事象に対してどのような意見を表明しようと、それは自由である。思想・良心の自由。そして表現の自由。
他人に迷惑をかけない限り自由であるが、それを正解として押し付けることはよろしくない(→2021.5.16)。
表明された意見に対して同意するのも反対するのも、受け手の自由だから。送り手が強制することではない。暴力行為が問題になってスルッと移籍してしまった野球選手と、それを擁護するボクシング選手。
僕は当然、そんなもん日ハムも巨人もダメだろ、と思うが、だからといってボクシング選手を非難する気はない。
ただ、この件を擁護する意見が少数派であることは自覚してほしいと思う。少数派を自覚したうえで擁護せよ、と。
実はこれ、あらゆるマイノリティ問題に敷衍できることだ。サイレントマジョリティに声の大きさで訴えるのではなく、
条件闘争を仕掛けよ、ということなのだ。相手の考えを変えるのではなく、相手の視野を広げる、そういう戦い方。
議論を通して決着をつけるのではなく、議論を通して理解を深める。多数派も少数派も、そうするだけの余裕が欲しい。
久々の授業だけど勢いで押し切った。9月になったら学年ごとの分散登校となることが先週末に決まったので、
午後はひたすらオンライン授業の準備である。オンライン自体はいいが、授業時間がかなり短くなるのでその対応が大変。
つねにハイペースでやっていく必要があるのだが、それがきちんとできるかどうか。正直不安でござる。
本日が夏休みの実質的最終日。23区めぐりはそれなりに消化したものの、今年度中に終わらせるのは厳しそう。
日記もがんばって書いたが、2018年8月をクリアするのがやっと。このペースではいつ負債を完済できるのやら。
9月からの日常生活が余裕のあるものになることを祈るばかりである。もう本当にそれだけ。
今度は左が顎関節症である。そんなに学校が始まるのがイヤなのか。
自民党の総裁選がいろいろ言われておるわけですが、派閥抗争に明け暮れていた頃と比べて劣化がひどい。
あのプロレス(→2007.2.23)は、あれはあれで異常だったが、少なくとも人材はいた。頼れる候補が何人もいた。
しかし現在の与党には選択肢がない状態である。認知症丸出しのトップに対して代案を示せない与党とかありえない。
いや、マジで国士がいねえ。でも国士がいないことを政治家のせいにばかりしていては、エサをねだるヒナと変わらん。
ここまで劣化してしまった責任は当然、イメージ先行でまともな政治家を育ててこなかった国民の怠慢にある。
なんでもお任せにしてただ文句を言ってきた反省をきちんとしたうえで、熟考して1票を投じなければならんのだ。これは僕の妄想なのだが、もしかしたら自民党は次の総選挙で下野してもいいとか思っているんじゃないか。
そうして今の野党にすべてをなすりつけるんじゃないか。原発の不備をほったらかして攻撃した震災のときのように。
読売とか産経とかは全力で足を引っ張るんだろうなあ。そしてそれに簡単に騙される単細胞のジジイとババア。
ただ時間を浪費しておいて、ほとぼりが冷めたら政権に復帰とか考えているんじゃないか。自民党はそういう集団だもん。
お先真っ暗だなあ、日本。横浜市長選で田中康夫が善戦したのは朗報だが、このレヴェルではまだまだお先真っ暗。
本日は歴史のディスカッション企画があったので見学させてもらう。大学入試の問題などを参考に話し合う企画。
一橋の過去問をもとに、ヒトラーとムッソリーニの共通点と相違点なんてテーマもあって、なかなか興味深かった。生徒たちはいろいろ調べて指摘するが、それを聞いていて思ったのは、自分の興味は地政学だなあということ。
ヒトラーとムッソリーニの個人的な違いもいいが、大陸国家としてのドイツと海洋国家としてのイタリアの環境の違い、
そちらの影響の方が強いように僕は感じてしまうのだ。おそらく解答としては、地政学に寄るのはよろしくなさそう。
でもその要素をまったく考慮しないで済ませる生徒たちにはちょっと不満なのである。ワガママで申し訳ない。
GHQ占領下の日本の民主化についてもディスカッション。生徒たちは各種の政策をいろいろ評価していくのだが、
