あまりにも感情まかせの意見ばかりが唯一の正義のようにふるまっていて、とてもじゃないが見ていられない。
極論かもしれないが、論理的に考えた結果を書く。逆説をきちんと理解できないやつはオレを相手にしないでくれ。
(おそらく僕の思考のベースは「作曲」にある。どう演奏するか、どうアレンジするかは本質的に他者に委ねられる。)
結論:
① 原作者は絶対に別メディア化を認めてはならない(大前提)
② 別メディア化を一度認めてしまった以上、どのような改変をされても原作者は文句を言うべきではない
③ 作品への評価を下すのは原作者ではなく読者/視聴者である
④ 読者/視聴者が原作を超えたと判断すればそれは名作であり、原作に劣ると判断すればそれは駄作である
⑤ 「原作と別メディア作品は完全に別物である」という認識こそ、われわれに最も必要なものである
⑥ 「原作へのリスペクト」という曖昧で主観的で感情的で恣意的な概念を価値基準とすることは、本質的に不可能である①:
「原作に忠実な作品」とは何か。それは、マンガをひとコマずつ画面に映していく紙芝居である。
つまり、完全に同じ内容を原作者が要求するのなら、その作品を別メディアでわざわざ展開する意味はない。
本質的に、原作者は別メディアでの展開を絶対に認めるべきではないのだ。私の描いたマンガがいちばん面白いんだ!
──それが原作者の正しい態度だ。クリエイターなら、自分の選んだメディアにそれぐらい絶対的な自信を持ってほしい。②:
上記の紙芝居以外、すべて原作者以外のクリエイターの手が入る。他者が関わる以上、100%原作に忠実にはならない。
別メディア化を許諾した時点で、別次元の作品がスタートする。 メディアが変わる以上、作品にも変化があって当然だ。
別人がつくるんだから、それが自然なことなのだ。原作者の絶対化は、メディアに合わせて作品を最適化しようという、
二次のクリエイティヴィティへの否定にしかならない。この圧力は、別メディア業界を衰退させることにつながりうる。③:
本質的に、「作者の描きたいこと」と「読者の読みたいもの」「視聴者の見たいもの」との間にはズレがある。
このズレが小さければ小さいほど、みんなが幸福感を得ることができ、作品は名作として記憶されることになる。
作品は作者の手を離れてから、読者/視聴者に共有され、共感されることで初めて価値を有するものである。
他人を自分の思いどおりにすることは決してできない(→2021.5.16)のだ。原作者の絶対化は、この原理に反する。④:
原作の忠実な別メディア化と、原作をもっと面白くできる!という意欲にあふれた別メディア作品。どちらを見たい?
原作に忠実ということは、視聴者の見たいものよりも原作者を優先させる退化につながる。それを覚悟する必要がある。
作品が世に放たれて世間の批評を受ける以上、評価は読者/視聴者の側によって公平になされなければならない。
原作者が何と言おうと、より世間でウケた方が勝ちなのである。原作者はその勝負を公平に受け入れなければならない。
よく原作者は作品を「子ども」に例えるが、原作者が「子ども」の成長・独り立ちを阻む毒親となる可能性だってある。
(「子育て」を放棄して自ら命を断ってしまう親を、あなたはどう思いますか? 僕はそのクリエイターを尊敬できない。)
原作者は万能ではない。限界に囚われた原作者により、原作を超える魅力的な演出が否定されてしまうかもしれない。
そのとき、損をするのはわれわれ視聴者なのだ。「原作に忠実」なコピーに甘んじた作品など、見るだけ時間の無駄だ。⑤:
そもそもが、ドラマ化アニメ化映画化で喜んでいる奴ら(喜んでいる原作者を含む)こそ、諸悪の根源である。
原作で物足りないと感じているから、読むときの想像力が不足しているから、別メディア化を喜んでいるのではないか?
本当に優れた作品なら、元のメディアだけで十分に満足できるはずなのだ。TVドラマや映画がマンガに依存して久しいが、
それを簡単に許してしまう構造じたいが問題なのである。原作の人気に安易にあやかる業界と、簡単に乗ってしまう客。
双方の共犯関係をここできちんと直視すべきだ。結局は、買い手(客)がバカだから売り手(業界)が調子に乗るのだ。
テレビ局のドラマ化が最も醜悪なパターンで、懇意の芸能プロのために原作を利用しただけ、という粗製乱造が甚だしい。
どうせ別メディア化されても名作になることはほとんどなく、消費されて終わり。それなら完全に別物と割り切るべきだ。
まずは客が賢くなることで、悪循環を断ち切るしかない。そして原作者は、その根源を断つことができる立場にある。
「原作者は絶対に別メディア化を認めてはならない」のは、それが愚鈍な業界と客を絶滅させる第一歩であるからだ。⑥:
「原作へのリスペクト」とは何か。そもそもそれは、客観的に判定できるものなのか。
数値で表現できない以上、それは感覚的なものでしかないし、その基準は人によって簡単に変わってしまうものだ。
たとえば『葬送のフリーレン』のアウラ自刎シーン(→2023.11.15)。原作マンガでは2コマちょいで表現されているが、
アニメでは髪の毛が切れることで剣の切れ味を示しつつ、さらに屈辱に歪んでいくアウラの表情がたっぷり描き足された。
これは原作に忠実ではない。好意的に解釈すれば「原作へのリスペクト」を汲み取ることは可能だが(それがふつうだ)、
あえて原作原理主義的な見方をすれば、髪の毛も表情も原作を改変している以上、「原作へのリスペクトが欠けている!」
そう難癖をつける余地はあるのだ。つまり「原作へのリスペクト」などという概念は、曖昧で主観的で感情的で恣意的で、
とてもじゃないが作品を評価する判定基準になど、なりえない。改変の許容範囲なんて、人によって千差万別なのである。
現状、改変の許容範囲の基準を原作者に設定するのは妥当だが、そうなると今度は視聴者それぞれの基準は無視される。
つまり本来の評価主体である視聴者のためではなく、「原作者のための別メディア化」という新たな歪みが発生するのだ。
原作者だけを喜ばせればいい、という歪みである。そんな姿勢で、原作を凌ぐほどの本物の名作が生まれるわけがない。
究極的には「原作へのリスペクト」は不要である。原作を超える満足を実現すれば、そちらが勝者となる。それが公平だ。
クリエイターであれば、読者/視聴者の満足を目指して、真剣勝負を挑みあってほしい。その切磋琢磨こそが名作を生む。
(島本和彦の影響で雁屋哲がギャグを受け入れた結果『美味しんぼ』につながったエピソードが示唆するものは大きい。)とりあえず、「原作へのリスペクト」なんて卑怯な基準を持ち出している連中は、宮崎駿を絶対に褒めちゃダメだぜ?
