国立市のことを「スタドニア」と呼ぶのはいかがでしょうか。
横浜美術館で開催中の佐藤雅彦展、みんなで見にいこうぜ!と誘ったところ、リョーシさんが上京。
無事に姉歯メンバーでの新年会へと発展したのであった。いつものフルメンバーが集合するのは久しぶりなのだ。さて、佐藤雅彦展のチケットは日時指定なのだが、これがたいへんな人気で、確保できたのが15時30分入場の枠のみ。
みんなでランチをいただくとして、それまでどうするか考えた結果、リョーシさんからなかなか魅力的な提案が出た。
横浜なら、BSでやっている『伊集院光の偏愛博物館』で紹介された、宮川香山 眞葛ミュージアムがあるよ!と。
そんなわけで横浜駅に集合。ちなみにリョーシさんは昨日、台風15号で大混乱だった新幹線に乗っての上京である。
自分も先月飛行機が欠航したし、異常気象で交通事情は年々悪化しているなあ、としみじみ思うのであった。昼に動けるマサルとニシマッキーも合流し、横浜ベイクォーター方面へと向かう。倉庫を再開発した商業施設だが、
足を踏み入れるのは初めてだ。レストランの一覧の中にタイ料理の店を見つけて、それでええやんとお邪魔する。
5月の『新幹線大爆破』のときもエスニック系だったので(→2025.5.17)、 意図せずミニブームになっている格好。
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L: レッドカレーとガパオのセットをいただく。タイ料理のメニューはやたらと豊富でとことん迷った末のチョイスである。
R: タイ料理に舌鼓を打つわれわれ。おいしゅうございました。機会があれば他のメニューもいろいろ食べてみたいですな。満足して店を出ると、湾岸らしい過剰なスケール感に翻弄されつつ宮川香山 眞葛ミュージアムを目指して移動する。
マンションを戴く商店街の一角に、ミュージアムはあった。美術館らしさがほとんどないので少々戸惑いつつ入館。では宮川香山について。実はこの日記でも彼の作品は登場している。明治期のいわゆる「超絶技巧」の作品であり、
「技術はすごいが趣味は悪い」という身も蓋もないコメントをつけている(→2023.4.30)。だって事実なんだもん。
とはいえ明治期における外貨獲得手段であった工芸の主力として、香山の存在感は非常に大きいものがある。
これは姉歯メンバーと話す中で気がついたのだが、香山の高浮彫の作品が海外で高く評価された背景には、
ゲームセット(→2017.8.12)に代表されるヨーロッパの文化が根底にあると思う。狩猟は貴族の嗜みですので。
また、博物学の知識を用いて動物を精密に描くのは、19世紀のセーヴル(→2025.5.18)がよくやっているイメージ。
そして陶磁器の立体的な装飾はマイセンの得意とするところである(茨城でさんざん呆れたものだ →2025.5.25)。
そういった下地があるところにジャポニスムの国から超絶技巧の立体陶磁器が来たのだから、バカウケだったはずだ。
もうひとつ、「趣味の悪さ」がアール・ヌーヴォーな世紀末芸術とマッチした面もあるだろう。歴史的にも面白い。
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L: 宮川香山 眞葛ミュージアムの外観と中に入るわれわれ。 C: 初代宮川香山。幕末に生まれ、1916(大正5)年に亡くなる。
R: いちばん最初に展示されている『崖ニ鷹花瓶』一対。いかにも香山らしい作品。光の反射に苦労しつつ、気合いで撮影。展示はまず、香山の代表的な作品を時系列に並べてスタート。当初わりとおとなしかった立体的な工夫は、
高浮彫の技法が確立されるとどんどんエスカレートしていく。しかし20世紀に入る頃には穏やかな作品が増えていき、
磁器としての美しさを追求する作風へと変化する。どうしても超絶技巧が目立ってしまうが、多彩な作品を残したのだ。
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L: 『竹型神仏画花瓶』。これは初期の作品。 C: 『高浮彫葛ニ山鴨花瓶』。高浮彫による典型的な作品である。
R: 『磁質赤地竜紋花瓶』(左)、『雲竜紋花瓶』(中)、『磁質黄地竜紋花瓶』(右)。生産効率を上げるべく作風が変化。
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L: 『蝶之両蓋付壺』(左)、『美人顋斉杜若画花生』(中)、『色入百合画花瓶 一対』(右)。作風がさらに変化。
