diary 2013.7.

diary 2013.8.


2013.7.31 (Wed.)

午前中は部活で、午後は五反田に出て買い物。部活ばっかりで7月が終わるなあ、と思う。
まあ教員なんてそんなもんだ。むしろここで1学期の疲れを回復させておかないと、2学期がもたないのだ。
しっかりと汗を流して運動をして、健康的に体力の増進を図るとしましょう。


2013.7.30 (Tue.)

午前中に休みをとったので、部屋の片付けをしてみる。午前中の光を浴びながらの片付け作業というものは、
それはそれでなかなかに快適なものである。最近は部屋の散らかり具合が本当にひどくてどうしょうもないのだが、
多少は状況を改善できたのではないかと思う。すべてをクリアすることは不可能だが、やるだけやったよ。
一年間の動きを考えると、すべてにおいて余裕のある夏休みが片付けの最大のチャンスなのだ。やるしか!


2013.7.29 (Mon.)

本日も左ヒザのリハビリ。トレーナーだかなんだかのお兄さん曰く、左の股関節や臀部などの筋肉が硬いという話。
それで長年の慣習によって左脚で使う部分が決まってしまっていて、負担がかかって痛みとして出ているとのこと。
つまりヒザの痛みはヒザに直接の原因があるわけではなく、僕の長年の体の使い方がもたらすものだったのだ。
身のまわりの機械や道具にメンテナンスが必要なように、人間の体にもメンテナンスが必要なんだなあと納得。
「欲望機械は、たえず自分の調子を狂わせながら、まさに変調の状態において作動するのである。」という、
ドゥルーズ+ガタリの『アンチ・オイディプス』の一節を思い出すのであった。うーん、なんとかせねば。


2013.7.28 (Sun.)

サッカー・東アジア杯。いよいよラストの韓国戦だ。スタメンは初戦の中国戦とまったく一緒のターンオーヴァー。
オーストラリア戦のメンバーがいい試合を見せてくれたので、このチームはそうとうに燃えていることだろう。
選手をテストするだけでなく競争意識をうまく煽っており、ザッケローニの手腕の凄さを見せつけられた感じだ。

序盤は韓国が押してくるが、日本は粘り強く守って対応。しかし圧巻だったのが25分の青山のロングパス。
これが前線の柿谷にばっちり通って日本が先制。青山はロングパスもロングシュートも非常に得意とする選手なのだが、
ここ一番でこんなに鮮やかに決まるものなのか、と鳥肌が立った。まあ、出す方も出す方だが、受ける方も受ける方だ。
しかしその後も日本は攻め立てられて、ややぎこちないパス交換から見事なミドルを決められてしまう。
完全アウェイの韓国戦なのでしょうがないといえばしょうがないのかもしれないが、後半も日本は攻め立てられる。
ミスもファウルも多くてかなりフラストレーションの溜まる展開だったが、アディショナルタイムに試合が動く。
左サイドから走り込んだ原口のシュートがまず良くて、これを相手GKが弾いたところに柿谷がいた。
本日2点目が優勝を決めるゴールで、決めるべきところで決める柿谷のスター性にはもう脱帽するしかない。
高萩があまり持ち味を発揮できなかったのが個人的には残念だったが、選手たちは最高の結果をもたらしてくれた。

これは単なる日本代表の勝利だけではなく、Jリーグの魅力を再確認させる勝利でもあった。本当にうれしい。
ぜひこのJリーグの選手たちへの注目が今後も続き、国内リーグを盛り上げる大きな流れになってくれたら、と思う。
国内リーグの繁栄なくして代表の強化はありえない。未来につながる、本当に本当に大きな結果を残してくれた。


2013.7.27 (Sat.)

駒沢公園へ行ってみた。DOCOMOMO物件があるからいずれ行かなくちゃ、とはつねづね思っていたのである。
でも何の目的もないのにわざわざ行く気にはなれなかったのだ。でも本日、ついでに寄る理由ができたので行ってみた。

正式名称は「駒沢オリンピック公園」である。その名のとおり、東京五輪の会場として整備された。
が、そこは都市社会学的に面白い紆余曲折があるのだ。当初は1940年の東京五輪の会場となる予定だったという。
第二次世界大戦で中止になってしまった、「幻の東京五輪」の方だ。ちなみに、それまではゴルフ場だったそうだ。
(1940年の東京五輪についても、同年開催予定だった万国博覧会と併せてきちんと勉強せんといかんのよね。)
戦時中には陸軍駒沢練兵場となるが、戦後に東急フライヤーズの親会社だった東京急行が球場を建設する。
これが東映フライヤーズの本拠地として知られた駒沢球場(「駒澤野球場」が正式な名前とのこと)である。
しかし1964年に東京五輪が開催されることが決まると、かつて会場予定地だった駒沢もその計画に含まれた。
駒沢球場はわずか9年で廃止となり、陸上競技場・体育館・屋内球技場などの施設が建てられた。

駒沢オリンピック公園では特に、芦原義信が設計した体育館と管制塔が名建築としてよく知られている。
しかし1960年代半ばは高度経済成長の真っ只中、そして鉄筋コンクリートによる日本モダニズムの全盛期であり、
それ以外にも当時の昂揚感を存分に感じさせる建築がいくつか残っている。自転車をこぎつつそれらを見ていく。

  
L: 特徴的な外観の駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場(設計・村田政真)。隣が病院ということで照明がない。
C: 駒沢オリンピック公園管制塔(オリンピック記念塔、設計・芦原義信)。手前には聖火台が何の説明もなく置いてある。
R: 五重の塔を意識したとかなんとか。個人的には、香川県庁(→2007.10.6)を再解釈したズルさを感じるのだが……。

陸上競技場の向かい、管制塔の向かって左は体育館。1993年に大規模な改修を行っているらしいのだが、
曲線的な代々木の体育館とはまったく対照的なまっすぐな三角形。しかしそれが1960年代らしさを実に感じさせて、
これはこれで確かな時代の証人であると思う(まあつまり、丹下が凄すぎるってことだ。あれは時間を超越している)。
中に入ってみたらフェンシングの大会をやっていた。掘り下げた地下空間がとても広くて、興味深いつくりだ。

  
L: 駒沢オリンピック公園総合運動場体育館(設計・芦原義信)。直線的なコンクリートは時代の証人なのである。
C: 中に入り、地下の競技会場へ。『街並みの美学』(→2012.3.15)に登場したサンクンガーデンを思わせる発想。
R: 駒沢オリンピック公園総合運動場屋内球技場(設計・東京都オリンピック施設建設事務所)。東洋の魔女はここで優勝。

駒沢公園のように、当時のデザインを尊重して残していること、つまり空間を記念碑としてそのまま保存することこそ、
本当の過去への敬意であると思う。実際にきちんと意識して訪れたからこそ、その意義を確かめることができた。
僕が考えていた以上に、駒沢オリンピック公園はとてもすてきな場所だった。維持が大変だろうけど、がんばってほしい。

さて、駒沢公園に寄ったのは、近くの中学校でサッカー4級審判員の資格を更新する講習会が行われたから。
行ってみたらそこは、4年前のサッカー部顧問1年目に練習試合をやった中学校なのであった(→2009.5.9)。
うーん、4年前にはこんなことになるとはまったく想像できんかったなあ。というより、もう4年か!って感じ。

講習を受けるにあたってまず練習問題をやってみたのだが、まあこれがぜんぜんできんことできんこと。
忙しさにかまけてろくすっぽ予習をしていなかったにしても、あまりにもひどい正解率に愕然とする。恥ずかしい!
日頃きちんと勉強をしていないことを全力で反省するのであった。いやもう本当に情けないったらありゃしない。

ありがたかったのは、実際の映像を使って、ファウルかどうか、あるいはイエローかレッドか、基準を確認できたこと。
僕みたいに選手経験がないとどうしてもその辺の力加減がわからないのだが、多少は目が慣れたかな、と思う。
これをきちんと継続的に経験していかないことにはスキルは絶対に上がらないのだが、本当に勉強になったのであった。
全国のサッカーファンの皆さんもぜひ、こういったトレーニングをしてからスタジアムで観戦していただきたいっス。


2013.7.26 (Fri.)

小笠原信之『アイヌ差別問題読本 増補改訂版』。現地で買ったアイヌ関連書籍、まずはこいつから読んでみた。

はっきり言って、この手の本で、これほど完成度の高い本はほかにないだろう、というくらいの優れものだ。
まず26個のQ&A形式で、アイヌについてまず人類学的なところから、次いで歴史的なところから説明していき、
現代まで来るとアイヌの置かれている現状、法律の問題点などへと焦点が移っていく。本当に手際がいい。
各方面にわたる膨大な事象を鮮やかに整理して提示していて、筆者のその手腕にはただ驚くしかない。
巻末には資料として各法律、年表、文献の紹介までついており、至れり尽くせり。これ一冊で一気に賢くなれる。
「和人が自虐的に書いている」という批判はおそらくありうるが、それでむしろバランスがとれているようにも思えるので、
僕はその点はあんまり気にしない。純粋に、この本は恐ろしく手際よくマイノリティの事実を教えてくれる本だ。

だが一点、どうしても納得いかないのは、挿絵だ。挿絵からは明らかに、和人に対する「悪意」を感じる。
確かに挿絵は事実をよく示しているものだろうし、ぜんぶがぜんぶ気に入らないわけではないのだが、
明らかな「悪意」をもって描かれているものが混じっているのは非常に腹が立つ。この本を価値を下げている。
アイヌを不利な立場に追いつめ続けた和人の背景にあるもの、価値観、そこをえぐり出さないと解決はありえない。
しかし挿絵はとても短絡的に和人を貶めている。同じ人間でも、追いつめる側と虐げられた側に生まれてしまった差、
そこを考えさせるだけの深みがないのだ。「悪」が「悪」である理由、そこに人間の本質があるはずなのに。
たかが挿絵がそこまでの表現をできるものか、と言われると、そうかもしれない。できることは少ないかもしれない。
でも、この本の挿絵が中身の濃い本文にふさわしいものではないのは確かだ。非常にもったいなく感じる。

僕らは資本主義に素早く適応した者が優位に立つ、既得権益を享受できる、そういう社会を生きている。
(それはさらに進行している。近年の新自由主義的な動きは、その最も先鋭的な反応であると感じる。)
優位でない立場にある者を守ろうとする場合には、必然的に「非主流派」の立場から運動をせざるをえない。
たとえばアイヌ初の国会議員だった萱野茂氏がカウンター側の政党である社会党から出馬したのも、必然のことなのだ。
「主流派」が既得権益の享受で一致団結できるのに対し、「非主流派」はその中で無限に分裂を繰り返す運命にある。
(「非主流派」の中の主流派と非主流派、その非主流派の中の主流派と非主流派……。マトリョーシカのようだ。)
「非主流派」の主張が「主流派」に認められた場合でも、その合意形勢に反対すれば新たな非主流派ができあがる。
多数決を基礎とする民主主義は、どうしてもマイノリティを救いきることができない。ユートピアは実現しない。
それでも、マイノリティについて知ること、つねに彼らの「入り込む余地」をつくることを、続けていかなければならない。
既得権益を手放す勇気がなければ、「主流派」と「非主流派」の無益で非建設的な争いは終わることがないからだ。

アイヌの先住民族としての権利を認めることは、和人の既得権益を失うことにどうしてもつながってしまう。
しかし、多様性を認める豊かな社会とは、そういう余地、つまり「余裕」を持つということにほかならない。
世の中、なんでもゼロサムゲームでは困るのである。誰だって、あらゆる要素で「非主流派」になりうるんだから。
この本はアイヌをめぐる問題について知識をつけるのに、そして社会に対する視野を広げるのに、最適である。
現代の日本人が抱える問題を考えるきっかけとして、この本からスタートしてみることは、非常に有益であるだろう。


2013.7.25 (Thu.)

人工芝で小学生と練習試合。たかが小学生というわけではなく、技術のきちんとしている子がけっこう多くて、
1年生たちはまるっきり遊ばれていた。引退したけど体を動かしにきた3年生も「いい勝負」というレヴェル。
それでもみんな集まってワーッとサッカーができるのは大変よろしゅうございました。僕もハッスルしたよ。

サッカー・東アジア杯。2試合目はオーストラリア戦。中国戦がお粗末な結果となってしまったので、
難敵のオーストラリアにはどうにかしてうまいこと勝ちたい。問われているのはJリーグの底力でもあるのだ!
で、日本の先発はスタメン総入れ替えの見事なターンオーヴァーぶり。それだけテストしたい選手が多いってことだ。
この東アジア杯はJリーグファンにとってはまさにお祭りといっていい状態だ。絶対に活躍してほしい選手ばかりだ。
特にFWの大迫と豊田はどこまでできるのか非常に気になる。齋藤学と山田大記もどこまでやってくれるか。

先制点をあげたのは齋藤学で、得意のドリブルでゴール前をするする動くと、ループでGKが届かないところに決める。
さらに日本は後半の55分にワンタッチパスを鮮やかにつないで大迫が落ち着いてゴール。これはすごくかっこいい。
ところがなんだかよくわからないうちに1点返されると、ゴール前でうまいコンビネーションを食らって同点に。
またこういう展開かよ、と思ったところですぐにパス交換から大迫がコースを衝くシュートで突き放した。
2失点はいただけないが、攻撃面ではなかなかワクワクするサッカーを見せての勝利でほっと一安心。
豊田に得点がなかったことだけが残念だが、攻撃陣はしっかりと成果を出してくれた。応援しがいがあるなあ。


2013.7.24 (Wed.)

髪の毛切って、日記の画像を整理して、医者に左ヒザを診てもらう。
ここ最近は左ヒザ裏の痛みが限界に近く、ひどい日にはとてもサッカーなんてできないくらい。
この夏休みの間になんとかしなくちゃ!ということで、思いきってスポーツ系の医者に行ったわけだ。

まず問診、そしてレントゲンを撮ってみたのだが、関節じたいに特別おかしな形跡はないようだ。
しかし続いてトレーナーだかなんだかの人に左ヒザの動きをあれこれ分析してもらったところ、
僕が左ヒザの外側ばかり使っていることが判明したのであった。ヒザ裏には左右に靭帯があるんだけど、
バランス無視で外側しか使っていないため、内側が弱りきっていて、それで負担がたまって痛みが出たそうだ。
説明されると納得できる。そういう発想はまったくなかったので、よくわかるなあすごいもんだ、と驚いた。

当面は左右の靭帯のバランスを意識して生活することに。内側の靭帯を鍛え直していきましょう、となる。
がに股気味で爪先が外側を向いていることが外側の靭帯にばかり負担をかける原因になっているようなので、
ヒザを使うときには左足の爪先を少し内側に向けるように意識する。階段なんかもそうして上る。
椅子に座ったときにもトレーニングができる。力を入れて椅子の脚にかかとを押し付ける作戦なのだが、
そのときにやはり爪先を内側に向け、ヒザ裏内側の靭帯だけを使うようにする。そうして地道に鍛えるのだ。
内側をフル活用すればその分だけ外側が休める。今まで無意識にやってきたことの逆を意識的にやるわけだ。
原因がわかればもう怖くない。この夏休みで症状を改善して、より快適な身体を取り戻してやるのだ。


2013.7.23 (Tue.)

北海道アイヌ研修の2日目は「風の谷」が舞台だ。道内で最もアイヌの人口密度が高いとされる場所、二風谷へ行く。
昨日訪れた白老もぜひ行ってみたいと以前から強く思っていた場所だったが、もちろん二風谷もそうだった。
だから出張が認められてから嬉々として旅程を組んだのだが、その中身を見た事務職員さんは本気で呆れていた。
でも百聞は一見に如かず、現地で勉強するのが一番なんだからしょうがない。私を二風谷へ行かせてチョーダイ。
まあ最終的にはそこはプロ、事務さんは細部まできっちり確認して旅程をマトモに修正してくれたのであった。

事務さんが呆れた原因はというと、公共交通機関を利用しての二風谷へのアクセスが非常に面倒なこと、それに尽きる。
札幌や苫小牧から直接行くバスは一日1本、しかも夕方着。必然的に、日高本線の富川駅からバスに乗ることになる。
そのバスも本数がきわめて少なく、おまけに道南バスのホームページにある時刻表がめちゃくちゃわかりづらい。
確認のために電話をかけたら市外局番が5ケタということで、これはもう、どんだけ僻地なのよと思ってしまうわけだ。
「レンタカーにすればいいですよ」と言われて「ああ!」とようやく気がつく僕なのだが、運転できんのよね。
別に意地を張っているわけではないのだが「……でもやっぱりバスでお願いします」と言うよりほかにないのだ。
去り際、「大変ですね……」あらためて旅程を確認した事務さんにそうぽつりとつぶやかれてしまったのであった。
でも、僕は慣れているからこれくらいのことを大変とはまったく思わない。もはや感覚がマヒしていることもあるが、
やっぱりそれ以上に、二風谷という場所を訪れることが楽しみでたまらなかったのだ。現実の風の谷の土を踏みたい、と。

日高本線の気動車が苫小牧駅を発車したのは午前8時ちょうど。当初の予定では始発に乗ることになっていたのだが、
事務さんがバスの時刻を確認してくれたおかげでこのマトモな時間帯での出発となった。いやー、ありがたい。
車内では大好きなセイコーマートのおにぎりやらパンやら飲み物やらをいただく。セイコーマートの世話になるたび、
北海道って素敵!と心の底から思う。先週はセイコーマートに寄る暇がなかったのだが、ようやくこれで気が済んだ。

苫小牧駅を離れた日高本線は、曇り空の下をゆったりと進んでいく。そして勇払駅を過ぎると、あの光景が広がる。
自然の力を代表する植物と、人間の力を代表する工業とが、真っ正面からぶつかるあの光景(→2012.7.2)だ。
デジカメを構えて車窓から撮影してみる。製紙工場、港湾、発電所と、緑と工業の対比をしっかり記録できた。
本州にも埋立地を中心に植物が本性をむき出しにしている空間は見られるが(→2008.7.272008.7.28)、
さすがにここまで大規模な勝負となっているのは、北海道ならではだ。そう、これは北海道を象徴する光景でもある。

  
L: 植物と工業の格闘3題。勇払駅付近で、緑の中に埋まる製紙工場。  C: 苫小牧港。  R: 苫東厚真発電所。

昨年、日高本線に乗ったときのログでも書いたが、このような大地を走り抜けていたのがアイヌの皆さんなのだ。
そんな人々が暮らす現場にこれから踏み込むのだ。僕はどれだけ敏感になって、どれだけ受け止めることができるか。

列車が富川駅に到着したのは8時50分。終点の様似までは3時間かかるので、距離的には苫小牧にけっこう近い感じ。
でもここからが手間がかかるのだ。富川駅の駅舎の中で巨大な蚊と格闘しながら30分ほど本を読んで過ごすと、
駅前の通りにあるバス停からバスに乗り込んで北東へ。国道237号をひたすら奥へ奥へと進んでいく。
この道は「日高国道」という別名があるようで、それなりに交通量があり、決して僻地という印象はしない。
ゆっくりと高さを増していく国道の両脇は、しっかり手入れの行き届いた農地となっている。人の気配がちゃんとある。
途中、紫雲古津(しうんこつ)という集落を通った。その当て字っぷりに、北海道の本質をあらためて実感させられる。

バスは国道237号をずっと走ってきたが、平取町役場の辺りでいったん国道を離れ、町の中心部へと入り込む。
平取は「びらとり」と読む。「ガケの間にある所」を意味するアイヌ語「ピラウトル」が由来となった地名である。
義経伝承のある地のようで、それをPRする看板や、その名も義経神社が存在している(バス停もちゃんとある)。
Wikipediaによれば、それはアイヌの英雄を源義経と同一視したことで成立したようだ。事態はなかなか複雑だが、
神道でも複数の神の同一視も神仏習合もよくあったことなので、そんなものと言えばそんなものなのかもしれない。
なお、二風谷は行政区域としては平取町の一部である。二風谷村が合併で消えたのは1923(大正12)年のことだ。
二風谷は「木の生い茂るところ」を意味するアイヌ語「ニプタイ」が由来である。

バスは沙流川の左岸に移って、国道237号は北へと針路を変える。農地が広がっていたさっきまでの右岸とは違い、
こちらはいかにも田舎を走る国道の風景そのまま。つまり、本州と差はないように感じる。よくある風景だ。
するといきなりアナウンスで「二風谷」の名前が読み上げられた。それで二風谷ダムがすぐそこにあることを知る。
そして住宅が見えてくると、左手に二風谷小学校が現れた。バスを降りる準備をして、窓の外に目を凝らす。
坂を上がると「二風谷」という巨大な看板があって、おお!と圧倒される。資料館前のバス停はその手前だった。

  
L: 国道237号(日高国道)と二風谷の様子。交通量はそこそこで、僻地という印象は全然ない。
C: まずは二風谷の巨大な看板がお出迎え。なんだかドライブインっぽいけど、そのような施設はなかった。
R: この資料館前の交差点が二風谷の中心になるようだ。そこから東、萱野茂二風谷アイヌ資料館方面を見たところ。

ついに二風谷に到着した。山と川に囲まれた場所なのだが、なんとなく広々とした印象を与える空間である。
それはまず国道237号の広さに起因していると思うが、全体的に建物の間隔に余裕があるのもその理由だろう。
その辺がやはり「北海道っぽさ」なのだ。では、このアイヌの土地と、他の開拓都市との違いは?
……それを少しでも感じ取るべく、今日一日は動きまわることになるのだ。なかなか難しい仕事だ。