島本和彦『アオイホノオ』。正月に潤平から提示された課題図書でございます。既刊29巻まで読んでみた。
まず僕の島本マンガに対する思い出から。といっても、「ログイン」連載の『ワンダービット』しか読んでないのだが。
「怪奇カメムシ男」の回がものすごく印象に残っている。見事な想像力とそれをすっきり結末まで読ませる展開力。
物語としての完成度は全般的に高いと感心していた。が、それ以上に「暑苦しい」というイメージが植えつけられた。
(だから『アオイホノオ』に収録されている初期の作風は衝撃だった。80年代作者自分ツッコミ系だったの!?と。)
このイメージを払拭することはかなり難しく(『タッチ』にも暑苦しく雨天順延を伝えに来るやつがいたし)、
それ以降、島本和彦を追いかけることはなかった。『アオイホノオ』のドラマを偶然1回だけ見たっけか。「暑苦しい」「熱血」ということで売っている島本和彦のイメージは、作風から作者本人へと移行した感じか。
これは『燃えよペン』の影響かもしれない。読んでないのに。「暑苦しいマンガを描く暑苦しい漫画家」のイメージ。
つまるところ彼のやっていることは、「暑苦しい自分語り」にしか思えなかったのである。読んでないのに。
だからそのイメージを保持したままで言わせてもらえば、歳をとることで「暑苦しい自分語り」が許されるようになった、
そんな感じなのである。落語家が歳をとることで自動的に角が取れてしまうのとまったく一緒の状態だと言えよう。
いい感じに歳をとって力の抜きどころが絶妙となり、いい感じにメリハリがついてボケとツッコミのバランスがとれた。
そして自分語りは、作者本人も庵野秀明をはじめとする周囲のみなさんも評価が定まったことで機能するようになった。
「今の島本和彦にしかできないこと」が青春群像劇として成立している。島本和彦はようやく安住の地を見つけたのだ。
しかしながら、焔が東京に引っ越して以降は群像劇の度合いが弱まってきている。個人的には、自分語りも面白いが、
やはり時間軸を整理するうえでも、歴史資料的価値でも、庵野らガイナックス側の活躍もしっかり描いてほしいと思う。
(特に能力的に舐められてしまっていた山賀だが、どのように周囲から評価を得ていったのかはたいへん気になる。)相手の頭の良さを理解できることも、頭の良さのひとつの要素だ。焔の最も優れた才能は他人の良さがわかることだろう。
従来の島本マンガでは発揮される機会の少ない能力だ(ったと思う)が、この作品ではどのマンガのどこがすごいのか、
たいへんわかりやすく提示されていて、そこが「学べるマンガ」として機能している。言語化能力が優れているのだ。
ただそれを巧みな想像力で、視野を広げる余裕のないまま猛烈なスピードで絶対化してしまいドツボにハマるのが強烈だ。
そうして他人のすごいところばっかりわかってしまい、自分は何もできないままになってしまう感覚は非常によくわかる。
(日記で他人を批判してばっかりで何も作品を生み出していない私はダメの極致であります。生まれてすみません。)
その誰もが多かれ少なかれ味わう停滞感をこれでもかと描くのは、やはり「今の島本和彦にしかできないこと」で、
自虐的ながらも優しさのある俯瞰は『ボヘミアン・ラプソディ』と同じ「成功者の過去への目線」による(→2019.1.31)。
だから成功者ではない僕には正直、多少のやっかみも入る。卑屈さの克服はもうちょっと掘り下げてほしかったかなあと。
おそらくは佳作に入ってプロの世界に巻き込まれてからは卑屈になっている暇もないほどの加速度がついたのだろうけど、
自分の卑屈さに対して他者がどのように赦しや救い、肯定を与えるのかは、「今の島本和彦」なりに描いてほしかった。
この作品では、トンコ先輩といい津田さんといいみつえちゃんといい尾東さんといい、女性が焔を絶対的に肯定する。
異様なくらいに恋愛を抜きにして(恋愛感情はあるが)肯定がなされる。それも焔の想像力によるものなのだろうか。
この「結局のところ女性が何を考えているかはわからない」ことで少年マンガの文法が保たれ、自分語りが維持される点、
それが島本マンガの本質なのかもしれない。やはり『アオイホノオ』は島本和彦の安住の地、最終形であるようだ。それにしても、あだち充や高橋留美子への距離感と感情は、よくここまで克明に描けるなあという面白さ。
特にあだち充関連のイジりと崇拝の入り混じった演出は、なぜこんなにも絶妙なのか。「ムフ♡」の分析といい、
「いつものような話です!」「まあまあですよ!」といい、さらには円グラフまで出てきて爆笑である。
実際にあだち充と対面する回の女子高生のパンチラも、そういうところに敬意を反映させる発想がおかしい。
この「好きすぎておかしくなる」表現が絶妙で、島本和彦の持ち味である「熱血」がいいヴァリエーションを得ている。あとは岡田斗司夫のヤバさが具体的にわかってたいへん興味深い。実は焔と真逆と言える存在かもしれない。
「メカも描ける女性漫画家」新谷かおるのキャラクターも強烈すぎる。しかもちゃんとゆうきまさみもいる。
有名漫画家の裏話もこのマンガの見どころだが、雁屋哲がギャグをぶっこんでくるエピソードには驚いた。さすがだわ。しかしマウント武士がいい女すぎませんか。オレもあんな女に近くにいて毎回ツッコミを入れてもらいたい。
押切蓮介『ハイスコアガールDASH』。
既刊5巻までを読んでみたのだが、正直つらかった。絵がド下手なうえに話もつまらん。本当につまらん。
この作者、自分に酔ってる感じがしますわ。つまらん。作者は劇的に演出しているつもりかもしれんが、空回っとる。
そういえば前作(→2021.1.4)のレヴューで、「もしこれが『ストII』ではない別のゲームが中心だったら、
間違いなくドロップアウトしていた。」と書いたが、まさにそれ。化けの皮が剥がれた感じ。楽しめる要素がない。日高が教員となって再登場する設定に、おっさんは先生になりたいものなのか?(→2022.11.12)と思う。
しかし問題だらけの生徒をゲームで惹きつけるにはもったいぶってリズムが悪く、生徒の成長も大してみられない。
気がつきゃ結局、矢口の受験という過去の方がメインになってしまっている。作者は何をやりたいのかね?
思うに、この作者はキャラクターがつくれないんじゃないのか。前作も人物造形は甘かったが(リアリティの欠如)、
それでも『ストII』をはじめとするゲームキャラクターたちが側面支援して、足りない部分を補っていた。
しかし今作は生徒たちの重い背景に作者が翻弄されてしまっている。だからマトモに話を組めないのだ。
これだけ重い設定を用意してしまった以上、テーマは「ゲームは少年少女を救えるか?」というものとなる。
このテーマ自体は面白いが、作者にはそれを解決できるだけの腕がない。ヒントは、ゲーム特有の爽快感にある。
ゲームの爽快感とストーリーの爽快感を重ねること。そうしてステージをひとつひとつクリアしていくこと。
足りないものが多すぎる。まあ、まずは悪い方向に固定化されている絵を改善することから始めないと悲惨だ。
21_21 DESIGN SIGHTでやっている『もじ イメージ Graphic 展』を見てきた。
まず結論から言うが、想定していた以上にくだらない内容だった。見るべきものは何もない。何もない。
現役世代のデザイナーによる自己顕示欲の場でしかない。各デザイナーが作品を出しての実績づくりの場でしかない。
僕には勘違いの共同幻想にしか見えなかった。消費の神話に振り落とされないように必死な連中の、馴れ合いの場。
作品に説得力を感じない。情報が研ぎ澄まされておらず、情報の量を多くすることで受け手を撹乱してごまかしている、
その程度のものばかりだった。亀倉雄策や田中一光など先人の古典もあるにはあったが、ポスターが各1枚だけ。
現役デザイナーにとって偉大な先人が邪魔な存在でしかないのはわかるが、扱いが軽すぎる。敬意のかけらもない。
自己を正当化/正統化するためだけに、ちょろっと引っ張り出してきた感じ。ただ利用しているだけのワンコーナー。
展示は総じて、先人にやり尽くされた後の苦し紛ればかりが並ぶ荒野に見えてしまった。何ひとつ、実りはなかった。
そもそもが、「文字」といいつつグラフィックデザインばかり。「文字」が主役ではなく、ただの口実となっている。
前に角川武蔵野ミュージアムで、本が本来とはまったく異なる「手段」となっている光景を見た(→2023.7.2)。
あれと同じで、文字がメッセージを乗せる手段ではなく、壊すことで自己顕示欲の手段となっている醜さをおぼえた。
文字はまず視覚なのは確かだが、美しさを追求する書体(→2024.1.13)とは逆で、目を惹くための道具になっている。
そんな方向性で争っても、何も残らない。破壊であって創造ではない。彼らが必死で走っている場所は荒野でしかない。
L: 廣田碧『「いらっしゃいませ」』。この段階ではけっこう期待していたのだが。 C: 21_21 DESIGN SIGHTの内部。
R: 上堀内浩平の看板作品群。要するに昭和トリビュートということだと思う。文字が「豊かさ」を反映するということか。
L: ギャラリー1では先人の古典ポスター各1枚。 C,R: 壁面には歴史としての文字が大々的に展開されている。『アジア 文字の道』。きちんと文字と向き合っていたのはこの一角くらい。
L: 立花ハジメの作品。 C: 展示はだいたいこんな感じ。ぜんぜん文字メインじゃないじゃん、という作品がほとんど。
R: 本の表紙が並ぶ一角。まあ確かに装丁は文字との格闘になるわけだが、正直どれも同じような感じで違いがわからん。
L: Adobeのコーナー。 特にInDesignを取りあげているが、それならそれでもっと詳しく説明するのもいいんじゃないかと。
C: 投票ポスタープロジェクト。比較する試みは面白いが、文字との関係性について考えると、取り上げる意味がわからない。
R: Underworldも所属するTomatoのジョン=ワーウィッカーの作品。アルファベットの場合、数式や楽譜っぽく見える。まあ僕が老荘思想をこじらせているひねくれ者ということを差っ引いても、まるで中身のない時間と空間だった。
リョーシさんが上京して忘年会である。本当なら昨年のうちに忘年会をやりたかったのだが、結局都合がつかず、
佐々木朗希並みの越年での忘年会となったのであった。まあわれわれ、プロテクトされない方のヴェテランですが。昼の部はマサルの強い希望で、国立西洋美術館でやっている『キュビスム展』を鑑賞。マサルが! キュビズムを!!
