土日だけどグラウンドが整備中につき部活できませーん。というわけで、「TOKYO SWEEP!! 23区編」の第7弾なのだ!
今回は新宿区にチャレンジして、旧四谷区と旧牛込区をまわるのである。なお、旧四谷区が現在の新宿区の南東部、
旧牛込区が現在の新宿区の北東部となる。新宿区はもうひとつ旧淀橋区もあるけど、それについては余裕がないので次回。今回のスタート地点は、四谷の須賀神社である。その名のとおりスサノオを祀る神社だが(この辺参照 →2018.7.29)、
1634(寛永11)年に稲荷神社として創建された。現在は四谷の住宅地に埋もれるように鎮座している、そんな感触である。
そろそろ9時というタイミングで参拝し、無事に御守を頂戴する。テンポのいいスタートが切れて、実に幸先がよい。
L: 東側にある須賀神社の石段。こちらが男坂であるようだ。 C: 西に入ると女坂の石段。 R: 歴史を感じさせる石段だ。
L: 石段はどちらも横参道的アプローチ。上りきって右を向くと境内となる。 C: 拝殿。 R: 摂社の天白稲荷神社。
L: 本殿。社殿は東京大空襲で焼失したが、1819(文政2)年に造営された本殿の内陣は残ったそうだ。
R: 境内から眺める四谷のビル群。江戸時代にはどんな景色だったのやら。手前の屋根は北隣の妙行寺。参拝を終えると北上して新宿通りを渡り、新宿歴史博物館の裏へとまわる。こちらにあるのがDOCOMOMO物件の石津邸。
石津さんとはアイヴィールックの「VAN」ブランドで知られる石津謙介。circo氏が大好きでよくTシャツを着ていたっけな。
石津邸は池辺陽の設計で、1957年の竣工。雑誌『モダンリビング』が提案するケース・スタディ・ハウスとして建てられ、
完成までの経緯が記事として紹介されている。外から見た限りでは小ぢんまりとしたコンクリ住宅という印象だが、
60年以上前のことを考えると革新的な要素の塊だったに違いない。ネットで検索すれば中の写真がチラチラ出てくるが、
地味な外観からは想像がつかないほどたいへんにオシャレで驚かされる。住宅建築の奥深さを体現する建物なのだろう。
L: 石津邸を北東から。 C: 外観は正統派のコンクリモダン住宅建築。 R: 北西から。築63年にしてはたいへんきれい。ついでに新宿区立新宿歴史博物館も撮影。
再び新宿通りに出ると、西へ行って四谷地域センターへ。国道20号が新宿通りから甲州街道になる四谷四丁目交差点、
その甲州街道が新宿御苑トンネルに入る入口にそびえている鋭角三角形の建物が、四谷地域センターである。
かつて四谷大木戸のあった場所であり、玉川上水の水番所のあった場所であり、四谷区役所があった場所なのだ。
13階建ての高層ビルだが、今も新宿区の施設として建っているという点に、江戸時代から続く行政の歴史を感じる。
L: 新宿御苑トンネルと四谷地域センター。 C: 鋭角部分をクローズアップ。 R: 北側の側面を見上げる。
L: 北西から見たところ。センター内には図書館・ホールなどのほか、新宿区の四谷特別出張所や東京都水道局も入っている。
C: 南西から。トンネル上の緑地がすぐ右から迫る。なお四谷地域センターは、現代建築研究所の設計で1997年に竣工している。
R: 敷地の東側、鋭角を切り取った先は小規模なオープンスペースとなっており、石碑などの文化財が集められている。
L: 四谷大木戸跡の碑。 R: 水道碑記。東京都水道局が今もセンター内に入っているのは立派だなあと思う。敷地を一周すると、そのまま大木戸門から新宿御苑の中に入る。ちなみに新宿御苑には初上陸である。今さらお恥ずかしい。
大木戸門からだとすぐに温室が現れる。温室とは異国の植物を育てるロマンそのものである(→2015.5.30/2015.11.23)。
L: 新宿御苑の大木戸門。 C: 1927年築の旧大木戸門衛所。瓦屋根なのにコロニアルな風味が混じってモダン。
R: 大木戸門から南へ進んでいくと玉藻池。高遠藩・内藤家の下屋敷時代につくられた庭園がルーツである。
L: では温室へ。1875(明治8)年に最初の温室が建てられ、現在のものは2012年に竣工。絶滅危惧種の保存と展示を行う。
C: 手前にはわざわざ池がつくられている。 R: ではいざ西側の入口からお邪魔するのだ。中は湿度がすごいぜ。
L: 大温室は上から見ると紡錘形で、こちらのゲートから入ってくねくね歩いてまわるコースになっている。
C: 温室内の池。外の池と連動しているのか。 R: 熱帯のエリア。木々の勢いに圧倒されてしまう。
L: 小笠原コーナー。 ちなみに新宿御苑は環境省が管理する国民公園である。都立公園ではないのね。
C: 乾燥帯のエリア。同じ建物の中なのに環境を変えているのがすごい。 R: 多種多様な花が並ぶ。温室の西側には旧洋館御休所(ごきゅうしょ)。天皇・皇族の休憩所として1896(明治29)年に建てられたもので、
アメリカで流行したスティック・スタイルを基調に宮内省匠寮が設計。増築を経て現在は大正時代の規模に戻っている。
中はしっかり豪華な洋館で、旧御居間と旧次之間は往時の内装が再現されている。撮影NGだったのが実に残念である。
L: 南東から見た旧洋館御休所。国指定重要文化財である。 C: 東側。 R: 北東から見たところ。
L: 南側が正面玄関。 C: 内部は見学可能だが撮影はダメなのでここまで。 R: 去り際に南西からもう一丁。その後は園内をフラフラと散策。上述のとおり、新宿御苑はもともと高遠藩・内藤家の下屋敷だった。
1872(明治5)年には国の農事試験場が置かれ、学校も設立されて東京大学農学部と東京農工大学農学部につながる。
日本で栽培されている野菜はほとんどが海外原産だが、この時期に西洋種導入の最前線となっていたのがこの場所ってわけ。
その後、宮内省の御料地となって試験場は芝の三田育種場に移転。そして1906(明治39)年に皇室庭園の新宿御苑となった。
この軌跡はそのまま、江戸から東京に変わって都市部が拡大、また近代化と国の権威付けを反映したものと言えそうだ。
L: 芝生の広がる風景式庭園へ。 C: 木々によってビル群が遮られているのは贅沢な光景だ。 R: 三角花壇。
L: 旧御凉亭。皇太子(後の昭和天皇)の御成婚記念で1927年に献上された中国風の休憩所。設計は森山松之助。
C: 西側は日本庭園のエリア。 R: 上の池越しに現れる代々木のドコモタワーがすべてをぶち壊す。犯罪的な建物だと思う。
L: 東側には整形式庭園。プラタナスの並木が見事。 C: 並木の内部はこんな感じ。 R: 整形式庭園の中央はバラの花壇。
L: モダンローズ第1号の「ラ・フランス」(→2015.5.30)。 C: ハイブリッド・ティー人気をもたらした「ピース」。
R: 絵に描いたようなバラらしいバラだなと思って名前を見たら「イングリッド バーグマン」だと。カサブランカ(→2006.10.3)。最後に砂利の広場から周りを眺める。大都会・新宿の南端、本当に贅沢な空間だ。
新宿御苑を後にすると、新宿駅東口方面へと向かう。ここからはいかにも「新宿」らしいカオスの中を突き進む感じ。
花園神社(→2017.6.5)を抜けて奥に入り込むと、そこは新宿ゴールデン街である。有名だけど、来るのは初めてだ。
第二次大戦後の闇市が非合法の青線となり、1958年の売春防止法施行で飲み屋が連なる新宿ゴールデン街となった。
これだけ猥雑な雰囲気が今もしっかり残っているのは、さすがは新宿、さすがは大遊戯場歌舞伎町だと思う。
L: 新宿ゴールデン街の入口(のひとつ)。 C: 四季の路から見たところ。 R: 新宿ゴールデン街の中を覗き込むとこんな感じ。新宿ゴールデン街の斜向かいが、DOCOMOMO物件の旧四谷第五小学校である。現在は吉本興業東京本部となっており、
