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2025.3.20 (Thu.)

注文していた新パソコンが本日届いたのであった。2代続いた富士通から移籍して、VAIOに出戻りであります。
気がつきゃ日本のパソコン事情は大きく変化しており、富士通もNECもパソコン事業は中国のレノボ傘下だそうで、
なんとも淋しいものである。「日本のメーカー」にこだわると本当に選択肢が限られる。で、今回はVAIOにしたのだ。
こないだ寄った安曇野から出荷しているそうで、穂高神社に「VAIOがもうソニータイマーから解放されてますように」と、
お祈りしてきたのだ(→2025.3.15)。そんなわけで名前は「HOTAKA」と命名。ネイヴィーブルーがしっくりくるぜ。

 お安く買ったのでメモリー8GBがちょっと心配。さあ、何年行けるか。

お安く買ったのでスペック的には少々不安がないでもないが、そんなに激しく使うこともないはずなので大丈夫だろう。
起動すると初期設定のダウンロードにたいへん時間がかかる。処理速度が上がっても詰め込む内容が増えれば変わらん。
クラウドのおかげでデータの持ち越しがわりと簡単なのはありがたいが。一段落つくと、Adobeの3本柱を導入する。
IllustratorとPhotoshopとDreamweaverがないとどうにもならん。サブスク地獄だが(→2024.3.1)2台いけるのはうれしい。
そしてiTunesを投入。だんだんと「いつものぼくのパソコン」になってくる。淋しくもあり、頼もしくもあり。

しかし最近のモデルにはBlu-rayドライヴがぜんぜんついていないのね。みんなネット配信ばっかりになっちゃったのね。
MP3づくり作業もあるし、先代の「futsutama 2nd」(→2019.10.6)の出番はまだまだありそう。仲良くがんばれ。


2025.3.19 (Wed.)

朝、駅までの道を歩いているときには霰がバカスカ降っていて、なかなか珍しい「強い霰」なのであった。
雨と違って濡れないで済むので助かるなあと思いつつ列車に揺られるが、走っていても霰がぶつかる音が聞こえる。
溝の口駅に着いてバスを待っていると変わらず霰がバカスカ降ってくる。バスも遅れて7時台から混乱している。
バスに乗って少し行くと、すぐに大粒の雪へと変わった。こないだの松本(→2025.3.16)に負けない雪景色である。

 今シーズンいちばんの雪がここで降るとは。

おかげで学校行事は予定変更を余儀なくされたのであった。でも午後にはしっかり晴れて、雪は跡形もなく消えた。
まるで夢だったんじゃないかってくらい、帰る頃にはいつもの光景。なんだかタイムスリップしたような気分である。


2025.3.18 (Tue.)

ここ最近、歩くたびに左膝が痛くて、我慢の限界を超えたというよりは新年度にならないうちに対策を練ろうと思い、
朝イチで医者に行く。予約がないので待たされるのは承知の上。有吉佐和子『華岡青洲の妻』の文庫本を持ち込み対応。
レントゲンを撮るまでは想定どおりだったが、そこからが異様に長く、なんと『華岡青洲の妻』を読破してしまった。
1ページ目から始まって最後までですぜ。凄まじい混雑ぶりだったのは事実だが、それにしてもびっくりである。
おかげで昼メシも食わずに急いで職場に行ったけど、14時からの会議に少し遅れた。ニンともカンとも。

診断結果はいちおう経度の半月板損傷。まあどうせ原因は加齢と肥満のダブルパンチってことだろうと勝手に自己分析。
思ったよりもひどくないようなので、食生活を適度に見直しながらじっくり回復を待つとする。ニンともカンとも。


2025.3.17 (Mon.)

東京シティビューで開催中の『手塚治虫「火の鳥」展』を見てきたのであった。
『ブラック・ジャック展』(→2023.10.19)に続く手塚スペシャルという感じでございますね。まあ大歓迎ですけど。
ちなみに『ブラック・ジャック展』についてみやもりは「掘り下げが足りねえよ」とキレていたが(→2024.1.27)、
今回は福岡伸一の解説がその「掘り下げ」にあたる模様。僕としては正直そこにはあんまり興味がなくって、
それよりは各編それぞれのファンである各界著名人に3人くらいずつコメントしてもらった方がよかったなあと思う。

 夜だとなかなか写真が難しい。撮影可能なのはここだけ。

『火の鳥』については前に書いたが(→2003.9.42010.2.16)、僕にとっては「日本代表の究極の芸術」である。
日本を代表する芸術作品を全ジャンルの中から1個選べ、と言われたら迷わず『火の鳥』。そういう存在なのだ。
だからどうしても空いている状況でじっくり見たかったのである。それであえていちばん遅い時間帯に突撃した。
おかげで存分に原画に酔うことができた。今回の展示では特に、一枚絵の芸術性をきちんと押さえていた印象である。
物語を展開するコマももちろんいいけど、1コマで状況を客観視しつつ読者に衝撃を与える絵の凄みをあらためて実感。

