diary 2011.8.

diary 2011.9.


2011.8.31 (Wed.)

天気予報では台風が来るぞ、来るぞ、と盛んに言っているのだが、曇り空のまま持ちこたえて部活。
夏休み最終日も特別なことは何もなく、いつもどおりに過ごすのであった。夏は短い、はかない。切ないのう。

ヤクルトが大ピンチなのだ! あっという間にゲーム差がなくなり、今日負けたのでなんと2位と1.5ゲーム差。
もともと選手層が厚いわけじゃないし、夏場のどこかでズルズルと調子を落としてしまうだろうとは思っていたが、
いざそうなってしまうと非常に切ない。なんとかふんばってもらいたい。近いうち応援に行かなきゃなあ。


2011.8.30 (Tue.)

会議などなど。休み明けが一気に忙しくなりそうな予感がして怖いわ……。


2011.8.29 (Mon.)

次の総理大臣は野田さんですか。どうしても一瞬、上島竜兵に見えてしまって困るけどまあガンバレ。


2011.8.28 (Sun.)

昼に職場近くの小学校で祭りがあり、吹奏楽部が演奏するということで、その引率の手伝い。
本当について行っただけで、演奏を聴いて、顔を出していた生徒たちと話して、それでおしまい。
昨日がこれくらい晴れていればよかったんだけどなあ……と恨めしく思うのであった。

どうせ来週からは週末がサッカー漬けになってしまうので、あまっている青春18きっぷを使えるのは今日が最後。
手ごろな距離の最果てにでも行ってみるか、ということで選んだのが上総亀山。久留里線の終点だ。
久留里(→2008.12.23)をスルーするのはちょっと残念なのだが、時間がないからしょうがない。

総武線の快速で千葉まで出て、木更津へ。内房線の車内は高校生っぽい連中が多く、非常に賑やか。
もう夏休みも終わってしまうんだなあ……とセンチな気分で窓の外を眺めるのであった。
久留里線は本数が少ないので、木更津でしばし一休み。駅の向かいのデパートでジュースを買ったのだが、
前回訪れたときよりもさらに弱っている印象で、これまたよけいにセンチな気分になってしまった。

久留里線は鉄っちゃんの皆さんには格好のターゲットになっているようで、カメラを構えた野郎どもがホームに集まり、
車両の連結を熱心に撮影している。行ったところのないところをこの目で見たい、と純粋に思って乗るだけの僕には、
どうにもその辺の感覚がわからない。地元住民と鉄っちゃんをほぼ均等な割合で乗せて、列車は木更津駅を出た。

小高い丘が連なっている感じの山々に、その麓を田んぼが埋めている風景を抜けて、列車は走る。
1時間ちょっとで終点の上総亀山に到着。駅舎から出て観光案内の地図を眺めるが、名所は自然が主体で、
実にのどかなものである。ホームに戻って最果てを眺める。目の前にはいかにも千葉らしい山が壁のように立ちふさがる。
長野県出身の僕にしてみれば大したことのない高さにしか思えないが、きっと房総半島には房総半島なりの、
開発しづらさがあるんだろうなあ、と思う。その間も鉄っちゃんたちは必死であちこちシャッターを切っていた。

  
L: 久留里線を行く。山々を背景に、広がる田んぼに列車の影。のどかな日本の風景、千葉の風景なのだ。
C: 上総亀山駅。周辺は山間の住宅地といった感じで、何もなかった。  R: 久留里線の最果て。房総の山は意外と険しい。

帰りはひたすらMacBookAirで日記を書いて過ごす。夏休みは終わっても、日記という名の宿題はたっぷり残っているぜー!


2011.8.27 (Sat.)

雨ということで、あらゆる面においてモチベーションが落ちてしまった。結局、行くつもりだったマサルのボールペン企画も、
大塚まで行くのが億劫で「来週もあるからいいやー」とスルー。まあ、じっくり休養できたと思えばいいのかなあ。


2011.8.26 (Fri.)

夏休み読書感想文シリーズその3・宇仁田ゆみ『うさぎドロップ』。
祖父の隠し子である6歳女児・りんを引き取った三十路独身男・大吉の子育てマンガ、というのが前半(1~4巻)。
後半(5~9巻)になるとりんがいきなり女子高生になり、りんの視点を中心にして大吉との関係の変化が描かれる。
結末がものすごく賛否両論ということで、当然ネタバレありで僕の見解を書いてみたい。プリンセスメーカー。

まず前半。これは本当に勉強になるマンガだわ、と感心しながら読んだ。
大吉が直面するひとつひとつの問題、大吉が発見するひとつひとつのこと、事実から感情まで細やかに描かれている。
ポイントは大吉が本当の父親ではない点。つまり、周囲の親たちの行動を他者の視線で眺めることになるわけだ。
そこでの差異が、客観的に子育てという行為を見つめる根拠となっている。だから冷静に描写することができるのだ。
また直接の親子だと、遺伝子が半分混じる。親にとって「子どもの半分は確実に自分」という縛りが発生することになるが、
大吉とりんの関係にはそれがない。それゆえ、大吉はりんの中に自分を見ることがない。だからまた冷静でいられる。
そうやって純粋な信頼関係がベースとして用意されたところで、不器用ながらも大吉は賢いりんと一緒に成長する。
その成長の過程が本当に微笑ましく、このマンガを手に取ったほぼすべての人を魅了していると思うのだ。

ところが後半に入ると様相は一変する。高校生になったりんは恋愛に直面し、それがストーリーの主題となるのだ。
他人の恋愛沙汰なんて興味ねえよ、という僕としては、5~7巻あたりの展開はかなりの流し読みになってしまった。
しかし8巻でいよいよりんの大吉に対する感情がコウキにバレてしまい、事態はクライマックスへと加速していく。
こうなるとまた俄然面白いわけで、最後読み終わったときには「おうおうよかったのう」とかなり肯定的に受け止めた。
まあそう書くと「びゅく仙さんは相変わらず光源氏になりたいんですか」とあちこちから言われてしまいそうだが、
大吉同様30過ぎてまったくモテていない身としては、オレもじいちゃんが死んで隠し子が発覚しない限りモテないのか、
ああでも父方のじいちゃんはオレが1歳のときに亡くなっとるし母方のじいちゃんなんて亡くなったの母親が子どもんときだし、
つまりオレはもう永遠にモテることがないのか、となってしまうわけで、まあそりゃ正直大吉さんがうらやましいですよ。
りんみたいにきれいで賢い女の子なんてそりゃもう最高じゃないですか行ったれ大吉、と心よりエールを贈りたいわけです。
ていうかオレが大吉になりたいです、ということでやっぱり「びゅく仙さんは相変わらず……」と言われてしまうわけです。

ワケがわからなくなってきたので、『うさぎドロップ』の終わり方を僕なりに全肯定してみたいと思う。りんと同様、理詰めで。
最終的に、大吉はりんの気持ちを受け止める。世間では主に女性が肯定的に、男性は否定的にとらえているようだ。
「女の読者は結局、自分を守ってくれる究極の父性をとった」「実は大吉とりんに血のつながりがないとか、なんだそりゃ」
「おいおいこれだと世間的には大吉がただの変態になっちゃうよ、大吉はそんなことを目的に育てたわけじゃないのに」
「素直にコウキの母親と結ばれればよかったんだ」「親として、りんにもっと広い世界を見せてあげないとダメだよー」等々、
さまざまな批判があるのはわかる。そのどれもが正しいと僕も思う。でも、りんと大吉の出した結論は、変えられないのだ。
それは作品として描かれているからもう変えられない、という意味ではなく、りんと大吉だとああならざるをえない、ということ。

りんは最後、大吉の子どもを産んで幸せにしたいと言う。「わたしみたいにね」と付け加えて。これがすべてだ。
りんにしてみれば、自分は最高の父親に育てられたということを大吉にわかってもらう、究極にして最良の方法をとったまで。
実の母親・正子と会う中で、りんは母親になるということを自分なりに理解する時間を持っている。
それをふまえたうえで、りんは娘としての幸せだけでなく、母親としての幸せを考える時間を持っている。
だからラストシーンでの「わたしみたいにね」に至るまでのセリフは、将来母親になる存在としての決意表明となっている。
そして「わたしみたいにね」の一言で、それまでの母親への決意表明に重ねて、娘としての大吉への全肯定がなされる。
この流れで、男としての大吉、そして父親としての大吉、大吉のすべてがあますところなく肯定されることになるのだ。
そういうこともあって、りんが「わたしみたいにね」と言うシーンは本当に美しい。日常のひとコマの中での告白なのがいい。
まあ確かに世間だとか社会だとかの現実の重みを考えると、こんなのは単なるおとぎ話でしかないだろう。
でも、りんと大吉の純粋な信頼関係は、すべてを肯定したままさらに深い段階に達したことが明確に示された。
フィクションなんだからそれでいいじゃないかと思う。フィクションだからこそ、そういう結論にしておくべきだ。

しかしなんで「うさぎ」で「ドロップ」なのか、いまだにわかんなくってすいません。でもりんサイコー。


2011.8.25 (Thu.)

夏休み読書感想文シリーズその2・山田芳裕『へうげもの』(これを「ひょうげもの」と読めないといけません) 。
このマンガ、装丁からしてもう絶対面白いんだろうなと思っていたのだが、潤平の部屋にあったのを見て確信に変わった。
なので機会をみて、現在出ている13巻まで一気に読んでみた。以下はそのレヴュー。

主人公が古田織部ということで、目のつけどころからしてすでに凄い。ここを突いてくるとは、もう並のマンガじゃない。
第1話のサブタイトルが「君は物のために死ねるか!?」で、その切れ具合も完璧(ご存知、杉良太郎のパロディ)。
そして、松永久秀が古天明平蜘蛛を抱えて爆死する場面をスタートにもってくる点も言うことなしである。
戦国時代ファンにしてみれば、よくぞこのテーマを描いてくれた!という感動が止まらないマンガなのである。

僕がひどく感心させられた点はまず、史実にものすごく忠実である点。
よくまあここまで!と言いたくなるようなものすごく細かいところまで、かなりきちんと再現されているのである。
そして次に、史実に縛られることのない想像力で大胆にフィクションを混ぜてくる点。
たとえば、オリーベ(オリーブ)から「織部」を選んだこと。この発想にはもう、拍手を贈ることしかできない。
また、ハートの旗に長谷川等伯の水玉など、ミニマルアート・ポップアートを戦国時代にもってくる度胸がすばらしい。
こんなことを書くと、お前の言っていることは完全に矛盾しているじゃねえかこの野郎!と怒られてしまいそうだが、
ノンフィクションとフィクションが凄まじく高度に融合しているところが『へうげもの』の真骨頂であると僕は思うのだ。
作者はフィクションを差し挟むときには、めちゃくちゃ極端なものをもってくるのだが、その衝撃は、僕が思うに、
当時の最先端の芸術が与えた衝撃を極めて的確に表現している。その衝撃の大きさこそが、ノンフィクションなのだ。
ベクトルではなく、絶対値で描かれているのである。この思い切り方が、もう卒倒しそうになるくらい格好いい。
(手塚治虫の『火の鳥』にもこういうウソはどんどん出てくるが、僕はそういう手法がたまらなく好きなのだ。)

だがこのマンガの面白さは、演出だけにあるのではない。古田織部を主人公に据えたことで、
大げさな言い方だと、人間の本質をより深く描くことに成功しているのである。
たとえば織田信長や千利休といった天才を主人公に据えても、それは業績を舐めることで終わってしまうだろう。
しかし天才ではない古田織部は苦悩する。自分の芸術に対するセンスが中途半端であることに苦悩し続ける。
天才に追いつけない苦しみを抱えつつ、彼は前向きさを失わない。その姿に共感を覚えない読者はいないだろう。
そして時間の経過とともに、彼は天才たちとは異なる、自分自身の追求すべきものを見つける。
それは「甲」(一番)ではなく「乙」(二番)なのだが、そもそも芸術に正解などない。人が存在することは絶対的に正しく、
芸術とは人の数だけ、その正しさに依拠した方法があるのだ。それはこの作品に直接書かれていることではない。
でも、そのことに気づいた古田織部の姿は、明らかに以前の頼りない彼の姿とは異なっているのである。

そうなると気になってしょうがないのが、この作品の締め方だ。
古田織部の最期と、彼が追求する芸術と、これらが融合された結論を、果たしてどのように導き出すのか。
作者がどのような解釈を加えて物語を描ききるのか、今からそれが楽しみで楽しみでしょうがない。


2011.8.24 (Wed.)

夏休み読書感想文シリーズその1・村上もとか『JIN -仁-』。ドラマ化されて大人気だったのだが、
原作マンガはまったくチェックしていなかったので、夏休みを利用して一気に読んでみた。

幕末の江戸にタイムスリップしてしまった医者・南方仁が現代の医学の知識で大活躍、というのがおおまかなスタイル。
勝海舟や坂本龍馬といった錚々たる面々の知遇を得ながら、仁はひとつひとつ問題を解決していく。
ペニシリンの発見ってのはものすごい大事件だったんだなあ、なんて思いつつ読み進めていくのであった。

さて、このマンガが人気となっている最大の要因は、歴史上の偉人たちとお友達になれちゃう感覚が持てる点だろう。
幕末という異才がひしめく時期を舞台にしたので、読者が登場人物についての知識をすでにある程度持っている。
ここが巧い。つまり、読者が最初から登場人物に親近感を抱いている状態が、前提として用意されているのだ。
そこに史実に沿って、次から次へと強烈なキャラクターが患者として現れ、仁はその優れた腕で広く信頼を得ていく。
「この人は出ないのかな」と読者が次の偉人の登場を期待するようになったら、もう作者のペースなのだ。
そうして幕末の英雄たちが主人公を支える構図が組み立てられていく。これはどうしたって魅力的になるに決まっている。
しかしその一方で、作者は庶民への医療という視点も忘れない。偉人に対する治療と無名の人々に対する治療、
両者のバランスがかなり意識されている。幕末という、権力が複雑に変化していく状況を背景にしているのが効いている。
そんな中で、より優れた医療が誰に施されるべきかという優先順位の問題は、仁の多忙さをもって無力化されている。
そうして仁の人間的な魅力が強調される。主人公を取り巻く外側と主人公自身という内側、その双方から、
物語をより心地よく読ませる工夫が巧みに仕掛けられているのだ。ベテラン作者の力量にうならされる。

ヒロインとの関係という点では、序盤を咲さん・野風さんとの三角関係で緊張感を持たせるのがまた巧い。
中盤以降はこれまた巧みなうっちゃり方で野風さんを退場させ、物語の焦点を絞ることに成功している。
そしてまたこのふたりのヒロインがいることを、仁の人生が分岐したラストの理由に位置づけてしまう。
これはまあ強引ではあるけども、ヒロインの魅力で有無を言わさず及第点にもっていった大風呂敷のたたみ方だと思う。

そんなわけで、本当に隅々にまでベテランの確かな実力が細やかに展開されている作品であると感嘆させられた。
これだけやられれば、世間の大多数がこの作品を支持するのは当然だろう。とにかく、巧い。


2011.8.23 (Tue.)

夜になって、島田紳助がいきなり芸能界引退会見。これには本当に驚いた。
理由は暴力団との交際でケジメをつけるってことだけど、まあ理由はどうとでもなると思うので、
実際のところはどうなのかはよくわからない。でも引退ってことはスパッと辞めるってことだ。
ここ最近はあちこちで徹底的にバッシングされていたので、もうやっていくのがイヤになっちゃった、
という要素は少なからずあると思う。僕の感覚だとそうだ。そこまで追い込まれていても仕方なく思える。

過去のログでも述べたとおり、僕は島田紳助の方法論はかなり有効であると考えている(→2006.1.17)。
それは今もまったく変わらない。形はどうあれ、自分の周囲にいる面々を話の流れの中にきっちり参加させ、
全体の方向性をひとつにもっていく。僕はテレビの裏側なんてよく知らないし、知る気もないから、
彼が裏で何をやっていたのかにはあまり興味がない。彼の腕だけを純粋に評価したいという考え方なのだ。
実際に自分が大勢の相手をまとめて惹き付けて何かプラスになるものを残さなくちゃいけない立場になったとき、
離婚した相手の話題がなければやっていけない芸人の貧相なやり方とは違い、彼のやり方は本当に勉強になった。

まあとにかく、お笑いなんだから、受け手のこっちにも余裕がないのはいけない。
笑わせようとする人を見て笑う余裕がない人生は、おそらく虚しいんじゃないか、って勝手に思っている。


2011.8.22 (Mon.)

ベルギーリーグでプレーしている川島が「フクシマ」コールでヤジられたそうだ。この件にしても、
日本で実際に起きている原発の風評被害の件にしても、教養とは差別をしないことだとあらためて思う。
差別をする人間は、相手を貶めることでしか自分の立場を守ろうとすることができない。
しかし本当に教養のある人間は、相手を尊重することができるから、決して差別をすることはない。
教養が、実力と余裕を生むのだ。実力も余裕もない人間は、相手を貶めないと安心できない。これは恥である。

ネット上でよく見かけるコメントや、テレビのコメンテーターの発言に、余裕のないものが増えているように思う。
日本という国を誇るのは別にいいけど、相手を貶めることで相対的に日本を持ち上げる姿勢は実に貧相である。
思っても、言わないことが肝心なのだ。お隣のあの国やあの国が気に食わなくても、胸の内にしまっておくべきだ。
そういう余裕がないところに、僕は不安を感じる。余裕がない人間は自分をどんどん勝手に追い込んでいく。
視野はだんだん狭まり、自分で自分の首を絞めることになる。一度、日本はそれで懲りたことがあるはずなのだが。

教育において本当に教えなくてはいけないことは、愛国心でもなければコミュニケーション能力でもない。教養だ。
世界のどこに出しても恥ずかしくない教養を身につけさせれば、卑屈になることのない姿勢が自然と生まれる。
僕に言わせれば、愛国心もコミュニケーション能力も、教養に比べれば一段低い目標なのである。
卑屈な匂いのする余裕のない人たちが饒舌になってきている現状を見ると、ちょっと不安だ。


2011.8.21 (Sun.)

午後、地下鉄に乗ってお出かけ。中高一貫の学校で英語学習についての発表があるということで、見学に行く。
別に職場で行ってこいと言われたわけでもなく、完全に自分の意志で、ちょっと勉強してこようかと。
誰からも褒められることのないところで地道に努力をしているわけなのだ。努力してないわけじゃないんですよ僕。

お邪魔した学校では英語教育にかなり力を入れており、いちおう今回のメインターゲットは入学希望の保護者なのだが、
同業者の見学をガンガンに意識していて中1から高3まで全学年分、どんな感じでやっているかを懇切丁寧に説明。
いくらなんでもそりゃ素人にはわからんだろ、ということもきちーんと説明する姿勢に、こっちが圧倒されたくらい。
わりかしできる子の動画もふんだんに交えての説明で、ここまでやれる生徒がいるんか、と驚かされた。
ふだん僕が受け持っている勉強が苦手でしょうがない生徒と比べちゃいかんとわかっちゃいるが、差が大きくて泣ける。
もっとも、これだけ自信を持って発表できるのは、できる子たちを集めているからこそでもある。それは確かだ。
だから僕だって同じ環境なら同じように面白くできるのかもしれない、という気もした。生徒が先生をつくるのね。

この学校の気合はさらに凄いところまできていて、英語部(高校生)が生で英語劇をやってみせたほど。
これがすごく凝っていて、発音のいい子はもう聞いているこっちが気持ちよくなるほどきれいな発音で、
やっぱりやる気のある生徒が自分たちの力で取り組むのってすばらしいなあ、と心底思った。
というのも、その前に動画で中2のクラスでやった『走れメロス』の英語劇を見させられたのだが、
これがいろいろ哲学的に考えさせられるくらい乏しい内容だったのだ。授業だからモチベーションはまちまちで、
英語の発音がそれっぽいやつから重要な役を振っていくので演技力は二の次。だから仕上がりは散々。
セリフに感情は乗ってないし体の動きもとってつけたようだし、褒めるところが本当になかった。
英語劇ってのは教師の自己満足に生徒を使ってるだけじゃねえの!?と怒りが湧いてきていたのだ。
(そもそも『走れメロス』は日本語なんだから、それを訳すだけでは「英語の劇」にはならんのよ。
 教師は事前に、英語で演じられる外国の劇を生徒たちにきちんと見せていたのか?と疑問に思った。)
しかし意欲的に自分たちのオリジナルストーリーを用意した高校生たちの英語劇は、ちゃんとしていたわけだ。
ああこれはいいものを見た、わざわざ来た甲斐があったわ、とうれしくなってしまった。

そんな感じで3時間もみっちりと英語学習についての発表を聴いたのであった。いや疲れた疲れた。
でもまったく眠くなることなく集中して聴けたってことは、やはり自分はやる気があるんだなと、
ちょっと逆説的な形で自信につなげることができた。これをヒントに、少しずつ自分の質も上げていきたいもんだ。

発表会が終わると、ちょっと早い晩メシを食ってから電車で蘇我まで移動。J2・千葉×富山戦を観戦するのだ。
気がつけばJ2ではFC東京が頭ひとつ抜け、2位以下が大混戦という状態になっている。
千葉は現時点で2位ということで昇格争いのまっただ中だが、富山は19位で下から2番目に沈んでいる。
常識的に考えればホームの千葉が富山を叩きのめす、ということになりそうだが、僕にはそうは思えない。
なぜなら、千葉は204cmのFWオーロイがケガで離脱しており、オーロイ頼みのサッカーを変える必要に迫られている。
対する富山はハードワークの感覚が戻ってきており、そうやすやすと負けるようなメンタル状態ではないはずだ。
現実的にはやはり難しいのだが、なんとか千葉が富山に足下をすくわれる場面が観たいなあ、と思いつつスタジアムへ。

千葉市蘇我球技場(以下フクアリ)は、去年の甲府戦以来になる(→2010.10.31)。
あのときもぐずついた天気だったのだが、今日もそうだ。こういうのは、なんだかションボリである。
それでも激しかった雨がほとんどやんだ、というところまできてくれたおかげで、最前列で観ることができた。
ティッシュで席を拭こうとしたら、ジェフサポのおばさんが自分のタオルで拭いてくださった。ありがたい。
しかしそれでおおっぴらに富山を応援することができなくなってしまった。うーん、でもありがとうございました。

キックオフ。千葉にオーロイはいないが、MFファン=ゲッセルが十分デカい(192cm)。そして深井が小さい(161cm)。
でも深井にはそれを補って余りあるスピードがあるからいいのだ。千葉は動きまわる深井にボールを預けてリズムをつくる。
富山は3-6-1のトップに黒部を起用。本来なら苔口のはずだが、こちらもケガで離脱を余儀なくされていた。
黒部はたくましいプレーを見せるものの、やはり苔口ほどのスピードはないため、相手陣内の奥深くまでは届かない。
そうなるとトップ下の選手がどこまで切り込めるかが鍵になるが、守備への意識が強いようで、それほどでもない。
千葉が縦にきちんと間隔をとって攻め込むのに対し、富山は全員が素早い寄せでつねに複数での守備を試みる。
富山はカウンターに転じても、起点が自陣深いので千葉に対応されてしまう。パスミスも多い。もどかしい試合だ。

  
L: 競り合う深井(千葉)と朝日(富山)。目の前での1対1は迫力があるなあ。
C: 千葉が優位に立つが、富山のGK飯田が体を張って止める。攻め込まれても全員が粘り強く対応している。
R: 富山のカウンター。今日はスピードと厚みに乏しく、千葉にそれほど脅威を与えることができていなかった。

  
L: GK飯田のパンチング。千葉はゴール前に何度も迫るものの、集中する富山の守備を破れない。
C: ドリブルで切り込む深井。  R: 富山はペナルティエリアで2列のブロックをつくるリトリートぶり。

後半に入ると徐々に富山のチャンスが増えてくる。チーム全員がずっと懸命に守備をしているのに、
運動量が最後までまったく落ちないのは本当にすごい。攻め疲れている千葉を何度も追いつめ、
最後は完全に富山が優位に立つものの、GK岡本の好セーブと精度の低さで決めきることができない。
結局そのままタイムアップ。富山の守備でのハードワークの凄み以外は「凡戦」だったかな、と思う。

  
L: 後半、CKのピンチでヘッドでボールを掻き出す富山。千葉は太田を投入したことでCKを得まくるが、入らない。
C: 終盤は完全に富山のペース。朝日が放ったシュートをGK岡本が弾くの図。岡本は孤軍奮闘。
R: 途中出場の平野。動き自体は悪くなかったが、自分で決めきる思い切りがなかったのが非常に残念。

  
L: 試合終了。富山の選手が一斉に倒れ込む。富山の試合を観戦するたび、このひたむきさに感動させられる。
C: 疲れきってピッチサイドの広告表示の機械に倒れ込んだ千葉の竹内。湿度の高い中、つらい戦いだった。
R: 千葉の選手たちにはブーイングが浴びせられたが、岡本だけはあちこちからエールが飛んでいた。そりゃそうだ。

笛が鳴った瞬間、客席から「相手は19位だぞ!」という怒鳴り声があがっていたが、それは富山のサッカー、
J2のサッカー全体を把握していない非常に愚かな姿勢だ。順位でしか判断できないバカがいるから千葉はダメなのだ。
たまたまいい位置にいる自分のクラブしか見ておらず、相手の本当の姿をちゃんと捉えてから考える、ということをしない。
千葉がJ2降格した理由、昨シーズン昇格を逃した理由は、こういうサポーターの声から透けて見えるのだ。

オーロイのいない千葉の攻撃を一言で表現すると、「無策」。これに尽きる。
選手個人の能力に頼り、チーム全体としてどう攻めるのかのヴィジョンが観戦していてまったく見えない。
給料のいい選手は技術があるから、ボールをうまく拾ってうまくつなぐことはできる。ミスも少ない。
しかしハードワークする相手をどう崩すのか、その部分の思考・戦術がまったく欠けていた。これでは勝てるはずがない。
おそらく千葉は今シーズンも昇格を逃すだろう。勘違いをしているサポーターがけっこういそうだが、
今の千葉は順位ほど強くない。クラブに関わる全員が謙虚さを学ばないかぎり、J2に留まり続けることになるだろう。


2011.8.20 (Sat.)

髪の毛を切りに行く。焼けましたねーと感心される。おねーさんもしっかり焼けてたけどね。
夏休みに入り新陳代謝の激しい生活を送っていたおかげか、髪の毛もしっかり伸びているとのこと。
まあそれだけ健康なのかな、と思う。今回は本当にさっぱりして気分爽快だぜ。

気分転換がうまくできたってことなのか、いいかげんテレビを買おう!地デジ難民を脱出しよう!と決意を固める。
近所の家電量販店に行って、まずはさまざまな製品を眺めるところからスタート。当方、予備知識はほとんどゼロなのだ。
世間では32インチが最もお得と言われているようだが(それは知っている)、一人暮らしに32インチは大きすぎるのだ。
26インチ以下で安く買おう、と方向性を定める。そして次に、スペックのどこで値段の差が出るかを調べる。
あれこれ見ていくうちに、どうもBlu-rayやHDDを内蔵していると倍ぐらいの値段に跳ね上がるようだとわかる。
これって外付けのHDDなら安く解決できるじゃん、バカバカしい!と思う。これでまた方向性が絞れた。
しかし、HDDをUSBでつなげられるモデルは、何もないモデルよりもプラス1万円といった感じになっている。
HDDが1万円と見積もれば、シンプルでムダのないモデルと比べて2万円よけいに出さないといけないってことだ。
アナログテレビはビデオが壊れて久しかったが、それほど不便を感じたことはない。録画できなくてもいいのでは?
どうせ録画した番組を見る時間を惜しく感じる性格をしているわけだし、と考えてみる。
でもやっぱりあるに越したことはないか、と思い直し、候補を一気に絞り込む。時間はかかったが、悪くない感じだ。
24インチでHDD外付け可能なモデルがあった。型遅れになったのか、アウトレット商品・残り5台ということで、
3万円弱というお値段。これでついに決断したのであった。いいかげん、1万円以上の買い物で震えるクセをなくしたい。
テレビの箱をぶら下げたまま、自転車で坂を上って家まで帰る。たぶんいい買い物ができたんじゃないかと思う。

さて箱を開けて中身を取り出し組み立てたのはいいが、そこから何をすればいいのかがわからん。
やっぱ地デジっていうからには、デジタル用のケーブルでつながないといけないんじゃないか、そんなの買ってないよオレ、
と戸惑うが、テレビ側の端子の形は今までのケーブルと同じなので、まさかと思ってそのままつないだら素直に映った。
今までのケーブルで見られるとなると、本当にこれはデジタル放送なのかと疑わしく思えてならない。
でも映像はすごくきれいで、実家で見たのと同じクオリティだから、たぶん大丈夫なのだろう。
どうも変な感じだ。なんか納得できない。でもやっぱりテレ朝は5chでテレ東は7chだ。デジタルなのである。
わーいこれでタモリ倶楽部もクローズアップ現代もアド街ック天国も美の巨人たちも見られるぞ、
ブラタモリまでに間に合ってよかったーと思うのであった。ホントによかったよかった。

久しぶりにテレビのある生活をしてみると、1時間ごとにメリハリがつくのがいい。
テレビがないと時間の区切りが明確にならないので、なんとなくダラダラが続いてしまうのである。
でもテレビがあると、番組が変わることで今の時間帯をイヤでも知らされることになり、重い腰が上がることが多い。
テレビの意外な効能を発見し、テレビがあるってのも悪いもんじゃねえなあ、と思うのであった。


2011.8.19 (Fri.)

昨日はめちゃくちゃな猛暑だったのだが、今日は突然の豪雨。もういいかげんにしてもらいたい天気である。
おととしは梅雨明けしないでぐずついたままで、去年は記憶すら飛んでしまうほどの猛暑。
今年は暑かったり雨だったりがコロコロと変化する、それはそれでやっぱり迷惑な天気だったと思う。
あと10日間ほど、できれば涼しくて晴れという都合のいい天気で収まってほしいなあと心から願うのだが、
予報を見るに、ぐずつきそうな気配である。なんとかいい気分で9月に臨みたいんだけどなあ。


2011.8.18 (Thu.)

今年一番の猛暑の中での部活なのであった。ひ弱な部員からは「お母さんが休めって」と欠席の電話連絡。
お前それは男として恥ずかしくないんか?という言葉をぐっとこらえて(成長したなあオレも)、了解の返事。
「うるせー、出て来い!」とはとても言えないくらいの猛暑っぷりなので、本当にこれはしょうがないと思う。
練習はきっちりと時間を区切って休みをしっかり入れて、つねに体調について声をかけて進めた。
思えば去年はこの状態が当たり前だったような気がする。そしてなんだかんだでそれに慣れていった気がする。
これが連続で続くのと、突発的に来るのと、どっちの方が人体には優しいのかなあ、と考えてみたりなんかして。


2011.8.17 (Wed.)

東京に戻る。午後からサッカーの練習ということで、それに間に合わせてのことだったのだが、
グラウンドに立ってみると、東京は九州よりずっと暑い。しかも、湿って暑いのでたまらん。
熱がこんもり残って暑い感じなので、九州の鋭いけど乾いた日差しが恋しく思えてしまったよ。


2011.8.16 (Tue.)

善光寺は昨年9月に訪れたのだけど(→2010.9.24)、元善光寺にはもうかれこれ25年くらい行ってないのだ。
おかげでもうほとんど元善光寺の記憶がない。小学校の遠足で来た、お戒壇巡りはみんなでやった、ぐらい。
飯田出身としてこれはまずい、ということで、墓参りのついでに両親に連れて行ってもらった。

 駐車場にて。ウチの母です。僕はこんなのから生まれてしまいました。

調子に乗っているウチの母はさておき、まずは元善光寺についての基本的な情報から。
602年、本田(本多)善光が大阪で仏像を見つけてそれを自宅に持ち帰ったのがすべての始まりである。
仏像を臼の上に置いたらそれが光ったことで、「坐光寺」という名の寺がつくられたのだ。
(元善光寺のある一帯は現在も「座光寺」という地名である。高校の後輩に「座光寺くん」もいたよ。)
その後、仏像が長野へ移されて本田善光の名から「善光寺」がつくられ、「坐光寺」は「元善光寺」になった。
もし長野に移されなかったら飯田が信州の首都だったのにチクショーと、たぶん飯田市民はみんな思っている。
(ちなみに今でも元善光寺の住職は「本多さん」である。僕の高祖母の実家は元善光寺なので、
 僕は本田(本多)善光の血を引いている可能性があるわけだ。だからどうってことはないが、まあ。)

  
L: 元善光寺への入口。周辺には土産物屋がいくつかあるが、善光寺とは比べ物にならない規模。淋しいのう。
C: 石段を上ってすぐに山門。やたらと大きい善光寺とは違い、こちらはアットホームなサイズである。
R: 元善光寺の本殿。地形としては河岸段丘の山側の端っこにあるので、境内はかなり狭め。こんなに狭かったっけ?

境内にはなぜか一休さん的な顔ハメがあったのだが、頼まれもせんのに顔をつっこむ人が約1名おるもんで、
まあしょうがないんで撮っといてやるに(飯田弁)。いい歳こいて恥ずかしくないんずらか(飯田弁)。

 調子に乗っている人。ネットで全世界に公開してやるでな(飯田弁)。

小学生のときに来て以来、25年ぶりくらいのお戒壇巡りをやって(タダでチャレンジ可能)、元善光寺を後にする。
お戒壇巡りは国宝のあっちと比べると建物の規模が小さいからしょうがないけど、「ミニチュア版」って感じなのであった。

元善光寺のちょっと西にcirco氏オススメの場所があるということで、さらに連れて行ってもらったのだ。
それは、旧座光寺麻績(おみ)学校校舎。学校建築としては県内最古で、長野県宝にも指定されている物件なのだ。
この建物のすごいところは、1873年(明治6)年に、歌舞伎舞台と学校を一体にして建てたという点。
1階が歌舞伎舞台で2階が学校。そんな事例はほかに聞いたことがない。人が集まる公共の施設ということで、
江戸から明治に切り替わった当時の感覚ではそれほど不自然なことではなかったのだろうけど、
実際に空間としてそれが実現され、しかもそれが今も堂々と残っているというのは本当にすばらしい。
(この校舎をつくるために、石垣を積んで土地をがっちりと固めている点も要注目。)
さらにすごいのは、この建物が実際に1984年まで学校として使われていた点。もう面白すぎる。
校舎のすぐ近くには「舞台桜」と呼ばれるシダレザクラがあり、春には桜の名所として観光バスが来るそうだ。

  
L: 樹齢400年の舞台桜。飯田市内には名前のついている桜が点在しており、観光ツアーが組まれているのだ。
C: 旧座光寺麻績学校校舎。1階の戸がガバッと開いて歌舞伎の舞台になる。中に入れないのは残念。
R: 校舎の裏側。しかしこの建物は、江戸~明治期の「公共」の概念を象徴する極めて貴重な事例だわ。

敷地内には竹田扇之助記念国際糸操り人形館もある。さらに奥へ上がっていくと麻績神社。
竹田扇之助記念国際糸操り人形館の隣には、交流センター「麻績の館」がある。
麻績学校校舎は1907(明治40)年に玄関が増築されたのだが、竣工当初の姿に復元した際、
こりゃもったいないや、ということで校舎から取り払った玄関部分を麻績の館にくっつけている。

  
L: 麻績学校校舎前から右手を見ると、麻績神社の入口。  C: かつて校舎に増築された玄関部分は麻績の館に移されている。
R: circo氏曰く、現在飯田市ではこのタイプの公衆トイレをあちこちでつくっているそうだ。

最後にリニアの飯田駅が建設されるのではないかと噂される上郷~松尾~八幡周辺をつるっと走って帰る。
今回はなかなか充実した帰省となってよかったよかった。


2011.8.15 (Mon.)

ピザなのだ。ベルディなのだ。

  
L: 一発目はフレッシュトマト。  C: 二発目はバジリコ。  R: ラストはガーリックなのだ。

今回は僕もデジカメを持っての参戦ということで、いつもは途中から撮影するのを忘れてしまうcirco氏も、
僕の「ほいほい写真!」の声に「おお」と気がつき、無事に3つとも撮影することができたのであった。よかったよかった。

 ベルディ外観。ここが日本一うまいピザ屋(イタリアンレストラン)だぞー。

僕らがピザに夢中になっている間にどんどん客がやってきて、繁盛しているようで何より。


2011.8.14 (Sun.)

