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2025.6.29 (Sun.)

上野の森美術館でやっている『五大浮世絵師展─歌麿 写楽 北斎 広重 国芳』にリヴェンジしてきたのである。
先週は夕方にもかかわらずなかなかの行列で(→2025.6.21)、朝イチならよかんべおんと9時10分ごろに現地入り。
そしたらすでにしっかり行列がとぐろを巻いているのであった。いや、これにはまいった。そりゃ並ぶけど。

 開館時刻の約1時間前にこの行列ですぜ(2往復して右手前の木の辺りが最後列)。

さすがに対応が早く、9時15分にはチケット購入列を分けての整理が始まり、予定より早く9時30分に入場開始となった。
素早く背中の荷物をロッカーに預けると、撮影可能な作品を先に撮ってしまう。そうして後ろから展示を見ていく。
で、入口に到達したら今度は正規の順番で、気になる作品を再確認していけばいいというわけだ。朝イチ万歳なのだ。

まず最初が喜多川歌麿。実に正統派で、浮世絵らしい浮世絵のイメージそのままである。そしてとにかく美人画。
鳥文斎栄之(→2024.3.5)とはライヴァル関係にあったわけだが、顔の印象としては似た感じである。まあ正統派。
先月見た東京国立博物館の蔦屋重三郎展(→2025.5.27)と比べると刷りがやや甘いが、大首絵という革命が味わえる。
そこから顔を鏡に映す凝った構図も展開され、淡い色彩がまたオシャレ。歌麿により浮世絵が解放された感がある。

 喜多川歌麿『教訓親の目鑑 俗二云 ばくれん』。浮世絵師1人につき1枚、撮影OKの作品がある。

次が東洲斎写楽。これまた先月東京国立博物館の蔦屋重三郎展で見ているが、特徴をつかめる作品が並んでいた。
やはり素人ゆえのオリジナリティがすばらしい。しかしやはり大胆不敵すぎる大首絵は世間に受け容れられず、
2期では顔の特徴を残しながら全身像へとシフトする。上手くなった一方で、野性味ある魅力が減じていくのが悲しい。
顔で他の絵師との差がつくはずなのに、その個性を抑えるべく全身を描くという矛盾が切ない。でも2期は確かに上手い。
最後に並んだ力士絵は、一人ひとりの顔の特徴を的確に捉えた描き分けが実に見事。現代でも通用するマンガのようだ。
大童山文五郎が稲中っぽいのが面白い。やはり本質的に写楽は風刺画家なのだ。浮世絵に風刺を持ち込んだ人なのだ。

 東洲斎写楽『三代目坂東彦三郎の鷺坂左内』。

続いて葛飾北斎。序盤の浮世絵は若い頃、凄くなる前の作品が多く、ちょっと凡庸で突き抜けたものがない印象。
でも北斎漫画の面白さは永遠だ。冨嶽三十六景から構図がキレキレになるのがわかる。刷りがイマイチでちょっと残念。
見ていると、北斎の真骨頂は本質をつかんで極端に表現することにあると思う。歳をとるごとに作品が極端になっていく。
設定した主題に対する焦点の絞り方が上手いのだ。冨嶽三十六景で「富士山さえ入っていればなんでもいい」を経験し、
むしろ「富士山が見た人々」を表現してしまう(→2021.7.29)。メタ的な視点を手に入れたことで悟りを開いた感じだ。

 葛飾北斎『冨嶽三十六景 五百らかん寺さざゐどう』。

4番手は歌川広重。広重といえば風景画で、その切れ味は言わずもがなでたいへんモダン(→2024.12.2)。
構図が抜群なうえにベロ藍が美しい。多層的な影やあえて視界を遮る大胆さもよい。一枚の絵の中の物語性が凄まじく、
情景を描くという点で最高の画家だろう。広重が描くと単なる「いい景色」ではなく、見る者への問いかけとなる感じ。
つまらん油絵の風景画なんかとはもうレヴェルが違う。その一方で、美人画ももちろん一定レヴェルではあるのだが、
服の模様に翻弄されているというか、せっかくの凝った模様を生かしきれるポーズになっていないのが気になる。
背景と女性が完全にマッチした『東都名所両国ゆうすゞみ』は傑作だが、女性単体だと風景画ほどの感動はないなあ。

 歌川広重『月に雁』。

ラストを飾るのは歌川国芳。作風の広さで知られるが(→2023.5.292025.1.9)、今回は特に武者絵がたっぷり。
やはり三枚絵の構成を生かしきった構図がたまらない。一枚ずつ配置した顔、顔、顔の生みだすリズムが見事なのだ。
あるいは三枚ブチ抜きで横たわる大きな怪物と小さな人間の対比。構図というより「演出」という言葉がしっくりくる。
さらにはさまざまな彫刻作品を縦横無尽に並べつつ、中央に顔を見せない左甚五郎を描くということまでやっている。
一枚絵の武者絵だと縦長の中に上下で対比する構成が光る。弟子の月岡芳年がさらに進化させるわけだ(→2023.3.6)。
風景画は広重がいるので比べられると苦しいが、『近江の国の勇婦於兼』など西洋画を採り入れているのがさすがだ。
『白面笑壁のむだ書』もこれまたマンガで面白い。浮世絵師は型に従っているものの、各自にマンガのセンスがある。
三枚絵で女性が並ぶ『八町づゝみ夜のけい』は、広重の『東都名所両国ゆうすゞみ』と並べて比較して見てみたい。

 歌川国芳『小子部栖軽豊浦里捕雷』。

ちなみに石川真澄による尾上松也の浮世絵があったのだが、浮世絵としての作風を守りつつしっかり似ていてお見事。
満足感に浸りながら上野の森美術館を後にしたのだが、行列が延びすぎてワケがわからん状態になっていて恐ろしかった。
館内も大混雑だったが、行列の終わりが本当に見えなくて、こりゃ朝イチじゃないと熱中症で死ぬるぞ、と震えた。

注文していた登山靴を受け取るべく神保町へ移動。やっぱり三省堂がないと神保町は核が抜かれた印象になってしまう。

 
L: 人気カレー店が3軒並ぶホットスポット(→2019.11.72019.11.252019.12.42020.2.13)。さすがの神保町。
R: でも今回はニューともちんラーメンをいただいた。いわもとQ跡地で立ち食いスタイル。田中商店的なラーメンね。

絶好の市役所撮影日和だったけど、展覧会の内容がよろしかったのでこれでヨシとするのだ。英気を養った一日。



2025.6.22 (Sun.)

