『戦場のメリークリスマス』。大島渚監督作品は今年4月に国立機関に収蔵される予定になっているそうで、
大規模ロードショウはこれが最後の機会とのこと。どうせなら4K映像を堪能できる映画館で見よう、ということで鑑賞。結論から言うとこれはもう、ビートたけしの好演、それだけ。主人公が誰だかよくわからねえなあと思って見ていたが、
終わってみたらこの作品はたけしの映画だった。たけし以外の部分はクソつまんなかったです、はっきり言って。
正直、大島渚の映画監督としての力量には疑問を感じる。野坂昭如をマイクで殴ったのがいちばん面白かった人だね。
まあつまりは、説明なしの映像で観客に監督の意図をわからせるのは本質的に難しい(→2021.7.30)ってことだろう。
2時間以上も観客を物語の中に没入させるのは、実際には並大抵のことではないのだ。そう思っておくことにする。もうちょっと掘り下げて批判すると、配役はいいのだが、それを乗せるにふさわしい展開を用意できなかった感じ。
ホモの話かと思ったら、最後までそれになりきれなかったのが痛い。この映画は男しか出てこないわけだから、
人間の持つすべての感情を男だけで表現しなければならない。ホモ行為はわれわれには特殊な行為となっているが、
その前提を観客に理解させればOKになっちゃうはずなのだ。まあ、大島渚に映画監督としての覚悟が足りなかったね。
敵味方を超えた親愛の情と、その身体的表現と、性愛。それぞれのレヴェルが整理できていないから混乱するのだ。
それらをきちんと整理したうえで、日本的感覚(武士道? 軍国主義?)との葛藤を描けばマシになったはずなのだが。
回想シーンの寄宿舎も(デヴィッド=ボウイの学生姿は無理があるのう)、そこを衝かないから浮いているのだ。
結果、物語中で唯一人間的な成長を見せたハラの独擅(壇)場となる。ビートたけし生来のシャイさが完璧な演技となる。今後、坂本龍一の「Merry Christmas, Mr.Lawrence」が、僕の中で「つまらん映画のBGM」に堕ちてしまうのが心配だ。
あと、俘虜長の動きを見てどうしてもモンティパイソンを思い出してしまい、声を出して笑いそうになって困った。
新しいMacBook Proが出た、というインターネット記事を見かけたのであった。
そういえば僕のMacBookは買ってからどれくらい経つんだろう?と思って日記を見たら、6年経っていた(→2016.12.10)。
ってことは、そろそろなのかと。いつどんなトラブルが起きても対応できるように、覚悟を決めておくべきか。最大の問題は、Macがもうインテルのチップじゃなくなって久しいので、現状のソフトが使えなそうで困るってことだ。
僕はMacBookを事実上、出先でPhotoshopとDreamweaverとIllustratorを使うためのマシンとして特化させている。
これらがぜんぶダメとなるとダメージは計り知れない。サブスクとか本当に勘弁してほしい。嫌な世の中になったなあ。
まあ冷静に考えれば、PhotoshopとDreamweaverとIllustratorのCS5を10年以上使っている方がおかしいのかもしれんが。
(当時はWinとMacでそれぞれ買うという大散財ぶり(学生版ではあるが)だったが、結果的には大勝利であった。)
とりあえずは、今のMacBookでとことんまで行ってやるのである。とことんまで楽しませてもらうのである。
GYAO!が3月いっぱいでサーヴィス終了だと。ちまちまとアニメを見るのに最適だったのだが……。さてどうしたものか。