山田五郎の動画で興味を持ったそうで、「ポンピドゥーセンターから来るんよ! こんなのそうそうないんよ!」と、
かなり鼻息が荒い。実は、僕は前にマサルに誘われていたのだが、すでに鑑賞済み(日記はまだです…… →2023.10.5)。
で、リョーシさん上京ということでいい機会だから3人で見ましょうか、となったのだ(残りの3人は夜の部からの合流)。
マサルが今回遅刻しなかった辺り、『キュビスム展』にどれだけ気合いが入っていたかがわかる。えらいこっちゃ。会期が明日で終了ということで、予想以上の混雑ぶりなのであった。僕は2回目だからピックアップして見ていくが、
マサルはひとつひとつ丁寧に見ていくタイプなので大変である。でもその分、キュビズムの意義は腑に落ちた模様。
20世紀に入って工業化と大量生産という社会の変化に対応して、芸術が新しい方向性を発見する。キュビズムはその発端。
ここから抽象画へと広がっていく流れがつかめたそうで何より。もちろんリョーシさんも具体例で実感できたみたい。
特にセザンヌからキュビズムを経てシャガールへ価値観がつながっていく経緯が印象的だったようである。よござんした。
鑑賞を終えて向かいの東京文化会館のオープンカフェで一服しつつ感想戦。オレが語るまでもない理解度の高さでしたわ。
特にマサルの「スマホで遠くから撮ったとき、キュビズムの方が部屋に飾る絵としてしっくりくると思った」話に納得。
まあその一方で、長く指名手配されていた過激派の人が「最期は本名で迎えたい」と言って名乗り出たというニュースで、
「これは言ってみたい、まさに『声に出して言いたい日本語』やね」なんて言っていたのだが。まあそんなもんである。その後は常設展を鑑賞。これまた非常にヴォリュームがあるのだが、みんな丁寧に見ていくのであった。
そしてマサルは『キュビスム展』のグッズショップでトリコロールカラーの飴を衝動買い。しかも2本。
コイツ、力飴(群馬県・吹割の滝の名物)でぜんぜん懲りてねえなあ、と呆れる僕とリョーシさんなのであった。夜の部は交通の便のいい飯田橋で開催。いつの間にかできていたオサレスポットのサクラテラスに突撃する。
今回はみやもりが参加できたのでよかった。何ごとにも、当事者でないと知りえないレヴェルの衝撃があるわけだ。
僕としては、とりあえず事態を頭では理解する機会が持てたことに、まず安心した。事情がわからないのがいちばん怖い。
そのうえで、事態を生活、体のレヴェルで受け止める立場にはないので、みやもりにはそこを利用してほしいなと。
適度な距離感にいる部外者を上手く利用してほしいと思うのである。まあ、頼まれればできることはやりますんで。
事態がわかったからには、こちらも考えて動くことができる。大切なのはここからですのでな。気軽に声をかけてくれ。あとはいつもの調子である。みやもりのトークの鋭さがいつもどおりだったことが、いちばんほっとしたかな。
みやもりはわざわざ半日休みをとって『手塚治虫 ブラック・ジャック展』(→2023.10.19)に行ったそうで、
「掘り下げが足りねえよ」とキレていた。さすがである。まあ六本木ヒルズだから、あんなもんよね。
みんなもけっこういろんな展覧会に行っているようなので、日記書きゃいいのに。感想メモってくれよ。
久々にフルメンバーでどうでもいい話ができて楽しゅうございました。
隣で漢文の「鴻門の会」についての授業の話をしていて、ひとつ賢くなったので日記に書いておく。
劉邦を指す「沛公」の「沛(はい)」は、「柿(かき)」ではなく「杮(こけら)」と旁が一緒って話である。
(※「柿(かき)」の旁は「市(し)」で、「杮(こけら)」の旁は「巿(ふつ)」である。画数が違う。)
それならもしやと思って「肺」を調べたら、まさにビンゴで、本来はこちらも「杮(こけら)」と同じ旁だったのだ。
現在は「市(し)」が圧倒的によく使われているためか、「肺」も「市(し)」で書くのが一般的になっている。
頭痛が一瞬おさまるほどびっくりな話なのであった。いやあ、教養の世界ってのは実に深遠である。
MacBookのバッテリーがいよいよダメではないか疑惑。
きちんと充電したはずなのに、カフェで電源入れたら5分ともたずにオフ。ただでさえ頭痛で日記が進まないというのに、
肝心のMacBookまで不調では、なおさらどうにもならない。しょうがないのでスマホで頭痛対策の情報収集に徹する。
人間の調子も悪けりゃ機械の調子も悪い。昨年末からずっとイヤな流れである。何か運気を上げる方法はないものか。
朝からウルトラ頭が痛い。ヘッドフォンで音が割れるほどの大音量で殴られている気分がする。
実は頭痛は土曜日から5日連続で、手持ちの薬である程度抑えて出かけていたのだが、痛みはひどくなる一方。
起きている間はずっと痛いので(薬で音量がどうにか下がるイメージ)、さすがに午後に休みをもらって病院へ駆け込む。
頭痛専門の医者がいるということで久々の病院だったのだが、古い施設であるけどなかなかがんばっている印象。
で、CTも撮った結果、特に脳に異状はなく、重度の偏頭痛ということで確定。とりあえず頓服薬を出してもらった。
頭痛が何日も連続するのは初めてで大いに困る。ヤク中になるのは御免なので、なんとか漢方薬で対処できないものか。
109シネマズプレミアム新宿で『YUKIHIRO TAKAHASHI LIVE2018 SARAVAH SARAVAH!』を上映しているので、見てきた。
まずは109シネマズプレミアム新宿について。坂本龍一が監修したという音響システムが最大の売りであろう。
鑑賞者専用ラウンジがあり、飲み物とポップコーンが無料でいただける。お値段はクラスAで4500円。クラスSだと6500円。
正直そんなものは求めていないのだが、それでもまあいっぺんプレミアムを体験してみるのもいいかと思ってチャレンジ。
ラウンジは無駄な高級感がなんとも鼻につくが、飲み物無料は実際ありがたい。ポップコーンは食う習慣がないので遠慮。
肝心の座席は、隣が気にならない距離感が最高である。荷物も置けて、これはふつうの映画館でもそうあってほしいほど。
驚いたのは、予告編が面白そうに感じられてしまったことである。いつもなら「駄作を粗製乱造するんじゃねーよ」と、
予告編だけで映画業界全体のしょーもなさに辟易してしまうのだが、妙に魅力的に思えてしまったのが本当に不思議だ。
やはり音がいいからだろうか。音響は低音の威力に頼ったりすることのない正統派で、どの音域もバランスがよく、
とても自然に感じる。自然な聞こえ方を解像度よく仕上げていった感じか。まあそんなわけで、プレミアムなのは納得。では『YUKIHIRO TAKAHASHI LIVE2018 SARAVAH SARAVAH!』について。すでにBlu-rayが出ているが、見るのは初めて。
ユキヒロさんが亡くなって、もう1年になるのか(→2023.1.15) 。まあそれでわざわざ上映しているんだろうけど。
内容としては、1stアルバム『サラヴァ!』(1978年)のヴォーカルを新録した『Saravah Saravah!』(2018年)、
そのライヴである。だから40年分の進化を堪能する生演奏ということになるのだが、僕は純粋に新曲として聴いた感じ。
ユキヒロさんのグルーヴは優しいなあと思う。展開されるのは、良質な音楽そのもの。ロックという枠にはとらわれず、
明らかにヨーロッパ志向でその優しくて丁寧な部分(でも妥協はない)を積み重ねている。音楽としての教養が深い。
しかしながらユキヒロさんのドラムスはしっかり熱い。縦というか上下の動きがきっちりスクエア、タイトな感じで、
それだけでかっこいいのだ。見ているこっちは体温が2度くらい上がる。そのくせ歌うとフー・マンチュー唱法で、
リズミカルではないのがまた不思議。「The Look of Love」をカヴァーするのもそういう好みなのかと思わせる。
聴いていると穏やかな気分になる、音楽じたいに純粋に没入してしまう、そんな曲がほとんどで、贅沢な体験だった。
ちなみに教授が映像でコメントしたり細野さんがゲストで出てきたりで、客席が興奮に包まれる場面もある。
やはりYMOはみんなに特別なんだなあと思う。ファンにとっても特別だし、3人にとっても特別。それが実感できた。
今回、上映していることをウェブ記事で知って、プレミアムな映画館で見ることができてよかったと心底思った。
世の中、知らなくってスルーしていてもったいないことが、ものすごくいっぱいあるんだろうなあと思う。
素敵なことが、後悔すらできないまま、いっぱい通り過ぎているんだろうなあと。気づけて幸運をつかめてよかった。
エスパー伊東は亡くなっちゃうし、南部さんも亡くなっちゃうし。「体を張る芸人」の訃報にしょんぼりである。
電撃ネットワークの何がかっこいいって、日本より海外で評価されるエンターテイナーであるということ。
「TOKYO SHOCK BOYS」って名前が抜群にいいなあと思ったら、名付け親がデーブ=スペクターだった。うー、さすがだ。
まず日本の誇る世界都市「TOKYO」でインパクトを与え、「SHOCK」という単語に「電撃」のニュアンスをきっちり残し、
「BOYS」でエネルギッシュさを表すと同時に日本のボーイズ芸の歴史から軸足がお笑いにあることも無視していない。
デーブは絶対にぜんぶわかってやっている。最も完璧な英語名だと思うのである。使い分けられるのがまたかっこいい。
だからやっていることはめちゃくちゃなんだけど、僕には「かっこいい」って言葉がしっくりくるグループなのである。
知らないうちにメンバーが増えていたけど、南部さんは亡くなっちゃったけど、がんばっていただきたい。
すみだ北斎美術館『北斎サムライ画伝』を見てきた。北斎ということでやっぱり外国人観光客の姿が多いが、
そればっかりというわけでもなく日本の老若男女も多かった。東京で簡単に北斎を味わえる貴重な美術館なのだ。日記を読んでもらってのとおり、僕は歌川国芳〜月岡芳年の武者絵の流れが好きで(→2023.3.6/2023.5.29/2023.11.24)、
「北斎のサムライ」と国芳の武者絵のつながりを知りたくてこの展覧会を見にきたのだ(国芳が40年ほど遅く生まれた)。
ご存知のとおり北斎は90まで生きたので、両者の活躍の期間はそれほど長くはないが確実に重なっているところがある。
しかし展示は北斎周辺のサムライ描写をかき集めた内容で、言っちゃあ悪いがわりと二線級や若い北斎ばかりでがっくり。
主に構図の取り方なんかで北斎と国芳の間の影響を知りたかったのだが、そのような要素はまるでない展示だった。
唯一、『続英雄百人一首』の目次で北斎と国芳の名前が並んでいたが、本当にそれだけ。完全なる空振りである。
いや、僕が勝手にテーマを設定して勝手に失望しているだけなのだが、それにしても厚みのない内容だった。もっとひどいのが常設展で、よく見りゃ全点レプリカでしょんぼり。前(→2021.7.29)もそうだったっけか?