C: 遺作だという『琅玕釉蟹付花瓶』。研ぎ澄まされた本体に超絶技巧のカニを付ける。 R: カニを拡大。香山は輸出向けの超絶技巧作品をつくる一方で、国内向けには野々村仁清や尾形乾山の写しも製作していた。
『へうげもの』(→2011.8.25/2018.5.13)を読めばわかるように、江戸初期まで陶器はパトロンの好みを受け、
無名の職人がつくるものだった。しかし京焼で仁清が登場すると作家性が意識され、乾山がそれを受け継ぐ。
(そうやって個の芸術性が蓄積されていった先に、青木木米(→2023.3.18)や仁阿弥道八がいるというわけ。)
海外で人気の超絶技巧作品だが、その基礎としてあるのは京焼の想像力。それが時代に合わせた形で爆裂したわけだ。
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L,C: 香山による仁清の写し。 R: 和室には乾山の写しが並べられていた。京焼の素養の深さがしっかり窺える。
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L: 『乾山意松竹梅寿画大花瓶』。これは最晩年の作品であるようだ。 C: 『乾山意熊笹之画皿』。
R: 『乾山写梅之画茶碗』。説明がないのでわからないが、「意」は意匠のみの写し、「写」は造形全体を含めた写しか。
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L: 『乾山意桔梗画碗』。 C: 『乾山意芙蓉画水指』。 R: 『乾山意梅之画香合』。
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L: 『乾山意雪笹之画番茶瓶』。 C: 『乾山写徳利』一対。 R: 『乾山意雪中梅画飾皿』。
学明製青華之図。初代香山が亡くなる半年ほど前に描いた作品。
最後の展示室は香山の代名詞である高浮彫の超絶技巧が満載。これだけの数が集まっているのは本当に壮観である。
「技術はすごいが趣味は悪い」とさんざん言ってきたけど、立体造形としての面白さは正直かなりのものなので、
作品を撮影するのが面白くってたまらない。いかに立体作品としての魅力を記録できるか、真剣勝負が楽しいのだ。
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L: 『海老附花瓶』。 C: 『七宝筒形灯籠鳩細工桜』。 R: 『上絵金彩帆立貝ニ魚蟹図花瓶』。
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L: 『金工付花瓶 雲海ニ龍』。 C: 『銀細工鶏画花瓶』(左)、『銀細工白磁藤画花瓶』(中)、『アジサイ銀冠花瓶』(右)。
R: 『菊桐鳳凰紋様台付香炉』。明治天皇の旧蔵品とのこと。やはり他の超絶技巧作品とは一線を画したデザインである。
狸亭 筆洗、狸水注、徳利、夫婦置物などいろいろ。
高浮彫から磁器に移行した後の作品は、モチーフが植物に一変。全体的に、鮮やかな色合いが印象的である。
そのせいか、ガラスではないものの、なんとなくガレ(→2024.6.30/2025.3.21)っぽさを感じてしまう。
(香山が1842年生まれでガレは1846年生まれ。なお、ガレがガラスで作品を製作するのは1889年頃から。)
描き方としては和風なのだが、色づかいとしては洋風の香りがする。独特な和洋折衷が果たされている。
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L: 『青華竹画大花瓶』。 C: 『釉下彩黄釉菖蒲大花瓶』。 R: 『磁製色入藤大花瓶』。
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L: 『美人画花瓶』(左)、『洋紅釉獅子付花瓶』(中)、『仁清意春日龍神 置物』(右)。
C,R: 初代香山の後期の作品群。植物モチーフに鮮やかな色がガレっぽい。対照的に形状はおとなしい。
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L,C: 併せて展示されている二代宮川香山の作品群。 R: 三代宮川香山の作品群。横浜大空襲で亡くなり、真葛焼は断絶。ではラストは超絶技巧の花瓶。宮川香山 眞葛ミュージアムにおける、いちばんのハイライトは間違いなくここだろう。
