檜原村に行ってみよう、と思い立つ。考えてみればそもそも、僕は五日市線に乗ったことがないのである。
大学院時代に自転車であきる野市役所まで行って、ついでで秋川駅に寄ったことはあるのだが(→2002.10.9)、
それより西へと攻めたことはない。GWでちょうどいい機会なので、東京都民として西多摩を堪能するのだ。
どこへ行っても混雑しているGWだが、さすがに檜原村を目指す物好きは少ないだろう、という思惑である。朝5時半より前に電車に乗り込み、いったん溝の口へ。いったい私はどこへ行こうというのだろうか。
同じ東京都内の目的地とはとても思えない行程である。南武線で立川に出ると、そのまま直通で武蔵五日市へ。
到着したのがほぼ午前7時。10分ほど駅前で呆けた後、バスに乗り込み西へと向かう。ゴーウエストである。
L: 武蔵五日市駅にて、恒例の最果て撮影である。なんか、檜原村方面に延伸できそうな感じなんだけど。
R: 武蔵五日市駅の駅舎。昨年リニューアル工事が終わったようで真新しい感じ。ハイキングっぽい客だらけ。まさかGWにわざわざ檜原村なんて奥地に行く人はそうそういないだろうと高を括っていたのだが、
ところがどっこいそこは天下のGW。乗客はそれなりにいて、座席はしっかり埋まってしまったのであった。商店街を抜けると、道は穏やかな田舎の農村そのものの雰囲気となる。さらに行くと川に沿って山林を進む感じに。
やがて檜原村に入ると、まずはいきなりちょっとした集落そして村役場である。役場の先は丁字路になっていて、
それはつまりもう、あとはどっちに進んでも山の中ではないか。そんなの、とことん行ってやろうじゃないの。
というわけで、武蔵五日市駅から1時間ほどずっと揺られて、檜原村で最も奥にあるという集落・数馬まで行った。数馬のバス停。いざ檜原村探索を開始なのである。
行けるところまで行ってみるのだ。数馬のバス停から、さらに奥へと歩いていく。程なくして九頭龍神社に到着。
「数馬」という集落名は、ここまで逃れてきた南朝方の武士・中村数馬に由来している。そしてこの九頭龍神社は、
中村数馬が南朝の守護神・九頭龍大神を祀った神社とのことで、さっそく参拝。なお、下ったところにある宿屋で、
きちんと御守が頂戴できる(社務所を兼ねている)。「龍神身御守」は緑の龍、「龍神厄除御守」は青い龍、
「龍神結び守」はピンクの龍と、ご利益によって色違いがあるのが面白い。思っていたより種類が多くてびっくり。
L: 都道沿い、いきなり現れる九頭龍神社。立派だし、手入れも行き届いていて、暗い印象はまったくない。
C: 拝殿。規模は小さめかな。 R: 手前の祠ごど本殿を覗き込む。やっぱり小ぎれいなんだよなあ。さらに奥へと進んでいくと、左手に南秋川を渡る奥多摩周遊道路の入口が現れる。ネットで話題になったという、
「けがをしますと病院に収容されるまで約2時間かかります」の看板があることで知られる道路である。
東京都とはいえ、本当に奥の方まで来ているんだなあと思いつつ、そのまままっすぐ進んで集落の中へと入る。
すると兜家旅館の脇を抜けていく。築250年の合掌造りだが、入母屋屋根になっているのが独特だ。
これはすごいと感心しながらさらに上がっていくが、その先は奥多摩周遊道路に合流しておしまい。
前述の看板がちゃんと脇についていた。こりゃ怖い怖いと、来た道を戻って数馬の中心部まで行ってしまう。
L: 九頭龍神社より先の集落。 C: 兜家旅館。妻側から見るこの迫力よ。 R: 平側はこんな感じ。九頭龍神社の御守を頂戴すると、数馬の中心部を歩く。南秋川に沿った一本道に、山側と谷側それぞれ建物があるが、
基本的には山側に主要な施設がある感じ。まあ当たり前か。谷側には温泉もあって、入りたかったなあと大後悔。
L: 古民家の宿 山城。九頭龍神社の社務所を兼ねていて、御守はこちらで頂戴できる。 C: 立派な蔵が目立つ。
R: 谷側にある蛇の湯温泉 たから荘。これはものすごい合掌造りである。日帰り入浴したかったが、朝早すぎて断念。数馬分校記念館にも寄ってみた。1874(明治7)年に檜原小学校の分校として開校したが、1999年に閉校となった。
ネットの情報によると、校舎内は閉校当時の状態がそのまま保存されているとのこと。開館時間前だったので、
校庭周辺をブラついたのみになってしまった。どうも今回の旅は、きちんと味わいきれていないパターンのようだ……。
L: 数馬分校記念館。 C: 校庭の様子。すぐそこまで山が迫っているのがさすがである。 R: 奥の方も然り。もっとじっくり数馬を味わえばいいのに、何をそんなに焦っていたのかというと、さらに奥へ行くバスに乗るため。
先ほどの奥多摩周遊道路を進んだ先には、「檜原都民の森」があるのだ。もう、とことん行ってやろうじゃねえかと。
それで数馬のバス停で待っていると、目を疑う光景に出くわした。乗客がいっぱいいて、臨時の増便が絶賛運行中。
まさか檜原村がそこまで大人気になっているとは思わなかったので、これには開いた口が塞がらないのであった。
茫然としながら揺られて、都民の森の入口でバスを降りる。駐車場は確かになかなかの賑わいであり、びっくり。
ツーリング中のライダーが多いようで、それには納得。バイクで動くにはいい感じの季節、いい感じの山だもんな。
L: 東京都檜原都民の森、入口。標高1531m・三頭山の東麓が、そのまま森林公園化している感じの場所である。
C: 坂道を上がっていくと森林館(左右とも)が目に入る。 R: 森林館。都民の森のガイダンス施設ですな。帰りのバスのことを考えると、そうはのんびりしていられない。僕は皆さんと違い、ハイキングが目的ではないのだ。
探検するのは森林館の周辺程度に留めておく。僕としては、ここまで来たこと自体にもう満足してしまっているのだ。
ただ、季節の花々なんかを写真に収めながらのんびり山へと入っていく皆さんを見ていると、羨ましくなってくる。
どう考えても檜原村を正しく楽しんでいるのはそちらの皆様なのだ。自分の邪道っぷりを実感させられたなあ。
素直に登山を楽しみ、温泉に浸かり、あらためて色違いの御守を頂戴する……そんなリヴェンジを果たしたいものだ。
L,C: 森林館の内部。オシャレである。 R: バスとライダーの皆さん。GWってのは凄まじいものだなあと呆れる。数馬のバス停に戻ると、駐車スペースに待機中の増便バスが並んでいて圧倒される。いやはや、ここまでとは。
冒頭に書いたとおり、檜原村がそこまで大人気だとは夢にも思わなかったので、自分の認識の甘さを実感したねえ。数馬のバス停で待機している増便のバスたち。ひゃあ!
