diary 2009.7.

diary 2009.8.


2009.7.31 (Fri.)

いよいよ本日は林間学校の最終日である。午前中は各部活で練習し、お昼ご飯を食べて帰る予定である。
野球部は今日はグラウンドで練習。地元の女子中学生がソフトボールの試合をやっている対面ということで、
本当にこれでいいのか確認するために顧問の先生が事務所へ聞きに行くのであった。
その間、僕は生徒たちと林の中にリスを見つけて一緒に興奮。そのうち校長も合流して一緒に興奮。

今日もかなりの炎天下の中、練習が始まった。昨日の反省もふまえて連係の確認がメインである。
なんせ対面では試合をやっているので球が流れていったら大変だ。球拾いに力の入る僕なのであった。

練習が終わって宿舎に戻った瞬間に突然の雨。思えば初日は宿舎に着いたタイミングで雨がやんでおり、
2日目には雨で朝のラジオ体操が中止になったにもかかわらず、練習の始まる時刻には晴れに変わっていた。
まるでわれわれの練習に合わせるかのように雨がやんだり降ったりする3日間なのであった。
先生方だけでなく生徒たちも呆れるほど絶妙のタイミングで、おかげで誰ひとり濡れることなく済んでいる。
まあとりあえず、僕の晴れ男伝説に新たな1ページが付け加わったことにしておくとしよう。

帰りのバスの中はみんな疲れてグッタリかと思いきや、女子を中心にしゃべりまくりで元気いっぱい。
対照的に先生方は(僕を含めて)うつらうつら状態なのであった。若いってうらやましい……。


2009.7.30 (Thu.)

林間学校2日目である。今日の午後には地元の中学と練習試合が組まれている。
さえぎる物が何もない炎天下の中、さっそく練習が始まるのであった。

それにしてもこの日の天気はすごかった。文字通り突き刺すような日差しが照りつける。
中学生ってのはタフだなーなんて思いつつ練習を眺めるこっちの体は完全に錆びついている。
ちょっと体を動かせば、そんな残酷な現実に気づかされるのだ。実に悲しいものである。

さて弁当を食べて相手の中学がやって来ると、挨拶を交わして軽く練習してさっそく試合開始。
相手の中学は部員が30人くらいいる。そのうえ、全員の動きが非常にキビキビしていて美しい。
それにひきかえウチは……考えると虚しくなるので考えないでおく(全員がだらしないわけではない)。
試合内容はかなり充実していた。ウチの1年生による三遊間の守備は特に堅く、
次々飛び出すファインプレーに思わず声が漏れた。正直、うらやましくってたまらない。
打撃面でもリードされるたびに粘って追いつく展開で、純粋に面白い試合だったと思う。
最終的には突き放されて負けてしまったのだが、広い球場で全力を尽くすことができたためか、
生徒たちの表情もいつもと比べてはるかに生き生きとしていた。

試合終了後は合同で練習。ものすごく速いテンポでシートノックが展開される。
でもあまりにリズムが良いために、生徒たちはむしろふだん以上になめらかな動きを見せるのであった。
いつもの部活動では絶対に体験できないことをしっかり勉強できて、生徒たちには大いにプラスになったろう。
そんでもって、やっぱり野球は面白いなーと思うサッカー部顧問の僕なのであった。

夜になると毎回恒例になっているという花火大会である。けっこうたっぷりと予算がとられており、
浅草橋の専門店でコーディネートしてもらった花火は確かにクオリティが高い。生徒も楽しそうにしている。
そして後半はドラゴンなどの打ち上げ花火の鑑賞会となる。これまた専門店によるコーディネートで、
なるほどきちんとお金をかければ家庭用でもそれなりの質になっているんだなあと感心した。


2009.7.29 (Wed.)

今日から3日間にわたって林間学校が行われる。といっても、実質的には部活の合宿がメインである。
今年は特に、運動部に属していない生徒の参加がゼロとなったため、完全に部活が主体となってしまった。
さてこの林間学校に参加するのは1年生と2年生のみで、3年のみのサッカー部は当然、参加者ゼロである。
だからといってヒマこいているわけにもいかない。僕は今回、野球部のお手伝いをするのだ。
(下見に出かけた際のログはこちら。→2009.6.162009.6.17

目的地である茅野市に着いたのがお昼ごろ。さっそく各部活は練習場所へと移動する。
僕も野球場へ歩いていき、生徒たちの練習を見守る。いつもの狭すぎる校庭とは別世界の広い球場である。
ふだんの練習では絶対にできない内野と外野の連係プレーにみっちり取り組むのであった。

しかし野球部は今回9人ギリギリで来ているため、どうしても途中で練習にスムーズさがなくなってしまう。
そこで僕は球拾いだけでなく、実際にファーストに入って練習に参加するのであった。
高校時代にはクラスマッチのソフトボールに命を懸けていたのである程度はスイスイ動けるのだが、
さすがに野球の内野守備には専門的な訓練が必要である。外野がメインだった僕はけっこう戸惑ってしまった。
ファーストなんて送球をきちんと受ければそれでええやん、と内心高をくくっていたのだが、
ランナーがいるときといないときで体の向きを変えるなんて、きちんと考えることがなかったので困った。
まあでも恥ずかしいプレーはひとつもやらかさなかったのでよかったよかった。


2009.7.28 (Tue.)

支倉凍砂『狼と香辛料』。何年か前にバヒサシさんが「非常にヨイ」と言っていたので、第1作を読んでみた。
典型的なライトノベルで中世ヨーロッパ的な世界を舞台にしているが、それほどファンタジーの感触はしない。
魔法はまったく出てこず、ひたすら経済活動をベースにした頭脳戦といった内容である。

行商人ロレンスはパスロエ村での取引を終えた夜、狼の耳と尻尾を持った少女・ホロと出会う。
なんでもホロは豊作を司る神だが、自分をないがしろにする村に愛想を尽かし、ロレンスの麦に宿って脱出したと言う。
ロレンスは故郷に戻りたいというホロを連れて旅をすることになるのが、ホロは「賢狼」と名乗るだけあり、
とにかく頭が切れる。また何百年と生きているため、ロレンスを子ども扱いすることもしばしば。
まあそんな賢くってツンデレな美少女と女っ気のない男のやりとりで感情移入しましょうという作品である。

作者はこの作品を書いた当時、物理学を専攻する大学生だったとのことだが、とにかく経済の話が出てくる。
というか経済の話が作品世界の重要な軸である。お金の計算ができない僕は、何度読んでもまったく理解できない。
悲しくなるほどわからないのである。ストーリー展開の重要な部分にまるっきりついていけない。
この1作目では貨幣の価値を利用した儲け話が出てくるのだが、もう本当にダメ。論理がペッペケペーなのである。
しょうがないので大まかなアウトラインだけ押さえて読み進めたが、正直それでは魅力を存分に味わえた気がしない。

ヒロインであるホロについて書いておくと、頭が切れて、でも意地っ張りで、なんだかんだで甘えてくるわけで、
そりゃあたまらないに決まっている。言ってみれば僕みたいに経済の仕組みがパープリンな読者でも、
ホロの魅力で押し切ることができているわけで、なるほどこの部分だけでも十分「勝ち」なんだな、と思う。
あとは主人公ロレンスをいかに透明な存在にするか。彼のキャラクターを物語る過去をあれこれ描いても、
大多数の読者(しかも男性)が「自分と同じ要素を持つ存在」として受け止められるように処理すればいいのだ。

というわけで、ライトノベルの定石としては(まあライトノベルには限らない、普遍的な定石ではあるのだが)、
友達以上恋人未満な駆け引きをぬくぬくと楽しめればいいものと思われる。だから男は鈍感でなければいけないのだ。
あとはどれだけ斬新な舞台・設定を用意できるかの勝負ということか。一昔前の少年マンガの構造はまだ生きている。


2009.7.27 (Mon.)

『裸の銃を持つ男』。岩崎マサルが尊敬してやまないコメディアン・レスリー=ニールセンの代表作。

まず反米各国の指導者の皆さん(もちろんそっくりさん)が登場して会議を繰り広げる。
そこにL.ニールセン演じるフランク=ドレビン警部補が現れて大暴れということで、
いかにもアメリカのコメディらしいスタートである。1980年代アメリカは実に陽気であった。
そしてパトカー(パトランプ視点)が街のあちこちを暴走するオープニング。のっけからバカ満載でたまらない。

同僚の警官・ノードバーグ(演じているのはなんとO.J.シンプソン! そのまんま東に似ている)が重傷を負い、
その敵を討つべくドレビンがロスの大富豪で闇の実力者でもあるルドウィグの捜査を開始する。
ドレビンはルドウィグの秘書・ジェーンと恋仲になりつつも、エリザベス女王の暗殺計画を突き止める。
そして女王がメジャーリーグの試合を観戦することを知ったドレビンは、審判になりすまして計画を阻止しようとする。

ふつうギャグを連発すればストーリーのテンポが悪くなってしまいがちなのだが、この作品にはそれがない。
アイデアがとにかく豊富で、次から次へとギャグが出てきて、そのすさまじい密度にはただただ呆れるしかなかった。
設定がよくある刑事ものであるため、話の展開を雑にしてその分だけギャグに心血を注ぐことが可能になっている。
その辺のテキトーさというか大らかさはさすがに80年代のアメリカである。脂が乗りに乗っている感じだ。
ベタなものもあるが、古典として今後も長く引用できそうなギャグも数多くあって勉強になる。

僕はメジャーリーグ大好きっ子なので、困ったことに後半はドレビンの繰り広げるボケよりも、
メジャーリーグ的な観点からのツッコミどころに目がいってしょうがなかった。
まず試合がマリナーズ×エンゼルスで、マリナーズのユニフォームが一昔前の古いものなのだ。ここでまず一興奮。
そして解説者として登場するのがジム=パーマー。かつてのオリオールズのエースが出てくるとは、びっくりだ。
何よりいちばん衝撃的だったのが(ネタバレになるけど)、催眠術にかかって女王を暗殺しようとする選手が、
あのレジー=ジャクソン本人なのである。ミスター・オクトーバーがこんな役を!とウハウハしてしまったではないか。
ほかにもスピットボールやコルクバットなど、メジャーリーグの反則文化をわかっていると笑えるギャグが満載。

そんなわけで、個人的にはL.ニールセン云々というよりは80年代メジャーリーグで圧倒されてしまった。
まあある意味では正しいアメリカのバカ文化(これは完全に褒め言葉だ!)をしっかり堪能できたわけだけど、
その一方で、マサルが憧れるギャグセンスを純粋に楽しむという要素は薄れちゃったかなあという気がしている。
とりあえずは、L.ニールセンが体現しているドタバタをこの目でしっかりと確かめることができたのでヨシとしよう。


2009.7.26 (Sun.)

椎名高志『(有)椎名百貨店』。『GS美神』(→2006.1.3)で知られる作者の短編集。文庫版で出ている。

1巻は『GS美神』以前の作品ばかりだが、2巻には『GS美神』以後の作品も含まれている。
絵柄も異なればギャグの出し方も異なるが、逆にそれが作品の幅広さを印象づけてお得感が満載。
特に『GS美神』以前の作品を読めば、この作者がかなり多様な引き出しを持っているのがよくわかる。
いい話なんだけど設定的に広げづらい『ポケットナイト』や、面白いがクセの強すぎる『乱破S.S.』を経て、
来たるべきタイミングでしっかりと『GS美神』につながっていったんだなーという感じである。

『(有)椎名百貨店』において最も特徴的なのは、最後に収録された4コマ「Dr.椎名の教育的指導!!」だ。
失礼ながら、この4コマは作者の若さというか中二病が丸出しになっていて、(個人的には)ほほえましい。
『GS美神』で横島忠夫がGSとして成長していくにしたがってなくなっていってしまった部分が、
まさにこの4コマに凝縮されていると思うのである。だから僕としては古き良き時代という感触だ。
そういういい意味での荒削りな部分が好きだったので、読み返すとちょっと複雑な気持ちもある。

椎名高志は個性を持ったキャラクターを生み出すのが非常に上手である。
同じような個性を持った(キャラがかぶっている)登場人物は、二度と出てこない。
(『長いお別れ』の凡能くんが横島のプロトタイプである以外は見事にみんなバラバラ。)
むしろ別作品にあえてカメオ出演させているくらいで、それくらいひとりひとりの個性が異なっている。
そういう作者の幅広い世界観を味わっていると、さらにこの先どれだけこの世界が広がるのか、
また楽しみになってくる。まあ個人的には横島のさらに上をいく中二病患者の登場に期待することにしよう。


2009.7.25 (Sat.)

『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』。
ストーリーはきちんとしたものがあちこちで書かれているので割愛。

この手の長編ストーリーでは魅力的なキャラクターづくりが重要になってくると思うのだが、
さすがに世界的な人気を誇るシリーズだけあり、キャラクターの際立たせ方、印象に残る活躍のさせ方が非常に上手い。
いろんな性格、いろんな外見の実にさまざまなキャラクターたちが入り乱れて話が進んでいくのだが、
宇宙規模の政治という大きな舞台背景と、キャラクター間の小さな関係・やりとりの対比が巧みに噛み合わされている。
とはいえ、全体的にテンポが速すぎる印象がしなくもない。そのおかげで、ちょっと話が「安い」気もしてしまう。
キャラクターでいちばんカッコよかったのがR2-D2で、何から何まで完全に機械なのにしっかり愛嬌がある、
そういうキャラクターの造形ができるというのはすごいことだとあらためて思う。

個人的に好きになれない点はCGがキツいこと。今作では重要な新キャラとして、ジャー・ジャー・ビンクスが登場する。
もうちょっと自然さというか実写ぽさがあったほうがありがたかったのだが、まあしょうがない。
余談だがジャー・ジャーの英語は格が間違っており(「my」を主語に使うことが多いように感じた)、
それが一種の方言として演出されているようだ。もっとも、それが「差別的」という指摘もあったようだが。

演出面で「おお!」と思ったのは、アナキンが活躍するポッドレースでラスト1周になるまでBGMが入らなかったこと。
地味といえば地味なのだが、その分よけいな要素なしで純粋にレースのスピード感を楽しむことはできた。
また、クライマックスでの戦いの重ね方もさすがに上手い。グンガン族とドロイドの激戦、
アミダラのナブー王宮への侵入、ダース・モールと戦うクワイ=ガン・ジンとオビ=ワン・ケノービ、
そしてスターファイターで活躍するアナキンとR2-D2。それぞれの場面を細かく交差させる手法が実に効いている。

それにしてもやけに美人な侍女だと思ったら……。うーんやられた。ナタリー=ポートマンは美人すぎるですよ。


2009.7.24 (Fri.)

『モンティ・パイソン ライフ・オブ・ブライアン』。

今度のパイソンズはいよいよキリスト教を茶化しにかかった!
……わけではなく、キリストと同時代に生まれた男・ブライアンの生涯を描いたコメディ映画である。
内容をしっかりと見ればわかるが、キリストや神に対して無礼をはたらいているシーンはひとつもない。
むしろ何の変哲もないふつうの人を救世主に仕立て上げてしまう民衆の困った側面や、
活動家たちが内紛を繰り返す面を冗談交じりに描くことで、世の人々を鋭く風刺している映画なのである。
だからこの映画を「冒涜」ととらえる人は、かなり頭が悪い。物事の奥底にあるものが見えていない人だ。
むしろこの映画の最大の問題点は、ブライアンを演じるグレアム=チャップマンのちんこが丸出しになるところだ。
そうでしょ?

『ホーリー・グレイル』のレヴュー(昨日のログ)で僕は、「ストーリーなんかにまったく興味を示さない。」、
「全体を気にせずひたすら部分だけをいじくりまわす。」と書いた。しかし今作はちょっと違う。
まあ確かにギャグをふんだんに盛り込んでいるのでシーンごとにある程度ブツ切りになっているが、
ブライアンのツイていない(が後世には伝説として祀り上げられそうな)人生をしっかりと追いかけている。
(テリー=ギリアムのアニメがオープニング(クレジットが超見づらい)以外、ほぼ出てこないのだ。)
だから今回のパイソンズはバカを連発はしているものの、基本的にかなりマジメ。
ギャグをやりつつマジメにストーリーを追いかけるという離れ業をやろうとしているのである。
個人的な感想としては、ギャグはいいけど、やっぱりストーリー部分が切なく、僕には笑い飛ばせなかった。
エンディングで「♪Always Look on the Bright Side of Life」とみんなが歌うが、凡人にはそこまでできない。
やっぱりパイソンズは全体を気にしていないんだと思う。そういう根っこの部分を感じることができる作品だ。
この作品で悲劇と喜劇が紙一重であることを証明したのは、全体を気にしていないからこそできたことだと思う。
(ここで書いた全体ってのは、「意味」と言い換えてもいいかもしれない。人生の全体、人生の意味。)

書いてる僕がややこしくなってきたので話題を変えよう。
マイケル=ペイリン演じる妙にオカマくさい感じのピラト総督は、なぜか「r」の音だけ発音できない。
このピラト関連のギャグがよくわからずに疎外感を覚えた。後半は字幕ががんばってくれてわかったが。
こういうところで「なぜ『r』?」とか「わからなくて悔しい」とか思っているうちはまだまだなのかね。
そういった細かいことを気にせずわかったところだけ笑えればそれでいいやって思えればそれでいいのかね。
僕はどうも難しい方へ難しい方へと考えるので、妙に悩んでしまう。


2009.7.23 (Thu.)

