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2024.4.14 (Sun.)

本日は午後から部活なのだが、とんでもない晴天でとんでもない陽気。これはチャンス、とバスに乗り込んだ。
いつもの通勤ルートの途中に東高根森林公園があり、これが日本の都市公園100選に選ばれているのである。
「いつでも行けるぜー」ということでスルーしてきたが、絶好の機会なので下車して探索したのであった。

  
L: 南口のパークセンター。この建物に入らなくても、脇から森林公園に入れる。入園無料である。
C: 多摩丘陵の高低差がそのまま公園の高低差ということで、まずは上に行ってみることにした。
R: 上りきるとピクニック広場。この辺りは人の手が入った里山の雑木林で、クヌギやコナラが主体。

  
L: 右はピクニック広場から西へとさらに進む道。左は隣接する住宅地に出る。多摩丘陵の宅地開発ぶりを感じる一角。
C: 古代植物園方面へと向かう道。住宅地とはフェンスを挟んで隣り合わせ。丘陵の宅地化こそ神奈川県の本質だと思う。
R: 古代植物園。縄文から平安までの衣食住に関わった植物を育てているが、だいぶ野生化しとりゃせんかね。

  
L: 古代植物園を抜けると古代芝生広場に出る。こちらは西側で、やはり周りを住宅が囲っている。さらに行くと東名高速。
C: 古代芝生広場の東側。この下には弥生時代後期〜古墳時代後期(3〜6世紀頃)の集落である東高根遺跡が埋まっている。
R: 広場から下りるとシラカシ林。人の手が入らないと、最終的にはこのようなシラカシの極相林となるそうだ。

  
L: 目立っていたのはヤマブキの花。無知な僕は、ヤマブキには一重の花と八重の花があることを知らなかった。お恥ずかしい。
C: こちらが八重のヤマブキ(ヤエヤマブキ)。八重のヤマブキはおしべが花弁に変化しており、めしべは退化して実をつけない。
R: 八重のヤマブキと入り乱れて咲いていた花。調べても名前がわからない。一重のヤマブキの変種か? ぜんぜんわからん……。

  
L: もうひとつ目立っていたのがシャガ。前にも書いたことがあるが、三倍体の花の典型例としておなじみ(→2017.4.30)。
C: 湿地は自然観察広場として整備されている。  R: 弥生時代の水田跡を整備した湿生植物園。実際に稲作もやるそうだ。

  
L: 四阿があって和風な一角。真ん中は噴水。  C: 見晴台を見上げる。  R: 見晴台から花木広場方面を見下ろす。

  
L: 花木広場で目立っていたのはオオアラセイトウ。実は江戸時代に入ってきた外来種。種から油が採れる。
C: ケヤキ広場。南口から近く、標高が変わらないので賑わっている。  R: パークセンター付近に戻ってきた。

というわけで、たいへん優雅な日曜日の午前を過ごしたのであった。緑の中でのんびりするのって、癒されますな!


2024.4.13 (Sat.)

渋谷から原宿まで歩いたのだが、あまりの人の多さに卒倒しそうになる。いくらなんでも人が多すぎる。
間違いなく外国人観光客で大増量されているのだが、それにしても多すぎて正常なお出かけに支障をきたすレヴェル。
東京はどこに行っても人だらけで、なんだかもう、ふつうに暮らしていく自信がなくなってきた……。

そうしてたどり着いたのが、太田記念美術館。浮世絵に強い美術館だが、来るのは初めてである。

 表参道から少し入ったところにある。

やっているのは『月岡芳年 月百姿』。前期と後期で全100点を紹介するという。弟子の水野年方と新井芳宗も扱う。
『月百姿』についてはすでに本を買っているが(→2023.11.24)、美術館でじっくり味わうのは格別なのである。
あらためて版画の作品を眺めてみると、タイトルや着物の柄に施されている空摺の凹凸に凄まじい執念を感じる。
墨色に光沢をつけて光の加減で模様がわかるようにした正面摺という技法も見事。ジャパニーズ凝り性の究極形だ。
単純に絵としての満足だけでなく、さらに工芸に足を踏み入れるような世界が広がっている。ほとんど立体作品である。
なるほどそこまできちんと味わうのであれば、画集ではなく版画でなければなるまい。マニアはキリがございませんな。

