diary 2018.8.

diary 2018.9.


2018.8.31 (Fri.)

出発式なのであった。といってもわがサッカー部は明日試合を控えており、練習を優先させてもらって後から合流。
明日から9月ということで、もはや18時をまわるとあっという間に暗くなってしまう。夏の短さを実感する。

無事に店にたどり着くと、さまざまな話題で盛り上がるのであった。学生時代のアルバイト話になったのだが、
僕の場合は学生時代にはほとんどバイトをしておらず、本格的にやったのは会社を辞めた30代という珍妙な経歴だ。
イヴェントスタッフを中心に食いつないだ日々は、苦しかったけど今でもちょっと愛おしい(→2008.10.4)。
その中でも特にキテレツだった、東京ビッグサイトでのラベルはがし(→2008.10.72008.10.11)について話す。
これは序盤の説明が非常に難しいのだが、究極の単純作業っぷりが抜群に間抜けなので、絶対にウケるんだよね。
まあ冷静に考えると、この経験を笑い話にできている現状はたいへん幸せであると思う。……うーん、酔いが醒めた。


2018.8.30 (Thu.)

日記が超スランプでございます。未整理の写真が膨大にあって、なかなかこの作業が乗り気になれない。
では文章を書く方はどうかというと、これもなかなか厳しい。過去に遡ってよしなしごとを書くのはぼちぼちだけど、
ガッツリと旅行記を書くだけの集中力はない。ひとつひとつの旅は楽しいのだが、書くにはエネルギーが要るのだ。
でもいちばんやらなくちゃいけないのは旅行記なのである。どげんかせんといかんのだが、二の足を踏みまくっている。
そしてその一方で、次の旅行計画が具体化していく。すっかりダメ人間だと反省するも、夏はあっという間に過ぎ行く。


2018.8.29 (Wed.)

ウチの学校は社会の先生が2人いて、ひとりが男性でひとりが女性である。冷静に考えると女性の社会の先生は珍しい。
で、その女性の社会の先生曰く、地図でよくある等高線の密集している部分が、シワシワしていて気持ち悪いとのこと。
当方、そういう発想は今までまったくなかったのでびっくり。「ああ、急峻な山地やら崖やらなんだなあ」と思うのみで、
自分の中にあるその手の地形を頭の中ですぐに思い浮かべて、ハイおしまい。特に気持ち悪いと感じることはない。

これってどうなんだろう。僕はこの違いに、男性と女性という性差による感覚の差があるのではないかと思うのだが。
地図に慣れている男からすると、等高線が描く形状は現実の地形を象徴する記号でしかない。そう受け止められる。
しかし空間感覚が男性ほど緻密ではない女性は、象徴よりもまず目の前にある形状が現実として飛び込んでくるわけで、
不規則に密集した等高線は不安定な模様として認識されるのだろうと想像する。言われて初めてその感覚に気がついた。

同じ地図なら僕の場合は、何もない茫洋とした海に浮かぶ離島の方が怖い(→2017.1.20)。
この感覚はたぶん高所恐怖症と同じところから来ているので性差は関係ないだろうけど、やっぱりそっちの方が怖いなあ。
とはいえ地図を見てその光景を想像するプロセスを踏んで怖くなっているのは確かなので、多少は関係あるのかなあ。


2018.8.28 (Tue.)

日記を書く作業がぜんぜん進まないのに、旅行の計画はそれなりに組み上がっていくという悪循環。
というのも、9月にハッピーマンデーがあって、10月に学校の都合で月曜が振替休日になるパターンがいっぱいだから。
この10月の平日休みをどう使うか考えていたら、なんだか大胆な計画に変化していくのであった。しょうがないやね。


2018.8.27 (Mon.)

ついに夏休みが終わり、授業期間が始まってしまった。8月いっぱいよりも開始が1週間早いと本当に虚しい。
そんでもって、実際に生徒の前に立って授業するのはやっぱり疲れるのである。午前だけなのにいきなりヘロヘロ。

夜は写真の整理・加工に勤しむが、轟く雷鳴にかなりビビったのであった。恐怖を感じざるをえない大音量。
今まで雷でいちばん怖かったのは大学時代の教育実習で校庭に雷が落ちたときだが、それに次ぐレヴェルの怖さだった。


2018.8.26 (Sun.)

本日はシード権大会のリーグ戦・第2試合。11人相手に後半2点もぎ取って2-5という結果に終わった。
1勝1敗で2位通過、来週末のトーナメントに駒を進めることができた。8人のチームとしては上々である。
攻撃に関してはよくやっているかなと思う。人数が足りないのでどうしてもFWが足りなくて攻める位置が遠いけど、
こぼれ球への素早い反応で合理的に戦えている。後半に入っても走り負けないでプレーできているのも大きい。
あとは守備で、押し込まれての失点というよりは、相手を有利な位置に入れてしまっての失点が続いている。
サッカーでの常識をもう少し整理して、プレーに定着させるようにこちらがアドヴァイスしないといかん。
そういう意味では、生徒の課題である以前にこちらの課題である。具体的に指導できるようにがんばらんとなあ。


2018.8.25 (Sat.)

夏休み最後の週末はシード権大会である。勝てば新人戦のシード権がもらえるという大会で、正直意味がわからない。
意味がわからないし平日開催で負担が大きかったし顧問は実質オレ一人だったしで去年は出場しなかったのだが、
今年は土日開催に講師がコーチでついてくれているしで、だいぶ負担が軽めになったので出場したというわけで。
まあ要するに、区内の強豪ではないサッカー部にとっての夏休み総仕上げの場として機能している大会というわけだ。

3チームのリーグ戦に放り込まれて今日は初戦。われわれは8人しか部員がいないので、当然苦戦が予想されたのだが、
相手の学校も部員がそろわずに9人という有様なのであった。最近になってどこも急激にサッカー部員が減っている。
いざ試合が始まると攻撃大好きなウチの生徒たちはガンガン攻める。ときたまカウンターが来ても落ち着いて対処。
炎天下のつらいコンディションだが非常によく戦えている。問題は人数不足で、純粋なFWの枚数がどうしても足りない。
それでもこぼれ球に素早く反応することで相手DFやGKの隙を衝いて2点奪って勝ったのであった。ナイスゲームである。

それにしても人数不足は本当につらい。3年生の元部長がマネージャー役で動いてくれたのでどうにかなった感じ。
受験生なのに大丈夫かよと思わないでもないが、こういう気配りができることが重要なので、全力でフォローしますです。


2018.8.24 (Fri.)

実家には潤平の土産である東工大のツバメマークの入ったマグカップがあって、母親が一橋のマグカップも欲しいと言う。
こちとら基本的に平日には自由に動けない生活をしているので、夏休み中最後のチャンスということで国立に行ってきた。

台風が去って日は差しているが風だけは強い、そんな中をのんびり歩いて一橋大学へ。郵便局に寄るつもりだったが、
サンモーク(ないものはない)のビルごと建て替えということで消えていてびっくり。駅前の7階に移転したそうで。

西生協に行ってみたら食堂はお休み中で、売店だけが開いていた。コロンバンの一橋クッキーがあって驚いた。
そのほかにもクリアファイルやノートなどが置いてあり、いろいろつくるようになったんだなあとしみじみ思う。
しかしマグカップは置いていなかった。東生協はカフェテリアも売店も丸ごと夏休み。見事な空振りっぷりである。
後で大学生協のサイトを確認したら、PDFのグッズリストと配送の説明が載っていた。便利な世の中になったものだ。

先日の奥多摩探検の帰りに溝の口でスタ丼を食っており、生協も休みだし、昼飯はどうしようかと少々悩む。
でも考えれば考えるほどロージナ茶房のシシリアンを食いたくなって、部活着のお一人様だが勇気を出して飛び込んだ。
ロージナというとザイカレーが有名だが、僕は在学中の後半あたりからシシリアン中毒になってしまったのである。
HQSで行くときも毎回僕だけシシリアンなのであった。今回はランチなのでコーヒーとサラダもついて980円。
感動にむせび泣きながらいただくが、久々のシシリアンは量が凄まじかった。やっぱり学生街のお店なのである。

 ロージナのシシリアンは僕にとって究極のパスタと言える存在なのだ。

余韻に浸りながら夕方の部活へ。シシリアンのおかげで最高級の夏休みの締め方ができたように思う。


2018.8.23 (Thu.)

この夏の旅行でようやくJR全線乗りつぶしのゴールが見えてきた感じである。北海道・四国・東海はすでに押さえ、
西日本も加古川線を残すのみ。あとは東日本と九州で乗っていない路線がまだ複数あるが、焦点を絞って旅行に出れば、
クリアできる見込みである。災害がらみの不通区間が非常に厄介だが、まあこれはこれでしょうがない。復旧待ちだ。

一方の市役所だが、宮城県富谷市の存在を今日ようやく知って愕然となる。2016年の市制施行を知らない僕が悪いけど、
先週に宮城県を攻めたばかりでこれは大失態もいいところだ。この悔しさと恥ずかしさは、本当に筆舌に尽くしがたい。
なんとかして近いうちにリヴェンジしてやると心に誓うのであった。市役所の方はまだまだまったく終わりが見えない。


2018.8.22 (Wed.)

夏休み最後のお出かけということで、今まで行ったことのない奥多摩へ行ってみるのだ!
かつて中央線沿線の多摩地区に住んでいた経験から言うと、西多摩は大きく3つの方向に分かれている。
立川で分岐して西、これは八王子を経て山梨県そして長野県へと通じる。つまりは甲州街道・中央本線そのまんまだ。
立川から北西へ行くのが青梅線、これは拝島で五日市線と分岐する。五日市線は武蔵五日市で終わってしまうが、
その先には檜原村がある。昨年のGWに訪れたが、数馬の温泉に入りそびれたのがいまだに悔しい(→2017.4.30)。
で、青梅線でさらに北西へ行くと、終点は奥多摩である。今回はその奥多摩からさらにバスで行って日原鍾乳洞、
そして奥多摩湖まで行ってみる。帰りは御岳山と武蔵御嶽神社で御守をもらうのだ! わりにいい案でございましょう。

同じ東京都への旅だというのに、家を出るのは午前5時半より前ですぜ。基準になるのは日原鍾乳洞へのバスなのだ。
これが面倒くさくて、鍾乳洞まで行ってくれるのは平日ダイヤのみ。2つ手前の東日原までは毎日運行しているのに。
東日原から日原鍾乳洞までは片道2kmほどで、山ン中を歩くことに飽きている私としては、意地でもバスで行きたい。
そういうわけで夏休みの平日を選んで日原鍾乳洞を目指すわけなのだ。なお、奥多摩駅に来るのは初めてである。

  
L: 奥多摩駅のホームにて。青梅線の最果てである。ちなみに奥多摩駅は東京都内の鉄道駅で最も高いところにある。
C: 奥多摩駅の駅舎内。  R: 奥多摩駅の外観。竣工は1943年ということで、戦時中の建物なのにすごくオシャレ。

奥多摩駅からバスに揺られて日原川沿いを行くこと30分。僕のほかにも数人の客が終点の鍾乳洞バス停で下車した。
鍾乳洞が目当ての人はもちろん、渓流釣場も人気がある模様。なぜ土日にここまで来てくれないのか、首を傾げる。
調べてみたら、土日はマイカーの観光客が多くて、狭いところに集まるために大混雑になってしまうらしい。
つまり、バスが来ないんじゃなくて、バスが入れないのだ。それで目立った集落のある東日原まで、ということみたい。

 終点・鍾乳洞バス停はこんな感じ。ここからさらに500mほど山に入る。

「鍾乳洞」を名乗るバス停だが、日原鍾乳洞の入口はここからさらに500mほど奥へ進んだところにある。
途中、左手の山肌を削ったような形で一石山神社が鎮座していたので、軽くお参り。御守はもちろん無しだ。
日原森林館の公式サイトによると、かつては上野の寛永寺に属しており、鍾乳洞に対する拝殿の性格を持っていた。
密教系の修験道の霊場だったわけだ。しかし明治の廃仏毀釈によって独立した神社として再出発したそうだ。

  
L: 振り返って鍾乳洞バス停を見たところ。観光客がいますね。  C: 一石山神社。  R: 拝殿&本殿。

参拝を終えるといよいよ日原鍾乳洞へ。ちゃんと読めますか、日原。「にっぱら」ですよ。促音と半濁音が面白い。
東京都にありながら実は関東最大級の鍾乳洞ということで、一度きちんと訪れてみたいと思っていた場所なのだ。
ちなみにさっき写真に撮った奥多摩駅のホームの先には奥多摩工業氷川工場があるが、これは石灰石についての工場。
(そもそも御嶽駅以西の青梅線は、奥多摩工業の前身である奥多摩電気鉄道が敷設したのを国有化して完成したのだ。)
修験道の霊場にもなった巨大な鍾乳洞があるから石灰石もいっぱい採れるぜということだったのだ。なるほどなるほど。

  
L: 都道204号(日原街道)の終点。ここから小川谷へ下る。  C: 渡った対岸が日原鍾乳洞入口。  R: 入口から振り返る。

というわけで、いざ日原鍾乳洞へ突撃である。中に入ると湿度が高いわ急に温度が下がるわで、カメラのレンズが結露。
石灰石だったり結露だったり、今日はのっけからたいへん科学的である。しばらくあたためて様子をみてから行動再開。
さて鍾乳洞というと、秋芳洞に2回行き(→2007.11.32015.11.21)、移動教室であぶくま洞に行った(→2009.6.12)。
2ヶ月前の普天満宮の洞穴(→2018.6.23)も鍾乳洞とのこと(撮影しておけばよかった……)。それくらいかなあ。
あとは小さい頃に家族で飛騨大鍾乳洞に行っていると思うが、「流しそうめんいかがですか」の記憶しかない。

  
L: しばらくは狭い一本道が続く。  C,R: もともと修験道の霊場ということで、それらしい痕跡があるのが日原の特徴か。

なんというか、鍾乳洞はやはり秋芳洞が究極で、城郭建築における姫路城と同じくらい決定的存在なのである。
だからどうしても、一度秋芳洞を体験してしまうと、ほかの鍾乳洞を秋芳洞のミニチュア的なものと感じてしまうのだ。
日原鍾乳洞にもさまざまな奇岩があっていろいろ名前が付いているが、ただ名前だけ紹介されてもどうもピンとこない。
修験道の神秘的体験を追跡できるように、往時の仏教的価値観から意義を説明してもらえるとうれしいんだけどなあ。
江ノ島の岩屋なんかはその狭さと修行のイメージが強烈で(→2010.11.27)、参考にできる点はあると思う。

  
L: 池です。これ写真だけじゃ天井なのか地面なのかすらわからんね。  C: 出た原色ライトアップ。どうしてやっちゃうかな。
R: 縁結び観音。これまた修験道的な空間である。後ろで花が供えられているように見えるけど、苔と岩がそう見えるだけ。

  
L: 岩の上にある祠・十二薬師。後ろの岩壁が光って見えるのは大量の1円玉が貼り付けられているから、とのこと。
C: 関守地蔵。日原鍾乳洞は修験道を強調した方が独自性が出ていいと思う。  R: 大天井。これはかなり壮観。

  
L: 白滝。奥に竜王の間がある。  C: 金剛杖。  R: 雨降岩。岩の間を下っていくのはなかなかの迫力。

というわけで、都民が鍾乳洞がどういうものかを体験する場所として機能しているのはいいと思うが、
ただの奇岩のオンパレード扱いになっているのはもったいない。正攻法では秋芳洞に勝てっこないので、
ここで修行した物好きの気分を追体験できるといい。そういう目で見ると絶対に面白さは倍増するはずだ。

奥多摩駅行きのバスがやってくるのは1時間半後。さすがにそれまで鍾乳洞の中で膝を抱えて待っているわけにいかず、
ここから奥へ進む気なんてさらさらないので、素直に東日原方面へと歩きだす。それしかしょうがないではないか。
山道をしばらく下っていくと集落へと入る。昭和を感じさせる自動販売機だったものがまだ置いてあって、
自分が小学生のときにはこんなんだったなあとノスタルジーに浸るのであった。あれはあれで豊かだったのう。

  
L: こんな感じの道を下っていく。結局、今回も山ン中の道を歩いている私なのであった。  C: 集落の中に入る。
R: かつて自動販売機だったもの。細長いサイズの缶、デカいボタン、HOT&COLDの書体、すべてが懐かしい……。

中日原バス停の前には萬寿の水。これは井戸ではなく、1953年に奥多摩工業の協力を得て対岸から引いたもの。
そこから東へ行くと日原森林館。ここから2km東にある「倉沢のヒノキ」が新日本名木100選に選定されたことで、
奥多摩町は巨樹や巨木林をPRするようになり、日原森林館もその流れで設立された。全国の巨樹情報が検索でき、
せっかくなので根羽の月瀬の大杉(→2005.8.15)や清内路のミズナラ(→2005.8.16)などを調べて過ごす。
ちなみに環境省のサイトで「巨樹・巨木林巨樹データベース」があるので、興味のある方はどうぞ。

  
L: 萬寿の水。  C: 中日原バス停。道幅が狭くなるポイントに萬寿の水(左側)があるわけだ。
R: 日原森林館。全国の巨樹の世界に触れることができる。しかしよくデータベース化したものだ。

檜原の数馬みたいに温泉があればよかったのだが、残念ながら日原に温泉はございません(奥多摩駅周辺にはある)。
東日原バス停周辺をウロウロ歩いて、なかなかの斜面の集落っぷりを堪能しつつ、バスが来るのを待つのであった。

  
L: 東日原の中心部。  C: 日原川方面にちょっと下って集落を横から眺める。石垣がけっこう目立つ斜面の集落である。
R: 東日原バス停にあった案内。「昭和五十四年」とあり、40年近く経っているわりにきれいだなあと思う。昭和だぜ。

奥多摩駅に戻ってくるが、またしてもバスに乗っての移動である。今度は西の奥多摩湖方面だ。
20分ほど余裕があるので、奥多摩駅からすぐの奥氷川神社に参拝する。駅のある集落の名前は「氷川」で(旧氷川町)、
奥多摩駅も開業当時の名前は「氷川駅」だった。大宮の氷川神社(→2014.12.7)、所沢市山口の中氷川神社とともに、
「武蔵三氷川」とされているらしい。日原川と多摩川の合流点に鎮座しており、まさに奥多摩の精神的支柱という印象。
しかし残念なことに御守がないのであった。これは本当にもったいない。需要は絶対にあるはずなんだがなあ。

  
L: 奥氷川神社の境内。  C: 覆屋の中に朱塗りの本殿。  R: 東京都指定天然記念物の氷川三本杉。

駅周辺の写真を撮ってまわる。夏休みといえども平日なので、観光客の姿はなくはないけどかなり穏やかな印象。
土日に来るとまた違った感じになるのだろうか。雲取山に登る人とかいそうだもんなあ。温泉もあるみたいだし。
元気な人は三峯神社(→2015.5.17)から縦走するのかな。僕は坂道によわくてねえ。平らな山ならいいんだけど……。

  
L: 奥多摩駅周辺の様子。平日だからか元気はイマイチ。  C: 西東京バス氷川車庫。山梨県の丹波山村・小菅村まで行ける。
R: 奥多摩ビジターセンター。雲取山に登る人が情報収集する感じか。巨大なニホンカモシカの顔が貼り付いていますな。

せっかくなので、奥多摩町役場も撮影しておくのだ。奥多摩駅のホームと日原川に挟まれて、実に細長い。
南側が1965年の竣工で、北側の増築部分が1984年の竣工。街の中心だけど邪魔にならない位置に無理に建てた感も。

  
L: 奥多摩町役場。こちらがオリジナルの南側。  C: 北東から振り返る。  R: 増築された北側。

  
L: 北側の玄関。  C: 北東から全体を眺める。  R: 北端の議場には特大サイズの奥多摩町章。

 中の様子(1階)。奥多摩町イメージキャラクター「わさぴー」がいる。

時刻になったのでバスに乗り込み、いざ奥多摩湖へ。本当はもちろん小河内神社まで行ってみたいのだが、
それをやるとこの後に武蔵御嶽神社を参拝するのが難しくなりそうなので、断腸の思いでパス。御守なさそうだし。
バイクなら浮橋まで簡単に行けて楽しいんだろうけどねえ。でもそれなら丹波山村まで行っちゃえってなるかな。
うらやましいものである。でも調べたら奥多摩駅前にレンタサイクルの店があった。うーん、しまった。

  
L: 奥多摩湖バス停で下車。周辺は公園っぽく整備されているが、周囲には店がまったくなくてションボリするのであった。
C: 人間日時計。手前は登山から戻った人向けの足つぼだと。奥の金属はタイムカプセルだが「高温注意」。中身大丈夫か?
R: いざ散策を開始。洪水吐の上が通路。こちらの水門は水が届いていないことが多いらしく、これは満杯に近いってことか。

奥多摩湖と呼んでいるが正式名称は「小河内貯水池」であり、小河内ダムと呼ぶ方が歴史を反映したものであるはずだ。
かつてはここに小河内村があったが、戦前の1936年にダム建設が着工。戦争による中断を挟んで1957年に竣工し、
村の大部分が湖底に沈んだ。ダム建設で村が沈んで故郷がなくなってしまう話は東京にもあったのだ。

  
L: 奥多摩 水と緑のふれあい館。  C: 洪水吐の上を行く。  R: 天端。堤頂長は353.0mとのこと。都道205号でもある。

奥多摩湖は水道専用貯水池としては日本最大級であり、確かに東西方向に非常に長い。厳密には東京都だけでなく、
山梨県の丹波山村・小菅村にまで跨っているのだ。地図ではあまり大きそうに見えない天端も、歩くと非常に長い。

 奥多摩湖(小河内ダム)。見えているのはほんの一部だけ。

天端の途中には小河内ダム展望塔があるので中に入ってみると、ダムの模型が置かれており、壁には説明。
上の階では床全体が地図となっており、ガラス窓越しに下流側を斜め方向で覗き込める。が、それだけ。

  
L: 小河内ダム展望塔。  C: 中はこんな感じで簡素である。  R: 展望塔ではなく天端中央付近から見下ろす。怖い。

対岸には奥多摩湖いこいの路が延びており、湖岸を12km歩けば「山のふるさと村」まで行けるらしい。
バスで帰ろうとすると、そこからさらに小河内神社まで2.5km歩くそうだ。感覚がマヒしていませんか?

  
L: 奥多摩湖いこいの路。  C: ツキノワグマが出るかもしれないこの道を12km歩ける人はすごいと思います。
R: 慰霊碑。建設工事中に87名が殉職している。旧小河内村民だけでなく、多くの犠牲の上に奥多摩湖があるのだ。

そろそろバスの時間ということで戻っていくと、サルの群れに遭遇したのであった。連中はかなりすばしっこく、
前みたいな直接対決はできなかったが(→2013.11.30)、写真には撮った。管理事務所はけっこう連中の庭っぽい。

  
L: サルの群れに遭遇。  C: こちらに目もくれず走る個体。  R: 連中はすばしっこく、ケツをまくって逃げてしまった。

疾風のように現れて疾風のように去ってゆく。サルたちが消えてしまうと、こっちも急いでバス停へ。
そうして奥多摩駅に戻ると青梅線に揺られて御嶽駅で下車。本日最後の目的地、武蔵御嶽(みたけ)神社を目指すのだ。

  
L: 川井駅、車窓から見た奥多摩大橋。  C: 1929年竣工の御嶽駅。  R: 武蔵御嶽神社を意識していますなあ。

駅からバスで御岳登山鉄道(ケーブルカー)の滝本駅まで行く。平日とはいえ夏休み中なので、客がけっこういる。
ちなみに武蔵御嶽神社は狼を「おいぬ様」として祀っているため、ケーブルカーに犬をそのまま乗せることができる。

  
L: こちらの車両は赤が基調の「御嶽」。  C: 中間地点にて。「武蔵」は緑が基調。  R: 御岳平。賑わっていますねえ。

ケーブルカーを降りると景色を眺める。関東平野西端の眺めが素晴らしい。これは羽村から青梅辺りだろうか。
市街地がしっかり広がっているのがわかる。御岳山が山岳信仰の対象として崇敬を集めたのも頷ける眺めである。

 御岳平から眺める景色。

ではいよいよ武蔵御嶽神社に参拝である。ケーブルカーの御岳山駅からは少し距離があり、宿坊群を抜けていく。
そして最後に門前の商店が並ぶ通り。東京にもこんな場所があるのか、と思っているうちに境内入口に到着した。

  
L: 境内入口。  C: 鳥居をくぐると随身門。  R: 途中のベンチ。なるほど、「おいぬ様」なのね。

さっきも書いたが、武蔵御嶽神社は狼を「おいぬ様」として祀っている。これは東征の際に道に迷った日本武尊が、
白狼に導かれて御岳山を抜けることができたから。「大口真神(おおくちまがみ)としてこの御岳山に留まり、
すべての魔物を退治せよ」ということで守り神となったそうだ。三峯神社(→2015.5.17)と重なるエピソードだ。
参道に多数の講碑が並んでいる点も共通している。直接の関係はなさそうだが、昔の人の価値観がうかがえて興味深い。

  
L: 石段の両側にたくさん講碑が建っている。  C: 独特な姿の宝物館。平日は開いておらず、畠山重忠の鎧は見られず。
R: 授与所。もともと仏教っ気のある山岳信仰の霊場であり、しかも今は単立神社なので、けっこう個性的な御守が多かった。

宝物館は土日しか開かないので、畠山重忠が奉納した国宝の鎧は見られず。非常に残念である。
悔しい思いを抱えつつ、二礼二拍手一礼。しかしあらためて見る朱塗りの拝殿は、極彩色の彫刻も施されており、
いかにも家光好み。調べてみたら、1700(元禄13)年に徳川綱吉によって建てられたそうで、確かにそっちかと納得。

  
L: 武蔵御嶽神社の拝殿。石段を上ってすぐなので余裕がなく、撮影しづらい。  C: 角度を変えて眺める。なるほど綱吉か。
R: 横から見た本殿。家光の時代ほどゴージャスにはつくれないが、端正な基本形を見せつつポイントを絞って飾る印象。

山岳信仰で仏教っ気の強い神社であるせいか、石段をじっくりと上っていく構成や境内社があちこちにある点など、
やはりどこか山岳密教の伽藍配置に近い印象を受ける(僕にとって最も印象深い事例は室生寺である →2016.5.23)。

  
L: 朱塗りが印象的な皇御孫命(すめみまのみこと)社。その名のとおり、瓊々杵尊を祀る。もともとは東照社の社殿とのこと。
C: 全国一の宮の神々等87柱を祀る常磐堅磐(ときわかきわ)社。1511(永正8)年築の旧本殿で、東京都指定有形文化財。
R: 境内の奥にある大口真神(おおくちまがみ)社。先ほど述べた「おいぬ様」、つまり日本武尊を導いた狼を祀っている。

参拝を終えると門前の商店が並ぶ通りを撮影。規模は小さいが、長谷寺(→2016.5.23)あたりと似た雰囲気で、
さすが山岳信仰と思うのであった。ちなみにこの通り、れっきとした都道201号です。200番台の都道すげえな。

 
L,R: 武蔵御嶽神社の門前の商店たち。長谷寺のラストスパートな門前商店街に雰囲気が似ている。しかしこれが都道か。

せっかくなので周りにある宿坊も撮影しておく。いちばん見事なのは1866(慶応2)年築の馬場家御師住宅か。
武田四天王の馬場美濃守信房(信春)の子孫だそうで、甲斐国に近い聖地の御師をやっていたとは興味深い。

  
L: 起伏の激しい場所に宿坊が密集している光景は実に独特。東京都内でこのような空間を体験できるとは驚きである。
C: 馬場家御師住宅。当時の当主が愛する妻の実家そっくりに建てたとのこと。  R: 見事な茅葺き屋根に圧倒される。

帰りはあえて山の中に入ってケーブルカー御岳山駅へと向かう。ちょうどレンゲショウマまつりの真っ最中なので、
寄り道してレンゲショウマを撮影しながら戻る。レンゲショウマはキンポウゲ科の花で、日本固有で1属1種とのこと。
細い茎に比べて花は大きく、重さがあるのか下向きに咲くものがほとんどで、苦しい体勢での撮影なのであった。

  
L: 山道はこんな感じ。  C: レンゲショウマ。  R: がんばって花を撮ったよ。背景を見ると無理な体勢がわかると思う。

 途中の産安社。すぐ脇に安産杉、近くに夫婦杉や子授檜などがある。

帰りのケーブルカーはたいへん混み合っており、滝本駅に着いてもケーブル下バス停からは人が溢れていた。
こりゃもう歩いて御嶽駅へ行った方がよさそうだと判断し、坂道を勢いよく下っていく。神路橋で多摩川を渡り、
無事に御嶽駅に到着。やはり下りだとそんなに苦労しなかった。まあ実際に武蔵御嶽神社の何たるかを体験するには、
大鳥居からきちんと登っていくのが正しいのだろう。そして宿坊に泊まるのが正しいのだろう。そんなことを思う。

 
L: ケーブルカー・武蔵御嶽神社方面へと向かう道の分岐点にある大鳥居。  R: 神路橋と多摩川。

大学時代には多摩地区で暮らして自転車を乗りまわしていろいろ知った気になっていたが、全然だったなあと反省。
今回、さまざまな歴史にきちんと触れることができてよかった。夏休み最後のお出かけにふさわしい一日になった。


2018.8.21 (Tue.)

部活が終わって、上京してきたリョーシさんと飲むのであった。亦た楽しからずや。
今年は東北方面を重点的に動く予定だけど、岡山県もまだまだ井原市が残っておりまっせ。
牛窓神社にも行ってみたいんですよね。ぜひぜひまたお世話になりたいもんじゃのう。げへへ。


2018.8.20 (Mon.)

東北本線の仙台駅を出たのが朝6時26分。そしてちょうど30分後の6時56分に、おとといも下車した高城町駅に到着する。
サラッと書いているが、高城町駅は仙石線である。2015年に東北本線と仙石線が接続し、仙石東北ラインとして運行開始。
それで旅行最終日の朝にきちんと制覇したというわけ。鉄じゃないナリよ。でもまあよそ者の私としては、正直言って、
今まで「東北本線に乗ればいい」「仙石線に乗ればいい」で済んでいたのが複雑化した格好で、不安要素が増した感じ。
仙石東北ラインによって仙台-石巻間の所要時間は短縮されたが、それ以外の場所が目的地だと難度が上がったのでは。

 多賀城駅。気がついたら新しい駅舎になっていて驚いた。

まあとにかく、仙石東北ラインの接続線を押さえると、仙石線を戻って多賀城駅へ。今日はここから本格的にスタートだ。
駅舎が新しくなっていて驚いたが、2013年11月からだと。多賀城市役所を訪れたのはその半年ほど前だ(→2013.4.28)。
油断しているとどんどん置いていかれるなあと思いつつ、出勤する皆様と一緒に駅前から路線バスに乗り込む。
まっとうな勤め人の皆様を順調に降ろしつつバスは東へ進んでいき、僕はひとり菖蒲田というバス停で下車。
降りてみたらそこは見事に海水浴場で、自分の自由人ぶりが強調されてしまった感じだ。しばらく海を見て過ごすと、
本日最初の目的地に向けて歩きだす。農地の先に緑に囲まれた丘があって、怪しげな建物が顔を覗かせている。

  
L: 菖蒲田浜海水浴場。海の家が並んでいるが、こちとらそんなものにはぜんぜん縁がないのだ。
C: 広大な農地の真っ只中を行く。ちなみに農地の周りはいかにもニュータウン的な住宅が囲んでいる。
R: 行く手の丘の上には、何やら怪しげな建物が。いかにも平成になって建てられた公共建築って感触。

というわけで、やってきたのは七ヶ浜国際村。七ヶ浜町立の複合施設で、「国際」を名乗るあたりに嫌な予感がする。
とりあえず公共建築百選ということで来たのだが、まあどんなもんでしょうかねとカメラを構えて中を見てまわる。
1993年のオープンで、設計は針生承一。高橋靗一の第一工房出身とのこと。宮城スタジアムの設計もしているそうだが、
宮城スタジアムはアクセスの悪さと観戦しづらさでとにかく有名。国内最悪のスタジアムとして真っ先に名が挙がる。
では七ヶ浜国際村はどんなものなのか。まあ僕が実際に使うわけではないからね、見ただけでの印象を書きつけよう。

  
L: 七ヶ浜国際村の敷地入口。  C: 施設の入口。エントランス右に「25」という数字があるが、25周年ってことかね。
R: プリマスハウス。プリマスは七ヶ浜町の姉妹都市で、ピルグリム・ファーザーズの資料館。説教部屋かと思った。

  
L: 南側の側面。  C: エントランスホールを抜けて振り返る。  R: ホール方面へ向かう通路。壁には写真があるな。

  
L: エントランスホールの先はプールになっている。  C: プールの真ん中にアンフィシアター。つまりは円形型野外劇場。
R: プール脇のレストラン・Cafe La Luna。公式サイトによると、恋人達のデートスポットとしても最適だそうです。

  
L: 2階というか屋上に上がれるので、そこから見下ろしてみたアンフィシアター周辺。  C: 中庭。「25」ですと。
R: 屋上から眺める国際村ホール。しかし建物全体がコンクリートなのだが、モダニズムな感触がまったくないのがすごい。

  
L: さっきのレストランを見下ろしたところ。  C: ホール脇からレストランとアンフィシアター周辺を見下ろす。
R: ホール脇。国際村ホールは舞台後方にある大ガラスから海が一望できる、日本で唯一の「海の見えるホール」とのこと。

  
L: 屋上から眺める七ヶ浜町の景色。これは南側の海岸。  C: 南西、ニュータウンの向こうに新仙台火力発電所。
R: 西を眺めるとうっすらと仙台のビル群が見える。田んぼの先に都会ってのも珍しい光景だ。七ヶ浜は独特な場所だなあ。

  
L: あらためてエントランスホール内を撮影。  C: 旗にはアンモナイトのイラストが。建物全体も巻貝のイメージとのこと。
R: 2階のギャラリー的空間から見下ろしたところ。感想としては、まあ地元民が便利に使えていればいいんじゃないですかね。

プールとアンフィシアターとかよくわからん、バブルな発想だなあ芝生の方がいいんじゃないのか、とは思う。
観光客向けの要素はまったくないけど、地元民が満足して便利に使えていればそれでいいんじゃないでしょうか。

七ヶ浜町民バス「ぐるりんこ」に乗り込み、のんびり揺られること1時間。……1時間ですぜ!
まあでもそれが最も合理的な手段なんだからしょうがない。これで直接、鹽竈神社に行ってしまうのだ。便利!
鹽竈神社に参拝するのは5年ぶり2回目(→2013.4.28)。前回参拝時は左右宮拝殿が改修工事中だったけど、
今回は鹽竈神社の建築物としての魅力をしっかりと味わえるはず。平日だし、天気もいいし、いい写真が撮れそうだ。

  
L: 鹽竈神社といえばこの参道。さあ、がんばって上っていくのだ。  C: 鳥居。1663(寛文3)年の建立とのこと。
R: 石段を見上げる。まあこの段数が鹽竈神社の威厳そのものなのだからしょうがない。ありがたがりつつ上るのだ。

石段を上って門を抜けると正面に左右宮の拝殿。前回は見られなかったその独特な姿に、思わず息を呑む。
条坊制における左京・右京と同じ理屈なのか、拝殿に向かって左が右宮、向かって右が左宮となっている。
右宮には香取神宮の祭神でもある経津主神を、左宮には鹿島神宮の祭神でもある武甕槌神を祀る(→2014.8.30)。
石巻の鹿島御児神社(→2018.8.18)の由緒にも登場した2柱である。東北平定のためにやってきたそうだ。

  
L: 石段を上りきって随神門。1698(元禄11)年の築。  C: 随神門を抜けて唐門。唐破風のない四足門だが「唐門」。
R: 唐門を抜けて正面の左右宮拝殿。向かって左が経津主神を祀る右宮、向かって右が武甕槌神を祀る左宮である。

彼らを先導したのが主祭神・塩土老翁神。海幸山幸の神話では兄の釣針をなくした山幸彦にアドヴァイスをしている。
経津主神と武甕槌神が去った後もこの地に残り、漁業や製塩法を教えたとされる。そんな塩土老翁神が祀られているのは、
境内東側(左右宮に向かって右)の別宮で、「別宮」とはなんだか疎外感があるが、これは「特別」の「別」とのこと。