『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』。パイソンズがアーサー王伝説をからかったコメディ映画。

言ってみればこれは大長編ドラえもんのようなものである。ふだんのテレビシリーズが連載マンガだとすれば、
この映画はパイソンズの面々がアーサー王伝説に登場するキャラクターに扮した特別版。
ストーリーもイギリスで有名な物語をベースにして、好き放題にいじくりまわして遊んでいる。
くだらないことを大げさにやるのがモンティ・パイソンだが、この作品でもそれが存分に炸裂している。
最初っからさっそくやらかしてくれて、見ているこっちはとにかく疲れた。それに尽きる。
疲れるほど真剣に見る方がおかしいのかもしれないが、マトモに付き合おうとするとたまったもんじゃない。

かなりの低予算だというが、なるほど全編ロケで済ませており、イギリスの荒野と古城をフル活用している。
一方で衣装へのこだわりもわかる。だから確かに歴史面でのリアリティが感じられる。さすがテリー=ジョーンズ。
テレビシリーズよりも画質がいいのですごく見やすくなっているのもまたうれしい点だ。
もうちょっとアーサー王伝説についての予備知識が自分にあればなあ……と思ったのだが、
バカバカしさを楽しむのであれば、あまり関係ないような気もする。パイソンズが好きならまあ問題はない。

どこをとってもコメディとはいえ、クライマックスはきちんと盛り上がるようにつくられている。
……と思いきや、とってもひどい(本当にひどい)エンディングが待っており、やっぱり連中は違うわ、と思う。
観客と一緒に面白がることだけが目的で、ストーリーなんかにまったく興味を示さない。
全体を気にせずひたすら部分だけをいじくりまわす。そういう姿勢をここまで貫けるのはすごいとしか言えない。


2009.7.22 (Wed.)

本日のお昼は皆既日食フィーヴァーなのであった。ぼちぼちだぞ、という時間になり、ネットやテレビをチェックする。
やがてテレビの中継が始まるが、画面の向こうはあっという間に真っ暗になってしまい、異様な雰囲気が漂う。
皆既日食の間はなぜか風が強くなるらしく、日食がはっきりと観測できなくても、しっかりと体感はできるようだ。
なるほどこれはうらやましいなあと思いつつ、テレビの前にかじりついて過ごす。
やがてわずかなダイヤモンドリングの時間が終わり、世界はあっさりと昼に戻る。
神秘性は一気に消え去ったが、中継を見るに現地の興奮はしばらく冷めなかった。うらやましい。

そのうちに東京で日食が始まる時間になったので、職員みんなで屋上に出てみた。
理科の先生が専用のレンズを用意してくれて準備は万端だったのだが、東京の空は分厚い雲に覆われており、
まるっきり日食気分を味わうことはできなかった。レンズ以前に太陽のありかがわからないんだからしょうがない。

将来、金持ちになったらぜひとも皆既日食を体感しに出かけてみたいものである。

仕事が終わると小走りで駅へと向かう。新宿まで出ると京王線に乗り換える。
今日は飛田給の東京スタジアム(世間では味の素スタジアムと呼ばれるが、僕はネーミングライツを認めない)で
東京ヴェルディとヴァンフォーレ甲府の試合がある。甲府が東京に乗り込んでくるわけで、当然、応援に行くのだ。
京王線の複雑な乗り継ぎ(JR中央線の中央特快なんか非常に単純でよかったんだけどなあ)をこなし、
飛田給駅で降りる。周りは緑色のユニばかり……と思いきや、意外と青もいる。ま、近いもんな。
アウェイ側ゴール裏の当日券を買って中へと入る。デカい。外から見るよりも中から見る方が圧倒的だ。

 
L: 東京スタジアム(味スタ)へのペデストリアンデッキ。毎回こんないいスタジアムを使っているとは、東京Vは贅沢だ。
R: 中に入るとこんな感じ。規模の大きいスタジアムだけあり、ピッチまで距離があるのが残念。

水曜日の夜ということもあってか、スタジアムを埋め尽くすには程遠い観客数である(5909人)。
しかも、正直言って甲府サイドの方がわずかに多い感じがする。おいおいどうしちゃったのヴェルディ。
今年のJ2は異様に熱い。昇格できる3つの枠をめぐって上位4チームがダンゴになって争っている。
ヴェルディは現在5位。上位陣に割って入ろうと、4位の甲府をホームに迎えるのがこの試合である(勝ち点差は4)。
そんな事情があるにもかかわらず、それほどの熱が感じられない。もっと熱くなってもいいはずなのに。
とはいえ東京スタジアムは声援を反響させるように設計されているのか、ヴェルディサポの声を強く響かせる。
その反響具合は非常に特徴的なので、興味のある人はぜひ実際に体験してみてほしい。とても面白い。
(両チームの声援がやんだときにはボールを蹴る音が妙にはっきり聞こえる。音が「見える」感じのスタジアムだ。)

19時3分、キックオフ。甲府としてはとにかく大黒が怖い。最近2試合連続で2ゴールを決めており絶好調なのだ。
見ていると確かに動きの質が違う。DFにとってものすごく捉えづらい動きをしてくる。迫力があるのだ。
目の前でそれを何度も見せつけられてかなり不安になる。が、甲府DF陣はしっかり粘って対応。
攻守のテンポが非常に速い試合で、客観的にみれば充実したゲームなんだろうけど、スタンドでは緊張感満載。

後半に入ると56分、スルーパスからマラニョンが決めて甲府が先制。目の前でゴールが決まって大騒ぎである。
が、75分に今度は大黒が決める。きれいにサイドにパスが出て、そこからのクロスを鮮やかにヘッドで入れたのだ。
これで大黒は3戦連続。やっぱり決められちゃったかーと頭を抱える。が、すぐに気を取り直して試合に集中。
そして引き分けが頭の中をチラついて久しい終了間際の89分、大西が右からのクロスに頭で反応。
甲府サポにとっては目の前に大西の頭とともに勝ち越しゴールが転がってきたわけで、歓声が爆発。
結局これが決勝点になって甲府が勝利をおさめたのであった。よかったよかった。
(ちなみに終了後に東京Vのレアンドロが暴言を吐かれたと主張して暴れて騒然となった。
 甲府の選手が人種差別発言するわけねーだろと思う。同僚のブラジル人選手が3人もいるんだし。)

  
L: 先制点に沸くアウェイゴール裏。それにしても東京スタジアムの音の反響具合は非常に面白い。
C: はっきり言ってホームよりも勢いのいい甲府サイド。本当にたくさんのサポーターが来ている。
R: 勝ってバンザイな選手とわれわれ。実に劇的な勝利でみんな大満足である。

思えば平日夜、仕事帰りのサッカー観戦というのは初めてである。なかなかオツなものだ。
もし甲府が来年J1に昇格したらそういう機会も増えるのかな、と思ったが、J1は平日開催が少ないのね。
ま、気軽に楽しめる選択肢が増えるには違いない。ぜひとも昇格してほしいものだ。


2009.7.21 (Tue.)

裏日本から深夜バスで帰ってきたのだが、家に戻ると着替えてそのまま学校へ。
今日から夏の補習がスタートするのである。デキのかんばしくない連中を5日間、みっちりと鍛え上げるのだ。
われながらタフだなあと思うが、充実した旅行のおかげで妙にテンションが高いのでへっちゃら。

基礎からじっくりということで、もう一度アルファベットから教え込んでいく。
ペンマンシップを使い、26文字の大文字と小文字を発音とともに黒板に書き、ノートに書き取らせていく。
ホントに夏休みにやることか?という疑問が頭の中をチラつくのだが、現実としてやっておかないといかんのだ。
思えば僕が中学生のときには夏休みに学校で補習なんてなかった。休みは純粋に休みだった。
この学校だけの特別なサービスかどうかはわからないが、なんというか、所変われば品変わるってことだ。
今年はそういう「違い」に翻弄され続けているなあと思いつつ、生徒に「覚えろー!」と叫ぶのであった。

ちなみに午後には3年生のサッカー部連中の補習もやるのであった。
「教科はなんでもいいし、どんな質問してもいいぞ」と言ったら「ホントに大丈夫かよー」と言ってきたので、
思わず「おめえ、オレを誰だと思ってるんだ?」と本気で凄んでしまった。無礼者め。
数学の質問にすんなり答えたら呆れていたけど、マジメな話、オレを誰だと思ってやがるのか、まったく。

夜は来週の林間学校でやる花火大会用の花火を買いに行く。
キャリアは僕よりずっと上なのだが年下な先生(保護者に人気のマダムキラー)に買い方を教えてもらった。
で、帰りに一緒に焼きカレーを食べた。テレビで紹介されたのをその先生が見て、
どうしても行ってみたいということでふたりで突撃したのである。
焼きカレーというと、僕としては門司港で食べたものを思い出すのだが(→2007.11.4)、
それよりはずっと家庭的なつくり方をする店で、確かにうまかった。少なくともカレードリアではなかった。
でもこの店はなんでもかんでも焼いてしまう妙な店で、メニューには「焼き焼きそば」なんてものも。
これはいずれぜひ挑戦してみないとな!と思った。世の中には面白いものがいっぱいあるなあ。


2009.7.20 (Mon.)

……お見苦しいものをお見せしました。大変申し訳ありません。
でもまあ、こんな感じで裏日本横断弾丸ツアーの最終日はスタートしたのである。
起床は5時ちょい前、出発は5時20分ごろ。この狂気の沙汰も今日でおしまい。

 裏日本横断弾丸ツアー・3日目: 鳥取→豊岡→宮津→舞鶴

本日最初の目的地となるのは、餘部(あまるべ)鉄橋。ラビーさんの推薦によるチェックポイントである。
鉄道ファンなら常識の名所なのかもしれないが、恥ずかしながら僕はその存在をまったく知らなかった。
ネットで調べてみたら、正式名称は「余部橋りょう」。なんと1912(明治45)年に完成した鉄橋であり、
山間に突如現れるその姿はかなりのインパクトを与えているとのこと。しかし残念ながら老朽化が進んだため、
現在はコンクリートの新しい橋梁への架け替え工事の真っ最中なのだそうだ。遅かりしわれわれ。
でも次の目的地である城崎温泉へ向かうためにはどうしても餘部鉄橋を通過することになるわけで、
工事中だろうがなんだろうがばっちり見学しちゃおうじゃないか、ということなのである。

鳥取市の中心部を離れ、国道9号を東へ進む。が、鳥取市を出たところで大胆なカーブをぐるっとまわり、
福知山から京都へと向かう国道9号に別れを告げて、国道178号にスイッチする。
やがて兵庫県に入り浜坂駅の脇を通って、山陰本線の特急はまかぜと軽く競争しながら東へ進む。
冬場には道路がツルツルに凍りそうな桃観峠の桃観トンネルを抜けると余部の集落が見えてくる。
その集落の頭上には赤い鉄骨の橋が架かっている。餘部鉄橋である。
工事中ということで3基のクレーンと青いネットが目立っているが、鉄橋じたいは今も健在。
今日も時間との戦いなのだが、車を停めると急いで餘部駅まで行ってみることにする。
(どうでもいいが、ここまで来る途中でなぜか、島根ナンバーでヴァンフォーレ甲府のステッカーを貼っている車と並走した。
何がどうなってそんなことになったのか、さっぱり想像がつかない。そう言う僕も長野出身在京甲府サポという変種だが。)

  
L: 餘部鉄橋(余部橋りょう)を遠景で撮影。これだけ高いところを列車が走るというのはすごい。
C: 余部集落の木造住宅と橋脚はこんな感じで共存している。不思議な光景である。
R: 餘部駅へ向かう途中の坂から撮影した餘部鉄橋。集落のど真ん中に陸橋。

餘部駅は餘部鉄橋のすぐ西側にある。これが何を意味しているか、賢い人ならすぐにわかると思う。
そう。餘部駅へ行くには、餘部鉄橋の高さと同じだけ上らないといけないのだ。さっきまで見上げていたあの高さまで、
曲がりくねった坂道を汗びっしょりでヒイヒイ言いながら3人とも歩いていくのであった。
僕は体力自慢なうえに足が長いので(リョーシさんが毎回妬むのであるヒッヒッヒ)大股でグイグイ上っていくが、
三脚を抱えたラビーさんや純日本人的な体型を誇るリョーシさん(なんつーかすいませんね)は朝から大変なのであった。
それにしても冗談抜きで、餘部駅までたどり着くのはとんでもなくハードである。
僕らなんかはまだいいが、お年寄りは列車が来る十何分前かに坂を上りはじめないといけないだろう。
おまけにホームにたどり着く直前には踏切があり、運が悪ければ乗りたい列車の目の前で遮断されてしまいそうなのだ。
こういう常識はずれな場所もあるわけで、日本の駅はヴァラエティに富んでいるなあと心から思う。


かなり強引だがパノラマをつくってみた。雰囲気はわかってもらえるのではないか。

さて、まだ時刻は朝の6時半だというのに、3人そろって汗まみれで餘部駅に到着(とにかく湿度が高かった)。
鉄橋の架け替え工事が始まる前には展望台があったそうだが、残念ながら今はもうない。
それでもホーム直前の踏切から眺める日本海はなかなかのものだ。典型的なリアス式海岸の湾であり、
すぐ手前には余部の集落の屋根が密集している。山国育ちの僕には想像できなかった光景をしばらく楽しむ。
そうしているうちに、いきなり踏切の警報が鳴り出して驚いた。山陰本線の鈍行列車がやってくる時刻なのだ。
ラビーさんが三脚の準備を始める。まるで鉄っちゃんのようだ。まあそう言いつつ僕もデジカメを構えていたけどね!
やがて真っ赤なボディの列車が山の中から現れる。列車はゆっくりと速度を落として踏切より少し奥まった位置で停車した。
そしてひとりの乗客も乗せることなく降ろすことなく再び動き出し、悠然と鉄橋を渡ってトンネルへと消えていったのだった。

  
L: 餘部駅へと続く坂道。こりゃもう半分くらい登山って感覚である。  C: 餘部駅にたどり着いて眺める日本海。
R: 餘部駅のホームを踏切のところから撮影。しかしまあ日本全国にはいろんな駅があるなあ。

 去り行く鈍行列車とともに餘部鉄橋を撮影。僕らには非日常的な日常の光景。

ボサッとしている時間もないので、鈍行列車を見送ると、さっさと餘部駅から集落まで戻る。
今度は特急が鉄橋を渡るようで、それを狙ってか鉄っちゃんらしき観光客の姿がチラホラと現れる。
架け替えが決まっていても、まだまだ餘部鉄橋人気はあるんだなあと実感したのであった。

餘部駅をあとにすると香住駅の辺りで国道から県道にスイッチし、ひたすら東へと進んでいく。
兵庫県道11号線は、いかにも裏日本といった道だ。日本海側のリアス式海岸を、ほとんど等高線どおりに進んでいく。
カーブ、トンネル、緑、そして日本海。おなじみの光景が延々と続くが、ラビーさんは根気よく運転してくれて非常に快調。
やがて竹野駅の辺りに来ると海岸沿いから内陸部を抜けるルートに切り替える。
鋳物師戻トンネル(鋳物師戻峠)という非常に面白い名前の場所を越えると、気がつけば城崎温泉に入っていた。

僕らの行く県道9号線は城崎温泉の中心部を見事に貫いている。ラビーさんは駐車場を探して徐行運転。
それにしてもすごいのは、今の時刻はまだ7時半だというのに、温泉街が浴衣を着た人たちであふれていることだ。
事前のリサーチで城崎温泉の入浴施設が7時営業開始というのは知っていたが、ここまで皆さん朝が早いとは。
また、浴衣姿の人たちの方がふつうの服装をしている人よりも圧倒的に多い事実が、温泉街の雰囲気を強めている。
さっきの餘部鉄橋とはまた違った形の別世界に思える。さすがは城崎温泉の貫禄といったところか。

車を停めるとさっそく「一の湯」を目指す。途中で温泉を飲める場所を見つけたのでチャレンジしてみると、しょっぱかった。
志賀直哉ばりにケガ治していくぜー!とワケのわからん気合を入れて「一の湯」の中に入る。
僕は温泉地で売っているタオルを買うのが好きだ。城崎温泉外湯めぐりと薄く染め抜かれたタオルを購入して悦に入る。
(実は昨日早朝のドタバタで、お気に入りだった道後温泉のタオルを松江のホテルに忘れてしまい、かなりヘコんでいた。)
まだ朝早いというのにけっこうな混みようで、時間の感覚を忘れそうになる。でものんびりしているわけにもいかない。
わりとあっさりめで済ませよう、と3人で確認してから湯船に浸かる。温度はそんなに高くなく、いつまでも入っていられそうだ。
奥には自然の岩盤を削ってつくったという「洞窟風呂」があった。とはいえ、特にどうということはなかったですな。

