日本近代文学館で展示中の『教科書のなかの文学/教室のそとの文学II──中島敦「山月記」とその時代』を見に行く。
中島敦大好きっ子で、性、狷介、自ら恃む所頗る厚い僕としては、絶対に見に行かなくちゃいかんのである。『山月記』はいい。誰もが秘めるものを「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」とはっきり言語化して容赦なく突きつける。
何より中盤のモノローグのスピード感がたまらないのだ。駆け抜ける虎を思わせる速度で吐露される心情は、
李徴のものであると同時に、読者の過去と現在と未来のものでもある。中島敦は迫る。「虎だ! お前は虎になるのだ!」
これを情操教育として高校生の間に必ず味わうことになるとは、なんて日本は素敵な国なのか。心からそう思う。
(なお、『李陵』はこれから肉付けされる前の単なる下書きにすぎないと思っている。やたら評価が高いのが不思議だ。)展示は高校教科書とNHKの映像にはじまり、元ネタの『人虎伝』、時代背景(関東大震災とプロレタリア文学)、
そして山月記と中島敦の重なりについて、といった感じ。神奈川近代文学館がたくさん資料を所蔵しており、
そのコピーが展示されていた。関連資料をかなり幅広くかき集めており、中島敦愛がしっかり感じられて楽しい。
勤めていた女学校の試験問題を草稿にしていたり、深田久弥からの手紙があったり、それだけで面白くてたまらない。
将棋がやたらめったら強かったそうだ。教員時代は生徒に人気があったとのこと。また引っ越しを繰り返しており、
特に少年期のソウルと青年期の南洋での生活は作品に大きな影響を与えた(南洋は病気で苦しんで後悔したそうだが)。
展示を見て、あらためてきちんと作品を読み直さなければ、という気分になる。名作を読まないと感性が錆びる。◇
ところで日本近代文学館のある駒場公園は初めて訪れた。目黒区めぐり(→2021.8.5)では完全にスルーしており、
旧前田邸の存在に今回初めて気がついた。物を知らず本当に恥ずかしい。晴れている日にあらためてリヴェンジしたい。
台風の影響で猛烈な雨の中を出勤したのであった。しかし気がついたら台風の勢力が急激に弱まっていてびっくり。
ネットでは屋久島の宮之浦岳にぶつかって勢いが弱まった、という説が囁かれているのであった。本当かね。
ほぼ独立峰のようなものだからそこまで抑止する力はないだろうと思うけど、考え方としてはわりと好き。
しかし台風10号は異様な遅さで被害を与え続けている。おかげで週末の予定がまったく読めないではないか。
今年の夏は日差しがドゥームズデイだったが、台風もドゥームズデイとは困ったものだ。今後はもう勘弁してほしい。◇
夜はなんとなく金曜ロードショーの『天空の城ラピュタ』を見る。あらためて見てみると、とにかく隙がない。
詰まりに詰まっていて無駄がない。そのシーンの中でできることをぜんぶやっていて、すべての演出に意味が込めてある。
そしてその意味を(無意識も含めて)観客が理解したタイミングで次の展開に移る、そのリズムというか間の取り方、
それが絶妙なのだ。単なるテンポの良さではなく、シンコペーションなのだ。ドラムス的に言うと前に入ってくるクイ。
8/8拍子じゃなくて7/8拍子みたいな感じ。きっちりスクエアなリズムではなく、ワンテンポ前で次のシーンに入る。
マンガの実写化なんかがひとつひとつステージをクリアするようにシーンを撮っていくのとは正反対の価値観で、
情報詰め込みまくって観客が理解した瞬間に次に進むから切れ目がない。結果、ストーリーに乗せられてしまうのだ。もうひとつすごいのが、コナンの足の指(→2009.10.9/2022.9.14)なんかもそうだが、やはりアクションの描き方である。
足音させずに歩くシーンなど、見ている者を無言にして固唾を飲ませる、その場にいる気にさせる表現力がすごい。
ただ場面を描くのではなく、身体性を共有させるアニメーション。これはもう、生まれたときからつくり方がわかっている、
そういう種類の才能のなせるわざなんだよなあ(参考として、庵野秀明『じょうぶなタイヤ!』 →2021.12.19)。この稀代の能力ふたつが噛み合っているのが宮崎駿の恐ろしさ、ジブリの凄みということになるかと思う。
娯楽の教科書そのものですよコレ。何から何まで教科書で、その教科書をゼロからつくっていることが信じられない。
デジカメを修理に出したのは前に書いたとおりだが(→2024.8.22)、本日なんと部品がなくて修理不能と連絡が入った。
最悪の事態だが冷静に考えると当然で、愛機のCanon PowerShot G1 X Mark IIは10年前のモデルなのだ(→2022.1.23)。
さあ、どうするか。ゴミが写らないように気をつかいながら使い続けるか、お高いRX100シリーズに移籍するか。
ちなみにスマホは先日の烏山神社で色合いが不自然で気持ち悪かった(→2024.8.24)のでありえない。二択である。
そろそろパソコンの買い替えも考えなくちゃいけないのに、これは痛い。物が壊れるときは一気に来ると前に書いたが、
またしてもその波が来てしまったのか(→2016.11.23/2019.9.17/2023.10.31)。今回は間隔が短かすぎやしないかね。
毎度おなじみ戸栗美術館『古伊万里から見る江戸の食展』。
今回は観賞用ではなく実用の食器をメインとしているので、展示されている陶磁器は非常に民藝っぽさがある。
(参考までに、大阪日本民芸館(→2013.9.29)、鳥取民藝美術館(→2017.7.17)、日本民藝館(→2021.8.5)。)
