diary 2017.5.

diary 2017.6.


2017.5.31 (Wed.)

本日は運動会ではなくて体育祭の予行である。まあ大した違いはないのだが。

いきなり障害物競走の担当者にさせられて、何もわからないまま「担当者なんだから指示を出せ」と要求されて、
「この学校で例年やってたルールをまだ知らねえのにできるわけねえだろ」と返していた私なのであったが、
実際に動いてみてようやくイメージができた。そもそもそのための予行なんだから、そんなもんである。
確かに僕には自分の中でイメージがつかめないと一歩も踏み出せない性質があって、そこが弱点なのも理解しているが、
どうにもならんものはどうにもならんのだ。自分の中でどうにもなっていないものをスタートさせるほど無責任ではない。
今日の予行でようやくスタートの切り方がつかめた。そうなりゃ、あとは着々と作業を進めていくだけである。


2017.5.30 (Tue.)

異動したからには何かひとつ、授業でも新しいことにチャレンジしてみよう!と思ったわけで。
前々から構想を練っていた、教科書のCDをぜんぶiPodに入れてしまってbluetoothスピーカーで流す作戦を実行する。
思いきってiPod nanoを購入し、教科書から問題集までありとあらゆる音声データをiTunesに入れてnanoにも入れる。
それを自分の持っているBOSEのMicro SoundLink Mini IIで再生してみたのだが、思った以上に便利である。
問題はnanoの操作性で、たまに機嫌が悪くてつながりづらくなる点と、一時停止時の素早いタッチの認識がやや甘い点。
まあ慣れていけばなんとかなる範囲なので、しばらくいろいろ試行錯誤してみることにする。面白がっております。


2017.5.29 (Mon.)

メンタル的にもフィジカル的にもキツい状態で一週間が始まったが、どうにか無難に乗り切った。自分を褒めてあげたい。

というわけで、帰りにいつもと違う駅の近くで金沢カレー(加賀カレー)をいただいてしまうのであった。
異動は面倒くさいが、前向きに捉えて積極的に情報収集をすれば、新たな発見があちこちにゴロゴロと転がっている。
それまでの決まりきった生活とはまた違う冒険が、疲れの中でも張りを与えてくれる。そんなことを思いつつ食べる。

しかし金沢カレーも店によって確かな違いがあって面白い。東京で食べられる店でも十分、食べ比べができそうだ。
日記のネタとして、なかなか興味深いではないか。ぜひ近いうちにやってみたいと思います。お楽しみに。


2017.5.28 (Sun.)

前任校は夏季大会予選リーグの真っ最中で、ようやく予定が合ったので応援に出かける。
先週は5人しか生徒が集まらずにまさかの不戦敗という体たらくで大いにずっこけたが(→2017.5.21)、
今週は9人も集まって試合が成立したよ! ヤッタネ! ……っておい! 11人揃わないのかよ!!
2ヶ月ぶりにコーチにお会いして、いきなりそんな先制パンチを食らったのであった。よろけたねえ。
しかしコーチも顧問の先生も、相手より2人少ない状況だがどこか余裕を感じさせる口ぶりである。
それだけ前の試合がいい内容だったようで、チームの仕上がりぶりには一定の自信があるようだ。

試合が始まると、確かに生徒たちは見違えるほど積極的なプレーを連発。数的不利でも相手をしっかり押し込む。
人数が足りないので逆サイドにボールが出ても人がいない、という残念な攻撃が続くが、リズムは非常にいい。
守備でも相手のカウンターを落ち着いてつぶす。GKも風格を感じさせるプレーぶりが出てきたではないか。
体が小っちゃい生徒も相手のプレーを止めるわ的確なパスは出すわで、「おおお」と思わず唸ってしまった。
CFに入った生徒もひ弱な印象から一転、ターゲットとしてしぶとくプレー。チーム全体が着実に成長している。
前半はスコアレスだったが、後半の給水タイム直前にCKからのボレーが決まってこちらが先制すると、
足が止まった相手を面白いように突き崩して点をもぎ取っていく。終わってみれば4-0の完勝なのであった。お見事!

