diary 2013.2.

diary 2013.3.


2013.2.28 (Thu.)

異動の内示が出る。すでに面談で「出すよ」という話にはなっていたので、あとは場所がどこかが焦点だったのだが、
僕がまったく予想していなかった展開でひどく驚いた。島か×××に流されるもんだと覚悟をしていたんだがなあ。
ともかく、僕が八丈島や小笠原に飛べば宿泊施設ができるぜイェーイ!などと期待していた皆様は残念でした。


2013.2.27 (Wed.)

雨の影響でグラウンドの端っこがかなり濡れており、使える部分が非常に狭い。ただでさえ狭いグラウンドなのに、
今日は本当に狭い範囲しか使うことができない。それならこの状況をチャンスに変えるしかないだろう。
オシムの代表監督時代の通訳をやっていた千田さんが書いたオシムの練習メニューの本をこないだ買ったので、
そいつを試してみるのである。ラインマーカーでグリッドをつくってビブスをたっぷり用意してさっそくスタート。

オシムといえば多色ビブスの練習である。要するにこれは、役割をはっきりさせるための措置のようだ。
でも僕らは今まで、なんとなくボールに対して反応する形での練習しかやっていなかったので、
そこに新たに「役割」という概念が入り込んでくると、みんな一気に混乱してしまうことになる。
「役割」は、プレーの選択肢を自動的に絞り込むことになる。まずそこを瞬間的に整理することで一苦労。
さらにその「役割」としての選択肢を増やしていくことが要求される。それでみんな一気に大混乱となるのだ。
プレーの取捨選択は、ボールやボールホルダーに直接関わっている選手自身で解決しなければならないものではない。
声を出して指示をすること、それが味方のスマートな選択肢を増やすことにつながるのだ。この部分の再発見が面白い。
そうやって選手ひとりではなく、チームとして考えてプレーするようになっていく。ためになる練習だ、と心底感動。

しかしいきなりオシムの練習に挑戦することになった部員たちは、頭がめちゃくちゃ混乱すると言いヘロヘロになっていた。
結局、オシムのメニューは「頭がクルクルパーになる練習・その1」などという呼び方が定着してしまったのであった。
ニンともカンともである。やっぱりウチの部員は良くも悪くもそんな感じなんだよなあ。


2013.2.26 (Tue.)

1年生の平均点が35点って……。オレはいつもどおりの力加減で問題をつくったはずなのに、なんだこれは!?
ちなみに最高点は98点。ちゃんと勉強していれば、きちんと結果は出るはずなのだ。それなのに、なんだこれは!?
もともと勉強が得意じゃないことはわかってはいるけど、ここまでひどい結果になるなんてまったく想像していなかった。
いいお灸にはなったはずなので、来年度以降の奮起を期待したい。そうとしかコメントできんわ。

2年生は平均点が50点を少し割ったくらい。本当は50点以上に到達してほしかったのだが、まあしょうがあるまい。
ふだん英語を苦手にしている層はそれなりに踏ん張ったものの、上位陣が伸び悩んだのでそういう結果になったわけだ。
2年生の英語苦手組は着実に成長しているんだけど、とにかくそのスピードが遅くて困る。あまりにもゆっくりすぎる。
そういう話は生徒たちに直接していて、連中もまったくもってその通りですと深く納得しているのは救いなのだが、
3年生に上がる前にダッシュがかけられなかったことは本当に残念である。下地はつくったんだけどね……。

いつまでもオレがこの学校にいると思うなよ!とはっきり言っていれば少しは結果が違ったかなあ……。


2013.2.25 (Mon.)

本来なら予定にはなかった瀬戸内旅行の3日目である。世間は平日、でも自分だけは休みなのだ。いい気分である。
まだ目が覚めきっていない広島の繁華街を北上して突っ切ると、胡町の電停で路面電車を待つ。
ほどなくして超低床車両がやってきた。乗り込むと、平日だけあって朝早いのにそこそこ乗客がいた。
路面電車はのんびりと西へと走っていくが、停まるたびに車内に女子高生が増えていく。
路線図を見てみると、広電沿線には女子高が複数あるのが一目瞭然。なるほど、と思うのであった。や、それだけ。

廿日市市役所前(平良)という電停で降りる。その名のとおり、廿日市市役所の最寄駅である。
「(平良)」というのがよくわからないのだが(しかも「へら」と読む)、とりあえず地図を参考にして市役所まで歩いていく。
駅周辺は最近になって整備されたようで、道のつくりも新しければ建物たちも新しくて大規模だ。
(調べてみたら案の定、駅名にある「平良」とはもともとのこの駅の名前だった。1984年の開業でわりと最近。
 その後、2006年に駅前を整備して名前も変えてしまったとのことだ。で、「(平良)」となっている。)
やがて国道2号との交差点に出ると、その先に巨大な建物がそびえているのが目に入る。あれが市役所か、と呆れる。
横断歩道を渡って近づいてみると、その威容に圧倒させられてしまう。これだけ派手な市役所は珍しい。

  
L: 廿日市市役所の威容。今どきこれだけ複雑なデザインの市役所をつくれるのか、と思ったら複合施設だった。
C: 右が廿日市市役所、左がはつかいち文化ホールで通称「さくらぴあ」。真ん中は図書館と美術ギャラリーなのだ。
R: 廿日市市役所の方をクローズアップしてみた。竣工は1997年、設計は佐藤総合計画とのこと。

それもそのはず、廿日市市役所は文化ホール・図書館・美術ギャラリーとの複合施設として建てられたのだ。
全国の市役所を見ると公共施設が併設されたものは決して珍しくないのだが、ここまで一体化しているもの、
そして何よりこのご時世に庁舎単独での建設となっていないものは、ほかにちょっと思いつかない。
よくここまで思いきったもんだなあ、と呆れながら敷地を一周して建物を撮影していく。

  
L: 文化ホール「さくらぴあ」。  C: さくらぴあの裏側。  R: これは市役所の裏側。平成オフィスだなあ。

撮影を終えて駅に戻ると、終点の広電宮島口まで揺られる。途中でフリーきっぷの存在に気がついて、
車掌さんに訊いてみたところ、なんと、ロープウェイが点検中でお休みとのこと。そのため、フリーきっぷもお休み中。
僕はロープウェイを使って弥山の山頂を目指すつもりでいたので、これはあまりにも痛い。
いったいどうしよう……と考えているうちに、電車は終点に到着。松大汽船の乗り場前にはコインロッカーがある。
決意を固めた僕は大半の荷物を預けると、ほぼ中身が空になったFRINGEを背負ってフェリーに乗り込んだ。

JRのフェリーの方が出発が早くてそうとうヤキモキしたのだが、松大汽船も出航していよいよ宮島へ。
15分ほどで対岸に着くと、早足で降りて上陸する。そのままグイグイと厳島神社への参道を歩いていく。

  
L: 前回訪問時には撮らなかった、厳島神社への参道。  C: この鳥居を抜けると湾の奥にある厳島神社が見えてくる。
R: というわけで、厳島神社を遠景で。厳島神社は横から見ても建物が浮かんでいるだけで、上から見る方が面白い。

「安芸の宮島」は日本三景のひとつとして有名だが、松島(→2008.9.11)や天橋立(→2009.7.20)と違い、
具体的にこの辺が見事です、というポイントがイマイチ曖昧である。たいてい、厳島神社の鳥居ってことになっている。
しかし一説によれば、弥山より眺める瀬戸内海の島々こそが本来の日本三景に数えられる景色だという。
伊藤博文も「厳島の真価は弥山からの眺望に有り」と言ったそうだし(それで登山道が整備された)。
というわけで、弥山に登って瀬戸内海を眺めるのは、僕の密かなリヴェンジ目標のひとつだったのだ。
だからロープウェイが運休しているくらいで諦めるわけにはいかないのだ。いいだろう、この足で登ってやろう。
弥山の標高は535m。海抜0mからの登山なので、その高さを真っ正面から受け止めることになる。
予定していた宮島滞在時間から考えるとかなり厳しいのだが、やると決めたからにはやるしかないのだ。

わざわざ弥山に登る物好きなんて僕のほかにはいないだろうと思ったらそんなことはなく、
途中で女性2人組を追い抜いた。パワースポットブームだからなのか、わざわざ登るとは驚いた。
しかしそれ以外に人影はなく、獅子岩駅近くまで誰にも会うことなく修行のような時間が続くのであった。
すっかりロープウェイのお世話になるつもりでいたので、カロリーメイトなどの気の利いたアイテムはまったくない。
血糖値の限界が来ないように祈りつつ、汗まみれになりながら坂と石段の入り交じった登山道を無言で行く。
そうして30分ほど経ったところで、いよいよ頂上が近い気配がしだす。明らかに人工的に積まれた石があり、
そこで2頭の鹿がイチャついていた。本気でムカつくほどのラヴラヴっぷりで、追っ払ってやろうかと思ったが、
さすがに聖地・弥山でそれをやるのはどうかと考え直し、なんとか冷静になってがまんしたのであった。

  
L: 登山道はこんな感じでけっこう石段が多い。あまり景色に変化のない中を黙々と登る。植生はちょっと南方風かな。
C: 大聖院・弥山本堂に到着。いやー、疲れた。  R: 弥山本堂の向かいには不消霊火堂、そしてその上には三鬼大権現。

弥山の山頂付近には神社やさまざまなお堂が点在しているのだが、それをのんびりとまわる余裕などない。
ロープウェイに乗れずしっかり登山した分だけ、スケジュールは恐ろしいことになっているのである。
また、下山するのにもそれ相応の時間がかかるのだ。テンポよく弥山本堂に参拝して、さらに山頂を目指す。
三鬼大権現からさらに先へと石段を上っていくと、信じられないことに、巨大な岩が連なる光景に出くわす。
これだけ大きな岩を頂上まで人力で運べるはずがない。となれば、もともとこうなっていたってことだ。
土が長年の雨で洗い流されて岩だけが残ったのか? いや、弥山本堂まではしっかり土があるし、その差がわからない。
どうしてこういうことになっているのか、僕の頭では想像がつかない。自然とは不思議なものだと思う。

岩場を抜けるといよいよ弥山の頂上だ。本来の日本三景とはどんな景色なのか、期待しつつ上がっていくと、
巨岩に囲まれた中に丸くて青い塊が山積みになっている光景にぶつかった。ほーこれが頂上か。……って、オイ!
立入禁止を意味するネットが張られた向こうにあったのは、ブルーシートの土嚢だった。それが邪魔で何も見えない。
ここまで自力で登ってきて、そのうえで最後の最後のこの仕打ち。愕然としてその場に膝から崩れ落ちたよ、冗談抜きで。
実は弥山の山頂にある展望台が、ロープウェイの点検に合わせてか、解体工事の真っ最中だったのである。
その関係でこんなことになっているようなのだ。いやーもうキレたキレた。とてもキレずにはいられませんぜ。

  
L: 弥山の山頂付近。巨大な岩が連なる中を抜けていく。この写真のようにトンネルになっている箇所もあった。
C: 山頂はこんな具合なのであった。ここまで地道にがんばって登ってきてコレじゃあ、泣くに泣けないよ。
R: いちおう、山頂から瀬戸内海を眺めるとこんな感じになる。どうやって撮影したのかは想像に任せます。

というわけで、山頂から瀬戸内海を眺めるとこうなる、という写真を貼り付けたのだが、どうやって撮影したのかは内緒。
ただし、ご存知のとおり僕は重度の高所恐怖症である。ネットを乗り越えて土嚢の上から撮るなんて、とてもできませんよ。
まあただ、当時の僕は完全にキレていたけどね。どうやって撮影したのかは皆様のご想像にお任せしておきます。

あと、パノラマ撮影もやってみたので貼り付けてみる。新しいデジカメでは初めてだけど、まあまずまずですかね。


弥山の山頂より北側(廿日市市街方面)を眺める。


頂上付近の展望スペースより南側(瀬戸内海方面)を眺める。

北側は木々が邪魔で、海岸線に沿って広がる家々を見ることがかなり難しい。非常に残念である。
それでも南側では、完全にすっきりとはいかないが、海に浮かぶ島々を一望できるのはすばらしい。
とりあえず溜飲を下げることはできたので、ヨシとするか。もう本当、意地でどうにかした感じ。

いつまでも土嚢の前でボンヤリしている暇などないので、撮影を終えるとすぐに下山する。
下山は足の長さに任せてリズムよく石段を踏んでいけばいいので、かなりスピーディである。
20分ほどで登山道の入口まで戻ってしまった。鹿にも負けない走りっぷりで、あっという間でございました。
(ちなみに、弥山の紅葉谷ルートは所要時間が片道約90分とされている。登りで40分、下りで20分は変態的ですな。)
なお、おまけってことで、弥山の中で見かけた鹿たちのいろんな姿を撮影しておいたので、貼り付けておこう。

  
L: 弥山本堂の手前でイチャついていた鹿。ずーっとこんな感じ。ムカつくわー。  C: 弥山本堂前に現れた子鹿。超かわいい。
R: 下山途中、2頭の鹿がマジゲンカを始めた。ずっと観察していた僕に気がついた2頭は白けてしまったようで、そのまま消えた。

一瞬のうちに下山ができたので、厳島神社以外のさまざまな名所に寄ることができた。
5年前にも行っているけど、やっぱりお気に入りの千畳閣に寄らないわけにはいかないのだ(→2008.4.24)。
あらためて訪れる千畳閣は、天気がよかったこともあって、奉納された額がよく見えた。
巨大なしゃもじもいくつかあって、さすがは宮島と感心。千畳閣は本当に楽しいなあ。飽きることがない。

  
L: 千畳閣の外観。青空の下の姿をあらためて撮影してみた。  C: 中の様子。額だけでなくしゃもじもある。
R: 千畳閣は豊国神社の一部ということで、神棚があるのだ。ちゃんとお参りしておいたよ。

 隣の五重塔も豊国神社の一部なのだ。

さていよいよ、宮島を訪れたもうひとつの目的である、安芸国一宮・厳島神社に参拝するのだ。
当然、5年前にも参拝しているのだが、天気は悪かったし一宮ってことで気合も入っていなかったし、
このたびあらためてきちんと国宝・世界遺産っぷりを味わわせてもらおうというわけなのである。

  
L: 厳島神社の入口。左側で昇殿初穂料を払ってから右側の手水で身を清める。さすがに特殊な空間となっているのだ。
C: 海越しに向かいの回廊を眺める。5年前にも書いたけど、やはり神社を海の上に建てた平清盛の発想には呆れるしかない。
R: 回廊を行く。丸ごと国宝でございますよ。海の上をしずしずと歩く感覚は独特である。それにしても朱色がまぶしいぜ。

厳島神社はもともと「伊都伎嶋神社」という名前で延喜式に記載されていたそうだ。
社殿を現在のように海の上に建てたのは平清盛で、以後、厳島神社は平家の氏神として栄える。
戦国時代になると神社の勢いは弱まり、本来聖地であったはずのこの地で合戦すら行われるようになる。
(厳島の戦い……1555(弘治元)年、毛利元就が陶晴賢を破った戦い。これをきっかけに毛利氏が台頭する。)
しかし毛利元就が社殿を修復するなどして厳島神社は再び栄え、現在は世界遺産に登録されるまでになっている。

  
L: 灯籠と大鳥居。いかにも宮島な光景である。  C: 高舞台。日本三舞台のひとつとのこと。  R: こちらは能舞台。

久しぶりの厳島神社だったが、RPG感覚はやはり健在(→2008.4.24)。それだからか、歩いてあちこち行ってみても、
今ひとつ征服感がないのである。上から見てルートをきちんと確認しないことには、正しく歩けている気がしない。
建物も平べったくって、社殿をきれいに撮影できるポイントもなかなかない。海に入れば話は別だろうけどね。
そんなわけで、厳島神社の立体迷路な感じ、思うように写真が撮れないもどかしさを再度味わいつつ外に出た。

 大願寺側から眺めた厳島神社。高さがないのでどうにもスッキリしないなあ。

残った時間で走りまわりつつ写真を撮って過ごす。もっと余裕を持ってゆったり観光してまわるつもりだったが、
ロープウェイの運休ですべての予定が狂ってしまった。しょうがないけど悔しくってたまらない。
ちなみに厳島神社の宝物館にも入ってみたのだが、正直なところあまり印象に残るものはなかった。残念。

  
L: 大願寺の山門。  C: 厳島神社の多宝塔。宝物館のすぐ西側にある丘の上に建っている。1523(大永3)年の築。
R: 宮島表参道商店街にある、長さ7.7m、重さ2.5tの世界一の大杓子。展示場所が決まらず、14年間も倉庫の中にいたそうな。

急いでフェリー乗り場へと戻ると、ちょうど松大汽船のフェリーが出航受付を始めるタイミングだった。
一時はどうなるかと思ったが、無事にスケジュールどおりに宮島を離れることができた。いやー、キツかった。
そんなこんなでするっと本州に戻って荷物を回収すると、JRの宮島口駅まで行く。目指すはさらに西の街、岩国。
しかしとにかく腹が減った。あなごめしの駅弁は5年前に食っているので、ここは岩国に着くまでがまんなのだ。
そして少し待ったら岩国行きの列車がやってきた。宮島口から岩国までは25分程度しかかからない。
いざ列車に乗り込むと、あっという間に岩国駅に到着。駅でカツ丼とうどんのセットをいただくと、次の行動を開始する。

岩国といえば、なんといっても錦帯橋である。が、錦帯橋は岩国駅からけっこう離れた位置にあるのだ。
ふつうならバスでアクセスするだろうが、僕は迷わずレンタサイクルを利用する。岩国駅付近に観光案内所はなく、
レンタサイクルは昨日もお世話になったニッポンレンタカーで借りることになるのだ。ありがとう、ニッポンレンタカー!
しかし駅から500mほど離れており、駅前のロータリーから右手へまっすぐ、延々と歩くことになるのであった。
まあ、無事に借りることができたし、対応もすごく親切だったから文句はないけどね。本当にありがたいです。

 
L: 岩国駅前のロータリーには錦帯橋の模型が設置されていた。岩国市民の誇りそのもののようである。
R: 駅へと続く商店街のアーケードも、どことなく錦帯橋のアーチを思わせるデザインとなっている。

さて、錦帯橋は岩国駅からけっこう離れた位置にある、と書いた。そもそも、本来「岩国」とはそっちを指す地名なのだ。
岩国駅前は「麻里布(まりふ)」といい、かつては別の自治体だった(1940年に岩国と合併して市制施行した)。
岩国は純然たる吉川家の城下町だが、麻里布は港を利用した工業と軍の基地によって発達した。
肝心の岩国市役所は、その麻里布の中心部から少しはずれた位置にある。まずは当然、そこから攻めていくのだ。

岩国市役所に着いてみると、とにかくその新しさに驚いた。調べてみたら竣工は2008年で、佐藤総合計画が設計。
僕はすっかり忘れていたのだが、岩国基地のアメリカ軍空母艦載機受け入れを市長が拒否したことにより、
市庁舎建設の補助金が打ち切られて揉めに揉めた経緯があった。市長の椅子と住民・政府・同盟国の意向と、
複雑に事態が動いた結果がこの市庁舎というわけだ。調べてみると、これはかなり生々しい話である。
なお、旧岩国市庁舎を設計したのは佐藤武夫。佐藤総合計画はその佐藤武夫がつくった事務所の後身だ。
もしかしたら、いかにも現代風な岩国市役所には、建築をめぐるあらゆる力学が埋め込まれているのかもしれない。

  
L: 岩国市役所を真正面から撮影。庁舎の前(旧庁舎跡地)はオープンスペースとなっており、駐車場はその脇にある。
C: 側面(だいたい南東側より撮影)。  R: これは背面(南側より撮影)。この建物は360°全面ガラス張りなのね。

  
L: もうひとつの側面(だいたい北西側より撮影)。  C: 中はこんな感じ。やっぱり現代風だなあ。
R: 市役所の北には岩国市民会館。1979年竣工なのだが設計者は誰だ? えらく意欲的なデザインなんですが。

市役所の撮影を終えると、いよいよ本格的に錦帯橋・岩国城を目指す。Googleマップを見て少し心配していたのだが、
実際に岩国城へと向かう道を自転車で走ってみると、歩道もきちんと整備されており、そんなに苦労することはない。
さすがは国道2号、当たり前か。多少の起伏はあるものの、全体として非常に走りやすかった。よかったよかった。

途中、歴史を感じさせる建物があったので、さらっと寄ってみる。岩国小学校の敷地に隣接して、静かに建っている。
正面に立ってあらためてじっくり見てみると、これは実に見事な学校建築だ。和洋折衷のつもりがかすかに中国風で、
そういう事例は間違いなく明治初期の建物だ(たとえば、旧新潟税関庁舎を参照のこと →2007.4.28)。
ということで、こちらは1871(明治4)年築の旧岩国学校。現在は「岩国学校教育資料館」となっている。
岩国では藩主から藩知事となった吉川経建が学制発布より先んじて公教育を押し進めた歴史があり、
階級を問わず子どもを受け入れるわイギリス人教師に英語を教えさせるわ、といったことをやったそうだ。
この建物は、そんな岩国の教育への誇りを象徴する存在というわけだ。規模は大きくないが、きわめて貴重な事例だ。

 岩国学校教育資料館(旧岩国学校校舎)。プライドがビシビシ伝わってくるねえ。

そこからちょっと進めば岩国の旧市街地に入る。なんせ明治期の学校建築が残っているくらいなので、
錦帯橋方面にまっすぐ出る道を素直に走ることはせず、あえて住宅地を突き抜けていくことにする。
特別に古い建物が並んでいるというわけではないが、街割りは確かに城下町の町人地のそれであり、
ちょぼちょぼと観光客相手の店が穏やかに入り交じっている。歴史の香りがまだ残っているのがいい。
そうしてようやく錦帯橋の前に出る。が、当然、このまま素直に錦帯橋を渡るはずなどないのだ。
駐車場にもなっている錦川の河原に下りて、そこから錦帯橋を見上げてみる。橋はまず眺めて、その後に渡るもんだ。

  
L: 錦川に片足突っ込むような感じで眺める錦帯橋。ゆったりとした5連のアーチが優雅な曲線を描いているのがわかる。
C: 橋に近づいてみた。まずは木製の橋脚があって、その後に石垣を組んだ橋脚の3連発となるのだ。
R: というわけで、石垣の橋脚部分をクローズアップ。何がすごいって、橋の裏側の木材の組み方だな。美しい。

錦帯橋を初めて架けたのは吉川広嘉。祖父・吉川広家が岩国城を築き、錦川右岸を武家地、左岸を町人地としたが、
何度も何度も洪水で橋が流されるのでキレてしまい、橋脚のない橋をつくっちまえばいーじゃねーかと決意したのだ。
しかし200m近い錦川の川幅を橋脚なしで渡す技術はさすがに当時はなく、1674(延宝2)年に試行錯誤の末、
石垣で橋脚をつくった5連アーチの橋がついに完成した。この橋はいつからか「錦帯橋」と呼ばれるようになる。
そうして250年以上流出することなく維持された錦帯橋だったが、戦後の1950年に台風によってほぼ完全に流出。
戦時中の補修不足や岩国基地建設に伴う土砂の採取が原因とのこと。岩国市民は意地で1953年に再建する。
そして2004年には、架け替えの記録から江戸期の技術を忠実に再現して、平成の架け替え工事を完了させている。
錦帯橋は276年間流されなかったとはいえ、定期的に架け替えが行われ、そうして維持されてきた橋なのだ。
つまり錦帯橋は単純に古さを味わうのではなく、歴史的な技術の伝承に価値を感じるべき土木遺産ということなのだ。

  
L: 真下より錦帯橋のアーチを見上げる。これが5連発ってのはやはり凄いことだ(参考までに、木曽の大橋 →2009.8.14)。
C: というわけで、ようやく錦帯橋を渡るのである。入橋料が300円(往復)かかる。今回は岩国城・ロープウェイとのセット券を購入。
R: 錦帯橋の上はこんな感じ。アーチがうにょうにょと続いていく光景は、さすがにほかでは味わえない。面白いなあ。

錦帯橋を渡りきると、そこは観光客向けの土産物店が何軒かあった。そしてその中に、衝撃的な文字を発見。
「日本一ソフトクリーム100種類」「ナニコレ珍百景」……そんなもん、もう、食うしかないじゃないか!
でもだいぶ日差しが傾きかけてきているので、岩国城に行くのが先だ。すっかり夕方になってもソフトクリームは逃げない。
錦川の右岸はさっきも書いたがもとは武家地であり、その空間構成を利用して公園としてきれいに整備している。
何匹かネコがいて、みんな人に馴れていて勝手気ままに過ごしている。その中の1匹と軽く遊んでから、いざロープウェイへ。

 岩国城ロープウェイからだと、公園化した武家地の様子がすごくよくわかるのだ。

ロープウェイで横山に上がり、木々の中を少し歩いて岩国城に到着。さっきも書いたが、岩国城を築いたのは吉川広家。
毛利家内での吉川広家の立場は、毛利家存続に全力を尽くすがゆえに裏切り者扱いされる、かなり微妙なものだった。
そのため吉川家の岩国領が藩として独立するのは、実に明治維新後の1868(慶応4)年になってからのことなのだ。
しかも岩国城は、一国一城令で長府の毛利秀元が城を破却したのに合わせ、完成からわずか7年で破却させられた。
周防国には岩国城しかなかったにもかかわらず、である。吉川家の置かれた難しい立場を示しているエピソードだ。

  
L: 岩国城。現在の天守は1962年に鉄筋コンクリートで再建された。見映え重視で本来の位置から麓側に少し移してある。
C: 現在の天守より30mほど奥まった位置にある天守台。これも1995年に発掘復元されたものとのこと。
R: 本来の天守台付近から眺めた現在の天守。デザインが少し独特だ。中はおなじみの博物館的な展示である。

天守の中はがっちり鉄筋コンクリートと博物館的な展示のコンビネーションである。特にこれといったことはない。
しかしさすがに最上階からの眺めはすばらしい。麓の公園化された武家地と錦帯橋、そして太平洋へと広がる街並み。
それらが一望の下に収まる光景は非常に贅沢だ。その南東側以外に景色が楽しめないのは事実ではあるのだが、
これだけ見事であればもう十分だろう。しばらく無言のまま見とれて過ごした。大変美しゅうございました。

  
L: 天守の最上階。  C: そこから眺める景色は絶品だ。近景(麓)と遠景(海へ広がる街)をつなぐ錦帯橋の姿が味わえる。
R: というわけで、岩国城の天守から見た錦帯橋はこんな感じである。こうして見ると、優雅なアーチが際立っているのがわかる。

ロープウェイの時刻に間に合うように天守を出て乗り場へ。だんだんと公園が近づいてくる光景はやはり見事なものだ。
地上に下りると、あらためて武家地の公園を歩きまわってみる。「吉香(きっこう)公園」という立派な名前がついており、
その中心的存在である吉香神社は吉川家の居館跡に建てられている。社殿は重要文化財なのだ。というわけで参拝。

  
L: 吉香神社は吉川家の館の跡にあるので空間構成がやや独特。開放感のある参道を進んでから、囲まれた拝殿に入るのだ。
C: 拝殿もなかなか見事だったのだが、本殿はそれ以上に美しかったので意地で撮らせていただきました。これはすごい立派。
R: なんとびっくり、帝冠様式の岩国美術館。個人のコレクションをもとにしているが、それゆえに充実した内容を誇っている。

せっかくなので岩国美術館にも寄ってみたのだが、これが予想外に充実した内容だった。
特に鎧兜の充実ぶりが有名らしいのだが、非常に見映えのいい刀剣や武家の日用品もよく揃っている。
ミシュランで星一つを獲得したそうだが、なるほど確かに外国人観光客には喜ばれそうなラインナップである。
しかし日本人の僕が見ても十分に感心する展示だった。「近代以前の日本のデザイン」という観点からすれば、
岩国美術館の存在価値は非常に高い。面倒くさがらずにきちんと見学してよかったぜ、と大満足で外に出る。

