diary 2009.1.

diary 2009.2.


2009.1.31 (Sat.)

九州東海岸に行ったのが今月のことだってのに、なんともうすでにどこかに行きたくなっている自分がいる。
県庁所在地めぐりは残すところあと8都道府県。大きい旅行を3回(山陰・近畿・北海道)こなす必要がある。
それらをつぶすことはもちろんだが、困ったことにそれ以外の場所についても行ってみたくなっているのだ。

近畿では、姫路城を見てみたいし政令市になった堺市も見てみたい。紀伊半島も、もっとじっくりまわってみたい。
北陸についても再チャレンジして能登半島に行ってみたい。福井市から東尋坊って遠くないじゃん、とも思うし。
豊橋って飯田線が通っているのに行ったことねえぞ(大学1年のときに早朝の1時間ほど滞在した程度)、
四日市ってどんなだ、成田山にお参りしてみたいぞ、飛騨高山をじっくり見たいな、柏崎ってどんなだ、
白河のラーメンってうまいのか、八戸行って市議会傍聴したいぜ、潮来ってどんなだ……そんな感じ。
(ここまで書いた中に中国・四国・九州がないのは、せめてもの理性だと思っていただきたい。)

知識欲にかられる子どもとまったく同じ状態なのである。あちこち行って、自分の中の地図を広げたい。
まあとりあえず、夢を持つのはいいことだということで、今は行きたい気持ちをじっくり保って過ごすことにするのである。


2009.1.30 (Fri.)

Mステの3時間スペシャルで再結成したユニコーンの生演奏を見る。
新曲についてはまだまだ慣らし運転という印象だが、奥田民生がカウベルを叩くのを見てさすがだなあと思った。
メインヴォーカルが阿部であり、奥田がカウベルとコーラスということでナメている印象があったかもしれないが、
むしろその辺の融通が利くのがユニコーンらしい。何よりカウベルのリズムがものすごく効いていたではないか。
それにしても西川幸一のドラムスには惚れ惚れする。何より楽しそうでいいなあと思うのであった。

新曲の後に演奏された『すばらしい日々』を聴いていたら、なんだか涙が出そうになってきてしまった。
僕は恥ずかしいことに、リアルタイムのユニコーンには見事に乗り遅れ(「『鼻から牛乳』といえば嘉門達夫」だったし)、
高校卒業直前に潤平に教えてもらって衝撃を受けたという経緯があるんだけど、
それでもやっぱりグッと込み上げてくるものがあった。むしろリアルタイムで知らなかった分だけ、込み上げてきた。

しかしこうしてみると、かつてのバンドブームってのは実に豊かな時代だったなあと思う。
近年になって解散したバンドがボコボコ復活しているわけだが、僕はいちおうそれを好ましく思っている。
「向上とは変化することである。完璧とは変化し続けることである。(W.チャーチル)」
解散したバンドが復活することだって、それは変化のうちなのだから、好意的に受け止めようじゃないか。
それで1曲でもまた心に残る新しい曲が聴けるのならば、それでいいじゃないか。そう思うことにする。
(しかしそんなカッコイイことを書いておきつつ最近のYMOの変化を批判する僕(→2009.1.17)。心に残らんのよ。)


2009.1.29 (Thu.)

実はヒマを見て、ちびちびと伊集院のラジオをMP3化している。
もともと毎週MDにモノラル録音したものをテープに移したものが膨大にあって(→2005.10.3)、
それを再びMDにまとめるという作業をしたのだが、今度はそれをMP3にしているわけだ。

なんで今になってMP3化を始めたかというと、まずパソコンの処理能力の問題が大きい。
昔のパソコンじゃ2時間のデータをつくるなんてとてもとてもできなかったのだ。HDの容量も足りなかったし。
でも長時間録音をだいぶスムーズにできるノウハウも蓄積できたし、MP3もすっかり一般化したし、
DVD-ROMのメディアも安くなったしで、重い腰を上げてようやく始めてみたのである。

とにかく分量が半端じゃないので(2時間×300回分くらい)、いつこの作業が終わるのかまったくわからない。
ヘタしたら5~6年かかるんじゃないかってくらいの量なのだ。決して冗談ではなく。
そういうわけで、全盛期の伊集院のトークを楽しみつつ、気長に気長に作業を進めているしだい。


2009.1.28 (Wed.)

本日も風邪でぶっ倒れていたのだが、昨日のニンニク責めの効果があったか、回復の兆しがだいぶ出てきた。
とりあえずは、体力を使うようなことは一切しないで過ごす。来月以降は風邪なんて引いちゃおれんからなあ。


2009.1.27 (Tue.)

朝起きたら、のどが痛い。こりゃマズいな、と思いつつ仕事をこなし、家に帰ってくるとそのままベッドにぶっ倒れる。
熱はそんなにないので、いま流行中のインフルエンザではなく、ただの風邪のようだ。
マスクをして買い物に出て、ニンニクを1個丸ごと買って帰る。それを刻んでたっぷりチャーハンに入れる。
思えば国立にいた頃には、風邪のときにはスタ丼で精力をつけて解決をしていた。
今は自力でなんとかしないといけないのが淋しい。そんなことを考えつつ、アスピリンを飲んでおとなしく過ごす。

昼を過ぎて、ベッドの中で久しぶりに『ストッパー毒島』を読む。このマンガは何度読んでも惚れ惚れする。
いくらなんでも佐世保を活躍させすぎな気もしないでもないが(終盤は佐世保の理屈を超えた打撃でしのぐ感じ)、
マンガの持っているテンションがそういうチャチな考えをねじ伏せてしまうので、そこは素直に楽しむのだ。
個人的には山本(背番号10、黒田の子分)の変化を描いている部分がけっこう好きだ。
4巻178ページでは毒島に「一応守備にはついてやるけどよ ボールが飛んできても捕ってやらねえからな」と言い、
実際に200ページでは一塁線のファウルボールを追わない姿が描かれている。しかし最後の最後、9回表2死満塁で、
1ストライクから毒島貴志が一塁線に強烈なファウルを放つと(12巻182~183ページ)、
その打球に必死に飛び込んでいって捕球する姿が描かれる。おそらく山本の守備を最も美しく描いたシーンで、
「悪役」だった山本の最大の見せ場を、伏線を絡めてここにもってくる作者のセンスがまたいいなあ、としみじみ思う。

夜は自転車でラーメン屋に出かけ、頭がおかしくなるほどニンニクを入れていただく。毎回これで治しているのだ。
幸いなことに明日は仕事が休みなので、匂いを気にしなくていい。いいタイミングで風邪になったと思うことにする。


2009.1.26 (Mon.)

やっとこさ九州東海岸日記を書き終えた。
なんだかんだで旅行したその月のうちに書き上げているんだから、自分としてはエライと思う。

毎回、与えられた時間の中で極限までいろんな場所に行こうとしているわけで、自分でも呆れるほど忙しい旅行だ。
さすがに最近になり、できることならもうちょっとゆっくりとしてみたいという気がしないでもなくなってきた。
でもそんな気も、実際に旅行してみると「いろんな光景を見たい!」という欲望の前にあっさり消し飛んでしまうのだ。
一人旅だと制約がないので、スポーツじみたある意味ストイックな旅行になってしまうのである。
集団でどっかでのんびりぐーたらする旅行もしてみたいなあ、と思う。
寸又峡温泉(→2008.9.272008.9.28)はなんだかんだでハードスケジュールだったが(オレが幹事だったせいか?)、
その点、下関は大ヒットだった(→2007.11.22007.11.32007.11.42007.11.5)。
落ち着いたら、あれこれいろいろと考えてみたいもんである。


2009.1.25 (Sun.)

天気がいいので何の目的もなく池袋に行ってみた。東急ハンズに行ったらバレンタイン一色でゲンナリした。
ネットのニュースやテレビCMなんかでは、「今年は男子が女子にチョコをあげよう!」みたいな流れが見受けられるが、
ふざけんな! これ以上つまんねえこと考えるな菓子業界!と心から思うのである。だからモテないのである。ケッ


2009.1.24 (Sat.)

以前の日記でも書いたことがあるが(→2008.8.23)、初音ミクでYMOを演奏するということをやっている人がいる。
その人が昨年末のコミケで売ったCDが、同人モノを扱う店でも売り出すという情報を得たので、買ってみた。
秋葉原に行ってそういう店に入るのなんて、もう何年ぶりかわからないくらいである。
マサルと『蛍』シリーズをめぐって店の中で取っ組み合いのケンカをしたのも、今となっては懐かしい記憶である。
(結果は僕が勝って、その後マサルに売却。しかしマサルはぐちゃぐちゃの自分の部屋の中でその同人誌をなくした。)

家に帰って聴いてみるが、やっぱりめちゃくちゃ上手い。アレンジの才能ってのをひたすら見せつけられた感じだ。
最先端を行く音楽業界の人にしてみれば、このアレンジはまだまだ回顧主義レベルのものなのかもしれない。
かといって今のYMOだかHASYMOだかの方向性を決していいとは思わないわけだし(→2009.1.17)、
実際にこっちの初音ミク版のアレンジで熱狂している人たちも決して少なくないわけだし、
音楽ってのは難しいもんだよなあとあらためて思うのであった。というか、思うしかないのであった。オレにゃどうにもできない。

それにしても世の中にはいろんな種類・性質の才能があるもんだなあと思う。
アレンジが上手いということは、聴き手を乗せるのが上手いということだ。聴き手の心をくすぐるのが上手い。
このケースではYMOというベースがまず共通理解としてあり(YMOを知らない人がこれをきっかけにハマるかはわからない)、
そういう共通している部分を通して頭クラクラ、みぞおちワクワク、下半身モヤモヤというグルーヴを仕掛ける。
原曲の持っている核を損なうことなく新しいものを足す、そういう繊細な能力がないとこういう芸当はできない。
ところがここまで僕は「アレンジ」という言葉を使ってきたが、果たして「カヴァー」ならどうなるか。
逆に核を持っているのは演奏者の方で、場合によっては原曲を壊しても肯定されることすらある。
じゃあ結局その「核」ってなんなのさ、って考えてみるが、そんなもんがするっと別の言葉で表現できるほど僕は賢くない。
言えることは、「アレンジ」と「カヴァー」では、主従関係がまったく異なっているってことであり、
なんつーのか、コーチとして優秀でも監督として優秀とは限らないというか、才能って難しいね、ということだ。

考えるのが面倒くさいので、本日の日記はもう終わり。


2009.1.23 (Fri.)

NODA・MAP『パイパー』。いつもならNODA・MAP公演は予約を入れて観に行くのであるが、
今年についてはユーラシア旅行計画だったり財政難だったりで予約をしなかったのである。
でも突然降って湧いた臨時収入で大いに気をよくしたため、それじゃ当日券にチャレンジしてみるかーとなったのだ。
といっても僕はこの手の当日券というものがどれだけ並べば無事に入手できるものなのかよくわからないので、
とりあえず販売開始時刻よりもかなり早めに会場に行ってみることにした。そんなわけで自転車にまたがり渋谷へ。

さて販売開始の3時間前。メシを食い終わって会場に到着したが、まだ誰も並んでいない。
しょうがないので近くにあったベンチに腰掛けて持ってきたノートパソコンを取り出すと、日記の続きを書いて過ごす。
今回の九州東海岸旅行はいつも以上に情報量の多い旅をしているので、なかなか書き上がらないのである。
様子を見ながらバリバリ日記を書いていたら、学生っぽい男が「ここから並べ」と貼り紙のしてある場所に立った。
そして持っていたカバンから折りたたみの椅子を取り出すと、その上に座って文庫本を読みはじめる。
おーこれが列のできる瞬間か、と思ったのだがボサッとしているのもアレなので、移動してさっさとその後ろへつく。
これが販売開始時刻のだいたい2時間前のことである。列ができはじめると、あとはどんどん伸びていく。
日記がある程度まとまると、さっき買っておいた『GIANT KILLING』の9巻をむさぼり読む。もう面白くってたまらん。

18時、当日券の販売開始までには行列はかなり伸びており、階段のところまで人がずらっと並んでいた。
努力(?)の甲斐あってか、まずまずいい席を押さえることができた。開場時間まで少しあるので、東急ハンズまで散歩。
会場に戻ってくるとさっさと席に着いて分厚いチラシを眺めながら開演を待つ。演劇も渋谷も本当に久しぶりだなあと思う。
しかしよく考えれば自分が列の先頭になる方が良かったんじゃないかとも思うのだが、1番も2番もさして変わらんだろう。
それに並びだしたら地べたに腰を下ろしてパソコンのキーをたたくことになるわけで、見栄えも悪いし、まあいいや、と。
まあ当方はそんなワケのわからん理屈で動いているのである。書いていて自分でもワケわかんなくなってきたので改行。

『パイパー』の舞台は荒廃した火星。そこの「ストア」で暮らすフォボス(宮沢りえ)・ダイモス(松たか子)の姉妹と、
父親・ワタナベ(橋爪功)、ワタナベの愛人の子どもで天才少年のキム(大倉孝二)の4人がメインの登場人物。
火星人の鎖骨に埋め込まれている「おはじき」には、その人の見たものがすべて記録されている。
それを見ることで火星の歴史、いかにして火星が今のような不毛な大地となってしまったかを知ることになる、そういう話。
「パイパー」とは火星に移住した当時の地球人が連れてきた存在で、人間を守るためにどんなことでもこなす。
だがそのパイパーが今は不毛の火星を闊歩して暴れている。その原因が、火星の血塗られた歴史とともに明かされる。
宮沢りえと大倉孝二のキレ具合がとにかく凄かった。もはや大倉孝二は野田秀樹が全幅の信頼を置いているように思う。

簡単に言えば、荒廃した場所で生き抜くということの残酷さ、つまりは人間性って何よ、というところを衝いた話だと思うが、
詳しく書こうとするとキリがないし、結論にいきなり踏み込むことになるので、抽象的なレベルであれこれ書いていく。
序盤は家族のゴタゴタで始まるが、終盤に近づくにつれ物語は加速度をつけて火星の歴史へと焦点を変えていく。
家族のゴタゴタなどは極めて平和な風景にしか映らない、そんな極限状態にあることが示されるのだ。
最終的に扱うことになるテーマが非常に重く、しかも直接的なので、観客としてはどうしても反応が鈍くなってしまうだろう。
個人的には、物語というものは分割できない二重構造であると考えている(シニフィアンとシニフィエのようなもんだ)。
登場人物たちの生きる世界と、その世界を通して描かれるテーマの二重構造である。
(前者は「フィクションの部分」、後者は「ノンフィクションの部分」と言い換えてもよい。後者と現実とのつながりが重要だ。)
そして「傑作」と呼ばれる作品は必ず、この二重構造のバランスが絶妙のものとなっているのだ。
さてそうした目で見た場合、『パイパー』のバランスは、正直かなり悪いと思う。テーマの方に寄りすぎている。
僕にとっては4年前の『贋作・罪と罰』(→2005.12.8)が究極の頂点で、あのクオリティをどうしても忘れることができない。
だからどうしても、今回の物語については、テーマはともかくとして、それほど高く評価はできないなあ、といった感じになる。
(肝心のテーマについては完全なネタバレになるので書かないでおく。ヒントは『赤鬼』(→2003.9.282004.10.7)。)

観終わって第一に感じたのは、野田秀樹のテクニックの凄みだ。こうすれば観客を圧倒できる、というテクニックの凄み。
恒例の言葉遊びも健在だが、それ以上に観客を荒廃した火星へと引きずり込むその手腕には脱帽するよりなかった。
今回はメインキャストのほかに大人数の役者を舞台に登場させ、その動きにより群集の姿を見せるという試みをしている。
個人的には役者の数はできるだけ少ないほどいい、という考え方があるので、好みではないが、しかし圧倒的だった。
宮沢りえと松たか子が横に並んで、わずかな照明の中、情景を描いた言葉を矢継ぎ早に投げかけることで、
観客の頭の中に「終わった世界」とも呼べる悲惨な火星の姿を投影させる部分も実に良かった。
(猛スピードの言葉で観客を想像力の世界に引き込んでいくのは、世界一団が得意とする手法だ。)
制限された舞台装置の中、観客の想像力に呼びかけて空間を生み出すことは、演劇の醍醐味のひとつだ。
(だから過剰に大道具が置かれた舞台を僕はかなり嫌っている。それだけ、観客に見せられる空間が限られてしまう。)
野田秀樹のそっち方面(言語と身体で空間を表現する方面)の才能を存分に堪能できたことは非常によかった。
一言でまとめれば、「みっちり勉強させてもらいました」だ。やっぱり演劇は定期的に観ておかないと、感性が鈍る。


2009.1.22 (Thu.)

ハローワークにて手続き。思えば初めてハローワークに来たときには、雇用情勢はそれほどひどい状況ではなかった。
それが一気に寒風吹きすさんでいるわけで、ここまで急激に悪くなるもんなのか、と開いた口がふさがらない。
決して他人ごとではないのである。冷静に足元を見つめてなんとかしていかんとなあ、と思うのであった。おわり。


2009.1.21 (Wed.)

夜中、眠い目をこすりつつ、バラク=オバマの大統領就任式をボーッと見る。
で、就任演説を聴いていたのだが、同時通訳の技術ってすげえなあと感心したのであった。

世間ではCDつきの本がベストセラーになるなど、オバマの演説に対して注目が集まっている。
オバマの演説を素材にして英語の授業が行われているなんて話もある。こんなことは今までなかった。
演説の重要性は、かつて東工大大学院時代に受けていた授業の「言説編成」で知ったのだが、
(当時の日記のログはこちら。→2001.10.92001.11.92001.12.72001.12.142002.1.102002.2.1
そこでやった内容が今になってようやくクローズアップされてきているように感じる。
ゆっくりと、しかし確実に日本人の感覚は変化してきているということか。
時代に取り残されないように気をつけないとなあ。


2009.1.20 (Tue.)

サッカー日本代表のイエメン戦の中継を見る。こないだ宮崎で大木コーチにお会いして(→2009.1.8)、
「代表応援します」って言ったからにはきちんと責任を持たないといけないのである。

試合の内容は、超格下と言われるイエメン相手に、ショートコーナーの密集から素早く先制。
しかしその後も攻めまくるのだが、まったく追加点が取れない。後半開始早々にはFKから同点にされてしまう。
まあ結局は2-1で勝ったのだが、若手主体の代表としては非常に課題の多い内容となったのであった。

超素人の僕が無知を承知で書くのだが、個人的にはサイド攻撃の有効性に疑問を持っている。
勝ち越し点のほしい日本代表は徹底的にサイドからクロスを放り込んで攻めたが、実はそれは効率が悪いと思うのだ。
それよりは中央突破で積極的にミドルを狙い、FWがこぼれ球に詰める方がいいんじゃないか、と考えるのである。
つまり、相手の守備の薄い点を衝くのではなく、相手が守りきれない状況をつくる、という発想である。
サイド攻撃の問題点は、ゆっくりとした横パスが増えて攻撃に時間がかかってしまう点にあると考える。
空いているスペースを攻めるという戦略で、サイドが空いているからそこを押さえるという発想も悪くはないが、
そればっかりでは相手のペースを崩すことができなくなってしまう。変化をつけた攻撃をすべきだと思うのである。

まあ要するに、できるだけ狭いエリアで速い縦パスを回しまくって積極的にシュートを打ち、こぼれ球に詰めるということで、
それは明らかに甲府における大木さんのやり方なのである。自分でも影響受けすぎとは思うが、その要素がもっとほしい。
この試合ではシュートの決定率の悪さが問題になったが、枠に入らないシュートを打ち続けると流れが悪くなることを、
もっと意識しないといけないのである。では、できるだけシュートを枠に入れるには?
……正面から自分たちの間合いで打つべきだ、という話なのだ。
足元の技術を高めて中央突破を狙っていく。そうすれば、サイドにさらなる隙もできるんじゃねーのか、と。
チームとしての攻め方のバランスを読める選手、状況判断のできる選手がもっと必要だと思う。


2009.1.19 (Mon.)

以前勤めていた会社から封書が来て、なんだべと思って開けてみたら、
退職の手続きで住民税を1ヶ月分多く払っていたらしく、その返金をしたいという連絡だった。
いい加減な話だなあと呆れたのだが、きちんと連絡があって返金されるだけマシかな、と。
これが外国だったら、うやむやにして着服、なんてことが大いに考えられるわけだし。そういうわけでまあよかったよかった。


2009.1.18 (Sun.)

正月にマサルと動いたときのこと。ゴーゴーカレーでメシを食ったが(→2009.1.2)、そのときにキャンペーンをやっていて、
マサルがくじで1kgのカレールー(2等)を当てたのである。なんだかんだで新年早々縁起がいいなコイツ、と思ったのだが、
知ってのとおりマサルはコンロの火をつけることすら面倒くさがるほどの無精者なのである。
「くれ!」と言ったら、あからさまにイヤそうな顔をしながらそのカレールーをくれたのであった。ウホホーイ。

で、連日のカレー祭りが開催中なのである。1kgのカレールーというのは半端ではない量だ。
1合半のメシを炊いても200g掛ければいいくらいなもので、カレールーは一向に減らないのである。
毎回カレーはさすがに飽きるよなあと思っていたのだが、当方忘れっぽい性格をしていることもあってか、
あんまり苦にならないのであった。それでひたすらカレーの毎日となっている。おかげで経済的には大助かり。

まあそんな感じで、テキトーながらもそれなりに楽しくやっとります。みんな、いらない食料があったらくれ!


2009.1.17 (Sat.)

