各校ひとりは必ず参加しなさいという水泳の研修があって、私に白羽の矢が立ったのであります。運動会の前日だぜ?
当然、本番に向けて学校全体が準備にめちゃくちゃ忙しいのである。こんなときにわざわざ研修を設定するんじゃねえよ!
学校じゅうの上から下までそう言って抵抗したのだが、結局私が人質として差し出されたのでありました。
仕事は仕事なんで素直に役目を果たそうと気持ちを切り替え、すいませんすいませんと各方面に謝ってから出発。
周りの皆様もよくわかってくれているので、ドンマイドンマイと送り出してくれたのが救いだわ。研修会場の学校はけっこう新しめ。あちこちきれいなのだが、その反面、設備がどうもチャチな印象である。
最近の建築はどんどんチャチになっているなあ、と思う。軽くて安価な素材はどうしても威厳が出ないのだ。
金沢の21世紀美術館(→2010.8.22)のような、「軽くて明るくて、そして安っぽい」建築ばっかりである。
しかしまあ、今度の区はお金持ちだなあ。前任校のヨタヨタな校舎のことを思うとなんだか泣けてくるわ。さて肝心の研修だが、内容が思いっきり小学生向け。ウチの区も狂った小中一貫教育を意識しているようで、
中学校の先生に対しても「小学校ではこんなことをやっています」を体験させるというものなのであった。
プールで体が冷えているからよかったが、そうでなかったら血管がブチ切れていたであろう内容だ。
小学校低学年の「鼻から息を出しましょう、ブクブクブクー」とか、やらされたんだぜ? 運動会の準備そっちのけで。
担当者がいたらマジでブン殴っていたかもしれん。前にいた区は腹が立つことがだいぶ多かったが、ここでもそうか。研修が終わって職場に電話を入れたら、準備はもう終わったよ、と。役に立てなくって申し訳なかったのだが、
僕がやった内容を聞いたら皆さん間違いなく「スケープゴートをありがとう」って言ってくれるんだろうなあ。
テレビでサッカー日本代表のブルガリア戦を見る。が、開始早々、ブレ球のFKでブルガリアが先制してしまう。
南アフリカW杯のときもそうだったが、川島はブレ球との相性が悪いのか、と思う。しょうがないかもしれないけどねえ……。この日の日本は3-4-3で、パスのまわり方がめちゃくちゃ凄い。いつものようなゆっくりとしている印象はなく、
アイデア満載の早いパスがテンポよくつながる面白さがあった。しかしチャンスを決めきれないままで前半が終了。
後半もすごく見応えのあるプレーが続いたのだが、70分に相手FKを長谷部がきれいにオウンゴールして0-2。
結局そのまま日本は敗れてしまったのであった。試合じたいは非常に面白かったので、結果はとっても残念である。
これほどパスのキレている試合はあんまり見たことがない。やればできるじゃん!って感じだったんだけどなあ。それしても、ブルガリアがしっかり強かった。ヨーロッパで揉まれているチームが存分に力を見せつけたって印象だ。
日本も強いチーム相手に鋭いパスをバンバン通して、魅力的なサッカーだったけどなあ。内容良くても負けると悔しいね。
運動会の予行で疲れた。もともとやり方に慣れていないところに、けっこうな炎天下で動いたのでヘロヘロだ。
僕は人一倍「要領がつかめるまでウドの大木」な人間なので、動きが悪くて申し訳ない。でもこれが精一杯。
完成形が想像できないと一歩も踏み出せない点は長年の僕の弱点で、これがどうしても改善できない。
まあこの予行のおかげである程度のカタチは見えてきたので、本番はがんばりますなのである。
日記のネタもないので、久々にやってみましょうか、iPod再生カウントランキング。
前回(→2005.9.30)から約8年、新たにiPodに入った曲もあれば、相変わらずヘヴィローテーションな曲もある。
パソコンが壊れた(→2009.8.20)関係で、実は再生回数もレートも一度まっさらになってしまったのだが、
このたび再生回数トップの曲が100回に到達したので、それを記念に僕の好みを公開してみようというわけ。
ではいってみよー。まずは1位から10位まで。1: Starry Sky/capsule album 『Sugarless GiRL』 (2007)
2: 流星とバラード/東京スカパラダイスオーケストラ single 『流星とバラード』 (2010)
3: 水琴窟 -SUIKINKUTSU-/東京スカパラダイスオーケストラ album 『Goldfingers』 (2010)
4: すばらしい日々/ユニコーン single 『すばらしい日々』 (1993)
5: シーズンサヨナラ/東京事変 album 『スポーツ』 (2010)
6: 5iVE STAR/capsule album 『FRUITS CLiPPER』 (2006)
7: 自転車泥棒/ユニコーン album 『ケダモノの嵐』 (1990)
8: HOPE/矩形波倶楽部 album 『HOPE』 (1993)
9: Skywalker/矩形波倶楽部 album 『THUNDER CROSS』 (1989)
10: JUST WHO I NEEDED TO SEE/F/N album 『POLICENAUTS F/N』 (1996)というわけで、トップはcapsuleの『Starry Sky』でした。うん、これはもうしょうがないね。
2位の『流星とバラード』は少し意外。3位の『水琴窟 -SUIKINKUTSU-』もなんだかんだでよく聴いてるな。
特筆すべきは5位に入ってきている『シーズンサヨナラ』で、これは最近のお気に入りだったのである。
やっぱり再生回数が一度リセットされてしまった影響は大きくて、従来のお気に入りが順位を落としている。参考ってことで、11位から20位までも出してみる。
11: In the Wind/矩形波倶楽部 album 『GRADIUS III』 (1990)
12: Star Guitar/The Chemical Brothers album 『COME WITH US』 (2002)
13: Higher than the Sun/Cymbals single 『Higher than the Sun e.p.』 (2001)
14: Camouflage/YMO album 『BGM』 (1981)
15: Swear/Alfh Lyra album 『VARTH』 (1993)
16: U&I/放課後ティータイム album 『放課後ティータイムII 「Studio Mix」』 (2010)
17: YOU/cargo album 『MARS』 (2009)
18: Invisible Bridge/矩形波倶楽部 album 『矩形波倶楽部』 (1990)
19: 美しく燃える森/東京スカパラダイスオーケストラ single 『美しく燃える森』 (2002)
20: Eternity/capsule album 『FLASH BACK』 (2007)さすがにこの辺は従来の好みの曲がちょこちょこと顔を出してくる。矩形波強いな、われながら。
この中に放課後ティータイムがあるのが少々恥ずかしいが、『U&I』はいい曲だからまあしょうがないよな。
しかし三つ子の魂百までか、相変わらずインストゥルメンタルが多い。好みがはっきりしてんなあ。
J.ヒギンズ『鷲は舞い降りた』。フレデリックと一緒に買った本なのだが(→2013.2.6)、ようやく読み終えた。
まず最初に著者前書きがあり、「内容の少なくとも五十パーセントは、証拠書類の存在する歴史的事実である。
その残りの部分のどの程度までが推測あるいは虚構であるかは、読者の判断にお任せする……」と書かれている。
そのせいで、もうすっかりこの作品にはけっこうな割合でノンフィクションが入っていると信じちゃったじゃないか!
逆を言えば、それだけ緻密に物語が展開していくということである。リアリティを感じさせる要素がたっぷり詰め込まれている。
やはりスタートが上手かったのだ。ヒギンズ自身が登場して驚くべき事実を掘り当てるオープニングですっかりだまされた。この作品はすでにタイトルの時点で「勝ち」なのだが、「鷲」とはドイツ軍の落下傘部隊を指す暗号。
1943年11月6日、田舎で休暇を過ごす予定のチャーチルを誘拐するべく、「鷲」はイギリスに舞い降りた。
当然、その荒唐無稽な作戦は、圧倒的なリアリティをもって描かれている以上、成功するはずがない。読者は知っている。
この作品は、人間的な魅力あふれる落下傘部隊の兵士たちが任務に失敗するまでの軌跡を追った物語なのである。ではさっそく問題点から。まず訳がダメ! 日本語のセンスを感じない訳である。情景がまったく見えてこないのだ。
舞台となる空間はとにかく天気が悪く、やたらと霧に包まれてばかりいる。そんなイギリスということを差っ引いても、
室内の描写にしても屋外の描写にしても、どんな空間なのかが伝わってこない。セリフに対する地の文もみすぼらしい。
展開される話の内容に対応した「読ませる日本語」になっていないのだ。この内容を夢中になって読めないのは致命的だ。
もっとも、上で述べたように、この作品は本質的に「失敗する話」である。何がどうなってもハッピーエンドにはならない。
滅びゆく敗者の美学を描くという点において最高レヴェルの物語だが、やはり登場人物の努力が無に帰するのは切ない。
僕がこの本を読み終えるのに4ヶ月近くもかかった最大の理由は、そこの虚しさのために読む気が起きなかったからなのだ。
まるで伝わってこない翻訳と破滅へのカウントダウンとのダブルパンチで、なかなか読もうという気になれなかった。そしてもうひとつ、バランスの悪さも挙げられる。「鷲」が舞い降りるのは、全体の2/3を過ぎてからのことだ。
それまで延々とナチスの作戦準備が描かれる。この部分こそ物語の生命線であるリアリティの源泉だが、いかんせん長い。
テンポ重視で削れる部分を削っていかないと、魅力的な部分の比率が下がって全体の魅力が落ちることになってしまう。
起承転結で言えば、「転」がこの物語のキモである。その魅力で惹き付けるべきなのだが、そこに至るまでが長いのだ。
そんな「鷲」の助走がダラダラと続いている部分で、情景描写のまずさが追い打ちとなっているのは言うまでもない。そういう感想を持つということはつまり、「鷲」が舞い降りてからの展開が抜群に面白いということなのである。
予想以上に早い段階で彼らはミスを犯し、破滅へのカウントダウンは一気に進んでいく。だが、そんな逆境の中でこそ、
シュタイナやデヴリンの強い意志が輝く。打算の一切ない純粋なヒロイズムが、読者をただただ魅了する。
むしろここでの描写の比率を高めて、一瞬一瞬の時間経過における物語性の密度を濃くしていくこと、それが必要だった。
自らの能力だけを頼って困難を克服すること、そのことにすべてを賭けた男たちの姿は見事に造形されているのだ。
だからこそ、彼らの不屈の精神をもっと純度を上げて描いてほしかったのだ。そこにもっと焦点を当ててほしかったのだ。まとめるとただ一言、「もったいない」となる。この話はもっともっと面白く書き直せるはずなのだ。
ドイツ軍の捨てられた精鋭たちが、チャーチル誘拐計画に乗り、そして散っていく。こんなとんでもなく魅力的な設定で、
こんなとんでもなく魅力的な登場人物たちで、どうしてこの程度の仕上がりになってしまうのか。実にもったいない。
冒険小説がエンタテインメントであるなら、この作品はまだ発展途上のものである。まだ最高峰ではない。もったいない。
6月が迫っている。もうそろそろ梅雨の季節になりそうだ。でもその前に、最後の新緑を味わっておこうじゃないか。
……そう考えて、どこかそれなりの規模を持った公園に行ってみようと思ったわけだ。まあどこでもいいんだけど、
自分の第二の故郷と呼べる多摩地区で、昭和記念公園にはまだ行ったことがないという事実に気がついた。
で、行ってみた。西立川駅から昭和記念公園の入口へ。天気はまずまず。
昭和記念公園の入園料は400円。そうだった、わざわざ金を払う気が起きなくて、大学時代に訪れることはなかったのだ。
券売機で入場券を買い中に入るが、その感じはまさに国立公園。なんだかんだ今までに国立公園にはけっこう行っている。
武蔵丘陵森林公園(→2010.4.10)、海の中道海浜公園(→2011.3.26)、それらとまったく同じ匂いなのだ。
(入口を見たという程度だが、国営明石海峡公園(→2012.10.7)からもやっぱり同じ匂いを感じた。)
特に昭和記念公園は、いかにも「大都市郊外の森林公園」といった雰囲気が満載なのであった。
L: まずは「みんなの原っぱ」。一面の芝生は東京ドーム2つ分の広さとのこと。真ん中には大ケヤキ。
C: 近づいて大ケヤキをクローズアップしてみた。この木陰で過ごすとか、かなり贅沢な休日だな。
R: 西立川口の反対側から眺めるとこんな感じ。やはり天気がいいと映えるなあ。雨だと最悪だろうけど。ベンチに座って呆けたり、あてもなくぶらぶらしたり。それでもじっとしているのはもったいないので、
隅から隅までは面倒くさいので、みんなの原っぱを一周する感じでのんびり歩いてみた。
L: ポピーが満開。いわゆるヒナゲシ。でもケシの花って、近づいて見てみるとけっこう気持ち悪いんだよな。
C: 帰りは立川口まで行ってみる。これは全長200mのカナール。うーん、なんだか日本じゃないみたいだ。
R: 凝った建物だな、と思ったら、2005年オープンの昭和天皇記念館。設計は伊東豊雄だってさ。まったく僕らしくないんだけど、今日は本当に昭和記念公園に行っただけ。たまにはのんびり癒されたかったのさ。
夏季大会前にいっちょやりましょう、ということで、今日は前任校との練習試合なのであった。
ちなみに前任校は、テスト期間の部活休みが明けたばかりとのこと。いい調整の機会になるといいのだが。前回(→2013.5.3)同様、20分の試合をいくつもまわしていく形で進めていく。
最初のゲームでは前任校が気持ちの入った守備を見せて、こっちが攻めあぐねる展開となった。
実は前任校にも前回の練習試合のDVDを渡しており、みんなでそれを見て守備の甘さを実感したそうで、
その反省がはっきりとプレーに現れていたのが面白い。前よりも確実に一段レヴェルアップしているな、というプレー。
やっぱり映像で客観的に自分たちの動きを見ることって、けっこう効果があるんだなあ、と思うのであった。しかし前任校の体力がもったのは最初の試合だけで、その後はどんどん走れなくなって一方的な展開に。
走りたい気持ちはあるのだが体がついてこない、といった感じで、攻めきれない守りきれないつらい時間となった。
こっちにしてみれば攻めの形やカウンターへの対処の再確認ができるいい機会になったのだが、
前任校としてはいきなりの炎天下での全力プレーはちょっと厳しい面もあったようだ。なんとも難しいものである。
研修なのであった。昨年も希望していたのだが受けることのできなかった研修である。きもち一歩前進なのだ。
内容はなんというか、きっちり勉強になったのだが、その建前と本音の両方を生々しく教えてもらった感じ。
建前をしっかりと教えたうえで、チラチラのぞかせた本音を、受講者はうまくつなげてくださいね、そんな感じ。
でもそれが現実なのだ。現実を知ることができたということでは、これは本当にためになる研修だった。
世の中には面倒くさいことがいっぱいあって、この仕事はこの仕事で面倒くさいことがいっぱいあるのだが、
自分で納得のできるバランスをとりながらその面倒くささにどこまで挑戦できるのか。現実を知ったことはプラスになる。
放課後の部活の際、詳しくは書かないけど、僕にとっては最も苦しい事態が発生してしまった。
いろいろ遠因も要因もあったし、それがスポーツなのだと皆が納得しているのだが、それでもやはりつらい。
とにかく今はただ、その苦しみをきちんと直視してできるだけ素直に受け止めることしかできない。
そして、これからできることをベストを尽くしてやっていくしかない。もう本当にそれだけだ。
本日はサッカー部の顧問会ということで、職場から自転車で会場の学校まで移動した。
しかし細かい経路がよくわからないので、さっそくiPhoneでGoogleマップを起動してみる。
横断歩道で赤信号になるたびにチェックしながら移動したのだが、まあ便利なこと便利なこと。職場からの帰りには電車内でサッカー関連のメールマガジンを読んで過ごす。まあ便利なこと便利なこと。
テザリング利用での日記書きもきわめて好調だし、やはりあればあったで、スマホは大いに役に立つのだ。結局、道具ってのは使う人しだいってことなのだ。なければないで工夫するし、あればあったで工夫する。
そうやって柔軟に対処していくことがいちばん肝心ってことなのだ。あとは金次第。……そんなことを思っております。
テストが終わって久しぶりの部活である。生徒に混じってボールを蹴っていると、サッカーとは楽しいものだと思える。
部活の最中、生徒から「先生って本当に楽しそうにサッカーしてますね」なんて言われた。そうか、そう見えてしまったか。ふと思ったのだが、僕はフィールドワークとしてサッカーをやっているのかもしれない。
顧問になってしまったことでいちおう「サッカーをやっている人」という範疇に入る人間になってしまったのだが、
僕自身としては、学生時代に「サッカーをやっていました」と言えるような経験がまったくないので、違和感がある。
でもその違和感はとりあえず気にしないで、毎日ボールを蹴っているのである。なぜかそういう生活をしている。
だからこれは、フィールドワークの一環なんじゃないかって気がしているのである。これは研究なのではないか、と。
日本という国がゆっくりと、しかし確実にサッカーに呑み込まれていく、その状況をより肌で感じるための研究。
まったく素直でないひねくれた解釈なのだが、そこはまあツンデレだと思ってくれても構わない。
ただ、フィールドワークであるからには必ず、サッカーから戻って何かしらの客観的な結論を出さないといけない。
まあとりあえず今は、そのことを肝に銘じながらも、生徒たちとボールを追いかけることにしましょう。そんな気持ち。
ブックオフはたまに行くとすごい掘り出し物があるんだな!
ふと思いついて近所のブックオフをハシゴしてみて、あらためて驚いた。欲しいものが必ずあるわけではないが、
「え、こんなもんがあるの!?」という新しい発見があるのだ。そしてそれを気軽に買える点が優れている。
僕みたいな無精者はつねに世間に対してアンテナを張っているわけではないので、けっこう貴重な機会を提供してくれる。
自分の部屋の中にも無駄なものはかなり多いし、本当はもっと積極的に活用していくべきなんだろうけどねえ。
まあそんなわけで、定期的にまわってチェックしていくクセをつけよう、と思うのであった。
朝メシを近所のカフェでいただきつつ日記を書く。日曜日の優雅なひとときである。いやコレ本当に幸せ。
で、今日はさっそく、iPhoneでテザリングをかましながらMacBookAirで旅行記を書き進めてみた。
そしたらこれが劇的に進むのなんの。スタンドアローンだと詰まっていたところが一気に解消されて快調快調。
この調子でガンガン日記を書いていくことができれば、それだけで利用料のもとが取れちゃう気がする。昼近くになって昨日の店に行き、前のケータイからiPhoneへのアドレス帳の移行をやってもらった。
で、帰りがけに電器量販店に寄ってiPhoneの充電器を購入。これで旅先でも安心だぜ!となる。
と同時に、僕の周りに充電が必要なアイテムがいっぱいあることが気になりだす。さすがに多すぎるように思う。
まずデジカメ、ノイズキャンセリングヘッドフォン、iPod、いやそもそもMacBookAirがそうなのだ。
そこに新たにiPhoneが加わったわけだ(前のケータイも充電が必要だったが、スマホは電気の食いっぷりが段違い)。
ちょっと一泊旅行をしたとして、僕はその夜、どれだけコンセントが必要になるんだろう?
それを考えると、現代社会ってのは罪なものだと思わざるをえない。いくらなんでも個人で電気食い過ぎである。
暇つぶしのためにスマホいじる人は、その分の電気のつくられ方を考えないだろうけど、こりゃ地球ヤバいで、そう思う。さて家に戻ってアドレス帳の整理をしようとするが、それだけでまた新しいアプリが必要になるのな!
もうオレにはワケわかりません。でもまあなんとかしないといけないだろうし……。まったく困ったものだ。
で、アドレス帳の整理を試みる間、五十音順でいちばん上にあるお宅に二度ほど電話を発信しかける。
間違ってその名前のところを押しただけで即、発信してしまうとは……。なんとも恐ろしい機械である。
まあそこからも、スマホってのがまず第一にコミュニケーションのツールであることがよくわかる。
ふつうのガラケーでは発信ボタンを押す猶予があるのだが、スマホにはそれがない。すぐにつながりたがるのだ。スマホってのは本当に直接的に、人とつながるための道具なのである。そう言うと聞こえはいいのかもしれないが、
実質的には「人間を情報そのものと等値する機械」といったところだ。情報化社会とは「人間の情報化」なのか。
(Twitterに始まりFacebookからLINEに至るSNSの流行について、いずれきちんと考えなきゃいけないね。)
僕らはそういう社会に変化したところで、きちんとした教養に基づく倫理観・人間性というものを構築しないといけない。
人間として、流されてはいけない部分、失ってしまってはいけないものを冷静に見極めること。それが必要なのだ。
(この辺の過去ログが参考になるかな。けっこう先見性あるじゃんオレ。→2007.11.29)
そういう危機感にも似た使命感みたいなものをぼんやり嗅ぎ取れただけでも、iPhoneにした甲斐はあるかもしれない。まあ、そんなことを思った。今のところはスマホにしたことを予想以上に肯定的に受け止めることができている。
iPhoneでござる! iPhoneでござる! さようならガラケー、こんにちはスマホ!