若尾文子映画祭も気がつきゃ「Side. B」である。スケジュールが合わず「Side. A」をあまり見られなかったのは残念。
で、本日は『清作の妻』。吉田絃二郎の小説を、新藤兼人の脚本、増村保造の監督で戦後にあらためて映画化したもの。

一言で表現するとコレ、「ヤンデレVS軍国主義」である。筋が通っているのは果たしてどっちだ、という話。
この構図に気がつくとめちゃくちゃ面白い。増村監督は若尾文子というファム・ファタールを軸に据えた作品を残したが、
今回の対戦相手に日露戦争前後の日本をブッキング。そうして軍国主義の抱えたものすごい矛盾を、余すことなく描きだす。
男を愛するあまり取り返しのつかない行動に及ぶヤンデレ女は、客観的にみれば狂気に呑まれてしまっている。
しかしそこには愛という一貫性を持った厳然たる論理がある。増村監督はそれを女の立場から丁寧に提示していく。
その一方で背景にある軍国主義、また田舎の閉鎖的な社会もしっかり描くが、この集団の合意に実は一貫性はない。
出征した若者の帰還を祝う一方で名誉のために死んでこいと言い放つ矛盾。模範的と褒め讃える一方で出る杭を打つ矛盾。
人々はただ周囲に同調することで、自分が標的となることを避けている。簡潔に言うとその行動基準は「世間体」である。
でもヤンデレ女はある意味純粋だから、その矛盾を呑み込めない。そうして世界を敵にまわす行動を選んでしまうのだ。
さてそうなると、ヤンデレ女が呑まれた狂気と、思考を放棄した世間体への追従と、どちらが人間として知的なのだろう。
ヤンデレサイドも軍国主義サイドも的確に描く実力があるのが増村監督のすごいところ。存分に面白がらせてもらった。


2025.6.21 (Sat.)

久々に池袋にやってきたのだが、なんというか、日本はすっかりおたくに染まったなあと思う。
まず、冴えない男が並んでいる行列を複数見かけて、そこからは「物販が〜」なんて声が聞こえる。
ビルの脇ではグッズをいっぱい身につけた女子がキャリーケースから何かを取り出している。
メシを食ったなか卯では、アイドルソングだかなんだかよくわからんアニメ声の歌が流れている。
そして通りには平然とコスプレして歩いているやつがいっぱいいる。すっかり日本はおたくである。

もともと池袋がそういう色の濃い街ということがあるにしても、そんなに池袋特有の現象とも思えない。
最近は元気がなくなっている秋葉原から漏れ出したものが、東京のあちこちに展開していったという感触である。
まあそもそもが日本人はおたく気質であり、昔のおたくは浮世絵なんかでウハウハしていたんだろうけど。
それにしても「おたくが市民権を得た」というよりも、「日本がおたくに染まった」、そういう感触なのだ。
かつては勉強が得意な連中が裏でやっていたおたく趣味が、言っちゃあ悪いが偏差値の低い層に浸透した感じがする。
また別の言い方をすると、本格的に消費の対象として認知されるようになった、という表現もできると思う。
どのみち、元来おたく気質な人間としては、つまんなくなったなあと感じている。近頃のおたくは安っぽいんですよ。
裏でこっそりやっているから楽しいのであって、それを表に出したらただかっこ悪いだけだと思うのだが。

そんなことを考えながら本日の映画館が入っているグランドスケープ池袋に到着したら、でっかく「CAPCOM」のロゴ。
グッズでもあるのかと思ったら、ガチャガチャとクレーンゲームばっかり。いちおう3階にはカプコンカフェもあるが、
ロックマンが忘れられないおっさんはまるでお呼びでない雰囲気だった。ううむ、カプコンは死んだ(→2025.5.31)。



では午前十時の映画祭で、『風と共に去りぬ』。上演時間が222分ということで、気合いを入れて鑑賞開始。

結論から言うと、これは原作がクソ。4時間弱という時間的コストを払ったが、原作は読む価値なしとわかってよかった。
長編の原作に忠実な内容とするため、物語のテンポが異様に速い。前半についてはその見事な圧縮ぶりに素直に感心した。
正面切ってではないものの、背景としての南北戦争と当時の南部の状況をきちんと描いており、かなり興味深かった。
しかし休憩した後の後半は、テンポの速さが完全に災いして、心情が変化する過程を追う余裕がなくなってしまっている。
結果、登場人物の行動に一貫性がまるでなくなり、ほぼみんな分裂症。金だけはあるのでセレブな生活を送っていて、
まるで超絶駄作の少女マンガ。最後まで集中力をきちんと保って観たうえでこれを名作だと感じる人は、だいぶ頭が弱い。
結局のところこの映画、長編小説のあらすじをそのままハイスピードで映像化しただけ。本当にそれだけの価値しかない。
さらにヒロインの性格が自業自得なので、どうしょうもない。原作のクソさそのままで、得るものが何もない時間の無駄。
おまけに序曲はまあしょうがないにしても、「THE END」と出た後に終曲で呆れ果てた。いったいどこまでバカなのか。

この話、百合として描けばだいぶマシだったかもしれない。というか、おそらくそれしか正解はないはずだ。

映画の後は上野の森美術館で浮世絵を鑑賞しようと思ったが、15時過ぎなのになかなかの行列だったのであきらめた。
東京はどこへ行っても人が多すぎる。外国人でよけいに多すぎる。都内のお出かけがつまんなく感じられる今日この頃。



2025.6.13 (Fri.)

教育実習期間中なのであります。実習生を指導するのは初めてで、力加減がまったくわからない。
なんせ自分のときはまったく参考にならないので(→2008.3.122020.9.24)、いちいち首を傾げつつやっている。
(2回目の教育実習は中学校の英語だったので、これまたまったく参考にならないのである。→2008.5.262008.6.14
実は「実習生への指導がいちばん勉強になる」という言葉があるのだが、まさにそのとおりだと痛感しているしだい。
実習生に言うことがすべて自分に撥ね返ってきますのでな。テメエに偉そうなこと言う資格があるのか、と毎日反省中。

ふと思ったのは、自分の授業を形容するのに最もふさわしい言葉は「ストロングスタイル」ではないかということ。
ガリンゴリンに進学校向けの授業。煮詰めに煮詰めた要点を息もつかせぬペースで容赦なく生徒にぶつけまくる授業。
いま現在ではなく5年後、いや10年後の生徒にとって、最も有益な情報として残ってくれることを目指す授業。
これは「ストロングスタイル」と形容するのがいちばんしっくりくるのではないか。呪縛という点でもふさわしそう。

さて本日は社会科教員による会が開催されたのであった。歓送迎会を兼ねているのでそれなりの人数が集まった。
今までそのような飲み会が行われたことはなかったのだが、実際にやってみるとこれがめちゃくちゃ面白いのであった。
社会科の教員は物好きの集団なので、どんなボールが投げ込まれても確実に打ち返すことができる悪球打ちばっかり。
だいたいの飲み会は、どこの学校があーだとかどこの先生がこーだとか、つまらん話題がはびこりがちだが、
そういう要素が一切ないのはたいへん心地よい。何がどう転んでも知的な話になる飲み会は本当に楽しいのである。

で、驚いたのが、最年長の先生が岡谷出身ということ。長野県出身者多すぎである(→2022.2.152023.4.4)。
長野県出身って言うと「教育県ですね」とよく言われるんだけど、教員になる比率は有意に高いのかもしれん。


2025.6.12 (Thu.)

体育祭なのであった。今週はずっと天気が悪かったが、隙をみて無事に開催できたのであった。
特に大きなトラブルもなく終了して何よりである。生徒がしっかりしていると本当に助かりますなあ。


2025.6.11 (Wed.)