ただ、民藝は商業主義とは真っ向から対立するものなので、初期の古伊万里は民藝の範疇に入りうるだろうが、
商品として幅広く流通した中期以降の古伊万里は民藝とは呼べないはずである。とはいえその分、質はずっと高い。やたらめったら蛸唐草文が多かったのだが、これはいったいなぜなのか。また、花唐草文も目立っていた。
蛸唐草文は空白を埋める模様として描きやすかったのだろうか。それで庶民向けの陶磁器に多く採用されたのか。
展示されていた器じたいについては、実用的なものばかりなので、絵よりもデザインとしての魅力を持ったものが多い。
蛸唐草文もそうだが、雪輪模様や雷文模様をはじめ複数のデザイン要素を組み合わせるバランスのよさが味わえた。
こういう食器の優品を使うと食事のテンションが上がるよなあ、と思う。江戸時代のプチ贅沢の食卓を想像してみる。
また、装飾性より実用性を重視しているので、染付が中心となっていた点も自分の好みにハマった格好である。
日用品にこれだけこだわるってのは、完全に日本人のおたく気質のなせるわざだと思う。楽しい国に生まれたものだぜ。左側の2つが蛸唐草文。シンプルな形状に優れたデザインの染付で見応えがあった。
逆を言うと、デザイン的にはやり尽くして完成形に至っているのも事実。「これでいいんだよ」的な器ばかりで最高。
オオタニサンの活躍ぶりには毎日呆れているのだが、本日もうひとつ大いに呆れるニュースが報じられた。
史上初の「同じ試合に両チームの選手として出場」という記録が発生したそうだ。メジャーはなんでもありの世界だが、
さすがにこの事態が現実に起きるとは……。さすがはメジャーリーグってもんだねえ、という言葉しか出てこない。
サントリー美術館『徳川美術館展 尾張徳川家の至宝』。
尾張徳川家のお宝を所蔵する徳川美術館だが、実は僕はまだ行ったことがないのである。お恥ずかしい。
名古屋だから帰省ついでに寄ればいいのに、夏は屋外を走りまわるし、冬は年末の閉館期間に引っかかるしで、
これまでずっとスルーしてしまっていた。まあ名古屋は美術館が弱いので美術鑑賞じたいが選択肢に上がらないのだが。
で、いい機会だからきちんとお宝を見ておこうと思ったわけである。いつか名古屋にも行かねばならんなあ。展示内容はとにかくジャンルが多様で面白い。しかもさすがにぜんぶモノがいい。
美術館でも博物館でもいけるレヴェルで、見応え十分。家康の備蓄用松明とかよく残したなと呆れてしまう。
当時最高峰の職人の仕事が凄まじい。近代じゃないから技巧に走りすぎておらず、分をわきまえた美しさがたまらない。
印象的だったのが、尾張家初代・徳川義直の具足。銀溜(ぎんだみ)の美しい色合いが派手すぎず地味すぎず絶妙。
また、香道のミニチュアな道具たちも興味深い。デザインが見事なのは源氏香の図(→2019.3.18)だけじゃなかったのだ。
国宝や重要文化財だけがすべてではなくて、大名が心惹かれたお宝の「質」を味わうのは目を肥やすのに最適ってところ。
そして武具をはじめ、茶道、能、香道、書、楽器、調度品などジャンルの「量」に圧倒される。殿様すごすぎますわ。
単純に権力がすごいというだけでなくて、価値を理解できる教養がすごい。どれだけ勉強していたのかとただただ感心。
というわけで、マサルに誘われて「ボードゲーム第6回超新作体験会」に行ってきた。なお会場は表参道のオサレ空間で、
それだけでなんとなく卑屈になってしまう私。少し遅れてやってきたマサルは仕事が終わっておらず、会場で仕上げ作業。
ボードゲームガチ勢の皆さんばかりでケツの毛までむしられるんじゃないかと不安な私は、ただボケッと待つのであった。
なお、本日のマサルのTシャツは、先月ザ・ドリフターズ展(→2024.7.28)で買った「威勢のいい銭湯」Tシャツ。
対する私は、昨日の伊藤潤二展で買った富江Tシャツ。ふたりでファッションリーダーぶりを存分に発揮したぜ。さっそく残った仕事を片付けるマサル。
仕事が終わるとマサルはコミュ力を発揮して、空いているテーブルへと迷わず向かう。この辺が偉いなあと思う。
で、本日最初にチャレンジしたのはアークライトゲームズ『キャットと塔』。昔、実家にあった「ぐらぐらゲーム」系で、
場にあるカードの指示に従って紙のパーツを立てて塔をつくり、ネコの人形を置いていくという協力型のゲームである。
基本的にパーツの高さが左右で異なっていて、塔はどんどん不安定になっていく。そしてネコの人形もバランスが難しい。
やっていくと指の湿度と紙の摩擦がなかなかハード。最後は主人公のネコ(トトくん)を置き直すところで僕がミス。
10段成功直前での失敗ということで、なんとも悔しい。小学生くらいの子どもだったらかなり夢中になると思う。パーツを載せるマサル。10段くらいになると紙の摩擦がかなりシヴィアなのだ。
続いては、Saashi & Saashi『午前1時の大脱走』。ぱっと見はUNOっぽいのだが、やってみると意外な独自性がある。
1〜8まである手元のカードを順子か刻子で出していくのだが、自分の出せる枚数は前の人が出した枚数-1〜+1となる。
そして必ずカードを補充する必要がある。4人制だと先にカードがなくなった2人が勝ちで、残った枚数がマイナス点。
これを3ゲームやって、マイナス点の最も少なかった人が優勝というのが基本的なルールである。で、独自性とは、
相手との駆け引きの要素が若干薄めであること。相手を気にしつつも、まずは自分の手札を整えることが最優先となる。
このバランスが今までのゲームにあまりない感じ。あとはメーカーの方がおっしゃっていたことが非常に印象で、
