23区めぐりで訪れた美術館についてレヴューをしっかり書いていくのだ。今日は、東京都現代美術館。いわゆる現美。
美術の面白さを教えてくれた美術館なので(→2021.5.7)、僕にとって現美とは特別な存在なのである。
改修工事で2016年から休館していたが、2019年にようやく復活。ずいぶん久しぶりなので、ワクワクしつつ中へ。コロナの関係もあって事前に予約して指定時刻に入館する形。江東区めぐりを済ませた16時に突撃である。
企画展が2つあり、「GENKYO 横尾忠則」展と「MOTアニュアル2021 海、リビングルーム、頭蓋骨」展。
両方合わせて2900円ですよ。呆れるほど高い。まあ改修完了のご祝儀ということで我慢して支払いますが。まずは横尾忠則から。かなりの人気っぷりである。横尾忠則というと状況劇場の『腰巻お仙』ポスターが有名で、
あとは細野晴臣と仲がよかったせいでYMOのメンバーになりかけたとかなんとか。残念ながら僕の認識はその程度。
さて、いざ大量に彼の作品を見せられると、「YMOに入らなくてよかったぁー!」と心の底から思うよりない。
自分の頭の中を覗き込んでアウトプットできる能力は素直にすごいと思うが、そればっかりの人生もキツいですな。
僕にとっては時代も場所も他人事ですので、深層意識をひたすら提示されても「はぁ、さいですか」でおしまい。
今回は特にGENKYO=現況ということで、最近の作品が多いみたい。でもやはり他人向けに描いた過去の作品が魅力的。
基本的に横尾忠則はクライアントの要求がきちんと理解できる人なので、その要求にプラスアルファする作品はいい。
でも自分のやりたい放題を炸裂されても、こっちとしては受け止めきれずにすれ違って終わり、になってしまうかなあ。
いちばん衝撃的だったのは西脇(学生)時代のポスターで、これはもう完成されてしまっている。「売れる」レヴェル。
まあ本人はデザイナーで収まりたくなくて画家になったんだろうけど、デザイナーの才能の方が明らかに上だよね。
あとは一時期、滝に魅了されていたようで、あらゆる滝の写真を壁一面に並べて鏡で増幅して滝状にしたやつはお見事。MOTアニュアル2021は、3人のクリエイターによるそれぞれの映像。海の人、リビングルームの人、頭蓋骨の人。
悪いんだけど、映像ってのは退屈極まりないから大嫌いである。こっちの時間と身体を拘束するだけの価値があるの?
見せたい人には、あらかじめ見た原体験がある。しかし受け手のわれわれにはない。その不均衡を意識することなく、
自分の見せたいものを自分にしかわからない切り取り方で提示したところで、共感が得られるはずがない。簡単なことだ。
3人とも、そこんところがまったくわかっていないのでどうしょうもない。映像には映像の文法があるのにね。最後に常設展。これが無残としか言いようのないものだった。改修工事前には戦前から日本の美術を振り返り、
近代美術から現代美術への変遷をわかりやすく提示する優れた内容だったのに、すべてが排除されてしまった。
その代わりに出てきたのは、現代のくだらない作家による自己顕示欲ばっかりのエクスキューズ。見るに堪えない。
福島第一原発で指を差すのとマクドナルドの紙袋で木をつくっているやつはよかったけど、あとはほぼ全滅。
写真も結局、それ正面からハイレッド・センターをやればいいじゃねえかって話で。意味がわからねえよ。
以前の展示と変わらず残っているのが最後の宮島達男だけって、そんなもん、現美じゃなくても見られるだろ。というわけで、企画展にしろ常設展にしろ、以前と比べて恐ろしく劣化してしまった。ショップも大劣化していた。
FREITAGも財布とMIAMI VICEしかないとか、そんなんだったら置かないでくれ。すべてにおいてがっくりだよ。
いや、実は僕のセンスの方が大劣化していて今の流行についていけてない可能性は、もちろん理解している。
でも若手の発表会なんて現美でなくてもいくらでもできるんだよ。どっしり構えてくれよ、東京の美術館なんだから。
日本そして世界の現代美術運動の記憶を伝えてほしい。日本を代表する、現代美術の殿堂であってほしいのだ。
そういう公共セクションにしか担えない正統性を完全に捨ててしまった感覚は、絶対におかしい。誇りを感じない。マサルあたりは「マツシマくんはよくそこまで言えるね」なんて呆れ顔になりそうだけど、言えるよ、オレは。
オレの中の「古典たりえるもの」を愛するバランス感覚を基準にすれば、今の現美は褒めるところがひとつもない、
過去への敬意を完全に欠いた凶悪なエクスキューズ製造機である。現在進行中の偽物たちのエクスキューズ。
たとえば展示を見た子どもが、何か自分も真似して、そして超えてみたいと思わせるような作品がひとつでもあるか?
