鮫洲で免許の更新を済ませて上野へ移動、東京都美術館の『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』を見るのであった。
正直言うと僕は田中一村にはまるで興味がなく、今年3月に奄美に行ったけど堂々とスルーしている(→2024.3.10)。
もちろんその存在は知っているけど、わざわざ笠利にまで行って鑑賞するだけの価値を感じなかったのである。
そしたら美術作品のTシャツをよく着ている国語の先生が職場で「田中一村は最高ですよー」と話しているのを聞いて、
「えー? マジでー?」と内心びっくり。そこまで力説するならきちんと見ておくのもよかんべと、行ってきたのである。展示は3部構成。20代までの東京時代、30代と40代の千葉時代、そして50代以降の奄美時代。
栃木の彫刻師の家に生まれて幼少期から文人画を仕込まれ、なんと6歳くらいできちんとした作品を残している。
「6歳でこれって神童じゃん!」という反応が一般的だろうが、 そこから10代半ばまであまり変わらず成長が見られない。
自分で考えて描いている印象がないのである。文人画の世界の枠で模範的なものを生産して周囲を喜ばせている感じ。
実際、一村はストレートで東京美術学校日本画科に入学するが、2ヶ月で退学している。通用しなかったのだろうと思う。というわけで、文人画嫌いの僕としては(→2024.3.20/2024.5.14)、田中一村は単なるヘタクソでしかなかった。
文人画の描き過ぎモジャモジャと亜熱帯のモジャモジャが噛み合ったわけだ。その萌芽が幼少期からしっかりみられる。
見ていて致命的なのが構成力の欠如である。まともな日本画であれば肝であるはずのトリミングのセンスがとにかく悪い。
自分の描いている木の形が気持ち悪いとか、そういう感覚はないのだろうか。また鳥の前に葉っぱを平然と重ねて配置する。
全般的に、何を主人公に描きたいのかがわからない。焦点の定まらない文人画の悪い癖が最後まで抜けなくって見苦しい。
さらに軍鶏の絵が典型的だったが、横長のバランスだとすごくいいのが縦長の日本画的なバランスだと急におかしくなる。
写生を見ても、かなり残念である。円山派や明治の日本画家を見てきた自分の感覚だと、小学生の描いたものに近い。
人の顔を正面から写生したものも、平板でお世辞にも上手いとは言えない。基本的に、人間を描くのが下手なのである。
写生の拙さがはっきり出ているのは、鳥を描いたときの頭と体のバランスの悪さだろう。特に横を向いたときにおかしい。
「中央画壇に評価されなかった」という点が悲劇的に語られるが、こんなレヴェルのものを評価したら笑い者である。客はかなり入っていて、色がきれいと言っている人が多かった。なるほど確かに色彩感覚は優れている。
雛人形関係の絵ではカラフルさを前面に出しており、文人画由来の描き過ぎが紋様としてプラスにはたらいていた。
彼は最終的に南国らしい葉っぱのシルエットに鮮やかな色の対比という作風にたどり着いたが、それは幸いだった。
しかし写生の画力が足りないために完成には至っていない感触だ。本人はその弱点を自覚できていなかったみたいだが。
最後に展示されていた『アダンの海辺』を見て、こりゃまるでシュルレアリスムだなと思う。そして閃いた。
この人はおそらく文人画ではなくダリとかアール・ヌーヴォーを学んでいれば、存命中に評価されたのではないか、と。
学ぶべき対象を完全に間違えていたのである。もったいないけど、本人のセンスが悪かったんだからしょうがない。
L: 撮影OKの看板からトリミングした『アダンの海辺』。ダリとかアール・ヌーヴォーをヒントにすりゃよかったのに。
R: 同じく『不喰芋と蘇鐡』。美しい色彩と絶望的な構成力が窺える。人間を描けなきゃゴーギャンにはなれねえよな。いろいろボロクソに書いてきたけど優れた作品(というより僕の好みに引っかかった作品)はもちろんあって、
モノクロの『鶏頭図』、また風景画として『千山競秀図』はたいへん秀逸だった。でもそれが続かないんだよなあ。
奄美で見た景色を幻想として見せつけるだけの想像力と構成力があればよかったのにね。でもまずは写生からだな。
『下妻物語』が公開20周年でリヴァイヴァル上映するというニュースを聞き、居ても立ってもいられないのであった。
たぶん気に入るだろうしとマサルを誘う。で、マサルの提案でルミネtheよしもとにも行くことに。充実した週末である。
なおマサルは忍者体験ができる施設との二択で「体動かすのイヤだから吉本で!」と決断。怠惰である。
