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2018.12.16 (Sun.)

天気がそんなに良くないという話で、カメラを持たずに青春18きっぷを使って一宮の御守を受け直す旅に出る。
そんなに何度も行かなくてもいいだろうとツッコミが入りそうだが、せめて近場の一宮くらいきちんともらおうと。
一宮参拝は僕の原点なので、そこだけはちょっとこだわることにしたのだ。まあ、あくまで近場のみですので。

どっこい寝坊の影響で掛川まで行けず、富士山本宮浅間大社(→2008.3.232014.10.122015.12.27)と、
三嶋大社(→2008.3.222013.3.92015.3.21)の2社だけとなったのであった。家を出たら曇り空だったが、
昼過ぎに富士宮に着いたらなかなかの快晴ぶりでやんの。御守を頂戴すると、富士宮焼きそばをいただいて戻る。
三島ではさすがに曇りとなっていたが、快調に御守が頂戴できたのでよかった。これでまた研究が進むぜ!

せっかくなので、小田原で途中下車して箱根湯本まで足を延ばす。最近は温泉に浸かりたくってたまらないのだ。
毎日寒いし疲れているしで、少しばかり意地になって旅行がらみで浸かれる温泉を探している状況である。
で、今回は駅からバスで無料の送迎をしている入浴施設にしてみた。行ってみたらかなりの人気ぶりだった。
お湯の温度がなかなか絶妙で、自由自在に浸かりまくることができる点は非常に素晴らしい点ではある。
しかし泉質は駅裏の鄙びまくった施設の方が良かったので(→2017.10.30)、そこは少々残念なところ。
まあいい気分のリフレッシュにはなったので、この勢いであと1週間をパワフルに駆け抜けたいものである。


2018.12.15 (Sat.)

寒い! 年末だもんな! 部活でずっと外にいると体が動かなくなってくるぜ!


2018.12.14 (Fri.)

『ラブライブ!』の感想シリーズ第2弾。前回は「他作品との比較による『ラブライブ!』総論」(→2018.12.9)だが、
今回からは各論を通してより詳しく分析を入れていき、最終的には社会学的アイドル論の入口へ道筋をつけてみたい。

まずは「キャラクター造形論」からいこう。物語は2年生トリオが動かすことで始まるが、その構成はすでに述べたように、
ボケ(南ことり)・大ボケ(高坂穂乃果)・ツッコミ(園田海未)である。これが多数決によるボケの優勢で動いていく。
この物語を動かす横軸を2学年という中心に置いて、次に縦軸が構成される。高坂穂乃果という主人公(ポジ)に対し、
1年生における小泉花陽という主人公(ネガ)が配置される。両者は「アイドルになりたい私」という構造で共通するが、
そのポジティヴな要素を高坂穂乃果が担当し、ネガティヴな要素を小泉花陽が担当する。大半の女子はここに含まれる。

1学年には「昔からの親友」の星空凛と、「新たな友達」の西木野真姫が配置される。西木野真姫は才能の象徴で、
彼女と関わることで才能ある他者を同化する手続きを踏み、「アイドルの私たち」が成立するエクスキューズとなっている。
第4話「まきりんぱな」というタイトルは、そう呼べと言わんばかりであざとい。西木野真姫を同化させるための工夫だろう。
しかし対照的に3学年の構造はやや複雑で、小泉花陽のネガをさらにこじらせた矢澤にこが、まず先にμ'sに加入する。
ここには過去の救済・浄化という要素がある。μ'sという組織のアイドルとしての正当性をさらに強調するプロセスと言える。
なお、第5話「にこ襲来」は明らかにエヴァンゲリオンを意識しており、トリックスターの役割が最初から宣言されている。
そこから絢瀬絵里と東條希が加わるが、生徒会長・絢瀬絵里は学校代表の正当性とやはり同化される才能の象徴で、
東條希は巫女にしてタロット占いの使い手であり、その行動に「神のお告げ」という要素をチラつかせることにより、
さらに明確にアイドルとしての正当性を持たせる。女神に由来するμ'sの名付け親が東條希であるのは、必然の演出だ。

