diary 2014.8.

diary 2014.9.


2014.8.31 (Sun.)

本日より区の中学生サッカー大会がスタート。こいつのおかげで9月の日曜日に旅行ができないのである。
実のある試合になれば別にそれは納得できるのだが、毒にも薬にもならねえつまんないサッカーをやられると腹が立つ。
さあ、どっちよ?と思って試合に臨むが、ポコーンポコーンと失点して敗れる。貴重な夏休みの一日がー!
15分ハーフだと序盤の勢いそのまんまで終わってしまうのがつらい。まあ終盤に盛り返せるほどの実力もありませんが。


2014.8.30 (Sat.)

帰省した際にcirco氏から「成田山の御守をもらってちょ」とお願いされて、夏休み最後のフリーな一日をそれにあてる。
今年の8月は終盤になって実に変態的な天候不順となってしまい、なかなかスッキリしない毎日が続いている。
もし天気がよければ青春18きっぷで袋田の滝でも見に行こうかなと企んでいたのだが、今日も妙ちくりんな曇りっぽい。
同じ写真を撮るんでも、晴れればより魅力的になるし、暗ったいと魅力は半減する。雨だと雨粒が写り込むのが最悪だ。
曇りで済むと仮定して、寺社建築であれば曇りでもそこそこ耐えられる映りになるかな、と勝手に判断した結果、
本日は成田山へのおつかいを決行することにしたのだ。ついでといってはなんだが、香取神宮と鹿島神宮にも行って、
御守を頂戴してしまうのだ。首都圏近郊の一宮で御守を揃え終えたあかつきには、日記で御守論をぶつつもりなのだ。

7時半すぎに家を出る。品川駅からは総武線快速に乗って、優雅に日記を書きながら成田まで。
しかし成田山にはまだ行かない。それは本日の最後にとっておくのだ。交通の便の悪い方から先に行かないとね。
というわけで、乗り換えて佐原で降りる。6年前に来て以来だ(→2008.9.1)。もうあれから6年かよ、と震える。
天気がよければちょろっと佐原の街歩きを考えなくもないが、空を覆う雲は分厚くてどうにもやる気が起きない。

 懸案だった屋根の色が改善されていた佐原駅。いーじゃんいーじゃん。

最初のターゲットは下総国一宮・香取神宮。6年前の純真だった僕はこの佐原駅から徒歩より詣でたわけだが、
あの面倒くさい道をもう一度歩くなんてイヤなのである。直線距離でいえば隣の香取駅の方が若干マシなものの、
これがまたぜんぜん「最寄」とは言えないくらいに距離がある。で、頼るのは土日限定の循環バスなのだ。
しばらく佐原駅前で呆けてバスを待つ。そういえば6年前には行き倒れと間違えられて警官に突つかれたなあ……。

バスが到着すると運転手から500円一日乗車券を購入。片道300円(高えっ!)なのでこれは買わざるをえない。
ちなみに客は僕ひとりなのであった。いくらなんでももうちょっと利用客がいてもいいように思うんだけどなあ。
6年前に歩いたのとだいたい同じルートでバスは香取神宮まで行ったのだが、けっこうあっという間に到着。
こんなに近かったっけ?と首をひねりつつ下車。6年前と変わっていないなあと思いつつシャッターを切っていると、
いきなりの雨。よりによって到着してすぐのタイミングで降り出すとは……。まったくもってツイていない。

  
L: 香取神宮への参道沿いにある商店。まずまずの規模で営業中。佐原とセットで車にはちょうどいい観光コースだな。
C: 門前町を抜けると鳥居。いよいよ参拝開始なのだ。  R: 鳥居をくぐるとカーヴする上り坂。うーん、香取神宮。

木々に包まれた参道はじっとりとした上り坂で、石灯籠が等間隔で立っている。この感じこそ香取神宮だと思う。
上りきると石段の上に神門。参道はここから右に折れてクランク状になっており、左手に朱塗りの楼門が現れる。
楼門をくぐると正面に黒い拝殿。あらためてじっくり眺めるが、いくら見ていても飽きない建物である。

  
L: 参道の坂を上りきると神門。  C: 楼門。  R: 香取神宮の境内を眺める。本殿・拝殿とは別に旧拝殿が右奥にある。

香取神宮は、本殿と楼門が徳川綱吉により1700(元禄13)年に建てられて重要文化財になっている。
旧本殿も同じく1700年の築だが、こちらは南東に移されて祈祷殿となっている(重要文化財ではない)。
なお、現在の拝殿は1940年の築で国登録有形文化財。本殿とのバランスをしっかり考えて建てられている。

  
L: 前回とは違う角度から拝殿を眺めてみた。豪華さと堅実さを兼ね備えたいい拝殿だと思う。なぜか見飽きない。
C: 本殿。ぐるっと一周できていろんな角度から眺められるのがすばらしい。  R: 旧拝殿の祈祷殿にもお参り。

帰りは列車までの時間も少しだけ余裕があったので、忠敬橋のバス停で下車して軽く周辺をウロウロしてみる。
そういえば前回は伊能忠敬記念館に行ってなかったな、ということで見学。ざっくりと見た感じになってしまったが、
忠敬が実際に使っていた測量器具や本物の伊能図など貴重な国宝が揃っており、なかなか興奮させられたのであった。

  
L: 伊能忠敬旧宅の中を覗き込んだら工事中だった。  C: 伊能忠敬記念館。現在の記念館は1998年のオープン。
R: 旧宅と記念館をつないでいるジャージャー橋こと樋(とよ)橋。川に水がジャージャー落ちているのがわかる。

6年前に訪れたときには平日だったせいかあまり佐原の街に観光客は多くなかったが、今日はけっこう多かった。
香取神宮もひっきりなしに参拝客が楼門をくぐっている状態で、東京に近い観光地として人気が定着しているようだ。

 県道55号沿いの風景。しっかり建物が残っているねえ。

けっこうギリギリのタイミングで佐原駅まで戻ることになってしまった。滑り込むようにして列車に乗り込むと、
佐原からさらに先へと進んで鹿島神宮駅へ。ホームに出て改札へ下りる階段まで来てようやく気がついたのだが、
鹿島アントラーズのユニフォームとFC東京のユニフォームがいっぱい。ああ、今日カシマで試合があるのか。
ナイトゲームなのにやる気十分のサポーターたちが集まりつつある。元気だなーと思ってしまう無所属な僕。
試合開始までの暇つぶしに鹿島神宮に参拝するのは定番のコースなので(→2007.12.82012.7.21)、
こりゃ混み合うかなと思って行ったら、祭りが始まるらしくって境内はテントと椅子でいっぱい。まいった。
サッカー観戦ついでの参拝客もいることはいたけど、それ以上の賑わいぶりであちこち歩きまわるのが大変だった。

  
L: 鹿島神宮駅。うーん、晴れてきたぜ。  C: 鹿島神宮の鳥居。東日本大震災で被災したけど、無事竣工したのね。
R: 楼門。日本三大楼門のひとつということで、今回は角度を少し工夫して撮影してみた。1642(寛永19)年築。

鹿島神宮については2年前にだいたい写真を撮ってしまっているので、今回はそれを補完する感じで撮影していく。
でもまあ、対になる存在である香取神宮と併せて参拝できたのはよかったと思う。ここに来るのももう3回目かあ。

  
L: 楼門から入ってすぐに鹿島アントラーズの選手たちの必勝祈願が。小笠原の字がでけー。さすがキャプテン。
C: 拝殿。皆さんの衣装がカラフルでいいですね。  R: 本殿。徳川秀忠が1619(元和5)年に造営したもの。

せっかくなので奥宮まで行ってみる。要石までは面倒くさいから行かない。鹿島大明神と大鯰のバトルねぷたは、
こないだ五所川原で見ているので(→2014.8.20)、ちょっとグッとくるものがあるんだけどね。
奥宮までの参道はこの後に行われる流鏑馬の会場となっており、カメラを構えて陣取るおっちゃんが多数いた。
なるほど確かにこれは流鏑馬向きな空間かもと思うが、雨のせいで大いにぬかるんでおり、大丈夫なのか少し心配。

  
L: 奥宮への道は流鏑馬の会場となっていた。  C: 奥宮をあらためて撮影。徳川家康が1605(慶長10)年に造営した旧本殿。
R: 流鏑馬が始まる前の様子。わりとリラックスムードなのであった。馬たちはおとなしく出番を待っていた。

鹿島神宮への参拝を無事終えて、今日は下総と常陸の一宮の御守を手に入れることができた。よかったよかった。
本日ラストはcirco氏に頼まれていた成田山である。成田山へのお参りは3年ぶりか(→2011.9.19)。
成田駅から成田山新勝寺まではわりと距離がある。今回は駅からすぐ左の「近道」を行ってみたのだが、
道が曲がりくねっているのはもちろんのこと、起伏があってもう何がなんだか。ぜんぜん近道には思えない。
おまけに途中から通常の参道に合流したので、どの辺が「近道」なのかまったく理解できないままである。

薬師堂から先は猛烈な下りで、トボトボ歩いて総門に到着。境内は参拝客であふれんばかりの勢いだ。
仁王門をくぐると池。そして参道の両側には狛犬。そういえばcirco氏は狛犬マニアだったっけ、と思い出し、
とりあえず狛犬を撮影しておく。裏に「嘉永三庚戌年」とあったんで1859年につくられたものってことだ。
撮ってみて「え? 寺に狛犬?」と気がつく。実は成田山は狛犬天国で、ほかにもいっぱい生息しているらしい。
成田山は境内に複数の堂宇が点在するテーマパーク的な場所だが、狛犬探しという楽しみ方もあるそうだ。

  
L: 仁王門の奥にある池。亀みたいな形の石に亀が乗っている。寄付の石碑もまた独特な雰囲気を醸し出している。
C,R: 端整な鋳物の狛犬。台座を見てのとおり江戸火消しの寄進で、「江戸っ子狛犬」という愛称があるとか。

鹿島神宮では晴れ間が見えたが、千葉県に戻ったら分厚い曇り空が居座っていた。そういえば前回成田山に来たときも、
曇り空ですっきりしなかった。それでも境内を徘徊しているうちに多少は明るい日差しも出てくるようになった。
せっかくなのであらためて撮影しなおした写真を貼り付けておこう。やっぱり建物は日差しを浴びないと美しくない。
最初に「寺社建築であれば曇りでもそこそこ耐えられる映りになるかな」なんて書いたけど、前言撤回である。

  
L: 大本堂。デカくて頑丈そうで強そう。  C: 手前の三重塔。やっぱり日差しを浴びると別格の美しさ。
R: 前回とは角度を変えて釈迦堂を眺めてみる。正方形っぽいというか、妻側と平側の幅に差がない感じ。

最後に釈迦堂の先にある土産屋スペースを眺める。大半はシャッターを閉じたままで営業していなかったが、
営業しているところでは客がそこそこ集まっていた。ここがフルパワーで営業することってあるのかな、と思う。
初詣のときなんかは大騒ぎになるのだろうか。それはそれでちょっと見てみたい気もするが。

 三角ロータリーの土産屋スペース。今回はグラウンドレヴェルから撮影。

さて肝心の御守だ。成田山新勝寺の御守はほかと比べると非常に独特で、紙で包まれただけの御守がある。
紙の中身は木札で、circo氏が言っていたのはコレのことだ。小学生のときに紐を通して身に着けていたやつだ。
せっかくなので自分のコレクション用に錦袋入りのものも頂戴しておく。こっちも真ん中が透明なビニールで、
やっぱり独特。錦袋のデザインに興味のある自分としては、正直やや残念なところもあるが、ヨシとしておく。

 成田山の参道はいつも賑わっておりますね。

成田からの帰りも列車内で日記をブリブリ書き倒す。天気がイマイチだったのは残念だが、御守はしっかり手に入った。
きっちりと任務は完了できたので満足しておこう。一宮の御守はなんとか年内に揃えられるだけ揃えたいなあ……。


2014.8.29 (Fri.)

この土日が明ければもう2学期かよ、と震える。夏休みがあっという間に過ぎてしまったではないか!
いや、今年も十分あちこちに行ったんですけどね。人間として活動していないわけではなかったんですけどね。
でも落ち着いて部屋の片づけをすることはできなかった! いちばんの懸案事項を解決できなかった……。
人間、一気にやれるなんてのは幻想なんだね。日頃からコツコツとやっていくことしかできないんだね。
この土日が明けたらまたあの怒涛の日々が始まってしまうのか。余裕のない生活が始まってしまうのか。ああ。


2014.8.28 (Thu.)

希望者に向けての補習をやったのだが、たった2時間のことなのに、かなりヘロヘロになってしまった。
こんなに貧弱で2学期を無事にやっていけるのか、大いに不安をおぼえる。夏休みのこの時期はいちいち切ない。

夜、今週末のサッカー大会の監督会議に出席。昨年はあまりの手際の悪さにブチ切れ寸前だったが(→2013.8.29)、
もうそれはわかりきったことなので、半ば魂が抜けた状態でヘイヘイと受け流す。オトナになったなあ、オレ。

組み合わせ抽選の結果、最後の週にウチのコーチが主宰するクラブチームとの対戦が入った。これは……面白い!
コーチのフォローがもらえなかったり采配を勉強できないのはつらいけど、逆に学べることもそうとうに多いはずだ。
久しぶりにやっちゃおうかな、3-3-1-3!……とか言って。せっかく真剣勝負ができるからには、全力でがんばりたいわ。


2014.8.27 (Wed.)

本日は日直なので、職員室でひたすら作業。

今年度も僕はチャイム大臣なのだが、ついに新しいチャイムの機械が来たので、その設定をして過ごす。
新しいチャイムの機械といっても、前の学校で使っていたやつのそのまんま最新型なので、要領は完全にわかっている。
とりあえず思いつく限りの時間割のパターンを作成していく。いやー、これで2学期からはずいぶん楽になるはず。助かる。


2014.8.26 (Tue.)

今年最後の人工芝での練習である。こんな立派な施設で練習するなんて、前の区では考えられなかったなあと思う。
それが当たり前になりつつあるとは、まったくもって贅沢な話だ。そしてその贅沢にすんなり適応できている自分がいる。

人生、流されているなあ、なんて思う。20代半ばくらいから「流されるのもまた一興、それもまた運命よ」なんて具合に、
ある意味で開き直ってフラフラしてきた結果、僕は今、なぜか東京の中学生と炎天下の夏休みにサッカーをやっている。
僕に過剰な期待をかけていたタカマサはどう思うかね、と苦笑してみる。でも僕の性格からして、これは最も確率の高い、
なるべくしてなった人生であるように思う。でもそれは、「何も見つからなかった、見つけられなかったこと」の裏返しでもある。
自分の一生を懸けて取り組めること? ……いや、今はホントに市役所と神社とサッカースタジアムなのだが。
そこに存在する人々が誇りを持つ根拠となる空間、それについて考えること。それがずーっと僕の最大の興味なのだ。
僕の細かい興味関心はすべてそこに通じている。僕の中には確固たる一本の筋がそこにはっきりと通っている。
もっともっと鋭く言語化していかないといけない。その猶予のため、とりあえずご飯を食べるために、今の仕事をしている。
いや、今の仕事だって、「最も効率よく人間を観察できる職業だから」という理由で選んだ。ひとつの無駄もないはずだ。

流されるだけではいけない。流れに掉ささないといけないのだ。ボールを蹴る子どもたちを眺めて、そんなことを思う。


2014.8.25 (Mon.)

旅行が終わって呆けております。写真の整理、そもそもブラジルW杯、やるべきことの多さに呆けております。
最近の旅行は本当に中身がみっちり詰まっている。とことんまで無駄がないように熟考して行程を組んでいるので、
あれも書かなきゃこれも書かなきゃの度合いがひどくなる一方である。確実に何かのキャパシティを超えている感じ。

知れば知るほど、知らないことが増えていく。自分がまだ知らない、ということを知ってしまう。欲望にはキリがないというが、
果てを知らない知識欲というのはなかなかにタチが悪い。自分の無知さがどんどん増殖していくだけだから。
でも小さい頃からそういうふうにして生きてきたからやめられない。せめて無知を自覚した分、謙虚でいたいと思う。


2014.8.24 (Sun.)

昨日の日記でも書いたけど、鶴岡市ってのは東北でいちばん広いのである。広いだけに観光名所がいっぱいだ。
市街地は雨に祟られながらもすでに押さえているし(→2009.8.122013.5.11)、加茂水族館は昨日押さえた。
……となれば、今日行くべきはなんといっても出羽三山、国宝の羽黒山五重塔だ。それくらいはきちんと見ないとね。
なお、出羽三山をそれぞれきちんと訪れるとなると、かなり大変である。鶴岡の市街地にいちばん近いのが羽黒山。
このずっと南に月山と湯殿山がある。両者はかなり近いものの、湯殿山はバスがあるけど月山は完全に登山となる。
ぜんぶまわるんであれば、それこそ修験道の修行レヴェルの覚悟が必要になる。さすがに旅行でそれは無理なのだ。
幸いというかなんというか、羽黒山には出羽三山それぞれの山頂にある神社をまとめた「三神合祭殿」が建っている。
今回は五重塔を見たうえで出羽神社・三神合祭殿に参拝するというコースでとりあえずヨシとする。それで勘弁して頂戴。

鶴岡駅を出たバスは南下して市街地に入る。しかし昨日とは逆に東へと向かい、県道47号で赤川を渡る。
ここからは旧羽黒町域だ。田園地帯をひたすら走っていくと、旧町役場の鶴岡市役所羽黒庁舎の脇を通過する。
やがて大鳥居の下をくぐると道は上りとなり、ここからはっきりと山の中へと入っていく。駅からここまで30分ほど。
道の両脇ははっきりと集落らしい雰囲気になるが、特徴的なのが宿坊の存在だ。やたらと「○○坊」の文字が目に入る。
なるほどさすがは修験道の本場だ、と思わされる。出羽三山は今もしっかりと信仰を集めているのがよくわかる。
バスは途中で重要文化財・黄金堂の脇を通るが、残念ながら修復工事中で布をかぶっていた。ちょっと運がない。
そうして「羽黒センター」なるバス停で降車する。しかしほとんどの乗客はそのまま終点まで行く模様。
こちとらきちんと五重塔から出羽神社まで行ってやろうと気合十分である。やっぱそうでなくっちゃいけねえだろ。

  
L: 「羽黒センター」のどの辺が「センター」なのかようわからん。  C: 出羽神社の境内はここからスタート。
R: 鳥居をくぐると随神門。もともとは仁王門として元禄年間に建てられたが、神仏分離で随神門ということになった。

7時半過ぎ、随神門を抜けていよいよスタートである。まずは林の中を石段で下っていくが、神域らしい厳かな雰囲気だ。
下りきると祠がいくつも並んでいて、この場所がただの林ではないことをはっきりと示してくる。続いて現れるのは、滝。
規模は大きくないのだが、随神門からの短い間にたっぷりと聖地らしさが盛り込まれている。旅というより修行という気分。

  
L: 随神門を抜けるとこのような光景。  C: 下りきると祠が並ぶ。  R: 祓川を渡ると須賀の滝。短い間にどんどん来る。

そうして進んでいくと、今度は天然記念物に指定されているという「爺杉」。かつては「婆杉」とセットだったそうだ。
このすぐ隣といっていい場所にあるのが、国宝の五重塔だ。室町時代の1370年代に建てられ、最上義光も修理した。
ふつう五重塔というと寺の伽藍の中でもいちばん目立つように建てられるものだが、緑の林の中で静かにたたずんでいる。
まったく彩色がなされていないので、使われている木じたいの持つ古びた雰囲気がより強調されているように感じる。
(個人的には、戦国時代……500年くらい前を境に、それより古いと木材が暗い色調に落ち着き、生気を失うように思う。)
でもその一方で周囲の木々と絶妙に調和して、自然物と人工物を分ける要素としての「信仰」も浮き彫りになっている。
江戸時代には周りに建物が並んでいたそうだが、廃仏毀釈を経てこの五重塔だけが残されることになったそうだ。
杉林の中の五重塔というのは冷静に考えると非常に異質だが、その違和感を抑え込むような枯れた感触が印象的だ。

  
L: 羽黒山五重塔。朝なので逆光なのが切ない。自然の中に溶け込む人工物で、両者を分けるのは「信仰」なのだ。
C: 塔身をクローズアップ。彩色がなされていないので、歴史がそのまま露になっている。古い木材らしい感触だ。
R: 右側にまわり込んで撮影してみた。周囲の木々と同じようにまっすぐ背を伸ばすその姿は、とても厳かである。

随神門から五重塔までは思っていたよりは近かった。いよいよここから出羽神社の三神合祭殿を目指すのだが、
もうひたすら上りの石段なのである。途中に平らな箇所もあることはあるのだが。上りになるとこれが延々と続く。
この上りは「一の坂」から「三の坂」まであって、一の坂だけで汗びっしょりの僕には、その事実は絶望的に思えた。
帰りのバスのことを考えると、心理的な余裕もぜんぜんないし。距離は1.7kmとのことだが、そのほとんどが石段。
ぜんぶで2446段にもなるそうで、とにかくハードでまいった。散策じゃなくて単なるスポーツか苦行だったもんなあ。

  
L: 絶望的に思える上りの石段。こんなのを3つも行くんだぜ? 時間的にも心理的にも余裕がないといけません。
C: 途中で山伏的な御一行様に遭遇。子どもたちが参加した体験ツアーか何かかな。修験道は今も健在なんだなあ。
R: 頂上近くにあった石碑。一輪の彼岸花が添えられているのがあまりにもかっこよくて、思わず撮ってしまった。

二の坂茶屋であとどれくらいなのか訊いたときには「半分くらい」との返事に卒倒しそうになったのだが、
いざ歩いてみたら、最後はもう勢いでうっちゃった感じで、感覚的には少しあっさりと頂上に着いた気がした。
あまりに石段がキツくて、かえって防衛本能がはたらいてランナーズハイ的な状態に入っていたのだろうと思う。
まあとにかく、結果としてはバスの時間まで余裕を持って動くことができた。よかったよかった。

  
L: ゴールの鳥居をくぐるとまず厳島神社。  C: そのすぐ隣に蜂子神社。出羽三山を開いた蜂子皇子を祀っている。
R: 羽黒山の山頂は出羽(いずは)神社の境内となっている。こんな感じで鏡池とそれを囲む木々が真ん中を占める。

さっそく出羽神社の三神合祭殿に参拝。手前に鏡池があるのでまったく空間的な余裕がなく、非常に撮影しづらい。
何より、三神合祭殿じたいがデカい。高さは28mというから、さっきの五重塔より1mちょっと低いだけなのだ。
朱塗りのおかげかそんなに古い建物に見えないが、竣工は1818(文政元)年で、堂々の国指定重要文化財である。
ここでは恒例の御守を頂戴したほか、せっかくなので「山摺」も頂戴してみた。白い布に墨で出羽三山が描かれており、
御朱印も押してある。どう使えばいいのかはわからないが、まあありがたく部屋に置いておこうと思う。

  
L: 出羽神社・三神合祭殿。ここに参拝すればいちおう出羽三山を押さえたことになるようだ。こんなんでいいんか。
C: 正面から眺めると迫力満点。修験道らしく本当に独特な造りである。  R: 鏡池越しに眺めるとこんな感じになる。

境内をウロウロしていたら、さっきの山伏っぽい子ども連れ御一行様が無事に山頂に到着。お疲れ様でした。
それと入れ替わりな感じで参集殿から出てきた人たちがいて、神職の皆さんは法螺貝を吹いてお見送りしていた。
やはりここは純粋な神社ではなくって、独特の歴史と独特の信仰を今も保っているんだなあと実感させられた。

  
L: これまた重要文化財の鐘楼と建治の大鐘。鐘楼は1618(元和4)年の築で五重塔に次ぐ歴史を誇るという。
C: 境内の東側には1690(元禄3)年築の羽黒山東照宮。ほかにも末社が一列に並ぶ一角があるなど、独特な雰囲気。
R: バス停のある駐車場へ向かう途中には蜂子皇子の墓。崇峻天皇の皇子で、父が暗殺された際に逃げて羽黒山を開いた。

境内から駐車場に出ると、帰りのバスがすでにバス停に止まっていた。水分補給をしながら鶴岡駅まで揺られる。
帰りはその名も「やまぶし温泉ゆぽか」という公営入浴施設を経由。地元のばあちゃんたちがいそいそと降車する。
羽黒山の参道で汗まみれになっていた僕は、心底うらやましかったとさ。あー、サッパリしたかったわー。

鶴岡駅に戻ると、ここから1時間ほど鶴岡観光である。天気さえ良ければどうとでもなるのである。
すばやくレンタサイクルを借りると、一気にダッシュして市街地へ。行けるだけあちこち行ってやるのだ。
なんせこちとら今まで鶴岡には苦い思い出しかないのだ(→2009.8.122013.5.11)。借りを一気に返すのだ。
まずは鶴岡カトリック教会天主堂から攻めていく。やっぱり青空の下での写真を撮りたいじゃないか。

  
L: 鶴岡カトリック教会天主堂の裏側。5年前にも訪れたが(→2009.8.12)、1903(明治36)年築の印象的な建物。
C: やはり正面入口の門から見たところを撮らないとね。  R: 前回とは違う角度で眺めてみる。きれいなもんだなあ。

続いては、外から覗き込んだことがあるだけで、まだ中には入ったことのない場所にリヴェンジするのだ。
旧風間家住宅「丙申堂」である。正直、外見からだと「蔵のある伝統的な住宅」という印象くらいしかないのだが、
今回中に入ってみて、その独特さにとても驚いた。時間がなくって超ハイペースでの探索となってしまったが、
本来はじっくりと時間をかけて見学していくべき場所だったと思う。丙申堂を過小評価していたなあ。しまったわ。

  
L: 旧風間家住宅「丙申堂」。5年前には開館時間前だったので中に入れなかった。待望のリヴェンジなのである。
C: 薬医門を抜けるとこの光景。左側、木々の裏に主屋がある。  R: 土間ではなく石畳の「とおり」で移動する。

風間家は庄内藩の御用商人だった家柄。この住宅は1896(明治29)年に建てられて、「丙申」の年なので丙申堂。
住居でもあり営業の拠点でもあったそうで、主屋のほかに4つの蔵が現存しており、重要文化財となっているのだ。
土間ではなく石畳で長い主屋の中を移動するスタイル、連続する座敷、広大な板の間など、非常に独特な建物である。

  
L: 「とおり」と並んで連続する座敷。  C: 座敷の先にはやたらと広い板の間。奥には階段箪笥もある。
R: 階段箪笥のところから板の間を見下ろしてみたところ。梁のところがトラス構造になっているのが凄い。

特徴いっぱいの丙申堂だが、どうやら最大の見どころは屋根のようだ。時間がなくて案内をお断りしたのだが、
「屋根の葺き替えについて解説したビデオはぜひ見て」と言われた。2階に上がってみると、そこは初めて見る光景。
そこには瓦の代わりに石がびっしりと置かれていたのだ。「杉皮葺き石置屋根」というそうで、石の数はなんと4万個。
合計30tの重さで杉皮を押さえて強風に対抗しているほか、石を敷き詰めることで飛び火による延焼を防ぐ目的もある。
(同じ工夫は酒田市の旧鐙屋(→2009.8.122013.5.11)でも行われているそうだ。これは知らなかったなあ。)

  
L: 中庭から眺めた主屋。  C: 2階から眺める。  R: 石置屋根をクローズアップ。確かにこれは非常に珍しい工夫だ。

実際に訪れてみると非常に興味深い要素ばかりだったので、説明を聞きながらもっとじっくり見学したかった。
でも十分な滞在時間を最初からとらなかった自分が悪いのである。泣く泣く丙申堂を後にして、鶴岡公園方面へ。
せっかくの青空なので鶴岡市役所を撮影し、大宝館を撮影し、致道博物館・旧西田川郡役所(側面)を撮影する。
なお、致道博物館は旧鶴岡警察庁舎が解体修理工事中。青空の下で撮りたい建物がいっぱいの場所なんだよなあ。

  
L: 青空の下の鶴岡市役所。  C: 青空の下の大宝館。  R: 青空の下の旧西田川郡役所。外からだと側面しか見えない。

すばやく荘内神社に参拝すると、その向かいにある藤沢周平記念館に飛び込む。ようやく今回、見学ができた。
僕はそこまで熱狂的な藤沢周平のファンではないが(海坂藩ものの作品を追いかけようという気はぜんぜんない)、
代表作と言える『用心棒日月抄』(→2006.10.11)にはとことんシビレて前任校の図書室に入れさせたほどで、
確たる地位を築いた時代小説家として大いに興味は持っているのである。展示をテンポよくひとつひとつ見ていく。
内容としては、自筆原稿に創作メモや書斎の再現など、やはりファン向け。海坂藩という存在で頂点を迎える、
その世界観が好きであるならばたまらないであろう施設だ。もっと藤沢周平を読んでみたいという気になった。

  
L: 荘内神社。明治になってから酒井家の名君4人(酒井忠次・家次・忠勝・忠徳)を祀った神社。  C: 拝殿。
R: 藤沢周平記念館。ファンなら満足できる施設だと思う。僕みたいに特定の作品だけが好きだと、「まあまあ」かな。

最後にもう一丁、無量光苑釈迦堂に寄る。ここはさっきの丙申堂のすぐ近くで、同じく風間家の別邸だった建物だ。
1910(明治43)年の築で、こちらは国登録有形文化財。独特の要素が満載の丙申堂とは違って簡素な和風建築だが、
非常に居心地のいい空間だった。時間があればここでボケーッとするのもいいだろうに。余裕のない旅は切ない。

  
L: 無量光苑釈迦堂の門。  C: 建物の中はこんな感じ。光がいっぱい入ってきて、実に居心地がいいのだ。
R: 座敷の奥には名前のもとになった「無量光」の額。床の間には石の釈迦像があって、これはなかなか珍しい。

庭園を軽く散策した後は、敷地を出て裏手にまわる。かつて川から直接荷物をやりとりしていたという北門があり、
往時の雰囲気をぎりぎり留めている。さすがは豪商の別邸だけあるなあと感心するのであった。さすがは鶴岡だわ。

  
L: 無量光苑の庭園。  C: 庭園側から釈迦堂を眺める。  R: 北門。川をぎりぎり残しているところが偉いと思う。

鶴岡の観光資源の豊かさにあらためて驚きながら駅まで戻ると、昨日に続いて特急に乗り込み、坂町駅まで揺られる。
日本全国に坂のある町はあるだろうに、ここが「The 坂町」。どんな場所だと思ったら、ごくふつうの地方の住宅地。
しかも坂がない。駅から国道7号沿いのショッピングセンターまで歩いてみたのだが、見事に真っ平らじゃないか。

 
L: 坂町駅。日本全国に坂の町はいっぱいあるはずだが、ここが唯一の「坂町駅」(「坂駅」は呉に近い坂町にある)。
R: でも坂町駅近くにはぜんぜん坂がないんでやんの。見事に真っ平らで、どうしてそういう名前になったのやら。

ショッピングセンターでは、売り場の端にある店でラーメンをいただく。ショッピングセンターの客たちはテレビの前に釘付けで、
新潟県代表の日大文理が夏の甲子園では初の決勝進出を賭けて三重高校と対戦中。しかし結局、0-5で負けた。
まったく部外者の僕だが、旅先でこうなるとそれはそれで、なんとも申し訳ないというか残念な気分にはなるものである。
トボトボ歩いて駅まで戻ると米坂線の車両に乗り込む。これで終点の米沢まで出て、観光して東京に帰るつもりなのだ。

坂町から米沢まではほぼぴったり2時間。思っていた以上に鄙びた路線で、しばらく田園地帯を走った後は山の中。
さすがに疲れていたのでうつらうつらしているうちに、置賜地方の平地に出た。最後までとことん鄙びていたなあ。
しかし列車に揺られている間に空はどんどん暗くなっていき、西米沢駅を通過したところで一気に雨が降り出した。
こっちは米沢市内をレンタサイクルでまわれるだけまわってやるつもりだったので、もう心底がっくりである。

 米沢駅にてあまりの土砂降りっぷりに途方に暮れるの図。

雨の勢いは凄まじく、もう何もできない。結局、駅舎から一歩も出ることなく、予定を早めて新幹線に乗り込んだ。
おかげで身体的な負担はそれほど大きくない状態で家まで戻ることができたけど、最後の最後で降られて少し切ない。
ま、なんだかんだで全体の半分は晴天に恵まれて旅を楽しむことができたからヨシとしよう。うん、よかったよかった。


2014.8.23 (Sat.)