僕としては昨日が落語で今日が漫才・コント。贅沢な生活じゃのうと思いつつ新宿駅に集合する。まずはルミネtheよしもとだが、会場の7階へ行くのに大いに迷う。着いたらそこはいろんな芸人のグッズ売り場だった。
しかし僕は特に推している芸人もいないので「こんなんあるんだなあ」くらいのトーン。マサルはBKBのシャツを購入。
当日券ということで端っこの席でのんびりと見る感じに。前説が始まると「幕が開いたら撮影はダメ」ということで、
つまりは若手のオレたちは撮ってくれということである。なお物語ズの主人公のハラちゃん氏は元ジャニーズJr.と聞き、
マサルはジャニーさんの洗礼を受けたのかどうかが気になって仕方のない様子なのであった。まあ無理もないですな。前説で登場した物語ズのおふたり。
チケット代は決してお安いというわけではないが、演劇と比べればやはり手頃。そして内容もヴァリエーションがある。
COWCOW・ミキ・囲碁将棋・NON STYLEらの漫才の一方、GABEZの巧さとくまだまさしの(もちろんいい意味での)落差、
後半は今田耕司と月亭方正が登場するコントが実に吉本であり、多様な客の好みに合わせる幅広さがさすがである。
テレビで見たことのある芸人が目の前で安定した笑いを披露してくれるのは安心感があるなあと思うのであった。
個人的にはミキがよかった。昔はうるさくて嫌いだったが(→2018.12.5)、今は絶妙なバランスの芸になっていると思う。晩飯を挟んでいざ『下妻物語』。オレがどれぐらい好きかは過去ログを参照(→2005.7.12/2006.12.16/2010.5.26)。
(なお下妻市は先月訪れたが、イオンには行かなかった(→2024.9.11)。やっぱり「ジャスコ」でないとね……。)
劇場にはわざわざロリータ着てきた女の子がちょこちょこいて、たいへん正しいなあと感心するのであった。
オレだって可能ならロリータを着てこの映画を見たいくらいだ。男女問わずロリータが正装だと本気で思う。
マサルは予備知識がまったくなく、「ロリータとヤンキーならヤンキーの方がええに決まっとるやん」くらいな感じ。僕の感想はただ一言、「やはり最高にいい」。細かいことは完全に19年前のログ(→2005.7.12)と同じである。
あらためて、出演している役者のいいところをことごとく引き出しているのがたまらなく愛おしく感じられる。
水野晴郎みたいなズルさもあるが、一人として生来のキャラクターが生かされていない役者がいないのだ。
主演のふたりももちろんよい。でもまあやっぱり土屋アンナだな! 一世一代の演技が記録されて羨ましい。
そしてマサルは「小池栄子の説得力が最高やったね!」とひたすら力説するのであった。それは本当にそう。
あの序盤のテンションで102分もつのか不安でたまらなかったそうだが、十分に楽しめたそうで何よりである。その後は喫茶店で感想戦。マジメなところとしては、ファッションとはどの社会集団に属するかの選択で(→2004.1.11)、
当時は非日常でしかなかったロリータと10代ならではの社会からの逸脱を宣言するヤンキーの友情が斬新だったって話。
女子はカーストに属する生物であり、双方の友情を成立させるには少年マンガの展開を応用するのが有効だったわけだ。
またその一方でクライマックスで露わになる桃子の性格の多層性(服の記号とはまた別にある本性)も人間の本質で、
社会学的に見ればファッションによる「なりたい自分」と本性の自分を両方一気に肯定している点もまた見事なのだ。
そして原作が読み手の想像にうまく委ねているキャラクターについて(服のように誰でもなりうる →2006.12.14)、
この映画では深田恭子と土屋アンナというとんでもなく魅力的な解釈がなされたことが素晴らしいのである。
そういえば電車にロリータファッションが乗っていたら昔は「えっ!?」と思ったが、今は「気合い入ってんなあ」で、
この変化が起きたのはやはり『下妻物語』以降であるように思う。われわれ「見る」側に心理的な変化が定着した。
作品という手段を通してわれわれの価値観を広げた、そしてもちろん内容も抜群に面白い。偉大な映画なのである。
本日は毎年恒例の芸術鑑賞。今年は落語。やっぱりヴェテランの聴かせる技術はものすごいものがある。
しかしながら「時刻を尋ねない『時そば』は果たして『時そば』と呼べるのか問題」の宇宙に迷い込むのであった。
本日は中間テストで、「寒」や「暖」の漢字を正しく書けない連中にブチ切れる。とんだ誕生日プレゼントである。
でも昼過ぎに強い虹が出て職場がいい雰囲気になったので機嫌を直したのであった。まあそんなもんである。
誕生日を前にして「びゅくびゅく腺多漏」というペンネームを思いついてしまった。エロ関連で使うとしよう。