来館者を刺激するのではなく、言い訳だけが踊る空間。美術を腐らせる雑菌の巣窟だわ、こんなもん。歯垢だ、歯垢。
23区めぐりで訪れた美術館についてレヴューをしっかり書いていくのだ。まずは、すみだ北斎美術館(→2021.7.23)。
葛飾北斎は人生のほとんどを墨田区内で過ごしたとされることから、墨田区が気合いを入れてつくった美術館である。
2016年のオープンで、設計は妹島和世。外観・内部については墨田区探訪のログを参照してくれ(いつになるやら)。3階が企画展。『THE北斎 ―冨嶽三十六景と幻の絵巻―』ということで、メインとなっているのは『富嶽三十六景』。
正直、僕は「北斎は肉筆だろ!」と思っていて、他者が関与する木版画には興味がなかった(→2010.9.24)。
しかしさすが北斎先生、いざ複数の作品を見せつけられると、どの絵もことごとく構図がもう、異様なのである。
富士山を背景に、全国各地の景色や人々の姿を描いていて、物語性が実に濃厚。ただの絵でなく、物語が見えるのだ。
富士山を描くのではなく、富士山の目を通して見た人々を描く。物言わぬ富士山だが、どっしり構えてどこか優しい。
「天知る、地知る、我知る、人知る」というが、富士山は時に主役になりつつもどっしりと人々を見つめており、
またわれわれも富士山と向かい合うようにして彼らの一挙手一投足を見つめるのだ。多様な物語が本当に興味深い。
「お天道様が見ている」、その視点を富士山が果たしているのである。それは日本人の恥の意識にも通じるものだ。
これを最高に考え抜いた構図で描ききっているのだからたまらない。刷りのレヴェルも高く、思わず見入ってしまう。
木版画として線の取捨選択も極限までなされている。また『諸国瀧廻り』も、水の表現がどれも絶品である。
キュビズムも真っ青の視点の編集まで出てきて、もはや笑うしかない。画家としてすべてをやり尽くしたんじゃないか。
今回の展示で最もショックだったのは稲光の描き方で、ガラスの画面にヒビが入ったような線を大胆に入れている。
これを、江戸時代に、やる!? 窓ガラスがない時代に、割れたガラスから、その発想を出すの!? いやはや、恐ろしい。4階はAURORAという名前の常設展。ピーター=モースのコレクションを中心に、年代別に展示していてわかりやすい。
これも驚いたのだが、若いうちの作品はそんなに魅力的でなく、50歳を過ぎてから何をやってもキレッキレになる感じ。
最後が死の3ヶ月前に描かれた『富士越龍図』だったんだけど、もはや言葉がございません。北斎は人間なのか?
そう言いたくなる。彼の最後の号は「画狂老人卍」で、やはり人間、狂うところまでいかなければ道を極められないのか。
何に対しても狂うことができない、そこそこで撤退してしまう自分には、近寄ることすら到底できない領域である。そんなわけで、大いに満足できる内容だった。さすがに北斎のレヴェルになると常設展の充実は経済的に厳しい。
しかし企画展の内容が本当に素晴らしく、このクオリティを維持できるのであれば定期的に通う価値は十分ありそう。
洋楽をきちんと聴かなくちゃいかん、という意識はあるが、具体的にどこから攻めればいいのか悩んでおります。
とりあえず、『ブルース・ブラザーズ』(→2014.2.4)の冒頭を完全に支配したジェームズ=ブラウンのベスト盤を聴く。ジェームズ=ブラウンといえばファンクである。結局これ、超ハイテクニックなバックトラックによるループやんけ。
トランスやらハウスやらのいちばんの源流を探っていくとファンクが出てくると思う。そのように私は理解した。
現在なら打ち込みでやるところをまったくブレない生演奏でやりきる。基礎が完成されているからこそできる音楽だ。
聴いているだけでリズム感が磨かれるけど、あらためて聴く『Sex Machine』はその中でも最高の作品ではないか。世の中には聴かなくちゃいけない音楽がまだまだたくさんある。教養としての音楽の知識が足りなくて恥ずかしいわ。
夏休み前の最終日はスルッと終わりましたなー。テスト返却と毎度おなじみ授業準備であっという間に終わった。
中学校なら夏休み前ということでいろいろ注意事項を伝えるのだが、それがほぼゼロとなる本当にあっさり。◇
さて、世界規模の大運動会も始まり、4連休もあって、新型コロナの感染者数がかなり増加しているようだ。
恐怖感を煽るなとか重症者数が重要だとか、さまざまな考えがあるのはもちろん自由である。思想・良心の自由。
しかし、現場に立っている医療従事者の目を見て言えることかどうか。そこはつねに意識すべきではないか。
