diary 2016.9.

diary 2016.10.


2016.9.30 (Fri.)

サッカー部に取材が来たぞなもし。テーマは部活における外部指導員ということで、主役はあくまでコーチ。
で、僕は黙って後ろでニコニコ。特に主張したいこともないし、生徒に混じって球を蹴る呑気な大人代表という立ち位置。
3年前、生徒に対して「コーチは監督、オレはGM」と言い切ったことがあったが、そのスタンスは変わることがない。
このサッカー部に関わる全員がそれぞれに力を十分に発揮できる環境を、無理のない範囲で整備すること。それが任務。
そして微力ながらも生徒に混じって球を蹴る方が生徒にとってプラスになるのでそうしている、それだけのことである。
非常に受動的といえば受動的だが、顧問が必死になる部活動というのは僕が最も嫌うものだからしょうがないのだ。
やりたきゃやりなさいよ、場は用意する。でもやるからにはちゃんとやれ。やりたくないんならやらなくて結構。それだけ。


2016.9.29 (Thu.)

「ハマの番長」こと横浜DeNAベイスターズ・三浦大輔投手の引退登板について。

前提として、プロ野球が好きな者なら三浦投手のことを尊敬せざるをえないのである。これは本当にそうでしょう。
弱小チームで投げ続け、キャラクターを徹底して明るい話題を提供し続け、プロとして申し分ない実績も残した。
「プロ野球の公式戦で投手が安打を放った最多連続年数・24年」という世界記録には、みんなほっこりするだろう。
それだけに、なんとか1勝して「連続シーズン勝利」の記録についても更新してほしかった(こちらは23年)。
だから引退登板となる試合の相手がわがヤクルトスワローズということで、正直複雑な気持ちでいたのである。

結果を書き出すと、「7回途中12安打8奪三振3四球10失点で降板」。いろいろと衝撃的な数字が並んでいる。
まず、引退だからと短いイニングではなく7回まで本気で投げ続けたこと。そしてヤクルト打線も本気で臨んだこと。
12安打されて10失点するまで、ラミレス監督も続投を許したこと。とはいえ、しっかりと8奪三振していること。
「勝てなくなったから」という理由で引退を決意したそうだが、それでも本気で勝ちに行って、本気の相手に敗れて。
まさに、言葉どおりである。これほどまでにプロフェッショナルとして鮮烈な引退劇をみせた選手が今までいただろうか。
あっさり引退する選手もいれば、現役にとことんこだわる選手もいる。そこにはそれぞれの選手の美学が感じられて、
だいたいが「どれも正しいですね」としか言いようのないもの、否定しようのないものである。われわれは肯定するのみ。
しかし三浦投手は、最後の最後までプロとしての意地を通して、今まで誰もやったこともないことを現実にやって散った。
なんというか、これ以上納得のいく引退劇はないだろう。同じベイスターズなら「大魔神」こと佐々木投手の引退も、
僕には非常に感動的なものだった(→2005.8.9)。しかしそれとはまた違う形で、こちらにも絶対的に感動するのだ。
「勝てなくなったから」。プロとしての意地、ファンへの思い、真剣勝負の結果、そういうすべてを引っくるめた形で、
誰もが納得せざるをえない形で、彼にしかできない形で、現役を退く。こんな美しく誇り高い去り方があったのか、と思う。


2016.9.28 (Wed.)

大谷翔平がとんでもねえ。研究の進んだ現代プロ野球は、かつてと比べて突出した活躍が非常にしづらい環境にある。
そんな中でプロ入りから二刀流を貫いているだけでもすごいのに、2桁勝利して100安打して20本塁打ですよ。
しかもその10勝目が完封勝利でリーグ優勝。球速164km/hの記録も持っているし、限界が想像できない活躍ぶりだ。

ここ最近のパ・リーグは恐ろしいことが続いている。3年前はマー君こと田中将大が24勝0敗1Sを記録するだけでなく、
160球完投した翌日にも登板して日本一を決めてしまった(→2013.9.262013.10.82013.11.3)。
そしてマー君が渡米すると今度は大谷だ。一昨年は2桁勝利と2桁本塁打、昨年は最多勝利に最優秀防御率で、
ついに今年は投手としても打者としても文句のつけようのない成績を残してしまった。そしてチームを優勝に導く。
異様なほどの個人成績もさることながら、優勝をもたらす原動力として機能したところに最高の価値があるわけで、
ついに頂点を極めた感がある。でもきっと、さらに想像の上を行く活躍をするのだろうなと思う。そこがとんでもない。

今までプロ野球を見てきて、ある程度の想像の範囲に収まってきたものが、どんどん壊されている現実がある。
それはまさに、「常識」というものが破られる光景そのものだ。われわれの常識が常識ではなくなっていく怖さがある。
マー君の活躍も凄まじいが、金田正一や稲尾和久の伝説的な記録が存在する以上、いちおう理解の範囲内ではある。
とはいえ、「それはもうマンガの世界でしか描けないだろう」というドラマを実現してしまった、という凄すぎるレヴェルだが。
しかし今年の大谷はもう、マンガがマンガとして成立しないレヴェルなのだ。完全に現実離れしていることをやっちゃった。
「いくらフィクションでもそれはねえぞ!」と思ってしまうような展開なのである。でも現実にそれが起きてしまった。
もう、いったいどうすればいいのやら。快挙は快挙なんだけどね、恐怖を感じさせるほどの快挙って。いやあ、言葉がない。


2016.9.27 (Tue.)

東北旅行中に見かけたJRの広告が気になったので、写真を貼り付けてみる。

 

これは僕の感覚では「見るからに石ノ森章太郎」なんだけど、「(c)手塚プロダクション」と書いてあってびっくり。
手塚プロがわざわざ石ノ森的に描いたってことなのかね。レタリングの手法は完全に石ノ森のそれなんだけどなあ。


2016.9.26 (Mon.)

先日非常に不快な思いをさせられたこともあり(→2016.9.23)、なんとも言えない感情を押し殺しつつ授業。
しかし生徒たちははっきりと、正しい英語をしっかり勉強したいと言ってきた。うん、それでよいのだ。お互いに。

言語は伝達するツールである以上に、思考するためのツールである。いや、ツールと呼ぶのは失礼か。
われわれは言語がなければ思考することができない。だから正しい言語を学ばないことは、思考の否定につながる。
これは外国語であっても同じだ。正しい外国語を知らなければ、相手の思考を正しく追うことができない。失礼になる。
それをしないで表面的に理解したつもりで済ませることは、教養のない人間のやることだ。教育と正反対の行為だ。

僕は粛々と生徒の知的好奇心をくすぐる授業をやるだけだ。教養のない人間を育てることは罪である、そう確信する。


2016.9.25 (Sun.)

本日よりサッカー部は新人戦である。しかし11人揃わないという情けなさ。常識がもう通用しません。

肝心の試合は前々から課題の多かった右サイドを同じ形で破られて2失点、中央から押し込まれて1失点、
よくわからん誤審からのPKで1失点。それでもCKからヘッドで1点返したところはなかなかに立派だった。

さて今年度は顧問2人体制ということで、新人の先生が副審デビュー。体格がいいから堂々として見えていいなあ。
しかし副審をやらなくていいとなると体力的にも精神的にもけっこう楽になる。今年は体調を崩さずに済みそうだ。


2016.9.24 (Sat.)

お勉強の試験日が迫っているので、過去問をあたって傾向と対策を分析する。……が、あまりにも読めない。
どの科目も出題範囲が広くて……というか散漫で、的が絞れない。まあもともと自分はヤマを張るのが苦手だし。
空いている時間をなんとか駆使して、テキストの内容を要約しておかなければなるまい。そうして骨組みをつくっておいて、
あとは試験会場であることないこと肉付けしていくしかないのだ。なんだかどんどん不安になる。大丈夫なのかオレ。


2016.9.23 (Fri.)

非常に納得のいかない形で研究授業をやる。理由のひとつは、もう一人の英語教員がまったく使い物にならないこと。
そしてもうひとつが、小学校の都合を優先して話が動いていること。なんで小学校のワガママにつきあわなくちゃいかんのだ?

研究授業の後には協議会があるのだが、今回はこれが本当に気持ち悪かった。小学校の教員は非常に気持ちが悪い。
連中は、子どもが自分の思いどおりに動くことが一番だ、それがいい子だと確信しているから、ものすごくタチが悪い。
だからそういう価値観で話を進める。自分の想像と異なる展開が許せないのである。それでボロクソに言ってくるのである。
こっちとしては、人の話を聞けない子どもを大量に中学校に送り込んでおいて、何を偉そうにぬけぬけと言いやがる、となる。

最悪だったのは、「英語の授業では正しさよりもしゃべる度胸を優先すべき」という狂った主張をしてくるやつがいたこと。
正しい英語を知らないということは、教養の欠如と見なされることがまるでわかっていない。日本は植民地ではないのだ。
欧米人にとって都合のよい英語を理解する奴隷ではないのだから、きちんと教養を身につけて対等にならないといけない。
聞いているとどうも、そいつのしゃべっている日本語は発音が妙におかしいのが気になる。本当に日本人なのか?と思う。
そういう輩が公立学校の教員となって文化的植民地化の下地をつくっていると思うとヘドが出る。愚民化もここまで来たか。

これは極端なケースだったとしても、やはり小学校の教員は自分たちの妄想とも言うべき価値観を押し付ける傾向がある。
結局、小学校の教員はベースとなる専門知識がないので、教育学的な理屈で押し通すしかないのだ。実に空虚である。
たとえば自分のバックボーンには社会学があり、地理も言語学も現代思想も建築も現代美術もある。法律も勉強中だ。
でも教育学部出身の小学校の教員には、専門とするものが何もない。彼らは基本的に教養が足りていないのである。
(参考に、「教育学禁止論」のログにリンクを貼っておく。小学校の教員は教育学の最大の被害者だ。→2012.2.13
夏休みの東京海洋大学での研修で小学校の教員2名と組んだが(→2016.7.26)、彼らは確かに勘の良さはあった。
しかし話をする中で、彼らに知識がまるで足りないのがよくわかった。とにかくモノを知らないし、それに気づいていない。
前にも書いたとおり、知識は思考の根幹だ。知識がなければ、感性がはたらく余地も生まれないのだ(→2016.7.27)。
視野が狭く、モノを知らないことに気づけないということは、教養の欠如に直結する。そんな自分の姿を自覚することなく、
上から価値観を押し付ける。いつも自分の無知ぶりに悔しさを抱えて生きている僕からすれば、信じられない生き物だ。
それでいて、「英語の授業では正しさよりもしゃべる度胸を優先すべき」という主張を平然と許してしまう。恐ろしいことだ。
子どもをいつまでも子ども扱いしているから気づかない。知識・教養のない大人を育てて、社会が成り立つと思うのか!?

子どもたちが将来、専門知識を十分に手に入れるためには、義務教育でまず徹底的に基礎を固めないといけない。
しかしその第一段階が、恐ろしく空虚なものになっている。しかも6年間も。教養の欠如に気づけない者は去るべし!


2016.9.22 (Thu.)

