diary 2011.2.

diary 2011.3.


2011.2.28 (Mon.)

あと10日に迫った「3年生を送る会」で何をやるかの話し合い。われわれ、これが後輩としての総決算になるわけで、
2年生としてぜひとも気合の入った出し物をやって卒業生を送り出したいわけだ。が、これが本当にアイデアが出ない。
そしてまるで自分には関係ないです、と言わんばかりの態度。お前らが当事者なんだぞ!と何度言っても無反応だ。
内輪ネタのバラエティ番組を劣化させた内容のものが出ればまだマシな方、という有様に頭を抱える。
未来を背負って立つ中学生たちがこんな調子で大丈夫なのかニッポン。いや本当に背筋が凍った。


2011.2.27 (Sun.)

無茶をしました。今日は本当に無茶をしました。どんだけ無茶をしたのかはあえて書かないけど、
まあこんなこと、もう二度とあるまい。いや、あってはいけない。もうしません。さすがにもう無理。


2011.2.26 (Sat.)

今日は何もしないと決めて過ごす。それでボーッとしていると時間がもったいなく思えて、
かといって日記を書くには気力がなかったので、今までのパノラマ写真をつくり直してみることにした。
過去ログで使ったパノラマ写真もぜんぶ、Photoshop CS5を使ってやり直してみたのだ。
そしたらうまくいったものもあるし、まるっきりダメなものもあった。
うまくいったものについては現在進行中(長らく停滞中)のホームページ改修工事が済んだ段階でアップします。
まったく、いつになるやら……。

しかし毎年毎年、折田先生像はすごいなあ。京大マジであこがれるわ。本当にうらやましい。


2011.2.25 (Fri.)

英語の学年末テストである。結果はまあ、まずまずかなあ、といったところ。
僕のつくる問題は難しいので、いつもどおりに平均点は50点ぐらい。
でも今まで英語が苦手でいたやつも、コツコツやっているやつについては徐々に成果が出てきている感じ。
ちゃんとやっているやつには自信を。そうでないやつには危機感を。テストづくりってのは難しいもんだわ。


2011.2.24 (Thu.)

テスト前日ということで、Illustratorでの微調整に追われる。今まではExcelでつくっていたのだが、
今回からはIllustratorでつくっているのだ。おかげで細かいところまでコントロールできるので、
その分いろいろと凝ってしまって、ホントにクタクタ。でも小塚ゴシックはやっぱり見栄えがしていい。
僕は出版社にいる頃からふつうのゴシックが嫌いで嫌いで、当然MSゴシックも大嫌いである。
明朝体にはそれほど差を感じないのだが、凝ったところのないただのゴシック体は野暮ったくってイライラする。
シンプルなだけにかえって、ヒラギノや小塚ゴシックなんかとの差を歴然としたものとして感じるのだ。
そういうわけで、Illustratorでのできばえにウットリしながら作業をしております。まあ、自己満足なんだけどね。


2011.2.23 (Wed.)

テストづくりでフラフラになっております。毎回どうしてこうスケジュールがタイトになってしまうのだ?
余裕を持ってやろうと思ってはいるのだが、なんだかんだできちんと取り組む暇がなく、
いつも直前になってバタバタする、その繰り返しとなってしまっている。いったいどうすりゃ直るのか。


2011.2.22 (Tue.)

NODA・MAP『南へ』。野田秀樹の新作で、妻夫木聡と蒼井優が主人公とヒロイン。

ひとつとして面白い要素のない内容だった。ストーリーは火山の監視所に現れる正体不明の男女ふたりが、
そこを視察に来る天皇とともに、自分すら何者なのかわからない虚実ないまぜの状況でやりとりをするというもの。
天皇制を扱いつつ大韓航空機爆破事件(北朝鮮のスパイつまり金賢姫)を混ぜてマスコミ批判までやっているのだが、
いよいよもって野田秀樹の想像力が現実の事件に対して惨敗するという構図が手の施しようのないレベルに来た。
日本人という概念・アイデンティティの曖昧さがテーマではあるが、それを物語として消化することは到底できていない。
大勢の役者を使ったアンサンブルも見事ではあるものの、ストーリーに対しては不発。無意味となっている。
野田秀樹の演劇を観てこれだけ腹が立ったのは初めて。アンケートにも「お前はもう休め」と書いてしまったくらい。
時間のムダ、お金のムダとしか思えず、次回作が同じ「現実の事件を下敷きにしてアンサンブルを集めて……」
というパターンなら、もう観るのはやめてしまうつもりだ。もういいかげん現状に飽きて、大胆にやり方を変えないとダメだろう。
でも野田秀樹は『THE BEE』なんて下らない作品(→2007.6.26)を再演しようとしているので、もう終わっちゃったのかも。


2011.2.21 (Mon.)

研究授業をどうにか切り抜けた。岡山旅行で充填したエネルギーで乗り切った感じである。
教員の世界にはよくわからないけど研究授業の様式というのがあって、偉い人が来て講評をするのだが、
11月のとき(→2010.11.16)よりも良くなっていると褒められた。僕はその前回のことをよく覚えていないし、
(それはなんだかんだで夢中でやっていたので客観的に自分を見つめ返せるわけがないという意味で、だ)
授業はライヴだから善し悪しなんて外からそんなに簡単に決められるもんじゃないと思っているので、
あまりそのことについては実感がわかないし、喜ぶ気もない。でも喜ぶふりをしないと失礼っぽいので、
いちおう喜んでいるふりをする。僕はその辺の感覚がふつうの教員の皆様と大きく異なっているので困る。
まあ、直す気なんてさらさらないけど。宗教を信じないのと同じ感覚だな、言ってみれば。オレは教員教は信じないよ。


2011.2.20 (Sun.)

やっぱりわれわれ昨日の無茶がたたったのか、当初の予定よりも少し遅れて起床。
朝食は津山でリョーシさんが買った津山ロール。まあ正直、松山のタルトとあまり変わらない印象なのであった。
メシというよりは明らかにおやつなのだが、おいしくいただくと元気にリョーシ邸を後にする。
昨日の日記にも書いたが、旅行2日目の今日は福山と尾道という旧備後国の広島県に足を伸ばすのである。
そして尾道からはさらに寄り道をして、しまなみ海道で愛媛県にまで入ってしまうのだ。今日も無茶なのだ。

リョーシさんは自分の車で、僕はラビーさんの車に乗せてもらって移動開始。まずは福山市を目指す。
国道2号から高速道路に入って西へ。やっぱり高速道路ってのは快適だなあとあらためて思う。
福山東ICで降りてちょっと走れば福山駅が見えてくる。でもそこは当然、福山市役所に寄らせてもらう。
それにしても福山市街は道も広いし建物も大きい。かなりの都会なのだが、なぜか東日本ではそれほど存在感がない。
人口は50万人近くあり、広島県では広島に次ぎ2位。中国地方で県庁所在地以外の都市では最大規模の街なのだ。
車の中でラビーさんと「福山って都会じゃん!」とうなりながら過ごしたのであった。

  
L: 福山市役所。非常に巨大。デジカメの視界に収まるギリギリなのであった。設計は佐藤総合計画で1992年竣工。
C: 西側の棟。議会でも入っているんだろうか。  R: 東側の棟。こちらはずいぶんと質素である。

福山というと、歴史に詳しい人なら鎖国を終わらせた老中・阿部正弘の名前がすぐに出てくるかもしれない。
残念なことに知名度は高くないが、幕末の日本で非常に優れたバランス感覚を発揮して歴史の道筋をつけた人だ。
(ただし、阿部正弘はずっと江戸におり、地元であるはずの福山の土を踏んだのはたったの一度だけだったそうだ。)
阿部正弘は幕府の人材不足を認識し、能力重視で人材を登用するほか、外様大名の力を生かして政治を行った。
この人が若くして亡くならなかったら、戊辰戦争のような悲劇を食い止めるとは言わないまでも、
もうちょっとマシな形で済ませることができたかもしれない。また、もっと重要な活躍をしたかもしれない。

さてリョーシさんとの合流地点は福山城。広島県立歴史博物館の裏が駐車場で、そこに車を停める。
福山市役所は駅の南側にあるが、福山城は駅のすぐ北。それで山陽本線のガードをくぐったのだが、
そうしたら福山城の石垣があまりに駅に近かったので本当に驚いた。道を挟んだ駅のすぐそこから石垣が始まる。
城の本丸をつぶして駅をつくった長岡の例は特殊にしても(戊辰戦争の関係でそうなってしまったのだろう)、
たとえば明石も駅のすぐそこに城があったが(→2009.11.21)、これほど近いのは初めてだ。びっくりである。
もっとも、駅が本丸のすぐ南につくられたことで、城下町の商業区域がそのまま発展していったプラス面も大きかったようだ。

リョーシさんと無事に合流を果たすと、さっそく裏手から福山城に登城する。
いかにも街中にある手頃な高さの城、という印象だ。周囲は公園としてしっかり整備されている。
石段や坂をちょっと上ればすぐに本丸に着く。観光客というよりは地元住民といった雰囲気の人が多い。

  
L: 福山城公園。周囲は大規模な公共施設が並ぶエリアとなっている。  C: 冠木門で記念撮影なのだ。
R: 福山城本丸。現在の天守は1966年に再建された。しかしかなり不正確な再建ぶりとなってしまっている。

福山の歴史は福島正則の改易(→2010.9.24)により始まるのだそうだ。それで毛利家に対する抑えが必要となり、
徳川家康の従兄弟である水野勝成が大和国郡山からこの地に移された。すでに一国一城令が出ていたが、
幕府が直接資金を出すなどして10万石の石高にしては巨大な城がつくられて、福山藩がスタートを切ったのだ。
築城に際しては伏見城の建物や木材が大いに利用されており、特に移築された伏見櫓は現存の櫓では最古のものだ。
天守も姫路城や松本城などに匹敵する傑作として国宝の指定を受けるほどの評価を受けたが、
残念なことに戦時中の福山大空襲によって焼失。今の天守は再建ブームの中でつくられたもので、再現性に乏しい。

  
L: 本丸側から見た伏見櫓。伏見城・松の丸の東櫓を1620(元和6)年に移築したもの。外側から見る方がずっと美しい。
C: 筋鉄御門。福山城で現存する建築物はこれと伏見櫓ぐらい。どちらも重要文化財である。
R: 福山駅の建物と、その下の石垣。二の丸をぶっつぶして建てた証拠がこうして今も残っているとはびっくりだ。

福山城を後にすると、次に目指すのは鞆の浦。広島県道22号をひたすら南へ芦田川沿いに下っていく。
そうして市街地を離れて今度は海沿いを走る。半島の突端までは行かないその手前、漁港の雰囲気が漂いだす。
道路に沿って海産物を扱う土産物屋の姿が見えたら、そこは鞆の浦なのだ。渡船場の隣にある駐車場に入る。
3人そろって歩きだすと、渡船場の中に坂本龍馬の顔ハメ(『へんな趣味オール大百科』の表記による)を発見。
ここは龍馬が船の衝突事故の賠償交渉をした場所ということで、そんなことでも観光のネタにするとは恐ろしい。
日本全国どこもかしこも龍馬で街おこしばっかりだなあ、と本気で呆れた。