バス停の西側には公衆便所があって、その奥に緑の芝生が広がっている。そしてチセがいくつも建っている。
ここでアイヌのかつての生活空間を再現しているようだ。すっかり晴れ渡った空から日差しを受けて鮮やかに映る。
とりあえずこの場所は後でじっくり歩きまわるとして、まずはトイレに行くのだ。ということで公衆便所に入る。
すると中には貼り紙があって、中国語で注意が書かれていた。これはつまり、中国からの観光客の多さを意味する。
昨日の白老もそうだったが、二風谷にも外国から観光客がよく来ているという事実に、けっこう驚いた。
僕ら東京在住、あるいは本州在住の人間にしてみれば、二風谷が観光旅行の選択肢に入ることはほとんどあるまい。
正直なところ、かなりの「物好き」の要素を持っていなければ、わざわざ二風谷を選択することはないだろう。
日本人がそんな具合なのに、貼り紙をするほどに中国人が来ている。これはいったい、どういうことなのか。
それだけ中国の経済規模が拡大しているってことだろうけど、彼らがどういう理由で二風谷を訪れるのか知りたい。

時間的な余裕はいくらでもあるので、まずは周辺部から攻めることにした。戻って坂を下っていくと、
沙流川へ注ぐ支流の手前に旧マンロー邸への入口がある。国道から少し入るとそこにはちょっとした林があって、
「北海道大学文学部二風谷研究室」という看板が立てられている。これが旧マンロー邸のことなのだ。
なんだか避暑地っぽい瀟洒な小道を歩いていくと、やっぱり瀟洒な木造住宅が現れる。きれいにしてあるなと感心。
N.G.マンローはスコットランド出身の医者で、晩年に横浜から二風谷に移ってアイヌを診療しながら研究した人。
1942年に亡くなる際にはアイヌと同様の葬式をするように遺言したそうだ。墓も二風谷にある。
マンロー邸は1932年の築。基本的に中に入ることはできないので(条件が厳しくてとっても面倒くさい)、
その周りを歩いて眺めて写真を撮るのみとする。きちんと公開してその業績を紹介すりゃいいのに、と思う。

  
L: 旧マンロー邸(北海道大学文学部二風谷研究室)へと続く道。  C: 旧マンロー邸。とてもきれいにしてある。
R: 歩道のブロックに埋め込まれていたアイヌの模様。渦巻模様はモレウといって、平和や豊かさを意味するそうだ。

さて、いよいよ本格的に勉強を開始するのだ。さっきの交差点まで戻ると、東の山の方へと入っていく。
緩やかにカーヴする上り坂を行くと、萱野茂二風谷アイヌ資料館がある。萱野茂はもう亡くなってしまったが、
彼の収集したアイヌの民具が大量に展示されているのだ。ちなみに萱野茂という名前はかつて教科書に出てきたので、
それでずーっと覚えていた。参議院議員に繰り上げ当選した(アイヌ初の国会議員)ときには「ほー」と思ったもんよ。

  
L: 萱野茂二風谷アイヌ資料館の脇にあるオープンスペース。彼がつくったチセなどがそのまま展示されている。
C: というわけで、そのチセ。本来はこれくらいのサイズなんだわな、と納得。  R: 後ろ側はこんな感じ。

まずは資料館の脇にあるオープンスペースを探検。昨日の白老同様、チセもプもヘペレセッもあって、
なるほどアイヌの集落はこういう要素でどこも成り立っているのか、と納得。特に萱野茂二風谷アイヌ資料館の場合、
もともと個人の施設なので、変にきれいにしていない分だけナチュラルな印象がする。飾っていない感じが自然でいい。

 萱野茂二風谷アイヌ資料館。右が民具の展示施設で、左はイヴェント向けホール。

中にお邪魔すると、その展示物の密度に圧倒された。入口のところからフルパワーの展示っぷりなのである。
なんてったってここに展示しきれなくなった民具が平取町立二風谷アイヌ文化博物館(後述)に寄付されたくらいなので、
その量たるや凄まじいものがあるのだ。そして個人的に面白かったのは、手書きのレタリング文字による説明である。
これがとても丁寧で、かつ昭和の雰囲気で、その適度な手づくり感がたまらない。非常に柔らかい雰囲気がして好きだ。
そして展示物はすべて撮影OK。昨日の白老もそうだったが、アイヌの博物館施設は撮影OKなところばっかりだ。
でもこれには理由がある。それは、アイヌの皆さんの「自分たちのことをきちんと知ってほしい」という思いによるのだ。
(これについて、僕は直接そういう言葉を聞いたわけではないのだが、現地を訪れてそういう思いをヒシヒシと感じた。)
逆を言えば、現代のアイヌは「アイヌの存在をきちんと知らない人がいっぱい」という状況に追い込まれているということだ。
まずはとにかく知ってくれ、存在を認識してくれ、そんな切実な思いがアイヌの展示からは伝わってくるのである。

というわけで、印象に残った展示物や展示の様子などを軽く紹介してみるのだ。興味を持ったらぜひ現地へ行ってね。

  
L: 萱野茂二風谷アイヌ資料館の展示の様子。とにかく密度がものすごくって、とんでもないことになっている。
C: アイヌ版のFREITAG? アットゥシ製。オシャレだね。  R: サケの皮でつくった靴(チェプケリ)。服もあるんだぜ。

  
L: ルウンペはこのようなケースで展示。地域ごとの模様などの違いがわかるのだが、このケースを考案した人はすごいと思った。
C: 食文化の展示。捕らえた動物の肉を食べるだけでなく、山菜や実など、さまざまな種類の植物を調理して食べていた。
R: アイヌの使用していた刀・エムシ。刀身と鍔(セッパ)は和人から交易で得て、それ以外の飾りはアイヌが自作。儀礼用。

  
L: これまた展示の様子。イナウなど祭祀の道具が収められている。  C: 奥にはチセの内部を再現している。
R: こちらはホールの様子。壁には萱野氏が行ったイヨマンテの写真などがある。手前はシカ角でつくった椅子。

萱野氏は徹底したコレクターで、2階は世界各地の先住民族・少数民族との交流で集まったものが展示されていた。
また、アイヌとは関係のない昭和の民具を集めた別の棟(けっこう未整理)もあった。すげえもんだと呆れるしかない。
あまりに量が多くて頭の中が整理されていない状態だが、とりあえず次の施設を目指す。

交差点に出るとそのまま進んで、さっき眺めたチセの並ぶ芝生の広場へと行ってみる。
木は敷地の周囲に点在しているが、真ん中にはない。だからだいぶ開けた印象になっているのだ。
芝生にはチセだけでなく、プやヘペレセッもある。チプもある。便所(オッカヨル・メノコル)もある。
実際の配置もこんな感じだったんだろうなあ、などと思いながら歩きまわってみる。

  
L: 奥の駐車場から振り返る形で眺めたところ。  C: チセが規則正しく並んでいる。  R: ヘペレセッ(左)とプ(右)。

  
L: チプ(丸木舟)。すぐそこの沙流川で使っていたわけだ。  C: トイレ。右がオッカヨル(男性用)で左がメノコル(女性用)。
R: イユタプ(鹿威し型雑穀精白器)もある。昭和10年代、二風谷は50戸ほどの集落だったが、イユタプは40ヶ所ほどあったとのこと。

さて、それぞれのチセの入口には看板が出ており、見ると中でアイヌの工芸品づくりを実演しているとのこと。
木彫りや刺繍などのジャンルに分かれてそれぞれのチセを工房としているわけだ。おじゃましまーすと入ってみたら、
わりとすぐ入口に近いところに机があって、そこで作業をしている真っ最中だったのでちょっと驚いた。
観光客にしてみれば工芸品を通してあれこれ話せるいい機会だし、職人さんには自分の店を紹介するいい機会。
北海道とはいっても夏の日差しは厳しくて、日なたにいるとかなり暑い。しかしチセの中は実に快適である。
ちょうど日陰にいるような涼しさで、これは仕事がいくらでもはかどりますなあ!と呑気に思うのであった。

  
L: チセの中では職人さんがお仕事中。工芸品の種類によってチセの場所が決まっており、それぞれの作業を見学できる。
C: iPadを使って説明してくれた。メディアの技術革新は少数民族にとって有利にはたらくかもしれない、と思わされた一瞬。
R: チセの内部。北海道の夏は日差しが厳しくて暑いので、それを除ければ涼しくて快適になるのだ。

刺繍をしているおばちゃんと話をした際、「あなたは二風谷のことをわかって来たの?」と訊かれた。
おばちゃんにしてみれば単純に「二風谷がアイヌの土地であることを知っていて訪れたのかどうか」ってことだろうけど、
「『わかって』……? オレはアイヌ文化についてきちんと理解できているのか……?」などと哲学的な方向で考えてしまい、
言葉に詰まってしまったではないか。まあ社会学者お得意の興味本位で来ていることは事実なんだけどね。
(また僕は問いに対して内心「二風谷をアイヌの土地と知らないで来るやつなんていないでしょー」と思ったのだが、
 国道237号の交通量からして、何気なく通りかかって「なんだこりゃ、アイヌなの?」って人がいるのかもしれない。)
振り返ってみると、僕がよそ者である後ろめたさが、二風谷においてはより強くコンプレックスとして出ていた気がする。
日本の各地を我が物顔で闊歩している僕だが、二風谷という空間においては僕がマイノリティとなるのだ。アウェイなのだ。
日記の最後に書くけど、同じであるけど違う、違っているけど同じ、同じと言ってはいけない、違うと言ってはいけない、
その力加減というかバランス感覚というか、その難しさを、僕はアウェイの土地で一人で背負い込んでいた。

 周辺の木々の説明板。まずアイヌ名で名前が紹介されている。

ひととおり工芸品づくりを見学し終えると、そのまま奥へ進んで平取町立二風谷アイヌ文化博物館の横を抜けていく。
坂を下っていくと、川が現れた。沙流川である。この暑さのせいか、ところどころで土が露出して中州ができている。
川下になる左を見れば、コンクリートと思しき構造物が水面の上に乗っかっている。ここは二風谷ダムなのだ。

二風谷ダムといえば、アイヌの文化が失われるとして建設差し止めを求める訴訟が起こされ全国的に注目された場所だ。
「つくっちゃったもんはしょーがねえよ」と原告の訴えは棄却されたが、土地の強制収用は違法であると認められ、
アイヌが先住民族であることも認められる結果となった。その現場に僕は今、立っているのだ。ここか、この場所か。

  
L: 沙流川、そして二風谷ダム。緯度の高い北海道とはいえ、天気のいい日が続いているのか渇水気味のようだ。
C: 二風谷ダムではゴミ箱もアイヌ風味の装飾が施されていた。やっぱりこうすると雰囲気が出るもんですな。
R: あらためて二風谷ダムを眺める。このダムができたことで沙流川流域の風景もけっこう変わったんだろうなあ。

沙流川・二風谷ダムの手前には沙流川歴史館があって、この建物は半分地中に埋まるような形状になっているので、
そこの2階部分にある展望スペースまでなめらかにアクセスできる。そこからもぼんやりとダムを眺めてみる。
やがて飽きると沙流川歴史館の中へと入る。入場無料の博物館施設なので、規模はそんなに大きくない。
しかし沙流川という川の視点からアイヌの文化や近代化を振り返ることができる内容になっている。
展示じたいも小ぎれいなデザインでまとめてあり、好感が持てる。特に印象的だったのは膨大な量の土器と、
沙流川のジオラマにアイヌ語地名を貼り付けていった展示。やはり現物と視覚的な資料は説得力が大きい。

  
L: 沙流川歴史館の入口。沙流川(二風谷ダム)の手前にあって、スロープを下って入っていく。凝っていますね。
C: これは沙流川(二風谷ダム)側から見たところ。2階部分が展望スペースとなっている。水と山しか見えないけど。
R: 展示スペースはそれなりにオシャレ。縄文→続縄文→擦文→アイヌと、文化の変遷を語る土器の量が半端ないのだ。

さていいかげん腹が減ったので、どうにかしてメシを食わねばならないのだ。実はさっきの交差点に、
でっかく「アイヌ料理」と看板が出ている店があったので、そこにお邪魔する。というよりそこ以外に選択肢がない。
さっそくその店に近寄ってみると、車でやってきたと思われる家族が1組に、ツーリング中のライダーが1名。
店には「新メニューのキトビロカツ丼が人気」という新聞記事が貼ってあったので、それにしてみた。
キトビロとはアイヌ語でギョウジャニンニクのこと。ギョウジャニンニクはアイヌにとっても珍重されたのだ。
結論から言うとたいへんおいしくいただいたのだが、カツ丼の時点でアイヌ文化からかなり離れてしまっているわけで、
これはちょっともったいなかった気もする。でもセットでついてきたのはシカ肉の味噌汁で、感動しつついただいた。
シカ肉はやや角煮っぽい食感。非常に柔らかいのだ。しかし脂身がほとんどないので健康的なイメージで食える。
昨日のオハウもそうだったけど、やっぱり現地を訪れて食文化を体験することは大切だわ、と思うのであった。

 キトビロカツ丼と鹿汁。たいへんおいしゅうございました。

しっかりと栄養を摂取して再び元気になると、いよいよ平取町立二風谷アイヌ文化博物館に入る。
こちらが開館したのは1992年で、前述のように萱野茂二風谷アイヌ資料館の民具が移籍したもの多数とのこと。
ちなみに萱野茂二風谷アイヌ資料館の開館は1972年。昭和と平成をまたぐ20年間の博物館展示方法の変化が、
比較社会学的にものすごく興味深かった。展示物じたいにももちろん注目したけど、方法の違いもかなり面白かった。

  
L: 平取町立二風谷アイヌ文化博物館。設計はアトリエブンク。  C: 沙流川(二風谷ダム)へ出るときに見た側面。
R: 内部はこんな感じで、まずアトリウムとなっている。側面のガラス窓から採光しているが、構造がなんとも独特。

昭和テイストが全開だった萱野茂二風谷アイヌ資料館とは違い、さすがにこちらは展示がかなり現代風である。
室内の照明は抑えめにしておいて、展示物に光を当てて印象的な空間になるようにかなり工夫をしている。
むしろ展示がカッコよすぎて、きれいすぎて、肝心のアイヌ民具の印象が薄れてしまっている気がしないでもない。

  
L: 平取町立二風谷アイヌ文化博物館の内部。民具を配置するレイアウトもかなり凝っているのだ。
C: まあこんな感じでずいぶんと現代風なわけです。  R: 展示物に光がしっかり当たっているので撮影はしやすい。

いちばん問題だったのは、チセに関する展示だろう。オシャレさを優先しており、実感がわかない展示だった。
やはり、鉄柱を立てただけで「こんな感じでした」というのは、いくらなんでも実態を想像するのが難しい。
近くにチセの模型を置いても、原寸大の質感とはまったく別物だから理解の助けにはならないのだ。
全体的にアイヌの文化をポジティヴに概観しようという意欲を感じる展示だっただけに、ここはとっても惜しい。

  
L: コンクリート打ちっぱなしの壁にガラス、その手前にも舟型にガラスを配置して展示。こだわりを感じさせる。
C: トゥキパスイ。これに酒をつけて神に捧げて祈ったという。これまたずいぶんこだわった配置の仕方ですなあ。
R: しかしながらチセの展示は大いに難あり。こんなにオシャレにされちゃうと、かえって何がなんだか。

それまでは徹底してオシャレにアイヌの民具を展示してきたのだが、最後になって考えさせられる内容も出してくる。
いちばん衝撃的だったのは、あるアイヌが厚岸の漁場で1年間働いて、その報酬がお椀たった1個だった、という話。
ほかにもQ&A方式で現代のアイヌ語をめぐる状況について鋭い解説がなされ、過去・現在の現実を突きつけられた。

  
L: かつての蝦夷地観を実感できる地図。なるほどこういう角度で見れば、北方民族の考え方に近づけるのかも。
C: 問題のお椀。1年間みっちり働いた結果がこれだけとは、当時の和人はそこまでやったんか、と呆れるしかなかった。
R: 最後には現代のアイヌ作家たちによる工芸品も展示されている。写真入りでプロフィールも紹介。

これで二風谷にある博物館施設はすべて見学を完了した。最後に、平取町アイヌ文化情報センターに入る。
ここは2010年に完成したアイヌ文化振興の拠点施設ということで、二風谷工芸館やイオル推進事務所などがある。
(イオルとはアイヌ伝統の生活空間。いわゆる「入会地」の概念と重なるものだ。しかしながらその分だけ、
 近現代社会が前提とする土地の私的な所有制度との相性が悪い。ここを上手く解決するのが現代社会の課題だ。)
売店も併設されており、そこでは多種多様な工芸品が作家性を強調するスタイルで販売されている。
アクセサリー類が苦手な僕も「ぜひ何か買いたい」とじっくり品定め。何点か買わせていただきました。
しかしながら、アイヌの皆さんは収入が安定しないクラフト職人的な生活になりやすい環境にあるってことなのか、
なんてことも考えてしまった。まあどういう職業を選択するかは個人の自由ってことになっているけど、うーん。
あとはアイヌに関する本も売っていたのだが、こちらは昨日の白老ほどラインナップが充実していなかったのが残念。

さて、ここで非常に印象的だったことがある。売店やイオル推進事務所にいるおばちゃんたちは、
客の相手をしていないときには常に、何かしら手仕事をしているのである。暇そうにしていることがない。
それで昨日の白老のミュージアムショップを思い出してみるが、そちらもやっぱり同じように手仕事をしていた。
アイヌの女性たちがせっせと手仕事をしている姿に、なるほど良き伝統はしっかり受け継がれているのだな、と実感。
何気ない日常の習慣に、伝統的な美徳が生き続けているのだ。怠惰な日常を反省したい気分になってしまったよ。

帰りのバスまでまだまだ時間があるけど体力的にはけっこう限界。やはり気合を入れて博物館見学をすると疲れる。
すべての施設を見学し終えたので、ここは一丁、温泉に浸かりますか!と日高国道を北へとトボトボ歩いていく。
二風谷の集落から少し離れたところに「びらとり温泉」という施設があるのだ。そこにお邪魔しようというわけ。
まっすぐな国道を歩いていくと、景色はすぐに大雑把なものへと変わる。二風谷の名物になっているんだろうか、
岩と呼んでいいくらいの大きさの石が売り物としてゴロゴロ転がっていた。それが妙に印象に残っている。

やがて案内があって、右に曲がって橋を渡り、坂道を延々と上っていくと、整備された公園に出た。
ここが二風谷ファミリーランドのようだ。びらとり温泉はその横に、想像していたよりも地味にたたずんでいた。

 びらとり温泉。平取町老人福祉センターとの複合施設のようだ。

地元住民の利用が中心となっているようでローカルな雰囲気。しかし観光客が訪れても困ることはまったくない。
温泉施設の内部には「幸太郎石」という石(さっきゴロゴロ転がっていたやつか)が大胆に配置されており、
内風呂なんだけどけっこう豪快な内装となっている。地元のおっちゃんやおじいちゃんに混じって癒されるのであった。

温泉から上がって、ジュースを飲みつつテレビをぼんやりと眺め、帰りのバスを待つ。
二風谷の集落まで戻るのが面倒くさくなったので、施設の前にあるバス停から直接、富川駅まで戻ることにした。
最後にもう一度二風谷の交差点周辺を歩きまわりたい気もしたが、もう十分すぎるほど歩いたのも事実なのだ。

温泉にすっかりやられていたこともあって、ボケーッとしている間にバスはあっさりと富川駅に着いてしまった。
30分弱で苫小牧行きの日高本線がやってきた。午後5時をまわって周りの空気はすっかり夕方のものになっていた。
苫小牧に着いたのは午後6時前。JRで新千歳空港へ行ってもよかったのだが、なんだかそれがつまらなく思えて、
バスにのんびり揺られて空港まで行くことにした。こうなりゃとことんバスに揺られてみよう、ということだ。
それで初めて苫小牧の駅前にあるバスターミナルに行ってみたのだが、これがとても大規模で興味深い。
いくつも乗り場が並んでいて、その手前には歩行者用の信号機も並んでいる。無骨さがなんだか昭和な風景である。
すっかり面白がって過ごしていたので、バスの発車時刻まで退屈することはまったくなかった。

暗くなりはじめた空の下をバスは走っていく。国道36号をひたすら北上していくルートなのだが、
ウトナイ湖(の入口)など、JRとはまったく異なる風景を味わうことができて、けっこう楽しめた。
特に、新千歳空港へとまっすぐ近づいていくフロントガラスからの眺めはなかなか圧巻。迫力があった。
唯一困ったのは、空港のいちばん端っこに到着すること。そこから歩いて歩いてようやく見慣れたフロアへ。
そしたら札幌はなんともないのに東京は雷雨だそうで、東京行きの便は遅れや欠航が続出していた。
これはもしかして……もしかしちゃうのか!?なんてドキドキしながらも、とりあえず晩飯をいただく。

バリバリ日記を書いて過ごしているうちに東京の雷雨はおさまったようで、定刻どおりに北海道を離れた。
羽田空港に到着したのは予定より15分も早く、欠航となった皆様に申し訳ない気分になるのであった。
それにしても東京は異様に蒸す! 北海道のスッキリサワヤカな夏とはえらい違いだな、と実感。