東北旅行も今日で4日目、全力であちこち見て歩くぜ! 旅行も後半に入って天気が非常によくなってきており、
これでようやく本領発揮というか、その土地本来の魅力に触れることができてこっちもエネルギー全開なのである。
やったるでー!と気合を入れて秋田駅まで歩く。街は広いので、歩いているうちに空がはっきり明るくなってくる。
途中でコンビニに寄って朝メシを確保すると、5時半には駅に到着。羽越本線の北半分は初めてだからワクワクするぜ。

 秋田駅近くのポスト。秋田竿燈まつりの提灯が乗っていた。

6時25分、羽後本荘駅に到着。いくらなんでも街歩きには早すぎる時間なのだが、後ろが詰まっているからしょうがない。
もうどんだけいろいろ詰め込んでいるんだよ、と自分で自分にツッコミを入れたくなる事態である。でも治らないのね。

さて、由利本荘市である。もともとは本荘市があったのだが、2005年に由利郡7町と合併して現在の名前になった。
さすがにもともと市があるところに7町が合併するというのは大変なことで、秋田県で最大の面積を誇る自治体となった。
Wikipediaによれば神奈川県の面積の半分とのこと。そうなるとかえっていろいろ不便になるように思えるのだが。
まあとにかく、最低限ということで市役所と本荘城址である本荘公園ぐらいは押さえることにする。それで勘弁なのだ。

まだ6時台なので改札を抜けて駅前に出ても街は目を覚ましていない。駅から広い県道をトボトボと歩いていくが、
やはりある程度の規模を持った城下町なので、穏やかな市街地がうっすらと延びていて距離がある。面積が広いのだ。
途中には「由利本荘市文化交流館 カダーレ」という施設があり、コンクリの威容に思わず目を奪われる。
竣工は2011年と新しく、設計は新居千秋。大館で見た集合住宅・スワンハウスの人だ(→2014.6.28)。

  
L: 駅から延びる県道165号を行く。広々とした道幅、ゆったりとカーヴする様子は、大胆な再開発があったことを物語る。
C: 由利本荘市文化交流館 カダーレ。病院跡地に建てられた複合施設で、文化会館・図書館・プラネタリウムなどが入る。
R: 正面から眺めてみたところ。地元の特産品を扱う部分もあるようで、開いている時間に来れなかったのが悔やまれる。

なんせ城下町がゆったりと広がっている街なので、どこまで歩いてヨシとするかが問題である。
とりあえず、山門が秋田県の文化財に指定されている永泉寺まで行ってみる。ちなみに永泉寺は「ようせんじ」と読む。
住宅地の中を抜けていくと、確かに瓦葺きの立派な山門がある。…が、その足下は緑のシートで覆われていた。
ちょうど修復工事中ということで、少しがっくり。覗き込んでよく見たら、山門はジャッキで浮いている状態だった。
まあこれはつまり、工事中でも山門が建っているところをきちんと見せたいという寺の意向によるものなのだ。
なるほど、おかげでこの山門本来の魅力をしっかり味わわせてもらったと思う。さすがに見事なものでしたよ。

 
L: 永泉寺山門。工事中ではあるが、その立派な姿をきちんと見られてよかった。  R: ジャッキで持ち上げとる。

そのまま南に出て、国道107号から本荘公園へ向かう。さっきも書いたが、本荘公園は本荘城址なのだ。
小高い丘がふたつ並んでいて、西側は野球場となっており、城跡らしい要素は東側に集中している模様。
その間を通る国道から、階段で東側のてっぺんに出る。が、そこは見事に草木が茂っていて完全に裏山状態。
どうにかそこを抜けると、本丸の館と修身館という施設に出た。朝早すぎてどちらも開いていなかった。
ほかにも本荘公園の中は神社(本荘神社)やインコのいる鳥かごなどがあるが、かなりがっちり整備されている。
グラウンドレヴェルに下りると芝生の広場と市民プールの遊泳館。その東側に由利本荘市役所である。

  
L: 本丸の館。休憩施設とのこと。  C: 本荘公園の中はこんな感じ。鳥かごがあるね。  R: 芝生とプール。

本荘城は最上義光の家臣・楯岡満茂により1610(慶長15)年に築かれたので、城としての歴史は浅い方になる。
最上氏が改易になると失脚した本多正純の転封先になっており、その後は六郷氏が明治維新までこの地を治めた。
三の丸跡には大手門が復元されており、手前の堀とともに、城跡らしい雰囲気を今もしっかり残している。

 
L: グラウンドレヴェルより眺める本荘公園。  R: 復元された城門が城っぽさをよく再現している。

大手門の東側、後ろに城山を控えた位置にあるのが由利本荘市役所だ。いかにも城下町らしい市役所の位置だ。
てっぺんに展望階を乗せてまっすぐに建つ姿は、もういかにも正しい市役所建築といった雰囲気である。
まあその分だけ年季も入ってきており、正面向かって左側のM字耐震補強パーツがなんとも切ないところだ。

  
L: 由利本荘市役所。これは実に正統派の市役所建築である。  C: 角度を変えて眺める。  R: もう一丁。

由利本荘市役所は当然、もともと本荘市の市役所として建てられている。1969年の竣工である。
ファサードをしっかり見みてみると、茶色をベースとしたところに白い格子でアクセントをつけているのが面白い。
そして今は耐震補強が目立ってしまっているものの、ガラスの面積をかなり広くとっていることもわかる。
正統派な地味めのデザインの中にそこはかとなくオシャレさを忍ばせていて、僕はこの庁舎をかなりかっこいいと思う。

 背面はこんな感じである。耐震補強がすごいことになっていますな。

やはり市役所のデザインが一工夫あるものだと、センスがいいなと、その市に対する印象も良くなるってものである。
由利本荘はなかなか興味深い街だった。上機嫌で駅まで戻ると再び列車に乗り込んで、羽越本線をさらに南へ。
15分ほどすると、独特な景観が進行方向左手に現れる。おとといは雨が降ったが、今日は晴天で本当によかったと思う。
今回の旅行ではもう1ヶ所、ここでの天気も非常に心配していたのだ。後で気が済むまでレンタサイクルで走ってやるぜ。

象潟駅に到着したのが8時5分。そう、レンタサイクルで走りまわるのは象潟だ。しかし貸し出しは9時になってから。
ではそれまでどうするかというと、言わずもがなの市役所訪問である。象潟とは反対側に、にかほ市役所があるのだ。
いったん西側の国道7号に出ると、ぐるっとまわり込んで線路の東側に出る。途中のスーパーがすでに営業しており、
あまりに直射日光が鋭いのでタオルを買って頭に巻く。これでいかにも夏の旅行って感じになるのであった。
象潟駅の東南側はなんだかやたらと土地が広くて、豪快な空き地となっている。スケール感が少し埋立地っぽい。
そんな中をトボトボ歩いていくと、「象潟中学校」の文字と真新しい建築物が見えた。僕の感覚だとそれは市役所だが、
位置関係がどうにもよくわからない。近づいてみたら確かにそれは市役所で、中学校はその奥だった。あーびっくりした。

  
L: というわけで、にかほ市役所。  C: 正面から見たところ。いかにも新しいガチャガチャした建物だ。  R: 角度を変えて眺める。

象潟はもともと象潟町で、にかほ市はもともと仁賀保町である。まあ要するに、仁賀保町・金浦町・象潟町が合併して、
2005年に「にかほ市」が誕生したのだ。紆余曲折はあったものの、仁賀保は市名をとり、象潟は役所をとった格好だ。
TDKの企業城下町だそうで、なるほど象潟駅の南東にはTDKの工場がある。ブラウブリッツ秋田も元はTDKのサッカー部。
(調べてみたら、TDKは東工大発の企業ではあるが、創業者の齋藤憲三がにかほの出身であるとのこと。)

  
L: 側面。  C: 隣の保健センター。  R: 背面はこうなっていた。だいたい正面と一緒ですな。

にかほ市役所(旧象潟町役場)の竣工は1993年で、それ以上の詳しいことは残念ながらよくわからなかった。
新しい建物らしく、ガチャガチャしていて角度によってさまざまな要素を持っている。とりあえず撮影していくが、
高低差があることもあって、なんとも印象のつかみづらい建物だった。土曜日なので中には入れなかったものの、
いちおう覗き込んでみた。やはり規模はそんなに大きくなくて、いかにも町役場なスケールという印象がした。

  
L: 市役所のすぐ脇を抜ける道。奥にバス停あり。  C: 中を覗き込んでみた。  R: 向かいの象潟公民館。図書館も入っている。

帰りにやはりスーパーで水分を買い込むなどして、余裕を持って駅に戻る。9時になると即、レンタサイクルを申し込む。
サドルにまたがると今度は国道7号をひたすら北上。左手の海側にはかなり大規模な道の駅の展望入浴施設があるなど、
いろいろ気になる要素もあった。しかし今回の主目的はその反対側だ。線路を渡って東に入ると、そこは蚶満寺の境内。

  
L: 線路を渡って蚶満寺の境内へと入る。  C: 立派な山門が静かにたたずむ。江戸中期に建てられたものだそうだ。
R: 蚶満寺の境内から眺める風景。なるほどなるほど。これからイヤというほど象潟的景観を味わってやるのだ!

蚶満寺は853(仁寿3)年に創建されたという古刹だが、現在も象潟の景観が独特なものとして残るのはこの寺のおかげ。
もともと象潟は入江に無数の島が浮かんでいる景勝地で、松島(→2007.5.22008.9.11)と並び称されていたほど。
しかし1804(文化元)年の地震で隆起してしまい、全体が干潟になってしまった。本荘藩は新田開発をしようとするが、
蚶満寺の僧侶が抵抗。その結果、現在も田んぼの中に点々と島だった丘が残る景観ができあがったというわけ。
せっかくなので拝観料300円を払って境内の中に入る。正直なところ建築物では特別見るべきものはなかったが、
「猿丸太夫姿見の井戸」やら「西行法師の歌桜」やら、名物がそれほど広くない境内に詰め込まれているのが印象的。
見学するのを有料にするために、半ば無理やり見どころをつくっているんじゃねえか、と思うほどの密度だった。

  
L: 蚶満寺の本堂。  C: 境内。それほど広くないのだが、あれこれいろいろ詰め込まれている。
R: 受付のところにいたネコがかわいかった。ネコに前脚を揃えられると破壊力が増すよね。

ではいよいよ象潟の中に入ってみる。田植えの時期に訪れると水が地面を覆ってかつての姿を彷彿とさせるらしいが、
まあそこは想像力でカヴァーするのである。象潟は本当に田んぼ地帯なので、舗装されている道は一部分にすぎない。
大半が草の中に引かれた土の轍を頼りにせざるをえない状況で、しかも泥となってぬかるんでいる箇所も多い。
つまり自転車で気軽にサイクリングというには、ちと厳しいのであった。中の移動には思った以上に苦労したわ。

  
L: 象潟の田んぼの中に入ってみる。かつての海は田んぼとなったが、島はそのまま残って点在している。
C: ぽこんと浮かんでいる島。  R: 大地を覆う稲をそのまま海だと想像してみる。かつての姿を思い浮かべる。

どの辺りが象潟の中心なのかはよくわからないが、できるだけど真ん中っぽいところに入り込んでみる。
そうしてカメラを構えてパノラマ撮影を試みる。こうすると、一枚一枚だとわからない感触がそれなりに出たと思う。

時間の許す限り、ありとあらゆる角度から象潟的景観を眺めて過ごした。今となっては単なると丘と田んぼだが、
かつての海から首を水面上に出して立ち泳ぎで眺める、そんな気分で首を回す。想像力をフル回転させて面白がる。
ほとんどの丘は上るのが難しいほど草木が生い茂っているのだが、中には上がれる場所があったので行ってみる。
しかしちょっと高いところから眺めてみても、景色にそれほど大きな変化はなかった。パノラマの方が面白い。

 かつての島の上から眺めるが、それほど面白いものではなかった。

気が済むまで自転車で走りまわると、駅に戻って返却。海側にある象潟の中心部を訪問し忘れたことに後で気がつき、
非常に悔しい思いをするのであった。象潟の景観でちょっとはしゃぎすぎたか。事前の調査が甘かったなあ。

羽越本線でズイズイ南下していくと、左手に鳥海山を眺めながら山形県に入る。吹浦駅を通過して、羽越本線を完乗。
吹浦駅といえば出羽国一宮・鳥海山大物忌神社の吹浦口之宮がすぐそこだ(→2013.5.11)。素通りして申し訳ない。
しかし鳥海山大物忌神社は山頂御本社にまだ参拝していないので、いずれ攻略しなければならない対象なのである。
これはもう本格的な登山となるので、どうすればいいかいまだに思案中で具体的な計画が練れていない。困ったものだ。
そんなこんなで列車は酒田駅に到着。なんだかんだで酒田に来るのは3回目になるが(→2009.8.122013.5.11)、
すっきりとした青空で迎えられたのは初めてである。ここでもレンタサイクルを駆使する予定なので本当にありがたい。

コインロッカーに荷物を預け、レンタサイクルの手続きを完了すると、さっそく勢いよくペダルをこぎ出す。
もともと酒田の駅から中心市街地まではちょっとした距離があるのだが、今回はさらに市街地より遠い場所まで行く。
目指すは飯森山地区だ。本当は昨年訪れたときに攻略するつもりだったのだが、雨で断念せざるをえなかったのである。
というのも飯森山地区は駅から5km近くの距離があり、とても徒歩ではアクセスする気になれない、というわけだ。
しかし自転車であればなんとかなってしまう距離である。定番の酒田ラーメン大盛で栄養をたっぷり補給すると、
ちょろっと酒田市役所に寄ってみる。そしたら今まさに取り壊しが始まらんとしているところでなんともガックリ。
昨日の秋田市役所もそうだが、なじんだ市役所が建て替わるのはなんとも切ない。再訪問する暇も金もないってのによ。
国道112号に合流すると、一気に飛ばして最上川を渡る。五月雨を集めてはやいだけのことはあり、川幅はかなり広い。
それに応じて橋もずいぶん立派なもんである。走っても走ってもなかなか渡りきらなくて、高所恐怖症には怖かった。

  
L: 取り壊し直前の酒田市役所。新庁舎は日本設計の設計で、2017年に竣工する予定とのこと。なんともガックシ。
C: 酒田市体育館。1972年竣工とのこと。スケートリンクを併設。  R: 最上川に架かる出羽大橋。長えー。

左岸に渡ると今度はじっとりとした上りがスタート。これがレンタサイクルにはなかなかにつらいのであった。
しかも空間スケールは完全に郊外社会化して、なんだかぜんぜん前に進んでいる気がしない。心理的にも厳しい。
それでもどうにか飯森山公園地区に到着することができた。いやー、思っていた以上に来るのが大変だった。

 
L: 飯森山公園地区はこんな感じで、いかにも最近になって開発された感触の空間なのであった。
R: 酒田地区広域行政組合消防署南分署。なんかオシャレじゃねえかよ。1997年竣工だって。

坂道の後にまた坂道ということでかなりガックリきたのだが、郊外社会だからしょうがないのだ。
まずは西側にある公共建築百選・出羽遊心館を目指す。が、目の前に現れたのは酒田市美術館なのであった。
なかなかに凝っている建物なのだが、それよりも出羽遊心館にどうアクセスすればいいのかがわからない。
美術館の敷地を豪快に横断すると、なんだかよくわからない林の中に入ってしまった。道なりに進んでいくと、
どうにか出羽遊心館の正面に出た。どうやら美術館を無視して遠回りすればよかったようだ。面倒くせえなあ。

  
L: 酒田市美術館の駐車場側入口。  C: 入ると中庭に出る。池原義郎の設計で1997年に竣工。  R: エントランス。

さて出羽遊心館に来たはいいが、何をする施設なのかがわからない。事前に調べるということをしないのがいかんのだ。
建物は見た感じ、お城の本丸御殿のような雰囲気である。しかしそれにしてはずいぶんと新しい。おそるおそる中に入ると、
見学は無料だが、300円でお茶がいただけるとのこと。なおさらよくわからない。とりあえず無料で歩きまわることに。

  
L: 出羽遊心館。  C: 廊下を進むといきなり大広間である。  R: その反対側は板敷きの空間。床の間がなんだか新鮮。

種明かしをすると、出羽遊心館とは1994年にオープンした生涯学習施設である。生涯学習施設は全国に山ほどあるが、
完全に和風の建築、しかもだだっ広い建築としてつくったのはここだけだと思う。歩きまわってこれには本当に驚いた。
設計したのは日本の数寄屋造りの第一人者である中村昌生、とのこと。とにかく気合の入りようが凄まじい建物だ。

  
L: 建物内から眺められる庭園もいい雰囲気である。  C: いちいちこんな具合。  R: これはオシャレだわ。

さっきも書いたが、雰囲気は完全に殿様の御殿だ。現存する御殿の一部が貸し出される例はそれなりにあるだろうが、
現代社会において生涯学習施設としてゼロから御殿建築をつくってしまうというのは、これはものすごいことだ。
それを許してしまう酒田という土地の文化度の高さに鳥肌が立った。やはり確かな歴史を持つ都市はやることが違う。

  
L: 自治体がこういう施設をゼロからつくるってなんなんだ?  C: 茶室もあるでよう。  R: 林から覗き込んだ芝生の庭。

飯森山地区は東北公益文科大学のキャンパスがど真ん中にあり、それも含めてかなり強烈に開発されている空間だ。
オシャレな消防署といい美術館といい出羽遊心館いい国体記念体育館といい、さらに後で訪れる土門拳記念館といい、
いったいどこにそんな金があるんだろうと思う。でも確かに、この地区を訪れている人はけっこう多いのである。
首を傾げつつ、今度は東側に入る。土門拳記念館の裏には山がある。これが飯森山か!ということで、登ってみる。
そしたらルートはぐるっとまわり込む開聞岳方式(→2009.1.7)なのであった。しかし傾斜は開聞岳よりずっと急で、
標高はわずかに41.8mなのだが、とってもしんどかった。さすがに40m級では、眺望はさほどよろしくなかった。

  
L: 飯森山公園。元の地形そのままにアスレチックなどを配置。  C: かなり急な坂をぐるりと上って山頂に到着。
R: しかし高さがないので景色はそんなによろしくないのであった。木々の枝がガッツリと切られてますねえ。

というわけで、無駄に疲れた状態で土門拳記念館へ。まずは谷口吉生設計の建物の外観を眺めてまわる。
開館は1983年なので、1995年開館の豊田市美術館(→2014.8.9)よりもひとまわり古い建物ということになる。

  
L: まずは池越しに眺めてみる。池に面しているので、なかなか全容がつかみづらい建物になっているのだ。
C: もうちょっと近づいてみたところ。  R: 側面。なお、土門拳記念館の後ろにあるのが飯森山である。

池を一周できるようにするためか、建物の上を通れるようになっている。通路からは記念館をさまざまな角度で見られる。
まあつまり、公園の一部として機能するようにつくられているわけだ。これは後の豊田市美術館にも通じる発想である。

  
L: 池のそばということで、親水機能を持たせている。これで建築が公園と一体化する度合いを強めているわけか。
C: 反対側から眺めるとこのようになる。右端の辺りがエントランス。  R: 建物の片隅でサギが休んでいた。

存分に歩きまわって堪能すると、記念館の中へ。するとまず目につくのが、「土門拳記念館」という銘板だ。
地の素材はステンレスだろうか、正方形の上部に真鍮と思われる明朝体で力強く文字が並んでいる。昭和の匂い。
しかしそれは古くさいという意味ではなく、奇をてらわない正統派の誇りを感じさせるということだ。
見たらデザインしたのは亀倉雄策だった。なるほど、これはしっくりきている。まずそこで感心させられたなあ。

さて肝心の展示だが、有名な「江東の子ども」シリーズを含んだ子どもの写真からスタート。これが強烈。
もちろん背景にある懐かしい時代の事物もいいのだが、それ以上に子どもたちの表情がどれも面白いのだ。
その一瞬をうまく切り取っているのがさすが。写真の才能ってのはこういうところに出るもんなのか、と勉強になった。
次の展示は一段下がって古寺巡礼。これがまたどれも正統派というか、逃げずに真正面からぶつかった作品ばっかり。
寺社や仏像を撮影するのは誰だってできることで、それをどの程度こだわってやるかという根気の問題があると思う。
おそらく土門はそれこそミリ単位の距離や角度で位置関係を決めて撮影しているはずで、その執念がにじみ出ている。
大写しになっているものはどれも「これは誰だって撮れる正統派の構図だよ」と簡単に言えるはずのものばかりだが、
そのうえでやりきっている迫力というか、言ってみれば土門の度胸を感じさせるのだ。その自信がまずすごいと思う。
僕はつねづね、写真ってのは本当に難しいものだと思っていて、それで最初から諦めてしまっているところがある。
だから「そこそこ」で納得してスナップしまくっている。この日記に貼り付いているのは、そんな写真ばかりだ。
しかし土門の写真から漂う執念は、どれだけ写真に狂えるか、「業」と言うと変だが、そういう種類の迫力があった。

飯森山公園地区から駅まで帰るのにもそれなりの時間がかかるので、土門拳記念館でいちおう終了ということにする。
見学を終えると再びペダルをこいで来た道を戻る。今日はまだ最後にもう一発あるのだ。ホントに盛りだくさんだよ。
駅に着くとレンタサイクルを返し、ロッカーから荷物を取り出し、なんと特急に乗ってしまう。鶴岡はすぐそこなのに、
贅沢なものである。しかしこれに乗らないといろいろ間に合わないのでしょうがない。かえって損することになる。

 鶴岡駅に到着。晴れている! そのことにまずびっくりだぜ!

前の日記にも書いているが、僕が今まで鶴岡に来たときには2戦2敗、雨にやられた(→2009.8.122013.5.11)。
なので青空の下の鶴岡駅が、どうにもしっくりこない。当方、もはや鶴岡というと雨のイメージしかないのである。
晴れているというだけで浮かれてしまう気持ちを抑えつつ、駅前のロータリーにバスが来るのをボケッと待つ。
あまりにボケッとしていて、僕が今回乗るのは通常とは違う乗り場であることをけっこうギリギリになって思い出す。
見れば、鶴岡観光ぐるっとバスは向かいの乗り場で待機中ではないか。慌てて確認すると、果たしてこのバスだった。
15時ちょうどにバスは出発。バスは駅から離れた市街地を抜け、客でごった返している国道沿いの観光物産店を通過。
そこからどんどん鄙びた景色の中を突き進んでいき、トンネルで山の中を抜けたらコンパクトな港町に出た。ここが加茂。
鶴岡市は平成の大合併を経て東北地方で最も面積の大きい市となったが、旧加茂町は1955年に編入済みだ。
加茂はまるで絵に描いたような見事な港町っぷりである。そのど真ん中にある港の隣に加茂水産高校があって、
そこからさらに奥へ進んだところに本日最後の目的地・加茂水族館があるのだ。横のトンネルを抜けてバスは停車する。

 鶴岡市立加茂水族館(旧館)。新館ができたので中身は空っぽでございます。

ふつうに考えると、こんな狭くて小さい港町にある水族館なんて、客が入るはずがないのだ。駅から40分かかった。
しかし加茂水族館といえば、今や日本でも屈指の人気を誇る水族館なのである。ここは前からずっと来たかったのだ。
この水族館、なんといっても有名なのが、クラゲ。そう、クラゲの展示で一躍全国的な知名度となった水族館だ。
実に35種類以上のクラゲを常設展示しており、その種類数は世界一。そりゃあ無理してでも来たくなるってもんだ。
しかし今はちょうど夏休み真っ盛り。16時近いというのに、家族連れがものすげえことになっている。たまげたわ。
もうめちゃくちゃのぐちゃぐちゃな混み具合である。とりあえず、周囲を歩きまわって落ち着くのを待ってみる。

  
L: というわけで、まずは加茂水族館のすぐ近くにある灯台に上ってみた。  C: なかなか見事な屹立ぶり。
R: 灯台の周りが展望台になっており、加茂港を一望できる。ちなみに灯台の名前は「荒埼灯台」である。

灯台に上ってみたら、加茂水族館の新しい建物をしっかりと見下ろすことができて、これが非常に面白い。
いかにも船をイメージした形をしているが、その上下をずらすことで屋外空間(アザラシなどがいる)をつくっている。
水族館建築というのもなかなかやりたい放題できそうなジャンルだが、わかりやすくインパクトのある外観だ。
やはりこれは灯台から見下ろすことができるってのが大きなプラスとしてはたらいているなあと思いつつ眺める。
調べてみたら設計したのは日本設計とのこと。なかなかやるではないか、と感心するのであったことよ。

  
L: 加茂水族館(新館)の側面。  C: 手前の駐車場から眺めるとこんな感じ。  R: 灯台から見下ろす。いい感じだ。

さてこの加茂水族館の新館は今年の6月にオープンしたばかりである。最初、サイトでいろいろ調べてみたのだが、
イマイチ要領を得なかった。で、来てみたら旧館がトイレとケサランパサラン以外はもぬけの殻になっており、
それでようやく新館を指すと思われる「クラゲドリーム館」というのが加茂水族館の新しい愛称なのだとわかった。
まるごとそっくり隣にお引っ越しをして、それを機によりクラゲを前面に押し出してきたのね、と納得。

エントランスは2階で、まずショップの混雑ぶりに圧倒される。無理もないわなとは思うのだが、それにしてもいやはや。
中に入ると展示そっちのけで、最初に屋上に出てしまう。明るいうちに建物をいろんな角度から撮っておきたかったのだ。
芝生に木製デッキという構成が、なんとなく横浜の大さん橋国際客船ターミナル(→2010.3.22)を思わせる。
まああっちも船をイメージするところからできた建物だから、多少かぶるところは出てくるものだろう。そんなもんだ。

  
L: アシカショーの行われるプール。ど真ん中が坪庭状態で空いており、上の階からも眺められるようになっている。
C: 屋上に出てみた。芝生の周囲を木製のデッキが囲む。  R: 高低差がそのまま階段になっている(海側が高い)。

一周して満足すると、展示室に戻る。あらためて最初からじっくりと見ていくが、やっぱり客はしっかり多かった。
まずは地元・庄内の魚たちを展示。水族館はけっこう撮影が難しいのだが、わりときれいに撮れたものを貼ってみる。

  
L: ミズダコ。タコは賢いんだぞ。  C: イソギンチャク。  R: ホヤ。これを最初に食ったヤツはすごいと思う。

その後はいよいよお待ちかねのクラゲ専門展示スペース「クラネタリウム」だ。最初に通過したときは大騒ぎだったが、
屋上から戻ったら多少はマシになっていたので、邪魔にならないようにテンポよく撮っていく。えらいすんませんな。

  
L: まあこの辺はクラゲらしいクラゲだわな。  C: タコクラゲの一種。小さくて超かわいい。これは飼いたくなるわ。
R: ハナガサクラゲ。「好物は生きた小魚だが、水族館ではアジの切り身を与えている」って……、マジで!? 魚食うの!?

クラゲたちの展示が幻想的なのだが、説明を見るたびに現実に引き戻される。「クラゲを食べるクラゲ」は当たり前で、
種類によっては魚だって食べてしまうというのだ。不老不死(蘇る)ベニクラゲもいるし、クラゲ界は常識が通じない。
ひとつひとつ説明を読んでは呆れて次へ行く、その繰り返しである。クラゲの種類だけそれぞれ独自の生態がある感じだ。
しかし加茂水族館の展示のいいところは、色のついた光で照らすといった、奇をてらった展示が少ないことだ。
クラゲそれ自身の通常の姿をできるだけきちんと見せようとしている。また、それに耐えられるだけの種類がいる。

  
L: 浮遊する無数のベニクラゲ。ものすごい数が泳いでいるのだが、接写するとこんな感じ。何を思っているのやら。
C: 優雅であります。  R: これもクラゲらしいクラゲ。クラゲってデカくなるとフォトジェニックじゃなくなる。

さてクラゲに対する予備知識がほとんどゼロの状態で加茂水族館を訪れたのだが、僕がいちばん度肝を抜かれたのは、
なんといってもウリクラゲの一族である。厳密には「有櫛(ゆうしつ)動物」といって、プランクトンに属するそうだ。
(いわゆるふつうのクラゲたちは「刺胞動物」に属する。さっきのベニクラゲも刺胞動物のクラゲである。)
さてこいつら、何がすごいって、光るのである。それも七色の光をきらめかせて。ネオンかLEDかという勢いで光る。
これはもう、無言でただただ見とれてしまうしかない。できるもんならこれは飼いたい。飼ってひたすら癒されたい。
庄内では春から夏にかけて現れ、大量発生することもあるそうだ。いや本当にこのクラゲには心底感動してしまった。

  
L: キタカブトクラゲ。ダースベイダー的だと評判。  C: シンカイウリクラゲの群れ。乳酸菌みたいになっとる。
R: 発光中のサビキウリクラゲ。光を櫛板で反射しているそうだが、これがものすごくきれいなのだ。見とれるわー。

ちなみにウリクラゲ類はバクッと口を開けて自分より大きいクラゲも一気に呑み込んでしまうそうだ。
そのシーンを見てしまったらまた印象も変わるのだろうけど、とりあえずこの発光クラゲは最高に素敵だった。

 「そりゃよかった、また来いよ」

加茂水族館は夏休み中は18時までやっているので、水槽は多少落ち着いていも、まだまだショップは人でいっぱい。
なんか面白いお土産はないかと根性で物色したが、特に魅力を感じたものは正直これといってあんまりなかったなあ。
ウリクラゲたちの衝撃が大きすぎて。売れば爆発的な人気だろうが、クラゲは飼育がとんでもなく難しいらしい。
お土産で唯一「おう」と声が出てしまったのが、クラゲ入りのまんじゅう・羊羹 ・かすてら焼。そりゃ声も出るわ。
買って職場に持っていこうかとも思ったが、嫌がる人がいるかもしれないのでパス。僕としては面白かったけどね。
まあそんな具合に大いに満足して帰りのバスに乗り込んだとさ。いやー、クラゲの世界は本当に興味深い。

鶴岡駅に戻ってきたら晩飯タイムである。今日一日いろいろありすぎて、あれこれ悩むのも面倒くさい。
素直に以前もお世話になった駅前ビルの和食店にお邪魔する。そしたら「鶴岡名物・麦切り」という文字を発見。
これはぜひ食ってみなければ、ということで注文してみた。出てきたものは……うーん、実にうどんっぽいぞ!

 鶴岡名物・麦切りでございます。

そういえば東北の日本海側には稲庭うどんがあるが(→2008.9.13)、あそこまでは細くない。
麺は平打ちで、そういう意味ではきしめん的なところがあるけど、こっちの方がずっと細い。そしてコシがすごく強い。
まあ一種のざるうどんと形容できそうだが、冷やしで食べるのに非常に適したバランスが保たれていると思う。
これはいくらでも入るなあ、と思っているうちに食べ終わってしまったではないか。いつか大量に食ってみたい。

そんなこんなでようやく本日の行動が終了。天気がいいと旅行って本当に盛りだくさんになるね。一気に疲れた。
明日はいよいよ東北旅行の最終日である。最後の最後まで暴れまくるために、今日も素直に早めに就寝。


2014.8.22 (Fri.)