でも冷静に考えると、マサルと尺さん(奥田くん)から1文字ずつもらっていることになるんだよな。
それならいっそ「潤うびゅくびゅく腺多漏」にしてみようか。頭が悪いを通り越して面白いなコレ。
世田谷文学館『世田谷文学館コレクション展 寺山修司展』。
世田谷区下馬が天井桟敷の本拠地だったということで、豊富にある館蔵資料が公開されているので見てきた。
展示はワンフロアに収まるヴォリュームで、天井棧敷関連と寺山直筆の手紙という2部構成となっていた。
L: 展示室の入口にて。 R: 奥の撮影可能コーナーは『田園に死す』収録の短歌のバナーなのであった。まず印象的だったのが自分用の原稿用紙に書かれた直筆の文字である。原稿用紙はミニマルな横長のマス目となっていて、
その中いっぱいに平べったく書かれている。おかげでけっこう読みやすい。しかし同じ直筆の文字でも手紙は違っており、
宛名などは意図してバランスがバラバラになっていて独特の躍動感がある。寺山修司の署名も角度をずらしているなど、
どこか枠から飛び出そうという印象を漂わせている。文字の見せ方、デザインを意識している人だったのかと思う。天井棧敷関連では『あしたのジョー』(→2011.10.14)力石徹の葬式についての新聞記事がかなり面白かった。
われわれとしてはマンガごと歴史的事件なのだが、当時のリアルタイムの反応がヴィヴィッドに記録されていて興味深い。
また床には高田馬場・新宿一帯を劇場としてゲリラ的に上演された市街劇・『人力飛行機ソロモン』の地図がある。
これは現実の街をテーマパークに変える試みだと思う。All the world’s a stage, And all the men and women merely players:
そしてこの市街劇は、TOKYO MYSTERY CIRCUSの謎解き(→2018.4.22/2023.10.7)に繋がるのかもしれないと思う。
しかしそんなことに熱中していたとは、実に元気な時代だったんだなあと呆れる。安保闘争や学生運動が挫折した後、
政治を諦めた若者たちは有り余るエネルギーをどう発散するかの問題に直面し、芸術方面に飛び出していったのだろう。
明確なヴェクトルを持たないところに、時代との化学反応としてのアングラが特徴づけられるのかもしれない。でもそれだけに、目の前に物的証拠を積まれても、同じ時代を知らない者には状況証拠でしかないのである。
三沢を訪れたときに「僕の前にはただ波紋があって、それを起こした原因についての知識だけがすっぽり抜けている」、
そう書いた(→2017.6.24)。いまこうして原因についてのヒントを与えられても、やはり波紋しかつかめない。
結局のところ、きちんと彼の作品に向き合っていないからダメなのだ。短歌やセリフで散発的に彼の言葉に触れても、
その言葉がどのように世界を見つめた結果であるのか、どのような凶器として受け手に刺さって波紋を広げたのか、
そこをサボっていながらわかった気になろうという方がおこがましいのだ。すっかり反省して展示室を後にする。ショップでいちばん驚いたのは寺山修司のお面を売っていたこと。「家出のするめ」なる商品もあった。
三沢のガソリンスタンドで見た写真がアクリルスタンドになっており、背面には短歌が入っていて、ちょっと欲しかった。
映画館で『五等分の花嫁*』を見たんですけど、新婚旅行編ということでそれなりに期待はしていたんですけど、
本っ当ぉーにつまらなかった! もうどうしょうもねえよコレ。オトナ二乃以外に見るべきものがない。本当にない。
(いちおう参考までに関連過去ログはこちら →2020.11.20/2022.5.28/2023.7.27)前も書いたけど、どうせならギャルゲー的マルチエンディングで、①から順番にイチャコラすべきなんですよ。
まず①とイチャコラしていたけど最後んところで頭ぶつけて記憶が飛んで気がついたら過去に戻っていて第1話終了、
次に②とイチャコラしていたけど最後んところで頭ぶつけて記憶が飛んで気がついたら過去に戻っていて第2話終了、
次に③とイチャコラしていたけど最後んところで頭ぶつけて記憶が飛んで気がついたら過去に戻っていて第3話終了、
次に⑤とイチャコラしていたけど最後んところで頭ぶつけて記憶が飛んで気がついたら過去に戻っていて第4話終了、
次に④とイチャコラしていたけどこれがトゥルーエンディング、だけどパラレルワールドを匂わせてなんとなく大団円。
それでいいじゃないか。毒にも薬にもならない蛇足をやるよりも、他の需要をしっかり掘り起こすべきだろうに。
特に五つ子が大人になっているんだから、新たな魅力をクローズアップしないでどうすんだ。頭が悪すぎるぜ!
