天気予報で雨っぽいとか言ってたわりにはとんでもない紫外線じゃねーかオイ、と泣きたい気分になりつつ今日も日記三昧。
おかげさまで春休みの関西&ジュビロ観戦旅行を一気に書き上げたうえに、ついに昨年7月のログもコンプリート。
ここ1年近く苦しめられてきたW杯をついに攻略したのである。どうにか借金1周年の危機をいったん回避。夢のようだわ。
あとはとにかくできるだけ早く2014年の分を仕上げたい。あとは今年やった日帰りのお出かけがけっこうな手間なのだが、
これはもう根気よく取り組んでいくしかない。今月GWの四国の分と合わせて、気分転換しながら進めていくつもりである。それではこれから昨日の筑波山関連の写真301枚の整理を始めます……。キリがない! オレの人生、キリがない!
筑波山神社に行くぜ! こないだは天気が不安で回避したけど(→2015.5.25)、一週間とたたないうちに実行だぜ!
朝の6時ごろに家を出て電車を乗り継いで秋葉原へ。つくばエクスプレスに揺られて……と書きたいところだけど、
つくばエクスプレスは本当に揺れないのね(→2005.9.17)。案の定ぐっすりで気がつきゃ終点・つくば駅に到着。つくば市内の観光は後回し。まずはとにかく筑波山なのだ。思った以上に登山客が多い。バスターミナルは大行列がで、
秩父のときに引き続き、乗り込んだバスはほぼ満員状態なのであった。30分ちょっとでバスは筑波山神社入口に到着し、
僕はここで下車。しかし終点のつつじヶ丘まで乗る人の方が多かった。なるほど世間はそういう感じなのか、と思う。
L: やたらとデカい筑波山神社の鳥居。これをくぐれば小規模な門前町。 C: 境内入口。すごい端っこを進む感じだが。
R: 随神門。現在のものは1811(文化8)年に建てられている。神仏習合時代には仁王像が入る仁王門だったそうだ。石段を上りきると見事な拝殿が目の前に現れる。それまでが狭苦しい参道だっただけに、その幅広さがより印象的だ。
1875(明治8)年の築ということで、それなりにきっちり年を刻んだ建物である。なお、本殿は各山頂にあるために、
こちらの拝殿の裏には何もない。まわり込んで撮影してみたのだが、冷静に考えるとこれは珍しい事態なのである。
L: 拝殿を正面より眺める。立派だなあ。 C: 角度を変えて眺める。前にせり出している迫力がある。 R: 背面。二礼二拍手一礼して御守を頂戴すると、左手から奥へと進んでいく。本来ならきちんと徒歩で登山したいところだが、
この後にはつくば市内をレンタサイクルで爆走する予定も守谷市役所まで行く予定もぎっちり詰め込んでいるのである。
素直にケーブルカーに乗るのであった。が、そのまま往復して戻ってくるのも芸がないので、片道切符にしておいた。
ケーブルカーを待つ間はなんとも牧歌的。はしゃぐ家族連れ、山頂の店の人、白い服の人(御守をくれる神職だった)、
いろんな人たちがいる。それらをまとめてぜんぶ乗っけてケーブルカーは動き出す。あっという間に山頂駅に着いてしまった。さてさすがにここからは、ちょっとだけだけど、ちゃんと登山だ。マジメな登山客の最後のピースだけ、僕は徒歩でなぞる。
大股で岩をグイグイ登っていくと、その先に本殿がそびえているのが見えた。まずは男体山山頂にある男体山本殿からだ。
L: 男体山山頂へと向かう道。きちんとした登山のラストピースなので当然だが、しっかり登山な感じ。ナメると大変。
C: 山頂に到着。さっきの麓の筑波山神社にはなかった本殿だが、実はここにあるのだ。 R: 男体山本殿。1955年竣工。こんなに簡単に頂上に着いてしまって申し訳ないのだが、金で解決できてしまうことはけっこう多いのである。
まあいつかはきちんと自分の足で頂上まで到達してみたいとは思っているけどね。どうしても安きに流れるよなあ。
そんなことを思いつつ、戻って鞍部の御幸ヶ原を散策。山小屋的に売店が並ぶが、簡単に来すぎてしまったために、
どうしてもなかなかありがたみを感じられない。登山らしさと日常性が変に同居している感覚で、なんとも不思議だ。
L: 御幸ヶ原より女体山方面を眺める。 C: 売店はしっかり山小屋風味なんだが。簡単に来れちゃうのも問題か。
R: これはコマ展望台の屋上から北側の桜川市役所方面を眺めたところかな。茨城県は山もあるけど平地がいっぱい。御幸ヶ原はケーブルカーの山頂駅からすぐのところにあり、はっきりと男体山側に寄っている。そのまま鞍部を歩き、
お次は女体山方面へと向かう。筑波山は男体山と女体山の2つの峰を持っているが、女体山の方が最高峰となっている。
(男体山の標高は871mだが、女体山の標高は877m。なお、日光の男体山は2484mで女峰山は2483m。うーむ。)
L: こちらは御幸ヶ原から男体山を振り返ったところね。 C: 開けたところから木々の中へと入っていく。
R: 途中にある筑波山名物のガマ石。おーこれは見事なカエルだ。ガマの油売りの口上はこの岩の前で生まれたそうだ。そんなこんなで無事に女体山山頂に到着。男体山の山頂は陸側のせいか今ひとつ景色がパッとしないところがあったが、
女体山山頂からの景色はしっかりと開けている分だけ見応えがある。まあ高所恐怖症にしてみれば、まず怖いんだけどね。
L: 筑波山の北側に連なる山々。 C: 女体山本殿に到着だ。 R: 正面から眺める。こちらは1979年竣工。女体山山頂では、やる気の登山客が岩の突端から景色を思う存分堪能している。でも高所恐怖症の僕はとてもとても。
僕は想像力が豊かだから、いろいろ想像しちゃうわけですよ。こないだ(→2015.5.25)みたいな地震が起きるかも、とか。こんな場所で落ち着いていられる人の気が知れない。5日前に地震あったんだぞ!
それでもせっかくここまで来たわけだから、できるだけ安全そうな岩に挟まって、僕も景色を楽しませてもらう。
抜群に鮮やかな青空なのはよかったが、季節からして空気がそれほど澄んでいるわけではないので、富士山は見えず。
とはいえ関東平野の雄大さを実感できたのはうれしいことだ。やはり筑波山は、下から眺めても上に登っても特別な山だ。
L: 南東方面には山が連なる。途中にあるのは、つつじヶ丘のロープウェイ駅。ゴルフ場も目立っていた。
C: 南側のつくば市街・土浦市街を眺める。やっぱり茨城県は平地が基本なのだ。 R: 男体山を振り返る。帰りもマジメに徒歩で下山することはなく、ロープウェイのお世話になる。日の光を受けて霞ヶ浦が白く染まっていた。
手前の景色がスクロールしながらゆっくりと地上の風景へと戻っていくのは、もったいないような安心するような。
つつじが丘からは待つことなくバスがすぐ出た。10時半ごろという観光には絶好の時間帯なので、帰る客は僕くらい。
まあでもやるべきことはすべてやってしまっているのでしょうがない。この後のつくば市徘徊だって重要なのだ。
L: 高度を落とす中で眺める景色。手前のゴルフ場も面白いが、地平線の方で白く光っている霞ヶ浦も印象的だ。
C: つつじ丘はこんな感じの場所。人がいっぱい。 R: バスの車窓から筑波山を振り返る。しっかり堪能しました。つくば駅のバスターミナルに戻ってくると、地下の観光案内所(駅の改札が地下だから)でレンタサイクルを申し込む。
少し離れた駐輪場を紹介してもらい、そこで自転車を受け取ると、いざ出発。今回はつくばの街をいろいろ分析するぜ!
L: 一段高い歩行者レヴェルより眺めるバスターミナル。つくばエクスプレスのつくば駅はこの地下にあるわけだ。
C: バスターミナルに隣接する一段高いエリアには、つくばセンタービル。磯崎新のやりたい放題でございます。
R: 商業施設も歩行者レヴェルに出入口がある。つくばは明確に歩行者と車を分けている街だ。なんだか幕張に似ている。さて今回は「百聞は一見に如かず」ということで、文章よりもまず写真でつくばの状況を見てもらうことにする。
そこにいつもどおりに細かく注釈をつけていって、つくばという空間の独特さについて論じてみたいと思う。
つくばの街については9年前、「県庁所在地ひとり合宿」を始めて間もない頃に訪れて書いているが(→2006.8.26)、
今回はそれよりもっと詳しく扱ってみたい。まあこの10年ほどでどこまで敏感になったか、勝負ってわけだな。
L: つくば市の中心部。車道と交差する陸橋は歩行者専用。 C: 陸橋コレクションその2。 R: もうひとつ。まず歩行者用の陸橋を写した写真3枚。9年前に「たぶん日本一歩道橋の多い街」と書いたが、その印象は変わらない。
つくば中心部の発想は次のように表現できると思う。高層建築はその足元を公開空地とすることで容積率を確保するが、
その公開空地をかさ上げしてつなげることで歩道とし、グラウンドレヴェルに矩形に引いた車道との区別をしている。
芦原義信『街並みの美学』(→2012.3.15)に出てきたゲシュタルト心理学の「図」と「地」の理論で言えば、
つくばの中心部には「図」と「地」の反転が絶対的に不可能な矩形のブロック(車道)がまず前提としてあるが、
「図」の中にまた「図(建築物)」と「地(公開空地=歩道)」があり、それが反転できる可能性が用意されている。
まあこれはつくばに限らず埋立地にも見られる要素だが、この二重性が独特な空間体験を生み出しているのは確かだ。
あともうひとつ、「陸の孤島」と揶揄されたつくばだが、歩行者は車道の海に区切られた島を行き来する格好であり、
その「孤島」ぶりがフラクタルっぽいというか。高低差があるからよけいに島っぽいのだ。便利なような不便なような。
L: つくば人工空間の周縁部。堂々たる車道の脇に歩道(自転車道)がつくられており、その外側は片田舎そのものである。
C: 車道に出てみた(学園西大通り)。左手にある歩道の方が少し高い。 R: 緑が空間の絶縁体として利用されている。高低差のあるつくばの中心部だが、そのエッジの部分に必ず配置されているのが、緑である。緑はバリアとして機能する。
この障壁については去年、大潟村で実感させられたが(→2014.8.22)、つくばでも同様に移動の意識を制限している。
建前としては、緑は「自然の豊かさ」というポジティヴな言い訳を根拠にしてたっぷりと配置されているわけだが、
じゃあ実際のところ緑がそれだけの存在であるかというと、答えは明らかにノーだ。高低差のあるつくば中心部において、
緑は空間を視覚的に区切る役割も強く果たしている。つまり、緑を直線的に配置することで、視線を一方向に絞っている。
つくばでは、緑が壁となって人間に「見渡す」ことを許さない。つくばという空間の全貌を把握させないのである。
それどころか、上で述べたように移動の意識を制限しており、人間に直線移動以外の行動を想起させないようにしている。
自由に行動できる場所は、「島」の中に限られる。つくばの街に漂うなんとも言えない気持ち悪さ(→2006.8.26)は、
空間が人工的だからという単純な点ではなく、空間を通して人間の行動の自由を制限しているところから来ている。
言葉で制限をかけるのではなく、言葉より前の空間という段階で制限をかけるから、思考を遮られて気持ち悪さを感じる。
L: つくば市役所へ向かう道は典型的な郊外社会となっている。高低差はなく、車道との境界にはロードサイド店の看板が立つ。
C: でも一歩奥へ入ると全国どこにでもある土着的空間が広がっている。飯田で言えば、飯田IC近くのアップルロードと一緒だ。
R: 研究学園駅前。車止めと植栽によって区切られて、車道よりも広く歩道が確保されている。でもただの通路でしかない。ではつくばの中心部を離れて、つくば市役所を目指して西へと走ってみよう。終点ひとつ手前の研究学園駅が最寄駅だ。
中心部が高低差を緑で区切って空間を1次元的に認識させたのに対し、こちらは完全な郊外社会で2次元的に広がる。
だいぶ開放感があり、空間的な印象はかなり異なる。エッジに存在するのは緑よりもロードサイド店の看板となっており、
空間は思考の遮断から欲望の誘導へと質を大きく変えている。別に今さら珍しくもなんともない光景ではあるが、
一歩はずれるとしっかり土着的な正しい日本の片田舎が現れるのが面白い。家があって田畑があって墓地があって、
寺と神社が点在している。神(多神教における神ね)と近代的な都市開発は相性が悪いってわけだ(→2008.7.28)。
L: 南東側から眺めたつくば市役所。 山下設計・つくば建築設計事務所JVの設計で、2010年に竣工している。
C: 北東側より。 R: 北側から眺める。敷地が道路より高いのは、この場合は単純に土地を平らにするためって印象。つくば市の誕生は1987年。谷田部町・大穂町・豊里町・桜村が対等合併して生まれた。Wikipediaによれば、
筑波研究学園都市の建設(1960年代以降)や科学万博(1985年)に向けて政府や茨城県が合併を促したとのこと。
なんせ県知事が各首長を呼んだ5ヶ月後に合併を成立させ、さらに県知事が「つくば市」という市名をつけたくらいで。
(首都機能の移転を目的に自治体の合併をトップダウンで進める構図は、さいたま市と一緒である(→2005.11.8)。
ゼミ論を書くときにつくば市のことを詳しく知っていたら参考になったのになあ、と今ごろ思うのであった。)
合併後は旧谷田部町役場を本庁舎としつつ、合併前の各庁舎を支所・分庁舎として長らくやりくりしていた。
かなり強引な合併劇だったことがうかがえるが、20年以上経ってほとぼりも冷めたのか、無事新庁舎ができたわけだ。
L: 北西側から眺める。 C: 南側。駐車場が広大だなあ。 R: 少し角度を変えてみる。小ぎれいだが、それだけって感じ。来た道を一気に戻って学園東大通りまで出ると、さらに一気に北上して筑波大学へ。9年前にも来たが(→2006.8.26)、
今回は筑波大学とその外側(つくば中心部の東のはずれ)の雰囲気の違いをしっかりと見つめることが目的なのである。
L: 筑波大学の「T」。 C: 筑波大学のキャンパスよりも東側(歩道、南向き)は、自然が剥き出しの状況となっている。
R: 筑波大学の東縁は学園東大通りだが、そのさらに一本東の道路。土着的な曲がった道で、緑によって隔離されている。つくば中心部よりも西側は平坦な土地となっているため、さっき貼った写真を見てのとおり、比較的すっきりというか、
ロードサイド店舗も広がる「開発度合いの高い空間」となっていた。しかし筑波大学の辺りまで北東にはずれてくると、
だいぶ植物たち本来の野生が勢いづいている(まあ大学という施設じたい、都心でもなけりゃ緑を放置するもんだし)。
東側(つくば中心部から見ると外側)の歩道なんてもうひどいもので、写真を見てのとおり、ほとんど公園の遊歩道だ。
さらにその外側となると、完全に茨城の農業地帯でしかない。研究学園都市の上書きぶりと、もともとの姿の差は大きい。
L: 人工空間の上塗りぶり。「つくば」と「筑波」を分ける高低差を、9年前(→2006.8.26)と同じ構図で撮ってみた。
C: 妻木の交差点にて。つくば中心部の外側(東側)にはこのように、昔ながらの街道の匂いがしっかりと漂っている。
R: その反対側(妻木の交差点の西側)、つくば中心部の内側を眺めるとこうなっている。まっすぐな道と緑の障壁。さてここまで来たらやっぱり無視できないのが、国立科学博物館つくば植物園だ。今日は天気も抜群にいいし、
何より植物たちが一年で最も活気づく季節だし、ということで見学。本来はスルーするつもりだったが、結局こうなる。
9年前にはあろうことかデジカメを忘れて写真がゼロという有様だったが(→2006.8.26)、今回はそうはいかないのだ。
L: というわけで、つくば植物園の入口である。9年前は雨上がりの曇り空だったが、今回は絶好の晴天である。
C: 季節の植物ということでアジサイなのだが、右と左でほぼ並んでいるのに完全に色が違うってのはすごくないか?
R: 絶滅危惧種を集めた温室にて。こちらはシビイタチシダ。絶滅とされたが、生きている株が奇跡的に見つかった。季節限定のクレマチス園が開いていたのでお邪魔する。クレマチスとはキンポウゲ科センニンソウ属の花の総称であり、
「蔓性植物の女王」なんて異名もあるそうだ。が、肝心の花たちはだいぶ枯れており、見映えのよいものは少なかった。
とりあえずいくつか選んで撮影してみたが、とても同じ種類とは思えないくらいヴァリエーションが豊かだった。
L: 品種名「藤娘」。な、なるほど。 C: 品種名「雪小町」。なるほどねえ。 R: 品種名「ルージュ・カーディナル」。気が済むと、いよいよ園内散歩を開始する。9年前のログにも書いたが、植物園というのは歩くだけでも面白い。
というのも、全国各地の植生が再現されているということはつまり、ミニチュアの日本一周旅行ができるということだ。
特に今はバリバリ新緑の季節なので、各種の緑色を眺めているだけでも飽きない。これはけっこう贅沢な趣味だと思う。
L: 常緑広葉樹林を行く。 C: 砂礫地植物。奥の方には別の植生が広がる。 R: 水生植物の集まっている池を行く。ではいよいよ温室へ。つくば植物園の温室はぜんぶで3つあるようだ。この日記を読んでくれている人は想像がつくだろうが、
僕は温室というものがけっこう好きなのだ。ガラスと金属による構造物と世界各国の植物という対比は、なんとも刺激的だ。
ネットで軽く調べた限りでは、温室の歴史はオランジェリーを源流とするようだ。オランジェリーとはその名が示すように、
本来温暖な場所で収穫される柑橘類を寒いヨーロッパで育てるために、宮廷の一角に確保された建築空間とのこと。
わざわざ無理をして育てるその贅沢さに価値があるわけだ。オランジュリー美術館ももともとはオランジェリーだったそうで。
現代社会ではビニールハウスがその正当な後継者としてがんばっているが、アトリウム(吹抜)だって負けてはいない。
建築史的にも社会学的にも、温室というものはものすごく深いテーマとなりうるのは間違いあるまい。これは面白そうだ。
そんなわけで凝りだすとキリがないので、温室内部の写真は2つだけに絞っておく。温室とインテリア、深いですねcircoさん。
L: つくば植物園の温室群。大胆なデザインが格好いい。温室の建築ってのは果てしなくロマンだ。
C: ヴァニラってこうなっているのか! この姿だけを見ると、とてもあの甘い芳香が想像できない。
R: 植物たちは温室の形に応じて育てられているようだ。鉄骨とガラスとエスニックな緑たち。実にロマンである。温室を一巡すると再び外へ出てみるが、緑が元気な季節であるにもかかわらず、花の方は意外と目立っていない。
さっきのクレマチスもそうだが、花としての旬は過ぎてしまった感じだ。太陽光線も強くなってきているし、
のんびりきれいな花なんて咲かせていられない時期なのかもしれない。そんな中で咲いていた花たちをクローズアップ。
L: ノハナショウブ。アヤメ・カキツバタ・ショウブの区別は難しい。ショウブは湿った場所、アヤメは乾いた場所だとさ。
C: シモツケ。まさかと思ったら本当に下野国がその名の由来だった。しかし残念ながら、栃木県の花はヤシオツツジ。
R: エキノプシス・フアスカ(花盛竜)。 サボテンの花って、ときどきとんでもないヤツがいるよな(→2013.12.23)。最後はバラ園。Welcome to the Rose Gardenなのだ。「モダンローズ(現代バラ)の誕生」という説明があったのだが、
その内容がなかなかに複雑。ハイブリッド・パーペチュアルとお茶の香りがするというティーローズをかけ合わせ、
「ハイブリッド・ティー」という系統が誕生した。1867年に作出されたこの第1号の品種がラ・フランスで、
ラ・フランス以前が「オールドローズ」、以後が「モダンローズ」となるそうだ。バラの世界も実に奥が深いものだ。
日本古来の遺伝子の芸術といえば金魚だが、植物の分野でも果てしない競争が繰り広げられているのね……と呆れた。
なお、本格的にハイブリッド・ティーに人気が出るのは、第二次大戦終結を機に命名されたピース(Peace)がきっかけ。
花の品種改良の歴史なんて意識したことがなかったけど、バラくらいのレヴェルになると外交も絡んで非常に面白い。
L: バラ園より、「ラ・ノブレス(La Noblesse)」。1856年作出と歴史がある。いかにも絵に描いたようなバラっぽさだ。
R: こちらは2000年作出の「ファビュラス(Fabulous)」。人類はこんな試行錯誤を150年以上やっとるわけか。キリがねえ。そんなこんなで植物園の見学は終了。やっぱり「ついで」で訪れるには面白すぎる場所である。また別の季節に来たいね。
そして本日の最後は守谷市役所を攻めるのだ。当初の予定ではつくばエクスプレス沿線をもう少し攻めるつもりだったが、
植物園に寄った関係で守谷に寄るだけでけっこう精一杯。でもオレは後悔していないぜ。楽しみが先に延びただけさ。
L: 守谷駅。東西に走るつくばエクスプレスと南北に走る関東鉄道が直交する駅である。TX開通でそうとう変化したわな。
C: 駅前を通る国道294号線。駅に近いにもかかわらず、郊外型の雰囲気がする。モータリゼーションの強烈さを実感。
R: 国道を北上した後に左折して、茨城県道46号線を行く。住宅と店舗が適度に点在する田舎の道となる。青梅街道の匂いだコレ。駅から市役所まではそこそこの距離があり、つくばのことやら茨城の原風景やらを考えながら、のんびりと歩いていく。
駅近くを通る国道294号は駅の近所とは思えない郊外型の道路で、田舎っぽさを保ちつつもロードサイド店が点在する。
しかし針路を変えて茨城県道46号に入ると、背景にあった田舎っぽさが前面に出てくる。そしてデジャヴを感じる。
なんだこれと思ってよくよく考えてみたら、小平あたりの青梅街道の雰囲気だった。感触がすごく懐かしいのである。
田んぼというよりも畑、そこをまっすぐ切り開いた道、道路沿いに点在する住宅と個人経営の店、そして何よりも、
無造作にトラックが走り抜けていく工業団地的な土地利用のクセつまり「工場と流通の経路」という無言のアピール、
そういった要素が実に青梅街道的なのだ。大雑把な管理がなされる土の上で繰り広げられる、人工物と緑のせめぎ合い。
その力加減が青梅街道に似ている。不思議なものだが、その本質をもっときれいに言語化できるようにならないといかん。守谷市役所の隣にある守谷中央図書館。三上清一の設計で1995年にオープン。
そんな県道46号をひたすら西へと行ったところにあるのが守谷市役所。もう、いかにもな平成オフィス建築である。
塔の存在が、個人的には東久留米市役所(→2002.10.2)を思い出させる。つまりこれまた青梅街道的雰囲気なのだ。
L: 守谷市役所はなかなか複雑な形をしている。これは図書館側、西側の側面。一般的には裏手ってことになる。
C: そこから南に入って振り返る。 R: 南西側から眺めたところ。庁舎を挟んで県道の反対側に広い駐車場を確保。調べてみたところ、守谷市役所が竣工したのは1990年。やはり平成黎明期のオフィス建築ど真ん中だったのである。
設計は日本設計。ただし竣工当時は守谷町役場で、守谷市は2002年に市制施行して誕生した。いま初めて知ったわ。
L: 東側へとまわり込む。この三角の塔がいかにも平成の発想なのだ。 C: 正面への道は緑の並木となっている。
R: 進んでいくとガラス張りのエントランスホール。木の配置が建物の形状をかなりわかりづらくしている。休日なので非常に閑散としていたが、平日はどのように利用されているのかが気になるタイプの市役所である。
しかしなんとも形のわかりづらい建物だ。直線のデザインと曲線(カーヴ)のデザインが混在しているだけでなく、
それらが木々で微妙に隠されている。撮影しようとしても、これといった決定的なポイントが見つからないのだ。
平面図の庁舎案内図を見てようやく納得したのだが、A~Cまでの事務棟と議会棟の4つの長方形がまずあって、
これらが微妙な斜めの角度でくっついている。さらに端には扇形の食堂もある。そうして全体が「C」の字となり、
その凹んだ部分にさっきのガラス張りのエントランスホールがあるわけだ。そこまでやる必要があったのかねえ。
L: エントランスホール。3つの事務棟をつなぐ曲線となっているが、これって方向感覚が狂いそうだと思うのだが。
C: 出っ張っている扇形は食堂である。 R: 東側のエントランス。こっちもやはり、木々で微妙に隠された格好。以上で本日の任務はすべて終了とさせていただく。単なる登山に終わらず、しっかりと都市社会学になったのであった。
土浦のときもそうだったけど(→2015.1.10)、茨城県には何かそういう特別に社会学的なものがあるのだろうか。
部活がないのでちょっと早めに職場を出て、国立博物館で開催中の「鳥獣戯画─京都 高山寺の至宝─」を見に行く。
平日の17時前だから大丈夫だろうと高をくくっていたが、入口には「甲巻170分待ち」の看板。……うん、見間違いだ。
そう思い込んで早足で平成館へ。入ったらすでに人でいっぱい。エスカレーターで2階に上がったらもっといっぱい。
まるでとぐろを巻くような形で行列が続いているのであった。いや、もう、私は言葉を失ってただただ立ち尽くすのみで。こうなりゃできるだけ要領よく展示を見ていって、できるだけ早く甲巻を待つ列に並ぶしかない。
金曜日は閉館時刻が20時なのだが、この20時までに列に並んだら甲巻の見学を保証してくれるという話。
ってことはつまり、職員の皆さんは日付が変わる頃までお仕事ってことじゃないか。うーん、どっちもとんでもないぜ。
第1会場は仏画が中心で、あんまり興味のない世界なのでさらっと見ていく。しかし高山寺ってまさにお宝の山なんだなあ。
そうして第2会場に入ると、そこは乙巻・丙巻・丁巻の展示。同じ国宝なのに甲巻とだいぶ差があるじゃねーかと思うが、
実際に見てみると確かにかなり粗っぽい。ラフすぎるのである。まあ乙巻の動物オンパレードは面白かったけどね。素早く甲巻の列に並ぶと、iPodで音楽を再生しつつ待つ。30分ほどでホールからさっきの第2会場の方に入れたので、
けっこう簡単に見られるんじゃないの?と油断したら、なんとそこからがまたとぐろ地獄。本気でつらい行列だった……。
