通勤電車で読書はそれなりに進むのだが(→2017.6.20)、日記を書く暇がまったくないのがつらい。
部活が終わって多少の作業をして帰る。そうすると、日記を書ける時間が1時間あるかないか。ゼロも珍しくない。
そもそも日記を書くのにはある程度のまとまった時間が必要だ。まずネットで資料をそろえるのに時間がかかり、
書き出してから勢いに乗るまでも、やはり少し時間がかかる。たとえるなら、飛行機のようなものだ。
離陸前には滑走路まで移動する必要があり、離陸してもシートベルトをはずせるようになるまで時間がいる。
それであっという間に着陸態勢に入ってしまうようでは日記はぜんぜん進まないのである。これはまいった。そんな日記の進み具合なので、夏休みの予定を立てるのに罪悪感をおぼえる。でも今から考えないと間に合わない。
旅行したら旅行したで、また確実に負債が増えていく。今までにない苦境に陥りつつあるのがわかる。困った!
テストの戦後処理に部活に授業準備にと、こまごました仕事が多くて全然ペースがつかめない。
そしてそれらのあおりを受けて、日記が非常にヤバいことになっている。ちょっとこれは八方塞がり。
iPodが不調で本気でがっくりだよ。もはや公式には手に入らないiPod classic(→2014.9.10)を便利に使ってきたが、
いよいよ限界を迎えてしまった。ついにこの日がやってきたかと。いったい僕はどうやって音楽を聴けばいいのかと。
こうなったらもう、ソニーのウォークマンでいわゆるハイレゾに手を出してみるのも一興かなと思いはじめる。元がMP3なんだからそんな大した音にはならないんだろうけど、解像度の高い音楽というのはやはり気になる。
Blu-spec CD2をきっかけに音質について考えた過去ログをあらためて参照してもらうといいが(→2015.7.4)、
音質というものは、ソフトの「解像度」とハードの「音圧」の掛け算である、なんて具合に僕は考えているのだ。
で、ポータブルミュージックプレイヤーに音圧は直接関係ないので(BOSEのヘッドフォンを使えばいいのだ)、
そうなりゃ解像度の高い音源、つまりハイレゾ音源で毎日の音楽生活を充実させられるのではないか?となるわけ。仕事帰りに家電量販店でハイレゾ音源を試聴してみる。するとああやっぱり、ルームシアターがコンニチハって感じ。
いかに音波の振動をリアルに再現するか、またいかに全身に近い表面積で音楽を体感させるか、そういうこだわり。
しかしこれはつまり、「音圧」へのこだわりではあるまいか。「音の粒立ち」すなわち「解像度」については、
僕には違いがイマイチよくわからなかった。まあ所詮MP3であれば、大した差にはならなさそうな気がする。
それよりは、アウトプットする側(ヘッドフォンやスピーカー)で、価格と性能のバランスにどう妥協するか、
むしろそちらの方が重要であるように感じた。……まあそれはそれとして、プレーヤーの方をどうするか。頭が痛い。
なんかテストのときは学校の雰囲気がぜんぜん違うなあと。勉強に対して熱心であること自体はすばらしいが、
自分が評価される場面のときだけ目の色を変えるというのは、それはそれとしてどうなの、という気もする。
この学校の特徴として、まあこの学校だけに限らず現代的な奇妙な価値観と言えそうな気もするんだけど、
「自分を褒めてくれる人は良い人、自分の欠点を指摘する人は認めてくれない悪い人」という考え方が強い感じ。
どうも自己評価が絶対的で、相対的ではない感じなのだ。まず自分の感覚ありきな感じ。つまりは自己中心的。
だから努力も自分の決めた方向性だけでがんばる。努力するタイミングも自分の決めたタイミングだけに絞る。
他人のアドヴァイスは気に入ったものだけ取り入れる。気に入らない指摘は聞かなかったことにする。
上手くいかなかったら相手のせい。自分のやる気をそぐことを言ってきたやつがいるから調子が出なかった。
……なんというか、脆いなあと。きみの努力は付け焼き刃だね、と言いたくなるような生徒が多いなあと思う。
5時半には宿を出て、最寄りである五稜郭駅へと向かう。こんな早い時間に面倒くさいが、しょうがない。
ここで早朝の列車に乗っておかないと、今日の予定が回らないのだ。むしろ計画が成立するだけありがたいのだ。さて、本日最初の目的地は「森町」である。小國神社や森の石松でおなじみの遠州森町ではない。
駅弁の元祖・いかめしでおなじみの、北海道の森町だ。わたしゃ昔っからいかめしが大好物でねえ。
(でも両者は姉妹都市提携を結んでおり、小國神社の小國ことまち横丁ではいかめしを売っていた(→2013.3.10))。
しかしなぜわざわざその本場に行くのかというと、地図を見ればわかるように、2つの支線が走っているから。
南側で新函館北斗駅を豪快にすっ飛ばすのが藤城支線、北側で海沿いに北海道駒ヶ岳をまわり込むのが砂原支線。
この2つの支線をクリアしないことには、JR北海道の乗りつぶしが完了しないのである。もう本当につらいぜ!七飯駅を出た列車は東に舵を切り、山裾を行く。それだけ。これで藤城支線はクリアである。まあでも、
高架で市街地を見下ろしながら快調に進むのはなかなか気分がいい。そしてトンネルを抜けると大沼駅である。
ただし大沼駅の目の前に広がるのは小沼だ。ここから列車は大沼公園駅を豪快に無視して砂原支線に入り、
今度こそ大沼の脇を抜け、海を目指して走っていく。やがて北海道駒ヶ岳の重力に引っかかるように裾野をカーヴし、
草地の合間に海を眺めながら終点の森駅へと入る。今日は平日ということもあってか、学生の利用がかなり目立つ。時刻は7時半を過ぎたところ。こんなに早いと特にやることがなくって困る。しかも、帰りの列車まで2時間半もある。
とりあえず森町で何か名所はないのかとあらかじめ調べてみたのだが、特にこれといったものがないのである。
定番の役場と神社は当然押さえるとして、あともう何かひとつ。どうにか引っかかったのがオニウシ公園で、
商店街の様子を探りながら公園までのんびり歩いてみることにした。天気もよくなってきたし、ポジティヴに歩く。
L: 森町役場。坂の途中にある。 C: 南側から見たところ。 R: 坂の下の方、北東側より眺める。森町は2005年に砂原町と合併して新たな森町となったが、古い森町の年表と合わせてPDF化されているので助かる。
それによると、役場が現在の位置になったのは1925(大正14)年のこと。そして1967年に現在の庁舎が完成している。
しかし新たな森町の年表には2006年に「役場増築庁舎完成(1月)」とあるので、その際にリニューアルした感触だ。
また、坂を下った隣の敷地は森町公民館(森町福祉センター)となっている。教育委員会はこっちにあるとのこと。
L: 森町公民館(森町福祉センター)。 R: 「ぼく、よめ太」。森町図書館のキャラクターらしい。坂を上ってどんどん南へ歩いていくと、オニウシ公園に到着である。オニウシとは漢字が連想される「鬼牛」ではなく、
「樹木の多くある所」という意味のアイヌ語。森町とはこのアイヌ語を日本語の意味に置き換えて生まれた地名なのだ。
園内は確かに緑が多い。北海道らしい「植物たちの王国」(→2012.7.2/2013.7.23)を思わせる勢いで茂っている。
L: オニウシ公園の入口。もうちょっと凝ればいいのに、と言いたくなる地味さである。さり気なさすぎる。
C: 中にはキノコやらタコやらで変にメルヘンチックな一角も。 R: 中心部にある噴水。ちょっと鬼牛っぽい。オニウシ公園の南西端には、「道の駅YOU・遊・もり」がある。公園併設の森町展望物産館プラザを整備したもので、
屋上が展望プラザとなっており、オニウシ公園越しに森町そして内浦湾を望むことができる……と言いたいのだが、
園内の植物の勢いが強すぎて、眼下はわりと緑一色。もっと高さが欲しかった。いかめし販売はさすがに充実。
L: 角度を変えて噴水を眺める。これは噴水というよりむしろ、水を上から落としているオブジェね。
C: 国道5号に面する道の駅YOU・遊・もり。 R: 屋上の展望プラザから見たオニウシ公園。うーん……残念。市街地に戻ると気ままに写真を撮りながら歩く。さっき述べたとおり森町はアイヌ語経由でついた地名だが、
都市空間の印象としては街道と開拓地の中間タイプという印象である。沿岸を走る道道1028号が集落をつなぐ街道で、
この道をもとに商店街が形成される。昨日の松前町と同じ感じだ。しかし内陸へと坂を上がっていく街路は矩形。
もっとも、1961年の森町大火では市街地の1/3が焼失したそうで、その影響もかなり大きそうだ。ニンともカンとも。
L: まっすぐ走る道道1028号が森町の中心である。この道は駅前の大通りという要素も併せ持っている。
R: 森駅の東側にある通り。こちらも矩形の区画で、小規模な店舗が点在する場所となっている。かつての森桟橋跡からまっすぐ進んでいったところに位置しているのが、森町稲荷神社である。
現在のメインストリートである道道1028号からだと境内入口は本当に目立たないのだが、高台の端という好立地だ。
石段を上がって振り返ると店舗が真正面に立ちはだかるが、辛うじて海が見える。内浦湾の対岸もうっすらと見える。
もしこれがすっきりと見渡せれば、往時の地理感覚がつかめるだろうに。森町はいろいろともったいない。
L: 道道1028号に面する森町稲荷神社の参道。これはちょっと切ない。森桟橋跡とともに目立たせてほしいなあ。
C: 拝殿。海を見つめて鎮座する。 R: 側面とともに本殿を眺める。ちなみに境内の東側に図書館がある。そろそろ時間なので駅へと戻る。忘れてはならないのは、いかめしだ。駅の脇にある店舗で大々的に売っており、
あたたかいいかめしを1箱頂戴する。いかめし好きとしては、これでようやく聖地巡礼ができた。実にうれしい。
L: 森駅。だいぶ寂れ具合を感じてしまう外観である。いかめしパワーでもうちょいなんとかならんものか。
C: 駅の脇にある柴田商店。いかめし看板、いかめし暖簾、いかめしのぼりにいかめしベンチといかめしづくし。
R: 森駅のホームすぐ北側は海である。列車がホームに滑り込んでくる様子は実に風情があっていい。帰りは素直に函館本線の本線で戻る。列車が動きだすとさっそくいかめしをいただく。もうたまりませんなあ。
あっという間に食べ終わってしまうのが悲しい。これなら5箱くらい買って一日中いかめしでもよかった気がする。
L: 森のいかめし。この外箱がたまらん。 C: 中身を見るともっとたまらん。大変おいしゅうございました。
R: 大沼か小沼かようわからんが、とりあえず列車内から大沼公園周辺の光景を撮影。人気の理由がイマイチわからん……。新函館北斗駅で快速のはこだてライナーに乗り換える。なんだかデジャヴだが、今日は途中の五稜郭駅でまた乗り換え。
北海道新幹線の開通により、ここから西へは第三セクターの道南いさりび鉄道となってしまった。ちょっと切ない。
次の目的地は15分ほど揺られた清川口駅のすぐ南、北斗市役所である。駅に近い市役所はたいへんありがたいのだ。
L: 北斗市役所。1983年竣工の旧上磯町役場が合併によって北斗市役所となった。 C: 近づいてみたところ。
R: さらに近づいてみたところ。一見地味だが、実はかなり大胆な2段階ピロティのエントランスとなっている。北斗市は2006年に上磯町と大野町の合併により誕生した。市役所は上磯町役場をそのまま利用しているが、
なるほど3階建てでコンパクトな四角形という規模は町役場らしさを感じさせる。地味な配色も80年代らしい。
L: 西側にまわり側面を眺める。 C: 真横から見たところ。 R: 北西側より。質実剛健って感じだなあ。敷地を一周しながら撮影するが、さっきも書いたとおり市役所のすぐ北側が清川口駅なので、駅をまたいで一周する。
建物の東側にも広い駐車場があるが、午前中の日差しを避けるためかこちらは窓を奥まった位置にする工夫がある。
そのため、道路に面している外側よりも駐車場に面している内側の方が凝っているという珍しい感触となっている。
L: 清川口駅越しに眺める北斗市役所。 C,R: 東側は日差しを避けるためか、ちょっと凝った感じに。駐車場も広い。平日なので市役所の中にお邪魔してみる。まず2段ピロティのエントランスは、実はそのままアトリウムとなっている。
ふつうは入口にあるガラスの自動ドアを抜けてからがアトリウムとなっているものだが、北斗市役所の場合は逆で、
アトリウムの中を右手にある入口へと向かい、そこで自動ドアを抜けて建物の中に入る形となっているのだ。
そして入口付近も大胆な吹抜となっていて、公式キャラクター「ずーしーほっきー」のグッズも展示されている。
新幹線の駅があるだけでなく、トラピスト修道院(→2014.3.23)など観光資源もきちんと持っている市だけあり、
ソフトでもハードでもどこか余裕を感じさせる。合併で市となったことで存在感が増した好例と言えそうだ。
L: エントランスから中に入るといきなりアトリウムなのだ。 C: 自動ドアを抜けて内部。やはり吹抜で開放感あり。
R: 階段の脇にある、ずーしーほっきーの紹介コーナー。北斗市と公立はこだて未来大学が協働で制作し、2013年に誕生。なお、市役所のすぐ南東には有川大神宮という神社があるのだが、御守がありそうな雰囲気はなかったのが残念。
役所と神社が隣接する例はあまりないので、どういう経緯でこの立地なのかはちょっと気になるところである。
L: 有川大神宮。市役所すぐ手前という位置関係は珍しい。 C: 有川大神宮の境内の様子。御守はなさそうで残念。
R: 線路を渡って北側にある、北斗市総合文化センター かなで〜る。ホール・公民館・図書館・展示室の機能を持つ。清川口駅から函館駅へと戻る。午後1時を過ぎて腹が減ったので、いよいよ待望の函館名物をいただくのである。
そう、函館の誇るご当地ハンバーガーショップ、ラッキーピエロだ! 函館は今までに3回も訪れているのだが、
一度も寄ったことがなかった。理由は単純明快、それを目的としていなかったから。メシに時間がかけられなくて。
五稜郭公園前なんかで見かけたけど、ものすごく混んでいるのよ。しかし今回、ついにわざわざお邪魔したのだ。
L: というわけで、やってきましたラッキーピエロ。どうせなら混んでいる方が雰囲気出ていいだろう、と函館駅前店へ。
C: 一番人気というチャイニーズチキンバーガーをセットでいただいた。ポテトにチーズも、とにかくヴォリュームがある。