廃校リニューアルの事例としても知られている。設計は東京市土木局建築課(鈴木忠雄)で、1934年に竣工している。
1923(大正12)年の関東大震災を受けて鉄筋コンクリートで再建された、いわゆる「復興小学校」が知られているが、
厳密に言うと旧四谷第五小学校は復興小学校とはならない。しかしそのノウハウが生かされた貴重な建築である。
L: 旧四谷第五小学校(現:吉本興業東京本部)。外からだと古い建物という印象でしかない。すっきり見渡せないのが切ない。
C: 建物の側面。この無機質さはいかにも規格化された学校建築。 R: 意地で北から見たところ。どうにもなりませんなあ。さて歌舞伎町のこの界隈に来たからには新宿バッティングセンターにもちょろっと寄っておく。オープンは1978年とのこと。
もっと歴史がありそうなくらいに昭和の雰囲気を振り撒いている施設である。マサルが遅刻するときお世話になるイメージ。新宿バッティングセンター。
で、その新宿バッティングセンターの北側にある駐車場が、どうやらかつて淀橋区役所が置かれていた場所であるらしい。
最初は淀橋市場の隣(というか区役所の隣に市場を持ってきた)で、1944年に移転したとか。Wikipedia基準なので怪しいが。
とりあえず写真を撮影しておく。いずれ古地図できちんと場所を確認したいとは思うが、空間の記憶は実に脆いものだ。
L,C,R: 新宿バッティングセンター北の駐車場。淀橋区役所は本当にここにあったのだろうか。そのまま北へ行くと、職安通りの手前に稲荷鬼王神社が鎮座する。1831(天保2)年に稲荷神と鬼王(きおう)権現を合祀。
豆腐を断って「撫で守り」でナデナデすれば湿疹・腫れ物に効くそうだ。花園神社よりもさらに湿り気が強い印象の境内で、
稲荷と鬼王という名前そのままな人智の及ばない雰囲気をなんとなく感じる。「歌舞伎町の裏」という位置がまた強烈だ。
L: 稲荷鬼王神社。 C: 鬼の頭上に載っている水鉢。でも肝心の鬼が手前の岩で見えない。どんだけボケてんだオレは。
R: 境内社の三島神社は事代主命を恵比寿神として祀る。鳥居の上に船が乗っている光景はさすがに初めて見た。
L: 拝殿。 C: 本殿。手前は富士塚で、参道を挟んで2つに分かれる。 R: かつて隣に映画館があったそうで、ポスターを展示。御守を頂戴すると職安通りに出るが、そこに他のビルと並びながらも異彩を放っているのがGUNKAN東新宿ビルである。
これまたDOCOMOMO物件で、1970年の竣工当時は「第3スカイビル」という名称だった。設計は元陸軍船舶兵の渡邊洋治。
久米建築事務所を経て吉阪隆正の助手となっており、系列としては早稲田の建築家となる。「あーなるほど」って感じ。
石山修武(→2018.8.17)とかと同じで積極的に奇を衒っていくタイプという印象。でもこの軍艦ビルは新宿っぽくていい。
L: 南西から職安通りを挟んで見るGUNKAN東新宿ビル(第3スカイビル)。 C,R: 強烈な薄さである。
L: 正面からだとアングルがものすごく限られる。 C: 南東から。 R: なるほど、ビルの海を泳ぐ軍艦そのものだ。新宿七丁目の交差点を東へ行くと西向天神社である。新宿イーストサイドスクエアの裏、天神山児童遊園が境内。
午前中はタイミングが悪くて御守を頂戴できなかったが、後で抜弁天とセットで無事に確保できた。よかったよかった。
なお「西向」とは、社殿が太宰府(→2008.4.25/2011.3.26/2017.8.5)の方を向いてつくられていることによる。
しかし旧四谷区の神社は、意外と近代以前の雰囲気をよく残しているなあと思う。明治以降の無理な明るさがない。
L: 西向天神社。これは午後になって再訪問してからの撮影。 C: 石段を上って拝殿。 R: 本殿を眺める。神楽殿。明治以降の神道にはない土着感が漂う境内である。
さらに東へ行くと「抜弁天」こと厳島神社。この辺りから旧牛込区という感じか(GUNKAN東新宿ビルはたぶん旧淀橋区)。
源義家が戦勝祈願して嚴島神社(→2008.4.24/2013.2.25/2020.2.24)から勧請したが、義家が苦難を切り抜けたことと、
また境内を南北に通り抜けられることから、「抜弁天」と呼ばれるようになった。御守はさっきの西向天神社で頂戴できる。
L: では抜弁天の境内を抜けてみましょう。まずは北から。 C: こちらが社殿。 R: 正面から見たところ。南に抜けて振り返る。分岐点に鎮座するからか、知名度のわりに小規模。
無事に抜けると、大江戸線の若松河田駅方面へ。その北側の路地に沿ってちんまりとあるのが内藤多仲博士記念館だ。
内藤多仲といえば、東京タワーをはじめとするタワー建築の第一人者である。だいたいのタワーは内藤が構造設計している。
(東京タワー →2007.3.13/2020.8.17、名古屋テレビ塔 →2008.2.4、通天閣 →2010.7.18、さっぽろテレビ塔 →2010.8.9、
あとは上っていないけど博多ポートタワー →2018.11.4。これらに加えて別府タワーで「タワー六兄弟」と呼ぶらしい。)
内藤多仲博士記念館は1925(大正15)年に建てられた内藤の自邸で(意匠設計は木子七郎)、没後早稲田大学に寄贈された。
柱ではなく壁を耐震構造物とする耐震壁理論に基づいているのが特徴で、建物は大きくないが内部は広々としているそうだ。
一般公開はされていないので、とりあえずできる範囲で周りを動いて外観の写真を撮ってみる。20年代らしいモダンな印象。
L: 正門。 C: 中を覗き込んでみる。木とその影で何がなんだかよくわからん。 R: 側面と背面。シンプルである。駐車場から眺める背面。やはり住宅は中が見られないと意味がないなあ。
若松町から河田町、そして曙橋へ出て市ヶ谷方面へ。かつて河田町や曙橋というとフジテレビの本社があった場所だが、
僕はその時代を知らないので(フジテレビがお台場が移転した直後に上京して大学入学というタイミングだったのだ)、
なんでこんな狭苦しいところにテレビ局が存在できたんだ、という感覚である。首をひねりつつ防衛省の正門前をかすめる。濠に出るか出ないかのところに参道があり、そこから丘の方へと上っていくと市谷亀岡八幡宮である。
先月の日記で「港町で八幡神を祀る神社はどうしても亀山になってしまうのか」みたいなことを書いたが(→2020.9.22)、
こちらは太田道灌が鶴岡八幡宮を勧請して、「鶴岡」に対して「亀岡」となったというのが由緒である。
もともとこの地には茶ノ木稲荷神社が鎮座していたが、八幡宮が来たことで現在は摂社として石段の途中に遷った。
L: 市谷亀岡八幡宮への参道入口。 C: 進んでいくと石段。なお左上にあるのが茶ノ木稲荷神社。 R: 境内に入る。
L: 石段を上りきって振り返ると授与所。コロナの影響か何なのか、開くのは午後1時からということで後でまた来ることに。
C: 拝殿。 R: 本殿。現在の社殿は1962年の再建だが、しっかり八幡造(→2011.8.13/2015.8.22)で前後に2つ並んでいる。
L: 外から茶ノ木稲荷神社を見上げる。 R: 茶ノ木稲荷神社の拝殿。眼病平癒で全国的に有名とのこと。牛込中央通りを上って牛込神楽坂駅へ。もともと神楽坂駅があるところに「牛込神楽坂」でかえってややこしく思える。
結局のところ、「牛込」という地名に存在感がなさすぎるのだ。旧区名ではあるが、現在の町名にまったく使われていない。
新宿区で最も皇居に近い東端の旧牛込区域は、明治時代から住宅地として発展しており、戦災の被害も少なかった。
