朝のHRに行ったら男子が麻雀をしていたのであった。なんでも麻雀の朝練が流行っているそうで。
牌にマットまで持ち込んでかなり本格的である。なんとも平和ですね。……あ、ピンフじゃないよ。
『ジュラシック・パーク 3D』。「スピルバーグ IMAX映画祭」の一環である。
実は『E.T.』もラインナップに入っていたのだが、前に書いたとおりなので(→2020.5.18)、そちらは堂々スルー。3Dということでとにかく目が疲れた。これわざわざ3Dにせんでもええやろ、と思う。必要性をまったく感じない。
動きまわる恐竜をリアリティたっぷりに描いた点は賞賛に値するけど、褒められる点はそれくらい。
やっとること『ジョーズ』(→2025.1.20)と一緒やんけ。こいつドッキリさせたいだけなんとちゃうか。
そんな具合になぜか関西弁になりつつ呆れてしまった。デビュー作のタイトルがもうそのまますべてを表している。
スピルバーグは観客の感情を刺激するのは上手いけど、知的さはまったく欠けている。名監督とは到底言えまへんな。
根津美術館『古筆切 分かち合う名筆の美』。
古筆切については見る機会がちょこちょこあって(→2024.2.9/2024.12.25)、さらに理解を深めようと思ったのだが、
正直ぜんぜんわからん。もう、ぜんぶ上手い。「昔の人はみんな達筆!」その一言ですべて片付いてしまうのではないか、
そんなレヴェルで本当に申し訳ない。拓本もそうだけど(→2023.4.10/2023.4.15)、量を見ないとわからん世界であろう。
というわけで、とにかく見てみるのが大事ということで粘ってみる。とりあえずは目の前にある筆跡を依代にして、
昔の人の身体性を想像するのだ。そのうえで、指先の動きをトレースしてみる。そこは昔も今も変わらないはずなのだ。
そうして出てきた結論は、「やはり究極的には好みの問題!」という身も蓋もないものなのであった。ニンともカンとも。
ただまあ、定家がそんなに上手い方ではないという説はなんとなくわかった気がする。貴族にしては無骨な感じなのだ。古筆切の隣の部屋では一行書。禅寺で発展した形式だそうで、大徳寺(→2024.10.8)が本場だったとのこと。
歴代の偉い人による一行書が並んでいたが、ちょっと奇を衒っている感がある。その点、狩野探幽がさすがの迫力。
良寛は脱力が過ぎないかと思う。とはいえ、思ったように書ける毛筆の上手い人がただただうらやましい。2階では古代中国鏡の特集があり、たいへん興味深い内容だった。青銅の鋳造技術は以前書いたとおりで(→2023.2.23)、
戦国時代には正方形の鏡もあった。その後、前漢時代に円形にまとまった。唐代になると円形ではないものだけでなく、
模様から絵への変化が目立ってくるようだ。中国古代の美術史もなかなか面白い、とあらためて実感できたのであった。
日本近代文学館でやっている『三島由紀夫生誕100年祭』を見てきたのでレヴューなのだ。
こちらがポスター。
展示は3つのキーワードによっている。書簡や絵葉書などのメッセージに注目する「ミシマニア(ΜΙΣΙΜΑΝΙΑ=三島愛)」、
冊数を限定した本などを中心に製本へのこだわりぶりを紹介する「ビブリオマニア(ΒΙΒΛΙΟΜΑΝΙΑ=書物愛)」、
そして東武百貨店で開催した展覧会と楯の会での活動ぶりを紹介する「ヤポマニア(ΙΑΠΩΝΟΜΑΝΙΑ=日本愛)」。
僕のイメージでは、三島由紀夫とはいわゆる「文豪」という称号が許される最後の人ではあるものの、
そのあまりにも衝撃的な死によって純粋に作品を語ることが難しくなっている人、という感触である。
『炎上』も観たし(→2025.1.23)、生誕100周年でいい機会なので、まずはきちんと勉強しようというわけなのだ。1970年11月、つまり自決の直前に東武百貨店開催した三島由紀夫展で展示されたという『四つの河』を読むに、