さて岩国で忘れちゃいけないのは、天然記念物に指定されているシロヘビである。
なぜか岩国ではアルビノのアオダイショウがたくさん見つかっており、大切に育てられているのである。
僕は巳年生まれだが、正直ヘビはそんなに好きじゃない。爬虫類は人類とは永遠にわかりあえないと思うんだよなあ。
でもやっぱり、岩国に来たからには見ないで帰るわけにはいくまい。というわけで100円払って観覧施設へ。
ガラスの中ではわずかに黄色がかった白いヘビたちが妖しく絡み合っていた。そのさまに、思わず息を呑んでしまう。
文字通りに頭数を数えると、5匹いる。そんなにベタベタせんでもええやん、と思うが、絡み付いたまま離れない。
顔をじっと見てみる。横からだと図鑑どおりのヘビなのだが、正面からだと本当に「(・_・)」という顔をしている。
それで「あ、かわいいかも」と思った瞬間、先が二股に分かれた舌が素早く飛び出て「うわ、きもちわるっ!」となる。
やっぱりヘビはヘビなのだ。観察すればするほど、こいつらとはわかりあえんなあ……と思わされるのであった。

というわけで岩国城付近の観光がだいたい終わったので、最後は日本一のソフトクリームで締めるのだ。
店の前に立って貼り付けてあるメニューとにらめっこするのだが、100種類を超えるメニューはさすがに多すぎで、
何を注文するのがいいのかサッパリ決まらない。あれもこれも、みんな面白そうでたまらないのである。
納豆、しょうゆ、七味、ハバネロ、カレー、ラーメン、よもぎ、すっぽんマムシMIX……。もうどうすりゃいいんだか。
(キテレツなメニューは少数派で、ほとんどは果物やスイーツなどのまともなラインナップだった。念のため。)
そのうちに、頭の中でマサルの「マツシマくん、今まさにセンスが試されとるんよ」というささやき声が聞こえてくる。
個人的には「にんにく味」を食ってみたかったのだが、この後に飛行機に乗ることを考慮して、断腸の思いで断念。
「大正ロマン味」にも惹かれ、正体がまったく想像つかないので訊いてみたところ、「バニラ+黒蜜+きなこ」とのこと。
そんなもん、旨いに決まっているじゃねーか! 食わんでもわかるわ!ということで、こちらも断念。さあ困った!
で、結局「お茶漬け味」というなんとも中途半端なはじけ具合のセレクトに落ち着いたのであった。すまんなあ。
しかし注文をした直後、「もしかして、かなりマイルドな風味の抹茶アイスじゃないのか?」という疑念が湧いてきた。
それじゃあわざわざこの店で食う意味がねえよなあ、とションボリしていると、お茶漬け味のソフトクリームが登場。
うっすらと緑色をしたクリームにはお茶漬けの海苔とあられがトッピングされていた。そういうことだったか!と思う。
100種類ってのは純粋にクリームの種類を指すのではなく、トッピングを含めての計算なのである。まあそうだよなあ。
「にんにく味」で強行突破すべきだったか……と思いながらクリームをかじると、旨い。きちんと旨いのである。
海苔とあられはともかくとして、クリーム自体がおいしい。抹茶アイスではないかという懸念はまったく見当はずれで、
オリジナルの味付けがなされていた。これはたぶん、100種類のうちどれを選んでもきちんと旨いはずだと思う。

  
L: 岩国のシロヘビ。大きいのも小さいのも仲良く絡み合って妖しさ満点。顔はかわいいと思った瞬間、舌が出てきて驚かされる。
C: ナニコレ珍百景に認定されたことを大々的にアピールしているソフトクリーム店。100種類以上あるとめちゃくちゃ迷うぞ。
R: お茶漬け味をセレクトしてみました。クリーム自体がとってもおいしく、海苔とあられが非常に邪魔でございました。

再び錦帯橋を渡って帰る。のんびりと景色を眺めていたら、途中でランドセルを背負った小学生とすれ違った。
彼は毎日錦帯橋を渡って登下校しているのだろうか? だとしたら、それはなかなか贅沢な通学路だと思う。

国道2号を快調に飛ばして岩国駅前に出ると、そこから北へ行ってレンタサイクルを返却。お世話になりました。
駅のミスドで一休みしてから、あまった時間でアーケード商店街をぶらついて過ごす。見かけよりは衰退気味な印象。
やがて岩国空港行きのバスがやってきたので、出張と思しき背広姿の皆さんと一緒に乗り込んで移動。
岩国空港(岩国錦帯橋空港)は昨年12月に開業したばかり。米軍基地に民間機の定期便を就航させたのだ。
空港連絡バスの本数が少ないのは、羽田との間で1日4往復のみだから。ターミナルビルもきわめて小規模で、
土産売り場がちょこっとある程度なのですぐにやることがなくなってしまう。2階の展望デッキに出ようとしたら、
なんと有料(100円)。ふてくされて1階に戻ると、あっという間に搭乗開始。機能に特化している印象の空港だ。

 窓から自分の乗る飛行機がよく見えるのは、けっこう楽しいね。

離陸した飛行機は1時間半ですんなり羽田空港に到着。蒲田に着いたらスタ丼をいただき、パワーを充填して家に帰る。
あっという間の3日間だったが、とっても疲れた。まるで夢を見ていたような気分になりつつ、風呂に入って寝る。


2013.2.24 (Sun.)

「やっぱり西日本はジョイフルですよね!」というラビーの声が頭の中でこだまする(→2011.2.192011.8.12)。
僕が泊まった宿のちょうど真向かいにジョイフルがあって、そりゃもうそこで朝メシをいただかなければなるまい、
そんな気分になってしまうわけだ。恒例の豚汁朝食をいただいてエネルギーを充填すると、勢いよく歩きだす。

今日は午前中のうちに呉市内を歩きまわり、昼に広島市に移動してそのまま広島に泊まる予定となっている。
呉から広島に移動するだけで丸一日を使うというのは、僕の今までの激しい旅行ぶりからしてみれば、
信じられないほどゆったりとしたスケジュールである。まあでも、つまりはそれだけの理由があるってことだ。
呉は呉で見どころがいっぱいだし、広島は広島で前回訪問時(→2008.4.23)の補完をしたい場所がある。
実は可部線利用で安芸高田市の吉田郡山城址を攻める計画も練ったのだが、近く可部線の一部が復活するそうで、
それなら慌てて可部線に乗ることもないか、と思ったのだ。それよりは、広島市内の建築を押さえたいのだ。

でもまずは呉市内をしっかり歩きまわるのだ。朝メシをいただいてから意気揚々と向かったのは当然、呉市役所。
呉市役所は坂倉準三の設計で1962年に竣工している。が、新庁舎の建設計画がかなり進んできており、
2014年度末に南側に新庁舎が竣工した後は、現庁舎は取り壊されて駐車場になることが決定している。
この瀬戸内旅行は、坂倉の呉市役所を見るための旅でもあるのだ。それで少し、焦って訪れた面はある。
ちなみに呉市の新庁舎はプロポーザルによって大建設計広島事務所の案が最優秀に選ばれている。
市のホームページで詳細を見ることができるが、今の庁舎に対する配慮や敬意は一切みられないデザインで、
呉市の地勢の個性を謳いながら面白みのない造形になっている。山並みをイメージしたという屋根の乗せ方が致命的だ。

  
L: 呉市役所。手前の空間はもともと中央公民館のあった場所で、新しい庁舎はここに建てられるのだ。
C: 角度を変えて眺める。フェンスが邪魔で議会棟がよく見えん。  R: 反対の北側から眺めたところ。

蔵本通りをまっすぐ北上していくと、白い段をまっすぐに積み上げたモダニズム建築が見えてくる。
その足下はすでに工事のフェンスで囲まれており、よく見えない。議会棟の丸い帽子のような屋根だけ出ている。
新しい庁舎は今の庁舎の南側、市民会館のあった位置に建てられる。ちょうど市民会館の取り壊しが終わったようだ。
(市民会館のデザインがまた強烈で、本物に対面できなかったことがとっても悔しい。ボサッとしてちゃいかんわ……。)
フェンスの中にデジカメを入れて撮影を試みる。本当はこんな苦労をしなくて済むタイミングで訪れたかったな、と思う。
なお、新庁舎は市民会館を取り壊して建てることもあり、中にホールの機能をしっかりと持たせる設計となっている。
オフィスと議会とホールをアトリウム的な空間でつなぐ計画で、その発想じたいは素直に面白いと考えているけどね。

  
L: 北側から議会棟をクローズアップ。  C: こっちから見ると、なるほど戦艦の艦橋っぽさも感じるな。
R: 呉市役所の隣は呉市中央公園。周囲よりも少し低くつくってサンクンガーデンにしているのだ。

帰りはれんがどおりや本通り(国道185号)をふらふら歩きながら宿まで戻る。アーケードのある商店街はなんとなく、
岐阜(→2008.2.3)に似ている印象。広島と呉のバランスは、名古屋と岐阜のバランスに似ているのかねえ。

  
L: 本通り。  C: 蔵本通りは堺川沿いに公園ができとる。呉は東から本通り・れんがどおり・蔵本通りが中心部を形成。
R: 呉駅。南側は大規模に再開発されて、複数の商業施設がつくられているわけだ。それらを抜けて大和ミュージアムに出る。

チェックアウトして呉駅へ。しかしまだまだ呉市内のあちこちを歩きまわってやるのだ。昨日と同様、
ペデストリアンデッキで南側に出る。するとまず、朝日を浴びた大和ミュージアムが視界に飛び込んでくる。

  
L: ペデストリアンデッキより眺める大和ミュージアム。青空を背景に撮りたかったので、昨日の日記では画像を出さなかったわけで。
C: 入口の脇はレンガパーク。引き上げられた戦艦「陸奥」の41cm主砲身・主錨・スクリュー・主舵がそのまま展示されている。
R: 建物の裏側には、戦艦大和の大きさを実感できる大和波止場がある。こうして見ると……やっぱりデカいねえ!

 600mまで潜れたという潜水調査船「しんかい」。シリーズの初代ですな。

時刻は9時をまわったところ。「てつのくじら館」という愛称を持つ、海上自衛隊呉史料館に入る。
昨日の日記でも書いたけど、やはり本物の潜水艦がドカンと横たわっている光景はものすごいインパクトだ。
(大和ミュージアムにはこの潜水艦を正面から見られるデッキがわざわざつくられているくらいなのだ。)
こういうことを実際にやってしまう柔軟さはたいへんすばらしい。英断だなあ、と思いながら眺めるのであった。

  
L: 「てつのくじら館」こと海上自衛隊呉史料館。潜水艦「あきしお」の本物ならではの迫力が本当に凄い。
C: 角度を変えて潜水艦を正面より眺める。裏にある建物がメインだが、潜水艦の中も見学できる。
R: 内部もやはり実物の展示がメイン。これは暗い海中でじっと獲物を狙う機雷についての説明。演出が上手いね!

海上自衛隊呉史料館は入館無料で、豊富な実物展示によって海上自衛隊の歴史についてしっかり学べる内容である。
ものすごく勉強になったのだが、海上自衛隊の源流は掃海作業(機雷の除去)にあったとのこと。これは知らなかった。
戦争が終わっても海に放たれた機雷はまだたっぷり残っており、これが日本近海では大問題になっていた。
そこで海軍が解体された後も、元軍人たちによって地道な掃海作業が行われたのだ。物資が十分にない中、
アメリカ製の高性能の機雷を手作業で処理していく作業は非常に困難があったという。でもそれを黙々とやっていたのだ。
だから海上自衛隊の初の海外派遣がペルシャ湾の掃海任務だったのは、そういう経緯をふまえてのことだったわけだ。
歴史をきちんと知ることで、初めてすっきりと見えてくるものがある。わざわざ見学に訪れてよかったと心底思ったね。
そんなわけで、館内の展示の大半は掃海作業についての具体的な説明。残りは潜水艦についてのあれこれ。
掃海作業が機雷の開発といたちごっこである点には、軍事というものの容赦のなさ、知恵の絞り合いであることを実感。
また、厳しい訓練を受けた潜水艦乗務員は「ドルフィンマーク」と呼ばれる特別な徽章をつけることが許されるのだが、
世界各国のドルフィンマークを集めた人がいて、その成果が展示されていた。これも本当に面白かったね。

  
L: 機雷の除去は生身の人間が担当することも多いという。どこまでも冷静さが求められる、まさに命がけの仕事だ。
C: 展示は実際の掃海作業が想像しやすいように工夫がなされている。右側手前にあるのは機雷除去ロボット。
R: 機雷除去に使われるフロートにはこんな顔が描かれている。奥のアシカっぽい顔のやつは爆発の衝撃でへこんだ実物。

館内展示をひととおり見学し終わると、いよいよ潜水艦あきしおの中へと入る。もちろん現役当時そのままではなく、
機密に関わる部分はカモフラージュされているし、順路も限られている。でも本物ならではの質感・迫力はたまらない。

  
L: 潜水艦の内部はこれくらいの狭さなのだ。実際に体感するこの圧迫感はすごい。まして海の中となると怖いよな。
C: 一般の乗組員の部屋はこうなっている。  R: 艦長室でもこの程度。なぜかティーカップの存在がしっくりきている。

 
L: ブリーフィングルームとでも呼べばいいのか、会議をすると思われるスペース。無駄なく設計されている。
R: 複雑な機械が壁面を埋め尽くしている。これをぜんぶ理解して使いこなせるってのが凄すぎる。

というわけで隅々まで実に面白かった。大和ミュージアムといいてつのくじら館といい、そりゃ呉は観光地として人気あるわ、
そう心底思ったわ。土地の独特な個性や歴史をとても魅力的に紹介する施設がこれだけ充実しているのはうらやましい。

続いては入船山公園にある入船山記念館を目指す。大和ミュージアムからそのまま東へと進んでいくのだが、
途中で海上自衛隊の基地を抜ける格好になる。鉄条網が付いている壁の道路を延々と歩くのはなかなか切ない。
けっこう歩いたなあと思ったところで突き当たりになる。これが入船山で、公園はこの上にあるのだ。
まわり込んでじっとりとした坂道を上っていき、また突き当たりのところにようやく入口があった。
左に行けば呉市美術館があるが、今日はとりあえず入船山記念館にだけ入ることにする。

  
L: 入船山記念館の入口では旧呉海軍工廠塔時計がお出迎え。1921(大正10)年、造機部の屋上に設置されたものだ。
C: 1号館。もともとは火薬庫だったそうだ。  R: 1905(明治38)年竣工の旧呉鎮守府司令長官官舎。正面は洋館だが……

入船山記念館の展示はけっこう脈絡がなく、どちらかというと建物じたいの方に見どころがある感じである。
その中でもやはり注目すべきは重要文化財の旧呉鎮守府司令長官官舎である。この建物、正面は洋館なのだが、
入口である裏側は完全に日本風の木造住宅。当時としては珍しくないのだが、やはり大胆な接合ぶりである。
中も見事に洋風部分と和風部分が完全に分かれており、かつどちらもきちんとつくられている。
洋風部分では特に、再現された金唐革紙がすばらしい。歴史民俗資料館の詳しい説明も興味深い。

  
L: 旧呉鎮守府司令長官官舎の裏側はこうなっている。来館者はここから建物の中に入るのだ。
C: 風格十分の応接室。戦後には1956年まで、イギリス連邦占領軍の司令官官舎として使用されたそうだ。
R: 和風部分は和風部分でまたすばらしい。今も非常にきれいな状態が保たれているのがいいですな。

入船山公園からひたすら南下していくと、自衛隊の基地を右手に見ながらゆっくりと坂を上っていく形になる。
歩いているうちにやがて、基地は工場へと変わる。かつての呉では軍港と工廠が一体化していたわけだが、
戦後は工廠部分が民間に払い下げられて軍事とは関係のない工場となった。「IHI」の文字が大胆に踊っている。
左手は住宅が山裾にへばりつく格好となっており、呉という山に囲まれた港湾都市の独特な地形が実感できる。
さて、そうしてしばらくすると「歴史が見える丘」という小規模な公園に着く。「歴史が見える」とはつまり、
上で書いたような呉のかつての姿が実感できるということだ。工場と自衛隊基地が一体となった軍港を想像する。

 かつての呉海軍工廠時代の看板を集めてつくったオブジェが誇らしげに建つ。

しかしながら、「歴史が見える丘」はその名前のわりに、電線などにしっかりと邪魔されて視界があまりよくない。
でもそこからアクセスできる歩道橋の呉港側の端っこからはよく見える。ということで、パノラマ撮影をする。
かなり高さがあるうえに幅の細い歩道橋なので、この作業は高所恐怖症には本当につらかった。
日記を書いている今も手のひらには汗がじんわりにじんでいるくらい怖かったんだぞ!


かつてはこの視界のほとんどが海軍関連の施設で埋まっていたわけだ。なるほど、呉の歴史が見える。

時刻は10時半を少し過ぎたところで、道を戻ってさっきの自衛隊基地にお邪魔する。
基地の入口からちょろっと見える旧海軍呉鎮庁舎は呉地方総監部第一庁舎として現在も使用されており、
日曜日には一般公開されているというのだ。そりゃあ見にいかないわけにはいくまい。門衛の方に尋ねると、
なんと、10時半ちょうどに入口にいないと見学できないとのこと。僕は10時半から一般開放中と思っていたのだが、
冷静に考えれば自衛隊の現役の施設なんだからそんなわけはなく、残念なことにあきらめざるをえなくなってしまった。
ただ、入口付近から建物を撮影するのはいいですよ、ということなので、近づけるだけ近づいて撮影させてもらった。
建物じたいはけっこうリニューアルをしっかりやっている印象。それだけにやっぱり内部が気になるなあ。
撮り終えてお礼を言ったら敬礼を返されたんだけど、やっぱりプロの敬礼はビシッときまっていてかっこいいですなあ。

 呉地方総監部第一庁舎(旧海軍呉鎮庁舎)。時間厳守の大切さを教えられた。

なるべく効率よく見てまわれるようにルートを決めたのだが、最後の最後でポカをやらかしたので余裕ができた。
それでも時間がもったいないので、予定より早めに広島入りしてしまうことにした。時間はあればあるほどいいのだ。
ローカル色の強かった広より東側とは違い、西側を走る呉線はずいぶんとスピード感があるように思う。
それでも広島までは40分以上かかる。広島県って広いなあ、とあらためて実感するのであった。

広島駅はやはり福山とも呉とも比べ物にならないほど都会で、無数の人が行き交って大混雑している。
とりあえず昼メシをなんとかせねば、と思っていると、駅の2階にあるライオンに「カキフライランチ」の文字が。
気がついたら入っておりました。そして注文しておりました。一緒にビールも飲みたくってたまらない気分になったけど、
酒に弱い人間が真っ昼間からよその街で飲んでもろくなことにならんだろ、ということで、どうにか自重した。
ふだん酒をまったく飲まない僕でも、ライオンに行っちゃうとビールを飲まずにいられない気分になるから危険だわ。
ほどなくしてカキフライランチが登場。さすがにおいしゅうございましたね。すっかり広島県を堪能しているなあ。

 
L: カキフライだ! さすがに本場のカキフライはきちんとデカいぜ!  R: 大都会・広島駅。さすがに人口密度がすごい。

メシも食って午後の街歩きの準備が整うと、駅にある観光案内所でレンタサイクルはどこだと問い合わせ。
するとニッポンレンタカーで借りてくれ、とのこと。場所を説明されたのだが、けっこう迷いに迷った末に発見。
もともと広島駅前は複雑な構造になっているのでしょうがないけど、地図ぐらい用意しておいてほしいわ。
ニッポンレンタカーのレンタサイクルは以前、金沢でもお世話になった(→2010.8.22)。ありがたいサーヴィスである。

まずは当然、新しい広島市民球場(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)へ行ってみる。
設計したのは環境デザイン研究所つまり東工大の仙田研で、潤平がなんかいろいろ言ってたな、と思うが忘れた。
いずれここで試合観戦したいもんだなあ、と思いつつぐるっと一周してから線路の北側に出るのであった。

  
L: 新しい広島市民球場を眺める。側面がぱっくりと開いているのが現代風のスタジアムってことなんですかね。
C: 正面より撮影。試合を観戦したい!  R: 付近のマンホールにはカープ坊や。広島のカープ愛は凄まじい。

 近所のローソンはカープ仕様。グッズも売っている。

というわけで、いよいよ本格的に広島市内の建築めぐりをスタートする。それはもう広島の市街地を北から南まで、
夕暮れまで時間いっぱいひたすら自転車をこぎまくってこぎまくって建物を撮影しまくったただけなので、
細かいことを書いても何も面白みはない。広島の広さをイヤというほど実感させられた、その一言に尽きるのだ。
そんなわけでここからは、かなりダイジェスト風味で訪問した建築についてそれぞれ書いていく。

まずは国宝建築だ。市街地の北部に不動院という寺がある。ここは金堂が国宝で、楼門と鐘楼が重要文化財。
北へ向かうということは川の上流へ向かうということになるので、当然ながら上り坂である。気合で上っていく。
すると途中でやたらとデカい建築にぶつかった。なんだコレ、と呆れながらよく見ると、「広島ビッグウェーブ」とある。
1994年の広島アジア競技大会で水泳の会場になった施設だ(竣工は1991年)。冬場はスケート場になるそうだ。
設計したのは広島市都市整備局建築部営繕第二課と日建設計らしい。なかなか詳しいデータが出てこないのね。

 正式名称は広島市総合屋内プール。とにかくやたらとデカくて呆れた。

広島ビッグウェーブの脇を走る道路の上にはアストラムライン(広島高速交通広島新交通1号線)が通っている。
僕は広島にこんな新交通システムが走っているなんて知らなかったので、ひどく驚いてしまったわ。お恥ずかしい。
で、このアストラムラインに沿って坂道を北上していくと、不動院前という駅がある。その名のとおり、最寄駅だ。
道路は周囲より一段高くつくられており、下におりるのに少し苦労したが、無事に不動院の前に出た。
不動院は安国寺恵瓊が復興した寺が母体で、国宝の金堂は天正年間に山口市から移築されたものである。
楼門は1594(文禄3)年の築、鐘楼は1433(永享5)年の築であり、どれも原子爆弾によって被爆したが爆風に耐え、
不動院は避難所として機能したという。爆心地から約4kmとはいえ、木造の被爆建築とはすごいものだ。

そんなわけで期待に胸を膨らませて楼門をくぐって、唖然とする。そして「またかー!」と叫ぶ。
そう、そこには灰色のシートが壁となって僕の前に立ちはだかったていたのだ。またしても改修工事中(→2013.2.10)。

  
L: 不動院の楼門。  C: くぐったら金堂がこんな具合でもうがっくり。  R: 鐘楼にも近づけなかったし……。

坂道を延々と上ってきたらいきなりのっけからコレ、ということで心底がっくりである。
ここまで自転車で来るのにどれだけ時間とエネルギーを食ったことか……とうなだれるが、どうしょうもない。
気持ちを切り替えて、次の目的地を目指すしかないのだ。ということで、位置エネルギーを解放して南西へ。

次は広島電鉄の横川駅である。ここは5年前にも訪れているが、雨に降られた場所である。
あのときには雨のせいで旧広島市民球場でのヤクルト戦が中止になって……思い出すだけでブルーになる。
まあそこはなんとか気を取り直して横川駅前に到着。今度は青空の下の光景を見られたのでよかった。

  
L: 広島電鉄・横川駅。日本ではもう路面電車の走る街は少ないが、その中では最も優れたターミナルの事例である!
C: 停車中の路面電車の向こう側に入り込んだところ。トラス構造とガラスがパサージュっぽくて素敵だ。
R: 発車する路面電車を見送る。こういう雰囲気の空間が日本にもっと増えるといいのにねえ。

横川駅の改修が終わったのは2003年ということで、ちょうど今年で10周年になるようだ。設計は広電建設とのこと。
僕はこの空間が本当に大好きで、5年前には雨に降られたにもかかわらず、大いに感動したものだった(→2008.4.23)。
路面電車という個性を絶妙なアイデアでまとめたデザインは、実に格調高い。よくある安っぽさと対極にあるのだ。
周辺にこれといった施設がないためか全国的な知名度はないようだが、一度訪れてみる価値はあると断言する。

 
L: JRの横川駅側にはバス停が並ぶが、やはりトラス構造を利用した屋根が架けられていて雰囲気が保たれている。
R: 日本初の国産乗合バスは横川−可部間で走ったのだ(1905年)。車両を保存しているが、見づらいのが難点。

この横川駅から一気に南へと走っていく。脇目も脇目も振らずに、ただただ南へとひた走る。
延々と続くなんでもない広島の市街地の光景を抜けて、終点の江波の電停を越えてもまだ南へ走る。
次のターゲットは、旧広島地方気象台である広島市江波山気象館だ。でもその「江波山」がよくわからない。
いったん自転車を停めて、目についた「江波皿山」に登ってみたのだが、見事にハズレで汗びっしょり。
江波の電停に戻って地図を確認し、おさん通りの反対側にあることを確認し、さらに南下する。
と、住宅地からひょっこりと顔を出している丘の上に、明らかに切れ味鋭い建物が鎮座していた。
路地を抜けると急な坂道が現れたので、自転車を置いて歩きに切り替える。正面にまわり込むと、
モダンでありながらも細部に装飾が散りばめられた優美な印象に圧倒される。苦労した甲斐があった。

  
L: 丘の上に建つ広島市江波山気象館(旧広島地方気象台)。もう、一目見た瞬間に名建築であることがわかる。
C: 正面玄関。家族連れの来館者が非常に多く、駐車場は大混雑。つねに人が出入りしている盛況ぶりだった。
R: 建物の裏側を撮影。設計は広島県建築課(伊達三郎)で、1934年竣工。科学館としての再オープンは1992年。

家族連れに圧倒されたのと江波皿山で無駄な時間を使ってしまったのとで、中に入るのは断念した。
でもこれだけの外観を持つ建物なのだから、きちんと内部を細かいところまで見るべきだったと反省している。
原爆投下の際は爆風ですべてのガラスが吹き飛んだそうだが、建物が現役で活用されているのは本当にうれしい。

広島市街地の西側の南端である江波から、今度は東側の南端である宇品まで移動する。これがけっこうつらい。
できることなら元宇品島まで行きたかったのだが、広島は本当に広くってそれだけの余裕がなかったのね。
ということで次の目的地は旧陸軍糧秣支廠缶詰工場である広島市郷土資料館。赤レンガの建物なのだ。
江波山気象館に案内板がなくって難儀したのとは対照的に、郷土資料館は道の真ん中に案内板が吊り下げられており、
比較的スムーズに到着できた。まあ、案内板がなかったら見つけられなかったかもしれないくらい微妙な位置だったけど。

  
L: 広島市郷土資料館(旧陸軍糧秣支廠缶詰工場)。周辺は干拓工事でつくられた軍用地・工業地域だったそうな。
C: エントランス。1911(明治44)年の竣工で、現存するのはもともとの全体の1/3とのこと。
R: 裏側もほぼ同じデザインで、手前はオープンスペースとなっており、遊んでいる子どもがいっぱいいた。

郷土資料館としてのオープンは1985年。もちろん被爆建築である。赤レンガということで希少性が高いためか、
きっちり残されて再利用しているわけだ。道を挟んだ向かいには小規模な複合商業施設(スパーク御幸の杜店)があり、
その看板はレンガのデザインを織り交ぜたものとなっていた。社会心理学的に興味深い現象だな、と思う。

