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2021.1.17 (Sun.)

オルテガ=イ=ガセット『大衆の反逆』。今まさに読まなくちゃいけない本だと思ったので読んだ。
1929年刊、ロシア革命が過ぎファシズムが勃興している時代の本だが、まさに現代、そして現在をえぐる名著だった。
どのような形でレヴューを書くべきか迷ったのだが、本文の趣旨をそのまま縮小してなぞってもしょうがないし、
今こそみなさんこの本をきちんと読むべきだと思うので、引用を混ぜつつ書き散らして読む気を喚起してみたい。

あらかじめ訳者のあとがき・解説をふまえて、オルテガの基本的な考え方を押さえておくことは極めて有効である。
全編通して読めばわかるが、オルテガの哲学は一貫しており、その思考の枠組みを理解することが読者の目標となる。
その哲学は、いい意味でのモダニズムである。過去から未来への「進歩」を非常にポジティヴなものと捉えている。
(ただしその分、ヨーロッパ中心主義を徹底的にやっている。まあ時代が時代だし趣旨が趣旨なので仕方ないが。)
根底にあるのは、エネルギッシュな「生(vida)」への絶対的な肯定だ。「生とはこれすべて、
自己自身たるための戦いであり、努力である。わたしがわたしの生を実現する上で直面する障害こそ、
まさにわたしの能力を目覚めさせ、行動を喚起するものなのである。」(p.140)
人は困難に立ち向かうことで成長し、またその人生を意味のあるものとすることができる。対象は人それぞれだが、
この「生」を生きる人の姿勢を「貴族的」と表現し、実現した人を「少数者」として讃える。そういう価値観だ。

これと対置されるのが、「大衆」である。冒頭、オルテガは言う。「大衆が完全な社会的権力の座に登った」と。
そしてこれを「遭遇しうる最大の危機」とする。「今日の特徴は、凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、
凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにあるのである。」(pp.21-22)
ここで言う「凡俗」とは上記のような「生」を生きることのない者、また歴史に対する敬意と配慮のない者を指す。
「歴史とは、自分の背後に多くの過去すなわち経験をもつということである。」(p.129) 歴史的知識こそ、教養だ。
面白いのは、オルテガがモダニズム的進歩主義史観の文脈から、この大衆の登場を必然的なものと見ている点だ。
特に、自由主義的デモクラシーと技術に支えられた19世紀の文明が自動的に大衆を生み出した、とオルテガは語る。
それゆえ、大衆の反逆というこの情況を、「勝利と死の双面をもつ可能体」と言う。モダニズム的にポジティヴなのだ。

自由主義。オルテガはこれを「運命の真理」とまで呼んで肯定する。ギリシャ・ローマから連綿と続くヨーロッパ、
その文明がよりよい生活を追求した末に到達したものだ。オルテガはまず、文明とは共存への意志であるとする。
「人間は自分以外の人に対して意を用いない度合いに従って、それだけ未開であり、野蛮であるのだ。
野蛮とは分離への傾向である。」(pp.106-107) そして政治において最も高度に共存への意志を発揮したものが、
自由主義的デモクラシーであるとする。それは至上の寛容さで、自分を犠牲にしてまでも多数者が少数者に権利を与え、
敵との共存の決意すら表明するという。しかし実際に行うことはあまりに複雑で難しく、地上に根を下ろしえない。
大衆は、大衆でないものとの共存を望まない。オルテガはロシア革命とファシズムに、自由主義への反動を見る。
そして大衆は他者への配慮に他ならない間接的な手続きを否定し、「直接行動」に出て社会的な生に介入する。
これは自由主義へと至る知の蓄積と戦いに対する挑戦、つまり歴史に対する敬意と配慮の欠如であるというわけだ。

