diary 2018.9.

diary 2018.10.


2018.9.30 (Sun.)

本日をもちまして、当サイト「logistics 443013」はいったん活動を終了させていただきます。
なお、明日より「logistics 840013」という新たな名称で活動させていただきます。ご愛顧よろしくお願いします。
つきましては、URLも新たに「logistics840013.net」といたしますので、ブックマーク等をご変更ください。
いちおう、もうあと半年くらいは現在のURLでも閲覧可能とする予定ですが、予定は未定ですのでご了承ください。

せっかくなのでこの日記の歴史を振り返ってみましょう。熱海ロマン公式サイトに間借りして始めたのが2001年4月。
しかし半年もしないうちに、内容について大学院の同級生から抗議を受けて大修正を余儀なくされる(→2001.9.3)。
その心理的ショックもあって日記をやめようとするも、各所からの意外な引き止めがあってなんだかんだ続行することに。
翌月には熱海ロマン公式サイトから独立して、正式に「logistics 443013」を名乗って活動開始(→2001.10.2)。
そして2004年にはデザインをできるだけミニマルにして、現在まで変わらないスタイルが確立される(→2004.3.3)。
この年末にはさんりゅうくんことカワテ氏からのリンク依頼をきっかけにreferenceを設置する(→2004.12.3)。
これによってこの日記の雑多な内容が順次整理されることになり、「兵站」としての役割がはっきりすることになる。
2007年にはドメイン使用料の払い忘れにより、サイト失効問題が発生(→2007.5.7)。このときは意外と心配された。
そして2012年には日記が生徒バレしかけて、いったん閉鎖して避難(→2012.2.14)。翌月しれっと再開したっけ。
最近は旅行のログを中心に、非常に大規模な更新の遅延がすっかり慢性化していてご迷惑をおかけしております。

おバカなバンドの青春日記から本と映画のレヴュー日記を経て、エクストリームな旅行ガイドの様相を呈するこの日記、
18年目にして意図せぬ移転&リニューアルすることになりましたが、移転後も見捨てず適度にお付き合いください。


2018.9.29 (Sat.)

台風が近づいていて、せっかくの週末なのに雨である。昨日は快晴だっただけに悔しい。今月は雨だらけだ。
もう何年もずっと矯正展に行きたいなあと思っているのだが、なかなかうまくいかない。今年は天気が悪くて断念だ。
例年この時期は部活の大会と重なってしまうことが多く、今年は行けそうだと大いに期待していたのに。がっくり。

矯正展は東京拘置所の中に合法的に入ることができるというイヴェントで、年に一度だけ、この時期にやるのだ。
そんなに拘置所の中に入りたければ事件起こせよ、誰かみたいに。……なんてツッコミが入るかもしれないが、
目的は拘置所に入ることそれ自体にあるのではない。蒲原重雄設計の小菅刑務所管理棟をこの目で見たいのだ。
まあ雨でも行けばいいんですけど、せっかくならいい写真を撮りたいし。来年こそは矯正展に行けますように!


2018.9.28 (Fri.)

吉澤メンバーが芸能界を引退とのことで。2000年当時はこんな未来、まったく想像できなかったなあと。
心境は前のログのとき(→2018.9.7)とまったく変わらず、ショックとかそういう類の感情は一切ない。
ただただ、未来は絶対に予測することができない、という事実を痛感しているだけである。
いま僕が好きでいるものは、この先どんな結末を迎えることになるのか。それは誰にもわからない。
だからせめて自分のできることに関しては、悲劇で終わることがないようにやっていくしかないよね、ってだけ。


2018.9.27 (Thu.)

日記に対する意欲が過去最低レヴェルで申し訳ない。決して艦これのイベントで必死で掘っているわけではない。


2018.9.26 (Wed.)

広島カープがセ・リーグ3連覇、おめでとうございます。
ヤクルトファンとして広島と横浜に対してはなんとなくシンパシーがあって、そりゃ確かに悔しいんだけど、
巨人が優勝するよりはるかにマシという感情の方が上を行く。そこは素直におめでとうございますなのである。
それにしても3連覇とは偉業である。前田と江藤がいた時代(自分の基準)でも成し得なかったことができている。
野手を中心に、役者が揃っているのである。今後の世代交代が難しいだろうが、この充実ぶりは見ていて眩しい。

この「役者が揃っている」状況が似ているせいか、最近はヤクルトの黄金時代である1992~1993年の記事をよく見る。
西武との日本シリーズについては前にも書いたが(→2004.9.26)、四半世紀経ってようやく検証されている印象。
AKD砲をはじめとする西武の充実ぶりは凄まじかったが、ヤクルトもケガがちとはいえ役者がしっかりと揃っていた。
レヴェルの高い選手どうしがぶつかって伝説となる試合が生まれ、さらに選手たちが成長していくという喜び。
本当にいい時代だったなあと思う。そして今のソフトバンクと広島は、あのときにだいぶ近づいている感じがある。
今年の日本シリーズはどうなるかわからないが、後々語り草になるような中身の濃い試合を期待したい。
……やはりクライマックスシリーズは微妙だなあ。メリットは理解できるけど、ドラマの分散は否めない。


2018.9.25 (Tue.)

貴乃花親方が引退だってさ。若乃花が相撲を離れて久しいが、貴乃花までもこうなってしまうとは。
相撲にあまり興味がないとはいえ、僕は若貴ブームが直撃した世代なので、このような結末を迎えることはショックだ。
まあ歴代横綱を見てもトラブルはちょこちょこ発生しているわけで、こうなる確率もゼロではなかったということ。
しかし現実に起きてしまうと、輝かしい過去が否定されたような気分がして切ない。しょうがないけど残念ですなあ。


2018.9.24 (Mon.)

先月のリヴェンジということで、一橋大学の生協でグッズを買う(→2018.8.24)のであった。
親から頼まれていたマグカップにTシャツ、あとは自分用にクリアファイルなど。まあ定番ですよね。
さて今回、クラッチバッグという物の存在を初めて知ったが、防水性が高そうだったのでそれも買ってみた。
正直、これを手に持って動きまわるとか理解ができないのだが……。バッグインバッグとしての期待である。

それにしても、魅力的なグッズが少ないなあと。いや、「じゃあお前企画しろよ」と言われると困ってしまうが、
もうちょっとなんとかならないもんですかね。まあこの冴えない感じが一橋らしいっちゃらしいけどさ。
マーケティングって感じはあんまりしませんわな。商学部あたりのゼミで企画しませんこと?


2018.9.23 (Sun.)

髪の毛切って、あとは部屋の中でぐたっとしていた。寝れて寝れて困るぜ。


2018.9.22 (Sat.)

来月営業終了ということで、築地市場に行ってみた。実は、築地市場はDOCOMOMO物件なのである。
東京市土木局建築課の設計により1934年に竣工(開業は1935年)。特にジャーナリスティックな意識があるわけでなく、
取り壊される前にきちんと見ておこうというわけ。で、移転のドサクサにまぎれてバカスカ写真を撮ってやろうと。
あいにくの天気だったが、どうせ建物の中がメインだしということで決行。邪魔にならない午前11時過ぎに行動開始。

  
L: 築地市場正門。  C: 海苔・乾物・包丁などを扱う関連事業者棟を抜ける。  R: 手前に買荷保管所が3つ並んでいる。

  
L: 買荷保管所のひとつをクローズアップ。  C: 横から見たところ。  R: 中はこんな感じである。

  
L: 築地といえば扇型。その端っこ部分。  C: 扇の外側、卸売業者売場の入口。  R: では中に入ってみましょう。

築地市場の特徴は、なんといっても上から見ると扇型をしていることだろう。これは旧汐留駅から貨物線を引き込み、
東京市場駅を整備したから。かつては鮮魚貨物列車がここをゴールに走っていたのだ。列車は1987年まで運行していた。
というわけで、扇の最も外側がレールで、その内側に水産物部の卸売業者売場が置かれるという構造になっている。
そして扇の内側に仲卸業者が入る。その合理的な発想もまた実にモダニズム的である。まずは卸売業者売場から見学。

  
L: 中を進んでいくとこんな感じ。ターレ(ターレットトラック)がありますね。  C: カーヴ外側のコンクリート橋脚内。
R: 当たり前だが、とにかく発泡スチロールが多い。最初はその量にひたすら圧倒された。廃棄されている量もすごい。

まず圧倒されたのが発泡スチロールの量。中身が入って積まれているものも膨大だが、廃棄されている量も凄まじい。
われわれはふだん特に気にせず魚を食っているが、これだけの量の発泡スチロールを目にすると動揺してしまう。
さすがに築地はきちんと管理して海洋ゴミとなることはないだろうが、便利さの追求はそれ相応の負担があると実感。

  
L: 卸売業者売場の店舗はこんな感じ。  C,R: DOCOMOMO物件としての機能美は確かにある。昭和初期らしいモダンの痕跡。

建物については機能美そのものということで、工場などと同系統の魅力を大いに感じる。しかし83年の厚みもあり、
正直どちらかというと衛生面が気になってしまう。冷静に考えれば、魚が市場に滞在する時間は長いはずがないのだ。
それに人間がその場で活動することは建物を健全に保つことにつながる(人が住まなくなった家はすぐ古びてしまう)。
とはいえさすがにこれは限界ではないのか。丁寧に使ってきての83年とは思うが、老朽化に慣れてしまっていないか。

  
L: それではカーヴの内側、仲卸業者売場に行ってみましょう。  C: 向かって左が外側の卸売業者売場、右が仲卸業者売場。
R: 仲卸業者売場エリアはこんな感じ。これはカーヴの中心に向かう方向の大通路。いかにも市場らしい光景である。

卸売業者売場から扇の内側である仲卸業者売場へ入ってみる。土曜日の昼近くということで、ほとんど閉店モード。
しかし中には忙しそうにしている店舗もあり、観光客の姿もけっこう多くて市場らしい活気はなくはない。
函館朝市や青森のAUGA(→2008.9.142008.9.162010.8.132014.3.22)と比べると、明らかにプロ向けである。
とにかく面積が広大で、これはもはや完全に水産物に特化した街だ。ひたすら圧倒されながら見ていくのであった。

  
L,C: 11時を過ぎているので基本は閉店モード。なお本日の日記では店名の看板にモザイク加工をしています。
R: 忙しそうにしている店もある。ピーク時には市場全体がどれくらい激しく動くのか想像がつかない。

人だかりができていて何かと思ったら、マグロの解体をやっているのであった。わざわざやってくれるのがありがたい。
プロの皆様にとってわれわれ観光客は邪魔でしかないだろうけど、これは築地のいい思い出になりますわな。

  
L,C: マグロの解体をやっている店があって大人気。この時間にわざわざやってくれるとはありがたいです。
R: 無人販売の飲み物は缶もペットボトルも90円なのであった。暑いときにこれはうれしい仕組み。

街としての雰囲気に圧倒されていたが、きちんと建築物としての魅力も味わっておかないといけないのだ。
屋根で守られて風雨に晒されることはないので、コンクリートは竣工時のまま。それが店舗にしろ倉庫にしろ、
機能によって肉付けされている光景はずっと変わっていないはずだ。発泡スチロールの影響はデカいだろうけどさ。

  
L: コンクリート下の店舗。洗練された美しさがある。  C,R: コンクリート構造体が倉庫空間となっている例。

あちこち歩いて見てまわるが、やはり表通りと裏通りの差は大きい。大きな看板の店舗が並ぶ表通りに対し、
裏通りは完全にバックヤード。これは完全に商店街と裏路地の関係性だ。いわゆる「両側町」になっているのだ。

  
L,C: バックヤード的空間。よく整理されており機能性を感じさせる。工場萌え的な感覚をくすぐられる。
R: 暗いせいか、ここについてはあまり整理されている感じはないかなあ。築地市場は表と裏がはっきりしている。

あちこちにハシゴがあり、主に倉庫として使われている上階(中二階)に行けるようになっている。
よく見ると、なるほど大きく店名を書いた表通りの看板の裏は、このような倉庫スペースとなっているようだ。
実に合理的な工夫である。これは「築地らしさ」なんだろうけど、豊洲ではどうなるのか。少し気になる。

  
L,C,R: 上(中二階)が倉庫として使われているが、表に出ている大きな看板はこれを隠す目的もありそうだ。

以上、建築としての築地市場をできる限りで見てまわったつもりだが、現場での業者の工夫が圧倒的すぎて、
イマイチ焦点が絞りきれなかったなあと反省。機能美を中心に建物としての美しさはもちろんあるけど、
利用する人間の業(カルマであり生業であり)に引っ張られてしまった感じだ。自分は社会学の人なんだなあと。
竣工当時の写真があれば見てみたい。そして83年後の姿と比較してみたい。どこが変わって、どこが変わらないのか。

  
L: 青果部の卸売業者売場。こちらははっきりと新しい。  C: 関連事業者棟の行列。寿司屋が目的ですかね。
R: 大混雑の築地場外市場。豊洲移転後も伝統ある「築地」のブランドを保っていくことができるか。

※実は写真の入ったSDカードを長らく行方不明にしており、3年経ってからようやく発見して日記に書いたしだい。
 もう築地市場はなくなったし、何かしらの迷惑がかかることもないだろう、時効だろうということでアップしました。


2018.9.21 (Fri.)

謎のシード権大会が終わりましたので、新人戦へ向けての顧問会であります。
2位グループ(実質は3位グループ)からのくじ引き。まあつまり「下の中」といった位置なわけですな。
8人でやっとりますんでそんな感じですわな。8人のわりにはすごくよく戦えているとも思うんですが。
これまでの反省をきちんと生かした試合ができますように。そうすりゃ11人相手にもいい試合ができるはず。


2018.9.20 (Thu.)

本日は教育会の英語部会なのであった。なんだかよくわからんが、当番ということで英語発表会の司会をやることに。
面倒くさいが、これはもうどうしょうもないのでやるしかないのだ。気が進まないけど、やるしかないのだ。
イヤだけど、やるしかないのだ。ハァー……。やるしかないのだ……。


2018.9.19 (Wed.)

バスと御守。

旅行でバスに乗っていると、運転席の近くに交通安全のお札・御守・シールなどが貼ってあることがある。
これを観察するのがけっこう好きだ。どこの寺社のものなのかチェックすることで、その地元の嗜好がわかる。
あとは神社の性質もわかる。やはり交通安全に強い神社は船関係の信仰を集めた神社が多く、歴史が垣間見える。
なるほどこの地域で交通安全の有名どころはやはりここか、なんて再確認をするわけだ。意外な神社なこともある。
そうやってちょっとした発見を面白がりながら旅をするのが、たまらなく楽しいのである。


2018.9.18 (Tue.)

旅から戻ったのでようやく樹木希林について書ける。

樹木希林が亡くなったのだが、存在感満載であちこち出まくっていたからか、亡くなった感じがぜんぜんしない。
一時期は竹中直人と同じくらい「とりあえずウチの映画に出しておけば箔が付く」という位置を占めていたと思う。
その番宣関連の影響もあってかテレビで見かけることがやたらと多く、日常を感じさせる領域にあったのではないか。
そもそもが樹木希林って死にそうにない印象だったし。死という概念とは遠い存在にすでになっていた感触なのだよ。
ある意味、前に日記で書いたマイケル=ジャクソン(→2009.6.27)みたいな位置にいたのかもしれない。
マイケル=ジャクソンが身体性を象徴するなら、樹木希林は精神性の象徴だ。あの柔よく剛を制す感じ、
何をどうやっても追いつけそうにない達人のオーラ、それを樹木希林は象徴していたと思うのである。

僕にとってはやっぱり、フジカラーのCMですなあ。「ジュリーィィィ!!」をリアルタイムで見られなかったのは残念。
天国でもマイペースにフニフニフニフニ歌っていることでしょう。その相棒は健在だけど、まあそこは達人だからさ。


2018.9.17 (Mon.)

