『ダンダダン』のアニメ2期も全話視聴した。こちらも評価は高いみたいだけど、僕にはまったく面白くなかった。
1期については過去ログでわりと好意的に書いたけど(→2025.2.5)、2期になって完全に飽きが来てしまった。
だってずっと暗いところで戦っているだけなんだもん。アニメの技術としては凄いんだろうけど、肝心の話がつまらない。
同じことを繰り返して飽きないのかなあ。全体的な感触としては、映画の『AKIRA』に似たものがありますな(→2021.2.27)。
『WITCH WATCH』のアニメを全話視聴した。評価は高いみたいだけど、僕にはまったく面白くなかった。
まず、なんで高校生にもなって『ドラえもん』やっとるの?と。僕としてはそこに社会の幼稚化を感じてしまうのだが。
アニメはあれやこれやと工夫をしているのはわかるけど、基本的には些末な部分へのこだわりでしかないと思うのである。
話の本筋(白魔女VS黒魔女)が面白くないからあっちへフラフラ、こっちへフラフラ。で、レヴェル的には『ドラえもん』。
ツッコミの的確さは褒めるべきところではあるし(これは高橋留美子の「名作」には欠けている要素である →2024.6.26)、
伏線の回収についても本当に見事である。でもそれは本筋ではなく、あくまで枝葉の部分。なんかごまかされている気分だ。
『8番出口』の映画を観たので感想。
ぜんぜん面白くなかった。冒頭からよけいな味付けがあり、薄っぺらい感動にもっていこうという安直な発想にゲンナリだ。
このテーマと地下通路の異変がきちんとつながらないから、作品として意味不明になっている。何がやりたいのかわからない。実はホラーの世界に入り込むには、理由が必要なのだ。不条理な世界から脱するには、きちんとした論理が必要になる。
無機質な地下空間は、都市におけるホラーとしてはたいへん優れた発見で(僕は浪人時代から圧倒されていた →2016.12.30)、
田丸浩史『アルプス伝説』(→2005.3.2)の文化祭のお化け屋敷で提示されたホラー空間をさらに一歩進めたものと考える。
でも平穏な日常生活からなぜ「落とし穴」にハマってしまったのか(→2024.8.24)、そこを示さないと物語にはならない。
この映画ではなぜか女子高生が登場して煉獄について語り、並行して子どもを出して、その理由を匂わせてはいるのだが、
それで論理性をクリアできたと思える単純さがなんとも間抜けである。地下通路が胎内のメタファーにはなったとしても、
そこでの異変はまったく別物である。そして主人公は地下通路を逃げまわるが、人間、逃げているだけじゃ成長しません。
おまけに二宮さんはコケるのが下手です。ちゃんと足首をぐねりましょう。都市のホラーをきちんと考えている感触がない。結局のところこの映画、低予算で小金を稼ぐ目的でつくったとしか思えない。主演をニノにして一定の収益を確保した感じ。
そして本来の都市型ホラーとは無関係の「父親としての覚悟」を持ってきて、安いお涙頂戴でハイ一丁あがり、と。
悪い見本にしかならない映画である。後日あらためてゲームをプレイして、『8番出口』のマイナスイメージを払拭したい。
奥歯の詰め物が取れたので、久しぶりに歯医者へ行くのであった。チェックしたところ、むしろ隣に虫歯があるそうで、
併せて治療することに。またもともとよろしくない右下犬歯も虫歯があった。しっかり磨いていたつもりだが、甘かったか。ちょうどスラムダンク映画のリヴァイヴァルをやっているので、京急を途中下車して桜木町方面へと向かう。
そしたら味噌ラーメンの有名店「すみれ」の支店があることがわかったので、せっかくなのでいただいてみた。
味噌ラーメン並盛、1,200円。物価高じゃのう。
本店が北海道ということで、冷めないようにスープが脂の膜でしっかり覆われている。しかしこれ厚すぎないかと思う。
結局はスープがトンコツ風の感触になるので、僕は好きでない(→2024.7.6/2024.7.7)。またスープがずっと熱々なのは、
最後にじっくりスープを味わいたい人にはマイナスにもならんかと思う。そしてまたワンタンが熱くて食いづらい。
味噌じたいは無難だけど、ラーメン大学(→2024.10.5)が基準となっている僕には特に風味があるとも思わなかったなあ。
麺は味噌ラーメンにしては少し細めの縮れ。個人的には好きな方ではあるのだが、お値段相応な高級感はあまり感じず。
現代のラーメンは脂が好まれるんだねえ(→2020.11.29)、と思いつつ、少数派の哀しみを噛みしめて店を出るのであった。◇
では『THE FIRST SLAM DUNK』なのだ。3年前にも観たけど(→2022.12.20)、今回はIMAXでの上映なのだ。
過去ログでは少々辛口に書いているが、そうは言ってもマンガをそのまま動かした画期的な作品であるのは確かである。
今回は素直に楽しませてもらう。桜木が「おーロッドマン」という感じ。狂言回しにはPGの宮城が最もふさわしいか。
河田の声がわりと高めなのが絶妙だなあと。そしてやはり肝心の試合じたいが面白いと、もうそれだけで満足できるのだ。
『機動警察パトレイバー 劇場版』を観ようぜと姉歯メンバーを誘ったところ、3連休の中日が空いていたのはマサルのみ。
それで2人で池袋に集合して映画鑑賞することに。さらにマサルからは『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』の提案。
「シト新生は本当に見る機会ないから」ということで、確かにそうなのでこちらも二つ返事で提案に乗るのであった。17時過ぎに合流すると、少し早いけどまずは晩メシをいただく。マサル曰くいつも絶対に空いているというベジ郎で、