技術。これもまたヨーロッパ文明が積み上げてきたものである。「科学」に近いが、より実践の色合いが強い語だ。
ヨーロッパ文明は科学・技術・産業を発展させ、人々に恩恵を与えてきた。1800年に1億8000万人だったその人口は、
1914年までに4億6000万人にまで増大した。しかし技術の進歩により科学者の専門化が進み、機械化が進んだことで、
自らの専門分野以外については無知であることに気づけない傲慢な専門家が増えた。また技術を享受する大衆も、
文明の利器をあたかも最初から存在している自然物であるように扱う。オルテガは、「世界は文明開化しているが、
しかしその住民は未開なのである。」(p.114)と痛烈に批判する。また、「平均人が科学から受ける恩恵と、
平均人が科学に対して抱く――いや抱かないというべきであろう――感謝の念の不調和」(p.120)を指摘する。
これもまた、歴史に対する敬意と配慮の欠如だ。自由主義と技術の軽視は、オルテガにとって野蛮性への後退を意味する。

オルテガはさらに、国家という仕組みにも目を向ける。「国家(state)」は均衡状態、安定状態を意味するものだ。
これは人間に対して贈り物のように与えられたものではなく、成員相互の協力により成り立ってきたものである。
そして、国家は民族の想像力による「真の創造」とする。しかし大衆は、今ある国家を所与のものと受け止める。
それどころか、大衆は実際に自分が国家であると信じており、国家を動かして創造的な少数者を押しつぶそうとする。
さらにオルテガは国民国家という概念を持ち出す。これが非常にわかりづらい。国民国家については、「社会的権力と
それによって支配されている集団との『言質的一致』を意味する」(p.243)とある。また、以下のような記述もある。
「けっして完結することはない」「つねに形成の途上にあるか、あるいは崩壊の途上にあるかのいずれかであり、
第三の可能性は与えられていない」(p.251) 個人的には自由主義の文脈上にある国家を指すと見ているが、どうか。
したがって、現在の大衆の反逆についても国民国家の現象と言える。それだけに、貴族的な少数者による攻撃により、
大衆が導かれることになれば情況は変わる。オルテガはヨーロッパのより大きな枠組みからそれが展開されることを、
歴史を包括する超克を、期待しているようである。もちろんそれは、EUなどというようなチンケな集合体などではない。
(この点、解説が盛大な空振りをしているのがみっともない。EUをこの文脈に置くのはそうとうな阿呆である。)

議会に突入する米国民(直接行動)、スマホ漬けの人々(技術への無知)、生意気な中学生(慢心しきったお坊ちゃん)、
そういった面々をふだん目の当たりにしている僕からすると、オルテガが第2次大戦前に指摘した「大衆の反逆」は、
まさに今こそ説得力を持って迫ってきているように感じる。あれだけの戦争を経験しても大衆は変わらなかったどころか、
さらにその度合いを強めているように思える。そしてモダニズムは前世紀の遺物として顧みられなくなってしまっている。
「他のあらゆる時代に優り自分自身に劣る時代」
「きわめて強力でありながら、同時に自分自身の運命に確信のもてない時代」
「自分の力に誇りをもちながら、同時にその力を恐れている時代、それがわれの時代なのであろう。」(p.49)
「われわれの時代はいっさいの事象を征服しながらも、自分を完全に掌握していない時代、
自分自身のあまりの豊かさの中に自分の姿を見失ってしまったように感じている時代なのである。」(p.60)
なるほど大衆を主役とする社会は、歴史的な必然であった。このことをポジティヴにとらえるのは、おそらく正しい。
しかし自由主義や技術を扱うには、現状のわれわれは成熟が足りていない。それにふさわしい思惟が足りていない。
まずはその状況を受け止めること、無知の知とも言える謙虚な教養を地道に育てていくことが必要なのではないか。
自らの力が及ばない部分を認める余裕を持つこと。そのうえで、節度を持って考え続けることが必要なのではないか。
それはまことに「人間らしい」ことである。これまで人間が理性を発揮してきた歴史の中に立ちましょうってことだ。



2021.1.15 (Fri.)