そして今でも住居表示が実施されてない場所が非常に多い。それで新宿区と住居表示未実施の各町は直接つながっており、
「牛込」という概念が希薄なのである。施設名の一部としては多用されているが、各駅名の方がはるかに見かける機会が多い。さてそんな旧牛込区だが、区役所はどこにあったのかははっきりしている。牛込神楽坂駅の西、牛込箪笥区民センターだ。
四谷地域センターほどの規模ではないが、狭苦しい周辺からすればしっかり威容を誇るポストモダン全開なデザインである。
なお、1947年に合併で新宿区が誕生した際、新宿区役所が置かれたのがこちらの牛込箪笥区民センターの位置である。
その後、1950年に区役所は歌舞伎町に移転し、1966年に現在の第一庁舎(→2007.6.20)ができて今に至るというわけ。
L: 牛込箪笥区民センター。「箪笥」はもちろん箪笥町だからだが、箪笥は家具ではなく幕府の武器を指す言葉。箪笥奉行がいた。
C: 正面から見た牛込箪笥区民センター。 R: 南東から見たところ。5階建てだが、公民館的な要素がかなり強い施設みたい。旧牛込区域を走っていて気になるのは、道が狭く微妙に曲がって高低差もあって住宅だらけでごちゃごちゃしているくせに、
大規模な施設もあってなんともアンバランスさが感じられることだ。「山の手化した下町」とでも言えばいいのか、
前近代の空間感覚をしっかり残しているのに世代交代とともに都心部であるというプライドが固着化していったような、
独特の排他的な感触が街並みから感じられるのだ(田舎者の僕が勝手に疎外感をおぼえているだけ、ではあるのだが)。
銀座(→2020.8.14)ほどは徹底しておらず、港区(特に赤坂や麻布十番)ほどの闇もない(→2020.8.19/2020.8.30)。
台地ゆえに侵食されての起伏は豊富で、その高低差がまたなんとも言えない陰を生みだしているように感じられるのだ。
「住宅地」という言葉で塗りつぶされているが、それゆえによそ者を引きつけないし、よく見ると表面にはムラがある。
さっき述べた「牛込」概念の希薄さと相俟って、大都会新宿と前近代的各町との間でただ翻弄されているだけにも見える。牛込の中に市谷があって、その市谷の東端、ラストを飾るのが東京日仏学院(アンスティチュ・フランセ東京)である。
アンスティチュ・フランセはフランス政府が管理・運営するフランス文化センターで、日仏交流やフランス語の普及を行う。
ブリティッシュ・カウンシルのフランス版ですかな。まあ僕はブリカンは言語的植民地支配のための組織と思っとりますが。
で、この東京日仏学院がまたDOCOMOMO物件なのである。設計はル・コルビュジエの弟子である坂倉準三で、1951年竣工。
建物内を見学することは可能らしいが、いちおうコロナどきなので今回は自粛。いずれじっくり見学してみたいものだ。
L: 東京日仏学院(アンスティチュ・フランセ東京)。逢坂というかなりの急坂に面して建っているのだ。
C: すごくシンプルな側面。ところで「アンスティチュ」って、どうしても覚えられない。英語だと「institute」なのだが。
R: 坂の上にエントランス。けっこうしっかり改装しているようで、細部はあまりモダニズムらしい感触がしない。
L: エントランス。実はこの左手から南北に延びる棟の方が長い。いずれきちんと中を見たいものだ。
C: 東京日仏学院のすぐ手前には船河原町築土神社の社殿がある。九段に鎮座する築土神社の飛地社。
R: 堀兼(ほりがね)の井戸。昭和40年代の地下鉄工事で一時枯渇したが、2009年に再整備。でも飲めない。では市谷から神楽坂へ。まずは神楽坂若宮八幡神社に参拝する。神楽坂のメインストリートからは少し南に鎮座しており、
やはり住宅と坂(庾嶺坂、ゆれいざか)を上っていった先にある。1189(文治5)年に源頼朝による創建と歴史は古いのだが、
境内は異様に細長く、無駄なく社殿を建てて対応した都市型神社である。まあ無事に御守を頂戴できたのでヨシ。
L: 神楽坂若宮八幡神社。 R: 横から見るとこんな感じで非常に都市型な神社である。ではメインストリートの神楽坂へ。出版社時代はここまで自転車を走らせてランチを食ったものだ。懐かしさが込み上げる。
神楽坂の由来については、さっきの神楽坂若宮八幡神社の神楽がここまで聞こえたとか、穴八幡宮の御旅所で神楽ったとか、
諸説あるようだ。この神楽坂と北にある軽子坂の間の路地がたいへん風情があって、料亭やら何やらがあるそうだが、
自転車で坂道で神経使って狭い道を動きまわる「ずく」はもうすでにないので、とりあえずメインストリートだけにする。はい、神楽坂。
神楽坂を上りきってもさらに道は延びていて、その微妙な幅の狭さと曲がった感じがなんとも牛込区チックである。
人も車も交通量が多いのでなかなか面倒くさい。そんなこんなでしばらく西へと進んでいくと、赤城神社に到着する。
1300(正安2)年、赤城山(→2016.9.10)の麓から牛込に移住してきた豪族・大胡彦太郎重治が勧請して創建。
牛込総鎮守ということだが、場所がいいからか東京都内の神社の中でもけっこうな存在感がある印象である。
L: 赤城神社の参道入口。神楽坂のメインストリートから少し北に入ったところにある。 C: 木々の茂る参道を抜けて境内。
R: 拝殿。屋根の圧迫感というか低さに驚く。社殿は2010年の竣工で、設計は熊谷組。デザイン監修は隈研吾とのこと。参拝してみていかにも現代建築っぽい感触を前面に押し出していて驚いた。福井神社はモダニズムだが(→2015.12.30)、
あれは1957年の再建。そこから半世紀経って、神社建築がどうなったかという現在位置を示す興味深い事例ではある。
ただ、福井神社が災害復興も含めた強い意志を感じさせるのに対し、赤城神社のデザインは「消費」の文脈を強く感じる。
信仰の手段としての「消費」(これは当たり前のことだが)、それを喚起する空間というデザイン。お金になるきれいさ。
赤城神社では「赤城神社 再生プロジェクト」として境内の隣にマンションを建設し、その収入を社殿の再建や神社の運営、
そういった経費に充てている。ご飯を食べていかなくちゃいけない現実がある以上、それは納得のいくものではある。
そこにデザイン監修として隈研吾が関わることで、当代きっての「消費」の神社空間ができあがったというわけだ。
なお、御守を頂戴したが、なぜか「目玉のおやじ御守」や鬼太郎タイプの「ちゃんちゃんこ御守」がつくられていた。
『ゲゲゲの鬼太郎』の原作者・水木しげるがアニメ化の際にこちらでヒット・安全祈願をしたことに由来するそうだ。
L: 螢雪天神。七五三の記念撮影用の道具が平然と置かれている辺り、「消費」の神社だなあと思う。
R: 本殿の方を眺める。玉垣のかわりにガラス板というのが現代の神社ということですかな。
東へ出て次は筑土八幡神社に参拝する。台地の端っこで高低差があり、かつてのこの周辺の雰囲気がかすかに残る。
直線距離では400mほどなのに、敏感に現代を生き抜く赤城神社とは恐ろしく対照的である。すべてが古めかしいのだ。
なお「筑土」とは、祠の礎に宇佐神宮(→2011.8.13/2015.8.22/2020.3.29)の土を求めたことに由来するとのこと。
L: 筑土八幡神社。飯田橋から西へ入っていくとこの高低差を石段で上ることになる。見事に台地の突端で歴史の古さがわかる。
C: 石段を上りきって境内。神社の周囲はビルだらけだが、ここにはしっかり土が残っている。 R: 拝殿を正面から眺める。本殿。なお社殿は戦後の再建。
さてここまで来たらせっかくなので、大曲にある昔の職場を見ておこう。大曲に地下鉄駅があればよかったのに、
そう毎日思いながら出勤したっけなあ。歩くのが面倒で無印で自転車を買い、神楽坂までランチに出たのは上述のとおり。