2人とも青椒肉絲的野菜炒めをチョイス。渋谷のベジ郎は混んでいるイメージだが、池袋は本当にスカスカなのであった。
米倉涼子の話題から始まって(マサルは「失敗したね」と言っていた)、西田敏行を挟んで岸部一徳の話になるわれわれ。
しかしマサルは岸部一徳と岸部シローの区別が非常に曖昧で、というか「沙悟浄」とか「借金」とか「ルックルック」とか、
出てくるポイントがすべてシローの方なのであった。僕はいちいち「シローだよ!」ツッコミを入れていったのだが、
もうリズムが完全に漫才のそれ。それにしてもマサルともあろう者が、なぜ一徳とシローの区別がつかないのかわからん。そんなノリノリの状態で1軒目の映画館に乗り込むが、開場時刻よりもちょっと早くて物販売り場で時間調整。
パトレイバーを観るにあたってはキャラクターの理解が必須だろうと僕はピクシブ百科事典での予習を勧めておいたのだが、
マサルは制作背景の裏話ばかりを読んでいてキャラクターは全スルー。しょうがないので復刻パンフレットを僕が買って、
それでキャラクターを予習しようと思ったら、原作ヘッドギア5人の説明はあってもキャラクターの説明がないんでやんの。
結局、キャラクターの出ている写真を指さして最低限の口頭での説明を余儀なくされるのであった。ニンともカンとも。『機動警察パトレイバー 劇場版』についての僕の感想は前にさんざん書いたのでそちらを参照(→2008.7.30/2024.9.26)。
以下はSMSでもらったマサルの感想をこちらでまとめたもの。
冒頭に1989年当時の予告編が流れたのだが、ナレーションの雰囲気などにファミコンのCM的雰囲気を感じて、
見たことない予告編なのに懐かしさをおぼえたとのこと。オープニングとエンディングが歌詞のないBGMなのが良かったと。
エンディングがTMネットワークとかだと一気に時代性を背負ってしまうけど、そうならなくて良かったそうだ。
内容については、最初に犯人が海に身投げするのは『シン・ゴジラ』(→2016.8.23)の牧教授の元ネタではないか、と指摘。
牧教授の奥さんが放射能で死んで、政府や日本に何らかの恨みを持って自らの命と引き換えにゴジラを生んだことと同様に、
(※びゅく仙注:『シン・ゴジラ』の作中でそのように明示されてはいないが、そう解釈することは十分に可能である。)
帆場暎一は地上げなどで自分の故郷がなくなっており、延々と埋立地をつくって開発していくことに何らかの恨みがあって、
そうした開発を無にしたかったということかな、と思ったそうだ。そしてその象徴とも言える方舟の建設が気に食わなくて、
神(エホバ)として鉄槌を下したかったのかな、という解釈。マサルには牧教授も帆場もなぜ自殺するかはよくわからないが、
犯罪(企み)が成功して死刑になる前に逃げることで、人間に処罰されない神的存在になりたかったのかな、と感じたそうだ。
そこまでしてやりたいことかな、という疑問は残るそうで。あと、マサルは帆場を追う松井刑事の容姿に異質さを感じており、
見た目を押井守に似せて作ったキャラかと勝手に思って見ていたそうで。でも、押井の若い頃の写真を見たら男前だったので、
自分の思い過ごしだった、とのこと。以上、僕からするとマサルにはわりと楽しんでもらえたようなので、ほっと一安心。
ルノアールで感想戦の岩崎マサル氏。
◇
続いては『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』である。いわゆる「春エヴァ」ってやつで、1997年3月の公開。
これは僕もマサルも浪人が終わって呆けているタイミングなのよね。少なくとも僕は観ておらず、今回が初鑑賞である。
ただし僕は、「夏エヴァ(Air/まごころを、君に)」については、親しくなったばかりのみやもりと八王子で観ている。まずは僕の感想。総集編は時系列が混乱するし、新作部分は中途半端だし、たいへん困る仕上がり。
とりあえずアスカ派を喜ばせるわけで。そしてこの後地獄に突き落とすわけで。魂のルフランの名曲ぶりでごまかした感。
総集編については、序盤1/3をシンジ視点(一人称でシンジの顔は映さない)、中盤1/3をアスカ視点(同じく一人称)、
終盤1/3をレイ視点(同じく一人称)、最後だけカヲル視点(さすがに一人称は無理だろうからここは三人称を許容)で、
映像と音声を分けて再構成すりゃ新鮮で面白かったんじゃねえかと勝手に思うのであった。そんな余裕はなかったろうけど。
そして4人揃ってパッヘルベルのカノンのサビだけでも演奏して締めておきゃ、もうそれでよかったんじゃねえかと。以下はSMSでもらったマサルの感想をこちらでまとめたもの。
前半のまとめ部分(DEATH)は、知ってる人にしかわからないような時系列ごちゃ混ぜのまとめで、
当時の感じがしてこれも懐かしかったそうだ。パトレイバーは正直そこまで前提知識がなくても楽しめたそうだが、
シト新生は前提知識がないと無理なのでは、と。今にして思えば、シンジがアスカを見ながらいたす「最低だ」シーンや、
セントラルドグマ内の地下プラントで大量のレイが壊れていくシーン(やたら臓器とか骨とかを表現しようとする)などは、
90年代末に流行った露悪趣味系譜のサブカルっぽくて時代性を感じたし、当時だから受け入れられたのだ、と思ったそうで。
なお今回の30周年リヴァイヴァルの冒頭で、鶴巻監督が主題歌を『魂のルフラン』にするか別の曲にするかで意見が分かれた、
