diary 2011.10.

diary 2011.11.


2011.10.31 (Mon.)

冨樫義博『幽☆遊☆白書』。このたび1年かかって文庫版の刊行が完了したので、その記念ということでレヴュー。
この作品については前も書いているのだが(→2008.7.25)、今回はもうちょっと中身を掘り下げて書いてみようか。

すべては、戸愚呂弟というキャラクターを生み出したことに集約されると思う。
それまでは特に目的もなく幽霊の幽助同様フラフラしていたストーリーは、戸愚呂兄弟の登場を機に方向性が定まる。
(戸愚呂が出てくるまでの展開は、なんとなく『男塾』に似ている。天挑五輪大武會に入る前のあの粗っぽい感じ。)
端的に言うとそれは、魅力的な敵を生み出し、それを主人公に乗り越えさせることで、成長を確約するシステムの成立だ。
少年マンガにおいては主人公の成長が読者を惹き付ける重要な要素となるが、この「成長」とは本来、絶対的なものだ。
しかし「成長」を相対的に測る尺度として敵を登場させるというテクニックが、少年マンガでは定石となっている。
(マンガによっては超人パワーやスカウターといった便利なものが用意されることもあった。子どもは数字が大好きだ。)
しかし『幽☆遊☆白書』ではそういった数値化をしつつも(妖力値にS級妖怪)、本質的に異なるアプローチを試みている。

『幽☆遊☆白書』の最大の成功点は、敵に徹底的に魅力を持たせたということなのだ。
もっと言えば、敵に人間性を持たせることにより、単なる勧善懲悪ではない深さを持ったストーリーの構築に成功したのだ。
戸愚呂弟というあまりにも哀しいキャラクターを生み出したことで、すべてが決まった。そう断言できる。
(正確に言うと、戸愚呂弟と幻海の関係が描かれたことですべてが決まった。きちんと哀しみを背負った敵の誕生。
 そして対照的に、まったく感情移入する余地のない絶対悪・戸愚呂兄を生み出したバランス感覚もまた凄い。)
後に仙水が登場するが、賢い作者はすでに、自分がこの先、哀しさの要素を組み換える作業に終始すると気づいていた。
だからそれを防ぐために、読者も編集者も満足できる雷禅・黄泉・躯というそれぞれの哀しさをきちんと用意したうえで、
すべてをうやむやにする手段を一気にとってみせた。進化のスピードを最高速に上げて、「絶滅」までもっていったのだ。
しかも幽助のポジティヴさですべてが転化されて、物語はきれいに終焉している。これは本当に恐るべきことだと思う。

もうひとつ、蔵馬の万能性も大きなプラスとして作用している。
外見・知力・武力すべてを兼ね備えた蔵馬は、この物語のもうひとりの主人公といっていいほどの影響力を持っている。
作者は本当に頭のいい人だが、蔵馬はその作者の代理として存在しているし、また読者の代理としても行動する。
幽助がいかにも少年マンガの主人公らしい動きをするのと表裏一体で、蔵馬が見事にバランスをとっていく。
作者と読者の間で物語を橋渡しする役割を一手に引き受けているのだ。このキャラクターの存在もきわめて重要だった。
個人的には知力の駆け引きだけでやりきる海藤との戦いが最も好きだ。こういう活躍をさせられるのも蔵馬ならでは、だ。

それにしても、『幽☆遊☆白書』という作品には、全体になんともいえない暗い雰囲気が漂っている。
どんなに幽助がポジティヴにふるまおうと、どんなに桑原がボケをかまそうと、カヴァーしきれない暗さがある。
作者の絵のタッチも多少はそれに寄与しているが、それ以上に大きいのは、人間の負の面を描いたことではないかと思う。
この作品では敵が悪である哀しみを見せるだけではなく、人間が妖怪と同等あるいはそれ以上の負の面を見せる。
そしてそれに対峙する主人公たちは、正義を振りかざすようなことは一切しない。ただ、好き嫌いによって動く。
(ただしその好き嫌いの要素には、きちんと人間性に照らし合わせての良識が反映されてはいる。)
暗い雰囲気の中でこそ、さまざまなキャラクターが互いを認め合う関係性の輝きが光っているのも事実だが、
しかしながらこれだけ背景というか設定のベースを暗いトーンに置いている作品は珍しい。
(言い換えると、キャラクターの人間性の最低ラインがきわめて低い位置にあるということ。)
ジャンプの少年マンガの中ではきわめて異質な存在であることは間違いない。そして傑作でもある、稀有な存在だ。


2011.10.30 (Sun.)

もう今日は何もしねえぞー!ということで、一日だらけて過ごす。といってもガッチリ日記は書いているのだが。
夏休みの九州旅行がようやく半分を超えて、こないだの新潟旅行もやっとこさ初日の分を書き上げる。
ゆっくりとした進み具合だが、確実に進んではいるのである。小笠原まで旅らしい旅もしないし、年内にまとめたい。
しかしまだサッカー関連のログがちょこちょこ残って不良債権化しかけているので、これを片付けないといけない。

どうもここんところ同じような話題の繰り返しなので、もっときちんと本だのCDだのDVDだので栄養を補給して、
さまざまな作品に触れていかないとマズいな、とは思っている。読書は強制的に時間を区切って取り組みたいし、
名作映画は意欲的に見ていかないと教養が増えないのだ。とにかく、今の生活スタイルはインプットが圧倒的に足りない。
家に帰って日記をちょこちょこいじっているうちに耐えきれなくなって寝てしまう、という生活では、
人間としての内面が成長しようがないのである。誕生日から1週間が過ぎたことだし、ちょっとなんとかしましょうか。
でないとこの先ずっとこんな具合な気がする。夜に効率よく動けるようになる方法も、しっかり考えないとなあ。


2011.10.29 (Sat.)

というわけで文化祭である。午前中は舞台発表で午後は合唱コンクールとなっている。
僕はよくわからんうちに舞台発表のディレクター的立場になってしまっているので、ひたすらその仕事。
今年は生徒が異様にスムーズに動いてくれたので、僕自身はホントにおまかせで過ごしたのであった。
やっぱりトランシーバーでやりとりする姿が生徒の興味を惹くようで、「なにそのSPごっこ」と今年も言われまくった。

午後はいよいよ合唱コンクール。歌えないことで有名だった3年生がどれだけきちんとした歌を歌えるか。
ずっと上のアリーナところで全体の流れを統括する仕事をやっていたのだが、各学年の歌を聴きつつじっと待つ。
そうして登場した3年生は、おととし・去年とはまったく別人のようなパフォーマンスを無事にやってのけて一安心。
やってくれるだろうとは思っていたが、実際にやってくれて客席が沸いているのを見ると、なんとも感無量である。
それとともにすばらしかったのが彼らの鑑賞態度で、まったくもって文句のつけようのない姿勢だった。これは凄かったね。

そんなわけで、予想以上の絶賛の嵐を各方面から浴びつつ今年の文化祭を終えることができた。
3年の合唱に加えて実行委員の生徒たちがハイレヴェルなパフォーマンスをしてくれたことが最大の要因なんだけど、
それを引き出せたことは素直に喜びたい。具体的にどうしてできたのかは客観的にはわからない。夢中だったから。
でもまあ、連中との信頼関係がその根底にあるのは事実なので、それがきちんと実を結んだことを誇りとしようでないの。


2011.10.28 (Fri.)

本日は文化祭の前日ということで、ゲネプロなのであった。トランシーバーでやりとりしながら生徒に指示出し。
細かいところはおとといからのリハーサルで確認できているので、全体の流れをイメージしていくのが僕の仕事。
そうして生徒が動くのに困りそうなところを洗い出していく。なるべく背負い込まないように意識しながら。

いちばん困ったのは、英語部の英語劇。英語劇というものに対する僕のモヤモヤは置いておいて(→2011.8.21)、
とにかくセリフの声が小さくってかなわんのである。それでその場にいた教員であれこれ相談するが、埒が明かない。
そしたらなんと、ガンマイクという素敵な道具が学校にあることがわかり、さっそく持ってきて試してみる。
ところがこれがうまく音を拾ってくれない。PTA合唱の練習が始まる夜7時まで粘ったのだが、解決できず。
まあ結局は出演する生徒が堂々としゃべれば問題ないのだが、悔しい思いを抱えつつ明日の本番を迎えるのであった。


2011.10.27 (Thu.)

こういうことをあんまり言っちゃアレなんだけど、もう今週はキツくてしょうがない。
土曜日に仕事があったり日曜日は部活があったりで、まったく休めていない状況が続いており、
明らかに体力的に限界にきている。人間、休みがないとおかしくなることを実感したのは初めてな気もする。
特にこの10月は土曜日に仕事が入ることが異様に多く、そのダメージがジワジワと平日に出ていた。
そしてこの前の土日がふさがったことで、もうギリギリの状態になっているのである。
まあ問題はそれだけでなくて、休日のうまいストレス解消ができなくなっている自分自身の問題も大きい。
端的に言うと、現状に飽きているのである。変化をつけないといけないのだ。それも、旅行以外の変化を。
けっこうこれはピンチかもしれんなあ、と思う。でもまあいいかげんなんとかせんといかんし。うーん。


2011.10.26 (Wed.)

文化祭に向けて白熱しているのは各クラスの合唱だけではなくて、午前中にやる各文化部の出し物もそうなのだ。
僕はなぜか全体の流れを統括する立場になってしまっているので(なんでオレなのかワケがわからん……)、
しょうがないので台本をつくり、実行委員会の生徒たちに指示を出し、リハーサルの結果をフィードバックし、
本番に向けて細部を詰めていく仕事をやっている。……といっても僕の意向で全体が動くとかそんなんじゃなくって、
単純にそれぞれの出し物の調整をするだけだ。相手の要求を聞いて、それに応える。それだけのこと。
で、僕は、生徒たちがしっかりやっていてそれで問題なく動いているからいーじゃん、という姿勢で取り組んでいる。
だいたいこういうのはこっちが必死になってやるものではないのだ。必死になるのはパフォーマーだけでいいのだ。
できるだけ物腰と足腰を柔らかくして、予期しない困ったことがあったときだけ出ていけばいいのである。
自分から面倒くさくしていくとロクなことがないのだ。動くのは生徒。こっちは仕事をしないのがいい仕事、なのだ。
これでいいのだ。


2011.10.25 (Tue.)

合唱の練習が実に白熱しているのである。前に書いたように、もともとウチの学年は声が出ないことで有名だったが、
3年生になったらやっぱり意識が違ってくるものなのか、明らかに今までの連中とは違う取り組みぶりなのである。
おととし・昨年と、「もうこりゃダメ! 手の施しようがないで~す」と僕は完全にサジを投げていて、
合唱の指導について一切関わることがなかったのだが(ダメ教員)、今年はむしろこっちが圧倒されている感じだ。
とはいえ音程が甘かったり声量が足りなかったりするのも事実なので、ちょこちょことフォローに入っている。
彼らは彼らで僕のフォローをきちんと参考にしつつ、でも自力でやろうという高い意識を持っているので、
オレの出る幕はそれほどないなあ、と正直なところ淋しい気持ちも抱えつつ歌っているしだいである。
こうなりゃこうなったで、彼らの意識の変化がどれだけ皆さんに感動を与えられるかを考えてフォローをしていくのだ。
彼らの自主性を全面的に認めて、もう勝手にやれるだけやらせちゃうのだ。このままいけば、
何があろうと絶対うまくいく。そういう確信を持てる状況で時間が過ごせるってのは、本当にうれしいものである。
今から合唱コンクールの当日が楽しみで楽しみでしょうがない。ほかの先生方もみんなそう思っている。


2011.10.24 (Mon.)

昨日は日曜日で、今日は月曜日。生徒たちが僕に誕生日おめでとーおめでとー言ってくれるわけだが、
なぜか直接関わっている3年生よりも2年生のほうが積極的に祝福してくれたのであった。
もうこの歳になると誕生日なんてうれしくないのだが、この意外な祝福ぶりにはさすがに照れくさくなる。
いやもうホント、ありがとうございました。しかしまあ、なんで2年生のほうがガンガン来るのかね。
そういうお年頃なのかね。思わずうろたえちゃったよ。


2011.10.23 (Sun.)

一年の計は元旦にあり、ということで、誕生日についてもそんなような感覚があって、
この日の過ごし方というものが次の誕生日までの期間を方向付けるような、そんな気がしている。
で、どのように過ごしたのかというと、午前中はブランチをいただきつつ旅行の日記をひたすら書き、
午後はサッカー部の連中を引率して練習試合。もう、悲しくなるほどに、いつもどおりの日常なのである。
ああオレはこの一年間もまた代わり映えのしない毎日を送ることになるのか、と愕然とするのであった。

さてその練習試合。先方がお隣の区との合同練習試合を組んでくれたので、なかなか新鮮な感覚でできた。
「ウチとだいたい同じくらいの強さの相手をお願いします」と密かにお願いをしておいたところ、
これがもう絶妙にいい感じの試合内容となったのであった。本当に勉強になる内容だった。
全4校が25分の試合を総当たりしていくという形式。つまり25分×3本ということで、
1試合目が2-5で負け、2試合目が0-4で負け、3試合目が4-1で勝ち。数字の上では1勝2敗、得失点差−4。

1試合目は同じ区の学校で、昨年の練習試合では3-10で負けている(→2010.10.1)。
今回ベストメンバーは組めなかったものの僕は勝つ気満々でいて、実際、途中まで2-1で勝っていたのだが、
副審のオフサイドの判定が通らずに追いつかれたことで集中が切れ、足が止まり、そこからあっさり逆転負け。
出番が来るまでの休憩時間に部長・副部長・ゲームキャプテンの3人と敗因を分析して過ごして立て直しを図る。
そして2試合目はお隣の区の学校。技術は高くないが、後ろから連動して攻めるセンスのいい学校だった。
こちらは1年生主体で経験を積ませたので4失点は想定内だったが、得点ができなかったのは反省点だ。
最後の3試合目ではそれまでのミスを繰り返さないように、約束ごとを十分に確認をしてからピッチに送り出す。
押し込まれる時間帯もあったがどうにか切り抜け、納得の勝利となったのであった。

今回は3試合とも3-3-1-3というおなじみの変態システムを徹底したのだが、これが予想以上に機能していた。
ただ、やるべきことがやれなくなると、情けない失点を連発してしまう。ここがなかなか改善されない。
それでも各ポジションが連動して攻め込み、チャンスに3,4人が一気にゴール前のスペースを突く攻撃は、
4校の中ではいちばん魅力的だったとは思う。外から見ていていちばん面白いサッカーができていたはずなのだ。
自分でも笑えてくるくらい大木さんのサッカーの影響を受けすぎて、そこを基準にやらせてもらっているのだが、
なんだかんだで中学生たちはそれをまずまずの純度で再現しているのである。すげえな、と客観的に思う。
まあとにかく、今後はさらにミスを減らして、より厚みのある攻撃のできるチームにしていきたい。
ゴリアテを倒すダビデまでの道のりは遠いが(→2011.5.28)、ちょっとずつ近づいている感触は確かにある。


2011.10.22 (Sat.)

本日は学校行事でお出かけ。出かけた先で何をやるかというと、これがちょっと説明が難しいのだが、
かいつまんで言うと、大人になったつもりでお金の使い方をシミュレーションしてみよう、という学習だ。
もともとはアメリカで始まったものだが、それはカード破産がアホみたいに多いアメリカだから通用する話で、
買い物するたびに小銭をきちんと計算してちまちま使う日本国民には本来必要のない学習だと僕は思うのだが、
やんなくちゃいけないことになってしまっているので、やるわけである。まあ、無意味とは言わんがね。

ウチの学年は幼稚だが落ち着いているので、特にトラブルもなく無事に終了。よかったよかった。以上。


2011.10.21 (Fri.)

風邪はまだ治らず。土日にしっかり休めないせいで長引いている。
合唱練習の合間にのど飴を徹底的に舐めているので、喉のコンディションは非常にゆっくりと良くなってきてはいる。
でも万全の状態に比べると、天と地ほどの差がある。思うように動けないもどかしさで、毎日フラストレーションが溜まる。
ワガママに休んでコンディションを一気に回復させられないのが、この仕事のつらいところだ。
(本当はやってもいいんだけど、やはり気兼ねをしてしまう。事前に準備ができればいいけど、そんな体力ないしなあ。)
そんなわけで、だましだましやりくりをする日々が続いている。僕としてはこれはとっても不本意な事態なのだが、
現実的にそういうスキルがないことには、オトナとしてどうしょうもないのもまた事実。
素直に「これも経験」と自分に言い聞かせているしだい。賢さが問われているような気がするわ。


2011.10.20 (Thu.)