僕がいたときには、競らない、スペースに走らない、声を出さない、そんな3拍子のチームだったのだが、
それらの弱点を完全に克服して、実に応援しがいのあるサッカーをやっている。本当にたくましくなったものだ。
こういう魅力的なサッカーができるんなら去年からやってくれよと思うのだが(自分の指導力が不安になる)、
先生がいなくなることで生徒が奮起する事例も今まで実際に見てきたので、そっちのパターンだと信じたい。
いやもう、本当にいいものを見せてもらったなあと思います。人に勇気を与えられるサッカーでしたよありがとう。


2017.5.27 (Sat.)

『けものフレンズ』一挙放送をすっかり忘れて寝っこけておりました。世間についていけてない。


2017.5.26 (Fri.)

昨年と比べると劇的に授業数が減っているはずなのに、ずーっと仕事している状態が続く不思議。
確かになんだかんだで余裕は感じられる程度ではあるのでそこは助かるんだけど、ずっと何かしらやっとるね。
結局、定期的に行事が入ってくるので、平常作業のほかにやるべきことがつねにあるのだ。貧乏暇なし。


2017.5.25 (Thu.)

何が驚いたって、明治のカールが東日本で販売終了になるというニュースだ。これぞまさに青天の霹靂。

確かに最近はカールを食っていない。そもそもスナック菓子を食う習慣がないから。食うタイミングがつかめない。
しかし私がどれくらいカールを愛しているかというと、富士登山の際に大気圧の変化をこの目で検証すべく、
わざわざ持っていったお菓子がカールなのである。しかも2回ともだ(→2012.7.152013.8.62013.8.7)。
つまり「袋に入っているお菓子っていったらやっぱりカールだよな!」という意識があるからこそのカールなのだ。
このカール、どっちもわざわざ選んでカールを買っているんですよ。ほかの装備と一緒に必需品として買ったのよ。
僕にとって袋に入ったスナック菓子で、真っ先に思いつくのはカールなんだもん。それはもうみんなそうでしょ?
だから、本当は生産終了も視野に入るほど売り上げが落ちていた、という話にはショックを受けざるをえない。
西日本では意地で販売を続行する、という状況をポジティヴに捉えないといけないのがつらい。今でも信じられない。
いつまでもあると思うな、親と金とカール。それにつけてもおやつはカール♪ともう歌えないなんて。
わざわざ西日本まで行かないとカールおじさんに会えなくなるなんて。日常が失われる悲しみを噛み締めております。


2017.5.24 (Wed.)

時間割編成をしてくれる便利な小人さん状態ですよ。次から次へと「こうならないか」という話が湧いて出てきて、
そのたびにその日のうちにどんな要求も実現しとるもんね。自分で自分に呆れるくらいの便利な小人さんぶりである。

以前も書いたように、時間割編成は囲碁・将棋のような空間的な感覚を要求される仕事なので(→2015.4.13)、
できる人(ほとんどいない)とそうでない人(ほとんどみんな)の差がものすごく激しい。というよりむしろ、
もうこれってできる人専門の仕事になっちゃうんですよ。誰にでもできる仕事ではない専門任務、という認識。
僕としてはそんな才能なんてまったくいらないので、もっと他のところに分配したいんだけど。なんとかならんか。


2017.5.23 (Tue.)

近所の学校と合同の研修で、ありがたい講演を聴く。話の内容はまあ許容範囲で、それなりに平和な気分で解散。


2017.5.22 (Mon.)

もっと旅をしたい、もっと本を読みたい、もっと映画を見たい、もっと音楽を聴きたい、
もっと面白い自分でありたい、もっと賢い自分でありたい、もっと魅力的な自分でありたい、
限られた時間を制御し、つねに好調を保ち、やれることをすべてやり尽くす、望むことはそういうことだ。
欲の深さを肯定して、かつ満足できる人間になりたい。そして最後に「吾唯知足」、そう言い切ってみたい。


2017.5.21 (Sun.)