  
L: 左右宮の本殿を覗き込む。こちらはきちんと2棟に分かれている。1704(宝永元)年の築とのこと。
C: 見るからに迫力が違う銅鉄合製灯籠。1809(文化6)年、第9代仙台藩主・伊達周宗が蝦夷地警護の後に寄進。
R: 『奥の細道』にも記載がある文治の灯籠。1187(文治3)年に藤原忠衡が寄進したが、元禄年間に改造されている。

別宮拝殿も賽銭箱が2つ並ぶなど左右宮とかなりデザインが似るが、幅がないのと扁額がひとつなのとで区別できる。
逆を言えばそれくらいしか違いを感じないくらい統一されている。両者とも拝殿は1699(元禄12)年の築であり、
第4代仙台藩主・伊達綱村から次の伊達吉村の代まで、財政難や仮殿の火災を乗り越え9年かけて完成させた。
綱村は日光東照宮(→2015.6.29)の改修を担当しており、家光好みの雰囲気がみられるのはその影響とのこと。

  
L: 別宮拝殿。確かに朱塗りなどは家光好みの作風だが、東照宮の全面的な派手さを抑制的に上手く採り入れている印象。
C: 参拝を終えて唐門から外に出て、東神門方面を眺める。  R: 途中で眺める別宮本殿。左右宮と同じく素木仕上げ。

東神門から出ると、志波彦神社に参拝。前回参拝時に書いたように、明治になってこちらに遷座した(→2013.4.28)。
ちなみに志波彦神社は式内社で、鹽竈神社は陸奥国一宮だけど式外社なのだ。だからというわけではないだろうが、
鹽竈神社と一体化してはいるものの(御守には両社の名が併記されている)、その権威はきちんと保たれている感じ。

  
L: 東神門を抜けて振り返る。簡素。  C: 石段を下って志波彦神社の神門。かつて鹽竈神社の社務所があった場所とのこと。
R: 志波彦神社の拝殿。1938年に国費で建てられている。全額国費で社殿が建てられた神社はこちらが最後という話。

志波彦神社の祭神は志波彦大神で、「志波/しわ」といったら岩手県紫波郡のイメージがある(→2015.10.1)。
古代城柵の志波城址は盛岡市。しかし仙台市若林区には志波町が今も残り、栗原には志波姫神社が鎮座(→2016.8.2)。
鹽竈神社の公式サイトによれば「志波」は「皺」に通じ、端っこを意味するそうで、大和朝廷の東北への拡大により、
「シワ」がだんだん北へと移っていったということみたい。志波彦大神はその動きと連動した神様ということか。

  
L: 志波彦神社の本殿を覗き込む。  C: 庭園。  R: 志波彦神社の鳥居。東北を代表する神様なんだなあ。

あとは鹽竈神社に関連する施設などの写真を撮影しておく。前回は天気がイマイチだったが、今日はバッチリ。
きれいな写真が撮れるときにしっかり撮っておこうというわけである。だからどうだというわけでもないが。

  
L: 鹽竈神社博物館。  C: 東参道の石鳥居。  R: 神馬舎・神龍社。あとは坂を下って帰るのだ。

坂を下って市街地に戻ると、今回も御釜神社に参拝する。詳しいことは前回のログを参照なのだ(→2013.4.28)。

  
L: 鹽竈神社・東参道の一の鳥居。石畳の東参道をのんびりと下ってきて振り返ったところね。  C: 御釜神社の境内入口。
R: 鳥居をくぐって左手。カメヤマローソクのベンチが全力でお出迎え。カメヤマローソクは世界有数の大手メーカーだぜ。

  
L: 参道を行く。  C: 参道左に神竈奉置所。「塩竈」の地名の由来となった4口の竈が収められている。
R: まっすぐ行くと本殿。祭神は鹽土老翁神で、これは鹽竈神社別宮の塩土老翁神と字が違うだけで同じ神様。

利き酒ツアーか何かで盛り上がっている「浦霞」の前を抜けて、仙石線の高架をくぐって塩竈市役所へ。
ここも前に訪れているけど(→2013.4.28)、あらためて撮影。1960年竣工なのだ、徹底的に撮りまくる。
設計は石本建築事務所。さすがに耐震補強が目立つが、できるだけデザインを合わせているのが本当に偉い。

  
L: まずは南西から見た外観。  C: 南、正面から見たところ。周囲と比べてちょっと高くなっているのがさすが。
R: 前回とは違う角度で。「塩竈市役所 旭町一番一号」がいいですなあ。郵便ポストの上にはやっぱりマグロ。

  
L: 敷地内に入ってエントランスを眺める。  C: 左手のオープンスペース。小規模だがちゃんと整備してあるのだ。
R: エントランス。「第5次塩竈市長期総合計画 おいしさと笑顔がつどう みなとまち」はいいが、けっこうガタがきている。

  
L: 敷地内、南東側から見たところ。  C: 敷地の外に出て同じ角度で眺める。  R: 東側の出入口から見た側面。

  
L: 東側、側面。きれいに使っているなあ。  C: 後ろは山が迫って撮影できない。北西からこの角度が限界。
R: 敷地の外に出て西側から見るとこんな感じで木々に隠れる。この中にさっきのオープンスペースがあるわけだ。

  
L: 平日なので中にお邪魔にしてみる。エントランス入って左手はこんな感じの滞留スペース。テレビでは高校野球。
C: 奥には2階へ上がる階段。簡素な庁舎だが工夫があるなあ。  R: 右手、窓口。さすがに狭苦しいか。案内板が魚の形。

撮影を終えると本塩釜駅へ。夕方16時から部活があるので、それに間に合うように帰らなければならないのだ。
というわけで、今回の旅行はこれで終了である。仙台から上野まで新幹線で、乗り換えて直で学校へ行くという強行軍。

 
L: 仙石線・本塩釜駅。塩竈も「塩釜駅」「西塩釜駅」「本塩釜駅」「東塩釜駅」があってややこしいですな。
R: 駅前にもマグロポスト。「塩竈市制50周年記念」とあるので、マグロポストはそのときまとめて置かれた模様。

しかし夕方からの部活というのも、午前中が旅行に使えるとなるとありがたいものですな! 体力的にはキツいが。


2018.8.19 (Sun.)

朝6時35分、石巻駅を出発する。どうせ3時間後には戻ってくるのだが、早朝のうちに動かないともったいない。
仙石線を西へ行き、石巻湾のほぼ西端に位置する陸前小野駅で下車。本日最初の目的地は、野蒜(のびる)築港跡だ。
鳴瀬川を渡った次の駅が野蒜駅だが、野蒜築港跡があるのは川の左岸なのだ。陸前小野駅から2.5kmほどを南へ歩く。

野蒜築港の関連施設は昨日、石井閘門を訪れている。旧北上川から北上運河を分岐させる場所にあったわけだが、
その北上運河をまっすぐ海へと進んでいくと、定川(じょうかわ)を横断した後、野蒜築港にたどり着く。
じゃあ野蒜築港とは何なのよ、ということで簡単にまとめると、明治初期に建設された日本初の近代港湾である。
当時はまだ水運が盛んであり、近代化を進めるにあたって東北地方に拠点となる大きな港をつくろうとしたわけだ。
お雇い外国人・ファン=ドールンが複数の候補から石巻湾ほぼ西端の野蒜を選定、北上運河の開削から工事が始まった。
膨大な予算をつぎ込んで野蒜築港は1882(明治15)年にいちおう完成するものの、砂の堆積が予想より激しく、
また風と波が強いこともあって大型船が接岸できなかった。しかしここからさらに大防波堤をつくる余裕はなく、
1884(明治17)年9月に台風がほぼ直撃して突堤が崩壊してしまった。特別に強力な台風ではなかったそうだが、
完成からわずか2年でも突堤にはダメージが蓄積しており崩壊に至ったようだ。結局、野蒜築港はそのまま廃棄となる。
大防波堤をつくれなければ港を再建しても意味はない、というわけ。この反省は後の塩釜港整備に生かされたそうだ。

  
L: 新鳴瀬川に残る煉瓦造の橋台。東日本大震災の津波によって上端が削られており、現況はこんな感じになっている。
C: 野蒜築港跡の碑。右端にあるのは重さ約800kgのローラー。  R: かつては市街地として整備されたが、今は広大な空き地。

駅から住宅混じりの農地を行くと、川と道路で区切られた一角に入る。そこに至るまで周囲のスケールが広大なので、
区域内に入ったからといって特別な感じはない。人工的な感触は確かにあるが、野放しすぎてどうでもよく思えてしまう。
位置的には鳴瀬川河口の左岸、北上運河と新鳴瀬川を開削してつくられた巨大な三角形、それが野蒜築港跡である。
現在は新しいコンクリートでその三角形が縁取られ、往時の姿はまったく窺えない。来てみたらただの埋立地という印象。
オレはここに何をしに来たのだ、と思いつつぼんやりとコンクリートを歩く。本当にそれしかできない。虚しい。

  
L: 鳴瀬川と北上運河が合流する河口の突端にはいちおう「野蒜築港跡」の碑がある。でも本当にそれだけだぜ。
C: 振り返って三角形の内側を見るとこんな感じ。うーん、夢の跡。  R: コンクリートを歩く。これは北上運河沿い。

鳴瀬川の河口の先には平行に並ぶ石積みの突堤跡らしきものがあり、見ると確かに波は強そうだし砂もたまっている。
右岸側では歩いてそこまで行けるようで、何人か太公望が立っている。しばらく眺めて明治の夢を想うのであった。
まあとりあえず、実際に行ったよ、という経験ができたのでヨシとしよう。ちなみに野蒜・三国・三角で明治三大築港。
三国港は現在、福井港の一部として機能している。実は東尋坊に行った帰りにすぐ横の温泉に浸かっているのだが、
当時はそういう視点がなかったのでスルーしてしまった(→2010.8.21)。いま考えるとものすごくもったいない。
三角の西港は3年前に訪れている(→2015.8.20)。野蒜築港も廃棄されなかったらあんな感じになったのだろうか。

 石積みの突堤跡。こっちの左岸側も行けなくはないみたいだが、遠回りで面倒くさい。

トボトボ歩いて陸前小野駅まで戻ると、仙石線を2駅戻って矢本駅で下車。南へ行けばすぐに航空自衛隊松島基地だ。
第4航空団飛行群第11飛行隊「ブルーインパルス」の本拠地として知られる。が、今回、用があるのは北の方なのだ。

  
L: 矢本駅。ポストが青く塗られているけど、これはブルーインパルスにちなんだもの。2週間ほど前に塗りかえたらしい。
C: タクシーが「まるせん」。東松島でまるせん。親近感をおぼえるなあ。なんで「まるせん」なのかはわからないけど。
R: 駅の西側には健康増進センター(ゆぷと)やら地域活動支援センター(カノン)やら、いろいろ入った複合施設。

わりと矩形の住宅地を10分歩くと東松島市役所である。東松島市は2005年に矢本町と鳴瀬町が合併して誕生した。
整然と住宅が並んでいるがニュータウンという感じはせず、もともと整然としていた田んぼが宅地化した印象である。
石巻に近く、自衛隊の基地もあるし、着実に人口を増やしてきたところで合併してさらに勢いづこうとしている。
狭い松島町が観光地を抱えてマイペースなのに対し、穏やかな街並みながらも静かな闘志を燃やしている感じかな。

 東松島市・旧矢本町域の様子。住宅地に店舗が点在。

東松島市役所に到着するが、周囲を完全に住宅に囲まれていてなかなか狭苦しい。もとは矢本町役場で、1973年竣工。
町役場感あふれる3階建てだが、その分だけ幅が広い。松島基地がある関係で高さがとれなかったのかもしれない。

  
L: 東松島市役所へアプローチする道。周囲を住宅に固められて横参道状態になっているのが興味深い。
C: 東松島市役所(旧矢本町役場)。1973年竣工で3階建ては町役場にしても低い印象。その分、幅が広いが。
R: いったん敷地の外に出て正面から見るとこんな感じ。さっきの横参道を行き止まりまで進んで左を向くとこうなる。

  
L: 車寄せに対応して玄関前に緑を配置するのが昔ながらの役所という印象につながる。1970年代でこれは珍しいかな。
C: 玄関、車寄せ。  R: 角度を変えて眺める。やはり1970年代にしては昔ながらのデザイン要素をしっかり踏襲している。

東側には2階建ての社会福祉事務所がくっついている。おかげで市役所の幅広度合いが2倍となっているのだが、
旧矢本町役場についてネットでがんばって調べているうちに、ちょっと気になる記事を見つけた。
東松島市図書館の要覧の中に「昭和46年4月に役場東隣に矢本町立公民館(鉄筋コンクリート2階建)ができ,
2階の一室を矢本町立図書館とし平成5年3月まで運営をしてきました。」という一文があったのだ。
この町立公民館が現在の社会福祉事務所だとすると、先にこちらが1971年に竣工し、役場はその2年後に竣工となる。
両者の接続部は明らかに後から増築されているが、社会福祉事務所はデザイン的に1971年竣工がありうる感じだ。
合併により歴史がわかりづらくなっているが、矢本町の都市化の経緯も含めて気になるところである。

  
L: 角度を変えて東松島市役所を眺める。  C: 東松島市役所と社会福祉事務所の接続部。  R: 社会福祉事務所。

  
L: 敷地東側の道路に出て全体を眺める。  C: 北東側から背面を眺める。  R: 社会福祉事務所の背面。

  
L: 東松島市役所の背面。  C: 角度を変えて西側から見た背面。  R: 市役所の側面はこんな感じである。

住宅地のほぼ北端となっているこの辺りには公共施設が集まっている。住宅に囲まれ狭苦しい市役所周辺とは違い、
田んぼから新たに整備したと思われる東松島市コミュニティセンターは、かなり敷地に余裕があって贅沢な感じだ。
まるで役所で窮屈にしている分をこっちで取り返そうと言わんばかりだ。将来、市役所が移転するならこの辺りだろう。

  
L: 西側は東松島市コミュニティセンター。  C: 中央の広場。  R: 東側は東松島市図書館。1993年竣工。

東松島市役所の撮影を終えると仙石線で石巻まで戻ってくる。が、今日はさらにここから東へ行くのだ。
石巻から東へは石巻線。終点である女川駅の復旧が完了したことで、満を持しての訪問というわけである。

 石巻駅のホームにて。宮城県の駅にはむすび丸が貼り付けられる習わしなのか?

石巻駅を出てから30分弱で女川駅に到着である。でもこの30分弱が復旧するまでが長かった。
特に女川駅の津波被害は甚大であり、現在の駅舎は200m内陸側に移したうえで2015年に竣工している。
設計したのは坂茂だが、紙でできているわけではない。2階が「女川温泉ゆぽっぽ」となっていて驚いた。
震災前には別の建物だったものを、駅舎の上にもってきたというわけだ。これは大胆だが魅力的なアイデアだ。

  
L: 石巻線の最果て。  C: ホームの南西にあるホテル・エルファロ。トレーラーハウスを宿泊棟としていてびっくり。
R: 女川駅。駅としては改札や券売機があるくらいなので、物産コーナーや温泉施設を併設するのは合理的だと思う。

今日はここ女川から船に乗り、金華山の黄金山神社を目指すのだ。出航は1時間後ということで、少し余裕がある。
女川駅から港に向けてのゆったりとした下り坂はレンガで整備された商店街・シーパルピア女川となっており、
それぞれの店舗を見てまわる。現在の姿でオープンしたのは、女川駅と同じく2015年。個人的な印象としては、
アウトレットモールの方法論を採用しているのが特徴的だと思う。平らでなく全体がゆったり傾斜していることで、
自分がなんとなくどの高さにいるのかわかるのは利点だ。これを利用して、街路の微妙な変化を演出しているのだ。

  
L: シーパルピア女川の入口。  C: 交差点から南を見る。古墳を思わせるかさ上げ工事をしており、ここに女川町役場が建つ。
R: 実際にシーパルピア女川を歩いてみる。港に向かってゆったりとした下りとなっており、かなり遠近法を感じさせる空間。

  
L: レンガとウッドデッキが印象的だが、建物などを角度をずらして配置し、緑化スペースで埋める工夫がなされている。
C: 建物は黒めの色調で統一し、シンプルな切妻屋根を多用。店舗よりも街路を主役としているところが大胆である。
R: 店舗の一例。建物じたいは目立たないが店先は目立たせる、という手法が巧い。アーケードに似た効果かもしれない。

  
L: 中核となっている観光物産施設「地元市場ハマテラス」。  C: テラス。こちらで牡蠣を焼いて食べられるみたい。
R: ダンボルギーニ。石巻市の段ボール加工会社・今野梱包が約500個のパーツを組み合わせて完成させたとのこと。

  
L: こちらは港側から見たところ。  C: サッポロホールディングスが寄贈したきぼうの鐘。昔の灯台っぽいデザインである。
R: シーパルピア女川から南側の交差点に出て、港と逆の西側を見る。シーパルピア女川以外はまだまだ復興まで道半ば、か。

震災前の女川の姿を僕は知らないので、的外れだったら申し訳ない。シーパルピア女川の復興ぶりは見事である。
デザイン的な工夫はしっかりなされているし、清潔感があって魅力的だ。活気があって観光客たちは楽しそうだ。
しかし、シーパルピア以外の部分はどうなんだろう。おそらく、最優先で女川駅とシーパルピアを整備して、
観光客を受け入れる態勢を全速力で整えた。本当の勝負は、ここからなんじゃないか。女川全体が賑わいを取り戻す、
そこが本来のゴールではないか。地方の衰退が全国的に加速する中で、シーパルピアは女川の大胆な攻めの一手だ。

 ちょっと早めのランチに海鮮丼。さすがに旨いぜ!

そしてこれは僕の個人的な希望だが、今季からJFLで戦っているコバルトーレ女川が、もっと客を呼べるといい。
残念ながらスタジアムの基準があるため、今季の女川は石巻や利府のサッカー場で試合をしているという状況である。
(もちろんコバルトーレ女川の試合を観戦したかったのだが、どうしてもスケジュールが合わなくて断念した。)
できれば駅から徒歩圏内がいいのだが、スタジアムができれば確実に、物好きなアウェイのサポーターがやってくる。
もともと新鮮な海産物と温泉があるのだ、サッカー観戦と上手く組み合わせられれば、きっと面白いことになる。

  
L: シーパルピアの先。覗き込んでみたが、今後の予定がわからない。フェンスで厳重に区切られた、何物でもない場所。
C: 横倒しになった建物の遺構があった。調べたら1980年竣工の旧女川交番で、このまま震災遺構として保存されるみたい。
R: 大胆にカーヴする道路が整備されつつある。シーパルピアは見事だが、女川の将来の全体像はまだまだつかめない。

海鮮丼をいただくと、金華山行きの船に乗るべく港へと向かう。しかしそこはシーパルピアと完全に別の世界だった。
先ほど「最優先で女川駅とシーパルピアを整備して」と書いたが、そうなるとこの海沿いのエリアは何なのだろう。
海に近すぎるし、公園にするのか。横倒しになった旧女川交番は、その象徴的存在となるのか。よくわからない。
整備が終わったときに再び女川を訪れたい。そのときには絶対に、コバルトーレ女川の試合を観戦したい。

  
L: 金華山行きの船着場へと向かう道。これもまた復興支援なんだよな、と思いつつ歩いていくのであった。
C: じっくりと整備が進む空間。将来、どんな場所になるのか。  R: 金華山行きの船。港に黄金山神社の幟が並ぶ。

港に到着。夏休みのハイシーズンということで、客はけっこう多い。例のごとく後ろのオープンな席に陣取り、
気ままに景色を撮影しながら船に揺られるのであった。女川港を出航すると、金華山までは35分ほどである。
意外と波しぶきがすごくて、金華山に着いたときには腕が塩くさくなっていた。おう、生きてるって感じだぜ。

  
L: 女川港を出発。山をがっつり削っているが、ここに住宅を建てるんだろうなあ。手前は女川町地域医療センター。
C: 女川原子力発電所。海面からの高さは14.8mだったが東日本大震災で1m地盤沈下、高さ13mの津波を80cm差で回避した。
R: さあ、金華山が見えてきたぜ! しかし波しぶきがけっこう激しく、レンズに付かないようにするのに苦労した。

金華山に到着すると、参拝客がどんどん坂を上っていく。僕は後ろでのんびりやっていたこともあり、ほぼ最後尾。
船内アナウンスによれば「金華山に三年続けてお参りすれば一生お金に困ることはない」そうで、この金の亡者どもめ、
などと、人を呪わば穴二つなことを思いながらテキトーにシャッターを切っていくのであった。間抜けですいません。

  
L: 後で撮影した参道入口。金華山は港からすぐに急坂の参道となっており、これをえっちらおっちら上っていく。
C: 坂の途中から港を見下ろしたところ。  R: 表参道と裏参道の分岐点。後述するが、裏参道方面には鹿がいっぱい。

さすがに島なので、参道は他の神社と比べてワイルドである。逆を言うと、いかにも信仰の島らしい演出になっている。
なかなかの勾配の坂、曲がりくねった道、だんだんと木々の中へと入っていく構成で、雰囲気はたいへんいい感じだ。
そうして坂を上りきると境内で、石造りで苔生した手水や小さな祠や境内社が並ぶ一角となる。緑のバランスが程よい。

  
L: 本格的な参道のスタート地点。木々の間を抜ける上り坂となる。  C: こんな感じで雰囲気がよい。  R: 舞殿。

  
L: 銭洗所。なんだか酒船石っぽいぜ!  C: 恵比須尊・大黒尊像の奥には金樁(かなぐい)神社。
R: 坂を上っていって右手が隋神門。ここからが本格的な境内で、さらに石段を上っていくのだ。

さて、ここらで金華山と黄金山神社についてきちんとまとめておこう。金華山は牡鹿半島の先に浮かぶ島で、
これより東の太平洋には島がないので漁に出る際の目印となっており、古くから信仰の対象となっていた。
(ちなみに牡鹿半島を挟んだ反対側には網地島、さらに猫がいっぱいで大人気の田代島が浮かんでいる。)
聖武天皇が大仏を造っているときに陸奥国から金が出て年号が「天平」から「天平感宝/天平勝宝」に改元されたが、
その産出地とされたことから金華山の名がついた。ただし実際には金華山は花崗岩がほとんどで、金は出ない。

  
L: 正面は参拝者の休憩所。右側が祈祷受付所で、授与所でもある。  C: 参拝開始。1925(大正14)年築の隋神門が大迫力だ。
R: 隋神門を抜けて左手が祈祷殿。こちらで毎朝6時半に信者が大護摩祈祷を受けるそうで、神仏習合ぶりを象徴している。

中世には弁財天を祀る真言宗の寺院・金華山大金寺が建てられて修験道の霊場となるが、これが現在の黄金山神社。
現在でも「お籠り」の宿泊施設があって毎朝護摩を焚いて祈祷しており、神仏習合した独特の信仰を保っている。
なお、祭神は鉱山の神である金山毘古神と金山毘売神、あとは天神八百万神・地神八百万神となっている。
弁財天を宗像三女神に読み替えて祀るようなことはしていないのが意外。その分、現世利益志向が強い感じか。

  
L: さらに石段を上って拝殿。1897(明治30)年の火災の後に再建されたが、かなり立派。特に彫刻が目を惹く。
C: 拝殿と本殿の間にある中門。  R: 中門をクローズアップしてみるが、やはりこちらも見事な彫刻が施されていた。

二礼二拍手一礼すると、腕時計を確認。滞在可能時間は約2時間、ここで終了となると他にやることがないので、
恐ろしく暇である。しかし金華山の山頂まで行くのは時間が読めなくてたいへんリスキー。さあ、どうするか。
その迷っている時間がもったいないのである。ということで、トレイルランニング的な奥の院参拝がスタート。
時刻は現在、正午のちょっと前。帰りの船の出航時刻から40分とあらかじめ時間を決めておいて、行けるだけ行く。

  
L: 本殿の横にある入口から進んでいくと鳥居が登場。頂上までの距離や標準的な時間などを書いてくれればいいのになあ。
C: 序盤はなかなかの道である。2年前に鳥海山でやらかした捻挫(→2016.7.30)を思い出してしまい、右足首がうずくぜ。
R: 落ち着いた感触の場所もある。宿泊して大護摩祈祷に参加してからのんびり登山、というのが理想的なんだろうな。

途中で山頂から下りてきた人と挨拶。「蛇がいましたよ」「本当ですか!」ということで足元をさらに注意して登山。
結論から言いますと、確かに蛇はいました、ハイ。種類まではわからなかったけど、金華山にヒキガエルはいないため、
仮にヤマカガシだったとしても無毒なのだ。弁天様の島だから、蛇は神の使いってことでありがたがっておきましょう。

  
L: 途中にある水神社。道の両脇に仏像が置かれてやっぱり雰囲気が独特。  C: 基本的に登山道はこんな感じ。
R: 開けた場所に出た。ここまで来れば、山頂はもうすぐだ。しかし天気がよくなってくれて気分は爽快。ありがたい。

登山道は親切に頭上の木々に赤い印が垂らしてあって、迷うことはないはず。勾配も特に急ではないので、
修験道の修行という雰囲気はほとんどない。登山というよりはハイキングの範疇に入る感じだと思う。
そうして本殿脇の入口からちょうど30分で金華山の山頂に到着。山頂付近は景色がよく、チャレンジして正解だった。
奥の院・大海祇神社に参拝。大山祇ではなく大海祇とはかなり独特である。なおこちらには市杵島姫神が祀られている。
よく弁財天と習合することでおなじみの宗像三女神の三女である。ほかに大綿津見神・天之御柱神・国之御柱神も祀る。

  
L: 山頂近くから眺める牡鹿半島東岸。うーん、リアス式。見事に山がそのまま海へと沈み込んでいる。
C: 山頂のいちばん高いところ、うやうやしく石が積まれていたのでてっぺんを覗き込んだのだが……此は何ぞ?
R: 奥の院・大海祇(おおわたつみ)神社。1922(大正11)年の築で、東日本大震災で半壊するが2013年に復旧。

帰りに山頂に登ろうとする人と挨拶。「蛇がいましたよ」「本当ですか!」ということで歴史は繰り返すのであった。
本殿周辺に戻ると、すでに参拝客の姿はほとんどなく、写真を撮りたい放題(上の写真はだいたいこのとき撮影した)。
みなさん、港の休憩所でボケーッとしているのだろうか。時間的に少し大変だが、山頂にチャレンジする価値はある。
素直に港まで戻ってもつまらないので、帰路は裏参道を歩いてみた。そしたら鹿がいっぱい。僕は奈良公園の感覚で、
やあやあやあとグイグイ近づいていったのだが、彼らは人に馴れておらず、バンビ的な躍動感で距離をとってしまう。
まあ野生だしそれが本来だよな、と思いつつシャッターを切るのであった。伊達政宗は鹿狩りをしたらしいけどね。

 
L: やはり鹿はかわいい。  R: 金華山の鹿は警戒心が強く、逃げられて悲しい気持ちになる。

帰りの船に乗り込むが、もう面倒くさいので素直に船室内の席に陣取る。金華山はなかなかの冒険だった。
女川に着くと残りの時間が1時間弱ということで、女川駅2階の「女川温泉ゆぽっぽ」に迷わず突撃する。
いいお湯でございましたね。大いに満足感に浸りつつ石巻線に揺られるのであった。次回はぜひサッカーを観たい。

石巻で仙石線に乗り換えて、宮城野原駅で下車する。本日のラストは仙台でプロ野球観戦なのだ。
宮城野原駅は宮城球場の最寄駅ということで、出入口が楽天イーグルス仕様になっていた。出てみて驚いた。
宮城球場は以前試合のない日に訪れたことがあるが(→2007.5.2)、そこから11年、ようやく試合観戦ができる。

  
L: 宮城野原駅の宮城球場側出入口。  C: 宮城球場。  R: 近づいてみるが、なかなかの賑わいである。

恒例のスタジアム一周は11年前にやっているので、今回は省略。素直に中に入って試合開始を待つことにする。
なお、宮城球場では3塁側がホーム、1塁側がビジターの席となっている。僕は今回、1塁側での観戦としたが、
これはできるだけ中立の立場で観たいから。三木谷が大っ嫌いな僕としては、素直に楽天を応援したいと思えない。
まあ1塁側も内野席は楽天ファンばかりだったけどね。三木谷憎んでイーグルス憎まず。そんな心持ちである。

  
L: バックネット裏方面を眺める。  C: 内野。  R: そのまま右を向いて外野。

  
L: 目の前にテレビカメラがズラリ。キャッチャー用ヘルメットをかぶっている人が多い。自転車用の人もいて面白い。
C: 外野のロッテ応援団。やはりどこかJリーグ風である。  R: チームカラーの花火が上がる。いろいろ工夫しているなあ。

さて試合開始。楽天の先発は左腕の辛島で、2ケタ勝利こそないがチームにとっては便利というかありがたいというか、
ローテーションにいてくれると大きい存在。あとは勝ち越せるようになるといいんだけどねえ。安定感がイマイチ。

  
L: 楽天の先発は左腕の辛島。黒星が先行しがちだが、なんとか2ケタ勝利してもう一段レヴェルアップしたいですなあ。
C: ウィーラーだ! いかにもパ・リーグらしい、陽気なアフリカ系って感じ。しかし本当にハクション大魔王にそっくりだな。
R: 福浦に小坂コーチと、むしろロッテのレジェンドに興奮する私なのであった。楽天のファーストも今江だしな。

1回裏に楽天が島内のタイムリーで先制、3回には一気に4点をあげるビッグイニングで、試合は完全に楽天ペース。
周りのファンが不安がっていた辛島だが、ヒットを打たれながらも後続を抑えるピッチングで非常にいい感じである。
6回から後を受けた宋家豪も安定しており、そのまま楽天の大量リードで終盤へ。周りのファンの皆さんは上機嫌。

  
L: 7回裏の楽天攻撃前。ジェット風船が壮観である。この段階では試合の悲劇的な結末をまったく予想できなかった。
C: 左のサイドスロー・高梨。ドラフト9位のわりにはルーキーだった去年からガンガン投げて活躍していますな。
R: ハーヴァード大学出身のハーマン。今シーズンはここまでほぼ完璧だったのに、この試合だけ崩れやがった。

ところが野球ってのは恐ろしいもので、8回から替わった森原が捕まり、高梨もこらえきれずに合計3失点。
その裏の楽天が三者凡退で終わると、抑えのハーマン相手にロッテ打線がつるべ打ちの大爆発であっという間に逆転。
ここ最近は守護神として安定した成績を残しているハーマンが、まさかの大乱調である。どうした、ハーヴァード。
結局、青山に替わっても追加点を奪われて、2点差をつけられて9回裏を迎える展開となってしまった。何がなんだか。

 ニシマッキー!

楽天は地元出身のルーキー西巻が1アウトから四球で出塁、田中のヒットで3塁に進むと山下の犠牲フライで1点を返す。
しかし一発出れば逆転サヨナラの場面で島内がセカンドゴロに倒れてゲームセット。楽天はまさかの逆転負けとなった。

 「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」って感じ。

野球は8対7がいちばん面白いとフランクリン=ルーズヴェルトは言ったそうだが(いわゆるルーズヴェルトゲーム)、
引き締まった投手戦がいちばん面白いに決まってるじゃねえかバカヤロウ。そんなことを思いつつ宮城球場を後にした。


2018.8.18 (Sat.)