『火の鳥』が作品として特別なのは、エンタテインメントである以上に、人間の「業」を描ききっている点にある。
(立川談志は落語を「人間の業の肯定」と言いきったが、まさにその領域。ただ『火の鳥』は「肯定」までいかない。)
人間の背負う「業」、それは人間性の裏返しそのもので、切り離すことができない。その苦しみがあらゆる形で綴られる。
まあこれはむしろ「人間の業」というよりも、「生命の抱える業」と表現する方が的確なのかもしれない。
自己の生命を保持するために他の生命を害することから始まる「業」。それを人間はどう受け止めるのか、そういう作品。
そんなテーマも骨太なら、ストーリーも常軌を逸した想像力によって展開される。過去については圧倒的な教養により、
日本史がリアリティを持って再構築される。未来はもう言わずもがな、人間が今後抱える倫理的問題を的確にえぐる。
しかもつねに新しい。同じ構造の話がないのである。手塚作品すべてに言えることだが、マンネリの要素が1ミリもない。
手塚治虫が恐ろしいのは、最初から完成されていて、成長の跡がないというか成長しようのない状態のままでいることだ。
絵は変化しないし、物語はつねに新しい。『火の鳥』は特に連載時期が飛ぶが、舞台となる時間の飛び方に違和感がない。
こういう領域にある漫画家は世界を見渡しても手塚治虫一人だけではないのか。何から何まで、ちょっと特殊すぎる。

さて今回の展示そのものについて。作品の発表順に合わせてほぼ一方通行で原画を展示していくというやり方で、
物語を空間として体感していく試みはたいへんよろしかった。特濃の「業」を突き抜ける貴重な経験だったぜ。
最後を『太陽編』のエンディングみたいにしてそこを抜けていく演出だったら完璧だったが、まあしょうがないか。
背景・壁にも工夫があった方がよかったかも。でも『羽衣編』だけ盲腸みたいな位置だったのがたいへんわかってる感。

 せっかくなので東京の夜景も撮っておいた。

やっぱり自分にとって『火の鳥』は特別な作品であることを再確認。そういう機会を持てたことだけでも十分ありがたい。


2025.3.16 (Sun.)

朝起きたら天気予報どおりに雪! しかもけっこうな積もり具合! こんなのもう、笑うしかないではないか。

  
L: 国道19号。  C: 平田駅。なかなかに真っ白である。  R: 列車は少し遅れて南松本駅へ。そこから歩いてこちらも国道19号。

天気がよければ午前中は松本市内を徘徊するつもりだったが、雪という予報がかなり確信めいた感触だったので、
開き直って映画鑑賞の予定を入れていた。「午前十時の映画祭」で『雨に唄えば』(→2005.5.16)をやっており、
これはぜひとも映画館で観なければ、ということで鑑賞したわけで。で、やっぱり最高なものは最高なのである。
ディズニー的アメリカショウビジネスのいちばん魅力的な部分がてんこ盛り。偉大な文化だとあらためて実感する。
ドナルド=オコナーのコズモーは、主人公の親友ポジションのキャラで最強ではないかと思う(次点は岬太郎とする)。
そしてリナ役のジーン=ヘイゲンをみんなで褒め讃えよう。脇を固める役者が完璧だと映画の完成度が段違いになる好例。
名作映画は映画館で観ると感動が半端ないなあ。それにしても主演で監督のジーン=ケリーは何でもできて恐ろしい。

余韻に浸りながら松本駅へ行くバスをチェック。きちんと動いてはいるものの、肝心の信州ダービーはなんと雪で中止に。
これじゃ松本に映画観に来ただけじゃん……。ぜひともランチでリヴェンジせねばと、松本メーヤウ駅前店に突撃。
メーヤウは早稲田大学の学生メシとして知られたカレー店。そこから暖簾分けした店が、松本には3店舗もあるのだ。
本家は2017年に閉店したが、2020年に後継者が現れて復活。その一方で松本メーヤウはわりと独自の進化を遂げた模様。
それならそれで、松本の味としていただいてみるべきだろう。駅前店限定でランチにカツカリーをやっているそうで、
あえてそのオススメをいただいた。が、困ったことに、インド風カシミールカリー、日本風だしグリーンカリー、
インド風トマトチキンカリーの3種類のソースがあり、どれかが飛び抜けて代表的なメニューというわけではない感じ。
とりあえず、最も辛いというインド風カシミールカリーをチキンカツでいただいた。印象としてはスパイシーではなく、
油による辛さといったところか。辛いことは辛いけど、そこまで凶暴ではないので怯える必要はないと思われる。
神保町のカレーを食べ尽くした僕としては、ビストロべっぴん舎の黒のカシミールカリー(→2019.12.13)に近い印象。
まあカシミールだから当たり前か。こういった凝ったカレーが食えるってのは、さすが松本である(→2016.4.9)。
そんな松本もイトーヨーカドーが閉店し、PARCOが閉店し、井上百貨店も今月末に閉店する。日本の衰退が止まらんなあ。