福島県2日目なのだ。7時には福島駅に到着しておいて、ファストフード店で朝食をいただく。いい感じである。
残念ながら昨日と同様、曇り空で一日のスタートとなるが、雨ではないので栄養補給とともに意識をポジティヴに変える。
さて本日は福島を出発すると、午前中は東北本線をひたすら南下して郡山まで行く。距離的にはあまり大したことないが、
見るべきものはそれなりにあるのだ。午後には東へ針路を変えて市役所と神社を訪問。まあ、いつものパターンだ。

では出発。福島駅から20分ちょっと、二本松駅で下車。9年前にも訪れており、二本松市役所へ行っている(→2009.8.10)。
しかし、雨のせいもあるが、肝心の二本松城址をスルーするという暴挙をかましており、今回はそのリヴェンジなのだ。
駅から商店街へ入っていき、途中で折れて久保丁坂を北上していく。まだ8時を過ぎたばかりなので二本松神社は後回し。

  
L: 二本松駅。  C: 駅入口。このすぐ右が二本松神社の境内入口だが、ポケットパーク的になっている。  R: 商店街を行く。

二本松城は平山城に分類されるが、自然の地形を利用した要害となっており、城は「コ」の字型の丘に囲まれている。
この丘に遮られ、外からは城内の様子をうかがうことができない。そして開口部である東側から攻め込むことになる。
久保丁坂は二本松城の南にある丘を越えるルートで、実際に歩いてみるとその要害っぷりを実感できて面白い。

  
L: 久保丁坂を上っていく。石碑には「旧久保丁」とある。  C: 久保丁坂。この急坂(丘)を越えないと城が見えない。
R: 坂の上には福島県男女共生センター。槇総合計画事務所の設計で2000年竣工。建物としては凡庸、それより下り坂に注目。

久保丁坂の北側は急な下り坂となっており、下りきったところにセブンイレブン二本松郭内店がある。
この「郭内」というのは丘に囲まれた内側の地名で、丹羽光重入封以降に武家地として整備されたエリアになる。

  
L: セブンイレブンの先にある山の上が二本松城の本丸跡である。真ん中やや左にちょっとだけ石垣が見える。
C: 戒石銘碑。1749(寛延2)年に藩主が儒学者・岩井田昨非の献策により藩政改革と綱紀粛正の指針として刻ませたもの。
R: 本丸へ向かう坂の途中にある建物。足元の石垣は昔ながらの物と思われる雰囲気。丹羽光重が改修したのかなあ。

では本格的に二本松城址に入っていく。現在は、県立自然公園である「霞ヶ城公園」として整備されている。
二本松城の歴史は、室町時代に二本松(畠山)満泰が、白旗が峰(標高345m)に城を築いたことに始まる。
もともと二本松氏は名門・畠山氏の嫡流に当たるそうで、奥州管領となった畠山国氏が父の高国とともに奥州に入った。
高国・国氏は地名を「二本松」と改めるが、観応の擾乱が勃発。畠山親子は尊氏側についたものの、敗死してしまう。
そんな国氏の孫が二本松城を築いた満泰で、この頃にはすっかり衰退してメインの名字を二本松としていた模様。
というわけで、家柄としてはかなり名門だが、伊達や蘆名など周囲の強豪に圧迫されっぱなしの状態となってしまう。

  
L: 本丸跡へと向かう道。  C: それらしくなってきたのだ。  R: そして目の前に石垣が現れる。いや、これは圧倒される。

戦国時代に入って二本松氏は衝撃的な事件を起こしている。二本松城主の二本松義継が伊達政宗の父・輝宗を拉致。
鷹狩りから現場に急行した政宗は、輝宗もろとも二本松義継を殺害したのだ。これは「粟之巣の変」というそうだが、
大河ドラマ『独眼竜政宗』では輝宗役の北大路欣也と政宗役の渡辺謙のやりとりが非常に印象的なのであった。
というか、政宗の周囲はいろいろありすぎるのだ。史実の方にこれだけ波乱万丈な要素が満載だったら、
何をどうやってもインパクトのあるシーンだらけのドラマができてしまう。そりゃ爆発的なブームになるよなあと思う。
それまで有名でなかった伊達政宗を大河ドラマに持ってきた人が偉い。そのうえでキャスティングが完璧だったのも凄い。

  
L: 本丸に到着。1993~1995年に本丸の修復・復元工事が行われており、天守台や本丸石垣はこのとき整備された。
C: さっき見上げた本丸の端っこ。  R: 本丸から眺める二本松市街。個人的には、その背景の阿武隈山地が印象的かな。

本丸に到着すると、二本松の街が一望できる。が、木々の勢いが強く、なだらかな山々が折り重なって連なり、
市街地よりも緑の方が目立っている。地理的なことを言えば、阿武隈山地(阿武隈高地)は地形輪廻の老年期にあたり、
河川による侵食がほぼ終わりきって丸っこい低い山々が丘陵となって残る、そういう地形の典型的な例として知られる。
Google Mapなどの航空写真で見ると、無数の小山が不規則に模様を描くこの地形の独特さがよくわかると思う。
そして二本松城の本丸跡からは、その地形を背景にして懸命に平野部を埋める人間の営みがはっきり確認できる。

  
L: 天守台を眺める。市街地から見て奥、北の端っこにあるのだ。  C: 天守台から見た本丸跡。  R: 本丸跡から見た天守台。

天気がよければ見える景色もより素晴らしいものだったろうに、曇り空の下では本来の魅力を感じられないように思う。
残念だが、こればっかりはどうしょうもない。さて、天守台にはオノ・ヨーコの詩を記した金属の碑が設置されていた。
福島ビエンナーレの際に設置された物のようだ。オノ・ヨーコの曽祖母は二本松出身とのこと。さらに二本松といえば、
高村智恵子の出身地でもある(油井なので二本松城からは3kmほど東だが)。芸術家を生む土地柄なのだろうか。
でも正直、オノ・ヨーコはまったく大したことないんですが。ただジョンと結婚しただけの人。金はあるけど才能はない。

  
L: 本丸跡から下って南面大石垣を見上げる。金網で保護されているものの、蒲生氏郷が穴太衆に積ませた野面積みが大迫力。
C: 城内路。東端の松森館と西にある新城館をつなぐ通路。  R: 二本松市民の憩いの場である公園、という雰囲気が強い。

しばらく景色を眺めて気が済むと、公園内をまっすぐ下って戻る。往路は車も通れるルートで本丸跡を目指したが、
復路は遊歩道を散策しながら城跡らしさと公園らしさを味わおうというわけだ。本丸下南面大石垣はすごい迫力。
また途中には切り通しの城内路や井戸があったが、城としての遺構よりも公園としての整備の方が目立っている感じ。

 彼岸花がたいへんきれいでございました。

遊歩道を抜けると二本松菊人形展の会場に出る。開催されるのは来月からだが、すでに準備が始まっている模様。
そしてその東側は石垣が整備されており、復元された箕輪門へとつながっている。「丹羽 二本松藩」の幟がはためく。
父・輝宗を犠牲にして二本松義継を倒した伊達政宗は、敵の本拠地・二本松城に攻め込むが、さすがに防御が固い。
攻め落とせないでいるうちに佐竹・蘆名を中心とする大援軍がやってきて人取橋の戦いが勃発、伊達方は敗れる。
しかし籠城が限界になり相馬義胤の仲介で二本松城は開城、以後は片倉景綱や伊達成実が入って蘆名攻略の拠点となる。
江戸時代に入ると二本松は蒲生領から加藤嘉明の領地となるが改易が相次ぎ、1643(寛永20)年に丹羽光重が入る。
丹羽光重は丹羽長秀の孫で、丹羽長重の息子。長重は秀吉によって領地を削られ、さらに関ヶ原では西軍について改易。
しかし大名に復帰した大坂の陣で活躍、最終的には白河(→2009.8.102014.12.23)10万石を治めるまでに盛り返した。
光重の代で二本松に移ったが、長重は築城の名手であり、二本松城改修にも彼のノウハウが生かされているのだろう。

  
L: 二本松菊人形展の会場。準備中だが規模の大きさがよくわかる。  C,R: 箕輪門付近の石垣。松が2本どころじゃない数。

二本松城の入口には砲撃する少年たちの像がある。戊辰戦争で二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加、新政府軍と戦った。
列藩同盟はまず、東北への入口である白河小峰城を確保する(このとき白河は藩主の存在しない空白状態だった)。
しかし新政府軍が少数ながらも城を奪い取ると、列藩同盟は白河小峰城を奪還すべく何度も攻めかかるがすべて失敗。
二本松藩の主力部隊も白河小峰城攻めに加わっており、新政府軍はその裏を突いて二本松城に猛攻を仕掛けた。
結果、二本松城は一日で落城。藩主は逃げたが家老らは火を放って自刃した。降伏しないで城を枕に討死したのは、
大坂の陣以降では唯一の例とされている。そしてこのとき二本松藩にはサバを読んで少年兵を受け入れる制度があり、
62名の少年兵が新政府軍と戦って14名が亡くなっている(成人だった少年隊の隊長・副隊長も戦死している)。
少年たちの像はその悲しい記憶を顕彰するもの。今のきれいな二本松城からは想像できない壮絶な話である。

  
L: 1982年復元の箕輪門。丹羽光重が箕輪村(現在は二本松市の一部)山王寺山の御神木である樫を使ったことから名がついた。
C: 二本松少年隊群像。聞けば聞くほど悲しい話だなあ。後ろにいる女性の存在がまたつらい。  R: 箕輪門・附櫓を眺める。

二本松城を後にすると、先ほどスルーした二本松神社へ。二本松神社は二本松城を囲む丘の南端に位置しており、
城の曲輪として機能するようになっていたのだ。この地に遷座させたのは丹羽光重で、さすがといったところか。
光重は神社を二本松藩の総鎮守として開放し、領民が誰でも参拝できるようにしたので門前町として栄えたそうだ。
さらには歴代城主の守護神である八幡宮を下座に、領民の守護神である熊野宮を上座に祀ったとのこと。

  
L: 二本松神社の境内入口。こうして見ると、曲輪として機能するのも納得できる。  C: 石段を上っていく。  R: 境内。

石段を上りきると随神門、抜けると奥に拝殿がある。南北に長い地形そのままの境内となっているので、
きゅっと縦に圧縮された感じである。2つ並ぶ本殿は八幡宮が平入、熊野宮が妻入となっており、その差が面白い。

  
L: 神楽殿。南北に長い丘の上に境内があるためか、配置はちょっと独特な印象。  C: 拝殿。社殿は1806(文化3)年の築。
R: 本殿。これは拝殿向かって左奥なので八幡宮の方。右にチラッと熊野宮が見える。平入と妻入の本殿が並ぶのは面白い。

無事に御守を頂戴すると、東北本線の南側に出て二本松市役所を目指す。前回は雨で、今回も厚い雲の下である。
残念ではあるが、できる限りでしっかり写真を撮ろうと気持ちを切り替えて臨む。二本松市役所は1991年の竣工。

  
L: 東北本線を跨ぐ陸橋から見た二本松市役所。  C: 現地に到着。正面(南)から見たところ。  R: 南東から。

  
L: 東から見たところ。  C: 北側は一段低くなっており、こんな感じで見上げることに。  R: 北西より眺める。

  
L: さらに近づいて北側の低層部分とともに見たところ。  C: 西側の側面。  R: 南西から。これで一周完了なのだ。

これでいちおうタスクは完了。東北本線をひたすら南下ということで、二本松市の次は本宮市である。
本宮市は2007年に本宮町と白沢村が合併して誕生した新しい市だ。もともとの地名は「本牧(ほんもく)」で、
そのうちに漢字が置き換わって「本目」となり、「もとめ」と読むようになった。そして1146(久安2)年、
安達太良山・大名倉山の神々を勧請して安達太良神社を創建した際、神社にちなんで「本宮」となったそうだ。

  
L: 安達太良神社の参道。県道355号から入っていく。  C: 境内入口。安達太良山の名を冠した神社らしい風格がさすがだ。
R: 石段はなかなかの勾配である。阿武隈川沿いの平地にいきなりこの山なら、そりゃ神社つくりたくなるよなあと思う。

というわけで、まずは安達太良神社に参拝するのだ。駅から北へ1km行くと、いきなり菅森山という山がある。
かつてはその山麓に鎮座していたが、1806(文化3)年の本宮宿大火で焼けてしまったため、山頂に遷ったとのこと。
確かに阿武隈川沿いの宿場の背中にいきなりこの山というのは、神社をつくりたくなる空間配置である。
現在の社殿は1816(文化13)年の築で、本殿は覆屋に守られている。覗き込んだら彫刻が見事だった。
なお、この日は御守を頂戴することができなかったが、後日郵送していただいた。ありがとうございました。

  
L: 拝殿。築200年らしい威厳があるが、傷みもちょっと感じるかな。  C: 本殿の覆屋。  R: 中の本殿をクローズアップ。

参拝を終えると市役所へ向かうが、途中で通った商店街が昔ながらの雰囲気でほっこり。先ほどの安達太良神社前も、
県道355号を軸に宿場町としての空気がしっかり漂っていた。しかし安達太良川の対岸もまた往時の繁栄を感じさせる。
もともとここには本宮町役場があり、役所が現在地に移転した後に多目的ホールのサンライズもとみやがつくられた。
というわけで、この辺りが本来の本宮の中心部なのだ。残っている古い建物はぜひ保存して、歴史を語り継いでほしい。

  
L: 阿武隈川沿いの県道28号。だいぶ拡張されているが、これがもともと街道だった感じかな。
C: まゆみ通り、旧役場周辺。本宮市の木・マユミにちなんだ名称か。  R: 見事な阿部写真館。

  
L: 本宮歴史民俗資料館の背面。1924(大正13)年に本宮電気会社の社屋として建てられた。後に東北電力本宮営業所となる。
C: エントランス部分にまわり込む。  R: ほぼ正面から見たところ。本宮歴史民俗資料館としての利用は1980年から。

最後に本宮市役所へ。別に狙ったわけではないが、ようやく青空が見えてきて、撮影にはまずまずのコンディションだ。
上述のようにもともと本宮町役場は安達太良川のすぐ南岸にあり、1986年に本宮駅からまっすぐ西の現在地に移転した。
そして2007年からは本宮市役所となっている。3階建てでベージュ系のタイル張りは、実に1980年代の役場っぽい。

  
L: 本宮市役所。まずは交差点越しに北東から敷地を眺める。  C: 敷地に入る直前。手前に駐車場があるのだ。
R: 北側の出入口は2つあり、西の方にずれて市役所を眺める。いかにも議会が入っているっぽい半円である。

  
L: 駐車場を突っ切り北東から見たところ。3階建てで町役場らしいスタイルといえばスタイルである。
C: エントランス。  R: 北西から見たところ。オレンジに近いベージュのタイル張りで1980年代だなあと。

  
L: 西側から見た側面。周囲の土地はなだらかに傾斜しているが、敷地を掘り下げて平らにしているのがよくわかる。
C: 南側、駐車場越しに眺める背面。祝日だからかこちらの駐車場は使われていない模様。  R: 南東から見たところ。

 市役所のすぐ南側はこんな感じでオープンスペースが整備されている。

本宮市を後にすると、東北本線をさらに南下して郡山に到着。しかし次の目的地に向かう磐越東線は本数が少ない。
そこで郡山の街中にある安積国造神社に参拝する。郡山は面積が広いので(→2010.8.29)、それくらいしかできない。

  
L: 相変わらずだだっ広い郡山の市街地。あらためてきちんと動きまわってみたい街なのだが、なかなか余裕がない。
C: 昭和通りに面する安積国造神社の参道。表参道は実はさらに駅側の県道355号から延びている。  R: 奥へ進んで境内へ。

安積国造(あさかくにつこ)神社はその名のとおり、初代安積(阿尺)国造の比止禰命が創建したとされる神社である。
祭神は豊受比売神を産んだ和久産巣日神と安積の祖・天湯津彦命禰命で、後に比止禰命・八幡神・稲荷神が加わった。
国造とはまたそうとうに古い歴史だが、よく考えれば郡山の名も律令制に由来するものだ。現代の郡山の繁栄は、
直接的には安積疏水による開拓が大きいが、太古の昔から交通の要衝だったはずだ。いろいろ想像がはずむなあ。

  
L: 石段を上って境内。  C: 石段の脇にある神楽殿。巨大なおかめの面がものすごいインパクトである。1910(明治43)年築。
R: 高遠の透かし灯籠。宮司と同じ宿に泊まった高遠(→2008.9.7)の商人が文無しから再起したお礼で1770(明和7)年に奉納。

学業の御守には安積艮斎(ごんさい)がデザインされていたので、ふつうの御守に加えてそちらも頂戴した。
安積艮斎は安積国造神社の宮司の息子に生まれ、江戸で私塾・見山楼を開いた学者。後に昌平坂学問所教授も務めた。
朱子学をベースにしつつさまざまな学問を消化しており、海外事情にも詳しくて黒船来航時にはアメリカ国書を翻訳。
2000人以上の門人がいたそうで、著名なところでは吉田松陰・岩崎弥太郎・高杉晋作・小栗忠順といった名前が挙がる。

  
L: 拝殿。1810(文化7)年の再建。  C: 本殿。1926(大正15)年の再建。  R: 安積国造神社会館。モダニズムである。

参拝を終えると郡山駅に戻り、磐越東線で船引(ふねひき)まで行く。こちらは田村市役所の最寄駅なのだ。
田村市は田村郡の5町村が合併して2005年に誕生。郡名を採ったわけだが、元をたどると坂上田村麻呂が由来となる。
田村郡は蝦夷征討にやってきた坂上田村麻呂の子孫・田村氏が支配し、中世に安積郡から独立した経緯があるのだ。
ちなみに田村郡にはかつて田村町が存在したが、1965年に郡山市と合併してその一部となった(水郡線沿線地域)。