宮城県旅行の2日目は本当に盛りだくさんである。登米を押さえて石巻、どちらも初訪問なので楽しみでたまらない。
昨夜は石巻に泊まったにもかかわらず、朝から盛大に寄り道して最終的に石巻に戻ってまた泊まる、というプランだ。

  
L: というわけで石巻を出発なのだ。乗り込んだ仙石線は石ノ森仕様の「マンガッタンライナー」なのであった。
C: スーパー戦隊の初代・ゴレンジャーも石ノ森章太郎だったのか!  R: 仮面ライダーもディフォルメでかわいいな。

 車両の天井。「MANGATTAN STATE」とは「萬画の国・いしのまき」ってことか。

高城町駅で下車。ちょっと歩いて高城川を渡れば松島町役場なので寄ってみる。役場は11年ぶりだが(→2007.5.2)、
すっかり新しくなっちゃってもう。2014年の竣工で、設計は楠山設計。ちょっとプレハブ感があるくらいシンプルだ。

 
L: 松島町役場。北東側から見たところ。  R: 南東側から。以上でおしまい。シンプル。

すぐ裏の松島駅から列車に乗り込む。今度は東北本線である。この辺の事態については明後日にまた触れる。
とにかくここで徒歩の乗り換えをやると楽なのだ。仙石線と東北本線は、慣れていないと本当にややこしい。

 
L: 松島駅。どうも。  R: 松島駅の駅名標。どうも。

小牛田から先に2駅行った瀬峰駅で下車する。駅前から出るバスに急いで乗り込み、宮城県道1号を東へ。
いちばん前の席に陣取って何気なく景色を眺めていたら、道の駅の案内で驚いた。そこには「もっこりの里」とある。
シティーハンターのファンでもなくても反応してしまうはず。そうだった、ここはもっこり牛祭りの地だ(→2016.8.2)。
なんでまた「もっこり」なのか。調べたら「町の活気を盛り上げる」イメージで、日本中にやる気と元気を届けるべく、
南方町がキャッチフレーズにしたそうだ(「もっこりみなみかた」)。合併して登米市になった後も、もっこり継続中。
シンボルキャラクターは「もっこりくん」だが、画像検索しても「まりもっこり」しか出てこねえよ。残念である。
ちなみに「もっこり」で検索すると、ひどい写真しか出てこないので要注意。せめて冴羽獠に出てきてほしかった……。

 道の駅・もっこりの里。大股開いて力こぶをつくっているのが「もっこりくん」。

もっこりをスルーしてやってきたのは登米市役所。登米市は2005年に登米郡の8町と本吉郡津山町が合併して誕生。
しかし広域で合併したこともあって、事態はけっこうややこしい。まず、登米市役所は旧迫(はさま)町役場である。
ところが地元では「佐沼」という呼び方が一般的。1955年に佐沼町を中心に合併して迫町になった過去があるのだ。
現在も佐沼は登米市における商業の中心地であり、市役所の南側には郊外型の店舗が集中していてけっこう壮観。
で、佐沼と並ぶもうひとつの核となっているのが、旧登米町。こちらはこの後で訪問するのだが、本当にややこしい。
というのも、市名(つまり元の郡名)は「とめ」と読むのだが、町名は「とよま」と読むのである。Why 宮城 people!?
もともと「遠山」が「登米(とよま)」となったが、明治維新の際に簡略化した「とめ」という読みが生み出され、
結局それが登米県(とめけん)として採用され、登米郡も「とよま」から「とめ」に変更され、古い方を呑み込んだ格好。
でも旧登米町域については「とよま」読みを継続。ほかに例を見ないほど複雑な状況が固着化してしまっているのだ。

  
L: 登米市役所(旧迫町役場)。まずは正面から。  C: 東から見たところ。  R: 北東から見た側面。

登米市役所となった旧迫町役場は1974年の竣工。手前には中江中央公園が整備され、近くに公民館と体育館がある。
先ほども書いたが南側は矩形の街区に郊外型の店舗が散らばっており、役場の整備と再開発の一体性をうかがわせる。
中心部には村田製作所があるので、その大規模な工場があったのだろうか。合併で過去がわかりづらくなったのは残念。

  
L: 北から見たところ。  C: 北西から。これが背面となる。  R: クローズアップしてみた。耐震補強がカラフル。

佐沼もまた昨日の古川と同様、平野のど真ん中にある街である。こちらは城下町としての歴史がわりときちんとある。
しかしどちらかというと、迫川沿いで米どころの平野を管理する要衝として成長してきた雰囲気が強いように思う。

  
L: 西から見たところ。  C: 南西側の側面。  R: 南から眺める。これで一周完了。撮影しやすくて助かる。

さっきも直接乗りつけたが、登米市役所の玄関先はバス停留所になっており、ピロティが待合スペースとなっている。
しっかりつくられている印象で、南北を貫通する鉄道に対し、広大な平野を柔軟にカヴァーするバスの重要性がわかる。

  
L: 登米市役所の玄関。左が出入口で、右はバスの防寒待合室。  C: ピロティは待合スペースだ。  R: 市役所内を覗き込む。

 宮城県民は伊達政宗が大好きだなあと実感する。

市役所の撮影を終えると、迫川へと歩いていく。佐沼には城下町としての歴史がわりとしっかりあって、
それにきちんと触れておかなければもったいない。市役所から1km弱で、鹿ヶ城公園に到着。ここが佐沼城址だ。
その手前に凝ったつくりの登米市歴史博物館。8時半前なので開いておらず、見学できなかったのが残念である。
北にあるのは旧亘理邸。伊達氏の下で佐沼を治めた亘理氏の9代目・隆胤が暮らし、「古鹿山房」と名付けたとのこと。

  
L: 登米市歴史博物館。合併のせいか竣工年も設計者もわからねえ。  C: 旧亘理邸。  R: 佐沼城址の鹿ヶ城公園。

これらの東側にある佐沼城址の鹿ヶ城公園へ行こうとしたら、芝生にシマヘビがいたのでゆっくり近づいてみる。
しかし気づかれて素早く逃げられた。脚がないくせに、こっちが走るより速いんだもん。いやあ、まいった。
さて佐沼城址の鹿ヶ城公園は、てっぺんに小さい社があるちょっとした丘という印象。城というより砦のスケール。
葛西大崎一揆の頃はどうだったかわからないが、やっぱり平野の中の監督拠点っぽいのであった。

  
L: 佐沼津島神社。商店街を南下するとそのまま鳥居にぶつかる。  C: 境内を行く。  R: 拝殿。1923(大正12)年の再建。

迫川を渡ることなくそのまま南下。川沿いは昔ながらの商店街となっており、さっきの郊外型店舗とは正反対だ。
十分な時間があれば城下町としての佐沼の歴史を追うことができるのだが、残念ながらゆったりしていられない。
商店街の南端は佐沼津島神社。津島信仰(→2018.8.11)がここまで来ているとは、と驚きつつ境内に入る。

  
L: 彫刻が見事だったのでクローズアップ。  C: 本殿。こちらも1923年の築。  R: 境内にいきなり道祖神。

参拝を済ませると、真新しい授与所へ。しかし9時にならないとダメなのか、開いていないのであった。
バスの時刻を気にしながらしばらく待っていると、神職さんが開けてくれてほっと一安心。無事に御守を頂戴できた。

  
L: 境内社の竹駒神社。いかにも宮城県って感じだなあと思う。  C: 真新しい授与所。  R: 中はこんな具合。オシャレ。

津島神社前のバス停からバスに乗り込み、旧登米町へ。上述のとおり、こちらの読みは「とよま」である。
佐沼が商業の中心であるのに対し、こちらはかつて県庁が置かれており、行政の中心となっていた街なのだ。
今もその歴史を物語る建物が多く残っており、「みやぎの明治村」のキャッチフレーズで観光客を集めている。

  
L: 教育資料館(旧登米高等尋常小学校校舎)。門柱はレンガでつくられているが、これは後から再建されたものか。
C: 敷地内に入る。明治村に今も残る旧三重県庁舎を思わせるが、こっちの方が和風。  R: 南西側から見た外側の側面。

さっそく旧登米町で最大の目玉である教育資料館へ。1888(明治21)年築の旧登米高等尋常小学校校舎で、
国の重要文化財に指定されている。「コ」の字型の2階建て木造建築で、設計監督者は山添喜三郎とのこと。
「コ」の字型の2階建ては、明治村に残る1879(明治12)年築の旧三重県庁舎(→2013.5.6)を思い出す。
しかしこちらは洋風の要素もあるが、全体的には和風が優勢で、単純な擬洋風建築とは少し雰囲気が異なる。

  
L: 中庭に入る。砂利敷きなのが独特。  C: 正面玄関に近づいたところ。ここだけははっきり擬洋風ですな。
R: 横からベランダ部分を見たところ。白い柱(四角柱なのでオーダーではない)の上がイオニア式となっている。

  
L: 内側に廊下がある(西側)。開放的でいいなあ。  C: 1階の廊下。  R: さっきと逆の東側の廊下。手前に井戸。

  
L: 2階から見た廊下。よく見ると下にチャイム代わりに鳴らしていたと思われる半鐘がさがっている。
C: 「コ」の字の端っこ(南東端)。  R: その中はこんな感じ。こっちが生徒の昇降口だったのかな。

  
L: 2階、中央のベランダ部。ここだけ白塗りで擬洋風としている。意外と違和感がない。  C: ベランダから見る中庭。
R: ベランダの反対側が校長室となっており、ヒゲの校長がいた。カツラを取ったら「卓球部廃部!」とか書くのかな。

建物の外側や廊下をくまなく歩いて観察すると、各部屋の中を見ていく。往時を再現した教室もいくつかあるが、
なんせもともとの部屋数が多いのでフリーダムな箇所も。それはそれで面白い。まったく飽きませんな。

  
L: 登米秋まつりの山車。手前のベンチで記念撮影可能。  C: かつて走っていた軽便鉄道の仙北鉄道を紹介するコーナー。
R: 「忠」とか「孝」とか江戸時代を思わせる畳敷きの部屋なのだが、左上に掲げられているのは「P・T・Aの歌」。なぜ?

  
L: 畳の上に並ぶ足踏みミシン。間には茶箱。  C,R: もちろん、往時の教室がきちんと再現されている部屋もある。

 教育資料館から北に入った奥には、現在の登米市立登米小学校。

旧登米町の公共建築で最も古いのは、水沢県庁記念館(旧水沢県庁庁舎)である。なんと、1872(明治5)年の築。
わずか3年で水沢県庁は一関に移転してしまい、その後は学校として使用される。さっきの高等尋常小学校が完成すると、
石巻治安裁判所登米出張所となり1958年まで裁判所として使われた。1968年に警察署移転の道路建設にともない移築され、
平成に入って裁判所時代をもとに復元修理され、1991年から水沢県庁記念館として一般公開されるようになったそうだ。

  
L: 水沢県庁記念館(旧水沢県庁庁舎)。往時を偲ばせる冠木門がよい。  C: 建物じたいはきっちり復元されている。
R: 裁判所としての利用が長かったということで、復元された一角。旧三角簡易裁判所(→2015.8.20)よりさらに古い。

玄関には狐格子入りの大きな入母屋破風が載っており、和風建築としての印象が非常に強い。しかしよく見ると、
屋根の下は横張りの板壁となっていて、ガラス窓も付いて洋風なのである。ハイカラぶりに往時の豊かさがうかがえる。

 絨毯に椅子の洋室。ハイカラぶりに往時の登米町の豊かさがうかがえる。

水沢県庁記念館を後にすると、そのまま前小路を南下する。塀に囲まれた辺りの家々は武家屋敷の雰囲気をよく残す。
教育資料館から観光物産センター・遠山之里を挟んだ東の丘は寺池城址で、さっきの佐沼同様、伊達氏の下にあった。
前小路を進むと鉤の手そして食い違いとなっており、さらに南に行った山の中腹に鎮座するのが登米(とよま)神社だ。

  
L: 市街地の南端、坂を上って登米神社。  C: 石段を上っていく。けっこう長い。  R: さらに奥へ進んでやっと随神門。

1064(康平5)年に源義家が石清水八幡宮から勧請して創建。寺池城を築いた葛西氏が守護神とするが一揆で滅亡、
その後に城主となった白石宗直(伊達姓の名乗りを許され登米伊達氏となる)が寺池道場山麓に遷座させる。
市街地を挟んだ正反対の南側に遷ったのは1722(享保7)年、伊達村永のとき。明治になって稲荷神社を合祀。

  
L: やっとたどり着いた境内。  C: 拝殿。建てられた時期はわからないが、彫刻も組物も見事だ。  R: 本殿。

参拝を終えると石段を戻り、北上川に近い東側へ。県道がぶつかる丁字路の一角にあるのが、警察資料館だ。
こちらも明治の建築で、もとは1889(明治22)年竣工の登米警察署。設計は高等尋常小学校を手がけた山添喜三郎。
和風の要素を強めに残した高等尋常小学校と異なり、こちらはしっかりと擬洋風建築の趣となっている。

  
L: 警察資料館(旧登米警察署庁舎)。火の見櫓は、高さ約21mで1926(大正15)年の築。当時の警察署は消防もやっていた。
C: 正面から見たところ。高等尋常小学校竣工の翌年だが、スタイルの共通点と相違点が興味深い。  R: 側面。後ろがある。

  
L: 玄関。石段がよい。  C: 中に入るといきなりパトカー。1980年配属のセダン。角ばっている感じがいいなあ。
R: 奥は取調室。警官が椅子に座り、被疑者はゴザに正座である。江戸時代のお白州を引きずっている感じだ。

先ほどの水沢県庁記念館は裁判所として使われていたが、1968年に登米警察署新庁舎が建てられたことで移築された。
こちらの古い警察署はどうなったかというと、1986年まで商工会が使用。その後、復元工事を経て警察資料館となったが、
その工事中に留置場の基礎が発見されて、全国でも珍しいという明治時代の留置場が再現されることとなった。
雰囲気はやはり網走監獄(→2012.8.19)に似ている。ちなみに鉄格子は警察署竣工当時の本物だと。よく残っていたな!

  
L: 復元された明治の留置場。自由に入れるよ。本物の鉄格子は迫力が違うぜ。  C: 中はこんな感じ。隅の穴が便所。
R: 2階に上がったのだが、階段の転落防止板がすごく凝っていた。擬宝珠的な部分のペンキの剥げ方に説得力があるなあ。

  
L: 署長室。椅子に腰掛けてOK。  C: 2階展示室。灯のデザインも往時の再現かな?  R: ベランダ。こちらもイオニア式。

思った以上に内容が充実しており、かなり楽しめた。お白州のような前近代の要素を抱えつつ擬洋風から近代化する、
その連続的な変化を実感できる施設はなかなかない。「みやぎの明治村」を名乗る旧登米町、その実力は本物だ。

  
L: 前小路。武家屋敷の雰囲気が色濃く残る一角。  C: 蔵造りの商家。  R: 看板建築ですかね。

  
L: とよま観光物産センター 遠山之里。和風主体で本物を食わない地味めなデザインにして正解だと思います。
C: 海老喜商店旧酒蔵。蔵の資料館として利用されている。  R: 交差点に面する海老喜商店旧店舗。大正時代の築。

街歩きのラストは寺池城址にある登米懐古館で締める。大大名だけあって伊達氏の支配スタイルは少し独特で、
家臣に直接土地を支給する地方(じがた)知行制を採っていた。仙台藩内でミニ参勤交代もしていたとか。
いちばんの重臣・片倉氏は白石城を拝領し、それ以外の有力家臣は小規模な城である要害を拝領した(伊達21要害)。
昨日の岩出山城址(→2018.8.17)も先ほどの佐沼城址も、正確には「岩出山要害」と「佐沼要害」なのである。
だから寺池城址も伊達氏の支配という視点からは「登米要害」となる。天下人への憧れを感じる統治スタイルだなあ。
薩摩藩・島津氏の麓(外城)に似るが(→2015.8.172017.8.19)、100以上あるので麓の方がずっと小規模である。
武家地だけに特化している麓と比べると、仙台藩・伊達氏の要害の方がしっかり城下町。昨日のログと結論が違う……。
(※登米懐古館は2019年9月に旧登米町の中心部に新築移転。設計は隈研吾だとよ。展示品もパワーアップした模様。)

 
L: 寺池城址(登米要害)。確かに城だがだいぶミニサイズで、岩出山・佐沼と同様に仙台と徹底的に差をつけさせられている。
R: 登米懐古館。中身は……あまり大したことなし。現存する建築群の方が圧倒的な説得力があるので、それで十分かなあ。

見学を終えるとランチタイム。「元祖油麩丼」を謳う店に入り、油麩丼とはっと汁の「とよまセット」をいただく。
油麩はその名のとおり、油で揚げた麩。もともと登米周辺で食べられていたものが、1980年代に卵とじ丼となった。
はっと汁は小麦粉を水で練って延ばした生地を茹で、醤油の汁に入れたもの。どっちもグルテン全開でございますな!
このように登米では盛大なグルテンブームが発生した模様。小麦ばかりで稲作が疎かになることを危惧した領主が、
「お前らグルテンフリーになれや!」とご法度を発令したので「はっと汁」という名前になった、という話。

 
L: 油麩丼。要するにカツ丼の油麩ヴァージョン。油麩は細長い棒状でつくって揚げて、それを輪切りにして食べる。
R: はっと汁。なるほど、味噌だとほうとう(→2008.3.9)になりそう。「はっと」は「ほうとう」が訛ったという説も。

建築に神社にB級グルメとしっかり旧登米町を満喫させていただいた。満足しつつバスに乗り込むのであった。
旧登米町の城下町は北上川に面しており、バスは対岸に渡ると北上川沿いに国道342号をひたすら南下していく。
そうして15分ほどで終点の柳津(やないづ)駅に到着する。柳津は鉄道路線としての気仙沼線の終着駅となっている。
この微妙な表現はつまり、東日本大震災によって気仙沼線の大部分が不通となり、その後BRT化されたことによる。

  
L: 待機中のBRT車両。Suicaのペンギンと東北BRTキャラクター・おっぽくんがはっと汁を食べている。グルテン大好きだな!
C: 視線を右へ移すとBRT専用道路の入口。  R: さらに視線を右へ移すと柳津駅。観光物産館「ゆうキャビン」を併設。

大船渡から気仙沼まで陸前高田経由でBRTに乗ったのは2年前だ(→2016.9.19)。あれから復興は進んだのか。
この専用道路の先は、どうなっているのか。おそらく目に見えて進展はないのではないか。それくらいの被害だった。

  
L: 柳津駅の駅名標。気仙沼方面がテープで雑に消されている。  C: ここが終端となってしまった気仙沼線の線路。
R: その先にはBRTの待合室。三陸の南岸では、このミニマルな感じがもう当たり前になっているんだよなあと。

列車の発車時刻までは30分ほどあるので、とにかく写真を撮ってまわる。駅周辺でほかに見るべきものがないのもある。
しかし、僕としてはやはり、レールが撤去されてアスファルト舗装された意味をじっくり考えたいのだ。思い出すのは、
大船渡で目にした郊外社会の「フロンティア」(→2016.9.18)。BRT専用道路は南三陸町を経て気仙沼へとつながる。
その先には陸前高田、そして大船渡がある。大船渡の「フロンティア」は、この舗装された道から何をもたらすのか。

 
L: 気仙沼、そして大船渡へとつながるアスファルト舗装のBRT専用道路。  R: 対照的に、南下する気動車は健在だ。

前谷地で乗り換えて石巻へと戻ってくる。そうだ、忘れちゃいけない。ここもまた、東日本大震災の被災地なのだ。
明治時代の建築をいくつも残した平野部中央の街から、沿岸の街へ。初めて訪れる街を、どれだけ味わえるか。

  
L: あらためて石巻駅。  C: 駅から南に延びる道。すぐ羽黒山にぶつかってしまうので長くはない。
R: 市街地を東西に走る国道398号線。石巻の市街地は、石巻湾に沿って余裕を持って延びている。

まずは石巻市役所からだ。駅前にそびえるコーラルピンクの建物、それが市役所である。どっからどう見ても、
これは駅前の商業施設だった建物だ。駅前デパートを市役所に転用する事例は確実に増えてきているが、
(北見市役所(→2012.8.19)や土浦市役所(→2015.12.20)。栃木市役所(→2016.11.26)は完全に東武百貨店。)
石巻市役所の場合は閉店したさくら野百貨店石巻店を改装し、2010年に移転している(建物じたいは1996年の竣工)。
これはかなり先駆的な事例である。スーパーと市役所が融合した!ということで、ずっと訪れたかったのだ。

  
L: まずは駅に面する北東側。V3がいる。  C: 西へとまわり込む。  R: ぐるっとまわって南西から見たところ。

  
L: 国道398号を東へ行き、南東側から見たところ。  C: 東側の側面入口。  R: 歩道が整備されて滞留スペースに。

さくら野百貨店が撤退後も1階部分はスーパーとなっていたが、2011年の東日本大震災により浸水してしまった。
この影響は大きく、7年経った今も1階で営業しているテナントは半分ほど。今後がちょっと心配である。

  
L: 石巻市役所1階部分。シャッターが閉まっている区画が多く、営業している箇所も閉店セール中なのであった。
C: 震災はイレギュラーにしても、市役所と店舗の融合はなかなか難しいものなのか。  R: テナント跡。切ない。

石巻は観光資源がないわけではないが、どちらかというと観光都市よりは経済都市であり、周辺地域の中心的存在だ。
震災はさすがに最大級のイレギュラーな事象だが、地元住民向けの施設がダメージを回復しきれないでいるのを見ると、
こっちも悲しくなってしまう。港は港で復興させたいし、正直手が回らないのかもしれない。難しいものだと思う。

 道路を挟んで東にある石巻市防災センター。今年5月に完成したばかり。

レンタサイクルを借りて石巻探検をスタート。市役所から南へ行き、羽黒山の頂上にある羽黒山鳥屋神社を目指す。
後でわかったのだが、北からアプローチすると裏参道で、かなり強烈な石段を一気に上ることになるのであった。
いや当然、南の表参道でも標高が変わるわけではないのだが、裏参道は踊り場がなくて休むタイミングがつかめない。

  
L: こちらは南側の表参道。  C: どっちからでも長い石段を上りきると境内である。  R: 拝殿。

羽黒山鳥屋神社は、鳥屋(とや)神社と羽黒神社の2つの神社からなる。鳥屋神社は仁徳天皇の時代の367年、
蝦夷と戦った際に伊寺水門(いしみなと、石巻の古名)の鳥屋岬で優位に立ったことで猿田彦大神を祀ったのが由緒。
羽黒神社の方は、1186(文治2)年に藤原秀郷が羽黒山(→2014.8.24)から勧請したとのこと。ややこしい名前だが、
ちゃんと理由があったわけだ。さて、この神社はブルーインパルス関連の御守や御朱印帳があることで知られる。
御守もブルーインパルスも好きな僕としては、こりゃもう石段なんて気にならないありがたい神社である。

  
L: 本殿を覗き込む。  C: 羽黒山から眺める石巻市街。  R: ちなみに駅(北)側の裏参道はこんな感じ。つらいよ!

ブルーインパルス御守を頂戴していい気分で石段を下りると、東へ移動して旧北上川方面へと向かう。
東北地方で最大の河川として知られる北上川は、明治末期から昭和にかけて、かなり大掛かりな分流工事が行われた。
さっき物思いにふけった柳津駅の近くから南へと開削していき、東へ流れる追波川を北上川に付替えたというわけ。
(ちなみに現在の北上川の河口付近にあるのが、東日本大震災で多くの犠牲者が出た大川小学校である。)
それまでの北上川は複数の水門が設けられて旧北上川となり、平野の稲作地帯を潤しながら石巻市街へと向かう。
航空写真で見ると、下流で蛇行する旧北上川のぎりぎりまで市街地化しているところに石巻の経済力を感じさせる。
そして旧北上川は、石巻湾に注ぐ直前になり中州を形成する。ここにあるのが石ノ森萬画館と旧石巻ハリストス正教会。
東日本大震災の津波で大きな被害を受けたが、石ノ森萬画館は翌年再開館、教会も復元工事がほぼ完了している状況。

  
L: 橋から旧北上川越しに眺めるいしのまき元気いちば。  C: 旧石巻ハリストス正教会教会堂。1879(明治12)年竣工。
R: 角度を変えて眺める。宮城県沖地震を機に新たな教会堂が建てられ、旧教会堂は1978年にこちらに移築・復元された。

旧石巻ハリストス正教会教会堂は、現存する日本最古の木造教会建築。津波に耐えたのは奇跡的としか言いようがない。
海抜2.2mにかさ上げしたうえで復元したのだが、正直ちょっと不安。でもこのシンボリックな位置は譲れないのだろう。
そして旧教会堂のすぐ北西にあるのが、石ノ森萬画館。震災のときにはデザインを含めてかなり話題になった建物だ。
18時までやっているので中は後でじっくり見学するとして、陽の高いうちにしっかりと外観を撮影しておく。

  
L: まずは旧北上川越しに眺める石ノ森萬画館。「萬画」とは石ノ森章太郎が提唱した「マンガ/漫画」の新たな表記。
C: 中瀬に上陸して北東から。英語の「Mangattan Museum」は、同じく河口の中州であるマンハッタンとかけた表現。
R: エントランスをあえてスルーして南東から。この角度で見るとなんだか巨大なマッシュルームですな。設計は日本設計。

今の姿からは信じられないが、この中州は「中瀬」といい、かつては造船のための土地として利用されていた。
明治以降は芝居小屋が置かれて、石巻における文化や産業の拠点となったそうだ。特に映画館の岡田劇場は、
少年時代の石ノ森章太郎が石森町から自転車で2時間かけて通っていたという。石ノ森萬画館のオープンは2001年で、
その岡田劇場に近い場所が選ばれたとのこと。しかし東日本大震災の津波によって、教会と萬画館だけが残った。
復興整備した中瀬は全域が公園となるそうで、そうなると往時の姿はまったく想像できなくなる。初訪問の自分には、
この地に造船所や劇場があったとは正直わからなかった。今後はそれが当たり前になる。それはいいことなのかどうか。

  
L: 南側、中瀬公園から見たところ。  C: 南西、これまた中瀬公園の敷地内から。  R: 旧北上川の対岸から眺める。

撮影を終えると右岸に戻り、日和山へ。先ほどの羽黒山よりもこちらの方が標高が高いが、規模が大きいためか、
石段を必死で上がることはない。ただ、じっとりとした長い上り坂を自転車で行くのは、やっぱり大変である。
斜面はとことん住宅地となっており、ランドマークがないので道がわかりづらい。それでもどうにか公園に入る。
日和山は戦国時代に葛西氏が石巻城を築いた地だが、伊達氏の領地となると岩出山から本拠を移す候補地となる。
結局、新たな城は仙台青葉山に築かれるが、石巻は藩主直轄領の港として大いに栄えた。江戸で消費した米の1/3は、
石巻港から積み出されたとのこと。なお、日和山の名は、船が出航する前にここで天候を観察したことから付いた。

  
L: 規模の大きい日和山は北西側が広大な住宅地となっている。頂上付近は日和山公園として整備され、鹿島御児神社も鎮座。
C: 鹿島御児神社の境内。由緒ある式内社なんだけど、わりとざっくりしている印象。震災の影響も多少はあるのかも。
R: 境内を進んで拝殿。1970年築、赤いペンキの塗りが雑でちょっとなあ……。向かって右隣では新たな社務所の建設工事中。

日和山の山頂には鹿島御児(かしまみこ)神社が鎮座する。鹿島の名を冠していることからわかるとおり、
祭神は鹿島神宮(→2014.8.30)の武甕槌命。そしてもう1柱、武甕槌命の子である鹿島天足別命。鹿島で御児なのだ。
鹿島天足別命は阿佐比古命(香取神宮(→2014.8.30)の祭神・経津主神の子)とともに海路でこの地にやってきたが、
その際に錨が石を巻き上げたことから「石巻」の地名となったという伝承がある。しかし社殿はなかなか残念。
特に本殿は築250年を超える歴史的建造物だったそうだが、東日本大震災のダメージにより2013年に解体されており、
新たな本殿の造営資金を集めている。覗き込んだら本殿だけきれいさっぱりなくて不思議だったが、そういう事情か。

 社殿のセンスとは対照的に、御守の紙袋はオシャレなのであった。

境内の南端には海に面して大鳥居があり、そこから旧北上川の河口、そして石巻港を眺めることができる。
が、そこにあるのは広大な更地に新しい建物が点在する、ゆっくりと整備が進められている光景。さっきの中瀬と同様、
かつての繁栄を想像することは難しい。あの日、この山の上で、黒い津波が港を呑み込むのを目にした人たちは、
いったいどんな気持ちだったのだろう。それまで築き上げてきたものが、当たり前にあったものが、一瞬で失われた。
いま目の前に広がる光景は間違いなく現在の現実だが、地元の人はまぶたの裏に往時の姿を見ることになるはずだ。
そして初めて訪れた僕はその過去を知るはずもないが、失われたことだけはわかる。手の届かない街が景色に重なる。

  
L: 海を望む大鳥居。石巻港の側が神社にとっての正面であることを知らしめる(※2021年5月の余震の影響で解体済み)。
C: 展望台から眺める旧北上川の河口と石巻港。  R: こちらは中瀬。今は広大な更地であり、往時の繁栄は想像できない。

日和山からは北へ出て旧石巻市役所を探す。上述のように市役所は2010年にさくら野百貨店石巻店跡に移転したが、
かつての市役所は日和山付近にあったそうなので、それっぽい建物がないか探ってみる。事前にネットで調べたが、
移転から8年も経って正確な場所がわからない。しかし都市社会学的な勘から石巻中央公民館がヒントと考え、
周辺を探索してみると、向かいにある復興公営住宅(1階に老人福祉センター・寿楽荘が入る)が実にそれっぽい。
ちょっと坂を上ってアプローチする感じが、実に役所感があるのだ。この微妙な高さが津波対策になりうるし。
ということで、これは旧市役所跡地だと判断して写真だけ撮って撤退。後で寿楽荘についてネット検索したところ、
管理会社のサイトで「旧市役所跡地に、被災高齢者の『交流の場』として期待され、建設された」とあるのを発見。
ビンゴである。われながら、だいぶモノを見る目が養われてきたなあと思う。何の役にも立たない目利きでございます。

  
L: 石巻中央公民館。  C: 角度を変えてもう一丁。  R: 旧市役所跡地の復興公営住宅(寿楽荘)。よく見抜いた。

旧市役所問探索の後は、石巻の市街地を走りまわる。旧北上川に近いエリアは見るからに最近整備された空間だが、
ある程度西へ行くと旧来の商店街がそのまま残っている。ただ、アーケードの商店街がひとつもないのが印象的だ。
おそらくかつてあったが、撤去されたのだろうと推測する。現在はどの通りも開放的な印象となっているが、
はっきりと商業の賑わいを宣言する要素がなくなったのもまた事実であると感じる。なるほどアーケードとは、
歩行者を買い物に集中させる空間的制約だったのかと思う。アーケードのない商店街は開放的だが、散漫でもある。

  
L: 日和山から北東、アイトピア通りから日和山を振り返る。旧北上川に近いこの辺りは、最近整備した感触が強い。
C: 旧観慶丸商店。これはすごい。1930年築だが、アール・デコであると同時に、てっぺんの瓦に帝冠様式っぽい匂いも感じる。
R: 角度を変えて眺める。石巻で最初の百貨店として建てられ、後には陶器店となったそうだ。「観慶丸」は廻船業時代の船名。

調べてみたら、国道398号を現市役所から東に行ったエリアが立町大通り商店街でかつてアーケードがあったそうだ。
1971年に完成したが、震災や老朽化を理由に2015年に撤去された。アーケードのない国道は道路の印象が強調され、
それぞれの建物の用途が目につきづらくなる。パッと見て目立つのは銀行の看板くらいか。意外な発見である。

  
L: 舗装の工夫と適度な狭さによって、それとわかる商店街。客に買い物をさせるには、ある程度の閉塞感が必要なようだ。
C: 立町大通り商店街。アーケードが撤去されたことで単なる道路、国道398号としての要素が強まったように思う。
R: 石巻市子どもセンターらいつ。オシャレな建物だなあと思ったらグッドデザイン賞。2013年竣工、設計は竹中工務店。

そのまま石巻の市街地を北西へと抜けていく。目指すは日本初となる西洋式の本格的な閘門、石井閘門である。
明日訪れる予定の野蒜築港の関連施設で、国指定重要文化財。北上運河と旧北上川の連結点につくられた。
なお、閘門のゲート自体はかつては木製で、現在のような鋼鉄製になったのは1966年からとのこと。

  
L: 石井閘門。「石井」の名は建設を指揮した内務省土木局長・石井省一郎にちなむ。1880(明治13)年に完成。
C: 近くで見たところ。手前(南)側が北上運河で、この奥(北)側を流れる旧北上川との間で水位を調節する。
R: この「く」の字に曲がっているのが面白いなと。ちなみに石井閘門は現役で稼動する日本最古の閘門とのこと。

  
L: ちょっと進んで振り返る。石やレンガの風格がすごい。  C: 北にある道路から見たところ。これが北上運河。
R: 同じ道路から北側の閘門を見たところ。旧北上川の方で橋なのか新しい閘門なのか、何かつくっていますな。

 閘門の東側はちょっとした公園となっており、そこから工事の様子を眺める。

これでいちおう石巻市街地の主要な名所は押さえたのではないか。帰りはふつうに戻ってもつまらないので、
わざと旧北上川沿いに僕も一緒に蛇行しながら下っていく。しかしただひたすらに住宅が並んでいるだけであった。
飽きてしまって素直に石巻線を渡る。時刻はもうすぐ16時半、本日最後の目的地である石ノ森萬画館を見学するのだ。

  
L,C: というわけで石ノ森萬画館のエントランス。ちょっとしたオープンスペースとなっている。  R: ロボコンとガンツ先生。

  
L: トライドロン。『仮面ライダードライブ』の主人公・泊進ノ介の愛車とのこと。ナイト2000みたいなもん?
C: 館内に入る。奥がショップ「墨汁一滴」。  R: 後で2階から見たところ。いい感じの吹抜具合でございますね。

石ノ森萬画館は先月から原画以外は撮影可能になったそうで、まあ正直いろいろ撮りたくなるものが多くて、
それはそれで大変。『サイボーグ009』『仮面ライダー』『人造人間キカイダー』など撮りごたえがあるぜ。
『仮面ライダー』が象徴的だが、石ノ森作品はキャラクター個別のパンチはやや弱いが(ほかの巨匠と比べてだが)、
そこからの2次的な広がりが凄まじい。応用の利くベースを生み出した点で本当に非凡なのだと思い知らされたしだい。

  
L: ベンチで仮面ライダーと一緒に記念撮影できるのはいいが、こうして単体で見るとなんかちょっと面白いね。
C: 『サイボーグ009』の世界。全体的に造形が幼いな。  R: 『仮面ライダー』の世界。シンボルマークが興味深い。

  
L: トマトン……じゃなかった、アマゾン。  C: 仮面ライダーシン。庵野秀明が仮面ライダーやったらこうなるんかな。
R: 『人造人間キカイダー』。等身大でキカイダーが誕生する瞬間を再現。しかし石ノ森先生はいろいろ企画しているなあ。

原画を見るに、まあやっぱりすごいんですよ。伝説のトキワ荘のメンバーですから、そりゃもうすごい。
でも石ノ森章太郎のマンガを読んでいるかというと、さほどでもない。しかし石ノ森原作の映像作品には馴染みがある。
これは世代によって差のあるところなのだろうが、この、マンガ家なんだけどマンガの枠がちょっと合わない感じが、
なんとも不思議なのである。今回見学して、マンガ家としての実力をあらためて感じるいい機会になったと思う。
その画風はいい意味で昭和そのもの。手塚治虫の影響を最も忠実に感じさせる絵柄だと思うのだが(→2016.9.27)。

  
L: 『HOTEL』の一角。……え? 『HOTEL』ってロボットの出てくる話だったっけ?  C,R: トイレ。なるほど。

衝撃的だったのは、『サイボーグ009』が「天使編」で中断していること。お詫びの言葉を入れるその真摯さがすごい。
『サイボーグ009』というとメディアミックスが盛んになされている石ノ森章太郎の代表作中の代表作なのに、
作者が考えに考えすぎちゃった末に「これもう無理−!」となってしまった。それでも世界観が続いているというのは、
石ノ森章太郎という作家の特徴が端的に現れている部分ではないかと思う。作品は作者が生み出すものではあるが、
受け手に委ねられる要素もまた大きい。石ノ森章太郎は、受け手の自由を許す比率が極めて高い人だったと思うのだ。
だから『サイボーグ009』にしろ『仮面ライダー』にしろ、核となる物語が溶解あるいは拡張しながら今も続いている。

  
L: 約5600冊を収蔵するという図書ライブラリー。本棚の上に石ノ森章太郎の自画像人形が乗っているのがいい。
C: 壁に貼られた石ノ森萬画館オープン記念の色紙約60枚。それぞれのタッチで描かれた石ノ森キャラが興味深い。
R: その中で個人的にいちばんインパクトがあったのはこちら。やっぱりサイバラすげえな、と思わされた一枚。

さて、2階の企画展示室では 「サンリオキャラクターズ かわいいのヒミツ展」を開催中。これがきちんと面白い。
1960年代「ハローキティ」以前のサンリオ商品から展示していて、歴代のサンリオキャラクターたちも懐かしい。
調べてびっくりしたのだが、サンリオは山梨県の外郭団体・山梨シルクセンターからスタートしているのだ。
雑貨をつくって売っているうちに花柄などのかわいいイラストを付けることで売上が伸びることがわかり、
そこからキャラクター商品を開発するようになったそうだ。その転機となったのが「いちご柄」であり、
サンリオの機関紙は「いちご新聞」である。さらに内藤ルネ・水森亜土・やなせたかしのキャラクターを起用、
1970年からは自社制作のキャラクターにシフトして、1974年には絶対王者のハローキティが誕生する。

  
L: サンリオの原点と言えるいちご柄のグッズ。日本の「カワイイ」文化はここから加速した、ということか。
C: 水森亜土デザインのキャラクターグッズ。やっぱり亜土ちゃんすごいな!  R: 1980年代のグッズ。カラフル。

さすがに展示の大半はハローキティグッズとなっているが、それぞれにしっかり時代を感じさせるのが面白い。
全体的な傾向としては、原色からピンクへとゆったり変化していくのが指摘できると思う。興味深いものである。

  
L: 絶対王者・ハローキティのグッズ。最初は原色でミニマルだったのが、チェック柄や輪郭のグラデーション化へと変化する。
C: この辺のグッズは自分も懐かしさ、親しみを感じるわ。  R: バッグなど対象年齢が上がったことを端的に示すグッズたち。

ミュージアムショップ「墨汁一滴」では御守があったので買ってしまった。キャラクターが祈願内容に対応していて、
009(島村ジョー)が所願成就、仮面ライダーが交通安全、ロボコンが学業成就を担当している。実に適材適所である。
そういうキャラクターがいるってことが偉大なんだよなあ、と大いに感心しつつ石ノ森萬画館を後にするのであった。

さて本日の晩ご飯はラーメンをいただく。自転車で走りまわっているときに気になる店があったのでお邪魔する。
春潮楼という店で、実はもともと1855(安政2)年創業の料亭だったそうだ。震災後にラーメン屋として営業再開。
そんなこと知らないで入ったので驚いた。しかし出てきた支那そばは、その驚きをはるかに上回る衝撃的な旨さだった。

 春潮楼の支那そば。これは石巻に行ったら食わないともったいないレヴェル。

貧乏舌な僕としては、何がどうなっているのかわからない。しかし料亭だった店が業態を変えてまでつくる支那そばは、
決して単純ではない旨さが折り重なっており、スープの最後の一滴にいたるまで感動しながらいただいたのであった。
本当においしゅうございましたね。この支那そばを日常的に食える石巻市民がうらやましい。心底そう思いますわ。


2018.8.17 (Fri.)