しばらく数馬のバス停で待ってから檜原村の中心部へ戻るバスに乗り込み、そのまま払沢(ほっさわ)の滝まで行く。
檜原村にはあちこちに滝があるが、払沢の滝が最も有名だ。大勢の観光客たちに混じり、遊歩道を奥へ奥へと進む。
L: 払沢の滝へと向かう遊歩道。やはり緑がいい季節である。チップが敷かれていて、すごく歩きやすい。
C: 途中にあった木工房 森のささやき。1929年に建てられた檜原郵便局舎を移築したとのこと。
R: 払沢の滝のすぐ手前の様子。緑の中を流れる清流と、そこをジグザグに渡る橋がフォトジェニック。歩くこと10分足らずで払沢の滝に到着である。さすがに檜原村で最も人気のある観光スポットということで、
遊歩道はチップで歩きやすく整備されているし、入口付近には店もあって女性なんか喜びそうな感じ。
何より、この10分ほどという距離感がまた適切なのだと思う。実に手頃な自然体験といった仕上がりだ。
そして肝心の滝はというと、手前の岩は折り重なるように並んで、清流を右へ左へとスラロームさせている。
遡りながら視線を先へと移すと、裏の岩肌に水が当たるたび微妙に広がって鋭角の白い筋となっている滝が見える。
スレンダーだが、なかなかの迫力。やはり手前の平面的な曲がりくねり方と滝の立体的な直線性の対比がいいのだ。
滝ってのは、時間と空間を媒介にして、水にどれだけ物語性を持たせるかという自然による芸術なのである。
L: 手前のくねる清流と、奥の払沢の滝。水は1次元にも2次元にも3次元にもなる。上善は水の如しってことか。
R: 払沢の滝に近づいて撮影してみた。冬には凍結して、これとはまったく異なった姿を見せてくれるそうだ。満足すると、のんびり歩いて檜原村役場方面へ。北秋川の対岸に見えるは、檜原村立檜原中学校。
ここに赴任したら……なかなか大変だなあ、なんて思いつつ先述の丁字路の辺りに戻ると神社があったので参拝。
春日神社という名前で、規模はそれほど大きくないが、覆屋の中の本殿が実に立派なのであった。
L: 檜原村役場近くの春日神社。 R: 覆屋の中を覗き込んだら本殿がまあ立派なこと。そんなこんなでやっとこさ檜原村役場に到着である。東西に走る檜原街道(都道33号)に面して建っているが、
玄関は東側に寄っている。その玄関の東側は檜原郵便局となっており、役場と一体化しているのが特徴的である。
さらにJAあきがわ檜原支店の看板も立っており、新しい庁舎に半公的な施設をまとめてしまったのがわかる。
L: 檜原村役場。 C: 少し東側に動いて撮影。役場の手前側に郵便局がくっついている。 R: 玄関を正面から眺める。一見すると裏手に山が貼り付いているように見えるが、実際には役場のすぐ裏は南北が合流したばかりの秋川が流れる。
おかげで敷地を一周して役場庁舎を見てまわることができない。役場の背面がどうなっているのか見たかったんだけどな。
L: 道路を挟み、西側に寄って撮影。 C: 敷地内、南西側より見たところ。 R: もうちょっと東に動いてみた。檜原村役場は休日でも中に入ることができる。檜原村じたいが平らな土地が少ないので役場も広くつくれないのだろう、
玄関からすぐにホール空間となっているが、物が多くてコンパクトな印象。しかし雰囲気はなかなかに明るいのがいい。
奥の方は「カフェ せせらぎ」という店になっており、檜原村の特産品が多数売られている。やはり物が多くて密度が高い。
L: 檜原村役場の内部。吹抜ホールもコンパクト。 C: 奥は、カフェ せせらぎ。落ち着いた雰囲気がよいではないか。
R: それにしても物が多い。役場に郵便局にJAにカフェという密度の濃さを象徴するような空間になっているなあ。せっかくなので秋川の川岸まで出てみるなどして、のんびり過ごす。ちっちゃいイワナだかヤマメだかもいて、
いいもんだなあと。檜原村はきちんとした目的があれば、いろんな楽しみ方ができる場所なのだと思うのであった。
ぜひ機会を見つけて都民の森やら数馬の温泉やら数馬分校記念館やら、きちんとリヴェンジしたいものである。
L: 檜原村のキャラクター・ひのじゃがくん。1991年のデビューなので、ゆるキャラブームよりだいぶ前からいる。
C: 役場の裏を流れる秋川。これが多摩川へと至るのだ。 R: ヤマメと思われる魚もいた。さすがの清流ぶりである。バスに揺られること15分ほどで五日市駅まで戻ると、周辺の探索を開始。あきる野市の誕生は1995年で、
秋川市と五日市町が合併して発足した。冒頭でも書いたとおり秋川サイドは訪れたことはあるが(→2002.10.9)、
五日市サイドは初めてである。さっきバスで通ったばかりの檜原街道を、のんびり西へと歩いてみる。
L: 五日市出張所入口の辺り。ふつうに片田舎の街道沿いである。 R: 武蔵五日市駅方面を眺める。市役所ではないが、せっかくなので、あきる野市役所五日市庁舎に寄ってみる。もちろん旧五日市町役場である。
檜原街道から少し北に入ったところにあり、西から都立五日市高校、東から五日市中学校に挟まれた位置にある。
L: あきる野市役所五日市庁舎(旧五日市町役場)。車だとちょっと面倒くさい奥まった位置にある感じ。
C: 敷地内に入る。長方形の短辺側に玄関があるのは珍しいように思う。 R: 北西側より眺める。
L: 北側に五日市会館があるのでそちらは撮影しづらい。無理やり北西側から見たところ。
C: 南西側より。 R: 南側には駐車場があるので、そこから側面を眺めることができた。
L: 南東側より。 C: 少し東側に動いたところ。 R: 中に入る。あんまり役所感はなく、地域の交流施設って感じ。さて、いよいよ五日市を訪れた本来の目的を果たさなければならない。五日市庁舎から檜原街道を挟んだ南側に、
あきる野市を代表する存在と言える神社がある。そう、阿伎留神社だ。秋川市と五日市町が合併する際、
秋川側は台地名にもなっている「秋留」の表記を推し、五日市側は神社名から「阿伎留」の表記を推した。
結局、肝心な部分をひらがな表記にした「あきる野」という形での妥協となってしまった。知性を感じさせない話だ。
個人的には旧村名にも使われた「秋留」の方がよかったと思う。そうすることで万葉仮名の「阿伎留」が引き立つ、
つまり阿伎留神社のありがたみが増したのではないか、そう思うのである。ともかく御守を頂戴するべく、鼻息荒く突撃。
L: 阿伎留神社の鳥居。住宅地を抜けて東側からまわり込む。 C: 鳥居を抜けた参道。 R: その先にある神楽殿。住宅地を抜けていくと阿伎留神社の境内にぶつかるが、社殿は南を流れる秋川の方を向いているので、
ぐるっとまわり込むことになる。そうして横参道を進むと奥に神楽殿が見えて、手前で右を向くと社殿である。
阿伎留神社は延喜式神名帳で多摩郡の筆頭となった神社だが、1830(天保元)年の五日市大火で全焼してしまう。
その後、1888(明治21)年になって本殿と拝殿が再建された経緯があるそうだ。苦労した神社なのだ。
L: 拝殿。 C: 屋根が少し小さめで独特な印象。切妻の破風も神社には珍しいような。 R: 神輿殿。運良く宮司さんがいらしていて、すんなりと御守を頂戴することができた。いわゆる「ふつうの御守」はなく、
健康御守がそれに近いんじゃないかってことで頂戴。あと「釣人守」という珍しい御守があったのでそれも頂戴した。
わざわざそんな御守がつくられるほど秋川の渓流釣りは人気があるということか。まあさっきヤマメ見たし。
境内をのんびり散策すると、檜原街道に戻る。しかし武蔵五日市駅までは行かず、途中の五日市バス停でバスを待つ。
L: 印象的だったのがシャガの群れ。シャガは三倍体で、日本に存在するものはすべて同一の遺伝子を持つとのこと。
C: 後ろから眺めた阿伎留神社の本殿。 R: 境内にある天満宮と遊具。よくある「町内の神社」の雰囲気も持つ。五日市のバス停から向かったのは、文化の森入口。まあ要するに、日の出町役場に行ってみようというわけだ。
下車するとそこはもう役場の目の前である。なお、日の出町に来るのは檜原村と同様、初めてだ。しかし正直、
あまりワクワク感があるわけではない。日の出町には観光名所がまったくないからだ。日の出山荘がいちばん有名か。
L: やってきたのはいいが、ふつうに町役場。日の出町は観光の要素が本当にない。 C: 正面から眺める日の出町役場。
R: 角度を変えて北西側より眺めたところ。しかし庁舎手前の木々が邪魔で全容がよくわからない。困ったものだ。役場庁舎の手前にある、日の出を模したと思われるオブジェを見ると、「日の出町ユートピア・ホール」とある。
調べてみると日の出町には「ユートピア」を冠した施設などがちょこちょこあって、ユートピア構想が展開された模様。
日の出町公式サイトの年表によると、日の出町ユートピアホールの基本設計は1986年だが、完成は1989年。
昭和と平成をまたぐ役場庁舎というわけだ。ユートピア構想はいかにもバブル期の価値観を思わせる。興味深い。
L: 敷地に入って最初に目に入る「日の出町ユートピア・ホール」のオブジェ。80年代な価値観である。
C: 日の出町役場のエントランス。町章が妙に小さいような。 R: 教育センター側から眺めた正面側。オブジェの「日の出町ユートピア・ホール」の下には左から、「保健センター」「庁舎」「教育センター」とある。
裏にまわると「ユートピア・ホールは、町民の健康を守る保健センター、生活と密接な係りあいを持つ庁舎、
将来町の担い手となる青少年や、生涯教育に重要な役割を果たす教育センターの複合施設で、
ひので理想郷(ユートピア)の拠点、文化創造の基地として建設したものです。」と彫られていた。なるほど。
L: 庁舎の中を覗き込んだらこんな感じだった。 C: 東側の保健センター。 R: 西側の教育センター。せっかくなので周辺を一周してみる。さらには教育センターの中にある図書館に入り、経済学の本を読んで勉強してみる。
そしたらこれが意外と参考になり、LM曲線についての理解が深まったのであった。それまでなかなか見つからなかった、
LM曲線のわかりやすい図が載っている本があっさり置いてあって本当に助かった。日の出町立図書館、なかなかやるなあ。
L: 南西側から見た日の出町役場。左側が教育センター。 C: 畑越しに役場庁舎を南側から見たところ。
R: 裏手の駐車場から南東側。木々でよくわからない北側とは対照的に、かなりすっきり日光を採り入れている。日の出町に来たのはいいが、役場の撮影を終えると本当にやることがないので、さらに周辺を散策してみる。
役場の隣に東京都森林組合の事務所(組合本所)があるようで、建物が少し凝っていたり周囲が公園になっていたり。
「ひので森林こども中央公園 建設予定地」という看板が出ていたが、計画は果たして進んでいるのだろうか?
