朝いつもの時間に起きて体温を計るが、38℃台は相変わらず。職場に電話して状況報告をする。
9時近くになって近所の医者に行く。検査してもらったところ、非常に色が薄いが線がいちおう出ているってことで、
A型インフルエンザ確定。薬を出してもらって家でひたすらおとなしくする。まさかこんなことになるとは。この日の午後がいちばんのピークだった感じで、時間の感覚のないまま、うつらうつらして過ごす。
これってちょっと前に味わった状況(→2012.1.3)に似ているな、と思うのだが、そんな発見をしたところで、
別に回復が早まるわけでもないし、どうしょうもない。もう本当に、まいった!としか言いようがない。
昨日の夜から咳がひどくて、今朝になるといよいよ本格的にひどくて、サッカー部の朝練に出てもプレーはできず。
世間ではインフルエンザの大フィーヴァーが始まりつつある状況で、まさかな……と思いつつもいつもどおり過ごす。
1時間目の授業はどうにかできたのだが、2時間目に事務仕事をやって3時間目に入ったところで「熱計りなさい!」
結果、38.4℃で強制退去命令が出てしまったのであった。3年生は大事な時期なので素直に受け入れるしかない。
そのまま職場近くの医者に直行したのだが、さんざん待たされるわ生徒に見つかるわでかなり後悔。
やっと自分の番が来たと思ったら、インフルエンザの検査キットがちょうど切れたところだそうで、待合室でずっこける。
いちおう問診はやってくれて(タダで)、症状からするとだぶんかかってます、と言われてすごすごと家に帰る。
メシを食ったらもうなんだかあらためて別の医者に行く気力がなくなってしまい、そのまま倒れるように眠りこけた。
午前中は布団の中でうだうだしながら日記関係のこまごまとした作業をやっていたのだが、昼になって外に出る。
実は昨夜に自転車のカギが壊れてしまい、まずは自転車屋でカギを切ってもらうことからスタート。
しかし家の近所で壊れたのは不幸中の幸いだった。遠出した先で壊れたら悲惨だったもんな。
冷静に考えると自転車のカギというのも、売っているのはさりげないが、買うときには切なさがあるものだ。その後は環七・世田谷通・狛江通・旧甲州街道・甲州街道で国立市内へ。町田のとき(→2011.12.11)以来だ。
というのも、受験シーズンということで、谷保天満宮に公式参拝せにゃならんのである。
本当は先週に参拝したかったのだが、天気が悪くって今週になってしまった。もう合格者が出ているというのに。到着すると、谷保天にしてはけっこうな人出。さすがに受験シーズンだなあ、と思うのであった。
お賽銭を入れて気合の二礼二拍手一礼をする。それにしても二拍手はいーい音が鳴ったなあ。
社務所で絵馬をいただくと、「全員合格」だけでなく、その先で退学しないようにとの旨まで書いて納める。
あとは御守をいただいた。職員室のどこかにでも置いておくつもり。これで公式参拝完了である。ところで最近になってようやく、谷保天の「谷保」は「やほ」ではなく「やぼ」でないといけない!と知った。
地名がもともと「やぼ」と読むのが正しく、駅名の「やほ」で誤解が広がってしまったのが真相らしいのだ。
「やぼ」って読んだらまさに「野暮」になっちゃうじゃん、と思っていたのだが、「やぼ」でないと野暮なのだ。
まあ、「野暮」は谷保天から生まれた言葉なので当たり前といえば当たり前だが、今まで野暮ですいませんでした。公式参拝を終えると国立駅前に移動。休日の国立のカフェはどこも大混雑なのだが、運よく空きがあったので、
そこでひたすら日記を書く。最近は内容が脱力していてもいいや、と割り切っているので、速くたくさん書ける。晩飯の時刻になったので、サッポロラーメン国立店(→2011.12.11)、いわゆる「西のスタ丼屋」に移動。
前回国立を訪れた際に許可を得て店先を撮影させてもらったのだが、すいませんロージナのシシリアンを優先しました。
でもそれ以来、ずっとスタ丼断ちをしていて今日を迎えたのである。もう本当に、満を持しての訪問である。
中に入ると、そこは10年以上前からずっと変わらない、正しいスタ丼屋の光景だった。感動してしまった。
壁一面に黄色い紙で大盛ダブル完食者によるコメントが並んでいる。紙の質感が新しいのがまたすばらしい。
出てきたスタ丼も茶碗(丼というよりは大きめのご飯茶碗)といいモヤシの味噌汁といい昔のままで、値段も550円のまま。
一気に学生時代の感覚に引き戻されるのであった。もう、夢中で食ったわ。これが本来のスタ丼なんだよね。「スタ」は「スタミナ」なんだから、カタカナでありたい。
店は家族連れがいたほか、ひっきりなしに若い男性がやってきて繁盛していた。男たちは僕を含めて一橋関係者ばかり。
店主はそんな一橋の現役生やOBの動向に本当に詳しく、スタ丼を軸にして人間関係が見事にできあがっていた。
僕は西の店に来るのはもう15年ぶりくらいになるのだが(ギャー!)、店主は僕のことを覚えていると言っていた。
信じられない気もするが、あながちウソでもないだろうと思えるくらいにいろんな人のことを知っていた。すごい。そんなわけで、大いにニコニコしながら店を出る。国立は明らかに23区より数段寒かったのだが、
スタ丼の威力はさすがで、かなりパワフルに家まで帰ることができた。とっても強烈な一日だったな。
日記の本文中に過去ログへのリンクを張りまくっているけど、それが新しいタブで出るようにしてみた。
大して利便性が変わるわけでもないし、そもそもこの日記における利便性は僕にしか関係しないであろうことだが、
読んでいる最中に過去ログをちょっと参照する資料として扱うには、便利になったんじゃないかなって気がする。
まあ、しょせんこの日記は僕の備忘録でしかなく、情報空間における僕の記憶と思考のバックアップにすぎないのだ。
この日記もぼちぼち「ビュクシー・フラットライン(→2009.2.18の上野駅)」と呼べるだけの量になってきたので、
きわめてテキトーにつけた「びゅくびゅく日記」から名称変更しようか、わりと真剣に考え中。
変に気合を入れるのも格好悪いし、脱力具合からいって「びゅくびゅく日記」ってのも嫌いじゃないんだけど。
まあ誰も見ていないだろうけど、もしよかったら誰か意見ちょうだい。
『スクール・オヴ・ロック』。ロックに命を賭ける分、社会的にはダメ人間の主人公をジャック=ブラックが演じる。
というかそもそも、この作品はブラックの友人であるマイク=ホワイトが、彼のために脚本を書いたんだそうだ。
そしてホワイト自身も主人公の友人役で実際に出演。白いまつ毛が気になるが、気弱そうな演技がたいへんよろしい。あらすじはわりとコテコテで、ダメ人間の主人公が友人のふりをして名門私立小学校の教員に紛れ込み、
自分好みのバンドをつくるべくロックの指導を始める。最初は彼にやらされているだけだった子どもたちだが、
しだいに主体的にロックに取り組むようになり、コンテストへの出場を目指すようになるが……ってなところか。
その後の展開はいかにもなアメリカのコメディ映画。まあつまり、肩肘張らずに楽しむことができる作品である。見ている途中に考えたことを箇条書きにしていくのだ。
1. 主人公は映画史上屈指のダメ人間だ! 自分の欲望を満たすために、まったく躊躇せずに子どもを利用しようとする。
悪いときの両津勘吉に勝るとも劣らないヒドさである。しかし彼は才能を見抜く目を持ち、その才能に素直に尊敬をする。
最初は才能がないからとテキトーに裏方を命じた子どもに対しても、その仕事ぶりをきちんと評価してあげている。
後に子どもが主体性を発揮するようになると、主人公自身もとても自然に、子どもたちを守ろうと性格が変化していく。
(ここは脚本の上手さだと思う。主人公の情熱はそのままに、自分でも知らないうちにちゃんとした姿勢を身につけていく。)
そういう意味で、この作品はよくできた主人公の成長ドラマなのである。だからコテコテとはいえ、きちんと面白い。
2. アメリカの名門校って怖い! 自由の国のくせしてそこには階級がバリッとあるじゃないか!と思わされる。
子どもたちがさまざまな人種から構成されているのはポリティカル・コレクトネスをふまえたうえでもある程度事実だろう。
しかしそうやって経済力をもとにして階級が固定化されようとしている現場を目にした気がして、ただひたすら怖かった。
3. 子どもを利用してバンドを組み、ヴォーカルとギターにおさまろうとする主人公の姿が、サッカー部の自分と重なった。
僕は当然試合に出ないが、その点が違うだけで、あとはふだんサッカーをする僕と一緒なんじゃないか、と冷や汗が出た。
まあ結局、それは子どもが入ってくる大人の存在をどう受け止めるかによるのだが、でもやっぱりちょっと考えさせられた。
4. 最後になんといっても、やっぱりジャック=ブラックの演技。まあ正直、彼の独り勝ちでしかないのだが、
主人公のエキセントリックな性格を完全無欠に全身と表情で表現してみせる。当て書きならではのクオリティでもあるが、
この強烈なキャラクターを完成させたことだけで作品の魅力が跳ね上がった。とにかく凄すぎる!の一言。まいりました。
日記の改修作業が2004年に入った。就職の面接の話題が多いのだが、いまログを読んでみると、
どうも当時は大スランプの時期だったように思える。天中殺とは言わないが、かなりのレヴェルだ。
そういうのも僕の実力のうちには違いないが、なんか、こう、うまくいかない流れの中に巻き込まれていた感じがある。
あの時期だけ妙にムラっ気だったようにも思うし、自分で自分がコントロールしづらいバイオリズムだったようにも思うし、
不思議とあのとき自分自身に違和感がしたのを鮮明に覚えている。僕の性格的な問題という要素があるにしても、だ。
面接の日になって急に熱が出たこともあった。なんだかよくわかんないけど、妙な流れがずっとあった気がするのだ。
まあ今となってはとりあえず、受けた会社はほぼぜんぶ、神様がやめとけって言っていたんだ、そう思って納得している。内定をもらってもしばらくがんばったんだけど、体力的にも精神的にもつらくなる一方で、就職活動を終わらせた。
で、その就職先に結局満足できないで辞めちゃうんだけど、その結果として今の生活がある。どうなんですかね、これ。
とりあえず3年が経とうとしているけど、前のときとは違って腰のひどい痛みに悩まされるなどの症状は出ていない。
ストレスがないわけではないが、コミュニケーションのある毎日だし、適度に運動しているし、客観的に悪い要素は少ない。たまに当時の就職活動でうまくいった自分を想像してみることがあるんだけど、辞めてそうな予感がけっこうある。
そうなるとどのみち結局、今のオレの生活で落ち着くことになるのか、と結論が出ることがかなり多いのだ。
ならば今の生活をきちんと維持したうえで、仕事でも趣味でもレヴェルアップを図らなければならない、となる。
そんなわけで、過去を振り返っていろいろ考えてみた結果、わりとポジティヴに現状を受け止めることができてはいる。
ま、オモシロ人生を貫きとおせるかどうか、ここからが勝負ってことですな。
どうも最近あまりに寒いせいで、しもやけができたみたいだ。左足小指。
小学生ぐらいのときには僕はしもやけの常連で、冬になるたびに悩まされたものである。
で、本当にかなり久しぶりで、そのときと同じ症状が同じ場所に出ているのだ。なんというか、懐かし痛痒い。
しかしまあ、それだけ今年の寒波は本格的だということなんだろう。暑いのと寒いのと極端ですなあ最近は。
昨夜、遅くになってから雪が降り出した。おかげで朝起きたら雪景色っていうよりも、氷の世界の一丁あがり。
これはまずいぞ、と予感がして、いつもよりちょっと早く出発する。が、門を一歩出た瞬間から「ああ」とため息。家から職場までの道のりは、環七の車道を除き、全編が見事にアイスバーンとなっていた。