あとは各キャラクターに、「自分に近いタイプ」と思わせる要素を追加で散りばめて、感情移入させればいいのである。
ダイエットに苦しむメンバーがポジの主人公・高坂穂乃果とネガの主人公・小泉花陽なのは、親近感の演出だろう。
家庭環境も多彩で、お金持ちから貧乏大家族、学校経営者、自営業、帰国子女に転勤族の一人暮らしと幅広い。
9人にありとあらゆる属性を用意し、最もお気に入りの「推し」のほかにもDD(誰でも大好き)、箱推しの余地を持たせる。
現実ではモーニング娘。が切り開き、フィクションでもセーラームーン以降練りに練られた方法論が存分に活用されている。

さて、上記のようにμ'sは3×3の構造を持つが、各学年にはつねに2:1となる緊張状態が用意されている点が興味深い。
それはボケとツッコミの比率であり、親友と他者の比率であり、才能ある者と気合いでなんとかする者の比率である。
この比率を動かすことでドラマを生み出しているのだが、そこにμ'sのメンバー以外の者が関与する隙はまったくない。
『ラブライブ!』におけるドラマトゥルギーは、すべてμ'sの中で発生してμ'sの中で解決する仕組みが徹底されている。
これについては、次の「組織論」の項でも確認したい。それにしてもこのMacBook、名前をぜんぶ一発変換したぞ……。


2018.12.13 (Thu.)

本日、やっとのことで2016年の日記をすべて書き終えました。今ごろで本当に申し訳ない。
越年して3年前の日記を書く状態はどうにか回避できたわけだが、負債の完済が遠い状況には変わりない。
この勢いで引き続き、2017年の日記についても地道にがんばって書いていく所存であります。ハイ。
旅行なんかはどれもこだわり100%で中身が濃いので、できるだけ早くアップロードしちゃいたいのだが、
中身が濃いだけあって年々書くのが大変になっている。いいかげん、要領よく書けるようにならなければ。


2018.12.12 (Wed.)

学年の先生方全員で、平成最後の天皇誕生日のあたりに来年度の修学旅行の下見をする予定だったのだ。
ところがさまざまな要因によって計画はどんどん変更されていき、気がつけば私が一人で行くことになりました。
仕事ですからね、好き放題に動けるわけではないので、責任も重大だし、正直これはちょっと困ったかなあ……と。
一生懸命がんばりますが、例年以上にのんびりできない年末年始が確定した感じ。うっかりミスに気をつけよう。


2018.12.11 (Tue.)

岡野誠『田原俊彦論』。きちんと読んだので感想を。発売イヴェントについてのログはこちらを参照(→2018.11.26)。

まず圧倒されるのが、目次に続く「凡例」である。この本においての資料の扱いを示しているのだが、
これだけ多くのことを、これだけ丁寧に扱っているとは!と驚いた。筆者の絶対的な真剣さが感じられる部分だ。
巻末の分厚い資料にも度肝を抜かれたが、どちらかというと僕には1980年代という雰囲気を感じるためのもの、
そういう感触である。番組内容の要約に反応するマサルもたぶん同じ感覚だろう。これだけでも十二分に楽しめる。