もう撮るのが楽しくて。立体造形物として面白くてたまらない。芸術作品としては……「まあ結局は好みの問題だよねー」。
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L: 『水辺ニ鳥細工花瓶』(左)、『猫ニ花細工花瓶』(右)。
C: 『磁製蜂ニ鳥花瓶』(左)、『赤絵金彩高浮花瓶』(右)。
R: 『鷹ガ巣細工花瓶』(左)、『葡萄鼠細工花瓶』(右)。
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L: 『花ニ鳥細工楽園飾皿』。 C: 『瓢箪細工虫行列花瓶』(左)、『蛙細工戯画花瓶』(右)。
R: 『蛙ガ囃子細工花瓶』(左)、『鳥ニ葡萄細工花瓶』(右)。
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L: 『樹ニ鳥細工花瓶』(左)、『蓮ニ鳥細工花瓶』(右)。
R: 『花ニ鳥細工楽園花瓶』(左)、『水辺ニ鶴細工花瓶』(右)。というわけで、姉歯メンバー一同、たいへん楽しく鑑賞させていただいたのであった。芸術面でも歴史面でも興味深い。
誇張抜きで、明治における日本の立ち位置を理解できる絶好の素材ではないかと思う。実物の迫力は言葉にならないねえ。4人いるのでタクシーでみなとみらいに移動。やや早いタイミングで横浜美術館に到着すると、アトリウムで何やら大騒ぎ。
佐藤雅彦展の一環で『計算の庭』という企画展示があり、それにチャレンジする人で行列ができていたのであった。
自分がある数字になって、最終的に「73」になるように、「+5」「ー4」「×7」「÷2」などと書かれたゲートをくぐる。
(後で話したのだが、「73」は素数なので大変ではあるけど、「+5」と「ー4」があるところに優しさを感じる。)
しかし入館時刻の15時30分が迫っていたので並ばないでおき、近くで同様に展示されていた数学の問題を解いてみる。
マサルは「なんで数学の問題をやらされるんよ!」と憤っていたが、佐藤雅彦は東大教育学部で数学教育を専攻しており、
子どもに理系のセンスを磨かせることは研究領域のど真ん中となっているようだ。そんなイントロを経て、見学開始。
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L: 横浜美術館のアトリウム。改修工事前には数えるほどしか来ていない(→2005.10.23)。
C: だ、そうです。 R: たいへん佐藤雅彦感のある会場マップ。手描き感のある線が鍵なのか。まずは映像の『ballet rotoscope』。じっくり見る人とあっさり済ませる人で混雑を平均化するわけか(→2025.5.31)。
ロトスコープはもともと輪郭をトレースするアニメーションの装置で、ディズニーの『白雪姫』でも使用されたそうだ。
これを輪郭以外に応用して、図形が人間の動きに見える、またその中の数理的な曲線の存在に気づかせる、という作品。
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L,C: 佐藤雅彦+ユーフラテス『ballet rotoscope』。 R: ウルトラマンにこんな怪獣いたような気がする。
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L: 頭と四肢の先をつなぐ。縄跳びっぽい。 C,R: 台形はジャンプしたときの点。高さと全体の形がよくわかる。展示のいちばん最初は、日に焼けて色落ちした一枚の紙。凹んでいる部分には「別のルールで物を作ろうと考えている。」
と書いてあるらしい。これが佐藤雅彦の方法論の始まりとのこと。「従来とは異なるやり方」を宣言しているそうで。
「別のルールで物を作ろうと考えている。」
当然ながら、展示の前半は電通でのCMプランナーとしての仕事である。最初に手がけたのはパンフレットのデザインで、
自分の気に入ったものを並べていったら「枠」をモチーフとする発想にたどり着く。ここから雑誌の連載につながる。
いま見て思うのは、枠のデザインはたいへん80年代の感触が強いということ。枠内に収められた文章は別の人物によるが、
それも含めて、バブルならではのワケのわからないものを許容する余裕に助けられているな、という印象がする。
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L: 『「POETRY FORUM '83」パンフレット』。これがいちばん最初の「枠」のデザインとのこと。
