diary 2021.8.

diary 2021.9.


2021.8.31 (Tue.)

事象に対してどのような意見を表明しようと、それは自由である。思想・良心の自由。そして表現の自由。
他人に迷惑をかけない限り自由であるが、それを正解として押し付けることはよろしくない(→2021.5.16)。
表明された意見に対して同意するのも反対するのも、受け手の自由だから。送り手が強制することではない。

暴力行為が問題になってスルッと移籍してしまった野球選手と、それを擁護するボクシング選手。
僕は当然、そんなもん日ハムも巨人もダメだろ、と思うが、だからといってボクシング選手を非難する気はない。
ただ、この件を擁護する意見が少数派であることは自覚してほしいと思う。少数派を自覚したうえで擁護せよ、と。
実はこれ、あらゆるマイノリティ問題に敷衍できることだ。サイレントマジョリティに声の大きさで訴えるのではなく、
条件闘争を仕掛けよ、ということなのだ。相手の考えを変えるのではなく、相手の視野を広げる、そういう戦い方。
議論を通して決着をつけるのではなく、議論を通して理解を深める。多数派も少数派も、そうするだけの余裕が欲しい。


2021.8.30 (Mon.)

久々の授業だけど勢いで押し切った。9月になったら学年ごとの分散登校となることが先週末に決まったので、
午後はひたすらオンライン授業の準備である。オンライン自体はいいが、授業時間がかなり短くなるのでその対応が大変。
つねにハイペースでやっていく必要があるのだが、それがきちんとできるかどうか。正直不安でござる。


2021.8.29 (Sun.)

本日が夏休みの実質的最終日。23区めぐりはそれなりに消化したものの、今年度中に終わらせるのは厳しそう。
日記もがんばって書いたが、2018年8月をクリアするのがやっと。このペースではいつ負債を完済できるのやら。
9月からの日常生活が余裕のあるものになることを祈るばかりである。もう本当にそれだけ。



2021.8.26 (Thu.)

今度は左が顎関節症である。そんなに学校が始まるのがイヤなのか。


2021.8.25 (Wed.)

自民党の総裁選がいろいろ言われておるわけですが、派閥抗争に明け暮れていた頃と比べて劣化がひどい。
あのプロレス(→2007.2.23)は、あれはあれで異常だったが、少なくとも人材はいた。頼れる候補が何人もいた。
しかし現在の与党には選択肢がない状態である。認知症丸出しのトップに対して代案を示せない与党とかありえない。
いや、マジで国士がいねえ。でも国士がいないことを政治家のせいにばかりしていては、エサをねだるヒナと変わらん。
ここまで劣化してしまった責任は当然、イメージ先行でまともな政治家を育ててこなかった国民の怠慢にある。
なんでもお任せにしてただ文句を言ってきた反省をきちんとしたうえで、熟考して1票を投じなければならんのだ。

これは僕の妄想なのだが、もしかしたら自民党は次の総選挙で下野してもいいとか思っているんじゃないか。
そうして今の野党にすべてをなすりつけるんじゃないか。原発の不備をほったらかして攻撃した震災のときのように。
読売とか産経とかは全力で足を引っ張るんだろうなあ。そしてそれに簡単に騙される単細胞のジジイとババア。
ただ時間を浪費しておいて、ほとぼりが冷めたら政権に復帰とか考えているんじゃないか。自民党はそういう集団だもん。
お先真っ暗だなあ、日本。横浜市長選で田中康夫が善戦したのは朗報だが、このレヴェルではまだまだお先真っ暗。



2021.8.23 (Mon.)

本日は歴史のディスカッション企画があったので見学させてもらう。大学入試の問題などを参考に話し合う企画。
一橋の過去問をもとに、ヒトラーとムッソリーニの共通点と相違点なんてテーマもあって、なかなか興味深かった。

生徒たちはいろいろ調べて指摘するが、それを聞いていて思ったのは、自分の興味は地政学だなあということ。
ヒトラーとムッソリーニの個人的な違いもいいが、大陸国家としてのドイツと海洋国家としてのイタリアの環境の違い、
そちらの影響の方が強いように僕は感じてしまうのだ。おそらく解答としては、地政学に寄るのはよろしくなさそう。
でもその要素をまったく考慮しないで済ませる生徒たちにはちょっと不満なのである。ワガママで申し訳ない。
GHQ占領下の日本の民主化についてもディスカッション。生徒たちは各種の政策をいろいろ評価していくのだが、
やっぱり僕は海洋国家アメリカの前線としての日本列島って考えがベースになってしまって、ズレがあって困った。

僕の場合どうしても、地図を見る(思い浮かべる)ところからスタートする。でも生徒は地図を見るという発想が皆無。
最初のところで噛み合わない感じなのだ。僕の感覚はどこまで許されるのか、どうしても不安になってしまうのだよ。


2021.8.22 (Sun.)

なかなか調子の上がらない週末となってしまった。水曜日に雨にやられて以来、リズムを完全に崩してしまった感じ。
何をやっても裏目に出てしまう感触を拭えないままで、この週末もただ空費したように思えてならないのである。
結局それはメンタルの問題で、要因はいくつかある。夏休みが終わろうとしている現実、減らないコロナの感染者数、
個人的に抱える劣等感、あとは2018年9月の旅行がイマイチ天候に恵まれなかったので筆が乗らないとか、そんなこんな。
こういうときは面白い映画やマンガで時間が過ぎるのを待つしかない。でもそれを日記のレヴューにつなげようとして、
根を詰めてしまうと調子が落ちるのだ。自分をだまして持ち上げるのにも一苦労。呆ける勇気が足りませんなあ。


2021.8.21 (Sat.)

本日やっと2018年8月の日記を書き終えたのであった。まさかこの1ヶ月分を書くのに3ヶ月以上かかるとは……。
意地でなんとか夏休み中にクリアしたけど、やはり3年前の日記をいま書いているというのは自分でもどうかと思う。
しかしせっかくの旅行の記録(とレヴュー)、きちんと書き残しておかないともったいない。日々ジレンマである。


2021.8.20 (Fri.)

1年生の夏休み論文(→2021.6.14)についての相談を受ける。こちらとしては暖かく見守るしかないのだが、
「書く」ことについてちょっと楽観的かなあとは思う。慣れない「調べる」方に気をとられるのはわかるけど、
自分の「書く」能力を客観的に捉えているか、少し不安な感触だ。自分が思っているほど「書けて当然」ではないのよ。
ふだんから書く習慣がついている人とそうでない人との間には、実はけっこう差があるものなのだ。
まあそれも含めて経験なので、気ィつけなはれや、と言って送り出す。どうなりますことやら。

しかしこうしてゼミ的相談を受けていると、やはり自分にとっては大学時代のゼミが理想なんだなあと思う。
できるだけソフトに、しかし鋭く。今までに読んだ本の中から参考になる部分を紹介し、押し付けない。
生徒の対応をすればするほど、師匠の偉大さが身にしみる。そして自分の圧倒的な勉強不足を痛感するのである。


2021.8.19 (Thu.)

天気予報でも曇り主体っぽいし、昨日を引きずって今日もイマイチかも、そう思って休みをとらずに出勤。
しかし職場の窓から眺める空は一日ずっと鮮やかな晴天なのであった。悔しくて悔しくてたまりませんぜ……。

『アメトーーク 特別編 雨上がり決死隊解散報告会』を見たので、ちょっとだけ感想を。
これは本当に、人間関係についての他山の石だなと。だから誰かに対して批判めいたことを書くつもりはございません。
つねに気を張って、自分の行いが周囲から見てどうなのか感じなければならない、という教訓を学んだ。それに尽きる。

印象的だったのはフジモンさんで、ずっと静かに怒っていたこと。そしてこらえきれず最後に号泣してしまう。
でもそれに対するホトちゃんの決意の固さが、見ていて切ない。ふたりともエンタテインメントという枠を超えて、
もう取り返しのつかないことへの本音を全身から滲み出させていたのが生々しかった。われわれは彼らから学ぶしかない。



2021.8.17 (Tue.)

TBSのニュース速報の音が怖いのだ。「パッパッ」というあの無機質な機械音がいちばん怖い。
そもそもニュース速報で伝えられる内容はネガティヴなものばかりではない。でも僕は条件反射で怖さを感じる。
原因はおそらく1985年の日航機墜落事故で、このときに一気に僕の中でトラウマが形成されたのではないかと思う。
「これは大変な事故になるぞ」と繰り返すcirco氏と、TBSのニュース速報の音と、実際の事故との規模。新聞の一面。
今もその質感がすべてつながっているようで、TBSのニュース速報の音は僕の中で格別に不安感を煽る音なのだ。
だからといって変えてほしいわけではないのね。注意を喚起する音という点では、古典的でよくできていると思うので。

あと大学時代かなあ、深夜番組を見ていると最後に「災害に備えましょう」的な映像が流れたのだが、これが怖い。
BGMが弦楽器をポロンポロン鳴らすような系統の音色(シンセサイザーだと思うが)で構成される静かな曲で、
制作者は視聴者に恐怖を与える意図がないはずなのに、不安感を掻き立てられてものすごく怖かった記憶がある。
というか、この文を書いている今も鳥肌が立っております。あのBGMは何なのか。二度と聴きたくないが気になる。

そういえばカラーバーのピー音も怖い。テレビに映っちゃいけないものが映っちゃいそうで怖いのではなくて、
あくまで音が怖いのだ。そしてそれがどれも人工音であるのはなぜなのか。「怖い音」ってのも奥が深い。


2021.8.16 (Mon.)

星里もちる『りびんぐゲーム』。小学館の電子書籍が割引になっていたので買って読んでしまったよ。久しぶりだわ。

バブル期における東京の住宅事情を背景にしつつラブコメ。途中でバブルがはじけて大変だけどラブコメ。
おかげで社会学的にものすごく興味深い。そういう点からしても価値のある作品になっていると思うのである。
1990年代初頭らしく、話は前向き。会社が自宅に来るという無茶な設定ゆえの力強さと、作者特有のテンポのよさ。
どちらかというと地方出身者の視点から東京の質感を問い直しつつ、生活と夢の行き着く先をポジティヴに探る。
やはり根底にあるのはトレンディドラマで、マンガとしての再構成をしつつも、その枠内での着地であると思う。
全10巻だが、だいたい8巻あたりでゴールの方向性は見えており、これ以降の展開はやや蛇足。引き伸ばし感がある。
その分だけトレンディに寄ってしまったのが残念なところである。まあそれは人気があったから、ということで。

しかしこの頃の小学館の青年漫画には勢いがあったなあ。いや、今も勢いがあるのかもしれないけど。
これは現状の否定ではまったくない。集英社と講談社に追いつけ追い越せな勢いが、僕は好きだったということ。
明らかに知恵を絞っている感じがあって、そこに惹かれたものである。その感覚をしっかりと思い出したぜ。


2021.8.15 (Sun.)

雨のおかげで非常に低調である。夏休み中にどれだけ23区めぐりができるかが勝負、と思っていたのに、
全国的に大雨がずーっと続いて東京も例外ではなく、まったく動けない状況のままである。困ったものだ。
それならば、雨が降っているうちに準備しておくべきことがある。次の世田谷をどう分けるか、見るべき場所はどこか。
渋谷、中野、杉並、豊島……。今のうちに策を練っておかないと、また前みたいに雑な状態になってしまう。
しかし、これがなかなか乗り気になれない。日記の画像の整理も、MP3づくりも、部屋の片付けも、
今のうちにきちんとやっておかなければそのうちそんなことを考える余裕もなくなってしまうというのに、
どれも中途半端なままでモラトリアムが終わってしまうのだ。やるべきことが多すぎて、途方に暮れて終わる。
何もやっていないわけではないのだが、物ごとが進んだ感触がしないままで8月15日。雨のせいにしても変わらない。


2021.8.14 (Sat.)

毎年恒例となってしまった大雨が、今年はお盆を直撃である。でもコロナで帰省ムードじゃない感じ。
そういう意味では混乱は少ないのだろうか。九州北部と中国がひどいようだが、被害が小さいことを祈ろう。
それにしても、全国あちこちに行ったせいで、ニュースを見ると「ああ、あそこか」とわかる場所もあって、
やりきれない気持ちになる。そしてこれを毎年日記に書いているのがつらい。なんとかならんのか、豪雨被害。

そんでもってこの豪雨の最中に、日本に上陸したラムダ株が五輪関係者から検出されていたと今ごろ認めるとか、もうね。
隠蔽するのが当たり前になっているとか、人間性がおかしい。国の行く末をこんな汚い連中に握られて、耐えられんぜ。


2021.8.13 (Fri.)

『サザエさん音楽大全』。アニメの『サザエさん』に使われる劇伴とテーマソングを詰め込んだCDを聴いてみた。
たびたび書いているが、マツシマ家は原作マンガ原理主義でありアニメを全否定するほどの過激な思想が主流であった。
しかしながら、さすがにテーマ曲やBGMを無視して生きていくのは不可能で、あらためて聴くといろいろ面白い。
それにしても「大全」とは。『神学大全』『釣魚大全』に並ぶかというと……並んでもいいかもしれんな。

オープニングもエンディングも作曲・編曲が筒美京平(→2020.10.12)ということで、ただただ恐ろしい。
劇伴は越部信義で、『おもちゃのチャチャチャ』がいちばんよくわかる代表作か。野坂昭如の作詞が有名だが。
あとは『にこにこぷん』の音楽も担当とのこと。となると、僕らは知らないうちに多大なる影響を受けているはずだ。
自由劇場の『上海バンスキング』(→2010.2.23)も担当。音楽が物語を呑み込む危険性は以前書いたが(→2021.2.15)、
それは越部氏の影響が大きかったわけだ。日常を表現するBGMとして『サザエさん』に勝るものはそうそうあるまい。

さて聴いていて思ったのは、実は『エヴァンゲリオン』の劇伴は、『サザエさん』を参考にしているということ。
シンジとアスカが同居してペンペンがいてワチャワチャするあの辺り。シンジにとっての平凡な日常を表現するにあたり、
僕らが無意識に日常を認識してしまう『サザエさん』をヒントにしているのは、ものすごく鋭いなと思ったのである。
今ごろ気づいたんでやんの、オレ。「エンディング4」「波平のテーマ1」「タラのテーマ2」あたりはそっくりな印象。
メロディの楽器の構成を同じにして、ピッコロ(フルート)と鉄琴を重ねるのが基本形である。あとはストリングス。
しかし調べてみたら、『エヴァ』で該当するのは「MISATO」の1曲だけだった。もっとありそうに思ったのだがなあ。
まあ何にせよ、ジャズを下敷きにした贅沢な演奏が聴けるのがうれしい。職人芸って感じがたいへんよいです。


2021.8.12 (Thu.)