肝心の内容もまた真摯で、きっちりと時系列に沿って、きわめて客観的にスター・田原俊彦の誕生と活躍、苦難を描く。
根拠となるのは膨大な量のビデオ映像・雑誌記事・インタヴューだ。量の力で当時の客観的な状況を精確に描き出し、
そのうえで論を進めるので納得せざるをえない。歴史学の論文と同じくらいの注意深い手続きで事実が掘り起こされる。
そう、筆者は熱狂的なトシちゃんファンであるにもかかわらず、文章は一定の冷静な温度が保たれているのが凄い。
逆説的だが、その感情の抑制ぶりこそが、資料の量とともに筆者の熱意を最も感じさせる部分となっているのだ。
もっとも、終盤に近づいていくにつれて、田原俊彦本人へのインタヴューを主な資料としていることもあって、
抑えきれない感情が現れ出して、それもまた面白い。「ちゃんと病院へ行ってください」とか、もうオカンじゃないか。
もはや量で証明する必要がないところまで田原俊彦を描き出したことで、筆者はファンの代弁者に切り替わっていた。
それはつまり、「ファンの主観=田原俊彦というアイドルの実像」という構図が完成していることの証左なのではないか。
メディアによるよけいな増幅のない、純粋で見通しのいい関係性が構築された現状を反映しているように思う。
だから現在の田原俊彦は、このある種の安定(究極的な存在は宝塚か →2012.2.26)を歓迎している気もする。

さて、僕は上にリンクを張った発売イヴェントのログで、トシちゃんとカズを対比させて考えた。
これがマサルと岡野さん本人から、両者の関係(実は親友)を知らずに書いたことを大いに褒めてもらったのだが、
実際にこの本を読んでみて、さらに考えさせらえる点があったので、それについて書いておこうと思う。
まず、田原俊彦が尊敬してやまない存在である、マイケル=ジャクソンとの対比。エンターテイナーとして、
田原俊彦はM.ジャクソンと同じ線上にいようと強く意識している。2009年にM.ジャクソンは亡くなってしまったが、
彼の身体イメージはそのダンスパフォーマンスとともに、われわれに解放された、と見るべきだろう(→2009.6.27)。
ではM.ジャクソンの身体イメージを取り入れてきた田原俊彦のイメージとは何か。われわれは「アイドル」と定義する。
しかしM.ジャクソンはアイドルとしてスタートしたかもしれないが、最終的な位置は決してアイドルではない。
あえて田原俊彦を「M.ジャクソンを矮小化したもの(表現が悪いが、弟子のようなものと理解してほしい)」とすると、
M.ジャクソンから田原俊彦に至る過程で抜け落ちたものは何か。そこにアイドルのヒントがあるように思うのだ。
結論から言ってしまうと、作詞と作曲だと思う。アイドルは本質的に、作詞・作曲をしてはいけない存在なのだ。
与えられた曲を、送り手と受け手のイメージを受け止めたうえで、求められたようにやりきる。それがアイドルだ。
だからチェッカーズは自分たちで楽曲をつくるようになった瞬間に、アイドルではなくなったというわけだ。
(鶴久の書く曲はいい曲ばかりだから許してやってください。再結成しなくていいから、どうか許してやってください。)
田原俊彦の場合、おそらくそこにプロ意識がある。僕はなぜ彼が作詞・作曲しようとしないのか不思議だったのだが、
たぶん彼はできるとしてもやらないのだ。彼は演じ手としてのプロだから、作詞も作曲もプロに任せているのだろう。
M.ジャクソンの身体イメージを受け継いでステージに立ち、踊り、そして歌う。そこに特化したアイドルであろうとしている。
これは実に不器用な生き方である。「アーティスト」という称号とともに新境地を開いてもよさそうなものだが、
そうするとかえってアイドルの定義とともに「田原俊彦のやってきたこと」がブレる結果となってしまう。だから、やらない。
その姿は僕にはやはり、カズが決して指導者の道を歩もうとせず、現役選手として生涯を貫く姿勢と重なって見える。
チームをデザインする側である監督にはならず、あくまでストライカーとしてのクオリティを一生追求し続ける。
サッカー選手の地位とアイドルの地位の間には、貴賤も何もない。彼らはただ、一生かけて道を究めようとしているのだ。
トークショウで岡野さんがおっしゃったように、1980年代当時の表現を見ると、「アイドルのくせに」という見下し方は、
確かに存在していた。そこからどれだけわれわれは進化しているのだろうか。芸能への蔑視はどこまで相対化されたのか。
アイドルの存在価値をショウビジネスの文脈でどう認めるのか。前に述べた「われわれが試されている」とは、そういうことだ。

それにしても、この本を読んだら、田原俊彦という存在にさすがに興味が出てきた。今後は積極的に気にかけていくぜ。


2018.12.10 (Mon.)