やっぱり僕は海洋国家アメリカの前線としての日本列島って考えがベースになってしまって、ズレがあって困った。僕の場合どうしても、地図を見る(思い浮かべる)ところからスタートする。でも生徒は地図を見るという発想が皆無。
最初のところで噛み合わない感じなのだ。僕の感覚はどこまで許されるのか、どうしても不安になってしまうのだよ。
なかなか調子の上がらない週末となってしまった。水曜日に雨にやられて以来、リズムを完全に崩してしまった感じ。
何をやっても裏目に出てしまう感触を拭えないままで、この週末もただ空費したように思えてならないのである。
結局それはメンタルの問題で、要因はいくつかある。夏休みが終わろうとしている現実、減らないコロナの感染者数、
個人的に抱える劣等感、あとは2018年9月の旅行がイマイチ天候に恵まれなかったので筆が乗らないとか、そんなこんな。
こういうときは面白い映画やマンガで時間が過ぎるのを待つしかない。でもそれを日記のレヴューにつなげようとして、
根を詰めてしまうと調子が落ちるのだ。自分をだまして持ち上げるのにも一苦労。呆ける勇気が足りませんなあ。
本日やっと2018年8月の日記を書き終えたのであった。まさかこの1ヶ月分を書くのに3ヶ月以上かかるとは……。
意地でなんとか夏休み中にクリアしたけど、やはり3年前の日記をいま書いているというのは自分でもどうかと思う。
しかしせっかくの旅行の記録(とレヴュー)、きちんと書き残しておかないともったいない。日々ジレンマである。
1年生の夏休み論文(→2021.6.14)についての相談を受ける。こちらとしては暖かく見守るしかないのだが、
「書く」ことについてちょっと楽観的かなあとは思う。慣れない「調べる」方に気をとられるのはわかるけど、
自分の「書く」能力を客観的に捉えているか、少し不安な感触だ。自分が思っているほど「書けて当然」ではないのよ。
ふだんから書く習慣がついている人とそうでない人との間には、実はけっこう差があるものなのだ。
まあそれも含めて経験なので、気ィつけなはれや、と言って送り出す。どうなりますことやら。しかしこうしてゼミ的相談を受けていると、やはり自分にとっては大学時代のゼミが理想なんだなあと思う。
できるだけソフトに、しかし鋭く。今までに読んだ本の中から参考になる部分を紹介し、押し付けない。
生徒の対応をすればするほど、師匠の偉大さが身にしみる。そして自分の圧倒的な勉強不足を痛感するのである。
天気予報でも曇り主体っぽいし、昨日を引きずって今日もイマイチかも、そう思って休みをとらずに出勤。
しかし職場の窓から眺める空は一日ずっと鮮やかな晴天なのであった。悔しくて悔しくてたまりませんぜ……。◇
『アメトーーク 特別編 雨上がり決死隊解散報告会』を見たので、ちょっとだけ感想を。
これは本当に、人間関係についての他山の石だなと。だから誰かに対して批判めいたことを書くつもりはございません。
つねに気を張って、自分の行いが周囲から見てどうなのか感じなければならない、という教訓を学んだ。それに尽きる。印象的だったのはフジモンさんで、ずっと静かに怒っていたこと。そしてこらえきれず最後に号泣してしまう。
でもそれに対するホトちゃんの決意の固さが、見ていて切ない。ふたりともエンタテインメントという枠を超えて、
もう取り返しのつかないことへの本音を全身から滲み出させていたのが生々しかった。われわれは彼らから学ぶしかない。
TBSのニュース速報の音が怖いのだ。「パッパッ」というあの無機質な機械音がいちばん怖い。
そもそもニュース速報で伝えられる内容はネガティヴなものばかりではない。でも僕は条件反射で怖さを感じる。
原因はおそらく1985年の日航機墜落事故で、このときに一気に僕の中でトラウマが形成されたのではないかと思う。
「これは大変な事故になるぞ」と繰り返すcirco氏と、TBSのニュース速報の音と、実際の事故との規模。新聞の一面。
今もその質感がすべてつながっているようで、TBSのニュース速報の音は僕の中で格別に不安感を煽る音なのだ。
だからといって変えてほしいわけではないのね。注意を喚起する音という点では、古典的でよくできていると思うので。あと大学時代かなあ、深夜番組を見ていると最後に「災害に備えましょう」的な映像が流れたのだが、これが怖い。