さて鞆の浦である。街としての正式な名は「鞆(とも)」で、港としての正式な名は「鞆港」。
それがいまだに「鞆の浦」という呼び方が定着しているところに、歴史の古さを感じるのだ。
鞆の浦が栄えた地理的な理由は、ここが瀬戸内海の真ん中に位置していること。
つまり、満潮時には四国の東西両側から瀬戸内に水が入り、干潮時になると今度は水が流れ出るわけで、
鞆の浦はその水(潮)の流れが東西に分かれるちょうど分岐点となるのだ。ここを境に潮の流れが逆転するのだ。
そのため、鞆の浦は古来より「潮待ちの港」として栄えたというわけだ。
ちなみに京を追放された足利義昭はここを拠点に信長打倒を目指し、宮城道雄はここで育って『春の海』を作曲した。

渡船場のすぐ真向かいにあるので、鞆の浦でいちばん最初に訪れたのは福禅寺対潮楼。
ここから眺める景色は美しいことで有名だそうで、じゃあ見に行こう、となったのだ。
境内からタダで覗けねえかな、とデジカメを持ち上げて撮影したけどまるでダメで、素直に200円を納めて中へ。
対潮楼の中は朝鮮通信使の資料がたっぷり展示されており、なかなかお勉強になる。
肝心の景色もなるほどこれは見事で、まさに一幅の絵を眺めているかのようだった。
それにしても柱に掛かっていた明治維新の立役者が一堂に会した写真はあまりにも怪しすぎだが、あれは何なんだろう。

  
L: 渡船場前からは対潮楼はこんな感じ。  C: 境内に上ってみました。けっこう見事なお堂なのである。
R: 対潮楼は奥にある。正座して眺めると、このような光景が味わえる。浮かんでいる船は仙酔島行きの平成いろは丸。

鞆の浦はかつて港町として大いに栄えていたが、日本の交通体系が水路中心から陸路へと変化し、
それによって完全に取り残されてしまった場所でもある。だから古い建物がとてもよく残っている。
そして道幅が非常に狭いままになっており、車にはまったく向かない街の構造となっている。
まあつまり、かつての日本の姿をまだまだ色濃く残している場所なのである。歩くだけでその事実が感じられる。

  
L: 鞆の浦の住宅街。細く曲がった路地の中、江戸時代から残る家もある。どこか懐かしい。
C: 木造住宅が非常に多く残っているのだが、中にはこんなモダンな建築も。全体的にかなりきれいにしてある。
R: 鞆港。時代は変わっても、漁港としての賑わいを感じさせる。

鞆港へと出てみる。途中には石畳の路地に木造の店舗が並び、いかにもな雰囲気である。
かつて鞆の浦の名産品・保命酒(ほうめいしゅ)の蔵元だった太田家住宅(重要文化財)では、
ひな人形の展示がなされており、入ってみることにした。ラビーさんはドラえもんの変わりびなに興味津々。
ちなみに保命酒は生薬を含む酒なのだが、養命酒とはちがって医薬品にはなっていないそうだ。

  
L: 鞆港への路地を行く。規模は大きくないのだが、観光客でなかなかの賑わいぶりだった。
C: 太田家住宅前にて。リョーシさん・ラビーさんと中に入るかしばし迷う。  R: 港側から見た太田家住宅。

  
L: かつての保命酒蔵を利用して、さまざまな変わりびなが展示されているのだ。
C: ドラえもんの変わりびな。  R: こちらは『おじゃる丸』なのだ。月光町ちっちゃいものクラブが大活躍だな。

鞆港周辺はだいぶ観光客向けにきれいに整備がされており、海に面して観光ポイントが並んでいる。
いちばん奥には江戸時代に建てられたという常夜灯が鎮座している。江戸期というわりにはなんとなくきれいだ。
それより手前には、いろは丸展示館。こいつが沈没したことで坂本龍馬が賠償交渉のため鞆の浦に来たわけだ。
いくらなんでもそこまで龍馬ブームに踊らされてもなあ、と3人とも内心思っていたのか、こちらの中には入らず。

  
L: いろは丸展示館前にて。  C: 鞆港の常夜灯。典型的な記念写真スポットとなっております。
R: お寺の近くには山中鹿介幸盛の首塚があった。前回の裏日本ツアーでも彼の石碑があったなあ(→2009.7.18)。

ぐるっとまわって山中鹿介の首塚を見つける。信長に利用されつつも尼子家再興のために奔走した彼は、
毛利家に捕まってこの近くで殺されてしまったのだ。お参りをすると、そのまま鞆の浦観光情報センターに出る。
鞆の浦は宮崎駿が訪れて『崖の上のポニョ』の構想を練ったとかで、ポニョグッズがやたらめったら置かれていた。
龍馬といいジブリといい、聖地巡礼させようという魂胆がちょっと激しすぎる気がしないでもない。
とはいえ鞆の浦は魅力的なんだけど、広さがないので観光資源が不足気味だとも感じる。しょうがないのかもしれない。
リョーシさんは「最近疲れ気味だから」と保命酒を買うのであった。バッチリ効きましたかね?
そして駐車場への帰り道、ラビーさんは店の人に薦められるがままにちくわを買うのであった。
僕もひとつ食べさせてもらったのだが、港町らしくきっちりと竹の輪に魚のすり身をつけて焼いた本物だったので、
歯ごたえがあってたいへんおいしかった。やはり旅先でケチケチするのはつまんないね。

鞆の浦の次は尾道へ行くのだが、なんせ鞆の浦の狭い道は車にはまったく向かないので非常に困った。
そのまま鞆の浦を突き抜けて半島をぐるっと回って西の尾道を目指そうとしたのだが、うまく抜けられない。
それで結局、リョーシさんの車とは完全にはぐれてしまったのであった。こっちにはカーナビがあるのに。
どうにか鞆の浦を抜けたところでまた一難。素直に県道47号を進めばまったく問題なかったのだが、
カーナビの指示に従ってさらに海沿いの道を行ったので、かなり遠回りをさせられることになってしまった。
常石造船のドックを外から見られたのはなかなか面白かったのだが、それぐらいしかいいことはなかったなあ。
何をとち狂ったのか、カーナビは僕らをフェリーでいったん向島を経由してから尾道に行かせようとしやがったのだ。
そのことに途中で気づいて僕とラビーさんは大いにずっこけるのであった。このナビ信用できねー!と。

尾道市役所でリョーシさんと合流した頃にはすっかりお昼の時間帯。尾道のランチは当然、尾道ラーメンなのだ。
しかしリョーシさんによると、ガイドブックでチェックを入れていた店はどこも長蛇の列ができているとのこと。
ラビーさんが駐車の手続きをしている間に尾道市役所の撮影を済ませてラーメン屋の様子を見た僕もびっくり。

  
L: 尾道市役所の隣にある尾道市公会堂。土井崇司の設計で1963年に竣工。本当は直方体だけど広角でゆがんだ……。
C: 尾道市役所。意外となかなか幅がある。増田友也の設計で1958年に竣工。非常にモダニズム庁舎である。
R: 北西側から眺めてどうにか全体を収めた。すぐ裏側は海なのだが、そっちから見ても同じデザインになっている。

かといって尾道ラーメンをあきらめるなんてことはしたくない。しょうがないのでとりあえず、駅方面へと歩く。
すると、比較的空いている店を発見したので即決して入る。こちらの店は、以前はガイドブックに載っていたようだ。
店の皆さんはウチだって旨いぜ!と誇りを持ってやっているようなので、安心して尾道ラーメンの大盛りを注文。
出てきたのは背脂と浅葱を浮かせた典型的な尾道ラーメン。麺が特徴的で、細さと平べったさがチキンラーメンっぽい。
ご当地ラーメンはいろいろ食ってきたが、これはなかなかはっきりとした個性のあるラーメンだ。
尾道に来るのは2回目だが、前回(→2008.4.23)できなかった市役所とラーメンを両方味わえてよかったよかった。

 尾道ラーメン。数あるご当地ラーメンの中でも特徴がはっきりしている。

無事に尾道ラーメンを食べることができて満足すると、いったん尾道を離れる。
3人でラビーさんの車に乗り込み、国道2号のバイパスに出て、「しなまみ海道」へと入った。
正式名称は西瀬戸自動車道。瀬戸内海に浮かんでいる6つの島を10本の橋で結んでいる高速道路なのだ。
昨年10月に四国を訪れた際に今治港や今治城から眺めた、島々を結ぶあの白い橋と道路だ(→2010.10.11)。
ところがこれ、高速道路なんだけど、側道を自転車で走ることもできる。このサイクリングがなかなかいいらしい。
時間的な余裕があればぜひ挑戦してみたいところなのだが、まあとりあえず今回は車でかっ飛ばす。

新尾道大橋を渡ると、最初の島・向島(むかいじま)である。尾道からはすぐ近いので島という感じはあまりない。
むしろ川を渡って山の中に入ったような印象すらする。島というのは海から隆起して存在しているものなので、
基本的には起伏が激しいわけだ。だから山間地帯を走り抜けていく、そういう感覚になる。
特にしなまみ海道は向島のど真ん中を貫通する格好になっているので、よけいにそう感じられるのだろう。
程なくして因島に入る。因島はポルノグラフィティと東ちずるを生んだことで知られる(リョーシさん談)。
因島に入ってすぐの大浜PAでちょっと休憩。土産物屋を覗いたが、みかん関連の商品が非常に多い。
瀬戸内は小豆島のオリーブ栽培など、果樹類、特に柑橘系の栽培がとても盛んな土地なのだ。

生口島(いくちじま)に入ると道路は海沿いなので、瀬戸内海に浮かぶ島々を堪能することができる。
この辺りから「なるほど確かに『しまなみ』だねえ!」という気分になってくる。山国育ちの僕にとっては、
橋でつながれた高速道路で島を渡るというのは非日常そのものなのである。独特の浮遊感にワクワクする。
海の向こうにはうっすらと四国らしき青い影が見える。曇りだけど、絶景。見とれて過ごした。

 
L: しなまみ海道を行く。橋で島々を渡るというのは初めて味わった。とっても楽しいですね、これ。
R: ふと海を眺めると、島々が浮かぶ向こうに四国の山々らしき影がうっすらと見える。ちょっと幻想的だ。

このまま四国に上陸してしまいたいところだが、さすがにいくらなんでもそんな余裕はない。
僕らの目的地は生口島から多々羅大橋を渡った次の島、大三島(おおみしま)だ。
実は伊予国の一宮は愛媛県本土(変な表現)ではなく、この大三島にあるのだ。ちょっと参拝しようぜ、と。
大三島ICを降りるといったん海沿いに北へ進み、県道を一気に進んで島を西へと横断する。
伊予国一宮・大山祇(おおやまづみ)神社は大三島における最大の名所であるので必ず案内表示がなされている。
それに従えばまったく迷うことなく到着できる。隣の道の駅に駐車して車を降りる。客は意外と多かった。

大山祇神社は大山積神を祀った神社で、非常に古い歴史を持っている。山の神、海の神、そして戦いの神として、
朝廷や武将から敬われてきた。朝廷から「日本総鎮守」とされたことだってあるほどなのだ。
そしてこの神社最大の特徴は、源氏や平氏など多くの武将が武具を奉納していることだ。そしてそれが残っている。
そのため、国宝・重要文化財に指定された日本の甲冑の実に40%がこの神社にあるというのだ。これはとんでもない。
それらは境内の隣にある宝物館にあるということなので、もちろん後で見に行くことにするのだ。

さて昔からこの地が聖地として大きな影響力を持っていた(伊予国の一宮を島にある神社にした)ということはつまり、
つまりはそれだけ瀬戸内の海上交通が重要だったということでもある。日本の歴史は海路で考えないといけない。
鳥居の前に立つ。左右の灯籠の奥には石で柵がつくられているが、そこに刻まれているのは造船会社をはじめ、
海運に関する会社の名前がずらりと並んでいる。この神社は昔から変わることなく、今も崇敬を集めているのだ。
僕の場合、公共交通機関でのアクセスしやすさを基準に旅程を組むのが半ば当然となっているのだが、
そういう視点では大切なものを見逃してしまっているのだ、ということをあらためて実感させられた。

そんなこんなで鳥居をくぐると、右手に斎田があった。神様のための田んぼである。
ここでは一人角力が神事として行われるという。稲の精霊と「一力山(対戦相手はこの四股名となる)」の三本勝負で、
稲の精霊が2勝1敗で勝つことになっているのだそうだ。案内板の解説を読み終えたところでさっそく、
リョーシさんが僕にカメラを向ける。そりゃもう、やるしかないでしょ一人角力。

  
L: 大山祇神社。この先にある楼門など、近年になって新しく整備したものが多い。昔も今も敬われている神社だ。
C: 斎田の前でさっそく一人角力をとる私。いい歳こいてスイマセン。  R: うおー! のこったのこった!