  
L: 船引駅のホームにいる「お人形様」。4mある魔除けの神様で、かつては磐越街道沿いの5ヶ所に祀られていた。今は3ヶ所。
C: 船引駅。2004年に建て替えられて現在は田村市船引コミュニティプラザとなっている。  R: 駅から南に延びる商店街。

駅から南へ商店街を歩いていくと、すぐに白くて新しい建物が現れる。それが田村市役所で、設計者は昭和設計。
昭和設計は関西に本社を置く組織事務所だが、田村市役所についてはコンペで当選した東京事務所が担当している。
田村市は合併後、駅を反対方向に行った図書館の隣にある旧船引町役場を市役所本庁舎として使用していたが、
2015年にこの新しい市役所を建設したのだ。個人的な印象では、「昭和モダニズム庁舎の正当な後継者」という雰囲気。
昭和の庁舎建築にあった特徴を、現代の軽さと白さで換骨奪胎しているイメージなのだ。懐かしくて新しい感じだ。

  
L: 田村市役所。駅から商店街を進んでいくとこの光景となる。手前が議会っぽいが中身は会議室。議会は最上階の4階に集中。
C: 西から見たところ。向かって左の1階部分は多目的ホールとなっている。  R: 正面より。大まかに4つのパートに分かれる。

  
L: エントランスをクローズアップ。ここから入った中央がそのまま吹抜の「市民コート」となっているのだ。
C: 南から見る。凹んでいるエントランス(市民コート)の両脇をオフィスが挟む構成。  R: 南東から見た側面。

  
L: 北東から駐車場越しに見た背面。  C: 北から見たところ。  R: 北西から見た側面。巨大な玉のオブジェがある。

ガラスで金属で木で、という感じではなく、どこか昔ながらの庁舎建築を思わせる。それでいて現代風である。
最近建てられている市役所は結果的に似たり寄ったりになっている印象だが、田村市役所は過去を肯定しているようだ。
その感触が、僕としては非常に好ましいものに思えて、ほっこりいい気分で磐越東線を西へと引き返すのであった。

郡山の1つ手前、舞木(もうぎ)で下車。本日の最後は、郡山市だがほぼ三春町という位置の高屋敷稲荷神社に参拝する。
アクセスする手段は自転車も考えたのだが、朝に二本松城址から眺めた阿武隈山地の老年期丘陵のど真ん中にあり、
こりゃもう舞木から2.3km歩いても大して変わらねえや、と覚悟を決めての参拝である。いい運動だぜチクショウ。

  
L: 舞木駅から東にまわり込み、磐越東線の南側に出るとこの鳥居が現れる。こいつをくぐってスタートというわけなのだ。
C: 頭上を見ると電線に規則正しく着陸するアキツたち。これ、なんかかわいいな。  R: こんな感じの案内を頼りに行く。

典型的な地方の農道をトボトボ歩いていくだけなので、特にこれといって書くべきことはない。ただ淡々と歩く。
鳥居を指し示す案内が的確に出ているので迷うこともない。20分ほどで赤い鳥居が並んでいるのが目に入り、
まわり込んでその鳥居たちの正面に向き直る。緑の中に朱色が鮮やかな曲線を描く。なるほどこれは見事なものだ。
ちなみに神社の公式サイトによると、戦前には神社から舞木駅まで4000基の鳥居が並んでいたそうだ。マジかいな。

  
L: まあ、こんな感じの中を行きます。  C: 高屋敷稲荷神社に到着。鳥居がなかなかの迫力。  R: 石段から見下ろす。

石段を上りきった高屋敷稲荷神社の境内は、やはり稲荷系ということもあってちょっと独特の雰囲気なのであった。
朝の二本松神社とは対照的に、こちらの境内は東西方向で横長。その制限されている空間を池や境内社が埋めている。
やはりどこか神道らしさからはみ出た自由さがあるのだ。拝殿向かって右の本殿脇には白狐社。左には御神石(磐座)。
実に無駄なく土地を活用しているなあと思う。それでいて烏骨鶏を飼う小屋まである。やりたいことをやりきってますな。

  
L: 石段を上りきると拝殿。境内は横長になっており、奥行きの余裕がないのでどうしてもこんな感じになってしまう。
C: 横から見た拝殿と境内。おわかりいただけますか。  R: それでも境内にしっかり池をつくってあるのがすごい。

高屋敷稲荷神社は1713(正徳3)年の創建で、宝永年間に凶作が続いて天皇に税の免除をお願いしたところ、
3年間の免除が認められた。それに感謝して伏見稲荷大社を勧請したのが起源である。その後も飢饉が続くが、
そのたびに信仰する人が増えていき、明治になると日清戦争や日露戦争もあり武運長久を祈願する人がさらに増えた。
現在の社殿は1926(大正15)年に建てられたものとのこと。その後も境内は着実にパワーアップしてきたそうだ。

  
L: 本殿脇の白狐社。こちらは神の使いである狐を祀る。  C: 反対側には御神石。  R: 御神石のところから見た本殿。

御守を頂戴し、烏骨鶏を観察し、境内から郡山の街を眺める。さすがにビッグアイがよく目立っている。
その背後には安積(あさかの)アルプスがそびえる。あの向こうに猪苗代湖があるのだ。天鏡閣に行きたいなあ。

  
L: 高屋敷稲荷神社の烏骨鶏たち。  C: 遠く郡山の中心市街地と安積アルプスを望む。  R: こちらは東側の裏参道。

帰りものんびり歩いて舞木駅に到着。そうしてようやく郡山に戻ると、いつも郡山で食べている海鮮丼をいただく。
さて今回は青春18きっぷの季節ではないので、高速バスのあぶくま号に乗って東京に帰るのだ。本数が多くて助かる。
バスタ新宿まで4時間ほどかかるのは、飯田とそんなに変わらない感じか。いや、今回も楽しませてもらいました。


2018.9.16 (Sun.)

今週も東北旅行である。また東北! 行けるときに行っておく! 今週のテーマは福島県。でもちょっと宮城県にも入る。
朝の6時に福島駅に到着し、起き抜けの頭でしばらく途方に暮れてから、東北本線に揺られて桑折(こおり)駅で下車。
県境を越えてまっすぐ白石市に入るのも面白くないので、桑折に寄り道して国指定重要文化財を見ておくのだ。

 桑折駅。

しかし「桑折」とはなかなかの難読地名だ。律令制で郡家が置かれたことで、「郡」の「こおり」が地名となった。
もともと養蚕が盛んだったそうで、おそらく好字令の影響もあって、「桑」を使った2文字の表記としたのだろう。
いかにも旧街道な県道353号を南下していくと、無能寺というなかなかすごい名前の寺がある。その南西が桑折町役場。
実際に見てみたら、これがかなりの年代モノでちょっと興奮。調べたら1957年竣工で、新庁舎建設計画が進行中だ。
新庁舎の建設予定地は、駅からわりとすぐ東の旧醸芳中学校跡地。設計者選定プロポーザルを昨年10月に実施しており、
楠山設計の案が最優秀となった。2020年度に竣工して、その翌年度に供用開始という予定となっている。

  
L: 桑折町役場。何もかもが昭和で建て替えてしまうのが惜しいけど、地元民は新庁舎を熱望しているのだろうな。
C: 西側のコープふくしま桑折店駐車場から見た側面。  R: 背面にまわり込む。ベージュの両サイドは増築っぽいが。

桑折町の公式サイトには「新庁舎建設ニュース」がPDFファイルで掲載されており、細かい情報が入手できる。
ニュースの内容もかなり丁寧に建設プロセスを説明するものとなっている。他の自治体も参考にしてほしいレヴェル。

  
L: 東側の側面。  C: 一周を終えて北側に戻ってきた。玄関上の手書きの看板とか、昭和の感触が本当にいとおしい。
R: あらためてエントランスを撮影。真ん中は桃の木で「献上桃の郷」とある。福島県は桃の生産全国2位で、桑折の桃は高品質。

昭和の役場を訪れることができてうれしいが、桑折にはもっと古い役場建築があるのだ。県道をさらに南下すると、
正面にその雄姿が見えてきた。わざわざ奥州街道の突き当たりに建てているのである。これは見事な光景だ。

 奥州街道だった県道353号。その先には見事な擬洋風建築が建っている。

というわけで、桑折の誇る国指定重要文化財・旧伊達郡役所である。なんだかんだで旧郡役所はけっこう見ているが、
(過去ログ見たら異常な量だった。北から紹介すると、旧檜山爾志郡役所 →2010.8.13、旧雄勝郡会議事堂 →2016.8.1
 旧西田川郡役所 →2013.5.11、旧西村山郡役所・郡会議事堂&旧東村山郡役所 →2013.5.12
 開成館/旧安積郡役所 →2010.8.29、旧南会津郡役所 →2010.5.16、旧西白河郡役所 →2014.12.23
 旧上高井郡役所 →2010.9.23、旧碓氷郡役所 →2014.9.13、旧東山梨郡役所 →2013.5.6、明治館/旧出石郡役所 →2009.7.20
 石見銀山資料館/旧邇摩郡役所 →2013.8.18、益田市立歴民俗資料館/旧美濃郡役所 →2013.8.17
 津和野町役場津和野庁舎/旧鹿足郡役所 →2013.8.17、隠岐郷土館/旧周吉外三郡役所 →2018.7.27
 九州海技学院/旧宇土郡役所 →2015.8.20 となる。めちゃくちゃ行っているなあ、自分! 自分で自分に呆れた。)
その中でも旧伊達郡役所は規模が大きく改変も少ないことから、郡役所の代表的存在と言える建物なのだ。

  
L: 旧伊達郡役所。奥州街道の突き当たりにこの姿ということで、いかに地元のプライドを賭けた建物か実感できる。
C: 敷地内に入って見上げるアングルで。  R: 少し北西側に動く。震災を経て修復しているが、見事なものだ。

設計・施工は地元の大工である山内幸之助・銀作。もともと伊達郡の郡役所は保原町(現・伊達市)に置かれたが、
桑折町が熱心に誘致して1883(明治16)年に移転・新築された。郡役所が廃止になっても福島県の出先機関として、
1974年まで利用されていたとのこと。朝早くて開館前の訪問となったが、地域の誇りをしっかり感じることができた。

  
L: 南西側から見た背面。  C: 東側の側面。  R: 一周完了。やはり地域のプライドを感じさせる建物はすばらしい。

桑折を後にすると、東北本線を北上してそのまま宮城県へと入ってしまう。1ヶ月ぶりとなる宮城県だが、
今回訪れた白石市は、海はないし南の方だしで先月の旅行とはけっこう様相が違う。なんだかんだで宮城県は広いなあ。

  
L: 白石駅レンガの油庫。1887(明治20)年の駅開業時から残る倉庫。現在は鉄道関係のギャラリーとして利用されている。
C: 白石駅。手前の鐘楼に目が行ってしまうが、1959年竣工の駅舎はなかなか端正なモダニズム。設計者が気になる。
R: 自動販売機には馬に乗る侍のシルエットと「小十郎見参」の文字。白石市は片倉景綱が治めた城下町なのだ。

駅から西の市役所へと歩く。まず「白石」だが、「しろいし」と読む。豊臣政権下で上杉景勝が会津に移封されると、
白石は上杉氏の領地となる。しかし徳川家康の会津征伐(石田三成の挙兵により中止)に呼応した伊達政宗が侵攻。
これ以降、白石は伊達氏の領地となり、白石城には重臣・片倉景綱が入る。後に江戸幕府が一国一城令を出すが、
白石城は例外として存続している。なお、戊辰戦争で奥羽越列藩同盟が敗れると、片倉氏は北海道へと移住した。
片倉氏の家臣が開拓した白石(しろいし)村は1950年に札幌市に編入され、現在は札幌市白石区となっている。

  
L: 白石市の市街地を行く。穏やかな城下町。  C: 本町大通商店街。  R: 瓦をイメージしたアーケードの商店街。

ほどなくして白石市役所に到着。ベージュのボディに白のベランダを目立たせたよくある庁舎のスタイルだが、
よく見ると縦方向に耐震補強が入っている。竣工は1973年。この時期の庁舎建築にしては規模が大きめな印象だ。

  
L: 南から見た白石市役所。駅からだと横向きである。白石城址に対しても横向きで、南向きを優先。  C: 南東側から。
R: 北東、側面と背面。パッと見、白がかなり目立つが、建物本体としてはベージュ。耐震工事でリニューアルしたのかな。

  
L: 北にある白石城城下広場駐車場から見た背面。  C: 西側の側面。  R: 一周して少し南西側から見たところ。

  
L: エントランスをクローズアップ。  C: 玄関から手前の植栽を見る。  R: 白石市役所の碑の裏に定礎。このパターンは初。

  
L: 玄関。銅像は白石町長から初代白石市長として29年間トップを務めた麻生寛道。  C,R: 中の様子。土曜なので暗い。

市役所の撮影を終えると、すぐ西にある白石城址へ。アクセスするには北からか南からかのどちらかで、
北西の二の丸跡にある神明社から参拝して本丸に向かうことにした。一帯は益岡公園として整備されている。

  
L: というわけで、北からまわり込んでまずは神明社へ。  C: 上っていくと本格的に境内スタート。  R: 進んで神門。

神明社ということで当然、主祭神は天照大御神。その他、伊達政宗や片倉景綱を含む18柱を祀るとのこと。
かつては長町に鎮座していたが、1899(明治32)年の白石大火で焼失してしまい、翌年に現在地に遷座している。
今の社殿は1935年に建てられており、当時の盛り上がりを思わせるかなりどっしりとした神明造となっている。
智将として知られる片倉景綱が城主だったこともあり、彼をデザインした「智勇向上守」という御守が特徴的。

  
L: 拝殿。  C: 本殿。  R: 参拝を終えると白石城址へ。神明社の境内から脇へ出ると三階櫓(天守閣)。1995年の再建。

参拝を終えると白石城址へお邪魔する。三階櫓(天守閣)のすぐ下を通って大手二ノ門を抜けると本丸である。
明治になって城は取り壊され長くそのままでいたが、転機となったのはやはり大河ドラマ『独眼竜政宗』だそうで。
放送翌年の1988年に第三次白石市総合計画によって、同じ場所、同じ規模、同じ建築方法による復元が目指された。
石垣も野面積みによる復元をしているそうで、そうとうな力の入れ方である。バブルの恩恵でやりきったということか。

  
L: 大手二ノ門。こちらも1995年の再建。  C: 東から見た三階櫓。  R: 最上階はこんな感じ。梁の気合いがすごいぜ。

三階櫓の中に入ってみるが、最上階の梁の迫力がすごい。見える景色もなかなかで、白石の街は山に囲まれ広くないが、
その盆地にめいっぱい市街地をつくっていった城下町としての繁栄ぶりがうかがえる。仙台藩の南の抑えだった城だ。

  
L: 三階櫓からの眺め。まずは北から。  C: 東、大手二ノ門。市役所は木で見えないなあ。  R: 南、本丸跡。

城下広場駐車場から少し北へ行ったところにある、神石白石に寄ってみる。「白石」の地名の由来となった石なのだ。
古くから神奈備として祀られているそうで、江戸時代には朱塗りの玉垣をめぐらせていたという。街中にあるのが面白い。

  
L: 街中にこのような一角が。  C: こちらが神石白石。根は深く、仙台市泉区の根白石(ねのしろいし)まで続いているとか。
R: 向かいの白石市いきいきプラザ。旧市民会館を改築して1998年にオープンしたが、老朽化により今年3月をもって閉館だと。

白石を後にすると、30分ちょっと列車に揺られて福島市に戻ってくる。ここからはひたすら福島市内を動くのだ。
前回、福島市を訪れたのは9年前。ただこのときは、米沢に行くために時間調整しただけだった(→2009.8.10)。
本格的に街歩きをしたとなると、なんと11年前になる(→2007.4.292007.4.30)。「県庁所在地ひとり合宿」以来だ。

駅でレンタサイクルを確保すると、福島県庁舎をリヴェンジ撮影。以前にも詳しく書いたが(→2007.11.22)、
石田潤一郎『都道府県庁舎 その建築史的考察』(→2007.11.21)によると、福島県庁舎の着工は1937年のこと。
しかし日中戦争の深化により鉄鋼工作物築造許可規則で軍需以外の大規模建造物がつくれなくなり1940年に工事を中止。
このとき佐藤功一の設計で1階部分まではできていたので、2階を木造の仮普請として戦中戦後をしのいだという。
佐藤功一の案は「日」の字型平面に大きな車寄せ、玄関奥には大階段という、戦前では定番のプランだったそうだ。
そして戦後に工事を再開し、設計者は山下寿郎設計事務所に変更となった。なお、この変更に際して福島県から、
意匠は「民主政治にふさわしいもの」を求められた。古典的な様式よりもモダニズムでいってくれ、ということだ。
これを受けて新たなプランでは、2階正面中央部分に車寄せとしてあの特徴的なピロティがくっついたというわけ。
さらに主階段は中心線からずらして斜めに上がっていく形となり、中央にあった塔は端に移して望楼・時計塔になった。
ただ今回よく見たら、東側にあったその時計塔がなくなっていた。これは東日本大震災の影響だろうか。残念である。
そうしてあらためて全体が竣工したのは1954年。簡素な本体のおかげで目立つピロティは福島県庁舎らしさの象徴だ。

