千葉市美術館で開催中の『琳派・若冲と花鳥風月』を見に行ったよ。最近、日本画づいているなあ。
実は大学時代に千葉市美術館へは行っているのだ。テーマは高松次郎で、ハイレッド・センター好きなので興奮した。
そのときとにかく驚いたのが、中に収まっているさや堂ホール。そして、中央区役所とセットになっている点。
まあこれについてはいずれまた写真を撮影するなどして、詳しくログで扱ってみたいと思う。そういう施設なの。さて、もともと千葉市美術館はいわゆる「奇想の画家」の作品を多数収蔵していることで知られているそうだ。
江戸時代のメインストリームである狩野派や土佐派に対する、琳派・若冲・応挙といった辺りの画家に強いらしい。
今回は特に「四季」「花」「鳥」「風月」「山水」「人物」といったテーマでくくり、琳派のデザイン本も扱う。
まあつまり、千葉市立美術館としては王道のラインナップというわけである。そりゃあ見ておかないとね。市の美術館ということで規模が特別に大きいわけでもなく、観覧料も200円と非常にリーズナブル。
しかし内容はかなり充実していた。ビッグネームではない作者でも、佳作がよく並んでいて見応えがある。
個人的に、曾我蕭白はクセがあって今まではイマイチに感じていたが、『竹に鶏図』が凄くて凄くて。
こういう先入観をぶっ壊してくれるような作品に出会えると、見に来てよかったーと心底思えるわ。
そしてやっぱり抱一も其一も大好き。若冲のデザインセンスは群を抜いているね。どれも面白くてたまらん。
多彩なテーマ設定が功を奏して、とても華やかな印象の展示となっていた。千葉市美術館、なかなかやるな!
いよいよ夏休みが終わるってことで、職場はどこかしんみりムードなのであった。まあそりゃそうだよね。
もう間もなく怒涛のような日々が再び始まるってことで、平和な日々を皆さんそれぞれにいとおしんで過ごすのであった。
僕だって異動したところにあの6月ということで、1学期は極限まで疲れたわけで、来るべき嵐に向けて心の準備をする、
そんな具合にひたすら深呼吸をするような感じでおとなしく過ごす。いやあ、どうなるんだ2学期。平穏無事に乗り切りたい。
本日は日直なので、見回り以外はずっと職員室にこもりっきり。チャンスとばかりにひたすらプリントをつくるのであった。
夜は来月行われる区の中学生サッカー大会の監督会議。いつもの中体連とは違い、区が運営する大会ということで、
わざわざ区のスポーツセンターまで移動して説明を受ける。参加チームもいつもと少し違うので、こっちは少々緊張。
しかしそれも束の間、猛烈にイラつかされるのであった。というのも、あまりにも司会進行の要領が悪すぎるから。
ここまで要領が悪いのは初めてで、説明するジジイの頭をブン殴ろうかと何度も思ってしまうほど。本当に頭に来た。
僕は顧問として初めてなので我慢して抑えたが、来年以降は遠慮なくガンガン言ってやろうと固く決心しましたとさ。
約1ヶ月ぶりに日記を更新したけど、理由はもちろん、旅してばかりで日記を書く暇がなかったからだ! 今月すげえ~
案の定、日記が大変である。「人生とは皿洗いの皿のようなものだ」とは野田秀樹の言葉だが(→2005.1.16)、
日記を書くのは本当にエネルギーを使う作業で、たった一日分を書き上げるのに信じられないほどの手間がかかる。
幸いなことに、僕の場合は古い皿にこびりついた汚れを落とすこと自体はそんなに難しいことではない。
そのときの記憶がわりと鮮明に思い出せるように訓練ができてしまっているので、時間の経過はあまりハンデにならないのだ。
しかし日記の内容じたいがとにかく濃密になってしまっていて、純粋に書く作業だけでヒイヒイ言っている状況である。
特に今月は完全にタガがはずれた旅行っぷりだったので、いつこれが片付くのか見当もつかない。
早く要領よく書けるように腕を上げていくしか解決策がないのだ。面倒くさいことやっている人生だが、しょうがない。
前任校でもやっていたサッカー部補習なのだが、ぜんぜん人が来ない……。なんだろ、この淡白さ。
所変われば品変わるとは言うけど、ここまで変わるもんなのかと呆れている。うーん、なんなんだか。そして2学期に向けてのプリントづくりが大変……。異動して教科書が替わった影響が直撃してしまった。
3学年分をつくっていかなくちゃいけないのもまた大きな負担で、かなり苦労しております。うーん、なんなんだか。
青春18きっぷがまだあるし、日帰りでのんびりどっかへ行ってみようか、という毎年恒例の夏の風物詩である。
ターゲットはすぐに決まって、4つある陸奥国の一宮がまだ3つ残っているので、一気につぶしてやるのだ。
(ちなみに陸奥国一宮でこれまで行ったことがあったのは、宮城県の鹽竈神社である。→2013.4.28)
残り3つはどれも福島県、それも水郡線の沿線に集中しているので、まずは上野、そこからはるばる水戸へ、
そしてようやく水郡線に乗り込んで最初の目的地に到着。家を出てから、実に5時間かかったのだ。
その間はものすごい勢いで爆睡していたので、5時間があっという間だった。よく乗り過ごさなかったなあ。最初の一宮は都都古別神社なのだが、実は今回訪れる3つの一宮はどれも「つつこわけじんじゃ」なのだ。
棚倉町に2つ、石川町に1つあって、特に前者2つが非常にややこしい事態になっているのである。
南側にある「つつこわけじんじゃ」は八槻という場所にあるので、「八槻都都古別神社」と呼ばれている。
北側にある「つつこわけじんじゃ」は馬場という場所にあるので、「馬場都都古和氣神社」と呼ばれている。
祭神が同じで由緒もだいたい同じだけど、はっきりと別の神社である。なぜこんな事態なのか、理由は不明とのこと。
今回はとりあえず水郡線のダイヤの関係上、南側の八槻にある都都古別神社から参拝するのだ。八槻の都都古別神社は近津駅から南へ10分ほど歩いたところにある。無人駅のアーチを抜けて駅前に出ると、
そのまま進んで県道176号に出る。住宅に店舗がまばらに混じっている道で、もともと街道だった雰囲気が強い。
これを南に下っていくと、国道との交差点に出る。そこには運のいいことにファミリーマートがあって、
昼メシの心配がなくなったので大喜び。田舎じゃボサッとしているとメシを食いそびれることもよくあるのだ。
この交差点のすぐ脇を流れる近津川を渡るとすぐに境内。面白いことに、国道118号は社叢をよけるように曲がっている。
そのカーヴによって生まれたスペースは駐車場として使われているようだ。こういう事例は今まで見たことがないが、
つまりはそれだけこの神社が崇敬を集めてきたということだろう。正面にまわり込むと、なるほど立派な姿だ。
L: 都都古別神社(八槻)の境内とそれをよけて曲がる国道118号。間には駐車場として利用されているっぽいスペースが。
C: 境内の入口は南側なので、そちらにまわり込む。堂々とした姿に、さすがは一宮らしい威厳を感じる。
R: 鳥居をくぐって境内の様子を眺めてみる。右手奥に池があるが、基本的にまっすぐ一本道となっている。東京を出たときには雨が降っており、近津駅を降りたときにも空は曇っていたのだが、ここにきていきなり晴れた。
分厚い雲がブロック状に空を覆っていたので、こりゃきれいな写真は期待できないかもなあと思っていたのだが、
気がつけば雲はすっかりどこかへ行ってしまって、青い色がひたすら頭上に広がっている。運がいい。参道途中にある縁結び夫婦杉。よく見ると祠にはハート型の穴が開けられている。
清潔感のある参道を進んでいくと、朱塗りの随神門と対面する。扁額は堂々と「奥州一宮」である。
随神門はなかなか立派なつくりで、思わずいろんな角度から撮影してしまった。どう撮ってもフォトジェニックである。
そして門を抜けると、こちらも朱塗りの拝殿。唐破風でどっしりとした姿は迫力があり、しばらく見入ってしまった。
拝殿の先にある本殿もやはり見事。やっぱり一宮は違うねえ、とひとりうなずきながら撮影していく。
特に、朱塗りに対応して軒下の彫刻がきれいである。時間はたっぷりあるので、のんびりいろんな角度から眺めた。
L: 都都古別神社(八槻)・随神門。 C: 拝殿。 R: 本殿。統一感が見事で、しばらく見とれてしまったよ。奥の池や摂末社もぐるっと散策して歩き、苔の生した地面を歩くカブトムシと遊び、しばらく過ごした。
とても穏やかで、不思議と居心地のいい空間だった。御守をいただいて上機嫌で境内を出るのであった。ファミマで昼メシを買い、駅まで戻る。こういうゆったりとした休日もいいねえ、やっぱり旅には余裕が必要だな、
なんて思いながら待合室でメシを食っていたところ、 壁に貼ってあった水郡線の時刻表を見て愕然とする。
次の郡山行きの列車は13時22分ということで認識していたのだが、それは隔週の土曜日にしか運行しないという。
つまり、次の列車は1時間後ではなく3時間後ということなのだ。さすがにこれにはずっこけた。
いくらMacBookAirを持ってきているとはいえ、あと3時間も待合室の中でじっと過ごすつもりはない。
それに、すでに時刻は正午をまわっているので、列車を待ったら一宮をぜんぶまわりきれなくなってしまう。
メシを食い終わると、そそくさと立ち上がって近津駅を後にする。県道176号を今度は早歩きで北上していく。
次の目的地は2駅先で、1時間も歩けば着いてしまうだろう。天気がよすぎるけど、歩けばそれで済む話。途中、バス停があるのを見つけた。時刻表を覗き込んだら平日の分しか書いていない。つまり土日は運休ってことだ。
水郡線もそうだが、どうものんびりしたもんだな、と思いながらiPhoneのGoogleマップを片手に歩を進める。
住宅中心だった県道は、やがて郊外型ロードサイド店が並ぶようになり、予想していなかった繁栄ぶりとなる。
食品を扱うスーパーやコンビニもしっかりあって、けっこう豊かじゃないか、と思うのであった。
そんな中、バスの営業所に出くわした。それなりの規模の広さが確保されており、バスが何台が駐車してある。
入口には待合室があって、時刻表を見てみたら13時に白河駅行きのバスが出るという。あと2分ほどだ。
見れば、いちばん手前のバスには運転手が乗っていて、僕が乗るのかどうか様子をうかがっている。
近づいて「磐城棚倉駅には行きますか?」と訊いたら「近くに停まります」とのことで、迷わず乗り込んだ。運がいい。バスは県道をまっすぐ北上していくが、窓から見える景色はなかなか面白い。やはり旧街道ということで、
中豊駅を過ぎると城下町の雰囲気がものすごく強い街並みとなるのだ。これはぜひ後で歩こう、と思う。
バス停の間隔は非常に短く、次から次へと名前が読み上げられていくのだが、これがまた面白い。
南から市街地に入ると、そこは古町。そして明らかにかぎの手由来のS字カーヴを抜けると、今度は新町(あらまち)。
わかりやすいなあ!と感心していたら磐城棚倉駅前ということで下車。バスのおかげで一気に時間を短縮できた。というわけで、次の一宮は棚倉町の市街地の少しはずれに位置している都都古和氣神社。馬場の方である。
駅からは西へずっと行ったところにあるということで、歩いていったらここも道がカーヴして社叢をよけている。こんな具合に、こちらも派手なカーヴを描いております。
社叢の手前に「裏参道」と看板が出ていたので、表から行こうじゃないか!と先を進んだら、これが失敗だった。
じっくりとまわり込もうとしたのだが、社叢は見えるにもかかわらず、なかなか表の参道が見つからない。
結局、バッタの群れをかき分けながら田んぼのあぜ道をひたすら強行突破していったら、境内の前に出た。
振り返るとずっと先に大きな鳥居があり、それで神社の規模の大きさをようやく思い知った。
L: というわけで、わざわざ一の鳥居を撮りに戻った。奥で木々が茂っている辺りが都都古和氣神社(馬場)の境内。
C: 都都古和氣神社の境内入口。この辺りは車を停めるスペースになっているらしく、何台か駐車していて撮影しづらい!
R: 石段を上ると随神門。こちらもまた、なかなかの風格を漂わせている。境内の雰囲気はやや湿り気を感じる。馬場の都都古和氣神社は807(大同2)年、坂上田村麻呂によって現在の棚倉城址の位置に社殿がつくられた。
ところが丹羽長重(丹羽長秀の長男)が棚倉に移ってくると(伊達家対策という側面があったそうな)、
1625(寛永2)年に都都古和氣神社を現在地に移転させたのだ。で、跡地に棚倉城を築城したというわけ。
城跡に神社がつくられた例は明治維新後にやたらといっぱいあるが、逆パターンはあまり聞かない気がする。
(ちなみに丹羽長重は後に隣の白河に移って初代白河藩主となり、白河小峰城(→2009.8.10)を大改築している。)境内は広く、参道はわざと少し曲げているようだ。八槻と同じく豊かな緑に包まれているが、
こちら馬場の都都古和氣神社の方が、どこか湿り気を感じさせる。神職の方が説明好きのようで、
随神門や拝殿に切り抜きや手書きの説明がかなり積極的に貼られているのが印象的だった。ま、いいんですが。
L: 境内の様子。緩やかな上りに加えて参道を曲げており、空間に少し物語性を持たせているような印象。
C: 鳥居を抜けて拝殿。やはり立派である。 R: 本殿。やっぱりどこか八槻の方との共通性を感じるなあ。右手に出てさっきの裏参道の方にも寄ってみたのだが、池があった。中を見るとなかなかのザリガニ天国で、
もうちょっと水をきれいにすればいいのに、という感じ。全般的に植物のやりたい放題感のある空間だった。バスのおかげで棚倉の城下町をうろつく時間が確保できたので、参拝を終えるとさっそく歩きだす。
まずは都都古和氣神社の南東にある棚倉町役場。逆光がきつくてなかなかきれいに撮影できなかったのが残念。棚倉町役場。駐車場に囲まれている。
道なりに東へと進んでいくと、ちょっとした坂を上って先ほどバスの中から見た古町に出た。
個人商店が穏やかに営業しているが、いかにも昔ながらの商店街という雰囲気で懐かしい印象である。
通りを北上すると、左手に棚倉城址(亀ケ城公園)の大手口があったので、そこから中へと入った。
まずは大ケヤキがお出迎え。堀を渡ってケヤキの脇を抜けると、そこが大手門跡。両脇には土塁。
棚倉城に石垣はほとんどなく、基本的には土塁でつくっていたようだ。本丸はその土塁に囲まれている。
消防団で訓練か何かをこれから行うようで、数台の消防車が停まっていた。多目的な用途で使われるようだ。
L: 棚倉城址の堀。 C: 本丸跡。消防団の皆さんが何やら準備中だった。 R: 本丸の土塁。ここに上がることもできる。まっすぐ棚倉城址を抜けると、さっきの通りへ戻る。すると、出たのは大規模なかぎの手の跡。
交差点に面した小学校との間のスペースが「時の鐘ポケットパーク」となっている。調べてみたところ、
これは元祖・時の鐘をランドマークとしている川越市(→2010.4.11)との友好のシンボルとして整備されたそうだ。
そしてこのかぎの手から北側が新町。名前のわりに古町よりは寂れた雰囲気がするなあと思いつつ歩いていったら、
磐城棚倉駅より先の方はそこそこの賑わいのようだった。棚倉というのもなかなか面白い街だったなあ。
L: 棚倉町・古町。昔ながらの商店街の雰囲気が漂う。 C: かぎの手にある時の鐘。これは見事なかぎの手っぷりだ。
R: 新町(あらまち)。駅より北側はこんな感じ。それにしても、かぎの手の南北で「古町」「新町」とは、いいねえ。というわけで、水郡線に揺られて最後の陸奥国一宮へ。磐城石川駅で降りて、そのまま道を北東方向へと進む。
かつてはそれなりの賑わいがあったかもしれないが、今ではほとんどが仕舞屋となっており、なんとも寂しい道だ。
ゆったりと大きくカーヴしながら北須川の手前に出ると、橋を渡らずに川沿いに歩いていく。すると驚いたことに、
途中に「石都々古和気神社 社務所」と書かれた看板が出ていて、その矢印の先にある路地を覗き込んだら、
確かに背後の山に沿って社務所があった。社務所が境内から離れた位置にある神社ってのは、実に珍しい。石川町にある陸奥国一宮は、石都々古和気神社(いわつつこわけじんじゃ)である。こっちは最初に「石」が付くのだ。
もともと都都古別神社と同じ神を祀っていたが、八幡宮を勧請・合祀して鎮座する山が八幡山と呼ばれるようになった。
この山には多数の巨石があって磐座として祀られていたようで、さらに聖地としての威厳が高められていったってことだ。
石都々古和気神社の境内入口の隣は石川町役場。これが昭和の役場そのままの姿で、思わずうなってしまったよ。
L: まずは石都々古和気神社の社務所入口。この路地を進んだ先の住宅が社務所。境内入口から少し離れていてびっくり。
C: ちょっと進むと、きちんと石都々古和気神社の鳥居が現れる。ここから石段を上って山の中に入っていくのだ。
R: 鳥居の隣には石川町役場。2階建ての素っ気ない建物、申し訳程度の庭、よくわからない銅像、すべてが昭和である。役場に興奮した後は、一宮への参拝である。心なしか、時刻のわりに光の加減がだいぶ夕方っぽい。
つまりはそれだけ東に来ているということである。そう、僕は今、福島県にいるのである。ここは東北地方なのだ。
鳥居をくぐると、まず手水舎。でも水がない。困った。それだけ参拝者が少ないということなのだろうか。
そう思ったところで気がついた。ここに手水舎。そして拝殿と本殿は山の上。ちょっと離れすぎではないかい?
社務所もそうだけど、手水舎も離れているのだ。なんとも珍しい事例だなあ、と首をひねる。
まあこれはつまり、八幡山全体が聖地ってことなのだろう。だから社務所は山に寄り添っていればいいし、
手水舎だってもともとは川での禊が由来なんだから、むしろ山の中にあるよりは正しいって気もする。
ということで、気を取り直して石段を上りはじめる。途中足下が危なっかしい箇所が多少あったが、
この夏休み中は城跡めぐりで山を登らされていたので、それに比べりゃまったく大したことはない。
巨石の磐座が多数あるとの情報どおり、途中には看板でいくつか巨石の名前が紹介されていた。
個性豊かな巨石たちが鎮座しているのを追いかけるのは、なかなかのテーマパーク気分である。
L: 鳥居をくぐって参拝スタート。で、手水舎から拝殿までの距離がとんでもないことに気づく。どうやって登っても手が乾くぜ。
C: 途中には巨石がいっぱい。こちらは天狗石。 R: でも緑が勢いよく生い茂っており、石以上の存在感を持っていた。拝殿までの距離は確かにそこそこあるが、アジサイ(季節ははずれてかなり枯れていたが)や巨石などが飽きさせず、
そんなに激しい運動ではなかった。最後の石段はけっこう急で、必死で上っていったら鳥居があって、いきなり拝殿。
この上りきったらいきなり拝殿というのが写真撮影には非常に厄介で、逆光もあって、ものすごく撮りづらかった。
境内じたいは決して広くはないものの、せせこましい印象はまったくない。本殿は上に屋根がかけられて保護されていた。
石碑が並んでいたり奥に磐座と摂末社があったり、さっきの参道もそうだが、空間の密度を上げる工夫が上手い印象だ。
L: 石段の途中、鳥居の真下から見た拝殿。逆光対策ということで、この写真はiPhoneで撮影したものを使用。
C: 石段を上って境内に入ってから撮影した拝殿。 R: 本殿は覆屋で保護されている。やっぱり見事ですなあ。本殿の斜め奥には摂末社が並ぶ。よく見ると磐座もあるね。
参拝を終えると急に空が暗くなってきたので、さっさと駅まで戻る。途中、あちこちに貼ってあるポスターを見たら、
それは石都々古和気神社の例祭のものだった。祭りはクリスタルロードという通りを中心にして行われるようで、
地図を見るに北須川の向こう側、学法石川高校から延びている道であるらしい。しまった、そこまで行けばよかった、
そう思っても後の祭りである。せっかくここまで来たのに中心市街地を歩かなかったのは、ものすごく悔しい。磐城石川駅に着いてしばらくすると、水戸行きの列車がやってきた。なかなかの乗車率である。
列車が走り出してまもなく、雨が降り出した。すんでのところで雨に降られずに済んだのだ。運がいいと思う。
座席に座って気がつきゃ寝ていて、起きたら水戸駅に着いていた。晩メシをいただいて上野行きの列車に乗り込み、
ひたすら山陰旅行の画像整理をして過ごす。でも土浦に着く前に完全に電池切れになってギブアップ。
あとはただただ呆けて過ごすのであった。いやー、今年の夏はまったく重量級でございますなあ!
久しぶりにスタ丼を食おうとしたら……値上げしてやがる! 630円!
1スタドン=630円ということはつまり円高の急激な進行! 勘弁していただきたい!
午前中は部活で、雨あがりにヒザのリハビリ。左尻のえくぼにテニスボールを入れて床をゴロゴロするのが強烈なら、
大きめの円柱に左の太ももを乗せて床でゴリゴリやるのは超強烈。体温が2,3℃一気に上がる感じだぜ。
まあおかげで、筋肉がほぐされるとヒザの調子もよくなる。身をもって人体の神秘を体験している夏であります。
長かった6日間の山陰旅行も今日が最後である。島根と鳥取を3日ずつかけて味わい尽くす旅ももう終わる。
しかし画竜点睛を欠いてはいかんのである。最終日の今日を悔いなくやり遂げることで、旅は完成するのである。鳥取駅。6日間ずっと晴天に恵まれて言うことなし。
朝7時ごろに宿を出ると、まっすぐ鳥取駅へと向かう。朝メシをいただきながら今日の作戦を練る。
というのも今日のスケジュールは少し複雑で、要領よく動く必要があるから。すべては鳥取砂丘行きのバスしだい。
それに合わせて鳥取市街の観光を前半と後半に分けることになるのだ。ルートをしっかり確認しておくのである。
そうして8時になるタイミングで外に出る。そのまま駅ビルに沿って東へ歩いていくと駐輪場がある。
レンタサイクルを借りる手続きを済ませると、いよいよ本格的に鳥取観光を開始する。今日もいい実に天気だ。最初の目的地は、鳥取市の中心部からは少しはずれた位置にある。駅から東へ離れるように、県道291号を行く。
電動自転車の限界いっぱいまでスピードを出し、郊外の旧街道といった雰囲気の道をひたすらかっ飛ばしていく。
しばらく行ったらきちんと案内板が出ているので、それに従って左折。山の麓に貼り付く集落の真ん中に参道があった。
因幡国一宮・宇倍神社である。袋川を挟んだ対岸の南側には因幡国庁・国分寺跡などがあり、その先には古墳もある。
つまりこの一帯はかつて因幡国の中心部だった場所なのだ。宇倍神社はその時代からの聖地だったのだろう。
L: 宇倍神社の参道。この辺りは国府町という地名で、街道もある昔からの集落っぽい。その奥でひっそり鎮座している。
C: 境内は山の麓の集落から杜の中へ入っていく空間構成になっている。 R: 石段を上がったらすぐ左に曲がる。宇倍神社は特別にこれといって強烈な要素のある神社ではないが、地元にすごく密着しているのを感じさせる。
全国的に有名ではないが、地元住民にしっかり支持されている神社だと思う。山陰地方はそういう一宮が多い印象だ。
木々が生い茂る石段を上りきると、ぱっと開けて拝殿が目の前に現れる。正面にあるむくり屋根がかなり独特である。
L: 石段を上っていくが、街道や集落の喧噪からは隔絶されている印象。昔からこうやって穏やかに鎮座していたんだろうなあ。
C: 宇倍神社の拝殿。山腹にある開けた空間にコンパクトに収まっており、それがなんとも清潔感のある印象につながっている。
R: 拝殿と本殿。宇倍神社は360歳まで生きたという武内宿禰を祀る代表的な神社であり、長寿にご利益があるそうな。境内は小ぢんまりとした印象ながらも、高低差をうまく活用して聖地らしい雰囲気を生み出している。
1898(明治31)年に再建されたという社殿は、古さときれいさのバランスがちょうど絶妙であるように感じる。
そこに木々を邪魔にならないように配置しているので、すごくフォトジェニックであるのだ。居心地もいい。
これは心が洗われる感じになるのう、などと思いつつ参拝する。もう少しのんびりしたかったが、余裕がなかった。昨日のとりスタへ行くバスとほぼ同じルートで因幡国庁・国分寺跡付近の田んぼ地帯を抜けていく。
田んぼが終わると今度は山で、気合を入れてペダルを踏み込み起伏をクリア。そうして津ノ井駅前に出る。
だが、昨日と違って今日はここから因美線に沿って南へ進んでいく。坂道を上っていった先にあるのは若葉台。
ここは鳥取新都市というニュータウンになっていて、住宅のほか大学や工場などが計画的に配置されているのだ。
そんなわけでちょっと寄ってみた。ちなみに今年の4月にはガイナーレ鳥取の練習場がここにオープンしている。坂道はけっこう強烈だったが、そこは好奇心と根性で上りきる。ニュータウンの入口にあるのは鳥取環境大学。
出版社時代にここの先生と原稿のやりとりをしたことがあって「そんな大学があるんだー」と思ったのだが、
設立は2001年と新しい。鳥取県と鳥取市が一緒につくった大学で、立地も名前もいかにも最近の大学だなーと思う。鳥取環境大学。何を勉強するところなのかは知らん。
そこからさらにゆるめの上り坂が続いていて、ニュータウンの面倒くささを実感しつつあちこち走りまわる。
しかし時間に余裕があるわけではないので、主に住宅地のエリアをふらふらしたくらい。とことんニュータウンだわ。
L: ニュータウン内の公園。無数の小さい住宅と大きい公園。 C: こちらはニュータウン内の住宅地の様子。
R: 大通りから入ると路地に沿って個建ての住宅がびっしりと配置されている。歩行者に比べて車は面倒くさそうだ。ぼやぼやしていると鳥取砂丘行きのバスに乗り遅れてしまう。バスはそこまで頻繁に出ているわけではないので、
砂丘をしっかり堪能するのであれば、予定のバスに乗らないとけっこうキツいのだ。急いで北へとひた走る。
すると途中で、かなりインパクトのある建築が空き地の中にポツンと突っ立っていた。見るからに歴史を感じさせる。
周囲にはヒントになるものが何もなく、根性で調べてみたら鳥取高等農業学校(現・鳥取大学農学部)の建物だった。
鳥取大学農学部の移転後には三洋電機の工場となったようだが、工場の閉鎖・敷地売却にともなって解体されかけた。
しかし鳥取県の要請でとりあえず現在も残っている、という状況のようだ。価値は認めるが宙ぶらりん、といったところ。鳥取高等農業学校・旧本館の一部。うまく活用する方法が見つからない模様。
そのまま山陰本線を越えて、樗谿(おうちだに)入口という交差点まで行ってしまう。そこから山へと入っていく。
鳥取市歴史博物館の脇を抜けた奥にあるのは、鳥取東照宮。社殿が重要文化財となっているので見ようというわけ。
まずは唐門で、1650(慶安3)年に創建されたという歴史を直に伝えてくる迫力がある。反面、少し古びてもいる。
そして拝殿。「東照宮」というと有名な日光のものと同様に派手に色を塗りたくっているものが多い印象があるが、
それらに比べるとこちらはずいぶん地味な感じだ。しかし細部まで丁寧につくられており、むしろ色でごまかさない分、
建物じたいの美しさがよく出ている。その奥の本殿は葵の紋をはじめとして凝った彫刻がめいっぱい施されており、
東照宮を名乗るにふさわしい威厳を漂わせている。こういう神社があるとは、さすがは大大名・池田家の城下町だと思う。
L: 鳥取東照宮・唐門。 C: 拝殿。 R: 本殿。2011年に鳥取東照宮の名称となったが、それにふさわしい建築だ。さて、鳥取東照宮に見とれている間にけっこう時間的にはピンチとなってしまった。大急ぎで鳥取駅前に戻ると、
鳥取砂丘行きのバスに飛び乗った。市街地から砂丘まではけっこう遠くて、レンタサイクルで行く余裕なんてないのだ。
バスはいったん県庁前に出てから、左に曲がってどんどん北へ。平日だが車内は観光客でいっぱいである。4年前(→2009.7.19)には砂丘センターからアクセスしたが、今回は直接砂丘の手前まで行ってしまうことにした。
あのときとの最大の違いは、なんといっても天気である。4年前はもう本当に泣きたい気分で、悔しくてたまらなかった。
しかし今日は見事な快晴。鳥取砂丘本来の魅力を味わうことができる、最高のコンディションである。雨男は誰だ?
でもまあ最高すぎて灼熱地獄であるのも事実で、太陽光線を遮る物が何ひとつない中を行くのはけっこう大変。
強烈な日差しを受けた砂は熱いし、何より景色に変化のない砂丘じたいが距離感や遠近感を完全に狂わせるので、
油断すると簡単に脱水症状になってしまうのである。本当は怖い鳥取砂丘、なんてことを思いながら「馬の背」へと向かう。
L: いよいよ鳥取砂丘へのリヴェンジだ! 4年前には雨と涙でかすんで見えなかった光景は、果たして……?
C: 砂丘の入口から眺めた景色。緑がまったくないわけではないんだよね。 R: 少し海へ進んだところ。砂丘だわぁ。鳥取砂丘はまず入口が高台になっていて、そこから一気に下っていって、「馬の背」で強烈に上るのだ。
そのすり鉢状の地形がまた距離感や遠近感を狂わせる要因にもなっている。目で見る限り、そんなに遠く感じない。
しかし人は小さく見えるわけで、その小ささの方が本当なのだ。実際にはかなりの距離を歩くことになるのだ。
L: 地形は大規模な凹の形になっており、振り返るとその急斜面ぶりに驚かされる。だから帰りがつらいんですよ。
C: 低いろことから見上げる「馬の背」。でも写真だとその壁っぷりが伝わらない。それにしても人がまだ小さい。
R: 風紋を眺める。時刻は10時台で、太陽は真上に近いところから照らしてくる。おかげであんまりよく見えない。なんせ砂なので、踏むとその分だけ崩れる。炎天下で意外な距離をずりずりと歩くのは、正直つらいものがある。
しかし4年前のことを思えば、それも含めてありがたいことだ。僕はいま、正しい鳥取砂丘を味わっているのだ!
無限の白と2種類の青、そしてわずかな緑だけで構成された世界を小人たちがさまよっている。もちろん僕も小人だ。
真っ白な砂は距離感だけでなく、重力のかかり方さえも変えてしまうようだ。水平も鉛直も、ここにはない。
価値観が揺すぶられる面白さに、年甲斐もなくはしゃぎながら、目の前の砂の壁をひたすら登っていく。
L: わざと「馬の背」の少し低くなっているところに立ってみた。そこから眺める最高部もまた美しいのだ。
C: 「馬の背」の最高部より眺める海。ここがどこだかわからなくなってくるような景色だ。まあ日本じゃ鳥取だけだが。
R: 砂丘の東からはまたリアス式海岸の複雑な海岸線がはじまる。山陰の海岸は雄大な景色が味わえる場所が多い。ほかの多数の観光客と一緒に、しばらく「馬の背」のてっぺんから海を、そして砂の大地を眺めて過ごす。
思った以上に距離があるし歩きにくいので、余裕を持って戻らないといけないのだが、できる限り長居をする。
太陽が容赦なく照りつけてくるので多少クラクラしないでもないが、おかげでまったく影のない景色が見られる。
街も歩いた。山も歩いた。そして今、またそれらとは異なる風景を目にしている。地球にはすべてがあるのだと思う。
ふと、「見たことのない景色」はどこまで想像可能かと考えてみる。たぶん、地球上にはほぼすべてがそろっている、
今回の旅を総括してみて、そんなことを思ってしまう。たかが島根と鳥取を旅しただけなのに、そう思えてしまう。
鳥取砂丘がつくりだす景観はあまりにも純粋に美しくて、言葉というものを奪ってしまう。自然だけがそこにある。
L: 「馬の背」より振り返って眺める。視覚がマヒしてしまって、距離感も地形もぜんぜんつかめない。
C: 鳥取砂丘にもきちんと緑はあるのだ。西側にはこのような植物群がかなりあちこちに点在している。
R: 足下を撮影してみた。こんな感じで足が砂の中に潜り込んでしまい、歩くのはかなり大変なのだ。砂丘をがんばって歩いて戻ると、リフトで砂丘センターへ。土産物店は相変わらずの黄緑色に染まっていて圧倒される。
昨日のガイナーレ鳥取もそうだったんだけど、この色は鳥取県民のアイデンティティのようなので、もうしょうがない。
それにしても、土産物がほぼ一色に染まっている状況というのは、冷静に考えるとすごい。ほかではちょっと考えられない。
L: 鳥取砂丘を往復した結果、靴の中にはこれだけの砂が溜まった。靴のサイズが1cm近く縮んだ感覚になるほどの量だ。
C: やっぱりあったぜ、梨ジュース。果汁30%とはいえ、味はそこまで甘すぎずしっかりとしていておいしかった。
R: 砂丘センター内の土産物売り場。二十世紀梨の例の色がかなりの面積を占めている。ただただ圧倒されるばかりだ。これでもか!というほど鳥取砂丘を味わうことができた。4年前の悔しさをやっと晴らすことができて満足だ。
砂丘センター前のバス停でバスに乗り込み、鳥取駅前まで戻る。ふたたび自転車にまたがると、商店街を抜けていく。
鳥取の街は城下町らしさを色濃く残した碁盤目状になっており、アーケードの商店街も昔ながらの懐かしさを漂わせる。
郊外社会化して商店街の勢い自体は落ちてはいるのだろうけど、商店街がきちんとその形をまだ保っているのはうれしい。
山陰は地味だし人口が少ないしで損をすることが多いみたいだが、その分だけ毒されていない素朴さが確かにある。
特に観光資源としれは、それはいくらでもプラスの要素となりうるものだ。ポテンシャルを感じさせる街だと思う。
L: 駅からまっすぐ延びる鳥取のアーケード商店街。 C: 県庁所在地であるわりには、やや弱体化している印象はある。
R: 太平線通りのアーケード。芝生広場があるのに驚いた。いちばん駅側にはガイナーレを応援する幕がはためいている。さて、鳥取市役所である。4年前にも雨の中で撮影しているが(→2009.7.19)、あらためて撮影しなおしてみる。
鳥取市役所は1964年の竣工で、見てのとおりに県庁所在地の市役所としては驚異的な小ささである。
さすがにこれじゃまずいということでか、新築移転の案が出た。しかし住民投票で否決されてしまって大モメ中なのだ。
具体的にその経緯を書いていったらキリがないのでやめておくが、耐震改修と新築移転の間で話が進んでいない。
まあよそ者の僕が勝手なことを言わせてもらうと、この建物ではどうにもならんので新築以外の選択肢はあるまい。
わざわざ改修して残すほどのデザインでもないし、モメている場合じゃないだろう、としか僕には思えないのである。
どうも住民投票が足かせというか政争の具になっているようだが、外から見るとバカバカしいの一言に尽きる。
L: 鳥取市役所を南西側より撮影。6階建ては1960年代半ばにしては高いが、味気ないデザインと前面の駐車場はそれっぽい。
C: 交差点を挟んで西側から撮影。後ろの赤十字病院の方が迫力があるなあ。 R: エントランス付近を眺めたところ。「市役所を見ればその市の文化や意識のレヴェルがわかる」とは言い切れないけど、うっすらと感じられるものはある。
市役所をあくまで公務員のいる場所としか見ない人間は、それだけ市政に対する当事者意識が低いのは確かだ。
日本人は全体的にそういう傾向が強くて僕は恥ずかしいことだと思っているのだが、鳥取市の事例はけっこう象徴的だ。
住民投票に振り回されて、民主主義の本質を見失っている。お粗末なもんだなあ、と部外者の僕は思うのである。この市役所はもうしばらく現役でがんばることになりそうだな。
鳥取市役所から先、赤十字病院と県民文化会館を挟んで丁字路になっているその突き当たりに鳥取県庁がある。
こちらもやはり4年前に撮影しているが(→2009.7.19)、青空の下の姿をあらためて撮影しなおす。
L: 鳥取県庁・本庁舎(左)と議会棟(右)。 C: 少し右に向き直って、議会棟(左)と第2庁舎(右)。
R: 本庁舎の足下にあるピロティとタイルの壁画。飾りっ気のないデザインに突然現れたパブリックアートだ。県庁は市役所よりもさらに2年古く、1962年の竣工である。この時期は県庁舎が華美なものにならないように、
建設省営繕局が質素な県庁舎の設計を積極的に行っており、その思想がはっきりと出ているデザインである。
しかし足下のピロティとタイルの壁画に、もはや後戻りできない「シティ・ホール」概念(→2013.8.21)が見える。
日本の県庁舎の歴史を眺めたとき、鳥取県庁の無骨さとピロティ・壁画のアンバランスさは時代の象徴と言えよう。
L: 鳥取県庁・本庁舎を公園(城南神社)側から眺めたところ。 C: 国道53号から突き当たるとこんな感じの角度。
R: 駐車場で本庁舎と向き合ってみる。道路に対して側面を見せている点は、鳥取県庁の不思議な特徴である。鳥取県庁はそれぞれの建物の配置もやや独特なところがある。メインストリートである国道53号に対して、
突き当たりの位置にあるのは議会棟なのだ。そして本庁舎はその軸線をよけているだけでなく、横向きになっている。
正面を南向きにするためにそうなったのかもしれないが、結果として「内向き」な空間という印象が強く残る。
さらに本庁舎・議会棟・第2庁舎が「コ」の字の配置となっているため、閉鎖的な印象はさらに強められているのだ。
また、鳥取県警本部が第2庁舎の奥、つまり「コ」の外側にあるのも珍しい(本庁舎と並べる配置が一般的である)。
県庁の敷地は分散する建物という「図」と通路・駐車場の「地」に峻別されており、滞留できる場所がまったくない。
これだけ昭和っぽさを残した県庁舎は、もはや非常に珍しい。変に媚びていないところがかえって潔い気もする。
L: 議会棟。これまた典型的な1960年代庁舎だ。 C: でも角度を変えて眺めると、意外と凝っているところもある。
R: 第2庁舎と、奥には鳥取県警。手前のオープンスペースは入ることができないし、太陽電池が無神経に転がっている。県庁の撮影を終えると、国道53号を一本東側に入る。そこは堀越しに鳥取城址を眺められるようになっており、
山麓の緑の中に石垣と洋館が並ぶ姿が目に飛び込んでくる。歴史と革新、それがまた歴史になる。興味深い光景だ。堀越しに眺める鳥取城址と仁風閣。
ではいよいよ、鳥取城址へと行ってみる。4年前は雨の中、仁風閣の中だけは見学している。
時間の都合で今回は外観だけの撮影としたが、やはり青空の下だととびきり美しく見えるなあと感心。
L: 仁風閣。逆光で撮影がつらかった。 C: 仁風閣の裏側。 R: 和風の庭園。洋館との対比がいいねえ。鳥取城は山城であり、天守は久松山の山頂にあった。しかしそこまで行く時間的な余裕はさすがにないので、
天球丸までということでガマンする。石段を勢いよく駆け上がって進んでいくが、石垣が実に美しい。
L: 仁風閣の辺りから眺める鳥取城二の丸の石垣。ものすごくきれい。 C: 途中で見下ろす仁風閣。うーん、箱っぽい。
R: 中仕切門(西坂下門)。江戸時代にはなかったそうだが、現在鳥取城に唯一存在している城門。1975年に復元された。さて鳥取城といえば、なんといっても羽柴秀吉による兵糧攻めが有名だ。秀吉はあの手この手で城を落とす名人だが、
鳥取城における城攻めは凄惨極まりないものとなった。日本の合戦史上でも屈指の悲劇の舞台となった鳥取城だが、
今はただ、山裾でその美しい石垣を惜しげもなく見せつつ静かに街を眺めるのみである。平和ってすばらしいなあ。
L: 御三階櫓の石垣。御三階櫓の再建計画があるようだが、それが惜しく思えるほどに石垣じたいが美しい。
C: 二の丸。ここがかつて悲劇の舞台であったとはとても思えないほど、今は穏やかな空間となっている。
R: 仁風閣と鳥取市街を眺める。平地に広がる街並みは、さすがに県庁所在地にふさわしい規模である。さらに奥の方へと進んでいくと、近年になって整備されたのか、ずいぶんときれいな石垣の出っ張りがあった。
その奥が天球丸ということで、二の丸との境目に当たる部分なのだが、なかなか複雑な構造で楽しくなる。
鳥取城は山名氏の山城をもとに宮部継潤が改修を行い、それをさらに池田氏が改修している。改造しまくりなのだ。
何度も籠城戦があったからこその堅固な築城を大大名がしっかりと行っている、そういう面白さがあるのだろう。
L: 二の丸と天球丸の境目あたりにある石垣。ちょっと淡路夢舞台(→2012.10.7)っぽい面白さがあるね。
C: 振り返れば鳥取市街が絶景だ。 R: 天球丸。本当は山頂の天守跡まで行きたかったが、今回はここでガマン。急ぎ足で鳥取城址をどうにか見てまわると、猛スピードでペダルをこいで鳥取駅まで戻るのであった。
それでも途中で目についた建物を撮影せずにいられないのは悲しい性である。どうしても無視できないのね。
L: わらべ館。置塩章設計の旧鳥取県立図書館の外観を再現して、童謡や玩具などをテーマに1995年にオープンした。
R: 鳥取民芸美術館。医師で民芸運動家の吉田璋也が設立。市街地にこの建物はかなりのインパクトがある。荷物を回収して山陰本線に飛び乗る。山陰旅行の最終日、これで3日間にわたって歩きまわった鳥取県を後にするのに、
まったく感傷に浸る間もないのであった。せわしない旅行ってイヤだなあ、……って毎回言っているけど治らない。
列車は市街地からすぐに山の中へと入っていき、緑の中を抜けていく。そしてたまにゴツゴツした岩場の海岸が顔を出す。
入り組んでいるうえに高さもある海岸は自然の美しさを保っているものの、人を寄せ付けない雰囲気もまた強い。
まさにリアス式海岸の本領とでも言うべき光景で、その「孤高」という言葉を想起させる美をただ味わって過ごす。終点の浜坂駅でいったん改札を抜ける。30分ほど余裕があるが、30分ではあちこちを歩きまわることなどできない。
しょうがないので駅前の店で弁当を買うに留める。奮発してかに寿司にしたのだが、たいへんおいしゅうございました。
ちなみに浜坂駅のある自治体は、2005年に合併して新温泉町となった。信じられないが、本当にそういう名前なのだ。
外から来る観光客のことをまったく考えていない名前には、もう苦笑いするしかない。なんとかしないんですかね。浜坂で乗り換えた列車はさらに東へと進んでいく。浜坂から2つめの駅といえば、あの餘部駅だ(→2009.7.20)。
余部鉄橋、下から見るか、渡ってみるか。ということで、iPhoneで現在位置を確認しつつ、わくわくしながら到着を待つ。
案の定、餘部駅にはけっこうな数のスキモノの皆さんがカメラを構えて待っていた。こういうとき乗客ってなんだか照れくさい。
餘部駅を発車すると、列車はゆっくり進んで橋梁に差し掛かる。かつての赤く塗られた鉄橋のような風情はまったくないが、
それはそれであれこれ配慮したことを感じるガラス窓が印象的だった。線路と並行して展望用の通路が設けられており、
余部鉄橋をめぐる記憶は(負の面も含めて)しっかりと継承されているように感じた。列車は橋を渡りきるまで徐行を続け、
眼下の余部の集落と美しい日本海の対比を乗客たちに存分に見せつけてからトンネルに入っていった。
L: 浜坂駅前。浜坂町と湯村温泉を擁する温泉町が合併して新温泉町。どっちにとっても損な名称だと思うのだが。
C: 餘部駅にて。駅側にあった橋脚3本を残し、展望施設「空の駅」として開放している。きちんと観光客を呼べている。
R: 2010年供用開始の新しい余部橋梁から見た景色。転落防止と車窓からの眺めの両方に配慮しているのを感じる。今回の6日間にわたる山陰旅行は、4年前の旅行の「やり直し」である。あれはあれでかけがえのない記憶なのだが、
そのときにできなかったことをぜんぶやってやろうという、そのための旅行なのだ。だから次の目的地は城崎温泉になる。
思えば温泉に浸かりまくってきた旅行だったが、最後を締めるのは城崎温泉なのだ。6日間で7つめ。まいったか。城崎温泉駅を出ると、まず右手に大きな入浴施設。そして道の両側に昔ながらの風情を残した商店街が続く。
4年前には車で来たのでイマイチどんな空間だったか記憶が曖昧なところがあるが、大谿川に出てようやくすっきり。
左に曲がって川沿いに歩いていくと、一の湯の前に出た。そうそう、ここの洞窟風呂のお世話になったのだ。
でもせっかくなので、今回は別の湯に入るつもりだ。さらに奥へと進むと、雰囲気はどんどん落ち着いたものになる。
L: 城崎温泉駅前の様子。とっても賑わっている印象。 C: そのまま大谿川にぶつかるまで商店街を北上していく。
R: 大谿川。駅からの南北方向が商店街なのに対し、川沿いの東西方向は温泉街。城崎温泉ははっきりしている。かなり奥にある外湯のまんだら湯にお邪魔しようかと思ったのだが、営業が午後3時からで、まだ少し時間がある。
ちょっと迷ったけど、駅からけっこう離れているのでのんびり浸かっている暇はなさそうだ。焦って浸かってもうれしくないのだ。
残念ではあるが、素直に駅前のでっかい入浴施設にお邪魔するという安全策をとることにした。まあ、いずれまた。
L: 城崎温泉は大谿川に架かる橋がブランドイメージを増幅していると思う。 C: 奥まった木屋町通りを行く。これまた風情いっぱい。
R: 和風のファミリーマート。温泉街ということでデザインを工夫したと思うのだが、これはかなり大胆な事例であると思う。驚いた。というわけで、駅前のさと湯へ。かなり立派につくられており、露天も天気がよかったので開放感があって満足。
中では子どもが桶を湯船に入れて騒いでいたので注意したのだが、親は何をしているんだか。困った世の中だ。すっかり癒されていい気分で駅に戻ると、ホームで列車を待つ。が、驚いたことに突然、かなりの勢いで雨が降りだした。
確かに鳥取城址からは黒い雲も見えていたので「降るかもしれないな」とは思っていたが、まるで土砂降りのような勢いで、
屋根のあるホームにいても地面から撥ね返る雨粒が当たるんじゃないかってほど。外の通りはパニックになっていた。
その影響なのかどうかはよくわからないが、乗る予定の列車がぜんぜん来ない。城崎温泉駅で折り返すんだそうで、
どうやら近畿方面での遅れが山陰本線を直撃しているようなのだ。どうしょうもないので気長に構えるしかない。結局、予定の25分遅れで城崎温泉を出発した。こうなるともう、あらかじめ立てていた予定なんてどうでもよくなる。
あとは東京へ帰るだけなので、同じ遅れるんなら寄り道しちゃえ、となる。山陰本線なんて、なかなか来れないもんね。
というわけで急遽、八鹿駅で途中下車する。そこにあるのは養父市役所。2004年に合併で養父市ができたのだが、
市役所は旧養父町ではなく旧八鹿町にあるのだ。せっかくなので、養父市役所まで行ってみることにするのである。
……豊岡市をスルーしたのは、いずれまたしっかり訪れたいという希望があるので。竹田城址とセットで訪れたいねー。改札を抜けるとそこは学生だらけ。列車の遅れの影響もあるようだが、夏休み中とは思えない賑わいぶりで驚いた。
本来予定していなかった訪問なので調べが甘かったのだが、八鹿駅から養父市役所まではけっこうな距離がある。
フル装備のBONANZAを背負って歩くのはなかなか面倒くさかった。街道沿いにトボトボ歩き続けたのだが、
道はかつてそれなりに栄えていた商店街の雰囲気を静かに保っていて、ちょっと独特な感触がした。
そりゃまあ確かに高齢化・老朽化・弱体化はしているんだろうけど、昔から穏やかにやっていた、そういう感じなのだ。
そんなことを思いながら歩いていくと、塀といい建物といい興味深い場所に出た。グンゼ八鹿工場である。
さすがはグンゼ、雰囲気が違う(→2013.8.11)。なんと、戦時中にはここで紫電や紫電改もつくられていたそうだ。
しかしこんな穏やかな旧街道沿いに工場があるとは。何より、街道の雰囲気に完全にマッチしているのがかっこいい。
L: グンゼ八鹿工場。事務棟は1928年の竣工とのこと。静かな旧街道の中に驚くほど溶け込んでたたずんでいる。さすがはグンゼ。
C: 八木川を渡る。花火大会の舞台となるという河川敷は駐車場として利用されているようで、車がけっこう止まっていた。
R: 現在は操業していないそうだが、旧養父郡酒造工場も風情があっていい。煙突には代表銘柄「山陰美人」の文字がある。八木川を渡って右岸に移ると養父市役所である。1984年竣工の八鹿町役場がそのまま養父市役所となった。
建物じたいはどうということはないが、隣の八鹿文化会館(旧八鹿町民会館、1974年竣工)とセットになっており、
なんとなく小ぢんまりと集中している感じがほほえましい。この辺はやっぱり市ではなく「町」らしいなと思う。
L: 養父市役所(旧八鹿町役場)。 C: 角度を変えて撮影。 R: 敷地の南側には八鹿文化会館がくっついている。帰りは歩くのが面倒くさかったので、八木川のところからバスに乗る。バスが来る時間にちょうど重なるとは運がいい。
さっき歩いた街道をそのままそっくり引き返すようにバスは軽快に走っていき、すんなりと八鹿駅に到着した。
が、京都方面への列車が今まさに出発せんとス、というところで、タッチの差で乗れなかった。残念だが、しょうがない。
どうせもともと予定もへったくれもないのだ。待合室でテレビを見ながら、おとなしく次の列車を待つことにした。
けっこう待ってから大阪方面へ出る列車が15分遅れで来たので、そいつに乗り込んで福知山まで行くことにする。夕方の気配にどんどん染まっていく車窓の風景をのんびり眺めながら過ごしたのだが、和田山駅で面白いものを見た。
歴史を感じさせるレンガ造りの建物なのだが、屋根がなく鉄骨がむき出しになっている。これは非常に気になる。
調べたら、1912(明治45)年築の旧和田山機関庫。活用されていないのがものすごくもったいない。なんとか竹田城址とセットでうまく盛り上げられませんかね。
播但線と分岐して、山陰本線をさらに東へと進んでいく。和田山駅の次は梁瀬駅である。つまりこれによって、
11日前の粟鹿神社へ行った旅とつながったのだ(→2013.8.11)。今年の帰省でわざわざ粟鹿神社まで出張ったのは、
この山陰旅行の帰りと接続するからだったのね。さらにこれで4年前の旅行とも再びつながったというわけだ。
僕の中で、3つの旅行が時間と空間を超えてひとつになる。豊岡を残してあるのは、まだ続きがあるぞってことだ。ひひひ。夜久野を越えて福知山に着くと、感傷に浸る間もなく京都行きの列車に乗り換える。5分遅れまでリカヴァーしていた。
1時間半ほど揺られて京都に到着。駅の近辺には何もないし早く帰りたかったので、但馬牛の駅弁を買って新幹線へ。
新幹線は本当に速くって、すぐに品川に着いてしまった感じだ。大井町駅の改札を抜ける際に切符を駅員に見せたら、
そのまま回収されそうになってしまう。これだけたっぷり途中下車印が押してあるんだ、気を利かせろよと思うのだが。まあとにかく、今年も盛りだくさんの旅行をやりきって、無事に家に帰ることができた。しかも晴天がずっと続いてくれた。
4年前にできなかったことをすべてやりきることができて、言うことなしだ。何から何までありがとうございました、だ。
朝の6時には宿を出て、近くのコンビニで朝メシを買い込む。そうして倉吉駅の改札を抜けると、東へ向かう列車に乗る。
今日も旅程はめちゃくちゃで、もちろん倉吉の旧市街地を歩きまわる予定なのだが、それはお昼ごろになっての話。
朝のうちはいったん東郷池のほとりまで行って、伯耆国一宮に参拝してやろうというわけなのである。倉吉駅の次の駅、松崎駅で降りる。すると駅前に「東郷温泉」というアーチが架かっていた。
昨日浸かった羽合温泉も東郷池のほとりにあるのだが、東郷温泉からは「対岸」と言っていい位置にある。
東郷温泉は羽合温泉以上に物寂しい雰囲気で、松崎駅前のごく一部分だけが温泉街らしさを漂わせているだけ。
なんとも局地的な温泉だなあ、と思いながらも気合を入れ直すと、池に沿って県道22号を東へと歩いていく。
L: 松崎駅前・東郷温泉のアーチ。温泉地らしいのはこの周辺ぐらいなもので、規模の小ささに驚かされた。
C: 県道22号、東郷池沿いの光景。のぼりは旧東郷町が日本一の生産量を誇っていた二十世紀梨をアピールするもの。
R: エビや小フナを獲るための四ツ手網。小屋の中にある滑車で網を上げる。先っぽにサギが止まっていますな。伯耆国の一宮は、倭文神社という。「倭文」と書いて「しとり」と読む。しとりじんじゃ、ものすごい難読神社名である。
この神社、名前を読むのが大変なだけではない。行くのもかなり大変なのだ。車がない場合、松崎駅から歩くしかない。
距離にして東郷池の外周1/3といったところだが、地図で見てもどれくらい時間がかかるかイマイチ読めないのだ。
それで早朝からのアタックということになったわけだ。道路がきちんと整備されている点はかなり助かるのだが、
歩いてもなかなか進んでいる実感がない。それでも東郷湖羽合臨海公園を目印に北へ曲がって県道234号に入ると、
道ははっきりと上り坂になる。それまで近かった東郷池の湖面がだんだん下へと遠ざかっていき、自分は山の中へ。
自動車だったらまったく気にならないだろうが、整備はされていても突き放された感じのする道を行くのは不安になる。
時折快調に走り抜けていく車をうらやましく思いつつ、一歩一歩坂を上って神社へと着実に近づいていく。さんざん上っていったところにヘアピンカーヴで、いったん東郷池から離れるように曲がると、分岐する道が現れた。
「倭文神社入口 1km」とある。地図で見ると確かにそんなところなんだろうけど、僕としてはそれは少しショックだった。
というのも、ここまでの道もだいぶ延々と続いていてかなりウンザリしていたのだが、それに加えてさらに1kmとは。
1kmなんて大した距離じゃないはずなのに、それがイヤでイヤでしょうがないくらいに、神社への道は面倒くさかった。
それでも歩かないことにはどうしょうもない。気を取り直し、右に曲がって神社への道に入り、さらに上り坂を行く。
道路に沿って宮内という名の集落があり、すでに農家の皆さんは動きはじめていた。山間の穏やかな光景ではあるものの、
坂をくねくねと上っていっても一宮らしい気配はない。ほかの神社は点在しているが、やはり集落の規模でしかない。
iPhoneで確かめてみても正しいルートなのだが、こんなんで本当に一宮なのかよ、と疑心暗鬼になるのであった。小さい農家の集落の、その家々が集まっている場所も抜けてしまって、アスファルトの舗装はされているけど山の中、
そんな空間をひたすら進んでいくと、右手に小さな祠が現れた。祠の下には巨石があり、「安産岩」と石碑が立っている。
「安山岩」ならアンデス山脈由来の火成岩として理科の時間におなじみなのだが、こちらは安産の岩なのだ。
そしてこれこそ、倭文神社がもうすぐそこにあるという証拠なのである。ついに来たぜ、と気合が入る。
程なくして倭文神社の入口に到着。鳥居がなくて石碑と定書きがあるだけで、なんとも寂しい雰囲気である。
参道をそのまま進むと鳥居が見えて、その奥には神門。神社らしい神社の姿に、ようやくほっと一安心。
L: 宮内の集落を抜けてしまって不安になったところに安産岩(右)。ここまで来る道のほとんどは緑とアスファルト。
C: 倭文神社の入口にやっと到着。山の中の「The 行き止まり」といった場所で、来るまでに本当にウンザリした。
R: スロープ付きの石段を上がると鳥居と神門。松崎駅からここまで約4kmほどだが、それ以上に遠かった印象だ。そもそもなんで倭文神社という名前なのかというと、かつてこの地は倭文(しずおり)という織物の産地だったから。
後から安産信仰も盛んになったのだが、織物生産が廃れたので安産信仰だけが残った形になっているそうだ。
歴史をちゃんと勉強すれば難読でもなんでもないのだろうが、無知な僕には猛烈に覚えづらい名前なのであった。さて倭文神社の境内に入ったのだが、参拝をする前に経塚に寄ってみる。ここから出土したものは国宝に指定されている。
しかしながら木々をかき分けるようにして進んでいった先にあるのは、ただの穴。掘り出した後の穴は国宝じゃないのね。
汗だくになりつつ腕組みをして、なんともいえない徒労感に耐えるのであった。朝っぱらから切なくってたまらんわ。
L: 倭文神社の神門。後で気がついたのだが、お賽銭はこの神門についている箱に入れます。なんだそりゃ!