国立新美術館でやっている『ファッション イン ジャパン 1945-2020―流行と社会』を見てきたよ。
今ごろ『ランウェイで笑って』にバカハマりしている私としては、見ないわけにはいかないじゃないか。
さて、国立新美術館では過去に『スキン+ボーンズ-1980年代以降の建築とファッション』を見た(→2007.8.11)。
けっこうな酷評だが、このとき「コム・デ・ギャルソンはなかなか面白い」という先入観を植え付つけられている。
あとは世界のファッションの総花的内容としては、熊本市現代美術館の『ファッション―時代を着る』(→2011.8.8)。
しかし今回はあくまで戦後の日本社会とファッションの連動がテーマ。非常にワクワクしながら展示を見ていく。

戦後をテーマにしているが、きちんと戦前のモボ・モガから入るのが偉い。ここだけでも展覧会がひとつできるが、
あくまで伏線という扱い。戦後の源流としてのモダンがよくわかる。1920年代の世界的な大量消費社会の到来により、
日本ではアメリカの影響を受けつつ洋装が定着していったわけだ。続く戦時中はファッション的には抑圧の時代。
実物を着せられているマネキンのスタイルがいいから、戦時中の国民服やもんぺすらオシャレに見えてしょうがない。
プロローグの段階から、結局は着こなすスタイルと姿勢なのかよ、と結論じみたものを感じてしまうのであった。

戦後の洋裁ブームでは解き放たれた躍動感が凄まじい。戦争という約15年の空白を軽々と跳び越えてみせる。
物資の不足もあるが、人々は手作りで洋装を自分のものとしていく。ここがトップダウンだった20年代との違いだろう。
ボトムアップの動きを支える存在として中原淳一・花森安治・伊東茂平らの名前が挙がる。僕としてはここに、
マンガの『サザエさん』で該当する数コマを出しても面白かったのではないかと思う。許可が出ないのかもしれないが。
日本の高度経済成長について直接的な資料はなかったが、ファッションへの熱を通してリアリティを感じる展示だった。
個人的には、アイビールックや東京オリンピックの「日の丸カラー」ユニフォームあたりが頂点だった気がする。
それすなわち、フォーマルをカジュアルにしていく漸近線が示されたということ。だから本当に面白いのは60年代まで。
今回の展覧会ではその1960年代について、「『作る』から『買う』時代へ」としていたが、正直この点は不十分。
ここは企業の商業面に踏み込まないと、「作る」から「買う」への変化の全体像が見えてこない。もったいなかった。
この位相の変化を丁寧にやると70年代の化け方も理解しやすくなるのだが、単にデザイナーの作品紹介で終わった感触。

僕自身の感覚で申し訳ないが、70年代からは「悪ふざけ」と形容したくなるようなものが表に出てくるようになる。
森英恵も山本寛斎も、海外でウケたのは所詮カウンターカルチャーゆえに成立したオリエンタリズムによるものだろう。
「ガイジン」向けの記号化と、欧米人にはエキゾチックなデザインソース。共犯関係と言えるほど対等には感じられない。
結局は西洋の古典的なコードがなければ何も成立せず、70年代のカウンターカルチャーはその手のひらで踊っているだけ。
ここにおいてファッションとは日常を離れた「衣装」となる。映画の衣装担当から台頭した森英恵の経歴は象徴的だ。
消費社会の進行によってハレとケの関係が解消されたとも言えるが。ファッションが情報として消費されるスピードは、
段違いの加速度がついた。身近な日用品とともに、ファッションのアイデアもまるで使い捨てのように消費されていく。
流行に踊らされてはいけないなあ、と思う内容だった。フォーマルのコードはあくまで流行とは別のところにあるのに、
いわゆる「ファッションの最先端」ではいかに消費させるかについてトップスピードでの戦いが繰り広げられている。
まるで光の速さで着替えを繰り返しているけど、中身は裸の王様のままで何も変わっていない、という印象である。
(参考までに、建築と消費社会の関係について書いた過去ログにリンクを張っておく。→2018.9.13

ということで、論評はここまで。これ以降、見るべきものは(僕にとっては)何もなかったので。
展示を見てわかったのは、究極的には衣服とはコミュニケーションツールであり、相手に失礼のないようにするもの。
(ゆえに野性むき出しのタトゥーは露出が憚られるわけで。場に応じて相手に合わせられることが重要だ。→2018.8.9
ファッションとは、儀礼的あるいは実用的な用途と、装飾を介した自己表現とのせめぎ合いに他ならないのであり、
われわれは場に応じてその3者のバランスについて、トレードオフの綱引きをひたすらやっているというわけだ。
(『ドラえもん』の「いいとこ選択肢ボード」を思いだす。顔か力かIQか、どれかを選ぶと他が落ちる。これと一緒。)
そうなると「ダサい」という言葉の意味が興味深い。儀礼的/実用的/自己表現、このバランス感覚を語る言葉なのだ。
しかし評価する基準は主観的かつ恣意的であり、相手を圧倒する説得力があればその服装は「ダサい」ものでなくなる。

ふと思ったのは、「飽食とファッション」というテーマ。11年前の国立新美術館では建築とファッションがテーマで、
今回も直接的ではないものの、興味深い事例があった。それはレナウン「イエイエ」のテレビCM(ワンサカ娘)で、
村野藤吾設計の旧千代田生命本社(つまり現・目黒区役所 →2021.8.5)やコマツビルを背景に踊っていたのだ。
なるほどこれが当時の感覚か、やはり建築とファッションは親和性が高いんだなあなんて思いつつ見ていたのだが、
「衣・食・住」ということで言えば建築やファッションは美術館で回顧されるが、食生活が扱われることはほぼない。
でも実際は、飽食とポストモダン建築、ファッションにおけるデザイナーの台頭は、軌を一にしていたのではないか?
「衣食足りて礼節を知る」という言葉があるのに、「飽食とファッション」という視点は今までまったくなくて、
ここはきちんと検証してみる意義はあるんじゃないかと思った。両者を関連づけて戦後を分析する企画を望みます。

読む方も疲れてきただろうけど、書いている方はもっと疲れた。なのでいつもの雑感で締めるのだ。
いろんな衣服が展示されていたが、当時の値段もつければ面白いのにと思った。おいくらなのか、重要でしょう?
高度経済成長が落ち着くまでの期間は、中原淳一や長沢節など魅力的なイラストとファッションにはつながりがあった。
しかしこの関係性はどんどん薄くなっていく。「作る」から「買う」への変化と連動していることなのだろうが、
それをきちんと展覧会の中で指摘することが必要だったのでは。これはデザイナーの「密室化」とも関係がある。
ファッションと書/フォントは本質的に共通するものを持っているのではないか? シニフィアンという意味でも。
この両者の関係性についてきちんと考えた企画はないものか。各界著名人の筆跡だけを集めた展覧会とかないのか。
ファッションを通して身体性に触れるなら、SMのボンテージとか下着とか少しくらいあってもよかったのでは。ダメか?
最後にあったコム・デ・ギャルソンの新しい作品は、ジェンダーレスというより前後の区別がわからん服なのであった。
もっとも、その「前後が明らかであること」が性差であるのだとしたら示唆的で面白いが。どうなんでしょうね。
この展覧会、時系列を逆にして現代から戦後へという方向の展示ならどうだったんだろう。無事に収束するのかな。
ミュージアムショップでは中原淳一が最強なのであった。服を売っているのは「途中でやめる」くらいだったなあ。
そしてこの展覧会のグッズは結局、柄の問題となっていたのも興味深い。それも含めて逆説的に衣服を考えさせられた。
ちなみに本日の僕の服装は、無印良品の黒いボタンなしポロシャツにユニクロのスキニーテーパードジーンズ、
靴はニューバランスのサッカー用トレーニングシューズ白、あとFREITAGのHAZZARDをしょってました。
そんなこんなで見学時間は〆て3時間弱。われながらよくがんばった。



2021.8.10 (Tue.)

「TOKYO SWEEP!! 23区編」の第17弾である。本日のターゲットは大田区北部の旧大森区なのだ。実は寝坊したのだが、
地元なので大したダメージにならないのだ。そういう油断があったのは否定できない。埋立地の果てまでがんばって行くのだ。

まずは近場の名所、洗足池から。初めて訪れたのは20年前、熱海ロマンディナーショウのためのロケである(→2001.6.16)。
以来ちょこちょこ脇を通りかかっていて、6年前には神社めぐりの一環で千束八幡神社とともに訪れている(→2015.6.28)。
周辺の地名は「千束」で、千束分の稲が免除されたことにちなむ。後に日蓮が池で足を洗って「洗足」の字が当てられた。

  
L: 洗足池。湧き水を堰き止めてできた池で、都内でもけっこうな広さを誇る。清水窪弁財天(→2015.7.12)は今も水源のひとつ。
C: 洗足池ボートハウス方面を眺める。撮影でスワンボートに乗ったなあ。  R: 池月橋。池の西側で、渡ると千束八幡神社。

  
L: 角度を変えて眺める池月橋。  C: カルガモやらハトやらがくつろいでいる。  R: それにしても洗足池は広い。

スルーするわけにもいかないので千束八幡神社に参拝する。宇佐神宮(→2011.8.132015.8.222020.3.29)から勧請して、
860(貞観2)年に創建された。主祭神は品陀和気命こと応神天皇で、後三年の役で奥州へ向かう源義家が戦勝祈願している。
1180(治承4)年には安房から鎌倉へ向かう源頼朝が泊まり、名馬「池月」を捕らえたことで旗をあげて盛り上がったという。

  
L: 久しぶりの参拝である。  C: 境内。  R: 社殿は1942年に建てられた。瓦葺きで少し寺の雰囲気。

  
L: 本殿を眺める。  C: 神楽殿。  R: 境内社の神明社はちょっと立派な造りである。

 名馬 池月之像。なお千束八幡神社の勝守には池月がデザインされている。

洗足池の東側には勝海舟関連の史跡がある。幕府代表の勝が官軍の西郷隆盛と交渉して江戸無血開城に導いたのは有名だが、
そのとき官軍が本部を置いていたのが池上本門寺。そこを訪れる際に勝は洗足池で休憩し、その景色を気に入ったという。
1891(明治24)年、池の近くに別邸「洗足軒」を建てた。1899(明治32)年に勝が亡くなると遺言によりこちらに葬られた。
なお、隣には西郷隆盛を悼む碑が移設されている。これは西郷の三回忌である1879(明治12)年に、勝が自費で建てたもの。

  
L: 勝海舟夫妻の墓。  C: 隣接する西郷隆盛留魂碑の入口。  R: 西郷の詩と筆跡を遺す留魂碑のほか、さまざまな石碑が建つ。

勝海舟記念館を華麗にスルーして(毎度のことながら阿呆である)洗足池を後にすると、洗足池駅から1駅分ほど西へ移動。
石川台駅のすぐ南に鎮座しているのが雪ヶ谷八幡神社である。こちらも主祭神は誉田別尊つまり応神天皇なのだが、
創建は16世紀半ばの永禄年間。それにしても「雪ヶ谷/雪谷」とはたいへん興味深い地名だが、由来は諸説あるらしい。
自治会のサイトによると、谷の横穴(室)に雪を保存しておいて、多摩川で獲れた鮎の鮮度を保ったことによるという。

  
L: 南端の雪ヶ谷八幡神社入口。  C: 横綱大鵬出世石。境内で子どもに稽古をつけ、毎年節分祭に参加していた縁があるそうだ。
R: 周囲は宅地化しているが、長くて高低差のある参道がきちんと残っている。かつての「雪ヶ谷」はこんな感じだったのだろうか。

  
L: 途中の舞殿。  C: さらに参道が続く。向かって左が駐車場になっている。  R: 駐車場の奥には齋霊殿。

  
L: さらに奥へ進むと庚申供養塔群。1681(元和元)年から1857(安政4)年までに雪ヶ谷村内に建てられた供養塔を集めた。
C: 最後の石段を上って拝殿。  R: 本殿を覗き込む。現在の社殿は1959年に再建されたものだが、南北にだいぶ長い印象。

御守を頂戴すると、住宅地をなんとか西へと抜けて田園調布駅へと向かう。東側からだとじっとりとした上り坂で、
上りきったところでサンクンガーデンに出る感じになる。つまり、さらに高い土地に囲まれた感覚となるわけだ。
高級住宅地の代表的存在として知られる田園調布が、武蔵野台地の上に整備されたことを実感する高低差である。

 田園調布駅の東口。見てのとおり、西口と比べて建物で1階分ほどの高低差がある。

西口へとまわり込み、復元された旧駅舎を眺める。矢部金太郎の設計で1924(大正13)年に建てられたもので、
東横線の複々線化工事により解体。10年後に工事が完了すると、駅舎機能のないモニュメントとして復元された。

  
L: 田園調布駅の旧駅舎。  C: 手前は噴水池を中心とするロータリーとなっている。  R: 全体を眺めたところ。

そのまま「都市景観100選」にも選ばれている田園調布地区をぷらぷらとサイクリング。もともと辺りは「調布村」で、
西にある多摩地区の調布市と同じく、奈良時代の租庸調の「調(繊維製品)」として布を納めていたことに由来する。
(1928年に調布村が町制施行した際、北多摩郡調布町(つまり調布市)との重複を避けるため「東調布町」となった。)
田園調布駅も当初は「調布駅」だった。1923(大正12)年に田園都市株式会社が「田園都市多摩川台」の名称で分譲開始し、
1926(大正15)年に駅が「田園調布駅」と改称されたことで現在の地名が定着した。そして東京市が35区となった1932年、
大森区の誕生によって「田園調布」が正式な町名として成立した。なお、隣接する「玉川田園調布」は世田谷区である。

  
L: 田園調布駅前から西へと延びるイチョウ並木。2車線道路のサイズ感が、たいへん大正モダンの住宅地である。
C,R: 駅から放射状に延びる道路を半円形(エトワール型)の道路がつなぐ。木々や生垣が目立っているのはさすが「田園」。

高級住宅地を走りまわっていても疎外感に苛まれるだけなので、ある程度写真を撮って満足すると南下して多摩川台公園へ。
こちらは多摩川に直接面する国分寺崖線の端っこであり、見晴らしのよい場所であるためか複数の古墳がつくられている。
まずは公園の広場に出てみると、多摩川に沿うように緑に包まれた土手が続いている。実はこれが多摩川古墳群なのだ。
第一広場の端には古墳展示室があり、中にお邪魔する。前方後円墳の後ろ側を再現し、出土品のレプリカを展示している。

  
L: 多摩川台公園。土手のように続いているのが多摩川古墳群。北端に宝来山古墳、南端に亀甲山古墳という大物がある。
C: 古墳展示室の中では前方後円墳の後ろ側が再現されている。  R: 展示室内の様子。真ん中には木棺が置かれている。

  
L: 木棺の中には副葬品とともに首長が横たわっている。顔に紅白で独特な模様の化粧が施されているのが興味深い。
C: 埴輪をもとに古代人の姿を再現した人形が並べられている。  R: 宝来山古墳への入口。遊歩道で横断できる。

北端にある宝来山古墳は遊歩道で中央部を横断できるので、実際に歩いてみた。周囲をぐるっと回れるわけではなく、
前方後円墳の前側を上って下りるだけ。高さはまあ実感できるが、ほぼ自然に還っているので草を見て終わりなのであった。

  
L: 遊歩道はこんな感じ。  C: 古墳を眺める。まあそりゃこうなっているわな。  R: 全体の感覚はつかめない。

南端の亀甲山古墳は外から眺めるしかないのでスルーしたのだが、実は亀甲山の方が大物で、国の史跡になっている。
結局は草の生え具合を観察するだけになってしまうが、写真の1枚でも撮っておけばよかった。毎度のことながら阿呆である。
多摩川台公園からさらに南へ行くと、多摩川浅間神社である。やはりここも、かつては前方後円墳があったという。