カダフィが死んだ。世界で最も元気な独裁者だったカダフィがこんな死に方をするとは、正直想像できなかった。
わが父・circo氏は、カダフィのある意味バカバカしいところを妙に気に入っていたフシがあるように思う。
カダフィの死について、いったいどんな感想を持っているのかちょっと聞きたい気もする。
さて、リビアの未来を考えると、カダフィが勢いあまって殺されてしまったことは、大きなマイナスになるだろう。
カダフィを生かしたまま仮想敵として利用しなければ、国内の統一は難しくなってしまうと思うからだ。
リビアの皆さんが理性を最大限に発揮してどれだけ国を安定的に運営できるか、勝負はこれからだ。

それにしても、いま現実にアラブで民主化の波があちこちを席巻しているのだが、これがいったい何なのか、
僕にはイマイチつかめない。チュニジアに始まり、エジプトでムバラクの支配を引っくり返し、そしてリビア。
それ以外にもイエメンやらヨルダンやらシリアやら、中東のあちこちで派手な動きがある。
これまでは、欧米が中東の石油の利権を狙って、あるいは中東情勢がこれ以上複雑化しないことを目的にして、
自分たち好みの国家運営をしてくれる国を支援し、そうでない国には力を貸さない、
そういう構図になっていたことはわかる。でも今回の中東の「民主化」は、着地点が見えないのだ。
見えない分だけ欧米の力関係とは関係の薄い、各国の国民自身が意思を示す、正当な民主化なのかもしれない。
しかしそうして成立する新しい政府たちが、今度はどういうベクトルで動こうとするのか、そこが見えない。
見えないだけに、安易に歓迎できない。かといって独裁への反対運動を批判するのは絶対におかしい。
決して一括りにすることのできない各国の民主化の事情が、「アラブの春」なんて下らない表現でまとめられている。
オルタナティヴのないままで進行する否定の運動を、何も考えずにそのまま歓迎することはしたくない。

確実に言えることはただひとつ。人を殺しちゃいかん、ということだけだ。
独裁者は国民を殺しちゃいかんし、国民も独裁者を殺しちゃいかん。人間の大原則を守ればそれでいい。
前に靖国神社について書いたことがあるが(→2007.8.15)、国のために何かをするにあたっては、
生きていないと何もできない。死は尊い犠牲などではない。すべての死は犬死である。これは絶対の真理だ。
敵対する相手を理性で乗り越えてこそ、人間だ。人間が人間であることが、中東で守られることを僕は強く望む。


2011.10.19 (Wed.)

喉からの風邪を明らかに引いてしまっている状態で、なかなかうまく声が出ない。
特に僕はしゃべる商売で(しゃべらせる商売でもあるのだが、どうもこっちがしゃべりたがっていかん)、
しかも空き時間がほとんどない忙しさなので、喉を酷使せざるをえず、これが本当につらいのである。

そしてこんなタイミングに限って、月末の合唱コンクールに向けて練習が始まってしまうのだ。
毎年3年生は『大地讃頌』を歌うことになっており(どこの学校も同じじゃのう。オレも中3で歌ったわ)、
特にウチの学年は声が出ないことで知られてきたので、僕が率先して声を出さなくてはいけないのである。
ウチの学年だけ無様な『大地讃頌』にするわけにはいかないのだ。人数が少ないという言い訳はきかない。

特にバスで音程が取れない状況となっており、荒れた喉で必死にフォローを入れることに。
僕は中3のときにはテナーだったので、バスはあらためて覚え直さないといけない。細かい違いが面倒だ。
CDを借りて家に帰ると、MP3をつくってiPodに入れて、風呂の間ひたすらリピートするのであった。
声が思うように出ない苦しみと、慣れないバスの音程をリードする苦しみとで、とってもキツい。
前にも書いたように、土日がつぶれて疲れがとれないのでなおさらキツい。でもまあ、賢くがんばる。


2011.10.18 (Tue.)

中日が優勝しやがった。ケガ人続出のわがヤクルトスワローズは、世紀の大逆転優勝を演出する側になってしまった。
これはもう、落合監督をはじめとする中日の皆さんを褒め讃えるしかないのだが、いやそれにしてもしかし、
この結果は受け入れがたいものがある。地力のある球団が優れた監督に率いられての結果なのは十分承知している。
でもやっぱり、残念で残念でとっても悔しくってたまらない。悪い夢を見ているとしか思えないのである。

今年ここまでできたからといって、来年も同じように勝てるとは限らない。それだけに悔しいのだ。
まあでもいちばん悔しいのは実際に戦った選手たちスタッフたちだろうから、ファンは信じて応援を続けるのみだ。
ちくしょう、来年を見ていやがれ! オレも神宮で応援するぜ!


2011.10.17 (Mon.)

今月は土日が部活や学校行事で徹底的につぶれまくっており、これがもう本当に大変。
もはや完全に、気合でどうこうできるとかそういうレヴェルではなくなっている。疲れすぎちゃって、もう。
覚悟はしていたんだけど、いざ実際にそういう生活になってみると、これはもう、つらすぎるのである。
人間、きちんと休みをとらないともたない、という事実をあらためて実感しているしだい。
でも今週末も行事と部活で休めないんだよな! もうどうなっても知らんぞ!


2011.10.16 (Sun.)

みやもりとニシマッキー両氏が我が家にやってきた。年末年始に画策している小笠原旅行の打ち合わせである。
すでに仕事のできる男・ニシマッキーがあれこれプランを具体的に練ってくれていて、僕らは意見をちょこっと出すだけ。

一番の懸念は、おがさわら丸の1等船室を確保できるかどうか。これによって旅行の質が格段に違ってくるのだ。
1等が取れない場合は2等になる。2等はカーペット敷の床に並んで雑魚寝ということで、もう完全に奴隷船だ。
まさに『ルーツ』、クンタ=キンテの世界だな!と戦慄を覚えるのであった。ネタとしては面白いけど、シャレにならん。
特2等というのもあって、こちらは2段ベッド。まあよく映画に出てくる軍隊の営舎や潜水艦のベッドみたいな感じ。
「奴隷船か軍隊か個室って、いくらなんでも差がありすぎじゃねーか!?」と3人で大爆笑するのであった。

打ち合わせが終わると、うちにある手塚治虫の『火の鳥』文庫版を読む会になるのであった。
晩メシの時間になるまで男3人がただひたすら黙々と『火の鳥』を読む光景は、実にストイック。
で、3人でその世界観に圧倒されるのであった。ホントにずーっと無言で読んでいたな。


2011.10.15 (Sat.)

荒川弘『鋼の錬金術師』。最終回が掲載された『少年ガンガン』が完売したので、2ヶ月後にもう一度掲載したという、
かなりすごいエピソードが生まれてしまった人気マンガである。そこまで人気なら読んでみるしかあるまい、と挑戦。

錬金術(といっても魔法みたいなもん)が存在する世界が舞台のファンタジー。
母親を亡くしたエドとアルの兄弟は、禁じられている人体錬成を行って、母親を蘇らせようとする。
しかし失敗してしまい、それぞれ左足と全身を失ってしまう。エドは自らの右腕を対価にアルの魂を取り戻し、
鎧に定着させる。その後、国家錬金術師になったエドは、アルとともに元の体に戻るべく、賢者の石を探す旅に出る。
そして旅を続けるうちに、国家をめぐる巨大な陰謀に巻き込まれることになる……といった感じのあらすじでどうだ。

第一印象は、「すげーよく考えてあるなあ!」だ。設定、登場人物、物語の展開、どれをとっても非常によく練られている。
この作者はキナ臭いやりとりがものすごく得意なようで、壮大な物語の本筋をとても上手く肉付けすることに成功している。
物語の背景には、(作中における)現代最大の悲劇であるイシュヴァール殲滅戦が大きく横たわっている。
序盤はその事件についてチラチラ小出しにし、全容がわかったときには読者を一気に引き込んでしまう仕掛けが効いている。
作中では最も古い過去であるクセルクセス王国の滅亡から、シンの錬丹術、そしてイシュヴァールと見事につながっており、
行き当たりばったりで話が決まっていく印象がほとんどしない。よくここまで組み立てたなあ!と本当に感心した。

個人的に好みでなかった点は主にふたつあって、ひとつはホムンクルスがやたらと強くてイライラしちゃったこと。
上で述べたようにキナ臭いやりとりに、やたら強いホムンクルスがからんできたことで、フラストレーションがけっこう溜まった。
もうひとつは、いかにもファンタジーな論理展開についていけなかったこと。僕にはファンタジー脳が欠如しているので、
それはしょうがないとも思うのだが、ファンタジー世界での当たり前の論理がやっぱりこの作品でも難しかったのである。
真理の扉に飛ばされるとか、グラトニーの中の擬似・真理の扉とか、グリードとリンの共存関係とか、
約束の日とか、ホーエンハイムのカウンターとか、逆転の錬成陣とか、何がどうしてそうなるのかが全然わからないから、
そういう部分については違和感を覚えながら読んでいくしかなかった。まあこの辺は好みの問題だからしょうがないが。
人間が自分よりも大きい存在に対して、本来人間に備わっていない能力で解決を図るというファンタジーの構図は、
どうも僕には合わないのである。作者が設定しているサジ加減が、自分の中に具体的なものとしてフィットしない。

とはいえ、それを差し引いても、この作品はとても面白かった。ホムンクルスはやたら強く、人間は実にひ弱である。
しかしひ弱な人間が翻弄され続けながらも、知恵を絞って対抗し、彼らの野望を食い止める。
そこに錬金術というフィクションが挟み込まれてはいるが、魅力的なキャラクターをしっかりと配し、
非常に広い視野から組んだ設定を着実に実行していく。その手腕だけで、文句なしに楽しむことができる。
絵も見やすいし、絶大な人気がある理由はよくわかった。この作品は見事に、唯一無二の世界観をつくりあげている。


2011.10.14 (Fri.)

高森朝雄/ちばてつや『あしたのジョー』。ずいぶん長くかかったが、このたび全巻そろえたのでレヴュー。

力石の死を挟んで第一部と第二部に分かれているのだが、第一部ではジョーの人間としての成長が描かれ、
第二部ではジョーのボクサーとしての成長が描かれていると僕は考える。ジョーのどうしょうもない人間性が、
拳闘と出会ったことにより、そして拳闘を通して出会った力石という最大のライバルとのやりとりによって、
不器用ながらもまっすぐに成長していく。第一部には、まさにその過程が実に濃密に描かれている。
以前、潤平が少年から青年へ至るジョーの顔の描き分けを絶賛していたことがあったが、なるほど確かに、
ジョーの顔はきわめて注意深く計算し尽くされたゆっくりさで、確実に大人のそれへと変化をしていくのである。
(そしてヒロインである白木葉子もまた、少女から大人の女性へとゆっくりと顔つきを変えていく。)
力石に敗れた後、ジョーはそれまでの彼からは考えられない謙虚さで力石を讃える。
しかし力石は死ぬ。ここから、ジョーはプロのボクサーとして独り立ちを余儀なくされる。そう読める。

……と、ここまで書くとかなりきちんと『あしたのジョー』論を展開しようとしているように思われるかもしれないが、
僕がこの作品について最も主張したいのはそこではない。そんな議論は、もう誰もがこれまでさんざんやり尽くしている。

僕が最も言いたいこと、それは……『あしたのジョー』とは、まさに、究極のSMマンガである!ということ。
いや、確かにこの作品は究極の拳闘マンガであり、高度経済成長を経た昭和という時代の貴重な記録であり、
ひとりの少年の青春を描ききったドラマであり、反社会的な存在の一瞬の栄光と永い敗北を描いた西部劇であるのだが、
僕の読後感としては、それらのまとめ方以上にとにかく、「これはもう究極のSMマンガ!」なのである。
そう書くと熱狂的なファンには本当に申し訳ないのだが、僕にはSM以外の何物でもないとしか思えない作品なのだ。
だいたい丹下段平を鎖で縛って鞭で打つ描写が入っちゃうところからしてSM! 実行したのはもちろん白木葉子。
そう、『あしたのジョー』とは、矢吹丈(ドM)と白木葉子(ドS)が繰り広げる壮絶なSMショーにほかならないのだ!

ふたりのSMショーを挙げていけばキリがない。ふたりの初対面は法廷。被告のジョーを見つめる葉子の視線は、
ジョー曰く「氷のようにするどい」「徹底してさげすみにみちていた」とのこと。出会いからきちんとSMである。
そして東光特等少年院では、葉子がスポンサーになり寮対抗のボクシング大会が開催されることになる。
ここでもジョーは葉子嬢の目的をこう語る。「あんたが見たいとねがっているのはりっぱなスポーツでもなんでもなく
力石にこてんぱんにたたきのめされてリングにのびたぶざまなおれのすがたさ!
女王さまをぶじょくしたにっくき矢吹丈のな!」……この段階からすでにふたりの関係はもうめちゃくちゃゆがんどる。
ジョーがデビュー戦で勝利すると葉子嬢はなんと花束を贈るのだが、「葬式の花よ」と弁明。何もそこまで言わんでも。
力石が死んだショックでフラフラしているジョーに対して葉子嬢は、遊び歩いている自分のことはスッパリ棚に上げて、
「いまこの場ではっきり自覚なさい ウルフ金串のためにも力石くんのためにも自分はリンク上で死ぬべき人間なのだと!」
とのたまう。そしてジョーの野性を取り戻すためなら、カーロス・リベラをはじめ多数のボクサーを平然と犠牲にしてみせる。
カーロス戦後に葉子嬢の態度は一時変化するが、ホセ・メンドーサの日本での興行権を独占するところはさすが。
そうしてジョーを自らの影響下に置いてしまった。白木ジムの葉子の部屋はジョー関連の雑誌やスポーツ新聞だらけ。
読んでいる雑誌も見ているテレビもどっちも矢吹丈特集で、もはやこれはヤンデレの匂いすらする有様である。
ジョーのパンチドランカー疑惑が晴れると葉子嬢は再び全開状態に。実に生き生きした表情でジョーを追い詰める。
しかしジョーがパンチドランカーであることがはっきりすると、ジョーを追い掛け回して最後は武道館の控え室で告白。
そのときのセリフは「おねがい・・・・わたしのために わたしのためにリングにあがらないで!!」ときたもんだ。
多少のやりとりの後、ジョーはうつむいて「ありがとう・・・・」と言葉を返す。この瞬間、ふたりの主従関係は完全に逆転。
葉子は試合中に一度逃げ出すが、決意を固めて戻ってくる。そんな葉子にジョーはグローブをプレゼント。よかったね。

ジョーはジョーで、素直でないながらも葉子を意識している描写はいくつもみられる。
葉子が男にからまれた際には血相を変えて怒鳴っているし、金竜飛に勝った際には葉子の姿をただ探している。
ジョー曰く、葉子は「ときどき思いもかけないような運命の曲り角に待ち伏せしていてふいにおれをひきずりこむ・・・・
まるで悪魔みたいな女だぜ(中略)その悪魔がおれの目にはヒョイと女神に見えたりするからやっかいなのさ」とのこと。
対照的に、想いを寄せてくる紀ちゃんにはジョーはとことん冷たい。向島百花園へのデートの約束はきっぱり反故。
植木市へのお誘いにも乗らない。珍しくデートに誘ったら、それが紀ちゃんとの別れとなってしまう始末。
まあ紀ちゃんにはSMの要素がまったくないもんな。いろいろ世話を焼いてくれるけど、SMじみてはないもんな。
(紀ちゃんとのデートの場面のコマのひとつひとつ、セリフのひとつひとつが持つ緊張感は、作中でも屈指のものだ。
 そもそも「まっ白な灰になる」というセリフが“発見”されたのは、このデートにおける会話からだ。
 そしてそのラストシーン、ベタ塗りの背景にひとりジョーがたたずむ構図は、まさに究極のひとコマである。)
ジョーにとっては拳闘がすべてであり、女性とは自らの進む道を邪魔する存在、排除の対象でしかない。
そんな彼をあきらめることなく最後までついていったのは白木葉子ただひとり。ジョーがパンチドランカーになったことで、
ある意味、葉子はジョーを手に入れたことになったのだ。依存と服従というSM関係は最後まで維持されているのである。
ジョーという存在はあまりに孤高すぎた。それで彼をめぐる恋愛は、どうしてもノーマルなものにはなりえない。
それゆえ社会的にはアブノーマルではあるが、強い信頼関係が根底にある、SMという形態にならざるをえなかった。
『あしたのジョー』は究極的な傑作であるがゆえに、恋愛という「陳腐」な要素を犠牲にせざるをえなかったのだ。
(そういえばかなり前、潤平が「ジョーはセクシーだ」と言っていた。セクシーでなければSMとしては成立しないし、
 セクシーであるからこそ『あしたのジョー』はSMになってしまった、という側面もあるように思えてならない……。)

さて、この作品を不朽の名作として成立させたのは、まちがいなく、ちばてつやの功績だ。
ちばてつやの仕事に比べれば、高森朝雄こと梶原一騎の仕事はそれほど大きなウェイトを占めている感じはない。
(この点については、文庫版第7巻の巻末に掲載されている小池一夫の解説が、かなり参考になると思う。)
しかしそれは梶原一騎のレヴェルが低いということでは決してない。ちばてつやが凄すぎるのだ。人間離れしている。
ジョーの成長を繊細に描き分けたのはまだ序の口。ひとつひとつのコマにはまるで魂が刻み込まれているかのようだ。
そこを通過していくキャラクターたちとストーリーは、自らの強い意志と分厚く横たわる運命とで翻弄されながらも、
決して忘れることのできない強烈な痕跡を読者の中に残していく。すべてが、生々しく生きているのである。
その一方で、クライマックスであるホセ・メンドーサ戦が始まる直前には、まず葉子の告白がなされ、
ジョーに関わった面々が再登場を果たす。最終ラウンドにはコンニャク戦法が出て、クロス・カウンターが出て、
トリプル・クロス・カウンターまで出る。これまで描いてきたドラマの最後を飾るにふさわしい演出がなされている。
激しい情熱だけで押すのではない。客観的な冷静さを少しも失うことなく、作品は描かれている。
それでも最後は完全に理屈を超えた展開が続いていき、そしてジョーは静かに燃え尽き、まっ白な灰になる。
(ホセ・メンドーサ戦での理屈の欠如は、ちばてつやが物語を主導し、梶原が関与しなかったことを示す。
 それまでの試合には梶原の豊富な知識が反映されていたが、ホセ・メンドーサ戦にはその要素がまったくない。)
蛇足もなければ、不足するものもなく、『あしたのジョー』は終わる。ただ強烈な余韻だけを読者に残して。


2011.10.13 (Thu.)

