diary 2023.11.

diary 2023.12.


2023.11.30 (Thu.)

蒼川なな『合コンに行ったら女がいなかった話』。スマホの広告でけっこう見かけたやつですな。

タイトルからして壮大な出オチであり、男装BARと大学生活からいかに話を広げていくか、というマンガなのであった。
タイプとしては、以前も指摘したような安心感優先のラブコメ系統(→2023.1.32023.1.302023.8.25)かと思う。
最初から固定されている3組の組み合わせがブレることは絶対にない。もはやドロドロなんて誰も期待していないのだ。
そのうえで、組み合わせをあえて動かすことによって話を進めていく面があり、これは上手い工夫であると思う。
ただ、安定感が強すぎるせいか進みは悪い。ドロドロラブコメは恋愛感情を混線させることで自動的に加速度がつくが、
そういう要素が一切ない純情ラブコメが各駅停車で描かれる。しかも3通りなので、3倍の時間がかかるわけだ。
言い換えるとそれはぬるま湯の楽しさでもある。長く続けられるけど、もう少しスピードをつけてほしい気もする。

キャラクターそして社会学面としては、基本的に女性がつねに優位に立っていることが最大のポイントである。
(琥珀の場合は俺様を修行中というエクスキューズを与えられ、そこに萩が勝手に劣位に入るバランス感覚も秀逸だ。)
変身した魔法少女は一般男性より強い(→2023.2.4)。このマンガは男装を変身の一種として利用していると言えそうだ。
だからあくまで女性であることがベースなのは変わらない。女性ゆえ、しなやかに強い。男装は「強化モード」なのだ。
そんなイケメン女子に対し、男3人は冴えない部分が強調されており、それはそれで男性読者の共感を得やすいタイプ。
男からすれば凛々しい美人に翻弄されたい欲があるわけで、そこを満足させつつ優位な女性像との両立を果たしている。
つまり、前提としては、男装をキーワードにして「女性が理想とする女性像」をメインで提示しているマンガなのだが、
そこに男性読者も巻き込んでいける要素をしっかり含んでいる。これは上手い角度から攻めてきたものだと感心する。

これも前に日記で書いたことだが、究極的には、性差とは娯楽の一分野である(→2018.10.26)。
このマンガは、根底にある性別は絶対なんだけど(女性であることがつねに優位であることに直結するため)、
そのうえで性別の記号性だけ取り出して遊んでいるという先進性を持っている。男は懐深く翻弄されればそれでいいのだ。
女の子なんて生まれつきかわいい存在に決まっているので、そこに凛々しいが兼ね備えられたらもう最高なのである。
男だと思っていた凛々しくてかわいい女子にぐちゃぐちゃのげちょげちょにされるなんて、実に夢のある話ではないか。
(まあ二十歳ぐらいまでの限定ではあるが。それ以上になっちゃうとさすがにキツいのである。なんかすいませんな。)
蘇芳さんのミステリアス美人具合と女の子モード琥珀ちゃんのかわいさはたまりませんな。バッチコーイ!!
メガネはどっか行け(でも藤くんは好き)。



2023.11.28 (Tue.)

テストのつくりすぎで目がやられる。ずっとパソコンの画面を見ていりゃ無理もない。しかし目が悪くなったなあ……。


2023.11.27 (Mon.)

そごう美術館『111年目の中原淳一展』。最近は月曜の日記で前日に見た美術展の感想を書くことが多いなあ。

まず書いておくが、僕は中原淳一があんまり好きではない。好きではないが、社会学的にきわめて重要な存在と思っている。
理由は、日本における「カワイイ文化」の鍵を握る存在であると考えているから。さらに言うとその「カワイイ文化」は、
マンガ〜ゆるキャラ〜アイドル〜天皇制というラインで「日本とは何か」を考えるうえで重要な要素であると捉えている。
(上記のテーマを綜合して日本について論じることが僕の究極の目標のひとつだ。今はまだ散発的な思考でしかないが。)
まあとにかく、まだ修行段階にいる僕としては、きちんと中原淳一について学んで思考を磨いていかねばならないのだ。

展示を見ていって思ったことを順番に書き散らしていく。三白眼な上目遣いは高畠華宵(→2023.6.4)譲りだろうか。
首の傾げ方になんとなく『ブラックジャック』のピノコっぽさを感じる(当然、中原淳一の方が先ではあるが)。
まず先行するモダンとしてタカラヅカの存在は大きいと思う(→2012.2.26)。阪神間モダニズムとも絡み合っている。
そして中原が1935年から1940年まで表紙を担当した『少女の友』は、実に「エス」。これらを一体的に捉えなければ。
高畠華宵もそうだが、花をテーマにしている辺りは日本画との接点を感じる。そしてこれはアール・ヌーヴォーにも通じる。
大正・昭和のモダンは華やかだったが、それが一変した戦時中の圧力は想像を絶するほどに凄まじかったろうなあと。
現代とのつながりで言うと、メンヘラや地雷系の源流のひとつでもあると思う。ここはもう少し慎重に解きほぐしたい。

中原は戦後の1946年に『それいゆ』の刊行を開始。表紙がなんだかピーター(池畑慎之介)っぽい印象なのだが、
つまりは日本社会にうっすらと、そういう方面のかっこよさがひとつの目標としてあったのではないかと感じる。
特徴としては、離れた目、鼻をがっつり描くこと(人中窩は描かんが)。でも横顔はシンプルな鼻でだいぶ印象が変わる。
年齢的にも自立という意味でも、大人の女性を描くことへのこだわりを感じる。鍵となっているのは頬骨だろうか。
標準的なバランスの美人画ももちろん描けるのが強い。いわゆる「ジョジョ立ち」のようなポーズもあるが、
中原の方が抜群に面白い。ふと思ったのだが、顔の理想形はオードリー=ヘプバーンにあるのかもしれない。
子ども向けには『ひまわり』『ジュニアそれいゆ』が刊行されたが、子どもを描くと目が黒い点のキャラクターっぽくなる。
『ひまわり』は1947年に創刊されて1952年まで続いたが、表紙は中原の作風の変化がしっかり追えて興味深い。

ではここから、撮影OKだったコーナーについて、バシバシ写真を貼り付けていくのだ。

  
L: 中原がデザインしたスカート。  C,R: ひとつひとつ見ていくとこんな感じである。

  
L,C: 続き。  R: ブラウスとスカート。昭和の女の子は手作り感のある服を着ていたなあと思う。

  
L: 中原がデザインしたひまわり柄の浴衣。  C: 「それいゆゆかた」は通信販売で売っていたとのこと(千代紙人形、1957年)。
R: 着物の帯。脇に「洋服地で着物をつくる」という記事。これはこれで確かに「豊かな」時代だったと思うのだ(1950年代後半)。

  
L: 『デニム地にりんご柄のアップリケのきもの「秋深く」』。アップリケなんてもはや死語だもんなあ。
C: 『きもの「つぎはぎのたのしさ」』。  R: 『パッチワークの二部式きもの』。デザインが工夫から生まれる。

こうして実際につくられた服を見ると、確かにかわいいなって思う。「作る」からこその魅力だ(→2021.8.12)。
あくまで僕の個人的な感覚だが、自分じゃ着れないから着せたくなる、そこから女の子の気持ちがわかるという感じを受ける。
自分のためではなく他人のためのデザイン。自己満足ではなく共感を得るためのデザイン。そういう純粋さを感じるのだ。

  
L: 絵についても見ていく。こういう部屋の絵をこのアングルでしっかり描けるってのは、デザイナーの領域を超えているのでは。
C: もちろん人や小物についてもすごい。  R: 髪型について。絵だけでなく手書きの文字もモダンな書体として成立している。