C: 伯耆一宮経塚の入口。見てのとおり、山の中を歩くことになります。せっかくだから行ってみたけどさ。
R: で、行った先にある経塚。見事に穴である。ほかには何もない。しばし茫然とするよりなかったとさ。経塚の正々堂々とした穴っぷりに茫然としきった後は、境内に戻って参拝なのである。
それまで緑一色に染まりきっていた境内も、拝殿の前は少し開けて一宮らしい威厳を存分に感じさせるようになる。
さあ参拝するぞ、と拝殿の前に立ったのだが、困ってしまう。堅く戸が閉じられており、お賽銭を入れられない。
これはどうしたものか、といったん社務所に行ってみるが、社務所も開いていない。7時ちょい過ぎはまだ早すぎるのか。
しょうないのでとりあえず、二礼二拍手一礼しておく。それから裏手にまわって1818(文化15)年再建の本殿を眺める。
朝早く苦労して来たにもかかわらずこの仕打ちということで、あんまりいい印象がないまま去ったのが非常に残念。
L: 倭文神社の境内。一宮だがアクセスしづらいこともあってか、派手な要素はぜんぜんないのであった。
C: 拝殿。戸が閉められておりお賽銭を入れられない。かわりにさっきの神門にある賽銭箱に入れるシステム。
R: 本殿はさすがに立派。しかしやはり朝早いことが災いして逆光での撮影となってしまった。がっくり。倭文神社本来の魅力をまったく味わうことができなくって、日記を書いている今でも猛烈に悔しい。
しかしリヴェンジしたいかというと、あの面倒くさい道を歩くのはもうたくさん、というのが正直な気持ちだ。
将来、真っ昼間にタクシーで入口まで乗り付けるくらいに金と暇のある人生を送りたいもんですな。帰りは下り坂になるとはいえ、歩いていてもぜんぜん面白みのない道なので、やっぱりトボトボ。
今日もあちこちめいっぱい訪れる予定なのだが、これではなんだか非常に幸先の悪い感じがしてしまう。
松崎駅までたどり着くと、そのままさらにトボトボと西へと抜けていく。閑散とした雰囲気の温泉街を抜けて、
やってきたのは燕趙園。4年前に車内から見て度肝を抜かれた中国庭園&道の駅である(→2009.7.19)。実は今回、スケジュールにはある程度の幅を持たせていた。倉吉の旧市街はいちおう4年前にも訪れているので、
倉吉ではあまりを時間をかけずに済ませて、かわりに燕趙園を散策する場合の予定も考えていたのである。
つまり燕趙園をとるか、倉吉をとるか、ってことだ。燕趙園の開園時刻は9時だが、今はまだ8時を過ぎたところ。
もし燕趙園をとるのであれば、ここで1時間ほどぼーっと待ちぼうけとなるわけで、それは非常にもったいない。
それに、かなり本気でつくられているとはいえ、この山陰地方でわざわざ中国の庭園を味わうというのも妙な気がする。
1995年のオープンということで、おそらくまだ建物は新しい雰囲気がするだろう。僕としては建物から歴史を感じたい。
おそらくテーマパークっぽい作り物くささがするんじゃないか、いつか中国へ行って本物を見ればいいのだ、そう思った。
急いで松崎駅前のバス停まで引き返すと、すぐにバスがやってきた。地元のおばあちゃんと乗り込むと、発車。
L: 倭文神社からの帰り、東郷池を見下ろしたところ。右端にあるのは昨日お邪魔した羽合温泉の千年亭。
R: 燕趙園・第1景の燕趙門。燕趙園は鳥取県と河北省の友好関係からつくられた。燕も趙も河北省にあった国だ。バスは倉吉駅に到着したが、僕は降りない。というのも、このまま旧市街地まで行ってくれるからだ。
5分ほど駅で停車したバスは新たな乗客を迎えると、県道22号をまっすぐに南下していく。そうして天神川を渡り、
するりと旧市街地に入っていく。バスだからわりとすぐに感じるが、歩けばかなりの距離があるだろう。「赤瓦・白壁土蔵」というバス停で降りると、まず4年前の記憶(→2009.7.19)を呼び戻すことから始める。
自分の頭の中にある感覚と現実の空間との擦り合わせをしながら、土地の匂いを嗅いで中心部を探して歩く。
僕が降りたのは県道205号で、倉吉の赤瓦&白壁土蔵の街並みからは少し北にはずれた位置である。
県道と直角に切り込むように歩いていくと、すぐに見覚えのある光景にぶつかった。一瞬で4年前の感覚が戻る。
そうだ、4年前もこの場所からスタートしたんだ、と思い出す。あのときと同じように、まずは市役所からだ。
羽衣伝説の天女の絵と擬洋風建築を思わせるファサードが前面に出されている小学校をかすめるように進むと、
モダニズム建築の傑作として有名な倉吉市役所が現れる。敷地の高低差もあり、全容がつかめないのは4年前と一緒。
L: 倉吉市役所。丹下健三と岸田日出刀の設計により、1956年に竣工。初期の丹下建築としてきわめて重要な作品。
C: 左は西側の入口から撮影した写真だが、こちらは東側の入口から撮影したもの。こうして見るとふつうな印象。
R: 坂道を上りきって南東側から振り返ったところ。やはりこっち側はあんまりはじけていないですな。倉吉市役所の竣工は1956年ということで、あの香川県庁舎(→2007.10.6)の2年前になる。
まあ考えようによっては、この倉吉市役所は香川県庁舎へ至る途中経過という見方もできるだろう。
外面はごくふつうの昭和モダニズム役所建築な側面がありつつも、ところどころで香川につながる冴えが見られる。
L: 南西側より眺めたところ。これははっきりと凝ったデザイン。 C: 北西側より眺める。これで一周。
R: というわけでエントランスより中へ入るのだ。天井の梁が後の香川県庁舎へのヒントになっているのだろう。中に入っても倉吉市役所は独特で、2階レヴェルも外部空間のままとなっているのだ。
むしろ高低差のある敷地の地形をそのままにした分、オープンスペースを2階に用意したように感じる。
庁舎建築でそんな大胆なことをやってのけている事例はほかに見たことがない。しかもそれは1950年代の話なのだ。
この時期の丹下は「シティ・ホール」の概念を追求していたようで、この2階レヴェルのオープンスペースはおそらく、
庁舎内に直接的な公共空間を実現させようという「シティ・ホール」概念の前段階の形だったのではないだろうか。
丹下は倉吉市役所が竣工した翌年の1957年に先代の東京都庁舎(丸の内のやつ)を建てている(→2010.9.11)。
倉吉市役所2階のオープンスペースは都民ホールになり、香川県庁舎でも吹抜のアトリウムとなった。そう思うのだ。
L: 中に入るとこの光景。内部のはずなのに外部という空間になる。 C: 階段を上がって振り返ったところ。
R: 倉吉市役所2階のオープンスペース・バルコニー。起伏の激しい敷地とは対照的な安定した大地がここにある。2階からあらためて市役所の中に入る。オープンスペースのすぐ南側は議場になっていたのでちょっとお邪魔する。
そして小さな中庭を挟んで事務スペースとなる。けっこう派手に耐震補強がなされているようなので、
竣工当時の雰囲気がどの程度残っているのかは正直、僕にはよくわからない。しかし外見以上に切れ味を感じる。
L: 議場。このあっさり感がなんだか昭和だ。 C: 申し訳程度の面積しかないが、和風に凝っている中庭。
R: 竣工当時からどの程度変化しているかわからないが、この天井が1956年のデザインだと思うと圧倒されるぜ。というわけで2階は切れ味を感じさせる要素がいろいろあったのだが、1階を通り抜けてみたらすごく無機質だった。
窓口という市民と顔を合わせるスペースには気合を感じるのだが、市民の来ないであろう空間は正反対な印象。
まあこれは50年以上使っていく中でそのようになっていったのかもしれないけど、この落差には驚いたわ。
L: 倉敷市役所1階の様子。なんだこりゃ。 C: 東の端っこにある売店でジュースを買う。今日も炎天下なのよ。
R: 東庁舎も軒の梁が本庁舎に合わせてある。部分的にすごく香川県庁舎っぽいので、これも丹下の設計なのかな?やっぱり有名建築は中をしっかり見ないとダメだなあ、と実感しつつ、倉吉市役所の隣にある公園へ移動。
桜の名所として知られる打吹公園である。1904(明治37)年に皇太子(大正天皇)の宿泊地として整備された。
山麓にあるので当然なのかもしれないが、全般的に管理されていない緑の比率が高く、やや暗ったい印象が漂う。
日本庭園っぽい入口を抜けると山へと向かう道になり、広い場所に出たと思ったら、そこには猿山があった。
奥の方には動物園らしいオリがあった。いかにも公園に併設されているらしい規模だが、猿山はやや立派である。
L: 打吹公園入口。市役所のすぐ隣にあるのだ。 C: 猿山。公園に併設されているわりにはそこそこ立派だ。
R: 奥にある動物たちのオリ。ヤギにモルモットに鳥類など、おとなしめの動物たちがのんびりと過ごしていた。展望スペースがあるらしいということで、行けるところまで行ってみる。道はそれなりにきっちり山道で、
あんまり一生懸命に登っていっても帰りで苦労するだけのような気がしてきた。途中に展望台があったので、
そこで景色をちょろっと眺めて引き返したのであった。どうもそれより先に大規模な展望スペースがあったようで、
その場所まで行けばもっといい景色が眺められたのかな、と今にしてみれば残念な思いもある。ニンともカンとも。途中の展望台から見た倉吉の街はあんまり冴えない感じ。
山の中から戻ってきて、それでは倉吉の白壁土蔵群を歩きますか、とはならないのだ。見てみたい場所がある。
土蔵の並ぶエリアから西へとどんどん進んでいく。今では完全に住宅地だが、道はいかにも旧街道の雰囲気を保っている。
空間に刻み込まれた記憶が穏やかに放出されている感じだ。この旧街道、「八橋(やばせ)往来」という名がついている。
倉吉と八橋(現・琴浦町)を結ぶ街道なのだが、開発を免れたのが幸いしたのか、自然な曲がり具合が実に興味深い。
特に小鴨川と交差する辺りの風情はかなり見事で、歩いていると空間の歴史の香りが豊かに漂ってくるのがわかる。
L: 八橋往来を行く。今は純粋な住宅地となっているが、かつての街道ぶりが今もはっきりと読み取れるのだ。
C: 小鴨川と交差する地点。左端には地蔵もいる。この辺りには昔からの商店も点在しており、懐かしさ満開。
R: 小鴨川を越えて続く八橋往来。われわれはこういう街を大切にしていかなくちゃいけないんだよなあ。八橋往来を歩いていくのも面白そうだが、今回は小鴨川沿いに南西へと入っていく。途中に造り酒屋があり、
白壁赤瓦の立派な建物やレンガの壁などが静かに建っていた。観光名所ではなく、昔ながらの用途を守っている。
こういうものがさりげなくきちんと残っているところに、倉吉という街の凄みを感じざるをえない。とはいえ建物はきっちりとリニューアルされている感触。
小鴨川沿いを進んだ先にあるのは、旧倉吉町水源地ポンプ室だ。1932年の竣工で、現在はその役目を終えている。
しかし建物じたいは国登録有形文化財に指定されており、敷地の外側から好きなだけ眺めることができるのだ。
いかにも昭和初期らしくアール・デコの風味を混ぜながら古典的な様式をモダンに解釈しており、非常に面白い。
でもすばらしいのは建物だけではなく、その周囲にあるレンガ造りの低い塀とその上の柵が絶妙なバランスなのだ。
この囲いが雰囲気満点なので、囲い越しに眺める建物の見映えが増しているのだ。手前が川なのもまたいい。
L: 旧倉吉町水源地ポンプ室。街はずれの住宅地にあるが、この一角だけ雰囲気が違う。奥にあるのが現役の取水施設。
C: 建物だけを単体で見ると、それなりに立派ではあるが、やや味気ない。 R: 結局、この囲いがいいのだと思う。帰りは気ままに東へ抜けていったのだが、運よく途中で興味深い建築に出くわした。明らかにふつうじゃない。
これだけ目立つ建物なのに周囲には何なのか紹介する要素がまったくない。調べてみたらやはり小学校の校舎だった。
この旧明倫小学校円形校舎は、坂本鹿名夫という円形校舎を建てまくった建築家の作品である。
倉吉市では耐震工事に金がかかるため解体の方針を打ち出しているため、一切のPRがなされていないというわけだ。
しかし保存・活用を求める運動も行われており、今後どうなるかはよくわからない。注目したいところである。
L: 坂本鹿名夫の設計で1955年竣工の旧明倫小学校円形校舎。一切の紹介がなされていないが、明らかに凝った建築だ。
R: 別の角度から眺めたところ。ガラス窓の面積が非常に大きい。円形校舎の実用面の評価ってどんなもんなんですかね。中心部に戻る途中、レンタサイクルがあちこちに置かれているのを見て、全力で後悔する。歩きだと大変なのだ。
まあでも歩きだからこそじっくりと街の雰囲気を味わうことができたんだ、と強がって無理に納得しておく。
そんな具合に気持ちを切り替えて白壁赤瓦の街並みに入る。雰囲気としては4年前(→2009.7.19)と大差はない。
もっともあのときは雨が降り出す直前ということで、どうしても街全体に薄暗い印象を抱かざるをえなかった。
それに比べれば今日はしっかりと晴天に恵まれている。それだけでも街並みが活気あるように見えるってもんだ。
L,C,R: 倉吉の旧市街地を歩く。平日だからか観光客はそれほど多くなかったが、かえって生活に密着している街という印象。
L: 打吹玉川の白壁土蔵群・赤瓦らしい風景。 C: 土蔵の敷地に入るとこんな感じになっているのだ。
R: 玉川と赤瓦一号館を4年前とは異なる角度から撮影してみた。まあ、いかにもな写真であります。せっかくなので、街並みだけでなくそれぞれの建物にも焦点を当ててみたい。現在、赤瓦は十六号館まであるが、
番号はけっこう飛び飛びだし、ぜんぶがぜんぶ貴重な建物というわけではない。とりあえず、赤瓦とは関係なく、
目についた建物の写真を貼り付けていってみる。4年前とかぶっている物もあるが、その辺は気にしないのだ。
L: 豊田家住宅。こちらの主屋は1900(明治33)年の築。中では毎日、歴史講談が行われている。やる気ですなあ。
C: ぎゃらりー和(旧日本産業貯蓄銀行倉吉支店)。1931年竣工。周囲とは明らかに異質な建築だが、それもまたよし。
R: 赤瓦十三号館・白壁倶楽部(旧第三銀行倉吉支店、倉吉大店会)。4年前と同じ構図だが、なんてったって天気が違う。
L: 赤瓦六号館・桑田醤油醸造場。 C: 高田家住宅(高田酒造)。主屋は1843(天保14)年築で、さすがの風格。
R: アートハウス夢扉。もともとは高田酒造の酒蔵だったが、現在はアトリエとして使用されているそうな。とにかく歩きまわることで、倉吉らしさは存分に味わうことができた。4年前のリヴェンジをしっかり果たした。
満足して次の目的地へと向かうバスに乗り込む。荷物は倉吉駅に預けたままだが、まだまだ駅には戻らないのだ。
倉吉の旧市街からさらに奥へと進んで、目指すは三朝温泉。今日もしっかり温泉に浸かってやるのである。
三朝温泉といえば、通ならさらにもっと行って三徳山三仏寺、いわゆる投入堂まで行くべきなんだろうけど、
残念なことに投入堂への登山道は一人だけで入山することができないのである。一人旅ではあきらめざるをえない。
まあこれはいずれまた機会を待つことにしよう。そもそもが旅行のついでで行けるような場所じゃないのだ。国道の立派な道を進んでいくこと30分弱で三朝温泉に到着する。もっと温泉街として開けているかと思ったら、
予想外に田舎だった。確かに宿泊施設などは充実しているのだが、街としては非常に貧弱な印象である。
ともかく、三朝温泉に着いたからにはやらなくちゃいけないことがあるのだ。一人旅でもオレはやるぜ!
L: 三朝温泉に到着。温泉街は三徳川の左岸にあり、写真は三朝橋越しに右岸の旅館群を眺めたところである。
C: その三朝橋のたもと(左岸)にあるのが、名物の河原風呂だ。24時間入浴可能で無料だが丸見えという究極の湯。
R: というわけでやってきました河原風呂。いかに丸見えであるかがおわかりいただけるでしょうか。そう、三朝温泉といえば、なんといっても河原風呂である。いつでも入浴可能なのはいいが、すべてが丸見えなのだ。
本来ならば面白がってくれる仲間がいるところで敢行すべきなんだろうが、まあ小さいことは気にせずやるしかないわな。ほれ。
お湯もそれなりに熱いのだが、日差しがキツいので周りの石が熱くなっているのがいちばんつらかったですな。
平日の昼間は難易度低すぎだぜ! 近くの店のおばちゃん計2名がそれとなく見ていたけど気にしないぜ!
しかしまあ首から上の日焼け具合がすごいねえ。いかにこの山陰旅行が天気に恵まれていたかがよくわかる。しばらく河原風呂に浸かっていたのだが、おばちゃんがチラチラ見てくるくらいで単独犯だと特に面白くなかったので、
上がって温泉街を往復してみた。が、やはりどうにも小規模。路地といっていい広さの通りに寂れた店が点在するだけ。
夜になればまた別の顔を見せるようになるのかもしれないが、真っ昼間だとまったくもってつまらない。これが三朝温泉の温泉街。夜になればまた違った雰囲気になるんだろうけど……。
あらためて三朝橋のすぐ近くにある「たまわりの湯」に浸かる。三朝温泉のお湯はラドンを含んでいることで有名。
温泉中の放射能にどれだけの効能もしくは害があるのかよくわからないが、疲れが癒せればそれでいいのだ。
しっかり浸かってやる気を充填すると、バスで一気に倉吉駅まで戻る。運転手さんとは河原風呂の話で盛り上がったよ!倉吉駅で荷物を回収すると、山陰本線でいよいよ鳥取市へと向かう。列車に揺られること1時間弱で鳥取駅に到着。
しかし鳥取市内の観光はせず、そのままバスターミナルでバスの発車を待つ。すでに青と黒のユニに身を包んだ人がいて、
平日昼間なのにやる気だなーと半ば呆れつつ感心。そう、今日はガイナーレ鳥取とガンバ大阪の試合観戦で締めるのだ。
まさかのJ2降格により、G大阪は今シーズン、地方巡業に勤しんでいる。逆にG大阪を迎える地方都市にしてみれば、
遠藤が来るぞ今野が来るぞということで観客動員のチャンス。全国各地のスタジアムがG大阪のおかげで大賑わいなのだ。
そして今日は、鳥取市営サッカー場(とりぎんバードスタジアム)でG大阪のアウェイゲームが行われるのである。
そのため会場周辺が大混雑になることを見越して、19時30分のキックオフよりかなり早めに行動を開始したというわけだ。15時20分、キックオフの4時間前もだが、バスは鳥取サポとG大阪サポと関係ない乗客と僕を乗せて鳥取駅を出る。
鳥取市営サッカー場(面倒くさいんでしょうがないけど、以下「とりスタ」)へのシャトルバスはもちろん出るのだが、
それに乗っているとたぶん混雑に巻き込まれる。そう判断して、ふつうの路線バスでとりスタを目指すことにしたのだ。
そのため、遠回りなルートでバスは走っていく。まあ僕にしてみれば、明日のいいシミュレーションなので問題はない。
鳥取駅からとりスタへはまっすぐ南へ行けばいいのだが、ゆったりと東へ迂回して因幡国庁・国分寺跡までまわっていく。
津ノ井駅から因美線を越えて田んぼの中を走っていくと、とりスタが遠くに見えてきた。すでに人の気配がいっぱいだ。
バスを降りると、とにかく早足でとりスタを一周する。初めて訪れるスタジアムは必ず一周する、恒例の儀式である。
L: 鳥取市営サッカー場(とりぎんバードスタジアム)。ご覧のとおり、田んぼのあぜ道にお邪魔して撮影してみた。
C: 角度を変えてメインスタンド側を眺める。 R: バックスタンド側。まだ出店はなく、G大阪サポが並んでいた。今回はメインスタンド側のチケットを確保したのだが、なんせほぼすべてが自由席なので(地方はたいていそう)、
いい席で観戦するには早くから並んでおくしかない。家族連れの後ろについてずーっとぼけーっと待つのであった。
しかし行列はどんどん長くなっていき、通路をつくるために僕の真後ろでいったん列が切られて移動となった。
おかげで勘違いして僕の後ろに並んでしまう客に「すいませんが……」と声をかけるボランティアを延々とやることに。
僕にはイベントスタッフとして奔走した経験があるから、スタッフ側の苦労がわかってしまうのである。
やはり鳥取県民にとってG大阪が来ることはものすごい一大事であるようで、人の集まってくる勢いはまったく落ちない。
並んでいる鳥取サポも口々に驚きの声をあげており、サッカークラブの生み出す賑わいについてあらためて実感した。
それだけにスタッフも本当に忙しそうで、このクソ暑い中、本当にお疲れ様です……と思いながら待つのであった。
L: とりスタのピッチをメインスタンドの端っこから眺めたところ。 C: ホームゴール裏。外の行列がすげえー!
R: メインスタンドの鳥をイメージした屋根。とりスタはハコモノ建設が先行投資として生きた興味深い事例と言える。とりスタはインターハイ開催を機に建設が決まったスタジアムだが、1993年にJリーグが開幕したことで計画が変わる。
「どうせならJリーグの試合が開催できるサッカー専用のスタジアムをつくっちゃえ!」と総額40億円がつぎ込まれたのだ。
当然、県内のあちこちから大反対されるが、市の担当者が粘り強く交渉して竣工させ、Jリーグの公式戦も開催させた。
その後は積極的に活用される機会があまりなかったらしいが、SC鳥取がJリーグ入りを目指したことで、立場は一変する。
すでにこのような立派なスタジアムがあったからこそ、ガイナーレ鳥取は比較的スムーズにJ2参入することに成功したのだ。
アルウィンのある松本山雅によく似た話だ。スタジアムのない長野パルセイロはJ2参入までまだ数年待つ必要がある。
ハコモノ建設を単純に悪とみなす風潮があるが、ハコモノを生かすも殺すも住民しだいであることを示す好例であろう。登録しているクラブサポーターを先に入場させて、ようやく一般客も入場となる。それでも十分、いい席が確保できた。
あちこち撮影を済ませてしばらく待つ。空がたっぷりと夕焼けの朱色を含みだした頃、いよいよ両チームの練習が始まる。
L: アウェイゴール裏のG大阪サポ。平日夜の開催なのによく集まっているなあ。これこそがクラブの底力なのだ。
C: 気勢を上げるホームゴール裏の鳥取サポ。二十世紀梨でおなじみのライトグリーンが踊っている。うーん、鳥取。
R: 出ました、野人こと岡野。信じられないけど、もう41歳なのね。でも今日も元気にベンチ入りしているのだ。現在、鳥取はビリから2番目の21位でJ3降格の危機にある。対するG大阪は圧倒的な攻撃力で首位を快走中。
あまりにも対照的すぎる成績の2クラブが激突するわけで、正直なところ、鳥取が勝てる確率は非常に低いだろう。
ただ、それを覆すのがサポーターの応援であり、サッカーというスポーツの可能性なのだ。やってみなくちゃわからない。
見れば、G大阪のサイドでは日本代表の遠藤と今野が組んで基礎練習中。このふたりの経済効果はすごいものだ。
しかしよく考えてみると、一昨年にもFC東京が地方巡業をやっていたのだが、今野はそれにも参加していたな……。
L: 仲良く基礎練習中の遠藤と今野。日本代表どうしということでか、こういうところでもコンビで動いているのね。
C: ダンスを披露するガイナーレガール。チアではなくってヒップホップダンスとは、ちょっと意外な感じだ。
R: 強小戦士ガイナマン。『プリンセスメーカー』でお世話になった赤井孝美がデザイン。その斬新さで人気があるのだ。両チームの練習が終わる頃にはスタジアムは程よい状態で盛り上がっており、地方都市らしい穏やかな熱気でいっぱい。
強いビッグクラブであるガンバ大阪に対し、「強小」をスローガンにして戦うガイナーレ鳥取がどこまでやれるのか、
ワクワクしながらキックオフを待つ。当然、今日の僕は鳥取贔屓だ。特に注目したいのは、10番をつけている実信。
この人はSC鳥取時代から10年にわたってプレーし、鳥取がJ2に昇格すると「三十路の新人Jリーガー」として注目された。
僕はこういう選手こそ本物のバンディエラだと思っているので、そりゃあ応援したくなるってもんだ。
L: 真ん中のひと際小柄な選手が実信。JFL時代から鳥取の10番を背負い続けている選手なのだ。かっこいいなあ。
C: 鳥取のGK小針。岡野とともに鳥取のコワモテ担当と言ったら失礼か。でもさすがにふたり並んだら迫力あるわな。
R: さすがにサッカー専用のスタジアムなので、とりスタは観戦しやすい。地方でも選手が近くで見られるのは感激だ。試合が始まってからしばらくは互角の印象だった。G大阪は余裕を持ってじっくりと様子を見ながらのプレーなのに対し、
鳥取は積極的に仕掛けていく場面が目立つ。そしてわずか前半10分、前線からの守備でボールを奪い返した鳥取は、
うまくつないでシュートにもっていくと、これが前にいたFW永里にヒット。しかし永里はそのボールを足下に納め、
相手を巧みにかわしてシュートを放ち、先制に成功する。まさかの展開にとりスタは爆発的な歓声に包まれる。
これよ! これが見たかったんだよ!と僕も大いに喜ぶが、G大阪にとってこの失点は、痛くもかゆくもなかったようだ。
落ち着き払ったG大阪の選手たちはボールをまわして攻撃のチャンスをうかがう。組織と個、それがサッカーの強さだ。
組織的にボールをコントロールした後には、個の才能によるフィニッシュが待っていた。29分、宇佐美が同点弾を放つ。
中盤でのパス交換からいきなりシュート。ペナルティエリアの外から放たれたシュートはすっきりとゴールに突き刺さる。
ゴールを決めた宇佐美は鳥取のゴール裏の前で跳び上がって喜びを爆発させる。が、それは僕にとっては悪印象だった。
相手への配慮を見せない、個人としての喜び。彼はチームのためではなく、自分のためにプレーしているのではないか、
そういう印象を与える喜び方だった。まあこれは僕の勝手な受け止め方なのだが、少なくとも僕はそう感じたのだ。そのわずか3分後にも宇佐美はゴールを決める。浮き球のパスに抜け出してボールを受けると、コントロールしてシュート。
強い組織と強い個が見事に融合しているサッカーなのは間違いない。宇佐美はFWとしてのエゴを遺憾なく発揮している。
L: ゴールを決めて跳び上がって喜ぶ宇佐美。でもそこは鳥取のゴール裏の前だぞ。あんまり空気読めてる感じがしないなあ。
C: 2点目を決める宇佐美。相手がいてもお構いなしに、一直線にゴールを狙う。ゴールしか見えていないんじゃないか。
R: ドリブルする宇佐美を鳥取の選手たちは捕まえることができない。スルスルとすり抜けてしまうのだ。その後もG大阪はゴールラッシュ。前半のうちに3点を奪って形勢をだいたい決めてしまうと、後半も攻め続ける。
鳥取は相手のボールまわしに翻弄され、途中で足が止まってしまった。それを見逃さずG大阪は得点を重ねていく。
注目していた鳥取の10番・実信も、確かに非凡なセンスでパスを供給していた。ピッチ上で違いを感じさせた。
しかしチーム全体が動きを止めてしまっていてはどうしょうもない。鳥取のプレーはどんどん縮んでいく一方だ。僕は判官贔屓なのでどうしてもG大阪の方が悪役に見えてしまうのだが、G大阪は「ふてぶてしい」印象だった。
アウト・オヴ・プレーの動きが遅くて、その分だけ休んでいるようにみえるのだ。たとえばゴールを決めた後、
戻ってくるまでが異様に遅い。鳥取の選手が全員キックオフの態勢に入っていても、まだ相手陣内で喜びあっている。
まあそういう要素も含めて、自分たちのペースにもっていくのが上手い。その辺はさすが強豪だと思わされる。
L: ガンバはまず遠藤にパスを出す。遠藤は広い視野で前線にパスを供給。代表のときよりもロングパスがかなり多い。
C: 足の止まった鳥取を相手に繰り広げられるG大阪のゴールラッシュ。ホームでの惨劇は非常につらいものがある。
R: ゴールを決めてから自陣に戻ってくるのがやたらと遅いガンバの皆さんの図。こうやって体力を回復させているわけだ。非常に残念だったのは、勝負の大勢が決した後、あきらめた鳥取サポの子どもたちが遠藤をからかいはじめたことだ。
子どもたちは最前列から「ガチャピン、ガチャピン」と声をあげて小馬鹿にする。そしてそれを親が止めようとしない。
地方都市でサッカー観戦をしていてイヤな気分にさせられることは、正直なところ、僕はわりと多く経験している。
ホームのチームが不利な状況で審判に対して不当な文句を大声で叫んだり、試合そっちのけで別のことに夢中になったり。
そういう光景を目にするたびに、日本におけるサッカー文化がまだまだ低いことを実感させられて心底イヤになる。
まずは観客としてのレヴェルを上げていかないことには、日本は永遠にサッカーの強い国になることができないだろう。
そして、地方都市こそがその底上げ作業の主な対象となるだろう。地道に観戦レヴェルを上げていくしかないのだ。
この日の入場者数は10,096人で、これはガイナーレ鳥取の公式戦としては史上最多の動員数となったそうだ。
それだけに、大敗だろうと最後まで鳥取の応援に集中できない観客が出ていたことは、残念であるとしか言いようがない。結局、最終的に1-7というスコアで鳥取は敗れた。あまりにG大阪が強すぎて笑うしかなくなってしまった、そんな感じだ。
しかし最後に投入された地元出身のFW谷尾は、鳥取のJ2残留に向けて希望の持てるプレーぶりを見せてくれたし、
敗れた選手たちをあたたかく迎えた鳥取サポの姿もまたすばらしいものだった。「強小」鳥取の進化に期待したい。さて、とりスタに来たときも地獄だったら、当然ながら帰るときも地獄なのである。とにかく凄まじい人の数だった。
鳥取駅行きのシャトルバスを待つ列はバックスタンドの端からスタジアムの周囲1/3ほどの位置にまで延びており、
これはいつ帰れるんだ……?と、途方に暮れるしかなかった。おまけにバスに乗る直前に突然、雨が降り出すし。
それでも長蛇の列に並ぶ人々を慰めるべく強小戦士ガイナマンが出動するなど、ホスピタリティは感じられた。
すべてが上手くいくはずなどないのだ。つらい経験を糧にして、着実に一歩一歩成長していくしかないのだ。
鳥取のG大阪戦は、きっとあらゆる方面に多くの教訓を与えてくれたはずだ。その瞬間に立ち会えたことを喜ぼうと思う。バスに揺られて鳥取駅に着くと、コンビニで晩メシを買い込んで宿まで歩く。僕はまったく意識していなかったのだが、
予約していた宿はなんと、4年前とまったく一緒だった(当時の現場写真 →2009.7.20)。なんだか少しうれしかった。
明日は東京に戻るので、今回の旅行で宿に泊まるのは今夜が最後になる。最後の最後でプレゼントをもらった気分だ。
そう、今回の山陰旅行は「すべてやり尽くすための旅」なのだ。4年前を基本にしてなぞりながら、その上をいく旅。
これ以上、それにふさわしい宿はないんじゃないか。そう思って大いに喜びながら布団の中に入る。さあ、旅は明日が最終日だ。最後まできっちりやりきって、僕の中に生きる山陰を完璧になものにしよう。
朝6時前に米子駅へ。まず最初にやることは、バスターミナルで「鳥取藩のりあいばす手形」を買うことである。
これは1800円とけっこうなお値段なのだが、3日間にわたって鳥取県内の大部分のバスを乗り放題できるという優れもの。
バスターミナルはすでに営業しており、さっそく購入。これで旅行後半の3日間は大胆に動きまわることができる。6時18分、バスが出発。本日最初の目的地は皆生温泉だ。米子といえば皆生温泉だ、入らないわけにはいかないのだ。
バスの中では窓の外を眺めて米子市街の概要をつかむ作業に徹する。それでこの後の行動がずいぶん楽になるはずだ。
途中、米子市公会堂の脇を通る。米子市公会堂は1958年竣工で、設計は村野藤吾。当然チェックすべき建築だが、
見事に青いシートに全体を包まれており、何も見えない。改修工事の真っ最中で、来年春までかかる予定なのだ。
4年前に米子を訪れた際には、公会堂に行かなくちゃという発想がまだなかったのがもったいない(→2009.7.19)。
全力で悔しがっている間にバスはどんどん先へと進んでいく。市街地から郊外の雰囲気へとだんだん変化していくが、
かといって大規模なロードサイド店ばかりが並ぶ光景になることはない。住宅が適度に混じって穏やかな感触なのだ。
米子の規模の大きさと、市街地から皆生温泉までの距離感がそうさせているのかな、などと思いながら窓の外を眺める。出発してから20分ほどで、バスは皆生温泉に到着。まだ7時前ということで、観光センターの建物内には入れない。
とりあえず周辺をぶらぶらと歩きながら、本日最初の目的地を目指すことにする。まずは東へと歩いていったのだが、
温泉旅館は点在しているといった感じで、なんだかスカスカしている。賑わいを感じさせる密度では全然ないのだ。
皆生温泉神社にも寄ってみたのだが、これまた規模が小さくて肩透かしを食った気分。知名度のわりに、どうも地味だ。
なんだか僕が想像していたのと、実態はだいぶ違っている。皆生温泉周辺が温泉街として開発されたのはけっこう最近で、
20世紀に入ってからのことなのだ。そういう歴史の新しさがどこか閑散とした雰囲気につながっているのかもしれない。こちらは「トライアスロン通り」。温泉街のわりにはスカスカ感がある。
さて、皆生温泉でお邪魔するのは当然、東光園である。菊竹清訓の設計で1964年に竣工した本館を目にした瞬間、
なるほどこれは菊竹だ!と圧倒されたのであった。あまりに朝早すぎて逆光に苦しみながらの撮影だったのだが、
温泉旅館でこれをやるとは……と度肝を抜かれつつシャッターを切った。いや、本当にこの存在感は凄い。
L: 東光園・本館「天台」。特に個性のない温泉旅館が点在する中、この建築はかなりの存在感。ただ圧倒された。
C: あまりに逆光がキツいので角度を少し変えて撮影してみたけど、大してあんまり変わんないなあ。
R: 中庭に出てから振り返った本館。これが温泉旅館ってのが信じられない。出雲大社がモチーフって本当かよ。東光園は日帰り入浴が可能ということで、さっそくフロントへ。ホームページで調べたら朝5時から入れるはずで、
意気揚々と「入浴したいんですが!」と突撃したところ、「ただいまの時間は宿泊の方のみですが……」と返されて撃沈。
しかし呆気にとられている僕があまりに哀れに見えたのか、「わかりました。いいですよ」と入れていただいた。
本当にすいませんそしてありがとうございました。まあ朝7時前にバスで来るやつなんてほかにいないだろうもんなあ……。
いつの日か、きちんと宿泊して建物の内部もばっちり見学させていただきたい。返したい借りができてしまったわ。というわけでさっそくお湯に浸かる。内湯も露天もたいへん快適で、時間を忘れる危険をヒシヒシ感じつつの入浴。
朝からいい湯に浸かることができると、一日をエネルギッシュにやり切ろうという気力が湧いてくるものなのだ。
旅行は今日から後半戦、舞台は鳥取県に移ったが、非常にいいスタートができた。旅先の親切は本当にありがたいです。
L: 1階ロビーはこんな感じ。いつかここに泊まって、内部空間もしっかりと味わいたいものである。
C: こちらは本館の北に位置する新館。これも菊竹の設計だが、こちらは特に目立ったところのない建物だ。
R: 海側から眺めた新館。本館を強調するためにこうなったのか、意図がなんともよくわからない。残った時間は海岸に出て、のんびり散策して過ごす。皆生海岸は海水浴場となっており、砂浜がカーヴを描いて続く。
なるほど確かに、海水浴を楽しんでからそのまま温泉に浸かるというのは、特に家族連れには魅力的なプランである。
玄関に浮き輪が置いてある旅館を何軒か見かけたが、それが皆生温泉の正しい楽しみ方ということなのだと納得。
すでに日差しは強烈で、今日もしっかり暑くなりそうだ。しかし唯一残念だったのは、大山が見えなかったことだ。
4年前には曇りで大山が見えず(→2009.7.19)、今度こそは海越しにその威容を拝めるだろうと思っていたのだが、
南東の方角にだけ雲がかかって見えなかった。まあ、なんでもかんでもそうそう都合よくはいかないものなのだ。
L: 大山の方角にだけ雲がかかっているんでやんの。 R: しかし皆生海岸はいい感じに晴れ渡っているのであった。バスで米子の中心部に戻ると、レンタサイクルを申し込む。貸し出し開始と同時に手続きをして無事に借りると、
まずは駅から一気に走っていき、国道9号を左折。そうして上り坂を少し行ったところにあるのが米子城址の登り口。
米子城址の石垣は実に見事で、さっき曲がった交差点からその威容を見ることができる。遠目で見ても美しいのだ。
もしあそこから街を見下ろすとどんな景色が楽しめるんだろうか、とワクワクしながら自転車を停めて、いざ登城。
虎口が登り口となっているのだが、すでに駐輪している先客がいる。その正体は、テニス部の中学生たち。
途中にテニスコートがあって連中がポコポコ打っていたのだが、この場所はかつて二の丸御殿があったそうだ。
さらに進んでいくと長屋門が現れる。これは1953年に移築されたもので、米子城址はどうも歴史の改変が激しいようだ。
ちなみにこの旧小原家長屋門は1984年まで、米子市立山陰歴史館として利用されていたそうだ。不便な位置である。
4年前のログでもふれたが、現在の山陰歴史館は旧米子市役所の建物を使用している。まあ、詳しくはまた後で。旧小原家長屋門を抜けると、米子城本丸への道はやはり、緑に包まれて登山コースのような様相を呈してくる。
しかし石段がしっかりしているので、近世城郭としての雰囲気は十分に残している。立派なものだと思いつつ登っていく。
やがて開けた場所に出ると、そこにはすばらしい石垣が何層にも折り重なっていた。これには思わず言葉を失った。
虎口から5分ちょっとだが、それなりの高さを登ったはずなのだ。まさか頂上にこれだけ見事な石垣があるとは思わなかった。
崖を背にして少し怖かったが、そんな気持ちが軽く吹っ飛ぶほどに石垣に見とれてしまった。わざわざ登ってよかったよ。
L: 米子城址への登り口はいくつかあるが、今回は大手の虎口から登ってみた。まずはこの見事な石垣がお出迎えなのだ。
C: しばらく行くと旧小原家長屋門。まったく関係のない武家屋敷の門を城跡に移築する神経は、正直理解に苦しむところだ。
R: 山道を登っていくと、右手にこの石垣が現れる。さっきの虎口もきれいだったが、それ以上に圧倒的な姿を見せている。最後の石段を上りきると本丸に出る。本当に広々としていて、視界を遮るものは何もない。なんという開放感だろう。
これだけすばらしい場所が日本100名城に入っていないのが信じられない。まあそもそも城を100選ぶのが無理な話で、
あんなものは単なる目安にすぎないのだ。これだけ美しい米子城址を落としている時点で信用ならねえ、心底そう思う。
米子城は歴史的には目立った存在ではないことで、損をしているのかもしれない。米子は伯耆国でいちばんの都会だが、
戦国時代には没落していく山名氏から尼子氏の支配に替わり、さらに毛利一族の吉川広家の領地へと替わっていった。
関が原以後は中村一氏・一忠らが治めたが、程なくして鳥取藩の池田光政が因幡・伯耆の全域を治めることとなり、
米子の地位が相対的に下がってしまった。これがけっこう痛かったと思う。本来なら伯耆を代表する都市のはずなのに、
因幡も含めての「第二の都市」になってしまったのだ。鳥取県成立後もこの構図はずっと続いている。かわいそうである。米子城本丸跡(湊山公園)。まさか山の頂上にこんな広大な空間があるとは。
ではいよいよ、天守跡からの眺めを楽しませてもらうのだ。本丸の北東端へと歩いていくと、目の前の光景に息を呑む。
凄い。これは本当に凄い。本丸じたいも見事なのだが、そこから眺める景色はまさに、筆舌に尽くしがたいものがある。
とにかく平らな弓ヶ浜半島に広がる街が一望できるだけでなく、その奥で島根半島が街を見守るようにたたずむ姿、
さらに稜線はなだらかでも誇りを存分に感じさせる雄大な大山の姿、それらをすべて見渡すことができるのだ。
L: まずは左、弓ヶ浜半島を埋め尽くす市街地と、それを見守るように延びる島根半島。手前は武器庫があった内膳丸。
C: 米子市役所方面を眺める。都会だなあ。 R: 天守跡と大山。米子城址の絶景ぶりにはもう何も言葉が出てこない。あまりの絶景ぶりに、しばし茫然としてしまう。やがてようやく気がついて、パノラマ撮影をやってみる。
今のデジカメではパノラマ撮影はほとんどやっていないのだが、さすがにこれはやらないわけにはいかなかった。
米子城址より眺める弓ヶ浜半島・米子市街。いかがでしょうか。実物はもう、とんでもない絶景ですぞ。
あんまりのんびりしているわけにもいかないのだが、できるだけこの景色を目に焼き付けておいてから城を下りる。
今回の山陰旅行ではいろいろなものを見たり味わったりしているが、米子城址の景色はその中でも特別なものだった。登り口に戻ってから、湊山公園の米子港側にまわり込むべくペダルをこぐ。なぜか道はけっこうややこしくて、
(4年前には車でアクセスしているのだが、かなり迷ってしまって結局、米子城址に登ることができなかったのだ。)
やっとの思いで水辺に出ることができた。周囲を陸地に囲まれているので一見すると川べりのような雰囲気だが、
実はここは川でもなく海でもなく、湖。汽水湖・中海の南東端なのだ。山陰はいろいろ奥が深いなあと思いつつ進む。湊山公園を抜けて目指すのは、後藤家住宅。しかしその途中に面白いものを発見して自転車を停める。
清洞寺という寺の跡地なのだが、赤い紙と白い紙が岩にベタベタと貼り付けられている。実はこれはここだけでなく、
米子市内ではちょこちょこ見かける光景なのである。亡くなった人を供養する「札打ち供養止め」という風習だそうだ。
地蔵などに白い紙の札を7日ごとに貼っていき、49日目となる7回目に赤い札を貼っておしまい、とのこと。なるほど。中海から川沿いに少し入ったところにあるのが後藤家住宅だ。回船問屋だった豪商の住宅で、重要文化財になっている。
ちなみに後藤家は弓ヶ浜半島の開拓事業も行っており、境線の後藤駅はその名残だそうだ。すごいもんである。
建物の幅はけっこう広く、手前の道が狭いので、写真はどうしても交差点越しに撮影せざるをえないのが残念。
かつてはもっと敷地が広かったそうだが、現在でも奥行きがそれなりにあって、複数の蔵がきちんと残っている。
L: 清洞寺跡。札打ち供養止めで貼られた札が独特な雰囲気である。米子ではこの風習がけっこう盛んな模様。
R: 後藤家住宅。商都・米子の歴史を物語る貴重な存在。現役の住宅なのか、内部は非公開。後藤家住宅から米子の中心市街地まで戻る途中、「お寺銀座」の異名を持つ通りがあるというので寄ってみる。
城下町において寺は防御拠点となりうるので、重要な存在である(参考までに秋田市の事例 →2008.9.13)。
米子の場合には伯耆の各地から移ってきた寺が並んでいるのだが、その数なんと9つ。これだけの数の寺が、
見事な9連発で東西に並んでいるのである。今は住宅地に埋もれた印象だが、かつてはまさに、壁だっただろう。
まあ正直、現物よりは地図で見る方が強烈なのだが、これがきちんと今も残っていることが偉いと思う。
米子ではほかに加茂川沿いの白壁土蔵が有名らしいが、特にすごいとは思わなかったのでさっさと次へ。アーケード商店街を経て国道9号に出たのだが、その商店街はガイナーレを応援するのぼりが非常に目立っていた。
ガイナーレ鳥取と米子の関係は少し複雑で、前身のSC鳥取時代には米子を本拠地として活動していたのだが、
クラブがガイナーレ鳥取となると、本拠地を鳥取市に移す。スタジアムの関係で米子は強気になれなかったようだが、
それでもきちんと話がまとまって鳥取県全域がガイナーレを支援できる辺りは長野県とは違うなあと思う。
さて、ガイナーレ鳥取には住田というFWがいるのだが、その選手はこの商店街の辺りに実家があるようで、
アーケードの入口には住田個人を応援する大きな横断幕が掲げられていた。がんばれ、山陰の超特急。
L: 「お寺銀座」こと寺町通り。寺町は城下町では珍しくはないが、この9連発は純粋に見事な事例である。
R: もともとは米子のチームだったガイナーレ。因伯ダービーとかやるようになってよ、と僕は思っちゃうんだけど。国道9号沿いにある米子市立山陰歴史館はさすがの風格をたたえている。4年前にも訪れており(→2009.7.19)、
あのときは曇り空だったが今日はきっちり青空で、そのせいか少しきれいになっているような印象を受ける。
さっきも書いたように、この建物は佐藤功一・増戸憲雄の設計で、1930年に米子市役所として建てられている。
市役所として使用された期間が長かったためか、正面から見るときっちり近代建築らしい姿をしているのだが、
裏手にまわるとなかなか派手な増築がなされていて驚いた。この新館部分は1961年の竣工だそうで、
現在は老朽化による取り壊し工事が始まったところ。庁舎らしい庁舎の共演が見られなくなるのはちょっと残念。
L: あらためて青空の下で撮影した米子市立山陰歴史館(旧米子市役所)。正面から見ると威風堂々、いい雰囲気なのだが……
C: 裏手はこんな感じで、いかにも戦後の市役所丸出しの増築ぶりである。 R: これはこれで時代を反映した庁舎建築だけどね。現在の米子市役所はその斜向かいに位置している。隣の図書館は1978年、美術館は1983年の竣工で、
1982年竣工の今の米子市役所は、中心市街地における新規公共建築の目玉と言える位置づけだったのだろう。
ネットで調べても、やはり出てくるのは山陰歴史館の旧庁舎ばっかりで、こっちのまともなデータはぜんぜんない。がっくりだ。
L: 米子市役所を正面より撮影。 C: 近づいて角度を変えてみた。 R: 側面。駐車場がさすがにけっこう広い。4年前には市役所・図書館・美術館の連続性が気になったが、今回は市役所に特に焦点を当てて撮影していく。
まあ建物じたいにあまり面白みはないのだが、茶色の色彩は旧市役所のレンガを引き継ぐデザインとは言えそうだ。
そういう意味では、山陰歴史館の旧庁舎は米子の確かな誇りとして定着しているのかもしれない。
L: 米子市役所の裏手。道を挟んで右は図書館。図書館の奥に美術館があるのだ(→2009.7.19)。
R: 市役所を図書館側から眺めたところ。これだけ気合を入れて一体として整備している例は貴重だ。さて、ぼちぼち急がないと境線に乗り遅れてしまう。少し慌ててペダルをこいで、駅前まで戻る。
あらためて走ってみた米子のメインストリート・県道28号線は、意外と店舗の密度が高くない。
因幡の代表都市・鳥取は政治を司り、伯耆の代表都市・米子は商業を司る、そんな理解でいたのだが、
実際に米子を走った感触としてはむしろ、交通の要衝としての機能が非常に強化されているように思える。
駅前にはビジネスホテルが激しく乱立し、「駅前パーキングビル」がメインストリートに面している。
米子じたいが求心力を持っているというより、空間的な位置から拠点として便利に使われている、そんな印象だ。米子のメインストリート。右が駅前パーキングビル。交通の要衝だねえ。
急いで改札を抜けて境線のホームを目指す。奥まった位置にある0番のりば(「霊」と掛けているんだってさ)には、
すでに目玉おやじ仕様にラッピングされた車両が停まっており、大勢の観光客や子どもたちでごった返している。
いくら夏休み中とはいえ、ここまでの人気ぶりは想像していなかった。おそるべし、境港と水木しげる人気!