どうにもならないことなので粛々と受け止めるしかないし、そもそもここに書くことではないのだが、
しばらくちょっと仕事が忙しくなりそうな気配。まあ正直なところ、僕の仕事が忙しくなるという客観的事実よりは、
僕のやるべき仕事についての質感という主観的な部分をどのように折り合いをつけて納得していくかという、
そっちの方が気がかりである。われながら微妙な言い回しだなあ。まあ、呆れられないようにする、ってことです。


2018.12.9 (Sun.)

すいません、今さら『ラブライブ!』の感想を書こうと思ったら、とんでもない長さになってしまいそうなので、
何回かに分けて小出しにしていきます。第1回目の今回は、他作品との比較による『ラブライブ!』総論です。

いま、通勤電車の中でチビチビと岡野誠さんの『田原俊彦論』を読んでいるのだが(レヴューは明後日あたりに)、
おかげで「アイドル」というものに興味が出てきた。といっても僕の場合は何よりもまず、社会学的な興味だ。
大学時代にはモーニング娘。にハマりまくり、前任校では実際にメンバーの子に英語を教えたりもしたが(なんと!)、
本腰を入れると大掛かりで面倒くさくなることもあって、社会学的な視点であれこれ考えることは避けてきた。
正直なところ、今も面倒くさい。でもぼちぼち現時点での考えをまとめてもいいだろうという気になってきたのだ。
ただ、真正面から論じるにはあまりにも勉強不足だ。まずはその準備段階ということで、周辺部から攻めてみる。
具体的には、年末のHDレコーダーの処理も兼ねて、アニメ『ラブライブ!』を見た感想をまとめることから始めたい。
生徒からオススメされたのは、もう5年も前になるのか。そのときチラッと見た感想は「ことりちゃん声高ぇよ」でした。

まず最初に出る名前が「矢立肇」ということで、サンライズなのねとびっくり。ガンダムからラブライブまで幅広いなあ。
話の展開としては、実にベタ。メンバーの留学でピンチになるところまでベタ。お兄さんはかゆくなっちゃうよ。
こんな設備のいい学校が簡単になくなるかよ、とツッコんではいけないのでしょうか。子どもは食らいつくだろうけどね。
筋としては、ボケと大ボケとツッコミが多数決で話を進めていくわけだ。それでフィクションが離陸していくという仕組み。
だんだんとメンバーが揃っていく感じは、やっぱり元祖としての『セーラームーン』が根底にあるように思えてしまう。
屋上での練習は『櫻の園』(→2003.11.6)へのオマージュか。登場人物を限定してメンバー間のやりとりの密度を上げ、
日常性を持たせる手法は『けいおん!』(→2011.11.16)由来だろう。先行する作品をかなり研究しているのがわかる。
『ラブライブ!』の特徴は、ミュージカルの方法論を取り入れている点だろう。パフォーマンスのシーンの入れ方だが、
ミュージカル映画という形を応用しながら、多少強引でもパフォーマンスをストーリーに優先してぶち込んでくる。
ライヴシーンを必要最小限にしていた『けいおん!』(→2012.1.7)とは、この点が大きく異なっている。
2期なんて確信犯的で、いきなりミュージカルだ。キャラを確立させてギャグにも振れるという、余裕を感じさせる宣言だ。