  
L: 苫小牧駅前のバスターミナル。大規模で、いかにも北海道かつ昭和。  C: 内部の様子。ちょうどバスが来た。
R: さすがにもうしばらく北海道には来られないだろうな、ということで、海鮮丼で締めることに。おいしゅうございました。

2日間、思う存分勉強させてもらって、もう何も言うことはない。このような機会を与えていただきありがとうございました。
この経験を教育現場にどう還元させるかが重要なのだが、まあその点に関しては追々と言ったら申し訳ないのだが、
やはりもうちょっと自分の中で熟成させてもらいたい、というのが正直な気持ちだ。これは本当にデリケートな問題だから。
さっきも書いたけど、「同じであるけど違う、違っているけど同じ、同じと言ってはいけない、違うと言ってはいけない、
その力加減というかバランス感覚というか、その難しさ」が大きく横たわっている。これが本当に難しいのである。

大学時代に勉強したのだが、「ポリティカル・コレクトネス」という言葉がある(それこそ、「まちみ」に習った)。
「差別や偏見が含まれていない公平さ」のことだが、これが「political」なところがいかにもアメリカ発祥の概念だ。
で、この「公平さ」「正しさ」を追求していくと、硬直化してかえって本質を見失ってしまうケースが多々みられるわけだが、
日本におけるマイノリティであるアイヌの存在をどこまで「公平に」、どこまで「正しく」扱うことができるかは、
もうこりゃ無限に段階があるので、ケースに応じてお互いに不快感をなるべく減らすように努力していくしかない。
その努力を肯定できるだけの信頼感を構築できるようにやっていきましょう、究極的にはそうなってしまう。
(まあこれは別にアイヌに限ったことじゃないけど。日本にいる外国人もそうだし。マイノリティ全般がそうだ。)
もうこうなったら、「人間は差別する主体である!」と開き直るしかないんじゃないか、とすら思ってしまうのである。
ややこしいのは「他者」にはいくつもレヴェルがあることで、われわれは状況に応じて「他者」のレヴェルを操っている。
(たとえばそれは、日本人(和人?)の場合には、「うち」と「そと」の多層的な区別という形で現れているわけだ。)
アイヌは「他者」であるレヴェル(ex. アイヌ民族)も存在するし、「他者ではない」レヴェル(ex. 日本人)も存在する。
この「他者」の度合い(ある意味、間合い)を適切にコントロールするだけの技術を身につけることが望ましいのだ。

そしてそのためにアイヌ側がやっていることは、さっきも書いたように、「まずわれわれのことを知ってくれ」ということなのだ。
「存在をきちんと認識してくれ」……それって、ものすごく厳しい立場に置かれてしまっているってことじゃないのか。
この問題(課題と言った方がいいかもしれない)は、本当にデリケートだ。万能な「正解」がないから。
状況に応じて「最適解」が変化し続けるから。だからそれでもいちいち考えていくことは、正直、面倒くさいことだ。
面倒くさいことなんだけど、考えないことは、それすなわち、無視することになってしまう。無視・無関心とはつまり、
可能性を断つこと。最大のディスコミュニケーションなのだ。残念ながら現状は、それに近いものがある。
われわれは知的生命体として生まれてしまった以上、考えることをやめてはいけないのだ。そういうもんなのだ。
問われているのは、知性だ。「――きみは安易な正解のない課題に取り組み続けられるだけの知性を有しているか?」

教育現場への還元ってことは……、子どもが粘り強く知性を発揮できる能力を涵養していくってことかな。
まあ、地道に考えをシェイプしていって、受け止める子どもの取捨選択に耐えうるものへと磨け上げていくしかあるまい。
この2日間で学んだことを自分なりに帰納していくと、そういう結論が出てくる。その演繹については、まあ、追々。

もうひとつ、感じたことを書いておきたい。アイヌの民具や写真の資料を見ていて、僕はどうしても思い出す本があった。
それは、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』(→2010.3.17)だ。そのレヴューで書いたことを、あらためて思い出した。
「それは多くのものの中のひとつにすぎない西洋文明がまるで唯一の正解のようにふるまっていることを哀しみ、
 その価値観がほかの多くのものを虐げて根絶やしにしようとしていることを哀しみ、そしてまた、
 西洋文明がほかのものを理解しがたいところまで自分で自分を連れて行ってしまったことを哀しんでいる。」
和人は明治維新よりも前から(意図せず)近代化の準備を進め、独自の資本主義をもとにアイヌを収奪の対象とした。
そして明治維新後には近代化の旗印の下にアイヌを「旧土人」として「保護」すると主張して、同化政策を進めた。
レヴィ=ストロースが目の当たりにした哀しみが、北海道にもあったのだ。熱帯だけでなく、亜寒帯にもあったのだ。
果たして、和人は今も昔も、亜寒帯における文化の破壊を哀しむだけの知性がある/あったのだろうか?
いや、さらに言おう。日本人は今、かつてレヴィ=ストロースが哀しんだことが起きていることに気づいているだろうか?
自分たちに固有の文化を自ら喜んで投げ捨てようとしている動きに、果たしてどれだけの人が気づいているのだろうか?
新自由主義的な価値観が学校教育をどんどんねじ曲げていて、その現場に立っていると、ただただ哀しくなってくる。

最後の最後に雑感。
僕は行く先々で、アイヌのおばちゃんに「学生さん?」と言われてしまったのであった。その率、ほぼ100%ですぜ。
思えば旭川でも言われたし(→2010.8.10)、彼らの感覚からすれば、僕はそうとう呑気で気ままに見えるようだ。
まあ客観的にはそういう種類の和人ってことなんだろうな、と思っておく。威厳のないやつ、ってことなんだろうけどね……。


2013.7.22 (Mon.)

久しぶりの北海道だぜ! ……とか言ってみたりして。

いやあ、まさか先週に続いて2週連続で北海道に来てしまうとは。なんたる贅沢なのだ、とゾクゾクしてしまう。
といっても今回はれっきとした「出張」なのである。出張なので、費用は基本的に「あっち」持ち。
人権教育に関する研修ということで、私は勉強するために北海道を訪れたのであります。決して遊びではない。
北海道で人権ってことで、テーマはそう、アイヌ。アイヌに関する社会的な問題に対する理解を深めに来たのだ。
遊びじゃないので、先週以上に色気のないスケジュールとなっている。それはもう、みっちり勉強させてもらうのだ。

ちなみにここだけの話、当初は北海道への出張に「遊びじゃねえの?」と難色を示されてしまった。
そこで旭川の川村カ子トに関するログ(→2010.8.10)と、北海道の都市の考察ログ(→2012.8.27)を編集し、
レポートとして提出したことで無事にこの出張が認められた、という経緯があったりして。書いとくもんだなあ、日記。
それにしても2週連続の北海道とは豪気なものだが、これは6月にサッカー部が勝ちまくってしまったことのしわ寄せで、
本来ならその時期に行くはずだったものが7月にズレ込んでしまったのだ。そこに北海道行きの許可が降りたわけで、
2年生が夏季学園で部活に出られない時期に入れたら、2週連続となってしまったのである。僕は悪くないです。
まあともかく、先週の個人的な勉強に引き続き、今週は職場の代表としての勉強なのである。気合十分なのだ。

新千歳空港には定刻どおり、午前8時に到着した。初日の目的地は白老で、空港からのアクセスは意外と面倒くさい。
いったん苫小牧に出て、そこから室蘭本線ということになるわけだが、こいつの本数がガクンと減るのである。
まあおかげで新千歳空港で多少のんびりする余裕ができて、本を読みつつ優雅に朝メシをいただくことができた。
で、最近のJR北海道には懲りているので、少し早めに新千歳空港を出て、南千歳で乗り換えて苫小牧へ。
そして苫小牧でしばらく待ってから、室蘭本線で西へ。わずか30分弱で白老駅に到着するが、天気がよろしくない。
とにかく、着いたからには行動開始なのだ。霧雨の舞う中、跨線橋で駅の北側に出ると、iPhoneを頼りに歩いていく。

白老駅の周辺は非常に殺風景で、駅の真向かいに材木の加工場だかなんだかがある以外は、ただ緑色である。
天気が悪いので暗い印象になっていたとは思うのだが、それにしても寂しい。広くてきちんと整備された道路が虚しい。
10分ほど東へと歩いていくと、トーテムポールらしきオブジェにぶつかる。しかしこれも周囲が放ったらかしで寂しい。
このオブジェを合図に人の気配が出てきて、ちょっと行くと「しらおいポロトコタン」と看板が出ている。
白老ポロトコタンとは、アイヌ民族博物館の通称であり、アイヌ語での名称なのだ。
ポロ(大きい)+ト(湖)+コタン(集落)ということで、その名のとおり、ポロト湖のほとりにある。
ここが1日目である本日の目的地なのだ。訪れたいと強く思っていた場所なのだが、こんなに早く来られるとは。
ウキウキしながら700円払って、鼻血が出るほど勉強してやるぜ!と鼻息荒く中に入る。やったるでー

  
L: 白老駅。この地はアイヌ文化がよく記録されたことで、現在もアイヌ文化が盛んな場所となっているのだ。
C: 駅の北側に出たら殺風景で「植物の強さ(→2012.7.2)」全開。線路沿いは地元の皆さんがきれいにしているのだが。
R: 白老ポロトコタンの入口前にはアイヌ民芸の土産物店が並んでいる。うーん、旭川での苦悩(→2010.8.10)を思い出すぜ。

中に入ってまず圧倒されるのは、コタンコロクル像である。全高実に16mで、これは本当に大きい。
博物館の敷地はここから左手に広がっている。天気がイマイチな平日だが、客はそこそこの入りである。
(なお、アイヌ語にはそれ専用の文字がない。母音をやたらと混ぜまくる日本語とは違い、子音のみを残す発音があって、
 それを「コタンコ」のように小さい文字で表記したり、アルファベットを用いて表記したり、様々な工夫がある。
 とりあえず僕は専門家ではないので、申し訳ないんだけど、特に工夫はしないで一般的なカタカナ表記でいきます。)

  
L: アイヌ民族博物館(白老ポロトコタン)入口。その名のとおりコタンが再現されていて、少しテーマパーク風味。
C: 入ってすぐにコタンコロクル像がド迫力で立っている。コタンコロクルとは「むらおさ」のこと。
R: 園内の南側はこんな感じ。まっすぐ行けばチセ(家屋)があるが、右側にはクマや北海道犬のオリがある。

少し歩いていくと、なんだか動物園の匂いがする。見れば手前に小規模なオリ、奥にはかなり頑丈なオリ。
手前のオリにいたのは真っ白い犬で、北海道犬という種類だそうだ。もともとはアイヌの狩猟犬とのこと。
ソフトバンクのCMでお馴染みの犬のお父さん「カイくん」もまさにこの犬種で、その息子「そら」がいた。
そして奥のオリにいるのは……ヒグマだ。けっこう近くて迫力がある。本物のヒグマはとにかく、頭がデカい!
山の中でこんなのに会ったら一巻の終わりだわーと思ってしまう。いや、こりゃ本当に怖い。
アイヌの皆さんはこのヒグマと正面切って戦っていたわけで、すげえもんだなあ、と呆れるのであった。

  
L: ソフトバンクのCMでおなじみのカイくんの息子・そら。北海道犬は寝ているヤツと動きまわるヤツの差が大きい?
C: これはまた別の北海道犬。ボールで遊んでいて、かっぽりくわえたところを激写したのであった。かわいいな。
R: ヒグマ(メス)。メスは泰然自若としているが、オスは落ち着きなく動きまわっていた。いやー本物は怖いわ。

キムンカムイ(山の神、ヒグマのこと)の生の迫力を実感したところで、園内にアナウンスが入る。
チセ群のうちのひとつ、サウンチセ(手前の家)でアイヌ古式舞踊の実演があるという。急いで中に入る。
がっちりと最前列を確保して待っていたら、日本人観光客だけでなく外国人観光客も多数入ってきた。
特にこの回はタイからのグループが来ていた模様。MCのおっちゃんも片言のタイ語を混ぜて説明していたので、
ポロトコタンにはけっこういろんな国から頻繁に観光客が来るのだろう。タイだって少数民族が存在するし、
われわれよりはその辺の感覚が鋭いであろう外国からアイヌはどう見えるのか、気になるところだ。

  
L: チセ内部につくられたステージ。屋根の裏には本物のサケがぶら下がっているのだ(1本5000円って言ってた)。
C: MCのおっちゃん。非常に軽妙なしゃべりが面白い。軽妙ながらも印象に残ってしっかり勉強になる内容なのがいい。
R: アイヌの古式舞踊。輪になって回りながら歌い、踊る。巻き舌の多用が確かに異文化な印象がした。

まず最初に登場するMCのおっちゃんが非常に強烈で、客いじりをベースにとっても軽妙なトークを展開。
しかしその内容は印象に残りやすく、かなり勉強になるものだ。「ラッコ」「トナカイ」「シシャモ」はアイヌ語、
雑誌名の「ノンノ」もアイヌ語(「花」の意)ってことで、日本語の中にも入っているし、発想のヒントにもなっている。
(『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』の舞台である「ピリカ星」もアイヌ語(良い・美しい)がきっかけだと僕は思う。)
またMCのおっちゃんは、現代のアイヌは和人とまったく同じ生活様式で暮らしていることをあえて言っていたが、
チョンマゲと着物を捨ててシャツとジーンズを着ているわれわれも質的には同じなんだなーと思ってみたり。
「日本の近代化」のプロセスに、アイヌの和人への同化が組み込まれたわけで、その点を考えさせられた。

  
L: トンコリの演奏。弦楽器ということで、音色は琴に近い印象。こういう持ち方の弦楽器って珍しい気がする。
C: ムックリの演奏。「びよーん」という音に「ブン」というスラッシュな音が混じってとってもアンビエントである。
R: ラストを飾るのはイオマンテリムセ(熊の霊送りの踊り)。男性が重いだろうに延々と剣を振るのが偉いなあ、と。

おっちゃんのトークが終わると女性たちが登場して古式舞踊がスタート。内側を向いた輪になって手を叩き、リズムをつくる。
その手拍子に合わせて上体を前後に動かしながら歌い、右回りに回っていく。ところどころで巻き舌の合いの手が入り、
それが非常に新鮮に聞こえた。やはりアイヌは和人とは異なる独特の文化を持っているのだな、と実感。
続いてトンコリのソロ演奏。音色は日本の琴に近い印象だが、縦に抱えての演奏なのでやっぱり独特。
その次のムックリはもっと独特で、小学生男子が喜びそうな倍音全開の「びよーん」という音(風の音を表現したという)に、
「ブン」という音が混じってリズムを刻みだし、まるでテクノだのアンビエントだのを聴いている気分になってくる。
最後はイオマンテの際の踊り。基本的なフォーメーションはさっきの踊りと同じで、こういうもんなのか、と思う。
ある意味、盆踊りに近い感覚なのかもしれないなあ、なんて思ったんだけど、どんなもんなんでしょうか。

  
L: 園内の北側にあるチセ群。チセの向きは太陽を基準に東西南北がきちんと決まっており、きちんと並べて建てられる。
C: チセの内部では豊富な資料とともに伝統工芸の実演が行われている。  R: チセの側面。アットゥシを干している。

演目がすべて終わると、園内北側のチセ群を見てまわる。いちばん奥のポンチセ(小さい家)では伝統工芸を実演中で、
室内にある豊富な資料を見たり話を聞いたりできる。チセの周辺にはプ(食料庫)やヘペレセッ(子グマのオリ)がある。
チセはだいたいどれも大規模で、内部が現代的なアレンジを施されていて、「アイヌ文化の現代的利用」という印象。
つまりアイヌが和人との同化をしない形で近代化した姿に僕には見えて、それはそれでけっこう興味深かった。

  
L: 左がヘペレセッ。イオマンテで神の世界に送り帰す子グマをこれで飼っておくのだ。右はプ(食料庫)で、必ず高床式。
C: チプ(丸木舟) 。アイヌの重要な交通手段だった。  R: 植物園。アイヌが食用・薬用としていた植物を育てている。

それではいよいよ博物館の中へと入る。入ってすぐは旧館で、ミュージアムショップ「イカラカラ」(模様・刺繍の意)がある。
後でじっくり見るとして、奥に進んで新館へ。新館と言っても1984年に増築されたそうで、展示は昭和の匂いが色濃い。

  
L: アイヌ民族博物館の入口。奥に新館がくっついていて、展示はそちらがメインとなっている。
C: アイヌの世界観では、これらはすべてカムイ(神)が人間に恵みを与えるために姿を変えて現れたもの。
R: 儀式でイナウを捧げているところ。イナウは一本の木を削ってつくられる、カムイとの意思疎通を強めるアイテム。

まずはアイヌの神々に対する祈りについて。要するに宗教・世界観の紹介から入るわけだが、これが非常に興味深い。
彼らはクマやシカなどを狩猟していたが、これらは神が自分たちに毛皮や食料を与えるために姿を変えて現れた、とみなす。
イオマンテとは、子どものキムンカムイ(山の神=ヒグマ)を大切に育てて人間の世界のすばらしさを十分に伝えた後、
神の世界に帰ってもらって(つまり殺すってことだが)そっちで人間の世界がいかにすばらしいか広めてもらい、
より多くのヒグマに人間界に下りてきてもらうようにする、という儀式なのだ。彼らはそういう世界観を持っていた。
一神教とはまた違った意味で、彼らは神々と自分たちとの関係性の中で織り上げられた生活を送っていた、ということだ。
神道も同じように素朴な自然崇拝からスタートしているが、政治とともに形式化が進んでいった(宗教はそういうもんだが)。
その点、アイヌの世界観はより生活に密着しているし、祈りの純度の高さを感じる。抽象化されていないってことだ。

  
L: 穴の中で冬眠しているヒグマを捕まえているところ。子グマがいた場合は殺さずに連れて帰ってヘペレセッで育てる。
C: 魚捕り。ちなみにサケのことはカムイチェプ(神の魚)と呼ぶ。  R: オヒョウの樹皮を織った着物・アットゥシづくり。

その後の展示では、非常に豊富な生活用品によって、アイヌの衣食住が詳しく紹介されている。
見ているとアイヌ自身がつくったものももちろん多いのだが、交易で入ってきたものの割合が意外と高い。
つまり、アイヌは単純に食べるために狩猟をしていたわけではなく、交易のために狩猟していた面も大きいのだ。
(むしろアイヌ文化は、それ以前の擦文文化が交易によって変化したことで生まれている。→2013.7.14
寒冷で過酷な生活環境の中、交易を通して生活を徐々に快適なものにしていったというわけである。

  
L: 宝飾品など。文化ですなー。  C: アイヌの男性と女性、それぞれの正装。われわれのステレオタイプはこれですな。
R: アイヌの衣服。左右2つはアットゥシで、中央は綿でできている。北海道に木綿なんてないので、交易で材料を得ていたわけだ。

当然のことだが、アイヌの生活用品の展示は、地方なんかの博物館における民具の展示に似ている。
木製の椀などはアイヌの方が素朴な印象だが、彫刻で模様を施したものは必ず凝ったデザインとなっている。
比較してみて気づいたのだが、それだけ日本(和人)の伝統工芸では漆が重要な位置を占めていたってことだろう。
北海道にも漆の木がないわけではないが(最古の漆製品は函館で出土)、アイヌの人々は漆器づくりを行わなかった。
そのかわり漆器は和人との交易で得られ、非常に珍重された。チセに漆器が並ぶ光景は、少し不思議な印象もする。

  
L: アイヌの木製生活用品。椀は素朴だが、お盆などは非常に凝った模様が彫られている。漆などのコーティングはない。
C: 交易で得た漆器は非常に珍重されており、チセでは奥の方の「床の間」的な位置に堂々と並べられている。
R: こちらは墓標。地方により差があるが、白老地方では上端が尖っている方が男性用で丸くなっている方が女性用。

たっぷり見学して腹が減ったので、カフェで昼メシをいただく。どんなものが食えるんだろうかとメニューを見ると、
「オハウセット 500円」の文字を発見。アイヌ的な料理でそれなりの量が食えそうなものはそれくらいだったので、
迷わず注文するのであった。注文する際、「オハウ」のイントネーションがわからずちょっと苦労した。うーむ。

 これがオハウだ!