 
L: 松本メーヤウ駅前店。ちなみにキッチン南海(旧店舗 →2019.11.5)も松本に暖簾分けの店がある。松本のカレー事情は深い。
R: インド風カシミールカリーのチキンカツカリー。ライスのヴォリュームは十分だが、カツの分だけソースがもう少し欲しい。

姉歯の連中と連絡を取り合う中、えんだうさんから「温泉」というキーワードが出たのでスマホで探ってみる。
昨日は穂高温泉を諦めたので、やはり温泉に浸かりたいのだ。で、松本だと浅間温泉と美ヶ原温泉の2択といった感じ。
ざっと調べた限りでは浅間温泉の方が充実している印象がしたので、駅からバスに乗り込んだ。20分ほどで到着。

  
L: 今回お邪魔した坂本の湯。かなり小規模だが、Googleマップでの評価の高さは間違っていなかった。
C: 浅間温泉の中央通り。雪でなければもう少し積極的に徘徊したのだが。  R: 浅間温泉バス停付近。

浅間温泉に来るのは初めてだ。温泉旅館が集まりつつも適度に鄙びて、派手すぎず地味すぎずちょうどいい具合の温泉街。
松本の観光資源の豊富さにあらためて驚かされる。そして浸かった温泉は、加温も加水も循環も濾過も殺菌もない、
完全なる源泉掛け流し。それでいて絶妙な温度で、ただただ感動。信州ダービーの中止は痛いが、これは怪我の功名。
次回松本を訪れるのはいつになるかまったくわからないが、浅間温泉にはわざわざ浸かりに来るだけの価値があると思う。
飛鳥時代の698年の開湯とされ、石川数正をはじめとする歴代の松本藩主が通ったという歴史があるのはさすがなのだ。
呆けつつバスに揺られて松本駅まで戻ると、カフェで本日分の日記をバリバリ書く。そして小木曽製粉所で晩メシ。
大町産の日本酒・白馬錦を買い込むと、帰りの特急あずさの中でいただきつつ、やっぱり日記を書きまくるのであった。
それにしても、週末パスを使うのもこれが最後か……。最近は事故も多いし、JR東日本の劣化が止まりませんなあ。

 小木曽製粉所の特盛。手軽に全身蕎麦まみれになりたいときはコレだな。

さて信州ダービーの代替日はいつになるやら。なんとしてでも観戦したいのだが、土日にできるもんなのかねえ。



2025.3.13 (Thu.)

五島美術館『中国の陶芸展』。五島美術館が所蔵する中国の陶磁器を展示。なお第2展示室では日本刀特集。

戦国時代の陶器からのスタート。器の形状は青銅器(→2023.2.23)の文法が基礎にあるように思う。
また、陶器にわざわざ青銅器のような模様を付けたものもあった。中国の古代は青銅器が百花繚乱の様相であるのに対し、
陶器については唐代に入るまでまったくパッとしない印象。青銅器は祭器であったが、陶器は普段使いだったのだろう。
工芸作品としてのメインストリームが青銅器から陶器に移った背景、当時の感覚を詳しく知りたいところである。
これは個人的な直感でしかないのだが、色を自在に操る釉薬がなかったから発展しなかったのか?と考えてみる。
白磁、そして唐三彩の登場によって俄然やる気が出てきた、造形もがんばるようになった、そういう印象を受ける。

さて五島美術館のコレクションは、まずまず高め安定。きちんとポイントを押さえて集めている感じである。
似たものを大阪で見たなあと、むしろ大阪市立東洋陶磁美術館(→2023.5.19/2025.1.8)のレヴェルの高さを実感する。
やはり陶器は唐代から質が変わる。文化度が高く本当に新次元を切り開いていき、宋代がその勢いをきれいに受け継ぐ。
龍泉窯の青磁はやはり特別感がある。そしてコレクションが充実しているのが明代の景徳鎮で、たいへんすごい安定感。
特に青花のクオリティが本当に高い。全盛期の有田焼と本気でやりあっていたのはさすがなのだ(→2025.3.2)。
それに対して赤絵はやや大雑把。細かい模様は本当に細かいが、全体的に鋭さをあまり感じないというか(→2013.6.16)。

最後に一言。僕は展覧会ではスマホにメモをとって、それをメールで送って日記に内容を反映させているのだが、
壁を向いたり床を見たりして絶対に展示物を撮影していないとわかる角度をキープしてメモをとっているにもかかわらず、
わざわざ文句をつけてくるのは今どき五島美術館だけ。展示も変に旧態依然としていて、乗り遅れている印象がある。


2025.3.12 (Wed.)

スタ丼が値上げしてメニューがワケのわからんことになっていて驚愕。「元祖盛り」とか言われてもよくわからんわ。
それで「腹八分目」で注文したら明らかに少なめ。でもまあ健康を考えて腹八分目でいいか、といちおう納得して食べる。
しかし1スタドンがついに890円とは……。大学時代の1スタドン=550円という為替レートが懐かしい(→2022.1.5)。


2025.3.11 (Tue.)

