本日をもってウチの学校を離れる先生のお別れ会。あまり詳しく書くわけにはいかないのだが、
今までさんざんお世話になりまくった英語の先輩の先生が去ってしまうので、なんだかとても切ない。
来年度からはちゃんとしないといけないのである。一年ごとに確実に先へと追いやられているなあ。体育会系のすばらしい部分を凝縮したようなめちゃくちゃすてきな性格をしている体育の講師の方がいて、
(僕は彼のことを本当に尊敬しているのだ。自分には絶対になれっこない人格の人なので、よけいに。)
救援物資を届けに行くボランティア活動をしてきたということで、話を聞かせてもらった。
まずとにかく、目の前にあるのは一面の瓦礫だそうで、「なんだこれは!」以外の言葉が出なかったそうだ。
360°視界すべてが瓦礫。地上のすべてを瓦礫が埋め尽くしているのだそうだ。
当然、物資を届けようにも道がない。まず重機を使って瓦礫を撤去する能力がないと、役に立てないとのこと。
その講師の方はまず食料や衣類などを仕分けするボランティアをやり、ある程度道路ができた段階に入ってから、
実際に現地に行ったというわけなのだ。しかし届けた先のお寺では、次々と遺体が運び込まれて埋葬される。
空き地に穴が掘られていて、それがだんだんと埋まっていくのを見たそうだ。聞いていて、言葉が出なかった。いろいろな「どうにもならない」に直面させられ、腕を組んでしかめ面をすることしかできないのであった。
まあ、前を向いてやっていくしかないんだが。一生懸命にやっていれば、まずはそれでいいのだ。
東京に戻る。見事に寝るためだけに実家に帰った感じでしたなー。
まあとりあえず、福岡土産をしっかりと渡すことができたからヨシとするかね。
実家ではいつものようにたっぷりと睡眠。今回は16時間ということでたぶん新記録である。
夜には日本代表とJリーグ選抜の震災復興支援チャリティーマッチ。当然、テレビにかじりついて見る。
日本代表はザッケローニお得意の3-4-3システムが初お目見えということで、かなり話題になっている。
対するJリーグ選抜もいつ代表に選ばれてもおかしくない面々が並ぶ、恐ろしく豪華なメンバーがそろっている。
震災というきっかけは悲しいが、まさに夢のような試合が実現したのだ。見ないわけにはいくまい。試合は前半、遠藤のFKで日本代表がまず先制。鳥肌が立つほどきれいに決まったゴールで、思わず唸ってしまった。
さらにその4分後には本田からのパスに抜け出した岡崎が決めて2-0。日本代表の風格を感じさせる展開となった。
後半になると中村俊輔がめちゃくちゃ精度の高いパスでゲームを組み立てて、存在感を存分に知らしめる。
62分にはカズが登場。これで代表の試合というよりはオールスターゲームらしい華やかな雰囲気に包まれるが、
川口からのロングキックが闘莉王に渡り、これを頭で落としたところにカズがいた。そしてDFを振り切ってシュート。
まさかこの大舞台で決めてしまうとは。後ろからのパスへの反応からカズダンスまで、すべてが一連の作品に見えた。
これですっかり日本全国お祭り騒ぎ。「日本代表の3-4-3」というフレーズは一気に吹っ飛び、
すべてはカズ一色に染まってしまったのであった。44歳、ホントに決めよったわ!とcirco氏と絶叫。
開幕戦で気合のまたぎフェイントをこの目で見た(→2011.3.6)のに続き、スーパースターの底力を実感させられた。
今年はかなりコンディションが良さそうなのだが、いやはやそれにしても。恐れ入りました。
帰省するので新宿のバスターミナルへ。日が沈んでから新宿に着いたのだが、やはり節電ということで街は暗い。
ふらっと新宿西口界隈を歩きまわってみたのだが、とても時刻が夕飯時だとは思えない。
東京に電力を供給する原発が被害を受けたという事実を考えると、この街がもとの明るさを取り戻す日がいつになるか、
まるで想像がつかない。節電ムードがそのまま続いて、この先ずっとこの明るさなんじゃないかって気もする。
今の新宿と終戦直後の新宿と、どっちが暗いのだろう。ふとそんなことを考えてしまった。バスに乗って初台の出入口から高速道路に入る。少し高いところから街を眺めても、やはり暗い。
夜の便で眺める東京の明かりに慣れきっていたことに、初めて気がついた。
そうして西へと進んでいったら、道路の照明が完全に落とされた区間があった。
頼りになるのは車のヘッドライトだけ。高速道路なのに、である。僕なら怖くて運転できない。
闇の中を突き進むような雰囲気でバスは走っていく。両脇に広がるはずの街は、明らかに明かりが少ない。
それでも星が見えないのは東京の悲しいところだなあ、と思う。三鷹の料金所を抜けて本格的に多摩地区に入ると、むしろ住宅が多いせいで23区よりも明るい印象がする。
たかがバスで実家に帰省するだけのことなのに、変わってしまった現実を突きつけられてショックだった。
朝起きたら運のいいことに無事に生きていたので、さっさと支度を整えて宿を後にする。
博多駅のコンコースを抜けて博多口に出る。博多口は昨日まったくお世話になっていないので、3年ぶりだ。
工事中だった3年前(→2008.4.25)には想像のできなかった巨大な駅ビルができあがっている。
札幌駅と比べるとホテルも展望台もないのでそれなりのサイズかもしれないが、しかしやっぱりデカい。
記念に一発撮影しておこうとデジカメを構えるが、まったくうまく視野に収まってくれなくて苦労する。
横断歩道を渡ってあれこれ立ち位置を変えてどうにかシャッターを切ると、そのまま駅から離れる。
博多駅の博多口からは放射状に3本の道路が広がっているのだが、そのうちの南西行きの道を行く。
住吉通りという名前がついており、その名のとおり住吉神社へと至る道である。今月3日に開業したばかりの博多駅ビル。九州新幹線ブームに湧いている。
オフィスビルの建ち並ぶ道を行くと、しばらくして住吉神社の南入口に到着。
正面の入口は西側になっているようなので、そっちへとまわり込む。するとなんとも不思議な光景に出くわす。
石の橋を渡って池の中にある島を通って鳥居や門をくぐる、という空間構成は神社ではよくあるのだが、
掃除をしているのか、その池には一切水がない。そして水色の金網を平然と柵代わりに配置している。
これはなんとも締まらない光景だなあ、と思いながらもその参道をまっすぐ歩いて境内へ。
かつて博多湾はこの住吉神社の前まで入り込んでいたというが、今はまったくその面影がない。
単なるオフィス街の中に生き残った緑がいっぱいの神社、という印象しかしないのである。「住吉」と名のつく神社は全国にいっぱいある(2000以上)。特に大阪の住吉大社が有名だ(→2009.11.22)。
しかしこの福岡の住吉神社は、その中で最も古い歴史を持っているという。昨日の筥崎宮とともに筑前国一宮である。
黒田長政が再建した本殿は重要文化財だが、残念ながらはっきりと見ることはできなかった。
やっぱり昨日の筥崎宮と同じくおみくじは50円。昨日の分と合わせて、ってことで、100円を納めてチャレンジ。
そしたら見事に大吉なのであった。太宰府天満宮での決意が後押しされた気分で元気づけられたのであった。
L: 住吉神社の天竜池(水なし)。途中の島には天津神社がある。それにしても締まらない光景だ。
C: 鳥居をくぐっていざ境内へ。車も平然と鳥居をくぐるようで、轍ができていたのであった。
R: 拝殿。周囲には背の高いビルがあり、オフィス街の中にしっかりと存在する神社という印象だ。住吉神社への参拝を終えると博多駅へと戻る。が、途中で軽く道に迷う。
博多駅周辺はきちんと矩形の街割りになっているのだが、さっきの住吉通りもそうだったように、
大通りが斜めに走っているので油断するとわけのわからないことになってしまうのだ。
どうにか太陽の方向を手がかりに博多駅まで戻ったのだが、朝っぱらからちょっと困ってしまったよ。さて本日は博多駅から鹿児島本線を南下していき、まずは鳥栖へ寄ってみる。J2・サガン鳥栖の本拠地だ。
そして鳥栖からさらに南下して久留米へ。もちろん昼食には名物の久留米ラーメンをいただくつもりだ。
最後に久留米から西鉄で柳川へ行く。堀割で非常に有名な街であり、一度訪れたいと思っていたのだ。博多駅から鳥栖駅までは各駅停車で50分ほど。ルートとしては昨日の西鉄と並行して走っており、
あらためて福岡平野から筑紫平野に出るまでののどかな山間の風景をぼんやりと眺めながら過ごす。
昨日とは違う角度から太宰府、そしてその歴史を客観的に眺めた、そんな感じである。
そうしているうちにいつの間にか佐賀県に入り、鳥栖駅に到着。車窓からすでに見えていたのだが、
ホームに降りてあらためて目の前にあるスタジアムを眺める。鳥栖スタジアム(ベストアメニティスタジアム、ベアスタ)だ。スタジアムの写真を一発撮ると、改札を抜けて鳥栖の街へと歩きだす。見た感じ、観光案内所はなさそうだ。
できれば鳥栖市内の地図が欲しかったのだが、しょうがない。記憶にあるGoogleマップを脳内で再生する。
駅前には何を再開発したのか、けっこう大規模な商業施設があって驚いた。郊外にありそうな施設が、
いきなり駅のほど近いところにボコンとできている。後で調べたら「フレスポ鳥栖」というそうで、
JTが工場跡地につくったみたいだ。こういうものが駅前にできるのが、鳥栖の交通の要衝っぷりを示していると思う。
L: 鳥栖駅のホームから眺めた鳥栖スタジアム。さすがにこれだけ交通至便なスタジアムは滅多にない。
C: 鳥栖駅。朝っぱらで大逆光なのであった。鳥栖は交通の要衝だが、正直それ以外の特徴があまりない街だ。
R: 街を歩くと実に穏やかな地方都市という印象。でもサガン鳥栖の旗が誇らしげに飾られているところがほかと違う。商店街をさらに進んでいく。片田舎の地方都市という印象はいよいよ強くなってくる。
しかしながら、歩道の脇に並ぶ車止めはさすがにサッカーの街だな、と思わせるボール型のオブジェ。
これが本当に延々と続いているのだ。こういう些細なところからも、サガン鳥栖が経営危機を乗り切った気概を感じる。ボールの飾りがあるのを見ると、やっぱりサッカーの街なんだと思う。
さて、鳥栖市役所は駅からけっこう歩いたところにある。やはり交通の要衝である鳥栖らしく、
国道34号沿いに広大な駐車場を伴ってつくられていた。おかげで非常に撮影がやりやすい。
市役所の建物はかなり床面積が大きいが、その分だけ高さがない。鳥栖の土地の広さをここからも感じさせられる。
L: 鳥栖市役所。設計したのは梓設計で、1967年に竣工。時代を感じさせるデザインである。
R: 角度を変えて眺める。たっぷり面積をとれたためか、高さはそれほどない。さっきとは別の道を歩いて駅まで戻ることにする。ちょっと北寄りに戻ったらそこは完全なる住宅地で、
案内板などがまったくない環境を歩く破目になった。いやー、迷った迷った。
僕は意図せずに旅先で名もない典型的な片田舎の住宅地を歩くことがけっこうあるのだが、
そこで感じるなんともいえない懐かしさ、郷愁こそが「日本の本質」じゃないかって気がするのだ。
今回の鳥栖もまさにそれで、迷いながらも、初めての土地なのに慣れ親しんでいる風景を楽しませてもらった。さて、そんなこんなで大回りになりつつも線路の東側に出ることができた。鳥栖の最後はスタジアムで締めるのだ。
さっき駅のホームから眺めたけど、せっかくだから近づけるだけ近づいてみようというわけなのだ。
鳥栖スタジアム(ベアスタ)は1996年にオープンした、球技専用のスタジアムだ。
もともとここは鳥栖操車場の跡地だったそうで(さいたま新都心みたいなもんだ →2006.2.12/2009.3.18)、
おかげで鳥栖駅からのアクセスは最高。そして球技専用のスタジアムだから客席からピッチも近く、
Jリーグでもトップクラスの評価を受けているそうだ(西のベアスタ、東のユアテック(仙台)と並び称される)。
そんなにすごいんならぜひとも生で観戦してみたかったが、Jリーグは震災の影響で延期中。
まあいずれ観戦させてもらうことにしよう。楽しみがひとつ、ちょっと先に延びただけさ。
L: 鳥栖スタジアム(ベストアメニティスタジアム)。鉄道でのアクセスの良さは本当に最高。
R: ホーム側ゴール裏の入口まで行ってみた。いつか中に入って試合を観てみたいものだ。鳥栖駅を出ると、すぐに久留米駅に到着。久留米というとチェッカーズ、ブリヂストンというのが僕の脳みそ。
とりあえず、その都会っぷりを味わってやろうじゃないかと思いつつ改札を抜け、そのまま観光案内所へ。
久留米駅の改札の向かいには土産物を扱う店があり、その一角がそのまま観光案内所になっているのだ。パンフレットをいくつかゲットすると、受付にいたおねえさんにレンタサイクルの申し込みをする。
そしたら駅前の駐輪場まで案内された。レンタサイクルで使っている自転車はそこに置いてあるという。
駐輪場に行く途中ではどこから来たか訊かれ、東京と答えるとやっぱり震災の話になった。
さすがに九州では、東日本の置かれている危機的な状況にあまりリアリティが感じられないようだ。
というかそもそも地震に縁がないようで、「2日に一度は震度3の余震が来てますよ。もう慣れちゃいました」
と僕が言うと、「えっと、震度3ってどれくらいの揺れなんですか?」と聞き返されるくらいだった。
これには苦笑いで「みんなが顔を合わせて『今のは揺れたなー』って言う感じですかねえ」と答えるしかなかった。ママチャリにまたがると、まずは久留米駅からそのまま東へと昭和通りを走る。
久留米市街の構造はけっこうシンプルで、ほぼ西端がJR久留米駅、ほぼ東端が西鉄久留米駅。
両者をつなぐ東西方向の大通りは2つあり、北の福岡県道46号が昭和通り、南の国道264号が明治通りとなっている。
まずは昭和通りを快調に飛ばしていく。途中に久留米市役所がそびえているので、そこで撮影タイム。
L: JR久留米駅。右側に世界一大きなタイヤが展示されている。さすがはブリヂストンの街である。
R: 昭和通りを行く。商店がないことはないけど、基本的にはマンションやオフィスが多い感じ。久留米市は菊竹清訓の出身地ということで、当然、市役所も彼の設計による。
1994年竣工で、高さ91m、地下2階、地上20階という規模は、県庁所在地の各市役所と比べても圧倒的である。
久留米は市町村制施行時(1889年4月1日)からの市ということで、さすがということになるのだろう。
L: 久留米市役所。南から駐車場を挟んで撮影。周辺の建物とは比べ物にならないスケールだ。
C: 昭和通りから撮影。意外と薄い。 R: 逆の北側から眺めたところ。やはり巨大である。昭和通りを走っている途中で、いかにもバウハウスの影響を受けました、という感じの面白い建物を発見。
美容院として使われているようだが、改装した人はなかなかの通とみた。やりますなあ。
L: 斜めの角度から撮影。 R: 正面はこんな感じ。文字がバウハウス風に仕上げてあり、これが効いている。そんな感じで愉快に西鉄久留米駅に到着。JRよりも西鉄側の方が商店街としての雰囲気が強い。
明治通りや一番街のアーケードなど、店舗が集中している空間が形成されている。
もっとも、「朝早く訪れたから」という言い訳のきかない寂しさが漂っていないでもなかった。