リポートを仕上げたご褒美の日帰り旅行、毎度おなじみ夜行バスで到着したのは山形駅である。

 実は山形市となるとけっこう久しぶり。7年ぶりですよ。

最近はもう本当にふざけた天気のオンパレードで、毎日毎日ぐずついてばかり。今日も午後から雨の予報だ。
それでも日帰り旅行を強行したのは、来月は部活の新人戦、再来月はスクーリングで身動きが取れなくなるから。
多少天気が悪いとしても、今のうちに動いておこうというわけ。で、今月はサッカー観戦がまだなのでそれを強行。
本日、秋分の日は天皇杯3回戦が行われるのだ。その中で最も変態的というかマニアックというか、そんなカード、
グルージャ盛岡(J3・岩手県代表)×Honda FC(JFL・静岡県代表)を仙台で観戦するのだ。自分でも呆れるぜ。
でもこれがいちばん観たい試合だったんだからしょうがない。つーか先週末に東北に来てまた東北かよオレ。
で、ふつうに仙台に直行しても面白くないし、13時キックオフだから仙台を離れて動くことはできないしで、
出てきたアイデアが山形から仙山線で山寺の御守を頂戴してからレンタサイクルでユアスタに直行というもの。
おまけに都市景観100選の「泉パークタウン」を見ておこうという完璧なプランなのだ。雨さえ降らなければね。

山寺こと立石寺がオープンするのは8時で、それに間に合うように仙山線に乗ればいい。しばらく山形駅で休憩。
やがて快速列車に乗り込むと、あっという間に山寺駅に到着。山寺を参拝するのは3回目のような気がしていたのだが、
実際には2回目だった(→2009.8.11)。前回は雨上がりだったが、今回は曇り空でまあセーフ。雨だと石段がつらい。

  
L: 山寺こと立石寺の境内入口。  C: 根本中堂。正平年間の再建だが、現在の姿は1608(慶長13)年の修理による。
R: 角度を変えて眺める。これが根本中堂ということは、ここが立石寺の中心ということなのだ。これでいいのだ。

根本中堂の隣には日枝神社。立石寺は天台宗なので、神社として日枝神社が勧請されているのは納得なのだ。
後で御守を頂戴したのだが、特大の御守とものすごく小さい御守を置いてあり、御守マニアの心をくすぐる神社だった。

  
L: 立石寺の正式な入口へ向かう途中にある日枝神社の境内入口。  C: 拝殿。  R: 本殿を覗き込む。彫刻が立派。

ではいよいよ石段ランニングのスタートである。仙台行きの列車は9時14分発なので、1時間ちょっとで往復するのだ。
ふだんの部活では急に方向を変えたり踏み込んだりするサッカー的な動きだとまだまだ足首に違和感があるのだが、
単純に階段を上り下りするだけならもう問題はない。勢いに任せて一気に上っていったら、わりとあっさり奥之院に到着。

  
L: 日枝神社から奥の院の入口へ向かう途中にある、芭蕉と曾良の像。  C: 奥之院入口。  R: ああ、山寺だ。

さっそく奥之院限定の御守を頂戴する。お寺の御守ってお堂によって種類が違うことがあるのでいろいろ厄介なのだ。
これはつまり、御守が仏様の種類によって異なっているのが原因なのだ。「ふつうのやつ1体ください!」が通用しない。

  
L: 10分ちょっとで奥之院に到着。秋分の日なのでお彼岸モードなのであった。  C: 向かって右側が奥之院。
R: 重要文化財の三重小塔は崫の中に納まっている。1519(永正16)年につくられた(建てられた?)とのこと。

思ったよりずっとあっさり奥之院まで来てしまったので、帰りはのんびりあちこち撮影しながら石段を下っていく。
天気が良ければもっと美しい光景だったろうに、曇り空のせいでなんとも冴えない色合いなのが切ないところである。

  
L: 山寺的景観。山肌の岩を彫って仏教的な要素を生み出すのはシルクロードとかのつながりを想起させませんかね。
C: 狭い山の中にお堂がいくつも縦に並べて配置されている。伽藍配置こそ仏教空間のセンスの見せ所なのよね。
R: 弥陀洞(みだほら)。仏の姿に見える人は幸福が訪れるそうだが、まあ確かにバーミヤン的なものがあるな。

最後は下界の方の境内でのんびり過ごして、列車の時刻に間に合うように山寺駅まで戻る。参拝できてよかった。
仙山線は面白山高原を抜けて仙台市内へと入るが、ここでまさかの雨。予報よりずっと早いじゃねえかとがっくり。
それでも北仙台駅で下車したときには雨はやんでくれて、どうにか予定どおりに動けそうな気配。悪運は強いのね。

単純にユアスタでサッカー観戦するのであれば、北仙台駅で地下鉄に乗り換えて泉中央駅へ行けばいい。
しかし今回は泉パークタウンを見てみようということで、ここからはすべてレンタサイクルを使うことにした。
現在、その辺りは仙台市「泉区」となっているが、1971年から1988年までは「泉市」が存在していたのだ。
七北田村から泉町を経て泉市、そして仙台市泉区へと大規模に変化していく様子は、仙台市のサイト内に記事があり、
航空写真によってかなり詳しく紹介されているので、ぜひ見ていただきたい(⇒こちら)。本当にすばらしいわ。

  
L: 仙台市泉区役所(旧泉市役所)。竣工当時、周辺は農地のど真ん中。今の姿からは考えられない。左側は職員研修所。
C,R: エントランス付近を撮影。建物を残して周囲がここまでガラッと変化した事例はそうそうないんじゃないかと思う。

というわけで、現在の泉区役所は1977年に泉市役所として竣工したものだ。上で紹介した記事には写真があるが、
竣工当時は農地のど真ん中にポツンとこの庁舎だけがあるという姿をしていた。今では商業施設やら何やらのど真ん中。
ニュータウン開発で旗艦的な役割を果たした市役所だったが、今は政令指定都市の区役所。なんとも象徴的かな。

  
L: 泉区役所の背面。  C: 本庁舎に隣接している東庁舎。  R: 東庁舎の背面。中身は主に保健福祉センター。

ではいよいよ、仙台市泉区(旧泉市)のニュータウンぶりをレンタサイクルで見てまわることにするのだ。
旧泉市が仙台市のベッドタウンとして開発されたのは高度経済成長期。人口が1965年からとんでもなく増えており、
10年後には宮城県で2番目に多い市となっている。市制施行が1971年で、これは異常と言っていいほどの伸びだ。
まずは泉中央からそのまま北へ進み、県住宅供給公社による将監団地周辺をうろついてみる。1970年頃完成とのこと。
辺りは個建ての住宅が並んでいるが、とにかく道が複雑。カーヴだらけな上に入り組んでおり、抜けるのが本当に大変。
まっすぐこっちの方角へ行きたい、と思っても、道が全然そうさせてくれないのだ。ニュータウンはよそ者に厳しい。

  
L: 将監の丘の上から明石台の団地を眺める。泉区はとことんニュータウンなんだなあと絶句してしまう光景だった。
C: 将監は団地としては古い方だが、新築の住宅が並ぶ箇所もあった。  R: 道がやたらカーヴしていて迷うわー!

そんな将監の北東にひっついているのが桂、東北自動車道を越えると高森である。どちらも泉パークタウンに属する。
泉パークタウンは1969年から開発が始まり1974年から入居が始まった、三菱地所によるニュータウンである。
住宅だけでなく、工業団地やゴルフ場に大規模商業施設、さらには大学までセットで整備した点が特徴的とのこと。

  
L: 将監の端っこから見下ろす桂の住宅地。いかにもな感じで整備されている。土気(→2014.8.3)を思い出すなあ。
C: 住宅の間を走る道路はこんな感じ。もともとあった高低差は、比較的そのまま維持されているみたいだ。
R: うわ、いかにもニュータウンな光景。車は通れないけど人は通れるってやつ。住民以外には迷路ですわ、迷路。

桂と高森をウロウロしてみて、やはり土気の「あすみが丘ニュータウン」を思い出す。あっちは東急不動産の開発だが、
売り出す対象の価値観が同じなので、そりゃどうしてもできあがりは似てくるものだ。まるでドラマに出てくるような、
「理想の家族の空間」が演出されている。もっと言うと「理想の子育て空間」となるかな。いかにもな郊外社会だなあ。
大学時代に恩師が『金曜日の妻たちへ』と東急田園都市線の話をしてくださったが、この原点を勉強せねばと実感した。

  
L: 高森の一角。理想化された子育て空間がここに実体化されている。  C: 真ん中には遊具のある公園を配置している。
R: しかし住宅地の外側は、無機質な道路と郊外型店舗、ぶっきらぼうな緑(奥はゴルフ場)の境界線で隔絶されている。

ゴルフ場と住宅地の間のなんともぶっきらぼうなマージナルラインを走り抜けた先にあるのは、商業施設である。
おそらくその中で最も人気があると思われるのが、仙台泉プレミアム・アウトレット。2008年の開業とのこと。
せっかくなので寄ってみたが、まあとにかくすごい数の人が集まっていた。ニュータウンを活気づかせる手法ですか。
まあもともと「○○プレミアム・アウトレット」は三菱地所がやっとるもんな。上手いことはめ込んだな。

  
L: 東の高森と西の寺岡の境界である交差点が、泉パークタウンの中心っぽい。  C: 仙台泉プレミアム・アウトレット。みんな好きねえ。
R: 泉パークタウンの中心、県道264号を行く。緑のバリアについては大潟村の過去ログを参照してちょうだい(→2014.8.22)。

以上で泉パークタウン探検はおしまいである。完全に曲線的につくり込まれた新興ニュータウンから離れて南下すると、
旧来の土着な雰囲気が残る農地になるのがなんともびっくり。地名も「○○屋敷」と付いている箇所が多くて、
ニュータウンの都市空間が歴史を強力に上書きすることで成立した、という事実をうかがうことができる。
そんな開発から取り残された郊外を東へひた走ると、さっき訪れた泉中央に戻る。ではいよいよユアスタに突撃だ。

  
L: 古川越しに眺める仙台スタジアム(ユアテックスタジアム仙台)。Jリーグ開幕と仙台市のプライドで生まれた球技場。
C: メインの入口は北側で、そのまま入るとホーム側ゴール裏に直結する構造になっている。メインスタンドは右手になる。
R: というわけで、そのままホーム側ゴール裏からピッチを眺めてみたところ。こっち側は少し距離がある感じかな。

最初にも書いたが、本日は天皇杯3回戦・グルージャ盛岡×Honda FCが、ここ仙台で開催されるのである。
他会場ではほとんどがJ1やJ2がらみの試合となっており(J3では盛岡のほか、大分と長野が残っているのみ)、
下部カテゴリーどうしの「つぶし合い」はここだけ。こりゃもったいないから観ておきたいわ、という思惑である。
といってもただマニアックさだけで観戦を決めたわけではない。盛岡のサッカーはわりと評判がいいらしいのだ。
そしてHonda FCは「JFLの門番(Jへの門番)」としてサッカーファンにはお馴染みの社会人名門チームである。
この両者がさらなるジャイアントキリングを継続する権利を賭けてぶつかるわけだから、白熱した試合が期待できる。
なお、Honda FCはかつて全員アマチュアだった時期もあるが、現在はプロ選手も在籍。しかし選手名の横断幕には、
「鋳造2モジュール」「技術開発BL 工具Gr」「AL機械M」「事業管理部 生産管理BL」「資材BL」「設備技術BL」など、
それぞれ選手の所属する部署名が小さく入っている。そんなところから社員選手のリアリティを実感するのであった。

  
L: 盛岡のフラッグで印象的だったのはこちら。素材(→2014.5.5)、デザイン、フレーズと文句なしである。
C: 対するHonda FCは、やっぱりこれだわな。  R: Honda FCは横断幕もシンプルで独特。手づくり感がさすが。

試合が始まると、Honda FCのペースとなる。Honda FCの試合を観るのは初めてで、どんなサッカーか楽しみだったが、
目の前で展開されたのはショートパスを交換しながら中盤をじっくり制圧していくサッカー。とにかくつなぐ意識が高い。
このスタイルは僕にとっては当然、大木監督時代の甲府を思い出させる(→2007.8.182007.11.242007.12.8)。
当時の甲府と比べるとHonda FCの選手たちの技術は稚拙だが、つなぐサッカーへのこだわりの強さは負けてはいない。
ちなみに、大木監督が甲府で指揮を執った最後の試合となった2007年の天皇杯の鹿島戦で(→2007.12.8)、
途中出場で同点ゴールを決めたルーキーがいた。その人、久野純弥は今日の試合にHonda FCのスタメンとして出場。
9年後、同じ天皇杯で、パスをつなぐサッカーで。さすがにこれはグッとくるものがあったねえ。好きな選手だったし。
また、その久野と2トップでコンビを組んでいるのは古橋達弥。こちらはもともとHonda FCの出身で、元のチームに戻った形。