  
L: 中原がデザインした小物類。  C: 『女の部屋』第1号から第5号までの表紙。  R: 「大人の女性」へのこだわりを感じる。

  
L: 『女の部屋』第1号に掲載された「COLOUR and COLOUR」の原画。これは「赤」。  C: 「茶色」。  R: 「黒」。

『それいゆぱたーん』は、『それいゆ』などからファッションのコーディネートをまとめたものだ。
とにかくデザインを思いつく量が凄まじい。中原淳一というと特徴的な女性の顔の絵がまず思い浮かぶわけだが、
それよりもむしろアイデアの多様性にこそ彼の真価があるのではないか。無限に創造ができてしまうタイプの人。

最後に人形作家としての中原について展示。実は1932年、銀座松屋で創作人形展を開催してデビューしているのだ。
絵についてはその後で『少女の友』の挿絵を描くようになってから本格化していったという。これはけっこう衝撃的。
なるほど人形作家としてスタートしたからこそ、絵に留まらず服のデザインも当然のようにこなしていたわけだ。
(おそらく『その着せ替え人形は恋をする』は、ここから設定を組んでいったんじゃないか。→2022.4.4
しかしやっぱりスタートからして明らかに才能が違う。立体造形のセンスとして飛び抜けていて、鳥肌が立った。
晩年に療養生活の中でつくった人形も味わい深くてよい。中原の才能からすればほんの一部分ということになるが、
それでこれだけのものをつくってしまうのか……と愕然としてしまった。正直、底が見えない恐ろしさである。

ショップの充実ぶりがさすがで、膨大な量の多種多様なグッズが並んでいるのは壮観だった。
「僕は中原淳一があんまり好きではない」なんて冒頭に書いたが、デザインソースとしての強さは圧倒的で、
やっぱりグッズには魅力がある(→2021.8.12)。結局、ポニーテール女子とそれいゆ紙袋のシールを買ってしまった。

 これ。中原淳一の描く横顔は至高であると思う。

というわけで、中原淳一はどことなくゴツい女性の絵だけではない、ということをイヤというほど思い知ったのであった。
才能の全貌がまったく見えない。彼の生きた時代と合わせて考えると、どれだけとんでもない存在だったか。今でもそうか。


2023.11.26 (Sun.)

今シーズン最後のサッカー観戦は三ツ沢でY.S.C.C.×長野である。長野も松本も結局はJ2に昇格できず、
来年もJ3で信州ダービーをやるわけだが、長野は高木監督の下でどこまで伸びるんだろうと思いつつの観戦である。

 天気予報がはずれてうっすらと雨が漂う試合前。つらい。

「午前中に雨がやむ」という予報ははずれ、ただ「クソ寒い」という部分だけが大当たりのつらいコンディション。
たいへん腰にクる寒さである。正直ぜんぜんやる気がしないので、テキトーにシャッターを切るだけでいくのだ。
さてY.S.C.C.だ。6月に観戦したときには超絶ハイラインとFW福田のハットトリックに悶絶したが(→2023.6.10)、
福田はJ1湘南に個人昇格を果たし(→2023.9.24)、星川監督はJ3残留争いの中で8月に解任されてしまった。
僕としては監督のやりたいことは明確だし、選手はそれについていっているしで、なぜ解任となったのか理解に苦しむ。
そんなにY.S.C.C.の上の人たちは超絶ハイラインがイヤだったのだろうか。個性的なサッカーが減ったのは残念である。
ちなみに後任は倉貫一毅。甲府時代に彼が長期離脱したことで大木監督が「クローズ」(→2007.11.24)を編み出した、
なんてエピソードのあるテクニシャンである。今シーズンはFC琉球の監督としてスタートしたが、5月に解任されていた。

  
L: 長野は東京Vから移籍してきた加藤弘堅(→2022.9.7)が先発。ぜひ長野のJ2昇格の立役者になっていただきたい。
C: 前半からY.S.C.C.は積極的にセカンドボールを拾い、手数をかけずにシュートまでもっていく印象。なかなかの躍動感。
R: 長野はじっくりチャンスをつくって押し込んでいくサッカー。しかしY.S.C.C.の守備がよく粘り、点を奪えない。

Y.S.C.C.はさすがに以前のような超ハイラインではないものの、GKを最終ラインに入れてしっかりつなぐサッカー。
攻撃のヴィジョンをきちんと擦り合わせており、試合開始早々に少ない手数からシュートまでもっていったプレーは見事。
相手より先にボールに触ってテンポよくゴールに迫るサッカーは、客観的に見れば応援しがいのあるものだと思う。
対照的に長野は焦らずじっくり押し込むサッカー。しかしこれは相手の守備態勢を上回るテクニックが前提なのだが、
そこまでの技量はなくどこかで引っかかってしまう。そのたびY.S.C.C.の鋭いカウンターに肝を冷やす一進一退ぶり。

  
L: 後半70分、CKからのこぼれ球をDF船橋がダイレクトボレー。ごちゃごちゃしないでとにかくシュートを撃つ大切さを実感。
C: 終盤のY.S.C.C.の攻撃。10人になった長野をサイドから押し込んでいく。もともと全体が重い長野には苦しすぎる展開だ。
R: アディショナルタイム、今度はY.S.C.C.のCKのチャンスから、こぼれ球を橋本がシュート。これに萱沼が触って同点に。

後半70分になって長野が船橋のダイレクトボレーで先制するが、その約10分後に遅延行為が2枚目のイエローとなり退場。
天国から地獄である。これで流れは一気にY.S.C.C.に傾き、結局アディショナルタイムに同点に追いつかれてしまった。

これはもう審判云々以前に、2点目を取ることができない長野の力不足である。勝ちきれないサッカーで満足していた。
薩川退任以降の長野は動きの重さ(特にディフェンスライン)が目立つ試合が多く、躍動感のないサッカーになっている。
信州ダービー第2戦(→2023.5.13)ではその弱点がしっかりと解消されており、実際J3の首位に立つこともできた。
しかし転落してからは以前の姿に逆戻りしてしまい、監督交代した今も改善される気配がまったくないままである。
寄せの甘さ、ミスの多さ、予測の悪さ。目標をどこに置くのか。やっているサッカーはJ2で通用するサッカーなのか。
選手がそこを意識して死にものぐるいでやらないと、成長のないまま選手だけが延々と入れ替わるループが続いていき、
クラブとしてはすべてがなあなあのままで、昇格どころか「クラブを存続させること」が目標にすり替わってしまう。
この負の連鎖をどうやって断ち切るのか、クラブはロードマップをきちんと示すべきだろう。惰性のサッカーなど不要だ。


2023.11.25 (Sat.)

期末テストの作業を始めつつ、歯医者と無呼吸の医者をハシゴ。気分転換に日記も書いてなかなか大忙しだった。

将棋の達人戦では羽生会長がセルフ表彰式を敢行したそうで。世の中、こういうほっこりニュースばかりならいいのに。


2023.11.24 (Fri.)

では昨日見たサントリー美術館『激動の時代 幕末明治の絵師たち』の感想を書くのだ。

幕末から明治にかけてということで、前に見た展覧会(→2023.4.302023.6.11)と少し重なる部分もある。
しかし全4章中の3章が幕末(江戸画壇・洋風画・浮世絵)で、時代の変化により伝統が崩れる危機感よりも、
新しい視点・技法が入ってきたことへの興奮を感じさせる作品が揃っている。ポジティヴな日本人の本性を感じる。
狩野養信や狩野(逸見)一信は色鮮やかだし日本画のパターンが完成されてきている印象。その分、伸び代はない感じ。
古い日本画も完成当時は同じくらい色鮮やかで、色が劣化したものを見ているから幕末の作品を色鮮やかと感じるのか、
なんてことを思うのであった。岡本秋暉は和から洋に食い込んでいく感じの作風で、これは売れるよなあと思う。
服部雪斎の日本画はしっかり西洋の目を経由している写実という印象。過渡期の博物画の位置付けが非常に興味深い。
ポジティヴな西洋への関心という点では、安田雷洲の銅版画も面白い。しっかり写実の風景画でも構図が和風なのだ。
水平な視線のイギリス風景画(→2023.9.25)と違い、どうも和風は俯瞰になってしまうようだ(→2023.11.11)。
幕末の浮世絵はやっぱり歌川国芳(→2023.5.29)。西洋の構図や科学をきちんと勉強したうえで浮世絵を高めている。
個人的には五雲亭貞秀の『横浜本町景港崎街新廓』にすごく価値を感じている。3月にも見たのだが(→2023.3.6)、
開港当時の横浜の街を俯瞰する絵で、近世最終盤の町割りがはっきりわかる点は都市社会学的に重要であるはずだ。