L: ご存知のとおり、境線には各駅に妖怪の名前が愛称として付けられているのだ。米子駅は「ねずみ男駅」。
C: ホームに停車している目玉おやじ列車。このほかにも鬼太郎・ねずみ男・猫娘の列車が走っているのだ。
R: なんと、車内に猫娘が登場。子どもがいっぱいの隣の車両では凄まじい大騒ぎになっていたらしい……。今回、僕が乗ったのは「目玉おやじ列車」と「ねずみ男列車」の2両編成だった。どちらも天井には鬼太郎ファミリーが、
シートにはフィーチャーされているキャラクターが無数描かれているという特別仕様になっている。豪華なものだ。
常識的に考えれば、境線は廃線になりかねない規模の路線なのだが、それがこれだけできているってことはつまり、
鬼太郎&水木しげる目当てで利用する観光客が本当に多いってことだ。事実、車両の中は満員になっている。
音声による案内は、鬼太郎と猫娘のナレーションとなっているというこだわりぶり。いやはや、恐れ入りました。
……しかしサーヴィスはこれで終わりではなく、なんと、車内に猫娘が登場したのである。ここまでやるのか!
境港は街が「水木しげるロード」としてテーマパーク化しているだけでなく、境線までもがアトラクションとなっている。列車が終点の境港駅に到着すると、ねずみ男と子泣きじじいがお出迎え。ファンサーヴィスが徹底的に行き届いている。
そして鬼太郎も登場。どちらかというと不健康そうな引きこもりっぽい外見になってしまっている気もするが、
観光客に囲まれて大忙しの中、こっちに向けてポーズをきちんととってくれたので大感謝である。暑い中ご苦労様です。
ちなみに鬼太郎ファミリーの皆さんや悪魔くんなどの着ぐるみは、水木しげるロードを中心にあちこちうろついている。
彼らを探してまわるのもまた一興ということで、本当によくやっているなあとただただ感心するのであった。
L: 列車を迎えるねずみ男と子泣きじじい。至れり尽くせりだ。 C: 境港駅の最果てには鬼太郎ファミリーがいたよ。
R: 鬼太郎がなんだか不健康そうな引きこもりに見えてしまってすいません。観光客はもう大喜びですよ。4年前に来たときには朝早すぎて、単なる妖怪ブロンズ像めぐりになってしまったのであった(→2009.7.19)。
今回はバッチリお昼前後の訪問ということで、本来の水木しげるロードの賑わいを体験してやるのだ。
観光案内所でレンタサイクルを借りて、いざ出動。ちなみにその鍵には、ねずみ男のキーホルダーがついていた。
さて、お昼近くの水木しげるロードは、想像以上の人混みだった。さすがに比率としては親子連れがかなり多いが、
一人旅の僕でもまったく違和感がないくらいに、純粋に賑わっていた。これはものすごい勢いだ、と圧倒される。
L: 境港駅の近くにある公園。おなじみの目玉おやじの街灯のほか、奥には「河童の泉」が整備されている。
C: 旧来のアーケード商店街が妖怪関連の店で大賑わい。これほど見事な中心市街地の活性化はほかにあるまい。
R: 本町アーケードもしっかり賑わっている。ある程度年季の入っているところが妖怪の存在感とマッチしたのだろう。ちょっと走ってみただけでも、水木しげるロードの人気ぶりには驚かされる。4年前の早朝にもその予感はあったが、
現実はそれ以上だった。境港は日本海側にあることも影響してか、観光客は日本人だけでなくアジア系も多そうだ。
水木先生は日本だけでなく海外の妖怪についてもしっかり紹介していたわけで、そういう素地もあったのかと思う。とりあえず水木しげるロードを最後まで行ってみたので、そこからぐいっと南下して境港市役所を目指す。
今回わざわざレンタサイクルを借りたのは、それが目的だったのだ。4年前にも訪れたのだが(→2009.7.19)、
あらためて青空の下の市役所を撮影すべく行ってみる。そしたらなんと、きれいに色が塗り替えられていて驚いた。
耐震工事をやった際に明るい色調にして汚れを一掃したようだ。鬼太郎関連で儲けても質素にやっとりますね。
L: 境港市役所は4年前とはガラリと違った雰囲気になっていて驚いた。 C: 正面より眺めたところ。
R: 角度を変えてまた撮影。1961年に竣工しているとのことで、確かにこれは昔ながらの3階建てである。裏手にまわってみるが、駐車場があって別の庁舎があって全体的に味気なくてという昭和な雰囲気は保たれている。
それでも本館の裏側はもっさりと緑が生い茂って何も見えないくらい。この点についてはちょっと珍しい印象である。
L: 裏手はこんな感じ。手前の別館もどうやら本館と同時に竣工しているようで、デザインがかなり似ている。
C: 本館の裏側は完全に緑の壁ができている。これだけの勢いの緑をわざわざ後ろに配置しているのはちょっと謎。
R: 本館の側面。実に正しい1960年代の庁舎である。この昭和な感じが耐震工事で残されるってのはうれしいな。ちなみに市役所の南隣には境港市民会館があって、これがちょっと凝った建物になっていた。
1973年竣工で耐震工事をやるのやらんのという話が出てきているらしいが、ピロティを抜けるとホールの入口、
その軒下にはなんとも大胆なトラス構造が貼り付いているのだ。独特のデザインには正直、驚かされた。
L: 境港市民会館。手前のピロティ部分は後から増築されたのかなと思う。最初からこのデザインならキレすぎだ。
R: ホールの入口。トラス構造がなんとも大胆。大阪万博のお祭り広場がヒントになっていたりするのかなあ。市役所の撮影を終えたので、水木しげるロードに戻って昼メシをいただくことにする。すでにメニューは決めてある。
境港は全国でも有数のマグロの水揚げを誇っているそうで、まぐろラーメンをいただくのだ。まあ正直なところ、
それほど味に過度な期待はしていなくって、境港は山陰が誇る漁業の街だから魚に関連する何かを食べたいなあ、
まあラーメンならネタにもなるしそれほど高くもないしいいか、その程度の興味関心でチャレンジしたのであった。
そしたらしっかり旨かったんでやんの。特にマグロを使ったあっさり風味のスープが絶妙。おいしゅうございました。本まぐろラーメン。マグロの頭を炙ったというスープは確かに旨かった。
これでやる気も十分湧いてきた。意気揚々と水木しげる記念館の中へ。案の定、観光客でごった返していたのだが、
ロビーから2階へ上がるとそれなりに落ち着いて見られる程度の混み具合だった。まあ大人気であることは間違いない。
2階は「水木しげる漫画ワールド」。貸本屋の時代からマンガを描いているわけで、水木先生の作品の数は非常に多い。
妖怪だけではない水木ワールドをあらためてちゃんとご紹介ということで、非常に興味深い内容なのであった。
そして世界各地を訪れた際の写真も紹介されている。本当にあちこち行っていて、うらやましい限りである。1階に戻ると水木先生の軌跡をお勉強。常識を超越していると言っていいほどのその紆余曲折ぶりに驚愕しつつ、
しかしその人生には確固たる芯が通っているさまもじっくりと学ばせてもらった。いやー、スケールが違いますね。
後半はいよいよ妖怪たちが登場。日本全国各地にいろんな妖怪がいるものだと思うが、その想像力がまず凄い。
そしてその妖怪たちをまとめていった水木先生の発想もまた凄いのである。妖怪ってのは目の前の現象に対し、
想像力を駆使して理屈をつけていくことで生まれる存在だ。ある意味、人間の想像力の鏡であると表現できるだろう。
だから妖怪たちを系統的にまとめていくことは、人間の内面世界を科学的にまとめていく作業なのである。
水木先生が凄いのは、その科学的な検証をエンターテインメントの土俵の上でやってのけている点なのだ。
しかも、キャラクターを創造することで経済的な利益をも生み出している。冷静に考えるとこの偉業はとんでもない。僕は水木しげるロードを訪れる観光客がどうしてここまで多いのか、正直かなり疑問に思っていた。
だって妖怪は「怖い」存在であるはずで、それを子どもたちが素直に喜ぶとは思えなかったからだ。
とはいえ僕は1980年代後半に放映された第3シリーズの『ゲゲゲの鬼太郎』が直撃している世代であり、
マツシマ家では毎週きっちり見ていたので、僕自身が「鬼太郎と妖怪たちに魅せられた子ども」なのである。
鬼太郎のアニメは1960年代に第1シリーズが放映されて以降、10年ごとの各年代で新シリーズが制作されている。
そのため、なんと40年以上にわたって途切れることなく子どもたちに影響を与え続けてきている。これは大きな要因だ。
そして何より、鬼太郎がいれば妖怪は怖くないのだ。妖怪の側にいる鬼太郎が徹底的に人間を守ろうとする、
そのことで子どもたちは安心して妖怪たちと触れ合うことができるのだ。こうして妖怪は親しみの湧く対象となる。
水木しげる記念館であらためて妖怪の意義、鬼太郎の意義を考えてみると、この人気ぶりにすっきりと納得がいく。
L: 水木しげる記念館。水木先生のとんでもない人生と、妖怪という理知的な存在をとことん味わえる施設である。
C: なんとサラリーマン山田の着ぐるみがいたよ! このキャラクターをちゃんとフィーチャーするセンスがさすがだわ。
R: 4年前には買えなかった「妖菓 目玉おやじ」をついに買ったよ! 妖怪食品研究所はペンやタオルなどのグッズも充実。残った時間はテキトーに水木しげるロードを散策してみる。まずは水木しげる記念館の脇にある妖怪食品研究所だ。
ここで売られている「妖菓 目玉おやじ」は4年前から猛烈に気になっていたのだ(証拠のログはこちら →2009.7.19)。
店先のボタンを押したらちょっとテンション高めな店主が登場。「妖菓 目玉おやじ」は決して見た目だけの商品ではなく、
松江にある老舗の和菓子屋にきちんとつくってもらっているとのこと。その本気ぶりが大変すばらしいと思う。
目玉1個あたり350円ということでそれなりのお値段なのだが、そこは発想に敬意を表してしっかり購入しましたよ。あとはのんびり気ままに水木しげるロードの店を見てまわったのだが、置かれているグッズの量が、どこもものすごい。
それだけ人気があって売れているのか、と呆れた。鬼太郎ファミリーを中心に、思いつく限りの多様なグッズがあるのだ。
さて今回、僕は「妖菓 目玉おやじ」の影響もあって、なんとなく目玉おやじを気にしながら見ていったのだが、
ふと気がついた。それは、推しメンならぬ「推し妖怪」がいると、買い物が俄然楽しくなってくるという事実である。
グッズの種類じたいが多いところに工夫が凝らされ、それがお気に入りの妖怪だったりする日には、買わずにはいられない。
まあある意味、ゆるキャラと同じ状況が発生しているのである。妖怪がゆるくなってしまえば、もはや「かわいい」のだ。
それに、妖怪は確固たる個性を持っている分だけ、その個性を応用した意外な演じさせ方ができるものなのである。
もともと持っている魅力に加えて新たな魅力を提案するグッズが非常に多く、人気の理由をとことん実感させられた。
L: というわけで、目玉おやじの活躍ぶりを紹介してみるのだ。これは「目玉おやじまんじゅう」の店先にあった人形。
C: 千代むすび酒造の店舗にある看板。目玉おやじが胡座かいて一升瓶を持っている構図、なぜこんなにしっくりくるんだ……?
R: 妖怪神社にある、目玉おやじ清めの水。手水でくるくる回っている。目玉おやじは単純なだけに応用が利くなあ!最初は男の一人旅だと水木しげるロードはそんなに面白くないんじゃないかと思っていたのだが、とんでもない。
気がつきゃ心ゆくまで堪能している自分がいた。妖怪の手ぬぐいに目玉おやじのトートバッグに、買い物三昧である。
おそらく観光客はみんなそうで、来てみたら予想以上に楽しめた、そんな場所だと思う。リピーターが多そうだ。境港駅前交番は「鬼太郎交番」となっている。警察も全面協力するこのすごさ。
最後に、旅客船ターミナルを中心にした複合施設である「みなとさかい交流館」を撮影しておく。
高松伸の設計で1997年に竣工しているのだが、雨漏りがひどいそうで、現在は外壁の改修工事中である。
周囲にこれといった建築物がない中で、この30m以上の銀色の物体は圧倒的な存在感を見せつけている。
L: みなとさかい交流館は外壁の改修工事中。4階には入浴施設まである。左端が境港駅で、駅ビルではないのだ。
C: 中海から日本海へ注ぐ境水道。対岸は島根県である。4年前、ここを渡って全県制覇を達成した(→2009.7.19)。
R: みなとさかい交流館の裏側。なんだかビール工場みたいなデザインである。境港らしさは感じられない建物だなあ。帰りの境線は来たときほどは混んでいなかった。地元の高校生の利用が多く、境線のもうひとつの性格を実感。
もともと弓ヶ浜半島は陸繋島から砂州が発達していったことで現在の姿になったそうで、なるほど確かに、
車窓の風景は見事に畑が広がっている。東側は白砂青松の海岸線となっているのだが、境線はど真ん中を走るので、
見えるのはひたすら乾いた畑なのである。米子に近づくと畑に代わって住宅が密集するようになっていく。
L: 帰りは目玉おやじ列車に乗ってみた。衝動買いした目玉おやじのトートバッグを記念に撮影してみたよ。
R: 境線の車窓の風景。見事に砂地の畑だ。ちなみに米子市のイメージキャラクターはネギの親子「ヨネギーズ」。列車が米子に着くと、次の列車が出るまでの時間で、米子駅前にある建築物を観察しておく。
まずは1991年竣工の米子市文化ホール。こいつのおかげで米子市公会堂は取り壊されそうになった。
まあ、建築的な価値という点ではとても公会堂に太刀打ちできないのは一目瞭然。バブリーな建物である。
その奥にあるもっとデカいのが、「ビッグシップ」という愛称を持つ米子コンベンションセンターだ。
佐藤総合計画の設計で1998年に竣工しており、積極的にコンサートなどが催されているようだ。
まあこれだけハコモノをつくってしまえば、そりゃあ古い米子市公会堂は重荷になってしまうだろう。
米子市は公会堂の建築的価値を読み違えた結果、なかなか苦しい事態になっているように思える。
「公共建築とはその地域の文化度の指標である」という事実が暗示されている状況だと言えるだろう。
L: 米子市文化ホール。いかにもな「平成うすっぺらい建築」と言えそうな建物だ。なんとかならんかったのか。
C: ビッグシップこと米子コンベンションセンター。山陰の地理的中心という意地は感じるが、デカすぎるのでは。
R: 角度を変えて撮影。残念なのは、この建築が米子の街並みに対して何も影響を与えていない点なんだよな。レンタサイクルを返却し、荷物を回収すると米子駅の改札を抜ける。山陰本線の列車に乗り込み、東へと進む。
次の目的地は倉吉なのだが、米子と倉吉の間には大山がしっかりとそびえている。大山は円錐のように盛り上がっており、
海岸線はそれに合わせて弧を描いている。山陰本線はゆったりとカーヴを描いて、山と海の間を走り抜けていく。
左を見ればなだらかに海へ向かっていく下り坂、右を見れば雲に頂上を隠しながらも裾野を広げている大山、
それぞれの対照的な景色を楽しむことができる。1時間以上かけてその弧をなぞっていくと、倉吉駅に到着する。
L: 山陰本線、米子−倉吉間の景色。これは北側で、青い海が見える。 R: 南側には大山。雲が覆っているのが残念!倉吉駅に着いたのはいいが、ご存知のとおり、倉吉の旧市街地は駅からけっこう離れた位置にあるのだ。
街並みを歩くのは明日にして、残った時間は本日2ヶ所目となる温泉を堪能するのである。山陰は温泉天国だぜ。
倉吉駅からバスに乗って向かうのは、「日本のハワイ」である。そう名乗る観光地は日本のあちこちにあるのだが、
鳥取県のそれは本当に「ハワイ」という名前なんだからしょうがない。そう、「羽合(はわい)温泉」である。
もともとは浅津温泉という名前で1843年に開湯したのだが、1978年に当時の町の名をとって羽合温泉となった。
2004年に合併して湯梨浜町となったためか、現在はひらがなで「はわい温泉」と表記していることが多い。
(この湯梨浜(ゆりはま)町という名前がなんとも。町の名物から一文字ずつとったのだが、浅はかに思える。)
まあ僕としては、英語の授業で「I have been to Hawai.(Hawaiiじゃないのな)」と言えればそれでいいのだ。羽合温泉は4年前に雨の中で眺めた東郷池のほとりにある。バスは国道179号を快調に進んでいくと、
湯梨浜町役場から南に入り、その名も「ハワイアロハホール」の脇を抜けてから東郷池へと突撃していく。
道路は明らかに閑散としており、ヤシ科の木が並んでいるのがかえって虚しさを喚起するのであった。
終点まで乗った客は僕だけで、大丈夫かよ羽合温泉、と大いに不安になりつつ目的の旅館を目指すのであった。
今回日帰り入浴させたもらったのは、千年亭という旅館。東郷池に突き出した絶好の位置にあるのだ。
展望と露天の2つの風呂があったのだが、温泉じたいは適温でたいへん快適。存分に楽しませてもらった。
しかし羽合温泉じたいは、家族連れや大学生のサークルなど宿泊客はいないことはないけど、雰囲気がどうも……。
僕みたいに「日本のハワイ」ということで全力でがんばっているんじゃないかと思って訪れると、
けっこうな肩透かしを食らってしまうことになるだろう。本当に静かな場所で、温泉以外の要素は本当にない。
L: 羽合温泉はこんな感じの閑散とした街並みだ。なんとも寂しげな風景で、呆気にとられてしまったよ。
C: 温泉街へ向かう道路に描かれたヤシの木。なんだかよけいに虚しさばかりを感じてしまうんですが……。
R: 東郷池を眺める。かつては入江だったからか、汽水湖なんだって。水はそんなにきれいな印象はない。バスで倉吉駅まで戻ると、メシを食うべく駅からトボトボと西へ歩いていく。倉吉駅周辺にあまり魅力的なメシはなく、
車内から見えたファミレスに行ってみることにしたのだ。「トマト&オニオン」という名前の店で、東京では見かけない。
メニューを見てイチオシであるらしい弾丸ハンバーグをいただいたのだが、大変おいしゅうございましたよ。
ちゃんと肉食ったぜ!って感じがして、明日へ向けての活力をしっかりと充填させてもらった。東京にも進出してほしい。
満足しながらふらふら歩いて宿まで戻る。ちなみにこの日泊まった宿は、しっかり人件費を削減して安くしているようで、
客の自主性にすべてが委ねられている感じがする面白い宿だった。建物じたいも新しく快適で、言うことなし。今日は水木しげるロードで意外と買い物をしてしまったので、微妙に荷物が増えた。本来ならこれは困った事態だが、
衝動買いしてしまった目玉おやじのトートバッグの使い勝手がかなり良く(さっそく羽合温泉で活躍してもらった)、
かえって行動しやすくなった感じである。この先、いい感じの旅のお供になってくれるかもしれないな、と思う。
そして今日買ったもので最も気になるものといえば、なんといっても「妖菓 目玉おやじ」である。
本格和菓子ということで、食ってみたら中身はすっきりとしたあんこで上品な味わいなのであった。ふつうに旨い。
L: 妖菓 目玉おやじ。これは見事に目玉だわ。 R: 接写してみた。正直、食うのがもったいなかったです。鳥取県の初日は実に愉快に終わった。鳥取県は魅力がたっぷりあるし、それを存分に味わえている。旅は楽しい。
本日の宿は鳥取県の米子に確保してあるので、いちおう今日が島根県の最終日ということになる。
最終日にふさわしく、出雲に松江にと、島根県東部の観光名所をめいっぱい訪れてやるのだ。
本当にめいっぱいなので、松江駅を出発したのは朝の6時43分である。われながらめちゃくちゃな詰め込みぶりだ。
で、そんな朝早く行く場所はどこかというと、松江駅から西へわずか2駅、玉造温泉である。
玉造温泉はかつて玉湯町に属していたが、2005年の合併により玉湯町は松江市の一部となった。
正直なところ、なんで同じ市内の温泉に浸かるのに7時前に動かなくちゃならんのだ、と思わなくもないが、
それは自分の責任なのでしょうがないのだ。無人の玉造温泉駅を出ると、路地をまわり込んで玉湯川沿いに南下。
4年前にも玉造温泉に来ているが(→2009.7.18)、あのときは車だったのでするっと簡単にアクセスできた。
しかし玉造温泉駅から温泉街までは1km以上離れており、川で泳ぐカワムツや休むハグロトンボを眺めながら、
ふらりふらりと歩く破目になるのであった。思ったよりも距離があって、想定していたほど時間的な余裕はなさそう。4年前にも見上げた山陰自動車道の高架をくぐると温泉街が始まる。玉湯川の両側に旅館が並びそのまま続いている。
川沿いに旅館という風景はまさに温泉街のそれなのだが、いくらなんでも朝が早すぎるので雰囲気はイマイチ。
やはり温泉街の風情というものは夕方から夜にかけて訪れないと正しく味わえないのである。そのことを実感したわ。
L: 玉造温泉入口のオブジェ。4年前には勾玉だったような気がするんだが。奥に見えている高速道路を抜けると温泉街だ。
C: 「玉造温泉夏まつり」ということで、玉湯川の脇に設営されているステージ。夜にいろんなイヴェントが行われるみたい。
R: 玉湯川と玉造温泉。川沿いの緩やかな坂道に沿って旅館が並ぶ光景はいかにも温泉街。朝だと雰囲気はイマイチかな。朝早すぎて日帰り入浴施設はまだ開いていないのだが、入浴させてくれる旅館がきちんとあるのでお邪魔する。
その名も「出雲神々縁結びの宿 紺家」。縁で結ばれたい僕としては、なんともありがたい名前である。
これから出雲大社に行くんです、松江に行くんです、と意気込むチェックアウトの宿泊客でごった返すフロントで手続き。
貧乏な一人旅の日帰り入浴客でも快く対応してもらえると、それだけでうれしい。ウキウキしながら風呂場へと向かう。
そしていざお湯に浸かると……これがすばらしいのなんの。少しぬるめにしてあるので、何時間でも浸かっていられる。
時間に余裕がないのにこれは危険だ!と思いながらも強制的に癒されてしまうのであった。いや本当にサイコー。この上なくいい気分で玉造温泉を後にすると、玉湯川沿いに駅まで戻る。登校日なのか小学生の群れを見かけたり、
駅前の店が開いていたり、タクシーが駅前に停まっていたりと、今日も一日が始まるぞ、といった空気が辺りに漂っている。
でも僕としてはすでに一仕事終えた後なので、周りがやっと追いついてきたか、という感覚だ。スイッチはもう入っている。というわけで、これからさらに西へと進んで、昨日スルーした出雲の街を徘徊する。これが午前中の動きである。
午後は松江に戻ってやっぱり徘徊。その後は安来を経由して米子で泊まるのだ。レンタサイクルを武器にがんばる予定。
程なくしてやってきた列車に乗り込み、昨日とは逆方向に進みながら宍道湖を眺める。平らな水面の後には平らな大地。
やがてカーヴを描いて川を渡って出雲市駅に到着。ここは4年前の旅のスタート地点だが、感傷に浸っている暇がない。
少しでも滞在時間を延ばしたいので、駅の東にある駐輪場まで走って移動してレンタサイクルを申し込む。旧大社駅と比べると貧相きわまりない残念なデザインの出雲市駅。
出雲市駅から出雲大社まではかなりの距離があり、常識的にはバスを利用するのだろうが、そこは自転車なのだ。
というのも、出雲ドームを見ておきたかったからだ。あと、観光客が多くてバスが混雑すると予定が狂うかもしれない。
自力でペダルをこぐことですべてを自分の責任にする方がすっきりするってもんだ。そういう意識でもって旅をしているのだ。出雲市駅からまっすぐ北へ延びる道はきれいに整備されており、観光客を迎えるのにふさわしい清潔な雰囲気である。
しかし整備されてまだ時間が経っていないからか、店の密度は今ひとつ。出雲大社までの距離があることは上で述べたが、
そのことが駅前の賑わいを若干弱めることにつながっているように思える。街の核が2つになりかけている感じがする。
そんな駅前地区の目玉的な存在となっているのは2009年竣工の出雲市役所だろう。4年前にはできあがったばかりで、
まだまだ庁舎の周りが十分に整備されていなかったように思う(寝ぼけていたしうろ覚えなので間違っていたらすいません)。
利用開始から4年が経ち、新しい庁舎が日常の風景となった出雲市役所をあらためて撮影(前回訪問 →2009.7.18)。
ちなみに道路を挟んだ古い庁舎は取り壊しが始まったところ。4年ぶりに訪れてその光景に直面するのは少し切ない。
L: あらためて出雲市役所。設計は日建設計と株式会社みずほ設計のJVだ。 C: 交差点越しに北東側から眺める。
R: こちらは南側のオープンスペースより眺めたところ。写真の左、西側に駐車場がたっぷりととられている。北側のエントランス。鉄骨を組み合わせて日本的な屋根の意匠を再現。
駅から道路がきれいに整備されているのは市役所までだ。ここからは旧来の道となる。交通量もそこそこある。
出雲駅から離れると、農地を基本としながらも、あちこちにロードサイド店舗が点在する景観となる。
道路は車が快調に走り抜けていくが、歩道は貧弱で自転車には走りづらい。ヒザまで伸びきった雑草が邪魔をする。そうしているうちに、田んぼの向こうに傘のような白い半球が現れる。言うまでもなく出雲ドームだ。
北からまわり込むが、正面は西側の模様。アスファルトの敷地内にはロープが張られて軽い迷路のようになっている。
こういうときにレンタサイクルは便利であり不便である。猛スピードで走りまわって中が覗き込める場所を探す。
結局、なんだかんだで内部を覗き込むことができたので、デジカメのシャッターを切ってこれでヨシとする。
これは実際に中で動きまわったらまた印象が違ってくるんだろうなあ、と思いつつ西へとペダルをこぐ。
L: 田んぼの中に現れた真っ白い巨大な傘、出雲ドーム。岩國哲人市長時代にけっこうな注目を集めた施設。
C: というわけで接近して撮影。設計は鹿島デザイン、竣工は1992年。近くで見るとさすがに迫力がある。
R: 内部はこんな具合である。日本初の木造ドーム施設ということで、なるほど確かにこれは面白いな。島根県道161号をひたすら西へと爆走していったのだが、めちゃくちゃな快晴だし単なるママチャリだしで、
途中でヘロヘロになってしまう。予想はしていたつもりだったが、やはり現実の出雲大社までの距離は甘くなかった。
運のいいことに浜山公園の手前の上り坂で自動販売機を発見し、500ml缶のカルピスウォーターを一気飲みして回復。
夏場の無茶な旅行はどうしても体内の水分と血糖値のコントロールが難しい。つまり飲み物で金がかかってたまらん。で、この浜山公園が日本の都市公園100選に入っているということで寄ってみたのだが、ふつうの運動公園。
歴史的にはけっこう面白い経緯があり、18世紀半ばまではなんと砂丘だったという。それを地道に植林していって、
現在はスポーツ施設の集まった一大拠点となっているのだ。その物語が見えないことには単なる運動公園だもんなあ。言われてみれば、確かに地面に砂っぽさを感じなくもない。
浜山公園を抜けると旧大社駅へと向かう。4年前にも訪れているが(→2009.7.18)、当然もう一度寄ってみるのだ。
あらためて眺める旧大社駅の駅舎は、やっぱり立派の一言。往時の姿でそのまま保存されているのがすばらしい。
鉄道の誇り、出雲大社の誇り、それらがきちんと空間として体験できるということは、かけがえのない価値なのである。
僕が旅行していて最もうれしくなるのは、こういう誇りに触れることができたときだ。旧大社駅駅舎にはそれが満載だ。
L: 旧大社駅の駅舎をあらためて撮影。高尾駅の北口で知られる曽田甚蔵が設計して1924年に竣工。廃止は1990年。
C: 駅舎の内部空間。鉄道という洋風の要素をうまく和風でまとめている。「汽車」の時代の風格を感じる空間である。
R: ホームに出るとこんな感じ。なんというか、さりげない光景なんだけど、見ているだけで旅情を掻き立てられるね。改札もそのまま。初詣のときはここが大混乱になっていたんだろうなあ。
旧大社駅の駅舎からそのまま北上していくと、堀川を渡ったところに巨大な鳥居がある。石で造られたのかと思ったら、
鉄筋コンクリート製とのこと。しかし竣工したのは1915(大正4)年ということで、もはや文化財と言える歴史がある。
高さは23mで竣工当時は日本一だったという。これを見ると、いよいよ出雲大社に参拝するぞ!という気分になる。大鳥居をくぐってしばらく行くと、一畑電車の出雲大社前駅が右手に現れる。これが実にアール・デコ風。
1930年竣工の駅舎は現在もそのまま使われているのだが、出雲大社に対してこのデザインをぶつける気概がいい。
こういう事例を見ていると、和風だの洋風だのという様式よりも、デザインとして絶対的に魅力があるかどうか、
それが重要なのだという本質を思い知らされる。確かなのは、統一の中の変化、あるいは多様性がカギということだ。
L: 出雲大社の一の鳥居はこの鉄筋コンクリート製の大鳥居。真ん中の扁額は6畳分あるそうで、とんでもないスケールだ。
C: 出雲大社前駅。1930年竣工という時代を感じさせるデザインだが、その配色もまた強烈である。設計者は不詳とのこと。
R: 内部空間はこんな感じである。ステンドグラスやアーチなど、どこか教会を思わせる要素を盛り込む姿勢がすごいな。この辺りは出雲大社へ続く参道がそのまま商店街となっており、かなりの賑わいをみせている。
しょうがないとはいえ残念なのは、やたらと車の交通量が多いこと。歩行者にとってはかなりマイナスになっている。
近年のパワースポットブームもあってあふれんばかりの観光客がいるのだが、何かしら空間的な工夫をしないと危険だし、
もっと大きな賑わいをつくり出せる可能性をつぶしているように思える。出雲大社の駐車場へのバイパスが欲しい。
歩車分離をして石畳か何かで舗装すれば完璧だ。まあ、言うのは簡単だから、実現できない難しさがあるだろうけど。僕にはこの空間がめちゃくちゃもったいなく見える。
緩やかな坂道を上りきると、出雲大社の境内が現れる。が、レンタサイクルを止めないことにはどうしょうもないので、
左に曲がって駐車場を目指す。駐車場へと向かう道は下り坂になっており、歩道はだいぶ余裕を持って走ることができる。
しかし車道は猛烈な大渋滞となっている。出雲大社の駐車場は決して狭くはないのだが、それでも収容しきれないのだ。
朝の10時でこの大渋滞はいったいなんなんだ、と呆れるが、それだけの人気なんだからしょうがない。自転車を駐輪すると、大渋滞を横目で見ながら歩道を戻ってあらためて二の鳥居の正面に立つ。
そして鳥居をくぐると参道は地形そのままに下りとなる。この下り参道が全国的にも珍しいという話なのだが、
甲州街道の付け替えによる谷保天満宮の下り参道が常識である僕としては「そうでもねえぞ」といったところ。
上野国一宮の貫前神社なんてもっと強烈な下りの石段だしな(→2010.12.26)、とすぐに反証できてしまうのは、
やっぱり自分が狂ったように神社を参拝しまくっているってことだと思う。自分で自分に呆れながら先へ進んでいく。
L: 交差点から眺めた出雲大社の境内。まあとにかくすごい賑わいだった。島根県人気あるじゃん。 C: 下りの参道を行く。
R: そのまま行くと松の参道。あまりに人が多いからか、松の根を保護するために真ん中を通ることはできなくなっていた。前回は非モテ男子3名で参拝した出雲大社だが(→2009.7.18)、縁結びのご利益があったのは1名のみ(→2012.10.6)。
しかしここでむくれてしまってはいかんのである。これは神の与え給うた試練なのである。そう考えてガマンして参拝。
あらためて眺める拝殿は、大社造をもとにしたデザインが大胆で面白い。設計したのは神社建築の権威・福山敏男。
拝殿でこの形となっていること、伝統の流れの中にありながらも斬新さを感じさせるのがいい。竣工したのは1959年。
そして4年前には訪れることのできなかった本殿の前へ。平成の大遷宮が終わって姿を現した本殿の屋根はさすがに巨大。
高さは24mとのことだが、かつては50m弱だとか100m弱だとかとんでもない高さで建っていたという。うーん、すげえ。
ちなみに昨日の熊野大社のログで書いたように、出雲大社は明治維新を迎えるまでは杵築大社という名前だった。
中世にはスサノオを祀っていたこともあったのだが、これは神仏習合の影響によるものだそうだ。いろいろ複雑である。
L: 境内の様子。大賑わいである。 C: 拝殿。大社造をもとにしているため、拝殿なのに非対称なデザインが面白い。
R: 本殿。どうせなら高さ100mで建てちゃえば面白いのに、と思うんだけど、やっぱりいろいろ無茶なんだろうな。せっかくなので、境内の中を少しふらふらと歩いてみる。前回は工事の関係でいろいろ制約があったと思うのだが、
出雲大社は本殿を囲む荒垣の内外にいっぱい摂末社があるのだ。古来のテーマパーク感覚と言えそうな気がする。
そうしてだいたい一周すると、2階が宝物殿となっている神祜殿(しんこでん)を見学。重要文化財の奉納品がゴロゴロ。
L: 彰古館。1914(大正3)年築。資料などを展示。 C: 本殿を後ろから失礼しますの図。
R: 神祜殿。菊竹清訓の設計で1981年に竣工。「神祜」とは「神の助け、神から幸を授かる」の意。神祜殿ともうひとつ、出雲大社には菊竹清訓の設計した建物がある。前回訪問時にも撮影はしているのだが、
DOCOMOMO物件ということで、今回あらためて気合を入れて、さまざまな角度から撮影してみた。
L: 出雲大社庁舎(ちょうのや)。1963年竣工。刈り取った稲を掛ける「はでば」をモチーフにしているとのこと。
C: 反対側の東側から眺めたところ。入口はこっちの奥にある。 R: まわり込んで北側から見たらこうなっている。内部はこんな感じ。なんだか大江戸線に乗っているみたいな気分だな。
最後に境内を出てお隣の神楽殿へ。詳しいことはよくわからんが、こちらは出雲大社教に関係している建物。
やっぱり注連縄が圧巻である。デカいことは偉い、そういう人間の根源的な部分をくすぐってくるね。神楽殿。教派神道とかよくわからんわー。
境内が思っていたより広かったのか、出雲大社で予想以上に時間がかかってしまった。
おかげで帰りのサイクリングは、それはもう、凄まじいキツさだった。ギアの変速機能のないママチャリなので、
スピードを出すにはひたすら足を回転させるしかない。足の関節がおかしくなるんじゃないかってくらいに猛回転。
しかしペダルをこいでもこいでも同じような風景ばかりで進んでいる実感がない。それがまたつらいのである。
やはり出雲市駅から出雲大社までの距離は、十分わかっていたはずなのに、それでも度を超して長い。
またよけいなことに、道も複雑な網目を描いているのでもう本当に大変。極限状態に置かれましたよ、今回ばかりは。
途中で「あ、スズメバチだ!」と思った瞬間には鼻に正面衝突していて、さらにスピードを上げて逃げた、
なんてこともあったっけ。駅に着いてもレンタサイクルを返却する駐輪場がまたちょっと離れていて、
消耗しきった股関節にムチを打ってひょこひょこ歩いてどうにかセーフ。虚脱状態で松江駅に到着したのであった。でも松江に着いても、やっぱりレンタサイクルのお世話になるのである。いちばん便利だからしょうがないのだ。
駅裏にあるレンタカーの店で申込みをすると、いざ出発。それにしても、今日はとりわけ真昼の日差しが厳しい。
頭には温泉津温泉以来のタオルを巻いて行動しているのだが、それでも少しクラクラするほど容赦ない天気だ。まずは宍道湖を眺めながら大橋川の左岸に渡ろうと、宍道湖大橋を北上。島根県立美術館の横を通りかかったが、
企画展は佐伯祐三で、そんなに好きではないのでパス。建物は凝っているのだが、全容がつかみづらいのでなんとも。
L: 島根県立美術館の正面入口側。高さがないけど面積は広く、形がつかみづらい。菊竹清訓の設計で1999年に開館。
C: 宍道湖側より眺める。夕日を鑑賞するには絶好の場所ということで、昨日も多くの人がここに集まっていたなあ。
R: 宍道湖をあらためて眺める。松江・出雲地方のシンボル的存在だが、実は東隣の中海の方が広い。宍道湖大橋を渡りきると、昨日浸かった松江しんじ湖温泉のエリアである。松江市役所はその一角にあるのだ。
当然、4年前にも訪れているのだが(→2009.7.18)、夕日の逆光でまともに撮影できていなかったので、
今回はそのリヴェンジということできちんと撮影してまわる。松江市役所の本館は1962年の竣工。
L: 松江市役所の本館。まずは駐車場越しに南東側から撮影。 C: 東側が正面入口となっているのだ。
R: 北東側から眺めたところ。このゴチャゴチャ感がいかにも昭和の庁舎って印象である。松江市役所は分散ぶりがひどく、本館のほかに別館が第4まであるという複雑さ。それでも新しい庁舎は建てず、
耐震補強工事を行うことを決定している。まあなんというか、松江市政はいろいろとクセがありますな。
L: 松江市役所の北側は、厳密には北棟としてくっついている。こちらも1962年に竣工している模様。
C: 本館の裏側にくっついている西棟。 R: 道を挟んだ西側にある別館は1980年の竣工。分散がひどいぜ。松江市役所ときたら次は当然、島根県庁である。島根県庁は言わずもがなの渋ーいモダニズム名建築なのだが、
現在は耐震改修工事中ということで、庁舎の正面側がグレーの覆いをかぶっているのであった。うーん、残念!
……まあ、県庁の方は前回きちんと撮影しているからいいけどね、と強がってその場を後にする。
L: 重森完途の設計による庭園越しに眺める島根県庁。建物の前面にしっかりオープンスペースがとってあるのはありがたい。
C: あらためて正面より眺める議事堂。 R: 松江城に面する北側は覆いがなかった。だからってどうにもならないが。松江城の南側に広がるこの区域は、県庁をはじめとして鉄筋コンクリート全盛時代の建築が集中しているのだ。
島根県側はその価値をよくわかっており、「モダニズム建築物の宝庫」なんてページも用意されている。
(といっても実際のところ紹介されているのは安田臣(かたし)と菊竹清訓のふたりによる建築ばかりではある。)
というわけで、島根県庁の向かいにあって、やはり鉄筋コンクリートの存在感をブリブリ振り撒いている建物を見る。
1968年竣工の島根県民会館である。設計者は島根県庁と同じく安田臣だが、こちらは独立後の作品ということになる。
安田はもともと島根県の出身で、その縁で建設省時代に島根県庁を設計したという経緯があるのだ。
大分県庁(→2011.8.12)を設計したこともあって安田は高く評価され、それで独立したというわけ。
L: 島根県民会館を南側から眺めたところ。 C: 県庁のある西側から眺めたところ。うーん、コンクリート!
R: 菊竹清訓設計で1959年に竣工した旧島根県立博物館(現・島根県庁第3分庁舎)。2階が竹島資料室となっている。自分で思っていた以上に出雲での爆走でダメージを受けていたのと事前のリサーチが甘かったのとで、
今回の島根県庁周辺のモダニズム建築めぐりは、実はけっこう中途半端な形となってしまっていたようだ。
ほかにも鉄筋コンクリートの名物建築がひしめいていたようで、それらについては今後の課題としておこう。ではいよいよ松江城に登城である。当然、4年前にも訪れているのだが(→2009.7.18)、行かないわけにはいくまい。
まずは大手木戸門跡より入るが、やはり馬溜の石垣に圧倒される。そして二之丸下ノ段の緑が眩しい。
あまりにも強烈な日差しが容赦なく照りつけて、鮮やかで美しいと思うよりも先に「枯れないのかな……」と考えてしまう。
L: 松江城・大手木戸門跡。ここを抜けると、見事な石垣の馬溜。敵が見とれている間に鉄砲でやっちゃう算段か?