黒船じゃー
……なんて騒ぐ気はそんなになくて、まあこのタイミングで(→2013.5.1)スマホなるものを使ってみようと思っただけ。
2年後にはあっさりとガラケーに戻っているんじゃないかって気がする。その程度の気軽さでもって替えてみたのだ。
ひとつには、年末実家に帰ったときに潤平にテザリングさせてもらって便利さを実感したこと(→2012.12.31)。
そして、職場で印刷したかすれた白黒の地図とふつうのケータイで挑んだ鶴岡で返り討ちにあったこと(→2013.5.11)。
それで、じゃあとりあえず2年間、スマホを使ってみるという体験をしてみようじゃないか、と思ったわけだ。
iPhoneにしたのはまあ、元祖だしAppleだしということで。正直、iPhone以外は興味ないんですよ。違いわからん。
ジョブズが考えだしたことはどんなことなのか、iPhoneを通して社会学的に考えてみたい、そう思ったからだ。
NTTドコモ勤務のみやもりさん、ごめんなさいね!午前中は学校で、午後2時すぎに店に行って手続きを開始。今回は一気に3種類の手続きをすることになっていたので、
ものすっごく時間がかかった。今まですべてを放ったらかしていて、それらをすべて解消する必要があったからしょうがない。
(待っている間は用意していた本をひたすら読んで過ごしていた。おかげでけっこう進んじゃったよ。)
お店の人にも申し訳ないくらいの手続きのオンパレードだったので、結局4時間かかりましたぜ。恐ろしいことです。
でもおかげで、だいぶしっかりと次の一歩に進めた気がする。いつかやらなくちゃいけないことをやっただけなんだよな。家に帰ってさっそくあれこれ試そうとするのだが、まず何をすればいいのかがわからずに途方に暮れる。
この感覚はなんだか、RPGを最初に始めたときとかなり似ている。RPGの場合はとりあえず動けばいいのだが、
スマホの場合はまるでわからん。パソコンのネットで検索して「まずやるべきこと」なんてページを見て、
それを参考に自分のiPhoneを調整してみる。でもそれが終わると、また途方に暮れてしまうわけだ。そもそも、フリック入力が難しい。入力じたいは難しくない。ア段はそのまま、イ段から右回りに指を滑らせればいい。
問題は指先が思った位置をタッチしない点で、入れたつもりが前の文字を消していてやり直し、が何度あったことか。
いちばん腹が立ったのはApple IDの入力で、いちいち長いメールアドレスとパスワードを入れて、入力ミスしていて、
そのたびに最初から入れ直す。一度、iPhoneをブン投げそうになったのだが、理性でギリギリどうにか抑えた。
慣れないタッチ入力は、まるで宇宙空間で作業をしている気分だ。変に慣性がはたらくので本当にそんな感じだ。あれこれやっているうちに、とにかくアプリというものを入れていかないと何もできないことがわかってきた。
やっぱり最初はコレでしょ、とGoogleマップを入れ、天気予報を入れ、いろいろやっていくうちに、正体がつかめてくる。
なるほど、iPhone(スマホ)ってのは純粋に、情報端末なのだ。電話の機能「も」ついている情報端末なのだ。
いつでもどこでも最新の情報にアクセスするための最も手軽な道具、それがiPhone(スマホ)なのね、と。
最新の情報ってのは何もマスコミ発だけのものじゃなくて、身近なSNSも含んでの話だ(これは情報の「規制緩和」か?)。
そういったいちばん新しい情報たちにアクセスすることのメリットが大きいと思う人はスマホを使うし、
情報のスピードにこだわらない人はふつうのガラケーでも問題がないわけだ。僕はばっちり後者なのだが……。ある程度わかってきたので、circo氏に報告のメールを出す。これまではCメールを使っていたのだが、
iPhoneだとSMSというらしい。無事に送れて返事も来たのだが、iPhoneではCメールがフキダシの会話調に表示される。
なるほど、メールでのコミュニケーションが加速するとこういうことになるのか、LINEとかそうか、とすごく納得がいった。
みんながスマホでつながってしまうと、そういうことになるわけだ。うーん、マクルーハン(→2013.1.10)。こんな感じでやっとりました。
どこまで使いこなせるかはわからないが、スマホが想定している社会というのは一晩いじって何となく見えてきた。
ただやっぱり、人間が逆に情報に踊らされている感覚もまた、スマホからは強く感じてしまう。
(もちろんここでの「情報」はSNSも含む。というか、マスコミよりSNSの情報の方が人間への引力は強いね。)
鍵になるのは、「時間」だと思う。これから先きっと、スマホに時間を食われるかどうかで、決まってくるものがある。
暇な時間にスマホをいじっていても知性が身に付かないのは確かなのだ。道具に使われるようになっちゃいかん。とりあえず、一晩スマホをいじってみた結果として、きちんと本を読みたくなってきた。
それも電子書籍じゃ頭に残らんな。紙の本をじっくり読みたい。スマホをいじる空虚な時間を極力、読書で埋めたいのだ。
僕がながーい手続きの間にずーっと本を読んでいたのは、もしかしたらスマホへのささやかな抵抗だったのかもしれないな。
というわけでテストである。いつもより簡単にしたとはいえ、なかなかできますね。
特に3年生で「自分は英語が得意です」という意識を持っている生徒については、けっこう盤石な印象。
去年受け持っていた3年生もまずまずだったが、単純に比較するとそれ以上の安定感がありそうである。
やっぱり都会の学校は意識が違うのかな、と思う。なんとか上手くコントロールしてフィニッシュしたいものだ。
テストが朝にどうにか完成したのであった。いやあ、やはり2学年分というのはキツい。
今回は特に、一日で5教科やってしまうために40分(生徒の負担を減らす狙い)という変則的な分量だったのだ。
3年生は長文を調整するのが大変だったし、1年生はそもそもこの時期に一定の問題数を用意すること自体が大変。
決して旅行に夢中で必要以上に苦労してしまったわけではないのだが、まあとにかく疲れた。
Jリーグが20周年だそうです。おめでとうございます。
20年前にはまさかこんなサッカーに関わる要素のある人生になるなんて、想像することはまったくできなかった。
というわけで、自己中心的にこの20年の私とJリーグを軽く振り返ってみることにしましょう。
詳しいことは以前にも書いているので(→2007.11.12)、過去ログを補完する形で書いてみる。Jリーグ開幕戦の読売ヴェルディ川崎×日産横浜マリノスは、テレビで生中継を見たかどうだかは忘れた。
でもマイヤーという選手が初ゴールを決めて、「なんだよ日本人じゃなくて助っ人外国人かよ」と思ったのは覚えている。
1993年当時はまだバブルがはじけたことを信じたくなかった世の中で、わざと浮かれてやり過ごそうという空気があった。
だからJリーグはまさに時代の寵児として、圧倒的に浮かれた人気を集めていた。オレーオレオレオレーって、そればっか。
さて当時の僕は、前年にヤクルトスワローズが日本シリーズの第7戦の延長戦まで戦って西武に敗れた(→2004.9.26)、
その渦中にいたので、Jリーグにはほとんど見向きもしないひねくれた高校生活をスタートさせていたのであった。
「野球はダサい、これからはサッカーの時代だぜ」と言ってのけるバカも多くて、それに反発していたところもある。
かといってJリーグにまったく興味がなかったわけでもなく、何をどうやっても勝てなかった浦和レッズは心情的に応援した。
この当時最も気になっていたのは当時JFLのジュビロ磐田(→2012.12.4)。磐田の昇格はかなりうれしかったね。1995年に野茂がメジャーリーグデビューを果たすと、僕の興味は(野茂以外の)メジャーリーグにも広がった。
おかげでJリーグへの興味はより薄れたのだが、ひとつだけ新たに気になることがあった。それはセレッソ大阪である。
ロックマン原理主義者の僕は幼少期をガチガチのカプコン党(あとちょっとコナミ)として過ごしていたのだが、
このカプコンがセレッソの背中のユニフォームスポンサーだったのである。ファンクラブ会報にも記事があったなあ。
セレッソの前身はあの釜本も所属したヤンマーなのだが、そんなサッカー知識もなかった僕は単純に、
「なんだよトラクターの会社かよ」と思ったもんである。会社のこともサッカーのこともわかっていない。無知とは恥ずかしい。
でもユニフォームは強烈で、上が鮮やかなピンクで下が真っ青。その対比は僕にとってはけっこうショッキングだった。
今でこそセレッソのピンクは違和感がないけど、当時は「いい歳した男がピンクなんて……」とちょっと思ったのは事実。
しかし一回りしてそのピンクの鮮やかさがまた斬新で格好よくも思えた。サッカーに派手さは本質的に似合うのである。翌年、僕は浪人ぶっこいて名古屋にいた。前にも書いたが(→2007.11.12)、当時の名古屋は監督がヴェンゲルで、
ピクシーことストイコヴィッチの全盛期。サッカーに興味はまったくなくても、グランパスについてのさまざまな情報が、
街を歩いているだけで入ってくる(本屋に入り浸っていたせいかもしれんが)。まあ名古屋の土地柄もあったけどね。1997年に無事に大学に入学。当然のことながらクイズ研究会に入ったのだが、まず名簿というものを書く。
要するにこれは自己紹介なのだが、「名簿クイズ」といってクイズのネタになるなど、クイ研には重要なものなのだ。
で、この名簿には「支持球団」の欄があって、プロ野球とJリーグの両方について書くようになっていた。
僕は当然、ヤクルトスワローズとニューヨーク・メッツについて書くのみで、Jリーグについては空欄にしていた。
むしろこの件で、世間には意外とJリーグのファンっているんだなあ、と思ったくらいである。それでもやっぱり横浜フリューゲルスの消滅は衝撃的で、さすがにこのときの天皇杯はテレビできちんと見ている。
まあ正月なので、実家でのんびり寝転がって観戦するにはちょうどいいコンテンツだったこともあるが。
やはり「ここまで来たらフリューゲルスには無敗で終わってほしいなあ」という気持ちで軽く応援しつつ見たのだが、
「日本全国が判官贔屓で、フリューゲルス相手に戦うことになった清水はかわいそうだなあ」という気持ちも正直あった。
試合は2-1でフリューゲルスが勝利し、伝説をつくりあげてそのまま消えてしまった。あの見事な散り方は忘れられない。1999年、ゼミに所属。ゼミテンに東京出身なのに清水のサポがいて、「へぇー」と思った。
Jリーグ発足時には東京にクラブがなくて、この時期にサッカー好きになった人は地方クラブを支持せざるをえなかった。
で、ゼミ論文ではみんなで協議した末に三市合併(大宮・与野・浦和)とさいたま新都心がテーマとなったのだが、
経済学部からトンネル(この一橋用語懐かしい!)してきたやつがJ2入りしたばかりの大宮のサポーターについて書いた。
内容は論文というよりはルポだったのだが、むしろそのおかげで論文集の幅が広がったように思っている。
(翌年、浦和が落ちてきて早くも「さいたまダービー」が実現。これは観に行くべきだったと今は後悔している。)
しかし当時はまさか大宮がJ1でさいたまダービーをやる日が来るなんて思わなかったなあ。けっこう感慨深いんですよ。2001年に大学院へ移る。振り返ってみると、ここから就職するまでが最もJリーグから遠い毎日だったかもしれない。
まあ最大の原因は「吉澤ひとみが柏(→G大阪→川崎)の中澤とつきあっている」という話が原因なのだが。
(めちゃくちゃ恥ずかしいけどこの際思いきって書いちゃうぜ! ……と思ったらすでに書いとるやんけ! →2001.12.28)
ガセネタだったと今でも信じているのだが、中澤の結婚相手がブラン娘だったことを考えると……うーん。
まあとにかく、サッカーの話は見るのも聞くのもイヤだ状態になっていたんですなーはっはっは。 若いのう。青いのう。
でも2002年の日韓W杯は、さすがにわりときちんと見ていた。世界のサッカーは純粋に面白かったので、
Jリーグについてのみ嫌い、特に柏嫌い、という状態に陥っていたのであった。この柏嫌いは後の伏線になる。2005年に就職すると、もやしっ子ばっかりの職場であるにもかかわらず、サッカー好きがけっこういた。
これは単純に、サッカー人気が一般に定着していったのを僕が知らないで(知ろうとしないで)生きていた、
ただそれだけのことじゃないかと思うのだが、とにかくサッカーはプロ野球以上の話題になっていた印象である。
このときに、東京生まれでJリーグ開幕時に広島を支持してしまったばっかりに泣きながら広島まで遠征していた人や、
浦和レッズを応援する上司、川崎在住なのでケンゴが大好きな上司など、いろんなサッカーファンに出会っている。
おかげで僕も「そろそろ支持するクラブを決めなくちゃいけないのかなあ……」という気分になりつつあった。
翌年のドイツW杯でチェコがネドヴェドを中心に鮮やかなサッカーを見せてくれ、にわかチェコファンに(→2006.6.12)。
サッカー好きの下地がゆっくりと形成されてきて、あとは条件さえ見つかれば、という状態になっていたのだ。そしてこの2005年に、J2で奇跡的に3位にすべり込んだクラブが(僕にとっては)うれしい事件を起こす。
グダグダ状態で入れ替え戦に臨んだ柏レイソルを、ヴァンフォーレ甲府という弱小クラブが叩きのめしてくれたのである。
小瀬で行われた第1戦は停電のハプニングがありつつも2-1で甲府が取り、迎えた柏での第2戦。
甲府ファンの間では伝説となっているバレーのダブルハットトリックで、甲府がまさかのJ1昇格を果たしたのだ。
この当時の僕としては「ザマミロ柏」、ただそれだけで、甲府についての興味はそんなにはなかった(→2005.12.10)。
(ただ、甲府が新潟との試合を「川中島ダービー」と称してアルウィンで開催していた件は認識していた。→2003.9.1)翌年、ぶっちぎりで予算の少ない甲府は奇跡の残留を果たす(15位)。といっても内容に危なっかしい点はあまりなく、
7位との勝ち点差が6、9位との勝ち点差が3、降格圏の16位からは勝ち点差が15も離れているという具合。
無名選手ばかりのわりには面白いサッカーをやるという評判で、甲府のことがかなり気になりだしていた(→2006.12.9)。
地理的にも甲府は、生まれ故郷の長野県と現在暮らしている東京都の間ということで、悪くない位置にある。
少なくとも松本山雅や長野パルセイロを応援する気なんてさらさらないので、応援してみようか、と思いはじめる。そして甲府が国立競技場に来るタイミングで友人を誘って観戦した(→2007.8.18)。これが初の生観戦である。
試合内容は、すっかり強豪となった浦和に甲府がボロボロにやられるというもので、非常に切ないものなのであった。
しかしこのときに見た大木サッカーのキテレツさ、「これがサッカー!?」と思うような常識はずれの戦術は、
僕の中に深く刻み込まれてしまった。そう、サッカーは自由なのだ。堅実にやるだけがサッカーじゃないのだ。
(大木さんが指揮していた頃の甲府のサッカーは、1チームだけサッカーという枠からとっぱずれていたように思う。)
この後も僕は大木サッカーをチェックしに出かけるようになり、時には理不尽さも味わいつつ(→2007.9.30)、
徐々にのめり込んでいく。そして甲府のJ2降格を(→2007.11.24)、天皇杯での最後の戦いを(→2007.12.8)、
目の当たりにしてしまった(ちなみにこの頃には柏に対するかっこ悪い敵視もなくなっていた。柏のJ1復帰は喜んだよ)。
それでも大木さんを支持し続けたサポーターたちの姿を見て、僕は本格的に甲府を支持する決意が固まったのだ。
まあ、その天皇杯の試合を最後に大木さんは甲府の監督を辞めちゃうんだけどね!その後はコーチだった安間さんが引き継いだ甲府を応援しまくり、大木さんは岡ちゃんの下で日本代表のコーチになり、
そんでもって宮崎で大木さんご本人と握手をし(→2009.1.8)、気がつきゃサッカー部の顧問をやっている。
大木さんと握手をしたときには、まさか自分がサッカーチームを率いる立場になるとは思ってもいなかったもんなあ。現在の僕は、月に1回はサッカーの試合を観戦することを自らに課して、目を肥やそうと努力しているところだ。
故郷の長野県はサッカー空白地帯であったはずなのに、いつの間にか松本山雅と長野パルセイロがしのぎを削り合い、
それは信州ダービーとして全国的に知られるようになった(→2010.12.6/2011.4.30/2012.3.10)。
さらに山雅はJ2に昇格し、熱心なサポーターとともに着実に力をつけてきている。ちょっと前なら考えられなかった。
Jリーグの20年間というのは、紆余曲折がありながらも日本を着実にサッカーに染めていく20年間だったように思う。
そしてこうしてじっくりと振り返ってみると、笑えてくるくらい見事に僕はその流れに巻き込まれてしまっているのである。
1993年5月15日、あえて冷めた目でJリーグの開幕を見つめようとしていた僕は、今ではこんな暮らしをしている。
この20年間で、逆境もあったが、Jリーグは着実に地に足をつけて進化してきた。だから多くの人が巻き込まれた。20周年、おめでとうございます。この20年は長かった。いろいろあって、いろいろ変わった。
でもこの20年間が「たった20年間」になる頃、さらなる発展を遂げていることを心よりお祈り申し上げます。
年度始めの面談の時期である。ここでは初めてとなる面談なんだけど、けっこうあれこれ言っちゃいました。
まあやっぱりその分だけ、こっちが無条件に指導されちゃう場面が減っているわけで、甘えが許されなくなっている。
つまりは「この人はそれなりの経験を積んでいる人」と見られるようになってきているということだ。
面談じたいがスムーズにいったのは喜ぶべきことなんだけど、それだけしっかり兜の緒を締めねば。むむむ。
この土日をしっかり山形県で遊んでしまったため、必死のテストづくりの真っ最中だよコンチクショー!
1年生の1学期中間の英語って、めちゃめちゃテストがつくりづらいんだぞコンチクショー!