「70代の自分の母親でもわかるルールにする」とのこと。そのとおりのとっつきやすさが大きな魅力だった。戦略をどうするか頭をひねるマサル。
お次は、ホビージャパン『エスペライゼーション』。自分たちで新たな言語(語彙)を生み出してお題を当てるゲーム。
第1ステージから第3ステージまであり、お題がシンプルなものから複雑というか当てづらい局所的なものになっていく。
最初に「はい」「いいえ」を設定するが、マサルが「はい」を〈ンジョモ〉、僕が「いいえ」を〈ンガンガ〉とする。
なんで相談なしにやってふたりとも〈ン〉から始まるのか。HQSらしいひねくれ精神が発揮されてしまうのであった。
(いちおう僕は、井上ひさし『紙屋町さくらホテル』の「否定語にはn音が入る」を参考にしたのだが。→2016.7.9)
さらに途中で語彙を増やすことができるボーナスがあるのだが、マサルは〈オオキボンド〉とか〈オオキコダマ〉とか、
そんなシニフィアンばっかり出しやがる(いちおう「オオキ」を接頭辞にするという意図があったようだが)。
僕も〈アンタバカア〉とか〈ウワ〜オ(※東村山的発音)〉などのシニフィアンで対抗するのであった。
序盤はヒントを使わず最短距離で当てにいっていたため、語彙が増えずに終盤になってかなり苦しくなってしまった。
最後にオーウェル『1984』の「新語法(newspeak)」(→2009.12.4)を参考に「善/良い」という単語をつくったら、
やっぱりこれが効いたのであった。もっと早くつくっておけばよかった。で、マサルが「テキーラ」を当ててクリア。
ゲームとしては、やる内容は比較的単純なのだが、そこに至るための準備にかなり手間がかかるのがいただけない。
簡単にできることを複雑なシステムにして、かえって面白みが削られているように思う。変に難易度にこだわりすぎ。
L: 考え中のマサル。それにしても「威勢のいい銭湯」Tシャツのインパクトがすごい。
R: 第2ステージまではジェスチャーOKなので、それでだいぶ助かった感じ。マサルの強い希望でやってみたのが、Engames『フォルティッシモかるた』。実際にある音楽記号にもとづいて、
カードで指定された言葉を読み上げる。cantabile(カンタービレ)の「歌うように」は有名だが(→2005.8.20)、
そういったちょっと抽象的なものもあるし、強弱や速度に関するものもあってなかなか多様。読み手はローテーションし、
正しい取り札を選ぶと取った人と読んだ人に点が入る。そうして先に3点取った人が勝ちというルールである。
やってみたら僕とマサルの息がまったく合わないんでやんの。それで僕らと一緒にやってくれた人が圧勝なのであった。嬉々として札を読み上げるマサル。
わりとガチ勢っぽい皆さんの評価が高かったのが、テンデイズゲームズ『メソス』。石器時代が舞台のゲームなのだが、
僕は最初の説明でもう何がなんだか。「ドラフト」という言葉を聞いて、ようやくこのゲームの目指すものがわかった。
つまりはトレードオフの関係性の中で、食料を集めたり宝物を集めたり家を建てたりシャーマンを雇ったりしながら、
最終的には高得点を目指すというわけなのだ。しかし僕は行動と得点の関係性がつかめないので、完全に五里霧中。
要領がつかめない異動1年目にポンコツなのと一緒で、ゲームの目的がルールと噛み合わないうちはどうにもならない。
そんなわけで何の面白みも感じられないまま一人負けとなったのであった。いちおうカードには記号で説明があるが、
あえて言葉を使っていないせいもあって、これが恐ろしくわかりづらい。食料と得点が直接つながらないことも、
ゲームをただ複雑にして初心者を遠ざけているだけのように思う。ゲーム慣れしている人ならスッと入れるだろうが、
ふだんゲームをやらない人は、面白みが感じられるようになる前に「もういいや」と諦めてしまうのではないか。目的と手段のつながりがわからないゲームはつらいです(マサルは楽しんでいたよ)。
最後は、CMONJAPAN『AIスペースパズル』。海戦ゲームをベースにして、そこにコミュニケーションを加えた感じ。
プレイヤーはAIと宇宙飛行士に分かれ、AIの指示に従って宇宙飛行士の人形を配置する。ただしAIの出せる指示は、
絵の描かれているチップ5枚分のみ。チップを組み合わせて、決まった回数の中で正しい並べ方を当てるゲームである。
条件で難易度が大きく変えられるので、その分しっかり楽しめる。AI役のマサル曰く、色の指示が難しいとのこと。
なお時間がなくてできなかったが、同じCMONJAPANの『マイセリア』(通称:キノコ)がかなり熱いゲームみたい。
気になるので機会があればいずれやってみたいものですな。マサルが買って姉歯でやってみればええんよ。あの手この手で指示を考えるマサル。
というわけで、今回は6つのゲームを遊ばせてもらった。私ゃ最初っから最後までほぼ全敗ですよ。頭がカタいと反省。
思ったのは、協力型のゲームだと初心者は周りとルールの確認をしながら進めることができるのでとっつきやすいが、
対戦型のゲームはいきなりやらされてもどうにもならねえということ。そう考えると『午前1時の大脱走』は優しい。
しかしまあ、こういうゲームをいろいろ考え出せる脳ミソってのは、本当に大したものだなあと感心しますわ。◇
その後は渋谷に出て晩メシ。耳鳥斎(→2024.3.13)の話で盛り上がったのはたいへんうれしゅうございました。
今回のマサルのワースト妄言は、「紀州のドンファンええね! 僕も後妻に殺されたいわ」。まず一度結婚しないとな。
あとは日記について。なんでもかんでも記録に残す僕のことを「書記長」と呼んでくれ。でも「総書記」とは呼ぶなよ?