では昨日見た、細見美術館『美しい春画 ―北斎・歌麿、交歓の競艶―』について。
当方、春画というものを見るのは初めてなのである。そんな、えっちなの、ぼく知らないもん。わかんないもん……。
とかショタっぽい口調になってみたりして。春画は日本の美術史において決して無視することのできない存在であり、
きちんと勉強しなければならないだろう、ということで短時間でも今回鑑賞する時間を設定したというわけ。いちおう春画について軽くまとめておく。主に浮世絵でのエロスな絵でございます。もちろん幕府は規制をするけど、
地下でしっかり流通したのであった。地下に潜ったことで逆にクオリティはかなり高く、技術の粋を凝らした作品が多い。
日本人のおたく根性が窺える。しかし近代日本では「恥ずべきもの」という扱いが一般的で、ほとんど日の目を見なかった。
西洋からの評価が高まったことで、わりと最近になってから日本国内でも展覧会が増えてきた感じである。で、今回の展覧会は葛飾北斎に喜多川歌麿、鳥文斎栄之、歌川国貞など、かなり重量級のラインナップとなっている。
本来であればそれぞれの画家の特徴とあわせて作品を味わっていくべきなのだが、どうにもおちんちんとおまんまんで。
どこをじっくり見るべきか、焦点をたいへん合わせづらいのである。しかもやたらとみんなちんこがデカい。
これって誇張なのよねきっとそうだよねお相手もデカいし、なんて思うのだが、まあぜんぜん集中できねえこと。
見て興奮する側の男である以上、どうしても視線がそっちに偏ってしまい、なかなか絵全体を眺めることができないのだ。
それぞれの画家の違い、作風もなかなかつかめない。これは究極的には表情を味わうものなのではないか、と思ったが、
そうなると性器の描写はノイズなのである。私のマジメな性格が裏目に出てしまいましたな。正直、途中で飽きた。
というわけで、僕の初体験はなかなかほろ苦いものとなってしまった。まだまだ修行が足りないでござった。
なお、グッズがかなり充実していてなんとも。普段使いできねえよ。春画をイメージしたお香はなかなかムーディー。僕はエロマンガの方が好きです。むしろぜひ、エロマンガの展覧会を美術館でやってみてほしいわ。
次の月曜日から2年生は3泊4日の修学旅行である。今年も担当からはずれ、補欠(→2023.10.2)でもなく、自由の身。
つまり、月曜から授業のない日が3日も続くというわけだ(地理総合は2年生の科目であるため)。絶好の旅行チャンス!
平日に合法的に旅行ができるということで、今回僕が選択したのは「レンタサイクルで京都の寺社めぐり」である。
しかし今週末には長野で信州ダービーが開催される。そういえば亀岡に京都サンガの新スタジアムができた。
これで旅程が一気に固まった。土曜日は信州ダービー、日曜日に京都サンガ、月火でレンタサイクルなのだ!天気が良ければまず屋代に行き、森将軍塚古墳から篠ノ井の景色(→2022.5.15)をリヴェンジするつもりだった。
しかし「どうにか降らないでくれる」という感じの曇天が予想されたので、新幹線ではなく朝イチのバスで長野駅へ。
上信越自動車道を通るのは久しぶりな気がする。大学院の研究室の合宿で妙義山にたまげた記憶が蘇る(→2002.2.28)。
せっかくなのであらためてスマホで撮影してみたが、その独特な稜線にはどうしても目が釘付けになってしまう。
山岳信仰の対象になるのも当然だろう(→2017.9.9)。高速道路から手軽に奇観を味わえるのはありがたい。バスの車窓から眺める妙義山。見るたび不思議な気分になる。
長野駅には10時半ごろに着いて、そのまま次のバスに乗り込むつもりだったのだが、長野ICから出ると道路が激混み。