3年2ヶ月のサラリーマン生活は、客観的に見れば恵まれていたと思う。今でもバリバリ使っているスキルも身についたし。
あれからもう12年。何ひとつ変わっちゃいないんだろうが、あの出版社はそれでいいんだろうと今は素直に思う。くそお世話になりました。
大曲から江戸川橋方面へ。この辺りの神田川沿いは文京区領で、頭上の首都高が護国寺方面に分岐するとだいたい早稲田。
早稲田と言えば都の西北、バカ田大学なのだ。……違った、早稲田大学なのだ。バカ田大学はワセダの隣なのだ。
ワセダは僕を受け入れる意思を示してくれた大学なので好きなのだ。もし一橋に落ちていたらどんな4年間だったのか……。
そもそも4年間で済んだのか……。もっとはっちゃけた人生を送っていたのか……。妄想は金のかからない娯楽であります。
L: 早大通りを行く。古き良き学生街の雰囲気が漂っておりますなあ。 R: 大隈講堂。佐藤功一・佐藤武夫の設計で1927年竣工。早稲田大学に来てもやることもないので、さっさと西の方へと抜ける。甘泉園公園の脇に水稲荷神社があるので参拝。
「甘泉」園に「水」稲荷とは、この辺りは湧水がよく出た土地だったんだなあと思うが、実は経緯が少しややこしい。
もともと水稲荷神社は今の早稲田大学9号館の辺りに鎮座しており、甘泉園公園は早稲田大学の所有地となっていた。
緑地を増やしたい東京都は水稲荷神社とともにこの土地の交換に加わり、甘泉園公園を整備した(後に新宿区に移管)。
そして水稲荷神社は甘泉園公園の脇に遷座した。1963年のことである。しかしいざ境内に入ってみると、湿り気がすごい。
まるで昔からこの土地におさまっていたかのような稲荷感が半端ない。とても半世紀前に遷った神社とは思えないのだ。
遷座する前からこうだったのか、稲荷がやってきて雰囲気が染まったのか。稲荷らしい空間を分析するうえで興味深い。
L: 水稲荷神社の参道入口。甘泉園公園の隣ということでか、この入口部分はコンクリートが目立っている。
C: しかし鳥居をくぐると雰囲気は一変。木々の陰が稲荷感を演出する。 R: 横参道から鳥居をくぐって奥の境内へ。
L: 拝殿。 C: 本殿。強烈な稲荷の感じ。 R: 旧社地から移設された冨塚古墳の石室は、狐像が置かれていて雰囲気抜群。冨塚古墳のてっぺんにある祠。冨塚古墳は「戸塚」の町名の起源という説も。
御守を頂戴すると、そのまま南下して穴八幡宮へ。3年前にも訪問しているのだが(→2017.6.5)、あらためて参拝する。
やはり境内は周囲より高い台地の端で、歴史を感じさせる立地である。境内は前方後円墳である、という説もあるようだ。
1062(康平5)年に奥州から凱旋した源義家が、この地に兜と太刀を納めて八幡神を祀って創建した。なお「穴」とは、
1641(寛永18)年に南側の山裾を切り開いたら金色の神像が入った横穴が見つかったことに由来。古墳と整合性があるなあ。
L: 穴八幡宮の境内入口。カーヴする交差点ですぐ脇に交番があるなど、入口がたいへん狭っ苦しい。キツめの穴ですなあ。
C: 石段を2段階で上って隋神門。1998年に室町時代の様式で再建されたが、楼門タイプなのが古来の八幡宮らしさを感じさせる。
R: 隋神門をくぐって左手に鼓楼。これまた神社というよりも寺社の建築要素。穴八幡宮は意識的に神仏習合時代を再現している。穴八幡宮は東京大空襲によって大きな被害を受けており、平成以降は江戸時代の絵図をもとにして境内の整備を進めている。
そのため建物は新しいが神仏習合スタイルが強く出ていて、明治以降の近代神社とは明らかに違う空間構成となっている。
(那須与一が屋島で「南無八幡大菩薩」って念じたように、八幡神はもともと神仏習合の傾向が強い神様である。)
ここまで積極的に近代以前の神仏習合に回帰する姿勢をとっている神社は珍しい。これまた興味深い存在である。
L: 境内の参道もなぜか2つある。こちらは南側の広くて迂回する感じの参道。 C: 北側のふつうの参道。 R: 拝殿。北側の光松閣という建物。やはり寺っぽい。
だいぶ前の西向天神社のところで「旧四谷区の神社は意外と近代以前の雰囲気をよく残しているなあと思う」と書いたが、
これは旧四谷区だけでなく、新宿区の神社全体に言えそうなことかもしれない。筑土八幡神社は昔のままという雰囲気だし、
水稲荷神社は移転しても稲荷感全開。穴八幡宮は意識的に神仏習合を進める。まあ赤城神社みたく突き抜けた例もあるが。
何も考えず近代以降の神道にくっついていくのではなく、各神社本来のアイデンティティを考える点が共通するのは面白い。参拝を終えると穴八幡宮から西へ。DOCOMOMO物件だらけの新宿区だが、その最後を飾るのは「まつかわ・ぼっくす」だ。
宮脇檀(まゆみ)が設計した住宅で、1971年竣工。宮脇は「ボックスシリーズ」と呼ばれている住宅建築を手がけており、
これはその代表作のひとつ。コンクリートでつくられているボックスの中に、木組の住宅を嵌め込んでいるそうだ。
なるほどそれなら鉄筋コンクリートと木造のいいとこどりだ。反住器(→2012.8.17/2012.8.18)っぽいのかもしれない。
でも残念ながら住宅なので、当然ながら中を見学することはできないのであった。しかし新宿区は住宅建築の傑作が多い。
L: まつかわ・ぼっくす。西から見たところ。どうやらこの道路に面した棟は1991年に建てられた第3期のものらしい。
C: 正面から。左奥にあるコンクリ屋根が本来の「まつかわ・ぼっくす」みたい。 R: 北から。全容がわからない……。本日のラストは西へ行って高田馬場圏内の諏訪神社。公式サイトではわかりやすいように「新宿 諏訪神社」としている。
今日はたっぷり個性派の神社を見てきたが、こちらの諏訪神社は本当にふつうという印象。どこかほっとする感覚である。
小野篁が弘仁年間に大国主命と事代主命を祀って創建され、松原街道(奥州街道の一部)に面していたので松原神社となる。
その後、尾張徳川家の祖である徳川義直が諏訪神を勧請して諏訪神社と改めた。歴史と憩いを両立している境内という印象。
L: 新宿 諏訪神社の境内入口。山手線に向けて緩やかに坂が下っていく、その最初のところに境内がある感じ。
C: 参道を行く。周囲が都会化していく中、うまくバランスをとりながら緑を保っている印象。 R: 拝殿。本殿。なお社殿は1980年の再建。
以上でおしまい。僕のふだんの価値観によるせいか、今回の旧四谷区と旧牛込区では住宅建築と神社が目立っていた印象だ。
前回までのいわゆる「都心3区」と比べると、史跡の密度が薄いと感じる。近代以前、つまりは江戸時代の痕跡が弱いのだ。
もともと広大な農地だった歴史で差が出るものだなあと実感している。だいたいどこも明治以降に都市化した住宅地で、
近世を引きずった空間感覚と都心の再開発の大空間が同居している。武士や寺社の大スケールと庶民の小スケールの同居。
新宿区は特にミクロとマクロのカオスがすごい。新宿御苑が痕跡を残しているが、内藤新宿は日本最初のフロンティアかも。
本日は高校での授業見学。受験を控えた3年生の日本史(現代史)なのであった。進学校なのでけっこう本気。
授業が終わってボケーッとしていたら、男子生徒に声をかけられた。申し訳ないことに最初は誰だかわからなかったが、
彼が中学2年生のときに英語発表会で面倒を見た生徒だった(→2016.11.9)。メガネ姿じゃないからわからんかったぜ。
スピーチの内容はこないだ引退した「世界でいちばん貧しい大統領」ことホセ=ムヒカを紹介するもので、
そんなんニュースを見るたびにお前のことを思い出しておったっつーのよ。まさかこの高校に進学していたとは!