『ラストエンペラー』。清朝最後の皇帝にして満洲国の傀儡となった愛新覚羅溥儀の人生を描いた映画である。
中心となって制作したのはイタリアだが、中国・イギリス・フランス・アメリカも合作に参加したとのこと。
ストーリー的に中国はよく協力したなと思う。でもおかげでロケをしっかりやったことでリアリティが抜群である。
できごとの発生を明らかに時間的に圧縮しているなど、フィクション度合いはかなり濃くなっているが、
往時の雰囲気がわかる再現映像としての価値は一級品ではないか。「つくったことが偉い」という映画であると思う。展開は正統派で、政治犯収容所での尋問(現在)と回想(過去)を交互に挟みながら物語が進んでいく。
回想が収容所での現在に追いついたところで終盤へと向かっていく。上述のように時間を圧縮してテンポはいい。
それでもきっちりと描くべきものを描いているので163分。その間、飽きずに見せ続けるのも見事なものである。
そして坂本龍一の音楽がめちゃくちゃ効いている。メインテーマは映画の中で聴くとかなり感動的である。さて感想だが、なんというか、「無」である。これは悪い意味ではなくて、山あり谷ありの結果、プラスマイナスゼロ。
溥儀は時代に流されまくって利用されまくった人生で、自分ではどうにもならない運命に翻弄されたわけだが、
自分からそこに突っ込んでいった側面もあり、完全に同情できはしない(その冷静な描写がちゃんとしている)。
逆を言えば、溥儀自身のドラマをきっちりプラスマイナスゼロに収めたことが素晴らしいとも考えられるだろう。
政治犯収容所の所長を確かな善人として、基準をつくっているのが巧い。彼がいなけりゃ溥儀ごと完全に「無」である。
文化大革命に巻き込まれる所長を描き、翻弄されたのが特別扱いされた溥儀ひとりではないのだという事実、
それを客観的に示したことで、溥儀自身はプラスマイナスゼロでも映画全体の印象が深いものとして刻まれる。
上で述べたように往時の雰囲気を再現した価値と、あと音楽の効果と、意義ある映画だったと思わせる要素は多い。溥儀のドラマがプラスマイナスゼロで「無」に収束したことで、締め方がなんだか邯鄲の夢って感じである。
そういえばコオロギ科で邯鄲という虫がいる。これを監督は知っていて重ねたとしたら、とんでもなくオシャレだ。
元阪神のバースが野球殿堂入りとのこと。おめでとうございます。
僕はリアルタイムではそこまで野球に熱中している時期ではなかったが、その活躍ぶりは覚えております。
あのとんでもないインパクトを40年近く経ってから評価するというのは遅い気もするが、何にせよめでたい。ラミレスも野球殿堂入り。まあ2000本打っているからね。ヤクルトから巨人へ行ったのでモヤモヤはわずかにあるが、
めでたいことには違いない。今後もレジェンド外国人選手の再評価が進むことを切に願っております。
桜井のりお『僕の心のヤバイやつ』。正月にソムリエ(潤平)から強く薦められた作品である。
電子書籍で1巻だけまるまる無料となっていたのですぐに読んでみたのだが、市川がヤバイやつと見せかけて、
実はもっとヤベエ山田にツッコミを入れて楽しむマンガだと認識。その旨をソムリエに伝えたところ、それは違うと。
2巻以降すぐに話が大きく動いていくというので、東京に戻ってからできるだけ早く既刊7巻まで読んでみたのだが、
あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛と悶えずにはいられないのであった。うおーウホホホホーイ!