前任校の試合に応援に行こうとしたら、修学旅行の疲れなどによる体調不良多数で不戦敗とのこと。……おい!


2017.5.20 (Sat.)

午前中は日記を書きまくり、午後は部活。その後は渋谷に出て買い物をして、スタ丼を食って帰る。
めっちゃくっちゃにいい天気で旅行に出られるものなら出たかったが、異動初年度はなかなかそうもいかない。

一時期、旅行に対する欲が急激に落ちたのだが、お勉強終了の見通しが立ってから熱がぶり返してきた。
ちょうど昨年の夏休みの旅行を日記で追体験しているところで、その影響が大きいのかもしれない。
昨年の夏休みは力の限りあちこちに出歩いていて、自分でも呆れるほどだ。ようこれで単位を取っていたなあ。
どうやら今年の夏は思っているほど休めそうにないので、旅行のルートを厳選する必要がありそう。
まずは日常を充実させつつ、旅行もしっかりと楽しむ、と。一日たりとも無駄にすることがないように。


2017.5.19 (Fri.)

よーし、艦これやめるぞ! やっぱり手間のかかる運ゲーはつらい。育成の要素は楽しいんだけどねー。


2017.5.18 (Thu.)

何年ぶりになるのかわからんが、新しいシェーバーを買っちゃったもんね。けっこう奮発してしまった。
しかしおかげで髭剃りの調子が非常にいい。毎日ストレスなくヒゲが剃れるって、地味だけどうれしいことなのだ。

日常生活でよく使うものほどきちんとお金をかけた方がいい、つまり生活の満足度が上がることは経験的にわかっている。
たとえば醤油、たとえばシャンプー、たとえば歯磨き粉。買うときには高い値段だと感じても、分母が大きいので、
一日あたりの値段としては実はほとんど安物と差がない。それなら毎日安物でみじめな生活を続けるよりは、
ほとんど変わらない値段できちんとした物を使う方が豊かな生活となるのではないか。そう思うのである。
これは「塵も積もれば山となる」の逆となる考え方で、だから金が貯まらないのも事実だが、毎日を充実させるコツだ。
まあそもそも、「豊か」とはお金をたくさん持っていることではなく、お金の使い方が上手いということだ。
本当の金持ちとは、単純にお金を持っている人ではなくて、お金の使い方をよく知っている人のことなのだ。
そうして「金は天下の回り物」をきれいに実践してみせる。こっちもできる範囲でそれをやっていきたいじゃないの。


2017.5.17 (Wed.)

SNSをテーマとした道徳の授業を見学させてもらった。それでいろいろと考えてしまった。テーマとしては、
すべての人間の言語において、「話し言葉」と「書き言葉」がどうしても一体のものとならない不思議についてである。
口語は口語で独自の世界を構築し、文語は文語で独自の世界を構築する。そしてこれらがどうしても一致しない。
なぜそうなのか。なぜ同じ言語であっても、「話し言葉」と「書き言葉」でズレが生じてしまうのか。

ラテン語やサンスクリット語は宗教を通じて知識を共有するベースとなったし、中国文化圏には漢文が広がった。
漢文は書き言葉として洗練・完成されたもので、魯迅なんかはそこからの脱却で白話運動をやっていたわけで。
これらのような「書くためだけの言語」が、洋の東西を問わず教養の源泉として機能する点は非常に重要である。
そしてもう一方でアイヌ語のように、文字を持たないゆえに「話すためだけの言語」もまた存在している。
こちらはこちらで知識・教養を口承で蓄積しているが、それが民族を超えることはなかった。実に対照的である。
サンスクリット語はまだ母語とする話者がいるらしいが、ラテン語も漢文も現実の生活で使われることはもうない。
つまりは、「書くためだけの言語」は誰にとっても平等に他者の言語であるからこそ、教養の母体となれるのだろう。
むしろ日常的な話し言葉というノイズを排除できたところにこそ、「書くためだけの言語」の本質的な価値があるのだ。