  
L,C: 狭いエリアでショートパスをまわすHonda FC。大木監督時代の甲府で展開された「クローズ」を彷彿とさせる。
R: Honda FCは守備もいい。パスが引っかかってカウンターを食らっても、ゴール前できっちりつぶすことができていた。

躍動するHonda FCだったが、かつての甲府が外国人FWまでつないで攻めきったのに対し、中盤から先に抜けられない。
ショートパスから縦に入れても前に走り込む選手がいないのだ。いたとしても、今度は逆サイドに人がいないのである。
パスが引っかかったところから盛岡はカウンターを仕掛けるが、Honda FCの3バックが素早く対応してシュートを阻止。
それがしばらく繰り返される。見かけとしてはHonda FCがボールを持つ分だけ優位だが、得点の雰囲気はイマイチ。
しかし前半26分、左サイドに侵入した久野からマイナスのクロスが出ると、それを受けた大町が中央に流れながらシュート。
これがゴール左隅にきれいに突き刺さってHonda FCが先制する。動いているのと逆方向へのシュートで難しい形だったが、
それをGKが触れないコースに撃てるんだから大したものだ。これが「門番」の底力なのかと驚かされたのであった。
前半はそのままHonda FCがはっきり優位のままで終了。盛岡は自分たちのスタイルを全然出すことができていなかった。

後半に入ると盛岡がペースをつかみはじめる。Honda FCの守備が崩れることはなかったが、盛岡が押す時間が長くなる。
そして57分にペナルティエリア付近でよくわからないファウルが発生。どうやら盛岡の選手が倒されたようなのだが、
これがエリア内との判定でPKとなる。かなり微妙な位置で選手も混乱していたのだが、ここでさらに第2の事件が発生。
盛岡の選手がボールを離さないHonda FCのGKを引き倒したのだ。これを主審がまったく見ておらず、スタジアムは大騒ぎ。
さらにもう一度GKが倒されて、気づいた主審が慌ててカードを出したのだが、これがイエロー。その後、レッドに訂正。
PKになった時点から一連の流れが観客席からはつかみづらく、何がなんだか。とりあえず盛岡の選手がレッドなのは確実。
結局、盛岡の選手を退場させてからPKが行われ、盛岡が同点に追いついたのだが、なんとも後味の悪い感触が残った。
ところがまだ続きがあって、3分後にHonda FCの選手が左サイドを駆け上がったところに盛岡の選手がハードなチャージ。
これが2枚目のイエローで、やや間があってから主審はレッドを提示。おそらく主審は当初、2枚目だと把握していなかった。
おかげでメインスタンドの盛岡サイドは、品のない怒号の嵐に包まれたのであった。気持ちはわかるが、実に野蛮である。
プレーじたいは1枚目も2枚目もイエローの判断で妥当なものだった。だから盛岡が退場者を2人出したのは自業自得だ。
しかし主審の態度が曖昧に見えてしまうのがまずかった。まあ主審はいろいろ言われることの多い家本さんだったが、
彼の判断じたいは正しいのだ。しかし観客や選手に誤解を与えてしまうような振る舞いが彼に多いのは事実だと思った。
せっかく正当なレフェリングをしていても、カードの提示へ至るまでの動きが悪いせいで混乱が増幅されてしまうのである。
というわけで、家本主審の課題はレフェリングではなく、主審らしさの見せ方だ。たぶん本人はこの点に気づいていない。
インタヴュー記事を見るに彼はそうとうな勉強家なのだが、課題の設定が間違っているからトラブルが減らないのである。

  
L: Honda FCの先制シーン。9番・大町がパスを受けてから中央に持ち込み、右足でゴール左隅へ狙いすましたシュート。
C: 主審が事態を把握できておらず、一発レッド相当のプレーに対してまずイエローを提示。観客はもっと混乱するのよコレ。
R: 盛岡はPKをしっかり決めて同点。なぜPKなのか、レッドが出た混乱の原因は何か、観客にはわかりづらい場面だった。

さてこうなると、試合の焦点は「Honda FCが2点目を決めきるかどうか」に収斂する。11対9の数的優位だが、
当然ながら盛岡は全員が自陣に引きこもってスペースを埋めてかかる。こうなると、むしろ攻めづらい状況だ。
Honda FCはディフェンスラインやサイドでパスを交換しながらワイドにボールを動かして隙をつくろうとする。
それはショートパスをつなごうとした前半とは異なるスタイルなのだが、まあそれが定石だからしょうがない。
盛岡は集中して守るものの、いかんせんまだ90分のうち2/3が過ぎた程度にすぎないので、耐える時間が長すぎる。
ポロポロと綻びが出てHonda FCにシュートの機会を与えてしまうが、力んでしまうのかこれがどうしても入らない。

  
L: 退場者を2人出した盛岡に対してHonda FCが猛攻を仕掛ける。盛岡は全員が自陣に下がって懸命の守備。
C,R: 相手が少ないことで守備を固められ、逆に攻めにくくなるのも事実。しかしHonda FCはシュートミスを連発。

時間は刻一刻と過ぎていくが、外側からボールを持って構えるHonda FCと撥ね返す盛岡の構図が延々と続き、
アディショナルタイムが5分と出る。ただただ攻めるHonda FCとただただ耐える盛岡、それは長くも単調な時間だった。
その単調さはやはり不利な方に隙を生む。94分、右からのクロスにファーで反応したDF中川がきれいに合わせてゴール。
盛岡の壁をHonda FCがついにこじ開けた。門番が、固く閉ざされた門を破った瞬間だった。程なくして試合終了となる。

  
L: 荒れ気味の試合展開だが、しっかりファインプレーもあった。まあサッカーやる人なら足が攣るつらさはわかるもんな。
C: 後半94分、ついにHonda FCが盛岡の守備を破る。右からのクロスにファーで3番・中川が合わせてゴール。
R: 必死の守備で抵抗していた盛岡だが、ほぼ防戦一方の展開で最後は力尽きてしまった。まあHonda FCを褒めるべきだな。

試合終了後、両チームの選手がゴール裏のサポーターのもとへ行く。そして挨拶を終えたHonda FCの選手たちは、
ごく自然に反対側のゴール裏へと歩き出した。そしてHonda FCのゴール裏からは、グルージャ盛岡コールが沸き上がる。
それに気づいた盛岡のゴール裏からも相手選手を讃える声があがる。ピッチを去ろうとしていた盛岡の選手たちは、
早歩きでHonda FCのゴール裏へと向かう。そうして両チームの選手とサポーターたちが互いの健闘を讃え合う。
その一方で、メインスタンドの盛岡側からは、去っていく審判に対して「恥を知れ!」という罵声が飛ぶ。
一連の流れからは、Honda FCの名門としての風格が圧倒的なものとして印象に残った。すべてが勝者にふさわしい。
そして本当に恥を知るべきは誰なのか、盛岡のサポーターは冷静に考えるべきだろう。サッカーはカード集めではない。

 
L: 天皇杯らしい光景。率先して盛岡のゴール裏へ挨拶に向かうHonda FCからは名門チームらしい風格が漂っていた。
R: 盛岡の健闘ぶりを讃えるHonda FCのゴール裏。先に盛岡コールを送るなど、Honda FCはすべてにおいて勝っていた。

帰りは雨がなかなかの本降りになっており、慎重に北仙台駅まで戻る。仙台までJRで移動すると、本日最後の目的地、
東急ハンズ仙台店へと直行。駅ビルの4階にオープンしたのだ。行ってみたら、フロアがまあ広いこと広いこと。
そして品物の置かれている密度がすごい。とにかく品数が豊富という印象がする。ワンフロア型ではトップクラスか。
置かれている品物は純粋にオシャレな楽しさがあり、雑貨屋的な面白さが感じられる。見てまわって、実に面白い。
しかしやはり最近のハンズの傾向がそのまま出ており、工具が非常に弱いのが気になった。ネジを置いてないのよね。
確実に買い物していて楽しいハンズなんだけど、ハンズの原点らしい尖った要素は薄い。そこがちょっとさみしい。

晩飯食って新幹線で帰る。この日帰りでなんとかやる気を充填できてよかった。この秋をがんばって乗り切るのだ。


2016.9.21 (Wed.)

がんばって国際法のリポートを仕上げたよ! というわけで明日はご褒美に出かけるぜ! ストレス解消じゃー


2016.9.20 (Tue.)

台風が近づいているとかもういいかげんにして。ずーっとずーっと天気のよくない毎日が続いており、もう限界だ。
梅雨時でもこんなにひどくなかったんじゃないかってくらいだ。猛烈にストレスと洗濯物が溜まる毎日である。

こちとら毎日毎日、やらなくちゃいけないことに追われている。職場では授業の準備に宿題チェック、部活だってある。
通勤電車の中ではお勉強のテキストを読み込み、家に帰る前にはカフェでリポートを書いたり日記を書いたり。
放課後に部活のない日には、図書館に行って本を参照し、重要な部分を写して何時間も過ごすことだってある。
こうしてみると、よくまあこの中身のみっちり詰まった生活を成り立たせているなあと自分でも呆れてしまうが、
天気がよくないと気分が乗らない。やるべきことにガッチリ囲まれている生活をよけいに息苦しく感じてしまうのだ。
たまーに旅行に逃げても旅先でシトシト降られた日には、もう泣くしかないじゃないか! もう閉塞感はこりごりなのだ!

まあこればっかりはどうしょうもないので、だましだまし上手くやっていくしかない。でも、せめて天気くらいは。


2016.9.19 (Mon.)

朝、起きたらやっぱり雨が降っていて、それだけでがっくりである。でも行かなくちゃいけない場所があるのだ。
支度を整えてホテルを出ると、国道45号をひたすら北上していく。BRTで盛駅まで行ってしまえば簡単なのだが、
それをせずわざわざ歩いたのには理由がある。途中にある建物の写真を撮りたかったからだ。それだけに雨が恨めしい。

黙々と歩くこと30分ほどで、リアスホールという建物に到着する。実にマッシヴなコンクリートの塊である。
昨日、碁石海岸へ行くバスの中から見て、「なんだこれは!?」と驚いた。それでわざわざ撮りに歩いたというわけ。

  
L: 西側から眺めたところ。  C: そのまま南側に移動して眺めたエントランス。  R: 外にまわり込んで外観を眺める。

リアスホールは文化会館と図書館の複合施設で、設計は新居千秋。大館のスワンハウス(→2014.6.28)、
由利本荘のカダーレ(→2014.8.23)も設計している。リアスホールの竣工は2009年で、震災時は避難所になったそうだ。
デザインは碁石海岸の北側にある穴通磯をモチーフにしているとのこと。それはいいけど表と裏でだいぶ違うなあと思う。

  
L: 側面。南東側から見たところ。  C: 交差点から見るとだいたいこんな感じで、確かに穴通磯っぽさがある。
R: 大きい建物なので交差点で距離をとって眺めると、電線がけっこう邪魔。それで敷地内から眺めたらこんな感じ。

リアスホールからさらに北へ600mほど行くと大船渡市役所である。詳しくは昨日のログを参照してください。
貼っておいた写真の大半はこの日の朝に撮影したもの。広大な駐車場はいいんだけど、車が邪魔になるんだよね。

そんなこんなで無事、予定どおりに盛駅に到着。今日はBRTで気仙沼まで行くのだが、途中で陸前高田に寄る。
陸前高田といえば、東日本大震災で中心市街地が最も大きな被害を受けた街のひとつとして知られている。
そういう街を観光として訪れるのは、まだやっぱり自分でも納得できない部分もあるが、現実をこの目で見る、
その一点において無理やり正当化する。見たくないから見ない、では真実に触れることなどできないのだ。
変に正義漢ぶることもイヤだし。つまりは、何を感じるかの勝負だ。現実を見て感性をはたらかせる。そういう問題だ。

 陸前矢作行きのBRTがやってきた。さあ、乗り込むぞ!