という話をしていたが、そのもう1曲が何かを言わずに観客に調べさせようとするところがエヴァっぽいな、と思ったそうだ。
ラストの『魂のルフラン』の入りは思っていたよりも静かに感じたそうで、およそ四半世紀越しに見たこともあって、
勝手に大音量でかかるようなイメージに脳内補正されていた、とのこと。『魂のルフラン』が流れて唐突に「完」と出たが、
今にして思えば世間の勝手な盛り上がりを冷笑するポーズのようにも思えてきたそうで。また鶴巻監督は冒頭の説明で、
当時は申し訳ないことしたと言ってたが、マサルが想像するに、新劇場版みたいに庵野秀明が何も決めなくて間に合わなくて、
俺は間に合わせようとしたのに、本当は庵野が全部悪いみたいな気持ちがあって、無理やり「完」を入れたんじゃないか、と。
そもそもTVシリーズがきちんと終わらなかったから完結させるって言って始めた劇場版なのに、結局終わらなくて、
でも完結させないといけない契約になってたのか、形式上「完」にしてこの続きを次回で!みたいな言い訳にしたのかも、と。旧劇場版のリヴァイヴァルは「月1エヴァ」ということでやっているそうなので、「夏エヴァ」もぜひ観に行きましょう!
映画がレイトショーなので晩メシにだいぶ余裕があったので、家系ラーメンの元祖である吉村家で食べてみることにした。
少し早い時間を狙ったのだがすでに行列がすごくて、裏の通りに並んで待つこと45分。雨なんて関係ない人気ぶりだった。
席に着くとわりとすぐにラーメンが登場。各方面から苦情が出ないようにシステムが洗練されきっていたのが印象的だ。
ラーメン大盛、1,250円。物価高じゃのう。
近所の家系で食ったときは「クソマズイ」という感想しかなかったが(→2024.7.17)、総本山はさすがにきちんと旨かった。
まずスープに臭みがまったくない。カエシがなかなか強い印象だが、醤油方面の酸味は鶏油といいバランスとなっている。
茹で方のせいか、麺が一本一本バラバラでくっつくことがない感じ。まあそれは箸やレンゲで捕まえづらくもあるのだが。
チャーシューは少しスモーキーで生ハム型の食感、時間が経つとスープの温度でレアからミディアムに変化するやつ。
そんなわけで、めちゃくちゃ丁寧にジャンクをやっている印象。ラーメンの新たなジャンルを切り開いた凄みは理解した。
帰るときに行列を見たら、来たときと同じくらいだった。まあだいたい最悪で1時間くらいの待ち時間になるのではないか。それにしても、『ラーメン発見伝』(→2024.1.19/2024.3.18/2024.5.15)を読むといろいろ鍛えられますな!
◇
ではレイトショーの『狂い咲きサンダーロード』。石井聰亙監督が学生時代に撮ったという伝説の暴走族映画である。
究極のカルト映画を見た。面白い/面白くないの軸を完全に飛び超えている作品で、究極のやりたい放題が記録されている。
最初、キャラクターがぜんぜんつかめなくて困惑していたのだが、中に明らかにおかしい人がいて、それが主人公だった。
主演の山田辰夫は本物の暴走族を連れてきてカメラの前に立たせた以上の存在感で、まさに狂気を体現している。展開にもついていけなくて混乱しまくったが、論理的な正しさを追うのは低予算だと難しいということか、と思う。
十分な予算がないと、うまく説明するカットでシーンを埋めることができないのだ。接着剤なしで組み立てることになる。
そうなると物語は非論理的な展開とならざるをえず、そこに暴力が用いられるのは常套手段だ。暴力は非論理的だから。
暴力を媒介にすれば、唐突さが許されるのだ。ではその暴力を引っぱり出してくるためのエクスキューズは?──狂気だ。
というわけで、この映画では狂気を全力で描いている。狂気に狂気をさらに上乗せしていく狂気、というか若気の至り。
それが98分まるまる続く。でもところどころにものすごく切れ味の鋭い表現が入り、石井監督はやはり非凡なのだとわかる。
“表出”と“表現”の問題は以前書いたが(→2012.3.6/2013.9.5)、この映画に込められている“表出”のエネルギーは凄まじい。
そういう意味では、創作への衝動を持つことができる人間であれば、10代のうちに一度は見ておいた方がいい作品だと思う。
しかし低予算ながら“表現”がまったく稚拙というわけではない。ただひたすらにめちゃくちゃな物語ではあるのだが、
たとえば稔侍のホモシーンは大正解だ。ヤク中のガキも、もちろん音楽も大正解だ。筋書きに完成度を求めていないくせに、
あらゆる枠から全力ではずれようとしているのに、狂気が機能する計算は丁寧にやっている。そういう生真面目さがある。
ラストシーンのきちんとした締め方でわかるが、狂気に呑まれそうになりつつも制御しきって終わらせたのは見事だ。
はっきり言って、話としては面白くない。でも妄想を映像という形でできるだけ極端に仕上げた偉業は、評価せねばならない。
(勝手に動き出すキャラクターや物語を操って完結させることは偉業である(→2004.9.19/2005.1.27/2021.2.23/2022.2.5)。
きちんと制御できないと、こんなことになってしまう(→2008.7.11/2009.11.28/2012.5.2/2024.2.20/2025.1.7)。)でもこれたぶん、いちばん面白いのは完成した映画よりも、それを撮っていたかけがえのない時間だろう。
そこまで含めての青春映画ではないか。若者だけに許されるものが狂気という形で克明に記録されたフィルム。
公明党が連立政権から離脱するというのもなかなかのビッグニュースだが、それ以上の衝撃の事態である。