結局、甲巻を見ることができたのは並んでからきっちり175分後。3時間弱立ちっぱなしで腰が痛いったらない。
今日は午前中が4時間ぶっ通しで授業だったので、僕は確実に周りの皆さんより立ちっぱなしなのである。泣けたわ。そうしてついに見学できた甲巻だったが、とにかくもう一言、「すげえかわいい」。それに尽きる。
平安時代に動物を擬人化して風刺とする、そのセンスだけでも凄いのだが、描かれている動物がいちいちかわいい。
日本人ってのは延々と漫画を描き続けている民族だと認識しているが(→2004.8.6)、それがさらにいっそう深まった。見学を終えるとやっぱり1階の物販コーナーに行かざるをえないのであった。ここもまたとんでもない混み具合。
さまざまな鳥獣戯画グッズが飛ぶように売れているさまを見て、「資本主義ってすげえなあ」と他人事のように思った。
そしてもうひとつ思ったのは、「優れたデザイン素材ってやっぱり金になるなあ」ということ(→2014.8.22)。
鳥獣戯画の世界はすっかり資本主義の世界に取り入れられて、1000年近く経った今でも大活躍である。
まあこれは間違いなくポジティヴな意味で作品が生き続けるということなので、敬意を表して僕もグッズ購入の列に並ぶ。
日本人のカワイイ文化は永遠に不滅なのであります。……しかしこれでいくら稼いだんだ? すっげえ気になる。ちなみに、僕が帰った20時ちょうど頃には、甲巻見学の行列は210分待ちになっておりました。きゃー
旅行へ行きたしと思へども、今週末は天気がよくないらしいので断念。ふらっと日帰りしたかったのだが。
しょうがないので今後の旅行プランをあてもなく考えてみるが、なんだかイマイチぱっとしない感じのものばかり。
行きたいところはいっぱいあるけど、効率よくまわるルートがなかなかきれいに決まらないのである。
それでもあれこれ考えること自体が楽しいので、実現可能かは置いておいて、あの手この手を探ってみる。最近は御守収集の勢いがついているので、別表神社を中心になんとかならねえかといろいろ企んでいるのだが、
まあ神社ってのは公共交通機関だと絶望的な場所にあるものも少なくない。レンタカーだと一気に解決できるはずで、
そろそろいいかげん車の運転に慣れるべきなのか、とうっすら思ったり思わなかったり。ま、想像するだけですが。
午後、去年のパワーポイントのデータを使って、生徒たちに夏季学園についての説明をした。
まあとにかく落ち着きのないことないこと。本当にひどい。去年よりも幼稚になっているのは気のせいではないだろう。
「よそ様に迷惑をかけるヤツは連れていかねえぞ!」と何度も怒鳴る。中2なのになんとも情けない叱られ方だ……。
今まで本当に甘やかされてきたんだなあと思う。甘やかされているから周りが見えない行動を恥ずかしいと思わない。
「いつまでもお子様扱いされててお前らは恥ずかしくならないの?」というのも僕が叱るときによく使う言葉である。
こういう視点からの言葉がどれだけ響くのか。年々反応が悪くなっているような気がする。困った世の中だよ。もう我慢ならなかったので、帰宅するとすぐに髪の毛を切りにいく。おかげで心身ともにスッキリ。
帰ってきてからはMP3をつくりながら、録画しておいたW杯を観戦。システマティックな毎日を送っているなあ。
今日も今日とて授業、会議、生徒対応、そして雑務。運動会のダメージから生徒も教員も回復しきっていない状況だが、
そんなことはお構いなしに日常が続いていく。放課後には来月の移動教室中の臨時時間割を組む仕事に取り組んで、
おかげで部活のゲームには参加できず。ホント、この仕事は手を替え品を替えいろいろ対応しなくちゃいかんなあと思う。おとといの姉歯では「お前はこの仕事に本当に向いているなあ」と、参加者全員から実感を込めて言われまくったが、
好き放題にしゃべりまくって適度に体を動かせるのは悪いことではない。それは確かだ。……そう思えるということは、
僕が「向いている」ということなんだろうね。ただ、このままで終わるつもりもないのよ。そこをがんばらんと。給食で僕の大の苦手である冷凍みかん(→2012.6.19)が出て、長野県出身のあの娘と「こんなの邪道だ」と意気投合。
やっぱり、今の仕事を面白がることができている。この面白がりっぷりを将来どうつなげられるのか、そこが僕の使命なんだ。
運動会の振替休業日ということで、天気が良ければ筑波山に登ってやろうかなんて企んでいたんですよ。
せっかくの平日休みだからね、土日なら混み合うどこかへお出かけする絶好のチャンスなのである。
でも天気予報では雲が優勢みたいなことを言っているし、昨日の各種ダメージもあるし、銀行と郵便局にも行きたいし、
そんなわけで結局は朝からずっと日記を書いておりました。昼になったら家に帰って、寝かせておいたブラジルW杯を観戦。
夕方になってからまた出かけて日記を書いて、晩メシ食ったらまた出かけて日記と御守の画像整理。なんだこれ。
ちなみにこれを書き終わったらまた家でブラジルW杯を見ます。あと3試合までなんとか漕ぎ着けたぜ。昼、サッカー観戦中に埼玉から茨城の辺りを震源とする地震が起きたのにはまいった。震度4でなかなかの揺れだった。
で、ふと思い出す。筑波山に行ってなくて正解だったのかな、と。交通が混乱したらしくて、思うように動けなかったはずだ。
というわけで、自分は運がよかったということにしておこう。日記を消化しようとがんばっていたからね。いやホントに必死です。
運動会の翌日だけど、サッカー部の夏季大会予選リーグである。その前に今回は副審の担当が入ったので、
生徒たちよりも1時間ほど早く会場入りしてピッチライン際を走りまくる。大きなミスがなくてほっと安心。
しかし数日前の天気予報では雨が懸念されていたはずなのに、今日になったらしっかり晴れでまいった。肝心の試合だが、前の試合で強いチーム相手にこちらの時間帯をしっかりつくった経験が生きたようで、
またなんだかんだで自信もついたようで、生徒たちはキックオフ直後から非常に出足のいいプレーを見せる。
むしろそれで相手が調子を崩した感じで、「最低でもなんとか引き分けに持ち込みたい」と言っていたのに、
はっきりとこちらが優勢なままで試合が進んでいく。そしてFWが練習でははずしまくっていた左足で決めて先制。
申し訳ないけどこういう展開はまったく予想していなかったので、ベンチで僕は内心ドギマギしてしまった。前半を1-0のままで締めると、基本的なことを確認して後半に入る。時間経過とともに相手が動くことも想定しつつ、
同じ要領でひとつひとつ丁寧にやるように指示。思うようにセカンドボールが拾えない点が課題として残っていたが、
ディフェンスがラインを高く設定できていたので、相手の攻撃は本当に危険なところまではそんなに届くことがない。
逆にサイドからカウンターを仕掛けて押し戻す動きがいつもよりはできていて、追加点のチャンスも何度かあった。
結局はそれを決めきることができなかったのだが、相手に攻め手のない状況をつくり出すことはできていた。そんなわけで、まさかの1-0での勝利となった。いや、いつも負けてばかりの相手だったので勝つとは思わなかった。
あらためて思うのは、本当に人間を成長させるのは真剣勝負なんだということ。公式戦でないと実力は伸びないのだ。
今回はそのことをはっきりと見せてもらった。緊張感満載の舞台を乗り越えてこそ、人間は成長するものなのだ。◇
この日はリョーシさんが上京していて、東京ミッドタウンでやっている「単位展」をみやもりと一緒に見に行っていた。
すいません、僕は上記のように部活の公式戦が入って「単位展」を断念。マサルも仕事の一環で予定が入って断念。
どうにか夜になって合流して4人で飲んだのだが、やっぱりテキトーにダベっていくのは楽しいですな!
単位展がやたらオシャンティだったって話から始まり、僕がcirco氏に1万円で買収されて日記に御守コーナーをつくった件、
僕の一橋大学愛、なつかしのテレビ番組動画、「『アヤちゃん』って呼ばれる女の子にハズレはないんよ!」トーク、
職務上で下世話なトーク、緒方賢一の声マネコーナー、熱海ロマンは兄のワガママに弟がガマンしてつきあっていた疑惑、
旅行記は必死で書いているのに姉歯の記録はぜんぜん進んでいないじゃねーか早くなんとかしろ疑獄とか、
まあそんな感じで自由に話が繰り広げられるのであった。久々に頭が痛くなるまで飲んだわ。ではまた来月!
というわけで、運動会本番。特に大きなトラブルもなく、非常に順調に終了。OB・OG協力の片付けもお見事。
やはり運動会は準備までが重要で、そこに至るまでのさまざまな動きの中で、生徒は成長していくものだと思う。
もちろん本番で実力を出しきることも重要。でもそっちはスイッチが入ってしまえばいいので、そんなに心配していない。
一生懸命に準備して、本番では力を出しきって、よかったよかった。当たり前を当たり前にできるのがうれしいね。
午前は授業やって、午後は運動会の準備やって、休む暇がなくってヘトヘトよ。消耗しきってると思う。
「喉から手が出るほど欲しい」という言葉を最初に考えたヤツはだいぶ頭がおかしいと思うが、
それが日本語として定着していることを考えると、日本人もだいぶいい感じにできあがっていると思う。
本日は運動会の予行なのであった。昨年はめちゃくちゃな天候にひたすら振り回されたが(→2014.5.22)、
今年はスンナリ進んで何より。ただ、あまりにもスンナリというかスピーディに進んでいったので、
毎度おなじみ用具係のこっちは、次はコレ、その次はコレ、と軽いドタバタ状態になってしまったのであった。で、「予行をスムーズに進めたいのはわかるが、本番に向けてひとつひとつ手順を確認するために予行があるはず。
そこをないがしろにするのは本番のための予行ではなく、予行のための予行になっているんじゃないのか」と、
打ち合わせで少しキレるのであった。手際が悪いとか冗談じゃねーよ、今の段階で手際が悪いのは当たり前だろ、
という意味のことをオブラートに包んで言う私。行事は行事で大事なんだけど、目的を見失うのは好きじゃない。
トマト愛を語ろうか。
私はトマトが好きだ。愛している。「肉と野菜、これから一生どっちか一方しか食えなくなるとしたら、どっち?」
そう訊かれたならば迷わず「野菜!」と即答するであろう私が最も愛している野菜、それがトマトなのだ。
ふだんトマトばかり偏って食べているようなことはないが、給食のサラダがトマト入りのときは生徒を押しのけて食う。
サンドウィッチはトマト入りのものを優先的に選ぶ。BLTという言葉に弱いが、優先順位はもちろんB<L<Tだ。
ベルディのピザなら、なんだかんだ言って結局、フレッシュトマトを推す(→2005.8.15/2006.8.14/2013.1.3)。
トマトと玉子の炒め物(西紅柿炒鶏蛋)を最初に考えたやつマジ天才、と公言してはばからない(→2014.12.10)。今まで人前でトマトについて熱く語ることはほとんどなかったので、これは意外に思われるかもしれない。
(おそらく母親は「言われてみればそうだなあ」と言うであろう。たぶんそれくらいの程度でしか認識されていない。
でも高校ぐらいから我が家のラインナップに入ってきたトマトのスパゲッティ、あれの異常な食いっぷりで明白なはず。)
はっきりここに宣言するが、私はトマト大好きです。ロッキー山脈でトマトをぶつけられるのをうらやましく思うくらい好き。
いや、むしろオレにトマトをぶつけてくれ。ぜんぶ食ってやる。「ジャガイモくーん!」と叫びながら食ってやる。でもミニトマトはダメだぜ。いくら栄養価が高くても、皮が厚くていけねえ。思いっきりかぶりつけるのがいいんだよ。
先日、わが父であるところのcirco氏が上京した際に、僕の御守コレクションをきちんとまとめたページをつくれと言われた。
日記のうち1日分を割いただけ(→2015.1.11)ではダメだ、誰も気づかねえ、とのご指摘である。まあごもっともだけどさ。
しかし、独立したコーナーをつくって専用の画像を用意して……となると、それはもう、かなりの労力を必要とするのである。
特に最近の日記の遅れっぷりは目に余るものがあるので、僕としてはどうしても乗り気になれない。日記を優先したい。
そしたら別れ際、circo氏から1万円を渡された。「ハイよろこんでー!」と返事する素直なボク。というわけで昨日、御守コレクションのページを開設しました(⇒こちら)。なんだかんだで200体近くの御守があるので、
(つまり今、僕の部屋の壁にはそれだけの量の御守が貼り付いているのである。これは壮観だぜい!)
まずは一宮のものから順次データベース化しております。そのあと、二十二社とか東京十社とかに取り掛かります。
御守コレクションのトップページには、サムネイルにした御守一覧と都道府県別のリストを用意してあるので、
テキトーにあれこれ見てやってください。いずれ関連サイトにリンクしたり、各御守にコメントを入れたりします。しかしサムネイルの御守一覧は、やってみたら本当に面白い。僕の部屋の壁はちょうどあんな感じになっているのだ。
見ていると、和紙だとか端切れ布だとか、日本古来の鮮やかなデザインセンスに通じるものが感じられませんか?
やはり御守には日本の伝統美がきちんと潜んでいたのだ、とひとりウヒウヒ面白がっております。拡充しがいがあるね!
そうだ、秩父へ行こう。秩父には6年前に発作的に出かけているけど(→2009.5.4)、秩父神社の御守がまだだ。
しかしせっかく秩父へ行くからには、秩父神社だけでなく、三峯神社・宝登山神社とあわせて秩父三社を制覇するのだ。
そんなわけで5時台に列車に乗り込み、ゆらり揺られて2時間半、西武秩父駅に到着。もちろんほとんど寝てました。前回の秩父ぶらり旅でも秩父の市街地を歩いて秩父往還やその周辺を味わったのだが、今回は神社が主目的なのだ。
駅から秩父神社までのルートに集中する。……が、やっぱりこれが面白いのである。道が面白いというよりも、
ものすごい密度で国登録有形文化財が集まっている交差点があって、そこで「うひゃー」と捕まってしまったのであった。
みやのかわ商店街が木造の歴史ある商店建築の魅力であふれているのに対し、こちらはとにかくモダンが全開。
L: 番場通りと昭和通りの交差点は宝の山じゃ。まずは1930年ごろの築だという安田屋。肉味噌漬けの店である。
C: 旧大月旅館別館。1926(大正15)年築でアール・デコへの意識が感じられる。現在はバーとして営業している模様。
R: 小池煙草店。昭和初期の築で、専売公社のモデル店舗にもなったそうだ。リニューアルがないのが好きです。安田屋の奥にはカフェ・パリー。1927年築、現役の食堂。こりゃいつか食いたい。
四つ角の3/4が国登録有形文化財というとんでもない魔境に苦しみつつも、どうにか抜け出して秩父神社へ。
やはり6年前にも参拝はしているが(→2009.5.4)、あらためてきちんとあちこち見てみるのである。
L: やっと到着。秩父神社の前を国道が通っているが、秩父鉄道・秩父駅からの道(右)が境内に沿って曲がっている。
C: 手水舎。特に説明がないのだが、凄まじい密度で彫刻が施されており、その精緻さに思わず息を呑んでしまう。
R: 神門。この手前は開けて公園のような印象だが、神門から先の境内はいかにも神社らしい厳かな雰囲気に変化する。秩父神社といえば、社殿に施されている彫刻の見事さで知られている。中には左甚五郎の作品もあるとのこと。
そんな権現造の社殿を造営したのは徳川家康。1592(天正20)年の築だが、修理が行き届いて色鮮やかである。
L: 拝殿。 C: 角度を変えて眺めるが、やはり彫刻の密度がすごい。 R: 本殿。こちらも拝殿同様に彫刻だらけ。細密に施されている彫刻を見ると、日光東照宮(→2008.12.14/2014.10.1)を思い出さずにはいられない。
何か関係があるのかと思ってネットで軽く検索をかけてみたら、「秩父神社を建てた職人たちが東照宮も建てた」とか、
「建築様式は後の日光東照宮のモデルになった」とか、そのような記述を見つけた。家康のお気に入りだったのかも。
L: 左甚五郎による「つなぎの龍」。左甚五郎の彫刻がしっかり施されている点も東照宮と共通している点である。
R: 三猿。東照宮とは対照的に、「良く見て、良く聞き、よく話す」の意味が込められ、「お元気三猿」と呼ばれる。帰りに慈眼寺に寄ってみる。ここの本堂がコンパクトながら見事なので、じっくり見てみたかったのだ。
以前は大きな規模だったらしいのだが、秩父大火に遭って現在のようにコンパクトになってしまったそうだ。
本堂は1901(明治34)年頃の再建とのこと。小さくなったことでかえって高密度な美しさになっている。
L: 慈眼寺本堂。「慈眼大師」といえば天海だ(→2010.1.9)。家康造営の秩父神社と関係がありそうだな……。
R: 見れば見るほど大したものだ。なお公式サイトによれば、慈眼寺の開山は1486(文明18)年とのこと。秩父駅に戻ると、三峯神社を目指すべくバス乗り場へ。しかし乗り場からは人があふれているではないか。
愕然となってその場に膝から崩れ落ちそうになったのだが、次のバスが素早くやってきてほっと一安心。
僕はぜんぜん秩父事情を知らないのだが、この時期は予想以上のハイシーズンぶりなのであった。すごいなあ。バスに揺られること、実に75分。それだけ三峯神社はしっかり奥地にあるのだ。秩父鉄道と並走して三峰口まで行くと、
山道をグイグイ進んで秩父湖へ。そこからカーヴカーヴでどんどん標高を上げていき、やがて広大な駐車場に到着。
駐車場の広さにもたまげたが、それが車でいっぱいに埋まっているのにはもっとたまげた。ここまでの人気とは……。
L: なるほど新緑の季節だと山々が輝いて見える。三峯神社は奥秩父の自然を味わうには絶好の場所というわけか。
C: 三峯神社の三ツ鳥居。狛犬ではなく狼なのも独特である。 R: 狼をクローズアップ。三峯神社は狼が神の使いだ。バスを降りるとそのすぐ脇にある階段を上がって三峯神社の参道へ。あらためて駐車場を見下ろして茫然となる。
なかなか上り坂を進んでいくが、三峯神社が所有していると思われるバスが盛んに行き来してちょっと厄介。
何が厄介かって、ひどく旧式のバスらしく、猛烈な排気ガスを出して去っていくのである。なんとかならんか。
そんなことを思いつつ三ツ鳥居をくぐってさらに奥へと進んでいく。講による寄贈の石碑が並んで神聖な雰囲気。
L: 途中にあった六角形の守衛所。いきなり洋風で驚いたが、詳しい説明がないのが惜しい。なかなかだと思うのだが。
C: 参道左手へ下っていったところに随身門。「随神門」ではないみたい。よくわからん。1792(寛政4)年の築。
R: 抜けるとこのような自然色豊かな参道。それでも石碑が並んでいる。自然と人工のバランスが祭祀空間らしい。三ツ鳥居から参道はタテ、ヨコ、タテという感じになっており、今度は右手に石段が現れる。これを上がれば拝殿だ。
案の定、参拝客でごった返しており、スッキリと撮影するのがなかなか難しい。あれこれ知恵を絞って撮っていく。
L: こちらの石段を上がれば拝殿前に出るが、帰るときにはこの石段にまで参拝したい客の列が延びていた……。
C: 石段を上がって左手の手水舎。こちらも秩父神社と同様、東照宮的な価値観だ。1853(嘉永6)年の築。
R: その反対側には1857(安政4)年築の八棟木灯台。なお、両者の間にある青銅鳥居は1845(弘化2)年の築。三峯神社の拝殿は1800(寛政12)年の建立。手前にある手水舎なども東照宮的な価値観によるデザインだが、
後年になって秩父神社とスタイルを合わせて建てていったということだろう。濃い自然の中でうまく威厳を感じさせる。
L: 拝殿の前にはちょうど左右に大きな杉の木が立っている。パワースポットを感じるべく幹に抱きつく人が多数。
C: 拝殿。どうしても行列が途切れないのね。しょうがないのね。 R: 角度を変えてもやっぱり装飾がすごいぜ。拝殿の向かって左側に授与所があり、無事に御守を頂戴できた。さらにその先の建物の中は三峯神社グッズ売り場。
神の使いである狼に関連するグッズが多数置かれているのが印象的だった。さらにその奥にはレストランがあるのだ。
その反対側になる境内の南東には摂末社が一列に並んでおり実に壮観。一段下には1908(明治41)年築の神楽殿。
L: 本殿は1661(寛文元)年の築で他より古い。三峯神社は修験道の舞台であり、もともと神仏習合度合いが高い。
C: 一列に並ぶ摂末社。これだけ規則正しく並んでいるのは珍しい。 R: 神楽殿。こちらはだいぶ簡素である。三峯神社は雲取山登山の入口にもなっている。それだけ秩父の奥深くにあるのだ。参道からは雲取山がはっきり見える。
遠近感の関係で左手前にある山の方が高く見えるが、明確に尖っているその姿はやはり、さすがの威厳を漂わせている。
標高2017mの雲取山はご存知のとおり、東京都の最高峰であり最西端だ。それだけ聞くと「いつか登ってもいいかも」と、
ついつい甘いことを考えてしまいそうになるが、距離が長くて時間がかかるので1泊2日が標準とのこと。うーん、面倒くさい。はっきり尖っているのが雲取山。名前がいいよな、雲が手に取れるほど高い山。
バスに揺られて戻るのだが、帰りは三峰口駅で降りた。開業は1930年で、おそらく駅舎は当時から変わらないのだろう、
広々として風情があり堂々としていた。じっくり写真を撮ってまわるだけの時間的余裕がなかったのがもったいない。駅舎を正面から撮影するくらいの時間しかなかったのが残念。
秩父鉄道でそのまま北へ抜けていって長瀞駅へ。前回秩父を訪れたときにも下車したのだが(→2009.5.4)、
今回は渓谷とは反対側にある宝登山神社が目的なのだ。荒川を背にして駅からまっすぐ西へと進む。太陽が眩しい。
広い道はゆったりとした坂道になっており、思っていたよりもしっかり歩かされる。10分ほど歩くとどん詰まりで、
ここが宝登山神社である。参道は右手に続いており、鳥居をくぐると一気に厳かな雰囲気へと変化する。
L: 国道140号との交差点に大鳥居。 C: くぐるとじっとりとした坂道が続く。 R: やがて神社の駐車場に到着。宝登山神社は三峯神社と同じくヤマトタケル伝説による神社だが、三峯神社ほど修験道・神仏習合色は強くない感じ。
しかしこちらも拝殿に施された色つきの彫刻が見事である。2009年に改修工事が完了しており、このとき塗られた模様。
参道は山に向かう坂道だったが、境内はさらに一段高いところにあり、そんなに広くはないけど緑に包まれて居心地がいい。
L: 鳥居をくぐると、いかにも神社らしい厳かな空気となる。 C: 石段を上って一段高いところにある拝殿を目指す。
R: 拝殿。1874(明治7)年の竣工だが、2009年に改修工事が完了した。やはりこちらも彫刻が施されて立派である。しかし本殿よりも奥の方に進んでみると、緑が急に深くなって湿り気が強くなる。その変化に少し戸惑ってしまった。
それはいかにも自然空間と人工空間の境界という感触である。山と人里の境界、そういう場所なのだと思わされる。
L: 角度を変えて拝殿を眺める。彩色をやりすぎず、上品な程度に留めているバランス感覚が偉いと思うわけです。
C: 本殿。権現造なので拝殿とくっついている。 R: 授与所付近は休憩するのにいい穏やかな雰囲気なのだが。というわけで今日一日で秩父三社を無事に参拝してまわってみた。社殿をそれぞれ似せる努力ははっきり感じたものの、
それぞれの神社のもともとの位置づけというか本来の性格は、実際のところは意外と三社三様であることがわかった。
秩父神社は歴史ある街の歴史ある神社。権力者の支持をストレートに誇りへと結びつけており、直接的な価値がある。
対照的に三峯神社は神仏習合した修験道の性格が強い。修験道は人里離れた山奥だからこそ修行の価値を持つ。
そして空間的に両者の中間に位置するのが宝登山神社だ。自然と人工の境界という本質を今なおしっかり残している。
これらを一日で一気にまわるというのは、社会学的にかなり痛快な体験だったと思う。天気もよくって実に楽しかった。
L: まあ当然、ここまで来ておいて長瀞渓谷に行かないわけはないのである。 C: 船から眺める景色もいずれ体験せねば。
R: 長瀞駅の駅舎も1914(大正3)年竣工という歴史的建築なのだ。長瀞渓谷はそれだけの景勝地だったってことなのね。久しぶりの秩父地方だったが、しっかり堪能したのであった。秩父市役所が建て替えになるからね、また来ないとね……。
いよいよ夏季大会がスタートである。初戦の相手はなんだかいつも対戦しては負けている印象の、ダニエルの母校。
いいかげんこの学校とは戦いたくないのだが(飽きたから)、何かと縁があるようで、大会のたびに対戦している。実はこの日記ではまったく触れていなかったのだが、いまウチの部活は大ピンチなのであります。
とにかく人数が足りなくて、1年生を引っぱり出さざるをえない状況が春季大会から続いているのだ。
まさか11人そろえることすら危うい事態になるなんて思っていなかったので、コーチと頭を抱えながらやっている。さて試合は結局、0-3で敗れてしまったのだが、戦いぶりとしては悪くなかった。春季大会でコツをつかんだのか。
途中、明らかに相手が冷静さを失った場面があり、どっちがネコでどっちがネズミだかまったくわからない状態になった。
そこまで追い込んだのはわれわれのプレーが良かったからだ。われわれは、強者の戦いがはっきりできていたのである。
観戦に来た親御さんたちもその点には満足したようで、敗れはしたものの表情は明るい。実際、面白い試合だったのだ。しかし肝心の生徒たちが満足感に浸っていたのにはまいった。確かにいいプレーを連発してみせたのは事実だ。
相手はいつもの相手ではなくなっていて、完全にわれわれに呑まれてしまっている愉快な時間帯をつくることができた。
「でも負けたんだぞ」と釘を刺したのだが、生徒たちの脳みそはまるで糠のようにとろけてしまっていた。
キレ気味に「オレたちが欲しいのは結果だ、結果がすべてなんだ! いいプレーをして負けてもスコアには残らない!」
そう熱弁を振るったのだが、連中はうっすら恍惚の表情を浮かべたままなのであった。こんなんで大丈夫なのか!?