朝起きたらやっぱり温泉である。昨晩降り出した雨はどうにかやんでくれたようだが、見渡すと全体が湿っている。
最上階の展望風呂からは大潟村の様子がよく見える。明るくなった空の下に広がる大潟村は、ひたすら田んぼばかりだ。
やはりふやけるまでモール温泉に浸かって満足すると、部屋で支度を整えてチェックアウト。ここからが勝負なのだ。
7時55分の少し前に、大潟村役場近くのバス停にバスがやってくる。そいつに乗らないと大ダメージを食うので、
そこが活動限界ということになる。この活動限界時刻まで、歩いて歩いて歩き倒して、大潟村の空間を体験するのだ。

そんな断固たる決意をわざわざする理由は、大潟村がきわめて特殊な歴史的経緯を持っている自治体だからだ。
大潟村の誕生は1964年。合併や独立などをせず純粋に新設された自治体は、この大潟村が日本で最後になる。
もともとこの地は日本で2番目に広い湖だった。その湖・八郎潟を干拓してつくった土地が大潟村となったのだ。
もちろん大潟村は日本で最も大きい干拓地である。そして八郎潟は、大潟村の周りを囲む調整池として残っている。
すべての面積が人間の手によって生み出された土地。完全なる人工の大地。ぜひこの目で確かめてみたいじゃないか。

総面積は170平方kmにもなるので、くまなく歩くわけにはいかないし、そもそも大半が農地なのでその必要もない。
ホテルをふりだしに、真ん中西寄りの「総合中心地」周辺を探索してみる。ホテルの東は住宅地となっており、
同じデザインの家々が見事に集まっている。これはいかにもなニュータウン的景観だが、最大の違いはなんといっても、
まったく起伏がないことである。その代わりか、植えられた木々によって区画が周りから分けられている。
なるほど当たり前のことだが、われわれは無意識のうちに土地の高低差を空間を遮るもの、境界と認識している。
でもこの真っ平らな大潟村においてはそれが存在しない。そこでいちいち木々によって境界を宣言することになるわけだ。
このような植物による区画の線引きは、結果的に非常に強い作用を持っていることを後で実感させられることになる。

  
L: 最上階の展望風呂(の脱衣所)から眺める大潟村の田んぼ。これは西向きで、山の向こう側は日本海である。
C: ホテルの東側には見事に同じ形状の住宅が並ぶ。手前の赤色はサルビアで、あちこちの道路脇に植えられている。
R: ホテルから南下していく。大潟村の標準的な宅地空間はこんな感じか。車道と歩道をしっかり分けている。

空間整備の特徴としては、埋立地と共通する点が多い(埋立地ゼロ空間論 →2005.11.32008.7.272008.7.28)。
もともと何もないところだったので人間が自由に直線や曲線を描くが、それらは外縁から植物の侵入を許しており、
結果、人間が管理しているつもりの部分と目につきづらいところからの逸脱とのせめぎ合いが発生している。
この均衡が破れると北海道に見られるような「植物の本質」が実体化するようになるが(→2012.7.2)、
まだそこまでのレヴェルには達していない。しかし道路など人間の実用的な空間と実用的な空間の間にある緩衝地帯は、
完全に植物たちによって占拠されていた。ここまで小難しい表現を並べて申し訳ないが、もう少し具体的に言うと、
人間のいるべき空間が明確に規定されていて、それ以外の空間は植物が埋めて完全に分離して共存しているのである。
つまり、人間側と植物たちの共犯関係が成立しているということになる。(行政が)人間にいてほしくない空間があって、
そこを植物が占拠することで実現されているのだ。もっと簡単に言うと「(行政から見て)勝手に入るな」という場所があり、
その場所を勝手に植物が繁殖して占拠することでバリアが成立している。これが埋立地と共通するゼロ空間ということだ。

  
L: 産業-鉱物-植物の共犯関係は埋立地ゼロ空間の特徴である。ここでも人間の入れない領域を植物が支配している。
C: しかしその共犯関係は人間(行政)が望んだものでもある。歩行者が入る気をなくすように設計されているのだ。
R: 人工的曲線の道路、境界となる植物、歩道の規制による歩行者の誘導。ゼロ空間は人間(行政)が人間(歩行者)を抑える。

例を挙げると、突如として現れる飛び越えられない幅の水路、無造作に並ぶ木々とひどく丈夫な蜘蛛の巣と繁茂する草、
さらには歩道のない道路(その歩道があったとしても道の片側だけであり、自由に横断することが無意味となっている)。
埋立地と同様に、ここは自由に空間を移動することができない。あまりにも歩行者に対する制限が多いのである。
ちょっと先に見える場所へ行きたい、それで直線的に行けるかというと、行けない。決まった道路上でないと移動できない。
勝手に空間を横切ろうとすると、必ず障壁があるのだ。それは人工的な水路であり、自然のつくった植物地帯である。
ここでは人間(歩行者)は(行政によって)あらかじめ決められた場所しか移動できないのだ。ひどくもどかしい。
自動車中心の社会では、歩行者は予測不能で社会を逸脱する存在でしかない。空間的な無言の圧力を実感した。
6年前には「管理」を抜け出す植物たちという視点で考えていたが、大潟村を訪れて「管理」の共犯関係に気がついた。

  
L: 外部と直線的につながる県道42号に出たが、見事に歩道が存在しない。歩行者はペルソナ・ノン・グラータなのだ。
C: 大潟村の入口でも見かけたタイヤのロボット人形。自動車優先社会を示唆するオブジェ……というのは考えすぎかな?
R: 大潟村干拓博物館。かなり興味があったのだが、開館時間前で入れなかった。岡田新一の設計で2000年に竣工。

しかし本来ゼロ空間であるはずの大潟村にも神様は存在する。住民の熱望で1978年に建立されたという大潟神社だ。
「総合中心地」の南西に位置しているが、裏鬼門にあたる「坤(ひつじさる)」の方位なのは意図的なのか何なのか。
祭神は天照皇大神(内宮代表)と豊受大神(外宮代表)に加えて、八郎潟の主であるという龍・八郎太郎大神の3柱。
国立の場合にはもともと谷保天があったが(→2008.7.28)、こちらは農地ということもあって無難に伊勢神宮系だ。

  
L: 大潟神社。人工的な土地の神社ということで興味津々で訪れてみたが、まあ確かに大潟村の雰囲気そのままな空間。
C: 少し離れた位置から境内を眺めてみる。  R: 拝殿と対照的に本殿は木造で昔ながらな感じ。やっぱり神明造ですな。

本当はもうちょっとじっくり歩きまわってみたいところなのだが、のんびりしているとバスの時刻になってしまう。
少し急いで大潟村役場方面へと歩いていく。人工的な空間だけに大潟村の中心部はかなりシンプルな構造となっており、
北西にホテル、北東に運動場、南西に神社、南東に秋田県農業研修センターがあって、住宅の多くはその内側にある。
そしてそのど真ん中をセンターベルトと呼ばれる公共施設帯が南北に貫いているのだ。なお東西の幅は200mとのこと。
住宅とは木々によって隔絶されており、道の片側に木々、その反対側にビルが点在する光景はさすがに独特である。
もちろん歩道は車道と分けられていて、歩行者の使える空間は(精神的に)しっかりと制限がかけられている。
こういうところできちんとルールを守るように躾けられているということが近代なのだ、なんて考える(→2008.2.27)。

  
L: 先ほどとは別の住宅地。個々の建物に違いはあるが、側溝とサルビア、生け垣などで境界が明記されている点は同じ。
C: 左が住宅地と隔絶する木々、右が公共施設のセンターベルト。車道と歩道の間には御丁寧に側溝が用意されている。
R: センターベルトの北端には大潟小学校&大潟中学校。昨年竣工したばかりとのことで、建物の新陳代謝はしやすそう。

そんなこんなで大潟村役場に到着。上でも述べたとおり大潟村の成立は1964年のことだが、竣工は1967年。
ちなみに村が誕生した当初、村役場は秋田県庁内に置かれたそうで、1967年の竣工までは秋田市内で執務していた。
そもそも1964年の大潟村の住民は、2ヶ所ある排水機場に勤める農林省の職員とその家族6世帯14人のみ、とのこと。
(大潟村は詳しい歴史がウェブ上に「大潟村百科事典」としてまとまっているので本当にありがたいです。⇒こちら
色も茶色であんまり1960年代らしくないなあと思ったのだが、どうやらそれは後から増築した部分のようだ。

  
L: 大潟村役場。いちばん目立つこの部分は後から増築されたと思われる。  C: 1967年竣工の建物はその奥にある。
R: 正面からが撮影しづらいので、背面を撮影。かつてはこの建物の中に警察署・保育所・郵便局が入っていたという。

村役場のすぐ後ろには真っ白な公民館がある。こちらは1969年の竣工だが、基本的な形状は村役場とよく似ている。
おそらく同じ設計者だったのではないかと思う。色が白いとはっきり1960年代っぽくなるのが面白いところだ。

  
L: 1975年竣工の議場。初の村長・村議会議員選挙を行うのに合わせて建てた。  C: 議場の背面と1967年竣工の庁舎。
R: 展望塔を併設した大潟村公民館。秋田農業博覧会の開催に合わせて1969年に竣工。展望塔から干拓地を眺めたそうな。

公民館のさらに北にはアーケードの商店街がある。といっても、東西方向に一列で駐車場に向かって並んでいるだけだ。
しかし村民たちにとっては貴重な存在である。向かって右からレストランというか食堂、農業関連が目立つ雑貨店、住宅、
床屋、洋菓子、整骨院、通路で郵便局、歯医者、食堂というか居酒屋、美容院。雰囲気はいかにもニュータウン的で、
千里ニュータウンの中に点在する商店街を思い出した(→2013.9.29)。駐車場を挟んだ向かいにはAコープ(農協)。
共存共栄がなかなか大変そうな気もするが、こっちはこっちで専門性の高さで勝負しているのだろう。たぶん。

  
L: 大潟村商店街。ニュータウンのそれに雰囲気は近いが、周囲がずーっと平坦なのと広い駐車場の存在が異なる点である。
C: 朝早くから元気な雑貨店。隣のレストランは寿司からラーメンまで扱っており、人気はナポリタンとホルモン煮込みらしい。
R: アーケードの中に入ってみた。大潟村が誕生してから50年、どのように変化したのか、また変化していないのか。

最後に残った時間で学校までを往復して、戻ったらJAの前にバスが来る時間。これが朝イチの便ということで、
乗客は村の外に出る制服の高校生ばかりだった。お前ら、夏休みじゃないのかよ! なんか肩身が狭かったなあ。
もちろんバスに揺られている間もただボケーッとしているわけはなく、いちばんの前の席に陣取ってカメラを構える。
昨日の夜には撮影できなかった車窓(フロントガラス)からの風景をあれこれ撮ってやろうという算段である。
バスは南にあるカントリーエレベーター公社前(大潟村内最後のバス停)に行くのだが、この時点ですでに歩道がない。
歩行者の存在がまったく想定されていないのである。そうして県道298号に出ると、ひたすらまっすぐ東へと進む。
これは眠くなるなーと思いながらまっすぐな道を眺める。いちおう路側帯はあるのだが、きわめて細くて綱渡り状態。
こんなのが延々と3.5kmほど続くのである。そして中央幹線排水路の手前で斜めに角度を変えるとまた直線。
この辺りに大潟富士があったはずなのだが、まったく気づかないまま走り去ってしまった。なんとももったいない。
なお、大潟富士の標高は3.776mで、山頂はちょうど0mである(大潟村は全体が海抜ゼロメートル地帯なのだ)。
そして今度は大潟村を斜めにまっすぐ突っ走るのが5kmほど続く。こちらもやはり路側帯は綱渡り程度となっている。
日本にはいろんな場所があるなあと思っているうちに……まだ道は続く。考えるのに飽きても道はまっすぐ続く。
そういえば事故が起きたときにはどうするんだろうと思うが、そんな疑問を置いてけぼりにして道はただただ続く。
もし夜に非常事態が発生してこの道を歩かなくちゃいけなくなったら、これはもう想像しただけで気が狂いそうだ。
そういうつもりで見てみたら街灯もないし。そう、昨日の夜は雨の中、ほかに明かりがないところを走って怖かった。
ということで、最後の最後であらためて大潟村の特殊性を実感した。住民の皆さんは慣れきっているんですかね?

  
L: カントリーエレベーター公社の南側の道。よくある農村風景と思いきや、歩道も路側帯もない。歩行者を想定していないのだ。
C: 延々とまっすぐ続く県道298号。アスファルトと草の境界ギリギリに白線が引かれており、これが合計10km近く続く……。
R: ついに大潟村を脱出だ(失礼)! しかしこれだけ広大な湖を干拓するとはずいぶん思いきったもんだ。訪れてみて呆れた。

八郎潟駅に到着すると、近くのコンビニまで歩いて昼メシを確保。今日は自由にメシも食えそうにないので。
そのまま奥羽本線を南下すると、追分駅で男鹿線に乗り換える。陸繋島である半島の先っぽへと向かうので、
なんとなく境線(→2013.8.20)のようなイメージを持っていたのだが、男鹿半島はだいぶ緑が茂っている印象だ。
また男鹿線はそのまま秋田駅まで直通することもあってか、沿線の住宅地ぶりが比較にならないほど進んでいる。
そして脇本駅を過ぎると男鹿三山&寒風山の山岳地帯にぶつかって、だいぶがっちりした景色の中を走っていく。
そのまま山をよけて海岸沿いに南下していくと終点の男鹿駅。非常に限られた時間だが、男鹿市街を歩きまわるのだ。

  
L: 男鹿線の最果て光景。かつてはもっと南の船川港まで貨物の線路が延びていたので、ホームよりまだ先が長い。
C: 男鹿駅。男鹿半島はむしろ男鹿三山方面に観光名所があるので、ここは本当に男鹿観光の入口といった雰囲気。
R: そして駅前にはなまはげ像。やはり男鹿半島といえばなまはげ。そういえばなまはげって、2人組のイメージがあるよな。

まずはやっぱり男鹿市役所から。駅からほど近いメインストリート沿いにあるが、中心市街地とは反対の北側にある。
大潟村では雨が上がったばかりの空だったが、男鹿線に乗っている間にすっかり青空へと変わってくれた。
しかし日差しが眩しく、真っ白い男鹿市役所はかえって撮影がしづらいのであった。ここまで白いとなると大変だぜ。

  
L: 県道59号沿いの男鹿市役所。  C: 少し角度を変えて撮影。けっこう大きくて道幅が狭いのもまた撮影しづらい。
R: 正面から眺めてみたところ。もう見事に真っ白な建物である。青い空と白い建物とオープンスペースの緑が対照的。

男鹿市役所は1974年の竣工。設計は毎度おなじみ石本建築事務所だ。なかなかにマッシヴな庁舎である。
市役所のすぐ裏は山になっており、坂道を駆け上がって背面も撮影してみる。しかしやはり空間的な余裕がなく、
非常に窮屈な角度での撮影となってしまった。まあもともとが平地の少ない地形なのだからしょうがない。

  
L: ぐるっとまわり込もうとしているのだが、すでにこの角度で、ある程度の高さがあることがわかると思う。
C: 坂道を上って背面を撮影。本当に余裕がない。  R: 中に入ってみたらこんな感じだった。わりと開放的ね。

ちなみに男鹿市役所の入口には「秋田大学男鹿なまはげ分校」の看板が誇らしげに掲げられていたのであった。
玄関前にはなまはげの像が置かれていたし、男鹿におけるなまはげの存在感はすばらしいものがある。

 市役所入口にコレ。庁舎から出てくる人に反省を促すのであった。

そのまま県道を下って男鹿市街を歩いてみる。中心部は狭い平地をかなり整然とした区画に分けており、
歴史ある港町っぽいごちゃっとした感じはぜんぜんしない。船川港が工業港として整備されてきた影響だろうか。
しかし都市の空洞化はかなりひどく進行しており、整然としている分だけ閑散としている印象を強く受けてしまう。
往時がどれだけ栄えていたのかわからないが、これだけ強烈にダメージを食らっている例はそうそうない気がする。

  
L: 県道59号の一本西側。旧街道っぽい感じ。  C: メインストリート・県道59号。商店街が大ダメージを食っている。
R: その県道59号の南側を眺めたところ。閑散とした空間という印象はいよいよ強くなる。男鹿市は大丈夫なのか。

しかし市街地のど真ん中には面白い建物も残っていた。国登録有形文化財の旧森長(もりちょう)旅館である。
本館が1934年の築で、中庭を挟んだ土蔵が1926年の築。奥には離れもあるのだが、木々に囲まれてよく見えない。
今はただ建っているだけなので、なんとかリニューアルしてほしいところなのだが、なんせ周囲が空洞化しているので、
この建物だけどうにかしたところでいい解決になるとも思えない。これはなかなか難しくて切ない事例である。

 
L: まずは向かって左の土蔵から。奥には離れが見える。  R: 旧森長旅館本館。端整な中に凝った飾りを持つ。

時間が短かったとはいえ正直なところ、男鹿市の中心部をまわってみての収穫はこの旧森長旅館くらいだった。
なまはげもいいのだが、もう少し空間的な魅力をつくりだしてほしいと、旅行者の僕は勝手に思うのであった。

 八郎潟調整池・船越水道。日本で2番目だった広さが18番目になってしまった。

男鹿市役所の次は、男鹿線を引き返してお隣の潟上市役所である。二田という駅があって、ここで下車して徒歩2分。
潟上市の歴史は新しく、2005年に天王町・飯田川町・昭和町が合併して誕生。潟上市役所は旧天王町役場である。
さてこの潟上市役所、実際に訪れてみたら、もう感動するほど見事に昭和だ。ここまで完全なる昭和が残っているとは!

  
L: 潟上市役所(旧天王町役場)。これは単純に、市長室を旧天王町役場に設置したことで本庁舎になっているそうだ。
C: エントランス付近をクローズアップ。調べてみたら1965年竣工で意外と新しかった(昭和30年代だと思っていた)。
R: 東側から庁舎全体を眺めるとこんな感じ。敷地の感じといい、本当に「昔ながらの役場」って雰囲気である。

中に入ってみたらもっと昭和で、縁もゆかりもない場所なのになぜか懐かしい気分になってしまうではないか。
扉を開けて事務スペースを覗き込んだら、もう最高である。小ぢんまりと窓口が並び、奥には職員の机がある。
全体がくちゃっと集まっているこの密集具合が実に正しい昭和なのだ。感動して思わず立ち尽くしていたら、
職員の皆さんから怪訝そうな目で見られてしまったのであった。なので申し訳ないけどその写真までは撮れなかった。

  
L: 玄関から入るとこんな感じの空間。実に正しい昭和である。  C: この扉の奥が窓口空間。実に正しい昭和である。
R: 庁舎から出てすぐ左を見るとこんな感じで駐車場。ああもう何から何まで昭和だ。隅っこの申し訳程度の庭もいい。

さすがに平成の大合併で生まれた市が役所をこのままで放置するはずもなく、新庁舎の建設工事が進行している。
僕としては、昭和という時代を一発で体感できる今の建物を永久保存してほしいんだけどねえ。やっぱり無理か。
新しい潟上市役所は村田弘の設計で、来年3月末に竣工予定。場所は公園で道の駅の「天王グリーンランド」の隣。

  
L: せっかくなので今の潟上市役所を徹底的に撮影してやるのだ! というわけで、これは背面。北から見たところ。
C: 南西側の側面を覗き込んだところ。  R: 南西側の側面を別の角度から見たところ。住宅地で撮影しづらい!

市役所の撮影を終えたらほかにやることがない。昼間の男鹿線はそんなに本数が多いわけではないので、
どこかで上手く時間調整をしないといけない。しょうがないので国道101号方面に出てみようかとトボトボ歩いたら、
途中で図書館を発見。こりゃあいいやと中に入る。この後も激しく動く予定になっているので、いい休憩ができた。

二田駅を後にすると、そのまま男鹿線から奥羽本線に入って秋田駅に到着。秋田が今日のゴールなのだが、当然、
市内のあちこちを時間いっぱい動きまわるのである。それにはまず、レンタサイクルを確保しなくてはいけないのだ。
秋田の市街地がやたらと広いことは、6年前の初訪問でイヤというほど実感しているのである(→2008.9.13)。
しかしレンタサイクルの貸出先を見つけるのに少し戸惑った。駅前の西武の裏にはバスの降車場と駐車場があって、
自転車を借りられるのはその駐車場の地下なのだ。案内などもうちょい親切にできるんじゃないかと思うのだが。

とにかくなんとか足を確保すると、一気に西へと走って旭川を渡り、山王大通りから官庁街へ。自転車でも遠いわ。
秋田県庁と秋田市役所は山王大通りの南北でちょうど向かい合っている。ひとまとめに撮影できるのはいいのだが、
なんせ交通量がめちゃくちゃ多い。時間的な余裕がないのでどうしても雑な撮り方になってしまうのが切ない。

  
L: というわけで、6年ぶりの秋田市役所。向かって右が本庁舎で、左が議場棟。2つ並ぶとけっこうな幅となる。
C: 少し角度をずらして全体を眺めてみる。  R: 交差点を挟んで眺めてみたところ。こうして見ると低層だなあ。

しかし今回、それ以上に切なかったのが、秋田市役所の新築工事である。現庁舎のすぐ東隣で(もとはNHK)、
今まさに工事の真っ最中なのだ。現在の秋田市役所は本庁舎も議場棟も1964年の竣工で、ちょうど築50年になる。
(竣工当時の市報がPDF化されて秋田市のサイトで見られるようになっている。いい時代だなあ。⇒こちら
分散具合もかなりのもので、確かに潮時ではあるのだが、いかにも昭和30年代な雰囲気なので建て替えは淋しい。
新しい庁舎の設計者はプロポーザルで日本設計に決まり、竣工予定は2016年3月となっている。また来るんかオレ。

 
L: いかにも昭和30年代末鉄筋コンクリートな議場棟をクローズアップしてみる。
R: 新庁舎の建設工事が始まっている。また2年後に来ることになるんか。キリがねえだよ。

今度は南側の秋田県庁だ。6年前にも書いているが、こっちは秋田市役所よりもっと古くて1959年の竣工。
建設省営繕課が丹下健三のシティ・ホール構想に対抗する形で質実剛健につくった庁舎の代表例である。

  
L: まずは北東側から眺めてみる。  C: この建物も幅が広いので正面からだとカメラの視野に収まらない。これが限界。
R: それでも正面から撮影してみたところ。冷静に考えると、1950年代でこのサイズってのはすごいことだった。

ざっくりと調べてみた限りでは、今のところ県庁舎の建て替え計画はないようで、どれだけ頑丈につくったのかと思う。
将来、デカいだけに保存活用は難しいのだろうが、これもまた時代の証人として認知しておきたい事例である。

  
L: 交差点越しに北西側から眺める。  C: 裏手の駐車場から背面を眺める。  R: 秋田県議会議事堂。

市役所&県庁から引き返すと、そのまま久保田城址の千秋公園へ。まずはその麓にある建物に用があるのだ。
ちなみにさっきは官庁街だったが、千秋公園周辺は文化施設が集まった地域となっている。メリハリがついているなあ。
さて、まず目につくのは明らかに変な屋根をしている建物。1967年竣工の旧平野政吉美術館(旧秋田県立美術館)だ。
このような屋根になっているのは、藤田嗣治のバカデカい作品『秋田の行事』を美しく展示するためとのこと。
ちなみに設計者は日建設計だそうだが、とても組織事務所がつくったとは思えない独特なデザインである。
まあこういうものもつくれちゃうところに日建設計の底力があるわけだ(たとえば →2013.2.242014.7.23)。
現在は美術館としての役割を終えているが、名建築として地元での評価は高い。早く再活用できるといいですな。

 
L: 池越しに眺める旧平野政吉美術館。  R: 裏手から眺める。しかし日建設計ってすげえな。

もうひとつ、秋田市立中央図書館明徳館を見ておくのだ。こちらは公共建築百選ということで見てみるのだ。
「明徳館」とは久保田藩の藩校の名前である。その名を受け継いだ小学校がかつてここにあったが、移転した。
その跡地に建てられたので、「中央図書館」で終わらずに「明徳館」まで含んで正式名称となったわけだ。
1983年の竣工で、設計は谷口吉生。外観だけだとどの辺りがすごいのかイマイチよくわからないのだが、
まあきっと中もすごいんだろうな、とテキトーなことを思いつつ久保田城址への坂を自転車で駆け上がる。
もうね、本当に時間的な余裕がなくって。この日はバスの都合でずいぶん偏った時間配分になってしまったなあ。

  
L: 秋田市立中央図書館明徳館。  C: 側面。中はどんな様子か、きちんと見ておけばよかったなあと後悔。
R: 坂をがんばって上がって久保田城の二の丸跡まで来たよ。久保田城は駅からいい感じの距離で、まさに平山城。

振り返ってみると久保田城址には6年前にも来ているが、天気がそんなによくなかったこともあってか、
御隅櫓から広々とした市街地を眺めたくらいで、特にこれといって城内をクローズアップしていない(→2008.9.13)。
それも虚しい話なので、今回はいろいろと写真を貼り付けてみることにする。そんなにフォトジェニックじゃないけど。

  
L: 久保田城址で唯一、江戸時代から位置を変えないで残っている建物である御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)。
C: 2001年再建の本丸表門。「扇に月」が貼り付いていて、さすが佐竹氏。  R: 本丸の様子。秋田市民には絶好の散歩コースだ。

久保田城はたびたび火災に遭っており、1880(明治13)年の大火がとどめとなって、建物はほとんど現存していない。
その分だけ自然に近い空間となっており、本丸は特に緑があふれんばかりである。平山城らしく適度な高低差もあるため、
散策するにはもってこいだ。麓には文化施設がワンサカとあるし、駅も近い。なかなか優雅な街ではないか、と再認識。

  
L: 本丸にある最後の久保田藩主・佐竹義堯の像。  C: 本丸はけっこう広いが、緑が豊かすぎて見通しはよくない。
R: 御隅櫓を眺める。かつては御隅櫓が8つあったそうだ。ただし天守はなく、石垣もほとんど使っていなかった。

少し急いで秋田駅前に戻ると、バスターミナルに突撃。しかし駅前のバスターミナルはあまりにターミナルすぎて、
どこで待てば目的のバスに乗れるのかがまったくわからない。慌てて窓口で聞いて無事にどうにかなったのだが、
バス交通が発達している街というのも、それはそれでなかなか大変である。どうしても旅行者には敷居が高くなる。
秋田駅西口を出発したバスは、千秋公園の脇を抜けて奥羽本線の東側に出ると、市街地からどんどん山の中へと進む。
旭川に沿って県道15号を北へ北へと上っていくと、「釣りセンター前」というバス停があるのでそこで下車。
ちなみにその「釣りセンター」とは個人経営の釣り堀である。なんともマニアックなバス停があるもんだ、と思う。

秋田駅からバスに揺られること30分、だいぶ山の奥まで来たものだ。今回、市街地散策よりも優先して訪れた場所は、
藤倉水源地である。まあ要するにダムなのだが、1907年(明治40)年竣工の近代化遺産だ(1911年に再度竣工)。
重要文化財に指定されているとのことで、それなら見ておこうじゃねえかとわざわざ来てみたわけである。
釣りセンターのバス停から藤倉水源地までは少し距離があり、きちんとした詳しい案内が出ていない。これは困った。
しょうがないので勘に任せて旭川沿いに歩いていくしかない。市街地散策を犠牲にした分、それなりに時間はある。
まずは右岸の県道側を歩いてみる。すると右に曲がりきったところで脇道が出ていた。下りるとトンネルになっている。
どうやらこれはサイクリングロードとしてつくられているようだ。が、途中で水が流れていたり、木々が邪魔したりで、
とてもとても自転車で走る気にはなれないつくりとなっている。藤倉水源地を反対側からじっくり眺めるにはいいんだけど。

  
L: 県道(右岸)側にあるトンネルから眺める藤倉水源地。しかしこうやって距離をとって全体を眺める以外ない。
C: あらためて左岸を歩いていくが、こっちはもう完全に自然との戦い。たまに釣り客が来ているようだけど。
R: 川沿いの道を奥まで行くと、このような石段が。ここが藤倉水源地のゴールということになるのだな。

というわけで、あらためて釣りセンターバス停付近まで戻って、橋を渡って今度は左岸をトボトボ歩いていく。
こちら側は公園のような雰囲気になっていて、一面草の広場である。ここにはかつて水道の施設があったようだが、
真ん中には水道局のものと思われるキャラクターの石像が置いてあるだけとなっている。少し切ない風景である。
草っぱらはそのうち土の一本道となり、木々がせり出すところを川に沿ってまわり込んでいくと石段が現れる。
ここが藤倉水源地のダム部分なのだ。現在は取水機能を完全に停止しているが、外観はきれいに残っている。
自然に呑み込まれそうになりつつも往時の誇りをしっかり留めており、100年間もこの姿を保っていることに感動する。

  
L: 藤倉水源地の本堰堤を間近に眺める。  C: 石段の途中、同じ高さから。  R: 本堰堤の上はこんな感じ。

40分ほどで帰りのバスが来た。のんびりと引き返すが、今度は途中の「からみでん」というバス停で下車する。
「からみでん」というのもだいぶ妙な名前である。ひらがな表記だが、漢字表記があるのか、あるとしたらどうなるか、
不思議に思いつつ歩いていたら、公民館に「搦田」とあって納得。どうして漢字で表記しないのか、そこは納得できない。

からみでんからトボトボ西へ歩いていくと、かなり立派な寺の前に出た。ここが本日最後の目的地・天徳寺である。
佐竹氏の菩提寺で、重要文化財が多数。失礼ながら秋田の建物は見るべきものが少ないと思っているが、ここは例外。
ぜひとも訪れておきたかったのである。まずは総門、くぐれば草と松で緑に包まれた参道が延びており、その先に山門。
山門をくぐると境内は松で満たされており、地面は苔や草に覆われて瑞々しい印象が強い。寺にしては独特な空間だ。

  
L: 丁字路に面するように天徳寺の総門が建っている。佐竹氏が常陸太田から秋田に移った1602(慶長7)年頃に建てられた。
C: 立派な山門。1709(宝永6)年の築。  R: 山門をくぐると境内は緑でいっぱい。湿り気が多くて寺にしては独特だ。

天徳寺の建物はどれも歴史を感じさせる色の木材が目立っており、質素なつくりであるように思わせる。
しかし山門も本堂もきちんと大きく、佐竹氏の威厳を感じさせるには十分な迫力があるのだ。その辺はさすがだ。
奥の本堂を左に入ると、これまた重要文化財の佐竹家霊屋。こちらは紅色をした鉄板で屋根が葺かれているが、
石塀で囲まれているので屋根がよけいに強調される格好となっている。塀から覗き込むが、これまたなんとも独特。

  
L: 1687(貞享4)年築の本堂。非常に大きいうえに境内が松で視界を塞がれているので、全容がなかなかつかみづらい。
C: 角度を変えて本堂を眺める。  R: 佐竹家霊屋。1672(寛文12)年築で、歴代の佐竹氏当主がここに祀られている。

時間いっぱい境内の雰囲気を堪能して、外に出る。16時になったら総門がぴっちりと閉じられてしまったので、
けっこうギリギリのタイミングで訪れることができたのかもしれない。まあとにかく、雰囲気を味わえてよかった。

帰りのバス停が見つからなくて少し焦ったが、総門が突き当たりとなっている丁字路をちょっと進んだところで無事発見。
程なくしてバスがやってきたので乗り込んで、秋田駅西口に戻る。レンタサイクルを回収すると宿へ行ってチェックイン。
しかし本日予定していた秋田市内の名所めぐりが終わったとはいえ、これでハイおしまいではいくらなんでも淋しすぎる。
すぐに宿から出て再びレンタサイクルにまたがると、返却がてら秋田の市街地をのんびり走ってみることにした。