 こんな具合になっていたのだ。

市街地南端の被爆建築をチェックできたので、一気に中心部まで戻る。途中で広島赤十字・原爆病院の前を通る。
広島赤十字・原爆病院は1939年に佐藤功一の設計で竣工したのだが、1993年に老朽化のため解体された。
現在はその古い建物の一部分を敷地の一角に残し、原爆の被害を示すモニュメントとしているのだ。

  
L: 交差点より眺める広島赤十字・原爆病院のモニュメント。  C: 敷地内から眺めるとこんな感じである。
R: そのすぐ脇には慰霊碑が建てられている。原爆投下当時のこの場所は、本当に凄絶な光景だったのだ。

そこからさらに進んでいくと、広島市役所に出る。当然、5年前にも訪れているのだが、建物があまりに大きく、
当時のカメラの性能ではなかなかその姿をきちんと記録に残すことが難しかった(→2008.4.23)。
ということで、再チャレンジするのだ。しかし1985年竣工の広島市役所は、あまりにも典型的な80年代高層オフィスだ。
典型的すぎて、建物としての面白みは本当に少ない。時代を象徴する事例に挙げられることは間違いないのだが。

  
L: 広島市役所を南西側より撮影。  C: 南東側より撮影。  R: ぐるっとまわって北西側より撮影。

そのまま北上すると、途中で日本銀行旧広島支店が目に入る。現代の街並みの中、頑に歴史を語る貴重な存在だ。
天下の日銀ということで非常に頑丈につくられていたため、原爆の爆心地からわずか380mの位置にあるにもかかわらず、
今でもしっかりとその姿を残している。しかも、被爆建築の中でも保存状態が特に良好であるそうだ。すごいもんだ。

 日本銀行旧広島支店。1936年竣工、設計は長野宇平治。

旧日銀を後にして、さらに北上。紙屋町の交差点には横断歩道がないので、人混みの中を迂回するのは大変だった。
どうにかさらに北側に出ると、そこにあるのはそごう広島店(広島バスセンター)。その北隣には基町クレド。
5年前にもやはり写真を撮っているのだが、あらためてシャッターを切らざるをえなかった。それだけの迫力なのだ。

  
L: そごう広島店(広島バスセンター)。1974年に広島センタービルとして完成。思わず息を呑む迫力だ。
C: 基町クレド。1994年竣工。設計者は、NTT都市開発(統括)+日建設計(ホテル棟)+日総建(商業棟)とのこと。
R: エントランス部分をクローズアップ。そごう広島店が凸の迫力なのに対し、基町クレドは凹の迫力であると思う。

そして基町クレドの向かいにあるのは広島県庁舎である。日建設計の設計により1956年に竣工したこの庁舎は、
さすがに建て替えの議論が起きているのだが(でも予算などさまざまな事情によりなかなか先に進まない)、
組織事務所によるきわめて志の高いオフィス建築の事例として、唯一無二の存在であると僕は考えている。
「巨匠の作品」ではないし、あまりにも一等地すぎるので将来的に保存するのは難しい予感があるが、
日本の庁舎建築史において絶対に無視できない傑作である。組織事務所がこれをつくった、ってのが大きいのだ。

  
L: 広島県庁舎を正面より撮影。5年前にもほぼ同じ構図で撮影したが、駐車場が広がったのにびっくり(→2008.4.23)。
C: エントランスを押さえつつ高層の建物をクローズアップ。モダンが量産化される前の手づくり感というかなんというか。
R: エントランス。1956年当時のやり方、デザインセンスがはっきり現れている。やはりこの建物は傑作だ。

  
L: 農林庁舎。  C: 裏手にまわってみても、ファサードの統一感は徹底されている。  R: 凝っているなあ。

  
L: 北館。  C: こちらは議会棟。やっぱり雰囲気を統一させている。  R: 自治会館会議棟は少し毛色が違うが、モダン。

実際に働いている職員の皆さんや地元住民の皆さんには迷惑な話かもしれないが、僕みたいな人間からすると、
複雑に増築されながらもきわめて慎重にデザインに統一感を持たせている空間をフラフラとする体験は、
なんともいえない昂揚感を呼び起こされるのである。1950年代の価値観の世界にどっぷりと浸ることができる、
そんなことができる場所はもはや日本にほとんど残っていないのである。その貴重さに皆さん気づいてほしい。

だいぶ日が夕方のものとなってきているのだが、まだまだ訪れておきたい建築はあるのだ。
以前訪れたことのある場所は地図を見なくても行けるので、さらっとペダルをこいで世界平和記念聖堂へ。
敷地に入ろうとするとまず、「こゝは祈りの家ですどうぞご自由にお入り下さい」と書かれた看板があるのだが、
その続きで「但し男女交際の場所に利用する事はお断り致します」とあるのに笑ってしまう。いいぞ、世界平和記念聖堂。
あらためて正面から建物を眺めるが、モダンを基調としつつモダンを否定するそのデザインはやはり凄みが違う。

 
L: 世界平和記念聖堂。設計は村野藤吾で竣工は1954年。内部空間など詳しい感想は過去ログ参照(→2008.4.23)。
R: 今回は逆光と戦いながら側面を撮影してみた。道幅がなくて塔が収まらないのが切ないが、奥行きと大きさにびっくり。

本日は最後に広島市現代美術館を訪れるつもりでいたので、平和通りまで一気に戻る。
が、やっぱり広島に来ておいて平和記念公園に行かないというのは間違っていると思い直して西へと爆走。
あらためて広島平和記念資料館を正面から眺めるのであった。これほど端整なモダニズム建築はほかにない。
モダニズム建築の持つ「純粋さ」が、非常にきれいに「祈りの純粋さへ」と転化されている究極的な事例だ。

  
L: 前回は公園内から眺めたが、今回は平和通りから眺めてみました。全盛期の丹下健三の凄みにあらためて鳥肌が立つぜ。
C: 1955年の竣工なのでピロティ全開。ピロティを使った建築としては、これはいろんな意味で究極ですなあ。
R: 広島国際会議場。1989年竣工で、広島平和記念資料館の東館に対応している。末期の丹下らしいダメさを感じる。

レンタサイクルということで、素早く公園内を見てまわることができる。せわしなくって申し訳ないのだが、
効率よくポイントを絞って撮影。まあ、じっくり歩いてまわるのは5年前にやっているので許してください。

  
L: 広島市レストハウス(旧大正屋呉服店・旧燃料会館)。1929年竣工で爆心地から170m。よく残ったな……。
C: 原爆の子の像(サダコの像)。  R: 原爆ドーム(旧産業奨励館)。原爆って、なんなんですかね。戦争って、なんなんですかね。

今日はさまざまな被爆建築を見てまわったわけだが、やはり原爆ドームを見ていると、どうしても疑問が湧いてくる。
人間ってのは発生した事実に対してどうしても意味を見出そうとする生き物なので、考えずにはいられないのだ。
なんなんですかね、戦争、原爆、復興、観光。原爆という過去を残しつつ未来へ復興するという本質的な矛盾。
そこの時間差・ズレが広がれば広がるほど、観光に訪れた僕らは想像力を強くはたらかせる必要が求められる。
そうなったとき、きっかけである戦争の持つ意味や質感の変化は、当時と比べていかほどのものとなっているのか。
われわれは、戦わずして勝つための知恵をきちんと研いでいるんでしょうかね(「勝つ」ことの定義は置いといて)。

平和通りを再び爆走する。と、交差点の白神社(しらかみしゃ)が目に入る。……撮ろう。
大都市のど真ん中にある交差点の一角に社が建っているってのが、まず貴重な事例なのである。撮らいでか。
もともとは規模の大きな神社だったのだが、原爆で吹っ飛んで今の大きさになったとのこと。
そもそも、かつてここは海面に突き出した岩礁だったというのだから、ちょっと信じられない。
この岩にやたらと船がぶつかるので、白い紙で危険を知らせていたのだそうだ。興味深い逸話である。
その後、三角州が延びたり干拓が進んだりして海は遠のき、白い紙は必要なくなるが、守り神として祀ることとなった。
やがて毛利輝元が広島城を築くと、白神(白紙が由来だ)の社は広島の産土神となったそうである。1950年に再建。

 由来を知ると面白くてたまりませんな。

平和通りを走りきって、東端にある比治山という山にそのまま突っ込む。これがけっこうイジワルな上りで、
しかもぐるっとまわり込んでいかなくちゃいけない。実に面倒くさいのである。途中でキレて階段を上ったのであった。
というわけで比治山の北側のてっぺんにあるのが広島市現代美術館。黒川紀章の設計で1988年のオープンである。

 広島市現代美術館。正直、あんまり魅力を感じない。

なぜ今回、わざわざ急いでこの美術館に来たかというと、「路上と観察をめぐる表現史―考現学以後」をやっているから。
赤瀬川原平・藤森照信・南伸坊『路上観察学入門』(→2006.9.14)も、今和次郎『考現学入門』(→2006.9.19)も、
南伸坊『笑う街角』(→2004.12.22)も、すべて愛読している人間として、これは行かねばならない企画展なのだ。

ということで、意気揚々と中へ。なんだかんだで結局、30分くらいで閉館時刻になってしまうので、急ぎ足で見ていく。
まず最初は当然、今和次郎。今さんの生スケッチを見るのは初めてなので、けっこう興奮したのであった。
相変わらず、ものすごい精度の観察と、それをきれいにまとめたのと、そのデータをどうするのよという疑問と、
よくできているがゆえの豪快な投げっ放しジャーマンな感触が強烈なのであった。生原稿だとさらに凄いね。
そして圧巻だったのが岡本太郎の写真。日本じゅうを旅して写真を撮っているのだが(『藝術風土記』)、
何気ない光景の中に日本の土着的な要素や物語性をしっかりと見出しているところが、やはり非凡。
もちろん路上観察学会の発見した事例たちは面白み満載。この辺の展示はやっぱり充実していた。
しかし一方で、コンペイトウと遺留品研究所はかなりダメ。独りよがりなデザインによる偉そうな分析が、ひどく鼻につく。
自分たちは何もしていないのに、さも自分たちがやっているかのように空論を展開する感じが実にくだらない。
「珍日本紀行」も趣味のよくないものが対象なのでやっぱり楽しめないし、現在進行中のプロジェクトもつまらない。
部分的には面白いんだけど、図録を買う気はまったく起こらない、そういう展示となっていたのであった。
結局のところ、対象をマジメに論じてもダメで、「面白がれるかどうか」に尽きる。面白い!という段階に留めること。
意味なんか押し付けてもいいことなんてなくって、面白い!に共感できればそれでいい、それだけのことなのだ。

広島市現代美術館を出ると、そのまま本日の宿にチェックイン。なかなか素敵に狭っ苦しい部屋だった。安いもんな。
それにしても、自転車で走ってみたら、広島は本当にイヤになるくらい広い街だったよ……。休憩する余裕なんてゼロだぜ。

少し休んだ後、レンタサイクルの返却のために広島駅まで戻る。時間を少し超過したけどサーヴィスしてくれたよ!
そのまま路面電車で立町まで行って東急ハンズをぷらぷら。そのまま胡町や本通界隈を歩いて過ごす。
晩メシは当然、広島お好み焼きということで、ふらっと入っておいしくいただく。せっかくなので牡蠣焼きもいただいた。
ふつうはそこにビールなんだろうけど、僕の場合は一人で酔っ払っても楽しくないので水をいただく。うーん、締まらん!

  
L: 広島本通商店街。相変わらずの繁盛ぶりでございました。  C: 焼き牡蠣をつるっと食う大人になるとは思わんやった。
R: お好み焼きである。見かけよりも量があって腹持ちがいいのね。たいへんおいしゅうございました。

宿に戻って明日の準備を整えると、夜更かしをすることもなく寝るのであった。健全でございますね!

今回の広島建築探訪では、arch-hiroshimaさんにかなりお世話になりましたので、その事実をここに記しておきます。


2013.2.23 (Sat.)

各種の言い訳を。熊野旅行の日記を書き終えていないうちに次の旅行を敢行するのは、自分でも申し訳ない。
もちろん熊野旅行の日記は素早く書き上げてしまうつもりだったのだが、あまりにテストづくりが難航したため、
結局、旅行日記の後半がほぼ手つかずの状態のまま、次の旅に出ることになってしまった。これは正直、悔しい。
2学年分のテストづくりは、やはり非常に大きな負担なのだ。日記を犠牲にした分、質は高くなったはずではある。
そもそも、テスト前のタイミングでまた3日間の旅行かよ、というツッコミについては、これは許してほしい。
3月以降がどうなるかまったく見えない状況に置かれているので、行けるときにはぜひ行っておきたいのである。
まず、本来の旅程では2日間の計画だったのだ。ところが急遽テスト日程が変更されて月曜が利用できることになり、
そこにボーイング787のトラブルが発生したことで、完全に3日間の旅程が組めることになってしまったのだ。
つまり、もともとは土日で呉線沿線をのんびりまわって広島から787で帰ってやるぜ、と企んでいたのである。
そこに787の運行停止のニュースが舞い込んできて、無料で787をキャンセル可能となってしまった。
そりゃもう、旅程を1日分足して岩国まで足を伸ばすしかないでしょう。で、できたてホヤホヤの岩国空港から帰る、と。

小田急ハルク前を出た夜行バスはだいたい10分くらいの遅れで、まだ暗い中で明かりをつけている福山駅前に着いた。
ここで降りた乗客が車内に忘れ物をしたんだかなんだかで、5分ほどの遅れが発生してしまった。少しむくれる。
目的のバス停・新市大橋で降りたのは、僕を含めて3人。僕以外の2人は家族の運転する迎えの車に乗り込んで去った。
そして僕は、地図を片手にいつものように歩きはじめる。バス停の近くにサンフレッチェを応援する紫色の自販機があり、
ここが広島県であることをあらためて認識する。自治体で言うと、福山市だ。合併前には新市町といった。

しばらく西へ歩いて、適度なところで北へと針路を変える。見事に踏切で引っかかり、福山へ向かう列車を見送る。
踏切を渡るとすぐにいかにもな旧街道に出る。両側は弱った商店街となっているが、空間スケールが旧街道そのものだ。
いったん新市駅前に出てから、一気に広島県道26号を北上していく。まず住宅と店舗、そして神社と寺。地方の集落だ。
ただ、歩いていると、この新市周辺がただの地方の集落ではないことを物語る要素があることにすぐに気づかされる。
線路の周辺もそうなのだが、わりと規模の大きな建物が点在している。そしてそこには、共通した言葉が並んでいる。
「○○被服」「○○縫製」「○○繊維」、さらにはミシンの専門店もある。はっきりと、繊維・衣類関連産業の街なのだ。
本当に、どっちを向いても糸偏の漢字が目に入るくらいの密度である。これはタダゴトではないぞ、と興味が湧いてくる。
中には「佐々木要右衛門 アパレル事業部」なんて看板もあって思わずずっこけてしまったが、規模はかなり大きかった。
確かに街は古びつつあるが、暗さはまったく感じない。それはきっと、確立された産業があるからだろう、そう思いつつ歩く。

この辺りは日本三大絣のひとつ、備後絣の発祥の地なのだ。備後絣は江戸時代後期に富田久三郎が考案した。
かつては全国の絣生産の70%を占めるほどの勢いがあったそうで、街並みにもその影響がまだ色濃く残っていたわけだ。
絣は綿を主な材料とする作業着である。そんな絣の生産からスタートしたので、現在も作業着やジーンズに強いようだ。
何の予備知識もないまま訪れたが、街を歩くことで確かな知識が増える経験はこの上ない楽しみだ。だから旅は面白い。

次から次へと繊維・衣類関連の建物が現れる中、右手にちょっとした池が登場した。橋の先は厳島神社となっている。
この厳島神社がランドマークと言っていい。ここから反対側の西へと路地を入っていくと、今日最初の目的地に着くのだ。
酒屋の店先を抜けて進んでいくと、なかなか立派な鳥居が現れた。備後国一宮・吉備津神社の鳥居である。
旧吉備国の一宮はかなりややこしい。備中も備後も吉備津神社(備中国の吉備津神社のログはこちら →2011.2.19)。
備前は吉備津彦神社。もうワケがわかりません。でもまあとにかく、実際に参拝することで区別をはっきりさせるのだ。
そんなわけで鳥居をくぐって境内に入る。まだ7時半前ということで、朝日が景色をばっちり黄色に染めている。
カメラで撮影するには良くない条件である。新デジカメにまだ慣れていないので、悪戦苦闘しつつシャッターを切る。
参道を行くと途中に桃太郎一行の像があり、ここは今は広島県だけどしっかり旧吉備国であることを実感させられる。

  
L: 備後国の方の吉備津神社。まずは風格ある石造りの鳥居である。1648(慶安元)年の造営だってさ。
C: 下随神門。ちなみにこちらの吉備津神社は「一宮(いっきゅう)さん」と呼ばれているようだ。
R:
下随神門を抜けて参道を行くと石段が現れる。石段の上にあるのは上随神門。随神門が2つなんてのは初めてだ。

こちらの吉備津神社が創建されたのは806(大同元)年、備中の吉備津神社を勧請したと伝えられている。
しかし延喜式に記載はなく、実際には12世紀以降の創建という説があるそうだ。でも備後国の一宮として崇敬を集め、
石段を上るごとに次々と社殿が現れる大規模な神社となっている。そしてまた、社殿がどれも実に見事なのだ。

  
L: 上随神門を抜けるとこちらの神楽殿。1673(寛文13)年の建立。  C: 神楽殿の上には拝殿。1648(慶安元)年建立。
R: 拝殿の中はこのように、絵馬殿的な使い方がなされている。後述するけど、吉備津神社はひとつずつずれているんだよな。

僕はいつも神社参拝の記録を日記に残す際には、見どころが少なければ写真3枚、多ければ6枚程度でまとめている。
しかしこの吉備津神社については、どれも建築が見事なので削ることができず、結局10枚もの量になってしまった。
つまりそれだけきちんと覚えておきたい空間だったのである。ここもまた高低差による空間の演出が上手い事例だ。
(高低差による空間演出は室生寺(→2012.2.19)と紀三井寺(→2013.2.10)を参照。どっちも寺だけどね。)
そうして拝殿を抜けて本殿と相対したときの迫力といったら、もう、凄いものがあった。思わず声が漏れてしまったよ。

  
L: 吉備津神社の本殿。1648(慶安元)年に水野勝成によって造営された。重要文化財に指定されているのも納得だ。
C: 角度を変えて眺める。この角度から見ると、その迫力がよくわかってもらえると思う。高低差もあって、迫ってくる感じ。
R: 反対側から。この裏に建物はなく、これが本殿というわけ。どっからどう見ても拝殿のデザインなんだけどねえ。

拝殿に少し高さがあるため、その奥にある本殿は見上げる要素がちょっと減って、真っ正面から向き合う感覚になる。
視界いっぱいを埋めるかのように鎮座するその姿にはただ圧倒されるのみだ。そして近づくと、さらに威容が凄みを増す。
備中の吉備津神社も独特な様式で圧倒的な迫力をこれでもか!と見せつける建築だったが(→2011.2.19)、
こちらの吉備津神社も素晴らしい。両者に共通するのは、破風の魅力を最大限に生かしているということだろうか。
茅葺の屋根に鋭い千鳥破風がつくられ、どっしりした中にも端整さが強調されている。このバランスが絶妙だと思う。
まあそんな具合に、朝一番から見事な建築にすっかりメロメロになってしまった。いやーこれは幸先が良すぎるわ。
惜しむらくは朝早すぎて光の具合がよろしくなかったこと。きちんとした色合いでぜひあらためて味わいたいものだ。

帰りは少し早足で県道26号を南下していく。そして新市駅に出る直前で左に曲がって旧街道を東へ進んでいく。
備後国にはもうひとつ一宮があるのだ。そちらは神谷川を挟んだ新市の対岸、戸手という地域に鎮座している。
それほどの距離があるわけではないので、さらっと歩いて行ってみようとあらかじめ計画していたわけだ。
川を渡ってちょっと入ると、もうそこがその神社の境内なのだ。でも正式な入口は東側にあるので、そこまでまわり込む。

  
L: 北西側からアプローチすると、まずこの門に出くわす。相方城の城門を移築したもので、戦国時代のもの。2つある。
C: というわけで正式な入口までまわり込んでみました。もうひとつの備後国一宮・素盞嗚(すさのお)神社なのだ。
R: 鳥居を抜けると随神門。境内は広々としており、神社というよりは公園といった雰囲気すら漂っている場所である。

ふつう神社は木々に囲まれて杜を形成しているものだが、素盞嗚神社は広いわりに木々の密度が高くなく、
どこか閑散というかすっきりというか、そんな印象の神社である。端っこにはすべり台や鉄棒などがの遊具あり、
むしろ児童公園に近い雰囲気がする。なかなか不思議な場所だなあと思いつつ拝殿まで歩いていく。
素盞嗚神社はかつて、神仏習合の影響で「江熊(えのくま)祇園牛頭天王社」という名前だったそうだ。
なるほど瓦屋根の拝殿を見てみると、神社というよりは寺に近いかな、という雰囲気がある。
拝殿の北にある戸手天満宮も、もともと観音様を祀る本地堂だったそうで、やはり寺っぽい。
寺ということであれば、遊具はともかく木々が少ないのはなんとなくわかる。そういうことなのか、と思う。

さて前にも書いたけど、一宮が複数ある場合にはどちらか片方が大規模で、もう片方が小規模ということが多い。
さっき参拝した吉備津神社は当然大規模だったから、するとこちらが小規模の方になるな、と失礼なことを思う。
でも規模は小さくても、本殿は例外なく立派なのである。ここもそうかな?と思ってまわり込んで、やっぱりと納得。
そこにあったのは、拝殿とはまったく趣の異なる茅葺きの建物。福山藩初代藩主・水野勝成が建てたんだとさ。

  
L: 境内を行く。並木はあるものの、全体的に木々の密度は低い。敷地の端には遊具もあって公園のような雰囲気だ。
C: もともと本地堂だった戸手天満宮。1748(延享5)年に再建されたものが廃仏毀釈を乗り越えて、今もきちんと残っている。
R: 素盞嗚神社・拝殿。いちおう玉垣で囲まれてはいるのだが、やはりどこか寺っぽさが漂っている気がする。

 奥にまわり込むと、やはり一宮の本殿は立派なのだと納得。

一宮だけ見てもそれぞれで、世の中にはいろんな神社があるなあと思いつつ素盞嗚神社を後にする。
素盞嗚神社は福塩線上戸手駅からすぐのところにある。上戸手駅はローカルな無人駅なので少し戸惑いながらも、
比較的あっさりとホームに到着。自動券売機があったので府中駅までの切符を購入。しばらく待つと列車が来た。
のんびりと揺られてさっきの新市駅に到着。ホームには一宮の最寄駅ということで灯籠があったのが印象的だった。

 「備後一宮 吉備津神社下車駅」と彫られている。上りと下り両方のホームにある。

府中駅に着くと、改札を抜けてさっそく街歩きスタート。府中市は府中市だが、広島県の府中市である。
駅舎を出るといきなりロータリーが妙な角度で街路と接していてまいった。周辺の道は妙にわかりづらい。
まずはやっぱり府中市役所を撮影するのだ。線路を渡って南側に出なくてはならず、かなり複雑。
まあ意地で国道486号に出てしまえばいいので、勘を頼りに南へ進んで無事にその交差点に出た。
少し東へ進むと、ロードサイド型天満屋の向かいに庁舎建築の背中らしいものを発見。まわり込んだら市役所だった。

  
L: 広島県の府中市役所。1973年竣工。  C: 正面より撮影。駐車場が広大だなあ。  R: 天満屋の駐車場から背面を眺める。

市役所の撮影を終えると、西側から府中市の中心市街地を目指して歩く。その途中で気持ち悪い案内板を発見。
「府中学園」とある。そうなのだ、広島県府中市は小中一貫教育を押し進めている困った自治体なのである。
小学校と中学校で連携する場面をつくるのはそんなに悪くないと思うのだが、小中一貫教育となるとかなり問題は多い。
子どもが中学校に上がる段階で強制的にギャップがつくられていないと、区切りがないので成長を促すことができない。
最近は全国的に小中一貫教育を進める動きが目立っているが、これは最悪であると断言できる。絶対にやめるべきだ。
小学校と中学校を一体化した新しい学校をつくる狂った自治体もあるけど、子どもの将来に対する犯罪行為である。
広くなった校舎に死角は増え、小学校でこじれた人間関係をリセットできず、幼稚な雰囲気が学校全体に蔓延する。
いいことなどひとつもない。雰囲気に流されることなく、旧来の制度で守るべきものは節度を持って守らなければならない。
……なんて具合に力説してしまったが、本当に小中一貫教育は何ひとつ利点がないのは紛れもない事実なのである。

ともかく、トボトボ歩いてその中学校の近くまで行く。そこには「恋しき」という建物があるのだ。
なかなか風流な名前だが、もとは1872(明治5)年に創業した料亭・旅館で、現在はカフェや交流施設となっている。
歴史的建築はもう一件、旧芦品郡役所の府中市歴史民俗資料館があるが、申し訳ないけどそこまで歩く気はせず、
今回は市街地にある恋しきだけにしておくのだ。途中で少し迷ったのだが、どうにか無事に到着。

  
L: 恋しきの外観。けっこうしっかり改修されているが、備後を代表する旅館として知られた風格はよく伝わる。
C: 建物を真正面から眺める。  R: 側面はこんな感じ。中には府中市観光協会があるそうだ。

恋しきを撮ると、あとはテキトーに市街地をぶらぶら歩きながら駅まで戻る。しかしながら中心市街地は元気がなく、
なんとも間延びした感じの街路が続くのみだった。これは郊外のロードサイド店に客を奪われているからだが、
府中の場合には大都会・福山市の影響力があまりに強いせいで、よけいに存在感を失っているように思えた。
朝早く訪れたことや曇り空だったことを考慮しても、失礼ながら、府中の街にはどこか暗さがあった。
別に小中一貫教育をやっている街だから悪口書いているわけじゃないけどね。なんか陰がある。

そんなことを考えながら、駅にほど近いヤマザキショップに入る。コンビニらしいコンビニはほかに街中になくって、
このヤマザキショップで無事に朝飯を買い込むことができた。おばちゃんはレジに置いてある1個10円の飴を2個つかみ、
おまけってことでビニール袋の中に入れてくれたのであった。そういう細かいサーヴィスってやっぱりうれしいものだ。
ホンワカした気持ちになって外に出たら、なんと雨粒のお出迎え。まさか降ってくるとは、と驚いた。
どうも小中一貫教育をやっている自治体とは相性が悪いな、と思う。そうとしか考えられない仕打ちだぜ。

駅舎の中にあるベンチに座っておにぎりとパンをいただく。雨はしばらくするとやんだ。なんなんだ、と思う。
昨日の夜のうどん以来まともにメシを食っていなかったので、正直なところ、空腹ぶりはかなり強烈だった。
でもしっかりと栄養補給ができたので、それなりにポジティヴな気分で府中を後にすることができた。
府中からの切符はすでにインターネットを使って発券しておいたので、それを駅員に見せて福塩線に乗り込む。
天気も回復してきたし、用意しておいた切符も使ったし、ここからが本当のスタートって気分だ。

福山へと向かう列車内はけっこうな乗車率だった。老若男女、実にさまざまな乗客たちを乗せて走っていく。
新市駅の灯籠や上戸手駅車窓の素盞嗚神社などに見送られ、のんびりゆっくり列車は進む。典型的なローカル線。
窓から見える景色も特に目新しいことのない、純粋な日本の地方の姿そのものだ。でもそれは、安心感をもたらすものだ。
神辺駅で井原鉄道と交差すると、車内はいよいよ福山へ向けて勢いづいた雰囲気が漂いはじめる。
やがて列車は背の高い建物が入り交じる中を抜けていき、カーヴを描いて石垣がすぐ目の前にある駅へと収まる。
その瞬間、僕の中にあるちょうど2年前の記憶(→2011.2.20)が、いま見えている光景ときれいに重なる。