わがヤクルトスワローズは高津監督の退任が決まっていたが、池山新監督が爆誕。ついに来たか、ブンブン丸政権。
誰が指揮をとろうと末期的な状態はしばらく続くのだから、ドラフトを中心とする再建を粘り強く待つしかない。
だから火中の栗を拾った池山監督を僕は全面的に支持する。実際は野村監督がびっくりしたほどマジメな人なわけだし。
現役時代の身体能力が凄かったからってダメ監督ってわけではないでしょう。さすがに新庄ほどのミラクルはないだろうけど。
池山監督にはやりたいようにやってもらって、後世に育成の名人として評価されてほしい。ま、やってみなきゃわからんぜ。
ロバート=レッドフォード追悼企画で『リバー・ランズ・スルー・イット』を観たのであった。
これ、いちばん感想を書きづらいタイプの映画である。とりあえず釣りをしていればいいのだ、という映画なのだが、
川の流れのように淡々と、しかしときに激流が発生し、そんな具合にモンタナの兄弟をめぐる話が紡がれていく。
舞台は20世紀前半で、中西部の開拓の感覚が残っている時代から工業化消費社会の時代へと変化が及んできており、
田舎でのんびりしていられないと都会へ人口が吸い出されている。押し寄せる変化に翻弄されつつ生きていくってわけで。
伝記をもとにしているようなので、ストーリー展開に文句をつける気も起きない。ふーんそうですか、となるだけだ。行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。そう、まさに『方丈記』のように、ある意味の無常観が貫かれているようだ。
ただ、われわれとは違い、その根底にはキリスト教があるわけだが。またアメリカ人じゃないと理解できないリズムもある。
そういう部分での差異を興味深く味わうことはできる。でも、観終わって何かが残ったかというと、いやあんまり、である。
川からあがって体を拭いたら前と変わらないじゃん、と。だからなんなんだ、と言ってしまえばオシマイ、そんな映画だ。
釣りのシーンを中心にきれいに撮れているから見られるんだけど、ただそれだけって感じもする。何がしたかったんや、と。本来であれば、ブラピ演じる次男の死をどう乗り越えるか、どう折り合いをつけるかが重要なんじゃないのか。
たとえば『タッチ』(→2012.5.12)はそこを高度に描いているが、この映画では最後の5分ほどで衝撃を与えて終わり。
ロバート=レッドフォードが何をやりたいのかまったくわからない。まさか釣りがしたいだけではあるまいな。◇
しかし久しぶりに渋谷に来たのだが、異様に外国人が多い。街も以前よりゴミが多いし。世も末じゃのう。
『ターミネーター』のリヴァイヴァル上映をやっていたので観てきたよ。僕が小学生のときに大ブームを巻き起こしたが、
あまりにシュワルツェネッガー人気が凄かったためか、『2』では「いいもん」になってしまって呆れ果てたのであった。
なんだよそれ、圧倒的な力を持って無表情で迫ってくるシュワルツェネッガーが悪役だからいいんじゃねえかよ!と。
人気が出たからって安易に正義の味方にしてんじゃねえよ!と。だから『2』も名作との誉れが高かったが、完全に拒否した。
そこから30年以上が経過した今年の「午前十時の映画祭」のラインナップに、実は『2』が入っていたのだが、観ていない。
われながらかなりのひねくれ度合いだが、納得できないんだからしょうがない。とはいえずっとこのままもよろしくない。
ここで『1』がリヴァイヴァル上映されるのはたいへんいい機会なので、まずは『1』をあらためてしっかり観ておく。
そうしていつか来るべき『2』を観る日に備えるとするのだ。なお蛇足だが、TVで放映された『1』を家族で見た際に、
サラ=コナーがリースの上で裸で腕立て伏せ的なことをやっているシーンでたいへん気まずくなった記憶が残っている。本編の前に監督のジェームズ=キャメロンが4Kレストア版についてコメント。低予算の思い出を熱く語るのであった。
おかげで本編が始まると、そういう目で見ちゃうのであった。特徴的なのが細かいカットとアップ。小津かよ、と思うほど。
つまりこれは複数人を映すとNGの際に手間がかかるからだろう。一人だけのカットを増やせば、簡単に撮り直せるわけで。
また、カットを分けてあえて撃たれた側を映し出さないのも上手い。手間をかけて血だらけの役者を用意しなくても、
撃たれたという結果を観客はわかっているので、十分に伝わるのだ。大胆だが賢く省略して物語を展開させている。
さらにシーンの大半が夜なのも、低予算ならではの工夫だろう。深夜の撮影なら邪魔が入らないし、光の具合も無視できる。
夜であれば闇から迫る怖さが強調される効果もあるし、アクションシーンにおける多少の粗をごまかすこともできる。
でも必要なアクションはしっかりやって、SFもやる。ポイントを絞ることで低予算とは思わせない工夫がすばらしい。
ストップモーションもある種の味になっている。そうやってあの手この手で妄想を映像化したのは、偉業であると思う。
もうひとつ感心したのが冒頭の興味の惹き方で、まずシュワルツェネッガーを出して絡んでくるチンピラを襲わせて、
次にリースを出してこちらには警察に追われるトラブルを用意する。どっちが敵でどっちが味方よ、と困惑させておいて、
最初の襲撃で決定的なインパクトを与える。このように展開を単純にしなかったのが地味ながら効いているなあと感心した。そしてやっぱりシュワルツェネッガーなのである。グラサンで無表情の迫力がさすが。terminatorという名前もよい。
上記の工夫が満載なところに決定的なキャラクターが確立されて、あらためて見ると大成功が必然に思える映画である。