昨夜浜松町を出発したバスは、順調すぎて予定より30分ほど早く新庄駅前に到着した。時刻はまだ6時15分である。
新庄に来るのは2回目で(→2009.8.11)、今回は戸澤神社の御守を頂戴すべくやってきたのだ。3時間近く余裕がある。
そして天気がよろしくない。1955年竣工の市役所を美しく撮ることに時間をかけることもできず、駅で日記を書く。
やがて8時40分を回ったのでスタート。9時ごろ神社で御守を頂戴して、市役所を撮って戻れば10時の列車にドンピシャだ。

  
L: 新庄の商店街。駅から最上公園(新庄城址)へ延びる道は、前半が「金の茶釜どおり」、後半が「こぶとり爺さまどおり」。
C: メインストリートの店舗が取り壊され、空き地となっている。ベンチやテーブルを置いて完全に開き直っているのがすごい。
R: 道路の反対側でもオープンスペースが発生していた。しかしオープンスペースは囲まないと効果半減なのだ(→2012.3.15)。

  
L: 前回訪問時に衝撃を受けた「文具の宇宙へようこそ」(→2009.12.6)の看板。  C: 笠地蔵どおり。なんか、ひと気がない。
R: そんなこんなで戸澤神社に到着。まずは公園の入口から。前回は拝殿の建物くらいしか撮影していなかったのでリヴェンジだ。

戸澤神社は新庄城址にあることからわかるように、典型的な「明治になって創建された、藩祖を祀った神社」である。
祭神は3柱で、戸沢氏初代である戸沢衡盛、初代新庄藩主となった戸沢政盛、そして最後の新庄藩主・戸沢正実。
戸沢衡盛はもともと平衡盛といい、源頼朝の配下となり滴石庄(現・雫石)に入る。このとき戸沢邑を本拠としたので、
「戸沢氏」を称した。しかし「衡」の字を使っている辺り、どう考えても奥州藤原氏とも関係がありそう。裏切ったか。
その後、戸沢氏は角館に移り、戦国時代には戸沢盛安が出て活躍する。小田原征伐の際には大井川を夜中に泳いで渡り、
ずぶ濡れのままで秀吉に会見した豪傑だったが、直後に25歳の若さで病死してしまう。弟の光盛もすぐに病死。
断絶の危機に陥った戸沢氏だったが、盛安には農民の娘に生ませた子どもがいたので急いで跡を継がせた。これが政盛。
関ヶ原以降は譜代大名の鳥居氏と関係を強化、これが効いて最上氏改易の後に新庄藩主となることができたというわけ。

  
L: 境内入口。  C: 拝殿。  R: 本殿。戸沢盛安もぜひ祭神に加えてあげてほしいなあ。

戸沢正実は戊辰戦争で戦いに負けるたび所属を変え(新政府→列藩同盟→新政府。難しい立場なのはわかるが……)、
キレた庄内藩に攻め込まれて新庄は焼け野原となってしまう(正実は秋田に逃げた)。最終的に新政府側なのでセーフ、
そんな感じである。それでも城址に祀ってもらえたからには、地元で評価されるだけの手腕があったのだろう。

  
L: 隣の新庄護国神社。  C: 戸沢氏の氏神である天満神社。1668(寛文8)年の再建で、実に見事。  R: 本殿。

無事に御守を頂戴すると、新庄市役所へ。前回も撮影したが、相変わらずの雄姿である。貴重な1950年代庁舎だ。
隣の秋田県では大館(→2014.6.29)や能代(→2014.8.21)など、1950年代庁舎を建て替える動きが発動中である。
新庄市役所も今の姿をこの先どれだけ拝めるかはわからない。できれば晴天の下で撮りたかったなあと思う。

  
L,C,R: 新庄市役所。1955年竣工で、当時の庁舎建築を味わえる本当に貴重な存在。まさに時代の証人なのだ。

  
L,C: 背面。しかし建て替えの計画もなく地味めの耐震補強で済んでいるのは、優秀な建築ってことか。  R: 東庁舎。

  
L: 東庁舎を本庁舎側から眺める。  C: 本庁舎の中の様子。昭和である。  R: 正面入って左。ドアは防寒のためか。

本庁舎から道路を挟んで北へと行くと、ちょっと奥まった位置に第二庁舎がある。1993年に上下水道庁舎として竣工。
こいつのおかげで本庁舎は現役でいられるのではないかと思う。敷地の開放感が対照的で、こちらは事務専門な印象。

  
L: 第二庁舎。通りに面している本庁舎とは対照的に、少々奥まった立地。  C: 南西から見たところ。  R: 北から背面。

新庄駅まで戻るが、そのまま脇から煉瓦造りの機関庫を眺める。1903(明治36)年の新庄駅開業と同時の竣工だ。
長さがあるし角度は限られるし、そもそも近づけないしで、撮影はなかなか大変。しかし見れば見るほど立派である。
こういう古い建物を大切にする文化が1950年代の市役所を残す精神につながっている……とはさすがに思わないが、
なんというか、雰囲気を大切にする街なのだと思う。なんだかんだ市役所にも愛着が湧いちゃっているんじゃないかな。

 
L: 新庄駅機関庫。木造で長さを足しているのがまた面白い。転車台もあるよ。  R: 見れば見るほど立派。

さて、新庄といえば冨樫義博。新庄駅の北側は最上広域交流センター「ゆめりあ」となっており(→2016.8.1)、
1階の一部は新庄・最上漫画ミュージアムとなっている。よく見ると「mini」というフキダシがあって、確かに小規模。
しかし単行本が読み放題で非常によい。ちなみに羽海野チカも両親がこの近辺の出身ということでコーナーがある。

  
L: 市役所の看板より。「かむてん」は冨樫義博デザインの新庄市公式イメージキャラクターで、神室山に住むという天狗。
C: 新庄・最上漫画ミュージアムの入口。  R: 中をざっくりと。作品を読むことがメインになっているのが面白い。

というわけでスタートからだいぶ濃い旅だ。庄内からは、初挑戦となる陸羽東線を行く。北上線とか米坂線とか、
あと磐越東線とか、東北の山を東西に抜ける路線って、なんとなく雰囲気が似る印象である。穏やかに緑の中を抜ける。
そんなこんなで鳴子温泉で下車。やはり鳴子温泉に浸かりたいじゃないですか! 鼻息荒く改札を抜けるのであった。

  
L: リゾートみのりと鳴子温泉イメージキャラクター・なる子ちゃん。「下駄も鳴子」ということでちゃんと下駄を履いている。
C: 鳴子温泉駅。中に円形劇場型シアターがある。  R: 街の真ん中にある、鳴子温泉ゆめぐり広場。回廊の先には手湯がある。

まずは軽く温泉街を探検。けっこう老朽化している建物が多いが、鳴子温泉じたいが人気のある場所だからか、
古びているわりには元気な印象。そしてやはり目立つのが、こけしを扱う工芸店。かなりのアイデンティティな模様。

  
L: 鳴子温泉の商店街。全体的に建物が古めかしい。しかし元気。  C,R: こけしの店が本当にあちこちにある。

陸羽東線の北側に出て坂を下っていくと、大崎市鳴子総合支所。もともとは鳴子町役場だった建物である。
大崎市は2006年に1市5町が合併して誕生したが、陸羽東線を肉付けする形でかなり広域にわたって延びている。

 
L: 大崎市鳴子総合支所。1954年に鳴子町役場として竣工。  R: 反対側から見たところ。

役所を見て落ち着いたので、いざ入浴である。鳴子温泉で有名な共同浴場は、滝の湯と早稲田桟敷湯の2つである。
まあやっぱり、鳴子温泉で最古の歴史を持つ滝の湯に浸かるべきだろう、ということであらためて移動する。
駅へ戻ってそのまま突き抜け、坂を上って温泉街の南端に行くと滝の湯である。路上駐車が本当に邪魔で腹が立つ。

  
L: 道路に面している滝の湯。入浴客の路上駐車が邪魔である。  C: 裏へ回るとこの光景。  R: これが源泉。

しかしすぐには浸からない。滝の湯はすぐ裏にある鳴子温泉神社の境内入口から湧いている源泉を使っているので、
まずはその温泉神社から参拝するのだ。835(承和2)年、この地が爆発して熱湯を噴出したので神社を創建したそうだ。

  
L: これは滝の湯から奥、源泉の先に行ったところ。  C: 石段を上るとこの光景。  R: 参道の先、拝殿が見える。

拝殿はどこかお堂っぽさを残しており、いかにも薬師堂の影響を感じさせる温泉地の神社らしい印象がする。
本殿は軒下の彫刻がかなり立派。なお、神社の名前は「おんせんじんじゃ」だが「ゆのかみのやしろ」とも読むらしい。

  
L: 拝殿。瓦葺きでどこか薬師堂っぽい。いかにも温泉地の神社。  C: 本殿。  R: 近づいたら彫刻が見事なこと!

御守を頂戴したところで滝の湯に浸かる。が、さすがにお盆過ぎの有名な温泉ということで客がいっぱい。
お湯は源泉がすぐそこなだけあって、硫黄の匂いが強くて白濁、絶対に効く酸性のやつである。かなり強烈。
これは本当にすばらしいのだが、いかんせん客が多すぎてまったく落ち着けない。共同浴場だからしょうがないが。
上がってからちょっと考える。せっかくの鳴子温泉、まだ時間はあるからハシゴしちゃおうじゃないか!と。

……そんなわけで早稲田桟敷湯にも突撃する。こちらはその名のとおり、早稲田大学の学生が掘り当てた温泉。
建物は実に前衛的なコンクリートということで、もう色と形と早稲田の名前だけで石山修武だとすぐにわかる。
入口が狭くて不安になりつつ階段を下っていくと、中はきちんと広いのであった。たいへんポストモダンな空間。
印象としてはどこか養老天命反転地っぽさがある(→2017.8.11)。すっげえ悪く言えば、なんだか処刑場みたいね。
ディストピアSFに出てくる温泉はきっとこんな感じなのだろうと。いや、これはこれでアリだと思うんだけど、
僕の語彙力が足りないせいか、けなす響きでしか言葉が出てこない。コンクリが古くなると致命的に汚くなりそう。
ちなみにお湯は悪くないけど、さっきの滝の湯と比べてしまうと平凡。僕が慌てて浸かったのがよくないんだけど。

 
L: 早稲田桟敷湯。そこはかとなく天命を反転する匂いがする。  R: 角度を変えてもう一丁。

いちおうこれで鳴子温泉は味わったということにしておこう。再び陸羽東線に乗り込むと、今度は岩出山で下車。
岩出山といえば伊達政宗だ。最終的に仙台に落ち着いたが、その前に本拠地としていたのはここ、岩出山なのだ。
伊達氏という名前は伊達郡(現・福島県伊達市)に由来する。政宗の祖父・晴宗の代に米沢(→2009.8.11)に移った。
政宗の戦国大名としての活躍はほとんどが米沢時代のことで、小田原征伐のタイミングで政宗は秀吉に降るが、
翌年に転封となり、その際に地名を「岩手沢」から「岩出山」と改めた。政宗が仙台に移った後は四男・宗泰が入る。

  
L: 観光物産センター・鉄道資料館。かつての岩出山駅の駅舎を利用しているそうで、往時の雰囲気がしっかり残る。
C: こちらが現在の岩出山駅。取って付けたようなお城要素で、駅と観光センターが逆な印象。  R: 駅からは住宅地が続く。

駅周辺は穏やかな住宅地となっているが、岩出山城址へと歩いていくと、突然しっかりとした商店街に出た。
もともと城下町の町人地だったのだろうが、道幅が広くきっちり区画整理されており、それらしい風情はない。

  
L,C: 岩出山の商店街。落ち着いた地方の商店街という印象。しかし城下町らしさはあまりない。  R: 岩出山城址。坂を上る。

商店街から西へ入って坂を上り、岩出山城址へ。ここは奥州探題・大崎氏の宿老である氏家氏の居城だったが、
大崎氏はどんどん衰えて伊達政宗の傘下に入るまでに没落。さらに秀吉の奥州仕置によって改易となってしまう。
これが翌年の葛西大崎一揆につながるが、当然、政宗が裏で煽動していたわけで。そんなのすっかりお見通しの秀吉は、
政宗を米沢から葛西・大崎旧領へ転封する。石高は全盛期の約半分。政宗は仙台に城を築くまで岩出山で過ごした。

  
L: 岩出山城址を行く。  C: 城址というよりも公園。単なる憩いの場である。  R: コンクリート製の伊達政宗像。

なんだかパッとしねえなあ、と思いつつ岩出山城址を後にすると東へ歩き、そのまま陸羽東線の東側に出る。
岩出山でぜひとも訪れておきたい施設があるのだ。それは、感覚ミュージアム。日本初の、五感をテーマにした施設だ。
オープンは2000年で、なんでそんなものを岩出山につくったのかよくわからんが、まあとにかく行ってみよう。

  
L: 感覚ミュージアム。楕円形のあったか広場を囲んで建っている。  C: 角度を変えてもう一丁。  R: エントランス付近。

夏休みということもあってか、親子連れを中心に予想以上に客が入っていた。意外にも安定した人気がある模様。
しかしあまりに子どもの姿が目立つので、ひょっとしてこれはお子様向け施設(→2011.1.30)なのか?と不安になる。

  
L: 東側の池の辺り。  C: エントランス方面を振り返る。  R: 西隣の岩出山保育所。一体的に整備されている感じ。

中に入ると2つのエリアに分かれていて、前半が「ダイアローグゾーン(身体感覚空間)」。子どもが喜びそうな、
ややアスレチック寄りな、遊べる空間という印象だ。そして後半が「モノローグゾーン(瞑想空間)」。
空間体験型のアート作品がひたすら続いて、これは……立山のまんだら遊苑(→2015.8.1)と一緒ですね。
調べたら設計が六角鬼丈で、ビンゴでやんの。まんだら遊苑は1991年オープンなので、感覚ミュージアムの先輩だ。
ただひたすら地獄の臭さを再現していたまんだら遊苑と比べると、10年分の進化というか反省は感じられる。
まあ素直に自分の好みの空間を見つけて面白がればいいんじゃないでしょうか。出オチ感は相変わらずだが。

感覚ミュージアムを後にすると、歩いて有備館駅方面へ。途中の森民酒造店が、外からでも見事さがわかる造り。
土日だと中を見学できるらしいが、今回は残念ながらスルー。ちなみに造っている酒の銘柄は「森泉」だが、
森英恵の孫とは関係ない。ジャッキー吉川とブルー・コメッツも関係ない。社長が一人でやっているんだと。

  
L: 森民酒造店。  C: 角度を変えて眺める。オレはモデルよりこっちの方が好きだぜ。  R: 平日で中は見学できず。残念。

森民酒造店の隣、駅の方からまわり込むと旧有備館である。元は岩出山伊達氏の2代目・伊達宗敏の隠居所で、
1715(正徳5)年に4代目の伊達村泰が宗家の第5代仙台藩主・伊達吉村をもてなすために庭園を整備した。
公式サイトによると、1850(嘉永3)年頃に学問所「有備館」として開校。明治維新後は岩出山伊達家の住宅に。

  
L: 旧有備館の入口。有備館駅からすぐ。  C: 中に入るとまず御改所(主屋)。  R: 中はこんな感じである。

中に入るとすぐ右手に御改所(主屋)。建物じたいは伊達宗敏により1677(延宝5)年に建てられたものだというが、
東日本大震災により倒壊してしまった。2016年に復旧したが、そのせいかリニューアル感が非常に強くなっている。

  
L: 御改所から見た池。  C: 庭園内。  R: 冷泉家の桜。庭園を整備した伊達村泰は冷泉家から夫人を迎えたのだ。

回遊式庭園ということで池の周りを一周するが、純粋な庭園というよりはちょっと公園くささがあって、
先ほどの御改所に漂うリニューアル感と共通する要素を感じる。震災前にはまた違った姿をしていたのかも。

  
L: 竹が並ぶ一角。薄い壁のように竹を配置するのは面白い。非常におしゃれな工夫であると思う。
C: 池越しに御改所を眺める。  R: 園路の幅の広さ、柵やベンチにどこか公園っぽさを感じてしまう。

なんというか、非常に惜しいなあと思う。感触としては悪くない箇所も多いが、同じくらいリニューアル感がある。
本当に往時はこんな造りだったのかなあと疑問を感じてしまうのだ。雰囲気は悪くないんだけどねえ。落差が激しい。

  
L: 全体的な雰囲気は悪くないが、細部が現代なんだよなあ。  C: 御中島。  R: 御中島の茶亭「松花庵」。

岩出山の次は大崎市の中心である古川へと向かうのだが、このまま有備館駅から陸羽東線に乗り込むのだ。
これで区間を空けることなく陸羽東線を制覇しようというわけである。有備館駅は開業が1996年と新しい。
大崎市有備館駅前住民協働館(岩出山地区公民館)「ユービック」として整備されている。大きな屋根が架かって、
オープンスペースと建物内部が上手く一体化している印象。地元住民向けでもあるし、観光客にも居心地がよい。

  
L: 大崎市有備館駅前住民協働館(岩出山地区公民館)「ユービック」。位置関係としては奥が有備館駅となっている。
C: 中央はオープンスペース。右の伊達政宗像は2008年まで仙台駅に置かれていたもの。妙に角ばっているのが気になる。
R: 公民館部分。地元の木材がふんだんに使われて、気合いを感じさせる。床はカラマツ、そこから上はスギとのこと。

20分ちょっとで古川駅に到着。東北本線こそ通っていないが東北新幹線が停まる駅なので、規模がかなり大きい。
しかし駅でのんびりしているわけにもいかないのだ。古川にはDOCOMOMO物件があるのだ。早歩きで移動開始。
目指すは大崎市民会館である。古川市時代の1966年に古川市民会館として開館しており、設計は武基雄。
武基雄というと解体工事が始まった長崎市公会堂(→2014.11.22)も手がけているが、こちらはまだまだ現役。
駅からひたすら北へと歩くが、やや北海道感のある矩形の住宅地が広がる中を行く。少し独特な感触がする。

やがて道路を挟んだ先に、見るからに凝った形状の建物が現れる。曇り空の下で撮影を開始したが、
ぐるっと一周していくうちに青空となってきた。だからといってもう一周する気力はなかったなあ。
基本的に90°ごとにファサードがほぼ同じ形となるので、正面をきっちり撮ればそれでいいやとなってしまった。

  
L: 大崎市民会館(旧古川市民会館)。  C: 正面から見たところ。方角的には南西から見たところである。
R: そのまま西寄りから撮影。大崎市民会館は空から見ると手裏剣型で、尖っている部分が東西南北にある感じ。

前に国立代々木競技場のログで体育館やホールに代表される屋内大空間建築の歴史について書いたが(→2015.5.10)、
大崎市民会館もその格闘の歴史に興味深い1ページを付け加えている存在だ。代々木と同じように天井を吊っている。
そのためのアンカーレイジを大胆不敵にデザインに採り込んでいるところが強烈である。なんだかコウモリみたいだな。

  
L,C: 北西側。  R: 北のアンカーレイジを強調した角度で撮影。この時期の創意工夫は本当に豪快でかっこいい。

どうしてもその豪快な構造に目が行ってしまうが、細部がきっちりモダニズムで微笑ましい。端正なのである。
その分、老朽化ものっぴきならなくなってきているはずだが、昭和ゆえの手づくり感が几帳面さを印象づけて好きだ。

  
L: 北東側。  C,R: 南東側。モダニズムらしい几帳面な手づくり感がしっかりとある。好きだなあ。

大胆不敵としか言いようのないフォルムに対して、いざ近づいてみると細やかなセンスが満載でそこがまた面白い。
ガラス張りでちょっと浮かせた印象の事務室、クソマジメなエントランス、でも一歩入ればやっぱりオシャレ。
遊び心全開で奇を衒っているように見えて、実際にはかなり真摯さを感じさせる名建築だと思う。大切にされている。

  
L: 少し張り出して浮いた印象を持たせた事務室。  C: エントランス。マジメ。  R: 中を覗き込むとオシャレ。

続いて大崎市役所へ。市民会館から西へと歩いていくが、住宅地の街割りは矩形のまま斜めに変化して少し複雑。
古川の街はもともと農地だったのがゆったりと都市化していったようで、城下町とは異なる感触がはっきりとある。
米どころ・宮城の中でも特にこの辺りは大崎平野と呼ばれて広大な稲作地域となっており、古川はその中心だ。
そして古川は奥州街道の宿場として栄え、宮城県北部を代表する都市となった。もともと商業と農業の街なのだ。
後述するが、古川の街が「ただ店が集まった場所でしかない」のは、強力な稲作と宿場・市場という過去の影響だろう。

  
L: 大崎市役所。右側の本庁舎は古川市役所として1956年に竣工した。  C: 1968年増築の西庁舎。  R: 本庁舎を正面から。

斜めの街路をどうにか抜けて、大崎市役所に到着。すっかりいい天気である。市民会館もこうならよかったのに。
大崎市役所は見るからに昭和の香りが漂っている建物で、本庁舎の竣工は1956年とのこと。1950年代とはすばらしい。
しかしさすがに建て替えの計画が進んでおり、今年の3月に基本計画が出た。「古川」から「大崎」へ変化するには、
これは当然のことなのかもしれない。宮城県北部の雄として、かなり気合いの入った庁舎をつくりそうな気がする。

  
L: 西庁舎の前から見た本庁舎。  C: 本庁舎の玄関。  R: 背面にまわる。表とずいぶん雰囲気が違うなあ。

敷地内の説明柱(板じゃなくて柱に書いてあるのだ)によると、もともとこの場所は古川代官所の跡地だったそうだ。
先代の古川市役所の建物は、裁判所・郡役所・学校としても使用された由緒ある建造物とのこと(現在は解体済み)。
歴史ある大崎地方の中心都市として、古い建物にけっこうプライドを持っている土地柄なのかもしれない。

  
L: 背面をもう一丁。1950年代にしてはガラス面積が大きい。  R: さらに西寄りの背面。  R: 駐車場越しに全体を見る。

中にお邪魔してみるが、実に正しい昭和の庁舎である。今朝見た新庄もそうだけど、この空気感がなくなるのは惜しい。
まあ大崎市としては、さっきも書いたように、「古川」から広域な「大崎」への脱皮を図りたいからしょうがないが。

  
L: 玄関から入るとこんな感じ。ガラスケースに市の名産品を入れているのとか、すごく昭和で好きなんだけどなあ。
C: 各課や係が部屋に分かれているのも昭和。最近はなんでもかんでもオープンですもんな。  R: 窓口はこちら。

帰りは市役所から駅までほぼ一本道。きちんと商店街になっているものの、なんとなくスケール感が大きい。
全体的に密度が薄めで、商業空間を引き伸ばした感触があるのだ。かつて古川の街は東北本線を忌避したそうで、
そのせいもあってか陸羽東線の(陸前)古川駅も市役所などの中心市街地から少し離れた位置にある。
(市役所はもと郡役所で昔からの中心。その東は「七日町」「十日町」と市に由来する町名となっている。)
やがて東北新幹線が建設されると古川は停車駅となるが、駅舎はさらに東へ動いた。この影響がまた大きくて、
その再開発が商業空間を引き伸ばしたのではないかと思う。古川の街が「ただ店が集まった場所でしかない」のは、
旧商店街と再開発の商店街が連動しながら駅までをつないでいったことで、その印象を深めていると思うのだ。

古川の街は独特だ。さっきの住宅地もそうだが、駅と旧市街をつなぐ商店街もそうだ。これはいったい何なんだ?
思うに、宮城県において仙台の影響がものすごく強いことが、古川の街に独特の空気をもたらしているのではないか。
仙台にはすべてがある。特に政治、つまり都市としてのリーダーシップは、仙台が絶対的な強さを握っている。
言い換えると宮城県には仙台以外の城下町がないということだ。いや、実際にはさっきの岩出山みたいなのがあるけど、
仙台を超えることは許されない。城下町は繁栄することを許されなかった。だから宮城県内のそれぞれの市は、
政治以外の特徴が必要になるのだ。沿岸部の気仙沼・石巻・塩釜には漁業がある。でも内陸部には稲作しかない。
そんな状況で古川は、合併により大崎という新たなステージに立ち、商業というアイデンティティを強化しようとした。
そういう強迫観念にも似たプライドを感じる。しかし古川の商店街の密度を見るに、やや無理な背伸びであると思う。

そんなことを考えながら古川駅に到着すると、違和感がした。神社の横参道に似た違和感である。横なのか、縦なのか。
自分の中の感覚が、90°揺さぶられることによる違和感。これは陸羽東線と東北新幹線が直交していることによる。
それまで東西方向を基準にしていた駅とその周辺が、新幹線の開通により、強引に南北方向にねじ曲げられたのだ。
そして再開発による広大な駐車場。この一帯の空間に軸はなく、無重力にも似た拠りどころのなさをおぼえる。
「古川」と「大崎」。広大な地域名を市の名前とした古川と、現実の間延びした都市空間とが重なり合っている。
おそらく古川は今後、大崎という広域名に消化されていくのではないか。密度の薄い商業だけが残る、そんな気がする。

  
L: 本庁舎から道を挟んで1991年竣工の東庁舎。  C: 古川の密度の薄い商業空間を行く。郊外社会とはまた異なる感触。
R: 古川駅。新幹線の駅らしい規模だが、周囲もそのスケール感で再開発しているので、妙に間延びした印象を受けるのだ。

古川駅からさらに東へ行って陸羽東線の終点・小牛田駅に到着。東北本線ではおなじみの駅だが、降りるのは初めてだ。
今日は石巻まで行くので、小牛田周辺も探検してみる。駅から北に行くと山神社があるので、参拝しようというわけ。
夕暮れの光を全身で浴びながら歩いていくが、郊外型の店舗が点在しているほかは、やっぱり田んぼなのであった。

  
L: 小牛田山神社。正式には「山神社(やまのかみしゃ)」。「こごたやま・じんじゃ」ではない。
C: 参道を行く。  R: 拝殿。拝殿は昭和になってからの再建とのことだが、ものすごく立派で驚いた。

15分ほど歩いて山神社に到着。すいません、最初「小牛田山神社(こごたやま・じんじゃ)」だと思ってました。
小牛田の「やまのかみしゃ」なんですね。建物が見事だが、火災で昭和になってからの再建ということで驚いた。
またいちばん奥にある参集殿もかなりの迫力。こちらも拝殿とともに昭和に建てられたそうだが、見事である。
御守は一見すると単なる紺色だが、実はデザインが3種類あり、この微妙な差がオシャレだと感心する。いい神社だ……。

  
L: 本殿を覗き込む。立派ですね。  C: 参集殿。国登録有形文化財になってたりしないのかな。  R: 庭園もよい。

こだわりが感じられる神社を参拝するのは楽しい。余韻に浸って歩いていると、古川へ向かう陸羽東線の列車が見えた。
陸橋から広大な大崎平野の田んぼを背景に撮影したが、これまたいい感じである。実にいい感触で本日の予定は終了。

 小牛田駅へと戻る途中、陸橋から眺める陸羽東線。大崎平野は穀倉地帯だなあ。

石巻駅に着くと、あちこちに石ノ森章太郎作品のキャラクターがいるのであった。それだけ多数の作品を生み出した、
ということを考えるとやっぱり偉大だなあ、なんて思いつつシャッターを切る。駅を出ると、まず石巻市役所。
これについては明日の日記で書くけど、その手前にも仮面ライダーがいるのであった。街全体が石ノ森推しなのか。

  
L: 石巻駅。上に乗って飛んでいるのは002。右手前は003。  C: 石巻駅はさすがに石ノ森章太郎を前面に出している。
R: ……と思ったら、市役所前にも像が。こちらは仮面ライダーV3ですな。石巻は駅だけじゃなくて街全体が石ノ森推しか。

 駅前の交番にはロボット刑事K。これこそ中に人形を置いてほしいなあ。

晩飯をどうするか迷うが、あまり選択肢がない感じ。居酒屋なんだけど定食が食べられる店が見つかったので突撃。
カキフライ定食をいただいたのだが、めっちゃ旨いのであった。ありがたやありがたや。大満足で旅行初日は終了。


2018.8.16 (Thu.)

東京に戻って即、夜行バスに乗る。今回は浜松町からの出発だ。思えば新宿だったり八重洲だったり品川だったり、
僕が利用する夜行バスはいつもだいたい同じ出発地だが、浜松町というのは珍しい。いろんな路線があるものだ。

いま勤務している自治体では夏休みが1週間短いので、明日からの旅行が今年の夏休みでラストの旅行ということになる。
うーん、夏は短いものだなあ。切ないなあ。最後を飾るにふさわしく、旅程は4日間、宮城県を徹底的に味わい尽くす。
興奮しているけどすぐにぐっすり。


2018.8.15 (Wed.)

まあ、三つ子に圧倒されるわけです。すごいね、彼らを毎日相手にしているとは。潤平さんには尊敬の念以外ないよ。


2018.8.14 (Tue.)

超ロングスリーパー伝説。


2018.8.13 (Mon.)

帰省の旅行の最終日である。本日は中央本線で岐阜県東部の市役所めぐりを敢行する。で、中津川で親と合流。
しかし中央本線ということで、愛知県内では春日井市役所をまだ押さえていないので、そこからのスタートとなる。

 名古屋駅名物のワンコインきしめんでエネルギーを充填なのだ。

春日井駅で下車。しかし市役所の前に行っておきたい場所がある。日本の都市公園100選となっている、落合公園だ。
これが駅からかなり遠くて、往路も復路もかすがいシティバスのお世話にならざるをえず、その時刻を基準に動く。
30分弱揺られて落合公園に着いたのが8時過ぎ。すでに暑くてたまらない。落合池を一周するコースを黙々と歩く。

  
L: 公園を右回りで一周しようとしたら、まず登場するのがカナディアンハウス。まあ実態はトイレなんですけど。
C: まっすぐ行って、落合池の北端辺りで振り返る。  R: 上池のいちばん北の方。みんな日傘をさして釣りに夢中。

落合公園は、灌漑用の溜池である落合池を中心に整備された公園である。かつては人の住めない荒野だったが、
湧き水を利用したり用水を引いたりして開墾を進めていった。1672(寛文12)年ごろに周辺の川や池の水を集め、
「流れが落ち合う」ということで、落合池という名前がつけられた。1972年の区画整理で溜池の機能がいらなくなり、
公園として整備されたとのこと。東の高速道路が境界となっているが、今はすっかり宅地の中にある感じだ。

  
L: 上池と落合池の間。いかにも公園らしい通路。  C: 上池に架かる橋から眺める。  R: 『伊勢物語』、菖蒲に八橋かな。

もともとが広大なスケール感の農地の真ん中にある溜池だったからか、落合公園も印象としてはけっこう大雑把だ。
明確にエリアを分けているのではなく、「この辺はこんな感じで」とざっくり整備している感じ。和とか洋とか、
そういった公園としてのこだわりはあまり感じられない。とりあえず水と緑を配置してみました、といったところ。
よく言えば、気兼ねなく自由気ままに過ごせる空間ではある。しかし、ただの巨大な憩いの場でしかない。

  
L: 噴水近くの芝生広場。  C: フォリー水の塔。  R: アジアイトトンボかなあ。

目立つのが、フォリー水の塔。「フォリー」ってなんだよ、と思ったら、実はこれ、庭園の立派な一要素なのだ。
古典建築を模した廃墟が典型的で、用途のまったくない飾りとしての建築物を指す。いやあ、知らなかった。
「folly」とはつまり「悪ふざけ」を意味しており、パブリックアートのような、ガラクタのような存在なのだ。
公園の懐の深さを感じさせる、なんとも面白い慣習である。フォリーばっかりの公園ってあるのかな?と考えてみたが、
真っ先に思い浮かんだのは養老天命反転地(→2017.8.11)だった。あそこは荒川修作のfollyだけでできている。

  
L: 落合公園管理棟。  C: 角度を変えてもう一丁。  R: ありがとう落合公園、さようなら落合公園。

帰りもバスに揺られるが、途中にある春日井市役所で下車。市役所も駅から微妙に距離があるので、これは合理的。
春日井市は完全なる名古屋市のベッドタウンであり、その人口30万人は愛知県で6番目の多さを誇っている。
つまりは市役所もそれだけデカい。デカいけどもともと農地だった周囲の空間には余裕があって、撮影は難しくない。

  
L: 春日井市役所。まずは西から。こちらがメインエントランスとなる模様。  C: 北西より。  R: 高層棟メインで。

春日井市役所の竣工は1990年。設計は久米建築事務所だが、『新建築』の目次を見るに春日井市も関与しているっぽい。
調べたみたら春日井市の公式サイト内に『市役所の変遷』という記事があり、移転の紆余曲折が簡潔に書かれている。
その内容を大いに参考にしつつ、Wikipedia「春日井市」記載の年表も活用しながら、簡単にまとめてみたい。

  
L: 高層棟の側面。北を走る国道19号との間には広い駐車場がある。  C: 北から見る。  R: 北東側。

春日井市の市制施行は1943年。これは当時、複数の陸軍工廠が周辺に存在しており、これらを一体的に運用するため。
現在の中心部にある春日井駅は開業時には鳥居松駅といい(鳥居松村だった)、すぐ近くに鳥居松工廠があったのだ。
市制施行時の市役所は、旧勝川町にあった東春日井郡役所。翌年に現在の春日井商工会議所がある場所に移転する。
戦争の非常に厳しい時期であるものの古材を使って外観を気にせず建てたそうで、陸軍工廠の重要性がうかがえる。

  
L: 東側から見たところ。  C: 文化フォーラム春日井・春日井市民会館側から見た側面(南東)。  R: 南から。

終戦後の1948年に、春日井市役所は旧鳥居松工廠の本館に移転する。軍の施設から地方自治の拠点へ。象徴的である。
そして鳥居松工廠は王子製紙の春日井工場となる(1953年操業開始)。苫小牧工場に続く第2の拠点として整備された。
しかし1960年に鉄筋コンクリート3階建てで現在地に新築移転。位置的には戦中の市役所だった春日井商工会議所に近く、
またここはNTTのビルが隣接しており、国道に近いというモータリゼーション的な理由だけでの移転ではなさそうだ。
1966年には後述の春日井市民会館がすぐ南に完成しており、核のなかった春日井市の中心部という要素が強まった。

  
L: 文化フォーラム春日井に面する南東側から市役所の中にお邪魔してみる。トラスの屋根がかっこいいではないか。
C: 高層棟と低層棟をこのようなトラスとガラスのアトリウムとしてつないでいるわけだ。西向き。  R: 北向き。

市役所のすぐ南東には文化フォーラム春日井。手堅さを感じさせる市役所と比べるとかなり派手なファサードだが、
竣工は1999年なのでそんなに差があるわけでもない。2階には全国初の「日本自分史センター」があるそうだ。
三跡のひとり・小野道風の出身地ということで「書のまち」をアピールしているが、自分史はその一環とのこと。

  
L: 文化フォーラム春日井。安井建築設計事務所の設計で、1999年にオープン。これは市役所(北西)側から見たところ。
C: 西側にまわり込む。この円の上はウッドデッキの植栽空間。  R: 南側。なお、3階と4階は図書館となっている。

敷地の南端には春日井市民会館。こちらは1966年オープンで、見るからにモダニズム。設計は日建設計だそうで、
外観に派手さはなくて当時の流行をしっかり押さえているんだけど、ガラスがしっかり使われている点が特徴的。
明暗で塗り分けたグレーに対して黒いサッシュがまた巧い。日建設計のモダニズム職人ぶりが味わえる佳作。

  
L: 春日井市民会館。まずこれは北西側の通路から見たところ。  C: 文化フォーラム春日井(北東)側から見たところ。
R: 敷地から出て東から眺める。ホールの基本形は六角形で、そこに四角い板を載せました、という正直なデザイン。

歩いて春日井駅まで戻る。地味に距離があって面倒くさいのであった。それでも春日井原のほんの一部なのよね。
旧尾張国は、西は木曽川に悩まされ(→2018.8.11)、東は水のない荒野。今のようにどちらも宅地が無限に広がる光景は、
昔の人には絶対に想像のできないものだったろうな、なんて思う。想像力をはたらかせて旅をするのは本当に面白い。

春日井からさらに中央本線を東へ進み、多治見で下車。もともと窯業で知られる街だが、最近はクソ暑いことでも有名。
実際、改札を抜けるとそこは凄まじい熱気なのであった。電車で20分なのに、さっきまでいた春日井とは明らかに違う。
なぜだ!?と思いつつ(まあ地理の人としてわかっちゃいるけど体験するとやっぱり圧倒的なのだ)、街へと踏み出す。
後述するが、多治見の街の構造はちょっと複雑だ。土岐川を挟んで右岸と左岸の両方に、しっかりと街があるのだ。

  
L: まずは駅から南下する。多治見駅を振り返るが、なかなかの都会な印象。  C: 陶都大橋で土岐川を渡って左岸に入る。
R: 広小路通りの看板。レトロな雰囲気がいいが、商店街としてははっきり寂れている印象。昔は賑わったんだろうなあ。

市役所が旧市街の左岸にあるので、陶都大橋を渡ってそっちから攻める。渡りきってから東へ進むと新羅神社。
「しらぎ」か「しんら」か迷うが、こちらは「しんら」。その名のとおり、新羅系の氏族が祖神を祀ったのが起源。
多治見名産の美濃焼は須恵器から発展したそうで、渡来人系の歴史を追える名前が残っているのは興味深い。

  
L: 新羅神社。旧多治見村の産土神とのこと。  C: 参道を進んでいく。威厳を感じさせる長さ。  R: 拝殿。ちょっと独特。

新羅神社の社殿は1848(嘉永元)年に建てられた。しかし気になるのはその手前にある灯籠である。
格子窓がついた家型で、こんな形のものは初めて見た。本殿脇の境内社にもこの形で置いてある。
いったいどうしてこんなデザインなのか、どんな意味があるのか、ここだけなのか、非常に気になる。

  
L: 問題の灯籠。いや、そもそも灯籠と呼んでよいものなのか。自分の無知さを痛感させられますなあ。
C: 失礼して拝殿の中を覗くと、扁額が陶製だった。さすが多治見。  R: 西之宮大神のえびす像と本殿。

多治見市役所へと向かうが、広小路通りや銀座通りをふらふら歩きながら行く。駅周辺とはまた別に、
こちらの左岸側にもしっかりと昔ながらの商店街がある。残念ながら寂れつつあるが、建物も残っている。
不思議に思って確認してみたら、こちらの左岸がもともとの多治見町で、土岐川右岸は豊岡町という別の町だった。
1900(明治33)年に名古屋から鉄道が敷設され、当時の豊岡村に終点となる多治見駅が開業したのだ。
後に豊岡町役場は現在の岐阜地検多治見支部、本土神社(しまった、スルーしていた!)の東隣に建てられる。
右岸の商店街が駅から上流(東)側に延びているのはそのためだ。そして1934年、豊岡町は多治見町に編入される。
なるほど、それで川を挟んで街の核が2つある格好になっているわけだ。地元民の感覚が知りたいなあ。

  
L: 南北方向、銀座通りのアーケード。  C: 商店も残ってはいるが、空き地となってしまっている箇所も多い。
R: 小路町通りにて。木造商店、モダンなタイル張りと時代の推移を感じさせる建物が並ぶ一角。この対比は面白い!

