポがやたらいいが、
観客に理解させる工夫を長年追求してきたハリウッドの財産を感じる。セリフの英語も聞き取りやすいものが多い。
黒澤明の『用心棒』を持ってくるのも、映画というメディアへの敬意を示す証拠だろう(「アタシ」には大爆笑したが)。
ミステリ的な部分を二重構造にしたのもいい工夫だし、その謎を直前に明かしてドラマに集中させるのもまた上手い。
また『ボディガード』といえば、ホイットニー=ヒューストンが亡くなってしまった今でも彼女の代表曲と言える、
有名なテーマ曲(I Will Always Love You)がある。まず他人、しかも男が歌っているのを聴くという出し方をしてきて、
最後に効果的に使うわけだ。しかもそこには「もはやできなくなってしまった楽しいデートの記憶」という意味が入るし、
タイトルも歌詞もきわめて的確。詰め込めるものをすべて詰め込んだうえで、娯楽作品として見事にやりきっている。

昨日の日記では「登場人物たちが、ただこういう役割として存在しているだけ、AIみたい」ということを書いたけど、
娯楽作品とはいえ完成度の高いこの時期の映画はぜんぜんそんなことがなく、キャラクターたちのやりとりを楽しめる。
いちばん目立つのはトニーだろうが、あえてサイについて書こう。少々ネタバレになるけど。フランクが撃たれた後、
サイはアカデミー賞受賞者の書かれたカードを、フランクの血を拭き取ってから大切そうにしまう。このワンシーンで、
彼がどれだけその目標に賭けてきたか、また彼のプライドを、読み取ることができるのだ。フランクを心配するよりも、
そっちを優先するところに困った性格が出てもいる。しかし彼もまた、自分の才能を信じて生きてきたプロであるのだ。
そう、この映画はプロとプロのぶつかり合いを描く映画でもある。それぞれの人間が深く描かれているから理解できる。
こういうところに手を抜かないから全体の完成度が上がるわけだ。この映画、教科書として使えるレヴェルの完成度だ。

フランクもレイチェルもどっちもそれぞれにプロだが、そのプロ根性が感情でブレるから物語になるわけだ。
例を挙げると、過去のアメフトのポジションについて話す場面。アメフトのポジションは、完全に身体的特性で決まる。
フランクは実際にはWRだったのに、レイチェルに訊かれて「エンドだ」と答える。これ、けっこう考えているセリフで、
ふつう「エンド」というとOEかDEを指す。つまりラインに入ってぶつかり合うので、ガタイが良くないと務まらない。
ボディガードという仕事の性質上、そう答えることで相手に頼れる印象を与えることにしている、と僕は思うのだ。
ところが実はエンドはエンドでも、タイトエンド(TE)という、半分ほどWRの役割をこなすポジションが存在する。
だから実際はWRだけど「(タイト)エンド」って答えておけば、まったくの嘘にはならないという仕掛けなのである。
(ちなみにWRは、とにかく足が速くて背の高い人が望ましいポジション。ガタイの良さはむしろマイナスである。)
そして続くセリフでレイチェルは「強かったの?」と訊く。ここでフランクは「いや、速かった」と真実を語るのだ。
これを僕は、レイチェル相手には思い直して真実を語った、と読む。彼のブレがスマートに描かれたシーンであろう。
このように理屈と感情の対立がかなり丁寧に描かれており、特に感情を優先してブレて自己嫌悪になるフランクなど、
恋愛に振り回されている姿がきちんと描かれている。まあそれだけレイチェル(ホイットニー)に抗いがたい魅力がある、
とわれわれは納得するしかないのだ。お安いラヴロマンスにならないように、全力の仕掛けが凝らされているのである。

まあそんなわけで結論、盾になって女を守る男は無条件にかっこいいものなのだ。その構図をとことんまで追求し、
できる工夫を極限まで重ねている。最高のプロな男が最高のプロな女を守る話を、最高のプロがつくっている作品だ。


2020.4.11 (Sat.)