昨日の部活で相手CKをボレーでクリアしようとした際に、蹴った場所が悪くてつま先を痛めてしまった。
その日のうちは大したことはなく、逆関節気味な感触が残って気持ちが悪い、くらいなものだったが、
今朝起きてみたら右足の人差し指の真ん中が真っ赤になって腫れ上がっている。こ……これはまずい!

部活の面倒を見終わると、急いで病院に直行。レントゲンで撮ってもらってさあいざ見てみると……なんと!
骨には何ひとつ異状がなく、1ミリの傷もついていないのであった。医者も僕もヒビは覚悟していたので、拍子抜け。
内出血による腫れはひどいので困った事態であることは確かなのだが、まあそれでも、不幸中の幸いである。

で、診察が終わって保険証を返してもらう段になって、受付のおばちゃん(医者の親っぽい)から、
「生徒さんだと思ってたわ、先生だったのね、ごめんなさいね」と言われてしまったのであった。
オレ今月で34になるんだけど、人生こんなんでいいんか!? 大丈夫なのか!?


2011.10.12 (Wed.)

テストが終わったので採点してみたのだが、妙なことに気がついた。ここんとこ毎回、平均点が50点前後なのである。
今回の2学期中間の平均点は50.6点。前回の1学期期末が49.9点。その前の1学期中間が50.5点。
3年生に進級してからのテストは3回連続ですべて、平均点がなんと誤差±1点の範囲に収まっているのだ。
では2年生のときはどうだったかというと、学年末(3学期)が48.9点で、2学期期末が51.3点。
それでも±1.5点の中には収まってしまっているのである(2学期中間は難しかったようで40点台前半だった)。
というわけで、実に5回連続で平均点が50点付近という記録を達成してしまっているのである。これは気持ち悪い。
僕自身としては狙ってつくっているわけではまったくなくって、単純にいつもの力加減でつくったらそうなる、ということだろう。
裏を返せば生徒はぜんぜん成長していない、という結論を出すこともできそうに思える。次回はなんとかしたいですな!


2011.10.11 (Tue.)

サッカー日本代表のタジキスタン戦。W杯のアジア3次予選ということで、ホームだけに絶対に落とせない試合である。
それどころか、シリアに代わって繰り上げで登場したタジキスタンが相手ということで、大量得点を期待したい試合である。

序盤から攻めまくる日本はまず、駒野のクロスからハーフナー マイクのヘディングで先制。これはかなり豪快だった。
さらにゴール前で速いパスをつないでから岡崎がブチ抜いて2点目。こぼれ球を駒野がグラウンダーで入れて3点目。
そしてゆったりとしたパス回しで隙をうかがうと、いきなり素早く切り込んだ香川に速いパスが出て、4点目。
4日前のベトナム戦のフラストレーションを一気に晴らすような展開で前半が終了。やっぱり日本は強くなったのだ。
後半に入ってもハーフナーが高さを生かして5点目、中村憲剛が冷静に決めて6点目、香川のが入っちゃって7点目、
最後は岡崎が直立不動のジャンプからヘッドで8点目。お祭り騒ぎなゴールラッシュとなったのであった。
得点シーン以外にもバーやポストを直撃したシュートが多かった。これだけ打ちまくる日本代表はいつ以来か。

タジキスタンはいちおうゴール前のスペースを埋めてはいたものの、突っ立ったままでほとんどプレスがなかった。
不利でも無理なプレーをせず、よけいなケガのない試合をつくってくれたことは、たいへんありがたい。
(どことは言わないが、ボールと人とどっちを狙っているのかわからないサッカーをするチームがあるのには本当に困る。)
とにかく、最終予選に向けてこれでだいぶ有利になった。言うことなしでございますな。


2011.10.10 (Mon.)

6時42分の列車で長岡を出ると、そのまま直江津まで直行。もう一本早い列車があれば、
直江津を歩いて居多神社にリベンジすることができたのかもしれない。でも長岡泊じゃ、これが精一杯だ。
というわけで朝イチの列車で直江津までたどり着くと、そこから南へ向かう信越本線に乗り換える。
一駅進んだ春日山駅で降りる。心地よい朝の光を背に受けて、西にそびえる山へ向かって歩きだす。
本日最初の目的地は、上杉謙信の居城として有名な春日山城址なのである。

周辺は思っていたよりも開発が進んでおり、ちょっと進んだ新潟県道63号ではロードサイド店がひしめいていた。
直江津と越後高田が合併して誕生した上越市だが、2つの核の距離的な中心ということで、
この春日山駅のすぐそばに市役所が置かれている。そしてこの辺りは文化会館や体育館なども整備されている。
県道63号を越えてさらに山へと近づいていく。道は行き止まりのT字路になっており、左に曲がる。
いかにも旧街道沿いのお屋敷といった感じの家々が並ぶ通りで、落ち着いた雰囲気がする。
そこをしばらく歩くと、右手に春日山城址の入口が現れる。上りの角度がわずかに急になっており、
これから山城への道を行くのだな、という気分になってくる。大股で先へと進んでいく。

  
L: 春日山駅からまっすぐ西の春日山城へ向かう。周囲はいかにも郊外社会といった感じで、幅の広い道を車が走っていく。
C: 春日山城址への入口。確かに、なんとなくそれらしい匂いが漂う。この先には上越市埋蔵文化財センターがある。
R: 復元された春日山城の大手道。かつてはこっちがメインだったのだ。舗装していないので往時の雰囲気をしっかり味わえる、らしい。

春日山城はその名のとおり春日山という山に築かれた城だが、周りに砦が築かれており、範囲は広い。
山頂に本丸と天守台があるので、とりあえずはそこまで往復する。大手道をのんびり歩いていくのにも惹かれたが、
時間が読めないので今回は素直にまっすぐ往復するつもりである。まあ山城だし、そこまで期待せずに登っていく。

 山への道をさらに進んでいく。けっこう先まで車で行ける。

春日山城址の山腹には春日山神社があり、そこまでは車で行くことができる。上杉謙信の像が目印である。
ここでルートは二手に分かれる。左へ行けば本丸跡方面にそのまままっすぐ行くことになるし、
右へ行けば春日山神社の境内に出て家臣の屋敷跡を経由することになる。時間的な余裕は十分あるので、
せっかくだから家臣の屋敷跡を見ていくことにした。というわけで、まずは春日山神社に参拝するのだ。

  
L: 駐車場で上杉謙信の像がお出迎え。ここから左へ行って直接本丸を目指すもよし、右へ行って神社に参拝するもよし。
C: 春日山神社への参道。歴史ブームだからか、土産物を売る店が2~3軒ほど並んでいた。  R: 春日山神社の拝殿。

二礼二拍手一礼を済ませて、そのまま境内を抜けてしまう。するといよいよ本格的な山道となる。
さすがはその堅固さで知られた山城だ、と感心しながら登っていく。城の遺構は残っているが、気分は完全に登山。
そう感じる理由のひとつに、石垣がないことが挙げられる。石垣の代わりに土塁を築いて防御としているのだ。
もともとの山という自然に、土塁などの人工物が違和感なく組み合わさっており、ただの山にはない独特な感触がある。
自然と人工の調和がなかなかすばらしい。さっきは「まあ山城だし、そこまで期待せずに」なんて思っていたけど、
確かに残る歴史の痕跡がこっちの想像力を刺激してきて、実に興味深い場所なのであった。

  
L: さすがは天下にその名を知られた山城、今でも見事に山だぜ。  C: 土塁、その先には空堀がある。これは難攻不落だわ。
R: このまま進めば本丸跡だが、右に入ると直江家の屋敷跡。しかし本当に山だな、こりゃ。山をうまく改造している。

せっかくなので、少しだけ遠回りをするかたちで本丸まで行くことにしてみた。
わざわざ高い方に入って直江家の屋敷跡を経由する。雰囲気は完全に登山の軽い休憩所で、
かつてここに屋敷を構えていたというのがどうもピンと来ない。質素な小屋しか想像できないのである。
上杉謙信が城主だった全盛期には、果たしてこの山の中にはどれだけの賑わいがあったのだろう。

 
L: 直江家の屋敷跡。直江家つったら上杉(長尾)家中では名門中の名門。いったいどんな屋敷が建っていたのか……。
R: 上杉謙信は毘沙門天が大好きだったということで、毘沙門堂。中には高村光雲による像があるそうな。

そんなこんなで歩くこと15分、ついに本丸跡に到着。さすがに山城の頂上なので、広々とはしていない。
それでも今まで通ってきた屋敷跡よりは広い平らな土地が、木々に囲まれた中にぺったりと延びている。
ふむふむここが上杉謙信の本拠地か、と思いながら石段を上りきって本丸跡を覆う赤い土を踏む。

 
L: 春日山城の本丸跡。解説の案内板とともに、上杉謙信作の漢詩『九月十三夜陣中作』があった。
R: 本丸跡の展望スペース。けっこうひっきりなしに観光客がやってきて、そのたびに絶景に声を漏らす。

左手、東側は展望スペースとなっており、どれどれちょっと見てみるか、と歩み寄った瞬間! 本当に圧倒された。
そこには誰もが思わず言葉を失ってしまうほどの景色が広がっていたのだ。一瞬、呼吸が止まったね。

山城なんて、面倒臭いのである。つくるのも大変だし、登るのも大変だし、防衛上の必要性がなけりゃ御免こうむりたい。
しかし春日山城の本丸からの景色を見た瞬間、すべてに納得がいった。左手に直江津を望み、右手に高田の街を望む。
頚城平野のすべてを一望できるこの春日山は、戦国時代最強と謳われた上杉謙信の居城に確かにふさわしい。
真東を向いて逆光であるため、また朝もやも軽くかかっているため、コンディションとしてはそれほど良い方ではないだろう。
しかし、それでもしばらくの時間、目の前に広がる光景をただ眺めることしかできなかった。
太陽はゆっくりと高く昇っていき、空は澄んだ秋晴れの青に染まっていく。光が周囲の緑と眼下の街とを輝かせる。
この3連休の行き先に新潟を選んでよかった、と心から思える景色だった。

本丸の隣には天守台がある。春日山城に天守はなかったというが、山頂でもある天守台に今も残る松の木は、
何本も誇らしげに伸びていた。広くはないが、この城の持つ歴史を存分に感じさせる場所だった。

 春日山城天守台。地元住民がけっこう気軽に来る場所みたいだ。

二の丸経由で下山を始めたのだが、途中で巣穴から半身を出したシマヘビに出くわした。
オリやガラスのない場所でヘビを見るのはずいぶん久しぶりのことなので、少し驚いてしまった。
(まだ実家が引っ越す前に、玄関先で子どものヤマカガシを見かけたとき以来か。小学生だったか中学生だったか。)
そんな間抜け面の僕に構うことなく、シマヘビはするりと抜け出すと草むらの中へと消えていった。

三の丸の米蔵を抜けると砂利の道に出る。片側が崖になっている、いかにもな山道である。
そのまま進んだら、さっきの上杉謙信像のある場所に出た。タクシーもいて、けっこうな賑わいとなっていた。
あとはもう駅に向かって戻るだけだ。だいたい1時間半ほどの滞在ということで、思ったより早く下山できた。
あらためてかつての歴史の感触を味わいながら、来た道をそのまま戻るのであった。

春日山駅に到着すると、そのまま線路をくぐって駅の反対側に出る。そこにあるのは上越市役所。
その姿を撮影しようと正面にまわり込んで驚いた。木々が生い茂って、まったく姿が見えないのである。

 上越市役所の入口のロータリーにて。これはいったいどうしたことか。

そのままロータリーを進んでいくと、緑の中にいきなり市役所のエントランスが現れた。
今までいろんな撮影しづらい市役所を見てきたが、ここまで正面からの撮影がやりづらい事例は初めてだ。
周囲の木々が生い茂るままになっており、その合間から白いファサードがチラッと見えるだけ。
しかし建物の南側にはけっこう広い駐車場があり、そこからは全貌をしっかりと見ることができる。
見事に真四角な建物で、なるほどこのデザインなら正面へのこだわりが薄いのもまあ納得がいく。
それにしても、どこから見てもこれだけ同じような顔をしている市役所は珍しい(あとは函館くらいか →2008.9.15)。
調べてみたら、上越市役所は1976年竣工で、設計は石本建築事務所である。また石本かよ! 石本つえー!
石本は東京都でも市庁舎建築に強くて、その理由が知りたくて聞き取り調査をしたことがあるが(→2002.11.12)、
組織事務所らしく各チームごとに設計しており、特に重点的に取り組んでいたわけではないとの回答だった。
おそらく営業部門が仕事を引っぱってくる何らかのノウハウを持っていたのだろうけど、
これだけ全国各地に市役所をつくりまくった事務所はそうそうない(あとは佐藤総合計画も強いかな)。

  
L: 上越市役所のエントランス。緑に完全に囲まれており、建物の全容をまったくつかむことができない。
C: 南側の駐車場より撮影。白くて四角くて実に豆腐である。これだけ見事な豆腐建築の事例はなかなかない。
R: 駅のある西側から眺める。上にある緑の「上越市役所」の文字は、信越本線から見ることができる。

敷地を一周して撮影を終えると、春日山駅まで戻る。駅前には上越市春日謙信交流館という施設があって、
これがけっこう新しい。何だろうと思って調べてみたら、要するに公民館なのであった。大げさな名前をつけおって。

 完全にプレハブの春日山駅。将来的には駅ビルにする計画があるらしいが。

予定よりもかなり早く春日山駅を後にすることができた。次の目的地はすぐ南にある高田駅だ。
上越市のもうひとつの核を形成する高田の城下町を歩いてみるのだ。さすがに列車はあっという間に到着。

改札を抜けると、まずは観光案内所でパンフレットを入手する。上越市は観光パンフレットが非常に充実しており、
直江津・春日山城・高田とそれぞれポケットサイズの地図が用意されている。直江津にも高田の資料が、
高田にも直江津の資料が置いてある。そんなこともあって、上越市は市というよりももうひとまわり上の自治体っぽい。
平成の大合併で複数の核のある市が多く生まれたが、上越市のようなバランス感覚はひとつのモデルかもしれない。

観光案内所を出ると、あらためて正面から高田駅を眺めてみる。駅の周辺はかなり大規模に整備されており、
そうとうな金がかかっていそうである。旧来の雰囲気をいまだに残している直江津とは対照的な印象となっている。
とはいえアーケードは明らかに雁木をモチーフにしており、伝統を再解釈したという姿勢はよくわかる。
地図を片手にそのアーケードを東へと進んでいく。天気がよかったこともあってか、雰囲気は非常に明るい。

  
L: 信越本線高田駅。東京駅と城下町のイメージが合体してこんな感じになったらしい。ロータリーのオープンスペースももったいない。
C: 駅からまっすぐに伸びる雁木アーケードの商店街。瓦屋根もそうだが、伝統の再解釈がかなり強烈である。
R: 雁木をモチーフとしたアーケード内の様子。色づかいがいいからか、雰囲気は明るい。冬の雪の日はどんな感じなのかな。

そのまままっすぐ進んで儀明川を渡ると本町通りとなる。こちらは南北方向のアーケードで、高田のメインストリートである。
こちらは後で歩くことにして、一本東の大町通りを行く。こちらは二七市・四九市などの市が開かれる通りなのだが、
ふだんは静かな商店混じりの住宅地。それでも雁木のある木造住宅がある程度連なっていて、一軒一軒の表情がいい。

 大町通りにて。こういう光景が残っていること自体がすばらしいのだ。

高田の街は実際に歩いてみると、地図よりも大きい印象である。意外と時間がかかるのだ。
そうして何の変哲もない地方都市の住宅地をトボトボと進んでいった先で、ようやく最初の観光名所に到着。
高田にはかつて旧日本陸軍の第13師団が置かれたのだが、その師団長官舎が移築保存されているのだ。
この建物、外装の色に始まり内装や家具調度品まで徹底的に復元がなされているのである。

敷地に入るとまず、建築当時の師団長である長岡外史の胸像が目につく。「プロペラ髭」がいかにも誇らしげだ。
入館無料ということで、迷わず中にお邪魔する。1階は洋風になっており、さまざまな解説の展示がある。
長岡外史が中心だが、その次に師団長となった秋山好古についても解説があった。『坂の上の雲』ブームだもんな。
もちろん、レルヒ少佐によるスキー指導のエピソード(日本におけるスキーの発祥とされる)も詳しくなされている。

  
L: 長岡外史の胸像。確かにヒゲがすごい。そしてこれが誇張ではないところがまたすごい。
C: 旧師団長官舎。1910(明治43)年築。1991年まで自衛隊高田駐屯地の幹部宿舎として使われていたという。
R: 1階はこのように洋風の内装となっている。高田の街と第13師団の歴史についての説明が非常に詳しい。

洋風の1階とは対照的に、2階は畳敷きで完全に和風となっている。この大胆な差がまたすばらしい。
畳の上に正座してみる。窓からは外光がたっぷりと入ってきて、とても居心地がいい。
面白かったのが押入の中の壁で、昔の雑誌が縦横無尽に貼られていたのである。
旧師団長官舎は徹底的に復元をした建物ということで、これはたぶん本当にそうなっていたのだろう。
建物という空間の記憶を、雑誌という時間の記憶が強力に補完している光景だった。うーん、やるなあ!