YMOといえば細野晴臣・坂本龍一・高橋幸宏である。
このうち細野と高橋は「Sketch Show」として組んでいる(→2004.2.27)。
そこに坂本が加わったユニットとして「Human Audio Sponge」なるものが展開されたことがあり、
やがてそこにYMOがくっついて「HASYMO(ハシモ。頭文字をとったところにYMOがくっついたわけだ)」となったりもした。
(有名どころでは、News23のオープニングテーマになっている『The City of Light』はHASYMOの曲。)
まあ要するにこのおっさんたちはYMOを復活させたりさせなかったりのよくわからん状態を続けているわけである。
(キリンビールのCMで『RYDEEN 79/07』が発表されて、ボロクソにけなしたこともあったっけか。→2007.2.2
で、昨年6月にヨーロッパで行われたYellow Magic Orchestra名義の公演がCD化されたので、借りてみた。
ロンドン公演の『LONDONYMO -YELLOW MAGIC ORCHESTRA LIVE IN LONDON 15/6 08-』と、
ヒホン(スペイン)公演の『GIJONYMO -YELLOW MAGIC ORCHESTRA LIVE IN GIJON 19/6 08-』である。

YMOは結成してからしばらく海外公演をやりまくっていた時期があり、当時の音源はいま聴いてみてもすばらしい。
世間一般にはYMOに打ち込み重視というイメージがあるかもしれないが、ファンにとってYMOはまずライヴバンドなのだ。
(初期のライヴでは、ステージ上のコンピューターに次の曲のデータを打ち込みながら生演奏をやっていた。
 そしてコンピューターの調子が悪くなると、そのまま打ち込みなしでの演奏を続行したのだ。すげえ。)
そういう部分を知っているから、けっこう期待していた。しかし『テクノドン』(→2007.2.2)以降の体たらくも知っているから、
とりあえずCDは買わずに、レンタル開始とともに借りてみるかーということにしたわけである。

結論から言ってしまうと、尻子玉を抜かれたようなサウンドなのであった。
古い曲、それもメンバーそれぞれのソロ曲の比率が意外と高いことに驚いた。対照的に、かつてのYMOの曲は多くない。
僕はSketch Showをまったくと言っていいほど評価しておらず、近年の曲については厳しい見方をしている。
今回の公演で演奏されているかつての曲は、どれもその近年の方向性で再解釈されている印象である。
1979年から80年にかけて、ロックを下地にした形でテクノを創り出し、世界を騒がせた迫力はそこにはない。
まったく尖っていないのだ。かつて尖りまくってジャキジャキに聴いた者のハートを切り裂いた、そのかけらもない有様だった。
いやまあ確かにダラダラと聴くには悪くないデキだとは思う。BGMには向いているかもしれない。
でもYMOを名乗っているからにはこっちもがっつりと構えて聴きたいし、それに応えてもらいたい。
そういうレベルの期待には、とても沿っているとは言えない内容だった。残念。
変化したものが、それが確実に「進化している」と言えるものであれば納得がいくのだ。
でも、退化とは言わないまでも、前に進んでいる気がまったくしない。もうこのおっさんたちに期待はできないのか。


2009.1.16 (Fri.)

capsule『MORE! MORE! MORE!』を借りてきた。中田亭ヤスタカの最新作である。
(一般参賀で並んでいる間(→2009.1.2)、「落語聴くかー」と言ってcapsuleを聴いていたら、
 マサルに「中田亭ヤスタカですか」と言われた。)

capsuleについては『FRUITS CLiPPER』以降を絶賛しているわけだが(→2006.9.62007.5.282008.2.11)、
今作も非常に安心感があるというか安定感があるというか、おおーいいねーいいねーと思って聴けるデキだった。
もうちょっとサビを重視した聴きやすい構成にしてもらった方が個人的には好みなのだが、十分楽しめるレベルだ。
「JUMPER」は当初期待していたほど魅力的ではなかったが、あからさまな捨て曲が少なく、全般的にどれもいい。
capsule最大の魅力は、「お茶の間で楽しめるクラブミュージック」とでも呼べる曲を提供してくれている点である。
この功績は大きい。マニアックにならず、あくまでポップの領域でクラブミュージックを楽しめるのだから。
特にcapsuleは歌詞カードがないことからもわかるように、インストの要素を意識しているのがうれしい。
そういう存在はほかにないのだ。唯一無二の存在として、末永く活躍してもらいたいもんである。


2009.1.15 (Thu.)

前々から予想していたとおり、今月は経済的に厳しい。細かな支出をどれだけ減らせるものかと思って、
ここんところ、まず食費をケチる緊縮財政にチャレンジしているのである。
とにかく徹底的に米を炊いて、何か一品だけでもってそれをいただく、というスタイルにしている。
カフェで日記を書くようなことも極力控えている。コーヒー代もケチって支出を絞り込んでいるのである。

で、結果、日常におけるモチベーションが大いに落ちているのであった。
とにかく何ごとをやるにもイマイチ乗り気がしない。原因は明らかに貧相な食生活にある。
華のまったくない食生活が、すべてに尾を引いている。これはもう直観的にわかることなのだ。
乱暴に思われるかもしれないが、先月との違いということで考えると、そこに結論が転がっているのである。間違いない。

しかしまあ、いろいろと実体験してみないとわからないというのはかっこ悪いものである。想像力が足りないのだ。
いや、正確に言うと、想像はできるけど実際にやってみて確かめないと気が済まないという感じである。
自分、不器用ですから。


2009.1.14 (Wed.)

ハローワークで行われている就職に関するセミナーに参加する。
今回僕が受講したのは面接に関するもので、もう一回基本的なことをおさらいしておこうと思ったわけだ。
(まあもちろん、将来的に講義の内容をどこかで後輩たちに咀嚼した形で伝えられるといいかなあという思いもある。)

2時間の講義だったが、始まってまもなく白河夜船状態になる受講生の女性が複数いて驚いた。
自分から申し込んでの講義なのにそれはないだろう、と思いつつ、他山の石ということでまじめに話を聴く。
内容としては特に目新しいことはなかったが、自分の考えていることを再確認してみて、
やっぱり何度やってみても結論が同じだと思うのであった。まあもう迷っているほどコドモでもないしね。

大切なのは、とにかく今の状況をしゃぶってしゃぶって骨の髄までしゃぶり尽くすことだと思う。
今の僕が置かれている状況をもう一度体験することは、今後二度とない。何がどうなろうと絶対にないのだ。
だから脳ミソをフル回転させて、生活環境から心理状態に至るまですべてのものを言語化して、
この状況から抜け出した後も、資料として自在に取り出すことができるようにならなければいけない。
抜け出すことそれ自体を考えなさいよ、と言われそうだが、そんなものは知ったこっちゃない。
タイミングが来ればつるっと抜け出してしまうことが、もう本能的にわかってしまっているからだ。
残されている時間は少ない。もっともっと、頭を回転させないといけない。


2009.1.13 (Tue.)

今日から本格的に九州東海岸旅行の記録を書きはじめたのだが、まあこれが時間のかかることかかること。
もっとサラッと書けねえもんかなあと思っても、才能の欠如というものはいかんともしがたいのであった。
まあとりあえずは、少しずつでも書き足していって、早いところ仕上げられるように心がけるとするのである。


2009.1.12 (Mon.)

実は枕崎を訪れた際、個人的なお土産として焼酎を買っておいた。
旅行中、荷物になるものは一切買わない方針の僕だが、一目見た瞬間に気に入ってしまったのである。
そもそも酒が苦手であり、しかも常々「焼酎はエタノールにしか思えない」と公言しているほどの僕が買った物とは。

 薩摩酒造・さつま白波と黒白波。

ご覧のとおりの手のひらサイズで、内容量は100ml。でも中身はふつうの、アルコール分25度の焼酎なのだ。

まだ終わらない画像の整理とこれからの日記の執筆に向け、景気づけにこれをお湯割りで飲んでみた。
ウチのオヤジはHPで飲んだ銘柄の記録をまとめているくらい焼酎を好きで飲んでいるのだが、
息子の僕にはやっぱり焼酎はエタノールにしか思えないのであった。細かい風味などまるでわからない。
「いやーわからん」なんてつぶやきながら作業していたら、あっという間にアルコールが全身を巡り、
妙にハイテンションになってくる。なるほど確かに焼酎ってのは気持ちの良い酔い方ができるのか、と思うのであった。

しかし落ち着いて考えてみれば、手のひらサイズの酒にこっちが踊らされちゃっているわけで、
それってものすごく間抜けな事態なように思える。まあ、かわいいものほど油断ならない、ということで勘弁なのである。


2009.1.11 (Sun.)

旅行から帰った後の恒例行事となっているデジカメ画像の整理がめちゃくちゃキツい。
地道にひとつひとつ取捨選択をしていくわけで、朝の仕事から戻ってずっと一日かかってまだ終わらない。
この後にはネットでいちいち裏をとりながら日記を書いていかなきゃいけないのだ。
どれだけの手間がかかるんだろうと今から戦々恐々である。


2009.1.10 (Sat.)

泣いても笑っても本日が九州東海岸旅行の最終日なのである。
しかしながら帰りの飛行機の時間が決まっているので、あんまりムチャはできないのだ。
せっかく大分に来ているので、『デトロイト・メタル・シティ』における聖地・犬飼への巡礼も考えないではなかったが、
それよりは観光地としての別府をもうちょっとしっかり見ておこうと思い、別府地獄めぐりに挑むことにした。

この旅行中は始発に乗るのが当たり前の行動パターンだったのだが、別府は大分からすぐそこなので、
本日はかなり時間的に余裕がある。あんまり早く行ってもしょうがないし。というわけで、しばらくは宿でダラダラ。
今回、大分でお世話になった宿は和室で、畳の上に布団なのである。一人旅でこのパターンは初めてだと思うのだが、
実際にくつろいでみると和室もけっこう悪くない。むしろ寝転がりたい放題なのでこっちの方がいいかもしれないくらいだ。
で、起きてからは布団の中でうつ伏せになり、ノートパソコンを立ち上げて画像の整理にあたって過ごした。

9時半ごろに大分駅に到着し、別府を目指す。しかし昨日の別府からの帰りもそうだったのだが、
JR九州のこの辺りはどうも列車の遅れが多いようで、そのアナウンスが頻繁に繰り返される。
特急がよく走っているせいかどうなのかはわからないが、かなわんなあと思うしかないのであった。

別府駅に着くと、昨日とは逆の西口に出て、路線バスに乗り込む。路線バスというものは非常に複雑で、
僕の脳ミソの理解を超えている部分がたくさんあるのだが、とりあえずは鉄輪(かんなわ)温泉行きということでいいのだ。
30分ほど揺られているうちに、いかにも地元住民といった感じのほかの乗客たちは全員降り、僕一人になってしまった。
バスは街の高台の方を遠回りする路線だったのだが、その分、街のあちこちから噴き上げる湯気を見ることができた。
この日は天気予報によれば雪が降るので注意しましょう、ということだったのだが、
青空の下、どこからかごくごく小さな雪の粒がひらひら舞う、といった天気なのであった。
朝の雪を残した住宅街と青空と温泉の湯気は、それはそれでどこか幻想的な印象がしなくもなかった。

終点・鉄輪のひとつ手前でバスを降りる。別府名物・地獄めぐりのスタート地点となる海地獄に到着である。
別府の地獄めぐりはなかなか独特で、街の中のあちこちに温泉がある状況を反映してか、各地獄も点在しているのだ。
それぞれの地獄は施設としては独立しており、8つの地獄が別府地獄組合として共通券を販売しているのである。
このうち6つは近所に集まっており、辺りはいかにも観光地らしく整備されている。
地獄のほかには駐車場、土産物店、そして秘宝館などが集まっていて、わりあい賑やかだ。

さて、いよいよ地獄めぐりである。観覧順序は特に厳密に決められているわけではないが、
せっかくなのでパンフレットに記載されている順番どおりに、標高の高いところから坂を下りていくかたちで見ていく。
そうすると最初にあるのが「海地獄」。真っ青な色をした温泉から、寒さのせいもあって猛烈な湯気が立ち上っている。
涼しげに透きとおったきれいな青だが、温度は実に98℃とのこと。風にあおられた湯気が視界をふさいで撮影しづらい。
竹籠の中では名物の温泉玉子がつくられていて、「地獄」を名乗っているわりにはなんだかのどかである。
硫酸鉄の溶けた温泉は本当に美しい青に染まり、それもまた「地獄」を名乗るには似つかわしくないように思えてしまう。

  
L: 入場してから地獄の現場までは庭園がつくられている。日陰ではまだ雪が残っていた。
C: 海地獄。1200年前に鶴見岳の爆発によってできたそうだ。この地獄がいちばんきれいで好きだ、という人が多そう。
R: 各地獄では、メインの地獄のほかにもさまざまなものを用意している(足湯が多い)。ここでは日本一のオオオニバスを育てている。

次は「鬼石坊主地獄」である。「鬼石」は地名、「坊主」とは灰色の泥が沸騰する様子を坊主頭に例えたもの。
中に入るときれいに整備された敷地内に4箇所、柵で囲まれた部分がある。これが地獄である。
覗き込んでみると、ボコボコとひっきりなしに泥の泡ができてははじけている。泥のもっている粘り具合のおかげで、
坊主頭が生み出されるというわけだ。撮影しようとデジカメを構えるが、これがなかなかうまくタイミングが合わない。
きれいな坊主頭になった瞬間を押さえることが、こんなに難しいとは思わなかった。

  
L: 鬼石坊主地獄はこんな具合に柵で囲まれている。  C: 覗き込んだらこんな感じになっている。
R: 三連坊主。ジェットストリームアタック! デジカメのシャッターをテキトーに切ったら、うまいこと撮れた。

  
L,C,R: 場所によって泥の粘性が多少違うのだが、基本的には左→中→右といった感じでひっきりなしにはじけている。

3番目は「山地獄」だ。入口から入ってすぐ、猛烈な湯気が目の前に立ちはだかって何も見えなくなる。
辺りには硫化水素の匂いが漂っていて、こりゃあかなわん、となるのであった(でもそれほど濃度は高くないようだ)。
ロープで仕切られた向こう側は岩場となっていて、その間や地面からは絶えず湯気が噴き出している。
とにかくものすごい勢いで噴き出して周囲を真っ白にしてしまうので、デジカメで撮影しようにもどうしょうもない。
あまりフォトジェニックでなく、これは湯気の勢いを実際に体験するしかない地獄なので、魅力を説明しづらいのが困る。
なお、ここでは動物園を併設しており、カバ、サル、フラミンゴ、アフリカゾウといったさまざまな動物が飼育されている。

 
L,R: 山地獄。ひたすら湯気と硫化水素の空間である。ド迫力だが、迫力だけ、という気もしないでもない。

 
L: 動物園のマントヒヒ。子どもにエサをねだるのポーズ。  R: ラマがいた。ほかの動物たちと比べるとややマニアックな存在って気がする。

4番目は「かまど地獄」。この地獄はやや特殊で、一丁目から六丁目までのブロック分けがなされている。
一・四・六丁目が泥と泡、二丁目が湯気の噴出、三・五丁目が色のついた温泉、といった具合である。
「かまど」の名の由来は、かつてお祭りの際にここの噴気でお供えのご飯を炊いたこと、だそうだ。
二丁目にあるかまどの鬼の像が宣伝写真によく使われるが、実際に訪れるとあまりまとまりのない地獄だった。

  
L: 二丁目のかまどの鬼の像。ここのシンボル的存在。  C: 一・四・六丁目はこんな感じで泥が沸騰している。
R: 五丁目のお湯の色は何ヶ月かごとに変化するとのこと。火山の気分しだいってことなのか。

中盤に差しかかって正直ダレてきた感じである。5番目は「鬼山地獄」。「鬼山」という地名からその名がついた。
ここの地獄は本来、下の写真のように緑がかった大きな温泉である。やっぱり湯気が半端なくすごい。

 鬼山地獄。今までいろいろ見て慣れたことで、これ自体には特に凄みを感じないが。

この「鬼山地獄」の見どころは、実は地獄そのものよりは、ここで飼っているワニなのである。別名「ワニ地獄」。
温泉の熱を利用したワニの飼育はなんと1923(大正12)年からということで、けっこう年季が入っているのだ。
地獄そのものよりも飼っているワニの方が扱いが大きいなんて本末転倒じゃん、と思いつつワニの檻を見てまわったが、
かなりの数のワニがのんびりとひなたぼっこをしており、やっぱり本物は迫力あるなあ、とあらためて思うのであった。
じっとしていると思ったら、いきなりガバッと口を開けてこっちに寄ってきたやつがいて、このときは本当に怖かった。

  
L: 鬼山地獄のワニ園。小型のものから大きめのものまでいろいろいる。スニゲーターはいなかったけどな!
C: 大勢で集まってひなたぼっこの図。この中には放り込まれたくないですなー。うーん、ワニワニパニック!
R: ワニって面白い形をしているなあ。「噛む」という動きを特化させて体の形が決まった、そんな感じだ。

6番目は「白池地獄」。その名のとおり、白い色をした温泉の地獄である。湧き出したときは無色透明なのだが、
温度と圧力が下がると自然と青白くなるそうだ。穏やかな乳白色の奥でもうもうと湯気が上がる、静かな地獄という感じ。
なお、ここでは温泉の熱を利用して熱帯の魚たちを飼育している。ピラニアもいたし、ピラルクもいた。
ピラルクの説明では食ったらめちゃくちゃおいしいって書いてあったけど、本当かね?
(ネットで調べたらやはり「美味」との記述があった。でもワシントン条約で保護されているから食っちゃダメだよな……。)

 
L,R: 穏やかで美しい地獄だ。この白い池の上にコースつくってミニ四駆走らせたらF-ZERO気分だなあと思う中学生な僕。

さて、別府地獄組合の8つの地獄のうち、以上の6つはこの鉄輪バスターミナル近辺にあるのだが、
残る2つはやや離れた位置にある。距離にして2.8kmほどということで歩けなくはない。
でも腕時計を見たら、路線バスが来るまでさほど待たなくていいタイミングだったので(30分に1本のペース)、
バスを待って乗ることにした。5分ほど揺られると、血の池地獄前に到着なのである。

というわけで7番目は「血の池地獄」。その名にインパクトがあるせいか、知名度は頭ひとつ抜けている気がする。
そして建物は最近になって新築されたようで、ずいぶんときれい。土産物売り場も非常に充実していた。
で、いざ血の池地獄を見てみると……うーん、これはサビですなあ、という感じの色合いなのであった。
宣伝のパンフレットやら何やらでは、唐辛子を溶け込ませたような見事な赤い色をしているのだが、
実際に訪れてみると底に茶色いサビの色をした泥が溜まっている澄んだ温泉、という印象なのであった。
ちょうど正午くらいの時間帯であり鮮やかに晴れていたせいで、血の色に見えなかったのかもしれない。
光の加減もあるだろうから、もしそれで血の池っぷりを楽しめなかったとしたら、それはとても残念。

  
L: 血の池地獄周辺の様子。のどかな田舎なのである。広い駐車場があり、いかにも郊外の大きな温泉施設っぽい雰囲気。
C: 血の池地獄。血というよりは、サビかな……。ジャンクマンもがっくりだ(※ジャンクマンは正確には「血の海地獄」)。
R: 水面を撮影してみた。天気が良すぎるのも困り物なのかな、と思うほど中の様子がくっきりはっきり。

今回の別府地獄めぐりの最後を飾るのは「竜巻地獄」である。血の池地獄からは、坂を下りたすぐ隣という位置関係だ。
この「竜巻地獄」の正体はズバリ、間欠泉なのだ。そのため、行ってもすぐに見られるとは限らない。
しかしここの売りは、その噴出する間隔の短さなのだ。30分くらいの休みの後、10分くらい噴き出すというペース。
やはりここも土産物売り場を通って地獄へ行くようになっており、噴き出すまで買い物をして暇をつぶしましょうというわけだ。
間欠泉はかなり規則正しく噴き出すようで、そろそろかな、というタイミングでアナウンスが入る。
それを聞いて客は店の外に出て、据え付けられたベンチに腰を下ろし、今か今かと待ち構えて過ごすのである。

 
L: 休止中の竜巻地獄はこんなんだ。  R: 地獄は右手側にあるのだが、それをみんなで見るようにきちんと整備されている。

寒い中でじっと待っていると、突然激しい噴出音とともに熱湯の柱が現れる。
天井をふさいでいる構造なので、その分だけ迫力が半減してしまっているように思えるのが惜しいところだ。
(100℃を超える熱湯が辺りに飛び散ると危険なので、そのような措置となっている。まあしょうがないよな。)
自然が気まぐれでつくったものがこうやって規則正しく運動し、それを鑑賞できるということに、不思議な気持ちになる。
そのうち観光客たちはベンチを離れ、柵の前で記念撮影をするなどしはじめる。僕もいろんな角度から撮影してみる。
噴出の勢いはなかなか落ちない。やがて客たちは飽きはじめ、寒いからとほぼ全員が建物の中に引っ込んでしまった。
竜巻地獄は10分ほど噴出を続けた後、突然勢いを弱めて引っ込んだ。二、三度ゴッゴッと音を立てて小さく噴き上げ、
そのまま湯気だけを残して静かになった。でもこの後30分経てば、また勢いよく噴き出すわけだ。妙なもんである。

 
L: 勢いよく噴き出す竜巻地獄。  R: クローズアップしてみたぜカーカカカ。

これにて別府地獄めぐりは終了である。僕らはこれらの地獄を観光名所としてすんなりと受け止めているわけだが、
別に自然は人間の観光目的で地獄をつくり出したわけではないのだ。あらためてその差異を考えると面白い。
今まで見てきた地獄は、それぞれ独立したものが組合をつくって宣伝をしているわけで、統一された運営体ではない。
もしこれらの地獄が一体となってつながって整備され、テーマパークのようになっていたらどうだろう、なんて考えてみる。
でもまあそれは常識的に考えて無理な話で、むしろその点に自然の名所と人工の名所の差があるのかな、とも思う。

やっぱり路線バスで鉄輪まで戻り、そこからまたバスで別府駅まで戻った。
めちゃくちゃ腹が減っていたので、駅構内の飲食店で昼飯をいただく。やっぱり大分名物を食べることにする。
今度は「だんご汁」の定食を食べてみた。だんご汁といっても真ん丸い団子がそのまま入っているわけではない。
団子を薄く長く伸ばして平べったくしたものが入っているのだ。味噌をベースにした汁は、なんだかマイルドな味わい。
煮込んだ野菜もたっぷり入っており、しっかりとあたたまったのであった。