目的のバスは午前7時に鶴岡エスモールに来るということなので、それに合わせて行動を開始する。
そのバスは酒田を出発してから鶴岡を通り、寒河江SA経由で山形まで出るという便である。
これに乗れば、実に合理的に寒河江に行くことができるのだ。そう、今日の最初の目的地は寒河江なのだ。
さて、前日に雨の中を下見する気など起きなかったので、エスモールを訪れるのはこれが初めてである。
地方都市のはずれらしい落ち着いた街並みの中を歩いていくと、やがて規模のそこそこ大きな商業施設が現れた。
これがエスモールで、2階建て+駐車場といったスタイルは、駅にそこそこ近いわりには郊外型の匂いがする。エスモールの前にはバス停があり、そこで7時になるのを待つ。が、あらためてきちんと時刻表を見てみたところ、
目的のバスがそこに記載されていないのである。にわかに焦って、エスモール付近を歩きまわってほかのバス停を探す。
しかし、見当たらない。ちょっとこれはマズいぞ、と本格的に危機感をおぼえる。イヤな予感が全身を覆う。
もし流行のスマートフォンでも持っていれば、ネットで検索して調べることができるのかもしれない。
でも今の僕は、職場で印刷したかすれ気味のモノクロ地図があるだけなのだ。こりゃもう、どうしょうもない。7時まわったところで、フロントガラスに「山形」と貼り付けたバスが北から現れ、悠然と南へ走り去っていった。
僕はただ、それを茫然と見送ることしかできなかった。長年の旅行の勘で「やられた!」と理解したが、後の祭り。
こうなると、僕の意識は「鉄道を使ってできるだけ早く寒河江に向かうこと」に切り替わる。切り替えるしかないのだ。
しかし、昨日雨に降られたこともあって、鶴岡に対するネガティヴな印象はどんどん増幅されていく。
後で調べたところ、エスモールは北側にバスターミナルを持っていたのである。その事実をまったく知らず、
「線路に面してバックヤードっぽい」という理由で面倒くさがってエスモールを一周しなかった僕が悪かったのだ。
しかし、しかしだ。ここまでツイていないと、どうにも鶴岡という街に嫌われているという気持ちになってしまう。そんな雑念を振り払いつつ鶴岡駅へと向かう。ケータイで寒河江へのルートについて検索をかける。
と同時に、本日の予定をどの程度変更しなくちゃいけないかの計算に入る。寒河江での行動時間は確保したいので、
確実に市役所訪問の数は減ることになる。そこを割り切り、新しいプランをどんどん組み立てていく。
駅で切符を買おうとしたら、自動券売機で買える値段を超えていた。そりゃそうだ、鶴岡から寒河江まで鉄道で行く、
そんな面倒なことをわざわざするヤツなんていないだろう。でも今の僕にはそれしかないのだ。
乗り越し精算で楽な金額になるように切符を買うと、改札を抜けて列車を待つ。そうして逃げるように鶴岡を去った。余目で羽越本線から陸羽西線に乗り換える。庄内平野をべったりと覆っていた曇り空は終点の新庄には届いておらず、
奥羽本線(山形線)に乗り換えると、窓から見える景色は昨日の雨がなかったかのような快晴ぶりに輝いていた。
これでやはり、鶴岡に対するネガティヴな感情が再び僕の心の中に湧き上がってくる。相性って、きっとあるのだろう。終点の山形駅まで揺られると、またしても列車の乗り換えである。階段を上って下りて、6番線のホームへ。
やっとの思いで、ようやく目的地へと向かう列車に乗り込むことができた。その路線名は、「左沢線」。
この名前を読めるかどうかで鉄分の濃さがわかると思う。残念なことに僕はもはや、難なく読めてしまうのだ。
これは、「あてらざわせん」と読む。「左」を「あてら」とは、とんでもない読み方である。こんなんわかるか!と言いたい。
「あてら」とは「あちら」の東北訛りからきているそうで、寒河江から見て最上川の対岸だから「あちら」という説がある。
じゃあなぜ「あちら」に左という字を当てたのかというと、領主がそう呼んだとか日の出を見るとき左側になるだとか、
これまた諸説あるのだ。寒河江はそんな左沢線の途中にある。やっとこさ到着すると、残りの切符代を改札で支払う。
気持ちよく対応はしてくれたのだが、駅員さんは「鶴岡からですか!」と驚いていた。そりゃそうだわなあ。
L: 「フルーツライン左沢線」の愛称のとおり、沿線にはさくらんぼ畑が広がっている。さすがは山形県だなあ。
C: 寒河江駅にて。左沢線では果物をデザインしたこのような駅名標が各駅に設置されていた。
R: 快晴となった寒河江駅。ローカルな雰囲気満載の左沢線だが、利用客は多いようで立派な駅舎である。寒河江駅の改札を抜けるとすぐに観光パンフレットが満載の棚が置かれていた。いくつかもらって駅舎を出る。
駅前には広場があって、何やらイヴェントか祭りの真っ最中。めちゃくちゃ活気があってうれしい気分になる。
さっきまで鶴岡での失態によりネガティヴな気分でいたのだが、それが一気に吹き飛んだ。よかったよかった。
L: 寒河江駅前交流センター(寒河江神輿会館)。ガラス張りで神輿を展示している大胆な施設である。2004年竣工。
C: アクアマリンふくしまの移動水族館(アクアラバン)が大人気。これもまた復興支援のひとつの形なのだ。
R: かつてと比べれば弱まっているかもしれないが、穏やかな商店街となっている県道25号を北上していく。寒河江市でいちばんのメインストリートである県道25号を北上していく。天気がいいせいか、雰囲気は明るいと感じる。
この商店街にかつてほどの勢いはないのだろうが、寒河江という街じたいが堅実にやっているようで、そんな印象がする。
そんな寒河江の中心部をまっすぐ行ったところにあるのが、寒河江市役所である。これを見たくて来たようなものだ。
寒河江市役所は1967年の竣工で、設計したのは当時若手の黒川紀章。堂々のDOCOMOMO物件なのである。
黒川の市庁舎というと前に佐倉市役所を訪れたことがあった(→2011.12.17)。これがなかなか面白かったので、
寒河江もけっこう楽しみにしてたのである。まあ、なんといってもDOCOMOMOだしね。「当たり」な予感がするのだ。寒河江市役所は県道25号からは少し奥まった位置にあり、県道から左に曲がってちょっと歩いて対面することになる。
そうして現れた建物は、問答無用にモダニズム。「乗っかっている」感が満載の建物で、もうそれだけで面白い。
4本のコアをぶっ通して建物を支えているそうだが、そのうち2本のコアが上に飛び出していて、「目」に見える。
そして全面にガラスを貼り付けた上部は「歯」に見える。まるで笑うカエルのような姿で、思わずつられて笑ってしまった。
といっても別にバカにしているわけじゃなくって、むしろその逆で、単純明快なデザインが非常に痛快なのだ。
この採光たっぷりのオフィスが浮かんでいるような感じは、中にいるときっと心地よい、それが直感的によくわかる。
L: 寒河江市役所。笑うカエルのような外観だが、僕はかなり好きだ。モダニズムのポジティヴさをビシビシ感じるぜ。
C: 角度を変えて撮影。「浮かぶ市役所」って印象である。 R: 足下はこんな感じ。現在、耐震工事中なのである。中には入れなかったのだが、この建物を紹介するさまざまなホームページによると、中身もかなり凄いらしい。
まず、議場が1階。そんな事例、ほかに聞いたことがない。これは「議会が市民を支える」という発想によるとのこと。
そして市民向けの窓口は2階にあり、スロープでアクセスする。思想を空間に落とし込むことを徹底しているようだ。
建物の中央は吹抜になっていて、岡本太郎デザインの照明が吊られているそうだ。うーん、中身も見たかったなあ。
L: 側面はこんな感じ。耐震工事中なので本来の姿とはちょっと違うかもしれないけど、いちおう貼っておこう。
R: 裏側の駐車場から見たところ。時代と思想をはっきりと反映させた建物は、見応えがあって楽しい。外観をさっと見ただけでも楽しめる市役所で、わざわざ訪れる甲斐は十分にあった。これは傑作ですな。
寒河江市はこの建物の価値をしっかりと理解しているようで何より。末永く活用されてほしい建築である。
(ちなみに黒川紀章はこの庁舎の耐震診断を無償でやったんだって。あんた、かっこいいよ……。)満足感に浸りつつ寒河江市役所を後にすると、そのまま西へと突撃して坂道を上っていき、寒河江公園に入る。
ここはツツジの名所であるとのことだが、東北地方ではまだ早いようで、残念ながらほとんど咲いていなかった。
先週訪れた明治村ではあっちこっちでツツジが狂い咲いており(→2013.5.6)、東北地方の東北ぶりを実感。
さてこの寒河江公園内には寒河江市郷土館という施設がある。それが寒河江でもうひとつの目的地なのだ。
郷土館にはふたつの建物があるのだが、ひとつは旧西村山郡役所、そしてもうひとつは旧西村山郡会議事堂なのだ。
郡役所は全国のわりとあちこちで残っているが、役所と議会の両方がそろって残っているのはきわめて珍しい。
寒河江公園は丘というかもう山の上なのだが、そこは根性で制覇なのだ。てっぺんからちょっと下ると郷土館。
L: 寒河江公園。きっちりと高さのある山が丸ごと公園となっている。斜面にツツジが植えられており、開花を待っている。
C: 旧西村山郡役所。1878(明治11)年の築。着工から4ヶ月弱で竣工というとんでもないスピードで建てられたそうだ。
R: 向かって左隣には旧西村山郡会議事堂。こちらは1886(明治19)年の築で、工期は3ヶ月弱。なんなんだそりゃ。まずは旧西村山郡役所から見学。かつて寒河江町役場として使われたこともあるというこの建物の内部は現在、
西村山郡時代の政治・経済・文化についての展示がなされている。でも僕がいちばん面白かったのは階段だった。
玄関を入ると吹抜になっており、脇に階段があるのだが、踊り場を設けてその下に廊下を通しているのだ。
わざわざこんな凝った構造にしているのはどうしてかわからないが、開放感があってなかなか快適である。
そして隣の旧西村山郡会議事堂の内部では、地元で発掘された土器や石器などが展示されていた。
L: 旧西村山郡役所の階段を2階から見下ろす。窓の手前に踊り場があって、狭いが中2階感覚が楽しめる。
R: 玄関の吹抜を横から眺めるとこうなる。この階段の工夫には驚かされたなあ。寒河江は思った以上に面白く、のんびりと建物を堪能していたら、時間がけっこうピンチになってしまった。
慌てて山を駆け下りると、市街地の中心部を目指してひた走る。新しい環境できちんとサッカーをやっているからか、
心なしかこれまでよりも軽やかに走れる気がする。しかし旅先で走る破目になるという点においては成長していないのだ。
せっかく寒河江八幡宮の前を通ったのだが、余裕がなくてスルー。罰当たりな旅行をしていて申し訳ございません。そんな具合に必死に走ったのはなぜかというと、蕎麦を食いたかったからだ。改札口の前にあったパンフレットによると、
寒河江の名物は蕎麦なのだという。そりゃもう、手繰るしかないじゃないか!と固く決意をしていたわけである。
パンフレットにはいくつか店が紹介されていて、その中のひとつに飛び込んだ。予想に反して、店内はお座敷だらけ。
しかもそこそこも賑わいっぷり。迷っている暇もないので、最も早く出てくると思われる標準サイズのもりそばを注文。
ところが夫婦ふたりで切り盛りしていると思われるその店は、実に山形県らしい穏やかでのんびりとした営業っぷりで、
僕が設定していたデッドラインの本当にギリギリのところで蕎麦がようやく出てくるのであった。いやもう、困った。
光速で蕎麦をすすり、僕よりもずっと前に食べはじめていたっぽい隣の夫婦が食べ終わるよりも速く席を立つ。
そうして素早く支払いを済ませると、駅に向かって猛ダッシュ。サッカーで鍛えた足をフルスロットルで走る、走る。どうしても、列車に乗り遅れるわけにはいかないのだ。終点の左沢まで行く列車の本数は非常に少なく、
予定の列車を逃してしまうと、この後のサッカー観戦のために左沢をあきらめて引き返さざるをえなくなってしまう。
こっちとしては朝にバスを逃したせいで2ヶ所の街歩きを諦める結果となったので、これ以上の犠牲はガマンできないのだ。
走りながらポケットからコインロッカーの鍵を取り出し、階段を駆け上がるとロッカーの中身を一気に掻き出した。
改札の上にある電光掲示板を見ると、すでに予定の列車は表示されておらず、次の列車の表示となっていた。
切符を買う時間も惜しいので、駅員に「左沢行きはもう出ちゃいましたか!?」と必死の形相で尋ねる僕。
寒河江駅の駅員さんは非常に親切で、「わからないけど、すぐ降りてみて!」とそのまま改札を通してくれた。
階段を駆け下りてホームに立つと、濃いスカイブルーの列車はゆっくりと動き出していた。アチャー!
……と思ったら、列車はわざわざ停車して僕のためにドアを開けてくれたのであった。本当に申し訳ない!いちおう車窓の風景をきちんと眺めるが、車内ではずっと半ば放心状態で過ごすのであった。
抜けるような青空の下、羽前高松駅を過ぎた列車は大胆にカーヴして田園地帯を走る。この光景は実に印象的だった。
そうそう、左沢線は駅名もけっこう面白くて、県庁所在地の名前が入っている駅がなんと3つもあるのだ。
「羽前金沢」「羽前長崎」、そして3つの寒河江を挟んで「羽前高松」。そんな路線はほかにあるまい。
各都市とはまったくコラボしていないようだが、地元民はもうちょっと面白がってもいいんじゃないかと思う。そんなこんなで無事に終点の左沢駅に到着。車掌さんに謝って料金を払う恥ずかしい僕なのであった。
駅舎は2002年に竣工したそうで、なるほど確かにずいぶん小ぎれいで、なんとも独特なデザインをしている。
この駅舎は「大江町交流ステーション」にもなっており、中を見たら大江町を紹介する資料であふれていた。
そんな大江町の中心部・左沢は城下町で、古い建物も残っているらしい。時間がなくて駅周辺しかいられなかったが、
これはいずれきちんと借りを返しに訪れたい、と思うのであった。左沢の魅力を味わえなけりゃ、来た意味がないね……。
L: 左沢駅。純粋な意味での駅舎は右側部分のみで、左側の奇抜なデザインの方が大江町交流ステーション。
R: 左沢線の最果て風景。けっこう乗降客がいて、学生らしい集団がそこそこいた。賑わっているのは何よりだ。左沢で何もできなかった悔しい気持ちを抱えつつ、列車に揺られて左沢駅を後にする。
冷静に考えれば、当初の予定では早めに寒河江市に入る代わりに、山形自動車道から寒河江駅までの郊外地域を、
ひたすら歩くプランとなっていたのだ。しかも時間的にしっかり市街地を歩きまわる余裕があったわけでもなくて、
もしかしたら市役所に行くだけでいっぱいいっぱいになって、旧西村山郡役所には行けなかったのかもしれないのだ。
その場所にはその場所の確かな魅力があるわけで、それを僕はよく知らないままで天秤にかけて旅をしている。
寒河江で得たものも、左沢で「失った」ものも、大きいかもしれないし、小さいかもしれない。それはわからない。
ただ、できるだけ後で納得のいく判断ができるように、感性を研ぎ澄ませておかなくちゃいけない。それは確かだ。終点・山形駅のひとつ手前の北山形駅で降りる。ここで奥羽本線(山形線)に乗り換えると、北へと戻る。
本来であればこの沿線の3つの市を歩く予定だったのだが、結局、ひとつだけになってしまった。ま、しょうがない。
というわけで、天童駅で降りる。今日はここが最後の目的地となる。市役所を見て、サッカーを観戦するのだ。
L: 奥羽本線(山形線)に乗っていて驚いたのだが、箇条書きのマークにサクランボ。山形のサクランボへの誇りは半端ない。
C: 天童駅の東口。駅舎の中に天童市将棋資料館が併設されているのだ。その一角だけ入場料が必要となっている。
R: 天童駅の南側にはバスターミナルがくっついていて、なんだか未来風のデザイン。1992年の竣工だってさ。天童駅の2階から直接アクセスできる観光案内所でレンタサイクルを借りる。これで市内をひとっ走りするのだ。
できるだけ日が傾かないうちにスタジアムに行きたかったので、天童市内をそれほどあちこちまわらないつもりだ。
効率よくポイントを押さえて動くのに、レンタサイクルは本当に便利である。昨日も乗りたかったなあ……。まずは市役所を目指し、駅前からまっすぐ東に延びる県道260号をかっ飛ばしていく。
天童市の中心市街地はいかにも地方都市らしい雰囲気で、どちらかというと商店が間を置きながら集まっている。
つまり凝縮された商店街という印象ではないのだが、まずまずの広さと穏やかな元気さというバランスが保たれている。
そんなメインストリートを左に曲がって天童市役所とご対面。まず大胆なピロティが目に飛び込んでくる。
L: 天童市役所。1972年竣工で、設計は石本建築事務所。案の定、ピロティ部分は議会として使われているようで。
C: 市役所の南を流れる倉津川には、将棋の駒から名前をとった橋がいくつも架かっている。これは「銀将橋」。
R: ピロティを眺める。これだけ大胆につくっている市役所はなかなかない。まさか将棋盤をイメージしている……のか?どういう経緯で現在の形に落ち着いたのかはよくわからないが、とにかく天童市役所は複雑な形状となっている。
取り立てて切れ味を感じる建物ではないのだが、いちおう資料ということで、さまざまな角度から撮影しておく。
L: 反対側の交差点から眺めたところ。 C: 東隣にある天童市市民文化会館。こちらは1974年のオープンとのこと。
R: 天童は将棋の街ということで、電柱にも詰将棋の問題が貼り付いているのであった。ここまでやるんか!市役所を後にすると、南下して舞鶴山の方へと向かう。天童の市街地は基本的には平坦なのだが、
真ん中にドカン!と舞鶴山が鎮座している。この舞鶴山が天童城址で天童公園。人間将棋の舞台で有名な場所だ。
舞鶴山の西側は寺町の様相となっているほか、織田信長を祀る建勲神社がなかなか立派な構えを見せている。
なぜ天童に織田信長なのかというと、天童を最終的に治めたのは織田信長の次男・信雄の子孫だから。
そんなわけで建勲神社に参拝しつつ舞鶴山の山頂に行ってみようかと思ったのだが、この山、歩くにはけっこう大きそうだ。
山頂までの往復でどれだけ時間をとられるか読めなかったので、今回は断念したのであった。左の膝の裏もかなり痛いし。それでも最低限、郡役所は見ておかなければ!と建勲神社からさらに南に進むと、山裾の小高い場所にそれはあった。
かつての東村山郡役所は現在、旧東村山郡役所資料館として郷土の歴史を紹介する施設となっている。
やはり織田信長ブランドが自慢のようで、中の展示は宣教師が描いたという信長の肖像画がフィーチャーされていた。
ちょんまげがなければ明治の文豪といった雰囲気が少しあり、モダンな顔つきがなかなか興味深いのであった。
建物じたいは昨日訪れた鶴岡の旧西田川郡役所にけっこう似ている。当時の誇りが読み取れるデザインということか。
2階へ上がる階段が異様に急で、ふつうの角度の階段をその上から重ねて対処している光景が面白かった。
L: 旧東村山郡役所資料館。1879(明治12)年の築。やはり明治天皇が行幸の際に休憩所としたそうな。
C: 近づいて撮影したところ。 R: 内部の展示はこんな感じ。織田家以降の天童の歴史を紹介している。旧郡役所の中をひとまわりすると、天童駅に戻ってレンタサイクルを返却。もうちょっとあちこち行けたとは思うが、
変にドタバタするのもイヤだったので、早めに次の行動に移ることにしたのだ。まあでも、ちょっと消化不良気味。さて、天童といえばさっきの電柱に詰将棋があったように、「将棋の街」として全国的に知られている。
現在でも将棋駒の95%がここ天童で生産されているというんだから凄い。もともとは織田家が苦しい財政を改善すべく、
つくり方をほかの街から教えてもらって始めたという。それが定着して、天童ならではの伝統工芸となっているのだ。そんな将棋駒についてのすべてを知ることができる施設が、天童駅の駅舎内にある天童市将棋資料館である。
スタジアム行きのバスを待ちつつ見学しようと、300円払って中に入る。当然ながら施設じたいはコンパクトだが、
中に入ったらそこはかなりの密度で展示がなされている、実に濃密な空間となっていた。けっこう驚いた。
まずチェスや将棋の原形といわれている、古代インドのチャトランガというゲームの紹介からスタート。
序盤はそうして世界各国の似たゲームを挙げていきながら、将棋へとたどり着く構成となっている。
将棋じたいも最初から現在のような姿をしていたわけではなく、時代とともに整理されてきたことがよくわかる。
なんせ、膨大な種類の駒が盤面を埋め尽くして「どう動かすんじゃコレ」と呆れてしまうような時代があったのだ。
しかも古い時代の将棋はどういうルールだったか、詳しい文献が残っていないという。それはちょっと意外だ。
そして後半の展示は、工芸品としての将棋駒の紹介となる。原料となる木材の差異に、書体の違い。これが面白い。
僕らが何の気なしに見ている将棋駒の文字だが、それぞれに細かな特徴があるのだ。本当に奥が深いのである。
さらに、高級品になると文字を彫るのではなく、漆で盛り上げてつくられているのだ。これはキリのない世界だ。
実物の工芸品が一面に並んでいる光景は実に壮観で、これには思わず見とれてしまったのであった。