  
L: 道路を挟んで眺める多摩川浅間神社。  C: 幟には「田園調布浅間神社」。  R: 浅間神社らしく富士塚の雰囲気がある石段。

創建は、鎌倉時代の文治年間(頼朝がいい箱つくっていた頃)。北条政子が亀甲山(かめのこやま)に登ったところ、
富士山が鮮やかに見えた。それで浅間神社(→2008.3.232014.10.122015.12.272018.12.16)に夫の武運長久を祈り、
身につけていた正観世音像をこちらに建てたという。1652(承応元)年には9合目辺りから観音像が実際に出たそうだ。
なお、境内には『シン・ゴジラ』(→2016.8.23)の自販機が置かれている。劇中で陸上自衛隊が「タバ作戦」を展開するが、
多摩川浅間神社はその前線基地であるタバ戦闘団前方指揮所が設置された場所なのだ。家に帰ったら確認してみようっと。

  
L: 拝殿。社殿は1973年の再建。  C: 本殿を覗き込む。都内で唯一の浅間造とのことだが、 残念ながらよく見えない。
R: 『シン・ゴジラ』の自販機。多摩川浅間神社は破壊されなかったので、ゴジラの危機から逃れた縁起のいい場所とのこと。

境内の脇には見晴台があり、のんびりと多摩川を眺めることができる。右を向けば東横線と目黒線、左を向けば丸子橋。
しばらくボケッと過ごすと、多摩川浅間神社を後にして東横線・目黒線の多摩川橋梁の下から調布取水堰を覗き込む。

  
L: 見晴台から東横線が多摩川を渡るのを眺める。  C: 丸子橋。こっちに引っ越して以来、自転車でさんざん渡っております。
R: 調布取水堰。飲料水の供給と防潮を目的にして1936年につくられた。鮎が遡上できるように、両脇には魚道がある。

ふだん下車することはぜんぜんないが、東急の多摩川駅周辺にはいろんな見どころがあるものだ、と思いつつ駅方面へ。
かつては「多摩川園駅」だったが、2000年に目蒲線が目黒線・多摩川線に分割された際に駅名が「多摩川駅」に変わった。
でも実のところ、74年ぶりに開業時の名前に戻っただけ。というわけで、ここには東急の娯楽施設である多摩川園があった。
洗足(→2021.8.1)や田園調布を分譲した田園都市株式会社が、住宅地に向かないエリアを埋め立てて遊園地にしたのだ。
しかし国分寺崖線の起伏とそれに伴う東横線・目黒線の無茶なカーヴや周辺の非常に複雑な道路網を見てわかるとおり、
宅地化がさらに進んで交通事情が悪化したのと、レジャーの多様化などから入場者が減少。多摩川園は1979年に閉園した。
その後、大田区が整備して現在は田園調布せせらぎ公園となっている。休憩所などの機能を持つせせらぎ館が今年1月に竣工。
外観がそれっぽいなと思ったら、やっぱり隈研吾の設計なのであった。デザインがワンパターンだなあと呆れる。

 田園調布せせらぎ館。屋根を強調しつつ木材で縞模様でワンパターン。

多摩川浅間神社と多摩川園跡間の複雑すぎる道路をどうにか抜けて中原街道の南側に出ると、東急多摩川線の東側を行く。
この道路はかつて六郷用水が流れていたルートであり、湧水によって再現した水路とともに遊歩道が整備されている。
六郷用水は江戸時代初頭に開削され、農業用水を狛江の和泉多摩川駅の辺りからはるばる六郷まで引いていたのだ。

  
L: 再現されている六郷用水。このように鯉が泳いでいる箇所も。  R: 水車が置かれているなど、なかなかの気合いを感じる。
R: 藤棚の休憩所。大田区は六郷用水にかなりの想いがある模様。新幹線の線路を越えて鵜の木辺りまで遊歩道があるそうで。

沼部駅に出る手前で左に曲がり、旧中原街道をしばらく北東へ進む。すると両側に桜が植えられた切通しの坂道となる。
これが桜坂。世の中に桜の植えられた坂はいっぱいあると思われるが、福山雅治の歌ですっかり有名になったあの桜坂だ。
まあ真夏に来たところでモリモリマッチョな緑が景色を一色に染めているだけなのだが。いちおう記念に写真を撮っておく。

 桜坂。

そもそもが、福山雅治のどこがいいのか僕にはサッパリわからんのだ。まず声が好きではない。特徴的ではあると思うが、
まったく魅力を感じない。それ以上に理解できないのが、彼の顔に対する世間の評価だ。あれをかっこいいと見なすのか?
いや、整い方として平均より上であるとは思う。しかし絶世のイケメンレヴェルとして大騒ぎするほどのものではないだろう。
何をもって「かっこいい」と感じるのは人それぞれの問題なので、僕がいくら首を傾げたところで現実が変わるわけがないが、
彼が魅力ある男として過剰に持ち上げられているように思えてならないのだ。僕には顔と声の組み合わせがマイナスなのよ。

世間の認めるイケメンについてブサイクがボヤいていてもみっともないだけなので、そそくさと次の目的地へ移動する。
5年前にも訪れているが、あらためて御嶽神社(→2016.1.9)に参拝する。相変わらず本殿の彫刻が見事で、蕩ける。

  
L: 御嶽神社。  C: 参道を進んで拝殿へ。前回と同じアングルはなるべく避けて撮影してみる。  R: 本殿。

  
L: 本殿の彫刻をあらためて眺める。  C: 前回よりも拡大してみるのだ。  R: 講に関連すると思われる石碑がいっぱい。

池上線沿いに南下していくと、久が原駅の先に、昭和のくらし博物館(旧小泉家住宅主屋)。開館日は金・土・日で、
なんでもない平日の本日はお休み。建物は1951年に住宅金融公庫の融資を受けて建てた、いわゆる公庫住宅である。

 昭和のくらし博物館(旧小泉家住宅主屋)。国登録有形文化財。

第二京浜の東側を進んでいき、池上本門寺へと向かう。本門寺前の交差点から眺めると、呑川の先に総門が見える。
本門寺境内の隣にある池上会館には研修などで何度か訪れているので(→2020.6.162020.11.9)、たいへん懐かしい。

  
L: 本門寺前の交差点には萬屋酒店。1875(明治8)年の築で、国登録有形文化財。いかにも門前町らしいランドマークである。
C: 呑川に架かる霊山橋から眺める池上本門寺の参道。  R: 突き当りに総門。元禄年間の建立で、扁額の字は本阿弥光悦の筆跡。

加藤清正寄進の96段の石段を上ると仁王門。本門寺の境内は周囲と比べてしっかり高いが、これは武蔵野台地の高さなのだ。
武蔵野台地は南を流れる多摩川の侵食を受けて、河岸段丘を形成している。まず、最も低い氾濫原が、多摩川低地である。
そこから立川崖線により一段高くなっているのが立川面、国分寺崖線によりもう一段高くなっているのが武蔵野面である。
先ほどの多摩川台公園は国分寺崖線上にあり、それが南に延びた先でまさに舌状台地といった形の久が原台を形成している。
この久が原台と同じ武蔵野面を呑川が開析して分けた左岸側が荏原台で、池上本門寺はその最南端にあるというわけだ。
かつては台地の西側に池上宗仲の屋敷があり、1282(弘安5)年に湯治のため常陸へ向かう途中の日蓮がここで亡くなった。
日蓮は死の直前、山上に「法華経の道場として長く栄えるように」と長栄山本門寺を開山。宗仲が土地を寄進して拡大した。
なお江戸時代には不受不施派の親玉だった模様。幕府により禁止されると身延山久遠寺を総本山として傘下に降った。

  
L: 1977年再建の仁王門。  C: 日朝堂。扁額には常唱堂とある。  R: 大堂(祖師堂)。1964年に鉄筋コンクリートで再建。

  
L: 大堂の背面。  C: 大堂の脇には経蔵。1784(天明4)年に建立されて空襲をくぐり抜けた。  R: 正面から見た経蔵。

  
L,C: 五重塔。徳川秀忠の乳母・岡部局の発願により1608(慶長13)年に建てられた。 国指定重要文化財。
R: 長栄堂。1959年の再建で、本門寺の守護神・長栄大威徳天を祀る。幟のとおり大黒天も祀っている。

日蓮が亡くなった後、荼毘に付したという場所に多宝塔が建っている。境内から西へ下りていったところにあり、
池上宗仲の屋敷と本門寺の境内の間に位置しているのだろうと想像がつく。「多宝塔」と称するが、形式としては宝塔。
そういえば日光東照宮の奥宮で見た形だが(→2014.10.12015.6.29)、木造建築となるときわめて珍しいとのこと。

 
L: 多宝塔。日蓮の御荼毘所で、日蓮の550遠忌を記念して建てられ、1830(天保元)年に完成。  R: 石段を下りて撮影。

さて、池上本門寺には力道山の墓がある。もちろん他にもさまざまな著名人が眠っているが、1人選んでお参りするなら、
やはり力道山かな、ということで現場に行ってみた。髭題目が刻まれた墓石の手前に、力道山の石碑と銅像が置かれている。
銅像の台座にはビッグネームが並んでおりさすがである。いちおう手を合わせて南妙法蓮華経とつぶやいておく。

  
L: 力道山の墓。  C: 銅像をクローズアップしてみる。  R: 銅像の台座にはビッグネームが並んでいる。

池上本門寺を後にすると、そのまま東へ。目指すは大田区文化の森なのだ。こちらにはかつて大田区役所があったのだが、
1998年に桃源社の建てたビルに移転した(→2002.8.152007.6.20)。その跡地に建てられた総合的な文化施設である。
1932年に大森区が誕生したとき、区役所は現在の大森警察署の位置にあった。1940年にこちらに移転してきたのだが、
大森区と蒲田区の合併はその7年後の話である。住居表示で所在地の町名が「新井宿」から「中央」に変わったこともあり、
大森と蒲田の中間だからこの位置に区役所がつくられたのかと思ったら、ぜんぜんそんなことはなかったのであった。

  
L: 大田区文化の森。  C: 北側のホール。  R: 南側が集会棟。各種スタジオや図書館と同じ機能を持つ情報館などが入る。

  
L: 南側から見た集会棟。  C: 東側。集会棟(左)とホール(右)の間が通路になっている。  R: 北から見たホール。

文化の森から大森駅方面に向かうが、途中で西側の住宅地に入る。山王会館の1階に馬込文士村資料展示室があるので、
まずはそちらでお勉強。大正末期〜昭和初期というモダンな時代、関東大震災の影響もあって郊外の農村地帯が都会化し、
多くの文化人が大森周辺に移り住んできた。馬込文士村は田端とともに有名な事例である(これも似た感じ →2021.8.5)。
当初は川端龍子や伊東深水など画家が多く、全盛期には尾﨑士郎が川端康成、萩原朔太郎、室生犀星、三好達治らを呼び込み、
尾﨑が当時は宇野千代と結婚していたこともあり、村岡花子や吉屋信子ら女性作家も多かったのが特徴的とのこと。

  
L: 山王会館。地域住民の交流拠点で入りづらい。  C: 馬込文士村資料展示室。文学は展示に向かないから大変だ(→2018.8.12)。
R: ジャーマン通りの北側に尾﨑士郎記念館。尾﨑はいったん馬込を離れるが、晩年に戻ってきた。その旧居を復元している。

尾﨑士郎記念館のすぐ近くに蘇峰公園。敷地内には蘇峰の旧宅が残されており、山王草堂記念館として公開されている。
出版社に勤めていたころに会社の先輩と来たことがあり(→2006.7.31)、そのときに若き日の蘇峰の写真を見たのだが、
現代でも通用するイケメンぶりに2人で驚いた記憶がある(→2015.8.182017.8.19)。老後は暗殺拳の使い手なのに。

  
L: 蘇峰公園の北東側入口。  C: 園内は回遊型庭園である。  R: 西側入口。弟の芦花公園(蘆花恒春園)と比べて面積は小さい。

  
L: 山王草堂記念館。大田区が静岡新聞社から譲り受けて1988年に開館した。  C: 中では旧宅の一部をそのまま保存している。
R: 書斎にあった馬蹄型の机。多数の本が積まれているが、目的の資料の前にすぐ移動できるようにしたらこの形になったそうだ。

 暗殺拳の使い手みたいな徳富蘇峰。長生きするとどうしてもおじいちゃんの姿がメインになっちゃう。

以上で旧大森区の標高の高い西側はだいたい押さえたということにして、いよいよ海沿いの東側へ移動するのだ。
まずはいったん大森駅の東側に出るが、ここから大森海岸駅までの辺りは品川区の南端部である(→2021.7.31)。
かつて入新井と呼ばれたエリアから東へ進んで平和島へと入る。もちろん埋立地で、もともとはその名のとおり島だったが、
間にあった平和島運河を埋め立てて平和の森公園をつくったことで陸続きになった。平和島というと競艇場のイメージで、
都内最大の売上高とのこと。ちなみに主催しているのは府中市で、大学院時代に修士論文の調査で知って驚いたものである。

  
L: 複合アミューズメント施設のビッグファン平和島。品川区の教員時代、生徒たちがちょっと遠出して遊ぶ場所はここだった。
C: 平和島競艇場。そういえば一度も競艇場に入ったことないや。革新自治体ブームの時期には公営ギャンブルも政治の争点だった。
R: 平和の森公園。捕虜収容所だったり戦犯収容所だったりという過去をふまえて「平和島」と呼ばれるようになったそうだ。

 平和の森公園を南下していくと原広司設計のヤマトインターナショナル。景観公害。

平和の森公園の南側にあるのが、大森海苔のふるさと館。大森は江戸時代中期から海苔の養殖を行っていた地域だが、
東京湾の埋め立てが進んでいくと海苔漁業権を放棄することとなり、1963年の春を最後に海苔養殖の歴史が幕を閉じた。
(ただし東京湾での海苔の養殖じたいは、現在も千葉県と神奈川県で行われている。全国の海苔問屋の1/4は大森にある。)
こちらの施設では、国指定の重要有形民俗文化財「大森及び周辺地域の海苔生産用具」を中心に各種資料を展示している。

  
L: 大森海苔のふるさと館。  C: エントランス。  R: 館内から見た、大森ふるさとの浜辺公園。内川の河口にあたる。

  
L: 再現されている海苔付け場。  C: 中を覗き込む。海苔を流し入れて簀に付けている。  R: 多様な道具をいっぱい展示。

  
L: 各種の船も展示されている。大きいのが海苔船の親船で、上にべかぶね(伝馬)が乗っている。左は中型のちゅうべか。
C: 戦前のだるま船の模型。東京ガス大森工場へ石炭を運んでいた船だが、自走せず、動力船に数艘つなげて曳航されていた。
R: 荷足船(にたりぶね)の模型。江戸時代から羽田を拠点に東京湾内を行航した運送船。大正時代まで40〜50艘あったそうだ。

いったん京急方面に戻り、第一京浜と産業道路の分岐点にある大森警察署へ。上述のとおり1932年に大森区が誕生したとき、
区役所はここにあったのだ。裏にまわるとその事実を示す案内板がちゃんとある。入新井町役場も区役所候補になっていたが、
大森町役場が当時荏原郡で唯一の鉄筋コンクリート建築だったことが決め手になったという。歴史がわかるのはありがたい。