東日本大震災が発生した日付である。常磐線の完乗は果たしたが(→2024.6.15)、新しくなった陸前高田市役所はまだだ。
今年こそは再訪問して、あれ(→2016.9.19)からどのような街並みとなったのか、ぜひともこの目で確かめたい。

circo氏の同窓会があったそうで、両親が揃って上京したので一緒に晩メシをいただくことに。
あなた前に職場が近かったでしょということで戸越銀座集合となったが、戸越銀座近辺が職場だったことなどないのだが。
初任の中学校は中延から馬込にかけてって感じだし、塾講師時代は戸越公園だし。戸越銀座には本当に用がないのである。
まあそれでも宿が近いから合理的な選択ではある。合流すると第二京浜を軽く往復してどの店がよろしいか様子を探り、
無難にパスタをいただいたのであった。簡素なわりにはなかなかの人気店である模様。実際、旨かったのであった。
両親は昼間に東工大(おっと今は変な名前だったか)へ行ったそうで、中のカフェで一服したとのこと。
僕が入院していた頃にはそんな小じゃれたものはなかったので、時代は変わったなあと思うのであったことよ。
で、明日は築地で海鮮丼を食ったり一橋に行ったりしたいそうで。旅は自由だ、あちこち行って楽しむがよろし。



2025.3.8 (Sat.)

なんで朝というより丑三つ時に近い3時半に起きなくちゃいけないのかというと、始発列車が4時48分発だから。
どうしてそんな頭のおかしい時間に動きだすのかサッパリわからないが、これを逃すと大ダメージなのでしょうがない。
4時に荷物を背負って出発すると、コミュニティサイクル(これが本当にありがたい)を借りて鹿児島中央駅へ。
16年前のトラウマ(→2009.1.7)はいまだに健在で、乗り換えの山川駅まで一睡もすることなく揺られる。
そうして終点の枕崎に到着したのが7時半の少し前。観光案内所でレンタサイクルの受付が9時からなので、
それまで枕崎駅の駅舎で日記を書いて過ごすのであった。折り返しの都合かもしれないけど、なんとかならんか。

  
L: 南の最果て・枕崎駅に来たけど前よりちょっとオシャレになっとる。  C: 雨が降りだした後で振り返った枕崎駅の駅舎。
R: 枕崎駅は周りより少し高い。それでいったん下りて駅舎を眺めるが、前はこんなのなかった。調べたら2013年完成だって。

枕崎駅に着いた当初は空も明るく、今日一日は曇り空でもつかなあと思っていたが、その期待は打ち砕かれてしまった。
一度降りだした霧雨はずっと続いて、結局この日はやまないままだった。さすがにレンタサイクルを借りるのは憚られる。
できることなら坊津まで行ってみたかったのだが。気軽に「次の機会」とは言えない場所なので、大いにションボリ。
まあ本命は明日なので、明日が晴れてくれれば御の字なのだ。これは明日の分の「貸し」ということにしておくのだ。

雨がひどくならないうちにさっさと枕崎市役所を撮ってしまうことにする。もちろん16年前も撮ったが(→2009.1.7)、
改修されたようで小ぎれいになっていた。調べたら2017年に耐震補強工事を完了していた。なお竣工は1955年。
1950年代の市庁舎建築はきわめて貴重である。2階建てでシンメトリーの意識がまったくない点は時代の特徴。

  
L: 前と同じアングルで交差点越しに南東から眺める枕崎市役所。  C: 玄関が中央に位置しないのが昔の庁舎。
R: これくらい歴史ある建物になると「エントランス」ではなく「玄関」と言いたいのである。気分の問題だが。

  
L: 中を覗き込む。  C: 市役所通りを挟んで南側からできるだけ全体を眺める。  R: 南西から。緩やかな坂なのだ。

  
L: 西側に延びている増築部。特に名称はない模様。  C: 増築部ごと南西から見た全体。  R: 裏に抜けて北から見た増築部。

  
L: 本体部分の西端。  C: 本体部分の背面。北から少し西に振り返ったアングルとなる。四角いのが議事堂。
R: さらに進んで眺める背面。位置的には、さっきの交差点越しに見た角度の正反対という感じになる。

  
L: 近づいてみた。  C: 敷地の外に出て、北東から見たところ。  R: 本体部分の東端。以上で一周完了とする。

本来なら自転車で行く予定だった立神岩方面へと歩いていく。が、花渡川(けどがわ)を渡った辺りで気が変わった。
距離はあるけど、行ったところでキャンプ場くらいしかないみたいで、往復するのは時間と労力のわりに実りがなさそう。
16年前も諦めて悔しかったが、自転車を借りない選択をした以上、しょうがない。一発写真を撮って引き返す。

 立神岩は今回も眺めて終わり、なのであった。仕方ないか。

さて16年前にはスルーしたのが明治蔵。さつま白波で知られる薩摩酒造の花渡川蒸溜所が、見学可能となっているのだ。
せっかく来ているんだからと軽く見てまわる。蒸留器はメソポタミアが発祥で、西へ行ったらウイスキーが生まれ、
東へ行ったら中国で白酒、タイでラオロンが生まれた。一方、メキシコ原産のサツマイモは大航海時代にヨーロッパへ。
これが喜望峰をまわって東南アジアにやってくると、中国、琉球、そして薩摩に上陸した(それで「サツマ」イモなのね)。
つまり芋焼酎は両者のゴールというわけだ。あらためてそういう視点を示されると、興味深い文化の実例だと思う。