環七も歩道は完全にアイスバーン。勇者がつくった轍がいちおうあるのだが、そこも下はアイスバーンになっている。
ペダルをこぐと、タイヤが軽くスリップしてから自転車が動きだす。本当に、このレヴェルはシャレにならない。
注意深く環七の車道に出ると、一気に勝負をつけにいく。遠慮して歩道に入ったら、下り坂で一巻の終わりだ。
車と同じスピードでぶっちぎって南千束の交差点に出る。ここで信号につかまる。再始動が本当に怖かった。
やっぱり車道で坂を上がって、いよいよ環七を離れる。道は車道の轍のところだけ雪がないという有様で、
対向してくる歩行者や自転車に気をつかいながら行く。少し広い道に出ても、地面全体がうっすらと凍っている。
道はつねに平らとは限らない。横から下り坂がはじまる交差点は、ゆったりと傾いているものだ。そこが怖い。
自分でそのつもりはなくても、タイヤが自然と下り坂の方に寄せられる。でも無理に抵抗すると転んでしまう。
全神経を集中させて進むが、狭い道で対向してくる車にスペースをつくろうと幅寄せした際に転んだ。善意が仇となったか。
どうにか遅刻することなく職場にはたどり着いたが、背中から落ちて転んだせいで腰を軽くひねってちょっと痛い。当然、生徒たちもアイスバーンと格闘しながらの登校である。が、こういう日にかぎって都立高校の推薦入試出願日。
3年生はみんな滑ったり転んだりしないように慎重に来るのかな、と思いきや、「すべるー! こけちゃうー!」の大連呼。
まあ、それだけの度胸があるんなら、それはそれでいいんだろうなあ……と思うのであった。
学校の休み時間に、生徒の写真を撮りまくっている。といっても変なことをしているのではない。立派な仕事だ。
あともう2ヶ月もしないうちに3年生は卒業式を迎える。その前には3年生を送る会があり(去年のログ →2011.3.7)、
そこで3年間のスライドを上映するわけだ。それに使う個人の写真がまったく足りないので、あわてて撮っているのだ。思えば高校時代には、イベントも何もないふつうの日に「写ルンです」を持ち込んで激写しまくり、
なんでもない日常の風景を残すことをやっている少年なのであった。本質的に僕は今もまったく変わっていないのだ。
記憶では圧縮して編集されてしまう日常。特別なイベントの日なんて数えるほどだが、日常は圧倒的な割合を占める。
その質感をきちんとカタチに残しておくことこそが、かけがえのない日々を大切にするってことなのだと信じている。そういう姿勢もあって、対象がポーズをとっていてもかまわないけど、できるだけさりげない感触の写真を撮ろうとしている。
女子はかわいく、男子は面白く。僕は写真には詳しくないが、今のところ、なかなか悪くない成果が出ていると思っている。
いかに僕らが楽しい毎日を送っているのかを端的に示している、そんな写真が手元に集まりつつある。
スライドを編集するのはほかの先生で、僕は素材を集めるだけなのだが、一味違う素材にこだわってがんばっておりますよ。
2003年の日記の改修作業をやりまくりなのである。日記も書きはじめて3年目になると書き方が安定してくるのか、
それまでと比べてかなり直しやすくなっている。この時期にはデジカメも持っていなかったし、旅行もしていないので、
一日あたりのログの量も短め。想定していたよりもかなりスムーズに作業が進められそうな感触である。しかしまあ、言っとることやっとることが、当時と今とあんまり変わっていない。成長しとらんなあ、と思う。
逆を言えばブレない人生を送ってきているということになるのかもしれないが。
特に、モテないことについてブレていない。ニンともカンともである。
本日は学校公開、いわゆる土曜参観ってやつなのであった。凝ったことをやる余裕がまったくなかったので、
2年生:スクラブルで辞書の練習と、1年生:レギュラーの内容という組み合わせで強行突破。
あまり見ていて面白い授業ではなかっただろうけど、生徒がふだんどおりに元気だったからヨシとしてください。
まあそもそも、がんばる先生を見に来るよりは、生き生きしている子どもを見に来るもんだろうしな。
『シカゴ』。それまで長く低迷が続いていたミュージカル映画界に、突如現れた大ヒット作。
2002年公開ということで「そんなに最近!?」と驚いてしまったが、それだけミュージカルの不作が続いていたのだろう。1920年代のシカゴ。華やかなショウビジネスと、毎日のように起きる殺人事件をめぐるゴシップの加熱と、
光と影が目まぐるしく駆け抜ける大都会が舞台である。この街でスターを夢見る主婦のロキシーが主人公。
彼女がステージで歌い踊るヴェルマを見つめるシーンでスタートするが、「5, 6, 7, 8!」という掛け声で始まるのがいい。
そのヴェルマはコンビを組んでいた妹を直前に殺しており、逮捕された後もネタになるのでマスコミが彼女をもてはやす。
一方、ロキシーは自分をだました浮気相手を殺して捕まる。絞首刑を避けるには、凄腕の弁護士ビリーに頼むしかない。
ビリーは金と話題になることだけを追求する性格をしており、ロキシーが話題になるとふんで弁護を引き受ける。
そして彼の戦略は大当たりし、ロキシーは被告でありながらスターダムにのし上がる。とにかく登場人物のほぼすべてが、
大都会で有名になることだけを考えている。そしてシカゴの街は、そんな連中の激しい浮き沈みをただ受け入れる。ミュージカルというと日本人にはおなじみの、いきなり歌い出す「不自然さ」がよく指摘される。
『シカゴ』の場合、歌と踊りは主にロキシーの妄想という形をとる。スターになりたいロキシーの脳内では、
自分を取り巻くすべてのものがショウビジネスの舞台に見えてしまうわけだ。この視点のとり方は実に面白い。
次々と繰り出される歌と踊りに、アメリカが連綿と鍛え抜いてきたショウの世界の豊かさがよくわかり、圧倒される。
この作品では主要な登場人物はほとんど誰一人としてまともな性格をしておらず、価値観がそれぞれに偏っている。
その偏り具合とシカゴという雑多すぎる都会とがうまく作品の世界を構成していて、ショウが人生のすべてになっている、
そんなぶっ飛んだ状況が、この物語をアウトプットするうえでミュージカルという形式を最も正統な方法にさせている。
だからこの作品については「不自然だ」と文句を言うことはできない。だって主人公もシカゴの街も、性格が不自然だから。物語の感想としては、女って怖くて強い!というところ。激しくうねる波のようなシカゴの街で生き抜く女のたくましさが、
とてもよく表現されている作品である。好き嫌いはあるとは思うが、狙ったものをきちんと実現したクオリティの高い作品だ。
作品展に向けて「全校テーマ」ってのをやんなくちゃいけない。今年のテーマは「2011年で一番感動したこと」。
面倒くさいのでどうにかうまくごまかせないかなと企んでいたのだが、結局今年も実行委員に捕まって、やる破目に。
去年から何ひとつ成長していないところ(→2011.1.20)を周囲にひけらかす結果となってしまったのであった。
凝る要素も特になかったので、今年は素直に自分のタッチで済ませた。まあ、こんなもんだろう。ログにも書いた(→2011.10.25)。写真は一部修正を入れてあります。
たぶん今年もオレだけ浮くんだろうな。もう今さら別にいいけど。
私立の推薦を出願するために授業を抜けるヤツがチラホラ。いよいよ3年生の受験が本格化してきたわけだ。
しかしながらふだんから授業がみっちり詰まっている僕は、ほかの先生方ほどきっちり受験準備に対応できていない。
もう本当に申し訳なく思っているのだが、動ける時間がぜんぜんないのでどうしょうもない。
今日の貴重な空き時間も結局、作品展の案内表示づくりで終わってしまった。驚くほどヒマがないのである。受験については正直、なんでそこまで面倒見なくちゃいけねえんだ、過保護すぎるだろコレ、と思う場面も多々ある。
その辺の感覚でほかの先生方とズレがあるのも事実だ。とはいえ必要なのは、きれいに現実と折り合いをつけること。
そういうすべてを総合的に考えてみても、僕の動けていないっぷりは仕方のない面があるとはいえ、やはり申し訳ない。
でもこっちはやんなきゃいけないことが3学年分がっちりとあるし、動けないものは動けないのでどうにもならんし、
動ける人が動くことがベストだろうし、だけど動ける部分は動きたいとは思っているしで、毎日葛藤しているところである。
バランス感覚は人それぞれだと思うし、それを自分で客観的に評価することなんてできないし、本当に難しい。
学校での作品展が近づいており、みんな放課後は美術や技術の居残り総仕上げでてんやわんやになっている。
おかげで昨日の部活はなんと2名でスタート。最終的にも1ケタで、しょうがないとはいえ切ない気分になった。
で、今日は研修で外に出なきゃいけないので、急遽部活を休みにして課題の方に集中させることにした。研修が終わるとそのまま都心に移動して、修理を依頼していた時計を無事に受け取る。
後は買い物したり日記書いたり晩飯食ったりと、テキトーにふらふらして過ごした。
休日ではなく平日にこういう行動をするのは、なんだか違和感がある。でもいい気分転換になってよかった。
ハイ出てきました、旅行へ行きたい病。半月前にあの小笠原へ行ったばかりだというのに、もう計画を練っている。
ターゲットは来月のテスト期間。部活のないテスト期間は遠出する貴重なチャンスなので、行くしかないのだ。さすがにふだんの僕なら、いくらなんでも旅行欲を抑えるところだ。が、事情が変わってきつつあるのだ。
それは、来年度から土曜日が月に2回、なんと授業日になるという恐ろしい事実。
週末の部活のことを考えると、4月からかなり窮屈な生活になることが容易に想像できる。
×××××××××××××××××××××××事態である。×××××××としか思えない。
もはや×××××××××××。××××××××だろうから。【※内容が危険すぎるので自主規制】
そういう経緯があるので、行けるうちに行っておきたいな、という発想になっているわけだ。悪いクセがついているのか、3日間だとすっきりと計画が立てられるのだが、2日間だけだとなかなか計画が収まらない。
そこをいろいろ考えていくのが面白いのだが、根が欲張りなので取捨選択をするのが切なくって困るのである。
まあなんとか、可能な範囲で中身のぎっちり詰まった計画をうまく練り上げたい。賢くなれる旅を組んでいきたい。
しかしこうやって毎日毎日、日記ばっかり書いていると、果たしてこれでいいのか、という気がしなくもない。
アウトプットにばかり必死で、あんまりインプットしていないなあ、と思うわけである。
決してインプットしていないわけではないのだが、アニメだったり読みやすい本だったり、簡単な方に流れている。
改修作業のために過去ログと向き合うと、当時は当時なりにあれこれ「古典」と呼べるものに触れている。
最近はサッカーと英語と日記に追われて、ちょっとおろそかになっていることがあるんじゃないか、と思えてしまうのだ。
出版社時代には変に時間的余裕があったので、本にしてもDVDにしても、ずいぶん意欲的に触れていた。
そのときと比べると、教員となって以降は明らかに、「他者の経験としての知識」の積み上げが足りないのだ。
しかしながら幸いなことに、ここ最近の日記を書くリズムはあまりペースが落ちない。文の精度もまずまず。
MacBookAirを駆使しての毎日を送ることで、書くことにようやく慣れてきたのかもしれない。
時間を決めながらインプットとアウトプットの頻度を高めて、質の高い毎日を送っていきたいものである。
髪の毛を切りに行く。おねーさんは僕の顔を一目見て、「……日焼けしてますね」。客商売すげー!!