  
L: 第一京浜と産業道路の分岐点。デニーズの奥に大森警察署。  C: 大森警察署。1940年まではここが大森区役所だった。
R: 裏にまわると石碑と案内板。石碑は右が日清戦争、左が西南戦争の戦役碑。役所があった歴史を物語る。(後日撮影)

 案内板には1931年竣工の旧大森区役所(旧大森町役場)の写真がある。

実はこのとき大森神社をスルーするというポカをやらかしていたのだが、当時の僕はその事実にまったく気づかず、
森ヶ崎方面へとひた走っていたのであった。この辺りには昨年サッカー部の試合会場ということで来たことがあり、
大田区の広さに驚愕したものだ(→2020.10.18)。交通の便がとっても悪いのにめちゃくちゃ住宅地なことにびっくり。

さてそんな森ヶ崎の先っちょにあるのが、羽田可動橋なのだ。呑川と合流した海老取川の河口に、オブジェのように佇む。
首都高羽田線の羽田トンネルは渋滞がひどく危険も多いため、空港から北上する一方通行のバイパスとして建設された橋だ。
開通したのは1990年だが1998年以降は使用停止となっており、実働わずか8年。可動橋はロマンの塊だが、やはり難しいのだ。
羽田トンネルの老朽化に伴い、羽田可動橋を改修して迂回路として復活させることで、トンネルの工事を進める計画がある。

  
L: 羽田可動橋。海老取川(首都高もモノレールもトンネルで通過)沿いの鉄工所のために船を通す必要があり、可動橋になった。
C: わかりづらいけど、左も右も旋回橋。海老取川に沿って平行になっている。  R: 北側の橋桁をクローズアップしてみる。

  
L: 海老取川と南側の橋桁。奥に見える羽田線バイパスの向こうは空港。  C: 北側の橋桁近くから海老取川と南側の橋桁を眺める。
R: 羽田線バイパスと北側の橋桁。羽田可動橋は首都高湾岸線の開通で廃れた。個人的には好きだが、バブルな発想という気もする。

 撮影を終えて、羽田可動橋から続くバイパスの脇(海辺の散策路)を北上する。

埋立地方面に戻ってくると、大森東避難橋(見晴らし橋)から昭和島に渡る。大森ふるさとの浜辺公園がよく見える。
白砂の浜辺が整備されていて、なかなかの賑わいとなっている。さっき訪れた大森海苔のふるさと館がぎりぎり見えた。

 大森ふるさとの浜辺公園。砂浜や干潟を持つ都内では初めての区立公園だと。

昭和島に上陸。人口0人の埋立地ということで、島内は実に無骨。森ヶ崎水再生センター、つまり下水処理場が南東部を占め、
西側には野球場。しかしそれ以外はモノレールの車両基地に倉庫に鉄工団地と、埋立地の工業地帯のお手本のような空間だ。

  
L: 昭和島ジャンクション。埋立地らしい無骨な雰囲気が満載。  C: 東京モノレールの車両基地。奥に森ヶ崎水再生センター。
R: 京浜運河越しに大井埠頭を眺める。東海ふ頭公園の緑の向こうに大田市場が見える。昭和島と比べると心のゆとりを感じる。

 
L,R: 昭和島の羽田鉄工団地。一般人の立ち入りは禁止なのだ。絵に描いたような埋立地の工業地帯である。

京和橋を渡って京浜島に入る。こちらはわずかだが居住者がいるらしい。とにかく道路が広くて車の交通量も多い。
やはり物流の倉庫や工場が多いが、羽田空港に面する東側の辺が京浜島つばさ公園として整備されているので行ってみる。

 京浜島。道路が広い。

だいたい扇形をしている京浜島だが、京浜島つばさ公園はその半径の大部分を占めているので非常に細長い。
とりあえずバーベキューエリア付近から羽田空港を眺めてみる。出番を待つ飛行機が駐機場で待っているのがよく見える。
そのうち城南島の向こうから日本航空のボーイング777が現れた。滑走路の位置を知らせる赤い進入灯(実際は橋)に沿って、
だんだんと高度を落としていき、着陸。B滑走路に離着陸する飛行機を、横からしっかり見ることができるのであった。

  
L: 京浜島つばさ公園。対岸の羽田空港がバッチリ見える。  C: 駐機場にはANAの飛行機がいっぱい。
R: 着陸する日本航空のボーイング777。やはり日本航空は鶴丸でなければ。なぜ一時期やめていたのかねえ。

しばらく飛行機を眺めるが、キテレツな飛行機は飛んでこないしアングルが同じなので飽きてきた。贅沢なものである。
京浜大橋で京浜島を後にすると、対岸の大井埠頭に上陸する。南端に大田市場があるので、周囲を動きまわってみる。

  
L: 大田市場の入口。青果物・水産物・花卉を取り扱っている。かつて秋葉原駅北西にあった神田青果市場はこちらに移転した。
C: 北側にまわり込む。線路は東海道貨物線で、昭和島の地下を通り川崎貨物駅に出る。大田市場の建物は鬼瓦の位置にブドウ。
R: 後で城南大橋から見た大田市場の建物。こちらは鬼瓦の位置に鯛ということで、水産物を取り扱っている棟だとわかる。

南東へ飛び出している城南島へ。かつては島だったが、埋立地名は「大井ふ頭その2」で、現在は陸続きとなっている。
東端は城南島海浜公園として整備されており、人工海浜やオートキャンプ場がある。京浜島つばさ公園よりだいぶゆったり。

  
L: 城南島海浜公園の入口。公園としてきちんと整備されているが、草の生え方に埋立地らしい大雑把さもわりと漂っている。
C: 園内の様子。今日は平日なのでひと気は少なめだが、休日にはどれくらい賑わうのか。  R: 人工海浜のつばさ浜に出てみた。

 つばさ浜から羽田空港に着陸する飛行機を眺める。

これで令和島を除く大田区の人工島はすべて押さえたはず。今日のテーマは旧大森区だったが、思えば遠くへ来たものだ。
帰り道、城南大橋からコンテナの並ぶヴァンプールを眺める。さまざまな色でモザイク模様ができていて面白い。
埋立地は非人間的なスケールを痛感させられる空間ではあるが、仕事に特化した空間なのでそれはそれで興味深い。

 ヴァンプールを眺める。モザイク模様の向こうにプロの仕事があるのだ。

大森駅まで戻ってきたが、これでようやく家までのほぼ中間地点。寝坊で始まった区内の旅だったが、ここまで約7時間。
大田区の広さをしっかり実感させられる一日なのであった。しかもまだ旧蒲田区域がまるまる残っている。恐ろしい。

 大森駅東口。起伏のある西口と平らな東口で差はあるが、住宅が多いのは一緒。

さて大田区といえば、黒湯の温泉なのだ。厳密には大田区だけでなく東京湾の西側一帯で掘り出すことが可能なのだが、
大田区は銭湯で気軽に堪能できるのがポイント。今回は旧大森区域にこだわり、デザイナーズ銭湯のますの湯にお邪魔した。
ちなみに黒湯は、植物が微生物に分解されてできた腐植質のフミン酸やフルボ酸などを含んでいるので黒いのである。
これは条件が揃うと原油になるもので、つまりわれわれは原油になる前の原料に浸かっているということになるわけだ。
まあ原油になるまでのんびり待つわけにもいきませんからな。それなら今のうちに温泉で有効活用した方がいいのだ。

 ますの湯。やたらめったらオシャレなのであった。

存分に大田区、そして黒湯を堪能した一日なのであった。明日も大田区、旧蒲田区域を走りまわるのだ。がんばる!


2021.8.9 (Mon.)

町田で復活したパパパパパイン(→2012.7.16)に行きたいんよ、とマサルが言うので13時に町田駅に集合。
僕の感覚として、町田というのは下北沢と双璧をなす「東京の迷路2大迷路タウン」である。町田が東京かどうか、
という議論はさておき、鉄道が交差しており、区切られたそれぞれの象限がきちんと商店街として成立している、
そういう条件で生成される多面性がどちらも非常に強いのだ。これは私鉄によって、より強化されるのが面白い。
(厳密に言うと町田駅の西側1/4は商店街と言えないが、原町田大通りが独特のリズムを加えて複雑化している。)
JR中央改札前でなんとか合流すると地図アプリを見ながら移動するが、歩いていてもイマイチ確証が持てない。
ターミナルビル2階ということで、バスターミナルから上がって仮面女子がライヴをやっている脇を抜けて無事到着。
町田はその迷路っぷりが魅力でもあるのだが、いざ明確な目的地がある場合にはなかなかつらいことを再認識。

  
L: 店の前に顔ハメがあったが、なぜか僕がやることに。なんか毎回僕がやっとりゃせんか?  C: サーヴィス精神旺盛な私。
R: 冷やしラーメン・いっぱいん。冷やしということで酸味がマッチしており、たいへんおいしゅうございました。

移転しても店内にあふれるパイナップルグッズには圧倒されたなあ。マサルとともに冷やしラーメンをいただいたが、
酸味が冷やしにマッチしており、夏場にはより自然に受け入れられそう。ふつうにおいしゅうございましたね。

さて、緊急事態宣言のおかげでわれわれの行動パターンはだいぶ制限を受けており、特にやりたいことがない。
まあ町田には東急ハンズもあるし、じっくり買い物でもすればいいか、なんて話しながら駅まで戻ろうとしたのだが、
マサルは仕事が終わっていないそうで、「私に30分間時間を下さい」などと鈴木健二的なことを言いやがる。
そして途中にあった喫茶店に入っていったのであった。一方、僕は僕で実は町田に来たかった理由があった。
サイクリングなどで重宝しているスポーツサングラスの部品をなくしたので、町田にある店舗で確保しようと動く。
しかしそのメーカーは最近になってものすごい勢いで店をたたんでおり、すでに町田も撤退済みだった。がっくり。
どうにもならんので、散歩しながら「緊急事態宣言で都道府県をまたぐ移動が禁止されたら町田は困っちゃうよな、
独立戦闘国家『まちだ』を名乗ったりして。国家元首は町田ゼルビアのポポヴィッチ監督で」などと妄想するのであった。

仕事を終えたマサルと再合流すると、ふたりで東急ハンズ町田店へ突撃。マサルは延々と手帳売り場で悩んでおり、
僕は僕で、せなけいこ『ねないこ だれだ』グッズを発見してプラトーンのようにその場に膝から崩れるのであった。
こんなん、買ってしまうやん!と言いつつ買い物かごにグッズを投入。一方、マサルは延々と悩んだが手帳は買わず。
その後もゆっくりじっくりと店内を見てまわる。町田店は2フロアしかないが、ツッコミを入れながら見ていくと、
かなり時間がかかった。ミニサイズの焼酎も置いていたし、なかなか充実している印象である。けっこう買ったなあ。

東急ハンズ町田店が入っている町田東急ツインズEASTは、ハンズ直下の5階に絵本グッズを扱う店があって、
これが非常に危険なのであった。五味太郎の『きんぎょが にげた』グッズとか、もう、なんでそんなことするんよ!
そのほか、エリック=カールはもちろん、レオ=レオニのフレデリックやらスイミーやらぜんまいねずみやら、
馬場のぼる『11ぴきのねこ』(オレが買った人形が実家にある)、せなけいこなんて帽子にシャツまであるんでやんの。
こんなの、金がいくらあっても足りねえじゃねえか! お代官様、堪忍してくだせえ……。本当にそういう心境である。
名作絵本のグッズ展開は「なぜ今頃?」という気がしないでもないが、いざ展開されると非常に強力である。
デザインとして優れているだけでなく、客はそこにストーリーと自分の幼少期まで重ねちゃうからね。魅力がマシマシ。
前に東京国立博物館で鳥獣戯画グッズについて考えたが(→2015.5.29)、絵本もその領域に達しているのだ。
しかしこれだけ絵本グッズにいちいち反応してしまうとは、僕の幼少期とデザインセンスは完全に絵本に支配されとる。
ちなみにマサルはミスタードーナツの印象が強かったようで原田治グッズに反応していた。わかるよ、わかりますよ。

 『ねないこ だれだ』コーナー。ヤバい。これはヤバい。

町田東急ツインズEASTの1階には期間限定で北海道のアンテナショップがあり、ここでも2人して引っかかりまくり。
全国あちこちを旅して地方の名産品が大好きな僕としては、ただただ北海道の魅力に素直にやられるばかりだが、
マサルもいいようにやられちゃっていたのは意外だった。まあでもしょうがないよな、北の大地は偉大だもんな。
そんなこんなで町田東急ツインズEASTを出たときには、16時半になろうというところ。どれだけじっくり見ていたのか。
そしてどれだけしっかり金を搾り取られてしまったのか。資本主義である以上、優れた商品には搾取されるものなのだ。

僕のスポーツサングラス部品は新宿店が最後の希望ということで、小田急線で新宿へ。ふだん乗らない小田急は実に新鮮。
そんでもって町田の遠さも再認識した。町田が魅力ある都会なのは、小田急における東京最後の砦だからかね?
新宿に着くと店に直行、部品はどうにか確保できたが、新宿店も今月末には撤退と聞かされてブルーになるのであった。

メシをどうするか考えるが、あまり考えてもしょうがないので小田急ハルク地下の店に突撃。今日は小田急づいとるね。
結果的には思う存分しゃべることができたし、もつ鍋もいい感じでしたし、たいへんよろしゅうございましたな。

  
L: ハンズで買ったカラビナのペットボトルホルダーを使うマサル。店員さんに頼んで開封してもらった。
C: 大好物のとうきび茶に喜ぶマサル。そんなに大好きだったとは。  R: 出てきたもつ鍋を満足そうに激写するマサル。

けっこう腹を割ってとことん話したが、まあお互い希望を捨てずにがんばりましょうや、と。何かやるときは呼んでくれ。


2021.8.8 (Sun.)

台風が来ていて雨なので、午前中は日記を書かずに御守の写真撮影。最近の23区めぐりのおかげで量が膨大だ。
録画しておいた『古畑任三郎』(→2008.11.222008.12.52008.12.272021.5.19)を見ながらの撮影である。

しかしあらためて見る『古畑任三郎』は、論理的に無理のある展開がけっこう気になる。トリック自体よりは、展開。
古畑任三郎は他者として犯人の世界に入り込んでくるが、その「犯人の世界」がけっこう乱暴なつくりであるというか、
三谷幸喜が勢いで押し切っているなあ、という粗が目立つ。坂東八十助のプロ棋士の回とか、どうなのよと思っちゃう。
前に書いたが三谷幸喜は自分の世界をがっちり構築する密室劇の人なので、リアリティとの相性が悪い(→2006.9.23)。
でもその粗を許せてしまう、ツッコむのは野暮だと思えるほどの熱量を感じさせるドラマになっているのもまた確かだ。
さらに言うと、田村正和も勢いで押し切っている。これ明らかにNGになるのをごまかしているよなって演技もあって、
ずるいなあと思ってしまうのだが、「古畑任三郎」という「型」によって許されてしまう。ものすごい力技だと再認識。

いちばんは、俳優も含めてスタッフ全員が全力で面白がってつくっているのが伝わってくることが大きい。
これは外部のノイズを排除する集中力として現れていて、三谷幸喜の密室劇志向がいい方に作用していると思う。
そして田村正和の演技が持つ引力。そこに本間勇輔の強烈な音楽が乗る。犯人役はもちろん脇役の面々も特徴的で、
今になって見てみるとそこだけでも衝撃的だ。おかげで全体として高度な「引き込まれるフィクション」となっている。
だから前に書いた二次創作論(→2007.11.9)をふまえて考えると、おそらく『古畑任三郎』の二次的作品は成立しない。
「古畑任三郎」自体が田村正和しか創ることのできないキャラクターであるし、犯人役にも俳優本人の存在感が必要だ。
極端なことを言うと、まるでディズニーのような絶対的な力で田村正和は『古畑任三郎』をコントロールしているのだ。
おそらく『古畑任三郎』ほど、リアリティとの相性が悪さが平然とスルーされて許されてしまっている作品はないし、
時代性やら社会性やらと関係のない純粋なるフィクションであることを自明として楽しまれている作品はあるまい。
演者もスタッフも視聴者も全員がグルになり、これだけ盛大な嘘を思いっきり面白がっている状況は、他にないと思う。


2021.8.7 (Sat.)

