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2019.7.22 (Mon.)

『NARUTO -ナルト-』全72巻をがんばって読んだよ! 今さらだけど、レヴューを気ままに書いてみるよ!
マンガソムリエの潤平は「天才を描くのがすごい」と言ってた記憶があるけど、僕の興味はあまりそこにはないかな。

第1話からめちゃくちゃ非凡である。読ませる。これは面白くて当然のマンガである、と思わせる才気にあふれている。
このマンガでは孤独への恐怖、そしてそれに対する勇気の度合いが(主要な)キャラクターの性格の決め手となっているが、
よくまあこんなに多様で徹底した孤独を考えつくものだと呆れた。忍者という設定のベースがそれを許しているわけだ。

そう、忍者だ。『NARUTO』は日本よりも海外でむしろ人気があるようで、『DRAGON BALL』をしのぐケースもあるという。
確かに彼らのオリエンタリズムに触れる要素は多い。木ノ葉隠れの里は猥雑なアジア的要素を持つ市街地として描かれており、
所属する忍者たちも黒髪に切れ長の目というアジア人の特徴が強く出ている。そこに金髪碧眼のナルトが主人公として登場し、
孤独な彼が周囲に受け入れられるまでが丁寧に描かれるというのは、海外好みの構図と指摘できるのではないか。
作者はそこまで明確に意図していなかったとは思うが、そこにある程度、現実の移民問題を重ねることは可能なのである。

さてこのマンガ、他のジャンプのバトルマンガと比べて正直、バトルの展開がややわかりにくい。序盤は図による解説が入るなど、
画力の不足を補う工夫がなされているのが気になる。特にこのマンガは忍術というエクスキューズでなんでもありではあるものの、
バトルの論理はしっかり練っている。それだけに解説に頼らざるをえない場面が生じるというのは、苦しいところだった。
この傾向は中盤以降、バトルが忍術による物理から仙術を含んだ精神的な力へと移行することで解消されるのは皮肉であると思う。
なお、バトルマンガにおける成長と物理から精神力への移行はきちんと検証すると面白そうだ。個人的な予感をざっと書いておくと、
圧倒的な画力で物理のバトルを極めたのが『DRAGON BALL』(ただしサイヤ人登場以降読んでいないので詳しくは知らない)、
物理のバトルに論理を持ち込んでバトルマンガの可能性を拡げたのが『幽☆遊☆白書』と考える(→2008.7.252011.10.31)。
あとのマンガは、多様な物理的攻撃のパターンとそれを上回る精神力というふたつの要素からなる構造の再生産でしかない。

序盤の画力についてケチをつけたが、もちろん15年の連載期間で作者の技量は飛躍的に伸びている。その伸びた部分というか、
おそらく当初最も苦手だったであろう部分が「女の子の描き方」だ。サクラにしろ、いのにしろ、まーぜんぜんかわいくないこと。
(対照的に、ヒナタは年相応のショートカット感、もっさりした「将来かわいくなるだろうな感」が的確なのが面白い。)
そしておいろけの術で描かれる女の子もかなり見劣りするレヴェルである。しかしアンコや紅のような大人の女性はきちんと描ける。
『DRAGON BALL』は時間経過による主人公の身体的成長で新たな世界観を構築するという手法の「偉大な」発明者だが、
この「人気バトルマンガのイニシエーション」となってしまった手法を、『NARUTO』も二部制で素直に受け入れている。
(ちなみに僕はこの手法をまったく評価していないし、軽蔑すらしている。『ONE PIECE』も安易に追随したことで読む気が失せた。
 なお、『あしたのジョー』では力石の死の前後でジョーの立ち位置が変化するが(→2011.10.14)、顔の変化は非常にゆっくり。
 物語の流れをぶった切ることなく連続的に内面と外面の成長を描ききってみせたところにちばてつやの偉大さがある。)
しかしそこにおそらく、苦手な女の子を描くことから解放され、大人の女性を描くことに専念できる有利さを作者が見たように思う。
全員が忍者として戦うマンガなので、女の子はかわいくなくていいのだ。かっこいい大人の女性だけが必要となるのだ。
だから、主人公よりはむしろ周囲を成長させるためのエクスキューズとして二部制を利用した点が賢い。作者はよくわかっている。

