diary 2019.9.

diary 2019.10.


2019.9.30 (Mon.)

沢木耕太郎『旅のつばくろ』について書いておきたい。

東北新幹線に乗るとき楽しみにしているのが、車内誌「トランヴェール」に連載されている『旅のつばくろ』である。
内容としては国内旅行についてのエッセイで、読むたびに絶妙な力加減で書かれていることに圧倒されるのだ。
もともと沢木耕太郎の文章は『深夜特急』からしてめちゃくちゃに読ませる文章だったわけだが(→2010.2.19)、
筆者の個人的な経験に、読み手を極めてスムーズに乗せてしまう点に特徴があると思う。その冴えは変わらないままで、
決まった分量にふさわしい構成といい、文章のたたみ方まとめ方といい、これがペンでメシを食うことか!と思わされる。
(対照的にANAの吉田修一なんかはまるでダメ。あれは筆者の個人的な経験が読み手に消化されない点が大きく劣る。)
記憶のままに自分勝手な旅行記を書き散らしている僕なんか、とてもじゃないが土俵が違いすぎて。お恥ずかしい限り。

今回は岳温泉に行った過去を追いかける話で、16歳で50年くらい前というから、沢木耕太郎ってもう70を超えているのだ。
僕の中では26歳の『深夜特急』がずっと基準だったので愕然とするよりなかった。でもまあ、そりゃそうだよなあと思う。
さらなる成熟をみせる偉大な先人に対し、まったく成長しないで時間だけ経過していく自分。比べる気にもならない。
とはいえ、優れたものの優れている点を素直に味わえるのはいいことなのである。『旅のつばくろ』はそんな位置にある。


2019.9.29 (Sun.)

しっかり寝て体力回復に努める日曜日なのであった。いやー、よく寝た。でも髪も切ったしリフレッシュできたよ。


2019.9.28 (Sat.)

サッカー部の秋季大会が始まるのであった。本日は3-1と3-0で勝利。自分たちの強みがわかってきたのが大きい。
手前味噌だが、先月僕が指揮したときコツをつかんだのではないかな(→2019.8.23)。問題は強豪相手で粘れるかどうか。
耐えに耐えて失点を防ぎ、自分たちの時間帯をつくって決めきれるか。新たなステージを見せてほしいなあと心から思う。

ラグビーW杯・アイルランド戦、最後のところだけ見た。前半リードされても粘って逆転した展開を知らないため、
「おっすげえ勝ってるじゃん!」からの順当な勝利に見えてしまって。日本強いなーという薄っぺらい感想しかない。
前回W杯もあの南アフリカ戦を見ず置いてけぼりを食った(→2015.9.23)。ラグビーについては本当にダメで申し訳ない。


2019.9.27 (Fri.)

イヴェント関連の問題が噴出して、地味に忙しい一日なのであった。こういうのがいちばん堪えるなあ。


2019.9.26 (Thu.)

木村一基新王位おめでとうございます。僕は将棋がわからないけど、棋士の皆さんは大好きで(→2017.7.7)、
その中でも「将棋が上手いおじさん」こと木村先生のキャラクターには特別ほっこりさせられるのである。
(ちょっと調べれば上記のあだ名がどれだけ失礼かわかるはずだが、ここは敢えて親しみを込めて書いたわけで。)
棋士ってのは本当にすごくて、まず数学的天才であり、そのうえで勝負師であり、しかもしゃべりの達人ばかり。
さらには書く方でも抜群の才能を見せつける方もいる。将棋関連のニュース記事はどれをとっても面白くてたまらない。
皆さんどう考えても天から二物どころではないn物を与えられまくっており、ただただ尊敬するしかないのである。

さて木村先生。プロ入りが23歳という遅咲きで、ここまでタイトル戦に挑戦すること6回も獲得なしのタイ記録保持者。
しかし46歳3か月でついに初タイトルを獲得したというわけで(最年長記録を更新)。ニュースを見てウルッときた。
とてもとても足元にも及ばないが、能力的にも人格的にも木村先生のようでありたいと思う。思わせていただきたい。
なんというか、無駄に歳を重ねているだけの自分だが、本当に勇気付けられますね。たまらなく嬉しいニュースだ。


2019.9.25 (Wed.)

毎月恒例のサッカー観戦、今月は天皇杯ラウンド16・浦和×Honda FCである。そりゃもうこのカードしかないでしょう!

  
L: 浦和美園駅から埼玉スタジアムまで約1.5km。この微妙な距離が面倒くさい。レッズを誇る展示は興味深いけど。
C: 夜の埼スタ。レッズの赤で照らしているのが面白いが……天皇杯は中立地開催のはずでは? Hondaも赤だからいいのか。
R: メインスタンドから眺める埼スタのピッチ。この角度で観戦するのは天皇杯ならではなのである。新鮮である。

今回ははっきりとHonda FCを応援。ホンダは埼玉県に研究施設があるらしく、そこに勤務している皆さまに加え、
本拠地・浜松からのサポーターも集まって万全の応援態勢である。入口で大量の応援グッズを無料でバンバン配っており、
僕も是非にと頂戴したのであった。浦和に負けない勢いとグッズの物量に、大企業の凄さを実感させられるのであった。

  
L: ホンダの応援グッズ。上がビブスで、下がタオルマフラー。さらにウチワが2つである。大企業ってすごいね。
C: Honda FCのゴール裏。やはり社員が中心なんだろうけど、楽しそうに応援しているのが非常に印象的だった。
R: 選手入場時に掲げられた横断幕。ホンダでなきゃ掲げられんもんな。これが実現したらめちゃくちゃかっこいい。

単純なカテゴリでいえば、浦和は国内最高峰のJ1で、Honda FCが属するのは4部相当となるJFLである。
しかし浦和は公式戦9戦勝利なしで降格危機がチラつく状況であり、対照的にHonda FCは4月を最後に負けがない。
天皇杯も札幌や徳島を倒しての16強である。いわゆる「ジャイアントキリング」の可能性はそれなりにあるのだ。

 浦和の「組長」こと大槻監督。個性的なキャラクターの監督は大好きだ。

試合が始まると、浦和は杉本を中心に高い技術を見せる。対するHondaもまったく臆することなくボールをつなぐ。
Hondaの試合を観るのは3年前の天皇杯・盛岡戦以来だが(→2016.9.22)、当時と同じく勇気あるパスサッカーである。
それをJ1の雄・浦和相手にも繰り広げる。さすがに途中で引っかかってしまうことが多いが、まったくひるむことがない。
浦和はACLやリーグ戦との兼ね合いもあって若手中心のメンバーだが、J1らしい「隙を見せたらやられる」鋭さは健在。
それを体を張ってHondaが止める、膠着しつつも息詰まる展開で前半の45分が経過した。浦和サポは大ブーイング。

  
L: 最前列の席だったので目の前で迫力ある戦いを見ることができた。Hondaのサブの選手も見つめる中、熱戦が展開される。
C: 右サイドでボールを持つHondaのMF佐々木と、ボールを受けようとするFW古橋。古橋のボレーは本当に惜しかった。
R: 得点シーン、速いクロスを出す佐々木。この直後、GKの目の前に入ったMF富田が先制点を決める。大興奮ですよ。

後半に入るとHonda FCの攻撃がより鋭さを増す。浦和は相変わらず一瞬の鋭さを見せるサッカーだったのに対し、
Hondaは愚直なパスサッカーと体を張った守備のリズムが馴染んできて、ゆっくりと試合を支配する感触を深めていく。
68分にはマウリシオの小さいクリアを古橋が右足での直接ボレーでゴールを狙うが、ギリギリのところではずれる。
しかしこれが得点の匂いの端緒だったと思う。最後まで運動量の落ちないHonda FCは全体で攻め上がった83分、
こぼれたボールを右サイドのMF佐々木がペナルティエリア内に運んで速いクロスを出し、中央のMF富田が決める。
「格上」である浦和からついに得点を奪ったことで、Honda FC側のスタンドは大興奮のるつぼと化したのであった。
さらにその4分後には、パスをつないで右サイドに出たボールにMF佐々木が追いつく。再びドリブルで抜け出すと、
ゴールに迫って注意を惹きつけてパスを出し、最後はFW原田が滑り込みながらゴールを奪った。実に大きい2点目だ。

  
L: Hondaの2点目。右サイドを抜け出したMF佐々木が1対1に勝利する。  C: そのままドリブル。そしてFW原田がゴール前へ。
R: 最後はクロスに滑り込んだFW原田が押し込む。古橋に替わって入った原田はひときわ小さい選手だが、見事に試合を決めた。

これで勝負の大勢は決まった感じだが、油断はまったくできない。相手はJ1の浦和であり、ホースタジアムである。
浦和がPKを得ると同時に示されたアディショナルタイムは5分。Honda FCのサポーターは固唾を飲んで選手たちを見守る。
しかしHondaは杉本のPKをきちんと研究していたようで、GK白坂がガッチリつかんで得点を与えない。これで決まった。
その後もチャンスをまったく与えずHonda FCが見事に逃げ切った。振り返ってみれば、完勝と言っていい内容である。
サポーターたちは「そうはいっても相手はJ1、しかも浦和だから」という不安な気持ちで90分を過ごしていたのだが、
一切ひるまないで戦い抜いた選手たちの姿勢は本当に素晴らしかった。純粋に胸がすくサッカーを見せてもらいました。

  
L: アディショナルタイム、GK白坂が杉本のPKをしっかり止める。こうして試合はHonda FCの完勝という形で終わった。
C: 歓喜のHonda FCサポーター。本当にいいものを見せてもらいました。  R: Honda FCの選手たち。最高にかっこいい。

相手がどんなに強かろうと卑屈にならず、自分たちの信じていることをやりきる。90分間体を張って守り、全力で走る。
これだけ心を震わせるサッカーを観たのはいつ以来だろうか。Honda FCには絶対に天皇杯をつかんでもらいたい。
そして堂々とACLの舞台に乗り込んでもらいたい。もちろん、HondaJetに乗って。選手は分乗しないとダメなのね。


2019.9.24 (Tue.)

ホラホラ、これが僕の骨だ。

拡大すると……

しっかりヒビが入っとるやないかーい!


2019.9.23 (Mon.)

朝6時の朝食に間に合うように起きる。昨夜遅くに雨が降ったようで、残念ながら山には雲がしっかり残っている。
昨日の燧ヶ岳が最高のコンディションだったこともあって、ガックリした気持ちが増幅されるが、まあしょうがない。
とりあえずは栄養をしっかり補給して勝負に備えるよりないのだ。意識してご飯と味噌汁をおかわりする。

 朝食。やる気出るね!

ガイド地図によれば、山ノ鼻から至仏山山頂までは2時間半を要する見込み。そこから下って鳩待峠までも2時間弱。
予定しているバスの時刻から逆算しても、それなりの余裕はある。とはいえ天候は悪くなっていくことが予想され、
のんびり構えているわけにもいかない。7時半には登山口に入れるように支度を整えて、礼を言って外に出る。
昨日の日記でも書いたとおり台風17号が近づいてくるそうで、天気は悪くなっても良くなることはないだろう。
2週間前の台風15号のことを考えると、無事に尾瀬に来れたことだけでも僥倖。さっさと至仏山をクリアしてしまおう。

  
L: 山小屋からすぐの研究見本園入口。ここを通過することで至仏山への登山口に至る。  C: 山が見えないやん。
R: 至仏山の登山口に到着。このタイミングだけちょっと日が差した。案内板には「鎖場」とか書いてあるぞ……。

7時半きっかりに登山口を通過。昨日の燧ヶ岳・御池ルートもなかなかだったが、至仏山の山ノ鼻ルートはそれ以上に、
最短距離を駆け上がるルートである。あまりにも一気の上りが激しいので、環境保全のため下ることが禁止されている。
その一方通行の上りも晴れていれば問題が少ないのだろうが、雨の影響で登山道が濡れている。これが厄介なのだ。
至仏山の山体は蛇紋岩という岩でできていて、これがとにかく滑りやすい。もちろん事前にその情報は仕入れていたが、
いざ実際に登ってみたら、濡れた蛇紋岩は100%滑るのである。足を乗せる箇所をいちいち工夫して登る必要がある。

  
L: 登山スタート。さっそく蛇紋岩の洗礼を受ける。本当にいちいち滑るので、精神的にも肉体的にも疲れる。
C: 蛇紋岩はその組成の影響で、特殊な植物群となりやすいそうだ。森林限界が通常よりも低くなるとのこと。
R: 山ノ鼻から山頂までの中間地点の少し手前までは、どうにか尾瀬ヶ原を見ることができた。やっぱり絶景だね。

8時半少し前に、中間地点の表示がある地点に到達。尾瀬ヶ原が1400mで至仏山が2228m、したがって中間は1814m。
そういう単純計算が成立するくらい、山ノ鼻からの登山道は直線的な上りなのである。確かに森林限界は越えたが、
ガスって視界はよくないし緑の勢いもまったく衰えていない。イマイチ実感が湧かないまま進むと、鎖場のお出まし。

  
L: 中間地点の表示。  C: 確かに低木ばかりとなったが、蛇紋岩のつらい登山道が続くことに変わりはない。
R: 鎖場である。どちらかというと大股で登る行為じたいが大変で、そこまで厳しい難所という感じではなかった。

さらに登るといよいよ植物の背丈が低くなり、岩と緑が混じった開けた光景の中を歩いていくことになる。
天気が良ければ尾瀬ヶ原をスッキリ見渡すことができるだろうが、霧の中に消えていく最後の姿を味わう破目に。
しかしコースは木製の階段がきちんと整備されていて、快調に上がっていくことができる。整備した人に感謝である。
ところが困ったことに、風はどんどん強くなってくる。それまでは周囲の木々が守ってくれる効果が絶大だったが、
階段上で体がむき出しになっていると煽られて少しふらついてしまうほど。いや正直、この状況は本当に怖い。
至仏山の山頂手前には高天ヶ原という高山植物の名所があるそうなのだが、それがどこだかまったくわからない。
おそらく今いる場所が高天ヶ原なのだろうが、台風仕込みの強烈な風を全身に受けて先の見えない階段を上るだけ。
僕にとってはただただKnockin' on Heaven's Doorって心境でしかない。まさに天国への階段を上っている感じ。
もはや「至仏山」という名前すらも皮肉めいたものとして響く(実際は「渋ッ沢」という沢の名に由来している)。
今年は富士山頂でなかなかの極限状態(→2019.8.21)を経験したことで、度胸がついていたからどうにかなった。

  
L: 霞んで消えていく尾瀬ヶ原。  C: 行く手にはうっすらと山頂っぽいものが見えてはいるが、遠い……。
R: 強風に晒されながら頂上を目指す。見えなくなる尾瀬、滑る蛇紋岩、そして階段。Knockin' on Heaven's Doorってやつだ。

生きた心地がまったくしないけれども、引き下がるわけにはいかないのだ。勇気を振り絞って階段を上がっていく。
しかし登りきったと思っても、霧の向こうにうっすらと次の峰の影が現れる。それが延々と繰り返されるのである。
尾根が広いので強風を受けても足元には余裕があるのが救いだ。でもそのほかには、ポジティヴな要素がない。
やがて階段が終わり、荒涼とした大地に放り出された。目の前には、やはり次の峰の影がある。またしても、か。
何度も何度も裏切られながらも歩き続けること15分。岩場の上に不自然な四角柱がちょこんと乗っていた。
風でふらつきながらゆっくりと近づいていくと、その四角柱に「至仏山頂」という文字が刻まれているのが見えた。
あまりにもさりげない。でも、ついに成し遂げたのだ。周りには誰もいないのをいいことに、大声で叫んだ。
こんな状況で、オレは登りきったぞと。時刻は9時37分。悪条件にも負けず、ガイド地図を上回るペースで、登った。
いや、速いペースで登ることなど何の自慢にもならないことは重々承知している。でもこの後に余裕ができるのだ。
昨日と違って急かされることなく、無事に帰ることだけに集中できる。そのことのうれしさといったらない。

  
L: 階段が終わって遮るものが何もない中、強風の直撃を受けながら頂上を目指す。あの峰にもまた裏切られるのか……?
C: あまりにもあっけないゴール。ついにたどり着いたのだ。  R: 至仏山の最高峰部分。まあ全然落ち着けませんが。