地デジ難民の僕としては、実家でテレビ三昧の生活になるのは当たり前のことなのだ。
旅行のデジカメ画像を編集しつつ、日ごろ見ることのできないテレビというものをたっぷりと味わう。
特に最近すっかりご無沙汰だったNHK教育(Eテレとか変な呼び方させんなや!)を中心にして、
ひたすらテレビの前で時間を過ごすのであった。ああ、久しぶりに見るテレビって面白いなあ。

夜になってトシユキさん・バヒサシさん・まると久々のフルメンバーでモゲの会。
やけに遅い時間に集合がかかったなあと思ったら、ちゃんとしたバーでちゃんと酒を飲む会なのであった。
もともとトシユキさんとバヒさんは酒が強くて、いろんな酒をいろいろ味わっているのは知っていたが、
僕と同様に弱かったはずのまるまで酒を好きで飲んでいるとは知らなくって、ひどく驚いた。狼狽したね。

スコッチとバーボンをあれこれ飲み比べていく御三方と、それらを舐めて顔をしかめる僕。
とりあえず、スコッチが長くウィスキーらしい余韻が残るのに対し、バーボンはスタートダッシュだけで勝負する、
そういう違いがあることだけは実感できた。あと自分が洋酒をまったく好まないこともよーくわかった。
純粋に酒が好きでさまざまな銘柄を研究している御三方とは、妙に差がついている気分になったなあ。
浪人したときに僕ひとりだけ文系に転向して疎外感をおぼえたときのことをはっきりと思い出したわ。
それにしても、酒をあれこれ言いながら仲間内で回して飲み比べていると、なんとなーく、
グラスを回して「結構なお点前で……」と言いたくなってしまう。似たようなもんじゃないかと思った。


2011.8.13 (Sat.)

朝起きて真っ先にやること。それは、昨日できなかった市役所の撮影である。が、僕が今いるのは別府。
やはりここはまず、ひとっ風呂浴びておくべきではないか。というわけで、さっそく竹瓦温泉へゴーなのだ。

 
L: 道幅が狭いせいで竹瓦温泉の全容を正面から撮影することはできないのだ。やっぱり手前の駐車場からになるなあ。
R: 竹瓦温泉。詳しいことは過去ログを参照(→2009.1.9)。やっぱり歴史ある温泉の建物っていいなあ。

竹瓦温泉は6時半オープンなのだが、すでに地元住民と思しき人々でなかなかの繁盛ぶりなのであった。
前回訪れた際には石油っぽい匂いに驚いた記憶があるのだが、今回はそんなことは全然なくって、ごくふつう。
あれはいったい何だったんだろう?と首を傾げつつ湯船に浸かる。でも、温度の熱さは相変わらず。

夏の朝に熱い温泉に浸かるってのもオツなもんだぜ!と強がりながら風呂から上がると、そのまま市役所を目指す。
地図だとそれほど遠い感触のしない別府市役所だったが、いざ歩いてみたら意外と距離があった。
もっとも、スタート地点が竹瓦温泉だったから、そう感じたのかもしれない。
また別府駅の西側はかなりの坂道で、それをトボトボと歩いていったこともその要因に挙げることができるだろう。

さてそんな別府駅西口に大きく広がっているのが、別府公園。地図で見るとわかるがほぼ正方形で、
東西方向も南北方向も歩くとイヤになるくらい長い。もともとここは第2次世界大戦後に米軍のキャンプとなり、
日本に返還された後も陸上自衛隊の駐屯地となっていた場所なのだ。広くて当たり前だ。

 別府公園の正面入口。やたらと広くて歩くの大変。

その別府公園に面している、これまた大きいベージュの塊が別府市役所である。
かなり大きくて、どの角度からどんなにがんばってもうまくカメラの視界に収めることができないのだ。
しかもどの角度からどんなにがんばって撮影しても、建物の特徴をうまくつかんだ構図にならない。
これは……どうしたもんかなあ……と、ひたすら困惑しながらシャッターを切るのであった。

  
L: 別府市役所。エントランス付近に木々があるのはいいが、おかげで建物としての「顔」がなくなっている感じだ。
C: 西側から見たところ。右が議会棟になっている。別府市役所は1985年の竣工。設計は毎度おなじみ佐藤総合計画。
R: 北側から眺める。別府市役所は坂道にあるので1階の下に「GF(グランドフロアー)」があるのだ。

別府市役所は建物が大きい分、当然敷地も広めである。そのほとんどが駐車場となっているのだが、
これがけっこう複雑で(坂道にある関係で微妙な段差がある)、なかなか思いどおりに一周することができなかった。
市役所をうまく撮影する角度が見つからないこともあって、フラストレーションが溜まったのであった。

 建物のわりに小さなオープンスペースから撮影。

坂を下って別府駅まで戻る。駅の東側(海側)は、さびれかけているとはいえアーケードの商店街があり、賑やかだ。
しかし西側(山側)は、基本的には住宅ばかりだった。ずいぶんと対照的な街並みをしているものだ、と驚いた。
五反田駅の東西と似たようなコントラストを感じる。別府の場合、山側は温泉付き別荘やらマンションやらがあって、
海側の商業施設や商店街が観光客とともにそういう層の需要を満たしているのだろう。

 
L: 別府駅。高架のホームから眺める東西の光景は、五反田と同じくらい強烈なコントラストがある。
R: 別府駅前にある油屋熊八の像。やっぱり今回も撮影せずにはいられませんでした。インパクト大きすぎだよ。

というわけで、いよいよ九州一周旅行も今日が最終日。別府を出たら、宇佐神宮に参拝する。
そして中津へ行き、福岡に戻る。しかし新幹線で東京へそのまま帰ることはしないのだ。
名古屋で降りて、高速バスで実家の飯田市へ帰省してしまうのである。合理的なのだ。

 九州一周大作戦 8/8 別府→(宇佐)→中津→福岡

8時ちょうどに別府駅を出ると、1時間ほど揺られて宇佐駅へ。ホームに降りると、駅名標に「USA」の文字。
やったぜ、宇佐だぜ! I'm in the USA!とウハウハしながら撮影する。すいません、こういうバカバカしいの好きなので。

  
L: 宇佐駅の駅名標。やったぜ、ついに来たぜUSA。  C: ホームにて。やはり神社ということでか、柱がそれっぽい。
R: 宇佐駅外観。駅の周辺には何もないのだが、人はそれなりにいた。大分へも北九州へもアクセスしやすいもんな。

宇佐駅に着いたのはいいが、宇佐駅から宇佐神宮まではかなりの距離がある。そして宇佐市役所はもっと遠いのだ。
こういうときに頼りになるのは路線バスだ。昨日の臼杵ではひどい目に遭ったのだが、懲りずに今日もバスを使う。
しかしながら、鉄道とバスの接続が必ずしも良いとは限らない。宇佐駅に着いてから50分近い待ちぼうけを強いられる。
その間に駅周辺をふらふら散歩するのがいつものパターンなのだが、宇佐駅周辺は本当に何もなくってがっくり。
しょうがないので駅舎の中でおとなしくバスを待って過ごすのであった。待合室が妙に充実していたのがまたなんとも。
やがてバスがやってきたので、意気揚々と乗り込む。たかが7~8分程度しか乗らないので歩いてもよかった気がするが、
さすがに体力任せの旅行を1週間以上続けていると、疲れが溜まってしょうがないのである。そりゃバスに頼るさ。

宇佐八幡のバス停で降りると、さっそく宇佐神宮への参拝をスタート。宇佐神宮は境内が広いので、のんびりできない。
鳥居に向かって参道が延びているが、向かって右手に店が並んでなかなか明るい雰囲気がする。でもまだ開店前。
しかしすでに十分暑い。汗をかきつつ鳥居をくぐると、砂利の敷かれた境内を早歩き。
かつて宇佐駅からここまで走っていたという蒸気機関車が保存されていたり、多くの末社が点在していたり、
宇佐神宮はけっこういろいろチェックすべきポイントが多い。でもそれをじっくり味わう余裕がないのが悲しい。

  
L: 宇佐神宮の参道。右手に店が並んでおり、駅よりずっと活気を感じる。  C: 宇佐鳥居。ここをくぐると境内だ。
R: 砂利の敷かれた境内を行く。さすがに日本全国に 四万四千社あるという八幡宮の総本宮だけあり、とても広い。

宇佐神宮は豊前国の一宮だが、そんなの関係なく偉い神社だ。というのも、全国あちこちにある八幡宮の親玉だから。
それだけにけっこう独特なところがあり、725(神亀2)年に一之御殿を建てて応神天皇を祀り、
731年(天平3)年に二之御殿を建てて比売大神を祀り、823(弘仁14)年に三之御殿を建てて神功皇后を祀って、
現在のスタイルができあがる。宇佐神宮では左の一之御殿、中央の二之御殿、右の三之御殿という順に、
二礼四拍手一礼でお参りする。さらに上宮だけでなく下宮にもお参りしないと「片参り」になってしまうということで、
なかなか面倒臭い神社だ。なんだかひどい言い方だが、いちいち丁寧にやっていくと妙に違和感がしてくるのだ。
(さて問題です。宇佐神宮に参拝する際、最低何回手を打つ必要があるでしょう? ……正解は、4×3×2=24回。)
しかしそれだけの歴史があるのもまた事実だ。かつては伊勢神宮を凌ぐ権威を誇り、九州最大の荘園領主だった。
戦国時代には庇護していた大内義隆が陶晴賢に敗れたことで弱体化し、大友宗麟による焼き討ちにも遭っている。
その後、江戸時代に入ると広大な面積を持つ神社として復興し、今に至る。

  
L: 石段を上って奥へ進む。まずは左の鳥居をくぐって上宮へ。その後、右の鳥居から通じている下宮を参拝するのだ。
C: 西大門(さいだいもん)は文禄期間に改築されたそうだ。上宮を参拝すると、まずこの門で宇佐神宮の凄みを体感させられる。
R: 南中(なんちゅう)楼門。勅使門で、通常は開くことがないそうだ。左から中央、そして右へと二礼四拍手一礼。

西大門をくぐって上宮から参拝。参道が本殿や南中楼門に対して斜めに入る形になっており、
参拝するためには北西から南東へとまわり込んでから、北に向き直る必要がある。これで南中楼門が目の前にくる。
このひと手間を加えたことで、あらためて心を落ち着ける時間的な余裕が与えられているように思う。面白い工夫だ。

上宮を後にすると、そのまままっすぐ下宮へと向かう。下宮も上宮と同じく3つの御殿に同じ神をそれぞれ祀っている。
しかしこちらは「御炊宮(みけみや)」という別名があるように、農業など生活に関わる方面を担当しているとのこと。
やっぱり下宮でも左から中央、右へと二礼四拍手一礼していくのであった。お賽銭の五円玉が足りないでございます。

  
L: 上宮。左手が南中楼門の続きで、右手が祈祷殿・絵画館。上宮はとにかく南中楼門の迫力が印象的な空間だったなあ。
C: こちらは下宮。上宮と比べるとかなり地味めなのだが、きちんと巫女さんもいる。上宮と比べると、自然に包まれている感じ。
R: 西参道にある呉橋。呉の国の人が掛けたのがその名の由来だそうだ。鎌倉時代より前からあるという。

丁寧に参拝していったら思いのほか時間がかかってしまった。砂利の境内を走ってバス停まで戻る破目に。
しかし宇佐神宮は広く、また砂利が滑ってしまい、全然スピードが出ない。これはけっこうつらい時間だった。
そんなこんなでどうにか境内から外に出ると、すぐ向かいにある観光案内所でパンフレットを物色。
それから参道沿いの店をチェックして「宇佐=USA」ネタの土産物がないか探したのだが、これが全然見当たらない。
小浜=オバマくらいのことはやっているんじゃないかと思っていたのだが(→2010.8.20)、さっぱりだった。
これといった土産物がなかったことを残念がりつつ帰りのバスに乗る。いやー、なんだか妙に疲れたわ。

ところでバスを待っているときに気がついて思わずコケそうになってしまったのだが、宇佐八幡のバス停の待合室には、
ごていねいなことに八幡造の屋根が乗っかっているのである。いや、まあ、さすがだとは思ったけどさ。
八幡造の屋根はつまり、昼に神様がいる建物と夜に神様がいる建物とをくっつけているのでそういう形なのだが、
そうなるとアレか、昼にバスを待つ場合と夜にバスを待つ場合とでどっちかに寄らないとダメか。

 
L: 宇佐神宮における「宇佐=USA」ネタは、ここ1箇所だけだった。グッズなどはまったくなくって、本当に残念。
R: さすが宇佐神宮はバス停の待合室も八幡造なのであった。いやー、これには笑ったわ。

宇佐駅に着いてバスを降りる。僕らが乗っていたバスは、このまま豊後高田まで向かうようだ。
宇佐駅は西の宇佐市街と東の豊後高田のちょうど中間に位置しており、どちらもここからバスでアクセスするわけだ。
で、後になって調べてわかったのだが、豊後高田は昭和の街並みで売っており、けっこう有名な観光地だったようだ。
それをまったく知らないでいたのが本当にもったいない。せっかくだから豊後高田にも寄っておけばよかった。
ともかく、やってきた日豊本線に揺られてさらに北へ。次の目的地は福澤諭吉の出身地である中津だ。

中津駅で列車を降りて改札を抜ける。まずは駅構内にある観光案内所へ行ってレンタサイクルを借りるのだ。
レンタサイクルは駅舎のはずれに置いてあるのだが、係のおねえさんは親切に応対してくれたのであった。
で、いざ行かん!とサドルにまたがって気合を入れたのはいいが、中津城と福澤諭吉旧居以外、これといった名所がない。
僕の場合にはこれらに加えてもう2つ目的地があるものの、それにしてもなんだかパッとしない感触である。
なんか、思っていたよりも地味な街だなあ……と思いつつペダルをこぎ出すのであった。

 
L: 中津駅。駅舎じたいはなかなか立派だが、そこまで派手に賑わっている感じはしない。うーん。
R: 駅前ロータリーにある福沢諭吉の像。中津といったらやっぱり福澤諭吉だよな。ほかは……か、唐揚げ?

まず目指すのは中津市役所。駅からそれほど離れてはいないのだが、駅裏の南口にあるので少しさびしい。
周辺の雰囲気としては、まさに住宅街にある官公庁のそれで、広い駐車場のせいでどこか閑散とした感じだ。
しかも参ったことに、中津市役所は改修工事中なのであった。なんだよーせっかく来たのにコレかよー。

  
L: 中津市役所は改修工事中。今まで何度もこういう経験はしているけど、やっぱりへこむわー。
C: 西側に広がる駐車場より撮影。うーん、全容がわからん。  R: 裏側から見るとこんな感じだった。

続いては公共建築百選に選ばれている施設、中津市立小幡記念図書館・中津市歴史民俗資料館に行ってみる。
周辺は中津城の三の丸跡地なんだそうで、さすがに非常に落ち着いた住宅ばかりが並んでいる。
様子を探りながら地図どおりに進むが、それなりに規模の大きい公共建築が存在しそうな匂いがまったくしないのだ。
と、交差点に面していきなりそいつが現れたので驚いた。なんともミスマッチな建築だなあ、と思いつつ敷地を一周。
それから実際に中に入ってみる。静かな図書館でがんばっている受験生の邪魔をするのが心苦しく、わりとすぐに出る。
すると今度は外側を歩きまわってみる。この建物は屋上部分もけっこうあちこち行けるようになっていて、
いろんな角度から中を眺めたり敷地を見下ろしてみたりして過ごす。が、あまり楽しくはなかった。
色調に工夫がないし、行く先々がわりと殺風景で「発見する楽しみ」がないのである。図面の中ではいいかもしれないが、
実際に建ったらそれほど面白くない建築ではないかと思う。原広司のさらに劣化版、ってところですな。

  
L: 中津市立小幡記念図書館・中津市歴史民俗資料館。周囲は住宅しかなくって、かなり違和感のある立地だ。
C: 屋上部分に上がってみた。あちこち行けるわりには面白くない。空間全体が遊び心に欠けている。
R: 細部にもあまり工夫がない。安っぽい部材をそのままにしており、デザイン性をあまり感じさせない。

 吹抜から中を見下ろしたところ。悪かないけど、いまひとつパッとしないなあ。

まるっきり期待はずれな建物だったので、少々がっかりしながら次の目的地を目指す。
中津は城下町なので、当然、中津城址に行ってみるのだ。街並みを観察しながらペダルをこぐが、
市街地は本当に穏やかな住宅ばかりで、観光客向けの要素が本当に少ないのである。
雰囲気としては、佐賀の郊外(→2008.4.26)に近い。まあそれだけ、城下町の生活感にあふれているのも事実だ。

 南部小学校生田(しょうだ)門。中津藩家老・生田家の屋敷の門だった。

中津城址は山国川の河口近くにある。今治城(→2010.10.11)・高松城(→2011.7.17)とともに、
日本三大水城とされているそうだ。堀ではガチョウが2羽、のんびりと遊んでおり、実に平和である。
中津城の築城を始めたのは黒田官兵衛孝高。野心が強く頭が切れる官兵衛を秀吉が遠ざけて、九州へ移したとか。
関ヶ原の際、官兵衛は九州で西軍勢力を抑える活躍をみせる。しかし想定していたよりも合戦が早く終わったために、
官兵衛はそのまま畿内に攻め込む機会を逃してしまった、なんて話も聞く。黒田家はこの功績で博多へ移った。
代わりにやってきたのは細川忠興。築城事業もそのまま引き継がれ、中津城は1621(元和7)年に完成した。
天守が建てられたかは不明だが、1964年に鉄筋コンクリートの模擬天守が観光目的で建てられて今に至る。
なお、中津を最終的に治めたのは奥平家。武田から徳川に移って長篠の合戦を引き起こした奥平信昌の系統だ。
以前、品川区の清光院という寺に行ったことがあるが、そこには奥平家の実に立派な墓地があったっけ(→2010.1.7)。

  
L: 中津城。模擬天守と復興櫓がなかなかフォトジェニック。  C: 模擬天守をクローズアップ。萩城の天守をもとに設計したそうな。
R: 右側は黒田時代の石垣、左側は細川時代の石垣。黒田の石はそのままで丸っこいが、細川の石は削って角ばらせてある。

中はごくふつうに博物館的な展示。天守の規模は大きくなく、展示じたいも特にこれといったものはない。
最上階から周囲を見まわしてみたのだが、東側には市民プールが広がっているし、見える風景も住宅が中心だし、
本当に穏やかな地方都市をただ眺めているだけ、という感覚でしかない。天守の外観ほどにフォトジェニックではない。
先ほどからひたすら「地味な街だなあ……」という印象ばっかりなのだが、ここでもそれはまったく変わることがなかった。

  
L: 中津城の天守より山国川の河口方面を眺める。穏やかな地方都市の感触を存分に味わえるが、迫力はないのであった。
C: 奥平神社。天守のすぐ足下にあるってのは珍しいパターンでは。  R: 堀ではガチョウが遊んでいたよ。

中津城でさえイマイチ冴えないわけで、中津の市街地においては観光客の存在があまり意識されていない、と言えよう。
あとはもう、中津城に並ぶもうひとつの名所である福澤諭吉の旧居ぐらいなものだろう。というわけで行ってみる。
福澤諭吉が生まれたのは大坂だが、父が亡くなったことで中津に戻り、16歳から19歳までこの旧居で暮らしていたそうだ。
自力で改装して2階を勉強部屋にしていた土蔵が今も残っている。母屋の隣には福澤記念館がつくられている。

  
L: 福澤諭吉旧居。こちらは母屋。  C: 中はこんな感じ。  R: 庭には定番の胸像の銅像が。

いちおうひととおり見てまわったのだが、やはりこれといって強烈な展示内容となっているわけではなく、
家があって土蔵があって小さい稲荷神社があって記念館があるだけ。記念館の内容も決して悪くないのだが、
福澤諭吉の業績を振り返ったり『学問のすゝめ』の原本があったりといった感じに終始して、どことなく地味なのだ。
熱心な慶応のOBあたりなら面白いのかもしれないが、僕としては若干消化不良な印象なのであった。
もっと面白い切り口がめちゃくちゃいっぱいある人だと思うんだけどなあ。

もし中津観光が長引いた場合には特急での移動も覚悟していたのだが、その必要はぜんぜんないのであった。
中津は大分・別府に次ぐ大分県第3の都市だというけど、市街地はふつうに住宅街だったなあ。
耶馬渓や青の洞門あたりはまた違うのかもしれんが、そっちは平成の大合併で中津に入ったんだよなあ。
まあでも僕も何もない城下町の出身なので、中津の街並みには妙に親近感を覚えたわ。

しかしながら、中津には有名な食い物があるのだ。住民の消費量がすさまじいことで知られる、鳥の唐揚げだ。
なんでかはよくわからないのだが、中津市民は鳥の唐揚げをやたらめったら食べまくるらしく、
街のあちこちで唐揚げ屋が大繁盛しているとテレビなんかでよく取り上げられるのだ。
(ケンタッキーフライドチキンを撤退に追い込んでしまうほど、中津の唐揚げは定着しているという。)
それで駅前を中心に唐揚げ専門店を探してみたのだが、これまた特に、これといった店がないのである。
観光案内所でも唐揚げ屋のマップを用意してあった。しかし、ほとんどの店が駅から離れた場所に散らばっている。
営業時間を見ても、完全に地元の客向けという印象。車で買いに来る地元住民相手の商売って感じで、
観光客向けに盛り上げる気はあまりないみたいなのだ。なんだか一気にテンションが落ちてしまった。
どの店が評判なのかよくわからないし、そもそも唐揚げを2,3個食うためだけに自転車で慣れない道を行くのも面倒だし、
そんな具合にすっかりやる気がなくなってしまったので、当初の予定どおりに各駅停車で中津を離れることにした。
旅行の最終日で疲れが溜まっていたせいでそんな気分になってしまったのかもしれないが、
中津はもうちょっと街全体でホスピタリティというか、観光に対するモチベーションを上げていてほしかった。

 駅のすぐそば、日の出町商店街にて。残念ながら活気はいまひとつ。

結局、唐揚げを食うことなくションボリした心持ちで中津を離れてしまった。うーん、ニンともカンとも。
列車は快調に小倉へ向けて北上していく。福岡県には瀬戸内側にもちょこちょこと市があるので、
いずれはしっかり歩いてみたいなあ、なんて思っているうちに小倉に着いた。飲み物を買うと快速で折尾へ。

さて折尾駅である。現在の木造2階建ての駅舎は、なんと1916(大正5)年の竣工なのである。
設計者は辰野金吾だという話もあるようだ。予定では高架化事業によって昨年取り壊されることになっていたのだが、
移築保存先がなかなか見つからないため先送りになっているそうだ。駅舎はやっぱり駅として使ってほしい僕としては、
どうにかいいタイミングで来ることができなあ、といったところ。改札を抜けると必死で写真を撮りまくる。

 折尾駅。現役の駅舎ならではの風格がある。迫力が違うんだよなあ。

折尾からは若松へ向かう。ここら辺の鉄道事情は鉄分の薄い僕にはよくわからないのだが、けっこう複雑で、
若松へ向かう路線の正式名称は「筑豊本線」なのだが、「若松線」という別の愛称がついているのだ。
で、この筑豊本線は南へも延びているのだが、こっちは「福北ゆたか線」という愛称になっている。
しかもこの「福北ゆたか線」、途中の桂川で筑豊本線から篠栗線に切り替わり、最後は鹿児島本線で博多まで行く。
まあ要するに、鹿児島本線が博多まで行く表のルートだとすると、「福北ゆたか線」は裏のルートになるのだ。
初めて小倉に来たときに、博多までのルートが2つあって迷った記憶があるのだが(→2008.4.25)、
あのときに僕が選んだのは鹿児島本線だったわけだ。そして今回は裏ルートを体験してみるのである。
ただ単純に博多へ行くなんて面白くない。もう今日は、とことんひねくれて旅を楽しんでやるのだ。

まずは盲腸線状態になっている若松方面へ。折尾を出ると、のんびりと列車は洞海湾に沿って進んでいく。
さすがに有名な工業地帯だけあり、目の前には工場や倉庫のような大雑把な光景が広がる。かなりの迫力だ。
しかしそれは南側の話で、北側に向き直ると国道199号の向こうに生活感のある住宅が並ぶ光景となっている。
線路がちょうど境界になっているようで、その南北のコントラストが実に興味深いのであった。

  
L: 若松線にて。工業地帯らしい大雑把な光景が続くが、その先にはしっかり海と八幡の山がある。好対照が共存する景色だ。
C: 若松駅の最果てポイント。  R: 若松駅。かつては石炭を積み出すための広大な操車場があったそうだ。

若松駅で最果てを存分に味わうと、そのまま戻ってまた折尾へ。折尾で福北ゆたか線に乗り換える。
どちらも同じ筑豊本線のはずなのだが、ここで乗り換えるというのはなんとも不思議なものだと思う。
折尾から直方まではけっこう近くて20分ほど。しかし都会的な鹿児島本線とはまったく違い、
車窓の風景は穏やかな田舎のそれである。東西を山に挟まれた田んぼを中を抜けていく。

直方で次の列車に乗り換える。本当は直方の市街地をふらふらしてみたかったが、新幹線の都合があるので断念した。
今日は高速バスで飯田に戻る関係上、名古屋には夜の9時前に着いておきたい。そこから逆算すると、
新幹線で博多を夕方5時半に出なくてはならないのだ。これは意外と余裕のない旅程なのである。
まあそれもこれも、わざわざ遠回りして博多を目指すせいではあるのだが。物好きって、ホント面倒くさいよね!

直方を出ると列車はそのまま遠賀川に沿って南下していくが、川を挟む平地はぐっと狭くなり、山が迫る。
さすがに飯塚ではちょっと街っぽくなるが、桂川から西に針路を変えて篠栗線に入ると完全に山の中を突撃していく感じ。
そうしてトンネルを抜けると、今度は山から都会に向けて郊外社会を一気に下っていく。
福北ゆたか線は3つの路線にまたがっているが、それ相応にさまざまな表情を持った風景を見せてくれたのであった。

博多駅に着いても特に時間的な余裕があるわけではない。職場や実家向けにお土産を買い込み、
あとは晩飯用に駅弁を買い込み……なんてやっていたら、あっという間に新幹線の発車時刻が近づいてきた。
旅の終わりってのはいつも呆気ない。あれだけ楽しみにしていて、あれだけ夢中になって歩きまわって、
あれだけ焦ってそれでも冷静に判断して、あれだけしっかり味わった旅が、こんなにも簡単に終わろうとしている。
それがひどくもったいなく思えるが、そうかといって予定を変更して余韻を味わおうとすると、実家に帰れなくなる。
ろくすっぽ感傷に浸る間もなく新幹線に乗り込むと、来たときと同じ何気なさで、すべるように動き出した。

夕暮れのオレンジの光を浴びた景色が、次から次へと現れては去っていく。
博多に来るときには日本列島の広さを公正に味わっていたのだが、同じ感覚でそれが逆回しになっている。
目まぐるしく主役が交代する車窓のドラマを眺めていると、まだまだ感傷に浸る気分にはなれなかった。

 
L: 徳山辺りの工業地帯。  R: MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(広島市民球場)。いつか観戦したいわー。

やがて日は落ち、新幹線は暗闇の中を走り抜けるようになる。レールの上を光が交差する。光の群れが近づいては去る。
博多を出てから名古屋に到着するまで約3時間半。疲れていたけど、眠ることなくさまざまな種類の光を眺めていた。

名古屋に着いたらコンコースを抜けて桜通口へ。名古屋−飯田間の高速バスを利用するのがあまりにも久しぶりすぎて、
どこからどう行けばバスターミナルにたどり着けるのかわからなかったのだが、名古屋は感覚でどうにかなる街なので、
特に慌てることもなく歩いていって、無事に飯田行きの待合スペースに入ることができた。実に混んでいる。
混んでいたけどすんなり予定のバスに乗り込み、そのまま飯田まで。

飯田駅で高速バスを降りると、中央通りから大横町経由で実家まで戻る。夜にひとりで飯田の街を歩くのは、
なんとも言えない独特の感じがある。それは僕の不在の間にだいぶ姿を変えてしまっている街に対する敵対心と、
その分だけ飯田という街をないがしろにしているという後ろめたさと、決して戻ることのない過去への憧憬と、
時間の経過によって取り返しのつかないことになっている事実に直面する自分との対話だ。
そして僕は、そうなってしまった現在をただ肯定することしかできない。これからもそうだ。
たいてい、市役所を越えた辺りで夜空を眺める。いちおう東京よりは数の多い星がまたたいている。
この空だけは変わらんな、と思うがすぐに、かつての家から引っ越したからこそ、空を眺める時間が発生したことに思い至る。
だが、家に着いて玄関の赤いドアのノブを回す瞬間、何も変わっていないことを僕は実感させられる。
注意深く上手い力加減で開けないと呼び鈴がけたたましく鳴るし、注意深く上手い力加減で回さないとドアは閉まらない。
これはもう、体に染み付いている。そうして2階に上がれば代わり映えのしない光景が目に入る。何も変わっていない。
土産を渡して軽くテレビを見て寝た。これ以上ない、旅の息の根の止め方だった。サッパリしていてそれもいいではないか。


2011.8.12 (Fri.)

まだ薄暗いうちに宿を出て、延岡駅へと向かう。が、ものすごく頭が痛い。理由はわからないが、とにかく痛い。
旅が続けられなくなるほどの痛みではないものの、訪れた先での感動が半減してしまいそうな程度には痛い。
これは厄介なことになった、と思いながら歩いていく。……と、24時間営業のファミレスの看板が目に入る。
ジョイフルだ。「やっぱり西日本はジョイフルですよね!」というラビーさんの声が蘇る(→2011.2.19)。
そうか、ジョイフルか。呟いた僕は少し逡巡した後、階段を上がって店内に入ったのであった。
頭痛がしたことで、念のために少し早めに出発したので、朝メシをしっかりと食う時間はある。
一度列車に乗ってしまうとメシを食うのは運しだいになってしまうので、今のうちに栄養補給をすることにした。

半年前と同じく、朝食のセットを注文してドリンクバーへ。すると、コーヒーという文字が目に入った。
カフェインを摂取したらスッキリするかなあ、とコップに氷を積み上げた中に熱いコーヒーを注ぐ。
これでアイスコーヒーのできあがり、というシステムなのだ。席に戻ってご飯とみそ汁をいただきつつ、
適度にコーヒーを飲む。そしたら驚くほどあっさりと頭痛は消えてしまった。よかったよかった。
頭の痛い日にはコーヒーを飲めば解決するのか、と思わぬ発見をしたのであった。いやあ、ジョイフルって素敵。

ところで延岡市は山下設計の設計で新しい市庁舎を建てるらしい。
来年度から現在の市庁舎(→2009.1.9)の解体を始めるとのことで、なんともさびしい。
新庁舎は2016年度完成だそうだが、いったいどんな庁舎ができあがるのか楽しみにしておこう。

 というわけで、早朝の延岡駅に着いたのだ。

以前の日記でも書いているが、延岡−佐伯間の普通列車は日に3本しかないのである。
前回は泣く泣く特急列車に乗ったが(→2009.1.9)、今回は5時58分発の佐伯行きの普通列車なのだ。
(この次の普通列車は7時51分発だが市棚止まり。で、その次が16時49分の佐伯行き。ひどいよなあ。)
そうして佐伯に着いたら、街歩きすることなくすぐにまた北へ。佐伯もリベンジを果たしたい場所だが、しょうがない。
本日最初の街歩き対象となるのは、臼杵だ。後半はバスを利用して臼杵石仏を見学するつもりだ。
石仏から戻ってきたら大分へ。レンタサイクルで軽く前回の補完作業をしてから、バスで高崎山へと向かう。
高崎山ではサルを見物し、またもバスでそのまま今度は杵築へと行く。杵築駅は市街地からかなり離れているので、
高崎山から直接、杵築の市街地まで乗り込んでしまうわけである。杵築からは別府まで戻って今夜は温泉三昧だ。

 九州一周大作戦 7/8 (佐伯)→臼杵→大分→(高崎山)→杵築→別府

延岡を出て1時間ちょっとで佐伯に着く。普通列車はひと気のない駅にいちいち停車はするものの、
2年前に特急で通過したときとあまり印象は変わらない。わりと淡々と進んでいって、そのまま佐伯に着いた。
今回も佐伯の寿司を食い損ねたなあ……としょんぼりしながら列車を乗り換え、さらにその先を目指す。
海を見たり山を見たり街を見たりしながらぐりっとカーヴしていく感覚は2年前と同じで、なんとも懐かしい。
そんなこんなで、30分ほどで臼杵駅に到着した。時刻はまだ8時前。朝日が眩しく、気持ちがいい。

 臼杵駅。旧市街地からはやや離れており、城跡が両者の間に挟まっている。

まずは駅からまっすぐに北へと進んでいって、臼杵市役所を目指す。
印象としては本当に、昔ながらの地方都市である。穏やかな生活空間が山と海の間をしっかりと埋めている感じ。
複数の川が集まって海へとまとまっていくその突端に、臼杵市役所は位置している。近くの水路はヤドカリだらけだった。

  
L: 臼杵市役所。1974年竣工で、設計は梓設計。  C: 議場が入っている西棟。  R: こちらは東棟。

さて、市役所を撮り終えたら臼杵城址に行かなくてはなるまい。市役所からまわり込むようにして西の大手へ。
臼杵城は1562(永禄5)年、家督を譲った大友宗麟が居城にすべく建てた(ただしその後も実権は握り続けた)。
もともとこの一帯は海となっており、臼杵城は湾に浮かぶ丹生島の上に築かれた城だった。
関ヶ原の合戦後には郡上八幡から稲葉氏が移り、そのまま明治維新を迎える。
その後、城の周囲が埋め立てられて都市化したため、今ではすっかり平山城といった風情となっているが、
本来は難攻不落の要害だったのだ。今も臼杵城址の周囲は石垣と岩肌が複雑に組み合わさった格好となっている。

  
L: 駅から市役所へ向かう途中に見た光景。島だった歴史を物語る岩場の上に、江戸時代築の卯寅口門脇櫓が乗っている。
C: 中心市街地に近い西側から臼杵城址に入る。木々ではなく岩肌が通路の両側にある城というのは確かに珍しい。
R: 畳櫓の脇から眺める臼杵の中心市街地。かつてこの一帯は海だったのだが、もはやそれを想像するのは難しい。

もともと島だったこともあり、臼杵城址は岩を掘ってつくった切通しを一気に上って中へ入る感じである。
そうして二の丸大門を抜けると、急に開けた台地に出たような感覚になる。大友宗麟は島を大胆に改造したようで、
二の丸跡は真っ平らでだだっ広いグラウンドとなっていた。野球用のバックネットがあって、城跡という風情はあまりない。
空堀を渡ってさらに奥へ進むと本丸跡。こちらは木々の生い茂る林である。手前で天守台跡がきれいに整備されていた。

  
L: 二の丸跡のグラウンド。ボーッとしていると、ここが城跡であることを忘れてしまいそうになる広さ。
C: 本丸跡。二の丸とは対照的な状況である。  R: 本丸の端、空堀に突き出ている天守台跡。

城跡からかつて海だった地上に戻ると、そのまま西へ。そこには昔ながらの歴史的な雰囲気を残す一角があるのだ。
その中心となっているのは、野上弥生子記念館。造り酒屋である彼女の実家を改装して記念館としているのだが、
付近には白い壁の蔵造りの家や木造の商家が今でも並んでおり、城下町としての威厳を感じさせてくれる。

  
L: 蔵造りの家が並ぶ一角。Googleマップで臼杵を見ると、住所の表示がすごいことになっているのだが、それも納得できる街並みだ。
C: 野上弥生子記念館。柳川の北原白秋もそうだったけど(→2011.3.27)、造り酒屋が実家のインテリって多いなあ。
R: 久家の大蔵。1868年に竣工した久家本店の酒蔵だが、ポルトガルのアズレージョというタイル画が側面に施されている。

商人たちの生活空間から南へと進んでいくと、武家屋敷と寺の集まる「二王座」と呼ばれる地域となる。
こちらも道は石畳となっているのだが、先ほどの街並みとは対照的なことに、瓦の載った塀がきちんと築かれて、
そこから木造建築が顔を覗かせている。どちらも伝統的な街並みだが、性格の違いがはっきりと現れていて面白い。

 
L: 二王座は丘のふもとにあり、塀で独立した屋敷・寺が集まる。  R: 商人町との違いは一目瞭然。

さて、あらかじめ調べておいた時刻表では8時55分にバスが臼杵市役所前を出ることになっていたので、
少し急いで市役所まで戻る。が、55分になってもバスは来ない。バス停の時刻表で確認するが、確かに55分とある。
僕の場合、旅でいちばん困るのはバスの利用なのだ。地元住民にしかよくわからないシステムができあがっていて、
どこでどう待てばいいのかがつかみづらいのである。ほかに客がいればまだいいが、市役所前には僕ひとり。
9時を過ぎて大いに不安になったところで、ようやくバスが来た。しかしバスが遅れれば、石仏の見学時間が減る。
なんとか時間どおりに調整しながら走ってくれないかなあ、と眉間にシワを寄せつつ揺られるのであった。