芳年についてはもはや言うことはございません。構図の変態性がたいへん楽しゅうございます(→2023.3.6)。
幼少期に芳年についての知識があれば、図工や美術の時間にもうちょっとマシなものを思いついたんだろうなあと。
潤平、今のうちに三つ子に芳年見せとけ。芳年のセンスを古典として学習しておけば、有利に戦えるとマジで思うのだ。

弟子の作品については、水野年方の『三十六佳撰』はさらに空摺での立体化を進めている。それがわかる展示なのもよい。
ただ、肝心の絵については師匠ほどの切れ味の鋭さはなく、それで空摺の技巧に特化していったのかな、とも思う。
対照的に、新井芳宗(二代目歌川芳宗)は師匠のキテレツな構図をよく追いかけている。師匠大好きっぷりがよくわかる。

というわけで、版画として味わう『月百姿』は新しい発見が多くてさすがなのであった。客も多くて、やっぱり人気なのね。


2024.4.12 (Fri.)

第64代横綱にして外国人初の横綱、曙太郎氏が亡くなったとのこと(ボブ=サップ戦の過去ログ →2003.12.31)。

僕は若貴人気が直撃した世代なので、曙というと最強のライヴァル、もっと言うとラスボスという感覚が抜けない。
どうしょうもないくらい強いんだけど、そこに若貴兄弟が全力で挑んで勝ったり負けたり。日本中が盛り上がっていた。
武蔵丸を加えた4横綱が中心にいたが、それ以外にも役者が揃っていて、相撲が本当に面白くてたまらない時代だった。
若貴と同時代に圧倒的に強い力士ということでどうしてもヒール扱いだったが、壁が高いからこそ盛り上がったわけで。
(外国人力士という点については、全盛期を過ぎてもがんばる小錦が日本国内のアレルギーをだいぶ払拭した印象。)
僕の中では絶対的なドラマとして1992年(と1993年)の日本シリーズがあるが、実力以上の力を発揮して挑むからこそ、
文字どおり命を削る死闘を繰り広げるからこそ、戦いは伝説になり、時代の記録として永遠に語り継がれる(→2020.2.11)。
あの4横綱の時代はまさにそれで、あの時代の興奮、熱気は、間違いなく曙がいたからこそ巻き起こったものだろう。

ニュース記事はどれも曙の優しすぎる人柄を偲ぶものばかりで、読んでいると思わず涙ぐんでしまう。
若乃花が曙を見舞いに行った番組は、自分もたまたま見ていて泣いた。長年のダメージの蓄積はあまりに大きく、
それだけ命を削って戦ってきたのかと唖然とした。でも曙は、若乃花の顔を見た瞬間にすべてを取り戻して会話する。
これが時代を熱狂させたことへの誇りなのだ、そう思った。誇れるものがある、それがどれだけすばらしいことなのか、
人間としてどれだけ意義のあることなのか、目の当たりにした。記憶に残ることは、かけがえのないことなのだと学んだ。

曙は亡くなってしまったが、折に触れてきちんとあの時代の興奮を思いだすこと、それがいちばんの哀悼となるはずだ。
楽しい時代、本物の真剣勝負が当たり前に繰り広げられたものすごい時代を味わわせてくれてありがとう、そう言いたい。


2024.4.11 (Thu.)

ワカメが上京してきたのでハセガワさんと3人で飲む。ちなみにナカガキさんは「2時まで仕事」とのこと。ヒエエエエ

やはり恒例のオススメのマンガの話になるのだが、今回ワカメから新たに名前が挙がったのは、
『コーポ・ア・コーポ』『重版出来』『ライジングサン』『カモのネギには毒がある』『第九の波濤』。
あとは「ハンチョウ(『1日外出録ハンチョウ』)への共感が止まらん」とのこと。所帯を持つとそうなのだな。
また今回は「教養としての古典」ということで、洋楽やら海外小説やらの話題にもなった。
最近は本当に本を読めていないので恥ずかしい。それでもSFを中心にあれこれオススメをしておいた。

世に数多ある作品を味わう欲を再確認させられるので、この飲み会は自分とって本当に貴重な機会である。
次は6月だそうなので、それまでにどうにかたくさんマンガを読んで本を読んでオススメできるようにしたい。


2024.4.10 (Wed.)