昨日の燧ヶ岳と同じように、頂上でヴィダーインゼリーをいただく。やっぱり旨い。今日は特に誇らしい味だ。
至仏山の山頂には二等三角点があるので撮影。山頂の標柱には尾瀬の地図があったが視界はほぼゼロで役に立たず。

 
L: 二等三角点「至仏山」。  R: 標柱のてっぺんにある地図。晴れてりゃよかったんだけどねえ……。

とにかく風が強くて、頂上に滞在するのは5分が限界だった。さっき書いたとおり山ノ鼻ルートは一方通行なので、
半円状に尾根筋で迂回して鳩待峠へ向かって下山する。山頂は遮るものが何もなかったが、こちらは岩陰を進むため、
あの強風をまともに受けないで済むのが本当にありがたい。ただ、下りだけに、滑る蛇紋岩の怖さは桁違いである。
一瞬たりとも気を抜くことなく、一歩一歩注意して下りていく。そうしてしばらくすると、また登りとなる。
そう、鳩待峠ルートの途中には2162mの小至仏山があるのだ。さすがにこの状況で、下りて登ってはつらい……。

  
L: 至仏山の山頂を後にする。下りはじめると道の片側が岩か植物になるので、強風に晒されないで済むのは助かる。
C: しかし蛇紋岩の厄介さはさらに増す。どこに足を置いて下っていくか、頭を使い続ける。まあそれはそれで面白いが。
R: 単純な下りにはなっておらず、小至仏山に向かって登りとなる。山頂を抜けた帰りなので精神的に楽なのが救い。

小至仏山を抜ける際、鳩待峠ルートでやってきた60歳くらいの夫婦とすれ違う。この天候の中、すごいなあと。
長らく自分一人だけ非日常の世界に放り込まれたような錯覚に陥っていたのだが、やはり登山客はいるものなのだ。
自分が同じくらいの歳になったとき、果たしてそれだけの勇敢さを持ち合わせているだろうか。少し考えた。
とはいえ油断ならない道が延々と続くので、すぐに目の前の困難さに集中する。一歩一歩、確実にゴールへ向かう。

  
L: 小至仏山の山頂。登山道中のピークって感じで、のんびりできるほど広い場所ではなかったなあ。
C: 下山のつらさを味わってもらえるであろう写真。ここにある岩、すべてが滑る。誇張ではなくすべてが滑る。
R: 蛇紋岩をクローズアップ。確かに蛇のような模様が入っている。非常にもろくて風化しやすい特性もある。

蛇紋岩だらけの岩場を抜けると、木製の階段が現れる。さらに進むとそれが木道となる。高低差は少なくなり、
緩やかな起伏をひたすらに歩いていくルートとなる。昨日の燧ヶ岳からの下山もそうだったが、ここからが長い。
かえって距離感がつかめなくなるくらいに、前へ前へと延々と進んでいくことになる。もし天気が良ければ、
側面から尾瀬ヶ原の絶景を眺めることになるのだろう。木道の形状から、そういう予感がある。しかし視界はゼロだ。
見えないものを見ようとしたってしょうがない。今の自分にできることは、集中して鳩待峠へ向かうことだけだ。

10時40分過ぎ。木道で滑って転んだ。中には古くなっている木道もあるのだろうか、やたらと滑る木道がある。
転んだ際に左膝半月板の内側と右太ももの外側を木道にひどく強く打ち付けてしまった。しばらく茫然とする。
いや、これはマズい。昨日の白砂峠の経験から、なんとなく「木道は安全だ」という意識を持っていたのだが、
今朝の雨のせいか決してそんなことはないようだ。気を引き締めていかないとケガするぞ、と思って立ち上がると、
今度はかなり慎重に歩きだす。……が、次の瞬間、再び転んだ。そしてこれが致命的なものとなってしまった。
下りの角度がついた木道で、体はすべり落ちようとする。しかし右手の人差し指が植物の蔓か何かに引っかかった。
全体重が人差し指の先にかかるが、蔓は切れない。実際には、どうやら蔓ではなくワイヤーか何かだったようだ。
圧倒的な痛みが指先の一点に集中し、熱を感じる。もし手袋をしていなかったら、指先をもっていかれたかもしれない。
それほどの衝撃だった。体が止まって慌てて右手人先指の先を見る。変な曲がり方はしていなかったが、感覚はない。
3年前の鳥海山での右足首捻挫(→2016.7.30)と同じ後悔がこみ上げてくる。これは……やってしまった!
蛇紋岩ではなく木道で転ぶとは……。決して油断していたわけではない。むしろ、油断しないようにと気を引き締めた、
その次の瞬間に不幸に襲われたことが問題なのだ。つまりそれは、避けることが不可能な事故だったことを意味する。
自力ではどうにもならない運命ってやつだ。傾向もなければ対策もない不幸。これをただ受け入れるしかないなんて!
だが、こういうときこそ切り替えが大事なのだ。リュックのショルダーストラップに右手親指を引っ掛けて右手を固定。
そうして人差し指を立て、心臓よりも高い位置にする。これでいちおう「RICE」の「E(elevation、挙上)」は確保した。
「R(rest、安静)」も「I(icing、冷却)」も不可能だが、手袋を脱がないことで「C(compression、圧迫)」とする。
あとはできるだけ早くこの状況を脱することだ。足元に気をつけながら、黙々と下山することに集中する。

  
L: ケガした現場はこんな感じの濡れた木道。でもあれだけ激しく滑る木道は、あの1ヶ所だけだった。本当に運が悪い!
C: ケガした直後、痛む右手で撮影したオヤマ沢田代。  R: 木道と土の道が交互に現れる鳩待峠ルート。無心で下る。

11時45分、鳩待峠に出た。この時点で僕は右手のケガを「ひどい捻挫」と認識していたので、そんなに慌てることなく、
昼飯に山菜そばをいただいたり、日本酒「水芭蕉」のソフトクリームをいただいたりしてバスの時間を待っていた。
30分ほどそうしていたら大粒の雨が降りだして、至仏山付近で降られなくてよかった……と心底思ったくらいだ。
自分のことよりもすれ違った登山客の方を心配していたくらいで。でも実際はそんな悠長なケースじゃなかったんだが。

  
L: 鳩待峠に出た。規模の大きい土産物屋・食堂があって、登山客に混じって外国人観光客の姿も。なかなかの賑わい。
C: 至仏山への登山道入口を振り返る。ここからぐるっと山頂まで行くのは、木道のトラウマ抜きでもつらいと思う。
R: 日本酒「水芭蕉」のソフトクリーム。花豆のソフトも人気。右手が不自由で撮るのが大変だったがよくそんな余裕あったな。

大雨の鳩待峠からジャンボタクシーで戸倉まで行くと、帰りのバスをひとつ早い便に変更させてもらう。
そうして1時間ほどの滞在時間をつくると、バスターミナルからほど近いところにある尾瀬ぷらり館という施設へ。
こちらには規模が小さいものの温泉があるので、絶対に浸かることに決めていたのだ。右手のケガとか関係ねえ。
水面から人差し指だけ出して、ぬるめのお湯にしっかり浸かる。おかげで心理的には落ち着くことができた。
施設を出ると、バスターミナル近くを探索。酒屋でアイスを売っていたので、飲み物と一緒にパピコを買った。
タオル越しにパピコで右手を挟んで冷やす。これでいちおう、「RICE」のすべてが成立したことになるのではないか。

 
L: 尾瀬ぷらり館。温泉施設を充実させればもっと賑わうような気はするのだが。非常にもったいない印象。
R: 新宿行きのバスである尾瀬号が到着。東京は本当にバスでどこにでも行けるなあと思うのであった。

新宿行きのバス・尾瀬号がやってきたので乗り込む。列に並んでいるときにはけっこうな乗客の数に思えたが、
いざ乗ってみると席には余裕があってありがたかった。途中のSA休憩でパピコを買い直し、再び冷やして過ごす。
しかし東京に近くにつれて週末の渋滞に巻き込まれ、さらに高速から川越駅までわざわざ往復するのがまた手間で、
予定より大幅に遅れて新宿に着いたのであった。家に帰ると人差し指を保冷剤で挟んで寝る。まいったなあ……。


2019.9.22 (Sun.)

アナウンスで起こされると、尾瀬夜行の乗客は一斉にゾロゾロと移動。時間の感覚もよくわからないまま、
会津高原尾瀬口駅の駅舎を抜けて停車しているバスに分乗する。ぜんぶで3台だったか、とにかく乗り込む。
全員が乗り終えて落ち着いたところで、記念品のピンバッジと昭和っぽいフニャッとしたワッペンをもらう。
そして4時20分にバスは出発し、当然僕はぐっすり。そして御池に着く直前に目が覚めた。便利な体である。

予定の5時50分より早くバスは到着。バスが出発したときには真っ暗だったが、もう空はだいぶ明るくなっている。
バスを降りるとトイレに寄り、ゆっくりメシを食いつつ頭を覚醒させていく。さらに沼山峠へと向かうバスを見送ると、
登山靴の準備を始める。焦ることはまったくないので、ひとつひとつのプロセスを丁寧にやっていくのだ。
それにしてもいい天気である。台風17号が近づいてくるというニュースが信じられないくらいの快晴だ。

  
L: 乗ってきたバス。この後、バスは沼山峠へと向かう。僕はここ御池から直接、燧ヶ岳を目指すのだ。
C: 山の駅 御池。反対側に駐車場があり、その端が燧ヶ岳への登山口。  R: それでは燧ヶ岳へ行くぜ!

6時22分、燧ヶ岳への登山を開始。最初のうちは遊歩道といった感触で爽やかな朝の空気を味わっていたのだが、
尾瀬ヶ原へまわり込むルートから分かれると、しっかり容赦のない登山道になる。燧ヶ岳の登山ルートは複数あるが、
御池からだと最短距離で一気に駆け上がる形になる。容赦ない登山道で当たり前なのだ。わかっちゃいるけど、つらい。
野比のび太が宣った「平らな山ならいいんだけど…」という言葉が頭の中をぐるぐる。心底同意しつつも足を動かす。

  
L: 御池の登山口を入ってすぐは、このような整備された道。  C: 燧ヶ岳へと向かう分岐に入ると荒っぽい感じに。
R: そしてすぐに石をグイグイ上がっていく完全なる登山道となる。まっすぐ頂上を目指すルートなので当たり前だが。

30分ほど無我夢中で進んでいくと、いきなり開けた場所に出る。広沢田代といい、御池ルートのご褒美ポイントだ。
こんな山の中に尾瀬らしい湿原ポイントがあるのか、と驚きながら通過する。天気がいいから最高に気持ちがいい。

 
L: 30分ほど進むと、突然開けた場所に出る。広沢田代である。  R: こういう湿地帯を「田代」と呼ぶのね。

さてそもそも、なぜ尾瀬なのか。いや、尾瀬にはずっと行ってみたかったのである。それこそ小学校のときだったか、
『夏の思い出』を聴いて以来、一度は訪れてみたいと思っていたのだ。しかし一人旅で行くのもなあ……と躊躇し、
いつか行きたいいつか行きたいと思いつつ市役所めぐりを優先していたわけで。クイ研の連中も乗らないだろうし。
でも、いいかげんなんとかしよう! 一人でもいいじゃないか!と開き直り、今年ついに一念発起したのである。
そうなると、とことんまでやってやろうじゃねえか!と気合いが入る。尾瀬にただ行くだけじゃつまらない。
百名山が2つあるんだから、両方とも制覇してやろうじゃねえか! 1泊2日で山小屋に泊まって登ろうじゃねえか!
そういうわけ。別に登山が好きってわけじゃないんだけどね。尾瀬に燧ヶ岳と至仏山があるから、登る。それだけ。

  
L: 7時30分、5合目を通過。こんな地味な表示とは。  C: 少し進むと絶景を味わえる。これは会津駒ヶ岳方面かな?
R: 視線を右へ移すとさっき通った広沢田代が見える。けっこう遠くまで来たもんだなあと徒歩の力に驚かされる。

御池ルートのもうひとつのご褒美ポイント・熊沢田代に到着。ここまで来ると燧ヶ岳の山頂が視界に入る。
その見事な姿といったら! これは実際に登ってみないとわからないだろうけど、登山の苦労が報われる光景だ。

  
L: 熊沢田代に到着。行く手にはいよいよ燧ヶ岳の山頂が現れる。天気がよくて本当によかった。最高の絶景だ。
C: なだらかな上りの途中には休憩スポットもあるよ。  R: 少し登ったところから熊沢田代を振り返る。これまた美しい。

熊沢田代を抜けるとまたしても登山道らしい登山道。木々が茂って行く手が見えない中、一歩一歩上がっていく。
いま何合目なのか気になることは気になるが、そんなものがわかったところでやることは何ひとつ変わらないのだ。
それなら無心で足を動かすしかない。登山の魅力と怖さは、退路を断たれたところで本気を出して勝負する点だと思う。

  
L: 再び地味な山道へ。  C: 木道がむしろ土を止めている感じ。重力の感覚がおかしくなりそうだ。  R: いよいよ9合目。

9合目近くまで来ると、背の高い木々がなくなって頭上がだいぶ明るくなる。この雰囲気で頂上の近さを感じる。
周囲が明るくなれば自然と足取りも力強いものとなる。あとは勢いで一気に頂上まで突き破っていくまでだ。
そして9合目から15分ほど歩き続けて、ついに頂上にたどり着いた。石でつくられた祠が置いてあるのがいかにもだ。

  
L: 燧ヶ岳・俎嵓。祠があると頂上って感じだねえ。  C: 尾瀬沼を見下ろす。  R: 隣の柴安嵓。実はこっちが最高峰。

遠くから見てわかるように、燧ヶ岳には複数の峰がある。僕がいま到達したのは俎嵓(まないたぐら)で、2346m。
すぐ西隣の柴安嵓(しばやすぐら)はそれより10m高い2356mで、そっちが最高峰なのだ。泣く泣く西へと歩きだす。
せっかくここまで位置エネルギーを貯め込んだというのに、それをわざわざ消費してからまた登るということがつらい。

  
L: 鞍部から眺める柴安嵓。ここからまた登る作業になるのが切なくってたまらん。  C: 振り返って俎嵓。
R: 勢いにまかせて夢中で登っていったら、気がついたら柴安嵓のてっぺんにいた。覚悟を決めた勢いってすごい。

鞍部の「登るために下る」という逆説は、わかっちゃいるけど、当事者にとっては本当につらいものであります。
それでも俎嵓を登った余勢で突撃したら、わりとすぐになんとかなった。山頂付近は自動的にテンションが上がるね。
柴安嵓にはすでに数人の登山客がいたのだが、燧ヶ岳の最高峰ということで、みんな満足そうな表情をして休んでいた。
なお、燧ヶ岳の柴安嵓は東北地方で最も標高の高い山で、北海道にもここより高い山はない(最高峰は旭岳の2291m)。
山頂の西側は土と岩の混じった緩やかな坂状となっていて、その端からは尾瀬ヶ原を一望できる。その奥には至仏山。
ただただ雄大な景色である。そして山に囲まれた中にある尾瀬の湿原が奇跡的な存在であることを実感する。

  
L: 振り返って俎嵓。  C: 柴安嵓の最高峰部分。  R: 柴安嵓から眺める尾瀬、そして至仏山。言葉を失う絶景だった。

しばらく景色を味わって過ごすと、下山するべく俎嵓に戻る。これがもう、本当に泣ける。また登るのよ、俎嵓に。
で、俎嵓の頂上から南側に分岐するルートで下山する。下山ルートの最初、つまり長英新道のラスト部分はけっこう急。
こちらからアプローチする登山客は多く、譲り合いつつ注意しながら岩場を下りていく。なかなか大変だったかな。

 
L: 俎嵓に戻って下山開始。また上って下る切なさよ。こちらは長英新道ルートだが、頂上付近は意外と急な岩場。
R: 8合目地点から俎嵓を振り返る。さっきまであのてっぺんにいたと思うと、ちょっと不思議な気分である。

登山の登りはつらいけど勢い100%で上がるので、そっちに集中して、時間の経過にはだいぶ鈍感になると思う。
しかし下山では冷静になって足元に注意し続けることもあり、登りよりもやたらと時間がかかる印象になるのである。
もうとにかく、下山する時間が長くて長くて。木々がどんどん茂って視界も悪くなるのでつまらなくなるし。
同じような景色が延々と続いて飽きてくるけど時間はそんなに経っていない、ひたすらそんな感覚が続いてつらい。