『イミテーション・ゲーム』。アラン=チューリング(正確な発音は「テューリング」となる)が主人公の映画。
いろんな功績がある人だが、コンピューターやAI方面の理論で知られ、次期50ポンド紙幣の肖像に決まっている。
『ニューロマンサー』(→2005.1.8)では、AIを違法に成長させないように監視する機関にその名前が付けられている。
そんなチューリングが主人公というだけで価値があるが、特に第二次世界大戦中の暗号エニグマ解読での活躍を描く。

結論から言うと、脚本がクソである。高い評価を受けていたらしいが、はなはだ疑問だ。脚本の拙さが突出している。
アラン=チューリングが主人公ということで、現代的な切り口がいくつもあるのは確かに難しいところである。
ざっと挙げるだけでも「栄光なき天才」「同性愛」「AI」と、どこをメインに据えればいいか、実に悩ましい。
LGBT団体は「同性愛」の切り口が弱いと批判しているようだが、彼らはそこにしか興味がないから相手にしないでいい。
「AI」をメインにすると現代ではまだSFになってしまうので、これもそんなには踏み込めない。匂わせるぐらいか。
そうなるとやはり正統派の「栄光なき天才」でやるしかないが、そういう視点で見ると「同性愛」に引かれて中途半端。

いろいろやり尽くした結果、21世紀の戦争映画は抽象的な戦いをテーマとするようになっている、と思われる。
たとえば2010年の『英国王のスピーチ』では、ジョージ6世の直接的ではない戦いが描かれた(→2012.4.20)。
この点は『イミテーション・ゲーム』も同じである。戦場ではなく、暗号解読する後方支援施設が舞台となっている。
そうなるとナチスの脅威にどうリアリティを持たせて描くかが難しい。この作品では実際の映像や防空壕での避難、
さまざまなシーンを邪魔にならない程度に混ぜている。もうちょっと緊迫感があってもいいと思うが、まあ及第点か。
褒めるべき点は少なくないのだ。チューリング役のベネディクト=カンバーバッチの演技は、しゃべり方もそうだが、
仕草のひとつひとつにサヴァン的なものが細かく表現されている。特に秀逸なのは怒り方の演技だと思うがどうだろう。
異性愛者と同性愛者と思考の違いを、人間とAIの思考の違いと重ねる点も興味深い。タイトルがよく効いている点だ。
しかしながら、ドラマ優先の脚色がひどすぎると感じる。天才のやることがわれわれにはよくわからないゆえ、
制作側に都合のいいように現実が弄ばれている気がしてならない。具体的には、仲間や上司との軋轢が型通りだし、
暗号解読手法の説明がゼロだし(難しすぎて大変なのはわかるけど)、史実に対する敬意や謙虚さが感じられない。
何より、登場人物たちの「なぜそう考えるに至ったか」が描かれていない。ただこういう役割として存在しています、
ってだけ。人間らしい葛藤はなく、その結果だけが示される。まるで与えられた任務だけを黙々とこなすAIを見るようだ。

仕掛けは悪くない。この映画は暗号解読の話ということで、「秘密」と「嘘」を裏テーマとした点はよく練られている。
チューリングは最強の暗号・エニグマという「秘密」を解くが、その一方で自分自身も「秘密」を抱えているのである。
その「秘密」とはもちろん、同性愛者であること。当時のイギリスでは犯罪であり、それを隠し通さないといけない。
しかしこの「秘密」をストーリー全体での秘密、ミステリとして引っ張ったことで、物語はズタズタになってしまった。
1951年に始まって、戦時中のエニグマ解読、そしてパブリックスクール時代と、とにかく時間が無秩序に飛ぶのである。
脚本はスパイ疑惑で観客の興味を惹こうとするが、「秘密」の正体はそれとまったく質の異なる“犯罪”なのだ。
罪の重さがまるで違うのに、ここを「秘密」という関数によって等価に見せかけようとするので、おかしなことになる。
栄光の経歴を抹消された天才の悲哀が、稚拙なミステリのせいで、焦点のブレたものとして扱われてしまった。

また、彼は数学者であることに誇りを持ち、論理的に思考するがゆえ、「嘘」がつけない。天才だからこそ、の設定だ。
ところが彼は、作中で一度だけ「嘘」をついているのである。それは受け入れがたい現実を拒絶するためのものだった。
となると、彼は最期を迎えるとき、「嘘」をついたはずなのだ。しかし、肝心なその二度目の「嘘」が、描かれていない。
冒頭で青酸カリを片付けるチューリングが描かれ、中盤では仲間にリンゴをプレゼントするチューリングが描かれる。
そこまでやったなら、なぜ最後にチューリングがリンゴをかじらないのか。彼が最期にどんな気持ちで「嘘」をつき、
青酸カリを染み込ませたリンゴをかじったのか。そこの葛藤を描かずして、チューリングを描いたことになるのか?
映画が表現芸術であるならば、天才ではなく人間としてのチューリングの葛藤を描かないなど、絶対にありえないだろう?