午後から部活なのだが、それなら午前中に伊藤潤二展を見ておこうということで、千歳烏山へ。
駅前で朝メシをいただいてから会場の世田谷文学館へ向かうが、途中の烏山神社に参拝しておく。
もともとは御嶽系の神社だったが、現在の主祭神は白山比咩大神で白山系。残念ながら御守はございませんでした。
L: 烏山神社。 C: 拝殿。 R: 本殿。今回はスマホで撮ったので、なんとも色が変に劇的でウソくさい。では世田谷文学館で開催中の『伊藤潤二展 誘惑』について。世田谷文学館に来るのは初めてで、文学館なのにマンガ?
……正直そう思わなくもない。個人的には、文学と展示は本質的に相性がよくないと思っているので(→2018.8.12)、
世田谷区がこの問題をどう解決しようとしているのかは気になる。でも常設展を見る暇がないのであった。残念。世田谷文学館。1995年に東京23区で初めての近代総合文学館として開館。
まず上手いな、と思ったのが、入口の自動ドアである。椅子に座る富江の絵がシートで貼り付けられていて、
これから富江の世界に染まっていくのかと思うとゾクゾクしてしまう。まあ読んだことないんだけどな!
だってホラー漫画怖いんだもん!! 伊藤潤二はウチのソムリエこと潤平が昔から大絶賛していて、それで知っているのだ。
で、さすがソムリエ、気がつきゃ世界的に大人気。だから読んだことないけど絶対に展覧会に行くと決めていたのである。
おそらく作品を一冊どころか一話も読んでいない来場者は僕だけじゃなかろうか。不届者で申し訳ございません。
L: ドアの富江。どうやってもきれいに撮れず、わかりづらくて申し訳ない。スマホを構える僕が間抜けな丸写りでかっこ悪い。
C: サイン。これいつも富江もセットで書いてらっしゃるんですかね? R: サイン横の自画像。いや、さすがだなあと。中に入るとまずショップなのだが、ほぼ朝イチでの来場にもかかわらず、すでに人でいっぱいなのであった。
フランス語を話している白人女性もいたぜ。なぜか鼻輪しとったぜ。サブカルクソ女は世界中にいるんだなあ。
それはさておき、まずは伊藤潤二作品の象徴とも言える存在の「富江」から。まあファム・ファタールですわな。
富江の他者を利用した自己増殖ぶりに、『パラサイト・イヴ』(→2005.2.3)のミトコンドリアをなんとなく思いだす。
マンガだからどうしてもヴィジュアルが先行するが、SFで科学の危険な面を強調していった先にある領域、
さらには科学で説明できる領域を想像力で超えていくと、ホラーというジャンルが現れてくるのだと思った。
もっともそれはホラーの一側面でしかないのだが、伊藤潤二の場合はSF的な角度での練り上げ方が強いと感じる。
L: 『富江・チークラブ』。今回の展覧会のメインヴィジュアルになっていたやつ。
C: 『アングレーム国際漫画祭 公式ビジュアル』。 R: 『地下室』。1989年の富江シリーズ。
L: 『ある集団』。絶世の美女と彼女に憧れて狂っていく有象無象の男子。こりゃもう人間の本質なんだからしょうがない。
C: 『もろみ』。「ついに酒になってしまった富江。私も呑んでみたい。きっと悪酔いする。」との作者コメント。
R: 『富江』。「また新しい富江がやってくるっ!!」ということで、またやってくるのか……と思う。読んだことないけど。
L: 『伊藤潤二×藤本圭紀「富江」コラボレーション・スタチュー』。なんだか面長でイマイチ。立体化は難しいよなあ。
C: 外国語に翻訳された単行本。 R: 伊藤潤二の愛蔵書・DVD。ホラー漫画はもちろん、SFや名作映画が並ぶのが興味深い。世界的に支持を集めるベースにあるのはもちろん富江という究極のファム・ファタールを描ききる画力だが、
それをホラーという土壌にもってきたことの妥当性が、いちばんのポイントだったのではないかと思う。
ではホラーとは何なのか。僕はホラー映画というと『悪魔のいけにえ』(→2020.5.10)くらいしか見ておらず、
(あとはSFも絡んでくるけど『エイリアン』(→2020.5.5)くらい。『エイリアン』は愛蔵DVDの中にあった。)
とてもホラーを語れるようなレヴェルにはない。だってホラー映画怖いんだもん!! しかし今回の展示から、
伊藤潤二が引っ張ってきたネタを眺めていると、ホラーにおいては「土着性」が重要な位置を占めているのか、
という気がした。自分が生まれるより前から存在する因習。否応なしにわれわれを巻き込んでいく制度。
家族や共同体が理性に揺さぶりをかけてきて、異常性を強要する。そしてその空間から逃れることができない。
アメリカ映画の『悪魔のいけにえ』もこの系統だから、洋の東西を問わず普遍的な様式として成立しているはずだ。
(一方、都市で最も怖いのは個人だ。直接的な犯罪行為の方が説得力を帯びており、それはミステリへ移行する。)
もうひとつ、伊藤潤二のホラーには、身近な生活から崩れていく恐怖感もある。日常の何気ない行動様式が、
戻れない決定的な非日常へと転化していく内容もみられる。「誰にでもありうること」が恐怖へと引き込まれるが、
その飛躍にはやはりSF的な想像力が挟み込まれていると思う。この身近な「落とし穴」を見つける能力が高いのである。
L: 『ご先祖様』。これは土着・因習型のホラーであろう。 C: 『四つ辻の美少年』。こちらは生活型のホラーかと。
R: 『死びとの恋わずらい スケッチ、試作案』。ネームや登場する住宅・部屋の間取り図などが描かれている。
L: 『四つ辻の美少年』の展示であった恋みくじ。 R: 引いたら大凶で大爆笑。でもこれ、ぜんぶ大凶なのかもしれないなあ。想像したことを絵として精確にアウトプットできる凄みに圧倒されるが、一方でそこには冷静な眼差しが見受けられる。