C: 『「アメリカ現代版画と写真展 ジョナス・メカスと26人の仲間たち」ポスター』。
R: ホットドッグプレスに連載された『映画の楽しい学習』。こちらのデザインを担当。
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L: 『CINEMA CLUB』。これもホットドッグプレス。 C,R: 『「藤幡正樹 CG展:まなざしとTechnology」DM』。
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L,C,R: 『KIT』。『ガロ』で連載されたマンガ。80年代の匂いが強いが、当時の最先端というのも確か。
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L,R: 同じく『KIT』。YMOのプロモーションに関わっていたというのも意外だった。展示されたものを実際に製作したのは藝大の人々だが、
「テクノ」から連想されるイメージを物体として生みだす企画を立てたそうで。バッジはCDジャケットの元ネタか。
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L: 『YMO テクノバッジ(フジカセット版)』。これは後に『WORLD TOUR 1980』のジャケットの元ネタになったわけか。
R: 『サウンドヘルメット(フジカセット「オーディオ・フェア」用)』。試聴コーナーでこいつをかぶったらしい。CMをつくるクリエイティブ局に異動するが仕事が与えられなかったそうで、その間に資料室に通って海外のCMを編集し、
面白いCMの「構造」を抽出していたという。そして個人で応募できる朝日広告賞で賞をとったことから快進撃が始まる。
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L: 『カルピス 薬袋』。新聞の三行広告に薬袋の体でカルピスの広告を混ぜる、ということをやっている。
C: 『ペチカ』。楽譜と歌詞で「イメージの読み書き」をさせるという広告。これで朝日広告賞の最高賞を受賞。
R: 佐藤雅彦が担当したCMを上映するシアター。一回の上映時間が30分以上で大混雑なのであった。展示は単なる広告の回顧ではなく、それを生みだすに至った方法論にかなり力が入っている。
正直、騒がしい場内で内容を理解するのはかなり難しい。結局は図録(という名の自伝)をじっくり読むのがいちばん。
佐藤式の表現方法論ではまず「ルール」が見いだされ、次いでさらに深い領域に及ぶ「トーン」が今も研究中とのこと。
そこからもさらに符牒の嵐なのでなかなか難しいが、実際に言葉に出してみる言語感覚を大切にしている印象である。
CMは「音から作る」のが絶対的な基本であるようだ。商品名やアピールするフレーズをとにかく連呼する。
そうしてリズムを生みだして視聴した人々の頭の中にインパクトを残す、この方法論を確立したことがすごい。
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L: ネーミング。濁音時代→新しい構造→セルフトーキング→地名の持つシズル→語尾の研究→専門用語の研究と進んでいった。
C: 「ルール」「トーン」の発見で生まれたCM一覧。 R: ノベルティグッズは日常の定番品に付加価値をつけることを徹底。確立された「ルール」に対して「トーン」はまだ言語化の途中だそうだ。「そこに存在する独特な世界観」だとか、
「見えない衣」だとか、そういった説明がなされている。僕の個人的な印象としては、「ミニマルな『構造』」か。
いかに付加価値をつけるかという話で、商品に合わせた説得力を演出により生みだす、そういう感性絡みの領域。
正直そうなるとこれは認知科学や心理学の世界となるわけで、そこを研究していくのは立派なことではあるのだが、
われわれの関心事としては、むしろそういったものに気づく佐藤雅彦本人の認知能力の方が問題なのである。
どうしてそれを思いつくのか、ヒントとして拾いだせるセンスは何が違うのか。そこが最も知りたいところ。
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L: 『シャンジャカシャーン。』。音を重視する作風がストレートに出ている。姉歯メンバーは小泉今日子の若さに反応。