おかげで予定のバスに乗り損ねた。それでも時間的な余裕はあるので別のバスに乗る。が、観光客が際限なく乗り込んで、
おまけに善光寺に向かう道も混んでいて、日本人外国人問わず料金の支払いに手間取って、これも大幅に遅れる始末。
終点近くのバス停で降りたときには乗客は僕一人だったのだが、観光と生活のバランスについて考えさせられた。
そしてここから1.5kmほど歩く。当初の予定どおりの便ならその必要がなかったのだが、まあしょうがない。そうまでしてやってきたのは、ラーメン大学(→2010.3.16)の若槻店である。長野市内には郊外にしか店舗がないのだ。
飯田にいるときに羽場坂で食っときゃよかったのだが、この歳でわざわざ親に連れてって!って頼むのもねえ……。
過去ログを調べてみたら、11年前が直近のラーメン大学であるようだ(→2013.3.27)。今回はせっかくの長野県なので、
「長野県民のソウルフードであるラーメン大学の味噌ラーメン」をあらためてきちんと食べることにしたわけだ。
マツシマ家としてはふつうの「味噌ラーメン」が標準だったが、世間的には「こて味噌ラーメン」が人気である模様。
昔はそんなもんなかったので、今回はわざわざ「こて味噌ラーメン」を食ってやろうというわけなのだ。
L: ラーメン大学 若槻店。 C: マスコットキャラクター「大ちゃん」の人形。 R: こて味噌ラーメン大盛。人生初の「こて味噌ラーメン」をいざ実食。まず最初にスープをすするが、味噌よりも風味のある油の香りがした。
これがちょっと違和感。そして全体的に脂分が強い。キツくはないが、スープにはしっかりと背脂が浮いている。
確かに味噌の旨みを味わえなくはないが、個人的にはつねに脂分が入ってくるのが残念なところである。好みの問題だが。
11年前には麺が替わったことが非常に印象的だったが、時間が経ってなじんでくると違和感は減ったように思う。
というわけで、個人的には「こて味噌ラーメン」は、脂がおいしいだけの情報食ってる人向けではないかと感じる。
現在のふつうの「味噌ラーメン」がどれだけ昔の雰囲気を残しているのか気になるところ。いずれ羽場坂で食おうっと。
なおラー大からの帰りのバスは、すぐ近くのバス停から乗ることができたので変に歩かされることはなかったものの、
やっぱり渋滞がひどかった。長野市は幹線道路の混雑ぶりがちょっと異常だと思う。あの市長は仕事してるのかね?長野駅に戻ってくると、さっさと反対側の東口から出ているシャトルバスに乗り込んでしまう。
せっかく長野に来ていて善光寺をスルーするのは申し訳ない気分になるが、大混雑に巻き込まれるのは御免なのだ。
そうしてキックオフの3時間ほど前にスタジアムに到着する。恒例となっている公園内の行列にくっついていくが、
今回はわりとスムーズに進んでいった感じ。でもそれは運営が改善したというよりは、人が減ったことに起因する感触。
L: 入場手続きを済ませていったんスタジアムの外に出る。今年は雨ではないのでみんな余裕を持って過ごしている。
C: 今回はメインスタンドの自由席を確保。行列が本当に面倒くさいので、指定席のエリアをぜひ拡大してほしいのだが。
R: ディスプレイの表示。「信州ダービー」の文字がない。グッズもなかったし、盛り上げる意欲をまるで感じない。今回はメインスタンドの自由席を確保できた。当然、行列に並ばなくて済む指定席がよかったに決まっているが、
サポーター会員の先行販売でほぼ売り切れてしまう。信州ダービーで値段を上げるのなら、指定席を増やすべきだろう。
現状のだらしない成績だけでなく、そういうところも含めて長野パルセイロの運営ぶりには疑問を感じざるをえない。
信州ダービーを盛り上げるグッズもないし、それ以外でも買いたくなるようなグッズもないし、やる気あんのかね?