 撮影コーナーは歌川国芳『相馬の古内裏』。科学的に精確な骸骨で浮世絵をやる。

最後の第4章は「激動期の絵師」ということで菊池容斎と月岡芳年がメイン。芳年は『和漢百物語』『魁題百撰相』で、
初期なので比較的おとなしい印象だが、それでも師匠の上を行こうとする構図のひねりっぷりはさすがである。
河鍋暁斎はつまるところ、国芳譲りの大胆な構図に狩野派の技術を兼ね備えたところに凄さがあるということか。
最後は開化錦絵と光線画。開化錦絵は当時の日本人の面白がりっぷりが伝わってたまらない。特集してほしいなあ。

ショップで『月百姿』の本を買ってしまった。全作品が味わえて最高。この調子で『芳年武者无類』もぜひお願いしたい。



2023.11.22 (Wed.)

MacBookのバッテリーがメタメタじゃー! 年内は絶対にどうにかもたせて、それからもできるだけなんとかもたせて、
年度が変わったら買い替えかなあ……。Rosetta 2が動くかわからんので(→2023.10.31)、大バクチである。怖い……。


2023.11.21 (Tue.)

バスの運転手に敬意を。

ほぼ毎日バスに乗っていて、酔わないようにできるだけ前の席に座るようにしているが、運転手さんには感心させられる。
対向車線の車が右折しようと待っていると、必ず譲ってあげる。左折でこちらに入ってくる車も譲って入れてあげる。
冷静に考えれば1台譲ったところで到着時刻は大して変わらない。目の前のことに急がないことで全体の渋滞を避ける、
そんな「急がば回れ」な運転を必ずしているのだ。スピードもゆっくりなようで、決して遅いわけではないバランス。
渋滞にはならない、かつ信号待ちなどを考えるとなんだかんだで無駄のない合理的なスピードで走っているのである。
そしてなるべくブレーキを踏まない運転をしている。また、乗る客に降りる客、次のバス停のお知らせなど、
運転中に気をつけなければならないポイントが本当に多い。よくいくつも同時にできるなと感心しながら乗っている。
さらにはiPhoneは頭にICがついているからそこでタッチしてくださいとか、そこまで研修しているのかと驚かされる。
夜行バスでもさんざんお世話になっているし、バスの運転手さんには足を向けて寝られない。もう立って寝るしかないか。

運転手不足は全国で本当に深刻になってきている。6年前の時点ですでに問題ははっきり顕在化しており(→2017.12.29)、
無策なままで時間だけがただ経過している。公共交通機関の維持というとまず鉄道が真っ先に議論にあがる感じだが、
バスの方がもっと小さい経営主体であるだけに、一気に取り返しのつかないところまで追い詰められるのではないか。
ふと思ったのだが、バスの運転手さんの労働環境の目安として、女性運転手の割合はひとつのポイントになりそうだ。
単に運転手さんを増やせばいいのではなく、女性運転手を増やすことを目標にする。女性が働きやすい環境を総合的に目指す。
ドラスティックな改革が必要になりそうだが、これが実現できればいいだろうし、むしろそうしないと破綻すると思う。


2023.11.20 (Mon.)

毎度おなじみ戸栗美術館で拝見した『伊万里・鍋島の凹凸文様』について。マジで年間パスポートを買うべきか。

今回のテーマは表面に施された凹凸の文様ということで、わりと地味な内容かと思ったらとんでもない。
陶磁器の立体造形としての魅力を絶妙な力加減で付け加える、そういう工夫を存分に味わえる作品ばかりだった。
ささやかで慎ましい表面への彫り跡から、染付・絵付とともに豊かな想像力が発揮された大胆な造形まで多種多様。
展示されていた作品はどれも、本体の形状と装飾という関係を逸脱せず、全体の調和がとられているのがよい。
技巧のためのデザインではなく、デザインのための技巧なのである。きちんと節度が保たれているのがよいのだ。
現代の作家にありがちな手段と目的が転倒したような無様なものはなく、どれもお見事で大満足なのであった。


2023.11.19 (Sun.)

根津美術館でやっている『北宋書画精華』を見てきたので感想を書く。

1階は山水・花鳥、道釈・仏典、李公麟特集の3部構成で、2階に書蹟。根津美術館の展示スペースは広くないため、
量で不利な分だけ質で勝負することになる美術館だと僕は捉えているのだが、正直言って非常に貧弱な内容だった。
撮影もできないのに、この内容で2000円は高すぎる。オンラインで予約すれば1800円とのことだが、それでもまだ高い。
北宋をテーマにしておいて徽宗の絵がないとか、ちょっとダメすぎませんかね(最後の3日間だけ展示があるようだ)。
あと、北宋は僕にとってはまず『水滸伝』(→2006.7.4)で、蔡京の書に興奮。でも「さいきょう」のルビには呆れたね。

いちおう感じたことを羅列していく。絵画は絹本墨画で全体的に黒ずんでいるのがつらいところである。
おかげでやや朦朧とした印象が強い。風景の端に小さい人や民家が描かれてマン盆栽みたいだ。雄大さの表現なのか。
北宋では線画も多く描かれたようで、細部まできっちり描く作品が目立つ。少しやまと絵(→2023.11.11)っぽいが、
場面転換をぼかしたり場面を飛ばしたりすることはない。ただ、絵巻物と比べると全体的にやや稚拙な印象である。
特集が組まれた李公麟は確かに多彩なタッチを持っており、それがいかにも芸術が充実した北宋らしいってことか。
仏典の書は太く力強いのが特徴であるようだ。楷書として魅力的だが、そればっかりだと疲れるかもしれないなと思う。
書蹟では黄庭堅をはじめ米芾・蔡襄ら宋の四大家の作品が並ぶ。宋代は完成されたものを崩した時代かなという印象。
比較対象ということでか日本の舶載唐紙による書もあったが、紙じたいに意匠を加える感性が明らかに中国と違う。
なお、テーマが北宋だからか来場者は中国人ばかり。こいつらが平然としゃべりまくっていて非常に不快だった。

根津美術館は不満があっても殷周の青銅器コーナーでチャラになってしまう。特に3つの盉は見るたび蕩けるね。


2023.11.18 (Sat.)

新しい自転車を受領。長年スペシャライズドの世話になってきたが、今回は手頃な値段のジャイアントである。
そのまま家まで乗って帰ったのだが、フレームのサイズがSということでいろいろコンパクト。長距離は少し疲れるかも。
先代よりも明らかに軽いので、そこはありがたい。昔ほど激しく遠出しないだろうから、まあこれでいいのではないかと。

 これからよろしくなのだ。

近くの自転車チェーン店で11年間世話になった愛機をリサイクルにまわしてもらう。非常にセンチになるのであった。
僕がボケーッとしていても、確実に時間は流れているのだ。万物流転という言葉を突きつけられた土曜日の午後。


2023.11.17 (Fri.)