乗り換えの時間はちょうど10分。10分間でできることなんてたかが知れている。市役所まで足を伸ばすのは大変なので、
ロータリーの整備が終わった南口の雰囲気を味わってから北口に出て、福山城址の石垣に再会するに留めておく。
デジカメのシャッターを切りながら、福山という街の不思議さをあらためて思う。これだけの大都会であるのに、
東京ではまったく存在感を感じる機会がない。その存在が秘匿されているんじゃないかってくらいに機会がないのだ。
僕にしてみれば、これほどミステリアスなバランスの都会はほかにない。そう、福山はミステリアスなのだ。

 
L: 福山駅の南口。福山城・御水門跡の石垣が展示されている。  R: こちらは北口。見事な石垣が駅の目の前にそびえる。

わずか10分間の再会を果たすと、すぐに山陽本線で西へと移動する。今回の旅では尾道を完全スルーしてしまう。
それではどこで列車を降りるのかというと、三原なのだ。以前、中学まで広島県にいたみやもりに、
いずれ三原に行く計画があるんだと伝えたところ、「なんで三原なんだ」とつっこまれた記憶が蘇る。
まあ確かに、尾道をスルーして三原に行く旅行ってのは、なかなか狂気の沙汰である。ふつうじゃない。
僕としては尾道はすでに制覇済み(→2008.4.232011.2.20)だから、まだ行ってない三原に行くだけの話。
まだ見たことのない市役所があるからそこへ行く、ただそれだけなのね。やたら列車が止まってしまう糸崎を抜け、
三原に到着。「途中下車です」と言って改札を抜けると、そこはとっても立派なコンコース。驚いた。

前にも書いたが(→2011.2.20)、さっきの福山駅は福山城址の本丸部分を残してはいるものの、
それでも旧城内をしっかりブチ抜いてつくられている。明石駅も堀をすれすれで線路が通っており(→2009.11.21)、
どうも山陽本線は城跡の存在をあまり気にせず、豪快に線路を通したがる傾向があるように感じる。
(本丸をぶっ壊して駅をつくった事例はさすがに長岡駅くらいか。戊辰戦争後の官軍の対応は陰湿だ。→2009.8.13
そしてここ三原駅も、かなり豪快に三原城址をブチ抜いた感がある仕上がりとなっているのである。
コンコースを北へと進んで行くと、「三原城天主台跡」という案内が出ている。そしてその横に階段がある。
これを上っていって外に出ると、なんとそこは三原城址の本丸跡なのだ。駅の一部と化してしまっている。
そう、駅を通らないと三原城址にはアクセスできないようになっているのである。これには驚いた。

  
L: 三原駅でまず驚かされたのは、タコによる観光アピール。改札を抜ける前にこのアピール攻勢なのだ。
C: 三原城址には駅の構内からアクセスすることになる。こちらの階段を上って本丸跡に出る。
R: というわけで、三原城址。まるで駅に併設された公園のようになってしまっている。でもしっかり石垣で高い。

三原城址を一周した後、南口に出る。そしたら驚いたことに、しっかりとあちこち整備されているのである。
「都会じゃん」と思わずつぶやいてしまった。駅前の広場はゆったりと面積があり、バス乗り場もいっぱい。
何より、駅と向き合っている建物の規模は当然福山ほどではないがしっかり大きく、小ぎれいな商店街もある。
みやもりの「なんで三原なんだ」という言葉のせいで、三原は何もない街と思い込んでいたのだが、全然そうじゃない。

結論を書いてしまうと、三原という街は非常に重要な交通の要衝なのだ。山陽本線と呉線の分岐点であるだけでなく、
船で瀬戸内海の島々へアクセスする玄関口となっているのだ。2年前には「しなまみ海道」を走ったが(→2011.2.20)、
その際に通過した島へ渡る船が、駅からまっすぐ南下したところにあるフェリーターミナルから出航しているのだ。
しかもそれだけじゃない。三原駅は、広島空港からほど近い距離にあり、新幹線と組み合わせてのアクセスもできる。
街を歩いても、確かに全盛期と比べれば衰えはあるだろうが、人も車も多く行き交い、暗い印象はまったくない。

さてそんな三原だが、さっきの写真にもあるように、「タコのまち」ということで大々的にアピールしている。
そういえば函館のようにイカで売り出している街もあったけど(→2008.9.16)、それならタコがあるのも当然か。
三原のタコアピールは、函館のイカアピールに勝るとも劣らないものがある。かなり積極的で圧倒されてしまった。

  
L: 三原駅のコンコースにはこんな一角があった。「置くとパス」ってことで合格祈願の絵馬を配布しているのだが……。
C: 広々と整備されている三原駅。まずまずの都会だったわ。  R: 商店街にはタコのオブジェ。三原、やる気だな。

駅からそのまま商店街を南下して、国道2号にぶつかって三原港フェリーターミナルの前に出る。そのまま国道を西へ行き、
帝人通りをまた南下。これは行った先に帝人の工場があるからで、かなり寂れた雰囲気のアーケード商店街だった。
この帝人通りが西野川とぶつかったところにあるのが三原市役所。橋を渡って川を挟んで撮影する。
途中に遮るものがないので撮影しやすいのはうれしいが、橋がないと戻れないのでなんだかんだで歩かされる。
その点はなかなか面倒なのであった。でも国道にも近くて海にも近くて、三原らしい立地の市役所だな、と思う。
三原市役所はまだまだきれいな気がするのだが、新庁舎の建設計画が進んでいる模様。
西野川を挟んだ向かいには三原リージョンプラザがあるのだが、その南側の土地に移る予定とのこと。
でも地元では三原駅前に移転して市街地活性化のきっかけになってほしいようだ。まさに引っ張りダコだな!

  
L: 三原市役所。1965年竣工。  C: 川を挟んでしっかりと向かい合ったところ。  R: 正面入口から見上げる。

撮影を終えるとそのまま駅へと戻る。国道2号はさすがに交通量が多く、渡るのにかなり待たされて面倒だった。
急いで戻らないと呉線に乗り損ねるぞ、と小走りで駅に到着すると、残った時間でたこめしの駅弁を買い込む。
そうして改札を抜けて呉線のホームにたどり着く。セーフ。……しかし時間になっても列車はやってこない。
おかしいな、と思って旅程を確認したところ、愕然となってしまう。呉線は12:53発で、今は12時になろうというところ。
そう、僕は1時間まちがえていたのだ。11時と12時の区別がつかないとは、オレはどこまで間抜けなんだ!とションボリ。

しばらくホームで正座して呆けていたのだが、残り1時間弱そのままでいるわけにもいかない。
気を取り直してもう一度改札を抜けると、コンコースにある観光案内地図とにらめっこする。
駅の南西には西浜という地域があり、ここには古い街割りが残っているっぽいので、まず行ってみることにする。
それから線路を越えて北側にある旧西国街道を歩いてみる。最後に外から三原城址を眺めて戻ってくればいいのだ。

そんなわけでいざ再出発。三原駅はけっこう大きく、そこそこ歩いてようやく西浜の辺りに出た。
南下してふらふらと歩きまわる。完全な住宅地なのだが、確かに木造の大店やモダンな医院などがあって興味深い。
しかしそういった建築が特別集まっているわけではなく、こんなもんかねえと思っていたら案内板を発見。
それはこの西浜の埋め立て変遷図で、それによると現在の三原の中心部は明治末期~大正期にかけて、
かなり大掛かりに埋め立てられてできた場所のようだ。駅の南側からフェリーターミナルまでと、
国道2号から三原市役所にかけてはすべて埋立地。市役所は1934年以降に拡張された場所に建っているのだ。

適度なところで今度は線路の北側へ出る。こちらはかつての西国街道で、商店が減った今でもその匂いが漂っている。
これまたやはり古い建物が集まっているわけではないのだが、旧街道の木造建築が穏やかに建て替わっていき、
やがてゆっくりと商店としての機能を失っていく。抜け殻のような仕舞屋が続いている。南側とはなかなか対照的だ。
ひとつ印象的だったのは、大規模店で言えば「西松屋」や「アカチャンホンポ」などの守備範囲になるであろう、
乳幼児用品を扱っていた仕舞屋が一軒あったこと。まだ残っていた看板には「子宝屋 坂井乳母車店」とある。
子宝屋、そして乳母車店とは、非常に豊かな表現だな、と思った。そういう感性が失われていくのは本当に惜しい。

またこれは本当に雑感だが、三原では古い建物を医院として使っている事例がほかの街より目立っているように思う。
もともと町医者ってのはモダンな建築を先進的に取り入れる性質がある職業で、地方都市を歩いていると、
「○○醫院」なんて看板とともにちょっとした緑に囲まれた小じゃれた住宅があるのを見かけることがある。
日記にはあまり書かないが、山形、会津若松(→2007.4.29)、栃木(→2008.8.20)、鎌倉(→2010.12.11)、小倉、
とにかくそういう事例にけっこう出くわしているのである。三原では今でもそういう要素が濃いように思った。

そんなこんなで三原城址の前まで戻ってきた。現在、天主台を堀で挟んだ向かい側は整備工事をやっており、
そのフェンスの隙間からしか中を覗き込めない。石垣はきれいに残っており、駅をつくった無神経さには呆れてしまう。
将来的にはそのアクセスの良さが面白い方向に転がってくれれば、かえって面白い駅になるかもしれない。
そう思いつつ駅の手前まで行くと、南口と比べるとずいぶん小さな北口ロータリーがあった。その名も、隆景広場という。
三原城は小早川隆景が毛利水軍の拠点として整備した城なのである。隆景広場にはきちんと彼の銅像がある。
もともと三原は交通の要衝として大きなポテンシャルを持っている街であり、B級グルメになりうるタコもあるし、
観光拠点をうまくまとめれば、観光客たちが立ち寄って楽しめる場所として十分機能することができるはずだ。
尾道・竹原だけでなく、呉や広島や福山まで巻き込んで、広島県全体の魅力向上の中心になりうる街であると思う。

  
L: 旧西国街道沿いで、モダンな建物と木造建築が並んでいたので思わず撮影。全般的に仕舞屋が多かったのは残念。
C: 工事のフェンスからデジカメをねじ込んで撮影した三原城の天主台跡。よくこれをブチ抜いて駅がつくれるよな。
R: 三原駅・隆景広場。ちなみに三原のバス停のローマ字表記は完全におかしい。ヘボンが見たら腰を抜かすメチャクチャさ。

どうにか強引に街歩きをして時間調整すると、あらためて改札を抜けて呉線の列車が来るのを待つ。
やがて列車がやってきたのはいいが、乗客は思ったよりもけっこういて、しかもクロスシートではなくロングシート。
買い込んだ駅弁を食うには度胸がいったが、旅の恥はかき捨てってことで、勇気を持って遠慮なくいただく。
三原のたこめしはきちんとおいしゅうございました。やっぱり食い物の名物があるってのはいいね!

 車内でいただく三原のたこめし。タコの足がやわらかくて旨い。

呉線は瀬戸内の海沿いを丁寧に走っていく路線である。線路は意外とけっこう高低差があった印象。
途中の忠海駅ではいかにもな観光客たちがそこそこ降りる。ここには大久野島へアクセスする港があるのだ。
大久野島は戦時中に毒ガスの研究施設があり「地図から消された島」として有名。現在は多数のウサギが生息している。
そりゃあもちろん行ってみたいが、男独りでウサギだウサギだ毒ガスだひゃっほう!とはしゃぐのも恥ずかしい。
次回への課題ということにしておいて、今回は素直に街歩きをとことん楽しむことにするのである。

というわけで、僕が鼻息荒く降り立ったのは、竹原駅だ。重要伝統的建造物群保存地区・竹原を擁する市である。
その竹原は駅や中心市街地から若干距離があるので、レンタサイクルを借りるべくさっそく観光案内所へ。
そしたら応対してくれた方はなんというか、頭が切れるゆえのひねくれ気味な感触のする方で、
どこの学校にもそういう感じの教員ってひとりふたりいて、僕もそっちのカテゴライズに当てはまる人間なので、
奇妙な仲間意識というかそういうものを勝手に感じてしまうのであった。わかってもらえるかなあ、この感覚。
いかにも閑職に飽き飽きしつつも土曜日にやってきた観光客をからかって歓迎したくなる心境っていうかね。
こういうタイプの人はわかりきったことをクドクド説明することが絶対にないので、僕は好きなんですが。
まあともかく、無事にレンタサイクルを借りて、意気揚々と発進。まずは竹原市役所から攻めるのだ。

 竹原の駅前商店街。わりとシャッター通りなのだが、ゆったり整備されている。

竹原市役所は駅からちょっと北へ行ったところにある。僕は予備知識ゼロで訪れたからよくわからないのだが、
どうも竹原は何かのアニメの舞台になったようで、女の子が5人くらいいるでっかいアニメ絵のイラスト看板があった。
聖地巡礼する気など毛頭ない僕としては(そもそも作品名も知らんし)、ニンともカンともである。
(そんなことを書いてはいるけど、いつ『けいおん!』みたいなことなるともわからんしな。→2010.1.102012.1.13
竹原ではそれ以外にも、かぐや姫っぽいアニメ絵のオリジナルのポスターやグッズを何度も見かけたので、
そういう方向性での街おこしを積極的に画策しているってことなのだろう。まあ、やる気があるのはいいことだ。

  
L: 東から眺める竹原市役所。大通りの交差点から少し入ったところにある。アニメ絵の看板がデカいぜ。
C: 反対側にまわり込んで撮影。ファサードはこんな感じでしっかり庁舎建築である。幅が意外と長い。
R: エントランス部分に近づいてみたところ。車が隙間なく敷地を埋め尽くしているのが印象的だった。

竹原市役所は1966年竣工。いかにも昭和30年代の鉄筋コンクリートが、昭和40年代に入って少しスケールアップした、
そんな印象の正統派庁舎だ。現在は新庁舎について、議論の真っただ中にある。竹原市は平成の大合併をしておらず、
庁舎を新築する余裕がないため(合併特例債を発行できない)、近くの「たけはら合同ビル」への移転を模索中とのこと。
合併特例債が新庁舎建設の財源になった例は挙げればキリがないが、振り返ってみればこの制度は実に見事に、
兵糧攻めによって自治体に合併を迫る戦術となっていたわけだ。地方分権とはまったくもってほど遠い現実である。

 
L: ピロティの入口の脇にはなぜか枯山水。こんなことをしている市役所は初めて見たように思う。
R: 北にあるスーパーから眺める。やっぱりこっちも駐車場になっており、車で埋め尽くされていた。

市役所の撮影を終えるとさっそく竹原の重要伝統的建造物群保存地区を目指してペダルをこぐ。
竹原は本川の対岸(左岸)に位置しており、橋を渡ったたもとにはポケットパーク「頼山陽広場」があった。
これは頼山陽の父が竹原出身ということでつくられたようだ。その実家の建物も竹原の中心部に現存している。

 頼山陽広場。「竹」原ってことで車止めがタケノコだ。

交差点を挟んだ頼山陽広場の斜向かいには道の駅たけはらがあり、観光客たちで大いに賑わっていた。
駐輪場があったのでそこにレンタサイクルを停めると、徒歩に切り替えて竹原の街並みをいざお手並み拝見。
日本全国けっこうあちこちの重要伝統的建造物群保存地区を見てまわっている僕としては、竹原の街並みは、
「うん、ふつう!」といった感じである。石畳の両側に木造建築がきっちり並んでおり、きわめて典型的である。

  
L: 竹原の街並み。実に標準的かつ典型的な歴史ある街並みぶりである。関西圏からけっこう多めの観光客がいる。
C: 祠といっていいくらい小規模な神社が住宅とくっついて建っている。なかなか風情のある光景である。
R: 初代郵便局跡。入口にはかつてのポストである書状集箱が往時の姿のまま設置されており、利用可能。

竹原の場合は路地も石畳の舗装がなされており、ある程度「面」での街並み保存ができているのはいい点だ。
メインストリートを徒歩で往復しても飽きないし疲れないサイズで、回遊する楽しさもきちんとある。
この時期にはちょうど、各建物の中で雛人形の展示が行われており(これと同じ感じ →2011.2.20)、
僕は当初ナメてかかっていたのだが、旧笠井邸で展示されていたものは実に見事で圧倒されてしまった。
雛人形は経済的な余裕というか家柄の迫力がそのまま出るものなので(→2011.3.27)、侮れないのだ。

  
L: 用途はよくわからないが、木造の中にこういうモダンな建築が混じっているところが、むしろその街の力を示している。
C: 小笹屋酒の資料館。ニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝の生家である。中にはものすごくいい香りが漂っていた。
R: 松阪邸。緩やかにカーヴする瓦屋根、うぐいす色と菱格子の外壁などが非常に独特。竹原を代表する景観と言える。

竹原には松阪邸・今井政之陶芸の館(光本邸)・竹原市歴史民俗資料館・森川邸の4ヶ所に入れる周遊券がある。
さっそく松阪邸からお邪魔してみたのだが、大胆な外観とは対照的に、内部空間はいたってごくふつうの名家の住宅だった。
(それでも十分すごいのである。大名屋敷などと十把一絡げに「木造住宅」として体感している僕の方に問題がある。)
まあそれはそれで、外に向けては趣向を凝らし、中はかなり質実剛健ということで、きちんとかっこいい姿勢である。

 松阪邸の内部。外観と比べると派手な要素はかなり少ない。

そのままメインストリートを歩いていると、木造洋風建築が現れる。1929年に町立竹原書院図書館として建てられて、
現在は竹原市歴史民俗資料館となっている建物である。1階はかつて竹原の主要産業であった製塩についての展示で、
けっこう古びているものの内容は濃く、実に面白かった。しかし2階はよくある民俗資料の展示であまり面白くなかった。
ぜひ全館を製塩関係の展示で統一して、さらに内容を掘り下げるべきだと思った。ちょっともったいない施設である。

ということで、竹原の歴史についてここで軽くまとめておく。竹原は中世より港町として成立していたが、
江戸時代に入って赤穂から製塩技術を取り入れると、塩の産地として大きく発展。また北前船の寄港地でもあり、
商人たちが活躍したことで現在に残る見事な街並みが形成されたわけだ。それに応じて文化も発達し、
頼春水・頼山陽親子に代表されるような知識人も輩出した。そういう実に誇らしい歴史を持った街なのである。

さっきも書いたが、竹原はある程度「面」で街並みを保っている。メインストリートから西の路地に入ると、
複雑に入り組んだ木造の家並みの中を歩くことになる。おかげでわりと迷ってしまったが、それもまた面白いものだ。
そうしてフラフラしているちに、今井政之陶芸の館(光本邸)の前に出た。周遊券を提示して中に入る。
入口の右手にある土蔵で今井政之親子の陶芸作品を展示している。まあ確かに上手いとは思うが、趣味はよくない。
技術はあるけどセンスがない、そんな感じ。こんなもんつくっていったい誰が使うんだ、って作品ばっかりだった。

  
L: 竹原市歴史民俗資料館。製塩業に関する展示は全国的に珍しいこともあって面白い。それで館内を統一すりゃいいのに。
C: メインストリートの北端にある胡堂。小さい社だが、竹原において空間的にきわめて重要な存在になっている。ノードってやつかね。
R: 胡堂を背にして眺めた竹原の街並み。左手には頼山陽の祖父である頼惟清の旧宅がある。紺屋をやっていたそうな。

北端には胡堂。小さい建物ではあるものの、いかにも街並みの中心かつ終端にふさわしい雰囲気を漂わせている。
よく考えてみれば、重要伝統的建造物群保存地区は街道沿いにあるものが多いと思うが、竹原は海路の街である。
線的にある程度の大きさを持っていた街が、面的に発展していった、その経緯がきっちり味わえる場所なのだ。
というわけで、竹原を歩きまわっての結論としては、空間と人間が産業によって結びついた様子、
それが時間を超えて記録されている貴重な事例である、といったところか。最初の「うん、ふつう!」という感想が、
いかに薄っぺらいものだったかを反省気味に実感するのであった。旅をするには何ごとにも敏感にならないといけないね。

最後に、本川の右岸にある森川邸に寄る。明治初期に建てられた、塩田経営者の邸宅である(1916年に移築された)。
中に入ってまず圧倒されるのは、大広間にいくつも並べられた雛壇である。大広間も雛壇もどっちも凄くて呆気にとられる。
そして庭園がなかなかいいのだ。不勉強なので「どこがいいのよ?」と訊かれるとうまく答えられないのだが、
緑が多いわりに陰が少なく、暗さがない。手入れが行き届いていて木々に統一感がある。見事であると素直に思う。
時間がなくってかなり大雑把に見てまわることになってしまったが、塩田についての説明もきちんとあって楽しめた。

  
L: 森川邸の入口。風格十分でございますな。  C: 庭園が見事。よく手入れが行き届いている。
R: 大広間と並ぶ雛壇。雛人形の時期に来たのはたまたまだったが、運がよかったかもしれないなと思う。

市街地を爆走して竹原から駅前まで戻る。もうちょっと歩きたい気分になってしまったのだが、しょうがない。
レンタサイクルを返却して呉線に乗り込むと、さらに西へと向かう。瀬戸内の海ではあちこちで牡蠣を養殖中で、
青い海の上に木を組んだと思われる構造物がいくつも浮かんでいるのが目に入る。この下に牡蠣がいるわけだ。
僕は小さい頃には牡蠣がまったくダメだったのだが、20歳を過ぎてからは毎年一度は必ず食べるようになっており、
最近ではけっこう好き好んでちょくちょく食べているのである。歳をとると味覚は変わるもんだなあ、としみじみ思う。
それにしても牡蠣を食うたび毎回思うのは、最初に牡蠣を食い物と認識した人の観察眼はすげえなあ、ということ。
味もいまだに万人受けするもんじゃないだろうと思っているんだけど、なぜか食っちゃうんだよな。不思議だよなあ。

 瀬戸内海では牡蠣を絶賛養殖中でございます。

列車は広という駅が終点で、そこから広島行きの列車に乗り換える。呉線ってのは広だの坂だの呉だの、
漢字1文字の駅に妙な存在感がある。広は休山半島(って言えばいいの?)を挟んだ呉市の東側の一部分。
もともとは広村という自治体だったが、戦争中の1941年に呉市に編入された。やはりこちらも工業地区で、
呉海軍工廠の航空機開発部門として設立された広海軍工廠が置かれたことで発展した歴史を持つ。
現在の広は駅周辺に大型店舗が集まっており、なんだか一気に都会に出てきた印象がしたのであった。

広から呉までは10分で、到着したのは16時半過ぎ。なんとも中途半端な時間に到着したものだが、むしろ都合がいい。
駅からそのまま南北連絡通路を進んでいって、商業施設の真ん中を抜けて、南側に出てしまう。
すると真正面にまだ真新しい大きな建物があり、右手を見ればなんと、本物の潜水艦が丸ごと1隻置かれている。
これだけ豪快な光景はなかなかお目にかかれるもんじゃない。呉に来たことを実感させられる光景である。
正面にあるのは、大和ミュージアム。そして右手の潜水艦は、海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)だ。
とりあえず今日のうちに、大和ミュージアムを見学してしまうのだ。18時までやっているのがとってもありがたい。

大和ミュージアムは正式な名前を「呉市海事歴史科学館」という。つまり戦艦大和を展示の中心としてはいるが、
それだけに留まらず、軍港・軍事工業都市として発展してきた呉という街の性格を詳しく学べる内容となっている。
2005年に開館して以来大和ミュージアムは、呉を全国から観光客が集まる街にする大きな原動力となってきた。
さすがに新しい施設だけあり、子どもがニンテンドーDSで展示情報を読み取れるようになっているのには驚いた。
展示内容もまず1/10の戦艦大和で来場者の度肝を抜き、幕末から明治維新以後の日本の軍事的な流れを押さえる。
そして大和建造に関する詳細な説明を通して、大和によって培われた工業技術の紹介へと続いていく。
先端技術が軍事研究から生まれるのは当たり前の話で、大和を生んだ高い技術がどのように一般化したのか、
その点の説明に力点が置かれている。つまり、単純に戦争を礼賛することがないように注意深く考えられている。
この姿勢は大和ミュージアム全体で貫かれており、政治的なニュートラルさを維持するバランス感覚はかなりのものだ。
展示では乗組員たちの写真とともに、短い一生を終えた大和から引き上げられた遺品も並べられている。
人も、物も、すべてがひどくもったいない。亡くなった方にはぜひ、生きて戦後の復興に貢献してほしかったと思う。

  
L: まずアトリウムの1/10スケールの戦艦大和と対面するところから始まる。戦前の日本の凄みを感じるぜ。
C: 東シナ海に沈んでいる現在の大和の姿を再現した模型。もったいなくって虚しくって悲しい光景である。
R: 大和から引き上げられた品々も展示されている。やはりここから大和の全体の威容を想像するのは難しい。

戦後の呉の復興で1階の展示は終了。大和ミュージアムではアトリウムが2つに分けられており、ひとつは大和の模型、
もうひとつは兵器の実物展示となっている。間近でそれらを見た後は、スロープぐるぐると上がりながら眺める。
これはけっこうありがたい工夫で、たとえば零式艦上戦闘機(いわゆる「ゼロ戦」)とにらめっこすることもできるし、
上からコクピット付近を眺めることもできる。いろんな角度から見ることができるので、とても楽しめるのだ。

  
L: “人間魚雷”として悪名高い回天。こういう攻撃をするようになったら終わりだよ、とつくづく思う。
C: 上から眺める実機展示スペース。零式艦上戦闘機と特殊潜航艇「海龍」がよく見えるぜ。
R: 戦艦大和の模型も上から眺めることができる。模型とはいえ、どこから見てもフォトジェニックである。

ミュージアムショップをぷらぷら見てまわっているうちに閉館時刻になったので、外に出る。
さすが東京よりもかなり西に来ているため、まだ完全に日が落ちるまでは少し余裕がある感じだ。
南北連絡通路からは呉市の観光案内所に入れるので、そこに置いてあったパンフレットとにらめっこして、
本日の晩飯に何をいただくかじっくり考える。呉というと舞鶴と並んで肉じゃが発祥の地として有名だが、
肉じゃがだけ単体でいただくような店は当然なく、あれこれ迷った末、「戦艦大和のオムライス」に決めた。

さて呉という街は海軍の工廠として発展した経緯があるためか、また空襲を受けた影響もあるためか、
道幅も街のスケール感もとっても広々としている。アーケードの商店街は駅からずっと東にあるのだ。
トボトボ歩いて堺川を渡ってようやく「れんがどおり」の入口に到着。れんがどおりはその名のとおり、
なんと36万個のレンガが780mにわたって敷き詰められている商店街なのだ。歴史は意外と新しくて、
1978年の完成。アーケード化したのは1990年ということで、規模のわりにはずいぶんと最近の話なのだ。
アーケード商店街は全国的にどんどん勢いが弱まっているが、さすがに呉はまずまず元気だった。
佐世保同様、自衛隊の基地があることで、一定の若い層がいることが大きいのだろう(→2008.4.27)。

目的の店は、れんがどおりから少し入ったところにあった。いかにも個人営業の洋食店で、僕以外に客がいない。
どことなくアットホームな雰囲気を味わいつつオムライスを待っていると、テレビでサッカー・ゼロックス杯のニュース。
サンフレッチェ広島が佐藤寿人のスーパーボレーで柏に勝ったとのことで、広島県にいる僕としてはほっと安心。
出てきたオムライスは、サラサラのデミグラスソースがケチャップライスと絶妙なハーモニーを繰り広げる興味深い味だった。

  
L: 夕刻のれんがどおり。駅からはけっこう距離があり、呉という街の規模の大きさを実感させられるのであった。
C: れんがどおりの中はこんな感じ。これだけ規模の大きいアーケード商店街が健在なのは、呉の街の特性によるものか。
R: 「戦艦大和のオムライス」セット。そりゃもうおいしゅうございましたよ。食後の紅茶にまた癒される。

本日の宿は駅に近いところにあったので、戻ってチェックイン。しかし部屋からバスタオルを取り出すと、
再び呉駅へと向かう。駅の南側にあるビルの最上階は入浴施設になっているのだ。そこでじっくり湯に浸かるのだ。
屋上も入浴施設となっており、夜空を眺めながらボケーッと湯に浮かんで過ごすのはたいへんな贅沢なのであった。


2013.2.22 (Fri.)