肉や骨について、どこか観察めいたタッチで描かれており、読者に衝撃を与える目的の誇張や強調が感じられないのだ。
これは手塚治虫『ブラック・ジャック』(→2023.10.19)における身体性に近いものがある。やはり漫画家となる前に、
歯科技工士として働いていたことが大きいと思う。ホラーの重要な様式として「自分が自分でなくなる恐怖」があるが、
伊藤潤二の場合は特に、身体を冷静に描くことで自分の身体が自分のものでなくなる恐怖を精確に表現してみせる。
展示されている絵をざっと見た限りでは、とりあえず「土着性」「日常性」「身体性」という面が強く印象に残った。
あとはホラーのコツとして、欠如ではなく過剰を示す手法があるのかな、と思った。われわれは何に恐怖を感じるのか、
つまりは恐怖の類型化から、文化人類学的な分析ができるんじゃないか、なんてところまで思考が刺激された。
L: 『うずまき』カバー用イラスト。 C: 『第1話 うずまきマニア(その一)』。凄まじい描き込みっぷり。
R: 『第1話 うずまきマニア(その一)』。守口漬がヒントとか勘弁してくれー! しかしどういう想像力をしているのか。
L: 『第5話 ねじれた人々』。身体型ホラーの一例かと。 C: 『うずまき』の展示 。 R: 端っこにコイツがひっついている。
L: 『ギョ』カバー用イラスト。 C: 『第4話 ホオジロザメ侵入』。これはどちらかというとサメ映画的ではないか。
R: 『第11話 青白い華織』。しかし作品本体を読まずにコマの絵からホラーを論じるとか、みっともなくってすいません。
L: 地獄星レミナ『第3話 疫病神 漫画原稿(デジタル作業[トーン、ベタ]あり)』。 C: こちらはその手描きの線画。
R: 『闇の絶唱』。(叫び)声もホラーの重要な要素だが、こういう狂気を理性で表現するって、あらためてすごいことだと思う。ホラー漫画の特徴なのかわからないが、基本的に一話完結で明確に結末がある、オチのあるストーリー形式であることも、
単なる娯楽ではなく芸術面で捉えることに有利にはたらいていると思う。ストーリーの発想力・構成力がきちんとあって、
そのうえで画力が発揮される。そういう完成度が求められる点は、ホラー漫画が支持されている大きな要素であろう。
L: 『伝説探偵団』CDジャケット用イラスト。 C: 『中古レコード』。ホラーではない絵もいちおう貼ってみる。
R: 『棺桶』カバー用イラスト。双一の顔がすごい。ホラー漫画の表情というものはたいへん奥が深いと思わされる。
L: 泉鏡花原作『黒髪』。 C: 『いじめっ娘』。こういう表情を生みだせるってのは、いったいどういうことなんだろう。
R: 『貝殻戦争』。「伊藤がプロを意識して初めて描いた漫画作品」とのこと。しっかり残っていることがすごい。
L: 『深海の美女』。 C: 『書店用販促POP』。 R: 『リースの月』。やはり美人画すげえ。自宅を再現しているのか? そんな感じの一角。
今回の展覧会はホラー一辺倒ではなく、伊藤潤二の持つギャグの側面もきちんと紹介している。
なるほど「最も極端な表現を追求する」という枠で考えれば、ホラーとギャグの違いは紙一重でしかないのだ。
ナンセンスギャグが突き抜けてしまった形態、ギャグをどこまでもクソマジメにやって説得力を持たせた状態、
そこにはギャグとホラーのヴェクトルが重なってしまう瞬間が確かに存在する。荒唐無稽な笑いの先に恐怖がある。
(一例として、「口裂け女」を非現実だとして笑えばギャグになるし、現実だとして怖がればホラーになる。)
その領域まで到達するには、リアリティという要素が重要なのだろう。ホラー漫画はリアリティと逸脱の両立である、
そう考えると、ホラー漫画が作品として成立する条件には、実は何か重要な本質が込められているように思えてくる。
L: あとがき。富江に捕まった作者。 C: 『伊藤潤二の猫日記 よん&むー』。猫かわいがり。 R: 『ネコーディオン』。少年時代の資料も豊富。最初っからクリエイティヴだったことがよくわかる。みうらじゅんもそうだが(→2018.3.18)、
こういう幼少期の恥ずかしいものをしっかりと残しておき、しっかりと展示してみせるところが偉大なのである。
L: 少年時代のスケッチなど。 C: ルーズリーフのラフスケッチ。よく残してあるなあと感心する。
R: 『魔増の村』。「中学生の時に初めて作ったオリジナルの漫画」とのこと。
L: 創作ノート。 C: 友人と制作した同人誌。 R: 書きためていたSF小説など。では最後にもう一度、富江を中心にまとまらないまとめ。めちゃめちゃ美人が描ける、というのはやはり強い。
系統は違うが、江口寿史的な威力(→2016.1.27/2023.4.14)を感じる。かちっとキマる感じがあるのだ。
ただ、江口寿史が顔のパーツを純化してさまざまなアングルに対応できる作風となっているのに対し、
伊藤潤二は斜めのアングルに特に強い印象(それこそリキテンスタインの『ヘアリボンの少女』と同じアングルか)。
そして特徴的なのが、切れ長の目の和風美人であるということ。上で述べた「土着性」と絡むのかもしれないが。
(そういえばマンガに出てくるのは日本人ばっかりだなと思って、それで「土着性」に気づいたのだが。)
欧米人を描いたらゴルゴになりそうな予感。そうなると劇画とホラーの親和性(つのだじろうの影響?)についても、
あれこれ考えるきっかけになる。世界的な人気と富江オリエンタリズム。ジャポニズム。アール・ヌーヴォー的雰囲気。
パッと思いついただけでもこれだけの切り口がある。「ホラー漫画」に留まらないものがひしめいている。
L: 『富江の世界』。本展のための描き下ろしイラストとのこと。
