日記は大乱調だわ電車は止まるわ、これほど停滞した実感しかない日も珍しい。やれる範囲でやれるだけやる。
動画のサイトで映画版の『AKIRA』を見る。東京オリンピック中止しちまえよ記念ってことでどうだい。
なお、マンガ版についてのレヴューはこちら(→2004.4.27)。あとこちらでも少々書いている(→2006.3.24)。第一印象は、みんな声が高えな、ということ。プレスコだからか表情が演技過剰。そんな具合に違和感から入る。
僕にファンタジー脳(能?)が欠如していることから想像がつくだろうけど、最初から最後までまったく合わない。
壊してばっかりでやたらよく死ぬうえに何かを生み出すわけではないストーリー展開で、ニンともカンとも。
ただ、これがCGのほとんど使われていない手描きのアニメとして制作された点については、素直に脱帽である。
煙が風を巻いて吹き抜けていく描写なんかは究極形ではないのか。その贅沢さはきちんと理解しなければいかん。
冷静に考えれば、この作品にはありとあらゆるパターンのアクション・暴力・破壊シーンが詰め込まれている。
絵を一コマずつ動かして、メカと超能力の描写をやりきっているわけだ。「フィクションにおける最大の自由は、
重力からの解放である」と以前書いたが(→2009.3.19)、その最も手っ取り早い手法が超能力ということになる。
この作品ではアニメーションならではの映像でその自由な想像力が再現されており、これは確かに高く評価されるはずだ。
ただ、そのあらゆるパターンを見せることが主な目的となっているとも思う。前に『シャイニング』のレヴューで、
「単体で通用する印象的なカット」の「後世に残る元ネタ集」と指摘した(→2020.4.17)。それに近い感触がする。
つまり、想像力を駆使した破壊の描写に特化したアニメーションの見本市であり、ストーリーは二の次にすぎないのだ。
(なお、これと対極的な位置にある作品としては、徹底して物理ベースでアクションや爆発の美しさを追求している、
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』が挙がるだろう(→2016.3.9/2020.9.12)。ストーリーもきちんと秀逸だし。)
この作品がストーリーよりシーンを重視している点は、歌舞伎に似た「日本的」要素かもしれない(→2008.1.13)。
確かに空間が日本的なのだ。ネオンの看板や混沌とした街並みなどのアジア描写は、強調されているってほどではない。
むしろ印象的なのはコンクリートで、それは抑制的なモダニズムの世界である。この点が「日本らしさ」であると思う。
秩序=モダニズムの表徴たるコンクリートが汚された・破壊された空間を示すことで、政治的な混乱を表現してもいる。
しかし、それがかつての学生運動の再現レヴェルに留まっている点がまた象徴的である。少々厳しい響きになるが、
『AKIRA』に哲学的な意義はほとんどない。「雰囲気」止まりなのだ。破壊の描写こそが目的で、そこに意味はない。
新しくつくられたものを壊すことには、それに対する否定という意味付けがなされる。しかし『AKIRA』の場合、
破壊される対象はほとんどが「すでに破壊されているもの」であり、それが新品であっても「太陽の下にないもの」、
つまり「見られる対象でないもの」である。壊すことに少しも躊躇を必要としないものばかりが存分に壊されるのだ。
作中の反政府組織も現代社会から見れば、「すでに破壊されているもの」にすぎない。そこに意味はまったくないのだ。
そもそも、『AKIRA』はSFっぽいけど、scienceじゃないから実はSFではない。ただそういう雰囲気でつくられただけだ。
『北斗の拳』(→2012.7.12)がSFでないのと一緒。あちらはセクタ定義されていない空間でストーリーも思想もないまま、
キャラクターの魅力だけで押し通した。『AKIRA』は同じ空間でストーリーも思想もないまま、ただ破壊だけを見せる。音楽についても評価が高いようだが、奇を衒って本来の目的を完全にはずしてしまっているように自分には思える。
劇伴として成立していないように思う。具体的には、曲に人の声を入れることでメインであるはずの演技が邪魔される。
また、必然性のない民族音楽で混乱を誘発する。これもストーリーよりシーンを優先する価値観が生み出した現象だろう。
劇伴がBGMである必要はないが、正攻法を捨てて姑息な興味の惹き方に徹する姿勢は、一流であるとは到底言えまい。ということで、結論としては、ストーリーより破壊シーンを優先する価値観を受容できる人なら評価は高くなるだろう。
そうでなければ、ただ自分に酔っているだけの駄作にしか見えないだろう。僕は後者だが、できる限りで褒めたつもり。
本日は英語のテストである。僕が問題を作成したわけではないものの、英語を採点するのもこれで最後か……と思う。
答案のアルファベット(筆跡を含む)を通して思考のクセを読みつつ点数をつけていく作業を、もうやることはないのだ。