なお、日本語でも文語と口語のズレは大きいものだった。もともとはアイヌ語と同じく文字を持たない言語だったが、
漢字の輸入とひらがな・カタカナの生産により「書かれる日本語」が発生する。やがて明治時代に言文一致運動が起こり、
文語がかなり口語の側に寄る。戦後はつづりが実際の発音と一致する形となり、さらに口語に近づくこととなった。
この影響でわれわれは、「話し言葉と書き言葉はまったく別物である」という本質をすっかり忘れてしまっているのだ。
その摩擦が最も激しく現れている最前線こそSNSであり、われわれは本質から離れてただ混乱しているだけじゃないのか、
そう思ったのである。同じ言語だから錯覚しているだけで、「話し言葉」と「書き言葉」は絶対に一致しないものなのだ。
なんだか当たり前の結論に戻ってきてしまったが、しかし今は日本史上最もこの当たり前が忘れられている時代である。

「書き言葉」で重要になるのは、相手に誤読させない技術である。受け手にどれだけの純度で意思を伝えられるかだ。
それに対し、「話し言葉」で重要になるのは、時間を共有するライヴでの共鳴である。つまり、目指すところが違うのだ。
同じ言語であっても目的がまったく異なっている。時間や空間という制約を前提としてそれを超えようとする「書き言葉」と、
時間や空間を同じくする相手とのコミュニケーションに特化した「話し言葉」は、そもそもの目的が正反対なのである。
時間を共有しても空間を共有しない電話での会話で「話し言葉」がうまく活躍できないのは、至極当然のことなのだ。
われわれはその違和感をとりあえず気にしないでいるが、通信技術の発達はその鈍感さを助長する結果となっている。
この混乱を解決する最も理知的な方法は、文語の復権にあるだろう。「話し言葉」の限界をきちんとふまえた上での、
通信技術の発達に対応した「書き言葉」の更新。そのことを理解できるだけの頭のない者に、SNSは向かないってわけだ。
(ちなみに東工大の大学院でやった「言説編成」は、相手に誤“読”させない「話し言葉」の技術を磨く授業だった。
現実的で現代的な問題意識だ。→2001.10.192001.11.92001.12.72001.12.142002.1.102002.2.1

まあこれは、英語教育に何を求めるか?という話にもつながっていくんだけどね。
「話し言葉」のことしか考えないバカに、「書き言葉」の教養の世界は理解できないだろう。薄っぺらい世の中である。


2017.5.16 (Tue.)

昨日の疲れが出て、授業がいつもより少ないにも関わらず、なかなか思うように動けなかったのであった。

それにしても、そろそろ旅行の計画を練りたい気分である。今年どうしても行ってみたいのが、十津川。
日本一長い路線バスで縦断しつつ玉置神社とか、余裕があれば田辺に出て和歌山の市役所つぶしとか、どうなんずら。
あれこれ可能性を探ることで、どうにか気晴らしとしております。それくらいしか楽しみがないのよね……。


2017.5.15 (Mon.)

3年生が修学旅行で、本日はだいぶ楽ができた。まあ実際はプリントづくりや臨時時間割編成で休憩がなかったけど。
……授業がなくなったのに休憩がないほど働いているって、これってけっこうヤバい状況なのでは? 実に不思議である。


2017.5.14 (Sun.)

昨日の調子の良さをそのままに、午前中はリポートの下書き作業。実際にリポート用紙を使ってしまって、
図も入れながら書いていく。この作業をやることで、クオリティがしっかり上がるのだ。念には念を入れるというわけ。
そして午後は清書作業。この際、一気に片付けてしまおうという魂胆である。図以外の本文を先に仕上げる。
夜になって図の描き込みに入るが、細かい部分まで丁寧に手をかけるので、結局最後までは終わらなかった。
でもまあ、あともう少しで完成というところまでこぎ着けたのでヨシとする。ものすごいエネルギーをかけております。


2017.5.13 (Sat.)