それで素直に小笠原へ行ってきた話をしたわけだが、「だいぶはしゃいだ感じの日焼けしてますよ」と言われた。
自分ではそんなことは絶対に気づくはずがないことなのだが、観察力の優れている人はごまかせない。本当にすごい。◇
2011年分の日記を書き終えて、小笠原日記に飽きてしまったので、先に2008年のログ修正を完了させた。
これで改修作業が終わったのは、2001年・2002年・2008年・2009年・2010年となった。いやー、手間がかかった。
今後は2003年→2004年→2007年→2006年→2005年という順番で作業予定である。理由は特にない。
なんとか現在の日記とうまくバランスをとりながら、早くパーフェクトな状態になりたいものである。
『けいおん!』の楽曲はレヴェルが高いな!という話。映画のログ(→2012.1.7)の続きである。
『映画「けいおん!」』についてのログで、「僕が最も見たいのは、彼女たちのライヴなのだ。」と書いた。
調べてみたら、なんと『けいおん!』では実際にライヴイベントが2回開催されており、どちらもDVD、CDになっている。
こりゃいいや、と思ってCDを借りてきて聴いたんだけど、正直あまり合わなかった。理由は2つあって、
1つは僕が「キャラクターソング」なるものがメチャクチャ嫌いだから。恥ずかしいし、声優が前に出るのがどうも……。
(声優が人前でキャラクターの声を出すのがまずダメ。あとアニメによくある「CV」って表記が鳥肌立つほど気持ち悪い。)
僕の平気なキャラクターソングは、なぜか『ふしぎの海のナディア』(→2008.2.20)と『ドラえもん』関連ぐらいなもので、
あとはからっきしダメなのだ。『けいおん!』ライヴイベントはどっちも前半がキャラクターソングばかりになっていて、がっくり。
もう1つは、声優が実際にキャラクターの担当楽器を演奏する場面があるのだが(ベースはわざわざ左手で弾いている)、
僕にはこれは必要ないんですよ。お遊びは必要ないので、ハイレヴェルな楽曲をハイレヴェルに演奏してもらいたい。ということで、裏を返せば、僕は「放課後ティータイム」名義で発表されている楽曲じたいをとても高く評価している。
唯一の欠点というか僕にとっての違和感は、メインヴォーカルの唯の声が猛烈なアニメ声であることで、
これをアニメキャラクターとは異なる表現力を持った声で歌ったら、かなりツボに入ってくるであろうクオリティなのである。
楽器じたいの持っている音で勝負していること(打ち込みがないってこと)、各パートのバランスが絶妙にとれていること、
その辺が高いクオリティを実現した秘訣ってことになるだろう。ライヴでグルーヴを上手く引き出せる構成なのだ。
バックトラックがハイレヴェルな生演奏から打ち込みに切り替わったことで、「歌謡曲」が消え、「アイドルソング」が生まれた。
この変化で失われてしまったものが、『けいおん!』の楽曲で再発見された、という見方もできるのではないか。しかしなんといっても、放課後ティータイムの楽曲が優れている理由は、「リフから曲がつくられていること」、これに尽きる。
前奏を聴いたその瞬間で盛り上がる、それができる曲ばかりなのだ。邦楽でリフから曲をつくることはそれほど多くない。
対照的に洋楽はまずリフで惹きつける。つまり、放課後ティータイムには洋楽仕込みのロックの方法論がまず根底にあり、
そこに邦楽らしい細やかさが乗っかる(特に日本のガールズロックはその細やかさを追求してきた財産を豊富に持っている)。
さらにアニメの要素も乗っかってくるが、根っこの部分が本物の音楽なので、十分に新しい化学反応になっている。特に優れているのは『ごはんはおかず』。これだけライヴ向きの曲はそうそうつくれるもんじゃない。本当に凄い。
純粋にいい!と思えるのは『U&I』。『天使にふれたよ!』もよくできている。これらは誰がカヴァーしても対応できるだろう。
そんなわけで、ぜひ先入観なしで聴いてほしい。くだらねえK-POPに押されまくっているしょぼくれた日本の音楽業界に、
意外な方向からいいカウンターパンチが入った。歌詞も声もアニメならでは、なのだが、それも含めて実にロックである。
『けいおん!』はおたくに限らず広く支持されており、次の才能につながる可能性があるという点でも意義深い存在だ。
宇都宮徹壱『フットボールの犬』。いつもスポーツナビで、彼のサッカーコラムを読んでいる。
この人の書く内容は、全面的に信用できると思っている。そんな写真家でサッカーライターが書いたノンフィクション。この本の内容を端的に説明すると、ヨーロッパサッカーの取材記ということになる。
しかしその舞台はスコットランドに始まり、アイルランド、ポーランド、ユーゴスラヴィアと続く。
イタリアやオランダも舞台となるが、それらがすべてとはならない。フェロー諸島、エストニア、マルタまでもが登場する。
サッカーにきちんと興味を持っている人なら、「フェロー諸島」と聞いて、この本が目指しているものがすぐにわかるだろう。
有名選手への取材もあるが、筆者が対象として追いかけるものは徹底して、人々の日常生活とサッカーの関係性だ。
多分に社会学的な視点を含みながら、たったひとつのスポーツを切り口に、実にさまざまなものが提示されていく。
世界の国々が多彩であるように、サッカーもまた多彩であり、その土地でサッカーに触れながら暮らす人々もまた多彩だ。
その多彩さがそのままに収められた、非常に贅沢な本だ。地理とサッカーという僕の趣味嗜好に合致しているので、
僕がこの本に高い評価を与えるのは当然のことと思われそうだ。でもそれは、世界の多彩さを受け止めるに足る知性を、
筆者の姿勢から十分に感じられるからこそ、なのだ。これは、読んでいて心地のよい本である。有名・無名の人々が、サッカーという関数を、ありとあらゆる角度から通過しながら毎日を暮らしている。
誰もとりたてて気づくことのない、さりげない日常の風景が、写真家の目によって切り取られ、物語として縁取られる。
この本に収められた時間はどれもかけがえのないものだ。そんな時間が無数に存在していることを、この本は教えてくれる。
多彩であるということは、豊かであるということでもある。サッカーを通した豊かな風景が、この本からは見えてくる。
情報量が多くて浮き沈みの激しいサッカーの世界では、一冊の本などあっという間に消費し尽くされてしまうだろう。
しかし僕らが、世界の人々が、生活を続けていく限り、ここに記録された多彩さ・豊かさが色褪せることはない。
そう、これは実に豊かな本だ。
本格的な授業は今日からスタート。初回ということで、全学年ともにちょっとユルめの内容で進める。
まず写真をB4でプリントアウトしておき、小笠原で買った島T(Tシャツ)を着て、英語で旅行の顛末を話す。
突っ込んだ内容についてはどうしても日本語での説明になってしまうが、写真を出すごとにまずは英語で言っていく。
特に1年生はこれから過去形を習うので、それを十分に意識させてからしゃべり放題しゃべっていくのであった。
なんだかんだで、旅行の経験はきちんと仕事に有効活用しておりますよ。
いよいよ本日より3学期がスタート。ごくごくありふれた日常が始まったわけだが、これは終わりへのカウントダウンでもある。
ぼさっとしていると、あっという間に受験が終わって卒業式になってしまうんだろうな、と思う。
連中の入学式はついこないだだったはずなのに、もう3年が経とうとしているのだ。本当に恐ろしいことだ。
とりあえずこっちとしては毎日一生懸命にやっていくしかない。自分は着実に成長していると信じよう。
というわけで、『幕末太陽傳』のレヴュー。といっても、基本的なことは以前すでに書いたとおり(→2005.10.22)。
当時の日記ではあらすじをいかに要領よくまとめられるかにこだわっているところがあり、感想についてはあっさりめ。
「これ以上グダグダ言うのは野暮というもの」なんて書いて済ませているのだが、6年経った今もそんな気分である。
この作品は実際に見るのが一番だ。最初から最後までたくましく疾走してみせるフランキー堺がすべてなのである。
でもそれじゃマトモなレヴューになっていないので、もうちょっときちんと書くことにする。
大きなスクリーンに映し出される物語を冷静に受け止めて思ったことは、まず、「若いなあ」ということだ。
実際、若い。公開当時の川島雄三監督が39歳で、フランキー堺は28歳だそうだ。南田洋子も左幸子もそれより若い。
石原裕次郎や二谷英明、小林旭ら長州藩士の面々も、妙に存在感をみせる岡田真澄もピッチピチ。
とにかく役者たちの若さが目立つ(そういえば映画を見た昨日、二谷英明の死去が発表された。ご冥福をお祈りします)。だが若いのはそれだけではない。作品の全編にわたってみなぎる躍動感、脚本の持つ勢いが圧倒的なのである。
作中の時間経過は非常にわかりづらい。徹底的につくり込まれた相模屋のセットは昼と夜を繰り返し、
モノクロのコントラストの中で激しく浮き上がったり沈んだりを繰り返す。現実的に流れる時間をねじ曲げる、
若さゆえの特権とでも言えそうな、主観的な時間の流れ方を強く感じさせる物語展開となっているのだ。
この作品における時間は、佐平次(≡フランキー堺)を中心にして渦を巻いている。だから、最後に杢兵衛大尽が現れて、時間の強制的な終了である「死」が意識されるようになると、
急に時間は佐平次のものではなくなってしまう。時間は死に向かっての直線的な流れ方を始めてしまうのだ。
川島監督が当初考えていたラスト、佐平次が時間を超えて昭和32年の品川へ駆け出すことが許されなかった事実は、
思いのほか重い意味を持ってしまっている。佐平次という想像力が、現実という壁に遮られた敗北宣言にほかならない。
時間を自分にとって都合のいいものにしてしまおう、という若き野望は、死という究極の現実を匂わされて失速してしまう。
『幕末太陽傳』は、まるで西部劇のような現実への敗北(→2005.6.30/2005.12.3)で終わっている、と言っていい。
もちろん佐平次は力いっぱい「生きてやる」とは叫ぶ。でも彼を見つめるカメラの視線は、ひどく現実的で醒めている。とはいえ、そのことでこの作品の価値が落ちるわけではない。むしろ、観客にすべてが委ねられたと受け止めるべきだろう。
佐平次は、昭和32年の品川の街になど飛び出さない。佐平次が本当に飛び出していくべき場所は、スクリーンだ。
今まさにライトがつかんとしている映画館のスクリーンなのである。スクリーンをぶち破って、客席の間の通路を走り抜けて、
ドアを開けて外へ出る。そこには21世紀の日本の街が広がっている。彼は少しもためらうことなく駆け出すに違いない。
そんな佐平次の姿をできるだけ克明に頭の中で思い描くこと。それが『幕末太陽傳』の正しい結末だと、僕は断言する。
『幕末太陽傳』を見ようと思ったわけです。日活100周年でデジタルリマスターされたんだかなんだかで、
昨年末から映画館でやっている。作品の面白さは桁外れだから(→2005.10.22)、これは見ておきたいな、と。
都内で上映しているのは3ヶ所で、手頃な盛り場の新宿にしておこう。じゃあそれまで今日はどう動こうか。
自転車で新宿へ行くのは芸がないし、かといってついでにどこか行きたい場所があるわけでもない。
でも休日だから動かないともったいない。で、いろいろ考えた結果、かなり遠回りして新宿に行くことにした。
自転車で行ったことはあるけど乗ったことはほとんどない鶴見線。あと、もはや馴染みのない武蔵野線。
この辺をぷらぷらぐるっとしてから新宿に乗り込もうじゃないか、というプランが立ったのであった。7時半過ぎ、京浜東北線で鶴見駅に到着した。鶴見線に乗るには、とにかくここが絶対的な起点となる。
いったん西口に出て、周囲をぶらついてみる。メインの東口とは比べ物にならない規模だが、
小ぢんまりとしながらもペデストリアンデッキがあり、さまざまな店が点在しており不便さは感じさせない。
なぜわざわざ一度改札を抜けて仕切り直しをしたのかというと、やはり鶴見線を鶴見線として味わいたいからだ。
6年前に自転車で鶴見線の「ぶらり全部下車の旅」をやったことがあるが(→2006.8.6)、
ぜんぶ乗ってやろうという試みは初めてである。工業地帯を複雑に行き交う鶴見線。僕は嫌いではないのだ。それにしても、知ってはいたが、あらためて鶴見駅から鶴見線に乗ろうとすると、なんともいたたまれない気持ちになる。
というのも、鶴見線の改札口は西口の大きな改札口の手前、思わず気づかず通り過ぎてしまいそうな位置にあるのだ。
