雨で調子が上がらないので、わりと近所の五島美術館へ。『古染付と祥瑞―愛しの青―』ということで自分には必修課題。
まず古染付と祥瑞、それぞれの定義について。どちらも17世紀前半に中国の景徳鎮でつくられた陶磁器である。
古染付はやや沈んだ色調の青で描かれており、素朴さが残る。初期伊万里(→2023.3.16)の先輩格と言えそうな印象だが、
さすがに古染付の方がまだ洗練されている。日本からの注文もかなりあったようで、織部好みなんかの桃山文化を反映して、
あえて形を歪ませるなどの大胆な造形が特徴である。のびやかな発想の器が多く、気取らない感じがなんとも心地よい。中間的な移行期を経て現れるのが祥瑞(しょんずい)。幾何学的な文様や縁起のいい吉祥文様を特徴としているが、
それらが鮮やかな青によって緻密に描かれている点が最大の魅力。また造形も文様に応じた工夫がなされている物が多い。
香合や茶碗を中心に繊細で完成度が高く、個人的にはドストライク。祥瑞は明確に日本からの発注でつくられており、
茶の湯で使われる品々が生産されていた。特に小堀遠州は祥瑞を珍重していたそうだ(「綺麗さび」→2024.5.21)。
しかし明清交替の混乱と清の海禁令の影響で輸入できなくなってしまい、代わりに有田焼が発展したのはご存知のとおり。
こちらも伊万里/有田の先輩格となっており、特に古九谷様式の時期には祥瑞を参考にした「祥瑞手」という作風が現れた。
東京国立博物館の祥瑞茄子香合が展示されていた。2年前の写真(→2023.4.15)を再掲載。
今回は全国の美術館から名品をたっぷり集めており、かなりの見応え。おかげで古染付と祥瑞についての理解が深まった。
金がないのについつい図録を買ってしまったではないか。でも本当に充実した内容だったので、悔いはまったくないのだ。
宮本常一『忘れられた日本人』。西岡は「つねかず」だけど、宮本は「つねいち」。
大学時代に読むべしと言われていた気がするのだが、この歳になるまでスルーしていたという体たらく。お恥ずかしい。
で、実際に読んでみると凄まじく面白い。こんな凄まじく面白い本を読まないで生きてきたことを強く後悔しているしだい。近世から近代へと社会が大きく変化するわけだが、地方での生活にはタイムラグがあり、緩やかに変わっていく。
そんな状況を背景に、村人、女性、漂泊民といったさまざまな人々の言葉を記録していく。それが前半の構成。
(変質する社会に対する敬意と諦念の混じった記録では、レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』も重要だ。→2010.3.17)
後半になると大きく変化する時代の中で、地域での生活を切り開いていった人々に特に焦点を当てる内容となる。
やはり「世間師」の概念が興味深い。近代以前にもとんでもない旅をしている人々がいたのは、個人的には共感できる。
彼らは地元に戻って知識を共有するのだが、そこで文字を知らない者と知る者の間で姿勢に差が出る指摘もまた面白い。
民俗学とは彼らの思考/志向/嗜好の延長線上にあり、それは好奇心という人間性に直結しているものなのだろう。
僕もcirco氏もそっち側の人間であること(⇒circo camera)、自分の中に刻み込まれたDNAを再確認した気分だ。ただ、宮本常一の時代にはまだ農業が身近にあった。だから「百姓としての知」が前近代の共通言語として機能した。
「忘れられた日本人」というタイトルが示しているとおり、現代はずいぶん遠いところまで来てしまったと思う。
そして貧しいからこそ目を向けることのできた(また強いられた)「豊かさ」を、ずいぶん切り捨てて来てしまったとも思う。
時間のスパンが加速度的に短くなり続けている使い捨ての現代に、民俗学として記録する価値のあるものはどれだけあるのか。
どんな時代でも変わらない人間性をあぶりだすために記録はなされるはずであり、そのあらゆる対象に貴賤はないはずなのだ。
しかし、娯楽や情報があふれて細分化している現代は、過去のそれらほどには面白がることができないように思えてしまう。
過去の人々が拙くとも自力で見つけていたのに対し、現代のものはすべてが「お客さん向け」であるように感じられるのだ。
貧しくても生産する社会から、消費に躍起になる社会への変化。僕の感情は、ノスタルジックなものでしかないのだろうか。
世界一日記を書きやすい洗足のドトールが2月で閉店ですと! これは驚天動地の事態なのであります! 日記ピンチ!
隣のクリーニング店も閉店するというので、洗足駅じたいが再開発となるのか。万物流転じゃのう、としみじみ。