例のごとく一番前の席に陣取って、フロントガラスから見える光景をじっくりと味わう。たまにシャッターを切る。
最もショックだったのは、BRTの道路に轍ができていたことだ。一般的なアスファルトの経年劣化を僕はよく知らないが、
もうそれだけの時間が経過していたのか、と実感させられた。やはり、BRTが当たり前のものとして定着している。
昨日も書いたが、BRTの踏切はバス専用道路の側にある。停止してバスの通過を待つ車に、クラクションで礼をして去る。
そういう所作のひとつひとつがなんとも言えない感情を呼び起こす。BRTという形式にしてみればこれは大したことではなく、
むしろ僕が勝手に感傷的な意味を植え付けているだけなのだ。でもその感傷を哀悼につなげて誠意としたいわけだ。
BRTは乗降客がいない駅はそのまま通過するが、これはまさにバスの行動様式だ。列車なら絶対にどの駅にも止まる。
それでいてBRTはなんでもないところでときどき止まる。これはおそらく踏切を通れるように動かすための都合だろう。
下船渡駅からは先月末の台風10号による被害で専用道路が通行止めで、一般道へと入る。もう完全に地元のバスだ。

  
L: 大船渡駅からしばらくBRT専用道路を行く。このルート、かつては鉄路だったのね、なんて思う。
C: 工事中の大地の脇を走る。さらに5年後にはどんな姿になっているんだろう。  R: BRT専用道路に戻ったところ。

雨のせいでよく見えなかったが、車窓越しに眺める陸前高田の光景は、ただひたすらに緑と茶色と灰色だった。
完全にただのバス停となっている駅を過ぎると、坂を上がって陸前高田駅に着いた。バスを下りると、すべてが真新しい。
まずは駅舎を撮影する。円筒形でなんとも近未来的な印象。待合室、窓口、トイレなどがコンパクトに収まっている。

  
L: バスを迎えるBRT陸前高田駅。  C: なんともSFチックというか。  R: 反対側から眺めたところ。

鉄道駅の要素をしっかり残す盛駅、トイレのあるバス停といった感じの大船渡駅、完全に単なるバス停な高田高校前駅。
そしてこの陸前高田駅。BRTの駅というのも規模によってかなり多様だ。鉄道駅と比べるとずいぶんと自由だと思う。

 
L: BRT陸前高田駅の待合室内。やはりちょっと宇宙船的。これが今後、鉄道でも駅舎の指標になるのかな?
R: 駅の向かいには陸前高田市コミュニティホール。シンガポールの支援を受けて昨年5月にオープン。設計は丹下事務所。

陸前高田市役所は陸前高田駅の東側にあるのだが、もうこれが見事なまでに完全プレハブなのである。
旧庁舎が津波で完全に壊滅してしまったのでしょうがないのだが、移転先は高台、その中でもいちばん高い場所だ。
正面玄関の辺りが最も高く、敷地が下りになっていくその頂点の部分を押さえているという徹底ぶりなのだ。
その「少しでも高く!」という意識の強さからは、津波の衝撃がいかに大きいものだったかを感じずにはいられない。

  
L: 陸前高田市役所。BRT陸前高田駅と同じく、高台の中でも最も高い箇所を押さえている。  C: 脇の道路から眺める。
R: 後ろの棟へ行くにしたがって、敷地がだんだん下がっている。つまり、市役所は高台の最も高い場所ということ。

市役所の裏側にまわり込むとけっこう急な下り坂になっており、そのままぐるっと東へ行くと三陸自動車道、
さらにぐるっと南へ下ると津波の被害を受けた市街地方面に出る国道となる。つまり現在のプレハブ市役所は、
市街地から国道を直接上がっていった先にある高台に位置しているのだ。後退して本陣を奥まった位置に移した、
まさにそういう感触の立地である。では前線はどうなっているのか。それをこれから見てまわろうというわけだ。

  
L: 陸前高田市役所の側面と背面。けっこうな勾配の下り坂になっているのがわかる。  C: さらに下る。
R: まわり込んで背面。道路が螺旋状になっている、そのいちばん高いところに市役所があるというわけだ。

市街地へ下る国道340号の上には陸橋が架かっているが、その手前に陸前高田市の観光案内所がある。
あらかじめレンタサイクルを予約しておいたので、手続きをして借りる。目の前にプレハブの市役所があるのに、
観光ということで自転車を借りるのはなんとも奇妙な心境である。係の方はぜんぜん気にしていないのが救い。

  
L: 正面玄関から市役所の中に入る。防寒のためか二重構造。ゆるキャラは復興を願って誕生した「たかたのゆめちゃん」。
C: 建物の内部はこのようになっていた。けっこうしっかりしている。4号棟までプレハブの建物が並列つなぎになっている。
R: 観光案内所の前にあった地図を見つめる。中心市街地だった部分がごっそり灰色で塗り込められている。切ない。

まずは市役所のある高台周辺を走りまわる。大規模な集合住宅に真新しい消防署が市役所などと同じ高さにあり、
一段低いところに仮設住宅の団地がある。その道路を挟んだ反対側には戸建の新しい住宅が着実にできつつある。
陸橋を渡って東側にはプレハブの店舗が点在。その先はもともとあった感じのニュータウン的空間となっていた。
ざっくり思うに、かつて陸前高田は「海側の旧市街地」と「山側のニュータウン」という2つの空間を持っていたのが、
「山側のニュータウン」をさらに強化・拡張する形で復興が進められているのではないか。そんな気がする。
昨日の大船渡では海に近い部分が初期化されて郊外化していたが、陸前高田はまた違うアプローチであると思う。

  
L: 消防署の西側にある高層住宅。津波被害からの復興は、新たなニュータウン整備という形でなされているのではないか。
C: 栃ケ沢仮設団地を見下ろす。左手の高台には戸建の住宅が盛んにつくられており、ニュータウンの拡張が見られる。
R: 鳴石地区(もともとのニュータウン)に行く途中の下り坂では、プレハブの店舗が営業中。新たな商店街の形成か。

ではいよいよ国道340号を下って、実際に津波の被害が直撃した海側の旧市街地跡へ行ってみる。
陸前高田市役所の北側にまわり込むと十字路だが、そのまま進むと三陸自動車道の入口となっている。
ここで右折してぐるっと180°回転しないと海側には出られない。なんとも複雑なものだと思いつつ下っていく。
坂道はかなり急で、電動自転車じゃなかったら帰りはかなり大変だ。それくらいの高さが必要だということでもある。

  
L: 観光案内所から鳴石地区へ向かう途中にある陸橋から国道340号を見下ろす。この道を下って左に曲がると旧市街地だ。
C: 国道340号脇のグラウンドでは中学生くらいの子どもたちが野球の練習中。練習できる広い場所はここくらいなのかな。
R: 国道と気仙川の間ではこんな感じで工事が行われていた。かつて大船渡線の線路を跨いでいた陸橋から見下ろしたところ。

坂を下っていくと視界が開ける。そこにあったのは、視野いっぱいに広がる工事中の光景だった。ただただ、工事中。
あまりにスケールの大きい土木工事なので、ダンプカーなどの車両が粒のように見える。それだけ強烈なかさ上げだ。
ピラミッドの足元を建設しているんじゃないかと思うほどに、徹底したかさ上げ工事が行われている、その真っ最中だ。
国道を車が頻繁に行き来しているが、その大半は土だか砂だかを運ぶダンプカーだ。どれもみんな緑の前掛けをしていて、
「高田・今泉地区 被災市街地復興整備事業」という白抜きの文字が入っている。塵も積もれば……、そんなスケール。

  
L: かさ上げ作業を見下ろす。津波の直撃を受けた低地を市街地として復興するために、とんでもない労力が必要なのだ……。
C: 見渡す限りが土木工事。空間的にも時間的にも果てが見えない……。  R: 行き来する車はダンプカーが大半だ。

震災から5年半、それでこの段階である。気の遠くなるような作業が淡々と進められている。あの一瞬の津波に対し、
われわれの力はコツコツと地道な作業を繰り返していくのみ。5年半が経っても、まだその作業の全容は到底見えない。
直感的に、これはあまりにも分が悪すぎるのではないか?と思う。もちろんそれを責めることなど絶対にできない。
でもしかし、でもしかし、圧倒的な破壊の限りが尽くされた大地に、まだ「無」を重ね塗りしている、そんな段階なのだ。
都市を「図」と「地」で例える(→2012.3.152016.2.11)前に、目の前に広がる空間はまだ純粋な「地」でしかない。
昨日の大船渡では津波被害が空間の初期化であり、復興としての郊外化社会の増殖に正直言って嫌悪感を抱いた。
だが、今日この陸前高田で僕の胸に去来したのは、これまた正直を言って、無力感である。ここまでしても、まだ……。
もちろん、地元で生きる方々と物見遊山のただの部外者である僕とでは、物の見え方が絶対に違っているはずである。
でもしかし、でもしかし……。レンタサイクルでないとどうにもならない距離が、すべて、いまだに、土木工事で……。

  
L: 国道340号が平地を直進する部分。道路の両側では黙々とかさ上げ工事が続けられている。歩行者の気配はない。
C: 工事現場の出入口にて。無数のダンプカーだけが頻繁に出入りし、油圧ショベル(ショベルカー)がそれをならす。
R: 国道の南西側は、かさ上げが行われていないところもある。川沿いのこちら側は将来どうなるのか本当にわからない。

国道340号を進んでいくと、国道45号にぶつかる。本来なら十字路だが、そのまま海の方へは抜けられなくなっており、
現在は丁字路となっている。ここがBRTの奇跡の一本松駅となっており、観光物産施設の一本松茶屋がつくられている。
観光客の数はまずまずで、適度な賑わいをみせている。自分も後で寄って、お土産をいろいろ買い込もうと思う。

  
L: 一本松茶屋。この一角だけササッと整備して2014年にオープン。  C: 近づいてみた。店舗の土産物は充実している。
R: 駐車場の端、丁字路の脇にあった自動販売機は、市公認ロゴマークによる奇跡の一本松仕様。このデザインのグッズも多数。

奇跡の一本松への入口は、一本松茶屋から道路を渡って3分ほど。入口から先は徒歩でないと進めない。
しかし当然ながらもともとは海に面した高田松原のうちの1本であり、周囲は津波の被害がひどかった場所だ。
工事をしている中を迂回していくため、入口から奇跡の一本松の目の前までは10分弱ほど歩くことになる。

  
L: 奇跡の一本松の入口。ここから徒歩10分弱。  C: 荒野の中を歩いていくと、その姿がひょろっと現れる。
R: 一本松だけでなく、やはり周囲の津波によって荒廃しきった状況が痛々しい。その空間体験にも意味がある。

奇跡の一本松はいちおうチェーンで仕切られているが、5mくらい前にまで近くことができるようになっている。
高田松原はぜひ訪れてみたい場所だった。しかしそれは叶わず、やっとその場所に来たときにはこの姿になっていた。
しかも、奇跡の一本松は結局枯死してしまい、現在立っているのは防腐処理・補強・複製などの加工を施した、
人工的なモニュメントとしての一本松である。果たしてそんなものに意味はあるのか。批判的な意見もあるだろう。
しかし時間的にも空間的にも際限のないかさ上げ工事をイヤというほど実際に見せつけられた後でこの一本松を眺めると、
依って立つものが必要であるのは十分に理解できるのだ。それはある意味、一神教における神に似たものかもしれない。
かつて絶望的な状況に陥った人々が絶対的な神を必要としたように、この空間において象徴となる依代は必要と感じた。