鈴木清順監督生誕100年ということで4Kデジタル完全修復公開中の『ツィゴイネルワイゼン』を見た。
『殺しの烙印』の経験(→2022.11.4)から印象的なカット集なのはわかっていたが、それにしてもつらい145分だった。
一言で感想を述べると、「このバカに映画を撮らせるな!」である。俳優としての鈴木清順は好きだったんだがなあ。

確かにスクリーンに映る対象は一流を集めている。鎌倉や建築などの空間、そして俳優の存在感は特別なものがある。
でもそれだけに頼っている。『殺しの烙印』もそうだが、鈴木清順は魅力的な空間を見つけてくるのが上手くて、
『ツィゴイネルワイゼン』では鎌倉の切通しや鶴岡八幡宮、海岸、和風の民家と対照的な洋館など、背景が効いている。
そしてカメラの前に立つのは存在感たっぷりの俳優たちだ。俳優とは本質的に、演技力よりも存在感こそが重要なのだ、
そんな真理を突きつけられる作品ではある。でもそれだけ。カメラに映る素材だけでの勝負になってしまっており、
本来ならその魅力を加速するはずの物語が欠けている。「アヴァンギャルド」「不条理」という言葉に逃げているだけ。
展開されるドラマは容赦ない間延びの連発であり、観客にとってはただの拷問でしかない時間が延々と続く。
服装などを中心に細部に溢れる昭和感が克明に刻まれているのは興味深くて、それでどうにか集中は保てたってところ。
舞台と俳優は一流なのに、監督だけが三流以下。これだけの素材でこれだけのクソ映画になる才能が、むしろ恐ろしい。


2023.11.16 (Thu.)

温度差アレルギーで鼻水が止まらねえ。そういえば3年前にもそんなことがあったが(→2020.12.172020.12.22)、
加齢を指摘されて凹んだ記憶が蘇る。今回も無様な鼻栓をキメつつ凹むのであった。歳はとりたくないねえ、マサルくん。


2023.11.15 (Wed.)

『葬送のフリーレン』のアニメがアウラ様の自刎シーンで盛り上がっているわけであります。
当方、マンガについては以前絶賛したが(→2023.4.2)、アニメもきちんとチェックしておりますよ。
レヴューは最終回まで待とうと思っていたが、連続2クールやるそうなので、とりあえず今の段階での雑感をば。

ふつうにやればふつうに人気になると思っていたが、順調な感じ。まず感心したのがYOASOBIによるオープニングだ。
前シーズンの『推しの子』に続いてのオープニングで、その「アイドル」がバカウケしたので二番煎じかと思いきや、
これがかなりうまくハマっていると思う。エヴァン=コールによる本編の劇伴が無印良品的民族楽器でケルトっ気満開で、
そっちが「過去」を象徴しているのと対象的に、YOASOBIの「勇者」は「現在」を強調する効果を持っているわけだ。
つまり、劇伴がヒンメル一行の過去の冒険譚とその反復を演出しているのに対して、テーマ曲は現在の冒険が焦点なのだ。
ここをきちんとわかっているYOASOBIの器用さがすごい。個人的にYOASOBI最大の強みはリズム感だと考察しているが、
まあそれについてはいずれきちんと書くことにしよう。とにかく、YOASOBIはそうとうよくやっていますよ。

しかしまあ、アウラ様については演出も作画も演技も相乗効果でものすごく魅力的にやってくれたと思う。
淡々とした原作のトーンを壊さずに、さらにはるか上を行ってみせた。絵を描いた人、絶対に変態だよ。ド変態だよ。
これって最高の褒め言葉じゃない。


2023.11.14 (Tue.)

先日映画鑑賞で渋谷に行った際、ハンズ(もう「東急ハンズ」じゃないんだよなあ……)に寄って買い物をした。
渋谷ハンズは最上階からスキップフロアをぐるぐるしながら下りていくのがマツシマ家のしきたりなのだが、
4Aフロアのバス用品で長年欲しかったものをついに発見。ハンズなら置いてくれよと思っていたものが、念願のバラ売り。

 こいつです。命名「ぴよぴよ丸」。

コストを抑えるためかクチバシまで黄色かったので、家でオレンジに塗ってこれでカンペキなのだ。
狭苦しいユニットバスもこいつがプカプカ浮かんでいると和む。超小型なので転覆しやすいのが玉に瑕ではある。
もうちょっと大きくて握ると音が鳴るやつだと『セサミストリート』のアーニーとお揃いになるのだが。

しかしなぜアヒルなのか。最初にこれを思いついたやつは誰なんだと思って検索をかけてみたら、
Wikipediaにちゃんと「ラバー・ダック」という項目があるのだった。19世紀後半のゴム製造の開始が発端だと。
そういえば1992年に太平洋に解き放たれたアヒルたちが世紀を越えて大西洋に到達した、なんてニュースもあった。
人類ってのは変なことを思いつくし、そこからまじめな研究までもっていってしまうし、面白い生き物だと思う。


2023.11.13 (Mon.)

夏のとき(→2023.8.2/2023.8.19)とはまた別の稲中ポップアップショップが開催中ということで行ってみた。
ご存知のとおり僕は稲中大好きっ子なので(→2002.4.72022.9.6)、そんな大魔境には吸い寄せられてしまうのだ。

  
L: 店頭ディスプレイ。後半には展示替えがあるらしい。  C: 陳列されているお宝たち。今回はコマの選出がなかなかよい。
R: 死ね死ね団のパンダにまたがって記念撮影ができる。外人カップルに頼まれてスマホで撮ってあげたが、それでいいのか?

「そのコマじゃねえだろう!」と言いたくなるラインナップだった夏のやつとは違い、今回はかなり妥当な選出。
熱望していたピンポンマンもTシャツがあったりキャップがあったりキーホルダーがあったりで、たいへんうれしい。
やっぱり稲中は、ワンシーンで読者を殺せる芸術性・デザイン性がすごいのである。今回のグッズ企画者は、
その辺のことをしっかりわかっている。とりあえずピンポンマンTシャツを購入したが、田原年彦も買っちゃいそう……。


2023.11.12 (Sun.)

急に寒くなったこともあって、この週末は記録的なレヴェルでメンタルが落ち込んだ。
それでも「メンタルがやべえ」と自覚していろいろ先回りして動けたのは、われながら上手く対応したもんだと思う。
メンタルが落ちた理由は複数あるが、わりと大きな要因が自転車の買い替え(→2023.10.31)を決断したことである。
11年も付き合った相棒と別れるのはつらいのだ。前回(→2012.7.4)とまったく同じで、申し訳ない気分になってしまう。
納車まで1週間から10日ほどあるので、今までの感謝の気持ちを込めてじっくりペダルをこがせてもらうとしよう。

さてせっかくの神保町。神保町らしいカレーがどうしても食いくなって彷徨うが、日曜夜はほとんどやっていない。
それで久しぶりにガヴィアルにお邪魔する。ビーフカレーが1750円となっており、物価の高騰がつらいのである。

 ビーフカレー辛口、ふつうサイズ。

ガヴィアルは4年ぶりだが(→2019.11.22)、相変わらず甘さと辛さがはっきり分離している味である。
これが最後までしっかりと両立されるのがすごい。好みの分かれる部分ではあるが、よくこんなことできるなあと思う。
ジャガイモにバターつけて中和しつつのんびり食うのであった。たまにはこういうメシを食って気分を上げなければ。


2023.11.11 (Sat.)

東京国立博物館でやっている特別展『やまと絵-受け継がれる王朝の美-』を見てきた。朝イチなので比較的快適。
展示は1069(延久元)年に描かれた国宝の『聖徳太子絵伝』からスタートする。そこから平安・鎌倉・室町の名作を並べ、
最後に雪舟と比較してやまと絵の特徴をつかませることで序章とする構成が面白い。雪舟を見られたのは僥倖である。
あとは本物の『御堂関白記』がしれっと置いてあったことに興奮する。日記野郎として、道長さんは偉大な先輩なのだ。

やまと絵の基本は俯瞰にあるようで、水平方向の横長で細部までじっくりと描いていくスタイルが共通している。
これは屏風や後述する経典や絵巻物との相性ということで自然とそうなったのか、もともとそういう文化があったのか。
垂直方向の縦長な掛け軸との対比で考えたことがなかったので、この基本的な部分をきちんと考察せねばと反省。