多治見市役所に到着。わりと真っ当なオフィス建築だと思ったら、側面でなかなか冒険をしている感じ。
きれいに使っているのか、見てくれはそんなに悪くないのだが、実は1974年の竣工。設計は三橋建築設計事務所。
三橋建築設計事務所は1970年代に知多市・知立市(→2016.12.29)も設計しており、東海圏で強かったみたい。
知立も1970年代にしては先進的で汚れが少なく、思っていたより古くて驚いた記憶がある。いい仕事してるってことか。

  
L: まずは西側の側面から。知立市役所もそうだったが、1980年代を感じさせるのだ。  C: 角度を変えて眺める。
R: 南西から。この角度からだとシンプルな印象が勝って1970年代なのも納得。合同庁舎かってくらい地味に見える。

  
L: 南東から。こうして見ると知立に似ている感触。  C: 南東、側面を見る。豪快に2つの棟を合体させているのだ。
R: 北東から眺める。外付け階段をオシャレにしているところにもこだわりを感じる。ピロティもガラスでやっぱり豪快。

  
L: 北側より駐車場越しに眺める。やはり1980年代を感じさせるんだよなあ。  C: エントランスを中心に。
R: ピロティ手前の空間。わりと無機的になりがちなのだが、かわいらしい感じでうまく緑を配置していると思う。

  
L: 内部の様子。ピロティから連続して吹抜空間としているが、やや狭い。奥には市政情報コーナーがあってありがたい。
C: 反対側。もう一工夫欲しい気もするが、1974年竣工でこれなら十分先進的か。  R: 敷地の北西端にはなかなか見事な木。

というわけで、「やるなあ三橋」という感想である。特に公共建築の場合、時間が経過しても若く見える建物は、
いい建物と言えるのではないかと思う。汚れを意識させない建物、という面白い観点を教えてもらった感じだ。

来た道を戻ってもつまらないので、帰りは上流側にある多治見橋を渡ることにする。市役所から北へ出ると、
何やら凝った建物が並ぶ通りに出た。東側の道は近代以前の雰囲気を残すカーヴを描き、昔ながらの建物が並ぶ。
しかし西側へ行くと、明らかにデザインに工夫をした建物がある。ここが美濃焼の街としての多治見の中心のようだ。
「本町オリベストリート」という名前で、これはもちろん古田織部にちなんだもの。なるほど、織部焼は美濃だ。
古田織部が美濃に作品を発注していた様子は『へうげもの』(→2011.8.252013.1.122018.5.13)で描かれている。
こちら本町オリベストリートは、その織部の自由な発想に敬意を表して街並みをデザインしているというわけだ。

  
L: 本町オリベストリート。風格ある建物と陶器の店が並んでいる。  C: 本町交番。  R: 陶都創造館の東側。

肝心の陶芸を見るのはもちろん、街歩きの時間も足りなかった。本町オリベストリートは中途半端に歩いただけだし、
本土神社にいたってはスルーである。こんなに興味深い街だったとは、自分の不勉強さが恥ずかしくってたまらない。
多治見市役所の建て替えはいつになるのかわからないが、ぜひ再訪問して街魅力をしっかりと味わいたいと思う。

  
L: 陶都創造館の西側。陶都創造館は多治見市のPRセンターのほか、ギャラリーや体験工房も併設している複合商業施設。
C: 陶都創造館から南を見ると小路町通り。右手前の建物はもともと銀行とのこと。今はフジパン系列のベーカリー。
R: 土岐川の北側、多治見駅へと向かうながせ通り。こちらがかつての豊岡町域の中心商店街ということになる。

多治見駅から10分ほどで瑞浪駅。次のターゲットは瑞浪市役所だ。「瑞浪」とは1897(明治30)年に生まれた名前で、
土岐川の南(水の南)、瑞穂の浪打つ町の意。市制施行は1954年で、その際にあらためて「瑞浪」が自治体名となった。
瑞浪の市街地はかなり独特な印象である。多治見・土岐(→2013.3.27)・瑞浪の3市は土岐川沿いの各盆地にあるが、
瑞浪市だけ市街地の真ん中で土岐川が大きくS字に蛇行している。鉄道はそれを避けるように盆地の北端を走っていて、
その影響を受けて瑞浪駅周辺は狭苦しい。対照的に国道19号は盆地の南端を走り、余裕ある郊外社会を展開している。
旧来の商店街は駅前では東西方向だが、土岐川を渡って左岸側へと延びていく。右岸側は再開発が進められた感触。
かつての市役所はその右岸南端にあったそうだが、現在はそこから明徳橋を渡った対岸すぐである。そこまで歩く。

  
L: 瑞浪駅前。駅前のロータリーとしては変な感じがする。周辺の狭苦しい商店街に対し、駐車場など余裕がありすぎるのだ。
C: 瑞浪駅前、中央本線に並走する県道389号のアーケード商店街。S字に曲がる土岐川に圧迫されて、どこか狭苦しさが漂う。
R: 右岸側のメインストリートを南下すると、瑞浪市地域交流センターときわ。この辺りは再開発された感触が非常に強い。

核のない感じに戸惑いながら歩いていくこと10分弱で、瑞浪市役所に到着である。飾りっ気のない建物だが、
なかなか強烈な色合い。本庁舎は1974年の竣工。隣には保健センターがあり、こちらは2015年の竣工と新しい。

  
L: 瑞浪市役所。左が本庁舎で右が保健センター。  C: 正面(西側)から見た本庁舎。  R: 北西から。

  
L: 本庁舎の手前というか脇にあるオープンスペース。簡素すぎないか。  C: 北東より。  R: 同じく、背面。

  
L: 東から見た背面。  C: 南側の側面。耐震補強が目立つ。  R: 保健センター前(南西)から見た本庁舎。

中に入っても簡素であるが、だいぶ開放的な印象だ。奥まで行って、テーブルと椅子のある辺りで一休み。
自動販売機で飲み物を買ったのだが、まあそれだけ。せっかくの広さなので、もうちょっとなんとかできるといいが。

  
L: 正面から入ると奥のエレヴェーターまでまっすぐな通路。窓口は右へ折れる。  C: 奥まで行って左(北)を見る。
R: 北側のエントランスから見たところ。何があるというわけでもないが、かなり開放的。開放的なだけ、かもしれんが。

 
L: 敷地南側にある保健センター。  R: 道を挟んで西分庁舎。1981年竣工で、もともとはこちらが保健センターだった。

瑞浪駅まで戻ると、中津川駅まで揺られる。本日のラストは中津川市役所だ。が、駅から遠い。歩けないこともないが、
片道2km弱あって面倒くさいのだ。そこで実家からcirco氏に駅まで迎えに来てもらい、車で連れていってもらう作戦。
おかげで中津川の街歩きがいつまで経っても不十分だが、空模様が急に怪しくなってきたし、まあしょうがあるまい。

  
L: 中津川市役所。こちらの西側が正面だが、中津川がかなり近くを流れている。川岸は河川公園となっている。
C: 少し近づいてみたところ。  R: さらに近づいてエントランス。この右手、建物のすぐ手前には池がある。

中津川市は1952年に市制施行しているが、その前年に中津町と苗木町が合併して中津川町となっている。
つまり、地名としてはもともと「中津」なのだ。県立高校の名前は「中津高校」で、その辺にまだ名残がある。
しかし宿場名は「中津川宿」であり、大分の中津と混同されるのを避ける目的もあって、「中津川」を自治体名とした。

  
L: 南東から側面と背面。  C: 東から背面。  R: 北東から見たところ。あ、オレンジ色に見えるのは簾です。

中津川市役所は1972年の竣工。南に隣接する中津川文化会館と同時に竣工したそうで、地元の気合いを感じる。
それにしても中津川市は市役所や文化会館だけでなく、健康福祉会館や警察署などを中津川すぐ右岸に並べて、
官庁街をつくっている。歴史的には何度か氾濫しているらしいが、どうしてここにまとめているのか。不思議。

  
L: 北西から眺める。低層部分がけっこう長い。  C: 少し西に寄り、距離をとって眺める。  R: こちらは中津川文化会館。

中に入ってみたが、市民向けの滞留スペースがなかなか充実している印象。広めに空間をとってあって余裕があり、
居心地が良い。市民情報コーナーも併設されているが、市史・市報・議事録などが中心で、最低限といった印象。
せっかくこれだけ広いんだから、もうちょっといろいろ置けるのではないか。地域の関連図書があればいいのに。

  
L: 西側エントランスから入る。  C: 階段を上った中2階が市民ホールとなっている。こちらはその北側。
R: 市民ホールの南側。奥の本棚は市民情報コーナーで、市史・市報・議事録などがある。まあ最低限かなあ。

いろいろ撮影して気が済んだので、車に乗せてもらって撤退。実家に帰ってやることといったら寝ることばっかりさ。


2018.8.12 (Sun.)

帰省の旅行2日目の本日は、長良川鉄道沿いの市役所めぐりである。岐阜県の市役所めぐりもだいぶ進んできたが、
厄介なところが残っているので、この機会に着実に押さえていこうというわけだ。しかし長良川鉄道に乗る前に、
岐阜県で唯一鉄道が通っていない市である山県市からまず攻める。バスだと岐阜駅から40分で、朝のうちに往復なのだ。

岐阜駅を出発したバスは、いつものコースで北上。しかし競技場は無視して長良川からさらに国道256号を行く。
鳥羽川にぶつかると、今度は渡ることなく、それでも北上。地方都市にありがちな郊外の住宅地に店舗が混じる、
どこにでもありそうな光景を抜けていく。そうしてしばらくすると、気づかないうちに山県市に入っていた。
あまりに自然に連続していたので少し驚く。これは1960年に廃止になった名鉄高富線・高富駅の影響であろう。
高富駅は旧高富町ではなく、そのすぐ手前の岐阜市粟野東にあった。そのせいか今も岐阜市側に「高富店」が多くあり、
「高富」の地名が岐阜市側に浸出した感じとなっている。2003年に高富町を含む2町1村が合併して山県市が誕生したが、
高富という名前は今もしっかりと存在感を放っている。ちなみに長良軽便鉄道を前身とする名鉄高富線は輸送力が弱く、
乗客数が多かったことで廃線・バス転換したという珍しい路線である。それだけもともと岐阜との一体感があったのか。

高富のバス停で下車するが、そこは完全にバス会社の営業所だった。周囲は田んぼと郊外型ロードサイド店舗ばかり。
しかもその店舗は広大な駐車場がやたらと目立ってスカスカな印象。思えば岐阜県庁は1966年竣工でありながら、
すでにその時点でモータリゼーションを見越して完全に郊外志向だった(→2015.8.8)。あれと同じ価値観を感じる。
時刻はまだ8時をまわったところで、店もまるで活気がない。他にやることもないので、さっさと市役所を撮りに行く。

 いきなり現れたオレンジの建物に度肝を抜かれる。

鳥羽川沿いの農地がのんびり着実に開発されている中を、トボトボと歩いていく。するといかにも最近整備された、
そんな空間の中に異様なオレンジ色の建物が現れた。看板を見ると、介護福祉施設の「オレンジヒルズやまがた」。
市役所すぐの、これから開発が進むであろう場所にこの手の施設をつくるとは。しかもものすごい色合いで。
大丈夫なのか、山県市民。なんだか心配になってしまうではないか。気を取り直し、その南にある市役所へ。

  
L: 交差点越しに北東から眺める山県市役所。  C: すぐ脇を川が流れる。  R:南東、敷地入口を眺める。

山県市役所は1996年に、高富町役場として建てられた。グレーの濃度で差をつけつつ、水色に反射する窓ガラス。
これはいかにも平成オフィス町役場建築だなあと思う。建物は2つ並んでいるが、西にあるのが市役所本庁舎である。
東の建物は保健福祉ふれあいセンターで、こちらは1997年の竣工。一体的に整備されたと十分言えるだろう。

  
L: 南側にある「みんなのげんき広場」越しに眺める山県市役所本庁舎(左)と保健福祉ふれあいセンター(右)。
C: 市役所本庁舎。広場はしっかり距離をとって撮影できてありがたいが、木がなあ。  R: 保健福祉ふれあいセンターもそう。

市役所の南側にはかなり広い芝生の広場があり、高富町そして山県市がいかに空間的に余裕があるか、よくわかる。
この辺りは地理的に言えば濃尾平野ではなく、山地と平地が交錯している場所にあたるのだが、それでも余裕がある。
山県とは「山方」つまり「山の方の集落」という由来を持つ地名で、確かにそうだけど、山という感じは正直薄い。
東西を山脈に挟まれて河岸段丘と田切で区切られた扇状地で育った身としては、ぜんぜん山じゃねえよと言いたい。

  
L: 山県市役所本庁舎。規模的には確かに町役場。グレーと水色ガラスがものすごく平成である。
C: 角度を変えて、少し正面寄りで眺める。木が邪魔なのよ。  R: 南西から眺めるとこんな感じ。

  
L: 西側の側面。  C: 北西、背面を眺める。  R: 北東、これまた背面。

  
L: 一周したので次は保健福祉ふれあいセンター。これは本庁舎の手前、南西側から見たところ。
C: 手前の木のせいで近くからだと全体が見えない。  R: エントランス付近はこんな感じである。

  
L: 正面から見た保健福祉ふれあいセンターのエントランス。  C: 南東側より。  R: 背面。北西側から見る。

これで本日最初のタスクは完了なのだ。岐阜駅まで戻るとJRに乗り込む。美濃太田で長良川鉄道に乗り換え。
目指すは関市なのだが、時間の都合で特急・ながら1号に乗らざるをえない。こいつは水戸岡デザインの観光列車で、
正直ウンザリである。地方の鉄道会社はリスクを避けなくちゃいけないとはいえ、思考を放棄するのは問題だろう。

 
L,R: ながら1号。水戸岡はどこの鉄道でも同じことをやっていて、クリエイターとしての矜持はないのだろうか?

20分で関駅に到着。このためだけに特別料金を取られるのが忌々しい。そんな僕の気持ちを反映してか、
空模様が少し怪しくなってきた。分厚い雲に空が覆われて暗ったい。建物を撮影するには厳しい条件である。
とりあえず、レンタサイクルを借りて動きだす。1時間弱しか滞在できないのだ、やることをやらねば。

  
L: 刃物会館。各種の刃物をお安く買える即売所。  C: 中はこんな感じ。あー、うっすら記憶があるわー。
R: フェザー安全剃刀の工場とフェザーミュージアム。時間がなくて、泣く泣く見学を断念するのであった。

関市に来るのは、実は二度目になる。僕が中学生のときだったと思うが、刃物を見たいcirco氏に連れられて来たのだ。
circo氏は自分で鉄を研いで切り出し小刀をつくるくらいの物好きなんですよ。けっこうな刃物マニア度合いですなあ。
それで僕もあれこれ見たのだが、印象に残っているのは刃物の素材となる鋼鉄にいろんな名前がついていたこと。
「銀紙1号」ってのがすごく印象的で、「なんで刃物なのに紙なんだよ、パーだとチョキに負けるだろ」なんて思った。
これが目印につけた紙の色を由来とする符丁で、由緒あるヤスキハガネと知るのはずっと後のこと(→2017.7.15)。

  
L: 商店街は完全に鄙びているのであった。  C: 鰻屋にすごい行列。そんなに名店なのか。  R: 懐かしい感じの街並み。

というわけで、関といったら刃物。刀鍛冶の孫六兼元が有名で(最も著名な2代目は美濃赤坂に居住、関は3代目から)、
そこから刃物の街としての歴史が続いている。特にカミソリに定評があるそうで、貝印とフェザーは関が創業の地だ。
中心市街地を走ってみるが、なかなかの寂れ具合である。でも鰻屋の前だけびっくりするほどの行列ができていた。
なんというか、淡々としている感じ。刃物という確固たる産業があるので、市街地の商業空間を特に気にしていない。
こないだ「神田的なるもの」で職人気質について書いたが(→2018.8.6)、それと似た価値観をなんとなく感じる。
外面をあまり気にせず、自分の興味のあること、誇りを持つ仕事にこだわる。すごく割り切っている街だと思う。

  
L: 北西から見た関市役所。安桜山を囲む住宅地が水路で区切られており、その北側に広がる農地を整備して市役所とした。
C: 南西から見たところ。高層の北庁舎は7階建て、低層の南庁舎は3階建て。この微妙な緑グレーが平成ですなあ。
R: 市役所の西側には、学習情報館・総合福祉会館・総合体育館で構成される「わかくさ・プラザ」。1999年竣工。

もともと国鉄の越美南線だった長良川鉄道だが、第三セクターとして発足以降はかなり私鉄っぽい運営ぶりだ。
というのも、関駅の前後の駅が「刃物会館前」と「関市役所前」だから。僕としてはうれしいラインナップだが、
これをバカ正直に鉄道でまわるのは本数の関係で無茶である。というわけで、レンタサイクルでの往復なのである。
県道からまわり込んで関市役所へと向かう。住宅地が終わって農地が広がるその南端に、がっちり整備されている。

  
L: もっと南に寄って眺める。しかしオープンスペースなのか駐車場なのかよくわからん空間だなあ。
C: 池として整備されたと思しき一角。発想がバブルである。  R: 南庁舎の南側はモサモサ植栽地帯。

関市役所は1994年の竣工。見るからに大手組織事務所が設計した感触だが、ネットで調べても設計者はわからず。
敷地の西側にはかなり対称形を意識して、複合施設の「わかくさ・プラザ」が建てられている。色まで一緒だ。
明らかにもともと農地だったところをわざわざ大規模に整備して市役所とセットにして建てているわけで、
当時の関市がそうとう気合いを入れていたことがわかる。刃物関連の工場で税収がよかったのだろうか。

  
L: 南東側から見たところ。  C: 近づいて側面。  R: 東より眺める側面。地下にも駐車場があるのか。

市役所の北は広大な駐車場、南にはオープンスペースということで、僕としては撮影しやすい市役所でありがたい。
なお、7階には篠田桃紅の作品を展示する美術館がある(関市立篠田桃紅美術空間)。時間がなくて訪れなかったが、
市役所内の美術館とは面白い試みである。もっとも書道から抽象画へ行った作風は、僕の好みから完全にはずれるが。

  
L: 北東から見たところ。広大な駐車場がありがたい。  C: 北から。  R: もう一度北西から。これで一周完了だ。

急いで駅に戻ってレンタサイクルを返却し、長良川鉄道でさらに北上。10分ほどで次の目的地・美濃市駅に到着する。
駅でレンタサイクルを借りると、市街地へ走りだす。が、ほどなくして左手に旧名鉄美濃町線の美濃駅舎が現れた。
1923(大正12)年築のたいへん風情ある木造駅舎で、国登録有形文化財となっている。車両が何台も保存されている。

  
L: 旧名鉄美濃町線・美濃駅。  C: 静態保存されている車両。大切にされているのがわかる。  R: 駅舎内の様子。

駅舎の奥はさまざまな懐かしいグッズを集めた店となっており、その脈絡のなさと圧倒的な物量に驚愕した。
今月についてはお盆を中心に営業日が7日あるようだが、なかなか面白い試みである。活気があるのはいいことだ。

  
L: 野口五郎コーナー。美濃市の出身なのだ。西城秀樹との友情エピソードには涙せずにはいられない(→2018.5.26)。
C: 奥にある店。何屋と形容すればよいのやら。掛かっているポスターは旧名鉄美濃駅保存会公式キャラクター・みのあかり。
R: 店内にて。膨大な量のレコード、ミニカー、鉄道グッズ、などなど。野口五郎のシングル盤が並んでいて壮観である。

さて、美濃市といえば「うだつのあがる町並み」だが、まずは少し離れた位置にある市役所からお邪魔するのだ。
岐阜県の市では人口が最も少ないが、市制施行は昭和の大合併にあたる1954年と、実はけっこうな歴史を持っている。

  
L: 美濃市役所。どこか金属を思わせる色合いでかっこいいではないか。かなりきれいなので、最近塗り直したな。
C: 手前にある駐車場に入って北東から眺める。右側にくっついているのは防災・中央コミュニティセンター。
R: あらためて市役所本庁舎をクローズアップ。昭和40年代の庁舎でも、色を変えるとだいぶ印象が変わるものだ。

「美濃」とは単純に旧国名を自治体名としたものではなく、美濃和紙にちなんで付けられた地名なのだ。
改名はなんと1911(明治44)年。もともとは上有知(こうずち)といい、有知(うち)郷が上下に分かれて、
「こううち」が「こうずち」と訛ったそうだ。高山藩主・金森長近が関ヶ原の合戦を経て加増された領地となる。
長近はここに小倉山城を築いて隠居し、82歳で生まれた実子の長光が上有知藩を継ぐが、夭折して無嗣断絶。
しかし街づくりに定評のある長近が整備した城下町はその後も長良川の水運と和紙で栄え、商業都市として発展する。

  
L: エントランスに近づいてみる。  C: そのまま裏に通り抜けて背面。北西から見たところ。  R: 西から見た背面。

美濃市役所の竣工は1973年。確かに形としてはその時期のデザインだが、最近落ち着いたグレーに塗り直したようで、
実にいい感じのリニューアルである。ちなみにWikipedia「美濃市役所」の項目には汚れた白い市役所の写真がある。
色を変えるとずいぶん印象が変わるものだと思う。平成っぽい変に明るい色にせず、落ち着いた色にしたのが賢い。

  
L: 南西から見たところ。西を流れる長良川に対して高さが確保されている。  C: 南東から見る。こちらも一段高い。
R: 手前の駐車場に戻って、南東寄りからあらためて眺める。こうして見ると、築45年という感じはあまりないと思う。

美濃市の市街地は長良川左岸の高台に位置しているが、鉄道は川から最も遠い山裾に張り付くように走っている。
美濃市駅、旧美濃駅、そして美濃市役所は、それぞれ旧来の市街地を邪魔しないようにポジションをとっている感じ。
単純に昔ながらの街並みだけでなく、近代化をどのように穏やかに受け止めたのか、その経緯も知りたくなる街である。

 本庁舎の北にくっついている防災・中央コミュニティセンター。

市役所の撮影を終えると、市街地へ入る前にちょっと寄り道。長良川へと近づいて、上有知湊跡と美濃橋を見てみる。
湊跡には岐阜県の指定文化財である船着場跡の石畳と川湊灯台が残っている。さらにその先には美濃橋が架かっている。
1916(大正5)年に完成した現存する最古の近代吊橋であり、国指定重要文化財。大いに期待して行ってみたのだが、
こちらは改修工事の真っ只中なのであった。建設当時の工法で、当時の材料をできるだけ残してやっているとのこと。

  
L: 上有知湊跡と川湊灯台。足元にある石畳の船着場跡が往時の雰囲気をよく残している。こういうの貴重なんだよなあ。
C: 美濃橋は盛大に工事中なのであった。おととしからやっているとな。  R: 主塔。川に面する岩盤を利用して建てている。

ではいよいよ「うだつのあがる町並み」にお邪魔するのだ。先ほど書いたとおり、城下町の整備は金森長近による。
中心となる小倉山城を長良川すぐ脇の山に建てたが、上有知藩が無嗣断絶となったため、わずか6年で廃城となる。
それでも長近が力を入れておいた製紙業(美濃和紙)が軌道に乗り、美濃町はうだつのある家が並ぶ街となった。

  
L: 美濃町の街並み。舗装されてはいるが、往時の雰囲気がよく残る。市街地は山から川へ、緩やかな傾斜となっている。
C: うだつの上がった立派な家が並んでいる光景。壮観である。  R: 南北方向の路地。これまた風情があってよい。

いちおう確認。「うだつ」とは、隣の家と接する部分につくられた防火壁。本来は「梲」と書くそうだが、
「卯建」や「宇立」とも書く。江戸中期以降は装飾的な意味合いが強くなり、立派なものをつくるには金がかかるので、
なかなか出世しない、冴えない境遇にあることを意味する「うだつの上がらない」という慣用句が生まれた。

  
L: うだつくん広場。目の字通り唯一の十字路に面する。なお、「うだつくん」は1989年に誕生した美濃市のゆるキャラ。
C: 山側から見た目の字通り北側。確かにうだつの存在感がすごい。  R: そのまま「目」の北西端近くまで行ったところ。

美濃町の町割りの特徴は、中心となる街路が「目」の字型をしていること。まずこの街区をつくっておいてから、
食い違いで道路を接続させることで防御力を上げているとのこと。ただし観光案内所・番屋がある箇所だけは十字路。
これは先ほどの上有知湊へと向かうルートになっており、この点に長良川の水運が重要だった事実も現れている。

  
L: 建物をクローズアップ。こちらは1773(安永2)年ごろ築の小坂酒造場。主力銘柄は「百春」。うだつのカーヴが圧倒的。
C: 旧今井家住宅・美濃史料館。18世紀末の築。幅が広い!  R: 穏やかだが端正な家が並ぶ。みんな瓦が妙に新しいなあ。

時間いっぱい、思う存分自転車で走りまわって街並みを堪能するのであった。「目」の字が中心ということで、
歩行者のスケールとしては広すぎず狭すぎず、適度に楽しめるサイズ感であると思う。駅からの距離はあるものの、
それで街並みの美しさが保たれたのは間違いのないところ。観光客も少なくなく、ちょうどいい賑わいぶりだった。

美濃市駅に戻ると、ここから一気に北上である。郡上八幡すらスルーなのだ。いや、そりゃもちろん行きたいが、
長良川鉄道の本数が少ないから仕方がない。それにしても、訪れてから9年も経っているのか(→2009.10.11)。
そうして1時間ほど揺られて下車したのは徳永駅。ここも郡上市ではあるが、八幡と白鳥の間のややマニアックな場所。
ここから県道318号をまっすぐ東へ歩いていく。毎度毎度トボトボと山道を一人歩く旅をしているような気がするが、
それが日本の原風景なんだからしょうがない。あれこれ考えごとをしながら、2kmちょっとの距離を歩くのであった。

  
L: こんな感じの道を行く。毎度のことです。  C: 県道から分かれて集落の道を行く。先で合流するんだけどね。
R: やがて見事な杉が現れ、先は桜並木となる。右手前の石には「明建神社」とある。そう、これは神社の横参道なのだ。

桜並木を進んでいくと、左手に神社が現れた。まっすぐに伸びた杉の木が荘厳な雰囲気を大いに漂わせている。
社号標には「郷社 明建神社」とある。「明建」は「みょうけん」と読むのだが、これはつまり「妙見」のこと。
明治維新の神仏分離によって漢字を改め、祭神も国常立尊としたが、御神体は今でもしっかり妙見菩薩なのだ。

  
L: 桜並木を行くと左手が境内入口。厳かな雰囲気に圧倒される。  C: 拝殿へと向かう。  R: 拝殿。寺っぽい。

しかしこれは他の妙見系の神社と比べてもかなり強硬な対応だ。妙見信仰を極力変質させないようにするという、
かなりの意地を感じさせる。つまりはそれだけ、妙見菩薩を勧請した領主を誇るプライドが強いというわけだ。
ということで、ここでようやく、この場所を訪れた理由を紹介するのだ。すいません、もったいぶりました。
かつてのこの地の領主は、妙見信仰ではおなじみの千葉氏の一族、東(とう)氏。下総国東荘(とうのしょう)で、
「東氏」というわけだ。承久の乱を経て美濃国山田荘にやってきて、妙見宮がこちらに創建されたのだ。

  
L: 失礼して拝殿の中を覗いてみる。  C: 奥の本殿。  R: 正面より眺める。現在の社殿は1722(享保7)年築とのこと。

さて、そんな東氏だが、いちばんのビッグネームは東常縁(とう・つねより)。連歌師の宗祇に古今伝授を行った人だ。
古今伝授とは『古今和歌集』の正統な解釈を伝えることで、公家など上級社会の教養として大きな権威につながった。
関ヶ原の前哨戦で西軍に攻められた細川藤孝(幽斎)が古今伝授を受けていたため、勅命により助命された話は有名だ。
しかしいざここまで来てみると、なんでこんなクソ田舎の武将がそんなことするんだよとツッコミを入れたくなる。
東氏は源実朝の頃から和歌に優れた家柄で、常縁が室町幕府に仕えて京都に滞在していた際に伝授を受けたそうだ。
応仁の乱では関東を転戦中に、ここ郡上を美濃の猛将・斎藤妙椿に奪われてしまう。常縁がそれを嘆く和歌を詠むと、
感動した妙椿が所領を返したうえに和歌の交流を始めたというとんでもないエピソードもある。昔の人は偉かった。
なお、時代が下り、孫の常慶の代に娘婿の遠藤盛数に攻め込まれて東氏は滅亡。評判の非常に悪い息子・常堯は逃れ、
白川郷を支配した内ヶ島氏に匿われたが、天正大地震の山体崩壊で帰雲城もろとも全滅してしまった。諸行無常である。

  
L: 栗巣川を挟んだ対岸にある東氏館跡庭園。南の山に篠脇城があり、ふだんはこちらに屋敷を構えて暮らしたわけか。
C: 岩が少ないので臨済宗の禅宗庭園ではなく平安期の浄土庭園に近い印象。その辺りの価値観が、和歌の家柄を感じさせる。
R: いかにも曲水の宴をやります、という造りの水路。むしろ田舎な分だけ趣味に全力を傾けることができた、ということか。

さて、現在この一帯は「古今伝授の里フィールドミュージアム」として整備されている。公共建築百選なので来た。
だいたい「フィールドミュージアム」ってのは博物館施設を一箇所にまとめられないときの言い訳で(偏見)、
明建神社より西側の集落から庭園の辺りまでを野外博物館ということにしている。その中に建物が複数あって、
それぞれでテーマを設定して展示しているわけだ。まずはいちばん西側にある東氏記念館から見ていく。

  
L: 明建神社に隣接する東氏記念館。  C: 展示棟をクローズアップ。東氏の資料に加えて和歌関係の資料も置いてある。
R: エントランス。奥に大和文化財収蔵・展示館を併設している。傘があるのは、少し前に雨が降ったせいだからか。

 
L: こちらは事務棟。  R: まわり込んで見る。

古今伝授の里フィールドミュージアムの設計者は、福山大学教授も務めた建築家・瀧光夫。各建物の統一感は弱く、
どのような順序で整備されていったのかは軽く調べた限りではよくわからないが、個性を持たせてあるのは確かだ。
クソ田舎だし和歌だし、正直そんなに来客を期待できる施設だとは思えない。強烈な目玉があれば化けそうだけど。

  
L: 真ん中に位置するレストラン「ももちどり」。本格的なフランス料理がいただけるのだが、お値段も本格的でして……。
C: 池に面しており、雰囲気は悪くない。  R: 池の反対側。まあ、あんまりフォトジェニックではないなあ。

いちばん奥にあるのが和歌文学館。よく見ると建物はモダンだが、表面には白く塗られた板が縦に張られており、
さっきの和風な東氏記念館とは対照的となる要素が意識されている。レストランで中和しない方がよかったのでは。
和歌文学史をテーマにした展示施設だが、どうしてもヴィジュアル中心に魅せることを目的としている印象がする。
そもそもが和歌とは三十一文字を自分の脳内で味わうものなので、展示という形式とは本質的に相性がよくないのだ。
むしろ「書」との関連性を切り口とする方がいいような気がする。和歌を考えさせる空間の意義は大いに感じるが、
その難しさを痛感させられたインパクトの方が大きかったなあ。ある意味、言葉と空間の難しさを体験できる場所。

  
L: 和歌文学館。一見するとふつうのモダンなのだが、丁寧に木材を利用しているところが一工夫。
C: エントランス。  R: 斜面につくられているので、側面を下から見上げるとこうなる。

  
L: 中の展示。各時代を代表する歌人をクローズアップしている。やはりこう、美術的なアプローチでいかざるをえないのか。
C: 和歌が書かれた板を貼り付けたオブジェをガラス越しに見るの図。  R: 三十六歌仙にちなんだ長さ36mの古今和歌集絵巻。

  
L: 三十六歌仙絵屏風。ただ置いてあるだけになっているのが非常にもったいない。詳しい説明とかあればいいのに。
C: 手前から東常縁・松永貞徳・香川景樹・与謝野晶子・斎藤茂吉と並ぶが、個々へのアプローチが弱い展示内容は致命的。
R: 結局のところ、歌人を掘り下げるのではなく、建築も含めてただ雰囲気を味わう空間になっているのは大問題だと思う。

  
L: 2階エリアから見下ろせる中庭。  R: 外に出て外観を眺める。エントランスの反対側ね。  R: ちょっと坂を上る。

坂を上っていくと篠脇山荘。一部に茅葺を残しつつ、現代建築として構築し直した建物というわけだ。
歌会や茶会を中心に、申し込めばさまざまな用途で利用できるみたい。予約がないときは一般開放されており、
縁側でのんびり池やら山やらを眺めることができる。どんなにデキが悪くてもいいので一首詠んだらお茶が出る、
みたいな工夫をすれば面白いのにな、と思う。というわけで、古今伝授の里フィールドミュージアムは、
施設を生かしきれてない感がすさまじい場所だった。ポテンシャルはかなりのもので、本当にもったいない。

  
L: 篠脇山荘の入口。  c: エントランスから進むとこの光景。なかなかよい。  R: 広間に出る。

  
L: 角度を変えるとこんな感じ。てっぺんからの光が非常によい。  C: 縁側にて。  R: 反対側。雰囲気はいいんだけどなあ。

東氏という和歌に優れた一族もいいし、庭園もいいし、建物じたいも悪くない。でもぜんぜん生かしきれていない。
まずはきちんと明建神社に御守を置いてですね、御朱印で人を引き寄せるところからスタートしませんか。
そうして妙見信仰の独自性をアピールしつつ、千葉氏一族としての東氏の性格をはっきりさせる。そこからですよ。
中心に東常縁を置くのは当然として、なんなら古今伝授が実際に体験できるといい。観光客向けの講座でいいんだから。
さらに和歌を展示するのであれば歌人の生き様をしっかり掘り下げて、そのうえで代表作を印象に残るように紹介する。
仮名の歴史にまで踏み込めば、展示の幅が一気に広がるだろう。実際、和歌には仮名の練習素材となった歴史がある。
『深窓秘抄』(→2015.8.28)なんて、題材としては完璧だ。本物でなくていいから、きちんと紹介できるといい。
以上、改革案をつらつらと考えてみました。けっこうイイ線いっているのではないでしょうか。

徳永駅までのんびり歩いて戻る。ありがたいことに駅の反対側には大型書店やショッピングモールがあり、
本数の少ない列車を待つのに困ることはなかった。しかし列車の乗客は外国人ばかり。移民社会かよ、と思う。
領主が和歌に夢中になったのも遠い昔。これから日本はどうなっていくのかね、という気持ちにならざるをえなかった。

美濃市へと入る少し手前にある、みなみ子宝温泉駅で下車。ここは駅舎がそのまま温泉入浴施設となっているのだ。
でも列車を利用する客はほとんどおらず、だいたいは車で来るみたい。改札を抜けたら大繁盛で、その差に驚いた。
露天風呂にじっくり浸かると、食堂で晩ご飯もおいしくいただくのであった。至れり尽くせりでございますな!