 だんご汁。雰囲気としては豚汁に似ている。

胃袋に物が入って落ち着くと、大分駅へと戻る。もう一度、アーケードの商店街を中心にあちこち歩きまわる。
名残惜しいが、旅は終わらなければならないものなのだ。気の済むまで大分の街を味わって過ごす。
そして時間になったので、荷物を取り出してバス停へと向かう。大分空港へと向かうのだ。

さて、大分市から大分空港までは、かなりの距離がある。大分空港の所在地は国東市、あの丸っこい半島にあるのだ。
だから空港行きのバスは、別府湾に沿ってぐるっとカーブを描いて走ることになるのだ。所要時間は1時間。
だが、大分市から大分空港へはアクセスする手段がもうひとつある。別府湾を突っ切りゃいいじゃん、という発想だ。
海の上をまっすぐ走ってそのまま空港の中に入っちゃう、そんな大胆な乗り物が存在するのか? ……存在する。
それは、海だろうが陸だろうがお構いなしに走ってしまう乗り物・ホバークラフトである。
今や日本で乗客輸送を行うホバークラフトは、この大分-大分空港間だけなのである。
今回の旅行では、このホバークラフトに乗って大分空港に行き、帰りの飛行機に乗り込むのだ。
やっぱり人生で一度くらいはきちんとホバークラフトに乗っておかないとな!というのがその理由である。文句あるか。
(なお、理由はわからないが、この会社では「ホバー」ではなく「ホーバー」という表記をしている。)

大分駅から大分ホーバーフェリー基地まで、バスの乗客は僕一人だけなのであった。経営大丈夫かよ、と心配になる。
ホーバーフェリー基地は、中がそのまま待合スペースになっており、端っこには土産物や軽食の店がいくつか固まっていた。
出航を待つ客は10人足らず。そんなに繁盛していない感じで、なんだかちょっと淋しいのであった。
チケットを買って(片道2980円……。所要時間は30分弱なので、時間を金で買うってことだ)すぐに出航時刻になり、
ホバークラフトの船内に移動。窓際の席に陣取ったのだが、海水を浴びまくるようで、窓ガラスには塩の結晶がびっしり。

すぐにホバークラフトのエンジンがかかる。非常にうるさい。飛行機のジェットの轟音よりもうるさい。
常識的に考えてホバークラフトは燃費が良くないに決まっているので、まあこりゃしょうがねえよな、と観念するのであった。
ホバークラフトはググッと浮き上がると、スムーズに前進しはじめる。そのまま斜めに海へと入り込むアスファルトの上を進み、
いよいよ海上へと走り出した。風が強いせいで波がやや荒い。そしてホバークラフトはその影響を直に受ける。
しばらくガクンガクンと大きな揺れが続く。飛行機でもたまに経験するかしないかというくらいの、なかなか派手な揺れだ。
よく自動車で走っていると急に低いところに出てカクンと落ちる感じになることがあるが(おでこにくる感じのあのイヤな揺れ)、
そういう類の上下の揺れがしばらく激しく続いて「うひ~~」と言うしかない状態になるのであった。これにはほとほと参った。

それでも走り続けているうちに揺れはそれなりに収まり、外の景色を気にする余裕も出てきた。
座席越しに反対側の窓を見れば、ホバークラフトが豪快なしぶきをあげている様子もよくわかる。
しかししょうがないと言えばしょうがないのだが、残念なことに、窓はつねに波をかぶっている状態になるため、
外の景色は大雑把にしかつかめない。空の青さと海の青さがどちらも深くて印象的だったのだが、
それらを細かいところまでじっくり楽しむことは到底できないのであった。
湯気の立つ別府の街を観察できればよかったのだが。

  
L: 大分ホーバーフェリー基地にて見かけたホバークラフト。こちらの機体はただいまお休み中。
C: ホバークラフトは値段が高い、うるさい、揺れるの三拍子。約25分で大分空港まで行ける、その点だけが強み。
R: 大分空港にて。豪快にドリフトしてから後ろ向きに停車(停泊?)したのであった。お疲れ様でした。

ホバークラフトを降りると、通路を通ってそのまま大分空港の構内へ入ることができるようになっている。
とりあえずはいったん外に出て、駐車場をうろうろ歩いて写真撮影。その後は空港の建物の中を歩きまわる。
いかにも地方空港らしい、小ぢんまりとした印象だった。土産物屋の充実ぶりとそれ以外との落差が激しい。

 大分空港。駐車場には車がいっぱい。

飛行機の時間まではわりと余裕があったので、大分名物・カボスのドリンクを飲みつつデジカメ画像の整理をする。
(ちなみにスダチは徳島県の名物。大きさがまったく違い、カボスの方が大きい。)
で、時間になったので飛行機に乗り込む。今度は腕時計で引っかかることなくバッチリ通過。

機内では買っておいた椎茸満載の弁当をいただく(大分では干し椎茸を「どんこ」と呼ぶ)。
大分では一村一品運動といって、各市町村でそれぞれ特産品をつくることで地域の活性化を図ったのだ。椎茸もそうだ。
(別府駅構内の土産物店ではこの威力が炸裂しており、いわば自治体の「キャラ」がブランドとなっているのが見られる。)
うーん椎茸うめえなー、などと思っている間に、飛行機は九州を離れて瀬戸内海の上空へと入る。
どの明かりがどの都市か、地理的知識を駆使してあれこれ考えてみるが、やっぱりなかなか難しい。
飛行機からの映像を見せてどこの上空か当てさせるクイズってないなあ、なんて思うのであった。

  
L: たぶん神戸上空(右側へと突き出ている光の塊がポートアイランドと思われる)。
C: たぶん名古屋上空(四日市から大都会の名古屋へと光がつながる。左側手前の暗い部分が伊勢湾と思われる)。
R: たぶん伊豆半島上空(左側の光が沼津、右側の光が熱海から伊東と思われる)。

人間の目は実に優秀で、地上のさまざまな光を余すことなく見ることができる。
それに比べるとデジカメで捕らえられる光はかなり限られたものになってしまう。
(そのうえさらに画質を調整しないと、とてもじゃないけど真っ暗で見られたもんじゃない。)
かつて訪れた都市、そしてまだ訪れたことのない都市の光を眺めながら、あれこれ思いを馳せてみる。

この日はずいぶん風が強かったようで、着陸の際に少々てこずった感じがした。
着陸態勢に入るまでが妙に快調だったので(予定時刻よりずっと早かった)、その分そう思えたのかもしれない。
まあとにかく、無事に帰ってきて土を踏めるというのは非常にありがたいことだと思うのであった。いやー怖かった。

そんなわけで、今回の旅行はこれで完了。県庁所在地めぐりの達成率は39/47で約83%となった。
「行ったことのある都道府県」を考えてみた場合、鳥取と島根以外ぜんぶ、というところまできた。
ここからが長くなりそうな予感がするが、目標達成に向けて地道にやっていきたいものである。
そのためにはまず、日ごろの生活をきちんとしないといかん。明日からまた気合を入れ直してがんばるのだ。


2009.1.9 (Fri.)

宿が駅から遠かったので早めの出発をしたのには違いないが、本日はいつもに比べると少しだけ余裕のあるスタート。
といっても延岡に向けて電車が動き出したのは6時9分。やっぱり空はまだ暗いのであった。

今日は宮崎を出発して、まずは延岡を目指すことになる。その後、佐伯に出て一息ついてから大分へ行くのだ。
毎度おなじみ青春18きっぷで電車に乗り込んだわけだが、鉄っちゃんならここで「あーアレだな」と気がつくだろう。
詳しくは後述するが、ふざけんなJRと言いたくなる事態が待ち構えているのである。それを覚悟の上で、大分を目指す。

とりあえずは延岡だ。電車の席で、買っておいた朝メシを食べると、やっぱりそのまま眠ってしまうのであった。
で、起きたら通勤・通学の客がけっこういっぱい。まだ頭の中がボンヤリとしている状態でしばらくいたのだが、
少し立派な駅でそこそこな量の乗客が降りた。つられて僕も降りたら(おととい早朝の指宿駅の件がトラウマになっていた)、
なんとそこはまだ日向市駅。腕時計を見てまだ延岡に着く予定の時刻でないことを悟り、慌てて車内に戻ったのであった。
間一髪のタイミングでドアが閉まり、どうにかセーフ。実に危ないところだった。旅先で気を抜いていてはいけないのである。

そんなこんなでどうにか無事に延岡駅に到着。時刻は7時半ちょい過ぎということで、ここには約1時間半滞在するのだ。
延岡は宮崎県北部で最大の城下町である。県庁が南部に置かれて危機感を持ったことで工業都市化した歴史がある。
そんなこの街を支える企業といえば、なんといっても旭化成だ。旭化成は延岡で生まれ、全国規模の企業となった。
さすがに工場見学をするほどの時間的な余裕はないが、市役所と城跡を見ながら街歩きをするのである。
どちらも駅からはそこそこ距離があるので、電車の中にいるときから立ってストレッチをして足をほぐしていたのであった。
改札を抜けてコインロッカーに荷物を預けると、勢いよく街へと飛びだす。足は急激に回復していた。走れるってステキ。

延岡城址も延岡市役所も、駅からは離れた位置、五ヶ瀬川と大瀬川に挟まれたところにある。
工業都市ということでか、ふつうの城下町に比べると道の広さが目立っている印象である。
時計を気にしながら南下するが、非常にいいペース。橋を渡ってから、西へと針路を変える。
道は小高い丘にぶつかってT字路となるが、その手前北側にあるのが延岡市役所だ。
高さはなく、茶色いサッシュが特徴的だ。それなりにけっこうきれいにしているが、わりかし古い建物のようだ。
鉄筋コンクリートのファサードがレンガ状のタイルやガラスに変化していく、その黎明期の建物という印象を受ける。

  
L: 延岡市役所。昭和30年代鉄筋コンクリートを茶色いサッシュで覆った感じ。調べてみたら1955年竣工で、当時にしてはオシャレ。
R: ファサードをクローズアップ。よく見ると年代モノなのがわかる。  R: 裏側にはこのように新しい建物が建っている。

さてこのT字路にそびえる小高い丘こそが延岡城址である。まずは裏手の南大手門から天守台を目指すことにしてみる。
小ぢんまりとした入口を行くと、まずは歴代延岡藩主の名を刻んだ石碑がある。その脇の細い坂道を上っていく。
延岡城は現在の街の規模と比べると、高さはあるもののややちんまりとしている印象がする。
坂道をジグザグに上っていくと、わりとすぐに天守台にたどり着くことができる。

  
L: 延岡城址の様子。見通しのよい坂道を歩いていくのだ。高さのわりには、規模はそれほど大きくない。
C: 天守台にある鐘撞き堂。毎日決まった時刻に鳴らされており、市民にはおなじみの存在だそうで。
R: 延岡城天守台。公共の空間なんだけど一般家庭の庭でもあるという、非常に不思議な場所である。

詳しいことはわからないのだが、延岡城の天守台は、どうやら個人の住宅となっているようだ。
鐘撞き堂の隣にごくふつうの住宅が1軒、静かに建っている。こんな例を目にしたのは初めてなので、大いに戸惑う。
いちおう見晴らしのいい南側は公共空間らしく開放されているものの、やはりどこか人の家の庭という感触がする。
なんでこんな珍しい事態になっているんだろう、と疑問に思いつつ、延岡の街の景色を楽しむ。
さすがに工場があちこちにあり、ふつうの都市にはない迫力が漂っているのであった。

帰りは北大手門から本小路方面へと抜けていく。天守台とは対照的に、本丸跡はしっかりと公共の公園になっていた。
そしてそこから北大手門へと下りていくと、ド迫力の石垣を見ることができる。これが有名な延岡城の「千人殺し」である。
攻め込まれた際にある石を抜くと、この高さ22mの石垣が一気に崩れて千人の敵を殺すことができる、という話である。
眼前にそびえる背の高い石垣は確かに迫力満点。でも城じたいが大きくないので千人は正直ややオーバーな気がする。

  
L: 天守台より眺める延岡の街。見るからに工業都市で、海までずっと工場の施設が並んでいた。
C: 本丸跡。やっぱりなんとなく小ぢんまりとしている。千人殺しに支えられている場所である。
R: 北大手門から延岡城に入る場合、門をくぐるとこの千人殺しが現れるのだ。確かにこれが崩れてくるのは怖い。

市役所と城跡を無事に訪れることができたので、あとはのんびり駅までの道を戻る。基本的に道が広めなこともあり、
延岡の商店街はやや衰退気味な印象を受ける(開店前の時間なのでなんとも言えないが)。
駅から市役所の辺りまではそこそこの距離があるが、それでもなんだかんだでその空間を商店がつないでいるのは、
延岡の街の意気を感じる点である。アーケードの山下新天街はかつてほどの勢いはないと思われるものの、
それなりにきちんと活気を持っている感触がする。広い工場地帯を持っている街の強さを感じるのであった。

 
L: 中央通り。延岡は広い道が印象的だ。  R: 五ヶ瀬川を渡る。きれいだったので思わず撮影。

延岡駅に戻っても若干の余裕があったので、お土産の充実している観光案内所をうろつくなどして過ごす。
で、9時になったので駅の切符売り場で佐伯までの切符を購入。青春18きっぷを持っているにもかかわらず、である。
というのも、困ったことに、延岡から佐伯まで行く普通列車は、日に3本しかないのである。あとはぜんぶ特急になる。
そして延岡から佐伯へ行く普通列車は、6時1分の始発の次が16時48分発というとんでもない状況なのだ。なんだこれ。
特急しか通過することのない青函トンネルのような特例措置(→2008.9.15)があってもよさそうなものだが、
JR的には「いや、ちゃんと普通列車も走ってますんで」ってことで、青春18きっぷでの特急乗車を認めてくれないのだ。
せめて青春18きっぷを乗車券として認め、特急料金だけ払えばOKという仕組みにしてくれればいいのだが、それもダメ。
それで佐伯までの乗車券と特急券、しめて2000円を支払うことになるわけである。わかっちゃいるけど切ない出費である。
(なお、佐伯市の「佐伯」は「さいき」と読むのが正しい。でも駅名は1961年まで「さえき」という読みをしていたそうな。)

釈然としない気持ちを抱えつつも、やってきた特急列車に乗り込む。
でもまあ佐伯で降りたらまた強行軍となるので、とりあえずは足を休めつつ車窓の景色を楽しむことにする。
それにしても昨日とは打って変わってすばらしい天気である。やっぱり旅行は天候に恵まれることが重要だなあ、
なんてことを思っていたらケータイにメールが入った。ウチのオヤジからで、鹿児島で送った焼酎が無事に届いたとのこと。
そりゃよかったと思ったら、なんと飯田は盛大に雪が降っているらしい。関東でも雪が舞っているようだ。
しかしながら僕のいる九州東海岸では、今のところは真っ青なお空が広がっている。運がいい。

特急は快調に走る。普通列車が日に3本(+途中の市棚駅止まりが1本)ということでどれだけ田舎なのかと思ったら、
予想していたほどではなかった。僕の地元に程近い上伊那郡のややはずれ、ぐらいなものだ。飯田線とさほど大差ない。
とはいえ、道路が一本あるだけの宗太郎駅を越えた辺りからはすっかり山の中となる。
国道10号と並走しているのでそれほどの凄みはないものの、まあ確かに普通列車の需要はそんなになさそうだ。
でも秘境具合という観点からすれば、仙山線や田沢湖線の方がまだ強烈に思える(比較対照がどっちも東北だな)。

10時ちょい過ぎ、佐伯駅に到着。あらかじめ荷物をまとめてドアの前に立ち、ストレッチをして準備を済ませておいた。
列車が停まってドアが開くと勢いよく飛び出し、階段を上って下りて改札を抜ける。コインロッカーに荷物を入れる。
佐伯でも延岡と同じように、市役所と城跡をめぐるのだ。滞在時間はほぼ同じだが、佐伯の方が駅からの距離がある。
それでかなり緊張感を持ってのスタートとなった。国道217号を南下すればいい、わかりやすいルートなのが救いだ。

走るのは最後の切り札ということで、まずは両手をぶんぶん振って勢いをつけて歩いていく。
すると途中で赤ちゃんを背負ったおばあちゃんに声をかけられた。赤ちゃんの帽子をきれいにかぶせてくれ、と頼まれる。
急いでいるけど無視することはありえないので、素直に言われたとおりにかぶせ直すのであった。一日一善である。
その後もグイグイと歩いていくと、やがて佐伯市役所の入口へと到着。横断歩道を渡って市役所とご対面。
建物のてっぺんに議事堂を載せているため、なかなか独特なデザインである。こういう例を見るのは初めてだ。
ごくふつうのモダニズムコンクリ庁舎の上に大胆に議事堂を置くだけで、一味違う雰囲気が漂っている。これは面白い。

  
L: 佐伯市役所本庁舎。  C: 逆サイドから撮影。こっちが入口になっている。  R: 真横から見るとこんな感じである。

やっぱり天気がいいと市役所の映りもいいなあ、なんて思っているヒマもなく再び歩きだす。
佐伯城址まではさらにまだ距離があるのだ。早足で歩いていると、歩道の脇に絵の描かれた石の柱を発見。
「イチローロード」とある。そうなのだ。これは佐伯にゆかりのある漫画家・富永一朗を記念している道なのだ。
見ると、歩道の脇には富永一朗によるイラストが描かれた陶板がいくつもいくつも並んでいるじゃないか。
富永一朗というと『お笑いマンガ道場』における鈴木義司とのやりとりが有名である。マサルがあれこれ語りだしそうだ。
でも代表作の『チンコロ姐ちゃん』って、そのタイトルのインパクトや知名度のわりには見かけることがないんだよなあ。

 
L: イチローロード。  R: こんなイラスト描かれたら、そりゃもう撮ってしまうわ。

イチローロードが終わるとすぐに佐伯城址への入口である。ボランティアのおばちゃんたちが掃除をしており、
三の丸櫓門をデジカメで撮影していたら、「おねえさんのモデル、いらないの?」なんて具合に話しかけてくるのであった。
さっきの赤ちゃんを背負ったおばあちゃんといい、どうも佐伯の皆さんは人なつっこい性質のようだ。

三の丸櫓門を抜けると佐伯市文化会館。ここにあった三の丸御殿を別の場所に移してから建てたんだそうだ。
さて、これから佐伯城址の本丸跡を目指すのだ。しばらくはアスファルト舗装の坂道だったが、やがてすぐに山道に。
歩けば歩くほど、完璧なまでに山道。グネグネと折れ曲がり、どれだけ登っているのかもわからない。
城の本丸を目指すというよりも、もはや完全に登山という感覚である。もう山ヤダ!と思っても事態は解決しない。
しょうがないので黙って足を動かすのであった。いやしかし、ここんとこ旅行のたびに山に登っているなあ。

  
L: 佐伯城三の丸櫓門。1637年、さすがに殿様も嫌気が差したか居館を山頂からここに移したが、その際につくられた。
C: 櫓門をくぐると佐伯市文化会館。正直なところ、御殿を移してまで建てる意義はイマイチ感じないなあ……。
R: 本丸を目指して突撃。しかしまあ、ここんとこ旅行のたびに山に登ってばかりな気がしてならない。

個人的には20分くらい延々と登り続けた感覚だったのだが、時計を見たら10分で展望スペースに出ていた。
しかしまだそこは本丸跡ではなく、やっとこさ二の丸跡なのだ。そこからさらに進んでいって、
橋を渡って石垣に囲まれた石段を上って、やっと本丸と天守台となるのだ。いやはや、参った。

 
L: 山頂に出た!と思っても、本丸跡まではまだ若干の距離がある。国木田独歩の碑をめぐるルートの方が早いかも。
R: 天守台。鬱蒼とした木々に囲まれている中に、ひっそりと小さな祠があるのだ。

本丸跡からその先の本丸外曲輪へと下りて石垣の上に立つと、これが絶景なのであった。
眼下には佐伯の街が広がり、そのずっと先には青い海が見える。その美しさに思わずため息が漏れる。
なるほど確かにここまで来るのは大変だ。しかしそれだけの価値がある。
この場所を選んだ殿様は偉いもんだなあと思って、ひたすらデジカメのシャッターを切って過ごす。
佐伯は海産物の豊かさで知られる街であり、「佐伯の殿様、浦でもつ」という言葉があるという。
城跡から眺めるこの風景は、その言葉を目で見て確かめることのできるものだと思う。
石垣の突端から街を見下ろすというのは高所恐怖症にとっては怖いことなのだが、それでもしばらくこの場を動けなかった。

残念ながらあんまりボサッとしていると電車の時刻に間に合わなくなってしまう。名残惜しさを感じつつも下山する。
だいぶ足の調子も良くなってきたのか、今回はそれほど苦労しないで下りることができた。
帰りは来たときと同じルートではつまらないので、もう少し東側の道を行くことにする。
途中でアーケードの商店街や飲食店街もフラフラと歩いてみる。

 
L: アーケードのなかまち通り。高齢化が進んで勢いが弱まっている印象である。昭和の匂いがした。
R: 佐伯の誇る飲食店街・うまいもん通り。いつかここでメシが食えるといいなあ、と思うのであった。

アーケードの商店街は弱っていたが、対照的に飲食店街は元気さを保っていた。
まだ午前中ということで人通りはまったくなかったが、夜になったらまるで別の街のような賑わいを見せる感じが漂っている。
日本全国の地方都市をあちこち歩いてみると、中心市街地の商店街は衰退している反面、日没後に活気が出てくる、
そんな場所はけっこう多い。昼は郊外の大型店が賑わい、夜は旧市街地が賑わう、そんな構図があるのかもしれない。
佐伯の狭い路地に並ぶ店を見ていたら、なんとなくそのことに気がついた。まだまだ観察が足りないと自覚するのであった。