とまあ、適度にバカをかましつつ、でもマジメなところはきちんとマジメに境内を散策していく。
もともと大山祇神社の境内はクスの原生林だった。そのため、今もクスの巨木がいくつか残っている。
その中でもトップクラスの迫力なのが能因法師の雨乞の楠で、樹齢3000年ですと。また境内の真ん中には、
乎千命(おちのみこと、小千命)御手植の楠があり、こちらは樹齢2600年だという。
文字通りに神代の昔から生きている木々が目の前にあるというのは、実にロマンティックなものだと思う。

  
L: 大山祇神社の境内。中央奥にあるのは乎千命御手植の楠。国の天然記念物となっている。
C: 能因法師の雨乞の楠。どこかかっこいい。  R: 境内の隅にある十七神社。神社が17連発しています。

まあいくらバカをやっていても、やはり神社の境内というのは厳かな気分になるものだ。
大山祇神社の場合、周囲のクスが歴史を感じさせる空気を振りまいているのか、妙な落ち着きがある。
神門を抜けて拝殿でお参りをして、おみくじを引いたら凶が出たよ!
とはいえ個人的には凶は「これ以上悪くなりません」と言われているような気になるので、嫌いではない。
毒にも薬にもならない小吉や末吉よりはよっぽどいいや、なんて思っているんだけど何かまちがってますか。

  
L: 大山祇神社・神門。1661年に松山藩主・松平定長が寄進したという。  C: 重要文化財の拝殿。なかなか独特。
R: 凶を出した僕。リョーシさんにリクエストされてこの表情。ヒゲ剃ってなかったんで薄汚くて失礼しました。

さて参拝を済ませると、いよいよ宝物館である。入館料は1000円するが、それだけの価値がある。
歴史上の名だたる偉人たちが奉納しまくった国宝や重要文化財がゴロゴロ。これはもう、この目で味わうしかない。
宝物館の建物はいかにも昭和モダニズム。中は薄暗いが、それは歴史の重みを感じさせるいいスパイスになっている。
まず1階には長刀をはじめとしてさまざまな大きさの刀が収められている。日本の刀ならではの端整な美しさがたまらない。
2階より上は大太刀や鎧に兜など、さまざまな武具のオンパレード。1000年近く古い物もよく保存されており、
近くで眺めていると不思議な気分になってくる。昔の人が手づくりした物が、時間を超えて目の前にあるのだ。
そしてそれが、源頼朝・源義経・木曽義仲・護良親王・大内義隆といった有名人たちによって奉納された物なのだ。
源為朝が奉納した赤漆塗の重藤の弓なんて、もうどこまでロマンがあふれていることか。
日本史の教科書で見た世界が、すぐそこにある。物語と一体となった歴史のひとつひとつが、物証として存在している。
単なる武器や工芸品ではなく、歴史がそれぞれの品々にしっかりと込められているのだ。まるで香りのように立ちのぼる。
ひとつひとつじっくりと見てまわり、3人で歴史に直に触れる感覚を存分に味わったのであった。

宝物館のすぐ近くには海事博物館。昭和天皇の研究の軌跡を展示するためつくられた施設だが、内容は非常に雑多。
これまたひとつひとつ見てまわっていたら、リョーシさんが突然、「僕さ、あのウミガメに会ったことがあるよ」と言い出す。
リョーシさんは岡山県玉野市で生まれ育ったのだが、そこの水族館にいたウミガメが、
剥製となって展示されているというのだ。その剥製の横にある説明を見ると確かに、そう書いてあった。
人生、どこでどんな再会が待っているかわからないものだ。偶然の再会にこっちもなんだかうれしくなったもんだ。

 大胆なデザインの海事博物館。

さすがに大山祇神社の宝物館の展示はひとつひとつが圧倒的な迫力を持っていた。
正直、気軽に神社参拝に来たのだが、ここまで濃密に歴史の厚みに触れることができるとは思わなかった。
3人ともその感覚に圧倒されつつ、また満足感を大いに覚えながらしまなみ海道に戻る。そのまま尾道市へ。

尾道に入ってもまだ余裕があったので、千光寺公園に行ってみることにした。
千光寺公園は千光寺の住職が寺の土地を公園として整備したことで生まれた場所である。
地元での多大な協力によりそれは完成し、公園はそのまま尾道市に寄付されたという経緯があるのだ。
観光客としてはロープウェイを使って千光寺山の山頂まで行くべきだろうけど、時間が読めないので車で一気に上がる。
細長い駐車場はなかなかの混雑ぶりだったが、無事に中に入ることができた。そこからちょっと坂を上って頂上へ。
前に尾道に来たときには千光寺から街を眺めたが(→2008.4.23)、さらに上にある千光寺公園に来るのは初めてなのだ。
千光寺公園のてっぺんにはコンパクトな展望台があり、そこから眼下に広がる光景をデジカメで撮影。

  
L: 千光寺公園のてっぺん。わりと味気ない。山頂で平地が少ないので、周囲を花で飾って整備している。
C: 千光寺公園の展望台。非常にコンパクトな大きさである。でもここから見える光景は本当に美しい。
R: 展望台からロープウェイ方面を眺めたところ。千光寺公園は本当に狭苦しい場所なのだ。

目の前にまず広がるのは、向島だ。船のドックらしきものをはじめとして、無骨な光景が見える。
そしてその奥で小さな住宅たちが山の間を埋めている。さっきしまなみ海道を走っているときに感じたこと、
島ってのは意外と起伏が激しいものだってことがあらためて実感できる。険しい山と建物の対比が印象的だ。
そしてその山の向こうには、雲から顔をわずかに覗かせるようにしておそらく四国の山並みが姿を見せている。
やはり、その先にあるもうひとつの世界がうっすらと垣間見えるというのは、それだけで感動的である。
あの青い影のところでも僕らと同じように、物語が同時進行しているのだ。そう思うとドキドキしてくる。
せっかくなので、前に千光寺から眺めたときと同じように、パノラマで景色を撮影してみる。
(今回は贅沢にも体験版のPhotoshop CS5で合成してみたのだが、ここまできれいに仕上がるとは思わなかった。)


本当に美しいでしょ。

  
L: 夢中になってパノラマ撮影を試みる僕。カメラを構えている間は無敵なのだ。  C: うー、やっぱ高いところは怖え。
R: 千光寺公園は熱海と同様、桂由美が「恋人の聖地」としてプロデュース(→2010.11.13)。よけいなお世話だ!

旅行の最後ですばらしいプレゼントをもらった気分になる。千光寺山を下りると尾道市役所へ。
ここで下関に帰るラビーさんとはお別れだ。いつも一緒にいることが当たり前だった日々は遠く過ぎてしまい、
どうにか予定を合わせないとなかなか顔を見ることができなくなってしまった。僕らがまた会えるのはいつの日か。
とはいえあんまりしんみりするのも悲しいので、笑顔で手を振る。また元気な顔を見せ合おうじゃないか。

リョーシさんの車で国道2号を東へ戻り、そのまま岡山空港方面へ。途中の道はすさまじい混雑ぶりだったが、
給油ついでにうまく切り抜けることができた。岡山空港は周囲に何もない、完全なる山の中にある。でも道は立派だ。
かつての岡山県知事は「吉備高原都市」という構想をつくり、実際に街をつくった。岡山空港はその途中にある。
市街地との中間地点にある岡山空港でこれなら、吉備高原都市はどれだけ陸の孤島なんだ、と呆れるのであった。
岡山空港は利用客の駐車場を無料にするなどして(そうすりゃ岡山県民は気にせず長めの旅行ができるわけだ)、
利用率を高める工夫をしているのだそうだ。だから地方の空港としてはけっこう健闘しているらしい。
そんな話をしつつ、どんどん暗くなっていく山の中、何度ものアップダウンを経て空港に到着したのであった。

岡山空港内の展望レストランでリョーシさんと一緒に晩メシをいただく。
展望ってことで飛行機が見えるかな、と思ったら、夜で暗くなったのでガラスが反射して僕ら自身が見えるだけだった。
せっかくなので岡山名物「ばら寿司」を注文。ばら寿司は、岡山藩主・池田光政が倹約のため一汁一菜令を出したが、
それをかいくぐることで生まれたのだという。なんでも、具をまず桶の底に敷いてからそれを隠すように酢飯を盛り、
食べる直前にそれを引っくり返していただきます、と。文化とは実に面白いものだと思わされるエピソードだ。
実際に食べてみると、やっぱり岡山県は山の幸があり海の幸があり、豊かな土地だなあと思うのであった。
岡山ってのはつまり、器用貧乏すぎる県なのかもしれないなあ。

 岡山名物・ばら寿司。岡山は山の幸も海の幸も豊富です。

しっかり食べて満足すると、休憩スペースでコーヒーを飲みつつあれこれ話す。
次は蒜山焼きそばを食べて鳥取砂丘にリベンジかな、とか。いつか実現するといいねえ。
そんなこんなで離陸時刻が迫ってきたので保安検査場へ。リョーシさんは僕がとっ捕まらないか心配そうに見守っていた。
まあ大丈夫だったけどね。そうして手を振って別れる。まあまた近いうちにぜひ会いましょう。

今年初めての飛行機である。興奮状態が続いていたので、その余勢で機内でもバリバリと日記を書いて過ごす。
窓からは大阪辺りの夜景が見えて、やっぱり美しかった。実は最近、デジカメで高感度撮影できることがやっとわかった。
自分でもどれだけ機械を使いこなせてないんだと呆れてしまうが、せっかくなのでそれで撮ってみた。

 やっぱ高感度は違いますね。

思う存分に動きまわって、味わえるものはすべて味わった。仲間と楽しい時間を過ごした。
何から何まで、すべてが最高だったよ。いつになるのかわからないけど、また次もぜひよろしく!

(なお、今回の旅行の日記ではリョーシさんが撮影してくれた写真をいくつも使わせてもらいました。
 本当にどうもありがとう。こっちももっとしっかりリョーシさんのことを撮っておくべきだったね。)


2011.2.19 (Sat.)