ちなみに僕は将棋のルールを知りません。金将と銀将の動きの区別がつかずに挫折している阿呆でございます。これでいい具合にスタジアム行きのバスが来る時間になったかな、と思って外に出たのだが、バスが来る気配はない。
また、バスを待つ客の姿もない。時計とにらめっこして待ち続ける。しかし来ない。バス停に客もまったく並ばない。
後でわかったのだが、スタジアムは天童市にあるにもかかわらず、山形駅発の方がバスの本数が多いのである。
天童駅発のバスはなんと1時間に1本程度で、しかもそれでも十分に余裕がある乗車率なのだ。冷静に考えてみれば、
まあ確かにそうかもしれない。天童市内のサポーターはおそらく車でスタジアムまで行くだろうし。
そんなわけで、たっぷりと待った末にようやく来たバスに揺られて、山形県総合運動公園へ。山形のサッカークラブといえば当然、モンテディオ山形である。しかしホームスタジアムは県庁所在地の山形市にはない。
ここ天童市の、山形県総合運動公園陸上競技場(命名権で「NDソフトスタジアム山形」と呼ばれている)なのである。
略称は「NDスタ」で、「んだすた」と一般的に呼ばれているそうだ。東北弁の肯定の返事、「んだ」に通じる響きがあり、
スポンサーであるエヌ・デーソフトウェアはその事実を好意的に捉えているそうだ。実にいい話である。
しかしNDスタはJリーグのクラブライセンス制度で制裁措置を受けてしまうくらいに設備面に課題を抱えている。
そのため、これはチャンスと山形市では山形駅西口にサッカー専用スタジアムを建設する動きが活発化しており、
引き続き天童での試合開催を望む皆さんとの間で誘致合戦が勃発しつつある状況となっているのだ。
おまけに山形は、Jリーグが秋春制に移行した際に大ダメージを被るクラブとして真っ先に名前が挙がる存在である。
そんなわけで、新スタジアム建設はJリーグが本当に秋春制に移行するのかどうかといった問題も絡んできて、
非常に複雑な様相を呈している。まあ、地方クラブの置かれているあらゆる現実を知るには絶好の事例ではある。
L: シャトルと呼べるほど頻繁に運行していないバスを降りると並木道。ここを抜けるとスタジアムが現れるのだ。
C: 山形県総合運動公園陸上競技場(面倒くさいので、以降「NDスタ」)。駐車場の充実ぶりがモンテ人気に一役買っている。
R: スタジアムの内部はこんな感じである。陸上のトラックその他でピッチが遠いのは、やはり残念である。いつもどおりにスタジアムを一周してから中へと入る。最近はすっかり、奮発してのメインスタジアム指定席観戦ばかりだ。
バックスタンドは西日が直撃するのでどこに行っても見づらい。それなら少し高くてもメインの方がずっといいのである。
そして指定席だと、早めに行って見やすい場所を確保する手間がかからないのがいい。スケジュールに無理のある旅では、
そこで時間を取られてしまうのがもったいないのである。ついにオレも金で物ごとを解決するようになってきたか。そんなことを考えつつチケット片手に自分の席を探すと、なんと、ほぼど真ん中ながら最前列でやんの。これは困った。
℃-uteのコンサートの最前列だったら、飛んでくる舞美の汗を堪能できる可能性が高いからそりゃあ素晴らしいことだが、
陸上のトラックを挟んでのサッカー観戦で最前列は、何もいいことがない。ある程度高さがないと見づらいものなのだ。
今回、チケットはモンテディオ山形のホームページ経由で買ったので、ある意味これはサーヴィスなんだろうけど、
はっきり言ってこれはありがた迷惑なのであった。それなら手数料を払ってでも席を決められるようにしてほしい。ほどなくしてキックオフ。メインスタンド観戦の面白さは、試合を運営する人たちの動きを見られる点にもある。
審判、監督、控え選手、そしてスタッフ。試合を円滑に進めようとするみんなの動きがまた面白いのである。
最前列だとその辺がしっかり味わえるのだが、やはり肝心なのは選手たちが戦いを繰り広げる試合の方なのだ。
監督席が邪魔でピッチが見えない苦しみを味わって過ごす前半はけっこうつらかった。実にうれしくない最前列だ。試合は序盤から山形が優位に立つ。相手は昨シーズンぶっちぎりの最下位でJ2に降格した札幌で(紹介遅すぎ!)、
財政的な問題もあって有力選手がかなり抜けており、20歳そこそこの選手を中心に戦うことを強いられている。
しかし広大な北海道を本拠地とするだけあり、有望なユース出身選手が絶えず入ってくるという武器も持っている。
そのうち「ビルバオ化」するんじゃないかと冗談混じりに言われているが、それも悪くない選択肢だと僕は思う。
(リーガ・エスパニョーラのアスレティック・ビルバオは、地元のバスク人選手だけでチームを構成していることで有名。
ちなみにビルバオの現在の監督は、あのマルセロ=ビエルサ。僕の3-3-1-3の「師匠(と言わせて)」である。)
サポーターの声援を受ける山形はボールを保持してサイド経由での攻撃を企図するが、札幌守備陣に引っかかる。
そうして札幌はFW前田俊介にボールを預けて、2列目以降の選手が追い越す。前俊の技術を頼っているわけだ。
見るからにオーヴァーウェイトな前俊はドリブルで仕掛けることはないものの、相手を上手くかわしてパスを供給。
札幌はこのスタイルのカウンターで切れ味鋭く山形のゴールに迫る。対照的な攻撃が繰り広げられるゲームだ。ボールを持っているのは圧倒的に山形だったので、このまま圧力をかけて攻めきるかなと思った前半24分、
札幌が先制点を奪った。前俊へのパスを山形がカットしたまではよかったのだが、札幌が素早く奪い返して右へパス。
転がってきたボールを岡本がひょいっと浮かせて、飛び込んできたGKの上を抜いてゴールを決めた。
札幌にしてみれば、出足の鋭いショートカウンターがきれいにハマった格好で、文句のつけようのない得点だ。
逆に山形にしてみれば、せっかくボールを保持しておきながら一瞬の隙を衝かれての失点。ホームでこれは屈辱だ。
L: 選手入場の光景。ほぼど真ん中で最前列だとこういう光景が拝める。でも、試合が見づらいマイナスの方が大きい。
C: 札幌の得点シーン。こういう咄嗟の動きを正確にできるところにプロの凄さを感じる。これで山形がムキになる。
R: 山形の前半最大のチャンスシーン。絶妙なタイミングでのヘッドだったが、相手GKの好セーヴに阻まれてしまった。その後も山形は積極的に攻めるものの、パスの精度がイマイチで札幌の守備に引っかかる場面が目立つ。
なかなか思うように攻めきれないままで山形はハーフタイムを迎えることとなった。
L: ハーフタイムにバックスタンドに向けてフラフープのパフォーマンスをするマスコット「ディーオ」。
R: 後半に向けて選手が登場して盛り上がる山形のゴール裏。けっこうびっしりと埋まっているじゃないですか。後半に入り、山形はさらに圧力をかけた攻撃を展開する。まさに「目の色が変わった」ような猛攻ぶりだ。
それまでとは明らかに違う強気さでゴールに迫るようになり、次から次へとシュートを放っていく。
かなりのハイペースで決定的なチャンスをつくりだしていく山形だったが、なぜか、どうしてもゴールが遠い。
後半に入ってからの45分は、とにかく山形のシュートミスのオンパレードだった。攻めて、攻めて、そして外す。
それだけで時間が経ってしまった感じである。札幌が守りきったというよりは、山形の完全なる自滅だった。
奥野監督も何かしら動けばいいものの、チャンス自体はつくれているからか、そのまま放置で時間は減る一方。
サッカーってのはチャンスを逃し続けると罰を食らうスポーツだ。変化がなければ、負ける流れになっているのに。
L: 山形が決定機を逃したシーン3連発。しっかりと人数をかけて攻めているのだが……。 C: 1対1で宇宙開発。
R: これまたゴール前でチャンスをフイにした場面。この日の山形は信じられないほどシュートがまともに飛ばなかった。もうひとつ、気になったのは選手のプレーに対するサポーターの反応だ。もちろん全員がそうだとは言わないが、
どことなく「目の肥えていない」雰囲気を感じる。山形を贔屓する姿勢は当然としても、冷静に観戦する目を持っていない。
象徴的だったのが、ハイキックの反則があった場面だ。ボールを受けようとする札幌の選手に対し、
山形の選手が横から足を上げて競ろうとしたのだが、ボールはこぼれ、山形の選手はそのまま滑ってピッチに倒れた。
審判は山形のファウルを宣告。オレが主審でもこりゃハイキックとるわな、と思ってそれを見ていたのだが、
メインスタンドでは「倒れているのはこっちだろ、なんでファウルなんだよ」という反応が主だった。
サッカーの経験が少しでもあれば、その辺の主審の意図は理解できるはずなのだが、それをあまり感じないのだ。
なんでもかんでも山形の選手を中心に見てしまっていて、ひとつひとつのプレーを客観的に評価できていない気がする。
山形という地において、サッカークラブが地元住民の誇りとして機能している光景はたいへん素晴らしいのである。
でも、その次の段階、サッカーの内容を冷静に見つめる視線というものは、まだ醸成されていないのではないかと思う。山形の自滅に助けられ勝利した札幌。試合終了後にゴール裏と喜びを分かち合う。
というわけで、ゲームはそのまま0-1で札幌が勝利。この日の山形の精度のなさは、本当に究極的だった。
正直なところ、流れを読むサッカーができていない山形は、J1再昇格まで時間がかかりそうな印象がした。バスで天童駅まで戻ると、さっさと晩飯をいただいてしまう。明日の仕事に悪影響が出ると困るので、
今回は贅沢して山形新幹線で帰ることにしたのだ。それで駅弁はないかと探ってみたのだが、
天童駅の規模は小さく、駅弁が期待できる感触はまったくなかったので、あきらめてふつうに食ったのだ。
よく考えたら、バスはバスでも山形駅行きのバスに乗って山形駅から新幹線にすれば駅弁にありつけただろう。
わざわざ天童駅からNDスタに行ったからって、帰りもそうする必要はなかったのだ。まだまだ視野が狭い。無事にメシも食って穏やかな気分で過ごしていたら、ややホスト風な雰囲気をしたスーツ姿の3人組が現れた。
そう、言われなくても僕にはわかる。彼らはさっきまでNDスタのピッチに立っていた選手たちなのだ。
前に熊本空港でヴァンフォーレ甲府の選手たちを見かけたときもそうだったが(→2008.4.29)、
Jリーガーってのは生で見るとどこかチャラっとした雰囲気があるのね。なんでかはわからんけど。
赤と黒のタオルマフラーを巻いた在京札幌サポーターたちがそわそわしだす。選手も選手で落ち着かない。
この微妙な雰囲気が微笑ましい。選手のプライヴェイトには踏み込むまい、でもやっぱり気になる、
そんな気持ちが周囲に漂ってしまっているのである。「なんでこの3人は東京に行くのかな?」
「若手だから研修か何かじゃないの?」……そんな具合にそわそわ、そわそわ。選手たちは近くて遠い存在だ。
とはいえ選手たちは声をかけてきた人には丁寧に対応をしていて、やっぱりそれがまた微笑ましい。19時19分、札幌の選手とサポと僕を乗せて、つばさ158号は天童駅を後にする。スカスカじゃん、と思ったら、
次の山形駅で大量の乗客が乗り込んできてほぼ満席に。やっぱり山形駅を拠点にアクセスする人が多いのか。
日記を書く気力も起きなくてうつらうつらしながら揺られていたのだが、ふとした瞬間に理解した。
山形新幹線の名前が「つばさ」なのは、出「羽」国を走っているからか……。いや、まあ、そんだけなんだけど。
テスト前の1週間は部活がないのはどこの学校も一緒のようで。そうなりゃもう、旅行するしかないのだ。
先週もゴールデンウィークで東海方面に出かけているのだが、そんなものは関係ないのだ。行けるときに行くのだ。
さて、新緑の美しい季節ということで、どこに出かけても素敵な思いができるわけだが、どこに行こうか。
……といっても夏至も近づいて日が長くなってきたこの時期、僕としては北日本の優先順位がどうしても高くなるのだ。
やはり大内宿の記憶がいまだに強烈なのである(→2010.5.16)。寒い時期の長い東北に行く、貴重なチャンスに思える。
というわけで東北のどこにするか。五能線? 八戸と奥入瀬渓谷? 行きたいところはいっぱいあるのだ。
旅行の計画を練る際に考慮することはいろいろあって、毎月一度のサッカー観戦も重要な要素なのである。
調べてみたら、いい具合に山形×札幌の試合が行われることが判明。というわけで、今回の目的地は山形県に決定。日記を見ればわかるとおり、山形県にはなんだかんだでちょくちょく行っていて、今さら特に珍しくもない感じもある。
が、僕としては、かつて無理な旅程の犠牲になった酒田と鶴岡にリヴェンジを果たしたい思いがとにかく強いのである。
というわけで2日間のうち、まず初日はその酒田と鶴岡に充てることにする。一宮参拝も兼ねてだ。
そして2日目は行ったことのない街へ行き、サッカー観戦で締める。予定を組んでみたら、予想以上に面白そうだ。
期待に胸を膨らませつつ、お馴染みの新宿西口バス乗り場へ。いつも世話になっている飯田行バスも出る乗り場だが、
鶴岡・酒田方面へのバスもここから出ているとは知らなくって驚いた。座席に着いたら即、就寝。◇
目が覚めたのは、鶴岡市内を走っている頃合。旅先で迎える朝、いちばん気になるのはなんといっても空模様だ。
運転席から外の景色を見たところ、空は白い。悲しい気持ちになるほど暗くはないが、しっかりと雲に包まれている。
ワイパーを確認すると、動いていない。天気予報ではぐずつくだろうと言っていたし、降っていなけりゃ御の字だ。
そう思ってのんびりと行く先を眺めていたら、窓ガラスに水滴がくっつきはじめる。間隔をおいてワイパーが動く。
ダメだこりゃ、と下唇をビロッと出して、座席に力なくズルリと寄りかかる。それでもバスは快調に走り続ける。バスは酒田駅では停まらない。それより少し北に行ったところにあるバスターミナルに停車する。
ほかの乗客たちと一緒に降りると、道を挟んだ向かいにあるコンビニで朝食を買い込んでおく。
幸いなことに雨は一過性のものだったのか、傘をさす必要のないまま酒田駅まで来ることができた。
今日は酒田でも鶴岡でもレンタサイクルで動くことを前提に旅程を組んでいるので、このままもってくれよと祈る。コインロッカーに荷物を預けると、切符を買って列車に乗り込む。6時39分、酒田駅を出て北へと走り出す。
ほどなくして右手に雄大な山が見えてきた。ただの山でないことが一目でわかる威容である。そう、鳥海山だ。
山形・秋田両県にまたがる鳥海山は、古くから信仰の対象となっている。見ていて拝みたくなる気持ちがよくわかる。羽越本線より眺める鳥海山。いずれ僕は登っちゃうんでしょうか……?
酒田駅から8分で吹浦(ふくら)駅に到着する。本日最初の目的地はここから徒歩5分ほどの場所にある。
駅舎の中のほとんどは小さな待合スペースになっており、そこで用意しておいた朝食をいただくと、いざ出発。
駅を出てからすぐ左に曲がり、そのまま道なりに北へと進んでいけば、行き止まりが目的地なのである。出羽国一宮は鳥海山大物忌神社なのだが、実はこの神社、かなりややこしいのである。
というのも、鳥海山の山頂に位置する山頂御本社のほか、登山口2ヶ所に吹浦口之宮と蕨岡口之宮があって、
「鳥海山大物忌神社」はその3つの総称ということになっているからだ。諏訪大社(→2006.9.3)に近い感じかもしれない。
やはりきちんと3ヶ所とも参拝すべきなのだろうが、鳥海山はきちんとした山なのでナメちゃいけないのだ。
山頂はご縁があったら参拝しましょうということにして、吹浦口之宮と蕨岡口之宮は最低限行っておこう、というわけ。ということで、まずは北にある吹浦口之宮から攻めたわけである。昔ながらの古道の雰囲気をわずかに残す参道を行くと、
ほどなくして鳥居が現れる。鳥居をくぐって少し進むとまた鳥居。そこからが吹浦口之宮の境内となる。
L: 住宅地ではあるのだが、どことなく歴史を感じさせる道を進んでいくと、吹浦口之宮の鳥居が現れるのだ。
C: 吹浦口之宮の境内はこんな感じ。敷地に余裕があって、けっこう開けている。思ったより立派だった。
R: こちらは吹浦口之宮の下拝殿。この向かって左手奥に、拝殿と本殿に通じる石段がある。最初気づかなかった。さすがにふだんから大賑わいという雰囲気ではないのだが、この集落の中心的な存在であることはよくわかる。
集落を貫く道の行き止まりにこれだけの広さが確保されているわけだから、さまざまな使い方が想定されているのだろう。
そんなことを考えつつ参拝し終えたとき、ようやく気がついた。社殿の後ろに控える杜へ続く石段があることに。
探検気分で石段を上がっていくと、そこには先ほどの拝殿よりもはるかに立派なもうひとつの拝殿がどっしり構えていた。
その奥にはさらに一段高くなっており、本殿らしき屋根がのぞいている。それもふたつ。脇には摂社か末社もある。
なんとも不思議な空間構成だ。まず、拝殿が上下でふたつあるというパターンは初めてである。
そして上の拝殿の奥で本殿がふたつ横に並んでいる。拝殿ふたつに本殿ふたつ。これは実に珍しいことだ。
何がどうなったらこういう形になるのか、首を傾げつつも、もう一度参拝するのであった。
L: 吹浦口之宮、上の拝殿。この奥では本殿がふたつ並んでいる。なんとも複雑な構造だなあ。
R: 一宮ということでやっぱり本殿は立派なのであった。拝殿とともに国登録有形文化財とのこと。石段を下りて、しばらく境内を歩きまわってみる。下拝殿の前には「車御祓処」という立て札があって、
ボーッとそれを見ているうちに気がついた。なるほど、拝殿の用途が異なっているということか。
吹浦口之宮はかつて修験道の舞台だったわけだが、今は地元の神社であり、集落をつなぐ場として機能する場所だ。
ふたつの拝殿は、その二重性を物語るものなのだ。上の拝殿は古来の修験道や一宮としての威厳を担当しており、
どことなくフレンドリーな印象のある下の拝殿は集落のための空間なのである。そう考えると納得がいく。
ホーム向けの誇りとアウェイ向けの誇りが分けられている、とも言えそうだ(→2013.1.9)。なんとも面白い事例だった。参道を戻り吹浦駅へ。あらかじめ印刷しておいた地図とにらめっこして、次の目的地である蕨岡口之宮への経路について、
どんな感じなのか想像して過ごす。当初はこの辺りの中心的な駅である遊佐(ゆざ)駅で降りる予定を組んでいたのだが、
どうもその次の南鳥海駅で降りた方が若干近いように思えてきたので、 南鳥海駅から蕨岡口之宮を目指すことにした。
やがて酒田行きの列車が来たので乗り込む。車内で車掌に料金を支払って、鳥海山を眺めつつ時を待つ。南鳥海駅は線路の両側に吹きさらしのホーム、その片方に申し訳程度の駅舎が建っている、そんな駅だった。
とりあえず地図に従って、ただひたすらに西へと向かう。最初のうちはかなり余裕ぶっこいて歩いていたのだが、
道路の通り方を何度か地図で確認してみると、僕の感覚とはイマイチ噛み合っていない。イヤな予感がしてくる。
地図はGoogleマップを職場でプリントしたものだが、困ったことに白黒で、道路がかすれてうっすら見えるだけ。
国道ですらそんな状態なので、いわんやふつうの農道をや、である。自分がナメてかかっていたことにようやく気がつく。
地図で見る限りもっと近いと思っていた国道345号だが、たどり着くまで予想外に時間がかかった。これはマズい!と焦る。
L: 最初のうちはこんな具合に鳥海山をバシバシ撮影するほど余裕ぶっこいていたのだが……。
R: 国道345号を越えて蕨岡口之宮へと向かう道。蕨岡口之宮は行く手にある丘を右からまわり込んだところにある。ウエー蕨岡口之宮への経路じたいは単純なのだ。交差点にはそれなりに案内も出ているので、特に迷う要素はない。
しかしそれは車での話になるだろう。歩きだと庄内平野の広大さを、これでもか!と実感させられることになる。
あまりに広大なので、地図を見ていてもどうしても距離感がズレてくる。歩いても歩いてもぜんぜん進まないのだ。
結局、南鳥海駅を出発してから1時間以上かかって、ようやく蕨岡口之宮に到着したのであった。
L: 鳥海山大物忌神社・蕨岡口之宮にようやく到着。丘の中にある本当にちょっとした集落の中心に鎮座している。
C: 蕨岡口之宮の随神門。蕨岡口之宮は特に建物が歴史を感じさせるものばかりで圧倒されたのであった。
R: 境内の様子。神門を抜けてまっすぐ行くと石段。上ったところで左に曲がって本殿と向き合うことになるが……。蕨岡口之宮の建物はどれも見事で、変に手を加えられていない分だけ歴史を感じることができるものばかりだ。
そのせいか、やはりどことなく俗世とは異なる雰囲気が漂っているように思う。参拝者の拒絶と言うと少し違うが、
どこか人を寄せ付けない感じというか、人間と自然の接点だとしてもどこか自然寄りというか、そういう印象なのだ。
そんなことを感じながら石段を上って本殿へと進んでいく。上りきって左を向くと、鳥居の奥には巨大な社殿があった。
L: 二の鳥居の辺りから眺める蕨岡口之宮の本殿(拝殿も兼ねている)。1896(明治29)年築とのこと。
C: 写真だとわかりづらいのだが、近づいてみるとその巨大さに圧倒されてしまう。本当に大きいのである。