L: 西鉄久留米駅。JRほど小ぎれいではないが、その分だけ賑わいの歴史を感じさせる場所である。
C: 一番街を行く。活気はイマイチな雰囲気。 R: 明治通りのアーケード。これと比べると昭和通りは「裏側」という印象。そのまま西鉄久留米駅を抜けていくと、石橋文化センターに到着する。ここはその名のとおり、
ブリヂストンの創業者である石橋正二郎が久留米市に寄贈した文化施設が集まっている場所なのである。
その核となっているのが石橋美術館。せっかく久留米に来たので、当然、中に入ってみる。石橋美術館。この周辺には中央図書館や文化ホールなどが集中している。
石橋美術館では地元出身の画家・青木繁の展覧会が開催されていた。ひとつひとつの作品を見ていく。
絵画のほかにも、若くして亡くなった彼の足跡をたどる資料がふんだんに展示されていた。
青木繁というとまず『海の幸』。それに次いで『わだつみのいろこの宮』が有名なようだ。
彼は『わだつみのいろこの宮』に並々ならぬ自信を持っていたようだが、発表当時、酷評されて大いに失望したという。
今では重要文化財に指定されるほどの評価を得ているようだが、正直なところ僕にはあまり響かなかった。
右側の女性が完全に後ろを向いちゃっている構図のとり方は褒めようがないと思うのだ。
そんなこんなで、これといって特にインパクトを受けることのないまま美術館を出てしまった。石橋美術館を後にすると、ちょうどお昼なので名物の久留米ラーメンを食べることにした。
久留米ラーメンの有名店といえば、なんといってもトラックの運ちゃん相手に24時間営業をしている「丸星ラーメン」だろう。
レンタサイクルを飛ばして国道3号を北上し、筑後川を渡る。橋の上から穏やかな風景を眺めていると、
なんだか荒川を渡って埼玉県へ出るときのことを思い出す。雰囲気がすごくよく似ているのである。
そうして橋を渡りきると、電柱に黄色い丸星ラーメンの広告が現れる。さらにちょっと進むと、道の両側に駐車場。
左手にはプレハブっぽい建物があり、その先にも駐車場。プレハブには赤で丸の中に星の字が書かれており、
一目で丸星ラーメンであるとわかる。つまり、プレハブを囲む駐車場はすべて、丸星ラーメンの駐車場なのだ。駐車場の端っこに自転車を駐輪すると、入口へ。行列ができており、素直に並んで券売機でチケットを買う。
店内は家族連ればかりである。休日のお昼ということで混んでいるのは覚悟していたが、
本来の客層である無骨なトラックの運ちゃんが皆無で子どもがいっぱい、という事態は予想外だった。
それでも店内はかつてテレビで見たのと同じで、演歌が流れて歌詞を書いた板が壁に貼り付けられている。
おおさすが!と思ったのも束の間、テーブル席の合間に子ども向けのおもちゃが売られているのを見て、
すっかり観光客向けの店として定着しているんだなあ、と認識を改めさせられたのであった。しかし丸星ラーメンの独特の注文スタイルはトラックの運ちゃん相手のままのようで、一見さんには難しい。
どうやら席が空いたら、前の人のどんぶりが片付けられていない状態でもすぐにテーブルにつくようなのだ。
そうしてチケットを出しておき、店員のおばちゃんがどんぶりを片付けに来る際に注文を確認するのである。
替麺(替え玉のこと)のチケットもあらかじめこのタイミングで出しておくのが礼儀のようだ。まあ確かに、これがいちばん早い。久留米ラーメンは九州全土に影響を与えた豚骨スープの元祖なのである。
これが屋台で早くゆであがるようにさらに細い麺になったのが博多ラーメン、ということになるのだ。
スープとやや細めの麺のバランスを楽しみながら、飽きない程度でチャーシューやネギが入るので、
博多のそれよりもきちんとラーメンを食べているという感覚になれる。脂は濃いめだが、夢中でおいしくいただいた。
L: 丸星ラーメンとその周辺の駐車場地帯。少なくともこの時間帯は、徹底して観光客向けの営業スタイルである。
C: 店舗を正面より撮影。風格のある店内は残念なことに撮影禁止なのだ。 R: 久留米ラーメンだぜ。筑後川を戻って市街地に帰ってくると、そのまま久留米城址を目指す。
久留米城は柳川城の支城として田中吉政の勢力下に置かれたが、後に有馬氏が久留米藩として治めた。
現在、本丸跡は有馬記念館と篠山神社、二の丸と三の丸はブリヂストンの工場となっている。
というわけで工場の脇を抜けて本丸に乗り込むと、神社を参拝してしばらく散策。
L: 久留米城址の見事な石垣。 C: 本丸跡への入口はこんな感じである。
R: 本丸跡。左手は篠山神社の本殿。かつてはここに本丸御殿が建てられていたのだ。久留米城址を後にすると、そのまま筑後川沿いに水天宮を目指す。
ところでJRで久留米に入ると、筑後川を挟んで巨大な壁が立ちはだかっているような錯覚を受ける。
それもただの壁ではない。半ば廃墟のように古びた無骨な工場の建物が、川の向こうにそびえているのだ。
これは子ども向けのゴム靴でおなじみのアサヒコーポレーションの工場。ブリヂストンはかつてアサヒの子会社だったのだ。
久留米城址から水天宮へと向かう途中、そのアサヒの工場の脇を通ったのだが、その迫力には圧倒された。
最近は「工場萌え」なる言葉も出現するほどに工場見学がブームとなっているが(昭文社のまっぷるもムックを出した)、
そっち系の感性を持っている僕としては、これはなかなかたまらない光景なのであった。で、水天宮。東京にもある水天宮の総本社が久留米にあるのだ。もっとも水天宮といえば、
子どもの守護神だったり安産の神だったりするわけで、僕にはこれっぽっちも縁がないのだが、
まあせっかくなのでお参りしておくのである。いつか水天宮のお世話になる日が来るといいですなあ。
L: 筑後川に面しているアサヒコーポレーションの工場。これはJRから眺めるとなかなか強烈なのだ。
C: 水天宮の境内を行く。細長くって、総本社のわりには意外と規模は大きいものではなかった。
R: 拝殿。いちおうお参りはしておいたよ。家族連れが多かったのはさすがかな。急いでJRの久留米駅に戻り、レンタサイクルを返却。次の目的地は柳川市なのだが、
柳川へ行くには西鉄に乗る必要がある。電車の本数もそれほど多いわけではないので、時間的な余裕はない。
さっき自転車で走ってJRと西鉄の間はけっこうな距離があることは十分わかっていたので、
ここは無理せずにバスに乗ることにした。久留米駅前のバスターミナルに行くと、すぐにバスが来た。
バスは明治通りを進んでいくが、各バス停に乗降客が必ずおり、走るのとあまり変わらないペース。
まあつまりはそれだけ、西鉄のバスは住民たちに利用されているってことなんだろうな、と思う。
切符を買って西鉄久留米駅の改札を抜ける。ホームに上がったらちょうど電車が入ってくるところだった。
電車に乗り込むと、窓の外に茫洋と広がる筑紫平野を眺めながらのんびり過ごすのであった。15分ほどで西鉄柳川駅に到着する。毎度おなじみ、レンタサイクルを駅の改札で申し込む。
西鉄柳川駅は柳川の市街地から少し離れた位置にある。通は掘割の川下りで市街地に入るのかもしれないが、
こちとらせっかちな一人旅なのである。何かと自由の利くレンタサイクルに勝る交通手段などないのだ。
とりあえずは駅で入手した柳川のガイドマップを参考に、最初は三柱神社から訪れてみることにした。
L: 西鉄柳川駅。平成の大合併以前にここは三橋町域で、柳川市域ではなかったそうだ。ちょっとびっくり。
R: 市街地の掘割。これは三柱神社付近の光景。川下りの舟は頻繁に往来している。駅前のロータリーを出て右手に曲がると、すぐに掘割の川下りの乗り場が見えてくる。
柳川の街を構成する最大の要素といえば、なんといっても掘割だ。もともとは柳川城の防御のためにつくられたもので、
これが効いて柳川城は難攻不落の城として有名だったという。山国育ちの僕にしてみれば、
起伏のまったくない土地で難攻不落とは正直想像しがたい。軍事的な視点から見る柳川というのも興味深い。
掘割はその後、田中氏時代に用水路・貯水池としても整備された。しかし1970年代には汚れきった状態になってしまい、
一時は掘割の暗渠化・埋め立て化まで行われそうになったという。結局、柳川市は掘割を元の姿に戻し、
今では川下りが重要な観光資源として認知されている。東京とはえらい違いだなあ、と心底思う。掘割を渡って三柱神社へ。立花宗茂・誾千代(ぎんちよ)夫妻とその親・道雪の3人が祀られているのがその名の由来。
この日はちょうど参道で流鏑馬が行われる予定となっており、準備がけっこう佳境に入っているところだった。
生の流鏑馬を見るというのもなかなか面白そうだったのだが、のんびり待っているヒマがあったら街歩きなのだ。
長い参道に沿って歩いてお参りしようとしたのだが、なんと2005年に放火による火災に遭ったということで、
新しい社殿が建てられていた。その新しさがかえって痛々しく、なんとも複雑な気分でお参りをするのであった。
社殿の脇では、ばっちり支度をした状態で馬が出番を待っていた。近くで見るとさすがに迫力がある。
L: 流鏑馬の現場となる三柱神社の参道。 C: 新しく建てられた社殿。なんだかそれはそれで切ない。
R: 出番を待つ白馬。もう1頭、真っ黒な馬もいて、実に対照的な組み合わせとなっているようだ。流鏑馬の本番をぼんやり想像しながら三柱神社を後にする。柳川橋を渡るとしばらく旧来の商店街が続く。
店たちの雰囲気も全体の飾り付けも昭和の匂いを色濃く残しており、どこか安心感を覚えつつ自転車で走る。なんか懐かしい感じがする光景だなあ。
辻町の交差点で南下し、旧柳川城内に入る。しばらく南へ進んでいくと、柳川市役所である。
柳川市役所は1977年の竣工で、佐籐武夫設計事務所(現・佐藤総合計画)の設計による。
が、むしろ隣にある柳川市民会館の迫力がすごい。こちらは1971年の竣工だというが、
打ちっぱなしのコンクリートを立体的に固めて要塞にしたような外観が、非常に大きなインパクトである。
役所とホールを並べる手法は1970年代公共建築の大きな特徴だが、両者に共通性は感じられない。
市民会館に比べると市役所はずいぶんつまんねえなあ、と思いつつデジカメのシャッターを切るのであった。
L: 柳川市役所。まあ特にこれといって言うべきことはない感じ。無個性な庁舎建築の典型だ。
R: それに対して柳川市民会館はかなりのド迫力建築である。さすが柳川、なかなかやりますなあ、と言いたくなる。市役所の撮影を終えると、堀割沿いの道をふらふらのんびりたどってみる。
はっきりした春の日差しの中、観光客をたっぷり乗せた川下りの舟がひっきりなしに掘割を行き来する。
まるで東日本の大震災が別の国のことのように思える穏やかさだ。当たり前の幸せを、僕も享受している。
いやむしろ、あの震災があったことで、この美しい時間の価値を確かめることができているのかもしれない。
水面と木々の緑を背景にひらひらとアゲハチョウが飛んでいく光景を、しばらく黙って眺めて過ごした。
L: 掘割と柳城公園。近くでは観光バスが観光客を乗せて降ろして大忙し。さすがは柳川だ、と感心。
C: 川下りの船着き場にはこんな小さな雛壇が。3月だからか。 R: これは後で「御花」の裏手で撮った写真。山王橋を渡ると柳川高校。甲子園に何度も出ている学校ってことは知っている。
城跡のかなり真ん中近くで、私立の学校なのにこの場所を押さえるとはすげえもんだ、と感心するのであった。
そしてまわり込むようにして、柳城中学校の敷地内へと入る。柳川城の天守台跡は、中学校の中にあるのだ。
僕以外に誰もいなかったが、学校の警備員の人はきちんと職務に励んでいたので、笑顔で会釈して天守台跡へ。
L: 右手が柳川城天守台跡。左手は柳城中学校のグラウンド。 C: 天守台跡への入口。この付近だけは少し立派。
R: 天守台跡の真ん中には木が一本残り、根元に小さな地蔵が置かれている。華々しい歴史のわりには寂しい光景だ。観光地として有名な柳川のかつての核、難攻不落と謳われたはずの城にしてはずいぶんと寂しい状況だった。
明治初期に干拓地の堤防のために使われたせいで石垣はごく一部にしか残っておらず、一見するとただの段差。
上にあがってみても、砂利とわずかな芝が残るちょっとした公園、といった雰囲気でしかない。
隣ではちょうど柳川高校の野球部が練習中で、めちゃくちゃ大きな声が出ていてかなりの迫力だ。
天守台跡のあまりにも静かな光景とのギャップがひどく印象的なのであった。気を取り直して、柳川城址の南西にある観光名所をまわってみることにする。
まずは旧戸島家住宅。まあ正直なところ、全国のあちこちに残っているような武家屋敷なのだが、
中に柳川ならではの面白いものがあったので、説明書きをしっかり読んでお勉強。
L: 柳川のひな祭りはこんな感じなのだ。 R: 「さげもん」をクローズアップ。柳川では3月ということで、ひな祭りのキャンペーン中だった。おかげで本場の「さげもん」を見ることができた。
これは女児の健康と長寿を願う飾りで、竹の輪に紅白の布を巻いて人生50年だけど女性は一歩引くから49個の飾りを
その輪っかから7×7にしてぶら下げるけど柳川の鞠を2個つけて51個にして50年よりも長生きできるように願って
そんでもって飾りのいちばん下は必ず這っている子どもの姿の人形にしなきゃいけないなど、
実はかなり細かいルールがあるものなのだ。これがものすごく見事で、本当にかわいいのである。
端切れの布を使って、鞠のほかに貝・桃・花・カボチャ・ニンジン・スイカなど、ありとあらゆる飾りがつくられている。
僕の母はこの手の民芸品がわりと好きで、そのせいでそういう物を扱う店を訪れる機会はわりと多かったのだが、
そんな僕の目から見ても、この柳川のさげもんは非常に魅力的なものだった。小さいものを土産物屋で売っていたので、
買って実家に持って帰ればよかったなあ、と日記をいま書いていてちょっと後悔している。それくらいよかった。さて柳川出身の有名人は何人もいるが、その中でも抜群の知名度を誇るのが北原白秋である。
柳川には北原白秋の生家が記念館として残っているので、迷うことなく中に入った。
復元された建物はいかにも明治期の造り酒屋らしく、奥へと抜ける土間の通路に沿うように部屋が連続し、
それぞれ生活感を残しつつも資料の展示がなされていて、しっかりと工夫を感じさせる空間となっている。
記念館では1階が柳川の歴史、2階が白秋の生涯の展示となっており、コンパクトながらも内容は濃かった。
L: 北原白秋生家。奥には記念館がある。いかにも造り酒屋らしい特徴を残した建物。
R: さすが北原家。さっきの武家屋敷とは比べ物にならない豪華な雛壇とさげもんである。圧倒された。北原白秋の生家周辺から「御花」に至るまでは柳川でもかなり観光地然としたエリアで、かなりの賑わいをみせていた。
特別何かがあるというわけでもないのだが、大勢の観光客が集まって穏やかに過ごしている光景は、どこかほっとする。
僕もぶらぶらしてもよかったのだが、こういうときに一人旅というのは不利なのだ。
できるだけゆっくりとペダルをこいで、回り道をしながら次の目的地へと向かうことにした。特にこれといって何かがあるわけでもないけど賑わっている一角。
裏手から入ったら、ふつうは自転車で来るところではないらしく、思いっきり迷ってしまった。
どうにか正面の側に出て、あらためて建物を眺める。立派な洋館が誇らしげにたたずんでいる。