『楢山節考』。今村昌平監督がカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞したやつ。
クイズ的には、ばあちゃん役の坂本スミ子が前歯を削って老け役をやったことでおなじみ。
実際に観てみると、顔が若いのがうまく作用しているんだけど、動きがきちんとおばあちゃん。
歯を削ったのはもちろんだが、おばあちゃんの演技をやりきる根性がすげえ。いちいち凄みを感じる。

いちおうフィクションであるはずなのだが、有無を言わせぬリアリティ。嘘としての映画という点で究極かもしれない。
完璧主義なのがよくわかる。今村昌平監督は絶対に性格悪いよな、と思う。性格が悪くないとここまで徹底できない。
そのリアリティの根源にあるのは、「恥ずかしいもの」をまったく隠さないこと、積極的に露わにしたことにあると思う。
つまりは、貧しさと性。それが分かちがたく結びついている山村を舞台に、理性の生む残酷性を正面から描いている。
原作の持つ迫力をできる限りで映像化しており、確かにその点は偉大である。実際に存在した村にしか見えない。
(あとは物語のヴェクトルが比較的シンプルなので、時間を延ばすためにリアリティのシーンを増やしたのもあると思う。)

しかし、だからこそカンヌではオリエンタリズムで評価されたんじゃないの、という気もしてしまう。
欧米人がイメージする未開の民族の因習として、よくできている。ステレオタイプに貢献するほどのリアリティ。
事実が混じっているからこそよくできている嘘。今村監督の映像化への凄まじい努力を評価する言説には、
徹底的な嘘を構築した手腕に対する驚嘆だけでなく、「恥ずかしいもの」を正面から描いたことへの敬意だけでなく、
人間の残酷性を描いたことへの喝采だけでなく、欧米人の視線では許されないものを代わりにやってくれたという、
そういう種類の評価がわりと多めに含まれているように思えてならない。今村監督が利用されている匂いがする。

もっとも、僕がそう感じるのは「欧米人にわかるかよ」という、ひねくれた気持ちが根底にあるからで、
そういう気持ちにさせるほどの圧倒的なリアリティが実現されているからこそ、ではあるのだが。
フィクションを、どこまでフィクションらしい感触を残して提示するのが、作品として正直であるのか。
嘘と事実の境界線について(映画として究極的には実写とCGの違いに至るかも)、ひとつの論点を孕んでいる作品だ。

姨捨駅(→2009.8.142010.3.132011.10.10)が長野県にあるからか、言葉が地元の方言にかなり近くてなんとも。


2025.6.10 (Tue.)

ワカメが上京したのであった。今回は目黒に泊まるそうで、目黒にはかつてナカガキさんがランチで行った店があり、
ぜひ夜に行ってみたいということで場所が決まった。ビルの5階なのに生け簀があり、釣った魚を調理してくれるとな。

 ビルの5階にこの生け簀。バブルな発想に思えるが、よくこのスタイルを貫いているなあと。

餌で釣る魚と引っかけて釣る魚があり、魚の種類ごとに値段が決まっている。ラストオーダーがわりと近かったので、
そこまで釣りにはこだわらず、安価でおいしいアジを狙うことに。まずは店を選んだナカガキさんからのチャレンジ。

  
L: アジの場合、生け簀の中にある区画から引っかける。  C: ゲットの図。  R: パパやったね!

続いてワカメ。ワカメはふだんから釣りをするので余裕である。今年も伊根に行って息子と釣りをするんだと。
いいなあ、伊根の舟屋。いつか行って写真を撮りたいとずっと思っているんだけど、公共交通機関だと遠いのよね。

  
L: 続いてチャレンジするワカメ。  C: こちらもゲット。余裕である。  R: パパやったね!

  
L: 魚を釣りあげると店員さんが名前を呼んで太鼓を叩いて祝福してくれる。周りの酔っ払いの皆さんも祝福してくれる。
C: こちらが生け簀から釣り上げたアジの刺身である。  R: もう1匹は塩焼き。どちらもおいしゅうございました。

世の中いろんな店があるなあと思いつつアジをいただく。独りだと絶対に味わえない体験だったので面白かったです。
メインになった話題は大阪万博について。僕は完全スルーしているわけだが、家庭を持つ人は興味があるようで。
大阪が地元のワカメはGW中の平日に行ったけど、不人気のパビリオンしか入れなくてちょっとビミョーだった模様。
それでもアイルランドの音楽生演奏を楽しんだそうだ。やっぱり楽しめるかどうかは運の要素が強いみたい。
一方、ナカガキさんは今度の休みに一人で行くとのこと。でもパビリオンの抽選がことごとくはずれたそうで。
そして万博を完全無視した僕は、こないだの関西国宝遠征についての報告(→2025.6.12025.6.22025.6.4)。
もちろん神戸での宮城と今井の投げ合いも自慢したのであった(→2025.5.31)。ワカメは京都国立博物館に行っており、
宝誌像の話で盛り上がるわれわれ。そうしてハセガワさんが合流した頃にはラストオーダーを過ぎていたのであった。

 店を替えて2回戦である。

権之助坂を下って4人で2軒目の店に突撃。なお今回のワカメのオススメマンガは、『あくまでクジャクの話です。』、
『銀太郎さんお頼み申す』、『サチ録〜サチの黙示録〜』、そして『ラーメン再遊記』といったラインナップ。
ワカメと僕はハセガワさんを引き込むべく『ラーメン発見伝』〜『ラーメン再遊記』の話で盛り上がるのであった。
というわけで今回も楽しゅうございました。また来年。でもそれまでに、僕がまた関西に行って会えるといいなあ。


2025.6.9 (Mon.)

有楽町の反対側では若尾文子映画祭を開催中なのだ。丸の内TOEIでも広告が流れていて、これがなかなか印象的。
特に今回は、明るく純粋な若尾文子を「Side. A」、濃厚な若尾文子を「Side. B」として、作品を2系統に分けて上映。
そのイメージ画像がめちゃくちゃかっこいいのである。今までは若尾文子を「黒川紀章の嫁」として認識していたが、
(そして晩年の黒川のやりたい放題を黙々と支えた良妻として認識していたが、)きちんと映画を観る決意をしたしだい。


こちらがその画像。「Side. A」は『青空娘』、「Side. B」は『妻は告白する』。どっちもむちゃくちゃかっこいいぜこんなん。

で、初回は小津安二郎監督作品『浮草』。小津監督が大映で唯一撮った映画で、珍しく激しいやりとりがある作品とのこと。
小津監督作品は20年前に『東京物語』(→2005.7.3)を見たくらいですいません。もっと見たいと思っているのだが。

小津監督はとことん優しい人だなあと思う。いかにも明治男でコンプレックス全開な鴈治郎(駒十郎)が悪いのだが、
実際にそれはひどいなあという場面もあるのだが、全体を小津の優しい視線が包んでいるので観終わってほっこり。
キャラクターが生きているから全員に感情移入できるのだ。それぞれに困った面があるけど、行動に納得がいく。
それをまさにユーモアとペーソスの塊のような展開で動かしていく。だから、観終わると心に特別な感触が残るのだろう。

役者がいちいちカメラを見つめる会話が炸裂しているが、そうやってカットを細かく分けまくることで、間が生まれる。
また、ふつうなら展開上省くであろうつなぎの場面で演技をさせることで(たとえば誰かを待つ)、やはり間が生まれる。
結論を急ぐ現代っ子にはわからないかもしれないが、そうやって十分な間をとることで、しっかりと演技が入る。
その積み重ねによってキャラクターが深く造形されていくのだ。話の展開よりもキャラクターの心情を優先する感じ。
行間を十分とることで、物語が監督によって動かされるというより、物語がキャラクターによって動かされる印象となる。
しかもその物語は小津の優しさがとことん行き届いている。淡々としていても集中の切れることないドラマに引き込まれる。

それにしても宮川一夫はカラーでも影を使うのが上手い上手い。原色から少しはずしても鮮やかな色彩の風景が、
かつての古き良き日本の夏の空気を大いに感じさせる。登場人物と一緒に穏やかな昭和の空気を吸っている気分になる。
確かに激しい応酬が繰り広げられるシーンもあるが、のどかで平静な港町の雰囲気を丁寧に描いていることにより、
一時の感情の高まりがかえって印象的な対比となって刻み込まれる。振り返ると何から何まで見事な映画なのだ。

しかし京マチ子も若尾文子も美人すぎる。そんな一座がやってきたら、もうどうにかなってしまうわ。


2025.6.8 (Sun.)