前々から思っていたのだが、面白い本とつまらない本はバイオリズム的な調子の良し悪しと関連している気がする。
いや、本だけではない。マンガにしろ映画にしろ、作品全般に言えることだと思う。当たりはずれには、波がある。
常識的に考えれば、当たりはずれは作品じたいの持っている属性であるから、ランダムであるはずなのだ。
しかし、面白い作品はある程度まとまってやってくるし、逆もしかり。なんとなく、波があるのを感じる。
運気とまでは言わないけど、僕自身のリズムに妙に対応している気がするのである。なんだか、同調している。

それはつまり、こっちの調子によって作品に対する評価がブレる可能性が存在するわけだ。これはうれしくない。
なるべくそのときの気分で左右されないように作品に触れているつもりだが、正直ブレがあるのは否定できない。
ただどちらかというと、面白い作品に当たるから調子が上がり、つまらん作品に当たるから低調になる、という感触だ。
もしかしたら、面白い作品を選んだときは調子がいいし、つまらん作品を選んだときは調子が悪い、のかもしれない。
この双方が絡み合って、波ができるのではないかって気もする。いい流れとよくない流れは、確実に存在するのだ。

そうなると、できるだけ面白い作品に触れる機会を増やすことが大事になってくる。絶対数が多くないとダメだ。
マイナスをひっくり返すには、プラスに触れるしかない。そうして、いい気分になる機会を増やすしかないのだ。


2021.1.14 (Thu.)

新しいALTはなかなかエネルギッシュ。それでいてメリハリがついているので、こちらとしてはかなりやりやすい。
そして何より、ギャグにおけるジャパニーズ「お約束」をきちんと理解している点がたいへんすばらしい。
これはけっこうすごいと思う。生徒とのボケとツッコミで授業の求心力を確保する僕のやり方にかなり近いものがある。
そしたら授業が終わって生徒たちから「雰囲気が似ている」と言われたよ。うん、まあ、わかる。


2021.1.13 (Wed.)

カフェも営業が夜8時までじゃ日記がぜんぜん進まねえよ。僕みたいに自宅だとサボっちゃう人間には厳しいものがある。


2021.1.12 (Tue.)

Flash Playerのサポート終了によって、ふだん授業で使っているデジタル教科書を起動できなくなってしまった。
これはFlashコンテンツの実行が今日からブロックされるようになったため。つまり、予想はできたはずの事態だ。
にもかかわらず、今日の夕方になってようやく区の教育委員会から通知が来る始末。何がICT化だ、と呆れ果てる。
僕はコロナの休業期間中に教科書の音声CDをすべてiTunesに入れる作業を済ませていたので(→2020.4.13)、
授業へのダメージは最小限に食い止めることができた。閃輝暗点を発症するくらいがんばったもんね(→2020.4.14)。
ほかの先生から「さすが用意がいいですね」と言われたが、なんのことはない、僕はICTなんて信用していないだけだ。
そんな感じで、頭の悪い行政に足を引っ張られながらも、たくましくやりくりしております。あと2ヶ月半の辛抱よ。


2021.1.11 (Mon.)

外山滋比古『思考の整理学』。昨年亡くなったということで文庫本が積まれていたので読んでみた。

まず最初の「グライダー人間」のくだりからウンザリ。外山滋比古はもうちょっと頭のいい人だと認識していたが、
どうやらそうではなかったようだ。文部省の役人にありがたがられるタイプの典型的なエセ知識人、という印象。
結局この本、本質的に頭のよくない人が自慢気に書いたものを、本質的に頭のよくない人がありがたがっているだけ。
自分がその「グライダー人間」に崇拝されていい気になっている構図に気づけていないのが、本当にかっこ悪い。

この本が不快である要素はいくつかある。まず、対象やその周辺を貶めて持論を展開する、否定から入ることが多い点。
しかもその否定はただの決めつけにすぎず、一面的な見方からのものが多い。冒頭の「グライダー人間」もそうで、
近年の学校教育に対して自分で飛ぶ飛行機能力を育てない、と批判する。が、そもそも学校に期待する方がおかしいのだ。
創造性については、学校以外の場を用意して(本来なら部活もそう)、多様な学びの機会を用意するのが正解である。
視野が狭いから従来の学校で解決する発想にしかならない。それで学校教育じたいがおかしくなる。文部省好みである。