ぼく、高木さん(→2016.4.20/2022.1.31)よりこっちの方がいいです!山田がめちゃくちゃかわいいんですよね、そして市川もまたかわいい。地球上のすべての男子中学生の夢とちゃうか。
「これはもうセッ○スなのでは?」と言いたくなる事態まで発生してますわよね。お嬢様言葉になるほど動転している。
このマンガで評価すべき点はいくつもあるのだが、最も特徴的な点は、家族を描くことから逃げていない点である。
親というのはつねに邪魔してくる存在であるという絶対的事実がそもそも厳然としてあるわけだが(当社比)、
フィクションのストーリーにおいても親という存在はつねに「現実」を象徴する役割として登場せざるをえない。
古来、ラブコメマンガの傑作たちはそこをとことん避けてきた(たとえば、桂正和『電影少女』→2005.8.17)。
しかし『僕ヤバ』は逃げない。いや、むしろ当人どうしの告白よりも先に、親に行くのである。そこがすごい。
そしてここでロジックを見事にひっくり返しているのだ、「相手の親に対して恥ずかしいマネはしない」と。
1週間ほど前のログで「ラブコメ系は先に結婚しちゃって後から距離を詰めていくような感じのものが人気なんですかね。
先が読めない展開というよりは、ハッピーエンドを保証したうえでのドキドキ、という方向性が目立つと感じる。」
と書いたけど(→2023.1.3)、それと同じだと思うわけです。両親公認状態というゴールを保証して距離を詰めていく。
『僕ヤバ』は、中二病の症例を一服の清涼剤としつつも、健全なるラブコメを着実に展開するという新たな発明なのだ。
そうやって我が心の中学校・高校生活の無念なあれこれを成仏させていくのだ。ああ、心が清らかになっていく……。それにしても洗足、めっちゃ地元。そんな近所でイチャつかれていると思うと……ぼかぁもうっ、ぼかーもうっ!
年末年始をコロナ陽性で過ごした皆様がたいへんに多い模様。それはそれで好都合だった、と笑っている一方、
やはり病状はシャレにならなかった、とも。マスクなど感染を広げない努力はまだまだ継続しなくちゃいかんだろうなあ。
Bunkamura ザ・ミュージアム『マリー・クワント展』。クイズ的には「ミニスカートの人」なのだが、きちんと勉強。
25歳で開店した「バザー」時代から初期の足跡を丁寧に追っている展示、という印象。実物の服やモデルの写真が並び、
時代性をしっかり感じさせる工夫がなされているのがよい。懐古的な静的過去形ではなく、過去進行形のタイムスリップ。
夫のプランケット=グリーンと実業家のアーチー=マクネアに支えられつつも、確かなデザインで時代を牽引していく。マリー=クアントが活躍した最大の秘訣は、1960年代イギリスという条件を最大限に生かしたことにあると思う。
停滞していくイギリス社会では既成の価値観を打ち破る動きも活発化しており、モッズが若者文化として広がっていた。
マリー=クアントはこの動きを的確につかみ、彼らの潜在的な欲求を満たす新たなファッションを形にしていったわけだ。
これはその後に社会進出を果たしていく女性という需要を掘り起こすことでもあった。社会の変革を見事に促していく。
さらに鋭いのはイギリスに留まらずアメリカに進出することで、後の大量生産社会をリードする側にもまわったことだ。
ライセンス契約によって洋服からファッション全体へと活躍の場を広げ、デイジーマークを通して多角的に展開する。
まさに1960年代という時代を象徴する業績で、ここまで鮮やかに時代を味方につけた人がいたのか、と驚かされる。ところが、マリー=クアントのデザイン自体は一貫して「モダン」の印象を残すのが面白いところだ。
前に美術館とマンガからフォーマルのコードとモードの関係について考えたことを書いたが(→2021.8.12/2021.9.5)、
マリー=クアントはピナフォアドレスを軸にして、既存の伝統を再解釈して日常の気軽なレヴェルに引き落とす。
でもそのデザインにはきちんと品格が保たれているのである。落ち着いた暖色系を多用するのはその証拠だと思う。