 時刻表と列車の接近を知らせる信号。ぼちぼち準備しなきゃ。

美濃太田でJRに乗り換えて、岐阜の宿へと戻る。本日もやりたい放題できて大満足である。明日もがんばる。


2018.8.11 (Sat.)

毎年帰省とセットでやっている市役所めぐりだが、愛知と岐阜は本当にネタが尽きない場所だなあと思う。
かなりあちこち行ったはずなのに、まだまだ残りがいっぱいあるのだ。いったいどれだけ市が集まっているのか。
それだけ濃尾平野が住宅地として膨大な人口を抱えているということ。こっちはひたすら地道にやっていくしかない。

というわけで、夜行バスに揺られて名古屋駅に到着すると、ファミレスで朝ごはんをいただいてから弥富駅へ。
今回の市役所めぐりは弥富市役所からのスタートなのだ。すでに朝から暑い中、南へテクテク歩いていくと、
そこにあるはずの弥富市役所は存在しなかったのであった。建て替え工事の真っ最中。最初からこれは凹むぜぇー?

 
L: 弥富市役所は建設工事中。  R: 隣の図書館。図書館棟仮庁舎として市役所業務を行なっている。

2006年に弥富町が十四山村を編入合併して弥富市が誕生。市域の南部は伊勢湾に面した干拓地が広がっている。
市庁舎建設のための機能移転は2016年から行われており、図書館・市民ホール・十四山支所に分散している状況。
しかし用地取得で裁判が起きてモメたとかなんとか。新庁舎の設計者は大建設計で、2020年竣工予定とのこと。

トップバッターから盛大な空振りということで、不安になりつつ次の市役所へ。ここからは名鉄で、佐屋駅で下車。
歩いて北東にある愛西市役所を目指す。約1.5km、愛知県の住宅地のだだっ広さをひたすら痛感するのであった。
ちなみに佐屋はかつて東海道の迂回路として賑わった。熱田−桑名間の「七里の渡し(→2012.4.1)」が海を行く難所で、
これを避ける佐屋街道があったのだ。佐屋から佐屋川を下るルート・三里の渡しは、主に女性に人気だったそうだ。
なお後でも述べるが、佐屋川は木曽川の支流だったが現存しない。デ=レーケ主導の木曽三川分流工事で廃川となった。

  
L: 愛西市役所。まずは東側から見たところ。向かって右が2016年竣工の北館で、左が旧佐屋町役場だった南館。
C: 少し南に寄ってみる。  R: 南側にある愛西市文化会館の前から見たところ。この角度だと見えるのは主に南館。

愛西市は2005年に佐屋町・佐織町・立田村・八開村の合併で誕生。そのまんま、「愛知県の西部」で「愛西市」。
ネットで調べると市役所建設はモメた形跡があるが、詳しくはわからず。もともとは旧佐屋町役場で(1972年竣工)、
2016年に山下設計の設計で北館を増築。その際に旧庁舎の方は南館としてリニューアルされ、現在の姿になった。

  
L: 南西から眺める。右手前が南館で、左奥が北館。こうして見ると、南館はほとんど姿を変えていない感じ。
C: 西から両者の間を見たところ。北館の方は水害対策ということで、ちょっとかさ上げされている。本当にちょっとだが。
R: そのまま入っていってみる。左が北館で右が南館。幅25m・奥行き15mの膜屋根を架けた半屋外空間とのこと。

増築の北館はだいぶ大きい印象で、これならわざわざ南館を残さず、もっと工夫した庁舎ができたような気がする。
もともと町役場だった建物を市庁舎として使うのはサイズ的に無理のある話で、合併を機に新築するのは理解できる。
しかし南館をわざわざ残す必要性がわからない。1972年竣工であれば、取り壊してもおかしくない。デザインも平凡だ。
おそらく増築はあくまで名目で、実際には新築と大差ないレヴェルでやってしまい、それで変にモメたんじゃないのか。

  
L: 西隣のグラウンド越しに眺める。なんか両者のスケールにだいぶ差があるなあ。  C: 北西から見た北館。
R: 北から見た北館。さっきの半屋外空間に面している南側と雰囲気を統一している。白とダークグレーの対比が巧い。

北館の中に入ることができたので、ちょっと覗いてみる。せっかく新築したわりには天井が低く、やや殺風景。
南館が古い役場である分、こちらでバランスをとるかと思ったら、意外にもきわめて地味なつくりなのであった。

  
L,C: 北館の中。窓口の区分けを原色で派手にやっているが、基本的には白が主体で地味な空間となっている。
R: 敷地の南側にある愛西市文化会館。南館の背後ということで、市役所と特に上手く連携はできていない印象。

往路とは違うルートで佐屋駅まで戻るが、やはり果てしない住宅地なのであった。愛知県のポテンシャルはすごいなあ。
感心しながら2駅揺られて津島駅で下車。まずは東へ歩いて1km弱、津島市役所からである。津島市は津島神社の門前町。
かつては海に面した港町で、織田信長の祖父・信定が本拠として経済力を蓄えた。津島市役所は1976年の竣工である。
2012年に耐震補強工事を行ってファサードが現在のような姿になった。撮影しやすさに濃尾平野の空間的余裕を感じる。

  
L: 津島市役所。手前に「出口」とある。  C: 北側、真正面から眺める。手前は「入口」。うーん、車社会。  R: 北東より。

  
L: 東側、住宅との間にある狭い路地から見たところ。  C: 背面、南東より。  C: 南西から見たところ。

  
L: 西側の側面。こっち側は広大な駐車場があるので撮影しやすい。  C: 庁舎北側にあるロータリー的存在の藤棚。
R: 藤棚の中央には機能していない噴水がある。ベンチが置いてあって、いちおうは休憩スペースとなっている。

次の目的地は当然、津島神社である。しかし市役所からだと駅を挟んで反対側にあり、直線距離で2kmほど。
ここまで1km歩いてきてそれを戻るには、地味に面倒くさい距離である。というわけでコミュニティバスに乗る。
運よく市役所から神社まで巡回するバスがあったのでお世話になったのであった。濃尾平野は広いからね、ありがたい。

  
L: 津島神社の境内入口。大鳥居がさすがで、全国約3000社ある天王信仰の総本社を名乗る旧国幣小社だけある。
C: 参道を行くと左手に居森社。スサノオをここに最初に祀った。1591(天正19)年に豊臣秀吉の母・大政所が寄進。
R: 南門。豊臣秀吉の病気平癒を願って1598(慶長3)年に秀頼が寄進。奥には愛知県の神社らしく蕃塀が見える。

というわけで津島神社に到着。先ほども書いたとおり、こちらは織田信長系の織田弾正忠家が押さえた土地となる。
織田家はもともと越前国の織田庄にある劔神社の神官で、そっちもスサノオ/牛頭天王の神社だった(→2015.12.29)。
それゆえに支配の正統性があったということだろう。社殿は豊臣系の寄進が目立ち、あらかた残っているのがすごい。

  
L: 境内の摂社・弥五郎殿社。社家・紀氏の祖で地主神である武内宿禰を祀っている。1673(寛文13)年の再建。
C: 社殿を眺める。奥は楼門で、特殊な配置となっている。  R: 本殿。1605(慶長10)年築の国指定重要文化財。

「津島」の由来は興味深い。もともとここは木曽三川と伊勢湾を結ぶ交通の要衝となっていた港町であり、
それで「津島」となるのは十分理解できる。しかしスサノオの和魂が対馬を経てこちらに鎮まった経緯があるそうで、
対馬の旧称から「津島」となったとも考えられる(『古事記』で対馬は「津島」と表記され、律令制で「対馬」となる)。
なお、1785(天明5)年の治水工事で津島湊は埋め立てられ、津島は港町ではなくなり門前町の色合いが濃くなった。

  
L: 拝殿。詳しい建立年はわからないが、1600年代に3回は修理・再建された記録があるとのこと。
C: 楼門。1591(天正19)年に豊臣秀吉が寄進。国指定重要文化財。神輿が東の天王川を渡ってきたのでこの位置だと。
R: そのまま東側に進んで、あらためて鳥居と楼門を眺める。もともと水辺だったので特殊な位置関係が残ったわけだ。

かつては境内の東側を佐屋川の支流・天王川が流れていたが、佐屋川が廃川となったことで天王川もなくなった。
川の跡はそのまま池となり、周辺が天王川公園として整備された。かつての津島湊を思わせる空間となっている。
尾張津島天王祭の車楽舟行事では、スサノオ/祇園系らしい豪壮なだんじりの船がこの池を渡ることで非常に有名。

  
L: 天王川公園脇の休憩所。津島プライドが全開である。  C: 天王川公園の「丸池」。かつての天王川である。
R: 公園の脇にある薬師堂。薬師如来を祀るのが、いかにも行疫神であるスサノオ/牛頭天王を祀る祇園系だ。

そのまままっすぐ津島駅まで戻ってもつまらないので、南北方向の津島街道を往復してその街並みを味わう。
三里の渡しがあった佐屋宿は3.5kmほど南方だが、今もしっかり建物が残っているのは津島神社の威光を感じさせる。

  
L,C,R: 本町1丁目周辺。商店街としての勢いはかなり弱まっているが、古い建物は驚くほどよく残っている。

  
L: 1929年竣工の旧津島信用金庫本店。名古屋銀行津島支店として建てられたそうだ。国登録有形文化財。
C: 上切の井戸。この辺りは木曽川由来の伏流水が多かった。  R: 津島神社から駅へと向かう県道。超まっすぐ。

津島市役所の次は、あま市役所である。あま市は2010年に七宝町・美和町・甚目寺町の3町が合併して誕生した市で、
3町が属した海部郡から名を採ったが、これを「かいふぐん」と読むと徳島県になってしまう(→2007.10.8)。
愛知県の方は「あまぐん」で、その読みを優先させるためにひらがな市名となった。本庁舎は1974年竣工の旧美和町役場。
市庁舎建て替えの計画が進んでおり、基本構想・基本計画によれば、七宝駅の南1kmにある深坪地区が予定地である。
設計者選定の公募型プロポーザルもすでに行われており、佐藤総合計画中部事務所の案が最優秀となっている。
予定では2022年度の開庁となっているが、とりあえずは今の庁舎を押さえておくのだ。木田駅から1kmちょっと歩く。

  
L: あま市役所(旧美和町役場)。1974年竣工の町役場ということで、それらしい簡素さ。耐震補強がなかなかすごい。
C: 敷地内に入って全体を眺める。奥にあるのは、1979年竣工のあま市美和公民館(旧美和町立中央公民館)。
R: あらためて正面から見たところ。向かって左にくっついている2階建てが、1988年に増築した部分と思われる。

  
L: 角度を変えて南東側から眺める。  C: 背面。北東から。  R: 駐車場のおかげですっきり撮影できるのがうれしい。

  
L: 近づいてみる。  C: 増築部を中心に北西側から。  R: 西側の側面。増築部ですね。

 東に隣接する、あま市美和公民館をクローズアップ。

これであと何年かはOKだ。でも新庁舎が建ったらまた撮影しなければならないと思うと切ない。因果な商売じゃのう。
しかしこれで終わりとはならない。さっき書いたように、あま市は七宝町・美和町・甚目寺町が合併してできた市だ。
七宝町の七宝焼については新庁舎竣工の際に押さえるとして、せっかくだから甚目寺に参拝しておこうではないか。
というわけで、七宝駅をスルーして次の甚目寺駅で下車。西へ住宅街を抜けるとすぐに境内である。近いなあ。

  
L: 南へとまわり込んで、まずは南大門から。源頼朝の命を受けた梶原景時が1196(建久7)年に再建。国指定重要文化財。
C: 対照的に本堂は1992年再建で、差がすごい。この差をあんまり気にしないのが、いかにもお寺らしい大らかさだと思う。
R: 1634(寛永11)年再建の東門。こちらも国指定重要文化財。四脚門にしてはかなり大きい印象である。屋根も大きい。

私は不勉強で甚目寺を「じんもくじ」だと思っていたが、正しくは「じもくじ」。いやお恥ずかしい。無知とは罪!
597年に甚目(はだめ)龍麿が漁をしていると観音像が網にかかったので寺をつくり、「はだめでら」と名付けた。
それが「甚目寺」と書かれるのはわかるが、「じんもくじ」ではなく「じもくじ」と読む理屈がイマイチわからない。
ちなみに観音像が海にあったのは物部守屋が捨てたせい。善光寺の阿弥陀如来像と同じパターンというわけだ。

  
L: 境内の西側には三重塔。名古屋の両替商・吉田半十郎政次が寄進して1627(寛永4)年に建てられた。高さは28m。
C,R: 角度を変えて眺めるが、境内の密度がわりと高くてすっきり見られないのが惜しい。組物がものすごく美しい塔だ。

甚目寺の境内西側はそのまま漆部(ぬりべ)神社の境内と連続している。それもそのはずで、かつては甚目寺の鎮守社。
式内社であり、「漆部」というところにヤマト政権の品部以来の伝統を感じさせる。格段に古い歴史が息づいている。

  
L: 甚目寺三重塔からさらに西へ行くと漆部神社の境内となる。  C: 参道を行くと小型の太鼓橋。奥にはちゃんと蕃塀。
R: 拝殿は鉄筋コンクリート。幕にあしらわれている神紋が陰陽勾玉巴の太極図で、非常に興味深い。初めて見たと思う。

 幣殿と本殿。この連なり方も珍しい。

わざわざ訪れてよかったとしみじみ思いつつ、甚目寺を後にする。須ケ口駅まで出ると、五条川まで歩いて戻る。
なんだかもったいない気もするが、ほかにいい方法がないんだからしょうがない。そうして訪れたのは、萱津神社。
日本で唯一という漬物の神社なのだ。かつてこの地は海に面しており、野菜と藻塩を一緒に備えたら漬物になったそうだ。
東征中の日本武尊が村人から漬物を献上され、「藪二神物」と言ったことで「香の物」という表現ができたとのこと。

  
L: 五条川越しに眺める萱津神社の社叢。  C: 境内入口。川の堤防から下っていく。木々の勢いがすごい。  R: 拝殿。

萱津神社はあまり神社らしくない印象。かといって寺っぽさがあるわけではなく、昔ながらの素朴な聖地という印象。
川に面する堤防から直角に下っていくのがまず珍しく、木々が生い茂る中を抜けると、すぐに拝殿の前に出る。
境内の北側にはいくつか建物があるが、説明板がくっついており、これらは熱田神宮から譲り受けたものとのこと。
足利義尚や徳川綱吉の名が書かれているが、それにしてはあまり古さを感じさせない。なんとも不思議な空間だ。

  
L: 祭神である漬物祖神・鹿屋野比売神の像。1992年に建てられた。  C: 北側には謎の建物が並ぶ。古そうに思えないが。
R: 萱津神社の本殿。けっこう立派なのだが、いかんせん木々の勢いに呑まれてどうにもならない。囲いも雑な印象である。

境内のいちばん奥には、香の物殿。その名のとおり、中では甕が並べられて漬物を漬けているそうだが、
茅葺き屋根に土壁で、独特の雰囲気である。手前に置かれた野菜 の漬物の石像もまた独特。実に個性派である。

  
L: 境内のいちばん奥。さまざまな摂末社が並ぶ。  C: 香の物殿。  R: 手前の石像をクローズアップ。

萱津神社の参拝を終えると、来た道を戻って須ケ口駅へ。そこから名鉄で岐阜に出る。本日のラストはサッカー観戦だ。
去年に引き続き、帰省ついでに大木さん率いるFC岐阜の試合観戦ということで(→2017.8.11)、恒例になるといいが。
本日の対戦相手はかつて大木さんが率い、J1昇格プレーオフで涙を呑んだ京都である(→2013.12.8)。悔しかったなあ。
あれ以来、京都は低迷が続いている印象。おととしには5位でJ1昇格プレーオフに出たが、この年以外はかなり悲惨。
しかし悲惨さで言えば岐阜の方がひどい。J2が22クラブになってから、最高が17位。昨年も18位という有様なのだ。
大木さんは特に大卒選手の育成に定評がある感じになっているので、そこを軸にクラブの地力をつけたいところか。

  
L: メンバー紹介にて。しかしFC岐阜のゴール裏はすっかり賑やかな感じが定着しましたなあ。いいことです。
C: 岐阜(赤)の先制シーン。右サイドから風間がペナルティエリア内でつなぎ、山岸が横に出す。大木さんっぽいわ。
R: このボールをフリーの薮内が決める。4-3-3の3トップがペナルティエリアで絡んで得点とは、非常にいい形。

21分、岐阜が先制。相手ゴール前で細かくつなぐ、大木さんお得意の形での得点である。深い位置に侵入できるのは、
大木サッカーがきちんと機能している証拠。前半はこの1点だけだったが岐阜はチーム全体がボールをよく動かしており、
CFの風間も惜しいシュートを何度か放っていた。今日の試合は楽しめそうだと思いつつ、ハーフタイムの散歩に出る。

  
L: ハーフタイム。地方のスタジアム特有の、こういう穏やかな雰囲気が好きだ。2週に一度楽しめるなんて贅沢だ。
C: 応援のど飴。選手だけじゃなくて監督のやつもあるのね。大木さん、残り1袋で売れているじゃないですか。
R: しかし辟易してしまうのが照明に集まる虫である。あまりにもひどかったので撮ってみたらやっぱりひどかった。

後半開始すぐ、岐阜が追加点を奪う。京都のクリアボールをヘディングからリズムよくつなぐと、
ペナルティエリアの外から中島がシュート。相手GKのところでバウンドさせる巧いシュートがゴールの隅に決まる。
すると京都は早めに選手を替えて対応していくが、なんと65分までに3枚のカードを使い切るという大胆さ。
どんどん変化する状況に振り回されてか、2点リードしているはずの岐阜なのに、気がつけば押されていた感じ。
この交代策が効いたのか、67分に京都は1点を返す。GKからのフィードを頭でつないであっという間に前線につなぎ、
庄司がギリギリのタイミングで抜け出してシュート。去年まで岐阜の中心だった選手にやられるのは非常に悔しい。
さらに京都はその3分後、無意味につなぐ岐阜にプレスをかけてパスミスを誘うと、レンゾ ロペスが一気にドリブル。
寄せきらない守備をしている間にどんどん迫られ、そのままシュートを決められて同点。本当にもったいない展開だ。

  
L: 京都・石櫃のロングスロー後の対応。岐阜はディフェンシヴサードに11人全員が入ってしまっている。
C: カウンターのお手本のようなプレー。昨年まで岐阜で10番をつけていた庄司に決められる。うーん、悔しい。
R: 無理なバックパスをカットしたレンゾ ロペスが持ち込んでシュート。あっという間に同点に追いつかれた。

岐阜は終盤に選手を替えて地道に攻めるが、前線へのスルーパスをカットされて京都のカウンターを食らう。
さっきの失点と同じようにドリブルを止めきれないままで一気に抜けられ、最後はまたもレンゾ ロペスに決められた。
選手交代をきっかけに着実に岐阜の弱点を突いていった京都に対し、岐阜のサッカーはあまりに脆すぎた。
岐阜はどう見ても、ずっと好調だった古橋を神戸に掻っ攫われてしまったのが大きい。でもまあそりゃ確かに、
「イニエスタと同じチームでサッカーができるよ!」って言われりゃそっちに行くよなあ。しょうがないよなあ。

 岐阜は守備の甘さをきっかけに崩れてしまったなあ。

最初のうちは岐阜が好調な攻撃サッカーを見せていたのだが、いい攻撃といい守備を90分続けないと勝てないのだ。
サッカーの厳しさ、現実というものを突きつけられるゲームなのであった。いや、これ、凹むわー……。
朝に凹んで夜にも凹む。今年の帰省旅行はなかなか厳しいスタートである。明日はいいことあるといいなあ。


2018.8.10 (Fri.)

本日の日記は「教養なき社会への動き・その2」ということで、新自由主義や資本主義について書いておく。

最近になって痛感しつつあるのは、資本主義ってのは教養と相容れないものではないか、ということ。
いや、僕としては資本主義を全否定したくない。否定したいのは現在の資本主義における主流派である新自由主義、
レッセフェールで思考を介さず反射的に富を増やそうとする新自由主義と教養は相容れないのではないか、と思うのだ。
だから究極的には、教養を武器にして新自由主義を資本主義の主流から引きずり下ろすこと、それが目標となる。
まあこれについては折に触れて書いているので(→2013.1.10)、同じことの繰り返しになるが、再確認したい。

以前書いたように、「豊かさ」とは持っている金額の多寡ではなく、金の使い方の上手さで現れる(→2017.5.18)。
たとえば企業であれば、資金をどこに投入するか。それによってその後の成長が決まるのだ、これには知性が必要だ。
近江商人の価値観から学んだのはまさにそこで(→2015.8.9)、資金の投入は製品の品質に対する投票行動に等しい。
しかし世間では、支出の質を問うことよりも、収入それ自体の多寡について論じることを好む傾向が強まっている。
なるほど収入とは、活動の結果である。物事を数字という結果で判断することは、合理的なのは確かである。
いくらプロセスが優れていても、結果が出なければしょうがない。ゆえに収入という結果がクローズアップされるのだ。
思考停止してPDCAサイクルをありがたがる人は結果から逆算することしかしないから、そういう傾向になりがちだ。
だが、果たしてそれで本当に次の活動を充実させることができるのだろうか。金は目的ではなく、あくまで手段なのだ。
目的と手段が見分けられない人ほど、持っている金額の多寡に囚われる。金を持っている=偉い、となってしまう。
これが政治では、選挙の票数となる。政治の質を問うことはせず、直接的に票数を稼ぐことだけを考えてしまう。
選挙はあくまでわれわれの代表である議員を選ぶ手段にすぎず、目的ではないはずである(→2008.9.22)。
しかし思考停止してPDCAサイクルをありがたがる人は、政治というプロセスを無視して選挙結果だけに囚われる。

いつからか、政治に経営のセンスを採り入れる、なんてことが言われるようになった。
1970年代の大きな政府が社会の停滞を招いた反省として、1980年代以降に新自由主義が台頭して今に至る。
このこと自体は自然だが、大切なのはバランスだ。公共セクターは本来、企業がやらないサーヴィスを補完する。
しかし、より多く金を稼ぐやつが偉いという価値観は、その公共セクターの本質を軽視してしまうのだ。
より多く金を稼げるのは、能力が高いから。あるいは他より努力しているから。まあ、ここまではいい。
問題はそれを単純にひっくり返して、金を稼げないのは能力が低いから、あるいは努力していないからと考えること。
これは公共セクターにしかできない弱者救済を否定することにつながる。思考停止した新自由主義の特徴である。
政府も含めてみんながたくさん金を稼げば幸せな社会、そう単純に考えてしまっている人がどれだけ多いことか。
みんなが金を上手く使うことでみんなを幸せにするのが正しい資本主義社会ではないのか。目的と手段がズレている。
買い物とはコミュニケーションである、と以前書いた(→2014.11.11)。買い物する人の顔が見えない経済活動は、
ただの物質の化学変化と移動でしかない。倫理のない経済学が見ているのは、そういう世界だ(→2017.1.31)。
そうなると政治も人間相手にやるものではなく、物質の化学変化と移動を促進するためのものでしかなくなるだろう。

大富豪であるトランプが民主主義のリーダーたるアメリカの大統領になってしまったのが、とても象徴的だ。
トランプは確かに金を持っているが、Twitterで教養に欠ける発言を連発している。でもそれを誰も止められない。
教養なき社会の象徴。教養よりも金儲けという非常に恥知らずな社会へと急速に動いていることを示していると思う。
日本でも自称保守層を中心にトランプを擁護する向きがあるが、弱者に目を向ける教養の欠如と結びついて見える。
たとえば英語教育の現場では、正しい文法でなくてもまずしゃべるという方向性が良しとされてしまっている。
それは欧米人にとって使い勝手のいい駒になるということ。教養ある日本人を育てるのと正反対の方向性である。
政府が全力で教養の欠如した「国際的」労働力を育成しようとしているんだから、もうどうしょうもない。
品性とは、抑制である。教養とは、抑制する勇気である。しかし新自由主義にとって、それは停滞にしか映らない。
新自由主義は教養を駆逐する。よけいなことを考えている暇があったら、その間に無心で金を稼げ、というわけだ。
だがそれは、思考停止して条件反射を繰り返しているだけにすぎない。脳を介さず、ただ運動神経が反応しているだけ。
人間にしかできない知的活動の放棄そのものだ。時には非を認めて自分すらも止める勇気、それが教養なのだ。
今の政治と経済は、嘘をついてでも弱者を無視してでも自らの利益を押し通す。教養なき社会が当たり前になっている。


2018.8.9 (Thu.)

最近のニュースとそれについてのコメントを見ていると、教養なき社会へと急速に動いているように思えてならない。
本日の日記は「教養なき社会への動き・その1」ということで、タトゥーをめぐる賛否両論について書いておきたい。

結論から行くぜ。タトゥーとは教養の欠如を身体的に表現しているってことでないかい? 非常に不快である。
人間が服を着る行為には、そのようにして皮膚をコントロールすることで思想を表明する要素がある(→2004.1.11)。
その点、タトゥーとはタブラ・ラサな身体の放棄となる。自らスティグマを引き受け、差別される側への移行を意味する。
日本の社会において、タトゥーは受刑者だったり反社会勢力の象徴だったり、マイナスの意味合いを持っている。
喜んで刺青を入れていたのは『魏志倭人伝』や江戸落語『火事息子』の時代のレヴェルである。近代以前の知性。

実は日記には詳しく書かなかったが、2014年夏の旅行で岡山を訪れた際、2つほど引っかかることがあった。
ひとつは湯郷温泉に浸かった後で、タトゥーを入れた皆さんと姫新線に乗ったのだ。Tシャツの半袖からはタトゥーが見え、
「こんなのを入れてるやつが電車に乗っていいのかよー、おまわりさん呼ぶ?」などと大声で話し、一般客はドン引き。
まあ駅で列車を待っているときからカーステレオで大音量のクソダサい日本語ラップを流していて異様だったのだが。
で、1両だけの車内で一般客が固まっている中、連中と一緒に後ろの方にいた僕は、窮屈さに耐えかねて、
しゃべる連中の間を「ちょっと、いいですか」と言って通り抜けて、人の少ない先頭の方へ移動したのであった。
そしたらその後の連中は不思議と黙ってしまい、そのままこっちにも誰にも絡むこともなく、たった1駅で集団下車。
前の駅には車で来ていたし、1駅だけ鉄道で移動する目的がよくわからないなあと思っているうちに彼らは去った。
結局、今でも連中が1駅だけ列車に乗った理由がわからない。単純に一般客に対して示威行動をしたかっただけなのか。
もうひとつは、その7日後にリョーシさんと湯原温泉に行ったときのこと(→2014.7.27)。日記ではちょっとだけ、
「あんまり大っぴらに書くようなことではない事態」なんて表現をしたが、全身刺青の男が露天風呂に入ってきたのだ。
温泉の注意書きには刺青NGとあったが、それを無視しての入浴だ。リョーシさんのこめかみには青筋が浮かんでおり、
弁護士でルールに厳格なリョーシさんは静かに怒るよな、と思っていたら、全身刺青が僕のいる一角に移動してきた。
ほかの客はいなくなって全身刺青と2人っきり。僕がとった行動は「その男が風呂から出るまでこっちも出ない」で、
独り占めさせてたまるかよ、カタギ舐めんな、なのであった。こっちから虎の尾を踏みに行くようなことはしないが、
簡単に逃げるようなことはないよ、と。共通するのはやはり、カタギをビビらせて楽しんでいるのかな、ということ。

まあそういう経験があるので僕としては、タトゥーというものをどうしても肯定的に捉えることができない。
かつて僕が金髪にしていたときには、すれ違う人が心なしか距離をとってよけて歩いていくのが印象的だったが、
それをもっと極端にしたものとして、タトゥーによって威を借る側面があることは否定できないだろう。
岡山の皆さんはたぶん本物のヤクザだっただろうが、ヤクザでなくてもタトゥーで背伸びするような価値観は、
相手に対してまず心理的揺さぶりをかけることを無意識に喜ぶもので、とても教養ある姿勢とは言えないと思う。
教養ある人は、対等な関係から、しゃべる内容で勝負するからね。対話を通して自分の価値を認めさせるものだからね。
だからタトゥーを許容することと教養の欠如は、僕の中では同一線上にある。この良識は守らなくちゃいかんだろう。
何より、自分のタトゥーを認めるべきだという人間は、自分の価値観を他人に一方的に押し付けるだけであり、
他人が不快に思うことに考えが及ばない自己中心的な人間だ。ゆえにタトゥーを平然と見せる人間が増えている現状は、
社会において自己中心的な人間が増殖していることを示すものであると思う。着実に教養なき社会へとシフトしている。


2018.8.8 (Wed.)

台風におびえつつの日直でした。こういうとき、家から職場までが遠いとちょっと困るね。


2018.8.7 (Tue.)

マサルと豊洲のスーパービバホームでダベったのだが、マサルが気になっていることがさすがに斬新で面白い。

マサルが気になってしょうがないのは、「シンナーあそび」とはいったいどういうことなのか、という問題だ。
なぜシンナー中毒・依存症が「遊び」という表現になるのか?という、よく考えるとたいへん哲学的な問題意識である。
学生がたむろしてビニール袋に入れたシンナーを吸うという行為を、果たして「遊び」と認定してよいのかどうか。
お茶会で抹茶を回して飲むのは「遊び」とは言わないし、酒やタバコや麻薬などについても「遊び」とは言わない。
なぜシンナーについては「遊び」になるのか。「遊び」という表現とやっている内容とのズレが気になる、とのことで。
「夜遊び」や「火遊び」と同系列ということかなあ。ホイジンガ先生(→2006.8.25)に訊いてみないといけませんね。

もうひとつ、電車で見かける「普通 〇〇行き」という表現だが、これもマサルにとっては気になるものだそうだ。
なんでも「では普通でないときどこへ行くのか」と考えてしまい、ミステリーツアーの妄想が始まってしまうんだと。
たとえば乗っている電車が「普通 池袋行き」の場合、これを「普通ならば池袋行き」という表現と考えて、
もし普通じゃないシチュエーションが発生したらどうなるのか、と。僕はどこへ連れて行かれてしまうのか、と。
そんなマサルに対し、「お前、シンナーあそびしてないよな?」と訊くことしか私にはできませんでした。


2018.8.6 (Mon.)

「TOKYO SWEEP!! 23区編」、第2回は「千代田区の北部、旧神田区を歩きまわる」の巻だ(旧麹町区編 →2018.8.2)。
今回もまずは旧神田区役所から攻めようじゃないかということでネットで調べてみたのだが、Wikipediaによると、
旧神田区役所は「錦町2-2」という記述があった。どうやら島津製作所東京支社の北西にある土地が該当するようだ。
でも肝心のその土地がどうなっているのかはよくわからない。しょうがないのでスマホ片手に現地に行ってみると、
何やら大規模な建物を建設工事中だった。これだけまとまった土地があるということは、たぶん「当たり」だろう。
写真だけ撮って後で調べ直したら、神田スクエアという建物ができあがる模様。もとは東京電機大学神田キャンパス。

  
L,C,R: 建設中の神田スクエア。いろんな角度で撮影するが、建設中なので基本的にみんなおんなじ。

気を取り直し、前回の続きということで首都高下の日本橋川を渡る体でいくのだ。神田に入るルートはもちろん一ツ橋。
パレスサイドビル(→2011.1.30)の手前を通って白山通りを北上すれば一ツ橋。ここから広がる神田が本日のテーマだ。

 一ツ橋。首都高の高架の向こうにあるのはパレスサイドビルなんだけど見えん。

というわけで、まず最初はやはり一橋大学千代田キャンパス。でも一度も中に足を踏み入れたことがない。
まあほとんどの一橋生はそうだろう。一周しながら撮影してまわるが、ふつうに背の高いビルでしかなかった。

  
L: まず南側が如水会館。ちなみに私は一橋OBだが如水会には入っていない人なのだ。入った方がいいのかなあ。
C: 東から見た如水会館。新入生歓迎会で1回行っただけだな。  R: 如水会館と一橋大学千代田キャンパス。

 
L: 一橋大学千代田キャンパスのエントランス。  R: 北西から見たところ。

一橋大学千代田キャンパスの斜向かいは学士会館なのだ。建て替えで如水会館が変な形になっちゃっているのに対し、
旧館が1928年、増築の新館は1937年竣工のこっちは国登録有形文化財の風格を漂わせている。うーん、悔しい。
学士会館は江戸幕府の開成所跡地にあり、開成所を引き継いだ明治新政府の開成学校は東京大学の源流のひとつなので、
こちらには「東京大学発祥の地」の碑がある。なお、開成学校を再編して設立された東京外国語学校もこの地にあり、
一橋大学の前身である東京商業学校はこの学校と合併したことで一ツ橋に移ったのだ。だから一橋大学が一橋大学なのは、
この学士会館の歴史とも絡んでいるのである。ややこしいが、まあ昔の学校はそういうもんだったからしょうがない。
そして学士会館の裏には日本野球発祥の地の碑。開成学校の英語教師・ホーレス=ウィルソンが学生に野球を教えたが、
その現場がここだったというわけだ。まあそりゃ、東京大学発祥の地と日本野球発祥の地は同じになるわなあと。

  
L: 学士会館(旧館)。旧帝大の出身者はこっちのメンバーになるわけだ。  C: 東京大学発祥の地の碑。
R: 日本野球発祥の地の碑。けっこうリアルにできている巨大な手にびっくり。よく見るとボールが地球。

そのまま北上すると神保町である。いい機会なので、神田神保町古書店街のなんでもない日常を記録しておくとしよう。
また神保町から小川町にかけてはスポーツ用品店が並んでいるし、明大通りの坂を上ったお茶の水は楽器店街だ。
神保町と駿河台をのんびり歩きながら、同じ千代田区でも旧麹町区とは違う神田ならではの雰囲気を味わう。
昔っから不思議だったのだが、神田にはどうも独特の空気があるように思う。「神田的なるもの」が頑として存在する。

  
L,C,R: 神田神保町古書店街のなんでもない日常。学生街だった頃の面影が今もしっかり残る。正直、かなり憧れる街だ。

  
L: 神田スポーツ店街。これまた学生街だった名残。  C: 明大通りの坂から見上げる駿河台。この辺りはいまだに学生街。
R: お茶の水楽器店街。やっぱりこれも学生街だった名残というわけだ。うーん、丸ノ内サディスティック。

駿河台の上に出たので、明治や日大周辺をうろうろしてみる。でも背の高いビルが多くて、学生街という感じは薄め。
オフィスと高層化した校舎が混在するなんとも不思議な空間である。もともと駿河台は本郷台地の南端にあり、
「神田山」と呼ばれていた。この山を崩すことで、日比谷入江(→2018.8.2)を埋め立てる土砂を確保したわけだ。
しかしそのせいで洪水が発生するようになったため、神田川を開削して駿河台と湯島台が分離された経緯がある。
駿河台の名は、家康没後に駿府から江戸に戻った武士たちが、富士山の見えるこの丘に住んだことに由来する。

  
L: 山の上ホテル。ヴォーリズ設計の本館は、1937年竣工でかなりのアール・デコ。文豪がカンヅメになったホテルだそうで。
C: 角度を変えて眺める。なお、ホテルとなったのはGHQから戻った1954年。  R: 裏にまわると駿河台の高低差がよくわかる。

東へ行って太田姫稲荷神社に参拝。太田道灌が天然痘にかかった娘のため、京都の一口(いもあらい)稲荷神社に祈願。
その後、娘が回復したので旧江戸城内に稲荷神社を勧請したとのこと。「太田」の「姫」だが娘のことではないらしい。
家康が江戸城を拡張した際に鬼門に移すが、御茶ノ水駅の拡張によって現在地に遷座した。残念ながら御守はなさそう。

  
L: 太田姫稲荷神社。駿河台のビル街の一角に鎮座する。  C: 拝殿。  R: 境内の外に出て本殿を眺める。

さらに東へ行くとニコライ堂である。正式名称は「東京復活大聖堂」で、日本で最大となる正教会の大聖堂。
こちらに来るのは初めてなので、緊張しつつ敷地内にお邪魔する。スラヴ系のめちゃくちゃ美人なおねえさん方がいて、
洗礼を受けるならやっぱり正教会だわーなどとワケのわかんないことを思うのであった。不純ですいません。
でもマジ美人やった。ぼかぁ……ぼかーもおっ!! あーもおぼかぁもおっ!! ずっと前から愛してましたーっ!!