L: 選手入場時の長野サポ。 C: 松本サポ。今年はこれまで1敗1分けなので(→2024.6.29)、けっこう気合いが入っている。
R: メインスタンドのアウェイ寄りの席だったので、恒例となっている山雅の試合前円陣が目の前で展開されたのであった。スタジアムMCの若干自虐気味のトークがあったくらいで、それほどダービーの特別感はないまま試合が始まる。
両チームの選手と松本サポは確かに熱量を感じさせたが、それ以上にJ3という舞台での対戦への「慣れ」が強い感触。
松本の守備は非常にコンパクトで、とにかく裏に放り込みたくなくてつなぎたい長野としては、なかなか突破が難しい。
どうしても途中で引っかかる。長野は相変わらずの一つ覚えだなあと呆れるばかり。戦術に幅がまるでない。
松本が長野対策のコンセプトを明確に持って戦っているのに対し、長野はその場しのぎでのプレーである。
また、松本が先にルーズボールに触るのを見てから、長野は対応を決める感じ。競らないから自然と後手にまわる。
やはり選手の質は松本の方が少し上だなあと思いつつ観戦する(なお順位は松本が7位、長野は16位という体たらく)。
L,C,R: ピッチに近い席にしたので臨場感は抜群だった。ただ、逆サイドや反対側のゴールはやや見づらい。しょうがないけど。ところが先制したのは長野だった。18分に左サイドから攻め込んで杉井がシュート。これがディフェンスに当たるが、
撥ね返ったボールにゴール前の近藤が反応して合わせた。早い時間の先制点にスタジアムは大いに沸いたのも束の間、
その1分後に今度は松本が左サイドからのクロスを放ち、相手FWを抑えていた長野の選手に当たってオウンゴール。
L: ゴール……ではなく、その前の杉井のシュートを常田がブロックした瞬間。この直後、真ん中にいる近藤が決めて長野が先制。
C: あっという間にオウンゴールで松本が追いついた。実にもったいない。まあすぐにチャンスをつくった松本を褒めるべきか。
R: 松本のFW安藤(左)がゴールに背を向けて胸トラップからのボレー。しかしGK松原がファインセーヴ。どっちもすごすぎ。両チームともあっさりと点を奪ってしまったせいか、その後のプレーは単体では見応えのあるシーンもあったものの、
ゴールという結果に繋がらなかったことで価値を下げてしまった印象。振り返ってみるとファインプレーはあったのだが。
特に終盤は松本の守備がオープンになったこともあって、長野はなかなか躍動感のある攻撃を見せていた。
浮田のポストを叩いたシュートも黒石のシュートも惜しかった。松本の浅川のヘディングシュートも惜しかった。
GKがよく守ったのも確かである。しかしシュートが決まらないと「思いどおりにならないこと」が印象に残る。
それで記憶が編集されて、チャンスをつくるまでにやらかしたミスが目立ってしまい、ファインプレーが霞んでしまうのだ。
振り返るとこの試合は決して凡戦ではなかったが、それは選手たちの身体能力による最後の攻防が素晴らしかったわけで、
決定機をつくるまでの戦術に関しては特筆すべきものはなかった。その部分での魅力は明らかに欠けていたと思う。
また、あくまで「身体能力」であって、上位カテゴリーで通用するレヴェルの「予測」はほとんど見られなかった。
つまりは条件反射で動いているだけ。考えてサッカーをすることがまったくできていない(松本の方が若干マシではある)。
最後に勤務した中学校のサッカー部で、目の前に来たボールに反応するだけだった惨状を思いだした(→2020.8.20)。
L: 後半、松本の村越がクロスを上げたシーン。いいボールが入っているのだが、長野が意地を見せて防ぐ。
C: マッチアップの図。 R: 浅川のヘディングシュートを松原がキャッチ。これもさすがプロという攻防だった。
L: 加藤弘堅(→2022.9.7)のFK。今は長野でがんばっているのだ。 C: 長野は最後までゴールに迫るが得点できず。
R: 試合終了。プロサッカー選手らしい身体能力は堪能できたが、プロサッカーチームらしい戦術は味わえなかった。松本は一定レヴェルのパフォーマンスができる選手たちがそれを最後までやりきった印象。しかし勝つには至らなかった。
プレーオフ進出を狙う位置につけているチームにしては冷めていた。理屈ではない何か、迫力、それを感じられなかった。
一方、長野は自分でドリブルを仕掛けず他人任せのパスに終始。そのパスも「味方が拾ってくれたらいいな」という、
精度のないアバウトさが目につく。だからいつもどこかで引っかかって終わるのである。まるで改善が見られない。
長野は育成型の監督じゃないと強くならないだろう。上のカテゴリーでも通用する教育をイチから施さないとダメだ。
なお観客は11,965人。信州ダービーとしては屈辱的な少なさと認識すべきだ。長野はすべてにおいて努力が足りない。◇
長野駅のナカジマ会館で蕎麦をすすってスタバで日記。閉店時刻になって高速バスのバス停へと移動する。
そう、夜行バスで京都へと向かうのである。しかしなぜか乗客は中国人男性がやたらと目立っていたのであった。
マジでこの国おかしいわ。
『義妹生活』のアニメについて、感想を書いておきましょうか。
義理の妹。なんと羨ましい響きだろうか。個人的には90年代エロゲーで育ったこともあって、実に羨ましい。
僕は『同級生2』では穏健な可憐派なのだが、そうは言っても唯だって好きだ。さすがにヒロインの筆頭格ということで、