今日はいろいろあったなあ。

まず、都立高校の入試直前ってことで、3年生の英語の時間を自習にしたら、なぜか数学の過去問を解かされた。
それも日比谷高校の過去問ですぜ。本職の数学の先生に訊けよって言ったら、「○○先生は逃げた」だとさ。
しょうがねえからやってみたけど、ふだん数学やる暇なんてないから頭が訓練されてなくって、解けるわけないじゃん。
まあ、「解説がわからない」って言うから、熟読してから噛んで含めるように説明したら、その生徒は納得したけどな。
いちおうその程度にはまだ当方の頭は回るようだ。でもやっぱり、はっきりと脳みそが錆び付いてしまっているのは悲しい。
問1からその後の問題へと、解き方のストーリーが用意されているから、それを読み取るように意識しろと言ったら、
生徒はだいぶすっきりした表情になったんでよかったよかった。受験ってそういう駆け引きの世界なんだよな。
それにしても日比谷高校のレヴェルは確実に年々上がっているようで。ナメてかかれないな、と実感させられたわ。

放課後には2年生から要望があったので、学年末テスト前の補習。比較を軽くおさらいしてから受動態について扱った。
何がすごかったって、その参加人数。学年の半分以上の生徒が参加したからね。なんちゅうやる気だと感動してしまった。
呉越同舟、ふだんあまりしっくりきていないバレー部と吹奏楽部の全員が揃って参加したのは記録的な快挙だろう。
2年生は勉強が苦手な生徒が多いが、やる気があるのは大変すばらしい。やる気があればなんとかなるわけではないけど、
やる気がなければもうどうにもならない。そのスタートラインで生徒たちの覚悟が見えたのは、この上ない収穫なのである。

そんなわけで、今日は総じていい日であった。教員として、充実感のある日だったな。


2013.2.21 (Thu.)

今年度のALTとの授業が最後日なのであった。思えば、『ロックマン』は最高にクールなゲームだぜとか、
『MOTHER』シリーズは『MOTHER 2』が一番だぜとか、そんな話題で彼とは妙に意気投合してきたわけだが、
それもこれでおしまいと思うとなかなか淋しい。なんだかしんみりしてしまったよ。

よく考えたら、今まで毎年新たなALTが登場してきたわけだが、派遣会社がすごくしっかりしてくれているので、
皆さん本当にすてきな人ばっかりだった。臨時で来た人もしっかり仕事してくれる人ばっかりだったし。
やっぱり好きで日本に来る外国人ってのは、ちゃんとしているなあと思う。生徒にもいい刺激になっただろう。
まあ、今度はこっちがそういう外国人として海外へ行けるといいわけだ。梵天丸もかくありたい、ってやつだな。


2013.2.20 (Wed.)

2学年分のテストづくりが佳境で日記を書く暇がまったくない。熊野旅行はおろか、日頃のよしなしごとまで、
日記の方にまったく手がまわらない。MacBookAirを開いても、ひたすらIllustratorで問題文の入力だもんな。
なんでこんなに時間がかかってしまうんだ、と不思議に思うのだが、いつまで経っても作業が終わらないのである。
もう何度も何度もこのスタイルでつくっているので要領はよくなっているはずなのだが。本当に不思議だ。


2013.2.19 (Tue.)

今日もクソ忙しいよう。ふつうテスト前ってのは部活がない分だけ自由に使える時間が多いはずなのだが。
授業準備を中心にいろいろ下ごしらえをしていると、いつの間にか部活終了と変わらない時間になってしまっている。
で、僕の場合はそこから家にまっすぐ帰らず、カフェなんぞに寄って集中してテストづくりに専念するわけで、
毎日フラフラになっている。一日何時間労働だよ、まったく。で、寝て起きたらまた仕事。休めないでござるよ。


2013.2.18 (Mon.)

レギュラー授業を中心にやるべきことが多すぎて、信じられないほど忙しい。
今はどの学年も教科書の内容がだいたい終わって、ひたすら復習モードに入っている。
それでプリント演習に取り組んでいるのだが、そのせいでプリントの準備と管理がとんでもないことになっているのだ。
もともと汚い僕の机の上は、積まれたプリントで完全に埋まっているどころか、壁ができあがってしまっている状況。
プリントの壁の上からパソコンのキーボードをたたく、そういう仕事ぶりなのである。片付ける暇が本当にない!
しかも困ったことに、今の時期は配布される文書がいろいろと多いので、壁の上に容赦なく素材が積み上げられるのだ。
どうにかしたいが、どうしょうもない。授業が一段落ついたら一気にやらなければ。ヒー


2013.2.17 (Sun.)

ぼちぼちテストが近いので、近くのカフェで朝メシを食いつつルーズリーフにアイデアを書き付けていく。
今回は僕が1年生と2年生の両方の問題を用意することになっているので、仕事が2倍ということなのだ。これがつらい。
いちばん面倒くさいのは、なんといっても長文問題だ。とりあえず過去問などのネタ元を参考に、アウトラインを決めていく。
実際にIllustratorで割付してみないとわからないこともあるので、非常に大雑把に方向性を定めてとりあえず終了。
あまった時間でグイグイ日記を書く。今日みたいに一日完全フリーな日はもはや貴重なのだ。書けるときに書きまくる。

 自転車でお出かけなのだ! そういえば、今の自転車を撮ったのは初めてだな。

昼になって、新しいデジカメを持って自転車で出かける。今日は気ままに気分転換しながらカメラに慣れるのだ。
テキトーにシャッターを切りながら都心に出て、昼メシを食いつつやっぱり日記を書いて、買い物をする。

久しぶりにFREITAGのオフィシャルショップに寄る。さすがにもうこれ以上バッグを買うつもりはないのだが、
旅行に便利なCHEYENNEで鮮やかなオレンジ色があったので、さらっと購入してしまったわ。すいませんね。
オフィシャルショップで買うのは初めてで、いかにもFREITAGな紙袋に入れてくれたが、正直、不便なデザインだった。

帰りに、できたばかりと思われる新橋のスタ丼屋で晩メシを食う。新橋にできたのは、立地としてはかなりありがたい。
ただ、それでスタ丼食いすぎ症候群になってしまうのはちと困る。スタ丼屋を見たら思わず入っちゃう性格なんでなあ。

家に帰ると、まずはデジカメデータの確認。使いこなすにはまだまだ時間がかかりそうだが、感触は悪くない。
慣れるためにはいっぱい撮るしかないのである。使っているうちに特徴がつかめてきて、自分のものになるわけだ。

  
L: テストその1・日本電波塔。遠景だと画像の精度にそこまで大きな差はない印象かなあ……。まあこんなもんか。
C: テストその2・いつでも日陰な東京新名所。空中権を売った代償はけっこう大きいかもしれないぞ、と思う。
R: テストその3・ザギンのシンボル。オートモードでテキトーにスナップしただけなのだが、夜景にはけっこう強そうね。

そして記念ということで、CHEYENNEを撮影。考えてみれば、同じ種類のFREITAGを複数買ったのはこれが初めてだ。
別に狙ったわけではないのだが、緑とオレンジということで、緑を「松本」、オレンジを「長野」と命名したのであった。
理由は推して知るべし(→2011.4.30)。こうなると南信にもぜひがんばっていただきたいところである。

 
L: CHEYENNE、奥の緑が「松本」で、手前のオレンジが「長野」。ホントに偶然、こんなことになっちゃった。
R: 前回撮影時(→2011.9.6)とは別の角度で撮ってみた。新デジカメのマクロ撮影は明らかに前よりきれいだ。

まあそんなわけで、なかなかのん気でいい一日だった。明日以降はテストづくりに追われまくるぜ! ヒー


2013.2.16 (Sat.)

土曜授業から引き続き、午後はそのまま部活。部活が終わると、もう夕方である。
やっぱり土曜授業があると、思うように動けない日が増えてストレスが溜まる。週6勤務ってのはありえないよ!

自転車で秋葉原へ。エディオンの閉店セールに乗じてCDやDVDをあれこれ買ってやろう、と企む。
しかし皆様考えることは一緒なので、店内大混雑。ちょっと欲しかったDVDたちの姿はすでにほとんどなく、
残っている中から目についたものをサルヴェージしていく感じで買うのであった。ま、お財布的にはその方が健全かな。
大満足というわけではないのだが、なんだかんだでそれなりにいい買い物はできたのでよかった。


2013.2.15 (Fri.)

なんか気がついたらレンタルサーバの容量が5倍に増えとった。とんでもないことになっとるな。すげえな。
この日記は写真がどんどん増えているのとログが遠慮なくクソ長くなっているせいで、それなりの量があるのだが、
使用率が55%から一気に11%になってしまった。5GBもの容量があるともう安心である。ありがとう、さくらインターネット!


2013.2.14 (Thu.)

バレンタインデー? そんなものにうつつを抜かしている奴にはTAIBATSUを与えてくれるわー!!とかやってました。


2013.2.13 (Wed.)

ウチのスーパーの魚は骨を抜いてあるから子どもも食べやすいってなCMをやっているんだけど、バカじゃねえかと。

「平和ボケ」という言葉がかつて一世を風靡したことがあったが、今の世の中はすっかり「便利ボケ」である。
ありとあらゆる便利なものに囲まれて、ただそのサーヴィスを享受するだけの生活になってしまっている。
かつては「必要は発明の母」という言葉があり、必要性があるから発明がなされ、世の中が便利になっていった。
しかし今は違う。ギッフェン財の逆説のように、発明されることで従来なかった必要性が喚起されるようになった。
(近年におけるそういう発明の一番のエキスパートは、まちがいなくスティーヴ=ジョブズだったと思う。)
でも、その新しい必要性ってのが、僕にはいまいちピンと来ないのだ。もともとなくてもよかったものは、なくてもいいと思う。
無から生まれた必要性が何を満たすかというと、「何もしていない時間」ではないか、という気がしている。
つまり、時間つぶしをビジネスチャンスと捉え、新たな発明が要求されている、そういう社会になっているように思う。
昔に比べ、何から何まで確かに便利になった。でも、便利になる必要のないものまで便利になってきている。
便利になった分だけ、考える時間が減った。そして何もしていない時間に置き換えられてきている。

日本はいい国になりすぎてしまったのかもしれない。生活している中で、考える必要のない場面が多すぎるのだ。
時間と引き換えに考えて解決する必要がなくなったことで、あの手この手で解決を図る力が鍛えられる場面が減っている。
人間とは本来、不便な状況を考えることで便利に変えていく、その生き方を研ぎ澄ますことで進化してきた生き物だ。
ジョブズのような限られた天才は、想像力を駆使して新たな必要性を発明することができる。日常を変えることができる。
でも、大多数の凡人にそんなことはできるはずがないし、そもそもそんなことを全員に求めるべきではない。
凡人は生活者である。本来、日常の中でこまめに想像力を使うことで、知的生命体である人間らしく生きるべきなのだ。
道具に使われるのではなく、道具を使う立場に立ち続けること。そこに人間としての矜持があるはずなのだ。

骨の抜いてある魚を食っている子どもが、賢くなれるはずがない。考える必要がないということは、
不便さに苦しめられることがないということ、つまりそれが幸福であるのだと勘違いしている愚か者が多すぎる。
他人の考えた便利さに甘やかされて自ら考えることのない主体は、実際には何もしていない(できない)ままに、
道具の操り人形としてただただ時間をつぶすだけの人生を送るしかなくなるだろう。すでに社会はそうなってきている。
便利さを追い求めるのはいいけど、需要と供給はすっかり本末転倒しており、なぜ便利であるべきだったのかが見えない。
そして、その事実に気がつくチャンスすら与えられようとしない。どうも現代がけっこうなディストピアに見えてきたよ。


2013.2.12 (Tue.)

ふらっと近所のスーパーに行ったら、改装セールでほとんどの商品がたいへんお安くなっていた。
おかげで今までの人生で最も金額をかけて、あれもこれもと買い込んでしまった。安(やし)いー!! バッバッ
でもその分、充実した買い物ができたのであった。よかったよかった。なんだか浦和レッズな気分だぜ。


2013.2.11 (Mon.)

夜明け前に東京に戻る。当然ながらそのままベッドに直行して昼近くまで寝る。これで体力はばっちり回復なのだ。

で、むっくり起き上がると、自転車でデジカメを修理に出そうとする。しかし寝ぼけていたようで保証書を間違える。
しまったなあ、と思いながらデジカメ売り場を見てまわる。世間ではそろそろ新製品が出る季節のようで、どれもお安い。
そのうち、新しいデジカメを買ってしまおうか!という気になる。でも頭をクールダウンさせるべく、いったん家に帰る。

本当は天気もいいしどこかへ出かけるつもりだったのだが、突如湧き上がったデジカメ購入計画が頭から離れず、
ネットであれこれ調べてみる。調べていくうちに、今のデジカメに対する不満と候補のデジカメの評判の良さが渦巻きだす。
そう、僕がいま使っているニコンのS9100には、実はかなりの不満があったのだ。とにかくフォーカスが甘すぎる。
サッカー観戦時にズームが便利、あとは建物ばっかり撮っているので大きな問題があるようには思えてこなかったのだが、
すごく安い別のデジカメの存在に気がついてしまうと、今後も使い続けることがストレスに感じられてきてしまった。
実際、熊野旅行で撮った写真を見てみても、到底満足できない。ヘタクソでもキレイに撮れるカメラじゃないと困るのだ。
(日記に貼り付けている写真は縮小して加工してあるので目立たないが、元のサイズだと本当にフォーカスが甘いのだ。)
何度も何度も考えて、結論が同じであることを確認すると、正しい保証書を手に、もう一度店へと出かけたのであった。

というわけで、今度のデジカメはキヤノンのPowerShot SX260 HSである。だいぶお安く買わせていただきました。
ニコンに移籍したけど結局キヤノンに戻ったということで、千葉の坂本隊長(昨季限りで引退)や鹿島の野沢になった気分。
(なお、S9100はきちんと修理に出しております。今後は予備のデジカメとして使っていく予定だす。)
バリバリ使ってやるぜウヒヒ、とよだれを垂らして喜んでおります。末永く使い込めるといいなあ。

ではさっそく、試し撮りの結果を日記に貼り付けてみるのである。
今回の熊野旅行では、熊野三山のそれぞれで八咫烏の絵が描かれているサッカー関連の御守をいただいたのだ。
これらを3つ並べて比較してみることで、社会学的に面白がってみよう、というわけなのだ。

まずは熊野本宮大社。サイズは標準的な大きさで、堂々たる日本のサッカーの御守ぶりである。正統派だな。
そして熊野速玉大社。こちらは小さめのサイズで、ストラップとしてケータイなどに付けることができる。
最後に熊野那智大社。実は那智大社には、特にサッカーをテーマとした御守がなかった。これはちょっと意外。
その代わり、勝利を呼び込む勝守に独自の八咫烏が描かれていて、どことなく日本代表を意識した色づかいである。

  
L: 熊野本宮大社のサッカー御守。  C: 熊野速玉大社のサッカー御守。  R: 熊野那智大社は勝守がサッカー風味。

というわけで、以上、熊野三山のサッカー御守を比較社会学してみました。3つ持ってりゃ少しは上手くなるかな?


2013.2.10 (Sun.)

勝浦に泊まらずにわざわざ新宮に泊まったのには理由がある。それは、熊野本宮大社行きのバスが新宮発だから。
朝早く勝浦から新宮に移動する、そのひと手間がちょっと不安だったのだ。余裕を持って新宮を出たかったのね。
というわけで、むっくり起きるとテレビを見ながら買っておいた朝飯を食べ、身支度を整えて出発準備をする。
テレビでは雨上がり決死隊がトーク番組をやっていて、ゲストは南信出身の数少ない有名人・峰竜太だった。
関西では東京とはまったくテレビ番組の質感が違う。あらためてその事実を実感するのであった。

さて、階段を降りて宿を出ようとしたところで戦慄を覚える。足、特に太ももが猛烈な筋肉痛なのである。
ふつうに歩く分にはまったく問題ないのだが、階段の上り下りで急に動きがおじいちゃんになってしまうのだ。
なんだかんだで日頃マジメにサッカーをやっていないということなのか、それともやはり石段責めが異常だったのか。
ともかく、これは今日けっこう大変だぞ……とうっすら不安感をおぼえつつ、本宮大社行きのバスに乗り込んだ。
7時5分、予定どおりにバスは発車。昨日レンタサイクルで爆走したルートを逆走する形で新宮市街を離れ、
山へ向かって快調に走っていく。まだ目を覚ましていないアーケード商店街の入口が見えたときは少し悔しかった。

市街地を出たバスは川沿いに山の中を進んでいく。いちおうバス停はあるのだが、利用者ほとんどいないだろコレ、
とツッコミを入れたくなるような閑散とした道である。ただ、道路じたいはしっかりと整備されており、
観光客が頻繁に通過するルートであることはうかがえる。のんびりと正しい日本の田舎の景色を味わっていると、
やがて川湯温泉に到着。文字どおり、川に面した温泉街を抜けていく。なんだか地元の昼神温泉っぽい雰囲気。
川からは湯気が出ていて、よく見るとその一角に露天風呂があるようだ。けっこう面白そうな場所である。
そして乗客がそこそこいた。なるほど、ここの温泉に一泊してから熊野本宮大社へ行くプランも悪くない。
熊野地方ってのは古くから信仰の地であっただけに、観光地としても洗練されたルートができあがっているようだ。
バスはさらに進んでトンネルを抜ける。と、そこもまた温泉地だった。こちらは山の中の静かな人里で、渡瀬温泉という。
さらに、ぐるっとまわって坂を上ると、また温泉でやんの。熊野すげえな、と心底感心してしまった。
「小栗判官復活の地」と看板が出ている湯の峰温泉はいかにも山間の温泉街で、風情たっぷり。よく賑わっていた。
なんでも開湯1800年で、日本最古の湯を名乗っているという。温泉の世界は奥が深いなあ、と感心してしまった。

温泉ラッシュをくぐり抜けると、広々と整備された道に出た。国道168号で、いよいよ熊野本宮大社が近づいてきた。
するとゆるやかな朝靄と朝日の中、かなり巨大な鳥居があるのが見えた。とんでもなく大きくてびっくりする。
驚いていると、バスは神社の入口の前を横切り、少し先にあるバス停に着いた。ここが終点というわけだ。
フリー切符を提示して降りるが、出入口の段差で筋肉痛であることを実感させられる。今日はつらくないといいが……。

熊野本宮大社の鳥居の前に立つ。時間的な余裕はけっこうあるので、まずは参拝を済ませてしまうことにした。
でも朝早いうちは写真を撮影するのに光の具合があまりよくないので、後でもう一度、来ることにする。
というわけで、鳥居をくぐって境内に入ると、気合で石段を上って参拝する。本宮大社でもやっぱり石段だ。
でもまあ昨日の3連発に比べればまったく大したことがないので、わりと淡々と上りきることができた。
しかしながら、上りきったところでションボリ。神門が工事中なのであった。またコレかい、と肩を落とす。

  
L: 熊野本宮大社の入口。すっきり整備されている国道168号に面して、穏やかに参拝者を待っている感じだ。
C: 鳥居をくぐるとこんな光景。砂利敷きの参道から石段を上っていくが、そこまでひどい段数ではない。
R: 残念ながら神門は工事中なのであった。左の幟には太陽と八咫烏が描かれているのね。

それでも門じたいをくぐることはできたし、下部はその質感をきちんと味わえるようになっていたのでよかった。
せっかくなので、ふだんはあまり撮らない扁額部分を見上げて撮影して拝殿の前へと抜ける。
するとやはり、熊野本宮大社も熊野速玉大社と同じように複雑な構成の社殿となっていた。
不勉強な僕はテキトーに左から順番に参拝していくのであった。ご利益半減とかなったらヤダなあ。

  
L: 神門。一部だけど実物を見ることはいちおうできたから、ヨシとするか。  C: 向かって左の結宮。ここが第一殿と第二殿。
R: 手前が若宮、真ん中が本宮、奥が結宮。やっぱり平入と妻入が並ぶ複雑な構造だ。でも熊野速玉大社とは左右が逆だな。

参拝を終えると神門を出て、少し周辺を歩いてみる。と、真っ黒に塗られたその名も「八咫ポスト」を発見。
てっぺんにはきちんと八咫烏の像が乗っている。熊野那智大社の像よりも躍動感があるのがポイントか。
ちなみに、投函した郵便物には八咫スタンプが押されるそうな。いろいろ工夫しているなあ、と思う。

 八咫ポスト。熊野の八咫烏文化は徹底しているなあ。

まだまだ時間はあるので、さっきの大鳥居まで行ってみる。いやそもそも、ここはぜひ訪れるべき場所なのだ。
国道168号をぷらぷら歩いて路地に入り、まずは産田社に参拝。そしていよいよ、その大鳥居と向き合う。
手前の田んぼでは3羽のカラスたちが土をほじくり返している。「3」という数に特別さを感じずにはいられない。
ともかく、田んぼの中をまっすぐに延びる参道を歩いていく。近づくと、鳥居の大きさにあらためて圧倒される。

この鳥居の先にあるのは、大斎原(おおゆのはら)と呼ばれている場所だ。撮影が禁止されている聖地なのである。
1889(明治22)年の大水害により奈良県の最南端・十津川村が壊滅状態になった話は前に書いた(→2012.8.21)。
そしてこの大水害は熊野地方にも、熊野本宮大社の社殿が流されてしまうほどの甚大な被害をもたらしたのだ。
先ほど石段を上って熊野本宮大社に参拝したが、つまり現在の社殿はこの水害の影響で高台に移転したというわけだ。
しかし社殿が完全に移転したわけではなく、中四社・下四社は今もこの大斎原に残っているのである。

  
L: 国道168号の様子。広い道路の両側には土産店やコーナンなどがある。左手奥が熊野本宮大社である。
C: 大斎原の大鳥居。もともと熊野本宮大社はこの場所にまとまっていたが、1889年の水害で上四社だけ移転。
R: 鳥居の辺りから眺めた大斎原への参道。周囲は田んぼだが、いかにも古来からの聖地らしい雰囲気が漂っている。

参道を抜けると、まるで地元のキャンプ場みたいな場所に出た。木々に囲まれているが、ぽっかり広場ができている。
その空間は少し高くなっており、右手はもう一段高い。その高い場所は、石によって祭壇というか祠というか、
そんな具合に整備されている。石の壇の上にはやはり、石で造られた箱が2つ並べて置かれていた。
箱には錠が掛けられているようで、いかにも何かを堅く封じている印象である。そう、これが中四社と下四社だ。
神社業界では別に珍しくない措置なのかもしれないが、見慣れない僕にしてみれば、かなり異質な印象の空間である。
場所を移した上四社(熊野本宮大社)の方は撮影OKでこっちはダメというのもよくわからないのだが、
こちらは何かがむき出しになってしまっている感覚があるのは確かだ。不思議なもんだと思いつついちおう参拝。
世の中にはまだまだ僕のよくわかっていない日本があるんだなあ、と腕を組んでため息をつくのであった。

そうして大斎原の参拝を終えると、再び熊野本宮大社へ行ってみる。あらためて写真を撮り直し、御守をいただく。
さらに宝物殿にもお邪魔してみる。こちらの料金は300円。残念なことに1889年の大水害の影響はきわめて大きく、
貴重な品々が流されたり汚されたりした模様。かえって開き直っており、汚れてしまったものについても、
水害の被害を伝える資料としても展示している。100年経っても消えることのないトラウマということだ。

最後に、国道を挟んだ向かいにある世界遺産熊野本宮館に行ってみる。南北の2棟をつないだ構成になっているのだが、
観光案内や世界遺産としての熊野の紹介、さらに多目的ホールなど、なんでもありの施設として利用されているようだ。
なかなか贅沢に木材を使いつつ、しっかりと外光を引き込むことにこだわっている建物、という印象である。

  
L: 世界遺産熊野本宮館。2009年に竣工したが、おととし9月の台風12号により今年の正月まで閉館していたそうだ。
C: 南棟の交流スペース。  R: 北棟には日本サッカー協会関係者のサインボールが。トルシエもカタカナで書いていた。

ひととおり中を見てまわると、外に出る。そこは堤防で、広大な砂利の中を細々と川が流れていた。
砂利の部分は駐車場として利用されているようだ。白線で長方形が描かれており、車が何台か停まっている。
反対側を振り返ると、大斎原の大鳥居が見える。すっかり元気をなくしたようなこの川、熊野川が、
かつて大水害を起こしたという事実が少し信じられなかった。それくらい、冬の日差しを浴びた光景は穏やかだった。

 熊野川の堤防から眺める大斎原。大水害がちょっと想像できなかった。

9時55分に少し遅れて、2台のバスがやってきた。バス停で待っていた人たちのほとんどは新宮行きの方に乗り込むが、
今日の僕は少数派なのだ。堂々ともう1台の方に乗り込むと、iPodを取り出して音楽を聴きながら車窓の景色を楽しむ。
バスはさっき通った温泉地帯を川湯温泉から湯の峰温泉まできっちり復習してからようやく西へと針路を変えた。
熊野本宮大社はけっこう山の奥へと入った場所にあるのだが、昔からの聖地であるため道はよく整備されている。
そして行き来するバスも多く、新宮発着だけでなくさまざまなアクセスの手段があるのだ。これは少し意外だった。
ご存知のとおり僕は「往復なんてつまんねえよ! そのまま突っ切ってやるぜ!」という性格をしているわけで、
素直に新宮へと引き返すことはせず、バスで一気に紀伊半島の西側へと横断することにした。それができるのがうれしい。

というわけで、バスに揺られて目指すは紀伊田辺。今日の後半は、田辺市からグイグイ北上する計画なのである。
当然、あれこれ下調べしてみたのだが、紀伊半島の西側にも南紀白浜温泉をはじめとして見どころはけっこうあるのだ。
でも十分な時間的余裕がないので、泣く泣く田辺市と海南市の2ヶ所にだけ焦点を当てることにした。
その海南市にしても2ヶ所ある国宝建築をスルーせざるをえないという状況で、正直、個人的にはかなり不満がある。
でもこればっかりはしょうがない。その分、しっかりと街の雰囲気を味わうことに集中するのだ。
バスの車内で地図を広げる。頭の中で田辺市と海南市を天秤に掛け、どっちに時間をかけるか最後の決断をする。
紀勢本線がもうちょっと本数が多ければもっと自由に予定を組めるのだが、なかなかそういかないのが切ない。
で、考えた結果、田辺市の滞在時間を削り、海南市を優先させることにした。地図でバスのルートを確認して過ごす。

読みどおり、県道31号を走るバスには「闘鶏神社」というバス停があった。ボタンを押してそこで下車。
本当は紀伊田辺駅まできちんと行って、そこから余裕を持って街歩きをしたかったけどしょうがないのだ。
バスを降りると周りの街並みの匂いを嗅ぎながら闘鶏神社への入口を探して歩く。少しだけ離れていたが、無事発見。