10年ちょっと続けてきたことが、これで最後になる。でも意外と感慨深くなることはなく、淡々と採点を進めていく。
なんとか予定していた時刻までに作業は終了。あっさり、とはいかないまでも、つるっと終わってしまったのであった。
感傷に浸るような気分にはなれない。むしろ4月からの環境の方がずーっと心配。ある意味、すでに前向きになっている。
テストということで午後は休みをとって歯のクリーニング。しかし近場の歯医者で素早く虫歯を治すようにと諭される。
腕を信頼できる歯医者がそんなに簡単に見つかるのか不安しかない。でもなんとかしないといけないんだよなあ。困った。
E.H.カー『危機の二十年』。通信の大学で国際政治学を勉強した際(→2016.11.12)、古典として紹介された本だ。
きちんと読んでみたいなあと思っているうちに5年近くが経っており、一念発起してチャレンジしてみたってわけ。
訳者あとがきによれば、もともとこの本は『ユートピアとリアリティ』というタイトルにするつもりだったそうだが、
出版社側が「そのタイトルじゃ売れねえ」ということで変更されたそうだ。読むと本当に「ユートピアとリアリティ」。
かつて僕は過去ログで「政治とは理想と現実の戦いである」と書いたが(→2007.2.22)、内容がまさしくそれで、驚いた。
僕の考えていた枠組みが、そのまま国際政治の舞台に延長して論じられていて、ちょっと自分に自信が持てましたな。
ただ、そこはさすがに世界的名著だけあって、内容はずっと厳密。特にすごいのが、膨大かつ的確な引用である。
各種の引用をもとに論が展開されるが、安楽椅子(→2006.8.25/2014.2.1)ということはなく、生々しさがある。
そのうえで、無理(政治)が通れば道理(法)は引っ込む、という国際政治の弱肉強食の世界における解決を考える。カーが提示するのは、ユートピアニズム(理想主義)とリアリズム(現実主義)という対立軸である。
第一次世界大戦が終わった1919年から、本書が刊行され、また第二次世界大戦が始まる1939年までの「危機の二十年」は、
最初の10年はユートピアが、後の10年はリアリズムが優勢となり、事態を打開できないままで新たな戦争へと突入する。
カーはまずユートピアニズムの特性を論じ、次いでリアリズムの特性を論じる。国際政治における権力を分析したうえで、
最後に政治に対する法の位置付けを確認して、結論を出す。理想を捨てきらずに現実を直視し続ける姿勢が美しい。ユートピアニズム(理想主義)。キーワードは、「自由意志」「知識人」「左派・急進主義者」「理論」だそうだ。
基盤にあるのは、ベンサムの「最大多数の最大幸福」。これを倫理の規準としており、アメリカにおける自由民主主義が、
時代のおかげもあって国際政治に影響を与えた。具体的には、ウッドロー=ウィルソンが提唱した国際連盟として現れた。
最大多数の最大幸福は少数側にとっても合理的な目的となりえて、個人の最大利益と共同体の最大利益は一致するという、
利益調和説が幅を利かせることになる。そうして優勢なイギリス・アメリカの国益維持が、国際的な道義と同一化された。
この利益調和説はまた、アダム=スミス以来の自由放任主義にも通じる。18世紀の小規模な経済構造とマッチしており、
植民地や未開の地など無限に拡大する市場という前提が通用した当時は、産業革命によって拡大・浸透していった。
さらにダーウィンの進化論(=弱者の犠牲による強者の生存)も呑み込み、自由放任の肯定が道義として正当化される。
しかしこれは強者による現状の固定化を意味し、敗者には受け入れられなかった。両者の利益の衝突が理想を崩壊させる。対抗するのが、リアリズム(現実主義)。キーワードは、「決定論」「官僚」「右派・保守主義者」「実践」だそうだ。
最初の政治的リアリストはマキアヴェリであり、道義は権力から生まれると指摘した。軍備や関税などがいい例で、
道義を主張しても現実には自国と敵国でダブルスタンダードとなっている。道義の理論は支配集団が生み出すものであり、
国際的な道義も支配的な国家、特に英語圏のイギリス・アメリカがつくりだす。ユートピアニズムの理論・倫理規準は、
強国の政策を反映していると暴露した。強国側に入れない国家は国際主義に対抗してナショナリズムに訴える傾向を持つ。
ファシズムもその一環というわけだ。しかしそれを分析したところで、国際社会の主導権争いが変化するわけではない。
政治から自己主張を排除して道義を基礎にした国際政治体制をつくることを企図するユートピアニズムと同様に、
政治行動すべてが利己主義に基づくと指摘するだけで現状を変えないリアリズムも見当違いをしている、とカーは言う。ここからカーは、リアリズムが注目する権力について論じる。統治の国際化は、権力を提供する国家による統治だと言う。
そして権力を、軍事力・経済力・意見を支配する力の3つに分類する。なお、この3つは密接に絡み合って作用するものだ。