今日も雑務で忙しかったでござる。もうそれだけ。つらいつらい。
過労死しそうな感じ、と言われちゃったんですけど。疲れが抜けきっていないところに授業授業で運動会練習。
運動会練習はふだん空き時間になるところに飛び込んでくるので、本当に休みがない状況になるのである。
これで今週末から夏季大会の予選リーグがスタート。オレ、これからどうなっちゃうんだろう……?
本日は夏季大会についての顧問会なのであった。日程が決まったのはいいが、いろいろとギャー!
まずブロック大会に進める枠が広がったことが大きい。これはひょっとすると、ひょっとしてしまうかもしれない。
一生懸命やった結果として勝ち進む分には別にいいのだ。こっちとしては忙しさが増して体力的にキツいが、
正当な努力が正当な評価を受けることについては好ましく思うから。多少は苦しくても喜んでお付き合いしますよ。しかし何よりギャー!なのは、もし勝ち進んでいった場合、スケジュール的にかなりの無理が生じてしまうこと。
具体的に言うと、土日ではなく平日に試合が組まれる可能性があるのだ。これはブロック大会の枠が広がったことで、
順位決めの試合をきちんと公正にやらなくちゃいけないから。負ければあっさり引退だが、勝てば試合三昧。
生徒たちにはいい刺激になるのかもしれないが、こっちは休めない日々が延々と続くことになる。うう……。
まあ3年生の引退がかかった大会なので、行けるところまでとことん行くしかないのである。どうなることやら。
部活の夏季大会と夏休みの工事のせいで、いろいろと予定が決まらないの。これは困った。
ついこの間まで四国やら新潟やらに行っていたくせに旅行が生き甲斐となっている僕としては、
今後の予定が立たない事態というのは気持ちが悪くって仕方がない。妙に不安になってしまうのだ。
あっちに行きたい、こっちにも行きたい。バランスをとるためにも、お安く予約するためにも、なんとかならんか。
早くも運動会の練習がスタートしやがった。例年、運動会は6月になるかならんかぐらいのタイミングなのだが、
今年は1週間早いのだ。だから練習開始も1週間早い。おかげで時間が進むペースがよけいに速く感じられる。
自分の感覚だと、テスト・夏季学園の下見・運動会練習と、まさに息もつかせぬ連続攻撃そのものなのだ。
本当に休むヒマもなく次から次へとイヴェントが攻めてくる。ただただ翻弄されるままに過ごしております。
circo氏が上京してきた。どこか行くところねーかーということで、じゃあオレは明治神宮の御守が欲しい、と。
僕が東京で暮らすようになって20年近く経ち、区内に引っ越して15年目を迎えているにもかかわらず、
なんといまだに明治神宮に行ったことがないのである。そんなわけで、いっちょ行ってみようぜ、と提案。
circo氏はあんまり面白くないんじゃないの、というイマイチな反応だったが、ほかにアイデアもないので代々木へゴー。
代々木駅前でメシを食ってから南下していって明治神宮に参拝し、そのまま渋谷へと抜けてしまうという案である。
原宿より代々木の方がメシが食いやすいと判断したのだが、circo氏は「なんでそんなに代々木に詳しいの」と言う。
それは僕が共産党だからということではなく、単純に夜行バスのターミナルがあるのでわりと行く機会があるから。
あらためてそう考えると、やっぱり旅行しまくってるなあ、としみじみ思わざるをえない。だって旅行って楽しいのよ。代々木駅前には明治神宮北参道の社号標があって、メシを食い終わると、いざそこから歩いていく。
高速の下をくぐると緑が多くなり、5月の容赦ない日差しから一変して、穏やかな雰囲気の通りとなる。
参道はさらに緑が豊かで、その涼しさにcirco氏の態度もまた一変。さっきまで乗り気じゃなかったくせになあ。
circo氏が感心していた明治神宮の緑についてWikipediaで調べたところ、もともとこの場所は森ではなく、
人工林を意図的に自然林化させたものだそうだ。種類を決めて計画的に植林しておくことによって、
100年後に自然な広葉樹林として仕上がるという話。そろそろ100年近くになるので、これが完成形ということか。
(明治神宮のHPに写真入りで説明がある。整備された公園でなく自然を再現した森、というのが日本らしさか。)
L: 北参道入口。5月ということでやたらと鋭い日差しだったが境内に入ると空気は一変。緑の威力を実感したねえ。
C: もともとこの地は彦根藩主・井伊家の下屋敷だったが、南豊島御料地を経て1920(大正9)年より明治神宮となった。
R: 境内は大賑わい。特に外国人観光客が目立つ。東京を代表する大きな神社となると……うーん、なるほど明治神宮か。日本人の参拝客ももちろんいるが、特に外国人観光客が多い。なるほど、日本に観光に来て、東京に来て、
じゃあ日本を象徴する空間である神社を見てみようとなると、規模からいって明治神宮という選択になるわけか。
そんなことを話しながら二礼二拍手一礼。結婚式を挙げている人もいて、それもまたいい観光資源化している模様。
L: 拝殿。人が多くてうまく撮影できない。 C: 南神門。明治神宮の御守は細長くて独特な形なのであった。
R: 参道の雰囲気は熱田神宮(→2014.11.9)に似ている。そういえばあっちも外国人観光客に人気だったなあ。正直、僕としては明治以降の「神宮」にはあまり興味がない。というのも、過度にスケールを大きくすることで、
天皇の威厳を表現しようという傾向を感じるからだ。宮崎神宮(→2009.1.8)も橿原神宮(→2010.3.29)もそうだった。
平安神宮も内国勧業博覧会を経て広々とつくられ(→2014.12.13)、北海道神宮も堂々とした参道だ(→2012.8.21)。
(琵琶湖で土地に余裕のない滋賀県の近江神宮はややコンパクト(→2014.12.13)。でも広くつくりたい意志は感じる。)
もちろん明治神宮にもその要素をはっきり感じるものの、都会の真ん中に自然をつくるという「挑戦」があるので、
その分だけすんなりと受け止めることができている。天皇の威厳と重ねつつも自然を尊重する姿勢をはっきりさせるのは、
やはり伊勢神宮に通じるものがある(→2007.2.10/2012.3.31/2014.11.9)。これはすごく好ましいことに思える。境内にある休憩所の明治神宮文化館でコーヒーをいただく。屋外に置かれたテーブルでしばらくのんびり過ごしたのだが、
やはりcirco氏はどこか上機嫌なのであった。いやー、よかったよかった。しかしこのオープンカフェというのは、
神社の境内にある緑を味わうには非常に的確なやり方だ。和魂洋才ということで明治神宮の参道にはワインの樽があり、
その向かいには神社ではお馴染みの酒樽が並んでいる。そうして両者を対比させた光景はとても象徴的で興味深かった。
(個人的には酒樽のデザインに特に興味津々。その土地の特性を、言葉と絵、そして書で表現したものだから。)
そしてオープンカフェというのもまた、明治時代を象徴したこの「和魂洋才」に通じるものである。実に上手い工夫だ。
L: 明治神宮の参道に並ぶワインの樽。説明板によれば、明治天皇はワイン好きだったそうで、その縁での献納とのこと。
C: ワインの反対側には伝統の酒樽。日本全国の酒が並んで実に壮観だった。あらためてデザインのひとつひとつが面白い。
R: 表参道の鳥居。日本・海外を問わず参拝客でいっぱいで撮影しづらいのなんの。でもまあきちんと参拝できてよかった。原宿駅の裏側に出ると、歩道橋で南へ。右手に代々木公園が見えてそれも魅力的だったが、それはまた次の機会に。
とりあえずそのまま歩道橋を行くと、すぐに特徴的な形の体育館が現れる。正式名称は「国立代々木競技場」。
言わずと知れた丹下健三設計の大傑作である。第一体育館と第二体育館があり、どちらも1964年に竣工した。
この1964年は東京オリンピックの開催年。東京には今もオリンピックの競技施設として建てられた建築がある。
柔道会場だった日本武道館(設計:山田守)、レスリング会場だった駒沢公園の体育館(設計:芦原義信)がそうだ。
(メイン会場だった国立霞ヶ丘陸上競技場(設計:片山光生(建設省の技師で、奈良県庁舎の設計者))、
バレーボール会場の駒沢公園屋内球技場(設計:東京都オリンピック施設建設事務所)は、残念ながら取り壊し済。
重量挙げ会場の渋谷公会堂(設計:建設モード研究所)も隣の渋谷区役所とともに改築される予定となっている。)
そして競泳の会場となったのが第一体育館で、バスケットボールの会場となったのが第二体育館なのである。
上記の設計者を見てのとおり、東京オリンピックの競技施設は、当時第一線の建築家たちに割り振られた。
彼らは高度経済成長期に入った戦後の日本の実力を世界に向けて発信すべく、それぞれに全力で作品を出してきた。
中でも特に、丹下の代々木体育館は見る者すべての度肝を抜いた。50年以上経った今も、そのままの姿をみせている。
(本当にきれいな状態が保たれており、国が価値を認めてしっかりと金をかけて整備していることがうかがえる。)
L: 歩道橋から見た国立代々木競技場第一体育館。丹下健三の設計で、構造の坪井善勝の名がクレジットされることも。
C: 敷地内に入ってもあんまり変わらないね。 R: この角度から見ると、この建物がまんま吊り橋なのがわかる。北から南へと第一体育館を眺めながら歩いたのだが、間近で見るとその大胆すぎるデザインにただ圧倒される。
そして屋根の構造が吊り橋そのままであることもよくわかる。吊り橋で巨大な屋根をつくる、なんという発想なんだろう。
circo氏とあれこれ語りながらゆっくりと移動して見ていくが、どの角度から見てもこの建築は衝撃的なのだ。
L: 南側へとまわり込む。この曲線がまた衝撃的だ。 C: 第二体育館側から眺めたところ。ものすごい造形センスだ。
R: 敷地南側の出口から眺めたところ。天井の吊り橋アーチもすごいが、円形に出っ張る窓の曲線がやはりとんでもない。僕は修士論文で府中市の公共建築を対象にした。建てられた公共建築が年代によってどう変化していったのかを調べ、
それをもとに各時代における社会の要請を読むという内容だったのだが、その経験から代々木体育館を眺めてみると、
「なるほど」と思わされることがある。1週間ほど前にも触れたが(→2015.5.2)、それについてさらに書いてみたい。高度経済成長を経て「戦後」社会が落ち着くと、文化施設を建設する流れが生まれる。公会堂と体育館の時代だ。
公会堂は、地方における民主主義を象徴する空間として、市民の文化活動のための施設ということで求められた。
体育館も同様に地方の民主主義の看板を背負っており、市民のスポーツ文化の器として建設が求められたのだ。
(これは両者一緒に建設された例もある。たとえば増田友也設計、1961年竣工の鳴門市民会館(→2011.7.16)。)
両者に共通している要求は、「柱のない大空間をつくること」である。これに日本の建築家は鉄筋コンクリートで応えた。体育館の具体例として、まずはDOCOMOMO物件に選ばれている新潟市体育館を挙げてみる(→2014.10.18)。
設計は宮川英二+加藤渉で、1960年の竣工。60年代は凝ったホール・体育館建築が百花繚乱の様相を呈したが、
その最も早い時期に鉄筋コンクリートならではの意匠を提案してみせたのは、世間に衝撃をもって迎えられただろう。
代々木の前年、1963年には佐賀市の市村記念体育館が竣工している(→2011.8.7)。こちらは坂倉準三の設計だ。
体育館建築が単なるハコモノではなく凝りに凝った意匠を持っている点は、当時における重要性と記念性を物語っている。
またこの日記で扱った事例では、蒲郡市民体育センター(蒲郡市民体育館)も特徴的であると思う(→2012.12.29)。
こちらは1968年の竣工で、設計は石本建築事務所だ。1960年代後半に組織事務所がこの仕事をしたという事実は、
各自治体で競うように文化施設が建設されていき、技術も記念性もノウハウとして蓄積されていったことを示すと思う。そのような流れの中で、丹下健三は突出した造形センスを見せる。ホール建築ではないが、鉄筋コンクリートということで、
まず挙がるのが1955年の広島ピースセンターだ(→2013.2.24)。鉄筋コンクリート建築の頂点をいきなり極めた感がある。
同じく50年代には旧東京都庁舎(1957年竣工 →2010.9.11)と香川県庁舎(1958年竣工 →2015.5.3)があるが、
丹下は「シティ・ホール」の概念を掲げており、庁舎建築に市民のための空間性を持ち込む意図を明確に持っていた。
(これに反抗する形で、建設省が県庁舎建築の設計に関わりシンプルな庁舎を建てた。→2008.9.13/2014.8.22)
そして多様な公共建築の建設によって地域の誇りと行政サーヴィスを実現する60年代に、丹下の仕事も広がりを見せる。
時代の空気を鋭敏に悟りながら、それまでの直線的で端整なデザインを離れてどんどん自由な造形を世に出していく。
1964年竣工の香川県立体育館(→2015.5.2)は、その「新しい丹下」を象徴する最初期の作品であると言えるだろう。
丹下は世界に向けて代々木であまりにも大胆な造形美を提示したが、そこへ至る助走のような思い切りを感じさせる。
このふたつの体育館以降、丹下は「モダニズムの建築家」から「変幻自在なデザインリーダー」へと進化したように思うのだ。
経済の成長と技術の革新、時代の変化とともに変化する状況に完璧に対応し、トップとして君臨し続ける存在となった。
これだけ柔軟にデザインのスタイルを変化させ続けた建築家はほかにいない。唯一思いつくのは、ル・コルビュジェだろう。
コルビュジェはモダニズムのど真ん中を走っていたにもかかわらず、1955年にいきなりロンシャンの礼拝堂を建てた。
このコルビュジェの変化を、丹下は何度も何度も繰り返して脱皮していった印象がある。そして彼は時代をリードし続けた。
丹下の変幻自在ぶり、つねに周囲より一歩も二歩も先を行く造形センスは、ほかのどの建築家と比較しても特異である。
「いちばんすごい建築家は誰か?」という乱暴な質問があるとして、おそらくその答えは「丹下健三」に収束するだろう。
コルビュジェではなく、丹下健三。好き嫌いを超え、最も社会を味方につけて最も社会に影響を与えたのは、丹下だ。
L: こちらは第二体育館。小さい分、力いっぱいの吊り橋構造ではなく、純粋な記念性を感じさせるデザインだと思う。
C: エントランス部を正面に眺めたところ。これもまた丹下の造形センスが爆裂している。 R: 両者を眺めながら退出。丹下の作品を見れば見るほど、その想像力に驚かされる。……というような話をcirco氏としながら代々木を後にした。
そのまま渋谷まで歩いてお決まりの東急ハンズ。7Fカフェのバルコニーでいただくコーヒーはいいもんですねえ。
午前中は授業で、午後は練習試合で、それが終わって夜までテストの採点よ。遊んだ分は働かないといかんのだ。
いや厳密に言うと遊んでばかりでなくて、おとといと昨日については立派に仕事なんだけどね。楽しんで仕事しました。
その楽しんだ分を一気に取り返すというのは、当然ながら非常につらいものである。わかっちゃいたけど大変だ。
夏季学園の下見2日目である! 今日もマジメに仕事をするのだ! ちゃんとこの地域の実情を肌で感じないとね!
朝、宿舎から外を見た風景。これは見事でございますな。
本日はまず、宿の中のあちこちを見学してまわる。そうして宿を離れる前にあらためて確認事項をつぶしておいて、
その後に昨日休館日だった「森の学校」キョロロを見学。館内を軽く見学させてもらって施設の感じをつかんでおく。
十日町を含む越後妻有(つまり)地域では、2000年から地域全体を舞台とするトリエンナーレを開催している。
(「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」が正式名称である。越後高田出身の北川フラムが中心とのこと。)
今年はちょうどその当たり年となるのだが、この第2回開催に合わせて建てられたのが、「森の学校」キョロロ。
外観はヘビをイメージしたんだかで、わざと錆びる素材で建てられており、だいぶいい具合に錆びてきたとのこと。
アートという範疇で覚悟を決めてつくったのであれば、僕はそういう公共施設については肯定的に受け止める。
L: 十日町市立里山科学館 越後松之山「森の学校」キョロロ(正式名称)。「長さ」のある建物なのでカメラの視野に収まらない。
C: 左の写真で写っていない側。手塚貴晴+手塚由比の設計で2003年竣工している。アートという文脈なら十分アリだろうな。
R: 「キョロロの森」という名前の自然散策コース。雪のせいで先の方まで行けなかった。4m積もるってのは想像がつかないぜ。係の方に軽く案内してもらったのだが、それだけでもなかなか面白かった。僕は正直なところ教員であるより前に、
まず自分が最高の生徒なんですよ。まあ本番ではもっとじっくり説明が聞けるだろうから、それを楽しみにしておこう。
L: クロサンショウウオの卵。な、なるほど。 C: 隣は「美人林」と呼ばれるブナ林となっている。フォトジェニック!
R: この時期の美人林は、木の周りだけ雪が融けた独特な姿となる。生きているってことですなあ。面白いもんだ。最後に駅の2階にあるホールを見学させてもらう。ここで最終日の朝にお別れ会をやる予定になっているのだ。
1階の駅に接続する辺りには小規模ながらもお土産売り場。ここも生徒たちが混乱しないようにラインナップを見ておく。
これで下見はいちおう終了である。しかしまだまだ時間はたっぷりある。素直にこのまま帰るはずなどないのである。
自腹であちこち見に行って、十日町市周辺の感じをしっかりつかんでやる。そう、これは任務なのだ。趣味ではないのだ!というわけで、まつだい駅周辺からのスタートだ。少しカマドウマっぽい形状をした「農舞台」という建物があって、
そっちに近づいていったらさっそくありましたよ、草間彌生。やはり草間はわかりやすくアートなのだ(→2014.8.22)。
ほかにも作品がなかなかの密度で配置されていて、ちょっと驚いた。トリエンナーレのたびに常設作品が増えるのか。
L: 見た瞬間にそれとわかる草間彌生。やっぱり観光客たちの絶好の記念撮影ポイントになっていたのであった。
C: 棚田にシルエットを配置。農舞台からだとこれを背景に吊り下げられた詩が見られる。 R: ゲロンパだって。最初はどんな感じでスタートしたかは知らないが、現在の姿は継続の結果だ。地元民も穏健に受け容れている模様。
さすがにこれだけの分量・密度になってくると、無視することはできない。現代美術が農村で息づく光景はなんとも独特。
L: まつだい雪国農耕文化村センター「農舞台」。MVRDVの設計で2003年竣工。僕にはカマドウマに見えてしまう……。
C: エントランスに至る通路。地元のじいちゃんばあちゃんの方言による挨拶が流れる。 R: 下から覗き込んだところ。では農舞台の中に入ってみるのだ。白でカラーリングされていた外観とは異なり、中は暗めのグレーで塗られている。
ただし各部屋は原色のカラーリングになっていて、グレーを背景に各部屋の存在がより深く印象に残るようになっていた。
内部の主な構成は展示室・レストラン・ショップ。レストランは地元の素材を使ったヘルシーなメニューが売りのようだ。
展示室で印象的だったのは、すべてが黒板の塗料で塗りたくられた教室。実際にチョークで落書きして作品に参加可能。
ふだん書けなかったところにも書けちゃう、というのも狙いである模様。僕としては非日常感がちょっと興味深かったのみ。
L: 農舞台の内部。左の黄緑がミュージアムショップで、右の青い明るい部屋がレストランとなっている。
C: ショップのラインナップはなかなか。地元のオシャレ工芸にかなり力が入っている印象を受けた。
R: 農舞台の屋上に上がってみた。白い鉄骨で覆われているのは階段の出入口やエレベーターの機械など。農舞台のすぐ近くには「まつだい郷土資料館」があったのだが、正直なところ僕が最も衝撃を受けた建築物はコレ。
1935年築とけっこう新しいが、その分だけ状態は良い。もとは地元の豪農の邸宅で、2009年にまつだい駅南に移築。
L: まつだい郷土資料館(旧室岡家住宅)。新しいので文化財などには指定されていないが、非常に興味深い設計だ。
C: 角度を変えて正面を眺めたところ。 R: 背面。まわり込んだらこれで、しっかりと雪が残っていることに驚いた。中に入ってまずその開放的な空間に驚いた。入ってすぐ左手の小部屋が受付&管理室になっているのだが、
ここはもともと馬を飼っておくスペースだったという。改装して部屋にしているわけだ。それがまた巧くできていた。
土間から床に上がれば開放感のある居間という印象だが、振り返って驚いた。土間の上に中2階の廊下があるのだ。
コンパクトな中に工夫を凝らした空間構成で、これは格好いい!と大いに感心。こんな家に住んでみたいわ。
今までなんだかんだ、あちこちでさまざまな民家を見てきたけど、ここまで洗練されていると思ったものはほかにないね。
L: 土間から眺める1階。開放感があって明るい居間という印象だが…… C: 畳に上がって振り返るとこの光景。これはいい!
R: 2階もまた立派なのだ。1930年代の豪農の家だそうだが、伝統を受け継ぎつつ大胆に再解釈した空間が実に魅力的だ。2階がまた凄くて、神棚にはいろんな神社のお札がびっしり。奥の床の間も立派なもので、豪農ってすごいもんだと感心。
戦前までの日本って、できる男はとことんできる社会だったんだなあとしみじみ思った。現代社会は誘惑がいっぱいさ。
そんなわけで列車が来る時間ギリギリまで見学させていただいた。この住宅は本当にかっこいい!と心の底から感動した。
L: 2階の床の間。家主の教養を感じるぜ。 C: 民具が置かれた部屋。梁がすげー! R: 離れの蔵もあるぜよ。まつだい駅を出ると素直に1駅、隣の十日町駅で下車。自腹で市内を探検しちゃうのだ。まずはレンタサイクルを借りる。
そしたら猛烈に腹が減ったので、昼メシに蕎麦をいただいた。が、大盛を注文したにも関わらず、出てきたのは二口サイズ。
この程度の量で足りるわけねーだろ!と内心大いにムカついたのであった。オレが食い物に不満を持つなんてよっぽどだぜ。さて、十日町市だ。昨日書いたようにほくほく線には超快速があるが、十日町駅はその超快速が唯一途中で停まる駅だ。
そしてJR飯山線も通っている。山深いこの地域の中心都市らしく、思っていた以上に街らしい雰囲気を持っていて驚いた。
特に駅から広がるアーケードの商店街が比較的元気がいい。雪が多い地域にはもともと「雁木」「こみせ」文化があるが、
それにしても活気を感じさせる。僕が小学生くらいだった頃の飯田と同じ匂いがした。十日町は高低差が少しあるけど。
L: 十日町駅、JR側。昔ながらのターミナル感がある。裏には新しいほくほく線の駅が貼り付いているが、行き来が面倒くさい。
C: 駅から延びるアーケード商店街。 R: もう一丁アーケード。雪国ということもあるが、アーケード商店街が元気である。市街地の南端に十日町高校があり、その南に十日町市役所がある。ちょうど建物の密度が変わる地点に位置している。
建物の雰囲気じたいはいかにもなお役所だが、けっこう幅があってきれいにカメラの視野に収まってくれない。困った。
L: 十日町市役所。1968年竣工の模様。 C: ほぼ正面から眺める。収まらない。 R: エントランス付近は緑でいっぱい。正面に比べると背面は駐車場があるものの、かなりすっきりしており撮影しやすい。一見するとなんでもない光景だが、
建物に近づいてみると1階分の段差がある。もともと市役所は1階を少し高くつくっていて、坂を上って背面にまわると、
ごく自然な3階建てのように見えるというわけだ。なんでわざわざこうしたのかはわからないが、珍しい事例である。
L: 実は4階建てだったのだ。 C: 背面から見ると自然な3階建てにしか思えない。 R: こちら側は非常にすっきり。市役所の撮影を終えて、いよいよ十日町にある国宝とご対面だ。新潟県唯一の国宝、そして縄文土器で唯一の国宝。
縄文時代と聞けば誰もが想像する火焔土器が、ここ十日町市博物館に展示されているのである。これは見なくちゃね!