もちろん、それに気づかず大きな改札口を抜けてしまっても、右に曲がれば鶴見線のホームに行くことはできる。
が、ホームの手前にもう一度改札が現れるのである。この二重改札による隔離された感じがなんとも物悲しい。
L: 鶴見駅西口。頭上をペデストリアンデッキが塞いでいるのでなんとも窮屈。鶴見線のうらぶれた感じとかぶるなあ。
C: 西口にある鶴見線専用の改札口。うーん。 R: 「ぶらり鶴見線パス」だってさ。同じこと考えるやつがいっぱいいるのね。鶴見線は埋立地の工業地帯に貨物や通勤客を運ぶための路線であり、一見すると複雑な入り組み方をしている。
でも要は、「鶴見−扇町(浜川崎)」「鶴見−大川」「鶴見−海芝浦」の3パターンだ(弁天橋止まりもある)。
この中で最も本数が少ないのが、「鶴見−大川」である。なんと、日に3往復(土日ダイヤの場合、平日は9往復になる)。
となれば、そこを基準に動くしかないのだ。7時55分、大川行きの列車に乗り込んで鶴見駅を後にする。
L: 鶴見駅の鶴見線ホームは独立しているのでこんなん。ターミナル駅なのに最果て感が漂っている。
C: 鶴見線ホームから、京浜東北線との乗り換え改札口を見たところ。鶴見線は無人駅ばっかりだからこうなるのか。
R: 列車内にある鶴見線の案内表示がなかなか面白い。でもこうするとわかりやすいですな。鶴見川を渡ってしばらくすると、土地の使い方が細やかな住宅と豪快な工場が混在する風景となる。
日曜日だというのに乗客はまずまずいて、性別も特に偏っていない。よくわからない客層だなあ、と思う。
安善駅でそこそこ客を降ろすが、まだ車内にはそれなりに人がいる。そして次の武蔵白石駅に着くぞ、
と見せかけて列車は右へとゆっくりカーヴして南へと針路を変える。なかなか面白い「おあずけ」っぷりだ。
鶴見線は東西に走っているうちはまだ地元住民の生活感を漂わせているが、南に曲がるとそれが一気に消える。
窓の外は埋立地らしい大雑把な工業地帯の光景一色に染まる。そこを運河と道路が列車と並走していくのだ。大川駅に到着。仕事と思しき皆さんがけっこう乗っていて驚いてしまった。それ以外の好き者は僕を入れて3名。
季節が違うので雑草が枯れていたほかは、前に自転車で来たときとまったく変わっていない感触である(→2006.8.6)。
当然、やることなんてないのでテキトーにデジカメのシャッターを切って過ごすのみ。日本は今日も平和だ。
L: 大川駅はこんな感じでたたずんでいる。 C: 正面から駅舎を撮ってみたよ。 R: 駅って感じが見事にない。いちおうわが最果てコレクションの一環ということで撮影をしてみるが、大川駅の先には日清製粉の工場があり、
線路は延々と続いている。なんとも手応えがないが、終点なのは旅客列車だけだから、まあこんなもんだわな。
L: 駅舎の先にある通路。貨物列車が通るときだけ閉まる。牧歌的だなあ。
C: 大川駅の先はこんな感じ。前も撮ったな。 R: 振り返って大川駅側を撮影。大川駅を後にすると、鶴見駅まで戻らずに国道駅で降りた。乗り換えるのならもっと手前の浅野駅でいいのだが、
寒空の中、無人駅で震えて次の列車を待つというのは苦行でしかない。いい機会なので国道駅をじっくり探検するのだ。国道駅のホームにて高架のカーヴを豪快に走り去っていく列車を眺める。
国道駅については6年前のログでも書いているので(→2006.8.6)詳しい説明は避けるが、やはりこの雰囲気は独特だ。
あれこれ気ままにシャッターを切って過ごす。しかしこれは21世紀とは思えない。19世紀と言っても通じるかもしれん。
L: ホームから降りるとこの通路。 C: 国道駅の改札口。 R: 駅名の由来となった国道15号(第一京浜)。
L: 国道駅の入口。国道15号に面しているから「国道駅」とは。その潔さが鶴見線の栄光の歴史を物語っているわけか。
C: 国道駅の高架下を進んでいく。焼き鳥屋や釣り船屋が今でも入っているが、戦時中の匂いがするもんなあ。
R: 国道15号の反対側に抜けたところ。いやー、やっぱり国道駅は現代のワンダーランドでございますね。国道駅の高架下は横にも小さい出口がある。いやしかしこれもすごい。
国道駅を存分に堪能すると、今度は海芝浦行きの列車に乗る。海芝浦は前に列車で行ったが(→2006.12.2)、
まあもののついでということで、あらためて行ってみる。やっぱりけっこうな物好きが乗っているのであった。海芝浦駅に着くと、とりあえず隣接している海芝公園へ。そこしか行くところがないからね。
でも何枚かシャッターを切っておしまい。外は寒いので、列車内で文庫本を読んで発車を待つのであった。
L: 海芝浦駅の最果てポイント。 C: 駅はこんな感じになっております。 R: 東芝がつくった海芝公園の入口。
L: 運河では鳥が集まって浮かんでいたよ。鶴見つばさ橋を背景に撮影。 C: 海芝公園内。 R: 海芝公園の先っぽ。そろそろ腹が減ったので鶴見駅まで戻って東口をぶらつく。ちょっと来ないうちに東口はきれいに整備されていた。
駅舎じたいも建て替え工事の真っ最中なのであった。で、朝ラーメンを480円で食って燃料補給。鶴見駅東口。久しぶりに来たら妙に小ぎれいになっていてびっくりした。
最後は「鶴見−扇町」を制覇するのみ。大川も海芝浦もいかんともしがたい終着点であるのに対し、
扇町へ行く途中には南武線支線との乗換駅である浜川崎があるためか、乗客はけっこういっぱいいた。
が、どうも様子がおかしい。鶴見線のダイヤをプリントアウトしたものを持っている人が多いのだ。
どうやらこの3連休で鶴見線スタンプラリーなるものをやっているらしく、それ目的に乗っているようなのだ。
こちとらそんなもん関係なく自主的にやっているわけで、かぶってしまったのがなんとも悔しいのであった。で、カメラを持った鉄っちゃんを10人ほど乗せた列車は終点の扇町駅に到着。
僕は鉄分が薄いはずなのに鉄っちゃんとやっていることがほぼまったく同じというのは屈辱である。
うーん、オレが面白がっているのは鉄道ではなくって都市や空間であって、鉄道はその付随物でしかないのだが。
(まあその辺は日記に貼り付けている写真を見てもらえばわかると思うけどね。対象はあくまで空間。)
L: 扇町駅。 C: 扇町駅の先にもやはり貨物用の線路が走っている。 R: ホームはこんな感じ。
L: 扇町駅の最果てポイント。 C: ホームから来た方向を振り返る。工業地帯らしさ満点でいいですな。
R: ガスタンクを解体しているところがホームの先から見えたので撮ってみた。面白い。これで鶴見線はすべて制覇した。次は浜川崎で乗り換えて、南武線支線に乗ってみるのだ。
そしてそのまま南武線で府中本町まで行って、そこから武蔵野線でぐるっと遠回りをするわけだ。
L: 鶴見線の浜川崎駅にて。見てのとおり、跨線橋の上の光景である。鶴見線の浜川崎駅はまったく駅舎らしくない。
C: 鶴見線の浜川崎駅。跨線橋がいきなり道に面している。この日は鶴見線スタンプラリーということで人がいた。
R: この道路の右側手前に南武線支線の浜川崎駅。鶴見線の浜川崎駅はちょっと先に進んだところの左手。
L: 南武線支線の浜川崎駅の先に延びる線路。無骨ですなあ。 C: 反対側(左に浜川崎駅がある)。
R: というわけで南武線支線・浜川崎駅。利用者はそれなりにいるようで、わりときちんとした駅なのであった。周辺の撮影を済ませると、南武線支線の方の浜川崎駅の中へ。鶴見線では黄色と水色だったが、
こちらは黄色と緑色。南武線の本体は黄色と茶色で、いろいろ違いがあるもんだなあ、と思うのであった。
L: 南武線支線・浜川崎駅の最果てポイント。 R: 今までまったく縁のなかった南武線支線なのですごく新鮮。貨物も走る関係なのか、南武線支線は広々と確保された用地を進んでいく。
右も左も線路からだいぶ離れたところにあるフェンスで仕切られており、なんだか土地の使い方がもったいなく思える。
やがて住宅地を高架で抜けていくようになる。そうして尻手駅に到着すると、そこは支線専用の3番ホームだった。
特に意識することなく乗っていた南武線、それも川崎の手前の駅に、このような最果ての風景があるとは気づかなかった。南武線支線のもう一方の最果て。やっぱりこの辺の鉄道事情は複雑だわ。
程なくして向かいのホームにやってきた登戸行きに乗り込んで、車内ではひたすら読書にふける。
登戸に着いていちおう改札を抜けたのだが、10分ほどしかいられないし特にやりたいこともないしで、
特にこれといって何もすることなく次の列車で府中本町へ。ランチタイムなのだ。
府中競馬場では何かレースがあるらしく、それらしいオジサンとジジイで少し混み合っていた。
僕はお馬さんには興味がないので府中市役所前を通ってさっさと府中駅方面へ。大国魂神社はお祭り騒ぎなのであった。
メシを食い終えるとそのまま府中本町駅に戻り、いよいよ武蔵野線に乗り込む。
大学時代は国立に住んでいたのだが、南武線を利用するときには谷保から乗り込んでいたので、
実は府中本町−西国分寺間に乗ったことが今までなかったのである。灯台下暗しとはまさにこのこと。
そんなわけでやたらとキョロキョロしながら西国分寺までの時間を過ごす。北府中とか初めて知ったわ。しかしながら西国分寺以降は、かつてさんざんお世話になったルートなのである。
ゼミ論文でさいたま新都心をテーマにしたので、多いときには週1くらいのペースで乗ったもんだ。
埼玉に出るまでは地下を走るのでやたらめったらうるさいのも相変わらず。本当にぜんぜん変わっていない。
そうして武蔵浦和で埼京線に乗り換えるのが定番のパターンだった。たまに気分転換で南浦和から京浜東北線。
したがって南浦和以降はまた未知の領域となる。越谷レイクタウンに一度行っただけ(→2008.11.8)。
それで興味津々で窓の外を眺めていたのだが、いかにも埼玉らしい狭苦しい一戸建て住宅の密集が続くだけで、
あまりに退屈でうつらうつらしてしまった。しかし住民の皆さんはあの光景は気持ち悪くないのかなあ。気づけば武蔵野線は千葉を走っていた。千葉に入ると起伏が出てきて緑(冬なので大部分が枯れているが)が増える。
やっと景色が面白くなってきたと思ったら、だんだん都会っぽくなってきてそのまま西船橋に到着した。
列車はさらに進んで市川塩浜を目指す。周囲は都会から臨海埋立地帯となり、建物も白く大雑把なものばかり。
やがて列車は急激にスピードを落として右に曲がる。京葉線の高架の上をしばらく走って、合流。
京葉線の高架に近づいていくときのダイナミックなカーヴは迫力満点で実に面白いのであった。
合流した京葉線の高架を行くと、巨大な倉庫がいくつも近づいては去っていく。まさにロジスティクスの現場なのだ。
市川塩浜に到着すると列車を降りて、京葉線に乗り換えて東へ。二俣新町を越えて南船橋で降りる。
そこからまた武蔵野線。今度は反対側から西船橋へと至るカーヴを体験するわけだ。
武蔵野線は京葉線から分岐して、二俣新町駅を見下ろしながら右へと大胆に針路を変えていく。やはり豪快で面白い。予想以上に武蔵野線の両カーヴが楽しかったので、満足して西船橋駅に降りる。読書しつつ総武本線に揺られ、
お茶ノ水駅で快速に乗り換え。こうしてようやく新宿駅に到着することができたのであった。時刻は15時過ぎ。
で、無事に『幕末太陽傳』を見て家に帰る。すっかり長々と書いてしまったので、そっちのレヴューはまた後日なのだ。
世間では3連休の初日となるためか、本日の部活は参加人数があまりにも少なすぎなのであった。
でもよく考えたら2年前と同じ状態なので、当時のことを思い出しながら練習メニューを組んでいく。
結果としては、人数が少ない分だけ集中力の欠けたヤツが減った感じで、非常に充実した練習ができた。そんなもんか。◇
『映画「けいおん!」』を見に行く。2年前には豊郷町に行ってなんじゃこりゃ!?と呆れた僕だが(→2010.1.10)、
そんなに人気ならマンガも読んでみるか(→2011.3.19)、じゃあアニメも見てみるか(→2011.11.16)、
で、気がついたらなかなかいいじゃねえか、となってしまい、今やすっかりひととおりの関連知識を持ってしまっている。
面白いのは、ふつうのファンとは完全に真逆のルートをたどっている点。これはなかなかいないパターンだろう。映画では軽音部の高校卒業直前の様子を描いている。ロンドンへの卒業旅行と『天使にふれたよ!』ができるまで。
(高校生のくせにロンドンとは生意気な! オレのHQS同期との卒業旅行は部室だったんだぞ、部室!)