R: 側面を撮影してみた。その威容に、やっぱり一宮は違うなー!と毎度お馴染みのセリフを思わず漏らしてしまった。拝殿と本殿を兼ねているというその建物は、とにかく大きくて驚いた。さすがは一宮、と感心させられる威容だ。
境内の広さにわりと余裕のあった吹浦口之宮とは対照的に、蕨岡口之宮の境内はけっこう狭苦しい印象があって、
コンパクトな中に随神門や石碑や舞殿などがぎゅっと集まっている感触があった。そこに、一段上がって大きな本殿である。
空間的なコントラストはかなりのもので、その分だけしっかりと参拝者にインパクトを与える工夫となっているのだ。しばらく本殿を眺めて一宮の威厳、鳥海山の威厳を堪能すると、蕨岡口之宮の境内を出る。
隣には神仏習合ということで、かつて蕨岡口之宮とともに修験道の一大拠点として栄えたという龍頭寺がある。
残念ながら、今は往時の勢いを感じさせる要素はほとんどなくなってしまっていた。残念なものである。
そしてもうひとつ、蕨岡口之宮の脇に少し学校を思わせるような木造の建物があったのが非常に気になる。
入口のところにある懸魚の存在が、この建物のタダモノでない印象を深めているのだが、いったい何なのやら。
L: 蕨岡口之宮の舞殿。どちらかというと、舞殿というよりも鐘楼に思えるデザインである。珍しい。
C: お隣の鳥海山龍頭寺。鳥海山を龍に見立てた際にその頭部に位置することからその名がついたという。
R: 蕨岡口之宮の脇にある、よくわからない建物。個人的にはちょっと学校っぽいという印象を受けたのだが。蕨岡口之宮の参拝を終えると、来た道を戻って丘をカーヴしながら下っていき、庄内平野に戻る。
平野に出てからが大変なのは、もう十分すぎるほど実感している。が、ため息をついていてもしょうがないのだ。
このまま延々と南鳥海駅まで同じ道を戻るのは絶対に勘弁願いたかったので、距離は少し遠くなるが遊佐駅を目指す。
とにかく少しでも変化が欲しかったのだ。来たときとは少しでも異なる風景を見て歩きたかった。
やはりルートはそれほど難しくなくって、国道345号を延々と北に行けばいいだけ。やがて街が見えてくるので、
その中心部を目指して少し西へと入っていけばいい。遊佐町役場への案内板もあり、迷うことはまったくなかった。遊佐町役場。辺りは町レヴェルではあるが、しっかり賑わいが感じられた。
そんなわけで、南鳥海から蕨岡口之宮まで行った往路に比べ、復路は予想以上にスムーズだった。そこは助かった。
でも途中、遊佐町役場前を通過する直前辺りで、しっかりと暗くなってきた空から雨が本格的に降ってきた。
スケジュールは狂うし雨に降られるしで、今回の旅行はどうも運に恵まれていないようだ。がっくりである。酒田駅に戻ってくると、コインロッカーに預けた荷物はそのままに、傘をさして早足で歩きだす。
予定ではレンタサイクルを借りて、前回訪問時(→2009.8.12)に行けなかった場所をどんどんまわるつもりだったが、
この雨の中を強引に自転車で走りまわる気などまったく起きない。最低限のタスクをこなそう、と気持ちを切り替える。というわけで、まず最初にリヴェンジするのは、駅からちょっと北に行ったところにある本間美術館だ。
さっき東京からの夜行バスが到着したバスターミナルの斜向かいに位置しているので、「やり直し」感覚がよけいに強い。
敷地内に入ると建物の特徴的な屋根は相変わらずで、4年前の悔しさが鮮明に蘇る。リヴェンジできて本当にうれしい。
現在は「江戸時代の絵画」という企画展が行われており、僕としてはかなり楽しめそうなテーマだ。喜んで展示室に入る。
江戸幕府の御用絵師として君臨した狩野派から、執念で朝廷の御用絵師に復帰した土佐派、さらに若冲、応挙と、
点数は多くないものの、まさに日本画における伝統と革新をテンポよく一気に味わえる内容となっていた。
欲を言えば、もうちょっと数があれば「狩野派らしさ」や「土佐派らしさ」を帰納的に理解できたと思うのだが、
まあその辺はきちんとほかの美術館も訪れて自力でどうにかすべきだろうから、文句は言わん。よろしゅうございました。まずます満足して新館を後にすると、本間家の別荘である「清遠閣」と庭園「鶴舞園」へと向かう。
本間美術館の入館料はこれらの施設も込みでの料金となっているのだ。清遠閣と鶴舞園は1813(文化10)年、
当時の港湾労働者たちの冬期失業対策事業としてつくられたそうだ。単なる贅沢で建てたわけではないみたい。
以後は庄内藩主がたびたび領内を見まわる際の宿泊施設としても使われたとのこと。
明治末期に2階建てとなり、戦後の農地解放を経て、1947年に本間美術館としてオープンする。
清遠閣の中はやはり、和風住宅ならではの居心地の良さが抜群で、思わず畳の上で正座してくなってしまう。
歴史を感じさせるわずかな歪みの入ったガラスからは鶴舞園がよく見える。特別広くはないが、どの部屋も快適だ。
2階から見下ろす鶴舞園がまた見事。本来なら鳥海山を借景とするらしいのだが、雨に煙ってまったく見えない。
それでも庭園内の新緑たちが鮮やかさを競っているさまは、とてもほほえましく映るのであった。
L: 本間家の別荘「清遠閣」。 R: 庭園「鶴舞園」。この手の庭園にしては、暗い印象がないのが素敵である。本間美術館を後にすると、前回訪問時の記憶から位置関係がだいたいわかっているので、テキトーに南に歩く。
すると予想どおりに酒田の市街地に本格的に入ることができた。実に便利な能力だと独り悦に入るが、
できることならレンタサイクルで効率よく街歩きをしたかった。その悔しさの方がどうしても強い。県道42号を南下していき、中町通りの次の交差点を右に曲がれば旧本間家本邸である。
旧本間家本邸は三代目の本間光丘により、幕府の役人を迎える本陣宿として1768(明和5)年に建てられた。
竣工すると庄内藩に献上されたが、役人が江戸に帰ると本間家に戻され、1945年まで住宅として使われていた。
ここも前回訪問時には朝早すぎて開いていなかったので、大いにワクワクしながら門をくぐって中に入る。
まず目についたのは敷地の端っこにある神社だ。さすが本間家、自宅の端っこに神社をつくっていたのだ。
そしてあらためて向き直り、本邸入口へと歩いていく。本間美術館との共通入館券を買っておいたので、
するっと上がらせてもらうと、そこは実に見事な和風の住宅。建物はシンプルな四角形に近い平面をしており、
無数の部屋に分けられている。もちろん客を迎える部屋はあるが、生活のための空間という本質を守っている。
その広さと質素さに、さすがは本間家だわ、とすっかり感心しながらあちこち歩いてまわった。その本邸の向かいにあるのが、別館「お店(おたな)」。こちらはその名のとおり本間家の店舗だった建物で、
現在は本間家で実際に使われていた仕事道具や生活用品、さらには火事の際に消火する道具などが展示されている。
さまざまなジャンルで「○」の中に「本」の本間家印がついたアイテムが並ぶ光景には圧倒されるしかないのであった。
でも展示されているものでいちばん面白かったのは、明治期に東京で開催された博覧会の写真絵はがきである。
当時最新の建物が、都内のあちこちに建っている。今ではすっかり姿を変えた場所たちの、かつての姿。
もうとにかくそれが面白くって面白くってたまらなかった。やはり何気ない光景を残しておくことは大切なのだ。
L: 旧本間家本邸の敷地内にある神社。 C: 旧本間家本邸。これが広い! そして質素で、本間家の実力を堪能できる。
R: 道を挟んだ向かいにある、別館「お店」。中ではかつての生活用品を展示しているほか、お土産も大量に売っている。そのまま西へと歩いていって、今度は酒田を代表する廻船問屋だったという旧鐙屋(あぶみや)にお邪魔する。
ここも前回訪問時には開いていなかったのだが、入口ではなんと、おしんの人形がお出迎え。
それで『おしん』の舞台が酒田だったことを知る無知な僕。地元は今年公開される実写映画で盛り上がっているようだ。
で、旧鐙屋では本間美術館や旧本間家本邸とは違ってどこまでも写真を撮り放題。これはけっこうありがたい。
当時の回船問屋の生活ぶりを、着物を着せたグレーの人形で展示する手法はなかなか独特なのであった。
L: 旧鐙屋入口。おしんとハイチーズできるようになっているのだ。 C: 精巧な北前船の模型が展示されている。
R: 展示はこんな感じ。これはいちばん奥にある台所近辺の様子。生活感をよく持たせた展示で面白かった。いちおう、そのまま南に出て山居倉庫まで行ってみた。大半の倉庫は現役で、南端に酒田市観光物産館が入っている。
これまた前回のリヴェンジということで、観光物産館の中に入ってみた。店内の土産物は非常に充実していたのだが、
僕は買い物をしない習性が染み付いているので、特にこれといって何もすることなく出てしまうのであった。晴れていればレンタサイクルをかっ飛ばして飯森山公園まで行き、ぜひとも土門拳記念館を訪れたかった。
しかし徒歩でそれをやるにはあまりに遠すぎるし、バスを頼るのも時間的制約でいろいろ難しくなる。
日頃地道に予習をしておいて、運がよければまたチャレンジできるといいかもね、と思って酒田を去る。
L: 酒田市役所を再度撮影。現在の庁舎は1964年竣工で、3年後に建て替え工事が完了する予定となっている。
R: 駅へ向かう途中、酒田ラーメンの有名店・ 三日月軒で大盛をいただいた。実に正統派である。チャーシュー旨い。酒田の次は鶴岡である。今日は鶴岡に泊まる予定となっているのだ。残りの時間、たっぷり観光なのだ。
が、こちらでもレンタサイクルで動くことを前提としていたので、雨でプランがけっこう狂うこととなった。
鶴岡の観光名所は鶴岡公園(鶴ヶ岡城址)周辺に集中しており、あとは出羽三山、といった具合にはっきりしている。
(クラゲの加茂水族館も有名だ。なお、鶴岡は平成の大合併により東北地方で最も面積の広い市となっている。)
もちろん出羽三山には行ってみたいが、その3ヶ所は「ついでに行くか」感覚で訪れるにはあまりにも難度が高い。
そもそも前回鶴岡を訪れた際(→2009.8.12)には、かなり中途半端で消化不良な観光ぶりとなってしまっているので、
今回は素直にそのリヴェンジに集中するのだ。鶴岡公園周辺で見ていないところをきちんと押さえることに徹する。さて鶴岡公園は鶴岡駅からけっこうな距離がある。傘をさしながらトボトボ歩いていくのだが、
さっきの大盛ラーメンが効いたのか、途中でトイレに行きたくなってきた。事態は急を要する、そんなレヴェル。
大ピンチの僕を救ってくれたのは、江鶴亭という施設だった。明治時代の商家建築をきれいに改装した建物で、
なぜか東京都江戸川区の伝統工芸品が展示されている。無事に危機を脱してから展示を見せてもらったのだが、
そこでようやく納得。戦時中に江戸川区民が鶴岡に疎開したことを縁に交流が始まり、友好都市となっているのだ。
江鶴亭とは江戸川と鶴岡から一文字ずつとって付けられた名前とのこと。うーん、勉強になりました。内川を渡って銀座商店街を行く。前回訪問時には今ひとつ元気がないという印象だったのだが、今回はそうでもない。
賑わっているとは言えないが、まずまず人通りがあって、細々としながらも確実に営業している、そんな感じがした。
その銀座商店街のアーケードが終わったところで、さて鶴岡公園はどっちだったか、と迷ってしまう。
いちおう、職場で印刷した地図が手元にあるのだが、かすれた白黒の地図で、肝心の現在地がわからないのである。
鶴岡の市街地は基本的には碁盤目状になっているのだが、途中で内川が大胆すぎるほどにカーヴしているせいで、
川を渡ると方角の完全が狂ってしまうのだ(人間、川はまっすぐ流れるものだと錯覚している生き物なのだ)。
雨の中、よけいなロスはしたくない。でもしょうがないので覚悟を決めて、羽黒山の反対方向、再び内川を渡る方向へ。
そしたらこれが正解で、ほどなくして鶴岡市役所が見えてきた。しかし僕の感覚の中の方角とイマイチ噛み合わない。
前回訪問時の方角感覚と、いま目の前にある市役所の向きとがうまく合致しないのである。鶴岡はややこしい。
L: 鶴岡の銀座商店街を行く。どことなく雰囲気は明るい。 C: 鶴岡市役所。1981年竣工だそうで、なるほどそれっぽい。
R: 1915(大正4)年に大正天皇の即位を記念して建てられた大宝館。前回も撮影したので、今回は少し角度を変えてみた。そんなこんなでどうにか鶴岡公園に到着したので、満を持して前回訪問時に行けなかった場所へのリヴェンジを開始する。
まずは大宝館からだ。明治期ならともかく、大正期になってからのこういう擬洋風な感触の建築は珍しいように思う。
かつては図書館として使われていたそうで、現在は鶴岡出身の人物を紹介する展示施設となっている。
いちばんの有名どころは横光利一で、あとはやはり郷土に尽くした人が多い。高山樗牛もクローズアップされている。
とにかく紹介されている人物が多く、つまりはそれだけ鶴岡という都市を誇っているということだ。そこはうらやましい。鶴岡公園ではもう1ヶ所、建物が威容を誇っている場所がある。やはりここも前回のリヴェンジとして訪れる。
庄内藩の藩校は「致道館」といい、市役所の道を挟んだ南側にしっかりと建物が残っている(→2009.8.12)。
そして、その名称を引き継いでいる博物館が鶴ヶ岡城址の西側にあるのだ。「致道博物館」である。
両者は施設としては別物であるのだが、前回訪問時には僕はその違いがあまりよくわかっていなかった。
それで違いを理解した今回は、きちんとあちこち見てやろうと鼻息荒く乗り込んだわけである。致道博物館の売りは、なんといっても、重要文化財クラスの建物をいくつも移築保存していることである。
雨の中で訪れたのは非常に残念ではあるのだが、それでも見ているだけで興奮できる建物がそろっていてウヒウヒ。
やはり地元の歴史的建造物をこれだけ集められるというのは凄いことだ。ここにも鶴岡の誇りをしっかりと感じる。
L: 旧鶴岡警察署庁舎。1884(明治17)年竣工。博物館の事務所として使われているので、中は見学できない。
C: 旧西田川郡役所。1881(明治14)年竣工。明治天皇が東北を巡幸したときに泊まったとのこと。役所に泊まったのね。
R: 御隠殿(ごいんでん)。殿様が隠居所として使っていた建物で、現在は各種文化財を展示。庄内竿がすごく充実。旧西田川郡役所の内部はお決まりの博物館的な展示。御隠殿の内部はもう少し文化財的なものを置いている。
しかしながら致道博物館が収蔵している民具の量はあまりにも膨大で、これら以外にも展示用の施設がいくつかある。
その民具の量は地方都市の博物館としては「凄まじい」と形容できるほどで、見てまわるのにかなり時間がかかった。
また、旧渋谷家住宅も外観と内部がともに面白すぎて、中をフラフラしていたらけっこう時間がかかってしまった。
結局、ここで時間をかけてしまったせいで、藤沢周平記念館の閉館時刻に間に合わなかったのだ。ニンともカンとも。
L: 旧渋谷家住宅(田麦俣多層民家)。1822(文政5)年の築。なんと3階建ての農家なのだ。こんなの見たことない。
R: 妻側から眺めたところ。屋根がこんな形(「兜造り」と言うそうだ)をしているのは、そこで蚕を飼うため。これで今回の鶴岡観光はいちおうおしまい。2回訪れて2回とも雨ということで、なんともイヤな気分である。
鶴岡の街はオレに恨みでもあるのか、と思ってしまう(特に前回は鶴岡を離れてから快晴になっているのだ)。
でもネガティヴな気分になってもいいことなどないので、気を取り直して宿まで戻り、一休みする。
日が沈んでから駅前の商業施設だったと思しきビルにまだ残っているレストランで晩ご飯をいただくと、
交差点のミスタードーナツである程度テストづくりに目処をつけ、あとは極限まで日記を書きまくる。
メシも旨かったし作業がかなり快調だったのは救いなのだが、やっぱり今ひとつ気分は晴れない。
まあ、明日が楽しい一日になればそれでいいのだが。でもやっぱり、なんだか釈然としないのであった。
部活がないので早く帰ってさっさとテストづくり……というわけにはいきませんのね。やることいっぱーい。
空き時間が少ないので、すべての雑務が放課後に集中してきて、それを汲々とこなしているうちに日が暮れる。
なんでこんなことになっちゃっているんだろう?と思うのだが、現実は現実なのでどうしょうもない。
慣れてくればちっとは違うのかなあ、と思いつつ、ひとつひとつ片付けていく。うーん、ニンともカンとも。
ゴールデンウィークが明けて3日目、すでに忙しすぎて何がなんだかわかんねーよ状態である。
木曜日は一週間の中でも最も忙しい日のひとつで、ろくすっぽ次の授業の準備をすることもできないままで、
動き出さなくちゃいけないということが多々あるのだ。それでもどうにかまわっているということはつまり、
ひとつひとつの課題はなんとかしのげているようだが、全体を見渡す余裕が持てないので混乱している。
やはりまだ新しい環境に慣れていないので、力の上手い抜き方、力加減のバランスがまだわからない。
それでよけいに疲れてしまい、混乱状態がより深まっていくのだ。ゴールデンウィークだけじゃ足りない!
本日は区の教育会なのであった。どこでもやっていることなんだなあ、とあらためてため息をつきながら思う。
僕はこの教育会というものがそれはもうめちゃくちゃ大嫌いで、こんな無駄な自己満足をやっているから、
世間で教員という職業が白い目で見られているんだ、と思っているほどである。最低最悪、百害あって一利なし。でもまあ唯一うれしいことは、早く帰ることができるということだ。部活がないのにダラダラと残って仕事、
そんな生活に染まりつつあるここ最近では、明るいうちに帰ることができるのは久しぶりなのである。
まあ結局、日記を書きまくって過ごしたわけだが、いい気分転換になった。明るいうちに帰れるってホントいいわあ。
ゴールデンウィークが明けていつもの日常が始まるのであった。でも火曜日は比較的ゆったりできるので、
ちょうどリハビリにはバッチリなのである。余裕を持ちながら仕事ができて、たいへん助かったのであった。
そんでもって今週末にはまた旅行ということで、今日の僕の脳内はわりとバラ色でございました。
こんなに油断してるんじゃ、いつかしっぺ返しが来そうだと思うのだが、とりあえず今のうちはのほほんと過ごすのだ。
飯田で生まれ育ったせいか、僕にとって名古屋(愛知)ってのは「近くて遠い場所」なのだ。
特に東京に出てきてからは、愛知は実家に帰るついでに寄らないと、なんだか損する感じがしてしまうのである。
わざわざ名古屋に行って、そのまま東京に帰ってくるということに、もったいなさを感じてしまうのである。
しかしその心理を自覚したせいか、最近になって愛知県がどうも手薄な気がしてきている。
それでこのゴールデンウィークでは、愛知県の名所をきちんと訪れようと決めたわけである。
(とはいえ三重県とセットにするところに、愛知を単独の目的地にできない「後ろめたさ」がうかがえる。)
もうちょっと愛知不足の件について書いておくと、やはり名鉄の勢力が強いことが理由であるのは確かだ。
僕は青春18きっぷを利用して動くことが多く、そうなるとどうしてもJRを利用することが基本線となるわけだ。
したがって名鉄沿線の各都市はどうしても旅行の候補からはずれてしまう。それでだいぶ遅れをとっているのだ。実は当初、名古屋グランパスの試合を絡めて旅程を組んでいたのだが、豊田スタジアムで19時キックオフでは、
さすがにその日のうちに東京に帰ってくることは難しい。休み明けにできるだけダメージを残したくないし。
そんなわけで今回、サッカー観戦は泣く泣く諦め、その分だけたっぷりと歴史的な建造物を味わうことにしたのだ。
さあ、愛知県にある歴史的建造物の名所といえば? ……そう、明治村だ。ここはぜひ訪れたかった場所なのだ。数々の歴史的建造物を集めるには当然、広い土地が必要だ。したがって明治村は行くのが面倒くさい場所にある。
宿を出るとJR名古屋駅のコンコースを抜け、名鉄の名古屋駅へ。思えば名古屋で1年間の浪人生活をしていたくせに、
名鉄の名古屋駅に来るのは初めてだ。ホームにはものすごい頻度で列車がやってくる。よく管理できるなと感心。
まずは30分ほどかけて犬山まで出る。犬山駅の東口からは明治村行きのバスが出ているので、それに乗るのだ。
少し余裕があったので、犬山駅の建物内にあるロッテリアで朝食をいただく。なかなかいい感じのスタートだ。
満足して東口のロータリーに出ると、明治村行きのバスはすでに停車していた。客はそれなりに乗っており、
満員ではないものの、空いてもいない。4列シートで快適に過ごせるだけの乗車率なのであった。
バスは駅から離れて郊外の畑の中を行く。さすがは濃尾平野だな、と思っていると、道はカーヴして上り坂となっていく。
やがて入鹿池に出て、そこからさらに坂をまわり込んで上がったところが明治村の入口なのであった。
意気揚々とバスを降りたのだが、開園時刻を僕は勘違いしていたようで、しばらく門の前で待つ破目になってしまった。
それでも本来の時刻より早い9時20分には中に入ることができた。ゴールデンウィークってことだからかな。旧第八高等学校正門がお出迎え。名建築たちがオレを呼んでるぜ!