性格のいい生徒がきちんといい学校に入ってがんばっているのを知るのは本当にうれしいことなんだけど、
なんというか、いざ対面するとこっちは恥ずかしいものがありますね。こっちがシャキッとしなきゃいかんなあと。
いや、元気そうでうれしかったです。きみが元気なことで僕も元気をもらえるのだよ。大学受験もがんばってくれ。しかし来年移籍するとこういうこともなくなるのかな。まあもともとそんなに、街でバッタリとかあんまりないけどさ。
午後に研修。教育法規がテーマだが、法律の専門家と現場の齟齬をまざまざと見せつけられた感じである。
研修を主催する教育委員会の人はそっち方面のエリート志望者であるがゆえに、(僕に言わせれば)視野が狭い。
彼らは具体例を考えさせれば研修になるだろうと思っているようだが、実際は逆で、抽象的な方がためになる。
現場は毎日具体例と格闘しているのに、そこに具体例を持ってくるとか、どんだけ脳みそのシワが少ないんだと思う。
重要なのは、現場に法律へのセンスを磨かせることなのだ。法的な思考のヒントやトレーニングが欲しいのに、
そういった要素はまるでなかった。教育現場は上に行けば行くほど視野が狭くなる。本当に頭のいい人がいない。
まあ、現場で通用しないから教育委員会に行くんだけどね。教員としての能力が低い連中にいろいろ言われたくないです。
総合的な学習の時間でキャリア教育を担当しているわけです。今週は「生き方を紹介したい人ベスト5」を企画したら、
「なんかいい具体例はないんですか?」と訊かれ、そりゃそうだ言い出しっぺのオレがまずやんないといかんわな、
ということで考えてみる。単純に「尊敬している人」ではなく、「生き方」がテーマ。そう考えると、なかなか深い。
うっかり選出し忘れている人もいそうだけど、とりあえずパッと思いつく限りで、僕なりに5人を挙げてみた。
ポリティカルコレクトネス的なバランスを考えて、現役2人の外国籍2人という制約を、いちおうつけてある。☆野村長平(無人島長平):江戸時代の船乗り(→2016.1.2)
・無人島に漂着した仲間が全員亡くなり一人になっても希望を捨てずに生き続けた。
・後から加わった仲間と協力して船をつくり、故郷に帰還した。☆山田方谷:幕末期の儒学者(→2017.7.15)
・不正や賄賂を断って藩政改革を行い、財政を再建して領民の暮らしを豊かにした。
・戊辰戦争の際に主君に代わり無血開城し、領民の安全を優先する決断を貫いた。☆クロード=レヴィ=ストロース:フランスの文化人類学者(→2010.3.17)
・「未開」社会に対して差別的な視線をまったく持つことなく研究を行った。
・さまざまな分野の研究者と交流して現代思想の新たな潮流を生み出した。☆大村智:ノーベル賞を受賞した化学者(→2015.12.10/2015.12.26)
・工業高校の教員から研究者となり、感染症対策に大きな成果をあげる。
・研究所の経営を再建し、女性の美術活動を通した社会貢献を積極的に行う。☆イヴィツァ=オシム:元サッカー日本代表監督(→2014.6.22)
・小規模クラブを率いながらも多彩な練習で選手を成長させて好成績を残す。
・民族の利害や戦争などの困難を乗り越えて母国のサッカーの成長に貢献した。こんなところですかね。やってみたら見事に、今の中学1年生には知名度ほぼゼロの人物ばかりで本当に申し訳ない。
しかしその分、これはもう絶対的に尊敬するしかない!という人を集めたラインナップであると自負しております。
学者を基本に、異なる領域で複数の実績をあげた人を好む傾向があるなと自分で思う。これはやってみると面白いかも。
ネタがない、というか、ネタを考えられるほどに落ち着いた生活ができていない。3学年分の授業は忙しすぎる。
そこで今日は、勝手気ままに、この日記のタイトルについて書きつけてみることにするのだ。今のところ、この日記のタイトルは「Byuxie Flatline」としている。元ネタは『ニューロマンサー』(→2005.1.8)。
ここに登場するキャラクター?の名前「ディクシー・フラットライン」を、「びゅく仙」とかけてもじっているのだ。
彼は主人公であるハッカーの師匠なのだが、すでに死んでおり、彼の人格情報がROM構造物として保存されていた。
それって僕に対するこの日記と同じ状態ではないか?と、おこがましくもそう思って名付けてみたわけである。
日記を書き続けて20年ほど経ち、中身もぜんぜん進化していないし、タイトルにふさわしい状態になりつつあると思う。
(ディクシー・フラットラインという名前をそのまま使っている人がいるみたいだが、一言「クソダセェ」と思う。)以前は「びゅくびゅく日記」という身も蓋もないタイトルだった。まあ実際、自分がびゅくびゅくしたものについて、
テキトーに書き散らすだけの日記なんだからしょうがない。この飾らない感じが自分でもけっこう好きだったのだが、
「Byuxie Flatline」というタイトルを思いついてしまい、とりあえず「びゅくびゅく日記」は通称という扱いにしている。
だから正直なところ、どっちが正式なタイトルでもいいのだ。日記の生徒バレ閉鎖騒動が起きるたびにしれっと変える、
そんなのもオツではないかと思っているしだい。東風がYellow Magicになったりまた東風に戻ったりするようなもんか。どうせなら月替わりでタイトルを変更していくのもいいかもしれない。いい気分転換にはなるだろう。
日記の中身は机上の空論がとっても多いように自分で感じているので、今は亡き九龍城に敬意を表してもじってみて、
「キ城之九龍」とか変えてみようか。「キ」は「気」でも「奇」でも「紀」でも「機」でもなんでもいいや。
もしかしたら「キ印」かもよ。以前ログで書いた「建築的なホームページ(→2009.2.18)」という点においては、
かなり九龍城っぽいカオスさを実現している気がするし。中二病な感じが満載なタイトルで、なかなか恥ずかしくてよい。僕は建築物に対するネーミングライツには断固反対の立場をとっているが、自分の日記ならやってみても面白そうだ。
というわけで、タイトル案を募集します。随時受け付けてみますので、興味のある人はどうずら? マサル、どうよ?