まずまずの余裕をもって佐伯駅に戻ることができた。観光案内所で地図をもらって荷物を回収すると、改札を抜ける。
自業自得なのだが、スケジュールの都合で佐伯の海の幸が食えなかったことが心残りだ。いつか佐伯で寿司を食いたい。
さて、佐伯を出れば、いよいよ今回の旅行で最後の県庁所在地となる大分市へと向かう。
やがてスカスカの電車は北へと走り出す。大分県南部は複雑に入り組んだ海岸線をしているが、
日豊本線はわりとマジメにその海岸線に沿って走っていく。おかげで大分まではそこそこ時間がかかる。
あれだけ激しく動いたのだが、それほど眠くはなかったので、ボンヤリと窓の外を眺めて過ごす。

大分駅に着いたのは13時過ぎ。朝からめいっぱい歩いているので、まだそんな時間か、という感覚である。
しかしまあ、電車を降りた人の数も多かったが、改札を抜けて大分駅構内を歩いている人の数も多い。
コインロッカーのある待合スペースでも大勢の人が置いてあるテレビを凝視していた。
駅舎の中に人がいっぱいいる、というのはこれまでの九州での経験を考えてみると、博多駅以来という気がする。
そんなわけで、大分って意外と都会なんだなあ、というのが第一印象となったのであった。

  
L: 大分駅。地味なたたずまいだが、実は日豊本線・久大本線・豊肥本線と、3つの路線が行き交う大規模な駅なのだ。
C: 駅前ロータリーにある大友宗麟の像。彼の全盛期には、世界地図に「Bungo(豊後)」と書かれるほどこの街は栄えたという。
R: 中央通りと昭和通り(国道197号)の交差点にある歩道橋から大分駅を眺めたところ。大分はしっかりと都会なのであった。

大分県庁と大分市役所は駅からまずまず近いので、さっさと撮影を済ませてしまうことにした。
街を歩いてみてもやはり、大分はけっこうな都会という印象だ。特にこれといって売りのない地方都市だと思っていたが、
しっかりと賑わっているのであった。周りにジャマをする都市がないことで、県庁所在地としての存在感を保っている。
駅からまっすぐ伸びる中央通りの広さはとても印象的で、オフィスビルがしっかりとその道の両側を固めている。

中央通りを歩いていくと、いかにもきれいにリニューアルしましたという感じの古い建物が現れる。大分銀行赤レンガ館だ。
1913(大正2)年に旧第二十三国立銀行(現・大分銀行)本店として、辰野金吾の設計により建てられた。
空襲に遭い、改修した後には「府内会館」として貸しホールになるなどの曲折を経たが、現在は元の用途に戻っている。
つまり、現役の銀行なのである(ただしローン関連業務を専門としている)。今も使っているからこそ価値がある。

 
L: 大分銀行赤レンガ館。周りを背の高いビルが囲んでいるところがもったいないが、大分では貴重な古い建物として存在感は抜群。
R: 角度を変えて撮影。大分銀行の創立100周年記念ということで、1993年に赤レンガ館として生まれ変わったんだそうだ。

中央通りをまっすぐ北へ進んでいき、昭和通りとの交差点で右折すると、左手に大分市役所が見える。
グレーをベースにした四角い輪郭に白い格子のファサードが、非常によく目立っている。
面している昭和通りの道幅は広いが、市役所はそれ以上に大きいスケールをしており、非常に撮影がやりづらかった。
しかもこの建物、意外と奥行きもある。 カメラを構えるとグワッとヴォリュームを感じる、不思議な建物である。

  
L: 歩道橋より眺める大分市役所。この角度から見ると、シンプルな建物に見える。
C: デカくて撮影しづらい。入口には「Jリーグのある街大分市 がんばれ!大分トリニータ」という横断幕が張られていた。
R: 逆サイドから見た大分市役所。こっち側から見るとわかるが、意外と厚みのある建物なのだ。

 
L: 裏手に回るとこんな感じ。右端の覆いは、議会棟の外壁を補修工事しているため。
R: 正面からは見えない部分にもいろいろあるようだ。全容のつかみづらい建物だ。

大分市は府内城(大分城)の城下町である。現在、城跡は大分城址公園となっている。
注意しておきたいのは、府内城は大友氏の城ではないという点である。この城を建てたのは福原長堯(直高)であり、
江戸時代に入って竹中重利(半兵衛のいとこ)が完成させたのだ。大友氏の居館(城ではなく館だった)はもっと東、
大分駅から線路に沿っていった先の大分川のやや手前、くらいの位置にあったのである。
なお、その大友氏時代の府内の街は、1586年の島津家久の侵攻によって壊滅したと言われている。
で、大分市役所は大分城址公園の西隣、大分県庁は昭和通りを挟んだ公園の南隣という位置関係にある。
どちらも府内城の旧三の丸にあたるそうだ。公園内の西の丸には1966年に大分文化会館が建てられて現在に至る。

  
L: 大分城址公園(府内城)は、国道に面した側については、かなりバリバリの復元度合となっている。
C: 府内城天守台より見下ろした旧西の丸・大分文化会館。手前には本丸跡があるが、何もない土のグラウンド状態。
R: 同じく天守台より見た本丸跡と大分県庁の新館。本丸跡とはいえ、周りよりはちょっとだけ高さがある程度。

というわけで今度は大分県庁の撮影である。大分県庁は本館・新館・別館に分かれている。
(この3つの建物は昨年までそれぞれ、県庁舎・共同庁舎・総合庁舎という名称だったそうだ。確かにわかりづらいが。)
本館は建設省九州地方建設局名義となっているが安田臣(かたし)の設計で、1962年に竣工。
同年に日本建築学会賞を受賞しているそうで、これがかなり見事なモダニズムっぷりの建物なのである。
高層の事務棟と低層の議会棟を十字型に配置しており、事務棟にはなかなか大規模なピロティがつくられている。
側面がまた凝っていて、コンクリートに流政之の制作による「恋矢車」という模様を描いてある。実に面白い。
しかしながら1993年、本館と昭和通りの間(おそらく以前はオープンスペースか駐車場)に、新館が建てられてしまった。
このぶち壊し具合たるやかなり悲惨な状況である。せっかく昭和通り・大分城址公園に面してつくられていた本館は、
新館ができたことで「後ろ側の付随物」へと押しやられてしまった。いちおう、正門は本館のピロティ付近とされているが、
誰がどう見たって新館によって本館の存在が虐げられているのは明らかだ。あまりにも無神経すぎる措置である。
新館が本館との関連を念頭に置いて設計された建物ならばよかったのだが、見てのとおりの味気ないオフィスビルなのだ。
実物を目にして、さまざまな配慮が加えられている本館の面白さにワクワクした反面、新館の下らなさに怒りを覚えた。
この本館と新館の関係性は、見る人が見れば、いかに大分県がかつて持っていたセンスを失ったか、と映るだろう。
(新たに本館を建てても丹下健三設計の庁舎への敬意を保った香川県(→2007.10.6)とは対照的な愚かな事例だ。)

  
L: 大分県庁舎、左から新館・本館・別館。  C: 本館。新館が立ちはだかっているため、正面から撮影することができない。
R: 大分県庁の正門とされる部分。こちらに面している道路の中央分離帯は公園として整備され、「遊歩公園」となっている。

  
L: 県議会棟。屋根の形状がいかにもである。現在は本館と新館をつなぐ建物となってしまっている。
C: 本館事務棟1・2階をぶち抜いているピロティ。実にモダニズム精神あふれる建物なのである。
R: 流政之による「恋矢車」。この模様が建物の側面をすべて覆っている。オシャレを志すモダニズムは本当に面白い。

  
L: 遊歩公園越しに眺める本館の裏側(と新館)。遊歩公園は広さもあまりなく人もいないので、なんだかもったいない空間。
C: あらためて本館の裏側を眺める。コンクリの通路で動線を確保しているのがまたモダニズムという感じ。
R: 遊歩公園内にあるフランシスコ=ザビエル像。後ろの世界地図には日本に来るまでの航路が描かれている。

これで今回の九州東海岸旅行における県庁と市役所の撮影はすべて終了である。
あとはのんびり大分の街を歩こうが何をしようが自由なのだが、スケジュールの都合を考え、いったん大分市を離れる。
ではどこに行くのかというと、大分市のすぐ北にある別府市である。別府温泉に漬かるのじゃー!
というわけで駅まで戻ると電車に乗り込み別府駅へ。途中で高崎山を抜けたが、正直サルを見たい気持ちもあった。
しかし大の男が一人で家族連れの中に紛れ、サルを相手にキャッキャキャッキャ喜ぶというのも虚しいので、さすがにパス。

別府駅に到着すると、女性の声で「べっぷぅー、べっぷぅー」とアナウンスが入る。
このアナウンス、最後の「ぅー」の部分がやたらと強調されて、聞いているとなんでか知らないがイライラくるのであった。
さて別府駅もさすがに日本の誇る温泉地だけあり、改札を抜けると実に賑やか。飲食店と土産屋が元気いっぱいなのだ。
とりあえずは東口に出て、市営の温泉施設である竹瓦温泉を目指して歩き出す。
でもその前に記念に駅舎でも撮っておくかー、と思って振り返って驚いた。メガネのおっさんの像が両手を上げて迫ってくる。
像の足元には「子どもたちをあいした ピカピカのおじさん」という文字が。なんだそりゃ! あやしすぎる!
よりによって駅前にそんなユニークさんの像を立てるなんて、さすが日本の温泉地は違うぜ!と思いきや、
実はこのおじさん、油屋熊八という人で、別府温泉の知名度を全国的なものにした最大の功労者なのであった。
ものすごいアイデアマンであり、次から次へと奇抜な方法で別府温泉を宣伝した立志伝中の人なんだそうだ。
説明をきちんと読まなかったらとんでもない勘違いをしたまま帰るところだった。いやー、危なかった。

 油屋熊八。「別府観光の父」と呼ばれ、現在も地ビールの銘柄名になるなどの人気。

気を取り直して竹瓦温泉を目指す。観光案内所で入手した地図をもとに歩いていったのだが、非常にややこしい。
しかも竹瓦温泉は市営の施設であるにもかかわらず、えーホントにこの辺?と思うくらいに周りがものすごい風俗街なのだ。
それで迷ってウロウロしていると、ビシバシと声がかかる。いや、そっちの風呂じゃなくて……と思うわけだが、容赦ない。
そんなこんなでどうにか竹瓦温泉にたどり着いたときには、思わずガッツポーズをしてしまった。本当にややこしかった。

  
L: 竹瓦温泉。この辺り、右に行っても左に行ってもピンク色でございますよ。  C: 正面を撮影。風情あるなあ。
R: 中の様子はこんな感じ。強烈な別府の湯を味わった後は、ここで呆けるのだ。砂湯(砂むし)もできる。

竹瓦温泉じたいは1879(明治12)年の創設と、公共施設としてはかなりの歴史を持っている。
この最初の建物が竹で屋根を葺いたもので、その後に改築した建物が瓦葺きだったことで「竹瓦温泉」という名がついた。
現在の建物は1938年にできたものである。そんでもって入浴料が100円。時代の流れをまったく感じさせない施設だ。

さっそく中に入る。入浴料のほかにタオルを250円で購入することに。いい記念である。
戸を開けて浴場に入ってみてびっくり。浴槽は1フロア分掘り下げた高さとなっているのだ。
おかげで天井が高く、開放感がある。服を脱ぐと階段を下りて湯船へ。そしてまたびっくり。体を洗うための蛇口がない。
湯船から桶で湯をとり、そのまま体を洗うのだ。それにしても、温泉の匂いが非常に強烈でたまらない。
揮発性の成分の匂いがものすごく強い。ハッキリ言うと、石油の匂いがする。お湯の色は明らかに緑がかっている。
いったい何がお湯に溶け込んでいるのか知らないが、いかにも効きそうだ。そして非常に熱い。
(そのため、一緒に入っている人たちの同意を得たら、各自の裁量で水を出して温度を下げてもいいことになっている。)
いざお湯の中に漬かってみると、体の末端からジンジンしてくる。熱さのせいもあり、ちょっとでも動くと痺れる感じ。
おーモーレツぅー!などと内心叫びつつ、漬かったり休んだりを何度も繰り返して別府の湯を堪能するのであった。

やはり温泉の湯上がりは格別である。しばらく呆けてこれまでの疲れを存分に回復させるのであった。
竹瓦温泉から出ると、周囲の商店街をブラブラと歩きまわってみる。別府にはアーケードの商店街がいくつもあり、
独特の雰囲気が漂う。それほどの勢いがあるわけではないのだが、なんとなく大阪の下町を思い出しながら歩いた。
アーケードはずいぶん長いが、駅から離れて南へ行けばいくほどゴーストタウン的な雰囲気へと変化していく。
もういいかな、と適当なところで切り上げて駅へと戻った。

大分まで戻ってくると、だいぶ空が暗くなってきていた。晩飯のことを考えつつ、こちらの商店街もうろついてみる。
大分市の中心的な商店街には、南北に伸びるセントポルタ中央町と東西に伸びるガレリア竹町の2つがある。
賑わっているのはセントポルタ中央町の方で、中央通りの一本西側にあり、人通りが絶えない。
対するガレリア竹町は大分県で最も古い商店街とのことだが、駅から離れた分だけやや弱まっている印象がする。
「ガレリア」とは屋根つきの商店街を意味するイタリア語。中央通りに面した入口は幅24m×高さ18mという大きさで、
アーケードの断面積としては日本一だそうだ。日本とポルトガルの友好450周年を記念した帆船の模型が置いてある。

  
L: 昼間に撮影しておいた、ガレリア竹町の中央通り側入口。商店街というよりイベントスペースのような感じがする。本当に広い。
C: 夜になって中にあるポルトガル船の模型を撮影。全長8mということで、これまたデカい。「南蛮文化」を通した街への誇りを感じる。
R: 付近にデパートが何軒かあることもあり、セントポルタ中央町は大賑わい。大分はとても活気のある街なのであった。

 
L: 大分トリニータを応援するドアマット。ナビスコカップ優勝時には盛り上がったみたい。
R: 晩飯には大分名物であるという「とり天」をいただいた。揚げてあるのにあっさりしていて、いくらでも食べられそう。

今日も歩きまわってメシがうまいのであった。きちんと名物のある地方都市を旅行するのはやっぱり楽しい。
というわけで、やたらめったら長かった本日の日記はこれでおしまいなのである。……と思ったらまだおまけが!

★おまけ:大分で見かけた気になるもの

大分市を歩いていて、気になったものを2つほど。
それはナンバープレートの文字と高速道路の文字(いわゆる「公団ゴシック」)である。
どちらも大分の「分」のかんむり部分がくっついていたのだ。なんでまたこんなふうになっているのか。
ナンバープレートの方は新しいものがふつうの「分」に直っていて、写真のようなタイプは少数派になりつつある。
当時の運輸省の方針なのか何なのかわからないが、面白かったので記録しておいた。

 

★後日談(掲示板におけるやりとり)

●酸化鉄こと潤平より(※文章中のリンクはこちらで張った)

大分の「分」のかんむり部分は、水滴が流れるための傘の効果があると思われる。
かんむりを分けると、下の「刀」の天端に汚れが溜まるでしょ。
かつての「愛媛」ナンバーも水滴が流れるために、あんなふにゃふにゃなフォントにしてたらしいし(→2007.10.6)。
最近はやっぱ意味ないよねってことで廃止してるようですが。

高速道路の看板はそれじゃ説明がつかんが、まぁくっついてても離れてても視認性は同じだし、
カッティングシートとかで文字作る場合は切り取る回数が減るし位置合わせも楽だからああするのかもしんない。
プリント技術のまだない手書き時代の看板屋はああいうディフォルメをよくしたと聞きます。

●僕の返事

汚れるだけなら略字の必要ってそんなにないじゃん、昔は土の道路だったからか?
……と思ったら、昔のナンバープレートは鉄製で、水や汚れでサビて腐食したそうで。
高速道路の書体については「公団ゴシック」ということで、これはけっこう有名。
同じ字でも前後の字とのバランスで微妙に変化したり、地方によって差があったりで、
フォント化は実際にやってみると非常に困難な作業らしい(下記サイトを参照)。
Wikipedia「案内標識」の項によると、1960年代までは高速道路でも手書きが多かったようだ。
ゆえに公団ゴシックはご指摘のとおり、手書き時代の看板屋の流れをくんでいると思われる。
(個人的には法政の市ヶ谷や明治の和泉にある左翼の看板文字との共通点が興味深い。)
でも最近は首都高を中心に、公団ゴシックから写研のゴナDBになりつつある。
そんなわけで「分」についての結論は、「ナンバープレートと高速道路のどちらも昔は技術面での制約があり、
結果的に似たデザインとなった。それが今の時代までたまたま残っていた」というところか。

▼参考になった記事・サイト
愛媛ナンバーの文字が通常字体に――今までは?
ナンバープレート情報局
高速道路の文字を再現しよう計画

これでホントにおしまい。


2009.1.8 (Thu.)

今日も朝の暗いうちから動きだす。鹿児島県から宮崎県へと移動するためだ。
それにしても、湿布を貼りまくった足は、まるでテーピングでガチガチに足を固めたスポーツ選手のようだ。
もはや旅行という甘い響きとは別次元のことをやっている気分になるが、それもまた楽しいと思えるからしょうがない。
やっぱり路面電車は動いていない時間なので、腕時計を気にしながら地道に歩いて鹿児島中央駅までたどり着く。

5時40分、電車は動き出す。鹿児島駅を越えると本格的に日豊本線へと入るのだが、線路は単線。
鹿児島-宮崎-大分と県庁所在地を結ぶ非常に長い路線なので、これはかなり意外に思えた。
でも地元じゃ鉄道はそんな程度の重要性ってことなのだろう。とにかく鉄道の常識ってのはわからん。
それにしても、JR九州の車両はデザインが個性的なものが多い。特急はもちろん、普通列車もちょっと違う。
内装も明らかに「ああ凝ってるわ」とわかる(前にも書いたっけ →2008.4.25)。なんとなくヨーロッパ気分である。

今回は青春18きっぷを使っているので、まっすぐ宮崎市へ行くのではなく、ちょっと寄り道してみる。
まずは宮崎県の南西端・都城市に寄り道である。ところがこの街、ちょっとややこしい。
西都城駅から次の都城駅へはゆっくりとカーヴしているのだが、市街地はちょうどこのカーヴに囲まれた格好なのである。
足の調子が良ければ西都城駅から都城駅まで1時間で強行突破するのだが(当初はそのつもりだった)、
走ることは完全に無理、早足さえ難しい今の状況では、そんなことは到底考えられない。
そんなわけで西都城駅で降りて都城市役所にターゲットを絞り、市街地は遠くから眺めるだけに留めることにした。

7時ちょい過ぎ、電車は西都城駅に到着。降りる客がほとんどいない中、18きっぷを提示して改札を抜ける。
電車に乗っている間はずっと空が暗いままだったのでどうなるかと思ったが、駅舎から出た頃には明るくなっていて一安心。
国道10号まで出ると市街地とは反対側の南へ向かって歩く。しばらくして巨大な建物が見えてきた。都城市役所だ。
現在の都城市役所は、かつて島津氏の領主館があった場所であり(都城は島津家発祥の地で薩摩藩領だった)、
廃藩置県時の都城県庁が置かれた場所だ。非常に由緒正しい場所なのである(敷地内に説明板や碑があった)。
市役所の建物じたいも面白いデザインをしている。建物の規模やベージュのレンガ模様と茶色い格子などが
いかにも1980年代だと思ったら、そのとおり1981年竣工。80年代庁舎にしては遊び心がある印象がする。

  
L: 北側から眺めた都城市役所。窓ガラスの面積を大きくとっており、茶色の格子で大胆に囲んでいる。
C: 南側から見ても同じようなデザインである。  R: 都城県庁跡の碑。歴史ある街・都城のプライドを感じる。

さて西都城駅付近には、市役所以外に非常に強烈な建物がある。知っている人は知っている、都城市民会館である。
市制施行40周年を記念して1966年に竣工したこの施設は、菊竹清訓の設計によるものだ。
メタボリズムの代表的存在のひとつであり、その外観は誰の目にもかなりのインパクトを残すはすだ。
老朽化により市民会館としての機能を休止、一時は解体が決まってニュースなどで話題にもなった。
しかし2007年、南九州大学に無償で20年間貸与することが決まって生き残ったのである(この記事が詳しい ⇒こちら)。

  
L,C: 木がジャマ。敷地内の木に限らず、隣の地裁の木もジャマで建物が非常に見づらい。なんとかしてくれ。
R: 駐車場から全体を眺める。街中にいきなりこんなものが現れるわけで、そのインパクトたるや絶大。

 
L: 側面をクローズアップ。下半分は意外とシンプルな鉄筋コンクリートである。そしてそれが効いている。
R: 入口部分。ド迫力である。こうしてみると、いかにも「未来」をイメージしたモダニズム、という感触だ。

僕は菊竹清訓の建物があまり好きではない。なんというか、モダニズムにはやっぱり品がないといかんと思うのだが、
菊竹の建物にはどうもそういう品の良さをあまり感じないからだ(かといって「品」についてマジメに考えたことなどないが)。
造形としては面白いかもしれないが、古くなって汚れたら目も当てられないじゃん、という感じがどうにも合わないのである。
(つまり僕は古くなっていくことで美しさが増す、もしくは新しい美しさが発見できる、そういう建物を好む傾向があるわけだ。
 少し短絡的だが、メタボリズムの「古くなったら新陳代謝で取り替えようぜ」という面とは相性が悪いのかもしれない。)
そんな僕の目から見て、都城市民会館は、やっぱり面白い。まず、休館中のわりにきれいにしてあるのが非常によろしい。
この建物ができあがった当時のインパクトが今もそれなりにきちんと残っていることで、純粋に造形の面白さを楽しめた。
ふつうに考えれば、街中にいきなりこんなものがあるのは狂気の沙汰以外の何物でもないのだが、
足元の鉄筋コンクリート部分は非常にシンプルというかオーソドクスというかで、そこでうまく中和されているように思う。
これは純粋に褒め言葉だが、建築において許されるギリギリのバカバカしさ(この「バカバカしさ」こそ本当に褒め言葉だ)、
それは良く言えば非日常の空間的な実現ってことだが、それを上半分と下半分のバランスでうまく実現したと思うのである。

