diary

past log


2020.5.30 (Sat.)

異動したので新しい職員証をつくりましょう、つきましては証明写真を撮ってくださいということなので、ヒゲ面でドン。

 いろいろ自粛したらこんなんなりました。

明日はヒゲを剃って髪の毛切るもんね。ぼちぼちモードを切り替えないといけないのだ。すっきりいこうぜ。


2020.5.29 (Fri.)

ブルーインパルスがやってきたのは、われわれが昼休みのソフトボールで熱い戦いを繰り広げているときなのであった。
コロナ対策に従事する医療関係者に敬意を表しての編隊飛行、とのことだが、都心部を飛ぶなんて滅多にない。
残念ながら校舎が邪魔になって、見えた時間はごくわずか。それでも2回とも見られたし、ヨシとしようではないか。
写真を撮影する余裕がなかったのはちょっと悔しいが、平日だししょうがないのだ。素敵なプレゼントのおすそ分け。
またいつの日か、きちんと見られる機会があるといいなあ。久しぶりに航空ショウに行きたくなったのであった。


2020.5.28 (Thu.)

出勤である。6月から学校が再開するので、今後の方針を説明されるのであった。夏休みは2週間、土曜授業はそこそこ。
いちばん心配なのは、学校が再開してからもしばらく分散登校をやるので、本格的な授業が6月下旬からになる点だ。
間に合うのか……? 間に合わせるしかないが、英語は慣れるための時間が必要なので、手立てを考えないといけない。
まあそれ以上に心配なのは僕自身のメンタルだが。細かいことを考えず、なりふり構わずやるしかないのかなあ。

しかしまあ、あらためて実感したのは、今度の職場は細かいことにこだわる人が多いなあということ。
前にログで女性の先生の特徴として書いたことがあるが(→2018.5.10)、今度の職場は男女関係なくそういう人が多そう。
3+5だろうと5+3だろうと結果は一緒なのに、どちらがいいかでずっと試行錯誤している感じ。まあそうは言っても、
僕が細やかさにまるで欠ける性格であり、中学校に向かないことも確かなのだが。過保護に感じてしまうんだよなあ。


2020.5.27 (Wed.)

『卒業』。コミュ障のストーカーぶりを長々と見せるんじゃねー気持ち悪いんじゃボケー

そういえば、結婚式から花嫁を強奪する映画がこんなタイトルだったっけ、とガソリンスタンドのシーンで気がついた。
しかしその映画は名作という評判のはずで、いま僕が見ている気持ちの悪い映画とはだいぶ差がある。おかしい。
そしたらハッピーエンドの体裁をとるかのように、ストーカーが花嫁を連れ出した。噂で聞いた名作と、同じ形だ。
僕の借りてきたやつだけ海賊版なんじゃないかと思ってDVDのレーベルを見るが、『率業』とは書いてなくて、『卒業』。
狐につままれた気分である。この映画、ただただ気持ち悪いだけなのに、いったいどこに名作とする要素があるのか。
ラストシーンが印象的だからって、みんなそこだけいじってネタにしているってことなのか。まるで理解ができない。

それでも序盤はなかなか面白かった。主人公を褒めちぎる周りの大人たちは、いったい彼の何を目的にしているのやら。
いっそ別人になれたら!という気持ちもわかる。でも、オバハンに誘惑されるところからもう理解不能、ついていけず。
僕は「うっせえババア、一人で寝れ!」と言い残してさっさと帰ってしまうタイプの人間ですので。見ていてイライラ。
そこから後はもう、なーんにも面白くありませんでした。まあ、出てくる人みんな自分のことしか考えてないもんな。

サイモン&ガーファンクルのおかげで過大評価されていると思う。『ロッキー』とか『E.T.』とか、音楽に弱い人多いね。


2020.5.26 (Tue.)

『カッコーの巣の上で』。アカデミー賞の主要5部門を独占した史上2番目の作品である。
刑務所での強制労働から逃れるべく精神病院への入院を企んだ男が、結局はそこからの脱出を目指す話。
カッコーの巣はつまり托卵なので、実際には他の鳥の巣というわけだ。本来の居場所ではない、という比喩か。

先日『真夜中のカーボーイ』で「個人の視点では、到底この映画の全体を捕まえられない」と書いたが(→2020.5.19)、
この映画も人によって解釈が変わる部分があると思う。いろんな人の意見を聞いて視野を広げるトレーニングになる、
そういう映画であると思う。知性のお弱い感情だけの人間なら単純に「主人公がかわいそう」で終わってしまうが、
いろんな立場でものを考えられる人ほど身動きが取れなくなる作品。究極的にはオーウェルの『1984』まで広がる話だ。

まずこれ、精神病院という設定だが、われわれの生きる権力空間を見るようだ。それをミニチュア化した空間である。
特に僕の場合には教員という仕事をやっているので、直接的に生徒をコントロールする側に立っている。婦長と一緒。
しかし教育委員会にしばかれる立場でもあるので、研修だのを通してコントロールされる側でもある。患者と一緒。
もう、見事に両方の立場を同時並行で考えながら見ていくことになるわけで。婦長の管理ぶりは感触としてはソフト。
患者の改善を目指すという名目は僕の仕事にも通じるし、生徒の成長のためには我慢してもらう時間も実際に必要だ。
(その点、僕はいつも「お前ら、守破離な! まずは『守』を極めろ!」ってことで強引に納得させているのだが。)
だが、本当に成長・改善させたいのか、それとも問題を起こさないで時間を経過させるのが目的なのかは、紙一重だ。
特に教育委員会や管理職なんかは明らかに後者なんですけどね、まあそれについて今ここで文句を言う気はない。
(平穏無事に時間を経過させることでしか解決できない問題も多く存在するので、お役人を全否定もできないのよ。)
とりあえず、婦長の真綿で締める管理は他人事ではないのだ。僕としても罪悪感をおぼえながら見ていくわけである。

ジャック=ニコルソンはエキセントリックな役が本当に合う。彼が演じるマクマーフィーは両津勘吉的に引っ掻き回す。
そして彼のもたらす刺激と経験こそが人を成長させる。患者たちは生き生きとしはじめ、自己を主張するようになる。
だが婦長は許さない。不確定要素の発生で管理しきれない状況は、彼らの危険に対して責任が取れないということだ。
ポイントはそれが彼女の保身ではなく、職務に対する強い意識から出ている点。行為に迷いという隙が生まれない分、
よかれと思ってという善意がいちばんタチが悪いのだ。彼らを病気の状態にしているのは、果たしていったい誰なのか。
(なお、婦長がマクマーフィーを残す決断をした場面で、『稲中』で次々とパスされる前野を思い浮かべてしまった。)
精神病院はまさに、M.フーコー『監獄の誕生』の世界だ(→2008.2.27)。「規律・訓練」による「従順な身体」の産出、
それを目的としているのだ。まるで卒業のない学校のごとし。ところが実際のところを考えると、それでいいのである。
そもそも一般社会に戻る基準もないし、仮に戻ってもあやふやな「ふつう」との落差に当人がつらい思いをするだけだ。
カッコーの巣を出たところで、行くべき場所はないのである。マクマーフィーにもない。ないから病院に入ったはずだ。
巧いのは、チーフが帰る場所を奪われたインディアンという設定だ。さてそうなると、カッコーの巣とはどこなのか?
ここに至って、われわれが暮らしている社会空間の本質が大きく揺らぐ。『1984』まで広がるとは、そういうことだ。
つまり、われわれの生きる「ふつう」の世界こそカッコーの巣になりうる、ということ。管理されているのは誰なのか。

ラストをどう読むか。主人公の直接的な悲劇と、志を受け継ぐ者の間接的な可能性が描写される、贅沢なつくりだ。
相反するふたつの結末が同時に示されるのである。アメリカン・ニューシネマにしては親切である気もする。
(個人的には『幕末太陽傳』を少し思い出したが、あれはまた別の次元。時間をぶち破る生命力の話なので。→2012.1.9
でも、マクマーフィーは寝過ごした。それがすべてだろう。安部公房が『砂の女』の冒頭で書いていたじゃないか、
「罰がなければ、逃げるたのしみもない」と。罰は存在した。それを目にして、いよいよ志は実行に移されたのだ。
ある意味、マクマーフィーは逃げ続ける存在だ。刑務所の強制労働から、精神病院から、最後は意識、そして肉体から。
彼の意志を継ぎ、自らも逃げる決断を下す男が現れる。それはマクマーフィーにとって最も確かな成功ではなかろうか。
(……オレが教員だからそう見えるだけか?)

ところでタークル氏、『シャイニング』(→2020.4.17)でニコルソンと一緒にいませんでした? いましたか。やっぱり。


2020.5.25 (Mon.)