L: 日の出町役場前の道路(永田橋通り、都道184号)はこんな感じ。このまま東へ行くと多摩川を渡って福生に出る。
C: ひので森林こども中央公園 建設予定地? 今でもちょっとした公園ではあるが。 R: 東京都森林組合。凝っている。本日はもうこれ以上特にやることもないので、イオンモール日の出まで行ってみることにした。2007年の開業以来、
西多摩郡民には大人気とのこと。バスで揺られて近づいていくが、広大な空間にそびえる姿はかなりのインパクトだ。
GWということはまったく関係ないであろう大賑わいで、日の出町に本当に大きな影響を与えているのがわかる。イオンモール日の出。
中はふつうに4階建てのショッピングモール。しかし多様なジャンルの店舗がぎっしり詰まっていて、
なるほどこれは飽きることがないはず。商業施設のテーマパーク化(→2006.11.12)をあらためて実感した。
雑貨や本など趣味の店を見てまわり、フードコートでメシをいただき、暗くなるまでしっかり日記を書いて過ごす。
なんだかんだで僕も存分にイオンモール日の出を堪能したというわけだ。本当に、何から何までできてしまうね。帰りは武蔵引田駅まで歩き、五日市線で帰る。僕以外にもそうしているイオンモール日の出の客はけっこういて、
多摩地区なんだけど臨海部のような感触をおぼえつつ帰るのであった。郊外化もそれはそれで多様ということか。
GWのスタートはどこにも行かず、ただひたすらに日記を書いて過ごす。まあそんなもんだ。
前任校の離任式にお呼ばれしたので、菓子折りを持ってお邪魔するのであった。
職場を離れてから1ヶ月も経っていないのに、すでに僕がいないことが当たり前モードになっていて、
ああ健全だなあと思う。誰かがいなけりゃ誰かが穴を埋める。それだけのことである。健全、健全。体育館で行われた離任式で、登壇したのは僕ひとり。今日は僕のために集まってくれてありがとうございます状態である。
いろいろ軽口を叩きつつ、ひたすら感謝の弁を述べたのであった。給食褒めたら公式サイトでクローズアップされたよ!
(ちなみに英語のクズ野郎はその間ずっと個人のビデオカメラを回していて気持ち悪かった。悪口言うとでも思ったか?)
3年生たちは最後の最後まで全力で歓迎モード。これだけ感謝されるとは、もう本当にありがたいと心の底から思った。
特にサッカー部のキャプテンは僕の口癖「英語は他者のルールに合わせる柔軟性」をきちんと挨拶に織り込んでくれて、
もう何も言うことはないです、という気持ちである。こんな誇らしい生徒たちに見送られてオレは本当に幸せ者だ。夜はそのまま歓送迎会。こちらには同時に離れた事務の方々も参加してくださり、和気藹々と盛り上がった。
僕がずっと「いいチームワークの職場だなあ」と思っていたその感情を、皆さんとそのままそっくり100%共有していたこと、
それがしっかり確認できたことがいちばんうれしかったかな。よし、次の職場でもこれくらいのチームをつくろう、
そんな気持ちで次のステップに集中できそうな気分になれた。最高の自信をつけさせてくれた職場だったと実感した。
言葉にできないほど悔しい思いもしたが、最後に本当に満足して去ることができた。ただただ、ありがとうございました。
忙しいと、「やろう、ぶっころしてやる。」のドラえもんを思い出す。けっこうあんな感じ。
ゆずレモンを見るたびに「ゆずレモンは譲れんもん」というフレーズが浮かんできて困る。
夜中、本当にたまたま『フリースタイルダンジョン』をやっているのを見た。
まず思ったのは、「これは『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の平成口ゲンカ王決定戦ですね」ということ。
もっとも、韻を踏んでいる分だけフリースタイルダンジョンの方が圧倒的に大変なのはよくわかるんだけど。
悪口の言い合いなので基本的には胸クソ悪くなる一方なのだが、すさまじい頭の回転の速さは認めなければなるまい。
でもその頭の回転の速さをもっと建設的なことに使えないのかな、と思ってしまう私は歳をとってしまったんでしょうか。むしろ逆説的に、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』のバラエティとしての完成度がすごすぎることが実感できる。
なんでこんなこと思いつくんだ!?ということしかやっていない。しかも毎週。贅沢な「祭り」だったなあと思う。
サッカーの本質とは、「不条理に耐えること」ではないか。最近、そう考えるようになっている。
日本におけるサッカーの歴史上、いちばんの不条理は「ドーハの悲劇」である。アディショナルタイムでの失点、
あの悲劇をわれわれはただ受け入れるしかなかった。どんなに街中で暴れたって結果は結果で覆らないのである。
その事実に向き合い、捲土重来を期すべくひたすらに努力を続けたことで、日本は今の地位を手にしたのではないか。
繰り返される不条理に耐え抜いてきたからこそ、日本サッカーは着実に歩を進めてきたのだと僕は思うのだ。印象的だったのは、新潟のビッグスワンで観た試合だ(→2014.10.18)。そもそも新潟という土地は、
とりたててサッカーで有名だったわけではない。しかし毎試合4万人もの観客が入るほどの盛り上がりを見せ、
2004年にJ1に昇格してから10年以上にわたって残留し続けている。エレヴェーターになりそうでならないクラブ、
それがアルビレックス新潟というクラブである(今シーズンは今のところまったく勝てないでいるが……)。
観戦した際のログをそのまま引用する。「サポーターたちの目は確実に肥えていて、その姿勢に大いに感心させられた。
ひとつひとつのプレーに単純に反応することはせず、冷静に戦局を見つめることができている。罵声も一切出ない。
さすがに審判がピッチから去る際にはブーイングが出たが、その程度。これがサッカーが浸透した豊かさか、と思った。
クラブができて日の浅い地方都市では、つねに観客のマナーというものを考えさせられてきたわけだが、
J1昇格から10年が経過した新潟では、高いレヴェルが日常となった豊かさを実感した。うらやましいものである。」
新潟は決して強豪ではない。苦しいシーズンの方が多かったはずだ。しかしサポーターはJ1での戦いを観戦をし続け、
強い相手と粘り強く戦う選手たちの姿をじっと見つめてきた。そうして不条理に耐える姿勢を磨いてきたのではないか。
そしてその結果が、観戦レヴェルの高い観客たちに支えられての10年以上にわたるJ1残留なのだと思う。そもそもが、サッカーとは手を使うことが許されないスポーツである。これこそが最大の不条理なのだ。
(スポーツは数あれど、身体的制約が前提となっているものはサッカー以外にはちょっと思いつかない。珍しい。)
進化を経て、人間が他の動物と比べて最も繊細に使うことができるようになった部分を使うことができない。
こんな不条理があるだろうか。サッカーは「ミスが前提のスポーツ」と言われるが、それ以上に不条理なスポーツだ。
手を使ってはいけないルールに耐え、審判の誤審に耐え、クラブの敗北に耐え、さらには降格にも耐える。
その前提からして不条理の塊であるようなサッカーは、それゆえに「不条理に耐えること」が本質なのだと考える。
だからある種の諦念というか、不条理に対する割り切りというものが、サッカーを理解する近道なのだと思う。
どんな不条理にも耐えうる精神、それこそがサッカーにおいて最も大切なものではないか。そう思うのである。
春季大会、本日の2試合はどちらも2-2で引き分け。ボールに対して競り合わないんだもん、勝ち切れるわけがない。
GKの能力がなまじ高いだけに、相手の攻撃はGKにどうにかしてもらう、という方針が固まってしまっている。
それでこっちのボールになると勢いよく攻め込む。その躍動感は悪くないが、いちいちドリブルで1対1を仕掛け、
相手に奪われてピンチの繰り返しなのである。ゲームの中に戦略がなく、毎回の運任せに終始しているのだ。生徒たちは顧問がいない状況でも自分たちで練習を進めることはできている、そのこと自体はかなりすごい。
しかしそこは中学生、どうしてもその内容を客観的に修正することは難しいのだ。練習を軌道修正できない。
「できているけど、できていない」というのが実際のところなのである。でも生徒たちは「できている」部分を誇り、
残念ながら「できていない」部分を受け入れない。プライドが邪魔して、結果として小さなまとまり方になっている。
「どう? ぼくたち良い子でしょ」と思っているから成長できない。ある意味、これは最も厳しい状況である。
本日は春季大会。30分ほど歩いて区内の学校へ行き、いざ初陣である。
といっても僕は生徒の特性についてほとんど何もわからない状態なので(狭い校庭での練習だけじゃなんとも)、
ほとんどすべてを都選抜のキャプテンにお任せするのであった。彼はケガをしていて今大会には出られないのだ。で、結果。相手は特に強いというわけでもないのに、本当に守備がボロボロで、2-4で負ける。
初任校でも前任校でも僕はオフェンスマインドの人間だと思っていたが、その僕が呆れ果てるほどに守備ができない。
右SBがボールホルダーを追いかけて左サイドまで行ったときにはもう、頭を抱えてその場にへたり込んでしまった。
もっとも、それは当たり前のことなのだ。部活でひたすら1対1に毛の生えたような練習ばかりやっているのだから、
広いグラウンドでどのようにプレーすべきなのか、きちんと理解できているはずがない。負けるべくして負けたのだ。
これを機に練習で守備意識が向上すりゃいいが……と思うが、自分たちのやりたいことを優先する癖が抜けないうちは、
まともな結果はついてこないだろう。この敗戦から学ぶことのできるチームなのか、じっくり見守るしかない。午後は都立中央図書館でお勉強。力の限りがんばったので、帰る頃にはヘロヘロよ。充実しているからいいけど。
貴重な午後の時間を使っての英語の研修。区というよりはALTの業者が主体で、授業内容の確認をやるのであった。
これが非常にかったるい。業者のカリキュラムはかなり緻密で、ALTの裁量でアレンジできる部分が少ないくらい。
しかし「こういう感じでやりますのでよろしく」というのを、こちらを生徒役にしてバカ丁寧にやってくるのだ。