70年代以降のように常軌を逸することで注目を得る厭らしさは皆無だ。彼女はモダンの最終形と言えるのではないか。
たとえば自分が女装するとして、マリー=クアントのデザインしたドレスを着たとしたら、絶望的なことになるだろう。
体格的に決してごまかしのきかない、女性が生まれ持った魅力に応じた、女性のためのデザインとなっているからだ。
実際にはしっかりと正統派、だからマリー=クアントはモダンなのである。モダンだから次の時代への橋渡しができた。
マリー=クアントが華々しく登場した当時は既成観念の破壊者だったかもしれないが、今から見れば良識の枠内そのもの。
フォーマルのコードを逸脱することなく換骨奪胎するセンスは、あらためて冷静に評価したいものである。勉強になった。
職場で行われた地学の研究会に参加する。というのも、テーマが「国土地理院の地図」だったから。
パワポのスライドを参考に、ウェブ上で利用できる地理院地図の活用法を3時間みっちり体験するのであった。地理院地図は実はかなり多機能(しかも無料)で、むしろ機能が多すぎて途方に暮れてしまいがちなくらいなのだ。
とりあえずメニューを上から試していったのだが、かなり強力。1960年代の写真と現在の写真を並べて比較してみるが、
職場周辺は1960年代には本当に農地。低い部分を田んぼが埋めている様子はまるで壱岐(→2018.11.4)のようだ。
その低地を昔からの道が走り、新しい道は後からまっすぐ一気に整備されたのもよくわかる。これは飽きない。
好きな範囲を3Dで取り出して見ることも可能である。上空から見た光景をいろんな角度から眺められる。
次は色別標高図と陰影起伏図。これを透過率を操作して標準地図と重ねると、元の地形がはっきりとわかるのだ。
東京の多摩地区が武蔵野台地をベースに立川崖線と国分寺崖線で河岸段丘となったかなり平らな地形なのに対し、
多摩川を挟んだ川崎側は多摩丘陵の勢力圏となり起伏が非常に複雑。神奈川らしさを実感できたのであった。
「土地の成り立ち」の中の「日本の典型地形」では、火山・河川・海などそれぞれの作用でつくられた地形が、
日本全土を網羅してマッピングされている。旅行の予習には最高の素材である。気の遠くなるような作業をやったなあ。
災害の記録にも力を入れており、災害の様子を収めた航空写真も豊富。さらに自然災害伝承碑も押さえており、
これまた全国各地の碑が網羅されている。ちなみに飯田近辺は「三六災害」関係ばっかりなのであった。というわけで、ひたすら地理院地図をいじくりまわした3時間だったが、それでも機能をすべて使ったわけではない。
授業で効果的に使うには、事前にしっかりとプランを練らないとワケのわからんことになるのは確実である。
とりあえず、暇な人はぜひいじくりまわしてみてください。「地理院地図」で検索すればずっと遊べますぜマジで。
東京に戻ってまいりました。究極的に怠惰な生活をさせてもらったおかげか、昨年と比べるとメンタル的にはだいぶよい。
開き直っていられるというか。またどうせすぐに忙しくなって苦しくなるんだろうけど、リフレッシュできてありがたい。
実家で怠惰に電子書籍の試し読みをしていたのだが、日本のマンガってのは本当にすごいなあと再認識。
やはりしっかりとした取材・研究にもとづいた作品が、知識のつく点も含めて評価されているのがすばらしい。
簡単に言うと、「読めば何かしら賢くなるマンガ」がきちんと人気になっていることがよろしいと思うのである。
魅力的なフィクション(=嘘)を成立させるためにリアリティの追求を惜しまない、その研究熱心さが好きなのだ。
特に近年はその傾向が強まっているように思える。今年はそういうマンガをしっかりと読んでいきたいものだ。ラブコメ系は先に結婚しちゃって後から距離を詰めていくような感じのものが人気なんですかね。
先が読めない展開というよりは、ハッピーエンドを保証したうえでのドキドキ、という方向性が目立つと感じる。
それはそれで嫌いではないしむしろ好きなのだが、読み終わって現実に戻ったときの虚しさがつらいところである。