  
L: ニコライ堂の入口。さすがに土地に余裕がないなあ。  C: 北西側から見たところ。  R: 奥に入って南西から。

ニコライ堂は1891(明治24)年の竣工で、ロシア工科大学教授だったミハイル=シチュールポフが設計を担当。
ただし実施設計したジョサイア=コンドルが案を改変した可能性もあるようだ。関東大震災で大きな被害を被り、
岡田信一郎の設計で修復するもやっぱり改変。大戦中の空襲では無傷。その後、国指定重要文化財となっている。
正教会の建物というと河村伊蔵による函館(→2014.3.23)と豊橋(→2015.3.29)の教会を思い浮かべるが、
こちらは尖塔がなく、はっきりとドームが主人公である。それがまたいかにも正教会らしく感じられるのだ。

  
L: 周囲に背の高いビルがあるので、すっきり見られないのが悲しい。東側の本郷通りから見たところ。
C: 少し坂を上ってニコライ堂前の交差点の辺り、北東から。  R: だいたい北から。右が紅梅坂。

聖橋を渡って北に出るとそこには湯島聖堂があるが、こちらは文京区なのでまたの機会に訪れるのだ。
自分でもなんだかケチくさいなあとは思うが、いちおう区を単位に動いているので。そこは厳密にやっていく。

 聖橋より眺める神田川。丸ノ内線が地上に出ている。

このまま東へ行けば秋葉原。でも秋葉原は「外神田」だ。神田明神と秋葉原は後回しにして、神田駅周辺へと南下する。
僕としては、もうちょっときちんと「神田的なるもの」を考えたいのである。合併して現在同じ千代田区となっていても、
官庁中心の旧麹町区と旧神田区では雰囲気がぜんぜん違う。社会学者として、これをきちんと言語化しなければなるまい。

神田という地名は、ここが伊勢神宮の神田だったことによる。つまり神田とは江戸期にはすでに古い地名だったわけで、
その後の江戸城の拡張により城下町としての利用が上書きされていった点が特徴的なのだ。おそらく「神田」とは、
江戸城の鬼門(北東)側、上述の神田山(現在の駿河台)までのエリアを漠然と指す概念となっていたのではないか。
鬼門だからこそ験を担いで、「神田」という地名が大切にされ、また広い範囲で好んで使われたように僕には思える。

ではその神田は江戸時代にはどのように利用されていたのかというと、実は東と西とで大きく異なっていた。
西は武家地で、それが学生街へとつながっていくわけだ。神保町から駿河台の辺りはその典型。ただし皇居に近い南側は、
火除地とされた護持院ヶ原だ。その広大な土地にも学校がつくられた。さっきの開成学校や東京外国語学校はその一環。
対照的に東は職人の街で、かつては竪大工町・横大工町・蝋燭町・白壁町・新銀町・鍛冶町などの町名がついていた。
また、神田青物市場(多町市場)は関東大震災の影響で1928年に秋葉原へ移転するまで270年間続き、問屋街でもあった。
実際に神田駅の西側を歩いてみると、そこには独特な空気が漂っている。これをがんばって言語化してみたい。

  
L: 何気ない神田の一角。中小規模のオフィスが多いが、1階を軽くセットバックして店舗としているビルも多い。
C: 昼時ということで飲食店が目立つ一角。サラリーマン向けの店舗も点在しており、ヴァラエティは充実している。
R: メインストリート。規模の大きめなビルが目立つが、駐車スペースの多さを「神田らしさ」として注目したい。

まずベースにあるのは、もともと職人町であるがゆえの無頓着さであろう。オフィス・商店(問屋)・店舗・たまに住宅。
オフィスビルの1階にだけ店が入っているという例も多いが、共通しているのは「仕事に特化した空間」という雰囲気だ。
大通りに面して背の高いビルも並んでいるが、街の中へ踏み込めば5〜6階くらいの昭和を感じさせるビルばかり。
飾りっ気はなく、まとまりもなく、それぞれの敷地で思い思いに、事務、商業、飲食など自分の仕事に専念している。
実に職人気質である。そう、神田の街には外向きの顔がないのだ。むしろ彼らは、神田という「内部」しか見ていない。
そのプライドは、ハレとケの対比という形をとって、神田祭で爆発するわけだ。江戸っ子の倫理と資本主義の精神。

  
L: 神田の路地。ビルは高くても6階建てくらいか。1階だけ異なるデザイン、看板、路上駐車、これらが神田的要素だ。
C: これも神田的な光景。表通りの背の高いオフィスビルの裏で、規模は小さくても活発な商業・企業の活動がここにある。
R: 基本的には中小規模のオフィスが多いが、住宅も混じっているところが神田の面白いところ。これまたアジア的かも。

時代の流れによって、以前の神田の面影はほとんどなくなってしまったという。確かにオフィスビルが増えたことで、
町人地と武家地という異なる要素を持った東西の神田が均質化されつつある。でもまだまだ「神田的なるもの」は健在だ。
おそらく明治になって東の職人気質が西に進出して、現在の古書店街・スポーツ用品店街・楽器店街が形成された。
その後、都市の高層化によって街の表面は変わったが、一歩裏へ入ればその精神が残っているのをしっかり確認できる。
一言では表現しづらい神田の街独特の雑多さの中に、シャイだがプライドの高い江戸っ子らしさが今も漂っているのだ。
(今回のログを書くにあたっては、三井住友トラスト不動産「このまちアーカイブス・神田編」(⇒こちら)と、
 千代田区・神田公園地区連合町会「大好き神田」(⇒こちら)が大いに参考になりました。ありがとうございました。)

  
L: 右手のマンションは新しい。神田はゆっくりと新陳代謝をしているようだ。今後、「神田的なるもの」は変化するのか。
C: 神田は外向きの顔を持たない街だ。路地は血管または食道で、建物は「神田」という器官の一部、細胞にすぎない。
R: ところどころに公園があるが、主な用途はサラリーマンの憩いの場だ。周囲を固めるのはやはり顔のないビルである。

では神田の総仕上げということで、神田の象徴である神田明神にお参りするとしよう。正式名は神田神社ね。
以前も何度か来たが(→2005.6.42011.7.102015.12.5)、江戸総鎮守ということで相変わらずの人気っぷりである。
創建は730(天平2)年で、出雲氏族・真神田臣が祖先の大己貴命を現在の将門塚(大手町)周辺に祀ったのがはじまり。
江戸随一の歴史を誇る神社というわけだ(同じ千代田区の日枝神社は、太田道灌が川越から江戸城内に勧請して創建)。
鎌倉時代の1309(延慶2)年には平将門を合祀し、武士からも崇敬を集める。1616(元和2)年に江戸城の拡張を受けて、
現在地の外神田に移転してきた。庶民に支持されながらともに「神田」ブランドを築き上げてきた神社というわけだ。

  
L: 参道入口。神田川の北、湯島台の端っこに位置している。  C: 1975年再建の隋神門。楼門スタイルなのがいかにも「明神」。
R: 拝殿。伊東忠太・大江新太郎・佐藤功一の設計で1934年竣工。鉄骨鉄筋コンクリート造で戦災に耐え、国登録有形文化財に。

そのまま東へ下ると秋葉原だが、せっかくなので旧昌平橋駅・旧万世橋駅の遺構をきちんと見てからにするのだ。
まずは御茶ノ水寄り(西)にあった旧昌平橋駅から。開業は1908(明治41)年だが、万世橋駅ができるまでの仮駅で、
存在したのはたった4年。駅としての遺構はなくなったが、煉瓦造りの高架下アーチ(紅梅河岸高架橋)は改装され、
オサレな飲食店の入る店舗となっている。100年以上の時間が経過した煉瓦のアーチは、重厚でただただ美しい。

  
L: アーチ下に入っている店舗。聚楽の系統とのこと。  C: 煉瓦のアーチは本物感がすごい。リニューアルじゃ出せない味。
R: 裏から見るとこんな感じ。かつてこの辺りに紅梅河岸があったわけだ。右側の総武線と分かれっぷりもなかなか豪快。

そのまま中央線に沿って歩いていくと、旧万世橋駅だ。こちらも煉瓦のアーチがよく残っていて、店舗が入っている。
新しめの煉瓦もよく見るときちんと年季が入っていて、関東大震災以後に改修されたものだろうか。よくわからない。

  
L: 昌平橋から見た反対側、旧万世橋駅方面。こちらの煉瓦はあまり汚れていないが、関東大震災後のものなのかな?
C: 交通博物館跡にはJR神田万世橋ビルが2013年に竣工。  R: さらに奥に入っていく。まあ、オサレなもんですな。

旧万世橋駅遺構は交通博物館の大宮移転(→2007.12.9)に合わせて整備され、mAAch ecute神田万世橋となった。
それだけでなく、1912階段・1935階段・2013プラットホームなど、駅の施設をそのまま見学できるようになっている。

  
L: 上の中央の写真で地面にある円形のガラス窓を覗くとコレ。煉瓦でつくられた旧万世橋駅舎の基礎を見ることができる。
C: 2013プラットホームへの入口。奥は店舗になっている。  R: 1912階段。万世橋駅開業時につくられたものを整備。

階段を上がると2013プラットホーム。かつての万世橋駅南側ホームをデッキに改装。ガラス張りで実にオサレである。
西側にはカフェが併設されており、ガラス越しに走り抜ける中央線の列車を眺めながらお茶をしばくことができる。
さすがにちょっと狭苦しい感じはあるが、せっかくの明治の遺産をきっちり活用しているのはすばらしいことだと思う。

  
L: 2013プラットホーム。柱には紺色の地に白い文字で「まんせいばし」とある。さすがに狭苦しさを感じるかな……。
C: 1935階段。東京駅から鉄道博物館(後の交通博物館)が移ってくる際につくられた。  R: 万世橋から見たところ。

万世橋から神田川沿いに東へ行くと、柳森神社。太田道灌が伏見稲荷大社から勧請したそうだが、とにかく狭い。
まず通りから神田川へ下る形になっていて、境内には摂末社に力石に富士塚跡にと、さまざまな要素が満載なのである。
木々もよく茂っており、いかにも稲荷らしい湿り気がしっかり漂っている。あらゆる意味で密度の濃い神社だと思う。

  
L: 柳森神社。境内へは下っていく。  C: 入口から見たところ。中身がみっちり詰まっている神社だこと!
R: 石段を下りて手水舎。右は火山の岩や講の石碑を積んだ富士塚の跡。この狭い敷地によく詰め込むなあと。

なお、柳森神社に御守はないみたい。個性派の神社なので、御守があればどんなのか気になるところだったが。
ちなみに御朱印の初穂料は100円で、自分でスタンプを押して備え付けのボールペンで日付を入れるシステム。

  
L: 力石。ぜんぶで13個もあるらしい。  C: 金刀比羅神社を中心に摂末社が並ぶ。すごい密度。  R: 拝殿。

万世橋に戻って撮影。幅があるし交通量があるし橋じたいは目立たないしで、撮るとなると意外と難しさを感じる。
結局、北東側に機械室と船着場があるのでそこから撮影。おそらくこのアングルでないと橋って感じがしないだろう。
それにしても、じっくりと万世橋を見たのは初めてかもしれない。現在の万世橋は1930年に竣工で、きっちりモダン。

 
L: 北詰下流(北東)側から見た万世橋。無駄がない中に洗練された感じが、1930年らしいモダンさを感じさせるではないか。
R: 対岸、南詰(南東)側から見たところ。船着場のタイヤが生々しい。そんなに使うとも思えないが。しかし曲線がいいなあ。

ではようやく秋葉原電気街である。外神田も神田なのだ。上述のように神田川が開削されたことで「外」となったが、
実際に歩いてみてもともとの神田の広さをイヤというほど実感した。こっちも末広町と御徒町の中間まで神田である。
この秋葉原は明治になってから大火があり、火除地となったところに勅命で江戸城内から鎮火社が勧請された。
しかし火除といったらなんといっても秋葉権現の知名度が圧倒的であり、この辺りは「秋葉っ原」と呼ばれてしまい、
それが定着したのだ。ちなみにその鎮火社は後に台東区松が谷に移るが、名称が「秋葉神社」なので経緯がわかりづらい。
駅は開業時には「あきはのはら」で、次いで「あきははら」となり、1907(明治44)年に「あきはばら」となった。
このいいかげんさは「神田 ⊃ 外神田 ⊃ 秋葉原」という内包関係が根底にあり、神田の強さゆえのものと思うのだが。

  
L: 秋葉原電気街。総武線が高架を行く。なお、この写真は昨日のお昼に撮ったので歩行者天国になっています。念のため。
C: 神田明神通りとの交差点から南を振り返る。秋葉原的な風景は、僕が高校生だった頃となんだかんだで大きくは変わらない。
R: 同じ交差点で北に向き直る。秋葉原は「神田的なるもの」が商業を触媒にして最も大規模に発現した事例なのかもしれない。

秋葉原もやはり、他の神田の商店街と同じように職人気質で形成された街だ。高校・大学時代のパーツ屋が懐かしい。
そういう視点で眺めると、「神田的なるもの」は本当に面白い。生活を豊かにするあらゆる商品について空間を生むのだ。
しかし家電製品、さらにパソコンの需要が爆発的に増大すると、電気街の表面は派手な原色で塗りつぶされていく。
実はこの時点で(つまり僕がハードディスクを買いに上京した高校生の時点で)、すでに変質していたのではないか。
神田の職人気質はもちろん色濃く残っていたが、その一方で郊外社会的な価値観もだいぶ入り込んできたと思うのだ。
この奇妙な共存は、ハードウェアからソフトウェアへの転換を背景にしながら、ゆっくり主従関係を逆転させていく。
もし秋葉原が完全に変質する日が来るとしたら、それは「神田的なるもの」の散逸・消失の結果ということになる。
それはつまり、現在進行中の大量消費社会の中で、江戸っ子から、日本人から、職人気質がなくなってしまうことだ。
皇居のすぐ脇で神田が抱えているものは、実は僕たちが考えているよりもずっと大きなものなのかもしれない。

  
L: 路地に入るとこの光景。背の高くないビルと道にせり出す店舗。これもまた、神田らしい光景であると言えると思う。
C: 総武線の高架脇で職人気質と消費社会がせめぎ合う。それはある意味で、非常に現代的な空間なのかもしれない。
R: 奥にそびえる住友不動産秋葉原ビルと、その手前のカオスな電気街。闇市由来のアジアな雑多さがまだまだ残る。

これで〆め、と言いたいところだが、最後にもう一丁。神田駅の東、岩本町駅の南もきちんと神田なのである。
でも雰囲気的にはさっきの内神田に微妙な日本橋っぽさが混じるだけなので、特に写真はないです。体力の限界。
いちおう歩いてはいるので、岩本町のお玉ヶ池跡でお茶を濁します。かつては不忍池より大きかったというが、
神田山を削った土で埋め立てられて宅地になった。神田はそれでさらに勢力を拡大したっていうわけだな。
(後日circo氏から感想をもらったが、お玉ヶ池といえば北辰一刀流・千葉周作の玄武館とのこと。なるほどなあ。)

 
L: 繁栄於玉稲荷大明神。  R: その裏にある池。モテて悩んだ茶屋の看板娘・お玉さんが身を投げた池も、今はこれだけ。

これにて旧神田区編はおしまい。空間を通しての「神田的なるもの」の考察、いかがでしたでしょうか。疲れた。


2018.8.5 (Sun.)

マサルと遊ぶ約束をしたのだが、毎回毎回歌舞伎町で謎解き(→2018.3.42018.4.22)では芸がない。
そしたら「Maker Faire Tokyoへ行ってみませんか」という提案がマサルから出たので、「じゃあそっちで」と返事。
マサルは午前中に別の用事があり、こっちはこっちで千代田区探検が終わらないのでそれに取り組んでおり、
会場のビッグサイトがある国際展示場駅に集合できたのは14時過ぎ。ドトールで軽くダベると、いざ出陣。

そもそもが「Maker Faire Tokyo」とは何なのか、という話である。「地上最大のDIYの展示発表会」とのことだが、
もともとはアメリカのDIY雑誌『Make』からスタートし、現在は世界各地でイヴェントとして盛り上がっているとのこと。
「Maker Faire」という形で東京で開催されたのは2012年からで、2014年からはビッグサイトに定着している。
とにかくロボコンに出たかった思春期からずっと理系への憧れを捨てきれないマサルには、見るものすべてが尊敬の対象。
対する私は東工大大学院修了という経歴を持ちながらやったことは教員とのケンカだけであり、やはり憧れがあるわけで。
そんなふたりが気ままに見てまわって聞いてまわって写真を撮ってまわったレポートを、ざっくりご紹介するのだ。
なお、今日の日記は出展者の情報を極力オープンにする。拡散希望する勇者たちばかりなので、彼らに敬意を表して。

マサルの興味関心をベースにしているので、入口からかなりバカ丁寧に見ていくことになり、そうとう時間がかかった。
計画的に動くこともなく、ひたすら目についたものに反応する。で、気が向いたらちょろっと出展者の話を聞いてみる。
「地上最大のDIYの展示発表会」という触れ込みだが、実際には扱っている対象がかなり広範囲にわたっていて驚いた。
クリエイティヴな要素があればなんでもありなのである。その分、ソフト的にもハード的にも非常に刺激にあふれている。
まず最初がボードゲームの展示で、なるほどこれもまたクリエイティヴだな、と納得しつつ話を聞くのであった。

  
L: まずは建築家の卵のためという「LEGO Architecture Studio」。白いレゴには箱庭療法的なものを感じるのですが。
C: 加藤明洋「TRUSTLESS LIFE」。ボードゲームは結局のところ、ミニマルでポップなデザイン勝負な気がします。
R: 24th floor「マネースパイラル」。仮想通貨をテーマにしたゲームとのこと。じっくり遊ぶ時間が欲しいです。

いきなり結論じみたことを書いてしまうと、やはり見た目のインパクトがないと多数の中に埋もれてしまうのである。
ヴィジュアル的に惹きつけるものがあるというのは大きいなあ、と思いつつ見ていく。まず何よりも目立たないとダメだ。
その点で、マサルも僕もグイグイ惹きつけられたのが数学模型。世の中の大半の人々は専門的な数学の知識がないが、
ヴィジュアル先行でパンチをかまされると一気に引き込まれる。数学の苦手な生徒も得意な生徒も楽しめると思うなあ。
冷静に考えると、方程式をグラフにすることってとんでもない発想だと僕は思うのだが、その凄みをあらためて味わった。

  
L: ほりたみゅ「数学模型」。こちらはグラフを立体化した「線織面模型」で、左の2つが双曲放物面、右の2つが一葉双曲面。
C: 「自然数の平方和証明模型」。1^2+2^2+3^2+…とやっていくと1/6・n・(n+1)(2n+1)となって、6個で直方体ができる。
R: 「正n胞体展開模型」。多胞体は4次元における超多面体(3次元の多面体に相当)。120(青)や600(赤)はもうすごい形だ。

序盤は学校の先生や現役の学生による作品が並んでおり、ある種の真面目さとユルさの共存がなかなか心地よい。
パペットロボットは見事に技術科と家庭科の融合からスタートしているが、これ、こだわればとことん研究できる。
中学生たちがあれこれ自分好みの方向に伸ばしていけば、めちゃくちゃやりがいのある授業になってしまうだろう。
個人的に爆笑したのが、ベルト駆動1球ニキシー管時計。ニキシー管はやはり非常に人気のあるアイテムで、
今回あちこちで見かけたのだが、「値段が高いので1個だけでなんとかしました」というこちらの工夫に脱帽である。
(名古屋駅の東急ハンズ「男の書斎」でニキシー管の時計を売っているけど、高くて手が出ないんだよなあ……。)
また、マサルも高く評価したのが鉄球を使った電子迷路。傾けて鉄球を動かすだけでは終わらず、発光する場所へ行くと、
迷路の一部が回転したり扉が開いたりして、より奥深い仕上がりとなっている。サイズを大きくすると絶対凄くなるね。

  
L: 技術教室グループ「パペットロボット」。中学校技術科の教師が中心だそうで、なるほど技術科と家庭科の融合だ。面白い。
C: 神奈川工科大学オリジナルロボットプロジェクト「ベルト駆動1球ニキシー管時計」。移動して時・分・秒の位置で数字を表示。
R: 名古屋工業大学 Edison Project「A mazeing!!」。床が回ったり扉が開いたり鉄球がワープしたりと存分に楽しめる。

さてそんな具合に見てまわっていたら、何やらパソコンのBEEP音で曲を演奏しているような音が聞こえてきた。
こりゃなんじゃと行ってみたら、高電圧のテスラコイルを放電させた音での演奏だった。2つ使ってパートを分けている。
知っている曲ではなかったがファルコムのソーサリアンらしく、なるほどゲームミュージックは相性いいよなと納得。
見た目も派手だし、曲目も工夫すれば絶対に盛り上がる。調べたら、P-MODELの平沢進が使ってんのか! さすがだ!

  
L: 高エネルギー技術研究室、テスラコイルで発生させた稲妻を使った演奏。後ろから黒い紙で稲妻を見えるようにしている。
C: 演奏の様子。ケーブルをあちこちワンサカつないでいるのが初期のYMOのようだ。そういうのには憧れてしまうのよ。
R: A4walleT「A4walleT 薄すぎる財布」。紙を折りたたんで財布にするキット。元プリンスの漱石、白雪姫の諭吉などが面白い。

ありとあらゆるジャンルでクリエイティヴィティが繰り広げられていたのだが、なるほどと思ったのがファッション。
テクノロジーを直接的にファッションの要素として取り込む、そういう発想がだいぶ一般化してきているなと思った。
同じようなジャンルとして、手芸とテクノロジーを組み合わせた作品も多く見られた。これは2つの方向性がある。
「美/カワイイ」というソフトウェア的な概念をテクノロジーのハードウェアによって実現するという方向性と、
むしろ逆にテクノロジーやハードウェアそのものに「美/カワイイ」という要素を見出すという方向性である。
この両者のせめぎ合いが、どちらも個人の作品レヴェルで活発に実現されているところがすごいなと。いい時代だなと。

  
L: すいラボ「電子部品アクセサリー」。電子部品はカワイイのである。無限にカチカチできるキーホルダーを買ってしまったわ。
C: denha's channelのLEDバッジ。これも電子部品の「カワイイ」を直接的に取り出した作品ということになりますわな。
R: GIF+で展示されていた、グンゼの「ニット配線」。これを使えば光るバッグも光る手袋もつくれますよ、っていう作例。

そんなところで登場したのが、マーブルマシンと呼ばれるおもちゃたちである。世間一般にはピタゴラ装置でおなじみ。
これにはマサルも僕も夢中で見とれてしまった。こんなん、キットで売ってくれれば絶対に買うんだけどなあ……。

 denha's channelのマーブルマシン。どれも魅力的なギミックを持っている。

マーブルマシンはなぜこんなにも魅力的なのか。洗練された機構は、決して何かの役に立つためにあるのではない。
ただ純粋に、純粋に機能を果たすのみである。そして、ただただ同じことだけを繰り返す。等速で運動するだけだ。
でもその小さな球たちの冒険は、たまらなく愛おしいのである。破綻なく完結させる技術に対する憧れだけではなく、
やはりどこか「美しさ」「カワイさ」を感じずにはいられない。マーブルマシンの不思議な魅力にただ酔いしれる。

  
L: 球をポンと飛ばして六角形で受け止めるというギミック。炎の男・三っちゃんもびっくりの精度を誇る。
C: 左端の階段が上下にスライドすることで球が一段上がる仕組みになっている。単純な機構だけに美しい。
R: 透明なアクリル板が絶妙な角度で設置されており、球がゆっくり斜め下へと沈むように移動する。

「美/カワイイ」あるいは「役に立たないけど面白い」というのは、かなり強い行動原理になっていると思われる。
まあ中には、どれだけくだらないことに全力を傾けるかにこだわっているチームもいっぱいいたけど。
価値観は人それぞれだが、そこに向けてのエネルギーの投入というスカラーはお互い十分わかっている。
褒め言葉にしろ作品の購入にしろ、こちらの敬意や評価の表現形態も、価値観によってさまざま。何から何まで多様だ。

  
L: ホームセンターてんこ「ミニチュア工具」。ミニチュアとはカワイイの極致のひとつであると思う。買ってもうたわ。
C: つつうらら「ハッピーフォンホルダー」。人の温かみを感じるスマホホルダーとのことで、温かみを感じているマサル。
R: 後ろから見るとこんな感じになっております。こういう一工夫加える感じの作品もけっこう多かったですな。

じっくり見ていったせいで、後半は本当にざっくりと見てまわった感じになってしまった。終了時刻も近づいているし。
体験型のゲームなんかもいろいろあって、チャレンジさせてもらったものもあったので、いくつかご紹介。

 
L: Hands-On 部「デッキブラシでカーリング」。写真はチームの方に撮影していただきました。
R: 全力でゴシゴシやるのでけっこう疲れる。「そだねー」とか言っている余裕はぜんぜんなかったです。

  
L: 月刊大人の起業「VRブロック崩し」。自分がバーになってボールを撥ね返すという設定。バツ印がスタートの合図。
C: 挑戦中のマサル。手元のバーを握ることで位置を判定するとのこと。反復横跳びできていませんの図。
R: こちらは金網デスマッチ……ではなく、ドローンのレースを開催中。すげえ時代になったなあ、と思うわ。

雨の日だけ抜けるというエクスカリバー傘にもマサルは挑戦。地面から煙が噴き出し、雷の音が鳴ると、
それまで抜けなかった傘を抜くことができるというアイデア勝負の作品である。実際にやることに意味がある。

 
L: Azb.Studio「エクスカリバー傘」。雨の日だけ抜けるということで、雨の演出が始まると……
R: このように傘を抜くことができるというわけです。正当な王であるかどうかは関係ない模様。

そんな具合に後半もあちこちでいろいろ体験していたのだが、ここでもトップレヴェルの衝撃を受けた展示が。
電卓でおなじみの7セグメントディスプレイ(6本の線+点1個で7つのI/Oだから7セグメント)がメインの展示の中に、
フリップドットディスプレイ(表と裏で色を変えた点をひっくり返して表示する仕組み、LEDのやつの元祖)があり、
それでテトリスが遊べるという展示があった。なんてオシャレなことを思いつくんだ!とマサルも僕も大興奮。
残念ながらフリップドットディスプレイ自体が失われつつある技術で、売るとなると15万円くらいになってしまうとか。
いやいや買い手はいくらでもいるでしょーと思うわれわれ。インテリアとして十分に需要があると思うんだけどなあ。

  
L: 魔法の大鍋「7セグメントディスプレイ大集合」。パタパタ変化するさまは、機械制御だけど非常にアナログ感がある。
C: フリップドットディスプレイ。電磁石で表裏を回転させる。蛍光イエローは目立つだけでなく、紫外線の退色に強いそうだ。
R: 特に衝撃的だったのが、フリップドットディスプレイによるテトリス。これは絶対に売れるよ! つーか欲しい!

かっこいいだけでなくバカバカしいものにも魅力がいっぱい。マサルが注目していた「セルフ記者会見セット」も、
ついにここで登場。実演してくれたが、頭を下げるとちょうどあの感じでフラッシュが点滅。これがまた絶妙な加減だ。
こういうことを思いつくのもうらやましいし、実現する技術力もうらやましい。ドラえもんの世界に片足つっこんどるね。

  
L: nanka「JIKKALARM」。実家を思い出させる目覚まし装置ということで、包丁の音と味噌汁の匂いが出る。
C: ねくある [NEXT+α]の「論文まもるくん」。自動的に「Ctrl」と「S」を押してくれる装置で、高い評価を得たそうだ。
R: 同じく、ねくある [NEXT+α]の「セルフ記者会見セット」。写真だとフラッシュっぷりがわかりづらいのが残念だ。

最後に音楽方面の展示を見たのだが、なるほどこれまたクリエイティヴィティが炸裂するジャンルである。
大爆笑してしまったのが、ツイスターゲームでクラブミュージックを演奏する装置。色にそれぞれ音が割り当ててあり、
ベースとなるリズムを鳴らしながらその場で音に変化をつけて音楽として成立させている。いや、発想がすごい。
これを男2人のバカバカしいヴィジュアルでありながらめちゃめちゃグルーヴィーに演奏したら最高だろうと思う。

 
L: mi:muz「缶たたき機mini」。いい音鳴らしていたけど、これがきちんと曲を演奏するともっと魅力的だと思う。
R: Inagi Records「ツイスターゲームシーケンサー」。割り当てた音を組み合わせつつ変化させて演奏。考えたモン勝ち。

では「Maker Faire Tokyo」に対する僕なりの結論。ありとあらゆるジャンルのクリエイティヴィティが詰まっていて、
ありとあらゆる方向から刺激が来る、とにかく面白ければなんでもいいという非常に贅沢なイヴェントである。
これは絶対に、お客さんになるよりも出展者で参加する方が楽しい。何もできない自分がひたすら歯がゆかったなあ。
あと、外国(アジア方面)からの参加者もちょこちょこいたのだが、日本語でコミュニケートする人が多かった。
英語で済ませるのではなく、わざわざ日本語で、という手間と熱意には頭が下がる。偉いよなあ、としみじみ思った。

さて、展示を見ていて気がついたのは、このクリエイティヴィティあふれるイヴェントで目立つには、
2つの力が必要になるということだ。それは「何をやるか」と「どうやるか」、whatとhowという2つの発想力だ。
言い換えれば、想像力と創造力ということになるのかもしれない。この両輪のバランスが絶対に欠かせないのだ。
理系のモノづくりイヴェントということで、展示は全体的に「どうやるか/how/創造力」に力が傾けられている印象だ。
しかし多くの人を立ち止まらせるためには絶対に、「何をやるか/what/想像力」が十分に練られていなければならない。
これは目的と手段の関係そのものだから、必ず目的が手段の上に立つのだ。ブレない目的=whatで勝負はほぼ決まる。
そのうえで序盤で書いたように見た目のインパクトを確保するとなると、デザインの左右するものはやはりかなり大きい。
世の中、実にいろんな才能があるなあと思う。whatを見つける才能、howをやり抜く才能、デザインで価値を足す才能。
そして才能を組み合わせるのもまた才能。「Maker Faire Tokyo」は、そんな才能の片鱗があちこちでギラギラしていた。


2018.8.4 (Sat.)

あまりにも暑いので、本日の部活は体育の講師でもあるコーチの権限で、プールで水球なのであった。
サッカー部的にはこれは意外と勉強になる。というのも、空いているスペースにボールを出して走らせる、
その発想を強調することができるから。なんとか定着するといいなあ、と思いつつプールサイドに陣取るのであった。


2018.8.3 (Fri.)

本日は河川敷での練習試合。しかし日陰がなくって(→2017.7.2)、コンディションとしてはかなり危険なのであった。
簡易テントを持っていって大正解。それにしても地球温暖化は深刻だなあ。5年前でもこんなにひどくはなかったような。

試合の方は、相手が厳しくないのでこっちの得意なことばかりが炸裂なのであった。自信を持つという点ではいいが、
苦手なことに取り組むという点ではまったくプラスにならない内容。伸びしろってのは苦手の中に隠れているんだが……。


2018.8.2 (Thu.)

せっかく東京23区内で暮らしているのに、オレって東京23区についてきちんと把握していないよなあ……。
よし、今年は夏休みを利用して、東京23区をくまなく歩きまわってみよう! まずはやっぱり、千代田区からだな!