300円の入館料を払って中に入る。展示内容は典型的な歴史と民俗の紹介だが、奥へ進むと特別展示スペースがある。
そこには棚に置かれて無数の土器が並んでいた。そして棚の前の特別ステージに、選び抜かれた土器が3つ置いてある。
真ん中にあるのが、指定番号1の「縄文雪炎(じょうもんゆきほむら)」。まあ要するに、絶対的エースってやつだ。
縄文時代の物がこれだけきれいに出てきたということも驚きだが、とにかくその芸術性には圧倒される。ものすごい。
いったいどんな天才がこんなものを創造してしまったのか。よく見るとしっかり対称的にデザインされており、
緻密に計算しながらの造形であることがわかる。なんとなく、作者はサヴァンだったんじゃないかなーって気がする。
でなけりゃこんな絶対的で破綻のない美を実現できるはずがない。見ていて言葉が出ないどころか、呼吸もおぼつかない。
L: 国宝縄文土器の中でも絶対的エース格の指定番号1「縄文雪炎」。覗き込んだら内部はきれいにツルツルでした。
C: 少し角度を変えて眺めるが、この装飾にはもう、息を呑むことしかできない。人間の想像力はここまでできるのか。
R: 土器以外の展示で面白かったのは平均身長の推移。弥生時代(右から2番目)がけっこう高くて江戸時代が最小。意外だ。人類はところどころで絶対的な芸術作品を生み出しているが、縄文時代にもすでに頂点を極める人が出ていたのね、
と思いつつ博物館を出る。本物を見ておいて本当によかったと思う。これだけでも出張して寄り道した甲斐があったよ。さて太古の昔に思いを馳せるのもいいが、せっかくなので十日町の売りである現代美術もしっかりと鑑賞しておくのだ。
越後妻有里山現代美術館[キナーレ]へ行く。もともとは交流施設として2003年にオープンしたが(設計:原広司)、
2012年に現在の用途にリニューアルされたそうだ。やたらとデカい正方形の真ん中に池という空間になっており、
これは益田のグラントワ(→2013.8.17)と同じ系統のやり口であると思う。竣工は2年ほどこっちの方が早いですな。
L: 越後妻有里山現代美術館[キナーレ]。原広司ね、なるほど。 C: もうちょい遠くから見たところ。
R: コンクリ構造体の中に入るとこのような光景となっている。グラントワと同じ感触だが、こっちの方がミニマル。天気がいいから雰囲気は悪くないが、雨だったらけっこう切ない思いをするかもしれない。雪の時期にはどうなるのか、
まあさすがにその辺は考えてあるとは思うんだけど、少し気になった。案外雪がある方がフォトジェニックなのかもね。回廊部分にはこのように作品が置かれている。雪の中のサッカーゲームね。
ふだんどういうスタイルで展示しているのかよくわからないけど、場所をとる作品を躊躇せず置いている印象。
十和田(→2014.6.27)なんかは個室主義というか、部屋ごとに作品をひとつ任せる感じで世界観を分けていたが、
こちらは原広司が用意した正方形の長ーい一辺に作品を点在させていて、ガラス面積が大きいこともあって開放的だ。
僕としてはもう、芸術作品に対しては「興奮する/しない」の評価軸しか持っていないから、それだけで見ていく。
で、感想としては、総じてまあ悪くない。ただ、場所をとる作品が並ぶため、必然的に作品数は絞られることになり、
そのせいで全体の迫力不足ではあると思う。質は中くらいだけど量がないので、そこでちょっと物足りなさは感じる。
ぶっちぎりで面白かった作品は、クワクボリョウタの『Lost#6』。光源を載せた列車がさまざまな物体の中を走り、
部屋の壁にそれらの影が映し出される。構造は単純なのだが格別に濃い物語性が生まれており、ただ見とれてしまった。
撮影禁止だったので残念ながら写真はない。まあぜひ実際に見てみるのがいいだろう。ま、ぶっちぎりでしたね。
L: 美術館の入口へと至る廊下。ここは無料のエリアなのだが、やはりこのように作品が展示されている。
C: 場所をとる作品に優しい美術館って印象。 R: 中は無限の長さの有平棒がぐるぐる回るという装置。それだけ。ちなみにこの後、越後妻有里山現代美術館では蔡國強という人の企画展をやるようだ。なんかイヤな予感がして、
もしやと思って調べてみたら、やっぱり僕がかつてグッゲンハイムで憤慨したときのアイツだった(→2008.5.9)。
もうあんなバカをおだててメシを食わせるのをやめようよ。クソはクソ、と言い切る勇気をみんなに持ってもらいたい。すぐ近くの道の駅・クロス10の天井からぶら下がっていたさげもん(吊るし雛)。すごい。
縄文時代から21世紀まで、実にたっぷりと芸術を堪能させてもらった。大いに満足して十日町を後にする。
帰りの上越線では、あらためて山々と南魚沼の田園風景を堪能して過ごす。車窓の風景が楽しめる路線は好きだ。同じ山でも、やっぱり新潟県は長野県よりも平地が広いんだよなあ。
それにしても、趣味と実益を兼ねたらそうとうマジメに仕事した感じになったではないか。まあ趣味の比率が高いが、
土地の魅力というものをとことん追求させてもらえたのは純粋にうれしい。さあ、夏季学園の本番までがんばろう。なお、昼メシの蕎麦の量があまりに少なかったため、十日町観光の途中で凄まじい空腹に襲われたが、
岡山で買っておいたキムラヤのバナナクリームロール(→2015.5.6)に救われたのであった。本当に助かった。
やっぱり地元住民のお気に入り名物は買っておくべきなのだと実感した。リョーシさん、あらためてありがとうございました。
過ぎたるは猶及ばざるが如し、とは言うけれど、これは不可抗力なのである。好きで旅に出たわけではないのだ。
5日間の旅行に連結してさらに出張となったのも、それが最も周囲に迷惑をかけないスケジュールだったからなのだ。
そうなんですよ、これは仕事なんですよウェヒヒヒヒと職場に高笑いを残しつつ(いちおう朝のうちに顔を出した)、
東京駅から新幹線に乗って目指すは新潟県。夏休みに突入してすぐに行われる夏季学園という行事の下見なのである。
しかし地下鉄の東京駅付近はラッシュアワーで、慣れない僕は翻弄されっぱなしなのであった。嵐の予感がするぜよ。新幹線の車内で寝たり起きたりしているうちに越後湯沢駅に到着。乗り換えまであまり時間がないが、動ける範囲で動く。
どっちがメインの出口かわからなくて困ったのだが、とりあえず東口に出てみたら駐車場があまりに広大で驚いた。
平日の朝ということもあって人も車もまったくなかったが、バブル期にはいったいどんなことになっていたんだろうか。
まあ越後湯沢では今でもバブルの幻影を追いかけて移住するおじさんたちでいっぱいだそうだからねえ。すごいねえ。越後湯沢駅で下車したのは初めてだ。誰か、私をスキーに連れてって。
越後湯沢からは在来線に揺られる。六日町までは上越線だが、その後に北越急行ほくほく線に乗り入れる列車だ。
ローカル鉄道だとナメてかかっていたら、乗客が多くて座れなかった。驚きつつもなかなか雄大な景色にウットリ。
ほくほく線というと、大学時代にみやもりがこの沿線で免許合宿に行って「ほくほく線だって!」と言っていた記憶がある。
調べてみたら開業は僕らが大学に入学する直前の1997年3月だった。当時にしてはけっこう思いきった名称である。
ほくほく線で最近話題になったのは「超快速」だろう。北陸新幹線開業の影響で特急が走らなくなったことで誕生した。
乗車券だけで乗れる列車としては日本一速いらしい。まあ十日町駅前後を除けば完全に一直線の路線だもんなあ。
今回乗ったのは超快速ではなかったが、さすがにとにかくトンネルが多かった(ほくほく線は全長の2/3以上がトンネル)。
まあおそらく雪対策って側面もあるのだろう。そんなことを考えている間に列車は十日町駅に到着したのであった。十日町駅に着くと現地のコーディネーターの方と合流。さっそく近くの道の駅に移動して昼ご飯をいただいて打ち合わせ。
正直なところ最初のうちは旅行モードが抜けきらない感じだったが、どうにか気合を入れ直して打ち合わせは無事に完了。
そして各活動場所へと案内してもらう。驚いたのはまだ雪が融けきっていないことで、雪捨て場には大量の雪が残っていた。
L: 上越地方の雪をナメておりました。5月だというのに川岸の雪捨て場はちょっとした雪原になっておりました。
R: キョロロの駐車場にて。今年は4m積もったという話だが、その雪の残りが駐車場で巨大な山となって居座っていた。ラフティングの発着地点をそれぞれチェックすると、松代(まつだい)を経て松之山にある「森の学校」キョロロへ。
本来ならここで自然観察について打ち合わせをする予定だったが、祝日の影響で本日休館。こんな日に来てすいません。
しょうがないので予定より早めに宿舎に移動。なんと、初日の下見は以上でおしまいである。でもきちんと仕事しているよ!宿舎に着くとせっかくなので、施設の方と打ち合わせ。言わずもがな、宿泊行事では宿での動きがきわめて重要なので、
念入りにチェックしていく。特に夏季学園では宿も関わる比率が非常に高くて、やりやすさもある分、チェック事項も多い。
僕なんかは良く言えば「本番で強いタイプ、臨機応変にやりくりするのが得意なタイプ」だが、それは逆を言うと、
「本番の現実を見るまで想像力がうまくはたらかない」ということでもある。なんとなくフワフワした不安もあるが、
これはもう個人の資質の問題なのでしょうがない。本番までに想像をはたらかせやすいように、しっかり見てまわるしかない。一日の最後は施設の温泉にしっかり浸かって大いに癒されるのであった。これも浴場を視察する仕事ですからウェヒヒヒヒ。
朝起きると、カメラだけを片手に街へ出る。昨日も書いたが、今治に来るのは5年ぶりである(→2010.10.11)。
その5年の間に変化したことがある。それは、今治市役所をはじめとする建築群がDOCOMOMO物件になったことだ。
2013年度の選定なので、現時点では最も新しくDOCOMOMO入りしたグループである。気がつきゃ増えてるんだよな。まずはドンドビ交差点まで歩いて出る。それにしても「ドンドビ交差点」とは、なんとも不思議な名前である。
これは「呑吐樋」という名前の樋門に由来しているとのこと。水を呑んで吐いて海水の逆流を防ぐので、「呑吐樋」。
なるほど確かにこの交差点のすぐ裏にはいまだに水路がある。特徴ある場所に特徴ある地名が残っているのはすばらしい。さてこのドンドビ交差点周辺には、丹下健三が設計した建築群がまとまって残っており、それらを一気に見てまわる。
なんせ今回の旅は、初日のログの最後に書いたように、「あらためて丹下健三を振り返る旅」。これを今治で締めるのだ。
まずは愛媛信用金庫今治支店から。厳密にはこちらはDOCOMOMO物件ではないが、重要性は変わらないはずだ。
L: 愛媛信用金庫今治支店。今治信用金庫本店として1960年に竣工した。 C: 正面より見る。 R: 側面も面白い。屋根がぽっかり浮いているような造りが面白いが、いかにもモダンな格子状のファサードも特徴的だ。
中に入ったら入ったでまた絶対に面白いんだろうなあと思いつつ裏側を眺める。本来なら見えなかった部分だろうが、
商業施設が取り壊されたことで背面が露出したのだと思われる。建築としてはうれしい事態だが、街としては微妙だよな。
L: 愛媛信用金庫今治支店の背面。こりゃまたモダニズム全開ですな。 C: 向かいの郵便局が駐車場に使っとる。
R: かつてドンドビ交差点に面して今治大丸があったが、閉店して更地になった。おかげで見えるようになったが……。ドンドビ交差点から北西へ行くとすぐに今治市役所。こちらは5年前にも見てまわったが(→2010.10.11)、
DOCOMOMO物件ということであらためて詳しく見てみたい。丹下建築が3つも集まっている貴重な場所だもんね。今治市役所とゆかいな仲間たちを眺めたところ。
まずは今治市役所から。本館は1958年竣工で、これは香川県庁舎(現・東館 →2015.5.3)と同じ年である。
旧東京都庁舎の翌年ということになる。まあとにかく、丹下の経歴からしてもだいぶ初期の作品であることは確かだ。
L: 今治市役所本館を真正面から眺める。水平を強調したヴォリュームは、広島平和記念資料館に似た感触がある。
C: 少し角度をつけてみた。右奥は第1&第2別館。 R: 端から眺める。コンクリート本来の質感がすごい。今治市役所は本館の隣に第1と第2、ふたつの別館がある。背の低い方が第1別館で、背の高い方が第2別館となる。
もちろん丹下の作品で、こちらは競い合うように垂直に延びるのが対照的だ。第1別館の竣工が1972年だが、
第2別館の竣工は1994年とだいぶ新しい。パッと見ただけでは築20年の差があるようには思えない。
L: 本館の横でそびえる別館。 C: 左が第1別館で右が第2別館。 R: 角度を変えて眺めてみる。さらにいろんな角度から撮ってみようということで、本館の裏側にまわり込んでみた。本館にしても別館にしても、
表面と裏面でほとんどまったく変わらないデザインとなっている。やっぱり水平と垂直の差が印象的である。
L: 別館の背面。やはり駐車スペースになっているのね。 C: 本館の背面。 R: 少し距離をとってあらためて眺める。次は、市役所と同じ1958年に竣工している今治市公会堂。蛇腹ボディが実に特徴的である。よく思いつくねえ。
L: 大通りを挟んで眺める今治市公会堂。 C: 正面から眺める。 R: ちょっと市役所寄りの位置から見たところ。2年前に改修工事が完了しており、外観はそのままだが中身はだいぶ増強された模様。もはや取り壊せないよな。
L: 側面をクローズアップ。 C: 背面。 R: 国道側の側面。外側の写真ばっかりですいません。巨大スクリューが印象的。最後は1965年竣工の今治市民会館。実験的な匂いが漂う市役所&公会堂とは違い、こちらはいかにも60年代風。
前も書いたが前川國男の東京文化会館を思わせる(→2010.9.4)。まあ可視化された時代の変化、と解釈しておこう。
L: 国道317号を挟んで眺める今治市民会館、その1。 C: その2。 R: その3。これは側面になるわけだな。市役所&公会堂と比較すれば、高度経済成長中の7年間でコンクリートをめぐる価値観がどう変化したかの記録である。
ファサードに占めるガラスの割合が飛躍的に増えた点がいちばんの違いか。それを目の当たりにできるとは贅沢な空間だ。
L: 公会堂側から眺めたところが正面かな。 C: 真正面から眺める。 R: ちょっと市役所に寄ったところから。今治市役所・公会堂・市民会館がそろってDOCOMOMO物件に選ばれたことは、今治にとって大きなプラスになるだろう。
丹下健三は文句なしに日本を代表する建築家だが、彼の作品がこれだけ集中している場所は世界でもここだけだ。
今後、丹下の評価が時間の経過とともに安定化していけば、この今治市役所周辺は将来すごいことになるかもしれない。ひととおり写真を撮り終えると、宿に戻って荷物を整理して外に出る。思えば鉄道に揺られて徳島県からはるばる来たが、
それもここまで。ここから先はバスでしまなみ海道を渡って本州に戻るのだ。それもあって、今治港近くに宿をとった。
今でも今治港周辺はその重要性を失っていないってわけだ。実際、新しい港湾ターミナルビルが建設中なのである。
8時半にバスがやってきて今治桟橋を出発。バスは地元の客がほとんどのようで、僕みたいな観光客はやや珍しい模様。
L: 建設中の今治港ターミナルビル。後ろの旧ビルと比べると規模縮小ということになるのかな。
C: しまなみ海道から見える造船所。 R: しまなみ海道を行く。自転車が走っているのがさすがだね。1時間ほどバスに揺られて到着したのは、大山祇神社。前に男3人ブラ珍クイズ旅で参拝して以来(→2011.2.20)だ。
なんせ島なのでアクセスの非常に面倒くさい伊予国一宮だが、これでいよいよ四国の一宮の御守がすべて揃うのだ。
それに今回みやもりから依頼された安産御守も、日本総鎮守を名乗る大山祇神社なら神社代表として言うことなしだ。
L: 大山祇神社。 C: 境内を行く。瀬戸内海を代表する神社だけあって威厳たっぷり。 R: 2010年造営の総門。鼻息荒く総門をくぐると、広い境内を撮影しながら先へと進んでいく。バスの都合で滞在できるのは30分未満。
せっかく大山祇神社に来たんなら紫陽殿・国宝館まで行かないと意味がないのに、本当にもったいない。
まあ前回参拝時にたっぷり見学しているので、残念ではあるが、今回は御守が頂戴できればそれでヨシとしておく。
L: 斎田の前にある御棧敷殿。前回は一人角力をやったなあ。 C: 境内の様子。クスノキの巨木がゴロゴロしている。
R: 乎千命(おちのみこと、小千命とも)御手植の楠。乎千命は大三島に大山積神を祀った人。創建時からの木ってことね。時間がない中でタイミングを見計らって拝殿や本殿の写真を撮ってみる。前回参拝時は特に意識していなかったけど、
どちらも重要文化財なのである。あらためて大山祇神社の特別さ、存在感というものを噛み締めるのであった。
L: 神門。松山藩主・松平定長の寄進で1661(寛文元)年に建てられた。簡素でさりげないが、さすがですな。
C: 拝殿。1427(応永34)年の築で、1602(慶長7)年に修理されている。 R: 本殿も1427(応永34)年の築。バスに乗り込み大山祇神社を後にするが、いったん大三島バスストップで下車。ここで福山駅行きに乗り換えるのだ。
15分ほど時間があるので、多々羅しまなみ公園を急いで散策してまわる。……「急いで散策」とはなかなかの矛盾だぜ。
とりあえず職場向けにバリィさんのお菓子を買っておいた。四国の土産をきっちり用意することができて一安心。多々羅大橋と生口島。さあ、本州に戻るぞー。
11時半の少し前、予定よりちょっぴり早めに福山駅前に到着。と、そこにやってきたのはリョーシさん。
颯爽と車で乗り付けて素早く僕を回収すると、そのまま駅の北側に出る。やっぱり弁護士先生は違いますなー。
国道313号を北上しつつ雑談。リョーシさんはBGMになんと、乃木坂46をかけてやがる。ファンなのか!
「リョーシさん、そこは伝統のモーニング娘。にしときなさいよ」「なんで今さら」「だって……」
衝撃の事実にふたりで大爆笑なのであった。応援してやってくださいよ。牧野と羽賀しかわかんないけど。さてなんでリョーシさんにわざわざ車を出してもらって福山駅で合流したのかというと、やっぱり一宮参拝のため。
旧新市町(2003年に福山市に編入)には備後国一宮とされる神社がふたつあるのだ(→2013.2.23)。
すでに両方併せて参拝済みだが、訪れたのが早朝すぎて御守を頂戴していない。そのリヴェンジをさせていただくのだ。
ある程度のところまで来ればすでに道はわかっているので、リョーシさんの用意した地図を片手にナビをする。
2年前、夜明け前にえっちらおっちら歩いた距離が、車だと本当にあっという間。車って反則ですわマジで。
L: 2年ぶりだぜ福山の吉備津神社。前回の写真は明らかに朝焼けを受けた色だったので、リヴェンジできて満足。
C: 下随神門。随神門が2つあるってのがいかにも曰くありげですな。 R: 境内の様子。広さに一宮の威厳を感じる。まずは一般的に備後国一宮とされる吉備津神社から。その名のとおり、備中国(→2014.7.24)からの勧請だ。
つまりはそれだけ旧吉備国の力が強かったということだ。立派な社殿にあらためてその事実を実感させられる。
L: 石段を上って上随神門。 C: 抜けると神楽殿。 R: その先に拝殿。絵馬殿っぽいけどこいつが拝殿になる。石段を上るたびに次から次へと見事な建物が現れる。僕は2回目なので「そうだったそうだった」って感じだが、
初めて参拝するリョーシさんは感心したようで。備後の吉備津神社は本当に一直線に社殿を配置しているから独特だ。
L: 拝殿の脇から見下ろす神楽殿と境内。ぜんぶが一直線なのである。 C: そして重要文化財の本殿。相変わらず立派。
R: 拝殿から真っ正面で眺めてみたところ。見事だよなあ。破風から何から見事なんだけど、端整な印象が強いので好き。では御守頂戴タイム。備後の吉備津神社はふつうの御守が貫前&若狭彦型ビニールコーティングという珍しいパターン。
かつてはイヤだったが、お札を露わにしつつも携帯性を持たせたという意図が明確なので、最近はあまりそうではない。
ありがたく頂戴いたしました。リョーシさんもまあ、見事な重要文化財が見られたということで納得していただけたようで。次は来た道をそのまま戻って神谷川を渡り、もうひとつの備後国一宮である素盞嗚神社へ。うーん、懐かしいぜ。
境内はそれなりに長さがあるのだが、駐車場が本殿に近い側にあるのでそっちからアクセス。そしたら女性2人組がいて、
授与所で御朱印をもらっていた。素盞嗚神社はちょいと小規模なので授与所がないだろうと僕はてっきり思い込んでおり、
まさかの御守頂戴チャンスに大興奮なのであった。神紋をうまく散りばめた現代風なデザインで、僕はけっこう好きです。
L: 詳しいことは前回参拝時(→2013.2.23)を参照だぜ! 素盞嗚神社の拝殿。 C: 角度を変えて眺めた拝殿。
R: 奥にある本殿。一宮の本殿は例外なく立派だと実感させられるぜ。こちらも吉備津神社と同じく水野勝成の造営。リョーシさんと社殿・境内を見てまわる。吉備国の威厳がガリンゴリンだった吉備津神社と比べてしまうと、
素盞嗚神社の境内は質素というか、いかにも町の神社といったアットホームな雰囲気が漂う。偉そうな感じがない。
でもひとつひとつの建物をしっかり見てみれば、やはりきちんと歴史・由緒を感じさせてくれるのである。
L: 蘇民神社(左側)と疱瘡神社(右側)。蘇民将来の茅の輪はここ発祥だと。疱瘡神社は『備後国風土記』の疫隈國社か。
C: 随神門。境内が長いので随神門から拝殿までの距離も長め。 R: 鳥居。素盞嗚神社の入口は狭く細いが、奥行きがある。これで備後国一宮の御守頂戴プロジェクトは完了なのだ。リョーシさんは毎回毎回すいませんね、本当に。
いろいろ検討した結果、福山からの帰りは笠岡に寄って笠岡ラーメン(→2014.7.22)を食おう!と決定。名案だ!