SFをベースに絶対的な敵が迫るのは『エイリアン』(→2020.5.5)を思いだすが、こちらはホラーではなくアクション。
キャメロンが『エイリアン2』(→2020.5.6)をアクションに全振りしたのも、ノウハウを知り尽くしていたからか。
(時系列を整理すると、『ターミネーター』(1984)→『ランボー/怒りの脱出』(1985)→『エイリアン2』(1986)。)
エイリアンは有機的でターミネーターは無機的だが、どちらも怖い。それをアクションでやり返す第一人者ってわけだ。さて、シュワルツェネッガーが人気者になったからって「いいもん」にしてんじゃねーという思いは消えないのだが、
だからといって「わるもん」のままで続編をやるとなると、結局は同じことの繰り返しになってしまうのは確かなのだ。
じゃあ複数にするとかどうだ、と考えてみるが、それって『エイリアン2』なのである(ちなみに原題は「Aliens」)。
はいもういいです、「いいもん」でいいです。他に続編のやりようないもん。というわけで、『2』はいずれぜひ観ます。
昨夜発生した田園都市線の衝突脱線事故により、朝から交通が大混乱。通勤では個人史上最悪レヴェルの被害である。
まず大井町線がダメ。本数を大幅に減らしているうえに二子玉川止まりとなっていた。しょうがないので目黒線に乗る。
振替輸送で武蔵小杉から南武線で溝の口を目指すが、もともと大混雑している駅だけどホームに出ることすら厳しい。
それでも15分以上遅れた列車にどうにか乗り込み、3駅ガマンして溝の口駅のバス乗り場にたどり着いたのであった。
ところがバスがぜんぜん来ない。30分近く待ってようやくやってきたが、乗ってみて周辺が大渋滞しているとわかった。
結局バスもふだんの1.5倍くらいの時間がかかって到着。大井町線、南武線、バスで三重殺。職場に着いたらもうヘロヘロ。
ダメになったのはふだん乗らない田園都市線なのに、その影響でここまで壊滅的な状況になるとは想像もしていなかった。17時になっても電車が復旧する気配がない。今夜は二子玉川の映画館でIMAXの『トップガン マーヴェリック』を観るのだが、
ふだんなら帰り道にちょっと寄るだけの場所なのに、いま現在、首都圏で最も行きづらい映画館になってしまったではないか。
覚悟を決めて、バスで溝の口まで行くと、徒歩で多摩川を渡るのであった。逆方向で歩いている人の多いこと多いこと。
そうして二子玉川駅にたどり着き、駅蕎麦で腹ごしらえをして準備OK。3年ぶりのド迫力の映像(→2022.8.9)を楽しむのだ。先月に前作『トップガン 』を観たばかりなので(→2025.9.5)、『トップガン マーヴェリック』を観るには最高の状態だ。
そうしてあらためて観てみると、続編としての完成度がやっぱりめちゃくちゃ高い。痒いところに手が届きまくる脚本なのだ。
前作は正直言ってとても名作とは呼べないデキだったが、続編としてレヴェルをはね上げた度合いは史上最高かもしれない。
36年分の研究の成果が惜しみなく発揮されている。本当にとことんまで前作を研究し尽くしていて、心地よさすら感じる。
ヴァル=キルマーの使い方も最高で、前作エンディング以降のアイスマンとの友情をしっかり補完して最期につなげる。
(トップガンに戻ったマーヴェリックが「僕は2番だ」と答えてアイスマンへの敬意をきっちり示すのがたまらんのよ。)
ラストも空母のブリッジ(管制塔)を掠めるのなんか前作の冒頭を踏まえていて、めちゃくちゃきれいなフィニッシュだ。
またこの作品単体で見ても、F-14の正体がマーヴェリックだと最初に気づくのがサイクロンなのもすごく上手いなあと。
そしてもちろんメインである空戦の映像が完璧。やっぱり、どこをとってもよくできている映画なのである。まいった。
三井記念美術館『円山応挙―革新者から巨匠へ』。円山応挙の多様な作品を圧倒的な物量で味わわせる内容。
まず序盤で特集されるのは眼鏡絵。左右反対に描いた風景画を鏡に反射させ、凸レンズを通して眺めて楽しむものだ。
眼鏡絵はもともと中国由来の版画によるものだったが、応挙はこれで遠近法や線描、空間構成を学んだとのこと。
そうして満を持して応挙のさまざまな作品が一気に並べられるという構成。やはり三井記念美術館の本気は凄まじい。今回のハイライトは、金刀比羅宮(→2022.7.16)から持ってきた国指定重要文化財の『遊虎図襖』である。
僕は現地で悔しい思いをしているので(→2007.10.5/2011.7.17)、ここでその借りを返すことができたのは感慨深い。
これが三井記念美術館の誇る国宝『雪松図屏風』(→2024.1.20)と並べてあって、たいへん威力抜群なのであった。
『遊虎図襖(北面)』。分けて撮影したものをつなげてみた。
『遊虎図襖(東面)』。
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L: それぞれの虎をクローズアップしてみるけど、これ豹じゃね? C: どこかかわいい。 R: 正面からとは大胆な。
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L: これは珍しいアングル。 R: 水を飲む虎。他にも圧倒される作品が多数あり、『出山釈迦図』では写実的で迫力ある顔と抽象化されて岩を思わせる布の対比が見事。
『龍門図』の滝を昇る鯉とか発想がおかしい。また応挙といえば写生だが、その作品をじっくり見られたのもよかった。
思うに、応挙の強みは墨の濃淡を生かしきって、「透き通っている様子」を美しく表現することにあるのではないか。