市街地から離れた郊外、ロードサイドの店舗などがほとんどない真空地帯のような場所に石仏はあった。
周囲は緩やかな高低差のある田んぼとなっており、石仏を案内する大きな看板が道ばたにそびえる、そんな光景だ。
石仏の関連施設の入口までバスは入り込み、僕を降ろした後はぐるっとまわって元の道へと戻っていった。
時計を見ると、やはり5分ほど予定より遅れている。テンポよく見てまわらないとな、と思いつつチケットを買い、中へ。

臼杵石仏(臼杵磨崖仏)が国宝に指定されたのは1995年のことで、実はけっこう最近なのである。
石仏が造営された経緯は詳しくわかっていないが、仏像の様式からみて平安後期から鎌倉時代につくられたらしい。
しかし山岳仏教の衰退の影響で保存状態は悪く、多くの仏像の下半身が大雨による川の浸食で削られてしまっている。
また、小さい仏像だと表情がわかりづらくなっているものがあり、なんとも非常にもったいない。
正直なところ、石仏じたいの美術的な価値はそれほど高くなく、作品として圧倒されるということはなかった。
ただ、石仏という信仰の手段を目の当たりにすることで、本場のシルクロードに思いを馳せることはできる。
きっとバーミヤンとかすげえんだろうなー、なんてことを考えながらそれぞれの石仏を見てまわるのであった。

  
L: ホキ石仏第二群(「ホキ」とは崖のこと)の阿弥陀如来。石仏じたいは面白いと思うのだが、とにかく保存状態が残念だ。
C: 大きな仏像だけでなく、小さい仏像がいっぱい集まっている部分もある。  R: 山王山石仏とその覆屋。

  
L: 臼杵石仏はこんな感じのところに点在しているのだ(現在はすべての石仏群に覆屋がある)。周囲は極めて湿っぽい。
C: 古園石仏。臼杵石仏の中心的存在とのこと。  R: 臼杵石仏公園を眺める。穏やかな田舎の光景である。

さあ、臼杵駅まで予定どおりに戻らないといけない。時刻表では9時50分にバスが出て、臼杵駅には10時6分着。
これでギリギリ10時11分発の列車に間に合う予定になっているのである。が、来たときのバスの遅れぶりだと、
列車に間に合うかどうか、かなり不安がある。とりあえず、天気がいいのと緊張とで喉が渇いた。
小銭財布を取り出してジュースを買うと、バスがやってきた。慌てて近づいてみるが、それは臼杵市街をまわるものの、
駅まで行くバスではなかった。乗ろうかと少し迷ったが、駅まで歩くのが面倒に思えて、次のバスを待つことにした。
その後しばらくしてから、駅まで行くバスがやはり5分以上の遅刻でやってきた。今度こそ、と乗り込む。
しかしこのとき、僕はまったく気づいていなかったのだが、実は2つの失敗をしていたのだ。
ひとつは、このバスではなく、さっきのバスに乗って市街地まで行き、駅までは自分の足で走るべきだったことである。
そしてもうひとつは、財布を自販機の近くに置いたまま回収し忘れたことだ。これで800円ほど損をしてしまった。
紙幣の方の財布ではなくて小銭の方の財布だったので被害は最小限で済んだのだが、便利に使っていたのでがっくりだ。

予定していた列車に乗れるかどうかは、細かいアクションをどれだけ早くできるかで決まりそうだ。
それで車内で運賃を用意しようとポケットに手を突っ込んだが、小銭の財布がない。瞬間、自販機のことを思い出す。
ジュースを買ってすぐにバスが来たので、財布をしまい忘れたのだ。その後、バスに乗らずに戻ったにもかかわらず、
財布を回収しないままでいたのだ。まいった!と顔をしかめながら紙幣を入れている財布を取り出すと、
そこには五千円札と一万円札しかないんでやんの。千円札なら車内で両替できるのだが、これではどうしょうもない。
悔やんだところでしょうがないのだが、悔やんでも悔やみきれない。そのままおとなしくしているしかなかった。

悪いときには悪いことが重なるものだと思う。バスが臼杵駅に到着したときには、すでに10時11分を過ぎていた。
運転手に事情を説明して待っていてもらい、駅で普通列車が発車してしまったことを確認する。
一本前のバスに乗っていたら可能性はあったんだよな、とこのとき気づいた。自分の判断には柔軟性がない、
ということをつくづく実感させられた。しかしへこんでいても事態はいい方には転がらないので、
気を取り直して次の特急列車の切符を買い、そのお釣りでバスの運賃を払って、次の目的地へと気持ちを切り替える。
なんだかんだで地方のバスは時刻表どおりに動くことが多いので、予定が狂う可能性を考慮しないでいた。
やっぱり鉄道と合わせてバスを利用するときには、スケジュールに余裕を持たせないといけないな、と反省。

大分までは特急にちりんのお世話になる。JR九州の凝った特急にはもう一度乗りたいなあ、と思う気持ちは正直あって、
それが期せずして叶ってしまったわけである。それはそれでまあ悪くないのだが、予定が遅れてしまったのは事実だ。
その分だけ大分では行動時間が減ってしまうことになる。フカフカの座席を味わいつつ、気を引き締めて過ごす。

大分駅の改札を抜けるとすぐに、観光案内所でレンタサイクルの問い合わせ。駅を出て右手ということで、
走って急いで申し込み。大分市のレンタサイクルは会員制になっているようで、カードをもらった。
それはそれでいいけど、このカードを再び利用することはあるのかなあ、とちょっとセンチになる。
まあとにかく、これで準備は整った。まずは前回のおさらいということで大分銀行赤レンガ館からだ。

 大分銀行赤レンガ館。2年前(→2009.1.9)とは別の角度からどうぞ。

素早く撮影を終えると、そのまま交差点に出て右に曲がる。するとすぐに大分市役所が現れる。
前回、大分市役所を撮影したときには、裏手にある議会棟の外壁が補修工事中だった。
しかし今回は360°ばっちり撮影OKということで、ウホウホ言いながらくまなく見てまわる。

  
L: 大分市役所は1977年の竣工。設計は日建設計で、BCS賞を受賞している。
C: 正面やや右寄りから撮影。  R: 裏手のオープンスペースにまわって撮影。右手に張り出しているのは議会棟だ。

  
L: というわけで右を向いて議会棟をクローズアップ。大通りの裏側に議会棟を置いてオープンスペースをつくる例は珍しい。
C: 議会棟の反対側はこんな感じ。  R: 議会棟と向かい合う第2庁舎。デザインに統一感を持たせてある。

大分市役所からさらに進めば、すぐに大分県庁である。相変わらず新館の存在がとっても邪魔だ。

 こいつさえいなければ……。

それにしてもやはり、本館はモダニズムの美しさにあふれる建物だ。見ていてまったく飽きないもんなあ。

  
L: 大分県庁本館。  C: ピロティピロティ。  R: 裏側。新館が邪魔するため、こっちから見る方が美しさを存分に味わえると思う。

大分市役所の隣、大分県庁のすぐ目の前には府内城址。前回訪問では一部の写真は撮影しているが、
これといってきちんと撮ったわけではないので、あらためて大手門の辺りを撮影してみた。
府内城は福原直高が築城を始めたが、途中で改易。竹中重利によって完成した城である。
現在の大分の核となった存在で、大分県庁も大分市役所も、府内城の三の丸跡に位置しているのだ。

 府内城址。この後に行くけど、大友氏の本拠地はここではないので注意。

府内城址の裏側には、公共建築百選に選出されているアートプラザがある。
もともとは1966年に大分県立中央図書館として竣工した建物である。設計したのは磯崎新だ。
1998年に大分市に移管されてギャラリーやホールを備えた複合施設としてリニューアルオープンした。
この建物、日本建築学会賞を受賞するなど評価は高いのだが、僕はあまり魅力を感じなかった。
まあ僕の磯崎新に対するイメージは「建築家の内輪での評価は高いが一般市民にはわかりづらい」というもので、
アートプラザはそれが見事に形として現れているように思う。端的に言って、非常にかっこ悪い建築だ。

  
L: アートプラザ(旧大分県立中央図書館)。  C: 大分市役所の裏手のオープンスペースから眺めたところ。
R: この角度から見ると、前川國男型モダニズム(→2010.9.42011.5.15)の解体途中って感じ。美しくはないなあ。

あとは自転車を大爆走させて行けるだけ行くのみ。次に目指したのは、現在の大分県立図書館である。
1995年のオープンだが、設計したのは旧図書館と同じ磯崎新である。単純な図書館だけでなく、
豊(とよ)の国情報ライブラリーとしてつくられている大型複合文化施設なのである。
が、やっぱり見てみるとかっこよくないのだ。磯崎新はデザインがすっきりしていないんだよなあ。
(デザインがヘタクソなくせに建築家の間でだけは妙に評価が高い点は、原広司と似たものを感じる。)

最後に訪れたのは、大友氏遺跡だ。上述のように、府内城は大友氏が豊後を去ってからつくられた城だ。
ではそれまで大友氏が本拠としていたのはどこかというと、大分駅の東側、JR日豊本線・豊肥本線の通る一帯だ。
もともと大友氏は豊後を治めた守護大名であり、戦国大名化しても府内に城をつくらず館で済ませていたのだ。
これは躑躅ヶ崎館(→2005.9.24)で通した武田信玄と同じパターンと言えるだろう。
西洋の文化を大胆に採り入れた大友宗麟の下、府内は大いに栄えたが、耳川の合戦での敗北を境に大友氏は衰退。
そして1586(天正14)年、島津家久の侵攻によって府内は壊滅し、大友氏の居館も焼き払われてしまった。
その跡地は今もただ広大な空き地が残っているのみとなっている。盛者必衰という言葉を思い出さずにはいられない。

 
L: 大分県立図書館(豊の国情報ライブラリー)。僕には磯崎新の凄さがわからない。パンピーにわからせない方が悪いぜ。
R: 大友氏遺跡は今も広大な空き地となっている。九州で猛威をふるった大名が存在した痕跡は、ほとんど残されていない。

全速力で駅まで戻ってレンタサイクルを返却。レンタサイクルってのは本来、
もっとゆったりと余裕を持って街をまわるのに使うものだとわかっちゃいるのだが……うーん。
全身汗だらけの状態でバスターミナルへ行く。目指すは高崎山なのだが、大分駅のバスターミナルは複雑で、
どこに停まっているバスに乗れば高崎山へ行けるのか、皆目見当がつかない。これには本当に困った。
こうなりゃローラー作戦だ!と、しらみつぶしに運転手に訊いていくことにしたら、1人目で当たり。よかったよかった。

大分の市街地を抜けて国道10号へ。そうして20分ほど進むと高崎山である。
国道10号は海に面した山の麓を日豊本線と並走するので、見覚えのある懐かしい光景である。
別府湾の海の青さには独特の郷愁があるように思える。まあ、郷愁といってもかなりリゾート気分に近いものだが。
時間があれば国道10号の海側にある水族館・うみたまごにも入ってみたいに決まっているのだが、
まずはやはり高崎山自然動物園をしっかりと味わうのが本道であろう、ということで今回はスルー。
家族連れが多い中、野郎独りで動物園に入るのは正直気が引けなくもないのだが、そこはガマンなのである。

  
L: 高崎山と高崎山自然動物園の入口。日豊本線の線路をくぐるとすぐに坂道で、まさに山の中へと入っていく感じ。
C: 園内の様子。山をゆっくりと登っていくのだ。  R: 途中、モノレールの軌道の先に青い海が見えた。別府湾の青さは特別だ。

高崎山自然動物園はその名のとおり、山である。山の一面を動物園として利用している感じになっている。
もともとは大分市長が万寿寺別院の境内で野生のサルを駆除する代わりに餌付けしたことから始まっている。
コンクリートで舗装された道をトボトボと歩いていくと、いきなり道の上でサルが2匹、寝転がっていた。
あまりにも無防備に過ごしているので、呆気にとられる。これが高崎山のサルなのか!と驚いた。

さらに奥へと上っていくと、サルがあちこちに現れる。みんな夏の暑さに辟易しているようで、じっとしている。
折り重なるように寝転がるサルたちと、そのサルたちの体から夢中でノミを取っているサルたち。
僕は今までサルという動物をオリを挟んでしか見たことがなかったので、目の前にサルが転がっていることが、
ものすごく不思議に思えた。しかも1匹や2匹じゃなくて、本当に数えきれないくらい大量にいるのだ。

  
L: コンクリートの道で寝転がるサルたち。野生のサルたちが無防備な姿で目の前にいるというのは、不思議な感覚だ。
C: サルたちは夢中でノミを取り合っているのであった。こんな連中が何百匹と集まっているんだからすごい。
R: エサの時間になって集まってきたサルたち。そこらじゅうからワサワサ集まってくるのはさすがに迫力がある。

奥には今も確かに寺院らしい建物が堂々と建っている。高崎山は動物園だけど山で寺院、しかもサルだらけという、
極めて独特な空間となっているのだ。この非日常的な感覚は絶対にほかでは味わえない。面白すぎる。

  
L: 餌付け場にびっちりと集合したサルたち。もはや「サルの波」とでも形容できそうな状況だ。この勢いは本当に凄まじい。
C: サルの親子。子ザルが大人のサルに抱きついて運ばれている姿は特にかわいい。  R: 子ザル。けっこう大人と違うのね。

もともとサル類を観察するのは好きなのだが、さすがにこれだけの数を近づきたい放題で見られるというのは、
もうそれだけで面白くってたまらない。時間が経つのを忘れて、夢中でいろんなサルたちを見て過ごすのであった。
基本的にサルたちは人間にそれほど興味を持つことなく、スルーして自分たちのやりたいようにやっている。
でもごくたまにこっちに近づいてくる若手のサルがいて、ペットボトルホルダーで遊んでやるのであった。
それにしても、動物たちは、若ければ若いほど、近くにいる人間に対して積極的に反応をする。
対照的に、年寄りの動物は人間にまったく興味を示すことがない。つまり、年齢が若いほど好奇心が旺盛なのである。
なるほど、若さの秘訣は周囲の環境に対してきちんと好奇心を持つことなんだな、という発見があった。

 「おい、おまえいいもん持ってんじゃねーか! それよこせよ!」「かわいいけどダメ」

高崎山での時間は予想外に楽しいものだった。いやー、あそこまでサルが野放しだとは。
バスの時刻ギリギリまで粘れるだけ粘って、高崎山自然動物園を後にする。財布をなくしたショックも吹っ飛んだぜ。

国道10号でバスに乗り込むと、そのまま別府の市街地を抜けて北へ進み、国東半島へ。
付け根の日出町を越えると杵築市である。田んぼと森が交互に現れる景色を抜けて、中心市街地へと入る。
終点の杵築バスターミナルは実に小規模で、設備もかなり弱体化しており、観光案内の地図も置いていない。
しょうがないので、バスがここまで来た道を逆にたどって、とりあえず杵築城址まで行ってみることにした。
そこでパンフレットが入手できることを期待する、というわけだ。これならたぶん、なんとかなるだろう。

バスターミナルの南西には丘というか山というか、先ほどの臼杵城址よりもずっと規模の大きい塊がある(これが北台)。
それをよけるように通っている道を歩いて南へ進む。すると途中で杵築城の御殿跡の案内板を発見。
せっかくだから、ちょっと寄ってみることにした。左折して奥へ行ってみると、そこは単なる空き地だった。
空き地の先には小さい神社があり、隣には公民館と歴史の資料館が建っている。どうもここが御殿跡のようだ。
あまりにも空き地すぎて何もできない。しょうがないので隣の資料館に入ったら、そこに地図が置いてあった。
空き地の御殿跡に戻って杵築の街の位置関係を確認すると、あらためて城跡目指して歩きだす。

御殿跡からさらに南へ行った先に、杵築城址へ入口があった。鳥居をくぐって中へ入ると、
だいぶ周囲の緑が自己主張を始めてはいるものの、確かに城跡らしい雰囲気となっている。
周囲と比べて高低差がけっこうあるようで、石段や坂道をじわじわと上っていくことになる。

だいぶ老朽化が進んでいる印象の杵築市民会館の脇を抜けると、青筵神社の鳥居が現れる。
なるほど、城跡の入口にあった鳥居はこの神社のものだったわけだ。軽く参拝して、さらに先へ進む。
門を抜けると本丸跡だが、そこはかなり独特な雰囲気の漂う空間となっていて驚いた。
というのも、そこには無数の石塔が並んでいたからだ。さほど大きくないものの、とにかく数が多いのだ。
よく見るとそれぞれの石塔にはいつつくられたのかの説明がついているのだが、室町時代などけっこう古いものも多い。
どうも杵築城址では、石塔をこの一帯に集めて保存しているようなのである。
ある意味では彫刻の博物館としての役割を果たしているわけで、これだけの量だと比較研究が十分できそうで、
見比べていくとなかなか面白い。石塔の集中保存というのも、興味深い試みである。

  
L: 杵築城址入口。この先はしっかりと高台の城である。  C: 本丸の石塔大量保存地帯。これだけ集まると迫力が違う。
R: 杵築城の再建された模擬天守。どの程度忠実に再現されているのかはわからないが、ちょっとおもちゃっぽいなあ……。

そんな石塔地帯を抜けると杵築城の模擬天守が目の前に現れる。1970年再建の鉄筋コンクリートで風情はないが、
ゆったりと流れる八坂川とその両岸に広がる郊外の光景を見事なパノラマで味わうことができるのがいい。

パノラマ撮影を終えると、再建天守の中に入る。中はお決まりの博物館的な展示となっている。
さらっと見学しつつ最上階へ上り、あらためて眼前に広がる八坂川と守江湾の干潟を眺める。

杵築はもともと「木付」という名前で、1393(明徳4)年に木付頼直が城を築いた場所である。
江戸時代に入り木付は細川忠興の領地となった時期もあったが、最終的には松平氏が入って明治維新を迎えた。
「木付」が「杵築」となったのは1712(正徳2)年で、幕府からの書状の漢字間違いを受けて地名を変えちゃったそうだ。
さて、パンフレットを見ると杵築は現在、「日本唯一?のサンドイッチ型城下町」というキャッチフレーズで売っている。
これはつまり、武家屋敷の並ぶ高台が北と南にあり、谷間の商人町を挟んでいる様子を表現したものだ。
杵築の街の写真で最も有名なものは、石畳の下り坂を見下ろした先に今度は石畳の上り坂がある、というやつだろう。
ぜひともその光景を生で見てやろうじゃないか、と歩きだす。杵築城址を後にして、まずは北台から攻める。

杵築城址方面から北台へ上るには、「勘定場の坂」という坂を行くことになる。これがけっこう長くて、
上りきってから振り返ると、かなりの高さになっていることに驚かされる。そうして向き直ると武家屋敷通り。
それほど広くない幅に味わい深い色合いの土塀が続いて、一気にその穏やかな雰囲気に引き込まれてしまう。
また、通りにある屋敷はどれもその姿をかつてから大きく変えておらず、威厳たっぷりに建っている。
前述のように杵築は駅からのアクセスがすこぶる悪いのだが、手間をかけて訪れるだけの価値はまちがいなくある。
歴史を感じさせる空間が好きな人なら、絶対に訪れないと損をする場所だ。それくらい、美しい。
数はそれほど多くなかったが、観光客は絶えることなく街角に現れて、みな感嘆の声をあげていた。

  
L: 勘定場の坂。馬や籠かきの歩幅に合うように計算して階段を配置しているそうだ。傾斜は緩めな分、けっこう長い。
C: 北台武家屋敷通りを行く。土地の歴史を感じさせる土塀がすばらしい。ちょんまげ時代の雰囲気そのまんまだ。
R: 杵築藩の藩校・学習館の門。中にある建物は学習館の「模型」とのこと。そのわりにはそこそこのサイズがあったが。

北台の武家屋敷通りを進んでいった先に、木製の灯籠が現れる。それが「酢屋の坂」の目印になっている。
さっき杵築の街の写真で最も有名なものについて書いたが、それはこの坂から眺めた景色なのだ。
左に向き直って酢屋の坂を見下ろすと、わずかに見える商人町の通りを境にして、
今度は石畳の上り坂「志保屋の坂(塩屋から付いた名だそうだ)」がその全容を見事に現しているのが目に入る。
坂の両側は緑と蔵、そして屋敷が固めており、いかにも日本人の琴線に触れる光景がそこにあった。
なんて物語を感じさせる場所なんだろう!と思う。坂道には物語があると僕は考えている。
位置エネルギーと運動エネルギーを交換する時間には、自然とドラマが込められるものだ。
そして、この杵築の坂道ほど物語を感じさせる坂道はない、と思った。この起伏は、特別な起伏なのだ。
まるで鏡に映したようにして、2つの坂道はお互いの姿をさらしている。そこを通る人々は、
お互いの姿を見つめながら坂の下で出会う。出会うまでの時間、相手を見ながら心の中で考えることは何か。
それを想像すると、これほどまで心理的なダイナミズムを誘う空間はなかなかないことがわかるだろう。
杵築は、ただ伝統的な街並みが美しいだけではないのだ。この街は、時間的にも空間的にも物語を感じさせる街だ。

  
L: 北台の武家屋敷のひとつ、能見邸。中には無料で入れる。カフェやギャラリーとしても利用されていた。
C: 酢屋の坂の上から志保屋の坂を見つめる。写真だと大したことないが、実際に訪れるとかなりドラマティックな空間だ。
R: 坂を下ったところを走っている商人町の通り。ちょっと派手に拡張した感じなのが惜しい。木造の商家が今も軒を連ねる。

そのまま志保屋の坂を上って、南台の裏丁武家屋敷を歩いてみることにする。
坂を上りきってすぐのところにある、きつき城下町資料館にまず寄って、杵築の街について勉強。
案の定、自慢のサンドウィッチな城下町の模型が置いてあり、なるほどなるほどと興奮。
それ以外にも杵築歌舞伎の資料も展示されており、その手の込んだ衣装を目にして思わず息を呑んだ。

  
L: 志保屋の坂を上る。  C: 志保屋の坂の上から振り返る。不思議と、こっちはさっきほどフォトジェニックじゃない感じ。
R: 南台裏丁武家屋敷。こちらは北台に比べるとふつうの住宅地になっている。でもところどころ、確かに風情が残る。

南台は北台とは対照的に、昔ながらの建物はそれほど残っていない(北台に残りすぎているのだ)。
印象としては穏やかな高台の住宅地といった感じだが、ところどころで石垣や生け垣などがしっかり雰囲気を残し、
武家屋敷が並んでいた過去の記憶を伝えている。そんな中を気ままに歩いていくと、杵築市役所の裏手に出た。
杵築市役所は商人町の通りに面しているのだが、南台の丘に貼り付くように建っているため、
裏口が南台につくられているのである。脇にある坂を降りて市役所の正面にまわり込んで撮影するが、
建物の規模は意外と大きく、広めにとられた通りの幅でも全体をカメラの視野に収めるにはやや足りなかった。
市役所の建物じたいは和風の意匠を混ぜようとしてキメラ状態になってしまっており、雰囲気ブチ壊しである。

  
L: 南台に面している杵築市役所の裏口。これが4階にあることから、杵築の台地の高さがうかがえる。
C: 杵築市役所。ネットで調べても出てくるのは山香庁舎の情報ばっかり……。こちらの本庁舎についてはデータがほとんどない。
R: 市役所の近くにある「きつき衆楽館」。大正期の酒蔵を改修した施設で、大衆演劇の劇場として利用されている。

あとは商人町の通りを東に戻ってバスターミナルへ。いちおうひととおり杵築の主要な通りは歩いたのだが、
あまりにも面白すぎてまだ物足りなさが残る。もっとのんびりとあちこち歩いてみたかった。
もっとぼんやりと酢屋の坂から志保屋の坂を眺めたかった。自分の中にある時間に従うのではなく。
杵築の街に流れる時間に身を任せて過ごしたかった。僕はすっかり、杵築に魅せられてしまっていた。

バスで杵築駅まで行ったのだが、杵築の市街地を出てから駅まで、やっぱり遠い。
田んぼの広がる中をゆったりと走るバスに揺られながら、記憶に残る街の感触を反芻しながら過ごした。
そうして杵築駅に到着すると、街からかなり距離があるくせに、駅舎の中も外も城下町らしい演出が満載。
改札を抜けたところには「杵築城下町入口」とあって、つまり観光客はこの「入口」を通って観光をスタートするわけだ。
が、駅と市街地の距離を考えると、入口から目的地までがとんでもなく長いなあ、と呆れざるをえないのであった。
後で調べたら、駅の設置をめぐり当時の杵築町と八坂村が争った結果、駅は八坂村につくるが名前は「杵築駅」とする、
そんな妥協が成立したんだそうだ。後に八坂は杵築と合併。これが杵築駅が市街地から遠く離れた理由とのことである。

  
L: 杵築駅の駅舎は純和風。  C: 改札は「杵築城下町入口」である。雰囲気は巧い。  R: 駅構内だって徹底して和風なのだ。

杵築駅からは別府駅まで戻る。今夜は別府に泊まるのだ。宿はビジネスホテルだったのだが、最上階が展望風呂。
晩飯の前にひとっ風呂浴びよう!と行ってみると、設備は古いが見事にガラス張りでなかなか壮観なのであった。
ただ、これはたぶん周囲からも丸見えで、別府駅のホームからこっちの裸が見えるんじゃないかと思うとけっこうドキドキ。

風呂からあがって一息つくと、晩飯を食うべく街に出る。が、温泉地であれこれ迷うのは面倒臭いので、
保守的で申し訳ないのだが、前回(→2009.1.10)と同じくとり天とだんご汁の定食をいただいたのであった。

 
L: とり天とだんこ汁の定食。  R: だんご汁のだんご。細く平べったく延ばしてあるのだ。

旅行もいよいよ残すところあと1日だけとなった。明日の夜には実家にいる予定なので、
こうして宿で眠るという体験は、またしばらくできなくなる。旅の旅らしい感触を存分に味わいながら過ごした。


2011.8.11 (Thu.)

朝、まだ暗いうちに起きて、空が明るくなりはじめた頃合いでホテルのフロントへ。誰もいない。困る。
そしたら奥にある食堂(というかレストラン)の方で人の気配がしたのでそっちへ行ってみる。
従業員の方が仕込みの真っ最中で、半ばムリヤリ自転車の鍵を借りた。これでOKだ。

街がその姿をはっきりと現していく中、元気に宿を飛び出す。道の具合は昨日の夜でわかっているので、
方角を合わせてペダルをこいでいけばいい。快調にすっ飛ばして、一気に西都城駅まで行ってしまう。
まずは都城市役所からだ。前に来ているから特にこだわる必要はないのだが、行動パターンとして染み付いており、
市役所に行かないことが気持ち悪く思えてしまうのである。というわけで敷地を一周しながらシャッターを切る。

  
L: 都城市役所。前回訪問時のログはこちら(→2009.1.8)。いかにも1980年代庁舎らしいが、窓の面積が広い。
C: 裏側。連絡通路の存在がなかなか豪快である。  R: エントランス付近から撮影。山崎パンの車が邪魔……。

続いては当然、旧都城市民会館だ。今もこの建物が無事に残っているのがうれしい。
しかし近づいてよく見ると、細かいところで確かに老朽化がけっこう深刻なのである。
コンクリートの劣化という問題は、高度経済成長期の名作建築にとっては難しい現実を突きつけてくる。

  
L: 旧都城市民会館。やはりものすごく面白い。もう見た瞬間、理屈抜きで「面白い!」のである。
C: 近づいて屋根に注目してみた。うーん、かっこいい。  R: 裏口。表に比べると慎ましやかすぎる。

 
L: 逆光に苦しみつつ、裏手から撮影。木が邪魔にならないから、こっちの方が建物の様子がよくわかる。
R: 建物に近づいてみたら、老朽化がかなり激しくて驚いた。昭和という時代を感じさせる年季の入り方だ。

ひととおり撮影を終えたら意外と時間がかかっていた。少し慌てて自転車をかっ飛ばし、都城駅方面へ。
途中のコンビニで今朝の食料を買い込んで、宿へ。ドタバタしながら荷物をまとめてチェックアウト。
なんせ今日は一歩目をしくじると予定が修復不可能なほどに狂ってしまうのだ。走って都城駅へ向かう。
そしたら乗る予定のバスは発車時刻になっても来ないんでやんの。でもそれはそれで、焦りの原因となる。
もしかして乗り場を間違えたのか?と思ってしまうのだ。しかしバス停を確認してみるが、やっぱり正しい。

 早朝の都城駅。結局そこまで慌てる必要はなかったんだけど。

やがてバスがやってきた。今日はまず、鉄道ではなくバスでスタートするのである。
そうしてわざわざ鹿児島県まで戻ってから、一気に北へとUターンすることになるのだ。
というわけで、まずは志布志。そこから日南線に乗り、飫肥で下車。余裕があれば日南市役所にも行きたい。
そしてここからがちょっと特殊なのだが、飫肥の次は宮崎を通り越して都農へ。都農神社を参拝するのだ。
そこから宮崎に戻って晩メシにチキン南蛮をいただき、最後は延岡まで行って泊まるという予定なのである。
いろいろとムダの多いルートだが、明るいうちに都農神社へ行って晩にチキン南蛮を食うにはこれしかないのだ。
逆を言うと、延岡の街歩きをまたしても犠牲にするということでもある(前回訪問は早朝の1時間)。改善の余地ありだ。

 九州一周大作戦 6/8 志布志→飫肥(日南)→(都農)→宮崎→(延岡)

かつて西都城駅から志布志駅まで、志布志線という鉄道が走っていた。
第2次特定地方交通線に指定されて1987年に廃止されてしまったのだが、バスはだいたいそのルートに沿って走る。
もともと北半分の志布志線は国道269号と並走しており、末吉駅跡は今もそこがそのままバス停となっている。
ここで男子高校生3人が乗り込んだ。以後、ちょぼちょぼとバス停で高校生を乗せて、バスは南へ走る。

やがてバスは国道269号から離れ、松山城址方面へ。地図がないので今どの辺を進んでいるのか、
具体的にわからないのが悔しい。そんなことを考えている間にも乗客はどんどん増えていくのだが、
これがことごとく高校生なのである。高校生じゃないのは見事に僕だけなのだ。もう、完全アウェイだ。
バスは路線バスというよりは観光バスのような4列シートだったのだが、高校生だけで満員になってしまった。
学校行事で引率する教員の気分になったかって? いや、もう、圧倒されてそんな余裕なかったなあ。

やがてバスは志布志市役所の前を通り過ぎる。志布志市役所は郊外にあり、駅からはかなり離れている。
市役所マニアの僕としては当然、撮影したかったのだが、ここでバスを降りると取り返しのつかないことになる。
高校生だらけの車内で独り、唇を噛み締めて過ごすのであった。うーん、切ない。
そうして志布志高校前まで来ると、高校生たちは一気に降りて、車内には僕とあともう一人だけになった。
都城−志布志のバスが、ここまで通学に特化しているとは思わなかった。でもまあ、そりゃそうかって気もする。
とりあえず、僕のような気まぐれな旅行者にとっても、廃線になったルートを走るバスはありがたい存在だ。
終点の志布志のバス停に着くと、礼を言ってバスを降りる。ここまで乗った客は僕一人だけだった。
そんな僕も運転手にとってはありがたい存在みたいで、丁寧に礼を返された。いい気分で一日が始まった。

志布志のバス停から志布志市役所志布志支所は歩いてすぐの場所にあるので、寄ってみる。
廃藩置県などのゴタゴタを経て現在は鹿児島県となっているが、もともと志布志は旧日向国に属する。
江戸時代には薩摩藩の直轄領となって、志布志城の近くに武士の集落がつくられたのだが、
志布志支所はその集落のすぐ近くに位置している。支所の裏手に上ると今も武家屋敷が残っているという。
振り返ってみると歩きまわるだけの時間的余裕はあったのだが、そのときにはあまり無理をする気はなく、
またその武家屋敷群もそれほど魅力的な感触がしなかったので、志布志支所を撮影するだけでやめておいた。
この日記を書いている今は、けっこうそのことを後悔している。せっかくだから、行っておけばよかった。

さて志布志市役所志布志支所には「こちらは、志布志市志布志町志布志の志布志市役所志布志支所です。」と、
実にくどい看板が出ていた。平成の大合併によって志布志市が誕生してこんなことになってしまったわけで、
僕みたいな観光客はあっはっはで済ませることができるが、地元住民としてはいかがなものなんだろうか。
まあこういうふざけ方はなかなかできないことなので、こういうことを面白がる精神は素直に評価したい。
(後日、授業でこの看板の写真を生徒に見せたらかなりウケた。まあ中学生にはちょうどいいやな。)

 
L: 志布志市役所志布志支所。志布志市志布志町志布志2丁目1番1号にあります。
R: 志布志支所の前にはこんな看板が。ここまでくると、もうあっぱれとしか言いようがないのであります。

志布志支所の写真を撮影し終えると、志布志駅まで歩いてみる。思っていたよりも近くって、
これなら武家屋敷方面に行けたなあ、と後悔。かといって戻ってチャレンジするほどの余裕はない。がっくり。

とりあえず志布志駅前では、大隅地方の名所を紹介する観光案内板があったので眺めて過ごす。
車のない僕にはアクセスしようのない場所ばかりで、どうにもピンとこない。肝心の佐多岬もバスがないし。
せっかく来たのにこれじゃなあ……と途方に暮れるしかないのであった。かなり切ない時間の過ごし方だった。
ところで志布志駅前は、サンポート志布志アピアの前までずっと大通りとなっており、かなり開けた印象である。
それもそのはず、もともと志布志駅は大隅線と志布志線が乗り入れていたのだ。廃止になった両路線の線路は撤去され、
駅舎も日南線の終点としての機能で足るように位置を変えてあらためて建てられたのである。
つまり、かつてのレールと駅舎の分だけ道が広くなっているということなのだ。それはそれでさみしい。

そうこうしている間にも、志布志駅前では地元の高校生グループが夏の思い出づくりなのか、集まって話し込みはじめる。
おかげでこっちはよけいに切ない。駅の周囲をぷらぷら歩いて気を紛らわしていると、列車がホームに到着。
やがて8時55分になって駅の中にある観光案内所が開く準備が始まったので、ちょっとお邪魔させてもらい、
観光パンフレットを物色させてもらう。そして9時になり、列車は志布志駅を発車した。

高校生たちは次の大隅夏井駅であっさりと降りた。列車の中は急に静かになる。
窓の外では南国らしい緑と青が絶妙に混じった海が、草木の中からチラチラと姿を見せる。
いわゆる日南海岸ってやつだ。あてもなく夏の海岸を眺めるのも非常に魅力的なのだが、僕の旅行にそんなヒマなどない。
無茶ばかりしてだいぶ疲れが溜まってきていることは自覚している。のんびりする余裕も欲しかったなあ、と思う。

  
L: 志布志駅。現在は日南線の線路に対して直角の駅舎だが、かつては線路に平行で駅前にロータリーがあったんだろう。
C: 日南線の終点。かつてはこの線路が大隅半島に向けて延びていたのか、と思うとなんとも切ない。
R: 日南線は美しい色をたたえる日南海岸に沿って走る。いかにも夏の海、という感じですばらしい。

日南線に揺られること1時間20分ほどで飫肥(おび)駅に着いた。本日最初の本格的な観光である。気合が入る。
改札を抜けて観光案内所を探すが、それらしいものはない。僕の希望としては、まずレンタサイクルを押さえる。
そして日南駅付近まで南に戻り、日南市役所を撮影する。その後、再び北に戻って飫肥の街をぐるぐるまわる、これだ。
……が、観光案内所がないとすべてが白紙になってしまう。困って女性の駅員さんに訊いてみたら、
レンタサイクルは駅舎を出て左側にあるガレージに電話番号が書いてあるので、そこに電話してくれ、とのこと。
なんと、個人営業で、電話を受けたら自転車を持ってくるという前代未聞なシステムなのであった。
しかも個人営業なので、電話に出られないこともあると書いてある。呆れながら電話してみたら、全然出ない。
なんだこりゃ!と怒りが湧くが、同時に冷静になって日南市役所の撮影を諦める。飫肥を歩く、その一本に絞ろう、となる。
決断すれば早い。さっさと飫肥の中心部へと向かって歩きだす。レンタサイクルのことは、もう忘れるのだ。