R: チャイニーズチキンバーガー。中華風のタレをからませた唐揚げがゴロリと入っている。なるほど個性派だなと。ラッキーピエロはハンバーガーだけでなく、カレーやオムライス、さらには焼きそばまでがメニューに載っている。
それで混乱気味なところにつくり置きをしないポリシーがあるので、けっこう待たされることになる。覚悟が必要だ。
僕は素直に、一番人気だというチャイニーズチキンバーガーを店員さんに勧められるがままに注文したのだが、
店側が一番人気だと強調することでチャイニーズチキンバーガーに注文を絞る戦略の存在を感じた。まあ別にいいけど。
あと印象的だったのは、おばちゃんの店員が多いこと。地元のおばちゃんを積極的に雇用しているのがわかる。
味についてはまったく文句はございません。しっかりおいしいし、量もすごい。基本ができていてこその人気だね。こちらは後で寄った十字街銀座店。サンタクロース責め。突き抜けているなあと。
後で別の店舗でバニラシルクソフトをいただいたが、店ごとに思いっきり個性を持たせているのはやはり面白い。
B級っぽい怪しさが満載ではあるのだが、「ピエロ」というエクスキューズでなんでもありになっているのだ。
キモさすらも魅力の一部として包み込み、函館という観光都市の内部限定で暴れまわる。無敵のビジネスモデルだ。
思えば函館は港町らしい文化ごった煮の都市である(典型的なのは、あらゆる宗派の教会が並ぶ点 →2014.3.23)。
そんな街を国籍不明でノンジャンルなハンバーガーショップが席巻するのは、当然のことなのかもしれない。これで、あらためて函館でやるべきことのひとつが片付いた。お次は当然、函館市役所の再訪問である。
9年前の初訪問でも撮影しているが(→2008.9.15)、あらためてきちんと今のカメラで撮ってみようというわけだ。
L: 函館市役所。まずはできるだけ広角の歪みが出ないようにがんばって撮影する。方角的には北西からになる。
C: 街路樹に邪魔されない位置で。 R: 少し角度を変えて、斜めの位置から撮影。エントランス付近がわかりやすいかな。
L: 南西側にまわり込む。函館市役所は両脇が駐車場になっているのだ。 C: 側面。 R: 背後へまわる。
L: 背面。真裏が小さな公園になっていて、そこから撮影。比較的シンプルな正面と違い、こっちは凹凸が目立つ。
C: さっきと逆になる北東側側面。手前はやはり駐車場である。 R: 一周して北側から眺める。しかし見事に「函」だ。函館市役所の竣工は1982年。ありがたいことに『函館市史デジタル版』には、新旧の函館市庁舎が並んで建っている、
貴重な写真が載っている(⇒こちら)。現在のロータリーと両脇のオープンスペースは、旧市庁舎の跡地なのだ。
今の「The 函!」といった市役所も悪くないが、威風堂々たる旧庁舎が現庁舎を背後に従えた歴史もぜひ語ってほしい。
L: 現在の函館市役所のエントランス。 C: 手前にあるオープンスペース。ここはもともと旧庁舎が建っていた場所だ。
R: 市役所の中に入ると、まず函館市民憲章が目の前に現れる。なお、市役所ではこれから耐震工事が始まるみたい。
L: 向かって左、函館市議会側の入口。仰々しい。 C: 内部の様子。うーん、いかにも80年代らしい雰囲気。
R: 後で函館山の展望台から見下ろした函館市役所。こうして見ると屋上にいろいろ載っていて単純な函ではないのね。あらためて函館でやるべきことはまだある。次は、函館八幡宮への参拝だ。前回訪問時は御守趣味が本格化しておらず、
旧国幣中社にして別表神社である函館八幡宮に参拝するという考えがなかったのだ。路面電車で終点の谷地頭へ行き、
そこからひたすら西へと歩く。やがて鳥居が見えてきて、そのまま進んで石段を上がれば函館八幡宮の境内となるのだ。
L: 谷地頭から函館八幡宮を目指す。函館山の東麓に鎮座しているのだ。 C: いざ参らん。 R: 堂々たる境内。1445(文安2)年に亀田郡を治めていた河野氏が城の一角に八幡神を勧請したのが函館八幡宮の起源とされており、
その後に箱館奉行所のお墨付きを得て発展。現在の社殿は1912(明治45)年から3年かけて建てられていったもの。
本殿は日吉大社(→2010.1.9/2014.12.13)東西本殿と同じ日吉造だが、これを権現造のように幣殿・拝殿とつなげる。
函館八幡宮はこれを「聖帝(しょうてい)八棟造」と称しているそうだ(聖帝造は日吉造(ひえづくり)の別名)。
拝殿の屋根は左右に独特な張り出し方をしており、おかげでかなり幅のある仕上がりとなっている。撮影が大変。
この形はどこかでうっすら見覚えがあると思ったら、高野山金剛峯寺の不動堂(国宝 →2012.10.8)だった。
L: 函館八幡宮の社殿は1915(大正4)年に完成した。とにかく幅があり、独特な形式が大いに威厳を感じさせる。
C: 角度を変えて眺めるが、やたらめったら複雑で全体像がよくわからない。始祖鳥が飛んでいるような形だなあ。
R: 社殿からそのまま向かって左側に延びてつながっている建物。この左にさらに神札授与所が続くのだ。無事に御守を頂戴すると、境内を北へと抜けて直接ロープウェイへ向かう。本日の最後は展望台で締めるってわけ。
函館山展望台といえば夜景が有名で、個人で来たときも学年旅行で来たときも堪能したが(→2008.9.15/2014.3.22)、
その夜景との比較で、陸繋砂州に広がる函館市街の昼間の景色をぜひ見たかったのだ。どれだけ美しいのだろう、と。
(そういえば9年前には朝イチで千畳敷に登ったなあ(→2008.9.16)。あれは完全に若気の至りだったと思う。)
ロープウェイに揺られて展望台に出る。最初はちょうど雲が市街地の上に浮かんでいて、大きな影が落ちていた。
しょうがないのであちこち歩きまわり、なんとか粘って影がなくなるのを待つ。そして、目の前の光景に心を奪われる。
L: 陸繋島の函館山は、西を松前半島、東を亀田半島に囲まれる形となっている。こちらは西の松前半島を眺める図。
C: 函館山の碑と函館平野。新幹線の高架が見える。 R: 陸繋砂州の函館市街。夜景にまったく劣らぬ美しさだ。
パノラマ撮影してみた。南端の陸繋島都市から広がる北の大地。想像力を刺激する景色じゃないか!
L: 拡大して街の様子を眺める。ミニチュア化した街の動きもかわいらしくていい。函館は昼間も十分に魅力的だ。
C: 函館山からだと五稜郭はわかりづらい。 R: 函館八幡宮・立待岬方面。その先にうっすら見えるは東の亀田半島。存分に函館ならではの景色を味わうと、帰路につくべく函館空港へ。恐山から松前、函館とやりきった旅だった。
さて空港で驚いたのが、ラッキーピエロのお土産コーナー。やはり函館名物として定着しているのである。
ガラナの缶ジュースに缶コーヒー、クッキーやキャンディにミルクまんじゅうといったお菓子類はわかるが、
ラーメン、カレー、ふりかけなどもあって、もう何屋なのか。まあ職場へのお土産にミルクまんじゅうを買ったけど。
あとはマグカップにタオルやクリアファイルなどの各種グッズ。ハンバーガーは「ハ」の字もありませんでした。
L: 函館空港。 R: ラッキーピエロのお土産コーナー。なぜかハンバーガー関連のものがない。正直なかなかストレスの溜まる毎日だが、久しぶりの旅行で実にいい気分転換ができた。すっきり満足である。
これを機に、日常生活にもなんとかいい形で弾みをつけることができればと思う。旅行と同じく前向きに前向きに。
旅行の2日目は北海道新幹線で青森県から北海道への移動である。以前、特急で移動したことはあるのだが、
(調べてみたら、青森県→北海道と(→2008.9.15)、北海道→青森県と(→2010.8.13)で往復していた。)
北海道新幹線が開通したので「じゃあそれに乗ろう」と。八戸ー東京間は乗ったことがあるので、これで補完だ。三沢の市街地にある宿を後にすると駅まで向かうが、せっかくなのでちょっと寄り道。
ミス・ビードルドームという施設というかオブジェというかがあるので、しっかり見てみようというわけだ。
三沢市の公式サイトによれば、ミス・ビードルドームはコミュニティマーケットという扱いになっている。
なお、「ミス・ビードル」とは人名ではなく、世界初の太平洋無着陸横断飛行に成功した飛行機の名前である。
1931年のことで、パイロットはクライド=パングボーンとヒュー=ハーンドン。彼らは三沢市の淋代海岸を出発し、
悪天候の中ワシントン州ワナッチーで着陸。大西洋のリンドバーグと比べると知名度が著しく劣るが、すごい偉業だ。
L: ミス・ビードルドーム。 C: 中はこんな感じ。 R: こっちが機首側か。バーベキューの設備も充実。三沢駅から八戸駅へ。新幹線に乗り換えると、1時間半足らずであっという間に木古内へ。そしてここで下車。
函館へ行く前に、ぜひ寄っておきたいところがあるのだ。それにしても新幹線が通ったことで木古内駅周辺は、
以前訪れたとき(→2008.9.15)とまったく異なった姿となっている。「みそぎの郷きこない」という道の駅があり、
これがなかなかの盛況ぶりなのであった。15分くらいしか余裕がなくって、きちんと見てまわれなかったのが残念。
L: 新しくなった木古内駅。新幹線が通ったのはめでたいが、江差線( →2010.8.13)が廃線になったのは残念だ。
C: 駅前にある道の駅・みそぎの郷きこない。 R: 木古内駅へと至る道も、新幹線開通に合わせて整備されたようだ。ポストの上には木古内町公式キャラクターの「キーコ」。はこだて和牛がモチーフ。
さて、木古内から行く「ぜひ寄っておきたいところ」は、松前町である。言わずと知れた松前藩の城下町だ。
これまで北海道内のさまざまな街を訪れてきたが、どこも基本的には明治以降に開拓された場所である。
では北海道において近世より城下町をやっていた松前町はどんなところなのか? 気になって仕方がなかった。
かつては国鉄松前線が走っていたが、すでに廃止されて久しい。寂れているんだろうなあと思いつつバスに揺られる。松城のバス停。城下町としての意地を感じさせる。
松前町は北海道の最南端であり、本当に端っこの端っこ。まあそうでなきゃ本州とやりとりできなかったわけだが。
それだけに木古内からでもけっこう遠く、バスで1時間半かかる。往時はともかく、今ではけっこうな辺境なのだ。
松前出張所のバス停だと市街地から離れてしまうので、松城というバス停で降りる。ここを中心にして動き、
徳山大神宮から松前城址あたりまでを押さえるという作戦である。それにしても松前の中心部は特徴的で、
いちばん海側に広々とした国道228号があり、その内側を道道435号が並走している。つまり移動用の国道と、
生活空間の道道とで、はっきり用途が分かれている感じなのだ。旧市街・道道の外に国道を整備したということか。
L: 最も海側にある国道228号。バスはこちらの道を行く。 C: 国道から一本内側に入ったところ。いちおう飲み屋街。
R: 道道435号が松前町の中心。城下町を思わせるデザインになっている店舗が非常に多い。緑の上には松前城の屋根が見える。しばらくあちこち歩きまわって、松前の城下町らしさを体感しようと試みる。開拓地にはありえない道路のカーヴは、
かつての街道の匂いを残している。海に面した南側はかつての商人町がそのまま商店街となっているわけだが、
近代による都市化以前には城と海の間を通って港へ至る街道としてスタートしたことが、なんとなくうかがえる。
L: 少し西に進んだ地点から振り返る。道のカーヴは街道らしさを残すが、広く整備されている。和風の店舗はそのとき以来だと。
C: 松前城址からまっすぐ南下したところにある沖口(おきのくち)広場。関所的な存在だった沖口役所の跡地で、2006年に完成。
R: 松前町役場から北の徳山大神宮へと向かう住宅地。セットバックが大きくないあたり、本州っぽい感覚というか。松前城址のすぐ東には松前町役場があるので、きちんと訪れておく。2階建てで規模はまさに町役場レヴェルだが、
少し凝ったデザインになっているのが面白い。城下町を意識したトンデモ建築ではなく、節度を守った感じがいい。
L: 松前町役場。 C: 正面から見たところ。「史蹟 松前奉行所趾」という碑がある。 R: 北東側より。役場からまっすぐ北へ進んでいくと、徳山大神宮。渡島一宮や松前一宮を称する神社ということで期待していたが、
残念ながら人の気配はなかった。その先には松前町郷土資料館があったので、せっかくなので中を軽く見てまわる。
手前の広いグラウンドといい、建物の構造といい、もともと学校だった感触が非常に強い。いろいろ寂しい。
L: 広大なグラウンド越しに眺める松前町郷土資料館。 C: 徳山大神宮。社号標には「當國一之宮」とあるが、無人だった。
R: 市街地に戻って松前郵便局。松前氏(蠣崎氏)の家紋・丸に割菱をあしらっている。武田氏の系統って名乗っているもんな。ではいよいよ、松前城址にお邪魔するのだ。せっかくなので沖口広場まで行き、大手側である南側から登城する。
かつては堀があり、その手前には海に向けて7つの砲台の台場があったという。台場とはなんだか幕末っぽいが、
それもそのはず、松前城が正式に城として築城されたのは1855(安政元)年のことなのだ。しっかり幕末である。
もともとここには初代藩主・松前慶広以来の福山館が居城として存在しており、それを拡張整備したというわけ。
L: 南側、松前城の大手口。緩やかな坂に石垣が整備されている。 C: 城内は桜がいっぱい。桜の名所としても有名。
R: 東側に出ると復元された堀がある。その先には土手と台場跡。松前城の台場は放射状に配置されていたのだ。いったん東側に出て、搦手門側から再び入る。ちなみに搦手門から出た先は、奉行所跡の松前町役場である。
1949年、当時の松前町役場が火災に遭い、これが松前城の天守に飛び火して全焼してしまう事件があった。
天守は当時すでにかなりひどい傷み具合だったらしいが、旧国宝に指定されていたほどの建物である。
その後、1961年に現在の鉄筋コンクリート天守が完成した。以前の姿をできる限り再現したという。
L: 搦手二ノ門。こちらは2000年の再建。松前城はじっくり時間をかけて整備されている。本当に大切にされているのだ。