せっかくのピーター=モース・コレクション、本物を展示しないでしまっておいて意味があるのか。理解に苦しむ。
レプリカならレプリカで、大塚国際美術館のように数を用意すべきだ(→2011.7.16)。東京で北斎専門の美術館なら、
それは許される手法だと思う。企画も常設も中途半端。なんなら建物も外見全振りで狭いし動線は窮屈だしで中途半端。
今回、地下のコインロッカーを使ったが、ほとんど地下牢で妹島和世の「安さ(→2010.8.22)」全開という感じだった。
螺旋階段も余裕がないので危ないだけ。小さいエレヴェーター(2基あるが)で展示室へ移動するのも他の客に気をつかう。
結局のところ、妹島の建築は奇抜さや視覚的な印象だけで売っており、来館者に暗黙の圧力を強いるものだと思う。
なお、唯一面白かったのは模型で再現された北斎のアトリエで、娘とセットで汚部屋をわざわざ再現する発想は好き。忘れた頃に微妙に動いて、「こいつ……動くぞ!」となる。
3年前に訪れたときの企画展はよかったので、魅力的なテーマ設定に期待したい。でもまず常設展から改革してほしいわ。
本日はまず歯医者で先月の虫歯治療(→2023.12.9)の具合をチェック。たいへん良好なのでスムーズに完了。
その後は天気がよければ横浜の神社めぐりをやる予定だったが、すでに雨が降ってきており美術館めぐりにスイッチ。
品川まで京急に揺られて総武線快速に乗り換える。新日本橋で降りるのはなかなかマニアックな体験なのであった。というわけで、本日は三井記念美術館でやっている『国宝 雪松図と能面×能の意匠』を拝見。
円山応挙の『雪松図屏風』は年末年始恒例の展示となっているそうだが、いい機会だから見ておこうというわけ。
そしてもうひとつのテーマである能面。今までまったく縁のない世界だが、それだけに知識をつけておきたい。
事前にスマホで公式サイトにアクセスしておくと100円引きクーポンがもらえる。このご時世にありがたい。展示はまず能面からスタート。三井記念美術館が所有する重要文化財の能面が点々と並べられているのだが、
予想していた以上に面白い。というか、予想していた以上に奥の深い世界で、これはキリがないな……と思う。深淵だ。
すべてがそうではないが、一面一面独立して展示されているものは裏面をきちんと見ることができたのがすばらしい。
ほぼ黒一色で、作者の名が書かれているだけ、という感じか。花押があるものもあって、それもまた興味深い。
多様な表面に対し、裏面はざっくりとした凹凸と目と口のための穴ぐらいで、非常に単純で差が大きかった。
それだけに表面に込められたメッセージが一層際立つように感じる。表面だけに全力を注いでいるのがわかる。能面はまず大きく「翁(別格とのこと)」「尉(じょう、老人)」「男」「女」「鬼神」といった種類に分けられる。
よく無表情のことを能面に例えるが、実際に見てみるとまったく違って、むしろ表情のオンパレードといった印象。
古典の時代から絞られ、凝縮された表情が、全力で表現された結果なのである。純粋な記号そのもの、なのだ。
前に赤塚不二夫の絵について「その動作の最も『らしい』部分を抜き出した絵」と書いたことがあるが(→2017.10.5)、
それをもとにすれば、能面とは「その表情の最も『らしい』部分を抜き出した立体造形物」と言えそうだ。
そして演者は固定された能面の表情を、曇ラス(わずかに下に向ける)・照ラス(わずかに上に向ける)などして、
感情へと昇華してみせるのである。感情の結果としての表情ではなく、表情から感情を生み出す。とんでもねえ世界だ。
そもそもが歴史の分だけ厚くて濃い物語が刻まれており、能面のルーツを読めるかどうかで教養が試されるのである。
今回その端緒の部分に触れて、能を愛好してきた武士の歴史も踏まえ、伝統というものの重みに圧倒された。純粋に立体造形物として見た場合、リアリティと誇張のバランスが面白い。冷静に考えてみると能面の誇張ぶりは、
ハリウッドザコシショウにも負けないくらいのレヴェルである。でもきちんと人間の顔としてリアルな範囲なのである。
しかもそれでいて工芸品としての美しさも保持している。型はあるけど、創造的だ。各方面のバランスが秀逸なのだ。
そういえば前に国立民族学博物館で仮面の世界を味わったが(→2013.9.29)、能面はもうちょっと深い感触がある。
仮面=ペルソナ・人格だけでなく、やはり表情そして感情までそれぞれ乗せているところが特徴的であると思う。
つくりとしては、なんとなく全体的にどれもしゃくれているような。呼吸や曇ラス・照ラスをやるせいか。
癋見の面などが典型的な金具の目は、神威を示すそうだ。これは小さめのもので霊的な存在を表現する使い方もある。
素材にすら明確な意味がある。伝統・形式といった制約でがんじがらめだけど、その中で創造があり、意味が生まれる。
面白かったのは、般若の面は怒りのエネルギーが真正面に向けてせり出していること。まるでビーム砲のようだ。
そして孫次郎(ヲモカゲ)は確かに美人だった。自分が小面にうっとり見惚れてしまうなんて思わなくて、驚いた。『雪松図屏風』は能装束とセットでの展示。こちらは撮影可能ということで、必死にスマホで撮影するみともない私。
印象としては、応挙というと写生を重視したことで知られているけど、近くで見るとけっこう豪快に処理している感じ。
しかし距離をとって眺めると繊細になっている。何もしていない紙の白地がきちんと雪としてふわっとしているのである。
金泥と金砂子をたっぷり使っていながら、めでたい空気をあくまで上品に表現しきっているのもまたすごいところ。
描いた応挙はもちろんだけど、これを描かせた三井家の力もまたすごい。パトロンとアーティスト、双方の極限だろう。
L: 『雪松図屏風』左隻。 C: 右隻。三井家が応挙に特注したという作品。 R: 一部拡大。細かく見ると粗い印象だが……。能装束はいっぱいあったけど撮っていくのもキリがないので、直感的に選んだ3点を撮影してみた。
センスが悪かったら申し訳ない。どれもあらゆる意匠を色彩豊かに盛り込んで、いい感じに派手でよいですね。
L: 『紅白萌黄段扇面秋草観世水模様唐織』(明治〜大正時代/20世紀)。紅・白・萌黄の3色を地にしてとってもカラフル。
C: 『紅地青海波波丸模様厚板』(明治時代/19〜20世紀)。すいません、青海波好きなので。波丸模様を水玉にしている。
R: 『紺繻子地雪輪松竹菊蒲公英模様縫箔』(江戸時代/18世紀)。紺色がいいなあと。紅白の雪輪模様もよいなあと。最後は現代の能面作家・橋岡一路の作品を展示。古面の写しは再建された建物と同じで、できた当時の感触が味わえる。
純粋に工芸品としての美しさがまず先に来る感じ。比べると、やはり古面には怨念というか情念がこもっていると思う。
久部緑郎/河合単『ラーメン発見伝』。前にソムリエ(潤平)から強烈に推薦されたので読ませていただきました。
続編がすでに複数出ているけど、とりあえず本日は第1作である『ラーメン発見伝』についてのみ書きます。このマンガについては誰もが同じ結論だと思うが、芹沢達也というキャラクターの発明が最大の勝因であろう。
男性向けのマンガは主人公の魅力が全体に占める割合としては大きいが、ライヴァルの重要性をあらためて認識した。
毎回ではなくポイントを絞って登場させ、読者に「で……出たー!」という感覚を与えること。飽きさせない工夫である。
そうやって全体のストーリーを引き締めつつ、ゴールへとじっくり誘導していく。芹沢達也で成り立っているマンガだ。
芹沢がイキイキと動くということは、作者陣もイキイキと動かすということ。イキイキしすぎなくらい面白がっている。全体を眺めて感じるのは、ビッグコミックっぽいなーということ。『美味しんぼ』という偉大な文法が暗黙知としてある。
グルメでウンチクで問題解決となると、どうしてもそうなってしまうのであろう。それをラーメンのみでやるのはすごい。
文化史や都市社会学の視点からでも十分に面白くて、むしろラーメンとはそれだけ大きな存在なのだと実感させられる。
一方、キャラクターやストーリーの構造は単純で、ほぼツンデレしかいないし、人間関係がウルトラ狭くて話が早い。
グルメ漫画はヤベえ人をトリックスターとして出さないと話が進まないのかと思うが、極端な分だけテンポがいい。
芹沢をはじめ「悪役」の背景をちゃんと描いているのも効いている。キャラクターへの愛情をしっかり感じるのだ。
主人公をラスボス戦に立たせるセリフを千葉に言わせるのなんて、愛情と巧さが最もよく出たシーンではなかろうか。
そのうえで時代劇のような様式美が確立されているのが強い。特に前編と後編の2話構成にしている箇所が効いている。
前編で「起承転」までやって問題提起し、後編でウンチクをたっぷり投入しながら課題解決と後日談でオチをつける。
型が決まっているので、極端なキャラクターで動かしながら、ラーメンの味の分だけヴァリエーションを生み出せる。しかしながら、もうひとつこのマンガの鍵になっているのは「経営」の視点だ。主に芹沢がこの部分で話を引き締める。
徹底したプロフェッショナルである彼によって「学べるマンガ」という要素が足されたことで、このマンガの独自性、
もっと言うと存在意義が確立された。僕なんかは彼の言葉は確かにプロならではの名言の宝庫であると納得はするのだが、
反面、資本主義的終わりのないマラソン走者の決意表明にも感じられ、現代的だなあ(→2023.8.18)とも思ってしまう。
言っていることは正しいのだが、それをこの先ずっと継続できるのかどうかと(ま、続編についてはまたいずれ)。
あなたは何のためにお金を稼ぐのと。お金を稼ぐことが手段ではなく目的になってしまっているんじゃないのと。
稼いだお金をどう使うのかってところに、その人の品性が出るんじゃないのと(→2014.11.11/2017.5.18/2020.6.28)。
とはいえデキるアマチュアにすぎない主人公には足りない部分で、確実に成長を描ける部分は確かにそこにあるのだ。
努力型か天才型かの類型で言えば、主人公は足りない部分のある天才。天才でカタルシスを保証しつつ、努力で成長する。
これは成長を描く少年マンガであり、学べる青年マンガであり、グルメの魅力はもちろん十分。奇跡的なバランスだ。
それを成り立たせているのが芹沢達也というキャラクターということで、結局はそこが結論なのである。芹沢優勝。では最後にいつもの雑感。ラーメンといえば小池さんなのだ。これが日本で定着しているって、すごいことじゃね?