俎嵓を後にしてから1時間45分ほどして、やっと別の景色を目にした。鬱蒼と茂る緑の真ん中に木道、尾瀬らしい光景。
多少の高低差はあるが、とにかくこれで下山という作業からは解放された。軽やかな足取りで木道を東へ進んでいき、
尾瀬沼の南東端にある売店を目指すことにする。とにかく今は水分が欲しい。疲れを癒す甘い飲み物が欲しいのだ!
ほどなくして長蔵小屋に到着。脇の売店では500mlのペットボトル400円という価格にさすがに多少は躊躇したものの、
喉が乾くと判断力が落ちることは経験上わかっているので、おいしくいただいた。ここで昼食のおにぎりも食べる。

  
L: 尾瀬沼の南東にある長蔵小屋の売店。  C: 長蔵小屋。  R: 長蔵小屋の近くから眺めた尾瀬沼と燧ヶ岳。

本日最大のターゲットである燧ヶ岳を攻略したので、あとは遅くない時間に予約してある山小屋まで行けばいい。
尾瀬沼から西へ出るには、南北2つのルートがある。北側は、さっきここまで来るのに歩いてきたルートだ。
尾瀬夜行の車内でゲットしたパンフレットによると、南側ルートには何ヶ所か撮影スポットがあるようだ。
このまま北側ルートを引き返すのもつまんないし、距離は少しあるけど南側で行こう!と決めて歩きだす。
しかし実際のところこれがなかなかとんでもないルートで、序盤は木道がきちんと整備されていたものの、
尾瀬沼山荘を越えた辺りから明らかに登山と変わらないルートとなる。木道も荒れ果てたものが非常に多い。
また尾瀬沼方面に視界が開けている場所もかなり限られている。パンフレットに完全にだまされた。

  
L: 最初のうちは木道が整備されているが……。  C: 尾瀬沼越しに燧ヶ岳を眺める。まあこれは確かにいい景色だ。
R: 尾瀬沼の南ルートはやがて土の道となり、さらに荒廃した木道が連発するようになる。コンディションはかなりひどい。

沼尻の休憩所にたどり着いたときには、体力的にも精神的にもかなり消耗した状態になってしまった。
おかげで500mlをもう1本。しかしここからがまた大変なのだ。尾瀬沼から尾瀬ヶ原に出るには白砂峠を通過する。
もうだまされねえぞ!という心境でスタートすると、最初のうちは田代に木道という平和な光景だったのだが、
案の定、木道は終わって登山とさして変わらない緑の中での上下運動が始まった。総合的には下りではあるが、
下ったら下ったで明日の至仏山における位置エネルギーの必要量が増えることになるのである。もう泣きたい。

  
L: 沼尻休憩所。だいぶ曇ってきてしまった。  C: 白砂田代。この辺は非常にのどかでいいのだが、そうはいかない。
R: やはり山道になってしまうのであった。ここからは半ば登山道となる。尾瀬沼南ルートで疲れた身にはただただつらい。

沼尻休憩所を後にしたのが13時少し前。できれば15時台に山ノ鼻にある山小屋に到着したいので、急ぐしかない。
地図の情報では、沼尻から白砂峠を通過して見晴まで行くには2時間弱となっている。その後で尾瀬ヶ原を抜けるので、
これはけっこう厳しいペースである。それもこれもぜんぶ尾瀬沼南ルートが悪い(いちおう1時間で抜けてはいるが)。
とにかく、無理のない範囲でスピードを意識しながら西へと急ぐ。峠を越えた終盤は木道の整備がきちんとしており、
おかげで一気にペースを上げることができた。森を抜けて見晴に出たら、時計の表示は13時50分となっていた。
まさか1時間を切って白砂峠を抜けることができるとは思っていなかったので、これはうれしい誤算である。

  
L,C: 途中には水の豊富な箇所も。  R: 白砂峠の西側はきちんと整備された木道。早歩きで一気に抜けていく。

見晴は尾瀬で最も多くの山小屋がひしめいている都会である。しかしここで休んでいる暇はないのだ。
なんといってもここからが、いわゆる尾瀬らしい尾瀬。そりゃもう、ある程度余裕を持って歩きたいではないか。
呼吸を整えると、いざ木道へと一歩を踏みだす。行く手には明日のターゲットである至仏山がそびえているが、
そこに至るまでの道は遥かに長い。派手な起伏がないことだけが救いである。やはり早歩きで突き進んでいく。

  
L: 見晴に到着。尾瀬の山小屋が集まっている都会だ。  C: 西端から振り返る。本当はのんびり休憩したかったけどね。
R: 見晴からいよいよ尾瀬ヶ原へ。行く先に見えるのが至仏山。目指す山小屋はその麓。……果てしないなあ。

地図によれば、見晴から山ノ鼻までは2時間かかるという。黙々と歩いていくが、景色はほとんど変わらない。
茶色がかった緑色の草原をただただまっすぐ歩くのみ。右手に山並み、左手にも山並み。盆地だなあ、と。
そうは言っても、行く手にある林がだんだんと近づいてきて、見晴を出て15分ほどでその中へと入り込んだ。
沼尻川が流れるこの場所には竜宮という地名がついていて、福島県と群馬県の県境となっている。東北と関東の境だ。

  
L: 福島県から群馬県へ。それすなわち、東北地方から関東地方へということ。  C: 群馬側に入って振り返る。
R: 県境を流れる沼尻川。高原の川とは思えないゆったりとした流れで、「龍宮」の地名に違わぬ優雅さである。

竜宮を越えると木道に休憩ベンチや迂回ルートなどの遊び心が見られるようになる。福島県よりも群馬県の方が、
尾瀬の観光に力を入れているということなのだろうか。明らかに群馬県側の木道の方が金がかかっているのである。

  
L: 竜宮を越えて群馬県側の木道を行く。至仏山が少し近づいてきたかな。  C: 群馬県側はベンチがあるなど散策向き。
R: 中にはこんな感じで2方向に分かれる木道もある。わざわざ回り道をして楽しむ要素があるのは素敵なことだ。

とはいえ、茶色がかった緑色の草原をひたすら突っ切る行為に変わりはない。延々と歩く行為に飽きてくる。
尾瀬はさまざまな花が咲いているのを楽しむ場所であるはずだが、9月下旬というのは明らかに盛りを過ぎている。
まあ「だから空いているだろ」という予測をもとに、この時期に尾瀬を訪れることを決めた自分が悪いのだが。
夏でもなければ秋でもない中途半端な時期の尾瀬は、ただただ茫洋と広がる草原を突っ切るだけの場所なのだった。

  
L: 左向け左。  C: 右向け右。茫洋と草原が広がる光景は、なんだかサヴァンナ(サヴァナ)にいるような気分になる。
R: 回れ右して後ろを振り返ると、燧ヶ岳が僕を見守っているのであった。午前中にはあの頂上にいたんだよな。すげえな。

ここは、9月の高原の湿原であるはずだ。だが、視界いっぱいの草とあちこちで突っ立っている白樺を見ていると、
なんだかアフリカのサヴァンナ(サヴァナ)にいるような気分になってしまうのである。きっとこんなんだろう、と。
足元を見れば木道によって現実に引き戻されるのだが、視線を遠くにやればアフリカを想う妄想に駆られる。

  
L: 西へ進んでいくと、池だか沼だかが目立つようになる。こうなれば9月でも尾瀬らしい景観と言えるだろう。
C: 水面を見ると小さい蓮の葉っぱがあってかわいい。  R: 木道を更新するための材木なんかが置いてある箇所も。

さあ、至仏山が近づいてきた。急ぎ足で進んでいくが、最後の最後がなかなか遠い。白砂峠は高速で抜けきったが、
高低差のない尾瀬ヶ原の木道は、がんばって急いでもガイド地図どおりにしっかりと時間がかかるのである。
曇り空とはいえ、だんだんと暗くなってきたような気がする。『水滸伝』の神行太保・戴宗の気分で突き進む。

  
L: 尾瀬ヶ原では動物をあまり見かけなかった。池だか沼だかでカモがいるのを見たぐらいか。虫も少なかったなあ。
C: いよいよ至仏山が近づいてきた。が、まだまだ道のりは長そうだ。  R: 木道脇、クマ除けのベル。いるのか……。

雲に呑まれつつある至仏山の麓、鬱蒼とした森がもう目の前、というところで木道は左に曲がる。その先には山小屋。
ついに山ノ鼻にたどり着いたのだ。時刻は15時半の少し前で、これなら上々だ。暗くなる前に無事に着いてよかった。

  
L: それではここで突然ですが、9月の尾瀬の花々をご紹介。まずはいきなり猛毒のオクトリカブト。本当に兜・烏帽子っぽい形だ。
C: ミヤマアキノキリンソウ。  R: エゾリンドウ。木道脇にいるのはこいつで、登山道の脇にいるのはオヤマリンドウとのこと。

  
L: ヒツジグサ。小さくてかわいい。  C: 山小屋のすぐ近くにあったコマユミの実。濃いピンク色でこれまたかわいい。
R: 今回お世話になった至仏山荘。やはり狙いどおり9月は閑散期のようで、一部屋をひとりで独占させてもらえた。

富士登山の際に山小屋に泊まった経験はあるが、それ以外の山で山小屋に泊まるのは初めてである。
しかし人里にある旅館とそんなに大きな違いはなく、さすがは人気の尾瀬だなあと感心するのであった。
なんせWi-Fiが飛んでおりますので。おかげで日記がしっかり進みましたことよ。ありがたいことです。

  
L: 山小屋の部屋の様子。ふつうの旅館と大差ない。  C: 入口側を振り返る。相部屋だと少々つらいかな。
R: 晩ご飯をいただく。豚汁が旨くておかわりしたのであった。他人の炊いたメシがいちばん旨いと思う。

消灯時刻に素直に就寝。明日は至仏山である。とにかく少しでも体力を回復させて臨まないといけないのだ。


2019.9.21 (Sat.)

午前中はパソコンのDVDプレーヤー部分がおかしいことを確認。修理で済ませたいが、買い替えどきなのか?と悩む。

午後はサッカー部の合同練習。練習を眺めていて思うのは、人数が多いのはいいものだなあ、ということ。
なんというか、人がいるだけで活気が違う。逆を言うと、ふだんは知らずしらずのうちに縮こまっているのである。
でもこればかりはどうにもならない。なんとかして合同練習の機会を積極的につくっていかないとなあ、と思う。

夜になって浅草へ。いよいよ長年の野望だった「尾瀬夜行で尾瀬に行く」という作戦を実行するときが来た!
尾瀬夜行の出発時刻は23時55分。少し早めに着いたので、コンビニで食料や水分を追加しつつ改札時刻を待つ。
そうして23時30分になると、意気揚々と改札を抜け、リバティの車内に入る。席を確保して、即おやすみなさい。

  
L: 夜の浅草駅。そういえば大阪には難波駅があるけど(建て替えた梅田は認めねえ)、東京で風情のある私鉄駅ってここだけね。
C: 尾瀬夜行として走るリバティ。つづりは「Revaty」で「Liberty」ではない。  R: 車内はこんな感じ。ではおやすみなさい。

気がついたら会津高原尾瀬口駅に着いていたみたい。そのまま列車内で再び4時ごろまで眠りこけるのであった。


2019.9.20 (Fri.)

出張で都立高校受験についての説明会に参加する。今年度から変わった点でかなり影響が大きそうなのが、
携帯電話の持ち込みがOKとなった点である(当然ながら使用はダメ。持ってくるだけならOKって話)。
僕は「ふーん、そうなの」程度の反応だったけど、きちんと考えられる人たちは付随する問題を理解していて、
受験生にはどのように対応させるかをあれこれ想定しているのであった。自分の想像力の欠如ぶりを痛感したなあ。


2019.9.19 (Thu.)

サッカー部の顧問会である。今回は秋季大会、いわゆる新人戦のくじ引きが主な目的であるのだが、
まず最初に行われたのが今シーズンのルール改正の説明。これがかなり細かくて、自信をなくしてしまうレヴェル。
こちとら主審としてのスキルが一向に上がらないというのに、さらにややこしい改正が入って、もうどうにもなりません。

さて肝心のくじ引き。今回は合同チームなので、責任がいつもの2倍である。しょうがないので開き直ってカードを引くが、
いいのか悪いのかよくわからん結果に。そもそも秋季大会は新チームなので、強い弱いがまだはっきりしていないのだ。
まあ最悪ではないし、勝てばふだん戦えない区内最強チームと戦えるしで、興味深いのは確かだ。がんばりましょ。


2019.9.18 (Wed.)

新しいアンブロのバッグ(リュックタイプ)を受領する。容量37リットルということだが、思った以上にでけえ。

これは昨日の話題の続きとなるが、部活で使っているバッグがもうさすがにボロボロなのである。
で、思えば旅行などで使っているFREITAGたちも、もうこれ以上無理させたくないレヴェルになってきているので、
思いきって部活用のバッグをあらゆることに使えるものにしてしまおう、と発想の転換をして新調したのである。
今回、FREITAGは最初から選択肢に入っていなかった。というのも、FREITAGはもったいないという意識が強すぎるのだ。
もっと気兼ねなくあれこれ使えるやつを、ということで部活バッグを新たに買ったわけで。乱暴に使うつもりはないが、
使っているときに細かいことを気にしなくていいのは大きい。ただ、大は小を兼ねると言うにはちょっとデカい。

以前、大和神社で頂戴した交通安全シールを側面に貼り付けてみる。戦艦大和のシルエットが描かれているやつだ。
アンブロの菱形マークとマッチしているし、これで自分のバッグという目印になるし、と思っていたのだが、
遠くから見ると黒地に金の菱形は、なんかこう、いわゆる「代紋」っぽい感じがしますね……。これは誤算だわ。


2019.9.17 (Tue.)

消費税増税ということを意識していないでもないのだが、いろいろ故障と買い替えが進んでいる状況である。
物が壊れるときは一気に来る、とは前に日記で書いたことがあるが(→2016.11.23)、またその波が来ているのだ。

まず最優先でどうにかしたのが登山ウェア。さすがにケツが破れたままではどうにもならず(→2019.8.21)、
いい機会だからと上下で新調。けっこうそれなりのお値段にしたのは、もう今後買い替えないつもりだからだ。

さらにスマホ、イヤフォンが厳しい状況。スマホは来年の1月までなんとしてももたせないといけないのだが、
福知山でコケた影響が大きく(→2019.7.27)、そこに液晶を傷めてしまって、画面の半分くらいがブラックアウト。
正直、メールもSMSも非常に難しい。こんなんであと3ヶ月以上やっていけるのか。不安しかないがしょうがない。
イヤフォンは保証期間内での交換が認められたのでほっと一安心。でもしばらく音楽なしの生活となる。しょんぼり。

あとは洗濯機やコンポもだましだまし使っている状況と言えそうだ。洗濯機なんか引っ越して以来だからそうとう長い。
できるだけ物を大切にして生活してはいるものの、限界はある。なんとかこの波を乗り越えたいところだが……。


2019.9.16 (Mon.)

本日のテーマは秋田内陸縦貫鉄道である。……や、鉄じゃないナリよ。行きたいところへ行くのにちょうどいいってだけ。
秋田県は何度か訪れているが、内陸部を踏破したことは一度もないのである。これはぜひ、チャレンジしてみなければ!