登場人物が制作側にとって都合のいいAIのようだ、と書いた。この映画では、最後には主人公のチューリングすら、
人間らしい葛藤のないAIになってしまった。そんな下劣な脚本に疑問を持たなかった人が多く見受けられるのが残念だ。


2020.4.10 (Fri.)

『異種族レビュアーズ』。なんかすごく話題になっていたので毎週追いかけていたよ!

まず、発想がおかしい。ファンタジー世界における風俗店のレヴューとか、何を食ったらそんなことを思いつくんだ?
僕はファンタジー脳(能)が完全に欠けているので、ああいう世界の常識レヴェルの設定すらよくわからないのだが、
想像力を論理的に正しく発揮しており、各種族の特性が性的にはそれぞれどんな形で出るか、という点に納得がいった。
これってけっこうすごいことなのだ。現実にはありえない存在の生態について、それを論理的に正しく延長して考え、
独善的にならずに広く受け入れさせている。実はこれをいちばん壮大にやっているのが宗教ってことになるわけだが、
ベクトルとしては正反対というか、社会的に白眼視される方向に全力での悪ふざけを見事にやってのけているのだ。
想像力(あえて妄想力と表現した方がいいのか)を贅沢に無駄遣いしているが、そこに美学があるというか。
この悪ふざけをここまで徹底してできるというのは、やはり特殊な才能なのは間違いない。そこに痺れる、憧れる。

こんな内容を地上波で放映していたことがめちゃくちゃで(それでも昔の深夜番組だってひどかったけどね)、
実際に途中で「オンエアできませーん」となった局が出たり、「じゃあオンエアしちゃいまーす」という局が出たり。
オープニング曲もエンディング曲も本当にひどいし。自転車こいでて思わず口ずさんじゃうキャッチーさがまたひどい。
しかしやはり興味深いのは、海外(北米)のチャンネルが「削除することが最も敬意のある選択」となった点である。
おそらく天使族が女体化してハイエナ獣人のおねーさんとイチャコラしたのがいかんかったと察しているのだが、
そういうことを平気で考えちゃうのが日本人だよなあと思う。さすが八百万のゆるキャラが闊歩する国だ(→2013.9.30)。
一神教を相対化してしまえる能力というのは、世界的にはとんでもないことだと思う。この調子でどこまでもいきたいね!


2020.4.9 (Thu.)

元ヤクルト監督の関根潤三氏が亡くなったとのこと。ヤクルトファンにとってはつらいニュースが続いているなあ。

関根監督は僕が物心ついたときのヤクルト監督だったが、僕がファンになるのはもうちょっと先なのであった。
にわのまこと『THE MOMOTAROH』(→2008.9.19)に出てきて牛バカを入団させとったっけな。あのイメージそのまま。
実際、アイケルバーガーを「名前がおもしれえ」という理由でとるなど、のびのび野球っぷりは他の追随を許さなかった。
あと印象に残っているのは中学生のとき学校の図書館にあった名球会マンガで、土井正博の巻に登場したと思うのだが、
「僕は疲れちゃうから素振りしないの」とか言ってバットを構えると、その隙のなさに若き日の土井が驚愕するシーン。
投手としても打者としても実績を残した異能の選手、というイメージもあるが、やはりヤクルト監督としての印象が強い。

しかし1992~1993年ごろの主力選手を振り返ると、関根監督時代に土台が築かれていることは疑いの余地がない。
ノムさんの訃報のときにも書いたことだが(→2020.2.11)、あの当時のヤクルトが黄金時代の西武を倒すのには、
持っている力の100%を引き出してようやくギリギリ、という戦力だったと思う。そういった選手たちの円熟期、
実力のピークをノムさんの3年目(1992年)にもってこれたのは、関根監督が地道に駒を揃えてくれたおかげなのだ。
池山・広沢のイケトラコンビは言うまでもなく、頼れる先発投手陣(見事に右腕ばっかり)にバイプレイヤーの方々、
そういった面々がノムさんの野球を吸収して戦術的に磨かれていったから、実力を伸ばして勝つことができたのだ。
何より、あの時期のヤクルトが明るい雰囲気であった下地をつくったことが大きい。ノムさん単独ではたぶんダメで、
むしろあのヤクルトを率いたことでノムさんが自身のネガティヴなイメージを払拭できたのではないかと思っている。