四谷課長が切れ者すぎる。芹沢もプロだが、四谷課長も負けず劣らずプロ。趣味に生きる僕はなんだか申し訳なくなる。
長野県が舞台の回があるとは驚いた。基本はラーメン大学でしょう。信州は盆地で違うから問題はそこだと思うよ……。
サブタイトルでは「博多っ子戦争」に爆笑。「博多っ子」ときたら「純情」なのに、「戦争」! この発想は素直にすごい。ところで潤平くん、キミ太ると有栖になるよ。
トイレのせいでやっぱり4時起き。まだまだ水分主体だったが、それはこれが最後なのであった。
買い物ついでに早めに出勤して、おそるおそる復帰する。大の方を使わずに済んだのには各方面で安心。よかった。
やっぱり授業は体力が削られている感じで一苦労。それでもどうにか進度のダメージを最小限に食い止めることができた。
4時に目が覚めた時点では、下痢の方は一段落だノロ。ただ、おかげで寝不足気味だノロ。
少し熱があり、頭痛がうっすら、でもしっかりある感じだノロ。回復しきれていないし、感染させるおそれもあるし、
わかっちゃいたけど本日もお休みをいただいたノロ。授業の進度が本当にマズいことになってきたノロ。8時30分ごろにレトルトの梅粥をいただくが、一気に食えないノロ。少ない量を、時間をかけてどうにか平らげたノロ。
午前中は気がつきゃ寝ていたが、けっこう熱があって寝汗びっしょりだったノロ。じっくりと体力の回復につとめるノロ。17時になって36度8分、まずまずノロね。夜になって、気分は元どおりだけど体力だけ半減って感じになったノロ。
しかし今回のことで本気で思ったのは、ウォシュレットが欲しいってことだノロ。あれはいいものだ……。
夜中の2時、それは始まった。
突然の下痢である。これがまったくおさまらず、10分と空けずに下痢が続く。この症状、もう間違いない。ノロである。
前回はもう18年も前になるのか(→2006.1.24/2006.1.25/2006.1.26/2006.1.28)。これまで運よく避けてきたが、
ついにやられた。あのときは20代だったから序盤をよく耐えていたが、今回はもう最初からグロッキー状態だノロ。あまりに下痢(というか水)が頻繁なので、床に寝袋を敷いてトイレにすぐ行けるように対応したノロ。
大腸に水分が少しでも溜まると吐き気が漂ってくるのがまたタチが悪いノロ。ビオフェルミンを引っ張り出して飲んだら、
4時ごろから少し楽になった感じノロ。でも横になっていると気持ち悪くなって、むっくり起きて便座に腰を下ろす、出る、
そのスパンが少し長くなっただけノロ。少なくとも今日一日はこの状態が続くことに絶望するけど、まだ外は暗いノロ。
5時になって近所のコンビニに突撃するが、6時までお休みだったノロ。近くの自販機でポカリスエットを確保できたが、
店の営業時間やら自販機の配置やらいろいろ変わってしまっていて驚いたノロ。ふだんテキトーに生きているノロね。出勤しても、バスの車内に上から下からぶちまける未来しか見えないので、休みの連絡を入れたノロ。
授業の進度を考えると大ダメージどころじゃないけど、感染力も強いしどうしょうもないノロ。
つねにうっすら吐き気があるのが気持ち悪いノロ。おかげでいちいち動き出しに制約が入るノロ。
横にならないとつらいし、横になると気持ち悪い、そんなダブルバインドに悩む間もなく水が出る時間が続くノロ。朝8時をまわって症状がひどくなってきたノロ。アゴが痺れて自動的にせり出す感覚を久しぶりにおぼえたけど、
これはつまり吐く予兆だノロ。「ああ、吐きたくないけど、オレ吐くのか……」なんて思いつつ踏ん張るが、
結局覚悟を決めて便器の前に正座してマーライオンのごとく嘔吐ノロ。4連発で昨日の晩飯がぜんぶ出たノロ。
おかげで吐き気はなくなって、多少楽になったノロ。嘔吐はウイルス排出の機構なので素直に出すのが正解だノロ。脱水のせいで体のあちこちが攣りかけるノロ。腹をやられているせいで、あらゆる意欲が湧かないノロ。
安定してくると、30分ごとに目が覚めてトイレに行くペースになるノロ。時間の進みがすごく遅いノロ。
風邪のときとか寝ているうちに時間が経ってスッキリ、みたいなことがあるけど、それが一切なくてつらいノロ。
隙を見て昼前にどうにかコンビニでポカリスエットとレトルト粥を買ったけど、いちいち体を動かすのが大変ノロ。
コンビニが近くで助かったノロ。孤独なジジイだったら死活問題になるよなあと、将来を考えて恐ろしくなったノロ。
かなり息も絶え絶えになりながら漫研の生徒に部活の連絡を入れたノロ。集中力もかなり弱まってしまうノロ。熱っぽさと頭痛はあるが、18時ころから落ち着いてきた感じノロ。それでも食欲はなくて一日何も食べなかったノロ。
19時30分にアイスノンを投入してこれまた多少気分がマシになったノロ。30分ごとにトイレのペースは変わらないノロ。
23時にさらにポカリスエットを追加購入したけど、まだまだ肩で息をしながらひとつひとつの動作をする感じノロ。
実はおととい、市谷の杜 本と活字館から東洋文庫ミュージアムにハシゴしたので、そのレヴューをここで。
『東南アジア 〜交易と交流の海〜』がテーマだったが、最終日の前日ということでか、異様に混んでいた。東洋文庫ミュージアム。六義園(→2020.11.18)の近くで共通チケットもある。
東洋文庫ミュージアムに来るのは初めて。東洋文庫は三菱財閥の3代目である岩崎久弥が設立した図書館で研究所。
2011年に新たな本館を建てたのだが、そこに博物館施設を併設した。それが東洋文庫ミュージアムというわけである。
館内はフォトジェニックさをかなり意識しており、みなさんスマホであちこち撮りまくり(設計は三菱地所設計)。
いちばんの目玉は東洋文庫創設のきっかけでもあるモリソン文庫を展示する「モリソン書庫」なんだろうけど、
やっていることが角川武蔵野ミュージアムの「本棚劇場(→2023.7.2)」と同じ方向性だ(こっちが10年近く早いが)。
本を読むものではなく見るものとして扱う姿勢は好きじゃない。まあ、あっちほど下品な感触はないが、五十歩百歩か。
L: まずはオリエントホール。奥には広開土王碑拓本を垂れ幕にしたものがあったが、あまり効果的な展示でないのが残念。
C: モリソン書庫。本を閉架で閉じ込めておくのもつまらないが、こうしてただの見世物にすることには違和感をおぼえる。
R: 回顧の路。意味がわからない。暗い廊下にところどころ明るい床(クレヴァスを演出)で、これは何の自己満足なのか。では展示について。まずは名品室「人物でふりかえる東洋文庫100周年 -岩崎久彌と東洋文庫」ということで、
日本の歴史的資料が並ぶ。ただ、まあ、並んでいるだけ。名品なのはわかるが、並びの意図はイマイチわからない。
L: 国宝『文選集注』(平安時代)。中国最古(6世紀前半)の詩文選集『文選』について代表的な注釈を集めて再編集したもの。
C: 『大般若波羅蜜多経』(8世紀)。装丁も当時のままだと。 R: 『光悦謡本』(17世紀)。雲母(きら)摺りが見事だ。向かい側で『東南アジア ~交易と交流の海~』の展示がスタート。この配置も順番がよくわからなくて戸惑った。
順路に沿って展示に物語性を持たせるところこそ、美術館の腕、センスの見せ所だと僕は考える(→2010.8.22)。
その点どうも、東洋文庫ミュージアムは鈍感であるように思う。膨大な資料を誇るのはいいが、体系を感じない。
L: 『パーリ語聖典』。ヤシの葉に鉄筆でクメール文字を書き込んである。なお、この文の意味については説明がなかった。
C: 『スジャラ・ムラユ(マレー王統記)』(1821年 ロンドン刊)。マラッカ王国についての歴史書を英訳した本。
R: イエズス会『キリスト教説教集』(1675年 マニラ刊)。これは植民地支配・キリスト教化の現物ということで興奮。