BGMが弦楽器をポロンポロン鳴らすような系統の音色(シンセサイザーだと思うが)で構成される静かな曲で、
制作者は視聴者に恐怖を与える意図がないはずなのに、不安感を掻き立てられてものすごく怖かった記憶がある。
というか、この文を書いている今も鳥肌が立っております。あのBGMは何なのか。二度と聴きたくないが気になる。そういえばカラーバーのピー音も怖い。テレビに映っちゃいけないものが映っちゃいそうで怖いのではなくて、
あくまで音が怖いのだ。そしてそれがどれも人工音であるのはなぜなのか。「怖い音」ってのも奥が深い。
星里もちる『りびんぐゲーム』。小学館の電子書籍が割引になっていたので買って読んでしまったよ。久しぶりだわ。
バブル期における東京の住宅事情を背景にしつつラブコメ。途中でバブルがはじけて大変だけどラブコメ。
おかげで社会学的にものすごく興味深い。そういう点からしても価値のある作品になっていると思うのである。
1990年代初頭らしく、話は前向き。会社が自宅に来るという無茶な設定ゆえの力強さと、作者特有のテンポのよさ。
どちらかというと地方出身者の視点から東京の質感を問い直しつつ、生活と夢の行き着く先をポジティヴに探る。
やはり根底にあるのはトレンディドラマで、マンガとしての再構成をしつつも、その枠内での着地であると思う。
全10巻だが、だいたい8巻あたりでゴールの方向性は見えており、これ以降の展開はやや蛇足。引き伸ばし感がある。
その分だけトレンディに寄ってしまったのが残念なところである。まあそれは人気があったから、ということで。しかしこの頃の小学館の青年漫画には勢いがあったなあ。いや、今も勢いがあるのかもしれないけど。
これは現状の否定ではまったくない。集英社と講談社に追いつけ追い越せな勢いが、僕は好きだったということ。
明らかに知恵を絞っている感じがあって、そこに惹かれたものである。その感覚をしっかりと思い出したぜ。
雨のおかげで非常に低調である。夏休み中にどれだけ23区めぐりができるかが勝負、と思っていたのに、
全国的に大雨がずーっと続いて東京も例外ではなく、まったく動けない状況のままである。困ったものだ。
それならば、雨が降っているうちに準備しておくべきことがある。次の世田谷をどう分けるか、見るべき場所はどこか。
渋谷、中野、杉並、豊島……。今のうちに策を練っておかないと、また前みたいに雑な状態になってしまう。
しかし、これがなかなか乗り気になれない。日記の画像の整理も、MP3づくりも、部屋の片付けも、
今のうちにきちんとやっておかなければそのうちそんなことを考える余裕もなくなってしまうというのに、
どれも中途半端なままでモラトリアムが終わってしまうのだ。やるべきことが多すぎて、途方に暮れて終わる。
何もやっていないわけではないのだが、物ごとが進んだ感触がしないままで8月15日。雨のせいにしても変わらない。
毎年恒例となってしまった大雨が、今年はお盆を直撃である。でもコロナで帰省ムードじゃない感じ。
そういう意味では混乱は少ないのだろうか。九州北部と中国がひどいようだが、被害が小さいことを祈ろう。
それにしても、全国あちこちに行ったせいで、ニュースを見ると「ああ、あそこか」とわかる場所もあって、
やりきれない気持ちになる。そしてこれを毎年日記に書いているのがつらい。なんとかならんのか、豪雨被害。そんでもってこの豪雨の最中に、日本に上陸したラムダ株が五輪関係者から検出されていたと今ごろ認めるとか、もうね。
隠蔽するのが当たり前になっているとか、人間性がおかしい。国の行く末をこんな汚い連中に握られて、耐えられんぜ。
『サザエさん音楽大全』。アニメの『サザエさん』に使われる劇伴とテーマソングを詰め込んだCDを聴いてみた。
たびたび書いているが、マツシマ家は原作マンガ原理主義でありアニメを全否定するほどの過激な思想が主流であった。
しかしながら、さすがにテーマ曲やBGMを無視して生きていくのは不可能で、あらためて聴くといろいろ面白い。
それにしても「大全」とは。『神学大全』『釣魚大全』に並ぶかというと……並んでもいいかもしれんな。オープニングもエンディングも作曲・編曲が筒美京平(→2020.10.12)ということで、ただただ恐ろしい。