8時少し前に弘前駅を出て、鷹ノ巣駅に着いたのが9時少し前。この辺りは現在は北秋田市の中心部となっているが、
もともとは鷹巣町だった。2005年に4町が合併して北秋田市が誕生。何のひねりもない名前じゃないかと思ったところ、
4町の属した郡の名前が北秋田郡なのであった。それならしょうがないが、もう少しなんとかならなかったのかとも思う。

 鷹ノ巣駅にて。奥羽本線はここまでだ。でもまずは北秋田市内探索だ。

最初に向かったのが鷹巣神社。市街地を抜けてまっすぐ南へ行って米代川の手前に鎮座している。
境内の入口には鳥居の代わりにケヤキが2つ並んでいる。間を参道が延びているのだが、東は空き地なのか駐車場なのか。
参道は縁取るようにL字に曲がって社殿へ。昨日も書いたが北東北独特の空間的な粗さを感じる神社なのであった。

  
L: 鷹巣神社の境内入口。2本のケヤキが鳥居の代わりとなっている。  C: 間を抜けていく。  R: 参道が左に折れる。

 
L: 拝殿。  R: 本殿。創建されてから350年ほどだが、地域を代表する神社として崇敬されている。

参拝を終えると北に戻って北秋田市役所へ。合併前には鷹巣町役場だった建物で、1970年に竣工している。
Wikipediaの「鷹巣町」のページを見るに、かつては緑色をしていたようだが耐震補強した今はベージュである。

  
L: 北秋田市役所(旧鷹巣町役場)。  C: 道路を挟んで正面からだと木が邪魔である。  R: 3階建てのザ・町役場って感じ。

  
L: 角度を変えて南東から。  C: 北東から。こちらに別の棟がくっついているのね。  R: 北西から見た背面。

  
L: 西から見た側面。議場がある分だけこちら側が少し高くなっている。  C: 南西から。  R: エントランス付近。

  
L: エントランス。左は「北秋田市役所」とあるが、右に「秋田大学北秋田分校」の看板が掛かっているのが謎である。
C: 中に入るとこんな感じ。祝日なのに中に入れてたいへんラッキー。  R: 庁舎側から見た前庭。噴水は機能してない。

個人的には斜め後ろ(北西)にある北秋田市役所第二庁舎が面白かった。ファサードを市松模様のようにして、
出っ張らせたり引っ込ませたりと非常にオシャレ。シンプルな建物でも工夫しだいで面白くなる好例だと思う。
もともとは中央公民館だったそうで、昨年3月に改修工事が完了して第二庁舎として生まれ変わったとのこと。

  
L,C: 北秋田市役所第二庁舎(旧中央公民館)。設計者や竣工年などの詳細がわからないのが残念。  R: 西側低層部。

北秋田市役所本庁舎は典型的な町役場建築だったが、第二庁舎が面白かったので満足感に浸りつつ商店街を戻る。
鷹巣のアーケード商店街はかなり立派な印象で、平成の大合併前は市ではなく町だったと聞いても意外なくらい。
米代川沿いで大館と能代の間にある街として、一定の存在感を示してきたことがうかがえる。人通りはなかったけど。

  
L: 北秋田市民ふれあいプラザ コムコム。中央病院跡地に2016年にオープンした観光・生涯学習施設とのこと。
C,R: 鷹ノ巣駅から延びている鷹巣のアーケード商店街。この通りを背骨にして住宅地がのんびり広がっている感じ。

ところで北秋田ではハローキティを見かけることが多く、なぜかと思ったら「北秋田市ふるさと大使」になっていた。
さっき市役所ではガラスドアが半開きで気づかなかったが、エントランスにもお祭りモードのハローキティがいるのだ。
ふるさと大使となった理由はサッパリわからないが、北秋田市はかなり力を入れている。キティラーが来るといいですね。

  
L: 駅の隣の観光案内所がサンリオ風味。ハローキティもいる。  C: 商店街のフラッグにもハローキティ。
R: 郵便ポストには太鼓が乗っていた。世界最大の太鼓(ギネス認定済)である綴子大太鼓にちなんだもの。

JR鷹ノ巣駅の西隣に観光案内所があり、その西隣が秋田内陸縦貫鉄道の鷹巣駅である。木造の駅舎は風情があるが、
実はこれ、国鉄阿仁合線が第三セクター化して秋田内陸縦貫鉄道となった際、新たに建てられた駅舎とのこと。

 
L: 秋田内陸縦貫鉄道の鷹巣駅。こちらは「ノ」が入らない。  R: 駅舎内。グッズの種類がなかなか豊富である。

ホリデーフリーきっぷを購入し、列車に乗り込む。車内はかなりの秋田犬推しであり、思わず圧倒されてしまう。
秋田犬の本場というと大館のイメージだが(→2014.6.29)、鷹巣は大館に近いし、秋田犬は売りになるし、まあわかる。

  
L: 秋田犬仕様となっている秋田内陸縦貫鉄道の車両。  C: シートの模様も秋田犬。  R: 座席の路線案内も秋田犬。

 車内にあったこのロゴ、非常によくできていると思うんですが、いかがでしょう?

秋田内陸縦貫鉄道は見事に山の中を突っ走る。地方のJRでは珍しくない車窓の風景だが、第三セクター化してこれは、
かなりつらいと思う。ただでさえ人口減少が著しい秋田県の、その内陸部を走る鉄道。ぜひともがんばってほしいところ。

 阿仁合駅。北緯40度に位置するのでこの形とのこと。

途中の阿仁合駅で列車の乗り継ぎ。猶予は5分ということで、カメラ片手に全力ダッシュで動きまわるのであった。
阿仁鉱山は18世紀には銅の産出量日本一を誇り、明治初期に官営鉱山となった後、古河財閥に払い下げられた。
1978年に閉山となったが、ドイツ人技師たちの官舎が異人館として残っており、国指定重要文化財となっているのだ。
限られた時間でシャッターを切りまくると、下り列車に飛び込むのであった。いやあ、やりきった……。

  
L: 阿仁異人館(旧阿仁鉱山外国人官舎)。  C: 角度を変えてもう一丁。  R: さらにもう一丁。そして全力で駅に戻る。

阿仁マタギ駅で下車。東へ2km行くと打当(うっとう)温泉マタギの湯とマタギ資料館、さらに「くまくま園」がある。
寄るしかなかろう! 阿仁マタギ駅のすぐ近くには無人の案内所があり、そこから電話で送迎を頼むことができるのだが、
わざわざ呼びつけるのも悪いなあと思い、のんびり歩いていくのであった。しかし秋田の内陸は本当に山だなあ。

  
L: 阿仁マタギ駅。去りゆく下り列車を見送る。左が案内所。  C: 案内所の内部。  R: のんびり秋田の内陸部を歩いていく。

温泉とメシで一息つくのは後回しにして、先に「くまくま園」に行ってみることにした。マタギの湯の奥へと進み、
山の中の坂道をえっちらおっちら上っていくと到着である。北秋田市が運営している熊牧場で、1990年の開業。
事故により閉園した秋田八幡平クマ牧場のクマを受け入れ、2014年にリニューアルオープンして今に至る。

  
L: くまくま園の入口。  C: 迫力あるクマがお出迎えと思いきや、最初に現れたのはウサギなのであった。かわいい。
R: ヒグマの花子が登場。1984年生まれで性格はおとなしいとのこと。しっかりこっちを見ていて知能の高さをうかがわせる。

園内は大きく2つに分かれている。東側がツキノワグマの「つきのわ舎」で、西側がヒグマの「ひぐま舎」。
念のために書いておくと、本州まではツキノワグマで北海道はヒグマである。ブラキストン線(津軽海峡)で分かれる。
まずは「つきのわ舎」を見てまわるが、みんな元気いっぱい。猿山ならぬ熊山では6頭ほどのツキノワグマがいた。
上野動物園でダニエル先生と一緒に見た記憶があるが(→2007.3.24)、こんなにいっぱいはいなかったと思う。
訪れている観光客はそれなりにいて、こんな奥地なのにと感心したのだが、クマの数は人間とどっこいどっこい。
見ているうちになんだかクマが人間っぽく見えてきて、境界が曖昧になり脳がクマタルト崩壊を起こすのであった。

  
L: うじゃうじゃいる。  C: ツキノワグマ。実にクマである。  R: なんだか人間に見えてくるのであった。

  
L: くつろぐ小グマ。  C: 水浴び中のクマ。背中が完全にくまモンだなあ。  R: 遊び場で動きまわる小グマ。

2頭の小グマがじゃれあっている光景を見たのだが、もう完全に柔道の乱取り。中に人が入っているとしか思えない。
距離があったので微笑ましいなあとのんびりカメラを構えて眺めたが、近くだったらかなりの迫力なのだろう。

  
L,C,R: じゃれあう小グマ……なのだが、傍から見ると完全に人間が柔道の乱取りをやっているように見える。

西側の「ひぐま舎」にも行ってみるが、コンクリートでふつうの動物園スタイルの「つきのわ舎」と比べると、
こちらは行動展示を意識しつつもガッチリと安全性を確保しているのが印象的。まあヒグマだから当たり前のことだが。
ヒグマといえばなんといっても1915(大正4)年の三毛別羆事件が有名だが、他にもその恐ろしさを伝える事件がある。
それらを知ったうえでいざヒグマと対面となると、もう怖くて怖くてたまらない。でも見たい。怖いもの見たさである。
「ひぐま舎」は2階がひぐまの運動場を見下ろすデッキ、1階がガラス越しでの観察スペースという構造になっており、
まずは動きまわるヒグマを上から観察。「落ちたら最期」というのは高所恐怖症の症状だが、怖さが増幅された感じ。

   
L: 「ひぐま舎」の方から「つきのわ舎」全体を眺めたところ。こうして見ると、コンクリートでふつうの動物園みたい。
C: こちらが「ひぐま舎」、ひぐまの運動場。右と左に1頭ずついる……。遠くから見る分にはいいが、近いとやはり怖い。
R: 2階デッキにて。「くまくま園で一番大きな熊さんとせいくらべ」ってあるけど、230cm超えだぜ。半端ねえぜ。

全身真っ黒で胸元に白というツキノワグマに対し、ヒグマは全身が茶色で明らかに違う。そしてとにかく頭/顔が大きい。
どこか犬やタヌキめいた鼻のツキノワグマとは違い、ヒグマの鼻は短い分だけ知性を感じさせる顔つきになっている。
でも、のんびりしたツキノワグマの行動はどこか剽軽な人間くささを漂わせていたが、ヒグマの四足歩行は完全に野性。
雰囲気が猛獣のそれである。アイヌはこんなのと戦ったんか……(→2013.7.22)。キムンカムイ(山の神)なのに納得。
そういえば、第二次世界大戦中にはポーランド軍に正式に所属していたヒグマ「ヴォイテク」がいたが(階級は伍長)、
人間と一緒に生活するどころか戦場でも弾薬箱を運んで活躍したという。人間の味方でいてくれれば最高だけどね……。

  
L: 2階デッキから見たヒグマ。こうして見るとなんとなくぬいぐるみっぽくてかわいいが、いかんせんサイズがなあ……。
C: 1階のくま通りにて。うわぁ、2頭ともこっちに来た!  R: こちらを凝視するヒグマ。これは本当に怖い。迫力が違う。

存分にクマの世界を堪能すると、坂道を下って打当温泉マタギの湯へ。東側の棟がマタギ資料館となっているが、
いったんマタギの湯の方から入らないといけないのが少しややこしい。しかしさすがに展示内容はたいへん興味深い。
マタギは単なる猟師ではなく、狩猟を職業とした社会集団と表現した方がいいほど独特の宗教観や倫理観を持っていた。
特に山の神(女神)に対する信仰が篤く、身を清めてから山に入ると日常とは異なる山言葉(マタギ言葉)を使用した。
この山言葉はアイヌ語の影響が強く、またクマを山の神からの授かり物を捉える点もアイヌの文化と近いものがある。
近代以前の日本人の自然観、またアイヌ文化との影響など、レヴィ=ストロース的面白さ(→2010.3.17)が満載だった。
悲しき亜寒帯(→2013.7.23)は何もアイヌの話だけではなく、われわれ自身も当事者なのである。それを実感した。

  
L: 打当温泉マタギの湯。宿泊も可能。  C: マタギ資料館の外観。  R: マタギの使う鉄砲関連の道具。

  
L: マタギの服装と鉄砲。  C: マタギ小屋を再現した一角。  R: 志茂田景樹『黄色い牙』コーナー。マタギの話なのね。

ではいよいよ温泉なのだ。ナトリウム・カルシウム塩化物泉とのことだが、かなり鉄分を感じる赤褐色の湯である。
思う存分じっくり浸からせていただいた。そして温泉からあがるとランチタイムである。レストランの券売機のすぐ脇に、
「熊肉ラーメン」の看板が出ていたので、もうそれを食するよりないではないか。1550円でも迷わずいただくのだ。
初体験のクマ肉は、臭みはないけど脂がちょっと独特。それがマタギのエネルギー源なのね、と思いつつ食べる。

 熊肉ラーメン。これは貴重なものをいただいた。ふつうにおいしゅうございましたよ。

帰りは他のお客さんと一緒に素直に阿仁マタギ駅まで送ってもらう。やっぱり往路も車に乗せてもらえばよかった。
そうすればもっとじっくり楽しめたもんなあ。なんだかんだ、くまくま園にマタギに温泉にフルコースで味わったけど。

阿仁マタギからは一気に終点の角館まで行ってしまうが、秋田内陸縦貫鉄道では車窓から見る田んぼアートが凝っていて、
乗客を飽きさせない工夫がいっぱいなのだ。今年は「秋田犬と旅」がテーマということで、撮影した写真を貼り付ける。

  
L: 「いせどうくん」。伊勢堂岱遺跡マスコットキャラクター。  C: 「なまはげ」。  R: 「竿燈まつり」。

  
L: 「上桧木内の紙風船」。  C: 「令和と富士山」。  R: 角館駅に到着。秋田内陸縦貫鉄道の駅は脇の方なのね。

15時過ぎに角館に到着。すでに観光のピークを過ぎた時間帯ではあるが、レンタサイクルを借りて走りまわる。
角館を訪れるのは実に11年ぶり(→2008.9.13)。しかしそのときとまったく変わらない姿で穏やかに僕を迎えてくれた。
まずはやっぱり自慢の武家屋敷通りを端から端まで往復。黒板塀と枝垂桜の織りなす景色がずっと続くのはここだけだ。

  
L,C,R: 11年前から……いや、近代以前からほとんど変わっていないであろう角館の風景。舗装だけが近代か(→2014.2.9)。

  
L: 仙北市役所角館庁舎(旧角館町役場)。新しい角館庁舎ができるという話だが、現状はまだこちらが使われている。
C: 南東から見たところ。1961年竣工の2階建てでたいへん味がある。  R: 南西から。いい感じのモダニズムだなあ。

 火除けにある重要伝統的建造物群保存地区の案内板。

これで角館に来た実感が湧いたので、あとは11年前にやらなくて後悔していたことをきちんとやっておくのである。
公共建築百選に選ばれている角館郵便局をクローズアップ。切妻屋根を意識しておりどこか蔵を思わせる建築だが、
和風の要素を取り込みましたというだけの平成初期バブルオフィス感満載で、何が評価されたのかサッパリ。

  
L: 角館郵便局。1992年竣工ということで、いかにも平成キッチュな建物。駅から市街地へ来るとこいつがお出迎えとなる。
C: 南東から見たところ。平成バブル期にはこれがランドマークだったんだろうなあ、と思う。  R: 南西から見た側面。

市街地をずっと南下すると、角館總鎭守 神明社。角館の街は南北に長く延びていて、北端が先ほどの武家地である。
そして火除けを挟んで南が町人地となっており、帯状に配置された寺を挟んで、南端にあるのが神明社なのだ。
角館の城下町をつくったのは佐竹義重の次男である蘆名義広(義勝)だが、蘆名家の断絶後には佐竹北家が入り、
神明社は角館の総鎮守として現在地に遷座されたとのこと。角館は武家屋敷以外の歴史もなかなか興味深い。

  
L: 角館總鎭守 神明社の境内入口。  C: 石段がなかなか立派で長い。油断すると蚊が襲ってくる。  R: 拝殿。

 奥の本殿。なるほどさすが神明社である。

御守を頂戴すると中心部に戻る途中にある安藤醸造へ。11年前には早朝で見学できなかったレンガ造蔵座敷を拝見する。
蔵がレンガ造りということで明治になってからの建物だが、たいへんハイカラ。そして中の座敷が圧倒的な迫力である。
そういえば同じ東北の喜多方でもレンガ蔵は見たが(→2009.6.10)、ここまでの豪快さではなかった。冠婚葬祭の場だと。

  
L: 安藤醸造。享保年間から角館に地主として住んでおり、1853(嘉永6)年に副業として味噌や醤油の醸造を始めたそうだ。
C: レンガ造の蔵の外観。1891(明治24)年の築で、たいへんオシャレ。  R: 店内にお邪魔して蔵の入口を見たところ。

  
L: レンガ造蔵座敷の内部。圧倒されますな。  C: 床の間。  R: 本店の店内、奥の方。こちらもいい感じである。

こんな感じで角館のリヴェンジは無事に完了。土産店で袋に入った大量の稲庭うどんを発見し、実家への土産とする。
3年前にあげた切り落としがたいへん好評だったので(→2016.8.1)、こりゃいいやと。秋田の食は充実していると思う。
角館から秋田新幹線でそのまま東京へと戻る。先月もお世話になったが、東北は新幹線のおかげで帰るのが楽でいいわあ。


2019.9.15 (Sun.)