  
L: 福島県庁舎。  C: さらに近づいて正面から見る。  R: 横にずれて定番のアングルで。福島県庁といえばこの車寄せ。

  
L: 外観の印象はまったく変わらないが、よく見るとリニューアル感がある。2016年に耐震改修工事を完了している。
C: これまた定番の角度で。ちなみに中庭は耐震の鉄骨がジャングルジム状態だそうだ。そうして外観を維持したわけで。
R: 背面。こちらも以前と同じデザインである。無骨な北側の正面と、モダンで窓の多い南側の背面と、非常に特徴的。

  
L: 近づいてみた。  C: 見上げてみた。  R: 板倉神社付近から見た東側の側面。時計塔がなくなっているなあ……。

県庁の後ろ、阿武隈川のすぐ脇に鎮座する板倉神社も、以前と比べてどこかリニューアルされた感触が漂っている。
祭神は板倉重昌とその子・重矩。板倉重昌は、江戸町奉行や京都所司代としてその名を轟かせた板倉勝重の次男。
島原の乱で功を焦って突撃した際、一揆勢の銃弾が眉間に直撃して戦死してしまった。しかし重矩は有能エピソード満載。
幕府の老中と、やはり京都所司代を務めている。その後、板倉氏は元禄期に福島藩主となり、そのまま明治維新へ。
福島県庁を郡山へ移転させる話が持ち上がったときには、これを阻止してもいる。福島市民的には板倉様様ってことか。

  
L: 板倉神社。板倉氏が福島に来る前には家督争いがあり、紆余曲折を経てこの地に収まった感じ。  C: 拝殿。  R: 本殿。

あとは福島県庁の西庁舎や北庁舎を撮影。1971年竣工の西庁舎は前回も撮ったが、北庁舎は2016年竣工と新しい。
本庁舎の耐震工事と重なるが、全体を建て替えずに庁舎を増やし、鉄骨で支えてまで本庁舎を残したのは少し意外。
福島県庁本庁舎はそれだけ愛されているということか。でもそれなら時計塔を復活させてもいいんじゃないか。

  
L: 板倉神社の社務所脇にあった、福島ユナイテッド仕様の自動販売機。福島県も広くてクラブは大変だよなあと思う。
C: 西庁舎。今度はこっちが耐震工事中のようで。  R: おととしできたばかりの北庁舎。現代風だが、分散が強まった気も。

いちおう様子を探ってみたのだが、板倉神社では御守が頂戴できなかった。規模が小さいからしょうがないか。
では福島市内で規模の大きい神社に参拝するのだ。県庁からまっすぐ北へ行くと、福島稲荷神社がある。
安倍晴明の創建だそうで、福島城の城下町の総鎮守となっている。境内はずいぶんと開放的で独特な雰囲気。

  
L: 福島稲荷神社。こちらが南に延びる参道。  C: 左が神楽殿。右が聖徳太子神社で、1962年竣工の夢殿リスペクトな八角形。
R: 西の参道と絵馬殿。絵馬殿はもともと拝殿として建てられたもの。1692(元禄5)年造営は福島市で最も古い建物だそうだ。

稲荷系のわりには神仏習合色はそんなに強くなく、地方都市の代表らしい規模の神社だなあと思っていたら、
面白いものを発見。5種類もある競馬勝守があるのだ。もともと福島は馬の産地で、奉納競馬を行っていたという。
1918(大正7)年には福島競馬場がつくられており、今もそこで中央競馬が開催されている土地柄なのである。
競馬勝守の登場は福島競馬場の全面改装工事が終わった1997年。日本中央競馬会とのコラボで種類が増えたそうで。
僕は競馬にまるで興味がないので頂戴しなかったのだが、神社ではけっこう推している模様。失敗したなあ……。

  
L: 拝殿。福島稲荷神社の社殿は大江新太郎の設計により1938年に竣工している。バランスいい感じですな。  C: 本殿。
R: 競馬勝守の案内。モデルとなったのはトーカイテイオー・ナリタブライアン・ビワハヤヒデだそうだが、わからん……。

さて、福島市内にはいくつか気になる建物があるので、それらをまわっていく。レンタサイクルは本当にありがたい。
まずはDOCOMOMO物件からなのだ。市街地から東に行った阿武隈川のほとりにあるのが、福島県教育会館。
福島県教職員組合の拠点施設として建てられており、組合の事務所のほか、ホールとして幅広く利用されている。
1956年竣工で設計はMID同人だが、福島県出身の大高正人がメインとのこと。大高はメタボリズムの一員であり、
福島県教育会館を含めて5点ほどの作品がDOCOMOMO物件となっている。これはとんでもない高打率と言えよう。
(ほかに花泉農協会館(現:JAいわて南・花泉支店 →2014.5.6)、千葉県文化会館・千葉県立中央図書館(→2014.9.27)、
 坂出人工土地(→2013.12.27)など。DOCOMOMOではないが、個人的には岡谷市立湊小学校(→2010.4.3)も好き。)
なお、MID同人とは1947年に前川設計研究所(Mayekawa Institute of Design=MID)として創設された組織で、
定義づけが難しいのだが、まあつまりは前川國男がその思想を個人ではなく組織として継続させようとしたチーム。

  
L: 福島県教育会館。まずは南東から見た事務所棟。  C: 事務所棟は典型的なモダンスタイル。ガラスとサッシュがよい。
R: 北東から見たホール棟。内部の音の反響を意識したことが外から見える造形。これをゴロッと置く大胆さがすごい。

まずは外を一周。周囲はのんびりとした住宅地で、福島県教育会館もその中でのんびりやっている感じ。
ホール棟と事務所棟に分かれているが、どちらも高さがないので威圧感がない。小ぢんまりとはしていないが、
きちんとヒューマンスケールで一般市民向けらしい親近感をおぼえさせる。昭和のサイズがよく残っている印象だ。
そして何より面白いのがデザインの対比。ガチガチにモダンな事務所棟と、大胆な造形のホール棟が並んでいる。
しかし両者は機能を強調する点においては共通している。これはメタボリズムに通じる豪快さ。でもよく馴らしてある。

  
L: 西から駐車場越しに眺める。左がホール棟、右が事務所棟。これたぶん、わざと幅を揃えて対比を強調しているな。
C: 南西、阿武隈川の堤に上がって軽く見下ろすアングルで。  R: 事務所棟エントランス。それでは中に入ってみるのだ。

中に入ると吹抜の大空間。市役所建築に慣れている身としては「よくあるパターンだな」と認識してしまうが、
よく考えると福島県教育会館は1956年竣工であり、むしろこれは後の市役所建築を導く先駆的事例なのである。
この時期はまさに丸の内の旧東京都庁舎(1957年竣工 →2010.9.11)におけるシティ・ホール概念が生まれた頃で、
いかに役所オフィスを市民に対して建築的に開いていくか、が目指されていたのだ(反動もある →2014.8.22)。
結局は1980年代くらいに庁舎の大型化にともないオープンスペースを取り込む形でエントランスホールは定着するが、
(直接の関係はないと思うが、典型的な事例として思いついた韮崎市役所の過去ログを貼ってみる。→2015.12.26
この福島県教育会館の思想はその源流に位置付けられる事例であろう。学ぶことが非常に多い建築であると思う。

  
L: 福島県教育会館の中に入って左、奥がホール棟に接続。  C: ホール棟方面に背を向けてエントランスホールを眺める。
R: 2階に上がってエントランスホールを見下ろす。この空間は結果的に市役所建築に採り入れられていったと僕は考える。

カラオケ大会か何かのイヴェントが開催中で、ホール棟からは歌声が響き、事務所棟は練習中の人でごった返している。
おかげでドサクサまぎれに中の写真を撮れたのだが、この気取らない感じで今もふつうに利用されているのがすばらしい。

感動に浸りつつ次の目的地、新築された福島市役所へ。11年前に訪れたときには1952年竣工だったが(→2007.4.30)、
現在は建て替えられて9階建てとなっている。山下設計・田畑建築設計事務所JVの設計で2010年に竣工しているが、
扱いとしてはあくまで「東棟」。議会などが入る「西棟」が計画されているものの、東日本大震災の影響もあって、
いまだに着工していない状況である。現在は西棟建設予定地に除染推進室のプレハブが建っている。完成はいつの日か。

  
L: 福島市役所東棟。まずは南東から見たところ。  C: 東から見た側面。  R: 北東から。こっちが背面ですかな。

  
L: 北西、裁判所前から。ということは、旧市役所は現在の西棟建設予定地か。現在の市役所は1ブロック東にずれた格好だな。
C: 西棟建設予定地越しに眺める西側の側面。  R: 南西から眺める東棟。新しいだけあって震災の影響はなさそうな感じ。

   
L: 南に寄って正面を撮影。  C: 近づいて見上げる。最終的に壁面緑化はどこまでいくのか。全面やっちゃうのかな?
R: エントランス。この車寄せは明らかに先代の福島市役所(→2007.4.30)を意識している。面白いデザインの継続性だ。

中を覗き込んでみるが、ふつうに県庁所在地の役所という感じ。特に奇を衒うこともなく、堂々とスペースをとっている。
西棟の着工・竣工はいつになるかわからないが、ぜひ福島市役所の完成形を見てみたいものだ。どんな姿になるのやら。

  
L: 中の様子。ふつうだ。  C: 案内図。「福島市役所東棟」という表現を徹底している。左の西棟建設予定地には「計画建物」。
R: 現在の西棟建設予定地にはプレハブの除染推進室が建っている。市役所建設より除染が優先、というアピールでもあるかな。

最後に福島県立美術館・図書館へ。信夫山の麓、東北新幹線と東北本線・福島交通飯坂線の線路に挟まれた位置にある。
もともとは福島大学経済学部があった場所だそうだ。美術館と図書館はどちらも1984年のオープンで、公共建築百選。
ただし設計者は異なり、美術館は大高建築設計事務所だが、図書館は石本建築事務所。一体的にやらなかったのは意外。

  
L: 福島県立美術館・図書館。  C: まっすぐ進んで池越しに眺める。ここは美術館部分で、右端から図書館となる。
R: まずは左を向いて福島県立美術館。雰囲気は大高作品では岡谷市立湊小学校(→2010.4.3)に似るが、格段に落ちる印象。

  
L: 福島県立美術館を正面から眺める。壁面に対して屋根の仕上げが安っぽいんだよなあ。色も質感も悪すぎる。なんだこりゃ。
C: 右を向いて福島県立図書館。レンガで外装を美術館と統一しているが、屋根がない分だけこっちの方が気品ある仕上がり。
R: 図書館だけど南面はガラス張り。本棚を横向きにし、軒を深くとることで対処しているわけですな。芝生もいい感じだ。

これでいちおう福島市内の建築めぐりは終了。駅に戻って自転車を返却すると、新幹線メインの西口へと移動する。
意外と距離があって移動が面倒くさかった。で、ここからバスに揺られて目指すは福島県営あづま陸上競技場だ。
ネーミングライツで「とうほう・みんなのスタジアム」というよくわからん名前になっている。東邦銀行って気づかんぜ。
これがけっこう遠くて、バスで30分くらいかかる。ひたすら田んぼの中を行き、どんどん山の中へと入っていくと、
いきなり山麓に運動公園が現れて驚かされる。まあ車内では福島ユナイテッドの映像が流れて飽きることはないが。

  
L: 福島県営あづま陸上競技場(とうほう・みんなのスタジアム)。国体のために郊外に建設された典型的なスタジアムだ。
C: 外観はこんな感じ。山裾に運動施設が集まっているのでなんとなく狭苦しい印象だ。  R: オープンスペースもあるけどね。

というわけで、本日の午後はサッカー観戦。J3・福島ユナイテッドとAC長野パルセイロの試合である。
福島が7位で長野はなんと10位。今シーズン長野の試合を観るのは初めてだが、なんとも情けない凋落ぶりである。
スタジアム内では前座として福島復興支援エキシビジョンマッチ2018を開催中で、写真撮るなと頻繁にアナウンス。
なるほどJリーグOBのメンツはかなり豪華で(福西崇史・ 中西永輔・鈴木隆行・小村徳男・坂田大輔・中田浩二・
小倉隆史・久保竜彦・森岡隆三・市川大祐など)、GAKU-MC・GLAYのTERU・レミオロメンの藤巻亮太も参加とのこと。
ミュージシャン側には興味はないが、JリーグOB勢は非常に気になる。でもスタジアム一周を優先するストイックな私。

  
L: スタジアム一周を開始。メインスタンドはこんな感じ。  C: いかにも運動公園ですなあ。  R: ちょっとだけ中が見える。

  
L: バックスタンド側を行く。あとはだいたいこんな感じで駐車場があるだけ。一周してもぜんぜん面白くなかった……。
C: スタジアム内に入る。これは前座試合が終わって福島・長野両チームの練習中ですよ。  R: 向こうに福島あづま球場。

サポーターは基本的にメインスタンドで応援するようで、芝生のサイドスタンド・バックスタンドはほとんど無人。
これまた地方Jクラブならではの牧歌的な光景である。それはそれで週末感があって、けっこう好きなんだよなあ。
先週の盛岡は小規模の球技場でアットホームだったが(→2018.9.9)、国体のスタジアムである福島はいろいろ大きい。
陸上のトラックを挟むのでピッチが遠く、臨場感はどうしても弱いが、スタンドの傾斜による高さがあるのはよい。
アウェイ側のスタンドには熱心な長野サポーターが多数。よく福島まで来るものだ。僕も長野寄りの席に陣取る。

 気勢を揚げる長野サポ。J3も東北から九州まで本当に大変。

さて試合開始。福島の監督は田坂和昭。大分での采配を見て以来「やるやんけ」と思っており(→2011.7.31)、
J1昇格プレーオフでは試合終了間際に一瞬の隙を衝いて勝ちきったサッカーに圧倒されたこともある(→2012.11.23)。
大分解任直後に清水で大榎体制の尻拭いをしてからどうにも勝ち運のない人扱いが定着してしまっている印象だが、
果たして福島ユナイテッドでその評判を覆すことができるか。チームとしては長野だけど、監督としては田坂監督、
正直どちらにも肩入れする要素があって困る。でもまあ順位的に長野はここじゃ困るから6:4で長野を応援する。

  
L: いかにも国体で整備した地方の陸上競技場でのゲーム、という感じ。先週の盛岡とはまた異なる価値観である。
C: 長野のWF萬代のヘディングシュートをGK堀田が弾き出す。  R: 前半終了間際、MF有永(左端)のシュートで長野が先制。

前半は両チームとも相手の動向を探りながらも、チャンスとみると一気に圧力をかける、そんな感触である。
FKやCKを軸に得点を狙っていく感じは現実的なサッカーだ。派手ではないが隙をみせない、玄人好みな試合に思える。
じっとりとした展開のまま前半が終わるかと思ったら、終了間際に長野が先制。中途半端な球筋のCKからボールがこぼれ、
そのスペースに走り込んだ有永が蹴り込んだ。これ、チームとして狙ったプレーならそうとうすごいが、偶然っぽいなあ。
そして後半、今度は開始直後に福島が同点に追いつく。長野のクリアミスが連続したところをFW樋口が蹴り込んだ。
長野としては間抜け極まりない失点。これでJ2昇格とか言っていたら上位陣に笑われてしまいそうなレヴェルである。
やはり長野は個の力でなんとかしようとしているように見える。チーム全体でのヴィジョンがどうにも見えてこない。
そして福島はその長野の個に結局防ぎ切られてしまった感じ。明確に長野を上回るだけの戦術は見えなかったなあ。
どちらもなんとなく形になっているサッカーをやっているが、スペシャルなものはない。そこにJ3レヴェルのミスが出て、
勝ちきれなかった、そんな試合である。スコアとしては1-1だが、失点したことと最少限の得点が両軍の低調さの証だ。

  
L: 後半開始直後、福島がFW樋口のゴールで同点に追いつく。  C: FW勝又を投入して勝負に出る長野。しかしゴールが遠い。
R: 圧力をかける長野と必死で守る福島。ゲームは同点のまま終了。長野はすっかり地位が相対的に低下してしまったなあ。

午後になって急に曇り空となり、冴えない試合内容もあって、なんだか重苦しい雰囲気でスタジアムを後にする。
福島駅まで戻ると、福島交通飯坂線で終点まで行ってしまう。本日の最後は飯坂温泉に浸かって締めるのだ。
さすがに日本は世界トップレヴェルの温泉大国だけあり、けっこうあちこちの県庁所在地でも温泉が湧いている。
福島市の場合には飯坂電車で気軽に行けるのがありがたい。駅から西へと歩いていくと300mほどで温泉街となる。

  
L: 飯坂温泉駅。県庁所在地なのに電車で気軽にアクセスできる温泉があるのはうれしい。日本武尊も浸かったとか。
C: 国登録有形文化財のなかむらや旅館。表の「江戸館」は江戸末期の築で、1896(明治29)年築の「明治館」もある。
R: 鯖湖神社とお湯かけ薬師如来。奥にある桶の塔のインパクトがすごい。昼に来てじっくり見てまわりたかったなあ……。

共同浴場は9つあるそうだが、迷わず鯖湖湯(さばこゆ)にお邪魔する。日本最古の木造建築共同浴場として知られ、
現在の建物は1993年に改築されたものだが、往時の姿をきちんと再現しているとのこと。さすがに圧倒的な迫力がある。
ちなみに「鯖湖」という奇妙な名前は、西行がこの湯を訪れ詠んだ歌に登場する「左波子(さわこ)」から転じたもの。
いざお湯に浸かると、めっちゃ熱かったです! いいお湯だったけど! めっちゃ熱かったです! いいお湯だったけど!