僕としては「そんなもんはALTにおまかせでええやん、フォローはするけど」というスタイルで十分なので、
無意味なロールプレイに辟易である。最高に無駄な時間を過ごした。業者の仕事アピールに教員を付き合わせんなや。その後は新たな職場で歓送迎会。前も小規模校だったが、今度の職場はさらに小規模な感じで会が行われた。
それはそれで穏やかで、悪いわけではないのだが、小ぢんまりとしすぎている感触がちょっと寂しい気もする。
あんまり具体的に書くのもアレだけど、女性の比率が高すぎるのである。僕がいちばん若い男ってのがねえ。
まあとにかく雰囲気を壊すことなく地道にやっていければいいので、空気を読むことに徹していきたいです。
iPod nanoを買ってしまった。今さら。というのも、英語の授業でいちいちCDを再生・一時停止するのがかったるく、
それならぜんぶiPodにぶち込んでbluetoothスピーカーで再生しちゃえばいいんじゃねえかと前々から思っていたから。
3学年分の教科書やらリスニング問題集やらがnanoの中に収まってしまうというのは、実現すればそうとう便利だ。
それで今回、思い切って投資してみたというわけ。スピーカーはちょっと前に奮発して自分用に買ったやつがあるので、
そいつとつなげてみる。ペアリング作業は少々面倒くさいが、下準備が終わってあれこれ試してみての感触は悪くない。
さあ、どこまでこのシステムを活用できるか。定期テストもこの方式でやっていけると面白いんだけど。
前の前の職場でヴェテランの理科の先生が履いており、「それだ!」と思って僕も履くようになったクロックスだが、
ついにパーツが壊れてオシャカになってしまった。底もけっこうすり減っており、まあ確かによく使ったもんなと思う。しょうがないので新しいものに買い替えようと街に出るが、なかなかしっくりくるものがない。
クロックスと言っても種類は多くて、候補を絞って直営店を当たってみたのだが、小規模すぎて扱っていなかったり、
あっても色がなかなか困った感じだったりで、振り回される破目に。結論から言うと目的のモノは手に入ったのだが、
気がつけば溝の口まで流されておりました。まあ久々に明確な目的のある買い物をして、面白かったからいいけどさ。
少しの修正を加えた後、時間割が正式に確定。常人にはハマらないものをハメる能力が認められてしまった。
そんな能力、ほかに応用が利くわけでもないし、ボーナスが出るわけでもないし、ぜんぜんうれしくない。
本日はALTと初共演である。性格は基本的には大雑把だが、仕事に対しては真剣さをそれなりに感じる。
何より、日本っぽさを理解しようという姿勢を感じるので、なかなかにやりやすい。合わせやすいのである。
前任校ではどうしょうもなく使えないALTが毎日ベッタリという切ない状況だったが、今回はどうにかなりそう。
午前中は日記を書きまくる。午後は部屋の片付けに専念するが、元が散らかりまくっているので全然進まない。
そして晩になってまた日記を書きまくる。天気がいいけど遠出を我慢して、やるべきことをひたすらやる一日。実は経済学原論でもう1本リポートを出さないといけないことが発覚したのであった。
ホントはそれをやらなきゃいかんのだが、特に期限が決まっているわけではないので日記を優先。
資料はプリントアウトしてあるので、通勤電車の中でもうちょっと理解を深めたいという思惑である。いちおう。
早いところお勉強から解放されたいのだが、焦らず確実に課題をクリアしていきたい。……やれやれである。
午後の部活に行く前に、通勤で使う地下鉄を途中下車して、銀座周辺の名建築を撮ってみることにした。
きっかけは、ソニービルである。先月末で営業を終了し、今は解体を待っているという状況である。
ボヤボヤしているわけにはいかねえや!ということで、カメラを持って慌てて銀座に降り立ったしだい。しかしまずは富士電機の看板でおなじみの東宝ツインタワービルから。DOCOMOMO物件ではないが、
このビルを見るたびに優雅じゃのうと感心するのである。設計は谷口吉郎ということでさすがなのだ。
L: 東宝ツインタワービル。1969年竣工。 R: 北東側から見たところ。ではいよいよ本題のソニービル。僕が中に入ったのは1回だけで、ちょうど1年前のことになる。
潤平が関わった「『YÔKAÏNOSHIMA』シャルル・フレジェ展」が銀座メゾンエルメス フォーラムで開催され、
それをcirco氏と見に行った際に(→2016.4.24)、隣のソニービルでトイレを借りた。か……かっこ悪い!
しかしそのときに、名物であるスキップフロアの面白さを再認識したなあ。渋谷ハンズは地形の問題があるが、
平地の銀座でわざわざ4分割のスキップフロアをやる根性はすごい。挑戦的ないい時代だったなあ、とも思う。
L: ソニービル。手前のコア部分の左右で床の高さが違うのがわかる。ちなみに左にあるガラスのビルがエルメス。
C: 角度を変えて、交差点を挟んで斜向かいで撮影。モダンだなあ。構造が複雑だけに、白主体の色がすごく効いている。
R: 北西側から眺める。ソニーだからってわけじゃないけど、結果的に縦置きしたプレステみたいな印象なのよね。ソニービルは1966年の竣工で、設計は芦原義信。モダニズムの端整さが見事に出ていて、これは本当にかっこいい。
わざわざスキップフロアにする発想が外観にもしっかりリズムとして現れているので、まったく単調ではない。
ふと丹下健三の山梨文化会館を思い出す(→2012.5.6)。確認してみたら、あちらも同じ1966年の竣工だった。
山梨文化会館はメタボリズム的な発想が、結果としてスキップフロアにも似た空間操作手法となっているわけだ。
しかしデザインじたいはソニービルの方が洗練されているように思う。もっとも、あれはあれで十分面白くて好きだが。
L: 西側から眺めたところ。 C: 移動して、北東側からコアを中心に眺める。 R: 東側にまわり込む。やっぱり往年のモダニズム建築には格別なワクワク感があるものだ。その中でも特に、ソニービルは機能的で美しい。
近年とみにモダニズム建築の取り壊しが進んでいるように思うが、どこもランニングコストが限界に来ているのだろう。
公共建築であれば出費に対する市民の同意という文化レヴェルの高さによって維持が可能であるとしても、
民間企業だとどうしてもシヴィアな判断をせざるをえない。これだけの傑作が消えるのは残念だが、うーん……。エントランス部分。もうスキップフロアを味わえなくなったのね……。
せっかく銀座に来たので、気を取り直してもうひとつ、DOCOMOMO物件の撮影を試みる。
ソニービルと同じ通りにある銀座四丁目の交差点で、こちらは現役バリバリ衰えることを知らない雰囲気を漂わせる。
日建設計は林昌二の三愛ドリームセンターである。てっぺんの広告はリコーだが(かつては三菱電機で有名だった)、
その創業者である市村清のアイデアを大胆に取り入れたことで、このような建物ができあがったという。
僕は市村清と聞くとまず、佐賀の市村記念体育館を思い出す(→2011.8.7)。あれはずいぶん豪快なデザインで、
市村さんは建築にかなりこだわりのある経営者だったんだなあとあらためて思う。公共建築ではなかなか難しい、
トップダウンならでは、民間企業ならではの名建築というものは確かにあるのだ。さっきのソニービルと同じだが、
結果としては悲喜こもごもというかなんというか。「建築物の『人生』としての幸せ」を考えてしまうなあ。
L: 銀座四丁目交差点、和光(北東)側から見た三愛ドリームセンター。 C: 交差点を挟んで撮影。
R: カメラを縦に構えてクローズアップ。竣工は1963年で、実は市村記念体育館と同い年なのであった。いい天気だったので、三愛ドリームセンターの向かいにある和光も撮影しちゃう。以前ワカメが上京した際、
夜の和光は撮影したことがある(→2009.12.19)。今回はきちんと、正面から、決定打になるような写真を目指す。いかがなもんでしょうか。
今回はこんな感じで撮影を終了。都内の名建築をもっともっとチェックしなければ!と反省したのであった。
◇
さて部活。オフサイドラインでの駆け引きどころか、まずディフェンスラインを揃えるという発想がない。
それを指摘しても、生徒は聞く耳をあんまり持たない感じ。やろうとしているのかもしれないが、うまくいかなくて、
結局は慣れている自分たちのやりたいことに流れてしまうのである。自分たちのできている部分だけをやって、
「僕たちはちゃんとやっているんだから褒めてください」という態度なのだ。幼稚すぎてお話になりません。
過保護に育てられている今はそれで良くても、いつかきっと、思いっきり痛い目に遭うだろう。後悔しても遅いぜ。
「続日本100名城」が4月6日に発表されていたそうで。1週間以上経ってから初めて知った。
なんだかんだで「日本100名城」は、かなりの制覇率となっている。それを目的に旅程を組んだことだってある。
しかしその反面、実際に訪れてみて「これを入れるか……?」と思ってしまうような城もあることはあるのだ。
さらには、「なんで米子城が入ってねーんだバーカ」と、今も思っている(→2013.8.20)。基準がわからない。
そこで「続日本100名城」である。ラインナップを見てみると、これまたなんだかんだでけっこう訪れている。
しかし狙って押さえていくとなると100名城以上に厳しい。さすがにこれは、旅行の目的とするにはつらすぎる。「続日本100名城」については、今後もあちこち行く中で運が良ければ寄れるかも、くらいな感じで意識したい。
当方すでに市役所マニアと御守マニアとサッカースタジアムマニアで手一杯なのである。もうこれ以上は無理っす。
出張で東陽町へお出かけ。終わってみたらバスに乗っている時間の方が長い、あっさり終わる研修なのであった。
前の区は腹の立つことがやたらと多かったので、これはすばらしいなあと感激する。やっとふつうの区に来れたわ。帰りに「東陽町に戻ってきたこと」に少しだけ感傷的になってしまった。実は僕は2歳ぐらいのとき、
東陽町のマンションで暮らしていたのだ。そしてこの東陽町にいる時期に潤平が生まれているのである。
細かい記憶なんてもちろんないが、マンション玄関のタイルの模様は今も鮮明に思い出すことができる。