R: 『富江・蛇』。本展関連イベント「ライブドローイング」にて描き下ろされたイラストとのこと。最後の方には参加型メディアアート展示『うずまき』があった。スマホ片手になんだかよくわからないうちに撮られ、
なんとも間抜けな表情になってしまったが、これはこれで気に入ったので今後肖像写真として使おうかな。
L: 間抜けな表情で申し訳ない。 C: おおーうずまきに呑まれるー R: おそまつさまです。たくさんの絵に囲まれて、結果的に伊藤潤二ワールドに引き込まれる体感型の展覧会になっていたように感じる。
これもある種のお化け屋敷なのかもしれないなあ、なんて思うのであった。想像力にはたらきかけるお化け屋敷。女性が叫んでいるデザインが多いのが印象的。ホラー漫画の本質なのか。
ショップでは潤平向けにイラスト集を購入。あとは自分用に富江Tシャツを買ってしまったのであった。
作品を一冊どころか一話も読んでいないのに申し訳ない。ぜひ職場に着ていって、反応を見てやろう。帰るタイミングで、マサルからのお誘いメッセージが届いていたことにようやく気がつく。日曜日(つまり明日)、
ボードゲームの新作体験会に行きませんか、と。ボードゲームガチ勢が怖いけど、ネタに富んだ人生を送りたいので了承。
そして「いや、伊藤潤二展をマサルと一緒に見るべきだった! マサルの反応を見たかった!」と後悔するのであった。◇
なお後日、潤平からもらった伊藤潤二傑作短編10選リストは以下のとおり(執筆年順)。
『屋根裏の長い髪』
『いじめっ娘』
『案山子』
『路地裏』
『ファッションモデル』
『アイスクリームバス』
『首吊り気球』
『長い夢』
『億万ぼっち』
『潰談』
出光美術館『出光美術館の軌跡 ここから、さきへIII 日本・東洋陶磁の精華─コレクションの深まり』。
重要文化財でなくても質の高いものを幅広く集めていて、たいへん見応えがあった。
中国の磁器ではやはり、景徳鎮のクオリティに圧倒される。中国なら景徳鎮を押さえていけばハズレないよね、
という攻め方をしているように思えるが、実際にそれで確かな品物を押さえているのだから見事なものだ。
また時代についても偏りがないのがすばらしい。中国の王朝、民族ごとの好みがざっくりわかる内容になっており、
美術品としての価値はもちろんだが、博物館的な展示としても十分に通用するであろう充実ぶりである。
前に『陶磁の東西交流』をテーマにしたことがあったが(→2022.12.16)、体系的な展示ができるのはすごいことだ。
そして日本の縄文土器も、殷周時代の青銅器もちゃんとある。「きれい」に留まらずしっかり「学べる」のである。
個人的には、仁清と乾山の点数が多くてしっかり見られて超幸せ。あとは無準師範の略字センスが興味深かった。あらためて、出光は純粋に美的感覚が鋭いと思う。選球眼のいいシュアなバッター、ハズレが本当に少ないイメージ。
後発となる昭和の金持ちにしては、そうとういいものを集めている。その底力を実感できる展覧会なのであった。
カメラのレンズ部分にゴミが入るという、3年に一度くらい発生するトラブルに見舞われる。
それで修理に出したのだが、ついでにデジカメ売り場を見てまわったところ、コンデジの縮小ぶりにブルーになる。
キヤノンなんてもはやIXYだけ残している感じで、PowerShotブランドが消滅してしまっており大変にショック。
今後もコンデジにこだわるとすればSONYのRX100シリーズしか選択肢がないのである。カメラメーカーが全滅とは……。
RX100シリーズはめちゃくちゃ評判がいいが、めちゃくちゃお値段が高い。何よりソニータイマーが怖い。本気で困った。
ほとんどの時間は死体のように寝転がっていて1泊だけキャンプするという実にいい加減な帰省だったが、
おかげでリフレッシュというか無茶な旅行疲れの解消はできた気がする。2学期に向けた準備に集中できそうだ。飯田駅前から新宿行きのバスに乗るが、その前に丘の上結いスクエア(昔のユニー)1階の喫茶山雅飯田店に行ってみる。
中信のサッカークラブが南信に触手を伸ばしてんじゃねーよオレは触手が嫌いなんだよと思いつついちおう撮影。喫茶山雅・飯田店。なお、本日はお休み。
さんざん日記で書いているとおり僕は信州ダービー大好きっ子だが(→2011.4.30/2012.3.10/2024.6.29)、
それは「南信出身者として北信と中信の代理戦争を外から眺めて面白がる」という野次馬根性が根底にあるからだ。
こうして松本山雅が南信に忍び込もうという姿勢はまったく好きではない。敵の敵は味方理論で長野に肩入れしちゃうぜ。
L: 試合映像を投影するスクリーン。どれくらいの人が来るんだろう。 C: 真ん中はカフェ。 R: 反対側の端にはグッズ。15時のバスで出発するが案の定、談合坂で渋滞に巻き込まれる。結局、予定の70分遅れで新宿に着いたのであった。
雨はまったく降ることがなく、清々しい朝を迎える。バヒさんは早朝に展望台まで散歩したらしい。元気である。
L: 清々しい朝のキャンプ場。 R: いちおう記念にわれわれの野営の痕跡を記録しておくのだ。朝メシもやはりアルファ米。見た目よりも量が多く、さらに腹持ちもよいことが判明する。なかなかすばらしい。
9時を過ぎて撤収すると、そのまま喫茶店で反省会。今回はトライアンドエラーであえて失敗するつもりだったが、
想定していたよりはだいぶ上手くいった印象である。休暇の確保や体力づくりの方が課題としては大きいかもしれない。以下、今回の反省を箇条書きでメモしておく。
・アルファ米が意外と多め、1食2袋で十分。
・スプーン必要、箸は不要、皿はスープ系でなければ不要。
・水は1人4リットルでOK。
・男2人だとテントは暑い、ファンがあるとよいかも。
・テーブル(物を置く台)が欲しい。