『トラック野郎・爆走一番星』。シリーズ2作目だが、僕がトラック野郎を観るのはこれが初めてなのだ。初体験なのだ。

 
L,R: ポスター。楽しそう。

もう、ザ・東映。ホントに東映。とにかく品がない。品のない笑いのオンパレード。完全にブレーキが壊れてやがる。
トップバッターが研ナオコで爆笑したところにダッチワイフを抱えた山城新伍だぜ? 全力で観客を笑い殺しに来ている。
その後もギャグの密度がすごくて、盛り込みすぎな気もする。そしてバキュームカーの助手でラビット関根(関根勤)。
さすがに顔立ちに幼さを感じさせるほどの若さなのだが、こっちとしては完全に時間の感覚が狂ってしまった。
田中邦衛のボルサリーノ2(1はどこ?)もたいへんよろしく、なべおさみの警官もたいへんよろしく、
理屈ではない勢い全開のエンタメにただただ圧倒されたのであった。いや、なんだか久々に全身でギャグを体感した気分。
でも冷静に考えると、必然的に派手なアクションのカーチェイスが入るし、トラックで全国あちこちを舞台にできるし、
寅さん(→2025.4.23)のやっていることを東映テイストで対抗するにはこれが最適解なのである。よくできているのだ。
これは一般教養としてシリーズ全10作をきちんと見なければ、と思うのであった。幸せな時代・昭和の象徴は言いすぎか?


2025.6.7 (Sat.)

この週末は、栃木県のまだ見ぬ市役所を制覇する予定だったのだ。が、部活の面倒をみる役割が急遽飛び込んできた。
梅雨前の貴重な青空を見上げながら泣く泣く拘束される私。そして部活が終わると急いで溝の口から電車に乗り込む。
すでにサッカー観戦のチケット、しかもSS指定席を買ってしまっていたので、せめてそこだけはやってやるのである。
東武への直通運転で南栗橋へ、そこから東武宇都宮行きと1回の乗り換えで済んでしまうのがすごい。3時間かかったが。

というわけで、西川田駅で下車して「カンセキスタジアムとちぎ」こと栃木県総合運動公園陸上競技場へと歩いていく。
栃木SCの試合は12年前に観ているが(→2013.7.20)、気がついたら栃木県グリーンスタジアムは準本拠地扱いで、
栃木県総合運動公園陸上競技場をメインにするようになっていた。その事実に最近まで気づかなかった情報弱者です。
それで市役所めぐりとセットで初訪問スタジアムで観戦するつもりだったんだけどね、部活がね。ションボリである。

  
L: 住宅地の中に異様なスケールで現れた栃木県総合運動公園陸上競技場(以下、カンセキ)。ちょっとSFっぽさがある光景。
C: 西川田駅からだと、正面入口はとちのきファミリーランド方面から迂回することになる。なおトッキーの頭はエア遊具。
R: 南から見たカンセキ。国体の開催を見越して2020年にオープン。設計は久米設計+AIS総合設計+本澤建築設計事務所JV。

  
L: いちご一会とちぎ国体の炬火台。栃木県のいちご愛(というか、とちおとめ愛)は、かなり猛烈なものがある。
C: 正面入口はそのまま南側。しかしながらメインスタンドは西側なので、非常に間違えやすい。というか間違えた。
R: それでは初訪問スタジアムの一周を開始するのだ。まずは南西側から見たカンセキの全体。芝生が憩いの場。

  
L: 正面入口方面を眺める。  C: 東側。ランニングコースがあり、簡単にスタジアムを一周できるのがありがたい。
R: 北側はアウェイゴール裏の入口。これまた、栃木県のいちごに対する異様なまでの執念を感じさせる要素である。

  
L: 北西側。車で来るとこちらが入口となる模様。  C: 西側。キッチンカーがこの位置に並んでいるのがたいへん特徴的。
R: 「必翔神社」ということで簡素な鳥居と祭壇が置かれていた。お賽銭を入れると栃木SCのステッカーを1枚もらえる。

何も考えず紺色のTシャツで来ちゃったのだが、本日の栃木SCのお相手はザスパ群馬なのでアウェイサポみたい。
それにしても「ザスパ群馬」はややこしい。正式名称は「ザスパクサツ群馬」だが、呼称は「ザスパ群馬」だそうで、
どんどん草津要素が削られてもはや風前の灯火。もう湯もみ応援もやっていないようだし、つまんないなあと思う。
まあそれはとにかく、近場どうしの北関東ダービーということで、アウェイサポの比率はなかなかのものだった。
下野国と上野国の対戦なんだから、きちんと歴史を考慮して「毛野国ダービー」と称するべきだと僕は思いますが。

  
L: 中に入ってピッチを見下ろす。1階のSS席だとなかなか壮観だが、トラックの幅があってピッチがかなり遠い。
C: 2階に上がって北西側からピッチ全体を見たところ。  R: 気勢を上げる群馬サポの皆様。さすがになかなかの密度。

カンセキの中に入ると、かなり力の入ったスタジアムであることに驚かされる。栃木県が威信を賭けているのがわかる。
2階に上がって眺めてみるが、なかなかの傾斜。しかしそれと比べて1階の席はそんなでもなく、けっこう緩めな印象だ。
トラックの幅もしっかりあって、ピッチをずいぶんと遠く感じてしまう。これなら、2階席の方がむしろ観やすいかも。
すべてのスタジアムを制覇する目標があるので最近は新しくできたスタジアムばかり行っているが、他との差が気になる。
あと、いざ試合が始まると、バックスタンド上のライトがけっこう眩しい。これは地味に、設計上の盲点ではないか。
ちなみにカンセキは完全キャッシュレスとなっている。そのため、プリペイドカードを購入してからチャージが必要だ。
もちろんアウェイサポ向けに当日限りで払い戻し可能なカードも用意されているが、帰る前に一手間かかるのは煩わしい。
僕は完全キャッシュレスには断固反対の立場なので、面倒くさいし抗議の意味もあるしで、一切買い物をしなかった。

  
L: 仲よく手をつないでいるトッキーとザスパンダ。ザスパンダ初めて見たんだけど、なぜパンダ? 湯友どこ行っちゃったの?
C: 選手入場。栃木だけでなく群馬のフラッグまでしっかり用意するなど、だいぶアウェイ側を歓迎した演出となっていた。
R: ゴール裏の栃木サポは青と黄色のフラッグを振って迎える。他の席と比べ、ゴール裏の人口密度が非常に高かった印象。