いつものユルユルな雰囲気はしっかり健在で、それぞれのキャラクターが交差しながら、時間が刻まれていく。
これはファンじゃなかったらものすごく退屈だろうな、と思いながら見る。でも軽音部の面々に感情移入できるなら、
この映画は観客を含めて「みんなの」貴重な時間が克明に描かれた記録そのもの。気楽に受け止めればいい。しかし、見ていてようやく気がついた。僕が最も見たいのは、彼女たちのライヴなのだ。
TVアニメでも映画でもライヴのシーンはあるが、もっと完全にパッケージングされたライヴを最初から最後まで見たい。
だからこの作品で徹底的に描かれる彼女たちの日常は、それはそれとしてとても癒されていいのだが、
やはり映画館だからこその音響を贅沢に使っての彼女たちのライヴを味わいたい、と思ったのだ。
そういう意味で、この映画はとても物足りない。スクリーンに映し出されるものは、TVでもできることでしかない。
(ただし、本当の満足は自分自身がステージに立たないと得られない。ライヴは客ではなく演る側でないと絶対にダメだ。)
まあもっとも、そう思えたのは楽曲のクオリティが非常に高いからだ。この点はまた後日、きちんと書きたいと思う。結論としては、ファンならいいけど、そうでなければスルーしてまったくかまわない、そういう作品である。
個人的にはモブキャラ一番人気の立花姫子が微妙にいい感じで、そこもまたなかなかよろしゅうございました。
午前中は今年初めての部活。今年はある程度厳しくやるぞ!と決めているので、ゲームでは容赦なくプレー。
生徒のドリブルを体を張ってつぶしたり、逆にこっちがドリブルでブチ抜いてシュートを決めたりと、
なんだか申し訳ない気もするけど、それなりに質の高いプレーができて個人的には満足。パスもよく通ったし。
まあそういう全力で取り組む雰囲気を、まずは自分から出していければと思う。コツコツやっていきたい。部活が終わるとMacBookAirを使っての即興年賀状づくり。素材はもちろん、小笠原の写真である。
小笠原で撮った写真にイラレで文字を入れてPDFファイルにして、それを職場のプリンタで印刷。これでOK。
ところで部員で僕に年賀状をくれたやつがいるんだけど、住所だけ刷って肝心の裏面を刷り忘れたり、
オレの家と学校と両方に送っちゃったり、汚い字で「あけましておめでとうぐざいます」だったり、
とてもとても中学生とは思えない天然ぶりをそれぞれ発揮してくれて、もうニンともカンともだよ、まったく。午後は市ヶ谷に移動して健康診断。特に問題もなく済んだ。体重が思っていたよりも減っていなかったのはショックだ。
それから修理に出していた自転車を回収し、自宅まで戻る。休日っぽい平日で、3学期にスムーズに入れるか心配。
ただ画像整理と寝るためだけに実家に帰った気がする。
18時過ぎに新宿に着いたのだが、小笠原へ行った荷物をそのままで移動したので、かさばってしょうがない。
そのため、特にこれということもなく、淡々と家まで戻ってハイおしまい。うーん、締まらんのう。
せっかく実家に帰ってきたのに、車を修理に出しているんだそうで、遠出することができない。
おまけに外は風が強くて雪がまずまずの勢いで降っている。もうどうしょうもないのであった。
しょうがないのでMacBookAirで小笠原滞在中の写真を日記向けに編集する作業にひたすら没頭。
まったく、なんのためにわざわざ実家に帰ったんだか。がっくりである。実家では年末特番&正月番組を徹底的に録画しており、一緒にそれらを見て過ごすのであった。
今年も(OAは昨年か)『あなたの街にもきっとある 行列のできない激うまラーメン』がめちゃくちゃ面白いのであった。
年末年始の恒例ってことで、今のやり方で地道に延々と続けていってほしい番組である。ナイステレ東。
自分たちは小笠原に来るときにどれだけ恵まれていたのかを、イヤというほど味わわされて過ごす。
天気図は見事なまでに典型的な西高東低の冬の気圧配置を示していた。冬の外洋の本気っぷりを思い知らされる。
時折、船内アナウンスで航海状況が報告されるのだが、到着予定時刻はどんどん遅れていく。
つまりはそれだけ耐えねばならない時間が追加されることになるわけで、全員横になったままで悲鳴をあげる。
そしてまた、船内アナウンスではレストランや売店、スナックコーナーの営業時間についても報告がなされる。
本当に揺れがひどいときにはレストランも休業すると聞いていたので、ちゃんと営業しているってことはつまり、
この揺れはまだMAXではないのか、と乾いた笑い声をあげるわれわれ。もちろん、横になったままである。
「客観的にどれくらいの程度の揺れなのか知りたいよね」「5段階で4ぐらいはいっててほしい」なんて会話をする。
そのうちに、昨日飲んだ酔い止めの効果が切れはじめた感じがしてきて、各自2カプセル目を飲む。
落ち着いたところでまた横になり、うつらうつらしながら揺れに耐えて過ごす。時間の感覚が奪われていたので具体的には覚えていないのだが、伊豆諸島が近づいてきた辺りで、
船内放送のチャンネルで『サマーウォーズ』(→2010.3.7)の上映が始まった。気づけばスイッチが入っており、
「カズマが男じゃいかんのじゃー!」と横になりながらもわめく僕。バカを言う元気が出る程度の揺れにはなってきた。
船酔いに強いマユミさんはしっかりと見ていたようだが、あとの皆さんはグロッキー。僕も声を聞くだけ。
『サマーウォーズ』が終わってしばらく経ってから、ようやく上体を起こせるようになった。はっきりと船酔いが収まって、自由に動けるようになったのは、三宅島沖まで来たときだった。
八丈島ではまだ到底ダメで、御蔵島でもまだダメだったのだが、これはやはり、けっこう厳しい揺れだったのではないか?
ともかく、しっかりと元気が戻ってきた。となれば当然、食欲が湧いてくる。体調のオンオフがはっきりしている僕は、
急にスイッチが入ったように飛び起きて、デジカメ片手に船内のあちこちへ偵察に出るのであった。15時近くになり、窓の外にはっきりと大きな陸地が見えるようになった。外に出て、デジカメのシャッターを切る。
進行方向右手で平べったく広がるのは、房総半島だ。見えているのはおそらく、先っちょの旧安房国、館山市だ。
そして左手にははっきりと伊豆大島のシルエット。ついに船旅の終わりが見えて、ほっとする。
L: ついに本州が視界に入った! 平べったい壁のような房総半島。でもここからがまた微妙に長いんだよなあ。
R: 反対側には伊豆大島。小笠原と比べれば伊豆大島なんて陸続きも同然。本当にそういう感覚になる。到着時刻が遅れたため、15時半から船内レストランが臨時営業をスタートした(本来はこの時刻に到着予定だった)。
僕はずっと「おが丸風カツカレー」を食いたくって仕方がなかったのだが、とても食欲が湧かずにあきらめかけていた。
(揺られて横になっている間、ずっと「食いたかったな、カツカレー」とつぶやいていた。みんな、うるさくってごめん。)
でも臨時営業のおかげで食えることになったのは、不幸中の幸いと表現していいのだろうか。ともかく、列に並ぶ。
あとの皆さんはまだ食欲が回復するところまではいかなかったらしく、僕ひとりでの単独行動である。
早めに並んだので、すんなりとカツカレーにありつけた。小笠原の宿で朝メシを食って以来、実に29時間ぶりのメシだ。
24時間以上メシが食えないというのは当然、初めてのことだったが、振り返ってみるとなかなか壮絶な体験だった。
で、肝心のカツカレーはいい意味で無難な味。実に標準的なカツカレーで、究極の空きっ腹には最高のごちそうだった。
L: おがさわら丸の売店。パンも菓子も酒も薬もなんでも売っている。記念におがさわら丸のタオルを買ったよ。
R: おが丸風カツカレー。どの辺が「おが丸『風』」なのかはよくわからなかったが、たいへんおいしくいただいた。海況がよくなったからといって到着予定が早まることはなく、以前にアナウンスがあったとおりに3時間遅れペースで進む。
明らかにスピードを落としての航海になっているのがわかる。東京湾内は特に船がいっぱいで混み合うので、
こちらで勝手にスピードを上げて予定を変更することができないのだろう。船の世界もいろいろあるんだなあ、と思う。そうこうしているうちに日は沈み、すっかり暗くなってしまった。日の出から日の入りまでずっと船の中とは、予想外の事態だ。
下船の準備をしながらも、やっぱり小笠原ってのは半端ない場所だなあ、と笑うしかないのであった。18時45分ごろ、どうにか本土の土を踏むことができた。最近は地震が多いのでその点は困るのだが、
ともかく安定した大地の上に立つ気分は格別だった。無事に帰ってこれたことが本当にうれしかった。竹芝桟橋から浜松町駅まで歩き、そこで解散。みやもり夫妻もニシマッキー夫妻も、とにかく早く帰って休みたいだろう。
しかし僕は重い荷物を抱えたまま、急いで新宿へと向かう。本来ならいったん荷物を置いてからのつもりだったが、
おがさわら丸が遅れてしまったので竹芝からの直行となってしまった。そう、新宿から高速バスで実家に帰るのだ。
あれだけハードな船旅をしておいて、そのまま休むことなくバスにまた揺られるというのは本当にキツい。でもしょうがない。
気合で新宿駅に到着するが、残念ながらバスは5分前に発車してしまっていた。受付に事情を説明して粘って交渉し、
どうにか次の最終バスの席を確保してもらった。ご迷惑をおかけしましたけど不可抗力なのでそこはわかっていただきたい。バスを待つ間、船内で食えなかった小笠原の弁当を食べて栄養補給。冬の風が吹く中で食べた小笠原の味は、
つらかった時間をすっ飛ばし、楽しかった記憶を鮮やかに思い出させてくれた。
僕の中の小笠原の旅は、ここで決着がついた。◇
半袖だとさすがに肌寒いぜ!という気候から、雪が舞うのが珍しくない気候へ。飯田駅から実家まで歩く間、
自分がとんでもない旅行をしてきたことをあらためて実感する。そして飯田の街は以前に比べてわずかに変化をしていて、
空間の隔絶と時間の隔絶、その隔絶が複雑に接合してしまった今日という一日に、ワケがわからなくなってしまった。実家に着くと、両親に小笠原の土産物を渡す。母親には木綿のトートバッグ。とりあえずトートバッグあげときゃいいだろ、
という安直な発想で選んだ。いちおう、クジラなんかがかわいくあしらわれている柄である。
困るのが父親のcirco氏。この人については、観光地の土産物で喜んでもらえそうなものがなかなか想像つかないのだ。
九州旅行では鹿児島から焼酎を送っているのだが、小笠原にはラム酒はあるけど焼酎はないのだ。
で、結局、ふだん何にでも唐辛子のソースをかけて食っているので、名物らしい「薬膳島辣油」をプレゼント。
ついでに硫黄島唐辛子(島唐辛子ともいうが、正式な名称はキダチトウガラシ)の粒(すごく小さい)もプレゼント。
かじったcirco氏は「おい、これは辛いなぁ~!」とうれしそうな悲鳴をあげるのであった。そりゃよかった。
早いもので父島に上陸してからもう4日、つまりおがさわら丸が出航する日である。
海に山にと存分に楽しませてもらったのだが、もう今日でおしまいとなると、なんとも切ない。
しかしながら「じゃあ次の船にするー」というわけにもいかないので、残された父島での時間を目一杯味わうしかない。昨日のうちにある程度まとめておいた荷物を一気にまとめ、出かける準備を整える。
われら男子組のトレーラーハウスではなんとなく正月の風物詩である箱根駅伝にチャンネルを合わせていたのだが、
支度が終わって女子組のコテージに移動したところ、こっちでも箱根駅伝なのであった。日本人はそういうものなのか。
しかし2日間にわたる箱根駅伝の決着がつくであろう頃合になったとしても、われわれはまだ海の上で揺られているはずだ。宿のオーナーの計らいにより、レンタカーを二見港の駐車場に置いたままおがさわら丸に乗船していいことになったので、
荷物をたっぷりレンタカーに積んで大村へ移動。父島での最後の買い物を楽しむのであった。
マユミさんは土産物のTシャツに並々ならぬこだわりがおありなようで、熟考に熟考を重ねて選ぶのであった。
一方僕は、女性の買い物に付き合わされる男の典型的な手持ち無沙汰感はこういうものか、と変に感動していた。買い物を済ませてもまだ時間があったので、小笠原ビジターセンターへ行ってみることにした。
途中には小笠原村役場があるので、もちろん今日も撮影。後悔しないようにあらゆる角度から撮りまくる。
すると僕らの目の前を、業界人っぽい雰囲気の人と話しながら日傘をさした女性が通り過ぎていった。
NHKの『ひるブラ』でロケに来ていたとよた真帆だったらしく、みんな「おおー」と静かに興奮したのであった。
が、村役場に夢中な僕だけは、それに気づかず必死でシャッターを切っていたとさ。ああ、芸能人より役所が大事さ!