明治村の中は大きく5つのブロックに分けられており、南の1丁目から北の5丁目までとなっている。
欲張りな僕は、とにかくぜんぶ見てやるのだ!と鼻息荒く門をくぐって右に曲がり、1丁目からしらみつぶしに歩いていく。
明治村にある施設は実に67件ということで、これをひとつひとつ見ていくというのはまあ、はっきり言って苦行である。
でもその苦しさを乗り越えたところに喜びがあるのだ。とりあえず、10棟ある重要文化財の物件を中心に、
それ以外にも特に印象に残った物件について写真を貼り付けつつ、あれこれテキトーに感想を書いていくのだ。まずとんでもないインパクトでもって明治村のすばらしさを実感させてくれたのは、聖ヨハネ教会堂だ。
昨日の六華苑同様、とにかく季節がいいのでそれだけで魅力が増して感じられるのだが、ただただ圧倒的である。
そんなふうに外観の有無を言わせぬ美しさと対照的に、内部は木のあたたかな感触が満載で、これがまたいい。
開園して間もないので中には僕以外誰もいない。この空間を独り占めできる幸せを存分に味わったのであった。
L: 聖ヨハネ教会堂。日本聖公会京都五条教会として、1907(明治40)年に建てられた。とにかく、迫力がすごい。
C: 内部の様子。煉瓦造なんだけど木造で、見てとおり梁がすばらしい。 R: 角度を変えて眺めるのだ。新緑の季節は虫たちの動きも活発で、明治村の中ではクマバチが元気よくあちこちを飛びまわっていた。
クマバチは体も羽音も大きいので怖がる人も多いのだが、実は非常に穏やかな性格なのだ(→2011.4.29)。
そのことを知っていると、クマバチに対する感情ってのも違ってくるものだ。いい気分で彼らを見つめるのであった。聖ヨハネ教会堂の次に現れる重要文化財建築は、旧西郷従道邸である。
西郷従道は隆盛どんの弟なのだが、西南戦争で散った兄とは異なり明治政府に残って最後まで活躍した人。
上目黒にあったというこの邸宅は、移築される以前は国鉄スワローズの選手宿舎として使われていたという。
L: 旧西郷従道邸。 C: ベランダ部分を正面より撮影。非凡だなあ。 R: 内部はこんな感じ。旧西郷従道邸の次は、森鴎外・夏目漱石住宅である。こちらは重要文化財ではなく、純粋な和風の住宅。
特に珍しいところのないふつうの家なのだが、文豪ふたりが借りて暮らしたというのはやっぱりすごい。
まあむしろ、文豪ふたりのおかげで当時の一般的な住宅を追体験できることを喜ぶべきなんだろうな、と思う。
L: 森鴎外・夏目漱石住宅を庭先側から眺める。 C: 夏目漱石はこの家で『吾輩は猫である』を書いたんだってさ。
R: 住宅の中はこういう感じで、本当にごくふつうの住宅。でも今ではこんな空間で暮らすことなんてないよなあ。1丁目のラストを飾る(僕にとっての)聖地の前に、その向かい側にある物件をクローズアップしておくのだ。
それは、皇居の二重橋にあった電燈と、旧鉄道局新橋工場内にある御料車。明治の風格を断片的ながらも味わえる。
L: 二重橋飾電燈。 R: 旧鉄道局新橋工場の中で展示されている御料車。というわけで、僕が明治村で最も楽しみにしていた物件である、旧三重県庁舎なのだ。
やはり自他ともに認める庁舎マニアとしては、ぜひともこの目で見ておきたかった建物なのである。
なんてったって1879(明治12)年築ということで、この時期の庁舎が残っているなんてほとんど奇跡なのだ。
設計は清水義八ということになっているが、石田潤一郎『都道府県庁舎』(→2007.11.21)によれば、
明治村の調査ではむしろ三重県土木掛による集団での設計とする方が正確、とのことである。
各部屋はベランダによってつながっており、建物の内部に廊下はない。その分、面積がとれるという発想である。
これはもともと1876(明治9)年竣工の内務省寮局庁舎(下位部局向けオフィス)がとったスタイルで、
当時の県庁舎ではそれを参考にしたものがいくつかみられた。三重県でもそれをアレンジしつつ採用したわけだ。
L: 旧三重県庁舎。現在の三重県庁舎の隣にある「県庁前公園」、この建物はかつてそこに建っていたという。
C: 正面より眺める。もう、見事なまでに擬洋風建築である。これが1964年まで現役だったんだから凄い。
R: 2階より眺めたところ。明治期の地元の誇りをビリビリと感じるねえ。文明開化の音が聞こえてきそうだぜ。正面玄関より中へと入っていく。意外と質素な空間となっており、階段と奥の部屋への入口があるだけ。
擬洋風建築ということで、内部の装飾もまた試行錯誤している印象がある。豪華絢爛、とはなっていなかったのだ。
旧三重県庁舎はすべての部屋を当時のままとしているわけではなく、いくつか展示室に改装された部屋がある。
明治期の生活がテーマだったり時計がテーマだったりするのだが、やはり僕には建物じたいが一番なのだ。
L: 正面玄関から入るとこんな光景。質素である。まあ、擬洋風建築ってのはこういうシンプルなものが多いのだが。
C: 知事室。かっちり洋風の旧山形県庁舎(文翔館、→2007.4.30)あたりと比較すると、まだまだ質素なのがよくわかる。
R: こんな具合に大広間もある。正面向かって右側の翼部2階、設計図では「第三課」となっていた部屋だ。さて、明治村では園内全体を舞台にしたオリエンテーリングというか宝探しというかが開催されており、
これが家族連れにかなり人気があるようなのだ。他人の考えたトリックをなぞるなんざつまんねえ、
そんなミステリ嫌いでひねくれ者の僕はサッパリ興味がないのだが、皆さんそうでもないようで。
まあ、園内の建物を維持していくには来場者を確保しなければならない。いいアイデアなのは確かである。
ただ、僕のように純粋に建物を味わいに来た人間にしてみれば、なんだか本末転倒な感触もなくはない。
謎解きに夢中な親子連れを見て、彼らはこの旧三重県庁舎の意義がわかっているのか?と首をひねるのであった。
L: 建物の外面はこんな感じで、外部空間でもあり内部空間でもあるところが実に興味深い。擬洋風建築は奥が深いぜ。
R: 建物の側面。裏側も似たようなデザインである。かつてはこれが役所だった、と思うと面白くなってきませんか。これでとりあえず1丁目はクリアである。坂道を下って2丁目に入ると、こちらはレンガ通りが中心にあって、
歴史的建造物たちはその両側に並ぶ構成となっている。キョロキョロしながら上り坂になっているレンガ通りを歩いていく。
L: 札幌電話交換局。 C: 千早赤阪小学校講堂。 R: 旧制第四高等学校(→2010.8.22)物理化学教室。一目見て思わず「おお」と唸ってしまったのは、東松(とうまつ)家住宅である。もともと名古屋にあった住宅で、
1901(明治34)年の築だという。3階建てで、幅広な虫籠窓が上下にふたつ並んでいるものは初めて見た。
まずそこで圧倒されてしまった。中に入っても3階建てなので吹抜が見事。これは住んでみたい家だ。
L: 旧東松家住宅。いろいろ見てきたが、このファサードのインパクトは個人的にはかなり大きかった。
C: 内部は純粋に商家建築。 R: 本来は街並みの中の建物ということで、側面がまた正直でよろしい。レンガ通りの坂道を上っていった先にあるのが、旧東山梨郡役所だ。1885(明治18)年築の擬洋風建築。
かつての日本は律令制の時代から「郡」が単位となっており、明治期にはその「郡」の役所が各地に建てられた。
今は平成の大合併によって「郡」がどんどん消えて「市」となっているが、時代背景を考慮してみれば、
郡役所というものは、市役所よりもはっきりと「地元の誇り」を示す建築であると断言できるだろう。
L: 旧東山梨郡役所。さすがに旧三重県庁舎と比べるとかなりコンパクト。 C: 2階はギャラリーとして利用されている。
R: 明治村では建物を移築するだけでなく、明治期の列車を実際に動かしている。バスも雰囲気満点なのだ。すごいなあ。そんなこんなで3丁目である。まず気になるのはやたらと大きい薄緑色の建物。2丁目からよく目立って見えるのだ。
何かと思ったら北里研究所の本館なのであった。中では北里柴三郎や師匠のコッホら、当時の研究社の業績を紹介。
そしてその先には旧芝川又右衛門邸。明治村では今のところ最も新しい仲間となった建物なんだそうだ。
中ではボランティアのおじいちゃんが解説してくれたのだが、なんせ明治村には67件もの物件があるわけで、
ダイジェスト版の解説をお願いしたのであった。とてもじゃないけどじっくり聞いている余裕がないんですよ。
それでもかつての大金持ちがタカラヅカのスターを招いてのパーティ三昧だったことがよくわかり、たいへん勉強になった。
やっぱりタカラヅカをきちんと観ておいてよかったと実感したわ(→2012.2.26)。知識こそが次の知識を呼び込む。
L: 北里研究所本館医学館。 C: 旧芝川又右衛門邸。設計は武田五一。いろんなものを建てているなあ、と呆れた。
R: 大金持ちが思う存分趣味に走った家なので、とにかく凝っている。そのこだわりぶりは挙げれば本当にキリがない。修復工事中の坐漁荘の脇を抜けると旧品川燈台、そして旧菅島燈台付属官舎である。どちらも重要文化財なのだ。
灯台関係ということで並んでいるが、本来はまったく別の場所にあったものだ。こういう点はやや乱暴であるように思う。
旧品川燈台が1870(明治3)年築、そして旧菅島燈台付属官舎が1873(明治6)年築ということで、実に古い。
L: 旧品川燈台。 C: 隣には旧菅島燈台附属官舎。 R: 旧官舎の中では灯台のランプがぐるぐると回っている。3丁目をまわり終えるとだいたい全体の半分くらいということで、さすがに疲れが出てきた。
こうなると、なんでもかんでも「おーすげー」と素直に反応することができなくなってしまうのだ。
直感的に対象を選り分け、琴線に引っかからないものはテキトーにデジカメのシャッターを切る、そんな感じになる。
4丁目の南側には規模が大きめのわりには迫力不足な建物が多く、比較的足早にするっと抜けていくのであった。
しかし4丁目の南北をつなぐ旧六郷川鉄橋はものすごくモダンでかっこいい。これが多摩川に渡されていたと思うと面白い。
また、北側にある旧工部省品川硝子製造所は、個人的には「なるほど、こいつか!」と思えた建物である。
3年前の「品川区内めぐり」の際、東海寺の墓地(寺からは少し離れている)にある賀茂真淵の墓を訪れたのだが、
この墓地の入口に旧工部省品川硝子製造所跡という案内板が立っていた。へーここでガラスをね、と当時は思ったけど、
まさかその建物が移築されて残っているとは。そしてこんなところでバッタリ出会ってしまうとは。驚いた。
L,C: 旧六郷川鉄橋。1877(明治10)年築だが、モダン丸出しなトラス構造がめちゃくちゃかっこいいぜ。
R: 旧工部省品川硝子製造所。記憶のフタがパカッと開いてかなり驚いた。中ではガラス製品を売っているのだ。さて4丁目の中でも一段高いところに移築されて威容を見せてくれているのは、旧宇治山田郵便局である。
1909(明治42)年の築だが、建物全体の形をV字にして、その突端部分を丸いエントランスにするという発想が凄い。
設計したのは逓信省の技師だった白石円治。郵便局は逓信省時代から独自の強烈なデザイン部隊を持っており、
全国各地に先進的な郵便局や電話局をバリバリ建ててきた歴史があるのだ(いわゆる「逓信建築」の系譜)。
モダニズム建築好きなら絶対に避けて通れない作品群で、旧宇治山田郵便局も見た瞬間に傑作とわかる迫力がある。
(ちなみに、さいたま新都心では最南端に郵政省(当時)が入っており、すぐ北にある合同庁舎とは完全に独立した、
個性的なデザインを貫きとおしてしまった。さいたま新都心がデザインの統一性を放棄せざるをえなかったのは、
この逓信省以来の郵政デザインへの確固たるプライドが、結果的に大きく作用してしまったと指摘できるかもしれない。
そしてその歴史を僕にしっかりと教えてくれた大学時代の恩師のスケールのデカさには、ただただお手上げである。)
この旧宇治山田郵便局は、実際に「博物館明治村簡易郵便局」として営業している。そこがまたかっこいいのだ!
L: 旧宇治山田郵便局舎。何を食ったらこういうデザインを思いつくのか。逓信~郵政デザインの切れ味は半端ない。
R: 円形のエントランスの裏側には、このように歴代のポストが展示されている。もう何から何までかっこいいよ。4丁目の最後を飾るのは、呉服座である。どこからどう見ても「ごふくざ」だと思うのだが、「くれはざ」と読む。
なんだこりゃと思って今、MacBookAirで「くれは」で変換してみたら、ちゃんと「呉服」が出てきたんでやんの。
詳しく調べてみたら、呉服とはもともと古代中国・呉の国から伝わった織り方でつくられた織物とのこと。
「織り方」なのがポイントで、「くれはとり(=くれのはたおり)」と読む「呉服」を音読みして「ごふく」となった。
以上、語源由来辞典の説明を要約(「服部」を「はっとり」と読むのも「はたおり」に由来するそうな)。まいりました。
L: 呉服座。1892(明治25)年築。もともとは大阪府池田市にあった建物なのだ。
R: 中は内子座(→2010.10.12)に似ている印象。まあ、そういうもんだったんだろうな。さあいよいよ最後の5丁目である。けっこうな炎天下と敷地の広大さと名建築の迫力とでもうヘロヘロなのだが、
それでも気力を振り絞ってどうにかひとつひとつ訪問していく。もはや根性だけで歩いている、そんな状態だ。
L: 聖ザビエル天主堂。移築にあたって鉄筋コンクリート化したそうだが、内部空間は木造の迫力が感じられるつくりである。
C: 菊の世酒蔵。これはデカいなー。 R: 高田小熊写真館。上越高田の街のオシャレな写真館でございますね。明治に入って日本が近代化したことは衣食住の変遷を追えば明らかだ。しかし政治をはじめ統治のシステムも近代化し、
それまでの価値観とはまったく異なる施設がつくられるようになる。その典型例といえば、なんといっても監獄だ。
明治村には近代化によって生まれた監獄に関連する建物がいくつか移築されている。この監獄という建築こそ、
「近代の精神を実体化させた空間」であるのは当然の話だ(M.フーコー『監獄の誕生』を読むべし →2008.2.27)。
監獄に威圧感があるのは当たり前のことで、それは受刑者に対して精神からの矯正を試みるからだ。
つまり、心へはたらきはける建築なのだ。さすがに昨夏訪れた網走監獄(→2012.8.19)ほどではないものの、
明治村ではその迫力をしっかり味わえるように、よく工夫してある。独房の中に入って記念撮影もできるよ。
L: 金沢監獄正門。レンガ造りでこの威容ってのがポイントなのだ。受刑者の精神に先制パンチを食らわす近代の権力性。
C: 金沢監獄中央看守所。網走と同じくもともとは手のひらみたいな放射型の建物で、これはその中央部分なのだ。
R: 中に入るとパノプティコン。奥行きがありそうに見えるが、残念ながら書き割りなのだ。でも左端の一棟だけは移築している。さあいよいよ、明治村を訪れる建築ファンの99%が最も楽しみとしているであろう物件が登場なのだ。
そう、あのフランク=ロイド=ライト(→2012.2.26)が設計した、あの「旧帝国ホテル中央玄関」である。
写真を撮影するこっちも気合が入るってもんだ。まずはじっくり、その独特な外観を正面付近から撮ってまわる。
L: 旧帝国ホテル中央玄関を正面より見据えるの図。やはり、ライトの独特すぎる造形センスが最も映えて見える。
C: 少し角度を変えて、手前の池の雰囲気込みで撮影。 R: エントランス。ふつうの建物以上に低い圧迫感をおぼえる。ライトといえば、外見の独創性以上に、中身の空間で独特の開放感を与える点が僕にとっては興味の対象なのだ。
いったいどういう体験ができるんだろうとドキドキしながら中に入る。エントランスの階段を徐々に上がっていくと、
そこは光をいっぱいに取り込んだアトリウムとなっていた。1階から眺める分には、ライトのエキゾチックなデザインが目を引く。
L: エントランスの車寄部分で振り返る。実にライトである。 C: ホテルのフロント。ここは意外とあっさりめ。
R: エントランスから建物の中に入って振り返る。だんだんと高さを上げて盛り上げていく演出となっている。アトリウムの真下に建っていると、ホテルというよりは、どこか劇場に近い印象を受ける。
この奥には巨大なホールがあって、開演を待つ人々が思い思いに過ごしている、そういう時間の流れ方を感じる。
大袈裟に表現すれば、単なるホテルのロビーということではなく、どこか物語性を感じるということだ。
いや本来ホテルとは『グランドホテル』(→2003.11.30)のように、人と人が交差する空間であるわけだから、
そこに物語があって当然なのだ。その事実があらためて可視化された空間、と言うのは、やはり大袈裟か。
(設計図を調べてみたら、アトリウムの奥にあるのは大食堂だった。でも、劇場もホテル内にあったそうだ。)
L: エントランスから階段を上がっていくと、アトリウムに出る。どこかの劇場のような雰囲気を感じるのだが。
C: 同じく1階から角度を変えてアトリウム部分を撮影。 R: 柱をクローズアップ。実にライトである。明治村に移築されているのは、残念ながらこの玄関部分だけである。そりゃもう、とことんこの玄関を歩きまわるしかない。
ありとあらゆる角度からこの玄関部分を眺めて味わってやろう、と2階に上がってみる。やはり劇場・ホールのように、
まずは左右の両サイドにある中2階を経てから上がる構成となっている。そうして上がった2階のエントランスの直上部分は、
カフェになっていた。そこでゆっくりとお茶をしている余裕などないのである。振り返ってアトリウムと向き合うと、
ちょっと不思議な感じがした。1フロア分の高さはそんなにないので、さっきからちょっとだけ高さが増した、そんな印象なのだ。
そうしてエントランスの直上からアトリウムを見下ろしていると、今度は演芸場の2階席にいる気がしてくる(→2009.1.1)。
やはりホテルのロビーは舞台空間なのか、と思えるほどの賑わいではなかったのだが、そういう匂いは確かに感じた。では桟敷席はどうなのか、と2階を一周してみると、そこでようやく強烈にライト独自の空間感覚がこっちを直撃してきた。
ヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)では敷地の高低差に合わせて各階をずらしながら載せた印象がしたが(→2012.2.26)、
こちらの帝国ホテルではその垂直と平行の交差がさらに細かく、さらに激しく繰り返されている感じである。
僕が小学生のころ、屋内プールでビート板を積み上げてちょっとした船のような構造体をつくったことがあるのだが、
感触としてはそれにかなり近い。平べったい板を出したり引っ込めたりしながら積み上げていき、中に空洞をつくる。
帝国ホテルの内部空間は、そのようにしてつくられている印象を受けるのである。鉛直方向に積分している感じ。
トランプを切った最後に、両手から素早く交互にカードを交差させて積み上げていく、あの動きでできた感じ。
ライトの建築は、そうやって2次元の断面を積み上げていったものを3次元空間として実際に体験したときに、
必ず新たな「発見」を感じさせる点に最大の特徴があると思う。平面図では得られない、3次元ならではの体験の発見。
視野が開ける爽快感と表現できるであろうその感覚こそ、ライトの評価される最大の理由であると僕は思うのだ。
平面を積み重ねただけの空間のはずなのに、ライトには3次元の独創性が見えている。あらためて、その事実に舌を巻く。
ライトは僕らとは空間の見え方が違うのだ。彼には幅・奥行き・高さの3つの軸に縛られない見え方がしていたように思える。
L: ライトがデザインした椅子がさりげなく置かれている。メトロポリタンにも収蔵されたお馴染みの品である(→2008.5.8)。
C: 2階、エントランスの直上より眺めるアトリウム。どこか演芸場の2階席、という雰囲気がしませんかね?