軍事力は国際政治における権力の最後の手段であり、他国が軍事的に強くなるのを阻止するために戦争することすらある。
次に経済は政治の一側面だとし、自由放任主義を否定する。自給自足経済を本質的に戦争準備の一形態であると指摘し、
国外に影響力を及ぼすために用いられる経済的武器、資本の輸出や海外市場の支配といった経済力による力の行使を示す。
最後の意見を支配する力では、最初の事例としてカトリック教会を挙げ、最も古くて最も有力な手段として教育を挙げる。
民主主義国でも全体主義国でも、大衆の意見を最重要とする体裁をとって意見を国有化する点で、大した相違はない。
対外政策の手段として宣伝は自陣営や一般住民の士気に効果をあげ、軍事力・経済力・意見を支配する力の組み合わせで、
第一次大戦での勝利が達成された。カーはそのように権力の現実を見つめたうえで、新たな国際的道義の可能性を探る。
宣伝が響くということは、国を超えた大衆に訴えることのできる、国際的な共通理念の根幹が存在するのではないか、と。
そして、国家とは国内の権力の収納庫であり、道義的行動を強制できる国家以上の権力は存在していない。となれば、
強者の国家群は、譲り合いや自己犠牲の精神をもって愛他的に行動するべきだ、またその余裕があるはすだ、と言う。
カーはまた、国際政治と法の関係を論じる。まず法と政治は切り離せない関係にあるという原則について述べる。
そして政治の舞台を、現行の法的状況を守ろうとする者と、現行の法的状況を変えようとする者の闘いの場であるとする。
この法と政治の関係は、国際分野と国内分野で同じである。つまり現状維持を望む強国は条約の拘束性を主張するが、
条約から不利益を被る弱国は権力上の立場に変化があればその破棄を望む。つまり政治は法に先行する、というわけだ。
特に国際政治は司法・行政・立法の各機関を欠いているため、法の遵守を強制することができないという条件下にある。
カーは、国際法の弱点は何か技術的な欠陥によるものではなくて、国際法の機能する共同体が未成熟であることからくる、
そう指摘する。そして最後に平和的な変革の可能性を論じるが、そこで労働争議の合法化とそれによる改善を例に挙げる。
正義についての共通感覚というユートピア的観念と、変転する力の均衡に対する機械的な適応というリアリスト的観念、
その双方の妥協によって初めて平和的変革が達成される、と主張する。以上で要約終わり。お疲れ様でした。こうして見ると、バランスを主張するカーは十分すぎるほどに理想主義である。リアリズムに支えられた理想家。
訳者解説では、なぜ理想主義に対して「アイディアリズム」ではなく「ユートピアニズム」の語を使うのかと、
面白い疑問をぶつけているが、ラストで大迷走していた。答えは単純で、カーがアイディアリズム(理想主義)だから。
彼は倫理に対する政治の優位(リアリティ)を説き、政治・経済さらには哲学理論に対して冷静な視線を見せる。
ゆえにリアリズム側とされるが、結局は権力のある国家が譲るべきだというノブレス・オブリージュの理想を貫く。
(個人的には、第二次世界大戦後にアメリカが世界経済を支えたブレトン・ウッズ体制がそれだと思う。→2016.5.20)
彼は理想を捨てないからこそ、「国際政治学」という学問の土台をつくることができた。その凄みに溢れた本である。
結局のところ、国際政治学は三権分立のない世界が舞台であるからこそ、三権分立の理念じたいをあらためて問い直す、
感情ではない論理的な理解が求められる学問であると思う。三権分立が存在しない中での合意形成を求めることは、
「政治的動物」である人間の根源的な部分を見つめることになるだろう。独自の面白さがある世界なのかもしれない。
空知英秋『銀魂』。映画館で見た予告で「お前ら、銀魂ついてんのか!?」ってセリフを聞いてからずっと気になっていた。
2巻でわかりました、これ『レベルE』(→2004.12.11)ですね。『レベルE』の最終話の世界観。江戸にしているけど。
15年77巻続いたマンガなので変化していった部分も多いが、スタート地点は冨樫の影響がかなりデカいと思われる。
絵にもそれは現れていると思う。ギャンブラーの勘兵衛なんか、まんま『幽☆遊☆白書』の左京なんだけどな。
さらに女の子は江口寿史からフォトジェニックに造形した要素も感じる。あと確かにおっさんを描くのがうまいが、
基本的に画風の幅が広いのだと思う。長期連載の中でいろんな描き方をどんどん消化していき、安定させていった印象。
作者が自分の好きなマンガから設定を組み立てていったのは確かだが、途中から妄想が離陸してオリジナリティを確保。
特にキャラクターの暴走は特筆モノで、作者の妄想力(→2004.9.19/2005.1.27/2009.2.19)を楽しめるマンガだ。
言っちゃあ悪いが、すべてが二番煎じのままで終わったマンガ(→2020.11.13/2020.12.8)とはだいぶ対照的である。