  
L: 明治蔵の入口。  C: 中に入って左手が見学コースの入口。ぐるっとまわって右手の売店に出る仕組み。
R: 火の神ロードから見た明治蔵の裏側。展望塔の「立神楼」がたいへん目立っている。なかなかの要塞ぶり。

  
L: まずは焼酎についての概要から。  C: 仕込み甕壺(鳴瀬甕)。明治前半に武雄から船で運んだそうだ。
R: さつま白波シリーズ。たいへんコスパがいいようで、鹿児島県民の支持が厚いと前に土産店の人から聞いた。

  
L: なかなか昭和な説明ボード。米麹でサツマイモを発酵させて醪(もろみ)を蒸留。  C: ガラス越しに製造タンクを眺める。
R: 「日本初の溶接工」金本福松が20代のときにつくった石炭ボイラー。1914(大正3)年から1963年まで使われたという。

  
L: 通路には焼酎壺が並べられている。  C: 小学生の習字。「いも」はともかく、「新酒」はなかなか大胆に思えるが。
R: いちばん奥に展望塔の「立神楼」への入口がある。なぜこんな、ちょっと竜神池っぽい飛び石になっているのか。

  
L: 展望室までは92段の階段で一気に上がるのはちょっとハード。休憩するのにちょうどいい感じになっているのはよい。
C: 東の市街地中心部を眺める。市役所は2階建てなので見えない。  R: 南を見ると立神岩。消防署の「119」がよく目立つ。

  
L: 下りてきて見学続行。後半戦は実際の蔵の様子を展示。  C: 米蒸桶。  R: 木の樽による蒸留装置。原酒は度数37%だと。

  
L: ずらりと並ぶ仕込み甕。麹造りで2日間、甕仕込みによる発酵は一次醪で6日間、二次醪で10日間。計18日で原酒ができる。
C: 黒千代香(黒ぢょか)のコレクション。これもまた独自の文化。  R: 一升瓶抱き枕。全長80cmで値段も6600円とビッグ。

限定販売の文句には弱く、両親向けに焼酎を買って送ってしまうのであった。でもたいへん勉強になって楽しかった。
天気は悪いが、置かれている状況の中ではしっかり楽しませてもらっている。次の目的地の南方神社までのんびり歩く。
枕崎市はもともと鹿篭(かご)麓が中心だったが、近世末期以降に鰹漁で発展した枕崎港の方が市街化していった。
そのせいか、枕崎には鹿篭麓の南方神社ぐらいしかこれといった神社がない。それで2km以上もトボトボ北上する。

  
L: 花渡川から国道270号をひたすら歩いて南方神社に到着。鳥居が2つ並ぶ並列鳥居となっているのが特徴。
C: 石段を上ると広い境内に出る。左端が南方神社だが、向かって右に境内社の淡島神社と護国神社が並ぶ。
R: 南方神社の拝殿。1931年の築だが、台風による被害でご覧のとおり改修中。枕崎は台風銀座で有名だもんなあ。

参道は東側で、麓(→2015.8.17)の匂いが残る住宅地をまわり込む。南方神社は1357(正平12)年の創建で、
諏訪大社から勧請した建御名方神と妻の八坂刀売神を祀っている。なるほどそれで「みなかた」という名前なのだ。
社殿は台風の影響で改修工事のシートをかぶっていたのが残念。御守の初穂料を工事費の足しとしていただこう。

 
L: 本殿。1873(明治6)年の築だがこれでは……。  R: 左が淡島神社、右が護国神社。

トボトボと引き返して枕崎港方面へと戻る。花渡川を渡ってまっすぐ南へ行き、枕崎お魚センターへ。
枕崎といったら鰹なので、ランチに鰹をいただくのだ。お魚センター内の枕崎みなと食堂では定食も丼もあって、
地魚とかなり迷ったけど初志貫徹でやっぱり鰹だろうということで、ぶえん鰹丼1600円をいただいたのであった。
で、出てきた鰹は身の厚さにひたすら感動。しかもそれだけではなく、かつお節は取り放題、かつおだしは飲み放題。
おかわりごはんが100円で、かつおふりかけでいただいたのであった。九州らしく甘めで、しょっぱすぎず適度な味。
これまた飲み放題の枕崎茶を飲みながら(濃く出してあって旨いのだ)、超かつおづくしで最高ですな!と惚ける。
天気にはまったく恵まれなかったが、早朝からがんばって枕崎にわざわざ来てよかったと心の底から思うのであった。

  
L: 枕崎お魚センター。こちらがきれいになった分、近くの地場産業振興センターはかなり弱体化していて悲しかった。
C: 出汁がらふりかけ。飲み放題のかつおだしの出汁がらを再利用。  R: 取り放題のかつお節。削りたてで香りがよい。