さて試合開始。栃木も群馬も仲よくJ3に降格してきた同士だが、正直なところ昨季までJ2にいたとは思えない内容。
栃木が8位、群馬が14位とはっきりしない順位で、それを反映する冴えない展開。どちらかというと栃木がボールを保持、
群馬がカウンターという構図なのだが、栃木はゴール前でもたいへん人任せでなんとも消極的。シュート撃つ気あるんか。
対する群馬の最終ラインはボールを持つとかなり危なっかしいが、中盤がそこそこ収まるのでなんとかなっている。
でもその先の攻撃が単調で、サイドにつけるのはいいが、栃木の守備に粘られてフィニッシュまで持っていけない。
そして両軍ともファウルがどうにも多く、それでリズムがつかめない。懸命に戦っているが、技術が伴っていない試合。

  
L,C,R: これだ!といったシーンを撮っているので、写真を貼り付けると熱戦に見えるけど、正直かなりしょっぱい前半だった。

これといったシーンもないまま45分が過ぎてハーフタイム。素早くトイレに行くと、スタジアム内を動きまわってみる。
新しいスタジアムということもあってきれいだし工夫を感じるが、何より衝撃的だったのが人を少なく感じることである。
客は入っているはずなのに(6,457人)、ハーフタイムにひと気のない写真が撮れてしまう。これにはたいへん驚いた。
なんでハーフタイムに人のいない瞬間のトイレの写真が撮れてしまうのか。カンセキのキャパシティは25,000人ほどで、
そのわりには客が少ないにしてもだ。これはメインSS席についてもそうで、とってもスカスカしているのである。
全体的にどこも余裕があるのはいいことだが、現状の栃木SCを考えるとゴール裏以外の熱が薄いのはマイナス要素だろう。
今季から栃木シティがJFLからJ3に昇格しており、栃木SCは大ピンチのはず。カンセキののんびり具合はある意味危険だ。

  
L: ハーフタイムに撮ったメインスタンド側のコンコース。きれいで広々として混雑していないのはいいが、それはそれでどうか。
C: 各種フードメニューの出店がスタジアム外なのに対し、スタジアム内にはオシャレな雰囲気のカフェ。椅子まで置いてある。
R: 男子トイレは大小手洗いと動線を分けている。でも済ませた後に手洗い場に行く向きが逆なので、入口から出る人がチラホラ。

後半もお互いに得点の匂いがしない内容は相変わらず。両軍とも守備がそれなりに整備されていると言えばまあそうだが、
最後のところで体を張っているのが効いている。群馬の守備を破るだけの積極性が栃木にない、というのが真相だろう。

  
L,C,R: 後半は選手交代とともに攻撃の圧力が増していくが、両軍とも守備が体を張ってゴールを決めさせない。

  
L,C: できるだけフォトジェニックな写真を貼っております。  R: 栃木はFW矢野貴章を投入。41歳でも前から全力で守備。

淡々と時間が経過していくが、群馬がシュートで終わる場面をだんだんと増やしていくと、終盤の83分に事態が動く。
群馬のFW下川が右サイドでボールを受けると前進してシュート。これがディフェンスに当たってオウンゴールとなった。
このままスコアレスなら「つかみどころのない試合」とまとめられるところだったが、群馬の愚直さが最後に効いた。

 すごくきれいなシュートかと思ったらオウンゴールなのであった。

先月の信州ダービーもそうだったが(→2025.5.14)、現在のJ3中位〜下位のサッカーはこんな感じなのかなあと思う。
体を張って守るアスリートたちを破るような攻撃をやりきるには技術やアイデアが足りず、できるだけCKに持ち込みたい。
そうしてゴール前での混戦を生みだす回数を増やして勝負を賭ける。なんとなく、そういうトレンドを感じるのである。
もちろん戦略としては間違っていないが、それってなんだか実力が拮抗した中学生の試合で狙う作戦のように思えるのだ。
やはりプロなら、そして上位カテゴリーへの昇格を狙うチームなら、何かしらのこだわりを持ってゴールを奪ってほしい。

 夜のカンセキはこんな具合なのであった。

帰りも西川田駅まで戻って電車を待ったが、ホームが混雑することはまったくなく、のんびり座って東武宇都宮駅に到着。
久しぶりのオリオン通りは、夜だと変なインド人をはじめとして雰囲気が悪いのが気になった。日本の衰退を感じるねえ。


2025.6.6 (Fri.)

現実とタイミングがバッチリかぶって話題になっているので『教皇選挙』を観てみたよ。

結論から言うと、つまらないです。基本が閉鎖された空間でのミステリなので、僕とは相性がきわめて悪いのだが、
それにしても、本当につまらない。ストーリーをただただ意外な流れにしたいだけ、という感じ。中身がない。

登場人物のキャラクターが明確でないまま選挙に突入したせいでワケがわからず、中盤までかなり苦労した。
結局は死せる孔明が生ける仲達を走らす話かと思ったら、そういうわけでもないようだ。非常に中途半端である。
安易にミステリ風味にしたせいで、この映画が何を描きたいのか、何を訴えたいのかが完全にボケてしまっている。
おそらく、観客の予測を裏切る意外性だけが、この映画をつくった目的なのだろう。なんとも下品な目的である。
各候補の政治的主張は単なる背景ってだけでほとんど意味がないし、各候補が蹴落とされていく理由もたいへん安直。
つまりはキャラクターがただの作り手のコマでしかないのだ。観客の予測を裏切るためだけの、ただの使い捨てのコマ。
彼らが何を考えていて、どう動くのか、そこをすべて主人公の主観で処理する。ドラマも何もあったもんじゃない。

閉鎖空間の安いミステリを消費するのが好きな人にはいいかもしれんが、残るものは何もないね。救いがたい駄作。


2025.6.5 (Thu.)

『柳生一族の陰謀』。東映がめちゃくちゃな気合いを入れてつくったという時代劇映画である。
萬屋錦之介と千葉真一をダブル主演に迎えて監督は深作欣二。千葉真一の柳生十兵衛役はこれが元祖となるようだ。

なんといっても特筆すべきは萬屋錦之介の但馬守で、明らかに一人だけ古めかしい歌舞伎方面の演技をやっているのだが、
それがラストの絶叫につながる狂気として成立しているのが見事すぎる。妄想に取り憑かれた者の表現として完璧だ。
特に凄いのが、何を考えているのかわからない目。彼の目が、荒唐無稽な物語に一本の芯を通しているのである。
この映画は、萬屋錦之介が用意したスケールのデカさに千葉真一をはじめとする役者たちが見事に乗った快作と言えよう。
松方弘樹は『仁義なき戦い』(→2006.3.272025.4.7)でもそうだが、情けなさをきちんと見せる演技がかっこいい。
そして成田三樹夫の公家というキャスティングの発想がとんでもない。フィクションの快感度合いを上げている。
役者がみんな持ち味を発揮しているから、あまりにもめちゃくちゃな話なんだけど、惹きつけられてしまう。

ストーリーも実は秀逸で、家光側は但馬守の狂気を受け容れることで、忠長側はその狂気に張り合っていくことで、
双方とも最初はマトモだったのにどんどん呑まれていく様子が的確に描かれる。人としての倫理を無視したことが、
すべての発端となっているのがたいへん正しい。深作名物の暴力もポイントを絞って適量で出しているから効果的だ。
これだけ派手な大嘘を役者と演出の力で破綻なくつき通している作品もそうそうないと思う。変に魅力的な映画だった。

まあでも結局、やっとること『仁義なき戦い』と一緒なんだけどな!


2025.6.4 (Wed.)