オハウとはサケと野菜のスープ。これにキビを混ぜたご飯、あとは漬け物とアイヌ伝統のハーブティーが付く。
食ってみてまず驚いたのが、サケの肉の大きさ。500円でこんなにいいの!?というくらい分厚いのである。
そしてこれがまた脂が乗っていて、スープにもすごく濃い味が染み出している。シンプルな塩味にマッチして旨いのなんの。
特に骨の周りに旨味が集中しており、文字どおり骨までしゃぶったよ。サケ本来の旨さはこういうもんか、と実感。

そんな具合に夢中でオハウをいただいていたら、アイヌの年配の方と若者がやってきていろいろしゃべりだす。
なぜそうわかったのかというと、話の内容もさることながら、男が伸ばした髪を後ろで束ねている姿が印象的だったからだ。
もっとも、若者は刈り上げも混ぜて現代風にしていたが。その若者はアイヌの伝統に根ざした音楽をやっているようで、
年配の方も関わって夏にイヴェントをやる模様。なるほど、長髪とミュージシャンの組み合わせは、それもしっくりくる。
サケの骨をしゃぶりながら、現代のアイヌの皆さんのアイデンティティはアーティスティックな方向に発揮しやすいのかな、
アイヌ文化は60年代アメリカ(70年代日本のやつは違いそうだ)のフォーク音楽との親和性が高いのか、なんて考える。

感動しつつオハウセットを平らげると、再び博物館の中へ。ミュージアムショップでアイヌ関連の書籍を物色する。
さすがに本場だけあって、置いてある本の量はかなりのもの。研究書が多いが、歴史・言語・地理・植物・文学などなど、
母体となっている学問領域が非常に多岐にわたっており、それだけアイヌ研究のタテとヨコの広がりが感じられる。
かなりじっくり時間をかけて、どの本を買って帰るか慎重に選ぶのであった。大切なのは、わざわざここで買うことなのだ。
Amazonでポチッとクリックしても、アイヌの人たちはぜんぜん豊かにならんのよね。そもそも日本に税金が落ちないしな。
ふだんなら旅先で物を買うことは極力しないのだが、今回は特別なのだ。参考になる本を慎重に選んで買えてよかったぜ。

これでもか!というほどじっくりと園内を歩きまわって空間的な記憶をしっかり脳内に焼き付けると、外に出る。
出たところにあるのは、そう、アイヌの民芸品土産物店である。せっかくなので、覚悟を決めて立ち寄る。
旭川でもそうだったが(→2010.8.10)、この手の土産物店は複数の店が合体した形になっているのである。
で、客が品物を見ているとあれこれ説明をしてくれる。僕はまず、この懇切丁寧な説明が苦手なのだ。
困ったことに僕はアクセサリーをつけない側の人間なので、品物をビビッと気に入ることがほとんどない。
そんな好みのなかなかマッチしない僕に、積極的にあれこれ声をかけられても、とにかく申し訳なくてたまらんのだ。
おまけに同じ建物の中でも店ごとの「見えない境界」があるようで、客がその縄張りに入れば声をかけていいが、
隣の縄張りに入ったら声をかけちゃダメ、そういうルールがあるらしく、なんだかもう気が気じゃなくなってしまう。
旭川でもそれでだいぶ胃の痛い思いをしたのだが、やはりここでもそれぞれの店に気を遣ってだいぶ疲れた。

ところで、実際に木彫りの実演をしている方から、削り落としたばかりのクスノキのチップを「ほら」と渡された。
「匂いを嗅いでみて」と言われて鼻に近づけると、かなり強烈な、でもとても爽やかな香りが鼻腔を突き抜けた。
なるほど、クスノキは樟脳の原料になる木なので、これだけの香りがするわけだ。切ったばかりならなおさらだ。
アイヌの人たちってのは、こういう動植物の知識の中で生きている(た)ってことか、と思うのであった。
(でも後で調べたら、クスノキは九州に多く生えている木でやんの。北海道には生えてないじゃないか……。)

帰り道、まるで計ったようなタイミングで雨が降ってきた。急ぎ足で駅まで戻ると、自腹で西へと移動する。
せっかくだから登別温泉に入らせやがれコノヤローというわけである。ついでなので登別市役所に行かせろコノヤロー。

登別温泉にアクセスするには登別駅が最も一般的なのだが、登別市役所があるのは2駅向こうの幌別駅である。
というわけで幌別駅まで揺られると、学校帰りの高校生たちがたむろしている駅を出て、市役所のある通りへ。
やはり登別温泉の観光地としてのパワーが強いためか、特に商店街が形成されているという雰囲気はない。
でも店は周辺にけっこう点在しているようで、その散らばりっぷりが北海道って感じがしないでもない。

  
L: 登別市役所。1968年の竣工で、設計は石本建築事務所。  C: 角度を変えて正面をクローズアップ。  R: 裏側。

雨は意外と激しく、辺りをウロウロ歩きまわろうという気が起きず、そのまま駅へと引き返す。ホントに市役所撮っただけ。
JR北海道の特急列車が発火事故を起こしている関係でダイヤに変更があり、当初の計画よりは少し遅れて登別駅へ。

登別駅からはやはりバスに揺られて温泉へ。あれこれ迷うのが面倒くさかったので、芸がないけど前回とまったく同じで、
第一滝本館にお邪魔するのであった。やっぱりいいお湯でございました。明日へ向けての活力が充填できたぜ。
そんな具合に大満足で売店の中を見ていたら、なんと、見たことのないボルタ(→2012.8.22)を発見。
なるほど、登別温泉限定の「温泉ボルタ」だ。ホームページにぜんぜん書いてなかったから知らなかったわ。

 温泉ボルタ。おまけに湯の華が同梱されているという凝りよう。

本日は苫小牧に泊まるのだが、列車が苫小牧に着いたのが夜の19時半過ぎ。そしたら駅周辺はもう店じまい済み。
さすがにそんな事態は想定していなかったので、愕然としながら歩きまわるが、いい具合に晩メシが食えそうな店がない。
苫小牧は面積が広い分だけ全体的に密度の低い街なのは知っていて(→2012.7.1)、店の間隔が遠いのはわかる。
でも交通の要衝なわけだから、こんな早い時間にあちこちの店が営業をやめてしまうのは驚きだった。

泣きたい気分で北へと歩いていったら、「ベビーフェイスプラネッツ」という少し怪しげな装飾の店があった。
バリ島をイメージしているらしいのだが、行ったことのない僕にはよくわからない。で、店はそこしかないので入ってみた。
そしたら店内はすごく広い。お一人様なのに、通されたのは靴を脱いで上がる個室。居酒屋のようだが、そうではない。
メニューを見ると、どれも一工夫あり、かつヴォリュームも満点。あれこれ迷いながらも、これはいい店に入った!と思う。
まあ結論から言うと、料理は旨かったし、大変すばらしい店でございました。家族連れで賑わっていたのも納得。
居酒屋に行くよりもこっちの方がよっぽどいい。大盛りメニューをみんなで分ける楽しみもあるし。東京にできねーかな。

そういうわけで、大変充実した1日目を過ごさせてもらいました。明日も勉強だぜー!!


2013.7.21 (Sun.)

サッカー・東アジア杯。先月のコンフェデはかなり力を入れてログを書いたが、東アジア杯はテキトーにいきます。
まあザッケローニもJリーグでプレーする若手を抜擢するためのいい機会と捉えているし。そういう視点でテキトーに。
ふだんJリーグはよくチェックしているので、そこで活躍している選手たちが国際舞台でどれだけできるか、
そういう点ではこの東アジア杯には非常に興味があるのだ。やっぱり注目したいのは攻撃的なポジションの選手たち。
特に気になるのは柿谷、そして高萩(→2012.7.21)。ふたりのイマジネーションがどう発揮されるのか、そこが見たいのだ。

初戦の本日は中国が相手。AFCだと金にモノを言わせて強いくせに代表は弱体化して久しい、そんな印象。
そういういびつな国に負けるわけにはいかないのである。代表の強化は国内リーグの充実から、それが本質だ!
なーんて思っていたら、いきなり栗原がやらかしてPKで失点。でもその栗原がCKからヘッドで取り返して同点。
初キャップの選手が多い日本のサッカーはチグハグな時間が続いたが、前半のうちに取り返せてなによりだ。
後半も冴えない展開から始まるが、59分に槙野のクロスに柿谷がうまく飛び込んで逆転すると、その2分後、
カウンターで高萩から柿谷にロングパスが出て、ドリブルでDFを引き付けてからフリーの工藤にラストパス。
Jリーグの若手が躍動する内容で言うことなしだ。大いに興奮して喜んだのだが、謎のPKをとられて失点すると、
最後は左からのクロスに対してあっさり抜けられて同点で終わった。後味の悪いというか、情けない試合である。
柿谷や高萩、工藤らのプレーはすばらしかったが、駒野と栗原というベテランDFが冴えなかったのは大問題だ。

参議院選挙? 日本人も東京都民も大バカだね。選挙民がバカだから「良識の府」もクソもないわな。


2013.7.20 (Sat.)

青春18きっぷの季節が来たぜぇぇぇ! ……と書くと鉄っぽく思われるから書かない。
でもお安く旅行ができる時期が来たわけである。1学期も終わったし、こりゃ行くしかないのである。
日帰りで関東周辺を旅する場合、まずチェックするのがJリーグの試合日程。ターゲットは主に北関東だ。
そこに行ったことのない市役所や路線を組み合わせると、だいたいのプランが練り上がる。
そういうわけで、本日は栃木県北部を攻めた後に栃木×熊本の試合を観戦することに決定。

始発からポンポンと乗り継いでいって上野から東北本線に揺られる。宇都宮からさらに北へ行き、
終点の黒磯で降りる。かつては黒磯市だったが、合併して今は那須塩原市。今日はここからスタートだ。
黒磯駅前からそのまま左に曲がり、トボトボと南に歩いて市役所を目指す。が、けっこう遠い。
途中で県道303号に移って南下を続ける。と、バス停の「共墾社」という文字が目に入った。
見るからに、開拓で入植した団体の名称っぽい。調べてみたらそのとおりで、この辺りの地名になっている。
共墾社の農場があったのが、現在もそのまま地名として残っているのだ。実に面白いと思う。

さらに南に行くと案内板が出ていたので、それに従って西へと入る。ほどなくして那須塩原市役所に到着。
1983年に黒磯市役所として建てられて、平成の大合併によって2005年に那須塩原市役所となる。
いかにも1980年代オフィス建築だが、周囲は落ち着いた緑に包まれており、さすが那須高原の雰囲気である。

  
L: 那須塩原市役所(旧黒磯市役所)。  C: 正面より眺める。真ん中の松を業者が剪定中なのであった。
R: 角度を変えて眺めてみる。メインストリートから一歩入ったところにあるので、周辺は落ち着いた雰囲気。

 裏側はこんな感じ。けっこう広い駐車場に囲まれているのだ。

帰りはまっすぐ県道303号を北へと歩いていったのだが、1ヶ所、非常に気になる場所があった。
黒磯小学校前の向かいには那須塩原市保健センターがあるのだが、ここの敷地の端っこが市役所くさいのだ。
そもそも小学校と役所は公共性という面からも関連性が高く、小学校の跡地に役所が建てられるパターンは多い。
これは僕の想像だが、かつて黒磯市役所はこの敷地、具体的には保健センターの隣(南側)に位置しており、
1983年に現在の場所に新築移転した。そして市役所跡地は保健センターの駐車場となった。どうだろう?
合併を経たことでそういった歴史がかなり確認しづらくなってしまっているのは非常に残念だ。

 これはいかにも、かつて役所があったことを示すつくりなんですが。

さて、黒磯駅前の通りはアーケードの商店街になっている。商店街としては規模が小さく寂れがちだが、
これは!と思わずうなってしまう建物が点在しており、けっこう興奮させられた。いくつか紹介してみる。

  
L: サッポロビールの看板が素敵な酒屋。  C: 高木会館(旧黒磯銀行本店)は1918(大正7)年築。現在はレストラン。
R: 温泉まんじゅうを売っている明治屋。黒磯駅前にはこんな感じで昔ながらの店舗が並んでいる。見事なものだ。

黒磯から南に戻って、次のターゲットは矢板市だ。矢板駅で降りると、駅前ロータリーのせせこましい雰囲気に驚く。
地方都市らしいと言えばらしいのだが、商店街というレヴェルには至らないのだが小規模な店が点在しており、
郊外化が進んで街としては弱体化しているのだろうけど、なんとも穏やかな感触のする街並みである。

しばらく西へと歩いていって、内川に出る直前のところに矢板市役所はあった。かなり独特なデザインをしている。
確かに市庁舎……なのだが、「らしさ」を感じない。なんというか、地方の観光地の土産物店みたいなのだ。
鉄筋コンクリートのくせに切妻屋根で、しかも梁やら桁やらの存在を強調するなど、木造を意識しすぎている。
3階建てのサイズから考えて1960年代前半だろうが、その時期の庁舎でこのデザインはあまりに前衛的だ。

  
L: 矢板市役所。駐車場に囲まれた中、それなりのオープンスペースを確保して建っているのも面白い。
C: 角度を変えて正面入口を眺める。色づかいもそうだが、非常に市役所らしくない建物だ。何があったんだ?
R: 敷地奥の方から妻側を眺めたところ。なんだか不思議と、いろんな角度から撮影したくなる建物なのだが。

なんじゃこりゃ?と思って調べてみたら、設計したのはなんと、佐藤武夫だった。竣工は1962年。
高度経済成長期の日本では、盛んに鉄筋コンクリートの庁舎が建てられるようになっていったのだが、
1958年竣工の香川県庁舎(丹下健三設計、→2007.10.6)をはじめとして、当時の建築家たちの間には、
鉄筋コンクリートという素材で「和風」を表現するという問題意識があった。矢板市役所もその系譜なんだろう。
1960年代前半という時代と地方の一都市という規模から、このような作品となって形に現れたということだ。
(僕の地元である飯田市役所も同じ1962年の竣工で、比較すると作家性の強烈さがよくわかる。→2008.9.8

  
L: 保健センターとの連絡通路が大胆につくられており、この下を車が通る。仮設っぽいのに仮設じゃない感じが不思議。
C: 反対側の入口も同じ形をしている。  R: 敷地の南側には市役所とほぼ同じ特徴の矢板市体育館(1967年竣工)。

矢板市役所のすぐ西側には内川という川が流れており、対岸は公共施設が集中する区画となっている。
これまた面白いことに、どれも似たようなデザイン的な特徴を持っているのである。矢板は狙ってやっているのか。

  
L: 矢板市文化会館(1981年竣工)。  C: R: 矢板市立図書館(1979年竣工)。文化会館と駐車場を囲んでいる。
R: 奥の方には矢板公民館(1979年竣工)。3つの施設はどれも柱の間に大きくガラスを張るデザインが共通している。

帰りは国道461号を通って矢板の旧市街を歩いてみたのだが、ところどころに大谷石を使った蔵がある。
さっきの黒磯にあった高木会館もそうだが、栃木県北部における大谷石の権威性は絶対的なものがあるようだ。
そんなことを考えながら矢板駅付近まで戻ってくると、そのまま線路を越えて東側に出る。
矢板駅のすぐ東側にある長峰公園に行ってみるのだ。大正時代からツツジが有名という話なのだが、
当然ながらツツジの季節はもうすでに過ぎてしまっている。とはいえ気になるので行くしかないのだ。

線路と交差する大きな陸橋が終わるところが長峰公園の入口である。どんな公園なのかワクワクしながら入ると、
中央がややサンクン気味に窪んだ芝生の広場となっていた。これはなかなか広いなあと思って近づこうとしたら、
おかしなことにロープが張られて立入禁止の措置がなされているのに気がついた。そういえばひと気もぜんぜんない。
ふと目を落とすと、そこには「除染実施済 この施設の除染は平成25年3月に完了しました」という立て看板があった。
つまり、東日本大震災の原発事故の影響で、長峰公園は除染をしたというわけなのだ。栃木県であるにもかかわらず。
で、その除染で芝を大いに傷めることになったため、その部分については現在も立入禁止となっているのである。
僕はまだあの大震災についてうまく受け止めることができなくて、正直なところ、被災地を避けて旅をしている。
だから津波や原発事故の傷跡に触れる機会がまったくなかったのだが、まさか栃木県で目の当たりにするとは。
突然、こうして震災のリアリティが目の前に現れてしまうと、僕は大いに戸惑うことしかできない。ただうろたえるのみ。

それでも気持ちを切り替えて、長峰公園の感触を自分の中に刻み込もうと歩きだす。まずはシンボルタワーを攻めて、
高いところから風景を眺めてみることにする。しかし実際にのぼってみると、木々のせいで見晴らしがよくない。
しょうがないのでタワーを下りて、比較的見通しの利く小高いところから中央の芝生を眺めてみる。

  
L: 長峰公園の中央にはけっこう広い芝生となっているが、除染によって芝が傷んでおり中には入れない。
C: 長峰公園のシンボルタワー。  R: 小高いところから眺めた園内。ここをぜんぶ除染したのね……。

そのまま公園内を一周するようにして歩いてみたのだが、やはり芝生という芝生がすべて立入禁止となっていた。
夏休みに入った土曜日、せっかく遊具があるのに子どもたちの姿はそこになく、ただ日差しが緑を照らすだけ。
(ただし、敷地の端っこにある土の広場にも遊具があって、そこでは何組か家族連れが遊んでいた。)
きっと除染作業は、公園内の通路部分からツツジが鑑賞できるようにとタイミングを計って行われたのだろう。
だから公園を管理する側としては最悪の事態は免れたのだろうけど、ダメージは今もしっかりと残っている。
公園内をのんびりと散歩している人は本当にごくわずか。栃木でこれなら東北は……想像したくないが、現実なのだ。

  
L: シンボルタワーのある丘を眺める。中腹にある木々はすべてツツジ。こりゃ確かにシーズン中は凄いことになるわな。
C: 公園内の芝生はすべて立入禁止。せっかくの凝った遊具も遊ぶ子どもたちがいなけりゃ意味がない……。
R: 長峰公園のすぐ手前の電線に、いきなり猛禽類が現れたのでびっくりした。たぶんサシバ。自然が豊かなのね。

予定よりも早く矢板市街をまわることができたので、氏家駅で降りる時間的な余裕ができた。
当初はあきらめていた、もう1ヶ所の市役所めぐりができることになったのは実にラッキーである。
さて、氏家駅があるのは旧氏家町で、2005年に喜連川町と合併して新たに市となったのはいいのだが、
なんと「さくら市」という名前にしてしまった。もう呆れて何も言えないし、相手にしたくない状態である。
でもしょうがないから行く。なぜなら、そこに市役所があるからだ。さくら市役所、行こうじゃないか。

さくら市役所は氏家駅から北東になる。なので単純に、駅前通り商店街で東に出てから北へと歩く。
途中にやはり、大谷石を使った蔵があって、レストランやアトリエとして活用されている光景が目に入った。
氏家もだいぶ商店街が弱体化している気配がするのだが、もともとの道がそれほど広くない分だけ、
ダメージがそこまでひどくない印象を受ける。それなりに小ぢんまりと、きゅっとまとまっているように思える。
さくら市役所となった旧氏家町役場は、そんな昔ながらの市街地・街道沿いを進んでいったところにある。

  
L: さくら市役所前、県道に面している部分はこのようにオープンスペースとして活用されている。奥に駐車場。
C: 正面より撮影したさくら市役所。  R: 出っぱっているのは後から付けられたエレベーターらしい。

いちおう調べたのだが、さくら市役所(旧氏家町役場)はいつの竣工だか結局わからなかった。
「1969年起工」 というデータがあったので、だいたい1970年頃だとは思うのだが、確認はできず。
合併協議についての細かいデータもろくすっぽ残っていないし、市名同様にいいかげんなものだと呆れた。

帰りは琴平通りを歩いてみた。こちらはかなり大胆なS字カーヴを描いて駅前に出るコースとなっている。
駅に戻る前に、あらためて大谷石の蔵をじっくり見てみる。最も代表的と思われるのが「e-プラザ 参番館」で、
1940年代中頃に米・麦の保管庫として氏家駅前に移築されてきたそうだ。街の核としては有効な存在だが、
駅の南側にあるオープンスペースと連携がとれていないのが惜しいところだ。ちょっともったいない。

氏家駅前に戻ってから、あらためて街並みを眺めてみる。この空間は本当に独特で、駅前通りと琴平通り、
2つの道が左右に分かれて延びていくのをそっくりそのまま目にすることができる。おそらく日本の街としては、
こんな具合に道を眺めることができる場所はそうそうないだろう。どういう経緯があったのか知りたいものだ。

  
L: さくら市役所の背面。ふつうに町役場の裏側といった風情である。起工年だけしかわからないパターンは珍しい。
C: 「e-プラザ 参番館」。現在はレストランなど4店舗が入るオシャレ空間となっている。ほかにも近所に蔵がある。
R: 氏家駅の駅舎を出るとこの光景。右に行くと駅前通り商店街で、左に行くと琴平通り商店街。面白い!