飫肥城は長らく島津家と伊東家が激しい争奪戦を繰り広げた場所である。
そして伊東義祐は島津家に敗れて没落し、豊後へと逃げたことで、飫肥は島津家のものとなった。
ところが義祐の息子・祐兵(すけたけ)が秀吉に仕えたことが幸いし、伊東家は後に再び飫肥を治めることとなる。
ただし義祐は元・大名が仕官することをよしとせず流浪の日々を送り、死の間際にようやく祐兵に会うことができたという。
祐兵は祐兵で「秀吉にもっと気の利いたことが言えれば飫肥よりいい場所を与えられたのに」と歴史書に書かれる始末。
まあそれでも伊東家は明治維新まで飫肥を治めきったのだから、立派なものだ。

  
L: 飫肥駅。城下町ってことを意識しすぎた駅舎、なんとかなりませんか。  C: 酒谷川を渡れば飫肥の城下町だ。
R: 街のど真ん中を広い国道222号が通っているが、建物は旧来のデザインを維持して城下町らしさを演出している。

飫肥の城下町は飫肥駅からは少し離れたところにある。酒谷川を渡ると城下町で、境界がはっきりしているのだ。
街を突っ切る国道222号は道幅が広くていかにも現代風だが、一歩奥へ入ると武家屋敷の雰囲気がよく残っている。
道路に面してまず石垣を積み上げ、一段高くなっている庭を挟んでから屋敷を建てる、そういう形が維持されている。
石垣の足下、道の両脇には水路が走り、中には鯉が泳いでいるところもある(近年になって整備し直したらしい)。
飫肥の街はどこを歩いても石の色と木々の緑が落ち着いた調和を見せており、今に生きる歴史を感じさせる。
変に観光客向けに飾っていないのがいい。今も地元住民が暮らしている生活空間としての静かな活気にあふれている。

  
L: 商家資料館。商人町の代表的な建物である1870(明治3)年築・妹尾金物店を移築復元したもの。
C: 小村寿太郎生誕の地。  R: 飫肥城址の東側にある武家屋敷通り。今も生活空間としての匂いが強い。

  
L: こちらは武家屋敷通りにある小村寿太郎生家。2004年の復元だが、武家屋敷通りにはこんな感じの建物が並ぶ。
C: 旧伊東伝左衛門邸。上級家臣の武家屋敷。  R: 旧藩校・振徳堂。1831(天保2)年築。小村寿太郎もここで学んだそうだ。

飫肥城址に入る前に、城址の手前にくっついている形の豫章館(よしょうかん)に寄ってみた。
ここは明治になってからすぐに建てられた、伊東家の屋敷と庭園である。緑の中に渋い色合いの木造建築ということで、
それほどパッとした建物という印象はなかったのだが、飫肥らしい落ち着いた雰囲気に見事に染まって、
なかなか居心地の良さそうな場所だった。祐兵入城以後、飫肥はすっかり平和が染み付いた街になったんだな、と思う。

  
L: 豫章館の屋敷玄関。  C: 庭園より屋敷を眺める。  R: 庭園は正直もうひと工夫欲しい感じだが、雰囲気は悪くない。

さて、いよいよ飫肥城址の中に入ってみる。1978年に復元された大手門をくぐっても石垣の上に塀が続き、
城らしい雰囲気がしっかりと残る。砂利が敷かれた内枡形はパッと開けた印象。そこから左へ曲がって奥へ進み、
まずは階段を上がった松尾の丸にある御殿を見学。1979年の再建だが、時代考証がかなりしっかりとなされており、
藩主がどんな暮らしをしていたのかがよくわかるようになっていた。伊東家についての説明も非常に充実していた。

  
L: 飫肥城大手門。武家屋敷はここから右に進んだところにあり、両者そろって城下町らしい雰囲気を盛り上げている。
C: 大手門をくぐって城内を進む。  R: 松尾の丸。壁には伊東義祐・祐兵親子についてのかなり詳しい解説があった。

松尾の丸から戻って飫肥城歴史資料館を見学。こちらは鎧・剣・古文書など、飫肥藩の歴史資料を展示。
内容としてはまあいかにもな感じで、松尾の丸ほどの時間はかけずに外へ出る。
そこからさらに奥へと進むと旧本丸。本丸跡は現在、小学校となっており、旧本丸はまた別の場所なのだ。
石段を上って旧本丸にたどり着くと、そこは飫肥杉が無数に林立する空間となっていた。
苔むした土を踏みしめて木漏れ日の中を歩いていると、それだけで穏やかな気持ちになってくる。

  
L: 本丸跡にある日南市立飫肥小学校。藩校・振徳堂の流れを汲んでいるそうだ。
C: 旧本丸北門。旧本丸をいったん抜けて外側から撮影したところ。緑の中にひっそりとたたずむ。
R: 旧本丸には飫肥杉が生い茂っていた。かつての激しい戦いの歴史がすっかり遠くなったことを実感させる。

飫肥城址を出ると、すぐ近くの国際交流センター小村記念館へ。ここは飫肥出身である小村寿太郎の資料館で、
国際交流にも使える施設となっている。小村寿太郎というと、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約の締結、
そして関税自主権の回復が功績に挙げられるだろう。今の感覚だとそれほど身に迫って感じることはないが、
戦前の日本はヨーロッパやアメリカの白人優越の価値観に対し、かなり苦しめられていた背景がある。
(まあそれは100年経ってもいまだに国際問題のさまざまな場面で噴出しているのだが。)
人種差別という観点をふまえて考えれば、小村寿太郎の成し遂げた不平等条約の解消は、まさに快挙だったわけだ。

さて、いいかげん腹が減った。飫肥城址のすぐ近くにある店に入り、飫肥天とうどんのセットをいただいた。
飫肥名物として有名な「飫肥天」は、魚のすり身に豆腐や味噌、黒砂糖などを加えて揚げた天ぷらだ。
いざ食ってみたら、ものすごく柔らかいのである。薩摩揚げに似ているが、飫肥天の方がはるかに柔らかい。
そして味は魚の風味が残っており、飽きることなくいくらでも入りそうだ。名物らしい独自性のある食べ物だった。

 飫肥天。見た目は薩摩揚げだが、それよりも圧倒的に柔らかい。

豫章館の手前には四半的(しはんまと)という娯楽というかスポーツが楽しめる場所もあった。
これは射場から的まで四間半、弓矢どちらも四尺五寸、的が四寸五分と、すべて四半であることからそう呼ばれる。
10射300円なのだが、一人旅の僕がそれでウキャウキャするのもみっともなく思えてしまったので、
挑戦することなくその場を後にしたのであった。まあ、また今度機会があればやってみるかもね。

すっかり飫肥の穏やかな雰囲気に癒されて、満足して駅まで戻る。そうして再び日南線に乗り込むと、
そのまま終点の南宮崎駅まで行ってしまう。欲を言えば晴天の青島も訪ねたかったが(→2009.1.8)、
なんせ日南線は本数が少ないので、後の予定に自由が利かなくなってしまう。断腸の思いで断念する。
でも、よけいな寄り道がまったくできないわけではない。盲腸線である宮崎空港駅まで往復するヒマはある。
宮崎空港にまったく用はないのだが、最果て趣味としては無視できない存在なので、軽く往復。
5分間の滞在時間でしっかりと改札を抜け、自動販売機でポカリスエットを買い、乗っていた列車に戻るのであった。

 宮崎空港駅にて。

宮崎空港駅を出た列車は南宮崎に留まることなく、そのまままっすぐ北上していく。
宮崎も抜け、目指すは都農(つの)だ。明るいうちに日向国一宮・都農神社に参拝するのである。

さて、日豊本線もそんなに本数があるわけではないので、都農駅に着いたらすばやく行動しないといけない。
(九州のメイン・「陽」は福岡−熊本−鹿児島を結ぶ西側。大分−宮崎−鹿児島の東は「陰」で、いわば「裏九州」。)
許される行動時間は50分。その間に都農神社まで往復しないといけないのだが、駅から神社まではそこそこ距離がある。
バスは朝と夕方に一本ずつくらいの頻度で、ないも同然。というか、ない。自分の足だけが頼りだ。
改札を抜けるとそのまま駅舎のど真ん中が待ち合いスペースになっており、そこの隅っこの椅子にBONANZAを置く。
町レヴェルの駅に駅員はいても、コインロッカーなんて上等なものはないのだ。日本人の理性にすべてを委ねる。
そうして手ぶらになったところで、ヨーイドン。駅前のロータリーに停まるタクシーたちを無視してダッシュする。

さて、都農駅から都農神社までの道のりは基本的に単純明快である。駅からまっすぐ西に進み、国道10号を北へ行き、
都農川を渡ってちょっと東へ戻る。しかしこれがかなり大きいスケール感となっているのだ。さすが宮崎、ムダにデカい。
まず駅から西へ伸びる道が本当にわずかな上りで1kmほど続いている。平らと勘違いして体力を奪われそうになる感じ。
あまりに緩やかな上りなので、もしここで地震が起きて津波が来たら、と怖くなる(駅から海までは300mくらい)。
都農駅の標高はわずか17mで、津波に襲われたらこの一帯ははるか先まで餌食になってしまうに違いない。背筋が凍る。
しかしそんなことを悠長に考えているヒマなどない。ただひたすらに、走る。

上記のように駅から神社までのルートは本来単純なのだが、僕の性格上、そうもいかない要素が入ってくる。
そう、都農町役場である。西へと伸びる道からちょっと北に入ったところにあるので、無視するわけにもいかない。
それで案内板をチェックしながら頃合いを見て北に入り、ほぼ一発勝負の撮影を試みた。なかなか古そうな建物だ。

  
L: 都農駅。宮崎県のこの辺りは西の山から東の海までなだらかな土地が続く地形なので、津波が来たらかなり怖い。
C: 駅から西へと歩いていく。本当にわずかに緩やかな上り坂が延々と続くのだ。  R: 都農町役場。役場だねえ。

都農町役場に寄ったせいで単純だったはずのルートが少し複雑になってしまった。周辺は閑散とした住宅地で、
ランドマークになるものがない。そもそも一番のランドマークが都農神社、二番目が役場なんだからもうしょうがない。
とにかく頭の中にある地図を参照しながら方角を合わせ、当たりをつけて走るしかやりようがないのだ。
で、大きな道に出てひたすら北へと走っていったところ、川の向こうにあるこんもりとした森の手前に白い鳥居を発見。
規模からいって都農神社に間違いない。目標さえ見つかれば何も恐れることはなくなる。無心で走るのみだ。
程なくして鳥居に到着。果たしてそれは都農神社の参道なのであった。深呼吸して鳥居をくぐる。

  
L: 都農神社の鳥居が見えた。こうなったらもう、スパートをかけるのみ。無心で走ったらすぐ着いた。
C: というわけで、都農神社の鳥居。とても静かな雰囲気の境内なのであった。  R: 旧拝殿を改装した神楽殿・神輿庫。

今は静かな都農神社だが、かつては広い境内と壮大な社殿と持つ大きな神社だったそうだ。
しかし、豊後に逃亡した伊東義祐の希望を聞き入れた大友宗麟が日向国に侵攻したことで、大打撃を受ける。
キリシタン大名だった大友宗麟はキリスト教の国を新たに建設しようと、日向国を徹底的に破壊したのだ。
その勢いは凄まじく、日向国については現存する古文書類などの歴史的な史料が極めて少ないのだそうだ。
確かに、宮崎県で歴史的な名所旧跡というと、高千穂と飫肥以外でほかに全国的に有名なものはあまり聞かない。
飫肥は島津家が押さえていたからよかったが、それ以外はことごとく抹消されようとしたのである。
緑に囲まれてはいるものの、どことなく閑散とした印象を残す都農神社の境内からは、そんな過去がかすかに匂う。

江戸時代に入り、高鍋藩・秋月家の庇護を受けて都農神社は再興される。
現在の拝殿・本殿は2007年に再建されたものだが、1859(安政6)年築の旧本殿は隣の熊野神社に、
旧拝殿は神楽殿・神輿庫としてリサイクルされている。こういうのはなかなか珍しい事例ではないかと思う。

  
L: 都農神社の境内。落ち着いて穏やかな雰囲気だが、どこか密度の薄さを感じる。大友宗麟の侵攻以来、こうなのか。
C: 拝殿。2007年の再建なのでピッカピカ。  R: 隣の熊野神社は1859年築の旧本殿。本殿をスライドさせるって、アリなの?

道のわからない往路に比べると、復路は非常にスムーズになるものだ。腕時計をちらちら見ながら駅まで戻る。
心理的な余裕はあったのだが、やはり都農神社と都農駅の距離はしっかりとあるので肉体的にはちとつらい。
天気もバッチリ快晴ということで、全身からものすごい勢いで汗が噴き出る。上から下まで完全に濡れてしまった。
往路ではじっとりとした緩やかな上り坂も、復路では下りとなる。……はずなのだが、あまりにも角度が微妙で、
完全な平地を走っているのと感覚的にはまったく変わらないのであった。地面のアスファルトは逃げ水を連発。
置いてきたBONANZAの心配をしながら炎天下を延々と走り続けるのは、まあ正直かなりの苦痛なのであった。

 もう本当に灼熱地獄って感じでしょ。

都農駅に到着すると、案の定BONANZAは無事。都農神社でもらったパンフレットをクリアファイルにねじ込み、
半ば茫然としながら列車を待つのであった。いやー、本当に激しい運動だったわ。

 宮崎駅。やっぱりイマイチ、撮影するポイントが絞れない建物だ。

都農から南へ戻って宮崎駅へ。2年前に訪れたときには雨だったが、今日は激しすぎるほどの快晴である。
時刻はもう夕方の17時を過ぎているのだが、県庁と市役所を撮影するには十分なコンディションだ。
相変わらずだだっ広い宮崎の市街地(→2009.1.8)をさっさと歩いて、まずは県庁へ。
前回訪れたときには東国原英夫知事が執務の真っ最中だったが、彼はもうここにはいないのだ。
任期途中で捕まることなく無事に1期務めあげたのは正直意外である。……ってそりゃ失礼か。
そして知事以外にもうひとつ前回訪問と変化した点は、中央のフェニックスの木が枯れて撤去されたこと。
さみしいことではあるけど、こればっかりはしょうがない。フェニックスがないとちょっと平凡な印象かな。

  
L: 宮崎県庁本館。1932年の竣工。  C: フェニックスのない宮崎県庁は、きれいだがなんだかふつうすぎて物足りない。
R: 宮崎県庁5号館の宮崎県文書センター。前回訪問時も撮影しているが、あらためて撮ってみた。

お次は当然、宮崎市役所。前回訪問時はオープンスペース部分が工事の真っ最中だったのだが、
さすがに整備は終わっていて、地面から直接噴水が飛び出したり霧が飛んだりと、暑さ対策バッチリなのであった。
さて、あらためてこの宮崎市役所についてネットで調べてみたのだが、どうもちょっくらきな臭い。
建設にあたっては指名コンペが行われたのだが、その条件が日本建築家協会(旧)には好ましいものではなかったらしく、
設計案を提出したのは10名中3名にとどまった。結局、コンペは「当選者なし」となったのだが、その中のひとつ、
「大淀川を海に見立てた客船のイメージ」の案をもとに設計が進められた。しかし日本建築家協会(旧)は許さず、
案を出した会員に宮崎市役所の設計に関わらないように求め、会員はそれを受け入れるという事件があった。
問題の具体的な中身はもっと詳しく調べないとわからないが、設計者選定で卒論を書いた僕としては、
公共建築の設計者選定の透明化が求められていく中での、過渡期ゆえのゴタゴタだったのかな、と思う。

  
L: 宮崎市役所にて。前はフェンスで入れなかったオープンスペースはすっかりできあがっていたのであった。
C: 宮崎市役所は1963年竣工。しかしネットであれこれ調べてみても、設計者の名前は結局出てこなかった。
R: 市役所の建物側からオープンスペースと市街地を眺める。設計者でもめた過去など遠い昔、か。

宮崎の市街地にはこれ以上の名所がないので、あとは晩飯の時間になるのを待つばかりである。前回同様、
デパートの本屋に寄って立ち読みをして過ごす。あのときは大木さんと握手して大興奮だったが(→2009.1.8)、
さすがにそんな奇跡はもう起きなかった。いまだにあのとき、写真を一緒に撮ってもらわなかったことが悔しい。
しかしまあ、あのときの僕はただの甲府ファンにすぎない程度のサッカーへの関わり方だったのだが、
今は中学校のサッカー部顧問という立場になってしまった。まさかこんなことになるとはまったく想像できなかった。
人間、自分には予想のつかないところで縁がつながって進路が決まっていくものなのかもしれないなあ、と思う。
果たしてこの先、どこへ行ってどんなところまで行ってしまうのか。

 橘通りを行く。

18時を過ぎたら晩飯時ということで、前回と同じくチキン南蛮の有名店へ。
同じ店で同じ物をいただくというのも芸のない話ではあるのだが、忘れられない味だからそれでいいのだ。
やっぱりタルタルソースが絶品で、夢中でおいしくいただいた。食べることが充実しているのは本当に幸せだ。

 チキン南蛮。何度食ってもうまいもんはうまい。何度でも食いたい。

食べ終わって満足して店を出ると、そのまま宮崎駅へ。再び日豊本線を北へと進んで、延岡まで行く。
延岡に到着したのは20時半過ぎで、市街地はもうすっかり真っ暗なのであった。覚悟はしていたが、さびしい。
宿は五ヶ瀬川の手前ということで軽く迷ったのだが、マンションみたいな地味な入口をようやく発見してチェックイン。
フロントの方はバカ丁寧にあれこれ対応してくれたのだが、一日動きまわって疲れているこちらとしては、
とにかく早く風呂に入って寝たいのである。カギをもらうと速攻で部屋に入り、ザブッと湯に浸かって就寝。
充実した一日ではあったが、それ以上に旅の疲れがどうにもならないレヴェルで蓄積しつつあることを実感しつつ寝た。


2011.8.10 (Wed.)

福岡を出て4日、九州最南端の鹿児島まで来たでごわす。前は一日かけて開聞岳と枕崎を訪れたが(→2009.1.7)、
今回はまだ行ったことのない鹿児島県の街を訪れてみる。それは、川内だ(今は合併で薩摩川内市となっている)。
で、川内から戻ってきたらそのまま鹿児島市内の名所をあちこちまわる。前回やり残したことを補完するのだ。
本日の宿は都城に確保しているのだが、まあつまり、今日のメインは鹿児島市内観光ということになる。

 九州一周大作戦 5/8 薩摩川内→鹿児島→(吉松)→都城

川内行きの列車に乗ったのが朝の7時ちょい過ぎということで、車内は通学の高校生たちでいっぱい。
駅名にもなっている神村学園を中心に、沿線には学校が多いようである。神村学園はスポーツで特に有名で、
僕の隣はバスケ部と思しき女子高生なのであった。超スレンダーで背が高そうで、さすがだなあ、とうなるしかない。
さて九州新幹線が開通することで、ほぼ同じルートを走っている鹿児島本線の八代−川内間は、
第三セクターの肥薩おれんじ鉄道に経営移管されている。しかしその先の川内−鹿児島中央間はいまだに、
九州新幹線と鹿児島本線がほぼ並走している状態である。将来的には肥薩おれんじ鉄道に組み込まれるのか?
よくわからんなあ、と思っているうちに九州新幹線の高架と一緒に川内駅に到着したのであった。

川内駅前のロータリーからはずいぶんと幅の広い道路がまっすぐ伸びている(空港道路というらしい)。
その先は交通量の多い国道3号と交差している。県庁所在地めぐりは昨年一段落したのだが、
まだまだ僕の知らない街はいっぱいあるんだなあ、とあらためて痛感するのであった。
そしてまた、鹿児島県の広さもまた痛感する。かつて訪れた鹿児島、枕崎のほかにも、この規模の街がまだあるのだ。
鉄道がもはや走っていない大隅半島にも垂水や鹿屋といった街がある。キリがねえよこりゃ、と頭を掻く。

 
L: 川内駅。岩手県の山田線には川内(かわうち)駅があるけど、こっちは「せんだい」。仙台とは違う「せんだい」である。
R: 川内駅から市役所へ向かうルートは新田神社の参道なので、石灯籠が立っている。その屋根には太陽電池がついていた!

川内駅からまっすぐ国道3号に出て、そこから隈之城川に沿って歩いていく。まずは薩摩川内市役所を目指すのだ。
しかし隈之城川が矩形の街路に対して斜めに流れている関係で、微妙に位置がわかりづらい。
人間は格子の街路に45°ずらした空間を挟み込まれると、簡単に方向感覚を狂わされてしまうものなのだ。
あらかじめ鹿児島中央駅で入手しておいた地図でいちいち確認をとりながら、市役所へと近づいていく。

そうしてたどり着いた薩摩川内市役所は、正面に地下駐車場への出入口がある、規模の大きい建物だった。
高層棟と低層棟に挟まれた2階部分がオープンスペースとなっている。その奥にはガラスで囲まれた空間がある。
朝早いので光の加減が極端で、撮影が難しい。隣の市民会館の敷地に踏み込みつつ、苦労しながら撮っていく。
時刻はちょうど公務員が出勤しはじめる頃合で、どさくさにまぎれながらデジカメのシャッターを切るのであった。
建物の中にも侵入してみたが、意外なことに外見とはやや異なる旧来の役所らしい雑然とした雰囲気に染まっていた。
片付けきれていない荷物があちこちを占拠しており、それが懐かしい「昭和」な空気を醸し出していた。

  
L: 薩摩川内市役所。高層棟と低層棟をガラス主体のアトリウム空間でつないでいる。建物の規模は大きめ。
C: オープンスペースから高層棟とアトリウム部分を眺める。でも、アトリウムの中身は雑然としたお役所です。
R: 高層棟の裏側。薩摩川内市役所は川内市時代の1976年に竣工したらしいが、それにしては少し新しい印象。

市役所の撮影を終えると、川内におけるもうひとつの目的地である新田神社へと歩きだす。
薩摩国の一宮というと以前に枚聞神社を訪れたが(→2009.1.7)、新田神社も薩摩国一宮なのである。
両者は一宮の称号をめぐって激しく対立したというが、いったいどんな場所なのか、胸が高鳴る。

開戸橋で川内川を渡る途中、行く先になかなか見事な工場があるのが見えた。中越パルプ工業の工場だ。
製紙工場らしく、煙突が実に印象的である。橋を渡ると工場の敷地の脇を行く。けっこうな広さである。
夕方には赤い空をバックに無骨なシルエットを楽しむことができそうだ。川内にそんな場所があるとは思わなかった。

 
L: 開戸橋より眺める中越パルプ工業の製紙工場。  R: 後で工場の裏手を眺めたところ。チップの山がいいですな!

工場の敷地から離れてしばらく行くと、住宅地の奥にこんもりとした緑の丘が見えてくる。
神亀山という山なのだが、その大部分は可愛(えの)山陵という古墳となっている。神社は山のてっぺん。
どちらも祀られているのは天孫降臨で地上に降りてきた神様・ニニギ(瓊瓊杵尊・邇邇芸命)。こりゃすごい。
新田神社の「新田」とは、ニニギが川内川から水を引き、新たに水田をつくったことに由来するのだそうだ。

神亀山への入口をうかがうようにくるっと西へとまわり込むと、新田神社の鳥居が目の前に現れる。
鳥居と神亀山の反対側には、緑に包まれて参道がまっすぐ長く伸びている。なかなか見事な光景だ。
本来ならこの参道をじっくり歩いて新田神社まで来るべきなんだろうけど、そんな余裕はないのである。
素直に鳥居をそのままくぐり、神社の境内を目指す。緑の中に吸い込まれていくような感覚がした。

  
L: 住宅地にいきなり緑に包まれた新田神社の参道が現れた。この参道だけ見事に雰囲気が異なっている。
C: 振り返って新田神社の二の鳥居。  R: 降来(こうらい)橋を渡る。新田神社は空間の演出が凝っている。

新田神社の石段はかなり強烈な上りとなっている。まあ、神社は山のてっぺんにあるのだから当然だが、
それにしてもなかなかにハードである。途中で車で来た参拝者向けの駐車場があるのが木々の間から見えたが、
まあこの石段はやはり、きちんと麓から歩きで参拝したいありがたさである。いや本当にいい汗かいたわ。

  
L: 新田神社の石段はけっこうハード。聖地の山へ向かってまっしぐらなのでしょうがないけど。
C: 非常に珍しい「子抱き狛犬」。こういうのは初めて見たわ。さすがに、安産にご利益があるとか。
R: 新田神社の拝殿。石段を上りきって本当にすぐの場所にある。そんな具合で境内は非常にせせこましい。

参拝を終えて市街地へと戻る。新田神社は川内川の右岸にあるが、アーケードの商店街は太平橋を渡った左岸にある。
橋を渡るとすぐに懐かしい雰囲気を漂わせるアーケードの通りとなっていて、片田舎出身には心が落ち着く。
朝の9時半という店が開く前のタイミングということで、通りに人の姿はなくはないが、それほど多くない。
これでは市街地がどれだけ活発なのかがちょっとわからない。感触としては、弱り気味だが粘っている、といったところだ。
中心的存在の川内山形屋は9時半開店ということで、ちらっと中を覗いてみたのだが、
平日ということもあってか客はあまり入っていない感触だった。なんとかがんばってほしいと心から思う。

 川内の商店街。古き良き雰囲気が残る。

さて川内の街を歩いてみて、とにかく河童密度が高いことが非常に印象的だった。
木更津の狸(→2008.12.23)ほどではないが、とにかくあちこちに河童関連のアイテムがあるのだ。
特に川内の場合には河童を「がらっぱ」と呼んでいるが(河童とは別の妖怪という説もある)、かなりの存在感がある。
昨日の球磨川にも河童がいたが、九州南部は河童の聖地なのだろうか。

  
L: 新田神社の境内にあるイザナギ河童とイザナミ河童。川内がらっぱ共和国の守護神だそうで。
C: 川内駅前の大通りにあった車止め。この斬新かつ大胆なデザインには開いた口が塞がらなかったぜ。
R: 日本全国の郵便ポストにはいろんなものが乗っているけど、ついに河童が登場したのだ。

そんな具合に粗っぽいながらも川内の街をひとまわりして駅に戻ってくると、かなり強烈なものを発見。
いったい何がどうしたら、こんな名前になってしまうのか。これ、駅舎の1階にある土産屋で堂々と売ってるんだぜ。

 ちんこだんご! 1本60円!

どうも「しんこ団子」が訛って「ちんこだんご」になっちゃったらしいのだが、これだけ堂々とされるとすがすがしい。
10時前だったからか、ちんこだんごはまだつくられていないのであった。食ってみたかったんだけどなあ。残念。

川内から鹿児島に戻るためだけに九州新幹線に乗るような度胸なんてないのだ。おとなしく鹿児島本線で帰る。
鹿児島中央駅に到着すると、急いでレンタサイクルの手続きをする。やはりみどりの窓口で申し込む電動自転車で、
遠距離の切符やら特急券やらを買う皆さんの列の中へ。いいかげんこのスタイルにはウンザリしていたのだが、
それしかないのでしょうがない。JR九州はよけいなことをしないで、地元の観光案内所に任せてほしいわ。

前回の鹿児島訪問では桜島に行った後、市電に乗りまくってあちこち歩きまわったわけだが(→2009.1.6)、
おかげで行きそびれてしまった観光名所がある。仙巌園だ。当時は篤姫ブームのまっただ中だったが、
今は江姫が不評でどうしましょうブームのまっただ中である。まあどっちも興味はないけど、仙巌園に興味はある。
仙巌園は市街地から離れており、鉄道の最寄駅もない。したがってバスでアクセスするのが妥当なところだが、
そこはレンタサイクルを借りているわけで、一気に行っちゃうもんね、と勢いよくペダルをこぎ出したのであった。

……が。国道10号を北東へと爆走していったのはいいのだが、鳥越トンネルの手前で立ち往生してしまう。
車道が複雑に絡み合っていて、自転車はどこをどう行けばいいのかがぜんぜんわからないのである。
むしろ雰囲気は埋立地の大雑把さと同じ感触の「歩行者お断り」といったオーラがプンプン漂っているのだ。
すっかりうろたえてしまった僕は、半ば逆ギレ気味に「じゃあいいよ! こっからバスに乗ってやるよ!」と叫び、
「稲荷橋」というバス停のすぐ近くにレンタサイクルを乗り捨てるとそこでバスを待つという行動を選択。
これがこの九州旅行でワースト2の判断ミスとなった(ワースト1はあさってのログ参照。お楽しみに!)。
そうしてやってきたバスに乗り込むと、バスはトンネル入口から脇にそれて猛烈なループを一気に上っていく。
ループを上りきると程なくして乗客は僕ひとりとなり、終点のニュータウンのど真ん中へ。えー!? 何コレー!?

いぶかしげな表情の運転手に運賃の140円を渡してバスを降りる。周囲は本当に閑静な新しい住宅地。
いきなりこんなところに放り出されて、途方に暮れる僕。ここは鹿児島市のはずれ、観光地図が使えない。
しかしここでボケッとしていると、鹿児島市内のほかの場所を堪能する時間が削られることになるのだ。
一も二もなくバスが来た道を走って戻る。新しく開発された山の上なので、土地に高低差があり坂道だらけ。
あっという間に汗びっしょりになってしまう。でも失望して足を止めているヒマなどないのだ。
走っている間にも、頭の中で次の行動の選択肢を精査していく。バスがあれば上、タクシーがあれば中、
この足であの坂道を下りきるのは下策だが、それもやむをえまい。途中でコンビニがあったら地図を確認。
だが住宅地なので人影はあるものの、タクシーはまったく見当たらない。コンビニもない。つらい現実だ。
旅行中にこれだけの失敗をするのは初めてかもしれないな、と思うが、どうしょうもない。
そして住宅地の坂道を上りきったところにあったのは……なんと、タクシーの営業所なのであった。
まさに砂漠でオアシスを見た思い。タクシーではなく本体の営業所! 命拾いしたと思った、ホントに。

休憩中の運転手に声をかける。「仙巌園に行きたいんですが……」住宅地から汗びっしょりの男が出てきて、
そんなふうに言われれば目を丸くするしかないわな。でも運転手はさすがプロ。すぐにタクシーのドアを開け、
「冷房を入れるからすぐに乗ってください」と返す。車内で事情を説明すると、衝撃の事実を教えてくれた。
なんと、稲荷橋のバス停から仙巌園に行くには、素直にトンネルを突き抜けてしまえばよかったというのだ。
トンネルを抜ければあっという間に仙巌園で、僕は本当に仙巌園の手前まで来たところで迷走してしまったのだ。
「じゃあ稲荷橋のバス停まで行きますから、そこからは自転車で仙巌園に向かってください」と話がついた。

タクシーはあっという間にループを下ってトンネルの手前に到着。本来なら1260円の料金がかかるところを、
気のいい運転手は「差額は飲み物代にでもしてください」と言って1000円しか受け取らなかった。
なんだか本当に申し訳ない。さらに歩道橋の上から正しいルートを説明してくれたのであった。
本当にありがとうございました。旅で出会う優しさはよけいに心にしみるものですね。

というわけで、ようやく仙巌園に到着。もう自分の間抜けさがイヤになってしょうがないのだが、
自己嫌悪に陥っているヒマなどまったくないのだ。気持ちを切り替えて、1000円を払って中へと入る。
仙巌園は薩摩藩主・島津光久が1658(万治元)年につくった庭園がもとになっている。
その後、歴代の島津家当主がいろいろと足していって今の姿になった。明治期には島津家の邸宅にもなっていた。
幕末には島津斉彬がここで「集成館事業」と呼ばれる近代化事業を行った(隣の尚古集成館に詳しい展示がある)。
ヨーロッパ式の製鉄所やガラス工場を建設し、薩摩藩が明治維新で活躍する下地となったのだ。

  
L: 仙巌園。入口から庭園部分に出たところ。テレビでロケをやっていて、女性ふたりが何度も「かごしまー!」と叫んでいた。
C: 御殿。廃藩置県で鹿児島城は軍隊の施設となったため、島津家はここに移ったのだ。
R: 仙巌園から眺める桜島は本当にすごい迫力。桜島を築山に、鹿児島湾を池に見立てるその発想はとんでもなく豪快だ。

園内をぷらぷらと歩いてまわる。海と山に挟まれた敷地は細長いのだが、場所によってさまざまな特徴を持たせてある。
そしてそれらにアプローチする道も複雑に張り巡らされており、飽きさせない工夫がたくさんなされているのがわかる。

  
L: 琉球国王から贈られた望嶽楼。アジアに近い地理的特性もあってか、仙巌園には中国風のものが多くある。
C: 園内は地形の高低差をうまく利用して、それぞれ特徴のある空間が用意されている。
R: 磨崖文字「千尋巌」。島津斉興が1814(文化11)年に、のべ3900人を動員して3ヶ月かけて彫ったそうな。

海辺のエリアからちょっと高くて奥まった場所へと行ってみる。途中には曲水の宴をやる庭があったり、
中国から移した孟宗竹の植わっている林があったりと、島津家の財力をうかがわせる空間となっている。
時間があれば山の上の方にも行って上から仙巌園全体を眺めてみたかったのだが、さっきのロスが効いて断念。

 
L: 登録有形文化財になっている濾過池。  R: あらためて桜島・御殿を眺める。

仙巌園を出ると、すぐ隣の尚古集成館へ。こちらはもともと、機械工場として1865年に建てられた。
日本で初めてアーチを採用した石造洋風建築物ということで、やはり島津家の先進性が読み取れる。
中は前述のように集成館事業の紹介が中心。あとは薩摩の雄・島津家の歴史など。
さすがに公立の博物館とは違い、展示のデザインがどこかオシャレ。もうちょっとじっくり見学したかったわ。

 
L: 仙巌園を出て尚古集成館を眺める。かつては重要軍事産業拠点だった場所も、今は観光名所。
R: 尚古集成館の入口を撮影。石造建築だけど瓦屋根。中はきれいなフローリングの博物館的展示施設。

やはり先ほどのニュータウン大迷走のダメージは大きく、できるだけ早く鹿児島市街に戻りたいところ。
磯工芸館や異人館など興味深い施設はあったが、のんびりと見てはいられないのが切ない。
再び鳥越トンネルに入って国道10号を爆走するのであった。……ところで、さっきは書かなかったのだが、
この鳥越トンネル、とにかく歩道部分が狭い。そして車道の交通量はかなりのものなのだ。
自転車で歩道部分を走るとすぐ脇を車が飛んでいくので、もう怖いのなんの。
向こうから歩行者が来たら立ち往生だし。そんなわけで、かなりヒヤヒヤしながらトンネルを抜けるのであった。

  
L: 磯工芸館。吉野植林所事務所として1909(明治42)年に建てられた。移築されて現在は薩摩切子の施設に。
C: 異人館。1866(慶応2)年築。紡績工場の英国人技師の宿泊施設としてつくられた。なぜか中に入れず。
R: 鳥越トンネル内部の様子。こんな狭いところを自転車で往復したのだ。もう本当に怖かった。

国道10号を市街地に向けて戻っていると、鹿児島駅を案内する看板が目に入った。
そういえば、鹿児島中央駅を利用してばかりで、鹿児島駅を外から眺めたことはない。ちょっと寄ってみる。
もともと鹿児島中央駅は「西鹿児島駅」という名前で、かつてはこっちの方(上町、かんまち)がメインだったはずなのだ。
そんなわけで左折して鹿児島駅のロータリーへ。まずは市電のターミナルが現れ、奥にJRの鹿児島駅。
そしてロータリーを取り巻くようにして、ずいぶんと歴史を感じさせるコンクリートの建物が伸びている。
市電の錆びた屋根、シンプルな鹿児島駅、そして汚れているがモダンな雰囲気のビル(観光ビル)がぐるりと僕を囲む。
一瞬、戦後すぐくらいの時代にタイムスリップした気分になった。かつての駅前空間の雰囲気が、
この鹿児島駅周辺にはしっかりと残っている。高度経済成長を経てバブルで失われた光景がここにある。
写真でしか触れることのできないかつての渋谷だの上野だのといった場所に降り立った気がした。

  
L: 鹿児島市電・鹿児島駅前電停。この屋根は1991年に架かったものだそうだが、なんとなくレトロな雰囲気がある。
C: JR鹿児島駅。駅舎は1976年竣工で飾りっ気があまりない。その分、周辺のかつてのスケール感をよく残している感じ。
R: 電停・駅とともにロータリーを囲む「観光ビル」。A棟とB棟があるのだが、これらが駅前の懐かしい雰囲気を決定付けている。

さて、もうここからは電動自転車の威力に任せて鹿児島市街のあちこちの名物建築を見てまわるのみだ。
前回訪れた場所の復習が中心ではあるものの、前回気づかなかった建物もきちんと押さえるだ。
というわけで、まずは旧鹿児島県庁、県政記念館へ。隣のかごしま県民交流センターももう一度撮影。