笠岡といえば笠岡市役所がマイベスト市役所なのだが(→2014.7.23)、そりゃいいからとにかくラーメンだ、と。
笠岡ラーメンは店が集中しているのが笠岡駅前と湾に沿ったn番町と2つあって、今回はせっかく車なので湾の方へ。
いまだに慣れないスマホを駆使して店を調べて入ってみたら、まさに地元住民の皆さんが寄ってたかって食べていた。
迷わず大盛を注文したのだが、予想以上に本当に大盛でなかなか大変だった。リョーシさんも気合で大盛を制覇。かしわ肉ではなくチャーシューだったが、正しい「地元のラーメン」に大満足じゃ。
リーズナブルなお値段でお腹いっぱいのわれわれ、じゃあ腹ごなしに何をするかっていうと、僕の希望で神社に参拝。
実は岡山市には、公共交通機関で行くのが非常に難しいけど参拝したい神社があるのだ。毎度毎度すんませんな。
思えば去年も「公共交通機関で行くのが非常に難しい神社がー」と言っていたわ(→2014.7.26)。岡山そんなんばっか。で、今回リョーシさんにお願いして連れて行ってもらったのは、安仁(あに)神社。もとは「兄神社」だったそうで、
五瀬命をはじめとする初代の天皇・神武天皇の兄3柱を祀っている。これが遠いのなんの。西大寺のさらにずっと先、
吉井川を渡って、ほとんど牛窓って位置。まあ西大寺じたい、かつては西大寺市だったもんな(1969年に岡山市に編入)。
山と田んぼでのみ景観が形成されている空間を延々と走ってようやく到着。空間のスケール感覚がマヒしかけたね。岡山は北の山地も広いが、南の田園風景も広いのな。気が遠くなりそうだ。
さて安仁神社、わざわざ来たのには理由がある。実はここ、もともとは備前国の一宮だったのだ。由緒正しい神社なのだ。
しかし939(天慶2)年、藤原純友の乱の際に、安仁神社は藤原方についてしまう。これにより一宮の地位を剥奪され、
備前国一宮は吉備津彦神社(→2014.7.24)に移った、という話だ。朝廷側についていれば交通の便も違ったろうに。
L: 安仁神社の入口。社号標があるものの、それ以外は、鬱蒼と茂る木々が特別な気配をうっすら感じさせるのみ。
C: 緑の中にある鳥居をふたつくぐるのだ。 R: 石段を上ってちょっと進むと随神門。この辺からは人工的な感触。もともと一宮だったという経緯を考慮してか、明治維新後には国幣中社となっている。しかし参道は緑がひしめいており、
近代以降にそれらしく整備された感触があまりなく、自然が主体になっている印象を受ける。悪く言えば野放し感がある。
しかし随神門をくぐれば石段があって境内が周囲よりもはっきりと高くなり、立派な拝殿がお目見え。なかなかの威厳だ。
L: 随神門を抜けるといきなり高台。かつて一般人はこの石段の下で参拝していたという。上には行けなかったそうだ。
C: 石段を上りきると拝殿。緑いっぱいの参道からは想像できない立派さ。 R: 角度を変えて拝殿をクローズアップ。いやまさか安仁神社に参拝できる日が来るとは思わなかった。リョーシさんは少しも文句を言うことなく連れてきてくれた。
もう心の底から感謝なのだ。リョーシさんも「こんな場所があるとは」って感じで面白がってくれるから助かりますわ。本殿はやはり立派なのであった。さすがは一宮、旧国幣中社。
せっかくここまで来たら西大寺にもぜひ行こう!というリョーシさんの提案により、県道26号を戻ってそのまま西大寺へ。
吉井川を渡ってすぐのカーヴが非常にややこしく、リョーシさんはその明晰な頭脳で、一度来たというその記憶だけを頼りに、
鮮やかに西大寺へ入る交差点に到達してみせたのであった(ヒマな人はGoogleマップで確認してみて。だいぶ無茶だぜ)。というわけで西大寺だ。西大寺といえば奈良県も有名だが、岡山だって負けてはいない。なんたって会陽があるもんね。
会陽(えよう)とは毎年2月第3土曜日に開催される裸祭りで、日本三大奇祭に数えられることもある。とにかく凄いらしく、
なんと西大寺の境内には裸祭り専用の観客席まである。いや、これには呆れたね。皆さんどんな目で見るのやら……。
L: 西大寺は建築だってすごいぞ! まずは本堂。写真ではわかりづらいがなかなかのスケール。1863(文久3)年の築。
C: 高祖堂(大師堂)は18世紀の築らしい。 R: 仁王門は1740(元文5)年の築。周りが狭くて撮影しづらかった。境内のあちこちを散策しながらリョーシさんと建築群を眺めてまわる。しかし話題はどうしても会陽の奇祭ぶりが中心。
裸祭りはまあいいとして、さすがに専用の観客席があるという事実には驚いた。若い男の尻がそんなに魅力的なのか。
L: 三重塔は1675(延宝6)年の築。逆光に苦しみ、なかなかいい構図で撮影できないのであった。
C: 石門は1819(文政2)年だが、江島神社の瑞心門(→2010.11.27)を思わせる竜宮城スタイル。
R: 観客席から眺める本堂。実際の会陽はここからいい感じに若者のケツを眺められるんですかね。会陽のときには有料となる観客席(調べたら5000円だぜ!)も、当たり前だがふだんは無料で開放されている。
リョーシさんとふたりで、血眼になって若者のケツを眺める有閑マダムの気分になりつつ呆けるのであった。観客席に座って若いツバメについて想像をめぐらせるリョーシさん(職業・弁護士)。
そろそろ日も傾いてきたので中心市街地へ。なんとこのたび岡山には東急ハンズができたそうで(おめでとうございます)、
そりゃぜひ行ってみなきゃ!ということで連れて行ってもらう。こないだ工事中だったイオンモールの4階に入っている。
なお昨年末のオープンにもかかわらず、リョーシさんはこちらのイオンモールに入るのはこれが初めてとのこと。
あんたホントに地元民かよ!とツッコミを入れてしまったが、お忙しい一人暮らしには確かに縁遠いわな。なんか納得。イオンモール。もともとは林原(2011年に経営破綻)の土地だったんだよな……。
というわけで東急ハンズ岡山店の感想。イオンモール自体の面積が広いので、当然、売り場も広くなっている。
ワンフロアのわりには充実しており、密度が高く配置が巧みだと感じる。最近のハンズはボディケアばかり押されており、
ハンズ本来の面白さである工具類がどんどん縮小している気がする。その点、工具などは最小限だがしっかり揃えている。
全体としては悪くない感触。4フロア分あるけどイマイチな京都店(→2015.1.31)とは比べ物にならないほど良さそう。このままイオンモール内の店でメシでもいただきましょうか、とはならないのがリョーシさん。新しいものには釣られない。
近くのビルの地下にある中華料理店でいろいろ注文。昔からの馴染みである店へのこだわりが彼らしさを感じさせる。
おいしく料理をいただきつつ、あれこれ気ままにダベって過ごすのであった。やっぱりこういう時間が楽しいのよ。地下街経由で岡山駅まで移動したのだが、リョーシさんに言われて駅のすぐ手前にある「キムラヤ」なるパン屋に寄る。
そこにはさまざまな種類のパンが茫洋たる勢いで並べられており、見ているだけで圧倒されてしまったのであった。
リョーシさんは拳を握りしめ、「岡山木村屋のバナナクリームロールこそ岡山の魂」とおっしゃる(2割くらい誇張)。
なんだか買わなきゃいけないような雰囲気になってしまったので、じゃあせっかくなので、と購入。岡山経済に貢献したよ。バナナクリームロールがまさに海のごとし。
こうして今年のゴールデンウィークは、思いのほかしっかりと楽しい旅をさせてもらって終わったのであった。
徳島(それも南部)から始まって、海岸線に沿って四国の1/3ほどをめぐり、とどめは福山と岡山の神社めぐり。
本当にやりたい放題をやらせてもらった。もちろん最後がきっちり締まったのは、リョーシさんのおかげである。
毎度毎度ワガママばっかり言って申し訳ないが、こうやってがんばって日記を書いているので許してつかぁさい。というわけでGW5日間の旅はこれでおしまい。……でも明日からなんと、新潟への出張なのだ。キリがございません!
旧川之江市役所まで距離が近ければ朝の散歩をしたのだが、ぜんぜんそんな気になれないのであった。
かといってわりと近所の川之江城址に行く気もしない。宿の窓から城のような建物が見えるが、1984年の再建。
わざわざ朝からその手のフィクションをありがたがる気にはなれないのだ。結局、大して歩かずに川之江を後にする。川之江城の模擬天守。わざわざ行く気にはなれないなあ……。
1駅揺られて伊予三島駅で下車。まずは小さな小さな南口から出て市役所を目指す。県道124号を東へ歩いていくが、
商店も点在しており旧街道の雰囲気がある道だ。これをトボトボ行くと、左手にいかにもな市役所建築が現れる。
かつては伊予三島市役所といったが、今は四国中央市役所となっている。バカ丸出しの市名に腰が砕けるぜ。
L: 四国中央市役所。1973年に伊予三島市役所として建てられたものだ。 C: 角度をちょっと変えて撮影。
R: 敷地内のオープンスペースに踏み込んで撮影。四角い囲いの中がどうなっているのか、よくわからないなあ。川之江市と伊予三島市は土居町・新宮村を加えて2004年に合併したが、その名は「四国中央市」となってしまった。
旧郡名(宇摩)を採ることもなく、自称・四国の中央。教養のかけらもない事態となってしまって恥ずかしくないのか。
Wikipediaによれば住民の選んだ名称は「宇摩市」だったらしいので、そうだとしたら住民が本当にかわいそうだ。
なお、四国中央市役所では市役所の建て替えを計画している。川之江と伊予三島のバランスを考えると思いきや、
昨年出た基本構想では現在地のままでいくつもりのようだ。市名から何からいいかげんな街だと呆れるぜ。
L: 側面。 C: 隣の愛媛県四国中央庁舎脇から側面と背面を眺める。 R: 背面。高低差がわりとあるのね。市役所の撮影を終えると、来た道を戻って予讃線の北側に出る。燧灘沿いの都市はどこもそうだと思うのだが、
高くそびえる四国山地から海へ向かって緩やかな坂の平地ができていて、その上に街が形成されている。
伊予三島の市街地はまさにその典型である。国道11号の旧道に出て駅の方を振り返ると、見事にそれが実感できる。
ただ、川之江でもそうだったのだが、伊予三島は思っていたほどは街としての賑わいを感じられなかった。
製紙業があまりにも強く、商業より工業の方がずっと盛んなので、商店街の地位がそんなに高くないのかもしれない。
L: 駅から延びる商店街を国道11号付近から振り返る。まっすぐな坂道の先には四国山地が圧倒的にそびえている。
C: アーケード商店街の入口。 R: 早朝とはいえ、見てのとおり、賑わっているという感触はあまりない。というわけで、昨日と今日で、いちおうざっと川之江と伊予三島の両方を歩いてみた。感想としては、まあ正直、
何もないなあと。製紙業という立派な産業は確かにあるが、それ以上のものがない。歴史性が非常に薄い場所だ。
そう考えると、「四国中央市」という無理な名前を強行したのも、少しだけだが理解できないこともない気がした。
自分から「オレたちは四国の中央なんだ」と言い出さないと、プライドになるものがない。そういう印象なのだ。
いや、むしろ川之江や伊予三島という名前の価値を問い直せないからこそ、歴史やプライドを見つけられないのだろう。
元からある地名を捨てたことにより、かえってこの地域の空虚な面だけが加速しているように思えてならないのだ。
四国中央市は未来を目指しているつもりかもしれないが、歴史を否定する根拠のない未来など、絵空事にすぎない。燧灘沿い、次の都市は新居浜市だ。住友グループの工業都市として有名な街だが、実際に訪れるのは初めてである。
あらかじめ観光すべき場所を下調べしたけど、市街地では公共建築百選に選ばれている別子銅山記念図書館くらい。
あとはお決まりの市役所。むしろ別子銅山関連の施設の方が面白そうだ。というわけで、今回はしっかり時間をかけて、
前半は新居浜市の市街地を歩きまわり、後半はバスに揺られて別子銅山まで行くという2部構成にしてみた。
L: 新居浜駅。中央の柱は銅の鍰(からみ)レンガを利用。鍰とは金属を精錬した残りカスで、スラグ・鉱滓ともいう。
C: 駅前は閑散とした光景が広がる。愛媛県で人口が3番目の都市(平成の大合併前は2位だった)とは到底思えない。
R: 駅を出てすぐ右手では総合文化施設の「あかがねミュージアム」が建設中。大胆に銅を使っているのがすごい。まず駅前に出て驚いたのは、今までに見たことのない光景が広がっていたことだ。ふつう駅前空間といえば、
ある程度は商売っ気のあるものだ。しかし新居浜駅前は完全に、まだまだ開発中の郊外といった雰囲気なのだ。
とても人口10万人超えの都市の駅前とは思えない。まるで駅があることを無視しているかのような、そんな感じ。駅からはまず、路線バスに乗って別子銅山記念図書館を目指すことにした。もちろん理想はレンタサイクルだ。
が、新居浜にはないのである。後で書くけど、新居浜こそレンタサイクルのためにあるような街なのに……。
バスに揺られている間、車窓から街を眺めるが、とにかく不思議な街である。市の中心部を縦断する県道11号は、
完全に郊外ロードサイドスタイル。その行く手にははっきりと工場が見えている。道路は片道3車線に中央分離帯。
雰囲気は大都会……だが、その両側に背の高いビルはほとんどない。やはり空間整備の基本にあるのが工業なのだ。
しかしバスが左折して昭和通りに入ると雰囲気が一変。今度は純然たる商店街なのである。駅からこれだけ離れて?
ワケがわからなくなっているうちに別子図書館前バス停に到着したので下車。帰りも同じルートをなぞろうと思う。
L: 別子銅山記念図書館。上から見ると、ドーム状の建物2つが四角い建物でL字に連結された配置となっている。
C: 少し右を向いて眺めたところ。 R: さらに右を向くと、大きい方のドーム。図書館としてはかなり特徴的だ。別子銅山記念図書館は、別子銅山開坑300年を記念して、1992年に住友グループ21社から新居浜市に寄贈された。
設計したのはもちろん日建設計だ。日建設計はもともと住友グループの営繕からスタートした経緯があるもんな。
L: 大きい方から小さい方のドームを眺める。 C: 大きい方のドーム。 R: 小さい方のドームと連続する部分。GW中とはいえ、利用者は非常に多い。ドームの窓側は閲覧スペースになっているが、席はだいたい埋まっている感じ。
出入りも頻繁で、よく利用されているなあと感心したのであった。駐車場がいっぱいで、車で来る人が多いようだ。
L: 振り返って、大きい方のドームに入る部分。 C: 中庭。 R: 駐車場側からはここを通って中に入ることになる。ではさっきのバスのルートを参考に、新居浜の市街地を歩いてみることにする。まずは昭和通りに戻って東へ歩く。
バスから見たように、雰囲気としてはいかにも地方都市の商店街だ。が、店の密度が若干薄い感触もある。
実は別子銅山の銅を大阪へ送り出していた「口屋」は、この昭和通りと海側の湾岸通りに挟まれた場所にあった。
その口屋は1890(明治23)年に移転するが、いちおう今もこうして商店街としての機能は保っているのである。そして昭和通りから少し南に入ったところに、銅夢にいはま。正式名は新居浜市商業振興センターで、1997年竣工。
何やら地域の祭りの真っ最中で賑わっていた。飾られた鯉のぼりで建物が見えづらかったので写真は無しなのだ。
銅夢にいはまの脇には立派なアーケード商店街の登り道サンロード。けっこう長く、一宮(いっく)神社まで続いている。
広い新居浜の市街地に対応してのことなのか、一宮神社の境内もかなり広い。本殿は1705(宝永2)年の築であり、
拝殿は1897(明治30)年の築である。この辺りはさっきの県道11号とは対照的に、歴史を感じさせるエリアだ。
レンタサイクルがあればもっとあちこちを走りまわって、新居浜独自の雰囲気というものをはっきり体感できたのだが。
とりあえず今回は上記のようなルートの街歩きで感じたことをまとめていく。レンタサイクルがないのが悪いんだい。
L: 新居浜・昭和通りを行く。100年以上前に賑わった地域だが、今もその名残を感じさせる商店街となっている。
C: 登り道サンロード。こちらは南北方向の商店街。別子銅山と口屋を結ぶ道がそのまま商店街化していたわけだ。
R: 一宮神社。規模が大きいわりに静かなのは、新居浜が広く薄くできている街だからか。人が集まりづらい街なのだ。一宮神社の東、新居浜市役所の北には新居浜市民文化センター。見るからに正統派モダニズムのホールなのだが、
ネットで検索をかけても設計者が出てこない。これだけきちんとしているのに、どうしてデータが出ないのか理解できん。
L: 新居浜市民文化センター。大ホールを中心とする本館と、中ホールと会議室のある別館からなる。
C: これが大ホールかな。 R: 少し距離をとって眺めたところ。なぜきちんとした建物だと思うんだけどなあ。竣工したのが1962年ということだけは、いちおうわかっている。でもそれ以上のデータがない。不思議である。
L: こちらが中ホールと思われる。つまり別館。 C: 別館の側面。 R: 別館の背面。実にモダニズムである。公園を挟んで新居浜市民文化センターの南にあるのが新居浜市役所。石本建築事務所の設計で1980年に竣工。
いかにも1980年代らしい飾りっ気のない庁舎建築である。どっちが正面でどっちが背面なのかもわかりづらい。
L: 新居浜市役所。植えられている木々のせいで建物が非常に見づらく、正面という感じがしない。でもこっちが正面。
C: これだけ目立たないようにしている市役所も珍しい。 R: さらに角度を変える。質実剛健と言えば聞こえはいいが。なお、新居浜市役所の隣には小ぢんまりとした新居浜市立郷土美術館が建っている。もしやと思ったらやっぱりそうで、
実はこの建物、先代の新居浜市役所。倉敷のように市役所を美術館に転用する例はなくはないが(→2008.4.22)、
有名建築家や歴史的建造物としてのネームヴァリューがないままでやっちゃう、というのは非常に珍しい事例だ。
L: 新居浜市役所の背面。 C: 側面。少し奥まっており、メインストリートの県道11号との間に駐車場を挟む。
R: 新居浜市立郷土美術館。見事に庁舎建築としての姿を保ったままでいる。こいつ自体がいつ竣工なのかはわからず。市役所前からはバスで一気にマイントピア別子まで行ってしまう。バスを待つ間、近くの歩道橋に上ってみて、
そこから新居浜の市街地を撮影してみた。その独特な都市構造を一発で理解してもらえる写真が撮れたと思う。これが新居浜らしい光景、だと僕は思っているんだけど。
城下町としての性格が非常に弱く、銅山を運び出す中継点そして巨大企業の工業都市として発展した新居浜は、
核となる地域を持つ必要がないままで、広く薄く都市化してきた。回遊するにはまさにレンタサイクルが最適だが、
市街地にはそもそも観光すべき場所がないため、レンタサイクルを置くという発想も生まれない。そういう街なのだ。
さっき四国中央市について「歴史性が非常に薄い」と酷評し、またプライドに絡めてその原因を逆説的に述べたが、
新居浜にも同じ要素は指摘できるだろう。端的に言えば、企業城下町は歴史を必要としない、ということだ。
しかし新居浜にはその反証となるものもまた存在している。それもかなり強烈な形で。次はそれをじっくり見るのだ。バスは新居浜駅を経由して、南へと進んでいく。予讃線の北側は矩形に整備されきって工業都市らしさ満載だったが、
線路を越えると複雑な形状の道路網に住宅が並ぶ光景に変わる。こちら側は昔の農地が宅地化したのがはっきりわかる。
そうして里から山へと入っていく。川沿いの曲がりくねった道を進んでしばらくすると、マイントピア別子に着く。
着いた瞬間、まずやったのは受付で東平(とうなる)行きのバスにすぐ乗れるかどうかの確認だ。1秒も無駄にできない。
「おひとり様なら大丈夫ですよ」と、一人旅の強みを最大に発揮してマイクロバスに乗り込んだ。いちばん前の補助席へ。
すぐ目の前でガイドの方がいろいろと説明してくれるので、これはかえって最高の席じゃないか!と大喜びなのであった。きちんと説明しないと何がなんやらだと思うので、順を追って説明していく。かつてこの地には別子銅山があった。
1691(元禄4)年の開坑から1973年に閉山するまで莫大な量の銅を産出し続け、住友財閥の基礎を築いたのだ。
(今でも住友グループの新入社員は研修の一環として別子銅山を見学に訪れるという。それほど重要だった場所なのだ。)
一口に「別子銅山」と言っても採鉱場所は複数あり、最初は本当に山の中の別子山村(現・新居浜市)で始まった。
その後、大正に東平(とうなる)、昭和に端出場(はでば)と、採鉱本部はだんだん海(平地)側へと移っていった。
現在は、最後の本部だった端出場地区を「道の駅マイントピア別子」として観光拠点化しているのである。
そしてマイントピア別子では「東洋のマチュピチュ観光バス」として東平地区の見学ツアーを組んでいるのだ。
今回、それに参加してみたわけ。端出場から東平まではめちゃくちゃ細くてくねった山道を車で40分行く必要がある。マイクロバスは計6台。ガイドさんは「こんなに出るのは一年のうちでここだけ」とおっしゃる。さすがはGWだ。
ツアーの所要時間は2時間。40分で行って40分間見学して40分で帰る、という予定。絶対にこの予定どおりでいきます、
スケジュールに間に合わせます、とガイドさんは断言する。道は本当に細くて、ふつうの車1台がやっと通れるほど。
しかもそれが曲がりくねっているわけだ。でもマイクロバスはスイスイ進んでいく。信じられない運転技術を目の当たりにした。
でも途中のところどころで観光客の車が邪魔をする。誘導専門の係がいるのでどうにか通り抜けられるが、本当に迷惑。
(まずマイクロバスの前を先導車が走っていき、トラブルを予測して未然に防ぐ。逆を言うとそれくらい無茶な道なのだ。)
ふつうの車でも難しい道なので、観光客は自分の車で行くのは絶対にやめて、素直にマイクロバスに乗ってほしい。
東平への道も住友グループの所有なので規制すりゃいいのだが、クレームのもとになるから規制はできない、らしい。
さっきの「絶対に予定どおり宣言」といい、この「通行規制しない体制」といい、相手に文句を言わせない姿勢というのは、
どうやら住友グループの価値観として染み付いているようだ。商売上手の究極形とはそういうもんか、と思うのであった。
L: 東平地区に到着。かつては社宅のほか、学校(住友の経営する私立)や劇場まであった、れっきとした街だったそうだ。
C: 本当に山の中にあるのだ。さらに奥の方にある赤っぽい山が、別子銅山のスタートである別子山村の方なんだとか。
R: 東平貯鉱庫跡を覗き込むように見下ろす。石見銀山(→2013.8.18)や軍艦島(→2014.11.22)を思い出すねえ。東平に着くと、まずはガイドさんの説明を聞きながら産業遺産群を見ていく。もともとすべてが住友財閥の持ち物で、