かつてこの柳川の藩主だった立花家が今も経営する「御花」である。観光客の量が実にすごい。
まずは併設されている立花家史料館に入ってみる。ここは立花家の美術工芸品・大名道具を展示しているのだ。戦国時代好きには常識だろうが、立花家はもともと豊後の大名・大友家の家臣である。
大友家も宗麟(→2009.1.9)が生きているうちはよかったが、彼の死後は衰退の一途をたどる。
それと入れ替わるように台頭したのが立花宗茂というわけだ。龍造寺家と鍋島家の関係に少し似ている。
宗茂の父は戸次(べっき)道雪。「立花道雪」として知られるが、生前に立花姓は名乗らなかったらしい。
道雪は幼いときに雷に打たれて半身不随になったといわれるが、大友軍の猛将として非常に有名な存在である。
で、同僚の高橋紹運の息子を養子として迎える。とても優秀な子どもなので当初、紹運は嫌がったのだが、
断りきれなかったそうだ。それが後の立花宗茂。宗茂は秀吉の九州征伐後に独立し、柳川城主となる。
しかし関ヶ原の合戦で西軍についたため、所領は没収となってしまった。
代わりに柳川に入った田中吉政は掘割を整備するわ天守閣をつくるわの活躍ぶりをみせるのだが、
跡継ぎがいなかったためにあっさり2代で断絶してしまう。その結果、立花宗茂が城主として戻ることになった。
関ヶ原で徳川方と戦ったにもかかわらず旧領を回復した唯一の大名として、とても有名な話だ。立花家はそのまま柳川藩主として明治維新を迎えた。おかげで立花家史料館は大名の生活ぶりを知ることのできる、
貴重な資料がしっかり展示されている。確かな質の品々が一気に集まっている光景は、やはり迫力のあるものだ。
お殿様が地元の名士として今もその土地に残っている凄みってのが体験できる、面白い施設だった。立花家史料館を出ると、あらためて「御花」の西洋館を眺めてみる。1910(明治43)年築だそうだが、実にきれい。
こういう洋館は自治体が管理するパターンが多いように思うのだが、現役の旅館・結婚式場の一部であるため、
生きて使われているという感触が確かにあって、それがいい。やっぱお殿様は違うのか、と思う。
「御花」はもともと4代藩主・立花鑑虎が別邸として1697年につくったものがはじまりで、
この辺りが「花畠」という地名だったことから「御花」と呼ばれるようになったのだそうだ。
上記のように、現在は立花家が経営する旅館・結婚式場として、柳川観光の核といえる存在となっている。
L: 「御花」の門から眺める西洋館。 C: 木々が植えられて西洋館を正面から眺められないのはちょっと残念。
R: これは後で建物の中から裏側を見たところ。この日は結婚式があるらしく、中はそれっぽい準備がなされていた。「御花」における最大の見どころは、日本庭園「松濤園」じゃないかと思う。
建物群と併せて見学できるようになっているので、迷うことなくおじゃまする。
和風の建物の廊下を抜けて、まずは西洋館を目指すことになるのだが、
その廊下の鴨居にはずらりと金色に塗られた兜が並べられており、その光景に圧倒される。
西洋館の中は結婚式の準備がすっかり完了しており、いつ始まってもおかしくなさそうな雰囲気。
それでも見学OKなのは度量が大きいなあ、とすっかりうれしくなってしまった。
そして最もすごかったのが、雛壇とさげもん。北原白秋の生家でもすでに圧倒されたのだが、
そのはるかに上をいく豪華さ。やはり殿様の威光というのは究極なんだなあ、と開いた口が塞がらなかった。建物の中をひととおりまわり終えると、いよいよ庭園の松濤園だ。
松島(→2007.5.2/2008.9.11)を模した景観というだけあり、池を主体に松を散りばめた姿はとても大胆なつくりだ。
天気に恵まれたこともあり、青い空と鮮やかな緑を雄大な水面が映して実に美しい。
そこを多くの鳥たちが動きまわることで穏やかな時間の流れがつくられる。これは飽きない。
入口のところにある階段を上がって建物の2階から松濤園を眺めることもできるのだが、
高いところから眺めると庭園はまたちがった表情をみせる。周囲の建物との対比によって、
いかに区切られた範囲いっぱいで自然が演出されているのかがよくわかるのだ。
額縁の中で緑と水が躍動しているようなもので、その姿に時間を忘れて見入ってしまった。
L: 廊下の鴨居に並ぶ金色の兜。ぼーっと歩いていると気づかないかもしれない。武家のプライドを感じさせる演出である。
C: 立花家・御花の雛壇とさげもん。いやもう、これはレベルが違いすぎるわ。豪華絢爛とはまさにこのこと。
R: 松濤園。高いところから眺めるほうが見事かな、と思う。庭園の範囲いっぱいにつくり込まれた美しさが際立つ。これは本当にいい時期に柳川を訪れたなあ、と心から満足して御花を後にした。
最後に立花家の菩提寺であるという福厳寺にちょっと寄ったのだが、こちらはわりかし質素な地元の寺。
特にこれといって観光向けの資源もなかったので、境内を軽く散歩して駅へと戻った。福厳寺境内。黄檗宗らしい雰囲気を感じさせる。
西鉄柳川駅に戻るとレンタサイクルを返却。西鉄のレンタサイクルは全体的にソフトな対応でいいと思う。
福岡へと帰る列車の中はかなりの混雑具合で、西鉄は繁盛しているなあとあらためて感心するのであった。
西鉄福岡駅に到着したのは夕方17時近くで、あちこち歩きまわるにはちょっとつらい時間。
それでも呆けて過ごすのはもったいないので、今日も明治期の建築を一発撮影するのである。というわけで福岡市文学館(赤煉瓦文化館)。昨日の旧福岡県公会堂貴賓館と同じく重要文化財だ。
設計は辰野金吾・片岡安で、日本生命保険株式会社九州支店として1909(明治42)年に竣工した。
中洲の北端から天神に入ってくるとまずこの建物が出迎える、という抜群のロケーションとなっているのだ。
盛岡の岩手銀行中ノ橋支店(→2008.9.12)もそうだったが、辰野金吾の角地建築の典型例という印象である。
L: 福岡市文学館(赤煉瓦文化館)。 R: 天神の地下街を散歩。かなりの人出で混雑していた。2日連続で屋台のお世話になるのも悪くないのだが、飛行機の時間を気にしなくちゃいけないので断念。
そういうわけでわりとあっさり博多駅に戻ると、メシを食って福岡空港へ。
おかげで福岡空港では時間的な余裕が少しできたので、実家へのおみやげを見繕って過ごす。
母親向けに本場の明太子を買ってやることにしたのであった。しかし明太子も種類が多すぎて困る。
あと、空港内のレストラン前をウロウロしていて思ったのは、一人旅でも空港なら名物が食いやすいということ。
空港のレストランには絶対にその土地の名物が用意されていて、出張のサラリーマンがけっこういるわけだから、
本来なら一人では食べづらい名物だってうまくお一人様向けにアレンジされているわけなのだ。
そう考えると、無理に街中であれこれ迷っているよりは、空港であっさり名物をいただくほうがいいかもしれない。
今さらその事実に気がついて、「ああ」と間抜けな声を漏らすのであった。飛行機が離陸する。手のひらには汗がにじむ。何度乗ってもこれには慣れない。
往路は朝だったので窓からの景色を大いに楽しんで過ごしたが、夜景で街を判別するのはとっても疲れることだ。
歩き疲れてとてもそんな気力はなかったので、おとなしく眠って過ごした。いや本当に疲れた。東京に着くと京急と東急を乗り継いで帰宅。京急蒲田駅から蒲田駅までの歩きがやはり面倒くさい。
蒲蒲線の需要は絶対にあるぞ、っていうか早くつくっちまえ!と思いつつおやすみなさいなのであった。
もともとこの土日に予定を組んでいたので、こりゃもう行くしかないのだ、ということで九州へ飛ぶ。
なぜ九州なのかと訊かれれば、昨年から南のほうの遠いところへ行きたい気持ちが強かったからで、
そうだそろそろ太宰府天満宮にお礼参りに行かなきゃね(→2008.4.25)、という名目なのである。
さらに柳川に行ってみたくって、それなら久留米にも寄っちゃえ、という感じの2日間を過ごす予定だ。朝イチの便で羽田から出発する。機内はそれほど混んでおらず、東京脱出を企む人々がいるという感じではない。
明らかに大学の卒業旅行といった集団がガイドブックを広げている姿が目立っており、出張と思しきサラリーマンも。
それにしても太陽の出ているうちに飛行機に乗るのはいつ以来だろうか。快晴の東京を眼下に見下ろすのは快感だ。
無数の船が浮かぶ東京湾の上空で大きく旋回した飛行機は、そのまま西へと針路をとる。
目の前に広がるのは非常に精巧につくられたミニチュアの都市。でもそれは、まちがいなく本物の東京なのだ。
東京タワーが手前にあり、右手奥には東京スカイツリー。両者を一度に視野に収めることができるのは感動だ。
眼下には神宮球場と国立競技場。大規模なスポーツ施設ははっきりとしたランドマークとなってくれる。
新宿を越え、多摩川を挟んだ南側では、等々力陸上競技場(→2007.9.30)が存在感を示している。
そうこうしているうちに飛行機は23区から多摩地区へと入る。おとなしい住宅街はなかなか違いがわからないが、
やはり東京スタジアム(味スタ)が明確なアクセントとなって目を引く。なんだか、さっきからサッカーばっかりだ。
そうして中央道を軸に周辺を眺めると、今度は東京競馬場が現れた。この先には当然、国立がある。
目を凝らして国立の大学通りを探す。それっぽい放射状の3本線がうっすらあったが、確信は持てない。
やがて西には無数の山々が現れる。広大な関東平野はここで終わり、神奈川や山梨との県境が近くなる。
その関東平野の最後のところで、横田基地が圧倒的な存在感を示していた。上空から見ると別格だ。
西多摩は本当に山ばっかりが連続していて、どれが高尾山なのかどれが雲取山なのか、まるでわからない。
険しい山々が続いて眩暈がするほどだが、そのうちに見事な逆三角形の盆地に出る。甲府盆地だろう。
盆地が終わると険しい山脈が二重に広がる。これが南アルプス、赤石山脈だ。
そうなると当然、次に現れるのはわが故郷・長野県南部の伊那谷である。デジカメを構えてじっと待つ。
L: 飯田市を上空から眺める。市街地の真ん中を横方向に走っているのは松川。その北側が丘の上なのだ。
R: 松川周辺をクローズアップ。松川と交差して右上から左下に曲線を描いて走っているのは中央自動車道。まさか飯田を上空からこんなにもしっかりと眺めることができるとは思っていなかったので、かなり興奮。
しかし飛行機は感傷に浸るヒマを与えることなくなおも西へ飛び、岐阜県の上空へと入る。
まず目立っていたのは各務原の航空自衛隊基地。横田基地もそうだったが、軍事施設は上空からだとよく目立つ。
すると今度は濃尾平野が現れる。山梨や長野の盆地とはまったく規模の異なる、広大な平野だ。
愛知県一宮市から岐阜県羽島市の辺りでは、実に平べったい市街地を川がしっかりと流れている姿が味わえる。
木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の存在感はさすがで、ただ眺めているだけでも面白い。見るからにすげー洪水に弱そう。
関ヶ原の山地を越えると青い水が広がる。琵琶湖だ。琵琶湖は飛行機から見てもやはり大きい。
しかしその琵琶湖は途中で雲に包まれて見えなくなってしまった。ここでようやく窓から離れる。
昨日の疲れが残っているのか日記を書く気力がなかったので、おとなしく眠りにつくことにした。
(ちなみに今回、上空からの写真はすべてGoogleマップの航空写真で確認をとった。
なんというか、すごく便利な世の中になったなあと心から思う。大いに助かった。
そして上空から見てもきちんと位置を把握できる自分の地理的能力にもちょっと鼻高々。)シートベルト着用の知らせで目が覚める。窓の外には海が広がり、いくつか島が浮いていた。
高度を下げる飛行機は雲の中に入り、ブルブルと震えるように軽く揺れる。
そうして雲から抜けると、一段と大きくなった風景が現れた。眼下の風景はぐんぐん巨大化していく。
やがて地図で見た地形が目の前に広がった。海の中道、そして志賀島。今日の最初の目的地だ。
後であの場所に行くんだ、なんて考えているうちに、飛行機はさらに高度を下げて福岡市街へと入る。
都市が直接、僕のことを出迎える。初めてニューヨークを訪れたときのことを思い出した(→2008.5.7)。
福岡空港は市街地のはずれにあり、中心部から非常に近い場所にある空港なのだ。
展望台のスケールから人間のスケールへ、斜めに縮尺を横断しながら都市は形を変えていく。
その光景に見とれているうちに飛行機は着陸した。滑走路をしばらく走って、そして飛行機は止まる。福岡空港の建物を出ると、そのまま地下へ。地下鉄で博多駅まではたったの2駅。実に便利だ。
土日なので500円の一日乗車券を買うと、改札を抜けてホームへ。駅固有のシンボルマークを目にして、
自分が福岡に来たことを実感する(→2008.4.26)。あこがれの九州に来てしまったのだ!博多駅ではJRに乗り換える。前来たときには工事中で薄暗かった博多駅は、すっかり明るい。
九州新幹線が鹿児島まで伸びたことで、どこか晴れやかな雰囲気が漂っている。
印象としてはツインタワーで新しくなった後の名古屋駅のコンコースに似ていると思う。
まあそれはいいとして、ちょいとオシャレなJR九州の車両に乗り込むと、香椎まで出る。
香椎駅で香椎線に乗り換えて、目指すは海の中道。終点の西戸崎(さいとざき)まで行くのである。
雁ノ巣駅までは住宅地が続くが、そこを越えると一気に雰囲気が大雑把なものへと変わる。
列車は砂浜と整備された道路の間を走っていき、公園入口の海ノ中道駅でひと休みするとさらに西へ。
終点・西戸崎まで来るとむしろマンションがいくつも現れるのがなかなか面白い。
L: 西戸崎にて。際果てコレクションがどんどん増えていくなあ。 R: 逆光の西戸崎駅。車があれば当然、志賀島に行って金印を探すのだが、残念ながら当方にそんな余裕はない。
トボトボ歩いて海の中道海浜公園に入ると、さらにトボトボ歩いて受付へ。
レンタサイクルを借りるとプラプラとサイクリングコースをまわりだすのであった。
L: 海の中道海浜公園の西側(西戸崎側)入口。面積が非常に大きいせいか、埋立地っぽい大雑把さがある。
C,R: 公園内は場所によってさまざまな演出がなされている。とにかく広いのでどんなことでもできるんだろう。海の中道海浜公園は、1981年に開園した国営の公園である。もともとここは旧日本海軍の飛行場で、
終戦後にはアメリカ軍に接収されて基地として利用されていた場所なのだ。
それが1972年に返還されて、公園に生まれ変わったというわけである。
広大な敷地にはさまざまな施設が点在しており、それを歩道から独立したサイクリングコースでまわる。
これって完全に、埼玉の武蔵丘陵森林公園(→2010.4.10)と同じパターンではないか。
同じ国営の公園ということでそういうスタイルになっているのかわからないが、印象も本当にそっくりだ。
ってことはつまり、男一人で休日の午前中にぷらっとやってきて自転車を借りてフラフラするという行動は、
完全に「遠足の下見に来た教員」のやることじゃないか。なんともいろいろデジャヴでございました。
L: 虹の花壇・虹の池。右側にあるのはコイのエサの自販機。福岡じゃこの自販機は一般的なの?