C: 松前城資料館としての入口。 R: 天守の最上階。やはり築60年以上の鉄筋コンクリートは維持が大変そうだ。しかしながら、城として整備された当時の建物がまったく残っていないわけではない。やはり圧倒されるのが、
天守の横にある本丸御門である。松前城の天守はむしろ弘前(→2008.9.14)や丸亀(→2010.10.11)と同じような、
三重櫓(御三階櫓)と呼んだ方がよいくらいの規模で、並んでいるのを見るとかなりアンバランスに感じてしまう。
おそらく当時の経済的・政治的・軍事的な各事情を勘案した結果、この本丸御門にプライドが注ぎ込まれたのだろう。
L: 本丸御門と天守。これは南側から見たところ。本丸御門の迫力がとにかく異様。 C: 本丸御門。国指定重要文化財ね。
R: いったん外側に出て、北東側から堀越しに本丸を眺める。右側の芝生がかつての本丸表御殿跡ということになる。松前城本丸のすぐ北側、旧北の丸跡地には、松前氏の祖である武田信広を祀る松前神社が鎮座している。
赤い屋根がかなり印象的だが、その下で組まれている木々はなかなかの歴史を感じさせる風合いである。
調べてみたら1923(大正12)年築の総ヒノキ造ということで、本丸御門同様に誇りを感じさせる建物だ。
L: 松前神社。武田信広はコマシャインの戦いに勝利したことで、蠣崎氏による蝦夷地支配を確立した。
C: 社殿を眺める。地元のプライドを感じさせる見事な建物である。 R: 本殿。寒いところは一体化するね。松前城の南側は海に向けて砲台を設置して守ったわけだが、陸続きの北側は城下町らしく寺町が形成された。
この寺町による守備網は戊辰戦争の際に旧幕府軍に破られているのだが(最終的には新政府側の松前軍が奪還)、
今も静かで独特な雰囲気をよく残している。松前町で最も城下町らしい場所は、実はこの寺町じゃないかと思う。
L: 松前神社を抜けて、北側の寺町を歩く。かつて道幅はこの半分で、残りの半分は堀になっていたそうだ。
C: 法源寺山門。北海道の社寺建築としては最古のひとつで、国指定重要文化財。 R: 横から見たところ。
L: 松前家の菩提寺である法幢寺の山門。やはり大名の菩提寺ということで、風格が違う。 C: 松前家墓所入口。
R: 中にお邪魔しました。廟の中に塔を収めているスタイルなのが独特。一族から召使いまでさまざまな人が眠る。
L: 戊辰戦争の戦火を免れた唯一の寺、龍雲院。こちらは惣門。 C: 境内を行く。江戸時代のまま伽藍が残る。
R: 国指定重要文化財の本堂。1842(天保13)年に柏崎の大工が建てたそうで、とにかく彫刻がすごい。寺町を抜けた先にあるのが、松前藩屋敷という施設である。幕末の松前の城下町を再現したテーマパークとのこと。
なんでもかつては「松前の五月は江戸にもない」と言われるほど栄えていたそうで、14棟の建物でその空間を再現する。松前藩屋敷の入口。冠木門が関所っぽく空間的・時間的隔絶を演出してますね。
冠木門を抜けて左に曲がると、すぐに江戸時代の空間である。左手にあるのが沖口奉行所で、なるほどこんな感じかと。
不規則な凹凸を描くように砂利道に面して建物が気ままに並んでいる光景は、明らかに近代の街並みとは異なるものだ。
もちろん僕は実際の江戸時代の都市空間を知らない。でも、舗装される前のそれっぽさは確かに感じる(→2014.2.9)。
L: 松前藩屋敷に入ってすぐの光景。舗装される前の、日本らしい前近代的都市空間を感じる。
C: 廻船問屋・敦賀屋。 R: 池やベンチなどは、もうちょっとなんとかならないかという気が。建物の内部は人形でさまざまなワンシーンを再現するスタイル。面白いのは、靴を脱いで実際に上がれる点。
また、展示物もわざわざ新しくつくったものを混ぜることで、往時の生活をよりリアルに体感できるのである。
古い文化財の「旧○○家」など、もう暮らしの舞台ではなくなった家を博物館のように見学できる場所はあるが、
松前藩屋敷は建物が新しいので生き生きとした印象が楽しめる。逆説的にリアルな江戸時代を感じられるのだ。
L: 呉服・太物・雑貨商の近江屋の内部。 C: 向かいは旅籠の越後屋。2階客室にも行ける。 R: 漁家の内部。ほかにも髪結床、長屋形式の民家、火の見番をしていた自身番小屋、ヤン衆たちが暮らした番屋などがある。
それらに混じって民芸店やお土産店もあるのがまた面白い。けっこうがんばっていて、充実度は高い施設だと思う。
L: 下級武士の武家屋敷。 C: さすがに庭がきれい。 R: 沖口奉行所。蝦夷地に入る者の取り調べは厳しかったそうだ。滞在2時間ちょっとで松前を後にする。限られた時間で残念だったが、それでもできるだけ動きまわったつもりだ。
北海道で唯一の城下町というその矜持に触れることはできたんじゃないかと思う。しっかり楽しませてもらった。木古内に戻ると再び新幹線に乗り込んで、終点の新函館北斗へ。そこから快速「はこだてライナー」に揺られる。
これもまた、北海道新幹線の開通で変わった部分だ。しかしその変化をじっくり味わうことなく、10分で下車。
五稜郭駅から歩いて、本日最後の目的地である五稜郭へ向かう。3年前に学年旅行で来たが(→2014.3.22)、
あらためてじっくりと箱館奉行所を見てみようというわけだ。それにしてもあれは本当に楽しい旅行だった。五稜郭タワーを眺める。城を見下ろすためだけの建物ってのもすごいな。
さっきの松前城は最後期の和式城郭。対する五稜郭はそれから11年後の1866(慶応2)年に完成した洋式城郭だ。
奉行所は2010年に復元工事が完了したが、南棟と中央棟を創建当時と同じ材料、同じ工法で復元したとのこと。
なるほど、落ち着いて見てみると、かなりの気合いを感じるつくりである。函館市は観光客集めが上手いなあ。
L: 箱館奉行所。まずは一周して外観をじっくり見るのだ。 C: 正面から眺める。 R: 北西側にまわり込む。
L: 北側より。 C: 北東から。背後にまわり込む。 R: 東側から見たところ。かつてはこちらにも建物があったのね。
L: 南側は松に囲まれてよく見えない。 C: 内部の様子。最大で72畳にもなる大広間脇の廊下がさすがの長さ。 R: 中庭。いざ箱館奉行所の中に入ってみたら、観光客が多くて撮影しづらいのと、ただ空間がそこにあるだけなのとで、
ちょっと残念だったかなあという気分。さっきの松前藩屋敷は同じ復元でも往時の生活が体感できたのに対し、
こちらは「へえ、こんなだったの」止まりになってしまったかと。時間が経って古びた迫力が出るとまた違うかな。とりあえず港町では海鮮丼を食っておけばいいんだ。
晩ご飯には海鮮丼をいただいて函館に来たという気分を存分に高める。明日のラストスパートも全力でいくのだ。
異動しても恒例のテスト前旅行は譲れないのだ。この時期は梅雨時ということで、北か南か極端に行かねばならない。
南の場合には梅雨明けしていればいいが、していなかったら虚しいことになる可能性が高い。ダメージが大きい。
それに対して北の場合は虚しいことになる可能性もあるが、曇りで済むことや(→2012.7.1/2012.7.2/2014.6.29)、
意外と晴れてくれることが多い気がする(→2012.6.30/2014.6.27/2014.6.28)。で、今年は北にした。
まあ正直なところ、最大の理由は北海道新幹線の開通である。乗りつぶそうと。帰りは函館から飛行機でいいし。
そうなると青森県で1日、北海道新幹線で移動して1日、函館近辺で1日、という旅程となる。はい、一丁あがり。本日、初日の青森県は、むつ市からスタートする。東京から直接むつ市役所まで行ける夜行バスがあるのだ。
そしてむつ市といったら下北半島、そうなるとやはり恐山に行ってみなければなるまい。実際はどんな場所なのか。
できれば大湊警備府も探索したかったが、それはちょっと難しいのでパス。というのも、三沢市役所を押さえたいから。
三沢で1泊して翌日に八戸から北海道新幹線に乗り込むことで乗りつぶしを成立させようという魂胆なのである。そんなわけで夜行バスから転がり降りたのが朝の8時ちょっと前。到着予定時刻より30分ほど早い。幸先がいい。
旅のスタート地点がもうすでに市役所というのは、(僕にとっては)夢のような事態である。最高に楽だもんね。
寝ぼけた頭を動かすべく、まずはとりあえず歩きだす。むつ市役所はずいぶん低層な建物だが、やたら幅がある。
そして周りを囲む駐車場がとにかく広い。なんとも珍しい市役所だと思いながら通りに向かうと、視線の先には恐山。
てっぺんには雲がかかっているが、梅雨時にしては悪くないコンディションである。まずは一発、シャッターを切る。むつ市役所の敷地から見た恐山。さすがの存在感である。手前の看板には市章。
振り返ると、日差しの具合を勘案しながらむつ市役所の写真を撮りはじめる。しかし見れば見るほど妙な市役所だ。
世の中にはいろんな市役所があるが、広大な土地にデカい平屋で建っているという事例は初めてであると思う。
しかもお世辞にも趣味がいいとは言えないデザインである。メルヘン気取って、とても公共建築らしくない。
L: むつ市役所。まるで市役所には見えないたたずまい。 C: 正面より眺める。 R: 角度を変えて見るとこうなる。調べてみたらそれもそのはず、実はもともとショッピングセンターだったのだ。通り沿いの看板はそのせいか。
移転までの経緯は青森県の公式サイトにPDFファイルでまとめてあって、それが非常にわかりやすい(⇒こちら)。
L: 敷地北西側にあるビオトープ的空間。 C: 北西側から眺めたところ。 R: 南西側、下は駐車場となっている。そもそも、「むつ市」の誕生は1960年のこと。日本で初めてひらがな表記を市名として採用したことで知られる。
前年に田名部町と大湊町が合併して「大湊田名部市」としてスタートしたが、ずいぶん思いきって簡略化したものだ。
田名部は盛岡藩(南部氏)の代官所が置かれた街で、大湊は日本海軍の警備府が置かれた港である(当初は要港部)。
それぞれに独自の歴史を持つふたつの町が合併したわけで、かえってしがらみのない行政となったのだろうか。
L: 東側から眺める。国道に面する北側とデザイン的に大きな差のないところが商業施設らしさを感じさせる。
C: もう少し南に動いたところ。 R: 南側。駐車場がとにかく広いので、こちらも同じデザインの出入口。むつショッピングセンター・中央店アークスプラザの開業は1995年。ダイエーとフランチャイズ契約していたそうで。
これが2005年に経営破綻して閉店。その5ヶ月後に市長が本庁舎の移転先に挙げると議会レヴェルで話が進んでいく。
もともと市庁舎は田名部の中心市街地からやや西にはずれたところにあった(金谷公園の西、下北文化会館の南)。
1962年の竣工で、1968年の十勝沖地震の影響で3階建てだったのを2階建てに改修したという経緯のある建物だ。
当然それは分散化の問題を助長することになったわけで、行政側が移転したくてウズウズしていたのもしょうがない。
しかし2007年には本庁舎の位置の変更の賛否を問う住民投票条例が否決されるなど、混乱があったのもうかがえる。
とにかく、2009年、むつ市庁舎は新たな庁舎で業務を開始した。商業施設と行政の融合は近年目立つ動きだが、
むつ市の場合は商業の要素が消えたので、そこは首都圏との大きな違いか(土浦 →2015.12.20/栃木 →2016.11.26)。
L: 「むつ市役所」の看板が掛かる北東側入口。 C: 中に入って左を見る。 R: 右を見る。もはや完全に庁舎である。撮影を終えると国道338号をトボトボ歩いて東へ向かう。北東北の田舎道はけっこう独特で、閑散とした印象が強い。
南東北以南なら農地になっているであろう空間が、森林になっていたり空き地になっていたり、わりと野放し。
その空間の密度の粗さはどこか北海道に共通しているように思う(帯広の例 →2012.8.17/江別の例 →2013.7.14)。
そんなことをボケーッと考えながら足を動かし続け、どうにか田名部の中心部へと到着。なかなか遠かった。わかったからお前、早く逃げなさいよ。
あまり時間的な余裕がない中、田名部の街を歩いてまわる。いや、むしろ走りまわったと言うべきか。
大湊を諦めた分、せめて田名部の方はそれなりにきちんと味わいたい。「田名部らしさ」を体感したい。
商店街の大通りから裏路地まで、できるだけテンポよく見てまわる。余裕のない旅は切ないなあ……。
L,C: 田名部の商店街を走りまわる。下北交通のバスターミナル周辺。 R: 昭和の雰囲気が漂っていますなあ。本当のことを言うと、この辺の写真は恐山から帰ってきた後、青空の下で撮った街の姿である。
田名部の中心部に着いた直後は曇り空で、あちこち歩いたのがロケハンになった形。ある程度アタリをつけて、
10分弱の時間の中で撮り直ししていった写真ばっかりなのだ。それだけ、いい形で記録したい街並みだった。古い店舗もちょこちょこあり、うまく活用してほしいところ。
僕にとってかなりインパクトがあったのは神社横丁。田名部神社の周辺にはものすごい密度で飲み屋が密集しており、
それらの看板がお互いを邪魔しないようにしながら並んでいる光景は壮観である。夜だといっそうすごそうだ。
L: 神社横丁。長屋に居酒屋が並ぶ光景に圧倒される。 C: 路地にもびっしり店が並ぶ。奥なんか砂利だもんね。
R: 左の建物なんか、こみせ文化の影響を感じさせる。しかしこの一枚の中に、いったい何軒の店があるんだろう。神社横丁の手前にある、お店のリスト。店名を見ているだけでも面白い。
時間がない中、どうしても訪れたかったのが田名部神社。下北半島総鎮守で、参拝しないわけにはいかない。
社殿は鉄筋コンクリートだが、かなりどっしりした印象。周りの飲み屋の密集ぶりもそうだが、社殿の重厚感に、
田名部の誇りを一身に背負っている風格を感じる。脇にある駐車場は境内を圧迫しているくらいの広さがある。
そういった点からもやはり、田名部神社がこの地方から多くの参拝客を集めていることがうかがえる。
L: 田名部神社。 C: 社殿とまっすぐ向き合うが、重厚感がすごい。 R: 横から見るとこんな感じである。腕時計を見ながら下北交通のバスターミナルにすべり込む。すると、ほどなくしてバスがやってきた。
行き先表示には「霊場 恐山」。乗るのを躊躇してしまいそうになる書き方である。異世界に連れて行かれそう。
バスがまたちょっと古めのタイプなのが雰囲気を盛り上げてくれるではないか。面白がりつつ乗り込んだ。目指すは霊場・恐山!