住んでいた7階のフロアの表示も、青い瓦も、さかさまつげのような窓の飾りも、部屋の壁に貼られたぐりとぐらも。
9階の「かーくん」とよく遊んだが、もうその名前の響きしか残っていない。部分だけが強烈に記憶にこびりついている。
40年近い時を経て、僕はその場所に戻ってきた。ただの偶然で何の意味もないだろうけど、それでもなんとなく、
縁あってこの場所を自分の一部と認識することになった事実を、特別なものとして受け止めたいと思ったのだ。
結局、時間割をグレードアップした形で仕上げたのであった。学年会も各種会議もぜんぶ入りましたよ、と。
なんでこんなに上手く仕上がるんだ的な反応がけっこうあちこちであったけど、とことん考え抜いてないだけやんけ。
もっとも、みなさん自分の担当している仕事に集中しすぎていて、時間割に手間暇かける余裕がないとも感じる。
ちょうどいいところにちょうどいいやつが来た、って感じなんだろうなあと思う。便利な小人さん状態ですよ。
浅田真央の引退表明を受けて、いろいろ考える。
結局のところ、非常に日本人好みなフィギュアスケーターだったんだな、と思う。
「記録よりも記憶に残る」ってやつだ。それはある種の悲劇性を帯びた表現であり、ロマンの香りを放ち続ける。
ソチのフリー(→2014.2.21)はフィギュアの究極形として、これからも日本人に記憶されていくのだろう。ものすごく蛇足なんだけど、あえて書いてみる。浅田真央という人に僕は「皇室っぽさ」を感じるのだ。
批判が許されない雰囲気がなんとなくある点(まあそもそも批判する必要性がまったくないわけだが)、
勝負の世界に生きるアスリートではあるものの、妙に穏やかなふわっとした日常性を感じさせる点、などなど。
なんというか、育ちの良さ(→2015.1.26)による生まれながらの攻撃性のなさ、さらには敵の少なさを感じる。
まあフィギュアをやれるのはお金持ちの家に決まっているんだろうけど、それにしても純度の高い穏やかさだ。
思い出すのは潤平から聞いた話で、漫画家のSABEさんが「妹」をテーマにしたマンガを描いていたんだかなんだかで、
「究極の妹」とは結局、皇太子殿下の娘さんだという結論に至るのだが、さすがにそれは描けないわ、ってエピソード。
僕はそれを聞いて、なるほど「究極の妹」=「国民の妹」とは面白い視点だなあ、と大いに感心した記憶がある。
そして浅田真央を見ていると、僕はそのエピソードを思い出すのだ。日本人好みなのは、その悲劇性だけじゃない。
たぶん彼女は「国民の妹」としてわれわれを刺激する天性のモノを持っているのである。偉大ってことですよ。
今度の職場でも時間割担当に任命されてしまったではないか。仮の時間割を見せられて、修正できますか?と。
また時間割で苦労するのかと肩を落としつつ、チラッと見てみる。そしたらまさかの学年会が入っていないという、
信じられないクオリティ。しょうがないから修正作業を開始する。修正にあたっては関係各所に声をかけねばならず、
責任の所在がイマイチ不明確。なんというか、もうちょっとチームとしてまとまってほしいのだが……。部活ではゲームに初参加。ディフェンスの意識が低い中、賢くプレーすることはできたかな、という感触である。
表面的には実直で従順な雰囲気の部員ばかりで、指示を出すのは僕ばかり。おかげであっという間に声が枯れたぜ。
本日は通信制の大学の試験日である。前回の試験で当たって砕けた国際法(→2016.12.11)にリヴェンジなのだ。
実は過去問を分析しているうちに、出題の法則がどうにか見つかった。それで過去問6問分の要点を丸暗記して挑む。
フタを開けてみたら……本命の部分とともに、念のためにチェックしておいた周辺の部分も出たのであった。
読み自体はきっちり当たった格好で、暗記した内容を全力で解凍していく。いったい結果はどうなることやら。
土曜日の部活である。こちらのサッカー部はキャプテンがたいへん優れた選手で、都の選抜とのこと。
しかしどちらかというと技術よりも気持ちでプレーするタイプで、そこが本当にすばらしいのである。
(もちろん技術も立派なのだが、それ以上に気持ちがこもっている。性格も非の打ち所がないんだよなあ。)
そんな彼が主導して、生徒だけで手順を追ってきちんと練習をできている。これはすごいなあ、と惚れ惚れ。ただ、そこは中学生。知らず知らずのうちに「自分たちのやりたいことをやる」だけになっているのも事実である。
具体的には、とにかく1対1が基本。グラウンドが狭いのでそうなったのだろう。そして確かに技術は磨かれている。
でもそのせいで、ディフェンス部分が完全に練習のおまけ扱いになっている。オフサイドに対する意識もまるでない。
実際の試合になると通用しないであろう部分が多々あるので、ちょこちょこ声をかけて改善していきたいと思う。
入学式と初部活。担当は毎度おなじみサッカー部ということで本格的に彼らの練習を見てみたのだが、
3年生と2年生であまりにも力に差がありすぎる。まず3年生の人数が非常に多く、それだけで1チーム組める。
しかも体格のいい生徒が多い。対照的に2年生は人数はそれなりだが、線が細いのと重量級の両極端。身長もまだまだ。
そしてサッカー部最大の問題は、人数がかなりいるのに校庭が狭すぎること。どうにもならないが、致命的なレヴェル。
初任校も狭かったが、こっちはそんなもんじゃない狭さである。こりゃまた割り切って「クローズ」やりますかね……。
始業式である。今度の職場についてはまだいろいろと感触を探っている段階ではあるのだが、
どうにも個人のこだわりの強さから仕事を溜め込む傾向を感じる。つまりは僕と正反対の人が多いなと。
僕はこだわりがないわけではないが、余力とのバランスで妥協できる部分はどんどん妥協していくタイプ(と思う)。
だから「この仕事にはこれ以上のエネルギーを割く価値はないな」と感じると、ハイもうオシマイ、となる。
しかし周りを見回してみると、そういうタイプの人はどうも少なそうな気配。どうバランスをとっていくかなあ。
本来ならもちっと早く反応すべきことだったが、梯郁太郎氏が亡くなったということで、きちんと書いておく。
梯郁太郎という名前を聞いて何をした人かわかる人はそんなに多くないだろうが、僕は高校時代を中心に、
DTMやらMIDIやらでたいへんお世話になった方なのである。そう、電子楽器メーカー・ローランドの創業者だ。
もはやすっかり縁遠くなってしまったDTMだが、僕の10代の創作活動のほぼすべては梯氏のおかげでできていた。1990年代半ばのコンピューターミュージック市場はヤマハかローランドの2択だった。
圧倒的な勢力を持つ王者・ヤマハに対し、新進気鋭のローランドが挑むという構図を、僕は勝手に想像していた。
そしてMIDIに手を出すに当たり、さまざまな音源モジュールの聴き比べを行った結果、僕はローランドを選んだ。
ローランドの方がはるかに洗練されている音を鳴らすことができたからだ。正直、かなりの差があった。
長いものに巻かれることなく信念を持ってやりたいことをやるには、ローランドでなければいけなかった。最初に選んだのがSC-55mkII(→2009.12.20)。次世代の主力といった位置付けの機種だった。
過去ログにも書いたが、高校の物理班にはMT-32があって、こいつは世間的にも標準的な機種だったが、
そこからもう一歩高いレヴェルで音楽をやるにはSC-55mkIIがうってつけだったのだ。使い倒したねえ。
大学に入ってからはSC-88Proに移行。僕が20代で最も頼りにした楽器である。これはもっと使い倒した。
そしてDAWをやる必要性からSC-D70を使うようになったが、一貫してローランド製品を使い続けた。
DTMをまったくやらなくなってもDAWは健在で、UA-25EX、さらにUA-55と使っている(→2013.1.22)。
20年以上、つまり人生の半分以上をローランドのお世話になり続けているというわけだ。そしてこれからも使う。もうすっかり創作活動をやらなくなってしまったが、梯氏のおかげで僕は他人にできないことをやれた。
本当はチマチマとDTMを続けるべきだったのかもしれない。でも僕の中には確かな財産が残っているので、
今はそれでいい。そういうことにしておく。青春時代に強烈な相棒を与えてくれて、本当にありがとうございました。
異動して2日目、仕事が一気に進み出した感じである。新しい環境だからと様子を探るのも大事だが、
それ以上に大事なのは、まずは一生懸命さを見せること。なんとか食らいついていかねば、とがんばる。
校長が熱狂的な千葉サポだった。まあ、共通の話題があるのは歓迎すべきことですね。
天気予報が変なのだ。東海地方はおおむね好天だが、僕が滞在している静岡県だけ曇りと雨のマークがついている。
本来なら御前崎方面の市役所探訪をする予定だったのだが、さすがにその予報を目にしては躊躇してしまうではないか。
で、同じ静岡県でも西部の浜松市周辺には晴れのマークがついている。午前中はもつ、とのこと。ワケがわかりません。
結局、せっかく弁天島まで来ているわけだし、さらに西の湖西市役所を押さえたうえで袋井市役所と小國神社の再訪問、
というスケジュールを朝のうちに設定したのであった。とりあえず温泉にとことん浸かってやる気を充填してから出発。
L: 浜名湖南端に架かる国道1号・浜名バイパス。右端は弁天島の鳥居。小学校5年の名古屋社会見学で来たっけなあ。
C: 鳥居をクローズアップ。この辺りはもともと広大な陸地だったが、地震で水没して島が点在する地形になったとか。
R: リゾートっぽい演出の弁天島海浜公園。前にここに来てから10年も経ったのか……(→2007.9.17)。恐ろしいわ。弁天島駅の前を走る国道301号の脇には弁天神社。規模が小さく無人だが、御朱印が監視カメラ付きで置かれている。
僕としては御朱印よりも御守を置いてほしいのだが。とりあえず二礼二拍手一礼して弁天島を後にするのであった。弁天神社の拝殿。朱色ではなく赤色だと風格が激減するよね……。
さて湖西市役所の最寄駅は弁天島から2つ西へ行った鷲津なのだが、18きっぷパワーを行使してその手前で下車する。
その駅、新居町駅から10分ほど西へ歩いたところにあるのが新居関所だ。街並みは良くも悪くもそれを意識しており、
和風の意匠を凝らした建物が点在している。歴史に敬意を払うこと自体はいいのだが、結果が微妙なのがねえ……。