本日の日記は6月1日分(→2025.6.1)の続きでございます。奈良国立博物館から京都七条に移動しての、京都国立博物館。
『日本、美のるつぼ―異文化交流の軌跡―』と題して、交流をテーマに日本美術の歴史を振り返る特別展である。

まずは明治の超絶技巧から。いつも「技術はすごいが趣味は悪い」と批判的に書いているアレ(→2023.4.30)である。
しかし2年前に東京国立近代美術館できちんと見ておいて本当によかったと思う。あの展覧会で自分の中で基準が持てた。
次いで明治維新に前後してヨーロッパに広がっていたジャポニズムの代表的存在として、北斎の富嶽三十六景。
以降は弥生時代に始まって日本美術をどんどん出していく。例により、箇条書きスタイルで印象的だったものを列挙。
まず感動したのが本物の瓢鮎図(→2024.10.8)。後に雪舟が如拙の蓄積を踏まえて空間を切り開くが、その前段階を見た。
狩野元信の四季花鳥図は基本が中国風だが、日本らしい細やかさを差し込むバランスがよく、その器用さに悶える。
しかし来場者はみんなその先にある俵屋宗達の風神雷神図屏風に夢中なのであった。いやそりゃ風神雷神もいいけど、
ちゃんと狩野派見ろよと独りムカつく僕なのであった。傑作の手前で横向いて次の展示に並んでいるやつが許せない。
法隆寺献納宝物の観音菩薩立像や菩薩半跏像など最初期の仏像はどことなく東南アジア感。明らかに顔が違って興味深い。
大きめサイズの突線鈕五式銅鐸を見て、銅鐸をつくった人は本場・中国の青銅器を見たことあったんかなあ、と思う。
伎楽面はやはり鼻が高い。酔胡王はソグド人だそうで、マンガっぽい迦楼羅もあって、ヴァリエーションが気になる。
空海が写したお経を入れた箱だという宝相華迦陵頻伽蒔絵𡑮冊箱は平安らしい細やかな文様の蒔絵で、ただうっとり。
MIHO MUSEUMの耀変天目は絶対油滴だと思う。蔭涼軒日録は足利義政の中国からの欲しいものリストのページで、
そんなものが現存するとは面白い。雪舟の山水図を見て、日本人みんなが好きなスタイルを確立した人なのだと実感。
「誤解 改造 MOTTAINAI」がなかなか面白く、偽物を写しちゃったけど重要文化財となった開元釈経録にびっくり。
唐物茄子茶入 松本茄子(紹鴎茄子)の修復技術の高さにただ驚く。もともと粉々になっていたものとは到底思えない。
五彩蓮華花文呼続茶碗(銘 家光公)は金継ぎパッチワークで復活させるセンスに圧倒される。これまた日本の得意分野か。

そしていよいよ宝誌和尚立像である。ロラン=バルト『表徴の帝国』(→2008.11.6)の表紙で知られる仏像だ。
正直、これを見るために今回の関西旅行を決行したのだ。実物は思ったよりデカくて、わりと実際の人間サイズ。
粗っぽくノミの目を残す鉈彫となっているが、それだからよいのだと再確認。ツルッとつくるとリアリティがなくなる。
あえて解像度を低めにつくることで、冷静さを排除して衝撃の度合いを高めている。足なんかとってつけた感じで、
体の動きがまったく感じられない。背面も本当に最低限となっており、全力で顔に注目させる造形となっているのだ。
顔が2つに割れて仏が現れる、その想像力を最も的確に造形する恐ろしさ。ただひたすら、魅了されて過ごすのであった。
僕の中ではこの西往寺の宝誌像と六波羅蜜寺の空也像(→2019.6.52022.4.23)が双璧。想像力を造形した究極形だ。

後半にはヨーロッパの影響を受けたものが並ぶ。榊原康政所用の紺糸威南蛮胴具足は兜・胴・腕の鎖帷子が確かに西洋風。
IHS紋花入籠目文蒔絵螺鈿書見台とIHS紋椿蒔絵螺鈿聖餅箱はイエズス会の紋が入った蒔絵で、歴史の証人っぷりに驚く。
桃山から江戸にかけての舶来品も面白くて、インドの螺鈿細工の影響があったとは知らなんだ。桃山っぽい豪快さ。
衝撃を受けたのは祇園会(祇園祭)で使われた布で、祇園会鯉山飾毛綴はなんとベルギー製。町衆の本気にびっくりだ。
ほかにも祇園会北観音山 八星メダリオン草花文様絨毯は、オランダ東インド会社に注文してインドでつくったとのこと。
秀吉の西洋風マントの花葉文様刺繍陣羽織があることにもびっくり。東インド会社から仕入れて中国でつくったそうで。
立木文様更紗下着はインド更紗を下着に仕立てたもので、とんでもないオシャレさ。インド更紗はやっぱり面白い。
逆に日本からの輸出品もあり、インドのサイや水牛の革でつくった盾にわざわざ日本で蒔絵を施したものがあった。
そんなことをやっていたとは知らなかったのでこれまた驚いた。輸出された伊万里の展示品は金襴手が圧倒的に多かった。
さらに蒔絵を真似したセーヴルの黒釉金彩人物文コーヒーカップもあった。最後は中国への憧れで、なるほど異文化交流。

  
L,C: 京都国立博物館・明治古都館(旧本館)。こちらも設計は片山東熊。1895(明治28)年竣工で国指定重要文化財。
R: 唯一撮影OKだった萬福寺の范道生作・羅怙羅尊者像。胸を開いて自分の中の仏を見せている。それより宝誌像を撮らせろ。

京都国立博物館は見た目からは想像がつかないくらい中が広くて展示物が多い。毎回それで反省している気がする。
ショップで宝誌像のPETしおりとTシャツを購入すると、今回も想定以上にヘロヘロになって外に出たのであった。


2025.6.3 (Tue.)

長嶋茂雄氏が亡くなった。

僕にとって長嶋氏は、チョーさんというよりは「長嶋監督」である。第二次政権、いわゆるひとつのメークドラマですね。
この時期の長嶋巨人はFA攻勢全開で、全盛期を迎えていた野村ID野球とセ・リーグの覇権をめぐって泥仕合なのであった。
本当に泥仕合で、真っ先に思い浮かぶのが乱闘シーンである。中西が殴られたり、堀内コーチのユニが引き裂かれたり。
そんな具合に仁義なきデッドヒートを繰り広げていた記憶が蘇る。なんせ相手の監督はプロ野球史上空前絶後のカリスマ。
長嶋巨人はヤクルトファンにとってはあまりにも高すぎる壁だった。そのときの刷り込みが強烈で、いまだにその印象。

しかし長嶋氏個人としては、おなじみのオモシロエピソードだけでなく、仲良き事は美しき哉なエピソードが目白押しで、
あふれ出てくるそれらの情報を目にしてはしんみりしている。昭和から平成のいちばんいい時代をいちばんいい形で、
象徴としてやりきった人なのだなあと思う。お疲れ様でございました。おかげで存分に楽しませてもらったと思います。


2025.6.2 (Mon.)

複雑なことになっていて申し訳ないが、本日の日記は5月31日分(→2025.5.31)の続きなのだ。
大阪中之島美術館で『大カプコン展』を鑑賞した後の、大阪市立美術館の『日本国宝展』についてである。

動物園前駅からジャンジャン横丁を北上して新世界へ。なぜか空いていた餃子の王将でランチをいただく。
これで国宝を鑑賞するエネルギーを充填完了なのだ。しかし新世界はなんで射的屋ばっかりなん? 前からこんなだっけ?