まあどうせ気づいたところで「いしだ壱成とはどうなってるんだ!?」などと古いネタを持ち出すぐらいしかできんし。
L: というわけで、小笠原村役場も撮り納めである。青い空を背景にいい写真が撮れてよかった。
C: 小笠原村役場の側面。3日前に記念撮影したエントランスはこの写真の右端あたりになる。
R: 角度を変えてさらに撮影。日本の最東端と最南端を村域に含む役所を思う存分撮りきって、余は満足であるぞ。あらためてエントランス。
小笠原ビジターセンターは特別大きい施設ではないものの、小笠原の詳しい歴史がかなり要領よく学べる。
小笠原の歴史は、江戸時代に小笠原貞頼によって存在が確認されたという伝承によってスタートする。
人がいなかったので「無人島(ぶにんじま)」と呼んでいたが、西洋でこれが訛って「BONIN ISLANDS」となる。
その後は捕鯨船の拠点として欧米系の住民が定着するが、幕末に日本の領土として八丈島から開拓民が入る。
しかし開国をめぐる政情不安により全島民が引き上げとなり、再び小笠原に日本人が戻るのは明治になってからだった。
戦前はビニールハウスがなかったので、小笠原の温暖な気候による野菜栽培はかなりの成功を収めていたという。
ところが第二次世界大戦の戦局の悪化でまたしても全島民が強制疎開させられる。終戦後にはアメリカの占領下となり、
欧米系の住民がいち早く帰島。日本人の帰島は1968年の日本への領土復帰を待たねばならなかった。
小笠原は離島ゆえの複雑な歴史を真っ正面から受け止めている場所だった。また、小笠原ビジターセンターでは生態系についての解説も非常にていねいになされている。
動物と植物、それぞれの小笠原における代表的な種を切り口にして、パネル展示によってじっくり学べるのだ。
しかしあまりにじっくりすぎて、僕は15分くらいで飽きてしまい、いちいち解説を見ていく夫婦2組にややイライラ。
この内容はパンフレットや何やらで勉強できるだろ、同じような内容の繰り返しも多いし、と思うのであった。
みやもりから「びゅくさんの旅のスタイルはせわしないんだよ」と諭されたが、それ以前に飽きる内容だったわけで、
その辺の取捨選択をしながら展示を見ていく賢さがなくちゃいかんだろ、といまだに思っているしだい。まあそんなこんなで、そろそろおがさわら丸の出航時間を意識しなくちゃいけない頃合になってきた。
14時出航ということで、船内で食べる弁当を買っておく必要がある。大村界隈の弁当屋をあたってみるが、
ニシマッキー夫妻が買ったところで完売御礼だったり、よくわからない弁当に行列ができていて全然進まなかったりで、
ちょっと切羽詰まった事態になるのであった。まあ結局、別の弁当屋で完売直前のところをどうにか押さえたのだが、
旅先では油断のないように動いていかないとダメだ、ということをあらためて教えられたってところである。無事に弁当を確保して心理的に余裕ができたので、僕の「カメ見てえ」という要望を受け入れてもらって、
小笠原海洋センター(通称「カメセンター」)へ。ここはアオウミガメを保護する拠点の施設なのだ。
すでに車の中は座席まで荷物でいっぱいだったのだが、そこは根性で5人とも乗り込み、いざ出発。
ところがこのカメセンター、非常に奥まった位置にあってかなりわかりづらい。
周りをよくわからない倉庫っぽい建物や建築資材置き場などに囲まれた、かなり大雑把な印象の場所だった。カメセンターの建物はかなり小さく、予想していたよりも小規模な施設なので少々驚いた。
入口で500円の寄付金を納めて中に入る。まずは室内いっぱいに貼られたアオウミガメについての説明を見る。
ちょっと昭和っぽく古びている印象がしなくもないが、内容はかなり濃い。
建物を抜けるとプールが2つあり、アオウミガメとタイマイが1匹ずつ泳いでいた。どちらもなかなかの大きさだ。
そしてさらに先では子ガメたちを育てているということで、わくわくしながら行ってみる。
まずはジャブと言わんばかりにアカウミガメ。本当に赤く、サビのような色をしている。
なるほどこれを見れば確かにアオウミガメは「青」って呼んでもいいわな、と納得するのであった。
(本当は脂肪が緑色をしていことから「青」と呼ばれているそうな。海藻を食べるのでそうなっているらしい。)
L: 小笠原海洋センター(カメセンター)。中は昭和っぽさがけっこう残る施設だが、わざわざ訪れる価値のある場所だ。
C: 20歳くらいのアオウミガメ。100円でエサのキャベツをあげられる。そのせいか、人の姿を見るとゆっくり寄ってくる。
R: こちらはアカウミガメ。海中でウミガメの種類を区別するのはなかなか難しいらしい。地上だと色で一目瞭然なんだけどね。さて、屋外のプールの中にいたのは……もうめちゃくちゃかわいい子ガメたち。だいたい生後半年らしいのだが、
手のひら大のサイズがピョコピョコ泳いでいる姿を見ると、完全にノックアウトされてしまう。
無理して来てよかったー!と感動しながらデジカメのシャッターを切りまくる。これは本当にかわいい。
L: プールの中でピョコピョコ泳ぐアオウミガメの子どもたち。これがもう、本当にものすごくかわいいのだ。
C: アオウミガメは浮き草につかまって休憩するのだが、プール内では丸めたロープが浮き草の代わりを果たしているのだ。
R: 子ガメが顔を上げたときのかわいさといったらない。まあ、3日前に食ったけどさ(→2011.12.30)。カメセンターでは孵化した子ガメを1歳になるまで育てて、それから海へ放しているのだそうだ。
その方が、生まれてすぐに海へ出るよりもぐっと生存率が上がるからだという。子ガメたちはデビュー待ちなのだ。
ちなみにアオウミガメは1歳になるとけっこう大きくなるらしい。まあ、かわいいだけじゃやっていけないわな。
L: 二見湾にすぐ面している屋外のプール。これらのほぼすべてで子ガメたちが泳いでいる。質も量もあってたまらん。
C: 泳いでいる姿がとってもかわいいのである。 R: 顔を上げるともっとかわいいのである。食ったけど。小笠原滞在の最後の瞬間までしっかりと楽しませてもらった。カメセンターはカメがかわいいだけではなく、
土産物で売っていたストラップのデザインもなかなか優れており、2種類あったのを両方とも買ってしまった。
まあ、これがかわいいカメたちの保護につながるのだろうから、僕もカメセンターも得をしたからこれでいいのだ。二見港に戻るといよいよ乗船準備である。竹芝でやったのと同じように、チケットに必要事項を記入する。
そしてミユミユさんの元同僚である先生が見送りに来てくださった。サッカー部顧問としてご挨拶。
本日はアイルランドサッカー協会の上着を着ていらして、またしても雰囲気でウチの負けだなと思う。おがさわら丸へと乗り込む行列に並び、ゆっくりゆっくり前進していく。
僕らがふだん暮らしている場所から1000kmも南に浮かぶ島とも、もうお別れなのである。
この地面を再び踏むには、6日間の休みを取って片道25時間半の航海をする覚悟が必要になるのだ。
そう考えると、船へと向かう一歩一歩がひどく感傷的なものとなる。靴底に小笠原の感触を存分に吸わせて歩く。2等船室のチケットを差し出し半券を切り取ってもらい、自分の居場所を示す番号札を受け取る。
荷物を置いて一気にAデッキまで行くと、外に出て港を眺める。カメセンターでウハウハしていたせいで、
すでに人で埋め尽くされていた。根性で顔とカメラを出して、見送りの光景を記録する。
法被を着た人たちが小笠原太鼓を叩き、本当に大勢の住民の皆さんが船に手を振っている。
この段階で、すでにジンときてしまうではないか。先ほどの先生も一家総出で手を振ってくれている。
1000kmの距離があるからこそ、縮まるものがあるのかもしれないな、と思う。
やがて14時になり、汽笛を鳴らした船はするすると動き出す。ゆっくりと船客待合所は小さくなっていき、
残酷なまでに美しい輝きをたたえた青が、僕らと手を振る皆さんとの間に広がっていく。島を離れたのだ。
L: 一歩一歩を噛み締めながら、おがさわら丸の乗船口へと近づいていく。なんだかあっという間の4日間だった。
C: 船から港を眺める。おがさわら丸の出港時が、小笠原村が最も盛り上がる瞬間ではないかと思う。6日に一度の祭り。
R: おがさわら丸が岸から離れ、みんなが小さくなっていく。そろった声の「また来いよー!」が聞こえて、泣いちゃいそうだ。なんといってもおがさわら丸出港時の名物といえば、しばらく船と並んで何隻ものボートがついてくる光景だ。
ボートに乗っている皆さんはずーっと手を振ってくれている。そして次々とボートから海へと飛び込んでみせるのだ。
が、この日は二見湾内でもそうとう波が高くて、ボートの上で立っていることですらふつうは難しいはずの状態。
それでも皆さん、まったく臆することなくおがさわら丸を追いかけ続ける。小さなボートはかなり激しく揺られるが、
二見湾から出そうなところまで平然とついてくるのであった。見ているこっちの方が怖くてたまらない。
L: 港からおがさわら丸が出ると、いよいよボートが登場する。波の上でお互いに大きく手を振り合うのであった。
C: おがさわら丸と並んで走るボートたち。1000kmの隔絶を知った今は、これだけのことをしてくれる気持ちがわかる。
R: 波に揺られるボート。よくこんな状況なのに上に乗っていられるなあ、と驚くしかない。海の男って凄い。激しい波に揺られるボートは本当にまるで木の葉のようだ。力強く進みながらも翻弄されているようにしか見えない。
これだけ波が高いので飛び込みはないだろう、と思った次の瞬間、船内に「いったー!」と絶叫が響く。
海の男(女かもしれん)の度胸は凄まじく、波をものともせずにボートからダイヴ。これはもう、凄すぎる。
最終的には4~5人ほどが、荒れ狂う海へとダイヴしてみせたのであった。いやはやなんとも、言葉がない。
乱高下する青い海面に、黒や赤の小さな小さな点が揺れている。無事を祈りながら手を振るうちに、船の姿は消えた。
L: 運よく決定的瞬間を撮ることができた! うねる波の高さにも注目していただきたい。凄すぎる。
C: 二見湾を出るおがさわら丸をボートが見送る。ボートの近くにある点はもちろん、飛び込んだ皆さん。
R: おがさわら丸は父島から離れて、荒れる海の上を力強く進んでいく。帰りの航海が始まった。ずっと昔の話になるが、ほとんど北極のような場所で暮らしている人を訪れる内容のドキュメンタリー番組を見た。
政府だか研究機関だかの人で、施設の管理だか調査だかの仕事をしており、周りに誰もいない中で暮らしている。
そこを誰だか日本人が訪れたのだが、その人はできる限りのもてなしをしてくれて、それがひどく印象に残っている。
「こりゃもう、来てくれる、それだけでうれしいわなあ」と隣にいたcirco氏につぶやいた。「そうだよなあ」と返ってきた。
やがて翌朝の別れが映し出される。何の接点もなかったふたりが、昨日初めて会ったふたりが、国も民族も異なるふたりが、
抱き合って別れを惜しんでいる。その姿を見て、こういうことができる生物は人間だけだな、と当時の僕は冷静に思った。今回、そこまで極端ではないものの、そういう類の感情を、僕は初めて自分自身の経験として理解することができた。
それだけでも小笠原を訪れた価値は間違いなくあった。「わざわざ」行くこと、それはかけがえのない肯定的な行為なのだ。
隣でニシマッキーがつぶやいた。「やっと遊びで小笠原に来ることができた」
その言葉に、僕はただ笑ってうなずくのであった。◇
……なーんて格好よく終わるわけがないのだ。現実は物語とは違うのである。
この後、外洋に出たおがさわら丸は揺れに揺れまくり、立っていることはおろか、座っていることすらできない状況になる。
座っていると上半身が揺られて気持ち悪くなるのだ。だからもう、横になってひたすら寝てやり過ごすしかないのである。
毛布がただ並べられただけの2等船室は、実に合理的にできていたのだ。とても体を起こせない縦揺れが延々と続く。
当然、乗船前に買っておいた弁当など食えるはずもない。空調でのどがやたらと乾くので水分補給はするものの、
まったく食欲が発生しないまま、眠ったり目を覚ましたりを繰り返しながら、ただ時間が過ぎるのを待つしかなかった。
いや、あまりにも気長すぎるカウントダウンに、時間の感覚はなくなっていった。ただただ、耐えるのみなのであった。
小笠原滞在3日目にして2012年の元日である。しかしながら、あけましておめでとう感覚はまったくない。
今日もひたすら、思う存分に小笠原の自然を満喫するのである。本日は山というか森を歩くアクティヴィティなのだ。そんなわけで今日も8時ごろに大村のメインストリートに到着。元日だが生協はすでに営業中。小笠原の朝は早い。
というのも、観光客が昼飯の弁当を朝のうちに買う必要があるからだ。生協以外にも弁当屋が元気に営業している。
同じ南の島でも、宵っ張りな沖縄(→2007.7.21/2007.7.22)と比べると、ずいぶんと健康的な印象である。
あれこれ迷うのが面倒くさかったので、生協で本日の弁当をさらっと購入して準備完了。カロリーメイトも買ったぜ。
(ちなみに生協では欧米から直輸入したと思われる食料品も多く扱っていた。棚には純日本的な食料品と、
アメリカンテイスト満載の派手な食料品とが同居しており、非常に新鮮な光景をかたちづくっていた。)小笠原村観光協会前でガイドの方と待ち合わせ。僕らのほかにもう一組、20代半ばくらいの男性2名が一緒に参加。
まずは小笠原のメインストリートを挟んだ向かいにある大神山公園で、ニックネームを含めての自己紹介をする。
そして公園・大村海岸周辺の植物を見てまわることからスタート。小笠原はとにかく本土と植生が違うので、
何の気なしに生えている草も木も、ほとんどが珍しい形をしている。シャッターを切っていくとキリがない。
L: 小笠原でいちばんの都会。食料品を売る店は、右側のスーパー小祝と左側の小笠原生協の2軒のみ。生協の方が品物は多い。
C: 小笠原村役場前にもあった、小笠原を象徴する植物・タコの木の実。オガサワラオオコウモリの好物とのこと。
R: タコの木の根元はこのようになっている。根が幹から生えて下りてくるのだが、それがタコの足に似ているのが名前の由来。公園でひととおり植物を見ると、大神山公園を横切って、観光協会の裏手に停めてあった車に乗せてもらう。
その際に美しい青い色をした鳥を発見。イソヒヨドリのオスでそんなに珍しくはない存在なのだが、
ハトかスズメかカラスばっかりの都会に慣れている身としては、これだけ美しい鳥が何気なく歩いていることが感動的だ。
L: 海岸に咲くオオハマボウの花。沖縄・奄美諸島などから来たそうで、これが山の方へ行くと固有種のテリハハマボウ(後述)になる。
C: 女子高生くらいの皆さんがステージでフラダンスのリハーサルをやっていた。小笠原はフラダンスをやっている女性が多いんだって。
R: イソヒヨドリ(オス)。なんだかずいぶんいい感じで撮れてしまったな。幸先いいなあ。車に揺られて最初に訪れたのは、長崎展望台。二見湾の反対側、兄島と向き合う位置にある。
まずはそこから青い南の海による絶景を堪能しましょうという意図だったのだが、意外な住人が僕らを待っていた。
展望台へと出る直前、甲高い鳴き声とともに目の前に現れたのは、まだ小さい子どものヤギだったのだ。
僕らの前に展望台にいたグループをまるで先導するかのようにゆったり歩き、そのまま僕らの前を横切っていった。
そして振り向き、後ろをついてきたはずの人間たちが立ち止まってカメラを構えているのを不思議そうに眺めている。
そのあまりのかわいさに、一同メロメロになってしまうのであった。お尻を見せつつ振り返る仕草がもう天才的だ。やがてヤギが姿を消したので、あらためて長崎展望台へと進む。左には兄島の迫力のある山並み、
足下には猛々しく伸びる長崎と、珊瑚礁らしい澄んだマリンブルーに染まった湾。言葉もなく見とれるのみである。
天気に恵まれたこともあり、本当にすばらしい景色である。夢中でデジカメを構えていたら、聞き覚えのある声が。
見ると、さっき電信山遊歩道方面に行ったはずの子ヤギが引き返してきて、目の前にいるじゃないか。
親から離れたばかりで人恋しいのか、高くてかわいい鳴き声をあげながらこっちをじっと見ている。反則だー!