GW明けのつらい1週間をどうにか乗り切ったが、週末は週末で部活なのである。雨の予報なのに。トホホ。
まあでも生徒のやる気があるんならしょうがない。雨が激しくなるまで2時間ほど練習をやるのであった。
内容が以前よりは良くなっているので褒めて、あとはボールを相手より遠い方の足で持つように指導して解散。

しかしその後も僕の修行は続くのである。広尾に移動して昼飯を食うと、都立中央図書館でリポートづくりを開始。
懸案の国際法はしっかり良い評価をもらって無事に単位を取れたので、あとは経済学のリポート1本だけとなったのだ。
いよいよラストスパートである。苦手の経済学だが、じっくりやれば倒せるラスボスということで、集中して取り組む。
結果的に閉館まで4時間くらい作業していたのだが、あまりに集中していたので時間経過をまったく感じなかった。
特に最後の1時間は脳みそがかなりの疲労状態だったけど、それを上回るキレ具合なのでやってて楽しかったねえ。
細かいところを確認するのは落ち着いてからとはいえ、これで目処が立ったという確信が持てて満足して帰る。

で、最後は21時まで日記。自分でも呆れるほどにストイックな生活であります。


2017.5.12 (Fri.)

PTA歓送迎会が職場近くのホールで開催されたのであった。思ったより規模が大きくて緊張しまくりよ。
ある保護者の方とはなぜか北九州トークでめちゃめちゃ話が盛り上がって、ああ旅行しておいてよかったなと。
全都道府県制覇のいいところは、国内ならどんな人とでも共通の話題を持つことができるという点にある。
相手がどう思っていようと、どんな土地でも褒めるところはあるものだから、それを強調すればいいのである。
北九州市役所はモダンだし、グリーンパークこと響灘緑地はバラもいいし、皿倉山の夜景もいいし、ミクスタ行ってみたい。
そんなわけで時間いっぱい、思い出の北九州(→2015.11.212015.11.222015.11.23)を褒めまくった。
日記書いている今もまた行きたくなってきたぜ。そう、旅行のいいところは、一粒でも思い出すたび味わえる点にある。


2017.5.11 (Thu.)

疲れがひどいの。新しい環境に慣れないままにGW中もいっぱい動きまわって部活もやって、疲労困憊である。
仕事も遊びも全力で、体を休める暇がない。というか、休む暇を惜しんでやりたい放題やっているのでしょうがない。
客観的には充実しているってことなんでしょうけど、欲張ってコケる一歩手前って気もする。気をつけなければ。


2017.5.10 (Wed.)

先月、GWに檜原村に出かけたとき(→2017.4.30)に考えたことを、軽く書いておこうと思う。

GWの人出は、どう考えても異様である。確かに外へ出かけるには心地よい陽気な季節ではあるのだが、
そのことを考慮しても、ここまで観光客が詰め掛けてくるものだろうか。あまりにも人が多かった。
そして混んでいるのは何も檜原村だけではないのだ。日本全国、ありとあらゆる場所が人で溢れている。

瞬間、ハッと頭の中によぎったのは、マルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』の冒頭の一節である。
「ヨーロッパに幽霊が出る――共産主義という幽霊である」
いや、まさか、GW中の日本には幽霊が出ているのではないか? 実際の日本の人口を上回る数の幽霊たちが、
本物の人間たちの中に混じって、ここぞとばかりに遊びまわっているのではないか? ――ふとそんな気がした。
もしかして、さっき都民の森ですれ違った家族たちは、実際には存在していない、幽霊だったのでは……?
「日本全国に幽霊が出る――ゴールデンウィークに浮かれる幽霊である」
本来ならお盆に帰ってくるはずの皆さんたちが、GWのドサクサに紛れて現世に戻って楽しんでいるように思える。
そうでなきゃ、あの人出は説明がつかないだろう。自分にはこの妄想が現実味を帯びて感じられてならない。


2017.5.9 (Tue.)