C: サイクリングロードを行く。うーん、デジャヴ。 R: 福岡ドーム3.5個分というめちゃくちゃな広さの大芝生広場。それにしても人がいない。さっきの受付とレンタサイクルの事務所にいた職員以外に誰もいない。
自転車を快調に走らせていてもまったく人のいる気配がない。土曜日の午前中だというのに、
こんなことで大丈夫なのか?なんて心配しながら走っていたら人がいた。と思ったら警備員だった。
全体のマップで確認すると、ここは「動物の森」の前である。要するに小規模な動物園なのだが、
「動物たちとふれあえる自然動物園」がテーマということで、面白そうなので寄ってみる。
L: 入ってすぐに、こんなオリが。入場者はここで記念撮影するわけですね。
R: オリに書いてある説明書き。まあ、よくあるパターンといえばよくあるパターンだな。客は僕以外にいない。でも職員はそこそこ若い人がチラホラ。いよいよもって教員の下見感覚である。
そうじゃなければ怪しい精神状態の男ってことになってしまう。それくらい、不釣り合いなのが自分でもわかる。
そんなことを考えながら進んでいったら、動物たちと直接ふれあえるという一角に到着。
金網でつくられた戸を押して中に入ると、いきなり! カンガルーが目の前で寝転がっていた。
人生において、歩いていたらいきなりカンガルーが目の前で寝そべっているというのは、そうそうあることではない。
ものすごく強烈な非日常の感覚が襲ってくる。思わず笑いがこみ上げてきてしまった。しゃがみこんでその姿をデジカメに収めると、周りを見渡す。いちおう通路に沿ってロープが張られているが、
カンガルーたちにそんなものは関係ない。ピョンッと軽く跳び越して、僕の目の前を横断してみせる。
なんせカンガルーにはその跳躍力を最大に生かした「カンガルーキック」という必殺技があるので油断はできない。
でも後脚をそろえてリズミカルに跳ねまわる姿は躍動感にあふれており、なかなかよろしい。
それに子どものカンガルーは、前脚をそろえてちょこんと立っていて、これがものすごくかわいいのだ。
対照的に、大人のカンガルーが寝そべる姿は非常におやじくさい。そう、カンガルーってのは妙に人間くさいのだ。
中には度胸のあるやつがいて、近づいても逃げないのでそっと触ってみた。毛の感触は柔らかかった。
そんなわけで、しばらくカンガルーを観察して過ごす。寝そべって脚を投げ出す姿がおやじくさいだけでなく、
2足で移動する点もなんとなく人間くささを感じさせる部分だと思う。なかなか貴重な体験ができた。
L: いきなりこんなのが現れりゃ、そりゃあ驚くでしょう。そしてこの姿がとてもおやじくさい。
C: 子どものカンガルーはとってもかわいい。こっちを警戒して近づいてきてくれなかったのが残念だ。
R: 「ウサギのようなネズミ」のマーラという動物。テンジクネズミ科で最も大きく、パタゴニアに住んでいるそうだ。カンガルーの後はカピバラとマーラ。マーラはカンガルー同様放し飼いになっており、いちおう触れる。
こちらの毛の感触はわりとタワシ系。やっぱり警戒心が強くってすぐに逃げてしまうのであった。
そうして動物たちとふれあえる一角を抜けると、今度はサルたちを観察する場所に出る。
右手には小屋と周囲のアスレチックを果てしなく動きまわるフサオマキザル、
左手には尻尾を最大限に活用しながら動きまわったりのんびりひなたぼっこしたりのクモザル。
さらに進むとプレーリードッグの集団がいた。キュイキュイ鳴く姿はやっぱりかわいくってたまらん。
L: 無限に動きまわるフサオマキザル。フサフサした巻き尾のサルってことでこんな名前になったそうで。
C: クモザル。さすがにサイズがそれなりにあるので、動きがけっこう人間っぽい。この後、大の字になって昼寝。
R: プレーリードッグはひとつひとつの動作がかわいい。けっこういっぱいいたなあ。さすがに敷地はけっこう広くって、フラミンゴも大量にいたし顔のデカいポニーもいたしアルパカもいた。
鳥類は鳥インフルエンザ対策ということでネットを二重三重に張った中におり、しょうがないけど残念。
動物の森は、「公園の中の動物コーナー」にしては充実しているように思う。しっかり観察できるのが好印象だ。動物の森を出ると、ゆったりと公園内を一周する感じで走る。が、とにかくどこも人がいない。
それでなんだか飽きてしまい、こりゃもういいかな、となってあっさり海ノ中道駅方面へ。
自転車を返却するとそのまま海ノ中道駅のホームに出てしまう。ちなみにJR九州ではSuicaが使えた。
おかげでとっても便利なのであった(Suicaは福岡市営地下鉄でも使うことができる。本当に便利だわ)。帰りはやっぱり香椎駅で乗り換えるのだが、博多までは行かずに途中の箱崎駅で降りる。
次の目的地は筑前国一宮・筥崎宮(はこざきぐう)なのだ。なんでも、楼門が有名らしい(→2008.4.29)。
この筥崎宮の「筥」は、円筒形の容器を意味する字だそうだ。ただ、周辺の地名や駅名は「箱崎」である。
これは「筥崎」だと筥崎八幡神に対して恐れ多いからだという。なかなか難しいものである。JR箱崎駅で降りて、筥崎宮まで歩く。途中でジェットの轟音が響いたので空を見上げたら、
頭上を飛行機が通過していった。機体にどんな塗装がなされているかが手に取るようにわかるほどの低さだ。
あらためて、福岡空港がどれだけ市街地の近くにあるかを実感する。筥崎宮の正面にまわり込むと、まず目に飛び込んでくるのはいかにも歴史を感じさせる石造りの鳥居だ。
これは黒田長政により1609(慶長14)年に建立されたものだ。これだけの迫力の鳥居はなかなかない。
そして鳥居をくぐると目の前に見事な楼門が現れる。小早川隆景により1594(文禄3)年に建てられた。
境内が広く開放感があるので一見そんなにサイズは気にならないが、よく見ると圧倒的なスケールをしている。
扁額には「敵國降伏」とある。といっても戦時中のものではない。醍醐天皇の筆によるものだそうで、
つまり、ここでいう「敵國」とは元寇で襲来したモンゴルのことなのだ。なるほど、場所柄、納得がいく。
そして元寇のときに吹いたという神風は、この筥崎宮の神徳であるとされているのである。うーん、すごい話だ。
筥崎宮では拝殿ではなくこの楼門で参拝するので近づいていったら、巨大な絵馬が奉納されているのを発見。
福岡ソフトバンクホークスとアビスパ福岡のものだ。裏にはbjリーグのライジング福岡のものもあった。
L: 筥崎宮の一の鳥居。形がなんというか無骨で、いかにもご利益が強力そうな印象を与える。
C: 楼門。日本三大楼門のひとつに数えられている。残りは鹿島神宮(→2007.12.8)と阿蘇神社(→2008.4.29)。
R: ホークスの「めざせ世界一!」の隣に、奇跡のJ1昇格を果たしたアビスパの絵馬。残留がんばれ。残念ながら筥崎宮の本殿と拝殿は楼門の奥にあって見えないのだが、鳥居・楼門とともに重要文化財である。
建てたのは大内義隆だそうで、戦国のビッグネームが並ぶところにこの神社の威厳を感じずにはいられない。
おみくじを引こうと思ったら50円という金額で、50円玉もないし10円玉が5枚もないしで断念。
変に安くしないでスパッと100円にしていただきたかったです。参拝を終えるとそのまま参道をまっすぐ歩いて地下鉄の駅を目指す。
JRの方から来たのでさっきはわからなかったが、筥崎宮の参道は海からまっすぐ続いており、非常に長い。
途中にはやはり先ほどの一の鳥居と同じく石造りの鳥居があり、その堂々とした姿に見とれてしまったよ。筥崎宮の参道にて。筥崎宮はとても風格のある神社だ。
箱崎宮前駅から地下鉄で天神へ。地上に出て軽く腹ごしらえをすると、西鉄福岡駅へ行く。
太宰府まではおいくらかしらんと思いつつ切符売り場に向かう途中で、西鉄の窓口にある文字が目に入る。
「九州国立博物館きっぷ 太宰府までの往復切符+入館チケットが300円お得!」ということで、
これ幸いと迷わず購入。そしたら太宰府での各種割引クーポンもついてきた。実にうれしいサービスだ。いつでも乗客がいっぱいの西鉄に揺られて西鉄二日市まで行くと乗り換え。そして太宰府へ。
受験が一段落した時期とはいえ、やっぱり観光客はいっぱい。老若男女でごった返している。
駅を出るとすぐ右から伸びている太宰府天満宮への参道を歩く。参道に面して店が並んでおり、
2軒に1軒以上のペースで梅ヶ枝餅を売っている。誇張ではなく本当にそうで、どこで買えばいいかわからない。
ともかく、今は無事に職にありつけたことについてのお礼参りをすることが肝心なのだ。
観光客が絶えない参道をグイグイ歩いて太宰府天満宮の境内に入るのであった。
L: 太宰府天満宮の参道は本当に観光客が多い。日本でも屈指の賑わい方ではなかろうか。
C: 太鼓橋を渡って天満宮の楼門を目指すのだ。 R: 重要文化財の末社・志賀社。小さいけど気品があるなあ。僕が二度目の大学受験をする際、広島にいる親戚がわざわざここまでお参りに来てくれたそうだ。
そして3年前には僕自身がここを訪れ(→2008.4.25)、どうにか願いは叶えられたのであった。
というわけで、太宰府のご利益は確かなのである。しっかりとお礼をするとともに、
次の目標についての願掛けをしなければならないのだ。神妙な気持ちで楼門をくぐり、拝殿へ。
人混みの中に入ってお賽銭を納めると、二礼二拍手一礼。念を込めて祈るのであった。
その後は御守をいただき、絵馬を納める。あとはもう、こっちの問題なのだ。がんばらねば。
いちおうおみくじを引いてみたら、末吉。今は厳しい言葉の方がためになるってもんさね。望むところだ。前もデジカメで撮ったけどもう一度撮っちゃう。勉強がんばるぜ。
お参りを終えるとさらっと宝物殿を見学し、太宰府に来たもうひとつの目的である九州国立博物館へ。
太宰府天満宮の境内の東側にはだざいふ遊園地があるのだが、その向かって右にエスカレーターの入口がある。
九州国立博物館は天満宮が寄贈した山の中にあり、まずはこのエスカレーターで山を登るのだ。
L: 境内の天神広場では、ちょうど「大宰府天神おもしろ市」が催されていた。骨董や古着などさまざまなものが売られている。
C: 進んだ先にある、だざいふ遊園地入口。西鉄・太宰府天満宮が中心になって出資した会社が運営しているそうだ。
R: こちらの入口から入って九州国立博物館を目指す。しかし太宰府天満宮は広大な土地を持っているんだなあ。エスカレーターで上がった先には動く歩道。壁と天井は原色のさまざまな色でくるくると変化しており、
まるでどこかの宗教系美術館にそっくりな印象しかしないのであった(→2010.11.13)。
そんな動く歩道を抜けると、目の前に真っ青な空を映した巨大なガラス建築が現れる。九州国立博物館である。
設計したのは菊竹清訓。でもそのわりには、緑と青の自然を映した姿がなかなかいい。悪くない感触だ。
さて「国立博物館」を名乗る施設は全国に4つある。東京(→2005.8.28)、奈良(→2006.4.8)、京都(→2004.8.6)、
そしてこの九州である。3番目の京都国立博物館が開館して以来、実に108年が経った2005年のオープンなのである。
L: 九州国立博物館へと向かう動く歩道。長いので飽きさせないためかもしれないが、個人的には好きではない演出。
R: 長いトンネルを抜けるとそこは九州国立博物館なのであった。菊竹のわりには悪くない感触の建物だと思う。中に入るとまずはアトリウムの巨大なホール。韓国との交流の茶会だかなんだかをやっていた。
奥に子ども向けの「あじっぱ」というスペースとミュージアムショップがあり、そこからエスカレーターに乗るようだ。
アトリウムを見下ろすように進行方向と反対側を向きながらエスカレーターであがっていくと、3階に到着。
ここでは企画展として「黄檗―OBAKU 京都宇治・萬福寺の名宝と禅の新風」ってのをやっていた。
今年は黄檗宗の大本山である萬福寺の開創350年なんだそうで、それを記念しての展示というわけである。
萬福寺ならわざわざ行ったことがあるわけで(→2010.3.28)、かなり興味津々で中へと入る。「黄檗」は非常に凝った内容で、まずは黄檗宗のわれわれの日常への影響を、軽いイラストを混ぜつつ展開。
禅や仏教が緩んでいた江戸時代にやってきた隠元は、日本の仏教を引き締める役割を果たしたわけだ。
そういった動きの中で日本文化として定着したものをわかりやすく紹介するところからスタートする。
そうしておいて、赤を印象的に使った中国風のデザインによって仏像を展示し、一気に客を引き込んでみせる。
72歳の隠元を非常に生々しく再現した彫刻あり、直筆の書ありと、かなりの気合を感じる内容だった。