 川反通り。かつては知らんが、今はふつうに飲み屋街って印象だなあ。

川反通りを往復しても僕にはあまり面白くなくて、このままレンタサイクルを返すのもつまんねえなあと思っていたら、
……あるじゃないですか、秋田県立美術館。これは千秋公園内にあった旧平野政吉美術館(さっきの変な屋根)が、
2012年に竣工した安藤忠雄設計の新しい建物に移転したものなのだ。ちょうど草間彌生をやっているので、喜んで中へ。
そしたらよくわからないことに、受付で草間彌生と藤田嗣治の2択を迫られた。1階が草間で2階が藤田なのだが、
これが別料金だというのだ。同じ建物の1階と2階で別料金というのは初めてだ。さらにワケがわからないのは、
草間はこの建物だけで収まらず、近くのアトリオンというビルの中にある秋田市立千秋美術館に続きがあるという。
時刻はだいぶ夕方で、草間を見ようと思って中に入ったので、もう1ヶ所行く必要があるとなると急がないといけない。
迷った末、今回は草間を優先することにした。『秋田の行事』は新しい市役所とセットにしよう。ごめんねレオナール。

  
L: 秋田県立美術館。千秋公園側はわりとふつうな外観。  C: 入口にまわり込むとなんともマッシヴ。
R: エントランスホールを占拠する草間のカボチャ。ここは自由に記念撮影が可能。そりゃ撮りたくなるわな。

というわけで、「草間彌生 永遠の永遠の永遠」である。秋田県立美術館では初期・前期の作品を展示している。
松本の種屋に生まれたド天才がいかにして水玉という普遍的なデザインを自分のものとしたかが追える感じの内容。
まあおそらくは実際に世界が水玉に見えていたんじゃないかと思うのだが、それを自分の個性として獲得した、
その発想が凄いのである。そしてさらに凄いのが、それを「売れる」芸術として仕上げてしまったことである。
ポップという現代性、キモカワイイという本質性、それを水玉という普遍性で見事に完結させた点が偉大なのだ。

レンタサイクルを走らせて、アトリオンに移動。赤地に白い水玉が周辺を占拠していたのですぐにわかった。
窓ガラスも赤い水玉に染められており、なかなか思いきった工夫をしている。草間ワールドを上手く再現している。

  
L: アトリオンの公開空地。  C: エントランス付近はすでに草間ワールド。  R: 窓ガラスも水玉。上手いですね。

秋田市立千秋美術館はアトリオンの2階と3階に入っているが、建物内のショウウィンドウにも作品を展示するなど、
美術館からアートをあふれさせる演出が非常に上手い。もっと言うと、撮影可能な部分をつくっているのが上手いのだ。
そう、草間の上手いところは、パブリックアートなど、作品をあえて撮影可能とすることで記念性を持たせている点だ。
これによって草間のキャッチーな作品に対する親近感が爆発的に増し、理解者が増えるという仕組みになっている。
この辺りの草間のバランス感覚はとんでもなく鋭いのである。作品を「売る」ための正解が明確に見えているのだ。
現代社会におけるアート/芸術の位置を、これほどまでに上手くコントロールしてみせている人はほかにいないだろう。

 
L: 作品を記念に撮影させることで自らの芸術性を上手く社会に認めさせている。草間のカボチャは本当に巧妙な手口だ。
R: 撮影NGな作品の中に、撮影可能な部屋(作品)を混ぜておく。当然、来館者は草間の作品を記念に撮影し、紹介する。

『愛はとこしえ』シリーズをはじめとする近年の作品は正直やや病的で、いやさすがにそれはちょっと……と思うのだが、
草間は上の写真にあるような適度にキャッチーな新作も出してくる。やりたいものと売るもののバランスが絶妙なのだ。
しかしその芸術家としての才能は本物で、最後の最後に体験することになる『魂の灯』は、まったく言葉が出なかった。
頭の中で想像することはできても、それを他人に空間として体験させることができるというのは、これはもう特殊な才能だ。
その圧倒的な実力を見せつけられて、言葉が出なかったのだ。草間のスケールの大きさをとことんまで見せつけられたよ。
結局、水玉カボチャのハンカチとかストラップとか、お土産を買わせられちゃうのね。草間は本当に「売る」のが上手い。
(後日、ウチの美術の先生が同じ草間のカボチャハンカチを持っていたのを見た。これは買っちゃうよねえ……。)

レンタサイクルを返却すると、そのまま晩飯。前回は稲庭うどんを頂戴したが、今回は比内地鶏の親子丼をいただいた。
ふだん食べ慣れている親子丼と違って鶏肉の歯ごたえがすごいことすごいこと。本日もおいしく名物を味わったのであった。

 
L: 比内地鶏の親子丼。  R: 途中で見かけた看板にあったんだけど、これってけっこう上手いことやっていると思う。

日が暮れてから赤れんが郷土館に行き忘れたことに気づく。何が「失礼ながら秋田の建物は見るべきものが少ない」だよ。
しょうがないので、これはまたいつか、新しい秋田市役所が竣工したら『秋田の行事』とセットで訪れよう。トホホ。


2014.8.21 (Thu.)

今回の東北旅行の2日目はぜひとも晴れてほしかったのだが、残念ながら朝起きた時点でも雨は降り続いていた。
なぜ晴れてほしかったのかというと、ハイキングの予定を入れていたからである。やっぱそりゃ、晴れてないとねえ。
でも一方で、もうそれはそれでいいや、という多少投げやりっぽいというか、簡単にあきらめられる気持ちもあった。
その理由は、ちょうどこのタイミングで五能線の岩館−深浦間が不通になってしまっていたからである。
この事実を知ったのはおとといの夜、品川駅で切符をつくってもらったときで、そりゃもう全力でがっくりした。
原因は今月5日から6日にかけての大雨。昨日の広島もそうだし去年の津和野もそうだが、近年は大雨被害がひどい。
おかげで五能線が乗りつぶせないじゃないか!という鉄分の多い怒りはともかくとして、バスで動かざるをえない。
こうなるともう、予定どおりにギチギチ動く気がなくなってしまう。ゆえにハイキングもほどほどでいこう、となる。
本来なら全力で山に登って世界遺産の白神山地を眺めてやるつもりだったが、十二湖散策でお茶を濁すことに決定。
まあ将来、機会があれば、五能線を乗りつぶしつつ大崩から十二湖や日本海を見下ろしてみたいものである。

朝6時過ぎに宿を出て鯵ヶ沢駅へ。昨日の夜は雨と薄暗さで見えなかったが、ブサかわ犬「わさお」の看板が目を惹く。
ああなるほど、そういえば「わさお」ってここにいるんだっけと思うが、特に興味もないので特に会いたいとも思わない。
むしろ気になるのはもうひとつというか、もうひとりの鯵ヶ沢名物である。引退しても地元人気は抜群のようで、
駅の周辺ではいまだに彼の名前をちょこちょこ見かけた。その人物とは、「技のデパート」こと舞の海秀平である。
相撲にそれほどの興味はないものの、やっぱり小柄な力士が強い力士を倒すのは痛快なので、舞の海は応援していた。
あの当時の相撲は個性の見えやすい力士が多くて面白かったなあ、と思う。今の相撲もそれなりに面白いんだろうけどね。

  
L: 駅前のたこ焼き屋と、その軒先に掲げられた舞の海応援メッセージ。いまだに飾ってあるのが大変いいと思います。
C: わさおの看板。こいつ、誰かに似ているんだよな……。  R: 駅舎内に飾られている舞の海の写真。いいじゃないか。

鯵ヶ沢を出た列車は海沿いをのんびり走る。鯵ヶ沢以西の五能線は完全に青森県の海岸線と一致するルートをとる。
背後はしぶとい山地が広がっているのでしょうがないのだ。その奥にあるのが世界遺産・白神山地というわけなのだ。
途中には千畳敷という名の駅がある。日本のあちこちに千畳敷はあるだろうに、the 千畳敷とはどんな光景かと思ったら、
車窓からでは手前の駐車場ばかりが目立ってしまい、それほど魅力的な感触はしなかった。いずれ確かめてみたいものだ。
そんなこんなで深浦駅に到着すると、代行バスに乗り換える。バスに乗り込んだのは見事に僕ひとりで、なんとも寂しい。
国道101号をバスは南下していく。これは五能線と完全に並走しているので、その分なんとも悔しい気分が増幅される。
そうして十二湖駅に到着。観光客は思ったよりも多くいて、なんだか安心。心配したコインロッカーも充実していた。

 
L: 車窓から見た千畳敷の様子。やはりきちんと下車してその場に降り立ってみないとダメである。
R: 代行バスのため、予定より10分ちょっと遅れて十二湖駅に到着。思ったよりもずっと立派な駅だった。

十二湖駅がどの程度充実しているかよくわからなかったため、アオーネ白神十二湖という施設に寄ることにしていた。
今にしてみれば別にわざわざ行く必要はなかったのだが、とりあえず当初の予定どおりに徒歩で行ってみたのね。
そしたら上り坂がかなりキツいわ、車道だけでちょっと危ないわ、橋は高くて怖いわで、あんまりいいことなかった。
しかしその橋の下を眺めてみたら、ニホンカモシカがいた。よかったのはそれくらいかな、正直なところ。
アオーネ白神十二湖は自然体験型リゾート宿泊施設で、まあ要するに家族向け白神山地観光の拠点ってわけだ。
そこに一人旅の男が行ってもどうにもならんのである。荷物は無料で親切に預かってもらいましたが。ありがたや。
で、アオーネ白神十二湖発のバスに乗って十二湖を目指す。案の定、十二湖駅でまずまずの量の観光客が乗ってきて、
終点の奥十二湖駐車場まで揺られる。車窓からはまず日本キャニオンがちらっと見えて、これがなかなかの迫力。
できれば下車してしっかり眺めたかったが、天気のせいでやる気は極限まで落ちているのでもちろんスルー。
すると今度はいくつも池が現れる。十二湖はすでにここからスタートしているわけだ。が、色がどうも冴えない。
どの池も緑色に淀んでいる感じで、あまり魅力的に思えない。こんなもんなのかよ、と思っているうちに終点に到着。

  
L: 橋から見下ろしたニホンカモシカ。もちろん望遠を最大にして撮影しております。しかしよく気がついたなオレ。
C: アオーネ白神十二湖はこんな感じのリゾート。コテージやら何やらが点在している。高いところから眺めてみた図。
R: 十二湖といっても実際には33もの池がある。デジカメだときれいに写るが実際はもっと淀んだ色合い(鶏頭場の池)。

奥十二湖というとなんだか奥深い場所という響きだが、実際にはハイキングの入口である。向かいには土産物店もある。
ここからアスファルトの道をしばらく行き、やがて土の遊歩道へと入る。天気が良ければいい雰囲気なのかもしれないが、
鶏頭場(けとば)の池も冴えない色だしどうにもテンションが上がらない。単なる林の中の道じゃねえかと思いつつ進む。
すると十二湖で最も有名というか、まあ唯一の名所である青池に到着。入口から見た限りではうっすらと靄に包まれて、
それほど青いという印象はなかった。しかし木製のデッキに上って見下ろすと、これが問答無用に美しい色をしており、
言葉を失って見とれてしまった。デジカメでも撮ってみるが、実際はもっともっと深みのある青色をしているのだ。

  
L: 入口付近の青池。この時点ではただの「透明度の高い青っぽい池」という印象しかなかったのだが……
C: デッキから見下ろしたらこれがめちゃくちゃ美しい。やってきたほかの観光客もひたすら感動の嵐なのであった。
R: 池の水面をクローズアップしてみた。中に沈んでいる幹や枝などがまた複雑な色のパターンをつくりだす。

さっきまでのネガティヴな気分がこの青池ひとつで一気に吹っ飛んだ。世界遺産の白神山地は中に入ることができない。
だったら外側から眺めようじゃないかとハイキングを計画したのだが、それも雨のせいでダメになってしまった。
おまけに五能線は乗りつぶせない。まさに逆境そのものという状況だったが、この青池のおかげで十分救われた。
茫洋としたブナ林を漠然と眺めるよりも、よっぽど有益な経験となったのではないか、そう思うことができたのだ。
でもせっかくなので、青池からさらに進んでブナ林の中を散策してみる。白神山地の感触に少し近いだろうと思いつつ。
そしたら奥にある沸壷(わきつぼ)の池も角度によっては非常に美しい色をたたえており、それなりに見応えがあった。
あまり良くないコンディションだったが、その枠の中では十二湖の魅力というものにきちんと触れられたように思う。

  
L: 青池の手前、崩山への登山道。天気が良ければここから大崩まで行って十二湖を上から眺めたんだけどね。
C: ブナ自然林を行く。白神山地の核心地域はこんな道はないはずだが、緑の雰囲気はつかんだからヨシとしておこう。
R: 沸壷の池。いちおう対岸側からも見たのだが、そっちからだと白く濁った池だった。角度によって変わるもんだね。

毎年律儀に暑中見舞いをくれる卒業生がいるので、そいつ向けに青池の絵はがきを買ってから帰りのバスに乗り込んだ。
バスの後ろの窓から日本キャニオンを見たのだが、やっぱり見事な姿を一瞬だけ見せてくれた。じっくり見たかったなあ。
とりあえずこんな感じで十二湖探索は終了。これで白神山地を押さえたとは到底言いがたいが、今回はこれで納得だ。

バスで終点のアオーネ白神十二湖まで行くと、荷物を回収。意を決して小走りで坂を下り、十二湖駅まで戻る。
しばらくして代行バスがやってきたので、切符を見せて乗り込む。今度はけっこうな量の乗客を乗せて出発した。
やはり五能線と並走して国道101号を進んでいく。左手には山が並んでいるが、白神山地の核心地域はそのさらに奥。
さすがに世界遺産になるほど自然が残っているということは、それだけアクセスが難しいということなのである。
いつかその姿をきっちり眺めることができるといいなあと思いつつ車窓の景色を眺めていたら、土砂災害の現場脇を通過。
実際に復旧工事をがんばっている現場をチラッとでも見るのは初めてなので、これがそうかと驚いた。がんばってください。

 
L: 国道101号の車窓の景色。このずっと奥に白神山地があるのね。いつかのんびり眺めてみたいものだ。
R: 大雨による土砂災害の現場。バスがアナウンスしたうえで、少し速度を落としてくれたので様子が見えた。

不通となっているのは岩館までで、ここからは列車に乗ることもできる。しかしこのままバスで行く方が能代に早く着く。
それにどうせ完乗できないんならバスでもいいやという気分もあったので、岩館で降りることなく能代まで行ってしまう。
能代に何があるというわけでもないのだが、能代の街をできるだけあちこちまわる方がいいに決まっているのだ。

能代駅に着いたらまず最初に駅前の交差点にある「市民プラザ」にお邪魔する。ここでレンタサイクルを借りると、
さっそく市役所を目指してスタート。実際に走ってみると、能代という街はちょっと特徴的というか独特な感触がする。
駅の真西が中心市街地となのだが、一段下ったところにあるのだ。市街地は国道101号を中心に基本的には平らで、
あの能代工業高校の背後にある能代公園が小高い丘となっている。そして市街地の西には海岸に沿って風の松原。
風の松原の中は起伏が激しく、走ってみると能代の市街地はちょうど盆地を埋めているような印象を受けるのである。

  
L: 能代駅に近い秋田県道205号。道の曲がり方やちんまりと商店が並ぶ様子が旧街道っぽさを感じさせる。
C: 柳町の坂を下るとアーケードの商店街となる。イオンはこのど真ん中に位置しており、核となっているのだ。
R: でっかくまっすぐな国道101号。イオンはこの道路にも面しており、ロードサイドと旧市街の二重性を持つ。

旧来のごちゃごちゃした市街地と、整然とした矩形の区画が妙に融合している。その真ん中を国道101号が豪快に貫く。
ふつうなら対照的な空間となる要素が入り組んでいるのがどうにも不思議だ。それが能代の独特な印象になっているのだ。
歴史を感じさせる料亭と神社がアーケード商店街の奥にあるが、それは大規模店舗・イオンのすぐ裏に位置している。
そしてそのイオンは幅の広い国道に面しており、国道を進むと北海道のようにきっちり配置された市役所の建物が並ぶ。
昔ながらのアナログな都市空間と開拓地や再開発のような都市空間とがモザイク状に融合している。本当に不思議だ。
後で調べてみたところ、能代の街は戦後だけでも二度の大火に襲われており(第1次は1949年で、第2次は1956年)、
おそらくその影響が今でも残っているということだと思われる。われながら、なかなか鋭くなってきたものだ。

なお、かつて能代は「渟代(ぬしろ)」という名前だったという。「ぬ」で始まるとは、実に珍しい名前である。
それが「野代」となり、江戸時代に縁起をかついで「能代」となった。都市として成立した過程は比較的遅めで、
戦国時代に安東(秋田)愛季が木材の積出港として開発したのが始まりのようだ。能代は今も「木都」を名乗っている。

イオンの最上階で街を眺めながらメシを食うと、そのまま国道を北に進んで能代市役所へ。ここがまた独特な感触で、
上でも少し書いたがまるで北海道のような印象がするのである。道路と建物の並ぶ感じはそこまでエゾチックではないが、
裏手の土地の微妙な余裕がちょっと北海道っぽいのだ。能代ってのは本当に、いろんな要素が混在している街だと思う。

  
L: 能代市役所第一庁舎を東側から眺めたところ。  C: 正面から見据える。これはなかなかいいじゃないですか。
R: 西側から眺める。この第一庁舎は1950年の竣工で、設計は構造設計が専門だった武藤清。国登録有形文化財。

能代市役所が能代の独特な雰囲気づくりに一役買っているのは間違いない。見るからに一味違う歴史ある建物で、
よく見ると緑青の色をした国登録有形文化財の印が貼り付いている。調べてみたら、第一庁舎は1949年の竣工。
設計者は武藤清で、彼は後に日本初の超高層ビル・霞が関ビルの建設を推進する人物だ(そちらは1968年竣工)。
武藤自身は建築の構造設計が専門なのだが、能代市役所については意匠設計も行っている点が特徴的だ。
そもそも、戦後間もないこの時期に市庁舎を建てるという事例じたいがきわめて少ないのである。本当に珍しいことなのだ。
市庁舎建設の動機となったのは、上で述べた第1次能代大火である。当時の市街地面積の42%が焼失してしまい、
市役所も焼けてしまった。それで当時の市長が面識のあった武藤に設計を依頼。冬場のコンクリート工事を避けるため、
わずか80日間という突貫工事で完成させてしまったという逸話がある。それが今でも残っているのは大変すばらしい。
(戦前の市庁舎の事例としてパッと思いついたのが大牟田なので、とりあえずリンクを貼り付けておく(→2011.8.8)。
 両者を比べると道路への面し方など共通する要素があるが、能代の方は戦後らしく洗練されているのがわかると思う。)

  
L: 裏手はこんな感じでかなり雑然としている。というか、能代市役所は第一から第五まである猛烈な分散庁舎なのだ。
C: 第一庁舎の中に入るとこんな感じ。この現役感がたまらない。タイムスリップしたような感覚になりますなあ。
R: 第一庁舎の裏、南側にあるのが市議会議事堂。武藤の第一庁舎に調和するように市職員が設計し、翌1950年に竣工。

さすがに第一庁舎だけでやっていくのは不可能になり、現在の能代市役所は第五庁舎まであるという分散ぶりである。
しかしそれらが一列に並ぶという配置(西から第四→第一→第二→第三)もまた北海道的な感触がして、実に面白い。
能代市では2010年から新庁舎の整備計画を進めており、昨年には設計者を決めるプロポーザルを実施している。
環境デザイン・環設計・ライフ共同企業体が設計者に選ばれ、第一庁舎の後ろに似たデザインで新庁舎を建てるようだ。
なお、第一庁舎の保存活用はすんなりと決まったようだが、隣接する議事堂は当初、取り壊される予定だったという。
しかしこちらも国登録有形文化財に指定されており、市民や日本建築学会からの要望もあって、保存活用が決まった。
こういう建物の価値がわかるということは、その都市の知的レヴェルが高いということである。うらやましい限りだ。

  
L: 第一庁舎に隣接する第二庁舎。これもなかなか凝ったデザインである。残念ながら取り壊しとなる見込み。
C: 能代市役所の庁舎群の裏手はこんな感じになっている(手前は第四庁舎、奥に議事堂が見える)。北海道っぽくない?
R: 能代市役所の南側にある公園。自然な雰囲気が残されており、これもまたどこか北海道っぽい感触がする空間だ。

勉強不足な僕はこれだけ貴重な事例が能代にあるとは知らなかったので、かなり興奮しながら撮影したのであった。
やっぱり、見るからにタダモノではない市役所に出会えるのは楽しい。そこにまつわるエピソードを紐解いたときには、
必ず「地元の誇り」に触れることになる。こういった「誇り」の存在を確かめるために僕は旅をしているようなものなのだ。

能代の街にはもうひとつの「誇り」がある。イオンの裏にある料亭建築・金勇(かねゆう)で、これも国登録有形文化財だ。
先ほど能代の歴史について、木材の積出港として開発されたと書いたが、特に珍重されていたのが秋田杉である。
金勇ではその秋田杉をたっぷりと使っており、まさに「木都」能代のプライドをそのまま空間として具現化しているのだ。

  
L: いかにも料亭らしい門構え。  C: 建物をすっきり一望するのは難しいが、その複雑な構造には圧倒されてしまう。
R: 凝っている玄関である。中にはカフェがあって、その看板が立っている。料亭時代にはどんな雰囲気だったんだろう。

この建物が竣工したのは1937年なので、外観も内装も大部分がかなりリニューアルされている感触である。
しかし往時の雰囲気をしっかり残しており、料亭時代の格調の高さを味わうことはできると思う。
高級料亭なんて縁のない生活をしているので、こういう世界もあるんだなあ、などと感心しながら見てまわる。

  
L: 特に内密な会談などを行う際にはこちらから出入りしたとか。うーん、キナ臭い。  C: 皿で往時のメニューを再現した一角。
R: 庭園はこんな感じとなっている。緑一色ではあるものの、濃淡や形などで差をつけており、かなり見応えのある庭だ。

2階に上がると大広間なのだが、これが本当にものすごい大広間っぷりで、とてもとても言葉が出てこない。
その広さ、実に110畳。しかも天井が天然秋田杉による四畳半型格天井。奥には舞台、反対側には床の間。
あまりにも豪華すぎて何がなんだかわからない。悲しいことに、僕の中にはこれだけの価値を測定できる基準がないのだ。
木都・能代の本気を目の当たりにして、ただ口をぽかんと開けて声にならないため息を漏らすのみなのであった。
金勇の内装はもう圧倒的で、能代そして秋田杉の本質を問答無用で教えてくれる場所だった。百聞は一見に如かず。

  
L: 2階に上がってみる。この小部屋は何だろうと思ったらトイレだった。料亭ってのはとことん凝っているんだねえ。
C: 大広間に出て言葉を失った。床の間なのだが、サイズがもう……。床柱も置物の花籠もすごい迫力だった。
R: 舞台側を眺める。なんという大空間だ。実際に使えるので、この舞台の裏にある機材置き場などもまた面白かった。

能代散策の最後を飾るのはやはり風の松原だろう、ということで、自転車で西へ向かってひた走る。
が、さすがに途中であの能代工業高校に寄ってみる。特に有名な建物があるというわけではないのだが、
ここまで来ておいてチラッと寄ってみるのは当然のことだろう。ちょろっと敷地の中にお邪魔してみる。
しかし実際に訪れてみたら本当にごくふつうの高校で、なんだか拍子抜けした。校門脇にはオブジェがあって、
「栄光」の文字の下には「秋田県立能代工業高校バスケットボール部 全国優勝の記録」と年表が彫られていた。
こういう業績をひとつのオブジェにさりげなく記録して済ませているところに、能代工業高校の凄みを感じる。
そう、能代工業高校といえば、バスケに疎い僕でもその名前を知っている超強豪校だ。50回以上の全国優勝を誇る。
井上雄彦『SLAM DUNK』(→2012.6.132013.1.12)における山王工業高校の扱いを見れば、その凄さがわかる。
なお、ここまで特に書いてこなかったが、当然、能代市は「バスケットボールの街」ということでさまざまなPRをしている。
能代駅のホームにはバスケットゴールがあり、駅舎を出ればバスケットボールのオブジェが「木都」の文字とともに迎え、
街中のあちこちにあるバス停のてっぺんの丸い板にはバスケットボールが描かれている。能代は多彩な要素を持つ街だ。

  
L: というわけで、能代におけるバスケ要素を紹介する。まずは駅前、「ようこそ木都能代へ」の文字とバスケットボール。
C: バス停にて。てっぺんの丸い板がバスケットボールになっているわけです。まあそりゃそうするわな、と思う。
R: 能代工業高校のオブジェ「栄光」。このオブジェのほかは特にバスケ的要素はなく、ごくふつうの高校だった。

能代工業高校の奥には能代公園。地元の皆さんには桜の名所としておなじみなのだが、今の季節はただの小高い丘。
特に何か城跡というわけでもないようだし、見晴らしがいいわけでもないので、ただ石段を上下運動したのみ。

 いちおう、能代公園はこんな感じである。

そのままさらに西へと突撃していくと、すぐに風の松原に到着する。なんとも洒落た名前を付けたものだと思うが、
実際には防風林・防砂林として人工的に植えられたものであり、風への対策なのに「風」を肯定的なニュアンスで使う、
そのギャップがなんとも短絡的な印象を残すようにも思える。ちなみに、この名前は1987年に公募で決まったそうだ。
風の松原の防砂林としての歴史は古く、1711年に廻船問屋の越後屋太郎右エ門ら自費でクロマツを植えたのが始まり。
これは定着しなかったそうだが以降も努力が続けられ、現在は総延長14km、面積約760haという規模になっている。
中には散策路が縦横無尽に走っており、神社やアスレチックなどもあり、公園としての機能も持っているのだ。

  
L: というわけで風の松原までやってきた。もともと防砂林とはいえ、中はかなり自然を感じさせる空間となっている。
C: いったん海側へまわり込んでみたのだが、ぜんぜん松原の中に入れない。14kmにわたってこれが続くというのか。
R: 松原内に入ってわりとすぐの光景だが、
こんな感じでけっこうな樹海テイスト。とにかく面積が広いので、油断すると危ないかも。

とにかくものすごく面積が広いうえに、外から隔絶されているのである。いったん海側にまわってみたのだが、
海側からは風の松原の内部に入る道がなかなかない。しょうがないので来た道を引き返してあらためて中に入り込む。
そしたら入ってわりとすぐのところがアゲハチョウ天国で、健康志向のおじちゃんたちがランニングしている中、
何頭ものアゲハチョウがひらひらと舞い踊っている。あまりに見事だったので、時間を忘れてシャッターを切って過ごした。

  
L: クロアゲハ。見事なもんだな。  C: 翅の青い光沢がたまらないカラスアゲハ。構造色ならではの美しさが実に神秘的だ。
R: 奥へと自転車で爆走してみたのだが、細かい起伏があったりぬかるみかけている箇所があったりで、けっこう大変だった。

けっこうな数を撮影して納得すると、風の松原の内部をサイクリングしてまわる。しかし思った以上に広くて複雑で、
おまけに微妙な起伏はあるし一部ぬかるんでいるところはあるしで、走るのに苦労した。自転車だからよかったが、
軽い気持ちでランニングするにはちょっと危険な気もした。防砂林にしてはかなり湿り気を感じる空間だった。

帰りは寺町地帯から図書館をまわり込んで駅前に戻った。能代の魅力を存分には味わったとは言い切れないが、
能代という都市空間の多様な面をできる限り効率よく体験することはできたと思う。いろいろある街だったなあ。

能代から南へ1駅、東能代駅で奥羽本線に接続。かつて五能線がつくられる前にはこちらが能代駅だったというが、
周囲は住宅が整然と並んでいるのみである。純粋に能代駅へアクセスするための存在であることがよくわかる。
5分ほど過ごすと奥羽本線に乗り込んでさらに南下。いつもならある程度の規模の駅で降りて駅前の安い宿に泊まるが、
今日はちょっと特殊な行動をとるのだ。八郎潟駅で下車すると、駅前でしばらく待って、やってきたバスに乗り込む。
バスの行き先は大潟村だ。今夜はわざわざバスに揺られて、大潟村のホテルに泊まるのである。われながら物好きだわー。
詳しいことは明日のログで述べることになるけど、大潟村の都市空間に非常に興味があるからそうするのだ。

 奥羽本線の車窓から眺める大潟村。木々の並んでいる辺りがそう。

バスの終点が大潟村のホテル。しっかりとしたホテルなのだが、それなりにリーズナブルに泊まれるのがありがたい。
さすがに大潟村なので外に出て晩メシというわけにはいかず、ホテル内の中華料理店で炒飯をいただいた。
それから最上階の展望風呂に入ったのだが、これがかなり強烈だった。モール温泉という非常に珍しい種類だそうで、
500万年前の海水が地層水となって、被子植物由来の腐植質が溶け込んだものだという。火山によるものではないのだ。
「黄金色」と謳っているが実際には赤褐色、赤ワイン的な色である。なるほど、確かにふつうの温泉とはちょっと違う。
そんなわけで、ふやけきるまでモール温泉を堪能させていただきました。天気はイマイチでも全力で楽しんでおります。


2014.8.20 (Wed.)

夏休み! 先月には9日間という、実に贅沢な中国グランツーリスモを実行させてもらっており(→2014.7.19)、
今月は今月で台風との格闘となってしまったけれども名古屋と岐阜でサッカー観戦などをした(→2014.8.8)。
でもまだもう5日間の連続した休みが確保できる!ということで、東北地方に行っちゃうのである! 文句あっか!