C: 石段を上りながら眺める二之丸下ノ段。かつてはここに米蔵がつくられ、米が備蓄されていたそうだ。
R: 松江神社。松平直政・徳川家康(東照宮を合祀したので)・堀尾吉晴・松平治郷(不昧公)を祀っている。さて松江城の二之丸上ノ段には、一見洋風の白い木造建築が建っている。しかし屋根はしっかり瓦葺きで入母屋造。
つまりは擬洋風建築である。まあどのみち、現存する天守のことを考えればずいぶんおかしな対比となるわけだが、
それもまた往時の洋風建築への憧れや格式などを示していると解釈できるわけだ。この建物は「興雲閣」という。
もともとは明治天皇が行幸する際の宿泊施設として建てられたが、日露戦争によって行幸じたいがなくなってしまう。
しかし程なくして皇太子(後の大正天皇)が宿泊して結果オーライという歴史を持つ建物なのである。
現在は松江郷土館として利用されており、隣の松江神社とともに松江城内の落ち着いた風景に華を添えている。
L: 興雲閣(松江郷土館)。1903(明治36)年に竣工した、擬洋風建築としては最後発の作品である。
R: 角度を変えて撮影。木が邪魔で撮影するのがかなり大変だった。もうちょいなんとかなりませんか。興雲閣の撮影を終えると、さらに石段を上って松江城の天守とご対面である。快晴の下での再会がうれしい。
松江城は現存天守の中でも特に好きな城のひとつで、誰でも魅力的な角度から眺めることができるのがいいのだ。
なんで国宝じゃなくて重要文化財止まりなのか、よくわからない。バランスがとれていていいと思うんだけどなあ。
L: 青空の下の松江城天守。 C: 中では先代の鯱が展示されているんだけど、薄暗いのがなんとももったいない。
R: 天守の中の様子。他の城と比べると、階段がずいぶんフレンドリーな造りをしている。観光客にはありがたい。松江城が何よりすばらしいのは、最上階からの眺めだ。爽やかな風を受けながら眺める松江城下の風景は、
緑に水に山に都市にとあらゆる要素が盛り込まれており、とても贅沢であると思うのだ。見ていて飽きることがない。
繰り返すがこの日は本当に厳しい日差しが降り注いでいたのだが、最上階ではまったくその影響を感じなかった。
吹き抜ける風の心地よさにうっとりしながら、光をいっぱいに浴びた景色を眺める。幸せな時間を堪能させてもらった。
L: 天守の最上階より眺める光景。これは塩見縄手や小泉八雲旧居などのある北側を眺めたところ。
C: 南西側の本丸と宍道湖。 R: 松江市役所と宍道湖をクローズアップ。松江城の天守は本当に居心地がいい。城から下りてくると、塩見縄手方面を軽くサイクリングしてみる。昔ながらの道がけっこう狭くて走りづらい。
武家屋敷やヘルン先生(小泉八雲)関係の施設は4年前にすでに訪問済みなので、今回はパス。写真だけ撮っておく。
L: 小泉八雲旧居。ちなみにここに住んだのは半年間だけ。 C: 塩見縄手の様子。歩道が砂地になっているのがすごい。
R: 堀川めぐりの遊覧船。一人旅だと乗る気になれないのだが、違う角度で松江を味わえて面白いんだろうなあ。いいかげん腹が減ったので、メシをいただくことにする。本当はきちんと出雲で出雲そばをいただきたかったのだが、
とてもとてもそんな暇はなかったわけで、ここ松江で出雲そばをいただくことにするのだ。出雲そばの店はけっこうある。
今回は1924(大正13)年竣工の島根大学旧奥谷宿舎(旧制松江高等学校外国人宿舎)の見学ついでということで、
中心市街地からは少し離れた住宅街の店にお邪魔することにした。ランチタイムにギリギリセーフなタイミングで入店。
L: 島根大学旧奥谷宿舎(旧制松江高等学校外国人宿舎)。あんまりどうってことなかった。裏庭狭すぎ。
R: 出雲そばといえば円形の器を積んだ割子そばである。薬味を蕎麦に乗せて、直接つゆをかけて食べる。出雲そばは4年前にも食っているが(→2009.7.18)、今回はきちんとした蕎麦屋のものを食べてみたかったのである。
で、食った感想としては、「ふつうに食いたいなあ」と。薬味はできるだけ少量にしたいし、つゆも自分でつけたい。
蕎麦の味の良し悪しはともかく、やっぱり蕎麦はふつうに食う方がおいしいと思う長野県出身の僕。最後に松江の街並みを自転車でざっと味わって駅まで戻る。走ってみると松江もよくわからないところがある街で、
松江城・島根県庁の東側は城下町のはずなのに、道は広くて建物はなんとなくスカスカ。土地に余裕がある印象だ。
国道なんかの幅広い道路がドーンと通っていて、全体的に大雑把なのである。また、商店街らしい商店街もない。
アーケードは県道21号沿いにあるのだが、いわゆる商店街というよりは飲食店が軒を連ねている感じが強い。
駅前を東西方向に抜ける通りは新しめのビルが並び、再開発された感触はある。でも地元住民の賑わいは感じない。
これは豊橋を訪れて考えるようになったことだが(→2009.12.30)、建物の価値を認めてきちんと残す街というのは、
その反面、意外と街並みを大胆に刷新してしまうことがある。松江も豊橋と似た気質があるのかもしれない、と思う。
松江は現存天守の松江城がまずあって、1950年代後半から鉄筋コンクリートの建築を積極的に建設していき、
現在も島根県立美術館やくにびきメッセなどの新しい建築を意欲的に建てている。そういう普請道楽な気質が、
都市空間をまず「開発の舞台」とみなす、そんな視点へとつながっているのではないか。大橋川に架かる複数の橋、
堂々と広い幅でまっすぐに走る道路などを経験すると、松江の街並みがまた違った色合いで見えてくるのである。
L: 大橋川に面する松江地方合同庁舎。2004年の竣工で、設計は高松伸。なんか1950~60年代モダニズムに回帰した感触。
C: 合同庁舎の国道485号を挟んだ東にあるくにびきメッセ(島根県立産業交流会館)。1993年竣工、こちらも設計は高松伸。
R: 県道21号沿いのアーケード。地方都市によくあるはずのこういう感じの空間は、松江ではきわめて珍しい。不思議である。4年前の旅行は県庁所在地めぐりを兼ねていたのだが、存分に街歩きをすることはできなかった。
今回はその分を取り返すべくがんばったつもりだったが、まだまだ不十分だったかな、という思いは正直ある。
ただそれは松江という街の、上記のような特性によるものであるようにも思える。とにかく、不思議な感触の街だ。松江駅を後にすると、安来駅で途中下車する。島根県で最も東にある街、安来を歩きまわってみようというわけだ。
安来の観光名所というと足立美術館がとにかく有名で、あとは月山富田城もある。どちらも駅からは離れた位置にあるし、
そもそも4年前に訪れているので(→2009.7.18)、今回は素直に駅から安来市役所までを歩いて往復する。
僕としてはいつもの市役所めぐりの一環ということで、山陰本線が通る市だから寄る、その程度の興味関心だったのだが、
実際に安来の街を歩いてみると、魅力的な要素がいっぱいあって驚いた。写真をもとに紹介していってみよう。
L: まずは安来駅の南側にある日立金属の工場。鏡餅状に切妻屋根を積み重ねた建物が並ぶ光景が独特で面白い。
C: 駅前を国道9号が通っているのだが、少し西へ進むとこのオブジェ。1915(大正4)年築の旧安来銀行本店の一部だ。
R: さすが安来節の街だけあって、マンホールのフタもどじょうすくいである。街の誇りが感じられますなあ。国道9号沿いにある陶芸家・河井寛次郎の生家跡は現在、歯科医院となっており、斜向かいにレンガのオブジェがある。
これは旧安来銀行本店の一部を保存したもので、安来という街が経済的な力をしっかりと持っていたことを示している。
もともと安来はたたらよる製鉄で知られた街で、駅の南にある工場では「安来鋼」ブランドの鋼が現在も生産されている。
安来の街には、かつての賑わいを感じさせる要素が今も残っており、街を歩いているとそれが直に伝わってくるのである。
河井寛次郎の生家跡から一本南の大市場商店街は、昔ながらの旧街道らしい空気が漂っている通りなのだ。
L: 国道9号から南に入っていく道。木造商家建築がガラス戸に改装されて並んでいる。つまりは昭和の風景である。
C: 安来中郵便局。建物としては新しいと思うが、昨日の大森銀山と同様に、旧街道の街並みを意識して建てている例。
R: 大市場商店街。右側の建物は「やすぎ懐古館一風亭」で、明治時代後半に建てられた商家をリニューアルしたもの。安来は特に古い街並みが有名というわけではないのだが、かつての「どこにでもあった風景」を素直に残している点が、
僕には非常に興味深く思えたわけだ。昔からあるものをちょっと変える、昭和はそれで満足していたところがあった。
そのバランス感覚を久しぶりにじっくりと体験したような気がして、ノスタルジーに浸ってしまったというわけだ。小さな川を渡ると、安来市民会館、安来商工会議所、そして安来市役所が集まった、安来の行政の中心地に出る。
しかしここもまた昭和の雰囲気が満載なのである。安来市役所はデザインなんて一切無視と言わんばかりの建物で、
味気ないことこの上ない。おまけに駐車場を挟んだ2号棟との間に3号棟が建っているのだが、これが全身コルゲート板。
この仮設感あふれる建物が、もう、いとおしく思えるくらいだ。久しぶりに「正しい役所」を見た気分だよ。
L: 国道9号を挟んで眺めた安来市役所。 C: エントランス部分をクローズアップ。 R: 角度を変えて裏側から撮影。1956年竣工の安来市役所はさすがに建て替え工事を決定しており、現在は設計に着手している段階だという。
コルゲート3号棟を壊してそこに新庁舎を建てるそうで、僕としては非常に残念な話だ。これ記念に残そうよぉー。
一方、安来市民会館は凝ったデザインとなっている。1966年の竣工で、やはりこちらも建て替え計画が進んでいる。
L: 安来市役所の反対側はこんな感じ。ちょっと凝っているな。 C: 問題の3号棟。これは見事な「昭和の役所臭」だ。
R: 安来市民会館。すでに設計者を選定する段階まで進んでいるようだ。これはこれで味があっていいんだけどねえ。空間が更新されるのは必然のことではあるんだけど、3号棟のような建物は今後もう二度と出現しないわけだから、
もう少し大事にしてほしいというか、面白がってほしいなあと、安来のノスタルジックな旧街道を歩いた僕は思うのだ。
空間に埋め込まれた無意識の昭和の記憶が薄れていくことが、なんとも切なく感じられてしまったよ。安来駅まで戻ってくると、凝ったつくりの駅舎をあらためてきちんと撮影する。現在の安来駅駅舎の竣工は2008年。
この駅舎は、安来市によって「アラエッサ♪YASUGI」という観光交流プラザが併設されているのが大きな特徴だ。
観光案内所にお土産コーナーにカフェに行政サービスコーナーにギャラリーにと、さまざまな機能が詰め込まれていて、
実際、多くの人がこの場所に留まっている。高い天井には地元産の木材による梁・桁・柱が縦横無尽に配置されており、
それだけで効果的なデザインとなっている工夫もまた興味深い。これは面白い事例だわ、と大いに感心するのであった。
L: 安来駅。向かって右側が駅で、左側は観光交流プラザ「アラエッサ♪YASUGI」。といっても建物内は一体化している。
C: 内部はこんな感じ(駅の改札付近より観光交流プラザ方面を眺めたところ)。人が見事に滞留しており、賑わいがある。
R: 安来市のキャラクター・「あらエッサくん」とその家族。グッズが豊富で、市もかなり強烈にアピールしている模様。安来駅が島根県で最も東にある駅で、次の米子駅に到着する少し手前に県境があるのだ。
iPhoneで位置情報をオンにしてGoogleマップを見ていると、県境越えがリアルタイムでわかるのが面白い。
しかしながら、濃密な3日間を過ごした島根県を出たことで、少々センチな気分になってしまうのも事実である。
気を取り直して列車を降りると、そこはもう鳥取県である。改札を抜けたらそこはごちゃごちゃしたコンコース。
その賑わいぶり、また通路沿いにある店舗の種類の豊富さに、米子という都市の規模を実感する。
そして駅ビルの外に出ると、これがまた規模の大きめなバスターミナルになっていて、やっぱり都会だ、となる。
振り返れば駅ビルじたいが大きい建物でさらに、やっぱり都会だ、となる。駅前の貝みたいなオブジェもデカい。
(まあ駅ビルがデカいのは、山陰のJR路線を統括しているJR西日本米子支社が入っているからだが。)
そんなわけで、しばらく米子の空間規模に圧倒されつつ駅前をあちこちフラフラしていたとさ。米子駅。オブジェは「米ッ子(こめっこ)合掌像」という名前で、貝は関係ないっぽい。
米子の街歩きは明日やるので、とりあえず予約しておいた宿を探す。米子は交通の要衝だけあってビジネスホテルが多い。
その中でも今晩お世話になる宿はひときわ小規模。ぶっちぎりで安かったから文句は一切ないけど、なかなか衝撃的。暗くなってから晩メシをいただくべく街に出たのだが、基本的にはどこも飲み屋ばかりでいい具合のメシ屋がない。
結局、駅近くのイオンで食ったのだが、全体的にそんなに賑わっている感じがしなかったのが気になるところだ。
で、そのイオンの中にはなぜかヴィレッジヴァンガードが入っていたので、のんびりプラプラと見てまわる。
僕はヴィレヴァンのアングラくささがどうにも好きになれないのだが(特に扱っている本の種類がイヤなのだ)、
雑貨屋として見てみると素直に面白いのである。食わず嫌いはいけないなあ、と教えられた山陰の夜なのであった。
まだ空が暗いうちに動きだすのはいつものことで、浜田駅を出たのは午前5時33分。
毎度おなじみのめちゃくちゃさだが、この旅で「やれることは、ぜんぶやる」ためにはしょうがないのだ。さて、浜田駅でゆるキャラのポップを見かけた。切妻屋根を頭に乗せたネコで、「しまねっこ」という名前だ。
屋根は出雲大社のイメージだからわかるとして、なぜネコなのか。島根とネコの間に特に強い関連性はないはずだ。
なるほど、島根県は気づいたか、と思う。現在、ゆるキャラ業界のトップランナーといえばアイツ(→2013.7.20)だ。
アイツは熊本ということでクマ、そこからスタートして爆発的な人気を得てしまった。ここに、ヒントがあるのだ。無数の地方発のゆるキャラが粗製濫造されている現代日本だが、成功の秘訣は意外なところにある。
それは、「その土地の独自性をアピールする度合いが低い方が成功する」ということだ。逆説と言っていい。
まず「ひこにゃん」から考えてみよう。ひこにゃんはネコだが、彦根との関係はただ一点、井伊直孝とのエピソードにある。
もともとかわいいネコを採用する理由づけがここで生まれ、他と区別する要素として赤備えの兜をかぶせる。これだけ。
それ以外によけいな要素はないのである。彦根という土地をアピールする度合いはきわめて低い。だから応用が利く。
(そもそも、この招き猫のエピソードの舞台は世田谷区の豪徳寺であって、彦根にいたネコではないのだ。)
「くまモン」も同じで、熊本ということでクマが採用されただけで、あとはよけいな要素がない。
かわいい外観とふてぶてしい(と僕は勝手に思っている)性格だけで売っている。だからあちこちに顔を出せる。
つまり、キャラクターの理由づけとなるその土地の名産品をアピールすればするほど失敗する、という逆説がある。
ゆるキャラとはすなわち、「かわいければいい!」のである。土地の自己主張が強いと、それだけ「かわいさ」は減る。
島根県はその事実に気づいたようで、シンプルにかわいいネコを出してきた。差別化のために切妻屋根を乗せて。
ひねくれ者の僕は「これはひこにゃんのヴァリアント(異体)ですなー」などと思ってしまうのだが、
かわいくデザインしてあるのでそれなりに人気は出るでしょう。切妻屋根がどこまでブレーキになるか。しまねっこ。けっこう必死に活動しているようだ。
1時間ほど揺られて降りたのは、温泉津駅だ。本日はまず、温泉津温泉に浸かるところからのスタートなのだ。
それにしても「温泉津温泉」と書くと実にくどい。読めば「ゆのつおんせん」で風情のある響きなのだが。
温泉津とは、なんとも興味深い名前だと思う。日本海側で湯の湧く港、そりゃ当然、昔から栄えるに決まっている。
特に温泉津温泉は石見銀山の輸出港でもあったのだ。その街並みは重要伝統的建造物群保存地区になっている。温泉津駅から温泉街までは少し距離があり、山を迂回してアクセスすることになる。これが少々面倒。
港に出てから東にまわり込んでしばらく行くと、小ぢんまりとした温泉街となる。日が出たばかりですごく眩しい。
今回、お邪魔したのは日本温泉協会のから最高評価を受けた薬師湯。昔からの源泉を使う元湯泉薬湯と迷ったが、
そんなに評価が高いんなら一度味わっておかないといけないだろう、ということで判断したのだ。
薬師湯はなんと朝5時からの営業ということで、それでこんな無茶なスケジュールとなったわけ。
実際に訪れてみると、大胆でモダンな新館も面白いし、旧館の震湯も大正ロマン全開ですばらしい。
昨日の津和野でも感じたことだが、和風の街並みにランドマークの洋風建築という組み合わせがいいのだ。
L: 薬師湯旧館の震湯。1919(大正8)年の築とのこと。現在はカフェとして利用されている。
C: 薬師湯の新館。温泉はこの中だ。 R: 新館2階のラウンジ。湯上がりに景色を眺めるという贅沢。薬師湯のタオルも買って、いざ温泉に浸かる。湯船はけっこう小さいのだが、湯の花がしっかりと付着しており、
いかにも効能がありそうな雰囲気を漂わせている。46℃の源泉をそのまま湯船に送っているそうで、入ると熱い。
それでもガマンして浸かっているうちに慣れてきて、どうにかリラックス。実に贅沢な朝である。
実は山陰地方はけっこうな温泉天国で、今回の旅行では1日に1ヶ所以上のペースで温泉に浸かる予定である。
(昨日は温泉に時間的な都合で浸かることができなかったら、可能であれば津和野で浸かるつもりだった。)
風呂上がりにラウンジから温泉津の街並みを眺めながら、これは1発目からいい感触だわ、と大喜びなのであった。とはいえ次の列車までの時間はけっこうタイトで、汗が噴き出る状態のままで薬師湯を後にする。
温泉津の街並みは重要伝統的建造物群保存地区ということで、いちおう奥まで往復してみたのだが、
正直いまひとつピンとこない。昔ながらの温泉街らしい感触は確かにあるけど、そこまで凄みは感じない。
建物にあまり統一感がなく、店なんだか何だか用途がよくわからないものも多い。あまり美しくないのだ。
こんなんでいいのかなあ、と首をひねりつつデジカメのシャッターを切って駅まで戻る。
L: 温泉津温泉の街並み。道幅の狭さや曲がり方は昔ながらだとは思うが。 C: 朝だと雰囲気が味わえないのか。
R: 内藤家庄屋屋敷付近。これと薬師湯以外には特にこれといった建築がなかったように思うのだが。温泉津駅からさらに東へ。30分ほどで大田市駅に到着する。大田(「おおだ」と濁る)市は石見三田のひとつ。
大田市はなんといっても世界遺産の石見銀山で有名だ。さらに、さっきの温泉津温泉も2005年の合併で市域に入った。
石見国の一宮・物部神社もある。そんなわけで実はかなり強力な観光コンテンツを持っている都市なのである。
大田市駅の改札を抜けると、まずは駅の向かいにある大田バスセンターに直行。ここでバスの時刻表をもらう。
バスに全面的に頼るここからの行程はけっこうややこしいので、親切に対応してもらってほっと一安心。
そして時刻表を見て確認が取れたので、予定どおりに大田市役所まで歩いていくことにした。大田市役所は三瓶川を渡った左岸にあるので、大田市駅からはけっこう離れた面倒くさい位置にある。
まずは大田市駅からそのまままっすぐ南下していく。かつては商店街だったようだが、今は面影がなくなりつつある。
駅のすぐ近くにあるデパートというかスーパーというかの影響力が大きかったせいなのか。なんとも寂しい。
道が角度を変えたところで右に曲がり、大田市民会館の前を行く。そうして三瓶川を渡ると大田市役所に到着だ。
さっそく撮影しながら周りを歩いてみたのだが、これがかなり撮りづらい市役所だった。理由はいくつかある。
まず市役所じたいが大きい。そして道幅が狭い。おまけに敷地が周囲よりも高くて、しかも木々に覆われているのだ。
駐車場も建物の幅と比べるとそれほど広くなく、周囲が木なので後退できない。さらに逆光で、本当に撮影がつらかった。
L: 大田市役所。駐車場の端っこでぎりぎりどうにかカメラに収まった。 C: エントランス部分をクローズアップ。
R: 裏側も同じようなデザイン。表側と比べると1フロア分多いのがわかる。こっちは撮影しやすかったんだけどねえ。市役所の撮影を終えると来た道を引き返し、あらためて南下して神田橋で三瓶川を渡る。この神田橋にはバス停があり、
ここから次の目的地へとバスで移動するつもりだったのだ。しかし神田橋の南詰から先にも商店街があった。
こちらの商店街は、さっきの駅前商店街と比べるともっと古い。しかし店の密度は似たようなものとなっている。
おそらくこっちの三瓶川左岸が旧市街で、右岸の駅前が新市街ってことだろう。歴史を詳しく知りたくなる空間だ。
L: これは大田市駅からまっすぐ南下したところの商店街。商店はそれなりにあるが、かなりの寂れ具合だ。
R: 三瓶川を渡った旧市街。街道沿いの雰囲気が強い。道幅の狭さは昔からまったく変わっていないのだろう。しばらく周辺を歩きまわりながらバスを待つ。石見大田郵便局前には本町という名のバス停があって、
やっぱりここがかつての大田の中心部か、と思う。やがて三瓶山行きのバスがやってきたので乗り込む。
10分ちょっとそのまま南へ行って、物部神社前というバス停で下車。そう、ここが石見国一宮なのだ。
L: 物部神社の境内に入るのだ。国道375号から少し東に入ったところにある。手前の駐車場から石段を少し上がると鳥居。
C: 鳥居をくぐったところ。物部神社の境内は妙に開けており、神社らしからぬ開放的な公共空間となっていた。
R: 物部神社の拝殿。奥には本殿があるが、見てのとおりこれがやたらとでっかい。春日造では最大の本殿なんだって。石見国の一宮は物部神社である。その名のとおり、物部氏の初代である宇摩志麻遅命を祀っている神社だ。
僕自身は物部さんとは何のゆかりもないと思うのだが、いちおうきちんと参拝しておくのである。でっかい本殿をクローズアップ。1753(宝暦3)年建立、1856(安政3)年改修。
参拝を終えてあらためて境内をぐるっと見回してみるが、本当に独特な開放感のある神社だと思う。
ふつう、神社は木々を上手く使って閉鎖的に空間の静謐さを演出していくが、物部神社にはそういう感じがない。
鳥居から手水舎、拝殿へと続く参道はきちんとあるのだが、写真を見てのとおり両側に木が1本ずつ植えてあるだけ。
あとは神社の境内いっぱいに砂利の敷かれた地面が広がっているのである。純粋に、広場となっているのだ。
どちらかというと、お寺の伽藍があった跡に近い印象がするが、物部氏は仏教を排斥しようとしていたはずだ。
いったいどういう経緯でこういう境内が成立したのか気になるところだ。ま、とにかく興味深い場所だった。帰りは国道375号沿いの川合バス停からバスに乗り、別に病気でもないのに大田市立病院で下車する。
というのも実は、大田市立病院は、三瓶山に向かうバスと石見銀山に向かうバス、あと大田市駅に向かうバス、
それぞれが交差するターミナル的な存在となっているからだ。つまり、ここでバスを乗り換えるというわけだ。
待ち時間が少しあったので病院の中にお邪魔して、自動販売機で飲み物を買っておくのであった。便利だ。というわけで、いよいよ本日のメインである石見銀山へ突撃だ。かつてはあまり有名な観光地ではなかったと思うのだが、
2007年の世界遺産登録を機に一躍注目されるようになった場所だ。ある意味、世界遺産ブームの象徴的存在である。
さっきの温泉津温泉と同じく、石見銀山の中心部である大森銀山地区は重要伝統的建造物群保存地区となっている。
まあ一丁、勉強してやろうじゃんというわけでバスに乗ったのだが、駅からの乗客がすでにけっこう乗っている。
バスの車内では映像による石見銀山の説明が流されており、みなさんなかなか熱心に耳を傾けているのであった。のどかな県道46号を進んでいくと、山の中に少し入ったところでバスは停車。細長い駐車場がバス停となっている。
少しややこしいのだが、「世界遺産センター」は離れた場所にあって、別のバスに乗ってアクセスすることになる。
でも僕としては、そんな施設に行っている暇があったら大森銀山の街歩きをするに決まっているので、そっちは無視。
さてバスを降りて最初にやることは、レンタサイクルを借りることだ。バス停から少し先にレンタサイクルの店があるが、
これがどっからどう見てもガソリンスタンドだったところをそのまま使っている建物で、なんだか面白かった。
お値段はふつうの自転車500円、電動自転車700円ということで、なんとも微妙な差である。少し迷う。
「どっちがオススメですか?」と店の人に訊いたら「そりゃもう電動です!」と即答だったので、素直に電動自転車にした。いざ石見銀山観光をスタートなのだ、と鼻息荒くペダルをこぎ出すが、石見銀山資料館はバス停から本当にすぐのところ。
まずは基礎知識をきっちりつけないとな、と自転車を止めて中へと入るのであった。建物の雰囲気がなんとなく、
昨日の津和野町役場津和野庁舎に似ている。それは当然で、この建物も旧郡役所なのであった。よく残しているなあ。
L: 石見銀山資料館の門。旧邇摩郡役所ということで、なるほどそれっぽいつくりになっている。
R: 石見銀山資料館。1902(明治35)年の築。世界遺産登録のずっと前、1976年から資料館になっているそうだ。さすがに石見銀山の入口に位置しているだけあり、石見銀山の概要についてよくわかる施設となっている。
実際の鉱物も置いてあってリアリティが感じられる。室内は全体的に照明が抑えめだったのが印象に残っている。
しかし展示が見づらいということはなかった。世界遺産ということでなかなか気合を感じる展示だった。いちおうここで石見銀山について軽くまとめておくと、周防国を中心に中国地方を支配していた大内氏が開発。
そして室町時代から戦国時代へと世の中が動いていく中で、大内氏と尼子氏による争奪戦が繰り広げられるようになる。
つまり、戦国時代の大内VS尼子の因縁の対決には、石見銀山から得られる富が大きな要素として横たわっていたのだ。
やがて毛利元就が台頭すると石見銀山も毛利氏の所有となる。銀山は毛利氏の中国支配にも一役買っていたわけだ。
関ヶ原の戦いにより毛利氏が減封されると銀山は徳川家康のものとなる。家康は初代銀山奉行に大久保長安を任命。
しかし江戸時代も中期以降は銀の産出量が減っていき、大正時代には鉱山として機能しなくなってしまった。そんな感じ。石見銀山資料館から20mくらいで大森銀山地区が始まる。新しい建物もある程度混じっているとは思うが、
やはり石州瓦が威力を発揮して街並みの雰囲気は見事に統一されている。そしてこれが本当に長く続いているのだ。
重要文化財にもなっている熊谷家住宅は、その入口部分にある。熊谷家は石見銀山を統括する代官所の御用商人。
つまり、最盛期には世界の銀産出量の1/3を占めたという石見銀山で、一番の有力商人の邸宅ということ。
L: 玄関を入るとまずこんな感じ。広い土間と、出っ張って土間に面する勘定場が商家としての規模を物語る。
C: 土間の奥には台所。これだけ広くて開放的な事例は珍しいと思う。 R: 部屋がいっぱいあってとにかく広い。建物はとにかく豪華。部屋の数がとにかく多いのだ。そして蔵の数も多い。2階の広間の見事さには呆れるしかない。
今までそれなりの数の商家を見てきたけど、熊谷家住宅のダイナミックなつくりはかなり個性的である。
これだけのものがつくられるということから、石見銀山の影響力の大きさを肌で感じることができるのだ。
L: ガラス越しに地下蔵を覗き込んだところ。本来は畳の下に隠れており、耐火金庫のような役割だったという。
C: 2階の大広間。なんだか高級旅館のような快適さだ。 R: 2階からの石州瓦の眺めがまたいいのだ。川に沿ってゆるゆるとカーヴを繰り返しながら上り坂が続く。そして石州瓦と木造の街並みもほとんど途切れることなく続く。
橋を渡って右手に現れたのは、町並み交流センター(旧大森区裁判所)だ。裁判シーンが人形で再現されている。
そしてさらに進んでいくと郵便局があった。津和野とは対照的に、こちらは街並みに完全に同化しているデザインである。
L: 町並み交流センター(旧大森区裁判所)。石見地方の鏝絵を紹介しており、すばらしい作品を見落とさずに済んだ。
R: 石見銀山大森郵便局。世界遺産登録を前に、かつての局長が私財を投じてこの姿に改築したそうだ。それはすごい。さらに行くと旧河島家住宅。大森代官所の地役人の住宅で、1991年に復元された武家屋敷だ。
内部はごくふつうに昔ながらの木造住宅なのだが、ところどころでしっかりと凝っているので楽しめる。
特に印象的だったのは2階で、「収納」をテーマにした展示となっていた。これは美しいわ、と見とれてしまった。
L: 旧河島家住宅。 C: 建物と塀の間に庭がつくられていた。小さいながらも武家のプライドを感じる見事さ。
R: 2階の「収納」特集。これはすごい。「頭上・足元にご注意ください」という紙をネズミの人形で留めている機転もいい。大森銀山地区は緩やかな上り坂になっており、のんびり歩いていくのも悪くはない。しかし距離がかなりあるので、
レンタサイクルでないとかなり時間がかかってしまうだろう。また、上り坂は最後の最後まで延々と続くので、
やはり電動自転車にしておいて大正解だった。それにしても、これだけ長い街並みは関宿(→2012.12.27)以来だ。
L: 大森銀山の街並みは本当にクソ長い。それでも関宿と同じく統一感のあるファサードが延々と続くのはすごい。
C: 振り返ったら下り坂。 R: 全長は約2.8kmとのこと。その間、ずっとスラローム(蛇行)する上り坂なのだ。五百羅漢へと出る道の辺りで大森銀山地区の街並みは終わる。しかし、じっとりした上り坂はうねりながらまだ続く。
石州瓦の木造建築から、木々の緑の中を抜ける道へと変化する。完全に気分はハイキングである。むしろ、道はこんな具合になってからの方が長い。
電動自転車の恩恵に心の底から感謝しつつ(かつてはそんな日が来るとは思っていなかったわ……)、ひた走る。
すると、途中に清水寺という寺院があり、そのすぐ近くに清水谷製錬所跡があるという。当然、寄ってみる。
木々に包まれた坂道を上っていくと、右手に何段も重なった石垣が現れる。夏の緑に覆われているが、
その威容ははっきりとわかる。これはまるで『ラピュタ』の世界だなあ、と呆れて眺めるしかなかった。
実はこれ、1895(明治28)年に完成したので石見銀山としてはきわめて新しいものなのだ。
しかしながら銀の質が悪かったために採算が取れず、わずか1年半で操業をやめてしまったという。
石垣の奥にはスイッチバック的なスロープがあり、ある程度は上まで行けるようになっている。
横から見ると、規模の大きさにただただ驚くばかり。人間の欲望は果てしないのう、と思うのであった。
L: 清水谷製錬所跡。明治時代の最新技術で築かれた。石見銀山の中では新しいためか、世界遺産の対象ではないようだ。
C: かつてはこの石垣をもとにして、いくつもの建物が山裾に折り重なって貼り付くように建てられていたのだ。
R: 横から眺めるとこんな感じ。高さがあって、規模の大きさに驚かされる。人間はこんなのつくっちゃうんだもんなあ。元の道に戻ってやっぱり上り坂を走る。歩いている観光客もかなりいて、その根気のよさには舌を巻くしかない。
五百羅漢周辺の駐車場からでもしっかり距離があるわけで、全行程が歩きだとどれくらいの時間がかかるんだろう。もはや森の中の遊歩道と化した道を進んでいった終点にあるのは、龍源寺間歩(まぶ)である。
間歩とは坑道のことで、江戸時代までの呼び方。龍源寺間歩は江戸時代中頃に掘られた坑道であり、
一般公開されている唯一の間歩なのだ(大久保間歩は完全予約制のツアーでのみ入ることが可能となっている)。
さっそく中へと入ってみるが、とにかく狭い。入口から狭かったが、それがそのままずっと延びている。
機械を使って掘り進めていった夕張の炭鉱はそれなりに広い断面積だったのだが(→2012.6.30)、
サザエの殻に油を入れた明かりを片手に手掘りでがんばったという間歩は、さすがに必要最小限の狭さとなっている。
(ちなみに大田市のゆるキャラは、このサザエの明かり「螺灯(らとう)」をモチーフにした「らとちゃん」なのだ。)
閉所恐怖症の人にはたまらないわなあ、と思いつつ歩いていく。ここで地震が起きたら……とか考えちゃダメだ!
L: 龍源寺間歩の入口。すでに周囲には冷気が漂っており、入口の前に立つとひんやりして、真夏なのにちょっと寒いくらい。
C: 中を行く。龍源寺間歩は約600mあるというが(公開しているのは273m)、ずーっとこんな調子である。
R: 銀を採掘した跡。ほかにも排水用の竪穴などがある。それにしても、人間の欲望ってのは凄まじいものがあるなあ。龍源寺間歩の公開されている区間が終わると、近年になって掘られたまっすぐなルートで上がって地上に出る。
しばらく暗い坑内にいると方向の感覚が完全に狂う。出口から出たのはいいが、空間把握能力が完全にマヒして、
何をどうすれば元の道に戻れるんだと大いに不安になるのであった。昔の人の我慢強さはものすごいなあ、と呆れる。龍源寺間歩の出口は佐毘売山(さひめやま)神社の近くにあるので、せっかくなので神社に参拝しておく。
佐毘売山神社は木々に覆われた中にあり、けっこう高い位置にある。表参道の石段から行けば楽だったのだが、
裏側から登ってしまったのでかなり大変だった。神社に着くまで2回もニホントカゲを見かけたし。虫もいっぱい。
しかし1819(文政2)年に建てられたという社殿はかなり大きく、石段の上に鎮座していることもあって、
かなりの威厳を感じさせる。老朽化がかなり激しく、あちこちがひどく傷んでいたのは残念だった。佐毘売山神社。もうちょっときれいにできないもんですかね。
これでだいたい石見銀山の銀山らしいポイントは押さえたので、坂を下って一気に戻る。
といっても歩きの観光客が多いので、あんまりスピードは出さなかったが。電動自転車の威力を実感したなあ。町並み交流センター(旧大森区裁判所)で鏝絵についての情報を確認したので、帰りにきちんと寄って見学する。
大森銀山地区から川に沿って北に入ったところにあるのが西性寺(さいしょうじ)。ここの鏝絵が特にすごそうなのだ。
「左官の神様」とまで呼ばれた松浦栄吉という職人が大正時代中頃に製作したという、「鳳凰」を見るのである。
門前に自転車を止めて境内に入ってまず、本堂の立派さに驚かされる。豪快な石州瓦とそれを支える柱が美しい。
そしてその奥にある経蔵も石州瓦が使われているが、2層の瓦と見事な調和を見せていたのがその「鳳凰」。
彫刻ならわかるけど、これだけ繊細なものを鏝で造形するとは! 色づけされていないのがまたいいのだ。
汗を拭き拭き、これは見事だとしばらく見とれるのであった。これはもっとアピールしないともったいないよ!
L: 西性寺の経蔵。 C: 正面の壁に鳳凰。こんな繊細な造形を鏝でやっちゃうの!? R: ほかの面には花など。これはいいものを見させてもらった、と大いに満足して自転車にまたがると、大森銀山地区を抜ける。
そのまま石見銀山資料館の前を通過して、ぶつかるまで直進。そこは周囲より石垣で一段高くなっており、
自転車を止めると軽快に石段を上って、公園の広場のような境内に出る。そう、ここは神社なのだ。
城上(きがみ)神社という名前で、延喜式にも記載されている。現在地に移ったのは1577(天正5)年のこと。
1812(文化9)年に再建された拝殿は島根県の文化財となっているが、なるほどこれは確かに見事なものだ。
さらに面白いのはこの拝殿、天井に「鳴き竜」の絵が描かれており、真下で手を叩くと音が共鳴するのだ。
石見銀山は銀山に直接関連する施設だけでなく、神社仏閣がしっかり楽しめる場所なのだ。堪能したわー。
L: 西性寺の本堂もすごく立派なので撮影なのだ。1845(弘化2)年の築。石州瓦の威力を見せつける名建築ですよこれは。
C: 城上神社の拝殿。どちらかというとお寺っぽい。よく見ると本当に凝っている建物で、これももっと評価されるべき名建築だ。
R: 拝殿内部の「鳴き竜」の天井絵。その周りの絵もなんだか曼荼羅っぽい印象があって、やっぱり寺院風なのだ。帰りのバスは広島発のバスだった。昨日の浜田もそうだったんだけど、中国地方における広島の存在感は別格で、
山陰地方の各都市はバスで容易に広島へアクセスできるようだ。まあ鉄道があまりに不便だからそうなるんだろうけど、
中国山地を縦断する交通網は予想していたよりもずっと活発に動いているみたい。現実はそういうもんなのか。
広島から直接、石見銀山に乗り付けることができるとは思わなかったなあ。バス路線は舐めてかかれませんなあ。大田市駅に到着すると、駅前のスーパーまで戻って昼メシを買い込む。思えば北海道でもそうだったんだけど、
スーパーに入っているパン屋というのは安くておいしいのでけっこうお得なのだ。しっかり買わせていただきましたぜ。
そうして準備が整うと、特急列車で一気に松江まで行ってしまう。出雲はスルーなのだが、きちんと明日行きますんで。
L: 石見から出雲に入り、「出雲的な景観」について考える。緑に包まれた小さい山々と、その裾にへばりつく住宅と。
C: 宍道湖だ! その先に見えるのは島根半島だ。水の先には壁のような山。よく考えるとこれはすごく独特な景観なのだ。
R: 松江駅に到着。4年前の訪問時には車で一瞬通りかかっただけだったので、本格的に眺めるのは初めてになる。気がつけば山陰本線は旧石見国から旧出雲国へと入った。それとともに、心なしか車窓の風景が変化した感じがする。
どこが違うんだろう?と考えていくのだが、それは当然、「出雲的な景観とは何か」という問いへとぶつかることになる。
(景色を一瞥しただけでどこの旧律令国か判別できる能力を持つことが、僕の地理好きとしての究極の目標なのだ。)
家々は茶色の石州瓦をよく乗せている。だが、山と海がほとんどだった石見とは違い、平地がある。田んぼが目立つ。
しかし田んぼの黄緑とともに、緑の壁もよく目立つ。そう、出雲の大地は、山というより丘といった高さの緑が、
ところどころで田んぼの中に点在しているのである。そして家々はその緑の足下にへばりついて並んでいるのだ。
面白いな、と思う。「出雲」という名の由来を詳しくは知らないが、ポコポコとあちこちに現れる緑の姿は、
まるで地面から雲が盛り上がって空へと浮き上がる、その途中の光景に思えてくるのだ。強引な解釈だけど、そう感じた。そんなことを考えている間に列車は松江駅に到着する。降りて改札を抜けると、とにかくまずコインロッカーへ直行。
手早く荷物を預けると、北口から駅の外に出る。4年前、県庁所在地めぐりで初めて松江に来たときには(→2009.7.18)、
松江の中心市街地を歩くことはおろか、駅を眺めることもできなかった。まずは駅を撮影して、松江に来た気分を高める。
それが終わると、バスターミナルで目的のバスがどの乗り場に来るのかを確認する。これがけっこうややこしかった。
旧出雲国はバスの交通網が発達しているようで、さまざまな路線が松江駅にやってきており、ちょっと迷ってしまった。
まあ迷ってしまうのも当然のことで、これから行く場所はバスの乗り継ぎをやる必要があるのだ。
ふだんそんなことは滅多にないので、大丈夫かなあとドキドキしたしだい。結果的には問題なく乗れたんだけどね。バスでまず目指すのは、八雲という場所だ。もともとは八雲村として独立していたが、2005年に松江市の一部となった。
国道432号でそこまで行くのだが、途中にあったバス停の名前に爆笑してしまった。その名も、「鼻曲(はなまがり)」。
いったいどういう由来でこんなことになってしまったんだろうか。やっぱり……臭かったのかなあ?
L: 問題のバス停。帰りにカメラを構えてしっかり激写した。「鼻」の隣が「口」っていうのもよくできているな。
R: 終点・八雲バスターミナル(八雲車庫)。ここで、やくもニコニコバスというコミュニティバスに乗り換えなのだ。松江駅から20分ほどで終点の八雲車庫に到着。Googleマップを見る限り、どれだけ田舎なのか戦々恐々としたのだが、
まあ田舎ではあるんだけど、すぐ近くに農協のAコープがあったので一安心。これなら困ることはまったくない。
それにしても凄まじく暑い。午後3時、なんとなく夕方の色が混じりだした日差しは容赦なく照りつけてきて、
日なたに突っ立っていると気絶してしまいそうなくらい暑い。いったい地球はどうしちゃったんだ、という暑さだ。
しかしドアを開けてバスターミナルの中に入れば、そこはキンキンに冷えている。高齢者の熱中症対策だと思うが、
今日はもう高齢者とかそんなのは関係なく、外に出ていれば命に関わる、それくらいのとんでもない状態だった。これまた20分ほど待つと、同じ目的と思われる男性とともにワンボックスカーに乗り込んで出発。
いったん川沿いの住宅地をぐるっとまわってから、のどかな風景の中へと走りだす。山は高くなったが、出雲の景色だ。
途中で小学校と中学校が並んでいるのを見たのだが、それぞれ「八雲小学校」「八雲中学校」という名前があるのに、
なぜか「やくも意宇学園」という看板が出ている。それで思い出した。ああ、松江市は小中一貫教育をやっとったわ、と。
旅先でそういう間違った教育をやっているのを見かけると、ものすごく胸クソが悪くなってくる。気分が少しダウナーになる。
折しも松江市教育委員会は『はだしのゲン』の閲覧制限の件で全国的な注目を集めようとしているところだったのだが、
僕の感覚からすれば、松江市教育委員会の価値観がもともと狂っていることの証拠じゃないの、くらいなところ。
まあこれ以上これについて書いてもイヤな気分になるだけだから、本題に戻るとする(いちおう過去ログ →2012.12.26)。15分ほどで目的地に到着した。男性とともにワンボックスカーを降りると、客のいない車はさらに南へと走っていった。
辺りをぐるりと見回すと、「ゆうあい熊野館」という施設がある。隣は「ホットランドやくも」という温泉施設。
やっぱりさすがに何もないクソ田舎ということはなく、人が快適に滞在できる施設がきちんとあるのだ。
のんびりしていて帰りのバスに間に合わなかったら行ってみるか、と思いつつ、目の前にある鳥居と向き合う。
そう、本日2件目の一宮参拝をするのである。出雲国に一宮はふたつあり、ひとつは言わずと知れた出雲大社。
そしてもうひとつがここ、熊野大社なのだ。熊野三山(→2013.2.9/2013.2.10)と関係があるのかと思ったら、
こちらの社伝は「ウチの神社から紀伊へと勧請されたよ、ウチがオリジナルだよ」と主張しているみたい。
L: 熊野大社の鳥居。歩行者はこの参道を行くことが可能だが、南隣に駐車場があり、そこから次の鳥居に出る人が多そう。
C: ということで、駐車場からアクセスした場合にはこんな感じ。 R: 川を渡って本格的に境内へ。参拝客がけっこういる。熊野大社は歴史が古すぎて、食物の神を祀っていたはずが、いつの間にかスサノオを祀るようになっていたらしい。
これだけ奥まった場所に立地しているにも関わらず周囲には賑わいを感じさせる施設があり、実際、参拝客は多い。
随神門をくぐると、なるほどそこには堂々とした拝殿があった。拝殿だけでなく舞殿や鑽火殿などもあり、
境内は穏やかな雰囲気となっている。ここも開けている印象がするが、木々と建物でうまく空間を囲っているのだ。
広すぎず狭すぎず、この適度なバランスが、居心地の良さにつながっているように思う。興味深い事例である。
L: 随神門。注連縄が見事だ。 C: 境内の様子。適度に開けた感覚が心地よい。 R: 拝殿は1978年築と新しい。同じ出雲国の出雲大社とはきちんと祭りを通した交流がある。出雲大社はかつて「杵築大社」という名前だったが、
鑚火祭という祭りの際に、その名に関係する臼と杵が、この熊野大社から渡されているのだ。ちなみにこの祭りでは、
出雲大社から熊野大社へ餅が贈られる。熊野大社はその餅に難癖をつけるけど、最後は受け取って臼と杵を渡す。
どういう由来で毎年そんなことをやるようになったんだか。歴史の古い神社は面白い要素がいっぱいである。
L: もともとは拝殿だったという舞殿。 C: 鑚火殿。ここを舞台とする鑚火祭で出雲大社とつながりを持っている。
R: 稲荷神社と荒神社。熊野大社では摂末社がきっちりと整理されて並んでいるのだ。全体的に几帳面な感じがするなあ。一宮は公共交通機関でアクセスするのは面倒くさくても、ちゃんと立派なものがほとんど。熊野大社もそうだった。
帰りのバスにはしっかり間に合い、のんびりと八雲バスターミナルまで揺られる。松江駅行きのバスが出るまで余裕があり、
目をつけておいたAコープで避難&お買い物。午後4時を過ぎているのに、まだまだ暑くてたまらなかったのだ。
パピコを買って外に出たら一瞬で融けたぜ。チューチュー吸ってやる気を回復させて、バスに乗り込む。松江駅に戻るが、さすがに中国地方は東京に比べると暗くなるのが遅い。宿にチェックインしてしまうと、
レンタサイクルを借りて松江市内を北へと爆走。本日2ヶ所目となる温泉、松江しんじ湖温泉に浸かるのだ。
松江しんじ湖温泉の歴史は浅く、1971年の開湯である。基本的には旅館に泊まって浸かるスタイルなのだが、
日帰り入浴が可能なところもなくはない。今回は、泊まった宿と同系列のホテルで浸かることができた。宍道湖大橋を渡って松江市役所に行く途中に目的のホテルはあり、チケットを見せて3階の大浴場へ。
中は窓が開け放たれており、宍道湖をしっかりと眺めることができる。これはいい景色だ、と感動するが、
それはつまり、湖岸を歩く人からチンコ丸見えになってしまう可能性もあるということなのだ。まあ気にしない。
景色を眺めたり肩まで温泉に浸かったりで、とっても楽しく過ごすことができた。入浴客がオレ一人って最高だな!温泉に浸かったのは時間調整という側面もある。4年前にはやや消化不良だった「宍道湖の夕日」にリヴェンジするのだ。
湖岸はけっこうフナムシ天国だったのだが、そこはまあ気にしないで、レンタサイクルを止めて沈みゆく夕日を眺める。
天気がよすぎたのか西の空全体が赤く染まることはなかったが、神話で語られた大地に真っ赤な太陽が吸い寄せられ、
やがて輝きが欠片となって融けていき、次の朝を迎えるべくゆっくりと眠りにつく。その一部始終を眺めていると、
なんとも言えない神聖さに触れた気分になる。やっぱり出雲ってのはふつうとは違う場所なんだな、と思えてくる。宍道湖の向こう、島根半島に日が沈む。
そのまま晩メシを求めて島根大学方面まで爆走。そしたら中心部と違って完全に郊外型社会となっており、
いろんなチェーンが目白押しなのであった。独りで宍道湖七珍をいただくのは虚しい(→2009.7.18)ので、
その正反対とも言える行動をあえて取る。ヨシギューですよヨシギュー。まあ、たまにはそんな夜があってもいいずら。
何が驚いたって、道のど真ん中で車が横倒しになっていたことだ。何が起きてそうなったのか、まったく想像できない。
でも事実、1台の車がきれいに横転していたのだ。バスはその車をよけていったん通り過ぎるが、ゆっくりと停車すると、
さすがにこれは放っておけないということで運転手2名が助けに出た。おそるおそる僕も外に出たのだが、その時にはもう、
通りがかったほかの人たちの協力もあり、車は元に戻され、道の脇へと動かされていた。安心してバスに戻る。益田の辺りで目が覚めたら、時刻はもう8時を過ぎていた。夜中は運転席との間にカーテンが引かれていたのだが、
さすがにもうそれは開けられていて、緑に囲まれてうねる国道9号をフロントガラスから眺めることができた。
深く深く山の中へと分け入っていくバスの走りっぷりをぼんやり感じながら、旅が始まっていることを再確認する。
終点・津和野に着いたらどう動くか、そのことをイメージしながら胸の高鳴りを落ち着かせようとしていた。
――そしたら、いきなり車が横転していたのである。昨日のログで「目が覚めたとき、どんな光景が飛び込んでくるのか。」
なんて書いたらこんな事態。もう、今回の旅がどうなってしまうのか、戦慄を覚えざるをえないじゃないか。
旅の始まりとしては、なかなか衝撃的な部類である。「旅行している自分」という現実に対応するスイッチが一気に入る。バスはそれからすぐに津和野駅に到着した。ほぼ予定どおりの時刻に旅を始めることができた。うれしい当たり前である。
僕のほかに観光客が2組ほどバスを降りる。お盆明け、僕の感覚だと、有名な津和野のわりには少ない印象がする。
トイレでコンタクトレンズを装着し、気持ちを切り替える。コインロッカーにCHEYENNE(→2013.2.17)以外の荷物を預け、
駅の向かいにある店でレンタサイクルを借りると、勢いよくペダルをこいで津和野の街を走っていく。というわけで、今回の旅は津和野からスタートです。
時刻は9時を過ぎたところで、街は目覚めて間もないといった雰囲気である。つまり、街歩きにはまだ少し早い。
こういう早い時間帯に訪れるべき場所は、なんといっても神社だ。神社には開店時刻も閉店時刻もないからね。
津和野で有名な神社といえば、まずは太皷谷稲成神社だろう。駅で入手した地図を見ながらその神社を目指す。
小京都として知られる津和野の街並みは、山間の小さな盆地を埋めるように細長く延びている。
本来なら横に広がる要素が縦に続いていくわけで、なるほどしっかりと距離がある。レンタサイクルだと実に快適だ。
メインストリートを抜けて山口線の高架をくぐると、そこには神社があった。が、これは目的の神社ではない。
太皷谷稲成神社への入口はもう少し奥、川沿いの道まで出たところにあるのだ。おかげで少し戸惑ってしまった。とはいえ「おいなりさん」らしい朱塗りの鳥居を目にすれば、正解はおのずとわかるもの。自転車を停めて鳥居をくぐると、
そこは無数の鳥居が連なる参道。本家である京都の伏見稲荷(→2010.3.28)にも負けないほどの迫力を見せている。
しかし僕は思うのだ、「太皷『谷』稲成神社って名前だから、谷だと思ったらとんでもねえ上りじゃねえか!」と。
ジグザグで山にへばりついた朱色の参道は、なかなか容赦ない距離で上へ上へと続いていくのであった。
L: 太皷谷稲成神社の参道。263段と約1000本の鳥居がお出迎え。この旅もまた山に登らされることになるんか、と思うのであった。
C: 1923(大正12)年築の元宮(旧社殿)。かつては津和野城内で城主が参拝する場所だったため、城に向かって建てられている。
R: 現在の社殿は1969年の竣工で、津和野の街の方を向いている。朱色全開で「おいなりさん」の本領を存分に発揮。表参道である石段を上ってきたのは僕ぐらいのようで、車やバイクで来た参拝客がそれなりにいた。なんだか悔しい。
その分だけご利益をお願いしますぜ、と祈って石段を駆け下りる。予想以上に高さがあり、意外に時間がかかってしまった。後で鳥居の表参道を眺める。いやー、これは手間がかかるわ。
地上に戻ってくると、そのまま進んで次は津和野城址。しっかりと山城だが、リフトがあるというので期待していたら、
そのリフトにアクセスするまでがちょろっと上り坂でやんの。変速ギアも何もないママチャリだとけっこうつらかった。夏の日差しを浴びて生い茂る緑の中を昇るリフトの色も緑色。なんだか地味だが、変な原色よりは城跡に似つかわしい。
リフトは高く高く上がっていくので、降りたらそこはもう本丸……と思いきや、けっこう歩くことになるのだ。
さすがは本格的な山城で、リフトからしばらく歩くとまさかの下り、下りきったら津和野城址の石碑があって、また上り。
この坂を上りきると、見事な石垣が姿を現わす。この石垣の上が本丸ということで、最後にもう一丁また上る。
L: 津和野城址・本丸手前の台所跡。奥には一段下がって海老櫓の跡。石を並べた排水溝がはっきり残っている。
C: 三段櫓の跡。こんな山の中にしっかり石垣を組んでいて、それがきれいに残っているってのは感動的だ。
R: 本丸跡・三十間台。かなり広く、バッタ天国になっていたよ。津和野の街を見下ろすと感動的な光景が広がっている。津和野城は鎌倉時代につくられた城で、かつては三本松城という名前だった。
築城した吉見氏は戦国時代には毛利家の家臣となり、関ヶ原で敗れた毛利家が領土を失ったために津和野から去った。
代わりにやってきた坂崎直盛(宇喜多忠家の長男なので宇喜多直家の甥)が大改修を施し津和野の街を整備するが、
千姫事件で直盛が亡くなると、亀井政矩が鹿野から移ってくる。政矩は尼子氏の残党として活躍した茲矩の子。
このなかなかぶっ飛んだ血筋のおかげなのか、津和野は山間の小藩のわりには個性的な街として存在感を放っている。
津和野城址の最も高い地点・三十間台からは、くねる津和野川を穏やかに包みながら小さな盆地を埋め尽くす、
無数の石州瓦による街並みが見渡せる。津和野、そして石見国の何たるかを一瞬にして理解できる光景。
こういうものを目にするために、僕は旅をしているのだ。初日の朝に、いきなりそれに出会ってしまった。
満足感という意味では、もうほとんど満たされてしまった。そして次の瞬間にはまた貪欲になる。もっと、もっと、と。
L: 津和野城址・三十間台より眺める津和野の街並み。昔と変わらないスケールで石州瓦が並ぶ光景は胸に響いてくる。
C: リフトで麓に戻ったら、僕が最も美しいと思っている蝶・ミヤマカラスアゲハ(→2005.8.16)が舞っていた。感動!