これは明らかに遺書。他の展示と合わせて見ていくとどうも、肉体がいちばんいい状態で終わりたいという意志が見える。
三島は自身の年齢の数字が昭和の年数と重なるところに絶対に意味を見出していたはずで、そうなると50ではダメなのだ。
人生100年として50では峠であり、それより少し若くなければならない。そういう強い美的意識の結果があの結末なのだ。
美的意識については、蕗谷虹児(→2014.10.18/2024.11.23)との関係からも、世紀末美術への好みは明らかである。
これとボディビルが両立できるところに三島の美意識の形が見える。三島の中では、両者に矛盾はないわけだ。
また、30歳から始めたボディビルが訓練された身体への憧れにつながり、軍隊へと尖鋭化していったのも見て取れる。
これらの表面的には相反するものが三島の次元ではつながっているのだ。その変容のスピードと異質さの共生ぶりこそ、
彼が宿命として背負った「昭和」の側面を体現するものであるように思う。そういう公を私で裏返すようにして自決した。さて、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込んだ際の檄文を読んだのだが、問題意識はたいへん正しいなあと思う反面、
手段としてはどうなのかとも思う。大衆は三島ほど賢くないのである。だから結局、キリのいい数字で散りたいという、
私的な理想に公を巻き込んだという結論で終わってしまう。そうなると「理想」よりも「幻想」という表現がしっくりくる。
その時代の社会状況というものはその時代を生きていないと絶対に理解できないので簡単に断定することはできないが、
展示を見ていてどうも、楯の会は絶対値としては学生運動の組織と変わらなかったのではないの、と思えてしまう。
理論の中心に三島という文学的天才がいたからある程度の規模で活動できたが、理論を組むだけの能力がない場合には、
あさま山荘事件のような顛末となるだろう(山本直樹『レッド』を少しだけ読んでそう思った。いずれじっくり読みたい)。
肉体的にも精神的にもいちばんいいところ、ということであの結末。三島は幸福だったかもしれないが、他の人ははたして。それにしても献本の安部公房の字がヤベエ。『壁』を書いちゃう人は字の発想からして違うのだと、大いにたまげた。
『アイドルマスター シャイニーカラーズ』の2期をようやく見たのでレヴューなのだ。
1期では「ぶっ飛んだレヴェルでヤベエ」と酷評したわけだが(→2024.6.27)、2期も基本的には同じである。
どんなアイドルになりたいかという問いと、具体性ゼロの宣言の無間地獄。そして雰囲気だけの景色とBGM。
今回はニコニコ動画で見たのだが、皆さんのコメントがものすごく容赦なく的確なツッコミばかりでほっとした。
おかげで笑い転げながら楽しめた。ツッコミによって、結果的に最高に共感できる映像に仕上がっているしだい。ところが2期は、ストレイライトが登場する第2話だけマトモだったことに驚愕した。これは本当に不思議である。
1期から通して、この話だけが唯一マトモ。たった一話だけマトモな物語が紛れ込んでいる。いったい何があったのだ?
おそらくは対照的なキャラクターが三者三様にぶつかりやすいストレイライトだから、ということになるのだろうが、
その中でも特に鍵を握っているのが黛冬優子なのは間違いあるまい。対話を促さずにはいられないキャラクターなのだ。
冷静に考えるとこれはけっこう面白くて、トリックスターとしてあるべき魅力を分析するのにかなりいい対象ではないか。対照的に悲惨なことになっていたのがノクチル。天才不思議ちゃん設定の透はしょうがないにしても、
円香は冬優子のようには動かずただジト目で見る人。小糸はただ踊りを練習する人。雛菜はただ「あはー」という人。
この4人こそ、内側で動かしていくらでもドラマをつくることができるはずなのだが。冬優子の偉大さを実感しましたとさ。