  
L: 飲み放題のかつおだし。  C: ぶえん鰹丼。ぶえん鰹については過去ログ参照(→2009.1.7)。
R: おかわりごはん100円を出汁がらふりかけでいただく。たいへん贅沢なランチをいただいて幸せ。

ぐずついた天気は朝よりも少し雨が強まってきた印象で、残念な気持ちを抱えながら枕崎を後にする。
でもできる範囲で存分に楽しめた。健康にいいやと開き直って歩きどおしだったけど、それはそれで枕崎を味わえた。

 旧頴娃町の辺りって海岸段丘っぽさを感じるんだけど違うみたいね。

乗り込んだ列車は指宿駅が終点で、多くの観光客とともに改札を抜ける。しかしそこは中国語を中心に外国語が飛び交い、
これだけのインバウンド客がみんな温泉に殺到するのかと思うと、もうそれでナエナエ。しかも雨の勢いは強まっている。
次の目的地は揖宿(いぶすき)神社だが、最寄駅はもう1駅先の二月田。しかし二月田に行く列車は1時間後である。
歩いた方が多少マシかと思ったが、駅前のバス停で運よく市役所方面行きの便があることに気づいた。これはありがたい。
せっかくなので久しぶりの指宿市役所にも寄っておこうと思ったら、9年前と色が違っているではないか(→2016.3.20)。
1973年の築らしく、僕がボケッとしている間に改修工事が行われたようだ。雨の中、正面からの写真を撮っておく。

  
L: インバウンド客がいっぱいの指宿駅。  C: 指宿市役所は色が変わっていた。  R: 動揺しつつも正面から撮っておく。

市役所から西へ800mほど行ったところに揖宿神社は鎮座している。「揖宿」と「指宿」の2つの表記が気になるが、
「揖宿」は郡名であり、揖宿神社という名前は明治に入ってから。「いぶすき」はもともと「湯豊宿(ゆほすき)」で、
「行く」を「いく/ゆく」と読むように「ゆ」が「い」に転じたらしい。「ゆ」の音を反映して「揖(ゆう)」が、
「ゆほ」が訛って「指」が、それぞれ使われるように変化していったのだろうか。歴史が古い分だけややこしい。
かつてこの地を天智天皇が行幸したそうで、揖宿神社は706(慶雲3)年に天智天皇の遺品を奉じて創建された。
874(貞観16)年に開聞岳が噴火すると、枚聞神社(→2009.1.72016.3.20)が避難して遷宮したという歴史を持つ。
なるほど勅使殿を中心に、両翼に長庁(宝物殿と参集殿)を配置する特殊な構成は枚聞神社を思いださせる。

  
L: 揖宿神社。参道は北に延びている。  C: 境内入口。  R: 鳥居をくぐって随神殿。随神門ではなく随神殿だと。

  
L: 参道から少しはずれて左右の長庁と中央の勅使殿を眺める。  C: 勅使殿。拝殿はこれより奥になる。
R: 拝殿や舞殿などが並んでいちばん最後に本殿。社殿は1847(弘化4)年に第10代薩摩藩主・島津斉興が造営。

 
L: 本殿などの脇にはコンパクトな庭があった。  R: 少し離れたところにある揖宿神社の祖霊殿。

御守を頂戴すると、本日のタスクはいちおう終了。あとは温泉に浸かって鹿児島市内に戻るだけである。
が、さっきの指宿駅の混み具合からして、摺ヶ浜海岸周辺に戻って浸かろうという意欲がまったく湧いてこない。
揖宿神社近くの観光案内板によると、近くに殿様湯という温泉があるということなので、そっちに方針転換。
参道からそのまま右にカーヴしてしばらく行くと、川の反対側にコンパクトな施設が現れた。これが殿様湯だ。
その名のとおり、もともとは1831(天保2)年に島津斉興が設けて以降、歴代藩主の別館となっていた温泉で、
跡を継いだ息子の斉彬はお気に入りだったとか(斉興は斉彬と仲が悪く暗殺説がある。斉彬の死後に藩政を掌握)。
現在は遺構のみが残っており、今も湯が湧き出しているので半分水に浸かっている状態となっている。

  
L: 殿様湯の外観。左が正面。  C: 今も元気にお湯が湧き出しているのだ。  R: こちらが入口。

では殿様湯にお邪魔するのだ。運のいいことに客は僕だけというタイミングで、たいへん気持ちよく浸かることができた。
お湯は少し熱いが慣れると快適。何度か浸かったり上がったりを繰り返してバランスよく楽しむのにちょうどいい感じ。

 
L: 殿様湯の湯船。  R: 島津家の家紋「丸に十文字」がさすがなのだ。上段で熱い湯を冷まし、湯船の底へと通す。

ではあらためて、殿様湯跡の写真を貼っておくのだ。さらに奥の方には湯権現(ゆのごんげん)神社があるが、
社殿が2つ仲良く並んでいる。左側が湯権現で、右側は八幡宮とのこと。島津斉興が殿様湯をこちらに移した際に遷座。