『オーシャンズ13』。『11』(→2020.4.22)、『12』(→2020.5.24)ときて、いよいよラストである。

今までいろいろ書いてきた。『11』では「かっこつけ優先」「ピンチでドキドキ→なんとか切り抜けた!ばっかり」
「小さい成功体験の量が足りない」「もうちょっと爽快感のある演出で活躍を描いてほしかった」などなど。
『12』ではさらにいろいろ、「雑さが満載」「メンバーの現状が把握しきれず」「時間も空間も飛ぶ」「話が見えない」
「盗みのシーンが回想になってしまっている」「観客がどういう心理で作品を見るか、という分析まで頭が回らなかった」
「キャラクターが死んでいる」「知恵と努力で成功を引き寄せる姿を描くから面白いのに、そこを端折って」などなど。
そしてつくられた『13』は……上記の問題点をすべて解決している見事な作品なのであった。いや、こりゃすげえ!
なんだか気持ち悪くなってしまうくらいの精度で、自分の挙げた問題点がひとつ残らず丁寧につぶされているのである。
かゆいところに手が届く、シリーズ通してみてやるべきことがすべて完全に盛り込まれている「快作」と言えるだろう。

『11』ではまず最初のところで、キャラクターをかっこよく見せようとして無理している。それでわかりづらかった。
しかし『13』にその心配はない。そんなよけいなことはやらないからだ。いきなりアル=パチーノ演じるバンクが悪くて、
さっさと本題に入ってしまう。そこからは原点回帰、各キャラクターの持ち味を存分に発揮させている。みんなが活躍。
集まった理由は倒れたルーベンに代わっての仕返し。完全に義理人情だけで動くという少年マンガぶりを徹底している。
(仕返しで一発かます、というのは『スティング』(→2004.11.18)を思わせる。話の大筋はリスペクトを感じさせる。)
場所はラスヴェガスだけに限定するし(一部メキシコで、暴れるモロイ兄弟に大爆笑)、時間も一切飛ぶことはない。
小さな成功もジャブとして入れて満足感をしっかり高める。いちばん大きいのはルーベンの回復ってことになるが。
緊張感満載の『11』とは対照的に、敵も味方もどこか間が抜けていて、そこが抜群に楽しめる要素となっている。
媚薬塗ったところに強く反応するスポンダーとか、『スティング』へのオマージュをライナスの父親でも使ってくるとか、
柄にもなくダニーとラスティがTVショウに感動しちゃってんのをベネディクトのオチとしてつなげちゃうとか、
できれば面白かったところを逐一箇条書きにしたいくらいなんだけど、キリがないので書き散らす程度に抑えておく。
ベネディクトやトゥルアーといった悪役もしっかり持ち味を出させて使っているところがすごい。ぜんぜん雑じゃない。
(とはいえトゥルアーはもう少し目立たせた方がバランスが良かった気もするけど。まあでも不満はない。)
テーマについて的確な歌も入って、リメイク元であるシナトラへのリスペクトまで完璧なのである。ここまでできるのか!

結果として、緻密な金庫破りのアクションをじっくりと楽しめる『11』、謎解きと割りきって見たい『12』、
そして両方見た人には最高に楽しいエンタテインメントとなる『13』と、シリーズが実にヴァリエーション豊かになった。
ただ、同じことを繰り返してもしょうがないし、やりきった感はものすごいので、これで終わるのも納得である。
シリーズものの最後を飾るという点での完成度は、ちょっとほかではお目にかかれないレヴェル。もっと評価されるべき。


2020.5.24 (Sun.)

『オーシャンズ12』。前に見た『11』(→2020.4.22)の続編。1人増えるっていうことですかね。12人いる!

この作品、上手い部分と下手な部分があって、その勝敗を数えていくとけっこう負けがこんでる感じ。
つまり、「惜しいところもあるけど総合的にはダメ」という評価である。脚本が練り上がる前に撮影に入った感じ。
編集でごまかしきれずに崩壊している感じ。おかげで「上手い部分」「惜しいところ」がすごくもったいない。
ライナスの母ちゃんを出すのは僕はどちらかというと好きなんだけど、これで「12」のところが13人いる!気もする。
やはり数字にはこだわってほしいわけで、全体を通してそういう雑さが満載。前作の緻密さはどこへ行ったのか。
ハッキリ言っちゃうと、今回は「ラスティの番」なのね、ラヴコメ的に。いちおう冒頭でそれは示唆されているけど、
伝説の大泥棒が生死不明ってことで引退している理由と絡めたことで、ストーリーの処理が複雑化してしまっている。
いや、これはやっちゃいけないことじゃないけど、やるんなら脚本をさらに練る必要があったってこと。

前作を見ていない人は完全に置いてけぼりだが、メンバーの現状が把握しきれず僕も置いてけぼりを食ってスタート。
時間も空間も飛ぶせいもあって、今作のわかりづらさは前作とは比べ物にならないほど激しい。本当に話が見えない。
一番の失敗は、本来クライマックスに来るべき盗みのシーンが回想になってしまっていること。失敗は丁寧に描くが、
成功は雑に描かれる。そんなのが面白いはずがないでしょう。おそらく話の展開の論理的破綻を避けるのに手一杯で、
観客がどういう心理で作品を見るか、という分析まで頭が回らなかったのだろう。たぶん話の辻褄は合っていると思う。
でもそれを確かめようという気にはとてもならない。ラスティのラヴコメでもその気持ちの穴は埋まりませんよ。

もうひとつ議論となるのは、ジュリア=ロバーツ演じるオーシャン嫁が、なんとジュリア=ロバーツのふりをする点。
僕個人の感覚では、これは明らかに禁じ手ではあるけど、やっちゃダメって法律もないし、1回くらいならアリと思う。
見ていた僕は思わず「ずるいなこれ!」と叫んでいたけどね。こんな手に頼らざるをえないのか、という気持ちもある。
たぶんこれ、アウトに感じて萎え萎えな人も多数出たのではないか。付けヒゲみたいな多少の加工が必要な状況の方が、
話としては面白おかしくできると思うので、下策だったと感じる。クッションで妊婦です、じゃ変装の努力が足りないね。
そしてさらに、ここでブルース=ウィリス本人がセレブ仲間として登場し、ハラハラドキドキさせる役をやるのである。
これも悪かないと思うんだけど、もともとがセレブ出まくりの映画なので、威力は半減してしまったかなあと。難しい。

さて。このシリーズは次の『13』がラストになる。理由は、フランク役のバーニー=マックが亡くなってしまったこと。
しかしねえ、今作のフランクはほぼずっと捕まったままで見せ場が本当にないんですよ(そういうメンバー多いけど)。
ってことは、フランクが捕まっている今作のシーンを使い回せば、しれっと続編をつくり続けられるんじゃないか?
そう思ってしまうほどに活躍しないのである。言葉が悪いけど、キャラクターが「死んでいる」んだよね、今作は。
その一方で、ルマークにしろトゥルアーにしろ、絶対的な泥棒の腕を持つ存在をさらっと出してくるのである。
僕はもともとそういうキャラクターが嫌いだ。絶対的存在なんてありえないから。かえって話が安っぽくなるから。
知恵と努力で成功を引き寄せる姿を描くから面白いのに、そこを端折って絶対的な相手が出てきたぜ!とかウンザリ。
そいつらと戦ったところで何も面白くないの。結果を描いてもドラマにならんの。過程を描いてくれ、過程を。


2020.5.23 (Sat.)

『ダーティーハリー』。山本譲二の旧芸名「伊達春樹」の元ネタになった映画だよ!

うーん、申し訳ないけど、これは本当に賢くない映画だなあと思う。やっていることがマカロニウェスタンと一緒。
派手にドンパチやりたい、というテーマがまずある。それ自体は悪いこととは言わないが、そこからの発展がない。
たとえば、銀行強盗を44マグナム一丁で車を吹っ飛ばしながら壊滅させたい、狙撃犯をヘリで上から狙いたい、
無人のフットボールスタジアムで犯人を取り押さえたい、バスの屋根に乗って振られるスタントをやりたい、
そういう印象的なシーンを集めてまとめたものでしかない。だからよけいなものがなく、かえってテンポがいい。
しかしそのすべてをハリー=キャラハンがやるので、ストーリーに発展性はまったくない。社会性もない。
犯人のスコルピオは非常に印象的な悪役だが、犯行の理由は「変質者だから」「そういうやつだから」で終わり。
悪が悪である理由を描くから、またチームで弱点を補うから、 ドラマが成立するのだ。でもその要素はゼロである。
というわけでこの映画を面白いと思う人は、おつむの構造がそうとう単純であると思う。考える暇も必要もない映画。