  
L: 城崎温泉・一の湯。城崎温泉はあちこちの外湯をめぐるという楽しみ方が一般的だが、その中心的存在と言えそうな場所。
C: 一の湯前に架かる玉橋。大谿川沿いに柳が小ぢんまりと並ぶ光景はいかにも歴史ある温泉街という雰囲気満点だ。
R: 湯の里通りを行く。観光客がいっぱいいることもあり、店が目を覚ますのも早い。実に爽やかな朝である。

温泉から上がるとちょっとのんびり温泉街を散策。城崎温泉の街並みをしっかりと体感すべく歩いていく。
途中の土産物屋でソフトクリームを売っていたので、男3人そろってペロペロする。旅行に来ると食べたくなるんだもん。
それにしても、城崎温泉の朝の早さは本当に清々しくっていい。ただ温泉でリラックスするだけではない何か、
心をリフレッシュする効果があるように思う。3人とも、なんだかとってもいい気分になって駐車場へと戻った。

城崎温泉駅を抜けると、円山川の左岸を南下していく。対岸の玄武洞を眺めつつさらに南下。
やがて少し大きな交差点に出たので右折して豊岡市の中心部へ。次のターゲットは豊岡市役所だ。
豊岡市は平成の大合併でかなり巨大化した。今や城崎温泉も出石(いずし、この後に訪れる)も豊岡市なのだ。
世間一般では豊岡市といえばコウノトリで有名である。が、僕にとっては市役所も十分注目できる存在だ。

いったん停車してもらい、僕は市役所を撮影するべく車を降りる。そしたら今回はリョーシさんも一緒に降りてきた。
やっぱり豊岡市役所のインパクトは非常に大きかったようだ。ふたりであれこれ言いながらデジカメのシャッターを切る。

  
L: 豊岡市役所本庁舎。実に1927年竣工である。できあがった当初は現在のような屋根ではなかったようだ(⇒こちらを参照)。
C: さすがに新庁舎を建てる計画が進んでいるが、現本庁舎は保存・活用されるとのこと。まあこりゃ壊せないよね。
R: 裏側から見た豊岡市役所。車がいっぱい。来庁者はともかく、市役所職員はなかなか大変そうだ。合併して広くなったし。

豊岡市役所は、その周辺にもかなり面白い建物が集中している。ひとつひとつデジカメで撮影してまわる。
まずは、本庁舎にくっついている「コウノトリ共生部」。さすがに豊岡はコウノトリで有名なだけある。
公務員(下関市職員)であるラビーさんは「『課』じゃなくて『部』なんですか!」と目を丸くして驚いていた。
そして、かつて銀行の支店だった南庁舎別館。渡辺節設計で1935年竣工だそうだ。アーケードが実にジャマ。
東側にまわると、かつて中央会館だった東庁舎別館。行政のほか、現在も公民館としての機能を持っているようだ。

  
L: 本庁舎の北側にある棟。「コウノトリ共生部」の看板が光る。豊岡市では、コウノトリ共生部の下に農林水産課があるのだ!
C: 豊岡市役所南庁舎別館(旧山陰合同銀行)。商店街のアーケードが建物を眺めるのにジャマである。なんとかしてほしい。
R: 豊岡市役所東庁舎別館(旧中央会館)。市民向けの会館を庁舎に転用した例なんてめったにないはず。珍しい。

そして僕にとって最も凄かったのが、市役所敷地の北東はずれにある豊岡消防会館である。
ネットで調べたら1937年竣工というデータがあったのだが、なるほどそのせいか帝冠様式の匂いが漂っている。
さして有名な建築ではないのだが、それだけに壊されることなく今も自然に残っているのがとんでもないことに思える。

 
L: 豊岡消防会館。質素な木造とこだわりのバランスからこうなったのか?  R: 角度を変えて撮影。いやー、すごい。

そんな具合に(僕だけ)ウハウハ興奮しながら市役所周辺を一周すると、車に戻って次の目的地へと発進。
お次は出石(いずし)である。かつては出石郡出石町だったが、2005年に城崎町などとともに豊岡市と合併した。
旧出石藩の城下町で、その街並みは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
歴史的な経緯としては、かつて山名氏が居城としていた有子山(ありこやま)城が江戸時代になって不便になったので、
その麓に出石城と城下町がつくられたのだ。月山富田城から松江城に移った事情(→2009.7.18)に似ている。
観光客がぼちぼちやってくる時間なので駐車場はわりと空いていた(これだけ動いてもまだ10時前)。
まずは出石城址に上ってみて、それから街を散策してみることにした。もちろん出石そばもいただくつもりである。

  
L: 出石城址の前にあるモノ。正体は旧出石町役場の車止め部分。ここだけ保存するってのも非常に間の抜けた話である。
C: 山の麓の出石城址。この山のてっぺんが有子山城址である。頂上まで行こうとすると、なかなか大変な登山になる模様。
R: 出石城の石垣と、それに見入るリョーシさん。石垣だけでもその迫力は圧倒的である。


稲荷丸より眺めた出石の街並み。山の合間に瓦屋根がびっしりと集まっている。日本の原風景ですな。

  
L: 出石城本丸跡。出石城は山肌を階段状に整備しており、構造としてはかなりシンプルである。
C: 本丸の上に稲荷丸があり、有子山稲荷神社となっている。江戸時代から身分を問わず自由に参拝できたとか。すごい!
R: 出石の街のシンボルである辰鼓櫓。櫓は1871(明治4)年に完成し、時計台となったのは1881年から。日本で最古レベル。

出石の街を歩きまわってみる。10時を過ぎて、街も活気が出てきた。関西弁をしゃべる観光客の姿も目立ってきた。
同じように古い街並みが保存されている場所ということで、昨日訪れた倉吉(→2009.7.19)と似た印象がしなくもない。
でもこちらの方がはっきりと、城下町としての古さを感じる。倉吉は商業の拠点ということで、微妙な差が確かにある。
出石の方がなんとなくチャンバラチックというかチョンマゲチックというか、時代劇風な匂いがするのだ。
とはいえやはり、倉吉と同じようにはっきりと昭和の痕跡が見受けられる箇所もある。それもまた観光客のニーズなのだろう。

  
L: 出石の街並み。観光地として関西では安定した人気があるようで、どの店も元気な印象がする。
C: 中心部から少し離れた奥まった場所も、いまだに城下町としての雰囲気をしっかり残している。
R: 「田結庄(たいのしょう)通」と看板が出ている。出石も倉吉同様、昭和の匂いを漂わせている箇所がある。

  
L: 劇場・永楽館。この地に劇場がつくられたのは1901(明治34)年のことで、創建時への復元工事が昨年完了したそうだ。
C: 出石家老屋敷。出石の市街地の中心部にある。平屋建てに見えるが2階建てで、高さを抑えて中で刀を使いづらくしたらしい。
R: 出石酒造の酒蔵。江戸時代中期(1700年代)築だが、今もバリバリの現役。思わず壁をペタペタ触ってしまった。

  
L: 明治館。旧出石郡役所として1892(明治25)年に竣工している。現在は小規模な博物館として使われている。
C: 出石史料館。生糸商・福富家の本邸(明治初頭築)を史料館として公開しているのだ。
R: 出石そば。1人前5皿で出石焼の皿に盛られる。出石にはやたらと蕎麦屋がある。この辺は日本一の蕎麦屋密度だろう。

それにしても出石は蕎麦屋がとてつもなく多い。どこへ行っても蕎麦屋だらけなのである。
あれこれ迷うにはわれわれ、あまりに腹が減りすぎていたので、テキトーに1軒選んで入ったのであった。
さて、なぜ関西圏の出石でここまで蕎麦が名物となっているのかというと、1706(宝永3)年に仙石政明が国替えとなり、
信州上田から蕎麦職人を連れて出石にやってきたことがきっかけだそうだ。詳しい説明が本丸跡の案内板にあった。
(ちなみに出石町は仙石氏つながりで上田市と友好都市となっており、この関係は合併後も豊岡市に引き継がれた。)
出石そばは小皿に盛って出されるが、もうひとつの特徴は薬味としてとろろや生卵(うずらではない)などが出される点だ。
シンプルな蕎麦を手繰ることに慣れている僕には、なかなか馴染みのない慣習である。が、素直にやってみる。
いざそうして食べてみると、田舎くさいと言えば田舎くさいが、なるほどこういう楽しみ方もあるものなんだ、と思った。
出石そばがわざわざ小皿に盛られるのは、このようにさまざまな味を楽しむための工夫なのかもしれない。

出石を出ると、兵庫県から京都府へと移動する。といっても、日本海側なので兵庫に京都という感じがほとんどしない。
そういえば豊岡周辺の車のナンバーは、姫路ナンバーだった。これは冷静に考えるとけっこう無茶な話である。
だって姫路は瀬戸内側の、しかも西側の街だからだ。それが日本海側で東側の街のナンバーになっているというのは、
いろいろと不便がありそうに思える。まあ、僕の地元の長野県でも、松本以南が松本ナンバーという無茶をやっているが。

国道482号から兵庫県道2号線を行く。緑の多いのんびりとした風景だが、そのわりには交通量が意外とある。
というより、この辺りは山がちな地形なので移動しやすい道路が限られていて、そこに車が集中しているだけだろう。
京都府に入ってしばらく行くとまた国道に合流する。そしてまずまずな交通量のまま日本海の湾に出た。
手元の地図を確認し、天橋立のエリアに入ったことをラビーさんに知らせる。さすがは日本三景、観光客でいっぱいだ。
天橋立周辺は山に囲まれた湾となっており、平らな土地がほとんどない。ゆえに駐車場が狭く、ものすごく混み合う。
どこも満車満車で入れない。そのままボサッとしていると駐車するタイミングを逃して宮津市街方面まで通り抜けてしまう。
いやーこれはまいった、なんて言いつつUターンして再挑戦。3人でどこか入れる駐車場はないかと必死で探す。
そしたらモノレール乗り場付近で運良く空きが見つかった。おまけにほかのところよりもずっと安い値段で入れた。
これはツイてるぜー!とホクホクしながら車を降りると、さっそくモノレールに乗ってみることにした。

モノレールで上っていった先にあるのは、天橋立ビューランドである。展望台のほか、遊園地も併設されている。
ここからの眺めは「飛龍観」と呼ばれており、股のぞきで逆さまになるように眺めると天に橋が架かっているように見える。
天橋立という名前はそこからついており、ぜひとも訪れておかなければいけない場所だろう。
モノレールを降りるとすぐに展望台である。まずはパノラマで目の前の眺めを撮影してみる。

それが終わると股のぞきをやってみる。ベンチぐらいの高さで股のぞき専用の台が用意されていて、
みんなそこで不格好な前屈運動をするわけである。冷静に考えるとけっこうマヌケなのだが、気にしない。

 はい、股のぞき。

ちなみに僕の伯父も天橋立を訪れた際、上の僕の写真とまったく同じ構図の写真を撮っている。血だね……。

飛龍観を存分に堪能すると、天橋立ビューランドをあちこち歩きまわってみる。
ここに設置されているものは、サイクルカーや観覧車など高いところからの眺めを楽しめるものが目立っている。
特筆すべきはジェットコースター「マッドマウス」。規模は大きくないのだが、とにかく設置場所が崖の上と絶妙なのだ。
僕は高所恐怖症なので、もう見ているだけで怖い。そのまま天橋立まで飛んで行っちゃいそうな設計になっている。
もしここでマサルが一緒だったらあれこれ理由をつけて絶対に乗せられること間違いなし!なのだが、
リョーシさんもラビーさんも優しいので乗ることは強要されませんでした。ネタ的には乗る方がオイシイんだろうけど、
さすがにこれはカンベン願いたい。それくらい位置が絶妙。僕は絶叫する観光客を脂汗を垂らして眺めていたとさ。

  
L: 天橋立ビューランドのサイクルカーと観覧車。野郎3人なので乗らなかったが、これはいいものつくったな、という感じ。
C: マッドマウス。山のてっぺんに設置されており、開放感のある目の前の絶景へと突っ込んでいくようにつくられている。
R: 展望台から天橋立の反対側を眺めたところ。小規模ながら、いろいろ遊べる場所になっているのだ。

そんな具合にしばらく過ごすと、今度はリフトで降りる(行きも帰りもモノレールかリフトか選べる。念のため)。
この手のリフトは松山でも体験しているのだが(→2007.10.6)、天橋立を眺める角度の変化をゆっくり楽しめてよかった。

 天橋立ビューランドはいろんな工夫をして天橋立を魅力的に見せてくれる。

地上に戻ると智恩寺に寄ってから、天橋立の中を実際に歩いてみることにした(というか僕がそう強く主張)。
まずは智恩寺。文殊菩薩の信仰で古くから知られる寺である。三人寄れば何とやら、みんなでお参り。
ちったぁ賢くなりたいなあと思いつつ手を合わせるのであった。僕の願いはなんか毎回そんなんばっかりだ。
1501(明応10)年に建てられたという多宝塔は、なるほど確かに見事なのであった。

  
L: 智恩寺の山門。周りは土産物店や食堂が並ぶが、天橋立というよりは智恩寺の門前町だからという印象が強い。
C: 智恩寺の多宝塔。重要文化財となっている。多宝塔はほかの仏塔を比べるとアジアな感じがしますな。
R: 天橋立海水浴場。天橋立の南端はこのように人気の海水浴場となっているのだ。天候のわりには賑わっていた。

お参りを終えると、3人で天橋立の中を歩いてみる。天橋立の中は一本道の遊歩道となっているのだ。
3.6kmの道のりは賢い人なら予想がつくように、ひたすら松の並木であって変化に乏しい。つまり飽きる。
リョーシさんもラビーさんも半ばというよりほとんどうんざりしながら歩を進めるのであった。
しかし言いだしっぺの手前もあり、僕はひとり意地であちこちデジカメで撮影しつつ楽しそうなふりをして歩いたよ。
それでも途中で信じられないほどきれいな浜辺に出るなど、興味深い箇所もなくはなかった。

  
L: 天橋立の内部はこんな感じの松並木である。これが延々3.6km続く。歩くと約1時間この風景である。
C: 飽きたので、途中で東側の浜辺に出てみた。ちなみに西側は護岸工事でがっちり固められている。
R: 曇り空なのにずいぶんと美しく映える浜辺。全体的に地味な日本海側だが、きれいな海はしっかりきれいなのだ。

北端の傘松公園側に到着すると、ケーブルカーで山に登る気力も歩いて引き返す気力もなくなっていたので、
おとなしく遊覧船に乗って戻ることにした。モーターボートの客引きの兄ちゃんたちがやたらと多くてちょっと辟易。
でも裏磐梯での経験(→2009.6.11)を考えると、選択肢としてはそんなに悪いもんでもないとも思う。
遊覧船の船尾から、水に浮かぶ松の並木をぼんやり眺めて過ごした。天橋立の奇観ぶりにあらためて感心する。
でも隣でリョーシさんとラビーさんがかっぱえびせんをカモメ相手に投げ出したので、僕は猛烈に不機嫌になるのだった。
(前に松島を訪れたときに書いたように、僕は絶景そっちのけで海鳥に餌を投げる行為を嫌悪している。→2008.9.11

駐車場から車を出すと、いよいよ最後の目的地である舞鶴に向かって走りだす。
でもその前に、宮津市役所に寄ってもらう。訪れてみると、宮津市役所は意外と面白い形をしていた。
車はピロティを通過して奥の駐車場に入るようになっており、モダンスタイルの匂いがかなり強かった。

  
L: 宮津市役所。上から見ると建物は逆L字になっていて、右手奥に棟が伸びているのだ。
C: ピロティ部分にエントランスがある。  R: 駐車場側から見たピロティ。面白い形である。

宮津市役所を出るとあとは舞鶴を目指すだけ。由良の海水浴場近くのコンビニで一息つくと、
由良川の左岸・国道178号をひたすら走っていく。さすがリアス式海岸、対岸の山がまるで壁のように高くそびえている。
その山を越えたところにあるのが舞鶴市街(西舞鶴)。つまり僕らは山が越えられる高さになるまで迂回しているのだ。

西舞鶴の中心部にたどり着くと、田辺城址の隣にある市営駐車場に車を停めた。
リョーシさんとラビーさんの好意ですぐ近所の舞鶴市役所西支所をさらっと撮影しつつ付近を散歩。
そして田辺城址の中へと入る。中は舞鶴公園として整備されており、復元された門や櫓がないと城跡という感じがしない。

  
L: 舞鶴市役所西支所。  C: 西支所の向かいにあった建物。閉鎖中だが、正体が何なのか非常に気になる。
R: 田辺城址の向かいにある市立明倫小学校には、旧田辺藩(旧舞鶴藩)学問所・明倫館の門が移築されている。