英語の授業で「今月の歌」ということで洋楽のポップスを流すことを課せられているんですけどね、
僕は心を無にしてそれに応じているわけです。本音を言うと「家で聴け」、それに尽きるんですけどね。しかし強制的にブルーノ=マーズを聴いていて思うのは、そりゃこの人、売れるよなあ……ということである。
これだけ才能を感じさせる歌手をぜんぜん知らなかったのはマズいだろうと。無知を突きつけられております。
洋楽なんてロック方面をごく少々かじった程度で、自分には洋楽ポップスに関しての知識が本当に足りねえなあと、
さすがに素直に反省している次第である。いっぺん、きちんと体系立てて洋楽の歴史を押さえる必要がある。
自分はどれだけ洋楽の名曲を知らないで生きてきたか、そう考えると鳥肌が立ってくる。がんばって家で聴く。
サッカー部、区大会の決勝である。会場校はウチなので、試合になるまでひたすら授業準備させてもらう。
おかげで文法のまとめパワーポイントが劇的に進んだ。それでもまだまだやるべきことはいっぱいあるが。試合は両チームとも積極的に攻めまくる展開に。相手チームはいわゆる「攻撃力に全振り」という感じで、
前にボールを蹴り出してはどんどん撃ってくる。中盤で完全に蹴り合いになってしまって、抜けられるとピンチという、
見応えはあるもののやや雑な内容となった。こっちも粘ってチャンスをつくるが、相手はしっかり体を入れてくる。
そして前半終了間際に押し込まれて、クリアしきれずに失点。いちばん嫌な時間帯に先制されてしまった。
後半に入っても壮絶な蹴り合いは変わらず。守備は相手の前に立ってよく対応したと思うが、攻撃に厚みがなくて。
コースを切る相手に対して単発で中央へ入り込んではつぶされる。シュートもバーに嫌われて、正直、運もなかった。
逆に相手はサイドからチャンスをつくり、バーに当たった撥ね返りをボレーで沈めて追加点。いや、やられた。
区で準優勝ということで誇らしい結果は残したが、自分たちの弱点を攻守ともにきっちりあぶり出された感じ。
ブロック大会でどこまでやれるか。まずは日頃の練習からがんばりましょう。僕も授業準備をがんばる。
土曜授業で午前中はぴっちり授業。午後は部活の練習。正直なかなかのボロボロ具合であります。
部活の大会が続いている影響で、先週末から来週末までずーっとぶっ通しで仕事的な時間が続くんだぜ。
中学校での勤務は今シーズン限りだから、なんとか我慢してやっている。立つ鳥、跡を濁さぬようにと。
本日の6時間目は生徒総会だったのだが、今日もICTの調子が悪くてリモート中継ができず。結局放送でやることに。
で、その間ずっと僕は放送室で卓につきっきりなのであった。小学校からずーっと放送委員男子な人生だったけど、
誕生日もやっぱりそうなるのね……と、なんだか達観してしまったよ。これって絶対に運命的な何かがあると思う。
現任校に来てからICT機器を活用しての授業を求められておりまして、まったく黒板を使わないわけではないのだが、
まあそれなりの比率で活用しているわけであります。文法のまとめや読解の分析はパワーポイントを投影しているし。ところが最近、ICT機器の調子が本当に悪い。しかもいきなり使えなくなることもあるので、授業のプランが狂って困る。
僕は基本的に、上杉謙信並みに状況に応じて授業内容を変化させていくタイプで、細かなプランを事前に練るのが苦手だ。
しかし3学年それぞれで担当の先生が発案したプランに沿うことになっているため、それをアレンジして対応している。
ところがICTの調子が悪くなると、どの機器がどこまで使えないのかをその場ですぐに確認しなければならなくなる。
つまり、「生徒が何もできずにただ待っている時間」が発生してしまうのだ。これが僕にはどうしても許せない。
人にICTの活用を要求しておいて設備が動かないとか、バカにしているのか? 迷惑を被るのは生徒なんですが。
物事の本質を理解していないからこういうことになる。ICTなんてただの手段にすぎず、目的になってはいけないのだ。
ICTで生徒の理解度が上がるわけねーだろバーカ。教育を電機メーカーを儲けさせる手段にするんじゃねーよバーカ。他の先生も困っていて、ICTは「いつも ちょっと トラブル」の略、という話を聞いて深く納得してしまったではないか。
なんとか時間をひねり出して3年前の日記を書きまくる生活をしているけど、絶対に時間の感覚がおかしくなるなあと。
細かいことを思い出すのは、実はそんなに難しくはない。写真を見れば、そのときの記憶が自動的に蘇ってくるので。
ただ、過去と現在を頻繁に行き来するようなものなので、過去の自分の感覚が現在の自分の中に混じる感じになる。
そのせいか、ほかの人と比べると、時間が並列的になっているのではないかと思うのだ。1本の長い線ではなくて、
短い線が何本も並んでいるところを器用に八艘飛びしている感じ。旅行で空間と時間が結びついているので、よけいに。
また、一人暮らしをしているので身近な比較対象がないことも、僕の共時態的な傾向を助長していると思う。
特に生活上で困るようなことではないんだけど、たぶん人様にも迷惑をかけるほどのことでもないんだけど、
ふつうの人と違う時間の感覚でいることで、何かしら損しているんじゃないかって気がする。だって得してないからさ。
ひたすらパワーポイントで授業準備である。僕は英語の読解のときにさまざまな記号をつけて分析していくのだが、
それをアニメーションで進めていくというスタイル。1枚のスライドに最大で80個のアニメーションが入ります。
この作業は絶対に目を悪くするよなあと思う。英語も中学校も今シーズン限りだから、なんとか我慢してやっている。
食生活を見直そうかって話。毎年恒例の対メタボ指導員がいらして、いろいろヒントをもらう。
教員という仕事をしている以上、どうにもならない部分があるわけです。それを踏まえたうえで、どう改善するか。
とりあえず、朝食を外で食う作戦、夕食を補食と軽食に分ける作戦をやってみることにした。さて、どうなりますやら。
部活で区大会の準決勝。日頃よく練習試合をしている学校が相手だが、フィジカルを武器にゴリゴリ来るので大変そう。
相手は中心となる選手がケガ明けということでスタメンをはずれており、早いうちに先制したいと生徒たちを意思統一。
それでとにかく押し込んでいると、わりと早い時間帯にCKからの混戦でシュートをねじ込み先制することができた。
前半はそのまま攻めきって終わるが、相手の早いチェックとフィジカルに手を焼いた。お互い手の内がわかっているなあ。後半開始とともに相手は中心選手を投入。ディフェンスがはがされて、徐々に相手がペースをつかんでいく。
そして直接FKを決められてしまった。いいところに蹴るなあと感心するしかない。その後もボールをつながれる。
客観的に見ると互角のいい試合なんだろうが、こっちとしては勢いに乗る相手に翻弄されてばかりな印象である。
結局、決勝進出を賭けてのPK戦となる。こっちは4本決め、さらに開き直ったGKが2本止めて勝負あり。来週は決勝戦だ。◇
ところで今大会は試合会場が区内あちこちの中学校となっていて、移動が大変だ。電車で行けない場所が多すぎる。
そこでバスのお世話になるわけだが、大森まで出てしまえば、バスでいろんな場所へ行けることがわかってきた。
幸いなことに僕の住んでいる場所は大森行きのバス停が非常に近く、大森駅でバスを乗り継げばかなり便利なのだ。
大森でメシも食えるし。日記も書けるし。今回で週末大森生活もおしまいだが、なかなか楽しゅうございましたね。
雨なので本日の試合は順延。この先ブロック大会もあるし、土曜授業もあるし、休めるうちにしっかり休むのだ。
まあ実態としてはひたすら日記を書きまくっているだけですが。あとは部屋の片付け。いろいろすっきりさせていこう。
初めてクラウドファンディングというものをやってみました。
そんな意識の高そうなもの、ぜんぜん興味を持っていなかったのだが、さすがに相手が相手だったのでねえ。ついつい。今回、僕が脊髄で反応して支援してしまったのは、「HEARTY MUSIC CLUB BAND」というバンド。
公式ツイッターには「(ほぼ矩形波倶楽部)」という文字があるとおり、メンバー5名のうち3名が元矩形波倶楽部。
それも古川もとあき氏とプロフェット深見氏の両エースにドラムスのたっぴー氏。ベースが元スクェアの田中豊雪氏で、
残る森藤晶司氏も元S.S.T. BAND。こりゃもう支援する以外の行動はありえないじゃないか!と、即入金ですよ。
(矩形波倶楽部についてのログを探したが、意外と書いていない。『HOPE』のレヴューくらいだった。→2016.10.25)特設ページを見れば、なんとおととしからライヴをやっているらしく、完全に乗り遅れたことに悲しくなってしまった。
ゲストヴォーカルに國府田マリ子も迎えているのね。いやまあ別にいいんですけど、いまだに仲良いのは素敵だなと思う。
「ゲームミュージックバブル」とも形容される1990年代前半のあの勢いを、少しでも取り戻すことができるといいなあ。
ライヴは絶対に行くもんね。これまでのライヴ音源を売ってくれれば喜んで買うんだけどなあ。売ってくんねーかな。