恐山というと、やはりイタコの口寄せというイメージがまず出てきてしまう。それを矯正する旅でもあるのだ。
『幕末太陽傳』(→2005.10.22/2012.1.9)が大好きな僕としては、川島雄三監督の原風景にあるという恐山、
その本当の姿をきちんと理解しておきたいのである。ドキドキしながらバスに揺られること30分弱、
僕の目の前に広がっていたのは、色彩があるようで、ないような。まさに現実離れした空間だった。
L: 霊場・恐山の入口に位置する太鼓橋。悪人はこの橋が針の山に見えて渡れないとのこと。僕は嬉々として往復しましたが。
C: 宇曽利山湖。アイヌ語で窪みを意味する「ウショロ」がその由来で、宇曽利山が下北訛りで「恐山」に変化したそうだ。
R: 恐山の入口。駐車場のすぐ奥は霊場となっている敷地。なお、境内への入口は駐車場のすぐ右側である。さて、恐山とは何なのかというと、答えはふたつある。ひとつは下北半島のど真ん中にある活火山であり、
もうひとつは霊場としての恐山である。では霊場としての恐山とは何かというと、「恐山菩提寺」という寺である。
つまりは菩提寺の山号なのだ。「恐山」はふたつの答えが混在するせいで「よくわからない怖いところ」扱いだが、
実際に訪れてみるとわりと純粋にお寺である。ただ、宇曽利山湖周辺の特異な景観が強烈な印象を与えてくる。
L: ではお寺としての恐山・菩提寺を参拝するのだ。こちらが総門。入山料は500円。 C: 総門をくぐると長い参道。
R: 途中、向かって左手にある本堂。本堂なのに参道の脇に建てられているというのは非常に珍しいのでは。
L: こちらが山門。 C: 参道脇には積み石と風車。これらが恐山の独特な景観を構成する。 R: さらに続く参道。寺としての恐山で僕がいちばん驚いたのは、境内に堂々と温泉があって、参拝者が自由に入れることだ。
後述するが、恐山はあちこちで火山ガスの亜硫酸ガスが噴出しているので不思議ではないが、境内にあるとは。
奥日光の湯元温泉にもあったけど(→2015.6.29)、境内にいきなり木造の浴場が現れる恐山は強烈なインパクトだ。
L: 参道の右手脇にある薬師の湯。これには驚いた。 C: 中はこんな感じ。当たり前だが、純度100%の硫黄泉である。
R: 地蔵殿。本来ならこっちが本堂だと思うのだが。本尊の地蔵菩薩を祀るのでこちらの地蔵殿が中心ということか。地蔵殿の参拝を終えると、西側に広がる霊場としての恐山を歩きまわる。とにかく特異な景観であり、
歩いていると自分がどこにいるんだかわからなくなる感じがある。同じく硫黄だらけの雲仙温泉もそうだったが、
火山ガスが絶え間なく噴き出るせいで草も生えない「地獄」は、どこか月面のような印象を残す(→2014.11.21)。
なるほど、これは確かに現世とは異なる場所にいる感覚になる。僕も素直に臨死体験気分を味わって歩く。
L: 霊場・恐山の典型的景観。荒涼とした風景が続く。なんとなく道ができていて、そこをトボトボ歩いていく感じ。
C: 火山ガスを噴出している積み石。硫黄が独特の色合いでくっついている。もちろん、硫化水素の匂いもある。
R: あちこちに仏像があるのも死後の世界っぽさを感じさせる要素である。存在する人工物は仏像と風車くらいか。
L: 置いてあるお賽銭が亜硫酸ガスによる化学変化で変色しているの図。やっぱりかなりの濃度なんだなあと納得。
C: 恐山ならではの独特の景観を形成する大きな要因が、このカラフルな風車。水子供養の意味合いがあるそうで。
R: 温泉が湧き出しているところ。これらを源泉とする川も流れている。ふつうに地面からガスの泡が出ている。田名部を後にしたあたりから急に晴れてきてくれたのはありがたいが、それでかえって不思議な感覚が加速される。
さっき「色彩があるようで、ないような」と書いたが、まっすぐな日差しの下なのに、あるいはそのせいでか、
色彩がいまいち遠いのだ。岩場は白とその影だけであり、宇曽利山湖も非常に淡い青を薄く浮かべているだけであり、
白っぽい景色に包まれて視覚の調整がズレてしまっている感覚になる。植物の緑だけが暗色として存在しているが、
それ以外はみんな明色。それが世界全体に浮遊感を与えているのだ。これは本当に珍しい、独特な経験だった。
(直島・地中美術館の『睡蓮』の部屋が何もかも真っ白で臨死体験だったのと近い感覚がある。→2007.10.5)
紫外線で目がやられていたのかもしれない。日の光が強いほど、照り返す光もまた強いので。眩しすぎるのである。
L: けっこうな高低差があるので、菩提寺の境内を見下ろすこともできる。 C: 確かに、死後の世界と錯覚する景観だ。
R: 鬱蒼と茂る緑の先には宇曽利山湖。南国の海のような明るい緑と青を湛えて、青森県にいるとは思えない光景だ。あまりにも宇曽利山湖が美しかったので、高いところから撮った写真をパノラマ合成してみた。
こうして湖側だけを見てみると、まるでどこか南国のリゾートにいるような風景になっているのだが、
この背後を振り返ると荒涼とした月面のような大地が広がっているというわけである。浮世離れしている。
この写真だけ見ると南国の内湾みたいな印象だが。仏像やお堂をめぐりながら、だんだんと宇曽利山湖へ近づいていく。太陽に照らされて影がないので、
高低差がよくわからないまま坂を上っていくと、いつの間にか下りになって目の前に透明な水が広がっていた。
さっきの硫黄を噴き出す「地獄」とは対照的な、まさに「浄土」を体現したような澄みきった水である。
ただの荒涼とした岩場だけだったのであれば、ここが霊場として広く認められることはなかっただろう。
この宇曽利山湖の汚れというものをまったく感じさせない水、かえって生命感を感じさせないほどの澄んだ水、
それが岩場と表裏一体となっているからこそ、恐山が霊場として認知されているのだ。ただ茫然と眺める。
L: 積み石が点在する光景はまさに賽の河原そのもの。 C: 八角堂。中には衣服などが掛かっていた。故人のものか?
R: 宇曽利山湖。火山性のガラス質な砂、強酸性の水質などの要素によって、この美しくも生命感のない湖となるのか。恐山を歩いていると、美しい水色のトンボが飛びまわり、あちこちで羽を休めているのを見かける。
これもやはり、現実感のなさを加速する要素だ。調べてみたら、ルリイトトンボという種類とのこと。
あまりにも美しいのでけっこう必死で追いかけて撮影する。そんなに逃げないので撮影じたいは簡単だが、
その美しさをできるだけきちんと再現した写真を撮ろうとがんばったわけで。いかがなものでしょうか。
L: 岩場のルリイトトンボ。 R: 葉っぱに止まるルリイトトンボ。こいつらがいっぱい飛びまわる現実感のなさよ。霊場としての恐山をひとまわりすると、最後に境内の温泉に浸かってのんびり。最高にいい湯でございました。
総門の脇には売店があるので、あらかじめそこで手ぬぐいを買ってから菩提寺に入るのをオススメしますね。
また、売店とともにババヘラアイスのテントもあるので、こちらも当然頂戴する。ババヘラアイスは秋田名物だが、
岩木山神社(→2014.6.28)など青森にも存在はする。で、恐山の場合はちょっと……いや、かなり独特。
白(バニラ)が200円で、これはまったくもってふつう。ブルーベリーが250円で、これも常識の範囲内である。
だが、最後のひとつがヨモギなのである。250円。なぜにヨモギ? 草餅感覚なのか? 3つのミックスは300円。
せっかくだからミックスでいただいたのだが、白・緑・紫の三色構成はあまりにもシブすぎる。仏教感半端ない。恐山のババヘラアイス。色が……。「霊場アイス」「合掌」の文字もまた強烈。
近くにはきちんとした食堂もあって、長い時間滞在しても困ることはない。温泉もアイスも土産物もあるし、
実は恐山は観光地としてかなりの充実ぶりを誇っている。もちろん霊場としての空間体験はほかにない独特さだ。
マジメな話、一度は来てみた方がいい場所だと思う。個人的には意外性抜きでも強くオススメできる場所だ。全身から硫黄の匂いを撒き散らしながらバスに揺られて田名部に戻る。戻ってから走りまわって街を撮影すると、
再びバスに揺られて下北駅へ。本州最北端の駅だが、交通の要衝ぶりを現在も発揮しており人でいっぱいだった。
かつては大畑線がここから分岐していたのだが、2001年に廃止になっている。鉄道が縮小するのは淋しいなあ。大湊線から青い森鉄道へと乗り継いで、三沢駅に着いたのは午後3時半過ぎ。けっこう遅い時間となってしまったが、
そこは夏至に近いタイミングなのでわりと明るい。三沢駅は市街地から少し距離があるので、早歩きで移動する。
坂道を上がりきったところにアーケードの商店街があり、そこには「テラヤマロード」という文字がある。
三沢は寺山修司が幼少期を過ごした場所ということで、彼をかなり前面に押し出したアピールをしている。
しかし時間がけっこう遅いので、まずはとりあえず市役所の撮影である。商店街を抜け、市役所へと急ぐ。
L: 三沢市役所。1972年竣工とのことだが、それにしてはコンパクト。正直、1960年代のデザインといった印象。
C: 正面から見た三沢市役所。いかにもな昭和の役所である。 R: 市役所前の通り。ベンチ・テーブルがある。ありがたいことに、三沢市の公式サイトでは広報のバックナンバーがPDFファイルでダウンロードできる。
当時の生の情報がそのままの形で手に入るということは、研究者としては本当にありがたいことなのだ。
また、意外なことにWikipediaにもけっこう詳しい記事がある。残念ながら、設計者まではわからなかった。
L: 北側から眺めたところ。 C: もう少し東側にまわり込む。 R: 北東側から眺めた側面。三沢市役所は市街地の東側にあり、米軍基地の南端部分とで市街地を挟み込むような立地となっている。
市役所の北から東を囲むように三沢市公会堂・中央公園・三沢市総合体育館があり、公的施設が集中している。
L: 三沢市公会堂。市役所よりやや遅れた1980年の竣工で、こちらは時代のスタイルに沿った建築という印象である。
C: 中央公園側から撮影。真東に近い角度。 R: 1981年竣工の別館。もうちょっと大きくつくればよかったのに。Wikipediaによると、三沢市役所は青森県で初めての防音の庁舎とのこと。やはり三沢基地の影響は大きいのか。
また竣工当時、三沢市で最も高い建物だったそうだ。4階建てとはいえ特に高さを感じないので意外な印象である。
L: 別館と本館を一緒に撮影。 C: 南側にまわり込んで本館の背面を眺める。 R: 南西側は完全に住宅地。一周しての市役所撮影を終えたので、あらためて市街地へと向かう。時刻はすでに夕方5時近いが、
できるだけあちこち歩いて三沢の街を味わいたい。しかしいざ歩いてみると、これがなんとも特徴満載なのだ。
県道10号の中央通りから市役所まで来たのだが、こちらは典型的なアーケード商店街。つまりはわりと日本的だ。
でもそこから市役所を目指して東側に入り込むと、住宅と店舗が点在するし、上述の「密度の粗さ」も感じる。
L: 県道10号の商店街・中央通り。基本的には標準的なアーケードだが、ところどころにアメリカ的な要素も含む。
C:「テラヤマロード」のマーク。残念ながら僕が物心ついたときには寺山修司は亡くなっていたので「へぇ」と思うのみ。
R: 中央通りと平行に走る市役所通り。こちらもきちんと商店街だが、どこか落ち着いた感触だ。道路の広さが開拓地風。さて、寺山修司だ。47歳という若さで亡くなったのが1983年なので、僕は彼の全盛期をまったく知らない。
最初に彼の名前を見たのは国語の資料集だっただろうか。歌人・俳人としての活躍がクローズアップされていた。
しかしその後、劇団「天井桟敷」でのアングラ面での活躍ぶりを知り、何者なのかワケがわからなくて困った。
クイズ研究会的な視点で言うと、クイズには答えを確定させるフレーズである「後限定」が必要になるのだが、
寺山修司という人は活躍の幅が広いし、アングラ方面もつかみどころがないし、後限定のつけようがないのだ。
ただ、言語感覚の凄まじさはすでに国語の資料集でイヤというほど実感させられている存在なのである。
僕が成長したときには70年代のアングラブームが過去となって久しく、彼の真の影響力を実感する術はなかった。
いわば、僕の前にはただ波紋があって、それを起こした原因についての知識だけがすっぽり抜けている。
その中心的な事件そのものが、僕にとっての寺山修司なのである。ただ現象だけが一人歩きしている感覚なのだ。
だから僕は街を歩きながら、寺山修司という実体の質感をつかもうと、できる限りでもがいてみたのだ。
しかし結論から言うと、最後まで彼のことはわからなかった。テラヤマロードには「犯行」の痕跡が豊富にある。
でもそこは演劇の人、彼と同じ時代を過ごすことのなかった者には、2馬身差くらいで逃げ切られて終わり、だった。
L: 駐車場に描かれていた絵。天井桟敷を知らない者にはわからないのがつらい……。でも右端の人だけはわかるよ。