都城市役所と都城市民会館の組み合わせはなかなか朝から強烈なラインナップなのであった。
満足して西都城駅まで戻ると、宮崎方面への電車が出るギリギリの時刻だったようで、駅員に「走って!」とせかされた。
そんなご無体な、と思いつつ必死で階段を駆け上がってどうにかセーフ。足の痛みに呆けつつ席に腰を下ろすのであった。

9時を過ぎて南宮崎駅に着き、ここで電車を降りる。またも寄り道である。日南線に乗り換えて揺られること20分ほど。
降りたのは青島駅。というわけで、青島に行って鬼の洗濯板(岩)を見てみるのである。
駅舎でコインロッカーを探すが、そんな気の利いたものはない無人駅だった。しょうがないので荷物を背負ったままで歩く。
困ったことに空模様がだいぶ怪しくなってきており、商店街を抜けていざ青島に上陸しようというところで雨がチラチラ。
しかし降ったようなやんだようなの微妙な繰り返しと日がうっすら差したり隠れたりの微妙な明るさとで、
宮崎らしい南国の空と海を感じることはできないのであった。実に残念なことである。

青島は砂岩と泥岩が交互に重なった地層が浸食を受けた後に隆起してできた。それで極めて独特な景観となっている。
まるでそのまま波が岩になって固まったような部分もあれば、亀の甲羅のような形をしている部分もあり、本当に奇妙だ。
島に堆積する砂も、貝殻の細かな破片に覆われている。ちょっと裸足では歩けないほどで、歩くとギュッという感触がする。
青島は岩で囲まれており、貝なんてまったくいそうにないのに、これだけの量の貝殻がここに集まっている。
かつては神聖な場所として一般人は立入禁止になっていたというが、それも納得がいくような不思議な場所である。

  
L: 弥生橋の向こうが青島。鬼の洗濯板(岩)の上に砂と貝殻が積もり、熱帯性・亜熱帯性の植物が生い茂っている。
C: まるで亀の甲羅のようだ。  R: 足元は砕かれた貝殻でびっしり。自然のつくりだす偶然ってのは不思議なものだ。

島にある青島神社に参拝する。参道の周りには熱帯性の植物がびっしりと壁をつくっており、奇妙な光景だ。
まったくもって神社らしくない植生なのである。このミスマッチもまた、青島の不思議な印象を強めている。

 青島神社。神門の向こうに本殿。それにしても両側の植物が違和感大である。

お参りを済ませると、青島を一周してみる。特別天然記念物の植物群落の中に入ることはできないが、
場所によって表情を変えていく鬼の洗濯板を眺めていくのはなかなか面白い。

  
L: 波がそのまま岩になって固まってしまったような部分。  C: 行けるところまで行って、振り返ってみたところ。
R: 同じ鬼の洗濯板でも、場所によって形はちょっとずつ違う。その細かい違いをあれこれ堪能するのであった。

天気が良ければ言うことなしだったのだが、空はぐずついてどうにもすっきりしない。
できることなら夏場に来て、空と海の青さに挟まれた緑と岩を楽しむべきなんだろうな、と思うのであった。

駅に戻ると宮崎方面の列車に乗り込む。いよいよ本日の最終目的地に向かうのである。
正午の少し前に宮崎駅に到着。改札を抜けて軽く迷う。向かい側にももうひとつ改札があり、
左右対称でどっちに行けばいいのかわからない。そんな具合に軽くフラフラしてから宮崎駅の西口に出る。
いかにも南国ムードのある大きなロータリーから、幅の広いまっすぐな道が伸びている。うん、宮崎だ。

 
L: 宮崎駅。1993年に完成したという駅舎はやたらカラフルである。ホームが4つあるけど結局単線なんだぜ。
R: 宮崎駅からまっすぐ西へと伸びる高千穂通り。広い! そんでもって長い!

真っ平らな土地にやたらと幅の広い道路。そしてとにかく距離がある。痛んだ足には実に厳しい街である。
高千穂通りをしばらく歩いていくと大きな交差点に出た。北から伸びてきた国道10号が西へと曲がる場所である。
この交差点から南に伸びるのが橘通り。宮崎市最大の商業地帯であり、デパートがでっかくそびえている。
中央分離帯にはかなり背の高いワシントンヤシ(ワシントニアパーム)が植えられていて、いかにも南国らしい演出だ。
しかしとりあえずは本日の宿で荷物を預かってもらうことが先決だ。駅で入手した地図を見ながら歩きまわる。

 
L: 橘通り。宮崎市の中心部といっていい場所である。デパートが撤退せずしっかり営業しているのがうれしい。
R: 一番街アーケード。まずまずの元気さといったところ。橘通りを挟んだ東側の若草通りアーケードはやや弱っていた。

今回予約した宿は常識では考えられない安さだったのだが、その分しっかり歩かされた感じである。
繁華街を抜けて住宅街の複雑な道を行った先にあったのだが、とにかくわかりづらくて閉口した。
それにしてもここまで歩いてみて宮崎はやたら道が広い印象を持ったのだが、住宅街の道はふつうに狭くて入り組んでいた。
やたらめったら平らな土地に住宅が際限なく広がり、幅の広い道路がそこをザックリとまっすぐに伸びる、そんな街である。
(後述するが、それは宮崎という街の成り立ちによる。県庁所在地には城下町が多いが、宮崎はそれとまったく異なる。)

さて、荷物を置いたら市役所と県庁の撮影である。宿からは市役所も県庁も比較的近い距離にある。
鹿児島のように移動に手間がかかることがなくていいや、と思っていたら、ついに雨が降り出した。
本格的にザンザン降りというわけではないものの、傘を差した方がいいかなという程度の雨で、実にうっとうしい。
折り畳み傘を差してしばらく行くと、宮崎市民プラザが見えてくる。宮崎市役所はその裏側、大淀川に面した位置にある。

  
L: 宮崎市役所本庁舎。手前の宮崎市民プラザのせいで敷地が狭く、非常に撮影しづらかった。建物じたいはよくあるコンクリ庁舎。
C: 角度を変えて撮影。なお、宮崎市役所は第四庁舎まである分散型で、第三庁舎まではこの周辺に点在している。
R: 前に出っ張っている議場。庁舎全体のデザインという観点からすれば、後ろの本庁舎とのバランスを特に考えていない印象だ。

雨だわ敷地は狭いわデザインはそれほど面白くないわで、あまり気乗りのしない撮影なのであった。
さらに困ったことに市庁舎の手前にあり市民プラザと囲む格好になっているオープンスペース・橘公園噴水広場が工事中。
おかげで高いフェンスがジャマになって、思うように市役所の全体像を撮影することができない。
根本的には個人的な機嫌の問題ではあるのだが、かなりの欲求不満になりつつ市役所をあとにした。

 交差点から撮影した宮崎市役所の遠景。まあこんなもんですかね。

お次は宮崎県庁である。雨はどんどん強くなり、傘を持たずに雨宿りする人の姿もチラホラ。
せっかく南国・宮崎に来たのにこの天気とは、まったくもってツイていない。僕の機嫌はどんどん悪くなっていくのであった。

宮崎県庁は市役所以上の分散状態になっている。なんせ本館のほかに1号館から10号館まであるくらいなのだ。
今までいろんな県庁を見てきたが、ここまで強烈な分散っぷりをしている県はほかになかった。
しかしそれらの建物はほとんどが半径150m以内の区域に集中して並んでおり、付近は完全な官庁街となっている。
雰囲気としては、道を挟んで複数の敷地に分かれている大学のキャンパスに近い。もっとも、こちらはそれより開放的だが。
だから宮崎県庁のそれぞれの建物が建っている敷地の面積を合計すれば、けっこうな広さになるはずである。
おそらくそんな具合だから、県庁舎の建物をひとつに集約するという発想はもともと希薄というか存在しないのだろう。

宮崎県庁がなんだかんだで広い土地を確保できているのは、それはこの街が県庁のために造られた街だからだろう。
1873年に美々津県と都城県が合併。新たに県庁が置かれたのは宮崎郡上別府村で、郡名から宮崎県と命名された。
もともと大淀川の右岸は城ヶ崎と呼ばれ栄えていたが、県庁の置かれた左岸はただの農村だった。
しかし県庁が置かれたことで一気に発展をしていき、現在のような姿へと変化していったのである。
ひたすら農地だけが広がる場所だったから、やたらと広くてまっすぐな道路はそりゃもう引き放題だっただろう。
そしてそれと対照的に複雑に入り組んだ住宅街は、かつての農地がそのまま宅地化した結果というわけだ。

そんな経緯を持つ宮崎県庁だが、今は全国的に観光名所としてのブームが再燃している状況である。
そのきっかけとなったのはもちろん、2007年に就任したそのまんま東こと東国原英夫知事だ。
まあ正直、自分が県庁所在地めぐりで宮崎に行くまでには不祥事で辞任してるんじゃないかと思っていたのだが、
宮崎県のスポークスマンに徹することで、今のところは非常に好ましい状況を維持している。
議会とのよけいな対立を避け、実務を任せられる部分は任せ、外向けに自分のキャラクターを生かす戦略は悪くない。
それにしても、宮崎駅を降りてから、東国原知事の顔をやたらめったらあちこちで見かける。
木更津のタヌキ(→2008.12.23)に匹敵する勢いと言ってもまったく過言ではないだろう。
観光案内のパンフレット、宮崎名物の品々、あっちを見てもこっちを見ても知事の顔だらけ。いやはや、すごいもんだ。

クスノキの並木を東へと歩いていくと左手に門があり、小ぎれいな庭園の向こうに宮崎県庁本館が現れた。
知事の働く県庁が観光名所として成立しているのも、1932年竣工のこの本館が残っているからなのは間違いない。
庭園の中央には県の木であるフェニックス(カナリーヤシ)が植えられているのが特徴的だ。
今も建物のジャマになる要素は極力排除されており、この本館に対する誇りがうかがえる。
その辺はさすが、県庁のために造られた街の意気というか、まず県庁ありきという姿勢を感じる点だ。
(宮崎は、かつての城下町における「城」の存在が近代の「県庁」に置き換わった貴重な実例と言えそうだ。)

  
L: 宮崎県庁舎本館。全国トップクラスの分散ぶりである宮崎県庁において、核となっている建物である。
C: 設計は置塩(おじお)章。『都道府県庁舎』(→2007.11.21)によれば、旧茨城県庁舎(→2006.8.27)も手がけているとのこと。
R: こちらは宮崎県庁本館の側面(東側)。古い庁舎は、古い大学の建物と近い要素があるなあとあらためて思うのであった。

撮影を終えるとさっそく本館の中へと入ってみる。ほかの役所なら警備員に怪訝そうな顔つきで出迎えられるところだが、
宮崎県庁の対応はさすがに正反対である。まずはにこやかに両面白黒コピー1枚の県庁に関する資料を渡してくれる。
画像の解像度がことごとく粗いのが惜しいが、内容はまずまず詳しい。県庁マニアには非常にうれしいサービスである。
そして玄関の階段を上ったところで東国原知事の等身大ポップがお出迎え(もちろん、警備員は記念撮影してくれる)。
建物の中はある程度自由に見学ができるが、特に宮崎県の歴史を紹介する資料館となっているわけではないので、
正直見どころがそれほど多いわけではない。「県民室」なる情報公開コーナーで文書をあさることができる程度だ。
宮崎県庁本館は今もしっかりオフィスとして機能している建物なのである。2階東側には知事の執務室や応接室がある。
(テレビカメラを持った取材陣が知事応接室に入ったのを見たので、僕が訪れたときに東国原知事は在室中だったようだ。
 玄関の警備員も3人ほどおり、少し緊張感が漂っているような感じも受けた。開放しつつも抑えるべきは抑えていた。)

  
L: 玄関の東国原知事の等身大ポップ。全国に向けて宮崎の存在感を爆発的に高めた功績は確かに大きい。
C: 本館の隣にある宮崎県庁1号館。左側にくっついているのが県議会。実務の中心はこっちの建物のようだ。
R: 近所の宮崎県庁5号館。宮崎県文書センターとなっており、文書の資料を保存。宮崎農工銀行として1926年に建てられた。

これで市役所と県庁の撮影が終わったので、あとは宮崎市内の観光名所を歩きまわることにする。が。
宮崎市というのは、まあはっきり言って、まともな観光名所のない街なのである。
それは上記のように、もともとただの農地でしかなかったことが大きい。本当に県庁以外には何もない街なのだ。
車があれば「シーガイアがあるじゃん」となるのだろうが、こちとら徒歩より詣でける人間なので、それは選択肢に入らない。
とりあえず事前のリサーチで宮崎神宮と平和台公園をチェックしておいたので、行ってみることにする。
宮崎駅まで戻って青春18きっぷをかざし、1駅北の宮崎神宮駅へ。降りてみたら無人駅で、たまげた。

宮崎神宮駅の出入口からまっすぐ、国道10号を挟んだ向かい側には鳥居が立っている。いかにも参道っぽい雰囲気だ。
横断歩道を渡ってその道を行くと、すぐに深い森へとぶつかる。せっかくだから正面の入口から入ろうと南にまわり込むが、
そしたらこれがもう半端ない距離だった。宮崎神宮は異様に広く、ずいぶんと歩かされる破目になってしまった。
しかも正面の鳥居をくぐってからがまた長い。やはり宮崎はやたらめったら広いスケールの場所なのだ、と痛感させられた。
宮崎神宮は神武天皇を祀っていることで明治時代以降に重視されるようになった。この広さはその影響のように思える。

 宮崎神宮・拝殿。一般の参拝者が立ち入りできるのはここまでである。

じゃあ次は平和台公園に行って平和の塔(八紘一宇の塔)を見てみよう、と思う。
しかしまあ、そこは宮崎。遠い。とにかく遠い。特にほかに見たいものもないしなーという軽い気持ちで歩き出したのだが、
歩いても歩いても一向に近づいているという感触がしないのである。延々と続く住宅街をトボトボと進んでいき、
ふと顔を上げたら視界のはるか先に平和の塔らしきものが見えたときには、あまりの遠さに眩暈がしたくらいだ。
桜島と開聞岳と枕崎のおかげで足は完全におかしくなっている。それでも黙々と歩き続け、ついに到着したのであった。

  
L: 住宅街を突っ切る県道から見えた平和の塔。と、遠い……。本気で泣きそうになった。
C: 平和台公園に着いたら石段がお出迎えと、まるで罰ゲームのような状況だった。必死で上ったら塔のある広場に出た。
R: 平和の塔をクローズアップ。1940年に紀元2600年記念でつくられたが、なかなかすげえデザイン。

高さ36.4mの平和の塔は、そのサイズによる迫力ももちろんだが、何よりそのデザインに驚かされる。
イケイケドンドンの軍国主義の真っ最中につくられた塔だが、むしろモダンの要素を多分に含んでおり妙な切れ味を感じる。
イタリアの未来派やロシア構成主義の影響が、日本の民族主義の中で遅ればせながら具現化した、そんな印象がする。
僕としてはそんなふうに捉えたわけで、思想的な面はともかくとして、それなりにきちんと価値を感じる作品ではある。

特にこれといって特徴のないだだっ広い住宅街の中、黙々と足を引きずって宮崎神宮駅まで戻る。
宮崎駅へ行く電車の発車時刻とはうまくタイミングが合わず、無人駅のホームで45分ほど待つことになる。
この日の朝メシは電車の中でおにぎりをいくつか食べた程度だったので、猛烈に腹が減っていた。
しかし近くにコンビニはなく(ホントに県庁所在地か?)、しょうがないので自販機のコーンポタージュでしのぐことにした。
やがて雨が本格的に降り出し、屋根はあるが吹きさらしのホームはシャレにならないほどの寒さとなる。
せっかくはるばる来たのにこの仕打ちということで、この時点で僕の宮崎に対する印象は最悪なものとなっていた。
iPodで音楽を聴きながら寒さに震え、「二度と来たくねえよ、こんなところ」とつぶやくのであった。

宮崎駅まで戻ると再び橘通り周辺に行き、商店街を歩きまわって過ごす。
晩メシのことを考えると下手に何か食べるわけにもいかない時間で、対処に非常に困るのであった。
ほかに行きたい場所もない。足の調子も悪い。しょうがないのでデパートの本屋に入って雑誌を立ち読むのであった。
そしたらずっと突っ立っていたので足の調子がさらに悪くなったかと思いきや、むしろ逆に痛みが弱まっていたので驚いた。
細かいことはわからないが、足を伸ばした状態でいた方が、腱にとっては回復が早まるようだ。人体は不思議だ。

マンガの文庫本で何か目ぼしい新刊はないかな?と思って雑誌のコーナーから移動したら、見覚えのある人とすれ違った。
その人は2007年のシーズンまでヴァンフォーレ甲府を率いていた大木監督にやたらと似ていて、え? あれ?と戸惑った。
大木さんは今、日本代表のコーチで、代表はあさってから指宿で合宿で、あれ? ここどこだ? 指宿……は昨日だよな?
軽く混乱した末、今オレがいるのは宮崎!と我に帰る。しかしまあ、さっきの人は本当によく似ていたなあ、と思い返す。
まさかなーと思ってもう一度店内を歩いてみたら、さっきの人は車の雑誌を立ち読みしていたのであった。
背は僕より少し低いくらい。ブレザーを着ている。僕はジャージ姿ではない大木さんの写真を見たことが一度もないので、
まさかなーとは思う。まさかなーとは思うんだけど、見れば見るほど大木さん本人としか思えないほど大木さんなのだ。

かなりの逡巡の後、意を決して「失礼ですが、日本代表の大木武コーチでいらっしゃいますか……?」と声をかけたら、
その方は慌てて読んでいた雑誌を閉じてこっちを向き、「はい、そうでございますが……」との返事。
うわわわわ、本物だ、本物の大木さんだ! 内心大いにビビりつつも、監督のサッカーがあまりに面白かったので、
甲府のファンになりました、と告げるのであった。緊張している僕よりも大木さんはさらに緊張されているようだったが、
それだけ腰の低いまじめな対応をされる方だった。大木さんは昨日までU-20の合宿を見ていたんだそうで、
宮崎にいらしたのは知人の方と食事をする予定で、その時間調整で本屋に来たとのこと。なんたる偶然。
(しかしそれにしても、大木さんに地元の高校生と間違えられたのには参った。僕はそんなに幼く見えるのか……。)
甲府での最後の試合となった鹿島戦も観に行ったこと(→2007.12.8)も告げ、本当に感動しましたと伝えることができた。
大木さんは僕が甲府サポということで、まだ甲府でやり残したことがあると暗に匂わせてくれた。僕はそう受け止めた。
「甲府も応援していますけど、代表ももちろん応援しています。これからも面白いサッカーを見せてください」と握手。
自分をサッカー好きの世界へ叩き込んだ方とお会いし、直にメッセージを伝える機会に恵まれた。なんという幸運だろう。
そして僕のような一ファンの言葉が、大木さんの今後の活躍へのわずかな後押しになるとすれば、こんな幸せなことはない。

デパートを出てからも興奮は冷めないのであった。商店街をぐるぐる歩いて落ち着きを取り戻すと、晩メシをいただく。
宮崎名物の料理は数多いが、今回食べることにしたのは「チキン南蛮」。揚げた鶏肉にタルタルソースを掛けて食べる。
いかにも洋食らしくナイフとフォークで食べたが、見かけよりも量があり満足。鶏肉とタルタルソースの相性は絶品だった。
タルタルソースといっても、かつて給食で出てきたキユーピーマヨネーズ製のようなものではなく、手づくりで酸味がない。
たとえるなら、清里のカレー屋・ROCKのドレッシングに近い味である(ウチの家族にしかわからない表現かもしれないが)。
刺激の少ないマイルドな風味が鶏肉本来の味と絶妙にマッチしており、何も考えず夢中で平らげるのみなのであった。

 このタルタルソースは自力でつくれるようになりたいわー。

遠い宿への帰り道でも興奮状態は続いた。
物事は考えようで、あのタイミングで本屋にいなければ、僕は大木コーチとお会いすることができなかった。
あのタイミングで本屋にいるには、宮崎神宮や平和台公園を歩いてブルーな気分になっていないと難しかった。
そう考れば、延々と足を引きずっていた時間、無人駅で凍えていた時間も決して悪いものではなかったと感じられるのだ。
まあとにかく、終わり良ければすべて良しということで、声を大にして宣言させてもらおう。
宮崎大好き!


2009.1.7 (Wed.)