これといった災害に遭ったことのない萬福寺には貴重な品々がいっぱいあるわけで、その充実ぶりには感心した。さらにそこからエスカレーターで4階へ。こちらは「文化交流展示」となっている。要するに常設展なのだが、
「日本文化の形成をアジア史的観点から捉える」というのが九州国立博物館の理念なので、そんな名前なのだ。
そして凄いのがその中身。旧石器時代から江戸時代が終わるまで、大量の歴史的な資料が所狭しと並んでいる。
たとえば縄文土器なんてもう、何千年も前に天才がつくった作品が時代を超えて残っているわけだから、
作品じたいの凄みに加えてそれが無事に残るという奇跡までこっちは受け止めちゃって、もう大騒ぎなのである。
それが土偶でも弥生土器でも埴輪でも刀銭でも鏡でも銅鐸でも起きるから、たまったもんじゃないのだ。
途中で完全にフラフラになった。根性でぜんぶ見てまわったのだが、もう体力的に本当にキツかった。
まあつまり展示内容としては、本物ならではの迫力を持つ作品たちが次から次へと襲ってくるわけで、
最高レベルの充実ぶりである。博物館好きなら、これだけのために九州に飛んでも損はしないだろう。ヨロヨロとした足取りで太宰府天満宮の鳥居を抜けて参道へ。ここまでノックアウトされるとは思っていなかった。
こういうときにいちばんよく効くのは甘いもの、ということで梅ヶ枝餅をいただくことにした。
参道には無数に梅ヶ枝餅の店があるので迷うのだが、素直に迷うだけの体力が残っちゃいなかったので、
行列ができていなくて、つくりたての梅ヶ枝餅が食えそうな店を選んで「ひとつください」。
焼きたての餅にあんこが入っている、ただそれだけなのに信じられないほど旨い。いや、シンプルだからこそ旨いのだ。
1個105円というリーズナブルさがまたうれしい。太宰府天満宮周辺には、九州国立博物館といい梅ヶ枝餅といい、
その場所に現実に行かないと楽しめない、味わえないすばらしいものがいっぱいある。来てよかったと心から思ったよ。できたての梅ヶ枝餅は半端なく旨いですよ。
梅ヶ枝餅を食ったら、それだけで本当に元気が湧いてきた。せっかくの大宰府、もっとしっかり堪能しなければ。
というわけで太宰府駅の改札で、レンタサイクルの申し込みをした。市役所にも政庁跡にも行ってみるのだ。
レンタサイクルは九州国立博物館きっぷの「太宰府クーポン」で100円引きになった。お得である。
というわけで、太宰府駅の西側についてもしっかりと観光をするのである。地図をカゴに入れて快調に走りだす。
途中で駐車場の車の誘導をしているおじさんから「政庁跡はあっちだよー」と大声で教えてもらったのであった。のどかだ。まずは当然のごとく太宰府市役所へ。1984年竣工なのだが、早くも老朽化で建て替えを計画しているようだ。
そのまま西へ進んで観世音寺。この寺の歴史は非常に古く、7世紀後半に天智天皇により設立されたそうだ。
761年には鑑真によって戒壇院が設立された(この戒壇院は後に独立した寺院となる。後述)。
木々の植えられた参道は、人の手により整備されたものが時代を経て自然の側にやや逸脱した印象がした。
ここには重要文化財に指定された仏像がいくつもあり、拝観料のかかる宝蔵に収められている。
しかし日本最古という国宝の梵鐘は、そのまま今も現役で鐘楼の中で吊られているのである。見学無料。
やっぱりこういう、きちんと生きている歴史というのは面白いものだ。ずっと現役でいてほしい。
L: 太宰府市役所。変に「大宰府らしさ」を追求していないふつうの庁舎なので、それでいいと思います。
C: 観世音寺の講堂(本堂)。1688(元禄元)年再建だそうだ。 R: 国宝の梵鐘。今もふつうに使っているところがすごい。観世音寺のすぐ隣には戒壇院。もともと観世音寺の一部だったから当たり前といえば当たり前だが、
鑑真により設立されて以来、場所がまったく動いていないのである。こういうのってなかなかないのだ。
戒壇院というのはつまり、正式な僧侶になるために必要な戒律を授ける施設で(だから鑑真が設立したのだ)、
中央戒壇(東大寺)・東戒壇(下野薬師寺)と並ぶ西戒壇(さいかいだん)と呼ばれていたそうだ。
しかし今は地方の穏やかなお寺となってしまっている。それでも実際に訪れると、歴史の残り香が感じられる。
L: 戒壇院へと続く道。この辺りは穏やかな田園風景となっている。 C: 戒壇院の門。往時の繁栄ぶりが夢のようだ。
R: 境内の様子。手前にある礎石が、この寺がただの寺ではないことを辛うじて物語っている。さらに西へと進んでいくと、広い道に出る。その先には、交通量の多いもっと広い道があり、観光バスが走っている。
ここがちょうど、大宰府政庁跡なのだ。「都府楼(とふろう)跡」という呼び方もあるようだ。
かつてはアジアの窓口であった九州を統括する役所があった場所で、権限も非常に大きかったという。
しかし今は単なる公園となっており、芝生の上でシートを広げて盛り上がっていたり子どもとボールを蹴っていたりと、
すっかり地元住民たちの憩いの場と化していた。遺跡だろうにいいのかなあ、とこっちが不安になるくらいだった。
L: 大宰府政庁跡。当時の建物の位置関係がわかるように、芝生・砂利・礎石がかつてのとおりに配置されているのだ。
C: 礎石も椅子代わりに腰掛けられたり、子どものケンケンパの舞台になったり、水筒の置き場所になっていたり……。
R: 政庁の正殿跡には石碑が立っている。現在は往時の賑わいとはまったく種類の異なる賑わい方をしているわけだ。すぐ脇にある大宰府展示館にも寄ってみる。複製が多いが、往時の勢いをどうにかして可視化させよう、
という思いの伝わってくる展示で、中ではボランティアの方が熱心に説明をしているのであった。
ただまあ正直、そうとう興味を持っていないと難しいレベルの話をしていたので、僕には少し厳しかったなあ。かつての都会が自然に還っても、記憶を守ろうという動きがあれば、どこか歴史の匂いは残る。
僕が自転車で走りまわった太宰府はすっかり穏やかな地方都市でしかなくなっていたのだが、
ところどころに残る緑と石、あるいは建物たちから、確かな記憶にわずかながらも触れることができた。
奈良公園(→2010.3.28)や平城京跡(→2010.3.29)から感じたのと同じ「虚の中の実」を見た。駅へと戻る途中、さっきの駐車場前でおじさんから声がかかる。「(政庁跡)わかったー?」
「行ってきました! ありがとうございました!」片や車を誘導しつつ、片や自転車をこぎつつ。
太宰府の人は街に誇りを持っているから、その価値がわかる旅行者に対して優しいのだろう。レンタサイクルを返すと電車が発車するところ。急いで乗り込むと西鉄二日市で乗り換えて天神へ戻る。
改札を抜けると、しばらく夕方の天神をブラついて過ごす。福岡の都会っぷりにあらためて圧倒されるのであった。
L: 天神の風景。やはり九州でいちばんの都会だけあって、天神周辺は街が重なりあっている感じがする。
C: 新天町を行く。ガチガチに現代的な天神の中で、ちょっとだけレトロな匂いの残る商店街だ。
R: 福岡市役所。僕にとって「最もデカい市役所」というと、今のところこの福岡市役所になると思う。やっぱり都会はどこの都会も同じようなものなので、歩いていると「東京と変わらんやん!」という気分になってくる。
地方都市にはその地方らしさ、クセというものがあるのだが、福岡くらいの大都会になると、東京的な要素が高い。
あちこち歩いて過ごしたのだが、その「都会らしさ=東京との変わらなさ」になんだか戸惑ってしまった。
L: アクロス福岡は相変わらず、ガラスと緑の極端なハイブリッドである。まあ嫌いじゃないけどさ。
C: 旧福岡県公会堂貴賓館。1910(明治43)年竣工で、陸軍の司令部・福岡高等裁判所・福岡県教育庁舎等に使われた。
R: 那珂川に架かる春吉橋から南のキャナルシティ方面を眺める。夜にはここが博多らしさ満開の景色をつくるのだ。というわけで、日が沈んでから那珂川沿いの屋台へと繰り出した。やはり福岡の夜はこうでなくては。
一人旅だし屋台はいっぱいあるしでどこで食べるか大いに迷うのだが(前もそうだった →2008.4.25)、
エイヤー!とテキトーに決めて中に入る。旅先では勢いが肝心なのである。
L: 国道202号・国体通りから中洲の南に入ったところ。ここから屋台が本格的に始まるのだ。
R: いかにもな博多の夜の光景であります。しかし福岡ってアジアだって思わされるわ。勢いで入った屋台の博多ラーメンはシビレるほどに旨かった。地べたにコンロを置いて鍋を置いて、
そうしてつくったラーメンだからこその旨さなんだろうか。豚骨スープの醤油ダレとのバランスが絶品だった。
でも1杯で満足できるわけもなく、別の屋台にハシゴする。そしたら「焼きラーメン」という文字を発見したので、
迷わず注文。ふつうのラーメンはだいたい600円程度のようだが、焼きラーメンは900円。いったいどんなんだろう。
ワクワクしながら待って、出てきたものにがっつく。なるほど、博多ラーメンを焼きそば風にアレンジしたものだ。
スープからはソースの香りがする。でもまあ正直、博多ラーメンの完成度にはまったく及ばない。
なんだかこれだけで帰るのは惜しく思えて、おでんを注文。500円で3種類を指定する仕組みだ。
おでんの基本・大根に、博多独自のメニューである餃子巻きと明太はんぺんをセレクト。
L: 屋台の博多ラーメン。これは本当に旨かった。以前の日記では酔っ払った客のためのラーメンと表現したが、立派に主食だった。
C: 焼きラーメン。味のわりにコストパフォーマンスはあまりよくない。まずくはないんだけどねえ。
R: おでん。手前にあるのは餃子巻きで、左手奥は明太はんぺん。噛むとプチプチした感触が残る。おいしい。おでんに舌鼓を打っていたら、屋台の兄ちゃんが「お客さん、どちらから?」と訊いてくる。「東京です」
その後は当然、今回の震災の話。なんと東京に父親だけ残して福岡に母親が子ども連れで避難する例もあるそうだ。
屋台の兄ちゃんは「テレビにぜんぜん政治家が出ないってことは、みんなどこかに逃げちゃっているんだよ」と力説。
東京でできるだけふだんどおりに暮らしている僕らには気づかない動きも、まあそれなりにはあるんだろうけどね。
僕の隣に座っていたおじさんは埼玉からだそうで、別れ際にお互い笑いながら「それじゃご無事で……」なんてふうに、
袖すり合うも他生の縁なコミュニケーションをしたのであった。やはり福岡の夜は何かが特別だ。博多駅に戻ると駅裏である筑紫口から出て、あまりひと気のない方へと歩いていく。
高速道路の高架沿いに予約していた宿がある。受付を済ませてエレベーターに乗ろうとしたら、
併設されている居酒屋から多国籍な笑い声が勢いよく漏れ出していたのであった。さすが福岡だと妙に感心。
今回の旅行では宿泊費を極力ケチって、ビジネスホテルの最上階にあるカプセルルームにしたのだが、
さっきの笑い声を思い出して、こりゃ強盗に殺されても文句は言えねえなあ、なんてことがチラッと頭をよぎる。
さすが福岡、外国に近いだけのことはある。しかし、歩き疲れてあまりに眠くってもう思考回路がマヒしていたので、
結局は自分の運の強さを信じて目を閉じる。そしたら一瞬で今日という一日が終わった。
来年に向けての人事配置案が発表されて、これがまあなかなか大胆な案だったので、
急遽将来について考えさせられることになるのであった。当然、詳しくは書けません。
が、ともかく、来年度は本気で英語の勉強をしてスキルを上げていかないとダメだ!と、
突如強い決意をするに至ったのであります。なんというか、久々に前向きな危機感をおぼえたわ。
僕は年上の人やしっかりした人がなんとなく苦手なので、したがって保護者会は苦手なのだ。
困ったことに、いつまで経ってもこれは本当にダメだ。なんというか、いるだけで申し訳ない気分になってしまい、
うまく対応することができない。どんなレベルのどんな場面でも堂々としていられる人が本当にうらやましい。
本日は学年内の先生方でお疲れ様会なのであった。自分以外は全員ベテランだから緊張するのなんの。
それでもこっちも2年間の経験がようやく生きてきた感じで、以前ほどは硬くなることなく過ごせてはいる。
話題も現状をもとにしてあれこれだったり皆さんそれぞれの知識をもとにしてあれこれだったり、
昔話ではないものが中心だったのでずいぶん楽しく過ごさせてもらったのであった。ありがとうございました。
和田竜『のぼうの城』。映画化されるにあたって、まずは文庫本化されたので読んでみた。
オノ・ナツメをうまいこと起用した表紙である。わざわざ上下巻に分けたのは表紙を並べさせるために違いない。
悔しいが、それが非常にうまく効いている。字も大きくなって読みやすさアップというわけだ(個人的にはそれは嫌い)。主人公は成田長親。立派な名前だが誰もこの名では呼ばず、「でくのぼう」略して「のぼう様」と領民からも呼ばれる。