新しいMacBookAirがいま使っているスキャナに対応していなくて困った(正確には最新のMac OSが非対応)。
テストづくりでもバリンバリンに活用しているので、これは本当にピンチである。いったいどうすればいいのやら。

調べてみたら、買ってから6年経っていた(→2018.10.20)。発売されてからだと、もう10年以上にもなる。
かなり丁寧に使っていたから故障知らずだが、発売から10年以上となるとさすがに非対応もやむなしか、と思う。
そしてその10年の間にもっとコンパクトでもっと安いスキャナが出ていたのであった。いや、これはどうするか。
正直なところ新しいスキャナに移行してもバチは当たらないと思うけど、故障のない機械を捨てる気にはなれない。
しかし使わずに持っておくには邪魔なサイズなのである。リサイクルショップに格安で引き取ってもらうのがいいか。
1学期中間テストづくりまでには結論を出すことになりそうだ。 いやはや、世の中は休むことなく動いておりますなあ。


2024.4.9 (Tue.)

地理総合の授業がスタートして、初回はオリエンテーション。毎年恒例の心構えを語る時間である。
「どうせみんな地理を受験で使わねえんだから、論理的思考力と書き言葉の運用能力を鍛える授業に徹する」
そう宣言したら、生徒たちは大いに戸惑っていたのであった。地理を通してみんなで賢くなろうぜ。


2024.4.8 (Mon.)

今年はカレンダーの都合でいろいろ変則的。入学式が本日の午後に執り行われたのであった。
上級生たちは部活勧誘のビラを配って大騒ぎ。若者はエネルギッシュじゃのうと思いつつ眺める。

しかし僕の異動と同時にやってきた新入生たちが最上級生になっているってのが、なんともなかなか。
時は確実に流れているのである。どんどん月日が過ぎていくことを、きちんと意識して生きていかねばなあ。



2024.4.6 (Sat.)

青春18きっぷの最後の1回分ということで、箱根の美術館に行ってきた。
主目的はポーラ美術館の『モダン・タイムス・イン・パリ 1925 ― 機械時代のアートとデザイン』だが、
それだけだともったいないので箱根 彫刻の森美術館にも寄って、温泉に浸かって、横浜で買い物して、
せっかくなので相鉄・JR直通線を乗りつぶすというスケジュール。天気のわりに有意義な一日でございました。

ポーラ美術館『モダン・タイムス・イン・パリ 1925 ― 機械時代のアートとデザイン』は、量があるので明日の日記で。
今日の分のログは、それ以外について考えたことをつらつらと書いていくのだ。

まあなんといっても箱根の混雑ぶりである。ただでさえ週末ということで人が多いのに、インバウンドで大増量。
日本人も十分多いのだが、それ以上にあまりにも外国人観光客が多すぎる。ちょっと感覚がおかしくなるくらい多い。
そもそもが、なんでこんなクソ狭いところ(箱根のことね)にわざわざ人が集まるのかがわからなくなってくる。
確かに温泉はあるけど、それ以外に特別な魅力がある場所だとは思えないのだ。クソ狭さで辟易する度合いの方が強い。
外国人観光客にしてみれば「東京から近い温泉」ということで選択肢に入ってくるんだろうけど、
逆を言うとそれ以外の理由がないだろうと。「箱根でなくちゃいけない理由」ってのがどうにもわからんのである。
正直、人が多すぎて、もはや箱根はリラックスできる場所ではなくなっている。本末転倒の事態になってしまっている。
別に外国人観光客に来るなと言うつもりはないが、箱根に来てもあまり意味がないんじゃないの?とは思う。
わざわざ日本に来てクソ狭いところで大渋滞に加わっても楽しくなかろうと。よけいなお世話なんだろうけど。

 強羅駅からケーブルカーに乗り込む人々。箱根は完全にキャパオーヴァーだと思う。

箱根 彫刻の森美術館に行ってみたけど、こちらも外国人観光客でチケット売り場が大行列。日本人もいっぱい。
あらかじめネット経由でチケットを用意しておいて正解だった。受付をスルッと抜けて、いざ鑑賞開始である。