僕らがいることで安心したのか、子ヤギは盛んに鳴きながら展望台の先にある崖の方へと歩いていく。
で、みんなが見ている目の前で食事を始める。ヤギなので食べているのは当然、草だが、困ったことに小笠原の固有種。
もちろんヤギはもともと人間によって家畜として持ち込まれた存在。つまり、外来種による生態系破壊の現行犯だ。
小笠原諸島に限らず伊豆諸島などでも、野生化したヤギが草を食べ尽くしてしまう害が発生している(→2009.8.24)。
なんせヤギは父島に1000頭ほど生息しているそうなので、その勢いはすさまじいわけだ(父島の人口は2500人弱)。
そのためにヤギの駆除が父島でも始まっている。だから将来、この子ヤギも駆除されてしまう日が来るかもしれない。
「かわいいなー」と言っているだけでは済まないのだ。小笠原の自然をめぐる深刻な問題を、いきなり突きつけられた。
L: 「あれ? みんなついてこないの?」と言わんばかりに振り返ってこっちを見る子ヤギ。めっちゃくっちゃかわいい。
C: 長崎展望台に再度現れた子ヤギ。やっぱりかわいいなあ。 R: 固有種の草を食べてしまっている子ヤギ。うーん……。翌日、犬みたいにリードをつないでヤギを散歩させている人を車の中から見かけたので、
そんなふうにしてどうにか飼えないもんかなと思う。でもヤギは足場が悪くてもすばしこく動くことができるので、
捕獲するのは難しく、駆除ということになっているのだろう。この子ヤギは本当に連れて帰りたかったわ。残念。
L: 長崎展望台より眺める兄島。かつて空港の建設が予定されたが、生態系があまりにも貴重なので白紙撤回となった。
C: 長崎と湾。見とれていると、鳴き声をあげて子ヤギが顔を覗かせる。お前絶対、自分がかわいいことわかっているだろ!
R: オオハマボウから分化したテリハハマボウ。もちろん小笠原の固有種。「テリハ」とは「照葉」のこと。同じ島なのに確かに違う。すっかり子ヤギにデレデレ状態となってしまったわれわれだが、ヤギばっかりにかまっているわけにもいかないのだ。
気を取り直して中央山付近にあるサンクチュアリーへと向かった。サンクチュアリーの周りは高いフェンスで囲まれている。
非常に厳重な保護っぷりである。つまりそれだけ、この中には貴重な動植物がいるわけである。ガイドさんの後についてフェンスの中に入ると、まず2種類の鳥類についての解説が書かれた案内板があった。
ひとつは小笠原で唯一の猛禽類、オガサワラノスリ。おがさわら丸で父島に上陸する際、トビのような鳥が空を舞っており、
小笠原にもトビがいるんだなあとのん気に思っていたのだが、実はそれは固有亜種のオガサワラノスリだったのだ。
そしてもうひとつが、このサンクチュアリーの主役と言える存在のアカガシラカラスバトである(通称「あかぽっぽ」)。
あまりにも数が減りすぎて、現在小笠原諸島で50羽ほどしか生息していないのだそうだ。
そのため目撃できる可能性は非常に低いらしいのだが、まあ見られりゃラッキーだよね、ってことで先へ進む。
サンクチュアリーの入口から少し行ったところで、外来種を持ち込まないための措置をする。
足を中心に、全身を粘着シートのローラーでコロコロやって種子を取る。さらにマットで靴底をこすって泥を落とし、
ニューギニアヤリガタリクウズムシ(プラナリアの一種でカタツムリを食べる)対策の酢でつくった液を靴底にかけて完了。
これだけやらないといけないという点に、われわれが無意識に移動することで発生しているリスクを実感させられる。
海洋島で平和に暮らしてきた種にとって、外来種というのは百戦錬磨の存在なのだ。生命のしぶとさとはすさまじいものだ。
L: サンクチュアリーの入口。周囲はフェンスでがっちりと防御されている。この徹底して厳重な警戒ぶりはすごい。
C: 入口からすぐ近くにある開けた場所でコロコロシュッシュする。誰がどんな目的で来たのかを逐一チェックしている。
R: 「種子除去装置」。箱の中にローラーと酢の除去液が入っている。一連の措置をやることで小笠原っぽさを感じるのであった。コロコロシュッシュを済ませると、いよいよサンクチュアリの奥へと入る。最初のうちは道が整備されており、
わりと落ち着いてあちこち眺めながら進むことができる。小笠原らしい植生をじっくり味わいつつ歩いていく。
L: まず最初にオガサワラビロウ。ヤシ科の固有種。これはまだ若い木で、成長するともっと背が高くなるそうだ。
C: これもヤシ科の固有種で、ノヤシ。これはもう、生えたてのピチピチぐらいな感じとのこと。
R: ノヤシの新芽。これを丸めるとキャベツっぽい見た目になる。キャベツビーチ(→2011.12.31)の名の由来ですな。かつて父島は、第二次世界大戦中に日本軍が要塞として開発した歴史がある(父島要塞)。
そのため、サンクチュアリー内には半ば自然に還りつつある遺構がちょこちょこ見られる。
小笠原の動植物は外来種に脅かされているとはいっても、そこは自然を生きる生命たち。
彼らのたくましい勢いにすっかり押されて、ほとんど単なる森の中となっているのであった。
L: サンクチュアリー内の道を行く。高低差はほとんどない。さすがに右を向いても左を向いても独自の植生である。
C: 固有種の木生シダ・マルハチ。シダが木みたいに育つとは、実に南の島らしい。かなり背が高く伸びる。
R: マルハチの幹は丸に逆さになった「八」の字だらけ。これは葉柄が落ちた跡で、この模様がその名の由来になった。しばらく行くと、簡素なゲートが現れる。ここから先が、いよいよ本格的な森歩きとなるのだ。
それまでの整備された道とは違い、木でつくった通路で木々の中を抜けていくことになる。
そうして進んでいった先には、「STOP!」と書かれた案内板があった。ここから先はアカガシラカラスバトの繁殖地。
今はちょうど繁殖期ということで、ここから先へは進むことができないのだ。残念だけどしょうがない。
L: ここから先はいよいよ本格的に森の中。 C: こんな感じの中を行く。 R: 繁殖地につきここから先へは行けない。繁殖地の方へは進めないものの、そのまま脇へ入って小笠原の自然を味わって歩くことはできる。
沢で小ぶりなオガサワラアメンボや透明な体をしているヌマエビなどを軽く観察して休憩すると、
初寝山方面へと入っていく。ここからは本当に森の中、かすかに道らしき道を進んでいく感じになる。
L: 沢の中も独特な生き物たちがいっぱい。小さなオガサワラアメンボたちがたくさんすばしっこく動きまわっていた。
C: オガサワラアメンボをクローズアップ。水の中にいる透明なヌマエビはカメラの性能上、撮れなかったのが残念。
R: こんな具合の小笠原の自然を満喫しながら歩いていく。たまにぬかるんでいる場所があって、そこは面倒だった。さて、ふつうこんな感じの森の中を歩くのは、ヘビが出たり虫がいたりしそうで苦手な人が多いだろう。
しかし海洋島の小笠原にはヘビはまったくいない。そして虫もほとんどいないのである。森の中には本当にいない。
(宿の周辺には比較的大きめの蚊がいて、街中では小さなシジミ系の蝶がひらひら舞っていたのを見た。
あとはこの後、昼メシを食っているときに蠅が飛んできたのと、壕の天井に蛾が貼り付いていたのだが、その程度。)
それは、グリーンアノールという外来種のトカゲが、小笠原の虫をほとんど食べ尽くしてしまったからだそうだ。
小笠原の森の中は、虫を気にすることなく歩くことができる点では非常に快適なのだが、
その快適さがたった1種類の爬虫類の食欲によりもたらされたという事実は、冷静に考えればかなりショッキングなことだ。歩いている途中、ホーホケキョとウグイスの鳴き声が聞こえた。先ほど長崎展望台の近くでも聞こえたのだが、
小笠原は暖かいので一年中その鳴き声を聞くことができるのである。そう、小笠原にもウグイスはいる。
ふつうウグイスは警戒心が非常に強く、人前に姿を現すことはめったにない。似た体色のメジロはよく出てきて、
それで日本画家がウグイスと勘違いしてメジロを描いてしまう例がわりとよくあるくらいだ。
でも小笠原に生息しているハシナガウグイスは、わりと簡単に姿を見せたので驚いてしまった。
つまりこれは、海洋島の小笠原では天敵が少ないため、動物は全般的に警戒する必要がないということなのだ。
そしてのんびり屋さんが多い分、ひとたび外来種が入り込んでくると、一気に絶滅寸前にまで追い込まれることになる。
また小笠原の植物については、やはり競争が激しくないことでアピールする必然性が減り、花が小さく地味になる。
言われてみれば確かに、冬ということを考慮しても、本土と比べて緑の中で花の存在が目に留まることが少ない。
ガイドさんの解説を聞きつつデジカメのシャッターを切って、生物学・進化論の実地学習に勤しむ。
小笠原ではちょっと移動しただけで、生物が環境に合わせて分化した事実を目の当たりにできる。これは本当に凄い。
L: ハシナガウグイス。小さく丸っこくて非常にかわいい姿をしている。素早く動くのだが、どうにか撮影できた。
C,R: 森の中で見かける花はこんな感じ。とても小さく、ボケッとしていると見逃してしまいそうだ。進んで進んで進んでいった先は行き止まりになっており、すっきりさっぱりと開けた場所になっていた。
軽く一息つくと、来た道をそのまま引き返す。慣れた帰りは少しペースが速かったが、同じ景色だからまあそうだわな。
L: 左は野良ネコ、右はネズミの捕獲装置。ネコはアカガシラカラスバトの天敵で、ネズミはオガサワラオオコウモリの食料を食べてしまう。
C: ゴール地点では、貴重なムラサキシキブの亜種が厳重に保護されていた。 R: さあ帰ろうか(背中を見せているのはニシマッキー)。サンクチュアリーを出ると、そろそろお昼ご飯の時間なのであった。小港海岸のすぐ北にあるコペペ海岸へ行く。
ここは「コペペじいさん」という人が昔住んでいたことでそういう名前になったそうだなのだが、何者なのかすごく気になる。
海岸からちょっと高くなった場所にテーブルがあったので、そこで朝買っておいた弁当を各自広げる。
なぜか僕とマユミさんは弁当とおやつのセレクトが微妙にかぶっていた。僕とみやもりはまったく異なる性格ながら、
大学以来ずっと仲良くしているわけで、みやもりとマユミさんのコンビネーションに妙に納得がいくのであった。食べ終わるとコペペ海岸をそれぞれのんびり眺めたり歩いたりして過ごす。夫婦2組はいい雰囲気を漂わせつつ過ごし、
一緒にツアーに参加している男性2人組もいかにもまだまだ若いなあって感じではしゃいでいるのであった。
んでもって僕はひたすら、小笠原の水の美しさに感動してシャッターを切る。ガラスのように澄みきった青を含んだ波と、
ガラスのように澄みきった音を鳴らす足下の珊瑚とが、ここが特別な場所であることを教えてくれる。
L: コペペ海岸より眺める小笠原の海。汚れる要素がないから、水がもう本当にきれい。
R: 寄せてくる波を写真に撮る。僕は澄みきった海の水だけが持っている、この色が好きなのだ。午前中は小笠原の自然についてしっかりと学んだわけだが、午後はがらっと変わって戦跡ツアーである。
さっきも書いたが、父島は戦時中に要塞として整備されており、その痕跡が今もあちこちに残っているのだ。
というわけでまずは、おととい(→2011.12.30)も訪れている夜明山へ。戦跡はこの周辺に集中しているそうだ。夜明山に到着すると、やはり真っ先に目に入るのは石碑だ(おとといの日記ではスルーした)。
と、「トカゲがいる!」との声。見れば確かに、土色をした小さめなトカゲが石碑に貼り付いていた。