この人、農作業が大好きなのだがまったく不器用で、かえって迷惑をかけるほど。威厳のまったくない武将なのだ。
そんな困った人のいる忍(おし)城に、天下統一を目前にした豊臣秀吉が北条攻めの大軍を送ってくる。
だが降伏を迫る石田三成に対し、あろうことか長親は徹底抗戦を宣言してしまう。果たして忍城はどうなってしまうのか。
難攻不落と言われた小田原城が開城した後まで持ちこたえた忍城の実話をもとにした時代小説。結論から言うと、ものすごく面白い。長親をはじめ正木・柴崎・酒巻といった個性的なキャラクターが活躍し、
絶対的に不利な状況下で奇跡を起こしてしまう過程が丁寧に描かれている。読ませる作品である。
従来の時代小説と比べると、登場人物に特徴がある。まず敵役の石田三成の性格づけ。彼は決して悪役ではない。
プライドの高い彼が戦を仕掛けるに至る理由、さらには後年の関ヶ原へ至る理由をかなり上手く描き出している。
この物語で明らかに性格が悪いのは長束正家だけということで、各方面の登場人物がとても魅力的なのだ。
もちろん主人公の成田長親もそうだ。「ダメなやつだが、ついつい助けてやりたくなる」ことで、
自然と周りにいる人間たちが結束してしまう。そして締めるべきところではきっちり締める力がある。
秘すれば花、ということでその魅力の秘密は最後まで明かされないままだが、それで正解だ。そんなわけでとても面白いこの作品なのだが、どうしても気になってたまらない点もまたある。
それは、この作品が明らかに「映像化を前提として書かれている」という点である。
いや正確に言うと、この作品は小説というよりも、まずテレビ向けの脚本なのである。方法論がそうなのだ。
不思議に思って調べてみたら、作者はもともと脚本家で、この作品も脚本を小説化したものだったのだ。納得いった。
もちろんそれが功を奏している場面もある。備中高松城の水攻めのシーンから入り、伏線を張っておく。
そして最後は三成の戦への野望を描いて関ヶ原への伏線とする。読者の知識をくすぐる工夫が丁寧になされている。
しかしテレビ向けの脚本としてつくられているからこその不自然さもまた大きいのである。
まずセリフのリアリティ。従来の時代小説に比べ、言葉づかいが軽い。明らかに話し手の感覚が現代語に近いのだ。
だがそれ以上に不自然なのは、登場人物の出し方だ。「演出」が小説ではなく、テレビの手法なのである。
具体的には、正木・柴崎・酒巻の動かし方が均等である点。まるで俳優の登場時間の配分を意識しているかのように、
彼らの活躍は均等に描かれる。それぞれに見せ場があるのはいいが、その均等さに不自然さを感じてしまうのだ。
そのテレビ的な演出が頂点を迎えるのが、石田三成・大谷吉継・長束正家が和睦交渉のため忍城入りした場面だ。
交渉がすべて終わった後、三成が正木・柴崎・酒巻の活躍を振り返るのだが、これは完全にテレビの手法。
そもそも正木vs長束正家、酒巻vs三成、柴崎vs大谷吉継ときれいに1対1の構図で戦うことじたいがテレビ的だが、
(まあこの点はむしろテレビ的というよりはマンガ的と言った方がいいかもしれないが。)
そのことをわざわざ総括する場面を挿し入れることが、テレビの発想なのである。正直、僕は違和感を覚えた。宣伝の文句のとおり、実に戦国エンターテインメントな小説である。
が、そのエンターテインメントの要素は明らかに、時代小説の系譜ではなく、テレビの系譜からきたものだ。
面白ければいいわけだし、作品を生み出すメディアはつねに変化しつづけてきているわけだし、
その事実を批判することは了見が狭いことでしかないのだろう。だが、この作品に内在している「飛び道具」、
それをきちんと検証・把握しておくことは、僕は必要なことではないかと思う。善し悪しの問題ではなくて。
羽海野チカ『3月のライオン』。
主人公は17歳のプロ棋士・桐山零。なかなか馴染めないながらも高校に1年遅れで通いつつ、
下町の菓子屋・三日月堂の川本3姉妹の世話になりつつ、勝手にライバルを名乗る二海堂にからまれつつ、
日々を送っている。そんな彼を取り巻く人々を柔らかいタッチで描く作品。かつて作者は『ハチミツとクローバー』という作品を描いた(→2006.9.18)。
この作品ではまるで椅子取りゲームのような片想いの連鎖が描かれたのだが(山田あゆみサイコー!)、
もうひとつ、「天才と凡人それぞれの苦しみ」が非常に重要なテーマとして横たわっていた。
そして今回の『3月のライオン』でも「天才と凡人の苦しみ」が同じくテーマとして描かれる。
もっとも、舞台が将棋界だけあり、比重としては圧倒的に「天才の苦しみ」の方が多い。
まあいってみれば「天才たちの中にある凡人、というか人間らしい要素」が苦しむ話である。
どんなに浮世離れした才能に恵まれた天才でも、生活という現実と向き合わなければならない。
(少女マンガと少年マンガの違いは、恋愛を生活に含めるか否かだ。もちろん現実には生活の一部だ。)
このマンガでは理想と現実の間で揺れる天才たちが、魅力的なキャラクターとしていっぱい登場する。
そして恋愛の要素は、主人公の年齢を低めに設定したり将棋界を舞台にしたりすることでかなり抑えてある。
したがって読者の興味を恋愛で惹くことはせず、作者の関心をよりストレートに反映した話となっている。もともと作者は登場させたキャラクターたちに深い愛情を注いでいるタイプだと思うのだが(使い捨てない)、
この『3月のライオン』でもそれがしっかりと出ている。またそれで、天才たちの人間くささが強調されている。
(特に島田は、作者が描いているうちに気に入っちゃったパターンだと思う。実際、魅力的なキャラクターだ。)
才能を武器にした不器用な人間たちが、その才能ゆえに苦しみながら生きる姿が連発される。
主人公は若い。そして才能にあふれている。だからうまく自分をコントロールができていない。
その青さがゆっくりと視野を広げていく光景が、非常に丁寧に描かれる。そういうすごく大きな安定感がある。
作者が今後どこまで話を進めてどう終わらせていくかわからないが、きっとやりきるだろう、そう思わせるものがある。
ここは素直に人間くさい天才たちの葛藤を楽しませてもらおうと思う。『ハチクロ』では凡人が答えを見つけたが、
『3月のライオン』では天才がどう物語を終わらせるのか、とても楽しみだ。蛇足。僕は地元ではわりかし「天才」に近い扱いを受けた過去があり、都会に出てきて「凡人」として暮らしている。
教員という職に就いたのは、学校という閉鎖的な空間の中では「天才」らしくしていられるからなんじゃないか、
と自分で分析している。そういう人間だ。でもやっぱり、生活という現実に振り回されざるをえないでいる。
そんな僕にとって『3月のライオン』というマンガは、遠いんだけど、近くにある話なのだ。それだけに痛みもある。
痛みもあるが、でも一度目にしてしまったからには読まずにはいられない。そういう人、けっこう多いんじゃなかろうか。
甘詰留太『ナナとカオル』。一部ではけっこう話題になっているらしいので、読んでみることにした。
マンションでお隣どうしの高校生、奈々と薫だが、幼なじみのふたりの現状はまるで月とスッポン。
容姿端麗成績優秀でエリートコースを驀進中の奈々に対し、薫はすっかり落ちこぼれて「キモムラ」と呼ばれている。
実際、薫はこづかいを貯めてはSMグッズを購入して妄想にふけるという生活を送っているのだが、
薫の部屋を訪れた奈々がボンテージを着てしまい脱げなくなったことから彼女の「秘密の息抜き」が始まるようになる。
というわけでSMマンガ。といっても青年マンガなので、いちおう分類としては“セクシー”どまりではある。
青年誌でこの内容をやるところまできたか、と思うわけだが、そのこと自体についてあれこれ書く気はない。僕自身「SM」とは深い関係があるのだが(イニシャルがそうだから)、もちろん実際にSMをやったことはない。
ちゃんとした知識もない。そういうわけで、社会学的というか現象学的というか、そういう面で読んでいったのであった。
まずこのマンガは読者サービスをつねに心がけつつも、かなり真剣にSMの意義を紹介しようと努めているのが印象的だ。
SMというのはまず信頼関係である点が必ず強調されている。Sの側がMの安全のためにかける手間が愛情である、
そう述べている。まあ僕としては、そんな面倒くさいことをしてまでSMという手法にこだわるんかい、と思うわけだが。
あくまで理性によって愛情の行為をコントロールしている点が「高等である」と考えられなくもない、というのはわかる。
もうひとつ興味深いのは、SMがより直接的に身体への理解を促す行為であるという点だ。
拘束などの身体への制限を加えられることによって、かえって自己の身体に向き合わされるという点では、
身体性について社会学的に、また現象学的に考えたい者としては非常に有益な示唆をもらったのは確かである。
ただあくまでフィクションのマンガである以上、示唆の域を出るものではなく、実際にやってみないとわからない。
やる気もないしやる相手もいない僕にはまだまだ遠い世界だなあ、と思うレベルどまりですな。上記のようなSMの紹介という要素はいいとして、奈々と薫は「現実」と「息抜き」のバランスをどうとっていくのか、
それがストーリー上では最大の問題となっている。そしてもちろん、そこに主眼が置かれると面白くなくなる。
ボクっ娘の舘を出すなどして、SMでのハーレムという方向性への含みも持たせる展開となっているが、
身体性への問いという要素をないがしろにすることがなければ、まあなんとかなるんじゃないかと思う。
むしろこのマンガがどこまでしっかりと理性的なSMを紹介し続けるのか、期待して続きを待つことにしたい。
自分では実際になかなかできないことだけに、僕と同じくそう思っている読者はきっと多いだろう。
部活が中止になり、修学旅行の下見が中止になり、この3連休は完全にフリー。
そうかといって青春18きっぷを用意したところで、このご時世、どこに行っても震災の影響はまぬがれない。
いや、鉄道での移動じたいに無理がある状況だ。そもそも、そんなに必死になってどこかへ行こうという気もない。
しょうがないのでおとなしく日記を書いて過ごした。たまっているログを消化するチャンスだと思うことにする。
あと、気になっていたマンガも集中して読んだので、そのレヴューを書くことにする。◇
かきふらい『けいおん!』。アニメ化されて大人気のマンガであり、実際にウチの学校にもけっこうファンがいる。
滋賀県豊郷町の豊郷小学校旧校舎を訪れた際には教室がジャックされており驚いたもんだ(→2010.1.10)。
そんなに人気なら読んでみなくちゃいけねーな、ということでチェックしてみたしだい。連載されていたのが芳文社の『まんがタイムきらら』ということで、なるほどそういう雰囲気がする。
4コマを基調にゆったりと話が進んでいくのがいかにも、なのである。そしてそれがゆるい雰囲気を生み出す。
ふつうのストーリーマンガなら許されないことが、この連載形態では許されてしまうのだ。
たとえば軽音部の部員が唯・澪・律・紬・梓以外にいないこと。ハプニングの要素が徹底的に排除されている。
梓にしても途中からの登場で、むしろ4人をやや外側から眺める役割をしており、4人の絆がかえって強調される。
男子の存在、恋愛の要素などもってのほかである。空間と人数を限定して、極めて安定的に話をつくっていく。
この手法は、かつて読んだ『ARIA』に近い(→2008.5.22)。どちらも安心して読めるマンガとなっている。解散中とはいえ今もロックバンド(自称)の一員である僕にしてみれば、『けいおん!』の内容が、
バンド活動の最も楽しい部分だけをうまく抽出して構成していることがよくわかる。
上達するためには練習が必要で、それがなかなかうまくいかなくってつらい。でもやらなきゃうまくならない。
『けいおん!』ではそんな苦労の部分がきれいさっぱりカットされているのである。
それでバンド未経験者は唯たちを純粋にうらやましく思えて読めるようになっており、
またバンド経験者は自分たちの苦労を「描かれていない部分」として勝手に補って読んでしまう。
だからどのみち楽しめるのである。もっともそれは、唯をはじめとするキャラクターの魅力がそうさせているのだ。
「Always Look on the Bright Side of Life」と言わんばかりに、喜怒哀楽の「喜」と「楽」だけを詰め込んだマンガ。
その姿勢が見事に貫かれたから、これだけ支持されたんだろうな、と感心してしまった。
高校時代という無敵の時間を凝縮して、最大多数の最大幸福を実現するべくすべてをいいとこどりした作品。やっぱり僕としてはドラムスたたきたい気分にさせられたね!