R: 住宅が点在する中に、さりげなく西周の旧宅が混じっていた。ふつうに古い住宅がポンと建っているだけなのであった。レンタサイクルをどんどん西へと走らせ、津和野の街並みの果てまで行く。その境界に位置しているのが鷲原八幡宮。
現在の位置に移ったのが1387(嘉慶元)年ということで、なるほど雰囲気がけっこう独特な神社だ。
まず印象的なのが、流鏑馬の馬場。実に270mもの距離があるそうで、武士に崇敬された八幡宮らしい空間だ。
そして鳥居を再びくぐって楼門と向き合うと、茅葺の屋根に圧倒されてしまう。確かに田舎風ではあるのだが、
それがきちんと維持されてきているところに地元の敬意を感じるのだ。それに触れるのがたまらなく面白いのだ。
楼門を抜けても、屋根が複雑に折り重なって本殿につながる社殿がまた興味深い。この土地ならではの個性が出ている。
L: 鷲原八幡宮の流鏑馬馬場。鎌倉の鶴岡八幡宮のものを再現したという。しっかり距離があるのがすごい。
C: 楼門。 R: 本殿。どちらも1568(永禄11)年の築。時代性と土着性の両方を存分に感じることができる。奥まった位置にあったのが幸いしたということなのか、津和野には昔ながらの建物が多く残っている。
それが僕らにどこか懐かしさを感じさせる要素して現れているのだ。知らないはずの原風景がここにある。
僕は山に囲まれた小京都で育ったから、よけいにそう思うのかもしれない。違うんだけど、同じ匂いを感じる。西の果てまで行ったら、あとは戻るしかない。同じ道を戻るのはもったいないので、一本外側をカーヴする。
ついでに鴎外記念館の敷地に入る。建物の中を見てまわるだけの余裕がないのがとっても切ないのだが、
初っぱなの津和野でモタモタしていると今日の行動範囲が一気に狭まってしまうので、そこはしょうがない。
それでも100円払って、森鴎外旧宅の方は見学する。そしたら西周んチと同様、特にこれといったことはなかった。
L: 森鴎外旧宅の門。 C: 中はふつうに武家屋敷で拍子抜けした。 R: 鴎外記念館。中に入れなかったのは残念。しかし実際に走ってみると、津和野の街はけっこう広い。厳密に言うと、広いのではなく長い。
レンタサイクルで動きまわってもあちこちでよけいな時間を取られる感じで、徒歩だとなかなかつらそうだ。
まあでも昔懐かしい景色の中をのんびり歩くというのも悪くない。津和野の本領はノスタルジーにあるように思う。山口線の高架まで戻ってきた。石畳の殿町通りを散策してみる。まず多胡家老門がデンと構えている。
でも僕としては、門だけで中身がないのは興ざめで、むしろ向かいの藩校養老館(津和野町民俗資料館)の方がいい。
手前の水路には鯉も泳いでいるし。もっとも、石州瓦をふんだんに使った屋根が織りなす殿町通りの景観は、
さっき城跡の上から平面として見たときも見事だったが、通りを歩いて立体として体験しても味わい深い。
通りに面して複数残っている門たちは、その存在感だけで街の雰囲気をきれいに染め上げているのだ。
L: 殿町通りの門3連発。まずは多胡家老門。 C: 藩校養老館(津和野町民俗資料館)の門。中に寄る暇がない……。
R: 大岡家老門。この周辺には家老の屋敷が集まっていたということで、非常に大きなインパクトを与えてくれる場所だ。さてその門のひとつ、大岡家老門の中にあるのが、津和野町役場の津和野庁舎だ。
この建物、ただ者ではないことは一目瞭然。調べてみたら意外とネット上での記述が少なかったのだが、
(つまりそれだけ、津和野には注目すべき建物が多いということだ。ただ、世間の多くの人が門にばかり注目し、
この庁舎じたいの凄みに気づかないことは非常に残念である。みんなもっと役所に興味を持とうぜ!)
文化庁の文化財データベースで検索したところ、国登録有形文化財(1996年)ということできちんと出てきた。
それによると、津和野庁舎は1919(大正8)年の竣工。どうやら鹿足郡役所として建てられたようだ。
旧郡役所はけっこうあちこち行っているが、現役の役所としてバリバリ活用されている例はお目にかかったことがない。
津和野町は2005年に日原町と合併し、役場の本庁舎を日原に移して「津和野」の名前を残したという経緯がある。
だからこの津和野庁舎は正式な町役場ではなくなってしまったが、役所としての機能は支所としてしっかり保っている。
僕としてはもう、それだけでご飯何杯分も感動できる。津和野の文化レヴェルの高さがうかがえるってものだ。
L: 津和野町役場・津和野庁舎(旧鹿足郡役所)。かつて郡役所だった建物が現役で役所をやっているって、とんでもねえぞ。
C: 殿町通りの様子はこんな感じ。広々とした通りの両側に堂々たる門が並んで、城下町の誇りをしっかり味わうことができる。
R: 養老館前の水路には鯉がわさわさ泳いでいる。けっこうデカくて驚いた。数もまた多いのだ。あとはのんびり、津和野の昔ながらの街並みを味わいながら駅へ向かっていく。
津和野の街並みは重要伝統的建造物群保存地区に武家町ということで指定されている。
範囲としては決して広くないのだが、城下町の生活感が現代につながって維持されている点はやはり見事だ。
そしてその決め手になっているのは、やはり石州瓦だろう。この統一感が景観をきれいに引き締めているのだ。
L,C,R: 津和野の街並み。伝統的な建物は石畳の通りに集中しているが、生活感を漂わせている点が非常にいいのだ。津和野カトリック教会にも入ってみる。1929年の竣工なのでけっこう最近なのだが、木造の街並みと妙にマッチし、
むしろ多様性という点から津和野の魅力形成に寄与しているように思う。統一と変化、そのバランスが重要ってわけだ。
教会の中がまた個性的で、ふつうなら椅子のところが、なんと床に畳を置くというスタイル。中身の方が和風なのだ。
L: 津和野の店舗建築の一例をクローズアップ。石州瓦の存在感がすごいが、この要素がどの建物にも共通しているわけだ。
C: 津和野カトリック教会。外観はこんな具合にいかにもな教会建築なのだが…… R: 中身はこうなっている。畳とは!津和野の昔ながらの街並みは、郵便局の辺りが東の境目となる。その郵便局が凝っていたのでまた撮影。
1998年の竣工で、環境に配慮して島根県産のスギ・ヒノキ・マツを使っている。島根景観賞を受賞しているそうで、
なるほど単純に街並みと連続した伝統的なデザインをなぞるよりもはるかに優れた建物になっている。
昔ながらの街並みをわれわれは肯定的に捉える半面、それは個性の埋没ということにもなっているのである。
そういうところに変化をもたらすランドマークを選んで配置することは、これはけっこう重要な視点だと僕は思う。
津和野郵便局の冒険を、僕はきわめて高く評価したい。さすがは逓信建築(→2013.5.6)の系譜だな!
L: 津和野郵便局。通りから出てくるとこの大胆な姿で現れるのだ。設計は中国郵政局施設部。逓信建築やるねー。
R: 駅から街へと向かっていくと、この角度。いきなり板壁に〒マークだったので、最初に見たときはかなり驚いた。というわけで、津和野駅に到着するとレンタサイクルを返却し、荷物を引っぱりだして準備完了。
津和野という街は、山間の小京都がもたらすノスタルジーや街並みの統一感と変化のバランスなど、
いろいろと重要な示唆を与えてくれた。ここを旅した経験をきっかけに、より思考を研いでいきたいものだ。さて、先月この島根と山口の両県にまたがる地域で記録的な集中豪雨が発生し、大きなニュースとなった。
この災害で山口線は、橋が流されるわ線路が流されるわで、復旧に1年以上かかるという大ダメージを受けている。
すでに旅の予定を組んでいた僕は、この豪雨のニュースを聞いてさすがに青くなった。直撃ですぜ、直撃。
でもバスの代行輸送があるということでほっと一安心(ま、乗りつぶしの数値は上がらないんだけど)。
結果、津和野の滞在時間は15分ほど延び、次の益田の滞在時間が30分ほど削られることになった。
こればっかりはしょうがねえよなあ、と思いながら切符を提示してバスに乗り込み、津和野を後にする。
今回の旅行では、津和野発で品川行き(7日間有効)という、なんともダイナミックな切符を用意したのだ。
いったいどれだけの途中下車ハンコが押されることになるのか、富士登山の金剛杖みたいでちょっと楽しみだ。バスはていねいに国道9号を走って、予定どおりに益田駅前に到着した。やっぱり切符を提示して降りる。
駅前は新しく整備された印象のロータリーとなっており、その一角に観光案内所があったので、まずはそこに入る。
ここでもやっぱりレンタサイクルを借りると、いざ出発。益田の滞在時間は予定よりも削られてしまったので、
無駄なく動かなくちゃいかんのだ。電動自転車をグイグイ走らせて、最初の目的地である益田市役所を目指す。それにしても益田駅の周辺は最近になって再開発が行われたようで、県道は妙にまっすぐしていて走りやすい。
店も新しめのものが点在していて活気の萌芽があるのはいいが、かつてはどんな街並みをしていたのか少々気になる。
その気持ちは、市役所の手前に来ていよいよ強くなる。というのも、県道はここで急に古びた印象へと変わるからだ。
昭和の香りを強く残した、色あせた壁や看板。そういった要素がいきなり現れて、僕は戸惑ってしまう。
そしてこの先、きれいに整備された県道が復活して図書館とグラントワの前に出ることになるのである。
駅から侵食する再開発の波と、グラントワから侵食する再開発の波とが、市役所の手前だけ取り残している。
数年後にはきっと、再開発の波が市役所を含めてこの一帯を洗ってしまうのだろう。それがなんとも惜しく思えた。
L: 益田市役所・本館。1961年の竣工で、設計は石本建築事務所。堅実でありつつ細部にこだわりを感じる建物だ。
C: 正面玄関をクローズアップ。 R: 正面を反対側から眺めたところ。なんだか味のある建築だと僕は思うんですが。益田市役所は県道から一本南に入った通りにあるのだが、よく見るとこれがなかなかこだわりを感じさせるデザインなのだ。
昔ながらのスケール感なので、市役所の前の通りは非常に狭い。もう、めちゃくちゃ撮影しづらくってたまらない。
でもその狭苦しさがコンパクトな庁舎建築として建物を成立させてもいる。僕にはこういう庁舎は「いとおしい」。
鉄筋コンクリートの時代の冒険心と、組織事務所ならではの堅実さ。それが面白いバランスで実体化しているのだ。
L: 本館の裏側。正面とだいたい同じデザイン。 C: 側面はこんな感じで、やっぱりこだわりを感じる部分だ。
R: 益田市役所・分館。こちらもピロティやエントランス、中央の階段っぽいスペースなど、正統派って感じ。さて、上で変な名前が出てきた。「グラントワ」。走っていると案内標識もあって、下に「Grand Toit」なんて書いてある。
なんでわざわざフランス語なんずら、と思ってしまうそんなグラントワは、正式名称を「島根芸術文化センター」という。
島根県立石見美術館と島根県立いわみ芸術劇場が合体した施設で、2005年に開館したのだ。設計は内藤廣。
外観はとにかくワケがわからん。やたらめったら大きな施設で、全体の形状を把握できる場所がないのだ。
そんでもってとにかく茶色。さっきまで津和野にいたので、これは石州瓦をフィーチャーしていると一瞬でわかるのだが、
ここまで大胆にやるってことは、石州瓦が旧石見国のアイデンティティそのものであると解釈してよいってことだろう。
L: グラントワ(「デカい屋根」の意)の外観。といってもあまりにデカすぎて、うまく眺められる場所がない。
C: 回廊部分。徹底して石州瓦の茶色を使っている。 R: 中庭には四角く水を張っていたよ。意味がよくわかんないけど。中に入ってみる。さすがに美術館や劇場の中に入るほどの余裕はないので、回廊部分を一周してみる。
ざっと歩いてみた感じでは、美術館も劇場も客がけっこう入っていて、しっかり使われている。県立施設だから当然か。
どちらもきちんと中を見たわけではないのでなんとも言えないが、まあ、機能しているならいいんじゃないっすかね。
ただグラントワの上っ面をなでただけなので、きちんと建物を味わったという感触がしない。でもしょうがない。美術館の一角、ロビーの様子。本やCD、DVDなどが充実しているようで。
そのまま県道54号を東へと進んでいくと、道の雰囲気がまた変わる。今度は曲がりくねって旧街道沿いの匂いが漂う。
実はこの辺りが益田市のもともとの市街地になるとのこと。駅からここまではけっこうな距離になるので、
益田の街ってのは駅からゆっくりと延びて広がっているのかな、と思う。グラントワはその結節点に当たる。
僕の印象だと、痕跡としての活気を穏やかに保たせながら、益田の街は中心部を移動させているように思える。
そして、それは今も動いている。さっき「再開発の波」と書いたが、それはきっと昔から益田の平野をうごめいていたのだ。益田川に架かる橋のたもと、石州瓦の印象的な建物があった。益田市立歴民俗資料館である。
なんだかさっきの津和野の役所に似ているなあと思ったら、1921(大正10)年築の旧美濃郡役所だった。お仲間でしたか。
ちなみに向かいの益田小学校の脇には徳川夢声生誕の地という案内板があった。へぇー、としか言いようがない。そして川を渡ったところにあるのが萬福寺。京都の萬福寺は黄檗宗だけど、こっちは時宗。珍しい。
でもこっちにも重要文化財があって、その本堂の堂々たる姿を橋からも見ることができる。
この寺ではもうひとつ、二河白道図という絵も重要文化財となっているのだが、それより有名なのが雪舟庭園。
実は益田は雪舟が亡くなったとされる土地で、雪舟が築いたという庭園が残っているのだ。それを見ようというわけ。本堂の脇にある入口から中へ。受付のおばちゃんはお経のような速さと澱みのなさで、中身の濃い解説を一気にしゃべる。
曰く、雪舟庭園の鑑賞は庭園の形式云々よりもそれぞれ心のままに味わうことが重要なんだそうで。
とりあえず楽しみは後にとっておいて、本堂の中から先に見学させていただく。中央に仏像がデンと置いてあって、
その周りを「コ」の字でウロウロするのはどこの本堂も同じなのだが、とにかくきれいにしてあるのが印象的だ。
障子で光が入ってくるので雰囲気が明るいのがまたいい。奥には二河白道図があったが、鎌倉時代の作ということで、
全体的に黒くぼんやりしてしまっており、何が描かれているのかどうもはっきりしない。きちんと味わえず残念だ。そしていよいよ雪舟庭園だ。建物の一角から眺めるだけではあるのだが、強烈な夏の日差しを浴びて緑が輝く。
草の緑、池の緑、木々の緑という濃さの異なる緑が並び、その中に石がいくつも配置されている。
なるほど、これはなかなか難解だ。必死に意味を読み取ろうとすればするほど、迷宮へ入り込んでいくようになる。
そりゃあおばちゃんも「心のままに味わうべし」と言うわけだ。だから僕は何も考えずに庭の空気を吸い込んだ。
天才画家が生み出した風景はいくらでも解釈の余地があるけど、単純にコンポジションの習作なんて捉えてみたりして。
L: 益田市立歴民俗資料館(旧美濃郡役所)。こちらもしっかり石州瓦で、そのきれいさから大切にされているのがよくわかる。
C: 萬福寺本堂。デカい。 R: 萬福寺の雪舟庭園。考えれば考えるほどワケがわかんなくなる庭園。それはそれでよし。時間の都合で、もうひとつの雪舟庭園がある医光寺は断念。これは日記を書いている今になってみると悔しい。
いずれ、僕は萩へ行くだろう。その際はぜひ益田に寄って、今度は柿本人麻呂の軌跡をたどりつつ、医光寺にも行きたい。
そして復旧した山口線に乗り、山口をもう一度訪れよう。いつになるかわからないけど、ぜひそうしたい。コンビニで昼メシを買い込んで(のんびり食ってる暇が本当にない)益田駅に行き、山陰本線に乗り込む。
わかっちゃいたけど、山陰「本線」なのに飯田線並みにローカルな雰囲気が満載で、山陽側との差に少し悲しくなる。
しかし車窓の景色はゆったりとした日本の海辺の田舎そのもので、見ているだけで穏やかな気分になる。
縮尺の小さな地図で見るとなだらかな石見の海岸線も、実際に走ってみれば出入りや起伏がけっこうあるものだ。
ところどころに点在する港町では、湾を囲むように石州瓦の家々が土地を埋め、静かに海を眺めている。こんな感じで。日常性と物語性を感じさせる光景じゃないか。
車窓はのんびりと、港町の光景を繰り返し映し出す。そうやっている間に、次の目的地である浜田に着いた。
浜田市は石見三田(西から益田・浜田・大田、「田」のつく市が3つ並んでややこしい)で最大の街である。
今日は江津まで行く予定なので本当はそこで泊まりたかったのだが、街の規模が宿の充実度合いに直結しており、
結局、ここ浜田に泊まることになった。江津までの往復は別の切符を買ってやることになる。面倒だがしょうがない。とりあえずコインロッカーに荷物を預け、浜田の街を歩いてみる。駅の北口には巨大な病院が鎮座しており、
商店街は南口にある。その南口のアーケードをまずは歩く。「どんちっち」という看板が目につくが、
これは神楽の囃子を意味する幼児言葉だそうで、特に石見神楽を指す言葉としてブランド化されている模様。
浜田の市街地にはこれといった観光地がないのだが、その分だけ石見神楽がフィーチャーされている印象である。
(山陰本線には石見神楽の写真をラッピングした車両が走っている。祭りをテーマにしたラッピングは珍しいと思う。)
ここは空間よりも時間を重視する土地(→2007.10.9)なんだな、と思いながらトボトボと市役所まで歩いた。浜田駅前のアーケード商店街。かなり勢いが落ちていた……。
駅から浜田市役所まではわりと距離があって、しかもここまでひたすら炎天下で動いていたので、
市役所に着いたときにはけっこう疲れてしまっていた。それでも国道9号の交通量と逆光と戦いながら、
どうにか撮影。浜田は商店街もそうだがスケール感が広めの街で、それで意外と手こずったのだと思う。
市役所も脇に駐車場がたっぷりあって、敷地に余裕がある感じ。そこを一周して撮影するのは面倒くさいのだ。
L: 浜田市役所。1980年の竣工ということで、現在は耐震補強工事をやっている真っ最中。
C: 角度を変えて撮影。 R: 東側にある駐車場より眺めたところ。後ろにあるのはNTTのビル。浜田市役所の裏側。手前に「島根県立浜田中学校跡」の碑があった。
僕としては、浜田と江津を天秤にかけた結果、できるだけ早く江津入りしようと決めたわけだ。
その結果、浜田市役所から本当にもうちょっと西へ行ったところにある浜田城址をパスすることになったのであった。
まあ正直、「もうこれ以上、旅先で山に登りたくない」という気持ちがあったのも事実なんだけど。
海に面した城だし標高68mなんだし、登るっていっても大したことはないだろうけどねえ。今になってちょっと後悔。浜田駅まで戻って切符を買うと、江津まで行く。今日このタイミングでしか江津に寄れないので、無理をするのだ。
江津駅の改札を抜けると、そこは思った以上に寂れていた。「これ本当に市なの?」というのが正直な感想である。
駅の目の前を通っているのは国道9号なのだが、そこは仕舞屋や辛うじて営業を続ける店がチラホラ。
観光案内所はちゃんとやっていて、見ると三江線関連のパンフレットが多い。観光の主力はそっちなのか、と思う。
それでもとりあえず、市役所を目指して歩きだす。市役所経由で江津本町駅方面へと一周してみるプランである。ほどなくして山陰本線の線路越しに江津市役所が見えてきたのだが、その姿は実に衝撃的なものだった。
大胆なピロティが崖の上にある。不勉強な僕は江津市役所についての知識をまったく持たずに訪れたのだが、
一目見て「これはふつうじゃない!」と大興奮。気がつけば走って陸橋を渡り、市役所への坂を上っていた。
L: 国道9号より山陰本線越しに眺める江津市役所。一目でふつうの市役所じゃないことがわかる。
C: ピロティと向き合ってみた。まさか山陰で人口規模が最小の市にこんな凝った市役所があるとは。
R: 坂道から見た江津市役所。小高い丘の上、現れたのはこの姿。しばし茫然とするのであったことよ。江津市の人口は3万人に満たず、山陰地方では最小であるという。まさかそんな街にこんな市役所があるとは。
夢中でデジカメのシャッターを切り続け、クラクションを鳴らす車を睨みつけてはまたシャッターを切る。
周辺の道路が狭く入り組んでいることもあるが、江津市役所を撮るのはなかなか大変な作業だった。
しかも角度によってさまざまな姿を見せるので、全容の雰囲気をつかむのが難しい。でもそれがたまらなく魅力的だ。
L: 江津市役所の北側ピロティ。非凡すぎるぜ。 C: こちらが正面になるのかな。 R: ピロティの奥にある入口。そろそろ種明かしを。後で調べてみたら、竣工したのは1962年で、設計者は吉阪隆正だった。そりゃあ凝っているわな。
ル・コルビュジェの弟子の中には3人の日本人がいたのだが、吉阪隆正はそのひとり(あとは前川國男と坂倉準三)。
前川と坂倉の建築はけっこうあちこち目にしてきたのだが、吉阪の建築を見るのはこれが初めてだと思う。
でも江津市役所に対面したときには吉阪の作品だなんて知らなかったから、これはいったいなんなんだ、と驚くばかり。
とにかくあらゆる角度から見たくなる建築で、こんなところでこんなにシャッターを切らされる市役所に出会うとは、
そう思いながらもまたシャッターを切り続ける、そんな具合に市役所の周りをぐるぐる歩きまわるのであった。
L: 市役所の裏側にはこのような階段が。ピロティを支える脚の間にある入口につながっているのだ。
C: 距離をとって正面の姿を撮影。 R: 南側から見たところ。この角度からだと……やっぱりふつうじゃないな。あまりに江津市役所が面白かったので、思ったよりも時間がかかってしまったではないか。
帰りの列車を一本遅らせる覚悟を決めて、坂道を下っていく。のんびりとした地方の家々が並んでいるのだが、
途中で国道9号江津バイパスの下をくぐる。下り坂はさらに続き、カーヴしながら左手には小学校が現れて、
やがて坂が終わると同時に住宅が並ぶ通りに出た。住宅は皆、白い壁に石州瓦を乗せている。これが江津本町だ。
寂れきっていた江津駅前とはまったく異なる風景に、思わず息を呑む。さすがは石州瓦の本場だけある。
実のところ、旧江津町役場の建物がこの辺りに残っているということで、僕としてはそれを見に来たのだが、
まさかこんな魅力的な風景に出会えるとは思っていなかった。驚きながらも、とりあえず目的地へと歩く。旧江津町役場があるのは、山辺神宮のすぐ手前である。山辺神宮はコンクリート建築であまり魅力を感じないが、
その手前で堂々たるファサードを披露する旧江津町役場はなかなかの存在感である。1926年の竣工とのこと。
なるほど、これはアール・デコって印象がする。特に屋根のところのラインが独特で、ずいぶんとオシャレだ。
時代の最先端を行くデザインを役場建築に採用するとは、江津の人たちはどれだけセンスがいいんだ、と驚いた。
さっきの吉阪隆正設計の江津市役所もそうだけど、こういうこだわりを持った役所を建てられるということは、
江津市民は優れたデザインを理解できる人々ということだ。文化レヴェルが高いのである。本当にうらやましい。
L: 江津本町でまず驚いたのは、こちらの円覚寺の山門。本堂もけっこうすごいが、この山門にはしびれた。
C: 旧江津町役場。装飾を鉛直方向にまとめ、凹凸も少なく全体的にすっきりさせて、屋根で魅せる。キレてるねえ。
R: 内部(1階)はこんな感じで、中国地方の街道が紹介されていた。もう少し積極的な活用ができそうだが。さて、あらためて江津本町の通りをしっかりと歩いてみたいと思う。江津市ではこの石州瓦の見事な街並みを、
「天領江津本町甍(いらか)街道」と称しているようだ。しかしそのアピール具合はとても十分なものには思えない。
おそらく江津本町はまだまだしっかり住宅地として機能しており、安易な観光地化を喜ばない雰囲気があるのだろう。
江津はもともと「江の川の港」を意味する名前であり、海運で栄えた往時の勢いはこの街並みから確かに伝わってくる。
なんとかうまくバランスをとりながら、もうちょっと知名度を上げないともったいないなあ、とよそ者は思うのだが。
L: 旧江津町役場の手前から眺めた光景。石州瓦の色が緑とマッチしてなんとも魅力的。これは見事なもんですよ。
C: 一本奥に入るとこんな感じ。脇を流れる川にはカニがうじゃうじゃいた。それもまた実にノスタルジックである。
R: 江津本町の住宅の代表例として撮らせていただきました。こういう家々が静かに現役で並んでいるのはすごい。というわけで、本日はカニを撮影しておしまい。
江津という街の文化レヴェルの高さに感動しながら、山陰本線で浜田に戻る。いやー、いい街を歩いた。
浜田の駅前にはドカンと丘があって、本日泊まる宿はそのてっぺん。登ってみるとこの丘がけっこうな高さだった。
宿の看板はあちこちにあったのだが、「さわやか」をキャッチフレーズにしているようで、非常に気になる。
どの辺が「さわやか」なんだろう、と思いつつ坂を上って丘のいちばん奥にある宿にチェックインすると、
フロントのお兄さんがすっげえさわやかだった。高校球児レヴェルのさわやかさで、大いに納得するのであった。◇
それにしても初日から日記を書くのがすっげえ大変! こんなペースじゃ書き終わるまでどれくらいかかるんだ!?
特急で、昼に新宿に着くように帰ってきた。いったん家に戻って風呂に入って念入りに仕度を整えると、再び新宿へ。
わざわざ遠回りの旅をして実家に帰って、実家から戻って本当にすぐにまた旅に出る。罰当たりなものである。
そのことは、十分に自覚しているつもりだ。だから旅のひとつひとつの行程に、一日一日に、きちんと感謝をしている。
感謝をしたうえで、次の行程へと進んでいく。旅をしている間の経験を、できるだけ敏感に味わうことで許しを請う。今年のグランツーリスモは山陰である。なんで山陰なんだと訊かれれば、まあ正直、乗りつぶしが基準にはなっている。
中国地方だけ、非常に率が低いのである。それが山陰をターゲットにするきっかけになったのは事実だ。
4年前、リョーシさん・ラビーと男3人ブラ珍クイズ旅を繰り広げたときは(→2009.7.18/2009.7.19/2009.7.20)、
ふたりの運転する車のお世話になったので、列車には乗っていないのだ。それがそのまま数字に影響しているわけだ。
だから今回の山陰旅行を独りでやるのは、ちょっと申し訳ない気持ちなのである。あのときの記憶を上書きするようで。
でも、あのときにはできなかった、僕のワガママを全力で押し通そうということなのだ。やれることは、ぜんぶやる。
本当に、ぜんぶやってやるのだ。たった2つの県に6日間を充てるところに、僕の過去への誠意を汲み取ってほしいのだ。
今回の旅は、山陰本線の乗りつぶしに挑戦する旅ではない。乗りつぶしはあくまで「行った」という事実の痕跡で、
4年前にできなかったことをすべてやり尽くすための旅なのだ。山陰のすべてを確かめるために、僕は6日間を使う。バスが新宿というより完全に代々木のターミナルを出発したのは、19時10分。夜行バスとしては非常に早い時間だ。
でも、それだけの距離をバスは走るのである。目が覚めたとき、どんな光景が飛び込んでくるのか。それを想像しつつ眠る。
circo氏が『浪漫あふれる 信州の洋館』という本を図書館から借りてきていて、これが実に面白いのである。
(「智留彦新刊読書日記」9月14日の項によれば、判定は「C+」。circo氏は全般的にオレより評価が辛いですぜ。)
長野県における洋風建築と擬洋風建築を豊富な写真とともにまとめる試みってのは、初めてではないか。
文化度の高かった松本をはじめとする都市部だけでなく、避暑地であった長野県には高原の名建築も実に多い。
もちろん、田舎が地元の誇りを賭けて立派な建築を建てた事例もいっぱいあるのだ。それが長野県の面白さだ。
そういった事例をいい意味で大雑把にまとめてしまって、「ちょっと行ってみたいな」という気にさせる本である。
非常に質の高いガイドブックとしての機能を持っているのがいい。やはり建築は現地で体験するのが一番なのだ。というわけで、恒例のピザをいただくついでに、紹介されていた旧上伊那図書館(現・伊那市創造館)を見学してみた。
竣工は1930年、森山松之助の基本設計に黒田好造が実施設計を行った、という感じで建ったらしい。
森山松之助は片倉館の設計者であり(→2010.4.3)、この旧上伊那図書館も片倉財閥が関わっているようだ。
三角形の屋根で大胆に装飾を施している片倉館と比べると、こちらはずいぶんと質素な印象がする。
とはいえ、時代背景もあってか幾何学的な要素を採り入れつつも上品にまとめてあって、見事な建築だと思う。
L: 北東側、入口から入るとまずこの角度。 C: 正面へまわり込むとこんな感じで堂々とした姿が目に入る。
R: だいたい正面で向き合って眺める。黒田好造ということで、追手町小学校(→2006.8.13)に似た雰囲気もある。ちなみにこの場所にたどり着くまで、かなり苦労したのだ。地図で見ると伊那市駅にほど近い、ぐらいなもんだが、
実際に行こうとすると、道は細いわめちゃくちゃな急坂だわ入口が見つけづらいわで、本当に大変だった。
文明の利器・iPhoneを駆使しても、正確な入口がわからなかったから迷ってしまったのであった。とほほ。入口と反対の南側から眺めたところ。面白い形だなあ。
満足したところでピザをいただき、さらに満足。機会があれば、県内の洋館めぐりをもっとやってみたいもんだねえ。
サッカー日本代表・ウルグアイ戦。親善試合とはいえ、ウルグアイはコパ・アメリカのチャンピオン。
しかしW杯の南米予選で現在5位となっており、このままではプレーオフにまわることになってしまう状況だ。
それだけに、向こうにとっても今回の日本戦は絶好の強化の機会というわけだ。ありがたい話である。
親善試合で日本に来る南米の代表チームはなんだかんだでけっこう本気を出してくるイメージがあるのだが、
地力があって本気で来てくれる今回のウルグアイほど理想的な相手はいないだろう。もう本当に楽しみな試合なのだ。
1トップ・柿谷の連携は。守備陣はフォルラン、スアレスをどう止めるのか。ワクワクしながらキックオフを待つ。序盤は危険な香りを漂わせるウルグアイの攻撃と、シュート不足の日本という想定内の展開。
しかし27分にクリアボールに反応して左サイドで抜け出したスアレスが、冷静に中央のフォルランにパスを送る。
これをきれいに決めてウルグアイが先制。さっそく南米チャンピオンの実力を見せつけられちゃった格好である。
さらにフォルランはそのすぐ後にFKを直接決めて2-0。いくらなんでもこれはちょっと見せつけられちゃいすぎだ。
ウルグアイが強いのは十分わかっているけど、こうも簡単にやられてしまうとは情けないったらありゃしない。
日本は柿谷を中心に面白い連携も出てはいるのだが、最後のところのクオリティがウルグアイと違うのだ。
まあそれはウルグアイの守備がいいから、というのもある。堅い守備を崩しきれない点がまだ不十分なのだ。後半に入っても南米らしい狡猾なウルグアイと対照的に、日本の守備は緩慢。DF吉田の中途半端なクリアは、
そのまま中央のスアレスへの絶好のパスとなり、3失点目。これで吉田は明らかに懲罰の交代となってしまった。
それでも日本は本田が浮き球のボールをゴール前に送って混戦となったところで、こぼれ球を香川が決める。
しかしゴールを奪うまでの効率がウルグアイとは比べ物にならないほど悪く、もはやあんまりうれしくない。
対するウルグアイも浮き球のパスをゴール前に出して日本のディフェンスを引きつけ、最後は逆サイドからヘッド。
そっちができることはこっちもできるんだぜ、と言わんばかりの攻撃で4点目。日本の守備は本当に脆すぎる。
ここまでの惨劇になってしまうとは、世界ってのはどれだけ広いんだ、とがっくりきてしまう内容だ。
日本も本田がフォルランに劣らない鮮やかなFKを決めてみせるが、結局2-4で敗れてしまった。しっかり守って前線のフォルランとスアレス(とカバーニ)が大活躍、というウルグアイのスタイルは健在。
そんな持ち味を地球の裏側でこれでもかというほど発揮したウルグアイはさすが。プレーもクリーンですばらしい。
客観的に見れば、ウルグアイには自信、日本には課題の発見という、双方にとって大きなメリットのある試合だった。
この結果をもとにして、また一歩一歩地道にやっていくしかないのだ。しかし南米のチームって本当にいいな!
震災でコパ・アメリカに参加できなかったのは残念だったけど、日本は南米のチームともっと関係を良くしないとな!