これはオガサワラトカゲという固有種で、環境省のレッドリストで「準絶滅危惧種」に指定されている。
そしてさらにもう1匹発見。グリーンアノールは全然見かけないのに、珍しい固有種の方を複数見つけてしまった。
(マユミさんは妙にグリーンアノールを見たがっていたなあ。実に物好きである。でもその気持ちはよくわかる。)
ただ、2匹とも尻尾を切った状態だったので、やはりオガサワラトカゲは頻繁に危険にさらされているのかもしれない。
L: 夜明山の石碑。由来がちょっと謎。 R: オガサワラトカゲ。全長は7~8cmほど(尻尾なしの場合)で小さい。けっこう素早い。トカゲの貼り付いた石碑を後にして、まずはおとといと同じく東側の初寝浦展望台方面へ。
途中にある建物は通信施設として使われていたんだそうで、発電機を置いていた巨大な台座が今も残っている。
鉄枠のはめられた窓がいくつか開いていたが、とにかくコンクリートの厚さがすごい。本当に頑丈なつくりだ。
L: 初寝浦展望台へ行く途中にあるかつての通信施設。おとといは夕方に訪れたので、中に入ることなんてとてもとても……。
C: 内部はこんな感じである。めちゃくちゃ頑丈なコンクリートの箱って感じがする建物である。
R: 振り向くと発電機を置いていたU字型の台座がある。いったいどれだけ大きな機械が乗っかっていたのやら。初寝浦展望台までは行かず、そのまま引き返して今度は道路の西側へ。ここからが本格的な戦跡訪問なのだ。
すぐに海軍の掘った通信用の壕が現れる。ガイドさんにLEDのライトを渡される。実際に中に入るのだ。
頭につけられるタイプだったので、迷わず装着してしまう、やる気のマツシマさんなのであった。
L: 夜明道路からすぐの地点にある、食料庫だった壕。いざ中を探検するのだ。 C: やる気のマツシマさん。
R: 壕の中はこんな感じ。フラッシュで撮影しても先の方はまったく見えない。けっこう奥まで延々と続いていた。ちょいとばかり『がんばれゴエモン2』の3D迷路気分になりながら歩いていったでやんす。
といっても素敵なアイテムなどはなく、天井に小さい蛾がちょこちょこ貼り付いている程度。
通信用の機械をこの壕の中に移したんだそうで、電線を張るの際に使った碍子がいくつも割れて落ちていた。
かつて島の若い衆がヤンチャして、この壕の中をバイクで走りまわりつつ叩き割ったとかなんとか。なんだそりゃ。壕の中は一周できるようになっており(全長240mとか)、こっちで掘ったのと向こうから掘ったのとが出会った場所もあった。
わずかな食い違いができてしまってはいたが、かなり高い精度で掘られているんだそうだ。
海軍は炭鉱労働の経験者を使ってこの穴を掘っていったんだそうで、確かに狭苦しい圧迫感はそれほどない。
温度も暑すぎず寒すぎず、水が出ている箇所もあったが特に湿っぽいという感じもない。
とはいえこんな中で生活していたら絶対におかしくなってしまいそうだ。戦争とはつらい体験だと思い知らされる。
L: お偉いさんの部屋の跡。今も扉に使われていた金属の枠が残っている。 C: 貯水槽。倒れないように中に棒を通してある。
R: 壕の出口を振り返ったところ。この中での生活を強いられるとは、いやはや戦争とは本当に厳しいものだ。穴から出ると、そのまま木々が密集する中の道なき道を行く。さっきのサンクチュアリーですでに慣れたが、
観察対象が人工物へと180°変わったわけである。ところどころに今もしっかりと人間がいた痕跡が残っているが、
それでもだいぶ、自然の回復力によって過去は遠くへと追いやられようとしている。
L: 戦跡ツアーはこんな感じ。小笠原らしい植生を存分に味わいつつ、わずかに残った軍隊の記憶をたどっていく。
C: 木の根元には一升瓶が3本並べて置かれていた。ガラスの色とゆがみが時代を感じさせる。
R: 埋もれかけている車輪。右側のオガサワラビロウの枯れ葉は屋根を葺くのによく使われていたそうだ。しかしまあガイドさんはよく道に迷わないで歩けるなあ、と感心するのであった。
僕にはどこも同じ姿をしていてほとんど区別がつかない。ガイドさんはあちこちに点在する戦跡を、
テンポよく紹介してまわる。ホントによくいろいろ落ちたり残ったりしているもんだなあ、と驚いた。
L: ここはかつて調理場となっていたところ。付近はちょっとした石畳をつくって食料を運びやすくしていた跡が残っている。
C: かなりていねいにつくられている発電機室。朽ちた戦跡の中で異彩を放っている感じ。 R: かつての砲台跡。ここまでは軍隊の生活の痕跡が多かったのだが、兵器だってきちんと残っているのである。
いちばんド派手だったのだが、海軍の高角砲だ。本来は船に積んで対空用に使われるものなんだそうだが、
父島は米軍をおびき寄せて迎撃する作戦を採っており、砲身は今も実際に海を向いたままとなっている。
全身サビているとはいえ、保存状態は良好。これは実際には弾丸を発射していないことも理由になっているそうだ。
(弾丸を発射した場合、反作用で砲身のほうもそれ相応のダメージを受けるという。うーん、なるほど。)
南の硫黄島では大激戦が繰り広げられたが、父島は米軍が「上陸の価値なし」と判断して戦闘が行われなかった。
まあつまりは、今こうして戦跡ツアーができるのは、それでも「戦争の中の平和」と呼ぶべき状態があったからだ。
真っ青な海に向けて今もまっすぐ砲身が伸びている姿は、逆説的な平和の象徴と言えるのかもしれない。
L: 海軍の十年式十二糎(ミリ)高角砲。ほかにもこの近くにいくつか現存しているが、これが最も状態がいいらしい。
C: 山腹に開けられた穴から敵を狙う姿のまま、時間が止まっている。 R: 高角砲が狙う先には青く静かな海が広がる。ここで戦時中の兵隊の生活を研究する先生のゼミに所属していたニシマッキーからいい質問が飛び出す。
「陸軍の戦跡はないんですか?」「ありますよ」ということで、最後に陸軍の残した兵器を見に行く。
小さな壕の入口に、ひっそりとそれはたたずんでいた。さっきの海軍のものと比べると、かなり小型だ。
これは分解・組み立てが可能な「四一式山砲」というそうだ。8つに分解して馬に運ばせたという。
陸軍が離島の小笠原へ物資を輸送するのはけっこう大変だったみたいで、海軍と比べるといろいろ貧弱。
壕の大きさも先ほどの海軍のものとはかなり差がある。同じ軍でもまったく違っていたようだ。
L: 壕の中にたたずむ四一式山砲。重さは500kg程度で、4tほどあるというさっきの高角砲とずいぶん違う。
C: 中に入って撮影してみた。分解して持ち運びが可能ということで、言われてみると確かにそれっぽい雰囲気だ。
R: それでも撃ったら大きな反動があるようで、後ろの部分がけっこう長くつくられていた。以上で戦跡ツアーは終了。今も残る兵器や施設は、どれもこれもやはり、本物ならではの迫力があった。
そしてまた、65年以上の歳月が確実にそれらの上に降りかかっており、時間の隔絶を強く実感させる。
戦争を知らないわれわれは最大限に想像力をはたらかせてそれを受け止めるしかないのだが、
小笠原の固有の自然に呑み込まれていくその姿は、人間の行為そして存在のはかなさを暗示しているようだった。さて、夜明山の麓にはもうひとつ、珍しいものがある。「首なし尊徳」と呼ばれている石像だ。
まあこれは単純に、かつて学校にあった二宮金次郎の像の首が、米軍に切り取られてしまっただけのこと。
日本を象徴すると言えるちょんまげの頭部を、戦利品として持ち帰ったのではないか、という話。
すねから下ががっちりと固められているのは、台風のせいで何度も台座から転がり落ちたからだってさ。首なし尊徳像。まあ、あまり気持ちのいい名物ではない。
二見港に戻って本日のツアーはおしまい。元日から非常に充実した時間を過ごすことができて満足である。
大村のメインストリートに戻ってきたので、そのまま大神山神社にお参りする。初詣なのだ。
ここ最近神社めぐりが趣味になりつつある(→2011.10.3)僕の希望だったのだが、街を見下ろす小高い丘にあるので、
参道の石段はなかなかのヴォリュームなのであった。サッカー部顧問の僕はわりとスイスイ上っていったのだが、
ふだん運動する機会のない皆さんは今日ずっと歩き通しだったこともあって、少しゲンナリしていたな。
L: 大神山神社への石段。これを上りきると右に曲がってまた石段が現れる。確かに歩きまくった後でコレはキツいやね。
C: 大神山神社の拝殿。戦時中にはここの神様も本土に避難させたが、1972年に戻った。現在の社殿は1979年竣工。
R: 境内はこんな感じ。社殿の側面に社務所が内蔵されているのが面白い。小笠原高校の女子生徒っぽい巫女さんがいたよ!「おみくじターイム!」と僕が叫んで、みんなでおみくじを引いてみる。200円するのだが、離島なので仕方あるまい。
僕は新年早々大吉を出していい気になっていたのだが、あろうことかミユミユさんが凶を引いてしまう。ニシマッキー爆笑。
これ以上悪くならないってことだから別にいいじゃんと思うのだが、ミユミユさんはけっこうそのことを引きずっていた。うーん。
せっかくなので御守をいただいたりお神酒をいただいたりした後は、街に下りてお買い物タイム。
明日おがさわら丸に乗船する前に土産物屋が混むと面倒くさいから早めに買い物を済ませちゃおう、という考えなのだ。夕日が沈む頃を見計らってウェザーステーションへ移動。初日の出は見なかったけど、初日の入りを見るのである。
また、昨日しっかりと見ることができなかったクジラが現れるといいなあ、という期待もある。
で、ウェザーステーションに到着すると、そこはすでに人でいっぱいなのであった。まあよく考えてみれば、
小笠原に来ている観光客のけっこうな割合がここに集中しているんだろうから、これは当然のことなのだ。
残念なことに水平線の上には分厚い雲が浮かんでおり、すっきりとした夕日を眺める感じにはならなかった。
それでも美しい夕焼けをきちんと味わうことができたからヨシとしよう。小笠原で沈んだ夕日はこれから西へと、さらに沈みにいくわけだ。
小笠原で最後の夜は、宿でミユミユさん&マユミさんによる手料理をいただいたのであった。
長らく忘れていた家庭の味に感動した。そしてさすがに新潟県出身のニシマッキーが用意したコメは旨かった。
ひたすら「うまいうまい」と繰り返して食ったなあ。いや本当に、ごはんもおかずもおいしゅうございました。女子部屋のコテージから男子部屋のトレーラーハウスに戻る際、空を見上げると星がいっぱい。
特に天の川は、ぼんやりと見えるのではなく、ぼんやりとあるのがはっきりと見える、という感じだった。
星図盤を用意し忘れたので盛り上がらなかったのだが、防寒対策をして1時間ほどのんびり眺めても楽しかっただろう。
(ちなみにこの時期の南十字星は、父島からだと午前3時くらいに上にある星3つくらいがギリギリ水平線上に見える、
という見え方らしい。さすがに挑戦する気にはなれなかった。南の母島からだともう少しコンディションがいいようだ。)◇
ところでこの日は、鳥島近海が震源の大きな地震が発生し、本土はかなり広い範囲でしっかりと揺れたらしい。
しかし鳥島に本土よりも近いはずの小笠原諸島ではまったく揺れを感じることがなく、みんなで首をひねるのであった。
東日本大震災の際には小笠原にもしっかり津波が来たそうだが、さすがにこれだけの距離があると、
地震の揺れ方も違ってくるものなのかもしれない。疎外感と言ってはおかしいのだが、なんとも妙な感覚を味わった。