C: 店先に貼られている天井桟敷の代表的な演劇のポスター。 R: ガソリンスタンドにて。これは実に存在感がある。もうひとつ、というかそもそも、三沢の街を構成する最も重要な要素は、アメリカ軍基地の存在である。
市街地の北をがっちりと押さえている基地の存在感は本当に大きく、また街並みも明らかにアメリカ風である。
これは僕の個人的な印象だが、上述のように北海道や北東北の都市空間は密度が粗く、本質的に隙がある。
この隙は植物が占領することが多いが、三沢の場合には欧米的な空間操作法がマッチしたと思うのである。
つまり、建物の手前をセットバックして前庭とするような手法が持ち込まれ、定着した。建物じたいも洋風だ。
中央通りのアーケードが終わると、途端に欧米風の街並みが現れる。これはそのまま三沢基地に接続するのだ。
L: 欧米的な価値観を感じさせる店舗。角地であることとセットバックを生かし、斜めな入口で独自性を出している。
C: 中央通りを進んで振り返る。 R: 中央通り沿いの店舗。意匠が欧米風なのと、セットバックした駐車場に注目。
L: こちらは市役所から基地へ向かう通りの店舗。角地の洗練とこみせ文化と欧米デザインのそれぞれが融合した事例。
C: アメリカ的な雰囲気をプンプン漂わせている店舗。 R: 三沢基地の入口を眺める。緑の芝はもはやアメリカの匂い。三沢基地のすぐ手前にあるのが、スカイプラザミサワ。これまたアメリカ的な雑多さを強く感じさせる場所だった。
直輸入モノの雑貨にアパレルにファストフードに、ミリタリーショップも入っている。楽しい空間でございました。
L: スカイプラザミサワ。アメリカっぽい雑多さを感じさせる。でも純日本的な居酒屋などのテナントもあってカオス。
C: 駐車場がまた独特で、円形の外周部分と矩形の内側部分とで分かれている。 R: 中はこんな感じ。アメリカだあ。三沢の街を歩いている中で、わざわざアメリカ的な演出をしている箇所もある。細かいことだけど、
そういった要素がジャブのように効いてくるのもまた事実。これもまた、三沢らしさなのである。
L: 無断駐車について英語の注意書きをしている駐車場。まあこれは実際に米兵相手の対策なのだろうが、興味深い。
C: 街路の表示も英語表記の方が大きい。 R: 中央通りのアーケードにて。三沢の街はもっとじっくり掘り下げたいねえ。ここまでさんざん三沢におけるアメリカ文化の影響を見てきたけど、そこはやはりきちんと東北なのである。
田名部の神社横丁にも負けない個性的な居酒屋集合体を見つけたので、最後にご紹介といくのだ。
L: 錆びたコルゲート建築に無数の飲み屋が入っているの図。 C: 狸小路。この狭い路地に飲み屋がひしめいている。
R: ボーッとしていたら気づかず通り過ぎてしまうような路地にも店がいっぱい。この密集した感じは東北っぽいなあと。晩飯は三沢のB級グルメ・パイカ料理をいただくことに。パイカとは豚バラ肉の周辺にある軟骨のことだそうで、
豚1頭から500gほどしか取れないという。ただ、食肉加工の際にバラ肉を取った後で捨てられることが多く、
もったいないからB級グルメ化して売り出したようだ。とにかく煮て、味をつけつつ柔らかくするとのこと。パイカ丼。ふつうに「ちょっと面白い肉」として食った。おいしかったよ。
以上で旅行の初日が終了。むつ市役所に恐山に三沢&寺山修司と、調べることが多くて書くのに本当に手間がかかった。
まあ本当に中身の濃い旅行ができているなあと思うけど。行く先々でしっかりお勉強させてもらっております。おまけ:三沢にあった看板で、なんかツボに入ったので。
さあ、旅行2日目の日記はいつ書き終わるかな? いやホント、がんばらなければ……。
研修が終わってさあ自由の身だぞ!と思ったのも束の間、学校に戻ってテスト問題の修正をすることに。
修正作業じたいはそれほど困った事態にはならなかったが、所変われば品変わるという経験をしたのであった。
それにしても、自分はできるヤツをとことん鍛えたい人間なんだなあと、あらためて自覚したしだい。おかげでものすごく急いで帰って準備してバスタ新宿へ向かうことに。そしたら最寄駅から家に帰る途中、
なんと元サッカー部員の教え子とバッタリ遭遇。きちんと応対できるだけの余裕がなくって申し訳なかった。
じっくりと話ができればよかったんだけどね、ぜひ同窓会か何かの機会でこの借りを返させてちょうだい。
クソ忙しいタイミングでの研究授業をどうにか切り抜ける。お疲れ自分、と言う暇もなくテストづくりに取り組む。
さて通信の窓口で確認したら、問題の単位はやっぱりダメなのであった。最後の最後で苦しむことに。
前回の英語の免許取得のときにはスイスイいったのに、今回はまったくスムーズにいかない。いったい何なんやら。
今月のサッカー観戦は天皇杯2回戦、FC東京×AC長野パルセイロであります。長野県出身で東京在住な私としては、
これは絶対に観に行かなければならないカードなのだ。職場から地下鉄でそのまま京王線へ。なかなか便利である。
L,R: 平日だし天皇杯の序盤だしで、味スタは落ち着いたもんです。空いていると本当に快適ね。J1のFC東京に対して長野はJ3ということで、もう少しメンバーを落としてくるかなと思ったらそうでもないかなと。
外国籍選手はベンチに1人だが、徳永・米本・梶山・河野・田邉・前田といった有名どころが先発に名を連ねる。
対する長野もだいたいいつものスタメンが多い感じで、塩沢勝吾(→2011.4.30/2013.8.4)がいるではないか。
なんとかして得点してほしいなあ、と思いつつ試合開始。すると長野は前半から積極的に攻める。すばらしい。
ドリブルでゴール前に切り込んで惜しいシーンを2回ほどつくるが得点ならず。塩沢のシュートも防がれた。
ただ、どちらかというとFC東京の方が余裕を持って攻めさせていた印象である。ジャブ的なシュートを確実に放ちつつ、
圧力をかける。後半、長野の足が止まったところで確実に仕留めようという意図を感じるプレーぶりだった。
L: 前半の長野のいちばん惜しいシュート。30分、ボールを受けた塩沢がシュートを放つがGKが触ってゴールならず。
C: 長野のGK武田大は再三の好セーヴを見せる。リーグ戦ではあまり出番がないらしいのだが、いいGKだわ。
R: FC東京が先制したシーンは撮りそこねたが、リプレーはきれいに撮れた。中島をフリーにしちゃいかんよ。後半も長野が格下とは思えない怒涛の攻めをみせる。60分にはCKから粘って何度かシュートを放つが最終的にはクリア。
相手の隙を狙ういいシュートで押し込んでいたので、長野サイドの観客席はかなり興奮していたのだが。残念。
しかし技術に勝るFC東京は64分、右サイドでボールをつないで前田が速いグラウンダーのパスを長野ゴール前へ。
これをDFの間を抜けた中島翔哉がワンタッチゴール。交代で出た直後のプレーで、さすがのセンスを見せつけたゴールだ。
その後も中島翔哉はキレッキレで、何度もドリブルで切り込んでシュートを放つ。バーに当たったやつには肝を冷やした。
そうして試合終了も近づいた87分、CKから一瞬フリーになったDF内野がヘッドを決めて、なんと長野が同点に追いついた。
内野は京都時代に大木さんのもとで頼もしいプレーを連発していたので、長野に移籍してきたのが嬉しかった選手だ。
そしてこの大舞台の最後のところでその実力をしっかり見せてくれた。相手が警戒しているところでよく得点してくれた。
L: 長野のFK。壁の前で跪いている勝又と前田はなんだか説教されてるみたいだな。あんまり見ないシーンだが。
C: 塩沢のシュートはブロックされる。J1はプレーの判断スピードがJ3とは段違いなのよ。それを実感した試合だ。
R: 試合終了間際、CKから内野が同点のヘッドを決める。最後の最後でチャンスを決めきったのはすごい。リーグ戦のことを考えると、ここで延長戦というのは非常につらい展開である。でもなんといっても天皇杯、
簡単に負けるわけにはいかないのだ。というか、延長戦まで来ちゃったらもう勝つしかない。負けたら大損だ。
延長戦はFC東京がさすがにJ1の意地を見せて積極的に攻める。どちらも運動量が大幅に落ちている状況で、
そうなると技術に優れるFC東京の方が有利だ。ただ、長野もCKから惜しいシーンをつくるなど大健闘。
結局、どちらも得点をあげないまま延長戦は終了し、PK戦にもつれ込んだのであった。忙しいときに限って……。
L: どっちもダメージを残したくない試合だったけど、そういう場合ってだいたい延長戦になるんだよね……。
C,R: 延長戦はほぼFC東京ペースで、たまに長野がカウンターという展開。しかしFC東京は決めきれない。どちらも順当にPKを決めていくが、FC東京の3人目・阿部のキックをGK武田大が止める。これが効いて長野が勝利。
この日再三いいプレーを見せていた武田大だが、最後の最後で大仕事をやってのけた。これはいいGKだなあと思う。
それにしても最後のキッカーである都並の次男は喜びすぎてシャツを脱いで、いらんイエローをもらっていた。
興奮するのはわかるのだが、そこはもうちょっと抑えてほしかったけど、まあ本当におめでとうございます。
L: PK戦、最後に長野の都並が決めて長野が3回戦進出。長野は5人全員が決めたのがすばらしい。でもイエローはよけい。
C: メインスタンドに挨拶する長野のみなさん。お疲れ様。 R: ゴール裏で踊るみなさん。お疲れ様でした。なんてったって長野パルセイロは「長野県代表」として出場していますからね、J1撃破は本当にうれしい。
以前の松本山雅が浦和を破ったように、長野県代表がジャイアントキリングの常連になると楽しいのだが。
もっとも、長野は早くJ3を抜け出して長野県代表ではない形で天皇杯に参戦すべきなんだろうな。期待してます。
通勤電車で読書が進む進む。片道1時間の通勤時間は自己最長で、久々にしっかり本を読んでいる。
職場へ行く方法は主に2つある。東京メトロで行くか、都営地下鉄で行くか。大岡山は便利だなあ。
4月当初はお安い東京メトロで通勤していたのだが、永田町での乗り換えは本当につまらないのである。
なんといっても晩メシの選択肢がほとんどゼロなのが痛い。途中下車したくなる駅もこれといってないし。
それで自腹を切って高い方の都営地下鉄に変えてみたら、もう神保町乗り換えが楽しくて楽しくてしょうがない。東京が再開発でどこも画一化されていく中、神保町は奇跡とも思えるくらい、昔ながらの個性を保っている。
まるで他人の本棚がそのまま街並みになった空間であり、知と教養の広大な世界に圧倒された学生時代を思い出す。
歩いていればただそれだけで皮膚の感覚が研ぎ澄まされ、あらゆる情報が全身に流れ込んでくる感覚をおぼえる。
なんとうらやましい街なんだろう。今までそのことに気づかず過ごしていたのが、もったいないし恥ずかしいし。せっかくの神保町、カレーを食べ歩くのもいいなあと思う。どうせなら、とことん通勤を楽しんでやるのだ。
ぜんぜん休めないけど仕事は次から次へと湧いてくる。なんとかならないもんですかね。
いよいよ決勝トーナメントである。ウチのサッカー部はやっぱりノリノリで、3-0で1回戦を突破する。
勝ち癖がついているので生徒たちは思いきったプレーが選択できて、それが今のところきっちりとハマっている。
こういうパターンは崩れると脆いはずなのでどうにか締める方向にもっていきたいが、これがなかなか……。
異動して間もない顧問の苦しいところである。キャプテンは統率面でも大車輪な活躍ぶりで、表面上は平穏だけどね。準々決勝では雨が降り出して、まさに泥沼化。SBのロングシュートで先制するも、後半で裏に抜けられて追いつかれる。
しかし勝っている勢いってのはすごいもので、粘りに粘って再度得点。この悪条件でよく突き放したものだと驚いた。
だが、文字どおりの泥仕合はどっちにとっても苦しいもので、混戦から押し込まれて再び追いつかれてしまう。
さらにこちらは途中でGKが負傷交代してしまうなど、非常に苦しい時間を過ごすことを強いられたのだが、
どうにか切り抜けて2-2。しかしPK戦でサドンデスまで持ち込んだものの、敗れてしまった。非常に悔しい。
しかし顧問の僕は副審だったり救急車対応だったりで、一日中もうしっちゃかめっちゃか。悔しがる暇がなかった感じ。トーナメントでは敗れたものの、ブロック大会の出場は決まった。気持ちを切り替えてがんばっていきましょう。
夏季大会の予選2次リーグ、信じられない炎天下で2試合やるというとんでもないレギュレーションなのであった。
1戦目はノリノリで6-0の勝利。やりたい放題やって、後先全然考えてねーなあと正直ベンチで少し呆れた。
次の試合のことを考えてセーヴするくらいの戦略性がないのかと。大声で言うわけにもいかないし、正直困った。2戦目は案の定、休養たっぷりな相手に苦戦。かつて僕が志向したランバージャック(→2012.4.8)とは違い、
選手が勢いに任せて勝手に押し込むサッカーだが、その裏をとられて2点リードされる展開となって大いに苦しむ。
しかしキャプテンがFKにPKにと大車輪の活躍で、ドローに持ち込むことに成功した。これでまたまた1位通過である。