攻略がかなり面倒くさかったのでそんなにクリア回数は多くなかったが、シチュエーション的にはそらたまらんですたい。
なんだかキーを打っているうちに久々に唯を攻略したくなってきた。中間テストづくりが終わったらやろうっと。
……だいぶ話が逸れたが、設定としては昔のエロゲーみたいで好物なのである。まあ男ってバカな生き物ですので。結論から言うと、アニメとしての演出でだいぶがんばった作品だと思う。ストーリーははっきり言ってかなり稚拙。
究極的には「親の再婚でいきなり義理の妹(兄)ができてお互い好きになっちゃう」、それだけ。まあそれはまだいい。
問題は高額バイトで(体を)売るの売らんのという安直すぎるやりとりで、イージーな興味を惹くのが絶望的にヘタクソ。
見た目ギャル系だからってそこに持っていくと、ヒロインが果てしなく頭が悪く見えてしまう弊害の方が圧倒的に大きい。
ここをどうにか乗り越えても、他者が安易な噛ませ犬になってしまっているのがまたしょうもないところである。
セリフは心情を吐露するモノローグばかりで空回り気味。それを特に男の側が上手く解釈してあげる、その繰り返し。
たぶんこれをきちんと対話でやろうとすると、キャラクターをコントロールできなくなりボロが出てしまうのだろう。
つまりは原作者が力量不足だから、モノローグの徐行運転で無難に話を進めていくことしかできないのである。
そこをヒロインは現国が苦手という設定でごまかしているのは興味深い。ウルトラCだが、論理的には確かに成り立つ。
全体的に話の進みは遅いのだが、そこには兄妹としての葛藤があるので妥当である。また、対話だと加速度がつくが、
モノローグとそれを解釈する時間を設定することでブレーキをかけている。ストーリーのスピードをあえて上げず、
もどかしい気持ちの表現に全振りするのは新鮮だった。稚拙さの残る原作を上手く脚色して仕上げたというわけだ。現実感を持たせると話はかなり直接的になるし、結論を急いでしまう。そこで独特の雰囲気により話を中和している。
まず情景描写を丁寧にすることで「間」を持たせている。またその質感を淡くすることで、かえって閉塞感が出てくる。
まるで一度死んだ後みたいな、うっすらとした霧の向こうに現実があるような雰囲気。これはむしろ不穏さの演出となり、
兄妹という息詰まる危うさを強調することにもなっている。なんでこんな心中しそうな雰囲気なの、と思うくらいだ。
登場人物は主観のセリフばかりで、それを三人称で一方的に提示するので、われわれは客観的なバランスを判断できない。
でもそれが徹底されちゃっているので、ただ受け容れるしかないのである。だからふたりに感情移入することはできず、
ただ見守ることしかできない。でもそれはそれで、閉塞感の中で葛藤する兄妹を強調する効果を発揮してはいるのだ。
話が特別に面白いわけではないところを、あえて10代ならではの雰囲気や空気感を味わうアニメという形にするのは、
実はラブコメとしては的確な戦略なのかもしれない。それでしっかりと独自性を確立している点は評価すべきだろう。
正直なところ、青春時代がすっかり遠くなってしまったおっさんには、どこか妙にクセになる質感なのであった。
ストーリーは互いの気持ちを認め合うまでなのでキリがいいが、もう少し後日談が欲しいところではある。
とはいえそれはただふたりの絆が試される展開が続くだけとなるだろうから、蛇足であるのもまた確かか。ヒロインは髪が長い方がかわいかったなあ。ポニテでバイトは最高よ。髪を短くしたらなんだか籾岡で残念。
わがヤクルトスワローズは昨日の青木に続いて山崎も引退である。
青木のレジェンドぶりについては書くまでもないが、いちばんのポイントはメジャーから帰ってきてからの姿勢。
ヤクルトは伝統的に「打撃のチーム」とみられているが(中西理論が浸透していると言われる →2023.5.18)、
その伝統をしっかり後輩選手につなぐ役割を果たしてくれたことが何よりありがたい。村上の涙につられてしまった。
あらためてヤクルトファンでよかったと思わせてくれた選手である。今後の活躍を大いに期待しております。山崎は優勝のときのパフォーマンスが思いだされる(→2022.9.25、相手の長岡も最多安打だもんなすげえよ)。
昨日の青木の引退試合では選手全員が背番号「23」をつけたのだが、山崎の場合は練習着にガムテープで「31」。
その落差がまたヤクルトのアットホームさを示していて微笑ましいのだが、村上はそこにメッセージを書いていたと。
実はこれ、めちゃくちゃかっこよくないか? わざわざ手書きのメッセージを残そうという、その精神が美しいのだ。
ぜひとも良き伝統として続けていってほしいものである。マルチヒットで有終の美を飾った山崎もかっこよかったぜ。
今シーズンも旅行などの写真を加工しながらアニメを見ていたのだが、中身のあるものは本当に少ない。
日本のアニメは世界で人気のコンテンツという扱いを受けているものの、実際のところ打率はかなり低めである。
そんな見るべき価値のないものについて滔々と酷評していっても何も面白くないので、レヴューは書かないでおく。
だいたいが「気持ち悪い」の一言に尽きてしまうのでな。ロシデレもマケインもただただ気持ち悪いだけだった。
それでも1個くらいは「気持ち悪い」以外の感想を残しておくか、ということで、『しかのこのこのここしたんたん』。原作マンガは未読だが、出てくるギャグがひとつ残らず完全にスベっていて驚いた。のび太でさえ打率1分だぜ?