 
L: 2階はこのようにきちんと和室となっている。でも窓の外やベランダは洋風なのだ。
R: 押入の壁いっぱいに貼られている昔の雑誌。この工夫は抜群に説得力を持っている。

そんな具合に面白がる要素が満載だったので、思いのほか旧師団長官舎で時間がかかってしまった。
少し慌てて外に出ると、そこからさらに東へ。高田城址に行かないことには高田を訪れる意味がないのだ。
やっぱり高田の街は地図で見る感じよりもスケールが大きくて時間がかかる。小走りを混ぜつつ城を目指す。
そうしてようやく高田城址の外堀まで来たのだが、なんと堀は一面緑色と黄色の葉っぱで覆われていた。
もはや堀にはまったく見えない。葉っぱの正体は、ハス。高田城址の堀はハスで埋め尽くされていたのである。
これは明治維新の後、旧士族がレンコン栽培を行っていた名残とのこと。夏だったら開花してさぞ壮観だろうが、
今は完全にシーズンオフ。ただただ元気な葉っぱが生い茂っているだけなのであった。うーん、残念である。

高田城址の中に入ると、内堀のすぐ先に三重櫓がある。1993年に再建されたのでけっこうピカピカである。
徳川家康の六男・松平忠輝の居城として高田城はつくられたのだが(総監督は伊達政宗だそうだ)、
その工期はわずか4ヶ月ということで石垣は築かれず、すべて土塁となっている。三重櫓も土塁の上に建っている。
(ただし、少なくとも本丸には石垣があったという説もある。石垣の写った写真もあるという。)
本丸は明治以降に旧陸軍の駐屯地となり、現在は大半が上越教育大学附属中学校の敷地となっている。
そのため、公園としての要素は強いものの、城としての雰囲気はそれほど強くは残っていなかった。

  
L: 高田城址の外堀を埋め尽くす大量のハス。花が咲いていれば美しいんだろうけど、今の季節はあんまり……。
C: 本丸の様子はこんな感じ。土塁は若干残ってはいるが、城らしさはあまり感じられないのが残念だ。
R: 本丸の東半分を占めている上越教育大学付属中学校。広いグラウンドでようございますな。

いちおう200円払って三重櫓の中にも入ってみる。中は実に標準的な博物館的展示なのであった。
最上階は展望室となっているが、三階櫓なのでそれほどの高さはなく、周囲の木々に視界はさえぎられ気味。
高田藩はもともと、福井藩とともに前田家を抑えるという役割を期待されて誕生した歴史があるのだが、
そのわりにはどうも城に対する扱いがイマイチ良くない。今は櫓を再建するなどその歴史を大切にしているが、
かつての高田城下の住民の皆さんにとっては、高田城はそれほど尊敬できる対象ではなかった感じである。

  
L: 高田城三重櫓。鉄骨を使って再建されているが、3階部分を中心に木造となっている箇所も多いそうだ。
C: 本丸に架かる極楽橋。高田城址において、城らしさを感じさせる重要な要素となっている。
R: 内堀を挟んで三重櫓を眺める。なるほど、見事に土塁の上に建っている。しかし高さがないなあ。

高田の街が思ったよりも広かったせいで、あまり時間的な余裕がない。
信越本線は時間帯によって列車の本数にわりと偏りがあるようで、ダラダラしていると高田を出るのが遅くなってしまう。
なんせ東京に帰るまですべて各駅停車なので、早めに動いてできるだけ早く東京に戻り、体力を回復させたいわけだ。

とはいえ、いくら急いでいるとしても無視するわけにはいかないポイントが、まだ高田市街には点在している。
外堀を挟んで高田城址のすぐ向かいにある榊神社もそのひとつ。明治維新を迎えた際に高田を治めていたのは榊原家。
(吉原で遊びまくった榊原政岑が姫路から飛ばされてきて以来。高田は懲罰的な転封先とされていたそうだ。)
その礎を築いた榊原康政に始まり、名君される藩主たちを祀っているのが、榊神社なのである。
この手の神社は旧城内にあるのが典型的だが、高田の場合は外堀のすぐ外ということで、ちょっと珍しい。
落ち着いた雰囲気の境内を急いで往復して参拝。榊原康政というビッグネームのわりにはやや小規模だった印象。

参拝を終えると急いで本町通りを北上していく。雪国らしくかなりがっちりとしたアーケードの商店街で、
連休に合わせてイベントが開催されており、歩道部分にはさまざまなオブジェが置かれていた。
人通りも多く、年齢層も多彩。しかし中心にあったデパートの大和は昨年4月に閉店となっており、
核の抜けてしまったどこか貧弱な雰囲気があるのは否めない。ふだんの高田はどんな感じなのか、気になるところだ。

アーケードが終わってもそのまま直進。最後に「町家交流館・高田小町」を見ておくのだ。
これは明治時代に建てられた町家を改装して集会やイベント用のスペースにしたものである。
中をちょっと覗いてみたのだが、まあよくあるパターン。でもうまく動いている感触は確かにあった。
こういう建物は連続していないと観光向けにはならないが、地域コミュニティの拠点としては実に有効だろう。

  
L: 榊神社の拝殿。参道を直進していって、最後に右に曲がるとこの本殿。榊原康政の家柄のわりには地味な印象だが。
C: 高田市街のメインストリート・本町通りを行く。この日はイベントで賑わっていたが、その分、閉店した大和が切なかった。
R: 高田小町。観光施設というよりは、地元住民向けの施設である。変に観光向けにするよりは有効な活用ぶりに思える。

けっこうギリギリのタイミングで、高田を出る列車に乗り込んだ。このまま長野まで行ってしまうのだが、
地元住民のほか、3連休を登山で楽しんだと思われる皆さんがけっこう乗っており、車内はまずまず混んでいた。
高田を出ると、信越本線はずんずん南下。二本木駅はスイッチバックになっていたのだが、そこで下り列車と行き違い。
ふと駅名標を見てみたら、スイッチバック駅であることをしっかりと反映した表示となっていたのであった。

 JR東日本はこういうところが律儀だなあと思う。

妙高高原を抜けて長野県に入ると、やっぱり景色はせせこましくなる(→2009.8.13)。
明らかに、山に挟まれている具合が新潟県とは違うのだ。とにかく、平地がない。そして起伏ばっかり。緑一色。
南信だろうが北信だろうがこういうところは一緒なんだよなあ、と変に納得してしまった。

長野駅に着いたら、いったん改札を抜ける。朝から歩きまわってとにかく腹が減ったので、ここでランチといくのだ。
しかしさすがにけっこう疲れていたので、長野市内を気ままに闊歩するほどの気力はなく、おとなしく駅周辺でいただく。
一息ついたらある程度体力が回復した反面、無理してあちこち歩く気分はなくなってしまったので、
列車が出るまでの時間を素直に平安堂をぷらぷらするくらいで済ませるのであった。

そんな具合に余裕をもって列車に乗り込み、あとはひたすら東京を目指すのみである。
篠ノ井線における最大の見どころである姨捨駅のパノラマを確認すると、あとはひたすら寝て過ごす。

 何度見ても絶景ですなあ。

列車は一気に岡谷まで行ってくれたので、ずいぶん楽になった。岡谷からは大月行きだが、やっぱりぐっすり。
大月からは中央線のオレンジ列車だったので、気分はもう東京に戻ったも同然である。
で、立川で南武線に乗り換えて、やっぱり寝ながら武蔵小杉へ。当初の予定より早く帰ることができたのだが、
それでも家に着いたときには夜の11時を過ぎていた。各駅停車は大変なのである。

まあそんなわけで、今年の10月3連休も充実した時間を過ごすことができた。
ほぼ新潟県内限定の地味な旅行ではあったのだが、それぞれの日を無理なく楽しむことができたと思う。
経済的にも負担を極力抑えることができたし、よかったよかった。それにしても新潟県って本当に広いなあ!


2011.10.9 (Sun.)

新潟の鉄道網はけっこうややこしい。長野県なんかは盆地の形にしたがって伸びているだけだから単純だが、
新潟の場合には越後平野に散らばる各都市が複数の路線によって複雑に結ばれているのである。
見たことのない光景を見てみたいという好奇心の強い僕としては(乗りつぶしをしたいんじゃないよ!)、
朝早く起きて遠回りをすることは別に苦にならない。というわけで、まだ暗いうちに新潟駅を出ると、まずは新津へ。
そして新津から新発田へ行き、新発田から新潟まで戻るという奇行に出るのであった。ま、準備運動ですな。

 
L: 朝ぼらけの新津駅。  R: 早朝の羽越本線を行く。朝もやがうっすらと越後平野を覆う。

新潟駅に戻ってきても、そのまま吉田駅まで同じ列車に揺られる。正直なところ余裕があればもう一度、
新潟県庁と新潟市役所を撮影しておきたかったのだが、どっちも駅から歩くし列車の本数少ないしで、
あきらめざるをえなかった。おとなしく、白新線~越後線の車窓から信濃川越しに県庁を眺めるにとどめる。
面白かったのは越後線で、一段高いところから新潟市のベッドタウンが広がる光景をしばらく眺めて走る。
「さあ眺めてください!」と言わんばかりの見やすさで、地方都市の都市構造をじっくり堪能させてもらった。

吉田より先の越後線は、なかなか趣味の世界である。本数もぐっと少なくなるそうで、ひなびた風景が広がる。
途中には良寛の出身地として知られる出雲崎があり、観光ポスターを中心に懸命なPRがなされていた。
そうして10時ちょっと前に柏崎駅に到着。今朝はなんだかんだで5時間近く列車に乗っていたのだ。
新潟県から一歩も出ていないのにもかかわらず、である。すげえな新潟、と妙な感心の仕方をする。

さて、柏崎である。僕はけっこうな都会を想像していたのだが、新潟県で6番目の人口の多い都市ということで、
実際に訪れたらふつうに単なる片田舎なのであった。かつて新潟県知事と柏崎県知事が相撲を取って、
新潟県知事が勝ったから旧越後国は「新潟県」として統一されたという噂を大学のときに聞いており、
それだけ柏崎は都会なんだろうなと思い込んでいたのである。でも雰囲気としては、小浜(→2010.8.20)っぽい。
とりあえず地図を片手にアーケードの商店街を進んでいくことにする。雰囲気はすっかり片田舎だ。

 
L: 柏崎駅。海風の強い柏崎は火災が多く、住民が火の粉を散らす蒸気機関車を嫌ったことで、街はずれの立地となったという。
R: 柏崎のアーケード商店街を行く。もう本当に片田舎の地方都市。イトーヨーカドーを核にしてがんばっております。

柏崎の名所といっても、なかなかこれといったものが思い浮かばない。いいところ、柏崎刈羽原発ぐらいである。
実際、市街地の中心部にはモーリエという市民プラザがあり、下の階は東京電力のTEPCOプラザになっている。
でもそれはとても観光名所と呼べるものではない(学生たちが受験勉強に利用している姿が目立っていた)。
どうしたもんかねえ、と思っているうちにアーケードの商店街は終わってしまった。
あとはもう、日本海を見るしか思いつかない。まあここんところ無理ばっかりしているし、
たまにはのんびり何も考えずに海を眺めるのもいいか、と思ってそのまま歩いていくのであった。

 海にほど近い小学校にて。東日本大震災で一気にリアリティが増した。

柏崎アクアパークという屋内プール施設を越えると、海岸公園に到着。防砂林の松林の脇を抜けると、
そこには砂浜の先になかなか見事な青い海が広がっていた。ここでのんびりするのも悪くない。
そう思って右手を見たら、いくつか鉄塔の建っている施設がわずかにかすんでたたずんでいた。
まあ、どう考えても柏崎刈羽原発だ。現実にその可能性は低いと思うが、もし万が一、
今この瞬間に日本海沖を震源とする大地震が発生し、大津波が襲ってきたとしたら。……鳥肌が立った。
どうしょうもないレヴェルの災害が連動して発生した事実が、いま僕の目の前で再現されるとしたら。
旅先でまったくの偶然とはいえ、喉元にその危険性を突きつけられる経験をしてしまった。

しかし今の自分にはそういうものを背負い込めるほどの余裕などない。腹の底にあきらめの感情を据えて、
砂浜に腰を下ろしてあぐらをかくと、ただただ呆けて目の前に広がっている青い海を眺める。
寄せては返す波がじわりじわりとこちらに迫ってきたが、特段相手をする気はない。何も考えない。
空と海という2つの青に挟まれて、無心のままで時間を流していく。30分ほどそうして過ごした。

  
L: 柏崎の砂浜にて。日本海がなかなかに美しい。  C: 右手を眺める。一見すると穏やかな海岸の光景でしかない。
R: しかし目を凝らすと、その先には原子力発電所が見える。この場所が持つ意味は今やすっかり変化してしまった。

分厚いコンクリートによって保証された贅沢な時間を味わい尽くすと、柏崎市街へと戻る。
戻る途中で地名の表示を見ると、「学校町」とある。柏崎市学校町。確かに周辺には学校が集まっている。
さっき見た原発と学校町との対比がどうにも現実離れしているように思えるのは、震災のニュースに慣れたからか。
そんなことを考えながらたどり着いたのは柏崎市役所。市役所は通りから少し奥まった位置にあり、
最初どこにあるのか戸惑った。結局はバス停を手かがりにして入口を見つけたのだが、妙な立地である気がする。

柏崎市役所は1968年の竣工。設計は石本建築事務所である。
ちなみに、同時に市民会館が同じ石本の設計で竣工しているが、こちらは中越沖地震により使えなくなってしまった。
現在は新しい市民会館を駅の東側に建設中。市役所の近くには第二分館があり、これもなかなか面白い建物だ。

  
L: 柏崎市役所。向かって左側は耐震工事による処置により、仮面をかぶったみたいになっちゃっているんですが。
C: 角度を変えてもう一発。  R: こちらは反対側から眺めたところ。表から見るよりも妙にマッシヴだ。

 こちらは近くにある第二分館。なかなかかっこいいじゃないですか。

駅前に戻ると、いい加減腹が減ったので昼メシを食える店を探す。と、すぐに行列のできているラーメン屋を発見。
実はさっき駅の観光案内所でもらった地図つきの冊子を見たところ、それはもう表紙に堂々と
「柏崎名物の鯛茶漬けが『全国ご当地どんぶり選手権』で第3位に入りました!」とあったのだが、
その鯛茶漬けを昼間っから予約なしで食える店はほとんどなく、あっても車でないと難しいところばかり。
しょうがないのであきらめて、おとなしくラーメン屋の行列に並んだ。客は地元の住民ばかりのようだ。
何を注文するのがいいのかまったくわからないので、テーブルに並んでいる物の種類をすばやく確認し、
また客の注文をしっかり聞いて傾向と対策を練る。しかしこれが見事に4種類ほどに均等にバラけてやがる。
こういうときは基本に立ち返るべきだ、と思ってラーメン大盛りを注文。しかし冷静に考えてみると、
一般的なラーメン屋では注文が少ないであろう中華焼きそばが大健闘しているのである。そっちだったか!
しまったかも、と思っているとラーメン大盛りがやってきた。これが本当に大盛りサイズで、少し驚く。
でも正統派の中華そばでおいしゅうございました。それにしてもやはり、中華焼きそばがいまだに気になる。