R: 『ニュース』。こちらもJR東日本のポスター。「ニュース」という言葉に思わずシュプールの文字を読んでしまいますな。
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L: 『住友銀行創立100周年記念広告』。このように人と違うものが見える特性は、いったいどこから来るのか。
C: 『イノベーションは、このような形で突如現れる。』。こちらは2019年と、最近の新聞広告である。
R: 『この数センチ、わずかと見るか、着実と見るか。』。同じく2019年。陸上競技で更新された長さを示す。
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L: 『「佐藤雅彦展 新しい×(作り方+分かり方)」ポスター(剪定前)』。
C: 『はじっこジャック』『Fが通過します』。雑誌の端っこで連載したものが世界一細長い本になった。
R: 『連載中吊り小説』。本来の用途ではない使い方に気づいて拾いあげるセンスが凄まじい。展示室は主に2つの部屋からなるのだが、途中の小部屋でピタゴラ装置の実物展示。残念ながら撮影は一切NGだった。
ピタゴラ装置は佐藤雅彦研究室に所属する学生が毎日NHKの地下室で血ヘドを吐きながら黙々とつくっていて、
その苦行を耐え抜いた者が褒美に広告代理店への就職を許される……という勝手な想像をしているのだが。どうなのか。
あとは部屋をつなぐスペースにアート系の作品を展示している。思いついたことを実現してくれる人がいるのはいいやね。
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L: 佐藤雅彦+中村至男『勝手に広告』より「牛乳石鹸の群れ」。『勝手に広告』は面白いものとつまらんものの差が激しい。
C: 『勝手に広告』より「朝起きたらコダックだった」。 R: 『勝手に広告』より「わたしはボンド」。
『勝手に広告』より「グリコシティ」。
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L: 佐藤雅彦+桐山孝司『指紋の池』。 C: このように指紋をスキャンすると…… R: ディスプレイ上に現れる。
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L: メダカのように指紋が群れに向かって泳ぎだす。 R:もう一度スキャンすると自分の指紋が戻ってくる。CMプランナーを辞めて大学に移った後半は、表現の研究。展示の大半は映像なので、展覧会との相性は正直イマイチ。
これはインターネット博物館として動画再生できるようにせんとダメだわと思う。じっくり見られる環境ではないし。
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L: 『アルゴリズムが生む表現 ステップ表』。「アルゴリズムたいそう」「アルゴリズムこうしん」の原型とのこと。
C: 『動け演算/16 FLIPBOOKS』。何がやりたいのかわからないが、実態は計算をもとにしたパラパラマンガらしい。
R: 『電球工場の映像』。海外で見たTVの画面を8ミリで撮影したもの。工場の動きとピタゴラ装置の関連性が窺える。
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L: 矢野健太郎『解法のテクニック数学I(再訂版)』。 C: 凸レンズで覗くと立体視ができる、というわけ。
R: 「クレバス」。凸レンズで覗くと実際に裂け目が凹んで見える。その中を小さい飛行機が飛んでいるのがまたオシャレ。慶応SFC、そして藝大の先生になってからの佐藤雅彦は、数理的なアプローチを利用した表現を一貫して研究している。
「表現の研究」というのもなかなか曖昧で、結局は佐藤のやりたいことを学生が無償で支える仕組みであると感じる。
そういう意味では建築学科に近いものがあるのかもしれないが。学生が育っているようには思えないんだよなあ。
展示を見ても「すごーい」「おもしろーい」という言葉が客の口からは出てくるものの、それで終わっている感触。
岡本太郎なら明確に受け手を焚きつけて芸術を広げようとするスタンスだが、佐藤雅彦はそういうわけでもない。
他の人が気づいていないことに佐藤雅彦はいち早く気づく。それを示す。でも周囲とのギャップがなかなか埋まらない。