 
L: かごしま県民交流センター。前回とは角度を変えて撮影してみたのだ。  R: 旧鹿児島県庁の県政記念館。

続いては鹿児島市役所。詳しい解説は前回訪問のログを参照なのだ(→2009.1.6)。
この辺りから急に雲行きが怪しくなってきて、空を分厚い雲が覆いはじめる。
さっき仙巌園では炎天下でかなり水分を消費したのだが、それがウソのような空模様に。

 
L: 鹿児島市役所。この角度で撮影するのは初めてかな。  R: 前と同じく正面から距離をとって撮影。

そろそろ腹が減ったので、建築探訪をしつつメシをいただくことにする。
きれいにリニューアルがなされている南日本銀行本店をちらりと眺めてから山形屋鹿児島本店へ。
ここの7階にある大食堂でかたやきそばを食べる、というのが定番らしいので、僕もやってみるのだ。
エスカレーターを乗り継いで7階へ行くと、ちょうどお昼ご飯にいい時間帯だったので列ができている。
僕も並んで、まずは食券を買う。このスタイルがなんとも古風でたまらない感じだ。
山形屋の大食堂はいかにも懐かしい、昔ながらの正しい「デパートの最上階の食堂」なのであった。
従業員の方が茶碗と大きめの急須に入ったお茶をくれる。のんびりとお茶を飲みつつ、
窓の外で悠然とその姿を見せている桜島を眺める。周囲のビルが目立ってフォトジェニックではないが、
確かにここに来れば「鹿児島に来た!」という感覚をしっかりと味わえる。実にいいものだ。
やがて名物のかたやきそばがやってきた。やはり周りを見ると、ほとんどの人がかたやきそばを注文している。
この後があるのであえて大盛は避けたのだが、それでもなかなかのヴォリュームだった。
僕はあまりかたやきそばを食べることはないのだが、しっとりとしたあんで柔らかくなっていくかたやきそばの風味は、
大変おいしゅうございました。鹿児島県民はみんなこれを味わって育ったのかな、なんて思うのであった。

  
L: 南日本銀行本店。1937年築。  C: 山形屋鹿児島本店。現在のファサードは1916年竣工当時の外壁に復元されたもの。
R: 山形屋大食堂のかたやきそば。鹿児島県民はこれを食って買い物をするのが休日の定番なのかねえ。

しっかり食って満足したところで、さっそく再びペダルをこぎ出す。国道10号へ戻ってそこから西へ。
途中で見つけた鹿児島地方検察庁前の西郷どんはディフォルメがかなりいい加減で笑わせてもらった。
そしてそれとは対照的な、中央公民館前の凛々しい西郷どん。今も西郷どんは鹿児島のヒーローなんだなあ、と思う。

 
L: 鹿児島地方検察庁にて。この西郷どんはちょっとヒドくなかですか?
R: こちらは前回も撮影した軍服姿の西郷どん。銅像の一帯はこんな感じで整備されているのだ。

前回訪問(→2009.1.6)で写真撮影をした際には、日が傾いていて色が黄色くなってしまった建物もあった。
そこで今回は昼間のきちんとした色合いで撮りたいな、ということでリベンジをするのだ。

  
L: 辰野金吾設計の中央公民館。  C: 鹿児島県教育会館。1931年竣工。  R: 県立博物館本館。

そして開聞岳登山のときにお世話になった(→2009.1.7)、照国神社に参拝する。
あらためて「あのときはありがとうございました」とお礼。これで少し、ほっとした気分になる。

  
L: 県立博物館・考古資料館。  C: 照国神社の鳥居はやはり大きい。  R: 照国神社の拝殿。あのときは助かりました。

照国神社を参拝し終わったタイミングで、ついに雨が降り出してしまった。
休憩も兼ねて天文館のアーケード商店街へ避難。それにしても天文館の迷路のような構造は、
やはりとても魅力的である。またなんだかんだでやはり活気があるので、歩いていて楽しくなる。

 
L: 天文館のアーケードを行く。まっすぐな天文館電車通りの両側で、複雑な商店街が網目のように広がる。
R: 雨が少し小降りになってきた感じ。しかしまあ、けっこうな賑わいでございますなあ。

天文館に来たらぜひリベンジしなければならない場所がある。「むじゃき」の白熊を食べるのだ。
前回訪問では真冬ということもあってベビーサイズにしておいたのだが、やはりレギュラーサイズを体験せねばなるまい。
というか、ぶっちゃけ、レギュラーサイズに挑戦するべく真夏の九州旅行を計画した要素はけっこう大きい。
運がいいことに行列ができかけ程度の混み具合だったので、さっと並ぶ。そしたら僕の後ろは長蛇の列に。
やはり鹿児島といったら白熊なんだなあ、と呆れるのであった。

 
L: むじゃきの店の前にいるシロクマの人形。一緒に記念撮影をする観光客多数なのであった。
R: 白熊のレギュラーサイズ。こうして撮るとあまり大きくなさそうだが、ハンドボールより少し小さいくらいデカい。

突然の雨が降るまではかなりの快晴で暑かった。おかげで自分でも驚くほどあっさりと完食。
これだけ氷を食ってよく腹が冷えないなあ、と自分で自分の体の構造に首を傾げるが、とにかく大丈夫だった。
食ってみて思ったのは、前回食ったベビーサイズはレギュラーサイズよりもお得感があるなあ、ということ。
レギュラーサイズでは果物も何もない空白地帯がけっこうな量、発生するのである。
でもベビーサイズだと、白い練乳氷の中に適度にモノが埋まっている感じになるのだ。
まあ、レギュラーサイズは複数でワイワイ言いながら食っていくのが正解なのかもしれない。

白熊をクリアすると、残された時間はあとわずか。鹿児島市内には歴史のある学校建築があるので、
それを見てまわっておしまいということにするのだ。ターゲットは、鹿児島中央高校と甲南高校だ。
まずは鹿児島中央の方から。角を丸くカーヴさせて玄関としているのだが、わが母校の飯田市立追手町小を思い出す。
そしてさらに自転車を走らせて甲南高校へ。こちらも丸いカーヴが玄関となっていた。当時の定番だったのだろう。

そのまま鹿児島中央駅の北口にまわり込み、レンタサイクルを返却してコインロッカーから荷物を取り出す。
本当にわずかに時間があったので、あらためて鹿児島中央駅の周囲を眺める。次に来るのはずっと先のことになるだろう。
そんなことを考えながら、維新の偉人たちが集結している駅前のモニュメントを見上げて過ごすのであった。

  
L: 1935年竣工の鹿児島県立鹿児島中央高等学校。鹿児島県で2番目の鉄筋コンクリート学校建築とのこと。
C: 1930年竣工の鹿児島県立甲南高等学校。こちらが鹿児島県で最も古い鉄筋コンクリートの学校建築だそうだ。
R: あらためて鹿児島中央駅を眺める。しかしまあ、先ほどの鹿児島駅とは本当に好対照な空間である。

鹿児島中央駅を出ると、日豊本線は鹿児島湾に沿ってのんびりと走っていく。
混み合う車内でボケーッと突っ立って路線図を眺めていたのだが、ふと思いついてしまった。
実はこの後、国分駅で降りて霧島市役所を目指す計画を立ててあった。でもどうせ旧国分町役場だし、
市役所は駅から近いのでわりとヒマを持て余すことになりそうだ。となると、ちょっと冒険をしてみたい。
そもそも霧島市役所を訪れるのなら霧島神宮にも行っておくべきなのだ。でも霧島神宮は遠いので、
車でないと訪れるのは難しい。それならどっちもあきらめてしまって、別のルートで都城を目指そう。

決心した僕は、国分駅のひとつ手前、隼人駅で降りた。昨日も降りたが、今日も降りるとは。
40分ほど待ちぼうけをしたところで、吉松行きの列車がようやくホームにやってきた。
日豊本線とは対照的に、座席にはかなり余裕がある。クロスシートに腰を下ろして窓の外を眺める。そして発車。

1時間ほどかけて列車は昨日とは逆に進んでいき、吉松駅に着いた。まさか2日連続で訪れるとは、と苦笑する。
でも今日はここでの待ち時間はそれほどない。とはいえ余裕がないわけではなく、跨線橋から線路を眺めて過ごす。
北の人吉から来る列車、南の隼人から来る列車、そして東の都城から来る列車が見事にここで集結する。
すっかり寂れてしまってはいるものの、吉松の交通の要衝ぶりは今も変わらないんだな、と思う。

ムダに時間がかかるだけではあるのだが、吉都線に乗って都城まで行くことにしたのだ。
日豊本線で素直に行く方が早いし楽なのだが、昼間につまらないミスをしたせいか、心に余裕が欲しかった。
それにやっぱり、見たことのない景色を少しでも多く見たいという気持ちが勝った。

吉松を出た吉都線は、宮崎県南部の山間地帯にわずかに生まれた平地をゆっくりと下っていく。
北も南も山並みが連なっているのだが、緑の狭い平地は少しも途切れることなく続いている。
やがて空は明るさを静かに落としていく。夕焼けも何もない平凡な夕暮れが、平地を流れるように広がっていく。
何でもない平凡な一日が終わる。観光旅行は非日常の体験だが、僕は今、この土地の日常の風景に触れている。

  
L: 吉松駅の跨線橋から行き来する列車を眺める。北の街、南の街、東の街から列車はやってきて、また去っていく。
C: 吉都線の沿線風景。北は宮崎県西部の山々、南は霧島連山に囲まれながら、平地は確かに続いている。
R: 旅の記念ということで1枚撮ってみた。今回の旅はつねにこのBONANZAとテンガロン風ハットと一緒に動いたのだ。

薄暗い中、列車はえびの・小林といった宮崎県内陸部の都市を穏やかに通り抜けていく。
もちろんそれらの街を歩いてみたかった。でもきっといつかまた、その機会があるはずだ。そう思ってガマンする。

都城に着くとすぐ駅前の宿にチェックイン。部屋に入った瞬間、ペットボトルを列車内に置いてきたことに気づいた。
鳴門(→2011.7.16)でもらったポカリスエットのペットボトルホルダーごとだ。これは放っておけないわ!と、
慌てて駅に戻って車両の中を確認させてもらうが、すでになくなっていた。肩を落として改札を抜けようとしたら、
駅員が「すいません、これですよね」と現物を渡してくれた。忘れ物があったことを忘れていた、とのこと。
まあとにかく、旅の思い出が無事に戻ってきてよかったよかった。

宿ではママチャリを無料で貸し出してくれたので、それにまたがって晩メシを食いに市街地まですっ飛ばす。
都城は西都城から市役所まで行ったことがあり(→2009.1.8)、そのときに街の広さは知っていた。
が、いざ自転車で走ってみると、こちらの予想していた以上の半端ない広さだった。
都城駅周辺には宿が多いが、メシ屋はほぼない。それで駅からちょっと離れると、完全に郊外社会となっている。
その郊外社会を抜けたところでアーケードの商店街が現れる。でも夜遅かったので、どこも閉まっていた。
商店街の脇に入ると雰囲気はガラリと変わり、無数の飲み屋がひしめく繁華街となる。これは極端だ。
しかし酒に弱い僕は飲み屋に入るという選択肢がないので、そのままスルーして結局、西都城駅まで行ってしまった。
それで「すき家」のお世話になってしまうのだから、なんというか、旅の魅力を正しく味わえていないのが悲しい。
まあでも実際に走ってみて、どうやら明日の早朝は西都城周辺までリベンジできそうだぞ、とわかってニヤリ。
しかしまあ都城ってのも、変と言っては失礼だが、かなり独特な街だ。不思議だなあと思いつつ宿まで戻った。


2011.8.9 (Tue.)

7泊8日の九州旅行も今日で4日目。そして今日はかなり忙しい。
熊本を出ると、ちょっと三角線に寄り道して、それから八代。本当はじっくり街歩きをしたいのだが、
八代の市街地は駅から離れている。だからかなり駆け足での訪問にならざるをえない。がっくり。
そして八代からは肥薩線で人吉へ。ここも時間的余裕がなく、わずか1時間の滞在となる。超がっくり。
で、人吉を出ると吉松経由で鹿児島まで行く。途中では日本三大車窓のひとつ「矢岳越え」を体験することになる。
スケジュールの都合で、八代から人吉へはSL人吉に乗る。矢岳越えではいさぶろう(・しんぺい)に乗るわけで、
これはまあ正直、かなり鉄分の高い旅程なのである。鉄じゃない、鉄じゃないと言い続けているにもかかわらず、
やっていることは完全に鉄っちゃんと一緒。こういうの、「テツンデレ」とでも表現すればいいんでしょうか。
まあともかく、6時には宿を出て熊本駅へ。そこから直接、三角線に乗り入れる列車のお世話になってしまうのだ。

 宿を出たところで遭遇したネコ軍団。うーむ、塊でくるとはやるのう。

なんでわざわざ三角線に寄るのかって? そりゃあ、いま乗っておかないと、たぶん乗る機会ないじゃん。
乗りつぶしがどうこうってわけじゃないのだ。僕はただ、知らない景色を見たいだけなのさ。
……うーん、テツンデレ。

 九州一周大作戦 4/8 (三角)→宇土→八代→人吉→(吉松)→(隼人)→鹿児島

朝の光をいっぱいに浴び、列車は宇土駅へ。そこからゆったりとカーヴして、三角を目指して走っていく。
三角線は熊本から天草諸島や島原への連絡のためつくられた。三角駅は今も天草への玄関口として機能している。
海へと向かって走る三角線だが、片側がつねに山になっている感じなのがちょっと独特な印象である。
もう片方の側はふつうに穏やかな人里となっており、半島を走っているという感じは特に受けない。
やがてその山を抜けて開けた場所に出ると、すぐに三角駅に到着する。またひとつ、最果てを制覇したのだ。

改札を抜けると目の前に奇妙な建物が現れた。その名も「海のピラミッド」。フェリーのターミナルである。
駅前には駐車場がいっぱいに広がっているが、その先には海があり、緑の壁がその奥を遮っている。
振り返ればずいぶんと風情のある三角駅の駅舎。1938年の竣工で、白い壁面と赤い屋根の対比もいい。
観光名所の案内板をチェックしてみるが、駅のすぐ前にある東港よりもさらに奥へ行った西港の方に名所は多い。
実はもともと三角港とは奥の西港のことだったのだが、土地が狭かったため鉄道の駅は少し離れた南側につくられた。
その結果、駅に近い東港がメインに置き換わってしまったのだ。なかなか切ない話である。
いつか天草諸島と一緒に北側の三角港も訪れてみたいものだな、と思っているうちに列車は発車した。

  
L: 三角駅の最果て。半島の先っぽなので、この先は海となっている。なかなか見事な最果てぶりである。
C: 三角駅。陸路と海路を結ぶ結節点にふさわしい、堂々とした駅舎である。僕はけっこう好きだな。
R: 「海のピラミッド」。なんだこのバベル感あふれるデザインは。三角ってことで三角形にしたのかねえ。

宇土駅まで戻ったところで列車を降り、そのまま改札を抜ける。せっかくだから、宇土市役所にも行ってみるのだ。
宇土市はかつて、小西行長が支配していた城下町だ。かつて肥後国は、熊本を中心とする北部を加藤清正が、
宇土を中心とする南部を小西行長が分割して治めていたのだ。ご存知のとおり小西行長はキリシタン大名で、
加藤清正はバリバリの日蓮宗信者。両者はすこぶる仲が悪かったという。で、関ヶ原の合戦で小西側は滅亡。
しかし宇土は肥後国において重要な存在であり続け、今に至っているのだ。

頭の中で地図を再生して歩く。駅からとにかく西へと歩いていけば市役所ということで、トボトボ進んでいく。
風景はまさに農村地帯のそれ。道の両脇には住宅があるが、その向こうは田んぼを中心にのどかな緑が広がる。
15分ほど歩いて少し不安になりかけたところで背の高い建物が見えてきた。まあおそらく、あれが市役所だろう、
そう当たりをつけて近づいていく。裏側から見た宇土市役所は非常に地味だったのだが、表にまわるとけっこう面白い。
もともとこういうキレキレなデザインだったのか、耐震補強で結果的にこうなってしまったのか、
詳しいことはよくわからないのだが、仮面をかぶったような二重構造のファサードは純粋にかっこいい。
まさかこんな建物にお目にかかれるとは思っていなかったので、純粋にウキウキしながら撮影するのであった。

  
L: 宇土市役所。左が本庁舎で右が議会棟だ。  C: 本庁舎をクローズアップ。1965年竣工。  R: こちらは議会棟。

農村地帯をそのまま帰るのはあまりに寂しかったので、商店街を歩いて駅まで戻る。
旧来の街道の雰囲気を残す商店街は商店と住宅が半々くらいで混在しているのだが、
落ち着いて細々とやっている感触はしっかりとある。これが適正規模なのかな、という感じだ。

  
L: 県道297号沿いの商店街を行く。  C: 宇土では「地蔵祭り」を毎年やっているのだ。ということで地蔵をパチリ。
R: 2009年竣工のえらくオシャレな宇土駅。九州新幹線は停まらないが、その建設のついでにリニューアルされたとのこと。

宇土の次は八代(やつしろ)。熊本県で第2の人口を誇る都市だ。もともとは貿易港として中国などとやりとりしていたが、
江戸時代に細川家筆頭家老の松井家の城下町として栄えた。島津家対策ということで八代の城はそのまま維持され、
一国一城令の例外となっていた。その八代城址は駅からかなり離れているが、そこまで歩いてみるのだ。

八代駅のすぐ裏は日本製紙の工場となっている。それだけ工業が盛んな街なんだな、と思いつつスタート。
国道3号をひたすら西へと歩いていく。道はいかにも国道らしく、地元の店舗や会社の支店が両側に並んでいる。
交通量はけっこう多い。快調に飛ばしていく車たちを横目で見ながら地道に一歩一歩進んでいくのは正直悲しい。
駅から八代市街(八代城址・市役所がある)まではだいたい2kmとのことだったが、かなり長く感じた。

  
L: 八代駅。後ろの日本製紙の工場がド迫力。この工場があるせいか、鹿児島本線は八代駅周辺で大きくカーヴする。
C: 駅舎からちょっと離れたところから工場を眺める。  R: 八代本町アーケード。10時前なので勢いのほどはわからず。

まだ朝の10時前なので、せっかく到着したアーケードの商店街も実に静かである。なんだかがっくりだ。
ちょっと進むとまずは八代市役所。街の規模のわりには小さい。昭和30年代庁舎をリニューアルしてきれいにした感じ。
市街地にあって旧来の鉄筋コンクリスタイルということで、この歴史ある街の誇りの歴史性、
まあ要するに、ことさら新しい庁舎を建てて市の存在をアピールする必要のない余裕とでも言おうか、
そういう懐の深さというものをかえって感じさせる建物であるように思う。さすがは八代、と思わされたのだ。

  
L: 八代市役所。デザインは完全に昭和30年代のそれ。新しめに見積もっても昭和40年代初頭のつくりだ。
C: しかしリニューアルがしっかりなされており、古びた印象はまったくない。  R: グラウンドを挟んだ裏側から眺める。

八代市役所のすぐ隣が八代城址だ。城の東側から入ったのだが、まず現れたのが、なんと土俵。
しかも子どもたちが実際にまわしを締めて稽古をしている。八代では相撲部が盛んなのだろうか。
そのまま八代宮の正面へとまわり込む。祀られているのは松井家の皆さんではなく、
後醍醐天皇の皇子・懐良(かねなが)親王。かつてこの八代の地で足利家と戦って敗れたのだが、
明治時代になって南朝を重視する風潮ができてから祀られたそうだ。地元の請願でそうなったらしいが、
松井家は藩主ではなくあくまで細川家の家臣ということでか、ちょっと扱いが悪いのが気になる。

  
L: 市役所側から見た八代城址の入口。石垣が今もしっかりと残っており、街のプライドを感じさせる。
C: 八代城址内にある土俵。神社ということで土俵があるのだろうが、実際に相撲をしているのを見たのは初めてだ。
R: 八代宮。本丸跡が神社になっているケースは多いが、城主が無関係ってのは珍しい。松井家も祀ってあげなさいよー。

八代城址の中を抜けてちょっと進んだところにあるのが、「八代市立博物館 未来の森ミュージアム」。
そしてその道を挟んだ北側には松浜軒(しょうひんけん)。これは1688年に八代城主・松井直之が築いたお茶屋で、
現在はそのまま庭園をメインにして一般に公開されている。が、どっちにも寄るヒマがないのであった。
いくら余裕のない旅行とはいえ、しっかりと見てまわる時間がなかったことが本当に本当に悔しい。

 
L: 八代市立博物館 未来の森ミュージアム。設計は伊東豊雄で1991年竣工。公共建築百選に選ばれている。
R: 松浜軒。建てられた当時、この周辺には松が茂る浜辺があったことからその名がついた。

八代駅までの帰り道は、まさに時間との戦い。今日もバッチリ炎天下で汗ダルマになりながらも、
早歩きとジョギングを組み合わせながら必死で駅まで戻る。レンタサイクルがないのが本当に痛かったなあ……。
まあとにかく、かなり消化不良な気分になってしまった。再び八代を訪れる機会があるといいなあ、と心底思う。

そうしてずぶ濡れ状態になって八代駅に到着すると、ホームにはSLがすでに停車していた。そう、SL人吉だ。
肥薩線の開業100周年である2009年から、熊本駅−人吉駅間で走っているのである(ただし週末・夏休み限定)。
使われているSLは8620形の58654号。1922年に製造されたSLである。ただし客車は新しいものを使用している。
SL人吉はずいぶんときれいに整備されているし、客車もオシャレ。やはりJR九州の車両へのこだわりはすごい。
さて僕としては狙ってSL人吉に乗ったわけではなく、時間的に最も都合の良かったのがたまたまSL人吉だっただけだ。
肥薩線は本数が少ないので、どうしても選択肢が少ないのである。で、SL人吉はめちゃくちゃな人気があり、
そうそうチケットは取れないと聞いていたのだが、えきねっとでやってみたら取れちゃった。乗車日の10日前だったのに。
それでまあ、せっかくだから乗ることにしたわけだ。人気の列車だ、乗って損することはあるまい。

売店で弁当を買い込むと、指定された席へ向かう。そしたらまあ、そこにはすでに3人家族がいたわけだ。
小学生になるかならんかぐらいの男の子とその両親。席は4人掛けのボックスシート。で、最後の1人がオレ。
もう、見事なまでに僕はペルソナ・ノン・グラータなのである。さすがにこれはお邪魔するわけにはいかないわ、と思い、
おとなしく先頭にある展望ラウンジのはじっこ(ドアを開けたらその陰になる位置)で小さくなって過ごすのであった。
おかげで、少々慌てて食ったこともあってか、なんとなく弁当が味気なく感じられてしまった。

  
L: 八代駅で停車中のSL人吉。JR九州らしくデザインにかなり気をつかっているようで、非常にきれい。
C: 客車内の様子。当然といえば当然なのだが、見事に家族連ればっかりなのであった。うーん、半端ないアウェイ感だ。
R: 先頭の客車についている展望ラウンジ。さすがはJR九州、かなり居心地の良いデザインとなっていた。

SL人吉が八代駅を発車すると、すぐに雨が降り出した。さっきまでカンカン照りだったのになんだこりゃ、とたまげる。
緑を切り裂く球磨川を力強く逆走する肥薩線だが、それを押し戻さんばかりに雨粒が激しく窓ガラスに叩き付けられる。
しばらく呆気にとられていたのだが、結局30分もしないうちに雨はやんだ。球磨川はただ悠然と流れ続けていた。

  
L: 展望ラウンジには子ども向けの駅員のユニフォームが置いてあり、それを着て記念撮影できるのだ。大人気。
C: 停車中の駅にて。積んでいる石炭をスコップで崩している乗務員。暑い中、本当にお疲れ様です。
R: SL人吉の客車はこんな感じである。JR九州の車両は本当に工夫がいっぱい。感心させられるわ。

夏休みの行楽シーズンということもあってか、球磨川では無数のラフティングをしているボートが浮かんでいた。
皆さん、走っているSLに向けてすべからく手を振ってみせる。こちらも親子連れがそれに応える、
そんなのどかな光景が繰り広げられるのであった。SLに乗る孫と車で並走するおじいちゃんもいたなあ。
そしてそんな行楽シーズンのイベントとして、なんと、球磨川には河童が出現するのである。
もともと球磨川(というか南部を中心に九州のあちこち)には河童伝説があるのだが(翌日訪れた川内にもあった)、
どうも地元の観光協会だかJRだかが企画を打ってち、SL人吉の車窓から球磨川の河童を見つけよう!とやっているのだ。
どこに現れるのかは日によって異なるらしいのだが、河童(の着ぐるみ)が必ずSL人吉が走る時間帯にいるというのだ。
JR九州、そこまでやるんか!と、そのサービス精神には脱帽するしかなかったよ。いやはや、すごいものだ。

  
L: 日本一の急流として知られる球磨川。悠然と流れてはいるものの、確かに勢いがありそうだ。周辺の地形が険しい。
C: 河童発見! 一瞬のことなのできれいには撮影できなかったのが残念。しかしこれを毎回やっているとは、恐れ入りました。
R: 人吉駅に着くと、熊本県のイメージキャラクター「くまモン」がお出迎え。職業は公務員だそうです。

人吉駅に到着すると、さっそくレンタサイクルの申し込み。なんせ1時間しか滞在できないので(本当に愚かだわ)、
すべてを手際よくやっていくしかない。素早く手続きを済ませると、電動自転車を勢いよく走らせる。
まず最初に目指すのは青井阿蘇神社だ。ここは茅葺きの社寺建築では初の国宝となった神社なのだ。
駅からまっすぐ南に進むと、すぐに右折。あっという間に青井阿蘇神社に到着だ。

青井阿蘇神社は人吉藩初代藩主・相良長毎らにより、1610(慶長15)年から3年かけて造営されている。
デザインとしては本当に独特で、桃山時代らしい派手な色彩と装飾に包まれながら、屋根はしっかりと茅葺き。
つまり当時の最先端の様式と地元のローカルな方法論とが見事に融合した、希有な作品となっているのである。
そもそもやはり社殿の屋根が茅葺きという神社に参拝したことはほとんどないわけで、
どの時代なのかどの場所なのかあやふやな気分になりながら過ごした。これは本当に貴重な空間だ。

  
L: 人吉駅。観光客がいっぱいで活気にあふれた空間だ。小ぢんまりした人吉盆地のまさに核ですな。
C: 青井阿蘇神社の楼門。この様式が発展して、幕府によって全力でつくられると日光東照宮の陽明門になるのかなあ。
R: こちらは拝殿。神社全体がこんな感じで統一されているので、空間として非常に面白い。来た甲斐があったなあ。

しかしながら青井阿蘇神社にあまり見とれているヒマもないのである。1時間なんて一瞬で過ぎてしまう。
レンタサイクルの電動自転車には昨日の熊本である程度慣れていたのは幸い。勢いよくすっ飛ばして人吉橋を渡る。
前もって決めていた人吉の観光ポイントは4箇所。青井阿蘇神社、人吉市役所、人吉城址、そして人吉温泉。
最後の温泉は状況に応じてあきらめるとして、市役所と人吉城址は絶対にクリアしたいところだ。
これらを効率よくまわるために、人吉市内で大きく正方形を描くようにして動くことにした。

人吉橋を渡って球磨川の左岸に入ると雰囲気は一気に落ち着いた住宅地となる。
歴史のある城下町特有の余裕を感じさせる、個人的には懐かしい空気だ。
できればこの街並みをのんびり味わいたかったのだが、感傷に浸っているヒマなどまったくないのだ。
そうして胸川を渡ると大手門。いかにも城内に入ったぞ、という感触がする。人吉城址は石垣がよく残っており、
城としての雰囲気が今もちゃんとするのだ。だからこんもりとした緑の麓にある市役所は、もう見るからに、
「これは見事な城跡パターンの役所ですな!」と言いたくなるような位置関係なのである。

  
L: 人吉市役所。1962年の竣工で、昔ながらの位置に昔ながらのデザインで今もがんばっている、そんな印象である。
C: 反対側から見たところ。小規模な建物だあ。  R: 角度を変えて撮影。うーん、昭和だなあ。

市役所の撮影を終えると今度はその奥にある人吉城址だ。しかし僕は見事に入口を間違えてしまい、
城跡の裏にある山に上ってしまった。電動自転車とはいえ凄まじくキツかった。で、上がったら住宅地。
ぜんぜん城っぽい気配がないので、涙目で貯め込んだ位置エネルギーを解放。そしたら砂利敷きの入口を発見。
時間も労力も大いにムダとなってしまった。取り返すには……やっぱり走るしかないのね。
全身が汗だらけのままで石段を駆け上がる。こうなりゃもう、最後は温泉で締めるしかないよな!と思いつつ走る。

  
L: 広場から眺めた人吉城址。緑に包まれた丘に位置している。この右側手前に人吉市役所がある。
C: 城跡から球磨川越しに人吉市街を眺める。  R: 人吉城址の内部はこんな感じ。芝生の穏やかな空間となっている。

人吉城は鎌倉時代以来、相良氏が城主として住んでいた。一時期、島津氏に攻められて逃げたものの、
秀吉の九州統一後に相良頼房が城主として戻り、そのまま明治維新を迎えている。非常に珍しい例である。
実際に訪れてみると、人吉城址は石垣がよく残っていて美しい。人吉城は自然の地形を生かした城だが、
石垣はその自然に対して人工の絶妙なアクセントを加えており、穏やかな遺構の美しさにあふれているのだ。
この土地が残している自然の雰囲気と、出しゃばらない人工物による物語性が高度に融合している感じ。
天気はあまりいいとは言えなかったが、十分に居心地の良さを感じさせてくれる空間だった。

  
L: 本丸を目指す。人吉城址は今も見事な石垣が残っている。  C: 途中で振り返ったらこんな感じ。
R: 人吉城本丸跡。東屋があり、のんびり過ごせる場所である。建物の遺構なのか、石が点在していた。

大急ぎで人吉城址を上り下りしたせいで、ただでさえ汗でびっしょりなのだがもう限界だ!
温泉、温泉はどこだー!と電動自転車にまたがってペダルをこぎだす。と、市役所の脇に看板を発見。
走りだしてから15秒もしないうちに温泉を見つけた。迷っている時間はないし、迷うつもりもない。
200円払って服脱いで湯を全身にかけると、湯船に勢いよくドボン。100まで数えてあがって服を着る。
あまりのカラスの行水ぶりに、番台のおばちゃんに笑われちゃったよ! しょうがないじゃん、時間ないんだもん!
自分でものんびり浸かることができなかったのが非常に悔しいのだが、人吉温泉は2分間でもいいお湯なのであった。

あとはもう、人吉駅を目指して走るだけ。というより寄り道しているヒマがない。
しかし球磨川に向かって爆走している僕の視界の端っこに、規模は小さいが面白そうな神社がふっと入ってきた。
老神神社、とある。急ブレーキで自転車を停めると早歩きで境内に入ってみる。社殿は小さいながらも迫力がある。
急いで二礼二拍手一礼すると、再び自転車にまたがって、そのまま再び球磨川を渡る。もうしっちゃかめっちゃか。

 
L: 市役所近くの元湯。中は非常にシンプルなつくりで、どちらかというと観光客より地元住民向け、って感じだった。
R: 老神神社。写真の拝殿は1749(寛延2)年築。本殿など社殿は重要文化財で、観光客向けではない迫力に満ちていた。

人吉駅に到着すると、電動自転車を素早く返却し、飲み物を買って次の列車に乗り込む。「いさぶろう(しんぺい)」だ。
下りは「いさぶろう」、上りは「しんぺい」と名前が変わる観光列車で、山縣伊三郎と後藤新平にちなんだ名称である。
人吉を出た後、肥薩線は完全に山の中を行く。さっきは球磨川に沿って走ったが、こちらは自力で切り開く印象。
歴史を調べると、鹿児島へと通じる路線を建設するにあたり、海岸を走ると敵の攻撃を受けやすいという理由によって、
山の中を突き進むルートとなった経緯がある(だから今の肥薩線は開通した当初、鹿児島本線だったのだ)。
そしてこの路線が1909(明治42)年に全通したことで、青森から鹿児島までがつながったのである。
つまり肥薩線の人吉-吉松間は、日本の鉄道史におけるある意味「総決算」的な存在といえるのだ。
そう考えると、鉄道ファンではない僕でも感心せざるをえない。肥薩線はただ山の中を走っているだけではないのだ。

  
L: 「いさぶろう・しんぺい」の車両はこんな感じ。やはり凝っている。この列車、ボックスシート部分だけ有料の指定席。変なの。
C: 肥薩線の人吉以南は、当時の鉄道技術のあの手この手を感じられる場所でもある。写真は大畑(おこば)駅のスイッチバック。
R: ループの途中からスイッチバックの大畑駅を見下ろす。鉄っちゃんにしてみれば、これはもうテーマパークなんだろうな。

本数の極めて少ない人吉-吉松間の肥薩線だが、鉄道ファン向けの財産は非常に豊富である。
大畑駅のスイッチバックに始まり、ループにSLの展示、さらには日本三大車窓と矢継ぎ早にやってくる。
僕としてはそれらにはあまり興奮できるわけではないのだが、前述のような鉄道の歴史を考慮に入れた場合、
「青森から鹿児島まで絶対につなげるぞ!」という当時の日本人の凄まじい意地が透けて見えるのである。
となれば、これはきちんと面白がるしかない。というわけで、あれこれデジカメで撮影して過ごすのであった。

  
L: 人吉-吉松間の肥薩線はこんな感じの木造駅舎ばかりである。写真は矢岳駅。
C: その矢岳駅にある人吉市SL展示館。かつてSL人吉は、ここにD51と並んで展示されていたそうだ。よく復帰したなあ。
R: 中では名物の一勝地梨や椎茸などを売っていた。商魂たくましいなあ。列車を待つ間、すげえヒマなんだろうなあ。

さて、矢岳駅を出て矢岳第一トンネルを抜けると、いよいよ日本三大車窓のひとつ「矢岳越え」である。
熊本県から宮崎県に入って一気に西へカーヴ。それにより、南に広がる霧島連山とえびの高原を一望できるという。
日本三大車窓というと姨捨駅を体験済みだが(→2009.8.142010.3.13)、その見事さにはかなり感動した。
おかげで、きっと「矢岳越え」も凄いんだろうな!と想像は膨らむばかりなのである。
はっきり言って、僕はこのために人吉の滞在時間を犠牲にしてまでわざわざ「いさぶろう」に乗り込んだのだ。
ドキドキしながら待っていると、まず先頭車両が見やすいようにと列車は速度を落としていく。いよいよである。
僕が乗っていたのは3両目の最後尾。焦らされた末に目の前に現れたのは、こんな光景。

正直なところ、イマイチだった。理由は単純で、視野が狭いからだ。視界がパッと開ける快感がなかった。
両側を木々に遮られており、パノラマというほどの角度になっていなかった。それがイマイチだった最大の理由だ。
あとはSL人吉で八代を出た直後に雨が降ったような天候の影響か、山が水分で霞んでいたのももったいなかった。
これは姨捨駅とはだいぶ差があるなーと思いつつデジカメで撮影。やがて列車は速度を上げ、次の駅へ。

いちばんのハイライトである矢岳越えを済ませた後も、肥薩線はもうひとつインパクトのあるものを出してくる。
それは真幸(まさき)駅だ。縁起のいい名前ということで、ホームには「幸せの鐘」が設置されていることで知られる。
険しい山を越えてきたためか、スイッチバックでホームに入る。本当に、鉄道ファンには至れり尽くせりなんだろうな。

 
L: スイッチバック中に見下ろす真幸駅。  R: ホームにある「幸せの鐘」。現在の幸せ度合いに応じて鳴らす回数を決めるそうで。

真幸駅を過ぎると一気に下って山らしい雰囲気は急激に薄くなっていく。
そうして吉松駅に到着すると、ここで1時間ほど次の列車を待つ。仕方がないので周辺をブラついたり、
駅の隣の広場にあるSLを眺めたり、鉄道で栄えた吉松の歴史を紹介する展示館の資料を読んだりして過ごす。
土産物屋も覗いてみる。鹿児島刑務所でつくられている品物をはじめ豊富なアイテムが置いてあるのはいいが、
なんせこちとら荷物を増やすことのできない旅をしているわけで、あれこれ買うことはしなかった。少し虚しい。
それでもまだ時間があまったので駅の待合室へ。中心には囲炉裏があり、その周囲は畳敷きの四角い空間となっている。
ちょうど椅子の高さになっており、座布団が置かれていて360°腰掛けることができるのだが、
長旅で疲れた列車待ちの皆さんが、囲炉裏に頭を向けて寝転がって占拠状態。個人的には好ましく思えない光景だ。
とはいえこっちも疲れているわけで、座っておとなしく過ごすしかなかった。吉松駅はかつて大いに栄えた場所だが、
その分だけ寂れきってしまった今の姿はさみしくってたまらない。疲れのせいもあって、なんだかしんみりしてしまった。

  
L: 吉松駅。かつては鹿児島本線(現・肥薩線)と日豊本線(現・吉都線)の分岐駅として大いに賑わっていたという。
C: 記念碑いっぱい。  R: 駅の隣にある広場のSL。鉄道で栄えた場所らしい誇りを存分に感じさせる。

吉松からさらに南に進み、日豊本線と合流する隼人駅で降りる。本日の最後を飾るのは、大隅国一宮・鹿児島神宮。
大隅というと大隅半島の方を想像してしまうのだが、一宮はここに位置している。まあとにかく参拝するのだ。

 隼人駅はなんともオシャレな感じの駅舎なのであった。

隼人駅前のロータリーから鹿児島県道473号に出ると、そのまま東へとひたすら歩いていく。
旧街道の雰囲気を残した車の交通量の多い道を延々と歩くのにも、もういい加減慣れた。
市ではなく町レベル、あるいは小規模な市の街はずれの旧街道はどこも似たような感じだなあ、と思いつつ、
10分ほど歩いたところで鹿児島神宮の参道にぶつかった。左に曲がって鳥居をくぐると、
なんのことはないふつうのアスファルトの道路に参道としての雰囲気をたっぷりと配合した道になっていた。
神社の参道が車道として使われるようになると、たいていは鳥居を残して車道の要素が参道の要素を駆逐するものだが、
鹿児島神宮の場合はかなりしっかりと参道らしさを残している。神社に参拝するんだ、という感覚が呼び起こされる道だ。

  
L: 鹿児島神宮の参道は、基本的には車道らしい空間だが、「神社の近さ」が段階的に演出されている格好で興味深い。
C: 鳥居をくぐって境内へ。石橋で川を渡る構成になっており、神社本来の空間性が強く感じられる(川は身を清める場所)。
R: 石段の右手には雨之社、その奥には神木である大楠。雨之社という名称がなんとも興味深い。

石段を上っていくと右手に鹿児島神宮の勅使殿が現れる。鹿児島神宮の参道は横参道だったのだ。
まわれ右してちょっと石段を上って拝殿で二礼二拍手一礼。拝殿の内部は彫刻がとても見事で、
こりゃすげえやとデジカメで撮影したのだが、その直後に「撮影禁止」の貼り紙を発見してデータを消去。
もったいないけどしょうがない。まあでも、いいものを見せてもらった。一宮はやっぱり風格があるものだ。

 
L: 鹿児島神宮の勅使殿。拝殿と本殿はこの奥にある。すべて島津重豪が建立した。
R: 境内には神社の本殿型の電話ボックスがあった。さすがにこんなのは初めて見たわ。

来た道を戻って隼人駅へ。ちょっと待ったら列車がやってきて、日がゆっくりと沈もうとする中、鹿児島中央駅に到着。
2回目の鹿児島は2年半ぶりということで(→2009.1.6)、まあ正直、それほど新鮮味は感じない。
前回やり残した鹿児島観光は明日しっかりやるので、今はとりあえず晩メシを食うことを考えるのみだ。
そんなわけで、黒豚の豚しゃぶはどうだろうと思ってあちこちリサーチしてみたのだが、どうも値段が高い。
結局、前回同様にトンカツで落ち着いたのだが、一口分の豚しゃぶがついてきたのでそれで満足する。

店を出ると空は暗くなっていた。鹿児島中央駅前のデパート地下にある焼酎の店で、circo氏向けに土産を送る。
そして市電に乗って宿のある天文館へ。しかし宿はなかなか見つからず、MacBookAirを取り出して地図を確認。
どうにか宿にたどり着くと、大浴場でしっかりリフレッシュしてカプセルの中へ。今日もハードな一日でございました。


2011.8.8 (Mon.)