今日は卒業式だった。2年前にはよくわからなかった連中も、もうすっかり馴染みきった連中ばかりになった。
そんな彼らが去っていく。さみしいが、止めるわけにはいかない。この場を離れることが成長することだからだ。今年は会場での音響機器を担当したので(小学校のころから結局、放送委員的な仕事ばっかりやってる)、
彼らの晴れ姿は最も近いところから、でも裏側から見つめることになった。ひとりひとりの表情を見て、
さびしさとうれしさを噛み締めて過ごしたのであった。何ごとにも終わりがあるわけで、
その終わりの瞬間までにどれだけ丈夫な絆をつくることができるのか。そんなことを自分に問いかける。卒業式が終わると、校舎の放送室からBGMを流す作業をする。そして急いでグラウンドに下りて、
在校生と一緒に卒業生を見送る。サッカー部を手伝ってくれたアイツに大きな声で礼を言い、
軽口をたたきあったアイツに「遊びに来い!」と声をかける。当たり前が当たり前でなくなる前に、
短いながらも気持ちを込めて言葉を投げかける。卒業生はBGMが終わるとともに、きれいに去っていった。さて来年、何がどうなっているやら。僕はどんな顔をしているんだろうね。想像がつかないや。
明日で地震の発生から1週間となる。そしてこの間、つねに「世界が変化してしまった」という感覚を抱いている。
9/11のとき、そこから世界は明らかに変わってしまった。どこから侵入してくるか読めない悪意に対し、
つねに身構えていることが求められるようになった。それまでが無防備すぎたと言ってしまえばそれまでだが、
ここまではっきりと時代に境界線が引かれた日というものが存在しうるのか、と驚いた記憶が残っている。そして今回のありとあらゆる災害が詰まった大震災に、それに匹敵する衝撃を感じているのだ。
テレビで連日伝えられている被災地の惨状が自分にとって遠いことではないと自覚させられるのは、
なんといっても、夜に街の明かりがなくなってしまったことだ。東京が東京でなくなってしまった、と言えるかもしれない。
あの無機質なカウントダウンの途中から始まった揺れによって、別の世界にはじき飛ばされた気さえしている。
あれほど物が豊かだったスーパーマーケットの棚には空白が目立っている。当たり前だったものたちが消えた。
かつてニュースで見た光景、破綻した社会主義国の店の棚の映像が、今の僕らの現実となっているのだ。世界はすっかり変化してしまった。いったいなぜ、こうなってしまったのだろうか。
「天罰だ」と言った政治家がいるが、まあ正直その気持ちはわからなくもない、でも絶対に賛同できない。
罰であるからには、そこに罪がなければいけない。でもわれわれがそこに勝手に罪を見いだす傲慢は、許されない。
多くの人の無実の死や苦しみに対して安易にレッテルを貼ることなど、人間性を持った人間に許されるはずがないのだ。
そこに意味を見いだしてはいけない。意味を探した瞬間、不安な心に悪意がつけこむ隙を与えることになる。
年配の先生が「私たちが高度経済成長期から努力してきたことが否定された気がする」と言って涙を見せた。
しかし、その考えは明らかに間違っている。震災は震災でしかなく、われわれに対する否定では断じてない。
一切のネガティヴな意味づけは不要である。そんなことに想像力を消費することなど、何ひとつ利益をもたらさない。
理屈を超えた事態が発生したのだから、われわれも理屈を超えて動くべきなのだ。理由などいらないのだ。
前を向いた行為だと直感したなら、躊躇することなくそれをすればいい。そういうベクトルを集めるだけでいい。
給食を食っていたら突然、警報音とともに緊急地震速報が校内放送で入った。
「震度5」というその言葉に、教室内は一瞬騒然となるものの、すぐに生徒はみんな机の下に入る。
僕は担任の先生とともにその場で身構えてカウントダウンを聞く。ゼロの声の後、少し間をおいて、
確かに揺れが来た。震度5ではなかったが、確実に3はあった。すぐに職員室に降りて情報収集。
茨城では震度5が出たが、それほど深刻なものではないことを確認して戻る。東京では数は少なくなっているものの、いまだに余震がチラチラと発生しており、
すでにみんなそれに慣れてきている。もう誰も震度3ぐらいでは慌てないようになっている。
大地震から5日経ってそれでも余震が続いているということは非常に気持ちの悪いことではあるのだが、
かかってきやがれコノヤローというぐらいの気構えでいるのは、まあ少なくともネガティヴな反応ではない。
確かに地震は怖いが、ある程度覚悟を決めて過ごすことができているのは、悪くない状態である気もする。
なんとかそういうある種強気な精神状態を持続して復興へとつなげることができればいいのだが。
電車は相変わらずの混乱ぶりで、停電の方も実施したりしなかったりで混乱している。
テレビでは福島の原発の危機的状況が繰り返し報道されており、とんでもない事態になっていることを実感させられる。
考えられる限りすべての災害が発生しているわけだ。でも東京では日常が非日常の要素を混ぜながら続いている。
こっちは朝起きて働いてほぼ定時で帰って家でニュース見てイヤな気持ちになって寝てしまう、その繰り返しだ。
一日を振り返ってみても、とってもモノクロームな感じである。
テレビはすっかり被害状況の伝達装置となっている。ネットのニュースを見ると、妙にサッカー界から、
日本へ送られてくる激励のニュースが目立つ(それは僕がサッカー関連の記事ばかり見ているからかもしれんが)。
海外にいる彼ら、外国人の彼らの方が、今回の震災の大きさをしっかりと受け止めているのではないか、
そんな気がしてきて少し憂鬱になる。僕の周りは余震と停電と交通の混乱に身構えることだけがリアリティなのだ。
東北の皆さんの痛みを同じように感じることが正義というわけでは決してないのだけれども、
一方でめちゃくちゃな状況があって、自分はそれより緩いレベルですでにいっぱいいっぱいになっている、
そういう事実がどうも申し訳なく思えてならないのだ。まあ、みんながそうやって混乱しているわけだ、きっと。今朝のサッカー部はいつもどおりに朝練をやったのだが、途中で調子が悪くなって休んだ生徒が複数出た。
やはりなんだかんだで、この土日では回復しきれないダメージがあったのだろう。そう考えるのが自然だ。
そうしたら放課後には、今後しばらく部活動を休止するようにとのお達しがあった。
目に見えない敵がじわじわと空気の中に忍び込んで、うっすらと窒息させていく。そんな感じがする。
敵なんて本当はどこにもいないのに。
これまで情報の入ってこなかった東北地方太平洋岸の街の惨状がだんだんと伝えられるようになってきた。
気仙沼、陸前高田、大船渡、釜石、宮古……。どの街も、僕はまだ訪れたことがない。
青春18きっぷを使う旅では、まず仙台に出るところで一日かかる感じになる。
そこから海沿いにだんだんと北上して八戸まで行くというのは、一度やってみたいとは思っていた。
ただ、そうして各都市をまわるのは時間がかかりそうなので、具体的なプランを立てるところまではいっていなかった。
つまり、僕のいつか行きたいと思っていた街が、訪れることのないまま消えてしまったのだ。
その街のことを自分の中に刻み付ける機会がないままに、津波によって一気に街が壊されてしまった。
現実の生活を失ってしまった方々のほうが圧倒的につらいに決まっているのだが、
このことで二度と触れるのことのできないものが僕の中にもできてしまった。
まあ非常に自己中心的な受け止め方ではあるのだが、そのことで各都市の惨状をぼんやりとしか受け止められない、
そういうリアリティの欠如がまた悔しい。テレビの向こうのこととしか受け止められないでいるのが悔しい。◇
輪番停電の予告があった。『エヴァンゲリオン』のヤシマ作戦のようなことが、実際に起きるとは。
首都圏向けの原発が使えなくなっているわけだから、これはしょうがないことなのだろう。
ヤシマ作戦では使徒を倒すために電気を集めたわけだけど、では僕らは今、何と戦おうとしているのだろう。
まあそういう発想はあまりよくなくて、実際のところは、何かを守るためにそうするのだ。
勝ち負けで物事の決着がつくのって、なんてイージーなことなんだろうって思う。
午前4時、長野県北部で震度6が出た地震で僕も起きた。この地震は三陸沖とは直接関係がないようだが、
本来関係ない地震が昨日のやつで誘発された、と考えるほうが自然だろう。まったく、たまったもんじゃない。
ニュースは相変わらず不眠不休で現在の被害状況をまとめ、昨日明るいうちの津波の映像を流していた。
月並みだけど、昨日からの一連の流れが夢じゃないことにあらためてがっくりする。
7時になり、本日の部活を中止にする連絡をする。親が帰宅できなかった家庭や親類が被害に遭った家庭もあるだろう。
それにこの分じゃいつ大きい余震が来るか読めない。ヘタにグループから人をバラさないほうがいいのだ。家にいても憂鬱になるだけなので、朝飯を食うべく街に出る。街の雰囲気はいつもとあまり変わらない。
しかし年中無休のはずの松屋が臨時休業しているのを見ると、やはり異常事態であることを実感させられる。
しょうがないのでドトールで日記を書いて過ごした。いつもと同じパターンだが、何かが違う気がする。
帰りにスーパーに寄ったら、正午近くのくせしてやたらと混んでいた。棚の商品はぐっと少なくなっており、
事態がおかしな方向に転がっているのがはっきりとわかる。非常に気持ちが悪い。大阪在住のワカメから連絡があり、この事態にもかかわらず上京するというので相手をするべく新宿へ。
もともとワカメはこの日に東京に来る予定で、本人もこの事態に上京するか大いに迷っていたようなのだが、
新幹線の払い戻し窓口がめちゃくちゃに混み合っているのを見て、それならもう、行っちゃおう!となったそうだ。
新宿に出るにあたり東急と山手線を乗り継いだのだが、昨夜の大混乱はまったくウソのようにスムーズな運行ぶりだった。新宿に着くとどうしても買わなくちゃいけないものがあったので、東急ハンズへ行く。
新宿駅南口を出て甲州街道を横断するが、快晴ぶりが気に食わない。9/11の翌日と同じ気分だ(→2001.9.12)。
サザンテラスのスターバックスもクリスピードーナツも臨時休業で、どうもしっくりこない。今日は違和感だらけだ。
そうして入った東急ハンズの新宿店も、土曜日の午後とはとても思えないスカスカぶりだった。
まるで平日の開店直後のような雰囲気だ。唯一、人が群がっていたのは地震対策用品の売り場だけだ。
その後は紀伊国屋書店で地図を眺めたりマンガの表紙を眺めたりしながらワカメを待つ。
久々のワカメは相変わらず元気そうで安心した。聞けばもう社会人4年目ということで、時間の流れに唖然とする。新南口のすぐ東側にあるスタバは営業していたので、そこでダベりながらもうひとりの仲間・ハセガワ氏を待つ。
その間の話題はやっぱり地震のこと。それでも最近の中学生事情やサッカーにプロ野球など、いろいろ話した。
たまにケータイのワンセグで情報を収集するが、津波の被害の深刻さにふたりしてため息。
特にワカメはご両親が東北出身ということで、他人事ではないのだ(ハセガワ氏自身も東北出身だ)。
そのうちに、どうも福島の原発がヤバいらしいということになり、あらためてため息。
店の外を見ると、土曜日夕方の新宿だというのに行き交う人の数は数えられるほど。むしろどんどん減っていく。
異様な空気にふたりして顔をしかめる。やがてハセガワ氏が合流したので新宿三丁目に移動。
僕らがいたスタバは午後6時で店じまい、ハンズも同じく店じまい、歩いていたら『蛍の光』が聞こえてくる。
新宿が僕らの知っている新宿ではなくなっていて、気持ち悪いったらありゃしない。新宿三丁目の末広亭付近には手頃な感じの店が多いので、その辺でメシでも食おうということなのだが、
信じられないことに人通りはまばら。店は営業しているし呼び込みの人もいるが、明らかに雰囲気がおかしいのだ。
そのうちの一軒の店に入って牡蠣鍋のほか、さまざまな料理を注文してダベる。僕らが最初の客で、
しばらくしてからほかの客も入ってはきたものの、広い店内にパラパラ散らばる程度の入り具合だった。
ときおりワカメがワンセグのニュースを確認するが、原発をめぐる事態は深刻なようで、イヤな雰囲気が漂う。
空が暗くなるにつれてどんどん空気がおかしくなっていくのを3人とも感じ取り、
「これは早く解散したほうがいいね……」となるのであった。食べ終えるとすぐに駅へとまっすぐ向かい、
新宿駅のホームで解散。まあまた近いうちに、今度はじっくり。そう約束して別れるのであった。帰る電車の中でもどこか緊張感があった。家に着いてからようやく安心できた気がする。
一人暮らしの僕には部屋の中で悲しいニュースを聞き続けることは、やはり辛いことだ。
だから親しい友人と同じ時間を過ごして気を紛らわすことができたのは、すごく助かったと思っている。
ご家族が辛い目に遭っているワカメやハセガワさんにとってもそうであったならいいが。
地震が発生したのは6時間目の授業の真っ最中だった。
僕は職員室で仕事をしていたのだが、突然、地震の警報機というか予報機が鳴りだした。
「震度3、30秒後です」なんて言うもんだからすっかり油断してカウントダウンを聞いていたのだが、
残り5秒くらいから揺れが始まると、それはすぐに強烈なものへと変わり、まるで波の上に立たされているようになった。
しかもそれはまったく収まる気配がなく、かえって揺れの勢いは強まっていく。ふだんから整理されていない僕の机の上で、
悲惨な地滑りが発生する。しょうがないので手で押さえるが、それは自分が転ばないための方策でもあった。
たっぷりと2~3分は揺れが続く。大きな揺れが収まっても小さな揺れはやまず、車酔いのような気分になる。
震度4は小学生のときに飯田で経験したのだが、これはもう比べ物にならないレベルの地震だった。裏にあるテレビの電源を入れると、震源は三陸沖ということで血の気が引く。
飯田市出身の僕は地震に遭うとまず反射的に東海地震を想像する。そしてニュースを聞き、違うと確認して安心する。
だが、今回はとても安心できるような状況ではなかった。東京でさえこの有様なのだ。東北地方の被害を考えると、
どれだけ恐ろしい事態となっているのか想像がつかず、ただただ「これは、厭だ」とつぶやくことしかできない。職員室のメダカの水槽の水はあふれ、床が濡れている。隣の印刷室では積んであった紙の束がすべて落ちてしまい、
まさに絵に描いたような地震の被害の痕跡を残していた。生徒の安全を確認しつつ、片付けを始める。
そうして一段落ついたところで、お偉いさんたちが今後の協議を始める。とはいえ学校がいちばん安全なのだ。
いま帰宅させたところで親はそれぞれ職場にいるに決まっている。しばらく様子を見ることに決まった。
すると突然、余震が襲った。余震のくせしていつもの本震よりも強烈で、事態が深刻であることを痛感させられる。
一瞬で世界が変わってしまった9/11テロのことを僕は思い出していた(→2001.9.11/2001.9.12/2008.5.10)。保護者にメール配信を試みるが混雑しており、なかなかうまく送信できない。こういうときはどっしり構えるしかない。
生徒たちは各教室に待機させ、ひたすら情報を収集。テレビは津波の危険を切々と訴えている。
そのうちにどうにかメール配信が完了した。一方で、わずかな揺れではあるのだが、ちょこちょこと余震が続く。
最大震度は宮城県栗原市の震度7。東京も震度5強ということで、被害が出ているようだ。あまりに広範囲だ。
東北地方は混乱しているようで、テレビ画面には関東地方の現況しか出てこない。それでもお台場の火災、
津波に備えて漁船が逃げ出す銚子港、九段会館の空撮など、異様な光景ばかりが映し出される。
窓の外では曇り空を背景にお台場の黒い煙が昇っている。でも反対の西の空には日の光が差し、にわか雨が降り、
おかげで東の煙の手前にはうっすらと虹が浮かんでいた。これほど気持ちの悪い光景は見たことがない。やや落ち着いたところで集団下校が決定し、校庭に出て町会別に整列する。
生徒を誘導しながら家の前でひとりひとり帰るのを見届け、所定の位置で解散。
学校に戻る途中で年配の先生と、薄暗い中で冷たい風の吹く天気の気味悪さや今後のことについて話した。そうして職場に戻ると、やはりテレビで情報収集。日本全域の太平洋側で津波への警戒が呼びかけられている。
しばらくは落ち着いて仕事を続けていたのだが、17時近くになって帰れる人は帰るようにと指示が出る。
だが、首都圏の鉄道はほぼすべてマヒしている。僕は自転車なので関係ないが、これはマズい事態だ。
とはいえ職場に残っていてもどうにもならないので、早めに帰宅して家の片付けに専念させてもらうことにする。
帰る途中、道路という道路はすべて車で埋め尽くされており、まともに動いていなかった。
人を目一杯詰め込んだバスも立ち往生。これではいつ帰れるかわかったもんじゃない。
自転車がいちばん早い。こういうときの運だけいいのが非常に申し訳ない気分である。
(後でメールで知ったのだが、みやもりとニシマッキーはそれぞれ職場から歩いて帰宅したそうだ。お疲れ様でした。)鬼が出るか蛇が出るか、少し不安な気持ちでドアを開けたが、予想どおりそれほどの被害はないようだった。
怖かったのが、冷蔵庫の上にある電子レンジがもう少しで落ちそうになっていたこと。でもその程度。
本棚の本やCDが落ちたが、峠の釜めしの釜と蓋が割れた以上の被害はなかった。やはり大岡山は地震に強い。テレビをつけると、どの局も今回の地震の惨状をノンストップで伝えており、事態の大きさに憂鬱になる。
幸いなことに炊いておいたメシも無事だったので、それをがっつきながら情報収集。
東日本は全域が被災したが、特に東北の太平洋岸は壊滅的な状況に陥っているようだ。これは、なんなんだろう。
しつこい余震が続く中、首都圏の鉄道全線が運休するというニュースと中継が入る。こんなことになってしまうとは。
ふと、リビアに関するニュースが頭の中をよぎった。喉元に見えないナイフを突きつけられているような感覚がする。
もし戦争あるいはテロに巻き込まれたら、こんな感覚をずっと抱えることになるのだろうか、と思う。
なんでもない日常から、いきなり何かと戦わなくちゃならない状況に引きずり込まれたような気がしてくる。
すべてが、ひどく気に食わない。
リョーシさんから岡山旅行(→2011.2.19/2011.2.20)の写真が届いた。
僕は団体で旅行をしても日記は基本的に自分の写真で間に合わせることが多いので(僕がいちばん撮っているからね)、
日記用にしっかりと使える写真をくれるリョーシさんみたいな存在は貴重なのである。ありがとうございました。
おかげで岡山旅行のログはいろいろと充実したものになりそうだ。いい思い出はきれいに形にしないとね!