朝の3時半起きである。そこから支度をととのえて、4時には宿を出る。相変わらずの常軌を逸した旅行である。
いつもの感じなら1日1県のペースで動くので鹿児島よさらば、となるのだが、今回についてはちょっと違う。
せっかく九州の最南端まで来ているわけだから、こうなりゃとことん味わってやろうという魂胆なのである。
そういうわけで本日の目的地はまず開聞岳。そして枕崎まで行って鰹を食べ、帰りに指宿で砂むしをするのだ。
しかしながら、そんな贅沢なプランを実現するためには、4時59分発の始発に乗らないといけないのである。
指宿枕崎線は甘くないのだ。これを逃すとただでさえキツキツのスケジュールがさらに厳しいものになってしまう。
繁華街の天文館にほど近い宿も、交通の中心である鹿児島中央駅まではかなりの距離がある。
そういうわけで、同じ鹿児島県内を歩きまわるにもかかわらず、こんな時間に出発せざるをえないのだ。

それにしても昨日、桜島でムチャをしたおかげで足が痛い。右のアキレス腱がおかしいのかと思ったが、
どうやら正確には右膝裏が腱鞘炎を起こしているようで、走ることがまったくできない有様である。早足すらキツい。
こんな調子で開聞岳に行って大丈夫かよ、と不安になってしまうが、気にしていてもしょうがない。チャレンジあるのみ。
照国神社でいちおう無事をお参りをしてから駅へと歩き出す。路面電車もまだ動かない時間なので、地道に歩いていく。
途中のコンビニで朝飯と飲み物に加え、カロリーメイトを購入。駅には4時半ちょっと過ぎに無事到着した。

指宿行きの列車は定刻どおりに発車した。真っ暗な中を進んでいくため、車窓の風景も何もない状態である。
音楽を聴いて過ごすが、車内は暖房も効いているし、当然眠くなる。うつらうつらしながらメシを食い、そのまま寝てしまう。
指宿駅到着は6時5分。しかしそれに気づかない僕。そしたら突然、体の中のスイッチが入ったように目が覚めた。
慌てて腕時計を見たら6時8分。車両の外に出て列車の行き先表示を見たら「鹿児島中央」と書いてある。背筋が凍る。
しかし驚いているヒマはない。痛む足をムリヤリ動かし階段を上り、ホームを移動。どうにか枕崎行き列車にすべり込んだ。
席に着いたところで6時9分発の列車は南へと動き出す。そこでようやく、心臓がドキドキと激しく動き出す。た、助かった。
神様が起こしてくれた、としか思えないできごとなのであった。照国神社のご利益、確かかもしれない。

そんなこともあったので、今度は寝っこけることがないように目をギンギンにした状態で過ごす。
30分弱で列車は開聞駅に到着。運転士に青春18きっぷを見せて下車するが、まだ辺りは真っ暗。
誰も乗っていない観光バスが1台、エンジンをかけているほかには何も見えやしない。駅といってもホームがあるだけなのだ。
自分で予定を立てたにもかかわらず、途方に暮れる僕。とりあえずトイレに入って用を足すと、
観光案内図が立っていたのでそれを記憶し、まずは枚聞(ひらきき)神社へと向かうことにする(ひらきき=開聞)。
やがてゆっくりと空が明るくなりはじめる。振り返るとそこに、開聞岳のシルエットがうっすらと現れた。
「薩摩富士」の別名を持つ見事な円錐形の山容だが、近くにいるため、その巨大な頭をこっちにもたげているかのよう。
なんだか巨人に見下ろされているような気分になる。有無を言わせぬ存在感である。
枚聞神社でお参りを済ませたころにはだいぶ空は白くなっていた。日が昇りはじめると早いものだ。

 
L: ゆっくりと姿を現す開聞岳。本当に、巨人に覗き込まれているような気がしてしまう。
R: 枚聞神社・拝殿。今の社殿は1610年に島津義弘が寄進したものを1787年に島津重豪が改修したとのこと。

時刻は7時過ぎ。お参りも終えたし十分空も明るくなったしで、いよいよ本格的に登山を始めることにする。
最初に九州東海岸旅行の計画を立てた段階では開聞岳に登ることは考えていなかった。
こちとら筋金入りの高所恐怖症なわけで、なんで好き好んでそんな高いところに行かにゃならんのだ、と思っていた。
しかし今回の旅行についてcirco氏に話した際、「オレは開聞岳に登ってみたいと思っているんだよ」と聞かされ、
じゃあ代理ってことで登ってみるわ、となったのである。だって詳しく聞いてみると、なかなか面白そうなのだ。
まず、なんといってもその見事な円錐形。周囲にはほかに目立つ山がないため、その美しさは際立っている。
標高が1000mに満たないにもかかわらず(924m)、深田久弥の『日本百名山』に数えられているほどなのだ。
また開聞岳は海に面しており、条件が良ければ大隅半島も見えるなど、独特の眺望を楽しむことができるのだという。
そして何より開聞岳の登山道は、円錐をくるっと回り込む一本道となっているのだ。そんな山、ほかにはありえない。
ちょっとでも「面白いなコレ」と思ってしまったらもう最後。そうなったらもう、やってみるしかないのである。

登山道に向けての道を歩いていくと、ぶゎーっ!と叫び声が聞こえてきた。なんだなんだ、と見てみたら、
山麓で飼われているトカラヤギの鳴き声だった。どうやらメスをめぐってオスが争っているようで、大声が飛び交っている。
トカラヤギとはその名のとおり、トカラ列島にいる野生のヤギだ。案内板によると、大陸から日本に入った最初のヤギとか。
体は小さく病気に強い、濃厚なミルクを出す、性格はおとなしい……って、どこがやねん!
とにかくものすごい暴れっぷりで、二本足で立ち上がって勢いをつけてツノで襲いかかるといった具合。手がつけられない。
デジカメで撮影しようとしたのだが、あまりに動きが激しくってブレまくり。使える写真はまったく撮れなかった。

ここでそこそこ時間をとられ、2合目の登山口にたどり着いたのが7時半過ぎ。
気合を入れて山の中へと飛び込むと、大股で勢いよく登りはじめるのであった。

  
L: 登山口へ向かう途中、開聞岳の見事な山容に思わずシャッターを切った。今からあのてっぺんを目指すのだ。
C: 2合目にある登山口。体力に自信のある人はだいたい2時間で登り、1時間半で下るそうだ。足が痛い自分にはややキツいか。
R: 開聞駅にあった地図による、登山ルートの図。円錐形すぎて尾根も何もないので、こんなルートになるのである。

さすがに南国鹿児島だけあってか、シダ類が目立つ。登山道は思っていたよりも細々としており、また凸凹としている。
個人的には幼少期の体験から風越山(→2005.8.14)が標準的な山として叩き込まれているので、
どうしてもそれと比べてしまうのだ。風越山が異常に登りやすい山だったという事実をこの歳になって突きつけられた感じ。

  
L: 登山口から入ってすぐの辺り。シダ類が広がっている。  C: 切通しの中を進んでいくところもある。
R: 何箇所か、登りやすいように階段が設置されている場所もある。あんまり効果があるような気がしない。

山頂に向けて素直に登っていくルートになっていくためか、植生はゆったりと、しかし確実に変化をしていく。
また足元の状態もバラエティに富んでおり、土、礫(小石)、岩と、なんでもござれである。
地図で見る登山道が単純明快なおかげで早合点してしまいがちだが、実際に登ってみるとさすがにきちんと山である。
体の小さい人や足の短い人にはキツそうな段差が頻繁に現れる。僕のようにランニングの延長という感覚だと大変だ。
こりゃあちゃんと軍手をしてスポーツウェアを着込んでおかなきゃいけない山だわ、と思うのであった。
そしてカロリーメイトにも何度かピンチを救われた。さすがの僕でも途中で休憩を入れなくちゃもたない場面があり、
そのたびにペットボトルのお茶とカロリーメイトでどうにかモチベーションを回復させることができた。
やはり登山というものは本来、きちんと念入りに準備をしたうえで挑戦すべきものなのだ。深く反省したのであった。

  
L: 5合目より望む景色。開聞岳を登りはじめて最初に目にする絶景である。もうちょっと遅い時間の方が鮮やかだったかな。
C: 5合目を越えると登山ルートのカーブが始まる。それに合わせて登山道は礫だらけになったり岩だらけになったり。
R: 岩場を這いつくばるようにして登るところもある。高所恐怖症にはなかなかキツい体験なのであった。

7合目周辺に東への視界が開ける場所があるが、足元は岩だらけ。バランスをとりながら撮影するのがけっこう怖い。
見下ろせば朝の光を浴びた白い波がミリ単位の美しい紋様を描いて揺れている。風もなく、無音の中で波が泳ぐ。
運動をしているのはその小さな波だけで、時間が止まってしまったかのような錯覚をギリギリで押しとどめている。
長崎鼻を浮かべる海は霞んで空と溶け合い、大隅半島はおろか水平線までも消してしまっている。
太陽と向き合ってただ目の前の景色に圧倒されている中、さらさら、さらさらと波は不規則に遊んでいた。

気を取り直して山頂を目指し、再び歩きだす。登山道は再び木々に覆われ、外の景色は見えなくなる。
そうして雌伏のごとき8合目と9合目を抜けたところで、もう一度海が視界に入る。今度は山の西側の景色だ。
頴娃から枕崎へと海岸線は美しいカーヴを描いて伸びる。朝日に照らされた開聞岳は見事な三角形の影をつくっている。
青く染まった東シナ海と大地の緑の対比に目を奪われる。昨日、飛行機から見た「生きている地図」がそこにはあった。
景色のすばらしさとともに、ここまで黙々と登ってきた自分のヴァイタリティにも素直に軽い驚きを覚えるのであった。

  
L: 9合目を越えるといよいよクライマックスだ。一気に頂上へ向けてまわり込む。そして眼下に広がる光景に息を呑む。
C: ハシゴをよじ登って一気に上がる場面も。これをクリアすれば、頂上はもうほとんどすぐそこだ。
R: ついに開聞岳の頂上に到着。ゴツゴツした岩だらけの中に鹿児島県・屋久島・種子島を示した展望案内プレートがある。

運の良いことに頂上に着いても風はまったくといっていいほどなく、高所恐怖症の僕でも落ち着いて過ごすことができた。
岩に腰を下ろしてカロリーメイトを頬張りつつ、しばらく景色を眺める。木々が遮り360°丸見えというわけにはいかないが、
旧開聞町の街(平成の大合併により今は指宿市の一部)と九州最大の湖である池田湖が本当によく見えて面白い。

2合目登山口から頂上に来るまで約90分。足の調子のわりにはかなり早いペースだったと言えるだろう。
ただ、下山するときのほうがよけいな力がかかるため、足を痛めやすいことはわかっている。
そう考えるとあんまりのんびりしているわけにもいかないのだ。20分ほど景色を存分に堪能すると、下山を始める。
この高い山のてっぺんで絶景を独り占めするというのは、なかなか気持ちのいい体験だった。


登るときに背を向けていた景色が、下りるときには目に飛び込んでくる。

開聞岳山頂からの下山は、想像していたよりもかなりキツかった。岩場は足元が安定しているからまだいいが、
土や礫の部分では靴底が滑り、膝や足首に無理な力がかかる。下りていけばいくほど下りづらくなっていく感覚だ。
また、これから山頂に向けて登っていく人たちと何度もすれ違った。山頂でお昼を食べるのが標準的な行動なのだろう。
平日の午前中だが、だいたい20人くらいの人と挨拶を交わした。男女比は半々で、ほぼ全員が50歳以上。
シャカリキに登ることはせず、ゆっくり確実に山頂を目指す。それが正しい登山だよなあ、と思いつつ下るのであった。
足の調子はまったく良くなく、登りのときと同じようにカロリーメイト休憩を挟みつつ下っていく。
結局、登りとほぼ同じ時間をかけて2合目登山口に出た。枕崎行きの列車が来るまで残り1時間ほどということで、
当初想定していたほどの余裕はない。それでも山麓にある「かいもん山麓ふれあい公園」の管理事務所で、
開聞岳登頂記念バッジを売っていたので買ってみた。いずれ実家に帰ったときに、circo氏に見せびらかすとしよう。

枚聞神社方面にちょっと戻ったところにコンビニがあったので、そこで飲み物を買って一服。
「ヨーグルッペ」という乳酸菌飲料をいただく。昨夜は同じ南日本酪農協同株式会社製の「デーリィ牛乳」も飲んだ。
僕は旅先で地元ならではの乳製品を見かけると、ついつい買わずにはいられないのである。
味の違いがわかるほど繊細な舌を持っているわけではないのだが、旅してるぜ!ってな気分になれるわけで。

 
L: 昼近くになったせいか、トカラヤギはまるで別の動物のように、すっかりおとなしくなっていた。
R: 開聞駅のホーム。朝イチで真っ暗な中、こんなところに降り立ったら、そりゃあ途方に暮れるしかないさ。

12時過ぎに開聞駅を出た列車は、一路西へと向かう。乗客は学生を中心にけっこう多い。
そして13時少し前に枕崎駅に到着した。JR最南端・指宿枕崎線の終着駅である。

  
L: 枕崎駅のホーム。噂には聞いていたが本当に、ホームがあるだけなのであった。
C: 列車を降りるとこのような光景。奥に見えるスーパーが、かつての枕崎駅の駅舎があった場所だと。
R: 現在の枕崎駅の入口は、このようにあまりにも貧相すぎる状態である。完全に路地裏やん!

枕崎駅が現在の姿になったのは2006年のこと。もともと枕崎駅は国鉄ではなく鹿児島交通の駅だったそうで、
その駅舎の土地がスーパーに売却されたことでホームが100m東に移ってそのまま無人駅となったのである。
僕は鉄っちゃんではないが、さすがにこの強烈な最果て感にはシビレる。ここまで来ちまったか、と思わずにはいられない。

 駅舎はなくなってもバスターミナルとして活躍中のロータリー。

バスが交通の中心となっている風景、そして潮風をうっすらと感じるところが、なんとなく土佐清水市に似ているように思う。
土佐清水のバスセンターは足摺岬行きのバスの中から眺めただけだったが(→2007.10.7)、雰囲気はかなり近い。
しかし何よりここが枕崎であることを強烈に印象づけているのは、鰹の香りである。
枕崎駅のバスターミナルの辺りを歩いていたら、鰹の香りがする。すげえな枕崎、さすが鰹の街!と思ってさらに歩くと、
さらに香りは強くなる。決してオーバーではなく、本当に香りが街を包んでいる。でもなんで? どうして?と思っていたら、
駅のすぐ近くに鰹節の工場があったのだった。なるほどそりゃ確かに鰹の香りが思いっきり漂うはずである。
あとで街中を歩きまわってみたところ、わりとあちこちに鰹節の工場があった。やはり枕崎は鰹の街なのだ。

さて、駅からの道をまっすぐに西へ行くと、さっそく枕崎市役所のお出ましだ。
なかなか古い建物だが(潮風の影響で古びて見えるのかもしれないが)、肝心な玄関部分のみはリニューアルしてある。
鉄筋コンクリート公共施設が広まっていった初期の建物のように思える。形はなかなか独特である。
玄関から中に入ると枕崎の特産品を置いた小さなホールになっており、木製の押し戸で事務室へ。
いかにも「昭和」の匂いがする建物である。この雰囲気は、21世紀に入った今、軽々しくなくしてほしくないものだと思う。

  
L: 枕崎市役所。交通量が少なかったので非常に撮影がしやすかった。市役所通りにはいくつも現代アートが並んでいた。
C: 正面玄関部分は最近リニューアルされたようで、妙にここだけきれい。手前のマカロニ状のものはアート作品。
R: 奥には1階分高くなっている部分もある。対称性をまったく考えていないデザインはけっこう独特では。

 木製の押し戸。実に昭和である。

撮影を終えるとそのまま西へと歩く。なだらかな高低差のある、のんびりとした街並みだ。
いいかげん、昼メシを食いたい。枕崎港を目指し、国道225号にぶつかったところで南に針路を変える。
するとすぐに枕崎港沿いの広い道に出た。東側は漁船が停泊しているエリア。西を向くと観光客向けの施設がチラホラ。

開聞岳で痛めた足を引きずりフラフラ歩いていくと、まずは南薩地域地場産業センター。さらに行くと、枕崎お魚センター。
前者はちょっと薄暗い公共施設風。枕崎市に限らず、南薩摩地域のお土産全般を扱っている。
後者はわりとしっかり観光客向け。平日昼間で客は少なかったが、いくつも小売店が入っていて品物も多い。
どっちも食堂もしくはレストランがあったのだが、地元の公務員やタクシー運転手が多かった前者の食堂に入ってみた。
そしたら「ぶえん鰹の刺身定食」の文字を発見。この「ぶえん鰹」というのが枕崎の特産品のようだ。食ってみるしかない。

定食を待つ間、もらっておいた各種パンフレットを眺めて、ぶえん鰹について調べてみる。でも今ひとつわからない。
後でネットで調べてみたら、「ぶえん」とは「無塩」のこと。塩漬けしないで食べられる、鮮度のいい魚ということのようだ。
一本釣りした鰹をそのまま船上で血抜きして(活〆)冷凍するため、生臭さがなくモチモチとした食感を楽しめるとか。
で、出てきた刺身はぱっと見、マグロのよう。でも食べてみると違って、ああこれが本来の鰹の味なのか、と思う。
噛んでみると、なるほど確かに歯ごたえがある。生臭さもない。山国育ちの素人にはふつうに新鮮な赤身という印象だ。
定食にはほかにも鰹に関連したさまざまな小鉢がついてきて、なかなか贅沢な時間なのであった。

足は痛いが時間的な余裕はそこそこある、ということで、観光案内の地図に載っていた名所を目指してみることにした。
枕崎には立神岩(たてがみいわ)という変わった形の岩があり、その対岸の近辺は火之神公園として整備されている。
腕時計で帰りの列車の時刻を気にしつつ、ダメもとで近づけるところまで近づいてみるのである。
橋を渡って消防署を目印に左折、花渡川(けどがわ)の河口に沿って南へと向かう。そしてひたすら歩く。
やっぱり観光地図では、人口密度の低い地域は縮尺が小さく変化するようで、距離のわりに時間がどんどん経っていく。
あらかじめ引き返すように決めておいた時間になったとき、ちょうど公園手前のカーブのところに到着。
火之神公園に行くのはあきらめて、そこから立神岩を撮影して戻るのであった。仕方ないとはいえ、けっこう悔しい。

  
L: 枕崎市観光協会名物「かつおのぼり」。土産物屋でも売っていた。さすがである。
C: ぶえん鰹の刺身。「生臭さがなくモチモチとした食感」の宣伝文句に偽りなし。おいしゅうございました。
R: 写真の左側にあるのが立神岩。何もない海にいきなりピョコンと立っているわけで、不思議なものである。

帰りはのんびり枕崎の街を歩いて駅まで戻る。国道226号をブラブラ行くが、見ていると焼酎の宣伝が目立つ。
よく飲み屋の看板には、下のところにビールや日本酒の銘柄が小さく書かれているが、それがほとんど焼酎なのだ。
コンビニに入ってみても、酒を置いてあるコーナーでは焼酎の割合が圧倒的に高い。一升瓶まで置いてある。
なるほどこれが鹿児島、これが薩摩半島ってことなのか、と思うのであった。

駅前ロータリーに戻ってから飲み物でも買おうかとスーパーに入ったのだが、なかなかの繁盛ぶり。
レジに並んでいる間に列車が発車してしまってはシャレにならないので、向かいのドラッグストアで買い物をした。
枕崎駅に停車している列車には乗客がすでにいくらか乗り込んでいた。クロスシートに腰かけてボーッとしていると発車。
指宿枕崎線は海岸よりも少し奥まったところを走るため、海がいつも見えるわけではないのだが、
それでも畑がゆったりと低くなっていって海へと続いている光景がチラチラ見えて、なかなか特徴的だった。

列車はだんだんとさっき登った開聞岳へと近づいていく。シャッターチャンスを狙ってデジカメを構えるが、
思うようにきれいな写真が撮れない。そうこうしている間に開聞駅を越えてしまったので、反対側のシートに座り直す。
そして列車は、JR(そして鉄道の)最南端の駅である西大山駅で停車。粋なもので、少し長めの停車時間がとられる。
同じ車両に乗っていた鉄っちゃんは必死でホームにある「最南端」の案内板をカメラに収めるが、
僕としては反対側にそびえる開聞岳の美しさに夢中。そして道を挟んで菜の花畑が広がっており、実にフォトジェニック。
ろくすっぽ開かない窓からデジカメを出し、あれこれ撮影を試みているうちに列車は動き出した。
(最南端ってことにはあまり興味がなかったとはいえ、いずれ最北端の稚内駅を目指すことになるかもしれない……。)

 JR(鉄道)最南端・西大山駅より眺める開聞岳。

やがて夕暮れの中、列車は本日最後の目的地・指宿駅に到着した。
駅から海へとまっすぐに伸びるアーケード商店街は泣けてくるほどのさびれ具合なのであった。
県道238号に出ると右折して南下。足を引きずりながらひたすら歩いていく。
もういいかげんにしてくれーと延々と歩いたところでようやく摺ヶ浜に到着。砂むし温泉施設に入る。

砂むしというのは、素っ裸に浴衣だけを着た状態で寝転がり、上から係の人に砂をかけてもらい埋まって温まるものだ。
これは地下の温泉が海岸に出てくることで可能になっているそうで、地面はスコップで掘ったそばから湯気があがる。
頭にタオルを巻いた客が二列で規則正しくズラーッと並ぶ光景は、ひどく不自然でなんだか滑稽な気がしないでもない。
(それこそ墓地のアナロジーのようにも思えたし、宇宙船のクルーが眠っている冷凍カプセルのようにも思えた。)
慣れたもので、寝る場所には体勢に無理がないように絶妙の凹凸がつくられていた。僕もさっそく挑戦してみる。
手際よく砂がかけられ、それとともにギュッと重みが体に加えられていく。生き埋め感覚になるのは、ちょっと怖い。
さほど量がかけられたようには思えないのだが、しっかりと重い。風呂の水とは比べ物にならない圧力だ。
じっとしていると、まず手足の指から温まってくる。圧力のせいもあり、血液の循環が体感できる。そして熱は全身を覆う。
温泉の持つ熱が、ぎゅっと凝縮された感じで自分の体に迫ってきているのがわかる。これは独特な体験だ。

 記念撮影。砂むしというか、ぬりかべ?