同じアイドルネタとなる『アイドルマスター シンデレラガールズ』(→2015.4.112015.11.5)と比較すると、
典型的な明るい主人公の高坂穂乃果と、何もかもふつうの島村卯月という、一般性のある視点が共通していると言える。
少女マンガには基本的に、「ふつうの私」がハイスペックな男子にモテるという構造があると思うが(→2007.4.7)、
「ふつうの女の子がアイドルになる」構造は、その延長線上だ(ドジな月野うさぎも実際は同じ構造であると僕は考える)。
しかし『ラブライブ!』は第1話からかなり中身の詰まった内容なのに対し、『デレマス』は展開をあえて遅くした仕上げ。
『ラブライブ!』は少ない登場人物に特化し、μ's(うわこのMacBook一発変換したよ)の内部と外部が峻別されている。
その分、アイドルになれるキャラとなれないキャラの差は大きい(セーラー戦士も惑星と同じ人数しかなることができない)。
対照的に、『デレマス』は数えきれない登場人物を自由な形で出しており、内部と外部の区別が比較的あいまい。
むしろ、後半からわざわざ美城常務という、外部からトップダウンで枠を壊す人を新規に出してきたくらいだ。
アニメとしては『デレマス』が後発であり、リアリティを重視する形で『ラブライブ!』と差別化したと考えられる。

もともと僕はこの手のジャンルに興味があるわけではなくって、僕の知りうる限りの作品でなんとなく共通点があるな、
というものを並べて比較したら以上のような感じにまとまった。ハマりはしないけど、分析しがいのある作品だとは思った。



2018.12.7 (Fri.)

赤坂憲雄『性食考』。どっかの書評で見て、興味をそそられたテーマだったので読んでみたというわけ。

しかしながら「はじめに」の段階から、僕の期待は裏切られることが確定していたのである。筆者はこう述べる。
「そう、きっとこのテーマはどれだけ執念深く追究したところで、
『薄明のなかの不定形としかいいようのない影の部分』にぶつかり、
けっしてあきらかな輪郭をもって浮き彫りにされることはないだろう。」
つまり、この本はあくまで筆者の予感を書き連ねるだけで、研究として切り込む気はないと宣言しているのだ。
そして宣言どおり、全編にわたっていかにも社会学的な文系特有の投げっぱなしジャーマンが炸裂している。

読んでいる感触は、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(→2006.8.25)に近いものがある。これは褒めていない。
筆者の読書量には敬服するが、その本の引用を繰り返すのみで、自らそのテーマの中心に切り込んでいこうとしない。
サッカーで例えるなら、サイドでいい形でボールを持って、SBを抜くけど、延々とドリブルの往復を繰り返す感じ。
クロスを上げることもなければ、自らシュートを狙いにカットインすることもない。ドリブルの技術に酔っているだけ。
点を取りにいかないサッカーが退屈であるように、この本を読み進めることもまた退屈である。読者が学べない。
思考のヒントとしては有益だし、参考になる文献の紹介としても有用だ。でもそれだけに、肝心なところでの逃げが不快だ。
お前の知識の披露はもういいから、お前自身が性と食の関係性をどう結論づけたいのか。いやもう本当にイライラした。

ただし、動物・神話・女神をテーマとする中盤はかなり切れ味の鋭い展開を見せる部分もある。
結局のところそれは、引用元であるバタイユやレヴィ=ストロースやエドマンド=リーチが面白いということなのだが。
とはいえ、そのあたり皆さんの成果を性と食というテーマに即して筆者がよくまとめてあるのは間違いない。
そういう意味でもやはり、この本は古典に踏み込むためのブックガイドとして読むべきであるような気がする。


2018.12.6 (Thu.)

最近は週末の日帰りお出かけをがんばっているため、ただでさえ飽和状態の写真が整理できずに溜まる一方である。
しかし今日は出張が終わると、気合いで一気に片付けていく。当然だが、やらないことには減っていかないので。
粘りに粘ること4時間半、ノンストップで写真の加工作業に集中するのであった。でもまだまだ終わらないのよね……。


2018.12.5 (Wed.)