「MacBookAirお披露目会・IN 岡山」!! ……ということで、夜行バスで岡山入りをしたわけだ。
岡山駅の西口バスターミナルに着くと、さっそくコンタクトレンズを装着して気合いを入れる。
そのうちにリョーシさんから連絡が入り、バスターミナルのすぐ近くで無事に合流。
やっぱり気のいいリョーシさんはたっぷりとガイドブックを用意して今回の旅行に備えていてくれたのであった。

リョーシさんの車に乗り込むと、そのまま北へと進んで岡山IC方面へ。途中で岡山県総合グラウンド陸上競技場、
いわゆる「kankoスタジアム」の横を通る。そう、J2・ファジアーノ岡山の本拠地である。
聞くと、リョーシさんの兄は毎試合観戦しているサポだそうだ(僕と同い年なのだが、このたびご結婚されるとのこと)。
リョーシさん自身は試合を観ることもなく、ご結婚の気配もなく、こうして僕とつるんでいるのである。はっはっは。
で、岡山ICには行かずにジョイフルというファミレスに入る。ここで朝食を食べつつ、もうひとりの参加者・ラビーさんを待つ。

ジョイフルの朝メニューは値段のわりに充実しており、ふたりともガイドブックを眺めながら優雅に過ごすのであった。
そのうちにカーナビパワーでラビーさんが下関から直接ジョイフルにやってきた。昨日の夜に出発しての強行軍で、
なんだか申し訳ない気分になる。前回の裏日本ツアーでも無茶をさせたし(→2009.7.182009.7.192009.7.20)。
ちなみにラビーさんの第一声は、「やっぱり西日本はジョイフルですよね!」……そういうもんなのか。
ともかく、これで3人そろったのだ。車に乗り込むと、さっそく最初の目的地へと向かう。
今回の旅行は2日間。初日は岡山県の名所めぐりを一気にやりきり、2日目は岡山県を脱出する。
まあ相変わらずの体力まかせの無茶連発ぶりなのだが、それができるうちにやっておくのが青春というものだ。

さて岡山県の名所めぐりといっても、岡山県はけっこう広いのである。かつてこの地域には広大な吉備国が君臨していた。
しかし吉備国はヤマト王権が中央集権化を進める中で勢いを殺がれていき、備前・備中・備後・美作に分割される。
山の幸と海の幸に恵まれた山陽道では有力な都市が分立し、ついにそのまま「吉備国」が再統一されることはなかった。
やがて明治維新を経て備前・備中・美作は現在の岡山県となるが、備後は安芸とともに広島県となって今に至る。
本日は備前の岡山市からスタートし、備中の高梁市を訪れ、そこから美作の津山市と湯郷温泉へ行き、
最後は備前の日生(ひなせ)に戻って晩飯、そうして岡山市に帰ってくるというフルコースぶりを発揮するのである。

まず最初は備前国一宮・吉備津彦神社からだ。まあ当然、僕のリクエストである。一宮めぐりが趣味になりつつあるのよ。
岡山から高梁へと向かうまさに途中にあるので、これは寄るしかないのだ。というわけでみんなで参拝。
写真を撮りつつ神社の境内をウロウロと歩いているうちに、ラビーさんは重要な事実を思い出したようだ。
「僕ら3人とも出雲大社にお参りしたのに(→2009.7.18)ぜんぜんご利益ないじゃないですか!」と叫んで憤慨。
われわれはウソつきウサギを助ける大国主命ですら見捨てるほどのブサイク軍ということなのだろうか。うーむ、困った。
(ちなみにラビーさんはカップルとすれ違うたびに毎回、「日本でも銃の携帯を許可すべきですよ!」と言っていた。
 この発言にはさすがのオレも引いた。ラビーさん、銃の携帯が許可されても、使えるのは正当防衛のときだけだよ……。)

  
L: 吉備津彦神社の鳥居。のんびりとしたところだ。  C: 境内は木々が多すぎず水が豊かであっさり風味。野鳥もいたよ。
R: 吉備津彦神社の随神門。1697(元禄10)年に池田綱政が建てた。ここだけ古いものが残っているのが、少し違和感。

吉備津彦神社に祀られているのは、その名のとおり吉備津彦命。いわゆる『桃太郎』の伝説で主人公とされる人だ。
実はこの辺り(旧吉備国)には吉備津彦命を祀る神社がいっぱいあり、それが備前でも備中でも備後でも一宮で、
素人にはかなりややこしい状態なのである。まあとりあえず、岡山桃太郎ナショナリズムの一端は押さえたぞ、と。

 吉備津彦神社の拝殿。昭和になってからの再建。

吉備津彦神社を後にすると、そのまま道なりに進んで西へと向かう。すると5分ほどで次の目的地に到着。
こちらは備中国一宮で、吉備津神社。吉備津彦神社も吉備津神社も、どちらも「吉備の中山」という山の麓にある。
吉備の中山はそれほど大きくない山だが、中国山地が海沿いの平野に接するちょうど突端の位置にある。
古墳が点在するなど古くから聖地と見なされており、1時方向に吉備津彦神社、9時方向に吉備津神社が鎮座する。

車を降りて吉備津神社の参道に入る。犬養毅の揮毫による社号標が目立っている。
これは犬養毅の祖先が吉備津彦命の家来・犬飼健だったということによるのだろう(桃太郎の家来の「犬」にあたる)。
こちらの吉備津神社はさっきの吉備津彦神社よりもかなり規模が大きく、立派だ。石段を上っていって門をくぐると、
そこには非常に堂々とした社殿がある。思わず「これは凄いねぇ~!」とうなってしまった。

  
L: 吉備津神社の入口。  C: 拝殿前で振り返ったところ。歴史ある神社の雰囲気がすごくいいんですよ。
R: 向き直って拝殿。吉備津神社の境内の空間構成は非常に独特。それにしても見事なものだ。

お賽銭を入れて参拝を済ませると、横に出て拝殿と本殿を眺めてみる。そしたらこれがもう圧倒的。
吉備津神社の本殿は拝殿と合体しており、比翼入母屋造という名前がついている。
といってもこの様式は全国でここだけらしい。確かに、破風が2つ並んだ非常に珍しい形をしている。
1425(応永32)年に足利義満によって再建されたそうで、堂々の国宝建築なのである。
正面から「魅せる」神社は数多いが、側面の威容を誇示する神社建築はなかなかない。
距離をとって眺めるが、その美しさに「はぁ~」と間の抜けた声を漏らすしかないのであった。

  
L: 拝殿の中をクローズアップ。古びた木材を上手く使って改修されており、思わず見とれてしまう。
C: 吉備津神社の拝殿・本殿は一体となっている。とても大きくて立派。これは本当に見事な建築でしたなあ。
R: 400mほど一直線に伸びている回廊。この先には鳴釜神事で知られる御釜殿があるのだ。

御釜殿の方まで行ってみる。吉備津彦命が倒した鬼・温羅(うら)を祀る場所だ。ここで鳴釜神事が行われる。
鳴釜神事は米を焚く釜から鳴る音で吉凶を占うというもので、吉備津彦命以来のかなり古い歴史がある。
2000年以上前の伝説が今も息づいているわけで、なんとなく神妙な気持ちにさせられるのであった。

吉備津神社を後にすると、いよいよ本格的に備中高梁に向かう。岡山総社ICから岡山自動車道に乗り、
快調に中国山地をすっ飛ばす。すぐに賀陽ICで降りるのだが、やっぱり高速道路が整備されると楽だと思う。
高速道路を降りると山の中をカーヴしながら下っていく。途中に高梁市を眺められる展望スペースがあったので、
いったん車を停めてみんなで眺める。山々に囲まれた街は、ひとすじの川に沿って限られた平地を埋めている。
似たような環境の街で育った僕としては、なんとなく親近感を覚える光景だ。

 備中は高梁市を眺める。

山を下りきって街に出る。一度訪れているというリョーシさんのアドバイスをもとに進んでいく。
高梁市の中心部にアクセスするには伯備線を越えないとダメということで、高梁川沿いに北上。
しっかりとした堤防のつくられている高梁川のすぐ横を国道は通っている。
そうして街の中心部をやや過ぎたところで右折すると、道は急激な上りとなる。本当に狭い土地だと思う。
かつて藩主の御殿だった高梁高校の脇を抜け、さらに上っていく。目指すのはもちろん、備中松山城だ。
もともとこの土地は「松山」という名だったが、明治維新後に愛媛県の松山との混同を避けて「高梁」と変えたのだ。
藩主の板倉勝静(かつきよ)が五稜郭までとことん幕府方についたせいで改名を余儀なくされたという話。

狭くて細い道を上っていき、8合目にあるちょっとだけ広くなっている駐車スペースに到着。
今は2月だから車でここまで来たが、冬場以外は5合目からシャトルバスで来るようになっているそうだ。
いつも僕は公共交通機関と徒歩を駆使する旅行をしているわけで、徒歩だったら駅からどれだけ時間がかかったか、
想像して青くなるのであった。これはホントに、半日以上を消費することになると思う。
さてここからは山道を歩いていくことになる。ところどころに立っている案内板を見ながら登っていくのであった。
城めぐりにもかかわらずしっかりと登山感覚を味わわされるとは、さすがは現存12天守で唯一の山城である。

  
L: いざ行かん! そういえば前回の裏日本ツアーでも城めぐりの山登りをしたなあ(→2009.7.18)。
C: 山道としては登りやすい。高尾山(→2010.5.3)ほど急な部分もないし。ただ、路面は少し荒れている箇所もある。
R: 備中松山城の石垣。さすがに見事なものだ。これを積んだ昔の人は本当にお疲れ様である。

現役サッカー部監督だからというわけではないが、僕が平然とホイホイ登っていくのに対し、
リョーシ・ラビー両名は途中からヘロヘロ。なんだかこれは2年前にも見た光景である。
膝が痛いだのコンドロイチンが欲しいだの弱音を吐くふたりに「オレがいちばん歳なんだが……」と首をひねる。
そんなこんなで登っていくと、ついに備中松山城の本丸に到着。これで現存12天守を完全制覇なのだ。

  
L: 備中松山城の本丸に到着。さすが現存12天守で最も行きづらい場所だけあり、非常に面倒くさかった。
C: 備中松山城の天守。どこか小ぢんまりしているところにリアリティを感じる。しっかり美しいですよ。
R: 到着を喜ぶラビーさんと僕。撮影してくれたのはもちろんリョーシさんだよ。

さっそく備中松山城の天守の中に入る。靴を脱いで上がるとまずはアンケートが置いてある。
「100名城めぐりをここで制覇しました」とか「『信長の野望』でこの城を知りました」とか、いかにもである。
やはり岡山県周辺から来る人が多いようだが、それ以外の遠方から来る人もけっこういる。僕もそうだけどね。

備中松山城は戦国時代マニアにしてみれば、「三村元親が城主」という印象である。
江戸時代には小堀遠州が代官としてやってきたり、大石内蔵助が城番となって過ごしたりと、なかなか面白い存在だ。
水谷(みずのや)勝隆が備中松山藩の基礎を固め、その息子・勝宗の代に現在の天守がつくられたのだそうだ。

  
L: 備中松山城・天守1階の様子。修復工事がばっちり完了したようで、非常にきれいなのであった。
C: 天守の中に囲炉裏があるのが面白い。まあ確かに寒いもんなあ。実際にここに住んでいたという証拠だな。
R: かつてボロボロだったころの天守の写真。完全に廃墟だが、地元の熱意が現在の美しい姿を再生させたのだ。

江戸時代の一国一城令によって全国あちこちの城が破壊され、明治に入りその残っていた城もどんどん壊されていく。
さらに太平洋戦争の空襲によって、20あった天守たちは次々と焼失してしまったのだ。
その結果、現存する天守がわずかに12だけとなってしまったのは、なんとも悲しい歴史である。
で、その12の中に備中松山城がすべり込んだ理由は、「壊すのが面倒くさいから」。
上の写真を見ればわかるとおり、高いところにあって壊すのにコストがかかるから、放置されていたのである。
それが一転して観光資源になるわけだ、世の中何がどうなるかわからない。まあ、破壊活動はよくないってことだ。

  
L: 天守2階。ここが最上階。実に質素である。  C: 反対側を向くと、神を祀る御社壇。これは珍しい。
R: 本丸では無料でお茶をサービスしている。天守を背景にラビーさんとおいしくいただくの図。

天守の見学を終えると、山道を戻って駐車場へ。そこからやっぱり車で細い道を下りていく。
本当は高梁の街並みをじっくり味わいたかったのだが、今日はいろいろと予定が詰まっているのでガマン。
またいずれこの場所を訪れ、そのときにたっぷり堪能することにしようではないか。

 それでも市役所は撮影する。これが高梁市役所。

ワガママを言わせてもらって、高梁市郷土資料館も撮影する。これは旧高梁尋常高等小学校の本館なのだ。
1904(明治37)年築で、市の重要文化財に指定されているそうだ。時間があればこれまたじっくり見たかったのだが、
入口から中を覗くだけでガマンする。街並みと併せて、ぜひリベンジしたいなあ。

  
L: 高梁市郷土資料館(旧高梁尋常高等小学校本館)。  C: エントランスをクローズアップ。
R: 中は江戸時代から昭和初期にかけての生活用具がたっぷりと展示されている。うーん、じっくり見たかった。

さて、備中松山城に行くのは当初からわれわれの予定の中に組まれていたのだが、「せっかく来たからぜひ!」と、
僕が猛烈にプッシュした場所がある。それは、「吹屋(ふきや)」だ。平成の大合併で今は高梁市の一部だが、
市の中心部からはけっこうな距離がある。しかしこの吹屋の街並みは絶対に見ておきたい。
ということで無茶を言ってそこまで足を伸ばすことにしてもらった。運転してくれたラビーさん、本当にありがとう!