・携帯トイレの練習をしておく。ペーパー、テープも含めて店で要チェック。
・ガスは飛行機に乗せられないので現地調達。
・ケガの応急処置道具と虫除けを忘れずに。
・マットをリュックに付ける工夫を調べておく。
・どの程度レンタルで済ませられるかチェックして予約を入れる。
・来年7月末に決行、土日を平日で挟みたい、種子島はスルー。年末までに細かい旅程をつくって確認できるようにがんばります。お疲れ様でした。
本日はバヒさんとキャンプなのだ。キャンプというよりは「野営訓練」と表現する方がいいのかもしれない。
われわれには屋久島に行きたいという野望があり、宮之浦岳にチャレンジする場合には避難小屋での1泊が必須となる。
そのためのシミュレーションをこの夏にしておこう、というわけなのだ。実は甲斐駒ヶ岳へのチャレンジも考えていたが、
お互いに面倒くささが勝って結局そこまでの「ずく」がなく、とりあえず近所で1泊というレヴェルに落ち着いたのだ。
(ちなみにこの日は台風7号の影響もあって山梨県では線状降水帯が発生したとかで、結果オーライなのであった。)昼前に集まってラーメンを食ってやる気を充填し、いざ野底山へ。キャンプ場の受付を済ませてテントを準備するが、
とにかく虫が寄ってくる。テント設営を終えるとやることもないので、虫除けグッズを買うべくいったん街へ出る。
スプレーと据え置き型を購入すると、一息つくべくコメダ珈琲店でダベるのであった。キャンプ中にコメダ! 快適!
それからバヒさん宅から秘蔵の同人誌を一箱持ってくる。これを熟読すればいい感じに時間が経つはずなのだ。戻ると途中の八王子神社に参拝。かなり雰囲気のある神社だ。参拝を終えるとモリアオガエルが足元を駆け抜けていった。
晩メシの時間までは管理事務所近辺が非常に快適なので、通り抜けていく風を感じつつ呆けて過ごすのであった。
L: 八王子神社。夜にはちょっと怖い。 C: 拝殿。 R: フリスクドリンク(→2024.7.20)に挑戦するバヒさん。晩メシのアルファ米は思ったよりも米っぽさがあって満足。これなら登山でも活躍してくれそうだ。
食後は同人誌の時間となるが、触手大好きのバヒさんと和姦大好き(逆レは和姦に含む派)の僕では好みが合わず、困る。
それにしても、昔の同人誌って勢い任せの絵や近況報告マンガが多くて、なんだか今の高校漫研の部誌みたいである。
同人誌はこの15年で着実に進化しておるんだのう、などと思っているうちに夜が更けていくのであった。
今月はほぼずっと炎天下での旅行ばかりだったので、その反動で実家ではずっと寝転がってネットの海に浸かっている。
まるで死体のごとし。生産性のなさ、社会性のなさで言うと本当に死体レヴェルで過ごしていて申し訳ない。せっかくなので、実家にいると出てくるウォーさんを紹介しておくのだ。日記を書いて24年目になるというのに、
紹介するのが初めてという事実に自分で驚いている。ウォーさんは僕がものすごく小さい頃にもらった人形で、
おそらくライオンの子どもではないかと思われる。それで自然と「ウォー」という名前になっていた。
毎日ウォーさんの顔を首元に挟んで寝ていたので、今ではその部分が完全にはげてしまって中身が見える。ウォーさん。
旅先でネコとじゃれる原点にはウォーさんがいるのかもしれないなあ、なんて思いつつナデナデするのであった。
キャンプに向けてバヒさんとスポーツ用品店で買い出し。どうせならと、ちょっと良いめのバーナーを購入する。
あとは折りたためるマットも購入。バーナーは僕が担当したので、クッカーはバヒさんが購入。
寝袋は今回僕もバヒさんも実家の古いものを使うので、とりあえず様子を見ておくのであった。
その後、トシユキさんからテントを借りる。これで用具についてはひととおり揃った感じとなる。さて今回はメシをアルファ米で用意したらどうずら、ということで、まずはショッピングセンターの食品売り場へ。
しかし置いてなかったので、趣向を変えてホームセンターに行ってみる。防災グッズ売り場に突撃するが見当たらず、
店員さんに訊いてみたら今まさに目の前に積んであるダンボールから品出しせんとするところなのであった。
これで無事にアルファ米のメシを確保することができた。あとは実践でトライアンドエラーするだけなのだ。
バヒさんとダベりつつジンギスカンをいただいたのであった。おいしゅうございました。
その後はなんとなく飯田駅方面まで散歩。そしたらなんか萌えキャラがいて驚いた。「ナミキちゃん」ですって。
「飯田丘のまちフェスティバル」マスコットキャラクターのナミキちゃん。
飯田も僕の知らんうちにいろいろやっとるんだなあ、と思うのであった。調べたら伊賀屋が大暴れしとるんだな。さすが。
お盆前最後の出勤日である。気分はもうほぼ夏休みが終わった感じで、切なさいっぱい。胸いっぱい。
◇
仕事が終わるといったん帰宅して荷物をまとめ、予定より少し早めに出発。今年の帰省の旅は山口県経由なのだ。
最終便のスターフライヤーで北九州に飛んで、明日の早朝に小倉から下関に入ってスタートするのである。……が、夕立と呼ぶにはだいぶ遅い時間帯に首都圏を襲ったゲリラ雷雨により、無事に空港には着いたものの、
そこから先がなかなか厳しい状況。上空の雷雲が抜けないと飛行機に乗り込むことができないため、じっと待つことに。
空港内のアナウンスでは、欠航が決まった他社便も。しかしスターフライヤー的には意地でも飛ばしたいようで、
我慢の時間が続くのであった。僕としては、欠航になった場合のこれからの動きをシミュレートをするしかない。本来の離陸時刻から2時間後、ついに出発が確定。ということは、こちらも明日の予定じたいは確定したものの、
今夜の予定が立たない。さすがにバスは空港で待っていてくれないだろう。となると……またアレなの?