たぶん、実はあまり埋める気がない。隔絶された表現者と客の関係を埋める前に、次の表現のネタを拾いあげている。
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L: 『きょうのスレスレ かいてん編2「フォーク」』。フォークの位置によって平面の通過点が変わるわけで。
C: 『ぼてじん「いえてんしょうかいのまき」(実物)』。 R: 『つながりうた もりのおく(実物)』。
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L: 『未来の科学者たちへ「見えないガラス」(実物)』。 C: 水中だとガラスが見えなくなるってわけである。
R: これまでに出した本を壁一面に展示。紙には他のすべてのメディアの基盤となれる自由さがある、とのこと。
展示の最後は『ポリンキー』。
佐藤雅彦はメッセージの受け手に対して強制力を有する送り方について、先天的に恐ろしく敏感なのである。
繰り返すが、そうなると本来であれば「なぜ伝わるのか」、つまり認知科学や心理学が研究領域となるはずなのだ。
しかし佐藤は「どう伝えるか」を研ぎ澄ませてきた人で、より基礎的な「なぜ伝わるのか」には興味を示さない。
そこにギャップが生じる。そもそも客/受け手が求めているものは、「佐藤雅彦にはなぜ見つかるのか」なのである。
どうしてそれを思いつくのか。日常に転がっているものに気づいて拾いあげるセンスは、どう育てられたのか。
しかし本人が研究しているのはそこではない。キャッチボールは成立せず、佐藤が一方的に七色の変化球を投げている。
なるほど、確かに佐藤は「作り方を作」ってきた。でもその前の段階、「気づき方」こそが鍵だったのではないか。
結局いちばん凄いのは、飽きられる前に転身したことだ。それもまた、優れた「気づき方」のなせるわざというわけで。
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L: 佐藤雅彦+桐山孝司『計算の庭』。 R: 佐藤雅彦+桐山孝司『計算の庭 状態遷移図』。展示をひととおり見終わると、アトリウムで展開されている『計算の庭』のネタばらしがあった。
まず、「①人は、見た目の印象で行動をしてしまう」ということで、10を単純に「×7」するとかえって73が遠くなる。
そして、「②人は、答えがわかると、思わず早足になってしまう」。そりゃそうだろう。わからなきゃ動けねえよ。
この企画展示は、そういった人々の動きを上から見下ろして楽しむというものだったのである。うーん上から目線。
それもふまえて、結論が出た。佐藤雅彦は、壮大なフローチャートをつくって面白がりたい人なのだろう、と。
ピタゴラ装置なんて、フローチャートそのものではないか。工場のハンドリングもフローチャートの具現化だ。
CMを生みだしてきた「ルール」も「トーン」も、結局は佐藤の頭の中にあるフローチャートの一部なのである。
ゴールに至る過程を面白がること。その途中のアクロバティックな分岐を賞賛すること。そこにこだわっている人なのだ。
となるとやはり、問題はそのアクロバティックな飛躍に気づくセンスとなる。彼の方法論を使いこなすにはまだまだ遠い。閉館時刻滑り込みでショップでの買い物を済ませると、姉歯メンバーと合流。みなとみらい駅から電車に乗ったので、
新年会の会場を「とりあえず新宿三丁目に出てからどこかで」とテキトーに設定するのであった。駅に到着すると、
伊勢丹から出て新宿末廣亭方面へ。なんとなく末廣亭に足が向いてしまうのが、いかにもこの面々といった感じである。
その末廣亭では七代目三遊亭円楽の襲名披露興行を開催中で、時間調整に入る……?という雰囲気になるのがまたこの面々。
まあ結局は入らず、しばらく周辺を様子見してから東北地方+北海道をフィーチャーした居酒屋に突撃するのであった。
やがてえんだう、さらにみやもり両名も無事に合流し、ニシマッキーの都庁事情だの、リョーシさんのお遍路が7周目だの、
スーパー戦隊&宇宙刑事トークだの、『帰ってきたウルトラマン』の「怪獣使いと少年」(→2012.12.20)トークだの、
気ままな話題で盛り上がるわれわれなのであった。今回もリョーシさんから桃を頂戴しましたありがとうございました。
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L: 初めての芋煮に興奮が隠せないマサル。 C: 日本酒に興奮が隠せないマサル。お前いつの間にそんなに酒好きになったの?