L: サンソン『モルッカ諸島図』(17世紀)。香辛料をめぐってオランダとイギリスの両東インド会社が激突した時期の地図。
C: セネクス『インド中国新地図』(1721年 ロンドン刊)。インドはイギリスの、東南アジア・日本はオランダの情報で制作。
R: ファレンタイン『新旧東インド誌』(1724-26年 ドルトレヒト、アムステルダム刊)。本よりも絵をメインで展示してくれ。
L: チャールズ=F. ノーブル『1747-48年の東インドへの航海』(1765年 ロンドン刊)。トビウオについてのページ。
C: キンロック『ジャワ島とその周辺の放浪記』(1853年 ロンドン刊)より、ブイテンゾルク(現:ボゴール)から見た火山。
R: 『ジャワの植物誌』『アジアの鳥類』など。展示はみんなこんな感じで、「うん、本だね」としか言いようがない。最後に「日本と東南アジア 交流の足跡」ということで、東洋文庫の蔵書から関連する日本の古い本を展示。
まあ確かに遣隋使や遣唐使が東南アジアに流されたり(阿倍仲麻呂もそう)、正倉院に東南アジア産の宝物があったり、
明の朝貢体制で東南アジアと間接的につながったり、琉球が中継基地になったり、山田長政が暴れたり、いろいろあった。
でも本を並べるだけでそれを想像しろ、というのはなかなかキツい。魅力的な展示をするという発想が抜け落ちている。左から『日本書紀』『東大寺要録』『旧唐書』。はい貴重ですね。
個人的に最もすっきり納得できたのは、「交易品を嗅いでみよう!」のコーナーなのであった。
肉桂(シナモン)・丁香(クローブ)・肉ズク(ナツメグ)・沈香・白檀・乳香、6種類の香りを実際に体験できる。
産地の地図がついていれば最高だったが、なんとなくだった知識が五感で強化された。百見は一嗅に如かずってか。「交易品を嗅いでみよう!」のコーナー。リアリティって大事だなあと。
先月の国立歴史民俗博物館で実感したように、展示が地味めになるのは本質的に仕方ない面はある(→2023.12.11)。
しかしながら、明らかに展示の方針がおかしい。アジア関連のテーマを用意して、ただ蔵書を自慢しているだけだろう。
他の博物館や美術館から資料や作品を借りてでも来館者にテーマへの理解を促す、そういう意志にまるで欠ける姿勢だ。
そもそも建物じたいが勘違いの塊である。表面的な見てくれをインパクト重視にして、ただごまかしているにすぎない。
学術施設として、あるべき方向性がズレている。これじゃただの成金趣味だ。天下の三菱が恥ずかしくないのかね。
あまりにも天気がよかったので、朝の日記を書き終えると鶴見駅周辺の寺社めぐりを敢行するのであった。
鶴見といえば總持寺。というわけで、まず最初は總持寺から。移転前の本拠地だった祖院には行ったが(→2019.11.3)、
現在の總持寺を訪れるのは初めてである。曹洞宗の檀家なのにね。そういえば正月の地震(→2024.1.1)によって、
祖院は大きな被害を受けた。2007年の地震から復興したばかりなのに(僕が行ったときは工事が終わっていなかった)。
まあ祖院に限らず、能登全域が壊滅的な状況となってしまっており、失われたものの大きさには言葉もない。
今回、こちらで御守を頂戴するなどして、その分を少しでも祖院再建の足しにしてもらえば、という気持ちもある。
L: 總持寺の参道入口。規模の大きい寺らしさ全開だ。 C: 進んでいくと総門にあたる三松関。3本の松があったそうで。
R: さらに進んで三門。鉄筋コンクリート造では日本一の大きさとのこと。15歳の北の湖をモデルにした仁王像がいる。
L: 總持寺は横参道で、境内に入ると主軸が南北方向となる。こちらは向(むかい)唐門で、伽藍の南端となる。
C: 東側の香積台は受付や売店などがある。 R: 百間廊下。「雑巾がけに勝るワックスはございません」だと。
L: 待鳳館。總持寺の迎賓館とのこと。 C: 紫雲臺。總持寺の住持・禅師の表方丈の間で大書院。よくわからん……。
R: 大祖堂。開山堂と法堂を兼ねた本堂客殿で、歴代禅師がここにいるということでがんばる修行の場とのこと。
L: 大祖堂の中は特に何もやっていなければ撮影OKっぽい。火災で移転した経緯もあってか、非常に頑丈な印象である。
C: 伽藍の中心に位置する仏殿。しかし1915(大正4)年竣工ということで修理工事中。せっかく来てこれは凹むなあ……。
R: 南側の丘にある三寶殿。總持寺の守護神である三寶大荒神を祀っている。なお、「三宝」とは仏・法・僧のこと。比較的新しく整備された寺ということもあり文化財としての迫力は弱いが、それを逆手に開かれている感じを演出。
建物の規模が大きくて威圧的な箇所も確かにあるのだが、曹洞宗らしい「座禅以外にこだわりはございません」感、
カムカムエヴリバディ感を出して中和しているように思う。永平寺(→2022.7.23)もそうで、ややぶっきらぼうだが、
来る者は拒まず。むしろ売店などはけっこうグッズを充実させていて、宗派のイメージのわりにはフレンドリー。では最後に、總持寺に眠る有名人の墓参りなのだ。あんまり趣味がよくないとは思うが、参らんわけにもいかんだろう、
そんな有名人が2人ほど。Googleマップに場所が登録されているので、広大な墓地でも迷わず行ける。行けばわかるさ。
L: 案内板。The 裕ちゃん。 C: というわけで石原裕次郎の墓。玉垣に「裕次郎」。『黒部の太陽』よかったっス(→2012.9.7)。
R: 大祖堂の裏にアントニオ猪木の墓。出身が鶴見区なのだ。プロレスに詳しくないので申し訳ないが、まあ不世出だよなあ。陸橋で線路を渡って東側へ。腹が減ったので途中の町中華でラーメンをいただき、機嫌よく鶴見川を渡る。
ユリカモメが並んでいて、わりと人に馴れているのか、近づいてもイヤそうに2~3歩距離をとるだけ。平和である。
L: 正しい町中華のラーメンをいただいた。 C: ユリカモメ。 R: 鶴見川を眺める。自転車で渡ったなあ(→2006.8.6)。鶴見川の左岸に潮田公園。その東側に鎮座しているのが潮田神社だ。日本武尊が東夷征伐の際に祠を建てて創建した、
という歴史ある神社だが、それにしてはどうも雰囲気が独特である。地図で見ればわかるが、境内がほぼ正三角形なのだ。
大正初期に京浜工業地帯が発展した影響で現在地に遷座した後、関東大震災と第二次世界大戦で被害を受けており、
区画整理が進む中でそうなったと思われるが、それにしても三角形。どういう意図があったのか、知りたいところだ。
せっかくなので、神社側でもこの三角形を生かして売りにすれば面白いのではないか。こんな境内、唯一無二だろう。
L: 潮田神社の境内入口。三角形で言うと底辺のど真ん中。 C: 南東の角から参道と拝殿を見る。奥に潮田公園。 R: 拝殿。
L: いったん敷地の外に出て眺める本殿。 R: 北端の頂点(本殿の裏)には開運地蔵尊と庚申塔。歩くのが面倒くさいので、帰りは素直にバスで鶴見駅まで戻る。そこから線路沿いに北上していくと、鶴見神社だ。
横浜-川崎間で最古の神社ということで、それをアピールしているポスターを鶴見駅でも見かけた。さてこのエリア、
杉山神社が多いと以前書いたが(→2023.12.9)、鶴見神社も1920(大正9)年までは「杉山大明神/杉山神社」だった。
線路沿いで窮屈な境内を開放的に整備していて、社殿はしっかり神明系。境内社はその脇に一列に並んでおり、
奥には富士塚。都市的な要素と旧来の祭祀が密度高めに融合を果たしている、なかなか独特な雰囲気の神社だ。
L: 鶴見神社の境内入口。鶴見駅東口を線路に沿って北へ行くと到着。 C: 拝殿。神明系の感触が非常に強い。
R: 社殿の脇に一列に並んでいる境内社。コンパクトな境内に合わせてだと思うが、みんな鳥居があるのでインパクト大。
L: 本殿。 C: 失礼して中を覗き込むと、下に岩という珍しさ。境内の貝塚や富士塚と関係があるのかな?