今年のGWには太平洋側を旅している(→2014.5.3)。6月には奥入瀬渓流と大館など内陸を旅した(→2014.6.27)。
じゃあ今度は日本海側を行くしかないじゃないか!というわけで、スタート地点はやっぱり青森県の弘前である。
とはいえ弘前は前川建築をテーマにしてかなり徹底した街歩きをやったばかりなので(→2014.6.28)、
たった2ヶ月の間隔で再訪問するのはなんだか罪悪感をおぼえてしまう。そりゃあ金も貯まらねえよ……。
それでも弘前をスタート地点に選んだのは、五能線があるから。五能線で、羽越本線で、行ってみたい街がある。
初めて訪れる街も、以前訪れたことのある街も、きちんと発見できるものがある、そういう確信があるから旅に出るのだ。

品川駅からちょっと離れた京急のターミナルから乗り込んだバスは、弘前のバスターミナルに到着した。
2ヶ月前にはここから岩木山神社に向かっており、懐かしいという感覚はまったくなく、その続きという感覚である。
寝ぼけた頭を振り振り、歩いて弘前駅へと向かう。その際、再開発された通り(→2014.6.28)をわざわざ経由する。
あらためてもうちょっと詳しく、この通りそして公園を見てみたいと思ったからだ。天気はあいにくの曇り空だが、
写真を撮りながら細かいところまで見てまわる。朝早いのだがのんびり散歩する人がチラチラいて、人気はありそう。

  
L: 弘前駅付近の遊歩道「えきどてプロムナード」。駅から土手町までをつなぐのでそういう名前らしい。公募でついた。
C: 弘前駅前公園。くねってますねー。  R: 一段低いサンクンガーデンにはベンチが置かれて滞留空間となっている。

弘前駅のドトールでミラノサンドをいただきつつ日記を書いて過ごす。これではいつもの休日と同じではないかと思うが、
ここから先はどっぷり旅行モードに入ることになる。書けるだけ書くと五所川原へ。なお、川部駅から先が五能線となる。
五所川原に着いたものの、このまま素直に街へ出ることはしない。ここから津軽鉄道でぜひ行ってみたい場所がある。
それは太宰治の故郷として有名な金木(かなぎ)である。別に太宰はそこまで好きではないが、斜陽館は見ておきたい。

  
L: 津軽鉄道の本社。日本最北の私鉄である。ふーん。  C: 津軽鉄道の津軽五所川原駅。昔ながらの雰囲気が漂う。
R: 隣にはJRの五所川原駅。津軽鉄道とだいぶ差がありますなー。昨年の夏にレンガっぽく外観をリニューアルしたそうな。

金木に到着して1分後ぐらい、雨がさらさらと降り出して、結局それはかなりしっかりした降り方となってしまった。
旅先で雨に降られたときの悲しさは格別だ。先月の中国グランツーリスモは非常に運がよく津山で1時間降られただけ。
でも今回はだいぶすっきりしないスタートになってしまった。重い足取りで金木の中心部へと向かうのであった。
気持ちが沈んでいたので、途中にある太宰が疎開していた家もスルー。屋内は雨も関係ないから入りゃよかったのにねえ。

  
L: 金木駅。なんだこのデザインは。  C: 太宰治疎開の家。もっときちんと太宰を読んでから訪れたいものだ。
R: 雲祥寺の山門。1803(享和3)年に武田家が寄進したが、この武田家の屋号・金木屋から金木の地名が生まれたそうだ。

駅から金木の中心部まではけっこう道が曲がりくねっているが、メインストリートに出て驚いた。
斜陽館こと旧津島家住宅は、今までに見たことがないほどの圧倒的な豪邸ぶりで通りに面していたのだ。
そう、これだけの規模で周囲に対して睨みをきかせている個人の邸宅は、初めて見たように思う。
まずはレンガ塀だ。これだけ頑丈にしているのは小作人たちが抗議のため家に押し掛けてきた際の備えだそうで、
そんな可能性を想定すること自体が驚きである。津島家の大地主ぶりもそうだし、小作人からの絞りっぷりもそう。
なるほどこれは多感な太宰が自分の生まれについて後ろめたさを感じるわな、と一目で納得できるほどの威容だった。

  
L: まずは北西側から。これだけのレンガ塀が街の中心部にいきなり現れるということが、まずかなり異様である。
C: 斜陽館こと旧津島家住宅。明治から大正にかけての和風住宅で、これだけ大規模なものはそうそうあるまい。
R: 南西側から眺める。なるほど、斜陽館の向かいには、津島家が経営していた銀行の後身である青森銀行金木支店がある。

外観からしてふつうの住宅とは迫力が違う。違いすぎる。これを個人の邸宅として建てるとは、まさに「金木の殿様」。
設計は明治の弘前で大活躍した棟梁・堀江佐吉で、1907(明治40)年の竣工。名匠の手による究極の住宅建築だ。
レンガ塀という特異な外観もさることながら、それを従えてなおどっしりと構える主屋もまた鳥肌が立つほどの豪華さである。

  
L: 主屋の中、まずは土間から。ほかの木造建築と比べると広々としており、もはや廊下と形容していい雰囲気。
C: 中庭を眺める。やはり背景のレンガ塀が独特である。  R: 囲炉裏のある板の間。理想的な吹抜空間じゃないか。

明治後期の建物ということで、従来の和風木造住宅のいいところと洋風木造住宅のいいところが高度に融合している。
どちらかというと定着した洋風の価値観から和風を問い直したように思える。各部屋の広さからそう感じるのである。
それは厳しめの表現をすると、やや成金趣味的な和風の踏みはずし方をしている、ということになるのかと思う。
つまり、それまでの金持ちにはない発想の冒険をしている。それをまとめきった堀江佐吉の手腕が凄いということだ。
太宰はこの家について「風情も何もないただ大きいのである」と書いているが、その気持ちもわからないではない。
しかしこれだけぶっ飛んだレヴェルの豪邸ってのはそうそうないわけで、その迫力たるやただただ圧倒的である。

  
L: 太宰が生まれたという小座敷。「生まれてすみません」の現場である。「いい男だらう」な時期もあったのにね。
C: 仏間。この仏壇には絶句せざるをえない。  R: 金融業の空間だった洋間・店。小作人との話し合いの場だそうだ。

とにかくひとつひとつがゆったりと、そして丁寧につくられている豪邸だ。室内にいると、本当にそう思う。
しかしちょっと外に目をやると、そこには頑丈な赤いレンガの壁がある。そう、豪華である以上に、これは異質だ。
他の住宅と比べると、見事さが目を奪う反面、どうしてもある種の奇形的な要素が入り込んでくるのは否めない。
いくら太宰の作品名から採ったとはいえ、この誇らしげな邸宅に「斜陽館」と名付けたのは実に変な話だと思う。
しかしその語感にあるような「陰」が、確かにこの建物にはあるのだ。見事だ、では片付けられない何かが。
それは太宰自身が選んだ悲劇的な最期から逆算される感情なのかもしれないが、壁と建物の威容が、どこか哀しい。

  
L: 洋風部分の複雑な階段。これはよくつくったなあと呆れる。  C: 洋間。椅子もカーテンも絨毯もぜーんぶ豪華。
R: 窓から外を眺めると、どうしても赤レンガの壁が視界に入ってくる。壁で守られた豪邸は、太宰には空虚だったか。

晴れた日に訪れればまた違った印象を受けただろうと思う。雨に降られてしまったのは本当に残念だ。
しかしこればっかりはしょうがないので、おとなしく金木駅まで戻ることにする。途中で旧金木町役場、
現在は五所川原市役所の金木総合支所を撮影。シンプルな4階建てに手前が駐車場で、見事な町役場っぷりだった。

 五所川原市役所金木総合支所(旧金木町役場)。2005年に合併した。

津軽五所川原駅に戻ってくると、雨はやんでいた。どうやら僕が金木にいる間だけ降ったようで、返す返す残念である。
まあとにかく、ここは気を取り直して今度はしっかりと五所川原の街を味わうとするのだ。旅先では切り替えが重要だ。
さて、「五所川原」とはまた大層な名前である。曲がりくねった岩木川に5ヶ所の川原があった、という由来らしい。
そのままじゃねえか!と思うが、それはそれで個性的でインパクトのあるものがきっちり残ったのは悪くない。

まずはとりあえず、駅前から市役所を目指して歩いていく。五所川原市役所は岩木川のすぐ東側に位置しており、
駅からはちょっとだけ距離がある。ふつうなら駅から市役所までの間はそれなりの市街地になっているはずなのだが、
五所川原の場合には少し様相が異なっている。確かに商店街の要素はあるのだが、道幅が広くて閑散としている。
工事をしており、どうやら再開発の真っ最中であるようだ。五所川原はもともと商業がたいへん盛んな都市だったが、
郊外に「エルムの街」というショッピングセンターをつくったことで中心市街地が壊滅的な状況となったそうだ。
五所川原の街は幼少期の太宰にとっては最も身近な都会だったそうだが、そんな過去はまったく想像できない。
閑散とした市街地の中に屹立しているのは、立佞武多の館。まるですべてをリセットしようとしている空間の中で、
いち早くその核として生まれた使命を思わせるような威容を誇っている。ぜひ後で寄ってしっかり見学させてもらおう。

  
L: 五所川原駅から延びる商店街を振り返る。商店がないわけではないのだが、ずいぶんと数が淘汰された感触がある。
C: 国道339号沿いの商店街。個人商店が点在している。かつて賑わっていた雰囲気は今もしっかりと残っている。
R: 立佞武多の館の辺りから駅方面を振り返ったところ。こちらは再開発が進行中。五所川原は繁栄を取り戻せるのか。

そんなこんなで五所川原市役所に到着したのだが、ずいぶん奥まった位置に引っ込んでいる。手前に病院があるのだが、
その陰に隠れてこっそりと建っている。病院はやけに新しいので、おそらくもともとは市役所の駐車場だったのだろう。
市役所本体はだいぶ古くなっている印象なので、このまま病院に土地を譲ってどこかに新築移転しそうな気配が漂う。
後で調べてみたら、果たして新庁舎建設計画が進行中。新庁舎はもっと駅に近い病院の跡地に建てるとのことで、
つまり病院と土地を交換してお互い新しいものを建てるというわけである。これはなかなか大胆なやり方だ。
新庁舎の設計者はすでにプロポーザルで佐藤総合計画に決定している。きっとつまんねー建物ができるんだろうなあ。

  
L: 病院の裏にひっそりと建っている五所川原市役所。訪問が遅くて正面から撮影できなかったのは残念である。
C: 岩木川側の堤防から眺めた背面。  R: 角度を変えて眺める。後ろに巨大な建物があるけど、これが新しい病院。

現在の五所川原市役所は1971年の竣工。まだしばらく使えそうな気もするが、病院との土地のスワップはおそらく、
中心市街地の再開発とセットになった流れなのだろう。さっきの立佞武多の館もそうだし新しい病院もそうだし、
五所川原はずいぶん強大なエネルギーでもって空間を再編成しようとしている。よくそんなエネルギーがあるものだ。

  
L: 東北のポストは本当によくモノが乗っているなあ。  C: 「靴を洗ってお入り下さい」……? 泥で汚れた人が来るの?
R: 市役所入口を2階から振り返る。立佞武多のほか、五所川原で育った工藤哲巳(→2014.3.21)の作品も飾られている。

市役所の撮影を終えると立佞武多の館まで戻るが、さすがに腹が減った。そしたら建物の脇に飲食店の案内があった。
五所川原は特にブランドとしては確立されてはいないものの、けっこう人気のあるラーメン屋が多いようだ。
時間的な余裕もそれほどあるわけではないので、とりあえず立佞武多の館の裏にある店にお邪魔してみた。
そしたら比較的シンプルな醤油味で、かなり僕の好みで大満足。津軽のラーメンもなかなか奥が深そうである。

 
L: 立佞武多の館。INA新建築研究所の設計で2004年に竣工。祭りの際はガラスの壁面がパカッと開いて立佞武多が出動する。
R: 津軽地方は海産物でダシをとるおいしいラーメンが多数あるようだ。シンプルで大変おいしゅうございました。

エネルギーを補給して落ち着いたところで、いよいよ立佞武多の館の中へと入る。立佞武多展示室がメインだが、
1階には津軽地方の特産品をたくさん集めたお土産コーナーが充実しており、観光拠点としての機能はかなりのもの。
とりあえず600円払って立佞武多展示室に入ってみたら、いやーただただ圧倒されるのみだったね。本当に見事だった。

  
L: 復興祈願の立佞武多「鹿嶋大明神と地震鯰」。  C: 「陰陽 梵珠北斗星」。この2つが両側から客を見下ろす。
R: 背面はこのようになっている。梵珠山周辺に安倍晴明が北斗七星のように寺社を配置した伝説が元ネタだそうだ。

そもそも「立佞武多(たちねぷた)」とは何ぞや。青森県の夏の祭りといえば「ねぷた/ねぶた」が全国的に有名だが、
青森市や弘前市をはじめ津軽地方を中心に、青森県の各自治体にはそれぞれのねぷた/ねぶた祭りが存在している。
五所川原市の場合、わざわざ「立」と一言入れるだけのことはあり、20mほどの高さのねぷたを曳きまわすのである。
この高さによる迫力は、有無を言わせぬ凄みがある。デカいはエラい、そんな根源的な部分を一気に突き付けてくる。
しかも五所川原の立佞武多がすごいのは、一度伝統が途切れてしまったところを見事に復活させたところにある。
立佞武多が消えたのは市街地に電線が張られていったことが主な理由なのだが、1996年に古い設計図をもとに復元。
復元してみたらやっぱりものすごい説得力があったようで、以降は毎年1基ずつ新しい立佞武多がつくられているそうだ。

  
L: 4階から眺める鹿嶋大明神(武甕槌大神)VS地震鯰。要石(→2012.7.21)で鯰を抑えるが、上からだとその臨場感が半端ない。
C: 鹿嶋大明神と鯰を顔とほぼ同じ高さから眺めてみるとこうなる。迫力もさることながら、鮮やかな彩色が光で照らされて美しい。
R: この立佞武多の背面。猛々しい鹿嶋大明神とは対照的に温和な観音様となっている。両者を一体的に造形しているのが見事。

立佞武多の館は、内部がニューヨークのグッゲンハイム美術館(→2008.5.9)のようにスロープでつくられている。
エレベーターでまず4階に上がり、そこから立佞武多を360°眺めながらぐるぐると下りていくスタイルになっている。
さまざまな高さや角度で眺めることができ、立佞武多の立体構造物としての面白さが思う存分に堪能できるのだ。
立佞武多は骨組による多面体として構成されているが、この面のとり方が実に細やか。豪快な作品の繊細さがまたいい。

  
L: 安倍晴明。凛々しいですな。  C: 今年の新作「国性爺合戦 和籐内」。和籐内を中心に見ても凄いし、虎を中心に見ても凄い。
R: 角度を変えて
和籐内の横顔と2頭の虎を眺める。立佞武多のすごいところは、どの角度から見ても決定的な場面となっていること。

立体として本当によくできているので、角度によって見える景色が異なるし、それがまたどれも魅力的なのである。
それぞれの部分がいろんな表情を持っているうえに情報量が多く、かつ破綻がない。どこから見ても美しい。
立体の造形作品にはうるさい僕だが、五所川原の立佞武多は究極と言っていいレヴェルまで達していると思う。
いやー、ここまで感動できる芸術品だとはまったく知らなかった。お恥ずかしい限りである。本当に凄かったよ。

  
L: 立佞武多の館のグッゲンハイム的通路。ここは跳ね橋になっていて、立佞武多が出動する際に橋を上げるのだ。
C: 黒と白だけで面のとり方をわかりやすくした展示。うーん、ポリゴン。  R: 手のひらはこうなる。面白いなあ。

うっとり余韻に浸りつつ五所川原駅まで戻ると、五能線をさらに西へ。といってもわずか6分、お隣の木造駅で下車する。
「木造」というと戦国時代ファンとしては「こづくり」と読んでしまうのだが、こちらの読みは「きづくり」である。
木造町は2005年に4つの村と合併して「つがる市」となっている。そう、つがる市役所を押さえようというわけだ。
駅舎は「木造ふれ愛センター」という複合施設になっているようだ。外に出て何の気なしに振り返ってみて、驚愕した。
なんと建物の正面に巨大な土偶が貼り付いているではないか。予備知識のなかった僕は、しばらく茫然としてしまった。
そういえば、ずっと前にテレビでやっていた記憶がうっすらとある。しかしいきなりこんな現実を突き付けられると、
言葉を失って呆れるしかない。最も有名な土偶と言っていい遮光器土偶だが、ここまで大胆に貼り付けているということは、
つまりこの地でこいつが発掘されたということだろう。その事実を伝えるのに、これほど豪快な手法はほかに例があるまい。
この木造駅の土偶は「シャコちゃん」と呼ばれているそうで、ふるさと創生事業による1億円でつくられたとのこと。
かつては列車の発着に合わせて目が点滅したそうで(いらっしゃいビーム)、まあ、ここまでやれば立派だな、と。

 どーん! なんじゃこりゃ!

木造駅からつがる市役所までは距離がある。駅の周辺はかなり鄙びた雰囲気で、土偶の威容が実にシュールだ。
しかし駅からの県道沿いには、歴史を感じさせる古くて味のある建築がいくつかあって、土偶の駅以外の要素についても、
もうちょっと上手くアピールできないものかと思った。キワモノばっかりに注目がいくのは非常にもったいないと思う。

  
L: 規模の大きい佐野商店。いいねえー。黒石の中町(→2014.6.28)に並んでいる商店建築と同じスタイルである。
C: 商店街にある澁谷省吾商店。1階の入口が青森県らしく「こみせ」仕様になっているところがまた面白い。
R: 旧高谷銀行本店(現・盛農薬商会倉庫)。国登録有形文化財で、正面は非常に凝っているのだが……。うーん。

駅から延びる県道が角度を少し変えると商店街となる。ゆったりとカーヴしているのだが、これがかなり興味深い。
6月に同じ青森県は黒石市の中町で見た「こみせ」の文化(→2014.6.28)が、つがる市木造町でも息づいているのだ。
こちらは現代風のアーケードとなっているが、店先の空間を共有している精神はまったく変わらないものである。
それに、アーケードは連続するガラス戸によって車道と仕切られており、防寒対策がしっかりとなされている。
雁木やこみせなど雪国ならではの空間はいろいろ見てきたが、こういう事例は初めて目にしたのでさすがに驚いた。

  
L: つがる市木造町の商店街。カーヴする旧街道に沿って「こみせ」がアーケード化しているのがわかる。
C: 特徴的なのは、その「こみせ」空間がガラス戸によって閉じられていること。よっぽど寒いんだなあと思う。
R: 旧木造町中心部ではあちこちで土偶のデザインを見かける。しかもみんな律儀に左脚がない。駅舎のやつもそう。

徹底して左脚のない遮光器土偶のキャラクターたちに、歴史のある建物に、「こみせ」のアーケードにと、
つがる市は思った以上に特徴的な街である。市役所に着くまで、非常に濃い密度で社会学的な考察をさせられた。
そんな商店街の終端にある交差点を左に曲がると、空間のスケールががらっと変わる。もともとは農地だったと思うが、
そこを豪快に行政区域として開発しており、なかなか贅沢な間隔で銀行や公共施設が点在しているのだ。
つがる市役所はその西端に位置している。そこから先はただただ茫洋と広がる田んぼである。見事に真っ平らだ。

  
L: つがる市役所。木造町役場として1989年に竣工。  C: エントランスを眺める。  R: 東側から見たところ。

昭和末期から平成というと庁舎建築が巨大化していく流れが当たり前だったので、つがる市役所の3階建てはやはり、
いかにも町役場なレヴェルという印象である。しかし土地にはたっぷりと余裕があるので、狭苦しさは感じない。

 
L: 北側から側面と背面を眺める。  R: 一周して南側から眺める。安定感のある町役場って感じですな。

撮影を終えると、向かいにある「松の館」という施設で2時間ほど日記を書いて過ごす。五能線は本数が少ないので、
そんなに焦って駅まで戻る必要がないのだ。むしろ本数の少なさによって行動が制約されている面が強いんだけど……。
「松の館」はつがる市の生涯学習交流センターで、ホールや会議室が中心となっており、図書コーナーもくっついている。
運のいいことに近くにコンビニがあったので、そこで栄養分を買い込んでひたすら日記、日記。おかげでだいぶはかどった。

木造駅を出たのは18時少し前で、さすがに鯵ヶ沢駅に着いたときには日が落ちてだいぶ暗くなっていた。
しかし何よりつらかったのは、雨が降り出したこと。金木を出て以降は持ちこたえていたが、ついに降ってきた。
鯵ヶ沢の駅周辺はメシを食える雰囲気ではなかったので、駅前のショッピングセンターで食料を買い込む作戦に出る。
さすがに海産物が豊かでかなり惹かれたが、宿に泊まるのに海産物を買うってのはありえないので断念し、
ふつうに各種の惣菜を見繕って明日の朝メシ分も確保して完了とする。店は田舎の雰囲気でどこか懐かしい感触だった。

本日の宿はふつうの旅館なので、居間と寝室に分かれている感じで、独りで泊まるにはちょっと豪華だった。
お風呂は鯵ヶ沢温泉のお湯で、初日から飛ばしている僕には最高のご褒美なのであった。いやー、満足満足。
しかし部屋に戻ってテレビを見たら、広島市で起きた豪雨による土砂崩れのニュース一色。規模の大きさに背筋が凍った。
楽しみにしていた旅行の初日にそんなつらい現実を突き付けられると、なんとも申し訳のない気分になってしまう。
そういう気分になることぐらいしかできない。被害が小さく済めばいいのだが……と思いつつ眠りにつく。


2014.8.19 (Tue.)

毎年恒例、説明会に参加する。ある学校のお偉いさんがなぜか僕の顔を覚えてくれているんですが、
採用してくれませんかね。いい働きしますよ。ボールは収まらないけど両足でパスが出せてドリブル速いっすよ。

本日も去年までウチにいた先生の学校と合同練習。やはり「傷を舐め合う」ではないが、慰め合いつつ練習な感じ。
しかしまあこれが走らない走らない。本当にまったく走らないのである。サッカーがサッカーとして成立しないではないか。
相手はお客さんなので「走ろうね」と優しく声をかけるのだが、内心イライラ。ちゃんとやらないことがいちばん腹が立つ。


2014.8.18 (Mon.)

ここであらためて、この日記のサイトポリシーなどを。

いわゆる「びゅく仙」の日記です。毎日のテキトーなできごとをテキトーに書き散らしています。
今のところ、内容は旅行記と各種レヴューが中心になっています。旅行記は市役所めぐり、建築めぐり、一宮めぐり、
サッカー観戦の記録が多いです。レヴューはマンガや映画やいろいろ。旅行記もレヴューも書くのが大変で遅れ気味です。
いちおうきちんと後から書き足しているので、2001年4月1日から一日も漏らさず書いていることになっています。
今日現在、2014年5月までは完了しています。6月分はW杯関連のログがある関係で手間取っていますが、
いずれ書き上げますのでちょこちょこチェックしてみてください。トップページの日付をクリックすると更新記録が見られます。
まあ、この日記はあくまで「親しい人向けの生存報告」かつ「僕の備忘録」ですので、テキトーにお楽しみください。

細かいことは前のログでも書いていますので、リンクを貼っておきます(→2006.8.21)。よろしく!


2014.8.17 (Sun.)

ピザを食って東京に帰るわけだが、そういえば肝心の信濃国一宮の御守を持っていないわ、ということで諏訪大社へ。
ちなみに今回のピザは母親の希望でシーフードのスモールを注文。どうしても一度食べてみたかったそうで。
味はふつうにおいしいシーフードでございました。でもそろそろ3人でラージ3枚というのは見直すべきかと思う。

さて、諏訪大社。茅野から電車に乗りたいので、まずは下社から。順当に春宮→秋宮とまわりましょうか、となる。
諏訪大社4ヶ所を一気にまわるのは、実はトシユキさんバヒサシさんと一緒に8年前にやっている(→2006.9.3)。
今回、いい機会なのであらためてマツシマ家親子3人で参拝することにしたわけで。両親わりと乗り気。

ここでいつもなら神社の概要をまとめるところだが、諏訪大社は本当に複雑。創建年代がわからないほどの歴史があり、
しかも4ヶ所に分かれていて、おまけに独特な神事がいっぱい。調べだしたらキリがないのだ。まとめようがない。
そもそもなぜ4ヶ所あるのかがわからない。そんな一宮はここだけだ(若狭彦&若狭姫神社より複雑だ →2010.8.20)。
祭神は建御名方神と八坂刀売神だが、それ以前の原始的な土着信仰に上書きする形で成立している節があり、
諏訪の地元民でない僕にはサッパリ。でも参拝客はいっぱい。お盆休みの最終日ってこともあるだろうけど。
詳しいことはよくわからないけど一宮だパワースポットだ、という人もいるだろう。ま、自分もその範疇だしな。

岡谷市役所の脇を抜け、国道20号で下社春宮へ。参道との交差点に一の鳥居があり、両親はぜひ撮りなさい、と。
近くに西友があったので、両親が飲み物を買っている間に素早く撮影。それから参道をしばらく行くと、太鼓橋(下馬橋)。
さっきの鳥居といいこの太鼓橋といい、かつてこの参道はもっと厳かで境内も広かったのだろうけど、今はすっかり住宅地。
道路に太鼓橋だけが取り残された光景は非常に珍しい。諏訪大社の威厳を感じると同時に、住民の現実もまた感じる。

  
L: 諏訪大社・下社春宮の一の鳥居。国道20号(中山道)に面している。  C: 参道には太鼓橋が往時の姿のまま残っている。
R: 横から眺めてみる。室町時代につくられたそうで、身分にかかわらず下馬して渡らなければならないという。だから下馬橋なのね。

境内に入る前から圧倒されたが、手水舎で身を清めるといざ参拝開始。ちなみに下社春宮は手水舎も鳥居の外だ。
鳥居をくぐると、参道は両側に石畳が敷かれて真ん中を歩きにくいようになっている。まあ神様の通り道だからねえ。
立派な狛犬の目の前を抜けていくと、そのまま神楽殿の前に出る。春宮は奥まった住宅地に位置しているためか、
規模の大きさのわりには静かな場所という印象がある。周囲の緑に深く包まれているため、より先史時代っぽさが強い。

  
L: 諏訪大社・下社春宮の境内入口。境内がかつてより狭まったのか、手水舎が外にあるという格好になっている。
C: 鳥居をくぐると石畳の参道。そのまままっすぐ神楽殿と向き合う。  R: 神楽殿。境内は緑に包まれているのだ。

基本的に神社ってのは人工の空間である。規模が大きくなればなるほど、人間の手で整備された感触は強くなる。
しかし下社春宮は豊かに生い茂る緑の中に溶け込むように、ひっそりと社殿がたたずんでいるのが特徴的だ。
他県から参拝に来た人はこの緑と社殿が一体になった感じに「自然豊かな信州」という印象を抱くのだろうが、
落ち着いて考えてみると確かに、人工の部分を自然が包んで一体化した聖地、そういう感触の神社である。

  
L: ちょっと角度を変えて境内の様子を撮影。下社の境内は春宮・秋宮ともにシンプルな構造をしているのだ。
C: 幣拝殿。1780(安永9)年竣工。左右に片拝殿を従えた楼門が幣殿と拝殿を兼ねる。本殿はない、独特な形だ。
R: 片拝殿の奥を覗き込んでみました。これは宝殿(西)で、本殿ではないわけね。いろいろ難しいなあ。

境内の西側を流れる砥川の対岸には万治の石仏。岡本太郎や新田次郎が大絶賛ということで有名になったそうだ。
昔、家族で見にきたことがあるそうだが、あんまり記憶がない。境内からはわりとすぐで、小ぎれいな道がある。
「前はこんなんじゃなかったに。草ボーボーだったら」とは母親の弁だが、しっかりと観光地化されたわけだ。
人が絶えることのない人気ぶりで、のぼりが立っていたり手ぬぐいなどのお土産を売っていたりしており、
下諏訪の観光スポットとして認知されているようだ。パワースポットブームで春宮と合わせて人気になっている模様。
(この後、秋宮へ向かう参道の坂道で、「まんじ君」「万治くん」としてキャラクター化されているのを見た……。)

  
L: 万治の石仏へと向かう道。小ぎれいに整備されているが、昔はこんなんじゃなかったそうだ。なるほどなあ。
C: これが万治の石仏。鳥居をつくろうとノミを入れたら血が出たので石仏にした、とのこと。田中将大に似ているかも。
R: 横から見るとこんな感じでスフィンクスっぽい。正面部分にだけ袈裟を彫っているところがまた面白い。

続いては秋宮だ。国道20号を東へ直進していくと、そのまま坂を上ってぶち当たる。道沿いに店などがチラチラあって、
下諏訪駅に近いこともあってこちらはちょっと都会な印象。坂道を上りきると土産物店もある。人も多くて賑わっている。
奥にある駐車場に運よく入れたが、お盆であることを考慮しても、けっこう全国各地のナンバープレートにびっくりした。

  
L: 諏訪大社・下社秋宮。やはり手水舎は鳥居の外側だった。この近くは観光拠点となっており、人も車も多いのだ。
C: 鳥居をくぐると上りの参道。やはりこちらも真ん中を通りづらくしている。上りきると根入の杉が大迫力で立つ。
R: 秋宮の神楽殿。形は同じだが、こちらの方が春宮より大きい。なお、狛犬は青銅製では日本一の高さ、とのこと。

というわけで、こちらははっきりと「里の神社」である。それでもやっぱり豊富な緑に包まれている感覚は強い。
春宮と同じように幣拝殿を撮影しようと思ったのだが、参拝を待つ行列が絶えないのでちょっと困った。
まあ「諏訪大社4ヶ所行くのは面倒くさいからひとつだけ選ぼう」となると、ここがいちばんフォトジェニックなので、
どうしても人気があるのはわかるけどね。しかし諏訪大社独自の諏訪造はオリジナリティがあって面白いとあらためて思う。

  
L: 秋宮の幣拝殿。春宮とまったく同じスタイル、左右に片拝殿を従えている諏訪造である。これが「諏訪大社らしさ」か。
C: 角度を変えて逆側から。春宮も秋宮も同じ形だが、彫刻の腕を競って建てられたそうだ。こちらは1781(安永10)年の竣工。
R: 片拝殿の奥を覗き込むとやっぱり宝殿(東)。社殿の配置も春宮とまったく同じになっており、本殿はない。

ストレートだった春宮の境内と比べると、秋宮の境内は石段を上りきったところで少し曲がっていることもあり、
やや広い印象がする。春宮ほど緑の密度がないので、その分だけ開けているように思えるのかもしれない。
しかしどちらも基本的には単純な構造の空間だから、参道・境内・社殿を撮っておしまい、になってしまうのだ。
秋宮は春宮のように「途中の参道にこんなものが!」という要素がなく、シャッターを切る回数が少なくなってしまった。

 
L: 片拝殿の脇には御柱。諏訪大社では社殿の周囲に立てられているのだ。  R: 神楽殿を振り返って眺める。

これで下社は参拝完了である。そのまま国道20号を進んでいくと、上諏訪駅前を抜けて茅野市方面へ。
そして茅野市に入る手前の県道183号線で上川を渡ろうとしたところに鳥居が現れた。親に撮れ撮れと言われて撮影。

 確かにまっすぐ行けば上社本宮だけど、ここに鳥居って、だいぶ距離があるのだが。

そのまままっすぐ行って国道20号バイパスに入ることなく中央自動車道をくぐって、上社本宮をスルー。
circo氏が「『前』だから前宮から行こう」と言うので。まあもともとは本宮の摂社だったそうだからいいか。
山沿いの道を東の方へと進んでいくと、左手に前宮であることを示す置物の看板とともに駐車場が現れる。
信号を見れば「前宮前」という交差点の名前の表示がついている。確かに前宮の前なので当たり前だが、なんか面白い。

  
L: 前宮の鳥居。  C: 鳥居をくぐって境内に入る。参道の片側にだけ石段がついており、参拝者はそこから上る。
R: 石段を上るとこの光景。この辺りはいかにも田舎の神社っぽい雰囲気だが、鳥居をくぐるとけっこうびっくり。

8年前にも書いているが(→2006.9.3)、前宮は非常に独特な場所である。まず、境内がいったん途切れる点。
本殿へ向かう参道はしっかりあるが、両側とも住宅ができており、境内の参道らしい厳かな雰囲気はほとんどない。
しかしまっすぐ坂を上っていくとこんもりとした森が現れ、その中に静かに社殿がたたずむ光景を目にすることになる。
これがまさに日本の山里の原風景を思わせるのだ。この感触は実際に現地を訪れないとわからないだろう。

  
L: 鳥居をくぐると右手に内御玉殿。  C: 左手の十間廊を石段から見下ろしたところ。立派な建物である。
R: 石段を上りきると住宅地。境内が途切れて参道らしさが激減するので驚いてしまうが、これをまっすぐ行く。

さっきも書いたが前宮はもともと「上社境外摂社筆頭」だったが、明治に入って独立し、諏訪大社は4つになった。
しかしそういう経緯があるからか、4ヶ所の中では最も自然の色が濃く、人工色が薄い神社となっているのである。
その分だけ縄文時代からの原始的な信仰の地という匂いが非常に強い。個人的にはけっこう好きな空間なのだ。

  
L: 諏訪大社・上社前宮とその背景の森。  C: 右手にはちゃんと御柱が立っている。下社とだいぶ違いますな。
R: 8年前とは違う角度で拝所を眺める。諏訪大社は「高台で豊富な水や日照が得られる良き地」と言うが、そのとおり。

いよいよ最後は上社本宮(ほんみや)である。来た道をそのまま引き返したので境内の脇、南東側から入る。
上社本宮の構造は複雑で面白い。正面の鳥居をくぐってそのまま石段を上っていくこともできるのだが、
神楽殿・土俵の方からまわり込んで布橋を進んでいくコースもある。今回は脇から境内に入ったのでまず布橋から。

  
L: 東南側の鳥居をくぐると入口御門と布橋。  C: 途中には御柱祭についての説明がある。  R: 布橋を行く。

下社が春宮・秋宮ともに比較的単純な構造の空間だったのに対し、上社本宮はかなり複雑なことになっている。
まっすぐ石段を上ってもいいし、布橋経由で遠回りをしてもいい。しかしどのみち、拝殿は横向きになっていて、
玉垣で区切られた部分には端っこから入るのだ。このぐるぐる感はまるで蛇、ミシャグジ様かいな、と思いつつ参拝。

  
L: 布橋から眺める神楽殿。  C: 布橋を抜けるとくねる参道で拝殿を目指す。この後、門から入ってヘアピン状に動く。
R: 門を抜けると左手に拝所。拝殿はこの奥にあるのだが、斎庭で隔てられていて入れない。この拝所から参拝するのだ。

本宮の主要な社殿は現在保存修理工事中ということで、残念ながら今回はその姿を見ることはできなかった。
拝所の先には拝殿の写真があり、そこに向かって参拝となった。circo氏は面白がって喜んでいたけどね。

 今回はこれでガマンなのだ。

あとはしばらく境内を散策して過ごす。前宮もそうだが、上社は下社と比べると境内が複雑になっている分、
あちこちに興味深い要素が散らばっている。変に洗練されていないところに、古来の信仰を感じるというわけだ。

  
L: 信州が誇る雷電為右衛門の像。  C: 神楽殿から境内東側を眺める。左手には土俵。布橋は右側を通っている。
R: 上社本宮の鳥居。門前には何軒か土産物店が並んでいるが、さすがに下社秋宮ほどの賑わいではない。

なお、肝心の御守だが、4ヶ所とも同じものだった。その点は4ヶ所とも諏訪大社というひとつの神社、と感じさせる。
(山城国一宮は上賀茂・下鴨を合わせてひとつとしているが、実際には別個の神社であり御守もそれぞれ別にある。)
今回は上下でそれぞれひとつずつ、合わせてふたつ頂戴しておいた。これで信濃国の分はクリアなのだ。

茅野から八王子まで特急、その後はふつうの列車で帰る。やはりあずさは混んでいて、八王子までは立ちっぱなし。


2014.8.16 (Sat.)