闘鶏神社とはずいぶん面白い名前である。その由来は、源平合戦の時代にまで遡る。
神社じたいは419年に熊野本宮大社を勧請したのが始まりで、熊野三山の別宮のような存在となったという。
そして源氏と平氏が争うようになると、熊野別当・湛増が紅白に分けたニワトリを戦わせたところ白が勝ったため、
源氏に味方することを決めたという。そこから「闘鶏権現」と呼ばれるようになったそうだ。
ちなみにその湛増の息子が弁慶であるという。田辺市は弁慶の故郷ということで売っているのだ。

  
L: 闘鶏神社の入口。鳥居の前には幅5mほどの馬場がある。  C: 拝殿。賽銭箱がないのに驚いた。神仏習合の名残か。
R: 熊野系の神社ということでか、複数の社殿が並んでいる。熊野三山のすべての祭神を祀っているとのこと。

 境内にはちゃんと、ニワトリを戦わせている像があるよ。

闘鶏神社を後にすると、地図を参考に小走りで田辺市役所を目指す。本当はじっくり街歩きをしたかったのだが、
調べてみたら南方熊楠顕彰館がこの日ちょうど休みで、それでやる気をなくしてしまった面は正直ある。
南方熊楠は留学から戻って以降、ここ田辺で一生を過ごしたのだ。その旧宅をもとにつくったのが南方熊楠顕彰館。
ぜひ立ち寄ってみたかったけど、入れないんじゃどうしょうもない。それですっかりションボリしてしまったのだ。

住宅地を突き抜けて、田辺市役所に到着。消防本部のある東側から敷地に入り、正面にまわり込む。
1970年竣工とのことで、なるほどそれらしい規模である。決して広いとは言えない敷地を目一杯駐車場として、
ホールの要素は隣の紀南文化会館に、オープンスペースの要素は手前の扇ヶ浜に完全にお任せにしているようだ。

 
L: 田辺市役所。いかにも質実剛健な庁舎っぷりである。  R: 裏手はこんな感じでやっぱりお役所的。

田辺市役所は扇ヶ浜のすぐそばということで、そこから西へと小走りで移動し、田辺城の水門跡を探す。
田辺城の周辺はかなり宅地化が進んでおり、城の遺構はほとんどなくなってしまっている。
しかし水門の跡だけは残っているということで、それをチェックしておこうというわけなのだ。
時計とにらめっこしながら会津川の河口近くの公園にたどり着くと、端っこに鳥居が立っている。
ここだけは、いかにも城跡らしい雰囲気となっている。近づいてみたら下へ抜ける階段があったので、
迷わず下りてみる。すると両側の壁は石垣になっていて、そこから川に出られるようになっていた。
なるほど、これが田辺城址の水門跡か、と納得。ここだけしか残っていないのは淋しいが、なかなか強烈だ。

  
L: 田辺城址の錦水公園。  C: 田辺城水門。往時の姿を偲ばせるのは、わずかにこの一角だけである。
R: 田辺出身ということになっているからか、弁慶もゆるキャラ化しているのであった。その名も「たなべぇ」。

あとは田辺市の中心市街地を体感しながら駅まで走るのみである。東西をつなぐ通りは広く整備されており、
ひたすら走っていくと、そのうち銀座通りというエリアに入った。この辺は最近になって再開発された印象だ。
しかし日曜日の真っ昼間にしては閑散としている。国道沿いの郊外大型店舗には太刀打ちできないようである。
銀座通りを抜けた先にある駅前から続くアーケード商店街も同じく、あまり元気がない。なんとも切ないものだ。
紀伊田辺駅はかつて観光客が多く訪れていたのか、駅舎の真ん前が開放感を持たせた空間になっていた。
その大部分は駐車場となっているのだが、この空間構成はかつて賑わっていたことを容易に想像させるものだ。
自分が田辺市での滞在時間を削ったこともあって、よけいに切ない気分、申し訳ない気分になってしまったよ。
いつか本当の紀伊田辺の魅力を味わう機会が持てるといいのだが。そう思っているうちに列車は発車した。

  
L: 銀座通り。新しく建った店が多いが、勢いはイマイチか。  C: 駅から南に延びるアーケード商店街。こちらもそれほど元気がない。
R: 紀伊田辺駅。地図を見ると、田辺の商店街は大通りの裏側に密集しているみたい。実感できずに去ったのは残念である。

次の目的地は海南市だ。和歌山市のすぐ南に隣接しているせいか、それほど知名度はないように思う。
でも実際に訪れてみると、見どころはけっこうあるのだ。今日はレンタサイクルで効率よくまわってやるのだ。
というわけで、駅構内にある観光案内所でレンタサイクルを借りる。駅前の商店街を抜けて、まずは市役所へ。

  
L: 駅の構内には壮大な雛壇が。びっくりした。  C: 海南駅。海南とは「海草郡の南部」という意味だとさ。
R: 海南の街はかなりいろんな表情を持っている。駅前にはちょっと私鉄っぽい印象の小ぢんまりとした商店街があった。

商店街を抜けて目の前に現れた海南市役所は、見事にコンクリートの要塞みたいな庁舎なのであった。
2つの箱を乗っけたようなデザインはいろんな角度からの見応えがあって、正直なところ僕は嫌いではない。
世間一般のふつうの感覚ではどこも面白みがない建物だろうけど、僕にはこういうのってたまんないのね。

  
L: 海南市役所を西から眺めたところ。  C: これは北西の海南市民病院前から交差点を挟んで撮影した構図。
R: 北から眺める。そんな海南市役所は1965年の竣工。海が近くて築50年弱ということで、建て替えられちゃうんだろうなあ……。

海南市役所が位置しているのは埋立地になるようで、道幅に余裕があってかなり撮影しやすい。
そんなわけで面白がりながらぐるっと撮影してまわった。なんだか妙に好きだわ、この市役所。

  
L: 東隣の海南保健福祉センターから眺めるとこんな感じ。  C: 敷地南側にある公園より眺めたところ。
R: こちらは市役所の北東にある海南市民会館は1963年竣工。市役所といいコンビネーションじゃねえか!

市役所の撮影を終えると国道42号を一気に西へと走っていく。国道42号はさすがに見事な幹線道路ぶりで、
車がひっきりなしに行き来している。ロードサイド店舗も多く、海南市の性格を象徴する道路のように思う。
ところが面白いことに、「黒江」と案内板のある交差点から北へと入ると、雰囲気が変わるのである。
そこは旧街道沿いの木造建築が点在する街並みとなっているのだ。海南市側も黒江を古い街並みとして宣伝している。

黒江はもともと、漆器で知られた地域だった。現在もしっかりと漆器を扱う店が並んでいる。
しかし道幅がしっかり拡張されており、正直なところ、あまり昔ながらの街並みという雰囲気はない。
僕はレンタサイクルで周辺をかなり細かく走りまわり、本当にこれが黒江なのかとしつこく確認したほどだ。
そんなわけで僕なりの結論を述べると、伝統的な街並みを期待した場合、残念ながら黒江は大したことない。
確かに木造建築は点在しているが、あくまで点であって線となってはいないのだ。漆器店は多いけど。
唯一、県道9号の一本南側にある狭い路地は木造建築が並んでいる光景を味わえるが、その程度しかない。
だから大いに期待して訪れると肩透かしを食った気分になる。しかし見どころがまったくないわけではない。
たとえば県道9号沿いでもその一本北側の路地でも、通りに対し斜めに建物を並べてギザギザ状にした光景が見られる。
きちんと街の魅力を味わえる人ならいろいろ見つかる、そういう難度の高さはあると思う。僕はまだ初心者ですな。

  
L: 黒江の街並み、県道9号沿いの光景。建物の側面を少しずつ出して並べてギザギザ状の街並みにしているのがわかる。
C: ひときわ立派なのが、通りの曲がり角にあり「黒牛」で知られる名手酒造。  R: 県道9号の南にある路地はこんな感じ。

 家々の軒先にはくろめ鉢(漆をかき混ぜる際に使う)があり、雛人形が飾られていた。

黒江から国道42号に戻ると、和歌山市との境界ぎりぎりまで走る。その手前に温山荘園という庭園があるのだ。
けっこう楽しみにしていたのだが、来てみるとなんと、日曜日だというのに営業していないのである。
温山荘園は冬季期間中はお休みしてしまうのだ。和歌山県は本州最南端のくせにひ弱すぎる!と憤るがしょうがない。
かなりふてくされながら来た道を戻るのであった。悔しいから門から中を覗き込んで一発撮ってやったわ。

 見られたのはここだけ。

交通量のやたらと多い船尾東の交差点から南下する。するとまたまた、海南市の新たな顔が見える。
今度は埋立地を整備したと思われる郊外社会の大規模店舗だ。道路もそうだが、まだつくられてから新しい感触がする。
ちょっと自転車を走らせるだけで、駅前商店街に古い街並みに郊外社会に港湾にと、さまざまな要素が凝縮されている。
さらに車で田舎の方に行けば国宝建築もあるのだ。海南市ってのは実に面白いところだ、と感心するのであった。

さてその郊外社会を抜けて南下し、山にぶつかったところにあるのが、藤白(ふじしろ)神社である。
ここは九十九王子の中でも別格とされた「五体王子」のひとつ、藤代王子の跡なのだ。せっかくなので来てみた。
王子とは熊野詣の際に儀礼を行った場所で、九十九王子は実際に99箇所あったわけではなく、「たくさん」ってこと。
その性質上、熊野古道の紀伊路・中辺路のみに分布していた。現在でも神社として残っているものもあれば、
衰退して跡地のみとなっているものもある。しかし最近では熊野古道ブームということで実際に歩く人も多いので、
かつて同様に古道を歩く際の目印となっているようだ。つまり四国八十八箇所めぐりの感覚に近い要素がありそうだ。

藤白神社はそんな九十九王子の中でも抜群の格式を持っているということで、気合を入れてお邪魔する。
境内に入ってまず目につくのは、大きな楠だ。境内の中央からやや端の、主役にも脇役にもなる実にいい位置にある。
長屋門のような社務所を抜けると、ばっちり唐破風の拝殿。これが王子らしさってことなのか、と思いつつ参拝。
そして隣にある藤白王子権現本堂を見てびっくり。さっきの拝殿とほとんど同じデザインなのだ。ばっちり唐破風。
神社の中に「権現」で「本堂」って、本当にとことん神仏習合なんだなあ、と実感させられたのであった。

  
L: 藤白神社。海、そして平地から山へと入る坂道のところに位置している。熊野詣の人はここでまず気合を入れる、そんな感じか。
C: 拝殿はこんな感じ。  R: こちらは藤白王子権現本堂。拝殿とデザインがかなり近くて驚いた。そういう場所なんだねえ。

藤白神社から少し奥へと入ったところにあるのが鈴木屋敷。なんでも、「鈴木」姓の発祥の地とのこと。
当然、気になるので寄ってみる。ここは熊野三党の鈴木氏の屋敷跡で、鈴木さんはここから全国に広がったそうな。
しかしそんな立派なエピソードとは裏腹に、敷地の中は荒れ放題。建物なんか完全に廃墟そのものである。
熊野古道のブームに乗せて整備をする方針でいるようだが、これはけっこう労力がかかりそうだ。
全国の鈴木さんはぜひ、一族のパワーで早いところ観光名所化させてあげてください。

  
L: 藤白神社の大楠。南方熊楠の「熊」は熊野、そして「楠」はこの大楠が由来になっているんだってさ。
C: 荒廃している鈴木屋敷。土塀は完全に壊れているし、建物も崩壊するのをどうにか抑え込んでいる感じ。
R: 庭園もだいぶ野放しである。いちおう、曲水の宴ができるらしいのだが、ぜんぜんそんな雰囲気ではない。

黒江でさまよったり温山荘園が空振りに終わったりで、細かな時間的ロスが多くなってしまった。
本当はもう一本早い列車で次の目的地へと向かいたかったのだが、諦めざるをえない状況となる。
まあ無理して事故に遭うことだけは避けたいので、余裕を持って海南駅まで戻る。
途中でちょっと港に出てみる。レジャー向けと思われるボートが並ぶ先には、工場のシルエット。
なんとも対照的だが、これこそが海南市らしい光景だとも思う。実に多彩な顔を持った街である。

 これこそ、いかにも海南市らしい光景と言えるのではないだろうか。

結局、かなり中途半端な時間に駅に戻ることとなってしまった。レンタサイクルを返却しても時間があるので、
とりあえず駅周辺をウロウロする。しかしそれほど遠くへ行けるわけでもなく、最後の最後で消化不良な気分。
やはり温山荘園が冬期休業なのが痛かった。悔しい気分を引きずったままで列車に乗り込むのであった。

本日最後の目的地は、和歌山駅の手前にある紀三井寺なのだ。すでに日差しは夕方のものになってきており、
山の西側の斜面にへばりつく格好の紀三井寺は、少し黄色がかった色合いに染まりつつある。ちょっと残念。
その名も紀三井寺駅で列車を降りると、やはり小走りで紀三井寺を目指す。しかし予想していたよりは距離があり、
山腹で夕日を浴びているお堂はよく見えるのだが、進んでも進んでもそこになかなか近づかなくってもどかしい。
どうにか山門にたどり着いたはいいが、16時を過ぎており仏殿の中には入れず。残念だけどしょうがない。

  
L: 紀三井寺の門前にある土産物店群と山門。  C: まあ当然ながら、紀三井寺はこの石段を上っていくわけだ。ヒー
R: 石段の途中にはこのようなお堂がいくつかある。一休みするポイントであるとともに、御守などを絶賛販売中。

まあ、わかっちゃいたんですけどね。紀三井寺ですから、そりゃ石段責めだわな、と。
昨日っからオレはいったい何段の石段を上り下りしているのやら、もうとても考える気など起きない。
もともとの筋肉痛と今日走りまわってのダメージとで、足は本当に限界に近いところまできている。
でもだからって途方に暮れているわけにもいかないので、これが本日最後の気合じゃ!ということで振り絞り、
テンポよく石段を上っていくのでありました。もう本当に、今回の旅行の石段責めっぷりには心底まいった。

しかしさすがに建物は風格あるものが多いし、高低差のところどころで物語性を持たせているしで、
一段一段上ることにきっちり意味を持たせている。僕は完全にスポーツ感覚となってしまっているけれども、
ゆっくりと一歩一歩踏みしめて上るのであれば、適度に休憩できるポイントがお堂として用意されており、
またそこで振り返ってそれまで上ってきた具合を確かめることもできる。よくできているもんだ、と感心する。

  
L: 石段を上りきったところにあるのがこちらの六角堂。1750年ごろの建立。紀三井寺は朱塗り建築が多いので、なんだかうれしい。
C: 1588(天正16)年建立の鐘楼。重要文化財。  R: 1759(宝歴9)年建立の本堂。桜の枝でよく見えん……。

石段を上りきって右には威容を誇る仏殿。正直、このセンスにはついていけないと思うほどの鉄筋コンクリートだ。
どうせ中には入れないので、さっさと左の参道に折れて本堂を目指す。途中には六角堂や鐘楼などが並んでおり、
紀三井寺の雰囲気づくりに貢献している。ちなみに紀三井寺とは通称で、正式には「紀三井山金剛宝寺護国院」。
ここには「清浄水」「楊柳水」「吉祥水」の3つの湧き水があることから紀三井山という山号となり、
それで紀三井寺と呼ばれるようになったそうだ。桜の名所として人気だが、その枝で本堂が見づらいのはちょっとね……。

参拝を終えると、さらに石段を上ってもう一丁高いところにある建築群を見ていく。敷地にあまり余裕はないが、
重要文化財の多宝塔があったり神仏習合の歴史を思わせる社殿らしきものが並んでいたりと、実に興味深かった。
前に室生寺について「密教テーマパーク」という表現を使ったことがあったのだが(→2012.2.19)、
それと同じ高低差を利用しながら仏教の世界観を提示していくテクニックを存分に堪能できて満足である。

 
L: 1449(文安6)年建立と一際古い多宝塔。  R: 多宝塔の隣には3つ社殿が並んでいた。なんだかいわくありげだ。

紀三井寺を後にすると、紀勢本線で終点の和歌山駅へ。広々とした和歌山市内をうろつこうという気などあるわけなく、
素直にそのまま阪和線で天王寺まで出てしまう。今回の帰りはいつもよりお安い夜行バスで東京まで戻る予定で、
天王寺発なのである。久しぶりに訪れた天王寺界隈は歩道橋を大規模に架け替え工事しており、かなり驚いた。
困ったときにはあべのキューズタウンに行っておけばどうにかなるぜ、ということで中に入り、フードコートでメシを食う。
それからコメダ珈琲店でのんびり本でも読もうと思ったのだが、コメダは大人気でひっきりなしに客が来る。
お一人様の僕としてはとても落ち着いていられる状況ではなく、結局そこそこ休んだところで退散となってしまった。
しょうがないので本屋であれこれ立ち読みをして過ごす。おかげで少し疲れてしまった。想定外である。

まあとにかくそんなこんながありながらも、無事にバスに乗ることができたのでよかったよかった。
本当に上ったり下りたりでハードな旅だったけど、今回は文句なしに満足な旅ができた。気分転換大完了である。


2013.2.9 (Sat.)

調べてみたら、先月の15日からずーっと毎日職場に顔を出していたんですよ。
もともと休みたい気質の僕にしてみれば、この3週間半はほぼ拷問のような状態になっていたわけで、
そりゃあ公式戦の終わったこの3連休はがっちり休ませてもらうに決まってますわな。いや本当にキツかった。

となれば旅行だ。どこだ。熊野だ。牟婁郡だ。ということで、僕の中ではわりとすんなり、今回の旅行先が決定。
一度きちんと行ってみたいと思っていた熊野三山に挑戦してみるのである。1泊2日で熊野三山+α。名案なのだ。
さて紀伊半島だが、実は6年前の同じ時期に訪問しているのだ(→2007.2.11)。もう6年も経つのか、と唖然。
6年前には県庁所在地のことしか考えていなかったから、津を出てから和歌山に入ろう、その途中に潮岬に寄るか、
そんな程度の興味関心しかなかった。お恥ずかしい話である。今回はそのとき飛ばした場所のフォローという感じなのだ。

夜行バスは定刻どおりに各ポイントを通過していき、尾鷲にも予定どおりの6時15分に到着した。
バスの最終目的地は紀伊勝浦で、尾鷲で降りたのは僕ともう一人だけ。ぐっすり眠る皆さんを乗せてバスは去っていった。
6時15分。真っ暗である。僕はてっきり尾鷲駅前で降ろしてもらえると毎度おなじみの勘違いをしていたので、
広々とした国道の端っこで軽く途方に暮れる。暗い。寒い。7時半過ぎには尾鷲を離れる、いつもの強行スケジュールだ。
頭の中は「7時くらいまでには市役所が撮影できるくらい明るくなるのか?」という疑問でまずいっぱいになる。
しばらくして目が覚めてくると「7時37分の列車に間に合う行動ができるのか?」とだんだん冷静になってきて、
やがて「そもそもここはどこなんだ?」という最も本質的な疑問がようやく浮かんできた。まあ、そんなもんである。

 ボケッとしている間に少しずつ空が明るくなってくる。周囲は実に郊外社会だった。

ところが運がいいことに、バス停のすぐ向かいでは、マクドナルドが24時間営業中。中で明るくなるのを待ちながら、
地図をチェックして作戦を練ればいいのである。光り輝くマクドナルドの文字がこれほど頼もしく映ったのは人生で初めてだ。
さっそく店内に入ると、ハンバーガー以外の何らかのセットとホットコーヒーを注文しようとしたのだが、
レジんところにメニューがないんでやんの。しょうがないので結局、ホットコーヒーのみを注文することに。
親しい人なら知っているだろうけど、僕はマクドナルドが本質的に大嫌いで、小学校5年生のとき松本で食って以来、
25年近くマクドナルドのハンバーガーを口にしていないのである。おそらく今後も食うことはないだろう。
今のマクドナルドのCEOはだいぶ迷走しているようで、ビッグマックを60秒以内に出せなかったらタダにするという、
とんでもない愚策をひねり出したみたいで呆れてしまう。メニューの撤去も客が迷う時間をなくすための措置らしいんだけど、
そんなものは二度と来ない客が増えるだけだとわからないとは間抜けすぎる。発想が短絡的すぎて笑えてくるぜ。
とはいえ、今ここにマクドナルドがなかったら僕は文字どおり路頭に迷うところだったので、そこは素直に感謝だ。
頭の冴えるホットコーヒーをあったかい室内でいただけるだけ恩の字なのだ。本当に助かった。ありがとうマック!

6時45分、だいぶ空が明るくなってきたので行動を開始する。僕が今いるのは国道42号脇のマクドナルドで、
ここからまっすぐ東へ進んで紀勢本線を抜ければ尾鷲市役所に着く。印刷したGoogleマップの範囲内で助かった。
僕の場合、旅をしているとスマートフォンが最高潮にうらやましくなる。日常生活では必要性を感じないのだが。

 尾鷲市役所の手前から紀勢本線・尾鷲駅を望む。

7時直前、尾鷲市役所に到着。3階建ての見事な昭和30年代型庁舎建築である。調べてみたら1961年竣工。
全体的にはシンプルな建物なのだが、議場と思われる部分の屋根がジグザグになっているのが特徴的で面白い。

  
L: 尾鷲市役所。  C: 角度を変えて反対側から。  R: 裏側はこうなっている。尾鷲市役所は周囲より少し高い場所にある。

空が明るくなるにつれ、快晴の度合いがはっきりしてくる。尾鷲といえば日本でも屈指の降水量の多い市で、
それだけに雨に祟られることなく街を歩くことができるというのはかなり運に恵まれているように思える。
あと30分ほどしか時間がないが、できるだけあちこち見てやろう、と足取りも軽くなるってもんだ。

しかしながら尾鷲は降水量のこともあって知名度はあるのだが、正直なところ、これといった観光名所がない。
とりあえず市街地の真ん中に鎮座している中村山公園へ突撃する。勢いよく坂を上っててっぺんへ。
さっきまでコーヒーをすすっていた西側の国道42号方面を眺めるが、見事に山が街を遮っているのが見える。
いや、西だけじゃない。北も南もそうだ。これだけはっきりと山に囲まれてしまっているとは、さすが尾鷲。
では東はどうか、と市立天文科学館の向こう側へとまわり込むと、強烈な朝日を反射する海の光景に目を奪われた。
山と海に囲まれた狭い範囲いっぱいに市街地が広がっている、そんな尾鷲ならではの景色が存分に味わえた。
天狗倉山からだと、まるで箱庭のような尾鷲の街を俯瞰で味わえるという。それはきっと、本物の絶景だろう。

  
L: 中村山公園のてっぺんに上る途中から眺めた尾鷲市街、北側。山が壁となって街を塞ぐ。
C: こちらは中村山公園の頂上から西側を眺めたところ。やはり紀伊山地の山々が折り重なっている。
R: 反対の東側には海だ。木々や電線をもうちょっとなんとかすれば、けっこうな景色になるだろうに。

朝早い街を歩いたところでその街の本質を味わうことはできないとわかってはいるのだが、仕方ない。
覚悟を決めて、メインストリートである三重県道203号を一本北に入った尾鷲一番街を歩いて駅へと向かっていく。
まあ正直、けっこうなさびれ具合といった印象だった。街全体が穏やかに老化していっている、そういう感じ。
昼間に訪れればもうちょっと印象が違うかもしれない。結局、尾鷲の核心に全然触れられなかったなあ、と思う。

 
L: 尾鷲一番街。いちばん目立っているのは、「津波は逃げるが勝ち!」と書かれたオレンジの旗なのであった。
R: 尾鷲駅に到着。尾鷲は知名度のある街なのでもうちょっと都会な感じかと思っていたのだが……。

尾鷲を出ると、熊野市駅で降りる。というわけで、次の目的地は熊野市。ご存知のとおり「熊野」とは本来、
紀伊半島南東部という広い領域を指す言葉だが、自治体名としては三重県の市で最南端の熊野市が使っている。
「熊野駅」だと漠然としているからわざわざ「熊野市駅」なんだろうな、と思いつつ改札を抜ける。青空が眩しい。

 熊野市駅。さすがに「熊野駅」は名乗れんわな。

熊野市駅からまっすぐそのまま進んでいくと、すぐに熊野市役所が現れる。もともと狭苦しいところに、
敷地いっぱいに建物をつくっているので、ものすごい圧迫感がある。道幅も狭く、とても正面から撮影できない。
しょうがないので逆光に苦しみながら、周りを歩いて撮影ポイントを探す。この市役所にはかなり苦労させられたわ。
熊野地方は山と海に囲まれて平地がきわめて限られているということを、身をもって経験できる市役所だな。

  
L: 熊野市役所。北にある駐車場から撮影。  C: 正面からはこの構図でしか撮影しようがない! 狭い!
R: 反対側から撮影してみたけど、やっぱり狭くて余裕がないのでこんな変な構図にならざるをえない。

 裏側。熊野市役所は1978年竣工。先代の庁舎もこの場所だったそうな。

尾鷲市では時間的な余裕がなかったのだが、熊野市では多少自由に動ける。紀勢本線のまばらなダイヤのせいだ。
知名度のある尾鷲市があんな感じだったので、熊野市にはそれほど期待していないが、気ままに歩いてみることにする。

まずは太平洋でも見てみるべ、と市役所からそのまま海岸まで行ってみた。さっきの国道42号が海岸沿いを走っている。
国道と海の間には巨大なコンクリートの堤防が横たわっていた。階段で上に立ってみたが、もともとあったもののようだ。
でもおそらく東日本大震災の影響だろう、表面は最近になってきれいに整備し直した感触が漂っている。
熊野地方の人たちにとって、津波の脅威はかなり切実な問題だ。堤防の上で思わず腕組みして考え込んじゃったよ。

 堤防の上から眺める国道42号と太平洋。

堤防には出入口が開いていて、鉄の扉が開いていた。外に出ると、そこは小石が敷き詰められた浜辺となっていた。
小石たちはことごとく丸くて平べったい。どれも「オレで水切りしてくれ!」と言わんばかりのデザインである。
海へ近づいていこうとするが、これがけっこう大変。小石は砂よりも足が深く入って歩きづらいのなんの。
そして高低差もある。まるで段丘のようになっていて、最後は急な角度で海へと落ち込んでいる。
澄みきった波は穏やかなノイズのような音を立てて押し寄せ、小石がぶつかり合う軽快な音を残して引いていく。
室戸岬では石が大きかった分だけ音も豪快だったが(→2007.10.8)、こちらはずいぶんとかわいい音だ。
しばらくの間、澄みきった水の色とカラカラという音の共演を楽しんで過ごす。やはり余裕が旅を楽しくするのだ。
満足して国道へ戻ろうとしたら、小石の上り坂が予想以上に崩れて歩くのがキツかった。

さてこれからどうしよう、と思って国道から少し西へと戻ったら、道が石畳で舗装されているのに気がついた。
なんとなく、雰囲気がほかの場所と異なっている。ふらふらとしばらく歩いてみて、その理由がわかった。
これは熊野古道の一部なのだ。前に山の辺の道を歩いたときと、なんとなく似た匂いがする(→2012.2.18)。
うまく言葉で説明できないのが格好悪いが、道の曲がり方の自由闊達さというか、それが似ているように思える。
天気もいいし、のんびりと遠回りして駅まで戻ってみることにした。こういうのが旅の醍醐味なんだよな。

  
L: この食い違いが昔ながらの歴史ある道っぽいのだ。城下町の食い違いほど切羽詰まった感じがしない。
C: 松本峠から花の窟神社に至る途中の光景。木本(きのもと)という集落の中心地にあたる場所のようだ。
R: 道沿いの商店や家々にはこのような布が掛かっていた。日常の中に一点、このわずかな配慮がいいですね。