振り返ってみて、本当にうまくいった時期だったんだなあと思う。関根監督も野村監督も、どちらも外様なのだ。
しかしフロントがやりたいようにやらせていた。おかげで育成から戦術と、ドンピシャリの成長曲線を描いていった。
ノムさんの功績はもちろん大きいが、阪神や楽天でのノムさんを思うと、やはり関根監督の存在こそが重要なのである。
(そう考えると、阪神や楽天でのノムさんは、ヤクルトで関根監督がやったこともやらなくちゃいけなかったわけだ。)
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」とはノムさんの有名な言葉だが、優勝に不思議の優勝こそ、ない。
だから当時の躍動する選手たちの写真や映像を見るたび、その土台をつくった関根監督のことも思い出すことになるのだ。
夜明け前、来るべき成功に向けて黙々と努力する時間。なんと苦しくも美しいことか。関根ヤクルトはそういうチームだ。


2020.4.8 (Wed.)

非常事態宣言が出たが、だからといって特に大きな変化は感じない。店がどんどん閉まっていくことぐらいだなあ。

インターネットのニュースを見ていると、実にいろいろな立場からいろいろなニュースが報じられている。
そしていろいろなコメントがついている。それらを見るたび、僕は猛烈に虚しい気分になるのだ。

いろいろな意見があること自体はいい。言論の自由が保証されている民主主義国家なのだ、多様性がないと気持ち悪い。
問題は、意見を言う人のほとんどが「自分が正しい」と思っており、その「自分の正しさ」を他人に強要している点だ。
そもそもが、新型コロナウイルス自体が、まだどのような性質のものか全容を解明できていないのだ。それなのに、
憶測でマウント取ろうとされてもねえ。発言も行動のひとつである、相手の正体が不明な以上、慎重に行動したい。

いちばん滑稽なのは、メディアを批判する人たちである。悲観的な報道をするな、楽観的な報道をするな、
一般大衆を煽るような報道をするな、あちこち動きまわって報道するな、偉そうに上から目線でコメントするな、等々。
資本主義社会である以上、メディアは大衆の受けを狙って行動するものだ。だからメディアがゲスであるということは、
それすなわち、われわれ自身がゲスなのである。ゲスな報道を無視して食えなくするのが、正しい市民のあり方だ。
ところがメディアを批判するバカは、メディアがこう報じたからこうなった、などと堂々と責任を転嫁してしまう。
冷静に考えれば、「そんなメディアに踊らされたお前が悪い」のだ。教養のない人ほど踊らされて、後で文句を言う。
報道は、ニュースを垂れ流すものだ。それを取捨選択するのがわれわれの立場だ。ニュースの価値は受け手が決める。
脊髄で反応するから、感情で動くから、知性のない意見になる。頭を使ってさまざまな角度から考えることが必要だ。
ついでに言うと、これは戦いでも戦争でもない。細胞に寄生しないと増殖できないモノと人間が対等に戦ってどうする。
すべてにおいて、われわれが節度を持って生活すればいいだけの話。やるべきことは、それ以上でも以下でもない。

教養ある市民の態度はこうだ。メディアの報道を受け取りつつも、自分の周囲の状況に合わせて冷静に判断する。
自分の考える意見が他人にそのまま適用できるとは限らない。だから他人の行動を一歩踏みとどまって見つめる。
本来、政府の見解や非常事態宣言などの措置は、国民一人ひとりの意見を収斂させて混乱を抑えるためにある。
つまり「この方向で一人ひとり対策していきましょう!」と、政府と国民の統一見解を生み出すことが必要なのだ。
それができない政府は後で検証してしっかり責任を負ってもらおう。選挙できちんと評価するのを忘れないこと。

人間、ピンチのときほど本性が出るものだ。日本人の民度がどーのこーのではなく、もっと地に足がついたレヴェルで、
一人ひとり市民すなわち「citizen」(→2020.3.3)としての教養が試されていると思って行動したいものだ。


2020.4.7 (Tue.)