  
L: 箱根 彫刻の森美術館の本館。外観はなかなかいい感じのモダニズム建築である。設計は彫刻家の井上武吉。
C: 手前にオーギュスト=ロダンの『バルザック記念像』。ロダンが亡くなるまで評価されなかったんだと。  R: 本館の背面。

まず本館へ。残念ながら撮影は禁止だが、ジャコメッティだのモディリアーニだのといった有名どころから始まり、
2階は荻原守衛の『坑夫』(→2023.4.30)や朝倉文夫といった辺りをきちんと出してくる。なかなかに妥当な感じ。
外に出るといよいよ野外彫刻である。日本初の野外美術館ということで、どんなもんだろと思いつつ見てまわる。

  
L: 岡本太郎『樹人』。一目で岡本太郎とわかる造形センス(→2015.8.8/2020.8.19/2022.10.22)はやっぱりすごいと思う。
C: アントワーヌ=ブールデル『弓を引くヘラクレス』。モロ出しである。  R: カール=ミレス『人とペガサス』。

  
L: フランソワ=ザビエ=ラランヌ&クロード=ラランヌ『嘆きの天使』。  C: こんな感じで彫刻が並ぶ。  R: 星の庭。

  
L: 流政之『風の刻印』。この人はどの作品よりも名字がいちばんかっこいいと思ってしまう。
C: 伊藤隆道『16本の回転する曲がった棒』。これは面白い。ただ回っているだけなのに踊っているように見える。
R: ヘンリー=ムーア『母と子:台座』。箱根 彫刻の森美術館はヘンリー=ムーアの作品がやたらと多い。

芝生には基本入れないので、彫刻は見る角度が限られることになる。それって彫刻の意味があるのかと思う。
これは個人的な見解だが、現代彫刻は抽象画以上に抽象的なので、それをボンッと置かれても困ってしまう。
だから僕はパブリックアートに対してはわりと懐疑的で、オメエのエゴを公共空間に押し付けんなよ、と思うタチだ。
建物の中でやっている分には「勝手にすれば」なので、野外に作品を置くという行為は何か特別な意味を持ちそうだ。
屋内と屋外でライヴのやりやすさ/やりづらさが変わるのに似たものがあるかもしれない。空間は閉じている方が楽だ。
少なくとも野外に彫刻作品が並ぶと作品単体を味わう要素は減り、野外の空間全体を構成する要素でしかなくなる。
完結する対象が作品じたいから空間じたいへと変わるわけだ。その差異をどう受け止めればいいのかわからず戸惑った。

  
L: ネットの森。子どもがうじゃうじゃ。  C: ピカソ館。このセンスはちょっと……。開いた口が塞がらなかった。
R: カフェ。箱根 彫刻の森美術館のモダン方面の建物はなかなかいいが、それだけにピカソ館の狂気は理解に苦しむ。

いちばん奥にはピカソ館。まあ確かにピカソは彫刻もやらないことはないが、それにしてもなぜピカソなのか少し違和感。
展示内容としては絵画よりもそれ以外の作品が多く、なんでもかんでもピカソ関連の作品をかき集めたのか、という感じ。
まあそれはそれでピカソが「つねに何かつくってないと死ぬ」タイプの人間だったことが窺えて、確かな一面はわかるが。
しかし肝心の画家としてのピカソの軌跡を紹介する内容ではなく、本当に関連コレクションを並べただけで終始していた。

  
L: ガブリエル=ロアール『幸せをよぶシンフォニー彫刻』。  C: 中から見上げる。確かにきれいでフォトジェニック。
R: 構成するステンドガラスをクローズアップ。でもこの作品、結局のところ、見上げてきれいで終わる出オチなんだよなあ。

だいたい感触はつかんだので出口へ。最後は「不思議な雰囲気を持った作品」ということで、室内に大きめの作品。
やはり野外では落ち着かなかったが、屋内の展示だと集中して向き合う気持ちになれる。この差異は何なのか。

  
L: トニー=クラッグ『アトモス』。なんだか「F先生み」のある造形だなあと思うのであった。
C: マッタ『エラメン(ワレラ熱愛ス)』。  R: ジョナサン=ボロフスキー『心臓をもった男』。