(そういえば虚って無惨様みたいね。逆か? 調べたら信女が虚について語る回の方が『鬼滅』の連載開始より先だった。)ギャグについては、明らかに言語感覚がおかしい。ギャグマンガ家は特殊な脳の構造をしているものだとよくわかる。
好調時は野田秀樹並みの言葉遊びが炸裂していて、これを70巻以上も休まず続けていたとか、正常ではないですね。
脳内でキャラが暴走するタイプで、その映像をかなり丁寧に各コマで再現しているので、読むこっちも大変である。
その分、キャラを徹底的に大切にするのが偉い。ふつうならキャサリンなんて使い捨てだろうに、きちんと出し続ける。
キャラを一人としてぞんざいに扱うことなく、しかも脳内で存分に動かすから、なかなか収拾がつかないのも当たり前。
作者や編集者を出すメタなネタも喜んでやる点からも、作者が好きで妄想に浸って作品世界を練っているのがわかる。
ずっとこの世界を描いていたかったんだなあと。最後はアプリにまで行った「終わる終わる詐欺」も、そうなるわなと。
「ひとつの物語が終わるときに取り残される感覚が嫌だった。取り残す側に転じることができるマンガ家への道を歩んだ」
とは作者の言葉だが、まさにその姿勢を貫き通したわけだ。でもキャラが止まってくれず、終わりを引き延ばした感じか。作者について特に印象的なのは、質問コーナーでの真面目な回答ぶりである。照れ隠しも多分に含むのがまた真面目。
この質問コーナーをストーリー解説に使っているのが特徴的だ。ふつうはストーリー内で外部キャラに状況説明するが、
それで手間とコマを取られるのを嫌がっており、解説を入れることよりもギャグとバトルのリズムを優先している。
わかりきっていることではあるが、このマンガ最大の特徴は、ギャグとバトルのハイレヴェルな両立ぶりにある。
正直、僕は途中でギャグにもバトルにもついていけなくなる箇所がチラホラあったが、偉業であることは理解できる。
おそらく作者の中では「キャラ > ギャグ > バトル > 設定」という優先順位だったはずだ。本当にやりたいのはギャグ。
でもキャラクターの魅力を加速するためにバトルが盛り込まれる。『ドラえもん』の大長編(→2007.11.9)のごとし。
すべてはキャラクターへの愛がなせるわざであろう。キャラクターを掘り下げるためにギャグだけでなくバトルもやる。
(僕にファンタジー脳(能?)が欠如しているので、バトル方面を世間一般より過小評価しているのは否定しない。)
そして後から設定を編集者と考えて固めていったのではないか。その解説の場が質問コーナーの役割というわけだ。
読者の想像に任せてしまうのではなく、後付けでも設定をきっちりしておきたいところに作者の律儀さが出ている。『銀魂』については、2点考えておきたいことがある。ひとつは、『鬼滅』でも書いた攻/守の主人公像(→2020.12.8)。
坂田銀時は最初、かぶき町を「守る」主人公として登場する。また3人と1匹の万事屋という枠も徹底して「守る」。
しかし傾城編での徳川茂茂のシリアス転向の辺りから、新たな秩序の構築に関わる「攻める」主人公へと転換する。
そこからは虚の登場を経て攘夷四天王が集結するが、以降の銀時はさまざまな仲間と手を組みつつ攻め続ける。
結果的には攻撃は最大の防御ということで、わざわざ「守る」形で決着をつけたことは注視しておくべきだろう。
もうひとつ考えておきたいのは、「2年後」をやる意味だ。かつて『ドラゴンボール』が開発した大転換の手法は、
『ONE PIECE』においてもジャンプの王道として踏襲された(僕はこの手法について、極めて批判的な立場であるが)。
おそらく『銀魂』の場合は、作者が先行事例を踏まえた「お約束」としてやってみせたのではないかと思うが、
当然その影響を何も考えずにやったはずはないので、物語の結末に向けてどのような意味を持たせたのかを読みたい。
単純に考えれば、2年経ってみんな成長しても変わらない関係性があるんだ、というキャラクター愛の表現になるだろう。
バトルをやりきったことでギャグの世界に戻ったルートを固定して、彼らはこれからも面白おかしくやっていくんだ、と。
実際、非常に居心地のよいストーリー空間に回帰して終わることができたのはすばらしい。見事な完結ぶりである。ところでその『銀魂』のギャグには、一定の方向性が指摘できる。僕が読んでいる間にずっと気になっていたのは、
マダオこと長谷川泰三の処遇である。彼が就職できないことは、『銀魂』世界におけるギャグの根源だったと言える。
銀時たちが面白おかしくやれることを保証していたのは、実は長谷川のマダオとしての没落っぷりに他ならないのだ。
もともと折り目正しい役人だった長谷川がマダオとして堕ちているからこそ、銀時は存分にギャグを展開できるのである。
銀時もギャグとしてダメな面を見せるが、マダオはそんな銀時を中和するセーフティネットとして機能していたわけだ。
桂小太郎も同じ傾向で、本来はリーダーとなるべき人間が最も反社会的なことをやっている。そしてギャグにもひた走る。