今まさにあちこちで現場に立っている医療従事者たちの言葉、それが真実にいちばん近いと僕は思う。
対新型コロナ医療の拡充はもちろん必要だが、そんな簡単にすぐできるというものでもないだろう。
それならば、今まさに治療にあたっている人たちに迷惑をかけないことを基準に行動すべきだ。僕はそうありたい。
ズッコケ三人組シリーズの那須正幹が亡くなった。いやあ、たいへんお世話になりました。
第1作の刊行が1978年で、僕が小学校高学年になったときにはいい感じにヴォリュームが揃っており、むさぼり読んだ。
『うわさのズッコケ株式会社』のラーメンには興奮したものよ。定期的に読んではヨダレを垂らしておったことよ。
フィクションがかなり大胆で、タイムトラベルやら土ぐも一族やら、想像力を大いに刺激されたものである。
その一方で小学生の日常生活や行事なんかもきっちり扱っていて、どこかにいる同級生の話としても読めた。
そんな日常も非日常も受け入れてしまう、なんでもありなところがズッコケ三人組の魅力だったのかもしれない。
小学生にとっては大人の世界もフィクションと大差ない非日常である。三人組とともに楽しく冒険させてもらった。
いま読み直したらどんな感覚になるんだろう。30年前に戻れるんだろうか。いずれ読み直してみたい。
4連休の最終日もしっかりいい天気である。挑戦中の23区めぐり、4連発してもよかったのだが、本日はお休みとする。
順番からいけば品川区だが、原美術館が取り壊されてしまっているのと旧荏原区役所の場所が確定できないのとで、
品川区へ行くエネルギーがイマイチ出ないのである。お賽銭の五円玉も底をつきかけているし。準備不足な感じ。
天気がいいからと無理に強行したところで、雑な品川区めぐりになってしまいそうな予感がどうしても漂うのだ。
それなら来週のうちにエネルギーを充填して、また天気のよい日を狙うのだ。朝のうちは日記を書いて過ごす。11時近くになって、いったん家に戻ると自転車にまたがる。品川区めぐりは延期だが、せっかくのいい天気である。
こっちに引っ越してからずーっと「いつか行かなきゃ!」「行くんなら夏の暑い日だな!」と思っていた場所を目指す。
わりと近所なのでいつでも行けると思い続けて約20年。ようやく訪れることができましたよ、等々力渓谷。
L: ゴルフ橋からのスタートである。かつて等々力駅と東急グループのゴルフ場を結んでいたのでこの名前なのだ。
C: くぐったところで見上げる。緑の中の赤がいいね。 R: というわけで、いざ等々力渓谷散歩スタートなのだ。連休最終日の暑い盛りということで、家族連れを中心にけっこう人が多い。軽く散歩するにはいい場所だもんなあ。
等々力渓谷は東京23区で唯一、東京都の名勝に指定されている渓谷とのこと。確かに他の区で渓谷って聞かない。
実際に訪れてみると中心となる谷沢川はやや濁り気味で、脇の道もしっかり整備されていて、なるほど23区って感じだ。
長野県で育ち、全国各地の景勝に揉まれた私としては、ちょっと期待しすぎたかなあというのが正直なところである。
等々力渓谷は武蔵野台地の南端にあり、多摩川の河岸段丘である国分寺崖線の一部となる。元国立市民の僕としては、
あそこ(旭通りの先、国分寺市との市境)からはるばるここまで、という気持ちになってしまうではないか。懐かしい。
L: ちょっと進んで振り返るとゴルフ橋がわずかに見える。 C: 深さがあるところでは、水はやや白濁している感じ。
R: 環八(都道311号)の下をくぐる。渓谷の両側はなかなかの急斜面で、宅地開発から取り残された場所なのがよくわかる。等々力渓谷を歩いてみると、両側は確かに宅地とするには厳しい急斜面となっており、それでたまたま残った、
そういう場所であることが実感できる。下流へと進んでいくと谷沢川の流路はまっすぐに、底は平らに整備され、
水遊びができるようになっている。底が浅いせいか濁りはあまり目立たず、下流の方がきれいな印象なのが不思議だ。
国分寺崖線といったらハケの湧水が有名で、実際に斜面から水が浸み出している箇所もあった。それらが集まって、
谷沢川の水を浄化しているのかもしれない。ちょうど裸足にクロックスだったので、僕も谷沢川に足を踏み入れる。
L: 僕も谷沢川の中に入ってみた。 C: 川から眺める上流。 R: 橋の上から見る上流。この木々もまた武蔵野の自然だ。せっかくなので等々力渓谷の終わりまで行ってやろう、と歩いていくと、右岸の日本庭園の隣が住宅。ここまでか。