というわけで、初めての箱根 彫刻の森美術館だったが、感想としては正直なところ「うーん……」である。
有名どころを押さえてはいるし、野外美術館ということであれこれ考えるヒントは確かにもらった。しかし、うーん……。
やはり根底にあるフジサンケイグループ的バブルの発想が、どうしても気になってしまうのだ。ピカソ館はその象徴。
美術よりもリゾートビジネスの度合いを強く感じてしまうのである。美術作品とがっつり向き合う場所というよりも、
「美術鑑賞してきました」と言うための場所というか。美術鑑賞した気分になるための空間というか。
ふだん美術館に行かない人が行った気になるための場所というか。底の浅いつまみ食い感がどうしても拭えない。
いや、本館を中心にきちんとした作品は押さえているのだ。ただ、「学ぶ」というよりも「気分になる」場所、
そういう感触がどうしても漂っているのである。せめて彫刻の歴史、現代彫刻の流れを体系立てて示すコーナー、
それくらいは欲しいと思う。せっかく野外の彫刻美術館なのに、配置に意味が感じられないところが限界を示している。

箱根じたいがとんでもない混雑具合なので、箱根 彫刻の森美術館もまたとんでもない混雑具合だった。
ではなぜ箱根 彫刻の森美術館を訪れるのかと考えたとき、やはり彫刻じたいが目的とはあまりならなくて、
「箱根にある名所だから」ということで繁盛しているように思う。客が作品と格闘している感があまりないのだ。
美術作品をなんでもかんでもありがたがるのではなく、つまらないと感じたものをつまらないと言い切る勇気、
それが美術を味わう第一歩なのではないかと思った。なんだかわからんけどすごいらしいという安易な同調ではなく、
オレはここが気に食わねえと言い切る覚悟。そのためには気に食わない根拠をきちんと説明する必要があるわけだ。
学ばなければ、説明する語彙は増えない。でもいいと思う部分はきちんと褒めて、是々非々でいきたいものである。

箱根湯本に戻るが、今回初めて大涌谷が「おおわ『く』だに」なのに、小涌谷は「こわ『き』だに」なのに気がついた。
でも地名としては「こわ『く』だに」が正しいんだと。なんでそんなワケのわからないことになっているのか。
いつもの駅裏の温泉に浸かりつつそんなことを思う。しかし温泉は鄙びた施設のままさらに値上がりしていて、
お値段相応ではなくなってきている。箱根全体の混み具合にも辟易したし、今後は足が遠のきそうだ……。

横浜で買い物を済ませると横須賀線で武蔵小杉へ。そこでやってきた相鉄の車両に乗り込む。初めての相鉄・JR直通線。
鶴見までは東海道線と同じで、そこから先が新規開業区間。しかし鶴見に停車せず進むので、約20分間ノンストップだ。
さすがに長い。新川崎も鶴見もすっ飛ばし、トンネルでズドーン。本当に渋谷・新宿への連絡だけが目的なのだなと思う。
羽沢横浜国大に到着すると、いったん改札を抜けて東急で帰る。さすがに青春18きっぷでもまた20分戻る気はしなかった。


2024.4.5 (Fri.)

本日が始業式ということで、いよいよ新学期が始まってしまったのであった。

僕はこれまで新3年の学年にずっとついていたのだが、新学年の教員紹介で今年度は新2年に移ることが発表されると、
新3年の方から軽くどよめきが。別に愛される教員なんざ目指しちゃいないので、なんでキミたちが反応すんのよと困惑。
そしたら職員室で、昔「オレたちの学年からいなくなったぜイエアアア」ってことで大歓声があった、という話が出て納得。
なるほど、そっちだったか。これは初回の地理探究の授業で厳しく問い質さねばなりませんなァ……。


2024.4.4 (Thu.)