受験の終わった3年生がすっかり卒業モードである。
それまで優秀だった生徒が急激にだらしなくなり、遅刻ギリギリのタイミングで登校。しばしば遅刻。
そんな姿を見ていて、はて自分のときはこんなんだったっけ?と振り返ってみるが、あまり記憶がない。
記憶がないってことは特にだらけることもなく、いつもどおりふつうに過ごしていたってことだと思う。
高校3年の3月は、半ば廃人のような過ごし方をしていたのはしっかり覚えている。
起きてもベッドの中でウニャウニャしたまま好きな音楽を聴いて過ごす。あれは至福の時間であった。
もっとも、その後には浪人生活が待っていたんだけどね!(あれはあれで面白かったからいいけどな!)まあともかく、卒業モードの3年生を見るのはとても淋しいものだ。
それはもうすぐ連中の顔を当たり前のように見られなくなるから、というのもあるし、
あれだけ頼もしかった先輩方がすっかり腑抜けちゃっているから、というのもあるし。なんとかならんか。
なぜか今日はやたらと頭が痛くって、調子が上がらない中で古典芸能教室ということで落語鑑賞。
打ち合わせも何もないのに教員がステージに上げられるという恐ろしい展開となったのだが、
どうにか無事に僕はスルーされたのであった。でもベテランの先生が僕の名前をコールしていたのを忘れない。放課後にはサッカーの練習。やっぱり頭が痛いままで、でも体は動かしたいので参加する。
やっているうちにそれなりにどうにかなって、なんとか最後までプレー。無事に一日が終わってよかったよかった。
さんざん不安感に苛まれた中で日々を送ったわけだが、いよいよ本日が3年生を送る会の本番。
装飾は予想以上のできばえに仕上がったし、出し物も終わってみれば「まあよくやったんじゃないの」と言えるレベル。
歌は結局、個人的には改善の余地が残った感じになってしまったのだが、先輩へのメッセージも朴訥な分だけ伝わったし、
急遽やることになった応援団風のエールも生徒のがんばりで立派なものになった。
僕自身もこういうやり方があるんだ、というのがわかったし、ここまでやらせてあげることができた、という収穫もあった。
1年生の内容は思っていた以上に勢いがあってこりゃ将来が楽しみじゃ、という気分にさせられ、
凝りに凝ったスライドショーには爆笑させられた。非常にいい会になったと思う。いやー、本当にほっとした。
近所の小学校でマラソン大会があるのでその手伝い。正確に言うと、中学生ボランティアの監視、もとい付き添い。
昨日と同じようにビデオカメラを回して連中の手伝っているぶりを撮影していく。大会は思っていたよりもずっと大規模で、
小学校のグラウンドは大人と子どもでいっぱい。ボランティアの内容も順位の確認や走り終わったランナーの世話、
スタート位置での指示出し、そしてコースを間違えないための伴走など多岐にわたっており、それをいちいち録っていく。
6学年分の男女を2レースずつ、休憩なしでやっていくので、これはけっこうハードな仕事なのであった。
それにしてもカメラを構えていたら隣に某国会議員がいたのには驚いたぜ。議員センセイも大変ですなあ。◇
午後はサッカー観戦だ。J2開幕カードのひとつ、横浜FC×カターレ富山を観に行く。
(本当は昨日水戸で行われた水戸×京都も観に行きたかったのだが、部活を入れたのでそっちは断念。)
僕は今年、京都と富山に注目している。理由ははっきりしている。京都の監督は甲府の元監督・大木さん、
富山の監督も甲府の元監督・安間さんだから。ふたりとも観客を魅了する攻撃サッカーを目指しているのだ。
そしてふたりともW杯でビエルサ監督が率いたチリが大好きということで、両チームは今季、
Jリーグでは極めて珍しくなった3バックを採用して独自のサッカーを追求している。やっぱり、このふたりはかっこいい。
特に富山は3-3-3-1という特殊なシステムであり、一部のサッカー通は大注目をしている、らしい。
(京都のシステムは3-4-3。ちなみに大木さんはかつてJリーグで最も早く4-3-3を採用した実績がある。)
そんな富山が三ツ沢に来るわけだから、こりゃあ観に行かないわけにはいくまいて。自転車で横浜駅西口に乗り込むと、まずは東急ハンズで買い物。自転車用品を強化して大満足。
そして浅間下の交差点から神奈川県道13号の坂をウンセウンセと上って三ツ沢球技場へと到着。
どうやらキックオフの時刻を1時間まちがえていたようだ、と気がついたのは中に入ってから。
のんびりとハンズで買い物を楽しんでいる場合ではなかったのである。危うく遅刻するところだった。
L: 三ツ沢球技場、長くて狭いバックスタンド側の通路。歴史あるスタジアムとはいえ、こういう部分はどうにか改善されないものか。
C: カターレ富山のゴール裏。なかなか熱烈な応援なのだが、水色のビニール袋は正直、あまり見栄えがよくないと思う。
R: 三ツ沢球技場はピッチが近くてとてもいい。ボールがボンボン客席に飛び込んでくる臨場感が最高なのだ。開幕戦ということもあり、スタジアム内は大混雑。まったく空いている席がない。
隅っこのところでようやく発見して腰を下ろすが、キックオフ後もつねに通路を人がウロウロ歩く状況なのであった。
おまけに三ツ沢球技場はビールを売りに来るおねえちゃんが多すぎる。次から次へとタイプの違う美人が来るのはいいが、
中には明らかに化粧をまちがっちゃってるおねえちゃんもいて、ああもうもったいない!とムズムズするのであった。さて肝心の試合。アウェイの富山は白いシャツに黒いパンツで、これがシンプルでなかなかかっこいい。
そして展開するサッカーはもっとかっこいい。とにかく、躍動感にあふれるプレーを徹底しているのだ。
3-3-3-1はまさに全員が動き回らないと成立しないシステムだ。ひとりひとりがスペースを埋め、そのまま前に出る。
そうして厚みのある攻撃を実現する。守備のときには前から早めにチェックして高い位置でのカウンターを目指す。
誰かがボールを奪った瞬間、複数の選手がそれぞれ異なる方向へと走り出す。これが本当に美しいのだ。
正直なところ、選手の個々の能力は特別高いわけではない。でも、ひたむきな姿勢がすごくいい。
もしこれを、強豪のチームや日本代表が実行したら、どこまで高みに昇れるのか。想像して、ゾクゾクした。
またかつての甲府名物・クローズ(選手どうしがめちゃくちゃ近い位置でパス交換して抜け出す戦術)ほどではないが、
ショートパスをテンポよくつないで前へ出て行くプレーが多い。ボールの回転にも非常に高い意識を持っており、
タッチライン際で内側に曲がるようにアウトサイドでのパスを出し、そこに前線の選手を走り込ませるプレーもよく見られた。序盤は富山が上記のように非常にアグレッシヴなサッカーでゲームを支配するが、先制したのは横浜FCだった。
浮き球に対する処理でDFが迷った一瞬の隙を衝かれる。そしてチャンスを逃さずシュートを決めた藤田祥はさすが。
ここからはしばらく、横浜FCが地力を見せる展開となる。押し込まれる事態だけは避けたい富山は必死で守る。
しかし32分、甲府から移籍の大西が右サイドでボールを奪うと1トップの苔口へ。GKと1対1になり、シュート。
これが一度はポストに当たってはね返るが、苔口は冷静にねじ込んで同点。3-3-3-1が完全に機能したゴールだ。
前半はその後も完全に富山がゲームを支配し、横浜FCは戸惑いながらプレーしていたように見えた。後半に入りやや横浜FCが持ち直すも、時間が経つにつれ再び富山ペースになっていく。
富山がスペースを埋めてていねいにプレスをかけ続けることで、横浜FCはうまくボールを前に運ぶことができないのだ。
流れを変えることを意図してか、66分にカズが入る。三ツ沢は大歓声と拍手に包まれる。44歳、最年長出場記録だ。
これは凄まじく偉大な記録だが、キャプテンマークの受け渡しには違和感を覚えた。
(スタメンでキャプテンマークをつけていた選手が、途中から入る選手にそれを譲るというのは、なんとも奇妙な光景だ。)
左MF(つまり僕の目の前)でプレーしたカズはシュートこそなかったものの、ところどころで非常にセンスのいいパスを供給。
クロスもいい。何よりすばらしいのはそのタイミングなのだ。守備の切れ目となる時間と場所を的確に狙ってパスを出す。
しかし愚直に攻める富山のペースを変えることはなかなかできない。するとロングパスに反応して苔口が相手陣内へ侵入。
たまらずGKがその突破を止めにかかるが、倒してPKを与えてしまう。これを黒部が決めて富山が逆転してしまった。いよいよ窮地に立たされた横浜FCは積極的に攻めるが、富山の守備が集中してゴールを割らせない。
するとカズの10回ぐらいまたいだんじゃないかという気合いのフェイントが飛び出して三ツ沢球技場内は拍手喝采。
目の前でそんなプレーが見られたというのは、もう、それだけで満足できる。それくらい熱いプレーだったなあ。
そして横浜FCサポーターの悲鳴とともにタイムアップ。勝利に値するプレーを続けた富山に軍配が上がった。
対照的に、横浜FCは富山のスタイルに終始戸惑っていたように思う。それで自分たちのサッカーを見失っていた。
しかし今後、研究が進めば富山の3-3-3-1はどこかで停滞を余儀なくされるだろう。まだ完成度はそれほど高くない。
もっと運動量を増やし、基礎的なプレーの質を高めることで、このサッカーはさらに進化するはずだ。
そしてその方向性は、かつての甲府がやっていた4-3-3の延長線上にあるサッカーだ。それは、はっきりと見えた。
L: カズ(右端)登場。確かに運動量は少なくスピードもないが、実にイヤなところにパスを出してくる。経験の深さを感じさせる。
R: 勝利した富山イレブンとサポーターの皆さん。富山はどこまで台風の目となれるのか。大いに期待したい。富山の躍動感あふれるサッカー、カズの魂のまたぎフェイント、いろいろ見られて大満足の試合だった。
ひとつだけ切なかったこと、それは、かつて僕が甲府で魅了されたサッカー(の進化形)が目の前で展開されていたのに、
そのときに聞こえていたはずの♪走れ走れ 青と赤の 誇りを持ち 今日も俺らと 甲府ロマンを~♪というチャントを、
もうしばらく聴くことができない、ということを痛感させられたことだった。あのチャント、本当に大好きだったのに。
またいつかあれを聴くことができるのだろうか。そのとき、僕はどんなサッカーを目にしているのか。未来なんて、わからない。
今日は近所の小学校でもちつき大会。サッカー部はボランティアを頼まれたので、みんなで参加。
臼を運ぶことから始まって、実際に杵でついたりこねたり、つきあがったのを丸めたり。
全般的にはまずまずの働きぶりで、ほっと一安心。僕もビデオカメラを回しつつ、ついてこねたのであった。
もちというのは意外と撥ねて飛ぶもので、ジャージの上着がわりとカピカピになってしまったとさ。
最後にサッカー部のみんなでグラウンドに挨拶したら、保護者の皆様から拍手をいただいてしまった。◇
午後はそのままサッカーの練習。それが終わると3年生を送る会向けの映像づくりを見学。
そしたらなぜか僕も出演することになってしまった。で、ALSOK体操を女子生徒と一緒に踊る。
僕は熱海ロマンの頃から切れ味だけのダンスをする人なので、仕上がりを見たら変に目立っていて困った。
3年生を送る会の準備は着々と進みつつあるものの、相変わらず歌に関してはダメで、当方イライラの毎日である。
対照的に1年生は、かなり凝った内容で勝負してくるようだ。頼むぜ先輩、と思うが、全然声が出ない。
どうしたものか、とほかの先生方と頭を抱えております。うーん、ホントどうしたものか。
3年生を送る会で使う装飾づくりが佳境なのである。出し物についてはなかなか決まらないで苦労したが、
装飾については生徒の出したアイデアがかなり面白くて即、採用。比較的スムーズにスタートしたのである。
真ん中に大きな桜の木、両側には卒業証書の筒があるのだが、これがクラッカーみたいになっていて、
中から先輩へのメッセージを書いた紙が飛び出している、というデザインなのである。いやー、感心したわ。
で、桜チーム・クラッカー筒チーム・メッセージチームの3つに分かれてひたすら作業。
僕もクラッカー筒チームに参加して飾り付け。基本的にはみんな本当にマジメにやっていてすばらしいのだが、
少し休憩を入れるとテンションが高まっているためか、ふだんおとなしい連中がだいぶ変な行動をとるのであった。
(具体的には書かないけど、たとえば、女子が自分の好きな男子の名前を連呼して廊下でのたうち回ったりとか……。)
まあ、作業じたいはきちんとできているので文句は言わんが、もうちょいなんとかなりませんかね。ならんか。
紆余曲折があって結局、レミオロメンの『3月9日』をみんなで歌うことになった。卒業ソングの定番、らしい。
それで放送室にあったベスト盤をかっぱらって聴いてみたのだが、あまりのつまらなさに呆れた。
これだから『粉雪』以降のレミオロメンはダメなんだ、最高傑作は『モラトリアム』~『南風』のコンボだぜ、
……なんて思いながら調べてみたら、それよりも前の3rdシングルなのであった。わ~お。なぜこの曲が卒業ソングとしての支持を集めているのかがまったく理解できない。
盛り上がりにまるで欠けるし、メロディラインはギター兼ヴォーカルの気ままなクセが満載。つまり独りよがり。
そう考えると歌詞が受けたってことなんだろうけど、僕は歌詞というものに興味のない人間なのでなんともいえない。
今この日記も『3月9日』を聴きながら書いているのだが、この曲は本当に退屈である。
卒業関連の行事でこれを歌いたがるとは今の若い連中はどんだけセンスがねえんだ、とすら思っている。
まあそうは言っても、自分がまず歌えるようにならないことには指導ができないので、ガマンして覚える。なかなかの苦行だ。
都立高校の合格発表なのである。去年に比べるとひとりひとりの動向が身にしみる感じ。
それと同時に来年の今頃のことを想像して背筋が凍るのであった。◇
さて、こっちはこっちで「3年生を送る会」の準備が本格化している。いや、ようやく本格化しはじめた、と言うべきか。
日程の余裕がまったくないのに当事者意識が完全に欠落しており、指導するこっちはキレかける場面の連続。
まあここで罵詈雑言を書くわけにはいかないのでこの辺で抑えておくが、だいぶストレスが溜まっております。
週末にせっかくガス抜きしたのに。あーあ。