R: 同じく2階、エントランスから入って左手より眺めるアトリウム。ライト独自の空間体験が非常に強烈に味わえる。最後に、建物の周りをぐるっと一周しておしまい。この玄関部分だけでも明治村では最大の建物となっているそうだ。
現在でもいちおうライト建築を味わえるようになっているのはありがたいが、やはり全体を体験できないのは悔しい。
ライトがかつて実現した、ホテルという完結した宇宙。絶対に僕の想像をはるかに超える空間だったはずなのだ。
L: 側面はこんな感じである。しょうがないんだけど、やっぱり玄関部分だけでは淋しくってたまらない。
C: 背面。味気ねえ! R: 周囲にはこのように、建物が解体された際の部材がオブジェとして置かれているようだ。5丁目は最後、高台の方に建築が並んでいるので、残っているわずかな力を振り絞ってそっちへと向かう。
目立っているのは隅田川新大橋と内閣文庫で、その奥にある異様な姿のタワーも気になるところだ。
まずは隅田川新大橋からだ。1912(明治45)年の開通で、現存しているのは全体の1/8になるそうだ。
路面電車の軌道がしっかりと埋め込まれている。ただ、雰囲気を味わうにはやはり短い(25m程度)。
続いては内閣文庫(旧内閣文庫庁舎)。周囲と比べて小高い丘に移築されており、遠くからでもその威容がよく見える。
内閣文庫とは、江戸幕府の蔵書を明治政府が受け継いで、さらに古書を収集していった施設だ。
1971年に発足した国立公文書館に統合されて組織としては存在しなくなったが、現在もそのコレクションは残っている。
旧内閣文庫庁舎の建物内には世界の有名建築のミニチュア模型が展示されているが、白一色で面白くない。
そして異形のタワーは、1927(昭和2)年築の旧川崎銀行本店である。一目見て、その「むごさ」に呆れた。
建物本来の姿を完全に失っているだけでなく、往時の用途すらもうかがい知ることができない。
これは犯罪行為にほかならない。僕が明治村で唯一、不快感をおぼえた物件だった。猛烈な不快感である。
展望タワーということになっているのでいちおうてっぺんまで上ってみたが、ガラスは汚く、見晴らしもよくない。
こんな姿をさらし者にするくらいなら、撤去してほしい。これは明治村の品位を著しく落としている措置である。
L: 隅田川新大橋。 C: 内閣文庫(旧内閣文庫庁舎)。丘の上でかなりの迫力を漂わせている。
R: 旧川崎銀行本店は正面左端の外壁だけが残されて、無理やり展望タワーとされている。ふざけるな!ムカムカしながら最後の物件へ。大明寺聖パウロ聖堂である。「寺」なのに教会、そしてしっかり和風の外見。
いくつもの「?」を浮かべて建物の中に入ったら、そこは木造の親しみやすさを存分に持った見事な空間だった。
「大明寺」とはこの教会が建てられていた長崎県・伊王島の集落の名前である。和風の外観をしているのは、
1879(明治12)年築ということで、まだまだ隠れキリシタンの虐げられた歴史が終わっていない事実を示しているのだろう。
L: 大明寺聖パウロ教会堂の外観。 R: でも内部は見事な木造教会なのだ。実に興味深い。以上で明治村の全物件を制覇した。とにかく、疲れた。しかし想像以上に優れた建築が集まっている施設で、
心の底から楽しませてもらった。貴重な建築の保存と明治村のさらなる発展を大いに期待しつつ、バスで犬山駅に戻る。犬山駅に到着すると、前回訪問時にはまだ建設中だった(→2009.10.13)犬山市役所にあらためて行ってみる。
まあ建設中といっても竣工直前だったので、印象はぜんぜん変わらない。周囲がきちんと整備されてるな、ってくらいか。
外観を眺めるだけでなく中もちょろっと入ってみたのだが、威厳がなくって安っぽい。今のご時世、しょうがないけど。
軽くて丈夫な素材ってのは、集まるとものすごく貧弱に見えてしまうのである。仮設っぽく見えてしまうのだ。
前に金沢21世紀美術館を訪れた際に批判的にレヴューを書いたけど(→2010.8.22)、あれと同じ印象である。
L: 犬山市役所。設計は久米設計で、2009年竣工。もうあれから3年半が経っているのか……。月日の流れに愕然とさせられるわ。
C: 角度を変えて撮影。 R: エントランスのホール。面白い要素が何もございません。自治体が誇れる存在になっていない証拠だな。犬山駅の南側にある駐車場というか空き地から眺める犬山市役所の側面。
本日メインに据えていたのは明治村で、残った時間については特にこれといって予定を入れていなかった。
そこで、昨日訪れた桑名の六華苑同様に、いずれなんとかしなくちゃと思っていた街にチャレンジしてみることにした。
複雑につながる名鉄をどう乗り継ぐのかケータイで調べてみたら、なんと、いったんリセットして名古屋駅に戻るという判定。
しょうがないのでそのとおりにいったん名古屋に戻り、そこから岐阜方面へと向かう列車に乗り換える。須ヶ口という駅で降りた。たぶん「須」とは清須のことだろう。その入口ってことだろう。というわけで、清須市である。
階段を降りて駅前に出ると、そこは工場。その敷地と列車で通った線路の間にある路地をトボトボ歩いて川まで戻る。
川に出たら、今度はその川に沿って北へ。炎天下でクラクラしながら、やっとのことで清須市役所に到着した。遠かった。
ちなみにその川(新川という)を挟んだ対岸も、また別の工場となっている。海沿いでもないのに、かなりの密度だ。さて実は清須市の歴史はかなり新しく、2005年に3つの町が合併して生まれた(後に1町を編入)。
「きよす」という地名の表記は2種類あり、市名は「清須」が正式とされているが、城は「清洲」とするのが一般的なようだ。
合併する前の町のひとつに「清洲町」があったので、もともとは「清洲」がメジャーな表記だったところを、
旧清洲町が中心という印象を与えないために「清須市」としたんではないかって感触がプンプン漂っている。
まあ、ひらがな市名になるよりははるかにマシな措置なので、批判する気はない。でも熟慮した気配をあまり感じない。
L: 清須市役所(旧新川町役場)。1986年竣工で、なるほど言われてみれば町役場サイズの建物である。
C: 裏側。清須市役所は新川のすぐ脇にある、堤防の上に位置しているような感じなので、その高低差が直に出ている。
R: 市役所の北側にあるグラウンドから撮影した側面。合併時にいちばん新しい役場を清須市役所としたみたい。清須市役所の撮影を終えると、当然ながら清洲城を目指す。市役所から見て清洲城は北西に位置している。
ちょうどJRの東海道本線も東海道新幹線も同じ角度で走っており、清洲城はそのすぐ脇にある。
つまり、JRの線路沿いに行けば清洲城に着くわけである。頭の中で記憶した地図だと、そうなっていたのだ。まずは新川沿いに北へと歩くが、周辺があまりにも工業地帯で、脳内地図と現実のスケールが完全にズレていた。
少し手前で左折して県道127号に入ってしまい、漠然と広がる「助七」という住宅地に紛れ込んでしまう。ピンチである。
それでも悪運が強いので、すぐにバス停を発見。そこにたまたまあった路線図を見て方向を修正し、無事に線路を越えた。
さすがに東海道本線の線路は幅があり、横断するのがちょっとだけ怖かった。モタモタしてたらヒャーと想像してしまうのだ。
線路を越えたところにはキリンビールの工場があり、東海地方の工業地帯ぶりをあらためて実感させられるのであった。
L: 豊和工業正門前の信号機にはロゴに合わせて「工」の字が変えられた案内板を発見。すげー、こんなことできるんだ!
R: 東海道本線を越えるとキリンビールの工場。名古屋の郊外には本当に工業地帯が広がっているのだ。土地がいっぱいですな。そうしてなんとか県道67号に入ったのだが、ここからがまた遠かった。さほど変化のない郊外を延々と歩いても、
清洲城に近づいているという感触があまりない。実際の時間にしてみれば、それほど長時間歩いていないかもしれないが、
炎天下で知らない街をトボトボと歩いていくのは、それだけでよけいな疲労を感じることになるわけだ。
JRと平行に歩いているので間違ってはいないはずなのだが、大いに不安になりながら歩く。これはけっこうつらいものだ。やがて左手に冠木門と、そこから奥へと通じる並木道が現れた。まごうことなき、清洲城への道である。
かなりヘロヘロになっていたのだが、こうなると自動的にやる気が湧いてくるものだ。それまでとは打って変わって、
比較的軽やかな足取りで並木道を進んでいく。と、左手に清洲城の復元「天主閣」が現れた。本当に遠いゴールだった。清洲城は歴史的にはきわめて重要な存在なのだが、そのわりには現在の都市空間に与えている影響がほとんどない。
これほどアンバランスというか、魔法のように消えてしまった印象を残す場所というのもそうそうないだろう。
というわけで、軽く清洲城の歴史を振り返る。まず、清洲城は織田信長が岐阜城以前に本拠地としていた城なのだが、
もともとは織田家の本家筋の城だった(織田家には岩倉と清洲の両系統があり、信長は清洲系の家老の家柄だそうで)。
徳川家康と同盟を結んだ(清洲同盟)のもここだし、本能寺の変の後に跡継ぎを秀信に決めた(清洲会議)のもここだ。
そんなわけで、清洲城とは日本史のターニングポイントになっている、きわめて重要な場所なのである。
しかし江戸時代に入った1609(慶長14)年、家康によってある決定が下される。いわゆる「清洲越し」である。
これは水害に弱い場所である清洲から、台地上にある名古屋の地に城下町を丸ごと移転してしまうという計画だった。
清洲越しがだいたい完了したのは1613(慶長18)年ごろ。というわけで、名古屋は清洲を移してつくられた街なのだ。
今の清須に巨大な工場をいくつもつくることができるということは、大きな城下町が根こそぎ消えた事実によるものだろう。
そして御三家筆頭・尾張徳川家の格や、名古屋の街の繁栄ぶりから、かつて清洲の持っていた力を想像するしかない。現在の清洲城天主閣は、1989年に旧清洲町の町制100周年を記念して建てられたものである。
本来の清洲城は五条川を挟んだ反対側・右岸に建っていたそうで、辛うじて石垣の一部が残る程度となっている。
清洲城が歴史上で果たした役割を考えると、現在の姿はちょっと信じられないものがある。なぜ、ここまで壊せる?
まるで戊辰戦争の敗者に対する仕打ちのようだ。過去に対する強烈な否定によって、名古屋は栄えているのだろうか?
L: 現在の清洲城天主閣。「清洲」と「清須」を書き分けるのもこだわりなら、「天主閣」とするのもまたこだわりか。
C: 清洲城の最上階から眺める名古屋の街。かつてこの地にあった賑わいは、今は場所を移してさらに規模を大きくしている。
R: 対岸に残る清洲城の石垣。あとは木々に包まれた石碑がいくつか並んでいる程度しか、往時を思わせるものがない。もちろん清須市としては何もやっていないわけではなく、観光客向けのPR施設を建てるなどの努力はしている。
しかし城下町が消えた地域である清須市には核がなく、駅もあちこちに分散しており、城跡へのアクセスは非常に悪い。
歴史を求めて苦労してやってきても、その歴史がほとんど残されていないのだ。その事実を確認して茫然とするだけだ。
むしろ消えてしまった歴史を追うよりも、工場によりもたらされる利益を黙って享受する方がずっと現実的に決まっている。
清須市役所のことをあらためて思い出す。いちばん新しい役場ということで市役所の位置が決められた事実はやはり、
この土地における歴史の不在と経済優先を物語るものなのだ。真新しい天主閣を眺めながら、そんな結論に至った。そのまま東海道線沿いに歩いて清洲駅まで行く。清洲駅はやはり、思っていたよりもずっと小さな駅だった。
今日は明治村から始まって、ここ清洲/清須で終わった。考えてみれば、明治村とは全国から建築物を移してくることで、
歴史という物語を新しく生産しようと試みている場所だった。そして清洲/清須は歴史を奪われた場所だった。
時には歴史すら組み換えて、建築や都市を豪快に動かすことで、つねに賑わっている現在をつくり出そうとする精神、
それが愛知県の特徴なのかもしれない(厳密には旧尾張国と旧三河国の違いについても検証しなくちゃいけないが)。
とりあえず、今回の旅で得た結論のひとつはそんなところだ。日本全国、空間というのは本当に多様なものだ。
ゴールデンウィーク後半戦は2日間のオフが確保できた。ウヒヒヒヒ。どこへ行こうかいろいろ考えたのだが、
ここ2年ほどの懸案事項であった「三重県のリヴェンジ」と「愛知の強化」をテーマにすることにした。
というわけで、名古屋行きの夜行バスに飛び乗ったのである。予定より早い7時前にバスは名古屋駅に到着。
目を覚ますべく軽く太閤口周辺をふらふらと歩いてから、改札を抜けていざ最初の目的地を目指す。本日最初の目的地は桑名である。桑名は昨年4月に訪れているのだが(→2012.4.1)、見事に六華苑を忘れていた。
それで年末の帰省の際にぜひ寄ってやろうと企んでいたらまさかの雨(→2012.12.28)。むくれてスルーしたのだ。
そういう経緯があったので、三度目の正直ということで、鼻息荒く桑名駅に降り立ったのであった。天気は快晴。
時刻はまだ7時をまわったくらいで、当然、六華苑が開いているはずなどない。そう、この時間を利用して寄り道するのだ。桑名駅から国道1号に出ると、そのまま北へとひたすら歩いていく。特に焦る必要もないので、のんびり歩を進める。
やがて15分ほどで道は大きくカーヴする。その先は軽い上りの傾斜になっており、優雅な弧を描いた鉄骨が見えてくる。
そう、これが伊勢大橋だ。1934年に完成した鉄橋で、ヘリテージング100選にも選ばれている橋なのだ。
だがショックなことに、老朽化と渋滞により(2車線しかなくて確かに狭い)架け替えの計画が出ているようだ。
土木遺産は建築以上に不特定多数に影響があるので顧みられることが本当に少ないのだが、どうにかならんもんか。
まあぜひ明日訪れる予定の明治村になんとかしていただければいいんじゃねえか、と無責任に考える僕なのであった。
L: 伊勢大橋(西詰)。この優雅なカーヴがずーっと続いていくのだ。橋の美学ってのもキリのない世界だよなあ。
C: では伊勢大橋を歩いて渡ってみるのだ。歩道がこんな感じで脇にくっついている。そしてすぐに例の病気が出た……。
R: 橋の南側、長良川河口堰の脇はちょっとした公園のようになっている。わざわざ行く人いるのかね。渡りだした後になって気がつく、毎回恒例の高所恐怖症がお出ましだ! 欄干が低いんだよ。
川面の上空に到達する前からすでに怖くなっちゃってやんの。できるだけ真ん中をロボット歩きで進む僕。
運のいいことに前からも後ろからも僕のほかに橋を渡る人はいなくって、どうにか無事に対岸に到達できた。
しかしそれにしても長かった。西側の揖斐川を渡りきってからが長い(東側の長良川の方が幅がある)!
全長が1.1kmちょっとだが、思った以上に時間がかかってしまった。渡り終わって帰りのことを考えてまたブルー。
L: 東詰から眺める伊勢大橋。 C: 途中には丁字路の交差点があって信号機もついている。そこから中を撮影してみた。
R: 右岸に戻って、少し距離をおいて眺める伊勢大橋。やはりカーヴが延々と続く光景は壮観である。なんとかならんか。帰りは8時をまわったせいか、歩行者や自転車とすれ違って本当に怖かった。もう自転車とか本当に勘弁してほしい。
乗っている人は平気でも、見ているこっちがキビシイのだ。1.1kmもあの狭いところを延々と走るとか拷問じゃ。やっぱり宇宙的な外観の長良川河口堰。
ふだんなら1kmの往復なんて30分もかからないはずなのだが、たっぷり1時間半ほどかけてどうにか終了。
そのまま揖斐川沿いに南へ歩いていって、福島ポンプ場を目印に市街地方面へと入っていく。
すると六華苑の裏側に出るので、もう一度揖斐川方面に出て正面入口へとまわり込む。時刻はぴったり9時である。
行楽地が大混雑するゴールデンウィークではあるけど、来場者第1号になってしまえば快適なのだ。運がいいのだ。
L: 六華苑の洋館部分。エントランスから生垣の通路をカーヴしていくと、この光景に出くわす。見事なもんである。
C: 洋館部分の内部。庭園に面している角部屋のところですな。 R: 2階。この曲がりっぷりが洒落ていますな。六華苑は二代目・諸戸清六の邸宅として1913(大正2)年に建てられた。設計したのはジョサイア=コンドル。
地方都市にコンドルの建物があるのは非常に珍しいんだそうで、それだけ諸戸家に中央とのつながりがあったということだ。
表が洋風で裏が和風の合体住宅というのはけっこうあちこちにあるのだが(この日記にもいくらでも出てきている)、
六華苑の場合は洋風部分も和風部分も光がよく入ってきており、ジメジメした印象がまったくないのが素敵である。
まあ単純に、訪れた時期が良かっただけなのかもしれないが。節度を感じさせる華やかさがある邸宅だった。
L: 基本的には洋風なのだが、よく見ると和風の要素を洋風にアレンジしている部屋もあった。面白いもんだ。
C: 和風部分はこんな感じ。さわやかですな! R: 邸宅のいちばん奥は蔵と接続しているのであった。庭に出てみる。邸宅の裏側から回遊式の庭園へとまわり込む構成になっているのだが、池の水がやや汚い。
木々もわりと伸び気味で、池を挟んで邸宅がうまく見えない点は非常に惜しく感じる。なんとかしようよ。
しかしながら初夏の日差しと新緑の組み合わせはもう、すべての難点を覆い隠してしまうほどにすばらしい。
日本がこの時期に大規模な連休を設定していることの喜びを、心の底から噛み締めつつ邸宅を眺める。
大袈裟なことを言うなあと思われるかもしれないが、この歳になって、この時期特有の美しさがわかるようになってきた。
決定的なきっかけは3年前の大内宿である(→2010.5.16)。あのとき「生命の躍動感」を体感した経験がベースになり、
季節感に対する敏感さがより増したと思っている。この時期にしか味わえない躍動感が、確かにあるのだ。
目の前にあるコンドル設計の住宅は、どこまでも透きとおった日差しの中、緑の躍動感に負けない優雅さを誇っている。
僕はただ無言で、その時間を噛み締めて過ごした。季節がめぐる喜び、そして旅をする喜び。何物にも代え難い。
L: 庭園より眺める邸宅。さっきは右の洋風部分から入って、左の和風部分へと抜けていったわけだ。
C: 和風部分をクローズアップ。 R: 続いて洋館部分。やっぱり訪れた季節が良かったよなあ。最高だ。六華苑を後にすると、早足で桑名駅まで戻る。前回訪問時には桑名の市街地をやたらと広く感じたのだが、
今回はそれほどでもなかった印象である。自分の感覚のいいかげんさに呆れつつ、桑名を後にするのであった。
少し慌て気味で桑名を離れたのには理由がある。時間を節約すればその分だけ、津で余裕が持てることになるからだ。
今日は桑名経由で鳥羽まで行くことになっているので、それなら津にも寄って県庁と市役所をリヴェンジするのだ。
というわけで、津駅で降りる。津には昨年末に泊まっているのだが、きちんと歩きまわるのは6年ぶり(→2007.2.10)。6年前には県庁所在地のくせして観光案内所がまったくなくって「やる気あるんかい!」と呆れたものだが、
さすがにこのご時世、ロータリーの北側にしっかりと観光案内所ができていたのであった。よかったよかった。
しかも「シロモチくん」という、藤堂高虎の旗印にまつわるエピソードから生まれたゆるキャラまでできていた。
きっとこいつのライバルはビベンダムだな、と思いつつ、観光案内所で地図を入手。いざスタートなのだ。
一度訪れた場所は地図がなくても歩けるのだが、いちおうもらっておいたのにはワケがある。
津駅から三重県庁まではそこそこ近いが、津市役所はけっこう離れている。そこで今回、津駅までは戻らずに、
近鉄の津新町駅から鳥羽に出るという作戦をとったのだ。津新町駅は初めてなので、地図をもらったというわけ。国道23号から坂を上っていくと、その名も県庁前公園。脇を抜けて線路に架かる陸橋を渡ると、すぐそこが三重県庁。
当然、6年前にも写真を撮っているのだが、当時は撮影にぜんぜん慣れていなかった。あらためてきちんと撮り直すのだ。
天気も抜群にいいし、デジカメの調子もいいし、リヴェンジに自然と気合が入る。敷地を一周して撮りまくる。
L: 三重県道10号からアクセスする正面入口より撮影。 C: こちらが向かって右、西側にある県議会議事堂。
R: 正面に近づいて撮影。県議会議事堂はかつて行政棟と同時に建てられたが、1990年に今のものに建て替えられたのだ。
L: 1964年竣工と、意外と古い行政棟。当時にしては色づかいが先進的である。デザインじたいはかなりシンプル。
C: 正面より撮影。設計は東畑建築事務所。 R: 近づいてファサードをしっかりと眺めてみたところ。
L: エントランス付近を撮影。ばっちりとモダンである。ここだけコンクリート打ちっ放しなのがけっこうかっこいい。
C: 三重県庁はちょっとした丘の上にあるのだ。まわり込んで背面を撮影。 R: これまた別の角度より背面を眺める。うまく撮れたかどうかはわからないが、しっかり撮って満足はできた。時計を見ながら足早に、さらに南へ移動する。
途中で安濃川沿いにある、やたらと背が高くて目立っている建物に寄る。こちらは三重県警本部なのだ。三重県庁から見ると、三重県警本部の存在感はかなりのものだ。
そのまま国道23号を南下して素直に津市役所に行っても面白くないので、ちょっと寄り道をするのだ。
「津観音」こと恵日山観音寺である。なんでも、浅草観音・大須観音とともに日本三大観音に数えられているという。
そんなもん、愛知と三重だけで言ってることなんじゃねえか?と思うのだが、いちおうきちんと寄っておくのだ。
津観音は伊勢神宮へのおかげ参りの際に立ち寄るポイントとして栄えたとのこと。実に神仏習合である。
実際に訪れてみたら、ちょうど縁日か何なのか、境内では出店が並んでけっこう賑やかなのであった。
しかし建物は新しいものばっかりで、僕としてはなんとも淋しい気分になってしまった。あんまり威厳ないなあ、と。
これは仕方のない話で、かつては安土桃山時代から江戸時代初期にかけて建てられたお堂がゴロゴロしており、
江戸時代をとおして一大文化拠点としても知られていた寺だったが、空襲によってすべてが燃えてしまったのだ。
それを津市民が地道に再建していった結果が、今の津観音なのだ。歴史を知らないと恥をかきますね。ごめんなさい。
L: 津観音の境内。ぜひがんばって往時の威容を取り戻してほしいものである。 C: 大門は相変わらず人通りがまばらだ。
R: フェニックス通り。城下町なのに、このような幅の広い道路がつくられたのは、やはり空襲の影響ってわけだな。フェニックス通りから国道23号を突き抜けて津城址へ。津城の城主といえば、なんといっても藤堂高虎。
言うまでもなく、藤堂高虎は築城の名手として知られている存在である。しかしながら現在の津城址は、
城跡としての雰囲気もよく残っているが、公園としての要素が比較的強めの整備がなされている。
木々の比率が高いためか、やや暗めな印象があるのが少し残念である。もう少し工夫が欲しいところだ。
L: 津城址入口。右にあるのは復元された隅櫓。 C: 隅櫓の手前から堀と石垣を眺める。これはいい景色だ!