高梁の中心部から吹屋までは、国道180号をしばらく北上してから西の山の中へと入らないといけないので面倒くさい。
おまけにこの道は岡山県道85号という立派な番号が振られているくせに細くてヒョロヒョロな山道なのだ。
前を走るトラックを追い抜くことができず、しばらくじっとガマンの運転を続けることになり、ストレスも溜まる。
そんな苦労の末にたどり着いた吹屋は、確かに重要伝統的建造物群保存地区らしい古い街並みだったのだが、
ほかの街並みとは大きく異なる姿をしていた。それは、街が赤一色に染まっているということだ。

  
L: 吹屋の街並み。赤い色に染まった伝統建築群。おかげで、日本なんだけど、どこか日本じゃない感じも漂う。
C: ちょっと進んだところ。街全体がこの色で統一されているのだ。これは本当に独特の風景だ。
R: 吹屋ふるさと村郷土館をクローズアップ。 1879(明治12)年築だが、吹屋の家々はだいたいこんな感じで建っている。

吹屋の街がなぜこのような赤色に染まっているのかというと、この赤色の顔料を製造していたから。
この赤は「ベンガラ(弁柄)」と呼ばれている。銅の副産物である酸化第二鉄(つまり赤サビ)を原料にしているが、
これはもともと、かつてインドのベンガル地方産のものを輸入したことからそう名づけられたのだという。
幕末から明治にかけて、吹屋はベンガラの日本唯一の産地として栄えたそうだ。街並みの迫力はまったく衰えていない。
(明治期に一気に栄えて街並みがつくられたという点では、愛媛県の内子(→2010.10.12)に似た印象がする。)

そしてこの吹屋の街で僕がいちばん見たかったもの。それは、吹屋小学校だ。
現役で使用されている日本最古の小学校校舎として、知る人ぞ知る存在なのだ。
しかしリョーシさんの話によると今年度を最後に閉校となってしまうという(調べたら、現在の児童はわずか6人だそうだ)。
公共建築マニアとしては、学校が学校であるうちに、絶対に見ておきたいのである。

吹屋の集落からちょっとだけ離れた位置に、吹屋小学校はある。遠くから徐々に現れるその姿に、思わず声が漏れた。
とにかく、洒落た建物なのだ。木造瓦屋根なのに、洋風の要素を混ぜて非常に上品に仕上げてある。
これは明治時代ならではの意匠で、当時絶頂にあった吹屋でしかつくることのできなかった最高傑作と言っていいだろう。
真ん中にある本館は1909(明治42)年築。その両側に残る西校舎・東校舎に至っては1900(明治33)年築で、
それがいまだに現役で使われているという事実には驚くよりほかにない。吹屋の人々の誇り、そのものだ。

  
L: 吹屋小学校。これはもう、本当に美しくって涙が出そうだ。  C: 吹屋小学校に感動する私。
R: 正面より眺めたところ。こんなすごい校舎で勉強ができるなんて、とんでもない贅沢ですよ。うらやましい!

  
L: 吹屋小学校東校舎。  C: こちらは西校舎。和風です。築111年目ってのはすごいよなあ。
R: あらためて本館を眺める。どの角度から眺めてもかっこいいなあ。かっこいいけど、かわいらしさもある。

吹屋小学校に大いに感動した後は、吹屋の集落からはそこそこ離れた位置にあるが、広兼邸にも寄ってみる。
広兼邸はベンガラの原料製造で栄えた富豪の邸宅で、映画『八つ墓村』のロケ地としても有名な存在なのだ。
山の斜面に貼り付くように建っている広兼邸は、まるで城のように見事な石垣に支えられている。
遠くから眺めても、その巨大さに圧倒される。かつての吹屋は、本当にすごい繁栄ぶりをしていたのだ。
今はひっそりと山の中にたたずんでいる集落にすぎず、往時の勢いを完全に失ってしまっているが、
建物たちが絶対的な証拠として、今もその誇りをとどめている。まだその歴史は生きているのだ。
時間があれば広兼邸の中に入りたかったのだが、残念ながら断念。ラビーさんは妙に大感動していたなあ。

 
L: 広兼邸。これが個人の邸宅だったというから凄まじい。  R: 建物をクローズアップ。うーん、レベルが違うわ。

これで備中・高梁はおしまい。次は美作・津山に向かうのだ。細い県道85号を戻って高梁川に出ると、
しばらく戻って今度は国道313号へ。有漢ICから高速道路に乗って、中国自動車道の津山ICで降りる。

津山市内に入ると、カーナビと道路地図を頼りに走りまわる。もうとっくに昼メシの時間を過ぎているのだが、
津山名物・ホルモンうどんを食わねばならないのである。当たりをつけておいた店はけっこうな山の中で、
営業時間内にどうにかたどり着くことができたのであった。よかったよかった。
それにしても津山のホルモンうどんの店はけっこう広い範囲に点在しているようで、
車を使った旅行でないとけっこうアクセスが大変なのかなあ、と思う。個人的にはちょっと困るパターンである。

 
L: もはや全国区のB級グルメ、津山名物・ホルモンうどんだ! 焼きうどんに牛モツが入っているのだ。
R: ホルモンチャーハンとともにおいしくいただいております。牛モツの歯ごたえがすごいね。

実はホルモンうどんは津山市だけの名物ではない。隣の兵庫県佐用町でも名物として知られている。
なんでも佐用町や津山市周辺は古くから「養生喰い」として牛を食べる文化があったそうで、
精肉だけでなくモツも食材として利用されやすい環境にあったようだ(明治以前に肉食は忌避されたのが一般的)。
それで焼きうどんの具にモツを混ぜる、独特の料理法が確立されたというわけなのだ。
しかも比較的歴史のあるB級グルメだけに、店ごとにソースに工夫をしていて個性がそれぞれあるという。
まあとりあえず、モツがダメな人にはまったくオススメできないが、食える人なら「こういう手があったか!」と思わせる、
そんな柔軟な発想の郷土料理だと思ったのであった。ホルモンの脂分がうまく利用されている料理だ。

食べるものを食べて満足すると、いよいよ津山市の中心部へと入る。
津山といったら今は「ホルモンうどん!」だが、かつては「三十人殺し!」なのであった。
でもその事件は津山市の近所で起きただけで、津山じたいはまったく関係ないのである。なんとも迷惑な話だ。
そんな津山の市役所は正面が北を向いており、周囲には遮る物がないのでものすごい逆光。
おまけにサイズがけっこう大きいので、思うようにカメラの視界に入れることができなかった。
いやー、非常に写真の撮りづらい市役所だったわー。

  
L: 1982年竣工の津山市役所。デカい。  C: こちらは市議会。ずいっと前に出てくっついているのは珍しいパターン。
R: 津山市役所の南側を眺める。こうして見ると、いかにも典型的な市庁舎建築である。

津山市でいちばんの名所といえば、市の中心部にある津山城址・鶴山(かくざん)公園だろう。
それじゃあ行ってみましょうか、と車を山に向かって走らせるが、アクセスする方角を間違えて失敗。
しかしそのおかげで、DOCOMOMO135選(当時)のひとつに数えられている津山文化センターをじっくり見ることができた。
川島甲士の設計で1965年に竣工しているホール建築。屋根へともっていく軒のつくりがとても壮観だ。

  
L: 津山文化センター。けっこう大きいのでまずは西半分を撮影。  C: 全体はこんな感じである。個性的だ。
R: 後になって津山城本丸跡から眺めた津山文化センター。上から見ると魅力が半減してしまうように思う。ちょっと残念。

鶴山公園の中に入るには、車は南側にある津山観光センターに停めておくのが便利なのであった。
車を停めると周辺をチェック。この近辺には津山基督教図書館や津山郷土博物館など面白い建物があるのだ。
特に津山郷土博物館は1934年竣工の旧津山市庁舎なのである。かなりがっちりとしている建物である。
本当のことを言うと、城東町並保存地区にももちろん行ってみたかったのだが、時間の都合で断念。
まあ津山にはまたいつかぜひ来たいものだと思う。いったいいつになるやら。

  
L: 津山郷土博物館(旧津山市庁舎)。塗装のせいもあるが、今もまったく古びた様子もなく建っている。
C: 角度を変えて眺める。  R: すぐ近くにある津山基督教図書館。1926年竣工でこれまた面白い。

長らく運転を続けてお疲れのラビーさんはここで仮眠。僕とリョーシさんは鶴山公園の入口へ。
入園料は300円するのだが、まあせっかく来たんだしラビーさん休んでるしということで、中に入る。
津山城址はとにかく石垣が美しい。熊本城(→2008.4.28)のほどのフォトジェニックさはないのだが、
歴史の厚みを感じさせる適度な古び方をしているのと、訪れた者を囲み込む存在感とで圧倒されてしまう。
城内には数千本にもなるという桜が植えられており、春にはさぞすばらしい光景となるのだろう。
ただ、その桜のせいで石垣に対する注意が弱まってしまうのは、僕にはあまりうれしいことではない。
まずはこの石垣をしっかりと味わうことができたことを、素直に喜んでおきたい。
足の長さに物を言わせて大股でスイスイ石段を上っていく僕をリョーシさんは悔しそうに見つめるのであったことよ。

  
L: 津山城址の石垣。規模が大きく、形がしっかりと残っており、本当にきれいなのだ。
C,R: 本丸跡。東側を石垣に囲まれた公園となっている。南西端には2005年に復元された備中櫓がある。

津山城本丸跡は木々が植えられ、まさに公園となっていた。端っこには復元された備中櫓がある。
備中櫓はその名のとおり櫓だが、中身は完全に本丸御殿となっている。なかなかこれが珍しい例だ。
見学を終えて外に出ると、やはり天守台が見事な石垣によってつくられているのが目に入る。
津山城は森忠政が12年の歳月をかけて1616(元和2)年に完成させたそうだ。
かつては4重5階の巨大な天守をはじめ多数の櫓があったというが、明治になってすべて壊されてしまった。