先週広島に行ったばかりだが、今週は秋田に行っちゃうぜ! 五能線(→2014.8.202014.8.21)リヴェンジの旅なのだ!
いやそもそも秋田は先月に行ったばかりであり(→2019.8.18)、後ろめたい気持ちはもちろんあるけど、しょうがない。
旅行というのはやる気の問題なのだ。行けるときに行っておかないと、あとあと後悔することになるのである。

池袋駅西口7番というややマニアックなバス停を出発した夜行バスは、朝の8時過ぎに能代バスステーションに到着。
能代駅は市街地の中心部から少し東に行ったところにあるが、能代バスステーションもまた北に少し離れた位置にある。
市役所が目的の僕としては、神社を押さえつつ駅に向かえばロスが少なめのルートとなるので、それはそれで好都合だ。
前も書いたが、北東北の街はずれは北海道のセットバック感に近い密度の粗さがある(→2017.6.242019.8.18)。
能代の街もしっかりそうで、なんとなく投げ出された感覚をおぼえつつ歩いていくと、市役所に到着した。

  
L: まずは北東から。こちらが能代市役所の新たに増築された部分である。右端に1949年竣工の旧第一庁舎が見える。
C: 南側の棟をクローズアップ。  R: ロータリーを囲むようにずらして北側の棟を配置。こちらが旧第一庁舎に接続。

5年前のログで詳しいことを書いているが(→2014.8.21)、能代市役所は旧第一庁舎を増築する形で本庁舎が建てられた。
旧第一庁舎は武藤清の設計で1949年に竣工しており、戦後すぐの市庁舎建築として非常に貴重。国登録有形文化財である。
その旧第一庁舎の東に接続して新たな建物が足され、さらに南東にも新たな建物が建てられた。これが2017年の竣工。
設計は環境デザイン研究所・設計集団環協同組合・ライフデザイン建築研究所のJV。意地で旧第一庁舎を残した感じだ。

  
L: 北側から見た能代市役所本庁舎の増築部。  C: 右を向くと旧第一庁舎。リニューアル感があるが、それは5年前も同じか。
R: ほぼ正面から見た旧第一庁舎。手前の木が邪魔なのと、建物じたいに幅があって全体をうまく眺められないのが残念である。

  
L: 北西から眺めたところ。  C: 西側から見た本庁舎。旧第一庁舎がそのまま残っている。  R: 南西から見た背面。

旧第一庁舎の裏にある旧議事堂は大会議室として無事に存続。こちらは旧第一庁舎の翌年である1950年に竣工しており、
やはり国登録有形文化財である。この時期に建てたことも奇跡なら、残っていることも奇跡。末長く大切にしてほしい。

  
L: 北西寄りで見た大会議室(旧議事堂)。本庁舎の南側の棟に接続して建つ位置関係となった。
C: 正面(西)から見たところ。  R: 南西から見たところ。背後に本庁舎の南側の棟が見える。

南へまわり込むと、「さくら庭」という名前の広場が駐車場との間に整備されている。傾斜した敷地を階段状にして、
もともとあった桜並木を上手く取り込みつつ、駐車場と市民向けのオープンスペースを確保したというわけだ。

  
L: 南西から見た本庁舎南側の棟とさくら庭入口。  C: さくら庭から本庁舎南側の棟を眺める。  R: 間にある桜並木。

  
L: さくら庭はこんな感じ。日陰がないのはマイナスかな。  C: 南東から見た本庁舎南側の棟。
R: 南から駐車場越しにさくら庭と能代市役所の全体を眺めたところ。ここからだと増築部しか見えない。

  
L: そのまま南東に動いて眺める。  C: さくら庭と本庁舎南側の棟の接続部。  R: 本庁舎南側の棟、東側の側面。

能代市役所の撮影を終えると、まっすぐ東に行って五能線の線路を越えて能代鎮守を名乗る日吉神社へ。
境内は広く、北東北の街はずれ感がそのまま接続している感じが少し独特だ。木々が茂ってたいへん静か。
冒頭で「神社を押さえつつ駅に向かえばロスが少なめのルートとなる」と書いたが、市役所から日吉神社までは完全往復。
神社はだいたい9時にならないと授与所が開かないのでしょうがないのだ。まあ、無事に御守が頂戴できたのでヨシ。

  
L: 日吉神社。境内が広い。  C: 参道をずーっと進んで拝殿。  R: 本殿。

いったん市役所に戻ってから中心市街地に入り、金勇の隣に鎮座する八幡神社へ。こちらも能代鎮守を名乗っている。
市街地のど真ん中だが、しっかりと木々に包まれておりここだけ雰囲気が違う。御守を頂戴すると駅へと歩く。

  
L: アーケード商店街から南へ入って八幡神社の境内入口。  C: 参道を進んでいく。  R: 拝殿に出る。

能代駅に着くと指定席券を購入して快速リゾートしらかみ1号に乗り込む。能代といえば能代工業、バスケということで、
ホームではフリースローに挑戦できるということで、それじゃあやってみますかと、左手は添えるだけでシュート。
これが決まったのだが、冴えない猫背のメガネがシュートを決めるのは意外だったのか、おばちゃんに少し驚かれた。

 
L: 能代駅ホームのフリースローコーナー。  R: 決めたらこちらの天然杉ハガキがもらえた。

というわけで五能線リヴェンジである。5年前には大雨の影響で岩館−深浦間が代行バスとなっていたが(→2014.8.21)、
月内にあっさり復旧したのであった。いやー、あのときは運が悪かった。5年経ってようやくのリヴェンジなのだ。

  
L: リゾートしらかみ(橅)。この手の観光列車に乗りたくて乗っているわけじゃないのよね。時間の都合で仕方なくである。
C: 中はこんな感じ。アルコール類が充実していたが、飲む余裕なんてない。比内地鶏の駅弁は購入して、おいしくいただいた。
R: 沿線の秋田・青森の工芸品もいろいろ売っている。豪気な買い物をしちゃう人たちがいるんだろうなあ、と思う。

 前回下車した十二湖駅だが、今回はスルー。こちらは深浦町のキャラクター・ゆうひくん。

前回とは逆方向で、列車は五能線を北上していく。千畳敷は線路から距離があってすっきりと見ることはできないが、
それ以外の箇所も車窓の風景はやはり興味深い。天気がイマイチなせいか、日本海らしい荒涼とした感じが印象的だ。

  
L: 五能線の車窓の光景。いかにも日本海って感じの荒涼さである。  C: 岩崎漁港かな。  R: 海に面した田んぼ。

 車内では観光列車らしく津軽三味線を演奏中。

2時間半ほど揺られて五所川原駅に到着。こちらも能代同様に5年ぶりの訪問(→2014.8.20)となる。
五所川原市役所はつがる総合病院と土地を交換して新築されたということで、その姿を確認するのがいちばんの目的だ。

 右が津軽鉄道の津軽五所川原駅。左が津軽鉄道本社。

新しい五所川原市役所は駅からかなり近くなった。南西に歩いていけば、すぐに到着である。
3階建てで高さはそんなにないが、幅も奥行きもしっかりあって建物の規模としてはそれなりに大きい。
設計は佐藤総合計画で、昨年3月に竣工。庁舎内ほぼすべての家具に地元産のヒバ材を使っているとのこと。

  
L: 五所川原市役所。まずは北西から見たところ。  C: 西から見たところ。これ側面ってことでいいんだよね?
R: 南西から見たところ。右端にあるのは、日本武尊の立佞武多をモデルにした像。本物と比べるとだいぶ小さい。

  
L: 南西、敷地内から。  C: 南かた見たところ。これが正面ということになるのか。  R: エントランス。

  
L: 南東から。  C: 市役所の西は区画整理された広い道路に面するのに対し、東は住宅が残って過密状態な感じ。
R: 市役所の北東にあり五能線を越える陸橋から眺めた東側の側面。これでいちおう一周完了ということで。

  
L: ガラス越しに中を覗き込んでみる。これは南西端から東方向。  C: 南から。  R: 同じく南から、少し東に移動して窓口。

市役所の次は神社である。五所川原では五能線の西側を国道339号、五能線の東側をそのバイパスが通っており、
バイパス脇に鎮座している神明宮へと向かう。1kmほどだが街全体がのっぺりしており、歩くとそれ以上の距離を感じる。
そうして着いた神明宮は砂利敷きの広々とした境内となっていて、神社特有の閉じられた感触がないので少し違和感。
実はもともと市街地中心部の本町に鎮座していたが、1965年にバイパス側へ移転。区画整理でさらに移転して今に至る。
残念なことに神職さん不在で御守を頂戴できず。初穂料がわからないため、送付のお願いもできずに生殺しなのであった。

  
L: 神明宮の境内入口。  C: どことなく土地を持て余した感のある境内も、区画整理絡みなら納得。  R: 拝殿。神明らしい。

帰りは五能線西側の昔ながらの市街地を歩いていく。岩木川の脇に八幡宮があり、無人ではあるもののきちんと参拝。
こちらは「五所川原」の地名発祥の地で、碑が建っている。旧相馬村の五所(現在は弘前市の一部)から祠が流れ着き、
返しても返しても祠が流れ着いたことでそのまま祠が安置され、八幡宮となった。それならもっと大規模でもいいのに。

  
L: 八幡宮の入口。鎮座する地名を冠して元町八幡宮とも。  C: 拝殿。  R: 本殿。

 
L: 「五所川原地名発祥之源地」と彫られた碑。そのわりには寂しい。  R: 旧五所川原市役所がまだ残っていた。

さてせっかくの五所川原。前回訪れなかった場所に行こうじゃないか、ということで吉幾三コレクションミュージアムへ。
吉幾三は五所川原の出身で、2009年に地元にミュージアムを設立。今年4月に現在地に移転したばかりで、建物が新しい。
中に入るとまず目に付くのがステージ衣装。ギターのコレクションや直筆の書、ドラマなどの台本もいっぱいだ。
もともとアイドル路線でデビューしたそうで、脚の長さが自慢とのこと。これはなかなか意外なエピソードである。
その後、吉幾三に改名してフォークソング路線からシンガーソングライターの経験を積み、『俺ら東京さ行ぐだ』で爆裂。
そこから正統派演歌である『雪國』の超絶大ヒットも果たすわけだから、この人は本当に音楽センスの塊なのだと実感。

  
L: 吉幾三コレクションミュージアム。  C: 中はこんな感じ。ライヴができるのがいいですね。  R: ステージ衣装。

中央のスクリーンではリリースされたばかりの新曲『TSUGARU』が流れている。これは『俺ら東京さ行ぐだ』の続編で、
地元に帰らない子どもに親が呼びかける歌。なのだが、全編ディープな津軽弁によるラップで、字幕がまた強烈である。
そもそも『俺ら東京さ行ぐだ』がラップをヒントにつくられていて、そこに吉幾三の音楽センスが見て取れるわけだが、
時代の流れを踏まえたうえでさらにいろんな面で研ぎ澄まされた楽曲を出してきたのだ。本当にすごいものだと呆れる。

  
L: 脚の長さを前面に出しているアイドル時代のレコード。  C: 本人使用のサングラス・筆・コーヒーカップなどを展示。
R: スクリーンで流されている『TSUGARU』。確かに面白くて、あらためて吉幾三の音楽センスに圧倒されるのであった。

吉幾三の凄みを実感すると、太宰治「思ひ出」の蔵へ。太宰の叔母であるキエの一家が建てた蔵を再現したもので、
2014年に太宰の資料館としてオープンした施設である。五所川原が太宰との縁を意地で空間的に確保した、って感じ。

 
L: 太宰治「思ひ出」の蔵。  R: 中にお邪魔する。使われている部材は全般的に新しい。

ではあらためて、5年前にも訪れた立佞武多の館を見学する(→2014.8.20)。ラインナップは今年含めて直近の3年分。
どれも初めてなので大興奮。そういえば、5年前に見た「鹿嶋大明神と地震鯰」は2015年にブラジルで焼失してしまった。
ニュースで知ったときは僕も脱力してしまったなあ。それでも美しい立佞武多が毎年つくられるのは頼もしいというか。

  
L,C: 2017年製作の「纏」。五所川原は二度の大火から復興した街ということで火消しがテーマ。  R: 背面には不動明王。

  
L,C,R: 今年の新作である「かぐや」。立佞武多というと力強さが印象的だが、華麗さを前面に出しているのがとても斬新。

  
L,C,R: 昨年製作の「稽古照今・神武天皇、金の鵄を得る」。さまざまなアングルで眺めるが、ぜんぜん飽きることがないぜ。

  
L: 斜め後ろから眺める。  C: 背面は天岩戸。  R: やはり立体造形物としての魅力は圧倒的なものがある。

久しぶりの立佞武多だったが、やはりこれは最高レヴェルの立体造形物であると実感するのであった。
定期的に見てしっかり刺激を受けたいものである。まあ一番は五所川原立佞武多の祭りの現場に行くことだろうけど。
歴代の立佞武多をミニチュアモデルにすれば、けっこう売れるんじゃないか。中から明かりがつけられれば最高。

五所川原を後にすると弘前へ。ここからは弘南鉄道のお世話になるのだ。まずは弘南線で津軽尾上駅へ。
住宅地をしばらく歩いていくと盛美園(→2014.6.28)である。しかし今回は、その先こそが目的地なのだ。
無知な僕は5年前に猿賀神社をスルーしてしまっており、そのリヴェンジを果たすべくやってきたというわけ。

  
L: 盛美園からさらに西へと進んでいくと、猿賀神社の一の鳥居。  C: 鳥居をくぐって境内へと向かう。
R: 参道途中(東側)には蓮乗院。もともとは猿賀深砂大権現の神宮寺支院で、神仏分離により猿賀神社から独立。

  
L: 参道を挟んで反対(西)側には神宮寺。猿賀神社関連の寺で現在も残っているのは蓮乗院と神宮寺の2つだけ。
C: 猿賀神社の境内入口。このまま右へ行くと猿賀公園に出るが、実は公園も猿賀神社の境内の範囲内である。
R: 鳥居をくぐっていくとこの光景。冒頭で書いた北東北らしい密度の粗さ、突き放した空間を感じる境内だ。

猿賀神社の主祭神は上毛野君田道命。367年に蝦夷討伐で敗死して埋葬されたが、大蛇となって蝦夷を平定したとのこと。
その後、坂上田村麻呂が田道命の霊の力で大勝したことで祠がつくられ、807(大同2)年には勅命で社殿が建てられた。
それからは藤原秀衡や北畠顕家といった東北の英雄に崇敬され、猿賀山深砂大権現として修験道の霊場になった。
明治になると神仏分離で猿賀神社となるが、参道に神宮寺があって往時の雰囲気が残っているのは上の写真のとおり。

  
L: 木々に包まれている拝殿。1938年の築。  C: 千鳥破風に向拝が見事である。  R: 併設されている神饌所。

御守を頂戴すると境内東側の鏡ヶ池へ。神橋の先に胸肩神社があるので参拝する。その後は鏡ヶ池の南側を半周するが、
猿賀公園は地域の皆様の憩いの場となっているようで、多くの人がのんびりと過ごしているのが印象的だった。

  
L: 神門・玉垣の奥に本殿。1829(文政9)年の築で、青森県の重宝に指定されている。建物を覗き込むのはこれが限界。
C: 鏡ヶ池の中島に鎮座する胸肩神社(弁天宮)。  R: 鏡ヶ池の中の胸肩神社。鏡ヶ池は一面がハスで覆われている。

津軽尾上駅に戻ると終点からひとつ手前の境松駅で下車。黒石名物だという「つゆやきそば」をいただくのである。
晩ご飯には少し早い時間だったが、この後もしっかり予定があるのだ。で、いざ実食。正直なところ、うーん……と。
考え方としては、ソース焼きそばをスープにしたもの、ということになると思うが、ソースのスープは個人的には違和感。
まあ他にもっと旨い店があるのかもしれないが。とはいえソースの酸味は強烈なので、限界を感じなくもない。うーん。

  
L: つゆやきそば。個人的には正直イマイチ。他の店でも食べてみたいところではあるが、味に限界を感じなくもない。
C,R: 5年前にも撮ったけど、黒石の中町・こみせ。伝統ある街並みがしっかり残っているのはかけがえのない財産だと思う。

弘前駅に戻ってくると、歩いて中央弘前駅へ。微妙な距離が面倒くさい。こちらは同じ弘南鉄道でも大鰐線なのだ。
なんでそんな面倒くさいことになっているかというと、もともと別の会社だったから。弘南線は元から弘南鉄道だが、
大鰐線は弘前電気鉄道が弘南鉄道に経営権を譲渡したのだ。弘前駅と中央弘前駅をつないでくんねえかなあ……。
今回は実質的な1日乗車券である「大黒様きっぷ」を利用しているため、意地でも弘南鉄道オンリーで大鰐温泉へ向かう。

 大鰐線の吊革。リンゴだったりハートだったり、いろいろ工夫してますね。

大鰐温泉に浸かって英気を養うと、弘前に戻る。しっかり各種のリヴェンジを果たした、充実した一日だった。


2019.9.14 (Sat.)