たとえば富士山の裾野にかかる雲や、鯉が泳ぐ水面。『竹雀図屏風』では縦にうっすら墨を引いて雨を表現しているし、
『青楓瀑布図』では滝の下方が水しぶきの靄で消えている。北三井家4代・高美の一周忌に描かれた『水仙図』の淡い色彩は、
その最も美しい応用ではないかと思う。個人的には写生よりも、墨の濃淡によって想像力を刺激する点に魅力を感じる。
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L: 撮影OKだった『青楓瀑布図』。前にサントリー美術館で見たことあるなと思ったら、そっちから借りていた。
C: 滝の流れを墨の濃淡で表現。 R: 落ちていった先の複雑な流れもまた見事。岩を置くのがセンスだなあと。さて応挙といえば、足のない幽霊である。今回は長沢芦雪、山口素絢とともに並べられていたのだが、応挙はふつうに美人。
足がないのではなく、全身が透き通っているところで上半身特に顔を強調、という感じ。対して芦雪は怨念が混じっていた。
また応挙といえばコロコロとした犬(→2025.5.27)も忘れてはなるまい。猿を描いた作品もありユーモラスな表情で上手い。
応挙はなんでもできすぎないか。若冲とともに「奇想の画家」と言われるが、自由な発想と実現する技術が凄いのである。
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L: 『雪柳狗子図』。 R: 応挙といえばコロコロとした犬。それにしても「応挙といえば○○」がやたらと多い。さてその伊藤若冲と金屏風で競演した作品があり、これが鼻血が出るほど贅沢。応挙は「梅鯉図」で若冲は「竹鶏図」と、
どっちもそれぞれ得意な画題であり、実力どおりのクオリティで思わず悶えてしまった。いや、眼福でございますな。
それで見ているうちに、「奇想の画家」とはどういうことかと考える。本質は上記のように、自由な発想と実現する技術。
画題も含めて硬直化してしまった狩野派とは違って、なんでもやっちゃうなんでもできちゃう自由闊達さがあるわけだ。
それは狩野派=武士好みの価値観を脱したこと、つまりパトロンが町人たちへと移った事実を反映しているというわけか。
まあ結局は応挙のパトロンだった三井家すげーって話ですが。金持ちは「奇想の画家」を支援し、庶民たちは浮世絵へ。で、結論としては毎度書いているが、やっぱり「さすがの三井」というところに落ち着くのである。今回もまいりました。
パナソニック汐留美術館の『ウィーン・スタイル ビーダーマイヤーと世紀末 生活のデザイン、ウィーン・劇場都市便り』。
ビーダーマイヤーとはウィーン体制下のオーストリアで展開した文化。つまりは19世紀前半という世界史の転換点の文化。
ナポレオンがセントヘレナ送りになった後、揺り戻しで自由主義が抑圧される。そんな中で市民社会は退潮を余儀なくされ、
政治面で迫害される恐れから人々の関心は家庭生活に向かうことになる。ただ、近代化の進行により中産階級は力を持ち、
貴族のものとは異なる文化を生みだした。簡素ではあるが抑制された装飾が入ってしまう、そんな作品がつくられていく。
この展覧会ではまずそのビーダーマイヤーに焦点を当て、次いでその孫世代となる19世紀末のビーダーマイヤーへの回帰、
そして女性パトロンまた家庭の中のデザインから女性が鍛えられてデザイナーへと成長していくさまにもスポットを当てる。
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L: ヤーコブ=クラウタウアー『ティーポット』(1802年)。最後の看板だけ撮影OKで、そこからトリミングしてみた。
C: 『椅子』(1820年ごろ、詳細不明)。 R: ウルバン=ヤンケ『ウィーン風景』(1906年ごろ)。これは孫世代の作品。ビーダーマイヤーの作品群を意識して見るのは初めてだが、たいへん面白かった。ウィーン体制のど真ん中だが、
この時期ゆえに残ってしまう装飾性、中産階級向けにシンプルだけど装飾が入っちゃうセンス、優雅さの融合が実に見事。
クラウタウアーのティーポットが抜群に秀逸で、中産階級が力をつけてきた事実が日用品を通してはっきりとわかる。
メッテルニヒのお膝元だからか、貴族趣味で鍛えられた自然な装飾は、アール・デコより洗練されているかもしれない。
むしろこれはアール・デコの元ネタであるとすら思える。銀器を中心に手づくり感のある幾何学的な装飾がたいへん美しい。
センスとしては、リベットを装飾と捉えるところから始まっているような気がする。工業化をポジティヴに生かすセンス。そしてこの展覧会では、孫世代である19世紀末のビーダーマイヤーへの回帰を「ウィーン・スタイル」と表現している。
主役となっているのは、オットー=ヴァーグナー門下のウィーン工房。一言で言うと、「アール・ヌーヴォーとの戦い」か。
物量的にビーダーマイヤーだけだと苦しいので(個人的には残念だが、難しいか)、ウィーン工房の比率はかなり高め。
中心となっていたヨーゼフ=ホフマンは少々野暮ったいが、コロマン=モーザーは幾何学的な感覚を徹底していて面白い。
しかしながらホフマンに招聘されたというダゴベルト=ペッヒェのセンスは、残念ながら非常に中途半端でイモである。
見ているとなんとなく、アーツ・アンド・クラフツ(→2024.3.4)がアール・ヌーヴォーとウィーン工房の中間に来る印象。
またウィーン工房はミュシャ(→2024.7.29)と同じ流れにある気もする。特に装飾や文字などのセンスは近いものがある。◇