われわれは住友グループの厚意で見学させてもらっているわけである。だからなんでも見られるというわけではない。
そもそも、なんでも残してくれているわけではないのだ。わりと遺構度合いが高く、けっこう想像力が要求される。
L: インクライン(傾斜面を走る軌道)跡をそのまま見学用の階段にしている。 C: 脇の石垣をクローズアップ。
R: いちばん下にある住宅跡。一部だけ屋根を復元している。無駄なくぎっちりと建物を配置していたんだなあ。下の方まで降りると、いよいよ「東洋のマチュピチュ」ぶりを見させてもらうのだ。貯鉱庫跡を振り返ると、
なるほど積まれた四角い石が緑の山肌と好対照を示しながらも融合した姿を見せており、実に独特な眺めである。
L: 下の方から貯鉱庫跡を見ると、なるほどこれが「東洋のマチュピチュ」ね。 C: 索道停車場跡をクローズアップ。
R: さらに索道停車場跡に焦点を当てて眺める。このロープウェイで生活必需品を東平まで持って来ていたという。正直な感想としては、「東洋のマチュピチュ」というのは違うと思う。本家と違ってこちらの石積みは一部分のみだ。
石見銀山の清水谷製錬所跡(→2013.8.18)を経験し、現役の製錬所(→2013.11.30)も見たことのある身としては、
そこまで強烈に感動できる光景ではなかった。one of themにすぎない。やはり、壊されすぎちゃっているのである。
L: 貯鉱庫跡の石積みをクローズアップ。 C: 索道停車場の跡。これだけだと想像力がうまくはたらかないんだよなあ。
R: これも貯鉱庫跡。具体的にどのような形で使っていたのかが素人には見えないので、ただ遺構に驚くしかないのだ。まあ贅沢な要求ではあるんだけど、素直に書いておこう。あの住友財閥の原動力となったほどの銅山なのだが、
残っているのは本当に遺構となった痕跡だけであり、ここから往時のエネルギーを感じるのは、正直なかなか難しい。
「東洋のマチュピチュ」という表現は、住友の歴史よりもむしろ、景観としての異様さを強調するものである。
同じような表現をしている例としては、「日本のマチュピチュ」こと竹田城址がある(→2014.10.27)。
しかし純粋なマチュピチュ度合いで言えば、竹田城址の方がずっとマチュピチュである。東平はまだまだだ。
これはどういうことか。マチュピチュはそもそも15世紀の遺跡であり、つまりあまりにも遠い過去の存在ということだ。
そして竹田城址も石垣は16世紀のものであり、しっかり過去のものだ(改修した赤松広秀は関ヶ原の合戦の後に切腹)。
だが、東平は遺跡というには時間の経過が足りない。東平から端出場への本部移転は1930年。最近すぎるのだ。
マチュピチュとは「現実離れした特殊な空間」を示す言葉として機能しているが、現実から離れるには時間が必要だ。
言い換えると、マチュピチュになるためには、遺跡として納得できるだけの時間経過が求められるのである。
しかし東平はその時間が足りないにもかかわらず、破却度合いが高い。遺跡としての価値が十分ではないのだ。
これを特殊な景観としてだけで売っていくのは難しい。それなら「マチュピチュ」として売る路線を捨てて、
住友の歴史をメインに据えて売っていくべきだ。往時の勢いをもっと可視化して、積極的に語っていくべきなのだ。
しかし肝心の住友グループ本体に、そんな積極性はまったくない。見学したければどうぞ、でもそれ以上の関わりはない。
このように、別子銅山をめぐる動きは残念ながらあまり噛み合っていないのだ。その齟齬が東平の遺構から透けて見える。
(これはつまり、所有者がいる限り遺跡にはならない、遺跡には公共性がある、ということなのかもしれない。
さらに言うと、歴史とは公共性つまり「共有すること」があって初めて価値を持つ、ということかもしれない。)
景観としてもそれほどの衝撃はないし、歴史的空間としても意義の感じづらさがある。なかなか難しい状態である。帰りは往路以上に観光客の車が邪魔になっていたのだが、係員の指示と運転手の技量でそれを見事に乗り越えていく。
マイントピア別子に戻ったのは、ガイドさんの宣言どおりに13時より前の12時58分だった。よく遅れないなあと呆れた。新居浜駅行きのバスは14時5分発なので、1時間ほどの余裕がある。となれば、端出場の遺構群を見てまわるのだ。
後になってから歩いてそっちまで行けるとわかったのだが、素直な僕はトロッコ列車に乗って坑道まで移動する。
なお、列車の軌道は実際に使われていたものだが、坑道は観光用に整備されたもの。中の展示は定番のパターンで、
江戸から近代へ至る採掘の様子が人形で再現されている。足尾銅山(→2013.11.30)でもこんな感じのを見たなあ。
L: 観光坑道の入口。 C: 人形による再現。やはりサザエの貝殻を使った螺灯(→2013.8.18)を手にしている。
R: いちばん奥はこんな具合に、なぜかアスレチックな遊び場になっていた。なんでこういうことをするかねえ。坑道の中は僕としてはほとんど見どころがなかったのだが、屋外には産業遺産がきちんと残っている。
やっぱり本物のリアリティは違うなあ、と感心しながら見てまわるのであった。茶色の深みがまるで違うぜよ。
L: 打除鉄橋。ドイツ製で1893(明治26)年に架けられたとのこと。トロッコ列車は実際にこいつを通るのだ。
C: 第四通洞入口。冷気が出とるで。 R: 第四通洞に通じている四通橋。1919(大正8)年に架けられた。最後に1937年築の住友グループの迎賓館「泉寿亭」にお邪魔する。もともとは別子銅山記念図書館の位置にあったが、
上述のように開坑300年記念で図書館を建設した際にこちらに移された。本来はもっと大きな建物だったのだが、
客室とその玄関のみ残されている。なお、住友家の屋号は「泉屋」ということで、このような名前になったそうだ。
L: 泉寿亭。 C: 中はこのようになっている。さりげない高級感ですな。 R: 廊下。これは居心地がいい空間だわ。さあそろそろバスの時間だということで、少し急いでバス停へ。しかし待てども待てども一向にバスが来ない。
理由ははっきりしている。さっき東平からマイクロバスで戻ってきたとき、マイントピア別子の入口には車の列があった。
GWならではの大渋滞というわけである。その影響が直撃して、路線バスも大幅に遅れてしまっているのだ。これは困った。
こちとら次の予定があるのだ。列車一本遅れると大ダメージなのだ。やきもきしながら待っていると、バスが現れた。
でも渋滞なのでなかなか敷地内に入れない。路線バスを優先するとかそういう工夫はないもんですかねえ。車内にいるうちから、いかに素早くコインロッカーから荷物を取り出すかを脳内でシミュレーションしておいて、
バスが駅に着いたらすぐ出撃。要領よくまとめて切符を取り出し改札を抜けたら間に合った。あきらめたら試合終了だぜ。
というわけで、どうにか予定どおりに伊予西条駅に到着。燧灘をどんどん西へ行って、次は西条市を歩きまわるのだ。
L: 伊予西条駅の隣にある四国鉄道文化館(北館)。街歩きを優先させたので、見学する時間はないのであった。残念。
C: 駅から延びる駅前本通りを歩いていく。海に向かってゆったりと平地が広がっているのは、西条も一緒である。
R: 西条といえば「うちぬき」。石鎚山の麓にあるからか地下水が豊富で、このように自噴井がそこらじゅうにある。西条もさっきの新居浜と同様に海沿いは工業地域となっているが、こちらははっきりと城下町としての特徴が残る。
正確には城でなく陣屋だが、その四角い敷地は堀がついたまま、愛媛県立西条高等学校としてそのまま使われている。
西条市役所はその目の前。南側の本館は改修工事中のようで茶色く覆われていたが、新館はかなり新しい様子だ。
L: 西条市役所。手前が南側の本館。1979年に石本建築事務所の設計で竣工している。 C: 新館と併せて眺める。
R: 新館をクローズアップ。こちらは安井建築設計事務所の設計で、昨年2月に竣工したばかりとのこと。
L: 新館入口に近づいてみた。 C: 離れてみた。 R: 陣屋跡(西条高校)のある西側から眺めたところ。というわけで、堀を挟んだ西側にある西条陣屋跡の西条高校も眺めてみる。ちょうど部活の真っ最中のようで、
何やら走り込みをしているのであった。大手門をそのまま正門として残しているのが誇らしげでいいなあと思う。
L: 旧西条陣屋大手門。現在は愛媛県立西条高等学校の正門。 R: 堀も往時のままというのがいいですなあ。帰りは駅までアーケードの商店街を歩いていったのだが、これがなかなか独特だった。周りの道はまっすぐだが、
商店街だけは微妙な曲がり具合になっており、そこにそのまま屋根が架かっている。城下町の商家の通りそのものだ。
高校・市役所に近い辺りは最近になって再開発が行われたようだ。店もいくつか残っており、ふつうに営業している。
L: 市役所付近はマンションが建てられるなど、かなり再開発が進んでいる印象。 C: 店もこんな感じで営業中。
R: しかしちょっと駅方面へ進むと仕舞屋ばっかりになってしまう。しかし微妙な曲がり具合が実に興味深い。しかし駅の方へ向かうと、一気にシャッター度合いがひどくなる。商店街は駅前にある通りまでずっと続いており、
まあ無理もないことだとは思う。むしろ、これだけの距離にしっかり屋根をかけ通し、それを維持していることに感心する。
昭和の痕跡と城下町の風情を重ねながら、アーケードはゆったりと曲線を描いて続いていくのであった。
L: さらに先へ進むとこうなっている。壊滅状態だな。 C: 途中にこのような空間が。この独特さには可能性を感じるが。
R: その先はもっと壊滅状態。むしろなぜアーケードを残しているのかが不思議に思える。往時はどれだけの賑わいだったのか。時間の都合で伊曽乃神社に参拝することはできず。残念だが、まあ気長にその機会を待つことにしましょうか。
代わりと言ってはなんだが、もうちょっとアクセスしやすい神社に参拝しておく。隣の石鎚山駅で下車すると、
すぐ南に国道11号が走っている。そしてそこには大鳥居。くぐってまっすぐ進んでいけば、石鎚神社の境内に入る。
L: 国道11号に面して石鎚神社の大鳥居。1994年築と新しい。 C: 参道を行く。 R: 神門。2006年竣工でもっと新しい。石鎚神社はその名のとおり、石鎚山をご神体とする。山頂を含めてぜんぶで4ヶ所の社殿があるとのこと。
今回、訪れたのはいちばん山麓の口之宮だが、境内のつくりは石鎚山登山をかなり意識しているように思う。
参道と比べると本殿は高い位置にあり、石段をしっかり上がらされるのだが、その真ん中がいかにも登山用の鎖。
なるほどこういう点からして石鎚山登拝を疑似体験させるようになっているのか、と感心させられたのであった。
L: 神門をくぐって参道をさらに進む。 C: 祖霊殿へ至る石段。石垣はかなりの急角度で、石鎚山の険しさを意識か。
R: この石段の真ん中にあるのは手すりではなく、鎖となっている。いかにも険しい山で使われていそうな鎖である。石鎚神社は授与所から拝殿にかけて工事中。御守を頂戴したが、丸に石の字の神紋の下には「身代御守」とあった。
「身代わり」とは実に仏教っぽい。石鎚神社はもともと険しい山への信仰ということで修験道・神仏習合の度合いが強く、
現在も神社本庁に属しながら石鎚本教という形での活動を行っている。御守にもその価値観がきちんと反映されている。
L: 祖霊殿。 C: 拝殿の方まで工事中だった。 R: 拝殿前には「石鎚」だけあっていろんな槌が。でもこれ木槌だわな。境内は高さがあるので、眺めが抜群に良い。国道11号・予讃線を境に北には農地が一面に広がっており、
その向こう、海の手前では工場の群れが壁をつくっているように見える。まさに燧灘ならではの光景である。
参拝を終えるとさらに西へ。本日は燧灘の西端・今治に泊まるのだ。今治を訪れるのは5年ぶりだ(→2010.10.11)。
前と同じ感覚で改札を抜けたらいろいろ違っていて驚いた。いちばん驚いたのは自転車ライダーがやたらといたこと。
しまなみ海道が自転車で大人気という話は聞いたことがあったが、ここまでか!とびっくり。駅じたいが自転車モード。
台湾のジャイアント会長が絶賛したのが関係しているのか、駅にジャイアントの店が入っている。そこまでやるんか!
L: 今治といったらバリィさん。FC今治のエンブレムにいたのは衝撃的だったけど、今年から変わっちゃったのね。残念。
C: 今治駅は自転車向けの設備投資が徹底的になされているようで。 R: ジャイアントが駅に店を出しとる。すげえな。造船にタオルに自転車にバリィさんに、今治はいろいろ資源を持っているなあ、と呆れながら本日の宿へと向かう。
まあ明日は朝から「今治のもうひとつの資源」を見ていくつもりだけど。ふらふら歩いていたら途中で面白いものを発見。
気ままにデジカメのシャッターを切りながら宿へと向かうのであった。宿は今治港の近くで、アーケード商店街の先。
駅の近くではなく港のすぐ脇に大規模なアーケード商店街があるところが、港湾都市・今治の歴史を強く感じさせる。
L: 商店街にさりげなく置いてあったバリィさんの自販機。 C: これ絶対に某ネコ型ロボットを意識しているよね。
R: 白バラコーヒーはコーヒー飲料で世界一旨い(→2014.7.25)。 西日本だとわりと簡単に手に入るのがうらやましい。というわけで5日間にわたる旅行も明日で最後なのだ(まあその直後に、出張が連続しちゃうんですけどねゲヘヘ)。
最後の最後までしっかりと楽しめるようにがんばるのだ。風呂入って白バラコーヒー飲んで画像整理するとぐっすり。
朝、起きると高松駅まで歩く。昨夜はよくわからないうちに眠ってしまってしっちゃかめっちゃかだったが、
それを引きずらないように切り替えないといけないのだ。今日も今日でやることがいっぱいなんだよね。
さて、7時になって駅近くのうどん屋が開いたので列に並んで朝うどんをいただく。今朝もやっぱり釜玉なのだ。
しかし県庁前にあった店と比べると数段味がよろしくない。というか、県庁前の店が旨いんだ、とあらためて納得。
たかがうどんだと思うのだが、やっぱり旨い店とそうでない店とでの差はそれなりに大きいのである。7時25分、弓弦羽(ゆずりは)行きのバスに乗る。ソチ五輪の金メダリストは関係ないみたいよ、いちおう。
本日最初の目的地は、2年前の早朝に車で連れて行ってもらった瀬戸内海歴史民俗資料館(→2013.12.30)だが、
これについてちょっと愚痴らせてくれたまえ。まず瀬戸内海歴史民俗資料館の所在地が、高松と坂出の間の五色台。
そこから海へと下った突端にある「大崎」が最寄のバス停となるのだが、ここを通るのが平日限定で1日2本なのだ。
じゃあどうするのかというと、それより高松側にぐっとまわり込んだ「弓弦羽」バス停から歩くしかないのである。
公式サイトによれば、徒歩で約1時間30分(平坦道約45分と登り坂道約45分で、この境目が「大崎」バス停)。
このあまりにも不便すぎる場所にDOCOMOMO物件があるせいで、本日の午前中はほぼ完全につぶされてしまうのだ。
しかも天気がまた微妙なのである。バスに乗っている間、向かう先にある山はずーっと雨雲で煙っていた。弓弦羽はいかにも終点らしい駐車スペースなのであった。
40分ほど揺られて弓弦羽に到着。そびえる五色台を眺めると、うっすら青空が覗いてきており、雲と半々。
晴れてくれれば最高だが、雨に降られたら往復の合計3時間が地獄でしかなくなってしまう。さあ、どうなるか。
迷っている暇なんてないので、覚悟を決めると大股で歩きだす。県道16号、これは完全に車のための道である。右手に海が見えるが、雨上がりなのでまったく美しくない。左手にはいかにも瀬戸内のものらしい岩っぽい山。
その山にはしっかりと緑が生い茂っており、ウグイスの声がやかましい。いや、かしましいと言うべきか。
あちこちでホーホケキョの輪唱といった具合である。実にゴールデンウィークらしいと言えばらしいのだが。
ただ歩くのも退屈なので、カメラを片手にスタンバイし、できればウグイスの姿を撮ってみようと試みる。
ウグイスってのは元来非常に警戒心の強い鳥で、なかなか姿を見せてくれないものだ(→2012.1.1)。
だからそんなに期待できないという気持ちが半分、しかし本当に近くで鳴いているのでもしやという気持ちが半分。
で、結果は下の写真のとおりであります。すぐに逃げちゃうんだけど、いちおうその姿をカメラに収めることができた。
L: 頭上にウグイス。本当に近くにいたので、声がすごく強かった。 C: 大崎にて。これだけはっきりと姿を見られるとは。
R: 大崎に到達すると、そこからはまっすぐな上り坂となる。わりと頻繁に小さいイモムシがぶら下がっていて困った。ある意味ではまあ、優雅な休日の朝の過ごし方なのかもしれない。とにかく8時半ちょい過ぎに大崎に到達。
2年前の早朝に車で通過ときの記憶がフラッシュバックする。ああ、オレはここまで歩いてきてしまったんだな、と思う。
しかしまだまだ道半ば。ここから山へと入っていって、まっすぐ上り坂が続くのである。これまた黙々と歩いていく。9時少し前に見覚えのある分岐に出る。おう、そうだったそうだった。左に行けば展望スペースがあるんだよな。
開館と同時に飛び込むほどの意欲もないので、まずはその展望スペースへと行ってみる。すると意外なことに、
すでに家族連れが数組いて何やら話をしている。どうやら地元の車の愛好家にとって、五色台はいい峠のようで。
そして肝心の展望スペースは、雨雲の影響もあってイマイチ眺めがよろしくなかった。2年前と変わらない感じ。
しょうがないので来た道をトボトボ引き返して、いよいよ瀬戸内海歴史民俗資料館へ。そしたらなんと、晴れてきた。
はっきりと青空が広がり、日の光が差してきた。自分でも信じられない強運ぶりである。非常にいい気分で撮影してまわる。
L: 瀬戸内海歴史民俗資料館。2年前にも訪れているが、そのときは早朝すぎて雰囲気をつかめなかった(→2013.12.30)。
C: 一段低くなっている駐車場の方から建物を眺める。香川県建築課の課長だった山本忠司の設計で1973年に竣工。
R: もともと高松港にあった紅白の灯台。防波堤上の灯台は、港に入る際に右側が赤、左側が白となるように定められている。この瀬戸内海歴史民俗資料館は、公共建築百選とDOCOMOMO物件の両方に選定されている建築物なのである。
ただしDOCOMOMOでは2012年の追加選定。1回目に訪問した際、僕はそうだと知らなかったわけで。いいかげんだ。
L: エントランス部分を眺める。 C: エントランス前から漁撈(ぎょろう)収蔵庫を見下ろす。こちらは1980年竣工。
R: 収蔵庫側から見た本体。貼り付けられた石は工事の際に出たものを利用したそうだ。「海賊の城」のイメージとのこと。ではいよいよ中を見学するのだ。香川県立ミュージアムの分館扱いになった関係で、入場は無料である。
ここまで来るのに猛烈なエネルギーを消費するので、入場無料はありがたいような、拍子抜けするような。
「瀬戸内海歴史民俗資料館」という名称から僕は勝手に、海賊やら戦国時代の水軍やらを想像していたのだが、
展示内容はごくごくふつうに瀬戸内海における漁業や造船業の歴史と実態に終始していた。ホントに民俗系のみ。
この手の資料館は、資料が膨大すぎてまとまらない内容になるのがよくあるパターンだが、ここもそんな感じ。
ただ、展示室は光を多く採り入れているし、自然な高低差が連続していて、飽きの来ない空間に仕上がっている。
L: まず第一展示室では、広大な屋内空間に大胆な船の展示で圧倒される。壁にも資料がいっぱいで密度は非常に高い。
C: このように光を積極的に採り入れており雰囲気は明るい。高低差のある展示室を連続させてそのまま通路としている。
R: 坪庭もあるでよ。もともとの地形をかなり生かしていると思われる。コンクリートの感触がなるほどモダニズムだ。途中で屋上の展望台に出られるようになっている。張り出した石段の先に素っ気ない扉があり、それを抜けると屋上。
建物じたいはそこまで背の高いものではないので、特別に眺めがいいわけではない。しかし五色台の緑が広がる先に、
空と瀬戸内海、ふたつの青を見ることができる。海からはゴツゴツと島が顔を出しており、瀬戸内特有の景観を楽しめる。
いやあ、天気がよくなってくれて本当によかった。おかげでこの建物、そして瀬戸内海国立公園の魅力をきちんと味わえた。
L: 屋上の展望台より眺める瀬戸内海歴史民俗資料館の中庭。天気がよくなってくれたから緑とツツジが鮮やか。
C: 各展示室が複雑につながっているのがわかる。 R: 中庭に降りて建物を見上げる。DOCOMOMO物件であるのに納得。ひととおり見てまわると、瀬戸内海歴史民俗資料館を後にする。そうしてさっきの分岐を越えて展望スペースへ。
靄がかかっていたさっきと比べればずいぶんマシな眺めになっていた。なるほど、緑に包まれた要塞に見える。
L: あらためて展望スペースより眺める瀬戸内海歴史民俗資料館。「海賊の城」はわかるが、海賊の資料はなかった。
R: 瀬戸内海を眺める。対岸に見えるは直島(→2007.10.5)ですかね? それとも玉野(→2013.12.27)ですかね?帰りは下りなので楽だが、45分以内に戻らないとバスが出てしまうので最後はランニング。なんとか滑り込みセーフ。
相変わらず無茶なスケジュールだと自覚しているが、行きたいところがいっぱいあるんだからしょうがないのである。なんとか11時台に高松駅に戻ってきたよ!
瀬戸内海歴史民俗資料館をテンポよく押さえたおかげで、今日の午後は予定していたより少しだけ余裕ができた。
昼メシを買い込んで列車に乗り込む。予讃線に揺られて目指すは善通寺。多度津から内陸方面へ2駅行くと到着。善通寺駅の駅舎は1889(明治22)年の開業時からのもの。これはすごい。
駅を出ると、まずはまっすぐ西へ進んで善通寺市役所を目指す。と、すぐに特徴的な建物が左手に現れて驚いた。
まるで四角い庁舎が檻で囲まれているようなデザインである。ふつうじゃないと思って調べたら佐藤武夫の設計だった。
1968年の竣工で、耐震性に問題があることから建て替えの方針が決まっている。これはちょっと残念だなあ。
L: 善通寺市役所。第一印象は「牢屋」でしたスイマセン。 C: 正面から見ると、おうなかなかいいじゃない。
R: 西側の側面。正面から見たときとぜんぜん変わらないデザインじゃないか。かなり実験的な庁舎建築だと思う。善通寺市役所は敷地に余裕があるのでいろんな角度から眺めることができるのだが、どこから見てもほぼ一緒。
東側に出入口がくっついている以外は本当に変わらない。というか、この市役所、出入口が側面に付いているのかよ!