今年のお盆はなかなかにつらい生活をしておったわけですが(原因はこちらの性格にあるのは重々承知しております)、
本日は高校の同級会なのであった。昨年は学年全体でド派手にやったのだが(→2013.1.2)、今回はわがC組のみ。
ただ、昨年欠席された担任のシンカイ先生がいらっしゃるということで、軽くサツアイをかましに出かけるのであった。

幹事がタカハシ(旧姓、男)とフクザワさん(旧姓、女性)ということでアウェイな空気が吹き荒れることを予想していたが、
会場のドアを開けたら昨年会ったメンバーを中心に、親しかった面々ばっかりだったので大いに安心。これはホームですじゃ。
脱メガネ男子した僕にスガヌマだけは戸惑っていたが、首を傾げて様子を探る僕の仕草で誰だか理解できたとのこと。
そんなスガヌマも今や市立病院の先生ですか。順調な人生を歩んでらっしゃいますね。うーん、人生って面白いな。

参加人数が多くなかったのが残念だが(前にC組で集まったときにはけっこういたらしいが、そのとき僕は行方不明扱い)、
みんな本当に姿かたちが変わらないので高校時代から時間が進んだ気がしない。まあ独身はオレだけだったけどよ。
35過ぎてピーターパンやるのも大変よ。誰からも頼まれていないけどな。とことん自分勝手なんだなあと自分で思う。

2次会はカラオケ。なんでもアリで楽しかったねえ。シンカイ先生を送り出した後の3次会でもスミノやタカマサなど、
親しい面々とあれこれ話して本当に楽しゅうございました。タカマサの「アヤちゃんいい子だー」発言がいちばんよかったわ。

今回、特に記しておきたい感想はふたつ。ひとつは、あの高校生がこういう大人になるのか、というのが見えたこと。
教員をやっていると、ある程度、人間を類型化して見ていくことになる。その経験から、「なるほどこうなるのか」が見えた。
つまり逆算して、いま面倒をみている生徒たちが将来どういう大人になっていくのかが、少し具体的につかめたということだ。
高校時代の仲間はみんな楽しい面々なので、その「成長」をポジティヴなものとして受け止められたのも大きい。

もうひとつは、タカマサの僕に対する思いである。僕は別にテキトーな10代を気ままに過ごしていただけなのだが、
どうもタカマサは僕の能力を猛烈に高く評価してくれていたらしく、「お前はこのまま終わっちゃいかん」とさんざん言われた。
まるで江戸時代や明治時代に、地元に残った人が都会に出た人に対して期待するような、本当にそんな感触なのだ。
僕としては戸惑うしかないのだが、思わず申し訳ない気分になってしまったではないか。うーん、小さくまとまっていてすまん。
中学時代は思うがままに趣味に走っていたし、高校時代は誰も僕が一橋に入るなんて予想できないほど停滞していたし、
僕がなけなしの才気を発揮していた場面なんて思いつかないのだが。過去の自分ほど客観視できないものもないが。

まあタカマサくん、気長に待っていてくれ。運が良ければどうにかなるし、そうでなければどうにもならん。それだけのことよ。


2014.8.15 (Fri.)

つらいでございますよ。オレはオトナというものがとことん嫌いなんだなあ、と実感したです。
自分がだらしないのは別にいいけど、ひと様に迷惑をかけるからちゃんとしないといけない、というシチュエーションがつらい。
まあその反面、自分がとことん自分勝手というかワガママというか、自分のことにしか興味がないことも実感しましたが。
……何の話かって? 潤平の嫁の家族が総出で保育園に来たんだよ! オトナの付き合いとか、むーりぃー。


2014.8.14 (Thu.)

潤平が設計した育良保育園の撮影をやるぞ、ということで、よくわからないままその手伝いに駆り出される。
プロのカメラマンの方があちこち撮っていくのだが、物を移動する必要があるときだけ呼ばれて動かして、その繰り返し。
待っている間は、「ちょうどいいじゃねえか」とcirco氏に言われて、ひたすら日記を書いて過ごすのであった。
おかげでグングン進みましたけどね、なんというかまあ、なんとも。役には立っていたらしいので、いいんだけど。


2014.8.13 (Wed.)

『朝日のような夕日をつれて2014』。17年ぶりの再演だそうだが、こっちも観劇じたいがだいぶ久しぶりだ。
鴻上尚史の処女作にして代表作。80年代の日本で熱狂的に迎えられた作品。半ば義務感で紀伊国屋ホールへ行く。

これまでちょこちょこと鴻上尚史の演劇は観てきた(→2004.3.282005.11.102006.6.12007.3.8)。
過去ログを見たら、『朝日のような夕日をつれて』は1991年上演版の戯曲を読んでいたじゃないか(→2003.5.8)。
そんなことすっかり忘れとったわ。「破綻している。物語の破綻を宣言した演劇なので、当然なのだが。」
「やっぱりこれはきちんと上演されたものを観ないとお話にならない気がする。お話になっていないだけに。」
などと書いている。でも第三舞台は解散しちゃったけど、11年経って観ることができたね。よかったよかった。
さらに鴻上尚史については、別のログの中でこう書いたことがある(→2002.4.14)。
「鴻上作品には『穴がある』と思う。作品の世界を風船にたとえると、必ずどこかから空気が漏れている感じ。」
今回、『朝日のような夕日をつれて2014』を観て、あらためてその点について考えることとなった。

暗闇の中、男5人のささやき声で舞台は始まる。そして大音量のYMO『The End of Asia』。
明かりがついたらそこはおもちゃ会社・立花トーイの一室なのだが、スーツ姿がなんだか80年代を想起させる。
『朝日のような夕日をつれて』は、ベケットの『ゴドーを待ちながら』を下敷きにしている世界がまずあって、
そこに新しいおもちゃの開発で右往左往する立花トーイの面々を重ねるという形で設定がつくられているのだ。
『ゴドーを待ちながら』は不条理演劇の名作とされており、安易な救いや解決は訪れない、という中身となっている。
鴻上はそれを十分ふまえた上で、安易な解決=物語をはっきり否定した。『朝日のような夕日をつれて』はその宣言だ。
舞台の上で展開されるのは、時事ネタのパロディや言葉遊び、ボール遊びなど。しかも脈絡がまったくない。
物語性は完全に解体されており、もしオレが役者だったら順序がわからなくて絶対にセリフが覚えられないわと思う。
上で「鴻上作品には『穴がある』」と書いたが、穴どころか、完全に破裂していてちぎれた破片だけで構成されている。
役者は第三舞台出身のふたりが安定を見せる中、若手ふたりの力強さが目立つ。あとはがんばれ藤井隆という感じ。
現在進行形のネタを随所に盛り込みながらも80年代の雰囲気を漂わせているところが、なんとなく不思議だ。
人物はそのままで背景を自在に入れ替えて複数の世界を生み出すことは、鴻上は最初からやっていたのね、と思う。
しかし時事ネタのパロディに観客が拍手を贈るという構図は、歌舞伎とまったく同じである(→2008.1.13)。
鴻上尚史とその観客も、ついにそういう領域に入ってきたということか、なんて考えるのであった。

感想としては正直、「わからん」「合わん」である。僕としては物語の想像力に揺られる方がやっぱり楽しい。
神や理想や救いや安易な解決を具体化した物語というものを完全に解体して否定するこの作品は、どうしても合わない。
観客たちがどこに焦点を絞って「よかった」と言うのかもわからない。全体がないので部分の評価になるだろうけど、
ではどの部分をもって評価するのかがわからない。役者の身体性? 印象的なセリフ? 僕にはわからないのだ。
ただ、鴻上尚史がこの「破綻」の話をつくるにあたって、とことんまで考え抜いていることはわかる。
待っている人たちが、時間つぶし、時間を浪費する対象であるおもちゃをつくる会社の人たち、という設定は、
ものすごく的確である。だからこそ、初演から33年経っても時代に即した新しい形でつくり直すことができるのだ。
とはいえやはりこの演劇は、80年代という時代にマッチしたものだったわけだ。世紀をまたいでしまった現在、
どのような新しい意味合いを持ちはじめているのか、そこまでは申し訳ないけど僕の頭ではわからない。

いちばんわからないのは、タイトルなのだ。「朝日のような夕日」、それを「つれて」とは。つれてどうする?
今回、あらためてそこを考えてみたのだが、「朝日」とは始まり、可能性、そこから転じて理想と考えられないか。
対する「夕日」とは終わり、結果、そして現実であるように思う。「のような」という言葉でつながれているのは、
理想と現実が等価であること、結局は同じ結果になるということと解釈できるのではないか。
では、「つれて」どうするのか。まあ、「一緒に」、そして「生きていく」ってことだろう。
かつて宮台真司は『終わりなき日常を生きろ』という本を出したが、それをかなり先回りした意味合いに思える。
でも一方で、「リーインカネーション。生まれ変わりを私は、信じます。」と言う。リセット、やり直しを語る。
安易な救いはありえないけどリセットを信じろ、と。うーん、わかったようなわからんようなだ。どっちなんだ。
冒頭とラストでは「朝日のような夕日をつれて 僕は立ち続ける」というセリフが出てくるが、
男5人での決意表明は、まあ確かに見た感じかっこいい。そして内容を自分なりに好きに解釈できるところに、
この作品の支持される理由があるのだろうと思う。まあ、10年経ってもわからんもんはわからんということはわかった。


2014.8.12 (Tue.)

3Dドラえもん映画をめぐる気持ちの悪さについて。

どうにも3Dドラえもんが気持ち悪いのである。CGだから気持ち悪いのももちろんあるが、それ以外の部分も気持ち悪い。
それは、感動できるぞ感動できるぞと宣伝している点。映画で感動を煽るのは違和感がある(→2008.9.42009.2.17)。
感動させることを目的に映画をつくることは、感動の押しつけ・強要としか僕には思えないのだ。感動の押し売り。
前にも書いたけど、感動するというのは自動詞であり、「(自分が)感動してしまう」ということだと思う。
「(相手を)感動させる」「(相手に)感動させられる」という他動詞の感動は、僕には偽物の感動にしか思えない。
やはり感動は時間と空間の共有によって自然に生まれてほしい。狙って絞り出させる感動は、本質からはずれている。

でもそれ以上に気持ち悪いのは、企業にバックアップさせている部分である。これは究極的な気持ちの悪さだ。
たとえば、「○○は『STAND BY ME ドラえもん』を応援しています」というナレーションが入るCM。これがやたらと多い。
できるだけ多くの企業を巻き込むことによって、3Dドラえもんが主流派であるように見せかける。実に姑息なやり口である。
AKBは所属事務所を振り分けて利害関係を分散させ、足を引っ張る要素を減らす戦略をとっているが、あれに近い。
多くの企業から公認を得ているような印象を与えることで、3Dドラえもんに対する反感を減らそうとしているのである。
作品じたいの力で勝負するのではなく、土俵の外にある力で勝負している。このズルい姿勢が本当に許せない。

あらかじめ感動を強要し、企業の力を借りることで存在を正当化する。これほど汚いやり方で『ドラえもん』を汚すとは。
なんでこんなことが許されてしまうのか。もういいかげんにしてほしい。僕は絶対に『STAND BY ME ドラえもん』を見ない。
無視することで対抗するしかない。『ドラえもん』を自分のために利用しようとする連中を、僕は絶対に許さない。


2014.8.11 (Mon.)

結局、ムーンライトながらは1時間遅れをきっちりと守ってくれたので、品川駅に着いたのは朝の6時過ぎなのであった。
列車を乗り継いでいったん家まで戻ると、30分間で荷物の整理をして身支度を整えて、いざ出勤。われながらよくやるわ。
今日は午前中に部活。軽くヘロヘロになる時間帯がありつつも、最終的にはいつもどおりに走りまわるのであった。
特に今日に限っていつもより最後のゲームが盛り上がって長期戦で、顧問として率先して走らにゃならんから大変で。

で、部活が終わると青春18きっぷがもったいないのでそのままお出かけ。ホント、われながらよくやるわ。
気がつけばすでに午後1時をまわっているので、相模国一宮の御守収集にテーマをしぼる。悪くないアイデアでしょ。
まずは寒川神社から攻めることにした。横須賀線と湘南新宿ラインを乗り継ぎ、茅ヶ崎駅から相模線。久しぶりだな。
宮山駅で降りてまっすぐ南下。せっかくなので今回はでっかい二の鳥居まで行ってみることにした。

 すごく目立っている寒川神社の参集殿。神社っぽさを大胆に混ぜたな。

二の鳥居まで南下してからそのまま参道を戻っていくのはなんだか間が抜けている気もするのだが、それはそれとして、
それなりに身が引き締まるのも確かである。そしたら寒川神社の境内入口は、工事がすっかり終わっていた。
前回訪問は3年前なので(→2011.5.4)、そりゃそうだよな、と思う。玉前神社がおかしいのだ(→2014.8.3)。

  
L: 寒川神社の大鳥居(二の鳥居)。  C: 境内と三の鳥居。なんだかすべてが真新しい。白い石が日差しを反射して眩しい。
R: 境内の参道を行く。寒川神社はけっこう緑豊かなんだよな。途中にはかつて一の鳥居の一部だった石が置かれていたよ。

というわけであらためて参拝である。やっぱり寒川神社の神門から先はとっても堂々とした大空間で、威厳たっぷり。
ぐるっと回廊が囲んでいて、そのいちばん奥のところに拝殿がある。しっかりと幅があるわりには高さを抑えているのか、
見るからに新しい木材を使っているけど非常に安定感というか重厚感が強い建物となっている。きれいなもんだ。

二礼二拍手一礼を終えるといざ授与所へ。いつもいちばん標準的なもの、いちばんふつうのやつをいただいているが、
寒川神社の場合にはそれがない。どれも専門の守備範囲があるというか、ご利益によって各種の御守が用意されている。
そういう神社は別に珍しくないのだが、割合でいえば2割くらいかなあ、まあとにかく少数派である。これはけっこう困る。
で、迷った挙句、寒川神社は八方除が売りなので、「八方除幸運を呼ぶ守」を頂戴することにした。ふつうっぽいし。
しかしこれがまた困ったもんで、5色あるんですよ。白・紫・赤・青・黄。しかもそれぞれの色でご利益が違うのね。
御守の色は神社によってそれぞれで、複数の選択肢がある場合も多い。1種類しかない場合の方が少ない。
そういうときは直感で頂戴するのを決めているのだが、ご利益という理由がついちゃうとそれはそれで困ってしまうのだ。
しょうがないので「万願成就」という、まことに大は小を兼ねる的な発想によって白色の御守を頂戴したのであった。

  
L: 寒川神社の神門。これは前回も撮影しましたな。  C: 拝殿と回廊。今回は広さをやや強調する構図で撮ってみました。
R: 回廊のおかげで本殿を覗き込めない。後で境内の外から見たら、こんな感じで生垣が壁になっていた。高くて見えん!

急いで宮山駅まで戻ったのだが、茅ヶ崎行きの列車は駅舎に入る直前のところでドアが閉まったのであった。
御守の色で迷っているからこんなことになってしまうのである。汗びっしょりになりつつ15分間の足止めを食らう。

相模国一宮はもうひとつあって、鎌倉の鶴岡八幡宮がそうなのだ。源頼義が石清水八幡宮を勧請したわけだから、
時代的に一宮ってのは違うんじゃないのって気もするが、デカい神社が後から一宮とみなされる例は珍しくないので、
まあ納得して参拝するのだ。よく考えたら、一宮ってことで鶴岡八幡宮を訪れるのは今回が初めてだ。テキトーだなあ。

大船で横須賀線に乗り換えたときにはそんなに乗客がいなかったのですっかり油断していたのだが、
やはり観光地・鎌倉の人気は絶対的なものがあった。駅から若宮大路から、とにかく人でごった返していた。
聞こえてくる外国語も非常に多彩。もともと観光客が多い場所だったが、最近は特に極限まで増えている気がする。
時刻はもう夕方の5時になろうかというところなのに(なんだかんだで神奈川県内を移動するのは時間がかかる……)、
人の波はいっこうに収まる気配がない。トロトロしていて鶴岡八幡宮の授与所が閉まったら元も子もないので、
若宮大路を急いで北上。駅から鶴岡八幡宮までって地味に距離があるんだよなあ。境内に入ってからも長いし。
どうにか舞殿のところまで到着すると、石段を一気に上って拝殿を目指す。そしたら途中に行列ができていた。
まさかと思ったら、お参りしようとしている人たちの列。午後5時なのに。思わず膝から崩れて石段落ちしそうになったよ。

 うへぇ……。

どうしょうもないので、今回は御守を頂戴するのみにして参拝は後日ということにさせてもらう。いずれ遠足で来るからね。
いや、それにしてもこれはまいった。鎌倉の混雑ぶり自体も呆れるしかないのだが、それにしてもこれはなあ……。

さて鶴岡八幡宮の御守だが、ここも標準的な「なんでもご利益OK」的なものがなくて困った。
いや、いちおう錦守(300円)があるにはあるのだが、紐のついた守袋に入っている標準的なデザインではないので、
これはちょっとなあと。結局、いちばんシンプルな健康守袋とセットで頂戴しておいた。なかなか難しいもんですなあ。

帰りは武蔵小杉で乗り換えの距離にやっぱりウンザリ。なんか、こう、もうちょっとなんとかなりませんかね。ならねーのか。


2014.8.10 (Sun.)

雨である。いや、それどころか台風である。早朝に岐阜に移動して県庁だの市役所だの城跡だのを訪れる予定だったが、
とてもとてもそんな状況ではない。しょうがないので、宿で昨日の画像を整理して、チェックアウトすると朝メシを食って、
そのまま近くのカフェで日記を書いていたら、ガラス戸の向こうは大荒れ。傘はおちょこで木々の小さい枝が飛んでいる。
いよいよ本格的な台風が到来してしまい、出るに出られない状況となってしまった。それでも腹は着実に減ってくる。

意を決してカフェを飛び出すと、強風の中を進んで地下鉄の入口へと飛び込む。伏見駅の近くまで来ていて正解だった。
地下鉄は無事に動いていたので名古屋駅へ移動。台風でも地下なら気にせず過ごせるのだ。名古屋は地下の街だぜ。
名古屋に来たからには寿がきやラーメンを食いたいのである。エスカの端っこに新形態の寿がきやがあるので突撃。
ほかの店舗ならラーメン300円が、なぜか440円もする。でも地上の寿がきやまで行く気力がないのでそこで済ませる。

 寿がきやラーメン大盛。どの辺が+140円なのかはよくわからない。

岐阜市内の観光を諦めたわけだが、本日いちばんの焦点は、J2・FC岐阜×愛媛FCの試合が開催されるかどうかだ。
すでにバックスタンドのチケットを買ってしまっているので、やるんならやってほしい。やらないならやらないで、
ムーンライトながらを無視して早めに帰ってしまえばいい。そうなれば青春18きっぷが一日分、浮くことになる。
すべてはFC岐阜の試合が開催されるかどうかで決まるのだ。だから発表のある14時まで身動きが取れないのである。

地上に出たら雨と強風にやられるので、できるだけ名古屋駅から動きたくない。だからカフェで日記も書けない。
それで結局、太閤通口にあるビックカメラの最上階、ヴィレッジヴァンガードをプラプラするのであった。
思えば僕が浪人をしていた1996年、ビックカメラは「生活創庫」だった。いろんなテナントが入っていたのだ。
でも当時からヴィレッジヴァンガードは最上階にあって、アロマ的な独特な匂いをつねにまき散らしていた。
それから18年が経ち(きゃー)、ヴィレッジヴァンガードだけが当時と変わらず存在しているのである。
いや、むしろヴィレヴァンは売り場面積を大幅に拡大しているのだ。こうなるとはまったく想像できんかったわ。

14時が過ぎて、FC岐阜は予定どおり試合を開催すると正式に発表。そうなりゃもう、岐阜に移動するしかない。
きっちり試合を観て、ムーンライトながらで帰る。今回の旅行はことごとく予定が狂ったが、最後だけは予定どおりだ。
青春18きっぷで改札を抜けると、やってきた東海道線の列車に乗り込む。しかし木曽川で徐行運転を余儀なくされ、
けっこう時間がかかって岐阜駅に到着した。まあ、無事に着いただけヨシとしよう。駅ビル内のモスバーガーで日記を書く。
そうして待っている間に台風はだいぶ遠ざかったようで、傘をささずに歩いている人の姿もチラホラ。

16時を過ぎたので、試合会場へ行くバスに乗る。目指すは岐阜メモリアルセンター。長良川競技場はその中にある。
岐阜では駅と試合会場を結ぶシャトルバスを出すことはしていないようで、時刻表のとおりにバスがやってきた。
本来であれば写真を撮りながら歩いたであろうコースを、バスはスルスルと進んでいく。なんとも悔しい気分である。
バスが長良川を渡る際に覗き込んで様子を見たら、濁流がいっぱいに広がっていた。さすがは天井川、これは怖い。
渡りきったところには、以前写真に撮ったのと同じ種類の陸閘があって(→2008.2.3)、リアリティに背筋が凍った。
ところで僕が乗ったバスには織田信長の絵がラッピングされていた。駅前には黄金の信長像があり(鉄砲を持っている)、
信長バスが複数台走り(それぞれ絵が違う)、そのバスの釣り革には織田家の家紋である五瓜紋がくっついている。
確かに岐阜は信長が天下統一に乗り出した街だが、それにしても信長を贔屓しすぎでは。斎藤道三にも優しくしてやって!

  
L: 岐阜駅前の広場には黄金の織田信長with鉄砲。  C: 信長バスの釣り革には織田家の家紋が。好きだなあ。
R: すいません、場所に余裕がなかったのでアングルが変です。岐阜市内はさまざまな絵の信長バスが走っている。

ということで、長良川競技場に到着。いつもだったら初訪問のスタジアムは一周して様子をさぐるのだが、
さすがに今回はその余裕はなかった。いずれ岐阜の街とともにリヴェンジをしたいと思いますので、すいません。
岐阜メモリアルセンターは何をメモリアルしているんだろうと疑問だったのだが、1988年開催のぎふ中部未来博らしい。
バブルな発想の地方博覧会をやった跡地にスポーツ施設ということで、よくある発想の産物って感じである。

  
L: 見えてきました長良川競技場。  C: 競技場前から見た岐阜メモリアルセンター内の様子。広々しているなあ。
R: 長良川競技場を正面より見る。入口はこの1ヶ所だけみたい。台風だったにもかかわらず長い行列ができていた。

つねに下位に低迷し、深刻な財政難もあって「Jリーグで最もつぶれそうなクラブ」と言われてきたFC岐阜だが、
今シーズンはまるで別のクラブに変わったかのような劇的な変化をしている。まず、監督にあのラモス瑠偉を招聘。
選手も元日本代表の三都主アレサンドロや川口能活といったビッグネームが入団し、ナザリトら強力な外国人もいる。
なぜ突如ここまでイケイケになってしまったのかというと、岐阜出身のJトラスト社長がガンガン資金を出してくれるから。
すっかり「日本のチェルシー」状態である。まあそういうクラブがひとつくらいあっても面白いとは思う。それも個性だ。
そんなわけで変貌を遂げたFC岐阜は現在14位。昨シーズンのことを考えると、これは見事な躍進ぶりなのである。
観客動員数も1万人を超えることが珍しくなくなっており、好循環のサイクルができつつある。だから見に来たわけだ。
昨日はスタジアムを体験するために、そして今日は岐阜の熱さを体験するために来た。でも台風。がっくりだよ!

  
L: チケットを提示して中に入る。アウェイゴール裏の方からまわり込んでバックスタンドへと向かう途中の光景。
C: バックスタンドの上段は芝生席。いちおう屋根があるが、芝はたっぷり水分をためこんでいたのであった。
R: バックスタンドからメインスタンドを眺めたところ。ちなみに今回は横断幕なしで試合が開催されることに。

台風の影響で一般開場時刻が17時に変更となった。おかげで余裕たっぷりに日記を書くことができたわけだが、
のんびりとスタジアムの周りを歩くわけにもいかず、到着してすぐにスタジアム内へ。中央のいい位置を確保できた。
台風が過ぎていったとはいえ、交通は混乱しておりここまで来るのは大変。しかしきちんと愛媛サポもいた。
おそらく30人ほどだが、すごくよく声が出ていた。いやー、本当にお疲れ様です。尊敬せずにはいられないぜ。

そんなこんなでテンポよく試合開始。ピッチは見るからに水含みで、選手がボールを蹴ると水しぶきがあがる場所も。
こんな状態でサッカーになるのかよ、と思うが、ピッチのいい場所悪い場所を見分けるのも選手の能力のうちなのだ。
試合は序盤からホームのFC岐阜がガンガン攻めまくる。ラインを高く上げきってほとんど愛媛陣内でのサッカー。
ピッチの状態が悪いのもなんのその、きわめて積極的に攻めていく。愛媛は10番の原川を軸に対抗する。

  
L: 台風にめげずやってきた愛媛サポーター。偉いとしか言いようがない。  C: 水含みのピッチは見るからにやりづらそう。
R: FC岐阜のGKは川口。そりゃあ生で観戦したくなるよなあ。ちなみに三都主はケガで長期離脱中。うーん、見たかったが。

圧倒的に攻めたてる岐阜だが、愛媛はよく粘る。愛媛はもともと攻撃サッカーを志向するチームではあるものの、
なかなかそれがハマらないで苦しんでいるイメージが強い。むしろ意外と強豪相手にカウンターを仕掛けるのが上手くて、
昨年は万博でG大阪を沈めたのを目の前で見たし(→2013.9.29)、今年も湘南に今のところ唯一の土をつけている。
愛媛にしてみればそれは望む形ではないだろうが、この岐阜戦においてもカウンターで牙を剥く予感は確かにあった。

前半35分、岐阜がついにゴールをこじ開ける。右サイドでの鮮やかなパス交換からヘニキがシュート。
怒濤のように攻める勢いのわりには時間のかかったゴールだったが、とにかくこれでホームの岐阜が先制した。
それまでの攻撃がようやく実を結んだことで、サポーターたちは歓喜の渦に包まれる。僕もなんだか一安心。
しかしその後も前がかりに攻め続ける岐阜のディフェンスラインの裏には、広大なスペースが空いていた。
いや、それまでの攻撃でもしっかりと空いていて、こんなにラインを上げきって大丈夫なのかと心配していたのだが、
岐阜が得点を奪ってバランスが崩れた瞬間、愛媛の攻撃陣はそのスペースを一気に衝く動きを加速させたのだ。
先制点からわずか3分後、愛媛に加入して間もないFWリカルド=ロボがルーズなディフェンスを破り同点ゴールを決める。
さらに愛媛はその1分後に再びディフェンスに襲いかかり、最後はフリーになった河原が見事なループシュートを放つ。
岐阜が攻めて愛媛が守るといういびつな形の均衡が破れた瞬間、試合は1-2というスコアへと大きく動いた。
結局、前半はこのまま終了。ラモスはDF陣にキレまくっているだろうなあと思いつつハーフタイム。

  
L: 岐阜が先制したシーン。 きれいにパスをつないでチーム全体が深い位置に入っていき、最後はヘニキがゴール。
C: 河原はFWらしいセンスを見せてループを選択。これが決まってアウェイの愛媛が前半のうちに逆転してみせる。
R: 指示を出すラモス監督。指揮しているときは意外に冷静。わかっちゃいるけどスリムな体格が非常に目立っている。

後半に入っても相手の隙を素早く衝いてくる愛媛のサッカーは健在で、わずか2分でDFのハンドによるPKを獲得。
これをリカルド=ロボが決めてついに1-3。ピッチコンディションのこともあり、この時点で岐阜はだいぶ苦しくなった。
しかしラモス監督の対応は早く、DFを削って攻撃の枚数を増やす采配をみせる。その後も10分ごとにアタッカーを投入。
前がかりで生まれた隙を衝かれたにもかかわらず、「もっと行け」という強烈なメッセージを送ってみせたのだ。
ピッチ上の問題は選手たちが解決できると確信しているからこそ、これだけ大胆なカードを切ることができるわけだ。
代わって入った選手が存分に躍動したことで、スタメンの選手たちもさらに躍動するようになった。
特に目立っていたのはFW遠藤で、彼が動きまわることでスタメンだったMF益山もさらに動きがよくなりサイドを制圧。
前半も愛媛を押し込むサッカーだったが、後半は岐阜の選手がドリブルでもっと深く相手陣内に入り込むようになる。

  
L: 後半に入ってすぐ、愛媛のPK。これが決まって2点差がついたことで、岐阜はそうとう苦しい立場になったはずだった。
C: しかし選手交代を軸に、岐阜はあきらめない姿勢をみせる。リードしている愛媛は完全に後手にまわることになった。
R: 76分、押し込む岐阜は益山のシュートが決まる。ここできれいに点を決めきったことで、岐阜が流れをつかんだ。

そして76分、スローインを遠藤が中央に送って益山がきれいに得点。この鮮やかなシュートが岐阜をさらに勢いづける。
86分には途中出場の太田がロングシュート。これをGKがこぼしたところにヘニキが詰めて、ついに3-3の同点となる。
岐阜は繰り出す攻撃が確実に決まったことで完全に流れに乗ってしまった。こうなると愛媛はもう打つ手がない。
90分、遠藤のドリブル突破が倒されてPK。まあこれでPKになるのは、後半開始直後を考えるとお互い様ってところだろう。
最後の最後、ここまで不発だったナザリトがGKの下を抜けるけっこうヒヤヒヤなキックを決めてついに岐阜が逆転。
ラモスの超積極的な采配が実り、岐阜がまさかの逆転劇で勝利。観戦していて、これは本当にシビレる展開だった。
単純に、4-3という豪快なスコアが示すようなゴールラッシュというだけでなく、どのゴールもレヴェルが高かった。
ファインゴール、クレヴァーなゴール、プレッシャーのかかる場面でのPK、どれをとっても見応えのあるもので、
こんな台風でめちゃくちゃなことになっていても、わざわざリスク覚悟で観戦するだけの価値がある試合だった。
観客はいつもの1/3くらいの3,162人だったが、観戦に来た人には最大級のご褒美だっただろう。愛媛は残念だったけどね。

  
L: 詰めるヘニキ。これで岐阜はついに同点に追いついた。もうイケイケ。  C: ナザリトのPKで逆転。ヒヤヒヤだったな。
R: バックスタンドに挨拶に来た岐阜の選手たち。緑と紺の縦縞はスイカみたいだな。後ろでは愛媛サポが選手を讃えている。

まさかの大逆転劇に岐阜サポーターたちはすっかり酔いしれているのであった。岐阜の熱心なサポーターたちは、
ゴール裏ではなくバックスタンドのゴール寄りの位置を陣取っているのだが、もう大はしゃぎ。無理もない。
彼らの背中を眺めながら出入口へと向かう。これでメインスタンド以外はぐるっとまわったことになった。
来るときにはバスは時刻表どおりの運行だったので少し不安だったが、さすがに帰りは臨時のバスが出ていた。
バスの中のサポーターの会話をチラチラ聞くに、FC岐阜は去年からは考えられない盛り上がりを見せているようだ。

ムーンライトながらが岐阜駅に来るのは22時59分。とりあえずできるだけ日記を書いたれとミスドにお邪魔し、
カロリーの心配をしつつキーを叩く。で、15分くらい前に撤退して2階の改札へ。そしたら台風の影響はまだ残っており、
ダイヤは大幅に乱れている。おかげでムーンライトながらも大垣駅を出発できず、連動して遅れて運転するとのこと。
座り込んで寝てしまいたい気分だったが、ながら到着のアナウンスを聞き逃すとえらいことになってしまうので、
根性で立ち続けてただひたすらに待つのであった。「ながらを待ちながら」とか、ダジャレにもならんわ。

日付が変わろうかという頃になり、ようやくゴドーじゃなかったムーンライトながらが到着。ま、1時間遅れならマシだわな。
車内は驚くほどスッカスカで、乗るのを諦めてしまった人がそうとう多かったようだ。これには驚いた。
疲れ果てて座席に力なくもたれながら、台風を恨みつつ、それでもそれなりに楽しい旅になったことを感謝する。
次回にこの分をどうリヴェンジするかを考えるのもまた面白いものさ。とりあえず、ポジティヴに受け止めておく。


2014.8.9 (Sat.)