 
L: 鯖湖湯。夕暮れ時に訪れたのでよけいに幻想的。  R: 向かいの石段に上って撮影。フォトジェニックだなあ。

大いに満足して福島駅まで戻ると、晩メシをいただいてから本日の宿にチェックイン。しかしまあなんというか、
明らかにえっちくてまいったぜ。駅に近くて便利だと思ったら繁華街の真ん中で、広島とか富山でも経験あるけどさ、
今まででいちばん明らかに部屋がえっちぃ。安く泊まれるのはありがたいけどね。面白かったんで記念に撮っちゃったよ。

 マサルさん、これえっちぃよね? 明らかにえっちぃよね?

飯坂温泉のお湯でふやけているので、特に悶々とすることもなくすぐに就寝。明日も存分に福島県を楽しむぜ!


2018.9.15 (Sat.)

本日は学校でソフトバレー大会。ソフトバレエではなくソフトバレー。やわらかボールでバレーボール。
(ソフトバレエの方についても、いつか書かなくちゃいけないなあ。名前がいいよな、ソフトバレエ。)
ふつうのバレーボールと同じ要領でボールを扱っても思いどおりにいかない。サーヴの時点で悪戦苦闘。ダメだこりゃ。
生徒たちは部活単位のチームで参加するも、本気のPTA(というか保護者)チームの前に死屍累々なのであった。以上。


2018.9.14 (Fri.)

テスト2日目ということで、僕は鎌倉遠足の下見に出かけるのであった。本来ならレンタサイクルで走りまわるのだが、
雨なので非常につらい下見となるのであった。天気さえよければ極限まであちこち見てまわりたかったのに……。

とはいえ、まずは仕事をきちんとこなさなければならないのだ。鎌倉に着くとすぐに市役所へ行って地図をもらう。
学年全員分なのでけっこうかさばるが、雨に濡れないようにしなければならない。後でコインロッカーに突っ込んだ。
さらに分庁舎にある防災方面のセクションで、津波のハザードマップと避難関連のマップを確保。仕事しとるねえ。

お次は小町通り経由で鶴岡八幡宮へ。今回は鶴岡八幡宮のみをチェックポイントとするので、その場所を探す。
あとはトイレ等の確認。さらにせっかくなので国宝館にお邪魔して展示内容を押さえておく。右半分が仏像で、
左半分が国宝の特別展。硯箱と太刀、弓矢が国宝ということで、これがさすがの迫力。これは見ないと損だろう。
おやつの許可よりも国宝館見学の義務化をすべきだった、と後悔。修学旅行のことを考えてもそうすべきだった……。

いったん小町通りに戻って早めのメシ。とりあえず生しらす丼を食っておけばいいだろうということでいただくと、
八幡宮東側のシブいお寺を歩いてまわる。距離感をつかんでおきたかったのと、純粋に久々に行ってみたかったのと。
前回訪れたのがなんと8年前ということで(→2010.11.27)、きちんと参拝するのはけっこう久しぶりなのだ。

  
L: 杉本寺。やはりいいものはいいのだ。  C: 苔の石段。  R: 本堂。鎌倉は少し湿っているくらいがしっくりくる。

続いて報国寺。雨でもやはり庭園は人気だったが、隙をみて、ひと気のない写真を撮影してみる。
雨でよけいに侘び寂びが強調されている感じだ。それにしても報国寺に御守がないのは残念だった。

  
L: 庭園のスタート部分。奥の明かりは抹茶がいただける休耕庵。  C, R: これは侘び寂びそのもの。

  
L: 竹林を抜けるとこんな感じ。  C: 奥のやぐら。8年前(→2010.11.27)もこの構図で撮ったな。  R: 枯山水庭園。

さらに浄妙寺(→2010.11.27)にも行く。全体的にきれいだが、強烈な特徴があるわけではないなあとあらためて実感。
面白かったのは、淡島明神の御守があること(女性向けと英語の説明もあった)。どういう経緯で祀ったのか不思議だ。

  
L: 浄妙寺の入口。  C: 境内を行く。  R: 奥にある喜泉庵の庭園を覗き込む。抹茶をいただけば正面から見放題だが。

あとは南東部の拝観無料のお寺を巡回する。見学予定に組み込んでいる班があるのだが、見所ないなあと再確認。
この辺りで時間を消費するなら鎌倉国宝館に行ってほしいものだが。小町通りでおやつとか許可しなきゃよかった。
最後に八雲神社で御守を頂戴すると、市役所前まで戻って例の横山隆一おしゃれスタバ(→2010.12.11)で一休み。
こないだの日記で「遊びじゃねえんだよ!」とキレていた私ですが(→2018.9.5)、クソまじめに仕事して、
本当に疲れたの。ここは素直におやつを摂取させていただきたい。生徒も同じようにがんばるなら許せるがなあ、と。

 フクちゃんリスペクトがきちんと貫かれているのである。すげえな。

以上で鎌倉遠足の下見は終了である。当日きちんと晴れるといいのだが。自他ともに日頃の行いを良くしていかないと。


2018.9.13 (Thu.)

テストの採点を終えて、森美術館でやっている『建築の日本展』に行ってきたよ。

結論から言っちゃうと、対象が広いだけに実に散漫な内容だった。これはしょうがないことなんだけどね。
全体の展示は日本建築のキーワードと思しき9つのセクションに分けられているのだが、必然性は感じない。
はっきり言って、紹介したい建築がまず先にあって、それらを並べていく根拠は後付けではないかと思う。
外国人の来場者がいっぱいいて、そういう人たちが日本建築の構造をなんとなくつかんだ気になるにはいいだろう。
しかし現在進行形の建築家も出てくる以上、彼らへの配慮がまず第一義としてあるように感じた。建築史的ではない。
これを言い換えると、モダニズムを特別視しないでポストモダンにつなげる展示をやろうとしている感じがする。
日本のモダニズム建築は世界的に見ても頂点を極めきった存在感を放っており、これは建築史的に絶対に無視できない。
この完成されてしまったモダニズムへのアンチテーゼを東工大辺りがやりだして建築の価値観が変化した歴史があり、
(それについて住宅建築のジャンルからはっきり描き出そうとしていたのが、昨年の東京国立近代美術館でやっていた、
 『日本の家 1945年以降の建築と暮らし』だろう。東工大関係者の建築は見るに堪えなかった。→2017.10.18
良く言えば、この価値観の断絶を肯定的に乗り越えようという展示だと言える。悪く言えば、建築史ごと無視している。

正直なところ、この断絶の大きさをどう捉えるかで、現在進行形の建築に対する態度が決まるように思うのである。
で、森ビル的には現在進行形の建築を否定することなどありえないから、断絶を9種類のレトリックで隠そうとする。
その結果、確かに日本建築を表面的に舐めることはできる展示になっているが、それだけ。深みにはまるで欠けている。
だから建築というよりは、商品のカタログのような感触である。見てくれのいいものを揃えた、いいとこどり。
すごく雰囲気の軽い品評会のような展示だった。しかしそれは、(皮肉的にだが)建築の真実をまた衝いてもいる。
現代社会は高度な消費社会である。この社会においては、建築も消費の対象でしかない。建築様式は商品化され、
名建築は引用元のカタログとなって並ぶ。さっき冒頭で内容を「散漫」と書いたが、散漫ということは体系の否定だ。
建築史という体系の否定、その結果である。だから消費社会化を示しているという意味では、絶妙な内容でもある。
これはまた冒頭で書いたように、しょうがないことなのだ。建築とは本質的に、社会に寄り添うものだから。
歴史という邪魔な重みを忘れて、軽い素材で消費社会のスピードに負けない軽やかさでつくる。それが現代だ。
展示を見ていて思ったのは、現在進行形の建築は、意識高い系のみなさんの所有物だな、ということ。
もっともらしい理由づけの言葉が並び、(モダニズムから見れば)奇を衒いつつ、新しい形態が市場に放たれる。
おそらくモダニズムはもはや、現在進行形の建築家から見れば、意味をなさないカテゴリーとなっているのだろう。
意味はすべて、いま建設中の建築に、いま設計中の図面の中にしかない。竣工したその時点で「古いもの」となる。
これからの建築家たちは、延々とその繰り返しをやっていくことになるのだ。ついていける人は意識の高い人。
次の消費をより強く喚起できる建築が評価される。「売る建築」が「売れる建築」となる。今はそういう時代なのだ。
以上述べたような建築の現在地が生々しく陳列されている、という点では、なかなか正直な展示となっていた。

僕が老荘思想を引きずっているモダニズム大好き意識低いっ子であるせいで、皮肉っぽく響いてしまっていると思う。
しかし「散漫」であるおかげで、日本建築をめぐる切れ味鋭い輝きを持った部分をけっこう多く知ることができて、
大きな収穫を感じた箇所はけっこう多かった。以下、箇条書きっぽくその箇所を挙げていってみたい。
まず磯崎新の渋谷計画。磯崎というとブサイクな建築ばかりのイメージだったが、これは素直に美しくて驚いた。
また菊竹清訓の東光園(→2013.8.20)は、独特な構造をわかりやすく示した模型があって感動した。
あらためて振り返ってみると、メタボリズムはとんでもない可能性とエネルギーを持った建築運動だったと思う。
二川幸夫の『日本の民家』も視点が鋭い。20歳そこそこでこんなことができちゃうんだからイヤんなっちゃう。
行列に並んで待庵の再現模型にも入ってみた。お茶会の記憶を頼りに(→2011.11.20)それっぽい動作をしてみたが、
何をやるにもピッタリとギリギリなサイズ。さすが利休、これは密談が進む広さだなあと大いに感心したのであった。
そして今回、いちばん勉強になったのが、寝殿造の模型である。平面図をそのまま模型に起こしたものだが、
よく考えたら絵巻物や部屋の断面を見ることはあっても、上から寝殿造を丸ごと覗き込んだことなどなかったのだ。
見ると、中心の母屋を庇で囲ったものがひとつのユニットとして成立し、それが横へと二次元的に拡張していく。
つまり独立したそれぞれのユニットが、渡り廊下を通して次々とつながっていくような感じになっているのである。
城などにある御殿の感覚が、ようやくつかめた感じがした。限られた土地で垂直に階を増やす現代と真逆の発想だ。
もうひとつ圧倒されたのが、丹下健三自邸の巨大な模型。ピロティで持ち上げているのがさっきの母屋と庇という感じ。
最後に伊東忠太の手帳。何から何まで精密に描かれており、ずっと見ていられるほどの美しさなのだ。すごかった。

というわけで、レヴューを書いているこっちも散漫ながら、展示を見て考えたことはぜんぶ出しきったぜよ。


2018.9.12 (Wed.)

テストをどうにかつくり終えたぜ。報告したら英語科のほかの先生から拍手を頂戴しちゃったよ。毎回ホントに大変。


2018.9.11 (Tue.)

テスト用の長文に苦労する。2年生の長文は制約が多くて本当に大変なのだ。元ネタになるものがほとんどないのに、
文の長さをある程度は確保しないといけない。おかげで自力でつくらなくちゃいけない部分がけっこう出てくるのだ。
この作業がある分だけ、絶対に英語は他教科よりも手間がかかる。一刻も早く英語から離れたいと思いつつ粘る。


2018.9.10 (Mon.)

旅行の疲れが抜けていないのか、今日はとにかく体が重くて困った。月曜からコレは、本当にマズい。


2018.9.9 (Sun.)

岩手県をテーマとする旅行の2日目、朝からしっかりと雨でションボリである。旅先の雨は本当に切ない。
今日は後ろにサッカー観戦の予定が入っているので、晴れでも雨でも行動パターンに変わりはない。
着実にやるべきことをやっていくだけなのだ。というわけで、盛岡駅前の9番乗り場からバスに乗り込む。

20分ちょっと揺られてやってきたのは滝沢市役所。2014年に市制施行した、岩手県で最も新しい市である。
では滝沢市になる前はどうだったのかというと、なんと人口5万人以上なのに村という状態を10年以上やっていた。
盛岡のベッドタウンなんだけど、盛岡と合併したくない。「村」というのどかなイメージを維持したい。
そんな理由で日本一人口の多い村をやっていたわけである。チャグチャグ馬コをやっていたわけである。
しかし「ま、市になってもいいんじゃね?」という機運が高まり市制施行を決断。村からいきなり市になった。

  
L: 県道16号越しに眺める滝沢市役所。妙に消防関係の車両が目立っているが、何かあるのだろうか?
C: 敷地内に入り南東から撮影。雨が降っているのはしょうがないけど悔しい。  R: 正面から見たところ。

さて滝沢市役所にやってきたが、当然ながらこちらはもともと滝沢村役場だった。1982年の竣工である。
市制施行には人口だけでなくいくつか要件があるが、滝沢でいちばん問題になったのは「市街地が存在しないこと」。
かつて東北本線だったいわて銀河鉄道には滝沢駅があるが、のんびりした住宅が点在して昨日の好摩と似たり寄ったり。
広大な平地にニュータウンで人口を増やしていったので、鉄道駅なんて通過点にすぎず、都市化とは無関係なのだ。
だから市役所(村役場)も駅から遠く離れた山裾につくられている。バスじゃないと来れない場所なのである。

  
L: 北東から見たところ。  C: 北側の側面。  R: 背面。北西寄りで見たところ。

滝沢市ではこの市役所周辺を中心市街地として開発していく方針のようだが、正直難しそうに思う。
人口は盛岡市の住宅地に接する部分に偏っているし、岩手県立大学や盛岡大学という武器を抱えるが市域の北部だ。
役場がこの位置で成立しているのは盛岡の周縁だからであって、ぶっちゃけ役場は別の場所でも問題なかったのだ。
この空間的な「必然性のなさ」をどのように理由づけて変化させるのか、センスが大いに問われることになるだろう。

  
L: 西から見た背面。  C: 南西から背面と側面。  R: 南側の側面。手前にあるのが滝沢市役所前のバス停。

すでに市役所周辺の市街地化計画は進んでおり、市役所の向かいにはビッグルーフ滝沢という施設が建てられている。
図書館や観光などの交流拠点複合施設という典型的なパターンで、「みんなでつくるふれあいの大屋根」がコンセプト。
天気が悪いこともあってどんな建物なのかイマイチつかめなかったが、逆を言うとその程度という気がしないでもない。
贅沢に広い面積でつくったが、中身が詰まっていない感じ。せっかく用意された場だ、市民がどう利用するかが重要。

  
L: ビッグルーフ滝沢。2016年竣工、設計は三菱地所設計。もともとここにあった村立図書館を建て替えて整備した。
C: 北側に出ている部分が観光案内所や特産品売り場。  R: 北東から見る。図書館は向かって左側となる。

いったん盛岡駅に戻ると、今度は別のバスで揺られること30分。やってきたのは小岩井農場である。
約3000haの面積を誇る日本最大の民間農場で、そのうち40haが「まきば園」として観光エリアとなっている。
田沢湖線の小岩井駅からだと、6km近く歩くことになるので要注意なのだ。広大さを体感するのもいいかもしれんが。

  
L: 小岩井農場まきば園の入口。  C: 中に入る。  R: 西側。右がミルク館で、左はバーベキュー食堂。

「小岩井」とは小野義眞・岩崎彌之助・井上勝の3人の名字からつくられた名前である。今もしっかり三菱系。
鉄道局長官だった井上が岩手山麓の不毛の大地に大農場をつくりたい、と岩崎家に相談して創業したのだ。