平安時代の貴族文化は仏教の経典も美術作品としてしまう。絵が加えられた装飾経が絵巻物の源流のひとつとなり、
やまと絵の重要な作品を生んでいく。そして絵巻物は物語文学を広げるものとして鎌倉時代に全盛期を迎える。
武士が政治の表舞台に立つのと対照的に宮廷文化がさらに成熟していく一方、往時の権勢への追慕も感じさせる。
そうして摂家将軍、承久の乱、宮将軍と力関係が変化していく中、やまと絵のモチーフも移り変わっていく。
大雑把に、平安は仏教、鎌倉は宮廷文化の回顧、やがて武士や鎌倉仏教もテーマとなり、室町には制度として完成。
まるで蒲焼のタレのようにそれまでさまざまな題材を消化したものを、土佐派が整理していった感がある。
おそらく禅宗がらみで中国の影響を受けた水墨画(さっきの雪舟など)の勢いによりナショナリズムが刺激され、
「やまと絵」というジャンルが自覚されることになったのだろう。そして狩野派がそれをまとめた(→2017.11.1)、と。
展示を見て感じたのはそんな流れ。美術としての分断はあるものの、やはりマンガはこの延長線上にある(→2004.8.6)。

奇跡としか思えないほど状態の良いものもあって、何でこんなにきれいに残っているんだと驚愕してしまった。
繊細さ精密さ、そして鮮やかな色彩。表情の多彩さは現代のマンガにまったく劣らないし、つながりを十分感じさせる。
また『地獄草子』『餓鬼草子』『土蜘蛛草子』『百鬼夜行絵巻』など、現世を離れた想像力による表現も見事である。
『信貴山縁起絵巻』をじっくり見られるのもすばらしい。『鳥獣戯画』(→2015.5.29)は丙巻だったが本当に上手い。
擬人化と表情、動き、これを軽妙洒脱にやる凄み。『華厳宗祖師絵伝』も状態がいいし、高山寺はどんだけすごいのか。
『西行物語絵巻』の建築表現は完全におかしくて、モダニズム建築家の図面にまったく見劣りしない精密さだった。
狩野元信も押さえているし、高階兼隆など宮廷絵所も充実。やまと絵だからって安易に土佐派に頼らない展示ができる、
そんな東京国立博物館はやはりとんでもない施設なのだ。展示替えの前半も見たかったなあと後悔しても遅い。

  
L: ショップにて。『百鬼夜行絵巻』と『鳥獣戯画 甲巻』の抱き枕を売っていた。……抱き枕? 価格は15000円。
C: 広げるとこんな感じらしい。  R: 『百鬼夜行絵巻』に登場する、よくわからない妖怪のぬいぐるみもあった。

結論としては、やまと絵はどう考えてもマンガの源流。日本人のマンガ精神、おたく気質の結晶であることを再認識した。


2023.11.10 (Fri.)

研究授業なのであった。カレーを中心テーマに据えて歴史の影響をいろいろ考えるの巻。
自分が受けたら超絶楽しいであろうピーキーな授業をそれなりに実現できたので満足ではある。
教育学部の皆さんにとっての理想とどうすり合わせるのかというオトナの課題が残った感じだが、
自分の好みを客観視できたようには感じているので、そこから足し引きしていくことを今後の目標としましょうか。
(「あそび」のないマジメな人が多いことにはちょっと辟易しているが……。「ピーキーすぎてお前にゃ無理だよ」)

しかしまあ、英語のときとは見事にまったく違う種類の課題を突きつけられているなあと思う。
かつて「英語が専門じゃないから教えるのが上手い」(→2016.12.21)と言われたが、専門の地理だと力加減が難しい。

とりあえず、お疲れ様でした、俺。


2023.11.9 (Thu.)

『僕の心のヤバイやつ』、Web連載をきっちり追いかけてはいるのだが、ここ最近の展開はどうにも違和感しかない。
個人的な好みとしては、ヤベエ山田に振り回されつつもなんだかんだで距離が縮まっていく最初期の感じから、
関係が発展してお互いに意識しているけどもったいぶってぬるま湯っている(→2023.1.11)のが最高に心にクるわけだ。
いざ実際に付き合い始めちゃうと(→2023.1.24)、そりゃもうふつうのラブコメでしかない。ただの他人の恋愛なのよね。
中学生んときにピークを迎える「あいつぜってーオレのこと好きだよな」「あいつぜったい私に気があるでしょ」、
その不完全情報ゲームがたまんねえんじゃねえかよ、と思うのだが。それを見てニヨニヨするのが粋ってもんだろうが。
「ツイヤバまとめ」の力加減でいけばいいものを。そこからどんどん遠ざかってしまって私は悲しい。

ちなみにアニメは山田の声が高い(低めでないとダメ、ここ重要)のと、市川の声が耳に引っかかるのとで違和感。
ドラマチックに演出してラブコメマシマシになっており、ギャグ面の趣をまるで感じないので第2話で切った。以上。


2023.11.8 (Wed.)

ジャン=リュック=ゴダール監督で『軽蔑』。動くブリジット=バルドーとフリッツ=ラングを見たかったのだ。
また4Kレストアということで、きれいな地中海の映像、1960年代の映像を見たかったのだ。

地中海を舞台にして夫婦の関係が壊れていくのをギリシャ悲劇(→2005.6.9)と重ねているのは、わかる。
英語とフランス語のギャップを強調することで同じ言語なのにわかりあえない哀しみを表現したのも、わかる。
長回しや室内移動のカメラワークなど、挑戦的な映像のつくり方がものすごく凝っているのも、わかる。
あえて場面転換と時間の概念を崩すことで、主観的な世界を描きだしているのも、わかる。
しかし決着の付け方はさすがにどうなのか。究極の悲劇的結末ということでああせざるをえなかったのだろうか。
とはいえリアリティのない形で、記号・象徴として「絶対的な終了」を表現しているのも、わかるのである。
ふつうの映画とは目指すところが違うのだ。作家の表出が最優先で、いかにもヌーヴェルヴァーグ的価値観だ。
つまるところ男が悪い、ダメな男がすべてを失うだけの話である。これをどのように映像化するかとなったとき、
ゴダールは実験的要素をできる限り詰め込んでいるので、ストーリー重視の感覚だと「なんだこりゃ」でしかない。
通常の映画を見る感覚で批判したら、わかってないザンスねーチミは、なんて言われちゃいそう。
簡単なことを難しくやった、単純な男女の別れをできるだけ高尚に描いた、それだけのことなのかなと。
これはもう完全に好みの問題だ。面白い/面白くないというところに判断の基準がない映画であるのは確かだ。


2023.11.7 (Tue.)

電車の中で隣に人がいるのにずっと鼻をすすっているバカはなんなの?
自分がうるせえって自覚がないのが恥ずかしくないの? 一発スカッと鼻をかむことがなんでできないの? バカなの?
……バカだからしょうがないのか。バカにはなりたくないねえ。


2023.11.6 (Mon.)

3連休の後遺症である筋肉痛と腰痛に苦しんでおります。派手に動いたせいで久々に日記の日曜更新が途切れてしまった。
でもおかげで市役所めぐりもだいぶ進み、残すは42市役所。だいぶ減らした(数え間違いがありそうだが →2023.7.12)。
おそらく大掛かりな旅行は年末の帰省までもうないので、隙をみてどれだけ埼玉を年内に押さえられるかが肝心だ。
なんとか来年か再来年には完全制覇を達成したいものである。まあ、建て替えも多くて一進一退なんだけどね。


2023.11.5 (Sun.)