旅行中は始発から日没まで、できるだけ多くの街を訪れることが目標となるわけだが、今日は少し余裕がある。
というのも、今日は熊本で泊まる予定だからである。本日最初の目的地は福岡県大牟田市だが、
大牟田を出てから熊本までの間には、正直これといった特徴のある街がないからだ(と言うといろいろ失礼だが)。
地図を見ていろいろプランを練ってみたのだが、結局、できるだけ早く熊本に行ってしまい、
熊本市内を徹底的に補完(→2008.4.28)してしまおう、という結論に落ち着いた。
ただ、大牟田から熊本に直で行くのはあまりにもさみしい。というわけで、玉名市に寄り道することにした。

 九州一周大作戦 3/8 大牟田→玉名→熊本

前に熊本を訪れたときには、長崎県の島原からフェリーで直接熊本に乗り込んでいる(→2008.4.28)。
それだけに、今回は鹿児島本線できちんと大牟田の街を味わってから熊本に入ろうと決めていた。
大牟田市はかつて三井三池炭鉱の石炭で大いに栄えた都市である。
そのため石油へのエネルギー転換によって、非常に大きなダメージを受けて衰退を余儀なくされた街でもある。
市内には今も石炭関連の施設が近代遺産として点在しており、今回はそれを味わうのが主目的なのだ。

 大牟田駅東口。JRはこちらで、西鉄は反対側の西口がメイン。

西鉄の何がすばらしいって、主要な駅でレンタサイクルを貸してくれることである。
3月には太宰府でも(→2011.3.26)柳川でも(→2011.3.27)お世話になっている。
そして今回はここ、大牟田。西口に出ると西鉄の改札で「レンタサイクルをお借りしたいんですが」と声をかける。
すると改札を抜けるように促され、そのままホームの脇にある駅事務室へと案内される。
書類の手続きを済ませると、改札の脇にあったレンタサイクルを受け取り、それを引いて再び改札を抜ける。
なんとも大胆なシステムになっているなあ、と思うのであった。まあとにかく、これで準備は万端だ。

足を確保できたのはいいが、もうひとつ欲しいものがある。大牟田の地図である。
時刻はまだ8時半になる前で、観光案内所は開いていない(でもこの時間に自転車を貸してくれる西鉄は偉い!)。
駅前を探ってみるが、パンフレットなどの資料はまったくない。しょうがないので、駅の案内図を記憶しておき、
わかる範囲で行ける場所に行って、後で地図を入手してから細かいところをつぶしていこう、と決めたのであった。

まずはとりあえず大牟田市役所からだ。大牟田市役所は、大牟田駅東口からすぐの国道208号沿いに建っている。
1936年竣工ということで、威風堂々とした建物である。かつて炭坑で栄えた勢いを今も誇りを持って伝えている。
建物じたいは4階建てだが、中央にある塔が非常に高く、それを含めると9階分にもなるという。

  
L: 大牟田市役所。戦前の市庁舎建築がしっかりと残っている例は少ない。大牟田のプライドが感じられる。
C: 角度を変えて正面より撮影。  R: 正面玄関の様子。内部はけっこう狭苦しい。1階レベルが少し高くなっている。

大牟田市役所も十分近代文化遺産だが、それ以外の直接的な石炭関連施設も見ようと、宮浦石炭記念公園へ。
駅から遠ざかって緩やかな坂道を東に上っていき、途中で左折。すると行く先に工場らしいパイプの塔が現れる。
大牟田は今も誇りを持って工業都市なんだなあ、と感心しながらその手前まで行き、細い抜け道へと入る。
そんな具合にウネウネと路地を進んでいってテキトーに走っていたら、無事に宮浦石炭記念公園に到着した。

宮浦石炭記念公園は1996年開園。1887年から1968年まで石炭を産出していた三池炭鉱宮浦坑を公園にしたのだ。
三池炭鉱の主力坑だったというが、実際に訪れてみるとわりと小ぢんまりとした公園という印象しかない。
1888年に建てられた高さ31.2mの煙突と数々の機械が残されているほかは、地味などこかの公園と変わりがない。

  
L: 大牟田は炭坑が閉鎖された今もしっかりと工業都市である。  C: 宮浦石炭記念公園の煙突。
R: 炭坑内への行き来に使われていたトロッコが展示されている。本当に一大産業だったんだなあ、と思わされる。

続いて訪れたのは、旧三池集治監である。集治監とはつまり、政府直轄の刑務所のことだ(県レヴェルだと「監獄」)。
三池炭鉱では囚人も働かせていたというわけだ。三池集治監は1883年に設立されたが、1931年に廃止されており、
現在は三池工業高校の敷地となっている。しかし刑務所時代の赤レンガ塀は今も部分的に残っているのだ。
おかげで、まるで高校生たちが授業を抜け出して脱走することがないように塀がつくられたような格好となっている。

  
L: かつて三池集治監だった三池工業高校の入口。刑務所だった土地が学校になるというのは珍しい事例であると思う。
C: 三池工業高校の敷地沿いに進んでいくと、さっそく頑丈そうな塀が現れる。端っこには鉄条網も残っているぜ。
R: 内部の赤レンガが露出していると、いかにも近代産業遺産という感じである。土地の歴史とは面白いものだ。

ここでいったん駅前に戻って観光案内所で地図を確保。次の目的地に設定していた早鐘眼鏡橋の場所を調べたら、
さっきまでいた三池工業高校のちょっと先でやんの。これにはがっくりきたなあ。というわけで来た道を戻る。

早鐘眼鏡橋は1674(延宝2)年に三池藩がつくった、現存する最古の石造水路橋である。
重要文化財に指定されているのだが、今となっては非常に目立たない場所にあり、探すのに少し苦労した。
たどり着くまでがまたちょっと大変で、近くにある米屋で鍵を借りて中に入ることになっているのだ。
中に入ったら入ったで、草が思う存分生い茂っている。そして肝心の眼鏡橋も草に覆われて消滅寸前。
なかなかにハードな文化財見学となっているのであった。ニンともカンとも。

  
L: 早鐘眼鏡橋への入口。寺の前のちょっとした駐輪スペースという印象で、ボーッとしていると通り過ぎてしまう。
C: 扉を開けて眼鏡橋への道を行く。だいぶ草が伸びており、道は自然に還りそうな状態となってしまっている。
R: これが早鐘眼鏡橋だ! 草にやりたい放題に覆われちゃって、もうほとんど見えないじゃないか! なんだこりゃ!

気を取り直して、今回の大牟田訪問では最後となる名所へと向かう。三池炭鉱宮原坑跡である。
一口に「三池炭鉱」と言ってもさまざまな炭坑跡が点在しており、それぞれけっこう距離があるのだ。
宮原坑跡は山の中へと少し入っていったところにある。道に沿って川が流れているのかと思い下を覗き込んだら、
それは石炭を運び出す鉄道の跡だった。今はすっかり草木が主役となってしまって、往時の姿は想像がつかない。
しばらくじっとりとした上り坂を進んでいくと、右手にライトグレーで塗られた鉄骨の塔が見えてくる。
その足下には赤いレンガの構造物がまとわりついている。その色の対比、巨大なスケール、すべてが見事だ。
橋を渡って塔の正面へとまわり込む。周辺は草の生えた空き地となっており、やはり往時の勢いは感じさせない。
そんな無を象徴するような大地から、圧倒的な存在感の人為的な建造物が生えている。アニメか特撮のような光景だ。

  
L: 三池炭鉱宮原坑跡。この第二竪坑櫓は、日本に現存する最古の鋼鉄製の櫓だそうだ。本当に凄い迫力だった。
C: 角度を変えて撮影。圧倒的な存在感を持つ建造物が、自然との戦いに敗れようとしているように見えた。
R: 赤レンガ部分の内部を覗き込んでみた。このように、今も地下には当時のままで空間が残されているのだ。

三池炭鉱宮原坑は1898年の開坑で、三池炭鉱が国から払い下げられた後に初めて三井組が自力で掘った坑口だ。
ここでは主に、近くにある三池集治監の囚人たちが働いていたのだそうだ。これもまた、重要文化財に指定されている。
鉄骨の塗られ具合を見れば、この建造物が地元で大切にされているのは明らかだ。炭坑跡は今も人々の誇りなのだ。
塔に近づき、かつてこれを利用して人々が地下に送られていた姿を想像してみる。が、なかなかうまくイメージできない。
時間の静止した塔は、赤レンガの廃墟部分も含めてあまりに美しいオブジェ、モニュメントにしか思えない。
かつて使われていた道具というよりも、この姿ですでに完成してしまっている美術品のように思えてならなかったのだ。
しばらく、ただ無言で塔を見つめることしかできなかった。これだけでも大牟田を訪れた甲斐があったというものだ。

 
L: 帰り道、あらためて振り返ってみたところ。こっち側は赤レンガの建物が比較的よく残っている。
R: 自然に還りつつある鉄道跡。かつてはここを膨大な量の石炭が通っていたのだ……。

三池炭鉱はほかに万田坑や旧三井港倶楽部などの史跡が残っている。
距離があって車でないとなかなか自由に見に行けないが、きっと見事な姿をしているのだろう。
いずれまた、それらを面白がることのできる機会があることを祈ろう。

大牟田駅まで戻ってレンタサイクルを返却すると、JRでさらに先を目指す。
熊本県に入った鹿児島本線は、海沿いから少し内陸へと進んでいき、すぐに玉名駅へと着いてしまう。
ここでいったん下車する。特に玉名市に何かあるというわけではないのだが、直に熊本に入るのはつまらない。
そんなわけで、ちょっと玉名市役所までを往復してみることにした。

玉名駅を出ると、そのまま右の道を進んでいく。古い街道沿いという雰囲気で、住宅が多い。
しばらく歩いていった先に、神社が現れた。玉名に特に有名な神社はなかったと思うが、楼門がなかなか立派だ。
ただものではない雰囲気が漂っている。当然、参拝してみる。繁根木(はねぎ)八幡宮という神社だった。
961(応和元)年に創建され、江戸時代以降に加藤清正や細川家が再興。楼門もその時期のものだという。
西南戦争の際には官軍の本営が置かれたそうで、地元では大きな存在となっているのだろう。

さらに先へと進んでいくと、繁根木川にぶつかった。ここで川に沿って左に曲がると玉名市役所の裏手に出た。
玉名市役所は1959年竣工なので、現役の市庁舎建築としてはかなり古い部類に入る。
デザイン的にはシンプルな鉄筋コンクリート3階建てに、明るい色と波状の屋根とでアクセントをつけている。
すでに玉名市役所は新庁舎の基本設計案がプロポーザルによって選ばれており(山下設計九州支社が当選)、
今の庁舎は近いうちに壊される運命にあると思われる。まあしょうがあるまい。

駅までの帰りは国道208号沿いを歩いていく。こちらはいかにも国道らしい郊外空間となっているが、
それでも土地の規模が大きくないためか、どこか小ぢんまりとしたスケール感なのであった。
駅へと下る坂道の入口にはコンビニやTSUTAYA、マツモトキヨシなどが集まったYOUランド玉名があり、そこで一休み。
ここはもともとバスターミナルがあったらしいが、それがなくなったというのは、あまり好ましくないことに思える。
それにしても、どうも玉名という街をきちんと味わえた気がしない。玉名温泉に入らないとダメなのかもしれない。
そんなモヤモヤを抱えながら駅前のロータリーに戻ると、少し笑える光景があるのに気がついた。
有害図書(要するにエロ本)を入れる白いポストのすぐ先に、パブリックアートとして裸婦像があったのだ。
猥褻と芸術の境界線は難しいのう、表現の自由とは難しいのう、と思わされる光景なのであった。

  
L: 繁根木八幡宮の楼門。二層の楼門というと、同じ熊本県の阿蘇神社を思い出す(→2008.4.29)。すばらしい。
C: 玉名市役所。この姿が見られるのもあとわずかなのか。  R: 玉名駅。蓮華院誕生寺にあるという大梵鐘のオブジェが目立つ。

 有害図書の白いポストと裸婦像。まさか裸婦像をポストに入れるわけにもいくまい。

玉名駅から熊本駅までは30分弱。いちおう午前中のうちに熊本入りすることができた。
熊本駅は九州新幹線の開通によって、ずいぶんと変わっていた。前はただの地方都市の駅だったが、
駅舎の形はそのままで、ずいぶんとあちこち細かいところの規模が大きくなっている。厚みが増した感じ。
とりあえず観光案内所でレンタサイクルについて問い合わせると、JRのみどりの窓口でお願いしてくれ、とのこと。
なんだそりゃと思いつつ、クソ長い行列に並ぶ。しっかり待たされてからようやく自分の番が来て、半信半疑のまま、
レンタサイクルをお願いしますと言う。そしたら切符の紙に印字された電動自転車のチケットを渡された。
新幹線口にJRのレンタカー事務所があるので、そこで手続きをしてくださいとのこと。見事な二度手間、三度手間だ。
しかもJRレンタカーは駅舎から少し離れたちょっとわかりづらい位置にある。到着したときには正直、相当ムカついていた。
「楽チャリ」というJR九州のサービスらしいが、どこが楽やねん!と怒りしか湧いてこなかった。

  
L: 熊本駅白川口。九州新幹線が開通しても、駅舎のファサードじたいはあまり変わっていない(→2008.4.28)。
C: しかし周辺はだいぶ変わった。前はこんなにゴテゴテしていなかったもんなあ。せっかくの駅舎が見えづらい。
R: 熊本駅の駅裏・新幹線口。こっちはいかにも新幹線が通ってまっせって感じ。周りはまだまだ工事中で閑散としている。

とりあえず熊本駅でさっさとメシを食い、慣れない電動自転車で熊本市街へと走り出す。
熊本の中心部がどれだけ駅から遠いかは前回の訪問でイヤというほど知り尽くしているが、さすがに自転車は快調だ。
あっという間に辛島町に到着し、まっすぐ進んで熊本市役所。相変わらず大きな建物だなあ、と思ってみていたら、
「平成24年4月1日 熊本市は『政令指定都市』をめざします!」という横断幕があった。ふーん。

  
L: 単純なデザインのわりにはやっぱり大きい熊本市役所。道路の向かい側から眺めて、デジカメにギリギリ収まる。
C: 熊本城の堀を挟んで眺めてみたところ。熊本市役所は1981年竣工。設計は山下設計。
R: 熊本城の長塀のところから、まっすぐに熊本市役所を見つめてみる。うーん、デカい。以上。

熊本市役所・熊本城を合図に、路面電車の線路と一緒に右折して通町筋を東へと進んでいく。
するとすぐ、左手にDOCOMOMOに選出されているモダニズム建築があるのが見えてくる。
山田守設計のNTT西日本九州病院である(1956年竣工、旧称・熊本逓信病院)。
あれ、びゅく仙は前にも似たような病院に行ってないか?と思った人は鋭い。昨年10月の早朝、
香川県は高松のNTT西日本高松診療所(旧高松逓信病院)を訪れているのだが(→2010.10.11)、
それと同じ設計者による病院建築なのだ(ただし高松の方はDOCOMOMOには選出されていない)。
奥に引っ込んでいたあっちと違い、こっちは交通量の非常に多い道路に面している。
でもやっぱり、どこか非常によく似た匂いがするのである。面白いものだと思う。

  
L: NTT西日本九州病院(旧熊本逓信病院)。面している産業道路はものすごく交通量が多く、どうしても車がジャマになる。
C: 正面から撮影しようとすると、植えられている木々が建物を遮るのであった。なかなかうまくいかないなあ……。
R: この角度がいちばん締まって見えるかな。端整なモダニズムを上品に曲げることで、独自の美しさが実現されている。

撮影を終えると病院の向かいにあるダイエーで2リットルのスポーツドリンクを購入する。
今日は本当に日差しが鋭くって暑くてたまらないが、これで水分補給についてはバッチリである。

そこからさらに東に進んで、やってきたのは水前寺成趣園(じょうじゅえん)。もともと細川家の庭園だったのを、
公園として整備した場所である。入園料の400円を払って中に入ると、さっそく見事な光景が目の前に広がる。

まず目立っているのが富士山を模した築山。実は富士山だけでなく、東海道五十三次の景勝も模しているそうだ。
成趣園の歴史は熊本藩主・細川忠利(忠興の子で藤孝の孫)が1636(寛永13)年頃築いた水前寺御茶屋に始まる。
明治に入ると西南戦争で荒廃したそうだが、代々の細川家藩主を祀る出水(いずみ)神社が創建されて復活したという。
敷地を一周してみるが、大名庭園にしてはなかなか広いように思う。芝で覆われた起伏の造形も大胆で独創的だ。

  
L: 九州で初めての電話ボックスを復元したものが置いてあった。実際に公衆電話として使える。
C: 細川家の歴代藩主を祀る出水神社が中にある。この神社に参拝するためには、入園料を払わなければいけないってことか?
R: 富士山を模している築山。成趣園内では圧倒的な存在感がある。富士山は日本庭園では重要なモチーフなんだな。

  
L,C: 成趣園内の様子。  R: 古今伝授の間。細川藤孝(幽斎)が八条宮智仁親王に古今和歌集の奥義を伝授した建物。

水前寺まで来たら熊本県庁に寄ってみるしかない。でもその前に、公共建築百選物件を訪問するのだ。
熊本県庁のすぐ手前にある、熊本市水道局庁舎だ。村野藤吾の設計により、1963年に竣工。
公共建築百選というと金のかかった大きめのハコモノというイメージしかないので、これは意外だった。
ぱっと見ただけだと単なるモダニズム庁舎建築にすぎないのだが、近づいてみると確かに一味違う。
ベランダの柵が斜めの格子となっており、これはほかのモダニズム建築では見たことがない。なるほど、と思う。
また1階の地面は砂利が敷き詰められた枯山水となっている。かつては池だったというが、それはさぞ強烈だったろう。

  
L: 熊本市水道局庁舎。村野の作品のわりには、派手さはまったくない。でも近くで見ると上品な工夫が満載。
C: かつては建物の周りは枯山水ではなく池になっており、鯉が泳いでいたそうだ。そりゃまた大胆な話だ。
R: 裏手を眺める。この建物の機能的な面が強調されている感じがする。

続いて熊本県庁にも行ってみる。やっぱりムダに緑が多くて、建物の様子を把握しづらいのであった(→2008.4.28)。
熊本県庁舎はずいぶんと現代風のファサードをしているが、建てられたのは1967年とけっこう時間が経っている。
建てられた当初はどんな姿をしていたのか、今とあまり変わっていないのか、気になるところである。
『都道府県庁舎』(→2007.11.21)の写真を見る限りでは、大きな変化はなさそうなのだが、はてさて。

  
L: 熊本県庁舎と爆発的な勢いで植わっている緑。  C: うおー県庁がまったく見えねー!
R: 中庭から見た熊本県庁舎。竣工当初といちばん大きく異なっているのは緑の育ち方かもしれないな、と思う。

熊本県庁との再会を終えると、さらに東へと進んで江津湖(えづこ)公園まで走る。
江津湖はもともと川だったのが広がって湖になったもので、上江津湖と下江津湖に分けられるらしい。
でもその辺を詳しく区別している地図がなかったので、よくわからないまま訪れてよくわからないまま撮影。
江津湖の周辺は「水前寺江津湖公園」となっているのだが、どこからどこまでがその公園なのかもよくわからない。
まあとりあえず、実際に公園らしき場所を訪れて雰囲気はつかめたのでヨシとしよう。

  
L: 水前寺江津湖公園。家族連れを中心にかなり賑わっていた。貸しボートも数がけっこうあった。
C: 江津湖は湧水が豊富らしく、自然の姿をよく残しているようだ。超貴重なスイゼンジノリも育っているらしい。
R: ランニングコースにはザリガニの絵が。ザリガニは爆釣(ばくちょー)らしく、子どもたちがみんな必死で捕まえていた。

 こんな大きい野生の鳥の姿もあったよ。

江津湖がだいたいこんなもんだ、とわかったので、今度は熊本市街の北側へと移動する。
目指すは熊本大学なのだが、きちんとルートを確認しないまま気分で走ってしまったので、
大胆にも途中で方角を勘違いしてしまう。おかしいなと思って地図で確認しながら進んでいったのだが、
県立劇場周辺で右往左往。最終的には無事に子飼橋を渡って熊本大学黒髪キャンパスに着けた。
いかにも学生っぽい皆さんが自転車で行き来していることで正しいルートだと確認。よかったよかった。

さて熊本大学といえば、旧制五高を母体として設立された大学である。
旧制五高といえば、夏目漱石や小泉八雲が英語を教えた学校だ。でも旧帝国大学ではない。ちょっと微妙だ。
しかしナンバースクールらしく、正門には赤レンガの校門がそのまま今も残っている(重要文化財)。
門をくぐると左手に生協の入っている学生会館。「東光会館」ともいうらしい。モダニズムの造形が面白い。
そこから素直に奥へと進んでいくと、これまた赤レンガの五高記念館が現れる。緑に包まれ、レンガの赤が一層映える。
熊本大学の中は、ただの地方国立大学ではなく、きちんと歴史のある大学らしい空間となっていた。

  
L: 熊本大学正門。旧制五高ということでナンバースクールの貫禄十分な赤レンガっぷりである。
C: 熊本大学学生会館(東光会館・サークル棟)。中では学生たちが元気に活動中なのであった。
R: 五高記念館。かつてはこの建物が旧制五高の本館だったのだ。中はかなり充実した博物館となっている。

さっそく五高記念館の中に入ってみる。豊富な資料をもとに、かつての学生たちの生活ぶりが紹介されているが、
その展示ひとつひとつに名門校らしい矜持が垣間見える。正直、今の熊本大学との間に大きな断絶を感じるほどだ。
OBの名前が一覧になっていて、最初が池田勇人、次が佐藤栄作。池田勇人は広島出身、佐藤栄作は山口出身だ。
つまり中国・九州のエリートたちがこの熊本に集まって学んでいたわけだ。五高の凄さがよくわかる。
かつての五高の教室を再現した部屋があり、英語で数式が書かれていた。こんなん本当にやってたの!?と驚く。
もしそうだとすると……うーん、当時の教育ってのはとんでもなく意欲的だったんだなあ、と呆れるしかない。

  
L: 往時の授業風景を再現している部屋。数学を英語でやるなんて、もうオレついていけんわそんなの、と尻込み。
C: 黒髪キャンパス南地区にある旧化学実験場。博物館的展示をしているはずだが、なぜか中に入ることはできなかった。
R: というわけで、腹いせに建物の中を撮影。理系の施設ということで、さまざまな機械が置いてあり面白そうだった。

あとはやっぱり、あらためて熊本城に行かないとダメだよな、ということで一気に南下。
途中で藤崎八旛宮にお参りしたり(前回のログでは写真を用意していなかったのね →2008.4.28)、
くまもとアートポリスでつくったと思しき警察署に出くわしたり、やはり熊本は油断のならない街なのであった。
(くまもとアートポリス……細川護煕知事が始めた事業で、コミッショナーによって公共建築の設計者が決められる。)
で、ふつうに須戸口門から熊本城に入るのもつまんないかなあと思って熊本大神宮方面から坂を上っていったら、
熊本県立美術館の分館を発見。そこからさらに進もうとしたのだが、坂が面倒臭くって、あきらめて須戸口門に戻った。

  
L: 藤崎八旛宮。  C: 熊本北警察署。1990年竣工。設計は東工大百年記念館でおなじみの篠原一男だった。
R: 熊本県立美術館分館。スペインの建築家が熊本城の石垣との調和を意識して設計したそうな。天草の自然石を使用。

というわけで、あらためて熊本城の中に入る。以前訪れたときは特にそういう工夫はなかった気がするのだが、
順路が石垣コースと櫓コースに分かれていた。前回は思う存分に石垣を堪能したので、今回は櫓でいってみることにした。
熊本城は天守こそ再建だが、10の櫓が現存しておりそれぞれ重要文化財の指定を受けているのだ。

  
L: 相変わらず見事な石垣っぷりの熊本城。この美しさは完全に別格。思わず惚れ惚れしてしまう。
C: 内側から見た不開門。開いてるけど。  R: やっぱり熊本城の石垣はいいですなー。

櫓コースは不開門方面にまわって櫓をあれこれ見てまわる構成になっていたのだが、
やっぱり僕は櫓よりも石垣のほうに気を取られてしまうのであった。素直に石垣コースにしときゃよかったかな。
時間もそれほど余裕がなかったし、今回は天守には上らないで撮影だけで済ませる。
やはり観光客の皆さんは、外国語の比率が高い。熊本城もわかりやすくフォトジェニックだからなあ。

 
L: 本丸に出る手前のところ。どっちを向いても石垣だらけで見事なものです。石垣マニアは卒倒するだろうな。
R: 熊本城の大天守と小天守。観光客は日本人かと思うと外国語だったり、外国人だと思うと日本語だったり。

そういえば前回は本丸御殿が復元オープンしたばかりで、大混雑で入れなかった。
あれから3年経って客の入りはかなり落ち着いている。こちらの中には迷うことなく入る。
さすがに復元したばかりということで、どこもかしこもきれい。襖絵も色鮮やかである。
基本的に僕は古い建物が好きで、復元されたものについては「リニューアルがきつい」と厳しめの評価をすることが多い。
しかしこの熊本城の本丸御殿の中を歩いていると、復元でピカピカなのも、それはそれでいい気がしてきた。
だって、できあがった当初の豪華絢爛さがそのまま再現されているわけだから。
歴史というものを、ある意味コンテンポラリーな価値観で再確認していることになるわけだ。
そういう観点に立ってみた場合、熊本城の本丸御殿はかなり楽しめる場所であると思う。充実している。

  
L: 大広間。60畳の鶴之間から、梅之間・櫻之間・桐之間・若松之間へと続く。さすがにこれは圧巻。
C: 各部屋には襖絵が再現されている。ま、まぶしい!  R: 最も格式の高い昭君之間。画題はもちろん王昭君。

熊本城の天守は国体を機に鉄筋コンクリートで再建されたものだが、すぐ近くには本物の木造の櫓がある。宇土櫓だ。
宇土櫓の高さは約19mということで、これは姫路城・松本城・松江城の各天守に次いで4番目の高さだという。
現存天守の中には御三階櫓を天守ということにしている例もあるわけで(弘前 →2008.9.14、丸亀 →2010.10.11)、
それを考えるとこの櫓の持っている価値は非常に大きい。こりゃもう、中に入ってみるしかないだろう。
長い廊下を歩いていくと、いよいよ宇土櫓本体の中へと入る。本物だけあり、階段が急だ。そのリアリティがたまらない。
最上階から窓の外を眺めると、大小の天守をだいたい同じ高さでほぼ横から見る格好になり、それが新鮮。
反対の西側には広大な熊本城公園の向こうに折り重なる山々が見える。優雅な景色だなあ、と思う。

  
L: 宇土櫓。かつては小西行長の宇土城の天守をもってきた、という説もあったようだが、どうやら違うらしい。
C: 宇土櫓のてっぺんから眺める大天守と小天守。熊本城ってのは壮大な城だったんだなあ、と呆れるばかりだ。
R: 熊本市役所に面する長塀を撮影。本当に見事な長さだ。芝生に寝転がっている人がいる。あ、それいいなあ。

宇土櫓から戻るルートを間違えて、頬当御門側に出てしまった。レンタサイクルは須戸口門に置いてあったので、
取りに戻るのによけいな時間がかかってしまった。急いで熊本駅まで戻って返却する。
電動自転車というものに慣れはじめたところで返却ということで、なんとも複雑な気分になったわ。

いったん本日の宿に行き、チェックインして荷物を部屋に置くと、熊本駅からあらためて路面電車に乗る。
目指すは辛島町の電停だ。ここから熊本のアーケード商店街・サンロードに入り、そのまま下通へ。
サンロードも下通も相変わらずの幅の広さで、やはりしっかりと賑わっている。歩くだけで楽しくなってくる。

まだちょっと晩メシには早い気分だが、この後のこともあるので、午後6時になったことだし、食べてしまうことにする。
本日のディナーは熊本名物としてジワジワ知名度を上げている、太平燕(タイピーエン)である。
一言でまとめてしまうと「春雨を使ったちゃんぽん」ということで片付いてしまうのだが、
実際に食ってみないことにはわからないのだ。というわけで、下通にある太平燕の有名店に入ってみる。
かなり本格的でオシャレな中華料理店だったので、ブサイク軍が独りで店に入るのは正直気が引けた。
でも結局、好奇心のほうが勝ったのだ。迷うことなく大盛を注文。程なくして本当に大盛の量が出てきた。
麺としてスープにからめて春雨を食べるのは、よく考えたら初めてだ。コシがあるので少し違和感をおぼえる。
しかし具材が豊富なこともあって、食べる楽しみを存分に味わうことができる逸品だった。
汗びっしょりになりながらも、大いに満足させてもらった。一緒に出てきた烏龍茶もめちゃくちゃうまかった。

満腹になって下通に戻ると、そのまま進んで上通の入口へ。ここにある「びぶれす熊日会館」の中に、
熊本市現代美術館が入っているのだ。夜8時まで開いているという、まことにすばらしい施設なのである。
くまもとアートポリスもそうなのだが、熊本は美術・建築などのアート方面に対する関心が非常に強い街だ。
市街地のど真ん中に現代美術をメインにした美術館をビルのテナントとして入れるセンスは、
かなりレヴェルが高いと思うのである。極めてカジュアルに、アートを都市の要素としてうまく取り入れている。

エスカレーターで3階に上がり、熊本市現代美術館の中へ。フロアの真ん中にはソファがいくつも置いてあり、
その周囲の壁は一面、アート関連の本を中心とした本棚となっている(マンガもけっこうあった)。
奥にはピアノがあって、BGMとして生演奏がなされている。イヤミなくらいにハイソな雰囲気である。
とりあえず、有料の企画展を見てみる。1000円払ってチケットをもらい、ギャラリーの中に入る。
「ファッション―時代を着る」という展示で、19世紀末のロココっぽいドレスからスタート。次いでジャポニズム。
その後は落ち着いているが確かに洗練されているイヴニングドレスなどが展示されている。
ファッションの「王道」を過去から未来へたどる内容になっているそうで、なるほど、
ココ=シャネル、クリスチャン=ディオール、イヴ=サンローラン、ピエール=カルダンなど、
オレでも知っている有名な名前がチラホラ。でもブランドではなく、彼らの作品それ自体を見るのは初めてだ。
ファッションもきちんと追いかけていけば本当にキリがないわけで、展示はいたって総花的。
しかし20世紀中盤くらいまでの展示は本当に優れたものが選りすぐられているので、めちゃくちゃ面白い(⇒こちら参照)。
特にイヴ=サンローランのサファリ・スーツの格好良さったらない。あれにはもう、本当にしびれた。舐めるように見たね。
で、前もそうだったんだけど(→2007.8.11)、現在に近づくにつれて展示されている作品は陳腐になり、面白くなくなる。
やっぱりコム・デ・ギャルソンはすごいんだけど、あとはどうでもいいものばかり(山本耀司も好きじゃない)。
僕は自他ともに認めるファッションがまったくわからない、興味も湧かないブサイク人間なのだが、
それは現在の流行が気に食わないからじゃないかと思った。古典になってしまったかつての作品は面白くってたまらない。
だから美術館でやるファッションの展示は基本的にものすごく楽しめるのだが、いざ今の自分の着る物はというと、
特にこだわる気がなくなってしまう。この落差はなんなんだろう、と自分でも思うのだが、これが埋まらない。
(潤平はそんな僕の考え方を客観的に的確に評することができるんだろうけど、自分自身でそれはできないんだよね。)
まあとにかく、閉館時間いっぱいまで、思う存分楽しませてもらった。本当にウキウキさせてもらった。大満足だ。

帰りは当然、フラフラと下通を歩いていったのだが、妙に暗い。夜8時を過ぎてしまったせいなのかもしれないが、
それにしても妙に明かりが少ないのである。まるで東京みたいだ、ということで、ああ節電なのか、と思い当たる。
九州電力はかなり電力に余裕があるから節電する必要はないはずなのだが、明かりを落としているということはつまり、
節電ムードの全国的な広がり、そして震災に対する哀悼の意の表現ということなのだろう。たぶん。
今年の僕たちは本当に多くのものを失いすぎた。遠い九州の地で、あらためてそのことを考えさせられた。

  
L: 夕方6時ごろの下通。相変わらずの賑わいである。熊本の活力は地方都市の中でも特別なものがある。
C: 太平燕。「春雨を使ったちゃんぽん」と言ってしまうと身も蓋もないのだが、でもまあおいしいからいいや。
R: 夜8時過ぎの下通。人通りは十分あるのに、明かりが少なくなっている。九州も節電ムードということか。

さて前回の熊本訪問ではスルーしていたキャサリン's BARだが、店の前まではいちおう行ってみた。
しかしながら酒を飲まない僕にとって、独りで入るにはちょっと敷居の高さを感じさせる雰囲気なのであった。

 しっかり繁盛していたよ。

そんなこんなで歩きまわって満足すると、路面電車で熊本駅まで戻る。
やはり熊本の街は、ほかの九州の街よりも一段と都会であると思う(とはいえさすがに福岡は別格ね)。
その熊本の都会としての面は、きっと旅行というレヴェルではきちんと味わえるものではないのではないか。
(それを端的に示す一例は、ナンバースクールである旧制五高が熊本に置かれたことだ。)
きっとこの街は、暮らしてみないと見えてこない面がほかの街より深くあるんじゃないか、そう思えた。


2011.8.7 (Sun.)