  
L: 奇跡の一本松の前に立つ。このモニュメントにどういう意味を見出すかは、まさにそれぞれの人しだいだろう。
C: ただ、奇跡の一本松の周囲がどのような光景のままでいるのかをきちんと見つめたうえで、考えるべきだと思う。
R: 一本松の裏にある、旧陸前高田ユースホステル。この建物が一本松を守ったという説も。市はこちらも保存を決めている。

市街地を整備する工事が終わり、この場所が今とまったく異なる姿になったとき、一本松がどういう意味を持つのか。
それは僕には到底わからないことだ。ただ、空間の記憶というものは非常に脆く、一度失うと絶対に取り返しがつかない。
そうなることを防ぐために、最もわかりやすい刺激を与えてくれる象徴を用意することは非常に有意義であると考える。
(参考までに、象徴を持つ都市・広島 →2008.4.232013.2.24、象徴を持たない都市・長崎 →2008.4.27
 廃墟という「現実」を残すために「フィクション」を介在させる矛盾とその意味について@長崎 →2014.11.22

奇跡の一本松から国道45号を少し東へ行くと、東日本大震災の追悼施設と復興まちづくり情報館がある。
まずは追悼施設で手を合わせる。雨が降ってきた。それを避けるわけではないが、敷地の端にある情報館に入る。
情報館では、震災前の状況、津波被害の様子、復旧・復興の状況などについての内容をパネルで展示している。
日曜日ということでか、ガイドの方が津波の被害について説明していたのを横で聞いたのだが、もうつらくてつらくて。
市民体育館に避難した方々のうち生き残ったのはわずか3名で、そのときの状況を決して語らないという話、
もうそれだけでつらい。われわれの想像力を超えたあまりにも苛烈すぎる現実が、確かにこの地を襲ったのである。
そしてプレハブの市役所や延々と広がるかさ上げ工事中の大地は、その一部でしかない。言葉もなく立ち尽くす。

  
L: 東日本大震災の追悼施設。建物の中には慰霊碑が置かれている。観光客が訪れては、無言の祈りを捧げていく。
C: 道路を挟んだガソリンスタンドの看板は、当時の被害そのままに立っている。この高さまで海が襲ってきたのか、と唖然。
R: 敷地の端っこには高田松原の松の根っこが展示されている。僕が見たかった松原は、こんなことになってしまった。

追悼施設と情報館の向かい側には、かつて道の駅だった建物「タピック45」がそのままモニュメントとして残されている。
こちらも建物の手前まで近づけるようになっており、内部を覗き込むことができる。外見と違って中は完全に崩壊しており、
津波のエネルギーの恐ろしさをまざまざと見せつけられる。こんな状態が平地いっぱいを埋め尽くしていたのか……。

  
L: 旧道の駅高田松原「タピック45」。こちらの建物も、津波被害を伝えるために市が保存を決めている。
C: 外見はそれなりの形を残しているが、中を覗き込むとこの有様。この状態が視界いっぱいに広がっていたのだ。
R: 後で気仙沼に向かうBRTの中から眺めた、旧気仙中学校。陸前高田市は震災遺構の保存に非常に積極的だ。

一本松茶屋まで戻ると、店内で土産を見繕う。なんでもかんでも買えるほど資金にも荷物にも余裕があるわけではなく、
とりあえずは職場向けのおやつやら、自分用の日本酒やらを選ぶ。復興支援のグッズは多数あったのだが、正直なところ、
もうちょっとデザインを凝ってもらいたかったなと。復興だけでない理由で買いたくなるものをもっと増やしてほしかった。

できることならずっと東側にある米崎町の方まで足を延ばしてみたかったが、雨の中ではさすがに難しい距離で、
逆方向の竹駒駅方面へと向かってみた。トンネルを抜けて坂を下って、仮設の高田未来商店街の辺りを歩いてみる。
プレハブ市役所のある丘を越えたこともあってそんなに標高が低いとは思えなかったのだが、津波の被害を受けている。
店舗はすべてプレハブで、陸前高田市が中心部だけでなく本当に広い範囲でダメージを受けたことを実感する。

 竹駒駅周辺。やはりプレハブの店舗ばかりだ。

最後にプレハブ市役所の向かいにあるセブンイレブンに寄って買い物をしたのだが、客は見事に土方の皆さんばかり。
それだけの規模の工事をやっているのだから納得できるのだが、それにしてもこの偏りぶりは少しショックだった。

やがてBRTのバスがやってきて、陸前高田を後にする。本当は少しでも明るい印象が残るように、晴れた日に来たかった。
しかしそれは叶わず、結局途中から雨が降り出してしまった。それで過度にネガティヴに受け止めた部分があるのは、
おそらく否定できない。しかしそれもまた僕が体験した現実にほかならないのだ。5年前のあのとき、空間は姿を変えた。
それ以来ずっと、自分はテレビ画面の向こうにある光景を、ただただ茫然と見つめることしかできないでいた。
でも今日、現実にその空間の中に立つことができた。これでようやく、現実として関わることができた気がするのだ。
その計り知れない痛みを共有することはできないが、自分の中に現実の記憶をはっきりと刻み付けることはできた。
今はそれで納得するよりない。そうして、日々リアリティを感じながら、意味を見つけながら、生きていきたいと思う。

BRTは終点の気仙沼駅に到着した。相変わらずのぐずついた天気なので、レンタサイクルは借りずに歩いていく。
地図で見ると気仙沼駅と市街地の位置関係は、昨日訪れた釜石に似た印象を受ける。奥まった高い場所に駅があり、
そこから東へ行くと港に近い市街地に出る、そういう感じである。しかし実際の姿は、釜石とはけっこう違っていた。
線路と平行に道路が走っており、そこから一歩引く形で駅とロータリーをつくるという東北によくあるスタイルだが、
この道路が旧街道としての匂いをしっかり残している。そして、いまだに商店街として成立しているほどに店がある。
駅に近い西側が古町、その東隣が新町。どちらもかつては非常に賑わっていた感触があり、古びてはきているものの、
しっかり看板が出ていて現役の店舗もそれなりの多さだ。津波被害で港からこちらに移った店もあるのかもしれない。

  
L: 気仙沼駅。やはり東北にはこのように、大通りから一歩退いてロータリーをつくる駅が多い気がする。
C: 気仙沼駅の「仙」の山が錨になっている。漁業の街としての矜持を大いに感じさせる工夫である。
R: 駅から東に延びる古町の商店街。旧街道沿いの雰囲気を残すが、わりと元気な方だなという印象。

「気仙沼風待ち復興検討会」のサイトに気仙沼の市街地形成について詳しい説明があったので、要約してみる。
まず古町が集落として成立。金の産出が大きく影響したとのこと。その後は「細浦」といわれた入江を埋め立てていき、
寛政年間までに気仙沼街道・東浜街道が整備されて新町から三日町・八日町と、東の海側へ市街地が延びていった。
(新町は気仙沼街道と東浜街道がぶつかるポイントである。その交差点には見事な旧大内料理学院が建っている。)
八日町の東にある魚町はもともと小さい漁村で、都市化の進行によって街道沿いの街と接続したというわけ。
そして、明治以降に埋め立てによって現在の南町ができ、港の形が整えられていったという経緯があるそうだ。

  
L: 東に下って新町。新町は南北2つの通りがあり、こちらは広めの北側で気仙沼街道となる。この先でカーヴして東浜街道に接続。
C: 旧大内料理学院(2017年より藍工房 OCEAN BLUEの店舗)。1933年竣工で、もともとは味噌・醤油の製造元だったようだ。
R: 三日町から八日町にかけて。大きめな建物が多く、近代以降の気仙沼の中心。ただし狭いので、街はさらに海へ出たわけだ。

気仙沼市役所の住所は、八日町1丁目1番1号。市街地が延びていく中で用意されたいちばんいい場所、ということか。
実際に訪れてみるとわかるが、手前の県道26号(東浜街道)より一段高いところから、街を見下ろす絶好の位置にある。
そしてこの高さは東日本大震災の津波の際に効いたようで、市役所の建物じたいは特に被害を受けた様子はなかった。
釜石では本当にギリギリのところで市役所が被害を回避していたし、大船渡はしっかり高台に市役所が建てられていた。
やっぱり津波を計算に入れて市役所の位置を決めていたんだなあと思う。土地の高さというのは、本当に正直なのだ。

  
L: 手前の街道から眺める気仙沼市役所入口。ご覧のとおりわずかな高さなのだが、この高さが効いたようだ。
C: 気仙沼市役所の本庁舎。敷地にまったく余裕がないのでこの角度で撮影するのがやっと。  R: 玄関を眺める。

気仙沼市役所の本庁舎は1960年竣工とのこと。設計は石本建築事務所である。特に耐震補強の形跡もなく、
よくあの地震に耐えたものだとびっくり。さすがに新庁舎を建てるべく、10年計画で資金の積立をしている模様。

  
L: 中を覗き込んだところ。昭和だ。  C: 向かいのワン・テン庁舎にある駐車場から見下ろしたところ。
R: 今度は地上のだいたい同じ位置から。幅の広い建物で、全体をカメラの視野に収めるのは大変だった。

本庁舎の手前には、県道26号に面する形でワン・テン庁舎がある。こちらはもともと第三セクターの商業施設で、
1999年にオープン。市役所すぐ横という立地と上に巨大な駐車場を載せている時点で想像がつくとおりの建物だ。
そしてこれが経営難に陥って、結局まるごと市役所の分庁舎となったところまで想像どおりの展開である。

  
L: 本庁舎の端っこにくっついている建物。これも実に昭和である。  C: 本庁舎に面するワン・テン庁舎の北側入口。
R: 県道に面するワン・テン庁舎の南側入口。見てのとおり、もともと商業施設だったのが市役所の分庁舎になった建物。

本庁舎の西側から裏手にまわり込むことができるのだが、明らかに後から増築された部分がくっついている。
いちばん上が市議会の議場となっている。周りをわざわざ掘り込んでおり、土地の余裕のなさが非常に興味深い。

  
L: 本庁舎の西側側面。後ろにある増築部分は市議会の議場などが入る。  C: 本庁舎の西側玄関。これも昭和だ。
R: 裏手にまわり込んで増築部分を眺める。この道のつくり方が面白いなあと思う。背にした山側には住宅が貼り付く。

気仙沼市役所の本庁舎は、正面から見る分にはただの真四角で典型的な昭和30年代スタイルでしかないのだが、
裏手にまわると複雑な地形を意地で整備した形跡が垣間見えて興味深い。背面も実は意外と凝っているし。
釜石市役所もそうだったけど、山を背にしながら微妙なオシャレさを忘れていないのである。やるなあ石本。

 
L: さらにまわり込んで上り坂から増築部分を眺める。  R: 増築部分の左側には本庁舎の背面。けっこう凝っている。

市役所の撮影を終えると、八日町から南町へと出る。さっき書いたとおり、ここは埋め立てられた新しい市街地だ。
しかしそれは当然、津波被害が最もひどかった場所ということだ。一見すると、商店は昔ながらの姿で営業している。
でも先へ進むと仮設のプレハブ商店街が並んでおり、1階入口を板で閉め切った歴史的建造物などが現れる。
居酒屋の壁には、頭のずっと上に「津波到達ライン 5.8m」と書かれた板がある。津波は確かにあった現実なのだ。

  
L: 八日町から南町へと抜ける商店街。一見するとごくふつうの商店街だが、1階は津波の際に水没している。
C: 大いに栄えた港町である気仙沼には歴史的建造物が多く存在する(した)。こちらは三事堂ささ木店舗。
R: 交差点のランドマークとなっている千田家住宅。1階部分が今も板で閉め切られており、被害の大きさを物語る。