Googleマップで確認してみたら、ゴルフ橋から600mほど。木々の中を往復1kmほどなら、実にいい感じの散歩である。
さて、こうなったらとことん味ってやるのだ。日本庭園にお邪魔してみる。急斜面をそのまま利用しており、
中はかなりの高低差。竹林が庭園らしくがんばっているものの、それ以外はほぼ自然に還りかけている印象だった。
L: 等々力渓谷の終端部。 C: そのまま右を向くと日本庭園の入口。 R: 中はこんな感じ。武蔵野の自然が暴れ気味。
L: 竹林が日本庭園らしさをがんばって演出するが、まあここくらい。 C: 竹林から離れると自然の方が圧倒的優位に。
R: 元が急斜面なのでキツい中、意地で池をつくっている。しかし雑草の勢いが強すぎるのが本当にもったいない。
L: てっぺんまで上ると書院。急斜面の庭園が大変なのはわかるが、もうちょっと上手く設計できなかったものか。
R: 書院の脇は芝生広場となっている。付近の住宅地とあわせて考えると、等々力渓谷の特殊性が実感できる。久々に台地上に出たが、石段を下りて渓谷へと戻る。等々力渓谷の周囲との高低差は約10mとのことだが、
川の近くへと戻ってくると地上とはまるで別世界の湿り気である。垂直移動でこんなに雰囲気が変わるのかと驚く。
帰りは渓谷の脇にある施設などをきっちり押さえて戻ることにした。売店はなかなかの繁盛ぶりなのであった。僕はあらかじめサイダーを買っておいたが、こういうところで飲むラムネは旨いよね。
売店の手前には不動の滝。滝行ができるようになっているが、よく見るとその上には不動明王の像が置いてある。
脇には稲荷と不動明王の祠がそれぞれあったので、いちおう参拝。渓谷の湿り気と稲荷の雰囲気がマッチしている。
L: 不動の滝。ここに打たれに来る人もいるんだろうなあ。 C: 滝の左手にある祠。 R: クローズアップしてみた。ここから谷沢川を離れて石段を上っていくと、等々力不動尊の境内に出る。こちらは等々力駅の北にある満願寺の別院。
本堂は江戸時代末期の築とのことで、なかなかの風格である。御守を頂戴したが、この4連休でだいぶ増えたなあ……。
L: いったん境内から出て等々力不動尊の山門を撮影。 C: 境内を進む。 R: 本堂。渓谷からだと本堂の脇に出る。環八の南側、左岸には、古墳時代末期から奈良時代にかけての横穴墓がある。3号横穴ははっきりわかるものの、
1号と2号は完全に藪の中。よく発見したものだと呆れるレヴェルだ。7世紀の等々力渓谷も今みたいな感じだったのか。
L: 等々力渓谷3号横穴。野毛地域の有力農民の墓とみられるそうだ。 R: 1号横穴(左)と2号横穴(右)。わからん!20年近く懸案事項だった等々力渓谷探訪ができてよかったよかった。4連休の最後を締めるにふさわしい一日だった。
録画しておいた『ラブライブ! The School Idol Movie』をようやく見た。ラブライブの最初のやつの映画版ね。
『ラブライブ!』については、前にかなり気合いを入れてレヴューを書いている。われながら気持ちが悪いぜ。
*第1弾「他作品との比較による『ラブライブ!』総論」(→2018.12.9)
*第2弾「キャラクター造形論」(→2018.12.14)
*第3弾「組織論/時間論」(→2018.12.17)
*第4弾「身体論/空間論」(→2018.12.20)
詳しいことはこれらを参照のこと。映画版についても基本的には同じ感想である。やってること一緒だな、と。
映画はさらに、印象的なシーンをつなげるだけで話を進めるから、ミュージカルとしての要素を強引に混ぜてくるから、
思わせぶりな御都合主義のキャラクターを出すから、物語としては本当に支離滅裂。脚本の崩壊ぶりが凄まじい。前に書いたレヴューと同様、「スクールアイドル」というエクスキューズを前面に出してμ'sのラストダンスを描く。
ただそのためだけの映画。しかしそこに存在する価値観は、TVシリーズと同じかそれ以上の異常性で貫かれている。
最後、秋葉原をジャック状態にしてすべてのスクールアイドルが歌って踊る。秋葉原とわかる背景ではあるが、
そこはただの舞台空間にすぎず、ヴァーチャル色が非常に強い。記号としての秋葉原空間を占領するスクールアイドル。
興味深いのは、ここにおいて「みんながスクールアイドル」というエクスキューズにより観客がいなくなることだ。
唯一の男性(顔は出さない)である高坂穂乃果の父親は、最初サイリウムを持って観客の側に立っているのだが、