しばらくするとじんわりと汗が出てくる。10分程度でいいものらしいが、長風呂の僕は30分近く砂むしをしていたようだ。
もういいや、と思って立ち上がったら周りに誰もいなくなっていて、なんだか恥ずかしいのであった。
授業中居眠りをしたまま休み時間も寝っこけ、次にその教室を使うクラスの生徒に起こされた伝説の先輩を思い出した。

夜の上りの指宿枕崎線は本数が少ないので、非常にのんびりゆったりしながら支度をととのえて帰る。
指宿駅に着いてもまだ余裕があったので、置いてあったパンフレットで今後のための情報収集などをして過ごす。

鹿児島中央駅に着いたのが21時過ぎ。砂むしをしたとはいえ足が壊滅的な状況なのは相変わらずなので、
路面電車で天文館まで戻る。そして本日の晩メシには鹿児島ラーメンをいただくことにする。
鹿児島ラーメンというのもなかなか微妙なもので、定義できるほどにはまとまっていないようなのだ。
しょうがないので観光客向けの冊子にあった店の中から、それほど高くなく歩かなくて済む店を探して入った。
天文館の南西側は夜になり活気が出ていて、客引きのおにーさんもおねーさんもとっても元気なのが印象的だった。
(「お兄さん、おっぱい好きですかー?」と声をかけてくる。違う、嫌いとかそんなんじゃなくて、好きだよ、好きだけど……。)

さて、鹿児島を歩きまわって気づいた鹿児島弁の特徴。イントネーションが共通語とはとにかく違う。
音が濁ることがまったくないので東北弁とは異なるのだが、イントネーションが徹底的に異なる点は共通しているように思う。
どの年代でもみんながみんなイントネーションの異なるしゃべり方をしているので、
地元住民のふりをして歩いていても、ほんの少ししゃべっただけでよそ者だとわかってしまうだろう。
若年層はイントネーションが違うだけだが、早口な中高年層になるとところどころ聞き取れない箇所が出てくる感じである。

最後に、鹿児島の女性について。けっこう特徴的な彫りの深さの人が多いように思う。
その辺はさすが南方系に近いというか、平均的な日本人よりは凹凸にメリハリのある人が多いような気がした。
そして私は悟ってしまった。鹿児島の女性の多くは、小西真奈美(鹿児島県出身)を頂点とした減点法なのである。
(これは酷い書き方だなあと自分でも思うのだが、絶妙な表現だと思うのでそのままいきますスイマセン。)
小西真奈美系統の顔つきをした女性が本当に多いのである。そこに気がついてしまうと、
あとはいかに小西真奈美から離れていってしまうか、という目で見てしまうのだスイマセン。
もちろんそうでない女性もいるのだが、小西系比率が尋常でなく高いのは間違いないのである。これには本当に驚いた。


2009.1.6 (Tue.)

ユーラシア旅行構想を断念したが(→2008.11.30)、旅行熱はそう簡単に冷めるもんじゃない。
しかしながら今は1月。正直な話、寒い季節というのは旅行してもそれほど楽しいものではないのである。
やはりそれぞれの土地の魅力を存分に味わうには、冬というのはなかなか難しい季節なのだ。
でも旅行には行きたいのである。単調な日常生活から離れ、どこかへと出かけたいのである。
で、無い知恵をしぼって出た結論は、「九州ならあったかいんじゃねーの!?」というお粗末なものなのであった。

すでに県庁所在地めぐりで九州の半分は訪れている(→2008.4.252008.4.262008.4.272008.4.28)。
今回はその残り半分である九州東海岸の3県、鹿児島・宮崎・大分にチャレンジすることにした。
さすがに南九州は遠いので、深夜バスで突撃じゃー!というわけにはいかない。
そんなわけで今回は行きも帰りも飛行機を使うことになるのであった。沖縄以来の贅沢な旅行である。
でも九州到着後の移動は基本的に青春18きっぷなのである。抑えるところは抑えなきゃいかんのだ。

朝の5時半前に電車に飛び乗り、羽田空港を目指す。着いたら6時過ぎ。まだまだ空は暗いままだ。
弁当とパンとお茶を買い込んで保安検査場をくぐる。今回はカンペキだぜ、と思って通るが音が鳴って止められる。
財布も鍵もiPodもすべて取り出していたのになんで?と大いにうろたえるが、実は腕時計をはずし忘れていたのであった。
いつまで経ってもこればっかりは慣れないものである。お恥ずかしい。

仕事の関係で朝の早さにはそれなりに耐性ができているのだが、のん気な旅行と働いて動きまわるのとではワケが違う。
なんとなく寝ぼけた気分を引きずって席に着く。程なくして飛行機は滑走路を走り出し、ジェットの加速で浮き上がる。
東京湾は朝焼けに照らされだしたところで、離陸の際に飛行機が大きなカーブを描いたことで関東平野が一望できた。
僕はいつも、この光景をデジカメで撮影できないことが悔しくなる。日ごろ馴染んだ身体的なスケール感から、
地図に描かれた世界のスケール感への変化。目の前に広がる大地は、確かに脈を打つように動いている。
いわば「生きている地図」がそこにはあるのだ。それを克明に記録することができないもどかしさが、どうにも悔しいのだ。
……なーんてカッコイイことを考えていても腹は減る。弁当を開けてキャビンアテンダントさんからジュースをもらい、
iPodでのんびりと音楽を聴きながら過ごすことにする。なんせ再び地面を踏んだ瞬間から、激しい運動が始まるのだから。

1時間ちょっとして、飛行機は高度を落とす。足摺岬の上空から、地上の動きがはっきりとわかる高さで九州へと入る。
ここからがけっこう長く、飛行機はまるで九州の山地と人里の様子を乗客に見せつけるかのように飛び続ける。
そして気がついたらフェンスで囲まれたアスファルトの地面が現れ、飛行機はゆっくりと着陸した。鹿児島空港に到着だ。

 「鹿児島はアツアツなの(ハート)」。そうですか。

空港に着いてモタモタしているヒマはない。一刻も早く鹿児島市街に入らないと時間がもったいない。
急いで外に出ると、乗車券を買って鹿児島市街行きのバスに乗り込む。9時発で、所要時間は1時間弱。
それでもさすがに、インフォメーションコーナーに置いてあった鹿児島県の離島の各パンフレットを取ることは忘れない。
いつか行ってみたいものだなあ、なんて思いつつあれこれ眺めているうちに、バスは九州自動車道へと入った。

薩摩吉田ICを下りたバスは、鹿児島市の郊外を走る。まっすぐ南下して国道10号に入り、そのまま市街地へ。
鹿児島医療センターの脇を通る。あの私学校跡で、今も石垣が残っている。よく見ると西南戦争時の弾痕もある。
そしてバスは路面電車の軌道に沿って走り、そのまま天文館を抜けて終点の鹿児島中央駅前のターミナルに到着した。
重い荷物を背負って横断歩道を渡り、鹿児島中央駅へと向かう。まずはコインロッカーに荷物を預け、
観光案内所で地図をもらわないといけない。実は1日目の今日の予定は、まだまとまっていないのである。
地図やらパンフレットを参考にして、早いところスケジュールを組まないともったいない、という状況なのだ。

 左側の茶色が鹿児島中央駅。右側は商業施設のアミュプラザ鹿児島。

鹿児島市では「カゴシマシティビュー一日乗車券」が非常にお得である。
これ1枚(600円)で市バス・巡回観光バスのカゴシマシティビュー・路面電車が乗り放題になるのだ。
しかも市内観光施設や桜島フェリーの割引券もついてくる。ここまで使える一日乗車券もなかなかない。
面白いことにスクラッチ式になっていて、コインなどで利用日の部分の銀色をはがす仕組みになっている。
まずはこれで路面電車に乗り、鹿児島市役所を撮影することにした。市役所前の電停で降りると、いざ撮影。

  
L: 鹿児島市役所本館。1937年竣工で、みなと大通り公園の奥に位置する形になっている。威風堂々としていますな。
C: 正面玄関付近を撮影。松の内ということで、正月飾りが目立っているのであった。
R: 本館の南側には別館(奥)と東別館(手前)。覚悟のうえで分散させて、本館を意地で残しているのがよくわかる。

 
L: 市役所別館は無難な本体とは対照的に、ひときわ高い窓の部分でなかなか独特なデザインが施されていた。
R: こちらは夕方になって眺めた市役所本館の裏側。こっちはけっこう無骨になっている。

さて鹿児島市役所を撮り終えると、そのままみなと大通りをまっすぐ進んで鹿児島港まで出てしまう。
せっかく鹿児島まで来たんだから、桜島まで行ってみようじゃないか!ということでフェリーに乗るのだ。
鹿児島港と桜島港を15分で結ぶ桜島フェリーだが、なんとこれ、24時間運航なのである。
つまりはそれだけ鹿児島と桜島の関係は深いということなのだ(平成の大合併で桜島は鹿児島市に編入)。
さっそく乗り場に行き、船を待つ。フェリーはひっきりなしに動いていて、まるでお手玉のようだ。
1隻が出発したらもう1隻が即座に入港し、次のフェリーが到着するタイミングで出航。実にムダがない。
船上から眺める桜島はやや霞んでいたが、それにしても大きい。
桜島が鹿児島市民の原風景として絶対的な存在であろうことがうかがえる。

 こんな大きな山が海のすぐ向こうにあるってのは、本当にすごいインパクトだ。

ポヤ~ンと口を開けて山を見ていたら、いつの間にか桜島港に到着である。
桜島の観光スポットはいくつかあるが、その中で僕が最も気になったのが、地上373mの湯之平展望所である。
錦江湾(鹿児島湾)対岸に広がる鹿児島市街をいっちょ眺めてやろうじゃないかということなのだ。
そんなわけで、フェリーの改札(鹿児島側にはなく、乗客は桜島側で料金を払う仕組み)を抜けると、
桜島を一周する道路を北へと走り出す。はじめのうちは快調で、山へと入る地点にある小学校を楽々クリア。
勢いよく上り坂を長距離走の要領で上っていくのであった。……この時点では後で地獄が待っているとも知らずに。

だいたい観光案内所にある地図ってのは、決して正確なものではない。
市街地は大きく(縮尺を大きく)、辺境は小さく(縮尺を小さく)デフォルメしているものだ。
もちろん標高に気をつかっているものなんてないに等しい。というわけで、この行程は予想をはるかに超えるキツさだった。
進んでも進んでも同じような風景。車が通ることしか考慮していない大雑把な道と、ワイヤーで仕切られた緑のみ。
地図ではほとんどまっすぐなはずな道も、実際に歩いてみるとグネグネと曲がっていて、距離の感覚がつかめない。
泣きたくなるほどに、分け入っても分け入っても深い山を切り開いたアスファルト、なのである。
汗でぐちゃぐちゃになりながら足を動かしていくと、行く先に「湯之平展望所 2.3km」という案内板が見えた。
もういいかげん着くだろうと信じていたら、まだ半分。本気で膝から崩れ落ちそうになった。
アウト・イン・アウトでできるだけショートカットしながら歩くという涙ぐましい努力を続けること1時間、ようやく到着。

  
L: 湯之平展望所へと向かう道。まるでひと気のない高原を歩いている気分だった。人間の歩く道じゃないですわ、これ。
C: ようやくたどり着いた湯之平展望所。実は御岳の4合目に位置しているとのこと。徒歩で行くのは絶対に薦めません。
R: それでもやっぱり、目の前の火山は絶景である。引き込まれそうな山肌、そして南岳からは噴煙が上がる。

展望所のすぐ東側には御岳の雄姿があり、西側を向けば青い海越しに鹿児島市街が広がっているのが見える。
手前にはさっきまでその真っただ中を歩いていた緑。旅行に来ていることをしっかりと実感できる、見事な風景だ。
展望所には桜島についての解説の展示があった。それによると、錦江湾の北部は丸ごとカルデラであり(姶良カルデラ)、
桜島はその南端にぽっこりとできた火山だというのだ。阿蘇(→2008.4.29)もそうだが、九州ってのは豪快な場所だ。

それにしても、西の海を見ても絶景、東の山を見ても絶景。これはなかなか味わえない贅沢である。
しばらく展望所をぐるぐる歩いて両方の景色を堪能すると、深呼吸をひとつして山を下りる決意を固める。
来た道をそのまま戻るのは卒倒するほど退屈な苦行でしかないので、桜島の南側へと抜ける道を行くことにした。
(まあどうせ山の中にいるうちは、行きとほとんど変わらない景色が続くことはわかりきっているのだが……。)
山を下りて国道224号に出れば、海沿いの遊歩道でフェリーのターミナルまで帰ることになる。
時間はかかるが、桜島を味わうにはそっちの方がいいだろうという判断である。

で、案の定帰りもキツい道が続いた。下りなのでスピードは出るが、調子に乗ると足を痛めてしまう。
一歩踏み出すたびに自分の体重が膝や足首にかかることになるわけで、考えようによっては上りよりもつらいのだ。
そういうわけで足の調子を見ながら走りと歩きを織り交ぜて下っていくことに。
こちらの南側の道には歩道がつくられ、カンツバキ(サザンカかも)が植えられていた。
僕が近くを走るとその中から驚いてメジロが飛び出す。それをひたすら繰り返しているうちに、どうにか人里に出た。

 桜島のお墓は火山灰対策のために屋根がある。

桜島には「溶岩なぎさ遊歩道」があり、それでフェリーターミナルまで戻る。
ゴツゴツとした黒い溶岩の間からは松だけが生い茂っていて、荒涼とした光景ばかりが広がる。
前にHQSの同期で訪れた鬼押出し(→2007.5.4)を思い出しつつ歩くが、一向に進んでいる気がしない。
それでもしばらく行くと海に出た。対岸の様子を眺めつつ、できる限りの早足で歩くのであった。

  
L: 涸れ川。噴火時に土石流を流すためだろうか。なんだか日本にいる気がしない光景だった。
C: 広大な大正溶岩の上を覆っている松。そして奥の南岳からは噴煙が上がっているのが見える。
R: 溶岩がそのまま海岸となっているところを遊歩道は通っている。

桜島フェリーターミナルに戻ったのが13時半過ぎ。鹿児島市街に戻れるのは14時近くということで、
けっこう大きなロスとなってしまった。しかも足がけっこう痛くなってきている。湯之平展望所を甘く見すぎていたようだ。
桜島のコンビニで買っておいたパンを船内でかじりつつ、今後の計画を練る。
運の悪いことに鹿児島県庁は中心市街地から離れた場所にあるので、もうムチャはできない。
断腸の思いで旧島津家別邸・庭園である仙巌園(せんがんえん)をあきらめることにする。
仙巌園はバスで片道30分かかるうえに県庁とは完全に逆方向になるので、これは断念するしかないのだ。

鹿児島港に戻ると早足で路面電車の電停まで戻り、そのまま30分ほど郡元の電停まで揺られる。
そしてそこからまた歩き。もう本当に勘弁してくれよーと思うが、自業自得なのでしょうがない。
住宅街をしばらく行くと、突如、巨大な建物が並ぶ一角に入り込む。
そうして県道にぶちあたったところにそびえているのが、鹿児島県庁である。

  
L: 鹿児島県庁。左が議会庁舎で右が行政庁舎。  C: 議会庁舎をクローズアップ。
R: 行政庁舎をクローズアップ。さらに右に見えるのは「警察庁舎」。県警本部も鹿児島県庁の一部、という扱いの模様。

  
L: 行政庁舎を見上げてみた。  C: 裏手のオープンスペースから眺める行政庁舎。
R: 行政庁舎の18階はお約束の展望ロビーになっている。対岸の桜島が実に見事なのであった。

さっそく18階の展望ロビーに行ってみると、桜島が目の前にまるで壁のようにそびえている。
北側を向けば鹿児島中央駅など市街地も見ることができる(南側は展望レストランが占領していた)。
自販機のカップジュースを片手に一息つく。初日から全力で動きまくりで、ようやくじっくり休むことができた。


鹿児島県庁18階の展望ロビーより。左端には鹿児島中央駅・アミュプラザ鹿児島の観覧車が見える。

鹿児島県庁舎は1996年竣工で、設計は佐藤総合計画と鹿児島県建築設計監理事務所協同組合による。
行政庁舎の2階には県政情報センターがあり、そこで鹿児島県に関する各種資料を閲覧することができる。
そこには県庁舎の建設に関する資料がいくつか置いてあった。計画の基礎段階の資料もきちんと残されている。
なんで鹿児島県庁は市役所や市街地からこんなに離れた位置にあるんだろうと思って調べてみたら、
1973年の「鴨池海浜ニュータウン計画」が発端となっていることがわかった。
かつてこの土地は鹿児島空港があった場所で、1972年に空港が移転したことでニュータウン計画が出てきたようだ。
庁舎建設計画が本格化したのは1991年で、それまでは緑に覆われた公園「グリーンセンター」となっていたとのこと。
やっぱり建設の経緯を調べていく作業は面白い。久々に、論文を書いていた頃みたいに血が騒いでしまった。

移転した今の県庁舎を見たのであれば、移転する前の県庁舎についても見たくなるもの。
鹿児島市役所の西側には鹿児島地裁があり、その北にかごしま県民交流センターがある。
ここが、かつて鹿児島県庁舎があった場所なのだ。そしてその敷地の端には一部のみではあるものの、
旧鹿児島県庁舎が県政記念館として現在も残されているのである。というわけで、またも路面電車に乗って移動。

  
L: 県政記念館こと、旧鹿児島県庁舎本館の玄関部分。1925(大正14)年竣工で、設計は曽禰中條建築事務所。
C: 建物の中では歴代鹿児島県庁舎の紹介をしている。模型もあって、なかなか充実した内容と言えそうだ。
R: かごしま県民交流センター。旧県庁舎との対比は、新旧の誇らしげな公共施設の対比ってことなのかもしれない。

現役時代には真ん中の写真のようになっており、さらにその向かって左側には議会棟が並置されていた。
今の県政記念館としての姿は、玄関の部分だけをトリミングしたものなので、正直なんとも滑稽になってしまっているが、
それでも残しているだけマシなのもまた事実である。空間の記憶を残す努力はきちんと評価しないといけないのだ。

このかごしま県民交流センターの国道10号を挟んだ真向かいが、国立病院機構鹿児島医療センターだ。
上記のように、西南戦争の直接的な原因となった私学校の跡地である。当時の戦闘がどんなものだったのか、
部外者であるうえに鈍い僕には想像がつかない。今はただ、静かに夕暮れの中でたたずんでいるのみだった。
そして私学校跡の隣にあるのが、鹿児島城(鶴丸城)址である。天守などはなく、館造りだったとのこと。
本丸跡には鹿児島県歴史資料センター黎明館が建てられている。野良猫が何匹か闊歩していたのが印象的だった。

  
L: 鹿児島医療センターに残る私学校の石垣。  C: このように、生々しい弾痕もそのまま残っている。
R: 鹿児島城址・大手門跡。あの島津家の城なのにものすごく簡素。簡素にすることで幕府に恭順する意を示したとか。

城山を登る体力はもはやなく、国道10号を照国神社方面に向かって歩いていく。
途中の中央公民館前には西郷隆盛像がある。東京・上野公園の西郷さんも有名だが、こちらは軍服姿。
そしてこの一帯には近代建築がチラホラと残っていて、見ているだけでも面白い。
かつて日本を動かした人材を多く輩出した鹿児島という街の底力に触れた、そんな気がする。

  
L: 軍服姿の西郷隆盛像。  C: 島津斉彬を祀った照国神社。その偉業を讃えたものであるという鳥居はとにかくデカい。
R: 鹿児島ではこのようなダイダイを吊るした正月飾りをありとあらゆる場所で見かけた。

  
L: 中央公民館。辰野金吾設計で、1927年の竣工当時は鹿児島市公会堂だったそうな。今も現役。
C: 県立博物館本館。1927年に九州初の鉄筋コンクリート造の中央図書館として建てられたとのこと。
R: 県立博物館の考古資料館。1883(明治16)年に県立興業館として竣工。いやー、これはすごい。

それにしてもWikipediaってのは便利だなあ(上記の説明の大部分はWikipediaからの引用だす)。

照国神社にお参りすると、その近所が本日の宿ということでチェックインだけを済ます。
部屋に入ることなく手続きを済ませるとそのまま再び街へ繰り出すという変態ぶりを露呈したのであった。

さて鹿児島といえば天文館である。その名は島津重豪が天体観測や暦を研究する施設を建設したことに由来する。
南九州を代表する繁華街として知られている場所なのである。さっそくうろつきまわってみる。

 山形屋(やまかたや)鹿児島本店。1916年竣工当時の外壁に復元。

実際に歩いてみると、それほど大きい繁華街ではないのではないか、という印象を受ける。
アーケードには幅がなく、距離もそれほど長くない。また、最近になって空洞化が進んだようで、空き店舗もみられる。
しかし重層的というか、入り組んだ印象があるのも確かで、雑然としたエネルギーも感じる。
なんというか、「天文館的なもの」のベクトルが外縁部からアーケードに向けて複雑に集中していて、
そういう微妙な力関係があちらこちらで表に出てきているというか、そんな独自性が漂っているように思える。
書いていて自分でもワケのわからん表現だが、つまりは鹿児島の誇りがあふれていると感じたってことなのだ。

  
L: 天文館本通り。立派だけど、距離が短い。  C: その真向かいには天文館G3入口。むしろ「狭さ」が人口密度を上げている印象。
R: 天文館G3アーケード内部の様子。やや空洞化を感じる。天文にちなんだ星座の飾りが施されていた。

晩メシには少し早い時間だったが腹が減ってしょうがない。フラフラしながら天文館を歩いていたら、
鹿児島名物「白熊」の文字を発見。そうだった、鹿児島に来たからには白熊を食べないといけなかった。
確かけっこう前に、リョーシ氏から鹿児島で白熊を食べたって話を聞いたっけ。となれば、すぐにトライである。

白熊とは、練乳をかけたかき氷にさまざまなフルーツ・寒天・豆などをトッピングしたり埋め込んだりしたものだ。
ただし練乳といってもベタベタに甘いものではなく、量が食べられるようにあっさりとした味付けになっている。
レギュラーサイズとベビーサイズがあったのだが、晩メシのことを考えて怖気づいてしまい、ベビーサイズを選択。
食ってみたら「こりゃあ際限なく食えるわ」ということで、レギュラーサイズにすべきだったなあと後悔するのであった。
まあでも白熊は夏本番の鹿児島でガッツリいただくのが正しい食し方なのだ、という気がする。
そう考えれば今回の旅行ではベビーサイズで抑えておいてヨシとするのである。いつかリベンジを果たそうじゃないか!