ギャグとは本質的に反社会的なものであり、トリックスターが外側から社会を笑うから、ギャグが成り立つわけだ。
特に『銀魂』の場合、上述の「守る」価値観とともに、社会性を拒否して延々とふざけることが持ち味となっていたのだ。
(そういえば作中に登場する大手の企業は、坂本辰馬の快援隊と少年ジャンプ編集部くらいか。作者が苦手なのだろう。)
作者がどこまで意識的かはわからないが、言語感覚の転がし方と社会性を笑うというギャグの本質に、極めて忠実だった。
ある意味、『銀魂』のギャグはドリフにおける志村けんと重なる(→2004.7.11)。鍵を握っているのは、長谷川と桂だ。
つまり、長谷川泰三と桂小太郎の反社会性を「守る」ことにより、『銀魂』のギャグは安定して生産されていたのだ。
そして2年後の『銀魂』がギャグに戻るということは、再構築された世界でも社会性を笑い飛ばし続ける宣言となる。
でもそこでやることがなくなってしまった桂が「英霊志士オバZ」として無理にギャグをやっているのは、僕には悲しい。最後に雑感。人気あるしおそらく作者も好きだから月詠を特別扱いしているよね。僕も好きだからうれしいけど。
『お前の母ちゃん何人だ』は「なにじん」なんですね。僕は「なんにん」と勘違いして「まあロック!」って思っていた。
「堺雅人ばりのうさん臭い笑顔」というセリフ、サイコーである。僕のモヤモヤを完全に言語化してくれてありがとう。
エリザベスは好きじゃないです。なんでもアリの御都合主義になっちゃうので。ドラゴニアは本当にひどいと思った。
でもそこでオバQ出すのは別の方向でもっとひどい。『銀魂』だから許される、という領域に達したのはすごいことだ。
あんぱん
本日は朝にカフェで日記を書いて、3時間目からの参戦。優雅すぎてちょっと怖い。でも正当な権利の行使である。
おかげで2018年6月分の日記をクリアした。「沖縄モダニズム」を今後考えていくうえでのいい布石ができたと思う。毎日がんばって過去の分の日記を書き進めているが、夏休みの旅行がある次の7月分はクソ重い。大いに手間取りそうだ。
でも中身の詰まったいい旅行をしているので、がんばって書く。いい旅行は書くのが大変だけど、本当に楽しいのだ。
大規模レヴューのせいで日記が混乱しています。ちまちまとネットカフェで読み進めていた『銀魂』と、
ちまちまと電車の中で読み進めていた『危機の二十年』が同時に読了となったせいで、レヴューがてんやわんや。
『銀魂』の方は、書きつけていたメモを編集するのに、大いに手間取っております。77巻というヴォリュームは凄まじい。
『危機の二十年』の方は、がんばって再読しながらメモをつくっているところ。これまた編集が大変そうだ。つらい。
忌むべき土曜授業だけど1時間目が空いていたので、2時間目からの参戦とさせていただいたのであった。
ただそれだけのことなのに、体がすっげぇ楽。こんなふうに心身ともに余裕のある生活をしたいものですが。が。
英語科を対象にオンライン会議が行われたのだが、職場のタブレットだとネットワークの不具合で通信できず。
しょうがないので自分のスマホにその場でGoogle Meetをインストールして、それで参加ということに。なにそれ。
ICT推進とか言って教員に多大な負担をかけているだけでなく、さらに私物で解決させるとかアホか。恥を知れ。
職員室でずっとため息をついてうなだれていたので副校長に心配される。事情を説明して苦笑い。すいませんねえ。
来年度は想定しうる限り最低最悪の勤務先となるようだ。オレがこの世でいちばん嫌いな漢字2文字は「国際」なんだよ。
午後はずーっと両手で顔を覆ってため息をついて過ごしたよ。ノイローゼで辞めるのが先か、無事に異動できるのが先か。
艦これレモンサワーがうまいの。ネットでうまいという噂を聞きつけて飲んでみたら、本当にうまい。
安さを追求するのではなく、きちんとした品質のものをつくるとみんなが喜ぶという、商業の原点を見た。
『坂道のアポロン』のアニメを見てみた。だいぶ前に知人に薦められたのだが、ようやく準備が整ったので。
ノイタミナ枠は僕とはまったく合わないが、その知人と監督の渡辺信一郎(→2005.1.21/2014.2.17)を信じて見てみる。結論。猛烈に腹が立つ駄作だが、「#7 ナウズ・ザ・タイム」のパフォーマンスでプラスマイナスゼロにしてやる。以上。
このアニメ(マンガ)、ジャズが作者にとって都合のよい小道具でしかないよね。ジャズ好きなら全力で怒るべきだ。
冷静に考えると、この作品でやっていること、ジャズじゃなくていいんですよ。ジャズでなくちゃいけない理由がない。
「なぜ彼らにとってジャズが特別なのか」が、実は描かれていないのだ。もっと言うと、薫のピアノで千太郎のジャズが、
千太郎のドラムスで薫のジャズが、どう特別なものに変化したかが描かれていない。これはかなり致命的な欠落である。
7話に至る流れ、ロックをいちおう受け容れる千太郎と、クラシック出身でジャズに惹かれロックをハナから拒否する薫、