目が限界になるまで日記を書いたぞー!

日記を書くときの限界はいくつかパターンがあって、最もよくあるのが「MacBookの電池の残量が切れる」である。
いま使っているMacBookもだいぶ長いので、ネットをつないでいると3時間ちょっとが限界。激しくネットを使うと、
それより短く2時間半ほどでお手上げ状態になることもある。こうなりゃ強制終了である。どうにもならない。

しかし電源を確保できる環境の場合、あるいは充電時間を挟んでハシゴが可能な場合、限界となるのは「目」なのだ。
目が疲れてしまって頭が痛くなって集中力が切れて終了、というのが極限まで日記を書いたときの症例である。
この酷使ぶりは絶対に将来ヤバいよなあ、と思いつつ家に帰る。こんな夜はゆったり風呂に浸かって早寝するしかない。


2021.8.6 (Fri.)

先月の「TOKYO SWEEP!! 23区編」第11弾・旧下谷区編で旧岩崎邸庭園の隣にある国立近代建築資料館を訪れ(→2021.7.22)、
『丹下健三 1938-1970 戦前からオリンピック・万博まで』で大いにウハウハしてきたが、そのレヴューをようやく書くのだ。

  
L: 国立近代建築資料館。国立の建築の資料館なのに、建物の形がよくわからないというのはいかがなものか。
C: 展示室内部の様子。レイアウトが固定化されてしまっているのは、建築の資料館としてマイナスだと思うなあ。
R: 椅子は地味にミースのバルセロナチェアのスツール。そこにきちんとこだわっているなら内装もどうにかしてよ。

「んほおおおしゅごおいいいいいのおお!!」などと、みさくら語で大興奮する私なのであった。いきなり下品ですいません。
いや実際、丹下先生の造形センスが全開でそうなっちゃうってこれは。戦前から存在していた日本のモダニズムを受け継ぎ、
戦後の高度経済成長とともにガンガン発展させて、日本が世界の最先端を突っ走る原動力になっていたのが丹下先生なのだ。
(参考に、四国に残る丹下建築 →2015.5.22015.5.6、九州唯一の丹下建築 →2017.8.21、『建築の日本展』ログ →2018.9.13
つまりは、世界のモダニズムを拡張する存在であったのだ。その最大のポイントこそ、他の追随を許さない造形センスである。
建築家が生みだすデザインには当然、「エゴ」が含まれる。それは別の言い方をすれば、「作家性」という表現になる。
この「エゴ/作家性」が、施主・利用者・社会それぞれのレヴェルでどの程度許容されるか。そこが建築家の勝負どころだ。
(個人的に、最もエゴがキツいと感じるのが原広司。だから僕は原広司の建築について極めて否定的である(→2004.8.6)。
 また、伊東豊雄も自己の問題意識を優先すると捉えている(→2007.5.1)。だから公共建築より商業ビルが目立つ。)
この点で、丹下先生ほど優れていた建築家はいないのではないか。つねに新たな造形を生みだしつつ、社会を納得させる。
社会を納得させたモダニズムの建築家は多くいるが、その中で造形で圧倒した建築家となると、やはり丹下先生が頂点だろう。

  
L: 卒業設計「CHATEAU D'ART 芸術の館」。日比谷公園を敷地に、美術館と劇場を含む複合施設を計画。見惚れてしまうぜ。
C: 大東亜建設忠霊神域計画。「大東亜建設記念営造計画」のコンペで富士山の近くに戦没学徒追悼施設を提案し、一等を獲得。
R: 広島ピースセンター(→2008.4.232013.2.24)の模型。広島平和記念公園を「平和を生産する工場」と位置付けたのが凄い。

  
L: 有楽町の旧東京都庁舎(→2010.9.112017.6.2)、東西断面図。  C: 同じく旧東京都庁舎の透視図。  R: こちらは北立面図。

  
L: 香川県庁舎(→2007.10.62015.5.3)を眺める丹下先生の写真。無理やり撮ったので少し歪んでいて申し訳ない。
C: わかりづらいけど東京カテドラル聖マリア大聖堂(→2020.11.18)の模型。  R: 山梨文化会館(→2012.5.6)の新聞記事。

  
L: 国立代々木競技場・第一体育館(→2015.5.10)の立面図。うーん吊り橋。  C: 一階平面図。
R: 内部の写真。こうして見ると、東京カテドラル聖マリア大聖堂と同じような曲面ぶりを感じる。

 
L: 第一体育館の模型。奥に第二体育館。  R: 角度を変えて眺める。第一体育館だけでも凄いが、第二体育館との対比もいい。

自らの弟子たちと切った張ったの真剣勝負を展開しつつ、つねに横綱相撲を見せつけ続ける恐ろしさ(→2016.6.9)。
そう、恐ろしいのだ。こうして丹下先生の本気を突きつけられると、怒濤の造形美に呑まれてしまって呼吸ができない。

なんでオレは図録を売っているのに気づかなかったんだ!と、日記を書いていて本気で悔しい。嗚呼しくじったしくじった。


2021.8.5 (Thu.)

天気がよいので貴重な休みを頂戴して、「TOKYO SWEEP!! 23区編」の第16弾である。本日のターゲットは目黒区なのだ。
目黒区が誕生したのは「大東京」で東京市が35区となった1932年。それまでは北東部が目黒町、南西部が碑衾町だった。
今回は目黒町域から碑衾町域へと動く。一日でぜんぶ動くのは少々大変だが、天気がいいので一気に制覇してしまうのだ。

目黒ということで、やはりスタート地点は目黒不動こと瀧泉寺である。15年前に五色不動めぐりをしたが(→2006.5.4)、
それ以来の参拝だ。808(大同3)年に当時15歳の円仁が最澄のもとへ向かう途中、ここで恐ろしい形相の神人の夢を見た。
その後、円仁は唐の寺で不動明王の像を見て神人の正体を知り、お堂を建てる。その際に獨鈷を投げたら泉が湧いたわけだ。
江戸時代には徳川家光がこちらで鷹狩りをした際、鷹が行方不明になってしまったが、不動尊に祈願したらすぐに戻った。
それで「目黒御殿」と呼ばれるほどに篤く庇護され、一帯は門前町として栄えた。さすがは五色不動の筆頭である。

  
L: 目黒不動こと瀧泉寺の境内入口。仁王門は1962年の再建。  C: 仁王門をくぐって右手に阿弥陀堂。  R: 手前に地蔵堂。

  
L: あらためて参道を進む。歴史ある寺らしく開放的な境内に堂宇が点在。こちらの平地と石段を上った台地の二段構成。
C: 開基の円仁が獨鈷を投じたら湧いたという泉と獨鈷の瀧。瀧泉寺の名の由来。  R: 垢離堂(右)と前不動堂(左)。

  
L: 石段を上って大本堂。1981年の再建。  C: 提灯がいい感じである。  R: 1683(天和3)年につくられた大日如来像。

 狛犬もコロナ対策中なのであった。阿形か吽形かわからん。

御守を頂戴すると、脇の坂を上っていったん目黒通りに出る。そのまま西へ進むと元競馬場という名前の交差点となる。
かつてここには目黒競馬場があったのだ。日清戦争や日露戦争で軍馬の育成が課題となり、競馬で振興しようということで、
1907(明治40)年に開設された。すると賭博にハマる人が続出して大混乱となり、翌年に馬券の発売が禁止されてしまう。
商品券を払い戻す形で1914(大正3)年、現金の払い戻しは1923(大正12)年にようやく認められ、衝撃の大きさが窺える。
1932年には東京優駿大競走(日本ダービー)が創設されるが目黒競馬場はあまりに狭すぎ、翌年の1933年に府中へ移転した。

  
L: 目黒競馬場跡「トウルヌソル号」の碑。府中への移転前後に大活躍した馬で、種牡馬としても大活躍。うらやましい。
C: ではコース外周部のカーヴがそのまま残る道路を行ってみるのだ。  R: 航空写真だと東側のカーヴははっきり残っている。

  
L: 進んでいく。はっきりとしたカーヴが続く。  C: ちょっとわけがわかんなくなってきたけどカーヴである。
R: さらに進んでいくとカーヴが終わって直線となる。競馬場としての痕跡を残しているのはここまでかなあ。

きちんと一周したわけではないが、目黒通りを東に戻って山手通りに面する大鳥神社へ。5年ぶりである(→2016.10.31)。
もともと国常立尊を祀っており、そこに日本武尊が東征の際に平定の達成と部下の眼病治癒を祈願。両方とも叶ったことで、
盲神(めくらがみ)として称えて剣を奉納したが、Wikipediaでは「めくら」が訛って「目黒」という地名になったという。
創建は社殿完成の806(大同元)年で、目黒区最古の神社。その歴史があるからここで目黒通りと山手通りが交差するのか。
最古の江戸図である室町時代の「長禄の江戸図」に神社は9社存在しているが、その中に「鳥明神」として描かれている。

  
L: 山手通りを挟んであらためて撮影。  C: 鳥居から覗き込んだ拝殿。  R: さらに近づいて撮影してみる。立派だ。

  
L: 本殿。余裕がないのでこのアングル。  C: 本殿の脇には目黒稲荷神社。  R: 境内の北東端には神楽殿。

目黒寄生虫館が開くのは10時からということで、時間調整を兼ねて先に目黒川周辺を散策しておく。
春には桜の名所として賑わうが、クソ暑い今の季節はもっさりと葉が生い茂っているだけなのであった。

  
L: 目黒川周辺。  C: なるほど春には壮観だろうなあと思いつつ、ふれあい橋から上流側を眺める。  R: 河口側。

10時になったので目黒寄生虫館に突撃する。初めて訪れたのは高校3年だったか、物理班の連中と秋葉原で買い物をした際、
当時寄生虫にハマっていた僕は単独行動でわざわざ目黒寄生虫館に行ったのだ。鈴木みそ『あんたっちゃぶる』の影響ですな。
大学に入って以降でもう一度行っていると思うので、通算では3回目の訪問である。改装されて明るくきれいになっている。
いろいろなグッズがあって、いい時代になったなあと思う。確実に昔よりは寄生虫が学術的に語られるようになった気がする。

  
L: 目黒寄生虫館。医学博士の亀谷了が私財を投じて設立した施設で1階と2階が展示スペースとなっている。入場無料。
C: 内部の様子。寄生虫がテーマだが明るい雰囲気。  R: 人の寄生虫。亀谷先生の著書のおかげでだいたい知っている。

  
L: 寄生虫や寄生された動物が並ぶ。外観が変わってしまうのは怖いなあ。  C: 各種寄生虫の拡大模型。蝋でつくってある。
R: 久米島で採集した、ロイコクロリディウムの幼虫に寄生されたオカモノアラガイ。もはや貝のついたイモムシにしか見えない。

  
L: ミヤイリガイ。日本住血吸虫の中間宿主で、特に大きな被害が出た甲府盆地と筑後川流域ではこの貝を絶滅させる方針をとった。
C: 日本住血吸虫の成体。必ず雌雄一体で見つかる。  R: 目黒寄生虫館のアイドル・全長8.8mのサナダムシ。真田紐も併せて展示。

山手通りを北上して中目黒八幡神社へ。山手通りはまっすぐだが、西側に入ると農地がそのまま宅地化して区画が複雑。
そんな住宅の波に呑まれながらも中目黒八幡神社は細長い境内に昔ながらの木々を残しており、独特な雰囲気を漂わせる。

  
L: 中目黒八幡神社の入口。周囲は曲がりくねった道路を残したまま宅地化しており、山手通り経由でないと迷いそう。
C: 鳥居をくぐって参道を行く。境内は細長いが立派な木々が点在し、往時の雰囲気を伝える。  R: 社殿は一段高い位置。

  
L: 石段の脇に手水。昔からこんな感じで水が湧いていたのか。  C: 奥に少し角度がついて拝殿。  R: 正面に向き直る。

  
L: 本殿を覗き込む。中目黒八幡神社は由緒の詳細がわからないのがもったいない。  C: 奥に鎮座する三峯神社。  R: 神楽殿。

御守を頂戴すると、北上して山手通りと駒沢通りの交差点に出る。こちらにある正覚寺が次の目的地なのだ。
というのも、山門の横がかつて目黒区役所があった場所とのこと。少なくとも2代前の話になるのでいろいろあやふやだ。
とりあえずそれっぽい場所を探りつつ写真を撮影してまわる。東と北に門があるので、どっちの横なのかわからず困る。

  
L: 山手通りと駒沢通りの交差点。通りに面するならここか。自転車で渋谷に行った帰りにさんざん眺めるアングルである。
C: 東側、山手通りに面している正覚寺の山門。  R: こちらは北側。ちなみに正覚寺はもともと後述する円融寺の末寺だった。

では現在の目黒区役所へ行ってみるのだ。前も書いたが、もともとは村野藤吾設計の旧千代田生命本社(→2007.6.20)。
これを目黒区が買い取って庁舎としたのだ。詳しい経緯については大学院時代に聞き取り調査している(→2002.9.18)。
千代田生命本社として竣工したのは1966年。しかし2000年に千代田生命が破綻し、目黒区役所となったのは2003年から。
個人的には、村野は企業関連の建築と公共建築でかなり差があると思っているが(→2013.12.232015.11.162015.11.23)、
目黒区役所についてはもともと企業の本社だったためキレッキレと感じている。正直、これが最高傑作ではないかと。

  
L: 目黒区役所の南口玄関。こちらを入ると本館3階でエントランスホールとなる。  C: 東西に幅があり、一気に眺めるのは大変。
R: 駒沢通りに面してオープンスペースというかちょっとした山があり、そこから眺めたところ。村野は繰り返しの意匠が美しい。

  
L: 南東側の駐車場から眺める。なおこの写真は、後日(9月20日)渋谷区へ向かう朝のうちに撮影したものである。
C: 同じく朝の写真。南口とエントランスホールを眺めたところ。  R: もうちょっと右に寄り池の手前から見たところ。