入学式は延期になったが、新入生が教科書や書類を取りにやってくる。本当に最低限のことしかしていないが、
これでいちおう新年度は動き出したことになる。明日以降はどうなるか。まあ粘り強くやっていくしかないわな。

夜は先月予約しておいた(→2020.3.12)睡眠時無呼吸症候群の検査である。15年ぶり2回目なのだ(→2005.10.29)。
今回は細かい検査はパスで、21時過ぎにセンサーを全身に取り付けて、22時には就寝。最初は緊張気味も、すぐぐっすり。

 
L: せっかくなので撮ってもらった。少し恥かしかったが、けっこうそういう人は多いようで。
R: 相変わらずでごさいますな。スマホで撮ってもらったので、やはりどこか画質が粗っぽい。

ちなみにこの夜、新型コロナで非常事態宣言が出たらしい。僕としては粛々と生活するだけなので、ハァそうですかと。
仕事はおそらく必要最小限の人間だけ職場に行ってのローテーション勤務になりそう。他区はすでにそうしているとか。

となると、その間にやるべきことは明白である。本日の勤務が終わった僕は、実は神保町で本を買い込んでから、
無呼吸の検査に行ったのである。土日は大型書店も閉まる可能性があるからね。今のうちに必要なものを買っておく。
この非常事態宣言の間に、どれだけガッチリと勉強ができるか。もちろん、授業の準備も進めておくけどね。
本気の勉強を今こそ。買い込んだ本をぜんぶマスターしたいものである。自分の道は自分で切り開かんといかん。


2020.4.6 (Mon.)

「朝令暮改」という言葉があるが、それよりも早いペースで指示が変わるので、下っ端としては困惑するのみだ。

予定どおり始業式が終わってすみやかに入学式の準備をする。場所は校庭だ。青空の下、椅子が並ぶさまは壮観である。
国旗と区旗をロープで持ち上げて校舎に固定する作業を眺める。その下には申し訳程度だが紅白幕が吊り下げられる。
ひととおり準備が終わって弁当を買って戻ったら、どうも様子がおかしい。そして入学式が延期になったことを知る。
昨日(日曜日なのに)の夕方、校庭でやる予定が区教委からあらためて通知されたのに、一転して延期のお達しだと。
(ちなみに本日が入学式の予定だった各小学校は、無事に青空の下で挙行できたとのことである。この差は何だろう?)
午後の仕事が割り振られ、保護者に電話連絡する班、新入生向け配布物を準備する班、校庭の片付け班に分かれる。
ここからもまた怒涛の勢いで、それぞれが全力で動く。この学校、こういうときのエネルギーは凄まじいものがある。
僕は配布物準備班だったが、片付けが終わった皆さんが合流すると作業が一気に加速。その後も準備はポツポツ続き、
結局ほとんど休む暇がないまま、空が暗くなるまで動きまわったのであった。それでも電話班は仕事が終わらない……。

 写真に撮っちゃったよ。午前中にこれをセットして、昼過ぎに片付ける。これが教員の仕事。

状況がどのように変化するのかまったく読めない日々が続いているので、やることなすこと全力の行き当たりばったり。
それでも僕は下っ端だから、目の前の作業に専念していればいい。中間管理的ポジションの人たちは本当に大変だと思う。
事情が事情とはいえ、振り回されつつ振り回す立場というのは、さぞかし心労が大きいだろう。お疲れ様としか言えない。
飲食店や観光業をはじめとする自営業の皆様に比べれば大したことはないが、教員もなかなかにつらい毎日なのである。


2020.4.5 (Sun.)

『劇場版 STEINS;GATE 負荷領域のデジャヴ』。時間もあるし、ついでに借りてきた。かつてTVアニメを見た際に、
「続編の映画があるそうなんで、いずれチェックしたい。」と書いてから6年が経っていた(→2014.2.6)。恐ろしい。

やっぱりキャラクターがどうにも合わない。相変わらずみんな不健康そうで気持ちが悪いなあ、と思ってしまう。
6年経っても女性キャラクターはほぼみんな苦手だ。るか子がかなりマシな部類であるのは困ってしまうのう。
さて今回は、まゆしーと助手が無事な世界線に入り込んだせいで自分が消えてしまいそうになる岡部、という話。
これをなんとかすべく、今度は助手こと紅莉栖が奮闘するというわけである。TVを見事に補完する物語となっている。
岡部いないと見やすいなーと。あのウザい口調がないと、だいぶふつうの感覚で見られる。正直それだけでTVより好印象。