後で家族と一緒に踊って、アイドル側と同化すると解釈できる状態となる。演じ手しかいない秋葉原空間が完成する。
それはつまり他者、「誰かのために」が存在しない、自分のやりたいことだけが存在する世界だ。どこまでも自分優先。
現実には、演じ手とはつねに他者からの評価に晒されているが、すべてが演じ手になって観客が存在しなくなった結果、
自己評価だけが絶対的なものとして残る。それは自己満足の世界ということだ。完全にバランスを欠いた気持ち悪さだ。
きわめて自己中心的。誰かが私たちのためにすべてをお膳立てしてくれる世界。独りよがり。正直、吐き気がした。レヴューで書いたとおり、やはりμ'sは自ら終焉を選び、それによって無数のスクールアイドルの種が撒かれた。
そうして『ラブライブ!』は仮面ライダーやプリキュアを目指すのだろうか。たぶん、サンライズのゴールはそこにある。
『劇場編集版かくしごと ―ひめごとはなんですか―』。アニメ(→2020.8.25)に新規カットを加え、79分にまとめている。
アニメを見ていた人には、楽しいギャグが削られた残念さの方が大きいかもしれん。時間的にしょうがないけど。
最も久米田節の炸裂している温泉旅館の回を入れているのはさすがだ。映画館で見る久米田節はかなり強烈だった。
正直なところ、姫ちゃんを崇めるための作品という気もする。前髪ぱっつんに興味のない羅砂派の私にはそんな印象。
しかしやっぱり、原作マンガの空気感をしっかり映像化できているアニメだと思う。アニメというより動くマンガ。
それくらいのクオリティである。でもわざわざ映画化しなくても、TVアニメでもう十分に思えてしまうなあ。うれしいのは、特典で後日談が描かれた小冊子が配られたこと。映画が落ち着いてほとぼりがさめたら公開してほしいね。
さあ、今日からテスト返却だ!と意気込んで出勤したら、生徒がPCR検査陽性ですべてお流れなのであった。
これはもう、どうしょうもない。お大事にどうぞ、である。しかしこれが今後もちょこちょこ出るとなると大変だ。着替えに使ったという部屋の除菌作業に当たる。アルコールで机や椅子を拭いていくのだが、微妙に面倒である。
そして思うのは、この状況下でオリンピックとかマジで狂気の沙汰だなあということ。陽性のたびに誰かがこの作業。
しかもそれは陽性が発覚してからの話で、疑わしきは罰せずの精神で勝手に動いちゃう外国人多数。止められない。
発覚したところで政府にしろ東京都にしろきちんとした数字を出すとは思えない。嘘をつくのが平気な人たちですので。呆れるのが、小山田圭吾の問題。これってかなり有名な話で、最初からわかっていたも同然のことじゃないか。
だから音楽担当就任のタイミングで正直に表に出して謝罪するしかなかった。そのうえで作品で信を問うしかなかった。
昔のことをほじくり返して糾弾するのは気持ちのいいものではないが、この件はまだ正式に謝罪していないはずだから、
きっちりけじめをつけないと前には進めない。過ちに対しては、ごまかすことなく正直に対応すること以外に正解はない。
自分の非を認めないことや嘘をついてごまかすことは、われわれが子どものときには最も怒られることだった。
でも今は、それを権力者側が平気でやっている。そしてそれを許す狂った人々が一定数いることが絶望的である。
教員をやっていても、日本人の美徳は風前の灯火であると実感することが多い。外憂以前に自滅へまっしぐらだ。それにしても、僕はずーっとオリンピックに反対してきたけど、地雷をことごとく踏んでいくことに呆れるしかない。
後世に残す壮大なギャグとしては趣味が悪いし、ダメージも大きい。オトナのいない国になっちゃったね、日本は。
表現の不自由展にまったく興味はないが、邪魔はいかんよ。表現されたものに対する賛否は自由だが、
表現の機会を奪うことは当然、許されることではない。気に入らなきゃ、勝手にやらせて無視すればいいのである。自称保守が焦れば焦るほど民主主義が遠のく逆説を見抜けないのが悲しい。それは保守ではなく全体主義なのだ。
本当に民主主義であるならば、共産党をはじめとする反体制の団体を飼っておく余裕ぐらい見せなさいよ、と思う。
そういう懐の深さを見せてこそ、尊敬を集められる本物の保守であろう。余裕がないことが、いちばん危険である。
リンガーハットの「梅肉と鶏むね肉の冷やしまぜめん」は、今まで食ったすべてのメシの中でいちばん無国籍。
いや、旨いんだけどね。ちょっと油が強くて油そば風なのがまた無国籍。多国籍料理というよりは無国籍料理なのね。
マスクとチュッパチャプスの相性が悪すぎる!