劇伴は越部信義で、『おもちゃのチャチャチャ』がいちばんよくわかる代表作か。野坂昭如の作詞が有名だが。
あとは『にこにこぷん』の音楽も担当とのこと。となると、僕らは知らないうちに多大なる影響を受けているはずだ。
自由劇場の『上海バンスキング』(→2010.2.23)も担当。音楽が物語を呑み込む危険性は以前書いたが(→2021.2.15)、
それは越部氏の影響が大きかったわけだ。日常を表現するBGMとして『サザエさん』に勝るものはそうそうあるまい。さて聴いていて思ったのは、実は『エヴァンゲリオン』の劇伴は、『サザエさん』を参考にしているということ。
シンジとアスカが同居してペンペンがいてワチャワチャするあの辺り。シンジにとっての平凡な日常を表現するにあたり、
僕らが無意識に日常を認識してしまう『サザエさん』をヒントにしているのは、ものすごく鋭いなと思ったのである。
今ごろ気づいたんでやんの、オレ。「エンディング4」「波平のテーマ1」「タラのテーマ2」あたりはそっくりな印象。
メロディの楽器の構成を同じにして、ピッコロ(フルート)と鉄琴を重ねるのが基本形である。あとはストリングス。
しかし調べてみたら、『エヴァ』で該当するのは「MISATO」の1曲だけだった。もっとありそうに思ったのだがなあ。
まあ何にせよ、ジャズを下敷きにした贅沢な演奏が聴けるのがうれしい。職人芸って感じがたいへんよいです。
国立新美術館でやっている『ファッション イン ジャパン 1945-2020―流行と社会』を見てきたよ。
今ごろ『ランウェイで笑って』にバカハマりしている私としては、見ないわけにはいかないじゃないか。
さて、国立新美術館では過去に『スキン+ボーンズ-1980年代以降の建築とファッション』を見た(→2007.8.11)。
けっこうな酷評だが、このとき「コム・デ・ギャルソンはなかなか面白い」という先入観を植え付つけられている。
あとは世界のファッションの総花的内容としては、熊本市現代美術館の『ファッション―時代を着る』(→2011.8.8)。
しかし今回はあくまで戦後の日本社会とファッションの連動がテーマ。非常にワクワクしながら展示を見ていく。戦後をテーマにしているが、きちんと戦前のモボ・モガから入るのが偉い。ここだけでも展覧会がひとつできるが、
あくまで伏線という扱い。戦後の源流としてのモダンがよくわかる。1920年代の世界的な大量消費社会の到来により、
日本ではアメリカの影響を受けつつ洋装が定着していったわけだ。続く戦時中はファッション的には抑圧の時代。
実物を着せられているマネキンのスタイルがいいから、戦時中の国民服やもんぺすらオシャレに見えてしょうがない。
プロローグの段階から、結局は着こなすスタイルと姿勢なのかよ、と結論じみたものを感じてしまうのであった。戦後の洋裁ブームでは解き放たれた躍動感が凄まじい。戦争という約15年の空白を軽々と跳び越えてみせる。
物資の不足もあるが、人々は手作りで洋装を自分のものとしていく。ここがトップダウンだった20年代との違いだろう。
ボトムアップの動きを支える存在として中原淳一・花森安治・伊東茂平らの名前が挙がる。僕としてはここに、
マンガの『サザエさん』で該当する数コマを出しても面白かったのではないかと思う。許可が出ないのかもしれないが。
日本の高度経済成長について直接的な資料はなかったが、ファッションへの熱を通してリアリティを感じる展示だった。
個人的には、アイビールックや東京オリンピックの「日の丸カラー」ユニフォームあたりが頂点だった気がする。
それすなわち、フォーマルをカジュアルにしていく漸近線が示されたということ。だから本当に面白いのは60年代まで。
今回の展覧会ではその1960年代について、「『作る』から『買う』時代へ」としていたが、正直この点は不十分。
ここは企業の商業面に踏み込まないと、「作る」から「買う」への変化の全体像が見えてこない。もったいなかった。
この位相の変化を丁寧にやると70年代の化け方も理解しやすくなるのだが、単にデザイナーの作品紹介で終わった感触。僕自身の感覚で申し訳ないが、70年代からは「悪ふざけ」と形容したくなるようなものが表に出てくるようになる。