気に入らないのは、感情で論理を上書きしていく脚本だ。この映画を見れば、屁理屈こねる法曹関係者に対し、
またどこまでも弱腰な市長に対し、さらには弱者だけを狙うスコルピオに対し、自動的に怒りが向くようにできている。
でも実際は、ハリーはふだんから大雑把で、仕事のできるオトナならやるべき根回しをまったくやっていないのである。
それで単に自分が追い詰められているだけなのだ、冷静に見れば。それを周りのせいに見える演出で捻じ曲げている。
観客はハリー以上にあっさりと乗せられているのだ。それでマカロニウェスタン式にスカッとさせようという仕組み。
ハリーが最後にバッジを投げ捨てて西部劇的な釣り合いを取る(アウトローの仲間入り)ところまで姑息に見える。
これこそ、キャラクターがスタッフに都合のよい人形なのである。超人的な主人公が1人、仲間が2〜3人、被害者が数人、
あとの全員はハリーをムカつかせる役割。以上である。この映画の単純すぎる構造はだいぶヤバいと本気で思う。

DVDを見終わって、メニュー画面が出てきて驚いた。クリント=イーストウッドが見たことのない顔で笑っているのだ。
自然な表情で、絶対こっちの方がかっこいいのにと思った。そういえば、劇中ハリーはずっと同じ表情だったなと。
『Dr.スランプ』の空豆兄弟のオヤジの顔だったなと。ハリーの人気はイーストウッドの演技力を狭めたように感じる。
(『許されざる者』もほぼ同じ表情。結局、イーストウッドはハリーから抜け出せなかったということか。→2020.4.15
あとは音楽が独特で、ドラムスとパーカッションがかっこいいなあと思ったらラロ=シフリンだった。さすが。

やはりSNS社会の現代において、この映画に対する評価は再考されないといけないと思うねえ。


2020.5.22 (Fri.)

先週末から今週にかけての政治の動きはなかなかすごいキナ臭さだったので、さすがに呆れて言葉が出ない。
ポイントは、最後に得をするのは誰なのかを見ておかないといけないということ。これが安倍にならんようにと。
表面だけを追いかけるのではなく、裏でどういう動きがあって何が変化するのか。感情抜きで見ないといけませんよ。

昨日、マスクが届いたんだけど、こいつにどれだけの血税が投入されたのかと思うと本当に虚しい。
コロナでようやく皆さん目が覚めたか、という感覚。なぜ最初っからヤバいやつだとわかろうとしなかったのと言いたい。
僕の中で安倍晋三は日本で2番目に総理大臣になっちゃいけない人である(ちなみに3番目は稲中の前野、参考までに)。
こんなのに政権を任せるとか、もう狂気の沙汰。ようやく現実を直視する人が増えてきたようだが、遅すぎである。
誰がなっても本質的に安倍よりマシなんだから、まだの人はいい加減目を覚ましていただきたい。日本が沈むぞ。

いずれ選挙で今回の件について国民として審判を下すことになるわけですんで、今のうちにいくつか確認しておこう。
まず僕のスタンスから。このログは、考えるバカが考えない大衆に向けた戯れ言だと思っておいてください。
政治についての基本的な考えは過去ログを参照(→2007.2.222007.2.23)。0歳児に選挙権を与えるが(→2006.8.9)、
年金支給は選挙権返上を条件とする(→2009.7.12)、そう考えています。消極的護憲論者です。護憲の理由は、
「今の日本人だと改悪しかできないから」です。そして究極的には9条の破棄は容認できます(→2015.10.21)。
ここのロジックがなかなか理解されないと思うんですが、当方、500年とか1000年の単位で考えていますので。
日本人の最も困った性質である家父長制を克服することが(→2010.2.3)改憲の条件、ということになりますね。
(9条の存在はつまり、「日本人はシヴィリアンコントロールができるほど成熟してねえよ」という意味でもあります。)
なお、最近の僕は保守に寄っています。理由は自民党というか安倍のリベラルというより売国政治がひどいからです。
まあ小泉のときから売国政治はひどかったんですけどね。新自由主義・グローバル化という名の売国。今も続いています。
安倍が保守だと勘違いしている人は、この8年間で日本国内の中国人がどれくらい増えたか考えてみてください。
それが答えなんで、いい加減に現実を見てね。人口減、消費税増税、格差の拡大、世の中着実に悪くなる一方です。
自民党はやってることリベラルで保守政党ではないと理解すべきです。入管法いじってる時点で言い訳の余地ないからね。
(リベラルの定義がよくわからんという人は、他者(本来の意味でのalien)・マイノリティに寛容な政党と覚えましょう。)
そして本当の保守ならアメリカと対等を目指すべきでしょう。自民党は政党ではなく既得権益維持の集団と見ています。
まあそもそもが分裂から戻った社会党に対抗するための寄合所帯ですんで。理念もクソもないまま来ていますから。
立憲民主党は参院選でタレント立てまくったので嫌いです。もう一度政治理念を練り直して人を集めなって感じ。
理想は、保守3:リベラル4:有象無象3、もしくは、保守4:リベラル3:有象無象3、それくらいのバランス。
キャスティングヴォートは有象無象が握る。つまり無所属議員の活動が見えるくらいに議員を減らすか、
われわれが議員一人ひとりの顔が見えるくらいに興味を持つかのどちらかにならないとダメ、と考えています。
だから党議拘束もやめた方がいいと思います。日本は党議拘束が強いから議員の顔が見えづらい面はあるでしょう。
特に今回の件なんか、党議拘束があるおかげであろうことか三権分立が危機に瀕したわけで。猛省すべき事態です。
とりあえず、次の首相が真っ先にやることは、現政権下のすべての法律解釈の変更を元に戻すこと、になるでしょう。
それが保守を標榜する者の責務だと考えます。だって「保」で「守」だから。リベラルが勝手に変えたものは直さなきゃ。

そんな僕が主張したいのは、繰り返しだけど、「政党(現状では野党)を育てろ!」これに尽きます(→2012.9.5)。
野党はだらしなくないです(→2015.10.19)。だらしないと言う人は、政党が自分に何かしてくれると考えるお子様です。
面倒くさいことを政党や政治家に任せて自分はぬくぬく過ごそうなんて、それは家父長制に染まる未熟なお子様そのもの。
政党や政治家は国民に世話を焼いてくれる親ではなく、未来を託す子どもと一緒。育てないことには一人前になれません。
自民党に嫌気がさして民主党に政権交代させて震災後に自民党に入れ直した人は、政治をネグレクトした人だと思います。
「他の人・政党にはまだ任せられない」では、育つものも育ちません。今回それでみんな痛い目に遭っているんでしょう。
面倒くさいけど、民主主義国家に生まれた以上、責任を持って政党・政治家を育ててください。世界のあちこちを見れば、
きちんと投票権があるだけマシなんだから。投票は、プロ野球のドラフト指名みたいな気分でいいと思うんですよ。
よし、今回はこいつに賭けてみよう、という感じ。一軍で活躍できるように祈るもよし、助言するもよし。見守り育てる。
投票の際、マスコミなんかを通したイメージで判断することだけは絶対にやめないとダメです。これが諸悪の根源。
少なくとも「なんとなく」という言葉が浮かぶうちは、自分は政治について勉強不足、未熟であると自覚すべきです。
未熟なら未熟なりに投票しても構いませんが、未熟状態を脱することができるように勉強・努力はすべきです。
国民主権の民主主義国家に生まれた以上、それくらいの責務はきちんと果たしましょう。食べ物を粗末にするのは、
食糧難の国の人に失礼だ、という考え方があります。投票権も一緒です。残さずきちんといただきましょう。

以上。想定した対象は、上は耄碌した高齢者(もちろん団塊の世代を含む)、下は新中学生です。
自称「逆説を見抜く人」(→2020.3.16)はこう考えているんだ、ということで参考にできる部分は参考にしてください。
しかしこうして過去ログを見ると、自分がまったくブレていないこと、あるいは成長していないことに驚くね。
じゃあ政治はどうなんでしょうかね。成長していますかね。していませんよね。家父長制の克服はいつになるやら。


2020.5.21 (Thu.)

職場に当番で出勤できる程度には回復したので、どうにか顔を出す。しかし本調子にはほど遠いのであった。

本日のお昼のスポーツは、天気が悪いこともあってバドミントン。とにかくアキレス腱を切らないようにがんばる。
しかしイメージするのと実際に身体を動かすのとはぜんぜん違いますな! 本当に思いどおりにシャトルを打てない。
体育の先生はその点、本当に万能。どんなスポーツでも難なくこなせる人っているんだなあ……と感動すら覚えた。


2020.5.20 (Wed.)

急に気温が信じられないほど下がって、起きたら腹を壊していた。何もできずにそのまま横たわって過ごす。
4ヶ月ぶりの「かゆ うま」(おかゆうまい)状態である(→2020.1.23)。貴重な勉強時間が浪費されていく……。


2020.5.19 (Tue.)