さて、関東近郊で僕がまだ乗ったことのないJRの路線はもうすっかり少なくなってしまった。
今日はその中のひとつを解消しようという目的もあって栃木県に来たのだ。というわけで、宝積寺で降りる。
しばらくして向かいのホームにやってきたディーゼルの車両には、七福神の絵が描かれていた。
JR烏山線は七福神を大々的にフィーチャーしており、宝積寺を除く各駅にそれぞれの神様を割り当てているのである。

宝積寺を出た列車は、高校生らしい若者をそれなりに乗せて田園風景の中を走っていく。
とってものどかなその風景は、なんとなく水郡線の常陸太田支線を思い出させる(→2012.12.16)。
まあつまり、標準的な北関東の田舎ってことである。仁井田駅で高根沢高校の学生を大量に降ろすと、
烏山線は平地から山の中へと入っていく。大金のところだけ街並みの気配がしたけど、再び山の中へ。
最後は緑の中を大きくカーヴして終点の烏山駅に到着した。これで関東のJRはかなり制覇してしまったぜ。

  
L: 烏山駅の最果て光景。何やら工事中のようですが。  C: 烏山駅の駅舎は、1923(大正12)年の開業当時からのものだ。
R: 烏山のメインストリート、祭りの際には通行止めになるという国道294号。昔ながらの雰囲気はあるが、正直弱り気味である。

烏山の街を歩いていると、とにかく目立つのが「山あげ祭り」の文字である。ポスターがあちこちにある。
日付を見たら今月の26日~28日ということで、祭りが近いから盛り上がっているのかなと思ったら、
祭りについて紹介する施設である「山あげ会館」もあるってことで、そんなに重要な祭りなのか、と実感。
そういうことも知らないで烏山を訪れている僕はそうとうに無知なんだなあと反省するのであった。

烏山の道路はわりと広めに拡張されているが、昭和の香りを漂わせている商店たちはだいぶ弱り気味。
そんな中でピンピンしているのは地酒の東力士で、無数の電柱の広告と大谷石の店舗が存在感を見せていた。
結局、街並みの弱体化というのは、老朽化した部分を更新できないことでそういう印象を与えてしまうわけで、
木造建築などは古くなればそれだけ威厳が増してくる仕組みであり、暖簾など布の部分だけ替えれば印象は良くなる。
それに比べて鉄やプラスチックは錆びたり劣化したりがあるため、派手ではあるけど更新が面倒くさいのだ。
よく考えてみると、イニシャルコストとランニングコストの関係が街並みに与える影響はかなり大きい。
そういう経済学的な見地から都市についてアプローチするのも面白いかもしれないな、と呑気に思うのであった。

さて、那須烏山市役所である。2005年に烏山町と南那須町が合併して誕生した市ということで、
現在の市役所はもともと烏山町役場として建てられたものである。そして困ったことに竣工年がわからない。
非常にコンパクトな2階建てで、敷地の前面に配置された駐車場もまったく広くない。特濃な昭和の匂い、
それも高度経済成長が始まるかどうかといった時期の建物としか思えない。さすがに2階建てってのは初めてだ。
こうなるともう、貴重な文化遺産のレヴェルである。どうにか末永く残してほしいものだが。

  
L: 那須烏山市役所。なんと、2階建て!  C: 昔はみんな感じの庁舎建築だったんだぜ。貴重な証人である。
R: 市役所の北隣にある八雲神社。山あげ祭りの起源となった場所であり、市役所がこの隣にあるってのは象徴的だ。

きちんと山あげ祭りについて知識を得ないと恥ずかしいので、帰りは山あげ会館に寄ってお勉強なのだ。
受付で料金を払うと、そのまま係の人が模型をもとに概要を説明してくれる。それからミニチュアシアターを見学。
なぜわざわざそうしているのか理由がわからないのだが、「勘助じいさん」というロボットが説明をするという趣向。
最後に大画面ハイビジョン映像で祭りの様子を学ぶという仕組みになっている。時間がかかるのが難点なのだ。

山あげ祭りの起源は、1560(永禄3)年に烏山城主・那須資胤が牛頭天王に疫病退散を祈願したことだそうだ。
市役所の隣の八雲神社は、八坂神社(→2011.5.15)に代表される、牛頭天王に対する祇園信仰の神社である。
(なお、牛頭天王はスサノオと神仏習合しており、明治以降にはっきりと区別されるようになった経緯がある。
 牛頭天王は疫病を司る存在として信仰されていて、備後国一宮は疫病の神を祀る「疫隈國社」とされていた。
 つまり、もともと牛頭天王を祀っていた素盞嗚神社(→2013.2.23)を備後国の一宮とする根拠はそこにある。
 素盞嗚神社の摂社に蘇民神社・疱瘡神社が存在するのも重要な要素である。うーん、複雑だが面白い。)
この牛頭天王・スサノオを祀る八雲神社の隣に役場を置いた点に、僕は烏山の祭りに対する意気込みを感じるのだ。

烏山はかつて和紙が特産品であり、歌舞伎を演じる背景として和紙をふんだんに使った「山」を上げるところから、
山あげ祭りは独自性を持つようになったのである。6つの町が持ち回りで野外歌舞伎の公演を市内各地で行うのだが、
「山」は毎年新たにつくられている。重い山を上げては素早く片付ける、その手際の良さが腕の見せどころだそうだ。
この祭りのために国道は通行止めとなり、道路の案内標識板はたためるようにつくられているという。
大画面映像では、烏山の人々が山あげ祭りにいかに命を賭けているかをみっちりと紹介。いやはや、凄いものだ。

  
L: 山あげ会館に展示されている屋台。車輪は2つしかないそうで、コントロールするのが非常に大変とのこと。
C: 山あげ祭りについて方言まじりに解説してくれる勘助じいさん。なぜロボットで解説するのか理解できないんですが。
R: ミニチュアによる山あげ祭りの再現。とにかく臨場感を出したいという狙いでこういう趣向になっているようだ。

山あげ祭りについてだいたいわかったところで、烏山駅まで小走りで戻る。烏山線は本数が少ないのだ。
烏山駅を発車した列車は、快調に緑の中を抜けて平野に出ると、そのまま宇都宮まで行ってしまう。
しかし駅周辺や少し離れている中心市街地をのんびり楽しむことはせず、十分明るいうちに次の目的地を目指す。

本日のトリはサッカー観戦。宇都宮駅東口から栃木県グリーンスタジアム(以下グリスタ)まで無料バスが出ているが、
発着場所が変更になったということで、東口の前にどーんと整備されている広場に移動。この広場が本当に広いのだ。
そして目立っているのが「餃子」という文字。広いロータリーを利用して餃子の店舗が複数つくられており、
オープンスペースで食べられるようになっている。なるほど、夏の宇都宮らしい有効な土地の活用ぶりである。

コンビニで食料と水分を買い込んで、いざ出発。バスは一路、東へと進んでいき、清原工業団地に入る。
大雑把な緑で区切られた工業地帯っぷりを堪能しながら、ここにサッカースタジアムをつくった発想に驚く。
僕の理想としては、スタジアムは街の真ん中にあるべきなのだが、広い敷地と道路が確保できるという点では、
工業団地という選択肢も納得できるものだ。全国各地、いろんなスタジアムがあるからまた面白いのである。

バスを降りると大雑把なアスファルトの道路を歩いて入口へと向かう。と、その先に行列ができていた。
まだスタジアムに入場できる時刻になっていなかったのだ。黄色いユニフォームの家族連れが暇そうに並んでいる。
シーズンチケットで優先入場の人たちもまだ並んでいる状況で、これはちょっと待たされそうだ。
今ごろになって西日が鋭くなってきて、並んでいると後頭部を日差しが直撃してくる。これはかなり厳しい。
そんなこんなでどうにか16時を過ぎて入場。するとまずマスコットたちが記念撮影に応じている場面に出くわした。

 ゆるキャラ大集合の図。左端が栃木SCのマスコット・トッキー。

そうなのだ、今日は栃木×熊本ということで、熊本を代表するキャラクターであるくまモンが来ていたのだ。
やはりくまモン人気はすばらしいものがあり、一緒に写りたい人たちが後を絶たない。すごいもんである。
しかしくまモンは栃木まで来ているのに、肝心のロアッソくんがいないってのは……。よくわからんなあ。

初めて来たスタジアムは一周しなくちゃ気が済まないので、いつもどおりにチャレンジしてみたのだが、
工業団地内に掘り込んでつくったスタジアムということで、周りに道路がなく、一周は不可能なのであった。
そのかわり、メインスタンドの券を買っておいたので、ゴール裏までは行くことができた。
グリスタのゴール裏はすべて立ち見席となっており、さすがはサッカーに特化したスタジアムだと感心。
(たとえば甲府の小瀬陸上競技場は座席に上に立つ人がいて、座席が壊れる被害がけっこうあったという。)

  
L: グリーンスタジアムは工業団地内にあるためか、周囲より低くつくられている。それがバリアを少なくしている。
C: メインスタンドの端っこから眺めるピッチ。非常に個性的だが、しっかりと観戦しやすいスタジアムだった。
R: ゴール裏よりメインスタンドを眺めたところ。グリーンスタジアムのゴール裏は立ち見オンリーとなっている。

読書をしつつキックオフを待つ。キックオフまで1時間を切ると、フィールドはいろいろと賑やかになってくる。
まずはくまモンが登場し、『くまモン体操』(どの辺が「体操」なのかよくわからん)を踊る。踊り狂う。
踊り終えるとそのまま、ゴール裏でウォーミングアップをしている熊本の選手たちを激励に向かう。
そんなことをするマスコットなんて初めて見たので、これにはかなり驚いた。くまモンやりたい放題。

  
L: くまモン登場! 意外と動きが軽快。  C: 『くまモン体操』を踊るくまモン。アウェイであることをまったく感じさせない。
R: ゴール裏でアップする熊本の選手たちを激励するくまモン。そんなことするマスコットなんて初めて見たわ。驚いた。

やがて両チームの選手がピッチ上で練習を開始。熊本で目立っていたのは、柏から完全移籍した北嶋。
僕よりも年上のJリーガーがすっかり少なくなってしまったなあ、と思いつつ彼の練習ぶりを見ていたのだが、
まったく年齢のことを感じさせない動きの柔らかさが印象的だった。彼が蹴るボールは、すごく従順なのだ。
僕みたいなヘタクソが蹴るとボールはまったく言うことを聞かないが、北嶋の場合、本当にボールが従順に見える。
思わず見とれていると、『COWBOY BEBOP』の「Tank!」をリミックスした曲でスタメン発表が始まった。
そこで栃木のサポーターが声をあげて、ふと気がついた。ふつう、練習中からゴール裏は気勢を上げているものだが、
栃木の場合にはそれが始まるのがかなり遅いのだ。さっきから漂っていたどこか牧歌的な雰囲気は、それが理由だろう。

この試合は選手の入場に先立って、まずトッキー・とちまるくん(栃木県マスコットキャラクター)・くまモンが入場。
彼らが選手たちをピッチに呼び寄せる、という趣向で入場が始まった。そのまま選手・審判・ゆるキャラが一列に整列。
そしてここで、またしても前代未聞の行動が発生する。選手たちがいつもどおりに握手を交わしていくのだが、
熊本の選手の後ろにいたくまモンがそのままついていって、審判そして栃木の選手たち全員と握手したのだ。
まさか、ここまでやるとは。くまモンはさらに、試合前の記念撮影でもセンターの位置をゲット。やりたい放題である。

  
L: 選手たちをピッチに迎えるとそのまま列に加わるくまモン。ここまではまあ、珍しくない光景なのだが……。
C: 両チームの選手が握手を交わしていくのだが、くまモンはさも当然のように熊本の選手の後についていく。
R: そのまま平然と審判&栃木の選手たちと握手。さすがにここまでやるとは思わなかった。おそるべし、くまモン。

 こいつはまったく、怖いもの知らずである。

キックオフ直前には電光掲示板に歌詞が出て、『県民の歌』を全員で歌う。栃木もナショナリズムが盛んな土地のようだ。
長野県は当然、長野と松本が張り合っているから、キックオフ前に『信濃の国』を歌うなんてありえんな、と思いつつ聴く。
もし仮に飯田にサッカークラブができたら……『下伊那の歌』でも歌うのかなあ。どんなもんなんずら。

試合が始まると案の定、栃木ペースで進む。地力の差がそのままプレー内容に出ている、そんな印象を受けた。
栃木のサッカーというと松田監督が守備のスペシャリストとして知られているので手堅いイメージがあるが、
なかなかどうして、選手個々の技術が非常に高い。しっかりつないで攻めるシーンが非常によく目立つのだ。
対する熊本もがんばるのだが、その技術の部分で明らかに劣っており、それがボールを奪われる原因となっている。
栃木の場合、選手が次のプレーをきちんと見越して、ボールを止めたり蹴ったりすることができている。
咄嗟のプレーが上手いのだ。急にボールが来たときに、確かな技術で対応できている。それが強さに直結している。
しかし熊本の選手は急なボールへの対処が雑で、なかなか思うようにチャンスをつくり出すことができない。

ところが熊本には一人だけ、どんな状況でも高い技術を発揮できる選手がいた。北嶋である。
栃木の北嶋に対するマークは当然、非常に厳しいのだが、北嶋はそれを鮮やかにかわしてチャンスを演出する。
相手3人に囲まれても、的確に味方にボールを出すことができる。熊本の選手では唯一、別次元の動きをしていた。
ただ、北嶋ひとりではサッカーにならないのである。FWであるはずの北嶋がボールを収めてチャンスをつくる。
でも、その北嶋を追い越してシュートまでもっていく選手がいないのだ。北嶋よりも前にボールがいかない。
あるいは、本来ストライカーであるはずの北嶋に、決定的なパスを供給できる選手がいないのだ。
熊本にはチャンスメーカーがいないので、北嶋がヴァイタルエリアで踏ん張らざるをえず、その先に進めない。
「収める北嶋」と「飛び出す北嶋」、北嶋がもうひとりいればなあ、という矛盾である。

栃木で目立っていたのはクリスティアーノだ。中盤でボールを持つと、大胆にパスを展開してチャンスをつくる。
面白いのがその蹴り方で、爪先から足の甲にボールを乗せるようにして浮き球のパスを前線に送るのだ。
実はこれ、僕も部活の際に、空いているスペースにいる味方に浮いたボールを出すときによくやる蹴り方なのだ。
視野が広いところに、この浮き球のコントロールがとても絶妙ということで、熊本はどんどん押し込まれる。
ただ、クリスティアーノ自身も積極的にシュートを放っていたのだが、なぜかシュートだけは精度がなかった。

前半は完全に栃木のものだった。先制点は時間の問題だな、と誰もが思うような雰囲気でハーフタイムに入る。
そして後半に入っても、栃木の攻撃は緩まない。熊本は粘って守り続けるが、持ちこたえられるか微妙な情勢だ。
やはり北嶋の孤軍奮闘ぶりは変わらず、チーム全体がサポートできないままで時間が過ぎていく。
77分、北嶋はフォビオと交代してピッチを去る。これを機に栃木が一気に攻め切るのか、そう思ってしまう。

ところがそこはサッカー、単純な予想どおりにはいかないものなのだ。
それまで北嶋のセンスについていけなかった選手たちは、北嶋がピッチから去ったことである意味平等になった。
無意識のうちに北嶋を頼ることで足が止まっていたのかもしれない。でももう、走るしかなくなったわけだ。
また、ベンチでフラストレーションが溜まっていたであろうファビオはファーストプレーで躍動感を見せ、
チーム全体にリスクを冒して攻めきる意識を一滴、プラスしたのだ。そしてひと際小さい28番がそれに呼応した。
武者修行ということで熊本に期限付き移籍している、甲府ユース出身の期待の星・堀米である。
(ちなみに栃木の28番・菊岡も小さい。小っちゃい28番どうしの戦いはテクニシャンの戦いでもあるのだ。)
堀米が相手サイドバック裏のスペースに大きくスルーパスを出したことで、チーム全体の背中が押された。
複数の選手が連動して前へと侵入していく。フレッシュな選手たちの素早いカウンターに栃木は対応できない。
そして右サイドからペナルティエリアにボールをつなぐと、最後はフリーの片山が走り込んで左足を振り抜く。
それまで怒濤のごとく攻め立てていた栃木のすべてを否定する、乾坤一擲の一刺しが炸裂した。まさにサッカー。

  
L: 効果的なパスを何度も供給していたクリスティアーノ。この爪先を引っかけるように浮かせる蹴り方がオレと一緒。
C: 北嶋のプレーは別格。厳しいマークに遭っても抜群のセンスで味方にパスを出してみせる。本当に凄い。
R: 79分、堀米を起点にした右サイドからのカウンターで、劣勢だった熊本が先制。これがサッカーなのだ。

まさかの失点の後も、栃木は懸命に攻めるのだが、熊本の守備の集中力はまったく切れない。
熊本は成績不振のために監督が退任しており、代わって監督代行に就任したのは、なんと代表取締役社長。
つまり新監督を雇うだけの金がないくらい、熊本は追いつめられているということ。そして前節は引き分けている。
今度こそ絶対に勝ちたい、その気持ちがプレーのひとつひとつからはっきりと感じられるのだ。
栃木の松田監督はリスクを徹底的に排したサッカーを掲げている(だから大木さんに対しては批判的っぽい)。
でもクラブの存続じたいにリスクを抱えている、そんな究極の窮鼠を前にして、打つ手がないようだ。
放り込むだけの攻撃に変化のないまま時間は過ぎ、タイムアップの笛が鳴る。熊本は、やるべきことをやりきった。

  
L: 熊本は集中して守りきればいいだけ。クロスボールもダイビングヘッドで外へとかき出す必死のプレーで対応。
C: 7戦未勝利となった栃木のゴール裏は大ブーイング。完全に優位に試合を進めていただけにショックは大きい。
R: 監督交代の危機を乗り越えての勝利に、熊本は選手・サポーターが一体となって喜ぶのであった。

グリスタがサッカー専用のスタジアムだったからか、この試合は不思議と選手たちの意図がよく見えた。
たとえば失敗をするにしても、どういう結果を狙ってのプレーだったのかが、なんとなくわかったのだ。
日ごろ部活で鍛えられているせいなのかどうなのか、とにかく、「あーなるほど」という場面が多かった。
少しでもサッカーを観戦する力が上がっているのならうれしいことだ。踊る熊本の皆さんを見ながらそう思った。

帰りはさっさとバスに乗って宇都宮駅に戻り、東北本線の快速電車に揺られて東京へ。
その間、ひたすら北海道旅行の写真を取捨選択して過ごした。いやー、量が多くて本当に疲れた。
こうして画像整理に追われていると、夏休みに入ったことを実感する。なんだか変な理由だが、事実そうなのだ。
その分、日記を書くのは大変になっていく一方なので、サッカー観戦力に加えて筆力もつけていきたいものである。


2013.7.19 (Fri.)

終業式で、その後に講演会があったわけだが、そのゲストが有名な方だったので、いろいろ大変だった。
××な××が××××を呼びやがって、大騒ぎですよ。ふだん温厚な先生ですらキレるほどのてんやわんやぶり。
僕も心底呆れ果てたのだが、そこはほかの先生たちもやっぱりマジメなので、講演じたいはしっかり聞くのね。
で、講演が無事に終わった後に職員全員で怒りのエネルギーを精製する、そんな感じ。いや、もう、まいった。


2013.7.18 (Thu.)

本日も授業が5連発。1学期最後ということで、3年生ではALTとフリートークの時間を設けたのだが、
これがぜんぜんしゃべらない。オレが訳すぞ、と言っても反応なし。なんともシケた連中じゃのう、とがっくり。
で、音楽の話をおっぱじめたら多少は乗ってくるヤツが少々。なるほど、完全フリーだから困るのか、と気づく。
いずれ音楽でも映画でもマンガでもなんでも、「くくりトーク」でしゃべってみるのも面白いかもしれないな、と思う。
英語教育に関しては右翼というか攘夷丸出しな僕ですが、いちおうなんにも工夫していないってことはないんですよ。


2013.7.17 (Wed.)

よろよろしながらも、1学期の残りの一週間に臨んでおります。誇張なしで本当によろよろしているけどね。

夜は学年での1学期お疲れ様会ということで、タイ料理をいただいたのであった。
わが学年はベテランの女性の先生があの手この手を繰り出してくれるので、正直なところそれが楽しみなのである。
それはほかの先生方も同じで、教えてもらった店に後日家族みんなで出かけることにしているという先生は、
家を出る際に「ねえ、私たち今度はどんな店に行けるの?」と娘さんに言われたそうである。これは名言だ!

で、出てきた料理はどれもおいしく面白く、存分に楽しませていただいた。こういう視野の広がる経験はうれしい。
タイ料理とはたいへんすばらしいものですね。そしたら好奇心が旺盛なのはいいことだと褒めていただきました。


2013.7.16 (Tue.)

マララ軍曹は忙しそうだけどちゃんと学校行ってんのか?


2013.7.15 (Mon.)