日本学術会議をめぐる問題のニュースを見ていて思い出すのは、初代の『ゴジラ』である(→2014.7.11)。
志村喬演じる山根博士の居場所は、果たして現代の日本にあるのだろうか。どうしても考えてしまうなあ。
僕としては、2003~2004年の国立大学の独立行政法人化が決定的な分岐点だったと認識しているので、
もはや何をどう抵抗しても焼け石に水に思えてしまう。教養のない連中がマジョリティなんだもん、もうダメですよ。
都の英語研究会では今年も英語学芸会をやるようで。もちろん例年どおりではないが、やること自体すげえなと。
英語劇の部があるのはいいけど、飛沫に配慮せよとか、舞台上でシートとか、そりゃもう無理やんけ、と思う。
実は今年の採用試験の面接はシート越しで、お互い細かい表情がまったくわからない状況でやったけど(→2020.8.13)、
それを演劇で強行するってどうなのよ。開き直って、ガラスのあっちとこっち、水族館の話でも自作しちゃう?映像でまとめたものも可ということで、そうなると各人がセリフを言うカットだけをつないでやっていくしかあるまい。
それってまるで小津安二郎じゃないか(→2005.7.3)。『渡る世間は鬼ばかり』もそんな感じだったかな(→2003.2.6)。
つまり、純日本的というか、平田オリザ『演劇入門』(→2002.6.23)で問われていた日本語の対話の可能性、
それを逆に英語でできるのか問う事態が発生してしまう。果たして英語劇においては、小津的な手法が成立するのか?考えるといろいろとおもしれえな。
キャリア教育についての研修があったので参加したのだが、ふと悟りを開いてしまったので書いておく。
職業とは、自分が他者に何かを与えること。自分が与えたいから与えるのではなく、他者が求めるものを与えること。
キャリア教育とは、自分が他者に何を与えられるのかを問いかけること。その問いへの答えを自分で考えさせること。――その一言で済んでしまうものなんだけどねえ。きちんと本質をつかもうぜ。
筒美京平が亡くなった。筒美京平という存在について、僕はこれまでずっと、形容する言葉が見つからないできた。
あまりにも変幻自在。それでいて、いや、だからこそ、究極のヒットメーカー。大きすぎて全容が見えない山のごとし。
「歌謡曲」というJ-POP以前の形態において(→2018.12.20)、あらゆることをやってきた人ではないかと思う。最近はなかなかじっくり音楽を聴く余裕がないが、かつてのヒット曲をひとつひとつ振り返って聴き直そう、
「歌謡曲」についての知識をきちんと深めよう、「歌謡曲」というものの価値を捉え直そう、そう思って久しい。
それが実現したとき、きっと僕は筒美京平という存在にあらためて驚かされるのだろう。今は勉強不足が恥ずかしい。
台風が変なターンをして南下していったので、今日の試合が確定。しかしすでに髪の毛を切る予約を入れていたので、
まずはそちらを優先……と思ったら、試合で提出するメンバー表&交代用紙を学校に置いてきたことを思い出す。
おまけにコロナのせいで会場校に提出する来校者名簿も印刷せにゃならんので、結局、朝のうちに職場へ行くのであった。
書類一式を確保すると、急いで戻って髪の毛を切る。それが終わって試合会場の学校へ移動。なんだかんだで忙しく、
よくわからないままに一日の半分が終わってしまった。時間の貴重さをあらためて実感する一日になったなあ。肝心の試合は「攻撃は最大の防御」といった感じで、60分間ひたすら攻め続けるのであった。CKのチャンスを得て、
1年生がヘッドで押し込んだ虎の子の1点を、攻め続けることで守りきった感じ。これで晴れて区のベスト4である。
ブロック大会の出場権を確保したのはいいが、また週末の試合予定がはっきりしない……ってことがないように祈る。
なお、主審をやった先生はJ2の試合でも笛を吹いているそうで、たたずまいが違う。いい勉強になったのであった。
台風が来ているので、部屋から一歩も出ないで一日じゅう掃除というか片付けなのであった。
部屋がきれいになったという実感はまったくないが、3袋分のゴミが出たのでそれ相応の片付けができたのだろう。
本当はこういう作業は一気にやるより少しずつコツコツやる方がいいのだが、いいきっかけづくりができたと思おう。
台風のせいでサッカー部の週末の試合予定が決まらない。おかげで来週の試合予定も決まらない。大迷惑である。
部活で休みがなくなるのはある程度覚悟しているが、予定が見えてこないのは本当に困る。振り回されまくっております。
「兄弟の学校で陽性反応が出たので……」「保護者の職場で陽性反応が出たので……」そんな言葉が聞こえだした。
コロナの影がゆっくりとしのび寄ってきている……。まあ、だからといってわれわれはいつもどおりやるしかないのだが。
学校の放送室に置いてあった冨田勲のCDを借りて聴いてみたので軽く感想をば。
『月の光』は、クラシックのシンセサイザーアレンジ。意外とクラシックとしてすんなり聴けるのがすごいなと思う。
不思議なんだけど、クラシックの文脈をきちんと守っているのがわかるのだ。シンセサイザーのために端折るのではなく、
原曲の側にシンセサイザーをきちんと合わせている感じ。だから海外で高く評価されたのかと、妙に納得がいった。『大峡谷』は、なんか『MOTHER』みたいっすね。『MOTHER2 ギーグの逆襲』のサントラ盤を聴いている感じ。
いや本当にそっくり。逆を言うと、RPGみたいなストーリー性のある音楽ってことなんだろうけど。いや本当にそっくり。
『機動警察パトレイバー 後藤喜一×ぴあ』の感想でも書くかね。
OVA・劇場版・マンガ・TV・NEW OVA、すべてのエピソードを後藤隊長を中心に振り返るという大変ありがたい内容。
中学生のころから後藤隊長のようになりたくて、結果、単なるスーパー昼行灯となってしまった僕には聖典そのもの。
劇場版のDVDとマンガは手元にあるが、あらためてOVA・TV・NEW OVAのすべてを後藤隊長視点で見たくなった。
なんとか時間を見つけて、じっくりと追い直していきたいものだ。そういう楽しみを喚起させる充実の一冊ね。さて。この本の見所は2点だろう。後藤喜一役・大林隆介と南雲しのぶ役・榊原良子の対談と、押井守のインタヴュー。
両者というか、榊原さんと押井氏で、それぞれ後藤と南雲の関係性の読み方がまったく違うのがとっても面白いのである。
(余談だが榊原さんと大林さんはパトレイバーが初対面とあるが、ネオ・ジオンで摂政と将校の関係じゃなかったか。)
榊原さんはしのぶさんが後藤の魅力に惹かれていくものとして見ていたそうだが、押井氏の見方はまるで逆なのだ。
それが『機動警察パトレイバー2 the Movie』(→2007.6.22)の結末で、決定的な形で押し通されることになるのだが、
表立って主張はしていないものの、それに対する榊原さんの消化不良な感じが僕にはとっても頼もしいのである。
そして榊原さんと押井氏の齟齬に対して完全に傍観を決め込む大林さんの姿勢がまたいい。後藤隊長そのものだよ。僕は押井氏のキャラクター観に対して懐疑的だ。半分まではいいが、峠を越したところでおかしくなる、という印象。
後藤隊長にしてもそうで、キャラクター構築のスタート地点からファンの共感を得るところまではいい。最高だ。
だが、そこから彼が主導権を握るとおかしくなる。キャラクターを占有し、自己投影で崩壊させてしまう悪癖があるのだ。
(『THE NEXT GENERATION パトレイバー』ではシバシゲオを直接的に破壊し、第2小隊の面々も破壊した。→2014.4.16)
インタヴューを見るに、押井氏は後藤隊長を生み出した誇りから何から何まで自分の思うとおりの性格ととらえているが、
そこを「読み違えている」から最初の劇場版を超えられないのだ。マンガをやりきったゆうきまさみとは実に対照的だ。
後藤隊長は正義のためならどんな相手でも裏切ることができる。内海とは真逆で、目的のためなら手段を選ばない。
その強さこそ、彼の最大の魅力だ。南雲しのぶがそこに揺さぶりをかけられる唯一の存在となっているのは確かだが、
それでブレるような男ではない。榊原さんはその点を見抜いているからこそ、また報われない愛を追うしのぶを演じる。
『機動警察パトレイバー2 the Movie』で上層部相手にブツブツつぶやく後藤隊長は非常に気持ち悪い。本当に気持ち悪い。
そして最後に「だから遅過ぎたと言ってるんだ!」と叫ぶが、この瞬間、僕はこの後藤に対して完全に冷めてしまった。
何なのこのセリフ。言ったところで何も起きないセリフでしょ。後藤隊長はそんなふうにみともなくキレない人だし、
誰も動かすことのできないそんな頭の悪いセリフなんて言わない人だ。誰かみたいな小さい人間に勝手にしてくれるなよ。
そんなわけで、僕は『機動警察パトレイバー2 the Movie』を正史と認めていません。そんな宗派があってもいいでしょ。まあとにかく、尊敬すべき大人としての後藤隊長がたっぷり味わえるのがうれしい一冊である。
32年の時間が経過しても後藤隊長に憧れる気持ちは変わらないなあ。……32年って、恐ろしいなあ。恐ろしいなあ!