ふだん授業を持っていない生徒と話す機会がたまーにあるが、わりとよく「体育の先生かと思った」と言われる。
こちとら体育会系の要素ゼロで生きてきた人間であり、どこにそんな印象を与える要素があるのか理解に苦しむ。ひとつ言えるのは、おっさんになって太ったというか、体の厚みが増してしまったことが、原因としてありそう。
熱海ロマンをやっているときにはラガーマンである奥田くんの体の厚みに驚き、鍛え方が違うなあと思ったものだが、
気がつけば僕もそれくらいには体に厚みが出てしまっているのである。こちとら、ただ漫然と太っただけなのに。
そして何をやっても痩せないのだ。コメを食わずに野菜だけ食っても体型が元に戻らない。体重が落ちない。そういうバックグラウンドを抱えているのを知らない生徒は、無垢な瞳で「体育の先生かと思った」と言うのだが、
それを言われるこっちとしては、何をやっても維持されてしまう体脂肪率を突きつけられてしまうのである。泣きたい。
Illustratorで割付作業をしていて思うのは、出版社の経験はなんだかんだでかなりプラスに作用しているということ。
現状においては特にテストづくりで威力を発揮しているわけだが、基本的な考え方を学べたことは大きいと思う。
おかげで自分でも惚れ惚れするような見てくれで仕上げることができる。だからどうだというわけでもないが、
そしてこの能力をもっと世間に役立つ形で活用できんものかとも思うが、出版社時代を肯定できるのはうれしいことだ。
なんでかわからないのだが、職場における僕のアカウントは名字に「nun」って文字がくっついたものなのだ。
本当になんでかわからない。「ヌン」ってなんだよ、「ヌン」って。勝手にあだ名をつけられた気分。小学生以来かよ。「ヌン」というと、まず思い浮かぶのは、熊本を走る産交バスの産太くんだヌン。公式サイトもあるヌン(⇒こちら)。
こいつが最初に出てくるあたり、僕の旅行バカを超えたバカ旅行ぶりがうかがえるわけで、自分でも反省しているヌン。あとはエジプト神話で、あらゆる存在の起源とされて「原初の水」と呼ばれる海が「ヌン」という名前だそうで。
水の神様でもあるらしい。そして世界の終りがやってくると、すべてのものは再び原初の海へ飲み込まれるとか。
なかなか悪くないではないか。海なし県の出身がオサレな港町で「ヌン」のあだ名をもらって働くとかカオスである。ちなみに「nun」は英語で「修道女」であり、ドイツ語で「今」。いろいろあるもんだ。面白がってやるヌン。
今週はテストじゃー!ということで、いつもよりずっと早く職場に乗り込んで大急ぎで最後の準備。
尋常じゃないドタバタぶりを乗り越えて、いざテストが始まるぜ、というタイミングでストップがかかるのであった。
理由は……職員側でPCR検査陽性が出てしまったから。いや、これはもう明日は我が身。お大事になさってください。それで本日のテストはすべてキャンセルとなり、明日以降の方向性が定まるまでおとなしく過ごすのであった。
夕方はスケジュール調整などの仕事に少しだけ関わる。今のところ最小限の余波で切り抜けられそうな感触だが、
誰がいつ2人目になってしまうかわからない。そうなりゃまた予定の組み直しである。いろいろ綱渡りですよ。
『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうかII』。前に見たやつ(→2015.12.18)の2期。
特に感想はない。序盤でピンチにしておいて、攻城戦をたった1話で終わらせて、ああ徹底してエンタメなのねと。
だからつられて必要以上にドキドキする必要はなく、どうせハッピーエンドになるに決まっているでしょと、
気楽に構えていればいい話なのである。単なる消費の対象に、こちらがエネルギーを注ぎ込む必要はないだろう。
本当にそれだけ。ほとんどのファンは裏切ってほしくないだろうから、これでだいたいの底が見えた感じ。
ひっさびさに晴れていい天気で(鹿児島は大雨で土砂災害らしいが……)、近場を自転車でまわりつつテストづくり。