改札を抜けて柏崎駅の信越本線のホームに立つ。線路の北東には広大な土地が広がっており、工事中となっている。
あらためてじっくりと眺め、デジカメのシャッターを切る。ここには10年前まで日本石油の工場があったのだが、
それが移転してしばらく広大な空き地となっていた。上述の新市民会館は、この跡地に建設されているわけだ。

 新市民会館は来年度に完成する予定となっている。

柏崎を出た列車は、40分ほどかけて直江津へ。長野県民にしてみれば、直江津というのは信越本線の果てである。
そのためか、新潟県の地名の中ではわりと聞く頻度が高かった。特にかつては佐渡に渡る高速船のテレビCMが、
長野県では頻繁に流れていたのだ。まあ最南端の飯田市民にとってはおとぎの国のような存在ではあったが、
それでもどこか親近感を覚える地名なのだ。実際、歩いていたら八十二銀行があったし。
高田市と直江津市が合併して上越市が誕生したのは、1971年のことである。高田は60万石の城下町であり、
直江津は律令時代に越後国の国府・国分寺が置かれた歴史を持つ陸海交通の要衝だ。
そのため、今も上越市は2つの核を持つ市となっている。市役所は両者の中間にあるが、そこは明日訪れる予定である。

とりあえず、直江津駅から海へと向かってみることにした。駅からまっすぐ延びる道は街道の雰囲気をうっすら残し、
どこか懐かしいという感情を起こさせる。看板や店先のレイアウトなどに、昔ながらの要素がよく残っているのだ。
また、地方都市では土地の使い方にどこか余裕があるので、市街地にそんなにきっちり詰まっている感じがしない。
それが人口減を感じさせる面もなくはないが、直江津では懐かしいという感覚の方が上回っていた。
そうして北へと歩いていくと、海岸が見えた。さすがに港町らしく海のすぐ手前に琴平神社があり、
その横には安寿姫と厨子王丸の供養塔があった。直江津は森鴎外『山椒大夫』の舞台となった場所なのだ。
悲しい話でワンワン泣きまくってしまう僕は、まともに『山椒大夫』を読んだことがない。たぶんこの先も読めない。

  
L: 直江津駅。JR東日本の信越本線とJR西日本の北陸本線が交わる駅だからか、妙につくりが立派な気がする。
C: 直江津駅からまっすぐ延びる道を行く。いかにも歴史のある雪国の街という雰囲気が漂っている。
R: 海辺の船見公園のちょっと東側。完全に植物に占領されており、夕日の名所と言われても全然ムードがない。

そのまま海岸沿いに西へと針路を変え、上越市立水族博物館まで行ってみた。
意外と直江津の街は広いというか距離があり、地図を見て予想していたよりもずっと時間がかかる。
直江津の観光名所で主要なものは、上杉謙信が再建した国分寺がある五智という地域にわりと集中している。
これが駅からはけっこう遠いのである。水族博物館からさらに西へと進んで昔ながらの住宅街を進んでいくが、
歩けども歩けども思うように進まない感じ。結局、十念寺から県道468号に出たところで先へ進むのを断念した。
五智には国分寺だけでなく、もうひとつの越後国一宮である居多(こた)神社があるのだが、
泣く泣くあきらめることにした。駅に引き返さないと、もう一箇所の街歩きができなくなってしまう。
悔しいが、常識的に、歩きで行く距離でもないよなあ、と思って自分を納得させる。いずれ訪問したいものだ。

帰りに上杉謙信も参拝したという府中八幡宮に寄り、そのまままっすぐ駅へと戻る。
面白かったのが駅前にある建物で、ホテルの中に公共施設が入り込んでいるのである。
最初目にしたときには何がなんだかわからなかったのだが、ホテルの低層階部分が主に図書館になっていたのだ。
ホテルという完全に企業の持ち物に、市の公共施設が入る。あまりにも大胆な事例で、これにはかなり驚いた。

 
L: 府中八幡宮。上杉謙信の筆による額が掲げられているそうで。なかなか面白い雰囲気の場所だ。
R: ホテルセンチュリーイカヤに内蔵されている直江津学びの交流館の2,3階が上越市立直江津図書館。不思議だわ。

居多神社を訪ね損ねて釈然としない気持ちを抱えたまま、乗り込んだのはJR西日本の車両。
ここから北陸本線を西へ進んで、とりあえず糸魚川まで行ってみるのである。
今回は上越地方の都市をできるだけまわってみようというわけなのだ。

直江津を出た列車は右手に海を眺めて走るが、やたらめったらトンネルをくぐる。
誇張なしで、トンネルをくぐると次の駅、そしてまたトンネルをくぐると次の駅といった具合なのである。
そうして30分ちょっとかけて列車は糸魚川駅に到着する。まずは地図を確保しようと観光案内所を探すが、
駅舎を出てすぐ右手の建物ということで、見てびっくり。「ヒスイ王国館」とでっかく書いてある。
中に入ると1階はけっこう広めの土産物店となっており、観光案内所は2階(駅から直接2階に行ける)。
どこを見てもすばらしいほどにヒスイ攻勢となっていて、案内所の職員の服も緑色で驚いた。

 
L: 糸魚川駅。地質学では有名な場所で、長野県にいたときもけっこうその名は聞いた。どんな場所か楽しみだ。
R: 駅のすぐ隣にあるヒスイ王国館。1階が売店で2階観光案内所なのだが、売店の規模が異様に大きかった。

糸魚川はヒスイ以外に売りがないんか、と半ば驚き、半ば呆れながら駅から東へと進んでいく。
そこから地下道を通って南口に出るのである。地下道の脇にはコンクリートで固められた川が流れていたが、
この川の中をよく見ると、なんと小さい魚がウジャウジャと泳いでいたのであった。
下流のこんな水路に魚がいるとは想像していなかったので、これには驚いて思わずシャッターを切ってしまった。
そうして大通りに出ると、それをそのまま今度は西へと進んでいく。目指すは糸魚川市役所なのだ。
途中で北陸新幹線の開通に向けて工事中の駅舎が見えた。道路の整備も始まっており、地元の期待を感じる。
しかし新幹線の開通は在来線の第三セクター化を伴うものなので、個人的には正直あまりうれしくない。

  
L: 糸魚川駅の南側にある川(水路)。  C: 中を覗くと、このように魚がウジャウジャ。水がきれいなのかね。
R: 工事中の駅舎南側。それに合わせて周囲の住宅もこれから姿を変えるのだろう。それはそれで淋しい光景だ。

そのままトボトボと歩いていくと、糸魚川市役所への入口を発見。軽い上り坂をちょろっと進んで駐車場。
茶色い市役所の隣には白い市民会館がくっついている。デザインに統一性はないが、しっかり寄り添っている。
手前にある糸魚川市民会館は1974年の竣工。設計したのは久米建築事務所だ。
その奥に糸魚川市役所。こちらは1994年の竣工で、設計したのは久米設計。
久米設計とは久米建築事務所が名前を変えたものなので、両者は同じ事務所によって設計されたわけである。

  
L: 糸魚川市役所(左の茶色)と糸魚川市民会館(右の白)。奥の市役所は市民会館の20年後に建った。
C: 糸魚川市役所。手前には駐車場が広がっているが、奥まっている敷地と木々の関係で撮影はしづらい。
R: こちらは市役所を裏手から眺めたところ。ヒスイをイメージしたであろう薄緑色はなんとかならんか。

帰りの列車の時間を確認しようと携帯電話を取り出したら、いつの間にかストラップを落としてしまっていた。
東急ハンズで買った手のひらサイズのテトラポッドのやつで、そこそこ気に入っていたやつなのでションボリ。
ストラップはあんまり重いとネジが抜けて取れてしまうことが多いので、心配していたら案の定落とした。
旅先でこういう小さいツイていない事態に遭遇すると、日常で遭遇するよりもよけいにへこんでしまう。

さて、せっかくなので、糸魚川市役所の隣の天津(あまつ)神社にも寄ってみることにした。
自称一宮なのだが(市役所など周辺の地名も「一の宮」)、越後国全体での一宮という感じではなく、
地域で崇敬を集めている存在だから一宮と呼ばれていた、そんな感じである。が、参拝してみるとすごく面白い。
まず参道。橋を渡ってゆったりとした上りを進んでいくのだが、突き当たりに社務所。そこで左折することになる。
一段高くなった境内に出ると、右手にいくつか建物があり、左手に茅葺きの拝殿がある広い空間となっている。
参拝するのにわざわざ180°向き直らせる構造になっている神社なんて初めてなので、これにはかなり驚いた。
茅葺きの拝殿もなかなか風格がある。さすがに一の宮という地名がつくだけのことはある、と感心。
空間の配置も建物じたいもほかに例のない独特さである。とても興味深く参拝させてもらった。

  
L: 天津神社の参道。ここをまっすぐ進んだ先にヘアピンカーヴがある。なんとも面白い参道である。
C: 参道を抜けると広い場所に出る。まずは右手を眺める。右が衣紋所、左が楽屋、そして石垣の舞台。
R: 向き直って拝殿を眺める。奥にある本殿は右が天津神社で、左は境内社の奴奈川(ぬなかわ)神社。

来た道を戻って再び北陸本線をくぐり、糸魚川駅前に戻るべく歩いていたら、地面に見慣れた物体が転がっていた。
手のひらサイズのテトラポッドである。落としたはずの僕の携帯ストラップが、今、目の前にちんまり座っている。
(ご存知のとおりテトラポッドは4つの頂点を持った物体なので、どう転んでも3本足で立つのである。)
落としたストラップが目の前に再び現れるなんて経験は初めてだ。なんという奇跡だ!と心底驚いた。
まったく目立たない灰色なのに、ぴったりと視界に入って認識されるとは、ちょっと考えられない。でも戻った。
こんな小さいことで運を使ってしまうとは、と思うと同時に、素直にうれしい気持ちになるのであった。

そんなこんなでともかく、糸魚川の街歩きである。駅からまっすぐ伸びるアーケードの商店街には、
「ヒスイロード」という名前がついており、実際にヒスイの原石やオブジェなどが何個も並んでいるのである。
店もヒスイに関連したものがいくつかあり、糸魚川といったらヒスイ!というイメージが強烈に刷り込まれた。
とにかくもう、やたらめったらヒスイヒスイ。日本のヒスイの首都は糸魚川だということがよくわかった。

  
L: ヒスイロード。もう本当に昭和からほとんど姿を変えていない感じの駅前アーケード商店街だ。
C: ヒスイロードにはさまざまなヒスイのオブジェがあった。これはヒスイの原石をそのまま置いたもの。
R: 国道8号へ向かってヒスイロードを歩いていったところにある駅前海望公園。かつての糸魚川市役所の跡地だ。

ヒスイロードをそのまままっすぐ突き進むと、海に出る。その手前のところに大町展望台がある。
大町展望台には地下道で国道8号を渡ってアクセスするのだが、上ってみたらこれがまあ、消波ブロックで風情ゼロ。
ここから夕日を眺めることができるようになっているんだけど、海岸線は見事にブロックだらけで、
もうちょっとなんとかならないもんかなあ、と思わされるのであった。しょうがないかもしれないけどさー。

 
L: 大町展望台。見てのとおり、虹をモチーフにしている。横断歩道がないので地下道でアクセスするしかない。
R: 消波ブロックがしっかりと海岸線を埋めていて、行くのに手間がかかるわりにはなんとも味気ない風景だった。

大町展望台を降りた後は、中心市街地をのんびり歩いてみたのだが、こちらはもう面白くってたまらなかった。
新潟県では「雁木(がんぎ)」と呼ばれる伝統建築による街づくりの手法が発達しているのだが、それが炸裂していた。
現代風に言えばアーケードの商店街ということになるのだが、これを木造建築の1階部分をセットバックして、
通りに沿ってずっと連続させているのである。雪を除けて通れるように、という雪国ならではの工夫なのだが、
木造の伝統的な商家建築でやっているので、独特な雰囲気のする公共空間として成立しているのだ。
よく考えたら以前にも村上(→2009.8.12)や飯山(→2009.8.13)、さらには日田(→2011.8.7)でも、
僕はこの雁木による街並みを体験していたのだが、はっきりとそれが公共空間として成立しているのを体感できたのは、
ここ糸魚川が初めてだ。はるか昔の先人たちが編み出した工夫に触れて、かなり興奮しながらシャッターを切った。

  
L: 糸魚川の伝統的な商家建築群。1階部分をセットバックして通路をつくり、そこに屋根をかけている。これが雁木。
C: 京屋の本家。旧来の雁木を持った建築の貴重な事例だ。  R: こちらは近くにある京屋の分家。この雁木空間も見事。

  
L: 糸魚川では新しい建物では広めに雁木の空間をとり、公共性を強めているようだ。ベンチがある点に注目。
C: 雁木の標準的な幅はこれくらい。  R: 平安堂旅館。今も現役で、なかなかすごい風格であります。

糸魚川に滞在できる残りの時間を雁木でウハウハしながら過ごす。しかし残念ながら人通りはあまりなく、
せっかく用意された公共性もそれほど生かされている印象はなかった。ただ、雰囲気は抜群にいい。
単なるアーケードの商店街にはないアットホームな感覚があり、歩いているだけでも穏やかな気分になれる。
糸魚川では予想以上にいろいろな収穫があった。わざわざ訪れた甲斐があって本当にうれしい。

列車で糸魚川から直江津まで戻る途中、トンネル内にある駅として有名な筒石駅のホームを撮影してみた。
実は往路で「なんじゃこりゃ!」と激しく驚いたのだが、驚いてばっかりいたせいで撮影する余裕がなかったのだ。
本数が少ないのでさすがに降りてみることはなかったが、その独特な迫力には圧倒されたわ。

 筒石駅にて。非常に珍しいトンネル地下駅のひとつ。妙な迫力があるなあ。

直江津で軽く一休みしてから長岡まで戻る。本当は柏崎辺りで泊まることができると楽だったのだが、
安い宿となると、どうしても新潟新幹線の通っている長岡まで戻るしかなかったのだ。しょうがない。
まあ、長岡の方がメシが充実しているのも事実なので、おとなしく30分ほどよけいに列車に揺られるのであった。

 で、今回も結局へぎそば。やっぱりコシが半端じゃないっす。

本日の宿は長岡からめちゃくちゃ近いところにあったので、体力的にはけっこう助かった。
これなら明日の朝もそれなりにのんびりすることができる。今までは宿の駅への近さを特に気にしたことがなかったが、
わりと重要な要素なのかもしれないなあ、と再認識。まあとにかく、気持ちよく旅の最終日を迎えられそうである。


2011.10.8 (Sat.)

テスト前で部活がなくって3連休とくれば、そんなもん、どっかに出かけちゃうよ!
とはいえ8月は九州、9月は修学旅行(費用は区から出たけど、土産代で赤字に……)、今月は京都へサッカー観戦と、
それなりに動いているので金がない。新幹線で帰ったしなあ。FREITAGもしっかり買っちゃったしなあ(→2011.9.6)。
だからできるだけ慎ましやかにやるしかねーや、ということで、今回は緊縮財政の旅なのだ。
鉄道の日記念きっぷで目指すは新潟県。特に今回のターゲットは、まだ行ったことのない上越地方だ。
(ちなみに慎ましやかにやらない場合は北海道を想定していた。夕張・室蘭・苫小牧……いつか行きたいなあ。)
唯一の問題は、そのテストが完成していないということだが、まあ夜に宿屋でがんばればいいや。
今回の中間テストで英語の出番は初日(火曜日)の1時間目。まあなんつーの? 「背水の陣」ってやつ?

大岡山を出発し、目黒でJRに乗り換える。山手線で池袋まで行って、そこから埼京線。
赤羽で高崎線にスイッチしたのだが、その際、いつもは絶対そんなことしないのに、初めてグリーン券を買ってみた。
正確に言うとSuicaにデータを読ませるので「買う」という感じにはならないが、まあとにかく、そうしてみた。
そしたらこれが予想外に快適なのである。同じ電車なのにこの差はいったいどこから出てくるんだろう、と不思議だった。

高崎からは上越線である。前に沼田までは行ったことがあるが(→2010.12.26)、その先は初めてなのだ。
よく晴れた休日ということで登山客がたっぷり乗っており、まったく座れる気配がない。
結局そのまま立ちっぱなしで終点の水上まで行く破目になってしまった。グリーン車とはえらい差だぜ。

 
L: 水上駅に到着なのだ。周囲はいかにも温泉街。  R: 水上は山が近いなあ!