というわけで、突如始まりました「TOKYO SWEEP!! 23区編」! この企画、なんと9年ぶりである。
しかもこれ、多摩地区の4市だけやって以来ずーっと放ったらかしという惨状だったが(→2009.11.3)、
今ここに復活なのである。昼間が暑すぎて部活が夕方からじゃないとできないので、それを利用して昼に歩こうと。
それでいろいろ下調べした結果、東京23区を理解するにはむしろ大東京以前の15区時代からチェックすべきと考えた。
役所マニアとしては、15区時代の区役所があった場所を押さえつつ、各区の特徴をつかんでいこうというわけだ。
記念すべき第1回は、「千代田区の南部、旧麹町区を歩きまわる」の巻である。いざ、はじまりはじまり。

そもそも、麹町区役所ってどこにあったのか。ネットで調べてみるが、どうもイマイチすっきり結果が出てこない。
古い地図と照らし合わせて気合いで調べた結果、どうも麹町警察署の隣らしい、と判明。半蔵門駅から直行すると、
そこはゼネコン・錢高組の本社なのであった。どのような経緯で旧麹町区役所が錢高組へと変化したのかは不明。

 
L: 旧麹町区役所跡地にある(と思われる)錢高組の本社。  R: 麹町区の歴史を語る要素は何もない……。

なんともすっきりしないスタートだが、気を取り直して千代田区・旧麹町区エリアの名所めぐりを開始する。
半蔵門から内堀通りを南下していくと、すぐに国立劇場。新春の歌舞伎を観てから10年が経つのか(→2008.1.13)。
国立劇場の建物は、公共建築百選とDOCOMOMOの両方に選ばれている。設計に際してはコンペが行われており、
竹中工務店(岩本博行)の案が当選。正倉院でおなじみの校倉造をイメージした外観が和風モダニズムということだ。
1966年の竣工だが、あまり古さを感じさせない外観である。しっかり金をかけて整備されているんだろうなあ。

 
L: 国立劇場の敷地入口。少し奥まった位置にあり、緑の壁がある。  R: 国立劇場。この角度しかないわな。

国立劇場のすぐ南隣にあるのが、最高裁判所。こちらも公共建築百選である。設計者選定のコンペが開催され、
ゼネコン・鹿島に所属する岡田新一の案が当選。しかしゼネコンは設計と施工を一体とするのが基本であり、
そうなると公共建築の公平性が保てない。結果、岡田はこの作品を機に建築家として独立することになる。

  
L: 最高裁判所。用がないと中に入れないのが残念。公共建築をどこまで一般に開くか、は民主主義のテーマである。
C: 南西側、首都高の下から見たところ。司法の最高機関だが、威圧的ではないかという批判もあったデザイン。
R: 裏手の西側はこんな感じ。ちなみに、最高裁判所の施工は結局、鹿島が担当している。1974年竣工。

最高裁の手前・三宅坂の交差点には小さな公園があり、日本電報通信社(現・電通)による広告記念像がある。
実はこの場所、渡辺崋山の生誕地とのこと。蛮社の獄で田原に蟄居を命ぜられるまでこの地で過ごしたとか。

 会社創立50周年を自祝して平和を象徴する広告記念像を東京都民に贈る、と。よくわからん。

そのままぐるっと北へとまわり込んで、平河天満宮に参拝する。太田道灌が菅原道真の夢を見たことで創建し、
徳川秀忠による江戸城の拡張を受けて現在地に遷座した。オフィスばかりの中、貴重な歴史の証人となっている。

  
L: 平河天満宮。傾斜がある土地にオフィスがこまごまと建ち並ぶ中、がんばって近世以来の歴史を守っている。
C: 境内北の三殿宮。大鳥神社・塩神社・浅間神社からなる。  R: 南には平河稲荷神社。いろんな要素が詰まっている。

平河天満宮のすぐ裏手には高野長英の蘭学塾があったので、よく参拝に訪れたそうだ。また、塙保己一も参拝した。
天満宮ということで学問の神様なのは当然として、どちらもとてもご利益のありそうなビッグネームの参拝者である。

 
L: 拝殿。  R: 本殿を覗き込む。

参拝を終えると三宅坂に戻って憲政記念館へ。こちらは「尾崎記念会館」という名称でDOCOMOMO物件となっている。
かつては加藤清正が屋敷を建て、幕末には井伊直弼が暮らした場所で、戦前には参謀本部・陸軍省が置かれていた。
なお、ここには国土地理院の前身である陸地測量部もあったことから、構内には日本水準原点もあるとのこと。

  
L: 憲政記念館(尾崎記念会館)。国会前庭の北端にあり入るのに少し緊張するが、博物館的施設なので遠慮は無用なのだ。
C: 敷地内に入って建物を眺める。なるほどこれはモダニズム。  R: 少し奥に進んで振り返る。デッキもまたモダニズムだ。

尾崎記念会館として1960年に竣工し、1972年に衆議院に寄贈されて憲政記念館となった。設計は海老原一郎で、
建物は非常にモダニズム。特にエントランス周辺というか池の辺りは、昭和における気品を大いに感じさせる。

  
L: エントランス。天井、ちょっと持ち上げた建物、黒いサッシュなど、モダニズムの要素がわかりやすく体感できる。
C: 池。真ん中で取り残されているのは尾崎行雄の像。  R: 内部の様子。工夫はないが、まあこれもまた昭和な感じ。

せっかくなので展示を見ていくが、正直やや微妙である。というのも、テーマがボヤけた感触があるから。
たとえば僕が社会科の教員として生徒を連れてきた場合、どこにフォーカスさせるべきかと考えると、散漫なのだ。
まず対象年齢がよくわからない。そして三権分立の意義をガツッとやるのか、日本の議会の仕組みを紹介するのか、
歴代首相の足跡を振り返るのか、非常に中途半端な内容となっている。いくらでも面白くできるはずなのにねえ。

  
L: 展示室。外に比べると内装はイマイチな印象だなあ。  C: 議場体験コーナー。小学生がふざける以外の用途が思いつかん。
R: 「平成30年夏休み企画・よみがえれ!幕末明治の時空選挙」。やるんならこれをしっかり一部屋とってやったらどうなんだ。

憲政記念館から西へ行くと国立国会図書館。実は一度も入ったことがない。だからどんなところか具体的にわからない。
大学時代のゼミ論文が収められているんだかいないんだか。いずれきちんと中を見学して、確認してみたいものだ。

 
L: 国立国会図書館。  R: 国会議事堂。国会は国権の最高機関であり、国の唯一の立法機関であるぞ。

しかしさすがは永田町、あっちもこっちも重要な施設ばかりである。そしてそんな永田町に鎮座するのが日枝神社。
前にも参拝したことはあるが(→2015.11.27)、千代田区スペシャルということであらためて参拝するのである。
日枝神社の御守は守袋と中身が別だが、その守袋がとことん日焼けに弱くて色落ちが激しいのだ。あらためて頂戴する。

  
L: 今回は邪魔が入らずに山王男坂の鳥居を撮影することができた。  C: 神門もリヴェンジ。  R: 拝殿。

港区との境界を南に下って、霞が関ビルディング。こちらは1968年竣工で、日本最初の超高層ビルである。
設計は山下寿郎設計事務所。DOCOMOMO物件ということで訪れたが、そりゃ超高層ビルだから撮影しづらいよね。
敷地が傾斜地なのでまた大変。道も狭い。いちおうシャッターを切ったけど、とても上手く撮れた気がしない。

  
L: 南側、坂の下から見上げる霞が関ビル。これこそが日本の超高層ビルの元祖であり、高度経済成長の象徴ってことか。
C: 意地でファサードを撮影。  R: 北側、坂の上から見たところ。もはや周囲のビルの方が高いが、誇らしげである。

霞ヶ関の方に入ってもうひとつDOCOMOMO物件を訪問。外務省庁舎である。こちらはコンペで設計者が決められ、
当時郵政省に在籍していた小坂秀雄の案が選ばれた。北庁舎が1960年、中央・南庁舎が1970年の竣工である。

  
L: 外務省庁舎。左が中央・南庁舎、右が北庁舎。  C: 中央・南庁舎。こちらの方が微妙に青く、北庁舎よりやや簡素。
R: 北庁舎。1階のピロティとガラス張りロビーがオシャレ。サッシュもモダン。使われているタイルにもこだわりを感じる。

皇居の方へと歩いていくと、反対側に法務省旧本館。オフィスビルばかりの霞ヶ関で、独特の風格を漂わせている。
竣工は実に1895(明治28)年であり、設計者はお雇い外国人のヘルマン=エンデとヴィルヘルム=ベックマン。
空襲で焼けた内装以外は国指定重要文化財で、法務総合研究所・国立国会図書館支部法務図書館として利用されている。

 
L: 法務省旧本館(旧司法省庁舎)。明治の近代化を象徴する建物である。  R: 角度を変えて覗き込む。

皇居を左手に見ながらそのまま歩いて東京都立日比谷公園へ。こちらは都市公園100選に選出されている。
日本の公園の歴史は1873(明治6)年の太政官布告に始まるが、上野公園・芝公園など寺社の境内を公開する、
という形がほとんどだった(この件については新潟の白山神社のログでも書いているなあ →2018.4.1)。
ぶっちゃけこれは廃仏毀釈の動きと連動するもので、近代化とともに広大な寺の土地が削られた格好である。
しかし日比谷公園については事情が異なる。江戸時代には江戸城の目と鼻の先ということで上屋敷が並んだが、
もともとは日比谷入江と呼ばれた海であり、江戸に移ってきた徳川家康が埋め立てて陸地となった場所なのだ。
そのために地盤が悪く、明治になると陸軍近衛師団練兵場を経て、官庁の建設も計画されたが実現しなかった。
その後、公園としての利用が提案され、軍から東京市に土地が払い下げられ、整備が始まったという経緯がある。
日本人が「公園」というものをゼロからつくるのは初めてのことで、設計段階からかなりの試行錯誤があった。

  
L: まずは北西端にある三笠山からのスタート。標高9mで、公園を造成した際の残土でつくったという話。
C: 自由の鐘。フィラデルフィアのやつのレプリカで、憲法発布を記念してアメリカの市民有志から贈られたとのこと。
R: 健康広場。実にふつうの公園っぽい光景で、ノーヒントならこれが天下の日比谷公園とは思えないでしょう。

  
L: 第一花壇にて。この辺りはいかにも洋風な雰囲気。高低差がなく幾何学的なフランス式庭園の趣である。
C: 旧日比谷公園事務所。1910(明治43)年築、設計は東京市の技師・福田重義。  R: 角度を変えて眺める。

  
L: 北東端の心字池。堀の一部をそのまま残して池とした。かつては日比谷御門があり、日比谷見附の石垣が残されている。
C: すぐ隣はフランス式の第一花壇だが、この一角は思いっきり和風。それが日比谷公園の面白さだ。サギもいますな。
R: 石垣の上から見た心字池。目の前の公園を見下ろし、遠くにビルを望む。ベンチでくつろいでこの景色とは贅沢だなあ。

実際に歩いてみるとわかるが、日比谷公園は日本初の「設計された公園」ということで、複数の要素が混じっている。
日本において「公園」という概念は近代になって生まれたものだが(吉宗の飛鳥山公園は特殊な例だ →2002.8.31)、
日比谷公園は西洋の要素を大いに採り入れながらも和の庭園をしっかり同居させており、見事なバランスを保っている。
あらゆる要素が含まれ、最初の作品にしてすでに完成されている感触だ。さすがは皇居の目の前、千代田区の都立公園。

  
L: 野外小音楽堂。日本最古の野外音楽堂とのこと。  C: 大噴水。このアスファルト空間は改善の余地があるなあ。
R: 第二花壇から見る帝国ホテル東京新本館。ベンチがずらっと並んでおり、いかにも日比谷公園的な一角って感じか。

あちこち見てまわりながら園内を南下していくが、やはり多彩な顔を持っている公園である。ただ、東側と比べると、
西側の方がちょっと雑というか、木々が鬱蒼と茂るに任せている印象。日比谷公園の東は民間企業のビルが並ぶが、
西は霞ヶ関の官庁街である。イメージが大事な民間とぶっきらぼうな官庁街、その差が園内に微妙に現れていると思う。

  
L: 第二花壇から南側、日比谷公会堂方面を見る。「花壇」というよりは、ただただ広大な芝生ですな。それはそれでいいけど。
C: つつじ山方面。公園の西側はわりと野放しな印象。  R: 南西端、かもめの広場の噴水。言われて初めてカモメとわかる。

日比谷公園の南側には重要な建物が並んでいる。残念ながら有名な日比谷野外大音楽堂には入れなかったが、
その東にある千代田区立日比谷図書文化館を一周しながら撮影。かつての都立日比谷図書館で、DOCOMOMO物件なのだ。
1957年竣工で、設計は東京都建築局(高橋武士、建築モード研究所の創設者)。上から見るとほぼ正三角形であり、
非常に特徴的な建物である。かつてはちょこちょこと本を借りたものだが、都立図書館が個人貸出をしなくなった関係で、
日比谷図書館は千代田区に移管された。その後は長期改修していたこともあり一度も中に入っていない。入らなきゃなあ。

  
L: 千代田区立日比谷図書文化館(旧都立日比谷図書館)。やはりこの角度から見るとすごいインパクトだ。モダンである。
C: 背面(と言えるのか?)。  R: 南側エントランス。まあ確かにサイズ的には都立よりは区立の図書館なんだよなあ。

そして南東端が日比谷公会堂。厳密には南北で2つに分かれており、北側が日比谷公会堂で南側は市政会館らしい。
東京市長だった後藤新平が提案し、安田善次郎が資金を寄付して建設。指名コンペで佐藤功一が設計者となった。
1929年竣工ということで、実にアール・デコ。ゴシック建築をアール・デコでやったらこうなる、という傑作である。

  
L: すぐ手前の歩道から見たところ。  C: 国会通りを挟んで西から眺める。  R: 正面から。これは美しいなあ!

  
L: 内幸町の交差点付近から。  C: 東から見る。左の入口には「市政会館」とあり、日比谷公会堂との区別がうかがえる。
R: 公園内、北東から見たところ。なるほど、こちら側のてっぺんには「東京都 日比谷公会堂」の文字が掲げられている。

これでいちおう日比谷公園についてはおしまい。続いては公園に面しているDOCOMOMO物件をクローズアップする。
まずは日比谷公会堂の東に位置するNTT日比谷ビル(日比谷電電ビル)だ。こちらは公共建築百選にも選出されている。
竣工は1961年で、設計は日本電信電話公社施設局建築部(國方秀男)。逓信建築の伝統を受け継ぐオフィス建築だ。

  
L: NTT日比谷ビル(日比谷電電ビル)。めちゃめちゃモダンスタイル。ベランダの格子が独自性を持たせていると思う。
C: 正面なのかよくわからないが、とにかく日比谷公園側から見たところ。  R: 北西から見る。端正なもんだなあ。

帝国ホテルを挟んで北にあるのは日本生命日比谷ビル・日生劇場。こちらもDOCOMOMO物件となっている。
設計者は村野藤吾。1963年竣工で、ひとつのビルにオフィスと劇場を同居させるのはかなり画期的なことだった。
しっかりと金をかけてくれる企業と村野の相性は抜群で、どこか手作り感のあるモダニズムが見事に炸裂している。
よく見ると窓のところはオーダーになっているが、うまく簡素化してキッチュにならないギリギリをいっている。
古典様式の反復は大阪の新歌舞伎座(初代 →2009.11.22)でもやっていたが、村野の特徴のひとつと言えそうだ。

  
L: 日本生命日比谷ビル・日生劇場。なるほど、こりゃいかにも村野だ。  C: 角度を変える。  R: 南面、帝国ホテル側。

そのまま北上して皇居外苑に行ってみる。意識して訪れるのは初めてか。「皇居外苑」とは皇居前広場のほか、
北の丸公園や内堀沿いの緑地も含むとのこと。戦後に国民公園として開放されたそうで、民主主義的な気合いを感じる。
1904(明治37)年完成の楠木正成像は南朝リヴァイヴァルで建てられたに決まっているんだけど、いいシンボルだ。
かつて海だった堀、江戸城の石垣、楠木正成像、そして開放された公園。さすがに歴史の厚みがものすごい場所である。

  
L: 日比谷濠と丸の内周辺を眺める。徳川家康以前にはそのまま海だったんだよな。  C: 皇居外苑。芝に松ってのが独特だ。
R: 楠木正成像。別子銅山の開山200周年記念に住友家がつくったとのこと。正成が高村光雲、馬が後藤貞行という合わせ技。

丸の内に入る。まずはDNタワー21、かつての第一生命館を押さえる。終戦後にGHQ本部が入ったことでも知られるが、
1993年に再開発で後ろに高層棟が建ち、その2年後には前側の改装が完了。元の建物は1938年竣工で完全にモダニズム。
よく雰囲気を残しているが、逆にモダニズムだったから後ろに高層棟を取っ付けやすかったのではって気もする。
これと対照的なのが明治生命館で、「明治生命保険相互会社本社本館」として国指定重要文化財になっている。
昭和の建造物として初で(1934年竣工)、わりと最近の建物なのに驚いた。設計者は岡田信一郎・捷五郎の兄弟。
こちらも改修されているが、隣に30階建てのビルを建てることで全面保存。同じ生命保険会社でも思想の違いが興味深い。

  
L: 堀越しにDNタワー21。シンプルで機能的なデザインがマッカーサーの選んだ理由とか。第一生命は合理的な社風なのかな。
C: 明治生命館。竣工は第一生命館の4年前だが、こちらはガチガチに古典主義。  R: 今の時代に全面保存は偉いと思う。

そして忘れちゃいけない三菱一号館。これは経緯がかなり面倒くさい。まず、現在の建物は2009年の竣工。
前にcirco氏と訪れたことがあるので、中の美術館などについてはそのときのログを参照してください(→2012.11.3)。
三菱一号館は、ジョサイア=コンドル設計で1894(明治27)年竣工の三菱旧1号館(後に東9号館と改称)を再現したもの。
1967年に三菱地所が旧1号館を解体する方針を示したため、文部省は貴重な明治の洋風建築が失われてはいかんと、
慌てて重要文化財指定の申し入れを行った。これに対して三菱地所は無断で取り壊すことはしないと表明したものの、
翌年に抜き打ちで解体して地上15階建ての新たなビルを建ててしまった。移築保存向けに一時保管した部材も結局は廃棄。
しかもこれで話は終わらない。2004年に再開発計画が持ち上がり、旧1号館を再現することが決められた。それはいいが、
この計画に丸ノ内八重洲ビルヂングの解体が含まれていたのがまた問題。丸ノ内八重洲ビルヂングは旧1号館の隣で、
これはこれで1928年竣工の近代建築。感じとしては日本橋野村ビルディング(1930年竣工、DOCOMOMO物件)に近い。
一度壊した歴史的建造物を再現するために別の歴史的建造物を壊すという、ワケのわからん事態になってしまったのだ。
もちろんこの計画も強行されて丸ノ内八重洲ビルヂングは解体され、現在の姿ができあがったわけだ。ニンともカンとも。

  
L: 三菱一号館。手前の地下通路工事がクッソ邪魔。ちなみに美術館としての利用が決まったのは着工直前だってさ。
C: 交差点越しに見る。丸ノ内八重洲ビルヂングとの共演を見てみたかった。  R: 背後の丸の内パークビルディングと併せて。

いったん有楽町方面へ。今はビックカメラ有楽町店として定着している元そごう、読売会館を無視できないではないか。
設計はもちろん村野藤吾、1957年の竣工。三角形という特殊な敷地にきれいにハマったデザインで、見るたび感心する。
駅に面した鋭角部分を入口にすることで、ほかの建物にはありえない特徴を持たせている。昭和の冒険心の象徴だねえ。

  
L: 読売会館(ビックカメラ有楽町店)。  C: JR側から見るとカーヴがまた美しい。  R: 有楽町駅国際フォーラム口から。

そしてそのまま東京国際フォーラムへ。詳しいことは以前かなり気合いを入れて書いたのでそちらを参照(→2010.9.11)。
かつての東京府庁・東京市役所が置かれた場所で(東京市役所は東京府庁舎内に開設)、東京都庁も元はここだった。
1957年に丹下健三のモダニズム都庁舎が建てられたが、すでに都議会議事堂が建てられていたり分庁舎があったりで、
規模は大きくなかった。その後、鈴木俊一知事の下で淀橋浄水場跡地、超高層ビル群の売れ残り区画への移転が決まる。
で、移転計画が発表された1985年から一貫して跡地利用として提案されていたのが、東京国際フォーラムなのだ。

  
L: 東京国際フォーラムはラファエル=ヴィニョーリ設計、1996年竣工で翌年オープン。こちらが有楽町側である。
C: 通路空間。台形の敷地に対して大小4つのホールと紡錘形で囲んで構成し、中を通路とする案は本当に絶妙であると思う。
R: 紡錘形のガラス棟。船をイメージして構造を露出させている。これもまた巧い。旧都庁時代からの太田道灌像はこちら。

 
L: 東京駅側には東京府庁舎跡の旧跡案内板と石碑。  R: 「東京府廰舎」と刻まれた石碑。今に残るのはこれだけ。

北上するとJPタワー。吉田鉄郎設計の旧東京中央郵便局舎(1933年竣工)を利用した低層棟は、KITTEでおなじみ。
中に入ったことは数えるほどしかないが、背面をアトリウムとしているのは壮観そのものであった(→2014.11.3)。
東京中央郵便局としてはDOCOMOMO物件だったけど、現在の扱いはどうなんだろう。もちろん大きく改修しているが、
元あった建物の外観をリニューアル保存しつつ、商業施設として大胆に換骨奪胎した手法は非常に鮮やかだと思う。

  
L: まずは背面から。ガラス張りの新しい建物がくっついていますね。  C: 東京駅側から見る。往時の雰囲気がよく残る。
R: 北側。いかにも吉田鉄郎って感じ。逓信建築の全盛期、「モダン」という言葉が本当によく似合う。壁面の時計がいいなあ。

ようやく東京駅に到着である。1914(大正3)年に竣工、設計は辰野金吾・葛西萬司で、国指定重要文化財である。
空襲で大きな被害を受けたが1947年に修復し、以後長らくそのままの姿でいた。だから南北のドームについては、
中央に合わせて台形だった頃の方がしっくりくる感覚も正直ある。しかし半世紀以上の放置を経て2000年に復元決定。
東京駅の容積率を丸の内の高層ビルに売却することで工事費用を調達するというウルトラCが敢行されたのであった。
工事の完了は2012年で、circo氏と見に行ったもんよ(→2012.11.3)。開業100周年Suica騒動とか懐かしいなあ。

  
L: 東京駅。復元工事とともに周辺も大胆に整備されて、だいぶ観光地っぽい感触になった。悪いこととは言わんけど。
C: 角度を変えて眺める。容積率売却で周りのビルが高くなったから日陰になりやすくなっちゃったんだよなあ。
R: あらためて眺めるJPタワー。低層棟の後ろに200mの高層棟を取っ付けたのは、東京駅の容積率のおかげってわけだ。

 新丸の内ビルディング。これも東京駅の容積率による。デザインはマイケル=ホプキンス。

以上でいったん終了。徒歩で動いているし、夕方からは部活なのでな。でも後日の旧麹町区補完分をここで出します。

というわけで、旧麹町区の西側に戻る。法政大学の市ケ谷キャンパスからのリスタートなのだ。
ターゲットはDOCOMOMO物件である法政大学55年館・58年館。取り壊される直前にギリギリ滑り込んだ感じである。
というか、すでに工事が始まっており入れなくなっている箇所がチラホラ。サボっていた自分が悪いが、悔しいなあ。

  
L: 法政大学55年館・58年館。幅広な建物に見えるが、実は向かって右が55年館、左が58年館で、2つの建物を継ぎ足したもの。
C: 角度を変えて眺める。手前が58年館となる。右端の異物は会議室棟。  R: 会議室棟。すでに囲まれてしまっているな……。

その名のとおり1955年と1958年に建てられた施設で、設計は当時法政大学の工学部建設工学科教授だった大江宏。
長く法政大学を象徴する建物だったそうだが、この美しさを目の当たりにするとそれは当然のことだろうと思う。
いつまでもずっと見ていられる端正なモダニズム。周囲によけいな建物がなけりゃ最高だが。個人的には会議室棟も邪魔。
日建設計の笠岡市役所と似たデザインと感じる(→2014.7.23)。あれも1955年竣工だ。笠岡もDOCOMOMOにしてくれ。

  
L: 会議室棟。階段で下りてアプローチする。  C: 55年館・58年館の表面。  R: 背面。大胆なスロープが見える。

しかし上述のとおり、新たな校舎を建てるために解体工事が始まっている。2019年に竣工予定で、それに合わせて、
市ケ谷キャンパス中央広場を整備する計画だ。僕の母校には兼松講堂に代表されるロマネスク様式の建築はあるが、
きちんと考えたモダニズム建築はない。武蔵野の原生林の中にひとつくらいある方がいいだろうに、と思っている。
だからこの大傑作を取り壊すのは、いかにも入学希望者を増やすことしか考えない私立大学らしい姿勢だな、と感じる。
デザイン的に、狭い中では輝かない建物で、周囲にどんどん新しい建物をつくって埋没させてしまったのが痛い。

  
L: 中にお邪魔する。  C: ある意味、昔の大学らしい暗さ。それにしても狭いな。  R: 55年館。書体がいいなあ。

法政大学のすぐ南が靖国神社。前にも書いたが、僕は靖国神社に対していい感情を持っていない(→2007.8.15)。
靖国神社は単立の宗教法人で、ふつうに宗教団体として扱うべきで、特別な意味づけは必要ないと思っている。
もちろん亡くなった人に対する哀悼の意を否定するつもりはまったくないが、その合祀の基準には疑問がある。
宗教色のない、敵味方の区別のない追悼施設がつくれりゃいいのだが。まあでも、来たからにはちゃんと参拝する。

  
L: 靖国神社。よく考えると、ここも明治の「神宮」と同じ感覚で整備されたスケール感を持っている神社なのだ。
C: 大村益次郎像。高すぎて頭の形を確認できないのが残念。  R: 亡くなった人を祀る神社なんだから、静かに参拝しよう。

田安門から日本武道館へ。実はあまり来る機会がなく、昨年の夜に見てその威容に驚いたのであった(→2017.11.25)。
あらためて眺めるが、中はまたすごいんだろうなあと思う。そのまま北の丸公園を南下して科学技術館(→2011.1.30)。

  
L: 田安門(櫓門の方)。  C: 日本武道館。山田守が設計した東京オリンピックの柔道会場。  R: 科学技術館。

千鳥ヶ淵の手前、東京国立近代美術館工芸館にも寄る。1910(明治43)年竣工の旧近衛師団司令部庁舎である。
あらためてきちんと撮影しようと思ったが、すぐ南に首都高があるせいもあって、すっきり撮影ができなかった。
せっかくの建物なのにもったいない。代官町通り越しだとちょっと遠くなるし。せっかくなので中も見学するが、
工芸館としての機能は2020年に金沢市に移転予定。今後この建物をどう活用していくか、気になるところである。

  
L: 東京国立近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部庁舎)。  C: とりあえずこれがベストということで。  R: エントランス。

  
L: 中に入る。展示室は2階。  C: 踊り場にて。これは美しい。  R: 内装はかなりいじっている模様。残念である。

北の丸公園を清水門から抜けて堀の外に出る。ここから日本橋川(上を首都高5号線が走る)までの間は旧麹町区。
堂々としたビルが並んでいるためか、すぐ東隣の神田とはやはりどこか雰囲気が異なる。首都高も壁になっている印象。

 清水門。田安門もそうだが、手前の高麗門と奥の櫓門で桝形になっている。

この狭いエリアにあるのが千代田区役所。11年前の23区一筆書きチャレンジでも訪れているが(→2007.6.20)、
そのときは現庁舎に移転した直後だった。あらためて国合同庁舎・図書館とセットでつくった千代田区役所を撮影。
ちなみに役所広司は千代田区役所に勤めていたから「役所」って芸名を仲代達矢に付けられたんだぜ。クイズベタね。

  
L: 西から見た千代田区役所。1階から8階がいわゆる役所で、9階と10階が図書館。11階から23階までは国合同庁舎。
C: 正面から見たところ。  R: 南側から眺める。なお、図書館が区役所内に入るのは先代からのことだとさ。

  
L: 前庭空間。  C: あらためて足元をクローズアップ。  R: 手前の都道の植木と一体化させて緑を増やしている。

  
L: 1階の中はこんな感じ。手前のエレヴェーターが高い階の国合同庁舎行き、奥が低い階の千代田区本庁舎の分。
C: 反対側から見たところ。この中の図書館には前に来たことがあるなあ。  R: 旧庁舎の跡地には九段坂病院が移転。

さて、九段といえば九段会館。帝冠様式の代名詞とも言える存在だ。「軍人会館」としてオープンした施設であり、
戦前の価値観を象徴する建物として極めて重要だが、東日本大震災による天井崩落事故によって休館となった。
そして現在は解体工事が進んでいる真っ最中である。不幸な事故だし、戦前の軍国主義へのトラウマもわかるけど、
空間の記憶というものは非常に脆いものだ。長い目で見るとこれは取り返しのつかないことであると感じるが……。

  
L: 南東側から見た九段会館。  C: 九段下の交差点から。いつもの構図だけど、下半分が覆われてもう見えない。
R: 靖国神社脇の歩道橋から見た九段会館。過去を消し去ることはできないから、前向きに捉えてほしい建築だったが。

以上をもちまして、旧麹町区の冒険は終わりとさせていただきます。いやあ、歩くのも書くのも大変だった。
まあでも天下の千代田区、それも皇居のある側だから、凄まじい手間になるのはわかっていたけど。これが限界。

 首都高5号線をくぐって日本橋川を渡り、旧神田区へ入る。

では千代田区のもう半分、旧神田区編へ……。果たして書き上がるのはいつになるやら。ニンともカンとも。


2018.8.1 (Wed.)

青春18きっぷを利用して、めがね橋に挑んできました。正式名称を「碓氷第三橋梁」という重要文化財である。
実はこちら、公共交通機関だと訪れるのが大変だ。おぎのや帝国でおなじみの横川駅と軽井沢駅を結ぶバスがあるが、
めがね橋があるのは国道18号の碓氷バイパスではなく旧道の方なので、時期限定で一日1本しか便がないのである。
このバスと青春18きっぷが上手くリンクするのがちょうど今の時期だけということで、なんとかチャレンジしたしだい。

横川駅発の便は11時10分で、午前中にある程度の余裕がある。それなら信越本線で途中下車だ、ということで、
群馬八幡駅から歩いて上野國一社八幡宮に参拝する。炎天下の住宅地をのんびり歩いていくと、大きな門が現れた。

  
L: 上野國一社八幡宮。見てのとおり、境内は周囲より一段高い場所にある。  C: 神門(旧仁王門)。こりゃ山門ですな。
R: 石段を上っていくと随神門。朱色というよりは赤い色合いが個人的には少し残念だが、この神社の特徴と言えばそんな感じ。

随神門を抜けて拝殿と向き合うと、しっかりと歴史を感じさせるその迫力に思わず声が漏れてしまった。
悪く言えばあまりきちんと改修をしていない感触なのだが、本物ならではの質感に見とれてしまう。
さらに本殿を覗き込むと、そこには見事な彫刻。群馬県の神社は一宮の貫前神社(→2014.9.13)といい、
榛名神社(→2016.3.30)といい、妙義神社といい(→2017.9.9)、凝った社殿がわりと特徴的であると感じる。
それらと比べると知名度はやや落ちるが、こちらの上野國一社八幡宮もそういう雰囲気をしっかりと持っている。

  
L: 拝殿。手前の灯籠と合わせてかなり重厚な印象。  C: 拝殿の中で横向きに撮影。これは実に立派だ。
R: 本殿を覗き込む。上野國一社八幡宮の社殿は1750(文化11)年もしくは1757(宝暦7)年の築とのこと。

無事に御守が頂戴できたが、なかなか興味深い建築群だった。群馬県の神社は社殿も凝っているものが多いが、
山がちな地形もあってか、境内じたいも高低差が大きいケースが目立つ(上記3つの神社もまさにそうである)。
なんとなく「群馬県らしい神社」が感覚的につかめてきた気分である。面白がりながら駅まで戻るが、とにかく暑い。
横川行きの列車が来るまで、駅舎内で水分補給しておとなしく過ごす。少林山達磨寺を目指す余裕はなかった。

  
L: 神楽殿。赤一色なのが神仏習合の匂いを漂わせていると感じる。  C: 少し離れて天満宮。コンパクトに美しい。
R: 参道を南下して碓氷川沿いの国道18号に面するところに大鳥居。地元ではかなり存在感のある神社なのだと実感。

列車がやってくると、そのまま終点の横川駅へ。メシを食うには中途半端な時間しかなく、素直にそのままバス乗り場へ。
乗客の数は思っていたよりもずっと多く、バイパス経由の便よりも時間のかかるこの便にわざわざ乗るってことは、
めがね橋目的の好き者がけっこういるのかな?と思ったら、下車したのは自分ひとりなのであった。そんなもんかね。

さて、本日のメイン・エベントであるめがね橋である。左サイドの席だったのでバスの車窓からだとわからなかったが、
バスを降りてびっくり。目の前に巨人が立ちはだかっているような迫力である。ここまで規模が大きいとは思わなかった。
川底からの高さで31mあるそうで、これが純粋にレンガでつくられている。こんなの、さすがに今まで見たことがない。

  
L: 「めがね橋」こと碓氷第三橋梁。さすがにこの規模のレンガ建造物を見るのは初めて。とにかく度肝を抜かれた。
C: 正面から見据えたところ。絵になりますね。  R: 下から見上げてみた。まさに巨人が立ちはだかっているかのよう。

カーヴを描く道路の端っこからスロープを上がっていくと、階段になってぐるっとまわり込み、めがね橋の上に出る。
かつてアプト式のレールが敷かれていためがね橋の上は、今は遊歩道として自由に歩けるようになっているのだ。
さっきバスを降りたのは僕ひとりだったが観光客は意外と多く、人の写り込まない写真を撮るのはけっこう大変。

  
L: トンネル出口から眺めためがね橋。かつては信越本線が走っていたのね。  C: 橋梁じたいの勾配もかなりのもの。
R: めがね橋の上はこんな感じの遊歩道となっている。めがね橋の全長は91m、1893(明治26)年の竣工である。

せっかくなので、めがね橋の上だけでなく、それに続くトンネルも歩いてみた。さすがにひんやりとしている。
6号トンネルは全長546mもあるが、それだけの長さをがっちりとレンガが守っている手間がまたすごい。

  
L: 碓氷第三橋梁の先にある6号トンネル入口。いざ出発。  C: 中はこんな感じ。レンガが頼もしいぜ。
R: 途中にはこんな穴も開いている。横から穴を開けて何箇所も同時並行で掘り進めることで期間を短縮したそうだ。

時間的にも余裕があるので、遊歩道の終点である熊ノ平駅跡まで歩いていっちゃうことにした。たーのしー!

 
L: こちらは碓氷第四橋梁。いったん下に降りて撮影してみた。  R: トンネルの入口デザインもいろいろである。

15分ちょっとで熊ノ平駅跡に到着。1950年に大規模な土砂崩れが起きて50名が犠牲になったとのことで、
殉難碑が設置されている。その隣には小さい祠があり、「JR一ノ宮 熊の平神社」と書かれた看板が立っていた。
碓氷峠熊野神社(→2017.9.9)でお札やステッカーが頂戴できるそうだ。うーん、去年参拝したけど気づかなかった。

  
L: 熊ノ平駅跡。のちに駅から信号場に降格したそうだ。  C: 熊の平神社。「JR一ノ宮」とは面白い表現だ。
R: ホームの跡には石碑が建っている。かつて駅だった面影は、もはやあんまりない。僕の鉄分が少ないからかなあ。

しばらく辺りを散歩して過ごしているうちに、気が変わった。というのも、さっき往路で横川駅を出たバスは、
峠の湯という温泉施設を経由してから旧道をめがね橋まで進んでいったのである。……温泉! 入っちゃえ!
というわけで、帰りは遊歩道を一気に下って峠の湯を目指すことにした。3kmちょっとの下り坂、大したことはない。

 
L: 熊ノ平駅跡から軽井沢方面を眺める。  R: 振り返って熊ノ平駅跡方面。秘境駅の雰囲気ですね。

さっき書いたように、旧道経由のバスは一日1本。温泉の後はそれに乗って横川駅まで帰ればいいのである。
高崎駅で、あえておぎのやの釜めしではなくだるま弁当を買っておいて正解だった。重さがぜんぜん違うもんね。
快調に下ってトンネルを10個抜けていくと、トロッコ列車の駅に出た。碓氷峠鉄道文化むらと峠の湯を結ぶ線だ。
この駅に峠の湯の裏口がくっついており、そこから中に入っていざ温泉。料金は時間制になっており、
マンガ喫茶のような感じで自分の好きなペースでくつろげるスタイルとなっている。休日のんびり過ごすのに最適だ。
とはいえそこまで余裕たっぷりというわけでもないので、さっさと入って全力でお湯に浸かってくつろぐと、
バスの来る10分前に着替えを終えてバス停で待つ。やはり客は僕ひとりだけなのであった。もったいない。

 
L: トロッコ列車・とうげのゆ駅。列車に乗るには乗車料金のほか、碓氷峠鉄道文化むらの料金も必要となる。
R: バスを待つ間、峠の湯を撮ってみた。地元で大人気の施設のようで、かなりの賑わいぶりだった。また来たい。

ところが、待てど暮らせどバスが来ない。こちとら信越本線に乗り遅れたら次の神社に行けなくなってしまうのだ。
それでバス会社に電話で確認したら、バスの車両が故障した関係で運行を取りやめてしまったとのこと。なんじゃそりゃ!
さっき往路のめがね橋で降りた客が現実にいたわけだから、一日1本の復路を運行しないとかおかしいだろう!と呆れる。
まあバス会社は代わりのタクシーを手配してくれたのでいいけどさ。でも確認したのが遅かったので列車には乗り遅れた。
次の列車を待つ間、おぎのや帝国の中心である横川駅でだるま弁当を食べるという反抗的態度に出たのであった。

帰りは北高崎で下車。高崎の先の北高崎である。ここからまっすぐ南下していったところにあるのが高崎神社。
高崎の先の北高崎の南にある高崎神社に参拝ということで、なんだかワケがわからなくなってきた。やたら暑いし。

  
L: 高崎神社入口。境内が道路の西側にあるので凄まじい逆光状態である。  C: 境内はだいぶ都市型のつくり。
R: 逆光に負けずに正面から撮影してみた。夕方16時近くになっていたので、西を向いて撮影するのは非常につらい。

高崎神社は、現在の高崎の礎をつくった井伊直政により、高崎市の総鎮守とされた神社である。
地方都市では珍しい、ビルのような構造の都市型社殿となっているのが大きな特徴と言えそうだ。
境内では結婚式場やらレストランやらを経営しており、商業都市の神社らしい合理的な面がうかがえる。

  
L: 鳥居をくぐって石段を上る。  C: 手水舎はド迫力の屋根が載せてある。  R: 本殿を覗き込む。都市型である。

また、高崎神社の境内には美保大國神社も鎮座している。なんで群馬で美保神社(→2016.7.24)なのか不思議だが、
これは世界恐慌の折に高崎市内の商工業者が事代主神を迎えたからだそうだ。神社の勧請関係は奥が深いと思う。

  
L: 高崎神社の社殿の隣には美保大國神社。こちらはふつうの社殿である。  C: 拝殿にくっついている本殿。
R: 高崎神社から見下ろしたところ。境内社にしては規模が大きく、それだけ重要視されていることがわかる。

以上で今回の青春18きっぷ日帰り旅行はおしまいである。めがね橋を訪れることができたのはよかったけど、
予定が狂って行けなくなってしまった神社へのリヴェンジもまた企画せねば。あれこれ考えて楽しむとしよう。


diary 2018.7.

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