こないだの台風15号がどうにも不思議である。8日から9日にかけて首都圏に向かって突撃していった台風15号だが、
僕は広島から追いかける格好になったからか、交通面で足止めを食ったものの、特に被害を意識することはなかった。
しかしニュースを見ると房総半島は今でも大混乱で、観測史上1位となる最大瞬間風速57.5m/sを記録したとのこと。
ゴルフ練習場のポールは倒れるわ鉄塔は2基倒れるわ、停電に断水に屋根が飛んで職人が足りないとか惨憺たる状況。
東京の隣の千葉でこれだけ混乱することがまず意外で、その初期対応がまったくできていなかったこともまた意外だ。
つまりはそれだけ温暖化による台風の大型化が進み、これまでの常識が通用しなくなってきているということか。
そして明日は我が身である。夏になったら台風にやられるという覚悟を固めておかないといけないのかもしれない。


2019.9.13 (Fri.)

今回のテストの採点作業を終える。きちんとしているやつは、ちゃんと勉強しはじめている感じがはっきりわかる。
そういう意味でいいテストがつくれたかなと思う。一方で、ふだん得意にしているグループはイマイチ伸びなかった。
高得点は取りづらい問題だったかもしれない。まあ、兜の緒を締めさせるには実に好都合な内容だったということか。
結果、平均点は前回とあまり変わらず。それにしても僕のテストは、気持ち悪いくらい平均点が50点前後に収まる。
前に平均点が一年間を通して49点から51点の間に完全に収まったことがあったが(→2011.11.22)、今年もそのペース。
不思議。


2019.9.12 (Thu.)

テストである。そんでもって午後には出張。おかげでほかの先生方が休暇を取った中、僕だけ残る形になったので、
なんだか罰ゲーム的な感じで職員室に取り残されるのであった。それはそれで新鮮だ、と面白がりつつ採点を進める。
そして15時前には出張に出かける。帰りはきっちり定時ということで、一日中妙な開放感をおぼえて過ごしたのであった。


2019.9.11 (Wed.)

テスト問題、最終的にデバッグが完了したけど、今回は変に疲れた。台風をめぐる混乱はやっぱり影を落としたなあ。


2019.9.10 (Tue.)

テストが大まかに完成したけど、先日の台風の件で微妙な動揺があるのは否めない。
なんというか、細部まで仕掛けを潜ませるところまで行かず、わりと単純な問題で済ませてしまった感じ。
したがって難易度としてはそんなに高くない仕上がりである。まあそれはそれでいいや、と開き直っております。


2019.9.9 (Mon.)

浜松駅の東京方面始発が6時20分ということで、5時30分に行動開始。

 グッドモーニング、浜松。

駅には詳細を書いたホワイトボードが出ており、それによると小田原-東京間は運転見合わせとのこと。
まあとりあえず小田原まででも戻れりゃいいやと、近くの金券ショップで切符を入手してこだまに乗り込む。
途中の新富士でいったん停車し、7時40分まで待ってからまた発車。そこからしばらくは快調に進んだものの、
多摩川を渡って懐かしの初任校のすぐ近くでまた停車。屋上旗振りイヴェントを思いだす(→2013.6.17)。
(というか、新幹線で近くを通るたびに思いだすんだけどな。車窓から校舎を探さずにはいられないのだ。)
その後、こだまは再び動きだし、なんとか東京駅に到着したのであった。1時間程度の遅れで済んだのはありがたい。
大手町駅から地下鉄に乗り込み職場へ直行。昨日まで広島にいたはずなのに職員室に来た順では4番目ということで、
いったいどんな魔法を使ったんだ、中国大返しかよ、と驚かれる。むしろ首都圏の方が交通が混乱していたようで。
この日は遅らせて授業をやったので、がんばって戻って大正解。土産のもみじまんじゅうもたいへん喜ばれたのであった。


2019.9.8 (Sun.)

広島旅行の2日目は、新・広島市民球場(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)での野球観戦がメインエベントである。
本当のことを言うと、この1週間後のヤクルト戦を狙っていた。が、チケットが取れず、この日の阪神戦になったのだ。
ご存知のとおり近年の広島カープは非常に好調で、「カープ女子」が話題になるほど老若男女に爆発的な人気がある。
ところが広島市民球場のチケットは、1年間の全日程を3月1日(金)の朝10時に一斉発売するという頭のおかしさで、
案の定ネットは大混乱。唯一どうにか確保できたのが、縁もゆかりもない阪神戦のビジターパフォーマンス席なのだった。
ヤクルトファンが! わざわざ広島に行って! 阪神ファンと一緒に六甲おろしを歌わざるをえない! ……なんだこりゃ。
まあ新球場に対する興味が爆裂しているので観戦できるだけありがたいけど、すっきりしないのは確かである。

さて、この日まず朝イチで向かったのは、あき亀山駅である。そう、可部線で復活した区間なのだ。
かつては可部駅から三段峡駅までが非電化区間として営業していたが、2003年に廃止となった。しかしその後、
地元の熱い声が実って電化延伸により可部駅から2駅分が復活したのである。新たな終点は「あき亀山」表記となった。
というわけで広島駅から50分ほど、あき亀山駅まで揺られる。着いたら15分の滞在で広島駅に戻る。鉄じゃないナリよ。
ただ、行ったことのない場所に行きたかっただけさ。できれば三段峡まで行ってみたかったけどね、悔しいねえ。

  
L: あき亀山駅。復活したのは2年前なのに、駅舎を出ると砂利。  C: 駅の看板。「あき」というひらがなはあき竹城っぽいな。
R: とりあえず駅舎を出て西側の道を歩いてみる。周囲はまだまだ開発が進んでおらず、マジで何もございません。

  
L: 駅前の広大な空間。新しい安佐市民病院がつくられるらしい。  C: 最果て側から見たホーム。土地に余裕があるなあ。
R: あらためてホームから最果て側を見る。ここから三段峡へ行くことはできないんだよなあ。淋しいものだなあ。

広島駅まで戻ると、レンタサイクルを借りて行動開始。野球の試合が始まるまで、とことん神社を参拝してやるのだ。
さすが中国地方最大の都市だけあり、主要な神社をまわるには一日じゃとても足りない。ぜひまた近いうち来るとして、
そのときの負担をできるだけ減らす、という方向に発想を持っていく。まずは東へ自転車をすっ飛ばして広島市を脱出、
府中町の町域内に入る。府中町役場の目の前を抜けた先にあるのが多家(たけ)神社。安芸国総社の後継社だ。

  
L: 多家神社の境内入口。  C: 参道を行く。拝殿は左に折れた先で、ちょっと独特な配置。  R: 拝殿と向き合う。

多家神社は延喜式の名神大社だったが、武士たちの時代になって争いに巻き込まれ、所在がわからなくなるほど衰退。
やがて江戸時代になって、松崎八幡宮と安芸国総社が「ウチが多家神社だった」と主張して争うようになったそうで。
それで1873(明治6)年、両社を廃止したうえで双方の祭神を祀る多家神社を新たに創建した。豪快な解決策である。
御守を頂戴したが、古来よりの呼び方である「埃宮(えのみや)」表記のものもあり、なかなか個性的な神社だと思う。

  
L: あらためて拝殿。  C: 中門の奥に本殿。  R: 角度を変えてもう一丁。社殿は1922(大正11)年の再建。

帰りに府中町役場を撮影。ややこしいことに広島県には府中市(→2013.2.23)と府中町が別に存在しているのだ。
府中町はとにかく個性が満載の自治体だ。マツダの本社がある企業城下町であり、財政が豊かなので合併したがらない。
そのため四方を完全に広島市に囲まれているというレソト状態(包領というらしい。なお、かつての鼎町もそうだった)。
現在、日本でこの状態となっているのは府中町だけである。そして人口が5万人を超えているのに、市にならない。
やはり同じ広島県内に「府中市」が2つという事態を遠慮しているのだろうか(あっちは備後府中でこっちは安芸府中)。
おかげで日本で最も人口の多い町となっている(2016年に富谷市が誕生したので府中町がトップになった →2019.4.6)。

 府中町役場。「府中市」は東京と広島の2つがあるが、「府中町」は全国でここだけ。

参拝を終えると南下してから広島市内に戻る。次の目的地は、邇保姫(にほひめ)神社だ。これまた個性的な神社で、
周囲をコンクリートで固められた小さな山がそのまま境内となっている。なんだか稲荷系のような独特さを感じるが、
祭神の爾保都比売神は丹生都姫神(→2012.10.8)と同一視されているそうで、「丹生」で高野山と関係があるからか。
御守を頂戴するが、境内はやっぱりお寺のような少し自由な雰囲気があるし、全体的に物が多くて落ち着かない。

  
L: 邇保姫神社を北から見たところ。ごくふつうの住宅地にいきなりコンクリートの山で神社ということで驚いた。
C: 神社の南にある氏子会館。このモダンな雰囲気もまた独特。  R: 南側から見た境内入口。こちらが表参道。

  
L: 石段を上りきるとこんな感じ。社殿は進んで右手にある。  C: 拝殿。  R: 下から見上げた本殿。

今度は北西へ進んで比治山へ。広島市といえば太田川の三角州だが、もともと広島湾に浮かんでいた島を利用しつつ、
干拓で平地を広げていった経緯がある。昨日の広島港・宇品周辺がその南端で、邇保姫神社は仁保島(黄金山)の鎮守。
そして比治山も、もともと島だったのが土砂の堆積と干拓とで陸続きとなった土地である。比治山神社はその北側。

  
L: 比治山神社。平地が比治山に食い込んだところに鎮座。原爆で一度吹っ飛んだからか、境内の雰囲気は妙に開放的。
C: 参道を行く。すぐ左側は境内だけど駐車場となっており、その自由さが独特。  R: 拝殿。社殿は1954年の再建。

比治山神社では拝殿の前に立って二礼二拍手一礼しようとすると、巫女さんがスッと現れてお祓いしてくれる。
そんなの初めてなのでびっくりである。おかげで巫女さんと微妙に呼吸が合わずになんだか申し訳ないのであった。

 池越しに本殿。比治山がそのすぐ後ろから始まっている。

平和大通りを西へと走って白神社。前にも参拝しているが(→2013.2.24)、御守はまだなので頂戴するのだ。
原爆のせいで小ぢんまりとした印象の神社となってしまったが、御守の種類はきちんと各種そろっている。

  
L: 白神社。  C: 拝殿をクローズアップ。御守は拝殿内で頂戴する。  R: 常夜灯は被爆して基礎だけになったそうだ。

 奥の本殿。足元にかつての岩礁を残すが、赤いのは被爆の影響らしい。

白神社から南下して広島市役所前を通過。建物が大きくて撮影しだすと面倒くさいことになるので、今回はスルー。
市役所を目印に橋を渡ってさらに西へ。次の目的地である住吉神社の背面に出るので、正面側へとまわり込む。

  
L: 住吉神社。境内の入口手前にお地蔵様がいる。  C: 境内は旧太田川のすぐ脇なので、少し窮屈。  R: 拝殿。

川のすぐ脇ということで、船の安全を司る住吉神社としては非常にふさわしい立地に思える。
かつては空鞘稲荷神社の摂社だった時期もあるそうだが、第二次世界大戦後に独立したそうだ。

 旧太田川越しに眺める本殿。

御守を頂戴すると、一気に三角州の西の果てへ突き進む。西広島駅の裏にあるのが旭山神社である。
1555(天文24)年に厳島の戦いで毛利元就が必勝祈願に訪れた際、朝日が昇って士気が高まったことで名が付いた。
周辺の地名は「己斐(こい)」で(己斐町、1929年に広島市に編入)、これは神功皇后がこの地で休憩した際、
大きな鯉を献上されて喜んだという伝承にもとづく。まあつまり、広島がカープな街であるのはここが発端なのだ。
なお、己斐は『ズッコケ三人組』原作者の那須正幹の出身地であり、稲穂県ミドリ市花山町のモデルである。
鳥居の脇にズッコケ三人組の碑があるが、「ズッコケ三人組」と3人のイラストのみで、もうちょいなんとかならんかと。

  
L: 旭山神社の境内入口。  C: 鳥居の脇にズッコケ三人組の碑。説明とか何かないんかい、と思わずツッコミ。
R: 「旭山」というだけあって、石段がかなりきつい。自転車を全力でこいでこの石段は、もはや拷問なのであった。

ヨタヨタになりながら拝殿の前にたどり着く。中で御守を頂戴したが、さすが己斐=鯉の神社ということで、
鯉をあしらった御守が充実していた。ズッコケ三人組デザインの御守があれば、さらに散財していたんだけどねえ。

  
L: 石段を上りきって安心したらまた石段。  C: 絵馬堂。お寺っぽい。  R: 拝殿。原爆の爆風で倒壊したが修復された。

多家神社と旭山神社を押さえたことで、広島中心部の東西はクリアした。野球観戦に向けて移動する態勢に入る。
しかしせっかくなので、横川駅北口のすぐ近くにある三篠(みささ)神社に寄っておく。規模は大きくないものの、
落ち着いた雰囲気で地元の確かな支持が感じられる神社だ。無人販売スタイルだが御守を頂戴できたのでよかった。
境内には「大願成就(レトロバス)絵馬」がある。1905(明治38)年に初の国産乗合バスが横川-可部間を走り、
2004年に当時のバスが復元(可部の「か」と横川の「よこ」で「かよこバス」と命名)された記念の絵馬である。
「かよこバス」は横川駅に保存されており、6年前のログで書いているので参照されたし(→2013.2.24)。

  
L: 三篠神社。各町の祭神を合祀して祭神いっぱい。  C: 拝殿。境内は木々がいっぱいでとても静か。  R: 本殿。

レンタサイクルを返却して広島駅から市民球場へと向かう。すでにカープファンが大挙して移動を開始しており、
まるで祭りのような昂揚感があふれている。みんな何かしら赤い色を身につけていて、迫力を感じてたじろいだ。

  
L: 前も撮ったけどカープ仕様で赤く染まったローソン。怖くて近づけない……。  C: 市民球場への道すがら。
R: 前も撮ったけどカープ坊やのマンホール。ヤクルトもつば九郎だけじゃなくてボール君もフィーチャーしてほしいなあ。

やがて広島市民球場が現れた。木々の間から現れるアングルだったので、6年前(→2013.2.24)との違いに少し戸惑う。
開場からはすでに10年が経っており、来場者たちの動きから広島の日常風景として完全に馴染んでいるのがわかる。

  
L: 広島市民球場(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)。6年前にはすっきり見渡せたと記憶しており、印象が変わった。
C: 正面から見たところ。やっと試合観戦に来られた。  R: それでは恒例の一周を開始なのだ。まずは一塁側方面へ。

  
L: ライト側外野席の裏はコストコで、その駐車場出口。ツタが生えた大州雨水貯留池入口の先にバックスクリーン。
C: イベント用ブースの下は駐輪場。  R: では入場なのだ。これは三塁側の内野席とフレト側外野席の間ですな。

天気は見てのとおり凄まじい晴天で、それはそれでありがたいことではあるが、遮るもののない球場では命に関わる。
2リットルの烏龍茶の持ち込みを断られ、「殺す気か」と不満を表明してからその場で飲めるだけ飲んで破棄して入場。
ビジターパフォーマンス席へと向かうが、そこは気合いの入った刺繍入りユニフォームの阪神ファンだらけで、
何の関係もないヤクルトファンとしてなんだか申し訳ないのであった。まあ悪いのはぜんぶカープの運営だから。