森英恵も山本寛斎も、海外でウケたのは所詮カウンターカルチャーゆえに成立したオリエンタリズムによるものだろう。
「ガイジン」向けの記号化と、欧米人にはエキゾチックなデザインソース。共犯関係と言えるほど対等には感じられない。
結局は西洋の古典的なコードがなければ何も成立せず、70年代のカウンターカルチャーはその手のひらで踊っているだけ。
ここにおいてファッションとは日常を離れた「衣装」となる。映画の衣装担当から台頭した森英恵の経歴は象徴的だ。
消費社会の進行によってハレとケの関係が解消されたとも言えるが。ファッションが情報として消費されるスピードは、
段違いの加速度がついた。身近な日用品とともに、ファッションのアイデアもまるで使い捨てのように消費されていく。
流行に踊らされてはいけないなあ、と思う内容だった。フォーマルのコードはあくまで流行とは別のところにあるのに、
いわゆる「ファッションの最先端」ではいかに消費させるかについてトップスピードでの戦いが繰り広げられている。
まるで光の速さで着替えを繰り返しているけど、中身は裸の王様のままで何も変わっていない、という印象である。
(参考までに、建築と消費社会の関係について書いた過去ログにリンクを張っておく。→2018.9.13)ということで、論評はここまで。これ以降、見るべきものは(僕にとっては)何もなかったので。
展示を見てわかったのは、究極的には衣服とはコミュニケーションツールであり、相手に失礼のないようにするもの。
(ゆえに野性むき出しのタトゥーは露出が憚られるわけで。場に応じて相手に合わせられることが重要だ。→2018.8.9)
ファッションとは、儀礼的あるいは実用的な用途と、装飾を介した自己表現とのせめぎ合いに他ならないのであり、
われわれは場に応じてその3者のバランスについて、トレードオフの綱引きをひたすらやっているというわけだ。
(『ドラえもん』の「いいとこ選択肢ボード」を思いだす。顔か力かIQか、どれかを選ぶと他が落ちる。これと一緒。)
そうなると「ダサい」という言葉の意味が興味深い。儀礼的/実用的/自己表現、このバランス感覚を語る言葉なのだ。
しかし評価する基準は主観的かつ恣意的であり、相手を圧倒する説得力があればその服装は「ダサい」ものでなくなる。
ふと思ったのは、「飽食とファッション」というテーマ。11年前の国立新美術館では建築とファッションがテーマで、
今回も直接的ではないものの、興味深い事例があった。それはレナウン「イエイエ」のテレビCM(ワンサカ娘)で、
村野藤吾設計の旧千代田生命本社(つまり現・目黒区役所 →2021.8.5)やコマツビルを背景に踊っていたのだ。
なるほどこれが当時の感覚か、やはり建築とファッションは親和性が高いんだなあなんて思いつつ見ていたのだが、
「衣・食・住」ということで言えば建築やファッションは美術館で回顧されるが、食生活が扱われることはほぼない。
でも実際は、飽食とポストモダン建築、ファッションにおけるデザイナーの台頭は、軌を一にしていたのではないか?
「衣食足りて礼節を知る」という言葉があるのに、「飽食とファッション」という視点は今までまったくなくて、
ここはきちんと検証してみる意義はあるんじゃないかと思った。両者を関連づけて戦後を分析する企画を望みます。読む方も疲れてきただろうけど、書いている方はもっと疲れた。なのでいつもの雑感で締めるのだ。
いろんな衣服が展示されていたが、当時の値段もつければ面白いのにと思った。おいくらなのか、重要でしょう?
高度経済成長が落ち着くまでの期間は、中原淳一や長沢節など魅力的なイラストとファッションにはつながりがあった。
しかしこの関係性はどんどん薄くなっていく。「作る」から「買う」への変化と連動していることなのだろうが、
それをきちんと展覧会の中で指摘することが必要だったのでは。これはデザイナーの「密室化」とも関係がある。
ファッションと書/フォントは本質的に共通するものを持っているのではないか? シニフィアンという意味でも。
この両者の関係性についてきちんと考えた企画はないものか。各界著名人の筆跡だけを集めた展覧会とかないのか。
ファッションを通して身体性に触れるなら、SMのボンテージとか下着とか少しくらいあってもよかったのでは。ダメか?