北海道2日目である。今日はとにかく、道内のいろいろな街を歩いて、ついでに市役所にも行っちゃうのである。
昨年の北海道旅行の結果、がんばって北海道の都市についてある程度の考察をしてみたわけだが(→2012.8.27)、
そしたらまだ訪れていない都市がどうしても気になっちゃって気になっちゃって、昨日は江別を訪れた。
そして今日は、主に千歳線の沿線の街を攻めてみるのである。それで北海道の都市に対する理解をさらに深めるのだ。

しかしその前にぜひやっておきたいことがある。それは、札幌市内にあるDOCOMOMO物件を押さえることだ。
上遠野徹(かとの・てつ)という素人にはとても読めない名前の建築家がいて、その人の自邸が選ばれているのである。
んでもってこれがまたややこしい場所にあって、最初どうすりゃいいんだと途方に暮れてしまったのだが、
札幌駅から出ているバスに乗って30~40分ほど揺られればいいことが判明して、今日最初の目的地にしたのだ。

すすきののカプセルホテルに泊まったので、そこから直接すすきののバス停に歩いていき、バスに乗ってしまう。
路線バスというのは便利なもので、鉄道とバスの組み合わせでたいてい、全国あちこちの名所には行けるものだ。
しかし困ったことに都市の規模が大きくなればなるほど、路線バスは複雑化して一見さんの手に負えなくなってしまう。
また札幌の場合には駅の周辺にバスの発着所がいくつもあって、区別がつかない。もうどうしょうもない。
すすきのを本日のスタート地点としたのには、それを避けるという狙いもあるのだ。朝からややこしいのはごめんなのだ。

なぜかひらがなの「じょうてつバス」がやってきた。硬石山行きなのだが、途中の藻南(もなみ)公園で降りるのだ。
バスは国道230号に入るとひたすら南下。札幌の中心部から離れていくが、その間のバス停の名前がやはり味気ない。
「南6条西11丁目」から「南38条西11丁目」まで、謎の数列「南n条西11丁目」が延々と続くのだ。
で、「藻岩高校前」でひと休みすると、今度は「川沿p条q丁目」である。上書きされた地名は本当につまらない。
シェイ・スタジアムに向かう地下鉄7号線の「90St」や「111St」とまったく同じ、味気ない価値観だ(→2008.5.10)。

藻南公園でバスを降りると、歩道橋を渡って西側の住宅地へ。iPhoneを片手に目的の建物を探して路地を歩く。
やがて、ぼわっと緑があふれる一角を発見。緑の下にはレンガ塀。もうそれだけで、タダモノではないのがわかる。
果たしてそこには「株式会社 上遠野建築事務所」という木製の表札が乗っていた。この文字がまたモダンだ。

  
L: ごくふつうの住宅街に現れる、センスの違いを感じさせる塀と木々。ここだけ高原の別荘の雰囲気がする。
C: 塀をクローズアップ。レンガとH字鋼の上に木製の表札が置かれている。さまざまな建材が象徴的に使われている。
R: というわけでさらに表札をクローズアップ。書体も凝っていて、モダニズムの美学を存分に感じさせるものだ。

上遠野徹の自邸「札幌の家」は、1967年に建てられている。まあでも、建築年はあまり関係ないかもしれない。
それくらい、いま見てもまったく古びた印象のない住宅なのである。赤レンガと鉄骨、それがしっかりとモダン。
建築家の研ぎ澄まされたセンスによって、同じ素材でできた他の建築から差をつける、そういう作品である。
他人の家なのであまり好き勝手にできるわけもなく、外観を軽く撮影してすぐに去ったが、実に印象的な家だった。

  
L,C,R: ちょろっとお邪魔して外観を撮影する。こちらがDOCOMOMO物件、「札幌の家」である。オシャレだ。

いちおう、別の角度からも見てみようということで、塀の木々の間からも覗き込んでみる。やはりモダン。

 庭に面している側を覗き込んでみた。失礼いたしやした。

バスで札幌駅まで戻ると、いったん休憩。北口にあるドトールで読書をしながらメシをいただき、やる気を充填。
そしてバスの次はまたバスなのだ。手稲駅まで電車で移動すると、北口の乗り場にやってきたバスに乗り込む。
次の目的地・石狩市役所は手稲駅から道道44号一本でまっすぐ行けるのだが、石狩市内に入ったのを合図に、
バスはかなり激しい寄り道をする。そこは完全なる住宅街で、右を見ても左を見ても小ぎれいなマイホームがびっしり。
車窓からの風景はどれも同じようなものが続くばかりで、ランドマークはもちろんのこと、エッジもノードもない。
おかげでバスに乗っていると、方向感覚が完全におかしくなってくる。これはもう、迷路か異世界である。
後でGoogleマップを見てみたら、笑えてくるほどの碁盤目ぶり、そして渦巻きぶりだった。
紅葉山公園の周りなんて、もはや日本の街並みとはとても思えないような模様を描いている。
ここを巨大迷路気分でふらふら歩きまわるのも、かえって面白いのかもしれない。本当に不思議な光景だった。

道道44号に戻ってすぐに、石狩市役所に到着する。周囲にはまだ広い空き地が残っていて、そこにでっかく建っている。
見事な真四角の庁舎建築で、いかにも平成オフィスっぽい曖昧なグレー色をしている。建物の周りはまず駐車場。
そして裏側には芝生のオープンスペースもついている。とにかく敷地が広大で、海老名(→2011.5.4)以来の広々感だ。

  
L: 石狩市役所。1993年に石狩町役場として現在地に移転・新築。1996年に市制施行と、市になったのは意外と最近。
C: 南側の広大な空き地より眺める。設計は北海道日建設計。  R: 裏側の南西側にはオープンスペース。

今日は海の日、つまり祝日なのだが、市役所の中に入ることができた。来週末に参議院選挙が行われるのだが、
その期日前投票が行われているから。一般市民や職員の邪魔にならないようにさっと入り、豪快なアトリウムぶりを激写。
外から見る石狩市役所は非常に大きい印象なのだが、中に入ってみると、なぜか意外とそれほど大きくない印象である。

 
L: 石狩市役所の中に入ってみたら、こんな感じでアトリウムになっていた。中に入ると意外と大きくない感触。
R: 市役所の北東には2000年オープンの石狩市民図書館。設計は下村憲一。「図書館の中に街をつくる」がコンセプトだと。

本日はひたすら市役所めぐり&街歩きということで、やってきたバスに乗り込んで石狩市役所を後にすると、
再び迷路のような住宅地をぐるぐるしながら札幌方面へと戻る。正午少し前に札幌駅に到着したのだが、
そこで待っていたのはJR千歳線が運転を見合わせている、というニュースだった。改札付近は大混雑で、愕然とする。
なんでも千歳線を走行中の特急列車の配電盤から火が出たそうで、復旧の見込みは立っていないというのだ。
昨日も森林公園駅で電車の車両トラブルに巻き込まれたが、まさかこんな、どストライクで予定を狂わされるとは。
最近のJR北海道は特急列車の発火事故でダイヤに大幅な変更が出るなど、かなりトラブルに見舞われており、
その流れの直撃を受けたって感じだ。しかしせっかくの旅行なのだ、早く判断をしないと時間がもったいない。

千歳線が動かないということは、新千歳空港へのアクセスが絶たれるということだ(バスもあるけどね)。
さすがにJR北海道は復旧に全力を尽くすだろう。しかし改札前の混乱ぶりを見るに、どうしても不安になってしまう。
こういうときこそスマホだぜってことで、iPhoneでネットを検索し、別の手段を探ってみる。
すると、福住から恵庭に行くバスがあることがわかった。その路線はさらに、千歳までも行けるようだ。
どうせ予定が狂ってしまったので、思いきって北広島をカットして、バスでまず恵庭まで動く決断をした。
ぼんやり待っていてもしょうがないのだ。スマホの「スマート」っぷり、ここで実感させてもらおうか。

小走りで地下鉄東豊線の改札へと向かう。ちょうどこれから日ハムの試合があるようで、それ目的の乗客がいっぱい。
しかしこっちはのんびりしていられないのだ。アメフトのRBのようにするすると間を抜けていき、列車に乗り込む。
車内ではスマホで今後のスケジュールを確認する。北広島に行けないのは残念だが、ここは切り替えが肝心だ。

福住駅に着くと、札幌ドームへ向かう人の流れに乗りつつ、イトーヨーカドーにちょろっと寄る。
地下の食品売り場に直接アクセスし、パン屋で昼メシを買い込むと、そのままバスターミナルに出る。
目的のバスが到着するまであまり時間がなかったのだが、急いでさらっとパンを食べておく。
しかしJRの影響を受けているのかバスはやや遅れてやってきた。おまけに乗客が満員に近い状態だ。
でもこればっかりはしょうがないので、できるだけ荷物が邪魔にならないように心がけつつ揺られる。

バスは国道36号を南下していく。3連休ということもあるのか、交通量はけっこう多くて時間がかかる。
おかげで恵庭駅通のバス停に降りたのは、予定よりも15分以上遅れてのことだった。いろいろ誤算である。
バス停から駅の方へ少し歩くと、グリーンベルトと呼ばれる大通りが北東に向かって延びていた。
これをそのまま行けば恵庭市役所の裏に出るので、のんびり歩いてみる。が、日差しが強くて汗が止まらない。
7月の札幌は本州に比べれば湿度も低いし格段に涼しく、朝夕は半袖だと涼しすぎるくらいなのだが、
それでも直射日光が当たると汗びっしょりになるほど暑くなる。本州の残暑に似ているところがある。

  
L: 恵庭市街にあるグリーンベルト。木々は生い茂り、色とりどりの花が咲いていて非常に美しい。
C: グリーンベルト側から見た恵庭市役所。  R: 市役所南側の入口。右手が市役所で、奥は恵庭市民会館。

というわけで、やっとのことで恵庭市役所に到着した。恵庭市役所は幅があって撮影しづらい。
それでも駐車場が広いおかげで、どうにかそれなりの写真が撮れた。北側の4階建て部分は増築っぽいが。

  
L: 恵庭市役所。1971年竣工とのこと。  C: 増築っぽい北側の棟。  R: もともとは南側の棟だけだったのかな?

市役所の北隣には恵庭市民会館。1974年の竣工だそうだが、さすがに最近になって改修しているはず。
でもその辺の細かいデータが検索しても出てこなかった。どうも恵庭の公共施設はよくわからない。

 
L: 恵庭市民会館、南側エントランス。  R: 西側からもう一丁。いつごろ改修されたか全然わからないんですけど。

市役所の撮影を終えたので、あらためて恵庭駅まで行ってみる。恵庭の場合は道道46号沿いに店が多くあり、
この道路が駅に比較的近いので、特にひどい弱体化もなく穏やかに日常生活が送られているという印象である。
もっとも、恵庭には広大な自衛隊演習場があるため、自衛隊関係者が多くいるから賑わいがある面もあるだろう。

 
L: 恵庭駅へ向かう道。歩道がとっても広い。前に書いたが(→2012.8.27)、恵庭は軍事都市(というと大袈裟だが)なんだよな。
R: 北海道によくある標識について説明する案内板が出ていた。これを見て、そういうことだったのか、とようやく納得。

恵庭駅に行ってみると、千歳線はしっかりと復旧していたのであった。しかも復旧したのが12時台で、
つまり僕が地下鉄で福住に到着した頃にはもうまともに動いていたのである。これには愕然としたわ。
やはりJR北海道がプライドを賭けて復旧させるのではないか、という予想は正しかったのだ。これは失敗。
それでもう、なんだかやる気をなくしてしまったので、これ以上恵庭市内を徘徊することはしないで、
次の千歳市へと向かうことにした。客がまばらにしか乗っていない各駅停車で千歳駅まで揺られる。なんともだ。

千歳駅に到着すると、まず駅前の道路の交通量に圧倒された。中央大通という名称がついているのだが、
それに恥じないだけの量の車が行き来している。さすがに新千歳空港へまっすぐアクセスする道だ、と呆れる。
しかしそれ以外の道路はわりと閑散としたもので、人はそこそこ歩いているけど車はそう多くなかった。
駅大通を西へと歩いていくと、こちらでもグリーンベルトと呼ばれる通りに出くわした。
ただし恵庭のそれとは違い、千歳のグリーンベルトは緑が点在する公園である。地下には駐車場があるそうだ。
厳しい日差しを遮る要素がほとんどないためか、公園であるけど人影はまばら。工夫の余地がありそうな空間だ。

 千歳市街にあるグリーンベルト。もうちょいなんとかならんかね。

もう一本先に進んで、仲の橋通を南下していく。ここは千歳における中心商店街らしい雰囲気を漂わせている。
空港と自衛隊基地がある関係で、都市としての勢いはきわめて安定しているのだろう。そんなことを思う。
が、少し物足りない印象があるのも事実だ。千歳という都市じたいが、交通の通過点という要素が強すぎるのだろう。

そのまま南下して千歳川を渡ると千歳市役所である。上から見るとブーメラン型をしている庁舎なのだが、
北側が議会棟で南側が本庁舎、その両者を市民ホールがつないでいるという構成となっている。
なお、「千歳」という地名が生まれたのは1805(文化2)年のこと。もともとは「シコツ」と呼ばれていたが、
和人はその響きから「死」と「骨」を想像してしまうので、「鶴が多いから『鶴は千年』で『千歳』!」と決まった。
(結果、「シコツ」という名称は現在、支笏湖ぐらいにしか残っていない。なんとも味気ないものだ。)
そんな千歳市役所は1976年の竣工らしい。当時にしては立派な印象。やはり空港と自衛隊で潤っているのか。

  
L: 千歳市役所。真ん中の市民ホールを中心に撮影。右が議会棟、左が本庁舎ということになる。
C: 市民ホールの内部。参議院の期日前投票をやっていたのであった。  R: 本庁舎を南側より眺めたところ。

さてこの日、千歳市役所で行われていたのは期日前投票だけではなかった。「千歳市民夏まつり」が開催されていたのだ。
千歳市は北海道で最も平均年齢が若い自治体だそうで、老若男女あらゆる人々が市役所周辺で祭りを楽しんでいた。
市民ホール前には特設ステージがつくられ、市役所中庭の芝生には自由に座れるようにビニールシートが敷かれている。
特設ステージでは地元のバンドが生演奏。少し懐かしいが盛り上がることのできる歌謡曲を女性ヴォーカルが歌う。
駐車場は「スカイ・ビア&YOSAKOI祭」ということでビアガーデンとなっており、本当に大勢の人がビールで乾杯中。
オープンスペースがビアガーデンとなるのも北海道らしければ、ステージで「YOSAKOI」をやるのもそうで、
実に北海道らしさ満載なイヴェントである(「よさこい」と「YOSAKOI」に関する考察はこちらを参照 →2008.1.10)。

  
L: 市役所の中庭は「千歳市民夏まつり」ということで、特設ステージが用意されていた。うーん、公共空間。
C: 本庁舎の裏側。ビアガーデンとなっている隣の駐車場と合わせて、ものすごい賑わいとなっていた。
R: 駐車場の奥には千歳市総合福祉センター。特徴的なファサードだが、それ以上に祭りの勢いが圧倒的。

昨日の江別も凄かったが、こっちも負けていない。貴重な3連休、北海道の各都市は短い夏の訪れを全力で喜ぶように、
さまざまなイヴェントを開催しているようだ。なかなか面白いタイミングで北海道を訪れたことを実感する。
そして市役所の裏手にある千歳川では、「清流千歳川噴水フェスティバル」ということで大放水中なのであった。

 
L: 噴水が飛び交う千歳川。夜には設置されている行灯に明かりが灯されて幻想的な光景になるそうな。
R: 市役所から見て千歳川の対岸は旧市街地。こちらはけっこう寂れた雰囲気が漂っていたのが意外だった。

結局、北広島市に寄らなかった分だけ、予定よりも早めに新千歳空港に到着する形になってしまった。
でもかなりの距離を歩いたし、不測の事態でバスにもけっこう揺られたしで、だいぶ疲れが厳しい。
それでも土産店でボルタ(→2012.8.22)をたっぷり買い込んでウハウハしたり(いつかボルタ工房に行きたいぜ)、
「ドラえもんわくわくスカイパーク」のあまりにショボい子どもだましっぷりに心底呆れたりするのであった。
それでもまだ時間があるので、空港内をフラフラ徘徊していたところ、4階に温泉入浴施設があるのを発見。
お値段は少しお高かったのだが、こりゃちょうどいいわと中に入って温泉に浸かる。夕方の露天風呂が気持ちいい。
そしたらこれが威力抜群で、風呂から上がると全身フワフワ、いい感じに疲れをリフレッシュできた。
空港に温泉施設ってのはすばらしい発想だと思う。飛行機が遅れたり欠航したりしたらボロ儲けできるもんな。

飛行機に乗ってからも温泉の効果は続き、気がついたら羽田に着陸していた。
家に帰ってからもすぐにぐっすり就寝。日頃の疲れと旅の疲れを強制的に癒された印象である。
そんなわけで楽しむだけ楽しませてもらった。あと一週間、がんばって乗り切るのだ!


2013.7.14 (Sun.)

わざわざ前夜のうちに札幌入りしたのにはいくつか理由があって、飛行機のチケットの問題も大きいのだが、
もうひとつ、できるだけ長い時間滞在したい施設があったからだ。新千歳から札幌までの時間すら惜しいというわけだ。
だったら2日目の朝に行けばいいじゃん、と僕も思ったのだが、調べてみたら祝日は休みでやんの。だから今日行くしかない。
そんな面倒くさい施設は「北海道開拓の村」。札幌郊外、ほぼ江別な場所に野幌森林公園という広大な原生林がある。
北海道開拓の村はその中にある。バスでアクセスすることになるのだが、森林公園駅だけでなく新札幌駅からも行ける。
というわけで、夕張(→2012.6.30)以来の新札幌駅バスターミナルから郊外地帯を抜けて森林公園に入る。
途中のバス停の名前が「厚別中央2条6丁目」だの「厚別東4条2丁目」だの、なんとも味気なくってがっくり。
北海道にはアイヌ語がもとになった地名が多く残ってはいるものの、一皮剥けばこんな具合か、とあらためて実感する。

さて、北海道開拓の村は、北海道内の歴史的な建築物を移築してきたり再現したりという施設である。
まあつまり、「明治村(→2013.5.6)の北海道版」と表現しても差し支えのないような施設なのだ。
バスが終点である北海道開拓の村の入口前に到着したのが8時半過ぎ。でもオープンは9時なので、
しばらくボケッと待っているしかない。そんなところまで明治村のときに似ているのが、なんとも間抜けである。
ところでこの3連休には児童写生会が行われているようで、家族連れが多数やってきて、それぞれに建物を描いていた。
そんな具合にいろいろイヴェントを開催して、しっかりと客を呼び込んでいるようで何よりだ。

  
L: 北海道開拓の村の入口。この建物は、1908(明治41)年築の札幌停車場を縮小して再現したものだ。
C: 正面より撮影。逆光なのが残念。  R: 1873(明治6)年築の旧開拓使札幌本庁舎を再現した建物。

さて、ひとつひとつの建物について書いていってもキリがないので、個人的に目についたものを挙げることにする。
こういう場合、僕のセンスが問われてしまうわけだが、無知を隠さないのがこの日記の方針なので、気にしないのだ。
まずは住宅建築が集中している「市街地群」の北側(入口から見て左側手前)の区画からゴー。

  
L: 旧開拓使爾志通洋造家。1878(明治11)年築の官舎で、洋風の外観をしているが中身は和風となっている。
C: 1918(大正7)年の状態に復元されている旧松橋家住宅。洋間の奥に直接和室があって、なかなかスリリング。
R: 旧有島家住宅。有島武郎が1年ちょっと暮らした家。中身については特にこれということはなかったです。

同じ区画のメインストリート側には公共性の高い建物が集まっている。いかにも都市の雰囲気が演出されている。

  
L: 旧浦河支庁舎。1919(大正8)年築で、1956年に浦河町に払い下げられ、博物館などに利用されたとのこと。
C: 旧小樽新聞社。1909(明治42)年築。  R: 中には印刷機が置かれており、子ども向けに名刺がつくれる模様。

  
L: ニセアカシアの並木道を馬車が走る。レールが敷かれた馬車鉄道になっているのだ。冬にはこのまま馬そりになる。
C: 旧開拓使工業局庁舎。1877(明治10)年築。現存する唯一の開拓使関係庁舎で、重要文化財に指定されるらしい。
R: 旧札幌警察署南一条巡査派出所。1911(明治44)年に個人の寄付でこのようなレンガ造になったとのこと。

「市街地群」の西側(入口から見て右側手前)の区画には木造の商店建築がいっぱい。これまた、都市の雰囲気だ。

  
L: 旧来正旅館。元屯田兵の人が始めたそうで、1919(大正8)年の築。  C: 2階はこんな感じになっている。
R: 小樽で人気だったという旧三ます河本そば屋。1909(明治42)年頃の築とのこと。真ん中の煙突がいいねえ。

  
L: 旧武井商店酒造部。1886(明治19)年頃の築。実際に酒をつくっていたのは、隣の離れの建物みたい。
C: 旧武岡商店。1898(明治31)年築。  R: 内部の様子。米穀・雑貨・荒物など手広くやっていたようで。

「市街地群」にはほかにも蹄鉄をつける店やソリの製作所など、建物として特にきれいというわけではないのだが、
北海道の歴史を語るうえでははずせないものもある。じっくり見ていくと本当に時間がかかるのは明治村と一緒だ。
最後にもう一丁、「市街地群」南側(入口から見て奥の方)の中で、目についた建物をあと3つほど挙げてみる。

  
L: 旧島歌郵便局。1902(明治35)年築。昔の郵便局はこんなんなのね。  C: 大正後期の旧山本理髪店。モダン!
R: ちょっと離れて旧札幌拓殖倉庫。1907(明治40)年、札幌駅の北側に隣接して建てられた。合計6棟が並んでいたそうだ。

市街地群の奥の隅っこは「漁村群」なのだが、そこには見事な鰊御殿(ニシン漁の番屋)があった。
名前を見ると、「旧青山家漁家住宅」とある。ニシン漁で青山家といえば、小樽貴賓館(→2012.8.22)だ。
そう、この建物は、かつて小樽でブイブイ言わせていたあの青山家の鰊御殿なのだ。まさかここで出会うとは。
きちんと勉強する旅では、こういう偶然の出会いが本当に面白いのだ。存分に楽しませてもらった。

  
L: 旧青山家漁家住宅。奥にはこれ以外にも網倉・船倉などの関連施設が並んでおり、実に壮観である。
C: 玄関から入ってまっすぐ正面はこのようになっている。向かって右側が青山さんの居住部分、左側が漁民たちの空間。
R: というわけで右側、青山さんのプライヴェイト空間に踏み込んでみる。小樽貴賓館の価値観そのままの豪華さだ。

  
L: 対照的に、左へ行くと大規模雑居空間。  C: ヤン衆(漁民たち)が寝起きするスペースは周囲につくられている。
R: 旧土谷家はねだしの裏側。これは見事な跳ね出しぶりである。はねだしについてはこちらを参照(→2010.8.13)。

漁村群の見学を終えると、いったん市街地群に戻ってから、「恵迪寮→」と案内の出ている横道に入る。
するとすぐに、威厳を漂わせる木造建築が緑の中から現れる。旧札幌農学校寄宿舎「恵迪(けいてき)寮」である。
現在でもその名は北海道大学の寮に引き継がれており、その誇りを展示で堪能できる。いいなあ総合大学。