僕としては、個の力でここまでもっていくことができるのか、と驚くしかなかった。果たしてどこまで行けるのか……。
部活の夏季大会も正念場だが、研究授業もあるしテストもあるしで、実は本業もけっこうヤバい。一気に来るのよね。
一日一日を一歩一歩確実に踏みしめていくような毎日よ。異動してきて1ヶ月半なのでまだまだ様子見モードだが、
慣れないところにいろんなことが同時並行で襲いかかってくるので、対処にしっかりエネルギーを食われてしまう。
本当に、石でボコボコの山道を行く感覚。これがなんでもない平坦な道に感じられるようになるのはいつの日か。
奇跡的に授業がなかったけど仕事はあるのだ。異動するとプリントがゼロからつくり直しになるのが本当につらい。
ところで、通信の方で必要となる単位が取れていないのではないかという疑惑が発生して動揺する。
確認したくても暇がないなあと。いろいろハンデを面白がりながら勉強を続けているが、モノには限度があるのよ。
長谷川晶一『いつも、気づけば神宮に 東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』。本屋で立ち読みしてそのまま購入。
僕は以前も書いたように、1992年のシーズン、そして日本シリーズでヤクルトファンになった(→2004.9.26)。
つまりヤクルトファンになってからそのまま野村~若松の黄金時代を体験した世代であり、栄光から入った世代である。
しかしスワローズ歴史学をきちんと学んだので、1978年シーズンの広岡V1についての知識はもちろんのこと、
究極の弱小球団だった国鉄スワローズと金田正一という伝説についてもいちおうは教養として身につけているつもりだ。
ただ、やはり、そこは「歴史」なのである。関根監督時代ですら僕にとっては「先史」なのだ。悔しいがしょうがない。
この本の著者である長谷川氏は1970年生まれで1980年がファン1年目ということで、ぎりぎりポストV1世代である。
つまり1980年代という暗黒時代を苦しみ抜いてから、野村~若松フィーヴァーを経験したということになる。
だから立場としては、弱小ヤクルトをベースにしながら、あのまばゆい黄金時代の栄光を追いかけるってなところか。
したがって、どんなヤクルトファンでも共感を呼ぶことができる、そういう見方ができる世代の人だと言えるだろう。
そんな人だからこそ、ヤクルトの二面性というか弱小という本質と強くなったときの魅力を描ききれるのだと思う。著者はヤクルトには「9つの系譜」があると指摘し、それぞれを章立てて全9章構成としている。
まあそもそも野球とは9人でやる9イニングのスポーツなので、その数字に合わせたところはあるだろう。
しかしその系譜は「かすみ草」「背番号《1》」「脇役」「歴代エース」「国鉄戦士」「負けグセ」「野村IDと超二流」
「リハビリ」「ファミリー球団」となっており、ファンには納得のいくものだ。この系譜を利用した構成はかなり巧みで、
ヤクルトが甲子園でV2を決めた試合で、大杉勝男の背番号を受け継ぐ広沢がホームランを打ったエピソード、
それを著者個人の視点から描き出す第1章でまず物語へと引き込んでいく。歴史の物語性を強調する上手い工夫だ。
そこから脇役のエピソードを挟む形で、ミスタースワローズたる背番号《1》と歴代エースの話題をもってくる。
つまり現代と過去の栄光とが往復する形となる。さらに歴代エースからカネやんを中心とする国鉄の歴史を掘り下げ、
負けグセ(80年代)から野村ID(90年代)へと時間の流れに沿って戻る。そして終盤2章の構成は正と負の総括である。
ヤクルトの負の面として知られる故障の多さ(いわゆる「ヤ戦病院」)と、ファミリー球団というあたたかさ。
「ファミリー」が暗喩する「ぬるま湯」の側面にも触れつつも、ポジティヴな形で締めるというわけだ。実に巧みだ。内容は徹底したインタヴュー。インタヴュアーとしての感情も混ぜつつ(ヤクルトファンだから問題ないのだ)、
往年の選手・監督たちや現役の選手たちの話を丹念に紹介する。ファンとしては、生の声がいっぱいで本当にうれしい。
だからどこをとっても面白いのだが、個人的に最も興味深かったのは国鉄時代のエース・カネやんのエピソードである。
カネやん本人はスワローズ関連の取材を受けないらしいのだが、当時の同僚の選手が教えてくれる話が実にいい。
国鉄はあまりに弱すぎたのとカネやんの力が飛び抜けていたこと、そして時間の経過でなかなか実像がわからない。
しかし今のヤクルトにつながるものがこの本ではしっかり示されている。球団史の一部に着実に収まっている感じ、
それがすごくいいのだ。インタヴューが豊富であることから、全体を通してどちらかというと個に焦点が当たっているが、
そういった掛け替えのない個の集まりによってスワローズという集合体がどう動いてきたのかは非常によくわかる。
個の声をしっかり拾い上げるという絶妙なバランス感覚によって、見事に集団の本質に迫った良書であると思う。
一ファンの視点をベースにしつつも、選手や監督の視点を豊富に交えて事実を記録していく。しかしまた、
個々の感情すらも歴史をつくった要素として正当に評価し、ヤクルトスワローズという集合体の魅力を描き出す。
よくこれだけのものをつくりあげて世に出したものだと思う。形のないものが、見事な形を持ったものとして現れた。ひとつだけ、この本とは関係がないが、どうしても言いたいことがある。近年のヤクルトスワローズで強調される黄緑色。
これは絶対にやめてほしいのだ。黄緑色はプロ野球でニッチな色だったかもしれないが、スワローズ本来の色ではない。
僕はヤクルトスワローズのファンとして、黄緑色を使用することだけは認められない。水色と青と白、たまに赤。
それがヤクルトスワローズの色なのだ。黄緑色は神宮球場の芝だけでいい。黄緑色は栄光を捨てた偽物の色でしかない。
印刷博物館こと凸版印刷本社ビルでやっている「印刷書体のできるまで」を見てきたので、常設展とセットでレヴュー。
凸版印刷本社ビルの1階と地下が印刷博物館である。2000年に凸版印刷の100周年記念事業で設立された。
メインは地下で、広大な空間に印刷関連の展示がしっかり広がっている。中には大型の印刷機械もあってびっくり。
印刷の誕生から現代の印刷技術までをけっこう幅広く紹介する内容で、企業の付属施設とは思えないヴォリュームがある。
古い印刷物というと法隆寺の大宝蔵院にある百万塔陀羅尼が有名だが、印刷博物館でもそれを見ることができる。
日本では浮世絵が典型的だが版画が発達しており、その辺りの展示から入る。そしてグーテンベルクの活版印刷に進み、
貴重な印刷物のコレクションへと続く。また徳川家康がつくらせた銅活字の「駿河版」もある。活字の革命ぶりがわかる。
そこからさらに書体への興味も進化していき、印刷の世界がどんどん高度になっていく。挿絵や図の技術も上がっていく。
現代ではもはや「水と空気以外には何でも印刷できる」のだが、常設展ではそこに至るまでの歴史がたっぷり味わえる。一方、特別展の「印刷書体のできるまで」は、凸版印刷が新たにつくった書体・凸版文久体の制作過程を紹介するもの。
もともと凸版印刷は凸版書体という書体を持っていたが、それを電子メディア向けにリニューアルしたというわけ。
特に横書きでの仕上がりにこだわっているようで、素人には目の眩むような細かい工夫がぎっちり説明されていた。
なんというか、書体の世界の容赦のないこだわりっぷりが非常に印象に残った。職人のこだわりって本当に恐ろしい。
夏季大会の予選1次リーグがスタートし、わがサッカー部は3-0と2-0で首位通過。春季大会がウソのようである。
やはりなんといっても中盤でキャプテンが効いているのだが、春と打って変わって守備が安定しているのは特筆ものだ。
どちらの試合も客観的に見てしっかり感動できる熱戦で、ああいいもんだなあと思いながら試合を眺めるのであった。
なんというか、攻撃の場面でも守備の場面でも、中学生らしい全力さ、ひたむきさがあふれているのである。
60分間の一瞬一瞬、そのすべてに中身が詰まっている試合をしている。半分見とれながら指示を出していたよ。
島田裕巳『「日本人の神」入門 神道の歴史を読み解く』、講談社現代新書である。
「入門」と題しているが基本的には「ぼくの考えるファンタジー」であり、思いつきをただ書きとめているにすぎない。
神宮にしろ八幡にしろ春日にしろ、とにかく論が乱暴。自論にとって都合のよい知識だけを並べて強調している印象だ。
図や写真が異様に少ない点も、読者にできるだけ反論の余地を見せないようにしているのでは?と勘繰りたくなる。たとえば、出雲大神宮(→2011.10.2/2014.11.8)と大神神社(→2012.2.18)という2つの一宮が登場するが、
どちらも山を御神体としており、かつては社殿が存在しなかった。そこから日本の原始的な信仰の形を論じているが、
そうは言っても一宮である。しかも、それぞれ1国に1ヶ所しかない、時代による変化のない「確定した一宮」だ。
『延喜式神名帳』の時点(927年)でどちらも名神大社となっているので、それなりの規模・知名度だったはずなのだ。
この本でもとりあげられている『徒然草』の第236段「丹波に出雲と云ふ処あり」では、出雲大神宮について、
獅子と狛犬が逆向きで何か由緒があるだろう……と思ったら子どものいたずらだった、という話の流れとなっている。
つまりこの時点で、出雲大神宮には遠方からの参拝者に伝統と格式を感じさせるものがあった、と考えるべきだろう。
でもこの本では、『徒然草』に社殿建設の記録が残る鎌倉時代まで社殿はなく、鳥居があるだけだったと断定している。
平安時代当時の神社の状態や人々の感覚への分析を放棄しており、事実を自分の都合でねじ曲げている感触がする。
「日本的三位一体」なんて表現は、もうめちゃくちゃ。「三位一体」という言葉についてまわるものをまるで無視しており、
自分が上手いこと言いたいからって現実ねじ曲げとりゃせんかと。そもそも身近な稲荷について完全にノーマークだし。
それでいて確実な資料が豊富な新宗教の話題になると、途端に生き生きしてくるのがまたなんとも情けない。宗教について論じるのは難しいことだが、それは複雑な人間の精神の本質に迫ることになるからだ。
ミクロでは人間が祀る「心理」を、マクロでは社会が祀る「政治」を論じるべきなのだ。宗教はこの両輪から成る。
しかしこの本はそのレヴェルにまったく到達できていない。筆者にとって都合のよいただの知識の羅列なのである。
心理についても政治についても弱いということは、神を祀る人間の精神がまったく理解できていないということだ。
特徴的なのは、筆者は断定と推定の感覚が逆であること。ファンタジー部分については断定口調でどんどん進めるが、
資料などから断定してもいい部分では「かもしれない」「考えられる」などと弱く主張する。ふつうの人間と感覚が逆だ。
だから読んでいて非常に気持ちが悪い。すべてにおいて(事実すらも)筆者の感覚の方が優先されており、
神を祀ってきた人間たちの気持ちに寄り添えていない。それでいて『「日本人の神」入門』というタイトルとは。いやはや。褒めるところの少ないこの本で唯一、興味深い視点は、最後の最後に出てくる「神/仏」と「戦争/平和」の構図だ。
やや単純化しすぎているところはあるが、さまざまな神を対象にもっともっと掘り下げていく価値はあるだろう。
また、今ある寺社が神仏習合からいかに分離して現状の形に落ち着いたかをひたすら解説することに徹していれば、
優れた本になったかもしれない。『「日本人はどのように神を分離したか」入門』なら、鋭く近代をえぐることができたのにね。
どうも。メンタルベッコベコです。被害妄想にかられておりますよ。
なんで行く先々でこんなに毎回毎回メンタルを削られなくちゃいけないのかねえ。不思議でしょうがない。
嫌がらせを受けているとしか思えないくらいである。やたらめったら足を引っ張られて、本当に困る。
石黒正数『それでも町は廻っている』が完結して、ワカメが激賞していたので僕も総括を(前のログ →2009.9.22)。
主人公の嵐山歩鳥が探偵志望ということで日常における小さな(大きくて解決しきれない場合もある)謎に迫ることで、
随所にドタバタギャグも混ぜながら魅力的な世界観を構築していくスタイル。この手法は少年マンガでは斬新だった。
時間軸をわりと無視することで、主人公の日常を描きつつ、さまざまなキャラクターが参加する群像劇にもなっている。
これすなわち、いつでも終わることができるということでもある。設定を動かせば時間を経過させることもできるが、
とりあえずは嵐山歩鳥が高校生である時間の中で、微分のようにして気の済むまで物語を紡いでいけばいいのである。
(ワカメと僕がいた界隈で通用する「用語」を使えば、この作品は「茶砂漠方式」ということになる。懐かしい。)まずその事実を確認したうえで、僕の総括を表明させてもらおう。この作品は、最後の最後で大いに質を落とした!