お盆の帰省の旅もいよいよ3日目、今夜に飯田に到着する予定だ。初日に兵庫まで足を伸ばし、2日目に福井に泊まる。
帰省の旅としては非常識きわまりない旅程なのだが、「福井まで来りゃ名古屋まですぐ、名古屋まで来りゃ飯田まですぐ」、
そういう発想で動いているからしょうがないのである。で、今日はその福井県、旧越前国を堪能しようというわけなのだ。
旧越前国には何度か来ているが、南北方向に移動してばかりで、東西方向に動いたことはほとんどない。
そこで今回は、九頭竜線に乗ってふたつの城下町を攻めることにした。ターゲットはズバリ、越前大野と一乗谷の2ヶ所だ。朝起きてチェックアウトを済ませると、コンビニで朝食を買い込んでから福井駅へと向かう。が、困った事態が発生。
JR福井駅のコインロッカーは7時にならないと営業しないというのである。なんだそれ、それでも県庁所在地か?と憤るが、
事態は動かないのだ。まあ結局は、えちぜん鉄道の福井駅のコインロッカーが早い時間から利用できたのでよかったが、
こういうところで都市の実力はうかがえるもんである。根本的な部分は7年前から変わっていないんだね(→2006.11.4)。九頭竜線はとにかく本数が少ない。越前大野まで行く列車も少ないが、終点の九頭竜湖まで行く列車は日に6本。
しょうがないので九頭竜湖まで行く列車を基準にして旅程を組んだ結果、朝のうちに越前大野を歩きまわることになった。
で、午後に一乗谷を堪能して、福井に戻ったら北陸本線と東海道本線を乗り継いで名古屋に出て、バスで飯田へ。
時間的にもタイトだが、それ以上に体力的にタイトな予定なのは目に見えている。ま、がんばるしかないのだ。越前大野駅に到着したのはちょうど7時半。街が目を覚ますにはまだまだ早い時刻だが、展開としては望むところ。
というのも、越前大野の街では朝市が催されるからだ。「北陸の小京都」らしい部分を存分に味わってやろうと思う。
ここでいちおう越前大野という街について軽くまとめておく。駅名が越前大野となったことでそう呼ばれることが多いのだが、
そもそも自治体の名前としては「大野市」なのだ。大野城の城下町だが、「大野城」というと福岡県も有名なので、
城も含めて越前をつけて区別することが一般的になっていると思われる。とりあえずこのログでは市名以外は越前をつける。
越前大野の街が誕生したのは、越前にやってきた金森長近による(越前)大野城の築城がきっかけである。
そのとき以来の歴史を持つという七間朝市や、御清水(おしょうず)に代表されるきれいな湧き水などで知られているのだ。越前大野駅のロータリーにある水路。水のきれいさをアピールしているのだ。
越前大野駅から市街地までは少し距離がある。国道476号にもなっている六間大通りをしばらく北西へと歩いていくと、
幅がさらに拡張された道となる。が、ここで一本北の道に入る。そこが七間通りで、朝市の催される場所なのである。
石畳の道の両側には木造の商家が点在しており、そうでない建物もどこか昭和の雰囲気を残した穏やかなものが多い。
それらの建物の前には緑色のパラソルが間隔を置いて並んでいる。これが朝市の店というわけである。
なんだかんだ今まで全国あちこちで朝市は見てきたが(→2009.8.12/2009.10.12/2010.8.23/2012.7.26)、
越前大野の七間朝市は街並みとパラソルの緑色が非常にきれいにマッチしており、風景として実に美しいのだ。
唯一、そして決定的に惜しいのは、賑わいに欠ける点である。平日の朝はもともとそんなもんかもしれないが、
すごくもったいなく思えてしょうがなかった。輪島のような賑わいとまでは言わないが、もう少しなんとかならんか。
L: 越前大野400年の歴史を体現する七間朝市。 C: 観光案内所も街の風景に溶け込んでいるのだ。
R: 朝市の様子をクローズアップ。日本の原風景を感じさせる光景と言えるだろう。末永く続いてほしい。七間朝市の光景に感動しつつ、今度は六間大通りの南側に出てみる。もうひとつの越前大野の象徴、御清水を目指す。
事前のリサーチでは具体的な位置がよくわからなくて、半ば勘に任せての探索である。毎度毎度困ったもんである。
まあ案ずるより産むが易しで、越前おおのまちなか交流センターの南西にある住宅街を歩いていたら、無事発見。
いかにも城下町らしくかぎの手だらけの入り組んだ住宅街だったのだが、道を曲がったらあっさり出くわした。
道のど真ん中に長い屋根のかかった堀があったので、すぐにそれとわかった。大切にされているなあ、と実感。さっそく御清水の水をすくって飲んでみる。正直、僕は水の味がわかるほど繊細な神経を持っていないのだが、
目の前で湧き出ているさまがあまりに美しいので、それにつられておいしく感じてしまう。なんとも単純なもんである。
とはいえ混じりっけのない透き通った水は、一瞥しただけで特別なものだとわかる。目で見てすでにおいしい水だ。
越前大野駅はロータリーに「ウチの水はすごいんだぜ」と言わんばかりにオブジェや水路をつくってアピールしていたが、
なるほどこの御清水を見て味わえば、そのプライドにも十分納得がいく。こういう名水があるってのはうらやましいもんだ。
L: 住宅街に突如現れた御清水。 C: まわり込んで水が湧いている箇所を眺める。 R: なるほど、これはきれいだわ。さて御清水を探していたときに、気になる案内板を見かけてしまった。それは近くに朝倉義景の墓地がある、というもの。
九頭竜線の本数が少ないせいで時間的な余裕はあるので、これはぜひ行っておこうと、さらに南へと歩いていってみる。
やはり完全なる住宅街なので少しだけ迷ったが、きちんとたどり着くことができた。その名も「義景公園」。
木々に包まれた一角が朝倉義景の墓地だ。なるほど確かに歴史を感じさせる苔生した五輪塔が静かにたたずんでいる。朝倉義景は彼の代で一気に壊滅してしまったためか、『信長の野望』ではダメ大名としてお馴染みなのだが、
相手が悪すぎた気がしないでもない。勢力を拡大していく信長とは絶対にぶつかる運命にあったわけで、
そこを平穏無事に乗り切ることなどそもそも無理なことだったように思えてならないのである。
義景が置かれていた状況は、「天下をとる」もしくは「滅亡する」の極端な二者択一しかなかったのではないか。
それなのに彼は「オレは越前一国の大名でいいよ」という守りの姿勢でいたために、滅ぶ結果となってしまった。
時流を読む力がなかったと言えばそれまでだが、その平凡さに僕は妙な共感というか同情をおぼえてしまうのだ。
L: 義景公園。ひときわ背の高い木々に囲まれた一角が朝倉義景の墓所だ。 C: 義景の墓。大変だったねえ。
R: 義景公園にある遊具には朝倉家の家紋・三つ盛木瓜が貼り付けられている(白い丸に見えるのはぜんぶそう)。きれいに整備された義景公園は、結果的に滅びたとはいえ信長を苦しめてみせた朝倉義景という大名の存在を、
小さいながらも確かに誇らしく示すものだった。歴史は空間とともに物語として残っていく。それでいいと思う。義景公園からまっすぐ東へ出ると、そこが大野市役所だ。見るからに昭和の庁舎で個人的には楽しくなってくるのだが、
南隣では新庁舎建設工事の真っ最中。市役所マニアとしては、これから壊されるとわかっている建物を撮るのは切ない。
特にその市役所が初対面ならなおさらだ。ハローグッバイとはまさにこのことなのである。シャッターを切る指に力が入る。
L: 現在の大野市役所。1962年の竣工ということで、いかにもな昭和の庁舎である。これが消えるのは淋しいなあ。
C: 東側の棟を正面より撮影。 R: 北側に出ている棟を撮影。この複雑な増築具合もまた、たまらんのよね。悔いのないようにあらゆる角度から撮影してやるのだ。敷地をきれいに一周することはできなかったが、
できる限りいろんな姿を目に焼き付けておく。また大野市役所は複雑な分だけ見応えがあるんだよなあ。
L: 南側から眺めたところ。 C: 北西側にある駐車場越しに眺める。右にくっついているのは1996年竣工の別館。
R: 交差点越しに現在の大野市役所の敷地を眺めたところ。この敷地の端っこにある緑もまた昭和っぽくてたまらん。新しい大野市役所は、プロポーザルによる設計者選定を経て山下設計・西川建築設計事務所JVの案が採用された。
2014年度の竣工を予定しているそうで、翌年度から現庁舎の解体工事が始まるスケジュールとなっている。
市役所マニアとしては、せめていい市役所、面白い市役所が建ってくれよ、と願うことしかできない。新しい大野市役所を建設する工事の様子。
市役所の次は、越前大野城である。柳廼社(やなぎのやしろ)という神社の境内をずんずん進んでいくと、
まず左手になかなか見事な和風の建築がある。これは大野市民俗資料館で、1889(明治22)年の築とのこと。
もともとは大野治安裁判所として建てられた。移築されたとはいえ、神社の境内、参道沿いという立地は実に独特。
そして参道をそのまま進んでいくと、比較的新しい印象の拝殿がある。7年前の豪雪で大きな被害を受けたため、
大規模な改修を行ったとのこと。柳廼社は大野藩の第7代藩主・土井利忠を祀っている。この人がとんでもない名君で、
どうにもならない財政を20年で黒字化して明治維新までもっていっただけでなく、樺太開拓にまで挑戦している。
L: 柳廼社。この参道が越前大野城への入口にもなっているのだ。 C: 大野市民俗資料館。大きくて正面からだと収まらない。
R: 柳廼社の拝殿。実は狛犬が妙にお尻を上げていて人気があるみたい。急いでいて気づかず、きちんと撮らなかったのが悔しい。拝殿の脇にある門をくぐって、越前大野城への道を行く。道はきちんと整備されており、歩きやすい。
多少くねっているものの、その分だけ傾斜が緩やかなのだ。程なくして天守の前に出たが、なるほどフォトジェニック。
1968年に鉄筋コンクリートで再建されたのだが、石垣がちゃんとしているのでなかなか見事に映る。
L: 越前大野城へと向かう途中にある、土井利忠の像。もうちょっと有名になってもいい人物だと思うのだが。
C: 天守。越前大野城はとにかく、石垣が見事である。野面積みの魅力を存分に味わえる名城なのだ。
R: 本丸の奥には金森長近の像がある。長近が大野に入ったのは50歳くらいなので、実際はもうちょい若い感じでは?復興天守の中身はご多分に漏れず博物館的な展示となっているのだが、最上階からの眺めはすばらしかった。
西を眺めれば山と田んぼが2種類の鮮やかな緑色を視界いっぱいに広げ、東を眺めれば建物が規則正しく並ぶ城下町。
穏やかな朝の光の中で動きはじめた街の姿に、ただ見とれてしまった。越前大野、実にいい街だ。心底そう思う。
L: 越前大野城の天守より西を眺める。きれいだなあ。 C: 東を眺めると城下町。ゆったりとした盆地を屋根が埋める。
R: 市役所付近をクローズアップしてみた。今度はどんな庁舎が建つのやら。越前大野の文化の高さを見せてほしいものだ。城を下りると、武家屋敷旧内山家に行く。内山さんは藩主・土井利忠の下で大活躍した兄弟(七郎右衛門・隆佐)で、
ふたりの業績を讃えるべく、屋敷を保存しているのだ。ただし、家が建ったのはふたりが亡くなった後のことである。
明治期の住宅なので厳密には「武家屋敷様式」ということになるのだろうが、居心地のよい住宅でございました。質素だけど威厳のあるいい住宅だったよ。
帰りは気ままに建物を眺めながら駅まで歩くことにする。まず旧内山家の向かいにはガラス張りの学校があって驚いた。
有終西小学校という名前で、2006年の竣工とのこと。生涯学習センター・公民館としての機能も持っており、
ぜんぶまとめて「学びの里『めいりん』」ということになっているようだ。教室も壁が取り払われているらしい。
まあはっきり言って、子どもにとっては迷惑な話だろう。奇抜な学校建築なんて、百害あって一利なしなのだ。
ガラス張りで壁がないなんて、絶対に授業に集中できない。本質を忘れた自己満足で子どもを犠牲にしちゃいかんよ。旧内山家の南東には、平成大野屋関連の建物が並んでいる。平成大野屋は1999年に設立された株式会社だが、
出資者は大野市と大野市民132名ということで、市民参加による第三セクターという非常に珍しい存在なのだ。
その名称は、土井利忠時代の大野藩が経営していた「大野屋」に由来する(経営を主導したのは内山七郎右衛門)。
大野藩は藩が主体となって商売を行い、見事に財政を建て直してしまったのだ。まさに時代の最先端を行ったわけだが、
それはつまり、近世の日本が資本主義を先取りする形で近代化の下地を準備していたことの証拠でもあるように思う。
まあとにかく、平成大野屋はそんな進取の精神を引き継いでやっていこうというわけだ。歴史のある街はうらやましい。
レストランの入った洋館、多目的ホールとなっている平蔵、体験・展示施設となっている二階蔵を運営しているのだ。
L: 学びの里「めいりん」(有終西小学校・大野市生涯学習センター)。異質な学校建築を安易に受け入れるのは危険である。
C: 平成大野屋が運営する平蔵(左)と二階蔵(右)。もともと確かな歴史を持っているからこその強みを感じる施設だ。
R: 通りに面している洋館は、もともと織物業の製品検査場だった。国の登録有形文化財として有効に活用されている。越前大野は山間の静かな街なのだが、名水、石垣、歴史、建築などなど、思っていた以上に魅力的な要素が多い。
朝市の行われていた七間通りもそうだったが、街路じたいにも魅力があるのだ。ひとつひとつの道に個性がある。
中心市街地を貫く六間大通りには昔懐かしい看板の店が並んでいるし、寺町通りも城下町の風情が満載だ。
同じく盆地の小京都である城下町に生まれた人間として、越前大野が心底うらやましい。尊敬できる街だと思う。
L: 六間大通り。駅から旧市街までを貫いている。 R: 寺町通り。緑、石畳、瓦屋根、塀、水路、どれもが見事だ。越前大野の街に大いに感動しながら駅まで戻る。このままさらに九頭竜線を終点まで行ってしまうのである。
案の定、列車の乗客は数寄者っぽい雰囲気の人が多い。青春18きっぷの僕もそっち側にカテゴライズされてしまうが、
好奇心で動いている以上、これは仕方ないのだ。そう自分に言い聞かせつつ、さらに東へと揺られるのであった。
列車は田んぼの広がる光景の中を抜けていくと、やがて山の中へと飛び込んでいく。そしてトンネルへと入る。九頭竜線の終点は九頭竜湖駅だ。九頭竜湖とは九頭竜ダムの建設によってできたダム湖だが、駅からけっこう遠い。
もちろんそこまで行く余裕はないので、列車が引き返す時刻になるまで駅周辺をぷらぷらするつもりでいた。
とにかく列車の本数が少ないので、どれだけ寂れているんだろうと思って列車を降りてびっくり。人がいっぱいいる。
車で来ている家族連れやツーリングのライダーたちが、駅の近くにある道の駅や店で思い思いに過ごしているのだ。
まるで「一大リゾート地」とでも表現したくなるほどの賑わいを見せていたのである。これには本当にぶったまげたわ。
駅前を通っている国道158号線は、そのまま岐阜県へと抜ける道となっているのだ。岐阜県に出て国道156号に入れば、
北には白川郷があるし、南には郡上八幡がある。九頭竜湖駅は、その手前の休憩地点として機能しているのだろう。
九頭竜線は正式名称を「越美北線」といい、現在は長良川鉄道となっている越美南線と接続する予定だった。
もし全通したら、それはそれで新たな観光需要を喚起できるんじゃないかって思えるほどに賑わっていた。
L: 九頭竜湖駅の最果て光景。これが越美南線と結ばれれば、けっこう面白くなる可能性があるんじゃないかと思うのだが。
C: 九頭竜湖駅の様子。日に6本しか列車の来ない駅とは思えない賑わいぶりに驚いた。 R: 恐竜のオブジェがいかにも福井。駅に隣接している店で舞茸入りの炊き込みご飯弁当を購入。まさか日に6本の終着駅できちんとメシが買えるとは。
さらにロータリー脇の道の駅を軽く見てまわる。九頭竜駅の滞在時間がわずか12分なのはもったいなかったが、
引き返す列車を逃すと3時間半以上待たされることになるので、これはもうしょうがないのだ。観念するしかない。
車内では優雅に舞茸ご飯をいただきながらもう一度、車窓の風景を味わって過ごす。越前大野を通過するとき、
できれば午後の街も歩いてみたい気にさせられたが、それは新しい市役所が建ったときにとっておくことにしよう。1時間ほど揺られて一乗谷駅に到着する。九頭竜線の長さからすれば、一乗谷駅はほとんど「福井の手前」って感覚だ。
実際、一乗谷は福井市の市域に入っており、中心市街地からアクセスする手段はけっこういろいろあるのだ。
舞茸ご飯のパックを捨てようと思いホームにある待合室に入ったところ、窓の木枠にアマガエルが座っていた。
暗い色に塗られた木の上に鮮やかな緑色でじっとしている姿は、なんとも言えないかわいさだ。
しかもよく見ると、合計4匹も同じように座っているのだ。そんなにこの待合室は魅力的な場所だというのか。
ホームだけの一乗谷駅は見事に周りを田んぼに囲まれており、カエルがいるのは納得できるが、4匹もいるとは……。
しばらくカエルたちをからかって過ごしたが、よほどこの待合室が気に入ったとみえて、ほとんど動こうとしなかった。
L: 一乗谷駅にて。かつての朝倉氏の栄華をまったく感じることのできない、穏やかな農村ぶりである。
R: 待合室にいたアマガエル。小さいカエルがこうやってちょこんと座っていると本当にかわいいのだ。さて肝心の一乗谷の遺跡は駅から少し距離があり、そもそも遺跡の範囲じたいが川沿いに細長く延びているので、
歩いて行くのは面倒くさい。そんなわけでまずは遺跡と逆方向にある、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館を目指す。
そこでレンタサイクルを借りてしまえば、後はどうにでもなるというわけ。実にありがたいサーヴィスである。
行ってみたら受付にいた学芸員の方が親切で、気持ちよく自転車を借りることができた。いい気分で出発する。九頭竜線の踏切を渡り、鉄橋を眺めてから右に曲がる。ここを入った県道18号が一乗谷を通っているのだ。
川沿いに南下していく道は緩やかな上りだが、そんなに苦労せずにどんどん先へ進んでいくことができる。
まずはすぐに、右手に土塁が現れる。これは下城戸で、約1.7km先にある上城戸とともに城門として機能していた。
一乗谷の東西は山が壁となっており、ふたつの土塁により区切られた「城戸ノ内」に城下町が形成されていたのだ。
自然の地形をそのまま利用して防御重視の要塞都市としている点が、いかにも中世っぽい手法であると思う。
東西方向の幅は非常に狭く、細長い一本の谷に並ぶようにして家臣たちの屋敷が建てられていたようだ。
L: 一乗谷への入口。すぐ北側(写真を撮っている背中側)を足羽川が流れており、天然の要害ぶりが実感できる。
C: 県道18号に入るとまず下城戸。ここから先が一乗谷朝倉氏遺跡である。全長1.7kmでとっても細長いのだ。
R: 家臣の屋敷は谷間に並んでいたようだ。こちらは朝倉景鏡の館跡。義景のいとこだが、彼を裏切り死に追いやった。さっきの一乗谷朝倉氏遺跡資料館でもらった地図によると、一乗谷城へは八幡神社から登っていくらしい。
時間的な余裕があるし、せっかくなのでチャレンジしてみることにした。一乗谷はもともとは山城がその発端であり、
その麓に家臣たちが集まってきて、主君の朝倉氏も麓に屋敷を構えて現在の遺跡のような空間構成になったのだ。
だったらそのもとになった山城を体験してやろう、本来の「一乗谷城」を制覇してやろうと息巻いて神社の鳥居をくぐる。
が、これがまず最初の間違いで、鳥居の先には神社しかないのだ。それも半分以上緑に埋もれているような小さい神社。
先へ進む手だてがなかったのでションボリして戻ってくると、鳥居の脇に正しい登山道があった。あらためて登山開始。……だが、この登山が本当につらかった。正直言って、今まででいろいろ登ったが、最も深く後悔したのはこの登山だ。
ある程度の登山客がいないと道はどんどん自然に還っていくもので、一乗谷城に登る物好きなんてそうそういない。
伸びきった草の中に登山道らしきものがどうにか見える、という程度で、染み出ている水で滑る箇所もけっこう多い。
途中で血糖値が下がりきって完全に足が止まってしまったが、最後はもう根性だけで足を動かして城跡を目指した。
そうしてがんばること30分ほど、千畳敷と思われる場所に出た。ここが本丸で、さらに先に一の丸・二の丸・三の丸がある。
「千畳敷」というとたいてい、きちんとした広さがあって見晴らしがいいものだが(たとえば函館山 →2008.9.16)、
一乗谷城の場合には純粋に、「山の中の平らな部分」。そして見晴らしもあまりよくない。辛うじて里っぽいものが見える。
もう、とてもとてもこの先に行く気にはならない。そもそもどこから先へ進めばいいのかもわからないし。
そんなわけで、一乗谷城については本当にオススメできない。この山城は、登っても報われた気になれないのだ。
L: 一乗谷城への登山道。これはまだ序盤の景色。急で細くて登りづらい山道を延々と行くのは本当にしんどかった。
C: 千畳敷(本丸)より眺める一乗谷。緑の中に小さく人里が見えるだけで、ぜんぜんいい眺めではないのである。
R: 千畳敷を名乗っているわりにはまったく開放感がない。城をアピールする要素もほとんどなく、やる気が出ない……。帰りは転ぶし、ぜんっぜんいいことがないのであった。ただただ時間と体力を浪費しただけだったように思う。
まあとにかく、かなりヘロヘロの状態で自転車をこいで、さらに南を目指して進むのであった。本当に疲れた。
L: 右手にコンクリートで整備された都市空間の遺跡が現れる。谷間をしっかりと埋めており、人口密度の高さがうかがえる。
C: 県道18号を行く。両側に遺跡があって、一乗谷のスケールの大きさに驚かされる。朝倉氏はものすごい勢いがあったんだなあ。
R: 一乗谷川越しに眺める朝倉館跡。かつてはこの山麓に、庭園つきの壮大な館がへばりつくように建てられていたのだ。そのうち、右手にコンクリートで整備された遺跡が現れる。これがけっこう広く、そして長く続いているのだ。
つまりはそれだけの人口があったわけで、一乗谷の往時の都会ぶりに驚く。やがて左手にひときわ立派な遺跡が見えた。
これが朝倉館跡だ。一乗谷川より少し高くなっているグラウンドレヴェルと、山麓にへばりついた丘といった感じの高台と、
2段階の高さがあるところが実に贅沢である。さすがは当主の居館だな、と思いながら自転車を停めて見学を開始する。1573(天正元)年に朝倉義景が敗走した際、織田信長の軍勢が火をかけたため、当時の建物は何も残っていない。
朝倉氏滅亡後に越前に入った柴田勝家は現在の福井市の市街地にある北ノ庄に城を構えたため(→2006.11.4)、
一乗谷は完全に何もない場所となってしまった。現在のように遺跡として整備されたのは1967年以降のことだ。
今はすっかりきれいになっており、立派な観光資源として機能しているが、それはわりと最近の話なのだ。
朝倉館跡の入口には、朝倉義景の菩提を弔うべく江戸時代中期に建てられたという唐門が配置されている。
この門をくぐるといかにも遺跡らしく、館の遺構がそのまま残された空間となっている。変に建物は再建せず、
訪れた人の想像力に任せているのが潔く思えた。奥の方には朝倉義景をはじめとする一族の墓がつくられている。
L: 一乗谷川。足羽川に向けて流れるこの川の両岸に城下町が形成されたのだ。当主の館は右岸(東)にある。
C: 朝倉館跡の外観。立派な唐門が迎えるが、これは江戸時代に建てられたもの。あとはひたすら遺構である。
R: 館跡の隅っこにある朝倉義景とその一族の墓。日がよく当たって湿っぽい感じはない。盛者必衰ですか。グラウンドレヴェルの方はさすがに広くて、ただその贅沢な土地の使い方に圧倒されるしかない。
しかし高台に上がると、もっと圧倒されることになる。眼下に広がる屋敷の跡は、狭い谷では別格の存在感だ。
かつてこの屋敷を中心に、谷を埋め尽くすように非常に密度の高い街が存在していた様子を思い浮かべてみるが、
それが丸ごと消えてしまったという事実が信じられない。盛者必衰とはいうが、あまりに見事に消えすぎだ。
そして高台は高台でやはり屋敷が建ち並んでおり、庭園もつくられていた(庭園は特別名勝に指定されている)。
地形を巧みに利用してつくられた要塞都市は、きっと僕らがどんなに想像しても追いつけない姿をしていたのだろう。
無数の屋根が折り重なって谷を埋める立体的な景観がもし残されていたならば、どれほどの財産になっていただろう。
L: 高台より眺める朝倉館跡。今はすっかり遺跡だが、かつてここは栄華を極めた要塞都市の中心だったのだ。
C: 中御殿跡。一乗谷の「立体都市」ぶりは、そうとう興味深いものがある。全盛期にはどんな姿だったのだろう。
R: ひときわ立派な諏訪館跡庭園。高台に複数の庭園をつくっている事例なんて本当に珍しい。文化度高すぎだ。感想としては、とにかく面白い。建物は何ひとつ残っていないのだが、地形を味わうだけでも興奮してくる。
妥当な例かはわからないが、淡路夢舞台(→2012.10.7)と比較してみることができるかもしれないと思う。
淡路夢舞台は安藤忠雄設計のコンクリート迷路的施設なのだが、僕の感覚ではあれにけっこう近いものがあった。
土砂の採掘場を整備してつくられた淡路夢舞台は、コンクリートによってさまざまな空間的要素が形成されており、
階段や通路、さらにはエレベーターも駆使して、まるで迷路のようになっている空間を行き来するようになっていた。
そして一乗谷も複数の高さを行き来しながら、空堀、屋敷跡、庭園などのさまざまな空間的要素を体験する場所だ。
つまり一乗谷という場所そのものが多様な表情を持っているし、それを多角的に眺めることもまた可能なのである。
おそらくこの場所は、訪れるたびに新たな発見があると思う。「立体都市」の見た夢は、今も尽きることがない。最後に一乗谷川の左岸にある復原町並に寄ってみる。これは1995年から公開が始まった場所で、その名のとおり、
かつての一乗谷の街並みをほぼ完全な姿で再現している「日本初の原寸大の立体模型」なのである。
まあ要するにテーマパーク的なものではあるのだが、ほかと違うのは、実際に建っていた場所にそれがあるという点だ。
侍屋敷や町屋が往時の雰囲気で再現されており、なるほどこういう空間が1.7kmも続いていたのか、と思う。
南側の入口からお邪魔したのだが、こちらは町屋となっており、職人たちが居住する区域となっていたようだ。
L: 復原町並の様子。南側には職人たちが住んでいたようで、米俵が置かれたり染め物屋の甕が置かれたりしていた。
C: 裏庭はこんな感じ。 R: こちらは長屋で、それぞれが独立した店舗となっていたようだ。都会だなあ。復原町並はその範囲が完全にかつての姿に再現されているわけではなく、東側の半分ぐらいに限られている。
西半分は砂利の中に礎石を露出させただけの状態になっており、今後の着実な整備が待たれるといったところか。
それでも北側には1軒の侍屋敷がきちんと細部まで再現されており、当時の生活を想像することができる。
観光客は非常に多かったので、ぜひともしっかり稼いで立体再現エリアを広げていってほしいものだ。
L: 侍屋敷では朝倉象棋に興じる武士の人形がある。朝倉象棋は一乗谷で駒が発掘された将棋の一種で、醉象がある。
C: 完全に再現された厠。 R: 侍屋敷の門だけ再現されている例。建物の復元は金がかかるよなあ……。山城に登って一時はどうなることかと思ったが、どうにか一乗谷を楽しむことができた。満足して下って帰る。
一乗谷朝倉氏遺跡資料館に戻ってレンタサイクルを返却すると、展示を見学してジュースを飲んで一休み。
ちなみに資料館の方によれば、一乗谷城は「千畳敷まで行ったんなら、もうそれで十分ですよ」とのこと。
その言葉には本当に救われたわあ。とにかく、これで今日の仕事はぜんぶ終わった。疲れた疲れた。一乗谷駅までトボトボと歩いて戻りホームの待合室に入ってみたら、カエルたちは来たときと同じ場所で座っていた。
400年以上前の栄華とは関係なく、カエルたちは自分たちの穏やかな暮らしを続けているようだ。それもまたよし。
やがて列車がやってきて、一乗谷を後にする。日本の正しい歴史、正しい田舎を体感できて満足に浸りながら揺られる。福井駅に着くと荷物を回収して食事を買い込み、北陸本線に乗り込む。敦賀を抜けて滋賀県に入ると、
空がだんだん暗くなってきた。小谷城の手前を抜けて長浜を通過して、米原に到着すると急いで乗り換え。
名古屋方面へ向かう列車を待つ人はホームにあふれており、お盆休みであることをここでようやく実感させられた。
名古屋では1時間ほど余裕があったので、メシを食ってデジカメ用のカードリーダーを買って、バスに乗り込む。
さすがに一乗谷城の疲れは半端ではなく、ぐっすり眠って気がついたらすでに伊賀良のバス停なのであった。飯田バスセンターがなくなって終点が飯田駅前になったのだが、僕としては特にこれといって変わることはない。
いつもどおりに中央通りを下って大横町を歩いて知久町から大久保町を目指し……たのだが、東中軒の辺りでストップ。
飯田市役所を建て替える工事の関係で、道が塞がれてしまっていたのだ。知ってはいたけど、現実に体験するとショックだ。
しょうがないので飯田市議会の方向から市役所の敷地内を突破して、どうにか源長川公園の前まで出ることができた。
僕の知っている大久保町の姿が完全に消えてしまったことを痛感させられて、なんともやりきれない気分になる。
赤い「キリンビール」と青い「キリンレモン」の文字が踊った倉庫も、転んでフェンス跡に頭をぶつけて流血した駐車場も、
居酒屋「公(きみ)」も、シルバーボックスも、もともと姿を消していたんだけど、その空間の記憶のかすかな手がかりすら、
ついに根こそぎ持って行かれてしまった。白山町もそうだったけど、僕の空間の記憶はどんどん現実から離されていく。
「もういいや」と思ってしまった。もう飯田市民としての意識を捨ててしまってもいいのではないか、そう思えてしまった。
僕はこの街に戻ってくる必要があるんだろうか、もうその必要はないんじゃないか、そこまで考えてしまったよ。実家に着いたらいつもどおりに過ごしたけど、僕の中では何かが吹っ切れた気がした、そんな夜だった。
帰省のはずの旅、2日目はいったん西に行ってから一気に東へ行くよ。ただし日本海沿い。
範囲で言えば、丹後から越前までを一気に押さえちゃおうということだ。このエリアは以前も訪れたことがあるのだが、
わりと飛び飛びで訪れた感じになっていたので(→2009.7.20/2010.8.20)、つながりを再確認しておこう、と。
決して乗りつぶしが目的というわけではない。いろいろとリヴェンジしたい要素があるんだよう。ということで、最初にリヴェンジするのは天橋立なのだ。4年前にも行ったんだけど、天気があまりにもイマイチでねえ。
一宮があるのにそれもスルーしちゃったし、その辺を含めてもう一度、きちんと訪れてみようと思ったわけだ。
朝7時、西舞鶴駅で北近畿タンゴ鉄道の1日フリーきっぷを購入。それから1両編成の列車に乗り込み、いざ出発。
ずっと道路に沿っていた舞鶴線とは違い、宮津線は緑の中をグイグイと抜けていく。そして由良川を渡った後は、
ひたすらリアス式海岸の複雑な海岸線に沿って走る。これもまた丹後らしい光景なのだ、と思いつつ揺られる。天橋立駅に到着。知恵の輪のオブジェがある。所在地の字も「文珠」なのだ。
順調に8時前に天橋立駅に到着。前回訪問時(→2009.7.20)とは違い、しっかりと晴天に恵まれた。
いい気分でまずは智恩寺に参拝。4年経っても相変わらず、ちったぁ賢くなりたいなあと手を合わせる。
L: あらためて智恩寺の山門。1767(明和4)年に竣工。 C: あらためて智恩寺の多宝塔。1501(明応10)年に竣工。
R: 文殊堂。何度も修理を行っているようだが、1600年代半ばには現在のような姿になったそうだ。参拝を終えると、今回もまた天橋立を歩いて対岸に渡る。1時間近くかかるだけの距離があるのはもちろん覚えているが、
それでもやっぱり歩きたいのだ。きちんと歩いてその距離感を再確認し、記憶と感覚を確かなものにしておきたいのである。
気合を入れると、廻旋橋を渡って砂利道を歩きだす。と、その瞬間に廻旋橋が回りだしたので戻って撮影。
撮り終えるとあらためて気合を入れて出発。海水浴場で賑わっていたのも束の間、すぐに松ばっかりの同じ景色になる。
L: 智恩寺の知恵の輪は境内から少し離れて海に面しており、対岸へ渡るボートが停泊しているところに紛れている。
C: 廻旋橋が回っているところ。 R: 天橋立を歩くとやっぱり、こんな感じの景観が延々と続くだけなのであった。途中で最も面白みのあるものといえば、天橋立神社(橋立明神)と磯清水だ。神社の規模は小さめなのだが、
なんせ場所が天橋立の中ということで、なんだかご利益がありそうに思えてしまう。もっと面白いのは磯清水で、
天橋立の中にある井戸なのだ。これ、右も左も海のくせして真水が出る。飲めるほどの水質ではないのが残念だが、
天橋立神社の手水として使われており、舐める程度のことならできる。面白がりつつ参拝して、さらに先へ。
L: これは帰り(午前10時ごろ)に撮った写真なのだが、やっぱり天橋立の海水浴場は大賑わいなのであった。
C: 天橋立神社。社殿に迫力がないのがやや残念。 R: 磯清水。海の間で真水が出ればそりゃ驚くわな。対岸に到着すると、前回訪問時には行かなかった場所へ行くのだ。まずは丹後国の一宮・籠(この)神社。
「元伊勢」を名乗っているが、これはもともとこの地で豊受大神と天照大神を祀っていたが、伊勢神宮に移ったから。
ほかにもいろいろな神様が祀られており、天橋立の存在もあって、古くから権威のある神社だったのだろう。
L: 籠神社。参拝者は右の参道を行く。左は駐車場。 C: 参道の様子。最近になって整備されたのか、妙に小ぎれい。
R: 神門。「元伊勢」名乗るだけあってか、なかなか重厚である。手前で屋根をかぶっているのは魔除狛犬。境内は本当に最近になって整備されたようで、やたらときれいである。木々も花壇とともにしっかり管理されており、
神社というよりはややお寺っぽさを感じなくもない。そのことで逆説的に、神社と寺の空間的な違いを実感する。
思うに、神社の植物は自然に任せてそのままとされることが多いのに対し、寺では積極的に人の手が加えられるのだ。
籠神社の参道部分はきっちり整備されているので、どこかお寺っぽく感じたというわけだ。いかがなもんだろうか。
L: 重要文化財・魔除狛犬。鎌倉時代の作とのこと。わざわざ屋根で保護されているところにその貴重さがうかがえる。
C: 籠神社の拝殿。屋根が大きくてけっこう独特である。 R: 元伊勢ということで、本殿は唯一神明造なのだ。さて籠神社で最も興味深かったのは、御守のデザインである。春夏秋冬の4種類、それぞれの天橋立が刺繍されている。
とりあえず今の季節は夏ということで夏のデザインのものをいただいたのだが、どれもきれいで魅力的だった。
こういう工夫をされると参拝客としてはうれしいもんですな。さすが日本三景ならでは、といったところか。拝殿の脇には摂社・末社が並んでいる。この前を通ってケーブルカーへ。
籠神社の境内は、傘松公園へ上がるケーブルカー乗り場への経路にもなっている。鳥居をくぐって境内を出ると、
そこは土産物店が並んで観光客を待ち構えているのであった。朝食いかがですか、という呼び込みも強烈だ。
ケーブルカーは15分ごとの運行で、残念なことに出発したばかり。しょうがないので隣のリフトで上がることにした。
天橋立を南側の天橋立ビューランドから眺める「飛龍観」は前回訪れたときに体験しているのだが(→2009.7.20)、
北側の傘松公園から眺める「斜め一文字」は知らない。というわけで、ぜひ見てみようということなのだ。
「天橋立、北から見るか、南から見るか」。それが本日のメインテーマのひとつなのである。リフトで上がりきったところは、それほど規模が大きいわけではないが、レストハウスとなっている。
すでになかなかの密度で観光客たちがたむろしている。ここにも展望スペースは設置されているのだが、
さらに階段を上がったところまで行ってみる。すると確かに、「斜め一文字」と呼ばれているとおり、
視界の左下から右上へとまっすぐに緑の線が延びている。筆で勢いよく撥ね上げたような軌跡だ。
なるほど、どちらから見ても天橋立は美しい。しばらく見とれて過ごすのであった。
L: 傘松公園より眺めた「斜め一文字」。 R: 恒例の股のぞきで見たところ。では次はあらためて南から眺めてみようじゃないか、とリフトで地上に降りる。観光船で戻ろうか、と思ったら、
これまた運航時刻が合わずに断念せざるをえなかった。結局、観光船乗り場でレンタサイクルを借り、
それで天橋立の中を爆走して戻ることに。片道で乗り捨てできるのが、大変すてきなシステムである。智恩寺の脇にある観光船乗り場でレンタサイクルを返却すると、今度は天橋立ビューランド行きのモノレールに乗る。
家族連れに囲まれながら、4年前にリョーシ・ラビー両氏と来たときのことをしみじみ思い出しているうちに到着。
久しぶりの天橋立ビューランドは、以前と大きく変化している点がひとつだけあって、かなりショックだった。
それはジェットコースター(→2009.7.20)がなくなって、かわりに「飛龍観回廊」となってしまっていたこと。
日本一凶悪な立地だと個人的に確信していたジェットコースターがなくなってしまったのは、残念の一言である。
飛龍観回廊をのんびり歩いて、かつての姿を想像してみる。怖くて乗れないに決まっているんだけど、やっぱり残念。
L: 天橋立ビューランド行きのモノレール。 C: 天橋立ビューランドじたいは以前とまったく変わらない雰囲気。
R: しかしあの凶悪なジェットコースターがなくなってしまったのは残念。現在はこのような「飛龍観回廊」となっている。ではいよいよ「飛龍観」をもう一度味わうのだ。前回訪れたときには天気があんまりよろしくなかったので、
青空の下の天橋立を眺めることはできなかった。今回きちんと日本三景の絶景を確認できたのはうれしいことだ。
対岸がやや霞んでしまってはいるものの、十分に景色を堪能できた。やはり飛龍観は力強くてフォトジェニックだ。
L: あらためて飛龍観を味わう。やっぱり天橋立はこっちから眺めた方がいいなあ。 R: はい、股のぞき。以上、「天橋立、北から見るか、南から見るか」でした。個人的には南に軍配を上げたいが、いかがでしょう。
天橋立をいろんな角度から眺めて満足すると、西舞鶴駅まで戻る。今度は西舞鶴の市街地を歩きまわるのだ。
4年前のログでも書いているけど、舞鶴市は五老岳によって西と東に分断されているのである。
もともとの市街地は田辺城址のある西舞鶴だが、市役所は軍港として発展した東舞鶴側にある。
で、まずはとりあえず西舞鶴の城下町ぶりを味わおうというわけなのだ。駅からそのまま、西へと歩いていく。実は西舞鶴には、それほど重要な歴史的建造物がない。だから城下町ぶりを味わおうとしても、困ってしまう。
それでも西舞鶴の市街地はきちんと碁盤目状となっており、その西端の山麓は寺が並ぶ寺町となっているので、
そこを訪れることでお茶を濁すことにするのだ。で、最後に田辺城址を再訪して一丁あがり、と。まず西舞鶴駅からそのまま西へ進んで円隆寺。行ってみたら本堂を中心に18世紀に再建された建物がいろいろあり、
思っていたよりも見応えがあった。円隆寺の境内は神仏習合っぽく地元住民の産土神・朝代神社とつながっている。
この隣接ぶりがなかなか興味深いが、やや小ぶりな社殿も円隆寺同様に1739(元文9)年の再建で、独特な姿である。
(ちなみに境内で昨日と同様、何か動物が近くを横切ったのを感じた。猿っぽい気がしたが、何だったんだろう?)
そしてもうひとつ印象的だったのが、桂林寺である。関ヶ原の前哨戦では籠城した細川幽斎を支援したという寺だ。
この寺、道路に面する総門は大したことがないのだが、その奥にある山門と、裏側から延びている通路が面白い。
桂林寺のある場所は山の斜面で、その狭苦しい敷地いっぱいに工夫を凝らして建物を詰め込んでいるのである。
竜宮門の鐘楼堂もまあ悪くはないが、通路で山門から鐘楼堂に直接行けるようにしていることが面白くてたまらない。
この通路がつくられていることで、境内全体が立体的な塊として認識され、要塞のような複雑さとなっているのだ。
正直なところ、舞鶴における寺社建築はひとつひとつを見ると特別に美しいというわけではないのだが、
どれも歴史を生きた説得力がしっかりと漂っており、土地の歴史を味わうには最適なものばかりである。
こういう地元密着型の建築が今もきちんと大切にされている点こそが、舞鶴という街が持つ本来の魅力なのだろう。
L: 円隆寺本堂。 C: 朝代神社。 R: 桂林寺山門を脇から見上げる。やはり18世紀、1717(享保2)年の築。時間的にそんなに余裕があるわけではないので、適度なところで寺町めぐりを切り上げる。
地図で見ると西舞鶴の碁盤目の真ん中には斜めの線が入っているが、これはアーケード商店街・サンモールマナイである。
正式には「真名井通り」というようで、「真名井」とは元伊勢・籠神社の元宮の名前で、何か関係がありそうだ。
新しい店もなくはないのだが、残念なことに商店街としてはけっこう閑散としている。奥の平野屋通りはなんか派手だが、
これまた地元住民以上の吸引力はなさそう。西舞鶴は東舞鶴とも競争があるから大変なのかな、と思う。
帰りは国道27号に出て駅まで戻るが、途中の明倫小学校の歩道は大胆にセットバックして小ぎれいに整備されていた。
L: サンモールマナイ(真名井通り)。国道27号のロードサイド店に押されてか、あんまり元気な印象はしない。
C: その北に延びる平野屋通り。 R: 国道27号と明倫小学校の間にある歩道はこんな感じで整備されている。明倫小学校を曲がり、藩校・明倫館の門を前を通って田辺城址に到着。やはり4年前にも来たが(→2009.7.20)、
あらためて散策してみるのだ。といってものんびりしている暇はないので、全編小走りで散策というせわしなさ。
当然、彰古館(二層櫓)や田辺城資料館(城門)の中に入ることはできない。カメラ片手にあっちへこっちへ。
L: 北西より眺める田辺城址。手前の西側はきれいに復元されているが、その奥には昔ながらの石垣が残っている。
C: 彰古館(二層櫓)。1940年築ということなので、城門を再建する際に改修したんだろうな。
R: 城門の裏側はこんなふうになっている。平城とはいえここまであからさまなフィクションだとちょっと残念。旧丹後国では宮津と舞鶴(田辺)がそれぞれ城下町として繁栄していたが、知名度としては舞鶴の方がはるかに上だ。
思うに、「田辺」から「舞鶴」という名に変えたことが功を奏したのではないか。もちろん舞鶴鎮守府の影響は大きいが、
「舞鶴」という優雅な響きがいいイメージを喚起したのは間違いないだろう。和歌山県の方に「田辺」の名を譲ったことは、
都市の戦略的な観点からすれば正解だったということになる。城の別名をうまく使ったいちばんの例かもしれない。
L: 田辺城址はこんな感じで公園となっている。 C: 天守台の石塁。城門から入ってすぐのところにある。
R: 古今伝授を行った現場である心種園。池には無数のオタマジャクシがいて、正直ちょっと気持ち悪かった。これにていちおう西舞鶴の街歩きは終了。西舞鶴駅から一駅揺られて東舞鶴駅へと向かったのだが、
北から東へと針路を変えた列車は見事に緑の山間を抜けていく。舞鶴の東西分断ぶりを実感するのであった。というわけで東舞鶴駅に到着なのだ。
東舞鶴駅は4年前の旅の終着点であり、ここでリョーシ・ラビー両氏と別れたので、なんとなくしんみりしてしまう。
しかしぼんやりしている暇もないので、待合室にあるコインロッカーに荷物を預けていざスタンバイ。
本来であればこの待合室でレンタサイクルの申込みをする予定だったのだが、なぜか係の人がいない。昼休みか?
しょうがないので駅の北口に出て様子をうかがうと、バスが来た。舞鶴港を経由して西舞鶴まで行くようだ。
これ幸いと乗り込むと、バスは東舞鶴の中心である三条通(府道28号)を北上していく。城下町の西舞鶴と同様、東舞鶴の市街地も碁盤目状になっているが、こちらは軍港から計画的に発展した街である。
それを反映して、南北方向の通りは西から一条、二条、三条など数字をもとに名付けてられているのが大きな特徴だ。
では東西方向の通りはというと、これが面白いことに、八島、敷島、朝日、初瀬、三笠など、戦艦の名が付いている。
軍港としてのかなり強烈な誇りが感じられるではないか。やはり都市にはそういうウィットがないとつまらない。市役所のもうひとつ先、三宅団地前というバス停で降りた。バスに乗っての感触としては、東舞鶴は意外と狭い。
地図を見ると東舞鶴駅から港まではけっこうな距離がありそうなもんだが、実際にはそうでもなさそうなのである。
でもまあとりあえずは赤レンガの倉庫群を見てまわる。4年前(→2009.7.20)よりもきれいな写真を撮ってやるのだ。
赤レンガの倉庫はぜんぶで12棟あるが、そのうち7棟が「舞鶴赤れんがパーク」として整備されているようだ。
さらに7棟のうち4棟が開放されている模様。残りの3棟は国(文化庁)の倉庫で、建物の周囲のみを散策可能。
どれも重要文化財(一部は附指定)となっており、明治の誇り、海軍の誇りがダイレクトに味わえる空間である。
L: 西側の3棟は国が所有する倉庫。中には入れないが周囲は散策できる。というか、駐車場からの通路って感じ。
C: 左から、赤れんが4号棟(赤れんが工房)、3号棟(まいづる智恵蔵)、2号棟(舞鶴市政記念館)。
R: 赤れんが5号棟(赤れんがイベントホール)の内部。ジャズのライヴハウスとしての利用があるみたい。奥にはバーも。どの建物も、赤レンガ建築としての外観はしっかりと残しつつ、内部を現代風にリニューアルしている。
レンガというもともとの素材に、黒塗りの鉄骨、あるいはフローリングという対比が実にオシャレなのだ。
僕はプロの建築家ではないので、建築を見てもその建材からあれこれ考えることはあんまりないので、
あらためてじっくりと赤レンガ建築のリニューアルぶりを見て、このワクワク感はなんだろう、と思うのであった。
L: 各赤レンガ倉庫の間はこんな感じできれいに整備されている。 C: 倉庫の横っ腹から中に入るぜ。
R: 舞鶴のお土産コーナー。観光資源が豊富なのは確かだが、やっぱり西舞鶴の存在感がやや弱いんだよなあ。そのまま赤れんがパークを抜けて、隣の舞鶴市役所へ。相変わらずなんともデカい建物である。
でもよく見ると、それは増築による影響だとわかる。めちゃくちゃ情けないけど、4年前には見抜けなかったなあ。
L: 舞鶴市役所。1963年竣工なのは左側の4階建ての本館。右は6階建ての別館で、1992年に竣工した。
C: 角度を変えて本館を眺める。1960年代にしてはけっこう規模が大きい。さすがは舞鶴といったところか。
R: 舞鶴港に面している本館の裏側。こうして落ち着いて見てみると、けっこう地味な建物だ。
L: 少し距離をとって舞鶴港側から眺めた本館(右)と別館(左)。 C: 別館は東側が正面っぽい印象だな。
R: 一周して南側に戻ってきて眺める別館。耐震工事的なファサードだけど、これはわざとやっているのか。バスに乗った印象では、東舞鶴の市街地は意外と小さそうだったが、本当のところは歩いてみないとわからない。
だから赤れんが博物館も見学せず、市役所の撮影を終えるとけっこうな危機感を持って早歩きで駅まで戻る。
そしたら思いのほかあっさりと寺川を越えて中心市街地へ。先ほどバスで通った三条通は見事な大通りだが、
それ以外はごくごくふつうの地方都市。距離といい規模といい、なんとも拍子抜けしてしまった。
まあこれはやはり、舞鶴が東西に分かれていることで痛み分けになっている、と解釈できる事態だと思う。
昔ながらの雰囲気を保っているアーケードの八島商店街も、けっこう老朽化というか弱体化が進んでいた。
L: 舞鶴市役所を撮るついでに眺めた舞鶴湾。全身グレーの艦船が停泊しており、舞鶴という街の特徴が実感できる。
C: 舞鶴市内でいちばんの都会であると思われる三条通の様子。雰囲気は立派なのだが、店にそれほど元気がない。
R: 雰囲気としてはだいぶ昭和な八島商店街。舞鶴は独特な要素がいろいろ多すぎて、なんとも特殊な印象の街だ。予想していたよりもずっと早く東舞鶴の街歩きが終わってしまった。なんだかんだで疲れているので、
しっかりと休んでから小浜線に乗り込む。小浜線に乗るのは3年ぶりになる(→2010.8.20)。
このときはまずは小浜市に寄ってから5日間にわたる北陸旅行をスタートさせたわけだが(贅沢な旅だったなあ……)、
今回はそのリヴェンジを果たしてやろうという魂胆なのだ。それが終わったらそのまま福井まで行って泊まる。
決して小浜線を乗りつぶすことが目的なのではない。結果的にそうなってしまうだけなのだ、と言いたい。のんびりゆらゆら、小浜線はすぐに丹後から若狭へと入る。丹後では見事なリアス式の海岸線を走ったが、
若狭に入ると少し様相が変わる。線路はだいたい海岸線と並行しているのだが、海との間に田んぼがあるのだ。
つまり、若狭の海沿いには平らな土地が延びており、山までは少し余裕がある。そこを列車は走るのである。
3年前には山の間を分け入っても分け入っても田んぼがあるところに「若狭っぽさ」見出したが、
海でも田んぼは海岸線に沿って広がっている。これまた「若狭っぽさ」ってことだろう。そう思いつつ揺られる。今回は小浜駅をスルーして、その次の東小浜駅で降りた。そして駅の入口のところでレンタサイクルを申し込む。
実は東小浜駅でもレンタサイクルをやっていて、小浜市内の寺めぐりをするにはこっちの方が便利なのだ。
自転車を置いてある倉庫で荷物を預かってくれるというのでお言葉に甘え、身軽になっていざ出陣。
目指すは国宝・明通寺だ。3年前には三重塔の屋根が葺き替え工事中だった。今回はそのリヴェンジをするのだ。景色は3年前とまったく変わらない。路肩が狭くて交通量が多くてやたらめったら走りづらいのも相変わらず。
「遠敷」という超難読地名の標識を見て、タイムスリップした気分になる。違うのは、夕方になりかけた時刻だけ。
そう、ボヤボヤしていると西日になっていろいろと撮影が面倒くさくなってしまう。電動自転車をすっ飛ばす。
僕の記憶では明通寺までの道のりはダラダラした上り坂が延々と続いてかなりキツかった印象しかないのだが、
電動自転車ということを差っ引いても今回は驚くほど簡単に到着してしまった。首をひねりつつ自転車を停める。
おそらく、小浜駅から東小浜駅までの1駅分がかなりのダメージだったってことだろう。国道27号はとにかく走りづらい。
また、初めて体験する道は長く感じるものだが、復路や2回目はそうではなくなる。その効果も現れたんだろう。
L: 3年前に「若狭っぽさ」を実感させられた道を行く。じっとりした上りのはずだが、驚くほどあっさり攻略できた。
C: 明通寺に到着したが、逆光に苦しむ。これは逆光対策ということでiPhoneで撮影した山門。1772(明和9)年の再建。
R: 境内の様子。うーん、逆光がひどい。しかし明通寺は歴史が古いだけあり、山の中でも独特の雰囲気があるね。できるだけ早く明通寺に到着したものの、残念ながら逆光のキツさは僕の予想をはるかに上回るものだった。
3年前は朝のうちに訪れたから気にならなかったけど、「やられた……」とつぶやくことしかできなかったわ。
せっかく三重塔の見事な姿を拝めると思ったんだがなあ。まさか逆光という新たな敵がいたとはなあ。がっくりだ。
L: 明通寺の本堂をあらためて撮影。こちらも国宝でございますよ。 C: 右を向くと三重塔。逆光がギャー!
R: 裏手にまわって撮影。本堂より遅れること5年、1270(文永7)年の築。やっぱり鎌倉期らしい古び方がいい。いちおうリヴェンジは果たしたものの、正直なところ、どこか釈然としない気持ちもある。が、納得するしかない。
見学を終えると3年前にも訪れた若狭彦神社・若狭姫神社にも参拝したのだが、やっぱり逆光がひどかったので、
このログには写真を載っけませーん。なんでみんな東から西へ参拝する形になっているのやら。しょんぼりである。レンタサイクルを返却すると、東小浜駅のホームでかなりぼけーっとして列車が来るのを待つ。
もはや撮影に向かない時刻になってしまうと、われながら非力なものである。ニンともカンとも。やがて列車がやってきたので、終点の敦賀まで揺られる。氣比神宮に参拝しなおす暇もなく、北陸本線に乗り換え。
すっかり空は暗くなっており、呆けた状態で福井駅に到着。最短経路で本日の宿にチェックインを済ませると、
晩メシをいただくべく再び街へ出る。福井の名物といえばヨーロッパ軒のソースカツ丼ということで、
鼻息荒く突撃したらお盆でお休みでやんの。その場に膝から崩れ落ちたよ。いやまあ、調べなかったオレが悪いけど……。
なんだか今日は午後になってから急激に運が悪くなった気がするなあ、と思いつつ、テキトーにメシを済ませる。
明日はなんとかいい流れになるといいなあ、と切に願いつつ風呂に入って寝るのであった。バタンキューである。
京都駅に着いた……のだが、乗っていたバスがいつもと違って近鉄系のバスだったので、降りる場所が違う。
北側の烏丸口ではなく、南側の八条口だったのである。まだ寝ぼけている僕は切符を買うべく歩きまわるが、
一向にJRの切符売り場が見つからない。いかん、このままじゃ予定の列車に間に合わない……と焦るものの、
どこまで行ってもJRがないのである。東へ東へ進んでいって、やっと見つかった!と思ったら新幹線の改札でやんの。
ヤケになってさらに東へ行ったら地下通路があって、それで北側へ抜けられるかもしれん、と猛ダッシュ。
そしたら地下に改札があった。まさか地下鉄じゃねえよな、と確認したら、予定の列車が出るまで本当に残りわずか。
慌ててその改札を抜けて地上に出たのだが、山陰本線のホームって、なぜかほかと離れた位置にあるのね。
それはもうマンガのようなタッチの差で、目的の列車はするすると遠ざかっていくのであった。朝からがっくりだよ。しょうがないのでコンビニで朝メシを食うべく、むくれながら改札を抜ける(青春18きっぷなので可能)。
しかし京都駅のすぐ近くにコンビニはなく、ちょっと歩かされることになる。それがなんともじれったい。
結果的にはしっかりと栄養を摂って骨のある街歩きができたわけだからそれはそれでよかったのだが、
気分としては少し引っかかるところがあるわけで、ニンともカンとも。まあ、晴天に恵まれたからいいや。あらためてホームで山陰本線を待ち、6時半すぎに出発。お盆ということで僕は飯田に帰るはずなのに、
なぜか京都から西へと動いている。今年の帰省の旅も思いっきりひねくれているなあ、と思いながら列車に揺られる。
列車は高架で京都の市街地を離れていくと、嵯峨嵐山からは山の中へと入る。保津峡のトンネルから先は亀岡市だ。
ここまで来ると、どうしても2年前のことを思い出す。出雲大神宮と亀岡と京都サンガの旅(→2011.10.2)。
あのとき、めちゃくちゃ体調が悪くてぶっ倒れそうになりながら動きまわったことが、今もトラウマなのである。
どうしてもそのときのつらくつらくてたまらない感覚が、僕の中に湧き上がってくるのだ。困ったもんだ。
去年、福知山へ行ったときもそうだったんだよなあ(→2012.2.25)。丹波の景色が僕をそうさせるのか。その去年の福知山行きの際には降りることのなかった街、そこをきちんと押さえることが今日の最初の目的だ。
まずは園部駅で降りる。園部町は平成の大合併により、2006年に南丹市として生まれ変わったのだ。
南丹市には観光スポットとなっている古い建物がけっこうあるのだが、だいたいが旧美山町に位置しており、
アクセスするのに手間がかかる。とりあえず今回は旧園部町の中心部を歩きまわるのみとするのだ。園部駅の改札を抜けると、まだ寝ぼけていたのか、いきなり駅舎を出る方向を間違える。そしてそれに気づかない。
本来なら西口から出るところを、反対の東口に出てしまったのだ。国道9号に出たところでようやくミスに気づいた。
しかしまあ、国道9号は山陰の大幹線道路なので、これを歩くのも悪くはないだろう、とそのまま北へと向かう。
園部の街は駅との間にでっかい山があり(天神山)、この山を避けるように歩くのに違いはないのだ。
ところが国道9号は自動車専用の雰囲気になっていき、歩行者はそれと並走する路地を歩くことに。
山陰本線の高架をくぐる辺りでわかりづらさは最高潮になり、iPhone片手にどうにか先へ進むのであった。
ところが橋を渡るとそこは見事にカーヴした旧街道で、街割りは完全に昔のまま。なかなか歩き甲斐があった。カーヴが終わって本格的に市街地に入った感触がしたので、国道9号に戻ってみる。構造はなかなか複雑で、
昔ながらの城下町に幅の広い道路をドカンと通しました、まだまだ計画の途中です、そんな雰囲気となっている。
そんなだだっ広い道を、南丹市役所に向かって南下して行ったら、なんと城っぽい建物が目の前にそびえている。
なんじゃこりゃ、まさかこれが市役所じゃあるまいな、と大いに呆れて近づいてみたら、これは国際交流会館。
市役所はその隣、坂道を上っていった奥にあった。南丹市役所(旧園部町役場)は4号庁舎まである分散ぶりで、
国際交流会館の裏には1号庁舎から3号庁舎までがひっそり並んで建っている。土地にあまり余裕がなく撮りづらい。
L: 南丹市役所・1号庁舎。 C: そのすぐ北にある2号庁舎。 R: 1号&2号からちょっとだけ離れて3号庁舎。中身は市議会。それにしてもこれはなんなんだ、と3号庁舎からまわり込んで国際交流会館の正面に出てみて、さらに驚いた。
城とガラスの大胆な合体ぶりもさることながら、その手前にはなんと、プールがあるのだ。お堀のイメージなのか?