本日は貴重な平日休み。さあ、どうしてくれよう……とジャイアンのごとくウヒウヒ言いながら計画を練っていたが、
雨で流れた新人戦が急遽昨日に入ったことで、旅行は頓挫。しょうがないので昨年に手術したときから懸案事項だった、
親知らずを中心とする歯の問題を解決しようと病院へ行く。平日じゃないとできないことで、真っ先に思いついたのだ。僕は顎が小さめなのか、睡眠時無呼吸症候群をはじめとして、いろいろ面倒くさい問題を抱えている。
親知らずがまっすぐ生えなかったのもその一環で、上下左右、1本としてまともに生えた親知らずはなかったのであった。
それで20代のときに下の親知らずを両方とも抜いたのである(→2002.3.29/2005.12.29)。そしてすでにそのときから、
上も両方とも抜いた方がいいよね、という話になっていた。でもその機会がないまま10年以上が経過してしまったのだ。昨年手術した病院に行くが、コロナの影響で雰囲気はちょっとものものしい。現場の大変さをひしひしと実感する。
しかしすでに対応に慣れているようで、スムーズに診療開始。レントゲンを撮ってそれを見ながら治療方針を相談するが、
右上の親知らずが隣の虫歯に影響しているということで、今日はまずそこから対処することに。左上は次回抜く予定。
あとは右下の犬歯も状態が悪いようで、10年以上放置したらそりゃそうなるよなあと、あらためて反省するのであった。
親知らずは作業が始まって3分くらいであっさり抜けた。そんなに簡単なのかと呆れたが、下より上の方が楽とのこと。
抜いたらそのまましばらくガーゼを噛んで止血。昼飯はふつうに食ってよいが、本日の風呂と飲酒は避けろ、と。以上。
あっさりしてんなあ。とりあえず歯科医は簡単に歯を抜くスキルがあるとわかったから、逆らわないようにしようっと。
L: 記念に親知らずをもらってきました。しかしまあきれいに抜けたもんだ。 C,R: 虫歯がひどい……。午後は午後でやることがいっぱいなのである。まったく予想していなかった採用試験の合格により、
書かなくちゃいけない書類が大量発生。それでひたすら書類の記入と証明書の請求作業に追われたのであった。
一気に終わらせるつもりだったが、僕の経歴があまりにも複雑すぎて(主に通信教育のせい)、時間がかかるかかる。
結局、15時までに記入が終わらなくて郵便為替を用意できなくなり、作業は後日延長戦でということになってしまった。
せっかくの平日に終わらせることができなかったのが残念である。それにしても自分の経歴の複雑さには本当にまいった。さてムダな不死身っぷりには定評のある僕だが、やはり今回も、歯肉の腫れている感じが続いてヤダなあ、ってくらい。
さすがに痛くないわけではないが、「歯を抜いたんだからそりゃ痛いだろ」と納得して済むので、それ以上のことはない。
次は左側で同じ感じになるのかヤダなあ、ってくらい。心頭滅却の境地なのか、深く考えていないだけなのか。
昨日の全力疾走のせいで、全身が凄まじい筋肉痛である。歩くことにすら難儀するくらいで、日頃の運動不足に愕然。
それはさておき、サッカー部の新人戦である。コロナの影響で今年は試合数を確保できず、トーナメントとなった。
負けたら終わりの一発勝負なのだが、部員たちは気合いが入っているんだかいないんだか。ポーカーフェイスというより、
単純に部活に対する気持ちが淡白なのだろう。この傾向は年々加速している。団体よりも個人、という価値観の浸透。
負けても悔しくないよ、ぼくはがんばったもんね。そういう考え方の生徒が本当に多くて。部活の意味が年々薄れている。
そして1年生たちの態度は幼稚そのもの。試合を見ないで雑談ばかり。それで「サッカーが好き」とか、笑わせるなよ。相手は初戦を10-0というスコアで勝ち抜いてきた学校で、入り方を間違えるとズルズルいってしまいそう。
しかしウチの強くて高いFWと、技術のある(でも球離れがすごく悪い)FWと、やたら体の強いMFが本領を発揮。
相手のチャンスをつぶしては押し込み、ピンチらしいピンチもないまま3-0で完勝したのであった。持ち味が出たなあ。
実は先週の試合予定が雨で流れた影響で、他の学校が会場となっているところに急遽組み込まれた感じだったのだが、
正直なところ、ウチの学校よりもグラウンドの縦が短かかったおかげで快調に攻めることができたのではないか。
ちょっと前に進んだら深く入り込んだことになるので、それで上手く押し込んだ形になったのが最大の勝因だと思う。
とはいえきちんと意識してサイドを使えていて、次につながるいい成功体験ができたのは事実。これを継続せんとな。
運動会である。昨日買っておいた膝のサポーターのおかげで、いちおうはふつうに歩けるようになったので助かった。
大きなケガ人もなくトラブルもなく競技は進み、用具係も多少の混乱はあったものの十分に及第点のがんばりぶり。
落ち着いた学校らしい非常に前向きな内容の運動会なのであった。ただ、職員が1年生と一緒に走るのはつらい。
1年生の副担任としては生徒たちの本番ならではのがんばりを見たいのに、そっちにぜんぜん集中できないのでな。
不安だった左膝も100mだったからか、どうにか悪化せずに済んだ。それでも低血糖な感じで日頃の運動不足を痛感。
やたらと走ってばかりなのに、時間がかかるのはなぜだろう? 職員全員が首を傾げつつ、夕暮れが迫る中で運動会は終了。運動会では各クラスにそれぞれ色が設定されている。ここまではよくある話なのだが、4組は黄色ということで、
担任の先生は全身黄色でところどころ黒というピチピチスポーティな恰好。正直、ヤドクガエルみたいやった……。
朝、家を出たところで左膝の靭帯がおかしくなる。左足を地面に着いただけでアウトですよ。老化か……?
昼、管理職との面接でネットの合格発表を一緒に確認してもらう。おめでとう握手握手で一安心。きちんと現実だった。
そのまま面接は、来年度の英語科メンバーをどんな構成にするといいかの話題に移行するのであった。申し訳ない。午後、英検を実施。責任者として神経をすり減らす。コストに見合わない努力は自己満足です、と私は言いたい。
夜、書類にて採用試験の合格を確認。しかし提出しなくちゃならない書類の記入に四苦八苦。超面倒くさい……。
声優の富田耕生氏が亡くなった。僕の中では圧倒的にバカボンのパパであり、バカボンのパパでしかない。
それくらい強烈に氏の声は僕の脳内に刷り込まれている。マンガのバカボンのパパのセリフはすべて氏の声で再生され、
キャストで氏の名前を見ると「おう、バカボンのパパだわ」と反応する。「これでいいのだ」は氏の声マネで発声する。
ほかの声のバカボンのパパには拒否反応が出てしまう(→2019.5.30)。それくらい僕の中で絶対的な基準なのである。
声という点で、ここまで確固たる芯を自分の中に植えつけられてしまったキャラクターはほかにない。これでいいのだ。