  
L: 外野席の端っこから見下ろすコンコース。実にメジャーリーグ風である。  C: 外野。  R: 内野。

とはいえ、なんだかんだスタジアムの全体を俯瞰できる席だったのは、球場じたいを主目的で来たこちらとしては、
けっこうありがたかったと思う。左右非対称のスタンドと、それを逆手にとって個性を持たせた各座席など、
1990年代メジャーリーグの新古典派ボールパークの設計思想がよくわかる。これは僕がメジャーに興味を持った時期の、
まさにど真ん中にあった動きなのだ。それを日本で体験できるようになるとは、当時はまったく想像ができなかった。

 駐輪場の上、イベント用ブースにはスラィリーの空気入り滑り台。

去年は宮城球場で楽天の試合を観戦し、観覧車があることに驚いた(→2018.8.19)。単なる「野球場」ではなく、
総合的な娯楽施設の側面を充実させる動きは加速しているが、広島市民球場はメジャーリーグ由来の空間演出に留まらず、
その方向性を柔軟に取り入れてもいる印象。個人的には、baseballがnational pastimeとして成立しているアメリカと比べ、
野球が国民的娯楽として成立しきっていないからこそ、そういう他の娯楽要素に頼るのではないか、という気もするが。

 とにかく、試合開始である。

試合が始まると、周囲の阪神ファンに合わせてなんとなく阪神寄りの気分になりつつ静かに展開を見守る。
個人的に絶対に押さえたいポイントは3つある。まずは何より菊池涼介。ぜひ彼のファインプレーを見たい。
そしてメジャー移籍が近いと噂される鈴木誠也、また阪神退団を表明している鳥谷の勇姿を見る。その3つだ。

  
L: キャッチボールする菊池。  C: 鈴木誠也といえば選手紹介の変顔。これも観戦目的のひとつ。  R: やりたい放題である。

しかしビジターパフォーマンス席はあまりに遠く、打撃で納得のいく写真を撮るのは難しいのであった。
菊池のファインプレーなんて狙って撮れるもんじゃないし。大半は難なくさばくシーンですからな。
というわけで、貼り付けるに値する写真はナシでございます。サッカーなら得点の匂いがわかるんだけどなあ。
実は野球って、勝負の一瞬がサッカーよりもシヴィアなのである。炎天下で判断力が鈍っていたのかもしれないが。
で、余裕を持って撮影できたのはスラィリーだけ。フィリー・ファナティックのパクリじゃねえか、と言いたくなるが、
同じ会社(『セサミストリート』のジム=ヘンソン系だそうだ)がデザインしていて公認のそっくりさんらしい。

  
L: スラィリー。「イ」が小さいのが正式な表記なので注意。  C: 黒子の人と一緒に行動するのだ。
R: 外野席に向けてパフォーマンス中のスラィリーと黒子。みなさん、クソ暑い中、本当にお疲れ様です。

日差しがあまりに強烈で、「このままだとオレは死ぬ!」と命の危険を感じてかき氷を買いに行った7回表、
鳥谷が代打で登場してダブルプレーに倒れてしまったらしいのだが、見逃したあああ!! 楽しみにしていたのに……。
試合じたいは広島が着実にリードする展開。阪神ファンの皆様は、荒れはしないけどどこか投げやりな感じで、
3-0から8回に2点を返すと勢いづくものの抑えられるとションボリ。そのまま3-2で広島が逃げ切ったのであった。

 
L: スラィリーによる勝利のパフォーマンス。  R: ファンと勝利を喜ぶカープナイン。

凄まじい晴天ぶりだったので信じられないが、台風15号が近づいているということで、すぐに広島駅へ移動する。
トラブルに巻き込まれる前にさっさと帰ってしまおうと思ったのだが、広島駅はすでに大混雑となっていた。
東京まで行く新幹線はすでに最終が出た後で、のぞみが新大阪止まりとなっている。こだまは名古屋まで行くが、
かなり混雑している模様。……え? 帰れないやん……。しばし呆然。新幹線で牡蠣をつまみつつ西条の酒を飲みながら、
のんびり日記を書いて東京に戻るつもりだったのだが、もはやそれどころではない事態だ。とりあえず副校長に電話して、
「いま広島にいるんですけど台風で新幹線が止まって帰れませーん」と連絡。さすがに笑って納得してくれたのであった。
これで最低限の手は打てたので、戻れる地点まで戻ることにする。大混雑のこだまではなく、のぞみで新大阪まで行く。

 
L: 新大阪に到着。のぞみもひかりもこだまも、東京方面の行き先表示がすべて「Nagoya」となっている。
R: 16時40分に新大阪を出る便が東京行きの最終だったとは……。こんな事態になるなんて夢にも思わなかった。

新幹線の混乱ぶりに対し、在来線の東海道線はまだ落ち着いている模様。新大阪駅から大阪駅へ移動すると、
メシをいただいてから大阪ステーションシティ・サウスゲートビル内にある東急ハンズ梅田店を見てまわる。
そして東海道線で米原まで行き、JR東海で戻れる極限の浜松へ。結局、名古屋より東まで戻ることができた。
浜松駅の近くにあるネットカフェに直行し、喫煙席しかなかったものの、いちおう寝る場所を確保。不幸中の幸いだ。


2019.9.7 (Sat.)

恒例のテスト前旅行、今回は広島編である。1日目は市役所めぐり、2日目は新球場での野球観戦が目的だ。
広島行きの夜行バス・ニューブリーズ号に乗り込んで、終点まで行かず西条駅で下車してスタートなのだ。
というわけで、最初の目的地は東広島市役所。ただ、到着が朝の6時半なのでコメダ珈琲店まで歩いて移動し、
7時開店と同時に飛び込んで朝ごはん。時間調整も兼ねて準備を済ませると、満を持して撮影を開始する。

  
L: 駅から南に延びるメインストリートに面する東広島市役所。まずは南西から見上げる。
C: 西側の側面。  R: 北西から見たところ。駐車場を挟んだ北館との間にデッキがある。

東広島市役所は2013年に業務を開始しているが、竣工じたいは2012年。設計は大建設計・村田相互設計JVである。
南北のファサードはガラスが目立っているが、側面は茶色で強めのアクセントをつけている。これはおそらく、
酒蔵のレンガの煙突を意識したデザインだろう。「酒都・西条」としての矜持を感じさせるまとめ方となっている。

  
L: デッキの下。目立たないよ。  C: 北館。こちらは1996年の竣工。  R: 駐車場越しに北から見た本館。

  
L: 北東から見たところ。  C: 東から。本館の手前は公用車の車庫。  R: 南東から。

「東広島」という名称から想像できるとおり、東広島市としての歴史は浅い。きっかけは広島大学の移転で、
1974年に西条町・志和町・高屋町・八本松町が合併してできた。2005年には安芸津町などを編入している。
ちなみに旧安芸津町(三津)は吟醸酒の発祥の地であり、東広島は市内に著名な酒どころを2つ抱えているわけだ。

  
L: 本館南側ファサード。  C: 本館南西のオープンスペースは「まちかど広場」となっている。これにて一周完了。
R: 市役所にあったマンホール。複数の町が合併したこと、何より酒がアイデンティティであることが容易にうかがえる。

市役所から駅の方へと戻ると、西側に東広島芸術文化ホール くらら。こちらは2016年にオープンしたばかり。
その向かいは「にぎわい広場」で、かつては東広島市中央公民館が建っていたが、その跡地が開放されている。
朝早いのでただの駐車場という印象だが、夜には酒を提供するスペースとなることがもう雰囲気でわかる。

  
L: 東広島芸術文化ホール くらら。つまりは東広島市中央公民館の後釜として建てられたわけだ。
C: にぎわい広場の入口。  R: やる気十分である。描かれているのは東広島市観光マスコット「のん太」 。

  
L: 駅から南に延びるメインストリート。左に市役所が見える。西条は酒蔵通り以外は開発し放題って感じかなあ。
C: 西条駅。なお「西条市」は愛媛県なので要注意(→2015.5.52016.7.16)。あっちもきれいな水が湧きまくっていたなあ。
R: 西条市街地循環バス・のんバス。飲んだら乗るな、乗るなら飲むな……。あ、これは乗っていいのか。ややこしいぜ。

というわけで、市役所から駅まで少し歩いただけでも東広島(西条に限らないと思う)の酒への熱い想いがよくわかる。
では実際のその中心たる西条酒蔵通りを歩いてみるのだ。駅ロータリーのすぐ手前を東に入ると、そこがもう酒蔵通り。
もともと西条は「四日市」という名前の宿場だったが、鉄道の開通によって酒どころとして成長していった街なのだ。

  
L: 酒蔵通りで最も西にあるのが西條鶴。  C: 少し行って亀齢。こちらはその万年亀(まねき)井戸。  R: 亀齢。

  
L: 亀齢のところから振り返る西条酒蔵通り。  C: くぐり門。かつてこの奥に「朝日座」という芝居小屋があったそうだ。
R: 隣の岡田酒販。東映の映画プロデューサーだった岡田茂の生家。なお、三越の「なぜだ!」は同姓同名の別人である。

朝早いので飲んで歩いて、みたいなことはできないが、それをやりながらの街歩きならなお楽しいのではないか。
僕としては昔ながらの建物がきちんと点在しているのを味わうだけでも十分満足できるが。なかなかの密度である。

  
L: 賀茂泉。  C: 福美人の裏から賀茂鶴へ抜ける路地。  R: 各界著名人が書いた「酒」。酒へのアイデンティティがすごい。

  
L,C,R: 賀茂鶴。蔵造りと洋風木造建築が並んでいるところが明治後半から大正にかけて成長した西条らしさを感じさせる。

  
L: 本陣(御茶屋)跡。明治期には賀茂郡役所となっていた。現在の門は賀茂鶴酒造が1986年に再建したもの。
C: ちなみにこの日は酒蔵通りの道路整備をやっていて、撮影がけっこう大変だった。これは西條鶴の向かい、白牡丹。
R: 西条駅の脇、山陽本線の陸橋から見た西条の街並み。酒蔵の煙突が目立つが、周辺の宅地化度合いもよくわかる。

西条駅のすぐ北には御建神社が鎮座している。もともと今の駅の位置だったそうだが、山陽本線の開通で遷座した。
素戔嗚命を祀って疫病が止んだことから706(慶雲3)年に創建された。なるほど牛頭系(→2013.2.232015.5.6)ですな。

  
L: 御建神社の境内入口。  C: 参道を行く。  R: 拝殿。現在の社殿は、1912(明治45)年の遷座時のものか。

  
L: 奉納されている酒樽。さっき酒蔵通りで見かけた名前の銘酒が並んでいる。  C: 拝殿の右奥にある社殿。
R: 中には駆逐艦「深雪」の絵が奉納されていた。第二次大戦に参戦することなく演習中に衝突して沈没してしまった。

  
L: 御建神社の本殿。  C: 拝殿の左奥には松尾神社。西条酒造組合(現・西条酒造協会)が松尾大社(→2015.7.26)から勧請。
R: なぜか「のん太」を祀っている祠が。何の説明もなくしれっと置いてあったのでびっくり。耳のところに筒があるが……。

できることなら酒蔵を飲み比べてみたいところだが、今日も今日とて予定がいっぱい。 帰りの新幹線で飲むとして、
急いで次の目的地へと移動する。山陽本線に乗り込むと海田市で乗り換えて呉へ。目指すは新築された呉市役所だ。
駅でレンタサイクルを借りて市役所へ。6年前には坂倉準三の旧庁舎が取り壊し寸前だったが(→2013.2.24)、
2015年に大建設計の設計で新しい庁舎が竣工した。良く言えば「旧海軍らしい威厳」を意識しているデザインだが、
坂倉のような端正さはまったくなく、スケールの大きさもあってただ威圧的。市役所というより防衛省の施設って感じ。

  
L: 手前の蔵本通り花の広場越しに眺める呉市役所。  C: 近づいて撮影。威圧的である。
R: 坂倉準三設計の旧市庁舎・旧市民会館を記録した碑がきちんと設置されているのは好印象。

  
L: 東から見たところ。  C: 北東から側面。向かって右が議会棟。  R: 議会棟中心に北から見る。

  
L: 北西、隣接する中央公園から見た背面。  C: 西から見たところ。  R: 南から。これでいちおう一周完了。

土曜日だが中に入れたのでお邪魔してみる。1階・2階は大胆なアトリウムとなっており、市民向けにしっかり開放。
外観は威圧的であるけど、中はある程度しっかりと開いているのはすばらしい。でも白一色なのが少し気になる。
なんというか、旧海軍や海上自衛隊の白い制服を想起させるのだ。すごくかっこいいんだけどぜんぜん気が抜けない感じ。

  
L: 呉市役所の中。迫力あるアトリウムとなっている。  C: 奥へ進んだところ。  R: 展示スペース。

  
L: 中央公園へ抜けるいちばん奥の辺り。  C: 自由に滞留できるスペース。  R: くれ協働センター・国際交流センター窓口。

撮影を終えると呉を代表する神社に参拝だ、ということで亀山神社へ。「旧呉市の総氏神」とのことである。
祭神は品陀和気命(応神天皇)・帯中日子命(仲哀天皇)・息長帯日売命(神功皇后)であり、八幡系の神社だ。
なお「亀山」とは入船山のことで、1886(明治19)年の呉鎮守府開設を受けて現在地に遷座した経緯がある。
なんとなく境内入口が狭苦しいのはそのせいか。落ち着いた境内とは対照的に、入口のカーヴに無理を感じる。

  
L: 亀山神社。見てのとおり手前はファミリーマートの駐車場であり、境内にはその先の坂からアクセスするのだ。
C: というわけで参道。この急坂カーヴを上っていくのだ。  R: スロープから石段に切り替わってまたカーヴ。無茶だ。

  
L: 石段を上って境内。ここまで来ると落ち着いた雰囲気だが……。  C: 拝殿。  R: 本殿。社殿は1955年の再建。

輪違い二つ丸の日月紋が印象的な御守を頂戴すると、レンタサイクルを返却してゆめタウンを抜けてフェリー乗り場へ。
本日最後の目的地である江田島市へと向かうのだ。久しぶりの呉なので正直もうちょっとのんびりしたかったが、
船が相手だとそうもいかないのである。市役所と神社という最低限のタスクをこなしただけなのは淋しいなあ。

  
L: いざ出航。  C: フェリーから眺めるジャパンマリンユナイテッドの造船所。  R: 護衛艦がいっぱいじゃー!