これまでの、優れた世界観の構築手法に対する評価、そして魅力的なキャラクターの構築手法に対する評価、
それらを地に落とすほどに実に残念すぎる終わり方をしている。ただし、そのようなマイナス評価となったのは、
僕の好みによるところが大きい。だから他人が高く評価してもそれはそれとして批判するつもりはさらさらない。
しかし、僕としては最後の最後で思いっきり期待を裏切られた感覚なのである。完全に駄作に帰してしまった、と。理由は2つある。ひとつは、最終話の終わり方。作者の本音を代弁するような歩鳥のセリフ。何も面白くない。
読者は置いてけぼり。そしてその逃げ方も実に中途半端で投げやりだ。この系統のラストについて僕は以前、
『幕末太陽傳』のレヴューで書いているが(→2012.1.9)、これを実現して丸子の商店街を走らせないとダメだろ。
それでようやく『それでも町は廻っている』というタイトルが回収できるのだ。作者の実力不足が露呈している。もうひとつ。これは完全に僕の好みの問題だが、エピローグにまったくもって納得がいかないのである。
歩鳥が高校3年間で目指していたのは探偵だったはずだ。しかしエピローグでミステリ作家への第一歩を踏み出して、
それで静ねーちゃんに認められたからゴール、となっている。この当初のゴールとのズレが、ものすごく気持ち悪い。
そもそもは僕がミステリというものを蛇蝎のごとく嫌悪していることが気持ち悪さの源泉であるのは間違いない。
しかし、歩鳥の3年間がミステリ作家に回収されたことで、それまで構築されたストーリーが矮小化されたのだ。
街や学校で暮らす探偵としての歩鳥の活躍と、青春時代だけに許される仲間との面白おかしくってたまらない毎日。
あの毎日って、たかがミステリ作家になるために必要な手段だったの? あのかけがえのない毎日の先にあるものが、
ミステリ作家というクソみたいに自己中心的な小さい小さい箱庭療法の患者という結果で終わってしまっていいの?
リアルな街を舞台に生きる主人公が、自分の論理の世界だけで生きるくだらない人間になることをゴールとする?
僕にはまったく納得できない。数ある将来の中でも、絶対に認められない選択肢が公式なものとなってしまった。
ゆえに、僕はこの作品を「最後の最後で質を大いに落とした駄作」と判定する。読んで損したとすら思っている。結果としてこの作品で唯一褒めることができる点は、中学生のエビちゃんだけになってしまった。エビちゃん最高!
毎年恒例となっているワカメの上京である。今回はハセガワさんも早い段階で合流して、いろいろ盛り上がる。
趣味の合う彼らオススメのマンガやらアニメやらについてもしっかり情報収集できて、本当に有益だった。
古典についてのトークでは、あだち充論とか面白かったなあ。毎回だけど、録音しておけばよかったと本気で思う。ちなみに『けいおん!』(→2011.3.19)の話題で発覚したのだが、僕もワカメもハセガワさんも、全員ムギ派でやんの。
モーニング娘。のときは僕が吉澤派で、ワカメは松浦だか道重だかと見せかけて石川にも造詣が深かったはずで、
ハセガワさんといえば「いしやぐ」の第一人者だったわけで。あんまり好みはかぶっていなかったと記憶しているが。
それぞれにどういう理由でムギ派に行き着いたのか、これはまた次回の課題とさせていただきたいと思います。
では、昨日の続きで国立科学博物館の「大英自然史博物館展」についてレヴューを。
でもまずその前に、上野公園の写真を貼り付けておく。日本の都市公園100選のひとつということでの訪問でもあるので。
正式な名前は「上野恩賜公園」、日本初の5つの公園のひとつである(上野のほかは、浅草・芝・深川・飛鳥山)。
……あ、そういえばすっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっかり放ったらかしになっていたが、
その5つの公園をサイクリングで訪れるという企画をずっっっっっっっっっっっっっっっっと前にやっていたではないか。
第1回の深川公園(→2002.8.25)、第2回の飛鳥山公園(→2002.8.31)以来、実に15年も経ってしまったではないか!
まさかここで第3回目をやるとは! まあ厳密には2年前の寛永寺周辺も上野公園探索と言えるけどね(→2015.12.5)。
あの企画、勢いにまかせて始めたはいいんだけど、浅草公園は今は浅草寺境内だし、芝公園は建物が多すぎて複雑だし、
上野公園もいろんな要素が混じりすぎているし、どこも1873年の日本初の公園指定時とは姿が変わりすぎているしで、
うまくまとめられる気がしないまま放置していたというわけである。そういえば「TOKYO SWEEP!!」も放置だ。やべえ。
L: 上野恩賜公園、南側の入口がいかにもそれっぽいので撮影。2年前には「公園」という見方をしていなかったからなあ。
R: ずーっと進んで東京国立博物館の南側にある大噴水。この辺りは明治の気合いを感じられる「公園らしい空間」だと思う。閑話休題、本題に戻って「大英自然史博物館展」のレヴューである。平日を狙って来たんだけど、かなりの混み具合。
根性で気になったものをバシャバシャ撮影したけど、本当に大変だった。暗くて上手く撮るのが難しかったし。まあとりあえず、はじまりはじまり。かつて博物館の屋根に飾られていたライオン像。
僕が勝手にフォトジェニックと判断して撮影した写真を貼り付けていくが、動物と鉱物に偏っているなあと。
植物方面や博物学者の業績とかにはあまり興味がないのかと自分で反省。植物標本はどうしても枯れるからねえ。
L: 実際にダーウィンのペットだったガラパゴスゾウガメ。そんなものが標本として存在していることに驚いた。
C: 今回の目玉である始祖鳥の化石。よくこれを外に出したなとびっくり。 R: もう一丁。見とれるしかないよね。
L: 輝安鉱。アンチモンの硫化物だが、こちらは愛媛県西条市で採掘されたもの。美しさにただただ圧倒される。
C: サーベルタイガー。 R: リョコウバトの標本。最も数の多い鳥だったのに、絶滅させられてしまった。
L: ラトローブ金塊。金の結晶ってこんななのね。 C: マントルの捕獲岩。数百kmの地下から噴火で出てきたマントル。
R: エジプトで見つかった火星の隕石。むしろ、よく火星のものだってわかるなあと、そっちの方に感心してしまう。以上。写真が10点ということからもうかがえるように、せっかくの「大英自然史博物館展」だったのだが、
正直なところ僕は大いに満喫したという気分ではなかった。展示は圧倒的だったけど、全体が薄暗いこともあり、
僕としては「影/陰」を感じながらの鑑賞となったことが大きい。興奮したのは始祖鳥くらい。本当にわずか。はっきり言ってしまおう。博物館とは、本質的に「暗い」場所なのだ。なぜなら、あるのはほとんどが死体だから。
かつて生命活動していたものが、物質・静物となって陳列されている空間。そりゃあ暗くて当たり前なのである。
生きている生命を愛でるのではなく、死体を集めて喜んでいるわけだから、どうしても本質的には悪趣味だ。
展示を見ている間ずっとその事実を延々と突きつけられていたので、僕は死の感触に当てられてしまった。
そういえば、かつて京都国立博物館で強烈な「死」のイメージに呑まれたことがあった(→2004.8.6)。
あのときの対象は主に仏像だったが、こちらの展示は本物の仏様ばかりなのである。純度がまるで違う。
正確に言うと、僕は途中からものすごくネガティヴな雰囲気にいたたまれなくなってしまって、理由を考えて、
それで上記の結論に至ったわけである。博物館とはつまり墓場じゃねえかと。その事実が自分でもショックでして。そんなわけで、30分くらいで外に出る。太陽の光を浴びながら日本館のスクラッチタイルをボケーッと眺めて、
それでようやくマトモな感覚に戻った。そうだ、日本館は重要文化財、非常にポジティヴな価値を持っている。
前に姉歯祭りのみんなで地球館を見てまわったけど、時間切れで日本館には行けなかった(→2010.9.4)。
今回はそのリヴェンジということで、優れた建築をしっかりと味わいながら展示を見ていけばいいのである。
ということで、気ままに展示を眺めていく。日本館は博物館のわりには全体的に照明が明るめなのも非常にいい。
L: 左がユキツバキで、右がヤブツバキ。ユキツバキは花弁が星型になっていて、ヤブツバキは丸っこい。
C: 日本の周辺にいる海洋生物の模型。きれいに並べてあって、思わず見とれてしまったのであった。
R: ぜんぶ日本にいるオオセンチコガネだが、北から南にかけて見事に色が変わるのが面白い。すごい金属光沢だ。
L: クワガタの頭部だけを比較した模型。なるほど。 C: 左が冬毛で右が夏毛(ウサギとテン)。ぜんぜん違うなあと。
R: めちゃくちゃ小さいカニたち(サンゴガニ属)の展示。でっかいのと比べると、生命って本当に不思議だと思う。
L: 超フォトジェニックなフタバスズキリュウの展示。アメリカ自然史博物館( →2008.5.8)みたいで、非常にオシャレ。
C: 日本のありとあらゆる種類の鉱物・岩石が展示された部屋。見ているだけで面白い。 R: こちらは隕石。これも興味深い。日本館のおかげで精神的にはかなりいい具合に回復したので、やっぱり地球館にも突撃してしまう。
7年前よりカメラの精度も上がっているし、リヴェンジ撮影したいものあるし。これまた気ままに見てまわる。
L: ディケロケファリナ。冷静に考えちゃうとまあ、やっぱり気持ちのいいものではないんだよなあ。
C: ドロトプス。これがそのまま残っているのはすごい。 R: レバノプリスティス(下)とリノバトス(上)。
L: 化石(海生哺乳類)を上から吊ることで海底から見た視点にしているわけだ。ホント、オシャレなものだと思う。
C: ティラノサウルスはやっぱりインパクトが違うなあ。 R: 対するはトリケラトプス。きれいに撮影しやすい展示だ。
L: 高さで圧倒されるヒパクロサウルス。親子での展示となっており、後ろでかがんでいるのが子ども。
C: なんだか気持ち悪い集まりに見えるストロマトライト。こいつのおかげで地球上に酸素があるのだ。
R: 前回も撮影したヒトの骨格。右隣にいるのが始祖鳥で、それと比較してこのポーズなのか。
L: ウシの胃と腸。実際に展示されるとその長さに驚かされる。 R: ミンククジラの小腸。寄生虫がすごい……。地球館の2階は科学技術がテーマ。7年前(→2010.9.4)のリヴェンジということで、じっくり撮影。
L: 万年自鳴鐘(万年時計)。今度はしっかり撮ったぞ! C: 零式艦上戦闘機。 R: 高柳式テレビジョン。きちんと「イ」。
L: これもあらためて撮影した九元連立方程式求解機。 R: 中身を見ても何がなんだか。思いつくこと自体がすごい。さて、7年前にはなかった展示で注目すべきは、小惑星探査機「はやぶさ」が持ち帰ったイトカワの微粒子だ。
なんと本物が常設展示されているのである(ただし「はやぶさ」の方はレプリカ)。光学顕微鏡で見るのだ。
L: はやぶさのレプリカ。下のクリアケースのボックス内にイトカワの微粒子が入っている。 R: な、なるほど。最上階の3階はさまざまな哺乳類と鳥類の剥製が並ぶ。上でも書いたように本物の仏様ばかりだが、
照明を工夫してあって暗い感じがしないのは助かる。やっぱり実物ならではの説得力は確かなものがある。
L: とにかくその量に圧倒される。 R: サーバルもいたよ! すっごーい! たーのしー!しっかり堪能して外に出る。今回は特に博物館の「明るさ」の問題について考えさせられたわけだが、
「博物館と色彩」というのはひとつの興味深いテーマではないかと思う。時間の経過によって物は色褪せるし、
むしろ色の褪せ具合からわれわれは時間の経過を読み取る。また化石は色を記録することがないメディアだ。
したがって、本質的に博物館は墓場であり、色のない世界なのだ。今を生きる美術館が色鮮やかなのと対照的だ。
だからこそ博物館は、色彩に敏感でなければならないのではないか。その点で、日本館の展示は非常に優れている。おっと、そうだった。重要文化財である日本館の建物じたいをきちんとクローズアップしなければ。
1931年の竣工で、設計者は文部省大臣官房建築課の技師・糟谷謙三。上から見たら飛行機の形をしているのは、
当時最先端だった科学技術の象徴とのこと。スクラッチタイルは帝国ホテル(→2013.5.6)の影響とか。
2004年から3年かけて改修工事をしたのだが、おかげで歴史を感じさせつつ明るく見やすい展示が実現されている。
僕が小学校の修学旅行で訪れたときにはもっとふつうの暗ったい展示だった記憶があるが(1989年のこと)、
地球館とうまく振り分けて内容を絞っている感触である。建物じたいの価値をきちんと味わえるようになった。
L: 国立科学博物館のシンボルと言えるシロナガスクジラの模型。 C: 正面玄関。震災復興建築らしいモダンさが光る。
R: 中庭にて。ベンチではないが自由に座れるようになっているのは面白い。晴れていると非常にいい雰囲気。ではあらためて日本館の中に入って建物のあちこちをクローズアップしてみるのだ。1931年竣工ということは、
世の中はアール・デコを経験してモダニズムが広がっていった時代である。穏やかに施された装飾を見ていると、
旧朝香宮邸(→2016.10.31)を彷彿とさせるものがある。まああそこまでデザインで埋め尽くされていないが、
科学博物館を名乗るにふさわしい理知的な格調を感じさせる建物である。絶妙なバランスの装飾だと思うんだよね。
L: 中央ホールにて。 C: 天井を見上げる。 R: 逆にホールを見下ろしたところ。旧朝香宮邸的である。
L: 階段がもう美しい。全体的にシンプルにまとめながらも装飾は場所を絞ってしっかり凝る。センスいいなあ。
C: 展示室内。建物としてはシンプルなので、展示が引き立つ。白い色も明るくてよいし、ガラスも効果的だ。
R: 展示室を出て階段。ベースの造形は大胆だが、やはり装飾を絞って対比させており、品のいい仕上がりっぷり。もうひとつ、地球館の屋上にはスカイデッキとハーブガーデンがあるのだ。これが開放感があって心地よい。
ハーブの世界も非常に奥が深くて、それぞれの特徴を見ていくのはもうそれだけで十分面白い(→2012.8.19)。
というわけで、結果的にはいい形で一日を締めくくることができた。常設展のレヴェルが高いってすばらしいね。地球館の屋上のハーブガーデン。これは非常にいい工夫だと思う。
大好きな国立科学博物館だけど、どうしてもなんとかしてほしいことがひとつだけ。
昔、たんけん館にあった地球儀を復活してほしい! インド亜大陸がぶつかってシワになってヒマラヤ山脈ができるアレ。
小学生のときの修学旅行でいちばん衝撃を受けた展示だったのだが、あのインパクトは本当にすごかった。ぜひ!