オープニングが(広告代理店の力で)話題になったそうだが、なるほど確かに最初の最初だけはかわいい。
でも本当にそれだけ。延々とスベり続けて最後にせんとくんを巻き込むという醜態を晒して終わったのであった。
いちおう理論的なことを書いておくと、ボケとツッコミが固定されて同じペースでつまらんボケをかまし続けるので、
何ひとつ盛り上がることがないのである。緊張もなければ緩和もない。よくこれだけスベれるなあ、と呆れ果てた。
眞藤雅興『ルリドラゴン』。休載からの復活でえれぇ反応があったので、既刊2巻だけだが読んでみた。
まず第一に、alien(人間性を持つ他者)を受け容れる思考実験である、ということ。
それについて最も極端な例を選んでいる。しかし実際にはわれわれも微細なレヴェルで日々ギャップに直面しており、
そのたびに微調整して他者を受容している。そういう水面下のもがきによって、日常生活が連綿と続いている。
このマンガはドラゴンというきわめて特殊な事例を持ち出すことでギャップを強調しているものの、
実のところ描かれているのは一般的な人間関係の問題である。ドラマに仕立てるバランス感覚が実に巧みだ。ジャンプに連載されて「人間とドラゴンのハーフ」という設定であれば、定番のバトルマンガになりそうだ。
しかし主人公は女子で、日常の人間関係を物語の主軸とするのは明らかに本来、少女マンガの得意とするところだ。
そんなマンガをあの週刊少年ジャンプが連載したところに、老舗の凄みを感じる。でも冷静に考えてみると、
表面的には女子高生のマンガだが実際のところ性別は関係なく、人間が抱える本質的な悩みを描いている。
つまり、扱っているのは普遍的なテーマなのだ。最も極端で特殊な事例から帰納される、人間性のあり方。
それはそれでやはり、老舗の凄みを感じるところだ。読んでいる間、ジャンプすげえな、と何度も呟いていた。ところが2巻に入って前田赤里とぶつかると、いや違うこれバトルマンガだ、と認識を改めさせられた。
格闘ではなく、人間関係を認め合うためのバトル。それは成長のための摩擦(→2009.2.19)そのものである。
(摩擦と成長について、理想的な例(→2015.11.5)と悪い例(→2005.8.18/2023.12.13/2024.6.27)を挙げておく。)
それで初めてこの作品をジャンプで連載した意味がわかった。つまりは日常における友情・努力・勝利なのだわコレ。
『DRAGON BALL』の世界的な大ヒットの代償は大きく、力を求める少年マンガの退化は著しかった(→2024.3.8)。
一方で少女マンガあるいは女性漫画家は少年マンガの外堀を埋めていき、マンガ全体の知的水準を引き上げていった。
しかしここに来て、少女マンガに負けない問題意識で少年マンガの水準を大きく引き上げるマンガが登場したのだ。
どんな道徳の教科書よりも破壊力のある少年マンガ。ドラゴンハーフの女の子に仮託された性別に関係のない一般性は、
少年マンガの文法の可能性をさらに広げている(これも「女の子だって暴れたい!」が開いた世界なのか? →2023.2.4)。それにしても担任の先生がテキトーに見せて切れ者でオレにそっくり(当社比)。はい言論の自由ぅー