  
L: 殿様湯跡。現在の殿様湯のすぐ後ろにあるのだ。源泉から段差をつけて溜めていき、適温に調整したとのこと。
C: 角度を変えて眺める。左側のタイルはイギリス製で、明治中期以降に改装された箇所だと。  R: 湯権現と八幡宮。

二月田温泉も十分にすばらしいではないか、と大いに満足して駅へと向かう。9年前にも書いたが(→2016.3.20)、
二月田周辺は歩いているとけっこうあちこちから湯気が出ている。やはりいい温泉が出る場所なのだと実感する。

 二月田のバス停付近。手前の側溝だけでなく、バス停の標識の辺りも湯気に包まれている。

二月田駅から列車に乗り込み、そのまま鹿児島中央駅へ。18時少し前という悪くないタイミングで到着である。
さて鹿児島といえばやっぱり黒豚のトンカツを食わねばなるまい。毎回お邪魔している店に突撃するが、
混み合う前にいただくことができた。店舗は改装して店内が広くなっていた。早い時間で日本の客しかいなかったが、
インバウンド客にも受けて繁盛しているんだろうなあと思う。しかしご飯とキャベツのおかわり自由はありがたいものの、
値上がりの影響を強く感じる。「並」だとどうしても肉が少ないんだよなあ(→2009.1.62016.3.202017.8.19)。

 「上」を注文するとなると度胸のいる値段なのよ。「並」だと迫力がないなあ。

天気のわりにはずいぶんしっかり楽しめた一日だった。まあ旨いもん食って温泉浸かれば楽しくないはずがない。


2025.3.7 (Fri.)

1年ぶりの鹿児島、島を堪能するだけではもったいないので、そりゃもう前乗りなのである。
早引けして羽田空港に移動するが、やっぱり多摩丘陵の真ん中ら辺から羽田は遠いのであった。
そして鹿児島空港に到着しても、空港じたいが鹿児島市街から遠い。ついでに天文館も鹿児島中央駅から遠い。
とはいえ、ほぼ予定どおりに鹿児島に到着。晩メシをいただいてから即、寝るのであった。3時半起きですのよ。



2025.3.5 (Wed.)

『セプテンバー5』。1972年9月5日という一日を描いているので、ファイブじゃなくてフィフスでいいんだよなあ?
1972年9月5日とは、ミュンヘンオリンピックの真っ最中にテロが発生し、イスラエル選手団が犠牲になった日である。
これをアメリカのABCが生中継して世界中に伝えたのだが、その現場を徹底的にTVクルーの視点で描いた映画。

映像は当時の基準に合わせている感じ。実際の映像を交えながら、まったく違和感なく現場の緊張感を描いていく。
おかげで極めて主観的な仕上がりとなっており、何がどうなっているのか客観的な事態がわかりづらい場面も多い。
ふつうの映画では何気なく差し込まれる、状況を客観視するカットにふだんどれだけ助けられているかがよくわかる。
逆を言うと、究極的に錯綜した状況がそのまま味わえる。舞台空間はほぼABCのオリンピック特設スタジオのみ。
ドキュメンタリーの側面を強調するためにそうなっているのだが、舞台空間を限定することの長所と短所が味わえる。
いろいろな問題が発生するけど、徹底してドキュメンタリータッチなので、説明が与えられないのはなかなかつらい。
しかも上映時間は94分で、リアルなのに作中の時間は飛び飛びで経過する。これも地味に状況をわかりづらくしている。

さまざまな切り口を持った事件だったことがよくわかる。たとえば、戦後のドイツが置かれていた状況。
これがそのまま最悪の結末につながっているわけで、そこにクローズアップしても、いくらでも物語が生みだせる。
しかしこの作品はマスコミの仕事と矛盾という問題に専念する。社会学的もったいなさも正直感じてしまうが、
テーマを絞った潔さは評価しなければなるまい。マスコミの有能さと傲慢さがたっぷり描かれて、その点は実に濃ゆい。
われわれには「知りたい!」という知的好奇心がある一方で、あえて行動を抑える倫理観というものも存在する。
どちらも人間性に深く関わる要素だ。それをTVクルーは最も衝撃的な形で突きつけられることになったわけだ。
ただ、現場でのてんてこ舞いがすごすぎて、葛藤はそこまで深く描かれない。それが現実だったから、そうつくった。
しかし観客に問いかけたいものがあるのなら、TVクルーが直面する問題を、彼らの行動が意味することになる結果を、
全員に熟考させる余裕が必要だったのではないか。あまりにもドキュメンタリーを優先しすぎて、見失っているものがある。
キツい言い方をすると、観客への問いかけよりも、単なる再現映像づくりを優先しているように思えるのである。
それはそれで潔い姿勢ではあるが、作品がより良くなるチャンスを自ら放棄してしまっているのは確かだろう。

厳しい言い方すれば、よくできた再現映像だが、本来深いはずのテーマを客観視させない分、響きづらい。
描く対象をとことんまで絞っているのに、何が起きているのか、何が問題なのかがわかりづらい。実に残念な仕上がりだ。
リアルをとことん追求すれば観客に言いたいことが伝わるかというと、そうとは限らない。むしろノイズが多くなる。
情報をただ観客に提示する一方の投げっぱなしジャーマン(ドイツだけに!)では、困ってしまう人がほとんどだろう。
強調したいことがあるから、あえて事実から離れる。そういうフィクションの意義が逆説的に理解できる作品である。


2025.3.4 (Tue.)