L: まずは地下道の出入口。けっこう大胆に冠木門の要素を組み合わせている。こういう事例は初めて見た気がする。
C: JAバンクの店舗。左側が減点だなあ。 R: 新聞の販売店。なんというか、純粋な熱意は感じるんだけどね……。東から西へと歩いていったので、現在の新居関所跡からすると裏手からアプローチする形になったようだ。
関所跡を眺めながらトボトボと道路を歩き、いったん敷地のぎりぎりいっぱいまで行ってから引き返す。
L: 消防団の詰所。左手前にあるのは纏の形をした電話ボックスである。この過剰なやる気の源は何なんだろう。
C: 現在の新居関所跡はこんな感じである。山の関所である箱根とは違い、新居は船着場を持つ海の関所なのだ。
R: 日本で唯一現存しているという関所の建物をクローズアップ。1855(安政2)年の改築なのでしっかり残ったのか。新居関所が設置されたのは1600(慶長5)年とされる。箱根関所(→2014.5.18)の設置に20年近く先行したそうで、
それだけ重視されていたとのこと。しかし度重なる地震が起こす津波によって、新居関所は何度も被害を受けている。
浜名湖南端の今切の渡しは4kmの長さにもなったそうだ。なお、現在は埋立てにより地形はだいぶ変化している。
朝早く訪れすぎたので新居関所の中には入れなかったが、日記を書いている今はけっこう惜しいことをした、という気分。
L: 西側から眺める新居関所の入口。 C: 新居関所の脇を通る国道301号。道幅はだいぶ広いが往時の雰囲気は残る。
R: 紀伊国屋資料館。その名のとおり主人が紀州の出身で、紀州藩の御用宿となっていた。建物じたいは明治の再建。新居関所の周辺は奇妙な再現建築も多いが、「ここを水路が通り、関所へ出入りする船が行き交っていました」、
「三河屋 卯平 伝馬所 江戸時代公用の書状や荷物を宿場ごとに伝馬所で人馬を交替して運んでいました」など、
具体的な内容を記した説明板があちこちにあって、かなり歴史遺産として意欲的であることを感じさせる。
いかんせん空間的には大きく改変されているので、何かこう、風景として強く体験できる要素があるといいのだが。新居町から1駅西へ進むと鷲津駅である。湖西市役所はここからしばらく西へ行ったところにある。
ただ、その途中に無視できない要素がいくつかあるので、寄り道しながらのアクセスとなる。まずは浜名湖れんが館。
もともとは1904(明治37)年築の、宮崎製糸鷲津工場の乾繭倉庫。現在は多目的ホールとして利用されている。浜名湖れんが館。
そしてさらに西へ進むと本興寺。本堂などが国指定重要文化財になっているので、いちおう寄ってみた。
境内は思った以上に大きくて、本堂までなかなかの奥行きがある。江戸時代には10万石の格式を誇ったのも納得。
L: 本興寺の山門。もともとは豊橋の吉田城の大手門だったそうだ。 C: 本堂へと続く参道。これがけっこう長い。
R: 本興寺は小堀遠州作とされる庭園もある。せっかくだから寄ればよかったのだが、この日はどうにも消極的……。長い参道の先を行くと、木々に囲まれてやや湿った雰囲気となっている空間の中にたたずむ本堂の前に出る。
1552(天文21)年の築ということで、苔生した茅葺き屋根のせいもあって、大いに風格を感じさせる堂宇だ。
どの角度から眺めても同じようなバランスで映るのが面白い。しかしひとつ非常に残念だったのは、
本堂の手前でスマホに夢中のおじさんたちだ。ポケモンGOなのか何なのか、妙な群がり方をしているのだ。
いい歳こいて文化財の存在を無視してポケモンGOをやっているおじさんおばさんは、本当にみっともない。
L: 本興寺の本堂。屋根が非常に大きくて、やや独特な形をしている。小さい向拝だけ瓦葺きなのも珍しい。
C: 側面。正面よりも安定感があるように思う。 R: 背面。全体的には均整のとれた建物という感じ。本興寺を後にすると、ぐるっとまわり込んで湖西市役所を目指す。古見川を超えると、そこが市役所。
雰囲気としては町役場に近い。湖西市の市制施行は意外と古くて1972年。しかしもともと6町村からなる市であり、
そのバラバラ感が今も解消されないまま、市役所の存在が開発の核となることがないまま、今に至っている感じだ。
(なお、先ほどの新居関所があった旧新居町は、2010年になってから湖西市に編入されている。)
L: 湖西市役所。公式サイトに「昭和49年(1974年)12月 市役所新庁舎業務開始」とあるので1974年竣工と思われる。
C: 敷地内に入って近づいてみたところ。 R: そのまま玄関前まで進む。ガラス張りのホールは70年代には珍しい。
L: 敷地の一周を開始。南西側から見たところ。 C: そのまま西側へとまわり込む。 R: 西から眺めたところ。
L: 北西側、駐車場越しに眺める背面。 C: 湖西市役所の東側は古見川が流れている。 R: 南東側より眺める。古見川を挟んだ市役所の東には湖西市民会館。ただ、入口は封鎖されていたので建て替え計画が進んでいるのだろう。
こちらは市役所よりも一歩早い1973年のオープン。湖西市は市制施行から1年ごとに大きな動きがあったというわけだ。
L: 湖西市民会館。 C: 正面から見るとこんな感じ。 R: 南東側より。シンプルな正面と違い側面は少し個性的。市役所の撮影を終えると、さっきとは異なるルートで駅まで戻り、少しでも「湖西市らしさ」を実感しようとする。
さっき本興寺があった国道301号が旧道で、西側のバイパスの方を南下するが、ふつうにロードサイド店舗が点在。
古見の交差点で東に入り、県道3号で駅を目指す。坂を上って下って鷲津駅に近づくと少し細やかな雰囲気になる。
まあそれはつまり再開発によるものだろう。店舗がなんとなく新しい。なんだか淡々としたままで駅に着いてしまった。駅に近づくと再開発の匂いがする。「湖西市らしさ」はイマイチわからず。
鷲津駅から東海道線を東に戻り、浜松も通り越して袋井へ。昨日の日記でも書いたが、旧袋井宿と袋井市役所は、
雨の中ですでに経験済みである。なので今日は、とっても要領よく撮影してまわることができるというわけだ。袋井駅からまっすぐ北へと進んでいって、静橋を渡って交差点に出ると袋井宿場公園がある。しかしここから西へ。
250mほど行ったところで沖之川にぶつかる、そこが袋井宿の西端である。「従是 袋井宿」と書いた柱があり、
高札場を再現したポケットパークとなっている。というわけで、ここから東へと歩いていって市役所を目指すとする。
L: 沖之川の手前、袋井宿西端のポケットパーク。 C: 袋井宿場公園。 R: 公園内はこんな感じで整備されている。袋井宿は東海道五十三次の27番目ということで、ちょうど真ん中の宿場である。街道らしい雰囲気はしっかり残るが、
建物はけっこう更新されている。その分、跡地をポケットパークとして歴史を語る空間とする工夫をしている感じだ。
失われてしまったものは戻ってこないので、それはそれで潔い姿勢だと思う。東海道らしいプライドを感じさせる。
L: 袋井宿東本陣(田代壱番御本陣)跡。旧袋井宿には古い建物がないが、ポケットパーク化にはかなり積極的だ。
C: 敷地の奥から見たらこんな感じ。 R: 緩やかなカーヴが近世の歴史を静かに物語る。空間の感触は昔ながらのもの。袋井宿の全長は600mほどで、すぐに東端にたどり着いてしまった。そこにはその名も「東海道どまん中茶屋」がある。
「たまごふわふわ」と書いてあるのぼりがあったが、これは袋井市が売り出しているB級グルメ。ちょっと信じられないが、
江戸時代すでにそういう名称で存在しており、袋井宿で出された記録が残っているという。昔も今も大人気なようで。
L: 袋井宿の東端に向かって最後は急激なカーヴとなる。この写真はそのカーヴを振り返ったところですな。
C: 東端、東海道どまん中茶屋。 R: 宿場のすぐ手前の天橋にある「これより袋井宿」の石碑と弥次喜多の顔ハメ。袋井宿の東端からすぐ北にあるのが袋井市役所。1982年の竣工で、設計は村井敬(村井敬合同設計)とのこと。
公式サイトで調べてみたら、市庁舎では常陸太田市や武蔵野市、所沢市、港区庁舎を手がけているようだ。
県庁舎の議会棟も宮城県と沖縄県で担当しているが、これらはどれも日建設計在籍時の設計である。なるほど。
L: 袋井市役所。まずは南西側。 C: 南東側。袋井市役所は東西に長く、南側にオープンスペースを広くとっている。
R: もう少し東側に寄ったところ。まあ、とっても1980年代の組織事務所らしい手堅いデザインであると思う。
L: 道路を挟んで東側から眺める。こちらはぜんぜん幅がない。 C: 庁舎の手前に広場があり、そこから眺めてみた。
R: 広場はこんな感じで整備されている。日陰がないのはちょっとつらいかなあと。レンガも劣化しつつある。
L: 北西側より。 C: 北側は敷地にまったく余裕がなく、隣接する郵便局の駐車場越しに眺めたところ。
R: 袋井郵便局の西側、沖之川の辺りから遠景で眺めたところ。なんというか、The 直方体って感じである。日曜日なので中には入れない。しょうがないので外から覗き込んだが、窓ガラスがあまりきれいじゃないのが残念。
中に入ると即、1980年代らしいホール空間となっている模様。各フロアの案内の下に定礎があったのが実に奇妙だ。中はこんな感じで、いかにも1980年代らしい。
宿場と市役所を訪れたので、これでいちおう袋井市はクリアとする。本当なら遠州三山も訪れたいところだが、
どこもなかなか遠くて歩きでは厳しいのでパス。それよりは遠江国一宮の小國神社の御守を優先させるのだ。というわけで遠州一宮駅にやってまいりました。
掛川まで戻って天竜浜名湖鉄道で遠州一宮駅に到着。前回同様(→2013.3.10)、無料送迎のお世話になる。
この距離は歩きだと面倒くさいんだよなあと思いつつ揺られること10分ほどで小國神社の駐車場に到着である。
L: 4年ぶりに小國神社に来ました。やっぱり参拝客が多い。 C: 参道入口。 R: 一宮は特別だと実感できる参道。
L: 途中にある事待池。願掛けをして願いが叶うとこの池に鯉を放つんだそうだ。左は八王子社で右は宗像社。
C: 全国一宮等合殿社。境内各所にあった73柱をひとつにまとめたもの。すべての一宮、制覇したいねえ!