結局、みんな動いちゃうから狭くなるのである。……あ、サッカーの話ね。
誰かひとりが動かない勇気を持つと、広いパス回しができる!という逆説があることに気がついた。
それはつまり、適切なポジショニングがわからないということでもある。わからないから、とりあえず動いちゃう。
ボールに集まる小学生ほどひどい状態ではないものの、カウンターで簡単に裏を取られまくって練習が成立しないの。
テレビでもスタジアムでもふだんサッカーをきちんと観戦してりゃ感覚的にわかるだろ、な自分には新鮮な発見。
っていうか、試合を見ないで「サッカーが好き」と言う資格はないと思うんですけどね。モヤモヤが止まらないぜ。


2017.5.8 (Mon.)

GW明けはキツいなあ。しかし教育委員会もそのことを理解してか、今日は教育会の総会なのであった。
つまり、授業は午前だけで午後は出張、区内の先生が1箇所に集まって定時で解散。助かります……。

出かけていった先では初任校のサッカー部でよく練習試合をさせてもらった先生にお会いしたり、
その初任校でさんざん世話になった先生が副校長になっていてご挨拶したりと、いろいろびっくり。
世間は狭い!と笑いながらしゃべる。こういうのも悪くないものだなあと思う。おかげで充実した一日でした。


2017.5.7 (Sun.)

本日の試合は1-1で勝ちきれず。スコアも内容も昨日よりはマシだが、組織的なプレーがゼロなんだよなあ。
ぜんぶ個人での仕掛けばかり。パス、ドリブル、ボールを失う。その次もパス、ドリブル、ボールを失う。
延々とその繰り返しである。ワンツーのひとつもやってみろってんだ。練習でさんざん言っているんだけどなあ。

前任校は、コーチが前年度から継続してじっくりと指導してくれている恵まれた環境だったとはいえ、
いきなりやってきた顧問の言うことを直立不動で聴く、そういう謙虚な生徒ばかりだった(→2013.4.14)。
生活指導上ちょっと問題のあった生徒でも、サッカー部の活動中に怒ることは一切なし。尊敬できる生徒ばかりだった。
それと比べて、今回の生徒は生活指導上の問題はほとんどないし、成績も悪くない。しかし面従腹背とまでは言わんが、
こちらのアドヴァイスが右から左に抜けていっているのがわかる。私、明らかに小馬鹿にされております。
まあいきなりやってきた他人に素直に従う方が珍しいのは理解できなくもないが、それじゃ成長せんだろうにねえ。


2017.5.6 (Sat.)

案の定0-5でした。今回の春季大会は、引退を賭けた夏季大会前のオープン戦といった要素が強いものの、
それにしてもこれはひどい。自分の場合、大会となると自動的にテンションが上がると思うのね。
そういう「本番になると勝手に全力が出る」能力、それだけで受験から何からやりきってきた人間なので、
いつもと同じような調子で淡々とやってあっさりと負ける、そういう感覚がまったく理解できない。わからん。


2017.5.5 (Fri.)

部活とは難しいものだと思う。生徒たちは試合前日としての意識がぜんぜんないのな。
「本番を前に緊張していない」というポジティヴなものではなく、「本番前という認識が足りない」という方向。
その度合いは年々ひどくなっているように思う。これはもう、各学校の個性云々ではない。日本が弱っとる。


2017.5.4 (Thu.)

circo氏が上京してきたのであった。せっかくなので、ふたりで銀座松屋で開催中のディック=ブルーナ展へ行く。
美術館なら慣れているが、デパートの催し物でやっているものに行くのは初めてである気がする。新鮮である。

正式なタイトルは、『シンプルの正体 ディック・ブルーナのデザイン展』。「シンプルの正体」とは思いきったな。
ペーパーバックや絵本の原画、スケッチ、ポスターなどをたっぷりと展示。最後には現代のアーティストたちによる、
ブルーナからインスピレーションを受けてつくったという作品があったが、これは蛇足もいいところなのであった。