これだけ自由奔放にやられちゃうと、もはやなんでもありなんだなあ、と呆れることしかできない。気を取り直して、園部城址に行ってみることにした。ところがまだ本日の勘違い癖はしっかりと続いており、
僕はてっきり園部城の本丸は市役所西側の小麦山だと思っていたのだが、実際は国際交流会館手前の広場だった。
大股で勢いよく小麦山のてっぺんまで登ったのだが、そこは狭苦しい庭園と石碑が並ぶだけの光景となっていた。
「……なんだかぜんぜん本丸らしくねえなあ」と思いつつ下りると、そのまま東へと歩いていったのであった。
おかげで日本城郭史で最後の建築物であるという巽櫓などを見逃してしまった。とことんツイてないなあ。
L: 南丹市国際交流会館。この橋の下が…… C: プールになっているわけです。これは自由奔放ですね。
R: 園部城址・小麦山の山頂。確かに本丸の跡にしては威厳が感じられなくて不思議だった。うーん、切ない。まあ結局、予定していた列車に乗り損ねたことが余裕のなさにつながったのは事実である。スタートが肝心なのだ。
やっぱりしっかり街歩きをするには十分な時間が必要だ。園部にはもう1ヶ所、きっちり訪れたい場所があって、
そのせいで焦っていたというわけ。その場所とは、「日本最古の天満宮」こと生身天満宮だ。生身天満宮。「いきみてんまんぐう」と読むが、実に変な名前だ。由来はなんと、菅原道真の存命中に創建されたから。
もともと園部は菅原道真が治めており、さっき登った小麦山に菅原道真の屋敷があったという。しかしご存知のとおり、
菅原道真は藤原氏によって太宰府に流されてしまう。その際、彼の屋敷に祠を建てたのが、後に神社になったということ。
1653(承応2)年に初代園部藩主の小出吉親が小麦山に築城したため、生身天満宮は現在地の天神山麓に移った。
実際に訪れてみると、厳かな雰囲気がはっきり漂う空間となっている。コンパクトな中に摂末社が集まっているのが面白い。
しかしもっと面白いのは拝殿・幣殿・回廊・本殿が一体化した建物で、非常に独特な構造となっているのだ。
こういうなかなか珍しい空間構成になっている神社を参拝すると、よけいにご利益がありそうな気分がしてくるね。
L: 生身天満宮。昔ながらのサイズということなのか、小ぢんまりとしながらも雰囲気は実に厳かである。
C: 1831(天保2)年築の拝殿。どちらかというと舞殿っぽい。後ろの幣殿と一体となって本殿までつながる珍しい形。
R: 本殿脇の回廊。生身天満宮は本当に独特な形式で建てられている。ちょっと寺っぽい様式って気もする。本殿。1653年の遷座時以来の建物だそうだ。
参拝を終えると、そのまま天神山の南側を歩いて園部駅まで戻る。西口は東口と違い、はっきり表側という印象。
もっとも、東口から出たから旧街道沿いを歩けたので、それはそれでヨシとするのだ。切り替えて、次の街へ。京都発の山陰本線は、亀岡や園部までで止まってしまう列車がけっこう多い。福知山まで行く普通列車は、
1時間に1本ペースなのだ。これって不便だなあ、と思いつつ1時間ほど揺られて今度は綾部駅で下車する。
「園部」と「綾部」、名前の響きは似ているが距離は意外とある。園部はむしろ亀岡に近いし、綾部は福知山に近い。
iPhone片手に「丹波って広いなあ」と呑気に思うのであった。綾部駅は舞鶴線が分岐する駅なので、乗降客は多い。綾部駅の駅舎を出ると、市役所を目指す。が、まだ勘違い癖が抜けていなかったようで、ふらふらと商店街に迷い込む。
西町の交差点から南に入ったそこは、懐かしい雰囲気を保ったアーケードとなっていた。商店の密度は薄めだが、
全体的に小ぎれいで、地方の商店街にしてはあまりダメージを感じさせない。不思議に思いながら南に抜けきると、
左に曲がって市役所に近づいていく。そこもまた商店街で、街灯の下の看板には「大本通り商店街」とあった。
綾部という都市はふたつの大きな要素を持っている。ひとつはグンゼ、そしてもうひとつは宗教法人の大本。
空間的にはグンゼが駅の北側にあり、大本が駅の南側にある。どちらもまったく性質の異なるものではあるが、
人を集める要素が今もはっきり機能しているのだ。商店街が静かに鼓動を感じさせる理由はそこにあるのかもしれない。
L: 西町アイタウン(西町商店街)。区画整理を経て1998年にこのような姿になった。きれいだけどスカスカしとるな。
R: 昔ながらの街道の雰囲気を残す大本通り商店街。個性を持った複数の商店街があることは強みだと思う。少し回り道をする形で綾部市役所に到着。そしたら建物の前面を工事中でちょっとがっくり。
建物じたいは几帳面さを感じさせる3階建てだが、後ろに2つの建物が増築されて複雑な形状となっている。
ホームページで調べたら「本庁舎」「本庁舎北」「本庁舎東」となっており、非常に珍しい事例である。
本庁舎の竣工は1957年で、これは古い。ファサードが漂わせている几帳面さに納得がいく。
L: 綾部市役所・本庁舎。1957年竣工ということで、几帳面というか端整な印象を与えるファサードである。
C: 角度を変えて南東側から撮影してみた。 R: 裏側にまわり込んで撮影。右が本庁舎北、左が本庁舎東。企業の本拠地となっている街の役所はたいていパワフルなのだが、綾部市役所は実に質素である。
グンゼというとまず下着や肌着で、多角経営しながらも堅実にやっているイメージがある。
綾部市役所の几帳面なファサードには、そのイメージが重なって見える、というのはうがった見方だろうか。市役所の撮影を終えると、さっきの西町の交差点まで戻って、そこから線路の北側へと出る。
穏やかな商店街で構成されていた南側とは違い、北側ははっきりと矩形の街並みとなっていて、道の幅も広い。
ここまで明確に街が表情を変えているとは驚きだ。僕は西町の交差点からそのまま北上していったのだが、
道路の左はグンゼの所有する土地となる。そこには戦前、繊維業が日本の基幹産業であった頃の建物が並んでおり、
グンゼがこの綾部の街を代表する存在であることを一目で理解させるほどの迫力に満ちている。
L: グンゼ本工場本館(旧郡是製糸本社)。1933年竣工。企業の本社というより豪邸っぽい雰囲気。
C: グンゼ記念館(旧郡是製糸本社)。四方亀蔵の設計で1917(大正6)年に竣工。金曜日のみ開館って……。
R: グンゼ本工場正門(旧郡是製糸本社工場正門)。こちらも1917(大正6)年竣工とのこと。今もグンゼの所有する建物なので、外から眺めるしかない。旧本社はグンゼ記念館となってはいるものの、
開館するのが金曜日のみということで諦めるしかないのであった。こういうの、どうにかなりませんかねえ。
しかし道を挟んだ向かいにあるグンゼ博物苑は開いていたので、喜んでお邪魔する。受付で300円払ったら、
パンフレットとともに小さい繭玉をくれた。経営は多角化しても、原点は忘れないというわけか。グンゼ博物苑。旧郡是製糸繭蔵を利用した博物館施設だ。
グンゼ博物苑はその名のとおり、かつての繭蔵を利用した博物館部分とローズガーデンからなる施設だ。
繭蔵はぜんぶで3棟あり、グンゼの取り組んだ製糸業の詳しい説明から始まり、繊維メーカーへの転換、
そして環境に配慮した先端技術産業への挑戦と展示は続いていく。たくましい生き抜きぶりである。
グンゼはもともと「郡是」と書き、何鹿郡(今の綾部市)の製糸業を推進していくという意味なのだ。
そういう地元密着企業がしぶとくがんばっているというのはうれしいことだねえ、と思いつつ駅に戻る。時間的にはけっこうピッチピチで、広大なグンゼの土地に沿って走って走ってどうにか間に合った。
たった1時間ちょっとの滞在時間で綾部のなんたるかを理解できたとはまったく思わないが、
それなりに土地の歴史と現実に触れることはできた。ま、グンゼ記念館とともに次回への課題としましょう。山陰本線をさらに西へ進み、福知山駅でいったん改札を抜ける。福知山に来るのは1年半ぶりだ(→2012.2.25)。
このときは雨にやられたのでそんなにポジティヴな印象がない。今日はスコーンと鮮やかに晴れているので、
できることなら街歩きをやり直したい。しかしわずか1年半ぶりでそれはもったいないという気もする。
というわけで、この後に控えている一宮参拝に向けて、エネルギーの充填を優先させることにした。
駅のコンコース内に入っている餃子の王将で昼メシをいただく。関西圏の王将って、東京とはちょっと違うのね。
しっかり食ってリフレッシュすると、コインロッカーに荷物を預け、さらに西へと進む山陰本線に乗り込んだ。京都府、丹波の西端は、牧川に沿って集落が東西に細長く延びている。2006年に福知山市に編入されるまでは、
夜久野(やくの)町として独立していた場所だ。国道9号も山陰本線も、ここではおとなしく牧川とともに走る。
南北は緑の壁で遮られており、すべてが延々と東西方向に集約されている光景はなかなか独特だ。
この夜久野高原を抜けると兵庫県に入る。そう、今回の帰省の旅では兵庫県にまでお邪魔してしまうのだ。
日本海と瀬戸内海の両方に面している兵庫県、その日本海側を占めているのが旧但馬国。
次の目的地はその但馬国の一宮のひとつである粟鹿(あわが)神社なのだ(もうひとつの一宮は出石神社)。
播但線と接続する和田山駅まで行けばキリがいいのだが、粟鹿神社の最寄駅はそのひとつ手前の梁瀬駅。
素直に梁瀬駅で降りて、歩きで往復するのだ。かなり歩かされることはもうわかっている。覚悟はできている。
L: 梁瀬駅。なんだか風格がありますなあ。 C: 梁瀬駅の周辺にはずいぶん落ち着いた住宅が並んでいた。
R: 朝来市役所山東庁舎(旧山東町役場)。朝来市といえば竹田城址が有名。そっちもいずれ行かねば……。川を渡って国道427号に出ると、ひたすら南東へと歩いていく。本当に、ただひたすらと。
途中、あまりにも天気が良すぎて後頭部に直射日光が容赦なく当たるもんだから、クラクラしてきた。
しょうがないから後頭部で手で押さえて歩くという、不自然な格好を余儀なくされた。これがかなり面倒くさかった。
おかげでこれ以降、この後の山陰旅行も含めて、僕はずっとタオルを頭に巻いて動きまわることになるのであった。
薄汚い恰好の旅行者で、どうもすいませんね。まあそれがアジアを旅行するスタイルってことで許してちょうだい。さて、炎天下を延々とただ歩く場面を事細かに描写してもつまらんのだが、動物が気になったので書いておく。
国道427号を歩いている途中、道の脇に水路があって、見るとけっこうその水がきれいなのだ。
どれどれ、と近づいたその瞬間、水路にいた魚がものすごいスピードで僕から逃げていった。
本当に素早いうえにきわめて臆病な魚で、ちょっと気配を感じただけで瞬時に逃げ去ってしまうのだ。
中には水面を跳ねて逃げるやつもいて、いったいこれはなんだ!?と興味津々。静かにカメラを構えて根比べ。
結局、その魚はあまりに速くてまともに撮影ができなかった。後で調べてカワムツかヌマムツあたりと推測。
水路には魚のほかカニやカエルもいて、ハグロトンボも舞っているし、豊かな生態系を実感したのであった。
そしてもうひとつ。粟鹿小学校(すでに閉校済みだが盆踊り会場の飾り付けがなされていた)付近の畑では、
茶色い哺乳類に出くわした。一瞬、目が合ったのだが、目の周りがなんとなくアライグマ的な顔だった。
しかしカメラを構えようとした瞬間にそいつは逃げ出し、植えられた野菜の間をするすると抜けていった。
それでも逃げていく背中を撮影することになんとか成功。これも後で調べた結果、単なるイタチと思われる。
日本はまだまだ自然が豊かだなあ、と思っているうちに高速道路の高架の下を抜けて、粟鹿神社前に到着。逃げるイタチ。よく撮れたなあ、と自分でも呆れた。
というわけで、やっとこさ粟鹿神社にたどり着いた。高速道路の下を抜けたところに自動販売機があり、
ようやくそれで一息つくことができた。ほとんど日陰がないのでその自販機に貼り付くようにしてジュースを飲む。
飲み終えると、粟鹿川に架かる橋を渡って粟鹿神社の目の前へ。……と、その前に粟鹿川を覗き込んだら、
案の定そこにはさっきのカワムツか何かが群れをなして泳いでいた。正しい田舎の夏をしっかり体験している。
L: 粟鹿川に架かる橋と、粟鹿神社の社叢。高速道路がすぐ近くを走っているが、実に正しい日本の田舎である。
C: 粟鹿神社の鳥居。2000年以上の歴史があるそうで、創建年がわからないくらい古い神社なのだ。
R: 境内の様子。手前にあるのは開かずの勅使門。築400年くらいとのこと。屋根以外は確かに古びている。粟鹿神社の鳥居をくぐると、緩やかな上りとなっている境内に入る。その清冽な空気に思わず息を呑む。
日陰で羽を休めていたハグロトンボが気配を察してひらひら舞って、それがいつも以上に幻想的に感じられる。
境内は新たに整備された部分がほとんどないようだが、汚れた感触は一切なく、歴史と清潔感を同時に感じるのだ。
古来より姿を変えることなく時間を積み重ねてきたであろう神社。でもその時間経過は透明に降り積もっている。
L: 随神門。これまた見事。しかしここをくぐって目にする光景は、さらに感動的だった。 C: 入って左手の天満宮。
R: 粟鹿神社の境内は、信じられないほど落ち着いた空間である。一言で表現するなら「癒される場所」なのだ。言葉でうまく表現できないのが申し訳ないのだが、粟鹿神社の境内はどこか不思議な落ち着きがあって、
それまでさんざん歩かされてきた疲れが一瞬で吹っ飛ぶような、そういう爽快感をおぼえる場所だった。
パワースポットとかそういうのは僕にはよくわからんのだが、この粟鹿神社については特別なものを感じる。
それは「癒し」と表現できるかもしれない。何をするというわけではないが、のんびり、ただここにいたい。
おそらく昔っからずっとこんな空気だったのだろう。自然と調和しながら静かに呼吸している神社。そう思う。
日本人の原風景を体現するとまでは言わないが、それにかなり近い要素を持った、誰もが心安らげる空間だ。
L: 粟鹿神社・拝殿。周囲の緑と調和して時間を感じさせない。あるいは、無限の時間の経過を感じさせる。
C: 側面から拝殿と本殿を一気に眺めたところ。 R: 境内の奥には厳島神社や稲荷神社などの摂末社。厳かだ。拝殿を撮影しようとカメラを構えて後ずさったら、きゅっ!という高い鳴き声をあげて大小2匹のカエルが跳ねて逃げた。
いやあすまんすまんと謝って、あらためて撮影。生き物いっぱいの穏やかな里、その中心として崇敬される粟鹿神社は、
やはり何か特別なものを持っているように思える。わざわざ手間ひまかけて訪れるだけの価値がある場所だった。帰りも同じように炎天下を歩いていく。やっぱりつらいことはつらかったのだが、帰り道は勝手がわかっているので、
それほど苦しむことなく駅の近くまで戻ってくることができた。そして、往路で目をつけていた地元のスーパーに入る。
飲み物やアイスでもいただこうと思ったのだが、冷房の利いている店内は本当に快適で、ずいぶんと助けられた。梁瀬駅から山陰本線を福知山まで引き返すと、コインロッカーに預けた荷物を回収し、綾部経由で西舞鶴へ。
舞鶴線に乗るのは初めてなので、ワクワクしながら車窓の風景を眺めて過ごす。完全に国道27号と並走する舞鶴線は、
4年前(→2009.7.20)にリョーシさん・ラビさんと旅したときの雰囲気そのままで、「ああこれが丹後か」と思う。
丹後ってのはあちこちに山々が横たわっていて、平野がない。でも道路は不思議とほとんど勾配がないままで走っていて、
立派な国道や府道が網目のようにくまなくつながっているのである。まさに、ネットワークを形成しているのだ。
だから風景としては、左右を山々の壁に囲まれてちょぼちょぼと家々が小規模な集落をつくっている、その繰り返しとなる。
でも道路はネットワークとして機能しているので、青い道路の案内標識が間髪置かずに現れる。なかなか独特な景観だ。
そして舞鶴線は国道27号の裏側を走る形になっているためか、西舞鶴に近づくとラブホテルの背中がやたらと目立つ。
ニンともカンとも、と思っているうちに列車は西舞鶴駅のホームに滑り込んだ。今日はこの街に泊まるのだ。西舞鶴駅に到着したのが午後5時過ぎなので、特に観光名所をまわる気もない。もうメシ食って寝るしかない。
観光案内所のパンフレットをチェックしたところ、舞鶴ではこの時期、岩牡蠣丼が名物となっているようだ。
そういえば、4年前の男3人ブラ珍クイズ旅は、3日連続での岩牡蠣づくしの旅でもあった。あれは強烈だった。
というわけで、宿にチェックインして態勢を整えると、いざ岩牡蠣丼をいただきに出発するのであった。
岩牡蠣は貝殻つきでの出荷となるため、岩牡蠣丼はわりとちゃんとした料理店でないと扱えないそうだ。
候補はいくつか押さえておいたが、運よく最初の店に入ることができた。京都新聞を読みつつ岩牡蠣丼を待つ。
けっこう隅々まで読んだところで岩牡蠣丼はようやく登場。しっかり待った分だけおいしくいただくことができた。
L: 西舞鶴駅。現在の駅舎は1999年に竣工したそうだ。北近畿タンゴ鉄道も乗り入れる一大拠点なのだ。
R: 舞鶴岩がき丼。もともと「舞鶴かき丼」があって、その夏ヴァージョン。味は濃いし牡蠣はデカいしでゴージャス。飯田に帰省するはずの旅なのに、初日は兵庫県に入って舞鶴に戻って泊まる。このめちゃくちゃな旅がどう収まるか。
正直、自分でも少々不安なのだが、まあなんとかなるだろう。とりあえず初日については、なんだかんだで大成功だ。
いつもだったらこの土曜日から旅行をスタートするところなのだが、今回は準備をきちんとしたかったので、
今日一日をスケジュールの確認作業に充てることにした。まあつまり、それだけめちゃくちゃ動くということだ。まず今夜、帰省の旅に出る。本当はムーンライトながらのお世話になりたかったのだが、やはり競争率が激しく、
結局お馴染みの夜行バスに頼ることになった。まあ考えようによっては、ながらより早い時間から動けるので、
その分だけよけいにあちこちまわることができる、とポジティヴに捉えることもできるけど。
で、やっぱり寄り道しまくって、3日目の夜に飯田に到着するという算段。実家には2泊する。その後がわれながらとんでもないのだが、実家から東京に戻ったら、そのまま荷物を整理してまた夜行バスに乗る。
そして毎年恒例のグランツーリスモをやるのだ。まあそんな具合に限界まで予定を詰め込んでいるので、
ここできっちり確認作業をしておかないといけないわけだ。実質、2週間ぶっ通しで動くわけだから。余裕を持って準備を進めると、夜遅くに横浜へと向かう。この旅が終わったら……夏休みもあと少しになってしまう。
それはそれで悲しいのだけど、今しかできない贅沢なので、とりあえずは心の底から楽しんでやるのだ。
午前中の部活が終わると急いで都心へと移動する。さっさとメシを食うと走って会場へ。
ややこしい場所のわりには迷わずに行くことができたのだが、全身汗まみれの状態で着席。午後は英語の研修なのである。内容は中高一貫校の授業の進め方。いちばん興味のあるテーマなので必死に勉強。
ふだん英語が苦手なやつを根気よく教える授業をやっていると、間違いなくこっちの英語の力は下がってしまう。
そこのリカヴァーをする暇がなかなかないのが悩みなのだが、得意なやつを伸ばす授業について具体的に聞くと、
感覚が戻ってくるのでありがたい。生徒の個人差や向き不向きもあるし、英語の勉強法には唯一の正解などないので、
同じ授業をそのままできるわけではない。しかしヒントをたっぷりもらって有益な時間を過ごすことができた。というわけで結論。やっぱり自分で金出して研修を受けるのは、とってもためになる。
狂った教育論を上から押し付ける強制的な研修ほどバカバカしいものはないが、こういう研修なら大歓迎だ。
結局、現場からもらうヒントが一番なんだよな。偉そうなOBどもの現実離れした話なんて聞いている暇はないんだよ。
本日は前任校との練習試合。3年生が引退済みなので、相手で知っている生徒は2人だけになってしまった。
でも成長ぶりが見られたのはよかったし、懐かしい3年生も2人ほど後から合流してくれてうれしかった。
それにしても、引退してから背が伸びるのはどうにかならんか。あと、超・声変わりしていてひどく驚いた。内容は、ウチがけっこうやられてしまいました。互角というよりはちょっと押された印象である。
球際のところでぜんぜん戦えてないんだもんなあ。積極的なプレーが目立つ相手と比べると、こっちは受け身。
それじゃあセカンドボールに触れないからどんどん押し込まれるわな。見ていてイライラガックリ、そんな試合。それにしても、僕がいなくなった学校の生徒たちが積極的なプレーを見せると、なんだかションボリである。
そうか、オレがいない方がのびのびできるんか、とネガティヴな感情になってしまうではないか。
とりあえずは、相手の学校がウチと練習試合することに慣れてきた、と思っておくことにするしかないのか。
目が覚めた。ってことは、生きているってことだし、眠ることに成功していたということだ。これは大きい。
もし眠れないままで起床時刻を迎えたらどれだけ体力を削ることになっていただろうか。
ほんの仮眠のようなものでも、落ち着いて頭と体を休める時間を持てたということは、絶対に違ってくるはずだ。起床時刻の4時になり、室内に明かりが灯る。実はそれ以前から御来光目的で頂上にやってくる人々の声がして、
その気配にこっちも勢いづく形になっており、僕は頭も体も心も服装もすっかり準備が整っていた。調子はいい。
バヒさんは夜中に僕が大部屋から出て戻ってこなかったので心配していたようだが、高山病の症状が抜けた僕の姿を見て、
安心したようだ。ふたりで簡素ながらも温かいスープの付いた朝食をいただくと、すっかりいいコンディションで外に出る。空はまだ暗いが朝の気配をたたえはじめており、藍色というより群青色に、僕には見えた。
御来光目的の人たちが一気に集まりだしていて、それぞれにいいポジションを確保しようとせわしない。
実は正直なところ、僕はそれほど御来光をありがたいと思っていなくて、数ある日の出のひとつだろ、ってくらい。
それよりは夜景と空の色が変化していく様子の方が面白いのだ。それで富士宮方面の夜景を撮影していたら、
見事にバヒさんとはぐれてしまった。でも暗いからどこにいるのかよくわからない。少し困ったけど、
どうせ明るくなったらすぐに会えるさ、と切り替えて、自分なりに御来光を眺めるポイントを見つけるべく動く。
岩場の突端に片足を下ろすような感じで場所を確保できたので、あとはのんびりと空の変化を味わって過ごす。明るくなっていく空には雲の帯が長々と延びていたのだが、それもゆっくりと南の方へと流れていく。
そのぎりぎりの尻尾の部分が太陽の光を映して輝いていたせいで、日の出なのかよくわからない明るさが浮かぶ、
そんな光景がしばらく続いていた。しかしやがて本物の太陽が現れると、その桁違いの輝きに思わず声が出た。
昨日は虹も見たし、今日は御来光も見たし、もう何も言うことはない。今回は本当に恵まれている。そのことに感謝だ。
L: 富士宮方面の夜景。 C: 明るくなっていく空。本当はもうちょっと鈍い色合いだったのだが、デジカメが劇的に撮った。
R: 御来光である。日本でいちばん高いところから何者にも邪魔されずに日の出を眺めるというのは、やっぱり特別なんだね。バヒさんはこんなとこにいるんでやんの。そりゃオレには無理だわ。
太陽は、昇るまではじれったいほど待たせたくせに、昇ってからはあっという間に動いていく。
無事にバヒさんと合流すると、まずは富士山本宮浅間大社の奥宮に参拝する。すでに行列ができていたのだが、
時間はたっぷりあるので焦らず並んで、御守をいただいたり金剛杖に刻印を打ってもらったり。さて、天気は抜群どころではない鮮やかすぎるほどの快晴である。何より素晴らしいのは風がほとんどないことだ。
これだけのコンディションに恵まれることは滅多にあるまい。前回の富士登山とは何から何まで違う。
こうなれば迷わずお鉢巡りしてしまうのだ。重度の高所恐怖症であるはずの僕がお鉢巡りに挑むことができるとは……。
富士宮ルートの山頂から、富士山の最高峰で日本の最高標高地点、まさに3776mの剣ヶ峰までは本当にすぐ。
両側に何もない尾根を行くというのは高所恐怖症にとっては最高に怖いことなのだが、歯を食いしばって歩く。
L: 富士山の最高峰、剣ヶ峰。山頂の火口外周からぴょこっと飛び出た部分である。ここまで来ているブルドーザーが凄すぎ。
C: 剣ヶ峰を目指す行列。でもこの一歩一歩がカウントダウン感覚でなかなか面白いのであった。むしろ一人だと怖いと思う。
R: 富士山頂・剣ヶ峰にある二等三角点。三角点好きのcircoさん、これでございますよ。ちゃんと保護石に囲まれています。傾斜はけっこう急。おまけに地面は岩ではなく砂なので、それなりに滑る。もう怖くって、ロボットダンス歩きで進む。
石段の行列に並んだときにはこれで前のやつにつかまれるぜ!って安心したくらい。よくここまで来たもんだわ。
いや本当に、高所恐怖症の僕がここまで来ることができるとは。バヒさん本当にありがとうなのだ。
L: というわけで、「日本最高峰富士山剣ヶ峰」の石碑とともに記念撮影してもらいました。
R: 剣ヶ峰の中でも一番高いところで。左のち○ぽみたいなのは電子基準点。GPSのやつね。剣ヶ峰での記念撮影を無事済ませ、日本で最も高い場所に立った証拠をきちんとデジカメに収めると、
いよいよ本格的にお鉢巡りをスタートする。まずは火口外周の北側に向かうので、圧倒されたのが影富士。
いや、もう、絶好の天気でここまで鮮やかな影富士を見られるとは……。今回は本当に何から何まで恵まれている。
L: 影富士。もう言葉がございません。 C: 富士吉田市街もきれいに見えた。街を見下ろすのもすごく楽しい。
R: お鉢巡りといっても尾根ばかりではなく火口に近づくようにもなっていて、いろいろ楽しめるようになっているのだ。さすがに剣ヶ峰を経験すると、ある程度は尾根歩きにも慣れてくる。でも慣れてきても怖いもんは怖い。
火口の北側は尾根を上がったり下がったりで「勘弁してくだせえお代ぇ官様」とつぶやいたりもしたのだが、
それが終わると火口側で少し広くなっている場所へと下っていくので、とっても安心。
おかげで非常に落ち着いた状態で、吉田・須走ルートの頂上である久須志神社へと出ることができた。久須志神社も富士山本宮浅間大社の奥宮(東北奥宮)だが、御朱印も金剛杖の刻印も異なったものとなっている。
「くすし」という名称は当然、「薬師」から来ているわけで、かつての神仏習合を強く感じさせる要素である。
さらに進むとそこは吉田・須走ルートのゴール地点ということで、思わず「と、都会だ」と口走ってしまった。
昨日、富士宮ルートの頂上に着いたとき、僕はその質実剛健ぶり、質素さに大いに驚いてしまったのだが、
こちらの吉田・須走ルートは僕の想像していたとおりの賑わいだった。土産物店が並んでいて、しっかり観光地だ。実は富士山に登りはじめる前、僕とバヒさんはひとつの賭けをしていた。昨日の昼メシは途中のスーパーで買ったのだが、
くまモン(→2013.7.20)の箱ティッシュを売っていたのを見て、「あいつはどこにでもいるな!」という話になった。
北海道には「北海道に出張に来たモン」ってキーホルダーまであるんだぜ、と。もうなんでもアリだよ、と。
で、「こりゃ富士山にもグッズがあるんじゃないの?」って僕が言ったら、バヒさんは「さすがにそれはないでしょ」。
というわけで、富士山頂にくまモンは出張に来ているかどうか、焼印1回分(200円)の賭けをやってみたのだ。
さっそく土産物店のお兄さんに訊いてみる。「くまモンのグッズって、何かありますか?」
すると、「編み物のクマのキーホルダーはあるけど、くまモンはないですね」とのこと。うーん、予想がはずれた。
ちなみにそのお兄さん曰く、六合目辺りには本物(クマ)がいるそうな。そっちには会いたくないモン。
L: 富士山本宮浅間大社東北奥宮、久須志神社。正確には奥宮の末社になるそうだ。富士山の文化は独特だねえ。
C: 吉田・須走ルートの頂上はこんな感じで土産物店が非常に充実。でもくまモンはいないのであった。意外だわ。
R: ブルドーザーは富士山頂で大活躍。はたらくブーブーさんの中でもブルドーザーは最強かもしれない。土産物店が充実しているということは、休憩するための場所も充実しているってことなのだ。
ベンチに腰を下ろして一休みすることにした。よく考えたら御来光以来、ずっと立ちっぱなし歩きっぱなしだもんな。吉田・須走ルート山頂より見下ろす山中湖。独特なカーヴが印象的だ。
ではいよいよ前回のリヴェンジの儀式を厳かに執り行うのだ!ということで、BONANZAから取り出したのは……
そう、パンパンに膨らんだ明治の「カール」である。去年、すでに五合目から膨らみきっていたカールをそのままに、
頂上まで残り200mで引き返した悔しい思い出が蘇る。いま、その封印を解く時が来たのだ!
途中で尖ったものにぶつかってはじけることがないように、ちゃんとタオルにくるんでここまで持ってきたのだ。
BONANZAから慎重に取り出したカールは……はちきれんばかりの見事な膨らみっぷりである。これよ、これこれ。
でも試しに、つかむ指にぐっと力を込めてみたら、まだまだへこむだけの余地があった。やるなあ、カール。
いろんな角度から撮影を済ませると、いよいよ開封式である。バヒさんにカメラを構えてもらい、
怯えながらも縦に開封。そしたら単にシュッと空気は逃げていっただけで、ごくふつうの開封ぶりなのであった。
カールの次はバヒさん持参のパイナップルの缶詰である(そんなよけいな重いもんを背負って富士山に登るなよ……)。
こちらはさすがに、外見上は特にこれといった変化はない。缶切りの刃を入れた瞬間もカール同様、ごくふつう。
そんなわけで、目の前に広がるパノラマを堪能しつつ、カールとパイナップルをおいしくいただいたのであった。
L: パンパンに膨らんだカール。 C: 横から見るとこんな具合。でも指で押したらまだへこむだけの余裕があった。
R: 開封式直後の様子。覚悟して開けたらいつもと変わんねえんでやんの。怯えた表情が我ながら実に情けない。おやつをいただいていい気分になると、いざ出発である。お鉢巡りもいよいよ、あともう1/3ほどなのだ。
ところがまあ、東から南にかけてのこのコースが高所恐怖症の僕にはかなりつらかった。
まずは火口に近づいて、バヒさんが下を覗き込む。バヒさんは今回、火口を見下ろしたくてたまらなかったらしく、
目標が達成できて非常に満足そう。よろしゅうござんしたね。僕はできる範囲でカメラを構えて撮影。
L: お鉢巡りを再開すると、素晴らしい景色が見えてきた。左の市街地は御殿場市で、右端が芦ノ湖。贅沢な光景だ。
C: 高いところから火口を見下ろして満足げなバヒさん。 R: カメラを掲げて撮影。火口と剣ヶ峰を一望しております。お鉢巡りなんだからひたすら尾根を行くのは当たり前のことではあるのだが、もう本当に怖かった。
傾いているいいかげんな柵があるのはまだいい方で、尾根の脇には何もないという状態が標準となっているのだ。
ちょっと足を滑らせたら終わりじゃないかコレ!と思うのだが、バヒさんはひょいひょい歩いていってしまう。
いちばんイヤだったのは、外に向かって下りになりながらカーヴしている箇所である。
勢いあまってコースアウトしたら、人生もコースアウトなのである。絶景に見とれてなんかいられない。
L: これを行くのか……?と絶望的な気分になってしまう光景である。阿蘇のときも怖かったなあ……(→2008.4.29)。
C: 下りでしかもカーヴ。こんなん死ぬ!と叫ぶ僕を尻目にバヒさんは軽い足取りでほいほい行ってしまうのであった。
R: 真下に見えるは宝永火口。でも、もっと見ようと体を乗り出したらとんでもないことになるのだ。これは罠なのだ。そんな具合にひとりギャーギャー叫びながらもどうにか切り抜け、見覚えのある景色のところに戻ってきた。
そう、富士宮ルートの頂上である。安堵の息を大きく吐くが、まだこれでお鉢巡りが終わったってだけのこと。
これから下山という何時間もかかる面倒くさい作業が待っているのである。その事実に気づいてブルーになる。
L: 帰ってきたぜ富士宮ルート。手前にあるのが富士山頂郵便局の屋根で、奥の赤い屋根が富士山本宮浅間大社の奥宮。
C: 富士宮ルートの頂上から眺めた富士宮市街。やっぱり絶景で、しばし見とれるのであった。
R: こちらは奥宮の近くにある山小屋「頂上富士館」。僕らはここのお世話になったのだ。ありがとうございました。富士山頂郵便局に寄って登山証明書を発行してもらうと、最後にもう一度、奥宮・山小屋周辺を散策して過ごす。
僕にとっては初めての富士山頂だが、ここまで素晴らしい天気に恵まれることはそうそうないものだろう。
お鉢巡りが完了して、ここでやるべきことはすべてできた。あとはもう、帰るだけなのだ。
ここにきて急に名残惜しい気分になってきたが、これで終わりではないのだ。無事に帰ってこそ、富士登山が完結する。
L: 富士山頂郵便局。富士山本宮浅間大社の奥宮社務所を工事している関係で今は仮設状態で営業しているみたい。
C: 人が減ってずいぶんすっきりした富士山本宮浅間大社の奥宮を見下ろす。全景はこんな感じ。
R: 奥宮を正面より撮影。きちんと参拝できて本当によかった。諸国一宮めぐり的にも、ここは究極だもんな。バヒさんとふたり、名残惜しいねえと繰り返しながらも決意を固めて、ついに下山を開始する。
登りのときには高山病の症状と戦いながらいちいち呼吸を整える必要があったのだが、その点、下山は楽ちん。
下りれば下りるほど酸素濃度が濃くなってくるので、特に気にすることなく進んでいくことができる。
もっとも、その分だけ休憩を入れるタイミングが難しくなるのも確かで、正直ちょっとペースが早かった。
六合目までテンポよく下りることができたのだが、「五合目と六合目はすごく近い」という意識が強くて、
意外と五合目までの距離があったことで一気に消耗してしまった。五合目に着いたときにはけっこうフラフラ。
L: 下山途中、万年雪と宝永火口の共演が見られたので撮影してみた。でも六合目到着時には天候は悪くなっていた。
C: 下山の光景。岩と砂だけのこの赤い大地が、青く染まった街へとつながっているのがちょっと信じられないね。
R: 自衛隊の皆さんが登ってくるのに出くわした。いいんだけど、隊列がちょっと長すぎるんじゃないでしょうか……。バヒさんは自衛隊の隊列を待っている間にこっそりアミノバイタルをドーピングしていたとのことで、
下山が終わってフラフラになっている僕とは対照的に妙な余裕を漂わせているのであった。効くんだねえ。
とはいえ僕も、前回の帰りのバスに比べるとそれなりに元気な状態で水ヶ塚駐車場まで戻ることができた。下山している間に印象的だったのは、まさに老若男女、いろんな人たちが登っていくのとすれ違うんだけど、
ペースが速いと偉いとかそういうことはまったくなく、富士登山ってのは誰にとっても3776mであるという話。
山頂に着けば、それはそれぞれに自分の力で3776mという高さに到達したことにはまったく違いがないのだ。
人それぞれに「登頂したよ」という絶対的な事実が残る、そういうこと。挑んで結果を残した事実そのものが尊いのだ。一息ついて落ち着くと御殿場方面に抜けて、市営の温泉施設へ突撃。そしてそこで驚くべきものを見てしまった。
洗い場にハチミツ入りの石鹸が置かれていたのだが、そこにはバッチリ、くまモンがいたのであった。
それを見てバヒさんと大爆笑。くまモンは富士山頂にこそいなかったが、御殿場まで迫ってきていたのである。
「こりゃあ来年は山頂にいるかもわからんぞ」なんて言いながら、いい湯に浸かって体力は一気に回復。
しかしその施設で食った親子丼のクオリティについてバヒさんと大激論を繰り広げる。バヒさん、あれはないって。大広間でしばらくまったりした後、バヒさんオススメのお店に連れていってもらった。
和菓子の「とらや」が御殿場に店を出していて、それが非常に凝っているとのこと。
本当はその隣にある岸信介の旧別邸(東山旧岸邸)が凄いらしくて、バヒさんの強力なお気に入りになっているのだが、
そこをきちんと味わうには体力が必要ということで、今回はあえてパスして、とらやのみにお邪魔した。
L: 東山旧岸邸・とらや工房への入口。御殿場市はこの一帯を「御殿場東山ミュージアムパーク」として整備中。
C: 通路からそのまま眺めた、とらや工房。凝ってるねー。 R: 角度を変えて中庭側から撮影してみた。オシャレだ。いちばん手前が外から見学できる工場になっており、続いてオープンデッキに屋根を架けたような空間、
そして奥がガラスで区切られた室内、といった構成である。客は好きな方でお茶とお菓子をいただける。
僕らは奥のスペースに入ったのだが、外から虻が何匹か入り込んできており、家族連れとカップルは大騒ぎ。
おばあちゃんが「虻が危ない!」と本気で言ったのを聞いて、バヒさんは「うわぁ」という表情になるのであった。
オレは登山の疲れですべてがどうでもよくなっていたとさ。ちなみにバヒさんは置いてあったインテリアにも反応。
帰りの車内でその件についてずーっと自らの主張を繰り広げるのであった。中二病が治る気配のないわれわれ。沼津に戻ってくると、荷物を整理して駅まで送ってもらい、解散。
前回はリヴェンジ希望の意味合いも込めて、バヒさん宅に金剛杖を置きっぱなしにしたのだが、
さすがに今回はそいつを持って電車で帰った。今回、最後まで揃った富士宮ルートの焼印だけでなく、
失敗に終わった前回に押してもらった須走ルートの焼印もあることが、僕にはとても誇らしく思えたもんさ。それにしても、バヒさんにはいくら感謝をしても足りないくらいだ。
バヒさんがいなけりゃ、話に乗ってくれなけりゃ、これだけの楽しい思い、そして誇らしい経験は絶対にできなかった。
毎回毎回いつもいつもこっちがお世話になってばかりなのだが、あらためてバヒさんと長く友人でいられることを、
心の底からありがたいことだと実感した。本当にありがとうございました。そしてこれからもよろしく。
でも、「まだ御殿場口から登ったことはないからねえ」というあなたのセリフだけは、とりあえず忘れておきます。
朝はわりと早めに起きて、あらためて支度をととのえる。前回はスポーツ店に行って慌てて買い物をしたわけだが、
今回はそのレヴェルの準備はすでに済ませてあるので、余裕を持ってスケジュールを確認してから出発する。標高10mちょいのカール。これが富士山頂ではどうなるか、楽しみである。
バヒさんの車で快調に富士山に近づいていき、水ヶ塚という場所にある駐車場に入る。
富士宮口はここから30分に1本ほどのペースで出ているシャトルバスに乗って五合目まで行くことになるのだ。
ちなみに前回は須走口からの挑戦だったのだが(→2012.7.14/2012.7.15)、今回は僕の希望で富士宮口となった。
やはり表参道から行ってみようじゃないか!という理由である。何より、いちばん距離が短いってのがいい。水ヶ塚駐車場。平日だからかけっこうスカスカなのであった。
さてその水ヶ塚駐車場はすでに富士山の二合目に位置しているらしく、その焼印入りの金剛杖を売っていた。
たかが二合目のはずなのだが、なんだか不思議と頭がうまく回らない感じがする。それはバヒさんも同じようで、
なんと、車のトランクから荷物を取り出す際に、車の鍵を中に入れたままにしてしまうというボーンヘッドをやらかした。
しょうがないのでケータイで救援をお願いすることになったのだが、その間やることがないのがなんとも切ない。
しかもあろうことか、しとしと降っていた雨が少し強くなってきた。今年もダメなのか……?という思いが浮かんでくるが、
そこは無理にでもポジティヴにならなきゃいかんのだ。バヒさんにコーヒーをご馳走になりつつのんびりと待つ。で、気がついたら突っ伏して寝ていた。コーヒーを飲んでいる最中に寝るとはどれだけ強烈な眠気だったんだと呆れるが、
それが二合目とはいえ富士山の魔力ってことなのかもしれない。気圧の変化は予想以上に体調に影響するようだ。
起きて見回してもバヒさんの姿がなかったのでコーヒーを飲み干して外に出ると、まさにトランクを開ける作業の真っ最中。
雨はまだわずかに降り続けている。しっかり眠ってやる気が出てきたのでじっとしていられない僕は、
ふわふわ飛んでいるアサギマダラの写真を撮って過ごすのであった。こんなんで大丈夫なのか?と自分でも心配。ワーイちょうちょちょうちょー
予定より1時間遅れでシャトルバスに乗り込むと、五合目に向けて出発である。途中でバスがスピードを落とし、
運転手が「右手に鹿がいますよ」とアナウンス。見ると、2頭の鹿が興味津々といった様子でこちらを眺めていた。
せっかくの絶好のシャッターチャンスを逃したのは、やっぱり空気が薄くて頭がボーッとしていたからだと思う。五合目の駐車場に到着すると、まずは売店のトイレで出すものを出す。そして、焼印やってますか?と尋ねる。
「やってますよ」ってことなので、200円と金剛杖を一緒に渡す。焼印作業は店の奥で行っているようで、
しばらく待ったらきれいに印の入った杖が戻ってきた。前回の須走口の焼印たちとは反対側に、まずひとつめ。
これが最後までぜんぶ並んでくれるといいのだが、と思う。山の機嫌は本当にわからないものなのだ。焼印も入れてもらって、いよいよスタートである。すると、登山道の入口で今回の登山計画について尋ねられる。
登山客が増える一方、それだけ慎重に登る姿勢が求められているということだ。無謀とまでは言わないが、
いろいろ勢いまかせだった去年とは違って、入念に準備をしていることにかけては今回のわれわれ、自信がある。
たとえば登山靴は今日この日のために、1年前から用意しておいたもんね(移動教室でデビュー済み →2012.9.25)。
チェックが終わると、登山道と向き合う。決して大股ではなく、かといって小股でもなく、ごく自然に一歩目を踏み出した。
L: 五合目の駐車場。石段を上ったところにある売店で焼印を押してもらうと、いよいよ登山口へゴーである。
C: 記念に撮影してもらったのだ。うおー、やったるぜー! R: ここからが本格的な富士登山の始まりなのだ。鼻息荒くスタートしたら、あっという間に六合目でかなり拍子抜けした。ここから宝永火口へ行くコースもあるが、
時間的にそんなに余裕のない状況になっていたし、何より天気がよろしくないので、脇目も振らずに上を目指す。
やはり、富士登山というものを去年経験したことで得られるアドヴァンテージは、確かにあると思う。
「こういうもんだ」という感覚が自分の中にはっきりと残っているので、すべてに納得しながら登っていける。
天気がよくないのも、気温が下がっていくのも、岩と砂の世界なのも、そういうものだとすべて受け入れられる。
この心境でいられる限り、よけいな心配はいらないというのがなんとなくわかる。その中で歩を進めるだけだ。
L: あっという間に六合目に到達。これには本当に拍子抜けしたわー。焼印を押してもらってゴキゲンになるのであった。
C: 登山の様子はこんな感じ。わずかに草が茂る赤い溶岩の斜面をジグザグに進んでいく。けっこうガスっている。
R: 新七合目に到着。須走ルートでもいろいろあったけど、富士宮ルートにも七合目は「新」と「元祖」が存在。荒涼とした光景の中を延々と登っていくのは描写しても面白くないので、気がついたことを少々。
前回のチャレンジは7月の3連休ということで、弾丸登山とはいえけっこうな混み具合だった。
しかし今回のように平日であれば、そんなにほかの登山客たちが気にならない感じで登ることができるようだ。
で、列を組んでゆっくり登っていく偉い人たちがいて、それは正しいなあと思うんだけど、思うんだけど、
あまりに長すぎる列はどうにかならんもんか。5人くらいだと抜くのも抜かれるのも気にならないのだが、
10人近くなるとこっちのペースが狂わされて困る。僕は歩幅はいい加減だが一定のリズムは保ちたいタチで、
リズムによって登る力を生み出すところがあるわけで、そこに長い列が出てくると、とっても厄介なのだ。
その辺、なんとかうまい解決策はないもんですかね。富士登山はいろいろ特殊なのはわかるんだけど。
L: 基本的にはこんな感じの道をひたすら行くわけです。八合目辺りには猛烈な岩場があって驚いた。
C: こちらは元祖七合目。天候のせいもあるけど、この辺りで服装を冬型の装備に替えるのであった。
R: さらに行って八合目。雨のせいで焼印を押してもらえなくってがっくり(でも帰りに押してもらったよ)。さっきも書いたけど、富士宮ルートは最も短いルートである。ということはつまり、最もペースが急になるということ。
実は今回登っていちばんキツかったのは、少し登ると風呂上がりの立ちくらみに近い状態になることだった。
つまり、高山病の症状に悩まされたのである。20歩上がる、するとその分の酸素の差がはっきりと感じられるのだ。
いくら登っても脚などにはまったく問題ないのだが、酸素不足でこまめに「まずいぞ」という感覚になってしまう。
前回の須走ルートのときにはほとんど気にならなかったのだが、今回は本当にこのことがついてまわった。
下山してくる人に積極的に道を譲るのは、実はそのたびにしっかり酸素を吸いたいからなのであった。
だから一定のペース以上で登ることができない。身体ってこんなことで簡単に自由が利かなくなるのか、と実感した。
多少の雨なんて山ではほとんど関係なくって、むしろこの酸素不足との戦いの方がはるかに手強かった。
L: 九合目に到着。雨とガスとでなかなか大変。でも夢中かつ冷静に集中力全開で登っていると、あんまり気にならない。
C: せっかくなので焼印を入れるところを撮影してみた。こうして焼きごてを十分に熱しておいてから……
R: ぎゅーっといくわけです。金剛杖は断面が八角形で、そのうち3~5つの面にまたがるように押していく。ヤッタネ!ちなみにバヒさんは通算4回目の富士登山ということで、金剛杖に焼印を押してもらうたびに必ず、
「……どこに押せばいいですか?」と訊かれるのであった。本当に耳なし芳一状態になっていたのね。さて、九合目を越えたところで、急に視界が晴れてきた。「山の天気は変わりやすい」のは良い方にも言えることで、
あっという間に雲は去っていき、青い空とともに、乾いた赤い岩肌が目の前に広がりだす。なんとも鮮やかな変わりようだ。
L: 天候が良くなってくるとともに、万年雪が登場。 C: 九合五勺の山小屋に到着。富士宮ルートではここが最後の焼印。
R: 山頂がもうすぐそこ、手の届くところにある。去年あれだけ遠かった場所が、目の前でオレたちの到着を待っているのだ。振り返ると、雲の薄いヴェールの向こうにうっすらと陸地の影が見える。地図で見覚えのあるあの特徴的な形は、
間違いなく「三保の松原」の三保半島だ。すると隣のバヒさんから声がかかる。「虹だよ、虹!」
見ればさっきまで降っていた雨が頂上の向こうにある夕日を映して、7色の光を宙に浮かべていた。
虹は縦に立っていた。色がどんどん濃くなっていくのと同時進行で、背景で緑の大地がその姿を現していく。
僕たちの想像を超える光景が現実として繰り広げられていくのを、ただ夢中で眺めていることしかできなかった。
いま僕たちは、去年のあの悔しさが報われて、さらにお釣りがくるほどの贅沢な思いをしているところなのだ。
L: うっすらと雲のヴェールの中に浮かび上がる三保半島。 C: すぐに雲は消え、まっすぐ直立した虹が現れる。
R: 一連のショウが終わって振り返ると、そこには富士山本宮浅間大社の奥宮の存在を示す鳥居が。頂上はもうそこだ。あれだけ遠かった頂上に到達すると、空は急に暗くなりはじめた。火口を覗き込み、剣ヶ峰のシルエットを眺めると、
予約しておいた山頂の山小屋に入って晩ご飯をいただいた。レトルトのカレーだが、そりゃもう旨かったねえ。登りはじめた時刻が遅かったので、本当にすぐに消灯時刻の19時になってしまった。
寝床はさすが富士山の山小屋で、大部屋いっぱいに敷き詰められている布団の波は壮観としか言いようがなかった。
僕たちはその隅っこの一角、1畳の2/3ほどの幅の布団にくるまって眠るのであった。これがオレたちの寝床だ! これで2人分だ!