出てくる例も曖昧なものが多く、検証不可能な又聞きが目立つのも困った点だ。「ある有名な~」「~だそうだ」など。
それを論拠とされると、読み手としては筆者が事実を自分に都合よく捻じ曲げているのではないか、という不安が残る。
そのくせ、「~である」という断定は力強い。的を射ていることももちろんあるが、独善的な感触の箇所もまた多い。
特に、論の前提の部分で視野が狭いことが多い。「本当にそうか?」と言いたくなるような前提を強引に展開していく。
p.175にある一文には、思わず笑ってしまった。そこには、「クロード・ベルナールという生理・医学者は、
『自分の観念をあまりに信頼している人々は発見をするにはあまり適していない』とのべている」とある。
はて、これはいったい誰のことだろう? でも筆者はきっと聞く耳を持たないのだろうな。

よく読むと、先ほどの記述とは正反対となっている内容を平気で書いているのもまた、こちらを戸惑わせる点である。
そりゃあ人により向き不向きがあるから正解はひとつとは限らないが、自分の正義を押し付ける文体でそれをやるので、
こちらとしては、矛盾を抱えているくせに自分に甘く批判の余地を与えない、という印象を受けることになる。
それはつまり筆者自身が、読者が自分に従う「グライダー人間」であることを無意識に要求している、ということだ。
まあ頭のいい人なら、言われなくてもわかることばかり自慢する内容なので、読んでいても退屈ではないかと思う。
この本に引っ張られる人は、それは自分の知への接し方がイマイチだからなのだ、と危機感を持つべきだろう。
方法論じたいは、毎日アウトプットする必要のあるラジオパーソナリティみたいな人には便利かもしれないけどね。

本当に賢い人ならまったく相手にしないであろう本。時間の無駄以外の何物でもなかったな。


2021.1.10 (Sun.)

せっかくの3連休なのに、日記がバーンアウト症候群。気分転換に御守をがんばってはいるが、なんせ量が膨大で。
これまた終わりが見えない無間地獄である。今年はどうにか1日1社ペースでコツコツやっていきたいと思います。


2021.1.9 (Sat.)

土日はどっちかで2時間限定、という条件で部活である。が、さっそく長引かせてケガ人が出る。どうかと思うわ。


2021.1.8 (Fri.)

「緊急事態宣言ごっこ」って感じだよね、お互い。


2021.1.7 (Thu.)

授業が始まったけど、コツコツがんばっております。この3学期が最後なのだ。まさにラストスパート。ふんばるぜ。


2021.1.6 (Wed.)

御守コーナーの改善作業に追われております。どう考えても1フォルダあたりの画像の量が多すぎるので、
細分化したフォルダに仕分ける作業が主。ファイル名も管理しやすく変えて、それらにともなうリンクの修正もやる。
今のうちにやっておかないとタコツボ化してどうにもならなくなる。今週はこの作業に専念するつもりなのだ。


2021.1.5 (Tue.)

新年初出勤で、午前中は打ち合わせ三昧。午後になって陽性の連絡が入る。隣り合わせの生活をしていると実感する。


2021.1.4 (Mon.)

押切蓮介『ハイスコアガール』。ソムリエ(潤平)もワカメたちもオススメしていたので。ようやく読んだ。

まず最初に、私が盛大な勘違いをしていたことを書いておきます。このマンガ、SNKに怒られたじゃん。
そのニュースだけ知っていたので、てっきり「昔を懐かしがってゲームを紹介するうんちくマンガ」だと誤解していた。
そんな状態で読んでみたら、内容がぜんぜん違うではないか。純粋なラブコメではないか。で、結論。あまり合わない。

ラブコメに対する文句から行くか。ヒロイン・大野の現実離れしすぎた設定に最後までなじめなかった。
時代背景が徹底してリアルなので、大野のフィクションぶりとのバランスがつかめず、僕には楽しめなかったなあ。
もうひとりのヒロイン・日高も男(ハルオ)にとって都合のよすぎる造形だし。舞台設定は現代の感覚なんだけど、
肝心のラブコメの進め方が昭和的な御都合主義で。絶対に倒したいライヴァルがきれいな女の子で……ってのはわかる。
現代のeスポーツの源流と言える格闘ゲームでの真剣勝負で結ばれた関係ってのは、これは描きがいのあるテーマだ。
でもガチガチのお嬢様で、しかもアンチテーゼたる姉が自分の母と跳梁跋扈。ここはギャグとして面白いんだけど、
ヒロインとの関係で考えると意味がわからん。大野はしゃべらんからね、「どうして?」がぜんぜん解消されない。
これは作者の好みによるのではないかと邪推する。たぶん「ゲームが天才的に上手いミステリアスな美人」が好きで、
そこを強調しすぎた、あるいは掘り下げて解体していく度胸がなかった、と思うのだ。日高とのバランスも悪すぎる。