文化の日3連休旅行の最終日は、満を持して箕面を味わうのだ。ちなみに後で聞いたが、箕面はワカメが育った街とのこと。
ワカメの生活圏だったエリアがどの辺りなのかはわからないが、いつもの僕の感覚で名所めぐりをするとこんな感じ、
ということで日記にまとめていくのである。ワカメよ、今回の旅で漏れてしまっている名所があったらぜひ教えてくれ。

  
L: 箕面駅の最果て光景。阪急箕面線は石橋阪大前駅から分岐しており、かつて梅田への直通列車が存在したが昨年廃止された。
C: 箕面駅。阪急の前身である箕面有馬電気軌道の箕面公園駅として1910(明治43)年に開業。終着駅だが出入口が広い。
R: 箕面駅前のロータリー。線路に対して横向きで独特な構造。箕面駅は大正期までループ線があったので、その名残だろうか。

箕面駅に着いたはいいが、やることがない。関西圏の駅の困った特徴として、都会の駅だと朝メシを食える店があるのに、
ちょっと郊外の駅になるとその手のチェーンが激減してしまう点がある。関西滞在中は朝メシ難民になりがちなのである。
しかし国道沿いには多い。明らかに東京圏とは出店のパターンが異なるのだ。厳密には東京圏の方が特殊なんだろうけど。

Googleマップで見た限り、箕面駅周辺に朝メシを食えそうな店はない。でもどうにかならんか、と早めに来てみたのだが、
どうにもならないのであった。しょうがないので近くのコンビニで朝メシを買い、ロータリーのベンチに腰掛けていただく。
食べ終わって呆ける。本日最初の目的地は勝尾寺だが、昨日の能勢妙見山と同様、なかなかの山の中だ。徒歩はありえない。
そこで箕面滝道ワンウェイ観光周遊バスを頼ることにした。が、最初の便が10時発なので ボケッと待つしかないのである。
そのうち、ロータリーに千里中央駅行きのバスがやってきた。そして去っていった。なんとなく気になって検索してみたら、
千里中央から勝尾寺へ向かうバスがあることがわかった。しまった、そっちの方が早く勝尾寺に着けたのか!と思う。
今日は箕面大滝から歩いて下るつもりなので、少しでも早く勝尾寺に到着できるのなら、それに越したことはない。
そんなわけで、自分の情報弱者ぶりを情けなく思いつつ、やってきた次の千里中央行きのバスに慌てて乗り込んだ。
来年3月に北大阪急行が千里中央から延伸するそうで、バスはそのソワソワした新しい街並みをなぞるように南下していく。

 千里阪急。10年前(→2013.9.29)とは異なるアングルで眺める。

ところが千里中央に着いてからが、また困った。勝尾寺に行くバスの乗り場がわからないのである。またもボーンヘッドだ。
そのうち、外国人観光客の割合高めな長い行列を発見。もしやと思ったら、やはりそれが勝尾寺行きの乗り場なのであった。
最初の判断が悪いせいで、連鎖的にどんどん悪い方へと巻き込まれていく。自分の愚かさを痛感させられる事態である。
やがてバスがやってきたが、乗り込めるか乗り込めないか微妙な塩梅。一人旅の身軽さで、最後の一人としてどうにか乗車。
こうなりゃ意地だ。悪い流れを無理やり断ち切った感じである。結局、当初の予定と大して変わらない時刻に勝尾寺に到着。

  
L: やたらと現代風な勝尾寺の参拝入口。500円の入山志納料を支払って境内へと抜ける。建物内には土産物売り場などがある。
C: 豊臣秀頼が1603(慶長8)年に再建した山門は工事中。  R: 広場から多宝塔を見上げる。境内はゆったりとした高低差あり。

さて勝尾寺である。「かつおうじ」と読むのが標準的なようだ。727(神亀4)年に善仲・善算という兄弟が草庵を構え、
光仁天皇の皇子である開成(かいじょう)が弟子入り。開成は大般若経600巻の書写を成し遂げて弥勒寺を建立した。
その後、清和天皇の時代に病気平癒の祈祷を行って「勝王寺」の号を与えられたが、畏れ多いので「勝尾寺」とした。
現在は「勝ちダルマ」で知られており、こちらとしてもダルマ関係の凝った御守を期待しての参拝である。

  
L: ダルマ棚に奉納された勝ちダルマ。圧倒される量である。  C: よく積んだものだと感心してしまう。
R: 場所からして山岳仏教の寺なのだが、高低差のある境内は石垣で整備されて公園に近い雰囲気となっている。

もともと山岳仏教の寺らしく、高いところにさまざまなお堂が配置されて仏教テーマパーク感(→2012.2.19)がある。
境内は全体的には公園のように開けた感じになっているくせに、建物は妙に密集していてきれいに撮るのが難しい。

  
L: 三宝荒神堂。  C: 諏訪明神・八幡神・蔵王権現を祀る三社権現(鎮守堂)。  R: 善仲・善算・開成皇子の木像を祀る開山堂。

  
L: 弘法大師を祀る大師堂。  C: 本堂。豊臣秀頼により慶長年間に再建された。  R: 本堂付近から境内を見下ろす。

  
L: 最も高いところにある二階堂。法然が2年間滞在したそうだ。  C:ずいぶん勢いよく水を流している。
R: 弁財天社越しに境内を眺めたところ。山肌にゆったりと伽藍がつくられている。山岳仏教にしては面的な構成。

御守は思っていたよりふつうな印象だったが、ふつうじゃないのが「六十四卦ダルマみくじ」の小さいダルマである。
木製の小さなダルマの下に穴があり、そこにおみくじが入っている。このおみくじを取り出した後のダルマが、
勝尾寺の境内のありとあらゆる場所に置かれているのだ。本当にありとあらゆる場所にいる。いない場所を探すのが難しい。
それはもう、「在りて在る者」という言葉を連想してしまうほどである。ちょっと怖くなるくらいの遍在ぶりなのだ。

  
L: こちらが 「六十四卦ダルマみくじ」のダルマ。手作りなので一体ごとに微妙に顔つきが違う。
C: 石灯籠を占拠している例。  R: びっしり。トライポフォビア(集合体恐怖症)になってしまいそう。

  
L: 鐘楼堂の足元にも。  C: 本堂も隅々まで占拠。何年前からこんな状態なのか気になる。  R: お前はヤハウェか。

  
L: もはや新しい宗教を生成していないか。  C,R: 土産物コーナーにて。ゲシュタルトが崩壊しそうである。

というわけで、なかなか衝撃的な体験であった。ちなみに僕が引いたおみくじのダルマは、自宅に持ち帰っております。
もし次に参拝する機会があれば境内のどこかに置こうと思うが、今の状態は家にも「在りて在る者」がいるという、
考えようによってはちょっとホラーかもしれない事態であります。そうして彼らは世界を侵食していくのか……。

勝尾寺を後にすると、今度こそ箕面滝道ワンウェイ観光周遊バスのお世話になる。箕面大滝まで歩くのは面倒くさい。
やってきたのはワゴン車で、乗客はそれに収まる6〜7人ほどなのであった。往路のバスの混雑具合が本当に間抜けに思える。
距離にして3.5kmほどなので、すぐに箕面大滝の駐車場に到着。辺りは車とバイクでみっちりで、人気ぶりに圧倒される。

  
L: 箕面ドライブウェイから遊歩道へと入っていく。  C: ほどなくして箕面滝展望台に到着。なかなか面白いデザイン。
R: しかし木々に遮られて滝はまったく見えないのであった。『クレヨンしんちゃん』の「前が見えねェ」な気分。

遊歩道を下っていくと展望台。しかし木々に遮られて何も見えず、展望台の意味がねえよ!とションボリするのであった。
下りきると、大勢の人が群がっている。とても落ち着いて滝を見られるような環境じゃねえなあ、と思いつつ近づいていく。
箕面大滝は岩壁を流れる滝の表面が農具の「箕」に似ていることから名前が付き、「箕面」という地名へと広がった。
「みのお」という、「面」を「お」とする投げっ放すような読み(みのぉ)は、いかにも柔らかい関西風だと感じる。
そんな箕面大滝は、なるほどいかにもフォトジェニック。実に滝らしい、正統派なヴィジュアルの滝である。

  
L: 衆人環視の箕面大滝。  C: 近づいて撮影。  R: 光の加減で虹が架かっていた。どこまでもフォトジェニックである。

とにかく人がいっぱいだし、撮影できるアングルは限られているので、さっさと撮影してしばらく眺めてから遊歩道を下る。
遊歩道は「滝道」という名称であるようだ。正直なところハイライトは箕面大滝で、他に特別な要素はあまり感じられない。
昇仙峡(→2019.8.25)あたりと比べるとずいぶん穏やかな印象である。まあ自然の中をのんびり散策するにはいいかな。