『真夜中のカーボーイ』。「CARBOY」かと思ったらふつうに「COWBOY」だったでござる。

見終わって、これほど不思議で言葉にしがたい感覚になる映画は今までなかった。名作――それは間違いないんだけど、
ではなぜ名作なのよと考えると、スラスラと言葉にできない。非常に極端な事例が描かれているけど共感できる点か。
田舎者にはジョーの視点で、都会者にはラッツォの視点での共感。しかし、それだけではないものがあるようにも思う。
1960年代末のアメリカが体感できないと言葉にしえない何か、ではなくて、自分ひとりの経験だけでは足りない感じ……。
だいたいの映画は個人の感想ということでもまとめられるのだが、この映画についてはまとめられる気がしないのだ。
見た人たちであれこれ話をしていくうちにまとまっていくものがある、そんな感じ。この映画が描くのは「孤独」だが、
一口に「孤独」といっても、要因も環境も実情も多数にある。その個別の「孤独」を無数に集めていったとしても、
これが「孤独」の一般的な形です、という帰納的解答が出るはずもない。しかしそこに鋭く迫っている映画なのだ。
だから個人の視点では、到底この映画の全体を捕まえられない。「孤独」というものの大きさに、途方に暮れるだけだ。

話をシンプルに説明しようと思えば、できないことはない。都会のマダム相手にチンコの強さで稼ごうとするジョー。
当然、うまくいくはずもなくホームレスになりラッツォと同居。ウォーホル一門のパーティーに参加して女を引っ掛け、
うまくいきそうになったところでラッツォが瀕死になり、彼が夢見たフロリダへと向かう。漏らす。死ぬ。以上。
こうしてみると、ストーリーより設定の方が重要な意味を持っている。ストーリーなんて悲劇というレールでしかない。
ジョーの背景。カウボーイスタイルで身を固め、ニューヨークでマダムを満足させようという思考回路に至る背景。
すべてが語られることはなく、回想は妄想とともにフラッシュバックするので、どこまでが事実なのかは読めないが。
閉鎖的な田舎、大人への憧れ、愛人に溺れる祖母、愛欲の日々、レイプの記憶、純真無垢な性格、金髪碧眼の容姿……。
ラッツォの背景。ニューヨークに生まれたイタリア移民の子。足に障害を抱えてまともな仕事になどつけない。
ニューヨークへの憧れとフロリダへの憧れが重なる。しかし都会の引力、もっといえば重力の底でふたりは這いずる。
脱出する金を奪った相手は、ニューヨークに出張でやってきたゲイの紳士。彼に振るう過剰なまでの暴力の意味は。
古き良きアメリカを体現する自分の身体が目的のゲイだから? いや、おそらくは彼に帰る場所があるからだろう。
あれほどこだわったカウボーイスタイル一式を汚物まみれの衣服と一緒に捨てるジョー。しかし死んでしまうラッツォ。
彼らはいったい何から逃げていたのか。あるいは、解放されたのか。彼らが生まれつき置かれている複雑な状況が、
そのままの複雑さで観客にも投げかけられる。正直、どうとでも読める。それだけに、一様ではない答えに呑まれる。
都会を舞台に、そこに来る男とそこで育った男。これだけでここまで重層的に人間の社会を表現できるものなのか。
用意周到な設定に、アメリカン・ニューシネマの文脈をうまく利用することで、唯一無二の名作に仕上がっている。

邦題は水野晴郎がどうしても「カウボーイ」にしたくなくてこうなったと推測するのだが、どうだろうか。
夜行バス利用者の僕としては、お安いバス移動からひねり出して「カーボーイ」とする意図はわからないでもない。
でもおそらく、この作品のインパクトがあまりに強くて、「カウボーイ」という言葉に特殊な意味が付くことを恐れた、
もっと言うと、西部劇全般に微妙なイメージを持たれないように、とまで考えての配慮かもしれないと思うのだ。
作中ではアメリカのゲイに大人気だったカウボーイスタイルだけど、その性的な意味合いを削ぎ落としたかった、と。
確かにわれわれは「カウボーイ」という言葉に性的なものは感じない。でもたぶんアメリカは違う。映画見りゃわかる。
で、その性的な感覚(ゲイ的にビンビン)を西部劇の古典に持ち込ませたくなかった、と。……ま、考えすぎでしょうな。


2020.5.18 (Mon.)

『E.T.』。超有名なのに見たことがないので見てみたら、びっくりするほどのクソ映画でござる。
こんなのが大ヒットとか、人類ヤバすぎるぜ。知的生命体として地球ヤバいんじゃないかって思われちゃうぜ。
地球外生命体から「お里が知れる」ってバカにされちゃうレヴェル。こんなん面白いと思うのは7歳児までだろ。

一見、上手いのは、徹底して大人の顔を映さない点だ。主人公一家の母親以外、大人の顔を映さないで撮っている。
これって「子ども(E.T.の味方)VS大人(E.T.の敵)」という構図を強調する工夫なのかな、と思いながら見ていく。
やがてE.T.が瀕死の状態になると大人たちが顔を出し、全力で彼を助けようとする。なんだ味方扱いか、と思ったら、
E.T.が死んで、いきなり蘇生。そんでもって子どもたちはE.T.を奪い、大人たちと追いかけっこを繰り広げてラストへ。
もう、ワケがわからない。大人たちの目的が明示されていない以上どうにも解釈ができない状況はそのままで、
「子どもVS大人」という安易な構図が復活。これは本当にひどい子どもだましだ。呆れて言葉が出てこなかった。
確かに「子どもにとって大人は敵なのか」という問題はジュブナイルものには重要なテーマとして存在していて、
そうはいっても人間は成長するから折り合いをつけざるをえないのだ。その中での「発見」が作品の価値となる。
しかし『E.T.』では、テーマの設定すら放棄されている。自転車のカゴに入れて空飛ぶシーンをやりたかっただけでは?

あまりにもひどすぎて、もうこれ以上『E.T.』について書くことがない。マトモなのはジョン=ウィリアムズの音楽だけ。
あとは子役の酔っ払っている演技がすごい。でもなんでE.T.とシンクロするのかわからん。どうでもいいや、もう。


2020.5.17 (Sun.)

『ゴースト/ニューヨークの幻』。なんかすげえ儲かったラヴロマンスということで。
当然、僕は予備知識がないので、「あれだ、どっちかが死んで化けて出て生き返るんだろ最後」くらいの認識。
序盤の流れで女が死ぬんかとちょっと思ったら、やっぱりカズレーザーの方だった。がんばれカズレーザー。

この映画が上手いのは、「自分だったらどうするか」をつねに考えさせるところだ。感情移入させるのが上手い。
だからだいたいの人は感動する仕掛けになっている。このこと自体は、悪いことではないと僕は考えるんですよ。
人間のコミュニケーションには本質的に不可能性というか不完全性があって(→2006.3.222009.2.19)、
われわれはお互いに誤読を避けながらやりとりをしている。しかしゴーストは誤読の余地すらない状態となる。
さてそうなったときにどうすればいいのか。そこを考えさせる設定というのは、これはなかなかの発明だ。
そしてラストで僕は確かにうるっときたのだが、その一方で論理的に考えて、物語に納得はできないのである。
感情は感情で心が動くが、論理は論理でまた別に心が動く、という分離した面白い感覚を味わうこととなった。

仏教用語で「質礙(ぜつげ)」という言葉がある。2つのものが同時に同じ空間を占めることはできない性質を指す。
つまり物質は重なって存在することはなく、必ずどっちかがもう片方を押しのけて場所を占有するということだ。
幽霊でもゴーストでもいいが、その存在を考える場合、この質礙の問題が無視されることになる。それは正しい。
問題は、そのくせ都合のいいときだけ質礙を認めることである。丹田に気合いを集中することで物に触れるんだとよ。
これをやっちゃうと、すべてがご都合主義になっちゃうんですよ。そもそも幽霊/ゴーストに重力を認めているし。
(万有引力の法則からして、重力があるということは質量を認めるということであり、実在する物質と認めることだ。
 この重力からの解放がフィクションの一番の関心事だ。逆を言うと、重力はリアリティの表現そのもの。 →2009.3.19
もうなんでもアリである。『あの花』とかいうウンコなアニメを見たときのガックリ感を思い出す(→2012.2.15)。
主に観客として想定しているであろう彼氏連れの女子なんかは、まあそこまで考えないだろうから感動だけが残る。
しかし本物の名作であれば、ここの論理的な破綻を見逃さないで解決するはずなんですよ。絶対にそこまでやりきる。
それをご都合主義で済ませているところは本当に残念。つまらないとまでは言わんが、なんか安い仕上がりなのよ。

安い仕上がりではもうひとつ、安直な勧善懲悪にも納得がいかない。なんでもかんでも死なすのはよくないと思うの 。
悪役は死んだ後になんだかよくわからない黒い影に引き込まれてどっかに行っちゃうのだが、すっきりしねえなあと。
確かに彼らは悪いことをやっているわけだが、善悪の峻別がはっきりしているところがどうにも馴染めない。
あれだと結局のところ、カズレーザーの目的がデミ=ムーアを守るというよりは、単なる復讐になってしまうのだ。
デミ=ムーアの危機を排除しての成仏かもしれないが、これって彼個人の復讐が終わっての成仏と変わらない形なのだ。
つまり、デミ=ムーアを守ることが目的であれば、死人を増やす必要はない。牢屋で反省しなさい、でいいじゃないか。
主人公を殺した罪の重さと釣り合わない、というのであれば、復讐とデミ=ムーアの危機を分けなかったのが失敗となる。
やはりその部分での論理的な解決を厳密にやっていないので、深く考える人には疑問が残ってしょうがない点だろう。

まあそんな不満はあるけど、多少はそれを軽減させてくれるくらいに、楽しめる要素は用意されている。
ウーピー=ゴールドバーグのトリックスターぶりがなければ、この映画は粗ばかりが目立ってしまったかもしれない。
しかしあまりにもキャラクターが強烈すぎて、ハラハラドキドキする感覚が5割増し。いやあ、楽しいけど胃に悪い。
そしてやはり最後の会話が非常に巧い。締め方が上手いので、そりゃあ感情は揺さぶられますよ。感覚も分裂しますよ。
あとは陶芸がエロいということですね。さすが『裸の銃を持つ男』(→2010.11.29)の監督、見ているところが違う。


2020.5.16 (Sat.)