5時に起き、5時半にいったん宿を出る。せっかく鳥栖から戻ってきて佐賀に泊まったわけだから、
佐賀県庁や佐賀市役所を見ておこうというわけだ。佐賀県庁の近くには佐賀県立博物館があり、
これがDOCOMOMO100選に入っている。それも見ておきたい。まあそれらを目的に佐賀に泊まった面もある。
県庁つまり佐賀城址は、佐賀駅からぐっと南下したところにあるのは前回訪問でしっかりとわかっている(→2008.4.26)。
佐賀は歩行者ではなく車が通過するための街なので、実際に歩くと地図よりもずっと距離を感じることになるのだ。
そういう経緯もあっての5時起きなのである。弱々しい光に包まれた、まだひと気のない街をのんびりと歩いていく。

昨日の夜は佐賀駅の構内にも、佐賀駅へと向かう人の流れにも、浴衣姿のねえちゃんが多数いた。
お祭りだか花火大会だかがあったようで、一夜明けても祭りの後の雑然とした雰囲気がしっかり残っている。
中央大通りには無数の店が駅から県庁までずっと並んでいるのだが、ところどころにオープンスペースがある。
そのオープンスペースを中心に、祭りがあった匂いが朝の白っぽい街へと広がっている。

遠いとわかっていたのだが、あらためて訪れる佐賀県庁・佐賀城址は本当に遠かった。
まっすぐ一本の道だが、しっかりと歩かされた。堀を渡ってまずは県庁から撮影する。
なるべく前回とは異なるアングルで、ということでカメラを構えるが、さすがに朝早すぎて光が弱い。
どうも新しいデジカメは光の量によって仕上がりが大きく変わってしまう傾向がある。まだまだ慣れない。

  
L: 佐賀県庁本館を正面より撮影。1950年竣工だが、ガチガチにリニューアルされており、むしろ新しい建物という印象だ。
C: 接近して撮影。  R: 新行政棟。こちらは1991年竣工。もともとはここに佐賀県警本部があったそうだ。

続いてはDOCOMOMO物件である佐賀県立博物館である。高橋靗一率いる第一工房と内田祥哉の作品。
1969年の竣工で、かなり大胆なピロティ建築である。正直、デザインとして優れているとは思えない。
建築家のエゴとまでは言わないけど、ここまでできるよ、という当時のテクニックを見せつけるだけの作品という印象で、
果たしてここを訪れる一般人がどれだけ興奮できるのか疑問である。顔のない塊みたいだ。

  
L: 佐賀県立博物館。  C: 近づいて、角度を変えて撮影。  R: さらに脇にそれて撮影。十字型に張り出しているというわけ。

ついでといっては失礼だが、佐賀城址もちょこっと撮影。前回訪問で中に入っているので、
今回は外側から前回の足りない分を補足する感じで3枚ほど出してみる。

  
L: 佐賀城・鯱の門の後ろ向きの角度から。  C: 鯱の門に残る、佐賀の乱のときの弾痕。  R: 本丸。佐賀城本丸歴史館がある。

佐賀城址の近辺には、まだまだ面白い建物が多くある。まずは佐賀城本丸にほど近い、さがレトロ館。
1887年竣工の旧佐賀県警察部庁舎を改装したのだが、さすがにリニューアル具合が強い。木造だからしょうがないけど。
そして佐賀県立図書館。1962年の竣工で、設計したのはさっきの県立博物館と同じで第一工房と内田祥哉。
こちらは対照的に純粋なモダニズム庁舎建築で、まるでどこかの市役所といった感じである。

 
L: さがレトロ館。レストランや佐賀県産の食品を扱う店として利用されている。佐賀最古の木造建築だが、その風情はないなあ。
R: 佐賀県立図書館。堅実なこの建物から大胆な県立博物館へ至る過程が、高度経済成長ってことなんだと思う。

さて全国的にはそれほど有名な存在ではないと思われるが、現地に行ったらインパクトNo.1の建物を紹介しよう。
それは、「市村記念体育館」である。市村さんとはリコーの社長だった人で、私財を投じて地元に体育館をつくったのだ。
坂倉準三の設計で1963年に竣工。コンクリートという素材を自由に造形する喜びにあふれていた時代の産物で、
これだけ思い切ったデザインの建物は本当に珍しいと思う。丹下健三の国立代々木競技場に感触は近い。
しかし代々木の方は1964年の東京オリンピックに合わせて竣工したわけだから、こっちの方が古いわけだ。
こういう造形を思いつくってのはすげえな!とウキウキしながら撮影した。側面が木でわかりづらいのはけっこう残念。
まあはっきり言って、何ひとつ面白くない佐賀県立博物館よりも、はるかにこちらの方がDOCOMOMOにふさわしい。
この建築はもっと評価されるべきだと思う。皆さん、もし将来たまたま佐賀を訪れちゃったらぜひ見に行ってください。

  
L: 市村記念体育館を正面より撮影。僕はこのトゲトゲっぷりに自由の女神の頭部を思い出してしまった。
C: 角度をちょこっと変えて正面を眺める。屋根は大きく湾曲していて、真ん中は低く端っこは高く、きれいなカーヴとなっている。
R: 裏側はこんな感じ。木に囲まれており、全体像がつかみづらくなっているのが実に残念である。

 市村さんです。

そこから堀を越えると鍋島家の皆さんを祀る佐嘉神社、さらに鍋島家の博物館である徴古館がある。
鍋島パワーはすごいのう、などと思いつつ佐嘉神社を参拝。徴古館はさすがにきれいにしてあったなあ。

 
L: 佐嘉神社。明治に入ってつくられたので、神社としての歴史は古くない。  R: 徴古館。かなりきれいにしてある。

いったん宿に戻ってチェックアウトを済ませると、最後に寄るのは佐賀市役所だ。
それほど古い印象はないが、佐藤武夫設計事務所(現・佐藤総合計画)の設計で1975年に竣工。

  
L,C,R: 佐賀市役所の正面(西側)を南から北へと歩いていく。

とりあえずこれで佐賀の早朝建築めぐりは終了。いよいよ九州一周の再開である。

 九州一周大作戦 2/8 佐賀→神埼・吉野ヶ里→久留米→日田

昨日、ベアスタで鳥栖×草津の試合を観戦したわけで、そのまま久留米あたりに泊まるのがふつうの感覚なんだろうが、
そうしなかったのは早朝佐賀めぐりをやりたかったのと、吉野ヶ里歴史公園に行ってみたかったからだ。
で、その吉野ヶ里歴史公園は、困ったことに神埼駅と吉野ヶ里公園駅のちょうど中間地点にあるのだ。
いろいろ考えた末に出た結論は、「神埼は市になったから、市役所に寄ってみよう。吉野ヶ里歴史公園には、
やっぱり吉野ヶ里公園駅から行くべきなんじゃないか」というまことに贅沢なものなのであった。
まあつまり、公園のオープンは9時なのでそれまでの時間は自由に使える。なら神埼市役所に行けるじゃん、ということ。

神埼駅は妙に派手なつくりをしていて驚いた。そのまままっすぐ街道に出ると、市役所へ向けて歩いていく。
神埼市役所は、さすがに市町村の「町」レヴェルの庁舎がそのまま市役所に昇格したので、規模は大きくない。
でもしっかりと正面に駐車場ではなくオープンスペースをとり、建物の前には花壇をつくっている。
車止めを持っている旧来のスタイルがしっかりと守られている市役所で、小ぢんまりとしているのがかえっていい。

  
L: 神埼駅。高床式倉庫をイメージした橋上駅舎だそうだが、それはずいぶんと飛躍があるように思える。
C: 神埼市役所。  R: 敷地内には吉野ヶ里遺跡を思わせる木造の櫓がどーんと建っているのだ。

時間に余裕があったので、市役所の隣にある神社にもお邪魔してみる。僕はまったくノーマークで訪れたのだが、
ここは櫛田宮といい、「神埼」という地名のもとになった歴史ある神社なのであった。無知とはいかんなあ。
この土地は歴史的にさまざまな不幸に見舞われていたのだが、景行天皇がこの神社がつくったことで不幸は収まった。
「神埼」という地名には、そんな櫛田宮への誇りが込められているのである。いやあ、訪れて本当によかった。

  
L: 境内にある石造肥前鳥居。1602(慶長7)年建立とのこと。  C: 1779(安永8)年に鍋島家により建てられた拝殿。
R: 近くにある福成歯科医院。1914年に古賀銀行神埼支店として建てられた。大正モダンの香りが見事ですな。

お隣の吉野ヶ里公園駅でまた下車。神埼駅北口には吉野ヶ里歴史公園へのレンタサイクルがあったのだが、
吉野ヶ里公園駅にはない。それで長い道のりをトボトボ歩くことになる。これはしまったかも、と思う。
ところがこの日は8月の第一土曜日ということで、「軽トラ市」というものが開催されていた(月1回開催している)。
「軽トラ市」とは地元の皆さんが軽トラにさまざまな商品を乗せて集まり開催される市場のことで、
2005年に岩手県雫石町で始まり、今では全国各地で開催されているそうなのだ。
吉野ヶ里の場合には、弥生人の髪型をしたトラの「ゆめきち」「ゆめこ」というキャラクターがおり、
着ぐるみにテーマ曲までつくられて軽トラ市は大賑わいだった。吉野ヶ里公園までずっとテントが続いていたもんなあ。

 
L: 吉野ヶ里公園駅。  R: 軽トラ市の様子。地元の農産物、B級グルメ、クラフト、もうなんでもアリで大賑わい。

ふだんならムリヤリに弥生時代に思いを馳せて長い道のりを歩く破目になったのだろうが、
運よく賑やかな雰囲気を楽しむことができた。地味だという扱いを受けてばかりの佐賀だが、底力があるなあ。

国営吉野ヶ里歴史公園の入口に到着。400円の料金を払って中に入るが、思いっきりデジャヴを感じる。
この手の国営の公園に入るのは、埼玉の森林公園(→2010.4.10)、福岡の海の中道(→2011.3.26)に続いて3回目。
それらのどこも、見事に似たような感触がするのである。吉野ヶ里では自転車は使えないので、そこはちょっと違う。
遺跡をもとにした部分は確かに吉野ヶ里オリジナルなのだが、それ以外にも芝生広場やアスレチックが併設されており、
遺跡以外の部分のやり口は、完全に他の国営公園と同じ手法となっている。呆れるほどのワンパターンぶりだった。
周りは家族連ればかりでちょっと恥ずかしかったが、そこは下見に来た教員気分で乗り切る。実際、地歴の免許あるし。

  
L: 吉野ヶ里歴史公園の入口。  C: ゲートを抜けると案内所。かなり弥生テイストを意識している。
R: いよいよ本格的に公園内に入る。それにしても強烈な炎天下。弥生時代もそうだったのか、日陰がほとんどない。

さて、吉野ヶ里遺跡がいちばん盛り上がっていたのは、僕が小学生くらいの頃のことだ。
工場団地を造成しようと調査を進めたところ、1989年に大規模な遺跡であることが判明して全国的なブームとなった。
その後、国営公園として整備されることになり、2001年にオープンしてから以降も少しずつ整備が進んでいる。
吉野ヶ里歴史公園は遺跡としての特徴を残しつつ、積極的に建物を復元して弥生時代の雰囲気づくりをしている。

  
L: まずは王が暮らしていたという南内郭から。  C: 柵の内部はこんな感じ。構成はちょっとアフリカやアマゾンの集落っぽい印象だ。
R: 「大人(たいじん、支配者層のこと)」の家。典型的な竪穴式住居だ。こういった家が弧を描くように並んでいる。

南内郭の空間構成は、いかにも「未開」社会の集落といった印象がする。オープンスペースをたっぷりとって、
それを囲むようにして物見櫓と住居が点在している。これが人間という生物が本来持っている空間の感覚なのかなと思う。

 人形が置いてある竪穴式住居も。モンゴルのテント生活空間に似ているかも。

すぐ近くにある展示室は、博物館的な内容がなかなか充実。特に、巨大な弥生式土器が並んでいるのは壮観だった。
さらに祭祀の空間である北内郭へ。こちらは環濠に柵をめぐらせただけの南内郭と比べると、かなり厳重なつくり。
入口を狭くくねらせて防御力を高めるなど、生活空間というよりも戦闘を意識した城郭っぽい特徴が読み取れる。
(実際、吉野ヶ里遺跡は日本100名城のひとつに数えられているのだ。まあ確かに、城の最も原始的な姿ではある。)
二重の環濠の中には周囲と比べてかなり巨大な3階建ての主祭殿がどっしり構え、櫓や倉庫などが並ぶ。
復元による空間の再現はつくられたフィクションであるとはいえ、やはり実際のスケールで雰囲気を味わえるので、
素直にその気になってしまえば印象的な体験としてよりはっきりと記憶することができる。なかなか勉強になった。

 
L: 北内郭の主祭殿。  R: 3階の様子。祖先の霊のお告げを聞いているところだそうだ。

いちばん奥にあるのが北墳丘墓。おそらく、吉野ヶ里歴史公園のハイライトと言える存在である。
ここには歴代の王が埋葬されているのだが、かっちりと四角形に造られており、いかにも人工的。
労力をかけて人工的に大規模な墓をつくることが権力の誇示につながるのは人類の基本なんだなあ、
なんてことを考えながら裏側に回ると、打ちっ放しコンクリートにガラスの自動ドアが埋め込まれていて驚愕。
こ……これはなんだ?と、おそるおそる中に入ると、バリバリに空調が効いている。完全に21世紀じゃないか。
と思ったら、すぐ目の前には本物の遺跡がそのまま露出している。置かれている甕棺も本物だ。
リアルとフィクションがこれだけ大胆に交差していると、もうそれだけで面白い。これは度肝を抜かれたわ。

しっかりと北墳丘墓を観察した後は、倉と市が並ぶ場所や南のムラを抜けて入口まで戻る。
まだ朝の10時になるかならないかぐらいの時間帯なのに日差しはキツく、かなりの脱水具合でフラフラになってしまった。
公園から出て、まだまだ元気な軽トラ市を抜けて吉野ヶ里公園駅へ戻る。自販機で500mlのジュースを買ったのだが、
一気に飲み干してしまった。脱水状態になるとソフトのコンタクトレンズが目に貼り付いてきて、つらかったなあ。

  
L: 北墳丘墓の外観。ピラミッドも古墳も、労力をかけて威容を生み出すことで権力を誇示する原理は同じなのである。
C: 北墳丘墓の内部。真ん中にドカンと遺跡があり、それをぐるっと一周しながら見る。これは建築学的に面白い状態だと思う。
R: 倉と市のエリアにあった、ねずみ返しでおなじみの高床式倉庫。復元とはいえ、現物ならではの迫力はある。

水分を補給して元気になると、今度は寄り道することなく鳥栖へ。ベアスタは昨日の試合がウソのように静かだ。
鹿児島本線に乗り換えて2駅、久留米へ。3月に訪れたばかりなので(→2011.3.27)、すごく身近に感じる。
九州新幹線の高架と一緒に平野を抜けて、筑後川を渡って、そうして久留米に入るんだよなあ……なんて思っていたら、
目の前に現れた光景に驚愕した。なんと、筑後川の向こうにあるアサヒコーポレーションの工場に、色が塗られている!
3月にはこの古い設備が歴史を感じさせる壁になっていていいなあ、なんて思っていたのに、
これが見事に黒と茶色で塗り込められて、風情も何もあったもんじゃない! いや、確かにきれいにはなったのだ。
でも、これはいくらなんでも無神経な処置ではあるまいか。ひどく落胆しての久留米入りとなってしまった。

さて久留米では1時間ほどの余裕をとってある。レンタサイクルを借りて一宮参拝と昼食をしよう、と考えたのだ。
しかし観光案内所に行ってみると、レンタサイクルはぜんぶ出ちゃってます、とのこと。プランが見事に狂った。
久留米駅から行こうとしていた一宮は道は簡単なので、こうなりゃ走って行くか!と開き直る。
しかし駅を出て北にまわり込み、長門石橋の真ん中まで来たあたりで、これは無謀かなあ……とやっと冷静になった。
なんせ道はまっすぐなので、諦めるのは惜しい。惜しいけど、やっぱりレンタサイクルを使わないと無理そうだ。
そんなことを考えている僕の目に、バス停が映った。時刻表を確認すると、あと5分ほどで来るようだ。
念のために道路をムリヤリ横断して、逆方向の時刻表も確認する。……いけそうだ。
というわけで、運よくバスに拾われて、無事に一宮を参拝できることになった。よかったよかった。

  
L: 黒と茶色ですっかり塗りたくられてしまったアサヒの工場。いくらなんでもこれは無神経だと思うなあ。
C: JRの久留米駅。3月にも訪れたが、とりあえず駅の出入口をアップで。妙にいろいろ新しいと思ったら、去年竣工だった。
R: タイヤ。近くで見ると本当にデカい。さすがはブリヂストン。直径4m、重さ5tで、建設・鉱山車両用だそうだ。

さて、そんなこんなで到着した肥前国の一宮だが、「千栗八幡宮」という。これ、初心者にはまず読めない。
「栗」を「りく」と読むのだ。「ちりくはちまんぐう」と読む。これは逆さに植わった千個の栗から木が一夜のうちに生えていた、
という神社創建の伝説による。栗が逆さだったので、「くり」を「りく」としたそうだ。なんとも珍しいパターンである。
お粥に生えたカビで占いをする祭りもあるそうで(地震を予知したこともあるそうだ)、ずいぶんと個性派な神社だ。

まずは鍋島勝茂が1609年に奉納したという石の鳥居がある。その先にはなかなか急な石段が続いている。
この石段ではかつて、バルセロナ五輪の柔道で金メダリストになった古賀稔彦が足腰を鍛えていたという。
時間に余裕がなかったので、期せずして僕も一往復分だけ足腰を鍛える破目になったが、強烈でございました。
石段を上りきったところには鳥居と茅の輪、そして社殿がある。規模はまったく大きくなく、一宮のわりにはどこか地味だ。

  
L: 千栗八幡宮の入口。周囲は平地で、ここから崖を一気に石段で上る感じの空間構成なのだ。
C: 石段を上りきったところにある鳥居の茅の輪。  R: 社殿。しかしカビで占いをするとは……世の中いろいろあるなあ。

摂社・末社が並ぶ境内のいちばん端っこは展望台になっており、久留米駅方面が見事に一望できる。
石段をがんばって上ることで得た位置エネルギーが、景色という成果となって目の前に現れるのは爽快である。
涼しい風が崖を上って吹き付けてくるのもいい。しばらくじっと景色を眺めて贅沢な時間を過ごすのであった。

さて九州一周となるとコースからははずれてしまうのだが、九州に来たからには訪れておきたい街がある。日田である。
というわけで、本日は久留米から日田まで往復しておしまい。まあ日田にはそれだけ十分な価値があるでしょう。
日田は筑紫平野から一山越えた盆地、久留米と大分を結ぶ久大本線でいえば中ほどからやや西に位置している。
久大「本線」のくせにワンマンの車両に揺られること1時間ちょっとで到着。改札を抜けるとさっそく観光案内所へ。
レンタサイクルを借りると駅からまっすぐ伸びる道を行く。街路樹が大きく育って落ち着いた風情の道だ。

日田には観光の目玉といえる場所が2箇所ある。駅から北へ1.5kmほど行ったところにある豆田町(まめだまち)と、
駅から南へ進んでいったところにある隈町だ。日田駅は南口しかないので、まっすぐ行けば隈町に出ることになる。
隈町は三隈川沿いに温泉旅館が並んでおり、そこが中心となっている。自転車でざっと走った印象としては、
この隈町の温泉街に旅館を押さえておいて豆田町観光に出るのが一般的なパターンなんだろうな、といったところ。
隈町の街並みじたいにはそれほど強烈な魅力があるようには思えなかった。僕が見逃しているだけかもしれないが。

  
L: 日田駅。そういえばかつてえんだうさんは日田に住んでいたことがあると言っていたっけなあ。
C: 黎明館。1916(大正5)年築の大分銀行日田支店を改修し、「ひた押し花美術館」として利用している。
R: 日田祇園山鉾会館。向かいにある八坂神社の祭りである日田祇園祭の山鉾を展示する施設。提灯がいいな。

隈町が思ったよりもおとなしい印象だったので、それほど期待しないで日田祇園山鉾会館の中に入る。
そしたらこれがもう、すげえのなんの! 豪華絢爛な山鉾が目の前に現れると、すごい迫力に圧倒されてしまう。
展示スペースは吹き抜けとなっているのだが、その天井近くから、見上げるこちらに向けてなだれ込んでくるようだ。
これだけ華麗に高く積み上げる造形センスはすばらしいなあ、と素直に感動させられた。
ただ飾るだけでなく、積み上げていくことで物語性を持たせてあるのがいいのだ。

  
L: 日田祇園祭の山鉾。天領ならではの豪華さということか。これが狭いところにいくつもあるので圧倒される。
C: 『雷神不動北山桜(鳴神)』の山鉾。  R: 義経千本桜・河連法眼館の段。見事に狐ですな。

次は北の豆田町……の前に、恒例の市役所めぐりなのだ。日田市役所は駅から北にちょっと行ったところにある。
建物としてはふつうの平成オフィス建築で、これといって褒めるところはないのだが、周囲に緑は多かった。

  
L: 日田市役所本庁舎。1992年に安井建築設計事務所の設計で竣工。  C: エントランス付近をクローズアップ。
R: そのまま右手の低層部分を眺める。日田市役所は建物の裏側もまったく同じようなデザインだった。

さて豆田町にたどり着く前にあるのが、咸宜園跡だ。咸宜園は広瀬淡窓が開いた私塾。
咸宜園のすごいところは、江戸時代なのに身分性別年齢をまったく問わずに学生を受け入れていたこと。
「咸宜」とは「みなよろしい」という意味で、もちろんその点も意識して名付けたってことなのだろう。
あと有名なのが、毎月試験をやって成績をつけた「月旦評」という制度。その評価で自分の席が決まったそうで、
いい席に座るにはいい成績を取らなくちゃいけなかったとか。本当に柔軟な発想をしていたんだ、と驚かされた。

咸宜園は現在、秋風庵・遠思楼が残り、あとは広大な芝生の空間となっている。
秋風庵では子どもたちが座敷で一斉に書道をやっていたのだが、どういう意図の会なのかはよくわからなかった。
敷地の北端には咸宜園教育研究センターがあり、そこでは咸宜園についての博物館的な展示がなされている。
江戸末期の学校ブームはそれだけでも凄いことだと思うが、咸宜園はさらに一味違う存在のように思える。

 
L: 咸宜園跡。もともとここが学校だったことを想像させるものはほとんどないのは残念だ。
R: 秋風庵。淡窓は塾の建物として使用していたという。中を覗き込んでみたけど、ふつうの住宅という印象だった。

咸宜園を出ると、いよいよ豆田町へ突入である。メインストリートは西の御幸通りと東の上町通りの2つ。
その両者の間も石畳の伝統的な街並みになっているなど、街歩きを楽しむ要素が多く残っているのである。
御幸通りから北上していったので、まずはちょうどかぎの手に位置している草野本家が目の前に現れる。
かつては内部を公開していたのだが、残念ながら現在は非公開。悔しい思いを抱えつつかぎを曲がると、
店の1階部分をセットバックしてアーケード状のピロティの路地にした街並みがお出迎えである。
横浜の元町通りのようなものだが(→2010.3.22)、木造建築でこれをやられるとものすごく斬新で面白く感じる。
いつごろからの工夫なのかは知らないが、オリジナリティがあってとても興味深い事例である。
(後日、新潟県を訪れてこれが「雁木」と呼ばれる手法であることを知った。雪国に独特な工夫である。)

  
L: 製蝋業で栄えた草野本家。最も古い部分は1725(享保10)年頃に建てられたそうだ。重要文化財に指定されている。
C: 草野本家のかぎの手を進むとこんな感じ。  R: 木造ピロティアーケード(雁木)の様子。これは斬新な空間ですなあ。

先へ進んで廣瀬資料館に入ってみる。ここはその名のとおり、広瀬淡窓の実家である。
広瀬家の子孫にはかつての大分県知事もいる。広瀬家は掛屋として大いに栄えた家柄だったのだ。
(掛屋…大名(藩)が集めた年貢米を貨幣に換える役割を担った両替商。大名相手に金を貸すこともあった。)
まあ要するに、筋金入りのブラッドエリートというわけだ。この資料館にはそんな名家のお宝があれこれ展示されている。
資料館は主に2つの建物によって構成されており、さまざまな家財道具や書物などが所狭しと並べられていた。
どれも派手ではないが上品で、地方都市を代表する名家の実力がビンビンと伝わってくる品ばかりである。
順路の最後には掛屋を象徴する天秤が座敷に置かれており、何ともいえない迫力を漂わせていたのであった。

  
L: 御幸通りと上町通りの間にある魚町。廣瀬資料館があるのはこちら。  C: 廣瀬資料館(1号館)。
R: 廣瀬資料館の敷地内。蔵も資料館の施設となっている。名家のさりげない迫力がすごい。

日田はかつて陸路よりも水路が中心であった時代には、天領として栄えた歴史のある土地だ。
今となっては山に囲まれて観光資源に頼りきった街という印象だが、かつては町人文化が花開いていた。
そんなわけで、かつて日田で一番の料亭として知られた市山亭懐古館にも寄ってみた。
なんといっても2階の大広間が大迫力だ。壁には見事な食器などが飾られ、往時のたいへんな勢いがよくわかる。
すげえもんだと驚きながら1階に下りると、「お子様の入室はご遠慮ください」との貼り紙が。
なんだろと思って部屋の中に入ると、そこは春画の展示コーナーなのであった。うーん、ド迫力。
さらにすごいのが磁器の置物で、置いてある分にはごくふつうの小さい置物なのだが、
下から覗き込むと男と女のラブゲームの真っ最中という仕掛けになっていた。うーむ、やりおるわい。
懐古館のおばあちゃん曰く、こういう置物は大っぴらにつくれないから、余裕のある家しか入手できない品である、と。
昔の人もいろいろやっていたんだなあ、とつくづく思わされたのであった。あるところにはあるんだねえ。

 市山亭懐古館。最後の最後でやられたわー。

久留米でラーメンを食い損ね、なんだかんだで日田でもメシにありつく余裕のないまま帰りの列車に乗り込む。
日田の街並みは商店などが充実しているので、一人旅よりは友人との旅行や家族旅行向きのように思う。
山に囲まれてアクセスがなかなか面倒くさい場所であるけど、観光客の数はかなり多かった。
またいつかのんびり街歩きができるといいなあ、なんて思いながら久大本線のワンマンカーに揺られるのであった。

久留米駅に戻ると、いい加減腹が減ってガマンならなかったので、駅ビルの中で何か食べることにした。
そうしてラインナップをチェックしてみたら、そこには「日田焼きそば」の文字が。しまった、それがあったわ!
どうせなら日田で食えばよかったなあ、と思いながら店内へ。大規模にチェーン展開している「想夫恋」である。
日田焼きそばの最大の特徴は、茹でた麺を鉄板でしっかり焼くことでパリパリに仕上げている点だ。
あまりに歯ごたえがありすぎて、けっこう歯にくっついてくるのが難点……と書けば食感が想像できると思う。
味付けは濃いめで、しっかりと時間をかけてつくるので麺にソースをはじめとする食材の味がよく染みている。
しかし辛すぎるということはなく、量があっても飽きずに食べきることができる絶妙のバランスとなっているのだ。
この少し焦げ気味のパリパリ食感は、間違いなく病みつきになる人がいるだろうなあ、と思いつつおいしくいただいた。

 日田焼きそば。この食感は一度体験してみる価値があると思う。

というわけで2日目はここまで。久留米周辺は3月にも来ているわけだが(→2011.3.262011.3.27)、
そのときとはまったく異なる楽しみ方ができたのはとっても有意義だった。
あらためて九州の奥の深さというものを実感しているしだいである。明日はどんな旅が待ち受けているのやら。


2011.8.6 (Sat.)

どうせ盆が近づくにつれてサッカー部の出席率は悪くなるのだから、そのタイミングでまとまった休みをとればいい。
そこでグランツーリスモな日々を送ってしまえばいい。そしてそのまま盆に実家に顔を出せばいい、というわけなのだ。
昨年はクソ猛暑だったはずなのになぜか雨ばかりの北海道旅行を敢行したが(→2010.8.7)、
さて今年はどうしようか。……などと考えることもなく、結論は出ていた。夏真っ盛りの九州に行きたい、と。
3月の博多(→2011.3.26)と柳川(→2011.3.27)はその前哨戦だったのだ。震災前からすでに意志は固まっていた。
かつてわが父・circo氏は九州一周をしたことがあるそうだが、じゃあオレもやっちゃうもんね!ということで、
今年の夏は青春18きっぷを片手に8日間での九州一周をやるのだ! 長崎以外の全県を制覇しちゃうのだ!
(別に長崎に恨みがあるわけではなくって、長崎は地理的に九州のはずれにあるってこと。通過できない位置にある。)

さて盆前ということで、やはり飛行機の料金が高い。これなら新幹線の方がマシじゃん、ということで、
昨年と同様、飛行機を使わないでの遠方への旅行となるのであった。「のぞみ」の始発に乗って終点の博多まで。
なんたる贅沢。鉄っちゃんならそこからさらに九州新幹線ってことになるのかもしれないが、そこまではできない。

 新幹線で博多まで行くなんて、もう金輪際ないんじゃないかって思いつつ撮影。

午前6時ちょうどに「のぞみ」は東京駅を出る。つるっとすべるように動きだし、静かに加速していく。
博多駅に到着するのは10時55分。5時間近くもひとつの列車のお世話になるなんて、なかなかない(稚内へ行くぐらい)。
かなり贅沢しちまったぜ、と緊張しながら音楽を聴いて過ごす。新大阪までは前に経験があるが、そこから先は初めて。
窓の外を眺めつつ考えごとをしていると、時間と空間の経過は長くもなく短くもなく、極めて順当に感じられた。
新幹線は圧倒的なスピードで飛ばすが、飛行機の本気にはかなわない。でもそのバカ正直に時間がかかるところから、
日本地図の現実の広さが身にしみる。いちいち駅を通過する等速度運動が、僕の中にリアリティを刻み込む。

 九州一周大作戦 1/8 福岡→唐津→伊万里→(鳥栖)→佐賀

定刻どおりに博多駅に着いた。5ヶ月前に訪れたばかりの場所であるのでまったく久々ではないのだが、懐かしかった。
僕はその5ヶ月前の旅を一瞬で取り戻した気がしたのだ。思わず「戻ってきちまったぜ、オイ」とつぶやいていた。
筑紫口から外に出て、まずはメシの補給。今回は長崎には行けないから、という理由でリンガーハットのちゃんぽんを食う。
せっかく旅をしているのに、まったくもって愚かな行動ではあるのだが、そうしないと長崎に申し訳ない、と思ったわけだ。
食い終わるとそのまま地下鉄に乗る。福岡の市営地下鉄は姪浜までで、そこから先はJRとして西唐津まで行く。
唐津は以前訪れたことがあるが(→2008.4.26)、そのときには虹ノ松原駅で降りて、そこから歩いた。
でも今回は終点の西唐津まで乗ってみる。最近どうも、鉄道の最果て探検が趣味になりつつある。困ったものだ。

姪浜駅で地上に出ると、列車はさっき新幹線で見た都会とは異なる景色の中を走る。緑の起伏が窓外の主役となる。
新幹線にしろ地下鉄にしろ利用者の多い乗り物だが、ここからは違う。車両の外も、車両の中も、ローカル線の風景だ。
なんだかんだで旅行となるとこの光景ばっかりだ。僕はもう何度も同じことを繰り返しているんだなあ、と思えてきた。
県庁所在地めぐりを始めたころは地図でしか知らない街の本当の姿にずっと興奮しっぱなしだったが、
ある程度こなしたところで義務感を覚えはじめ、47都道府県を制覇した今は理由がよくわからないまま旅に出ている。
だから今回の九州旅行も、まとまった休みを「もったいない!」と意地で埋める形で計画したことは否定できない。
でも、それでいい気もしている。僕はたぶん、この旅が終わればしばらく九州には来ないだろう。
前回感じた九州の感触をもう一度確かめることで、自分の中の九州の感触を決定的なものにしたい、
そうしてしばらく九州に来なくてもいいように決着をつけたい、そう考えて九州を訪れたのだと思う。
(そう考えると、こないだの四国(→2011.7.162011.7.17)についても同じことが言える。僕は四国に決着をつけた。)

西唐津駅に着くと、ホームからその先の光景を撮る。そして青春18きっぷをかざして改札を抜け、最果ての駅舎を撮る。
ここより西には呼子や名護屋城址があるが、公共交通機関だけで訪れるのはなかなか手間がかかる。だから諦める。
そりゃあやっぱり悔しいが、キリがない。人によっていろいろ違うだろうけど、僕の境界線はここまでだ。
再び改札を抜けて唐津方面への列車に乗る。唐津駅に着いてホームから階段を降りて改札へ向かう。
目の前には3年前に見た光景が広がっていた。そうして過去とつながることができたら、あとはやり残したことをやるだけだ。
駅構内の観光案内所でレンタサイクルの場所を訪ねる。駅舎を出て右側のアルピノ1階でどうぞ、と言われたので移動。
アルピノってのは、3年前に呼子名物・いかしゅうまいを食べた唐津の観光拠点施設の名前なのだ。
わりと広大な土産物売り場のレジに行き、申し込む。レンタサイクルで効率よく、やり残したことを拾っていこうと思う。

  
L: 西唐津駅のホームから眺める最果て。  C: 西唐津駅。名護屋城址まではここからバスで35分ほど。それは遠いなあ。
R: こちらは唐津駅。以前訪れたときと何ひとつ変わっていないなあ、と思う。いやいや懐かしい。

まずはやっぱり市役所だ。唐津市役所は前回も当然訪れているので、「やり残したこと」ではまったくない。
それでも様子が変わっていないかチェックに行ってしまうのが市役所マニアの悲しい性というかなんというか。

  
L: 相変わらずの冠木門。1989年に石垣と堀が復元されたそうなので、これはそのとき以来の演出なんだろうな。
C: 唐津市役所。建て替え問題を報じるニュースをもとに計算すると、1962年竣工か。  R: こちらは唐津市議会。

そのまま市役所の脇を抜けて海の方へと向かう。途中に唐津神社があるのでお参り。
そして唐津神社の道を挟んだ向かい側にあるのが唐津市民会館と唐津曳山展示場。前回は来ていない。
唐津に来ておいて唐津くんちの曳山をきちんとチェックしないとは、われながらテキトーだったなあと反省しつつ中に入る。
戦国武将の兜や獅子などをデザインした曳山は思っていたよりも大きく、さすがに迫力がある。
和紙を200枚ほど重ね、その上から漆を何重にも塗ってつくってあるそうだ。立体造形の醍醐味を味わうのであった。

  
L: 唐津神社。唐津くんちはここのお祭りである。  C: 曳山展示場の内部。これは兜シリーズで、左が信玄、右が謙信。
R: 獅子がけっこう多い。とにかくサイズが大きいので、実際に見るとその迫力に圧倒される。

曳山展示場を出ると、そのまま重要文化財の旧高取邸へと向かう。ここも前回訪れなかった場所だ。
高取さんとは、高取伊好(これよし)。かつて唐津周辺には炭田があり、「肥前の炭鉱王」として知られていた人だ。
旧高取邸の中に入ると、まずは洋風の内装がお出迎え。いかにも明治期らしい豪華さである。
でもこの建物、基本的には和風につくられており、ひとつひとつの部屋が本当に凝っていて見どころ満載なのだ。
まるで寺のような仏間に、茶室、さらには能の舞台まである。凄いのは杉戸絵で、ほとんどの戸に絵が描かれている。
旧宅や大名の御殿などさまざまな和風建築を今まで見てきたが、こんなに多趣味な事例はそうそうお目にかかれない。
予想外にめちゃくちゃ面白かったので、かなり興奮して見てまわった。おかげでここでけっこう時間を使ってしまった。