ディック=ブルーナといえばオランダ、オランダといえばデ・ステイルなのだ。目立つ原色をとことん重視し、
限られた線で構成するブルーナの手法は、完全にデ・ステイルの正当な後継者だ。ブルーナにおいて完成した感じ。
グラフィックデザインとしていいねえと、circo氏とウットリ見てまわるのであった。いくら見ていても飽きない。

展示を抜けると広大な物販売り場がお出迎え。なるほど、デパートの催し物はここがハイライトであったか。
ここに母親を連れてきたらどんな恐ろしいことになったか、想像する気すら起きない。凄まじい人混みにただ戸惑う。
それでもやっぱり公式カタログぐらいは買っておきたいなと思ったら、あまりに人気すぎて後日配送しますとのこと。
まあでもそれだけの価値を感じたので、お金を払って宅配便の伝票に住所を記入したのであった。そんなの初めて。

展示を見ているうちはグラフィックデザインの完成度について考えさせられたのだが、終わってみれば興味は別方向へ。
それは、「アートと資本主義」という問題である。2年前に東京国立博物館でやっていた鳥獣戯画展で思ったことだが、
優れたデザイン素材は金になるのである(→2015.5.29)。草間彌生の水玉&カボチャもそうね(→2014.8.22)。
アートを評価する方法はいくつかあるが、その価値をお金という形に換算するのも非常に正当な方法である。
デザインの誕生は、産業化の進展により大衆がパトロンの地位を獲得したことによって成立したわけだが、
アートはそれ自体だけでなく、デザインという経路からもお金と結びついて価値を再生産することができるのだ。
つまり、僕らが思っているよりも本質的にずっと資本主義と相性がいいものなのだ。あらためてそれを突きつけられた。
アートはデザインという経路を抜けてグッズとなる。大量生産された芸術性のかけらを所有して、われわれは満足する。
「グッズ」という言葉は、goodの複数形という点からも、社会学的にものすごく深い意味を持っている予感がする。
恐ろしく深い思索の入口に立たされてしまった。でもそんなこと考えない人も、「良さ」は直感的にわかるもんなのよね。



2017.5.2 (Tue.)

自転車安全教室である。スケアードストレイトでスタントマンが危険なシーンを実演してくれるやつ。
こっちの学校でもやるんだなと、だいぶ浸透していることを実感。まあ百聞は一見に如かずだもんな。
しかし今日は天気が良すぎて、直射日光がとってもつらかった。炎天下で本当にお疲れ様でした。


2017.5.1 (Mon.)

新しい環境で1ヶ月経ったが、案の定やっぱり神経を使って疲れてしまう毎日である。
別に環境に不満があって疲れているのではなく、「相手に合わせる」ことを徹底することから疲れが生じるのだ。
「相手にとっての当たり前」が「こちらにとっての当たり前」とまったく異なっている部分がどうしてもあるわけで、
そこを慎重に探ることにまず疲れ、次いで相手に合わせることに疲れ、自分の中で馴らすことにまた疲れる。
とにかく折れて折れて折れまくる。この作業が地味ながら延々と続くことになるので、正直けっこうまいっている。
僕という人間は、みなさんが思っているほど強情ではなくて、譲るべきところはそれなりにきちんと譲る人間なのだ。
ただ、絶対に譲らない部分が頑丈かつ目立つので、強情なイメージの方が強いのではないかと思う。損じゃのう。
実際のところは85%くらいまでは平然と譲っちゃう人間なのだが。残り15%を何があっても守りきるだけでねえ。
で、僕はこの85%をできるだけスムーズに相手と接続しようとするので、環境が変わると負荷が本当に大きいのだ。

意外なところでボディブローのように効いているのが、授業で使う教科書の違いである。
英語という教科の宿命は、教科書が変わると教える内容が完全に変わってしまう点にある。これがつらい。
文法の順序は大差なくても、登場する単語の順序が違っちゃうのでプリントをゼロからつくり直すことになる。
おまけに他の先生方と歩調を合わせるのがまた大変。3人体制で教科書に慣れていないのが自分だけという状況で、
今回はこの部分でいつも以上に神経を使っているのである。しっちゃかめっちゃかでございますよ、もう。


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