『トゥルーマン・ショー』。テーマに興味があって、いつか見てみたいと思っていたのだ。
ネット日記で日常生活を全世界に見せびらかしてしまっている僕としては、立場としては同じようなもんだしな。

結論から言うと、うーん……この映画、あんまり頭のよくない人がつくっているなあ、と思う。
発想はいい。陰謀論ほどでないにしても、自分ひとりを残してあとの全員が何かグルになってんのか、という感覚を、
まったく抱いたことがない人はいないだろう。その感覚を映画化して物語として表現するのは面白いことだと思うが、
本当に頭のいい人だったらこういう描き方はしないはずだ。賢い人ならたぶんミステリ的に攻めて客の興味を引っ張る。
出し方が中途半端なのだ。トゥルーマンの視点になりきれず、スタッフ側の視点にもなりきれず。ヘタクソである。

いちばん「ふざけんな!」と思った点は、最後のトゥルーマンの脱出を視聴者が喜んでいる点。これはありえない。
それまでさんざんスタッフと共犯関係にあった連中が、なんで喜ぶのか理解できない。明らかに矛盾しているだろう。
完全に論理的に破綻している。この映画を見て「感動した」と言っている人は、物事を論理的に考えられない人だ。
その瞬間の感覚だけで物事を判断している人である。そういう人は、自分のヤバさをきちんと自覚しないといけない。
(『イミテーション・ゲーム』も瞬間的な感覚を人間性より優先していることに気づけない人はヤバい。 →2020.4.11
逆を言えば、そんな分裂症的な気質を描いていると捉えることで、観客への大いなる皮肉とも読めるけど、どうだか。
まあとりあえず、駐車場の係員が「終わっちゃったよ、別の番組ないの?」となるラストカットは実に妥当である。

頭のよくない人がつくっている分、この映画は社会学的な素材としてはかなり優秀というか、興味深い存在である。
というのも、この映画は、いかにも欧米的な一神教の精神、さらには資本主義の精神を、隠しきれていないからだ。
番組を主導するクリストフは一神教の父なる神そのもの。そして金の力で壮大なセットや膨大なキャストを用意する。
トゥルーマンの一挙手一投足がコマーシャリズムと関連づけられているのも象徴的だ。宣伝も入るしグッズも豊富。
「見えざる神の手」なんて言葉もあるが、商業を介して自動的に世界のシステムが動いていく。そういう価値観。
このような設定を用意できること自体が、欧米の無意識レヴェルに刷り込まれた上記の精神を象徴しているってわけだ。
日本人が設定をつくるとすると、おそらく決定権のあるポジションは一人だけではなく合議制になるだろう。
そしてその合議制の中で、トゥルーマンの解放に賛成の人と反対の人に割れるだろう。その方がドラマだからだ。
その方が葛藤する人間性の表現に即しているからだ。八百万の神がいる国では、感情ひとつひとつに神が宿る。
しかし一神教では神に生殺与奪を握られているという恐れ/畏れがすべての上に来る。その差を大いに感じさせる。
(民主主義では欧米人の方が日本人よりはるかに自立しているが、神からの自立がありえないのが皮肉だなあ。)

もうひとつ、この映画は1998年の公開ということで、「プレ・セカイ系」として読むことも可能であると思う。
「つくられた現状」を大胆に提示した『マトリックス』(→2004.12.7)は1999年の作品で、かなり共通点がある。
ふつうセカイ系というと、「自分が世界を動かす鍵である」「だから変化すべきは自分じゃなくて周囲だ」という、
成熟した現代社会に対する幼稚な嫌悪感を特徴とする。そして『トゥルーマン・ショー』と『マトリックス』の設定は、
この準備段階にあると言える。『トゥルーマン・ショー』ではトゥルーマンが世界の鍵となっているものの、
彼に動かす力はなく、スタッフに握られている。したがって能動的解決ではなく、世界からの脱出が志向される。
逆にクリストフを中心とすれば、彼が鍵となる世界(最後までトゥルーマンの自由を認めない)の破綻の話でもある。
『マトリックス』はもうちょっと過激で、やはり世界の鍵ではあるが、破壊からのSFアクションがメインとなる。
つまり世界の鍵でありながらその世界の継続を望まないという点で、後のセカイ系とは異なる。先ほどの定義では、
前者のみを実現した作品となる。まあ、時代の無言の欲求に応えたという評価はできる。『トゥルーマン・ショー』は、
そういう感覚が鋭すぎたがために、物語としての完成度が低くなってしまった、という弁護はできるかもしれない。


2020.5.15 (Fri.)

『T2 トレインスポッティング』。ダニー=ボイル監督、ユアン=マクレガー主演。2017年作品とな。
先日の『トレインスポッティング』(→2020.5.12)の完全な続編。キャストが全員20年前と一緒ってんだからすごい。

最初っから、やはり映像づくりが上手いなあと感心。『スラムドッグ$ミリオネア』(→2020.4.16)でもそうだけど、
ダニー=ボイル監督は色彩感覚がだいぶ鋭いと思う。前作はイギリスらしい曇り空が全体を覆って灰色がかっていたが、
20年経って人工物を中心に原色を上手く使って理想と現実の落差をよく強調できていると感じる。相変わらず比喩もいい。
そしてさらに上手いのが、主人公が実はレントンではなくスパッドである点だ。一見レントンだが、これはスパッド。
前作はレントンを通して見た世紀末スコットランドの終わらない日常、そこから一歩踏み出す可能性の描写だった。
しかし監督は同じことを繰り返さない。日常に呑まれる、それを最後は肯定的に捉えるレントン。それはそれで正しい。
だが彼の帰還をきっかけに変化・成長するのは根のいいスパッドなのだ。20年で変わったものと変わらないものの中で、
今まで低く見られていたスパッドこそが次の一歩を踏み出す。これをやりきるダニー=ボイルは非凡だと感心した。
もともと前作からスパッドの俳優さん(ユエン=ブレムナー)は非常にいい味を出していたけど、今回はもう完璧。
しかし彼の英語はスコットランド訛りなのか、それとも頭の弱さの演技なのか。何から何まで絶妙であると思う。

前作のキャストを完全に揃えることができた、そのことがいちばんの幸せである。もちろんストーリーも重要だが、
そもそもがダメな男たちのダメな青春なので、急に冴えるはずがない。前作のキャストが全員集まることそれ自体が、
実は前作を肯定する最大の事実なのだ。だから前作のファンをつかむハードルはやや低めで、それを的確にやっている。
基本は前作へのノスタルジーだ。そしてダニー=ボイルは開き直って、ノスタルジーを大胆に肯定してつくっている。
とはいえ、他者(一人だけ若い、しかもブルガリア人)のベロニカにより客観的な視点を用意する対処は非常に上手いし、
そのベロニカについてダイアンに「彼女は若すぎる」と言わせる皮肉も上手い。どこをとってもよくできている。
僕は前作にはあまりいい印象を抱かなかった。共感できないモラトリアム生活と、言い訳ばかりのモノローグ。
しかし今作はやっぱり冴えないままのおっさんの物語ではあるものの、スパッドへの視点が深まったこともあって、
言い訳のモノローグはほとんどない。僕としては、今作を経験してようやく前作の青春をある程度肯定できた感じだ。
でもそれってたぶん、僕が歳をとったからであるような気もする。おっさんになったから、おっさんに共感できたと。
20年後とは言わないが、もし『T3』が実現できちゃったら、僕はそのときファンになっている可能性はある。

最後にもうひとつ。この映画ではジョージ=ベストについて何度か言及がある。それがちょっと気になる。
前作の時点(1996年)で、彼がマンチェスター・ユナイテッドを去ってから20年以上が経っている。でもアイドルだ。
そして彼はすでに亡くなった。でもレントンたちにはアイドルであり続けているようだ。その感覚がよくわからない。
破滅的な天才への憧れ? 彼は北アイルランド出身だが、先祖はスコットランドとのこと。でもそれが理由というのは、
ちょっと苦しい。ここの感覚がわからないことには、彼らを本当に理解できない気がする。そこは少し残念に感じる。


2020.5.14 (Thu.)