……ところが、ほどなくして目が覚めた。真っ暗闇の中、苦しくて目が覚めた。水が飲みたくてたまらない。
だがそれ以上に頭が痛い。さっきの立ちくらみを濃くしたような痛みが頭の中にまとわりついて離れない。
そのうち、あちこちで缶入りの酸素を吸い込む音が聞こえるようになってきた。皆さん同じ症状のようだ。
でも隣のバヒさんは平然と寝ているように思える。真っ暗なので何も見えないが、起きている気配はない。
今が何時なのか考えるが、見当もつかない。19時消灯で、2時間ほど寝たとしても21時である。
起床時刻は翌朝の4時で、それまではこの状態が続くのである。あと8時間これが続くというのか!?
大袈裟に思われるかもしれないが、このままだと本当に生命の危機になってしまうのではないか、そう思った。頭痛に苛まれながらも考える。山頂に着いたときのオレはこんなに苦しくなっていなかったはずだ。
なぜ今になってこんなに苦しんでいるんだ? 夜、寝ているときに高山病の症状がひどくなるのはなぜだ?
運のいいことに、答えはすぐに出てきた。それは、寝ていると重力で肺が十分に膨らまないからだ、と。
試しに上体を起こしてみると、いくぶん楽になった気がする。なるほど、肺は寝ているときよりも膨らんでいる。
そうなりゃ、今夜のベストな過ごし方はひとつだ。大部屋から食堂に出ると、端っこの席に陣取って、
そのまま突っ伏した。さっき水ヶ塚でコーヒーを飲んでいたときのように、気がつけば眠っていた。
部活が終わると午後は休みをとっておいたので、家に戻って支度をととのえる。そう、富士登山にリヴェンジなのだ!
「やっぱり一生に一度は登っておかないとな。ぼやぼやしてると噴火するかもしれんから早く登っておかないと」
ってことで、今年こそ登頂してやるのだ。ただ、気になるのは、先月ついに富士山が世界遺産に登録されてしまったこと。
世界遺産になったら、ただでさえ多い登山客が猛烈に増えるに決まっているのだ。僕らにしてみれば世界遺産登録は、
「よけいなことしやがって!」その一言に尽きる。でもだからといって、富士登山を諦めることはありえないのだ。去年は弾丸登山で挑んだものの、頂上まで200mで天候悪化のため引き返すという(→2012.7.14/2012.7.15)、
実に壮絶な結末を迎えてしまったのであった。僕もバヒさんも悔しくて、この一年ひたすら準備を進めてきたのである。
そして明日、明後日と平日に2日間休みをとり、満を持してリヴェンジに挑戦するというわけなのだ。
ふだんの僕なら絶対にやらないのだが、バッグ2つを抱えて家を出る。それだけ慎重かつ入念に準備をしているということだ。時間的な余裕があったので、どれだけ安く沼津に行けるかやってみた。青春18きっぷでムーンライトながらに乗る経験から、
JRをなるべく使わず小田急のお世話になる方が安くあがるのは知っていたので、それを応用して行ってみるのだ。
まずは東急田園都市線の終点・中央林間まで。帰宅ラッシュにぶつかって混んでいたのだが、たまプラーザで客が減る。
『金曜日の妻たちへ』もいつか借りてきちんと見なくちゃいけないんだよなあ、と思っているうちに終点に到着。
ここでうっかりして網棚に置いていた方のバッグを電車内に忘れかけるが、慌てて戻って無事確保。危ないところだった。
中央林間から小田急江ノ島線で2駅、相模大野へ。路線図の「南林間」「中央林間」「東林間」の文字を見ながら、
林間都市計画についてもいつかきちんと勉強しなくちゃいけないんだよなあ、と思っているうちに相模大野に到着。
小田原線に乗り換えると、車窓の風景が夕闇に包まれるのを眺めながら新松田まで行く。改札を抜けて向かいのJRへ。
松田からは御殿場線に乗るのだ。東海道線を一切使わないので手間がかかるが、こっちの方が安いのである。
列車は途中の山北駅止まりで、向かいのホームに停車していた列車に乗り換えてのんびりと揺られる。本当に面倒くさい。
結局、夕方5時半ごろ出発して、沼津に着いたのが夜の9時。合計5つの路線、6つの電車を乗り継いでやっと到着だ。バヒさんに沼津駅まで迎えに来てもらい、そのまま晩メシにおしゃれラーメンと餃子をいただいてわりとすぐに就寝。
僕の知らないうちにバヒさんは引っ越しをしていたのだが、すっかりいつものハシバ色に染まっていて違和感ゼロなのであった。
せっかくの日曜日、部活もないし、青春18きっぷを使って日帰りの旅に出ようじゃないか。
関東近県、どこにしようかとJリーグの日程表を見ながら考えた結果、あっさりと出た答えがそれであります。
もちろん、18時キックオフの試合は本日のトリを飾ることになるわけで、それまでは寄り道しまくるのだ。
今回はバスを使って群馬県の名所をできるだけ味わってみるのである。高崎駅からバスに乗り込み、いざスタート。高崎駅から40分弱で「箕郷(みさと)」という場所に着く。2006年に高崎市に編入されるまでは箕郷町だった。
ここの中心部から北へ進んだところにあるのが箕輪城だ。山内上杉家の重臣・長野業正の本拠地だった城である。
戦国時代の上野国は武田・上杉・北条の各大名が勢力争いを繰り広げた舞台で、つまりそれだけの要所だったのだ。
箕輪城はそんな上野国の中でも最も重要な戦略拠点となっていた城なのだ。最終的には井伊直政が箕輪城に入るが、
直政が和田城(高崎城、現在の高崎市街のど真ん中 →2010.12.26)に移ったことで廃城となった。城山入口というバス停で降りると、緩やかな坂を上って北へ。辺りには落ち着いた住宅が並んでいたのだが、
家の表札はなぜか、ほとんどすべて「安田」さんだった。そういうところばっかり気になっちゃうのよね、オレ。
きっと箕輪城と関係があるんだろうなと思う。安田一族の系譜、ちょっと知りたいねえ。住宅の並ぶ中に箕輪城への入口があり、一歩入ればそこからは田園風景の奥にこんもりとした緑の城跡が見えて、
少し不思議な気分になる。まるで書き割りの風景画を破ってその奥に飛び出たような、そんな気がしたのだ。
弧を描くゆったりとした坂道を上っていくと、まず二の丸に出る。半分ほどが駐車場で、あまり風情はない。
しかしそこから本丸へと渡る道から空堀を眺めると、その堂々とした姿に思わず声が漏れた。こりゃすごい、と。
もともとの地形をうまく利用しているのだろうが、規模が大きくて、それだけこの城の重要性がうかがえる。
L: 箕輪城の東側入口が搦手になるのだが、現在はこちらからアクセスするのがふつう。井伊直政が来るまではこっちが大手。
C: 搦手口前に駐車場があるが、二の丸の大部分が駐車場になっており、そこまでは車で入れる。土塁が城跡って感じだねえ。
R: 本丸へ向かう途中の空堀。写真だとわかりづらいが、これがけっこう見事なのだ。空堀に魅力を感じたのは初めて。城好きっぽいおじさんグループの後を追う形で本丸に入ると、そこは広々とした原っぱ。周りは土塁で囲まれている。
土の露出した道がまっすぐ延びて奥へと続いているが、そこからはずれて草の覆う原っぱへと踏み込んでみる。
するとそこはバッタ天国なのであった。鮮やかな緑からくすんだカーキ色までさまざまな色のバッタが飛び出し、
羽音を立てて飛んで逃げていく。この広い空間にどれくらいの密度でいるんだろう、と思う。本当に大量にいたなあ。本丸の奥にあるのは、御前曲輪。ここは長野業正の子・業盛が武田信玄に攻められて自害したという場所だ。
広くて明るい雰囲気の本丸に比べて、こちらは木々が鬱蒼としてどこか悲しげ。案内板の説明のせいでそう思えるのか。
御前曲輪からは下に出ることができて、そこから振り返ってみると、箕輪城の威厳をよく感じることができる。
もともと石垣がほとんどなく、土塁や空堀で構成されている城なのだが、今は緑の曲線がその威容を語りかけてくる。
L: 箕輪城・本丸跡。無数のバッタが潜む広大な原っぱとなっている。 C: 奥にはどこか悲しげな御前曲輪。
R: 本丸から御前曲輪を抜けて、そのまま下りて振り返ってみたところ。緑に包まれても威容をはっきり感じられる。あとは地図を参考にしながら箕輪城址のあちこちを歩きまわってみる。箕輪城址は案内が詳しくてうれしい。
基本的に箕輪城址は東の搦手側が明るい雰囲気となっているのに対し、西の大手側が湿っぽく木々が茂っている。
いちおう大手口に向けて下りてもみたのだが、あまりに暗ったい雰囲気だったので嫌気がさして途中で断念した。
大手と搦手を入れ替えたのは最後の城主・井伊直政とのことだが、なんでそうしたのかよくわからない。
だいたい城を一周して、二の丸に出る手前の郭馬出に寄ってみたら、これが非常に印象的な空間だった。
左右を空堀で削ってあり、この一角だけちょっと開けた台のような地形になっているのだ。
いかにも箕輪城らしさ満載の美しい空堀によって浮かび上がった城の遺構は、いくら眺めていても飽きない。
L: 稲荷曲輪。箕輪城址の東側は開けて明るい空間となっている。 C: 西側の大手口へと続く道は、対照的に暗い!
R: 郭馬出。箕輪城址は空堀をはじめとして、城の遺構が自然と調和しながら独特な美しさを見せてくれる。箕輪城址をのんびり歩きまわると、再びバスに乗り込んでさらに北へと向かう。次の目的地はそう、伊香保温泉なのだ。
伊香保温泉は、群馬県が誇る榛名山のちょいと東。鉄道からは距離があるので、ちょっと寄り道というわけにいかない。
前に渋川市役所を訪れた際には、伊香保温泉まで行こうという気にはまったくならなかった(→2010.12.26)。
でも今回はしっかり温泉に浸かる気でいる。バスを徹底する旅も、それはそれで楽しくてたまらないものなのだ。伊香保温泉に着いたのは昼前で、シンボルである石段の周辺にはやはり多数の観光客がいた。
しかし空模様はあまりよろしくなく、もしかしたら降るかも、といった雰囲気。その辺は運次第なのでしょうがない。
とりあえずデジカメを片手に石段を上っていき、気になったものを撮りながらてっぺんを目指すことにした。
L: 伊香保温泉のシンボルである石段。整備したのはなんと、真田昌幸とのこと。これは帰り際、観光客がいなくなった瞬間。
C: ハワイ王国大使別邸。日本で唯一のハワイ独立時代の建物だそうだ。といっても明らかに純和風建築なのだが。
R: そんなハワイとのつながりがあるためか、伊香保温泉はハワイアンフェスティバルの真っ最中。石段がそのまま観客席に。石段が広いのは最初のうちだけで、上っていくと思ったよりもずっと狭くなってしまう。昔の日本人のスケール感か。
するとちょうど「伊香保ハワイアンフェスティバル」が開催されている真っ最中に訪れてしまったようで、
石段がある程度平らになっているところがフラダンスの特設ステージとなっていた。うーん、すごい人口密度だ。
出番を待っている皆さんは若いおねーちゃんよりも人生ベテランの方が多く、正直僕は少し残念なのであった。
ステージの脇をおそるおそる抜けて、再び石段を上っていく。石段はそのまま観客席になっていて、なるほどと感心。
ちなみに「伊香保ハワイアンフェスティバル」の歴史は意外と浅く、1997年に初開催して今年で17回目とのこと。フラダンスの喧噪を抜けると、伊香保温泉本来の温泉街的な雰囲気の漂う一角へと出る。
単純だった石段にも変化が現れ、途中でポケットパークの要素も盛り込まれてなかなかフォトジェニックになる。
通りのところどころにはガラスの床があって、覗き込んだら温泉のお湯が勢いよく流れているのが見えた。
伊香保温泉は高いところで湧いていて、それを下へ下へと送りながら各旅館に分配していくのがよくわかる。
L: 伊香保温泉・石段街中腹の光景。 C: まあこんな感じできれいに整備されておるわけです。
R: お湯が流れている様子を見られるガラス張りの床。温泉の成分の関係で曇っているのが説得力アリ。露天風呂まで行くのは面倒くさかったので、伊香保神社に参拝して引き返す。
調べてみるとけっこうややこしいのだが、とりあえず伊香保神社は上野国の三宮とのこと。立地がよいですね。石段のてっぺんにある伊香保神社。
本来なら一泊しないとダメだろうけど、石段を往復してとりあえず伊香保温泉の雰囲気をつかんだ気になっておく。
そして今回お邪魔したのは、その名も「石段の湯」。400円とリーズナブルで、まさに日帰り入浴のための施設だ。
石段のすぐ手前がバス停で、けっこうバスの時間ギリギリまで浸かっていられる位置なのも僕としてはうれしい。
今年の6月は馬車馬どころじゃない働きっぷりで、「温泉にのんびり浸かりてえなあ」とずーっと思っていた。
先月の北海道旅行でその希望はいちおう叶えられたのだが(→2013.7.15/2013.7.22)、まだまだ足りぬわー!!
と、突然クラウザーさん口調になってしまうくらい追いつめられていたので、ここでまた、何も考えずに湯に浸かる。
しかし時計を気にしながらだとなかなか素直にリラックスできないのが小市民。とりあえずいいお湯でございました。ほんわりしながらバスを待つが、芳しくない空模様は相変わらずだ。この後、高崎駅に戻ったらJRで前橋に移動して、
厩橋城の痕跡をたどりながら群馬県庁や前橋市役所などをまわるつもりでいたのだが、この天気じゃつまらない。
それよりもこの場所ならではのちゃんとした昼メシを食うのだ!と、大胆に方針転換。食っちゃおうじゃん、水沢うどん。バスに乗り込んでしばらくすると、ついに雨が降り出した。旅先の雨は大いにテンションを下げるものである。
僕の場合、晴れの日よりも歩ける距離が短くなるという形で特に影響が出る。メシを食ってやる気を出すのが一番なのだ。
さて面白いことに、「水沢」のバス停は、水澤寺に近い方とうどん屋エリアに近い方の2つが存在しているのである。
まあ、せっかくなので寺に参拝してからうどんを食うか、とバスを降りる。雨はけっこう本格的に降ってきていた。水澤寺の境内は山の中にあるためか、少しややこしい形である。バス停は駐車場にあって、ここにあるのは釈迦堂。
そこから坂を下って本堂へと向かうのだが、端っこには土産物屋が軒を連ねていて、観光客でなかなか賑わっている。
確かに寺の雰囲気はあるのだが、同時にドライブインのような雰囲気もする。けっこう独特な風景であるように思う。
店の人たちは積極的に声をかけてくるのだが、もともと土産物を買わないし雨で機嫌が悪いしで、さっさと本堂へ。
すると、まず右手に特徴的な建物が見えてきた。六角堂という名称のとおり、六角形の屋根を持っている塔である。
そして本堂。雨で屋根が光を反射するのと線香の煙と傘を差す観光客で、なかなかきれいにその姿を見られない。
なんともツイていないなあ、とむくれながらしばらく境内を眺めると、山門を抜けてうどん屋方面へと向かう。
振り返って眺める山門はなかなか見事で、水澤寺の建物が統一感を持っていることに感心するのであった。
L: 六角堂。これはなかなか面白い。 C: 本堂。もうちょっと上手く見せる方法があると思うのだが。
R: 山門を抜けると急な階段で、そこから振り返って見上げてみたところ。水澤寺もじっくり歩いてみたかったなあ。水澤寺の境内から出て、さっきバスが走り去っていった群馬県道15号へと戻る。するとそこは、驚くべき光景だった。
道の両側に、延々とうどん屋が並んでいるのである。誇張なしで、目に映るものはうどん屋の建物と看板のみ。
なんじゃこれは!?と驚愕して少し歩いてみたのだが、街並みはほぼ完全に、店舗・看板・駐車場で構成されている。
ここまで専門的な業種で空間が完結している事例は初めてで、これには本当に驚いた。驚くことしかできなかった。
水澤寺とその手前にあるうどん専門店街。日本は広い!と、あらためて思い知らされる貴重な経験をした。さてこうなると中華街と同じで、「いったいどの店に入りゃいいのよ」と大いに困ってしまうのだ。差がわからん。
こういうときこそスマホだぜ、とiPhoneを取り出すと、どうやら大澤屋が最も人気があるみたい。第二店舗があるくらいだし。
しかし時刻は昼過ぎで、どの店もきっちりと混雑している。変に人気店に入って大混雑に巻き込まれるのはうれしくない。
そう思っていた僕の目に、一軒の店舗の名前が飛び込んできた。こりゃあ、どんなに混雑していても入るしかないぜ!
というわけでお邪魔したのは、「松島屋」。ね、入るしかないでしょ。店内に入ると中は意外と広く、整理券を渡された。
そんなに並んでいるのかよ!とびっくりしつつ、ほかの客と一緒に待つ。するとけっこう回転がよくって、
あっさり座敷の一角に通された。ざるうどんの大盛を注文したところ、これまたあっさり出てきた。洗練されとるな。
L: 水澤寺の門前は、完全にうどん一色になっていた。この写真に映っているすべてのものがうどんに関連しております。
R: 松島屋の水沢うどん。最初に見たときは「これで大盛?」と思ったが、食ってみたら確かに大盛でしたスイマセン。水沢うどんは日本三大うどんのひとつに数えられるほど有名だが、値段が高いという話だったので今まで敬遠していた。
(日本三大うどんには諸説あるが、僕は讃岐(→2010.10.11)・稲庭(→2008.9.13)・水沢と認識している。)
いざ食べてみたところ、なるほどコシが強くて喉越しがいい。少し細めで、するするっといただける。
確かに旨くて名物となるのもよくわかるのだが、「所詮はうどん」という、グルメとしての限界も正直感じてしまう。
そうなると、もっとカジュアルに食える文化(その最たるものは讃岐)の方が好ましく思えてしまうのである。
ぶっちゃけ、関東地方で旨いうどんが食える場所はもともと珍しくて、それで水沢うどんはブランド化したのだろう。
つまり、比較対象が近くになかったことが幸いしただけ、という気がしてならないのだ。しっかり旨かったけどね。
なんと言うか、旨いんだけど、あれだけ純化した街並みを構成するほどのものには思えなくて、本当に不思議だった。水沢からはバスでそのまま高崎駅へ。両毛線に乗り込んで前橋駅で降りると、そのまま南口からシャトルバスに乗る。
本日の最後は、毎度お馴染みサッカー観戦、ザスパクサツ群馬×松本山雅FCの試合で締めるというわけである。
ちゃんとJリーグの知識を更新している人なら、この「ザスパクサツ群馬」という名前にずっこけたはずだ。
選手たちが草津温泉で働きながらがんばっていたのはもう遠い昔のことで、草津の名を冠しただけの状態になっていた。
裏を返せば、それだけクラブが大きくなったということでもあるのだ。群馬の代表と言える存在にまでなった。
でも草津の名前ははずしたくない。それで今年から「ザスパクサツ群馬」となったのだが、苦悩が容易にうかがえる名前だ。
その草津……じゃなかった、群馬と戦うのは、わが長野県の松本山雅だ。J2初年度の昨シーズンにいきなり12位。
反町監督の手腕の確かさが証明された格好である。しかし僕は彼の指揮する山雅の試合を観たことがない。
今日は群馬県を旅しながら山雅のサッカーをチェックする絶好の機会ということで、かなり楽しみにしていたのだ。ご存知のとおり、群馬県と長野県は接している。山に囲まれている長野県だが、群馬県は最もアクセスしやすい県なのだ。
その証拠に、戦国時代には真田昌幸が上田の辺りに本拠を置きつつも、積極的に上野国(群馬県)に進出している。
真田家は上田(後に松代)を本家、沼田を分家としていた。信濃と上野を分けて考える意識はわりと薄い感じだ。
まあそんなわけで、スタジアム行きのシャトルバスの中はほぼ完全に山雅のシンボルである緑色に染まっていたのであった。
群馬サポが自家用車で来場しているとしても、もはや「バスジャック」と言っていいくらいの状況は凄いことだ。
ちなみに群馬の本拠地は「群馬県立敷島公園県営陸上競技場」なのだが、毎度お馴染みのネーミングライツで、
「正田醤油スタジアム群馬」となっている(略称は「正田スタ」)。面倒くさいから僕も正田スタって書くけど、
いいかげんネーミングライツという悪しき風習はやめてもらいたいものだ。建築物への愛着が無意識に薄れてしまう。で、その正田スタに到着すると、さらに驚くことになる。そこには緑の大行列ができていたからだ。心底たまげた。
いくら長野県から群馬県にはアクセスしやすいとはいえ、これだけ大量のサポーターが押し寄せてきているとは。
松本市民はほかにやることないんか!? 松本市にはほかに娯楽はないんか!?と本気で呆れてしまったよ。
L: 到着してまず目に入った光景がコレ。アウェイゴール裏の大行列だが、松本市、ひいては長野県の娯楽のなさが露呈した印象。
C: 左から、ぐんまちゃん(群馬県宣伝部長)・ぽんちゃん(館林ゆるキャラ観光大使)・アルクマ(長野県観光PRキャラクター)。
R: 敷島公園陸上競技場(正田スタ)の外観。群馬のユニを着た人も多いが、同じかそれ以上の数の松本サポが闊歩していた。初めて訪れたスタジアムは一周することにしているので、松本サポの大行列を尻目に歩いてみる。
メインスタンド側では群馬県代表のぐんまちゃんと長野県代表のアルクマがおり、仲良く踊っていた。
栃木でもそうだったが(→2013.7.20)、地方サッカークラブの試合とゆるキャラの競演というのは、
現代の日本社会における都市と祝祭について分析するうえで、最も象徴的な事例であるように思える。
そしてもうひとつ印象的だったのは、正田スタでは各ゲートに群馬県内の温泉の名を冠していることだ。
「みなかみ」「伊香保」「四万」、そして関係者向けのメインゲートは「草津」。温泉地の矜持がうかがえる。
L: 正田スタで印象的なのは、木の板でスタジアムを囲んでいること。まさか温泉の湯船をイメージしているんじゃあるまいな。
C: 各ゲートには群馬県内の温泉の名が使われている。こちらはみなかみ温泉郷ゲート。温泉のPRにもなっているわけだ。
R: なんと、立入禁止の柵にぐんまちゃん! これはなかなか面白い。思いつきそうで意外と思いつかないぞ。スタジアムの中に入って、のんびりと試合開始を待つ。ゴール裏のスペースがそれほど広くないためか、
群馬のサポはバックスタンドのゴール寄りが定位置のようだ。でもアウェイ側はふつうにゴール裏に入っている。
先ほどの猛烈な行列は順調に消化されているようで、ゴール裏からバックスタンドがどんどん緑に染まっていく。
僕は山雅の応援になんて巻き込まれたくないのでホーム側のメインスタンドに陣取っていたのだが、
周りの群馬サポの皆さんは松本サポの量に圧倒されていた。すいませんね、長野県には娯楽がないんですよ。
L: 敷島公園陸上競技場(正田スタ)はこんな感じ。まあ、ごくふつうに地方の日本陸連第1種公認陸上競技場です。
C: 選手の応援をする群馬サポの皆さん。 R: アウェイゴール裏からバックスタンドは松本サポで埋まっております。選手の練習が終わると、本日は高山眼科スペシャルマッチということで、院長さんがピッチに登場。
この人、群馬サポの間では有名な人なのか、なんとなく客席に期待感というか、そういう「待ち」の雰囲気を感じる。
そしたら最後に、群馬に向けてかなり強烈なエールを送って、なるほどこれか、と納得。はっちゃけていていいなあ。
地方都市のJ2クラブの試合にはどこか牧歌的な空気があって、それはとても大切なものだと僕は思っているのだが、
ここ群馬でもそれを存分に感じることができた。Jリーグのクラブは地元へのカジュアルな誇りを増幅する存在なのだ。さて、本日は8月4日である。そう、群馬県出身のレジェンド・松田直樹の命日だ(→2011.8.5)。
キックオフ前には黙祷が行われ、当然、僕も起立して目を閉じる。そして思う。おそらく、このカードは意図されていた。
松田が在籍した松本山雅と、彼の出身県のクラブである群馬が対戦するこのカードは、意図的に8月4日に組まれた。
そういう条件を入れてから日程くんを動かしたのだ、と。それも正しいリスペクトの形であると僕は思う。
L: 院長、はっちゃけすぎですぜ。 C: ザスパクサツ群馬ユニ仕様のぐんまちゃん。このクラブはもう、県のものだ。
R: キックオフ前、黙祷する選手たち。意味を持つ試合が増えるということは、サッカーをめぐる伝統や重みが増すということ。試合が始まると、さっそく松本が積極的な攻撃を見せる。今シーズンの群馬は、監督業初挑戦となる秋葉監督が就任。
しかしなかなか調子が上がらず、前節最下位に転落してしまったのだ。もう後のない状況となってしまった群馬は、
気合十分で松本の攻撃を受け止めてカウンターを狙う。序盤から緊迫感のある展開が繰り広げられる。いつもなら選手ひとりひとりの動きよりも全体の動きに注目して試合を観戦するのだが、この試合についてはあえて、
松本のCF・塩沢勝吾に注目して観戦してみた。理由は単純に、松本で唯一、贔屓している選手だから(→2012.4.30)。
反町監督就任後の松本のサッカーは塩沢の献身的なプレーを軸に展開しているとのことで、きちんと見ておこうと。
そしたらなるほど、松本のサッカーはまったくそのとおり。ゴールキックを中心に、まずCFの塩沢にロングボールを当てる。
塩沢はそれをヘッドでサイドに落とすと、シャドーに入った船山と楠瀬が飛び込んでいく、そういうサッカー。
JFLで柿本が真ん中に突っ立っていた頃からやっていることは変わっていない印象である(→2010.4.4/2011.4.30)。
そのときと違うのは、たとえば選手がスローインついでにボトルを手に取り給水……と見せかけてすぐにスロー、
そんな感じで少しでも相手の裏をかこうという姑息なプレーが目につくようになったことだ。反町は何を教えているのかね。
攻撃時は徹底してヘッドでボールに触ってボールを周りに落とし、守備時はディフェンスラインにプレスをかけまくる、
塩沢のプレースタイルは非常に明確だった。松本はその戦術を呆れるほど徹底的に繰り返す。ひたすらそれを続ける。
L: 塩沢のプレー。ロングボールのターゲットとなり、ひたすらヘッドでボールを周囲のスペースに落とし続ける。
C: となれば当然、群馬は塩沢をマークすればいいわけだ。チャンスメイクさせないように複数の選手で塩沢を囲む。
R: 空中戦での競り合いの一瞬。時間が経つにつれて群馬守備陣はコツをつかみ、塩沢はどんどん封じられていく。確かに塩沢のヘッドでの落としは正確で、最初のうちはかなり猛威をふるっていた。群馬の警戒の上をいっていた。
しかし時間が経つにつれて塩沢のプレーは封じられていく。独りで替えの利かない役割をこなす塩沢に対し、
塩沢をマークする守備はゾーンに対応して誰が担当してもいいわけだ。それだけ疲労の度合いが違ってくる。
また、塩沢は競り勝ってスペースにボールを落とさなくてはならないのに対し、守備は多少曖昧なボールでもいい。
松本のシャドーに収まるボールでなければいいのだ。塩沢と競ってこぼれたボールをきっちり拾えば問題はない。
群馬はよく集中しており、攻める松本に対して守備に重点を置いていたこともあり、セカンドボールをよく拾えていた。
拾ったボールをイキのいいサイドプレーヤーに出して前に運んでもらえば、立派なカウンターの一丁あがり。そんな具合にどっちも持ち味をよく発揮した試合となったが、最下位脱出に燃える群馬が前半19分に先制。
CKからヘッドで飛び込んでの得点で、この試合に賭ける群馬の集中力を感じるプレーだった。
群馬はカウンターの場面になると選手が次々と上がっていくシーンが目立っており、よく走れている。
つまんない松本のサッカーとは実に対照的で、技術は多少粗くても勢いに乗って攻めきるので好感が持てた。
そして前半終了も近づいた42分にはペナルティエリアに入るか入らないかのところからのシュートで追加点。
群馬サポは大喜び。2-0というスコアでハーフタイムを迎え、もうそれだけで盛り上がっている。
L: 群馬の先制シーン。CKからヘッドで飛び込んだSB乾が決めた。 C: 2点目は今年から群馬でプレーする永田。お見事。
R: ハーフタイムにインタヴューを受ける秋葉監督。リポーターは浴衣姿で、この日は浴衣だと半額で入場できたんだって。そういえば後ろの席にいた中学生くらいの女の子が「なんで浴衣のキャンペーンをやるのか理解できない!
別にわたし浴衣なんて着たくないし! 浴衣なんて着てもうれしくないし!」と息巻いていたのだが、
きみがうれしいかどうかはどうでもいいんだよ、女の子が浴衣を着ていると周りのお客さんがうれしいんだよ……
そう教えてやりたかったです。こういう女の子にはぜひ、周りを生かすプレーの価値がわかる大人になってもらいたい。後半に入っても群馬の集中力は切れず、松本は果敢に攻め続けるのにゴールを割ることができない。
前半に塩沢中心の放り込むサッカーで点が取れなかったことが、群馬の自信や余裕を引き出した印象だ。
すると終了間際の83分、途中から入った青木がカウンターからストライカーらしくきれいに決めて3-0。
イエーイ松本ザマーミロ!と思った僕は、いかにもな長野県人で申し訳ない。でも群馬は気持ちのいい勝ちっぷりだったね。
やっぱりサッカーにはひたむきさが必要だ、とあらためて強く実感させられた、非常に勉強になる試合だった。
L: 群馬・長野方面でのサッカー観戦っつったらコレだろ。今日もおいしくいただきましたよ。
C: 松本を奈落の底に突き落とす群馬の3点目。めちゃくちゃ躍動感のある写真を撮れて本当にうれしい。
R: 円陣を組んで喜ぶ群馬の皆さん。秋葉監督が背番号12のユニを着て輪に加わる、実に感動的な光景なのであった。入場者数は6822人。その半分以上が松本サポだったわけだが、試合終了後にはブーイングすることもなく、
選手たちに拍手を送っていた。これはすばらしい。松本の選手たちは決して動きが緩慢だったというわけではなく、
純粋に群馬の選手たちの集中力が上だった、そういう試合だったのだ。そこをわかっているのは偉いと思うのだ。
0-3で負けたらそのスコアだけ見て荒れる連中も世の中にはいるが、長野県人の冷静さを見せてくれたのはうれしい。……では最後にもう一度、
幕張にある大学で英語の研修を受ける予定を組んだのだが、講座が始まるのは午後3時からということで、当然、
千葉県内の市役所めぐりを朝からやってしまうのである。本日は青春18きっぷではなく、休日おでかけパスを利用。
りんかい線で新木場まで快適に行ってしまうと、そこからJRに乗り換えて蘇我へ行き、内房線の列車に乗り込む。
休日おでかけパスの範囲は君津駅までなのだが、ちょっと先まで行って、まずは青堀駅からバスで富津公園を目指すのだ。
要するに、3月(→2013.3.23)の続きをやっていこう、というわけなのだ。やったるぜー!と鼻息荒くホームに立つ。が、青堀駅の改札を出ようとしたら、バッグに入れておいた休日おでかけパスはあるのだが、ポケットの財布がない。
これはめちゃくちゃピンチじゃねえか!と慌てて駅員さんに相談。考えられる落としたかもしれない場所をあれこれ挙げて、
連絡をとってもらったところ、さっきの内房線の列車の終点だった上総湊駅で発見されていた。中身も無事のようだ。
まだ穿き慣れていない新しいズボンだったせいか、財布をゴロッと落としたことに気づかなかったのだ。これはまいった。上総湊駅まで財布を取りにいくことに。時間的に富津公園には行けなくなってしまったが、ここは切り替えるのだ。
ぼけーっと次の下り列車を待って上総湊駅へ。手続きをして財布の無事を確認すると、再びぼーっと上り列車を待つ。
この時間と費用のロスがなんとも切なくってたまらない。でもやらかしたのは自分なのでしょうがないのである。
できることは、この教訓をこの後のグランツーリスモに生かすことなのだ。授業料だと思うしかないよね。結果、予定よりも早い時刻に市役所めぐりをスタートすることになった。最初は君津市である。
君津市といえば京浜工業地域の中でも製鉄所で有名だ。しかし重工業メインの沿岸部と対照的な要素も持っている。
独特な雰囲気の城下町・久留里(→2008.12.23)も君津市の一部なのである。千葉県はいろんな表情を持つ場所だ。
今回は素直に沿岸部にある君津駅から市役所までを歩いてみるのだ。まずは市役所に近い南口から駅舎を出る。
すると、そこはかなり道の広い空間で、建物の密度が低く、どこか閑散とした印象のする光景となっていた。
これからイヴェントが開催されるのか、会場設営系のスタッフの皆さんが鉄パイプ部品の前で話をしている。
交差点に出て右手を覗き込むと、そこは郊外型ロードサイド店舗がまばらな間隔で並んでいるようだ。
その手前には君津住宅のビル。千葉ロッテやジェフ千葉のスポンサーでお馴染みだが、その威容はひと際目立っている。
とにかく周辺は真っ平らな空間が広々と贅沢に使われており、よくまあこんなに土地があるもんだ、と呆れた。君津駅から南下したところにある交差点にて。広大な土地と君津住宅が印象的。
君津市役所はその交差点から左手に曲がってずっと進んだところにある。さっき覗き込んだ郊外社会とは対照的に、
こっちの東側は住宅地。市役所までは思ったよりも距離があった。やっぱり君津の土地は全般的に広いのである。
そうして現れた君津市役所は、さすがに工業地域の役所だけあって威風堂々としたものだった。
L: 君津市役所。 C: 建物の手前脇から見上げる。 R: これは内房線の歩道橋から撮影した裏側。君津市役所は1976年の竣工で、設計は安井建築設計事務所の模様。組織事務所らしい堅実な建物だ。
現在、市役所の周りには図書館(2002年)や生涯学習交流センター(2009年)などがつくられ、
行政施設の一大中心地として整備されている。利用者が盛んに出入りしているのが印象的だった。
L: 裏手の駐車場から眺めたところ。 C: 市役所の隣には図書館。 R: その南側の生涯学習交流センター。君津市役所は11階建てということでかなり大きいのだが、カメラを構えるとその高さはそれほど気にならない。
それはつまり、なんだかんだで敷地に余裕があるので撮影しやすいということだろう。やはり土地に余裕があるのだ。帰りは途中から内房線の北側に出て、あえて北口から駅まで戻るルートをとった。交通量がまるで違って、
昔ながらのメインストリートの雰囲気が強かった。そして君津駅に隣接するマンションに圧倒される。
これだけ面的な空間の余裕がありながら、さらに鉛直方向へと伸びていくんですか、と。君津駅とマンション。君津は3次元的に広い街って感じ。
君津駅のお隣は木更津駅なのだが、木更津市役所は以前に訪れたことがあるので(→2008.12.23)スルー。
そのまま袖ケ浦駅まで行ってホームに立つと、そこは見渡す限りの平らな土地が広がっていた。
さっきの君津駅南口もそうだったが、こっちはそれ以上の果てしない大地っぷりである。
まったく、千葉県にはどれだけ広大な土地があるのだ? 呆れて言葉が出ない。気になって調べてみたら、
この区画整理によって、2015年秋を目標にショッピングモールやマンションなどを整備する予定だそうだ。
木更津駅前の凄まじい空洞化ぶりとの対比がなんとも諸行無常である。いやはや、なんとも。袖ケ浦駅のホームから眺める区画整理の光景。土地があるねー!
袖ケ浦市が誕生したのは1991年で、自治体名としては袖「ヶ」浦ではなく袖「ケ」浦なのだ。
ちなみに袖ケ浦市も木更津市も君津市も富津市もすべて、日本武尊の妻・弟橘媛の伝承にちなんだ地名である。
海に身を投げることで神の怒りを鎮めた弟橘媛の着物の袖が流れ着いたというアレだ。適用範囲が広いなあ。さて、袖ケ浦市役所は駅から西へと進んでわりとすぐなのだ。住宅やマンションが混じった中を歩いていくと、
絵に描いたような真っ白い庁舎建築が現れる。そして近づいてみると、ものすごく複雑な形状となっている。
なんじゃこりゃ、と思って周囲を歩いていろんな角度から見てみたら、謎はすぐに解けた。これは増築によるものだ。
袖ケ浦市役所は北側に7階建ての新館、南側に3階建ての旧館と飛び出た議場、という構成になっている。
おかげで複数の正面を持つ複雑な立体造形として仕上がっている。角度によってさまざまな表情を見せてくれるのだ。
L: 袖ケ浦市役所。南東側から駐車場を挟んで眺めたところで、こっち側の建物は旧館ということになる。
C: 旧館をクローズアップ。手前には「袖ケ浦町役場」と彫られた碑がしっかりそのまま残っている。なるほどね。
R: 旧館の裏側。昔ながらの3階建て庁舎がきちんと活用されているのを見るとうれしくなるぜ。耐震強度の関係で、旧庁舎をそのまま残して増築する例というのは案外少ないものである。
しかしこの袖ケ浦市役所の場合、しっかりと形を残したうえで新しい庁舎をくっつけて建てているので、
庁舎建築の歴史的な変遷をダイナミックに味わえる面白みにあふれている。僕はこういうのが大好きだ。
L: こちらは7階建ての新館。榎本建築設計事務所の設計で1980年に竣工したそうな。旧館の詳細は不明。
C: 新館の正面入口。 R: 南西側から両方の建物を眺めたところ。新旧の歴史が錯綜していて興味深い。市役所めぐりの最後は、市原市役所である。実は本来、市原市役所に行くつもりはなかったのだ。
しかし富津公園が頓挫した関係で時間的な余裕が生まれたので、いいチャンスということでチャレンジしたというわけ。
さてその市原市だが、けっこう複雑な歴史を持っている。もともと上総国には市原郡が存在していたのだが、
現在の市原市はその大部分を占めている(あとは千葉市緑区の一部)。つまり昔からある地名ということだ。
しかし鉄道の「市原駅」は存在しない。メインとなっているのは五井駅で、かつての五井町の中心部だった。
そしてもうひとつの核となっていたのが旧市原町で、ここはもともと八幡町といった。現在の八幡宿駅の辺りだ。
1963年、市原町・五井町をはじめとする5つの町が合併して市原市が誕生した。今の市役所が竣工したのは1972年で、
国分寺台という場所にある。ここはその名のとおり国分寺跡や国分尼寺跡のある場所で、駅からはわりと離れている。
地図を見ればわかるようにかなり強烈な宅地開発が行われており、市役所と隣の市民会館はそのシンボルだったのだろう。五井駅から市原市役所までの距離は、歩きだと非常に厳しい。かといって小湊鉄道のお世話になってもやっぱり遠いし、
そもそも本数が少ないので頼りにならない。こういうときにはレンタサイクルなのだ!ということで、
駅の北口に出て店を探そうと思ったら、目の前にバスが停まっていた。見たら「市役所経由」と書いてあった。
時刻表を見たら、きちんとバスで往復が可能ということで、すんなり方針転換。バスに揺られて国分寺台へ。バスは街道の雰囲気をしっかり残した道を東へ進んで大通りに出ると、そこから一気に南へと走る。
まだまだ開発中の郊外社会を越えて緩やかな上りとなったところに、市原市役所はあった。さすが国分寺の「台」。
そして、市原市役所はその高低差をスケールダウンさせてしまうほどに巨大だった。工業都市の迫力がみなぎっている。
市役所の建物にアプローチする階段は、広くて整備の手が十分にまわりません、と言わんばかりにひび割れており、
どこか埋立地に通じる無機質さを感じさせる。階段を上りきっても空間の規模の大きさは圧倒的である。
L: 市原市役所。1972年竣工。長大橋設計センター(現・長大)が設計したようだ。 C: 手前のオープンスペース。
R: 階段を上っても空間の規模の大きさは変わらない。左側の小さいのが議会棟。細部のデザインはけっこう凝っている。建物はただ大きいだけではなく、よく見るとけっこう凝っている箇所が多い。築40年以上ということで、
それなりに老朽化してきている部分がはっきり見られるのだが、むしろ40年前のデザインの価値観も読み取れる。
市原市の場合には、市役所の建設が大規模な宅地開発のシンボル的な役割を果たしていたわけだ。
(市原市は1973年に全額を出資して市原市土地開発公社を設立している。現在は解散の手続きが進行中。)
それだけに、単なるオフィス建築というだけではなく、先進的なデザインをアピールする必然性があったはずなのだ。
L: 議会棟をクローズアップ。なかなか冒険的なデザインとなっている。 C: 市役所を見上げる。なかなかかっこいい。
R: これはグラウンドレヴェルに下りて北側から撮影したところ。市原市役所は角度によって見え方がかなり異なるのだ。敷地を一周して撮影していくが、もともとの敷地があったわけではなく、土地の整備からやっている市役所なので、
この一周という作業が非常にやりづらい。土地に合わせて建物を建てるのではなく、建物のために土地を整備している。
だから「見える=行ける」という関係性がきれいに成り立たないのだ。草をかきわけ、苦労しながら撮影していく。
L: 裏手から眺めたところ。この駐車場に出るのにちょっと苦労した。敷地も広いのでよけいに手間がかかった。
C: 南側がメインの駐車場となっている。 R: 市役所近くにあった国分寺台地区の住居表示案内。記念碑テイストである。市原市役所の周辺には、同じように白く塗られた公共施設が集中しているので、それらも撮影しておく。
まず駐車場を挟んで南には消防局。さっきの広いペデストリアンデッキは、ここにつながっているわけだ。
そして大通りを挟んだ西側には市民会館。市役所と向き合うような位置関係で大小2つのホールがあり、
屋根の架かった中庭を挟んで会議室棟という複合施設となっている。デザインは市役所にきっちり対応している。
L: 市原市消防局。1976年に石本建築事務所の設計で竣工。市役所や市民会館とデザインを合わせた器用さを感じる。
C: 市原市市民会館。1974年の竣工。こちらも長大橋設計センター(現・長大)の設計みたい。左側が会議室棟、奥がホール。
R: 市民会館の中庭で日記を書きながらバスを待つ。日陰で風通しがよく自販機もあって、快適に過ごしたのであった。バスに揺られて五井駅まで戻ると、蘇我まで戻って京葉線に乗り換え、海浜幕張駅に降り立った。
そしたら浴衣姿の人でごった返していて、どうやら花火大会が開催されるようだ。ま、僕には関係ないもんね。
遅い昼メシをいただくと、炎天下の埋立地をペデストリアンデッキと歩道橋でトボトボ移動する。
研修会場の大学に着いたときにはけっこういい時間になっていた。やっぱり埋立地はスケールが大きい。肝心の講座の内容は、音声ソフトを活用した英語学習教材のつくり方。やったるでー!と鼻息荒く構えていたのだが、
いざソフトが紹介されたところ、うーん、見覚えがある。録音した音を波形で視覚化したデータを編集するって、
それはふだん、自分でMP3データをつくるときにやっていることそのものなのであった。やり方、熟知しておりますよ!
そんなわけで、「ああ、オレには技術はあるけど発想がないんだ」と思い知るのであった。そう、技術はあるのよ。
でもそれを見てくれのいい授業に活用するという発想のスイッチが入らないところが僕の課題なのだ。
前に中高一貫校の授業を見て「なんだ、オールイングリッシュの授業って、たぶんオレにもできるぞ……」と思ったけど、
これも同じことで、技術はあるけど活用しようという発想がない、ということなのだ。人生これ宝の持ち腐れですな。
(でも、すべて英語の授業は絶対に薄っぺらいものになる。細かいニュアンスの抜け落ちた授業になってしまう。)
そんなわけで、講座じたいは親切でたいへんすばらしいものだったが、それ以上に自分を見つめ直すきっかけになるという、
なんとも意外な形で有意義な時間となったのであった。うーん、オレはもったいない人生を歩んどるのね。
いいかげん左耳の裏の荒れを抑えたい!ということで、皮膚科の病院へ行く。
日記には書いていなかったのだが、左耳の荒れは一時期本当にひどかった。会社を辞めるくらいからひどくって、
左耳を引っ張ったらそのまま裂けるんじゃねえかって状況で教員1年目を過ごしていたのだ。ストレス性だったのか。
で、ここ2~3年はそれに比べれば症状が劇的に改善してはいたのだが、まだまだ荒れはしつこく残っていたのである。
髪の毛を切ってくれるおねーさんが「皮膚科に行けばすぐにいい薬をくれますよ」とずっと前に言っていたし、
夏休みだし、ここは一丁けりをつけなければ!との決意なのである。ちょろっと医者に行く暇もない仕事ってやーねえ。診察は2分で終わって、塗り薬を出してもらった。これを1日2回塗ればそれでいい、とのこと。
こんなにあっさりで済むんなら、もっと早く診てもらえばよかった……とがっくり。無理はいかんですね。
本日は毎年恒例、武蔵境から歩いたところにある学校で説明会なのであった。
でも今年の僕はテンションがゼロのまま、恐ろしいくらい淡々と会場へと向かう。
というのも先日、異動によって再来年までチャンスが与えられなくなったことが発覚したからだ。
また下らない制度に翻弄されるのか……と肩を落としきった後なので、淡々とタスクをこなす、それだけなのだ。会場で再来年まで待つことを確認すると、それまで何を磨いておけばいいですかねえ、などと訊いてまわる。
話を聞いていくうちに、面接のコツはすべてを相手の事情に合わせることだという事実を思い出す。
ウソでもなんでもいいから、相手の要求に100%応える姿勢を見せることが大事なのだ。すっかり忘れていた。
まあ、それを思い出せただけでも十分に有益だった。とりあえず今のところはコツコツやっていくしかないようだ。◇
午後にはヒザのリハビリ。やっているうちに、つまりはふだんの姿勢の悪さが諸悪の根源ということなのか、と思う。
これまたコツコツ直していくしかないようだ。面倒くさいけど、今までのツケがまわってきたんだからしょうがない。