R: 中心部は城跡というよりも「いかにも公園」といった感じなのだが、天守台がしっかりと残っている。津城址を西へ抜けると、そこが津市役所なのだ。津市役所はかつて大門のエリアにあったそうだが、
1979年に現在地に移転竣工している。設計したのは石本建築事務所である。デザイン的な面から考えると、
この後1980年代に到来する大型市庁舎の流行を告げる存在、といったところか。裏手の駐車場も広大だ。
L: 津城址側から見た津市役所。 C: 前回訪問時とほぼ同じ構図(→2007.2.10)で撮り直してみた。
R: 裏側にある駐車場より撮影。色づかいも含めて、まさに1980年代庁舎のさきがけという印象だ。
L: 津市役所の手前は「お城西公園」となっているのだが、そこから撮影した。6年前には梅の花がきれいだったなあ。
C: 正面より撮影。しっかり逆光だったけど、カメラとPhotoshopでどうにかしました。 R: 交差点を挟んだ構図。津市役所の西隣は津リージョンプラザという施設。図書館やホールなどの入った複合施設でけっこうデカい。
市役所にホールとオープンスペースとしての公園を組み合わせるのは完全に1970年代の価値観で、
津市役所は1970年代の空間構成と1980年代の庁舎が同居している事例と言えるかもしれない。
……なーんて思ったら、津リージョンプラザのオープンは1987年なのであった。たまたまですか。津リージョンプラザ。設計は日建設計の模様。
なんだかんだ、写真を撮りまくっていたらけっこうギリギリの時間になってしまった。
津市役所からは小走りで津新町駅まで急ぐ。そんなに急ぐのには理由があって、本日最後はバスの旅になるのだ。
ローカルな路線バスのお世話になるので、予定が崩れると大ダメージを食らうことになってしまう。
実際にはそんなに焦らなくても間に合ったのだが、旅先では危機感を持って動かないといかんのである。津新町から鳥羽まで近鉄に揺られると、これまた少し急いで改札を抜ける。国道42号を挟んだ鳥羽駅の反対側は、
土産屋がいっぱい詰まった商業ビルになっている。さすがにゴールデンウィークということで観光客がいっぱい。
「風光明媚」という言葉が実にしっくりくる志摩の海は、やはり中京・関西圏で根強い人気を持っているのだと実感。
さてその商業ビルの隣に位置しているのが、鳥羽バスセンター。ここから安楽島(あらしま)行きのバスに乗る。
20分ほど揺られて終点まで行けば、そこはもうひとつの志摩国一宮の入口なのである。地元のおっさんたちが乗り込んだバスだったが、終点まで行ったのは僕ひとりだけ。
乗った目的がわかりやすい客だよなあ、と苦笑いしているうちに漁村の雰囲気が漂う集落の中へ入り、バスは止まった。
終点の安楽島バス停はやはり、同じ目的で訪れる客が多いようで、神社への案内が貼り付けられていた。
ここまで来てしまえば時間的に余裕がたっぷりとあるので、まずは周辺を散策することにする。
バス停から10mほど行ったところに木造の見事な建物があったので、じっくりと観察してみる。
小ぎれいにしているのでそれほど古びた印象はないが、案内板に1862(文久2)年築とあって驚いた。
これは「安楽島舞台」で、かつては地元の若者によって芝居が演じられていたという。circo氏が喜びそうな物件だ。
そしてその右手へと入ってすぐの高台には満留山(まるやま)神社。いかにもな地元の守り神である。迷わず参拝。
L: 安楽島舞台。伊勢志摩地方は地元の舞台が盛んな地域だったそうで。 R: 満留山神社。いかにも地元の守り神って印象。そうして地元へのご挨拶を終えると、いよいよもうひとつの志摩国一宮への参拝をスタートさせる。
志摩国の一宮はふたつあって、ひとつは伊勢神宮の別宮である伊雑宮(いざわのみや →2012.3.31)である。
こちらが「メジャー」だとすると、今回訪問する方は失礼ながら「マイナー」ということになる。
でも、そう表現してもあんまり怒られることはあるまい。だって、ここ安楽島のバス停から徒歩で30分かかるのだから。
海沿いの曲がりくねった山道を歩いて歩いてようやくたどり着く、そんなところに伊射波(いざわ)神社はある。安楽島舞台の左側にある道を歩いていくと、すぐに安楽島の海水浴場に出る。ここが最後のトイレだそうで、
しっかり用を足してからいざ、木々の中へ。道はコンクリートが敷かれているだけだが、土でないだけいいのかもしれない。
この舗装のおかげでずいぶんとわかりやすくなっていることは確かだ。それだけ参拝者がいるってことなのだろう。
それにしても、歩いているとかなりの頻度で、両側の草むらからガサガサと音がする。人の気配で何かが逃げる音だ。
つまりふだんは人間の領域ではない場所なのか、と思う。初夏の緑は活力全開で、青い空との対比が眩しい。
緑の中からはウグイスの力強い鳴き声がほとんど間を置かずに聞こえてくる。面白い体験をしているな、と思う。
L: こんな感じの道を行く。ガサガサ何かが逃げる音、ウグイスの鳴き声などでそれなりに賑やか。
C: 今はコンクリートで舗装されて道に迷うことはないが、かつてはこういった案内が頼りだったのだろう。
R: しばらく進むと美しい浜辺に出る。この岬が加布良古崎(かぶらこざき)で、伊射波神社はそのてっぺんにある。やはり一宮参拝はすっかりメジャー化しているようで、家族連れが3組ほどいた。ゴールデンウィークに物好きだなあ。
浜辺からいったん木々の中に入っていき、案内に従って海岸へと一気に降りていく。するとようやく一の鳥居が現れる。
かつては伊射波神社には船で来て参拝していたそうで、この空間構成はその名残というわけなのだろう。
一の鳥居から先は石段になる。最初のうちはそこそこ急だが、やがてゆったりとなり、土の切り通しもある。
しばらく行くと二の鳥居が現れる。ここから伊射波神社まではわりとすぐ。横参道の形で拝殿の前に出る。
L: 伊射波神社・一の鳥居。海岸に面しており、かつては海から参拝にやってきたことがうかがえる。
C: 一の鳥居を抜けるとこんな感じで石段を上っていくことになる。最初は急だが、だんだん落ち着いてくる。
R: 二の鳥居。この先は切り通しになっており、ほどなくして伊射波神社の拝殿前に出るのだ。伊射波神社の現在の拝殿は2001年に建てられたので、建物じたいに特別なありがたみはあまり感じられない。
しかしこの場所に社殿がしっかりつくられ、訪れる人もけっこういるという点にこそ、この神社の存在意義がある。
拝殿の中に入ると、右手に伊射波神社についての説明が書かれた紙が置かれている。当然、ありがたく頂戴する。
そして無人販売所の要領で3種類の御守が置かれていた。おひとつ500円で、これまたありがたく頂戴する。
一宮と一口に言っても、実にさまざまなタイプが存在している。伊射波神社もかなり独特で面白い。
L: 最後の切り通しを抜けて拝殿の前に出る。 C: 拝殿。正面から失礼します。 R: 拝殿の内部はこんな感じである。ちょいと失礼して本殿の写真も撮らせてもらう。拝殿と同じく2001年の築なので、特別どうこうということはない。
でも周囲は石垣で囲まれており、小さな鳥居の置かれた岩もあるなど、けっこう独特の雰囲気がして興味深かった。伊射波神社・本殿。
さて、伊射波神社はこれで終わりではない。加布良古崎の突端には領有神(うしはくがみ)が祀られているのだ。
ここからもうあと200mほど先にあるということなので、迷わずそこまで足を延ばしてみることにした。
道の具合はふつうに山道で、若干の起伏があるが、全体的には下り。そして少し開けたところが岬の突端だ。
開けたといっても頭上はしっかり木々に覆われており、せっかく岬なのに見晴らしはまったくよろしくない。
少しだけ高くなったところに領有神を祀る磐座があった。なるほど、原始的な信仰の雰囲気が漂っている。
そこから一段低くなったところが加布良古崎の突端。海が見えないことに悲しい気分になってしまったが、
右手にまわり込んだら木と木の間に注連縄が張られているのを発見。下には板があり、ここに立てと言わんばかり。
L: 領有神を祀る磐座。岬の突端にこれってのは、やっぱり何かありそうな感じになるよなあ、と思う。
C: 加布良古崎の突端。何も見えません。 R: 右手にまわったらこんな場所が。そりゃ、板の上に立つしかないわな。そこは朝日の遥拝所なんだそうで、志摩の真っ青な海を木々の間から見ることができるようになっていた。
その光景に当然僕は、沖縄の斎場御嶽を思い出す(→2007.7.24)。海の民の聖なるものに、また触れることができた。ここから朝日を拝めば、さらにそのありがたさが味わえるんだろうねえ。
ゆっくりゆっくり、ひとつひとつを味わうようにして安楽島のバス停まで戻る。本気を出せば15分程度の道のりだったが、
戻ってきたのはバスが発車するまで残り5分もない頃合いだった。僕はそれだけじっくり聖地を堪能してきたわけだ。
バスに乗り込んだら、運転手のおじさんに「伊射波神社に行ってきたんですか?」と訊かれた。「はい、もちろん」
「ここからどれくらいかかります?」「早足なら15分で行けますけど、ふつうのペースならだいたい30分弱ですね」
「へえ、私はまだ行ったことがないんですよね……」運転手のその言葉からは、いつか自分の足で確かめてみたい、
そういう気持ちが読み取れた。きっとバスの乗客によく訊かれるのだろう。参拝客がそれなりに多いことがうかがえた。空腹に耐えかねて、鳥羽駅に着いたら去年も食った「あおさうどん」をいただく。やはり風味がいいですな。
そのまま一気に名古屋まで出て、本日の活動はこれにて終了。メシを食い終わったらコメダで日記を書きまくる。
閉店まで粘って書きまくった結果、「空間の肯定」(→2013.1.9)を書き上げることができた。本当にうれしい。
天候にも恵まれ、すばらしい建物を見て、きちんと聖地の聖地っぷりを味わい、考えていることも整理できた。
最高の旅行をしていることに大いに満足しながら、眠りにつくのであった。たまりませんです。
今日は午前中にサッカー部の練習。せっかくなので僕も参加して、まったく同じメニューをこなしてみる。
中学生時代には長距離走の校内No.1選手として鳴らした僕だが、異動してきてからきちんと体を慣らす余裕がなく、
いきなりフルパワーで負荷を受けるのはやっぱりつらい。それでもついていくこと自体はいちおうできている。
ふだんは参加する時間をなかなかつくれないので、周りの中学生たちは僕を置いてどんどん伸びていくんだろうな、と思う。
悔しいのだが、しょうがない。とりあえず今は、なんだかんだでトレーニングについていけることを喜んでおくのだ。そんな具合に全力で取り組んでいたら、部員どもから「サッカーをしている先生は本当に楽しそう」と言われてしまったよ。
うーん、そうなのか。中学生時代にはサッカーの「サ」の字もなかった少年は、今そんなところまで来ているのか。
体を動かし、頭を動かし。まあ、これはこれで悪くない生活ができているのかもしれないな、と素直に思っておこう。
ゴールデンウィーク中も部活に熱心なのはどこでも同じようで。それで今日はうまく都合がついたので、
僕の前任校と今の学校で練習試合を組んでみたのであった。いやー、まさかこんな日が来ようとは。休憩を入れながら20分のゲームをぐるぐるとまわしていく。校舎の上からビデオで録画もやってみる。
コーチにしっかりと「サッカー的な動き方」を伝授されている今の学校と、僕の我流が染み付いている前任校とでは、
今の学校の方がけっこう圧勝しちゃうんじゃないかと思っていたら、前任校は思ったよりも粘って守っていた。
ボールが収まる生徒を中心にうまく攻め込んで、きっちりとゴールを決めてみせる場面もあった。
部員どもは僕がいなくなって確実に成長しているようだ。そう感じさせる懸命なプレーぶりだった。
ちなみに今の学校の生徒たちからは「先生はどっちを応援すんの?」と訊かれまくるのであった。
まあそりゃ気になるわな。で、「オレはいいプレーを見たいだけなのさ」と答えるのだが、しゃべるたびに、
「ウチは……いや、あっちは……」「オレたちは……いや、あっちのチームは……」と、しどろもどろ。
まだまだ新しい環境に慣れていないのである。困ったもんだ。最終的なスコアとしては、こっちがきっちり勝ちきった感触になった。とはいえ前任校もいい面は見せていた。
お互いにいい練習試合になったようで、笑顔で解散。まあ、今後も継続的に企画していきたいもんですな。
ここんところ日記の更新が滞っていた理由としては、授業と部活でヘロヘロになっていたことも大きいのだが、
実はもうひとつ、無料配信されていた『機動戦士ガンダム』全43話をがんばってコツコツと見ていたからなのだ。
いわゆる「ファーストガンダム」は前に一度見たことがあったはずなのだが、なぜか日記にその記録が残っておらず、
内容もスポーンと見事なまでに忘れていたので、これはいい機会だと再チャレンジしていたわけである。
というわけで、あらためてきちんと「ファーストガンダム」について思ったことを書いておきたい。まず冷静になって考えてみると、シャアの恰好がド変態そのものじゃないですか。なんだありゃ。
まあ実際、シャアは立派な変態さんなんですけど(ララァの件とか)、それを全身で主張するあのコスチューム。
いきなりひとりだけSM状態ですよ、あれは。声とセリフがかっこいいだけになあ。そのギャップが人気の秘密ですかね。さて本題。もともと僕は「ファーストガンダム」に対しては、そんなに大騒ぎするほど面白くはないだろう!と、
かなり冷めた態度をとっていたのだが、あらためてじっくり見てみて、まあやっぱり前半はまったく面白くない。
アムロの内向的な性格が見ていて腹が立ってしょうがないのと、セリフが独白に近いものばかりで対話になっていない、
そういう感触がどうしても拭いきれないのとで、もう本当に退屈で退屈でたまらなかった。見るのがストレスだった。
特にセリフが噛み合っていない感じはかなり厳しくて、各キャラクターの心情がまったく見えてこなくて困った。
ガンダムというと名ゼリフがいっぱい、みたいな認識が一般的だけど、それ以外のふつうのセリフのクオリティが低い。
このキャラクターはこういうことを考えていて、それがこういう行動につながって、他のキャラクターとぶつかって、
そういう流れがセリフから全然見えてこない。当時の絵のクオリティもその一因ではあるが、それにしてもひどかった。
前半のガンダムは全体的に間延びしていてフラストレーションがたまる内容で、その期間が無駄に長いのでまいった。そうは言っても面白い回はところどころにきちんとあって、人間味あふれるジオンの軍人が出る回はだいたい面白い。
前半でいちばん楽しめたのは、第14話「時間よ、とまれ」。やっぱり敵が魅力的でないと物語は面白くならないのだ。
というわけで、ランバ=ラルは非常にかっこいい。ランバ=ラルの登場とリュウ=ホセイの死でアムロは成長するけど、
ランバ=ラルが出てくるのがもうちょっと早ければ、こっちが退屈する時間が短くて済んだのに、というのが正直な感想。
リュウ=ホセイの死はどうにかならんかったかと思うのだが、人がいなくなることで劇的に成長するのは現実の話で、
そこを考えるとこれはやはりどうしょうもないのか、と渋々納得する感じ。やっぱりキャラクターの個性が大事ですな。調べたところ、「ファーストガンダム」は本来の予定を圧縮して全43話というヴォリュームに収まったそうだ。
後半にはそのことがいい方向に転がって、話のテンポが劇的に良くなるのである。こうなってからはなかなか面白い。
さらにアムロやホワイトベースのクルーたちの成長が明確に見られ、彼らが自力で解決を図れるようになったこともあり、
襲ってくる事態に対して能動的に対処する姿勢へと変化する。これでようやく視聴者はカタルシスが得られる。
(そういう意味では、キャラクターと物語の成長を最も象徴している存在は、アムロではなく、カイ=シデンだな。)
そんなわけで「ファーストガンダム」全体を総括すると、やっぱり傑作とは言いたくない。が、後半はしっかり楽しめる。
その時間的なバランスは、はっきり言って、かなり悪い。そう、「ファーストガンダム」は穴だらけの作品なのである。「ファーストガンダム」は、せっかく面白くなってきたところで終わってしまったアニメだ。限りなく未完成に近いのだ。
だから本放送ではなく、再放送になってようやく、爆発的な人気を得ることができたのではないかと思う。
そして、そうだからこそ、その穴を埋めるべく、続編がどんどんつくられていったのではないかと思うのである。
未完成な本体を補完する公的な二次創作(→2007.11.9)が次々つくられ、シリーズ全体の魅力をどんどん増していく。
作品単体の魅力は正直欠点があったが、その欠点があるからこそ、それを補おうという動きが充実していったのだ。
『機動戦士ガンダム』は、そうやって自己の地位を確固たるものにしていった。僕にはそう思えてならない。最初はド素人の民間人ばかりが動かしていたホワイトベースは、実験あるいはおとりとしての役割を果たしながら生き延び、
最終的には老練な(有能だと思うよ)コンスコンを何もさせないまま打ち破るとんでもない破壊力の集団へと変化した。
それはそのまま、『機動戦士ガンダム』シリーズのその後の成長ぶり、躍進ぶりにちょうど重なって見えるのだ。
だから「ファーストガンダム」とはすなわち、成長前のアムロやカイ=シデンの姿そのものなのかもしれない。
この作品を支持している皆さんはたぶん、その成長前の彼らを愛おしく思える余裕のある人たちなんだと思う。
だけどすいません、僕にはあんまりそういう余裕はないです。「欠点」を「改善」した、この後の作品たちの方が好き。
ケータイのバッテリーのところのカヴァーを、あろうことか仙台で落としてしまった。
もともとカヴァーはだいぶはずれやすくなっていて、いつかどこかでなくすだろうと思ってはいたのだが、
よりによって仙台でとは……。まあとにかく、いよいよなんとかしないといけない状況となったのだ。そこで、もういい機会なので、スマホにしましょうかどうしましょうかと様子をさぐってみることにした。
というのも、今の職場では個人のパソコンでインターネットを使うことができない。プリンターも貧弱で、
今までどおりに各種ウェブサイトを気軽にチェックして印刷することができなくなってしまったのである。
そういうわけで、もうこの際、スマホに移行しちゃおうか!と考えたわけである。夜になっていきなり降り出しやがった雨の中、自転車で自由が丘に出る。で、ケータイの店で訊いてみる。
そこで僕は初めて知ったのだが、スマホってのは月額7000円くらいするのね! 驚いてのけぞっちゃったよ。
でもテザリングでMacBookAirを簡単にネットにつなげること、旅先でGoogleマップを利用できること、
そういったもろもろを考えると、やはりそれなりに利用価値はあるのだ。でもさすがに7000円は大きすぎる。
とりあえず書類をもらって家に帰り、この件は自分の中で継続審議とすることにした。いやー、たまげた。
世間の皆さんは月額7000円分を納得して使いこなしているんですかね。僕にはまったくわからないですわ。