最後にあったコム・デ・ギャルソンの新しい作品は、ジェンダーレスというより前後の区別がわからん服なのであった。
もっとも、その「前後が明らかであること」が性差であるのだとしたら示唆的で面白いが。どうなんでしょうね。
この展覧会、時系列を逆にして現代から戦後へという方向の展示ならどうだったんだろう。無事に収束するのかな。
ミュージアムショップでは中原淳一が最強なのであった。服を売っているのは「途中でやめる」くらいだったなあ。
そしてこの展覧会のグッズは結局、柄の問題となっていたのも興味深い。それも含めて逆説的に衣服を考えさせられた。
ちなみに本日の僕の服装は、無印良品の黒いボタンなしポロシャツにユニクロのスキニーテーパードジーンズ、
靴はニューバランスのサッカー用トレーニングシューズ白、あとFREITAGのHAZZARDをしょってました。
そんなこんなで見学時間は〆て3時間弱。われながらよくがんばった。
町田で復活したパパパパパイン(→2012.7.16)に行きたいんよ、とマサルが言うので13時に町田駅に集合。
僕の感覚として、町田というのは下北沢と双璧をなす「東京の迷路2大迷路タウン」である。町田が東京かどうか、
という議論はさておき、鉄道が交差しており、区切られたそれぞれの象限がきちんと商店街として成立している、
そういう条件で生成される多面性がどちらも非常に強いのだ。これは私鉄によって、より強化されるのが面白い。
(厳密に言うと町田駅の西側1/4は商店街と言えないが、原町田大通りが独特のリズムを加えて複雑化している。)
JR中央改札前でなんとか合流すると地図アプリを見ながら移動するが、歩いていてもイマイチ確証が持てない。
ターミナルビル2階ということで、バスターミナルから上がって仮面女子がライヴをやっている脇を抜けて無事到着。
町田はその迷路っぷりが魅力でもあるのだが、いざ明確な目的地がある場合にはなかなかつらいことを再認識。
L: 店の前に顔ハメがあったが、なぜか僕がやることに。なんか毎回僕がやっとりゃせんか? C: サーヴィス精神旺盛な私。
R: 冷やしラーメン・いっぱいん。冷やしということで酸味がマッチしており、たいへんおいしゅうございました。移転しても店内にあふれるパイナップルグッズには圧倒されたなあ。マサルとともに冷やしラーメンをいただいたが、
酸味が冷やしにマッチしており、夏場にはより自然に受け入れられそう。ふつうにおいしゅうございましたね。さて、緊急事態宣言のおかげでわれわれの行動パターンはだいぶ制限を受けており、特にやりたいことがない。
まあ町田には東急ハンズもあるし、じっくり買い物でもすればいいか、なんて話しながら駅まで戻ろうとしたのだが、
マサルは仕事が終わっていないそうで、「私に30分間時間を下さい」などと鈴木健二的なことを言いやがる。
そして途中にあった喫茶店に入っていったのであった。一方、僕は僕で実は町田に来たかった理由があった。
サイクリングなどで重宝しているスポーツサングラスの部品をなくしたので、町田にある店舗で確保しようと動く。
しかしそのメーカーは最近になってものすごい勢いで店をたたんでおり、すでに町田も撤退済みだった。がっくり。
どうにもならんので、散歩しながら「緊急事態宣言で都道府県をまたぐ移動が禁止されたら町田は困っちゃうよな、
独立戦闘国家『まちだ』を名乗ったりして。国家元首は町田ゼルビアのポポヴィッチ監督で」などと妄想するのであった。仕事を終えたマサルと再合流すると、ふたりで東急ハンズ町田店へ突撃。マサルは延々と手帳売り場で悩んでおり、
僕は僕で、せなけいこ『ねないこ だれだ』グッズを発見してプラトーンのようにその場に膝から崩れるのであった。
こんなん、買ってしまうやん!と言いつつ買い物かごにグッズを投入。一方、マサルは延々と悩んだが手帳は買わず。
その後もゆっくりじっくりと店内を見てまわる。町田店は2フロアしかないが、ツッコミを入れながら見ていくと、
かなり時間がかかった。ミニサイズの焼酎も置いていたし、なかなか充実している印象である。けっこう買ったなあ。東急ハンズ町田店が入っている町田東急ツインズEASTは、ハンズ直下の5階に絵本グッズを扱う店があって、
これが非常に危険なのであった。五味太郎の『きんぎょが にげた』グッズとか、もう、なんでそんなことするんよ!