本日は体育祭の振替休業日。貴重な平日休みをどう使うか、あれやこれやと可能性をいろいろと考えてみた。
しかし今月は部活の夏季大会で週末が自由に動けなくなってしまうため、その分を穴埋めする内容に決定する。
期限が近くて気になっている国立科学博物館の「大英自然史博物館展」を見にいくのである。ただ、それだけじゃない。
せっかくなので、久しぶりにサイクリングをしながら都内の神社めぐりをして、そのまま上野へ向かうというわけ。
まず最初は新宿中央公園の端っこに鎮座する熊野神社だ。もともと新宿中央公園は熊野神社の土地だったんだけどね。
L: 西側にあるこのスロープが表参道のようだ。 C: 上ると左手に境内。 R: 火消しの纏を彫った碑。おしゃれ。熊野ということで、当然ながら紀伊半島南東部にある熊野三山(→2013.2.9/2013.2.10)が勧請元である。
ここから移ってきた鈴木氏が「中野長者」と呼ばれるほど栄え、熊野の十二所権現を祀ったのが由緒とのこと。
L: 鳥居をくぐって境内を進む。 C: 振り返るとこんな感じ。 R: 境内の西側にある神楽殿。平日の朝ということもあってか、都会の中にありながら非常に落ち着いた雰囲気なのが印象的である。
周囲が公園となっていることが大きいと思うが、近代的な神社と自然の中の神社のちょうど中間という感じ。
L: 拝殿。 C: 右手に入り込んで本殿を眺める。 R: 本殿の脇はこんな感じ。緑に包まれた爽やかな神社だ。新宿西口から東口へと移動すると、もうひとつの「新宿総鎮守」に参拝する。ご存知、花園神社である。
花園神社は場所が場所なので、すっきり写真を撮るには平日の朝に参拝するしかないだろう、というわけ。
目論見は当たってそれなりにスムーズに撮影できたのだが、車は多いし外国人観光客はすぐに来るしで大変。
L: 花園神社。まずは東側の表参道から。 C: 鳥居をくぐると鬱蒼とした境内。 R: しかし社殿の前はすっきり。花園神社はもともと稲荷系の神社である。鮮やかな朱色の社殿はその事実を示しているということか。
この場所はかつて尾張藩下屋敷の庭で、多くの花が咲き乱れていたことから「花園」という名がついたそうだ。
「花園」とは実に意味深な響きで、昭和の猥雑な新宿の雰囲気と妙にマッチして存在感を高めてきたのは確かだろう。
L: こちらは南側、靖国通り側の境内入口。 C: 参道を進む。うーん、新宿とは思えないというか、新宿らしいというか。
R: 拝殿の裏にまわり込んで眺める本殿。花園神社の裏側はかの有名なゴールデン街。やっぱりすげえ場所にあるなあ。花園神社で面白かったのが社務所。かなりモダニズム色の強い建物で、凝っているなあと感心しつつ御守を頂戴した。
冷静に考えてみると、神社の社務所をモダニズムでやっている事例は珍しい。その割り切り方もまたかっこいい。
L: モダニズムの感触がする花園神社の社務所。 C: 境内のど真ん中にある威徳稲荷神社。ここは非常に妖しげ。
R: 境内の端っこにある芸能浅間神社。瑞垣には芸能関係の皆様の名前がズラリと並ぶ。これもまた新宿らしい。運のいいことに、花園神社の境内には唐十郎率いる劇団「唐組」の紅テントが張ってあった。うーん、新宿!
唐十郎もきちんと観ておかないといかんなあと思ったが、上演するのは週末だけなのね。残念である。
L: 唐十郎の紅テント。これぞ新宿、これぞ花園神社。 C: 参道側から見たところ。 R: 裏側。すごいなあ。新宿を後にして、戸山から早稲田、神楽坂へと抜けるコースをとる。そしたら途中で穴八幡宮に遭遇。参拝する。
やっぱり穴には引き込まれてしまうものなのだ。境内はなかなかの高低差があって、高低差と神社の関係が面白い。
L: 穴八幡宮の鳥居。 C: 石段を上ってまた上るのだ。 R: 左手はこんな感じでちょっと公園っぽい。石段を上りきると立派な楼門。1998年に室町時代の様式で再建したもので、今も境内の整備が続いているとのこと。
ただ、楼門のほかにも鼓楼があったりと、雰囲気は明らかに神社というより寺。社殿も寺のような建物である。
八幡宮がもともと神仏習合色が強い神社であるにしても、これだけはっきり寺に寄っている事例は珍しいと思う。
御守も中身と守袋が別となっているパターンで、これまた寺っぽい。なお、守袋は明治神宮と同じ形状だった。
L: 楼門。この先の参道右側はまだ工事中。 C: 参道の左手に出て境内を眺める。鼓楼とそれに続く建物が寺っぽい。
R: 境内の奥には社殿があるが、これもやっぱり寺っぽいのだ。いかにも「徳川家の寺」って感じだと思うのだが。ほかにも参拝したい神社はいっぱいあるけど、これではいつ上野にたどり着けるかわかったもんじゃない。
というわけで、寄り道はこれぐらいにしておいて、あとはまっすぐ上野に向かってペダルをこぐのであった。
「大英自然史博物館展」@国立科学博物館のレヴューについては明日の分の日記にまわします。書くこと多すぎ!
前任校のサッカー部が区大会の決勝トーナメントに進出して、その1回戦。私立が相手の大一番である。
トーナメントということで、負けたら引退となってしまう。でも勝てばブロック大会進出に王手がかかるという状況。
僕だけでなく多数の保護者、校長先生、今春卒業したばかりのOB2人も駆けつけて、固唾を呑んで見守る。押し込まれて最初の相手CK、ゾーンで守っていたところのこぼれ球を決められて、いきなり失点してしまう。
その後しばらく粘るも、またCKからこぼれ球を決められて2点目を失う。が、直後のキックオフをそのまま叩き込み、
1点返してハーフタイムを迎える。こうなると、同じ形で2失点してしまったことが悔しい。後半は選手の配置を攻撃的に変えるが、なかなかチャンスがつくれない。クリアボールをすべて押さえられるなど、
セカンドボールを拾えないので攻撃に入りきれないのだ。とにかくボールが相手に引っかかって先へ進めない。
その状況を理解して柔軟に戦術を変えられるとよかったが、ビハインドではなかなか勇気を持てなくなるもの。
攻め手を欠くまま時間が経過していくと、右サイドから崩されて決定的な3失点目を喫してしまった。
結局そのままタイムアップ。悲願だったブロック大会出場はならなかったか……とみんなでがっくり。難しいもので、こちらが成長しても相手の成長の方が上回っていれば、勝つことはできないのだ。
その成長スピードの差は、ふだんの部活に対する姿勢の積み重ねで出てしまう。振り返れば、そこの差だったわけだ。
僕もコメントを求められたので、「部活は真剣勝負を経験させる場なんだと思う」と最近考えていることを言い、
「これからの人生で求められる真剣勝負から絶対に逃げるな」と言った。僕は素直に3年生たちをよくやったと思うし、
やはり試合結果には足りない分が反映されたとも思う。よくやった、でも、まだまだ足りない。そして形は違えど、
この経験を生かして挽回しなければいけない瞬間がやがて来る。その時に備えよ、と。人生その繰り返し。
ブロック大会に出られなかったのは残念だけど、出るべき大会に出られなかった原因を客観的に見つめて、
その借りを将来いろんな場面で返していってほしいと思う。「負けたことがある」を財産にできるようにがんばれ。
体育祭である。当方、毎度おなじみの用具係をこなすのであった。生徒が自主的に動いてくれるから助かる。
競技については前任校より多種多様。しっかり盛り上がったし、非常によかったんじゃないでしょうか。
川崎市岡本太郎美術館でやっている「岡本太郎×建築」展のレヴューを今のうちに書いておくか。
まず常設展は岡本太郎の絵画作品を豊富に展示。これが強烈で、非常に疲れる。まともに向き合うのが危険なくらい。
そもそも美術鑑賞という行為は、エネルギーをかなり消費する行為なのだ。それは館内をあちこち歩きまわるからではなく、
作品たちがこちらの生命力を吸収するからだ。作品たちは鑑賞者を刺激して、漏れだしたエネルギーを吸収することで、
名作としての魅力・破壊力を永続的に充填しているのである(→2008.5.8/2010.3.29)。美術館は怖いところなのだ。
そして岡本太郎の作品にはそういう挑発してくる要素が非常に強い。人間の原始的・根源的な衝動を刺激してくるので、
正面からぶつかると本当に疲れる。そんなのがゴロゴロ転がっているんだから危険極まりない。芸術は爆発だもんね。うまくやり過ごす感じで企画展に突入。「岡本太郎×建築」ということで、岡本が関わった建築家をまずクローズアップ。
主なメンツはパリ時代の盟友・坂倉準三、そして20世紀を代表する建築家・丹下健三、最後にアントニン=レーモンド。
このうち最も目立っていたのはやはり丹下先生で、岡本相手にニコニコ笑っている写真がやたらと多く展示されていた。
芸術面としては丹下先生はモダニズムの本流だが、岡本太郎は縄文方面や沖縄方面など土着のパワーを掘り起こし、
むしろ後のポストモダン的な価値観に先鞭をつけている印象がある。でも二人は不思議とウマが合ったようで、
丹下先生に請われて丸の内旧都庁舎のレリーフを製作したり、大阪万博で共演を果たしたりしている(→2013.9.29)。
この企画展は岡本太郎を主役としながらも、むしろ彼を認めて大いに面白がった丹下先生の勘のよさが際立っている。
どちらかというと、丹下先生が岡本太郎のエネルギーを内包することで自らの建築の意義を高めようとしたのでは、
そう思えるのだが、まあ岡本太郎はそんな関係性には興味がないだろうし、実際にやりたい放題を貫いたわけだし。ところで丸の内旧都庁舎は、僕が実物を目にすることができなくて最も悔しい建築・永遠の第1位なのである。
今回、模型が展示されていて舐めるように見たが、香川県庁舎(→2007.10.6/2007.10.9/2015.5.3)の前段階、
という印象が本当に強い。香川県庁舎は日本伝統の木造建築の意匠を融合した分だけ完成度が上がっているが、
旧都庁舎はそこに至る直前の横長ミース建築という雰囲気。僕が最も魅力を感じたのは屋上で、水に浮いている感じ。
F.L.ライトの旧山邑家住宅(→2012.2.26)と同系列で、優雅な艦橋を思わせるのである。その美しさに初めて気づいた。
最後に、岡本太郎でぜひ評価してほしいのは、写真である。彼が撮った写真は断片的にしか見たことがないのだが、
目のつけどころがどれも面白いし、民俗学的な感覚も鋭いし、対象の時期から考現学的な価値も十分にある。
ぜひその写真たちを整理してまとめた展覧会を企画してほしいのだが。自分で写真集を買えばいいんだけどよ。
今週末の体育祭に向けてラストスパートなのだが、昼の授業で見る限り、生徒たちはけっこう限界に近い感じ。
こっちもヘロヘロだし、本当お互いによくやっているよなあ、と思うのであった。奇妙な連帯感である。夕方からはサッカー部の顧問会。帰りに松本で自衛官をやっていたという先生とトークでいろいろ盛り上がる。
ストレートに教員になった先生も悪くはないが、意外なバックグラウンドを持っている人の話はやっぱり面白い。
まあこっちもそうとうに変な経歴で、「先生もいろいろネタを持っているじゃないですか」と言われた。はい。