R: なんとか今年も新年会を開催することができたのであった。よかったよかった。知的な鑑賞会や飲み会はたまらなく楽しい。さて、日本100名城の話題になったのだが、城といえばえんだうさんが最近かなり精力的にあちこち訪れている。
すげえなあと感心しつつ、自分がどれだけ100名城を制覇したか確認してみたら、なんと「残り3つ」なのであった。
まだなのは金山城・八王子城・千早城だけ。いやー市役所のついでに行っとるねえ。自分で自分に呆れてしまった。
御朱印ならぬ「御城印」があるよって話になり、集めないのかと訊かれ、僕もえんだうさんも「いらん!」と返す。
結局そんなの、御朱印も100名城も、スタンプラリーが目的化しちゃっているのである。手段が目的と化している。
僕の場合、城跡を訪れたらそれは日記で記録されるので、もうそれで十分なのだ。来た見た勝った、それでいいのだ。
(なお御守はデザインを研究対象としたコレクションである。御朱印集めとはまったくもって質が異なるのだ。)旅行記の日記は特にそうだが、目的は「景色の共有」にある。自分が見たものを、ありのまま共有したいという欲求。
訪れたのが城跡であれば、「この城に行ってきたよ」「この城こんなだったよ」以上。もうそれで十分なのである。
だから僕の日記には自撮りがほとんどない(ネコと一緒に撮るぐらい)。自分自身の写真もあまり撮ってもらわない。
僕がやっているのはアリバイづくりではなく、見たり食ったりしたときの感情を共有したい、それだけのことなのだ。
きっかけはcirco氏の名代で開聞岳に登ったことだ(→2009.1.7)。それ以来、オレがみんなの代わりの目になるんだ、
そういう気持ちで日記を書いている。そんな僕を「書記長」と呼んでくれ。でも「総書記」とは呼ぶなよ。
『グラン・ブルー』。有名な映画なので期待して観に行ったらクソ映画だったでござる。
自閉症ダイヴァーの冗長な悲劇を見せられても時間の無駄でしかない。得るものが本当に何もない3時間だった。
脚本が異様に雑で、いろいろ唐突で呆れてしまった。正直海もそこまできれいではないし。4Kの意味があまりない。
地中海の景色撮っときゃなんとかなるだろ、それをフランス風悲劇でまとめりゃなんとかなるだろ、それだけ。
クソ映画というよりは「カス」という表現の方がしっくりくるかもしれない。本来であれば面白いもの、美しいもの、
そこから漏れたカスばっかりを集めて固めた3時間。それでいて「grand」を名乗っているのが実に滑稽な映画だった。
『大長編 タローマン 万博大爆発』。岡本太郎は好きなので(→2017.6.2/2022.10.22/2024.7.21)、期待して鑑賞。
開始2分であまりのつまらなさに呆れ果てた。意識高い系の自己満足。最低最悪、救いがたい寒さである。
ずっと説明ゼリフで解説、いや言い訳しているだけ。引用される岡本太郎の言葉は確かに正しいのだが、
それを連発して自己正当化する中身のない時間が延々と続く。ただただ虚しさだけが募る、本当に苦痛な時間だった。とにかく、寒い映画である。すべてが空回りしていてみっともないことになっているのに気づけない寒さ。
この映画、むしろ岡本太郎を逆らえない権威に祭り上げて喜んでいるだけだ。もはや宗教じみている。
それはかえって岡本太郎の嫌がることをやっているだけ、という事実に気づけない頭の悪さが救いがたい。
岡本太郎が望むのは自己の作品の再構成ではなく、各人にしかできないオリジナル作品を生み出させることであるはず。
あらゆる人々を挑発して芸術へと向かわせる、その媒介となることを彼はひたすら望んでいたはずなのだ。
しかし展開されるのは岡本太郎をただ崇め奉るだけの宗教。しかもレトロな雰囲気のノスタルジーに頼っている。
クリエイターとして、オリジナリティのかけらもないもので喜んでいることを恥ずかしいと思わないのか。恥を知れ。なお、タローマンの動きは初代の映画泥棒みたいでお見事。でも褒められるのは本当にそこだけ。最低最悪。クソ寒い。