  
L: 旧札幌農学校寄宿舎「恵迪寮」。もともとは1903(明治36)年に建てられた。  C: 基本的には4人部屋のようだ。
R: 北棟ではかつての部屋を再現しているのに対し、南棟では札幌農学校~北海道大学の歴史を展示している。

そのまま林の中を通って「山村群」へと入る。冬期には通行止めになるという道で、北海道の自然がいっぱい。
ただ、なぜかやたらと虫がまとわりついてきた。主に蚊だと思うのだが、それ以外の虫も目玉に反応して飛んでくる。
これが本当に尋常じゃない数で、かなり面倒くさかった。北海道はけっこうな昆虫天国だと思う。
さて「山村群」では、北海道にかつてあった、山での産業に関連する建物が再現されている。
個人的には飯場の男くさい雰囲気がなんとも印象的だった。やはりどこか網走監獄(→2012.8.19)を彷彿とさせる。

林を抜けると「農村群」。まず現れたのが開拓小屋(開墾小屋)で、北海道への移住者が最初に建てたものだ。
材料がだいたい同じなので、一見するとアイヌのチセに似た雰囲気がある。でもこちらはかなり内部が殺風景だ。

  
L: 旧平造材部飯場。こういうところに男どもが寝泊まりして、ひたすら木を伐り出していたわけだな。
C: 開拓小屋(開墾小屋)。明治期のものを再現したとのこと。  R: 中はこんな感じ。冬場を想像したくないなあ。

「農村群」には農業関連の建物がいっぱい並んでいるが、その中でも特に興味を惹かれたのは旧納内屯田兵屋だ。
建物を通して実際の屯田兵の生活を実感したり想像したりできるというのは、非常に興味深いではないか。
納内(現・深川市内)に屯田兵が入植したのは1895~96(明治28~29)年のことだそうで、後期の平民屯田になる。
となるとスタイルがかなり確立されていたはずなので、こういうもんか、と思いつつ見学するのであった。

  
L: 旧納内屯田兵屋。さすがに北海道遺産に指定されているよ。  C: 玄関を入ってすぐ右手の土間には農耕機具が並ぶ。
R: 左手を眺める。土間と囲炉裏が連続する形状が非常に独特。奥の座敷には軍服が掛かっているのが見える。

明治村ほどの規模ではないにせよ、広い敷地に50以上の建物が点在しているわけで、最後はけっこうヘロヘロ。
それでも根性を振り絞って北海道の近代を味わって歩く。冬に来るとまた別の味わいがあるかもしれんなー。

  
L: 旧農商務省滝川種羊場機械庫。1921(大正10)年築。農業用の機械がたっぷり置かれていて眩暈がするほどだ。
C: 旧ソーケシュオマベツ駅逓所。駅逓所は開拓時代の北海道独自の仕組みで、馬も貸し出した宿泊所。道内に200以上あった。
R: 旧山本消防組番屋。消防用具の格納庫なのだが、見てのとおり、火の見櫓がついている。どうですかね、circoさん。

ここに挙げた建物は全体の一部にすぎないが、いちおうすべての建物を訪れて写真を撮ったので本当に疲れた。
思った以上に時間がかかって、少し焦り気味で隣(といっても800mくらい歩かされるのだが)の北海道開拓記念館へ。
記念館入口のバス停から林の中の抜け道を行くのだが、ここでもやっぱり虫にまとわりつかれた。困ったもんだ。

北海道開拓記念館は北海道の開道100年を記念して、1971年にオープンした博物館である。
設計は佐藤武夫で、公共建築百選に選ばれている。ファサードは赤いレンガでまとめられているが、これはつまり、
北海道庁の旧本庁舎(いわゆる赤れんが庁舎、→2012.8.22)をモダニズムの感触で翻案したってことだろう。
よく見ると単純にレンガを並べているのではなく、出っぱる列を縦につくって変化を持たせているのが心憎い。

  
L: 北海道開拓記念館。北海道の青い空と鮮やかな緑には、レンガの赤がよく映える。ベテラン建築家の巧さを感じる。
C: 正面エントランス前のオブジェの足下は、北海道章でデザインされている。七稜星は蝦夷共和国の旗が源流か?
R: 建物の裏側はこんな感じ。こっちからも入館することが可能。黄色い花はタンポポで、やたらと背が高くて驚いた。

北海道開拓記念館という名前なので明治期以降の内容が中心なのかと思ったらまったくそんなことはなく、
展示は自然科学的なところからスタート。そこから考古学的な内容に移行して、アイヌ文化の紹介へと続く。
特に北海道の場合には縄文文化から続縄文文化、そして擦文文化へと、本州以南とは異なる経過をたどるので、
独自のオホーツク文化も交えつつその辺の動きがテンポよく紹介されていたのは、勉強になってよかった。

擦文文化は鎌倉時代以降の交易によって、土器を使わず竪穴式住居もやめるアイヌ文化へと変わっていく。
アイヌ文化で重要なのはこの交易で、狩猟によって得られた毛皮・工芸品などを鉄製品・漆器・米・布と交換する、
それが生活を成り立たせる要素となっていたのだ。農耕より狩猟を重視したのは、交易あっての価値観だったわけだ。
しかし和人が松前半島に定着して蠣崎氏が支配権を確立すると、アイヌの生活様式はだんだんと脅かされるようになる。

  
L: チセが内部がわかるようにして、そのまま展示されている。  C: 内部の様子。交易で得た漆器は重要だったのだ。
R: 人形によって再現されているオムシャの様子。当初はアイヌへの慰労だったが、後に服従を誓わせる行事に変化した。

北海道開拓記念館の展示で僕がいちばんありがたかったのは、今まで文章でしか読んだことのない内容が、
はっきりと図で表されていたことである。とにかくこれが知りたくてしょうがなかったのだ! うれしくってたまらん。
北海道の歴史についてまとめたものの(→2012.8.27)、いまひとつピンと来なかった部分がすっきりわかった。

  
L: 黄緑が和人地(松前藩)で、赤い点が商場の所在地。当然だが、見事に沿岸ばっかり。室蘭本線〜日高本線は真っ赤っか。
C: 「場所」の分布図。各範囲内の収穫物が「場所」に集められたのだ。赤い線の北側が西蝦夷地で、南側が東蝦夷地。
R: これは屯田兵の入植した場所を示す図。緑色が士族屯田(前期)、赤色が平民屯田(後期)。士族は札幌近郊と道東ですな。

ちなみに、蝦夷地は南北に分けられているにもかかわらず「東蝦夷地」「西蝦夷地」と呼ばれているのは、
松前を出る船が東へ向けてなのか西へ向けてなのかによるから。東へ向けて出航すれば南側の東蝦夷地へ、
西へ向けて出航すれば北側の西蝦夷地へ行くことになるので。当時の和人の視点がよくわかる名称である。

その後、展示は江戸から明治へ、特に箱館戦争を経て開拓使による近代化が焦点となり、2階に上がると現代史。
1階のオシャレ展示に比べると明らかに2階のそれは古く、昭和の匂いがけっこう残っていて、その差がちょっと面白かった。

北海道開拓記念館から北海道百年記念塔までは500mほど。すでにさんざん歩きまくっているので面倒くさいが、
せっかくだから行ってみなくちゃもったいない。草木が生い茂る道を歩いていくと、すっきりと開けた場所に出た。
そしてそこにはすらりと伸びる茶色い塔が立っている。なるほどこれか、と思いつつ近づいてみる。

  
L: 北海道百年記念塔。北海道の開道100年を記念しているので、全長は100m。1970年に竣工した。
C: 塔の中にある階段を上って8階の展望室に行くことができる。時間的な余裕がなかったんで今回はパス。
R: 正面から眺めるとこんな感じ。まあ先住民的な視点からすりゃ何が百年記念だ、ってことになるだろうけど。

野幌森林公園のバス停でバスを待つ。iPhoneで見る限り、森林公園駅までは歩けないこともなさそうな距離なのだが、
もういいかげん、歩きたくない。開拓の村の中をさんざん歩いているし、さらにバス停2つ分を歩いているのだ。
そんなわけで、靴を脱いで足をほぐしつつ買い込んでおいたコンビニおにぎりを頬張っていると、バスが到着。
喜んでバスに乗り込んだのはいいが、野幌森林公園から森林公園駅までは、やっぱり歩いても大丈夫な距離だった。
しかも下り坂なので負担はそんなに大きくない。金を取られて悔しいが、絶対に歩きたくなかったからしょうがない。

さて、午後は江別市内を歩きまわる予定である。前に北海道の都市の歴史についてまとめてみたのだが、
道内人口ベスト10の中で唯一訪れたことのなかった都市が、江別(第9位)だった(→2012.8.27)。
なのではっきり言って今回の北海道旅行は、この江別という街を体感するのが最大の目的なのである。
しかし困ったことに、江別市には複数の核がある。大麻駅は団地があって乗降客が最大、野幌駅は商業が盛ん、
江別駅は最も歴史のある旧市街(ただし市役所の最寄駅は1986年開業の高砂駅である)、といった具合。
江別市のルーツは屯田兵村で、1891(明治24)年には煉瓦工場が操業開始して以来工業都市として発展し、
戦後には団地が建設されて札幌のベッドタウン・文教都市として人口を増やしてきたという歴史的な経緯がある。
そういう複層的な要素が空間にも投影されているので、「ここがいちばん江別っぽい!」という場所がない。
そんなわけでだいぶ困ったのだが、今回は素直に市役所を訪れ、そのまま旧市街地を体験することにした。
つまり、高砂駅から江別駅まで歩くのだ。ただし、大回りで寄り道をする。しなければならない理由が僕にはある。

高砂駅で降りるが、函館本線と見事に並行して防風林が延びており、そこを抜けて北西側に出る。
辺りはしっかり碁盤目でセットバック歩道の、とっても北海道らしい感触(→2012.8.17)のする住宅地。
これが江別の代表的空間と断定することはできないが、やはり江別もこの質感を持つ街だな、と確認できた。
そのまままっすぐ北西に進んで江別市役所に到着。まず駐車場が広々としている点が印象的である。
そして敷地の東側に市民会館が建っている。正直なところ、特にこれといって特別な要素は感じない構成だ。

  
L: 市役所前の電話ボックス。レンガとサイロの2つの要素で構成されている。後述するが、それが江別のアイデンティティか。
C: 市役所の手前、東側には江別市民会館。1973年に竣工した。  R: 江別市役所。1966年竣工というデータがあるが……

江別市役所の建物はなかなか独特な状態になっている。というのも、正面から見ると3階建てのシンプルな庁舎だが、
側面は明らかに平成になってからの新しさとなっているのだ。予算をそれほどかけずにうまく補強した、ってところか。
調べてみたら、裏側にくっついている西棟が1999年に竣工しているので、その際に改修工事を行ったのだろう。

  
L: 江別市役所の側面はずいぶん現代的。  C: これは裏側を眺めたところなのだが、ほぼ同じデザインとなっている。
R: あらためて江別市役所を正面から眺めてみる。ファサードの半面だけ使って太陽光発電をやっているのもちょっと独特。

さて、最後の写真を見てもらうとわかると思うが、市役所の入口付近には、なぜか長い行列ができていた。
なんじゃこりゃと思って首を傾げつつ眺めていると、バスがやってきて行列の人々を吸い込んで走り去っていく。
バスには「やきもの市」と書いてあって、それで首を傾げる角度がより深くなる。江別じゃそんなに焼き物が人気なの?
この行列、まったく絶えることなく延びていき、バスもひっきりなしにやってくる。わんこシャトルバスである。
敷地を一周してみてわかったのだが、市役所の裏手である北西側にはめちゃくちゃ広大な空き地があって、
そこが臨時駐車場になっていた。江別市民は車で市役所までやってきて、パークアンドライドしているのである。
そんなに大人気なら行ってみてえな、やきもの市。そうは思うが、会場がどこだかわからんし、そんな余裕もない。
僕にはそもそもほかに行かなくちゃいけない場所があるので、そっちを優先させてもらうのだ。

江別市役所を後にすると、道道110号の五丁目通をさらに北西へと歩いていく。
やはり江別の街は完全なる碁盤目であり、セットバックして歩道をつくるスタイルも貫徹されている。
地図から想像したとおり、開拓の要素の方が強い街だったわけだ。ただ、注意すべき点もある。
江別には石狩十三場所に含まれる上ツイシカリ場所と下ツイシカリ場所が置かれていたのだが、
このツイシカリ(対雁)は江別における集団入植の端緒となった場所だ(ただし失敗した)。
また、1875(明治8)年の樺太・千島交換条約の結果、樺太アイヌが移住させられた場所でもある(これも失敗)。
つまり、現在のような都市としての姿と「場所」の時代との間には、明確な断絶があるということだ。
「場所」と都市の関係は、想像していたより(→2012.8.27)もう少し慎重に考えないといけないな、と思わされた。

  
L: 車道と広い歩道の間に並木が植えられている例。こちらは歩道。  C: すぐ右に出て車道。幅が同じくらいなのにびっくり。
R: これはまた別の道なのだが、もともとある道に対して両側の土地がセットバックして歩道になっている感触がある。

さて、江別市役所から見るとちょうど北、石狩川に出るちょっと手前のところに「いずみ野」という地域がある。
この25番地が、「旧町村農場」として公園のような形で公開されているのだ。そう、僕の大学時代の恩師の実家。
さんざんお世話になったんだから、こりゃあ行かなくちゃいけないでしょ。江別っつったら、まちむら農場よ。
(はいそこ、福田ゼミのふたり(マサルとみやもり)は、「まちみ」って言わないの!)
ただし現在のまちむら農場は石狩川の対岸に移転している。当然、そっちの方にも行きたかったんだけど、
公共交通機関で行くにはあまりにも無理のある場所なので泣く泣くパス。今回は旧町村農場だけでガマンなのだ。

  
L: 旧町村農場入口。まあ入口といってもほかに何ヶ所かあるのだが、ここがいちばんフォトジェニック。
C: 入口の車止めが牛乳瓶(ミルク缶?)になっている。でも錆びているのは残念なので江別市はなんとかして。
R: 1929年ごろに建てられたという第一牛舎はキング式の牛舎。どの辺が「キング式」かというと、換気法だと。

  
L: 第一牛舎の裏側。石造のサイロがなかなかの迫力。  C: 牛舎の内部。奥には農業機械も展示されている。
R: かつてはこのような牛乳の自動販売機があったようで。わざわざつくるところがすごいもんだ。

牛舎を出ると、今度は旧町村邸の中へ。応接室が再現されており、思わずうなってしまったのであった。
やっぱり生まれ育った家が近代化産業遺産になって自由に公開されているってのは、とんでもないことだわ。

  
L: 風車。いい雰囲気ですな。  C: 旧町村邸内には農場創設者・町村敬貴の軌跡を紹介する資料が展示されている。
R: 応接室。派手ではないが、お上品。師匠はこういう環境で育ったのかー。すごいとしか言いようがないわ。

旧町村邸の奥の方は、農場の創設者である町村敬貴に関する展示があり、じっくりと見ていく。
まあ要するにアメリカで学んだ酪農の技術を北海道で展開して成功をおさめたわけだ。その軌跡を確認する。
いちばん最後には高校生か大学生くらいの、若き日の師匠が写っている写真もあった。うーん、すごい家柄だ。
あとは宇都宮仙太郎について紹介する展示もあった。同じ仙太郎業界でしのぎを削っている僕にとって、
宇都宮仙太郎という存在は、かなり高い壁なのである。いつか彼を超えてみたいものである。

旧町村邸の入口ではまちむら農場の製品を売っていて、暑かったのでアイスクリームをいただいた。
非常に軽い食感で、ふだん食べているバニラアイスよりも乳成分の比率が高いのかな、と思う。
僕が食べている間にも散歩に来ていた親子連れが買って帰るなど、けっこうな人気がある模様。

さて、旧町村農場があるこの一帯「いずみ野」は、農場が対岸に移転するのにともなって宅地化した地域とのこと。
南西側には広大な緑の空き地があって、おそらくここも農場の跡地だろう。ずいぶんと広いもんだ。

  
L: まちむら農場のアイスクリーム、240円。おいしくいただきました。  C: レンガ造の製酪室。中はバター関連の展示。
R: 元江別と牧場町の交差点付近。右側が「いずみ野」の住宅地になる。左側の広大な緑はかつて農場の敷地だったのかな。

というわけで、本日の任務はこれで終了とする。帰りは江別駅を目指してのんびりと歩いていく。
ところが駅に近づくにつれて、なんとなく雰囲気が騒がしくなってくる。道路は車が通行止めになっており、
歩行者天国になっているようだ。警備員も立っている。当然、そっちの方へと吸い寄せられるように寄り道したら、
そこには道路の真ん中にテントが延々と並んでいる光景があった。そう、これが「やきもの市」だったのだ。
さっき市役所で呆れたが、実際に目にする「やきもの市」は、想像していた以上の大変な人気ぶりである。
会場となっているエリアをしばらく徘徊したのだが、メインストリートの本町通に中央公民館前に、出店がびっしり。
これは全道から陶芸アーティストが集まっているのだろう。つまりはそれだけの権威があるイヴェントってことだ。
客の方もまっすぐ歩けないほどに人が多く、年齢層も本当に幅広くて、ものすごい盛り上がりとなっている。

 
L: 「やきもの市」、本町通の様子。  R: 中央公民館前にて。こっちの通りも大変な賑わいである。

江別と焼き物の関係は、さっきちょろっと書いたけど、明治期に煉瓦工場が建てられたことが発端となっている。
北海道庁旧本庁舎の赤レンガも江別製であり、現在も江別は日本でも有数のレンガの産地として知られているのだ。
市役所前の電話ボックスが示すように、旧町村農場とレンガ、それが江別のアイデンティティということなのだろう。
そこから導きだされる結論は、江別という名こそアイヌ語由来だが、空間構造は近代化によって上書きされており、
「場所」の痕跡はまったく残っていないということだ。北海道における都市の典型例と言える存在かもしれない。

「やきもの市」の賑わいぶりとは対照的に、江別駅前の商店街(つまりもともとの江別の旧市街地)じたいは、
かなり弱体化が進んでいる感触がした。そもそも、市役所に車を置いてパークアンドライドする人が多いことが、
江別駅周辺の地盤沈下を示しているわけだ。都市は生きていて、つねに動いている。そう実感させられる。

ところで、帰りは電車の調子が悪くて森林公園駅でしばらく待たされる破目になったのであった。
最近のJR北海道は車両の不具合などのトラブルが連発しており、見事にそれに引っかかってしまった感じだ。
まあ、翌日に発生したトラブルに比べれば、この日の電車の遅れなんてまったく大したことなかったけど……。


2013.7.13 (Sat.)

本日は3年生を迎えての「お別れ試合」が行われたのだが、まさかオレまでユニを着せられてプレーするとは!
いつもネタとして「生徒と同レヴェル」と言っている僕なのだが、今日は完全に生徒と同じ扱いになってしまったのであった。
まあ正直、ちょっとうれしい気がしないでもない。というのも、僕は今までユニフォームを着てスポーツしたことがないから。
中学生のときには長距離の選手だったけど、ユニフォームでチームスポーツで背番号って経験はまったくなくて、
そこはちょっとだけうれしかったりして。おかげでいつもより少し元気に走りまわったんではなかろうか。
汗で全身びしょ濡れになるわ、足は攣るわで大変だったが、この歳になってぶっ倒れるまでサッカーができるということは、
それはそれとして非常に幸せなことなんじゃないでしょうか、素直にそう思う。本当に楽しい時間を過ごさせてもらったよ。

夜になり北海道へ。夕方まで東京にいたのに札幌まで2時間ほどというのは不思議な感じだ。
もわっと暑さがまとわりついてくる東京とは違い、札幌の夜はさすがにひんやりとしていている。
久しぶりに「正しい夜」というものに再会した気がした。

さて、この2連戦はすべてが勉強なのである。
今までの北海道は娯楽というか観光だったが、今回の旅は事実を確かめたり見識を深めたりするだけの旅だ。
だからせっかくの北海道ではあるけれど、楽しさを求めてはいけないのだ。そう思っているのである。
すでに北海道にけりをつけた(→2012.8.172012.8.22)はずの自分がここに来てしまったということは、
現地でないと確かめられないことを確認する、ただそれだけの意味しか許されないのだ。
楽しんでいる場合などではないし、そんな暇があったら考え抜かないといけない。

札幌駅に到着すると、近くのマンガ喫茶に入ってすぐに寝る。きちんとしたベッドで寝ないことすら、
僕にとって今回の旅が娯楽でないことの証明なのである。なんとも面倒くさい性格でごめんなさいね。


2013.7.12 (Fri.)

ぼちぼちお盆の帰省の手続きを本格的に進める時期である。基本的には「ムーンライトながらに乗れるかどうか」、
それによって計画が大幅に変わってくるのだ。今年はボサッとしていて残念ながら予約が取れなかったので、
かわりに夜行バスの予約を入れる。そして、その到着時刻をもとにして、スケジュールを微調整していく。
ムーンライトながら+青春18きっぷに比べると、夜行バスはどうしても値段が高くなってしまうのだが、
その分だけ朝からやりたい放題に動けるので、まあそこはポジティヴに捉えておくのである。
というわけで、今年の帰省旅行もとんでもないことになっております。うへへへへ、やったるぞなもし!