  
L: 南側の山麓館農場レストラン・ 売店。  C: 東側の牧場館ジンギスカン食堂。  R: トラクターバス「100年の森号」。

さて小岩井農場にやってきた目的は、昨年に国指定重要文化財となった施設を見るためだ。その数、なんと21棟。
天気が本当に憎たらしい。見学バスツアーに申し込み、いざ出発。まずバスは一気に南下して、下丸地区へ。
最初は1903(明治36)年築の本部事務所から。しかし車窓からの見学だったのでうまく写真に撮れず。残念である。
中丸地区へ移動すると、1916(大正5)年の四階(しかい)倉庫が圧倒的な存在感だ。今も1階を使っているそうだが、
これだけの建物がそのまま残っているとは驚きである。三菱の財力できちんとしたものを建てたってことなんだなあ。

  
L: 1898(明治31)年以前に建てられている本部第二倉庫。  C: 中丸地区の旧耕耘部倉庫。1905(明治38)年の築。
R: 圧倒的な存在感の四階倉庫。飼料用穀物を乾燥・貯蔵した倉庫で、内部にはエレヴェーターが設置されているそうだ。

  
L: 左が玉蜀黍小屋二、右が玉蜀黍小屋一。家畜飼料用トウモロコシの乾燥・貯蔵庫。「玉蜀黍」はトウモロコシと読みます。
C: 上丸地区に入って天然冷蔵庫。1905(明治38)年に小山を掘ってレンガで蓋して建設。1952年まで使っていたそうだ。
R: 小岩井農場資料館。雨でよくわからないが、こちらは重要文化財ではない模様。本部事務所を模してつくったのか。

上丸地区はまきば園から県道を挟んだ向かいの位置にあり、ここではバスを降りて自慢の牛舎を見学できる。
ガイドさんの話によると、この牛舎にいる乳牛たちは小岩井農場におけるエリート中のエリートたちとのこと。
彼女たちの最高級の牛乳でソフトクリームがつくられているそうだ。その説明を聞いてどうしても気になって、
「なぜ最高級の牛乳をほかの乳製品ではなくソフトクリームにするんですか? ソフトクリームである意味は何ですか?」
と質問したのだが、意図を理解してもらえず「最高級の牛乳を使っています」としか答えてくれなかった。がっくり。
ソフトクリームは原料とする牛乳の質で最も差が出る乳製品、ということなのか。まあみんな絶対ここで食うもんな。

  
L: 一号牛舎。1934年築。岩崎久彌が「30年後でも恥ずかしくない牛舎を」と、当時最新鋭のスタンチョン式で建てたそうだ。
C: 角度を変えて眺める。  R: 中を拝見。礼儀正しく座るエリートの皆様。牡牛的にはアイドルが並んでいるようなもんか。

  
L: どーもお邪魔してます。  C: 一号サイロ・二号サイロ。1907(明治40)年と翌年の築で、現存する日本最古のサイロだと。
R: 四号牛舎。1908(明治41)年の築。1987年に搾乳専用に改築したそうだ。晴れた日には手前のスペースで牛が遊ぶのかねえ。

テンポよく見てまわってバスツアーは終了。あいにくの天気だったが、きちんと魅力は味わえたのでそこは満足。
いいかげん腹が減ったので、レストランでランチをいただくことにした。せっかくなのでステーキ丼じゃ!

 右上にある焼チーズがまた旨い。

メシを食って落ち着いたところで、自慢の乳製品をしっかりと味わうことにする。ミルク館でまずは低温殺菌牛乳から。
蓋を取ったら乳脂肪がたっぷり付いており、惚れ惚れする濃さである。そしてもちろんエリート乳牛たちの生乳による、
ソフトクリームもいただくのだ。牛乳もソフトクリームも、夢中でいただくと一瞬でなくなってしまうのが悲しい。
日常的とは言わないが、定期的にこれを食えるくらいがいいのではないか。そんな贅沢をしてみたいものである。

  
L: 低温殺菌牛乳・小岩井農場育ち。  C: 蓋を取ったら脂肪分がこの厚み。これはさすがにすごいぜ。
R: エリート乳牛たちによるソフトクリームもいただいた。夢中で舐めているうちに消えてしまう残酷さよ。

盛岡駅前に戻ってきたのが13時過ぎ。雨はおさまる気配がなく、切ないコンディションでのサッカー観戦になりそうだ。
スタジアム行きのバスは駅の西口から出るので、そっちへ移動。地下をけっこう延々と歩いてマリオスの下を抜けて、
階段を上っていくと西口バスターミナルである。ターミナルの東西を間違えてしまうと悲惨なことになりそうだ。

 グルージャ仕様のバスに乗る。スタジアムまでは20分ほど。

盛岡の中心市街地に背を向けて幹線道路をひたすら南へ。その幹線道路が終わって農地を抜けたところがスタジアム。
正式名は盛岡南公園球技場で、岩手銀行が取得したネーミングライツにより「いわぎんスタジアム」と呼ばれている。
秋田の八橋(→2016.7.31)や、かつての南長野(→2012.10.14)を思わせる、いかにもJ3らしい規模の球技場である。

  
L: 盛岡南公園球技場(いわぎんスタジアム)。なかなか独特な形状の入口となっている理由は後述。
C: 恒例のスタジアム一周を開始。選手名の横断幕が目隠し代わりか。クラブのカラーが白と黒なので地味だなあ。
R: いかにも公園の中のスタジアムといった感じ。スタジアムが主体でなく、公園の方が主体という関係だ。

恒例の初訪問スタジアム一周を始めるが、雨の中はなかなかつらい。それでもがんばって歩いていると、
3/4周したところでデジャヴ。この光景、さっきも見たような……。そしてスタジアムの短辺はさらにまだ続いている。

  
L: バックスタンド入口。  C: 駐車場。ボッコボコで水たまりができとる。  R: あれ、この光景ってデジャヴ?

なるほど、盛岡南公園球技場はAグラウンドとBグラウンド、2つのフィールドが直接くっついている構造なのだ。
メインスタンドをその真ん中につくることで実に合理的に整備している。J3レヴェルでこうやっているのは初めて見た。
まるでローマ神話のヤヌスのごとし。日本初のリャンメン校長ならぬJリーグ初のリャンメンスタジアム誕生だー!!

  
L: 平面図。2つのフィールドの中央にメインスタジアムをつくるという合理性をこの規模でやるのは珍しいのでは。
C: こちらは本日使用しない方のBグラウンド。なお、東側のAグラウンドと西側のBグラウンドに格差はない模様。
R: 一周を終えてメインスタジアムに入ると選手が練習中。トラックのない球技場なので観戦しやすいのはよい。

さて、今回のグルージャ盛岡の試合観戦で最も楽しみにしていたのは……そう、マスコットだ!
正直言って、私はJリーグ全クラブの中で、盛岡のマスコットがいちばん好きだ。いや、もうこりゃ圧倒的でしょう。
昨年3月にグルージャ盛岡のマスコット候補4作品が発表された際、Jリーグファン界隈は大いにザワついたのであった。
というのも、4作品のうち3つが無難な「鶴×男の子」のデザインだったのに対し、最後の4番目が明らかに異形だったから。
「グルージャ」とはスペイン語で鶴のこと。盛岡藩主であった南部家の家紋「向鶴」から選ばれた名称なのだが、
だからといってまさか、折り鶴をそのままマスコットの候補にするとは! んでもってこいつが当選した衝撃といったら!

  
L: グルージャ盛岡のマスコット・キヅール(祈鶴)。2位にダブルスコアの大差をつけて当選したのであった。
C: 横から見たところ。クラウドファンディングで500万円を集めて立体化。実物を見るとやはり衝撃的である。
R: 翼を広げて本日の対戦相手・鳥取のサポーターに挨拶するキヅール。早くJ2やJ1でもその勇姿を見せつけてほしい。

日本にはゆるキャラ文化が定着しており(→2013.9.30)、そもそもJリーグとゆるキャラの相性がいいとはいえ、
さすがにこのデザインはすごい。新たな可能性を開いてみせたね。グッズ売り場でキヅール人形を買えて大満足である。

  
L: 今度はホームの盛岡サポーターのもとへ。  C: キックオフ前、選手とともに記念撮影に収まるキヅール。違和感ないなあ。
R: 撤退するときはちゃんと翼をたたむのね。ちなみに好きな芸能人は笑福亭鶴瓶、次が仁鶴。池脇千鶴と鶴田真由も好きだと。

試合開始である。ピッチではあちこちで水しぶきが発生するような状況だったが、それでもやるのがサッカーなのだ。
選手たちは序盤からけっこう激しく動きまわって、いい意味でJ3らしい一生懸命さが感じられる展開となった。
が、やはり思いどおりのプレーはできないようで、前半はスコアレスドローで終了。ピッチに適応するための45分だった。

  
L: 雨でもやるのがサッカー。序盤からなかなか激しいやりとりとなる。  C: シュートの威力も落ちるほど水含みのピッチ。
R: 6月から鳥取の監督を務める須藤大輔。かつて甲府でも活躍したストライカーで、「俺たちの須藤」と呼ばれていた存在。

ハーフタイムはメインスタンドから外に出てスタジアムグルメをいただく。キッチンカーでじゃじゃ麺の店があり、
やっぱり盛岡に来たからには食っておかんとな、と即決。麺を食べ終わってちゃんと鶏蛋湯(チータンタン)できる。
さすがなのだ。今回の旅行は天気が悪くて地味にフラストレーションが溜まっているが、ちょっと救われたね。

  
L: じゃじゃ麺をいただく。  C: 麺を食べ終わってからきちんと鶏蛋湯(→2008.9.12)できるのがさすがだ。
R: 後半に入ってさらに試合の強度が上がる感じに。このままスコアレスで終わるとは思えない熱い試合だ。

後半に入ると両チームともこの状況に慣れたのか、またハーフタイムでの作戦練り直しが功を奏したのか、
試合は大きく動きだす。54分、FW谷口のシュートで盛岡が先制。かなり遠めからシュートを放ったのだが、
撃つとは思っていなかったので写真を撮れなかった。これが相手DFに当たってコースが変わり、先制のゴール。
確かに雨ということで、ふだんの試合よりも不確定要素は多い。より積極性を見せた方が有利になるわけだ。

すると鳥取も果敢に攻め込む。雨の影響もあってか盛岡DFがクリアミスというかクリアしきれずこぼれ球が発生。
これをMF可児がシュートしたのだが、一瞬の判断で、内に巻いてサイドネットを揺らすという華麗さだった。
このコンディションでそんなシュートが撃てるのか、と思う一発で、J3もレヴェルが上がっているなあと実感。

  
L: 鳥取が可児(7番)のシュートで同点に追いつく。DFの外からサイドネットへ突き刺すファインゴール。GK取れないよ。
C: しかしその1分後に盛岡が鈴木(右端)のシュートで突き放す。足元よくないはずなのに、横に運んでDFをはずしてシュート。
R: さらに谷口が本日2点目となるシュートを決めてリードを広げる。好調の谷口は非常に印象に残る活躍ぶりをみせた。

追いつかれた盛岡だが、谷口の1点目の影響もあるのかペナルティエリアの外からでも積極的にシュートを放つ。
失点からわずか1分後の鈴木のゴールは、DFをかわしたうえでゴールの隅にきちんと撃っており、実にお見事。
さらに盛岡は右からのクロスに谷口が右足で合わせて3点目。コンディションは同じなのに前半が嘘のような展開だ。

 スコアボードがくるっと回転する形式。牧歌的である。

しかしこのまま黙っている鳥取ではない。前節・相模原戦ではクラブ史上最多の7ゴールを奪って快勝しており、
その勢いを落としてしまうわけにはいかないのだ。アウトレンジ志向の盛岡に対し、鳥取はしっかりゴール前に入り込む。
1点目もそうだったが、この天候ではサイドからのクロスに対応した相手ディフェンスがミスする可能性が高いわけだ。
そうなるとゴール前に人がいる分、セカンドチャンスをモノにできる確率が高まる。鳥取の10番・加藤はそれをわかって、
盛岡ゴール前での混戦からわずか5分で2点を奪ってみせた。これこそサッカー選手のセンスなんだろうな、と思わせる。

  
L: 盛岡ゴールに迫る鳥取。右からのクロスに合わせたシュートは盛岡GKがブロック。  C: しかし10番の加藤が詰めて1点返す。
R: 4分後、再び攻める鳥取。ゴール前の空いているスペースにボールが出て、加藤がこの直後すべり込んで決めた。本日2点目。

盛岡にしてみれば守備陣の対応が遅れて……という感覚だろうが、この雨の状況を考えると、それもちょっと酷な話だ。
どちらかというと、相手がミスするまで攻撃の手を緩めず、10番を中心にセンスを発揮した鳥取を褒めるべきだと思う。
とにかく両チームとも持ち味をしっかり出した好ゲームとなった。激しい内容なのに後半はカードが1枚も出ていないし。

  
L,C,R: 3-3とオープンな展開となったことで、最後の最後までゴールを狙う熱い内容に。まあ何よりケガ人が出なくてよかった。

雨でスリッピーになったことで、人よりボールが速い、その差がより強くなってゴールが量産された試合だった。
しかし内容は決してだらしないものではなかった。むしろ、どのシュートも決まるべくして決まった感じである。
あの雨の中でこれだけハイレヴェルに動けるかというと、ふつうの人は絶対にそうはいかない。サッカー選手ってすごい。

 選手をねぎらう鳥取サポーター。選手も偉いが盛岡に来た皆さんも偉い。

試合終了後、なんとメインスタンドの通路でインタヴュー。いくらスタジアムの構造が特殊だからとはいえ、
雨だとはいえ、選手と監督が全員出てきてサポーターと向かい合ってやるか? こんな経験は初めてである。
しかも親切な盛岡サポの人がどうぞどうぞと僕を前の方に押し出しちゃってくれる。僕みたいな一見さんよりも、
盛岡サポの人が前に出た方がいいのに。これ、毎回やっているとしたらすごい。やってそうな雰囲気だったけど。

  
L: メインスタンド通路に選手・監督が現れてインタヴュー開始。  C: 答える菊池監督。毎回これやってんのかな。
R: MIPは2点目を決めたDF鈴木。おめでとうございます。オレ的にはやっぱり2点決めたFW谷口が印象的でございました。

最後はサポーターとタッチしつつ選手が退場。近いなあ。J3とはいえこれはすげえなあと圧倒されるのであった。
あと禁止されているのか、盛岡の選手たちは茶髪やヒゲがゼロ。みんな揃って素朴な兄ちゃんという感じである。
岩手県の県民性を配慮してそうなっているのか。でもおかげで、どの選手もみんなものすごくとっつきやすい印象。
チャラチャラしている感じが一切なく、目の前のサッカーに集中している印象は受けるよね。いいと思います。

 盛岡は選手を最も身近に感じられるクラブかもしれない。

雨は大変だったが、非常にいい内容のサッカーを見られて大満足である。盛岡駅まで戻ると、晩ご飯の時間なのだ。
帰りの新幹線の都合もあって、今日も駅前でメシ。となるとやっぱり冷麺なのだ。有名店の盛楼閣にお邪魔する。
食べてみたら昨日のぴょんぴょん舎とは違う味なのであった。これはあちこち食べ比べしてみたいなあと思う。

 要素は同じでも店によってしっかり味が違うのが面白い。


そんなことを思いつつ新幹線やまびこで一気に東京へ。岩手県で残すは遠野市のみ。早く押さえたいなあ。


2018.9.8 (Sat.)