復元された田辺城址の城門は田辺城資料館、二層櫓は彰古館として、それぞれちょっとした博物館となっている。
櫓から公園を眺めたり、田辺城資料館に入って細川藤孝(幽斎)について勉強したりして過ごす。
歴史上、田辺城のハイライトは関が原の合戦直前である。徳川方についた細川忠興の父・藤孝は丹後におり、
西軍に真っ先に狙われることとなってしまった。藤孝は田辺城に籠城するが、西軍1万5千に対して手勢が500人と、
戦況は圧倒的に不利だった。50日にわたる長期戦が展開された末、後陽成天皇のとりなしで停戦が成立する。
というのも、藤孝は古今伝授(古今和歌集の歌風を伝承すること)の第一人者で、戦死することが惜しまれたからだ。
その後、田辺城は壊されたり再建されたりといった紆余曲折を経て舞鶴公園となり、今に至っている。

  
L: 田辺城城門。中身は田辺城資料館である。小規模ながら細川藤孝の籠城戦(田辺城の戦い)を紹介する展示が満載。
C: 二層櫓の彰古館より眺める舞鶴公園の様子。  R: これは櫓の跡か。公園の隅にある日本庭園・心種園は荒れ気味だった。

これでいちおう西舞鶴の観光は終了である。わざわざここにやってくる観光客は珍しいようで、
駐車場のおじいちゃんは車が下関ナンバーなのを見て、「遠くからよくまあ」と半ば呆れつつ感心していたのであった。
西舞鶴の中心部を出ると東舞鶴の中心部を目指して移動する。どちらも同じ舞鶴市なのだが距離がある。

ここで舞鶴市の特殊な事情について書いておこう。舞鶴市は五老岳によって西と東に完全に分断されているのだ。
城があることからもわかるように、もともとの市街地(舞鶴市)は舞鶴の西側のエリアである(駅で言えば西舞鶴側)。
やがて1901(明治34)年になり、五老岳を挟んだ舞鶴の東側に日本海軍の舞鶴鎮守府が設置される。
そうして軍事的に計画された都市である東舞鶴市が生まれ、1943年には軍の要請を受けて東西の舞鶴が合併する。
しかし何度となく東西分離運動が展開された。まったく異なる成り立ちの街を強引にくっつけているのだから無理もない。
住民運動で分離が賛成多数となるが京都府議会が否決したこともあったとか。結局、両者は今もくっついたままである。

東舞鶴に出る途中で、ふたつの舞鶴を分断している五老岳に寄ってみる。
天気が良くって時間的な余裕があれば舞鶴湾を一望する五老スカイタワーに上ってもよかったのだが、
湾全体をうっすらと霧が包んでいる状態だったので展望台から眺めるだけに留めておいた。
もっとも、それでも十分舞鶴らしい地形の妙を味わうことができ、3人で「意外と面白かったね」なんて言うのであった。

五老岳から下りると東舞鶴エリアに入る。東舞鶴の観光資源はなんといっても赤レンガ倉庫群なのだが、
舞鶴市役所はその中に堂々と鎮座している。1963年竣工らしいが、そのわりにはやけに大きく、きれいにしてある。
周辺の道路はけっこう広いが、それを行き来して必死で撮影するのであった。ファインダーを通すと大きさが実感できる。

  
L: 舞鶴市役所。言われてみれば確かにシンプルな保守型オフィス建築なのだが、サイズがほかと大きく違う。
C: 裏側から見るとこんな感じである。
  R: 角度を変えて撮影。ポーズをつけるラビーさん、かっこいいぜ!

時刻は夕方17時を過ぎたところで、残念ながら赤レンガ倉庫群の施設の中に入ることはできなかった。
それでもその周辺をぐるぐると歩きまわって、港湾都市・舞鶴の雰囲気を3人で味わうのであった。

  
L: 赤れんが博物館。1903(明治36)年竣工の旧日本海軍兵器廠魚形水雷庫を改装。中はレンガについての展示が満載。
C: この日は海の日ということで、海上自衛隊の艦船が飾りつけされているのであった。軍艦マーチが聞こえてきそうだ。
R: 赤レンガ倉庫群にはぜんぶで12棟の建物が残されている。中に入れるものとそうでないものと両方ある。

 左側が舞鶴市政記念館。右側はまいづる智恵蔵(ちえぐら)。

これで今回の旅で訪れたかった観光名所はすべてクリアした。しっちゃかめっちゃかなハイペースで動いていたので、
やったぁ!というような充実感はあまりなかった。むしろ、終わっちゃったな…という虚脱感が大きかった。
あとは晩メシを食って解散するだけということで、とってもセンチな気分になりつつ市街地へと向かった。
(もっとも、リョーシさんとラビーさんにはこれから岡山と下関まで帰るという最大の難関が待っているのだが……。)
やっぱり港町にいるわけだから、海鮮のうまいものを食べよう!ということでパンフレットを参考に店を探して入った。
座敷で今回の旅を振り返りつつ、盛りだくさんな定食をいただいた。ちなみに僕とラビーさんは3日連続で岩ガキを食った。

 岩ガキ丼。本日の岩ガキは生ではなく煮てある。

それにしても、わかっちゃいたけど、やっぱり今回の旅はムチャクチャだった。起きてから寝るまで、すべてが全力だった。
温泉に浸かっているときぐらいしかのんびりすることのない3日間だったわけで、自分にしてみれば当たり前なのだが、
そういう行動パターンにリョーシさんとラビーさんを付き合わせてしまったことが非常に申し訳なく思える。
(ふたりは「覚悟の上で参加した」と言ってくれたけど、でもやはり無茶をさせたなあと反省しています。)
僕は助手席でのん気に指示を出しているだけだったが、ふたりは時間と戦いながら車の運転をしてくれたわけだし。
でも、ふたりが協力してくれたおかげで、倉吉や出石などの魅力的な街を訪れることができたのだ。
僕らはもう学生ではない。だからこの先、もうこのような旅行がいつできなくなってしまってもおかしくない。
だけど、ふたりは無理をして、僕のわがまま勝手に付き合ってくれた。そのことが、本当に本当にうれしかった。
心の底から感謝の言葉を告げて、東舞鶴駅前でリョーシさん・ラビーさんと別れた。また近いうちに会いましょう。

 本当にありがとうございました!

ふたりが岡山に向かって出発したのを見送ると、南口に出てデパートの中に入る。
マックでマックフルーリーを食べながら、ブリブリと日記を書いてバスが出るまでの時間を過ごした。
21時が近くなってデパートを出ると、北口に戻ってバス停で本を読む。そのうちにバスがやってきたので乗り込む。
案の定、舞鶴市域から出るよりも前に、眠りについた。寝るにはつらい深夜バスだったけど、本当に幸せな気分だった。


2009.7.19 (Sun.)

昨晩はしこたま飲んだ。自他ともに酒が弱いことを認めている僕だが、なぜか日本酒だけはそれなりに入るのだ。
アルコール分のパーセンテージで考えた場合、おそらくいちばん飲める酒は日本酒、という特異体質なのである。
(リョーシさんは飲めないはずの僕が日本酒を勢いよく飲み、それでいて意識がずっとハッキリしていることに呆れていた。)
おそらく質のいい酒は下戸にも優しいということで(沼津でいい酒を飲みまくった過去ログ →2008.3.212008.7.12)、
つまりはそれだけ日本酒には質のいいものが多い、という確率の問題だと思っている。
とはいえさすがに昨晩は調子に乗りすぎたようで少し頭が痛い。人生初となる(!)二日酔いである。
昨日、宿の部屋に入って即ベッドに倒れ込み、気がつけばそのまま朝になっていたという体たらくだったので、仕方あるまい。
(おかげで宿の人がベッドメークする必要がまったくないほど、ベッドはきれいな状態のままなのであった。)

 裏日本横断弾丸ツアー・2日目: 松江→境港→米子→倉吉→鳥取

宿を出たのが5時半ちょい前。相変わらず異常な旅行である。いつもなら僕個人の問題なのでいいのだが、
今回はリョーシさんとラビーさんをつき合わせているというか車を運転してもらっているわけで、なんだか非常に申し訳ない。
しかしそんなことを言っている間にも時間は過ぎていく。今日も予定はピチピチなのだ。のんびりしているわけにはいかない。

僕のワガママを聞いてくれて、本日まず最初は美保関灯台を見ることになった。
昨日の日御碕の反対サイド、島根半島の東端である。岬の名前としては地蔵崎という。
せっかくなので、中海に浮かぶ大根島経由で行くことにする。ガイド片手に気合を入れて方向を指示。
やがて車は中海締切堤防の上につくられた島根県道338号線を走る。大根島に着くと北半分を半周するコースを行く。
途中で絵に描いたように見事な難破船を発見し、全員で「これはすごい!」と大爆笑。まるで映画のようだった。
車で走っていたのでしっかりと写真を撮ることはできなかったが、あれだけすごい難破船にはそうそうお目にかかれまい。
で、ナビ(つまり僕)は今日も頼りにならず、道を間違えて江島から北へのルートに入ってしまう。
おかげで直接境港に入れず、僕の47都道府県の踏破完了は1時間ほど遅れることになるのであった。

島根半島の海岸線は非常に複雑に入り組んでいる。逆を言えば、それだけ天然の漁港としての価値が高いということ。
島根県道2号線を車はスイスイ走っていくが、ところどころで漁港を見かけた。釣りに来ている人もすでに多い。
そんな島根半島の漁港でいちばん東にあるのが美保関港。ここは大学院時代にものすごくお世話になった先輩が、
調査の対象としていた場所ということで、なんだか懐かしい気分になる(先輩は漁村についての研究をしていたのだ)。
だが地蔵崎・美保関灯台は、その美保関港をさらにしばらく東へ進んでいった先になる。
道の終点はなかなか広い駐車場になっており、すぐ近くにトイレと展望台があった。
上ってみると、雲が覆った空の下で一面、海の青が広がっており、足元は断崖に茂る緑が埋め尽くしている。
まさに地の果てといった印象である。目を凝らすと隠岐の島前・島後がうっすらと見えなくもない。

  
L: 中海締切堤防の上を走る。まっすぐ行った先が大根島だ。中海・大根島周辺は妙に土木工事が盛んだった。
C: 美保関港。見事に漁港である。釣り客がけっこうたくさんいて、朝早くからわりと賑わっていた。
R: 地蔵崎の展望スペースから駐車場のすぐ近くにある展望台を振り返ったところ。見事に緑の中に埋まっているんでやんの。

地蔵崎の先端にある展望スペースを目指して歩いていく。歩いてみるとすぐで、スカッと視界が開ける。
が、白い雲と青い海と地面の緑という色彩はまったく変わらない。周囲にひと気はなく、やはり地の果てという感触が強い。

遊歩道を一周する途中にあるのが美保関灯台だ。昨日の日御碕灯台とともに、「世界灯台100選」に選ばれている。
(日本からはほかに犬吠埼灯台(→2008.9.1)・神子元島灯台(下田市)・姫埼灯台(佐渡市)と5つ選出されている。)
高さはないもののどっしりと構えた姿が美しい。1898年に建設され、灯台としては日本初の登録有形文化財になった。
ラビーさんも一眼レフのカメラを構えて撮影を始める。そんな具合に3人でしばらく眺めて過ごすのであった。

 美保関灯台。

来た道を戻ると境水道大橋を渡って鳥取県境港市に入る。境水道沿いの道をしばらく行ったところでようやく、
「ああオレこれで47都道府県をぜんぶ制覇したわ」と気づく。リョーシさんとラビーさんに祝福してもらった。
そんなこんなで境港駅に到着。まだ時刻は7時を過ぎたばかりで、街はまだほとんど目を覚ましていない。
しかし観光客はチラホラといるのである。家族連れが何組か、妖怪のブロンズ像を見てまわっている。
これはまったく予想外の光景だった。水木しげるロード、そんなに人気があるとは。

境港は水木しげるの生誕地ということで、妖怪を前面に押し出して観光のPRをしている。
特に境港駅から水木しげる記念館までの約800mの道は「水木しげるロード」として整備されており、
かなり有名な観光スポットとなっている。水木しげるロードの両脇には130体以上の妖怪のブロンズ像が設置され、
並んでいる店も『ゲゲゲの鬼太郎』をはじめとする水木作品の世界観をふまえた装飾がなされている。
とにかく、徹底しているのだ。街全体が、水木作品がそのまま現実に出てきたような印象を与えるべく、
細かいところまで足並みをそろえて努力している。思わず「ここまでやるかぁー」と声が漏れた。

  
L: 境港駅。JR境線は全駅で『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する妖怪の名前を愛称としてつけている。
C: 郵便ポストの上にも、一反もめんに乗った鬼太郎が。  R: 目玉おやじ街灯。境港、やりたい放題だ。

  
L: タクシーの屋根の上に乗ってる社名表示灯にも目玉おやじが!  C,R: 街には『ゲゲゲの鬼太郎』をふまえた店が並ぶ。

  
L: 水木先生の記念碑。「なまけ者になりなさい」ということで、僕もがんばってなまけたいと思います。
C: トイレの標識のデザインがキレまくっている。障害者用に目玉おやじ、ベビールームに子泣き爺を採用するとは!
R: 水木しげるロード。早朝ということでなんとなく寂しいが、昼間になればかなり賑わいそうな予感がプンプン。

この一帯の街の意識が完全にひとつの方向に統一されている。3人で大したもんだなあと呆れるのであった。
水木しげるで街おこしをすると決めるまで、境港がどれだけ観光面でピンチだったのかはわからない。
しかし、ここまで徹底することで確実に知名度を上げ、観光客を引き寄せることができるんだ、と肌で感じることができた。
カメラであちこち撮影しながら水木しげるロードを歩いていったのだが、「すげーなー」という言葉ばかりが出てきた。

  
L: 妖怪神社。ご利益のほどはいかがなものか。  C: 猫娘。「あたしは萌え系じゃないわよ!」と全力で主張しているかのよう。
R: ねずみ男。差し出している右手と握手ができる。みんなが触るせいなのか、妙に前歯が輝いていた。

  
L: 鬼太郎。下駄は「鬼太郎の下駄」として、別に像がある。……ってことは下駄も妖怪なのか? リモコン下駄じゃなかったの?
C: 目玉おやじ。なぜか直立不動。  R: 『悪魔くん』もいる。『鬼太郎』以外の水木作品もきちんと押さえてあるのだ。

  
L: なぜか知名度のある小豆洗い。「ナイナイの岡村さんがたまに扮装するからでは」とはリョーシさんの分析。
C: 妙にかわいい海坊主。まあ本物はバカでかいんだろうけど。  R: サラリーマン山田までブロンズ像になっているとは!

水木しげるロードにあるブロンズ像の量は半端ではない。10歩といかないうちに次の妖怪が現れるのだ。
すべてを一気につくったわけではなく、少しずつ足していって今のような状態になったようだが、
なんというか、継続することの大切さがわかる感じである。妖怪たちも有名なものからマニアックなものまでいろいろいて、
見ていくとこれがけっこう飽きない。あーいたいた「枕返し」!なんて具合に、意外と盛り上がるのだ。

  
L: 電話ボックスも「鬼太郎の家」である。中に入っているのはラビーさん。この光景、なんだかデジャヴだ……(→2009.7.18)。
C: ブロンズ像のQRコードで妖怪についての説明を読める。説明を読むリョーシ・ラビーと背後からふたりを見つめる皆様の図。
R: 「妖菓 目玉おやじ」。うーんすごい。店の開いている時間ではなかったので食えなかった。DHAとか入っているのかなあ。

水木しげるロードを進んでいったいちばん奥にあるのが水木しげる記念館。
朝早くて入れなかったが、昼になったらけっこうな人出になりそうな感じが今から漂うのであった。

  
L: 水木しげるロードの終端である本町アーケード。古びた印象がするが、妖怪関連で元気にやっているようだ。
C: 水木しげる記念館。  R: 記念館の入口付近にある、のんのんばあとオレ像。

  
L: 朝早くからやっている商店があり、売っている缶ジュースを撮影。妖怪汁を飲んだけど、ほかのも制覇してみたかった。
C: 境港駅に停車していた鬼太郎列車。奥にあるのは目玉おやじ列車。これで通勤・通学するのも妙な気分だろうなあ。
R: 境港駅前にある、マンガを描いているときの水木先生像。ねずみ男や鬼太郎、目玉おやじたちがあれこれささやいている。

朝早く、天気もこれからぐんぐん悪くなっていきそうな雰囲気の中で境港を訪れたのだが、
それでも僕らのほかにもそこそこの観光客がいるほど、水木しげるロードは人気なのであった。
ただ水木しげるの名前を使うだけでなく、しっかりと作品の世界観を反映した街づくりをしようとしている、
そういうところが広く認知されている秘訣なのだろう。次はぜひ、昼間の時間帯に来たいもんだと思う。

 
L: 境港市役所。けっこう古そうだが、きれいに使っているなあという印象。  R: 角度を変えて撮影。

本当は境港でうまい魚のメシを食えるとよかったのだが、ウロウロしている時間もないのでコンビニで済ます。
途中で皆生温泉近くの弓ヶ浜で大山を眺めるが、山頂には見事に雲がかかっているのであった。
砂浜には「弓ヶ浜半島ができるまで」という案内板が出ていたので、3人でそれを眺めて地理の勉強。
飽きたらさっさと車に戻って次の目的地を目指す。