今日も雪でした。まあ雪が降らない年なんかは温暖化直撃って感じで、それはそれでイヤな気分になるのでしょうがない。
素直に冬の寒さを受け容れるとしましょう。3月だけど。……もう3月かよ! 怒濤の来年度の足音が聞こえる……。


2025.3.3 (Mon.)

卒業式なのであった。今年度の卒業生は僕が異動してきたのと同時の入学だったので、ちょっと思い入れが強い。
もう3年経って卒業かよと驚いている。こっちは大して何も成長していないというのに。卒業おめでとうございます。

ちょっとだけグチ。本来なら僕が卒業証書授与の介添えをやる予定だったのだが、どこかのバカがひっくり返しよった。
理由は修学旅行に行ってないからだと。こっちは3年間で卒業生の90%以上を教えたのだが。そんなに旅行が大事かバーカ。
でも僕を指名してくだすった3学年の先生方には感謝をしております。皆様と2年間を同じ学年で過ごせたのはありがたい。

ここまで天気に恵まれてきた学年なのだが、今日は寒いし雪だし、最後の最後で涙雨以上の何かがやってきたのであった。
でも本当に、生徒も先生もとことん楽しい学年だったと思います。皆さんがいなくなっちゃうのは淋しいなあ!


2025.3.2 (Sun.)

午前中は御守の撮影作業に専念し、正午を過ぎてお出かけ。戸栗美術館に行きたいが、混んでいる渋谷はイヤだ。
それならいっそ自転車で行くべきだろう運動不足だし、ということでのんびりサイクリングなのであった。
せっかくなので昼メシはベジ郎でいただいたのだが、正直なところ人気になるような店ではないと思うのである。
前に食ったときはやたら野菜が硬かったし、今回はモヤシの嵐。タレで味が濃いのも僕にとってはありがたくない。
野菜炒めってのはそんなジャンクな料理じゃねえだろう!と思うのだが。若者にはいいのかもしれませんがね。

では気を取り直して、戸栗美術館。今回は『千変万化―革新期の古伊万里―』という企画である。
「伊万里」こと有田焼の詳しい歴史についてはたびたび書いているが(→2018.2.252023.3.162023.5.28)、
今回のテーマは17世紀半ばの初期伊万里からの移行期、色絵を始めたばっかりの頃がメインである。
印象としては「プレ柿右衛門」と表現できるような感触の器からスタート。一方で古九谷もがっつりあるが、
この古九谷の濃い緑が洗練されて柿右衛門につながったのかなと思う。その推移がよくわかる展示だった。
(九谷焼は濁手のような美しい白が出ないため、色を濃くしてある意味ごまかしたと認識しているが。→2022.5.24)
また染付は、明の混乱による海外からの需要を受け、中国絵画のエッセンスを学んだことでどんどん洗練されていく。
初期伊万里の素朴さも日本の「カワイイ文化」を確実に反映するもので、味があるんだけど、引き返せない感じだ。
また造形の技術も上がって、形状も大胆になっていく。これらの革命が17世紀半ばに猛スピードで起きたのである。
そして柿右衛門とはつまり、古九谷を経由した色絵と中国絵画を学んだ染付のハイブリッドと解釈できるわけだ。
その後も革命のスピードはまったく落ちず、さらに金襴手へと変化をみせていくことになる。激動の時代だなあ。

 
L,R: 今回撮影OKだった『色絵 雉文 扇面形皿』。緑の濃さがたいへん古九谷様式。扇を重ねた意匠もまさに革新期。

それにしても鍋島のレヴェルの高さよ(→2024.6.12)。デザインが完成されていて、見飽きることがない。
有田の金襴手は空白を必死で埋めるけど、鍋島は空白まで生かしきっての研ぎ澄まされたデザイン。惹かれるわぁ。
戸栗美術館は毎回楽しい。見過ごされがちな初期伊万里にこだわることで、むしろバランスがとれている感があるかな。


2025.3.1 (Sat.)

本日は天気もよく、日付としてキリもよかったので、来年度以降へ向けての神頼みに出かけたのであった。
前にもやったことがあるのだが(→2021.12.182021.12.19)、おかげでここまでどうにかなった感触があるので。

まずは武蔵国一宮の氷川神社。お次は武蔵国総社の大國魂神社。最後に毎度おなじみ谷保天満宮。
どれもすべて災難除、厄除での公式参拝である。まずは自分の側がよけいなトラブルを起こさないようにと心がけつつ、
外から災難が降りかかってこないようにとお願いするのであった。これでなんとか3年間もってくれれば。必死である。


diary 2025.2.

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