江戸時代には宿場町、明治以降は三陸沖で展開される漁業の拠点として大いに栄えた気仙沼の市街地には、
多くの見事な建築がつくられた。契機となったのは1915(大正4)年と1929年の二度にわたる大火で、
そこからの復興の際に、国登録有形文化財に指定されるレヴェルの非常に凝った建物がいくつも建てられたのだ。
しかし、東日本大震災の津波はそれらの建物に大きなダメージを与えた。千田家住宅にはその傷跡が今も生々しく残る。

その千田家住宅までは商店街としての体を成していたのだが、そこから南側は完全に空洞、虚の空間となっていた。
八日町までの市街地は歴史を物語る細い街道に沿って街としての機能を保っていたが、南町には土と車と重機しかない。
陸前高田では際限なく広がるかさ上げ工事の空間を見せつけられたが、それと似た光景が街のど真ん中を占めている。
5年半が経ってもまだこれか、という思いがまたこみ上げてくる。瓦礫こそないが、時間の経過を感じさせない惨状だ。

  
L: 千田家住宅の南側に広がる光景。市街地のど真ん中が巨大な空白のままになっている。5年半も経っているのに。
C: 最近になってマンションも整備されてきているようだが、その手前の道路は舗装されておらず砂利道のままだ。
R: これが気仙沼市南町のど真ん中の光景だ。中心市街地をごっそり奪われた街というのは、よけいに衝撃的に映る。

しばらく南町を歩きまわる。いちばん港側のフェリー乗り場は営業を再開しており、いちおうの仮復旧はしている。
したがって、本来であれば都市で最も賑わうであろう中央の平地部分だけが完全に抜け落ちた格好になっており、
よけいに違和感が強調されているように思う。駐車場として開放されているのがまた、強烈な違和感をもたらしている。
街の中心が巨大な空白、そして広い駐車場となっている。でもそこから行くべき場所がない。言わば、二重の空白か。

  
L: 市街地のど真ん中の空白。  C: その空白は駐車場となっているが、車を止めてどこへ行くというのだ。
R: 本来なら都市の中心となる部分が「無」となっている、その衝撃は大きい。ブラックホールに意味が吸い込まれる。

茫然しながら歩いていると、空白の南側に仮設の飲食店街があった。「復興 屋台村 気仙沼横丁」とある。
いいかげん腹が減っており、ちょうどいいやと迷わず中へと飛び込んだ。気仙沼ならやはり海鮮か、と思っていると、
「気仙沼ホルモン」の文字を発見。そうだった、これしかねえぜ!と即断即決、その看板を出していた韓国料理店に入る。

  
L: 復興 屋台村 気仙沼横丁。津波により気仙沼全体で7割の飲食店が被害を受けたそうで、その復興を目指す事業だ。
C,R: 中の様子。天気が悪いとはいえ、日曜のお昼なんだからもうちょっと賑わっていてもいいと思うのだが……。

何が魅力的って、お一人様でも気仙沼ホルモンの定食をいただけること。一人でも食えるってのは重要なポイントだ。
小さめの焼肉コンロで自分で焼いて食べるというスタイル。いいじゃないですか、いいじゃないですか!
店主が教えてくれたのだが、気仙沼ホルモン最大の特徴は、ソースをかけたキャベツと一緒に食べることだそうだ。
確かに今までホルモンをそんなふうに食べたことはない。焼いてタレにつけて食う、そのやり方しか思い浮かばない。
気仙沼は国際的な漁港なので外国文化に寛容で、韓国由来のホルモンがそんなに違和感なく受け入れられたらしい。
また船員の野菜不足解消のためにキャベツを添えるようになったそうで、これはまさに気仙沼ならではの名物なのである。
正直なところ、僕はそんなにホルモンが得意ではない。食えないわけではないが、過度に脂っこいのが気になるのだ。
ところが気仙沼ホルモンの場合、キャベツがホルモンの脂を見事にサッパリさせてくれる。これには目から鱗が落ちたね。
メシと一緒ならいくらでも食える、本当にそれくらい合うのだ。夢中で食べたけど、どんなに食っても飽きなくてびっくり。
けっこうお腹いっぱいになる量があったのだが、これで500円(税込)ってどういうことだ!? お得にもほどがある!!
隣で食っていた家族連れも呆れていた。この値段じゃ復興にならねえだろうと思うのだが。味でも感動、値段でも感動。

  
L: 気仙沼ホルモンの定食。ひととおり食べるとけっこうな量になります。これが500円というのはサーヴィスしすぎだよ。
C: 気仙沼ホルモンはモツが生で出てくる。これをしっかり焼くのだ。ちょうど食べやすいサイズなのがまたありがたい。
R: で、キャベツと一緒にいただく。ホルモンの脂っぽさが見事に中和される上にシャキシャキした歯ごたえが加わる。最高。

余韻に浸りながら店を後にする。なんだかんだで全国各地のB級グルメを食っているが、気仙沼ホルモンには驚かされた。
キャベツというちょっとの工夫で、こんなにも魅力が増すものなのかとびっくり。皆さんもぜひお試しください。
さて昼メシを無事に食って落ち着いたところで、もうひとつの気仙沼名物について書いておこう。「ホヤぼーや」である。
とにかく街中のあちこちで見かける存在なのだ。密度でいえば、木更津のタヌキといい勝負だ。やたらといるのよ。
(木更津のタヌキ密度のすごさは過去ログを参照。これを基準にするのは自分でもどうかと思うが。→2008.12.23

  
L: 街角のホヤぼーや。とにかくあちこちにいる。やなせたかしデザインかと思ったら違った。非常にやなせ的だが。
C: 津波被害を示す案内にもホヤぼーや。これとは別タイプの案内にも描かれていた。  R: 男も女もホヤぼーや。

残った時間は気ままに気仙沼の街を歩いてまわる。昨日の大船渡でも見かけた仮設のプレハブ商店街は、
もうちょっとあちこちに点在している感じ。2階建てのプレハブを空き地に積極的に配置している感じである。

  
L: 気仙沼の仮設のプレハブ商店街。というか、ここでもホヤぼーやかよ! どんだけ好きなんだ、と呆れる。
C: プレハブ商店街・南町紫市場の内部の様子。イロハ二ホヘトチの8つの建物によって構成されている。
R: 従来の商店街と違い、復興商店街は道路には沿わない。手法としては明らかにショッピングモール的なのだ。

さっき南町に出るとき、三事堂ささ木店舗と千田家住宅については見たが、それ以外の国登録有形文化財も見てみる。
わかりやすいところで角星店舗と男山本店店舗を見てみたが、津波による被害の大きさに言葉を失ってしまった。
市では着実に修復・復元を行っていく予定で、その第一弾として角星店舗が11月から営業を再開するとのこと。

  
L: 角星店舗。1930年頃の竣工で、震災では1階と2階が分断して流されたそうだ。復興のシンボルとなるか。
C: 男山本店店舗。震災で漁船が衝突して3階だけが残った。建物がそんなだるま落とし状態になるものなのかと唖然。
R: かつて建物があった跡。魚町の辺りはこのような状態になっている場所や、1階部分がボロボロの建物が非常に多い。

港の北側を歩いてみると、津波被害の形跡がまた別の生々しい形で残されていた。それは、無理やりなかさ上げだ。
車道がアスファルトで舗装されているが、その脇の歩道は車道より一段低いところに舗装のレンガが露出していて、
その上には土嚢と砂利がかぶせられている。つまり、もともとこの辺りは、歩道のレンガの高さしかなかったのだ。
しかし震災後、まず車道を一段高くしたわけだ。たぶん今後、レンガごと埋めて歩道を車道の高さに合わせるのだろう。
東日本大震災級の津波は特殊な事例としても、少しでも土地を高くしておきたい、そういう意図が見えてくる光景だ。

  
L: 港に面した通りでは無理なかさ上げをしている。車道とつながる入口が歩道より高く、無理に盛り上げられている事例。
C: 港の敷地内にはスクリューのオブジェだったのか何なのか、ベコベコになったまま無造作に置かれている物があった。
R: 港の対岸にある気仙沼お魚いちばと気仙沼プラザホテルを眺める。静かな海には無数の漁船が停泊している。

上で写真を載せているほやボーイの簡易トイレだが、実はその裏側には「海と生きる気仙沼」と大きく書かれている。
それがすべてなのだろう。二度の大火に遭いながらもたくましく復興を果たしてきた歴史が、気仙沼にはあるのだ。
そして今回の津波。市街地の中心部を完全に失っても、「海と生きる」と力強く宣言する。着実に歴史を取り戻しつつ、
誇りを持って復興への歩を進める。不幸を正面から受け止めて、土地を愛し続ける。気仙沼の強さを見せつけられた。
気仙沼お魚いちばにも寄ってみたが、建物の中いっぱいに地元の海の幸が並べられていた。本当にたくましかった。

帰りは大船渡線で一ノ関へ出る。気仙沼以西は鉄路が健在なのである。BRTとの違いを実感しながら揺られる。
一ノ関で1時間ほど休憩すると、一気に新幹線で帰る。2日間の旅行だったが、予想していたよりもずっと内容は濃かった。

われわれは「被災地」という言葉で簡単に括ってしまうが、それぞれの街が違った歴史を持ち、違った価値観を持ち、
違った形で復興を目指していることを、この目で確かめることができた。もちろん、完全に理解できたつもりはないが。
釜石は企業城下町らしい要領の良さで、淡々とそして着実に都市機能を復活させている。「釜石の奇跡」もあったように、
精神的なダメージは比較的小さめな印象だ。新旧の建物を織り交ぜて、市街地は素早く日常の営みを取り戻していた。
大船渡はもともと盛と大船渡の2つの核を持っているせいか、良くも悪くも片肺でも飛べるという余裕を感じさせた。
そして大船渡地区は郊外社会化のエネルギーを巧みに享受して盛と対抗しつつ、新たな可能性を切り開こうとしている。
最も傷が深いのは陸前高田だろう。時間的にも空間的にも果てしないかさ上げ工事。5年半経っても空白は埋まらない。
そんな日々の中では、人はネガティヴだろうと依代を必要とするのだ。無や空虚こそ、耐えることのできないものだから。
逆を言えば、震災遺構すら依代として積極的に必要とするほどに、陸前高田は本当にすべてを失ってしまったのだ。
気仙沼は歴史とともに街を拡張し、災害から復興してきた経験がある。その誇りと漁業の街というアイデンティティが、
どこか明るい雰囲気を醸し出していた。あちこちにいるホヤぼーやからは、打たれ強い街ならではの余裕を感じる。

5年半前、僕はヴォランティアに行ったわけでもなく、ただテレビの画面を茫然と見つめているだけだった。
そんな人間が気ままな物見遊山で復興を目指す街を歩いた。そしてその必死の活動に対し、勝手な意味付けをした。
ただそれだけである。落としたお金も知れたものだ。でも訪れたことで、わずかながらの当事者意識を持てたとは思う。
大きなものを背負えるだけの力はとてもないが、ようやく震災復興を他人事ではないと感じることができるようになった。
今回の旅には、そういう確かな意義があったと信じたい。地道な応援をできる範囲で続けたいと思う。


2016.9.18 (Sun.)