R: 境内社の北端は、三島由紀夫と森田必勝を祀る清明宮。三島が鶴見のバーの常連だった縁とのこと。以上で鶴見駅周辺の寺社めぐりはおしまい。しっかり御守を頂戴した後は、しっかり日記を書くのであったことよ。
「市谷の杜 本と活字館」が『活字の種を作った人々』という企画展をやっているので、行ってきた。
軽く説明を入れると、「市谷の杜 本と活字館」はDNP(大日本印刷)が2021年に設立した博物館施設である。
大日本印刷は前身である秀英舎時代の1886(明治19)年、市ヶ谷に世界最大規模の出版印刷工場を建設した。
2010年に再開発で工場は閉鎖されたが、今でも市ヶ谷界隈はDNP関連の建物ばかりで、歩いていてなんだか怖かった。
で、1926(大正15)年竣工の旧営業所棟(通称「時計台」)を修復して「市谷の杜 本と活字館」をつくったのだ。
入館すると、印刷会社らしくかなり気合いの入った案内冊子をもらえる。これだけでも一見の価値があると思う。
また、この事業に設計面で関わった久米設計の公式サイトにも、修復についての詳しいことがいろいろ書かれている。
(ちなみに国内印刷業界2強であるTOPPAN(凸版印刷)の印刷博物館を訪れたときのログはこちら。→2017.6.12)
L: 市谷の杜 本と活字館。なるほどこれは大正期らしいアール・デコ感。円を排除して矩形にこだわっているのが印刷屋らしい。
C,R: 内部では往時の印刷工場の風景が一部再現されている。予約して平日に入館すると、作業を間近で見学できるとのこと。1階の常設展示では、活版印刷での本づくりを6つの過程に分けて紹介。いちおう僕は出版社勤務の経験があるので、
ざっくりと内容は理解しているつもり。それでも実際に物を通して見ると、その妥協のない職人の世界に圧倒される。
L: 「一、作字」。手描きの原図をデザインするところから始まる。秀英体はDNPが秀英舎時代から開発を続けている書体。
C: 活字を鋳造する型となる母型。市谷工場には30万本の母型があったそうだ。 R: 「二、鋳造」。こちらが鋳造機。
L: 「三、文選」。原稿に合わせて活字を拾う。『タモリ倶楽部』で見た印刷所は、活字の金属で電波が届かなかったっけ。
C: 「四、植字」。拾った活字を並べて版をつくる。 R: 右上の棚にある活字をクローズアップ。気が遠くなるほど細かい。「五、印刷」の後にこちらの製本機で「六、製本」。
2階に上がるとまず展示室で、ここで企画展をやっている。冒頭で述べたとおり、今回は『活字の種を作った人々』。
こちらもこちらで、それなりの厚さがある気合いの入った冊子をもらえる。並んだ秀英体が独特の風格を感じさせる。
さて、「種」とは特徴的な表現だが、これは手彫りの活字の型のこと。上の工程では、母型をつくる前の段階である。
かつては無名の職人たちが彫刻刀で種字をつくり(もちろん左右反転で)、それをもとに銅メッキで母型をつくった。
この企画展ではそんな職人たちの足跡を追えるだけ追って、彼らのとんでもない技術を振り返ろうというわけである。
L: 展示室。 C: 安藤末松の彫刻道具。右の小さいやつがその木彫り種字。 R: 君塚樹石の地金彫り種字。だいぶ拡大。明治になって活版印刷の技術が入り、印鑑や金具の職人などが転身して「種字彫刻師」という新たな職業が生まれた。
厳しい徒弟制度で修行し、一人前になると1日で10本ほどの種字を彫ったそうだ。活版印刷には5万字が必要だそうで、
名人でも生涯で3〜4種類の種字一式を完成させるくらい、とのこと。しかも細かい作業をやるだけでも凄いのだが、
左右反転した状態でさらに並んだときのバランスまで考えて彫るわけである。日本の歴史のとんでもない1ページだ。
L: 大間善次郎の30ポイント明朝木彫り種字。 R: 中川原勝雄の直彫り活字。特殊な文字を現場で彫ってつくった。企画展に限らず展示全体を見て感じたのは、果てしない知への欲望である。本や新聞といった知を伝達するメディア、
それに対する人間の歴史は分厚いものがあるが、そこに職人としての技術が介在して絶対的な様式ができている。
「日本的凝り性」と言えばまあ確かにそうなのだが、知への欲望を高めた結果ここまでやる、その凄みに圧倒される。
でも、新たな技術が生み出されて手間がかからなくなるにつれ、知への欲望は弱まっていったのではないか、とも思う。
アクセスが簡単になったことで、価値が軽んじられる。そうしてわれわれは大切なものを捨てている気もするのだ。
L,C: 2階、展示室の隣は制作室。印刷と本づくりを実際に体験するスペースで、平日にいろいろできるみたい。
R: 2階の奥にある休憩スペース。よく見るとベンチが活字になっていて、ものすごいこだわりを感じさせる。
L,C: 地階にて。トイレの案内も活字をもとにしたデザインである。 R: エレヴェーターの案内も活字ベース。最後に、1階の常設展示の脇にある卓上活版印刷機(通称「テキン」)でおみやげの栞の印刷を体験させてもらう。
上の円がインキ盤で、ハンドルを下ろすとローラーが上がってインキを塗りつけ(そのときに円が回転して均等化)、
4回繰り返してから5回目でカチッと音が鳴るまでハンドルを下げ、それで栞にインキを押し付けて印刷するというわけ。
なお、インキはむき出しの構造なので乾燥させる成分が入っておらず、完全に乾くまで2〜3日かかるとのこと。
栞は小さなビニール袋に入れてもらえるのでまったく問題ございません。たいへん勉強になりました。
L: 卓上活版印刷機。 R: 栞には活版印刷に関連する道具が描かれている。ピンクがテキンで印刷された箇所。というわけで、市谷の杜 本と活字館は建物から展示物までDNPの気合いを大いに感じさせる施設なのであった。
まあそもそも、市ヶ谷駅から本と活字館までの道が完全にDNPの領土って感じでひたすら圧倒させられるのだが……。
無料だったので『To LOVEる -とらぶる-』のアニメを見たよ。マンガはきちんと読んだことがなかったので、
こんな始まり方だったのかとびっくり。ずっと古手川がヒロインだと思っていた……。リトさん女性の声優なのね。
あと、ところどころ完全に狂気の回があり、原作マンガとの差異が気になるところ。まあだからどうだってこともないが。校長が緒方賢一でもう最高なんだけど、ご存知のとおり校長は作中いちばんの変態で、そして完璧な演技なので、
幼少期から緒方賢一の大ファンである私としましては(あまりにも好きすぎで声真似ができるほどなのだ)、
あらゆるトーンの演技を堪能できるのはうれしいけど、同時に非常に複雑な気持ちも抱えざるをえないのである。
校長が暴れるたびに喜びつつも、「オレの緒方賢一を汚さないでくれ……」と悶えるのであったことよ。マジで。◇
2期シリーズにあたる『もっと To LOVEる -とらぶる-』も見てみたよ。
説明なしになんかいろいろ増えてる! マンガ読んでないからこそ、そこの経緯を知りたいのに!