東京・神奈川・千葉・埼玉・大阪・京都・兵庫・北海道以外の39県で緊急事態宣言を解除とのこと。
第2波のことを考えると、東京で解除となるのはいつになるやら。来週できるかもしれんし、5月いっぱいかもしれんし。
僕は公衆衛生については素人なんで、想像がまったくつかない。専門じゃないのに意見が言える人の神経がわからん。

ともかく、まだしばらくは勉強の日々である。これだけみっちりと勉強し直す時間が持てることは正直ありがたいが、
勘のいい人ならこの時間をインプットに充てないで、アウトプットに使っていると思う。つまり、小説を書くなりする。
それをしないところが僕のダメなところだが(過去の日記に追われてばっかりだよ)、今の閉塞的な社会状況を考えると、
ポジティヴな話なんて到底書けない。僕は開き直ってネガティヴな話を書けるような、心の強い人間ではないのだ。
「閉塞的な社会状況」ってのはコロナのことではないよ。論理的にめちゃくちゃな国内政治とそれを許す国民の皆さん、
品性のないグローバル化や海外情勢、そういったもののすべて。ポジティヴな話を書ける時代が再び来る気がしねえよ。


2020.5.13 (Wed.)

職員室でコリオリの力についてずっと考えていたのであった。これなんとかうまく採用試験の模擬授業に使えないかなあ。
まあその前に筆記を確実に通過せにゃいかんけどね。遠き慮りなければ必ず近き憂いあり、バランスよくものを考えよう。


2020.5.12 (Tue.)

『トレインスポッティング』。ダニー=ボイル監督、ユアン=マクレガー主演。1996年作品とな。
ダニー=ボイル監督というと、『スラムドッグ$ミリオネア』(→2020.4.16)が最近の大ヒット。参考までに。

これ青春か? 青春なのか。モラトリアムというか、スコットランドで鬱屈としている若者たちが描かれる。
彼らはどっぷりとヘロインに浸かっているが、僕にはまるで感情移入できない世界なので、ニンともカンとも。
僕がいたクイズ研究会なんてぜんぜんえっちくないしな、久喜のアイツ以外は。すばらしく縁遠い別世界だ。
古くは『欲望という名の電車』(→2005.5.21)だとか、『俺たちに明日はない』(→2012.11.12)だとか、
教養のない連中の生態を見せられても何も面白くないのよ。主人公が哀れなばかりでどうにもこうにも。

1996年という時代も重要なのかと思う。当時の社会状況、そして音楽。ドラッグはよくわからんが。
作中でダイアンが語るとおり、それらはどんどん新しいものとなっていく。その最先端から四半世紀が経っている。
だから僕が浪人していた当時のことを思い出してもどうしょうもない。乗り遅れてしまって、もうどうにもならない。
個人的には、大好きなUnderworldの使い方に違和感。当時の感覚ならそれでいいんだろうけど、僕は乗り遅れて、
そしてある種の古典としてUnderworldを聴いたから、彼らの音楽がこの映画での価値だけで語られることが、
非常に不本意である。「Dark & Long (Dark Train)」はフラッシュバック用のBGMじゃねーんだよ、と。
「Born Slippy Nuxx」に変なラベル付けるんじゃねーよ、と。どうしてもそういう気持ちの方が先に来る。
だからコンテンポラリー(同時代)に体験した人なら当時の最先端だから無条件に肯定的になれるんだろうけど、
乗り遅れた側としては過去の言い訳をダラダラ垂れ流されている感覚になる。「普遍」を見出しづらい映画だ。

演出は気が利いているのはわかる。そして比喩や体感を的確に映像化している巧さもまたわかる。
だから不快感はあまりない。ダメな人間関係や汚物まみれの空間や全編を貫く閉塞感などキツい要素が多いはずだが、
テンポがいいので閾値に達する前に次の展開が来る感じ。つまり、感情移入はできないが、平気で見られるのである。
観客に「もういいや」と思わせないバランス感覚が鋭い。ダニー=ボイルはそこのさじ加減をよくわかっているので、
『スラムドッグ$ミリオネア』でも観客が耐えられるギリギリのところを攻めることができたのだと思う。
話にはまったく魅力を感じないのだが、映像の持つリズム感によって最後まで引っ張られた感じは確かにあるなあと。

ダイアンの制服姿には正直ぐっときた。すんません。


2020.5.11 (Mon.)

『ミセス・ダウト』。ロビン=ウィリアムズが特殊メイクでおばあちゃんに化けるよ。

非常によくできている映画だと思う。ポイントは2つ。ひとつは、悪者をつくらない点。この映画には悪役がいない。
家庭訪問員のセルナーさんはクリームを顔に塗り、恐竜の先生は郵便配達役をゲットし、スチューはどこまでも誠実。
ダニエル/ダウトファイアのトリックスターぶりを引き立たせるためかもしれないが、優しさを感じさせる部分だ。
アメリカが公平だった、いい時代だったなあと思うのは極端だろうか。エンタテインメントとしての安心感がある。
(ひと騒動あった後に、ダニエルがちゃんとスチューに謝るのがすごいなと思う。これをきっちり描く真面目さが好き。)
さらに言うと、この作品は騒動を通して家族全員が成長している点もよくできている。子どもの成績はもちろん、
ミランダも自分を冷静に見つめるし、まあ何よりいちばんはダニエルだ。努力で家事・生活力を大幅に改善させ、
「楽しくて優しいけどダメな父ちゃん」から脱却しただけではないのである。他人の悩みに対して落ち着いて考え、
広くベストな答えを返せるまでになっているのだ。安易にミランダとヨリを戻そうとしない点も、その現れだろう。

もうひとつは、ロビン=ウィリアムズの特性をフルに引き出している点。残念ながら2014年に亡くなってしまったが、
彼がどういうコメディアン・俳優だったのかを理解する最高の素材になっているのではないか。多様な声色だけでなく、
スラップスティックな笑いを大量に盛り込んでいる。特に素のダニエルでいる状態のときにそれが顕著である。
他方、ダウトファイア状態ではしゃべりでのギャグを中心とすることで、両方のタイプの笑いをやってのけている。
物語としては当然、「正体がバレちゃうかも!」というドキドキ感で観客を引っ張ることになるわけだが、
そこを目的とせず(中盤で上の子ども2人にバレるのは上手い)、あくまでコメディに徹しているのがすばらしい。
クライマックスのレストランのシーンではそれが最高潮となり、ダニエル/ダウトファイアの境界が曖昧になっていき、
しゃべりとドタバタの両方のギャグが息つく暇もなく展開されていく。ロビン=ウィリアムズの真骨頂だろう。
「変装」をテーマに据えた物語を考えるのは難しくないが、説得力を持たせて映像化するのはそうとうハードである。
それをコメディとしてここまで高い完成度でやりきったいちばんの要因は、やはりロビン=ウィリアムズの存在だ。
ちなみに、これを日本でやるなら主演は誰だ?と考えた場合、僕だったら「山寺宏一」と即答してしまう。
そしたら吹き替えが案の定、山寺宏一だったのでそっちでも見てみた。ロビン=ウィリアムズはドキドキ感が強いが、
山寺宏一だとうっすら安心感があるのが面白い。しかしダウトファイア状態の声は完全に彼の地声から離れた声で、
これはすごいと驚愕した。ふだんと別の声で2時間演技をやるってのは、想像がつかない。特殊な能力だと思う。

興味深いのは、時代が時代だからか、オカマに厳しい点である。何もそこまで……と思う箇所がチラホラ。
そもそも女装とオカマは違うんだけどな(→2011.2.152012.4.23)。僕はそこを別次元として分けて考えているが、
この映画ではそうではない感じ。そして対応が厳しい。アメリカのオカマの方が何かとパワフルなんかな。

さて、ここまで読んで気づきましたか? ……いや、オカマではなくて、タイトルの問題。邦題の問題ですよ。
ダニエルは新聞記事の「Doubt Fire(放火の疑い)」の文字を目にして「ミセス・ダウトファイア」と名乗る。
原題も『Mrs. Doubtfire』である。最初これは何を暗示しているのかと思ったが、あまり深い意味はないみたい。
しかし邦題は『ミセス・ダウト』で、火事の部分をスッパリ切っている。おかげで抜群に語呂はよくなったが、
さすがに「ダウト」が「疑う」という意味であることはみんなわかるわけで(トランプのゲームにもあるし)、
それが作品の「変装」というテーマに妙にマッチして違和感はない。でも実際の名前と違う。なんとも奇妙な状態だ。
これは考えれば考えるほど難しい。doubtは基本は動詞であり、名前に持ってくると「疑う側」になるのではないか。
もちろん名詞としての使い方もあるわけだが、そうすると「疑惑・不信」となって、ちょっと意味が強すぎる。
そもそもなんで「Doubt Fire」って言葉を引っ張ってきたんだ、というのがわからない以上どうにもならないが、
日本人の「ダウト(トランプのゲームにもあるし)」と英語のdoubtの違い、原題と邦題の違いに、なんだかモヤモヤ。


2020.5.10 (Sun.)