  
L: 近寄って接続部。  C: アルミ鋳物の縦格子。村野の真骨頂だ。  R: 左が本館、右が別館との渡り廊下。植栽も見事だ。

  
L: 池の手前から別館を眺める。  C: 駐車場から下りる。右が別館。  R: 駐車場の下も駐車場。高低差をかなり工夫している。

  
L: では東口から1階に入ってみるのだ。  C: 西側の1階ロビー。もともと役所としてつくっていないからか、圧迫感はある。
R: 区政情報センター。なかなかの充実ぶりである。ただ、利用するのに呼び鈴で係員を呼ばなくてはいけないのはマイナス。

  
L: あらためて駒沢通り側のオープンスペースから眺める別館。  C: 駐車場から眺める別館。  R: 足元はこんな感じ。

  
L: 駒沢通りから見た目黒区役所。右が別館、奥が本館。  C: 別館の裏から眺める本館の側面。  R: 本館の背面。

  
L: 西から眺めた本館の背面と側面。  C: 少し北に出て本館の背面を眺める。  R: 周囲は本当に住宅だらけなのだ。

これでだいたい目黒区役所が見えるところからはぜんぶ撮ったはずである。山手通りに戻るとさらに北上していく。
首都高の大橋JCTの辺りが自転車にはたいへんややこしく、エレヴェーターを駆使して国道246号を渡るのであった。
しかし移動に必死で目黒天空庭園をスルーするという大ポカをやらかす。やはり一日でぜんぶ動こうとすると粗が出る。

 国道246号の上空。この左側が目黒天空庭園なのだが……。

国道246号のすぐ北側に鎮座するのが上目黒氷川神社。天正年間、武田氏の旧臣だった加藤家が上野原から産土神を勧請。
東京に氷川神社は多くあるが、大宮の氷川神社からの勧請ではないのは意外だった。かつては富士塚があったとのこと。

  
L: 国道246号に面する上目黒氷川神社の入口。  C: 石段を上って拝殿。  R: 本殿。

  
L: 本殿すぐ脇の稲荷神社。昔ここは稲荷山と呼ばれていたそうで、氷川神社が勧請されるより前から鎮座していたそうだ。
C: 富士浅間神社。かつてこちらに富士塚があった名残。  R: 神楽殿。境内は何やら整備の真っ最中なのであった。

  
L: 境内の隅でメダカを飼っていた。スサノオくんかかしがいる。  C: こちらがそのメダカ。  R: 授与所。

御守を頂戴すると、北上して駒場東大前駅のガードを抜けて東京大学駒場キャンパスの入口へと向かう。
駒場キャンパスは大学時代にクイズ研究会の商東戦で一度入った気がするが、記憶があやふや。コロナのご時世なので、
「本学関係者以外の無断入構を禁止する」という看板が立っていると躊躇せざるをえない。というわけで今回はスルー。

 東大は狭き門なのであった。

駒場キャンパス入口の真逆を向いて坂を上っていくと日本民藝館である。民藝運動は無名の職人による工芸を評価する、
そういった意識でもって柳宗悦を中心に活動していたと思うのだが(→2013.9.29)、帝冠様式じみた圧力を感じる建物だ。
鳥取民藝美術館(→2017.7.17)や大原美術館分館(→2014.7.23)もそうだったが、和風の意識が強すぎてしまうと、
どこかしらフィクションの匂いが漂いだす気がする(村野の新歌舞伎座ぐらい大胆だと文句はないが →2009.11.22)。

  
L: 日本民藝館の本館。1936年に大原孫三郎(大原美術館の創設者 →2008.4.222014.7.23)の援助を受けて開館。
C: 玄関をクローズアップ。時期的なこともあってか、僕はなんとなく帝冠様式じみた圧力を感じてしまうのだが。
R: 塀との間の庭には何やら石碑が並んでいるのであった。これもまた民藝精神を反映させた工芸品ってわけか。

  
L: 本館を南西側から見たところ。  C: 本館の向かい側には旧柳宗悦邸である西館。  R: 長屋門をクローズアップ。

この辺りが目黒区の北端かな、ということで南へ折り返す。そして見事に駒場公園と旧前田家本邸をスルーしたのであった。
いやもう本当に間抜けで申し訳ない。教養がないとは実に恥ずかしいことであります。いつかリヴェンジしなければ……。
で、一気に南下して祐天寺に到着。増上寺の住職だった祐天上人の廟所として、1718(享保3)年に創建された寺である。
国登録有形文化財がゴロゴロしているが、そのうち地蔵堂門・地蔵堂・書院などは撮り忘れ。教養がないのは恥ずかしい!
なおコロナ復調ということでか、祐天寺では御守を頂戴できなかった。状況が落ち着いたところでリヴェンジしたい。

  
L: 駒沢通りに面する表門。明治期の建物。  C: 仁王門。1735(享保20)年の築で、こちらは目黒区指定有形文化財。
R: 本堂。1860(万延元)年に内々陣、1898(明治31)年に外陣、1912(明治45)年に両者をつなぐ内陣がつくられた。

  
L: 賽銭箱には火消しの纏が並ぶ。  C: 阿弥陀堂と五社稲荷大明神。  R: 仏舎利殿。境内にはさまざまな堂宇が点在。

さて現在の目黒区役所が旧千代田生命本社なのは上述のとおりだが、では先代の目黒区役所があった場所はどうか。
現在、中央町さくらプラザが建っている場所がそれにあたる。中町通りと中央中通りの交差点に位置しており、
文字どおり目黒区の中央と言える場所である。中央町さくらプラザは中央町社会教育館・五本木区民センターが入っており、
さらに上階はマンションとなっている複合施設である。ネットで検索してもなぜか具体的な竣工年は出てこなかったが、
マンションの名前で検索したら2005年の竣工とあった。設計したのは松田平田設計+戸田建設であるみたい。

  
L: 北から見た中央町さくらプラザ。  C: 南から見たところ。公共施設というよりマンション。  R: 東から。

 一周して北側の中央町さくらプラザとしてのエントランスを眺める。

ここまでが旧目黒町域。後半戦は旧碑衾町域を攻めるのだ。碑衾(ひぶすま)とはまた妙な名前だが、これはそのまま、
1889(明治22)年の町村制施行により碑文谷村と衾(ふすま)村(の一部)が合併したので、1文字ずつ採った合成地名だ。
ざっくりだが、環七通りの東側が旧碑文谷村、西側が旧衾村と考えていいようだ。というわけで、まずは旧碑文谷村側から。
東横線の西側に出て、いつも自転車で脇を通りかかる碑文谷公園へ。灌漑用の貯水池だった碑文谷池(弁天池)を中心に、
周囲の宅地化が進む中で公園として整備された。池ではボート遊びができ、ウサギやポニーなどと遊べる一角があるなど、
住宅だらけの目黒区では貴重な憩いの場となっている。とりあえず、池を眺めながら厳島神社まで軽く歩いてみる。

  
L: 碑文谷公園の南東側入口。  C: 脇にある延命地蔵尊。  R: 池の周りはこんな感じ。

  
L: 碑文谷池(弁天池)。立会川の水源のひとつ。  C: 池の真ん中には碑文谷厳島神社。  R: こちらが祠。

目黒通りを横断して東へ行くと清水池公園。こちらの清水池も灌漑用の貯水池で、碑文谷池とともに立会川の水源である。
ただしボート遊びの碑文谷池とは違い、清水池ではヘラブナを釣ることができる(ただし釣ってもリリースするルール)。
そして池のすぐ脇には池之上開運辨財天が鎮座している。「池之上」とは、この辺りのかつての地名とのこと。

  
L: 清水池公園の南西側入口。  C: こちらは釣り人がいっぱい。  R: 池の西側がそのまま弁財天への参道となっている。

 池之上開運辨財天。

そのまま碑さくら通りを西へと進み、円融寺を目指す。自転車で渋谷へ行った帰り、気まぐれで通ることがあるのだが、
碑さくら通りは落ち着いた住宅地をまっすぐすっきり通る道で、個人的には「いかにも目黒区らしい道」と感じる道である。

 碑さくら通りを行く。いかにも目黒区の道って感じ。

そうしてぐるっとまわり込むと円融寺。853(仁寿3)年に慈覚大師こと円仁が法服寺として創建。最澄の弟子なので当然、
もともとは天台宗の寺だったが、1283(弘安6)年に日蓮の弟子・日源によって日蓮宗に改められ、法華寺と改称した。
やがて江戸時代になると不受不施派に属したため幕府に弾圧され、1698(元禄11)年に天台宗に戻ったという経緯がある。
円融寺と名を改めたのは1834(天保5)年。住宅だらけの目黒区で、円融寺の細長くも緑に包まれた境内は独特な雰囲気だ。

  
L: 円融寺の山門。1833(天保4)年の築だが、御殿山にある住宅に移築された後、1951年に円融寺にやってきた。
C: 仁王門。仁王像が1559(永禄2)年につくられており、その時期に建てられたとみられる。二度の改修で姿は変化したそうだ。
R: 国指定重要文化財の釈迦堂(旧本堂)。室町時代初期の築で、もともとは茅葺だった。23区内で最古の木造建築とのこと。

 阿弥陀堂(本堂)。1975年、平安朝阿弥陀堂様式に則って建てられたそうだ。

参拝を終えると山門から少し南に出る。すると東西方向にまっすぐ道が延びている。これは下を立会川が流れる緑道。
かつて川に架かっていた橋の名前が現在も石柱に残されており、住宅地の中で貴重な歴史の証人となっている。

 円融寺から立会川緑道に出る。こちらは大門橋。

立会川緑道を西へ進むと、そのまま碑文谷八幡宮の参道に接続する。周囲が穏やかな住宅地となっているせいで、
両者は一体化しているような感触もなくはない。でもきっちり整備されている緑道と違い、参道は砂利敷きとなっている。

  
L: 立会川緑道を西へ行くと碑文谷八幡宮の参道となる。左の道は碑文谷八幡通りとなって、環七の大岡山小学校へとぶつかる。
C: 碑文谷八幡宮の参道入口。しっかり神社である。  R: 参道を行く。土の匂いを漂わせたまま、境内へと連続していく。

碑文谷八幡宮は旧碑文谷村の鎮守であり、誉田別尊こと応神天皇を祀っている。畠山重忠が二俣川で北条義時に討たれた後、
家臣の榛沢六郎が重忠の守護神である誉田別尊を勧請し、この地に住んでいた宮野左近という人物が祀って創建したそうだ。
本殿の脇には「碑文谷」の地名の由来となった碑文石がある。大日如来・勢至菩薩・観音菩薩を示す梵字が刻まれているが、
手前の柵のせいでガラスとの間に光が入ってしまい、反射して上手く写真が撮れない。暗く曇った日ならどうにかなるのか。

  
L: 参道が終わって碑文谷八幡宮の境内入口。  C: そのまま進むと一段高くなっている。  R:社殿はもう一段高い。

  
L: 右を向くと神楽殿。  C: 拝殿。碑文谷八幡宮の社殿は1872(明治5)年の再建で、1887(明治20)年に改築されている。
R: 本殿。手前に「碑文谷」の地名の由来となった碑文石があるのだが、ガラスが反射してぜんぜん上手く撮影できなかった。

  
L: 碑文石を挟んで本殿の隣には稲荷社。畠山重忠の家臣・榛沢六郎を祀っているとのこと。瓦葺の流造とは珍しい。
C: 境内の端には遊具がある。  R: 碑文谷八幡宮の社務所。冠木門に築地塀で、ただならぬ雰囲気が漂っている。

御守を頂戴すると、碑文谷八幡通りで環七に出る。ここからはもう、完全に自分の生活圏なのだ。目黒区の南端、
東京工業大学を目指して大岡山北口商店街を南下していくのである。それではいざ、日常の風景を写真に収めるとしよう。

 環七・南交差点。自転車で遠出してここに戻ると、帰ってきたー!という気分になる。

大岡山北口商店街はいかにも私鉄の商店街で、JR中央線の国立から引っ越してきた僕には何から何まで新鮮だった。
小ぢんまりとした雰囲気は今でも大いに気に入っているのだが、メシを食うのにまったく向かないのが玉に瑕である。
まあそれはそれで外食ばかりにならないので食費を抑えることには役立っているとは思うが、食べる楽しみはあまりない。

  
L,C,R: 大岡山北口商店街。なんだかんだで20年以上住んでいるが、細かい変化はあっても雰囲気はまったく変わらない。

  
L: 駅側から商店街入口を見たところ。  C: こちらは西側の通り。左が目黒区、右は大田区である。
R: 大岡山駅。駅舎が新しくなる前は2階がTSUTAYAで重宝したものだ。現在は東急病院と合体している。

大岡山駅まで来たので、すぐ南の東京工業大学大岡山キャンパスに入る。当方いちおう大学院のOBではあるのだ。
まずは駅前に異様な存在感でそびえている東京工業大学百年記念館から。設計は東工大の教授を務めた篠原一男。
前に「東工大の建築が日本のモダニズムに引導を渡したんじゃないか」と批判的に書いたことがあるが(→2017.10.18)、
その東工大ポストモダン建築の先導役が篠原である。これを玄関に置いているところに東工大の品性の限界が窺える。

  
L: 大岡山駅前から見た東京工業大学大岡山キャンパス。右の悪ふざけのような建物が、東京工業大学百年記念館。1987年竣工。
C: 敷地内に入って眺める百年記念館。  R: Taki Plazaという建物ができていた。なんで東工大で隈研吾の設計なん? バカなの?