午前7時10分、釜石駅前に降り立った。例のごとく寝ぼけ眼で周囲を見回す。残念なことにちょうどそのタイミングで、
アスファルトに黒い粒が描かれはじめた。覚悟はしていたが、いざ実際に旅先で雨に降られるとそれだけで気が重くなる。
僕としてはどうしても、この旅は青空の下でやりきりたかったのだ。でもこの秋の天気はそれを許してくれなかった。

全国あちこちを動きまわっている僕だが、今までまったく足を踏み入れることのなかった地域がある。東北沿岸部だ。
厳密に言えば、一昨年のGWに久慈と宮古を訪れている(→2014.5.32014.5.4)。でもそれよりも南側の沿岸部、
もっと言うと「東日本大震災の津波の被災地」はまだ一度も訪れたことがなかった。訪れることのないまま震災が起きた。
2011年3月11日、そこを境目に日本は「それまでとは違う未来」に入り込んでしまったように思う(→2011.3.11)。
その2日後のログで僕はこう書いた。「僕のいつか行きたいと思っていた街が、訪れることのないまま消えてしまったのだ。
その街のことを自分の中に刻み付ける機会がないままに、津波によって一気に街が壊されてしまった。
現実の生活を失ってしまった方々のほうが圧倒的につらいに決まっているのだが、
このことで二度と触れるのことのできないものが僕の中にもできてしまった。」と(→2011.3.13)。
これから僕が訪れるのは、「違う未来」に入り込んで5年後の世界である。でもこちらが絶対的な現実の世界なのだ。
そして5年という時間が経過してしまった。これ以上、逃げるわけにはいかない。現実を直視するために、僕はここに来た。

  
L: JR釜石駅。「鉄のまち」ということで、製鉄所の溶鉱炉をイメージしたデザインになっているとのこと。
C: 駅舎内。左側の釜石線の案内表示は通常どおりだが、右側の山田線の方は「運転を見合わせております」。
R: 向かって右には三陸鉄道の釜石駅。宮古までの山田線は三陸鉄道に移管されて2018年度に復旧する見込み。

JR釜石駅の駅舎はずいぶん真新しい。被害は受けたそうだが復興支援ということで2012年にリニューアルされたのだ。
とりあえず中の立ち食いそば屋でラーメンを食べて落ち着くと、釜石の街へと歩きだす。駅は大渡川の右岸にあるが、
市街地は左岸だ。右岸の方がずっと高く、駅と新日鐵住金釜石製鐵所はその分だけ津波の被害が少なかったのだろう。
主要な建物はきっちり高さのある場所に建ててあったわけだ。土地の高低は残酷なまでに正直だとあらためて思う。
ある線から上と下で明確に光景が異なっていた、浄土ヶ浜へ向かうバスの中から見た事実(→2014.5.4)を思い出す。

 
L: 釜石駅にあったオブジェ。新日鉄釜石ラグビー部は現在、釜石シーウェイブスとして活動中。
R: 新日鐵住金の釜石製鐵所を覗き込む。八幡製鐵所よりも先に操業している日本最古の製鉄所なのだ。

国道から分岐した県道4号が釜石市のメインストリートである。なだらかにくねりながら東へと延びていくが、
なるほどよく見ると確かに建物が全体的に新しい。旧来の商店街らしい雰囲気はきちんと残っているのだけど、
並んでいる店舗が妙に小ぎれいなのだ。そして素材として軽い感触がする。たまに昭和の建物が混じっているので、
よけいに新しい店舗の軽さが目立つ格好になっている。そこから逆に、現代の建築はプレハブ化している印象を受けた。
この新しくて軽い建物たちは、このまま年を経ていったとき、どのような感触の商店街を形成するのだろうか?
強制的な新陳代謝を迫られた街並みを見ているうちに、なんだか実験室に放り込まれたような気分になった。

  
L: 大渡川を渡って市街地に入ったところ。商店街は密度をやや薄くして、軽い感触の建材で再建されていた。
C: 街の中心と思われる交差点には2つのホテルがそびえる。かつて県道4号はアーケード商店街となっていたようだ。
R: 交差点の南北方向はウッドデッキの遊歩道となっている。震災前はどんな空間だったのか。それにしても山が近い。

県道4号の南側も歩いてみたのだが、やはり真新しい建物が多く、そしてプレハブ感つまり軽さを感じさせる。
土地の匂いじたいは昔ながらの街のものなのに、上にある建物は真新しい。その据わりの悪さがどうにも切ない。

 真新しい建物が多いということは、復興ぶりを示してはいるのだが。

釜石市役所へと向かう。市役所は市街地の北東、山を背にして少し高くなった場所に位置している。
第1庁舎の西側には第4庁舎があるのだが、津波がこの高さまで来ましたよ、と示す板が貼ってあって、
あらためてその衝撃を実感させられる。1階と2階の間の高さ、つまり市街地はこの高さまで水没したのだ。
僕の身長よりもずっと高い位置まで海が襲ってきた。その一瞬の結果、今の真新しい街並みとなっている。
テレビの映像でさんざん見たけど、それがかつて、この場所で。想像してみるが、今の自分いる場所と、
なかなか上手くリンクしない。つまりは現在の釜石の市街地が着実に復興している、その証左だと思う。

  
L: 釜石市役所第1庁舎。見てのとおり、周囲よりも高い場所に建てられている。津波は建物の足元ギリギリまで来た。
C: 西にある第4庁舎。1階と2階の間に津波の浸水を示す青い板が貼られている。  R: クローズアップするとこう。

釜石市役所の第1庁舎は1954年の竣工とのこと。堂々たるファサードを持つわりには意外と新しい、という印象だ。
周囲よりも一段高いところに建てている点といい、きちんと車止めを持っている点といい、プライドを大いに感じさせる。

  
L: 正面より眺める釜石市役所第1庁舎。  C: 堂々たるモダンなファサードは戦前の建築のような迫力がある。
R: 角度を変えて眺める。こういうプライドを感じさせる庁舎建築は減る一方。敷居は高いくらいでちょうどいい。

実際、釜石市役所第1庁舎はこの高さが見事に効いて、津波の浸水を本当にギリギリのところで回避している。
その計算したかのようなギリギリぶりには思わず溜め息が漏れてしまった。避けられない津波をわかったうえで、
被害を受けないようにきちんと建てているという意味では、先人の知恵が見事に発揮された誇らしい事例と言える。

  
L: このギリギリっぷりがすごい。  C: 玄関前から市街地を眺める。これがすべて、海の底となってしまったのだ。
R: 釜石市役所第1庁舎は側面も面白い。モダンの要素をしっかり詰め込んでいる建築で、僕としてはかなり好みだ。

しかし震災前から耐震強度に問題があったそうで、さすがに建て替えの話が出てきているようだ。個人的には残念。
もうちょっと山の方へ入ったところに仮設住宅の団地があるのだが、そこが移転先の候補地となっている模様。
今回はギリギリで津波を回避したが、さらに高い位置へ移ろうというのだ。まあ、無理もないことだとは思う。

  
L: 正面玄関。防寒対策ということで、中にもう一枚扉があるのがいかにも東北地方だなあと。  C: 直進。
R: 左に曲がると窓口。暗いのは日曜日だからだろう。いかにも昭和の役所空間で、それがまた個人的には好み。

天気が良ければもっとダラダラしながら釜石の市街地を歩きたかったのだが、観光名所もまったくないし、
街並みの感想は「真新しい」で終わりだし、予定より一本早い列車で次の目的地・大船渡へ向かうことにした。
ぜひ次の機会には、釜石シーウェイブスの試合を観て釜石ラーメンを食べてみたい。宮古から三陸鉄道で来たいね。

釜石駅に戻ると、三陸鉄道の南リアス線に揺られる。車窓から見える景色はやはりまだまだ傷跡が生々しい。
一昨年の北リアス線もそうだったが(→2014.5.4)、天気が悪い分だけネガティヴさが強調されるように思う。

  
L: 唐丹(とうに)駅の手前にて。  C: 甫嶺駅を後にすると大きな堤防が見えてくる。  R: 巨大なコンクリ構造体。

終点の盛駅に着いたのは10時過ぎ。大船渡市には北の盛駅と南の大船渡駅の2つの核がある。距離にして1駅。
今夜は大船渡駅近くのホテルに泊まる予定なのだが、いくら1駅分の距離があるとはいえ、その日に泊まる街に、
こんなに早い時間に着いてしまうのは初めてだ。どうすればいいのやら。とりあえず、盛駅を撮影してまわる。

  
L: 盛駅のホームにて。左は三陸鉄道、右はJRのBRT。かつては線路だったが、舗装されてバス専用道路となっている。
C: 角度を変えて眺める。同じホームなのに、片方は列車で片方はバスというのがなんとも。でもこれが現実なのだ。
R: 鉄道のホームなんだけど道路。バスだとなんとなくありがたみが感じられないけどオレは鉄じゃないよ!?

毎度おなじみ最果て部分も撮ってみたのだが、鉄道の上を強引に舗装してしまっている光景は、かなり切ない。
本来であればつながっていたものが、バッサリと上書きされている。それは、鉄路の否定そのものなのである。
もう二度と気仙沼までの大船渡線が鉄道として復活することがないのかと思うと、なんとも複雑な心境になる。

 鉄道が強引に舗装されている光景。鉄道の意義を思わず考えてしまうよ。

早めに大船渡市に来たのはいいが、天気は最悪。本来であれば盛と大船渡、2つの核の違いを確かめるべく、
とことんまで歩きまわるところだ。しかしそんなやる気がまるで出てこないくらいにしっかり雨が降っているのだ。
とはいえ後悔するのはイヤなので、まずは盛駅周辺の市街地をがんばって歩く。感触を言語化しようと試みる。

  
L: 盛駅。県道230号に面しているが、一歩引いて駅前ロータリーにしている。東北にはたまにそういう駅がある印象。
C: 盛駅前の通り。思ったよりは鄙びているが、昔ながらの中心市街地らしさも色濃く残している感触がある。
R: 西の国道、東の県道の間には旧街道が通っている。ゆったりとくねる道沿いには古い店舗もよく残っている。

大船渡市は1952年に大船渡町と盛町をはじめとする2町5村が合併して誕生した。大船渡市となる前は気仙郡に属し、
郡役所は盛の方に置かれていた。町制施行も盛町の方が早い。つまりかつては行政の盛と港湾の大船渡だったわけだ。
盛駅の北西側には旧市街地が広がっており、確かに近代以前の街の匂いがわりとしっかり感じられる空間となっている。

  
L: 街に旧街道らしい雰囲気はしっかりあるので、盛としての歴史をもうちょっと強調してほしいと思うのだが。
C: 盛町の朝市は毎月0と5のつく日に開催されるそうだ。専用のスペースができているってのはちょっとすごい。
R: 県道沿いにはショッピングセンターのサンリアがある。かつての街道沿いの商店街はこの中に集約されたか。

盛町をぐるっと一回りして雰囲気をつかむと、大船渡市役所へと向かう。前述のとおり大船渡市は2つの核を持つが、
市役所は盛の方にある。ただし盛の市街地からははずれた位置にあり、大船渡のある南側に少し寄った立地である。
街と山の境目に沿って国道45号は南北に走っているが、そこから高台に上ったところに大船渡市役所はある。
やはり津波の可能性をわかっているので、街を見下ろす位置に建てているのだ。こちらの丘は釜石よりずっと高い。

  
L: 大船渡市役所。これは翌朝にあらためて撮影した写真。やっぱり雨に降られたが、邪魔な車がなくってよかった。
C: 近づいてみたところ。  R: 角度を変えてクローズアップ。かなり正統派のコンクリモダン庁舎である。

大船渡市役所の竣工は1970年。設計者は誰だかわからないのだが、細かいところできちんと凝っている建物で、
けっこうな気合を感じさせる。コンクリートという素材を信じてやりきる意志を感じさせる建物となっている。
地上3階建てと高さはないが、延べ床面積はかなりある。広大な駐車場のおかげで撮影できるが、本当に幅が広い。

  
L: エントランスを撮影。いかにもモダンな軒の上には「大船渡市役所」の文字が載っている。そういうの好き。
C: 側面の方へとまわり込む。  R: 側面。建物じたいはシンプル庁舎だが、この外付けの階段がまたモダン。

背後にまわると、正面と似た感じのファサードになっていた。同じ大きさの正方形を点対称で互い違いに配置した、
大船渡市役所はそんなつくりになっているわけだ。ただし背面側には、低層の別館だか何だかがくっついている。