上越線をさらに北へ。トンネルの中に入ってゴーゴー進んでいく。なんとも味気ない時間がしばらく続く。
水上駅から2駅目にあるのが、有名な土合駅だ。僕が乗っているのは下り線なので、ホームは地下70mである。
当然、物好きな僕としては降りてそのモグラっぷりを体験してみたかったのだが、列車の本数があまりに少なく、断念。
ここで土合駅に降りちゃうと、2時間近く待つことになってしまうのである。そんなヒマがあったら街歩きをしたい。
さらに言うと、上越線は上りだとほとんど地下ではあるが、二度のループを味わうことができる。
しかし鉄ではない僕としてはそれよりも行ってみたい街があるので、同じルートを往復はしないのだ。
まあそういう価値観からすると、上越線のトンネル地帯はなかなか退屈でございました。

トンネル地帯を抜けた上越線は、越後中里駅に到着。新潟県らしい、山に対してちょっと開けた感じが漂う。
そして周囲はとにかくスキー場だらけ。あるいは、スキー場関連の建物だらけ。山がちな景色には場違いな、
背の高い建物もある。これはつまり、スキー客向けの宿泊施設というわけだ。
小学5年生以来「スキー=骨を折るスポーツ」である僕にとっては、なんとも不思議な光景である。

そこからさらに列車はゆるゆると北へ進んでいくが、だんだん空模様が怪しくなっていく。
天気予報では雨が降るなんてことはまったく言ってなかったはずなのだが、長岡に近づくにつれて暗くなっていく。
そして長岡駅に着くと、大手口から出て、あらためて愕然とする。やっぱり、まさかの土砂降りである。
旅行をスタートして最初の目的地で大雨というのは、そりゃもうへこむものだ。
しかし肩を落としてため息をついているヒマなどないので、地下道を通ってさっさと大手通りへ。
そうして地上に出てみると、アーケードの商店街は今まさに祭りの真っ最中……だったところ。
しかしその祭りの真っ最中に突然の雨ということで、そこにいるほぼ全員が途方に暮れているのであった。
どんなときでも折りたたみの傘を持っている僕は、そんな皆さんを尻目にスタスタ横断歩道を渡る。

さて長岡では長岡市厚生会館跡地に新しく市の施設「アオーレ長岡」を建てるということで(→2009.8.13)、
予定ではもう工事が終わっているはずだよなと思って来てみたわけだが、まだまだ竣工は遠そうな気配。
うーむ、しまった!と思うがどうしょうもない。とりあえず建設中の様子を撮影してその場を離れる。
と、大雨の中でも強気にイベントは続けられているようで、駅の方から一台の人力車がやってきた。
アナウンスに耳を傾けると、映画『聯合艦隊司令長官 山本五十六』に出演している吉田栄作が乗っているとのこと。
まさかこんなところで吉田栄作を見かけるとは。吉田栄作は大雨の中、にこやかな笑顔で手を振っている。
濡れないように観衆はアーケードから遠巻きに見つめるだけなので、雰囲気はかなりアウェイ。
しかし吉田栄作はひるむことなく手を振り続けるのであった。芸能人の営業ってのも本当に大変だ。

 
L: 竣工していると思って来たのだが、アオーレ長岡はまだまだ建設中なのであった。  R: 雨の中の吉田栄作。お疲れ様です。

アオーレ長岡は見事に空振りに終わってしまったが、長岡に来た目的はもうひとつある。
それは旧長岡市役所である柳原分庁舎(→2009.8.13)をきちんと見ることである。
前回長岡に来たときには、この建物が旧市役所であることに気づかず、あっさりとスルーしてしまったのだ。
リベンジを果たすべく、一向に弱まる気配のない雨の中をグイグイと進んでいく。

  
L: 1955年竣工の長岡市役所柳原分庁舎。設計は石本建築事務所。2階は長岡市立科学博物館となっている。
C: 近づいてみた。近くで見たら、意外と材質が軽そうというか、華奢な印象がした。  R: 裏側はこんな感じである。

柳原分庁舎からの帰り道、思っていたよりも距離があって時間がかかってしまったので、
祭りのテントの出店で「たれカツ丼」とたこ焼きを買って駅まで戻った。落ち着いて食っているヒマはなさそうだ。
駅に着く頃になってようやく雨脚は弱まってきた。この先のことを考えるとうれしいが、なんか腹立たしい。
ともあれ、列車は動き出した。越後平野を快調に進むにつれて、空は明るくなっていく。ニンともカンとも。

東三条駅で弥彦線に乗り換える。弥彦線は休日の高校生たちをたっぷり乗せて西へと走る。
三条といえば、わが大学の後輩にして都職員の先輩であるニシマッキーの出身地だ。
ニシマッキーんところの地元の高校生はこんな感じかよ、イマイチ品がねえぞ、と思っているうちに燕市へ。
それにしても弥彦線は高架でしっかり設備投資がなされている。これは上越新幹線の燕三条駅がある関係だろう。
新幹線と在来線をつなぐ役割を果たすことで、それほどローカル色の強さを感じさせない仕上がりとなっている。
が、それも弥彦線と越後線をつなぐ吉田駅まで。吉田駅の先は完全に農地の中を行く鉄道となる。
見渡す限り田んぼが埋め尽くしている越後平野をぶっちぎり、目指すは緑の壁のようになっている山。
その山と平野の境界あたりにあるのが弥彦駅だ。終点のここで降りた観光客はけっこう多くて驚いた。

 
L: 弥彦駅。……あ、最果て写真を撮るの、忘れてた。  R: 彌彦神社を目指す。なんだか、デジャヴを感じる光景だ。

駅から出てすぐにある観光案内所で地図をもらう。弥彦村は彌彦神社だけでなく温泉もあるため、
観光地としてかなり定着しているようだ。地図をよく見たら競輪場まである。おそるべし、弥彦村。
とりあえず上り坂になっている大きな通りを歩いていく。雰囲気は正直、「駒ヶ根」って感じ。
一部の長野県民にしかわからないかもしれないが、駒ヶ根ICより先にある駒ヶ根公園一帯、あの雰囲気なのだ。
このまま行ったら「ドライブイン太郎」があるんじゃねえかって思ったわ。ああいう感じ(→2008.6.8)。
(※ドライブイン太郎……僕の祖母の妹が共同経営していたドライブイン。名物は「すずらん牛乳」で、
 僕と潤平にとってはファミコンの聖地。ここで狂ったように『がんばれゴエモン2』をやったもんだ。)
まあ要するに、長野県によくあるような「片田舎の高原地帯の観光地」という雰囲気のする場所だった。
しばらく坂道を上っていくと、駅を出てから2個目の信号機が現れる。ここを左折して進んでいくと、彌彦神社に着く。

彌彦神社は「いやひこじんじゃ」と読むのが正式である。が、路線名も駅名も自治体名も「やひこ」となっている。
祀られているのは越後国を開拓したという伊夜彦神(天香山命)。観光客が多いのは、そういった経緯もあるためか。
新潟県民の崇敬を一手に集めているような印象さえする賑わいぶりなのである。

  
L: 彌彦神社はここから。  C: 人間は渡れない玉の橋。境内に一歩入ると、やはり緑に包まれた神聖な雰囲気となる。
R: 随神門。境内のあちこちでは弥彦菊まつりの準備が始まっているようだ。皇紀2600年記念で1940年に建てられた。

彌彦神社の社殿は1912(明治45)年に火災で焼失してしまい、1916(大正5)年に場所を移して再建されたそうだ。
門をくぐって拝殿と向き合うと、堂々と軒を広げているその向こうに弥彦山が見える。フォトジェニックである。
参拝を済ませると、境内をのんびりと散歩する。舞殿では子ども4人が弓を手に舞っており、神聖な雰囲気満載。
そのまま境内を下っていくと、さまざまな種類の鶏を飼っているオリがあり、さらにその先では鹿が飼われていた。

  
L: 彌彦神社の拝殿。新潟県民の心のふるさとということなのか、次から次へと参拝客が来て撮影しづらかった。
C: 舞殿では少年たちが何やら舞を舞っているのであった。  R: 鹿もいる。子どもの鹿は好奇心旺盛なのであった。

彌彦神社からの帰りは地図で「参道」と書かれていた道を歩いたのだが、もう完全に田舎の住宅地の路地裏だった。
通るのが申し訳ないくらいに地元の生活空間といった印象で、大学時代の合宿のオリエンテーリングを思い出した。

弥彦線に揺られて吉田駅まで戻ってくると、猛ダッシュで改札を抜ける。次の列車が発車するまで10分。
その10分間で市役所を撮影しようというのである。平成の大合併によって燕市は市域を拡大し、
新しい市役所を旧吉田町役場とした。交通の便を考えてのことだと思うが、市役所探訪をする身としては、
歴史ある街の役所が主役でなくなってしまう事態はけっこう悲しい。でも弥彦線は本数が多くないため、
燕のほうの庁舎は泣く泣くあきらめ、旧吉田町の本庁舎のみの撮影でガマンすることにしたわけだ。

駅舎を出ると、すぐ右手にある階段を駆け上る。吉田駅に出入口は西側のひとつだけしかないので、
線路の東側へ行くには歩道橋を使うしかないのだ。これを渡れば市役所はすぐなのだが、
吉田駅のホームは5つあるのでけっこう距離がある。なんとかがんばって駅の東側に出ると、
逆光気味の中で一発勝負の撮影を敢行し、再び歩道橋を駆け上がって駆け下りてミッションクリア。
時計を見たら5分かかってなかったのでまったく難しいことではなかったが、妙に神経を使って疲れた。

  
L: 吉田駅。  C: 歩道橋を渡った東側から駅を撮影。  R: 旧・吉田町役場の現・燕市役所。ふつうです。

こちらの庁舎は1970年に石本建築事務所の設計で竣工した建物だ。
これでいちおう燕市役所は押さえたことになるわけで、そうなると次は三条市役所である。
やはり知り合い(ニシマッキー)の故郷の市役所ということで、これは無視するわけにはいかないのだ。
せっかくなのでニシマッキーの育った街の様子を体感しようと、終点のひとつ手前の北三条駅で降りた。
ここから市役所経由で東三条駅まで歩くことで、三条の街について知ろうというわけだ。
で、北三条駅のホームに降りたところで、一枚の観光ポスターが僕の目に飛び込んできた。
「三条名物・カレーラーメン」とある。なんと、三条はそんなもので街おこしをしようというのか。
晩メシは宿を予約してある新潟に着いてからにしようかと考えていたのだが、
カレーラーメンなどという珍妙な料理、そうそう見かけるわけではないので、チャレンジするべきかもしれん。
まあとにかく、初訪問の三条が並々ならぬインパクトを与えたことは事実である。期待が高まる。

北三条駅を出ると、ロータリーから北へ。そうしてぶつかった通りが三条の中ではまずまずの幹線道路らしいので、
それをひたすら東へ進んでいくことにした。道の雰囲気としては……「青梅街道」。小平西部の青梅街道っぽい。
(この表現、ニシマッキーがわかってくれることを祈るわー。一橋OBとして、この感覚はわかりあいたい。)
しかし一向に商店街にはぶつからない。郊外社会の感触しかしないところに、三条郵便局が現れる。
その都市の中心的な郵便局ってのは基本的には旧市街地にあるものなので、この辺りが三条の中心なのか?と思う。

 
L: 北三条駅。高架化した際に周辺を整備したのか、妙に立派なロータリーがある。でもそれだけ。
R: 三条郵便局で左折して北へ。雰囲気は完全に郊外社会で、狐につままれたような気分である。

郵便局のある交差点には市役所の案内板が出ており、左折して北へと進んでいく。郊外の雰囲気がさらに強くなる。
首を傾げつつトボトボと歩いていくと、無機質な庁舎建築が道の左側に見えた。あれが三条市役所か、とカメラを構える。
が、どうにも撮りづらい。あまりにも無機質すぎて、どこを撮影すればいいのかがつかめないのである。
なんとも変な感触がする。まあそれでも周囲をあちこち歩きまわってシャッターを切っていく。

  
L: 三条市役所の低層部分は屋上がオープンスペース的に整備されている。そこから高層部分を撮影してみた。
C: 道を挟んで撮影。うーん、なんだかピンとこない。  R: 先へ進んで振り返って撮影するとこんなん。

三条市役所は1970年の竣工。設計は先ほどの燕市役所(旧吉田町役場)と同じく石本建築事務所だ。
道を挟んだ向かいにある第二庁舎は1965年の竣工であり、本庁舎が建った時期と極めて近いので、
この周辺は行政専門の区域として整備されたものと思われる。その証拠に、道も広くてまっすぐである。
1960年代で郊外へ市役所を移転させるのはなかなか度胸のあることなのだが、思い切って実行したようだ。
となるとやはり、三条市の中心市街地は別のところにあるということだろう。東三条駅までの間にあるのかな……?
などと思いつつ撮影。しかしまあ、三条市役所はそれまでの道のりと同様に、ものすごくつかみどころがない印象だった。

  
L: 低層部分と高層部分の境目に入口がある。そこから入っていくと、このようなエントランスがあるのだ。
C: 反対側へ抜けたところ。まったくさっきと変わらない。  R: こちらは道を挟んだ向かいにある第二庁舎。

とりあえずこれで三条市役所の撮影は完了したのだ。来た道を再び戻って東三条駅を目指す。
しかし、歩けども歩けども一向に商店街らしいものにぶつからない。カレーラーメンの店も一軒もない。
雰囲気は完全に街はずれの道路と住宅。でも駅の立地を考えると、いま歩いているこの辺りが中心部のはずだ。
首をひねりながら進んでいくが、景色はまったく変わらないまま東三条駅に到着してしまった。
なんだこの街!? ニシマッキーの心象風景はいったいどうなっているんだろう?と、よけいな心配をしてしまう僕。
まあ、後でニシマッキーから聞いた話によると、三条の中心市街地はどの駅からも離れている場所にあるんだそうで、
言ってみれば、新潟県特有の複雑な鉄道網が、ちょうど市街地をよけている格好になっているみたいなのだ。
まあいつかカレーラーメンへのチャレンジも兼ねてリベンジできるといいかなあ、と思う。

 
L: 行けども行けども郊外。おかげで僕の三条に対する印象は、「超つかみどころがない!」というものに。
R: 東三条駅。駅前はかなり空洞化が進みきっていたのであった。ここが三条市の中心駅だと思ったのだがなあ。

東三条駅も特にこれといった施設がなく、おとなしく待合室で日記を書いて過ごしたのであった。
やがて電車が来たのでそれに乗って新潟へ。今夜は新潟に泊まるのである。そしてテストを仕上げるのだ。
新潟駅に到着すると、宿へ行く前にまずは晩メシ。カレーラーメンを食いそびれたのは残念だが、
新潟には毎回(といっても2回)寄っているハンバーグの店があるのだ。今回もしっかりとおいしくいただいたぜ。

 400g、おいしくいただいたのだ。

宿に着いてみたら思ったよりも駅に近かった。部屋に入ってさっそくMacBookAirを取り出しIllustratorを起動。
かなりしっかりと取り組むことができ、テストは無事に仕上がった。これで気兼ねなく明日以降は旅行の方に集中できる。
よかったよかった。……あとはたまっている日記だな。


2011.10.7 (Fri.)

サッカー日本代表のベトナム戦。ザッケローニが3-4-3を採用して臨む。時代は3バックか? ふっふっふ。

前半24分、長谷部から3トップの右サイドに入っている藤本にパスが出て、そこから相手を抜いてゴール前に折り返し。
そこで李が合わせて日本が先制する。この得点シーンはきれいにベトナム守備陣の隙を突くことができていて見事だった。
それ以外にも連動した攻めをところどころで見せるが、追加点ならず。サイドからたたみかける攻撃がなかったのが残念。
香川はうまくボールを受けるのだが、そこから狭いエリアを器用にすり抜けるいつものプレーは出てこなかった。スランプか。

後半は一気に4人を入れ替えて、フォーメーションも4-2-3-1に変更。この試合は徹底してテスト扱いである。
しかしながらいきなり二度のピンチを迎えるなど、調子は上がらない。パスが出たときに受け手はいても、
次にボールを受ける選択肢となるべき選手が全然スペースに走っていない。また、一歩目が遅くて攻めきれない。
原口のドリブルは効いていたものの、それ以外にこれといって有効な攻撃がなかった印象である。

ベトナムが集中してけっこういい守りをしていたとはいえ、3-4-3でも4-2-3-1でも冴えないままで終わったのはさびしい。
特に3-4-3は成果らしい成果が出ないままでいる。4-2-3-1についても、選手を替えすぎたら元も子もない感じだ。
最低限の結果は残しているものの、なんとなく閉塞感を覚えてしまう内容なのであった。うーん、大丈夫かね。


2011.10.6 (Thu.)