 天守台。石垣の美しい津山城址の核となる場所だ。

天守台の方へと歩いてみると、本丸の西側の石垣はそのまま展望スペースとなっていた。
太陽が西の空にあるために逆光となってしまっているのだが、この眺めが石垣に劣らず美しい。
美作の山の中にしっかりと栄えている津山の街が眼下に広がる光景は、山国育ちの僕には頼もしいものに映った。
城跡のある街では観光資源として天守の再建が目指されることがよくあるが、
津山の場合には天守がなくてもすでに美しいものが十分あるじゃないか、と思った。

  
L: 津山城址の本丸跡から眺める津山市街。こんなに見事な光景とは思わなかった。鶴山公園の中に入ってよかったよ。
C: 天守台の手前はこのようになっている。街を眺めるには最高の場所に整備されている。前を歩いているのはリョーシさん。
R: 天守台を上から眺める。ヘタに天守を再建するよりも、こうして歴史を味わう方がずっとすばらしいのだ。

予想以上に津山城址・鶴山公園がすばらしかったので、僕もリョーシさんもけっこう感動をおぼえるのであった。
いやーよかった、なんてつぶやきながら公園を後にすると、寝ているラビーさんをそのままに車を西へ走らせる。
津山の街からずっと西へと行ったところに「久米の里」という道の駅があるのだが、そこに面白い物があるから見よう、
とリョーシさんが言うのだ。もともと出雲に出る街道だった国道181号はなかなか大きいが、道はそれでも混み気味。
それでも比較的すんなりと目的地に到着。ラビーさんを起こして車を降りると……

 Zガンダム。全長は7mだが縮尺でいうと約1/3なんだそうだ。

近所のおっちゃんが勢いにまかせて7年かけて独力でつくったという巨大なZガンダムがそこにはあった。
なぜZガンダム?という疑問がどうしても消えないのだが、まあとにかく立派なのは間違いない。
これを誰からも頼まれることもなくひとりでつくるというのは、なんともパワフルな話である。

岡山にはいろんな物があるなあ、と呆れつつ院庄ICから三たび高速道路に乗る。
美作ICで降りると、そこから夕暮れの中を南下していく。次の目的地は湯郷(ゆのごう)温泉なのだ。
旧美作国には「美作三湯」と呼ばれる3つの有名な温泉がある。湯原・湯郷・奥津の三湯だ。
湯郷は特にスポーツが盛んなことで知られる。女子サッカー・なでしこリーグのチームもあるくらいなのだ。

国道374号沿いは道が広くていいが、湯郷の温泉街の中に入ると道はものすごく狭くなる。
温泉施設や旅館などがひしめいていて、車は複雑な路地をおそるおそる進むことになるのであった。
人も車もなかなかいっぱいで、温泉地としての確かな人気を感じさせる。で、僕らは鷺温泉館という施設に入る。
温度はやや低めで、いつまでも入っていられる感じ。のんびり過ごして一日の疲れをしっかり癒した。
風呂上がりにはもちろん地元の牛乳をいただく。テレビでは『MUSIC FAIR』をやっていて、
リョーシさんの大好きなゆずが歌っていた。スタジオライヴでもストリートとまったく変わることなく、
テレビの向こうの客をあおる北川の姿にプロ根性を見たのであった。ゆずの『少年』は、もはや古典だね。

湯郷を後にする頃には、空はすっかり暗くなっていた。そのまま国道374号を南下し続けると、備前市に出る。
山から海へ。岡山県の広さを実感する。そうしてちょっと東へ行ったところが日生(ひなせ)。
ここで名物のカキオコを晩ご飯にいただこうという魂胆なのだ。
カキオコとは単純に、牡蠣の入ったお好み焼きのこと。日生ではこれを名物にして売り出しているのだ。
実は岡山県は、広島と宮城に次ぐ牡蠣の名産地なのである。本当に岡山は豊かな土地だなあと思う。

店内に入るとカキオコ目当ての客でテーブルはいっぱい。匂いが空腹を強烈に刺激する。
テレビで『飛び出せ!科学くん』をやっていたので、なんとかそれで気を紛らわすのであった。
ちなみに内容は砧公園のモグラ特集で、すげーすげーと3人とも夢中になっていたとさ。

店主は客のグループごとにじっくりと焼いていくので非常に時間がかかるのであった。
こういうところは江戸っ子気質な僕としては、「んなもん、さっさとやっちまえばいいのに!」と思うが、
空腹は最高のスパイスということでガマンする。『飛び出せ!科学くん』が終わるころになって、
ようやくわれわれの番が来る。こだわりの店主はカキオコを半分にし、片方に醤油、もう片方にソースを塗る。
それで醤油の方は、まず最初は何もつけずに食べ、その後に山椒と一味で食ってくれとのこと。
確かに山椒と一味の組み合わせは新鮮だったが、まあ所詮はB級グルメなんだからふつうに食いたかった。
味はもう、「牡蠣の入ったお好み焼き」以外の何物でもなかったが、食材が旨いから旨いに決まっているのだ。

 牡蠣1.5倍のカキオコ、1200円。安いな。

岡山のリョーシさん宅まで戻ると、津山で買っておいた酒やラビーさん持参の酒などで酒盛り。
地デジに対応したリョーシさんテレビで、高倉健主演の『新幹線大爆破』のラストシーンをやっていたので見る。
あとは今回の旅行の趣旨ということで、僕のMacBookAirを披露したり(もちろんエアーマックもやった)。
あちこち回ってさすがに疲れていたので、それほど大騒ぎせずにあっさりおやすみなさいなのであった。


2011.2.18 (Fri.)

なんでかヒマのない一日だった。自分の抱えている仕事につきっきりであるならまだしも、
これお願いします、あれお願いします、が各方面から出てきたせいで、物事の優先順位がものすごくつけづらい、
でもひとつひとつ片付けていかなくちゃいけないという状況に一日ずっと置かれていた感じである。
自分の机に座って作業をしていると声がかかり、戻ってきたらまたすぐに声がかかる、そんな感じだった。
そんなこんなで今日はよくわからんうちに日が暮れたなあ。いやー疲れた。


2011.2.17 (Thu.)

研究授業の準備などで忙しいのである。学活のようなもので一本、研究授業をやることになっているのだ。
それでPDCAサイクルがどーのこーのと、ふだんの僕にはまったく縁のないことをそれなりに懸命に勉強してみたり。
まあとりあえず、ひどく怒られることがないようにがんばる。


2011.2.16 (Wed.)

岡山遠征へ向け、旅行ガイドを買うのであった。僕の場合、この手の本を買うパターンはけっこう決まっている。
一人旅で資料が欲しい場合には、実業之日本社の「ブルーガイドてくてく歩き」シリーズを買うことが多い。
というか、そればっかりだ。落ち着きのあるレイアウトに公共交通機関重視の内容が、僕にとっては最もありがたいのだ。
(ニシマッキーと八丈島に行った際、船の座席でふたり一緒に同じ本を取り出したときには笑ってしまった。→2009.8.21
そして友人と車で旅行をする場合には、昭文社の「まっぷるマガジン」とJTBパブリッシングの「るるぶ」の二択となる。
でもまあ、どこかレイアウトが騒がしくない「まっぷるマガジン」に落ち着くことが多いように思う。

で、今回はリョーシさん・ラビーさんとともに車でグランツーリスモをかますわけなので、「まっぷるマガジン」を購入したのだ。
「岡山」と「広島」のムック2冊体制である。思えば裏日本ツアー(→2009.7.182009.7.192009.7.20)では、
「島根」「鳥取」「天橋立」の3冊体制だったわけで、まあ人間大して成長しないもんだな、と思うのであった。

さて「岡山」と「広島」を買ってみて思ったのは、両者のちょうど中間にある旧備後国が弱いなあ、ということ。
具体的な都市名でいえば福山市のあたり、そこを紹介する旅行ガイドがちょうどエアポケットのように弱いのだ。
福山市には鞆の浦という観光名所があり、実際そこに限ってはどんなガイドにも載っているに決まっているのだが、
では福山市の中心部はというと、驚くほど扱いがないのである。不思議だなあと思いつつガイドを読み込むのであった。


2011.2.15 (Tue.)

女装に目覚めてしまった中学生がいる。

きっかけは休み時間にたまたま床に落ちていたヘアピンを拾ってしまったことである。
そいつはけっこう前髪が長いので、冗談半分で女子っぽくそのヘアピンで髪を留めてみたところ、
これはちょっとリアリティがあるんじゃないか!?となってしまってさあ大変。
次の休み時間でアニメ好きな女子(→2010.3.18)を中心に研究チームが発足してしまい、大騒ぎである。
もちろん大学時代に女装でブイブイ言わせた僕としては、「お前……、オレと一緒にてっぺん取らねえか?」
とまあ、火に油を注ぎました、ハイ。

そもそも女装とは、理想のタイプの女性を自ら演じる行為であるのだ。つまり、ナルシシズムの極みである。
おかまと決定的に違うのはその点で、内面的な欲望を現実に造形してみようとするチャレンジ精神なのだ。
自らを受け入れてくれる究極の存在、しかしその相手に他者として触れることは絶対にできない、
そんな矛盾が女装を面白くしているわけだ。ある意味では変身ヒーローとそう大差がないのである。
ってなことを中学生に熱く語って気持ち悪がられる僕。

冴えない中学生がヘアピン一本で自分に内在する理想の女性像に目覚めてしまう。
それを大学時代に伝説の女装師(なんだそりゃ)だった教師が見いだし、彼にいろいろとアドバイスを送る。
そうして少年は並みいる校内の強敵(女装の似合う男子)たちと戦い、勝利し、また男どうしの友情を深めあう。
やがて少年とライバルたちは女装部をつくり、対外試合を繰り広げつつさらに理想の女性像へと近づいていく……。
ふと、そんなマンガがあってもいいんじゃねーかと思ってしまった。まだこのジャンルは開拓されていないだろう。
原作は僕が担当しますんで、誰か作画をやってくれ。一発当てようぜ! 『ONE PIECE』超えようぜ! 無理か!


2011.2.14 (Mon.)

チョコを学校に持ってきちゃいけないんだぞ! ゆえに特に何もなしだ! みんなそうだ! ザマーミロ!


2011.2.13 (Sun.)