『悪魔のいけにえ』。ホラーはイヤだが、「芸術性が評価されてマスターフィルムが永久保存」とか言われるとね……。

本当はこの映画はフィクションなのだが、「1973年8月18日」なんて具合に具体的な日にちが最初に提示されて、
なんだか『狼たちの午後』(→2020.4.19)を思い出すではないか。映像も粗めで、そんなに鮮明ではないことで、
かえって当時っぽいリアリティが出ている。BGMがぜんぜん入らないのもドキュメンタリータッチである。
現実と地続きになっている悪夢の世界がうまく表現されていて、いやもう怖い怖い。ホラーの古典はダテじゃないのだ。

BGMの代わりに使われているのがラジオのニュース。この内容が凄惨な事件について淡々と語るというもので、
観客には怪談のマクラみたな効果をもたらす。次に出てくるのが屠殺の話で、これで観客を慣らすのかなあと思ったら、
純粋に伏線なのであった。ヒッチハイクで乗っけたやつのヤバい描写も非常に印象的。英語が幼稚なのがまたヤバい。
そんでもってガソリンスタンド兼バーベキュー店で道を尋ねるわけだが、映画が終わってから振り返ってみると、
実は最初っから最後までヤバかったという。主人公たちが踏みはずしたポイントがわからないというのがまた怖い。
だから終わり方も潔い。そしてそれだけに、ヤバい状況が終わったという保証がない。思い出すほど怖くなる仕組みだ。

個人的にいちばん気持ち悪かったのが、血の出ているヒロインの指を吸うじいちゃん。あれは本当に気持ち悪かった。
「全米気持ちが悪いことを考える選手権」が開催されたら間違いなく上位に食い込んでくる気持ち悪さではないかと思う。
ホラーに理屈が介在するというか、「なぜ怖いのか」を論理的に突き詰めていくと、性的なものが大きくそびえてくる。
(「人間はなぜホラーをつくってしまうのか」「怖いもの見たさ」を論理的に突き詰めるのも、面白い作業だが。)
この映画ではそれまで、性的な要素がほぼなかった。純粋な暴力の延長線上にある怖さを前面に押し出していたが、
ここに関してだけは性的に解釈ができた。つまり彼らの狂気に理屈がついちゃった瞬間で、だからちょっと特殊なのだ。
恐怖心という本能的な感情に挑戦するホラー映画ってのは、人間が囚われる性と暴力を分析するという点において、
かなりの有効性を持つからこそ一定の支持を得ているのかもしれないなあ、なんて思った。好きにはなれないけど。

ちなみに原題を直訳すると「テキサスチェーンソー大虐殺」で、邦題ぜんぜん違うやんけ!とツッコミを入れたくなる。
しかしよく考えると、「テキサスチェーンソー大虐殺」では微妙なギャグのテイストが漂ってしまうのである。
内容はまあ確かに「悪魔」で「いけにえ」なんだけど、イマイチほかのホラーと区別がつきにくいじゃないか。
そこで自分もいい邦題がないか考えてみました。『変態家族の人肉祭り~ポロリもあるよ!~』、これどうだろう。
「ポロリ」はじいちゃんがトンカチ落とすじゃん。あれ。あのシーンだけ完全にモンティ・パイソンだったね。爆笑した。


2020.5.9 (Sat.)

けっこう増えてきたなあと思う。集める気はさらさらないのだが、捨てるタイミングがつかめずにいたらこうなった。

 とりあえず本棚に置いてみたらこんな感じに。

お土産で売っている100mlの焼酎である。かわいいもの好きとしてはついつい買ってしまうのだ。困ったものだ。
いちばん古いのは枕崎で買ったさつま白波(→2009.1.12)で、最近の5本セットと比べたらデザインが更新されていた。
特に黒白波のデザインは全面的な変更だ。……それにしても「黒白波」って名称はなんとかならんのか、といつも思う。
3月の熊本旅行の際には球磨焼酎の5本セットを買ったのだが、飲んでみて焼酎だと米がいちばん体質に合うことが発覚。
僕は全種類の酒のうち、アルコールが体内に最も無理なく入るのが日本酒、という典型的なお米の国の人なので、
そりゃ米焼酎とは相性がいい(というほどは飲めないので「マシ」という表現の方が的確か)はずだ、と納得。
ちなみにそのセットの中でいちばん気に入ったのは、樫樽で貯蔵・熟成させたという「秋の露 樽」って銘柄である。

御守だけでも大変な状況なので、これ以上ものを集めたくない。集めたくないが、デザインが気になるし、かわいい。
タンブラーで1杯分、旅先のことを思い出しながらいただく。気がつけば自分もミニサイズで焼酎右往左往していますな。


2020.5.8 (Fri.)

本日の昼休みは、メンバーが7人も集まったので試合形式となったのであった。皆さんやる気ですなあ……。
しかし外野が足りないのでレフト方向限定というルールに。左でプルヒッターの私は翼の折れたエンジェルですよ。
しょうがないから右で打ったのだが、レフトフライ1個のほかはぜんぶサードゴロでやんの。本当にがっくり。

数学の先生が信じられないほど肩が強くてうらやましい。こちらは弱肩なうえにコントロールがひどいという最悪ぶりで。
昔っから、僕はソフトボールだと全力で投げても山なりの軌道になってしまうのである。これが不思議でしょうがない。
あまりに肩が弱いのでそうしないと届かないと、本能的にそうなっちゃっているのだろうか。だから外野しかできない。
ふつうの野球のボールなら、球速は遅いが問題なくまっすぐ投げられるのだが。ソフトボールのときだけ山なり。不思議。


2020.5.7 (Thu.)

GWが明けて職場には全員が勢揃い。しかし通常営業となるわけでなく、5月いっぱいの休業に向けて課題等の準備。
大量の副教材を学年ごとに整理する作業からスタートし、配付用の紙袋を準備し、課題一覧表をまとめるのであった。
昼休みにはもちろん有志によるキャッチボール(&フリーバッティング)。前回よりはマシな打撃だったものの、
守備では華麗なバンザイを披露したのであった。運動できる人の打球は伸びるんだよう。次回はさらにがんばる。


2020.5.6 (Wed.)

『エイリアン2』。昨日見た勢いで続編もいっちゃうのだ。

タイトルが出た時点で「うわぁ~」となる。邦題だと単なる『2』だが、原題は「Aliens」。複数形じゃねーか!
ということは、やたらめったらしつこくてしぶとかった「あのあれ」(『MOTHER』的表現)みたいなアイツが、
何匹も襲いかかってくるということである。勘弁してくれよーと思いつつ、我慢してがんばって見るのであった。

前作の直後だが、実際には57年が経っていた、とは上手いなと思う。シガニーがちょっと老けても問題ないもんな。
ウェイランド・ユタニ社は手綱を緩めることなくすでに移民団を送り出してしまっている。絶妙な設定だと思う。
しかし戸惑ったのは、実はリプリーに娘がいたんだぜ、という点。その辺のサバサバ感がアメリカらしいっていうか。

SFホラーとして緊迫感満載の時間をたっぷり盛り込んでいた前作と違い、こちらは無駄のない展開が印象的である。
しかし違和感も強い。リプリーは自分からトラブルに突っ込んでいくような性格じゃなかっただろう、とツッコみたい。
前作への敬意は最大限なされていると感じるんだけど、これは「公的な二次創作(→2007.11.9)」だなあと思う。
やっていることが完全にアクション映画なのだ。エンタテインメントと割り切ってジャンルを変えてくるとは、
ずいぶん思い切った作戦である。でも冷静に考えると別にジャンルを変えてはいけない理由なんてまったくないし、
時間が経って状況が変わっているんだから不自然ではないのだ。それならこっちも割り切って楽しめばいいのである。

というわけで、これは80年代アメリカの娯楽映画ですね、以上の感想はない。前作への敬意は心地いいけど。
メインテーマを母VS母の戦いにすることにより、どちらの種が強いかという構図に持っていったのは上手いところ。
さらには前作でリプリーを窮地に陥れた合成人間を巧みに引っ張ることにより、これまたホラーの前作には欠けていた、
仲間との信頼感というエンタメ要素をきっちり盛り込んでいる。最終的には好みの問題だが、完成度はとても高い。
「公的な二次創作」として、観客が潜在的に求めていた方向性をしっかり現実にした作品なのは間違いないだろう。

前作でも思ったが、この映画で活躍する火炎放射器は、単純に大ダメージを与えられる武器というだけではない存在だ。
僕はそこに、プロメテウス以来の知性という意味を感じるのだ。高度な社会性を有するが非常に昆虫的な相手に対して、
身体的能力に劣る人類は道具で対抗するよりない。その象徴としての火を、最上級で表現したのが火炎放射器なのだ。
ホラーにしろアクションにしろ、火に象徴される知性を使う人類がどこまでやれるのか、という構図であるところが、
このシリーズの核になっている部分なのである。さすがにきちんと本質を衝いているものだなあと感心する。


2020.5.5 (Tue.)