雨です。結局、天気予報のとおりに雨。今日は豊田市をテーマにいろいろ名所を見物するつもりだったのだが、
最後に豊田スタジアムでサッカー観戦の予定は動かせないので、規模を縮小して動くことにした。こっちにも意地がある。
まずは予定どおりに鶴舞線から直通の名鉄豊田線で豊田市駅へ。名鉄には本当に乗らないので、なんとも新鮮である。
豊田市駅に着くと、当初の予定ではバスで足助を目指すつもりだったのだが、それをやめて朝食をとりつつ日記を書く。

 
L: 豊田市駅前の様子。トヨタの企業城下町のわりには、駅前空間は狭い。もっとモータリゼーションしていると思ったが。
R: 名鉄豊田市駅から新豊田駅へと向かうペデストリアンデッキ。松坂屋がものすごい勢いでそびえている。

9時15分ごろに出発。豊田市駅の西に愛知環状鉄道の新豊田駅があって、ペデストリアンデッキでつながっている。
そこをトボトボ歩いて、新豊田駅からまっすぐ南へ。国道153号に面して小高い丘がある。これが七州城址。
かつて豊田は「挙母(ころも)」という名前で、豊田市は挙母城の城下町である。ややこしいので歴史を整理しておく。

挙母城は2つある。1614(慶長19)年に三宅康長が築いたのが最初の挙母城。なお、当時は「挙母」を「衣」と書いた。
こちらの城は「桜城」と呼ばれることが多いようだ。17世紀末に本多氏が入って「挙母」と表記することが決められた。
その後、挙母藩主となった内藤学文が1785(天明5)年に新たな挙母城を築城。こちらは「七州城」と呼ばれている。
理由は、三河・尾張・美濃・信濃・遠江・伊勢・近江の7ヶ国が見えるから、とのこと。この城跡に豊田市美術館がある。

というわけで、雨なので室内で過ごす施設を優先的に訪れることにした。まずは豊田市美術館からだ。
1995年の開館と比較的新しく、その建物は建築家・谷口吉生の最高傑作なんて言われちゃっているらしい。
所蔵している作品も20世紀の美術運動関連や現代美術などが多く、かなり意欲的にがんばっている美術館だそうだ。
豊田市美術館はかなり楽しみにしていたのである。入口がわからず豊田市民文化会館方面から遠回りした末、
どうにか七州城の再建隅櫓の方から入る。スロープを上るとパッと開けるやり方は大和文華館(→2013.6.16)に似ている。

  
L: 七州城隅櫓(1977年再建)と豊田市美術館への入口。緑に囲まれた狭いスロープを上がっていくのだ。
C: スロープを上りきるとこの光景。第一印象は、「手前の池の泡が汚えなあ」なのであった。
R: 角度を変えて豊田市美術館を眺める。さあ、どの辺が「谷口吉生の最高傑作」なのか見させてもらいましょうか。

雨の中だが、できるだけいろんな角度からまずは眺める。外観はまあ悪くはないが、特に特徴も感じない。

  
L: エントランス部分から左手を眺める。  C: その上のところからエントランス部分を見下ろすとこんな感じ。
R: 傾斜している土地なので、建物の2階レヴェルに池がつくられている。そこから美術館を眺めたところ。

中に入る。まずは企画展の「ジャン・フォートリエ展」から。 第二次世界大戦後の抽象芸術の先駆的存在だそうだが、
まあ根暗ですわな。全編にわたって根暗。見ていて気持ちのいいものばかりが芸術じゃないことは十分わかっているし、
彼の陰鬱さが戦後の不安感にマッチして評価されたという事情もわかるけど、それにしてもうれしくない絵ばっかりだ。
途中からその根暗さにはっきりと飽きてしまって、最後はかなりスピーディに通り抜ける感じで見ていったなあ。

続いては常設展。けっこう期待していたのだが、わりとがっかり。抽象画ってのは見る人との共感というよりも、
まず作者のエゴが最大限に優先されるので、僕は毎回置いてけぼりを食う。そういう系統の作品が並んでいた。
白髪一雄なんかをありがたがって飾っているのは愚の極致である。僕の価値観からいうと。もうホントにサイテー。
もっと面白い作品を持っているだろうに、出ているのはつまんないものばっかりだった。ぜんぜん興奮しなかったなあ。

 ガラスの壁面から豊田スタジアムが見える。今夜はサッカー観戦だ。

ただし確かに建物は面白い。展示室を俯瞰で眺めるとまた見え方が違う、という事実を教えてくれる場所がある。
また、自然光をうまく採り入れているようで、全体がすごく明るい。美術館特有の薄暗さはまったくない。
順路も特に示されているわけではないのだが、なんとなくわかるようになっている点も非常にいいと思う。
平面図で見ると少し複雑に展示室が配置されているのだが、きれいに一筆書きで抜けるようなルートになっている。
順路を否定し、すべてを客に丸投げにして自己満足している美術館(→2010.8.22)とはえらい違いだ。
来場者の「こんな場所があったんだ」という発見をくすぐりながら提示を続ける空間は、とても魅力的だった。

  
L: こちらは2階から外に出たところ。鏡面パネルが並んで緑を映し、複数の風景が同時に目の前に現れる。
C: 離れの高橋節郎館。  R: 愛知環状鉄道の線路脇から眺めたところ。この窓からさっきの豊田スタジアムが見えた。

そのまま、コレクション展の「ドイツとオーストリアの雑誌とデザイン|1890-1910」を見る。
こっちはめちゃくちゃ面白くて、アール・ヌーヴォーと軌を一にしていたユーゲント・シュティールまっただ中のデザインが、
雑誌を中心にあれこれ展示されていた。ユーゲント・シュティールは雑誌「ユーゲント」がその名の由来なのだが、
その「ユーゲント」の表紙が並んでいた。いろんな人が描いていたようで作風はバラバラ。でもそこに意欲が感じられる。
個人的にはアール・ヌーヴォーはあまり好きじゃないのだが、なぜかユーゲント・シュティールだと面白く感じる。
それはより簡略化というか意匠化、もっと言うとデザインとしての取捨選択が洗練されているからだと思う。
工業を背景につくられる作品たちは次のアール・デコにつながる感じが強く、両者の有機的なつながりが見てとれる。
特にペーター=ベーレンスのデザインにはかなり興奮させられた。それはそれでポジティヴさのある時代だったなあ、と思う。

最後に高橋節郎館。高橋節郎は長野県出身の漆芸家で、豊田市とは作品を寄贈したことがきっかけで交流が始まり、
豊田市美術館に個人の展示施設がつくられたようだ。その後、豊田市の名誉市民にもなっている。
漆という伝統工芸をベースに活動した藝大の先生ということでチヤホヤされたんだろうけど、正直言ってまったくダメ。
センスのかけらもない造形と時代遅れのキュビズムのようなものばっかりで、心の底から呆れ果ててしまった。
美術学校入学時の絵は上手かったのだが、その後どんどん画力は退化していったようで、悲惨な蒔絵の作品ばっかり。
漆の無駄づかいである。蒔絵の楽器とか、趣味も悪い。こんなものをありがたがって、恥ずかしくないのか甚だ疑問だ。

というわけで、豊田市美術館は、いい部分とダメな部分がまことに極端な施設だった。建物は外観よりも内部が特にいい。
ちなみにミュージアムショップはそれなりに充実していた。特に「これはいいじゃん!」と目を引いたのが、
マッチ箱の中に小さい積み木が入っているというドイツ製の小物。ドイツって木製の小さい動物や木や人形が得意だが、
そのセンスが遺憾なく発揮されている逸品なのであった。こいつを実家へのお土産として買っておいた。

豊田市美術館から駅まで戻る。駅付近には意外ときちんとメシを食える場所がなくて苦労したが(コンビニもない)、
テキトーにいただいてバスを待つ。そしてバスに揺られること20分ほどで、鞍ヶ池公園に到着。
灌漑用につくられた鞍ヶ池を中心に、動物園あり英国庭園あり観光牧場まであるというけっこう気合の入った公園なのだ。
雨がしっかりと降っているのであちこち歩きまわることはせず、目についたプレイハウスを撮影しておく。

  
L: 鞍ヶ池公園のプレイハウス。要するに、幼児・児童の遊び場である。中にはすべり台など遊具が詰まっている。
C: 木の葉をイメージしたそうで。  R: 鞍ヶ池。渡辺重綱が馬の鞍を投げ入れ「この池の主になれ」と言ったのが名の由来。

さてこの鞍ヶ池までわざわざ来たのは、トヨタ鞍ヶ池記念館を見たかったから。公共建築百選に選出されているのだが、
トヨタ自動車が1974年に生産台数累計1000万台を記念して建てた施設だから、公共建築じゃないと思うんだけど。
まあとにかく、お邪魔させていただくのだ。鞍ヶ池公園バス停からちょっとだけ戻って、池と反対側の道を入っていく。

  
L: 入口はこんな感じ。いちおう「トヨタ鞍ヶ池記念館」と彫られた石が置かれているが、かなり目立たない。
C: 坂道を上っていくと建物が現れる。設計は槇文彦。  R: 角度を変えて撮影。上から見ると三角形をつなげた形。

起伏のある土地ということもあって、トヨタ鞍ヶ池記念館の建物は半分埋まったような状態である。
三角形によって構成されているのはわかるのだが、その全体像をつかむのはなかなか難しいつくりとなっている。

  
L: ご覧のように埋まっております。  C: エントランスへ。うーん、三角形。  R: エントランスから建物を見る。

トヨタ鞍ヶ池記念館は「トヨタ創業展示室」と「鞍ヶ池アートサロン」からなる。あと、奥はゲストハウスらしい。
とりあえず「トヨタ創業展示室」からお邪魔する。撮影は自由ということで、ウハウハ言いながらシャッターを切る。

  
L: トヨタ鞍ヶ池記念館の内部。まずは豊田佐吉による自動織機の展示。手前は無停止杼換式豊田自動織機(G型自動織機)。
C: 豊田式汽力織機(木鉄混製動力織機)。フレームは木製で、歯車など動力伝達部は鉄製。その混成ぶりがかっこいいな。
R: トヨタ創業展示室の様子。三角形の大きな空間に車3台をはじめとする多数の資料が展示されている。

展示内容は、豊田佐吉の息子でトヨタ自動車の礎を築いた豊田喜一郎の足跡を追ったものとなっている。
豊田自動織機製作所自動車部が自動車の製造を始めたのは1935年。その2年後に自動車部門が独立して今に至る。
ところで豊田家は「とよだ」と音が濁る読みが正しい。しかしマークを公募した際に「トヨタ」と濁らないデザインを採用。
それに合わせて企業名を変えてしまったというからずいぶんと思い切りがいい。展示によれば戦前の日本の自動車事情は、
フォードやGMの日本法人が幅を利かせていたそうで、そんな中で国産自動車を製造するのはかなり苦労があったとのこと。
そこで武器になったのが喜一郎の人脈で、東大時代の仲間である優秀な技術者の力を結集して発展をしていったそうだ。

  
L: トヨダAA型乗用車(1936年)。  C: ホイールを見たら確かに「TOYODA」。同年、トヨタに名前を変更している。
R: ジオラマで当時の状況を説明するコーナーも。これは海外資本の自動車を分解して、いろいろ分析している場面。

展示を見ると、自動車産業が各種技術の結晶であることがよくわかる。そういえば小学校で社会の時間に、
自動車はいろんな工業技術を集めてつくる頂点にあるから重要なんだ、ってな話を聞いたけど、まさにそれ。
だからこそ喜一郎は強烈に自動車製造を押し進めてきたし、トヨタも日本を支える企業として発展したんだなあと。
その辺の事情をあらためてきちんと勉強できたのでよかったよかった。自動車業界、大変なものですなあ。

 トヨタ鞍ヶ池記念館はいろいろと謎の多い建物である……。

さて槇文彦設計のトヨタ鞍ヶ池記念館だが、目に見えている部分以外にもいろいろなスペースがあるようで、
鉢植えの木が置かれている奥には何やら通路があったり、階段があったりと、何やら複雑な構造である。
企業の施設らしく、一般の客には計り知れない部分があるようだ。まあ別に知りたいとも思わんが。
階段を下りていくと、鞍ヶ池アートサロン。絵画が20点ほど展示されているのだが、夏休みの子ども向けということで、
絵画の注目ポイントを説明してある紙をもらった。いつもいいかげんに美術鑑賞している自分には、けっこう新鮮である。
20世紀初頭の作品から最近の作品まで、海外の作品も日本の作品も入り混じっており、種類は非常に多彩だ。
個人的には、小磯良平先生の踊り子の視線にやられましたなあ。なかなか楽しませてもらいました。

最後にトヨタ鞍ヶ池記念館の裏手にある、旧豊田喜一郎邸を見学。1933年築で、設計は鈴木禎次。
記念館のロビーでは延々とその移築作業を記録したDVDを流していたのだが、これがけっこう面白い。
実物はまあなんというか見事なもので、こんな邸宅に住んでみたいよなあ、と思わせる瀟洒なつくりだ。
やはりガラス張りの温室が強烈な存在感を持っていて、いいなあこんなん自分の家にあったらどう使うかなあと、
この空間が特に想像力を刺激してくる。うーん、これはぜひ青空の下で訪れたかったなあ。

  
L: 旧豊田喜一郎邸。まあ別荘なんだけど。温室のインパクトが非常に大きい。「南山農園」と呼ばれていたらしい。
C: 側面を眺める。  R: 背面と側面。残念ながら中に入ることはできない。ぜひ見たかったんだけどなあ。

旧豊田喜一郎邸の脇にはガレージ。これは去年つくられたものだそうで、中には初代トヨペットクラウンをモデルにした、
「オリジン」が入っている。邸宅もそうだが、完全に趣味人の雰囲気である。こんな生活、いいもんですなあ。

 ガレージ内部。うーん、趣味人。

鞍ヶ池公園からはやはりバスで戻るが、途中の豊田北高校前のバス停で降りる。ここから矢作川沿いに南へ行けば、
そこは豊田スタジアム。いったん駅まで戻って晩メシを確保することも考えたが、どうせ大したものもないので、
早めにスタジアムに行ってどっか場所を見つけて日記でも書いてしまうことにしたのだ。雨だからしょうがない。

  
L: 豊田スタジアムの北側を眺める。豊田スタジアムは矢作川に面した豊田中央公園の一角にあるのだ。
C: 豊田スタジアムと矢作川に架かる豊田大橋。  R: 黒川紀章設計で1999年竣工の豊田大橋は独特なデザイン。

豊田スタジアムに来るのは初めてなので、恒例のスタジアム一周。晴れていればよかったのだがしょうがない。
時刻はまだ16時過ぎなのだが、開門を待つ人たちがすでにしっかりと行列をつくっていることに驚いた。
これがJ1ということなのか。名古屋人は地元が大好きだが、そのプライドをくすぐるクラブはやはり人気があるのか。

  
L: バックスタンド側。各種ご当地B級グルメの屋台が並んでいた。根羽村のネバーランド(→2005.8.15)の信州そばも。
C: バックスタンド側を違う角度から。大規模コンクリート構造体は楽しいなあ。  R: サイドからメインスタンド方面。

豊田スタジアムはトヨタ自動車とは関係なしに豊田市が市制50周年記念ということで建てたそうだ。
黒川紀章の設計で2001年に竣工。ただし日韓W杯の会場には選ばれなかった。サッカーファンからの評価は非常に高く、
ぜひ一度訪れてみたかったスタジアムなのだ。まあ、せっかく来たのにこんな天気になってしまったのは残念だが。

 スタジアム正面を眺める。

今回はバックスタンドの指定席を取った。「4列」ということでワクワクして席を確認すると、実質2列目。
しかし座るとわりといい位置に手すりがあって、写真を撮るのにこれがものすごく邪魔。あまり前すぎる列も考えものだ。
トヨタパワーで試合のときだけ手すりをグイーンと下げてしまう装置をつくっちゃうとか、トヨタらしくカイゼンしていただきたい。

  
L: バックスタンドより、まずはアウェイ側のサイドスタンドを眺める。  C: 続いてメインスタンド。
R: 最後にホーム側サイドスタンド。こっちにだけ屋根がついているのね。今日みたいな天気だと効くなあ。

キックオフは19時。席があまりに前なので、風で簡単に雨が吹き込んでくる。とても座って待っていられない。
しょうがないのでバックスタンドのいちばん後ろ、通路の壁のところに腰を下ろして日記を書きまくる。
時間はたっぷりとあるので、それなりにしっかりと進んだのであった。うーん、なんだか難民気分だわ。

  
L: ゴール裏の鹿島サポーターたち。意外と少なかったのはやはり、台風のせいだろうと思う。厄介な週末だよ。
C: こちらは名古屋サポーター。さすがにしっかり埋まっている。ゴール裏の様子が見えやすいのは豊田スタジアムの特徴かな。
R: とよた五平餅学会の五平餅(350円)。五平餅といえば信州名物のはずだが。非常にデカくて、味噌メインの味付け。

キックオフ30分前にポンチョを着込んで自席に戻る。両チームの練習が終わるとスタメン発表なのだが、
名古屋の選手紹介映像はものすごくかっこいい。今まで見た中でもトップクラスという印象である。
まあ単純に、選手の写真のコントラストを上げきったモノクロ画像に、実際のカラー写真を重ねるだけと、
やり口はかなりシンプル。しかしダサい要素がほとんどないので、非常に見映えがいいのだ。感心してしまった。

さて試合開始。名古屋はなんとJ1再開後未勝利で降格圏寸前の15位。そこまで状態が悪いとは知らなかった。
そのせいか、序盤から闘莉王がやたらとエキサイト。まあ、チームを鼓舞する姿勢じたいはいいんだけどね。
驚いたのは矢野貴章が右SBをやっていたこと(4月からそうだったらしいが)。サイズが売りだったFWを、
この位置で起用するというのがびっくり。でも岡山の久木田(→2014.7.26)も京都の駒井(→2014.7.30)も、
突破力のあるサイドのディフェンダーということで同じような起用をされているので、それがトレンドなのかも。

試合は勝ち点3の欲しいホームの名古屋が序盤から果敢に攻め続ける。ケネディが競って永井が走る、
基本的にはそういうサッカーで圧力をかけていく。鹿島は受けにまわるのだが、ペナルティエリアまで行ったときには、
かなり鋭いパスワークで名古屋を脅かしてみせる。ラストピースにはダヴィがいるわけで、油断のならない展開だ。

前半25分に名古屋が先制。右サイドを抜けた矢野がクロス。ワンバウンドしたボールに合わせて永井が飛び込み、
鮮やかなヘッドを決めてみせた。見とれてしまってシャッターが切れなかったくらいに見事なゴールだった。
すると鹿島はMF小笠原が積極的にボールに触ってリズムをつくりだす。相方のMF柴崎があちこち動きまわり、
前にいる土居や中村らとパスをつなぎはじめる。名古屋ゴール前でのパス交換の鋭さはさらに増して、
36分にはダヴィが振り向きざまに放ったシュートをGK楢崎がとんでもない反射神経で弾いてみせる、なんてシーンも。

  
L: モメる田中。  C: 名古屋のゴール前で鋭くパスをつないで攻める鹿島。ゆっくりと試合の主導権を奪い返す。
R: 山本の同点弾。序盤に攻勢に出ていた名古屋だったが、結局リードを保つことができずにハーフタイムを迎えた。

そうして前半も終わりに近づいた42分、右サイドのパス交換から抜け出した土居が柔らかいクロスをあげると、
逆サイドの山本がヘッドできれいにゴール。前半を無失点で踏ん張りきれなかったのは、名古屋にはキツい展開だ。

 
L: ボールを受けては若手に託して試合をつくる小笠原。イキのいい若手をうまく乗せるパスが目立った。
R: ハーフタイムに登場したグランパスくん。構造上動きが制限されている分、独特なかわいさがにじみ出る。

後半開始直後、いきなり名古屋がPKを得る。ケネディの中央真上に蹴り込む度胸満点のキックで再び名古屋がリード。
これで鹿島が攻めて名古屋が守るという構図となり、名古屋は永井を軸にしたカウンターをチラつかせるようになる。
対する鹿島はパスをつないでよくチャンスをつくっていたのだが、楢崎がさすがの存在感でその前に立ちはだかる。
が、終了間際の82分、DFがクリアしようと蹴ったボールがダヴィに当たり、こぼれたところをスライディングでシュート。
それまでよく守っていたのだが、ついに決壊。すると90分、鹿島は右サイドでパスをつないでペナルティエリアに侵入し、
途中出場の遠藤が蹴り込んでゴール。ゴール前でつなぐプレーは前半から出ていたが、最後の最後で見事に決まった。
まさかの逆転負けに沈む豊田スタジアムと、喜びを爆発させるサイドスタンドの一角。こんな展開になってしまうとは。
名古屋はこれで降格圏の16位となってしまった。名古屋にとっては非常にダメージの大きい敗戦である。これは困った。

  
L: ケネディの度胸満点なPK。  C: スピードに乗ったドリブルでカウンターを仕掛ける永井。でも決めきれない。
R: 最後の8分間の逆転劇で降格圏に落ちてしまった名古屋の皆さん。うーん、この負け方はショックが大きすぎる。

雨がしつこいのでポンチョのまま歩いて豊田市駅まで戻る。確かに歩けない距離ではないが、やっぱりそれなりに遠い。
駅に着いても鶴舞線直通の列車の間隔はけっこう空いていて、宿に帰るのに思ったよりも時間がかかってしまった。
なんともツイていない感触が漂う今回の旅行だが、有終の美を飾ることはできるのか。台風は四国に上陸寸前ですが。


2014.8.8 (Fri.)

土曜日はJ1、日曜日はJ2。夏休み。名古屋と岐阜でそれぞれ観戦できるじゃん!とウキウキして予約を入れたのだが、
週末が近づくにつれてニュースは盛んに「台風に注意」と言いはじめる。キャンセルするという手もあるんだけど、
そうなると自宅で3日間を体育座りで過ごすことになる。どっちに転んでもションボリだ。……さあ、どうする?
僕が出した結論は、同じ屋内でも代わり映えのしない自宅よりは知らない街の方がナンボかマシ、というもの。
久しぶりのムーンライトながらに揺られて、分の悪い賭けをすべく西へと旅立ったのであった。

大垣駅の上空は分厚い雲に覆われていた。やっぱりか、と肩を落とすがこればっかりはしょうがない。
来ちゃったからにはできる限りでめいっぱい楽しむしかないのである。気持ちを切り替えて予定を組み直す。
本来の予定では、初日の今日は地下鉄をフル活用して名古屋市内のあちこちを攻めてみるつもりだった。
しかしいつ雨が降るかわからない曇天の下を動きまわっても楽しくないのである。雨でも影響のない行動をとろう。
幸いというかなんというか、ムーンライトながらで来たので、手元には自由に使える青春18きっぷがある。
それならひとつ、やっておきたいことがある。毎度おなじみ一宮巡礼である。最近はちょっと御守に凝っていて、
ただ神社を訪れるだけでなく、御守をいただいている。いずれ「御守のデザイン」について考えてみたいのだ。
(厳密に言うと、御守を包んでいる守袋のデザインということになる。御朱印にはぜんぜん興味が湧かないんだよね。)
美濃国・南宮大社、尾張国・真清田神社、三河国・砥鹿神社。どこも行ったことはあるけど、御守はもらっていない。
いいチャンスなのでこの3ヶ所を訪れて御守をいただくとするのだ。青春18きっぷだからこそできることなのだ。

でもその前に、予定どおりに進めておきたいことがある。大垣からは東海道線の美濃赤坂支線が出ているので、
これをきちんと攻めておくのだ。たった2駅分の盲腸線だが、ここで攻めずにいつ攻める。ということで揺られる。

  
L: 美濃赤坂支線の最果て光景。東側にも複数のホームがあり、貨物列車が石灰石を運び出すのに使われている。
C: 美濃赤坂駅。通勤客が多数集まってきており、よく利用されているんだなあと感心するのであった。
R: まっすぐ北へ出ると中山道。矢橋家住宅がものすごい迫力である。最も古い部分は1805(文化2)年築だと。

美濃赤坂駅に到着すると、そのまま北へと歩いていく。中山道の赤坂宿があるので、その周辺をブラついてみるのだ。
東海地方周辺には昔の宿場がよく残っているという勝手な印象があるが、赤坂宿もなかなか見事な形跡を残している。
建物は矢橋家住宅をはじめとして数軒あるが(特にその矢橋家住宅の重厚さはめったにお目にかかれないレヴェル)、
それよりも道の曲がり方が、実に昔ながらの街道の空気なのである。この空気感が残っていることが重要なのだ。

  
L: 赤坂宿は中山道の57番目(69次中)の宿場である。美濃赤坂駅から養老街道を北に行くと、この四ツ辻に出る。
C: 中山道を東に行くと、赤坂宿の本陣跡。現在は公園。  R: 西濃鉄道市橋線・赤坂本町駅の跡。現在は貨物専門。

杭瀬川に出る手前のところに、赤坂港の跡がある。水運でやはり石灰や大理石を積み出していたそうで、
雰囲気をよく残す街道とともに、往時の繁栄ぶりを想起させる空間となっている。港の脇には赤坂港会館。
これはもともとは1875(明治8)年に建てられた岐阜県警察第2区大垣出張所の第5分区屯所なのだが、
あちこちに移築された経緯があり、どうやら現在の建物は外観をそれっぽく復元して新たに建てたものらしい。
しかしこういうモダンな建物があるところが、歴史ある街道のリアリティなのである。現存する街道の木造建築は、
かなりの数が実際は明治期に建てられていて、明治初期の擬洋風建築なんかは完全に同時代の産物なのである。
赤坂港跡の向かい側には出石の辰鼓櫓(→2009.7.20)を思わせる曲線を持った鉄製の物見櫓が建っており、
これもまた雰囲気を盛り上げている。美濃赤坂がこんなに面白い要素にあふれているとは知らなかった。

  
L: 赤坂港会館。  C: 赤坂港跡。ここから石灰を出していた。  R: 中山道。右には赤坂港会館、左には物見櫓。

ちなみに橋を渡った東側も道がいい具合に曲がりくねっていて、街道感が満載。朝から楽しませてもらった。
そんなわけでだいたい1時間ぐらい美濃赤坂駅周辺をふらふらして過ごした。通勤客と一緒に大垣に戻る。

 これが中山道のリアリティですな。

大垣に到着すると思いきって、予定にはなかった鉄っちゃん的行動をとってしまう。鉄分が少ないと知らないだろうけど、
実は東海道本線の大垣−関ヶ原間には、2つのルートがあるのだ。垂井を経由するルートと、垂井をすっ飛ばすルート。
大半の列車は垂井を経由するのだが、下りの特急列車と貨物列車だけは垂井をすっ飛ばすルートをとるのである。
この垂井すっ飛ばしルートが本来の東海道本線で、垂井経由のルートは実は「垂井線」と呼ばれる別の線。面倒くせえ!
詳しい事情についてはWikipediaでも見てもらうとして、この垂井すっ飛ばしルートを制覇しようというわけである。
大垣駅でわざわざ米原までの特急券と乗車券を購入すると(特急なので青春18きっぷは使えないのだ……)、
5分遅れでやってきた富山行きの特急に乗り込む。うーん、やっぱり特急の座席は快適だ。なんだか癒されてしまったよ。
車窓の風景も美濃赤坂支線に分岐した直後から大胆なカーヴを描いて平地から山の麓へと向かっていくため、
かなり豪快。確かにこれは今まで見たことのない光景だった。そして人里離れた農地と山のへりを走っていくので、
「そりゃあ新垂井駅は廃止になるわ」と実感(垂井すっ飛ばしルートにはかつて新垂井駅が存在していた)。
まったく知らない景色の中を抜けて関ヶ原駅に到着したときは、なんだかちょっと感動してしまったではないか。
こんな贅沢、もう二度とすることはないだろう。まあ、たまにはいいもんだね。素直に楽しませてもらいました。

米原駅に着くと、なんだか曇り空の中にチラチラと青い部分が見える。こっちの方が若干だけど天気がいいようだ。
そうなるとムラムラと欲の皮が突っ張ってくる。敦賀の気比神宮をもう一度きちんと参拝したいと前々から思っていて、
ちょっとそっちまで行っちゃおっかな、と。少し迷ったのだが、まあどうせ天気が悪いから本日の初志を貫徹することに。
気比神宮はまた次の機会を狙うとしましょう。なかなかほかの観光地とセットになりにくいんだけどねえ。

というわけで、素直に東海道本線で引き返す。が、垂井で下車。そう、美濃国一宮・南宮大社を再訪問するのだ。
南宮大社は2年前の帰省ついでに参拝しているが(→2012.8.12)、そのときにやり残してしまったことが少々ある。
いい機会なのでその分を取り戻させてもらうとするのだ。北口の観光案内所でレンタサイクルを借りると、いざスタート。
とりあえず肩ならしという感じで、垂井町役場から攻める。どっちが表なのかよくわからないが、いちおう両方撮影。
垂井駅の北口から少し行ったところに中山道があるのだが(垂井宿はさっきの赤坂宿の次の宿場である)、
こちらもさっきの赤坂宿に負けず劣らず、昔ながらの曲線が美しい。こっちの方が美濃赤坂よりは賑やかかな。

  
L: 垂井町役場を北側から眺めたところ。  C: こちらは南側から眺めたところ。どっちが表でどっちが裏なの?
R: 町役場の近くにレンガ造りの蔵があった。かつては醸造蔵だったようだが、今は駐車場として活用していた。