今シーズン、フリーレンと人気を二分していた『薬屋のひとりごと』のアニメも見ていたのでレヴューを。

まず書いておくが、原作マンガを読んだことはあるんですよ。ただ、なぜか別々の出版社から2種類出ていて、
どっちを読んだのか覚えてないしどっちを読み進めればいいのかわからんしで、序盤でつまずいたままになっている。
だからそこを気にしなくて済むアニメはたいへんありがたいのであった。いやホント、なんで2社から出すかなあ!?
まあとりあえず「脱税した方」と「脱税していない方」で、多少は区別がつきやすくなったけど(脱税した方がスクエニ)。

最初にマンガを読んだときに思ったのが「中国のいつなの……?」ということで、それでどうにも入り込めなかった。
なるほど西洋ベースのファンタジーを東洋に置き換えれば中国が舞台になってオリジナリティが確保できるわけだ。
そう納得はできるのだが、近所の中国史だと、遠くて面積の広い西洋史より知識がある分だけリアルが雑念として入る。
僕としては昔の中国ってのは、一に宦官、二に宮刑、三、四がなくて、五に纒足である。頭が悪くて申し訳ない。
おかげで「キャラクターにとって都合のいい中途半端にリアルな中国」への違和感がとことん抜けなくて困った。
ところがこれは僕が無知だったからのようで、ジャンルとして「後宮もの」はすでに確立されて久しいとのこと。
いや、これは恐れ入った。とりあえずマンガにおける「後宮もの」のメジャー作品のアニメ化、として見た感じ。

感想としては、「はあ。」である。ああ、こういう作品が人気になるんだなあ、と。ずっと社会学的に見ていた。
よく言われているのが「ヒロインは女の理想てんこ盛り」という指摘で、なるほどと納得。確かに欲望が透けて見える。
目立たないようにしているはずなのに美しくて高貴な人々に発見されてしまう私。なるほど。
そばかすを描いて本来の美しさを隠しているはずなのに見抜かれてしまう私。なるほど。
誰も知らないけど自分だけが知っている現代の知識で謎を解いてしまう私。なるほど。
高級妓楼の美しいお姉さんが後ろ盾でしかも母まで美しくて利発な私。なるほど。
実の父親は好きじゃないけど頭がよくて義父は頭も性格も最高な私。なるほど。
趣味に対して価値を認めてもらって没頭することが許される私。なるほど。
異世界ファンタジーで男がハーレムをつくっている間、女子の皆様はこうして欲望を発散させていたのね、と楽しめた。
さらに最終回では着飾って歌って躍ってラブライブか!というシーンまで盛り込まれていた。うーん、社会学。
2020年代の好みを的確にえぐっているという点で、非常に象徴的な作品となるだろう。有意義な観察対象でございました。

感心したのは悠木碧で、ヒロインに対する低い声の合わせ方がさすが。視聴者にリアルを感じさせる一番の責任者として、
完璧にやりきっていたのではないかと思う。正直、第1話の第一声で「ああこりゃよくできたアニメだ」とわかったくらい。

あとはアレだ、緑黄色社会はベースに尽きる。


2024.4.3 (Wed.)

『葬送のフリーレン』のアニメが最終回を迎えたので、きちんとレヴューを(アウラんときのログ →2023.11.15)。

原作マンガについては「明らかに淡々と進めることを意識している」「あえてバトルの迫力を削るコマ割り」
「等速度運動のようなバトル」「現在なのに、どこか過去の記憶のような感触で話が進む」などと書いた(→2023.4.2)。
そしてアウラんときにはアニメ化について「ふつうにやればふつうに人気になると思っていた」と書いた。
「ふつう」とは何なのか。──それはもう、原作が意図して避けている派手なバトルシーンを見せるってことである。
しかしそれは原作の大幅な改変(→2024.1.31)に他ならない。……さあ、どうする。原作とのバランスをとるべきか?
それとも、思いっきり派手なアクションに振るべきか? 答えは簡単で、原作をバカ丁寧になぞる紙芝居に意味はない。
結果、凄まじい気合いが感じられる作画によって、アニメーションならではのやり方で物語の魅力が増幅された。
「アニメにできること」が存分に発揮され、読者の潜在的に見たかったものが全力で展開されたことで、絶賛された。
原作には原作の意図があり、アニメにはアニメの意図がある。そういう意味でも、実に正しいアニメ化だった。
(個人的にはゼーリエの声以外に不満はまったくない。まあその違和感も演技力で解消させられちゃったんだけどね。)