『エイリアン』。気持ち悪くて怖い映画なんて見たくないのだが、はずせない名作ということだから我慢なのだ。

まず、宇宙船のセットに圧倒される。今ならぜんぶCGで処理しちゃうところだが、昔はこれをきちんとつくっていたのだ。
やはり本物ならではの質感がいい。CGじゃないって素敵なことだなあ、なんて思いながら見る。アナクロ万歳だぜ!
物語にはさまざまなジャンルがあるが、SFは特に説得力を持たせるのが大変であると思う(「ウソの現実」→2013.1.11)。
科学にもとづいた論理からはずれてはならないし、未来を納得させるだけの空間を受け手に提示しないといけないからだ。
小説であれば後者は文章力での解決となるが、これが映画となると実際に空間をヴィジュアルで表現することになる。
それだけのセンスもさることながら、セットを組むだけの費用も必要になる。ゆえに、SFは難度の高いチャレンジだ。
(個人的には、SFが難しい最大の理由は、重力からの解放(→2009.3.19)が当然のものとされている点だと考える。
 これを表現することがいちばん大変だろう。ハンナ=アーレントが『人間の条件』で言っていたことに通じるはず。)
脚本を信じて、監督を信じて、やりきったことがすばらしい。さまざまな才能を頼る、いい時代だったんだなあと思う。

いわゆる「フェイスハガー」が登場した段階で、なるほどコレかー!と納得。『究極超人あ~る』(→2005.1.15)で、
R・田中一郎がシルクハットから出した生物だ。騒動がいったん収まったと思ったら、「チェストバスター」が登場。
これがまた気持ちの悪い姿である。黄色というか肌色というか、そういう色合いなのがよけいに気持ち悪くてたまらん。
この映画が上手いのは、頼れる仲間の描写と緊迫感による怖さと気持ち悪いシーンを交互に見せていくバランスだ。
がんばるクルーの姿を見てわれわれは安心感をおぼえるが、長々と描写されるうちにそれを上回る緊迫感がもたらされ、
やがて決定的な場面でショックが与えられる。このサイクルが繰り返されるとともに、一人また一人と味方が減っていく。
しかもそこには、あらゆる怖さのパターンが盛り込まれている。気持ち悪い姿による怖さ、人間が派手に流血する怖さ、
敵がどこに潜んでいるかわからない怖さ、追いかけられる怖さ……ここにあるのはそういった直接的な怖さだけではない。
自分たちが知らないうちに裏切られていた怖さ、見捨てられる怖さ、そのレヴェルにまで踏み込んでいるのがすごい。
あらすじとしては単純かもしれないが、その中でできることを、ソフトでもハードでもすべてやりきっているのである。

もうひとつこの作品が高い評価を受けている理由としては、社会を読む切り口が圧倒的に多いことが挙げられる。
シガニー=ウィーヴァー演じる主人公リプリーは、つねに毅然として正しい判断を下す。力で敵を倒すのではなく、
勇気を持って落ち着いて判断を下し続けることで生き残る。そんな女性の活躍を描いた点が、まず特筆に値するわけだ。
クルーの側を見ると、印象に残るのはメカニックたちのぼやきだ。冴えないイエスマンと黒人という強烈な設定で、
彼らは他のメンバーより給料が低いことに不満を漏らしている。明らかなブルーカラーとホワイトカラーの対比である。
そしてこの危機の遠因となってくるのが、感情・規則・責任の危ういバランスである点も、ものすごいリアリティだ。
職務に忠実であれば規則を守り責任を取ることが当たり前だが、それが感情で揺らぎ、また声の大きさで反故にされる。
そこにはうっすら女性蔑視も乗っかっている。われわれにもありがちな問題点が、苛立つリプリーを通して描かれる。
何より最大の恐怖は、エイリアン本体にあるのではなく、そいつを手に入れるためなら従業員を平然と犠牲にしてしまう、
企業の姿勢にある。いちばん怖いのは人間そのものだ、というロジックが仕込まれている点まで、もう完壁なのである。
(それをぜんぶ背負いこんだアッシュの演技は、言葉にならない迫力がある。僕がいちばんシビれたのはそこだ。)
人によってはギーガーによるデザイン、またそれらに代表される性的なメタファーについても興味深く読めるだろう。
ありがちなラヴロマンスを完全排除し、人間や社会についての切り口を盛り込めるだけ盛り込むことによって、
かえって高度なエンタテインメントとして成立しているところが、この映画の本当の凄まじさだ。これはもう古典だ。

面白いのは、結果的に各スタッフのいいとこ取りで、いい意味で最大公約数的なバランスがとれている点である。
ホラーゆえの制約(B級扱い)、SFゆえの制約(上で書いた)、予算の制約、技術上の制約、そういったものに加え、
監督も脚本家もギーガーも俳優も制作会社も「しょうがないからそれでいこう」という妥協をどこかでやっている。
それはつまり、作品を完成させるという目的を見失わず、お互いを認め合ってチームが一丸となったということなのだ。
おかげで、誰か一人の自己満足に陥ることのない(誰とは言わんが、コイツとか典型的でしょう →2020.4.17)、
観客も共有できる独りよがりではない作品に仕上がっているのである。すごい人たちが集まってすごいものをつくって、
そのすごさがわかるあなたもすごいんだよ、という作品。ホラーなのに、なぜか「祭り」って言葉が思い浮かんだ。


2020.5.4 (Mon.)

昨日持ち帰ったCPAPを初めて自分で使って眠ったのだが、はずした後に二度寝しないように気をつけなければ。
CPAPってのは結局、鼻から空気を送り続けて肺までの気圧を高めることで気道を広げて確保するものだ、と理解した。
単純に空気を送って呼吸させようってわけじゃないのね。富士山みたいに気圧の低いところで使ったらどうなるんだろう。


2020.5.3 (Sun.)

よく眠れた気もするが、7時ごろに家に帰ってさらに軽く睡眠を足すのであった。追い飯みたいなもんだな。

さて本日は祝日なので、日記の画像整理と執筆作業に集中。2017年8月が対象で、記憶的な問題はないが、手間がかかる。
いちばん困っているのが、養老天命反転地の写真の取捨選択である。とにかく変態的な空間なので、枚数を絞れない。
枚数を絞るためには判断基準・根拠が必要なのだが、その基準の定めようがないのである。いや本当に困った場所だ。
もうこの際、撮った写真をぜんぶ載っけてやろうかと思うが、それはそれで画像の処理が絶望的に大変になってしまう。
荒川修作はなんてものをつくってくれやがったのか。まあ「体験」をすべて記録しようとする方が間違っているのだが。


2020.5.2 (Sat.)

睡眠時無呼吸症候群の検査である。本日はCPAPの設定をみるためのもので、実際にCPAPを着用して眠るのだ。

 外出自粛生活中につきヒゲ面です。

空気を吸うことに問題はなくって、空気を吐くときにのどちんこで弁ができてしまうことが問題なのね。
しばらくそれに苦しむ時間帯もあったが、最終的にはスムーズに呼吸ができたような気がする。さあ実際はどうか。


2020.5.1 (Fri.)

僕は毎週水曜日が実際に職場に出勤する日だったのだが、今週は昭和の日でお休みだった。その分、今日職場へ。

体育の先生に誘われ、昼休みにキャッチボールである。ソフトボールだったのだが、とにかくノーコンでお恥ずかしい。
もともと僕はコントロールがよくないのだが、明らかに悪化している。右手人差し指のケガは関係なく(→2020.1.27)、
握り方とフォームのいいかげんさや安定しない下半身が原因と感じる。ちょっと運動しないとこれかよ、と落胆する。
ボールをキャッチするのとバッティングはそれなり。打つ方も右手人差し指はそんなに関係なくプレーできている。
ただ、下半身が安定しなくてボールの真芯ではなく上下を叩く悪癖も相変わらず。次回はもうちょっとマシにしたい。

さて、緊急事態宣言が継続ということで、学校の休業も5月いっぱいに延びた。おかげで年間予定表も大幅に書き換え。
新しい予定表では、なんと土曜授業が月2回、夏休みにいたってはお盆を挟んだ11日間だけ。かなりのハードモードだ。
特に僕は授業でフル回転するはずなので、今のうちから体力回復や気分転換の方法をきちんと考えておく必要がありそう。
例年ならそれが旅行ってことになるけど、旅行すらできないくらい消耗しそうな気配を感じるのである。本当に恐ろしい。
映画見たりマンガ読んだり音楽聴いたり友達とダベったり、なんとか積極的に対処せねば。今からけっこう不安だ。


diary 2020.4.

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