R: ではいよいよ拝殿へ。小國神社はかつて楼門があったが、1882(明治15)年に火災に遭って二の鳥居となった。
L: 鳥居をくぐったところ。右手は舞殿と舞楽舎。 C: 拝殿の手前から舞殿と舞楽舎を振り返ったところ。
R: 小國神社の社殿は火災後の1886(明治19)年に再建されている。拝殿の向かって右に並んでいるのは神徳殿。
L: 角度を変えて眺める拝殿。 C: こちらは神徳殿。 R: 奥の本殿を覗き込む。大己貴命を祀る大社造だそうだ。参拝を終えて御守を頂戴すると、バスの発車時刻になるまで境内の脇にある「小國ことまち横丁」で過ごす。
やはり参拝客でいっぱいで、人が派手に写り込まないように写真を撮るのが本当に難しかった。賑わっているなあ。
L: 小國ことまち横丁。2008年にオープンしたそうだが、今日も繁盛しているようで何よりです。
R: イヴェントも積極的に開催されている模様。どうやらこれから大正琴の演奏があるみたい。バスに揺られて遠州一宮駅まで戻り、掛川から青春18きっぷといういつものスタイルで帰るのであった。
急遽予定を変更したけど、きちんと充実した旅になってよかった。御前崎方面へのリヴェンジ、いずれ果たさねば。
異動なのでこの春はあんまり派手に動くつもりがなかったのだが、なんにもなしというわけにはいかないのだ。
J1第5節には磐田×清水というカードがある。会場は静岡県小笠山総合運動公園スタジアム、いわゆるエコパだ。
昨年は清水がJ2、その前は磐田がJ2ということで、静岡ダービーの開催は4年ぶり。これは観に行かなければ!青春18きっぷをかざして横浜駅の改札をくぐり、国際法の対策を練りながら東海道線に揺られる。
三島でいったん下車して始発の浜松行き7時48分発に乗ろうと思ったら、なんとトラブルのあおりで運休とのこと。
どうもこの春は東海道線がなかなか思いどおりに動いてくれねえなあ、とイヤな予感がする(→2017.3.19)。
それで喫茶店でもねえかと北口をウロウロしていたら、遅れていた7時11分発の浜松行きがスタンバイとアナウンス。
慌ててホームに戻って列車に乗り込むと、確認作業を経てその7時11分発は45分遅れで出発したのであった。
結果として、掛川に着いた時刻は僕の当初の予定よりも早くなった。狐につままれた気分とはまさにこのことか。
列車が遅れたおかげで目的地に早く着くっていう経験は初めてじゃないかと思う。不思議なこともあるものだ。さてそんなわけで掛川である。静岡ダービーのキックオフは15時なので、午前中を有効活用するしかないじゃないか。
しかしこの近辺の市役所はだいたい訪問済みなので、事任八幡宮(→2012.12.24)をもう一度参拝しておくのである。
5年前は冬の日差しがキツすぎて明暗の極端な写真になってしまったので、曇天なりに落ち着いた写真を撮ろうと。
掛川駅の北口から出る小型のバスに揺られて20分ほどで、八幡宮前のバス停で下車。うーん懐かしい。往路のバス停は日坂の入口付近にある。目の前に事任八幡宮の奥宮入口。
事任八幡宮を参拝するのはこれが二度目だが、あんまりそういう気がしないのはなぜだろう。3回目くらいな気分。
境内脇の県道には神社らしく赤い歩道橋が架かっているが、5年前はこうじゃなかった気がする。記憶がホント曖昧。
首を傾げつつ石の橋を渡って境内に入ろうとしたところ、そのカーヴのてっぺんで靴の底が滑ってそのまま転んだ。
サッカーのトレーニングシューズはけっこう滑りやすいのである。雨で濡れていたし微妙な苔具合もあってやられた。
左の背中から腰にかけてを強打してその場で悶絶する。さらに転んだ際に変に力が入ったせいで左腕の筋肉も痛い。
結局は大事に至らなかったのだが、なんとも朝からドタバタだなあとしょんぼり。やっぱり雨って嫌いだ。
L: 神社らしい色合いで整備された事任八幡宮前の歩道橋。5年前はこうじゃなかった気がするんだけどなあ……。
C: 境内の入口。雨の日には気をつけよう。絶妙なカーヴのせいで直立姿勢のまま転んだ。 R: 境内の様子。5年前と違って雨がうっすら降っているが、そのおかげか境内はかえってもともとの静謐な感じが強調されている。
さすがは一宮で参拝客は少なくなく、安定したペースでやってくる。落ち着いて写真を撮るのはちょっと大変だった。
L: 左に折れて社殿。手前には天然記念物の大楠。 C: 拝殿は一段高いところにあるのだ。 R: 横から眺める。今回も御守を頂戴したが、5年前には本格的に御守収集をしていなかったのでそんなに気にしていなかった。
あらためてラインナップを見てみると、けっこう種類が豊富である。やっぱりさすがは一宮なのだと実感した。
バスの時刻になり、「ことのまま」に願いが叶うといいですなあ、と思いつつ事任八幡宮を後にするのであった。
L: 本殿脇にある御神木の大杉。 C: その反対側から眺めた本殿。 R: 拝殿付近から境内を見下ろしたところ。掛川駅に戻ると昼ご飯をいただいて袋井駅へ移動。雨の中で旧袋井宿と袋井市役所の撮影をしたのだが、
結局は翌日に晴天の下で撮り直すことができたので省略。まあ、いいロケハンができたと思えば。静岡県小笠山総合運動公園スタジアム(以下、エコパ)の最寄駅は愛野で、袋井と掛川の間にある。
さっき掛川から袋井に移動した際にも静岡ダービー目当ての乗客ですでにかなりの満員状態だったのだが、
掛川方面に戻る列車も大混雑。改札はボトルネックでしっちゃかめっちゃかだが、18きっぷはすんなり通してもらえた。
やっぱり駅員さんもその辺はわかっているんだなあと感心。それにしてもキックオフ2時間前とは思えない混み合い方だ。
L: 愛野駅の駅舎から見下ろす行列。左上の山の中に埋もれている白い物体がエコパ。徒歩で15分ほどの位置になる。
C: エコパへ向かう道にはアート作品が点在している。 R: これとか出オチなんだけど非常に強烈。よく思いつくな。帰りの超絶混雑ぶりを想像して身震いしつつ、坂を上ってスタジアムへ。やがてエコパがその姿を現した。
スタジアム自体が大きいのと観客が多すぎるのと山の中にあるのとで、泣きたくなるほど撮影しづらい。
それでも初訪問のスタジアムなので、一周しながらがんばってあらゆる角度から撮っていく。大変だったわ。
L: 手前の道路越しに眺める静岡県小笠山総合運動公園スタジアム(エコパスタジアム)。2002年W杯では3試合を開催。
C: 正面がどうにもならないのですこし脇にずれて撮影。 R: 側面。屋根は外側から引っ張っている構造なのね。エコパは一周できるけど、サイドスタンド側に余裕がない。それに比べてバックスタンド側は広大である。
キックオフまで2時間を切っており、入場を開始してしばらく経っているはずなのだが、行列がやたらとすごい。
L: 左がアウェイ側サイドスタンド、右がバックスタンド。 C: バックスタンド側は余裕があってよい。 R: 側面。一周して戻ってくる。今回は磐田のホームゲームなのでサックスブルーのユニフォームがやや優勢なようだが、
清水のオレンジも負けてはいない。サッカー王国・静岡のプライドをビンビン感じながら撮影を進めるのであった。
L: エコパアリーナ前から撮ったところ。 C: メインスタンド。 R: 五郎丸ポーズをとるハナ肇がいたよ!すげえ行列だなあと思いつつ撮影をしていたわけだが、よく考えたら入場する際には自分にも降りかかってくるのだ。
今回は奮発してメインスタンド指定席にしておいたのだが、行列はサイドスタンドの方までしっかりと延びていた。
あまりに長すぎてどこに入る行列だかわからない人が続出していた始末。オレも確信のないまま並んでいたし。
入口から120°くらいあったんじゃないかと思う。結局、手荷物検査の担当が少ないせいで大混乱になっており、