本当なら旅行のかわりに東京23区めぐりを進めたいのだが、とてもとてもそんな余裕がないくらい追い込まれていて。
夏休みに東京23区めぐりをがんばろう!と切り替えていたら緊急事態宣言じゃねえか。足を引っ張られっぱなしな気分。
とにかく、この週末で世界史をロールアウトまでもっていかないといけないのだ。この「あと一息」が本当によく逃げる。
捕まえようとしても手元をスルッとすり抜けてしまう、そんな感じで課題が次々に現れる。キリがないでごわす。
テストが来週からということで、追い詰められております。どれだけ必死で作業しても、仕上がるまでが遠い。
いち早くチェックにまわした現代社会は、思いのほかミスが多かった。やはり3科目同時並行のテストづくりはつらい。
1年目の今年はとにかく経験を積むことが大事なので、すべてを前向きに捉えて全力でやっている。うーん、がまん!
前に「緊急事態宣言ごっこ」って書いたけど(→2021.1.8)、またしても効果のよくわからない宣言が出た。
結局のところ政府が責任を取らずに自粛を求めてばかりなので、受け手の良識で差が出るのは当たり前なのだ。
そしてそんな宣言を出している中でオリンピックをやっちゃうって神経がわからんぜ。アタマ完全にイカレてんな。
都合が悪いことがあるから、それを隠すために強行するんだろうな。嘘を平気でつく社会との戦い(→2018.4.13)。
いわゆる「分断」はよくないのだが、あんなクソと一緒にすんなよってことで分断せざるをえないのが正直なところ。
連日の冷や汁攻勢である。キュウリを切って大葉を刻んで薬味セットとともにメシに載っける。
マルコメの冷や汁の素をかけて水を足せば一丁あがりである。顎関節症にもまずまず優しい流動食。
宮崎を旅行して以来、僕としてはすっかり夏の定番となっているのだが(→2016.3.21/2017.8.21)、
世間でも冷や汁人気がだいぶ浸透してきてうれしい。今年の夏は宮崎にいる気分になって乗り切るつもり。
周りの社会の先生はみんな歴史の人なので、地理人間の僕はものすごい疎外感を勝手に感じておるわけです。
彼らにとっての当たり前が、僕の当たり前と違うので。まあよく考えたら僕は高校時代には理系だったので、
根本からしてまったく違うのである。僕にとっての高校の基準が理系にあるってことを実感させられる毎日だ。
毎日マジョリティを相手に過ごしていて、自分もマジョリティの思考をトレースすることを無意識で要求されて、
いやいやいやそれは偏っているよ、と言いたくなることが本当に多い。みんな自分の偏りに気づけてないよ、と。
なにその偏りを標準にしてんだよ、と。でも誰もついてこないので、孤高を気取って歴史を勉強する日々なのだよ。
(ちなみに公民では倫理がぶっちぎりでいちばん好きなので、その点もまた、わかりあえない要素がマシマシなのだ。)そんな日々であらためて思うのは、地理で一橋に入った僕はかなりの変わり種だったんだなあということ。
HQSの連中やゼミテンを振り返っても、みんな歴史で入試をくぐり抜けた人ばかりで、地理の人に会ったことがない。
地理で一橋に受かった人って、どれくらいの比率になるのだろうか。今さらだけど、ものすごく気になってきた。
センターの理科は物理で2次試験は地理という典型的な理系崩れだったけど、そういう一橋生はどの程度いるのか。
数学でいい点とって受かる人は優秀だと予備校で聞いたが、地理で受かる人は相対的に優秀なんでしょうか。
いや、優秀であると信じたい。そこに自分のアイデンティティを置いてもいいんじゃないか。いや、置かせてください。
大島康徳が亡くなった。タフに闘病されている印象だったので、衰えるときは急激なのかな、と勝手に思う。
それだけに、「よかった元気そうじゃん」が当たり前になってからの訃報なので、よけいにショックである。
でも亡くなった後に公開された「生ききった」のコメントが本当にかっこいい。そう言いきれることが羨ましい。中学校に名球会マンガがあったおかげでプロ野球の歴史についての知識をつけることができた自分には、