スティーヴ=ジョブズが亡くなった。健康状態がよくないことは周知の事実だったが、あまりに早い死だ。
ジョブズ自身についてのあれこれはニュースにネットにいろいろ情報があるのでいいとして、
ここではちょっくら、僕のApple観というかApple製品についての思いをつらつら書いて追悼文のかわりとしたい。

僕が初めて自分の金で買ったApple製品はiPodだ。ウチの家族の中でiPodを買ったのは僕がいちばん早く、
クイックホイールにとんでもなく大きな衝撃を受けたことを覚えている。ついに人類、ここまで来たか!と。
デジタルをアナログに操作することで、機械と身体の関係性がまたひとつ更新されたわけだから、これには震えた。
また持ち運びできる容量が飛躍的に増えた点も大きい。自分が一生のうちに聴ける音楽以上の量が保存できるのだ。
人間がむしろ情報のための「足」となっている、そういう状況が完全に到来したことを思い知らされた気分だった。

そしてデザインに惹かれてiPod shuffle(第2世代)も買ってしまった。いまだにこのデザインは最強だと思う。
手のひらに完全に収まるどころではないサイズで、服の端っこに挟んでおけばそれでいい、という仕組み。
これほどまでに洗練された電化製品が今までにあっただろうか、と心底感動したものだ。これは結局circo氏も買ったなあ。

僕とApple製品の最初の出会いは、circo氏がMacintosh Color Classicを買ったことである。
いま思えばいったい何が目的で買ったのかよくわからないのだが、ともかく僕はそれを機にMacというものに触れた。
時代はMS-DOSが全盛だった頃だ。まったく考え方の異なるMacは、あまりに異質すぎて何をすればいいのかわからない。
そもそもCD-ROMのイジェクトボタンがない(ジョブズがボタンを嫌ったから。それでシステム上でイジェクトするわけだ)。
とりあえず当時の僕としてはDOSマシンとの違いを体感することくらいしかできなかったが、まあでもそのおかげで、
Macの発想、Appleの価値観というものには触れることができた。「Macは秘書のようなもんだ」とcirco氏は言っていたっけ。
しかしその後、マイクロソフトは大胆不敵にもMacの発想をパクってWindowsなるものをおっぱじめる(いわゆるGUI)。
これはタイミングとしてはちょうど僕が浪人ぶっこいてパソコンに触れなかった時期と一致しており、
大学に入ったらパソコンをめぐる環境がまるっきり変わってしまっていて、ずいぶんと驚いた。
DOSマシンに慣れきっていた僕は、なんだよ、結局Macみたいになってるじゃねーか!と腰が砕けたものである。

最後に、今このログを書いているツールであるMacBookAir。
すでにVAIOのノートを持っていた僕としては、2台目のノートパソコン、それもMacというのは、本来必要ないものだ。
しかし、もうデザインがあまりに良すぎて、ここまでやられたら欲しくなるわそりゃ……と、結局買ってしまった。
で、いざ使ってみると、やっぱりこの薄さと軽さとバッテリーの粘り強さは文句なしにすばらしい。
DreamweaverにIllustratorにPhotoshopと、Windowsとシームレスに連携してやりたい放題ができている。
僕にしてみれば自分の満足できる環境が完全にそろっている現状なので、もうこれだけで幸せと言えるほどだ。

それにしてもMacBookAirのデザインは本当に最高に気に入っている。いまだに眺めているだけでワクワクするくらいだ。
上でふれたiPod shuffleの第2世代もそうだけど、Appleが極限まで絞り込んだデザインをしたときは、
もう何とも言えない、究極のミニマルアートを見るような思いになる。あまりに美しいので、結局買っちゃう。
そういう衝動にかられることは、ほかのメーカーでは決してありえない。これは不思議なのだが、本当にそうなのだ。
FREITAGがいい例だと思うが、僕はデザインが完全に自分のツボに入ったときには、確固たる信念を持って支持をする。
性能なんてどうでもいいからオレにそのデザインを所有させてくれ、と完全に白旗をあげちゃうパターン。
そしてAppleは僕にとって、最も打率の高いメーカーなのである。いや本当にMacBookAirには惚れ抜いたわ。
だからそんな作品を生み出すジョブズの存在が消えてしまうということは、これは恐ろしいことなのである。

ジョブズ、あんたがいなくなることに不安を感じるぜ。狂おしいほど愛せるオレの手下は、もうこれ以上増えないのか?


2011.10.5 (Wed.)

なんだかよくわからないのだが、季節は急に秋になって寒さがいきなりやってきた。
いちおうスーツの上着は用意したのだが、それを着るとなると、ネクタイがないと締まらない気がする。
じゃあネクタイ締めてみっか、と首に巻いてみたのだが、久しぶりのネクタイは予想以上に気持ち悪い。
僕はもともと、マフラーさえお断りなくらい首に物を巻くのが大嫌いな人間なのだ。これは耐えがたい。
しょうがないので上着を着ないでロッカーに置いておいたカーディガンで済ませることにした。

そしたら生徒が大騒ぎなのな! 特に女子が気持ち悪い気持ち悪いと泣き叫ぶ。ホントに誇張なしで。
どうもカーディガン姿の僕は学生っぽく見えるらしく、それで過剰に反応しているわけなのだ。
女子はビクッと体を震わせ、男子は「生徒かと思った」と100%の確率で言ってくる。なんだこれは。
「マジでー? オレ高校生に見えるー?」と茶化しつつ、そこまで嫌わなくても……と内心ブルーになる僕なのであった。

午後には区の教育会で研究授業が行われた。若手の数学の先生がウチの3年生で授業をやるということで、
僕は英語をサボってそっちにもぐって見学したのであった。こういうところは学生時代から変わらないのだ。
で、何がすごいって、たった12人の生徒の授業(もともと少ないうえに少人数なので)であるところに、
100人ほどの来客が見込まれるということで、なんと体育館での授業となったのだ。さすがにそれは初めてだ。
生徒12人×教員100人×体育館。なんだこりゃ。……というわけで詳しい話を聞いたときには大爆笑したのだが、
いざ始まると生徒たちは意外と度胸よく集中して授業が進んでいく。去年は地蔵だらけだったのに……。
僕が素知らぬ顔して見学者に混じっているのに気がついて、声をかけてくるくらいのリラックスぶりだった。
それにしても、体育館に生徒12人が座っているところを教員100人がウロウロ歩きまわっていると、
まるで東京ビッグサイトでの何かの展示会みたいだ。出版社時代やイベントスタッフのバイト時代を思い出しちゃったよ。


2011.10.4 (Tue.)

こないだ梅田で観たsundayの『ハイ/ウェイ』のレヴューをきっちり書くのだ。
「ちゃんと書けよ」と潤平に念を押されたので、できる限りていねいに書いてみようかと思う。
ここでいきなり結論になっちゃうんだけど、いつもの僕なら「見るべきところはゼロ」で終わってしまうデキで、
これをきちんと書くというのはエネルギーのムダでしかないのだが、頼まれたので、まあ、できる限りで。

作品の概要を述べると、高速道路上で事故死してしまった女性を6人の役者で描いている。
その女性を事故死させてしまう男が焦点になる時間帯もあるが、まあほぼメインはその女性ひとりだ。
アプローチとしては昨年の『サンプリングデイ』(→2010.7.29)に共通している方法論が指摘できる。
それは役者たちが「一個人としての自分が他者を演じる」という行為を舞台上で宣言している点。
つまり役者自身の主観を交えて演技がなされることが舞台上でまず明らかにされ(そういう演出ね、念のため)、
その主観交じりの演技を複数束ねることで客観的な結果(=事実)を得ようと試みているのである。
僕には演劇という手段において、役者の自我を介在させる意味が理解できないのだが、とにかくそうしている。
それによってどのようなメリットが得られるのかは僕にはわからない。なのでこの点については何とも言えない。
ただ、通常の演劇では常識の「観客の解釈が演劇を成立させる」という手続きに何かしらの反抗をしているのは確かだ。
僕個人としては、物語に観客が参加する余地を奪う行為であるように感じている。要するに、「嫌い」ってことだ。

●分析1:『市民ケーン』(→2003.10.22)との比較

まずはO. ウェルズ先生の傑作映画『市民ケーン』について少々。新聞王・W.ハーストをモデルにした、ケーンが死ぬ。
彼は死の間際に「rose bud(バラのつぼみ)」とつぶやいた。主人公はさまざまな人々に話を聞き、その意味を探る。
埋もれた過去を多角的に掘り返しながら、物語は進んでいく。そうすることで、ケーンという人間が立体的に描かれる。
『市民ケーン』の何がすごかったって、現在のダイアローグと過去の回想だけで彫刻のごとく人間の人生を再現した点だ。
ケーンという対象はすでに死んでいる。人生が完結している。その像に肉薄し、最後は逃げられる(おっとネタバレだ)。
たった2つの手法だけで、不完全に終わった点も含めて人生を描いてしまった。その鮮やかさは永遠に褪せることはない。
(これを焼き直したのが、中島哲也監督の『嫌われ松子の一生』(→2006.5.27)。親戚一同から疎んじられ、
 孤独のままに死んだ叔母の松子の人生が中島監督らしい派手な演出とズルいキャストで振り返られる。
 やはりこちらでもダイアローグと回想によって話は進んでいく。ダイアローグが新たな回想のきっかけをつくるのだ。)
しかし『ハイ/ウェイ』には回想はあってもダイアローグがない。他者の視線がなく、すべてモノローグで進んでいく。
途中で差し挟まれるのは役者たちの会話。でもそれは同じ人間を演じる役者の会話だから、結局モノローグなのだ。
言わば舞台上でみんながブツブツ独り言をつぶやいているようなもので、まあはっきり言って気持ち悪くてたまらなかった。

●分析2:『キサラギ』(→2007.8.11)との比較

『キサラギ』は、焼死してしまったアイドル・如月ミキの死の真相を5人の登場人物が探るミステリ映画。
集まった5人の立場が曖昧なものからはっきりとしたものへと変化していき、そんな彼らのやりとりから、
ヒロインの死の真相が段階を追って明らかになっていく。ちょっと新機軸の安楽椅子探偵ものと言えそうだ。
で、この作品の名前を挙げた理由は一点。「ヒロイン、死んじゃってんじゃん!」ということ。
無念な彼女の死の真相が明らかになったところで、死んじゃっていちゃあどうしょうもないのだ。
観客の僕らにもどうにもできない。そういう救われない話を2時間もかけて組み立てる意義がわからない。
(よく考えたら上で例に出した『嫌われ松子の一生』もそうだな。やっぱりヒロインは救われない。)
物語というものは、完結して完成しなければならず、またそれは続いていかなければならない。逆説めいているが。
つまり、物語はフィクションとして完成されて完結した瞬間、ノンフィクションである現実の世界にバトンタッチする。
そうして物語は続いていくのだ。本や劇場や映画館から開放されて、物語は今度は現実の要素として続いていく。
だからすべての物語は現実を生きるわれわれの武器として心に刻まれなければならない。そうでなければ、価値がない。
ところが物語の最初っから主人公が死んでしまっていると、その死がフィクションの中でどんな扱いを受けようとも、
ノンフィクションの現実の世界には続いていかないのだ。面白いことに、見事なまでに切れてしまう。
フィクションの側でもう二度と走り出すことがないと宣言してしまったら、それは絶対的な事実として残るのだ。
しかも『ハイ/ウェイ』の主要な登場人物は1人だけで、それが死んじゃってるんだから、もうどうしょうもない。
誰も後に続かない。だから僕らはどうすることもできないまま、それを見つめてイヤな気分になるだけだ。

●分析3:劇団☆世界一団時代の『地球人大襲来』(→2002.1.12)と前作『サンプリングデイ』(→2010.7.29)との比較

『地球人大襲来』は、20分20秒後に地球人たちが攻め込んできて滅亡させられてしまう惑星エンドが舞台。
そこに生きる人々が、世界の終わりを知ったり知らなかったりしながら、残された時間で複数の物語を織り上げる。
この作品の最大の特徴は、たった11人の役者で総勢35人の登場人物を再現していた点。
中には3人一組で1人の宇宙人、というものもあった。身体となわとびを武器に、あの手この手で役が演じられた。
前作の『サンプリングデイ』でも1人の役者が何役もこなす手法がとられ、舞台の立ち位置で役は入れ替わった。
対照的に、『ハイ/ウェイ』では1人(2人)を6人の役者で描いている。やっていることがまるっきり真逆なのだ。
これはつまり、役者1人あたりのできることが役に対して分数になってしまっているということでもある。
じゃあ多重人格(本物の多重人格ではなく、人間の性格の要素という意味での多重性と捉えてくれ)なのかというと、
そうではなく、役者自身の自我・視点・主観によって1人の女性が演じ分けられているにすぎない。
これではダイナミックな物語になるわけがない。やはり、すべてがモノローグに回収されてしまっているのだ。
さっきも書いたけど、人間が交差することなくずっとひとりでしゃべっているだけ、そんな仕上がりになっていた。

『ハイ/ウェイ』では舞台装置も大問題だった。舞台空間いっぱいにクロスする階段が白く浮かぶ姿は確かにきれいだが、
結果として出オチというか、この舞台装置を生かしきることはまったくできていなかった。ただきれいなだけ。
『地球人大襲来』では、舞台装置は凝っていなかった。場面に応じてさまざまな場所に変化するからそれは当然。
次々に登場人物が現れるたびに、プレーンな舞台は観客の想像力によって色付けられていった。それがよかったのだ。
『サンプリングデイ』の舞台装置もかなり面白かった。黒い舞台に白い線が引かれ、さまざまな日用品が置かれていた。
役者たちは舞台上を歩きまわり、その場所に応じて役は変化した。やや具体的だったが、デザインをきれいにまとめていた。
『ハイ/ウェイ』の舞台装置が致命的だったのは、「階段の高さ」に関して無頓着だった点である。
階段とは高低がある。つまり、ランクである。上と下という関係性が、本質的につねに問われる空間なのだ。
ところが『ハイ/ウェイ』において、この舞台装置は美しさの演出と天国への階段の以外の意味を持っていなかった。
高いところで行われる演技と低いところで行われる演技には、意味の違いがなければならない。
さらに言うと、高いところにいつもいる役と、低いところにいつもいる役には、意味の違いがなければならない。
しかし全員が同じ人間を演じてしまうと、その差異が発生しない。つまり空間が無意味なものとなってしまうわけだ。
(もし役ではなく役者で差をつけた点が、階段の高低差にも反映されていたとしたら、それは僕が読み取れなかった。
 体調が悪くて気づけなかったか、僕が鈍くてわからなかったか。とにかく、僕はそれを感じなかった。)
純粋に、足場が危ないという点でもこの舞台装置はよろしくない。役者の自由な動きが制限されるのは大きなマイナス。
空間を虐げ、役者の身体を虐げ、いったいこの劇団はどうしちまったんだこりゃ?と、僕はずっと首を傾げていた。

●結論

というわけで、『ハイ/ウェイ』は受け手である僕の体調が最悪だったことを差っ引いても、ひどい作品だった。
『サンプリングデイ』でもまだリハビリ中だと思ったけど、いよいよ『ハイ/ウェイ』は救いがたい。
途中で小松さんが井田さんの腕をめちゃくちゃ引っぱって笑いをとったシーンがあったんだけど、
そういうところで抵抗しないと役者はこの話で楽しめないのか、観客を楽しませられないのか、と思ってしまったよ。
(3列目ほぼど真ん中の僕があまりに眠そうにしてたからそんなことしたんじゃないか、なんて考えてしまっている。)
僕は他者が出てこない伊坂幸太郎の本(「作品」と呼びたくない)が死ぬほど死ぬほど大大大大大嫌いなんだけど、
今回の『ハイ/ウェイ』はいよいよそれに近い感触がして、軽く絶望的な気分で梅田の人混みの中を歩いたよ。


2011.10.3 (Mon.)

僕がここんところ神社を参拝しまくっている理由でも書いてみましょうか。

県庁所在地めぐりの終盤から、県庁と市役所だけでなく、その土地の大きな神社もちょこちょこと訪れるようになった。
別に神道に目覚めたとか思想が右傾化したとかそういうことではなく、まあ単純に神社は名所であり古い建築が多いので、
せっかくその場所に行くんなら寄っておかないと損なんじゃないか、と思うようになったからなのだ。
やっぱり個人的に、古い木造建築が好きなのだ。そうなると当然、歴史ある神社は無視できない存在となるのである。
わざわざ訪れる基準として考えているのが、「国宝か重要文化財の建築がある」もしくは「一宮である」の2点。
そう書くと権威主義的だなあと思われてしまいそうなのだが、やはり権威が生まれるには根拠があるわけで、
数多くそういう事例を見ることで何かつかめないかなあ、と思ってそうしているのだ。まあ、それだけのことだ。

最近は婚活中の女性を中心に(?)、「パワースポット」という概念が大ブームとなっている。神社も人気である。
しかしながら、僕自身は別にパワースポットに行ってパワーを頂戴しようなどというつもりは毛頭ない。
ただ、パワーの得られる「パワースポット」として先人がその場所を選んだ、その理由には触れたいのである。
昔の先人がその場所のどのような点に神聖さを見いだして神社をつくったのか、そこにはかなり興味があるのだ。
さらに、先人がその場所でどのような人工的な美を付加して聖地として完成させているのか、その手法にも興味がある。
以上の理由により、僕は最近になってあちこちの神社を訪れるようになったのだ。
純粋に、人間(特に日本人)の空間に対する想像力の発露を知りたいということで、神社を訪れている。
僕は「住民の地元への誇りが空間として具現化した対象」として県庁や市役所を訪れたわけだが、それに似たものだ。

……という話を以前、父であるcirco氏にしたところ、僕の興味関心に大いに同意してくれた。
circo氏は飯田周辺の空間についてコツコツと調査を積み重ねているわけだが、僕のチャレンジはそれより抽象的だ。
その分だけ結論を導き出すのが難しいのもまた確かだ。しかし工学的には、結論を出さない研究は存在意義がない。
どれだけ時間がかかるかわからないが、感受性と想像力を最大にして、なんとか目に見える成果を引き出したいものだ。


2011.10.2 (Sun.)