OBとはいえコロナのご時世で派手に動きまわれない感じなので、有名どころの建物を中心に軽く見てまわるとする。
まず右手に現れるのがDOCOMOMO物件の創立70周年記念講堂。当時東工大建築学科の教授だった谷口吉郎の設計で、
1955年に竣工している。東工大は入口から本館に向かって桜並木があるのだが、そこに面している部分は目立たない。
しかし並木の西側は大スロープの芝生となっており、講堂はその地形を生かしたホールとして設計されているのだ。

  
L: 百年記念館の背後にあるのは附属図書館。設計は安田幸一研究室+佐藤総合計画で、2011年竣工。
C,R: 東京工業大学創立70周年記念講堂。DOCOMOMO物件であるほか、国登録有形文化財にもなっている。

  
L: 坂を下って北西側から見たところ。  C: 南西側から。  R: 本館手前から見た南の側面。地形を生かしているのがわかる。

創立70周年記念講堂の次は本館である。1934年の竣工で、設計は当時教授の橘節男を中心とする東京工業大学復興部。
時計塔のデザインには助教授だった谷口吉郎が関与したという話で、こちらも国登録有形文化財となっている。
東工大は関東大震災で蔵前から移った経緯があるためか(→2020.12.26)、めちゃくちゃ頑丈な造りと聞いたことがある。

  
L: 東京工業大学本館。やはり大学の顔となる本館は、威厳を感じさせる建物でなければなるまい。
C: 玄関ポーチの内部。すっきりしたアーチが連続するが、どこか「工業」らしい無骨さが漂っているのがさすが。
R: 中のホールを覗き込む。熱海ロマンで勝手にドミノを並べて喜んだ記憶が蘇る(→2001.6.9)。あの頃は若かった。

もうひとつ注目しておきたい建物が、本館の手前にある事務局1号館。木々のせいで建物全体はうまく眺められないが、
メインストリートに面している部分だけでも見事なモダニズムぶりがわかる。設計はやはり東工大教授だった清家清で、
DOCOMOMO物件の「森博士の家」(→2020.11.18)を設計した人である。もっとアピールしてほしい建物なのだが。

  
L: 本館前から眺める桜並木。昔と比べるときれいになってはいるが、それはそれでつまんなくなっちゃった気もする。
C: 東京工業大学事務局1号館。1967年竣工。  R: 角度を変えるが全体は見えない。清家は東工大では南5号館も設計。

いちおう以上で東工大めぐりは終了。僕が入院していた頃と比べて細かい部分がかなり変わっており、けっこう切ない。
表面的には小ぎれいに整備されているが、その分だけ自転車で走りまわっていたような自由さが明らかに制限されていて、
学生として「遊べる部分」がはっきり削られている印象を受ける。なんだか息苦しい環境になってしまったように思う。

東工大を後にすると、坂を下って自由が丘方面へ。自由が丘は駅周辺がギリギリ目黒区で、すぐ南側は世田谷区になる。
とりあえず熊野神社に参拝する。髪の毛を切るため自由が丘にはちょこちょこ来ているのに、今回初訪問というテキトーさ。
鳥居をくぐると参道がしっかり長く、木々が茂ってきちんと神社らしい雰囲気だ。鎌倉時代に熊野詣をした地元の人々が、
熊野本宮から勧請して創建された。かつて周辺は谷畑(やばた)という地名で、「谷畑の権現様」と呼ばれたそうだ。

  
L: 自由が丘の熊野神社。周辺がオサレな女性向けの店ばかりなのでずっとスルーし続けており、なんと今日が初訪問。
C: 鳥居をくぐると長い参道。目黒区は円融寺や碑文谷八幡宮など、住宅地でも参道をしっかり確保しているのが特徴的か。
R: 授与所。自由が丘は女性に人気の街ということでか、御守の種類はまずまず多めで充実している印象である。

  
L: 立派な神楽殿がある。  C: 一段高いところに拝殿。1967年の築。  R: 1909(明治42)年築の本殿を覗き込むが見えず。

 奥にはわりと立派な境内社・伏見稲荷神社があった。

御守を頂戴すると自由が丘の街並みを味わってみる。上述のとおり、かつてこの一帯は谷畑という地名だったが、
1927年に手塚岸衛が「自由ヶ丘学園」を設立すると、関東大震災後に衾エリアに移り住んだ文化人たちがそれに呼応し、
「自由ヶ丘」という地名が定着していく。そして1929年、九品山浄真寺のすぐ近くに現在の九品仏駅が設置された。
それでもともとの九品仏駅は衾駅に改称する予定だったが、地元住民の要望を受けて駅名は「自由ヶ丘駅」となった。
1932年には正式に碑衾町自由ヶ丘という地名に変更され、1965年の住居表示で「自由が丘」と改められて今に至る。

  
L,C: 自由が丘の街並み。アスファルトではなく石畳などによる舗装で雰囲気をつくる。適度な狭さもポイントである。
R: 駅に向かう方向のカトレア通り。もともと個人商店が多かったからか、駅近くの密集地帯もオシャレさを失わないのが凄い。

  
L: 自由が丘駅前のロータリー。バスが停まっているが、駅の周辺はとにかく道が狭いので、車での交通は地獄そのもの。
C: 駅南口のマリ・クレール通り。「マリ・クレール」はフランスのファッション雑誌で、名前で雰囲気をつくった感じ。
R: マリ・クレール通りの一本南は九品仏川緑道。左が目黒区、右が世田谷区。この辺はしょっちゅう自転車で走っとるわ。

自由が丘をうろついていてもやることはないので、学園通りを北上して目黒通りに出ると、北東に入って八雲氷川神社へ。
「八雲」で「氷川」なので主祭神は素盞鳴尊。周辺の地名はやはり、氷川神社の祭神にちなんで「八雲」を学校の名前とし、
それが定着していったようだ。衾エリアの住民たちはそんなに「衾」という名前がイヤだったのか。そう思えてしまう。
なお旧衾村域の中でも、この八雲周辺が中心部だったとのこと。やたらと曲がりくねった道は往時の繁栄の名残なのか。

  
L: 八雲氷川神社の入口。  C: やはり木々の茂る参道が長く残されている。  R: 二の鳥居をくぐってからがすごく長い。

  
L: 参道を進むと一段高くなる。  C: 玉垣に「衾信用組合」(対面は「衾消防組」)。もはや衾の名を見ることは本当に少ない。
R: こちらも境内にきちんとした神楽殿がある。少し能舞台を思わせるつながり方をしている左の瓦屋根の建物は、絵馬殿。

  
L: 拝殿。1976年に全面改修されたとのこと。  C: 本殿を覗き込む。1846(弘化3)年築のものを改修。
R: 渡り廊下の下をくぐって進んでいくと、1982年に再建された奥宮。狛犬と稲荷が並んでいる。

もはやすっかり見ることがなくなってしまった「衾」という名前だが、現在も唯一残っているのが衾町公園である。
八雲氷川神社から北へ500m弱、道路を挟んで東西に分かれており、東側は中学生以下が対象の交通公園となっている。
田舎で育った僕は交通公園というもののお世話にならずに育ったので、いざ訪れてみてびっくりしたのだが、
つまりはゴーカートや自転車などで信号や横断歩道のあるコースを走ることで交通ルールを学べる公園というわけだ。
必要性がまったく理解できないが、衾町公園は交通公園としてかなりしっかり整備されている印象。……でも必要か?

  
L: 交通公園として整備されている衾町公園。  C: 公園内はこんな感じ。  R: わざわざ信号機を付けているのね。

  
L: 事務所には貸し出し用の子ども向け自転車が並んでいる。手前の自転車は僕のものです。いや、交通公園の必要性がわからん。
C: 打って変わって西側はふつうの公園。木々と遊具があちこちにある。  R: 小鳥と少女像の辺りは少し欧米風な雰囲気も。

いちおうこれで現存する「衾」要素を押さえたわけで、以上で目黒区の歴史を体感できた、ということにしておこう。
帰りは柿の木坂通りを南下していくが、途中でめぐろパーシモンホールに寄っておく。なるほど柿の木坂でパーシモンか。
隣にかつて都立大学附属高校だった桜修館中等教育学校があるように、この場所は東京都立大学人文学部の跡地である。
都立大学が八王子市南大沢に移転した後、「めぐろ区民キャンパス」として整備された。パーシモンホールはその一部で、
体育館や図書館などを併設している。敷地内には住宅棟もある。日本設計の設計により、2002年に竣工している。

  
L: いろいろ合体していてよくわからんが、とりあえず「めぐろ区民キャンパス」の敷地に北西から入ったところ。
C: いちばん奥が、めぐろパーシモンホール。  R: 進んでいって右を向いて、めぐろパーシモンホールの入口。

 
L: 府立高等学校と東京都立大学の門の跡が残されている。  R: 南東から見ためぐろパーシモンホール。

柿の木坂通りを南下して都立大学駅に出る。ふだんは反対側の呑川本流緑道からしかアクセスしないので、非常に新鮮。
坂に商店が点在しているが、大岡山や自由が丘ほどの密度は感じさせず、ちょっと中途半端な印象がしてしまう。

 柿の木坂通り。商店はあるけど、駅から距離があるからか、どこか疎な感触がする。

都立大学駅を南に抜けて、呑川本流緑道へ。中根小学校を合図に東に入って鉄飛(てっぴ)坂を上がっていく。
妙な名前だが、「てっぺん」の意だとか、テッピョウスという名のポルトガル人が住んでいたとか、由来は諸説ある。
「岡」で「山」にわざわざ「大」が付いて「大岡山」となることを実感させられる勾配だが、そこは気合いである。
キツいところを上りきると庚申塔を祀った帝釈堂。これもまた、目黒区における貴重な歴史の証人なのだ。

  
L: 呑川本流緑道。南下して東工大にぶつかると暗渠をやめる。  C: 鉄飛坂を振り返る。  R: 庚申塔を祀る帝釈堂。

無事に家に帰って振り返る。前回の旧荏原区域も果てしない住宅地となっていたが、目黒区もとことん住宅だらけである。
ただ、庶民的な印象もある旧荏原区域と比べると、目黒区は旧目黒町域も旧碑衾町域も、高級住宅地の匂いが強く漂う。
また海に近い品川区が商店街天国となっているのに対し、内陸で農地だった目黒区はひたすら住宅で埋め尽くされている。
(落語の『目黒のさんま』は、目黒は海から遠いのに、殿様が「サンマは目黒に限る」と言うところにおかしさがある。)
似ているようで、違いがある。その違いを生みだすことになった決定的な要因は何なのか。しばらく宿題としておこう。
中目黒八幡神社、円融寺、碑文谷八幡宮、熊野神社、八雲氷川神社など、参道や境内をきちんと残した宅地化がヒントかな。


2021.8.4 (Wed.)

最終日は試験の採点について受講者間で議論。しかしそこを議論すること自体がおかしくないか?と思うのであった。
ワークショップで議論して理解を深める手法は方法論としては正しいが、試験の評価基準でそれをやるのはヤバいだろう。
そんな試験、客観性がまるでないではないか。つまりは制度としてまったく完成されておらず、最初から破綻している。
評価をつける人によっていくらでもブレるものを平然とやる神経が理解できない。これは害悪どころではないよ。

昨年度からセンター試験に替えて大学入学共通テストが始まったが、記述問題はできそうにない、と結論が出つつある。
正直言って、この問題とまったく同じ構図である。恣意的でない採点なんて最初から不可能なのに、強行している。
学習する範囲も試験優先で恣意的、採点も恣意的。何から何まで恣意的で、これはいいところがまったくない教育だ。

管理職を含めていろんな先生から感想を聞かれたので、正直に上記の問題点を指摘しまくって答えております。
それで「面倒くさいやつ」と思われればしめたものだし、「わかってるね」という反応をくれる人は賢い人だとわかる。
物事の問題点を見抜く能力に欠ける人かどうか、あるいは物事の本質を見抜けない連中に追随するような人かどうか、
僕なりの判断基準にさせてもらっております。これについての評価基準は、議論の余地がないからね!


2021.8.3 (Tue.)

昨日の反省ということで、本日は大きな会議室の一角を借りてオンライン受講。ネットワークの不調はほぼゼロで、
授業で使う教室の方がネットワーク環境が悪いってどういうことだよ、と呆れるのであった。ニンともカンともである。

本日は認定試験の話がメイン。しかし話を聞いているうちに腹が立つ。オレは地理の教師として採用されたのであって、
歴史の教師じゃねえんだよ、というアイデンティティの点でまず不満爆発。まあこの点はあくまで個人の問題だが。

しかしもっと大きいのは、認定試験を重視するあまり、学習範囲が極めて恣意的に捻じ曲げられていることである。
認定試験を考えると掘り下げやすい地域・時代とそうでない地域・時代で差があり、結局やる内容が絞られちゃう。
歴史学おたくどもは気づけていないみたいだが、「狭く深く」でかえって学ぶ内容が少なくなっているのは明白だ。
そうしてどの学校もみんな近現代史ばかりに偏っている。こっちの方がかえって受験のための勉強になっているって逆説。
主体的な教育みたいなことを言っておいて、実態は本当に問題だらけ。こんなものが日本を侵食するなんて、世も末だ。


2021.8.2 (Mon.)

海外の大学への進学を目指すコースがあって、本日から3日間はそれについての研修である。
ご時世がご時世ということでオンラインだが、家だと寝てしまいそうなので真面目に職場でオンライン。
ところが押さえていた教室のネットワークの調子が悪くてどうにもならず。職員室だと集中できないし。
さらに講師の先生のネットワークも調子が悪く、一日中しっちゃかめっちゃかなのであった。いやー残念(棒読み)。


2021.8.1 (Sun.)

「TOKYO SWEEP!! 23区編」、第15弾は昨日(→2021.7.31)に続いて品川区のうち、西部の旧荏原区を動きまわるのだ。

スタート地点は前に職場だった学校に近い蛇窪神社。当時は「上神明天祖神社」として認識していたのだが、
2019年からかつての地名・蛇窪を冠した「蛇窪神社」を通称表記にしている。行ってみたら全力の蛇推しなのであった。
1272(文永8)年、北条重時が五男・時千代を家臣とともにこちらの蛇窪の地に残し、開拓するように命じる。
時千代は後に出家して法圓上人となり、「水止舞」で知られる厳正寺を大森に開山。そして甥の法密上人が跡を継ぐ。
やがて1322(元亨2)年に武蔵国が大旱魃となり、法密上人が龍神社で雨乞いの断食祈願をすると大雨が降ったとのこと。
これに感動した時千代(法圓上人)の旧家臣たちが龍神社を地元の蛇窪に勧請して創建された、というわけ。

  
L: 蛇窪神社(上神明天祖神社)。だいぶやる気である。  C: 参道を行く。  R: 拝殿。社殿は1961年の再建。

  
L: 本殿。  C: 社務所前の撫で白蛇。  R: いちばん奥には白蛇辨財天社。

なお上蛇窪・下蛇窪の地名は、1932年に荏原町が東京市に編入されて荏原区となった際、氏神から上神明・下神明となった。
蛇で窪だと印象が悪いというわけだ。ちなみに荏原区が他区と比べて小さいのは、荏原町が合併せず単独で区となったから。
(同じように単独で区となった滝野川区も小さい。このペースで滝野川区までたどり着くのはいつになるやら。)

 もともとの地名・蛇窪にちなんでか、三間通りの街灯が蛇モードなのであった。

続いてはかつての下蛇窪、こちらは今も下神明天祖神社である。とはいえもともとは蛇窪神社と同じ神社であり、
正保年間に蛇窪村が上と下に分かれた際に神社も分かれたという。神社側は大井鹿嶋神社(→2021.4.10)との関係を強調。

  
L: 下神明天祖神社の入口。四間通りに面している。  C: 参道が長い。  R: 手水舎の水が井戸からポンプで直接という珍しさ。

  
L: 拝殿。  C: 本殿。天祖ということで伊勢系だが、独特な一体化である。  R: 脇に鎮座する小市郎稲荷社。

御守では特に芸事上達守が特徴的なデザイン。舞楽・蘇利古に使われる雑面(ぞうめん)をモチーフとしているそうだが、
あらためて見てみるとかなり強烈。何がどうしてこのようなデザインが生まれたのか、経緯が非常に気になる。
もうひとつ気になったのが、「ツール・ド・御朱印」という言葉。関東の神社10社を自転車で巡るそうで、これは初耳。
北は鹿沼の古峯神社、南は横須賀の鴨居八幡神社と君津の人見神社(→2020.3.7)。西は高崎の上中居諏訪神社、
東はなんと小美玉の素鵞神社(いやオレも自転車借りて行ったけどさ →2020.3.15)。とんでもない分散ぶりである。
なお、僕が今まで参拝した神社では、亀戸香取神社(→2021.7.24)と稲毛神社(→2016.1.9)も該当していた。
授与所には「2周目の方 お申し出ください」なんて貼り紙がしてあって、思わずのけぞってしまうのであった。