 弓ヶ浜より眺める大山。雲がジャマだが、まあ天気も天気だししょうがない。

皆生温泉の中心部はスルーして、米子市街に入る。本来なら米子は特に寄らなくてもよかったのだが、
僕がワガママを言って寄らせてもらったのだ。目的はもちろん市役所の撮影だが、それ以外にもうひとつある。
市役所のすぐ近所に米子市立山陰歴史館という建物があるのだが、それを見たかったのだ。
1930年に建てられたこの建物は、先代の米子市役所なのである。佐藤功一が設計に関与している。

 
L: 米子市立山陰歴史館。9時半からやっている。でもまだ入れる時間ではないのであった。
R: 鳥取県における商業の中心である米子の誇りを感じる建物だ。正面には今も「米子市廰」の文字が残る。

お次は今の米子市役所。裏手にはまったく同じ色合いで市立図書館と市立美術館がつくられている。
市役所とは広場を挟んで面しており、この一帯が公共施設の集中する地区としてつくられたことがわかる。
東京都でいえば市民会館を併設している日野市にすごくよく似ている(建物が茶色である点も共通している)。
ネットで竣工時期を調べたのだが、出てくるのは旧庁舎(山陰歴史館)の方ばかり。
美術館は1983年に竣工したらしいので、おそらくその近辺にできあがったと思われる。

  
L: 米子市役所を正面(南西側)から撮影。建物はけっこう大きいが、それをキレイに撮れるくらい駐車場も広い。
C: 図書館。  R: 美術館。3つの建物は、見事に統一された印象のデザインとなっている。ここまでやりきるのは珍しい。

時間があれば米子城址(湊山)にも登ってみようかと思ったのだが、昨日の月山富田城でがんばりすぎちゃったことや、
今日は天気に不安があるので早め早めで行動したかったこともあって、結局断念することにした。
米子の街を一望するのもよかったのだが、やはりそういうのは天気がよくないと映えないものだ。
せめて城跡の山を一周しようかと思ったのだが、道が複雑でこれまた結局断念。なんだか消化不良なのであった。

米子をいちおうクリアしたということで、いよいよ本格的に東へ向かって動き出す。
つくりかけの高速道路に入ると一気に進んでいき、終点の名和ICまで行く。そこからはひたすら国道9号を走る。
倉吉目指して県道にスイッチすると、大山の麓ということで道になかなか高低差が出てくる。上ったり下ったりで進む。
この辺りは海風がつねに吹きつけているのか、風車がよく目立っている。海沿いの国道9号を走っていても、
少し内陸に入った県道を走っていても、巨大な風車がゆっくり回っているのを見かけるのだ。
山の麓の田舎道というのは僕が地元でよく目にする光景なのだが、この点だけは大きく異なる。

 わりとあちこちで見かける風車。

倉吉は歴史のある街なので、周辺のすべての道路は倉吉に通じるようにできている。
が、いざ倉吉の中心部に入ると街が落ち着きすぎていて、どこにいるのかがよくわからなくなる。
中心部に集まった道路はそのまま進むと放射状にさまざまな方向へと進んでいくようになっているため、
方向をまちがえていったん地図で現在地を確認する破目に。再度のチャレンジでようやく市役所を見つける。
市役所の駐車場に車を停めると、ラビーさんは自慢のカメラに加えて三脚を持ち出したのであった。

さて、まずは倉吉市役所である。丹下健三と岸田日出刀によるこの建物はモダニズムの雰囲気を強く漂わせており、
庁舎建築に興味のないリョーシさんもラビーさんもふつうの庁舎とは「一味ちがう」ことを鋭く感じ取っていた。
周辺には緑が多く、敷地にかなり強い高低差があるせいで全容を眺めることが非常に難しい。
そのため建物の部分部分を見ていくしかないのだが、あちこちに散りばめられているモダンの感触に、
歴史ある街の意地と有名建築家の意地、あるいは志を感じずにはいられなかった。

  
L: 県道38号線から倉吉市役所に入ったところ。  C: 本庁舎の奥はこのようになっている。1956年竣工。
R: 角度を変えて本庁舎を撮影。これも県道38号線から撮ったのだが、こちらはさっきより東、つまり裏手側になる。

  
L: エントランス付近。うーんモダニズムですなあ、なんて言いたくなる造形である。
C: エントランス。中に入ると……  R: このようにホールになっている。外であり内である、珍しい空間だ。

これはたまりませんなーなどとうなりつつ倉吉市役所の撮影を済ませると、いよいよ市街の中心へと繰り出す。
倉吉の街は玉川に沿ってつくられた白壁の土蔵で有名だ(いわゆる「打吹玉川の白壁土蔵群」)。
それ以外にも木造の古い商家があちこちに残っており、そうでない建物も今は見かけなくなった地元密着の商店が多い。
それらの店は昭和の風情を色濃く漂わせていて、街の雰囲気はどこか懐かしさを感じさせるのだ。
昼も近くなり関西弁の観光客がいっぱいいる。わりと年配の人が多く、若い人はそんなにいない。
倉吉の街はノスタルジーを求める関西圏のお年寄りを満足させる場所なのかな、と思った。
戦後の高度経済成長を経てから80年代のバブルに至るまでの時間が、ここにはまだ残っている。
(逆に、倉吉で目にしたものから1990年代が失わせたもの、平成に入って消えてしまったものに少なからず気づく。)
観光案内所でもらった地図を片手にあちこちをのんびりと歩いてまわる。蔵を改装した赤瓦という店舗が点在しているが、
特にそれらを制覇することはなく、倉吉の街に封じ込められた時間を味わうように、気ままに街並みを撮影して過ごした。

  
L,C: 玉川沿いの白壁土蔵群。蔵の有名な街ほかにもいろいろ訪れているが(→2008.8.192008.8.202008.9.1)、
   道幅の狭さはここ倉吉が一番だ。それだけ往時のスケール感が残っていると言えるだろう。
R: 古い建物が残っているのは玉川沿いだけではない。中心部以外もなかなか歩き甲斐がある。

  
L: 昭和の雰囲気を残す街並み。郊外化で全国の中心市街地から消えた個人商店が今も倉吉には残っている。
C: 赤瓦一号館。大山で育てている牛のビン牛乳を売っていたので迷わず飲んだ。やっぱりおいしかったよ。
R: 倉吉大店会。1908(明治41)年、旧第三銀行倉吉支店として建てられた。角地ならではの独特な形だ。

かつての日本は北前船があったように、日本海側の方が交易の拠点を多く抱えて栄えていたという。
(たとえば「加賀百万石」はその一例と言える。また日本海側の方が中国大陸に近く伝統的に有利だった。)
太平洋から原油や鉱物を運んできて車で全国へ送り出す現代では、なかなか想像のつかない過去である。
戦後の高度経済成長を経て、日本海側は「裏日本」と呼ばれるまでに衰退してしまった。
(その「裏日本」という呼称も、差別的ということで現在ではまったく使われていない。)
倉吉に蔵や木造建築が今も堂々と残っているという事実は、日本海側の栄枯盛衰を如実に示していると言えそうだ。

お昼を食べて落ち着くと、おやつに鯛焼きを買い込んでから倉吉を後にする。
鯛焼きはあんこがたっぷり入っているのはよかったのだが、皮が薄いために熱々だと非常にもろい。
助手席でこぼれ出たつぶあんまみれになっている僕に、ラビーさんは「あんたバカぁ!?」と言い放つのであった。
まあ当然、僕としては「加持さん、汚されちゃった……どうしよう……汚されちゃったよぉ」と返すしかないですわな。
オレ、アスカ。使徒、タイヤキエル。

さてここで運転手がラビーさんからリョーシさんに交代。リョーシさんの運転で倉吉駅を抜け、とりあえず東郷池を目指す。
東郷池の西岸は「はわい(羽合)温泉」、東岸は「東郷温泉」となっており、東郷温泉の足湯に浸かろうというわけだ。
本来なら三朝温泉にまで足を伸ばして河原風呂に入ってみたかったのだが、とにかく時間がない。
河原風呂はいずれ投入堂に挑戦するときまでとっておこう、ということでガマンなのである。

東郷池のほとりには、なぜか完全に中国風の施設がある。中国庭園・燕趙園である。
遠くから見ると日本にいる気がしないくらい、見事にこの辺りだけ中国になってしまっているのだ。
1995年、鳥取県と中国河北省の友好のシンボルとしてつくられたそうだが、正直なんだかよくわからない施設である。
それにしても足湯がまったく見つからない。ガイドブックの地図とにらめっこしてそれらしい場所を探すのだが、
影も形もないのである。困ってウロウロしていたら、突然の土砂降り。ワイパーがまったく利かないレベルだ。
境港にいるときから今にも降り出しそうな空模様だったが、ついに天から大水があふれ出した。
しょうがないので足湯をあきらめて鳥取市を目指すことにした。やっぱり雨にやられたかーとがっくり。
(いや、むしろよく倉吉を出るまでもってくれた、と感謝すべきなんだろう。)

国道9号に戻って東へと進む。トンネルを抜けると白兎(はくと)海岸に出た。因幡の白兎の話で知られる一帯である。
少し寄り道をして白兎神社にもお参りするつもりでいたのだが、呆れ返るほどひどい渋滞でスパッと断念。
白兎海岸は海水浴客で天候のわりにはかなり賑わっており、とても寄る気にはなれないのであった。
しかしこの白兎海岸を抜けてしまえば渋滞はスッと消えてまずまず快適になる。
いったん弱まった雨が再び強まる中、鳥取県庁の裏手に車を停めて少し休憩を入れることにした。
そんな中、リョーシさんとラビーさんを車内に残し、僕は独りで県庁と市役所の撮影に繰り出すのであった。

鳥取県庁は1962年の竣工。設計は建設省営繕局、それも秋田県庁・島根県庁と同じスタッフが関わったそうだ。
言われてみると、島根はともかく、確かに秋田県庁にはよく似ている(→2008.9.13)。色ちがいの兄弟に見える。
本庁舎・講堂・議会棟をL字に配置しており、昭和の匂いがプンプン漂っている建物である。
なお、撮影している間も雨はザンザン降りである。靴はもうすっかりびしょ濡れ。
こんなんだから鳥取は人気がないんだよ、などとブツクサ文句を言いながら撮影するのであった。
(山陰が今ひとつぱっとしない扱いを受けているのは、天気が良くない日が多いことも一因だと僕は思う。)

  
L: 鳥取県庁を遠景で撮影。  C: 本庁舎をクローズアップしてみた。  R: さらに正面から撮影。右手は議会棟の入口。

  
L: 本庁舎のピロティ部分。タイルで絵が描かれている。  C: 講堂と中庭。  R: 議会棟。

続いては少し歩いたところにある鳥取市役所である。1964年竣工と、こちらもなかなかの古さである。
あまり凝らない時代の建物とはいえ、なんともとらえどころのない印象しかしないのであった。
でもまあ、県庁所在地の市役所で1960年代のスケール感をいまだに保っているのは、とても貴重であると言えよう。

  
L: 鳥取市役所本庁舎。  C: 角度を変えて撮影。左側の山は鳥取城址・久松山(きゅうしょうざん)である。
R: 側面のエントランスを撮影してみた。広い駐車場と対照的な、申し訳程度のオープンスペースがいい味を出している。

撮影を終えて県庁裏手に戻る。軽く作戦会議をして、仁風閣に行ってみることにした。
本来なら鳥取城址の久松山に登って鳥取城の難攻不落ぶりを確かめたかったのだが(降伏しても落城はしていない)、
雨が降ってはどうしょうもないのである。麓の仁風閣でガマンしておくのだ。だから雨は嫌いだ。

仁風閣の設計は片山東熊。1907(明治40)年、徳川慶喜の五男で旧鳥取藩主の家系を継いだ池田仲博が建てた。
大正天皇が皇太子時代にこの地を訪れ宿泊し、その際に同行していた東郷平八郎が「仁風閣」と名づけたそうだ。
窓を閉めているために正面から見るとイマイチぱっとしない印象を受けてしまったのだが、
裏手の庭園側から見たら、さすがにお金をかけた洋館らしく迫力を感じる。でも庭園は和風なのであった。
建物の中はそれぞれの部屋の豪華さを見せつけつつ、池田家の紹介にも力が入っていた。
支柱のない螺旋階段は確かに見事。でも近づいて見上げることができないのは残念だった。

  
L: 仁風閣の正面。なんとなくせせこましいデザインなのがいかにも明治期の洋風建築、という感じ。
C: 裏手から眺めた仁風閣。やっぱりこっち側から見る方がいいよねえ、なんてリョーシさんと話すのであった。
R: 日本庭園・宝隆院庭園。建物とセットと考えると和洋折衷だが、それもまたよろしいものだと思う。

本日最後の目的地は、鳥取市における最大最強の観光地・鳥取砂丘である。
さっきまでいた仁風閣では小降りだった雨も、もはやバケツをひっくり返したような勢いになっている。
3人とも涙目になりつつも、そこは意地で砂丘まで突撃するのであった。鳥取キライ。
車が砂丘に近づくにつれて雨の勢いも増してくる。鳥取砂丘センターに着いたときには完全に豪雨。
もしビデオカメラが回っていれば、後で見返して大爆笑したくなるほどのすさまじい雨なのであった。
駐車場から悲鳴をあげて建物の中に滑り込むと、とりあえず展望スペースから砂丘を眺めてみることにした。
こりゃ参ったなーなんて言いながら階段を上っていった先のガラス窓を見て愕然。
雨で煙ってぼんやりとしか景色が見えないのである。ここまで来てその仕打ちとは! もう笑うしかない。

 なんですかこれは。

とりあえず砂丘センターの売店で職場・実家向けのお土産を買う(何を買ったのかは後日のお楽しみ)。
お土産売り場における二十世紀梨のお菓子比率は半端ではなく、天文学的な種類のお菓子が並んでいた。
あっちを見てもこっちを見ても二十世紀梨のイメージカラーである黄緑色に染まっているのである。
これはまったく誇張ナシである。誇張梨なのである。ああもう、本当にあちこち梨だらけ。ひゃー

土砂降りとはいえせっかく鳥取まで来ているわけだから、往生際悪く砂丘に行ってみる。
むしろこうなったら、雨の中では砂がどんな状態になっているのかを探ってしまえばいいのである。
砂丘入口の板張りの階段を上りきると、そこには雄大な光景が広がっていた。でもやっぱり、雨なのが惜しい。
そこは確かに茫洋とした黄土色の空間だった。でも「無」という感じはしない。あくまで巨大な砂の住処だ。
もし外国の本格的な砂漠(さらにいえば砂沙漠)であれば、そこは虚無を感じさせるものだろうと僕は想像している。
でも鳥取砂丘にはそれがない。人間の生存に挑戦するような、つまり人間の存在を掻き消そうとするような、
そういう悪意を感じないのだ。「えへへ、ここまで大きくなっちゃいました」という砂丘の声が聞こえてきそうな気がする。
「クイズ研究会としては、この光景はバラマキクイズを思い起こさせますね」とラビーが言う。
トメさんの「これを何と読む!」が頭の中でリフレインする(25%の確率で混じっている「ハズレ」を引いたときのセリフ)。
しかし雨の勢いが強烈だったせいで、僕としてはバラマキクイズよりはグァムの○×泥んこクイズという感じだった。
やっぱりここには晴れた日に来なくちゃダメだ。そんなことを考えていたら、なんだかものすごく悔しくなってきた。

ほかにも観光客はいっぱいいて、みんな「馬の背」と呼ばれる巨大な丘を目指して歩いていく。
僕らも無数の足跡を踏んづけてその後に続く。湿っていたとはいえ、「馬の背」は上りはじめるとなかなか大変。
角度があるのでしんどいが、でも砂丘を上るというワクワク感の方が大きく、疲れはあまり感じない。
「馬の背」のてっぺんにたどり着く。足元は急角度の下りになっていて、転んだらそのまま日本海へ一直線だ。
しばらく呆けて眺めていたのだが、やはり雨に煙った景色は本来の美しさを完全に損ねている。
水平線はおろか、目の前の海岸線すらおぼろげなのである。これはリベンジするしかないわ、と心に誓った。

  
L: 目の前に立ちはだかる「馬の背」を眺める。これだけの丘が砂でできているというのは見事としか言いようがない。
C: 「馬の背」を上りはじめる。急角度にやや緩めの足元ということで、なかなか上りづらい。でもなんだか妙に楽しい。
R: 少し尾根を下った地点から、「馬の背」のてっぺんにいる観光客たちを撮ってみた。面白い光景である。

すでに夕方、新たに砂丘にやってくる観光客もぼちぼち減ってきた。しかし雨の勢いは一向に衰えない。
名残惜しいが天気が回復するわけないのでおとなしく帰ることにした。今度はぜひ、晴れた日に来たいと心から思う。

鳥取の市街地に戻るとそのまま本日の宿にチェックイン。近くを因美線の高架が通っていて、
ラビーさんは「因美線……なんだか淫靡な香りがしますね」などと発言。われわれの知能レベルなんてそんなもん。
荷物を置くとすぐに街へと繰り出し、まずは風呂へ。実は鳥取市の中心部には、鳥取温泉という温泉が湧いているのだ。
山陰地方には有名な温泉がやたらめったらあるので目立たないが、県庁所在地めぐりをする身には非常にありがたい。
しかしながら事前にリサーチして入った温泉施設は完全に「街の銭湯」といった風情で、地元の客でごった返していた。
源泉かけ流しのお湯はとっても熱く、入ると肌がピリピリ痺れるくらい。てやんでぇ、江戸っ子にはそれくらいがいいんでい!