そこで二人がジャズの音楽性について振り返ることがないのが痛い。ただ感情のもつれでしかなくなっていて薄っぺらい。
また、ジャズの喜び、セッションの喜びが表現されたシーンも足りない。薫と千太郎のついた離れたをやりたいだけだろ。
(あんまり「せんたろうせんたろう」言わんといて。脳内で軽く「せんたろう」がゲシュタルト崩壊を起こしかけた。)
実際のところ、作者はジャズをそこまで好きじゃないんじゃないかな。本当にジャズが好きならこんな話にならない。
人物造形も一面的。作者にとって都合がよいだけの薄っぺらいキャラクター。定型的なイジメのある進学校とかアホか。
恋愛パートも少女マンガの悪い面が全開。すれ違いで揺れ動いてピーチガール(→2012.5.2)ですか。ホモくせえし。
人間関係のすれ違いをわざとつくってマッチポンプなんだよね。あれでハッピーエンドのつもりなのか?もうひとつ問題なのが、この話は「つくる」物語ではなく、 「つくって壊してしらばっくれてまたつくって壊して」
という物語である点だ。ジャズのセッションはプレイヤーの協力によって組み立てるものだ。つまり「つくる」ものだ。
作品をつくりあげることによるカタルシス、それが最大の魅力であるべきだ。もちろんそこに人間関係の構築も含む。
しかしこの話で展開されるのは、ひたすら人間関係のすれ違い。せっかくの7話のセッションもさらに発展することなく、
高校最後の思い出があろうことか消化不良とされてしまう。りっちゃんも練習しておいてそれを披露する機会がないとか、
ストーリーとして最悪だ。ではそれを最後の教会で取り戻せたかというと……取り戻せてないでしょ。誤魔化すなよ。
こっちとしては、積んでは崩され積んでは崩され、賽の河原にいる気分だぜ。でも劇中の時間だけは経過していく。
キャラクターを大切にしていないし、ジャズもただの道具。作者の人形遊びに延々付き合わされて、気分は最悪である。そもそも音楽を題材としているストーリーは、つねに音楽に食われてしまう主客転倒の危険を孕んでいる。
具体例としては、ジャズの生演奏がストーリーの難点を覆い隠した『上海バンスキング』(→2010.2.23)がある。
本当に魅力的なのはライヴの『けいおん!』(→2012.1.7)もそう。『ハルヒ』の「ライブアライブ」(→2020.4.3)もか。
(ほかに似た例に、サッカーの『クラシコ』(→2012.3.10)、将棋の『聖の青春』(→2016.11.21)も挙げられる。)
だから、くだらないストーリーよりも全力のセッションの方が魅力的なのは当たり前。7話のセッションは本当に最高だ。
ジャズがいかに音楽として根源的なエネルギーを持っており、人々を巻き込む力があるかを実感できるパフォーマンス。
このためだけにサントラCDの購入を決意したしだい。さっき「プラスマイナスゼロにしてやる」と書いたけど、
もし『坂道のアポロン』のアニメ化が何かしら財産を残したとしたら、7話のセッションを生み出したこと、それだけだ。
実際に学園祭でこんなセッションをやった日には、モテモテどころの騒ぎじゃないはず。その広がりを期待したのに。
7話のセッション以外は褒める要素がひとつもない。7話のセッションがすばらしい、ただそれだけが存在意義のアニメ。
昨夜の地震には驚いた。あれだけ長い時間揺れたのは、やっぱり東日本大震災以来だろう。
東京では揺れ自体はそこまで激しかったわけではないが、アパートの床が円を描く感じで揺れて、かなり不安になった。
強くて短い揺れよりも、じっくり長い時間揺られ続ける方が怖い。アパートが倒壊しないかといろいろ想像しちゃったよ。震源に近い東北地方はインフラや交通を中心に混乱があるようで、復旧作業にあたっている皆様は偉いと思うのみ。
しかし10年経っても余震とは。地球にとって10年なんて一瞬のことだから、理解はできるが途方に暮れるしかない。
部活の傍ら、探し物ついでに、倉庫に置いてある荷物の片付けに取り組む。
今回はかなり思い切って整理して、段ボール3つ分を2つ分にまで削減したのであった。おかげですっきり。
結局、使わないで段ボールに入れてただ移動させていただけの要素が多かったなあと反省しております。
来年度どうなるのかまだまったくわからんのだが、とりあえず断捨離で次のステップへの覚悟を固めつつある感じ。
東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長職をめぐるドタバタが、もうアホすぎてアホすぎて。
森の発言じたいに興味はない。アホな発言に違いはないが、アホをトップに立てておいて今さら何を騒いでいるのかと。
アホなんだからそれくらい言って当たり前だろ、発言の中身よりも人間の中身がヤバいことに今さら気づくなよと。
さらに川淵もクソなのを忘れている人が多いのも困る。彼を擁護するコメントがチラホラ見られるのには呆れた。
オシム発言は決して失言ではない。本当に本当に汚い、意図的で政治的な発言だ(詳しくはこちら →2006.6.24)。