というわけで、テキトーに表をつくってまとめてみる。あくまで個人の乱暴な主観ですので文句は言わんでください。
とりあえず装飾性が強いと感じたものから左→右の順に並べている。ビーダーマイヤーはデザイン前史としてかなり興味深い。
| アール・ヌーヴォー |
アーツ・アンド
・ クラフツ |
ビーダーマイヤー | アール・デコ |
インターナショナル・ スタイル |
|
| ①装飾性 | 極強 | 強 | 中 | やや弱 | 弱というか無 |
| ②時期 | 19世紀末〜20世紀初頭 | 19世紀後半 | 19世紀前半 | 20世紀前半 | 1920年代以降 |
| ③場所 | 主にフランス | イギリス | オーストリア | アメリカ | 無国籍 |
| ④モチーフ | 植物・昆虫 | 植物 | 幾何学的模様 | 幾何学的模様 | 強いて言うなら四角 |
| ⑤素材 | 金属・ガラス | 木材・布 | 木材・金属 | 石・鉄・ガラス | コンクリ・鉄・ガラス |
| ⑥分野 | 家具・食器・出版 | 家具・内装・出版 | 家具・食器 | 建築・内装 | 建築 |
| ⑦組織形態 | 工房/会社 | 工房 | 工房 | 会社 | 会社 |
(もちろんアール・ヌーヴォーとアール・デコの周辺にはいろいろ挟まるが、後に続く影響と地域性を基準に省略している。
具体的には、ユーゲントシュティール(ドイツ)、ウィーン・スタイル(オーストリア)、未来派(イタリア)、
デ・ステイル(オランダ)、バウハウス(ドイツ)、大正ロマン(日本)、ロシア・アヴァンギャルド(旧ソ連)など。)装飾面を中心にして考えると、通時的には真ん中からいったん左に振って、右へと展開していく感じになると思う。
直接的に関係があるわけではないだろうが、アール・ヌーヴォーを乗り越える要素としてビーダーマイヤーが参考となった、
そう考えることは確かにできるのではないか。その流れを全体的に「抽象化の流れ」と総括することもできそうな気がする。
また情報化が進んでいったということか、それぞれの運動が移行するスパンがだんだん短くなっている点もうっすら感じる。
運動が展開した場所については、明らかにヨーロッパからアメリカへ、そしてさらに国際的な方向へと飛び出している。
素材と分野については、身体スケールから都市スケールへの拡張、重工業への移行というまとめ方ができそうだ。
組織形態は徒弟制をもとにする工房から会社組織へと移行し、職能から知的財産という捉え方に変化したと指摘できそう。
以上、19世紀から20世紀前半にかけての変化を超絶ざっくりとまとめてみた。本当にテキトーなので文句言われても困る☆
伊丹十三監督作品シリーズ『タンポポ』。こちらは監督第2作目となるが、ラーメンブームを引き起こした記憶がある。
もっと面白くできただろうに、という思いが強い。もちろん目の付け所は当時としては非凡としか言いようがないのだが。
本編とは別に多数のエピソードが差し挟まれて、雑音が多すぎるのが困る。特に本筋と完全に無関係なものはどうかと思う。
集中を乱すだけで、個人的にはめちゃくちゃ冷めてしまった。旨いラーメン食ってる間にいきなり氷をブチ込まれた気分だ。
別エピソードがまたきちんとしているだけに、邪魔でたまらない。本筋に自信がないのか、冒険心を抑えられなかったのか。映画の内容は、ふだん低く見られがちなブルーカラーやホームレスの「逆襲」とも読める。実は階級の話なのかな、と思う。
でもそれにしては、ラーメンの立ち位置が示されることなく中途半端な感じ。ラーメンは大衆食の代表であるわけだけど、
対照的な高級グルメをわざわざエロく食う白スーツの男は撃たれて死ぬだけ。よけいなことやっている余裕があるのなら、
「日本人にとってラーメンとは何か」をきちんと描けよと思う。他の食べ物を扱ってもラーメンとの比較がなくてドッチラケ。
まあでもこの時代に『ラーメン発見伝』シリーズ(→2024.1.19/2024.3.18/2024.5.15)ほどの濃ゆい分析を求めるのは酷か。
むしろ実際には『タンポポ』が初めて引いたレールの先に『ラーメン発見伝』シリーズがあるわけだから、しょうがないか。
最終的に5人の味方が集まる梁山泊的な頼もしさは面白い。それだけに、なんでわざわざつまらない方に仕上げたのか疑問だ。特筆すべきは大滝秀治。面白すぎて完全に反則だ。ずるい。劇場の座席で声を殺して笑い転げてこっちが死ぬかと思った。
先々月から継続している新文芸坐の伊丹十三監督作品シリーズだが、監督デビュー作の『お葬式』を観たのであった。
葬式のあれこれはよくわからないけど、知らないといざというときに困る、この時点からすでに「学べる内容」の映画。
伊丹個人の経験を切り口にしつつ、エンタテインメントとして脚色していくそのバランス感覚が絶妙なのである。
でも冷静に考えれば、葬式とは喜怒哀楽が早いテンポでみっちり詰まっている題材なのだ。やはり目の付け所が鋭い。
「あるある」をベースにしたコメディとともに、泣けるドラマも展開される。要素をすべて拾い上げるセンスがさすがだ。
途中でモノクロ16ミリを差し挟む工夫もいい。現在進行形の中に他者そして過去としての視点が混ざり、厚みが増している。
お色気などよけいなところに力が入りすぎているのは確かだが、デビュー作でこの質の高さはお見事としか言いようがない。岸部一徳が若すぎて戸惑った。もう40年以上前の映画だから当たり前なのか。その後の岸部一徳の活躍ぶりもすごいですな。
僕は中原俊監督の『櫻の園』大好きっ子なわけだが、ついに映画館で観ることができた!