このマンガで特に評価されていると思われるのは、ゲームキャラクターたちを通した心理描写だろう。
さらにはキャラクターたちがそれぞれのセリフを使って主人公を応援する場面もある。ここは非常に上手い部分だ。
僕もいちおうはガイル使いだが(理由は「軍人だから」)、キャラクターの声が聞こえてくるほどはやり込んでいない。
その点、ハルオがそこまでゲームの世界に入り込んでしまっていることを示す演出としても、優れていると思う。
またそうすることで、当時少年だった皆さんが物語を肯定するきっかけづくりにもなっている。なかなか巧妙なのだ。
しかしながら、この手法が非常に上手くハマったことで、ストーリー本体が過大評価されているように思えてならない。
なんというか、対戦する場面の緊張感もいいし、本当にラブコメ部分だけが邪魔。なんであんな設定にしちゃったのか。

僕はこの時代には熱狂的なカプコン・コナミ党で、そのために最後まできっちり読み切ることができたのが正直なところ。
もしこれが『ストII』ではない別のゲームが中心だったら(それはありえないが)、間違いなくドロップアウトしていた。
1990年代前半のノスタルジーに浸るにはラブコメ要素が邪魔で、ラブコメをやるんなら過去な分だけリアリティが必須。
結局これ、現代人が1990年代のゲームをやる「なろう」系なんだよね。異世界転生。僕には据わりの悪いファンタジーだ。


2021.1.3 (Sun.)

長谷川晶一『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』。発売とほぼ同時に購入していたのだ。

1992年と1993年の日本シリーズについては、この日記でも何度か書いてきた(→2004.9.262020.2.18)。
特に1992年の王者・西武をあと一歩まで追い詰めながらも敗れた記憶は強烈で、あれで完全にヤクルトファンになった。
大人になってからは1992年と1993年の日本シリーズのDVDを買い、たまに見てはあの壮絶な戦いを振り返っていた。
さて最近になって、ネットニュースでこの2年分の日本シリーズについて書かれた記事をよく目にするようになり、
そのたびに無数の共感的なコメントがついているのを見てきた。ああ、やっぱりみんなそうだったんだなあと実感する。
過去に数多の名勝負が演じられてきた日本シリーズだが、あの2年間の日本シリーズはやはり特別なものだったのだ、と。
そしていよいよ、そのネット記事で披露されていた取材が実を結んだ、待望の一冊が出た。むさぼるように読んだ。

著者の長谷川さんは筋金入りのヤクルトファンだが(→2017.6.13)、多くのヤクルトファンがそうであるように、
当時の西武ナインに対しても最大限の敬意を払って公平な立場で取材している。そうして事実を深く深く掘り下げる。
そうして生まれたこの本は、単なる14試合のドキュメンタリーに収まらない内容となっている。これは群像劇なのだ。
綿密な取材であらゆるシーンを各選手・両監督の視点から再現している。こんな贅沢なことがあっていいのだろうか、
というくらいに一瞬一瞬の場面が濃い密度で描かれる。ここまで立体的に真剣勝負の時間をつかみ取れるのか、
そう驚かされるほどである。これはもう、歴史の研究書なのではないか、とすら思わされる。それくらい緻密なのだ。