これは明らかに運営側のミス。キックオフに間に合わなかった人もいたという話だからかわいそうである。スタジアム前では鷹匠がワシミミズクを飛ばしていた。かわいいのう。
席は前から6列目でたいへんいい具合だったのだが、風の具合によって雨粒がギリギリかかる位置で少し面倒。
あと、真後ろの清水サポがたいへん頭の悪い男で、スマホを口の中に叩き込んで歯を折って黙らせようかと思ったが、
さすがにそれは最終手段なのでやめておいた。それくらい不快だった。オリジナル10のサポならもっとサッカーわかれよ。
L: メインスタンド側を眺める。 C: ピッチを眺める。 R: 選手紹介で気勢を揚げる磐田のゴール裏。さて試合の見どころは、なんといっても中村俊輔。横浜FMからまさかの移籍で磐田に加入し、注目を集めている。
対する清水は大前が抜けたものの、鄭大世が昨季(→2016.10.23)同様、強烈なリーダーシップで引っ張っている。
両チームとも順位は10位前後と調子が上がっていないが、この静岡ダービーをきっかけに浮上したいところだ。
スタジアムのヴォルテージが上がる中、試合球はヘリコプターが持ってくるということで、南側から轟音が。
ヘリの登場は前にも経験があるが(→2015.8.8)、やっぱり強烈な迫力である。しかし雨の日にそれをやられると、
ヘリの起こす猛烈な風がスタジアム全体に水分を撒き散らしてしまうのがなんとも。入場直前いきなりの爆音にも驚いた。
一瞬、テロかと思ってしまったではないか。なんか感覚がズレている感じがする。運営はもうちょっと考えようよ。
L: 清水のゴール裏。 C: 試合開始直前に出たフラッグ。この羽のデザイン、よく見るとバブルの匂いがすごく強いね。
R: ヘリがボールを落とす。でもその強烈な風が雨粒を観客席にまで派手に撒き散らすのであった。ピッチ付近の人は大変。試合が始まると清水がテンポよくボールをつないで磐田のゴールに迫っていく。磐田は押し込まれて苦しい展開となる。
磐田は今季、「繋ぐ」というキャッチフレーズを採用しているのだが、それを実行できているのは明らかに清水の方だ。
ところが先制したのは磐田で、6分に中村俊輔の緩やかな弧を描く意表を突いたFKからDF森下がヘッドで合わせた。
らしくない軌道に清水の選手たちが戸惑っているところを刺したゴールで、喜ぶ磐田イレヴンの雰囲気はかなり良い。
その後もJ1らしい落ち着きを見せて清水がボールを保持するが、GKカミンスキーの好セーヴもあり磐田が守りきる。
やがて37分、今度は左サイドから俊輔のFK。競り合いからこぼれたところをフリーのムサエフが決めて2-0となった。
L: 磐田が先制した際の中村俊輔のFK。明らかにふだんとフォームが違う。柔らかいボールはドンピシャでDF森下の頭に。
C: ムサエフの追加点。俊輔のFKからのこぼれ球を冷静に叩き込んだ。外でフリーの状況をつくったらこうなっちゃうよね。
R: ヘディングを競り合う川又。磐田は基本的に川又に当てるところから攻めていくサッカー。存在感は実に大きかった。磐田の攻撃はとにかく前で張っている川又に当てるというもので、どこが「繋ぐ」やねん!と言いたくなる内容。
しかしそんなただ放り込むサッカーになりそうなところを、俊輔が関わることでガラッと別の味を付ける感じなのだ。
前半は攻められっぱなしだったものの、俊輔のセットプレーをしっかり決め切って少ないチャンスを生かしきる。
真面目にボールをつないで攻める清水にしてみれば、たまったもんじゃない展開だ。しかしこれがJ1のサッカーでもある。48分、俊輔のスルーパスを川又が落として最後は川辺。見事な崩しだ!
そして後半が始まってわずか3分、決定的な3点目が磐田に入る。俊輔のスルーパスが前を走る川又の足元に入る。
そう思った瞬間、川又は左足アウトサイドで中へ折り返す。これを川辺が決めて3-0。この崩しは本当に美しかった。
ぜんぜん「繋ぐ」じゃないじゃんと思っていたが、それまで清水が見せていた以上の鮮やかなプレーが出て思わずため息。
試合が始まった当初は明らかに清水の方がいいサッカーだったのだが、中村俊輔という存在がそれをひっくり返した。
俊輔が磐田に移籍した理由、それをこの静岡ダービーという大舞台をいい機会にして最大限に見せつけた、そんな感じ。
エコパは完全に中村俊輔という色に染まってしまった。気がつけばそれはサックスブルーだった、そういう試合だ。
得点こそ6分、37分、48分と比較的早い時間帯に集中していたが、時間が経過するにつれ俊輔の存在感は増すばかり。
守備では確実に清水の攻撃を切り、右サイドだけでなく左サイドにまでも顔を出して清水の隙を衝くパスを出す。
俊輔は明らかに後半の方が多くボールに触っており、そこから完全にゲームを支配していた。俊輔で試合が動いていた。
L: 俊輔はもともとドリブラー。相手が接触してもボールを失わず、安全な味方に確実にボールを出す技術がとんでもない。
C: 足の裏を使ってボールをキープしているシーン。俊輔の活躍を支えるのはきわめて高い基本技術だと実感させられた。
R: パスを出す瞬間。スルーパスにサイドチェンジにと、見えているところの違いがすごかった。ボールも全然失わないし。まあこの日の俊輔のプレーは別格として、やはりJ1の選手は上手いなあと感心させられるプレーが多かった。
J2レヴェルと何が違うって、とにかく「予測」である。観客の想像する一枚上を行くプレーを連発するのである。
将棋なんかと同じだろうけど、相手がこう動くからこうする、という予測が二手も三手も先を行っているのだ。
よくそこまで(未来が)見えているなあというプレーがとにかく多い。この部分は本当にJ2とまったく次元が違う。
L: 攻める清水。鄭大世のヘッドを抑えるGKカミンスキー。J1を戦うにあたってカミンスキーがいることはかなり大きい。
C: さらに攻める清水。シュートは枠を逸れるが、跳びながらそれを見送る余裕のあるカミンスキー。すげえなあ。
R: 磐田の選手がボールを掻き出す決定的瞬間。オープンな展開のJ1の試合は技術の高さが堪能できてたまりませんな。懸命に攻める清水は最後の最後、鄭大世がパスがワンバウンドしたところをトラップで浮かせてオーヴァーヘッド。
このとんでもないゴールが決まって一矢報いたものの、直後に3-1で試合終了。最後の最後まですごいゲームだった。
なお、僕の真後ろにいたクソ野郎は磐田の応援に悪口を言い続け、敗色濃厚になると清水の選手に悪態をつきはじめ、
試合終了前に帰ったせいで最後の鄭大世のゴールを見逃したのであった。ざまーみろ。それにしても疑問なのは、
彼は何を応援しているのか、ということ。自チームの選手を貶めて、じゃあ誰を、何を応援しているの?と不思議に思う。
そういう人間がまとわりつくのは、清水エスパルスというクラブにとっても迷惑だろう。ペルソナ・ノン・グラータだな。
L: 94分、鄭大世の自分でトラップしてボールを浮かせてからのオーヴァーヘッドが炸裂。とんでもないものを見た……。
C: 清水のサッカーはスコアほど悪い内容ではなかったが、サポーターは容赦なくブーイング。それがダービーなのだ。
R: こちらは名前のとおりに歓喜のジュビロサポ。締めるべきところを締めての勝利は今後につながりそうだ。予想したとおりに帰りも大混雑なのであった。愛野駅の駅舎に入る前の段階でけっこうな行列なんだもんなあ。
でも駅の方では対応に慣れており、掛川方面と袋井方面に分けて一方通行の通路を設定することでしっかり対処。
おかげで意外とスムーズに列車に乗り込み、予定よりもずっと早い時間に浜松まで出ることができた。助かった。駅舎に入るまでに大行列の愛野駅。ヒー
浜松で晩飯をいただくと、駅のカフェが混んでいたのでさっさと宿に移動してそっちで写真の整理をすることにした。
今回は弁天島のちゃんとした旅館にお安く泊まったのだが、温泉もあって非常に快適でございました。たまらんのう。