出かけていたせいでM-1グランプリは途中からしか見ていないので、メモ程度で。

ジャルジャルは去年の福徳の悔しがりっぷりを目にして、僕としては好感度がだいぶ上がっていたのだが、
今年はそれを踏まえての貫禄を感じた。実を言うと1本目のネタは見られなくて、わざわざ動画を探して見たのだ。
いい意味で、小学生のふざけた遊びを最高レヴェルのやりとりに昇華させるスタイルが確立されていると思う。
他愛ない楽しいふざけを、ある種、音楽的なトランス状態まで持っていけるというのは、彼らでないとできない芸当。
唯一無二のことを完璧にやってのけているのだから、芸人として完成された領域に達したと思う。

和牛は去年の反省がぜんぜん生きていない。彼らの人物造形は暗いのだ。登場人物に対する扱いがネガティヴ。
1本目はゴールデンタイムで「殺す」という言葉を連呼する点がネガティヴだが、それを軽やかに笑いに変えた。
2人の連動する動きも見事だったし、これは面白いと素直に思った。でも結局、2本目で人を陥れるネタに走った。
登場人物を凹ますまではいいのだが、それを笑いという形にまとめることなく終わる。だからどこか気分が悪くなる。

霜降り明星はうるさいけど、ボケの腕が確かなところに表現豊かに笑わせるツッコミが入るので手放しに面白い。
2本目の途中で、こりゃ和牛負けたなと思ったら案の定そうなった。審査員の判断は妥当だったと自分は考える。

さて、うるさいコンビということでもうひとつ、ミキについて。とにかく兄貴の方がうるさくて僕は大嫌いだった。
しかしネタはきちんと面白かったし、今年の兄貴は膨大な量のセリフを非常に滑舌良く言い切ってみせて、圧倒された。
まだうるさいとは思うものの、昨年とは比べ物にならないほど聞きやすくなっているので、素直に来年が楽しみ。


2018.12.4 (Tue.)

暑い! 12月やぞ! ヤバいだろこれ!


2018.12.3 (Mon.)

すべての音楽を持ち歩けない不自由さに我慢ができず、ついにiPod touchを購入してしまいました。
やっぱりAppleのiTunesは圧倒的に使いやすいの。そんでもって128GBなら持っている音楽がぜんぶ入るの。
つまり、かつて愛用したiPod classic(→2014.9.10)の後継として十分やっていけると判断し、購入を決断した。
スマホではやっぱり容量が足りなくて、決まったプレイリストしか持ち歩けないのがとってもつまんないのだ。
すでにスマホを持っているくせに今さらiPod touchというのは、なんとも間抜けな印象がしてしまうのだが、
好きなときに好きな音楽を好きなように聴けるという魅力は大きい。あらためてそのことを実感している。

こりゃいいやと思っていじくりまわしているうちに、ふと気がついた。スマホ、いらないんじゃね……?
電話はガラケーにお任せして、それ以外はiPod touchでもういいんじゃないかって気がしてきたのである。
そうすれば月々の通信費をだいぶ節約できるんじゃないだろうか。どれくらい節約できるかはわからないが。

実際にはプロバイダのプランだとかSMSの送受信だとかマップの位置情報だとか、いろいろ問題がありそうなので、
今すぐにはスマホを手放すことはないものの、周囲のアドヴァイスを聞きながらじっくり考えてみようと思う。



2018.12.1 (Sat.)

来年2月テスト前の旅行プランを練っております。というか、各種予約の関係もあるのでもう決めた。
今までやったことのないことをやるつもりだけど、どうなることやら。今シーズンはエルニーニョなので不安である。
こればっかりは日頃の行いを良くするしかないので、日々着実に善行を重ねていきたいと思います。


diary 2018.11.

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