ストーリーについては正直なところ、ファンタジー脳(能?)のない僕には、展開がまったくもってつかめなかった。
特に終盤の第四次忍界大戦とかもう、何がなんだか。僕にとっては戦っている相手が誰なのかがまず手がかりとして重要で、
このマンガではその対象が特にどんどんズレていく。まあ友情・努力・勝利という意味ではそれはケッコウなことではあるのだが、
次から次へと「実はコイツが(真の敵だったり味方になったり)!」が連続して、ついていくのがなかなか大変だった。
最終的な落としどころは藤崎竜の『封神演義』(→2008.4.9)を思い出したのだが、どんなもんなんでしょうね。
このマンガは意図的に死人を生き返らせるところ(アニメでの人気取りも意識したのか)を強さのインフレ対策として利用したり、
ミステリ的真相の発表の機会として利用したりしているが、その点の開き直り方も僕には合わない部分だった。

合わないついでにもうひとつ、少年マンガと血筋の問題はこの作品では未解決だった。少年マンガ、あるいはRPGなんかでは、
主人公が選ばれた家系の子孫という設定がよく見られる(ガルパンは開き直ってそれを女子高生に設定したが。→2017.1.25)。
言い換えると、「生まれついての才能」か「果てしない努力」かという、主人公をめぐる二項対立の構図が根底にあるわけだ。
この作品はその設定を真っ正面から受け止めつつも、サクラやカカシという名門の血筋からはずれた存在もまた用意する。
ナルトやサスケが血筋を根底に置いて成長するのに対し、サクラやカカシは師弟関係や才能で成長する。この関係性がわからない。
作者は意識的に主人公のナルトで両者のミックスを心がけていた。確かに父親は火影だが、それ以上に先祖を遡ることはない。
つまり最低限の血筋と猛烈な修行の融合である(とはいえアシュラの転生体なので、血筋が強く考慮されているとも考えられる。)
サスケの血筋は言わずもがな。そこに師弟関係と努力でサクラが追いついてくる。第7班の三すくみトリオが同じ土俵に立つことは、
「生まれついての才能(サスケ)」と「果てしない努力(サクラ)」、そしてその中間(ナルト)が並び立つことの象徴なのか。
しかし自分には結論の放棄に感じられてしまうのだ。なお、血筋のないカカシの六代目火影就任も、蛇足といえば蛇足であろう。
もっともカカシの場合には、四代目と同じく「周囲が火影にさせたかった男」ということで正統性は確保できると考えられるが。
(そういう意味で、潤平が『NARUTO』から読み取った天才論はきちんと参考にしたいところだ。どうなんでしょうね、ソムリエ?)
まあこの才能と血筋の力学を理屈で理解しようとすることが、僕のファンタジー脳(能?)の欠如ということなのだろうけど。

最後にもう一丁。僕は読んでいる間、常識はずれな強さを持つ敵が遠慮なく投入されていく中で、はたけカカシが死んでしまわないか、
気が気ではなかった。ぶっちゃけ、禁じ手かましてんじゃねーよと思うシーンもあった。そういう読者は多かったのではないか。
『NARUTO』ははっきりと、表の主人公にナルト、裏の主人公にサスケを設定しているだけではなく、さらにギミックを仕込んでいる。
それは、女の子向けの主人公にサクラを、大人向けの主人公にカカシを設定するという工夫である。四者四様で読めるマンガなのだ。
僕はもういい歳をしているので、ずっと主人公をカカシとして読んでいたというわけだ。彼はファンタジー的な能力もあまりないし。
メインの4人(第7班)を軸に据えて、そういう多様な読み方ができるマンガであることも、この作品の大きな魅力であると思う。
(ちなみにネット上で「真のヒロインはサスケ」という指摘を見て、大いに納得してしまった。確かにそういう構造だってばよ。)
他のキャラクターも魅力的だもんね。我愛羅が作中でも読者の間でも愛されキャラになっているあたりに、作者の力量を感じさせる。

蛇足ということでもう一丁。ラストのサスケの革命宣言は明らかに蛇足。ナルトとサスケを戦わせて終わらせたい美学はよくわかるが、
ジャンプらしく理屈抜きで戦ってケリをつければいいじゃないの。この宣言で自分の中ではサスケのキャラクターが最後にブレた格好。
まあそれは僕の好みの問題なんで、いいんですけど。全体的にミステリ的な裏を狙ってくる感じが顕著なのは好きになれない点だな。


diary 2019.6.

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