しかしながら過去ログを見ると、まともな感想をぜんぜん書けていない(→2003.11.6/2006.12.24)。
(リメイク版については気合いが入っているが、1990年版についての記述はメインではない。→2008.11.10)
かといって、あらためて細かく論じる気も起きない。あれこれ言うよりも実際に作品を見て、あの時間を堪能する、
それがすべてだと考えるからである。おっさんがとやかく言ってもしょうがないのだ。あの時間の前には何の意味もない。
でもまあせっかくなので、久しぶりにあの時間を味わったうえで感じたことを、気ままに書き付けていくとしましょうか。まず最初に思ったことは、「百合」ではなくあえて「エス」と呼びたい、ということ。
僕はその世界については詳しいわけではないけど、空間の古めかしさを利用して普遍性を取り出している感触があるので。
(エスについて参考になる事例としてはまず高畠華宵(→2023.6.4)、あとは定番の『マリみて』(→2004.3.4)とか。)
この映画で描かれているのは、もはやさんざん手垢のついている「百合」という安易な言葉で捉えられるものではなく、
ちょっと試行錯誤が入っているようなその前段階、当人がまだうまくカテゴライズしきれない関係性ではないかと思うのだ。
それで前時代の「エス」の方がしっくりくるのである。時代が手探りしていたのと、登場人物たちの手探りとが重なる。小難しいことを書いたけど、要するに描かれているのは、相手にとって特別な存在になることを求める「好き」である。
誰か特別な一人との絆、それを確かめるキーワードとしての「好き」。likeやloveとはまた異なる濃度の好意的な感情だ。
生物学的には女子校という閉ざされた空間の女子の間で観測されやすいが、おそらく他の条件や男子でもありうるだろう。
この非常に繊細な「好き」の一種をありのままに析出する、そういう偉業をこの映画は見事にやってのけているのだ。
だから「実際の女子高はどーのこーの」とか「10代特有のどーのこーの」とか言う連中は、本当に的はずれで恥ずかしい。
注目すべきは、緻密に詰め込まれた言葉と行動が描ききっている繊細な種類の「好き」、その絶対的な質感なのである。それにしても映画として最高峰なんじゃないのと思えるほどに完璧な会話劇である。会話によってテンポよく物語が進むが、
セリフに説明と感情が無理なく乗っている。観客はセリフを情報として処理するわけだが、説明と感情では性質が異なる。
しかしこの作品では開演前の演劇部という時間の限定を行うことで、最初から情報の種類を大幅に限定しているのが巧い。
そのうえで性質の異なるセリフ(女子のおしゃべり=雰囲気づくり、事態の変化=説明、対話=感情)を巧みに操っている。
特に重要なのはもちろん対話で、3人それぞれの心情を知ったうえでやりとりを見ていくと、また格別なものがある。
周りが猛烈にわちゃわちゃしているが(そうしないと純度が高すぎて薬やアルコールと一緒で効きすぎるので仕方ないのだ)、
3人の心情と行動を丁寧に見ていくと、彼女たちがおそるおそる示す儚い「好き」の質感に、本当に気持ちを揺さぶられる。
おまけにタバコというガジェットの活躍と回収までも完璧。テーマ、会話、伏線と、この映画はとんでもない完成度なのだ。志水さんは杉山補導の報を受けて、自分の枠を壊したくなって夜にいきなりパーマをかけちゃうのがたまらんのである。
杉山は幕が上がる直前に志水さんの誕生日の話をして、皆が祝ってあげるのを餞別代わりとするのがいじらしいのである。
これを最初と最後に埋め込んでいるのがすばらしい。それがわからんやつにこの映画をあれこれ批判する資格はないのである。
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L,R: ポスター。なお倉田さん役の白島靖代は野村ヤクルト・土橋の嫁さん。土橋はそっちでホームラン打ってんじゃねえよ。映画館で観たけど、やっぱりこの作品は独りっきりで、誰にも邪魔されずに見たい。そっと3人を見ていたい。