  
L: 動物園前駅から延びるジャンジャン横丁。  C: 新世界。  R: 天王寺動物園の入口。一度はきちんと中に入ってみたい。

  
L: 天王寺動物園の入口から分岐して大阪市立美術館へと向かう。  C: 大阪市立美術館。1936年竣工だがリニューアル感が強い。
R: 入場を待つ人々の行列。大阪市立美術館『日本国宝展』は時間帯別で予約を受け付けており、僕はこちらに並ばずに済んだが。

では、大阪市立美術館『日本国宝展』。前に一度来たが(→2004.8.10)、そのときはあまり良い印象がなかった。
3年にわたる改修を経て今年の3月にリニューアルオープンしており、今回の国宝展はその記念という側面もあるのだろう。
国宝展というと東京国立博物館でやるイメージで(→2014.10.242022.12.6)、大阪の市立でというのは異例のはず。

やはり箇条書きスタイルで印象的だったものを挙げていく。まずは俵屋宗達の蓮池水禽図。俵屋宗達は大胆という印象で、
こんなに繊細で上手いとは思わなかった。さすがなんだなあと認識を改めた。雪舟の四季山水図巻は破綻のないパノラマ。
雪舟は前に見た天橋立図と慧可断臂図もあり、あらためてその魅力を味わう。正統派の絵画を冒頭に持ってくる構成が見事。
次の部屋から歴史を振り返っていくが、藤ノ木古墳の金銅鞍金具(前輪・後輪)の精密さに驚かされる。古墳時代だぜ?
昨日のログで書いたとおり、僕は歴史を超えて残っている工芸品に特に魅力を感じるのだ。古墳時代となると気絶しそうだ。
そして絵巻物の前段階であるはずの絵因果経の状態の良さにたまげる。もはや異様とすら思えるほどに美しいままでいる。
描かれている中身では地獄草紙に呆れる。日本人は平安時代にグロを芸術としてやっていると思うと、呆れるしかない。
金光明最勝王経は聖武天皇が国分寺に収めたお経で、歴史そのものを見た気分(奈良や京都でも展示されていた)。
紀貫之による古今和歌集の高野切は、ため息が出るほど優雅。それに対して本阿弥切の小野道風はかっちりしていて、
雲母摺りとマッチした美がある。平安貴族の芸術センスは恐ろしいものがあるなあと、あらためて震えるのであった。
日月四季山水図屏風は、確かにやまと絵の傑作と言われているだけある。立体的に盛り上げて描いているのも興味深い。
山水図なのに動的な迫力があって、古びない美しさがある。おそらく明治以降の日本画、加山又造あたりの元ネタだろう。
黒漆平文大刀拵は有名な鹿島神宮の直刀の拵で、さすがに長い。いつか直刀の方も見る機会があるとうれしいが。

国宝ではないが、皇居三の丸尚蔵館の収蔵品も展示されていた。明治のいわゆる超絶技巧(→2023.4.30)も多数あったが、
川端玉章の四時の名勝は構成が巧みだし、濤川惣助の七宝墨画月夜深林図額はただただ見事。やはりいいものはいいのだ。
最後に時代が遡る感じになり、興福寺の華原磬。奈良時代らしからぬ立体造形作品で、その想像力に驚かされる。
薬師寺の聖観音菩薩立像は白鳳時代の仏像だが、プロポーションもいいしめちゃくちゃ上手い。オーパーツ感がある。
ラストは十日町の火焔型土器&王冠型土器と、尖石の縄文のビーナス。自由な造形には見惚れるしかないのであった。
前期と後期でけっこう展示替えがあったようで、半分しか見られなかったと思うとちょっと残念。それでも十分満足だが。

  
L: 撮影OKの薬師寺東塔の水煙。  C: 角度を変えてもう一丁。  R: ショップには縄文のビーナスと火焔型土器のぬいぐるみ。

ショップは商品の量が多かったが、前に東京国立博物館で売っているのを見たぞ(→2024.2.9)、というグッズもあった。
国宝展をやるにあたって借りてきた元の施設で売っているものを扱うのは、まあそれはそれで悪いことではないわな。
大阪在住・中村佑介が描いたイメージイラストをもとにしたグッズも多数あって、いい感じの盛り上がりなのであった。


2025.6.1 (Sun.)

朝のうちに奈良に移動して、吉野家の朝牛セットをいただいてからバスに乗り込み、奈良国立博物館を目指す。
こちらでは『超 国宝―祈りのかがやき―』を開催中なのだ。「いのちの輝き」をうまくパロディしたのが素敵。

 
L: 奈良国立博物館。右側が、1972年竣工の西新館。左側が、1997年竣工の東新館。設計はどちらも吉村順三。
R: 旧本館の、なら仏像館。片山東熊の設計で1894(明治27)年に竣工した。国指定重要文化財である。

しかし現場に到着すると、目ン玉が飛び出るほど驚いた。行列が、行列が、南から延びて東へとまわり込んで、
もしかしたら春日大社まで行っちゃうんじゃねえかってくらい長い(実際は折り返したのでそこまで行かなかったが、
折り返して一の鳥居に届きそうになっているレヴェルだった)。チケットを事前に買っている人々でその行列である。
おとなしく並んで入る番を待つが、開館時刻の9時半少し前に行列が動きだした。そして動きだすと比較的スムーズで、
思いのほか順調に進んでいく。そしてコインロッカーに荷物を預けて、なんと9時45分には見学を開始できてしまった。
いざ会場に入るとかなりの混雑ぶり。なるほど展示に明確な順路がないから、どんどん客を入れられるわけだ。
そうなりゃこっちも、隙をみて空いているところからテンポよく見ていく作戦である。先へ行けばそれだけ人が減るし。
もう一度見たいものをしっかり押さえて動いていけばそんなに問題はない。混雑のわりには存分に楽しむことができた。

箇条書きスタイルで印象的だったものを挙げていく。まずは個人的な興味や好みに強く引っかかったものから。
現代では失われた文化である伎楽の仮面が面白い。日本における仮面の文化は能の完成によって完全に塗り替えられた、
そう思っているのだが(→2024.5.12)、伎楽はそれ以前の様相を残している。呉公と波羅門の面が展示されていたが、
鼻が長いのが特徴的である。シルクロードのあっち側、ペルシャとかそっち方面の顔つきに思えて、実に興味深い。
奈良国立博物館なので仏教絡みの作品が多いが、個人的な好みとしては往時の天才職人たちによる工芸品に惹かれる。
奈良時代の金銅八角燈籠火袋羽目板、平安時代の澤千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃など、歴史を超えて残っていることに感動する。
西大寺が昔の超絶技巧作品を多く持っているみたいで、中尊寺の工芸(→2008.9.122024.3.25)はやはりレヴェルが高い。
そして金亀舎利塔など鎌倉時代になると、作品がレリーフ的平面から立体造形物へとはっきり変化していくように感じる。
こういった近代以前の超絶技巧が繰り広げられた理由は、信仰にある。もちろん権力がそうさせたという面はあるが、
自分の信じるもののために技術を使うという純粋さに惹かれるのだ。それに対して、明治以降は個人の作家性が大きい。
なるほどそれで近代の超絶技巧は好きになれないのか(→2023.4.30/2023.5.15/2024.5.14)と、ひとり納得。