とにかく、行くしかないのである。飛行機が北九州空港に着陸したのは日付をまたいだ午前1時30分なのであった。
深夜の北九州空港というと夜中に追い出された記憶があるので(→2007.11.2)、不安でしょうがない。
しかし対応はきわめて親切で、毛布を貸してくれるほどのサーヴィスぶりだった。僕はここにいていいんだ!ここが私の寝床でございます。
まさか2ヶ月連続で同じサゲ(→2024.7.7)をやることになるとは思わなかった。しかも今回は旅のスタートですぜ。
やがて男は戦慄のうちに寝むっていたのであった。それにしても今シーズンは波乱が多すぎじゃないですかね!
トマトスープ『ダンピアのおいしい冒険』。ワカメに勧められたので読んでみた。全6巻。
ウィリアム=ダンピアはイギリスの冒険家で、17世紀後半の大航海時代から植民地時代へと移行する時期に、
世界周航を3回もやった人物である。そして航海中にあらゆることを記録に残して、後世に大きな影響を与えている。
この作品は足りない部分をフィクションで補いつつも、できるだけ事実に即して当時の世界状況を紹介しており、
かなり「学べるマンガ」となっている。かつての学研マンガと違い、ストーリー主体でやりきっているのはお見事。
世界史が好きであれば、絶対に押さえるべきレヴェルである。ネット時代は面白い才能が見つかるものだと感心する。ただ正直、あんまり「おいしく」ない。世間の興味を惹きつけるために「グルメ」という視点を採り入れたのだろうが、
そこは明白に失敗していると思う。壊血病になるのならんのという世界のメシが、われわれにとっておいしいはずがない。
むしろ興味深いのは、「一期一会」ではなくて「旅は道連れ世は情」ではある点。広い海で意外と再会できること、
そちらの感覚の方が気になる。もう少し時間軸のわかりやすい群像劇として強調した方が、魅力が増したのではないか。それにしても、大航海時代からの植民地建設という、ある意味いちばんキツい時代に正面から挑んだ度胸がすごい。
武器となるのはソフトな絵柄と、それを全面的に生かしたふんわりエピソードへのソフトランディングの上手さだ。
あえてリアリティを削ることで、超絶胸糞悪い現実を緻密に再構成した手腕は見事である。その手があったかと感心する。
実は最初から英雄譚としては破綻しており(もはや時代が許さない)、純粋な冒険譚としてやっていくしかない。
そのハンデを十分に理解したうえで冒険と知的好奇心を強調し、ポジティヴな方向で読めるように仕立てているのだ。
あらためて痛感するが、世界史ってのは取り返しのつかないことをやった記録なのである(→2019.6.13)。
われわれは、起きてしまったことに対して前向きに乗り越えていくしかない。その努力もまた知の蓄積なのであろう。
人類史上最も残酷な現実のひとつを描きつつ、そこにほんのちょっとだけ差し込んでいる光の可能性をテーマとする。
これはきわめて妥当な姿勢であると思う。マンガというメディアでやれることをやる、その意欲がすばらしい。その一方で、ダンピアの求める知は独善的、自己満足のためのものである(同じ日記屋としては申し訳ないものがある)。
知識とは公に共有されることで初めて価値を持つ。その価値を積極的に認めようとせず、自己満足に留めようとする。
彼は周囲に幸福をもたらす目的で知識を蓄積しているわけではないのだ。結果的に、ダンピアの知識は世間に発表されて、
ダーウィンなど凄まじく多方面に影響を与えた。しかし本来、独善的な知識への欲望と、周囲に幸福をもたらすこととは、
論理的にはつながらないのである。この独善性が知識の公との共有へ至るためには、いったい何が鍵となるのか。
何が独善性をぶち破るのか。それについての結論がないのは非常に残念である(僕の個人的・内面的な問題でもあるので)。
もうひとつ、海賊たちは、そして植民地の支配者たちは、奪うことで生き延びている。これはある意味で生物の本質だが、
それに対して知の側は何ができるのか。どのように事態を変革できるのか。ダンピアは海賊であり奪う側の人間だが、
「知識は力なり」というベーコンの言葉に魅せられて知識を記録する人物でもある。彼はその矛盾をどう見つめたのか。
まあこれはダンピアの問題というよりは、子孫であるわれわれが引き継いで解決すべきテーマである。
とはいえこの点についてはぜひ、ダンピアの目を通して自覚的に読者に訴えてほしかった。このマンガ、NHKが人形劇化したら、世間に、いや世界に最大級の衝撃を与えられると思う。ぜひ実現させてほしい。
先日の健康診断(→2024.7.25)の結果が出た。まあ、歳をとるってのは恐ろしいなあというのが正直な感想。
今回いちばん不安なのは目、特に左目である。これはちょっとシャレにならない事態になりかねないので、
最優先で対応することに。よろしくない展開をあれこれ想像しつつ、覚悟を固めておく。現実を受け止めるしかない。