そのことをまるでわかっていない無知な人が多すぎる。それで感情とイメージだけで擁護しているからタチが悪い。結局、オリンピックをやめちゃえばすべて解決するのにね。この問題は最初っから間違っていた、ってことだよ。
スタートが間違っていたものを無理やり押し通そうとして、今のこの結果がある。その事実を冷静に受け止めないと。
これを機に、日本国と国民の劣化をきちんと直視しましょう。そして原点に戻って謙虚に一歩一歩やり直しましょう。
ここで建国記念日はありがたいけど、来週の授業が土曜まであることに戦々恐々としております。
いかに体力的に精神的に余裕をもって春休みまでたどり着けるのかを考える日々は虚しいのう。
やべえ。1年生男子の間でモンティ・パイソンブームが到来。原因は僕です。すいません。
ブームといっても行動がまともじゃなくて、休み時間に廊下で「モンティパイソーン!」と叫び声があがると、
それに呼応して別のところからも「モンティパイソーン!」という叫び声があがるという痴態ぶりなのである。
いや、それはおかしいだろ!と思っても後の祭り。学年の他の先生方にこの事態をなんと説明すればいいのか……。
しょうがないので給食時のBGMで全校に『Always Look on the Bright Side of Life』を流してやったぜ。生徒大喜び。
早朝スーパーボウルである。毎年情報遮断に多大なるエネルギーを消費しているので(→2016.2.9/2017.2.7/2020.2.4)、
今年は発想を転換して早寝早起きし、録画完了したてのホヤホヤ映像を味わうのであった。最初からこうすりゃよかった。
しかし起き抜けの頭にラルフ鈴木の実況はクソうるせえ。キンキンしてイラつく声で、ずっと聞かされているとウンザリ。
昔っから日テレのスポーツ実況は、叫べばいいと思っているバカが多いことでおなじみ。本当に勘弁してほしい。さて今年のスーパーはわかりやすいQB対決だ。ディフェンディングチャンピオンのチーフスQBマホームズに挑むのは、
なんと御年43歳の……ってタメじゃん! まあとにかくトム=ブレイディ。バッカニアーズ移籍1年目でまたスーパー。
実力があるからこそなのはわかるが、正直飽きた。あんまりどっちも応援する気になれないなあ、と思いつつ見る。
しかし起き抜けなのとアメフト見るのが久しぶりすぎなのと実況がうるさいのとで、序盤は混乱気味なのであった。
最初はどっちも守備がいい感じだったが、さすがはブレイディで、気がつきゃスルスルとタッチダウンをとっていく。総括すると、アメフトは特に集中力が大事なスポーツなんだなあと痛感させられるゲームとなった感じ。
第2Qでチーフスが残り1ヤードの大ピンチを止め切ったのは感動的だったのだが、結果として粘ったのはそこぐらい。
バッカニアーズはチーフスの守備をかいくぐるのが本当に上手い。しかもよく見ていると、恐ろしいことに、
ブレイディはチーフスの反則を誘うプレーをいちいち選択しているのだ。それできっちりヤードを稼ぐ老獪さ。
またバッカニアーズは守備の場面でも、マホームズにロングパスを出させてターンオーヴァーの罠にはめてくる。
マホームズはとんでもねえ身体能力で、味方が対応できるのが不思議な状況・タイミングでパスを出すが、止められる。
バッカニアーズ守備陣は相手に前を向かせない方向からのプレスやタックルを徹底しており、体の使い方が上手いのだ。
この辺はサッカーに通じる。守備では一瞬たりとも穴をつくらないこと、攻撃ではピンポイントのパスを受けるセンス、
つまりは集中力の差が31-9という一方的なゲームをもたらしたのではないか。最初、こんなに差がつくとは思わなかった。
バッカニアーズは堅守とブレイディのいやらしさで勝ち切った感じ。全盛期の西武みたいな印象のアメフトだったなあ。
最近のT-SQUAREをチェックしようということで(→2021.2.1)、さっそく2014年『NEXT』以降を借りて聴いてみた。
SACDハイブリッドとなっているので音質がたいへんよい。これを当たり前にした判断はさすがだなあと思う。
演奏レヴェルが高いこともあって、ジャズを母体にしたクロスオーヴァーということで安定した曲は多い印象。
つまりBGMとしてはかなりよい。しかし、曲じたいを目的として聴くにはパンチが弱い。メロディの魅力は激減した。
キャッチーではなくなってしまったなと。オレが歳くってメロディに対しての感性が弱まっている可能性もあるが。
僕にとって最も魅力的なメロディは、『NEXT』収録の「Kiss and Cry」かな。これは90年代に引けを取らないと思う。
他にも『Paradise』収録の「Through the Thunderhead」もよい。J-Popにも負けないメロディが欲しいのだ。
しばらくいろいろ聴いてみて、もうちょっとその魅力を探り出してみたい。楽しめる曲を増やしていかないとね。
何を血迷ったのか、椎名へきるのベストアルバムを借りてきているんですよ、はっはっは。今どき!