旅行である。先月後半には宮城県を重点的に旅行したが(→2018.8.172018.8.182018.8.192018.8.20)、
今週末は岩手県がテーマなのだ。ちなみに今月後半には福島県を予定。いまいち弱い東北を押さえていく計画だ。

でもスタートは八戸。4年前と同じく八戸駅でバスを降りると(→2014.5.3)、まずはIGRホリデーフリーきっぷを確保。
そして目指すは櫛引八幡宮である。前回の参拝で御守を1体だけ頂戴しているが、まだまだ種類があるので再訪問。
しかしその前回のログで書いたように櫛引八幡宮は距離があり(駅から片道4km)、しかもバスの本数が少ないのだ。
だからといってすべて徒歩だと大変なので、とりあえず田面木までバスに揺られて国道104号を地道に歩くことにした。

  
L: 櫛引八幡宮の境内入口と表参道。表参道は南側からで、国道側は裏参道となる。  C: 荘厳な雰囲気。  R: 境内。

天気がよければ意欲的に写真を撮り直したのだが、あいにくの曇り空なので比較的気軽にシャッターを切っていく。
地面はまだ濡れているところもあり、雨がやんだだけマシだと思う。旅先での雨は本当に気分が落ちますからなあ。

  
L: 拝殿。やっぱり幅広である。  C: 角度を変えて眺める。  R: 今回は長所(旧拝殿)を正面から撮影できた。

八戸駅行きのバスは時刻が早く、授与所が開くのを待ったら乗れそうにない。4kmランニングの覚悟を決めていたが、
神職さんが早めに授与所を開けてくださった。これは本当にありがたい。おかげで楽に駅まで戻ることができた。

  
L: 河童の像。地元で河童はメドツと呼ばれており、左甚五郎がミスした柱を川に捨てたらメドツになったそうな。
C: 明治記念館。やはりこのアングルになるなあ。  R: 櫛引八幡宮は個性的な御守が多い。再訪問できてよかった。

なぜ今回いきなり時間にうるさく行動をしているのかというと、次の目的地に向かう手段が限られているからだ。
ローカル線の本数が少なく、逃すと全席指定の新幹線に乗らないといけなくなる。やはりそれはできれば避けたい。
目時というオモシロ駅名にしびれつつ県境を越えて、テンションを上げながら岩手県に入りたいじゃないか。
まあそんなわけで、無事に青い森鉄道からいわて銀河鉄道へと切り替わって二戸駅に到着したのであった。

  
L: 二戸駅東口。2002年に東北新幹線が八戸まで延伸したことでこの駅舎に。  C: 後で撮影した西口。
R: 西口にくっついているカシオペアメッセ・なにゃーと。観光案内所を併設する物産センターにホールがある。

先ほどの八戸も駅から中心市街地がクソ遠い街だったが、二戸もなかなかの遠さである。市役所まで2.5kmほど。
商店街はそこから先に延びている。実に面倒くさいが、途中に気になる場所もあるので、素直にがんばって歩く。
二戸駅前は馬淵川に向かう下り坂に沿って飲食店が点在しているが、そこから北に入ると枋(こぶ)ノ木神社。
参拝しようとしたら小さな境内では何やら作業中。社殿の中を覗き込んだらけっこう強烈なのであった。
詳しくは、公式サイトがあるので検索してください。二礼二拍手一礼したら、ぜひ祭りにも来てくださいと言われた。

  
L: ひっそりとした入口。  C: 枋ノ木神社。  R: 拝殿の中。金勢祭は二戸の誇る奇祭だそうだが、なるほど。

枋ノ木神社の余韻に浸りながら歩いていく。馬淵川の右岸は郊外型店舗が点在するが、どこかのんびりとした感じ。
しばらく行くと右手に呑香稲荷神社が現れるが、その道路を挟んだ反対側には昔ながらの雰囲気の小さな家がある。
「田中舘愛橘博士ゆかりの家」で、田中舘愛橘はここ二戸郡福岡の出身。戦時中の疎開を機にこの家を贈られ、
毎年夏に避暑で訪れたそうだ。田中舘愛橘は日本語のローマ字化にこだわった人なので、個人的には非常に印象が悪い。

  
L: 二戸駅前から馬淵川に向かう下り坂。新幹線の停車する駅ではあるものの、商店街というほどではない。
C: 馬淵川右岸の県道274号。街道沿い商店街の雰囲気に郊外型店舗が混じる。  R: 田中舘愛橘博士ゆかりの家。

では、呑香(とんこう)稲荷神社に参拝する。参道を進むと脇に茅葺きの建物。屋根の上にもうひとつ屋根があり、
大切に保存されているのがよくわかる。「槻蔭舎」というそうで、地元の有志がつくった学校・会輔社の学舎だ。
二戸市というよりは、この地域の中心たる「福岡(旧福岡町)」としてのアイデンティティをうかがわせる。

  
L: 呑香稲荷神社の境内入口。  C: 参道を行くと石段である。  R: その左手前に槻蔭舎。もともとは茶室らしい。

石段を上って呑香稲荷神社の社殿の前へ。幅が広くて神明造の要素が強く、稲荷神社という感じはそんなにない。
しかし周囲はどこか湿り気があり(個人的には苔のせいかとも思うが)、しっかり稲荷の空気が漂っている。
801(延暦20)年に出羽国一宮の大物忌神社を勧請したのが最初だそうで、九戸政実の乱を避けるべく津軽に移転。
その後、1682(天和2)年に現在地である九戸城松ノ丸跡に遷座した。なお、「呑香」とはアイヌ語由来らしく、
公式サイトでは「トン」=「輝く」、「コ」=「日」で、「日月のごとく照り輝く」という意味と説明されている。

  
L: 呑香稲荷神社の拝殿。  C: 横からみ見たところ。しっかり神明造。これだけ鰹木が目立っているのは珍しい。
R: 1763(宝暦13)年に第8代盛岡藩主・南部利雄が寄進したという六角神輿。賽銭箱の幅しか扉を開けていないの図。

参拝を終えて無事に御守を頂戴すると、県道をさらに北上。成田山を合図に東へ入ると、そこは九戸城址である。
そう、ここが九戸政実の乱の舞台なのだ。二戸市なのに九戸城というのがややこしいが、これは「九戸氏の城」だから。
いい機会なのでここで整理しておくと、後三年の役の後に糠部(ぬかのぶ)郡が置かれ、四門九戸の制が敷かれた。
一戸から九戸まで村を7つずつ所属させ、余った四方を東門・西門・南門・北門とした。青森の上北・下北は北門の名残。
「戸」は牧場のことであるらしく、糠部郡は名馬の産地として知られたそうだ。四戸以外、すべて地名として残っている。
四戸が消えたのは「死」に通じるからとか。1634(寛永11)年に糠部郡が分割されて二戸郡となり、市名はこれに由来。
以前は福岡町であり、1972年に金田一村と合併して二戸市が誕生したのである。では「福岡」の由来はというと、
九戸政実の乱が鎮圧された後に九戸城に入った南部信直が、縁起を担いで「福岡城」と名を改めたことによる。
しかし九戸氏を慕う領民は、頑なに城を「九戸城」と呼び続けた。それでここだけ今も九戸の名が残っているのだ。

  
L: 大手口。さりげなく入っていく感触。  C: 二の丸にて。右の一段高い箇所が本丸。  R: 露出している本丸の石垣。

「欧州情勢は複雑怪奇」というが、奥州情勢だってかなり複雑怪奇である。基本的には親戚だらけの殺し合い。
南部晴政の死後、息子の晴継が跡を継ぐがすぐに亡くなる。いとこの石川信直が南部家を継承するが、その信直こそ、
晴継を暗殺した犯人との説が根強い。この家督相続に納得いかないのが晴政の娘婿・九戸実親。九戸政実はその兄だ。
南部信直は奥州仕置で所領を安堵されるが、信直だけが大名として扱われ、それ以外は家臣扱いとなってしまった。
これで九戸政実は完全にブチ切れて決起。九戸軍は南部氏の中では精鋭部隊として知られていたそうで非常に強く、
信直は助けを求め、豊臣秀次を総大将とするオールスター軍が鎮圧にやってきた。これが九戸政実の乱の概要である。

  
L: 本丸虎口にて。  C: 本丸。けっこう広い。  R: 本丸の土手から空堀と二の丸を眺める。さっきの逆の構図ですな。

九戸政実は5千の兵で6万の大軍を相手に籠城するが、さすがに圧倒的な戦力差があり降伏、処刑されてしまった。
城に残った者は助命の約束だったにもかかわらず、撫で斬りにされてしまい、傷ついた大量の骨が発掘されている。
南部信直は本拠を三戸からこちらに移すが、領地が伊達政宗と隣り合うことになったため、さらに南の盛岡に城を築く。
現在の九戸城は九戸政実の乱の後に蒲生氏郷が改修したものなので、正確には「福岡城」と呼ぶべきかもしれない。
そして信直は盛岡城の完成を見ることなく、ここで亡くなっている。しかし今も「九戸城」と呼ばれている事実から、
九戸氏への同情や南部宗家・中央の権力者への反感の強さがうかがえる。名前が歴史を風化させないでいるのだ。

  
L: 西端から本丸全体を眺める。  C: 搦手側に下りたところ。なんとなく湿っぽい。  R: 東側の石沢館(外館)。

九戸城址を一周すると、そのまま北に出て白鳥川を越える。九戸城の対岸、小高いところにあるのが二戸市役所だ。
もともとは福岡町であり、城下町は市役所から北に延びている。つまりはここからが本格的な旧市街なのである。

  
L: 二戸市立福岡小学校(デザイン壊滅的……)から、まわり込んで二戸市役所へ。北から上ってアプローチする形である。
C: スロープの途中から見る。  R: エントランス付近をクローズアップ。上の方にある口紅の跡みたいなのは二戸市章。

二戸市役所の竣工は1970年なので、もともとは福岡町役場だったはずである。町役場としてはサイズを感じさせる。
ベージュを基調に白い部分があるが、質感が異なるのでこれは増築というか改修した部分であるような気がする。

  
L: いったん北東から全体を見る。  C: 南東にある別館(旧保健センター)。本庁舎と一緒に塗ったのかな。
R: そのまま左を向いて本庁舎を西から見たところ。こっち側の上の階に議会が入っているんじゃないかと思う。

昔ながらの役所の要素をしっかり残しており、玄関前には小規模ながらも植栽と車寄せがある。
建物前面の駐車場は広くとってあるが、後ろは非常に窮屈であり、木々の生い茂る崖となっている。
白鳥川や九戸城址に対してある程度はランドマーク的役割を意識しそうなものだが、一切そんなことはない。昭和だ。

  
L: 背面にまわり込むが、もう狭くて狭くて……。南から見たところ。  C: 南東側から。  R: 中はこんな感じ。

木々の中を抜けて下の県道に出る。今日は通りに提灯や紅白幕が目立っているが、どうやらお祭りのようだ。
それっぽい恰好の子どももいる。でもさっきの呑香稲荷神社はひと気がなかったし……。よくわからない。

 県道から二戸市役所を見ようとするが、こんな感じで完全にブロック。

さらに北上して九の市通り商店街を行く。九戸城に近い南から順に「上町」「中町」「下中町」「下町」と、
素直な名前がついている。通りは明らかに拡張されているが、昔ながらの建物が点在し、きちんと残っている。
街は祭りの真っ最中ということで飾り付けられており、華やいだ雰囲気である。ふだんは静かなんだろうな。

  
L: 南部美人。かなり営業をがんばっている模様。  C: 九の市通り商店街。  R: 阿部繁孝商店。鶏肉「あべどり」を扱う。

  
L: 手前が田中舘生花店&ガス店。2つの店舗を合体した造形がすごい。奥はヨネキチ不動産(旧米吉呉服店)。大正モダン。
C: 左が黒沢治助商店の店舗、右が倉庫。敷地内の建物はまとめて国登録有形文化財。  R: 昔ながらの商店街が続く。

商店街を軽く往復すると、馬淵川を渡って左岸に戻る。二戸市民文化会館との間にある河原には屋台が並んでおり、
旧福岡町域全体での祭りのようだ。 しかし各駅停車の旅をしている僕は、のんびりしていられないのである。
けっこう距離があるよなあと実感しつつ駅まで戻る。馬淵川左岸と線路の間は完全に、平成になって整備された空間。
途中には1999年竣工の二戸市シビックセンター。2階が福田繁雄デザイン館、3階が田中舘愛橘記念科学館となっている。
シビックセンターの手前は歩道がそのままオープンスペースとなっており、謎のポーズをとる田中舘愛橘像がある。

  
L: 馬淵川左岸。二戸シビックコア地区ということで整備された。懐かしいな、シビックコア。さいたま新都心でやったわ。
C: 二戸市シビックセンター手前、謎の田中舘愛橘像。  R: 二戸市シビックセンター。ちなみに1階は地域情報センター。

二戸を後にするとのんびり揺られて好摩で下車。ここから分岐する花輪線はJR。鹿角が懐かしい(→2014.6.29)。
もちろんここから花輪線に乗るわけだが、本数はいわて銀河鉄道に輪をかけて少ない。好摩で40分待ちである。
いちおう駅前を散歩してみたが、やっぱり何もないのであった。渋民村民の石川啄木がこの駅から上京した、
それしかネタがない駅なのである。ここでの40分はかなりキツかった。ヤマザキデイリーストアでおやつ買っただけ。

  
L: 好摩駅。啄木の筆跡からとったと思われる「こうま」の文字が貼り付いている。  C: 好摩駅前。  R: 何もない……。

花輪線に乗り込んで4駅、北森駅で下車する。この駅の南口は、そのまま八幡平市役所に直結しているのだ。
八幡平市役所というと、それこそ4年前に鹿角市役所を押さえた際、やはり花輪線で訪問しているはずである。
当時の日記を振り返ると(→2014.6.29)、「八幡平市ではすでに新市庁舎の建設が進められている段階で、
今年の11月に供用開始を予定しているとのこと。」なんてしっかり書いてある。その新市庁舎に来たわけだ。
日記にはさらに、「設計したのは関・空間設計で、場所は北森駅からちょっと南東に行ったところ。」とある。
これは北森駅が移転する前だから。八幡平市役所の新築に合わせて、駅を500m南東に移動させたのだ。
「正直、もう一度花輪線に乗って訪れるのがものすごく面倒くさい。」なんて書いたが、意外と早い再訪問となった。

  
L: というわけで北森駅で下車して直接、八幡平市役所に乗り込む。  C: 庁舎内に入るとこの光景。平日じゃないので暗い。
R: 進んで右側。駅と直結しているだけあり、待合スペースとして充実している感じ。学生の自習にはもってこいだな。

  
L: 奥、つまり市役所のエントランス側から振り返る。  C: 市役所エントランスから左を向いたところ。
R: 外のガラス窓から八幡平市役所内を覗き込んだところ。白と黄緑を意識して対比させたインテリアが面白い。

そのまま外に出て、新しい八幡平市役所を撮影していく。4年前、大更の旧庁舎では雨に降られての撮影だったが、
今回はいちおう雨はあがった状態。周りは田んぼだらけで移動がけっこう大変で、あがってくれて本当にありがたい。

  
L: というわけで外に出て振り返る。駅と接続しているという事情があるにしても、「庁舎入口」とは大胆である。
C: 少し距離をとって正面から。エントランスが斜めについているのが独特。大きな四角いガラスの内側は階段がある。
R: 角度を変えてエントランスを見る。奥(東側)にくっついているのは多目的ホール棟。手前が大ホール。

  
L: 幅もけっこうあるし、何より敷地ギリギリまで田んぼなのである。カメラの視野に収まるように撮るとこうなる。
C: 南西から見たところ。田んぼを挟んで動くので、角度が限られて大変。  R: ほぼ同じ角度で、敷地内の駐車場から。

  
L: 西側の側面。  C: 裏にまわり込んで北側背面。  R: 背面をもう一丁、北東から見たところ。

  
L: 東側の側面。これはつまり多目的ホール棟。右端の黒いのが北森駅。  C: 多目的ホール棟を中心に南東から。
R: 全体を南東から眺めるが、どうしても田んぼを挟むアングルになり、田んぼがメインに見えてしまう。困った。

  
L: 花輪線の北側に出て、国道282号の脇から眺める。  C: 背面。  R: 北森駅を含めて全体。周りはとにかく田んぼ。

4年前も書いたが、八幡平市は2005年に西根町・松尾村・安代町が合併して誕生した。大更の旧庁舎は旧西根町役場で、
こちらの新しい八幡平市役所は旧松尾村域となる。2つあった町ではなく村の方に新庁舎というのも珍しく感じるが、
北森駅の位置だと西根から安代側に寄った形になっており、しかも開けた場所なので合理的な判断であると思える。
駅と役所を合体させる発想も面白いが、いかんせん本数の少なすぎる花輪線では効果的ではないかもしれない。

 北森駅北口。駅と役所の合体は個人的には興味深いが、花輪線じゃなあ……。

花輪線は好摩までだが、列車はそのまま盛岡駅まで直通である。途中の厨川駅でなかなか強烈な動物病院の広告を発見。
「スズメからライオンまで」というそのパワフルなフレーズに、思わず「マジかよ……」と呟いてしまったのであった。

 テキトーきわまりないライオンの絵もすごい。

盛岡に着くと晩ご飯に冷麺をいただく。盛岡は中心市街地が駅から遠いので、駅の近くで食える冷麺に偏るよね。
本日の冷麺はぴょんぴょん舎。前に食ってからもう10年も経ってしまったとは……。恐ろしい(→2008.9.12)。

 やっぱり安定したおいしさですよね。

天気はイマイチだったが、予定はすべてクリアした。明日は天気予報ではけっこうキツい雨らしいけど……がんばる。


2018.9.7 (Fri.)