さて本題。これ、テーマとしてはかなり面白いんだけど、うまく処理しきれていない作品なのではないか?と感じた。
まず、岡部がほかの世界線で味わってきたつらさの描写が相対的に弱いのである。もっとがっちりやんないとダメだろう。
これは僕がTVアニメを見てから6年もの時間が経っていることが原因となっていて、それでそう感じたのかもしれない。
しかし映画単体での完成度を上げるためにも、今の世界線に至るまで岡部がどれだけつらい思いをしてきたのかは、
あらためてきちんと描くべきではなかったか。それでいて、消える岡部に取り残されてしまう紅莉栖のつらさもまた、
もっと直接的に描写することが必要だろう。さらに、タイムリープすることで紅莉栖が味わうつらさの描写も足りない。
全体的にあっさりしすぎているのだ。もっと劇的にやれるし、そうしないといけない。メリハリが弱すぎる。
ファンなら自明のつらさであるのかもしれないが、僕はキャラクターに感情移入できないので「足りない」と思うのだ。

ドラマとしては、タイムリープで繰り返し苦しみを味わった男の孤独な悲しみがまず根底にあるわけだ。
そして、その苦しみを自らも引き受けることで、男を孤独から救う女がいるわけで。話としては、悪くない。
ただ、これを『STEINS;GATE』でやるからつまらなくなっているのではないかと思うのだ。オリジナルで組むべきでは?
TVアニメの感想で、僕は「2時間の映画に圧縮すれば見られる作品になったかもしれないね」と書いた(→2014.2.6)。
また、「うまくリメイクすればもっと広い層からそれなりに支持されそうな予感がある」とも書いた。
今回の感想もそれである。『STEINS;GATE』ではなく、映画の枠内で完結する物語として、ゼロからつくっていれば。
仲間を救えない経験を繰り返した男がようやく成功をつかんだが、その世界線で自分の存在が消えそうになってしまう。
助けようとするヒロインと拒否する男。それでもヒロインはタイムリープし、男を救えなかった経験を重ねることに。
しかしそのことでかえって男に対する感情が強まっていき、最後はついに男を救い出す。これ、テンポよく2時間半で、
前半を男視点で後半をヒロイン視点でやれば、そうとうに面白い話にならないか(さすがに2時間だとたぶん無理)。
偏りのないキャラクターでこのドラマを組めば、もっと広い層から支持される作品に仕上がったはずなのに。
おたく要素、中二病要素を全カットでやればよかったのに。ハリウッドに勝てるネタをつぶした感じ。実にもったいない。


2020.4.4 (Sat.)

『涼宮ハルヒの憂鬱』を全話見たら、あらためて『涼宮ハルヒの消失』(→2010.3.2)を見たくなったので借りてきた。

TVアニメを全話見て、いちばん「ええやん」と思った女性キャラクターは、実は長門なのであった。消去法だがな。
10年前のログでは「当方、長門タイプには興味がない」と書いておいて古泉の存在を褒めちぎっているのだが、
当時よりは多少長門に感情移入できる状態で見返すと、なかなかに切ない。もっと長門の感情を強調してもいい気が。
でもそうすると『ハルヒ』特有の自己中心的な世界観がブレるのかな。設定を維持する以上、仕方がないことなのか。

話としては、いつも以上にキョンのモノローグ全開で「ハルヒを中心としてSOS団の存在する世界」の肯定が描かれる。
つまりはここにおいて完全に、中心にいる者がハルヒではなくキョンであるという宣言がなされるというわけだ。
そのために犠牲になるのが長門の恋であって、自己中心的な主人公・読者を絞り込むのに適切な重さだと言えるだろう。
(とはいえさすがにその反動として、長門は悲劇のヒロインとして一定以上の支持を得て、スピンオフも描かれる。)
感想は前回と同様、「なるほどね」でしかない。だってこの作品、キョンの自己中心宣言でしかないから。そうですか、
としか言いようがないのである。特に『ハルヒ』のファンでない僕には、感動する箇所がない。否定する気もないが。