 
L: 蘇利古の雑面をモチーフにした芸事上達守。そりゃ頂戴しましたよ。  R: ツール・ド・御朱印。2周目は凄まじいな……。

北北西に針路をとって戸越公園へ。訪れるのは近くの塾で働いていた頃以来の17年ぶりなのであった(→2004.6.12)。
もともとは熊本藩主・細川家の下屋敷で、松江藩主の松平不昧らが所有した後、1890(明治23)年に三井家のものとなる。
その庭園部分が1932年に荏原町に寄付されて、公園となったのだ。冠木門のある南側は裏口で、北側には正門の薬医門がある。
しかし薬医門の存在に気づかず南に戻ってしまう間抜けな僕なのであった。まあ1992年と最近の築だからヨシとしよう。

  
L: 冠木門(東門)。南から一周するプランで入っていく。  C,R: 園内はこんな感じで落ち着いた雰囲気。

  
L,C: 池を中心とする回遊式庭園。高低差はあるけどそんなに激しくない。  R: 水はだいぶきれいな印象。

  
L: 大崎高校に続く園内の南西側が高くなっている。  C: 滝がいい感じである。  R: 付近住民の憩いの場なのだなあ。

さらに北西へ行くと戸越八幡神社である。1526(大永6)年、村の水源に現れた誉田別命の御神体を行永法師が持ち帰り、
石清水八幡宮から勧請した分霊とともに祀った。こちらに祈願するとすぐに叶うため、成就庵と呼ばれるようになった。
やがて「江戸越えて 清水の上の 成就庵 ねがひの糸の とけぬ日はなし」という歌が詠まれ、「戸越」の地名が生まれた。
周囲はこれでもかというほど住宅が密集している典型的な住宅地だが、戸越八幡の参道だけは木々のおかげで前近代の空気。
また参道脇、神楽殿の手前はソファまで置いてある滞留スペースとなっており、参拝客がゆったりとくつろいでいた。

  
L: 戸越八幡神社の入口。  C: 参道を行く。両側の木々が住宅地と思えない空気を生みだしている。  R: 参道脇に滞留スペース。

  
L: 参道と神楽殿の間を滞留スペースとしているわけだ。ソファまで置いてあってかなり本格的。なんとも大胆な事例である。
C: 社殿が改修工事中なのであった。こちらの仮拝殿でお参り。  R: 少し左に寄ってみる。これはあらためて参拝しなければ。

 意地で覗き込んでみたけど何が何やら。

いちおう御守を頂戴して北に抜けると戸越銀座商店街。全長が約1.3kmで、「グルメロケの聖地」として知られている。
(18年前のログでは「日本一長い商店街」と書いたが、本当かどうか知らない。われながらテキトーである。→2003.7.6
公式サイトによると、関東大震災で被害を受けた東京・横浜の人々が大崎周辺の工場地帯に活路を見出して集まってきたこと、
また1927年に池上電気鉄道が延伸した際に駅が新設されて周辺の商店が集まったことで、戸越銀座商店街が成立したという。
旧荏原区域には戸越銀座と武蔵小山の2つの長い商店街があるが、どちらも私鉄の線路と直交して延びている特徴がある。
それだけ面的に広がる住宅地に対応しているということだろう。旧荏原区の性質を読むうえで重要な要素であるように思う。

  
L: 戸越銀座商店街、戸越八幡神社から北上して出たところ。  C: 少し西へ進む。いかにもな戸越銀座。  R: アパホテル周辺。

  
L: 第二京浜(国道1号)を挟んで東側を振り返る。  C: こちらは西側。  R: 都営浅草線戸越駅と東急池上線戸越銀座駅の間。

  
L: 戸越銀座駅、蒲田方面乗り場。  C: 線路を渡って西側、五反田方面乗り場。  R: 中原街道から奥に入った商店街の西端。

戸越銀座を西に抜けると中原街道に出る。この道を少し五反田方面に行ったところにあるのが、星薬科大学である。
ボッコちゃんやショートショートでおなじみの作家・星新一の父親である「東洋の製薬王」こと星一が創設した大学だ。
(ちなみに星新一はブラックユーモアと消化不良の連発なので、個人的にはあまり得意ではない。→2006.10.18
で、星薬科大学を訪れた理由は本館にある。アントニン=レーモンドの設計で1924年に竣工したDOCOMOMO物件なのだ。
入口で許可をもらい、正面・右から・左からとそれぞれのアングルで撮影させてもらう。どうもありがとうございました。

  
L: 星薬科大学の入口。  C: 本館。竣工当時は星製薬商業学校だった。  R: 少し近づいてみる。細部がF.L.ライトっぽい。

 中央には星一の銅像。

そのまま西へ行って武蔵小山商店街に向かうが、その手前にあるオオゼキ武蔵小山店に寄る。というのも、
かつて荏原区役所があった場所をネットで調べてみたところ、Wikipedia「荏原区」の座標だとこちらが該当するのだ。
公的施設としては建物内に品川区武蔵小山図書取次施設が入っているが、オオゼキの存在感の方が圧倒的である。
とりあえず一周してみるが、周りはみっちり住宅だらけで道も狭い。建物全体の概要がまったくつかめない。

  
L: オオゼキ武蔵小山店がメインとなっている武蔵小山ビル。  C: 建物の北東側。こうして見ると公的施設っぽさがあるが。
R: こちらにはつい先月まで荏原第一地域センターが入っていたみたい。現在は品川区武蔵小山図書取次施設の看板があるのみ。

ではあらためて武蔵小山商店街に突撃するのだ。あえて中原街道側から東急武蔵小山駅方面へと抜けていく。
こちらはすべてアーケードとなっており、全長800mは都内最長とのこと。「パルム(Palm)」という愛称が付いているが、
友達を意味する「パル」と武蔵小山の「ム」で「素敵な友達と会える街」「ふれあいの街」という意味を込めたそうだ。

  
L: 武蔵小山商店街「パルム」の中原街道側出入口。掲げられているキャラクターは左が女の子の「パム」、右が男の子の「パル」。
C,R: アーケードはほぼまっすぐ続いている。個人商店もチェーン店もバランスよく入っている印象。ほどよい昭和感もある。

  
L: 武蔵小山駅に近い側から撮影。目黒線が地下化して駅周辺が再開発されたので、かつてと比べると少し小ぎれいな雰囲気。
C: 武蔵小山駅側の出入口。上述のように線路と商店街は90度の角度があるので、駅からは斜めにアプローチする感じになっている。
R: ロータリーの西側から見た武蔵小山駅。駅ビルにも商店が入っているが、あえて小規模にすることで商店街を優先している感じ。

小山台高校の脇を抜けて北上していくと、林試の森公園がある。その名のとおりもともとは林業試験場があった場所で、
1978年に筑波に移転した後に公園として整備された。 今となってはここが林業試験場だったというのが信じられないが、
明治の東京市が15区だったことを考えればしっかり郊外だったのである。園内には林業試験場時代からの樹木が残っており、
住宅だらけの品川区とは別世界である(公園の東側は目黒区だが、無限の住宅地となっているのはこちらも同じである)。

  
L: 林試の森公園・東門。厳密にはこちらは目黒区。  C: 台風で倒れたユーカリがそのまま保存されて自然観察樹木となっている。
R: 園内を行く。林試の森公園の中央部はだいたいこんな雰囲気。周囲を完全に住宅に囲まれている中、この空間はたいへん貴重。

  
L: 林試の森公園・つくし門。なお林試の森公園にはぜんぶで13の門がある。周囲が住宅地だけにアクセスしやすくしているのか。
C: メインストリートからはずれるとこんな感じ。  R: さすがに元林業試験場だけあり、巨木が残っている。こちらはクスノキ。

  
L: 林業研究発祥の地の石碑。  C,R: 園内には小川が流れ、池もある。公園の敷地はその昔、湿地だったとのこと。

  
L: 出合いの広場。なんかよくわからんが、とにかく出合えるのだろう。  C: 遊具もある。  R: 運動ができる広場もある。

林試の森公園を後にすると、南に戻って三谷(さんや)八幡神社に参拝する。ずいぶんとコンパクトな印象な神社だが、
住宅地に明るい雰囲気を振りまいている感じがする。延宝・元禄年間(17世紀後半)に三谷地区の名主・石井助太夫が、
小山八幡神社の八幡神像を屋敷に遷して創建。その後、出世稲荷社の境内に遷座(出世稲荷社は現在、摂社となっている)。

  
L: 三谷八幡神社の入口。見てのとおり非常にコンパクトな神社だが、1929年の区画整理の影響でそうなったらしい。
C: 鳥居をくぐるとすぐに拝殿。  R: 角度を変えて眺める。東京大空襲の被害を受け、現在の社殿は1957年の再建とのこと。

  
L: 本殿。  C: コンパクトな境内だが、社務所・授与所と一体化して神楽殿がちゃんとある。  R: 奥には出世稲荷社。

中原街道に戻るべく平塚橋の交差点を目指すが、途中のスクエア荏原(品川区立荏原平塚総合区民会館)を撮影しておく。
平塚小学校の跡地に建てられた施設で、石本建築事務所の設計で2013年にオープン。できてからもうけっこう経つのに、
その存在をぜんぜん知らなくて驚いた。自転車で近所を動きまわることがいかに激減しているか、痛感させられた。

 スクエア荏原。石本らしい手堅さを感じる。

さて、かつて荏原区役所があった場所だが、ネットで調べるといくつかの候補が挙がるのは上述のとおり。
その中でも個人的に高確率で該当するのではないかと睨んでいるのが、現在の平塚橋ゆうゆうプラザがある場所なのだ。
正式には平塚橋高齢者多世代交流支援施設というらしく、2016年の竣工。以前は平塚橋会館が建っていたとのこと。

  
L: 平塚橋ゆうゆうプラザ。特別養護老人ホームを併設している。  C: 正面から見たところ。  R: エントランス付近。

  
L: 北から眺めたところ。高層部は区営西中延住宅となっている。  C: 北西側。やはり住宅密集地帯で道が狭い。  R: 北西端。

  
L: 南西端。  C: 南東端は鋭角である。  R: 意地で植栽もしている。しかしこれ、木が太くなったらどうすんだ。

さらにもうひとつの候補が荏原文化センター。Wikipedia「荏原区」の記事によると旧荏原区役所跡地に建てられたそうだ。
1970年に荏原文化会館として竣工しており、タイミングとしては妥当である。しかし周囲が住宅だらけで行政くささがない。
結局のところ、荏原区が品川区に吸収された格好になってしまっているため、歴史を掘り返すのが難しくなっているのだ。

 
L: 南西から見た荏原文化センター。東西に異様に長く、住宅稠密地域なので、凄まじく全体像をつかみづらい。
R: 南東から見たところ。よく見るとなかなかモダニズム色が濃いデザイン。ホールにプールに図書館まで入っている。

南下して荏原町駅方面へ。6年ぶりに旗岡八幡神社にお参りするのだ(→2015.6.28)。過去ログでも書いているが、
多田源氏の祖である源満仲の三男・源頼信が平忠常の乱の討伐に向かい、1030(長元3)年に戦勝祈願した場所なのだ。
その際に源氏の白旗をなびかせたということで、「旗の台」の地名が生まれたわけで。まあ旗の台は隣の駅なんだけど。

  
L: 旗岡八幡神社の境内入口。堂々たる雰囲気。  C: 参道。  R: 南側の絵馬殿は1928年ごろの築で、国登録有形文化財。

  
L: 絵馬殿の隣には神楽殿。  C: 拝殿。現在の社殿は1964年の再建。  R: 本殿を覗き込むけど見えず。

あらためて御守を頂戴すると、荏原町駅からかつての自転車通勤コースで旧荏原区域の南端を西へと走る。
当時っから途中にある建物が気になっており、今回きちんと撮影してみた。Googleマップによると名称は「ハウスM」。
スタジオくさいなあと思っていたが、デザイナーズ住宅とのこと。もう少し調べてみたらやっぱりスタジオの用途もあり、
「AIRSPACE TOKYO」という名称もあるようだ。増渕大(studio M)の設計で2007年竣工。厳密には大田区域の建物。

 ハウスM/AIRSPACE TOKYO。ファサードに勝手に伊東豊雄っぽさを感じていた。

調べてスッキリしたので中原街道に戻って昭和大学病院へ。旗の台周辺ではかなりの存在感があるのだ。
あと敷地内にあるドトールはなかなか日記がはかどる。脇を通る立会道路は下を暗渠となった立会川が流れているのだが、
かなりしっかり緑道として整備されている(→2006.7.29)。周囲の落ち着いた住宅地のイメージもあり、なんとなく爽やか。

  
L: 昭和大学病院。手前のドトールがなかなか書きよい。  C: 裏にまわって北東から。  R: 立会道路。整備開始は1970年らしい。

立会道路を北上し、一本西に入ると小山八幡神社への参道に出る。先ほど源頼信による創建の旗岡八幡神社を参拝したが、
小山八幡も頼信が誉田別尊を祀って1030(長元3)年に創建されたという。その名のとおり東に荏原の地を見下ろす地形で、
「小山」という地名の由来であるとのこと。なるほど「小山」に対し、低地は「山谷」転じて「三谷」となったわけだ。
上述のように三谷八幡神社はこちらからの分祀で成立したが、現在は両社合同で「小山両社祭」として祭りを行っている。
三谷八幡が区画整理でコンパクトとなったのに対し、小山八幡は歴史を感じさせる境内となっている。が、こちらは無人。

  
L: 小山八幡神社への参道。  C: 「小山」の地名の由来である。神社によると古墳跡とのこと。  R: 鳥居をくぐって拝殿。

  
L: 角度を変えて拝殿を眺める。  C: 本殿。社殿は1938年の築。  R: 拝殿向かって左手に稲荷社。

  
L: 少し離れて境内の端に神楽殿。  C: 境内から東を見るとこの景色。往時は絶景だったに違いない。  R: 西側の裏参道。

小山八幡神社の西側は洗足田園都市である。日本における田園都市構想といえば何といっても田園調布が有名だが、
それに先行して開発されたのが洗足田園都市なのだ。ちなみに洗足と並行して大岡山地区でも用地買収が進められたが、
こちらはまるまる東京工業大学大岡山キャンパスとなった。なお洗足も大岡山も田園調布も主導したのは渋沢栄一で、
実際に方針を定めていったのは関西で実績のあった小林一三(→2012.2.26)。その小林が五島慶太を引っ張ってきて、
それで後の東急グループができあがっていったという経緯がある。洗足の分譲開始は1922(大正11)年で、来年100周年。
ちなみに以前、夜に延山通りを自転車で走っていたらハクビシンが出て驚いたことがある。当時から洗足に棲んでいたのか。

  
L: かつて塾講師時代にさんざん往復した延山通り。  C: 洗足駐在所前。いかにもな洗足の住宅地である。
R: こちらは中原街道から北上していった通り。まっすぐ行くと小山7丁目の五叉路に出て洗足いちょう通りとなる。

  
L: 小山7丁目の五叉路。かつては右手に三越洗足店があった。初めて見たときは「ここに三越!?」と驚いたっけ。
C: そのまま洗足いちょう通りを進んで洗足駅。  R: 洗足駅からさらに洗足いちょう通りを行く。円融寺通りに出る。

というわけで地元感のあるエリアに戻ってきて旧荏原区探検は終了。旧荏原区域は無限の住宅地となっているんだけど、
そのせいか商店街があちこちで縦横無尽に延びている場所でもある。昔も今も旧荏原区域は家と店でできている感触だ。


diary 2021.7.

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