そのほか、エリック=カールはもちろん、レオ=レオニのフレデリックやらスイミーやらぜんまいねずみやら、
馬場のぼる『11ぴきのねこ』(オレが買った人形が実家にある)、せなけいこなんて帽子にシャツまであるんでやんの。
こんなの、金がいくらあっても足りねえじゃねえか! お代官様、堪忍してくだせえ……。本当にそういう心境である。
名作絵本のグッズ展開は「なぜ今頃?」という気がしないでもないが、いざ展開されると非常に強力である。
デザインとして優れているだけでなく、客はそこにストーリーと自分の幼少期まで重ねちゃうからね。魅力がマシマシ。
前に東京国立博物館で鳥獣戯画グッズについて考えたが(→2015.5.29)、絵本もその領域に達しているのだ。
しかしこれだけ絵本グッズにいちいち反応してしまうとは、僕の幼少期とデザインセンスは完全に絵本に支配されとる。
ちなみにマサルはミスタードーナツの印象が強かったようで原田治グッズに反応していた。わかるよ、わかりますよ。『ねないこ だれだ』コーナー。ヤバい。これはヤバい。
町田東急ツインズEASTの1階には期間限定で北海道のアンテナショップがあり、ここでも2人して引っかかりまくり。
全国あちこちを旅して地方の名産品が大好きな僕としては、ただただ北海道の魅力に素直にやられるばかりだが、
マサルもいいようにやられちゃっていたのは意外だった。まあでもしょうがないよな、北の大地は偉大だもんな。
そんなこんなで町田東急ツインズEASTを出たときには、16時半になろうというところ。どれだけじっくり見ていたのか。
そしてどれだけしっかり金を搾り取られてしまったのか。資本主義である以上、優れた商品には搾取されるものなのだ。僕のスポーツサングラス部品は新宿店が最後の希望ということで、小田急線で新宿へ。ふだん乗らない小田急は実に新鮮。
そんでもって町田の遠さも再認識した。町田が魅力ある都会なのは、小田急における東京最後の砦だからかね?
新宿に着くと店に直行、部品はどうにか確保できたが、新宿店も今月末には撤退と聞かされてブルーになるのであった。メシをどうするか考えるが、あまり考えてもしょうがないので小田急ハルク地下の店に突撃。今日は小田急づいとるね。
結果的には思う存分しゃべることができたし、もつ鍋もいい感じでしたし、たいへんよろしゅうございましたな。
L: ハンズで買ったカラビナのペットボトルホルダーを使うマサル。店員さんに頼んで開封してもらった。
C: 大好物のとうきび茶に喜ぶマサル。そんなに大好きだったとは。 R: 出てきたもつ鍋を満足そうに激写するマサル。けっこう腹を割ってとことん話したが、まあお互い希望を捨てずにがんばりましょうや、と。何かやるときは呼んでくれ。
台風が来ていて雨なので、午前中は日記を書かずに御守の写真撮影。最近の23区めぐりのおかげで量が膨大だ。
録画しておいた『古畑任三郎』(→2008.11.22/2008.12.5/2008.12.27/2021.5.19)を見ながらの撮影である。しかしあらためて見る『古畑任三郎』は、論理的に無理のある展開がけっこう気になる。トリック自体よりは、展開。
古畑任三郎は他者として犯人の世界に入り込んでくるが、その「犯人の世界」がけっこう乱暴なつくりであるというか、
三谷幸喜が勢いで押し切っているなあ、という粗が目立つ。坂東八十助のプロ棋士の回とか、どうなのよと思っちゃう。
前に書いたが三谷幸喜は自分の世界をがっちり構築する密室劇の人なので、リアリティとの相性が悪い(→2006.9.23)。
でもその粗を許せてしまう、ツッコむのは野暮だと思えるほどの熱量を感じさせるドラマになっているのもまた確かだ。
さらに言うと、田村正和も勢いで押し切っている。これ明らかにNGになるのをごまかしているよなって演技もあって、
ずるいなあと思ってしまうのだが、「古畑任三郎」という「型」によって許されてしまう。ものすごい力技だと再認識。いちばんは、俳優も含めてスタッフ全員が全力で面白がってつくっているのが伝わってくることが大きい。
これは外部のノイズを排除する集中力として現れていて、三谷幸喜の密室劇志向がいい方に作用していると思う。
そして田村正和の演技が持つ引力。そこに本間勇輔の強烈な音楽が乗る。犯人役はもちろん脇役の面々も特徴的で、
今になって見てみるとそこだけでも衝撃的だ。おかげで全体として高度な「引き込まれるフィクション」となっている。
だから前に書いた二次創作論(→2007.11.9)をふまえて考えると、おそらく『古畑任三郎』の二次的作品は成立しない。
「古畑任三郎」自体が田村正和しか創ることのできないキャラクターであるし、犯人役にも俳優本人の存在感が必要だ。
極端なことを言うと、まるでディズニーのような絶対的な力で田村正和は『古畑任三郎』をコントロールしているのだ。
おそらく『古畑任三郎』ほど、リアリティとの相性が悪さが平然とスルーされて許されてしまっている作品はないし、
時代性やら社会性やらと関係のない純粋なるフィクションであることを自明として楽しまれている作品はあるまい。
演者もスタッフも視聴者も全員がグルになり、これだけ盛大な嘘を思いっきり面白がっている状況は、他にないと思う。
目が限界になるまで日記を書いたぞー!