かつて木本は代官所が置かれており、この辺りの行政の中心だったそうだ。そもそも熊野市駅は開業当時、
「紀伊木本駅」という名前だったのだ。それが合併を経て単なる一町名へとランクダウンしてしまった。
でも実際に訪れて歩いてみるとわかる。木本は本当に昔っから街道で、参拝客相手にのんびりと商売をしてきた、
そういう歴史に裏打ちされた穏やかな誇りを感じるのだ。確かにさびれた感触はあるのだが、悲しげな印象はない。
栄枯盛衰をゆったり受け止めて、時を経てもなお、余裕を持って日常を送っている、そういう雰囲気がある。

 木本の入口にある木本神社。今日はお祭りのようで、人が集まっていた。

笛吹橋を渡って北に出てから熊野市駅方面へと戻る。すると行く手にアーケードの商店街があるのが見えてきた。
その手前には、いかにもかつての食い違いを緩やかなS字に整備しました、と言わんばかりのカーヴがある。
それでできたスペースをちょっとしたポケットパークとしていて、これはよくあるパターンなのだが、
全体的に狭い熊野のスケール感とそのポケットぶりがうまくマッチしていて、商店街の入口として好印象だ。
アーケード商店街はけっこう古びているのだが、さっきの木本と同様、どこか懐かしさを感じさせるのがいい。
狭いことできゅっと密度が上がって、不思議と魅力が増している。途中でいきなり顔を出す市民会館も面白い。

  
L: 食い違いを整備した商店街の入口とポケットパーク。  C: アーケード商店街はどこか懐かしい雰囲気だ。
R: アーケードの下はこんな感じ。看板が屋根から下がっていて、全体的に密度が高い印象を受ける空間である。

大規模に改修工事中のオークワの前を抜けると、熊野市駅に到着である。やはり街のスケールが小さい。
まだ少し時間に余裕があったので、駅前の観光案内所で熊野地方の観光パンフレットをできるだけ入手。
それから駅の隣にある熊野市文化交流センター(2009年竣工、図書館などが入っている)で今後の作戦を整理。
かなり落ち着いたいい状態で次の目的地へと向かうことができた。きれいな青い海をのんびり眺めながら過ごす。

 JR東海からJR西日本へ。新宮駅に到着。

10時半の少し前に新宮駅に到着した。熊野川を渡るとそこはJR西日本の領地なのだ。まあ僕は鉄っちゃんじゃないから、
別にJRが東海だろうが西日本だろうがよくわからないのだが、さすがに新宮は規模が大きいな、とは思うのであった。

改札を抜けると、まずは観光案内所でパンフレット類の入手とレンタサイクルの手続きをする。しかしながらなんと、
レンタサイクルはすべて出てしまっているとのこと。これには驚いた。でもすぐ近くの徐福公園で借りられるので問題ない。
近年のパワースポットブームもあってか、新宮の観光資源が大いに見直されているんだな、とあらためて実感させられた。
実は当初、僕は新宮の滞在時間を少なめに計画していたのだが、調べていくうちにいろいろ興味が湧いてきて、
ちょっと長めに予定を変更した経緯があるのだ。それで、やっぱり新宮は見どころが多いんだな、と再認識したわけだ。
その都市がどれだけ観光面で充実しているか、見どころがあるかは、宿の充実度合いからだいたい推測ができる。
新宮の場合、あまり宿が充実していなかったので、それほど時間をかけないでいいかな、と最初は思ったのである。
でもよく考えたら、それは近所に南紀勝浦温泉があるせいで、わざわざ新宮に泊まる必然性が薄いだけのことなのだ。
観光資源ということで言えば、新宮はもちろん、熊野地方でもトップクラスの充実ぶりを誇る街である。

新宮駅前のロータリーには熊野交通の営業所があるので、そこに寄ってお得なバスのチケットを購入する。
今回たいへんお世話になったのは、「熊野三山・古道散策フリーきっぷ」である。お値段2500円で3日間有効。
これで熊野三山を乗り放題というすばらしいチケットなのだ。というわけで、ここからはバスを利用しまくるのだ。
駅前ロータリーを越えてすぐに、そのバスターミナル。そこから交差点を挟んで徐福公園。単純明快でいい街だ。

新宮駅の東側は道路がだいぶ拡張されている。尾鷲でも熊野でも狭苦しいスケール感でずっと歩いていたので、
よけいに新宮の街を広々としているように感じてしまう。やはりレンタサイクルを使うのが正解だ、と思う。
やがてすぐにオレンジ系の色をした中華風の屋根が左手に見えてくる。間違いようがない。徐福公園だ。
徐福とはもちろん、秦の始皇帝に不老不死の薬を見つけると持ちかけて航海に出て、そのまま帰らなかったあの人だ。
日本には全国各地にその徐福ゆかりの地があるのだが、新宮にはなんと、徐福の墓があるのだ。
それを中心に整備したのが徐福公園。大掛かりな工事をしたのが1994年なので、わりと新しい感触である。
なお、徐福の墓が建立されたのは1736(元文元)年のこと。紀州藩の初代藩主・徳川頼宣によるという。

  
L: 徐福公園を正面より眺める。この一角だけ、まるで中華街の関帝廟のような雰囲気になっている。
C: 公園内はこんな感じ。真ん中にあるのが徐福の像。徐福は新宮の人々の生活改善に貢献したという……。
R: 徐福の墓。この手前には線香を上げる香炉があって、やはり関帝廟っぽい雰囲気なのであった。

レンタサイクルを確保すると、線路の西側へ。新宮の観光資源は紀勢本線と山に挟まれたエリアに集中しているのだ。
と、まずは当然、新宮市役所である。踏切を越えてわりとすぐ、南へと針路を変えたらそこは新宮市役所。
新宮市役所は1963年の竣工で、分散と耐震強度の問題で建て替え計画がかなり進行している状況である。
昨年、新庁舎の設計者選定プロポーザルが行われ、佐藤総合計画が最優秀となった。強いなあ、佐藤総合計画。

  
L: 新宮市役所。  C: 角度を変えて正面より。  R: だいたい同じ構図だけど、少し離れて眺めてみる。

市役所の撮影を終えると、そこからちょっと西へ行ったところにある「浮島の森」へ。
新宮の地図を見てみると、市街地の真ん中に不思議な四角形があることにすぐ気がつく。これが浮島の森だ。
沼地の中に森のように木々が生い茂った島が浮かんでいるというもので、国の天然記念物に指定されている。
もちろん、沼地は元から四角だったわけではなく、周りがどんどん埋め立てられて宅地化していった結果である。
島は東西85m×南北60mの泥炭によってできており、かつては強風や人の足踏みで動いたという。
なお、沼地は「底なし沼」という伝承にはなっているが、本当はきちんと底があり、島はけっこう座礁している。
一時は水質の悪化により植物群に影響が出たそうだが、保護活動により現在はかなり改善しているとのこと。

  
L: まずは池の周りからアプローチ。敷地のすぐ外は住宅の密集地帯になっているのがよくわかる。
C: こんな感じで浮島の内部を抜けていくのだ。通路からはずれて島に降りてはいけません。
R: 島はとにかく草木でいっぱい。野鳥たちにとっても浮島の森は、市街地の中の奇跡的なオアシスなのだ。

実際に訪れてみると、とにかく野鳥がものすごく多いことに驚いた。これから春を迎える季節ということもあるが、
メジロがいっぱい飛びまわっているし、それ以外の鳴き声もあちこちから聞こえてくる。係の人の話では、
わざわざ野鳥観察のためにここを訪れる人もいるそうだ。それがすんなり納得できるだけのサンクチュアリぶりである。
島の中に入ると、とても市街地にあるとは思えないほど、植物たちは元気いっぱいに生い茂っている。
新宮市民は身近なところにこれだけ見事で興味深い自然があるということが、とてもうらやましく思えた。

 最後に浮島の森を少し距離をとって眺めることができる。

のんびり鳥と戯れるのも悪くはないのだが、新宮にはまだまだほかに見どころがいっぱいあるので、急いで次へ。
いったん線路の東側へ出てから商店街を北上し、たどり着いたのは新宮城址。商店街は丹鶴(たんかく)町といい、
新宮城には丹鶴城という別名がある。その由来は、この地に丹鶴姫という人物が住んでいたことによる。
現在地に城を築いたのは浅野忠長、今の姿に改修したのは紀州徳川家の家老である水野家なんだそうだ。

新宮城址入口の冠木門の奥には石段。そして視線を右上に移すと、なかなか見事な石垣がしっかりと残っている。
しかし思った以上に高い。石段でこの高さをみっちりと上らされることを考えると、思わずため息が出てきてしまう。
でも躊躇している暇などないのである。気合を入れて一段抜かしペースで駆け上がっていくのであった。

  
L: 新宮城址を少し距離をおいて眺める。画面左下の冠木門のところからスタートして、上の石垣まで行くわけだ。
C: 新宮城址は遺構がよく残っている。その一方で、上りやすく工夫もしてある。両者のバランスがよくわかる一枚。
R: 上っても上ってもいろんな曲輪が現れる感じ。結局、垂直方向にも水平方向にもかなり移動させられたのであった。

新宮城址は石垣をはじめとする遺構がよく残っているが、ところどころでうまく整備して上りやすくもしてある。
その手の加え方のバランス感覚がなかなかいい。感心しながら上っていくが、次から次へと曲輪が現れてキリがない。
どこまで上がれば本丸にたどり着けるんだ!?と呆れながら足を動かす。正直つらくなってきたが、そこは根性だ。
まあとにかく天気がよかったおかげで、どっちを向いても眺めはいい。上るだけのメリットは感じられるので文句はない。

  
L: 途中で西側を眺める。巨大なオークワの店舗が印象的。緑もいいし、赤い梅の花もたいへん美しい。石垣もいい。
C: 本丸の突端から新宮市街を眺める。逆光気味だったが、海まで見えてしっかり景色を楽しめた。たまらんね。
R: 本丸はこんな感じで高さのわりにしっかり広い。端っこには丹鶴姫の慰霊碑がひっそりと建てられていた。

新宮城址本丸までの往復はなかなかにハードなのであった。でも存分に楽しめたので、満足しつつペダルをこぐ。
(あまりに急いでいて写真を撮り忘れたが、新宮城址の隣にある新宮市民会館はしっかりモダニズムで興味深い。)
次の目的地は「新宮」の名の由来にもなった熊野三山のひとつ、熊野速玉大社である。新宮におけるメインイベントだ。
県道42号を猛スピードで駆け抜けていくと、意外なほどあっさりと、そしてひっそりと、熊野速玉大社の入口が現れる。
熊野三山のひとつがまさかこんなにコンパクトなサイズだとは想像していなかったので、けっこう驚いてしまった。
駐車場は右手の路地からまわり込んだ奥ということで、自転車の僕も素直にそっちから境内に入ることにした。

  
L: 熊野速玉大社の入口。熊野三山のひとつのくせして、まさかこんなにひっそりとした感じだとは。
C: 鳥居を抜けるとこの光景。やはりややコンパクト。  R: 神門。境内はいかにも「里宮」って雰囲気だ。

熊野速玉大社は速玉之男神(伊邪那岐神とされる)を祀ることからその名がついたそうだが、その歴史は複雑である。
もともと熊野三山は修験道を経た神仏習合がかなり強い神社で、熊野速玉大社は神倉神社の流れも汲んでおり、
(神倉神社が元宮で、熊野速玉大社はそれに対する「新宮」なのだ。現在、神倉神社は熊野速玉大社の摂社。)
聖地として全国的に認知はされているのだが、その経緯を解きほぐして分析していくのはもはや難しくなっている。
まあとりあえずは、神社として素直に参拝しておけばいいのだ。そう思って境内に入って神門を抜けて、少し戸惑う。
向かって左に拝殿があり、その奥に妻入の本殿(結宮・速玉宮)が並び、その右にはまた平入の社殿が並ぶ。複雑だ。
本当は正しい参拝の順番があるのだろうけど、そそっかしい僕は素直に左の大きな社殿から順番に参拝していく。
熊野系の神社は複雑な経緯があるだけに、社殿の配置構造も参拝の手順も実に複雑なのであった。
まあその複雑さこそが、熊野系の神社のありがたみを増幅している要素であるだろうから、納得はするけどね。

 
L: 拝殿。熊野速玉大社の社殿は1967年に再建されたとのこと。けっこう最近の話なのだ。
R: 社殿全体を眺める。今までさまざまな神社を訪問してきたけど、ここの本殿周辺は本当に複雑だ。

参拝を終えると御守をいただく。さすがにサッカーの御守があったので、喜んで頂戴する。
いちおう前も書いたけど(→2012.3.9)、日本のサッカーと熊野三山の関係をここで軽く整理しておこう。
日本に近代サッカーを伝えた中村覚之助が熊野地方の出身ということで、熊野三山のシンボル・八咫烏が、
日本サッカー協会のエンブレムに描かれるようになった。その縁で熊野三山にはサッカー御守があるわけだ。
また、授与所の中には男女のサッカー日本代表のサイン入りユニフォームがそれぞれ掲げられていた。
特に熊野速玉大社は「速玉」ってくらいだから、ここに参拝してサッカー御守をもらって帰れば、
威力のあるシュートを撃てるようになるんじゃねえか、そんな妄想をせずにはいられないのである。

満足して神門を出ると、そのまま宝物殿に直行。熊野速玉大社の宝物殿の展示物は、想像以上の迫力だった。
標高が低くて熊野三山の中では最もアクセスしやすいため奉納されるものが多いのか、貴重な国宝がいっぱい。
特に工芸品の充実ぶりがすばらしく、時間的な余裕があんまりないのに、けっこう見とれてしまった。
昔の人がめちゃくちゃていねいにつくった芸術品をすぐ近くで見られるってのは、うれしいものである。

熊野速玉大社を後にすると、レンタサイクルをかっ飛ばして神倉神社を目指す。ここもぜひ、訪れないといけない。
2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産となり、神倉神社も熊野速玉大社同様、その一部に認定された。
神倉神社は単純に熊野速玉大社のルーツとなった場所というだけでなく、わざわざ行くべき固有の価値を持っている。
それは、ご神体であるゴトビキ岩だ。古代神道では磐座を神の依代として信仰の対象にしていたが(→2011.10.2)、
神倉神社のゴトビキ岩は磐座信仰の事例の中でもトップクラスの見事さを味わえるという話なのだ。行くしかないのだ。

国道42号を一気に南下。印刷しておいたGoogleマップを見ると、新宮高校の交差点から直進できそうに見える。
それで突撃したら、行く手にそびえる緑の断崖の中に朱色が混じっているのが見えた。その光景に思わず絶句してしまう。
「あんなに高いの……?」朱色は僕の頭上100mぐらいはあるだろう、そんな位置で緑の中にひっそり埋もれていたのだ。
そして絶壁に貼り付く朱色の角度から考えて、今いる場所より北からまわり込む感じのアプローチであるようだ。
しょうがないので住宅地を抜けて神倉神社への入口を探す。しばらく進んで神倉小学校のグラウンドに出ると、
そのすぐ左手に橋が架かっていた。ここを渡れば神倉神社の境内だ。自転車を停めるとその中へと飛び込む。
鳥居をくぐるとすぐに岩肌で行き止まり。右手には世界遺産であることを示す碑があり、左手には石段、そして鳥居。
少しも迷うことなく石段へと踏み出して、再び鳥居をくぐる。その瞬間、目の前の光景に思わず足がすくんだ。
そこにあったのは延々と続く石段だった。が、石段である以上に、それは壁でしかなかった。絶壁のような石段。
噂には聞いていたけど、これほどまでにとんでもない絶壁であるとは思わなかった。完全に四つん這いで上っていく。
その数、実に538段。源頼朝の寄進でつくられたそうだが、高所恐怖症としてはとにかく怖くてたまらない。
でも、上りはまだいい。問題は下りなのだ。とりあえず今は上りのことだけに集中しよう、と切り替えて進んでいく。
幸いなことに絶壁は最初の2割くらいで、残りはごくふつうの石段だった(それでも高さがバラバラで上るのは大変)。
テンポよく足を動かしていき、ゴール地点にある鳥居をくぐることができた。そこから岩肌を歩いてまわり込む。

  
L: 神倉神社、石段のスタート地点。まあいわゆる「地獄の一丁目」ってやつですな。失礼だけど、ホントにそう。
C: この写真だとあまりわからないかもしれないが、序盤の石段は完全に絶壁。四つん這いじゃないと上れない。
R: ゴール地点の鳥居を抜けると、岩肌の緩やかな坂道を進む。地元民はこの割れ目にも参拝をするそうだ。

まず目の前に現れるのは、神倉山から太平洋までの間にびっしりと広がる新宮の街並み。あまりの美しさに言葉を失い、
ただただその光景を見つめることしかできなかった。落ち着いたところで後ろを振り返ると、石垣の上に小さな社殿、
そしてその上には巨大な岩が新宮の街を見守るかのように鎮座していた。これが神倉神社のご神体、ゴトビキ岩だ。
目にした瞬間、これは崇めずにはいられないわ、と直感で納得した。無条件で神聖さを感じてしまう、圧倒的な存在だ。
2月だってのに汗びっしょりになっている僕の顔を風が優しくなでていく。ゴトビキ岩は悠然と街と僕を見下ろしている。
自分の小っこさを実感させられるが、悪い感触はまったくない。むしろ安心感があるくらいだ。不思議な感覚になる。
地上では人間の生活が繰り広げられているけど、それを守っているものがここで可視化された、そんな心強さなのだ。
人々を見守るからこそ古来から信仰の対象となっている、その事実を一瞬で納得させられるスカッとした心地よさがある。

 
L: 眼下に広がる新宮の市街地。  R: そして新宮の街を悠然と見守るゴトビキ岩。うーん、これは本当に凄い!

帰りは石段を下りつつ、健康のためにたまに参拝に来ているらしい地元のおじさんと少し話をする。
どこから来たか訊かれたので「東京です」と返すと、最近は関西以外からもよく人が来るね、とのこと。
やっぱりパワースポットブームと世界遺産効果は大きいなあ、なんて思っていたら、おじさん曰く、
僕がゴトビキ岩の後ろにある割れ目に参拝しなかったので地元の人じゃないなとわかったそうで。ううむ、なるほど。
やはり余裕を持って行動しないとつまらない。もっとゆっくりあちこち舐めまわすようにゴトビキ岩を観察したかったな。

急いでいたのは那智へ行くバスに乗る予定があったから。レンタサイクルを返却する作業もあるので、
早め早めに動いていかないと遅れがどんどん拡大してしまう。国道42号を爆走して駅前まで猛スピードで戻る。
おかげで熊野速玉大社への参道も兼ねていると思われるアーケード商店街を訪れることができなかった。悔いが残るぜ。

そんなこんなで、駅前ロータリーに隣接するバスターミナルから、無事にバスで次の目的地へと出発。
バスの終点は紀伊勝浦駅なのだが、途中の那智駅で降りて30分ほど熊野三所大神社と補陀洛山寺を堪能する。
そして今度は那智山行きのバスに乗り、熊野三山のひとつ・熊野那智大社を参拝しようという計画なのである。
われながら余裕はないけど無駄のないプランだぜ、と悦に入りながらバスに揺られていたのだが、
新宮城址と神倉神社の石段ダブルパンチ、そして新宮市街の自転車での爆走でかなり体力を消耗させられたようで、
気がついたら寝ていた。起きたら終点・紀伊勝浦駅だった。……ギャー!!

フリー切符なのでバス代の心配はないんだけど、かっちり組んでいたスケジュールが一瞬のうちに崩れてしまった。
こういう不測の事態で問われるのは、ダメージをできるだけ最小限に食い止める対応力なのだ。MacBookAirを取り出し、
HTMLファイルでつくっておいた予定表をチェックして即座に作戦を練る。それから駅の電光掲示板を見てダイヤを確認。
そして素早く決断を下す。JRで那智駅まで戻れば、あまり余裕はないが熊野三所大神社と補陀洛山寺を見学できる。
そのうえで予定どおりに那智山行きのバスに乗ることができるはずだ。140円のよけいな出費(電車代)が悔しいけど、
これがいちばんダメージが少なくて済むはずなのだ。駅近くのキヨスクでパンを2つ買い込み、ホームで食いつつ待つ。
やがて地元住民の皆様をたっぷり乗せて、新宮行きの列車がやってきた。2個目のパンを口の中に放り込んで乗り込む。

運がいいことに、那智駅で列車を降りるとホームからそのまま駅舎の外に出ることができた。まったく時間のロスがない。
急ぎ足で動きながら駅前の様子を確認すると、頭の中にある地図どおりに、まっすぐ熊野三所大神社と補陀洛山寺へ。
熊野三所大神社と補陀洛山寺は熊野の神仏習合を象徴するように境内が隣接しており、しかも駅から徒歩1分程度。
国道42号を横断する際に信号がなかなか変わらず焦らされたが、想定どおりに見学を始めることができた。

まずは熊野三所大神社からだ。「だいじんじゃ」ではなく「おおみわしゃ」と読む。境内の規模が小さめなので、
「だいじんじゃ」ではないことに納得。ここは熊野那智大社の末社で、九十九王子のひとつ・浜の宮王子の跡にある。
九十九王子については明日のログを参照してもらうとして、隣の補陀洛山寺とともに世界遺産に指定されている。
参道を進んで社殿に向き合い、参拝。境内の空間的な印象も含めて、なんだかあっさりしている神社だと思う。

そのまま左手に進んで補陀洛山寺(ふだらくさんじ)の境内に入る。両者の境内には石段で小さな高低差がつけてあり、
直線的できっちりとした敷地内の区分けの仕方が、聖地としての威厳をどことなく強調しているように思えた。
補陀洛山寺の本堂は1990年の再建なので、特に建物として特別な迫力は感じられないのが正直なところ。
しかしその歴史はなかなかとんでもないものがある。補陀洛山寺は「補陀洛渡海」という儀式で有名だ。
これは渡海船と呼ばれる船で観音菩薩の浄土を目指して海に出る……と言えば聞こえは良いのだが、
船には出入口のない箱が据え付けられており、住職がその箱の中に入れられて海に放り出されるというものなのだ。
まあ要するに即身仏のようなものかもしれない。脱出して生きて戻った人が捕まって殺されたなんて話もある。
さすがに江戸時代には亡くなった住職を乗せての水葬へと変化したらしいが、まあそれにしてもとんでもない話だ。

  
L: 熊野三所大神社の境内。左側には補陀洛山寺の本堂が見えている。神仏習合の典型的な実例である。
C: 熊野三所大神社の社殿。真正面から撮影したものがありふれているように思えたので、あえてこの角度から。
R: かつては容赦ない信仰の舞台だった補陀洛山寺。井上靖が補陀洛渡海をテーマに短編小説を書いているとのこと。

青空の下、明るい日差しを浴びて補陀洛山寺は静かにたたずんでいる。今はその歴史を静かに語るのみだ。
九十九王子に補陀洛渡海に、実はものすごい密度で歴史的事実が折り重なっている場所だったのだが、
その深みを味わう暇もなくそそくさと駅前まで戻る。那智山行きのバス停は駅舎の真ん前にあるのだ。
予定より5分近く遅れてバスは到着。客がいっぱい乗っているなと思ったら、日差しを避けて片側に寄っているだけだった。

バスは熊野那智大社に向けて、坂道をどんどん上っていく。大門坂で3割ほどの客を降ろし、さらに坂を行く。
やがて道はヘアピンカーヴの連続となり、ぐにぐに曲がりながら標高を上げていき、いかにも山らしい表情が色濃くなる。
そして車窓に売店か何かの裏手にある駐車場が現れる。そこにいる人々は皆、一定の方向を眺めている。
なるほど、那智滝を見ているんだな、と思っていると、バスは最後にもうひとつヘアピンカーヴを曲がって停まった。
今回、僕はこの「那智の滝前」のバス停からスタートすることにした。理由は単純で、それがいちばん無駄がないから。

というわけで、バスを降りると、その最後のヘアピンカーヴの外側にある飛瀧(ひろう)神社の鳥居をくぐる。
参道は木々に包まれた下りの石段になっており、ここを降りていけば那智滝をしっかりと見られるというわけだ。
厳密に言うと「那智滝」とは本来、那智四十八滝という言葉もあるように、修行の場である48ヶ所の滝の総称なのだ。
でもその中で最も有名な一の滝のことを指すようになってきている。そしてこの一の滝を拝む場所が飛瀧神社である。
すなわち、飛瀧神社とは那智滝(一の滝)をご神体とする神社なのだ。本殿どころか拝殿すらない。直接滝を拝むのだ。
林を抜けて鳥居越しに対面する那智滝は、なるほど確かに神々しい。飛沫が白い布のように柔らかく姿を変えながら、
岩肌に絶えずぶつかる水の流れとともに端整な軌跡を描いている。滝は水墨画のような一瞬一瞬を残しながら降りていく。
二度と同じ軌跡を描くことなく滝は動き続ける。しかしその運動が止むことはなく、古来よりこの姿で人々を魅了したのだ。
静の中の動と、動による静の実演。そんなことを考えて面白がる。また、滝の最も高い部分、水の流れ出す口は3つある。
それは熊野三山であり八咫烏の脚であり、滝の神聖さをうまく象徴する要素にもなっている。何から何まで見事なものだ。

  
L: 飛瀧神社の入口。  C: 中に入ると下りの石段による参道となる。ここを進んで那智滝へ近づいていくわけだ。
R: 飛瀧神社には本殿も拝殿もない。鳥居から直接、滝を眺める。手前には護摩を焚く炉があり神仏習合を感じさせる。

さて僕はあえて那智滝についてその美しさばかりを強調したのだが、現実には「そうでない部分」も存在している。
滝を見上げるのではなく視線を下の岩場へとやれば、そこには数台の重機が入っており、工事の真っ最中なのだ。
幻想的な滝の姿と痛々しい現実との落差は、かなり厳しいものがある。いったいなぜこんな事態となっているのか。
原因は2011年9月に上陸した台風12号。この台風で紀伊半島は甚大な被害を受けたが、那智滝も例外ではなかった。
史跡が崩壊して小さい滝が消えるなど、復元工事が今年いっぱいかかるほどのダメージを受けてしまっているのだ。
その生々しさを目の当たりにして、無理やり現実に引き戻されてしまった。自然はたくましいが、脆さも併せ持つ。

 
L: 那智滝は、一段の滝では落差日本一を誇る(133m)。ただただ見とれてしまうほどに美しい滝だった。
R: しかしその足下は復元工事の真っ最中。一気に現実に引き戻される。滝の落差も凄いが、こっちの落差も凄い。

それでもしっかり那智滝の美しさを堪能すると、いよいよ親玉である熊野那智大社を目指す。
熊野那智大社は那智滝から少し離れた場所に位置していて、上り坂をしばらく進んでいくと、小さな参道入口がある。
参道はまず石段で始まるが、けっこう狭い。片側には山の崖、もう片側には土産店、そんな中を抜けていく。
それにしても、新宮城址&神倉神社の石段責めでもう足がガクガクだってのに、また石段!
太ももを押さえながら上っていくが、正直足は軽く痙攣気味である。衰えたとは思いたくないけどねえ……。