昨夜、演劇を観ている間に私のスマホには無数のメールが届いておりましてですね、電源を入れて驚いた。
なんだなんだ、いったい何があったんだと。それでニュースを確認して、言葉を失ったわけであります。
大学時代にみんなであれだけ楽しませてもらったことが、こんな結末になってしまうものなのかと。
今までいろんなヤラカシがあったわけだが、まさかの吉澤メンバーがこうなってしまうものなのかと。
本当の幸せとは何なのだと。きちんと俺の嫁になっていればこんなことにはならなかったのではないかと。
……まあそれは冗談ですが、まったく予想できないことが現実には起きるものなんだなあ、と呆れております。
ハマり倒したのもすでに過去のことだから、「そうなってしまったのか」と淡々と事態を見つめるしかない。
だから特にショックとかそういう類の感情はない。未来は絶対に予測できない、そのことをただ痛感しているだけです。


2018.9.6 (Thu.)

NODA・MAP『贋作 桜の森の満開の下』。初演は夢の遊民社時代ということで、ぜひ観ておこう!と行ってきた。

タイトルからわかるように、坂口安吾『桜の森の満開の下』が物語の下敷きになっている。
しかし内容は、同じ坂口安吾による『夜長姫と耳男』の要素の方が強い。まあこっちのタイトルじゃ売れないもんな。
結果的に『桜の森の満開の下』の舞台空間に『夜長姫と耳男』の人間関係を持ってきた、そういう感じになっている。

まず、野田秀樹の若い頃の作品だからか、言語連想感覚が異様に鋭敏である。今まで観た中でもトップクラスでは。
それでいて、テープをスクリーンなどに見立てる想像力など、ガジェット(小道具)の使い方も相変わらず上手い。
物語の展開は、難解というか、インスピレーションを繋ぎ合わせている感じだ。語呂合わせの先にストーリーがある。
坂口安吾の原作は「絶対的な恋慕(崇拝)の対象である究極のメンヘラヒロイン」を描くことに全力が傾けられていたが、
野田はそこから語呂合わせを原動力に物語を転がしていく。原作を知らないと乗り遅れる感覚になるかもしれないが、
それは言葉遊びの密度とスピード感によるものだろう。それくらい、物語が野田によってしっかり消化されている。

そしてもうひとつ、この物語に手塚治虫『火の鳥』が非常に大きな影響を与えているのは間違いないだろう。
タケルがクマソを倒す「ヤマト編」、我王と茜丸でおなじみの「鳳凰編」、仏教と日本の神々が戦う「太陽編」、
この辺りの匂いが色濃く感じられる。原作にはない壬申の乱を盛り込んだことで、ストーリーに厚みが増している。
(調べてみたら、遊民社時代の初演は「太陽編」が完結した翌年。当時はタイムリーだったのかもしれない。)
しかしながら、それでいて坂口安吾の問題意識をはずしていないのがさすがなのだ。都/権力=中央集権化、
これは古代における“近代化”となるわけだが、そこに虐げられる地方/異文化(=クマソ・アイヌなど)が対置される。
ヒダのタクミは『夜長姫と耳男』の設定だが、中央に求められた技術を地方の異文化として利用したのが上手い。
しかもその土台の上に、得体の知れない対象という意味を重ね合わせつつ、鬼という存在を絡めてくるのだ。
坂口安吾の生み出した寓話、そこに言葉遊びを介在させながら、政治と文化にまで踏み込むその完成度は凄まじい。

役者については、とにかく深津絵里の恐ろしさが印象的である。何から何まで完璧に説得力を持っている。
この(原作の時点から)狂気に満ちた物語を完全に支配していて、彼女のおかげで物語が極限まで展開された印象だ。
妻夫木聡は以前書いた日本の男子代表のイメージか(→2003.10.25)。でも本当によく深津絵里の怪演に対応している。
大倉孝二の存在感もさすがだなあと。自分の身長の高さをものすごく上手く使っている人だと思う。うらやましい。

観ていて正直、もう一度『贋作・罪と罰』(→2005.12.8)を見たい!という思いが強まったなあ。あれは凄かった。
今回の深津絵里級の女優による再演だったら僕はどうなってしまうのだろう、と。上演中、その影はチラついていたかな。


2018.9.5 (Wed.)

鎌倉遠足のコースづくりを続行中だが、案の定、連中のプランはどうにも遊び中心になっていて、かなりムカつく。
こう言っちゃアレだけど、女性の先生が多いとどうしても、質実剛健で文化財漬けという遠足にはならないようで。
僕なんかは旅行記を見ればわかるように、おやつ食う暇があったらひとつでも多くの寺社をまわりたい性質なのだが、
女性の皆様は文化財よりもおやつが重要なようで、おやつを許可しちゃったらガキどもの興味が完全にそっちに集中。
もう、時間の使い方がおかしいのである。もはや寺へ行くのが昼食やおやつのための調整にしか見えないくらい。
コースに許可を出す責任者であるところの私は、プランが出るたび「遊びじゃねえんだよ!」とキレておるわけです。
中にはちゃんと文化財への興味をベースに考えている班もあるんだけどね、なんかどうもちょっと納得いかない気味。


2018.9.4 (Tue.)

台風21号が25年ぶりの勢いで本州に直撃しようという中、3年生たちは修学旅行に出発したのであった。
行き先はもちろん奈良・京都で、台風上等と言わんばかりの気合いである。今夜を乗り越えればいいもんね。
それはそれで非常に思い出深い旅行になること間違いなしだ。楽しんだモン勝ちなのである。

さてその影響で、本日は4連続でALTの授業を担当することに。午後は鎌倉遠足のコース決め作業・第1回。
久しぶりにフルスロットルな一日だったが、ALTの授業をはじめとして申し分のない充実した内容になったのでヨシ。
ただ、鎌倉遠足の方は伝統ある寺よりも昼食やおやつに夢中な生徒がほとんどで、不安を感じなくもない。
杉本寺とか報国寺とかシブい寺をまわれとは言わないが、もうちょっと正統派な興味の持ち方をしてもらわんと。


2018.9.3 (Mon.)

『おそ松さん』。2期をようやく見たのでレヴューを。なお、1期のレヴューはこちら(→2017.9.27)。

下ネタ多いなあ、というのが総括。1期でもシモはあったが、軌道修正が図られなかったのががっくりだ。
なんだか全体的に、ひがんで終わりな内容が多い気がする。それは偉大な先達・稲中がすでにやっておるのだが……。
もっと面白いものにできそうなところをコケて台無しにしている感じ。おそらく1期の人気を読み違えて、
ギャグを組み立てる根源を六つ子のキャラクターに求めてしまったのが、2期の失敗の原因ではないだろうか。
「ナンセンスギャグに巻き込まれる六つ子」だから面白かったのが、「六つ子がギャグをやる」になってしまって、
本来もっと危険であるべきギャグがゆるくなってしまっていた。まず狂気がキャラよりも根底にないといけない。
結局、キャラをベースで考えるから狂気を転がしきれなくなって、ギャグを投げっ放しジャーマンで強引に終わらせて、
これはシュールですということでごまかしていないか。売れている余勢で急いでつくったけど、明らかにイマイチ。
いや、きちんと面白いギャグもあったんですよ、いっぱい。でも畳み掛けきれず、中途半端に終わることが多くて。
良質なギャグには理屈を超えるための理屈がある、という逆説に気づかせてもらった。論理的飛躍が足りなかったね。

特に印象的だったエピソードは2つあって、ひとつは18話「イヤミはひとり風の中」。これをやるとはびっくりだ。
1期でも『おそ松くん』をリスペクトする要素はいくつか散りばめられていたが、2期はそれが薄めな印象だった。
そんな中で、ものすごく気合いの入ったリメイクをしてきたことに驚いた。逆を言うとこれがピークな気も。
もうひとつが21話に出てきた「BANANA」。マサルの大好きな求人バニラの歌を元ネタにしていて、
これがなんか異様にクセになる……。展開はPPAPも意識してのことだろう。まあハッピーエンドだし、ヨシ。

最終話はいかにも感動させよう的オールスターでつまらん。2期はギャグの練り込み不足に最後まで苦しんでいて、
これじゃあせっかくの1期のインパクトに水を差すだけではないかと残念に思えた。とにかく打率が低かったなあ。


2018.9.2 (Sun.)

青春18きっぷを使い切るチャンスということで、お出かけ。晴天モードと雨天モードを用意しておいたのだが、
残念ながら本日は雨が降ると予想されたため、雨天モードでゴー。主に栃木県へ、御守頂戴の旅に出るのだ。
すでに一度行ったことのある神社の御守を頂戴し直す旅。それで雨天でもOKという判断なのである。

昨日話題に出たせいか、やってしまいましたよ二度寝。それでも初志を貫徹して、まずはいきなり日光へ。
最初から雨天モードと決めていたとはいえ、またしても曇天の下で日光を訪れるのは、さすがにかなり悔しい。
通算4回目だけど、4回とも「日光で太陽を見たことがない」となってしまった。まあ雨は降らなかったけどね。
(今までの記録はこんな感じ。記録はどこまで延びるのか? →2008.12.142014.10.12015.6.29
素早くバスから降りるとすぐに日光二荒山神社を参拝。神橋の御守を頂戴して本日最初のタスクを完了する。
その後は大猷院の御守を頂戴していなかったため、こちらも参拝。帰りもバスで、要領よく動くことができた。

宇都宮に戻ると、徒歩で宇都宮二荒山神社へ。市街地の中心にこれだけ規模の大きい丘と神社があるというのは、
これはやはりさすが一宮の風格だ!とあらためて思いつつ参拝。今回はせっかくなので厄除御守も頂戴してみた。

駅前でテキトーに餃子を食べてレモン牛乳を飲むと、烏山線に乗り込む。烏山の八雲神社を再訪問するのだ。
前回は栃木県北部の市役所をガンガン攻めた中での訪問だったが、神社は鳥居を撮影した程度(→2013.7.20)。
山あげ祭りで知られる神社だからきちんと参拝しないとな、ということでの再訪問である。写真もきちんと撮る。

  
L: 那須烏山市役所の隣に鎮座する八雲神社。  C: 境内。うーん、人がいそうにないですな……。  R: 拝殿。

後で山あげ会館に寄って確認したのだが、八雲神社は神職さんが常駐していないとのこと。御守を頂戴するには、
正月が最大のチャンスらしい。山あげ祭りのときに頂戴できるといいのだが。近いうちになんとかしたいものだ。

  
L: 本殿を覗き込んだら覆屋。  C: 隣には市神社。山あげ会館にはこちらの御守がある。  R: 神輿舎は大谷石ですか。

しょんぼりしながら烏山線を戻る。これは時間的にも精神的にもなかなかキツい往復なのであった。
それでも気を取り直して宇都宮線を南下し、小山で下車。次の目標は須賀神社だ。7年前に訪れたが(→2011.1.5)、
きちんと参拝したという記憶があんまりない。年始モードだったせいで、神社本来の姿が見られなかったからか。
宇都宮を出発してから小山駅を出るまではかなり強い雨が降っていたのだが、神社へ向かう途中でスパッとやんだ。
なんだかんだで悪運が強いなあと思っている間に神社に到着。あらためて訪れると、記憶以上に大きい神社だった。

  
L: 県道265号からスタートする参道。  C: 一の鳥居。  R: 国道4号を挟んだ向こう側が須賀神社の境内。

参道から本殿まで見事に一直線となっているのが印象的だ。街中にあってここまできれいにまっすぐなのは珍しいと思う。
隋神門と拝殿がけっこう対照的で、隋神門は軒を広くとっているのに対し、拝殿は肩をすぼめたようなどこか窮屈な印象。
そして本殿を覗き込んだら、これがまたわかりづらい。なんとも独特な造りをしているなあ、と思うのであった。
御守は境内の隣にある須賀神社会館で頂戴できる。小山が「開運のまち」ということで、開運御守も頂戴しておいた。

  
L: 隋神門。  C: 拝殿。隋神門とは対照的に、軒にまったく余裕がない。  R: 本殿。奥まっていてよく見えない。

最後は小山から水戸線ですぐの結城にある健田須賀神社。7年前に寄るだけ寄っている(→2011.1.10)。
社務所が閉まる直前ギリギリセーフのタイミングで参拝に成功。そしたらこちらの御守がたいへんヴァリエーション豊か。
結城紬による御守はもちろんのこと、結城晴朝の「御手杵の槍」にちなんだ勝負開運御守などいろいろあって、
そういうこだわりは嬉しいんだけど、御朱印と違って収集にたいへんお金がかかるわけです。最後にドカンと来たねえ。

  
L: 健田須賀神社の境内入口。  C: 横参道で、右を向いたらこちらの拝殿。  R: 奥の本殿。

最初は写真一切なしで経過だけ書いていくつもりだったけど、なかなかそうもいかない。前の日記が粗いんだよなあ。
まあとにかく、予定していた神社をぜんぶまわることができてよかった。凝った御守に出会えるのは楽しくてたまらん。


2018.9.1 (Sat.)

シード権大会の決勝トーナメント・1回戦。リーグ戦2位通過のわれわれは別リーグを1位通過した学校と当たるわけで、
苦戦が予想される。それで相手チームのリーグ戦のスコアを調べてみたら、12-0と16-0という圧倒的な破壊力でやんの。
そんな相手に8人でどうしろってんだよ、とコーチと頭を抱えつつも練習に励み、腹を括っていざ決戦なのであった。
引退した3年生も3人、応援に来てくれて、そのままみんなでベンチ入り(マネージャー扱いでOK)。総力戦である。

とにかくしっかり守ってカウンターという弱者の定石を徹底する。これはコーチにとっては屈辱の采配らしかったが、
「そんなもん、夢見たってしょうがねえだろ」とすっきり割り切れる僕はそれだけオトナになったということなのか。
ただ、サイドバック裏へ大きくボールを出しつつ「判断を速くして最後のところは少ないタッチで回してシュートを狙う」、
そう指示する辺りは僕にだって意地のある部分だ。人数の少ないチームが点を取るには、こぼれ球への反応が一番だ。

ところが試合が始まると、しばらくきっちり守っていたウチの生徒たちの頭上をきれいな弧が抜けていってズドン。
引いて守るのを崩しづらいと見るとミドルを積極的に撃ってくる相手の方が一枚も二枚も上手だった。いやあ、強いわ。
さらにもう一発、不用意なファウルで与えたFKから直接ズドン。相手を褒めるしかないシュートがどんどん決まる。
ヴァイタルエリアでボールホルダーを自由にさせないというタスクが急遽増えたおかげでこちらの守備はいっぱいいっぱい。
すると相手は守備のギャップを突いて縦パスを出し、そこにダイレクトで飛び込ませるというシュートを狙いだす。
もはやすっかり試合というより練習メニューのような感じである。DFを余らせて攻撃する人数を調整しているんだもん。
後半は相手が積極的に選手交代を行ったため、ある程度はこちらがボールを持てるようになる。部員が多くていいなあ。
でもこっちはせっかくボールを持ってもなかなか思い切って前に蹴り出せない。ふだんやってないからピンとこないのだ。
相手GKが前に出ていたところに早めにシュートを撃って一矢報いるのがやっと。1-9で、2桁失点はなんとか回避した。

 
L: 挨拶を終えてベンチに戻ってくる私(生徒の顔には修正をかけております)。撮ってくれた生徒会長ありがとう。
R: この後で審判をやるのでこの恰好。しかしこうして見ると、それなりにサッカーをやっている人のように見えるから不思議。

これで新人戦へ向けてのシード権大会は終了である。8人である程度は戦えることを証明できたとは思うが、
人数が足りないだけに、個々のサッカーセンスをもっともっと磨かないとどうにもならないこともよくわかった。
攻守の切り替えと、それに伴うラインの上げ下げがいちばんの課題かなあ。結局は運動量ってことになるのか。

さて、夜は上京してきたリョーシさんを迎えてみんなで飲む。今回は残念ながらみやもりとニシマッキーが欠席。
まずは先月も会った僕とリョーシさんで先行して合流。御茶ノ水のスタ丼屋でミニスタをいただくのであった。
というのも、リョーシさんがスタ丼屋の唐揚げに大いなる関心を示したため。ミニスタじゃないとキツかろう、と。
「鬼盛りすたみな唐揚げ皿」を4個ずつ分けて食ったのだが、案の定、ミニスタにしておいて大正解でしたな。
唐揚げ自体は、まあふつう。もっとしょっぱいと予想していたが、そんなでもない。竜田揚げ風で好みは分かれるね。

その後は前回の姉歯(→2018.7.8)と同様、飯田橋へ。何もそんなに喜び勇んで飯田橋でなくてもいいはずなのだが、
究極的に交通の便がいいうえに、土日の奇跡的な空き具合はやはり魅力的なのである。バカ話をし放題だもんな。
やがてえんだう、そしてマサルも合流してありとあらゆる話題をダベり尽くすのであった。いや話題が広い広い。
で、次回までの宿題として、今までお世話になった女優さんでベストイレヴンもしくはベストナインをつくれってことに。
ちゃんとポジションまで考えろよ、と。ちなみにマサルはもはや女優ではなく、企画のタイトルでやるレヴェルだってさ。


diary 2018.8.

diary 2018

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