絵が気合いを感じさせるソフトさで、けっこう違うなあと思う。アニメファンはそういうところにこだわるのかな。
それにしてもクイックマンステージくらい白い光が画面の中を走るぜ。タイムストッパーを使わないと攻略できんぜ。
そして校長の暴走っぷりはエスカレート。オレの緒方賢一を汚さないで……ああ……。
八代亜紀に続き冠二郎も亡くなったとは。方向性は違う感じだが、知っている演歌歌手が亡くなっていくなあ。
こういう訃報を聞くたび、演歌もしっかりiPodのライブラリに入れなくちゃ、と思う。きちんとした歌を増やさねば。八代亜紀というと、僕は『ハイスクール!奇面組』が好きなので、「三畳紀 ジュラ紀白亜紀 八代亜紀」なのである。
ちなみにこの俳句はきちんと中生代の古い順になっており、覚えておいて損はない。同じく少年ジャンプ関連では、
『ラッキーマン』の「ラッキー クッキー 八代亜紀」が有名らしいが、僕は『臨機応変マン』派なのでよく知らない。
でもそのテーマ曲(OPとEDの両方)を歌ってくれるあたりにその人柄が偲ばれることにはまったく同意である。
そもそも嘉門達夫の『替え唄メドレー』が『リバーサイドホテル』の「誰も知らない素顔の八代亜紀」で始まるのだが、
嘉門達夫は絶対に井上陽水だけでなく八代亜紀からも許可をもらっているわけで、その点からしても偉大なのである。
八代亜紀はバラエティ番組に出ていつも笑っているイメージしかないなあ。訃報を聞いて、ただただションボリである。冠二郎についてはもう、『冠Revolution』を持ってますので。『炎』『ムサシ』『バイキング』のネオ演歌三部作、
きちんと押さえておりますので。3曲揃っているベスト盤が意外となくて、違うベスト盤を複数回借りておりますので。
真似できない絶対的な歌唱力で魅せてくれる演歌も好きだが、親しみやすい演歌で間口を広げてくれた冠二郎も好きだぜ。
遠藤保仁が引退とのこと。日本サッカーのレジェンドがどんどん引退していくなあと淋しくなるが、
よく考えたらみんな最近まで平然と現役をやっていたこと自体が凄かったのである。いや本当にお疲れ様でした。実際に遠藤のプレーを見たのはおそらく3試合。ハンドスプリングスローが話題になった日本代表のアイスランド戦、
あれがたぶん初めてで、ボールを持つことで日本に有利な時間をつくることに感心した記憶がある(→2012.2.24)。
Jリーグでは、J2に落ちたガンバ大阪がドサ回りして地方クラブのチケット売り上げに多大なる貢献をしていた2013年、
鳥取でのアウェイゲーム(→2013.8.21)と万博記念競技場でのホームゲーム(→2013.9.29)を観戦している。
リズムをつくる代表でのプレーと違い、クラブではやや低めの位置から一気に相手を陥れるパスが目立っていた印象。
小野ともまた違う方向で、真似のしようがない選手だったと思う。プレーを学びたくても学びようがないというか。
強烈な個性を持ったフットボーラーがピッチを去るのは残念だが、存分に楽しませてもらった感謝の気持ちでいっぱいだ。
授業が始まるが、喉がまったく本調子ではない。とりあえず大声は出さず、のど飴を舐めながらしゃべる。
思うように抑揚をつけられなかったり、小粋な脱線ギャグを諦めざるをえなかったりと、非常にストレスが溜まる。
一生このままかもしれん、と思うと、なかなか切ないものがある。歳のせいかのう。
本日はろくすっぽ何もせずにひたすら日記を書いて、来るべき日常生活への覚悟をゆっくりと固めるのであった。
それにしても、いよいよMacBookのバッテリーが限界だ。さんざん使い込んだ相棒との別れはつらいなあ……。
青春18きっぷで東京まで戻るのだが、せっかくなので伊那でベルディのピザをいただくのであった。
聖地・ベルディ。
3人でラージ2枚にレギュラー1枚というヴォリュームもキツくなってきた今日この頃。
ちなみに全盛期には4人でラージ4枚にレギュラー1枚食っていた。育ち盛りってすごかったのね。
L: ガーリック。 C: フレッシュトマト。 R: バジリコ。まあこの3種類に収斂されますわな。伊那市駅から各駅停車の列車に揺られるが、ホームで見た看板の店の名前がぜんぜん読めない。
教養がないのは恥ずかしいなあ、と思うのであった(正解は「だるま」。漢字で「多留満」ですかな)。右の「ざゞ虫佃煮」も要チェックや!
上諏訪駅でいったん下車し、片倉館(→2010.4.3)の千人風呂に浸かる。浸かるのはかなり久しぶりだったが、
「千人」は言い過ぎだよなあと思う。サイズ的にはちょうど百人くらいか。でも適温で存分に楽しませてもらった。諏訪湖。周辺は近いうちにリヴェンジして動きまわりたいと考えている。
帰り道は雪が舞うくらいに冷えてきた。小淵沢、高尾、立川と乗り継いで夜9時過ぎに戻る。ああ、日常が始まる……。
夜になり、バヒさん宅でトシユキさんと3人で集まって飲む。久々のモゲ夜会(→2023.8.15)である。
今回は白州のハイボールから始まってシークワーサーワイン、梅酒のワインというラインナップで、
すべてアルコール度数が1ケタだったので「おとなしい飲み」とのこと。うーん、まあ、そうではあるね。
話題の中心は酒だが、量子力学でパレスチナ問題を解決できねえかとか、ホウレンソウで結石になろうとか、
いつもどおりのテキトーなユルさなのであった。それでいいのである。お盆もまたよろしくなのである。
しかしまあ、実家で好きな音楽を聴いて過ごすのは最高にいい気分ですな。
思えば前の実家でも、部屋に差す光を浴びながら音楽を聴くのはたまらなく好きな時間だった(→2003.1.25)。
ジジイになって寿命が近くなったら一日そうして呆けて過ごすんだろうな、と今から容易に想像がつく。
元日の日記で書いたとおり、今年の正月休みは御守ページ(⇒こちら)をまとめまくっております。
凄まじい量の御守があって、どうにか撮影は進めているけど、撮った写真を加工することは放ったらかしなので、
それを一気にやってやろうというわけ。あまりにも量が膨大すぎて、途方に暮れつつも歯を食いしばって作業。やっていて思ったのだが、御守ページはもう年イチ更新でいいんじゃないかと。サムネイルの整理だけでも一苦労で、
それなら日々少しずつ加工を進めていって、年末年始に一気に更新する方が手間がかからないと思われるのだ。
一日一社ペースで構わないので作業だけ進めて、更新はしない。まあ新年のお楽しみということで、どうだろう。
バヒさんに会うのであった。昼にカレーを食ってから冨士山稲荷神社(ふじやまさま、→2023.1.2)へ初詣。
ちなみにふじやまさまにはネコを祀る猫神社があり、ふたりとも巫女さんから猫御守を頂戴するのであった。
「これでネコと和解できるぜ!」と息巻くわれわれ、そのまま妙琴原へと突撃する。バヒさんによると、
前にやたらと人懐っこいネコがいたとのこと。しかしいざ妙琴原に着いてみるとただただクソ寒いだけで、
ネコの気配は微塵もないのであった。おっさんふたり、正月から頭が悪すぎる。今年もこんな感じなのであろう。その後はおなじみのコース。平安堂で登山方面の情報収集をしたり、なぜか唐揚げ屋でアイスクリームをつついたり、
ブックオフで『サクラクエスト』(→2022.6.11)のブルーレイを買ったり、行きつけの喫茶店でコーヒーをいただいたり。
とりあえず屋久島計画の実行は来年ということで、今年はその予行演習としてどっかの百名山に登ることに決定。
地震から一夜明けて現地の状況が映像で見られるようになってきた。自転車とバスで通った珠洲飯田の家並みは崩れ、
歩きまわった輪島の朝市通りは茶色い瓦礫で埋め尽くされている。場所がなんとなくわかるだけに、こちらも苦しい。
苦しい感情を勝手に共有したところでどうにもならないのだが、今はそうしてリアリティを持って祈るしかないのだ。そして18時近くになって、今度は羽田空港で事故が発生。飛行機が燃えている映像に衝撃を受ける。
今年は正月から何がどうなっているのか。そのうち着陸する飛行機が衝突して爆発・炎上する映像も出てきて、
ただただ呆気にとられる。とはいえ消火の映像を見るに、なりふり構わず救助しようという緊迫感はないようだ。
乗客は脱出したのだろうと希望的観測をしていたらそれが現実だったので、ひとまず安心。しかし海保機の爆発はキツい。
Uターンラッシュを控えた羽田空港の利用客もキツかろう。広がる「痛み」に、どうにかなってしまいそうだ。
ふだんから当事者意識というか想像力というか感受性というか、そういうものを大切にしなければと思っているんだけど、
さすがにこの2日間はいろいろありすぎる。これはちょっと、真っ正面からは受け止めきれない。
今年は実家でいつもより長めに過ごすので、Windowsマシンに外付けHDを持ってきてひたすら作業である。
いつもながらの寝床で作業するスタイルで御守の写真と格闘していたら、夕方になって地震が発生したのであった。
震度としては3だろうが、やたらと長いのがイヤな感じ。いつものように揺れがひどくならないように祈っていると、
そのうちおさまってくれた。それで震源どこだとネットを当たってみたら、「石川県能登地方」ときたもんだ。
慌てて居間に下りてNHKを見ると、そっちでは震度7を観測したそうで、正月からとんでもないことになってしまった。奥能登は14年前と5年前に訪れた(→2010.8.23/2019.11.3/2019.11.4)。輪島で朝市を堪能し、珠洲でネコと戯れた。
そして2007年の能登半島地震の傷がまだ癒えていないことに衝撃を受けた。そんな能登半島が、またしても地震で。
特に輪島市内の火災は手が付けられない状況で、楽しく歩きまわった場所が失われる哀しみは言葉にできない。
バスの運転手さんをはじめ奥能登の人たちはみんな親切だったのに。どうしてこんなことに。災害とは理不尽すぎる。
一度訪れた場所は、もう他人ごとではなくなる。どこがどんな場所なのか、記憶に刻まれて感情が共有されるので。
テレビを見ながら「世界の痛み(→2005.7.11)」を引き受ける。そうすることで、現地の痛みが薄れることを願う。