 旧高取邸を入口のところから撮影。ここはオススメですな。

少し慌てて次の目的地へ。前回唐津を訪れたときに僕がやり残した最大のこと、それは、高島を訪れることだった。
海に浮かぶまん丸で台形の島、そんな面白い島に行かなかったことを、僕はけっこう後悔していたのだ。
唐津市街から高島に渡るには定期船が安い。が、一日6往復ということで、観光客にはちょっと勝手が悪い。
しかし「海上タクシー」と称して適宜、船が出ているようなので、それを利用すれば問題はない。
唐津城の駐車場の脇に桟橋があり、そこで待っていれば乗せてくれる仕組みになっている。
レンタサイクルを置いて桟橋へ下りたら、何組かの家族連れを乗せて船がちょうど出ようというところ。
「兄ちゃんは上に乗りな」とおじさんに言われて屋根というか2階席というかに乗ることになる。
桟橋から離れた船は唐津城のふもとをすべるように進んでいき、そのまま高島へとまっしぐら。
沖縄でも似たような感じで無人島へ行ったなあ(→2007.7.23)、と思い出す。なぜか笑いがこみ上げてきた。
曇り空の下でも美しい青さをたたえた海の上で、高島はどんどん大きくなっていく。
ずっと心残りだった高島をこんなふうにじっくりと眺めることができるなんて、本当にラッキーだと思う。

  
L: 海上タクシーの船上から眺める唐津城。行ってきまーす。  C: 船は高島へ向けてまっすぐ進む。本当に見事な台形だ。
R: 高島の港に無事到着。一攫千金を狙う家族連れがけっこう多く訪れていたのであった。

船はゆっくりと高島の港に入る。さっさく黄色や赤の派手な色合いで宝くじ関連ののぼりやら何やらがお出迎えだ。
高島には宝当神社という神社があり、宝くじ当選祈願の名所として全国的に有名な存在なのである。
まあつまり、高島を訪れる=宝くじの当選を祈願する、ということなのだ。事前にネットで調べた結果、
宝当神社はすでに買ってある宝くじを持っていって当たるように祈るというのが作法のようなので、
サマージャンボとtotoのBIGをあらかじめ購入したうえで来ちゃいました。大井競馬場で馬券を買わなかったのは、
ここでの運に集中するためなのだ。僕は今まで宝くじというものに当たったことがないので、神頼みしがいがあるのだ。

高島はもともと、人口400人ほどの小さな漁業の島。だから特別に観光客向けに整備されているわけではなく、
観光客が漁師の集落に勝手に殺到している状態なのだ。港から宝当神社への道も、完全に住宅の路地なのである。
港からすぐのところに土産物屋が並んでおり、金色の「宝当袋」というものを売っている。
この袋に宝くじを入れてお参りする、ということらしいのだが、お値段2000円ほど。なんだそりゃ、と呆れる。
当然僕の性格からして買うことはなかったのだが、今にしてみれば、きちんとこういうところで島の経済に貢献する方が、
まあ神様も宝くじを当てさせたくなるんじゃないかな、って気がする。ケチケチしちゃいかんのだ、きっと。

  
L: 宝当神社への道。路地ですわ、路地。  C: 宝当神社の境内。実際に訪れてみると、もう本当に「島の小さな神社」という印象。
R: 宝当神社。こちらの中に入って参拝するのだ。中には当選を報告するメッセージがいっぱい貼り付けられていた。うらやましい。

宝当神社はもともと宝くじとは関係がなく、戦国時代に高島を海賊から守った野崎隠岐守綱吉を祀った神社だ。
そして高島住民の9割は野崎姓だそうだ。宝当神社に来てみると、そんな野崎さんたちが建てた町内の神社という感じ。
行儀の悪い家族連れが参拝を終えると、僕も社殿にお邪魔して静かに参拝させてもらう。
壁には当選のお礼のメッセージが多数。うらやましいが、当たったら当たったで、お礼参りがなかなか大変だなあと思う。
まあそんな感じでのんびり参拝すると、社務所で「必当(ヒット)御守」をいただいて任務完了。
野崎綱吉は信州諏訪の出身だそうなので、同じ長野県出身ということでご利益があるといいなあ。

せっかく高島に来たわけだから、宝当神社だけではもったいない。高島の氏神・塩屋神社にも行ってみる。

 
L: 宝当神社からちょっと戻って島の奥へと進み、塩屋神社を目指す。案内板が出ているので迷うことはない。
R: 山の麓にあるのが塩屋神社。とっても静かで、地元住民のための場所という感じがする。

港に戻ると海上タクシーのお世話になるべく桟橋へ。しかしあと30分ほどで定期船が出るため、みんなそっちを待っている。
定期船の方が安いので当たり前なのだが、その出航を待っていると次の目的地へ行く列車に間に合わなくなってしまう。
結局、優しい船長が僕ひとりを唐津市街まで運んでくれたのだが、無理な旅程を組んだことを大いに反省しましたとさ。

桟橋で丁寧にお礼を言ってからレンタサイクルに再びまたがると、唐津の商店街を抜けるようにして唐津駅まで戻る。
前回訪れたときよりは、少し賑やかになっている印象がした。単純に、土曜日の午後だったからかもしれない。

 
L: 唐津城三の丸辰巳櫓。1993年に再建されたものだが、街中にいきなり現れるのでけっこう驚かされる。
R: 前回訪れたときとは異なる角度から撮影した旧唐津銀行本店。

唐津の次に訪れるのは、伊万里だ。ホームに停まっている少しコンパクトな印象のワンマン列車に乗り込む。
全身黄色の車両で、床は黒地にグレーの豹柄。JR九州の車両はローカル線のワンマン列車に至るまで凝っている。
伊万里方面への筑肥線は最初、唐津線と同じルートを走っていたが、途中でより山奥っぽい方へと分岐する。
そうやって山の中を抜けていくこと1時間弱、伊万里駅に到着した。ここもJRとしては最果てとなる。

  
L: 伊万里駅にて。JRとしての最果てだが、この先には松浦鉄道の伊万里駅がある。つなげちゃダメなんですかね?
C: 伊万里駅の駅名標はさすがに有田焼(伊万里焼)みたい。  R: 伊万里駅のJRの方の駅舎。道を挟んだ右手は松浦鉄道の伊万里駅。

まあ正直、伊万里の市街にはこれといった名所はない。鍋島藩の御用窯がつくられていた大川内山は面白そうだが、
駅からバスで15分ほどの山奥にあるのであきらめざるをえない(技術の漏洩を防ぐためにそんな場所になったわけだ)。
そんなわけで小1時間ほど伊万里市街を散策して過ごすことにするのだ。まずは恒例の市役所からだが、
伊万里市役所は駅の南にある国道202号からさらに奥へ進んだところにある。思いっきり「郊外社会」なのだが、
海に近い平地から離れたところにあるので上り坂。歩いて行くにはなかなか切ない場所なのであった。

  
L: 伊万里市役所へと向かう道。行政系の施設は国道202号からニュータウンへと入るこの通りに集中しているのだ。
C: 伊万里市役所。1973年竣工。  R: 反対側から眺めた伊万里市役所。

 
L: こちらは伊万里市議会。「伊万里市議会」の看板がやっぱり伊万里焼なのであった。
R: 市役所前の横断歩道にあった、「横断中」の黄色い旗を入れる器。こういうところにプライドがにじみ出ているなあ。

市役所の撮影を終えたので、残った時間で市街地の方を歩きまわってみる。
国道を横断すると、街の規模にはまったくふさわしくない巨大な結婚式場の脇を抜け、陸橋で筑肥線を越える。
そこから斜めに進んで伊万里玉屋方面へ。そうして伊万里川を渡って、まずは伊萬里神社へ行ってみた。

伊萬里神社は香橘(こうきつ)神社・戸渡嶋(ととしま)神社・岩栗神社が合祀されてできた神社ということで、
それぞれの名前が扁額に書かれている鳥居が3つある。参道も伊万里川に沿った横参道になっており、
江島神社の瑞心門(→2010.11.27)みたいな門を抜けて、わりと急な石段を上っていくと社殿がある。
狭い土地に3つの神社を合祀したせいで、ものすごく独特な空間構成となっている。不思議な神社だった。

あとは伊万里川の左岸にある商店街をフラフラと歩く。伊万里川に架かる橋には伊万里焼の器が飾られており、
かつてここから伊万里港に向けて磁器を積み出した歴史が堂々と示されている(伊万里焼は市街のあちこちにある)。
なお、「伊万里焼」は伊万里港から積み出された磁器の総称。柿右衛門で有名な「有田焼」は有田で焼かれた磁器。
有田焼は伊万里港から積み出されたので、「伊万里焼」の定義に含まれることになる。つまり、伊万里焼⊃有田焼。

  
L: 伊萬里神社を伊万里川越しに眺める。実に独特な神社だ。  C: 伊万里川に架かる相生橋の伊万里焼。
R: 相生橋周辺ではかつて伊万里焼の積み出しが行われ、白壁の土蔵も陶器商家資料館として残っているのだ。

伊万里の市街地は、かつての歴史を伝える空間が確かに何箇所か点在してはいるものの、その痕跡はあまりに薄い。
それで街のあちこちに伊万里焼を置いてバランスをとろうとしているのだが、空間としての迫力にはまったくつながっていない。
ただし、その努力は評価したい。「伊万里」という名前は世界レヴェルなのだから、過去ではなく現在で誇ってほしい。
過去の作品だけでなく、今後も優れた作品を生み出し続けることで、街のプライドを保っていってほしいと思う。

 駅前交差点では伊万里焼の美人像がお出迎え。……これ美人か?

さて本日はJ2鳥栖×草津の試合が鳥栖スタジアム(以下ベアスタ)で開催されるので、せっかくなので観戦するのだ。
ところが試合開始に間に合うには、松浦鉄道で有田まで行き、肥前山口に出て、特急に乗る方法しかない。
なんでもかんでも青春18きっぷで済ませられるなら、もちろんそれに越したことはない。
でも、ここまで来ておいて非常に評判のいいベアスタで行われる試合を観ないというのはありえないのだ。
というわけで、松浦鉄道に揺られてまずは有田まで。高校生を中心に乗客はきちんといるのだが、
沿線の風景はもう本当に田舎そのもので、よく経営が成り立っているなあと驚きながら過ごした。
まあ逆を言えば何から何まで完全に地元のローカルな雰囲気に染まっているわけで、乗っていて実に微笑ましい。

そうして有田駅に到着すると、特急が来るまでいったん改札を抜けて過ごす。観光名所は隣の上有田駅の方が多いが、
きちんと観光の拠点として機能しているようで、パンフレットが充実していた。タクシーも多く停まっている。
「旅の記念にご自由にお取りください」と書かれた箱には「吾唯足知」と刻まれた真っ白い陶製の丸い文鎮があり、
これはなかなかいいねえと思って手に取ったのだが、さすがに初日からわざわざおもりを背負い込むのもどうかと考え、
結局あきらめてしまった。初日じゃなけりゃあ喜んで2~3個持って帰ったんだけどねえ。うーん、もったいなかったか。
(吾唯足知……「吾(われ)唯(ただ)足るを知る」。四角い穴(口)を中心に残りの部首を右回りに配置。
 龍安寺のつくばいで有名。「僕は現状に満足することを心得ているよ、みんなもそうしようぜ」と解釈すればいいのでは。
 本来ならば最後は「知足」って語順になるはずで(実際、『老子』には「知足」という言葉が登場するそうだ)、
 まあ、古銭の文字の順番はけっこういいかげんっぽいので、上→右→左→下で「吾唯知足」とする方が正しいと思う。)

やってきたJRの各駅停車に乗り、肥前山口まで。そこから特急かもめ38号に乗り、一気に鳥栖を目指す。
JR九州の特急は自由席でも革張り(合成皮革だと思うが)で、格段に乗り心地がいい。
九州新幹線の開業で一気に注目されるようになった印象があるが、JR九州では水戸岡鋭治がデザインを担当し、
車両の質で他の鉄道各社との差を出している。前述のとおり、それはローカル線のワンマン列車でも徹底している。
黄色や赤などの原色を大胆に採用し、白・シルヴァー・黒と組み合わせることでポップさをうまく演出しているのだ。
確かに、JR九州の車両は「乗りたくなる車両」なのだ。僕にとって特急料金というものはムダな金以外の何物でもないが、
このJR九州の特急の乗り心地に甘えていると、金額に見合ったサービスをしているなあ、と思わされるのだ。
(そしてJR九州が車両デザインに凝っている点については、3日後の肥薩線のログでももう一度ふれることになると思う。)

鳥栖駅に到着したのはキックオフ予定時刻の9分前である。本当にギリギリで予定を組んでいるのだ。
水色にピンクのサガン鳥栖のユニを着た皆さんを押し分けるようにして、急いでベアスタへと向かう。
(僕は水色とピンクというド派手な鳥栖のチームカラーが嫌いではない。ありふれた色よりもはるかにいいと思っている。)
中に入るとさっそくメインスタンドの一番前の席へ。今回は奮発してメインスタンドのチケットを買ったのだ。
なんせベアスタは日本でも一、二を争うすばらしいスタジアムとの評判。それなら一番いい席で観たい。
どうやら鳥栖では少し前まで雨が降っていたようで、席が濡れていた。僕は今日一度も雨粒に当たらなかった。運がいい。

  
L: 線路の上の自由通路から眺めたベアスタ。本当に交通至便で助かる。全国にこういうスタジアムできねーかな。
C: メインスタンドから眺めたベアスタのピッチ。選手近すぎ! そして草津のコーチ陣超近すぎ!
R: 試合前、死去した松田直樹を悼んで黙祷が行われた(全試合で行われた)。ちなみに草津は松田の地元・群馬のクラブだ。

キックオフの直前、心筋梗塞で亡くなった松田直樹へ向けて黙祷が行われた。もちろん僕も起立して目を閉じた。
どうして日本のサッカー界はいきなりこんな不幸に見舞われなきゃならんのだ、と理不尽さに悔しさが募るが、
事実は事実として受け止めなくてはいけない。とにかく今は冥福を祈るしかない。

そして試合開始。鳥栖はいきなりFW池田がケガをして頭をグルグル巻き(サッカーは出血しているとピッチに入れない)。
しかし2トップを組むFW豊田とともに意欲的に走りまわって、何度もチャンスをつくりだしてみせる。
何より鳥栖の10番・金民友のセンスは抜群で、よくそんなところに!というスペースを見つけてはパスを出し、
また自ら積極的にドリブルで切り込む。守備も磯崎ら4バックが高い集中力を見せ、ほとんど隙がない。
対する草津はまったくもっていいところがない。ミスを連発するわカウンターは散発的でまったく連動していないわで、
とにかく選手の動きが悪すぎる。サッカーってのはまず走らなければ何も始まらないスポーツなのだが、
草津の選手は情けないほど走らない。熱血漢として知られる副島監督が何度もピッチサイドで怒鳴るが改善されない。
立場は違えど走れない中学生を怒鳴ってばかり僕には、副島監督のもどかしさが身にしみてよくわかる。
そして、いったいどうすればこの状況を改善できるんだ?と絶望的な気分になるのであった。

そんな具合だから、26分に鳥栖が先制したのは至極当然。鳥栖の選手は空いているスペースを見つけては走り込み、
パスをどんどんつないでいく。守備も読みが的確で、高い位置でボールを奪い返す。鳥栖の選手はみな、
気が利いているのだ。サッカーが上手いということは、気が利くということなのだ。それを思い知らされる前半だった。
とはいえ、鳥栖のサッカーは気が利いているプレーの積み重ねでしかない、という印象も受けた。
それは選手の能力頼みのサッカーということでもある。クラブとしての個性というか特徴というか、
そこまでは感じることができなかった。動かない草津と気が利くだけの鳥栖。どっちも積極的には応援しがたい。
ベアスタという噂以上にすばらしいスタジアムでなければ、僕はあまり魅力を感じない試合展開だった。前半までは。

  
L: わざわざ群馬から鳥栖までやってきた草津サポの皆さん。数はすごく少ないが、信じられないほど大きな声が出ていた。偉い!
C: ベアスタは何から何まで客席に近い。メインスタンドのアウェイ側最前列に陣取ったが、草津・副島監督の一挙手一投足が丸見え。
R: 前半26分、先取点に盛り上がる鳥栖サポ。この時点では草津が勝つ可能性など1ミリも信じることができなかったのだが……。

  
L: 草津の古林と鳥栖の金が1対1。選手の表情もめちゃくちゃはっきり見える近さなので、1対1の駆け引きも迫力満点なのだ。
C: ハーフタイムに踊るサガンティーナの皆さん。すごくいいなあと思うんだけど、選曲は間違っちゃったかなあと。でも華やかでいいわ。
R: こちらもハーフタイムに現れた鳥栖のマスコット・ウィントス(右)。左は鳥栖市イメージキャラクターの「とっとちゃん」。すげーな。

後半が始まっても、鳥栖の優位は動かないように見えた。草津は前半のうちに選手を1名入れ替えたのだが、
相変わらず動きが重く、鳥栖の選手は自信を持ってプレーしている。だが、鳥栖は前半に大きな失敗をしていた。
それは、前半のうちに追加点を奪えなかったことだ。あまりに草津の動きが悪くて油断していたのかもしれない。
選手もサポーターも、もちろん鈍い僕もまったく気づかなかったが、本来1-0というスコアで終わる前半ではなかったのだ。
これならいつでも追加点を奪えるだろう、という雰囲気を残して後半を迎えてしまったことが、あとあと命取りになる。

 試合中の第4の審判。こうして見ると中体連と全然変わらない。

後半に入って草津が変わったところといえば、攻撃時に相手陣内にきちんと入っていく枚数が増えたことだろう。
動きが鋭くないので鳥栖の守備陣は錯覚していたのだろうが、確かに草津の攻撃はリズムが同じでも人数が増えていた。
そのため、ゴール前でこぼれ球が発生したとき、鳥栖の守備は前半と同じ感覚だったから相対的に緩慢になっていた。
前半に空いていたはずのスペースに草津の選手がいきなり現れて、鳥栖の対応は無意識のうちに遅れていたのだと思う。
MF熊林が足元に転がってきたボールを蹴り込むと、これがきれいにネットを揺らす。茫然とする鳥栖の選手とサポーター。
そりゃそうだ。入るはずのない点が入ってしまったのだから。対照的に喜びを爆発させるのは草津コーチ陣とサポーター。
その姿を見ても、鳥栖にはそれが現実のものとは思えなかったはずだ。草津の皆さんには悪いんだけど、
この得点は本当に突発的な事故、そんな感触だった。まあいいや、これくらい……という雰囲気が鳥栖サイドに漂う。

そしてイーヴンになってからのキックオフ。ピッチに立っている白いユニフォームの選手たちは、完全に別人になっていた。
草津の選手から動きの重さが完全になくなり、ボールを持っていないときにこそ全力で走りまわるプレーばかりとなった。
鳥栖の選手は明らかに戸惑っていた。こんなはずじゃない、という言葉がスタジアム全体から聞こえてくる。
よく「点が入ると雰囲気が変わる」というけど、ここまで豹変してしまうものなのかと観ていて鳥肌が立ってしまった。
焦って受け身になってしまった鳥栖の選手に対し、草津の選手はどんどん積極的に襲いかかっていく。
前半まったく気の利いていなかった草津の選手たちは、確かに「巧い!」とうなりたくなるプレーはそんなにないのだが、
理屈以前の気持ちのこもったプレーで確実にゲームの流れをつかんでしまった。そして66分、草津のCK。
選手が詰めてボールを押し込み続けることで、鳥栖のゴールは再び割られた。なんと、草津が逆転してしまった。

  
L: CKに反応してヘッドでゴールを狙う草津・中村(5番)。  C: 鳥栖のGK室(ピンク)がボールを掻き出す。すごい身体能力。
R: しかし最後は草津の後藤が押し込んで逆転。セットプレーとはいえ、この草津の積極性は前半には考えられなかった。

草津は追いつかれまいと全力で守る。鳥栖も懸命に攻めるが、一度手放してしまった流れはもう戻らない。
そのうちに鳥栖の迫力は見る影もなくしぼんでいき、ピッチの上では草津のハードワークだけが繰り広げられる。
鳥栖は選手を替えるが、ピッチでは何も変わらない。戸惑いが焦りへと変わり、プレーのひとつひとつが空回りになっている。
前半のうちに追加点を奪っていれば、このような展開にはなっていなかったはずだ。その甘さが、この結果を招いたのだ。
ロスタイムが何分なのかチェックし忘れるほどの副島監督の熱血コーチングもあり、草津の迫力はまったく衰えることがない。
(副島監督はピッチサイドから振り返ってコーチ陣に「ロスタイムは何分だ!?」と尋ねたのだが、ベアスタはあまりにも
 客席がピッチに近いので、思わず僕もコーチ陣と一緒に手を出して「4分!」と答えそうになってしまった。)

  
L: ピッチサイドでの攻防。本当に目と鼻の先でこういうやりとりが展開されるわけで、ベアスタがある佐賀県民は幸せですよ。
C: 鳥栖のシュートを草津の熊林(古田新太に激似)が飛び込んでブロック。後半の草津の勢いは超人的としか形容しようがない。
R: 試合終了後、スタンドに挨拶する鳥栖の皆さん。あたたかい拍手が贈られていたが、もう少し危機感を持った方がいいと思う。

試合が終わり、草津の選手とコーチ陣がサポーターに挨拶を済ませてメインスタンドの方へと戻ってくると、
客席のいかにもサッカー関係者っぽい人たちから副島監督やコーチ陣に声がかかる。ずいぶんと穏やかな雰囲気だ。
親しげな言葉が交わされており、サッカー界もトップレヴェルになるとあちこち知り合いだらけなんだろな、と思うのであった。
さらに、おばあちゃんを連れた家族がピッチ上の副島監督と何やらやりとりをしている。まさか、親戚なのか……?
後で調べてみたら、果たして副島監督は佐賀県出身なのであった。あのおばあちゃんは監督のお母さんかもしれない。
なるほどそりゃあ知り合いだらけで、アウェイの草津が勝っても妙にアットホームな雰囲気になるわな。
ホームのクラブが負けてしまっても、いい意味で穏やかな空気が流れている。すべてをひっくるめて、いい試合を観た。

それにしてもベアスタは噂以上にすばらしいスタジアムだった。プロサッカー選手の細かいやりとりがはっきりと見られる。
お世辞抜きで、ここで試合観戦しているだけでサッカーが上手くなるんじゃないかってくらいだ。来てよかったと心底思う。
(そういえば、メインスタンドに飛び込んだボールが僕の近くに転がってきて、マッチコミッショナーらしき人に返す経験もした。
 さっきまでプロが蹴っていたボールに触っちゃったよー!と、年甲斐もなくちょっと興奮してしまった。面白かったなあ。)
相変わらず目の回りそうな盛りだくさんな旅行をしているが、地味なルートだったけど、文句なしのスタートが切れた。


2011.8.5 (Fri.)

さすがに、松田直樹が亡くなってしまったことから、「人が亡くなるということ」を考えさせられた。

前にも書いたが、正直なところ、僕にとって松田直樹というサッカー選手にはそれほど親近感はなかった。
まあ僕がサッカーにそれなりに深く関わらざるをえなくなって、そして彼が長野県のクラブに来て、
そうして今年の4月に信州ダービーで実際に3バックの中央でプレーする彼の姿を観た(→2011.4.30)。
それが僕が彼を実際にこの目で見た最初で最後だ。先月の信州ダービーも観戦できればよかったのだが。
松田については、松本山雅というJリーグを目指すクラブに舞い降りた経験豊かな昇格請負人、というイメージだった。
横浜・F・マリノスや日本代表でのプレーはスポーツニュースのダイジェスト映像程度でしか知らない。
ただ、サッカーを実際によく観るようになり、彼が特別なプレーヤーであることはしっかりと認識しているつもりだ。

前置きが長くなったが、上記の理由からしてつまり、僕は松田直樹の死をやや鈍感に受け止めたタイプになる。
そりゃあここ2日はパソコンのディスプレイで矢継ぎ早に表示される彼の回復を祈るメッセージに目を通し続け、
僕自身もどうにか意識が戻ってほしいと思っていた。そして昨日、職員室で「ああ~」と力の抜けた声をあげた。
でもそのときに、涙が出ることはなかった。ため息をついて、肩を落とす。そこまでだった。

今日、僕の目から涙がこぼれたのは、喪服姿のカズが顔を皺くちゃにして涙をこらえている写真と、
中村俊輔が目を真っ赤にしている横顔の写真を見たときだ。ふたりの表情を見て、僕の中にその死が突き刺さった。
死とはその人が存在を止めてしまう、時間の流れの中からドロップアウトしてしまうことだが、それがなぜ悲しいのか。
逆説的だが、死がなぜ悲しいのかを、写真によりあらためて実感させられたのである。

死ぬことは、無条件に悲しいことではないのだ。大往生という肯定的な言葉もある。死は多層的な感情を呼ぶのだ。
しかし、死はほとんどの場合において悲しい。それは、生きている人間との時間の共有が不可能になるからだ。
「心の中で生き続けている」と言ったところで、死者の時間は止まっている。その絶対的な差が、悲しい。
この先、2002年の日韓W杯の話になったとき、唯一、松田だけが若い姿のままなのだ。
ほかの選手たちが歳をとり、当時を振り返る日が来たとしても、松田だけは35歳以上の姿を見せることはないのだ。
これが、どんなに残酷なことなのか。メンバー23名の中で松田だけが、いきなり時間を止めさせられてしまった。
もし白髪混じりの元代表選手たちの中に、同じく白髪混じりの松田が現れ、2002年を振り返ることができたら、
それはどんなに幸せな光景だろう。しかし、その可能性は完全に断たれてしまったのだ。

松田が生き続けていたとして、松本山雅のゲーム以外の場面で僕が彼と時間を共有することはまあ、なかっただろう。
しかし、彼と濃密な時間を共有すべきだった人物たちが、その機会を永遠に奪われてしまったことを、
心の底から悲しんでいる。その姿を見て、僕も悲しくなってしまった。だから涙がこぼれた。
死が本当に悲しいのは、人を悲しませるからだ。周りの人に、波紋のように悲しみを広げていくからなのだ。
当たり前の話だが、それが結論。


2011.8.4 (Thu.)

いつまでも冴えない生活をしているわけにもいかないので、某所で行われた某説明会に参加してきた。
僕にとってはワケのわからない世界のワケのわからないルールに初めて触れることになるわけで、
とにかく話を聞くことで現実を知る姿勢に終始。まあたっぷり恥もかいたが、その分勉強にはなった。
勝負は来年ということで、しっかりと気合が入った。この意識をずっと保ってがんばらなくちゃ。

午後は職場に戻って部活。終わってネットをチェックして、とても悲しいニュースを知る。
どうして松田がいきなり死ななくちゃいかんのだ。なんでそんなことになるのか理解できない。
しかし事実は厳然とした事実として変わることがないのだ。納得いかないがどうしょうもない。


2011.8.3 (Wed.)

運よく大井競馬場で東京スカパラダイスオーケストラがミニライヴをやるという情報を得たので、仕事帰りに行ってみた。
知ってのとおり、もともと僕はスカパラが大好きで、高校3年あたりから興味を持って、浪人中に本格的に聴きだした。
そして今ではiPodに最も多く曲の入っているミュージシャンなのである。スカパラに関しては年季の入ったファンなのだ。
しかし実は、今まで一度も生でスカパラを見たことがないのだ。これはちょっと、ファンとしては恥ずかしい。
思い出すのは1996年の夏。「中央アルプスJAZZ FESTIVAL in 駒ヶ根」にT-SQUARE、JIMSAKU+伊東たけし、
松岡直也バンダ・グランデ、そして東京スカパラダイスオーケストラが来るということで、これはもう、
僕にとっては鼻血が出るほどの豪華メンバー、オールスターキャストで、親に行かせろと土下座して懇願したのだが、
「浪人しとるやつが何を言っとるか」とcirco氏は相手をしてくれない。結局、泣く泣くあきらめざるをえなかった。
まあ最終的に目指していた大学に無事に入れたからいいのだが、ライヴ1つ行ったくらいでその結果が変わるわけあるまい。
で、この件はいまだに僕がcirco氏に対してネチネチと文句を言う材料となっている。ライヴの恨みは深いのだ。
(まあ今思えば、独りで勝手に行っちゃう行動力のなかった僕が悪いのだが。一生後悔し続けるんだろうなあ……。)

そういう経緯もあり、僕にしてみればスカパラの生演奏をこの目この耳で味わうというのは、なんと15年越しの夢なのだ。
(その15年の間にスカパラはすっかり実力派バンドとしての地位を固めてしまった。それを遠巻きに眺めた15年間だった。)
自分でもなんだこりゃと思うくらいに恐ろしい月日が経ってしまったが、その夢がついに実現するということで、
ワクワクドキドキしながら大井競馬場へ。100円の入場券を買って中に入る。思えば競馬場に来るのもまた初めてだ。
場外馬券売り場で馬券を買ったことは1回だけある(→2006.5.28)。もともとお馬さんの世界に興味はないのだ。
目にするものすべてが初めてで、「ほー、こうなってたのかー」と目を丸くする33歳児の僕なのであった。

  
L: 大井競馬場の北入口。東京シティ競馬(TCK)という愛称でおなじみ。東京23区が運営する地方競馬場である。
C: パドック。皆さん馬を見つめる目つきがすげー真剣。僕なんかはこういうの、めんどくせーと思ってしまってぜんぜんわからん。
R: 地方競馬といえば予想屋、ということになるのだろうか。それぞれに「屋号」があって面白い。馬の名前と似たようなもんだね。

スカパラが演奏する場所に面したスタンドに陣取る。すでに席はバッグや競馬新聞が置かれてほとんど占領済みだった。
PA席の隣にある柱の裏側の席が空いていたので、そこにする。ライヴのときには身を乗り出せば十分見える。いい感じだ。
せっかくなので記念に馬券でも買おうかと思ったのだが、何を買っていいのかわからないのであっさり思いとどまる。
何かを選ぶには根拠がないとダメな人間なので。ビギナーズラックに期待するのもどうかと思うし。
まあギャンブルに関しては、どうせ近いうちに神頼みをする予定なので、そのときにパワーを集中させるのだ……。

 お馬さんが走るよー。

第7レースが終わると舞台の準備が始まり、第8レースが終わっていよいよスカパラが登場。あこがれの生スカパラだ。
メンバー9人、金色のスーツに身を包んでいる。それがバッチリきまっていて、もう歩いているだけでかっこいい。
1曲目は『Paradise Blue』。いかにもライヴの始まりにふさわしいイントロの後、沖さんのキーボードからブラスが入る。
比較的ゆったりとした曲だがスカらしくウラのリズムが強調されており、自然と体が動き、客席からは手拍子が自然発生。
曲が終わると谷中さんのMC。レースの合間のイベントということで、演奏するのは3曲だけとのこと。
残念だが、入場料100円のライヴなので贅沢を言ってはいけない。むしろ100円で3曲聴けることをありがたいと思わねば。

2曲目は新曲『Twinkle Star ~頼りの星~』。大井競馬場のCMテーマソングだ。それが縁でスカパラが来たわけだが。
初めて聴いたのだが、やべえこりゃ早くCD買わなきゃ!という気にさせられる曲だった。茂木さんは当然ドラムスもすごいが、
歌も上手い。両方を高いレヴェルでこなしちゃうわけで、それを生で見ちゃうと僕としては正直ちょっとショックなのであった。
しかしスカパラのヴォーカル曲は、歌の部分もさることながら、歌のない部分もクオリティが高いので、聴き応えがある。

最後は『ONE PIECE』の映画のテーマ曲、『Break into the Light ~約束の帽子~』。
シングルで聴くと「まあまあかな」という印象の曲だったのだが、ライヴで聴くともう迫力がまったく違う。
全身が音楽に包まれて、体の内側からグルーヴを引き出される感じになるのだ。生のスカパラが、これほどまでとは。
音楽の持つ力に元気づけられる、音楽の持つ力でネガティヴなものすべてを心の中から弾き飛ばすことができる、
そういう体験をここまで深く味わったのは初めてだ。とにかく、感動したの一言だ。
まあこれだけ近くで演奏を聴くことができたからかもしれないが、ただひたすらに幸せな時間だったなあ。

  
L: スカパラ登場。  C: 2曲目、歌いながら叩く欣ちゃん。アルトサックスがいないのがやはり切ない(→2008.7.182010.2.11)。
R: 音楽を聴くということがこんなに幸せなことなのか、と思わされる15分間だった。絶対に、彼らの音楽をまた生で聴きたい!

たった100円、たった3曲のライヴだったが、もっと聴きたい!という欲求と、本当にすばらしい体験だったという満足感と、
複雑に入り混じった感情のまま、大井競馬場を後にした。最近のスカパラはアルバム収録曲がイマイチに思え、
一時期ほど熱狂できなくなっていたのだが、一気に引き戻された感じ。やっぱり彼らは最高のミュージシャンだ!


2011.8.2 (Tue.)

僕はもともとサッカーに興味のなかった人間で、でも縁あってサッカーが生活の中の大きな部分を占めるようになってしまい、
それでもその状況を素直に存分に楽しんでいるわけだから、つまり僕はサッカーが好きな人間なのだというのが前置き。

松本山雅のDF松田直樹(→2011.4.30)が練習中に倒れたというニュースを知り、とにかく鳥肌が立った。
サッカー部の(いちおう)監督として、これほど厭なニュースはない。本当に、本当に厭なニュースだ。ありえない。
今日は日直で、ほかの先生方が全員研修に出かけた中、独りお留守番。その間ずっと、情報をチェックして過ごした。

1977年生まれだが早生まれなので僕の1コ上ということになる。かつてはまったく意識することのなかった選手なのだが、
サッカーをやるようになって歳の近さに気づいたことや長野県に来たことなどから、急激に僕の中で存在感が増した。
そしてその松田が、心肺停止状態で病院に搬送されたという。体を鍛え抜いているサッカー選手が倒れた。
海外にはそういう事例がいくつかあり、これだけは厭だなあとは思っていたのだが、まさか松田の身にそれが起きるとは。
歳の近さ、懸命にサッカーをプレーしていること……もはや松田のことは、僕にとって他人ごとではない。
とにかく、一刻も早く回復してほしい。そして再びピッチに立ってほしい。心からそう願っている。


2011.8.1 (Mon.)

昼メシの話をしよう。

当然ながら、夏休み中は給食がない。だからどこかで昼メシを調達しなければならない。
出版社時代には近くの駅前へ行って本を読みながらファストフードのローテーションをやりくりしていたのだが、
いま勤務している場所は駅から遠いしろくすっぽファストフードがないしで、当時と同じ優雅な昼休みは過ごせない。
しょうがないので、すき家で牛丼をローテーションしたり松屋で牛めしをローテーションしたりしている。ブサイクである。

今日は午後に研修があったので、繁華街に出て昼メシを食べることができた。
蕎麦とカツ丼が両方とも食いたくなっちゃったので、じゃあどうしようかと考えた結果、入ってみたのがゆで太郎。
小諸そばも富士そばもすでに味は知っているので、ゆで太郎に初挑戦してみたというわけなのだ。
いざ食ってみたら、意外と旨い。量もある。値段もお手ごろ。「ゆで太郎」という安っぽい名前で無意識に敬遠していたが、
立ち食い蕎麦にしてはかなり健闘しているので驚いた。江戸時代に蕎麦はファストフードだったわけで、
歴史的には立ち食い蕎麦こそが実は本流であると見なすこともできるはずだ。立ち食い蕎麦はバカにできないのだ。
そう考えた場合、ゆで太郎の健闘ぶりはなかなかすばらしいことではなかろうか。もうちょっと食って研究してみようと思う。

ちなみに先週は、職場の近所にある肉屋の弁当を買ってきた。この店の弁当は非常に強烈なのである。
まず、本業は肉屋のはずなのに、店に行くとガラスケースの中がスカスカ。もう弁当屋に特化してしまっているのだ。
でもビニール袋には「肉屋の弁当」と書いてあって、それを頑として認めていない。僕はそういう頑固さはけっこう好きだ。
この店を象徴する看板メニューが「カレー」と「カツカレー」。カレールーの上には見事に一味唐辛子が散りばめられている。
おかげでムダに辛いのだが、食えない辛さではないので、気合を入れるのに最適な加減になっているのである。
「休み中に一回は食わねえとしっくりこない」とは僕の師匠格にあたる先生のセリフ。そして僕もその意見に賛成なのだ。
というわけで、先週そのカツカレーをいただいたのだが、さすがに肉屋だけありカツが旨い。慣れれば辛さも快感になる。
この量で525円(豚汁付)とは!とあらためて感動しながら汗びっしょりで平らげたのであった。おいしゅうございました。
生姜焼き弁当やロースカツ弁当もあるのだが、やはり安くてボリューム満点で、男にとっては夢のような弁当なのだ。
まあ正直なところ、女性にはオススメできない野性味あふれる弁当なのだが、けっこうこの夏、ハマってしまいそうだ。


diary 2011.7.

diary 2011

index