9月25日の富山×京都戦を見逃したことが本当に悔しくて、モヤモヤが一向におさまらない。
さてどうしたものか……と考えているうちに、ふと思いついてしまった。
10月2日、京都の試合をホームの西京極で観戦した後に、梅田に出てsundayの演劇を観ることができるぞ、と。
ここんところなんだかんで忙しくて体調がそれほど良くないし、京都へはついこの前に修学旅行で行ったのだが、
午前中に亀岡市をブラつくことで見事に3連コンボが成立する見通しとなってしまったので、決行したのである。

毎度おなじみ夜行バスで京都へ向かったのだが、僕が予想していたよりも疲れは大きかったようだ。
夜中の3時と明け方の5時に車内のトイレに駆け込む始末。これほどまでにキツい経験は初めてだ。
どうにか早朝の京都駅前には降り立ったのだが、とにかく体は重いし頭は冴えない。本当に困った。
いつもならさっさとコンタクトに替えて髪を整えて颯爽と街へと歩きだすのだが、そういう気分になれない。
とりあえずメガネのまま駅の立ち食いうどんで栄養補給をすると、嵯峨野線(山陰本線)に乗り込む。

降りたのは、千代川駅。ここからバスに乗って、まずは丹波国一宮である出雲大神宮を目指すのだ。
が、夜行バスが予定より早く着いて僕も早めに移動をしたので、30分ほど余裕がある。
駅前のロータリーに面したベンチで横になり、仮眠をとる。とても立っていられない体調の悪さだったのだ。
時刻になり、小さいバスが駅前のバス停にやってきた。乗客は僕だけである。
明日の朝練にそのまま出られるように、僕はアンブロのサッカーウェアを着ていたのだが、
客観的にみればかなり違和感のある存在だっただろうなあ、と思う。そんなこと気にする余裕もなかったけど。

出雲神社前のバス停で降りる。時刻はまだ8時半前だ。1時間ちょっとここに滞在できるのだが、
あちこちをウロウロ歩くことなどできない状態で、もうほとんど気合だけで参拝し、境内を軽く歩きまわり、
あとはベンチでぐったりとなって過ごすのであった。まあここで1時間つぶせるのはよほどの強者でしょうなあ。

  
L: 丹波国一宮・出雲大神宮。  C: 舞殿のような拝殿。今日はこれから結婚式があるようで、いろいろ準備が始まるところだった。
R: 本殿。足利尊氏によって1345(貞和元)年に改修されたという。出雲大神宮の社殿は重要文化財に指定されている。

9時前だったけど、人はそれなりにいて、まず神社の入口のところで地元の名産品をテントで売っていた。
「出雲」の神社ということで、縁結び祈願と思しき女性の姿もチラホラ(→2009.7.18)。よくまあここまで来るなあ。
境内は山裾の方にも広がっていて、さまざまな摂末社が点在している。といっても程よい距離で、気楽にまわれる。
社殿があるものもあれば、春日社という立派な名前なのに実際には岩が鎮座しているだけ、というパターンも。
実はこれ、神社に社殿をつくるようになる前の原始的なスタイルで、自然物である岩を神の居場所と捉えたもの。
つまりはそれだけ聖地としての歴史があることを示しているわけだ。また日本人のアニミズムの証拠品でもある。
それらがちょっとテーマパーク的に散りばめられており、なかなか面白い空間になっているのであった。

  
L: 岩だけの春日社。近くには磐座(いわくら)もある。なんというか、生々しい。  C: スサノオノミコトを祀る上の社。
R: 出雲大神宮の近くから眺める丹波の風景。山に囲まれているけど、平地がのんびり広がる。

バス停の近くには椅子がいくつも置かれていて、そのひとつに腰掛けてじっとバスを待つ。
うつらうつらしているうちにバスがやってきて、縁結び祈願っぽい女性たちと一緒に僕も乗り込む。
しかし乗客は圧倒的に地元のおじいちゃんおばあちゃんが多い。亀岡駅に着いたときにはほぼ満員だった。

亀岡駅の北口にバスは到着するが、市街地に面しているのは南口。ヨタヨタとした足取りで階段を上り、南口に出る。
駅からまっすぐ、少し進むと目の前にはこんもりとした緑と静かな水面が現れる。これが丹波・亀山城址だ。
つまりこの川は城の堀となっているのだ。釣り糸を垂らす人がいっぱいいて、地元住民の憩いの場となっているようだ。
その川をまわり込むようにして歩いていき、亀山城址の正面入口を目指す。少し緊張しながら。

さて、もう気づいているとは思うが、駅や自治体の名前は「亀岡」だが、城の名前は「亀山」となっている。
もともとこの地は「亀山」という名前だったが、明治維新の後、三重県の亀山市との混同を避けるため、
こちらは「亀岡」という名前に変わったのだ。今では「亀岡」がすっかり定着しているようである。
歩いていても、看板に「亀山」とある店よりも「亀岡」とある店の方が多い。城から離れれば「亀岡」だけになりそうだ。
そんな亀岡の中心にある亀山城址だが、現在は自由に出入りすることができない場所となっている。
というのも、宗教法人・大本が城跡の土地を所有して本部としているからなのだ。なかなかダイナミックな事例だ。
とはいえ、きちんと本部で見学の旨を伝えてお祓いを受ければ入れてもらえる(入れる範囲には制限がある)。
そんなわけで、宗教団体の本部に突撃するのは初めてのことなので、少し緊張しながら敷地内へ。

  
L: 亀岡駅。こちらは市街地に面した南口。  C: 亀山城址の堀は太公望たちのたまり場になっていた。
R: 丹波・亀山城址入口というか、宗教法人・大本の本部入口。「おほもと」とだけ表札にあるのがなんかクール。

さすがに信者でもないオレがちゃんとした入口から入るのも失礼じゃないのか、と思って、駐車場の方からまわる。
ちょうど休日朝の集会が行われる時間帯のようで、車がいっぱい入ってきている。で、警備の人に見学の旨を伝える。
そのまままっすぐ進んだ「みろく会館」という建物内で亀山城址について紹介しているパンフレットをもらうと、
右手へ進んで本部の方へ。神道風味の言葉を唱える声が雅楽っぽい楽器の演奏に乗って、スピーカーで流されている。
集会前ということでか、みなさん忙しそうだ。部外者の自分がのこのこやってきてよかったんかな、と思いつつ、
「城跡を見学したいんですが」と声をかける。そしたらサラッとお祓いをしてくれたので、やっぱ慣れているんだなあ、
なんて思うのであった。どれくらいの頻度で見学者が来ているのか、ちょっと気になったなあ。

亀山城は大本事件の際に完全に壊されており、今ある石垣は大本の信者が積み直したものだそうだ。
だから現在の亀山城址は明智光秀が丹波を治めていた当時の姿とは異なってしまっているのだが、
京の北西の抑えとして重視された歴史に思いを馳せることはできる。やがてスピーカーからの音は消え、
朝の集会が本格的に始まったようだ。静けさを取り戻した空間の中で、石垣を眺めていろいろ考える。

  
L: 積み直された亀山城の石垣。  C: 見学できるのはここまで。この先には明智光秀の時代から植わっている大イチョウがあるそうだ。
R: 真ん中の写真とは異なる箇所からアプローチしたところ。やはりこれより先に行くことはできない。

なんせ見学できる範囲が広くないので、あっさりと亀山城址から出てしまった。
残すは亀岡市役所である。亀山城址から西へちょっと行ったところに位置しており、郊外型の立地だ。
トボトボと歩いていくと、左手に背の高いグレーの建物が見えてきた。ごくふつうの平成オフィス建築だ。

  
L: 亀岡市役所。1990年に佐藤総合計画の設計により竣工。  C: 側面。平成だなあ。  R: 反対側。きれいに対称だ。

亀岡駅まで戻るとそのまま嵯峨野線(山陰本線)で嵯峨嵐山駅へ。体力的に保津峡をじっくり見る余裕はナシ。
いずれトロッコ列車に乗ってのんびり訪れることができればいいかな、と思うのであった。
嵯峨嵐山からは京福電鉄嵐山線で西院まで出て阪急に乗り換えるつもりだったのだが、
嵐山あたりでうまく栄養補給できないか、と考えてしまったのが運の尽き。体調が悪いのに、歩いて嵐山へ。
しかし嵐山は観光客だらけで騒がしく、目が回る。売っているのも生八ツ橋と串に刺したキュウリぐらい。
京都×水戸戦のキックオフは13時だから途方に暮れているヒマなどない。こうなりゃ直接阪急に乗るしかない!
ということで、そこからさらに歩いて渡月橋を渡って阪急の嵐山駅へ。調子が悪いと判断力も鈍って困る。

 
L: 渡月橋の途中から眺める桂川。天気がよけりゃねえ。  R: 阪急の嵐山駅。和風を意識したシックなデザイン。

桂駅で乗り換えて西京極へ。直接阪急に乗ったおかげで、当初の予定より8分遅れでの到着で済んだ。
テントでさまざまな出店がある中、いちばん空いていたたこ焼きの店へ。とにかく食わないことには体がもたない。
食料をどうにか確保すると、メインスタンド側へ。前回(→2011.5.15)はバックスタンドだったので、
今回はメインスタンドにしてみたのだが、よけいに歩かなくちゃいけないのがつらいのであった。

バックスタンドとは違い、メインスタンドは選手の顔がよく見える。その分、客層はなかなか濃いめである。
選手個人をターゲットに声援を送る女性3人組の存在が印象的だった。ジャニーズのファンもこんなんかね。
たこ焼きを食べて落ち着くと、両チームのスタメン発表を見る。西京極の電光掲示板はだいぶ古いものなので、
選手紹介が非常にあっさりしているように思える。京セラパワーでなんとかならんものなのか。

  
L: 試合開始直前、写真撮影をする京都サンガイレブン。今年の京都は10代をはじめとする若手が活躍中。さすが大木さん。
C: 水戸サポーターの皆さん。よくまあ来るなあ……って、オレも人のことは言えないか。
R: ハーフタイム、ロッカールームに引き上げる大木さん。この日の京都は動きが重く、大木さんの表情も冴えない。

京都は前節、アウェイながら千葉を1-0で下している。千葉は今シーズン、フクアリで負けたのは初めてだそうで、
目指すサッカーが機能しての勝利だったという(後半は防戦一方になってしまったらしいが、守りきったのは事実)。
それだけに今日は下位でもがいている水戸を確実に叩き、中位へ浮上するきっかけをつくりたい試合だった。
ところが試合が始まると、とにかく京都の動きが悪いのである。ひとつひとつの動きが遅い。対応も悪い。
水戸のFW・吉原と鈴木隆行が意欲的に攻めるのに対し、京都のプレーは何もかもが後手後手にまわっているのだ。
クリアボールが水戸MFの真っ正面に入り、水戸のFWが残ったままだから大ピンチ、という状況が何度もあった。
パスも水戸の選手がカットしてしまう場面が非常に多く、京都はボールをまったく前へと運ぶことができない。

なんでここまでうまくいかないのか、夜行バスの疲れによるマイクロスリープに苦しみながら考えたのだが、
個人的には京都が採用している3-5-2システムのミスマッチではないか、と思った。
京都は3バックにDMF(アンカー)が1人というかなり攻撃的なフォーメーションだったのだが(3-1-4-2)、
水戸はそれに対してFWをカウンターから積極的に攻めさせていた。が、二列目は京都陣内に深くは入り込んでこない。
SBを使ってサイドをえぐる素振りを見せつつFWが圧力をかけることで、京都のDFだけをうまく脅していた。
結果、攻めたい京都の前めの選手と、数的優位で守れなくて焦れる京都の後ろの選手の間に心理的な差が生まれ、
京都は攻撃のヴィジョンをチーム全体で共有できなくなっていた感じがするのだ。
しかも京都が攻め込んでも、水戸は前線を残して引き気味なので守備は厚い。これをなかなか破れない。

  
L: 京都の攻撃が失敗。前線へボールを送ろうとする水戸と、慌てて戻る京都の選手。
C: ゴール前で水戸は分厚い守りをし、京都は誰ひとりフリーになれない状況が続く。
R: FKのチャンスもGKのパンチングで防がれる。もともとの動きも重くて、京都は水戸の守備をこじ開けられない。

後半に入り、すぐに京都は失点してしまう。スローインからスルスルとサイドを攻められると、
クロスに吉原がヘッドで合わせてまず1点。そこから10分も経たないうちに、今度は鈴木隆行に決められた。
水戸にしてみりゃベテラン2人がきっちりと仕事をしてみせる理想的な展開。ホームゲームでこれは悔しい。

京都もショートパスを回して攻め込むが、水戸はゴール前を人数をかけてがっちり守る。
見事なまでに京都の攻撃陣ひとりひとりに複数の選手が体を寄せて、自由な動きをさせないのだ。
カウンターから手数をかけずに一気に点を取った水戸とは対照的に、京都の攻撃は手数がかかる。
つまり、コストパフォーマンスの悪い攻撃なのである。大木サッカーの悪い面がまた出てしまっている。
本当に、これだけ悪い内容ばかりのゲームはそうそうないだろうってくらいひどい。褒める点がひとつもなかった。
試合はそのまま0-2で終了。まあ正直、フォーメーションや戦術以前に、京都の選手はまったく動けていなかった。
どうしてオレが京都までわざわざ来た2回とも悪いときの大木サッカーばっかりなんだ、と嘆くが仕方ない。

 
L: 大ブーイングの京都ゴール裏。さすがのオレもブーイングしたくなるくらいの低調なデキだった。
R: メインスタンドに挨拶する京都の選手と大木さん。悔し泣きしている京都の選手もいた。次は勝て!

体調がすぐれないところに散々な内容のゲームということで、泣きたい気分で梅田まで出る。
梅田ではsundayの新作『ハイ/ウェイ』を観るのだ。場所はHEPP FIVEという超オシャレなビルの8階。
東京で言えば渋谷の109的なポジションになるのだろうか、高校生や大学生だらけな空間で、
今まさにサッカー場からやってきました、という恰好をしている僕はもうそれだけでいたたまれなくなってしまう。
体調が悪いと考え方もネガティヴになってしまうもので、かなり卑屈な気分で開場を待ったのであった。

開演前、もうこりゃ体力的に2時間の演劇はつらいわ、ということでレッドブルを片手にホールの外に出たら、
友人を連れた潤平にバッタリ遭遇。まあ予想はしていたけど、本当に予想どおりになるとはね。
オシャレ度ゼロの恰好で大変申し訳ない気分になりつつ、レッドブルをいただく僕に潤平爆笑。なんだこりゃ。
で、潤平の真後ろの席で『ハイ/ウェイ』を観劇。しかしまあ正直、これまた泣きたいくらい散々な内容だった。
詳しいレヴューはまた後日のログで書くけど、いろんな意味でつらい時間だったです。

帰りは夜行バスを予約していたものの、このままバスに乗って帰ったらオレは死ぬ!と思ってしまったので、
覚悟を決めて新幹線のチケットを購入し、さっさと東京へと戻るのであった。新幹線は本当に快適。
まあおかげで翌朝はそこそこ元気を取り戻した状態で職場に行けたからよかった。助かった、って感じ。
なんというか、無茶は連発するもんじゃなくて、元気のあるときにやらなくちゃいけないと実感。
無理して必死になって動いても、結果は損することばかりじゃ意味がないなあ、と勉強になりました。


2011.10.1 (Sat.)

というわけで(→2011.9.30)、本日は土曜参観なのであった。
ぼちぼちテストをつくらなくちゃいけないのに、その前にひと手間というタイミングは非常に苦しい。
英語というのはそれなりに注目度の高い教科なので、やはり少しは凝りたい。なんだかんだでその辺はマジメなのである。
(もっとも、親の英語の授業に対する視線、つまり英語観は、僕にしてみれば狂いに狂ったものでしかないのだが。)
おかげで準備にかなり時間がかかってしまい、やや睡眠不足の状態で今週6日目の授業に臨むのであった。
感触としては、可もなく不可もなくといったところ。親の感想なんざ知らねえ。とにかく、一定のラインは確保した。
それにしても今月は本来休みのはずなのに出勤という日が多すぎる。代わりに休暇をくれても、どうせ部活だし。
日本の教育システムはゆがんでおるのう。根本が間違っているんだから枝葉の部分もおかしくなるわな。


diary 2011.9.

diary 2011

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