南宮大社からまっすぐ北へと延びる参道が中山道とぶつかるところに、一の鳥居がある。前回見忘れた石鳥居だ。
案内板によると、この石鳥居は石屋権兵衛によって400両の資金で建てられたという。高さは約7mある。
こんな見事なものをスルーしていたとは、前回はなんとも間抜けだったなあ、と自分で自分に呆れてしまうのであった。
参道を南へと進んでいくと、途中の寺の手前に「垂井の泉」があった。そう、ここは垂井の地名のもとになった場所だ。
澄みきった水の中を数匹の鯉が悠々と泳いでおり、彼らのことがなんだかうらやましくなってしまった。

  
L: 南宮大社の石鳥居。街道に面して堂々と建っているその姿から、南宮大社の崇敬されっぷりがよくわかる。
C: 石鳥居付近の中山道の様子。この辺りは昔から道がまったく変わっていないのだろう。本当に昔ながらって感じ。
R: 垂井の泉。2つの寺のちょうど前庭のような形になっている。名水だから緑がこんなにわさわさ生い茂っているのか。

陸橋で東海道本線を越えると国道21号。運よく素早く横断することができたが、その先には東海道新幹線のガード。
このガードを抜けてすぐのところにでっかい二の鳥居があるのだが、豪快な参道のまたぎっぷりが相変わらず印象的だ。

 二の鳥居の手前にある東海道新幹線のガード。

さて、前回の南宮大社参拝でやり残したことは、石鳥居のチェックだけではない。神宮寺だった朝倉山真禅院に行くのだ。
いきなりどうもiPhoneのGoogleマップの調子が悪くて、位置関係がよくわからない。旅先ではけっこう致命的な事態だ。
しかし南宮大社の案内板に描かれていた絵から「脇の坂道を上ったところだよな?」と推定してペダルをこいでいく。
今日はとっても湿度が高くて全身汗まみれになりつつ不破高校を抜けると、カーヴする突き当たりのところに石段があった。
なるほどこれか、と自転車を止めると石段を上っていく。門をくぐるとそこには見事なお堂があった。こりゃすごい。

  
L: 朝倉山真禅院。もともとは南宮大社の神宮寺で、神仏分離で現在地に移った。南宮大社から意外と離れていた。坂道だし。
C: 木々に囲まれた石段を上るとこのような門。  R: 門を抜けると本地堂。南宮大社の社殿と同時に建てられたものだ。

南宮大社の社殿は徳川家光によって1642(寛永19)年に再建され、あらかた重要文化財となっている。
そしてこの朝倉山真禅院の本地堂と三重塔もそのときに建てられたものなのだ。言われてみれば、確かに家光っぽい。
境内の右手奥に三重塔があるので見てみたら、やはり本地堂と同じデザインで家光っぽい派手なつくりだった。
汗が全身からボタボタと落ちるほど、来るのに手間がかかったが、それだけの価値はあったなあ、来てよかったと思う。

 
L: 鐘楼。このほか、真禅院の境内にはいくつものお堂が点在している。ちなみに梵鐘は重要文化財である。
R: 三重塔。本地堂と同じデザインとなっており、派手な建物を建てまくった家光の価値観をしっかり反映している。

ではいよいよあらためて南宮大社に参拝である。細かいことは2年前のログ(→2012.8.12)のとおりなので書かないが、
やはり江戸時代初期の建築物にぐるっと取り囲まれる感覚は独特である。重要文化財という権威に弱いのかね、自分。

  
L: 南宮大社の入口。境内の形はけっこう複雑で、基本的には横参道になっているのだ。奥に楼門が見える。
C: 楼門その手前にある石輪橋。石輪橋は神様が通り、人間は隣の石平橋を通る。石平橋も重要文化財だけどね。
R: 楼門をくぐると高舞殿。境内はぐるっと回廊で囲まれていて、厳かで独特な雰囲気となっている。

今回は勅使殿が工事中だったようだが、特に問題なし。本殿を覗き込むなど前回できなかったことをやりきる。
そして御守を頂戴してまずは本日1ヶ所目をクリア。平日の朝でも参拝客はちょぼちょぼ来ていてぜんぜん絶えませんな。

  
L: 高舞殿と拝殿。  C: 境内南側の神輿舎。こちらも重要文化財。  R: ちょいと失礼して本殿を覗き込む。

垂井駅に戻ると自転車を返却。すぐに東海道本線に乗り込んで大垣まで戻る。大垣で列車を乗り換え、さらに東へ。
岐阜から線路は南に向きを変え、愛知県に入ると尾張一宮駅で下車。ここは真清田神社までわりと近いから助かる。
なお、もうひとつの尾張国一宮である大神神社の方は、御守が頂戴できる確証がないのでパスとさせていただく。
真清田神社はやはり前回も南宮大社とセットで訪れている(→2012.8.12)。東海道本線沿線はアクセスしやすいのね。

 
L: 真清田神社。社殿は国登録有形文化財になっていたのね。  R: ここも本殿が覗き込みづらいです。

真清田神社ではふつうの御守のほか、旅行安全御守を頂戴する。これはいつもBONANZAに入れてあるやつで、
新しいものに替えたということ。別に旅行の御守は真清田神社のものでないといけないってわけじゃないけど、
飯田出身の僕が初めて遠出したのは名古屋なので、まあ尾張国一宮の旅行の御守でいいかな、という気持ちなのだ。

さて、一宮市といえば市役所が新しく建て替わったということで、こちらのチェックもしておくべきである。
が、天気が悪いことで機嫌の悪い僕は、雨がポツポツ降っている中で写真を撮る気にはあんまりなれないのである。
旧庁舎の解体工事も終わっていないようなので、新庁舎整備が終わったらまた正式にトライさせていただきたい。

  
L: 新しい一宮市役所。今年の5月に業務を開始したばかり。設計は石本建築事務所の名古屋支所だってさ。
C: 西側から眺めたところ。まだ旧庁舎を解体する工事をやっている。  R: 商店街に突如巨人が現れた!って感じ。

それにしても新しい尾張一宮駅は大胆なデザインである。調べてみたら一宮市が公募型プロポーザルを開催しており、
山下設計中部支社の案を採用して2012年に竣工している。「i-ビル」っていう愛称がついているそうな。
5階~7階に一宮市立中央図書館が入っているのが特徴的。今度来る機会があったらあちこち見てまわってみようっと。

 けっこう評判はいいようだが。

尾張一宮から名古屋を華麗にスルーして豊橋へ。今日の東海道本線は遅れ気味で、飯田線への乗り換えで焦った。
飯田線に乗るのもけっこう久々な気がする。豊川の次の三河一宮駅で下車して、いざ砥鹿神社へゴー。

  
L: 三河一宮駅から東へ少し歩けば国道151号線である。その交差点から眺めた砥鹿神社の杜。
C: 緑の豊かな参道だが、途中で横断歩道を渡る。  R: まずは西隣にある三河えびす社から。

砥鹿神社の前回訪問も、2年前の帰省時だ(→2012.8.13)。整然とした雰囲気が非常にいいという印象だったが、
何もかもそのときとまったく変わっていない。穏やかな気分になりつつ参拝し、無事に御守を頂戴したのであった。

  
L: 拝殿。今回は角度を変えてみました。  C: 本殿を覗き込む。いずれ奥宮にも参拝できるといいですなあ。
R: 砥鹿神社は何気に社務所が立派である。テキトーなつくりの社務所が多い中、かなりの迫力が違いを感じさせる。

ということで、本日は予定を大幅に変更して一宮再訪問の旅となったのであった。それはそれで楽しゅうございました。
美濃赤坂という新しい発見があったことや、南宮大社参拝を補完できたことには、だいぶ満足しております。
最後の方は曇り空だけどうっすら日が差してくるぐらいになっちゃってまあ。でもやっぱり青空がよかったなあ。
あと2日、台風と戦いながら、いったいどんな旅になるのやら。臨機応変に楽しむ能力が求められるわけですな。


2014.8.7 (Thu.)

サッカー部の夏休みの練習は、基本的な技術をじっくりと磨く時間なのである。
ドサクサにまぎれてサッカーをやっている僕としては、基本の技術が生徒と比べていちばん足りていない部分なので、
コーチの生徒への指導に合わせて一緒にいろいろやってみる。せめて夏休みぐらいは鍛錬しないとねえ。

本日はシザーズなどのフェイントがテーマ。そういうものはきちんと習わないと発想として出てこないのだ。
内から外へまたいだら逆の足のアウトサイドで抜ける、外から内にまたいだら逆の足のインサイドで抜ける。
これを実際のドリブルに混ぜてやってみたら、意外と形になってできた。本当に相手を抜けるかは別として、
こういう形でやるんだ、という感覚をつかむことができた。なるほど、練習しないとできないけど、できると楽しくなってくる。

生徒たちは「あのマツシマ先生がまたいでるよ……」と目を丸くしていた。ふだんスピード勝負のドリブルしかしてないもんな。
いつかゲームで決めてみたいもんだ。そうすれば、サッカーってものをより深くわかることができるんだろうな。


2014.8.6 (Wed.)

去年までウチの学校にいた先生が異動先でサッカー部顧問をやっているのだが、なんと部員がたったの4人。
夏休みに合同練習をやりましょうという話になっていて、今日がその日なのであった。生徒たちのウキウキぶりが半端ない。
思ったよりは違和感なく解け込んでいたけど、もうちょっと積極的にやりとりしてもいいんじゃないのと思いつつ練習参加。
3時間、なかなか充実した時間となったのであった。グラウンドに出ちゃえばみんな一緒、ってのはサッカーのいいところだな。


2014.8.5 (Tue.)

今日は英語の研修なのである。夏休み中に一回くらいはちゃんと外の情報を仕入れる機会をつくろうというわけだ。
ラッシュを避けて早めに会場の最寄駅に到着すると、カフェで日記を書きまくる。うーん、時間を有効活用できたぜ。

9時半からお勉強の前半戦がスタート。超賢い高校で教えている先生が実際の授業をやってみる、という内容。
受講しているのは現役の高校の先生が圧倒的に多いので、中学校でテキトーにやっている自分は後手に回る感じ。
まあどうにか切り抜けることはできたけど。やっぱり環境が人間をつくるんだよなあ、と反省するのであった。
感じたのは、英語だけで英語の授業をやるのは生徒にとって絶対に不幸だということ。教員の自己満足にすぎないわ。
あと、皆さん発音がいいんだけど、なぜかしっかり「アジア系の発音」って匂いがするのね。特に女性はそうなのだ。
イントネーションというか、力の入れるポイントがすごく「アジア系」な印象なのである。アレって何なんだろう。
では自分の発音はというと、まあこれ以上良くならないだろうな、と限界を感じた。けど、特別困らないレヴェルだとも思った。

後半戦は英語で英語の文法を教えるという内容だったのだが、これが非常に羊頭狗肉なのであった。
先生の話は面白いのだが、講義の内容じたいは即興での会話づくりで、ぜんぜん参考になりゃしねーの。
結局、英語で英語を教えるということは、例文をひたすら読ませることに終始する。それは英語の音に慣れるだろうけど、
文章の内容を深めていくことにはならない。受験を機に英語でいろんな話題の文章を読んだことで知識がついて、
「こりゃ面白い、こういう知識を広げる経験を若い世代にもさせたいわ」と思って英語の教師になっちゃった自分としては、
英語でやることだけを目的にした授業はおそろしく空虚な時間としか言いようがない。本当に教員の自己満足。

なんで勉強するのか。頭の体操。知識の充填。それが学び続ける人間を生む種となる。その本質を忘れちゃいかん。


2014.8.4 (Mon.)

本日は人工芝のグラウンドが4時間確保できたので、前任校もまじえたいつもの3チームで練習試合なのだ。
ちなみに前任校は顧問が交代。残念だけどしょうがない。でも新しい顧問の先生も感じのいい人なのでよかった。

特にウチの学校がよかったというわけではないのだが、スコアとしてはまずまず。しっかり点を取り、それなりに防いだ。
でもいいサッカーができたかというと、そうというわけではない。声も出ていないし、相手がやや消極的だったからって印象。
まあいちおうそれなりに、攻撃にしろ守備にしろ最低限のポイントは押さえてはいたけどね。本当にそれだけ。
生徒たちの自信につながればそれでいいんだけど、でもそれで満足してもらっても困る。難しいもんですな。


2014.8.3 (Sun.)

実は今シーズン、けっこう久しぶりに青春18きっぷを買ったのであった。最近は途中下車の旅ばっかりなので。
で、じゃあ日帰りでどっか行くかと考えた結果、玉前神社の修復工事が終わったんじゃねえの?
大多喜町役場も見たいし土気駅南側のニュータウンもチェックしたいしということで、出発。
千葉駅に出るまで1時間半、そこからさらに1時間で、ようやく上総一ノ宮に到着。千葉って遠いよなあ。

 上総一ノ宮駅から国道128号に出たところ。漁師町っぽい空気が漂っている。

前回、玉前神社を訪れたのは3年前(→2011.12.17)。そのときには社殿が工事中でずっこけてしまったが、
日記のログを見ると「平成十九年度~平成二十五年度」ということで、もう工事は終わっているはずなのだ。
ウキウキしながら鳥居をくぐって境内へ。相変わらずのぐるっととぐろを巻いたような、特徴的な空間である。

  
L: ということで再び玉前神社にやってきました。  C: 境内の参道は右回りにカーヴしており、非常に特徴的。
R: 石段をちょっと上って奥へ進むが、やはり右回りにカーヴするのだ。なんでこうなっているんだろう。

手水で清めて石段を上ってさあ拝殿とご対面……まだ工事中なのぉー!? 思わずその場でずっこけてしまったよ。
3年経ってもぜんぜん変わっていないじゃないか。もうこれは、改修工事を完了させる気がないとしか思えない。

  
L: 玉前神社の拝殿は、3年前とほとんど変わらない姿でたたずんでおりました。工事を終わらせる気がないのか!?
C: 本殿。工事の黄色と黒のストライプが妙に玉垣とマッチしており、違和感なくとけ込んでいるように思える。
R: 境内の雰囲気はこんな感じ。社殿の脇に木々が生い茂る。玉前神社の境内は住宅地に残された自然、という印象ね。

それにしても玉前神社はやっぱり、妙に巫女さんの多い神社だった。お願いだから早く拝殿の工事を終わらせてください。

次は大多喜町だ。外房線をさらに進んで、大原でいすみ鉄道に乗り換える。いすみ鉄道は2回目だが(→2011.9.19)、
相変わらず各種グッズがいっぱい。いすみ鉄道は日本一商魂たくましい鉄道会社だと思う。まあ悪いこっちゃないけど。
なんでかよくわからないけど、1両の列車に乗り込むとそこは乗客がいっぱい。子どもが多いが、高齢者も多い。
見た感じ鉄っちゃんらしき人も少なくないが、そうでない層の方が多い。まあとにかくしっかり繁盛していたよ。
いすみ鉄道では飲んだり食べたりのイヴェント列車を積極的に走らせているから、その関係かもしれないなと思う。
まあとにかく、感心しているうちに大多喜駅に到着。駅前の地図を確認すると、まずはやはり大多喜町役場から攻める。

  
L: 大多喜駅。和風なような和風になりきれていないような。  C: 駅の向かいの観光案内所。やはり現代的ながらも和風。
R: 大多喜駅前の道路は「K」の字になっているのだが、南に行くとこのような門がお出迎え。まっすぐ行けば大多喜城址。

さてわざわざ大多喜町役場に来たのは、DOCOMOMO物件だから。今井兼次の設計で、1959年に竣工している。
全体の形状としてはブリブリの鉄筋コンクリートモダン建築なのだが、ところどころに手づくり感のある箇所が見られる。
今井兼次は早稲田出身の建築家で、1920年代ごろから活躍しているということは、モダン黎明期の人ということになる。
Wikipediaに「合理的・機能的なモダニズム建築からは距離を置き、建築に職人の手の技を残す作品を造った」とあるが、
そのわりには大多喜町役場はかなりモダニズム寄りな作品である。まあ、そういう時代だったということだろう。

  
L: 大多喜町役場入口。大多喜町では和風デザインにこだわりがあるようで、ここでも和風な看板を出している。
C: なんだよ、玉前神社に続いてここも改修工事中かよ!とがっくりきた。  R: 側面は手づくり感がかなりある。

  
L: 建物じたいを少しクローズアップ。箱が寝そべっているような形をしているが、屋根などにも凝った意匠が施されている。
C: 入口からびよーんと延びている庇。天井にうねった飾りで変化をつけている。  R: その先にある壁もまた凝っている。

大多喜町役場は少し高低差のある土地に建っていて、低い方へと下がっていくとちょうど2階建てとなっている。
ここのデザインもまたかなりのモダニズム。そのまま裏側にまわり込んだらやけに新しい建物がくっついていた。
なるほど、こいつをつくったということは、大多喜町は古い庁舎を保存していく覚悟を決めたってことかと納得。

  
L: 東側の低い方に下がって眺める。  C: 建物に近づいてみた。  R: こっち側もやっぱりガチガチのモダニズム。

  
L: 側面。  C: 裏手にはいかにも現代風のオフィスが。今はこちらが本庁舎。  R: 中はオシャレでした。天井がすごい。

大多喜町役場はおととしまで古い庁舎の改修工事が行われていたそうで、新しい庁舎の建築もその一環だったようだ。
現在は2011年竣工の新しい庁舎が本庁舎となっている模様。こちらの設計と旧庁舎(中庁舎)の改修は千葉学による。
そしてこの事業によって、大多喜町役場はユネスコ文化遺産保全のためのアジア太平洋遺産賞を受賞したとのこと。

  
L: というわけで今の本庁舎側から見た旧庁舎。  C: 本庁舎から見た旧庁舎との連絡通路。
R: 非常に目立っている尖塔。旧庁舎にくっついているのではなく、現在の本庁舎のすぐ脇にあるのだ。

大多喜町役場の撮影を終えると、夷隅神社の境内を通ってメインストリートへと抜ける。
夷隅神社はもともと牛頭天王を祀っていたということで、八坂/祇園系の神社であるようだ。
神仏分離後は素戔嗚尊のほか、稲田姫命と大己貴命も祀っている。縁結びのご利益をやけに強調していた。

  
L: 夷隅神社の社殿なかなか立派。本殿は1688(貞享5)年、拝殿は1829(文政12)年ごろの築だと考えられるそうだ。
C: 参道の脇には1885(明治18)年築の大屋旅館。大多喜町には国登録有形文化財の見事な木造建築がごろごろある。
R: 街道の食い違いに面しているのは1874(明治7)年築の豊乃鶴酒造。食い違いに店の正面を置くとは大胆な発想だ。

ということで城下町の伝統的な街並みへとやってきた。国登録有形文化財クラスの建築があちこちに点在しているが、
大多喜町ではむしろその間を埋める要素を工夫している印象。建物をできるだけ昔ながらのデザインにまとめてみたり、
看板や案内板などの小物も和風のデザインを施してみたり。じっくりと腰を据えて取り組んでいるという印象だ。

  
L: 街並みはこんな感じ。  C: 実に昭和な雰囲気の商店があった。外観だけでなく、店内の飾りなどがしっかり昭和。
R: 「釜屋」こと江沢家住宅。めちゃくちゃ立派なのだが、現役の住宅なのか、店としては有効活用されていない模様。

そして1849(嘉永2)年築、重要文化財・渡辺家住宅。『開運!なんでも鑑定団』に出ていた渡邉包夫先生の実家だ。
現役の住宅ということもあるが、それにしても落ち着いたたたずまいが別格。一段高くて生垣で区切っているのがいいのだ。

  
L: 1873(明治6)年築の伊勢幸酒店。  C: 巨匠・横山大観に学んだ男の実家、渡辺家住宅。落ち着きぶりがすごい。
R: どうも家の軒下スペースだけは一般に開放している模様。いや、現役の住宅でそれってすごいことだと思いますが。

大多喜の場合、全国各地の重要伝統的建造物群保存地区と違って「線」では街並みを構成しきれていないものの、
見応えのある建物が本当によく残っている。「点」としては十分な魅力を持っている。そしてその「点」の間を、
どうにかつないでいきたいという意欲も強く感じられる。まあそもそも大多喜町役場を見れば、町の志の高さがわかる。
なんでもかんでも和風デザインにしてしまい、かえっておかしい印象の部分もなくはないが、よくやっていると思う。

最後に大多喜城まで行ってみる。中心市街地とは反対側、大多喜駅の西側にある山の中に大多喜城はある。
夷隅川に沿って歩いていくが、この道には「メキシコ通り」という名前が付けられている。歩道部分にはところどころ、
古代メキシコの太陽・カエル・魚などのデザインを描いたタイルが埋め込まれている。これは1609(慶長14)年、
フィリピンからメキシコに戻る船が台風で遭難したのを地元民が救助したのが発端で、家康は船を与えて帰国させている。
それで大多喜町はメキシコと交流があるのだ。エルトゥールル号みたいな話(→2007.2.11)って大多喜にもあったのね。

道が広い分だけ予想より時間がかかって大多喜城の本丸跡に到着。現在は千葉県立中央博物館・大多喜城分館が、
再建天守としてそびえている。大多喜城を築城したのは徳川四天王のひとり・本多忠勝。城下町建設も同時に行った。
大多喜城分館の中に入る時間的な余裕はなかったのだが、本丸の端っこから見た限りでは、眺めはよくなかった。
それにしても本丸跡に行くまでの雰囲気が久留里城(→2008.12.23)によく似ていた。房総の城ってああいう感じか。

 大多喜城の再建天守・千葉県立中央博物館大多喜城分館。

大多喜駅まで戻ると急行列車に乗って帰る。やっぱり乗客がいっぱい。どうやら地元の中学生が職場体験中のようで、
女の子がいすみ鉄道グッズを車内販売してまわる。うーん、いすみ鉄道め、やっぱり日本一商魂がたくましいよ!
列車は途中の国吉駅で休憩。国吉駅にはムーミングッズを売る店があるので、つまりはお買い物休憩というわけである。
いちおう店内を見てまわったのだが、ニョロニョロのボールペンがどうしてもどうしても気になってたまらない。
手のひら(らしい)部分を上下して、ペン先を出し入れするという気の利いたアイテムで、結局買っちまったよ。
いすみ鉄道の商魂たくましさに負けた瞬間なのであった。まあ別に誘惑に意地でも勝ってやろうという気もなかったし。

大原駅で外房線に乗り換えると、土気(とけ)駅まで戻る。本日最後の目的地はここ、土気駅なのだ。
しかし「土気」とは面白い名前である。一説には、「土気」とはこの辺りから天然ガスが出ているから、らしい。
現在の土気駅周辺はもともと農地・山林だったが、1986年から「あすみが丘ニュータウン」として開発された。
ちょうどバブル経済の絶頂期ということで、いわゆる「チバリーヒルズ」と呼ばれている高級住宅地もつくられた。
とりあえずテキトーに歩きまわって、ごく一般的なあすみが丘的価値観を体験してみたいと思う。

  
L: 土気駅。駅前にはまず東急リバブルの店舗。あすみが丘は東急不動産が開発したのだ。……ところで「あすみ」って何?
C: 駅からまっすぐ行くと小規模なショッピングモールがある。  R: 土気駅から南へ下って振り返ったところ。

イナゴを食べるような田舎で育った僕にとって、ニュータウンの高級住宅地というのは正反対の世界である。
ビュービューとアウェイの風を感じながらトボトボと歩いていく。ゴールは昭和の森公園と決めているので、
ちょろっと南西側へと迂回してから東へ向かうルートをとってみた。そしたらグラウンドがあって少年野球中。
見るとその奥には一面の屋根の海が広がっているではないか。しかもややパステルカラーがかった色をしている。
同じような風景は、つくばエクスプレスで千葉県に入った辺りでも見ることができたように思う。
視界を埋め尽くす屋根の下にはそれぞれの住人の生活があるはずなのだが、そこにはもはや個々の差は感じられない。
これだけの人数が、これだけの同じような生活をしている。その事実に眩暈がしたものだ。ここもそうなのか。

そのまま南へと下っていくと、創造の杜という公園に出た。なんだかだいぶコンクリートが古びてきている印象がする。
埋立地と同じで、人間の管理を逃れつつある植物がやりたい放題を始めようと腕先を伸ばしている。まず、視界を遮る。
そうして人目を避けたところから、土ぼこりやゴミなどの汚れがコンクリートの風化とともにゆっくりと侵食していく。
開発されてから四半世紀ほどが経過して、広いあすみが丘ではところぞころで侵食作用が進みつつあるようだ。

さてその創造の杜から東へと針路を変える。左手にはマンションが現れる。さっきの屋根の海は当然、一戸建てだが、
こちらのマンションはその屋根が重力の向きを変えてそれぞれの壁面にへばりついているようなものだ。
この場で地面に寝転がれば、足下に生活のブロックが広がっていることには変わりないのだ。やっぱり眩暈がする。

左手のマンションに対して右手はというと、なんだかどうも様子がおかしい。敷地は木々に囲まれて遮られており、
その奥に複数の建物があるのがなんとなくわかる。明らかに意図的に隔絶された区画となっており、雰囲気が怪しい。
やがてゲートが現れた。看板も何もないので、中がどういう施設なのかまったくわからない。初めは大学かなと思ったが、
ゲートの雰囲気は大学のそれではなく、むしろ自衛隊や米軍の駐屯地に近い。どこかものものしいのである。
まさか宗教団体が入植地をつくっているとかじゃないよな、と豊かな想像力をはたらかせてしまう僕なのであった。
後で調べたら、ここがまさに「チバリーヒルズ」で最もバブリーな地区であるワンハンドレッドヒルズだった。
周囲と隔絶することで環境を維持するという、まさに元祖で本家のビヴァリーヒルズ的なことをやっているわけである。
そうとわかれば、そのバカバカしさをぜひともこの目で見ておくべきだった、と後悔するけど後の祭り。無知がいけないのだ。

  
L: グラウンドから眺める一面の屋根の海。あすみが丘ニュータウンのいちばん西側はこんな感じで一戸建てがひしめいている。
C: 創造の杜の東側はマンション群が建ち並ぶ。この道路を挟んだ反対側がワンハンドレッドヒルズ。いやー、見に行くべきだった。
R: まったく同じデザインの住宅が、遠近法とは何かを教えてくれる一角。一口にあすみが丘と言ってもいろんな光景がある。

そのまま東へ進んでいくと郊外型の店舗が並んでおり、けっこうな賑わいをみせていた。さらに進むとまた独特な光景となる。
道の両側にはロードサイド店が看板を出していて、まさに地方都市の国道沿いと同じような雰囲気となっている。
しかしその店のさらに外側には住宅がある。道路に沿って、ロードサイド店と住宅地が隣接しているのである。
さらによく見ると、ロードサイド店には老人ホームが混じっている。1ヶ所にこの3種類の取り合わせというのは初めて見た。
ここでようやく、ニュータウンとモータリゼーションの密接な関係にあらためて気がつく。これらは同じ時代の現象なのだ。
ただ、日本の場合は公共交通機関がアメリカよりもずっと強いので、こういう形での進化があまりなかったということだ。
(そういえば、団地とニュータウンの違いについてきちんと考えたことってないなあ。もっと団地を社会学せねばいかん。)
ニュータウンは大都市がその裾野を計画的に広げる現象だし、モータリゼーションは地方都市を均一空間化する現象だ。
両者が同時に発生してもおかしくはない。土気という場所、バブルという時代は、まさにその結節点だったわけだ。

  
L: ニュータウンの中にモータリゼーションが入り込んだ光景。道路、老人ホームの混じったロードサイド店、住宅がストライプを描く。
C: ロードサイド店の奥に住宅地があることが確認できる。地方都市の郊外では、このような光景はあまり見られない。
R: たまに道路に面して公園がある。旧字名をとって「黒ハギ公園」という名前だが、ただの空き地だ。旧字名の公園は多数ある模様。

日本にはさまざまなニュータウンがあるが、一口に「ニュータウン」と言っても場所や時代によりそれぞれ特徴が出るのだ。
ニュータウンの理想と現実、そこから見えてくるものはけっこう大きいということを、あらためて教えられたように思う。
すでに千里ニュータウンは見ているので(→2013.9.29)、いずれ多摩ニュータウンをきちんと訪れないといけないだろう。

  
L: 21世紀に入ってから住宅開発がなされたという、あすみが丘東を行く。駐車場兼前庭のある住宅が並んでいる。
C: もともと起伏のある土地を豪快に開発したのか、住宅が一段高くつくられてその下を掘って駐車場としているケースも。
R: 住宅、開発途中らしいガードレール、屋根、電柱。30年前のこの場所の風景を知る手がかりは、もはや何もなさそうだ。

最後に訪れたのは、千葉市昭和の森公園だ。キャンプ場やら野球場やらテニスコートやら自然公園やら芝生広場やら、
広大な面積の中にさまざまな要素が詰め込まれている場所である。が、北半分ざっと歩いてみた限りでは、
緑をそのまま残したり新たに配置したりしながらサイクリングコースを設定しただけ、という印象である。大雑把な公園だ。

 
L: 千葉市昭和の森公園。なめらかにうねる芝生の広場に木々。北半分は芝生・木々・サイクリングコースでできていた。
R: 北側の入口はこんな感じになっている。これも見ても、あすみが丘はモータリゼーションによって成り立っていることがわかる。

さんざん歩いて疲れているので、展望台まで行ってみてそれで終わりとする。それでもかなり歩かされたけどね。
九十九里の水平線が見えるけど、もうちょっと高さがあれば、いかにも千葉県っぽい景色を楽しめると思うのだが。


九十九里の海岸を一望できる。そこに至るまでの緑の点在する感じが千葉県(房総)的景観。

本日はこれでおしまい。最近は遠出の旅行に力を入れているけど、首都圏近郊も重要だ、とあらためて実感。
暇を見つけてちょこちょこと現場に出かけて、考える材料を増やしていきたいものですな。


2014.8.2 (Sat.)

夏休みになっても旅行に部活にと、それはそれで余裕のない生活をしていたので、今日はだらける。
といっても日記はみっちりと書いたんだけどね。最近はどうも力の抜き方が下手で困るのだ。

そういえばBerryz工房が無期限の活動停止だそうで。うーん、結局こういう形になってしまったか。
個人的には舞美がちゃんとやっていてくれればそれでいいのだが、いちおうライバルグループだしなあ。
モーニング娘。が下降線をたどって苦しい冬の時代を生きて、気づけばAKBに天下を取られた格好になり、
なかなか運に恵まれないところがあったと思う。ももちはプロだし須藤なんてちゃんとしてれば美形なんだがなあ。

じゃあせっかくなんでオレ的Berryz工房の曲ベスト5を発表します。2006年~2008年ごろの曲しか追ってないのね。
1位『付き合ってるのに片思い』:ベリーズはこれがぶっちぎりでデキがいい。
2位『思い立ったら 吉でっせ!』:曲がよくできてるうえに後列3人の魅力がよく出ている。
3位『サヨナラ 激しき恋』:ベリーズはこういう曲調がいちばん得意なんじゃないかと思う。
4位『胸さわぎスカーレット』:太い音を鳴らすリフとラストの無茶な音程がわりと好きだ。
5位『ジリリ キテル』:革命のエチュードの分だけすべり込んだな。ちなみに次点は『バカにしないで』でした。

やっぱりグループとしてはこれくらいの頃がよかったねえ。まあとにかくお疲れ様だ。ホントにお疲れさん。


2014.8.1 (Fri.)

本日は日直でした。なので僕は部活をお休み。職員室にこもってひたすら作業に没頭するのであった。
それにしても、もう8月になってしまった。1ヶ月後にはまた怒涛の日々が始まるわけですよ。がっくりですよ。
最大の楽しみである旅行も、でっかいのをすでにやっちゃったしなあ……。いきなりションボリですよ。


diary 2014.7.

diary 2014

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