TVでなく映画ということで、音楽は非常にオーケストレーション。それで壮大さが強調される点が僕には興味深かった。
キャラクター的には、一歩踏み込んだセリフを放つ古泉が気になる。単純にキョンの立場の特別性を強調する仕掛け、
ともとれるし、ふだん出さない本音が出た、ともとれるし。やはりいい感じの脇役ぶりだなあと今回も思うのであった。

なお、個人的にいちばんしんみりしたのは、長門有希をめぐるシーンではなく、Windows95を起動する場面。
メモリチェックも効果音も、すべてが懐かしい。今と比べると制約が多かったが、その分だけ楽しんでいた気がする。
当時のことを思い出して、「ああ……」と呟いてしまった。なんだ、僕の感想まで自己中心的になってしまったな。


2020.4.3 (Fri.)

今後の方針が出たのが昼前で、そこから一気に新学期の準備。夜までずーっとてんやわんやなのであった。

3月中に無料で配信された『涼宮ハルヒの憂鬱』全話を見たので、感想を書いておく。2009年放映ヴァージョンなので、
10年以上前というわけか。当時の中学生がハマっていたなあ。懐かしいなあ。状況が複雑なので整理しておくと、
最初に放映された1期は2006年で、全14話。そして2期が2009年だが、このとき順番を変えて1期も込みで放映したため、
1期の14話と2期の新作14話を合わせて全28話である。そもそも1期が原作のライトノベルの順番を崩しているそうで。
ちなみに僕は原作を1巻しか読んでいない(→2006.7.6)。それでいて『消失』は映画館で見ている(→2010.3.2)。
でもTVアニメを見るのは初めて。恐ろしいほどに脈絡のないつまみ食い状態である。偏っているにもほどがあるぜ。

まず書いておきたいトピックが2つ。2006年の第1話が「朝比奈ミクルの冒険 Episode00」であるということと、
やはり「エンドレスエイト」についてである。まず前者についてだが、いや、もう、信じられない。頭おかしいだろと。
人気ラノベのアニメ化で日本中のファンが期待しているところに、よりによってこれを第1話にもってくるのか!?
僕は2009年の放映順で見たので「映画制作エピソード後の箸休めに内輪ネタかよ」という冷ややかな視線だったが、
これが第1話となると話は別。しかも映画制作の部分は1期にはなくて、2期で初めて描かれたのだ。いきなりすぎるで!
内容はヤマカンこと山本寛のやりたい放題だが、コメントありの動画だとツッコミを入れて楽しめるのもまた事実。
そしてもうひとつ、本当に大騒ぎになったという「エンドレスエイト」。僕はリアルタイムの騒動を知らないので、
同じ話を8回繰り返したという伝説を知識として持っているだけだった。なので演出の違いが興味深いと思ったが、
スタッフが内輪で面白がっている様子を見せつけられて当時のファンが辟易しきったのもまたわからんでもない。
(ループから抜け出す正解が実にあっけないことだったのも、反感を食らった要因としてあるんだろうなと思う。)
そう、『ハルヒ』そして京アニの特徴は「内輪で盛り上がる」点にある。そこに入れるかどうかで温度差がすごい。
誤解を恐れずに言うと、ヤマカンこと山本寛のドロップアウトや、さらには通常ありえない放火事件へと至ってしまう、
そういう熱狂的な肯定と否定が隣り合わせになっている、内と外の隔絶が、ほかの作品・会社より強いように感じた。
(京アニは『響け!ユーフォニアム』でも、吹奏楽部員特有の絆の強さと排他的な匂いを的確に描いた(→2016.4.22)。)