1992年の日本シリーズが、打撃戦あり投手戦あり完封リレーにシーソーゲームに延長サヨナラに1点差ゲームと、
野球の魅力的な要素が詰まりに詰まった内容ばかりだったのに対し、1993年はやや雑。正直、そういう認識でいた。
しかしこうしてきちんと振り返ってみると、確かに目立つミスもあったが、力が拮抗しているゆえ、という印象がする。
一進一退のゲームが多く、いわゆる脇役まで活躍しての総力戦。あの西武がもはやなりふり構わず泥臭く戦っていて、
両軍ともにしぶとすぎるがゆえの、綺麗事では済まない戦いに思えてくる。壮絶な殴り合いそのもの、という感じ。
その後はヤクルト投手陣が故障で苦しんだり西武も選手流出が止まらなかったりと代償はあまりにも大きかったが、
プロ野球選手という超人たちが心身を削って戦った記録と記憶は、伝説として今後も永く語り継がれるはずである。
その決定版とも言える歴史書が世に出たことを、心から喜びたい。大袈裟ではなく、本当にそれだけの価値がある。

最後、この本では「いったいどちらが強かったのか?」というイジワルな質問が選手たちに投げかけられる。
僕個人の感触としては「そりゃまあ西武だろうな」とは思うのだが、一方でセ・リーグには巨人というチームがあり、
日頃これを相手に戦わなくてはいけない苦しみがあるのも事実だ(→2020.2.18)。ヤクルトはここでだいぶ消耗した。
だから、西武ほどの圧倒的な王朝を築けなかったが、その西武と完全に拮抗するだけの力があったのは確かだとも思う。
しかし辻やナベQがヤクルトに来たときは本当にうれしかったなあ。僕にとって当時のヤクルトの選手も西武の選手も、
みなすべからく神様なのである。そんな神様たちが今のプロ野球界で指導者として活躍しているのが大変うれしい。
できればヤクルトのOBにもっとがんばってもらいたいが。あの日本シリーズは、遺伝子を残してまだまだ続いている。


2021.1.2 (Sat.)

御守の写真加工作業と並行して、『劇場版 機動戦士ガンダム』を見る。TVシリーズは前に見たが(→2013.5.2)、
劇場版を見るのは初めて。前に「前半のガンダムは全体的に間延びしていてフラストレーションがたまる」と書いたが、
圧縮されたことでその不満が解消された。が、「セリフが噛み合っていない感じ」は減ったものの、どうしても残る。
とはいえ「ファーストガンダム」を復習するには格好の素材である。やっぱりランバ=ラルがめちゃくちゃかっこいい。

さらに勢いで、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』を見る。これを「ファーストガンダム」の直後に見るということは、
一度やってみたかったことなのだ。『Z』と『ZZ』をすっ飛ばすのは強引だが、やってみるとそれはそれですごくいい。
ミライさんを客観的な定点にして、登場人物全員の成長がわかる。特にカムランさんの出し方が非常にいいですな!
内容も『劇場版 機動戦士ガンダム』同様の圧縮ぶりで、若干駆け足な感はあるものの、ずっと話に惹きつけられる感じ。
しかしクライマックスの、クェスがチェーンがハサウェイが、の部分はやっぱりひどい。みんな救われんなあ。
この一連のぐちゃぐちゃは、個人的には「ファーストガンダム」におけるザビ家の最期のぐちゃぐちゃを思わせる。
アムロとシャアの最後のやりとりもすごい。これだけ大人気のシリーズになって、結末をつける作品のラストで、
出てきたのが結局ララァを殺された恨みつらみだもんなあ。究極のスケコマシと戦った『Z』もすごいが(→2014.5.28)、
究極のライヴァルを持ち上げて持ち上げて持ち上げた末に、単なるロリコンとして葬り去るってのは豪快過ぎてもう。
アムロが地球を救うヒーローをやり遂げる一方で、シャアが『ガンダム』を人間ドラマに押し留めた、という評価は、
可能であると思う。その2つの面を同時にやった点がさすがなんだろうな。大人気のシリーズによくケリをつけたものだ。

あ、いちばん驚いたのは、ギュネイ=ガスを演じているのが山寺宏一という事実。すげえ、すげえよ……。


2021.1.1 (Fri.)

新年あけましても日記漬けです。今までサボっていた御守の写真をひたすら加工しているのだが、量がぜんぜん減らない。
これこそ毎日コツコツと作業しなければいけないものだった、と実感しながら泣いています。われながら恐ろしい趣味だ。


diary 2020.12.

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