僕はよく知らなかったんですが、潤平がどうやら引っ越しぶっこいたようでして、
その関係で両親が上京してきたのであります。で、一段落ついてさあ出かけるぞ、となったのであります。
メールが入って合流先に指定されたのは、なぜか田園調布駅。意図がまるでわからない。
でもしょうがないので自転車にまたがって出発。そしたら案の定、道に迷った。
ところがそんなことは予測済みなので(僕がダメ人間である以上に世田谷区~大田区の道が鬼なのだ)、
ポケットにしのばせた東京の地図でどうにか正しい道を見つけだす。田園調布駅は近いのに遠い。

予定より少し遅れて田園調布駅の改札前に立つが、わが家族の姿は見当たらない。
メールを送ってしばらく待っていると改札の反対側からcirco氏が登場。
どうやらそっちにはバス停があって、母親も潤平もそこに並んでいるという。
行ってみると、なるほどそこにはずらっと行列ができていた。なかなかの混み具合だ。
行列に加わったところで潤平から質問。「アニキ、『イケア』って知ってる?」「……何語?」
というわけで、長い前フリで申し訳なかったが、わがマツシマ家みんなで横浜港北のイケアに行ったのだ。

バスに乗り込むと、補助席も使ってすべての席が埋まったところで出発。立ち乗りは許さない方針のようだ。
田園調布駅を出たバスの中では車内のモニターでイケアの概要が説明される。潤平の補足つきである。
それによると、イケア(IKEA)というのはスウェーデン発祥の大型家具+日用雑貨店。
都市郊外に大規模店舗を展開する手法により、世界最大の家具ショップとして君臨しているとのこと。
こう書くとへーなるほどで終わってしまいそうだが、店舗は本当に大規模なのである。とにかくデカい。
要するにバカデカい倉庫の出口にレジをつけているようなものなのだ。そうして薄利多売を実現している。
細かい特徴はこれからその都度紹介していくが、まずはバスの中で潤平から大まかにレクチャーを受ける。

やがてバスは第三京浜へと入る。高速道路なので有料のはずだが、この送迎バスは無料で運行されている。
つまりはそれが成り立つだけの売り上げがあるということだし、金をいちいちとるのが面倒くさいくらい、
客がたくさん乗っているということでもあるのだろう。この手のバスに乗るのは僕の場合、
甲府駅から小瀬陸上競技場までの往復500円で慣れているが(→2008.3.9)、無料というのには少し驚いた。
第三京浜を出ると交差点では大混雑。これもIKEAの影響なのか、と呆れてしまう。
そんなこんなで横浜の郊外をしばらく行くと、行く手に青と黄色の巨大な直方体が見えてきた。IKEAだ。
バスを降りると、潤平にデジカメを借りる。油断して今回は自分のデジカメを持ってきていなかったのだ。
よっしゃこれでIKEA社会学日記が書けるぜ、ということで、家族一同ワクワクしながら中へと入る。
最初にエスカレーターで2階に上がるのだが、その際に子どもを遊ばせておくスペースが目に入った。
なんと順番待ちをしていて、しばらくして番号を呼ばれてからでないと子どもを預けられない。買い物を始められない。
でもそれを覚悟のうえで来ている客がいっぱいいるってことなのだ。いきなりカルチャーショックである。

IKEAの中はだだっ広いのだが、実はぐにゃぐにゃと曲がりくねった一本道になっている。
その通路には家具などの商品がハイペースで並べられ、壁側はIKEA製品でコーディネートした室内が再現されている。
まあ要するに、ぐにゃぐにゃ細長くなることで栄養を吸収するチャンスを増やしている小腸みたいなものだ。
そうやって広い空間をさらにぐにゃぐにゃと長い距離歩かせて、できるだけたくさん商品を買わせようという魂胆なのだ。
すさまじい人数の客が楽しそうにあれこれ吟味している姿を見ていると、これはテーマパークだなあと思う。

  
L: IKEAの中は非常に広い。でも一本道で、途中には商品が所狭しと並べられている。  C: 大量生産、大量販売。
R: 床には矢印。順路の決まっている商業施設なんて初体験である。ディズニーランダイゼーションもここまで来たか。

面白いのは、すべての商品にスウェーデン語の名前がついていること。これはFREITAGと同じ感覚だろう。
ただこっちは膨大な種類の商品すべてが対象ということで、よくやるなあ、と呆れてしまった。

だがそのような繊細な側面とは裏腹に、IKEA製品はどれもが必ずどこか垢抜けない。西洋らしい大雑把さが漂う。
IKEAでは製品のデザインをすべて自社の中で解決することでコストを下げているというが、そのせいか、
どれも今ひとつ洗練されていないのである。これはもう受け手のセンスの問題なのでしょうがないんだけど、
机にしろ椅子にしろぬいぐるみにしろ、一流デザイナーであれば差をつけてくる最後のこだわりの部分が明らかに足りない。
値段は安いしそこそこ凝った商品が並んではいるが、決して僕の心が動かされることはなかった。
「IKEAって、面白いけど、買いたくなるものはほとんどないよね」と素直に潤平に言った。
唯一、これはなかなか、と思ったのは磁石で連結する木製の列車のおもちゃ。でも本当にそれくらいだった。

たとえば無印良品であれば、同じ自社ブランドのオンパレードでもワクワク感がまったく異なる。
無印良品には、どこか日本的な繊細さ、それぞれの商品で最後のこだわりの部分が見事に貫かれている。
しかしIKEAは原色で大きめサイズで攻めておしまい。これで大喜びしている客は、かなり無神経なんじゃないかと思う。
(ちなみに両親は昼に有楽町の無印良品(→2010.11.7)に行ってメシを食ってきたそうな。満足そうだった。)

 IKEAではこの大きなバッグに欲しい物を入れていき、最後に精算するのだ。

並んでいる商品のセンスがよくないのと、それをありがたがっている客がいっぱいいるのとで、ちょっと不機嫌になる。
僕をいちばんイラつかせたIKEAの製品は、ぬいぐるみだった。よくTシャツの左脇腹のところには、
「MADE IN ○○」だとか洗濯方法が記載されているタグがある。安っぽいシャツだとそれがカサカサして気になる。
IKEAのぬいぐるみのお尻には、あのカサカサ材質のタグがやたらめったら長くくっついていたのだ。この無神経さが許せない。
製品を長く愛情を持って使うには、あまりにIKEAの製品は無神経だ(それが上で述べた西洋の大雑把さということだ)。
なるほど新しい買い物のスタイルを提案している点は、社会学的に見るべきところが多くて興味深い。
でも売られているものは魅力に欠ける大量生産品ばかりなのだ。2階をまわり終えて、僕はだいぶ飽きていた。

  
L: 階段の手すり。曲げることで握りやすくなるというが、そこかさらにヘビの塗装をするという遊び心まで加えている。
C: 広い店内で大量に買い物をすることが想定されているので、置いてあるカートの量も半端ない。これは壮観。
R: 1階には調理器具など日用品が置いてある。でもやはりこちらも、デザイン的にイマイチなものばかりだった。

1階に下りると今度は日用雑貨が広大な空間を埋め尽くす。掃除用品に調理器具に照明など、
ありとあらゆる生活関連用品が視界を占領している。家具よりサイズが小さくなった分だけ、密度が上がった感じ。
しかしやっぱり、買いたくなるものがない。母親に半ば強制されてテーブルタップと電池を買ったが、それだけ。
思わず笑ってしまったのは、そのテーブルタップが2個1セットで売られていたことだ。
これは本来ひとつひとつ買うものであって、「もう1個サービスします!」という商品ではないだろうと思うのだが。
潤平はお目当てだった物干し竿が販売されなくなっていたことにショックを受けていた。
IKEAの製品は一気につくって在庫なしでそのまま店にぜんぶ出すだろうから、売り切れ=廃番ということになるのだろう。
その大量消費社会型の販売スタイルも良し悪しだなあ、と思うのであった。

日用雑貨売り場を抜けると、まさに巨大な倉庫の中というレイアウトの空間に入る。
高い天井までしっかりと伸びているラックにはぎっしりと製品が詰まっており、各ラックには番号がついている。
番号で製品を管理する倉庫をそのまま販売スペースとしているわけだ。出版社時代の倉庫を思い出す(→2005.3.3)。
正直、こういうのはけっこう好きなのだ。なんせ、自分のホームページの名前に「logistics」を採用するくらいなので。
見たところ、ラックに並んでいるのは家具が主体のようだ。梱包されたまま積まれて売られているのが生々しい。
それにしてもこれだけ大規模な倉庫空間はなかなかお目にかかれない。これにはけっこう興奮してシャッターを切る。

倉庫地帯を抜けるといよいよレジである。何十ものレジが並んでおり、そこで黄色い大きめバッグから商品を取り出し、
あるいは大きめのカートから箱を取り出し、精算をする。あまりにもその光景は大雑把なので、買い物に見えない。
むしろ空港での手荷物検査や出入国の審査を思わせるほどだ。本当にそんな感じに見える。
ところでIKEAでは梱包・配送に関するコストは完全に客の側の負担となっている。持ち帰る際のバッグすら有料だ。
そうすることで、純粋な買い物の部分が徹底的にコストダウンされているのだ。まあ、潔い姿勢である。

すべての買い物を終えたときには、歩きまくるわ運びまくるわでクタクタになっている。
そこに現れるのがホットドッグとソフトクリーム。これには、最後まで本当によく計算されているなあ、と舌を巻くしかない。
しかもホットドッグは100円、ソフトクリームは50円。ホットドッグはパンにソーセージを挟んだだけのもので、
ソフトクリームはやや小さめサイズ。ケチャップとマスタードはセルフサービスで、脇のところにぶら下がっている。
よけいなものがなくって安いのはやはり潔いし、実際に食べてみると値段のわりには悪くない味なのだ。
潤平に言わせると、IKEAでの買い物はこのホットドッグとソフトクリームを食べないと締まらないんだそうだ。
そんなわけでわれわれマツシマ家みんなで両方ともきっちり食べて、IKEAでの買い物を無事に終了させたのであった。

  
L: 巨大な倉庫をそのまま売り場にしている。こういう豪快な場所、しかも屋根裏っぽさの漂う場所はけっこう好きなのである。
C: IKEAのレジ。もう空港の手荷物検査か出入国審査場にしか見えない。
R: レジを抜けるとホットドッグとソフトクリームの売り場。さすがにものすごい混み具合なのであった。

建物を出て田園調布駅行きのバスを待つ。運悪くついさっきバスが出たところで、しばらく待つことに。
ヒマなので記念撮影をするなどして過ごすわれわれなのであった。

 
L: IKEAのロゴをバックにハイ、チーズ(撮影は潤平)。
R: IKEAの送迎バス。黄色と青のスウェーデンカラーはどこまでも徹底されている。

行列はどんどん長くなっていき、無事に乗れるかハラハラしたのだが、どうにか奥の方で乗ることができた。
すっかり暗くなった中をバスは行きと同じと思われるルートで田園調布駅まで向かっていったのだが、
その途中で、なぜ港北の店舗への送迎バスが田園調布から出るのかが、ようやくわかった。
まず、東京都内からスムーズに港北の店舗にアクセスするには、第三京浜を通ることが不可欠である。
で、その第三京浜に乗ることと都心部からの電車でのアクセスが最も合理的な場所が、田園調布ということだ。
ポイントが田園調布より東になると、バスが第三京浜に出るまでに渋滞で遅延する可能性が発生する。
なるべく都内をバスで走らないで第三京浜に乗ることと、渋谷から東横線で一本で来られる利便性と、
その両者を考慮した結果が田園調布ということだったのだ。よく考えているなあ、とあらためて感心した。

バスが田園調布に到着すると、そのままみんなで晩飯。まあ、田園調布サイズで田園調布値段なメシでしたな。
いろいろ面白い経験のできた一日だったので、非常に満足でございます。


2011.2.12 (Sat.)