閑話休題、『涼宮ハルヒの憂鬱』じたいについて考える。第一印象は、絵がなんか、『ときメモ』っぽい。
そしたらエンドレスエイトからオープニングのセンスが桁外れによくなり、さらに絵が『けいおん!』っぽくもなる。
2006年から2009年のわずか3年の間にアニメは劇的に進化したのだなあと思う。現場の負担は増える一方だろうなあ。
さて、アニメ化されるととにかく徹底してモノローグである。対話による解決が本当にないのがよくわかる。
僕はラノベのレヴューで、ヒロインさえいれば理屈を一切気にせずエピソードを無限につくれる打出の小槌(→2006.7.6)、
なんて書いたが、そのヒロインを主観と客観双方から支える主人公こそが絶対的なのだ。見事にセカイ系の変異型であり、
都合のいいところだけ主人公、つまりキョンがどうにかして終わり。言い換えると、表面上ハルヒが自己中心的に見えて、
実は作品じたいがキョンを通して自己中心的な要素を読者と共有している。だから対話は必要ない。非常にずるい構図だ。
ハルヒにとって都合のよい世界は、実際はキョンにとって都合のよい世界であり、読者にとっても都合のよい世界なのだ。
そういう読者の自己中心的な精神を投影してハルヒが、そしてキョンが動く。だから自己中ばっかりでイライラした。
ファン界隈ではキョン役の杉田智和のアドリブとしゃべりが好評らしいが、僕には延々と続くモノローグでうんざり。
このスタイルを肯定することが、上で述べた京アニの内輪受けに通じるのだ。僕は外側なので、そこまで関心を持てない。
そもそもが、涼宮ハルヒという女の子が好きになれないのね。みくるに対して目からビームを強要するさまは完全に異常。
その描写でもうイヤんなっちゃったなあ。そこからパタパタと連鎖して、自己中ばっかりの構造が気になっちゃって。

ということで、この作品は自己中心的な人間が増えている社会を先取りしたという点では意義があると感じるのだけど、
それだけに僕としては拒絶したい要素も多い。「ライブアライブ」でステージで歌うハルヒと演奏する長門を見て、
なんだ、SOS団でバンドやりゃいいんじゃん、と思った。それってつまり、『けいおん!』なのよね(→2011.11.16)。
(ちなみに『けいおん!』の1期は2009年、2期は2010年。うーん、京アニはちゃんと見抜いていたんだなあ。)
『ハルヒ』はセカイ系に日常系を持ち込んだ点が新しかったが、セカイ系の課題をストレートに背負っている作品だ。
そしてこの課題はまだまだ解決に至っていない。原作が完結できていないあたりも、その混迷を反映しているのかもね。

※本文中に京都アニメーション放火事件について誤解を招きそうな表現があるが、被害者を傷つける意図は毛頭ない。
 スタッフが事件で亡くなったことについては、ただただ哀悼の意を示すのみである。ご冥福をお祈りします。


2020.4.2 (Thu.)

本日は学年・分掌・教科とあらゆる会議が一気に詰まっている一日なのであった。最後に掃除と机の移動で大騒ぎ。

今シーズンいちばん大変なのが授業で、週20時間で全学年を受け持つことに。ただその分、テストの負担は少なめ。
とはいえ、教科書が変わること、そしてデジタル教科書を活用すること自体が、きわめて大きな負担なのである。
できるだけ己を殺して先輩方の授業のやり方をなぞり、無の境地で淡々とこなしていくつもり。覚悟はできている。
言い方は悪いが、もはや中学校英語に未練はない。よけいなことを考えず、大きな目標を見失わないことが重要なのだ。


2020.4.1 (Wed.)

雨の中、電車を乗り継いで新たな職場へ。自転車だと速いのだが、電車なので思ったよりも時間がかかった。
今度の学校は今までのほぼ倍の規模である。職員室に入って最初の感想は「人が多い!」なのであった。
なんとなく高校はこんな感じなのかなあと思う。小規模校と違い、密になりきれない人間関係も出てくるかもしれない。
これまで同様、どうにかうまく良好な関係を構築していきたいものだ。さすがに緊張して一日を過ごすのであった。

本格的な会議は明日で一気にやることになっているので、ゆるゆると説明を聞いたり作業を手伝ったり。
教科書はbe動詞より先に一般動詞が出てきて使いづらいと有名なやつで、パラパラめくってみたら見づらくもあった。
それでも午後にはデジタル教科書の使い方をさらっと教えてもらい、面倒くさいので素直に受け入れようかと思う。
というのも機材がきちんと揃っており、こっちがカスタマイズする必要があまりない。自力では教えづらい教科書だし、
エネルギーを割くべき対象はほかにある。英語科の女性の先輩方に逆らうことなく、この一年は雌伏に徹するか。
昼メシは学年主任の先生に近くの定食屋に連れていってもらった。この人はなかなか切れ者だなあと思っていたら、
どうやら東工大の院を出ている模様。四川の担々麺の話で盛り上がる。迷惑をかけないようにしなければいかん。
ちなみに副校長は、僕が初任校のときサッカー部の試合でよく戦った学校の顧問だった方。意外なご縁が。よろしくです。


diary 2020.3.

diary 2020

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