ガマンして石段を上っていくと、熊野那智大社の鳥居が現れる。このまままっすぐ行けば熊野那智大社だが、
右手に折れると青岸渡寺への入口となる。まあ、どっちを行こうと石段をまだまだ上らされるわけだが。
とりあえずは熊野那智大社から参拝することにする。ラストスパートと信じて勢いよく石段を進んでいくと、
最後に一発強烈な上りがあって、拝殿の前に出る。酸素不足で頭がボーッとしているが、とにかく着いた。
呼吸を整えて拝殿を眺めるが、しっかり朱色が塗られているせいか、イマイチ僕好みなありがたさは感じられない。
でも銅板葺きの屋根の質感は確かなものだ。拝殿の存在感が大きいのでそっちばっかりに気を取られてしまうが、
その奥にある本殿はやっぱり熊野速玉大社同様に、複雑な配置になっている。これが熊野らしさってことなんだな。
参拝を済ませると御守をいただくが、熊野那智大社は少し独特で、手前にはきちんと見本が置いてあるのだが、
その奥にはそれぞれの御守が箱に入って並べられている。御守をいちいちわざわざ箱ごといただくのは初めてだ。
詳しくは後日書くけど、熊野那智大社では特にサッカーの御守はなく、代わりに勝守があったのでそれをいただく。
勝守には独自の八咫烏のエンブレムが描かれており、所変われば品変わるもんだな、と思うのであった。

  
L: なんだか妙に狭苦しい熊野那智大社への参道入口。やっぱり石段かよ……とヘコみつつもがんばって上ったよ。
C: 熊野那智大社の鳥居。ここからまだもうちょっと石段を上る。ここから右へ曲がって石段を上ると青岸渡寺。
R: 拝殿に到着。わかっちゃいるけどキツかった。拝殿の手前にはやはり護摩を焚く炉がある。神仏習合ですなあ。

しばらく境内をウロウロして過ごすと、宝物殿にも入ってみる。速玉大社は400円だったが、こちらは300円とお安い。
まあぶっちゃけ、その価格差以上に展示品の迫力には差があった。というか、速玉大社の充実ぶりが凄かったのだ。
やっぱり狭い山の上となると奉納品もレヴェルが落ちちゃうのかな、と失礼なことを思うのであった。
まあ、那智大社の場合には那智滝という唯一無二の存在があるから、もうそれだけで十分すぎると思う。

  
L: 拝殿の向かって左側にある社殿群をクローズアップ。実に複雑な配置っぷりである。手前には八咫烏の像。
C: というわけで、その八咫烏の像を近くから撮影してみた。見事に脚が3本だ。熊野には八咫烏のキャラクターがいっぱい。
R: こちらは隣の青岸渡寺。もともとは熊野那智大社の観音堂(如意輪堂)で、明治の神仏分離令により青岸渡寺となる。

熊野那智大社の拝殿から脇にある門を抜けると、そこは青岸渡寺(せいがんとじ)の境内となっている。
とにかく線香の煙と香りがすごくて、こっちははっきりとお寺である。お堂の中も完全に寺のそれである。
境内が多少の高低差をもって区分けされている感じは、麓の浜辺にある熊野三所大神社・補陀洛山寺に似ている。
たださすがに、こちらの規模はあっちと比べて圧倒的である。ちなみに青岸渡寺は西国三十三所の第一番札所だ。

青岸渡寺の門を抜けて参道に戻る。さっきの坂道のいちばん奥にあるのが熊野交通の那智山観光センター。
お土産をいっぱい置いてある店で、通り抜けるとバスターミナルになっている。ジュースで軽く一休みをすると、
その手前にある小さな路地から坂道を下っていく。このルートで正しいはずなのだが、あまりにも路地すぎるので、
かなり不安になりながら進んでいく。すると、やがて開けた場所に出た。杉の木々と石畳を見て、ほっとする。

さっき、那智の滝前のバス停からスタートするのがいちばん無駄がない、ということを書いた。
これまで熊野那智大社周辺の名所をしっかり味わってきたが、まだ残っているものがあった。それは、大門坂だ。
旅行の計画段階から新宮城址&神倉神社の石段責めをある程度想定していた僕は(実物は想定以上だったが……)、
大門坂の石段を上るなんて絶対イヤだ!ってことで、大門坂は下りで行こうと計画を練っていたわけである。
あと、石段は上りよりも下りの方が時間のコントロールをしやすいので、バスという交通手段も勘案してそう決めた。
というわけで、最後は大門坂を下ってバス停に出て熊野那智大社参拝をおしまいとするのである。完璧だぜ。
でも実は石段ってのは、上りは慣れればつらさが半減するけど、下りの方は筋肉をよけいに使い続けるんだよな。
おかげで大門坂の下りはそれなりにつらかった。熊野の旅はやっぱり、何をどうやっても修行にならざるをえない。

さて、そんな思いをしてまで大門坂にこだわったのには理由がある。それはこの坂が、熊野古道の一部だから。
やっぱり熊野を訪れるのであれば、本来は熊野古道をきちんと歩きたいのである。いちおう、本当にそう思っている。
でも時間的な都合で今回はバスをフル活用しているのだ。だからまあ、無理のない範囲で熊野古道を歩きたい。
そんなライトヴィジター(そんな言葉ねえけど)にとって、大門坂はお手軽に熊野古道気分を味わえるスポットなのだ。
石畳と石段が往時の雰囲気をよく残しているのは事実で、大門坂はよくポスターなどに使われることで知られる。

  
L: 大門坂(下り)。おお、いかにも熊野古道な雰囲気だぜ! 実際、けっこう多くの観光客が行き交うのだ。
C: 時たま振り返ってみると、いい感じの構図で写真が撮れる。まあ本来はやっぱり、上るべきなんでしょうなあ。
R: 途中には、九十九王子の最後を飾る多富気(たふけ)王子跡がある。実に熊野古道な感覚を味わえる。

実際に歩いてみると、その雰囲気には圧倒されてしまう。紀伊山地の完全なる山の中を、信仰心だけで突き進む。
そんな人々の歩いた軌跡が確かな道となり、こうして石畳で整備され、熊野古道という歴史的な財産となっている。
今ではすっかり定番の観光コース化しているわけだけど、それでも掻き消されない何かがまだ、しっかり残っている。
空間の記憶というものは、本当に潰えやすい、脆いものだ。でもここには空間を通じて歴史がまだ息づいている。
それを味わうことができる幸せというのは、きわめて貴重なものなのである。ゆったり歩いて下っていく。

  
L: 大門坂の入口にある夫婦杉。鳥居のように聖域への入口としての機能も果たしたと思われる(若狭彦神社の事例 →2010.8.20)。
C: 大門坂への入口周辺は、穏やかな里山。花が咲きはじめた梅の木々のほか、このように石垣で段々になった土地が印象的だった。
R: というわけで、ここが現在の大門坂の入口。「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に指定された効果は非常に大きいようだ。

ゆったりと下ったのだが、予定よりもけっこう早めに大門坂の駐車場に着いてしまい、寒さに震えながらバスを待つ。
バスの本数がもう一本増えるとありがたいんだがなあ……。まあとにかく、スケジュールどおりに紀伊勝浦駅に到着。

いちおうこれで本日の観光名所めぐりは終了なのだが、最後にもう一発、ぜひともやっておきたいことがある。
そう、那智勝浦だよ! 南紀勝浦温泉だよ! やっぱりそりゃあぜひ、温泉にじっくり浸かって日頃の疲れを癒さねば!
そして南紀勝浦温泉の何がとにかく面白いって、宿泊施設が海に面した島や岬に立地しているってことなのだ。
つまり、陸路からのアクセスができなくて、船しか交通手段がないという有名ホテルが複数あるのである。すげー!
うれしいことに、これらのホテルは日帰りでの温泉入浴も可能になっているのだ。けっこうこれって感動的なことですよ。
というわけで、駅からアーケードの商店街を抜けて、意気揚々と勝浦港へランニング。距離が近いのがまたいいね!

港ではホテルの客たちが列をつくって船へ乗り込んでいるところだった。手前の船がホテル浦島、奥がホテル中の島。
規模でいえばホテル浦島の方が大きい。港の海面越しに眺めるその建物は、まるで要塞のようだ。本当にそう見える。
対するホテル中の島は湾に浮かぶ島に建てられている。そう、こちらは完全に島なのだ。小説の舞台のような状況である。
どちらのホテルも名物の浴場を持っている。浦島は自然の洞窟を浴場にした忘帰洞・玄武洞で知られている。
中の島は藤本義一が名付けた紀州潮聞之湯。島という立地を生かした、海を眺めたい放題の露天風呂である。
どっちにするかけっこう迷ったのだが、結局、穴の中よりはお天道様の下だよな!という判断で決めた。
いちおう洞窟風呂は城崎温泉で味わっているので(→2009.7.20)、気にはなるけど、まあいいかな、と。

船に乗り込むとしばらくしてから発進。港を突っ切って島へと近づく。ホテル浦島の要塞っぷりがあらためて凄い。
でもホテル中の島だってしっかり立派である。建てるのにどれだけの労力がかかったのかなあ、なんて思っているうちに到着。
船が着くと従業員の皆さんがお出迎え。僕なんか貧乏な日帰り入浴の客なのに申し訳ない。それぐらい丁寧なのである。
宿泊客たちに混じって、フロントで「日帰り入浴希望なんですが!」と手続き。イヤな顔ひとつせず対応してくれてうれしい。
プロの接客ぶりに感動しながら着替えて浴場へ。そこはまず大浴場になっており、全身をきれいに洗って準備万端。
紀州潮聞之湯へは脇のドアから出るのだが、外はさすがに寒い。そして階段があって、けっこう歩かされる。

やがてパッと開けた場所に出た。目の前には湯気がもうもうと出ているお湯があり、その先には海の青と松の緑。
これよこれこれ!と感動しつつ湯の中に入る。高さに応じて温度に差をつけていて、実に入りやすい工夫となっている。
景色を楽しみながらボケーッと温泉に浸かって過ごす時間はたいへん贅沢でございました。これが1000円とは信じられん。
粘りに粘って1時間近く浸かっていたのだが、これはもう本当にすばらしいの一言。いや、もう、熊野に来てよかった。

最高の温泉を味わうと、船で港に戻る。上陸すると、派手な服装のおねえさんたちが別の船に乗り込もうとしていた。
交通手段が船だけということで、従業員の皆さんも船でホテルまで移動するわけである。つまり、おねえさんたちは、
ホテル内にある飲み屋さん勤務ということなのだ。閉鎖されている空間ってのはその点が露わになるのが少し面白い。

南紀勝浦はマグロも有名ということで、晩飯は駅前の海鮮料理の店でマグロの丼をいただいた。
やっぱり本場で食う魚ってのは別格である。もともと旨いマグロが、さらに別格の味なのであった。
観光名所を好きなだけまわって、とろけるまで温泉に浸かって、旨い魚を食って、もう罰が当たりそうなくらい幸せだ。

 
L: ホテルの玄関から眺める勝浦港。夕暮れが近づく中、船が向かってきている。ちなみに船は無料です。
R: マグロのミックス丼。おいしゅうございました。こんなに贅沢しちゃって、オレ、いいんですかね?

バスで新宮駅まで戻ると、オークワで明日の朝食を買い込んで、予約しておいた宿へ。
本来ならその日のうちに写真の編集ぐらいしておくべきなんだけど、温泉でとろけた効果でその気になれず。
ふにゃふにゃになって、そのまま寝た。それにしても、今回の旅行はいつも以上に幸せでたまらんのですが。
合コンがなんだ! オレはこっちの方が幸せじゃーい!


2013.2.8 (Fri.)

たまたま偶然が重なっただけなのだが、ベテランの先生方は食事会、女性の先生方は女子会、若手は合コン。
しかしいちおう若手にカウントされている僕は一人、横浜から夜行バスに乗って旅に出るのであった。
前々から予定を入れちゃってたんでねえ。もっと早く言ってくれればこの日記で合コン体験記が書けたのだが……。
悔しいから、意地でも合コンよりもずっと楽しい一人旅をしてやるのだ! チクショー! 泣いてないもん!


2013.2.7 (Thu.)

2年は遠足、3年は都立一般入試の出願で、校内には1年生しかいない!
つまり授業がないから暇……いやいや、余裕があるはずなのに、いろいろ雑務に追われておったわ。
今やるべき仕事と2週間以内にやらないといけない仕事をひとつひとつつぶしていったら終業時刻になっていた。
これで多少は今後の展開が楽になるかな、と思うのだが、時が経てばきっとそうじゃないんだろうなと思う。
でもまあ、おかげで今日はかなり充実した仕事ぶりだったと思う。久々にいきいきと仕事できた気がする。

結局、授業がみっちり詰まりすぎているのがいけないのだと思う。空き時間がないから、じっくり考える暇がない。
余裕を持ってじっくりと物事を考えることが、豊かさを生み出すのだ。豊かな生活、豊かな授業、豊かな部活。
教員という仕事は本質的に、少し暇なくらいがちょうどいいと思う。そうなると世間の人は文句を言うだろうけど、
こっちは余裕のある大人として、つねに子どもたちに見本を見せていかねばらならないのだ。サラリーマンとは違う。
空き時間に本を読んで得た知識を授業で活用する、そうすれば生徒も楽しい。それができない現状が異常なのだ。
そもそも年がら年中不測の事態が起きる現場なんだし(今日も起きたぜ)、待機戦力が用意されているべき職種なのだ。
在庫をできるだけ少なくする感覚を教育現場に持ち込まれても、人間は商品じゃないんだから、通用するはずがない。

受験が終われば束の間だけど、余裕が生まれる。そうなったときにどれだけ動けるか。今から肝に銘じておこう。


2013.2.6 (Wed.)

先月の大雪(→2013.1.14)のように降るぞ降るぞと騒がれていたのだが、まったく大したことなくてよかった。
とはいえ雨に降られてしまい、電車で教育会の会場まで行くのはなかなか億劫なのであった。自転車は便利だね。

仕事が終わると五反田でのんびり過ごす。ここんとこ仕事ばっかりで街をブラつく暇もあまりなかったので、
いい気分転換の機会とする。レミィ五反田の無印良品が意外と品揃えがよく、ちょこちょこと日用品を買い足す。
それからブックファーストを見てまわる。サッカー雑誌を立ち読みした後はなんとなく文庫本が読みたくなって、
久しぶりに文庫・新書のコーナーで背表紙をつらつら眺める。でも新書は置いてある量が多すぎてなんだか眩暈がする。
国内の小説はあんまり読みたいタイトルが目に留まらない。生きている作家にはあんまり興味がないんですよ、僕。
それでSFからするっと海外小説のラインナップを見ていく。ハヤカワ文庫のサイズが大きくなったことが許せない。
文庫は小さいからいいんであって、文字ごと大きくなってしまっては利便性が落ちるのだ。愚策である。
そんなことを思いながら見ていったら、気になるタイトルを発見。サイズが大きいのは気に入らないのだが、
読みたいなという気持ちが勝ったので買うことにする。暇を見つけてちょぼちょぼと読み進めていくことにしよう。
それからしばらくあちこちフラフラしてからレジに行こうとしたら、視界の隅っこに入ってきたものがあった。
マンガのようにピタリと足を止め、振り返るとそこにはフレデリック! レオ=レオニのフレデリックの人形がいる!
気がつけばそいつを連れてレジに立っておりました。いや、まさかこいつが人形になっていたとは。

家に帰ってさっそくユニットシェルフの音楽機材のところに置いてみる。うーむ、かわいい。

 フレデリック!

調べてみたらフレデリックは人気があって、けっこういろいろなグッズがあるようだ。知らなかったなあ。
まあ確かにレオ=レオニのキャラクターの中ではこいつがいちばん商品化しやすいもんな。いい時代になったなあ。

夜はテレビでサッカー日本代表のラトビア戦を観戦。今年初の試合で調整の意味合いが強いこともあってか、
シーズン前であるJリーグ勢は今野のみがスタメンで、あとの10人は全員シーズン真っただ中の海外組である。
(……って、よく考えたら本田のいるロシアでは今はウィンターブレーク中か。無理して秋春制にせんでもいいのに。)
しかしながら日本は序盤からしっかり攻めあぐねて膠着状態となってしまう。いつものパターンって感じだ。
それでも前半41分に岡崎が内田のシュートを軌道修正して先制。後半になると遠藤が入って攻撃が活性化。
ラトビアを押し込んで軽くサンドバック状態にしてしまう。香川がアシストして本田が決めて2点目、
そして好調な岡崎はやっぱり凄くて3点目。今年最初でテストマッチという意味では文句なしの結果となった。

去年のヨーロッパ遠征と合わせて考えると、日本は立ち上がりが悪いというか、序盤を守りきればしぶとく強い。
でも相手に先制点を許してしまう展開になると脆いんじゃないかな、という印象。それが日本の特徴になりつつある。
まあ早いところW杯出場を確定させて、アジア仕様からヨーロッパのプレースピードへの移行に専念してほしいもんだ。


2013.2.5 (Tue.)

いつものALTが来られなくなってしまったので、本日のALTは代理の方なのであった。
女性だったのだが、失礼ながら元オランダ代表のダーヴィッツ(ゴーグル着用時)にかなり似ている。
授業じたいはかなりスムーズにできてよかった。なんでも昨日の夜8時にいきなり仕事の依頼があったそうで、
急にいろいろ決まったんだけど、非常に充実した授業ができた。お疲れ様でした、と心からお礼を言うのであった。
ウチの場合は派遣会社がしっかりしているので、こっちとしてはほとんど不安にならず対応できるのはすばらしい。
生徒にもいい刺激になったようだし、いい雰囲気で切り抜けることができてよかったよかった。

それにしても、今どきの中学生はダーヴィッツを知らんのか。ちょっと前の名選手を知らないとは勉強不足だ、まったく。
オレと一緒になって「ダーヴィッツが来た!」と興奮していたのはたったの一人だけ。これはさみしいわ……。


2013.2.4 (Mon.)

歌舞伎俳優の市川團十郎が亡くなった。昨年12月には中村勘三郎も亡くなっており、歌舞伎ファンはショックだろう。

職員室で興味深い話題が出たので、メモとして少し書いておきたい。それは、「家を建てると人が亡くなる」という話だ。
東銀座の歌舞伎座は建て替え工事が終わろうかという段階で、勘三郎はその舞台に立つことを夢見ていたというし、
團十郎も4月の杮落としの公演に出演する予定だったという。しかしふたりともまだまだ若いはずなのに、
残念ななことに、新しい歌舞伎座の舞台に立つことはできなくなってしまった。

新しい歌舞伎座のデザインは東京駅の周辺にある建物みたいな感じで、低層部分で昔ながらのファサードを残しつつ、
高層部分はオフィスビルとなる。つまり、従来の歌舞伎座の上にガラスのビルが生えている、そんな感じになる。
でも、それがよくないのだという。「歌舞伎の神様が降りてこられなくなっちゃったんだってさ」と、理科の先生が言う。
よりによってあなたがそういうことをおっしゃいますか!と思うんだけど、そういうバックグラウンドの人が言い出す点に、
世の中には理屈を超えた部分でつながってしまう論理があることに気づかされる。「そういうもんかもしれねえな」ってことだ。
すると、別の先生がおっしゃる。「家を新しく建てると人が亡くなるって言いますもんね。歌舞伎座もそうなのかも」
なるほど、家を建てるということ、住み慣れた家を離れるということは、本質的にかなりのエネルギーを使うことだ。
さらにおっしゃる。「私の家の場合、みんな無事でよかったねって言ってたら、私が死にかけたし」と。
確かに、その先生は命に関わる大病を患っていらした。今はけっこう回復されているが、油断はできない状況である。
ではウチの場合はどうかと考えてみると、今の家を建てて引っ越したのは、僕が浪人から大学に入学するくらいの時期だ。
それからしばらくして……なんと、僕の曾祖母が亡くなっている。うーむ、見事に当てはまってしまっているではないか。

ウチは父親も弟も家を建てる仕事にどっぷりと関わっているわけで、この点についてはどう認識しているんだろう。
そんなもん、家族は寿命で定期的に減っていくんだから、それと家を建てるタイミングがたまたま重なっただけだ、
と言われれば、そりゃそうに決まっている。でも、信じる人がいるってことは、そういう事例が目立つってことだ。
本当のところはどうなのか、そんなもの絶対にわかるわけがないのだが、話としては興味深い。
まあとりあえずは、新しい歌舞伎座が縁起の悪い場所になってしまわないように祈っておくとしよう。


2013.2.3 (Sun.)

先週の試合に勝って冬季大会の決勝トーナメント進出を決めたため(→2013.1.27)、本日もサッカーの公式戦である。
おかげで3週連続で休みがない。でも、強い相手に少しでもいい戦いをしたい気持ちの方が上なので気にならない。
フルメンバーの12人が久々に勢揃いして戦えるだけでもうれしいのである。……相手は部員50人ほどの大所帯だけどね!
1年生だけで30人以上いるんだってさ! ウチなんか1年生は2人だけだぜ! それでどうやって勝てっていうんだよ!
しかも相手の顧問は国士舘のサッカー部出身だぞ! バリバリの名門だよ! 同級生や後輩にJリーガーがいるんだってさ!
こっちは大学時代、クイズしかしてねえよ! 大学を出た後は熱海ロマンでドラムス叩いてたよ! 勝てるわけねえ!
……まあそんなふうに嘆いてみたところで、戦うのは同じ中学生どうしなんだから、しょうがないのである。
ちなみに受験勉強真っ最中の3年生どもは「2ケタ失点に無得点で負けそうだよね」などと予想しているのであった。
てめえら先輩としてそれはどうよ?とTAIBATSUを加えてやったわー!とクラウザーさん風に制裁してあげたとさ。

なんだか文体がおかしいが、とにかくある種の悲壮な覚悟で試合に臨むのであった。
厳しい戦いになるのは明白なので、どれだけ体を張ってプレーできるか、失点しても下を向かずに戦う気持ちを出せるか、
そこにこだわるように言って送り出す。弱小チームは安西先生のような名言を発することすら許されないのだ。とほほ。

ところが! 開始1分で早くも先制されてしまう。これはいくらなんでもひどすぎる。腕組みしたままのけぞる僕。
立ち上がりが悪いのはいつものことだが、それにしてもひどい。結局、集中力がないし切り替えもできないのである。
まず気持ちで負けてしまっているのだ。だから相手への対応が非常に中途半端。距離を保ったままズルズル下がるだけ。
行くならはっきり行って相手が深い位置に入り込んでくるのを止めろ! 組織で守っていることを忘れるな!と絶叫。
気持ちに余裕がないから味方の動きを意識できず、味方を信じて守備をするという選択肢がなくなってしまうのだ。
そしてまた、どうにか食い止めてボールを前に出しても全体が上がらない。ここでまた、アップダウンをサボるなと絶叫。
攻撃のときにしっかりと圧力をかけて上がっておかないと、カウンターから一気に押し込まれてしまうことになるのだ。
コンパクトな配置から相手を押し込んでいくサッカーがウチの生命線なのに、頭が真っ白になって完全にそれを忘れている。
最初からフルコースの悪循環だ。ピッチサイドで監督はわめき散らすが事態はほとんど改善せず、0-6でハーフタイム。

相手がすごく強いのは事実なので、自分たちの持ち味をまずは再確認。攻撃時にラインを上げておくと次の守備が楽、
その事実から入って生徒を地道に説得していく感じ。勇気を持って押し上がらないとつらい時間が長くなるだけだと、
論理的に説明して守備陣の基本的な動きをもう一度徹底させる。中盤ではやはり中央で引っかかってしまうので、
いつもより広い会場であることからも、もっとサイドへ大きく蹴ることを確かめる。そしてパスコースをつくり続けるために、
スペースを使いながら一人ひとりがサボらず動き続けるように言う。当たり前のことを何度も説明するこの悲しみ。
サッカーってのは、いかにボールを相手陣内の深い位置まで持っていくかのスポーツであると僕は考えているのだが、
そこの意思統一をもう一度やって、後半戦に臨む。中学生のサッカーは「小学生の個人技頼みのワーワーサッカー」から、
「組織を生かしたオトナなサッカー」への移行である。生徒が精神的に成長するまで、これがなかなかうまくできない。
できる頃になるとハイ引退というわけで、中学校のサッカー部ってのは、これの繰り返しなのかと思う。けっこう虚しい。

というわけで後半に入ると、明らかにこっちの動きがよくなった。まあそれ以上に相手の動きの方がいいんだけど、
はっきりとこっちが押し込む場面が何度も発生するようになる。シュートで攻め切って終わる場面も出てくるようになる。
守備でも相手の強さを理解したうえで、勇気を持って足ではなく体から止めに行っている。相手をやりづらくさせている。
決して互角と言えるほどではないが、試合としてきちんと形になっている。これを最初からやれよ……と一人つぶやく僕。
しかし相手はその上をいく。こっちの攻撃をしっかり切ると、ボールを少し回して落ち着かせてからカウンター。
いわゆる強者のカウンターが見事にハマった格好で、こっちはよく粘って守るけど個人の力で破られて失点してしまう。
それでも後半は3失点に抑え、合計2ケタ失点は免れた。CKからの失点をゼロに抑えた点も評価してあげたい。

結果、負けはしたんだけど、後半の戦いぶりは見事なものだった。ただ、あまりにもだらしない前半があるので、
手放しでその健闘ぶりを褒めることはできない。でもまあ、この1試合の中ではっきりと成長したのは事実である。
あとはこの経験を当たり前のベースとして、さらに積み上げられるかどうかである。そのためには練習あるのみ。
とりあえず次の週末はしっかり休んで僕も生徒も体力をしっかり回復させたい。本当に本当に疲れたよ。


2013.2.2 (Sat.)

土曜授業だと髪の毛を切りに行く暇もねえよ。授業が終わって自転車をすっ飛ばし、いつもの店へ。
とにかくやたらと湿度の高い日で、汗びっしょりでブサイク様が現れたので皆さん驚いていたなあ。
いつものおねーさんも僕がスーツ姿なのでびっくりしていたのであった。確かにこんなふうに来たのは初めてだ。
カットしてもらってさっぱりすると、やっぱり自転車をすっ飛ばして職場に戻る。どうにかセーフ。
で、そこから部活である。顧問が午前中とは違う髪型で登場したのに、生徒たちの反応は薄い。ニンともカンとも。
まあそんな具合に、本日はいろいろと無茶な日なのであった。本当に疲れたよ。


2013.2.1 (Fri.)

文化祭の作品展が始まった関係で、本日は学校公開日。平日にお客さんが来ることなんて当然ながらあまりないのだが、
演習中心の授業をやるのは気が引けたので、毎回恒例のスクラブル大会をやってみた(→2010.10.92011.5.14)。
僕が今年度担当している2年生たちはお勉強が苦手な子たちが多いのだが、非常に積極的に取り組んでくれた。
熱心に辞書を引きながら考える。それだけでも十分ためになるのだ。あらためて、スクラブルはよくできたゲームだと思う。
出せる単語に気がつくという学習面の要素はもちろんあるが、けっこう「引き」の良さがゲーム展開を左右するのが巧い。
勉強がひどく苦手というわけではないのだけど、母音のコマばっかり引いちゃって四苦八苦している生徒がいる一方で、
着実にdouble word scoreやtriple letter scoreなどを踏んで点数を積み上げる生徒もいる。ゲームバランスがいい。
生徒たちは楽しみながらも、単語を覚える必要性や辞書を引く意義にきちんと触れてくれたようだ。よかったよかった。

さて本日は、都立高校の推薦入試の合格発表日。推薦入試について思うところは正直かなりいろいろとあるのだが、
書き出すとキリがないので、とりあえずそれは保留。単純な合格率だけでいえば、順当な結果が出た感触である。
だが、ここで合格しても一般入試にまわっても、しょせん高校は学校。どこへ行こうと、そこで自分が何をどう学ぶのか、
そしてどんな友人関係をつくるのか、それがいちばん重要なのだ。学校が何かをしてくれるわけではないのである。
中学校を巣立つ皆さんがこの先どのように自分自身を高めていくのか。期待する側にまわった自分は、やっぱ歳食ったな。


diary 2013.1.

diary 2013

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