 白熊(ベビーサイズ)。かき氷とフルーツ等のバランスがよく、まったく飽きなかった。

18時近くになり、路面電車で鹿児島中央駅まで出る。アミュプラザ鹿児島でオヤジ向けの焼酎を注文する。
当方、焼酎の旨さというものがてんでわからないので、店の人にいろいろと聞いてみることにした。
オヤジとしてはいかにもお土産用のものよりは地元の人が飲むものがいい、とのことだったが、
鹿児島県人は全国どこでも買えるブランドで満足しているそうで、そうなると困ってしまう。
結局、鹿児島限定の銘柄をいくつか紹介してもらい、その中からコストパフォーマンスが良いというものを2つ選んだ。

駅で預けておいた荷物を取り出すと、そのまま近くのトンカツ屋に入る。鹿児島産の黒豚を食わねば!というわけである。
で、鹿児島の黒豚トンカツはなんというか、日本人好みの味だなあと思った。食べてみてもそんなに脂が目立たないのだ。
トンカツだからもちろん脂身も重要な要素なのだが、口の中がギトギトすることなく、非常に食べやすい。
そんでもって肉質が柔らかい。なるほど確かにうまいや、と思っている間にペロリ。大変おいしくいただいたのであった。

 鹿児島黒豚、おいしゅうございました。

明日は朝早いし、足の疲れもあるしで、早めに宿に戻る。
宿の風呂はそこそこ広くてきわめて清潔、ジェットバスを足の裏に当ててマッサージがわりにしたらこれが効くのなんの。
たまりませんなーとうなりながら旅行初日の夜は更けていくのであったことよ。


2009.1.5 (Mon.)

今日から本格的に世の中が動き出したわけであるが、こちとらさっそく来月の予定を立てるべくあちこちへ動く。
けっこういきなりのフルスロットルぶりで、自転車でそこらじゅうを走りまわったのであった。
で、今は休憩時間ということでカフェに入って日記を書いている真っ最中。
なんせ明日からは旅行なので、今のうちに書ける分を書いておかないと後で大変なことになるのだ。
しかしまあ、今年は最初っからいつもの僕らしい感じ満載である。そんなに劇的に変わるもんじゃないってことなのだ。


2009.1.4 (Sun.)

『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』。マサルとのアキバ初めの際にこのDVDを購入したのだが、
70%割引になっていたところでカードのポイントを使ったため、実際の出費は0円。新年早々すばらしい買い物だった。

僕はTVシリーズ放送当時から『木更津キャッツアイ』の大ファンで、DVDもすでにBOXで持っている(→2004.1.23)。
映画化された前作『木更津キャッツアイ 日本シリーズ』(→2004.5.16)もDVDを購入し、すでに見ている。
しかしながら『日本シリーズ』はクドカンのまとまらなさが前面に出ていて、それほど面白いデキではなかった。
個人的な評価としては、ファンなら耐えられるがそうでなければけっこうキツいんじゃないかなあ、という感じである。
だから『ワールドシリーズ』についてもそんなに期待することなく、気楽な気分で再生してみた。

「ワールドシリーズ」ということで、序盤から韓国だしその後ロシアだしで、クドカンらしいめちゃくちゃさが満載。
バンビは市役所勤め、アニは秋葉原でフラフラし、マスターは店をたたんで大阪でたこ焼屋の屋台を引いている。
キャストもまたズルい。市長が高田純次とか、もうどうすりゃいいんだ(でも幸か不幸か羽目をはずす場面はない)。
あまりのめちゃくちゃさに呆れながら見る。相変わらずのスピーディすぎる演出も炸裂して、圧倒されるばかりだった。
しかしその反面、恐ろしいほどきっちりと話は組み立てられている。表面のめちゃくちゃと裏での伏線の対比がすさまじい。
やがて『フィールド・オヴ・ドリームス』を下敷きにしてぶっさんがオジーとともに復活を果たす。
そしてうっちーが持ち込んだトラブルから自衛隊の女子チームと野球で対戦をすることになる。

さて結論。この話は結果として、恐るべき完成度というかすさまじい完成度というか、完全無欠の作品に仕上がっている。
TVシリーズで視聴者の度肝を大いに抜いた伏線の散りばめ方と回収の仕方の鮮やかさが見事に復活している。
しかもそれだけではない。今作では、復活したぶっさんを他者として扱い(それでその分、バンビが主役に近くなる)、
キャッツのメンバーたちが成長していこうとする姿を残酷なくらい真剣に描き出しているのだ。
死んでしまったぶっさんの時間は止まっている。しかし生きている人間たちの時間は意識せずとも動いている。
ぶっさんと別れて以来、一歩も前に進むことができていないキャッツのメンバーはぶっさんに会おうとする。
しかし会ってみたら、ぶっさんは過去の存在でしかなかった。自分たちもひっくるめての、過去の象徴でしかなかった。
「ぶっさんに会ってきちんと『サヨナラ』を言いたい」という思いは、そのまま過去の自分たちに「サヨナラ」を言うことへと変わる。
この作品はただのお祭り騒ぎから、極めて自然に、モラトリアムへの決別を描いたものへとその姿を変える。
(たとえば、うっちーがまともなしゃべり方で通すようになっている点ひとつをとっても、そのテーマ性が徹底されている。)
作中でぶっさんの姿を見ることができないのは父親の公助のみだ。それはすでにきちんと「サヨナラ」を言ってしまったからだ。
オジーは大観衆の前でホームランを放つことで「サヨナラ」を告げる。そしてそのまま消えてしまう。
ぶっさん(=過去)も、変化を受け入れたキャッツの面々から「サヨナラ」を告げられる。
今作のぶっさんは、その役割を果たし、消える。
全力のやりたい放題で始まって、それぞれの登場人物の成長を描ききって終わる。
これだけのことができるというのは、奇跡としか思えない。それくらいの快挙だ。

30歳を過ぎてあれこれ迷っている自分にとって、この作品の存在は非常に「痛い」。
僕は自分の周りにいる、何の疑問も持たずに成長できる人たちがいまだに不思議に思えてならないのだが、
(もちろん誰しも葛藤があるに決まっているが、そういう面をあまり外に出すことなくオトナとして振る舞えるのが不思議だ)
その辺のことを(好むと好まざると)ちまちまと言語化しながら人生と格闘していくことを今後試みていくうえで、
ひとつの偉大なマイルストーンを見たように思う。どれだけ賛辞を贈っても足りないくらいにすばらしい作品だ。


2009.1.3 (Sat.)

本日マサルは大宮の鉄道博物館でキハキハモハモハしているそうで。こっちは朝から昼まで働くのである。
働いた後はメシ食って日記書いてライスボウルでも見るべ、と思っていたのに気がついたら寝ていた。がっくり。

それはさておき、ぼちぼち旅行に向けて準備を始めないと。いい天気になりますよーに。


2009.1.2 (Fri.)

「マツシマくん、せっかく正月に東京にいるわけだから、東京じゃないとできないことをしませんか」「おう」
というわけで、昨日に引き続き1月2日もマサルと一緒に街へ繰り出すことになるのであった。
「マツシマくん、僕はどうしても一般参賀に行って皇居で日の丸をワーッと振りたいんよ」「……わかったよ」
というわけで、まさかの一般参賀、天皇ご一家のお姿拝見である。まあ確かに、正月に東京にいなきゃできないことだが。

大手町駅の改札を抜けると「一般参賀 D2出口」と案内が出ており、スムーズに皇居へと行けるようになっていた。
地上に出るとけっこうな人数が皇居へ向かって歩いている真っ最中。
僕らも素直にその中に混じって歩いていたら、ボランティアの人たちが日の丸を配っていた。
「この中で一人だけ箱根駅伝の旗を振ったら面白いかなあ」なんて話をしつつ、旗を受け取りみんなと同じ方向へと歩く。

  
L: 手荷物検査の後はボディチェック。あちこちで丸の内署だか皇宮警察だか公安だかが目を光らせていて、緊迫感がある。
C: ハタ坊だじょ~。  R: 「歩く不敬罪」こと岩崎マサルが通りますよ! 皆さん気をつけて!

高速道路の入口みたいにしていくつかに分かれ、まずは手荷物検査である。続いてボディチェック。
「さすがに警備が厳しいね」「なにも天皇狙いじゃなくて、一般の参加者に対してテロを仕掛ける可能性もあるわけでな」
物騒な世の中になったもんだよなあ、なんて内心思いつつチェックを済ませて列に並ぶ。
すでに幅約5m、長さ50m以上の列がいくつもできていた。もはやここにどれだけの人がいるのか想像もつかないレベルだ。
並ぶ人の中には東京の地図を持った外国人の姿が頻繁に見られた。正月の東京観光では欠かせないコースなのか。
あとはまあ、見るからにカタギではないご職業の皆さんもけっこう多かったのが印象的だった。
そんな皆さんと一緒になって穏やかに列に並ぶ機会ってのは、一年を通してこのときしかあるまい。妙なもんだ。

 毎年こんなことをやってるんだねえ。

すばらしい晴天の中、しばらく待っていたら一番先頭の列が動き出した。やがて僕らも歩き出す。
そのうち行列の区分けはうやむやになり、軽く押し合いへし合いしながら皇居正門へ。
よく考えてみれば、皇居の中に入る機会なんてめったにないわけで、これは貴重なチャンスである。
歩きながら必死にデジカメであちこちを撮影して進んでいく。のんびり見るヒマがないのはやはり残念。

  
L: 皇居正門。人ごみがすげえー。  C: 二重橋と伏見櫓。  R: 橋の欄干にある明かり。ライオンの顔が彫られている。

正門を抜けると坂になっているカーブをぐるっと回って二重橋を渡る。そして会場である宮殿東庭に出るのだ。
さっきまで僕らの前にはとんでもない行列があったわけだが、なんだかんだでど真ん中に立つことができた。
この広場はいったいどれだけ広いんだ。スケール感が狂って、もう何がなんだかわからなくなってきた。

  
L: 二重橋を渡る。僕らの後ろにもとんでもない量の行列がまだまだ続いているのを見下ろして、ワケがわかんなくなってきた。
C: 皇居宮殿・長和殿。和風の建築でありながらモダンの香り。でもじっくり見ているヒマなんてない。とにかく幅がある建物だった。
R: 長和殿の中央バルコニー。さあいつでも来い! しかしまあ、この待ち時間もなんだか妙な感覚がしたなあ。

周りの皆さんはほとんどがリピーターのようだ。でも僕もマサルも一般参賀は初めてなので要領がよくわからない。
素直に周囲と同じようにおとなしく待っていたら、バルコニーの中でシャッター(簾?)が下から開いていく。
それと同時に視界にワッと白と赤が踊る。皇族の皆さんは登場すると横一列に並び、天皇のお言葉となるのであった。
そして皇族の皆さんはにこやかに手を振り、参加者はみんな再び必死で旗を振る。
「天皇陛下万歳!」という怒号にも近い声があちこちから飛んでくる。ものすごいエネルギーである。
やがて天皇を先頭に皇族の皆さんが退出。興奮状態は静まり、辺りには何とも言えない余韻が漂った。
その後すぐに、全員一斉に宮殿東庭から坂下門へと出ていく。下り坂の人ごみはけっこう危険だが、
特に問題もなく人の波は門から外へと流れていく。出て行った先では皇居グッズの出店が並んでいて大盛況。
一般参賀を一通り体験してみて、なるほどこういうものだったのか、といろいろ勉強になったのは確かである。
(℃-uteの握手会と比べるのはおかしいかもしれないが、やはり本質的に似た要素は確実にあるなーと思うのであった。)

  
L: 天皇ご一家登場に沸き立つ参加者。マサルはケータイを必死に掲げて撮影するのであった。
C: お言葉を述べる天皇と静かに立っている皇族の皆さん。これを一日に何回もやるわけで、本当にお疲れ様です。
R: 坂下門へと向かう人の波。「マツシマくん、『坂下門外の変』とかないの?」「お前が門を出て裸になったらそう呼ばれるわな」
(※坂下門外の変は1862(文久2)年に起きている。桜田門外の変と同じく水戸の浪士が老中・安藤信正を襲撃したが失敗。)

マサルは一般参賀の次の回にも参加する気があったようだが、僕としては「コンティニューしたくないです」ということで、
そのまままっすぐ地下鉄の駅に入り、昨日に引き続いて関東風の雑煮を求める旅に出るのであった。
地下鉄の中ではマサルが先ほど撮った画像を加工して即興の年賀メールをつくり、あちこちに送信。
ちなみにマサルは注文したおせち料理を12月31日に食って、1月3日に年賀状を書き、1月4日に大掃除をするそうだ。
そういう人間が正しい東京のお正月を求めて動きまわるというのは、かなり間違っているような気がするのだが。

 マサルが送った年賀メール。「御名御璽」とか、こういうことだけいらん知識のあるヤツだ。

雑煮を売ってそうな街はどこだ? 浅草だ! ということで、地下鉄を乗り継いで浅草に上陸。
予想どおりにめちゃくちゃな人出で、それだけでなんだかウンザリ。蕎麦屋や甘味屋を中心に探りを入れるが、
どこの店にも雑煮を売っている気配がない。警備に立っていたおじさんにマサルが尋ねると、
「そういうことは人力車のお兄ちゃんに聞くのが一番だ」とのこと。なるほど、そういうものなのか。参考になるなあ。
しかしながら人力車のお兄さんも雑煮についてはわからず。警備のおじさんは「これじゃもうあきらめるしかないね」と。
しょうがないのでいったんあきらめて昼メシにする。結局、浅草にはメシを食いに行っただけだったなあ。

「マツシマくん、もしかしたら秋葉原のメイド喫茶に置いてあるかもしれんよ!」
脳内のどの回路とどの回路がつながったらそういう発想が出てくるのか常人には理解しがたいが、
もうこうなったらとことんマサルの言うとおりに動く方がいいだろう。つくばエクスプレスで秋葉原に移動。アキバ初めである。
マサルの記憶や現地で配っているチラシを参考に、メイド喫茶をあちこちまわって雑煮がないか確認する。
新年からオレは何をやっているんだろう、なんて思わないでもないのだが、こうなったらとことん付き合うまでだ。

 
L: 途中、昌平小学校の隣にある芳林公園で一息つくマサル。お前はいつも楽しそうでいいよなあ。
R: てっぺんでポーズをとるマサル。この直後に発した言葉は、「(高くて)下りれん!」

「マツシマくん、巫女喫茶ならあるかもしれんよ!」
ということで最後の望みに賭けてみたのだが、結局全滅。新年の東京で関東風の雑煮を食べることはできなかった。
やっぱり雑煮は家庭の味ということで、基本的には店で出すものではないようだ。
この日記を見ている奇特な関東人でヒマな人は、ぜひマサルに関東風の雑煮を食わせてやってください。

その後は「猫カフェ」なるものに初挑戦してみる。前にバヒさんからその存在については聞いていたが、入るのは初めてだ。
人間にはモテないが猫にはモテる僕としては(→2008.2.22008.4.27)、ウニャウニャ寄ってくるのを期待したが、
猫カフェの猫たちは一見さんの相手をするのに完全に飽きていて、揃いも揃ってつれない態度なのであった。
「あいつらプロ根性がねえよ!」と言ったら、「マツシマくん、みんな所詮はケモノなんよ」とマサルに諭されたとさ。

 オレにもこんな具合に甘えてくれってばよう。

猫カフェを出ると、マサルはさっきもらったチラシの足踏みマッサージ店に興味津々で、どうしても行くといって聞かない。
金も意欲もない僕はのんびりとDVD売り場を見てまわることにして、とりあえず別行動。「踏みニケーションしてくるよ!」
しかし1時間後に合流したマサルはひどく虚しげな表情をしていたので、まあそんなもんだったか、と思うのであった。
で、晩飯にゴーゴーカレーを食って軽く人生相談モードになって、なんだかんだで解散。
それにしても、マサルと一緒に動くとコストパフォーマンスが悪いのがなんとも。


2009.1.1 (Thu.)

「マツシマくん、正月は実家に帰らないんですか」「おう」「……遊びませんか」「おう」
というわけで、元旦早々マサルと二人で街へ繰り出すことになるのであった。
「マツシマくん、せっかく正月に東京にいるわけだから、東京じゃないとできないことをしませんか」「おう」
というわけで、マサルの考える"東京の正月"を実践しようということになった。
「マツシマくん、やっぱり江戸の正月は寄席に行くべきだと思うんよね」「おう」
というわけで、朝からの仕事を終えると昼に新宿で落ち合い、そのまま末広亭へと向かうのであった。

マサルは何度か末広亭に落語を聴きに来ているはずなのだが、いまだにきちんと場所を覚えていない。
そんな地図の読めない男を、末広亭が初めての僕が先導して歩くというのがなんともである。
14時半開演の第二部に入るつもりで行ったが、着いたときにはすでになかなかの行列。
寒い中、最後尾について待っていると落語芸術協会の関係者の皆さんが福袋を2000円で売りに来る。
1/2の確率でタダ券が入っているということで、案の定マサルは購入。そして案の定ハズレ。
「もう、僕はいっつもこんなんばっかりや」と嘆くマサルを僕がなだめる、2009年も変わりばえのしない関係である。
行列は街区を「コ」の字に囲む長さになっている。これだけ混んでりゃ、絶対にいい席で観たい!という気も起きない。
のん気に中に入ったら、実に運良く2階席の最前列中央を陣取ることができた。ヘタな1階席よりはるかにいい。
「こいつは新年から縁起がいいやね」とマサルと二人してキャッキャキャッキャ喜んだとさ。

 
L: 新宿・末広亭。新年ということで立ち見が出るほどの盛況ぶり。  R: 中の様子はこんなん。まもなく開演。

素早く買い込んでおいた寿司弁当を食べているうちに第二部開始である。
若手が次から次へと間髪入れずに現れてはハケていく。持ち時間13秒とか、そんなムチャをするとは。
途中で気がついたのだが、新年ということでできるだけ多くの芸人を出演させる「顔見世公演」になっているのだ。
(歌舞伎の顔見世公演についての過去ログはこちらを参照(→2008.1.13)。多少は参考になるかも。)
それだけに古典落語をじっくりというわけにはいかず、全般的に軽めで浮き足立っている印象がした。
僕もマサルもその点はちょっと残念なのであった。古典でがっつりと色物でのんびりの対比がいいんだけどなあ。

とにかく質より量の内容だったのだが、気がついた点がいくつかあったので書き付けておく。
まず、客についてあれこれ言う芸人はあんまり面白くないな、と思った。
客に対してあれこれ言うヒマがあったら、さっさと自分の落語の世界に引き込んだ方がいい。
だいたい落語を聴きに来る客は、いじられに来るんじゃなくて演者の世界を味わいたくて来るに決まってんだから。
そしてもうひとつ、今回は春風亭昇太と桂米助を観ることができた。二人ともよくテレビに出てくる人だが、
やっぱり客を一気に惹きつけるのが抜群に上手い。問答無用でウワッと観客を自分の側に巻き込んでしまうのだ。
テレビに出る落語家については賛否両論があるのだろうけど、本質的なところとしてはやっぱり、
客を惹きつける技術に長けているからテレビに出続けることができるのだということは間違いないと思う。
落語家の重要な才能である「強制的に話を聴かせる力」の存在(具体的には、声と間のとり方)を考えさせられた。

第二部終了で多くの客が帰ってしまったが、マサルが第三部に出てくるバイオリン漫談をどうしても見たいと言うので、
第三部の中入りくらいまで残ることにした。2階席はもはやスカスカで、二人で一番奥の席に座って舞台を眺める。
二人で並んで有象無象の芸人たちを眺めていると、なんとなく『あらびき団』の藤井隆と東野幸治気分になってきた。
で、バイオリン漫談はマサルの勘が当たって面白かった。顔見世公演なので短めだったけど、もっと見たかったなあ。

5時間ほど寄席で楽しんだ後は、マサルにとって今年の正月最大の目標を達成すべく動く。
ふだん下関の実家で正月を過ごすマサルには、東京で正月を過ごすからにはぜひともやりたいことがあるというのだ。
「マツシマくん、僕はどうしても関東風の雑煮を食べたいんよ!」
というわけで、雑煮を出してくれる店を探して新宿東口界隈を右往左往。しかしこれが全然見つからない。
花園神社の境内に出店があるかもしれないということで行ってみたのだが、夜も遅くすでに店じまい。
しかも貼ってあったメニューに「雑煮」の文字はなく、今日はおとなしくあきらめることにした。参拝して神社を出る。
「マツシマくん、僕は今年こそエロいことまみれの毎日が過ごせるようにお祈りしたよ!」「もうそんな体力ないクセにー」
マサル苦笑いで何も言えず。

いいかげん腹が減っていたので、花園神社付近で飲み屋を探していたら、「アントニオ猪木酒場」という文字を発見。
マサルは前に池袋店に行ったことがあるそうで、こんな正月もいいじゃないか、と入ってみることにした。
入口で人数を告げるとゴングを鳴らして席へと案内される。広い店内のあらゆる装飾は徹底して猪木一色である。
「たった一人でこれだけもたせるってのはすごいことやね」とマサル。なるほど確かにそう考えると猪木は偉大だ。
メニューの名前も「ジャーマン・ポテト・スープレックス」「流血 場外乱闘」「メキシコの赤い悪魔」など完全にプロレス。
どの料理もけっこう量があり独自の味付けが施されていて、ふつうにいい居酒屋だね、などとマサルと話すのであった。

 
L: アントニオ猪木酒場。店内はすべてアントニオ猪木に関連するものばかり。ここまで徹底できるのがすごい。
R: アントニオスペシャルニンジンジュースを飲むマサル。2009年も相変わらずのテンションだ。

店内には「イノキボンバイエ」でおなじみの『炎のファイター ~INOKI BOM-BA-YE~』がエンドレスで流されている。
プロレスのテーマ曲でここまで(インストのくせに)人口に膾炙した曲がほかにあろうか。
これはもともとはモハメド=アリの伝記映画の曲だったそうだが、これをテーマ曲に採用した時点で"勝ち"だった気がする。
そしてモニターにはマサ斎藤との巌流島決戦や天龍源一郎との試合などのDVDが映し出されている。
面白かったのはグレート・ムタ戦の映像で、今の武藤敬司からは考えられないフサフサの雄姿を見て、
「これが今の全日社長だもんなー。あーでも確かに神奈月のモノマネ、動きの細かい部分がめちゃくちゃ似てるわー」
なんて具合にすっかりいい気分。去年から何ひとつ変わることのない、テキトーな新年なのであった。


diary 2008.12.

diary 2009

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