  
L: タンカーはでっかいなあ。手前が朋栄、奥が丹沢。  C: 自衛隊の艦船は種類が豊富で面白い。
R: 呉海軍工廠の跡地につくられた日鉄日新製鋼株式会社の呉製鉄所。重油を使っているのが特徴らしい。

  
L: 呉の街を眺める。見事に山に囲まれた港である。  C: 対岸の江田島。  R: 江田島の小用桟橋案内所。

20分で江田島の小用港に到着。案内所でレンタサイクルを借りて、いざ島内探検に出発である。が、少々ややこしい。
まず、僕が上陸した小用港があるのは江田島で、「えたじま」と読む。江田島平八は「えだじま」なので注意である。
さてこの江田島、現在は埋め立てによって西隣の能美島と合体しているのだ。Y字型というかザリガニ型というか、
そんな形になっているが、全体としてどういう名称が正しいのかよくわからない(ザリガニの右腕が江田島である)。
とりあえず2004年に江田島町・能美町・沖美町・大柿町が合併したことで、ザリガニ全体が江田島市となっている。
面積としては能美島の方が大きいが、江田島は1888(明治21)年に海軍兵学校が築地から移転して以来の知名度があり、
それで江田島という地名が全体を覆っている感触である。なお、江田島市役所は一貫して能美島部分に存在する。

 小用港から坂を上ってスタート。島ってのは海から突き出た山だからねえ……。

小用港から坂を上って峠を越えると、いきなり狭苦しい下り坂の市街地となる。店舗や住宅が密集しており落ち着かない。
道はそのまま南へとカーヴしていくが、その手前の突き当たり部分にあったのが、海上自衛隊第1術科学校である。
上で書いたように築地の海軍兵学校が移転して以来の伝統があり、海上自衛隊幹部候補生学校も同じ敷地内にある。
こちらには後でお邪魔するとして、まずは市役所を目指すのだ。が、少し南にある江田島八幡宮に参拝しておく。

  
L: 江田島八幡宮の境内入口。  C: 石段を上るとこんな感じ。  R: 拝殿前、向き合うように鎮座する古鷹神社。

  
L: 江田島八幡宮の拝殿。  C: 御守を頂戴する際、拝殿の中にお邪魔した。奉納されている額がそれぞれ興味深い。
R: 小用港で大破着底した戦艦「榛名」の写真が奉納されていた。主砲塔のダズル迷彩がしっかり写っており、ちょっと感動。

 裏にまわって本殿。

参拝を終えるとさらに海沿いに南下。江田島湾では牡蠣の養殖が行われていて、無数のホタテの貝殻が吊られている。
そういえば近所の東急ストアでは江田島産のカキフライをパックで売っていて、ちょこちょこ買ってはつまんでいるのだ。
いつも食っているのはここの牡蠣かー!と感動しつつペダルをこぐのであった。産地がわかると食事がさらに楽しい。

 江田島湾の牡蠣の養殖っぷり。

湾が終わってもそのまま県道44号を南下する。だいたいこの飛渡瀬の辺りが上述の江田島と能美島の境界と思われる。
埋め立てられて貴重な平地となっていて、郊外型の店舗が並んでいるが、規模はそれほど大きくない。やはり島なのだ。
平地が終わって柿浦の港に出ると、そこから西に入ってもう一丁峠を越える。と、そこが旧大柿町の中心部である。
峠を越えてすぐのところにあるのが江田島市役所。3年前にこちらの建物が市役所となったが、経緯が少しややこしい。
まず2004年の江田島市誕生時には、旧能美町役場が市役所となった。その後、市は2007年に広島県大柿合同庁舎を取得、
これを大柿分庁舎とした。そして1974年竣工の市役所(旧能美町役場)は築年数と耐震基準に不安があるということで、
2016年からは大柿分庁舎を改修したうえで江田島市役所本庁舎として利用しているのだ(建物じたいの竣工は1999年)。

  
L: 江田島市役所本庁舎(旧広島県大柿合同庁舎)。  C: 角度を変えて撮影。  R: 駐車場から正面を見たところ。

  
L: 南西から眺める。  C: 南から見た側面。  R: 背面。すぐ裏は住宅地なので余裕がないのだ。

  
L: 北東から見たところ。  C: 北から見た側面。  R: 中を覗き込む。旧合同庁舎らしい味気なさである。

 近くにある大柿市民センター。おそらく旧大柿町役場はこの隣だったな。

合併の上に役所が移転したおかげで、現在の江田島市役所の経緯を調べるのがかなり大変だった。それでもネットで、
「江田島市新庁舎の建設について(案)」のPDFファイルが見つかったので、どうにかなった。ありがたいことです。
撮影を終えるとそのまま国道487号に出て、能美島側のど真ん中を北上。地形は複雑だが道がシンプルなのは助かる。

 旧大柿町域から旧能美町域に入る。海沿いはだいたいこんな景観ね。

まっすぐ行って、突き当たりの中町港へ。この辺りが旧能美町の中心部で、能美市民センターが茶色で建っている。
つまりは2016年7月までの江田島市役所である。せっかくなのでこちらも撮影しておく。さっきも書いたが1974年竣工。

  
L: 江田島市能美市民センター(旧江田島市役所)。南東から。  C: 南側の建物が1974年竣工の旧市役所本館である。
R: 北側の別館を西側から眺める。こちらは1992年の竣工。「江田島市新庁舎の建設について(案)」のおかげでわかった。

さて、先ほど通りかかった海上自衛隊第1術科学校の見学だが、受付時刻が決まっているので急がなければならない。
しかしここで恨めしいのが江田島湾である。直線距離だと3.5kmほどだが、江田島湾のおかげで9kmちょっとに延びる。
ざっくり考えて30分ほどで、15時到着でぎりぎりセーフの見込み。岬をまわり込んで江田島側に出る道しかないが、
これがなかなかの上りでたいへんつらいのであった。もともと海峡だった飛渡瀬に出ると、あとはもう根性。
息を切らして受付にたどり着き、怪しくて自衛隊の皆さんにはなんだか申し訳ないのであった。間に合ってよかった。

  
L: というわけで海上自衛隊第1術科学校の入口。  C: 木々の向こうに古鷹山。旧海軍以来、登山で鍛える場とのこと。
R: 入口の東側から見た大講堂。車寄せがあるということは、こちらが正面ということか。1917(大正6)年の築。

当然ながら見学はあちこち好き勝手に動きまわれるわけではなく、自衛官OBの方の案内を受けて決まったルートを動く。
江田島クラブという事務所的な建物で待機すると、まずは大講堂から見学していく。さっそくその威厳に圧倒される。

  
L: 大講堂の西側入口。こちらから内部を見学する。  C: 角度を変えて撮影。左の写真が平べったく見えちゃう。
R: 大講堂の内部はこのように豪快な吹抜空間となっている。威厳がものすごい。しかしきれいにしてあるなあ。

  
L: 絨毯には海上自衛隊の桜錨マークが。  C: 西側入口を振り返る。  R: グラウンドの先に戦艦「陸奥」の主砲。デカい。

  
L: 幹部候補生学校庁舎(旧海軍兵学校生徒館)。通称「赤レンガ」。全長は144mもある。  C: 廊下を覗き込んだところ。
R: 赤レンガの先に海上自衛隊第1術科学校の学生館。ここで皆さん鍛えられているわけですなあ。見るだけで背筋が伸びる。

見学時間は90分で、その多くは教育参考館にあてられる。「教育」「参考」という名称から特に意識せず中に入ったが、
90分ではまったく足りないほどにその内容は濃かった。まず旧日本海軍の歴史が膨大な資料によって示されるのだが、
有名な人物が目白押しで、その経歴を非常に丁寧に紹介しているのである。これだけでかなり時間を使ってしまった。
慌てて次の展示へと移動したのだが、正直なところ、一瞬呼吸が止まった。特殊潜航艇「回天」、そして特攻、
それによって戦死した人々の遺品や遺書などが展示されていたのだ。以前にも大和ミュージアム(→2013.2.23)、
知覧特攻平和会館(→2016.3.20)、鹿屋航空基地史料館(→2017.8.20)で目にした過去の現実が突きつけられる。
「教育」で「参考」、その名称の重さに思わずよろけてしまった。そこにあったのは、途轍もなく深い悔恨だった。
教育施設として、取り返しのつかないことをやってしまった、その事実を静かに、しかし永遠に受け止め続ける。
「世の中には2種類の教員がいる」と前に書いたけど(→2019.4.18)、海軍を経て自衛隊が抱えるその悔恨の、
最も深い部分に触れたのだ。脱帽、会釈して教育参考館を後にするが、その悔恨の深さと重さにただ圧倒された。

  
L: 教育参考館。旧海軍の歴史だけでなく、その悔恨を引き継いだ展示をぜひ見学していただきたい。
C: 戦艦「大和」主砲(46cm砲)の砲弾。  R: 三景艦主砲の砲弾。「松島」は日清戦争時の連合艦隊旗艦だぜ。

教育参考館の近くにもさまざまな資料がある。戦艦「大和」の46cm砲の砲弾や九三式酸素魚雷だけでなく、
甲標的の実物があるのには驚いた。『艦これ』ではおなじみの兵器だが、実物を目にすると身がすくむ。
最も感動したのは駆逐艦「雪風」の錨。究極の幸運艦として有名で、あやかりたいので撫でておいた。
(※この2週間ほど後に尾瀬で右手人差し指を折るのだが、指が残ったのは雪風のおかげと思っておく。)

  
L: 特殊潜航艇「甲標的」。母艦から出撃して魚雷をぶっ放す。攻撃後には収容されるのが前提だが、ギリギリだよなあ。
C: 九三式酸素魚雷。航跡が出ないうえに破壊力抜群。これを実現しちゃうところが日本のマニアックな気質だと思う。
R: 駆逐艦「雪風」の錨。優れた艦長、行き届いていた訓練、清潔に保たれた艦内などが「幸運」の根拠に挙げられている。

見学を終えると江田島クラブ内の売店で買い物タイム。フェリーの時刻に合わせて第1術科学校を後にするのであった。
帰りも小用港だが呉には戻らず、広島港の宇品旅客ターミナルへ。なかなかオシャレなルート選択でございましょう。

 
L: 宇品島。灯台とグランドプリンスホテル広島が見える。  R: 宇品旅客ターミナルに到着。

宇品旅客ターミナルからは路面電車で広島の市街地中心部へ。たいへん中身の濃い一日でございました。


2019.9.6 (Fri.)

ネタがないので、「耳を動かす」という能力について書いておこう。

皆さんは自力で耳を動かすことができますか? 私はできる。これは小学生のときに発見された能力なのである。
当時、クラスでなぜか耳を動かせるかどうかが話題になって、僕もやってみたらこれがはっきりと動くんでやんの。
それでお昼のクラス紹介の放送で動かしてみたりなんかして。以降、僕の数少ない得意技のひとつとなっているのだ。
他の人よりしっかり動くので面白がって耳を鍛えていたら(物理)、耳が筋肉痛になったこともある。貴重な経験である。
おかげでそれ以来、片耳ずつ分けて動かすこともできるようになった。ここまでできる人は少ないんじゃないかと思う。

よく「どうやったら耳が動くの?」と訊かれたのだが、これはもう、「耳を動かす筋肉を使う」としか答えられない。
素人は眉を動かすのと連動してしまうようなので、その要領で耳だけ動くように鍛えていくのがいいのかもしれない。
まあみんながんばって耳を鍛えて(物理)、僕に挑戦してくれたまえ。これに関しては俺、世界一を狙えるかもしれん。


2019.9.5 (Thu.)

テスト期間に入っているけど、小学生たちの体験入学ということで放課後に接待のための部活をやるのであった。
部員の少なさに苦しんでいるわれわれとしては絶好のPR機会である。2年生たちが落ち着いてやりきって、見事であった。

それにしても今年の小学6年生は、ボールを持てば技術もあるし、オフならオフでスペースを見つける動きをしてみせる。
中学1年生たちよりもはるかにサッカーを知っているのが一目瞭然で、すごいことになっているなあと驚くのであった。


2019.9.4 (Wed.)

テストのIllustratorによる組版作業を本格的にスタートしたのだが、やっぱりテストづくりはつらいのである。
前も書いたと思うのだが、長文を用意しなくちゃいけない分、特に英語は他教科よりも絶対につらいはずなのだ。
しかもその長文は、進度に応じて使える語彙が限られる。1年生向けの長文なんて本当につらい。つらいつらいつらい。


2019.9.3 (Tue.)

こないだ海外の富裕層などの自分本位で品性下劣な消費行動について文句を垂れたばかりだが(→2019.8.29)、
本日の批判の的はキャッシュレスである。これからの世の中はどんどんキャッシュレスで行くぜ!なんて風潮だが、
僕に言わせりゃ、あれは小銭の計算ができないレヴェルの知能に合わせるということである。いや、本気でそう思う。
「漢字は読むのが難しいからぜんぶひらがなにしましょう!」というのと同じこと。キャッシュレスは知性の破壊である。
少なくとも、双方が信用した上での取引(→2009.3.282014.11.11)といった本質を見失わせる、文化の破壊ではある。
中国はキャッシュレス社会だ、なんて焦らせる言説なんかがあるが、なんで必死で後進国の後追いしてんのって話。
キャッシュレス化ってのは言ってみりゃ民度の低い社会に合わせる政策で、最終的には日本の劣化を招くはずだ。
クレジットカードが普及する際、いくら使っているか感覚がつかめないから支払い能力を超える買い物が問題になったが、
あの滑稽な悲劇を繰り返しているだけだ。よけいに金を使わせたい連中が手ぐすね引いて待っているようにしか見えない。
結局は、キャッシュレスに関係する設備投資で企業を儲けさせようという政策なのだ。まあそれは教育現場も同じで、
ICT化なんて所詮は企業を儲けさせるための手段でしかない。実際に手を動かして計算や作文しないと能力はガタ落ちだ。
だから僕にはICT化とキャッシュレス化が、並行しての愚民化にしか見えない。安易な便利さが、知性を退化させる。

まあ、目下、いちばんの問題はオリンピックなんだけどね! 本腰入れて少子化を解消して内需を拡大しようとせず、
その場しのぎで税収をあげようとするのは王道の政治ではないだろう。海外の富裕層を相手にする商売もそうだが、
三方よしの精神(→2015.8.9)が完全に抜けている。これは大いに恥ずべきことだ。結局のところ、何も考えない、
この国のこの経済の行く先を想像する能力のない人間が、短期的な利益を崇拝する仕組みが固まってしまっているのだ。
そういう日本の劣化を推し進める自民党を支持する人は責任とってくれるのかね。日本を泥舟にするんじゃねえよと思う。
残念ながらたぶんもう取り返しがつかない。日本は(まあ世界も)これほどまでに教養のない社会になってしまったのか、
教養より金を優先するのかと愕然とするしかないね。収益と品性の両立をきちんと考えない経済は、ただの野性だ。
資本主義のスピードが極限まで上がってきて「きちんと考えている余裕がない」、条件反射だけの状態になりつつある。
「考えなくてもいい」キャッシュレス化がわれわれに失わせるものを、今一度じっくりと数えてみるべきだろう。


2019.9.2 (Mon.)

ようやく! 2017年5月分の日記を書ききってreferenceにまとめることができた。
ただでさえ遅かった日記の更新だが、最近はいよいよもって絶望的な状態となってしまっている。
これはひとえに夏休みの部活と研修と採用試験の影響である。……旅行の影響もある、かな。……『艦これ』はそんなでもない。
まあとにかく、長らく日記に集中できる状況ではなかったのだ。そして今週と来週はテストづくりが待っている。つらい。

お気に入りは、5月10日の「日本全国に幽霊が出る――ゴールデンウィークに浮かれる幽霊である」(→2017.5.10)。
本文中にもあるように共産党宣言をパロディしているわけだが、実はそれだけではないのだ。
「日本全国」ということで、バラクーダの『日本全国酒飲み音頭』をリスペクトし、「ドサクサ」という言葉を使っているのだ。
こちとらちゃんとそこまで考えて書いているのだ。でもそんなの読む方は気づかないのだ。無駄な労力なのだ。
まあそんな具合に日記のあちこちでいろいろやってますが、気づいたら笑ってやってくださいまし。


2019.9.1 (Sun.)

試合なので意地で朝の4時に起きたのだが、体調がかなり悪い。全身を撫でられているような悪寒が全開である。
前も書いたが僕の場合、のどの痛みから悪寒を経て本格的な風邪へと移行していく。いきなり第2段階というわけだ。
ただ、第1段階を踏んでいないので、悪寒にさえ耐えればいいという考え方もできる。それで根性で学校へと向かう。
集合時刻の30分前にきっちり到着するが、とにかく体は重いし悪寒がつらいし、歯を食いしばって引率開始。

いつも試合会場がやたらと遠いのがネックなのだが、今日は本当につらかった。息も絶え絶えでやっと到着した感じ。
準備を進めつつ、座って直射日光を浴びながら他校の試合を観戦することで布団の中で寝ているのと同じ状態をつくる。
昼に近づくにつれしっかりと炎天下になっていくが、僕だけ長袖長ズボン。体をあたためるには好都合と開き直る。
それにしても、部活の試合が続くと必ず体調を崩す。今回は夏休み明け一週間の疲れとのセットで一気に来た。

肝心の試合は、都大会出場が義務づけられている感じの強豪が相手。正直なところ勝つ方法は相手の食中毒くらいだが、
強い相手ときちんと戦うことは何よりも勉強になるので、それはそれとしてバッチコイである。生徒も同じ心境である。
特にウチの連合軍はここまで力任せにぶん殴るような試合ばかりなので、不利な状況で粘る経験はたいへん参考になる。
いざ試合が始まると、前半は出会い頭の一発だけに抑えてよくがんばったのだが、炎天下での後半で力負け。
ちなみに相手はメンバーを前半と後半で総取っ替えしてくる横綱相撲っぷりで、0-7というスコアで終えたのであった。
とは言っても、贔屓目なしに、体がついていかなくなってもハートは60分やりきっているサッカーを見せてくれた。
非常にいい経験が積めた試合だったと思う。死にそうになりながらも引率する甲斐のある内容だったので、ヨシ。

学校に戻って解散してから家にたどり着くと即、12時間近く眠る。どうにか無理なく動けるまで回復することに成功。


diary 2019.8.

diary 2019

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