  
L: 箕面大滝に近いところの茶屋。賑わっております。  C: 滝の方から眺めた遊歩道。  R: ちょっと下って滝を振り返る。

箕面名物として知られているのが「もみじの天ぷら」。せっかくなので食べ歩きしながら遊歩道を下ってみる。
箕面山で修行していた役行者がモミジの美しさに感動し、天ぷらにして修験者をもてなしたのがきっかけ、とのこと。
しかし箕面に自生しているイロハモミジを揚げているのではなく、別の場所で収穫した一行寺楓を使っている。
これを1年かけてアク抜きし、砂糖とゴマを混ぜて揚げるのだ。食べると意外と固く、いかにもカラメルおやつな味。
揚げてから2〜3日おいて油を切っているそうだが、それでもちょっと油っこさがある。まあいい感じのスナックである。

 
L: もみじの天ぷら。さまざまな店が独自の分量で味付けをしている。  R: こんな感じで、味は典型的カラメルおやつ。

バリボリ言わせながら多くの観光客の間をすり抜けていく。本来ならのんびり自然の空気を味わいながら下るべきだが、
ここでテンポよく動けば、池田市の方まである程度押さえられるかもしれない。動けるときに動いておきたいのである。

  
L: 唐人戻岩。箕面大滝に行こうとした唐の貴人がこの岩の険しさに驚いて帰っちゃったという伝説があるそうな。
C: 遊歩道はだいたいこんな感じ。  R: 途中には茶屋やカフェなどが点在しており、大阪府民が手軽に散策する場所だと実感。

20分ほど下ったところで瀧安寺(りゅうあんじ)である。658年に役行者が建てたお堂が箕面寺となり、
後に瀧安寺と改称。「日本最初にして最古の弁財天」とのことである。明治の廃仏毀釈で境内は現在の規模となったが、
それでも箕面川に沿って堂宇がいくつも点在しており、往時の山岳仏教・修験道場としての勢いは十分に窺える。

  
L: 箕面川の左岸にある鳳凰閣(左)と客殿(右)。鳳凰閣は武田五一の設計で国登録有形文化財となっている。
C: 山門。1809(文化6)年に京都御所から移築してきた。  R: 観音堂。2002年の再建ということで新しい。

  
L: 観音堂の奥(川上側)には鳥居があり、そこを抜けると大護摩道場。年に3回、関西の山伏が集まって護摩を焚く。
C: 脇の石段を上がる。石垣が立派である。  R: 一段高くなっている境内。箕面川と平行な空間構成となっている。

  
L: 手前に行者堂。こちらは拝殿で奥に奥殿という神社みたいな構成になっている。役行者・不動明王・蔵王権現を祀る。
C: 隣が大黒堂。恵比寿と大黒を祀る。  R: いちばん奥が本堂の弁天堂。こちらも奥殿と拝殿からなる。江戸初期の築。

御守を頂戴するとさらに下っていく。箕面公園昆虫館はお子様たちに大人気でおっさん一人では入りづらい雰囲気。
もちろん興味はあったが時間がないのでスルー。昆虫館なんて、いくらでも時間を消費させられてしまう施設なのだ。

  
L: 箕面公園昆虫館の北側の棟。蝶のデザインがなかなかかっこいいではないか。見たかったけど、絶対に時間を吸い取られる。
C: 箕面川の石は、なぜか濡れている部分だけが赤く染まっていた。理由がわからない。  R: 遊歩道の麓側はこんな感じ。

遊歩道が終わり、道は二手に分かれる。左手を行くと、ちょっと上って西江寺である。聖天宮西江寺ともいうようだ。
役行者が修行中に大聖歓喜天(インドではガネーシャ)が現れたということで、こちらは日本最初の歓喜天霊場とのこと。

  
L: 西江寺の入口。滝道から入った細い路地に面する横参道となっているので、ひどく余裕がない。
C: もう少し南に行ってからの境内入口。  R: 大黒堂。大黒天と弘法大師を祀っている。

  
L: こちらが本堂。  C: 横から見たところ。  R: 駅前に戻ってきて振り返る。箕面の観光人気を心底実感した。

箕面駅に戻ってくると、箕面駅前第1駐車場でレンタサイクルを借りる。ここからは箕面の市街地を動きまわるのだ。
とはいっても、箕面はあまり明確な商店街がない感じ。駅のすぐ東と、メインストリートとなっている府道43号くらい。
上述のように箕面線は公園や温泉を意識した観光路線として建設されており、もともと市街地という要素は薄い模様。
箕面村が町制施行したのは戦後になってからで、そこから8年で市となっている(1956年)。徹底したベッドタウンだ。

第1駐車場からまっすぐ南下して箕面市役所へ。たいへんモダニズム色あふれる建物だ。竣工は1964年、設計はK構造研究所。
まさに時代の証人という雰囲気の市役所である。中を覗き込むとしっかり改修されている気配がする。外も非常にきれいで、
大切に使われ続けているのがよくわかる。高度経済成長期の典型的な庁舎建築として、今後存在感が増していくのではないか。

  
L: 箕面市役所。屋根のカーヴがいかにも高度経済成長期の役所である。  C: 敷地ギリギリから撮影。  R: エントランス前から。

  
L: 南東側の側面。時計塔がくっついている。昭和である。  C: 南から見たところ。  R: 南西から。

  
L: 西側にくっついている箕面市役所別館。  C: 近づいて南東から見上げる。  R: 南から見た別館の側面。

  
L: 北から見た箕面市役所の側面。  C: 北東側の側面。  R: 北東から全体を眺める。これにて一周完了。

  
L: 南から中を覗き込む。最近になってリニューアルしたようだ。  C: こちらは東から。たくさんの椅子が並んでいるのであった。
R: 敷地の南東端は牧落交番が建っている。その裏側が市役所のエントランスで、池などのオープンスペース要素が集まっている。

箕面市役所の撮影を終えると、東へ進んで為那都比古(いなつひこ)神社を目指す。いかにも古めかしい名前だが、
そのとおり式内社である。途中で国道423号(新御堂筋)を横断し、延伸する北大阪急行の終点・箕面萱野駅の辺りを走る。
さっきバスで通った場所だが、やはり新しい街並みがソワソワしている。もともと商業の核を持たなかった箕面だが、
観光とニュータウンの中間に位置する箕面萱野は、今後劇的な求心力で周辺の景色を変えていくのかもしれない。

  
L: 箕面駅から少し東に行った南北のメインストリート、府道43号。従来の中心部だろうが、店舗があっさり点在しておとなしい。
C: 来年3月に開業する箕面萱野駅から北に行った国道423号(新御堂筋)。新名神高速道路と接続する箕面有料道路の入口。
R: 開発が進む国道423号周辺だが、そこからはずれるとのどかな風景の住宅地となる。遠くに淀川周辺の高層ビルが見える。

ほどなくして為那都比古神社に到着する。駐車場を含めた境内はけっこう広く、式内社としての威厳を感じさせる。
おそらくかつてはもっと広かったが、道路を通したり施設をつくったりする中で社地が縮小していったのだろう。

  
L: 為那都比古神社の境内入口。1907(明治40)年に旧萱野村内の10社を合祀してこちらにまとめた。
C: 参道を行く。10社分の信仰を集めたためか、気合いの入った整備っぷりである。  R: 神門に到着。

  
L: 神門をくぐってもやっぱり広い。  C: 拝殿。  R: 本殿。社殿についての詳しいことはわからず。

参拝を終えると今度は西へ。市役所近くでかなり遅めのお昼ごはんをいただいて、さらに西へと走っていく。
池田市に入る少し手前にあるのが阿比太(あびた)神社。こちらも式内社であり、かつては牛頭天王と呼ばれていた。
後に延喜式神名帳に記載された社名に戻したというわけだ。矩形ではない境内は、茂った木々とともに歴史を感じさせる。