あらためて聴いてみると、歌うまくないねー! はっはっはと笑うしかないではないか。いやもう恥ずかしい。そうはいってもなんだかんだでやはり青春の1ページなのであるちくしょう。
今となっては世間的には「『勝者、大洗女子学園!』って言う人」という認識なのかもしれんが、
私が大学に入学する前後は違ったのだ。特にオレ、コナミっ子だったし。以前書いたが(→2016.10.27/2017.2.18)、
「『名盤』という概念は結局のところ、個人が10代のときに衝撃を受けた好みのものでしかないのかな」、
いや名盤とまでは思いませんけど、『目を覚ませ、男なら』は客観的にようできていると思うわけです。
こみ上げてくるものがある。さすが後藤次利。ほかの曲も1990年代のテイストと相俟って、
当時のなんでもかんでも愉快だった記憶が蘇ってくるのである。あのひたすらお気楽だった日々が。
だからすいません今まで嘘ついていたけど浪人時代にのぐっつぁんとナゴヤ球場で野球の試合を見たって話、
アレ本当は椎名へきるのコンサートでした。ふたりで1階席のマジファンにビビりつつアウェイ感に浸っていました。なんだ今日の日記。マサルよ、これでいいか。オレの日記、カッコつけてばっかじゃないんだぜほら。まいったか。
今週の土曜日も部活。そしてケガ人がまた出た。やっぱり終盤の時間帯である。3週連続の応急処置。勘弁してくれ。
若手教員の研修として行われた社会科(日本史)の研究授業を見学させていただく。
内容については、とやかく言うつもりはない。4月からの移籍をご存知の方々から「どうでした?」と訊かれたが、
わしゃあ専門が地理でございまして。世界史や日本史についてはむしろ生徒に近い立場ですので。ニンともカンとも。
もし4月から「歴史やって」って言われたら、オレこんなんできるんかなあ……と思うのみである。ホントにそれだけ。
あとは、少人数授業が当たり前な身としては、40人弱を相手に授業をするのは本当に大変だなあとしみじみ思う。ただ、同じ単元を僕がやるとしたら、アプローチから何からまったく違うものになるのは確かだろう。
それが生徒たちにとって好ましいものになるのかどうかはわからん。そもそも他人に好ましい授業がよくわからん。
僕が授業を受ける立場だったら歴史的事実を理解するためにどんなアイテムが必要か、そこから入ることになる。
やっぱり、過去のできごとに興味を持たせる、そこに焦点を当てて話の展開を練っていくんだろうなと思う。
旅行して写真の資料はそれなりにあるから、それを使った空間面からのアプローチが多くなるかな。地理人間だし。
そしてどちらかというとゼミに近い雰囲気になりそうだ。やっぱり「演劇クーロンの法則」(→2020.7.2)が問題だな。
緊急事態宣言の延長によって、学校行事が大きく影響を受けております。うーん、世間体。まあしょうがないけどね。
個人的なことを言うと、さらなる延長によって春休みの旅行ができるかできないかがまるで読めないのが困る。
どうせ個人行動で、ウイルスをばらまくスタイルの旅行ではないとは思うのだが、やはり緊急事態宣言下となると、
心から旅行を楽しめないではないか。「東京から来ちゃってスイマセン」が旅行中ずっと続くのはストレスなのだ。
それで今からやきもきしているんだぜ。ふだんの生活でどんだけ楽しみがないんだよ、と自分で情けなくなってくる。
今日は早く帰れるぞチャンスだったのだが、結局いつもの時間まで仕事。正直いろいろ思うところはあるのだが、
こらえることができているのは、4月から変わる保証があるから。もっとも、これは今日の我慢に限ったことではない。
例年よりも穏やかな姿勢で人に接することができているのは、4月から変わるという保証があるからに他ならないのだ。
やはり人間、余裕が必要なのである。問題は、何もすがるものがないときに、どうやって余裕を生み出すか。
たいへん難しい問題だが、ここを解決できるようになることが理想である。つねに余裕のある人間でありたい。
日記が記録的な不調であります。原因はいくつかあって、まず、冬休み明けから変化のない日々への純粋な疲れ。
それから、こないだの「甲府論」(→2018.4.3)のバーンアウト。あとは2018年4月の日記にレヴュー系が多いことで、
確認作業に手間取っていること(ぶっちゃけ、3年前のことなので忘れている部分を復習するのに時間がかかっている)。
これらの要素が一気に重なってきたことで、本当に日記が進まない。まさに産みの苦しみのど真ん中。しぶとく耐える。
2月に入り、僕にとって非常に衝撃的なニュースが飛び込んできた。安藤正容のT-SQUARE引退というニュースである。
インストゥルメンタルの音楽に興味のある人なら、全員が「信じられない!」という反応になるであろう大ニュースだ。
T-SQUARE=安藤正容という等式は未来永劫不変だと思っていたのだが、それが成り立たなくなる日が来るとは。安藤正容という人は、おそらく僕が最も量的に圧倒されてきた作曲家である。いやもちろん質も十分すぎるのだが、
とにかく量がすごい。僕のiTunes/iPodのレートで、星5つの曲を最も多くたたき出しているのは、たぶん安藤正容。
「メロディメーカー」という表現はまさにこの人のためにあるんじゃないか。それでいて、構成に破綻がない。
あまりに魅力的なメロディラインのせいで構成がおかしくなってしまう曲ってのがたまに存在するものだが、
安藤正容にはそれがないのだ(その点、CASIOPEAはわりと構成に苦しむ傾向があったのは否めない……)。
フェイドアウトで上手く逃げているところはあるけど、様式美が確立されていた。王道を感じさせる作曲家なのだ。前も書いたが、1980年代後半から1990年代半ばまでのTHE SQUARE/T-SQUAREは無敵状態(→2006.8.23/2013.11.12)。
しかしその後のスクェアについてはきちんと追いかけてこなかった。最近では最初からHYBRID CDになっていて、
高い音質で楽しめるようなので、この機会にチェックしていく。ラストスパートを全力で追いかけさせていただこう。