L: これは背面、旧善通寺偕行社側から見たところ。 C: 少し角度をつけてみるが、印象変わらず。
R: 一周して東側には出入口。正面じゃなくて側面に付けているところがまた独特である。はっちゃけてるなあ。そんな善通寺市役所のすぐ奥に位置しているのが、重要文化財にも指定されている旧善通寺偕行社だ。
地図を見るとわかるが、善通寺市の構造はかなり独特。まるで北海道の都市のように徹底した矩形の街割りなのだ。
これは四国最大の基地(陸軍第11師団)を持つ軍都だったことと無関係ではあるまい。今も陸上自衛隊の施設がある。
L: 旧善通寺偕行社。 C: 玄関を正面から眺めるが、見てのとおりリニューアルがキツめ。 R: 中はこんな感じ。そして旧善通寺偕行社は、陸軍将校たちの社交場として、1903(明治36)年に建てられたものである。
まあ「偕行社」といえばそういう用途だもんな(旧旭川偕行社(→2010.8.10)/旧岡山偕行社(→2014.7.26))。
面白いのは、今の市役所が竣工する1968年まで、善通寺市役所となっていた点(市役所としての利用は1954年から)。
その後は公民館や郷土館として使われていたが、2001年の重要文化財指定を機に保存修理工事を実施して、
ホールや会議室として利用できるようにしたわけだ。見学が自由にできるのはいいが、正直リニューアルがキツく、
重要文化財としてのありがたみというか、歴史を感じさせるような要素はほとんど残っていない。非常に残念である。
L: 大広間。悪いけど、これは平成になってからの建物であって、重要文化財にふさわしい建物ではないと思う。
C: 背面。造りはそのままなので、それなりの風情はある。 R: こんな感じの庭もついている。こっちはいい感じ。駅からの大通りに戻ってさらに西へ進んでいくと、今度は右手に、その名も「おしゃべり広場」が現れる。
ずいぶんと凝った建物で、吸い寄せられるようにあちこち見てまわる。屋上なんかしっかり庭園になっているし。
トイレなんてオシャレすぎてスケスケである。もう落ち着いて用を足せないよ。けっこう気になる建物である。
L: おしゃべり広場。レンタサイクルを借りることができるなど、観光拠点としての機能も持っている。
C: スケスケのトイレ。小便器も衝立なしでそのまま3つ並ぶミニマルさで、ぜんぜん落ち着けねえっての。
R: 地域の交流スペースということでつくられたそうだが、地元の名産品などがたっぷり売られている。設計者を調べてみてもなかなか詳しいデータが出てこないので困ったが、なんとかわかったことは次のとおり。
TMOの指定を受けた「まんでがん」という第三セクターの株式会社によって計画が進められ、2003年に竣工。
なお、「まんでがん」とは讃岐弁で「ぜんぶ(=まんで)すっかり(=がん)」という意味があるらしい。
「できることを全部やる」という意志が込められているそうだ。だったらネットでもっと紹介してくれよう。
L: ここはイヴェントを意図したスペースかな。 C: 屋上公園に上がってみるのだ。なんともオシャレなもんだ。
R: 屋上公園はこんな感じ。植物がやたらめったら植えられていて非常にいい雰囲気。僕はかなり気に入ったが。駅から500mも歩いていないのだが、特徴ある建築物がいっぱいで大変だ。善通寺はずいぶん個性的な街だと思う。
モタモタしているわけにもいかないので、少し急いでさらに西へ。平地の終わるところまで来てようやく善通寺に到着。
市名にもなっている善通寺は、四国八十八箇所霊場の第七十五番札所。そして何より、空海の生まれた場所だ。
(正確に言うと、空海の父・佐伯善通が自分の地元に創建した寺である。なお、このとき空海は33歳だった模様。)
高野山・東寺(教王護国寺)とともに弘法大師三大霊場とされるそうで、四国八十八箇所でも特別な存在感がある。
L: 善通寺の南大門(東院)。 C: 東院・五重塔。1902(明治35)年竣工と比較的新しいが重要文化財。
R: 東院の金堂も重要文化財だ。1699(元禄12)年の築ということで、これまた貫禄がありますな。善通寺の境内は東西に分かれている。東院は創建の地であり、西院(御誕生院)は空海生誕の地とされている。
まずは東院の南大門から境内に入る。公園のように広々としており、日本で3番目に高いという五重塔がすらりと建つ。
授与所の奥には金堂。参拝客も非常に多く、思っていた以上に規模が大きく立派な寺なのであった。中門を抜けて西院へ。出店が並び、日常的に参拝客の多いことがうかがえる。
さて西院(御誕生院)。こちらは19世紀から1940年まで着々とお堂がつくられて境内が整備されてきた。
だいたいの建物が国登録有形文化財となっている。仁王門から御影堂へと続く回廊がけっこう長くて独特である。
L: 仁王門。1889(明治22)年築。 C: 仁王門を抜けるとすぐに御影堂前回廊。1915(大正4)年築。
R: 御影堂。1831(天保2)年築。西院は東と比べて、コンパクトな中に各お堂がぎっちり密集している感じ。この旅行ではみやもりから安産御守を頂戴するように頼まれていたので、お寺代表ということで善通寺で頂戴した。
空海が誕生した寺なんだからご利益があるだろう。ひとり満足感に浸りながら善通寺を後にするのであった。帰りは南にある陸上自衛隊駐屯地方面にちょっと寄っていく。道路に面して赤レンガの倉庫が並んでいるので、
ぜひ見ておこうというわけだ。なんでも竣工してからまったく改装しておらず、今もそのままで使っているそうだ。
少し離れて1898(明治31)年竣工の陸上自衛隊善通寺駐屯地資料館(通称・乃木館)も見学してみたかったが、
時間が決められているので断念。新発田とか気楽に入れてよかったんだけどなあ(→2014.10.18)。まあしょうがない。
L: 陸上自衛隊善通寺駐屯地の現役赤レンガ武器庫。 R: 善通寺のアーケード商店街。まっすぐだなあ。善通寺を後にすると、いったん多度津に戻って再び予讃線を西へ。高瀬という駅で降りるとそのまま東へ歩く。
そこにあるのは三豊市役所。2006年に7つの町が合併して誕生した新しい市である。人口は香川県で3番目とのこと。
「三豊」の名は1898(明治31)年に三野郡と豊田郡が合併して生まれたものだ。三豊平野は讃岐平野の西部である。
俳優で「うどん県」副知事の要潤が三豊ふるさと大使として活躍中。『タイムスクープハンター』面白いよね。
L: 三豊市役所。もともとは高瀬町役場として1990年に竣工したもの。設計は石本建築事務所。
C: 角度を変えて真正面から眺める。 R: エントランスをクローズアップ。平成じゃのう。上記のとおり三豊市役所は2006年に誕生。当初は南の観音寺に近い旧豊中町役場を市役所本庁舎としていたが、
2008年からこちらの旧高瀬町役場に移った。なんせ7町の合併なので、いろいろとバランスが取りづらいのだろう。
L: 背面。駐車場が土とは……。 R: 角度を変えて眺める。この後、隣の香川西高校経由で駅前に戻った。本日最後は国宝建築を見に行くのだ。本山駅で降りて本山寺を目指す。寺の名前を採って駅名としたのは明らかだが、
実は1kmちょっとの距離がある。予讃線を通す際に反対運動が起きたせいだと。おかげで歩くのが面倒くさいぜ。
まあ、途中で角度を変える一本道を行けばいいんだけどね。住宅が並ぶ道をのんびりトボトボ行くのであった。辺りは農地が広がるが、本山寺への道沿いだけ家が並ぶ。それにしてもまっすぐだ。
15分ほどで本山寺に到着するが、裏側からまわり込む形になってしまった。あらためて財田川方面から参拝する。
L: 境内の南端にポツンと仁王門。しかしこう見えて実は、室町時代中期に建てられた重要文化財なのである。
C: 仁王門をくぐって境内を望む。 R: 左手奥にある五重塔。1910(明治43)年に竣工したものだと。本山寺は四国八十八箇所霊場第七十番札所。本堂は鎌倉時代の1300(正安2)年に建てられており、国宝である。
とっても四角いお堂だなあと思いつつ参拝。裏にまわると特に、奈良時代的な感触もあって確かに古い様式っぽい。
でも「国宝だぞ、どうだすごいだろう!」という感じは一切なくって、ごくごく自然にたたずんでいるのがかっこいい。
L: 本山寺本堂。国宝なんだけど、気取らず当たり前のように境内にたたずんでいるのがかっこいいと思うのだ。
C: 少し角度を変えて眺める。 R: 裏側。屋根の感じといい、どことなく奈良時代っぽい価値観を感じるのだが。決して偉ぶった感じがないけどしっかり立派、という好印象なお寺だったが、一点どうしても気になるのは、
東側の塀である。毒々しい淡い青色で塗られており、これが非常に気持ちが悪い。これだけはなんとかしてほしい。大門と問題の塀。いくらなんでもこの色はないだろう、と言いたい。
これで本日の予定はすべて終了である。またしても観音寺の琴弾公園には行けなかったなあ……。しょうがない。
銭形砂絵と国宝建築を天秤にかけて国宝を選んだだけのことさ。新しい観音寺市役所がぼちぼち竣工するので、
いずれそれとセットで見に行く日が来ればいい。どれくらい先のことになるのか見当もつかないけどね。予讃線で香川県を脱出すると、愛媛県。そしてすぐ川之江で下車する。本日の宿は川之江に確保してあるのだ。
徳島県からスタートしてぐるっとずいぶん来たものだ。そう思いながら駅を出るといきなりアーケード商店街。
L: 川之江駅前、いきなりアーケード商店街が始まる。「紙のまち 川之江」の字が目立っているぜ。
C: しかしアーケード内はかなり寂れ気味。 R: 祝日の夕方だが、閑散としていて切なくなる。川之江については明日の朝に探索するつもりだったが、正直想像以上の寂れ具合で、なんだかションボリである。
何か観光資源はないかと調べてもみたものの、製紙業が有名なだけで特にこれといったものはなかった。またションボリ。
晩メシを食いに国道11号もちょろっと歩いてみたが、やはり特筆すべき要素がない。純粋に交通路という印象である。
旧川之江市役所(現・四国中央市役所川之江庁舎)は金生川の対岸にあってそうとう遠い。どうもよくわからない街だ。
5日間の四国+α旅行、2日目は役所・神社・サッカー観戦のトリプルプレイである。ぜーんぶやりまっせー。
しかし困ったことに、どうも天気がよくないらしい。まあ5日間も旅行してりゃあ一日くらいどこか雨が降るだろうが、
それがどのタイミングでぶつかってくるかはけっこう重要な問題だ。でもまあ正直、雨が降るのが今日の午後なら、
今回の旅程の中ではいちばんマシと言えばマシなタイミングなのである。さてさて、どうなることやら。早朝の高松城・旧東の丸艮櫓。重要文化財でございますよ。
朝のうちに役所リヴェンジを果たすことにする。まずは高松市役所から。もちろん8年前にも訪れたが(→2007.10.6)、
そのときはテキトーな写真が4枚だけ(しかも朝6時台)ということで、さすがにきちんと撮影し直すのである。
L: というわけで、あらためて高松市役所です。 C: 少し西に進んで眺める。 R: 南西側の側面。高松市役所は1979年の竣工。設計者は佐藤武夫設計事務所である(代表だった佐藤武夫は1972年に没している)。
僕の感覚だと、高松市役所のスタイルは完全に1980年代のものだ。組織事務所となった佐藤武夫設計事務所が、
その潮流をやや先取りする形で提示してみせた建築という点において、実はかなり意義深い存在ではないかと思う。
L: こちらは北西側の側面。 C: 旧高松市立四番丁小学校(2010年閉校)越しに眺める高松市役所の背面。
R: 北東側から眺めたところ。周囲は中心市街地かつ寺町で、道路の幅が狭くて敷地に余裕がぜんぜんない。高松市役所が現在地に移ったのは1928年のこと。1945年7月には大規模な空襲により市街地の80%を焼失したが、
鉄筋化されていたので市役所は焼け残った。現在の高松市役所は、そのときの庁舎を建て替えたものである。
高松の街は空襲で壊滅的な被害を受けたわりには、かなりこまごまとしている。しかし矩形の街区がはっきり広がり、
中央通りや観光通りなどの大通りがまっすぐ引かれている点は、区画整理による復興が行われた証拠であると言える。
したがって、城下町らしさと空襲からの現代的な復興という両方の特徴を持っている、非常に珍しい街なのである。
実際に歩いていても、昔ながらのスケール感で市街地が延々と広がっており、終わりが見えない感覚をおぼえる。
また、玉藻公園(高松城址)・中央通りと高松駅には少し角度のズレがあり、慣れないと市街地の方向がわかりにくい。
だから2年前の年末に地図を見て戸惑ったのも仕方がないことなのだ(→2013.12.28)。微妙な難しさのある街だ。
L: 中央公園から見た高松市役所。中央公園はかつて寺で、1899(明治32)年から1913(大正2)年まで市役所が置かれた。
R: 中央公園内のアイパル香川(香川国際交流会館、旧香川県立図書館)。モダンだと思ったら芦原義信の設計。1963年竣工。続いては、DOCOMOMO物件で、やっぱりはずせない百十四銀行本店。中央公園のすぐ東側、中央通りに面している。
過去ログを見たらマトモな写真が撮れていなかったので(→2007.10.6/2010.10.11)、あらためてチャレンジなのだ。
百十四銀行本店は1966年の竣工で、設計したのは日建設計。大胆さと堅実さを見事に両立しているそのデザインは、
なるほど確かに日建設計だからこそできるように思える。日建設計は組織事務所でありながらも冒険できるのがすごい。
施主の意向に合わせて柔軟に対応するだけでなく、芸術性の高い作品もつくることができる。やはり一味違うと思う。
昨日の香川県立体育館やこの後に訪れる香川県庁舎など、高松には丹下健三による公共建築の傑作があるが、
百十四銀行本店は銀行という民間企業の代表としての矜持、そして日建設計という設計を行う企業としての矜持、
その両方を大いに感じさせる。高松では公共団体と民間企業、それぞれのトップレヴェルの建築が双璧を成している。
L: 百十四銀行本店。上述のように高松の街は道幅が狭いので、さまざまな角度からすっきり撮影できないのが切ない。
C: 緑青仕上げブロンズ板貼の外壁は流政之によるデザイン。大分県庁舎(→2009.1.9/2011.8.12)でもやっとったな。
R: 中央通りを南下して振り返って撮影。うーん、木が邪魔だ。凡百の並木より唯一無二の建築を優先させてくれませんかね。さていよいよ香川県庁舎(東館)である。僕は日本のすべての県庁舎を見てきたが、ベストは何かと問われれば、
「丹下健三の香川県庁舎」と即答せざるをえない。時代を切り拓くコンセプトとデザインの完成度は群を抜いている。
過去ログですでにあれこれ書いているので(→2007.10.6/2010.10.11)、詳しいことはもういいや。
8年前の写真も同じように早朝だったが陰影のバランスがあまりよくなかったので、今のカメラで撮り直してみる。
L: 香川県庁舎(東館)。丹下健三設計、1958年竣工。 C: 正面より眺める。 R: 低層棟に近づいて眺める高層棟。
L: 低層棟をクローズアップ。 C: 県庁前通りから低層棟を眺める。 R: 低層棟越しに高層棟と現在の本館を眺める。
L: 低層棟はピロティでしっかりと持ち上げられている。階段もまた絵に描いたようなモダニズムなんだよなあ。
C: 高層棟の手前にあるオープンスペースのいちばん高いところから低層棟を眺める。 R: 反対の北側から眺める。なんだかんだで高松にはけっこう来ているのだが、時間的な余裕があると必ず香川県庁舎は見に行っている。
やっぱり無視することができないのである。県庁舎建築の最高傑作をきちんと見ておいて、感性を確認する、そんな感じ。
L: 隣の香川県議会議事堂。1987年竣工だが、東館とはだいぶ大きな差があるな……。 C: 2000年竣工の本館。
R: 県庁から少し南に行ったところにある中野天満神社。高松空襲を経て、こんな大胆な形で1969年に再建された。いっぱい写真を撮っていたら腹が減った。高松の朝メシといったら当然うどんである。が、今はゴールデンウィーク。
高松高校の学生御用達のさか枝は休みなのであった。それで前回と同じく県庁の目の前にあるうどん屋にお邪魔する。
今日はこの後、カマタマーレ讃岐の試合を観ることもあって、釜玉をいただいた。釜玉は少し時間がかかるのだが、
待たされた分だけおいしくなるってもんよ。塩味の強い薄口醤油が合っていて、「ああこれが正しい釜玉だ」と実感。釜玉うどんについては薄口醤油で食べるべきだと思わされました。
いちばんの大盛サイズでいただいたので本当に腹一杯。大満足で店を後にすると、そのまま琴電の瓦町駅へ。
目指すは讃岐国一宮・田村神社である。以前にも参拝しているが(→2011.7.17)、御守はまだ頂戴していないのね。
瓦町駅は琴電における一大ターミナルだ。少し戸惑いつつも琴平線に乗り込み、揺られること15分ほどで一宮駅に到着。
記憶に残っているルートをたどって北東へ進んでいくと、住宅地の中に立派な参道が現れる。4年前と何も変わらない。
L: 田村神社の参道前に到着。 C: 参道はしっかり整備されている。周りは完全に住宅地なので木々はおとなしく茂る。
R: 参道からまっすぐ進んだところにある拝殿。田村神社の境内はここからクランク状に延びていて、ちょっと複雑なのだ。田村神社は湧水地にあるそうで、川の少ない香川県/讃岐国にとってはよけいに聖地性の強い場所だったのだろう。
そのせいなのか、拝殿と本殿だけでなく、実にさまざまな石像が置かれて境内は飽和状態。B級珍スポット感すら漂う。
サーヴィス精神が旺盛と表現することもできるんだろうけどね。でもさすがにやりすぎで品がないと思うんだよなあ。
L: 前回参拝時にも挑戦した矢みくじ。 C: 拝殿の隣の宇都伎社。 R: その隣の素婆倶羅社。いろいろありすぎ。日曜日の午前中に訪れたので、そんなに規模は大きくないものの、境内では朝市が開かれていた。
そして拝殿の手前にある建物の中ではなんと、1玉150円のうどんが食べられる。讃岐国一宮の讃岐うどん、気になる。
しかし僕は今さっき大量の釜玉うどんを胃袋に収めたばかりなのである。もうこれ以上は入らねえぞ、とも思う。
……まあ結局、1玉分だけいただいたんだけどね。入口で食券代わりのプラスチックの札をくれるじいちゃんは、
「なんだよお前、大の大人の男のくせして1玉だけかよ」って見てきた気がしたが、それ以前に極限まで食ってるの。
L: 境内の裏手も木々がいっぱい。おかげで本殿が見えない。 C: こんな具合に境内は石像でいっぱい。やりすぎでは。
R: 日曜日の午前中限定で食える、田村神社のうどん。麺にコシがなく、正直なところ残念ながら味はイマイチでした。これでまたひとつ一宮の御守が手に入った。ウヒウヒ言いながら琴電に揺られ、帰りは高松築港駅まで行く。
ちょっと歩いてJRの高松駅へ。サッカー観戦のため、丸亀に移動するのだ。曇り空を気にしながら西へ。
高松と丸亀の間には電車で30分ほどの距離がある。途中にある坂出では瀬戸大橋線の大胆な構造物が楽しめる。
坂出人工土地は、今でももっとじっくり見たかったという思いがある(→2013.12.27)。通り過ぎるのが悔しい。丸亀に到着。晴れていればレンタサイクルを借りて海側も城側も市街地を縦横無尽に走りまわるつもりだったが、
空はいよいよ暗くなってきていつ雨が降り出してもおかしくない、といった雰囲気。残念だがレンタサイクルを断念。
5年前には駅から丸亀城まで往復し(→2010.10.11)、姉歯の旅行では塩飽諸島にも行った(→2013.12.30)。
でもきちんと街の雰囲気を味わった実感はない。いつか切なさを感じつつも歩けるといいなあと思うんだけどね。駅前広場の脇から出ているバスに乗って、さっさと香川県立丸亀競技場へと移動する。地図だとそう遠くない感じだが、
バスにはしっかり揺られたように思う。15分も乗っていなかったのになぜだろう。まあとにかく、到着である。
恒例の初スタジアム一周を敢行するが、なかなか特徴的。バックスタンド(東)側にも広大な芝生とトラックがあり、
北側には池がある。その向こうにある丸亀市民球場が水上に浮かんでいるように見えて、ちょっと幻想的な趣だ。
パシフィックベル・パーク(いわゆるAT&Tパーク、サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地)のことを思い出した。
L: 香川県立丸亀競技場。バスは国道11号丸亀バイパスで停まり、そこからちょっと歩くとこの風景が現れる。
C: 芝のフィールド越しにバックスタンド側を眺める。 R: 池の向こうの丸亀市民球場。目指せスプラッシュ・ヒット。一周を終えるといよいよ入場。迷った末、今回はバックスタンドでの観戦にした。メインスタンドと対面したかったのね。
実際に席に座ってみると、陸上のトラックを挟むがそんなに見づらいということはない。まあこんなもんだろう、と。
すごかったのがオーロラビジョン上のカメラ。GKの練習の様子が真正面から映っており、よく考えたら不思議な構図だ。
どこから撮っているんだ?と首をひねり、まさかと思って見てみたら、なんと巨大なビジョンの上にカメラマンがいた。
今まさに雨が降らんとしている状況で、風を遮るものが何もない状況で、なんであんな場所にいられるのか。怖い怖い。
L: 一周してメインスタンド側にやってまいりました。 C: バックスタンドより。メインスタンド側がけっこう豪華だね。
R: 何をどうやったらこんなところに立つことができるのか。高所恐怖症としてはもう、見るだけで鳥肌が立ってくる。カマタマーレ讃岐の本日の対戦相手は東京ヴェルディ。4年前に鳴門に行ったときも相手は東京V(→2011.7.16)。
ヴェルディのサッカーなんていつでも東京で観られるわけで、旅先でヴェルディ戦というのはちょっとテンションが落ちる。
やっぱりどうせなら行くのが面倒な街のクラブどうしの対戦を観たいのである。一粒で二度おいしい、みたいな。
それに僕はアンチヴェルディなわけで、わざわざ旅先でヴェルディ戦を観るのはコアなサポと行動がかぶってしまう。
サポーターがアウェイゲームの応援に行くのは正しい行動だが、僕はサポーターではないのでそれはちょっと……。
しかし冨樫監督が就任して以降の東京Vのサッカーは、守備に穴がなくきちんとしている印象がある(→2015.3.8)。
カウンターに磨きをかけてJ2残留を果たした讃岐だが(→2014.11.30)、東京Vの整備された守備をどう破るのか。
僕の中でこの試合の焦点はけっこうはっきりしていて、なんだかんだですごく楽しみにしていたのである。ホントだぜ。試合が始まると、とにかく東京Vがボールを保持する。東京Vはパスをつないで讃岐のゴールに迫ろうとするものの、
讃岐は機を見て得意のカウンターをグイグイ仕掛けるので、結果的に双方の持ち味がしっかり発揮された好ゲームとなる。
せっかくのゴールデンウィークなのに、ついに降り出した雨のせいもあって観客は3,000人足らず(2,938人)。
J2上位でバリバリやっているチームではないので、チャンスを決めきれないシーンがほとんど。でも見応えはバッチリだ。
特に讃岐は粘り強く戦えていて、ゴールが奪えないことでそれなりのストレスはあるが、応援しがいのある内容だった。
L: まずはしっかりとブロックをつくって守る讃岐。見てのとおり、見事なまでに中盤がフラットの4-4-2である。
C: 後半に入ると讃岐のカウンターが迫力を増す。 R: 「弱者のカウンター」の秘訣は、人数をかけることにある。前半はスコアレスで終了。後半に入っても東京Vがボールを持って攻めかかり讃岐がそれを受ける構図は変わらないが、
はっきりと讃岐が相手のゴール前でチャンスをつくるようにはなる。58分、左からのクロスがすっぽり中央に通る。
今季から讃岐に加入した永田が腹でそれを収めると、素早くシュートして先制。讃岐の集中力が東京Vを上回った印象。
結局、この1点を讃岐がしっかりと守りきって勝利した。東京Vは途中から入った平本以外、特に脅威がなかったなあ。
L: 讃岐の先制シーン。左からのクロスを腹で足元に収めてからシュート。蹴った角度が良く、GKは反応するも取れず。
C: 先制点に盛り上がる讃岐サポの皆様。バックスタンドはなかなかの水色っぷりなのであった。人気は定着している模様。
R: 雨が強まる中、必死で守る讃岐。堅実な守備で守りきるサッカーは、完全に讃岐のペース。東京Vは決定機をつくれず。一般には、この日に東京Vが志向したような「ボールを保持するサッカー」が「攻撃的である」として好まれる。
しかし讃岐のブロックはしっかり機能し、東京Vは守備を徹底する相手から得点を奪うだけの違いを生み出せなかった。
逆に自分たちのペースをつくって迫力あるカウンターを仕掛けていた讃岐の方が、「魅力的なサッカー」だったと思う。讃岐のカウンターを見て思ったのは、「弱者のカウンター」は人数をかけるポイントを見極めることが肝要だということ。
いつでもゴールを奪えるからと相手にボールを持たせる「強者のカウンター」は、個の能力が高いことが前提となる。
しかしそうではなく、相手にボールを持たれてしまうことでやらざるをえなくなった受身の「弱者のカウンター」では、
個の能力が期待できないので、いかに点を奪うかが問題となる。松本山雅のようにセットプレーに賭けるのもひとつの手だ。
走力に期待できるチームの場合、前線から積極的にプレスをかける「ショートカウンター」という戦術も選択肢に入る。
しかしそこまで走れないチームだと、いちばん手っ取り早いのは、全体を低く引いてスペースを消して相手の攻撃を防ぎ、
ボールを奪ったら前線のFWにロングボールを送ってあとはなんとかしてもらう、という雑なサッカーになってくる。
さて、讃岐が取り組んでいるのは当然、「弱者のカウンター」ということになるが、優れているのはチャンスの見極めだ。
相手からボールを奪った瞬間、選手の配置が自分たちにとって有利かどうかを判断するセンスが非常にいいのである。
無理に仕掛けることは絶対にない。しかし相手に隙があると見た瞬間、チーム全体が一気にカウンターを仕掛けていく。
ポイントを絞って厚みのあるカウンターを仕掛けることにより、しっかり攻めきってみせる。ここの判断が実に的確なのだ。
チーム全員の意思がきちんと統一されているので、カウンター主体のサッカーだけど見ていてすっきり気持ちがいい。
なるほど、「弱者のカウンター」は人数をしっかりかけて攻めれば通用する。そこの判断を訓練すればいいのか、と納得。
昨シーズンはJ3長野との入れ替え戦にまわった讃岐だが、今シーズンは順当に中位に入るだろう。このチーム、弱くない。勝利のダンス。讃岐は確実にいいサッカーをやっていると思うよ。
バスで丸亀駅まで戻る。振り返ってみると、しっかり雨に降られたのはサッカー観戦をしている間だけだった。
実に迷惑な話ではあるが、冒頭で書いたようにそれは「マシなタイミング」なので、まあ納得できる。しょうがない。丸亀駅に到着すると、すぐ向かいの建物へ。そう、今度は猪熊弦一郎現代美術館を見学するのである。
5年前には丸亀に滞在する時間が限られていたので、外観の写真を撮っただけなのであった(→2010.10.11)。
毎度おなじみ谷口吉生が設計した美術館で、非常に評価が高い。実際はどれだけのもんよ、と鼻息荒く中へと入る。
L: 猪熊弦一郎現代美術館。谷口吉生の設計で1991年竣工。MIMOCA(ミモカ)という愛称があるらしい。
C: 3階のエレベーターに行く通路から撮影したアトリウム部分。巧いもんだなあ。 R: 反対側には丸亀駅前の光景。中に入ってチケットを買うと、ロッカーに荷物を預けて階段を上がる。まずは2階の常設展から見ていく。
地元・丸亀出身の洋画家・猪熊弦一郎の作品が展示されている。まあその名前を冠した美術館だから当然だろう。
集めていたコレクションや小物のオブジェなどが一気に展示され、その後に絵画作品が陳列されている構成。結論から言っちゃうとですね、僕は猪熊弦一郎という画家のどこが偉大なのかサッパリ理解できなかったですわ。
『マドモアゼルM』だけは上手い。というか、この作品を見るに、確かに画家としての腕はあると思うのだ。
しかしそれ以外の作品はどれも時代におもねったものばかり。画家としての感性ではなく、商売人としての感性だ。
もともと僕は第二次大戦後の抽象画が死ぬほど嫌いなのだが(第一次世界大戦後の抽象画はわりと好きである)、
猪熊弦一郎はそのど真ん中を行く作品が目立つ。彼には本当に描きたいものが存在しなかったんじゃないか。
だからそれをごまかすため、また生活のために抽象画を粗製濫造したように思う。本物の芸術家とはとても思えない。
現代美術が行き詰まりの予感から理論へと逃げた時代、そこを猪熊弦一郎は鋭い嗅覚で泳ぎきっただけなのだ。
迷走を見せる現代美術において、理念もないまま混乱を深めることでメシを食った汚い根性の持ち主、とすら思う。
自分でも呆れるほどの罵詈雑言を書き付けたが、これが本音だ。こんなヤツの作品をありがたがるのはバカの証明。
L: なんかオブジェが置いてある空間。 R: トイレのサイン。このミニマルさはけっこう衝撃的でございました。企画展は気取った風景写真がいっぱいでへえそうですか、と。美術館の建物は安定の谷口吉生っぷりでさすが。
特に2階の展示室Bを階段からちょっと見下ろしたところなんてもう最高。美術館らしからぬ開放感がいいのだ。
最後にミュージアムショップに寄ったが、当然、猪熊弦一郎グッズで欲しいものなんてあるわけないのである。
しかし『香川県庁舎 1958』という本を売っていたので、これは即、購入。これについてはいい買い物ができた。改札を抜けて丸亀駅のホームに出ると、骨付鳥のマスコットキャラクター「とり奉行 骨付じゅうじゅう」の横断幕が。
高松行きのホームでは香川オリーブガイナーズを応援し、松山行きのホームではカマタマーレ讃岐を応援している。
現存天守、現代美術、野球、サッカー、B級グルメ、ゆるキャラ。かなり充実しているもんだなあ、と呆れた。
骨付鳥が香川県である必然性はないのだが、実際に旨いんだからしょうがない(→2013.12.27/2013.12.28)。
L: カマタマーレ讃岐を応援する骨付じゅうじゅうでござる。 R: 香川オリーブガイナーズを応援する骨付じゅうじゅうでござる。高松に着くとメシを食い、スマホを充電する必要からネットカフェに入る。そしたらいつの間にか寝てしまって、
起きたら日付が変わろうとするところだった。ジーザス! しょうがないので急いで荷物をまとめて宿へ移動。
宿ではホントに寝るだけ。やっぱり無理に動きまわってよけいな疲れが溜まっているのか? いや、マズいですわ。
テスト1週間前とゴールデンウィークが奇跡のコラボレーションを演じてくれたおかげで、5日間の旅行である。
連休ということで飛行機の料金が凶悪なことになっているので、そりゃもう夜行バスで行けるところまで行くのだ。
そんな欲深さと御守の頂戴状況とを勘案した結果、今回は「徳島から香川経由で愛媛まで、締めは岡山」となった。
僕としては少々地味というか、何度も行ってるだろ、というツッコミが入りそうな旅程である。ハイそーですね。
しかしわざわざそうするからには、今までスルーした部分をしっかり拾っていくぜ!という要素がものすごく強い旅なのだ。
初日は徳島の市役所をつぶし、2日目は香川の建築を味わって御守とサッカー観戦、3日目も香川の建築と寺を味わい、
4日目は愛媛に入って今までスルーしていた都市をめぐり、5日目はしまなみ海道で本州に戻りつつ御守頂戴。
市役所、建築、サッカー、神社。うーん、実に僕らしい旅である。とことんやりきってやるのだ。ムニャムニャウフフ。……が、バスの車内アナウンスで目が覚める。「渋滞の影響で1時間遅れです」夜行バスなのに、渋滞ですとな!?