それにしても、かつては常識だった「テレビアニメが原作に追いついちゃう問題」をすっかり見かけなくなってしまった。
今でも『ONE PIECE』なんかはこの問題を抱えているけど。つまりはアニメオリジナルの消滅ということである。
アニオリをやるんなら年に一度の映画で、という流れが強まったのかもしれない。「原作へのリスペクト」と絡めて、
あらためてきちんと考えてみる意義はありそうだ(いちおう二次創作についての過去ログを貼っておくか →2007.11.9)。

ちなみに、日本のコメディ番組が今も視聴率主義で休まず放送を続けてクオリティを落としていくのとは対照的に、
モンティパイソンは1969年からすでに、1クールやったら休む、ネタが溜まったらやる、というサイクルを確立していた。
日本のアニメはこの考え方がようやく定着してきたってことだろう。これは間違いなく、われわれ客の側の進化だと思う。


2024.4.2 (Tue.)

油断して写真は撮っていないんだけど、土浦駅(→2024.3.31)で食った塩ラーメンが1000円で、確かに旨かったのね。
そういえば『らーめん才遊記』(→2024.3.18)でも「ラーメン1000円の壁」の話が出てきたなあと。ちょっと考える。

まず前提として、最近の塩ラーメンはすごく旨くなったと思うのである。かつて塩ラーメンといえばとりあえず魚介ダシ、
以上おしまい!という印象が強かった。函館ラーメンは魚介ダシがレゾンデートルですな(→2008.9.152010.8.12)。
個人的には塩ラーメンは好きだけど、上限がだいたい想像できるものでもあって、そこそこの味で満足できていた。
ところが最近の塩ラーメンは、明らかに味が複雑だ。「うまくてしょっぱい汁」では片付けられない工夫が感じられる。

たとえば土浦駅で食った塩ラーメンの場合、鴨と豚の2種類の肉に加え、シソを混ぜたつみれまであった。
メンマもいわゆる穂先メンマでオサレ。そして何より、スープが単体で飲んでもまったく飽きがこない旨さだった。
麺も単なる小麦っ気の強い細麺ではなく、ちょっと平打ちの雰囲気が入っている。それでいてきちんと量もあった。
これで1000円ならむしろ安いのではないか、というほどの凝り方。鈍感な僕にそこまで違いを感じさせるとは恐れ入る。

もうひとつ、自由が丘で食った店も印象に残っており、こちらはノーマル850円。せっかくなので1000円に近づけるため、
柚子と玉子を追加して1050円で再び食ってみた。でもこの2つがなくても十分凝っていて、やはりオサレな穂先メンマに、
脂分のあるレアなチャーシュー、しかもそこに乗っているのは薄切りのトリュフ。そしてスープがやっぱり繊細で旨い。
レヴェルを上げるためにどれだけの工夫をしているのか、僕には想像がつかない。でも出てきた1杯は確かに違うのだ。
冷静に考えると、やはりこれだけのものを850円で実現していることが驚異的に感じられる。

 自由が丘で食った塩ラーメン。

かつての「魚介ダシでまあこれくらいなら」という塩ラーメンと比べると、恐ろしいほどの進化を遂げている。
ラーメン発見伝シリーズの気分で意識して食えば、違いを生むためにどれだけの計算をやっているのかが朧げにわかる。
そうやって鎬を削っているわけだから、そりゃあ情報を食ってるレヴェルでない訪日観光客なら狂喜乱舞するはずだわ。

しかしその一方で、ラーメンにそこまで気合いを入れなくても……と思ってしまう自分もまた確かにいるのだ。
結局は価値観の問題で、そこまでラーメンに狂えるのであれば、無限の奥深さが広がっている世界なのだろう。
店も客も、ラーメンに狂えるか/狂えないかの二極化が進んでいくのか、そう思う。「ラーメン1000円の壁」とは、
「壁」というよりもむしろ、ラーメンに狂えるか/狂えないかの「境界線」、「踏み絵」となっていくのではないか。
芹沢達也の言うように、ラーメンが「フェイクから真実を生み出そうとする情熱そのもの」であるとすれば、
そのフェイクと真実を分けるものが1000円札であるのかもしれないし、それは情熱というより狂気であるのかもしれない。


2024.4.1 (Mon.)