上がると鳥取の歓楽街へと繰り出す。松江ではどこも人がいっぱいで店に入るのに非常に苦労したが、
鳥取は飲み屋があちこちにあってどこに行けばいいのか大いに迷うほどだった。この差はなんなんだろう。不思議だ。
で、店主がひとりで切り盛りしている小さな店に入る。本日はもう、最初っから日本酒で飛ばすのであった。
僕らのほかには常連さんと思われる客でいっぱいの店は満席で、注文するタイミングがなかなかつかめない。
おまけに店主は注文を覚えるのが苦手なようで、忘れたころに料理が出てきたり出てこなかったり。
値段もけっこういいかげんでリーズナブルなのであった(でも料理はちゃんとしてたよ、念のため)。
調子に乗って本日も岩ガキをいただいて、地元の酒をグイグイあおり、すっかりいい気分になるのであった。

その後は屋台でラーメンを食って、コンビニでアイスと明日の朝メシを買って宿まで帰る。
酒を飲んだ後にはなぜかアイスを食べたくなるが、長さが約23cmもあるセンタンのアイスキャンディ・ミルク味は非常にいい。
昨日の松江でも今日の鳥取でもいただいた。シンプルかつ量も質も十分なアイスで、気軽に買える関西圏がうらやましい。
まあそんな具合に毎日その土地ならではの物を食べてはウハウハする、旅行の醍醐味を味わっております。


2009.7.18 (Sat.)

目が覚めたのは、バスが松江駅に着いたときだった。ざっと見て半分ほどの乗客が降り、バスは再び走り出す。
旧市街地とは大橋川を挟んで距離があるからか、駅のロータリーは意外と地味だった。
天気は曇りのようだが、まずまず明るい。旅の初日としては悪くない感触がする。
寝るのがなんとなく惜しく思えて、窓のカーテンをめくって外の景色を眺めて過ごす。
バスは宍道湖の東岸に出て南下し、山陰の幹線道路である国道9号を行く。
湖を右手に眺めているうちに高速道路に入った。高架から見下ろす玉造温泉の街並みが美しい。
斐川で高速道路は終わり、そのまま出雲の市街地へと向かう。それにしても、あちこちで露出している土が赤い。
アフリカのラトソルを想像してしまうほどに赤いのだ。石州瓦が赤いのもこれと関係があるのかもしれない。

昨夜の出発が遅れたせいか、予定の時刻よりもやや遅れてバスは出雲市駅に到着した。
素早くバスを降りると駅舎を抜けてトイレへと向かう。用を足してコンタクトレンズを入れると、ロータリーに戻る。
そしたら横断歩道のところで僕を探しているリョーシさんの姿が目に入った。どーもどーもと挨拶をする。
岡山在住のリョーシさん(→2008.4.22)は、昨夜のうちに特急「やくも」で出雲入りしていたのだ。
リョーシさんはすでにラビーさんと合流しているんだそうで、リョーシさんに促されて僕もラビー車へと歩いていく。
さっそくラビーさんにどーもどーもと挨拶をして、ガイドブックを広げて車の助手席にスタンバイさせてもらう。
やはり、ラビーさんも真夜中の国道9号をすっ飛ばして朝イチの出雲市駅に間に合わせてくれたのだ。
僕のムチャクチャな予定に合わせてくれて、なんというか本当にありがたいことでございます。
ちなみに僕は、リョーシさんとは大井川鐵道旅行以来である(→2008.9.272008.9.28)。
ラビーさんとは下関旅行の際にさんざんお世話になった(→2007.11.22007.11.32007.11.42007.11.5)。
でもリョーシさんがラビーさんと会うのは大学の卒業式以来だと聞いてびっくり。これは意外だった。
なお、リョーシさん(と僕)はラビーさんより2学年上だが、卒業したのはふたりとも同時である。
ラビーさんは大学に5年通っていたので、みんなでリョーシさんの学生生活の長さに呆れるのであった。
(リョーシさんは司法試験合格を目指して勉強していたのだ。で、今では立派な弁護士なのである。)
そんでもって伝説の先輩・カナタニさんの話であらためて大笑いしたのであった。
(僕らの先輩にナガイさんという人がいて、卒業する際、「カナタニさんは僕が学生の間ずっと2年生だった」と発言。
 その発言をしたナガイさん自身が5年間大学に通っており、その恐ろしい事実に僕らは腹がよじれるほど笑った。)

 裏日本横断弾丸ツアー・1日目: 出雲→松江

時刻は7時半。僕の考案したタイムテーブルでは、真っ先に日御碕へと向かうことになっている。
「それじゃ行きましょうか」「あ、待って。その前に出雲市役所を撮らせてね」ということで、
駅から少し北に進んだところにある出雲市役所に車を停めてもらって軽く走りながら撮影。
ちなみに出雲市役所は今年1月に新しくできたばかりである。かつては岩國哲人が市長をしていたことでも有名。

  
L: 出雲市役所を東側から撮影。   C: 交差点を挟んで撮影。今年竣工ということで、いかにも現代風ですな。
R: こちらは道を挟んだ北側にある旧庁舎。1958年に竣工とのこと。

一発目の市役所撮影を終えると、いよいよ日御碕へと向かう。日御碕(ひのみさき)は島根半島のほぼ西端にある岬だ。
突端にある出雲日御碕灯台は東洋一の高さを誇っているとのこと。せっかくなので行ってみなくちゃ損なのだ。
まずは出雲大社方面に車を走らせる。平らな大地の北側で突然、緑の壁のような山が眼前を塞ぐ。特徴的な景観だ。
出雲大社の前を抜けて稲佐浜から岬を目指す。海岸線に沿う道は曲がりくねっていて、やや細い。
途中で完全に一車線分しかない幅のトンネルがあるなど、なかなかスリルのある展開となる。
県道とはいえ、やはり地の果ての道は細いのだ。地図ではそういう細かいニュアンスがわからない。
やがて駐車場に出る。朝早いが、ちょぼちょぼと人の気配がする。土産物屋はぼちぼち開店といったところだ。
とりあえず灯台周辺を散策してみることにした。まだ灯台の中に入れる時刻ではなかったのがちょっと残念。

 
L: 駐車場付近にあった電話ボックス「もしもし灯台」。さっそくラビーさんが中に入ってポーズをとるのであった。
R: 出雲日御碕灯台。確かになかなか高い。足元は粗っぽくロープが張られた絶壁で、妙に開放感があって気分がいい場所。

灯台を外から眺めると、遊歩道をのんびりと歩いてみる。岬の側には木が少なく、見晴らしのいい場所だ。
地質学的にどんな特徴があるのかはよくわからないけど、岩に無数の亀裂が入ってモザイク状になっている。
それが辺り一面に広がっていて、奥にはゆったりとした日本海が静かな水平線を描いている。日本全国、岬もいろいろだ。
さらに歩いていくと、ウミネコの繁殖地として知られる経島(ふみしま)が見えてくる。ウミネコはそれほどいなかったが、
やはりミャアミャアうるさい。本当にネコみたいに鳴くんですね、とラビーさんがつぶやく。

  
L: 日御碕。けっこう特徴的な地形だ。  C: 岩をクローズアップ。  R: 経島。経本を重ねたような形からその名がついた。

日御碕を堪能すると、いよいよ出雲大社を目指す。来た道を戻るが、事情のよくわからない往路に比べると、
復路は思いのほかあっさりとしているように感じる。こうして人間は自分の知る範囲を広げていくのだ。

出雲大社周辺では駐車場を探して軽く迷ったが、結局、日御碕方面へと少しだけ戻ることで無事に駐車場に入った。
朝早いこともありすんなり駐車することができたが、みんな停めてある車のナンバーを興味津々で眺める。
やっぱり基本的には西日本、特に関西方面のナンバーが多い。そんな中で名古屋ナンバーや岩手ナンバーを発見。
高速道路の料金が1000円というのは、やっぱりアクティヴな人には大きいことなんだなあとあらためて思う。

出雲大社の参道は松の並木になっている。松といえばよく曲がりくねる植物なので並木には向かないだろうけど、
そこをエイヤーとがんばって並木として成立させているところになんとなく気迫を感じるのであった。
そして銅鳥居をくぐると御仮殿。なんだか、思っていたよりもずいぶんとあっさりとしている。
宮崎神宮などは敷地の広さに物を言わせていたのだが(→2009.1.8)、出雲大社は有名なわりにシンプルだ。
ただ、建物の重厚さという点においては他に類を見ない印象がする。そこで大きな差がついている。
なお、現在は平成の大遷宮ということで本殿がプレハブで覆われて見られないのである。非常に残念。
御仮殿は左右非対称のデザインが面白く、それでいて出雲大社らしいどっしりとした雰囲気を漂わせていた。

  
L: 出雲大社の参道は松の並木。  C: 御仮殿。後ろのプレハブの中が本殿。機会があれば再挑戦してぜひ見たい。
R: 菊竹清訓設計の出雲大社庁舎(ちょうのや)。1963年竣工だがあまり古さを感じない。

さて、出雲大社は縁結びの神様として有名である。「草食系男子の代表」(ラビー談)であるみやもりがモテてしまった今、
「草食系ですらない」(ラビー談)モテないわれわれ3人は、真剣に女子との出会いを祈願しなくてはならないのだ。
そんなわけでお参りするにあたり、ラビーさんは「僕は50円出しますよ!」と言い、リョーシさんは「じゃあ僕は100円」。
僕は「え……わかったよ! 500円出しゃいいんだろ! いいよ、オレの気合を感じやがれ! モテてぇ~~~!」と叫び、
年功序列だとか空気を読むだとかいう言葉の怖さを感じつつ500円玉を握り締めて震えていたとさ。
で、お賽銭をあげようとしたところでハタと気がつく。「二礼四拍……何礼だっけ?」「そういえばここって特殊でしたよね」
事前にガイドブックできちんと確かめておけよオレと思いつつ、職員の人に訊いてみたら二礼四拍手一礼と判明。
いつものように手を叩いたつもりが、なぜか妙に大きな音が出て、それが異様にきれいに反響して僕自身も驚いた。
「気合を感じる四拍手でしたなー」とふたりにからかわれるのであった。まあ、切羽詰まってますしね。

みんなでおみくじを引いてみたのだが、出雲大社のおみくじには吉だの凶だのと書いていない。
しっかりと文面を読んで自分の現状と照らし合わせて考えるしかないのである。しばらく黙り込む男3人。
僕の文面にはいいことばかりが書いてあったので、まあ大吉と考えて差し支えないだろう。
さっきのお賽銭500円のおかげかもしれないが、ここで運を使うのはもったいないような気もする。ま、ヨシとしよう。
せっかくだから縁結びの御守を頂戴しようぜ、となるが、ラビーさんによると出雲大社の縁結びの御守は、
誰かからもらわないと効果がないとのこと。しょうがないので僕がラビーさんにあげて、ラビーさんがリョーシさんにあげて、
リョーシさんが僕にくれるのであった。本当にこんなんでご利益があるのかと思うが、まあ気にしない。
(その御守は旅行から戻って長らく行方不明だったが、10月になってようやくサルベージ。バチが当たりませんように……。)

その後は隣の神楽殿にお参り。柱から水がチョロチョロと流れていて、そんな構造は初めて見たので驚いた。
それから名物である出雲そばをいただく。割子そばで、つゆを直接かけていただくのだ。
昨日の夜にロクな物を食っていないこともあり、朝っぱらからがっつり5枚いただきましたよ。

 
L: 出雲大社・神楽殿。長さ13m、胴回り9mというやたら巨大なしめ縄が見事。重さ4.5tだとさ。
R: 出雲そばである。生卵・とろろ・プレーンの三色割子も人気みたい。

出雲の締めは旧大社駅駅舎である。1990年に廃止されたが、今も建物だけは残されて名所となっている。
建てられたのは1924(大正13)年。和風な外観も見事だが、内装もまた美しく保たれている。
ホームに出るとこの部分だけレールが残され、奥にはD51が置かれていた。やはりちょっと物悲しい。

  
L: 旧大社駅駅舎。重要文化財になっており、早い時間だけどけっこう観光客が訪れていた。
C: 角度を変えて撮影。  R: ホームから線路へと出てみたところ。

これで出雲市はクリアということで、いよいよ本格的に裏日本弾丸ツアーのスタートである。
国道9号を東へ走るが、車線が少なく道は混んでいてなかなか思うように進めない。
それにしても驚いたのは、国道9号は1ケタナンバーの国道のくせして、ほとんどの信号が点滅なのである。
どんなに走っても現れるのは黄色の点滅の信号機ばかりで、青信号にぜんぜん出くわさない。
国道と交差する側は赤信号の点滅である。島根はどんだけ裏日本なんだよ、と3人ともびっくり。

結局、高速道路(片側1車線)に乗ってすっ飛ばし、一気に安来ICまで行き、そこから足立美術館を目指すことにした。
ラビーさんがエヴァンゲリオンのBGMをかけたので、みんななんだか使徒が出てきそうな気分になる。
もっとも、目の前に現れたのはシンジ君(宍道湖)だったけどね!
途中のサービスエリアで一休みし、景色を眺める。湖と山は、ずっと僕らと並走している。
そしてその壁のような山の向こうには海があるのだ。不思議な光景だと心底思う。

 宍道(シンジ)湖。

安来ICを降りると県道をまっすぐ南西に行く。地図を見なくとも足立美術館の案内板で方向はわかる。
しばらく行ったらやたらめったら大きな駐車場に出た。観光バスが何台も停まっている。
中国地方はまだ梅雨が明けておらず雲が多いが、太陽はしっかりと照っていてものすごく暑い。
そそくさと入口に入ると、ラビーさんがガイドブックを提示して割引料金で足立美術館に入館。
ラビーさんはやたらと「さすがにお姉さんたちがかわいいですね!」と言っていた。そうか。

足立美術館は安来市出身の実業家である足立全康が設立し、横山大観のコレクションが有名だそうだ。
そしてもうひとつ有名なのが、日本庭園である。市街地から離れたところに見事な庭園をつくりあげた。
日本庭園では借景も重要になるわけで、庭園の敷地の外にある山々の眺めもポイントとなってくるのだ。
ミシュランの日本観光ガイドでは星3つをもらったそうで、大々的にアピールしているのであった。

  
L: 足立美術館の日本庭園。天気のいいタイミングで訪れることができてよかった。夏の緑が実に鮮やかだ。
C: 池のある箇所。吹いてくる風が心地よい。  R: 山を見れば崖面に松が植えられ、滝が流れている。

足立美術館では絵画だけでなく庭園も美として鑑賞することを提案しており、特に眺めを意識して窓を開けている。
つまり額縁に囲まれた絵を見るようにして庭園を鑑賞してください、というわけだ。
しかし個人的には映画に対して演劇の優位を感じるのと同じで、空間を区切った形で味わうことには賛成しかねる。
やはり庭を渡る風を感じながら眺める方が自然でいいんじゃないかと思うのである。そういうリアルさの方が好きだ。
(参考までに、前に京都・竜安寺の石庭を訪れたときの過去ログはこちら。→2004.8.8

庭園をじっくりと味わった後は、日本画を鑑賞するという順路になっている。
僕は日本画の細かいことはよくわからないが、正直なところけっこう好きなジャンルである。
何も描かれていない空の部分にどのような物語を詰め込むかという視点で日本画を味わうのが好きだ(→2008.11.1)。
日本画の空の部分には時間が埋め込まれていると思うのだ。風か鳥や虫などの動物がさっきまでそこで運動をしていた、
あるいはこれからそこを通過する、そういう時間というか物語というかが空の部分には付帯していると思うのだ。
だから日本画の何も描かれていない領域は、自分で想像して埋めることになる。日本画の鑑賞は、能動的なのだ。
作者が想像して生み出した世界を、いま見ている絵をヒントに探し出す。そういう作者との「駆け引き」が楽しいのだ。
そんな僕の価値観からすると、全体的にみて、やや描き込みすぎている作品が多かったという印象である。
描き込むということはその分だけ、観客の勝手な想像の余地が狭められるということなのである(あくまで僕にとっては)。
それはつまり、単純に「きれいな絵ですね、いい技術持ってますね」という感想を述べることしかできなくなっていく、
ということへとつながってしまう。その点はちょっと物足りなかったというか何というか。
肝心の大観の絵は、風景を描いたものが多かった。動物や人物を描いたものがあまりなかったのは残念。
リョーシさんは「黒の使い方が上手い」と感心していたのであった。