ゴールデンウィークというものの恐ろしさを思いっきり実感させられるスタートになってしまったではないか。
よく考えたら去年も同じ状況が発生していたのだが(→2014.5.3)、今回はスケジュールをタイトに組んでおり、
被害は甚大なのである。つまり自分は過去の教訓からまったく学んでいなかったというわけだ。相変わらず間抜けである。8時50分ごろにバスは終点・阿南駅に到着した。というわけで、今回のスタート地点は徳島県阿南市なのだ。
いちおう8年前の四国一周旅行で通過しているが(→2007.10.8)、夜になってからで様子はぜんぜんわからなかった。
しかし今回は5日間の旅行ということで、ここ阿南市から余裕を持って攻めていけるのである。たっぷり歩くぞー!
なんだかんだでバス1時間遅れの影響は大きいのだが、昼の徳島市内の観光時間を削ればロスは十分吸収できる。
遅れた分だけ朝イチよりは活気のある時間帯に街歩きできるぜ、と前向きに事態を解釈すればいいというわけ。阿南駅を後にして、まず目指すはもちろん阿南市役所。駅から阿南の市街地へと延びる道は見事にX字を描いており、
これを歩くのはちょっとわかりづらい。そこでまずは牟岐線の線路に沿って北へ出て、桑野川沿いの市役所へ向かった。
牟岐線沿いの風景は本当に鄙びた片田舎の住宅地で、阿南市の規模がそんなに大きくないことを実感しながら歩く。
まあもともと徳島県南部が過疎気味なのは8年前に車窓から見てある程度知っているので、そんなに驚くことはない。
川に出る手前で左折すると市役所なのだが、見事に工事の真っ最中。旅行の最初でコレってのは、さすがにがっくり。
それでも後ろには新しく建てられた庁舎がそびえており、ちょうど新旧交代の瞬間に立ち会ったようなものである。
一粒で二度おいしい、と無理やり納得して撮影開始。しかしまあ、なんとも微妙なタイミングだなあコレは。
L: 取り壊しを待つ阿南市旧本庁舎。 C: 正面より眺める。後ろに新しい庁舎がすでにできているのが見える。
R: 角度を変えてもう一丁。旧本庁舎は1966年に徳島県立富岡東高等学校の跡地に建てられたそうだ。もともと阿南市役所は、敷地の手前(南)に本庁舎、奥(北)に分庁舎という2棟の構成となっていた。
そこで新庁舎の建設にあたり、先に分庁舎を解体して新庁舎の高層部を建て、次に本庁舎を解体して低層部を建てる、
という2段階のプロセスを採用したのだ。そうすれば仮設庁舎を建てなくて済むというわけだ。なかなか合理的だ。
今はちょうど、高層部の建設(I期)から本庁舎の解体(II期)へと移るタイミング。貴重な写真が撮れたのは確かだ。
L: 新旧の庁舎の対比がわかるように撮影した一枚。 C: 桑野川に架かる橋から高層部の背面を眺めたところ。
R: 桑野川沿いの土手から眺めたところ。この後、左の本庁舎が解体されて低層部がつくられるというわけだ。なお、設計者は日建設計大阪オフィスである。プロポーザルにより決定したとのこと。完成は来年の夏の予定。
2段階で工事を行うアイデアなどは、確かに日建らしい手堅さを感じさせる。完全に仕上がったらどうなるか気になる。後で牛岐城址の展望台から眺めた阿南市役所。なるほどなるほど。
市役所の撮影を終えると、時間いっぱい街歩きである。さっきも書いたが徳島県南部はもともとかなり過疎気味で、
駅から延びるX字の通りは壊滅的な状況だった。が、国道55号沿いは個人商店と郊外型ロードサイド店が入り混じり、
けっこう独特な景観となっていた。また市役所の西側、桑野川沿いの商店街の方はまだそれなりの元気さを保っていた。
商店街には牛岐(うしき)城址公園の入口があり、城下町としての歴史を感じさせる構造を今もきちんと残している。
L: 阿南市役所前から阿南駅へと至る商店街。かなりの壊滅状態だった。昭和の時代にはまずまず栄えていたんだろうなあ。
C: 国道55号沿いは個人商店とロードサイド店が入り混じり、わりと特異な景観。まあ街の規模が大きくないってことだが。
R: 阿南市役所の西側は城下町らしい街道の雰囲気を今も残した商店街となっている。牛岐城址公園はこのすぐ南側だ。せっかくなので、小高い丘の上にある牛岐城址から阿南の街を見下ろしてみることにした。階段を上っていくと、
トラス構造のドームがある展望台に到着。夜になるとLEDで光るらしい。阿南は日亜の関係でLEDが特産品なのだ。
しかし牛岐城址周辺はしっかり住宅地で、高さもそんなにないので目の前には屋根ばかり。絶景ではなかったなあ。
L: 商店街にある牛岐城址公園入口。牛岐城は蜂須賀家政の阿波九城のひとつとして整備されたが、一国一城令で廃城に。
C: 牛岐城址公園。高さがないので眺めはよくない。牛岐は後に「富岡」と改名され、今もこの辺りは「富岡町」という地名。
R: オサレな阿南駅。徳島県で唯一の橋上駅舎であり、徳島県で2番目に利用客が多いんだってさ。……マジかよ!やや消化不良な気がしないでもないが、そもそも市役所が建て替え中なんだからどうしょうもない。
モタモタしているわけにもいかないので、阿南を後にして次の目的地・小松島へ向かう。牟岐線はローカルだからねえ。25分ほど揺られると南小松島駅に到着。ここが小松島市役所への最寄駅となる。小松島駅がなく、北小松島駅もなく、
南小松島駅があるだけというのはちょっとムズムズする事態である。いや、1985年までは小松島線が存在しており、
小松島駅もあった(小松島線は中田駅から出ており、線路の跡がそのまま道路となっているのでルートが確認できる)。
南小松島駅の名前の由来は、その地名である。小松島市は神田瀬川によって市街地が真っ二つに分断されており、
「北小松島」と「南小松島」に分かれている。そして南小松島駅は「南小松島」にあるので、これはもう妥当なのだ。
十分に時間があれば北小松島の方も堪能したかったのだが、渋滞の影響がここでも出て、市役所周辺のみでガマン。
駅からまっすぐ東へ歩いていくと、程なくして到着。そしたらこっちもなんか工事してやんの。がっくりだよ!
L: 小松島市役所。 C: なんか工事しとるし。 R: 敷地の真ん中にある木が邪魔で市役所の建物をまっすぐ見られない。小松島市役所の竣工は1968年。現在は耐震工事中であるようだが、一部設計図が残っていなくて困ったとかなんとか。
ただし、増築の結果だとは思うが、南側に複雑な構造の建物が貼り付いていて、面白がる要素はそれなりにある。
L: 南側。北側の4階建てと比べると凝った感じ。 C: 南東側から眺めたところ。 R: 南西側から眺めたところ。マツシマさんとしては、「小松島」という街の由来はけっこう気になるところである。Wikipediaによれば、
「『小』松島」ではなく、「小松『島』」とのこと。仁和寺の荘園ということで、けっこうな由緒があるではないか。
L: 背面。 C: 市役所の敷地の入口には笠をかぶった狸の像があった。『阿波狸合戦』がモチーフか。
R: いちおう神田瀬川を渡って北小松島エリアも歩いてみたが、その魅力を味わえたとはいいがたい。結局、小松島市役所から神田瀬川を越えて軽く一周して戻っただけ、という感じになってしまった。
小松島の持つ魅力をまったく味わえないままで去ったのがもったいない。金長神社まで参拝できればよかったが。
ま、気長ーに次の機会を待つとしましょう。そのときにはレンタサイクルが整備されているといいなあ。南小松島駅から徳島駅までは20分弱。改札を抜けるとすぐにコインロッカーに荷物を預け、そごうの地下へ。
ここでレンタサイクルを貸しているのである。電動のレンタバイクもあるのだが、今回はそこまで欲張らない。
素早く手続きを済ませると、一気に阿波おどり会館まで走る。徳島って自転車が非常に便利な街だ!と実感する。
L: 徳島駅前の光景。なんだかんだで徳島に来るのは3回目(→2007.10.9/2011.7.16)だぜイエイ。
C: 駅前のポストには阿波踊りが乗っていた。 R: 阿波おどり会館と眉山。周辺は阿波踊りのための大通りって感じ。徳島という街は意外と複雑なところがある。もちろんもともとは城下町。蜂須賀家によって栄えに栄えた。
過去ログでは「徳島の街は、駅前(内町地区)と新町川の右岸(新町地区)と2つの核がある」(→2007.10.9)、
また、「それにしても徳島の市街地の構造はかなり複雑である。吉野川と眉山に挟まれた土地が街になっているのだが、
川がいくつも蜘蛛の巣状に入り組んでいるのだ。そんな地形の特徴を残しながらも矩形の街区を割り込ませており、
モザイク的な空間がひしめき合うような仕上がり具合になっている。川と山に囲まれた街ならではの空間構成だ。」
とも書いている(→2011.7.16)。おかげで市街地が広く薄く延びていったような格好になっているのだ。
8年前には南側の市街地を歩きまわったが、今回は自転車で北側の佐古を走りまわった。しかしどちらも広く市街地だ。
やはりポテンシャルは高いのである。しかし密度が薄く、また空間より時間を優先するために(→2007.10.9)、
街としては人を惹き付ける要素がなかなか乏しい。僕としては「なんだかもったいねえなあ」という印象を受ける。さて、僕には徳島で8年前からやり残していることがあるのだ。今回はそのリヴェンジに、燃えに燃えているのだ。
それは、「いのたに」で徳島ラーメンをいただくことだ。鳴門にある支店で食ったことはあるのだが(→2011.7.16)、
本店では祝日の翌日ということで食えなかった。今日こそその恨みを晴らすのだ!と全力でその店へと向かう。
食い物の恨みとは恐ろしいもので、地図も何も見なくても最短コースで行けちゃうのね。自分で自分に呆れるよ。時刻は11時半、混み合う直前のいい時間帯である。店に入ると迷うことなく中華そば大盛にライスを注文。
水の入ったコップの上にレンゲを置くスタイルがなんだか非常にかっこいい(注文を受けたという印のようだ)。
しばらく待ってから登場したのは、豚骨醤油の正統派。夢中で麺をすすってライスを口に運んでスープをいただく。
これが想像していた以上に旨い。いのたにのスープは、メシとの相性が恐ろしく抜群なのである。本当に旨いのよ。
猛烈に腹が減っていたのも確かなのだが、感動しつつすべてを平らげた。いやもう、旅ってのは幸せでございますね。
L,C: 徳島の中心部にはいろいろオシャレな工夫があるのだが、イマイチそのポテンシャルを生かしきれてない感じ。
R: いのたにの中華そば。メシとの相性という観点からすると、これを上回るラーメンってのは存在しないのではないか。惚れ惚れしながら店を出る。そのまま北へと向かって国道192号にぶつかると左折。佐古のエリアに入る。
しばらく西へと進んでいって、佐古六番町でだいたいこの辺かな、と直感で左折して眉山方面へと舵を切る。
そしたらこれがビンゴで、住宅の密集している路地を抜けたらレンガの建物が見えた。佐古配水場ポンプ場である。
L: 佐古配水場ポンプ場。 C: 柵に寄りかかりながら正面より撮影。 R: 角度を変えてもう一丁。佐古配水場ポンプ場は、1926(大正15)年に建設された施設だ。当時の徳島市は伝染病に苦しんでいたのだが、
市の年間予算の3倍にもなる巨額の費用を投じて建てられた。まさに古き良き時代の誇りを感じさせる建物である。
しかし中に自由に入れないので、どうしても眺める角度が限定されてしまう。この点は非常に残念だった。この部分の地下は溜池になっていたみたい。
残された時間をどう動くか迷ったが、8年前には雨上がりだった眉山からの眺め(→2007.10.9)をリヴェンジすべく、
阿波おどり会館へと戻る。途中でいのたにの前を通ったのだが、すでにかなりの行列ができていた。恐ろしいわー。
そうして阿波おどり会館に到着すると、ロープウェイで眉山の展望台へ。ゴールデンウィークは新緑が鮮やかでいいが、
遠くまで見渡すにはそれほど適した時期ではないようで、眺めとしてはややイマイチ。冬の方がよかったのかな。
L: 徳島駅とその裏にある徳島城址方面を眺める。 C: 新町川と徳島県庁方面。 R: 徳島県庁をクローズアップ。せっかくなので8年前と同じようにパノラマでも撮影してみた。徳島市街特有の川の複雑な流れはわかりづらい。
全体的に淡くぼやけた感触になっていたのは残念。できれば南国らしい鮮やかな海の色を見たかったのだが。
できることなら徳島城址までリヴェンジしたかったのだが、さすがにそこまでの時間はなかった。
それでも念願叶っていのたにでラーメンとライスを食えたので十分満足である。ニコニコしながら徳島を後にすると、
高徳線で香川県を目指す。途中で四国八十八箇所の第一番札所・霊山寺と大麻比古神社のある板東駅を通過。
2年前の年末旅行は非常に愉快なのであった(→2013.12.28)。また姉歯メンバーで楽しい旅をしたいものだ。思い出に浸りながら揺られること70分、讃岐白鳥駅で下車する。実は本日、いちばんキツいスケジュールがここなのだ。
なんせ動ける時間は22分。すべてを走ってやらなきゃいかんのである。列車を降りると同時にダッシュをかける。
讃岐白鳥駅から目指すは東かがわ市役所だ。しかしその途中で、明らかにそれなりの規模がある神社の参道を横切る。
これは後でなんとか参拝せねば……。そう思いつつも足を止めることなく走って国道11号沿いの東かがわ市役所に到着。
L: 東かがわ市役所。これは北側から眺めたところ。 C: 西側、正面を見る。 R: 少し角度を変えて正面。東かがわ市役所はもともと白鳥(しろとり)町役場として1960年に竣工し、1996年に大幅な増築がなされたようだ。
その後、2003年に引田町・白鳥町・大内町の合併で東かがわ市が誕生したことで、東かがわ市役所本庁舎となった。
香川県は平成の大合併で、東側(いわゆる東讃)に「東かがわ市」「さぬき市」という曖昧な名前の市ができてしまった。
今回、実際に訪れてみて、東から「東かがわ市」「さぬき市」ということがようやく認識できるようになったのだが、
地名の歴史という観点で考えると、こんな市名を付けてしまったことは愚行としか言いようのない事態である。
かえって存在感が埋没してしまっていると思うのだが。そんな名前の街のいったいどこを誇るというのかねえ。東かがわ市役所の南側。国道11号に面しており、交通量が多いこと多いこと。
余った時間で白鳥(しろとり)神社に参拝する。これはもう、意地である。腕時計とにらめっこしながら走り、
参道をまっすぐ進んで拝殿の前に出て二礼二拍一礼。返す刀で授与所に突撃して御守を頂戴するのであった。
白鳥神社ということで真っ白なものを頂戴した。で、慌ただしく境内から去っていく。もう本当、すいませんね。
L: でも写真は撮りまーす! 境内に至る参道はなかなか厳かな雰囲気で、すごい神社なんだなと思わせる感じ。
C: 神門。酒樽があって風格があるじゃないの。 R: 拝殿も立派である。旧県社とのことで、さすがの規模。ちなみに白鳥神社の「白鳥」とは、亡くなったヤマトタケルの変化した姿。この地に舞い降りたので神社を建てたという。
白鳥となったヤマトタケルの伝説といえば、堺市の大鳥大社のものも有名だ(→2012.2.24/2014.11.8)。人気だな。本殿はこんな感じ。回廊があってプライドを感じさせる神社だった。
どうにか無事に次の列車をつかまえて、さらに西へ。1時間ほど揺られて志度駅で下車。だいぶ高松が近づいてきた。
さて、志度といったらシド=ヴィシャス……ではなくて、志度寺。そして言わずと知れた天才・平賀源内である。
今回はさぬき市役所も攻める関係で、平賀源内を優先することにした。志度寺はまた機会があったらきっと行くよ。
というわけで、まずはさぬき市役所へ。「志度」という面白い地名は「さぬき市」というバカな名前で塗り替えられたのだ。
L: まずは東側から。さぬき市役所は平成オフィスの雰囲気全開。 C: けっこう巨大で、距離をとらないと全体が収まらない。
R: 近づいてエントランス付近を撮影。本当によくあるタイプの役所だ。2000年の竣工で、設計は教育施設研究所って会社。志度駅からそのまままっすぐ北へ進んでいくと、左手にいい感じに鄙びた琴電志度駅があり、さらに進むと海に出る。
さぬき市役所はそのいかにも埋立地らしい突端にそびえている。見るからに平成オフィス建築全開の建物である。
合併によってさぬき市が誕生したのは2002年なので、この建物は「志度町役場」として竣工したわけだ。
L: 西側から眺めたところ。平面はV字になっている。 C: 北西側から眺めたところ。V字の突端に展望台がついている。
R: というわけで、海に突き出す展望台を見上げてみた。うーん、ド迫力。こりゃあさぞ眺めがいいことでしょうなあ。敷地を一周してみて、海に向かって突き出している円形の展望台に圧倒される。確かに五剣山、そして屋島が見えて、
展望スペースをつくりたくなる気持ちはよくわかる立地なのである。しかし、品性を感じるデザインではまったくないなあ。
L: 最後に北東側から眺める。 C: 市役所手前の堤防から眺める五剣山(→2013.12.28)。 確かにこれは見事だ。
R: 五剣山の左には屋島も見える。なるほど、これは「屋根の島」だ。両者が並ぶところを見られるのは、大変すばらしい。さぬき市役所の撮影を終えると、志度が生んだ天才・平賀源内の足跡をたどってみる。志度寺とは反対の西へ歩く。
市役所の通りから一本南に入った旧街道を進んでいくと、途中に歴史を感じさせる食い違いがそのまま残っていた。
巨大な石灯籠が印象的だ。源内先生はここで生まれ育ったのか、と思っているうちに旧平賀家住宅に到着。
時刻はすでに16時をまわっており、こっちを取ったら平賀源内記念館に行けなくなる。両者はけっこう離れているのだ。
断腸の思いで旧邸見学をあきらめ、来た道を引き返して東へ突き抜け、平賀源内記念館へ。移動が非常に面倒くさい。平賀源内記念館ではあまりにも多岐にわたる源内の業績について、志度・高松、長崎、伊豆・秩父・秋田、江戸と、
それぞれの地域別に分類した展示で対応している。それぞれ幼少期、蘭学、鉱山、その他もろもろといった内容となる。
源内が活躍した分野の幅広さはもうめちゃくちゃ。しかしそれらは江戸時代中期においてことごとく「最先端」だった。
つまり、源内の業績を通せば江戸時代中期という時代の雰囲気がよくわかるのである。封建体制という制約がある一方、
その中でギリギリのところまで自由闊達に飛びまわっていた源内の痕跡から、時代の輪郭がおぼろげに見えてくる。
翔んでる源内さんの見せる軌跡はもちろん、ふつうの人々の現実の生活よりもずっとスケールの大きいものだったろう。
しかし彼の「ここまでできるぜ」をつないでいくと、あの時代の抱えていた可能性がポジティヴに可視化されてくるのだ。
L: 旧平賀家住宅主屋。建物じたいは1862(文久2)年に建て替えられたもの。ちなみに源内は1779年没。
C: 敷地内の銅像。台座には杉田玄白の言葉「嗟非常ノ人 非常ノ事ヲ好ミ 行イ是レ非常 何ゾ非常ニ死スルヤ」が刻まれている。
R: 平賀源内記念館。彼の業績を可能な限りコンパクトにまとめて展示。旧宅と離れすぎているのがつらいです。今日は高松まで行って泊まるのだが、もうひとつ、高松で絶対に見ておきたい建物があるのだ。今日は本当に盛りだくさん。
高松駅に到着すると、早歩きでそのまま東へ。ひたすら東へ。高松港のすぐ脇にある道だからか、スケールが妙に大きい。
歩いても歩いても進んでいる気がしない道だが、それでもとにかく東へ。やがて競輪場の広大な駐車場の脇に出て、
香川県立武道館を合図に右折して南に入る。しばらく行くと左手に異形の建物が見えてきて、思わず息を呑んだ。
丹下健三設計、香川県立体育館である。耐震改修工事が見送りとなったため、昨年9月をもって閉館した状態にある。
L: 香川県立体育館。その大胆な造形には完全に度肝を抜かれた。 C: 正面より眺める。夕日のせいでやや赤め。
R: エントランス部分。まず軒裏に圧倒される。細部は確かに正統派のモダニズムだが、それを超える要素がすさまじい。香川県立体育館の竣工は1964年。これは代々木の体育館と同じ竣工年だ。規模が異なるのでなんとも言えないが、
代々木と比べるとだいぶ素朴な印象がある。逆を言うと、代々木には香川県立体育館から何年分もの飛躍を感じる。
1960年代前半というのは公会堂建築や体育館建築が全国各地にできていく時代だった(この辺、修士論文のテーマ)。
新潟市体育館(→2014.10.18)、市村記念体育館(→2011.8.7)、蒲郡市民体育館(→2012.12.29)など、
この日記でもいくつかその実例は訪問している(蒲郡は1968年なので、前者2つと比べるとやや遅い時期だが)。
その流れを考えると、1964年というのはある種の「総決算」的な時期となる。満を持して丹下は代々木を出したが、
あの衝撃と比べると香川県立体育館は明らかに、それ以前の体育館建築の側に属するデキであると言えるだろう。
L: エントランス脇にあるチケット売り場。モダニズムの造形そのまんま。 C: 角度を変えて南西側より眺める。
R: 側面をクローズアップ。円形の窓がまた巧い。真ん中の鼻の穴みたいなのは、屋根の雨水を落とす部分。しかしこれはなんという想像力だろう、と呆れる。この時期の丹下さんはキレッキレどころの騒ぎではない凄まじさだが、
上で挙げたような先行する体育館建築たちを横目で見つつ、それらのはるか上を行く造形美を鮮やかに提示してしまう。
やはり「記念性」という点において、香川県立体育館は頭一つ抜けている(市村記念体育館はちょっと直接的なのね)。
よく船、それも宇宙船のイメージと例えられるそうだが、単に奇抜なだけで終わらないモダニズムの品格がちゃんとある。
モダニズムを正しく継承していながら、建築家としての美的センスによりモダニズム自体の可能性をさらに広げている。
これ自体を取り上げても丹下の凄まじさは十分実感できるはずだが、公会堂・体育館建築の歴史を見てきた僕としては、
ほかの建築との対比によってさらにその凄まじさが響いてきた。この作品が当たり前のように建っている街がうらやましい。
L: 裏側もだいたい同じデザイン。 C: 今度は北東側から。 R: 北側の駐車場より側面を眺める。今回の四国5日間の旅は、実は「あらためて丹下健三を振り返る旅」でもある。香川と愛媛にはそんな楽しみ方もある。
とりあえず初日は最後の最後で大きな衝撃を受けて終わった。いつものことだが、初っぱなからフルスロットルさ。
午前は授業が4連発で、午後は生徒総会で、放課後もテストづくりに追われるというハードさ。
先月の日記でも書いたけど、今日がテストを完成させるデッドラインなのである。なんだこれ。
ほかの先生方より1週間も前に自分だけ仕上げないといけないとか、これはいったい何の罰ゲームだよまったく。
まあGWを丸ごと旅行に充てた自分の責任なんだけど。でも夏季学園の下見までは予想できなかったからなあ。
とにかく必死で作業をした結果、そんなに遅くならないうちに印刷まで終えることができ、無事にタスクを完遂。
別に自分が有能だからきっちり終わったわけではなく、その分だけしっかりとこの日記のログが犠牲になっている。
日記を書く時間を犠牲にしておいて明日から旅行、しかも5日間というのはもう、鼻血が出そうなくらい無謀である。
おまけにその後にまだ1泊の下見があるし。下見といっても空いている時間で好き放題やるに決まっているし。
♪すーべーてーをー捨ーてーてーぼーくーはー生ーきーてーるー♪と『すばらしい日々』を口ずさみつつバスに乗ったとさ。