仏像では重源上人坐像が即身仏かと思うほどにリアル。叡尊坐像のモダンさには驚いた。眉毛の表現とか現代風だ。
あらためて見てみると、飛鳥時代の仏像はけっこう椅子やベンチに座っているのが独特である。初期仏教の価値観か。
一字蓮台法華経は初めて見たが、お経の一文字ずつに蓮台をつける発想がたいへんカワイイ。日本らしさを大いに感じる。
そして教科書などで見たことのある作品、また歴史上の人物の痕跡が感じられる作品は、やっぱり無条件に面白い。
地獄草紙や餓鬼草紙の想像力には圧倒されるし、空海の真筆である金剛般若経開題残巻はバランスがよくって見飽きない。
藤原道長経筒は「藤原朝臣道長」と彫ってあるのが読めて、当時の人と身体感覚を共有できたことに感動する。
石上神宮(→2012.2.182019.7.15)の七支刀も展示されており、これはもう本物を見たという経験ができて幸せ。
最後を飾るのは中宮寺の菩薩半跏像。明るいところでじっくり見られるとは。わりにモダンで、顔がリアルなのであった。
そんなわけで、特に奈良県内の国宝に力を入れており、奈良の歴史の凄みを大いに感じられるすばらしい展覧会だった。
昨日の大阪(ログは後日)と同じ作品を分けて展示したものもあって、京都・大阪・奈良とまわっている作品もある模様。
2日連続の大行列で圧倒されたが、その分だけ関西の大学生は行列をさばくバイトで大儲けだね!と思うのであった。

ショップではなんと、七支刀のぬいぐるみが大小あった(大は売り切れという人気ぶり)。ついに日本はここまで来たか。
空白の4世紀の物的証拠である七支刀で人をぶん殴るという古墳時代以来の全日本国民の夢が叶ってしまう、素敵なグッズ。
さすがにこれは購入せざるをえない。七支刀アクリルスタンドは両面プリントになっていないのが不満だが、これも購入。

 
L,R: 自分用のおみやげとして、七支刀ぬいぐるみ(小)を購入。ちゃんと金色の文字が両面に入っている。

せっかくなので、なら仏像館にも寄る。地下回廊で移動するが、そこに奈良国立博物館のミュージアムショップがあり、
正倉院の宝物にある模様をデザインとして使った各種グッズが売られていた。これは上手いなあ、と大いに感心する。
で、なら仏像館は奈良らしく仏像を大量に展示している。あまりにも大量で、ありがたみが薄くなってしまうのが難点。
しかも残念なことに、重要文化財レヴェルのほとんどは撮影NGなのだ(仏像はむしろ撮らせてもらえる方が珍しいが)。
撮影できれば後でじっくり振り返ることができるんだけど。そんな中で撮影OKなものが2点あったので写真を貼っておく。

  
L: 西新館となら仏像館をつなぐ地下回廊。ミュージアムショップとカフェはこちらにあるが、気づかない来館者が多そう。
C: なら仏像館で特別公開中の金峯山寺(→2010.3.302015.9.20)の金剛力士立像。向かって左に吽形。  R: 右に阿形。

 
L: 国指定重要文化財の獅子。元は文殊菩薩像の台座の獅子。  R: 新薬師寺に伝来した十一面観音菩薩立像。国指定重要文化財。

なら仏像館には青銅器館がくっついており、古代中国の青銅器を集めた坂本コレクション展示室となっている。
前はなかったと思うんだけど。僕は青銅器にはうるさいので(→2023.2.232023.4.10)、楽しく見学させてもらう。
殷代の古いものは少なくて、西周以降の文様が少なくなったものが中心。でもそれはそれで特徴が出ていて面白い。
表面の凹凸がなくなって曲線が露わになったデザインは、青銅器から陶磁器へと移行していく境界線が見えるようだ。

  
L: 単独で展示されている大物たち。鳳凰文卣(殷)。  C: 饕餐文鼎(殷〜西周)。  R: 波形文壺(西周)。

  
L: 西周時代の青銅器。  C: 春秋から戦国時代。明らかに丸いデザイン。  R: 前漢時代。日常性を感じる。

  
L: 春秋から戦国時代の壺。  C: 前漢時代の鍾。  R: 戦国時代から前漢時代にかけての鈁。どれも曲線がデザインの主体だ。

  
L: 扁壺。この形状は陶磁器につながっていく。  C: さまざまな形の青銅器。  R: 神仙思想を反映した青銅製のオブジェ。

以上、奈良国立博物館をとことん楽しみ尽くして外に出る。近鉄奈良駅まで急いで移動するが、外国人観光客だらけ。
明らかに以前とは比べものにならないほど多くて、凄まじい密度である。そしてみんな鹿に夢中になっている。
まあ確かに気軽に鹿とふれあえる(野生だから触っちゃダメだと思うが)のは、外国では体験できないことだろう。
歴史を味わえるのと同時にかわいい鹿にも会えるとなると、外国人観光客にとって奈良は魅力的な選択肢となるわけか。

 
L: 奈良に来たからには鹿と仲よくしておかねば。  R: 外国人観光客が鹿に群がっている。これも奈良が人気の理由かね。

近鉄奈良駅も外国人だらけなところに修学旅行の中学生で大混乱なのであった。どんどん観光が億劫になるねえ。
さてもともとは高の原駅で下車して県境の通るイオンモールに寄るつもりだったが、奈良の国宝展の混み具合に圧倒され、
これは一刻も早く京都に移動しないとヤバいのではないか、と予定を変更した。丹波橋で京阪に乗り換えて七条へ。
結論から言うと、京都国立博物館は入る際にまったく混雑はなかった。でも中は人でいっぱいだったので、まあいっか。
こちらも昨日のログと同様、日記がやたらと長くなってしまうので、レヴューは後日あらためて書くとするのだ。

京都国立博物館の平成知新館は外から見ると大したことなさそうなのに、中に入るとかなりの床面積がある。
おかげで体力が限界に来ている。日曜日にコレでは明日から一週間とてももたないので、残った時間で温泉を目指す。
京都から温泉となると、雄琴温泉がファーストチョイスとなるのだ。どうしてもソープランドのイメージが強いが、
そのエリアは温泉街とは場所が分かれておりますので。前に修学旅行で泊まってその辺の事情はわかっておりますので。
おごと温泉駅から無料の送迎バスが出ている温泉施設の「あがりゃんせ」にお邪魔する。お値段は正直少々お高いが、
そのせいか週末の夕方にしてはそんなに混み合っておらず快適に過ごせた。おかげで完全に疲れがとれたのであった。
上がるとネット記事で見たサウナー専用ドリンク「ととのった」をいただいたが、人工甘味料が強くてたいへん残念。
ふつうの500mlよりお高めだが、お値段相応の味ではなかったなあ。新製品の「ととのったパンチ」も期待薄かなあ。
帰る際、なんとなく周りに見覚えあるなと思ったら、あがりゃんせは6年前の修学旅行で泊まった宿のすぐ近くだった。

 
L: あがりゃんせ。滋賀らしい土産物が充実していてよい。  R: サウナー専用ドリンク「ととのった」。人工甘味料強めで残念。

京都駅に戻ると職場への土産を買って、毎度おなじみぷらっとこだまで日記を書きながら帰るのであった。
死ぬほど国宝が見られて最高の週末だった。日記を書くのが大変だけど、この記憶をまた味わえるのはうれしいことさ。


diary 2025.5.

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