足立美術館を出ると、そのまま南下して月山富田城址へと向かう。月山富田城は、かつて尼子氏が治めた城である。
これをきちんと読めるかどうかで戦国時代の知識が試されるといってよいだろう(正解は「がっさんとだじょう」)。
麓のドライブインで地図をもらうとさっそくチャレンジ。まずは山中(さんちゅう)御殿と呼ばれる広場に出る。
最近になってきちんと整備された感触がするが、小高い場所にあって確かに御殿をつくるにはいい立地である。
山中御殿から三の丸・二の丸・本丸に行くには、七曲りという曲がりくねった山道を登っていかないといけない。
僕はもう旅行のたびになんだかんだで山に登っているので平気だが、リョーシさんとラビーさんは慣れていない。
3人汗だくになって山道を歩き続けること10分足らずで三の丸に到着。それほどキツくはなかった。
三の丸からさらに二の丸に進むと、北の方角に視界が開けて中海が見える。なかなかの絶景である。
この景色が見られるんなら汗かいて登った甲斐があったねえ、なんて言うのであった。

  
L: 月山富田城・山中御殿。山の中にいきなり現れる、広くて平らな土地。  C: 七曲りを行く。それほど規模は大きくない。
R: 二の丸より眺める中海。尼子氏の皆さんが眺めた当時の光景と基本的には変わっていないんだろうなあと思う。

二の丸からちょっと下って上って堀切を越えると本丸である。本丸からも中海を眺めることができる。
奥へ進むと「山中幸盛塔」と彫られた塔というか碑がある。山中幸盛とは山中鹿介のことだ。
刀を思わせるようなデザインはなかなか独創的だ。さらに奥には勝日高守神社という神社があった。
お参りしようかと思ったのだが、神社の中に入ることができなかったので断念したのであった。

 
L: 本丸はこんな感じ。奥まった位置から二の丸方向を撮影。右手から中海を眺めることができる。
R: 山中幸盛塔。山中鹿介は「天よ我に七難八苦を与えたまえ」のセリフで有名。マゾですかな。

月山富田城址の見学が終わるといったん休憩ということで、麓でソフトクリームをいただいたのであった。
甘い物を補給して元気が出ると、いよいよ本日のメイン・エベントであるところの松江市を目指す。
途中で道に迷いながらも(ヘタレなナビですいませんでした)松江市街に入ると、さっそく島根県庁に到着。
島根県庁は松江城のすぐ南にあるので、リョーシさんとラビーさんが駐車場の列に並ぶ間に僕は県庁を撮影。

島根県庁は、けっこう古い。1959年竣工なのだが外からはそんなに古くは見えない。
一見、真四角な印象なのだが、実際には「エ」の字の東端をピロティでつなぐ形になっており、意外と複雑なのだ。
『都道府県庁舎』(→2007.11.21)によれば、建設省が地方の庁舎を積極的に設計した時期の建物だという。
設計者は建設省営繕局となっているが、実際には大分県庁(→2009.1.9)も設計した安田臣とのこと。

  
L: 島根県庁を南側から眺めた図。  C: 南側に併置されている議事堂。県庁舎と同時に竣工している。
R: 南西側から見た島根県庁。南北2つの棟があるのがわかる。両者は「エ」の字状に真ん中でつながれているのだ。

 
L: 南東側から少し距離を置いて撮影。  R: 東端のピロティが見える位置から撮影。このすぐ右側には松江城。

駐車も完了したということで、県庁の撮影を終えるとふたりと合流。続いては松江城である。
松江城は現存12天守のうちのひとつということで、重要文化財になっているのだ。
江戸時代に入り、さっき訪れた月山富田城が不便だということで建てられた城である。
場所を決めたのは堀尾忠氏だが、築城が始まる前に死去。その親の堀尾吉晴も城の完成直前に死去している。
3代目の忠晴も子どもがいないまま早世してしまって改易となった。
最終的には松平家が松本から入封したそうで、長野県とそういう縁があるとは知らなかった。

 大手木戸門跡を抜けると馬溜の見事な石垣が目の前に広がる。

中に入ると現存天守らしく薄暗い。使われている木々が年季を感じさせるのがさすがである。
甲冑や各種の資料、またかつての松江城下の模型などが展示されており、見どころはけっこう多い。
ほかの城に比べて階段はわりとフレンドリーな印象がした。けっこう上り下りがしやすかった。
最上階の望楼から松江の街と宍道湖を眺めるが、この眺望が実にすばらしい。
現存天守というと眺望は二の次で管理がされているというイメージがあるのだが、ここはそれとはまったく無縁だ。
明かりが十分に採られていて、心地よい風が望楼を吹き抜けていく。いつまでも飽きない場所だと思う。

  
L: 松江城天守。桃山様式とのこと。  C: 最上階の望楼。とにかく居心地のいい場所なのであった。
R: 望楼から眺める宍道湖。これは確かに、夕日を眺めるには最高の場所だと思う。

松江城見学を終えるとそのまま北側へとまわり込み、城の周辺を歩いてみる。
まずは小泉八雲記念館。彼が松江にいたのは約1年3ヶ月と意外と短いが、松江の人はヘルン先生(八雲)が大好き。
決して建物は広くはないが、これでもかというほどあらゆる資料が詰め込まれているのが印象的だった。
続いて塩見縄手の街並み。ここに住んでいた塩見小兵衛が異例の出世をしたことでその名がついたとのこと。
中級武士の武家屋敷が見学できるが、屋敷の中に入ることができなかったのは残念である。
右手に遊覧船が行き来する堀川を眺めつつ塩見縄手をブラブラ歩いて駐車場へと戻る。

 
L: 堀川めぐりの遊覧船。松江城は天守だけでなく、堀もほとんど姿を変えずに現存しているそうだ。
R: 塩見縄手。古い建物が堀川に面してずらっと並んでいる。

さて島根県庁はすでに撮影しているが、松江市役所の方はまだである。
夕日が逆光となって撮影するにはキツいのだが、まあしょうがない。覚悟を決めて撮影。

  
L: 松江市役所。設計者は建設省中国地方建設局とのこと。  C: 昭和オフィスで正面にはピロティ。
R: こちらは裏手にある別館。松江市役所はけっこう分散具合がひどいようだ。

そそくさと市役所撮影を終えるとそのまま玉造温泉へ。せっかくここまで来ているのだから温泉に入らない手はない。
国道9号をちょっと西へと進むとわりとすぐに玉造温泉の入口に到着。巨大な勾玉のオブジェが堂々とアピールしている。
両側を山に囲まれた玉湯川沿いに温泉街はびっしりと固まっている。今朝、高速道路を走るバスから見た街並みだ。
日帰りの入浴施設にさっそく入ると、じっくりとお湯に浸かって過ごす。ラビーさんはアルカリ性のぬるぬる温泉が大好きで、
そういう観点からするとやや物足りないらしい。しかしこれでもか!というほどしっかり入って初日の疲れを癒すのであった。
もちろん風呂上りには牛乳である。リョーシさんはふつうの牛乳、僕はフルーツ牛乳、ラビーさんはコーヒー牛乳で乾杯。
予定をやたらめったら詰め込んでいるこの「裏日本弾丸ツアー」だが、初日は文句なしのデキである。

玉造温泉から宿へと向かう途中で、宍道湖岸に立ち寄って夕焼けを眺める。
宍道湖は夕焼けを鑑賞する名所となっているのだが、なるほど確かに美しい。
西の空はなかなか分厚い雲が覆っているために夕日を直接見ることはできなかったが、
その雲を赤く照らし、また湖面がそれを映してうっすらと赤く染まる様子を味わうことができたのはよかった。
鳥が湖を泳ぐ魚を捕らえて丸呑みする姿も見ることができた。松江ってのは魅力的な街だなあ、と思うのであった。

 宍道湖の夕焼け。赤い夕日が見られれば言うことなしだったが、まあしょうがない。

宿にチェックインを済ませると、松江駅の北側にある歓楽街で晩飯を食える場所を探す。
しかし夜の街に繰り出す人が大勢いるのに対し、松江の歓楽街はそれほど規模が大きくない。
どこに行っても満席状態でぜんぜん店に入ることができず、ひたすらウロウロ歩きまわるしかなかった。
結局、リョーシさんが事前にリサーチしていたが「高そう……」と尻込みしていた店に運良く入ることができた。
こういう店に入るには僕らはちょっとまだ若いんじゃないかとも思ったが、店の人は非常に親切。
出される料理はどれもおいしく、「贅沢だ」「贅沢だ」と何度も口にしつつガンガン注文するのであった。
(そんな中で僕は日本酒をグイグイあおって「おい、今ここで贅沢しないでいつ贅沢するんだ!」と主張していた……。)
宍道湖七珍(しっちん、スズキ・モロゲエビ・ウナギ・アマサギ・シラウオ・コイ・シジミ。「スモウアシコシ」で覚える)のうち
3つほど食べたうえに、めちゃくちゃジューシーな岩ガキまでいただいたのであった。松江サイコー!

 松江の郷土料理と酒を前に舌鼓が止まらないわれわれ。

松江って街はなんというか、穏やかだけど芯のある感じがする。いろんな観光名所を抱えているけど、
変に派手にならないで昔からの良さを守っている印象がした。なんだか上品な街だと思う。
かつてこの土地は、不昧公こと松平治郷というとんでもない殿様が治めた場所だが、
(破綻寸前の藩財政を有能な家老に任せて見事に再建するが、その潤った財政を道楽により一人でつぶした。)
そのときに培われた文化レベルの高さが今でもしっかりと息づいているのを感じるのだ。
東日本の人間には(いやたぶん西日本の人にとっても)島根というのは「マニアックな場所」となっているが、
実際に松江を訪れてみて、土地の持つ豊かさを大いに感じることができた。うらやましい街である。


2009.7.17 (Fri.)

本日は終業式。式が終わってクラスで通知表が配られると、午前中いっぱいは仕事。
午後になってとりあえず一息つける状況になり、同じ学年の先生方で昼メシを食いに出る。
僕だけ飛びぬけて年下なので緊張するものの、最近はそこそこリラックスして話せるようになってきている。
とはいえもっとしっかり動けるようにならないといけないことは自覚しているので、その辺は肝に銘じつつ雑談。
学校に戻ると机上整理を徹底的にやったり週明けからの補習の授業案を練ったりして過ごす。
夏休みといっても、やらなくちゃいけないことやレベルアップさせなきゃいけないことはたっぷりあるのだ。
しっかりとガス抜きしながら充実した時間を過ごしたいものだと思う。

19時ごろに家を出る。FREITAGのBONANZAを背負って電車に乗ると、渋谷を目指す。
バスの出発時刻である20時まで思ったよりも余裕がなく、かなり慌しく動く破目になる。
結局、どうにか20時ぴったりに、マークシティのバス停に汗びっしょりでたどり着くことができた。
しかし夏休みがスタートする3連休前夜の夜行バスはかなり混雑しているようで、なかなか来ない。

そのうちリョーシさんから出雲に向けて出発したとのメールが入る。
岡山在住のリョーシさんは、今夜出雲に一泊して明日からの旅行に参加するのだ。
そしてもうひとりのメンバーであるラビーも今夜、国道9号をすっ飛ばして出雲へ向かうという。
今回の「裏日本横断弾丸ツアー」は、僕・リョーシ・ラビーの3名によって敢行される。
ふたりは僕が夜行バスで明日の早朝に出雲に着くのに合わせて動いてくれているのである。
もう本当に申し訳ないなあと思っていたら、出雲行きのバスが来た。

首に巻きつける空気枕を膨らませて、準備は万端。シートを倒してしばらくすると、バスは動き出した。
カーテンをちょっとめくったときに「池尻大橋」という文字が見えたことは覚えている。
夜行バスは寝るのには最悪の部類に入る乗り物なのだが、不思議と今回は安眠できた。


2009.7.16 (Thu.)

『グーニーズ』。小さい頃にすさまじくヒットした記憶のある映画だったので借りてきた。
そしたらこれはすさまじくつまんない作品なのであった。呆れながら見た。

あらすじや感想などをいつものようにそれなりに詳しく書いていこうかとも思ったのだが、
どうしてもパソコンのキーをたたくやる気が出てこない。だから今回はすべてパス。つまんない。それで終わり。
ところどころで面白い演出がチラホラあるのだが、それをかき消す圧倒的な勢いの退屈さ。安易さ。
制作サイドは観客が何も考えなくて済む娯楽作品をつくりたかったということなのかもしれないが、
そういう姿勢はどうなのかと本気で思う。この映画は観客に対して失礼な映画だと思うわ。


2009.7.15 (Wed.)

PTAの飲み会で、ちゃんこ屋へ行く。ちゃんこ鍋というと「おいしいけど高い」というイメージがあったのだが、
果たしてそのとおりで、それなりにお金はかかったけど、どの料理も非常にうまくてひたすら悶えた。
実際、まだ週の半ばだというのに店内は満席の大盛況。これだけ混むのも当然だ、というくらいの味だった。
周りの先生方と「うまいですねえ」と、やたらめったら感動して過ごすのであった。


2009.7.14 (Tue.)

朝から妙に天気がいいなあと思ったら、この日、関東地方は突然の梅雨明けとなった。
全国的にはまだ沖縄や九州の南部くらいしか梅雨明けしていなかったので、この飛び地ぶりに驚いた。
まあでも、日本列島の東南端も太平洋高気圧の影響下に入ったということなので、特別変なことではない。
とはいえやっぱり、なんとなくしっくりこないのである。とりあえず今週末の裏日本弾丸ツアーが晴れることを祈ろう。

大分トリニータのシャムスカ監督が解任された。あまりにも勝てていなかったのでしょうがない気もするが、
これまでのことを考えるとやはり、非常にもったいない判断だったように思える。
大分サポには悪いが、今年はひとつおとなしくJ2に降格しておいて、来年しっかり昇格すればいいと思っていた。
(つまりはペトロヴィッチ体制を維持した広島に倣う方がいいんじゃないの?ということである。)
シャムスカの行方も含めて、きちんと注目しておきたいニュースである。


2009.7.13 (Mon.)

『ガタカ』。どこかで誰かが褒めていた記憶がうっすらとあるような気がしないでもなかったので借りてみた。

遺伝子工学が発達して優秀な子どもを選んで生めるようになった未来、そうでない形で生まれたヴィンセントは、
心臓が弱く30歳までしか生きられないと判定される。その後、優れた遺伝子を持つ弟に遠泳で勝ったことで
家を出て宇宙飛行士を目指すものの、社会において遺伝子的に「不適正者」である彼は、つねに差別を受ける。
しかし、DNAブローカーに最高レベルの遺伝子を持つジェローム=モローを紹介されたことで状況が変わる。
ヴィンセントは自殺未遂で下半身不随となっていたジェロームになりすまし、宇宙開発企業のガタカ社に入る。
ジェローム本人が考案したあの手この手を使ってヴィンセントはエリートを演じ続けるが、
ガタカ社内で発生した殺人事件の現場でヴィンセント自身のまつ毛が発見されたことで、
被疑者として警察や同僚のアイリーンの追跡を受けることになってしまう。
果たしてヴィンセントはジェロームとして無事に宇宙へ旅立つことができるのか、という話。
(「ガタカ」とはDNAのグアニン(G)・アデニン(A)・チミン(T)・シトシン(C)の頭文字からつくった言葉だと。)

登場人物が少ないことやどことなく画面の色調が暗いことなどから、なんとなくB級感が漂う。
でも、遺伝子で将来が「読めて」しまう閉塞的な世界観にマッチしているのは確かである。
扱っているテーマは非常に次元の高いものだ。この社会では遺伝子が何よりも重要視され、
明らかに顔の異なるジェロームがふたりいるのにまったくその事実に気づくことなく、
遺伝子のチェックのみで判断をしてしまう警察の姿はなかなか衝撃的な描写である。
いかにもサスペンスらしく意外性のある展開がちょこちょこと盛り込まれているが、
テーマの強さがうまくバランスを保たせている。観客の裏をかくことに必死でないのがよい。
それにしてもユマ=サーマンの目はでかすぎ。

全体的によくできているとは思うのだが、まったく納得のいかない点がひとつある。
ネタバレになってしまうので詳しくは書かないが、ラストがどうしても許せない。
制作サイドとして主張したいこともあるんだろうけど、それにしても彼の扱いはひどすぎる。
なんでそんなふうに物語を片付けてしまうのか、まったく理解ができない。
そういうわけで、個人的には最後のところで完全にぶち壊された感じである。がっくり。


2009.7.12 (Sun.)