名球会に入っていて現役の大島は特別な存在感があった。中日時代については後追いになったのは残念だが、
シブくて明るい日ハムで元気いっぱいの大ヴェテランなんだから、応援しないわけにはいかなかった。
特に現役最後の1994年に西武の新谷から打った満塁ホームランには大いにしびれたなあ。いまだにわからないのが、なぜ大島が日ハムで「11」という完全に投手向きの背番号をつけていたのかということ。
でもその後にダルビッシュと大谷がつけたことで、最高に特別な番号になっていったのが感動的だった。
プロ入りした大谷が11番と聞いたときは、日ハムで二刀流をやるには最高の番号だなあと心の底から納得したものだ。
海の向こうでは今まさに大谷がバカスカホームランを打っているが、その大先輩のホームランを僕は忘れませんよ。
ひたすらテストをつくっているのだが、現代社会は意外と快調にロールアウト寸前までこぎつけた。
世界史はストーリーの流れをいろいろ試行錯誤していたら、問題づくり自体は悪くない感触である。
ただ、問題数と点数のバランス調整に手こずりそう。記述で説明させる問題が多めなのもちょっと不安なところだ。
いちばんヤバいのは日本史で、なかなかすっきりとした問題ができない。あんまり重箱の隅はつつきたくないのだが。やってみて思ったのは、日本史は知識を問う問題になりがちで、世界史は流れを確認する問題になりがちってこと。
不思議と差が出てしまう。日本史の場合にはまず覚えなくちゃいけない事項が多く、それを出すだけで点数が埋まる。
対照的に世界史は国と国の絡み方が重要なので、比較して考えさせる事例に事欠かない。けっこうキリがない。
特に今回は、日本史の範囲の中心が中央集権な律令制であることも影響してか、両者の差をかなり激しく感じる。
どっちも同じ歴史だが、縦に掘り下げる感触の日本史と、横に糸を張りまくる世界史は、性格が違うのだ。びっくり。
熱海の土石流には本当に驚いた。あんな衝撃的な映像が出てくるとは、すごい時代だなあとも思う。
場所は伊豆山神社(→2015.12.27)のすぐ近くということで、僕も実際にバスで現場を通ったことがある。
高低差のある細く曲がりくねった道は「1次元の線が全力で3次元空間を暴れまわっている感じ」だったが、
運転手さんは軽快にバスを操作する。それがものすごく印象に残っていて、すごい土地だったなあと今も思う。
しかし、そこを土石流は一気に削り取っていったのだ。住民のみなさんの無事と早期復帰を祈るしかない。さて今回の土石流、原因としてメガソーラーの建設が関係しているのではないかという指摘がある。
素人の僕に、その是非はわからない。感情的になるのではなく、冷静に検証することがまずは必要だ。
しかし一番の懸念は、正しい検証結果がきちんと伝えられるのかどうか、そこにある。
誰かにとって都合のいい情報だけが流されるんじゃないか、そこが大いに心配なのである。
トップが平然と嘘をつく世の中ですから。嘘を疑う人に対して「反日的」というレッテルを貼る世の中ですから。
期末テストに向けて、顎の調子は悪くなる一方である。いったん改善したと思ったらかなりの悪化。本当に困る。
ワクチン接種券が届いたのはいいが、ニュースによると国から自治体へのワクチン供給が滞っているそうで。
さて先日、睡眠時無呼吸症候群の診察の際、保険証を見た院長と雑談になり、僕は教員やってます、という話になった。
そしたら院長は「オリンピック対策で、築地市場の跡地で警察官と消防士にワクチンをバカスカ打ってるよー。
それでいて教員がまだってのは順番が違うよねー。権力に近い方から接種するんだねー」とのたまうのであった。
この影響で自治体の分が足りなくなっているとしたら、なんとも国民をバカにした話だよだなあと呆れるばかり。
マスコミも「足りない」ってことしか報じないし、何もかもが腐っておりますな。これが日本の現実的なんだなあ。