2013.7.11 (Thu.)

1学期も終わりが見えてきて、事務仕事でヘロヘロである。みっちりと授業もあるしな!
なんだか本当に、3歩進んで2歩下がるって感じの夏風邪からの回復具合である。思うように全快までいかない。

帰り道、駐車してある車に何かシールがついているなーと思ったら、ヤモリだった。ヤモリが貼り付いていたのだ。
縁起いいなあと思って歩き出したら足下に何やら塊が転がっている。よく見たら、ヒキガエルがたたずんでいた。
車に気をつけろよーと声をかけてその場を後にする。温暖化の東京も自然がいっぱいですなーなんて思いつつ帰宅。


2013.7.10 (Wed.)

東京スカパラダイスオーケストラ『Diamond In Your Heart』。

スカパラのアルバムはいい意味では破綻のなさ、悪い意味ではマンネリ、そういう状態が長く続いている。
しかし今作ではその安定を打破しようという動きがわりと感じられる。うれしいのはカヴァー曲の比率が高いこと。
アランフエス協奏曲に「Born to Be Wild」と、意欲的だし聴きごたえがあるしで、スカパラの魅力がよく出ている。

しかしやっぱり全体的にシブい。僕としては『GRANDPRIX』『トーキョー・ストラット』あたりの明るい感じ、
まさにトーキョー・スカを名乗るにふさわしいごった煮の感じ、あんまり洗練されきっていない感じが好きだ。
(その辺についての熱い思いは9年前にも書いている。内容がぜんぜん変わっていないのが笑える。→2004.12.8
でももはやスカパラは十分に洗練されてしまっているバンドなので、あの時代に戻ることはもうありえない。
歳もとっちゃったしね。若さゆえの冒険という要素がなくなって久しいのは、正直なところ悲しい事実ではある。

やっぱり……ジャンルを完全に無視したカヴァーアルバムを出してほしいなあ。


2013.7.9 (Tue.)

卒業アルバムの部活の写真撮影があって、こないだもらった賞状を持ってほぼ全員集合で写真を撮られる。
こういうのが思い出の1ページなんだなあ、なんて思いつつ僕も端っこに加わる。まあ賞状なんておまけにすぎないけどさ、
みんな揃って笑顔でいられるってことがいいじゃないの。そういう写真を撮れるってことが幸せなことなんですよ。

そのまま3年生たちとゲームになだれ込んだのだが、引退したばかりなのにみんなけっこう衰えているんでやんの。
毎日コツコツ続けていくことが重要で、サボると恐ろしいことになるんだなあ、と実感したのであった。いやー怖い怖い。

ちなみに僕は修学旅行でテレビ父さんTシャツを着ていたので、3年生たちから「父さん」と呼ばれるのであった。
わしゃ「サッカー部の父」かい。冷静になって考えてみるとそれだけの年齢差がなくもないわけで、うーん、怖い怖い。


2013.7.8 (Mon.)

暑いし月曜からクッタクタだよ。先月の地獄からやっと抜け出したと思ったのだが、やはり十分な回復はまだできていない。
たぶん夏休みに入るまで、この状態がズルズル続くんだろう。きちんと休まないといいパフォーマンスができない。
クオリティを上げたくても上げられないのだ。だましだましやっていく授業なんて、オレもイヤだし生徒もイヤだろうに。
授業を増やせばそれで済むと思っているクソッタレが世間にいっぱいいるから、誰も得をすることのない状態になっている。
オレは英語を教える機械じゃねえんだバカヤロウ、働く人間を都合のいいロボットみたいに扱うんじゃねえよ。


2013.7.7 (Sun.)

渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムでレオ=レオニの企画展をやっているというので、ウキウキして見にいく。
自転車で松濤側から乗り付けるが、時刻は昼時、腹が減った。手軽に済ませようと、はなまるうどんへゴー。
かけうどんにとり天を載せるいつものスタイルでハフハフ言っていたら、「マツシマ先生ですよね?」と声がかかる。
見たらそこには、おととしまで3年間一緒に過ごした女子生徒がいた。こっちは一度も見せなかったはずのメガネ姿で、
「なんでわかったんだ……」と呻くしかないのであった。「マツシマ先生だ!ってかなり確信してましたよ」「そうか……」
まさかこんなところで出会ってしまうとは。元気そうで何よりだけど、プライヴェイトがほじくられたショックは大きい。
そんなわけで、よけいな疑心暗鬼に苛まれながら東急本店の中へと入っていくのであった。渋谷ってこわいわー。

企画展のタイトルは『レオ・レオニ 絵本のしごと』。まずチケット売り場前の行列にびっくり。人気あるなあ。
しかも入館料が1300円ということでまたびっくり。学生時代にはけっこうBunkamuraに来ていたのだが、
久々来ての一般料金だと、そのいい値段ぶりに驚いてしまう。個人的にBunkamura ザ・ミュージアムは好きではなく、
大衆受けするテーマばっかり選んでいて、しかも中身はまったく濃くないヘボ展示ばっか、という印象しかない。
しかしさすがに今回はレオ=レオニということで、多少の出費もなんのその、ある程度は期待して来たわけだ。

扉を開いて中に入ると、そこには……チケット売り場以上の行列があるのだった。思わず膝から崩れ落ちたね。
展示は絵本の内容によって分けられた4部構成となっている。時系列ではないので正直、これはかなりわかりづらい。
とりあえず人気者の『フレデリック』で始まって、最も有名な作品である『スイミー』で締める形になっている。
貼り絵による原画を見られただけで僕としては満足できるのだが、展示内容じたいには改善の余地がたっぷりあった。
それについて、レオ=レオニというアーティストの才能についてもふれながら、ちょろっと書いていく。

まず結論として、レオ=レオニの創作の軌跡はそのまま、目減りしていく才能との格闘の記録にほかならない。
『あおくんときいろちゃん』で絵本作家としてデビューしたのが49歳、それまではグラフィックデザイナーだった。
このデビュー作で色それ自体をキャラクターとするというとんでもないアイデアを発揮したレオ=レオニは、
続く『フレデリック』で貼り絵という手法からキャラクターを生み出すという、見事な逆転の発想を見せる。
(この手法・キャラクター造形は、その後の『アレクサンダとぜんまいねずみ』によって完成された。)
そして『スイミー』ではスタンプによって海の世界が美しく表現され、レオ=レオニは世界的な評価を受けるようになる。
しかしその後のレオ=レオニが生み出す作品は、急激に魅力を失っていってしまうのである。
貼り絵のねずみがあまりに強烈だったためか、それを超えるキャラクターを生み出そうと四苦八苦。
アーティストとして過去を乗り越えようという意欲は感じるのだが、才能は明らかに衰えていく一方。
そのあまりにも残酷な軌跡がチラついている点は、この企画展の比較的素直なところではある。
しかし、それならそれでやりきって、きちんと時系列に沿って作品を並べる方がアーティストへの敬意であると僕は思う。
そして最も脂が乗っていた『スイミー』や『アレクサンダとぜんまいねずみ』ぐらいの時期をピックアップし、
それらの製作手法について詳しく分析・紹介する内容とする方が、はるかに充実した内容の展示となったはずだ。
そういう工夫をしてこそ、『レオ・レオニ 絵本のしごと』というタイトルを名乗ることができるのではないか。
絵本のテーマ設定という恣意的な基準で分けている現在の構成は、まるっきり焦点がぼけていて無意味である。

そんなわけで、かなりの混雑具合だったことを差っ引いても、かなりあっさりと展示を見終わってしまった。
最後にはお決まりのミュージアムショップがあり、実に多種多様なレオ=レオニグッズが売られていた。
まあ当然、ファンとしてはあれこれ買わずにはいられないのだが、そこまでセンスのいいグッズはなかなかなかった。
しかしながら、グッズ売り場もまた大混雑で大盛況。東急グループはたっぷり大もうけできたことだろう。
これはもう、レオ=レオニの企画展というよりは、展示即売会の様相である。オレもそこそこ貢献しちゃったけど。
結局は客も少なからずそこを期待して来ているわけで、所詮はどっちもその程度のレヴェルってことなのである。
やっぱりBunkamura ザ・ミュージアムの体質は何ひとつ変わっていないな、と思いつつその場を後にした。

さて今日は朝から猛烈な日差しで、ついに本格的な夏が来たか、とイヤというほど実感させられる天気だった。
七夕ってことで街角にあった笹の葉は、もはやまったく「さらさら」ではなく「カラカラ」。干からびて茶色になっとる。
ところが夕方になって土砂降りが発生。呆れるほどの見事な夕立っぷりで、これもやっぱり夏だね、と思うのであった。


2013.7.6 (Sat.)

ついに本日、関東甲信越は梅雨明け。明らかに一段ギアの入った夏本番の日差しが強烈である。
そんな中、午後に職場の近くで地域のイヴェントがあり、野球部とサッカー部でパレードに参加した。
野球部の前部長がプラカードを持って先頭に立ち、みんなでその後ろについてただ練り歩くだけ。
サッカー部は2年生の大半が参加したのみということでちょっと小規模だったが、参加するだけ偉い。
ほかの団体さん多数とものすごい長蛇の行列を構成しつつ、ゴール地点まで元気に歩いたのであった。
いやー、これで地獄の18連勤が終わったと思うと感慨深いね。明日と夏休みはしっかり休むぜええええ!!


2013.7.5 (Fri.)

夏休みの予定がだいたい確定した。前任校では土日も容赦なく部活の予定を入れる慣習があったのだが、
こちらは土日を休むのが標準的なようで、おかげでずいぶんと余裕のある生活ができそうな感触である。
すばらしいのは、練習の大半を午前中で固定できたこと。午後を自由に動けるのは本当にありがたいのだ。
しかも、いちおうサブの顧問の先生がいらっしゃるので、コーチとサブ顧問に部活をお願いして、
自分はリフレッシュの旅に出るという贅沢もできるのである。ありがたくて涙がちょちょぎれるぜ!
まあその分、しっかりと学ぶ旅ができるといいと思う。夏休みが本当に本当に待ち遠しいです。


2013.7.4 (Thu.)

体が極限まで疲れている……。自分ではそれなりに出力をコントロールできているつもりで、
できるだけパフォーマンスに波のない状態をつくっているはずなのだが、その波がすっと落ちる瞬間がある。
もはや自分ではどうにもならないのがつらい。パフォーマンスの内容にこだわる余裕がまったくなく、
最低限のラインを維持するところに全力を使わざるをえないのだ。もう悔しくってたまらない。でもしょうがない。
自分の体を自分の思いどおりにコントロールしきれていない状況ってのは、はっきり言って屈辱である。


2013.7.3 (Wed.)

仕事が終わると地下鉄と京王線を乗り継いで飛田給へ。東京V×京都の試合を観戦するのだ。
今週はもう、体力的には限界に近いのだが、せっかく大木さん率いる京都が味スタまで来るので、それは観なくちゃ。
毎回恒例のバックスタンド観戦である。今回はQRコードのチケットにしたのだが、これがとっても便利だった。
さて今日は夕方から雨が降るという予報だったのだが、試合前の練習が始まる頃には雨はほぼ収まり、
屋根のないエリアでもゆったり観戦ができるいい感じに。穏やかな気分でキックオフを待つのであった。

昨季まで北九州を率いていた三浦ヤスが監督に就任したことで、東京Vは伝統のパスサッカーが強化されるはず。
3年目でパスサッカーを熟成させてきた京都とのこの試合は、まさにパスサッカーの王座決定戦と言えよう。
もともと大木さんを支持している僕だが、今季は開幕前に東京VがJFLの讃岐との間でトラブルを起こしたこともあり、
またヤス監督のサッカーにはクリーンなイメージがないこともあり、そもそも東京Vじたいが好きじゃないこともあり、
どうにかして京都には圧勝してもらいたいなあ、と思っているうちにキックオフ。3-0くらいがいいなあ、と思う。

京都は前節からフォーメーションを4-3-3にしているそうで、それは大木さんが甲府時代にこだわっていた形だ。
3トップを見ると駒井・三平・山瀬という構成で、その後ろに工藤と横谷が控えている。実にワクワクする布陣である。
対する東京Vは、期待の若手FWである中島をトップ下に使ってきた。そして先発FWに巻。なかなか挑戦的なトライだ。

開始早々、東京Vがチャンスをつくるが京都はそれをしのぐ。すると7分、中央で相手DFの横パスをカットした工藤が、
右サイドの駒井にするっとボールを出す。これを駒井がきっちりと決めて、京都が美しく先制。
今日の駒井は凄まじい切れ味で、ものすごい運動量で攻守にわたり圧倒的な存在感を見せる。
まるでピッチ上に2人いるんじゃないかってくらいの活躍ぶり。駒井の覚醒は京都にとって本当に大きなプラスだ。

  
L: いつもと同じように選手たちを笑顔で見つめる大木さん。今シーズン昇格できないと大変なことになっちゃうよ! がんばって!
C: おおー高原だー。  R: 開始早々の7分、駒井のシュートで京都が先制。攻撃に守備に、駒井の存在感が凄まじい。

この日の京都は守備が非常に安定。東京Vは中島が非常にセンスのいいパスをペナルティエリアに供給するのだが、
冷静にそれに対応してシュートを撃たせない。東京Vは京都がボールを持つと複数の選手がプレスをかける。
しかし足下を鍛えられている自信があるからか、京都の選手はテンポよくボールを動かしてそれをかわしていく。
気づけばウィングの位置に入っている駒井や山瀬とSBがパスを交換して敵陣深くに入り込み、チームで圧力をかける。
守備がいいので定期的に攻撃をすることができる。つまり相手を押し込むサッカーができるようになる。
東京Vは中島が本当に孤軍奮闘で京都守備陣を焦らせるが、中島以外のところですべて切られてまた攻撃を受ける。
湿度が高いコンディションもあってか、京都はイケイケのパスサッカーはあまり志向しない。ボールを確保してから、
走れる駒井を軸に右サイドから押していき、東京Vの神経をすり減らせ続ける。そうして前半が終わった。

驚いたのは、後半開始と同時に東京Vが2枚の交代カードを切ってきたことだ。巻に代えて高原、中島に代えて飯尾。
フィジカル的な問題があったのかもしれないので仕方がないのかもしれないが、中島を下げたのは致命的に思えた。
すると後半が始まってわずか1分、明らかに集中しきれていない東京Vの守備をあざ笑うように、
ロングボールから中央の三平を経由して、左でフリーでいた山瀬にボールが渡り、鮮やかにシュートを決めてみせた。
相手の出鼻を見事にくじく文句なしの展開で、ここから京都のプレーひとつひとつに自信が満ちあふれていく。
ふつうサッカーでは「2-0が最も危険」と言われるのだが、京都の守備の安定感は抜群で、危うさは感じない。
逆に東京Vはひとつひとつのプレーが萎縮してしまった印象。おまけに東京Vは山瀬の追加点が決まってからすぐ、
3枚目の交代カードを切ってきた。湿度の高いこの状況で、いくらなんでもこの采配はないだろうと思ったら、
前田が担架で運び出されて結局プレー続行が不可能に。東京Vは後半のほとんどを10人で戦う破目になってしまった。
ヤスの采配はすべてが裏目。ここまで何をやっても上手くいかないことは珍しい。天中殺としか思えない。
10人で萎縮する東京Vに対し、京都は余裕を持ってボールを回し、相手の体力を容赦なく奪っていく作戦をとる。
そして53分、京都はCKからCBバヤリッツァがヘッドに当てたボールを、同じくCBに入っていた酒井がダイレクトで押し込む。
CKとはいえ2枚のCBが連携して点を奪っていることからも、京都が余裕たっぷりで攻めていたことがよくわかる。

決定的な3点目が入ったことで、京都は選手のコンディションを優先しながら交代カードを切っていく。
何から何まで上手くいかない東京Vとは対照的に、京都は確実に相手のチャンスをつぶして時間を経過させる。
そうして東京Vの足が止まってしまった終盤、交代で入った原が2得点。京都がなんと、5-0で勝ったのだった。

  
L: 京都はCKからバヤリッツァがヘッド。これを背番号2の酒井が詰めて、試合を決定づける3点目をあげる。勝負あり。
C: 10人になってしまった東京Vに対し、京都はボールを保持してやりたい放題。両者の圧倒的な力関係の差が写った一枚。
R: 試合終了間際、受け身の東京Vを京都は容赦なくえぐる。途中出場の原があっという間に2得点で5-0になってしまった。

試合開始当初、ひとつひとつの差は小さかったはずだ。しかし東京Vは自滅により、まさかの大敗を喫してしまった。
何ひとついいところのないままで敗れてしまった東京Vと、素直に実力を出しきった京都。ここまで差が開くとは。
サッカーってのは恐ろしいスポーツだな、とあらためて勉強になった。いや、本当に恐ろしい。

 完全勝利で大喜びの京都の皆さん。

5-0での大勝ということで、僕も気分よく帰れる。味スタを後にして、ふとiPhoneで他会場の試合結果を調べたら、
なんとG大阪が岐阜相手に8-2というスコアで勝っていた。上には上がいるもんだと呆れるしかなかったわ。
でも、京都が勝った要因は間違いなく、集中力全開だった守備にある。ゼロで抑えたことに一番の意義があるのだ。
どうにか京都にはJ1に自動昇格してもらって、J1で再び大木サッカーを見せてもらいたい。
今日の京都の戦いぶりには、非常にポジティヴな可能性を感じた。応援してまっせ。


2013.7.2 (Tue.)

『攻殻機動隊ARISE border:1 Ghost Pain』。新シリーズは劇場公開で、上映時間は60分。料金も1200円。
感覚的には、テレビ放映と映画との中間ぐらいのイメージになると思われる。ぜんぶで4部作になるとのこと。

入場すると、チラシのようなものを渡される。広げてみると中身は新聞記事のようにレイアウトされており、
ひとつひとつの記事が物語の概要を断片的に伝える内容になっている。それぞれの事件がひとつに集まっていき、
今回のエピソードの全貌へとつながっていくというわけだ。なんだか少し演劇みたいな趣向である。

さてこの『攻殻機動隊ARISE』は、草薙らが公安9課に所属する以前を描いた物語となっている。
つまり、あの面々が公安9課に集まるまでの過程を描くわけで、なるほどそれはどうやっても面白くなる設定である。
陸軍501部隊に所属する草薙は、上司であり恩人であるマムロの死の真相に単独で迫ろうとする。
マムロには多額の賄賂を受け取った形跡があり、荒巻は彼の潔白を証明すべく捜査しており、草薙に協力を依頼。
そこに自走地雷(ロリ人形)に同僚を殺されたバトーと娼婦の殺人事件を捜査するトグサがからむ、というあらすじ。
4部作のすべり出しとしてはきわめて妥当なもので、「攻殻らしさ」を存分に含んでおり違和感はない。
キャストが総取っ替えになったのも注目を集めている点だが、草薙の若さがうまいバランスで表現されているように思う。
そういえば、えらい『デザインあ』みたいな音楽だなと思ったら、案の定コーネリアスが担当していた。悪くはないけどさ。

というわけで、全体的な部分については文句はない。が、僕としては脚本についてのみ猛烈に文句を言いたい。
『ARISE』では人気作家の冲方丁が脚本とシリーズ構成を担当しているのだが、その実力には正直疑問を感じる。
僕は彼の本を読んだことがないのでなんとも言えないところもあるが、ミステリ的な手法が裏目に出ているように思う。
だってワケわかんないんだもん。事件の真相はそんなに複雑じゃないはずなのだ。でも彼を狙う組織や個人が複数あって、
そこの関係性をきっちり描かないからぜんぜんすっきりしない。草薙がウイルスに感染したことで謎を発生させているが、
そのせいで観客にも真実が見えなくなってしまっているのだ。事件の真相を客観的に把握できる視点がないってことだ。
さらに言うと、クルツの草薙に対する愛情をもっと偏執的に描かないことには、物語に説得力が出てこない。
全体の枠組みや人物の造形よりも、ミステリ的な目先の謎解きを優先させているので、見終わっても爽快感がない。
クルツに「代わりを探すか」と言わせちゃダメだ。草薙に対してもっと執拗な姿勢を出させて4部作通した悪役にしないと。
「攻殻らしさ」がしっかり表現されているからファンは納得できるけど、冷静に見ると作品としてのクオリティじたいは高くない。

まあそんなわけで、各キャラクターの活躍を堪能しつつ公安9課が僕らのよく知る姿になるまでを楽しむことはできそうだ。
ただ、個々のエピソードのクオリティについてはあまり期待できそうにない。あくまで娯楽として、2作目を楽しみに待つよ。


2013.7.1 (Mon.)

2013年ももう後半戦。サッカー部が表彰されたり授業があったりテストを返したり1&2年生と部活をみっちりやったりと、
果てしない日常が今日も容赦なく襲いかかってくるのであった。数えてみたら6月はちゃんとした休みがたった2日だけで、
夏風邪からだいぶ回復はしているものの、どうにもモチベーションが低くてたまらん。動く気になれないのである。
今週は土曜日まで授業があるので、いかにストレスを溜め込まないで日曜日までもっていくかが問われるのだ。気が重い。
まあうまくやりくりしながらコンディションを整えて、予定されているイヴェントで大ハッスルできるようにがんばる。
今月はけっこうめちゃくちゃやりますんで。じっくりと物ごとを考える時間が確保できるといいなあ、と思っとります。


diary 2013.6.

diary 2013

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