たいへん話題になったクドカンドラマ『不適切にもほどがある!』の感想を書くのだ。

正直なところクドカンのドラマを見るのは久々で、すいません、『あまちゃん』(→2014.1.14)以来です。
『俺の家の話』はかなり気になったのだが、第1話に乗り遅れたせいで結局スルーしてしまった。今でも無念である。
やはり1時間拘束されるドラマは見るのにエネルギーが要るのだ。アニメなんかはテキトーに見られるんだけどねえ。
そもそも、実在させた空間を舞台に人間が声だけでなく全身で演技している姿を見るのにはエネルギーが要る。
アニメの30分はぜんぜん疲れないけど、ドラマの1時間は疲れるのである。これって何が原因なのやら。

さて、結論から言うと、十分にすばらしいドラマであると思う。わざわざ毎週1時間拘束される価値はあった。
「傑作」となるかは個人の好みの問題だと思うが、そう感じた人がいるのはわかるデキ。個人的には80点台後半かな。
んーでも現代へのメッセージをがっちり入れているのは見事だから90点台前半でいいか。……そんなところである。
つまりは好みで言うと傑作からはやや落ちるのだが、やっていることが見事なので傑作でいいです、という感じ。

クドカン脚本最大のいいところは魅力的なキャラクターである。単なる「役どころ」ではなく、性格が重層的。
簡単に言うと、困った面を持ちつつもきちんと苦悩して成長する。また、だんだん仲間感を出していくのが上手いのだ。
この辺はやっぱり演劇・劇団の人だからなのかと思う。キャラクター全体を包み込むチーム感が醸し出されるのだ。
今回の作品では特に「昭和のチーム」と「令和のチーム」にそれぞれ異物を投入することで話を動かしており、
熱力学的な平衡に向かうための道筋を模索するような展開が示された。そのキーワードが「寛容」というわけだ。
これをスパッと出せることが凄いのである。生臭さを抜くためにミュージカルという手法が採り入れられており、
好みではないなあと思っても、じゃあ代替案があるのかというと、いややっぱいい線だよな、となる。見事なのである。
あとは安易なモノローグに頼らず、三人称を徹底したところ。もちろん最終話での伏線回収と終わり方も見事だし、
テロップという手法も抜群に効いている。以上が全体を通したマクロでのクドカンの凄さということで。

ミクロでの凄さ、散りばめられた小ネタの魅力は挙げていくとキリがないので、本当にキレッキレの部分に関して。
いちばんやられたのは、第4話で「俺の愚か者がギンギラギンにならない」とか言ってたのに次の週で号泣させられた落差。
この短い間隔でここまでの落差をつけられたのは初めてではないか。人間の感情をここまでの振幅で動かせるものなのか。
またその第5話についても、冒頭の「おとうさん」が1周目と2周目で違って見えることもまたとんでもないのである。
しつこい天丼ギャグにしか見えない1周目に対し、2周目は繰り返されるほどに泣ける感情が増幅されていく。
こんなことができるのか!と、ただただ呆然としてしまった。クドカンには、この場面がこの場面とつながるとこうなる、
という4次元の図が見えている感じ。クリエイターとしてさらに成長し続けているクドカンの恐ろしさには言葉がない。
あともうひとつ指摘しておきたいのは、直接会えなくなってもスマホを使って変わらず昭和と令和で話ができる点。
人間関係は時代を隔てても分断されないのだ。このつながりをきちんと残しておくのがクドカンの優しさなのである。

というわけで、マクロでもミクロでもクドカンの凄みをこれでもか!というほどに見せつけられたドラマだった。
マジメな話、自信を喪失してしまった脚本家はけっこう多いのではないか。傑作というよりは怪作といった感じか。
傑作でもいいんですけどね。かつてのメジャーリーガー・フランク=トーマスのあだ名「the Big Hurt」を思いだす凄み。

では最後にひとつ。佐高くんの家がクラスメイトのたまり場になった描写は、山中貞雄(→2022.11.5)を彷彿とさせる。
キャラクターへの優しさといい、読めないが振り返ると絶妙な展開といい、笑いを交えて人間を肯定的に描く姿勢といい、
「山中貞雄の後継者」という表現が最もふさわしい人物は、実はクドカンなのではないか。そう思わせるドラマだった。


diary 2024.3.

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