都議会選挙に行ったのだが、朝早かったせいか、妙にお年寄りが多い。
おじいちゃんとおばあちゃんが杖ついてゆっくり歩いて1票を投じに来ているのを見ると、
うーむと思ってしまうのである。というのも、僕にはお年寄りの選挙権について持論があるからだ。
それはあまりに乱暴な持論なので、意識して今まで書いてこなかったのだが、いい機会なので書いてみる。

以前、0歳児にも選挙権を与えるべきだと書いたことがある(→2006.8.9)。
そのときに車の運転に例えてお年寄りの選挙権の返上についても書いたのだが、
最近になってそこに年金の支給を組み合わせられないかと考えるようになった。
具体的に言うと、65歳以上の人には選挙権の返上と引き換えに年金の支給を開始しよう、ということだ。
選挙権を返上して完全に隠居状態になったら、そこではじめて年金をもらえるようになる、というわけである。
これは本当に乱暴なアイデアだと自分でも思う。でも、極端に悪いアイデアでもないと思う。
選挙権にはそれだけの価値があるのだということを再認識させるだけでも有効だと思うのだ。
年金を「年金」だと考えるのではなく、「今まで民主主義に参加してお疲れさん見舞金」と考えればいいのだ。
今のようなメチャクチャな年金制度よりは、よほど志の高さを感じると思いませんか? 思いませんか。
(基本的に僕はお年寄りを信用していないところがあるのでこういう発想になる。
 そんな自分がジジイになったときにどんな言い訳をひねり出すか、今から少し楽しみでもある。)

さて都議選の開票速報をテレビにかじりついて見ていたのだが、民主党が全体的に優位に戦いを進める中、
わが大田区では民主党は若手に票が集中したあおりを食って現職が落選するという珍事が発生。
結果として自民党の方が民主党よりも多く議席を獲得したのであった。選挙とは難しいもんだなあと思う。
あと、北多摩第2では自民の当確をひっくり返して生活者ネットが議席を守り、さすが国立だわと呆れた。


2009.7.11 (Sat.)

今さらアヴリル=ラヴィーンについて書いてみるのだ。

1stアルバムが出た段階で17歳。聴いてみると、若い勢いの中に確かな才能が感じられる。
ロックが下地にあるけど、とてもキャッチーなのだ。2ndアルバムになってもその勢いは衰えていない。
潤平は当時、「(日本での)CMは最低だけど曲は正反対ですごい。きちんと評価しなきゃ」と言っていた。
そして3rdアルバム『The Best Damn Thing』になると、さらにポジティヴに惹きつける曲が多くなる。

しかしながらアヴリルは致命的とも言える欠点を抱えている。
それは曲の終わらせ方が異常にヘタクソなことだ。すべての曲が何の工夫もなくいきなり終わる。
訴えたいことを主張し終わったら余韻を残すこともなくさっさと撤退してしまう。あまりにひどすぎる。
たとえばユニコーンはきわめて魅力的な余韻を残して曲を終える天才集団だが(→2005.6.1)、
そういう要素がまったくもって欠けているのだ。だからアヴリルを聴いていてグイグイと盛り上がっても、
最後のところでいきなりハシゴをはずされたような気持ち悪さが必ず残る。ここが改善されないのがつらい。
(だから僕のiPodでは、★5つのレートがついているアヴリルの曲はひとつもない。最高レートをつけられない。)

アヴリル=ラヴィーンを聴いていると、個人的にはデビュー当初の椎名林檎を思い出す。
勢いと確かな才能が融合した姿が、どうしても重なって見えるのだ。サディスティックなまでに絶対的な才能。
両者ともに3rdアルバムをつくる前に結婚したのは単なる偶然だとは思うのだが、しかし対照的なことに、
椎名林檎は悲惨なまでの迷走を見せたのに対し(→2003.3.8)、アヴリルはさらにポップに成長した。
この差はいったい何なんだろう。単純に日本と欧米の差ということではおさまらないものがありそうに思える。
とはいえ、現在のアヴリルの持つ良さは、母親になる前の女の子が持つ魅力を代表するものであるから、
いつまでもこの路線を続けるわけにはいかないだろうという気もする。年齢的には難しい位置に来ている。
(むしろおばさんになった椎名林檎が大逆襲をする可能性だって大いにあるのだ。それはそれで楽しみかも。)
アヴリルが才能をいかにコントロールして、今後どのような変化を見せてくるのかという点でも注目したい。

まあ何にせよ、若さと才能、いや若さゆえの才能を味わうというのはなかなか残酷なことだ。
大多数の観客はそういう特殊な才能を持たないゆえに、彼女たちの才能に虐げられることを喜ぶし、
またその時間が終わったことを悟った瞬間から無限の冷遇が始まることになる。僕たちはいつも勝手なのだ。


2009.7.10 (Fri.)

交通標識は数学的であるなあ、と思う。
僕はふだん自転車に乗っているので、それほど交通標識というものを意識することがない。しなくて済む。
しかし落ち着いて交通標識を眺めてみると、数学的というか論理的というか、そうであるとしみじみ思うのだ。

道路には必ず交通標識が設置されており、速度制限や駐車禁止など、その道路の特性が示されている。
さらに交差点では進入可だの進入禁止だの、交わる道路についてのルールが示されている。
歴史のある街区では旧来の生活スタイルを守るようにして標識が立てられ、ルールを示す。
新しく切り開かれた道では最大の利便性が得られるように計算されて標識が立てられ、ルールを示す。
よく見ると本当に細かいところにまで標識は立っている。そして矛盾のないように指示が出されている。
標識を眺めて迷路のような住宅街を歩くと、まるで自分がICチップの中の電気信号にでもなったような気がしてくる。
そして街区全体に施されたプログラムを、身をもって実行している気分になる。標識がプログラミング言語に見える。

白で塗られた鉄のひょろっとした柱と、白・青・赤のぺらっとした板が、理路整然とルールを示すのが、どうも面白い。
交通ルールを含んでいる法律っていうものは、論理的に破綻のないようにつくられているものである。
そんなデジタルチックなものが、ともすればホーロー看板の親戚のようなあんなアナログな感触のもので代表される。
そして彼らは、彼らなりに一生懸命、論理的に正しい指示を出している。それがおかしくってたまらない。
ある意味、交通標識は法律が物理的な身体を持った姿だ。彼らは目で見えて触ることもできる法律なのである。
日本が法治国家であることを、あちこちで立っている彼らが教えてくれている、と考えることもできるだろう。
空間を規定する法律の代弁者にしては、交通標識はどうもユーモラスだ。でも数学的に妥協していない。面白い。


2009.7.9 (Thu.)

夏風邪を引いてしまった。
昨日からどうも鼻から喉にかけて風邪っぽい気配があったのだが、見事にそれが本格化。
夜のお疲れ様会で酒を飲んでいるときから体の節々が痛くてたまらなくなっていて、
そのうち誰かがひっきりなしに触ってくるような感じがして(→2007.9.27)、こりゃヤバいとなる。
で、その後は一気に熱が出て38.5℃にまで到達し、アスピリンを飲んでむりやり寝たのだ。
今朝起きても37℃ということで、どうもいつも以上にボケッとしているのが自分でもわかるほどだ。

力を入れたり抜いたりのコントロールが難しく、授業をあまり思ったように進めることができなかった。
研究授業の疲れと重なって一気に出たと思うのだが、学期末の忙しい時期なのでこれには参った。
結局、職員室で「さっさと帰りやがれ」という意味のすごく優しい言葉をかけられて、帰らざるをえない状況に。
医者に行くことも命令されてしまったので、放課後になる直前のタイミングで学校をあとにして病院直行。
診てもらったらインフルエンザなどの心配がないふつうの夏風邪ということで、薬を出してもらったのであった。

ここんところ慣れない生活に必死に適応していたってことかあ、と思いつつぼーっと過ごす。体は正直だ。
夏休みが来たら多少は余裕ができるはずだから、授業を中心に考えるべきことをしっかり考えたいと思う。
そうだなあ、生徒の前に出るより先にじっくりと考える暇がほしい。単に要領が悪いだけなんだろうけど。


2009.7.8 (Wed.)

研究授業本番。授業のアイデアが究極的に出てこなくって泣きそうになっていたのだが、
優しい周りの皆様(英語科部会の小学校の先生も含む)のアドバイスのおかげでどうにか指導案はできた。
で、あとはそれを実行すればいいだけの話だが、実際にやるのは大変なのである。

ゲーム中心の小学校と違って中学校では学問として勉強しなきゃダメ!という気持ちがあるので、
その点を少し意識して授業を進めたつもり。なんだけど、とにかく見学に来た先生がかなり多く、
こっちはもう視線という猛烈な圧力を受けて汗びっしょり。地に足がついた気がしない50分だった。
で、授業が終わったらダメ出しの会。教室内にぐるりと先生方が座って、まるで裁判のようだ。
「雰囲気が良かった」などのお褒めの言葉をいただきつつも「評価というものを理解していない」と指摘される。
そして職員室に戻ると英語科の先生との反省会。英語しゃべる時間が少なすぎ!と叱られたとさ。
うん、オレも少なすぎると思った。だってオレ英語苦手だし。……とかふざけている場合じゃなくって、
今後しっかり慣らしていかなくちゃいけない課題である。ま、やる気の問題ですなあ。

夕方というか夜になったらお疲れ様会。英語科の先生といろいろ話す。
今まであまり突っ込んだ話をする機会がなかったので、なんだか新たな発見をした感じである。

 がんばるびゅく仙さんの図。


2009.7.7 (Tue.)

梅雨の晴れ間である。湿っぽいんだけどさすがは7月、刺すような日差しが降り注ぐ。
そんな日に1年生の水泳大会が開催されたのであった。プールに入れる生徒たちがうらやましい天気だ。

今年の1年生は例年以上に泳ぎが不得意とのことで、まずは競泳からスタートしたが、確かになかなかひどい。
もっとスイッと泳げよー、と見ていてウズウズするような泳ぎ具合なのであった。
あとはゲームの要素を採り入れた種目もなくちゃいかんということで、碁石拾い。
プールの中に投げ込まれた黒い碁石を制限時間内にたくさん拾った方が勝ちというシンプルなルールだが、
なんでそこまで差がつくのか理解不能なくらい圧倒的なスコアで勝敗がつくのであった。
最後はリレー。泳ぎ自慢の男子は余裕ぶっこいたコメントをしていたが、終わってみればそれほど差はなかった。

中学に入って初めてのクラス対抗戦ということでもうちょっと盛り上がるかと思ったが、生徒はわりと淡々としている。
やっぱり一学年の人数が少ないとこういうことになるのだろう。それはそれでなんだかちょっとさみしいものだ。


2009.7.6 (Mon.)

研究授業に向けて小道具やら何やらをつくっていたら、いつのまにか僕一人になっていて、夜の学校に取り残された。
といっても実際には主事さんがいるのでモーレツに困った事態になることはないのだが、さすがにびっくりした。
職員室は真っ暗、ひと気のない校舎にたったひとりぼっち。めったに味わえないシチュエーションである。
学校生活では生徒も僕もマヌケな要素が満載なので、まったく怖くない。学校の怪談的な要素はゼロなのだ。
しかしさすがにこれには参った。まあ、少し誇張して「オレはこれだけがんばってんだぜぇー」と生徒に話すとしよう。


2009.7.5 (Sun.)

『十二人の怒れる男』。映画史上にその名を轟かす名作である。

まず僕は先に『12人の優しい日本人』(→2003.11.10)を見てしまっているわけで、どうしても、
その作品とどう違うのか、あるいは元ネタであるこの作品がどう消化されたのか、という目で見てしまうと思っていた。
しかしいざ始まってみると、あっという間に引き込まれてしまい、元ネタとしてどうこう言う気はまったくなくなっていた。
脚本も演技もすばらしい。観客は作品の世界に釘付けにされてしまい、違和感を感じる隙もない。
こういう作品を発明したというその想像力に「人間ってすげえ!」と思わされるのみだ。

どう考えても被告人は有罪だろうという殺人事件の陪審員12名がひとつの部屋で有罪か無罪かを話し合う。
評決は全員一致が原則であり、12名はさっさと終わらせたいと話し合いを始める。
しかし有罪の宣告は死刑を意味する。そして1人の男が無罪を主張して「話し合おう」と言ったことでドラマが始まる。

スラムの若者を嫌悪する人、アメリカに誇りを持つ移民、子どもとうまくいってない親、野球が気になる小市民、
冷静に判断する仲買人、優しい老人、頼れるフットボールのコーチ、調子のいい広告代理店の社員、知的な建築家、
彼らがお互いを探り合うことで観客も情報を得ていく仕組みになっている。この手際が非常にいいのだ。
徐々に明らかになっていく事件の真相(しかしそれは部屋の中での想像であると登場人物が認めている点が厳密だ)、
そして陪審員たちの姿を通して社会の実像(移民・階級・職業と性格の関係など)もしっかりと描き込まれていく。
時間と空間を限定しているところに、徹底して三人称の体裁をとっている。
おかげできわめて客観的につくられた作品であるように見える。それが説得力を生み出すきっかけになっている。
この作品がただのミステリ的な興味だけでは到達できない高いレベルにあるのは、
事件の真相を探ることよりも、12人の男たちを通して描きたいものがはっきりしているからだろう。
(その点、やはり『12人の優しい日本人』は劣っている。良く言い直せば「エンタテインメントに徹しようとしている」となる。
 三谷幸喜がこの作品のやり口をそのまま拝借して、ただ単純に自分好みに仕上げたというレベルにすぎない印象だ。)

映画の限界というか、映画でできることをやりきった作品であると思う。
もちろんすべてをやりきったわけではなく、映画というメディアでできることのひとつの面を制覇した、という意味である。
こういう作品を生み出した当時の映画界の実力というものは本当に恐ろしい。みんな頭が切れすぎている。


2009.7.4 (Sat.)

そうだ、久しぶりに二子玉川に行ってみよう!と思い立って、環七と駒沢通りをひた走る。
多摩川へと伸びていく長い坂を下った先にある二子玉川は、まさに再開発の真っ最中なのであった。
駅周辺は真っ白な金属板に囲まれていて何もない。でも人はやたらといっぱいいる。
メシを食うのにこれだ!という店がない。しばらく右往左往して、30分もしないうちに帰った。
もともと二子玉川にあまりいい印象はなく、「使えない街」なんて表現もした(→2001.5.7)。
こういう相性の悪さというものは、続くものなのだろうか。

TSUTAYAで100円ということで借りてきた『マッドマックス』。メル=ギブソンの出世作とのこと。

基本的にはカーアクション中心のバイオレンス映画ということになるのか。
けっこう有名だしシリーズ化もされているので期待して見始めたのだが、あまりの脚本のヘタクソさに腰が砕けた。
なんでこんな映画が人気だったんだよ!と憤りつつ見ているうちに、「B級映画」というキーワードが頭に浮かんだ。
ウチのオヤジは若い頃にB級映画をよく見ていたことを思い出したのだ(好きだったかどうかは知らない)。
小学生くらいの僕は「びーきゅうえいが」というフレーズにそれなりに慣れ親しんでいたものの、
最近はすっかりご無沙汰なのであった。その事実をはっきりと思い出したのである。
そんなわけで、『マッドマックス』が紛れもないB級映画なのだという事実に気がついてからは、
ああーしょうがないよね、B級映画だもんね、とむしろ優しい視線で画面を眺めるのであった。
だから僕の評価としては、「まさしく典型的なB級映画」という点において資料的価値アリ、なのである。

そういえば21世紀に入ってから、B級映画ってどこに行っちゃったんだろうね。


2009.7.3 (Fri.)

ここんとこ研究授業に向けての準備をチマチマとやっているので、家に帰るのがちょっと遅くなっている。
で、今日も「うわーもう飽きたー!」となって職員室を軽く片付けて靴を履き替え自転車のところへ行って、気がついた。
……誰だオレの自転車に鍵をかけた野郎は!
何者かが僕の自転車の後輪にダイヤル式の鍵をかけやがったのである。
まあ根性の曲がったガキがいずれイタズラを仕掛けてくるとは思っていたが、実際にやられると腹が立つ。
すぐに技術の先生のところへ行って相談。技術の先生は金ノコを持ってきてくれて、鍵の最も弱い部分を一気に切断。
終わってみれば5分とかからずに解決となった。技術科なめんじゃねー。
幸いタイヤをパンクさせるなどのさらなる悪行はなかったので、そのまま無事に帰る。
バカなのはしょうがないが、根性が曲がっているのはどうしょうもない。ホントにそう思う。


2009.7.2 (Thu.)

それにしても今年の梅雨は、見事に「梅雨」という感じがする。
冷静になれば毎年こんなもんなんだろうけど、なぜか例年よりも梅雨らしさを感じているのだ。
おそらく、職場という生活環境が劇的に変わったことが最大の要因ではないか。
薄暗い廊下や濡れているグラウンドを目にするたび、「ああー梅雨だねぇー」と思っている。
僕は雨が嫌いで嫌いで嫌いで嫌いでしょうがない人間なのだが、今年の梅雨には不思議と怒りが湧いてこない。
まあその分だけ夏休みに晴れてくださいよ、という落ち着いた心境で雨粒を眺めているのである。


2009.7.1 (Wed.)

英語の期末テストが実施されたのであった。
僕は基本的にサービス問題をつくるのが嫌いなのでテストの内容はきわめて質実剛健になる。
本当に実力がついていてイージーミスをしない人なら高得点が取れて自信が持てる、
そういうテストをつくっているつもりである。まあつまり、勉強のできない生徒にはキツいのである。
で、目論見どおりというかなんというか、入学してしばらく経って油断ぶっこいていた生徒の点数は下がり、
コツコツまじめにやっていた生徒の点数はそのままという、ある意味で非常に理想的な結果が出た。
ただ一方で、丸をつけることができたのは答案用紙の名前の隣の場所だけ(詳しいことはお察しください)、
という生徒も2人ほど出てしまったので大いに落胆しているところである。はぁー、もうどうすりゃいいのか。


diary 2009.6.

diary 2009

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