  
L: 阿比太神社の境内入口。先ほどの為那都比古神社と同様、鳥居を頂点に凸型の入口となっている。この地域の様式なのか。
C: 参道を進んで拝殿。社殿は1975年の築だが境内全体が歴史を感じさせる印象。  R: 本殿。がっちりとした壁が独特。

できれば池田市内も攻められるだけ攻めたかったが、さすがに11月となると夕暮れの空気になるのが思いのほか早い。
せめて端っこの1ヶ所くらいは押さえたいということで、北西へ行って畑天満宮だけは参拝しておくことにした。
畑天満宮は北摂山系の南端である五月山、その東側の裾野に鎮座しており、まさに山と里の境目に位置している。

  
L: 畑天満宮の入口。  C: 無人の神社だったが、石段周りの整備はしっかりなされている。  R: 拝殿。

  
L: 本殿を覗き込む。  C: 1378(永和4)年につくられた石灯籠(右)。池田市に現存するものでは最古とのこと。
R: 1285(弘安8)年につくられた板碑。梵字が刻まれている。石灯籠とともに池田市重要文化財に指定されている。

残念ながら神社は無人で授与品は確認できなかったが、手前にある境内社の稲荷社から眺める景色は絶景だった。
夕暮れどきでかなり霞んでしまっており、手前の住宅が大胆に入り込んでくることもあってパノラマ撮影は難しいが、
その先には建物が埋め尽くしている北摂地域が広がっており、地平線にはうっすらと新大阪か梅田のスカイラインが走る。
果てしない大阪平野。そしていま、目の前にはその北端部である豊中から池田、そして伊丹の街が横たわっている。
これらの街を象徴する存在、緑に包まれた大阪大学豊中キャンパスと伊丹空港が並んでおり、無言で僕に呼びかける。
この3連休ではそこまでたどり着くことができなかったが、来年にはどうにか訪れたい、と決意を新たにする。

 
L: ひときわ目立つ緑は、大阪大学豊中キャンパス。  R: 伊丹空港を離陸する飛行機。どちらも来年にはぜひ訪れたい。

箕面駅に戻ってくると、最後にもう一発。箕面にはミスタードーナツの1号店があるのだ。1971年にダイエーの敷地内で開業。
その後ダイエーは閉店してしまうが、跡地のマンションの1階に復活して今に至る。というわけで、お邪魔してみる。

  
L: ミスタードーナツ1号店の箕面ショップ。なおミスドを経営しているのはダスキン。常識か。  C: 看板には「0001」の文字が。
R: 箕面ショップで販売されている創業当時のドーナツ(数量限定)。当初からいろいろメニューを工夫していたんだなあと思う。

ミスド1号店の中は特別仕様になっており、創業時の箕面駅周辺の写真やエピソードを紹介する説明板が掲げられている。
また蛍光灯がアステリスク状に並んでいるのも当時の店舗を再現したもの。レトロな雰囲気を上手く混ぜている印象である。
せっかくなので、創業メニューで最もシンプルと思われたホームカットをアイスミルクとともに注文して店内でいただく。
僕はミスドでは必ずアイスミルクなのだ。あのロングライフ紙パック牛乳の風味がたまらないのだよ。段違いに旨い。
ずっと前に潤平に教えられて、それ以来アイスミルクばっかりだなあ。チョコファジシェイクがあると迷うけど。

  
L: レシートにも「No. 0001」。  C: こちらがホームカット。砂糖が少なくてまさに揚げた小麦粉のお菓子って感じ。
R: 箕面ショップの店内。ほかのお客さんがいるのでこんなアングルになってしまったが、雰囲気は伝わるかと。

さすが1号店、なかなかの繁盛ぶりで、家族連れの邪魔にならないように適度なところで撤退。おいしゅうございました。
自転車を返却すると駅に戻る。箕面駅のホームでは、これまたスペシャル仕様なカルピスの自動販売機を発見した。
カルピスの生みの親である三島海雲が箕面出身なので置かれているわけだ。日本における乳酸菌飲料のさきがけであり、
白地に青い水玉といったらカルピス。カルピスを飲ませてもらえない切ない思い出が蘇るのであった(→2008.3.18)。
やっぱりカルピスウォーターでは満足できないのである。あと、派生製品に人工甘味料を混ぜるのはやめてもらいたい。

  
L: 箕面駅のホームにあるカルピスの自販機。  C: 1919年の初代から現在まで。やはり紙に包まれた瓶はテンションが上がる。
R: 自販機の横に貼ってある三島海雲についての説明。日本の発酵食品文化を一気に多様化した功績はかなりすごいと思う。

石橋阪大前で乗り換えて大阪梅田まで。そこからJRで新大阪まで戻る格好になるので、阪急も妙に不便だなあと思う。
それにしてもこの3日間は幸いなことに天候に恵まれたが、おかげで大量に汗をかき続ける3日間でもあった。
新大阪駅で着替えてサッパリするが、まさか11月になっても塩を吹きまくるとは思わなかった。うれしい悲鳴である。

帰ってきて阪神タイガースの日本一を見届ける。38年ぶりということで大騒ぎである。おめでとうございますなのだ。
しかしヤクルト→オリックス→阪神と、前年の日本一チームが倒される展開が続いている。頂点は僅差なんだなあと思う。



2023.11.2 (Thu.)

うーん、へこむなあ……。家父長制が嫌いなくせに、予想外にへこんでいる自分がいる。
それでも容赦なく新しい一日がやってくるので、一生懸命に目の前の仕事をこなしていくしかない。ヒー


2023.11.1 (Wed.)

FC琉球の新しいエンブレムが新日本プロレスに魔界村って感じでなかなか絶望的である。

Jリーグではエンブレムのデザイン刷新がわりと相次いでいるが、評判のいいものはほとんどない。
最近ではガンバ大阪がただの「G」に変えてしまい、僕としてはなんだか、のび太国の国旗みたいな印象を受ける。
世界の潮流はできるだけシンプルにする方向にあるようで、そういう簡略化されたエンブレム案が目立つ。
しかし最も成功したのはおそらく山形で、元の要素をうまく取り込んだうえでモダンなものへと昇華させた。
つまり、最初にエンブレムをデザインしたときに込められた要素がしっかりと受け継がれていること、
それが幅広く支持されるデザイン変更の鍵なのだろう。思いが込められていない簡略化など、空疎なだけだ。

日本の場合、家紋という、世界的に見ても極めて高度なデザインの伝統がある。
いかに日本がモダンデザインと相性が良かったかを歴史面で証明している存在と言えそうだが、
だからといってエンブレムを簡略化してしまうのは間違いである。エンブレムと家紋ではまったく性質が異なる。
エンブレムは「紋章」であり、盾を分割しながら要素を足していき、全体を複雑化していくことに意味があるのだ。
イギリス国旗のユニオンジャックはその精神を反映するもので、イングランド・スコットランド・アイルランドを合成。
シンプルの極致と言える日本の日の丸と対比すれば、足し算のエンブレムと引き算の家紋の差が明確になるはずだ。
サッカーはイギリスを母国とするスポーツである以上、家紋ではなくエンブレムの考え方の方がしっくりくる。
だからヨーロッパ各都市の紋章のように、誇りとなる要素を詰め込んでゴテゴテする方がむしろ正しいのである。

デザインついでにもうひとつ、2021年シーズンからJリーグのユニフォームの書体が統一されている問題についても。
これはユニヴァーサルデザインという偽物の正義を振りかざした、デザインの可能性に対する冒涜行為でしかない。
デザイン全体主義とでも表現すべき、絶対に許すことのできない事態である。観戦するたび気持ち悪いと思っていた。
でも来シーズンからは各クラブの判断によって自由化されるようなので一安心だ。あとは春秋制が維持されればいい。

それにしてもFC琉球のエンブレムが国際的な話題になるとは。世界はJリーグをしっかり見ているんだなあと感心する。
しかもFC琉球はJ3なんだが。レヴェルも上がってきているし、実は海外の方がJリーグの価値を理解しているのかも。


diary 2023.10.

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