ま、自己責任なんですけどね。異世界系のマンガについては、バカでエロなものが最強であるという結論に至ったのであった。
ゲームの設定みたいな部分をネチネチやるのはファンタジー脳(能?)のない当方は「そんなん知らんがな」とウンザリ。
どうせ欲望に忠実であるなら、そんなものは端折ってやりたいことをストレートにやってもらった方がずっといい。
バカでエロなものは、異世界が目的ではなく手段なので、読んでいてストレスがない。消費財ならそれで十分だろう。ソムリエ(潤平)からもいくつかオススメを紹介してもらったし、ちゃんと世間についていくという意味でも、
今年はマンガをたくさん読む年にしたい。マンガを読んで、賢くなって敏感になるのが目標ですな。
バヒさんと会う。いつもメンタル的に世話になっているので、アンテナショップで仕入れた熊本の焼酎をプレゼント。
樽で寝かせた米焼酎で、弱い当方が好きで飲む数少ない品である。ウイスキーが高騰しているらしいので代用にどうぞ。
そしたらバヒさんからも各種プレゼントをもらった。アレですね、バヒさんわりと和風な方向性に行ってますね。ランチタイムへの時間調整ということでまずは本屋から。のんびりとマンガのコーナーを2人で見てまわる。
平積みの『SPY×FAMILY』を見て「言うほど面白くねえよなあ、キャラでもってるだけだよなあ」と意気投合。しかし、
バヒ「アーニャがかわいい」
オレ「ヨルさんだよなあ」
バヒ「アーニャのおバカさがいい」
オレ「ヨルさんにキ○タマ踏まれたいよな」
ということで互いの趣味嗜好は平行線のまま、物別れに終わったのであった。さて今回はアップルロード沿いのステーキチェーンをチェックしたいというので同行(中華料理は勘弁してください)。
期せずして2食連続のステーキになってしまったが、タンパク質不足に苦しんだ昨年を考えれば正当化できるぜ、と。
結論から言うと、やはり昨夜行った店が圧勝なのであった。その偉大さが確認できたのは素直によかったと思います。僕がまだ初詣をしていないということで、冨士山稲荷神社に参拝する。前に飯田の御守集めをしたが(→2015.1.1)、
そのときにはスルーしていたので大変ありがたい。御守は稲荷神社らしく宝珠をメインにした独自のデザインで、
頂戴できて本当によかった。バヒさんは「(男性の神職さんで)巫女さんじゃなかったなあ」と相変わらずであった。
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L: 冨士山稲荷神社。通称「ふじやまさま」。 C: 参道を行くと石段。 R: 上りきったところに拝殿。吊灯籠が稲荷だなあ。その後はいつもお邪魔している座光寺の喫茶店へ。バヒさんはすでにいろんな豆を飲み尽くしているので、
今回はウィンナ・コーヒーなのであった。当方は違いのわかる男ではないのでお店オススメのブレンドをいただく。特にやることもないのでカフェのハシゴをしようとするが、アフタヌーンティーの店は満員で断念。
というか飯田でアフタヌーンティーができる店があることにびっくり。やる気のある人がいるんですなあ。
それで結局、銀座の老舗でのんびり一息。僕はあえてブレンドの飲み比べをして、ローストの違いをなんとなく実感。
オレが必死であちこちに旅行している間、バヒさんはコーヒーを追究していたのねと納得するのであった。
そんでもって、そんなにコーヒーを飲んでいるならと、旦部幸博『コーヒーの世界史』(→2022.6.24)を推薦する。
最後に伊賀屋の店内を見てまわる。もともとなんでもありのおもちゃ屋だったが、磨きがかかっている印象。次に会うのはお盆なんだろうけど、バヒさんにいろいろネタを提供できるように面白おかしく過ごしたいものである。
あけましておめでとうございます。天気がいい中、実家で怠惰に過ごしております。
晩飯は恒例となっているステーキをいただく。タンパク質をたっぷり摂取できてありがたい。
夜は東西対抗のお笑い番組を見るが、コントばっかりでしょんぼり。コントは漫才に劣ると確信した正月であった。