日記を書くときの限界はいくつかパターンがあって、最もよくあるのが「MacBookの電池の残量が切れる」である。
いま使っているMacBookもだいぶ長いので、ネットをつないでいると3時間ちょっとが限界。激しくネットを使うと、
それより短く2時間半ほどでお手上げ状態になることもある。こうなりゃ強制終了である。どうにもならない。しかし電源を確保できる環境の場合、あるいは充電時間を挟んでハシゴが可能な場合、限界となるのは「目」なのだ。
目が疲れてしまって頭が痛くなって集中力が切れて終了、というのが極限まで日記を書いたときの症例である。
この酷使ぶりは絶対に将来ヤバいよなあ、と思いつつ家に帰る。こんな夜はゆったり風呂に浸かって早寝するしかない。
最終日は試験の採点について受講者間で議論。しかしそこを議論すること自体がおかしくないか?と思うのであった。
ワークショップで議論して理解を深める手法は方法論としては正しいが、試験の評価基準でそれをやるのはヤバいだろう。
そんな試験、客観性がまるでないではないか。つまりは制度としてまったく完成されておらず、最初から破綻している。
評価をつける人によっていくらでもブレるものを平然とやる神経が理解できない。これは害悪どころではないよ。昨年度からセンター試験に替えて大学入学共通テストが始まったが、記述問題はできそうにない、と結論が出つつある。
正直言って、この問題とまったく同じ構図である。恣意的でない採点なんて最初から不可能なのに、強行している。
学習する範囲も試験優先で恣意的、採点も恣意的。何から何まで恣意的で、これはいいところがまったくない教育だ。管理職を含めていろんな先生から感想を聞かれたので、正直に上記の問題点を指摘しまくって答えております。
それで「面倒くさいやつ」と思われればしめたものだし、「わかってるね」という反応をくれる人は賢い人だとわかる。
物事の問題点を見抜く能力に欠ける人かどうか、あるいは物事の本質を見抜けない連中に追随するような人かどうか、
僕なりの判断基準にさせてもらっております。これについての評価基準は、議論の余地がないからね!
昨日の反省ということで、本日は大きな会議室の一角を借りてオンライン受講。ネットワークの不調はほぼゼロで、
授業で使う教室の方がネットワーク環境が悪いってどういうことだよ、と呆れるのであった。ニンともカンともである。本日は認定試験の話がメイン。しかし話を聞いているうちに腹が立つ。オレは地理の教師として採用されたのであって、
歴史の教師じゃねえんだよ、というアイデンティティの点でまず不満爆発。まあこの点はあくまで個人の問題だが。しかしもっと大きいのは、認定試験を重視するあまり、学習範囲が極めて恣意的に捻じ曲げられていることである。
認定試験を考えると掘り下げやすい地域・時代とそうでない地域・時代で差があり、結局やる内容が絞られちゃう。
歴史学おたくどもは気づけていないみたいだが、「狭く深く」でかえって学ぶ内容が少なくなっているのは明白だ。
そうしてどの学校もみんな近現代史ばかりに偏っている。こっちの方がかえって受験のための勉強になっているって逆説。
主体的な教育みたいなことを言っておいて、実態は本当に問題だらけ。こんなものが日本を侵食するなんて、世も末だ。
海外の大学への進学を目指すコースがあって、本日から3日間はそれについての研修である。
ご時世がご時世ということでオンラインだが、家だと寝てしまいそうなので真面目に職場でオンライン。
ところが押さえていた教室のネットワークの調子が悪くてどうにもならず。職員室だと集中できないし。
さらに講師の先生のネットワークも調子が悪く、一日中しっちゃかめっちゃかなのであった。いやー残念(棒読み)。