先日、学年で百人一首大会が行われたときのこと。
「お前らホントにヘボだなー。『ちはやふる』気分でビシッとやれよビシッと」「え、先生読んでんの?」
「いや、めちゃくちゃ面白いって噂は聞いてるけどまだ読んでない」「ウチ全巻持ってるよ! すごい面白いよ!」
「そうか。じゃあ、読まなくちゃいかんなあ……」というわけで、末次由紀『ちはやふる』のレヴュー。

物語はまずヒロインの千早が小学6年生のところから始まる。福井からの転校生・新、そして競技かるたと出会う。
小学校卒業とともに新は福井に戻ることになるが、競技かるたを続けることで新と再会することを約束する。
そして高校に入学すると、小学校時代の友人・太一とともにかるた部を創設する。
かるた部では小学校時代の敵役だった西田、和歌の内容に惹かれる呉服店の娘・大江、ガリ勉だった駒野とともに、
日本一を目指して練習を重ねる。まあそんな具合に、恋愛とスポーツ(競技かるたはスポーツでしょう)による青春マンガ。

まず、絵柄が安定しない初期の段階をあえて過去の描写にあてるという点に感心させられた。
どんなマンガでも作者が描き慣れてくるまでの不安定な時期があるが、それを小さい子どもの描写で徹底することで、
できるだけ違和感をなくしていこうという努力を感じるのである。なんというか、実に巧い発想だ。
そしてもちろん、何より巧いのは「競技かるた」という新しくて伝統を感じさせる「スポーツ」を発掘してきたこと。
単純に体を動かすだけでなく、頭脳の駆け引きを大いに要求することも、読者を競技の世界に引き込む要素である。
水沢高校かるた部の面々を中心に、キャラクターの個性づけも適度な人数でなされており、
少女マンガ特有の世界の狭さ(私とあなたがいればいいの、的な登場人物の少なさ)がない。
つまりは、きわめて少年マンガ的なつくりなのである。いや、このマンガはいい意味で、少年マンガなのである。

ところがそれだけに問題は複雑だ。このマンガ、少年マンガ的な要素を生かしてものすごく面白く読める。
千早はいかにしてクィーンを倒す領域まで成長するのか、そして水沢高校かるた部は日本一になれるのか。
しかし女子の読者の焦点は、実はそこにはない。彼女たちの興味は、千早が新を選ぶのか太一の想いに応えるのか、
そっちの恋愛の方がメインなのである。男子(と作者)は千早たちの成長という少年マンガ的な興味関心に寄っているが、
女子の読者はアンケートを通じて恋愛を強要する。それで作者は菫という恋に生きるキャラクターを出してきたのだが、
これがなかなかうまく動かない。恋愛メインで物語を展開させた瞬間、競技かるたの勝負は背景へと引いてしまう。
今はギリギリのバランスを保っている状況である。これ以上恋愛に寄れないラインで、話が進められている。
もちろん男子の僕としては、恋愛の要素をいったん引っ込めてラストでちょろっと出しゃあいーじゃん、
と考えているわけだが、マジメな作者はうまく恋愛の要素を混ぜる試行錯誤で苦労をしているように見受けられる。
誰にでも面白いマンガであり続けるためには、少年マンガを貫くのが一番だ。でも読者層は女子が多い。
実は『のだめカンタービレ』(→2005.8.202007.11.132009.11.27)が鮮やかにクリアしてしまっていた問題に、
『ちはやふる』は今まさに直面している。ぜひ抜群に面白いマンガであり続けるために、こらえてほしいと思うのだが。


2011.2.11 (Fri.)

本日はサッカー4級審判員の講習なのであった。サッカー部顧問として審判ができないと恥ずかしいのだ。
しかしながら、東京はまさかの大雪。こんな中でどうやってやるんだろう、と思いつつ家を出るのであった。
場所は小金井市ということで、天気が良ければもちろん自転車にまたがったところだが、電車をトボトボ乗り継ぐ。

久しぶりに訪れた多摩地区は雪で白く染まりつつあった。懐かしさを感じる以前にとにかく寒い。
指定された会場は体育館に隣接した大きめの部屋。受付を済ませて席に着く。受講者はざっと30名ほど。
慣れていそうな顔つきもあれば、不安そうな顔つきも。「(料金を払わずに)失効しちゃって4回目だよー」ってな声も。
渡されたプリントの資料とルールブックに目を通して開始を待つ。眠気覚ましのコーヒーもバッチリだぜ。

講師の方は東京都の協会ではけっこう偉い方のようだった。眠くなるんではないかという心配は杞憂で、
単なるルールの説明もアジアカップやJリーグなど最近の実例を交えて話してくれたので非常にわかりやすかった。
休憩時間にはサッカーに関する動画を流してくれたのでまったく飽きず。受講者もみんなスクリーンを凝視して過ごす。
イギータのスコーピオンキックでは歓声があがるほどなのであった。みんなサッカー好きだなあ。当たり前だけど。
で、ルール説明が終わると筆記試験。やはり間接FKと直接FKの判別が難しい。

思ったのは、審判の仕事ってのは実に裁判官的だということ。裁判の判例を覚えて蓄積しておくのと同じで、
審判は目の前で起きたケースについて、自らの経験をしっかり積んでいれば判定を素早く正確に下すことができるのだ。
サッカーの試合は生き物なので、流れを切ることなくスムーズに安全にコントロールしていくことが何よりも求められる。
それはつまり、人生だとか社会だとかを円滑に正しく動かしていく法律の本来の機能を司ることと同質なのだ。
スポーツのルールは数学だが(→2009.12.28)、そういう数学的・論理的なものをバランスよく動かす点で、
サッカーの審判と裁判官の仕事は本当によく似ている。よく考えれば当たり前の話だが、あらためて実感した。

その後は体を動かす実技。本来ならグラウンドに出てやるところだったのだが、なんせ大雪警報が出ているということで、
人数のわりには狭い部屋の中で、動きの確認をする程度で済ませることに。これは想定外だった。
できれば本番で困ることがないように、ここでしっかり鍛えてもらいたかったのだが……。今後がちょっと不安だ。

雪のことを考慮して、予定より1時間ほど早く終了。無事に4級の資格をもらうことができたのであった。
予想していたよりもはるかに面白かったので、なんとなく物足りない感触がしつつも会場を後にするのだった。
帰り道、雪の粒はさらに大きくなっていて、薄暗い空から優雅に舞い降りていた。
きれいなもんだ、と、この冬初めて思ったよ。


2011.2.10 (Thu.)

今年度最後のALTとの授業だった。内容としては比較級のmoreだとかmostだとかその辺。
ただの会話で終わらせるだけでなく、地図帳まで引っ張り出させるなどして生徒の興味を惹いたのはさすが。
生徒よりもむしろこっちが本当に勉強になる内容なのであった。ありがとうございましたなのだ。

業者がいいのか、去年といい今年といいALTの方には非常に恵まれている。
来年度もどうかよろしく勉強させていただきたいものである。


2011.2.9 (Wed.)

詳しくは書けないが、会議でけっこう衝撃的な内容の報告を受ける。
来年はけっこうキツい状況で授業をやらなくちゃいけないようになりそうだ。
この2年間の経験でうまくやっていくことができるのか。今からしっかり覚悟を決めておかないとなあ。


2011.2.8 (Tue.)

今日の部活は都合により少人数。その分みっちりと基礎をやる。
最近は本当に、自分が基礎の指導ができないことに愕然としている状況なのである。
しっかり勉強せんとなあ。困ったもんだ。


2011.2.7 (Mon.)

こないだの遠足について班で壁新聞をつくるので、生徒の撮った写真をプリントアウト。
それにしても生徒の写真にはくだらないものが多い。全8班中3班が蓮舫のポスターの写真とか撮ってんだぜ。
鎌倉関係ねーだろ!と声を大にして言いたい。まあそういうお年頃なので仕方ないといえば仕方ないが。
僕が写真を撮るときには必ずこの日記でどう扱うかを考えてシャッターを切るものだが、
連中にはそういう要素がないわけだ。修学旅行に向けて、うまくアドバイスをしないといけないなあ。


2011.2.6 (Sun.)

ええと、あまり具体的に書くのがはばかられるんですが、まあつまり、トラブルが発生いたしまして。
個人的なトラブルです。僕個人の責任において僕個人にのみ困った事態が発生したのであります。
まあとりあえず、なんというか、結論から言うと勉強代は高くついたのでございます。うああああ


2011.2.5 (Sat.)

本日もサッカー部は練習なのであったが、ある部員のお父さんがやってきた。
もともとサッカーをやってらしたということで、いろいろと指導のヒントをくださったのであった。
ダメ顧問としては、もう目からウロコがボロボロ落ちまくりでしたな!
いやもう、素直に日頃の指導のテキトーぶりを実感して本当に恥ずかしかったですわ。
そのお父さんのうまいところは、ウチの連中の足りない部分を補う練習をただやるだけでなく、
練習をやる際の道具の活用法まで踏み込んで、いくらでも応用ができる示唆を与えてくれたこと。
つまり考え方の部分でもヒントをくれたわけで、僕にも部員にも新しい発見があったのだ。
顧問の言うことさえ聞いていればいいんだ、という部活にだけはしたくないと僕は思っている。
部員たちが自分たちで考えて行動することをできるようにしていこう、という姿勢をとっているが、
そういう立場からしても、今日の練習は本当にためになったと思う。ありがとうございましたなのだ。


2011.2.4 (Fri.)

いろいろと作業しながら『新世紀エヴァンゲリオン』のTVシリーズDVDをなんとなく見ているんだけど、
やっぱり面白いなあと感心しているしだい。最近はすっかり劇場版の序と破ばっかりお世話になっていたのだが、
劇場版が尺の都合上豪快にあちこちすっ飛ばすのとは違い、TVはちゃんと時間をかけて進む(当たり前だが)。
慣れている身としてはそこがもどかしいのも確かなのだが、しかしあらためてじっくりと見ると、
フンフンなるほどそうだったなあ、と新しい発見として受け止めることになるわけだ。
ふだんの僕なんかはなんでもテンポが良けりゃいいやと思っている人間なのだが、
じっくりと時間をかけないと表現できないこともあるんだなあ、と思い知らされているのである。
そういうわけで、これからもたっぷりと時間をかけて見直していくことにしようと考えているしだい。


2011.2.3 (Thu.)

イラレ(Adobe Illustrator)使ってプリントつくってアクティヴィティ。
僕は皆さんのご想像どおりにどちらかといえば読み書き重視の授業が大好きなわけで、
建前としてはきちんと話す聞くの能力についても鍛えていかなくちゃいけないのである。
というわけでイラレであれこれ話すためのヴィジュアル素材を用意して実践してみたのだ。
ところがどっこい、あまり選択肢が多いと連中はかえって何をどうすればいいのかわからなくなる。
で、慣れてくると今度はできる範囲でムチャをやろうと試みる。なかなか思惑どおりにやってくれないのだ。
そこのバランスとのところで四苦八苦。思えば今年はずっとそれが続いている気がする。困ったもんだ。
教えるこっちがひねくれ者なら、教わるそっちもひねくれ者というわけか。因果応報じゃのう。


2011.2.2 (Wed.)

日本代表SB長友のインテルへの移籍が決定。サイドバックは世界的に人材難とはいえ、
ヨーロッパのビッグクラブ中のビッグクラブについに日本人が加入する時代になったのか、とびっくり。
野球でいえば松井がヤンキースで4番を打つようなものだと思うので(あれも衝撃的だったなあ)、
それがサッカーで起きたという快挙には、ただただ驚くしかない。
ビッグクラブにはビッグクラブなりの難しさ、面倒くささがあると思うのだが、
長友にはなんとしてもしっかりと活躍してもらいたい。うーん、身震いがするぜ。


2011.2.1 (Tue.)

本日はウチの学年の遠足なのだ。下見に行ったとおり(→2010.11.192010.11.272010.12.11)、場所は鎌倉。
詳しく書くのは避けるが、源氏山公園でトビと戦った班が出たり化粧坂で滑った班が出たりとそれなりにドラマがあった。
観光名所を歩きまわる中学生連中とは対照的に、こっちはひたすらチェックポイントで待って通過・到着を確認。
中途半端がどうにもイヤで、動くなら極限まで動く、動かないなら徹底して動かない、という性格の僕は、
あんまり激しく動きまわることなく過ごしたのであった。おかげで時間経過の感覚が一日ずっとおかしかった。
とりあえずは大きなトラブルもなく終わることができてよかったよかった。


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