  
L: 背面。市章が目立っている。  C: 角度を変えて眺める。  R: まわり込んで側面。こちらは一段低い駐車場。

一周すると、中に入ってみる。土曜日だけど一部の窓口は開いているようで、正面からそのまま入ることができた。
天井が低く圧迫感があるものの、木材をしっかり使っていてかなり垢抜けている印象である。最近改装したのかな。

  
L: エントランスから入るとピロティなのね。  C: 左手は市議会入口。  R: 中に入るとこんな感じ。オシャレだ。

撮影を終えると盛駅から少し北に行ったところにある商業施設のサンリアで、おやつを買い込んで一休み。
そのまま2階のフードコートで昼飯もいただいてしまう。旧街道の商店街はすっかりただの住宅地になっていたが、
かつてそこにあった賑わいがサンリアに凝縮された感じである。頃合いを見てすぐ外にあるバス停へと移動。
大船渡の観光地というと、どうも碁石海岸が真っ先に候補として挙がるようだ。それなら行くしかないのである。
海を訪れるには天気が悲しすぎるのだが、だからといってこのままじっとしていることなどありえないのだ。

やってきたバスに揺られること50分ほどで終点の碁石海岸バス停に到着。帰りのバスが出るまで30分強で、
それが最終なので乗らないわけにはいかない。雨で地面が濡れており、足首が完治していないので不安がいっぱい。
でもできるだけ動きまわってやるのだ。覚悟を決めて、いざ観光開始。松林の中を進んでいくと、灯台があった。

  
L: 岩の崖の上にある松林の遊歩道を行く。  C: 気配がして四阿の天井を見上げたら、こんな像が乗っていた。
R: 碁石岬の碁石埼灯台。初点灯が1958年で、わりと最近な感じ。全国に20ある「恋する灯台」のひとつとか。

灯台の先には展望台。やはり雨ということもあって、特に眺めがいいわけではなかった。無念である。
脇から海へと下っていくと、「えびす浜」という小さな浜辺に出た。本来の碁石海岸はさらにこの先らしいが、
そこまで行っている時間はないのだ。碁石海岸をミニチュア化したような雰囲気らしいので、これで納得しておく。

  
L: 展望台。天気のせいもあり、特に感想はない。  C: 本来の碁石海岸は右手の木々で隠れてしまっている位置にある。
R: えびす浜。やはり本来の碁石海岸まで行けないのは切ない。もう一本遅いバスがあればいいんだけどねえ……。

足首を気にしながら早足で戻る。最後に雷岩・乱曝谷展望台に寄ったのだが、最近つくられたのかなかなかオシャレ。
天気がよければ周りの迫力ある景色とともに、もっと良い印象になったんだろうけどねえ。本当にもったいない。
急いでバス停に戻って、市街地へと帰るのであった。やっぱり旅行は天気しだいだと痛感させられたなあ。
時間に余裕があれば、レストハウスの向かいにある「世界の椿館・碁石」にも寄りたかった。植物園は好きなのよ。
大船渡はヤブツバキの北限なんだそうで、けっこうなこだわりがある模様。椿専門の施設とは潔いなあと思う。

  
L: 左が雷岩で、水路が乱曝谷(らんぼうや)。遊覧船がここを走るそうだ。  C: 角度を変えて展望台より。
R: 雷岩・乱曝谷展望台は最近つくられたようで、オシャレなのであった。でも雨のせいで魅力が半減。悔しい。

帰りは盛駅までは戻らずに、商人橋(あきんどばし)というバス停で下車する。大船渡駅にいちばん近いバス停だ。
今日は午前中に盛駅周辺を歩きまわったので、午後はもうひとつの核である大船渡駅周辺を歩きまわるのだ。

バス停は南北を走る国道45号沿いにあり、そこからまず大船渡駅方面へと向かう。が、どうも様子がおかしい。
国道沿いにはロードサイド店舗がいくつも並んでいるのだが、どこか真新しくて再開発の匂いが強いのである。
不思議に思いつつ国道の東側に入ると、そこにはかつて宮古でも見た緑色のネット(→2014.5.4)が張ってあった。
中を覗き込むと、鉄筋が剥き出しになったコンクリートの土台、そして土、重機。なるほど、すべてが理解できた。
先ほど訪れた盛駅周辺にも津波が押し寄せてきたという話だが、壊滅的な被害を受けた様子はなかった。
しかしそれより南、港に面した大船渡駅周辺は、5年前にすべてを持っていかれた土地だったのだ。
国道に沿ってポツポツと新しい店舗ができたことで、表面的には地方都市の日常を取り戻した感触にはなった。
しかし、一皮剥けば5年前からほとんど姿を変えていない部分が露になる。圧倒的な現実が目の前に現れた。

  
L: 国道45号の東側。  C: 緑のネットの中を覗き込むと、このような光景が広がっていた。
R: おおふなと夢商店街。仮設の商店街を訪れるのは初めてだったので、なかなか衝撃的だった。

さらに大船渡駅方向へ歩いていくと、全体がプレハブでできている「おおふなと夢商店街」にぶつかった。
このような、いかにも被災地の復興支援な場所を訪れたのは初めてだったので、これはけっこう衝撃的だった。
調べてみると、独立行政法人・中小企業基盤整備機構が市町村の要請に基づいて整備した仮設商店街とのこと。
青森・岩手・宮城・福島・茨城の各県のほか、同時期に発生した長野県北部地震も対象のようで、栄村にもある。
ひととおり歩きまわったが、これは規模の小さいショッピングセンターだと思う。複数の店が郊外に集まったアレ。
駐車場を共用して店舗が並んでいるアレ。それが歩行者レヴェルで実現されたものだと直感的に理解した。
これが極限まで拡大するとアウトレットモールになるわけだが、その最も小規模なパターンがコレだと思った。

  
L: プレハブの店舗が並ぶ仮設商店街。プレハブは2階建てになっているものもある。けっこうしっかりつくってある印象。
C: 飲食店から日用品を扱う店、さらに印刷所までさまざまな店が並ぶ。  R: 雨のせいか、ほかに客はいなかった。

おおふなと夢商店街を東へ抜けると、BRTの大船渡駅である。震災前の鉄道駅は小ぢんまりとした駅舎だったそうだが、
今は高速バスの停留所のような雰囲気になっている。バス専用道路は周囲の土地よりもかさ上げされた高さとなっており、
それだけで震災のトラウマを感じさせる。これが当たり前の光景となって久しい、その現実に言葉もなくたたずむ。

  
L: BRT大船渡駅を下から眺める。  C: 雰囲気は高速バスの停留所といった感じ。  R: 反対側にはトイレ。

ぼーっと眺めていたら、盛からのバスがやってきて、乗降客を入れ替えて去っていった。利用客はしっかりいるが、
BRTというのはつまり、バス1台で済ませるということである。列車でいえば1両編成ってことになると思う。
それで十分済んでしまうという事実じたいが、被災地云々以前に地方の片田舎の現実ということなのだ。

 気仙沼へ向かうバスを見送る。これは被災地というより地方都市の問題なのだ。

大船渡駅の東側に抜けるとロータリーがあるが、その向こうにあるのは土と金属のパイプ、そして重機の群れだった。
西側はまだ人間の暮らしを十分感じさせる空間だったが、こちら側はまさに土以外には何もない、茫洋たる空間だ。
津波の襲来から5年が経って、この状態かと思う。まだ何も始まっていない空間、それだけが広がっている。
しかし一方で、僕の頭の中には「フロンティア」という言葉が浮かんだのもまた事実だ。これは、可能性の空間だ。
大船渡市の震災での死者・行方不明者は419名。建物被害は5582世帯。物的被害は判明分だけで1077億円。
その数字を考えればこの現実をポジティヴに受け止められるはずもない。しかし、広大な空間が次の未来を待っている。
少なくとも、重機たちはポジティヴさを生み出すべく働いている。下を向いてばかりいるわけにはいかないのだ。
それが現実の厳しさに対抗する人間(というか生物)の強さでもある。それはそれ、これはこれ。そうせざるをえない。

  
L: 大船渡駅のロータリーから港側を眺める。震災から5年が経っても、このような光景が茫洋と広がっている。
C: 正直なところ、僕は傷跡に圧倒されると同時に「フロンティア」という言葉を思い浮かべた。やり直す可能性。
R: すでに道路の整備が済んでいる箇所も。これは須崎川に架かる新桜橋の上から南側を眺めたところ。

どうやら大船渡駅の南東側はホテルをはじめとしてある程度の整備が終わっているようだ。歩いて行ってみると、
そこには郊外型のスーパー・衣料品店・飲食店などが集まっていた。ここだけ見れば、被災地という印象はまるでない。
ごくごく一般的な地方都市の国道沿いの風景そのものである。しかし一歩離れれば茫洋たる工事中の大地が広がる。
この落差に僕は面食らった。いったい何なんだ。駐車場には無数の車が集まっており、客でごった返しているのだ。
僕がさっき思い浮かべた「フロンティア」は、このようにして実際に賑わいを生み出している。この現実は何なんだ。
考えたくないのだが、目の前の事実は僕に語りかける。津波という従来の生活空間へのジェノサイド(クリアランス)と、
それによって新たに生まれた郊外ショッピングモール社会。鉄道の消滅とBRTによる再生というモータリゼーション化。
さっき訪れた大船渡駅西側の「おおふなと夢商店街」はヒューマンスケールの最小ショッピングセンターだったが、
こちらで展開されているのはモータリゼーションのショッピングセンターそのもの。社会そのものが書き換えられたのだ。
つまり、「フロンティア」とは郊外社会にとっての可能性に他ならなかったのだ。僕はただただ愕然とするだけだった。
21世紀の社会において、商店街という空間は存在しえないのか!? マニュアル化された、個人ではない企業による、
大量消費目的の商業空間しか要求されていないのか!? 地方活性化は画一化されたこの方法以外ありえないのか!?
在野の都市社会学者として、これは絶望的な光景でしかない。1980年代から僕たちは何も進化していないじゃないか!
震災は、旧来の街並みを壊すだけ壊し、人の命と財産を奪い、企業主導の郊外化を押し進めるためのものなのか!?

  
L: とても被災地にあるとは思えない郊外型ショッピングセンター。かなりの賑わい。座り込む外国人(中国人)も目立つ。
C,R: 角度を変えて眺める。この一角だけ見ると国道沿いのよくある風景だが、その周囲には工事中の大地が広がるのだ。

そしてもうひとつ、僕の理解を超えている事実があった。それは外国人、特に中国人の多さだ。これは異様ですらある。
思えばさっき、盛で休憩しているときも中国人女性のグループが集まって話をしていた。そのときは気にも留めなかったが、
ここ大船渡のショッピングセンターでは店舗の前でたむろしている中国人が非常に多い。座り込んでいる者もいる。
店側も「禁止坐在地面上」「禁止进入」といった貼り紙をしているのだが、それが守られているとはとても言えない。
彼らはなぜ大船渡にいるのだろうか。何が目的で来たのだろうか。どこで働いているのだろうか。まるで想像がつかない。
しかしさっきの郊外化の流れと合わせて、良くない予感はする。被災地は、日本のどんな未来を描こうとしているのか。

  
L: ショッピングセンターの向かいはこの光景。左側の建物は、僕がこの日に宿泊したホテルである。
C: ちょっと動いて交差点。人々はこのような空間を通り抜けてショッピングセンターへとやってくるのだ。
R: 港側への入口は封鎖されていて行けないようになっていた。この通行止めが解除される日はいつになるのか。

南にまわってから再びBRT大船渡線の西側に出る。こちらにも店が複数入ったプレハブの建物があったのだが、
それを眺めているうちに、「なんだか部室みたいだな」と思った。高校にあった部室棟に雰囲気がそっくりなのだ。
そう考えると、プレハブに入る店舗は学園祭のような非日常感、ワクワク感をまとわせているようにも思えてくる。
学園祭のような店舗というと秋葉原のメイド喫茶を思い出すが(→2005.9.11)、似ている要素はあるだろう。
もちろんそれはポジティヴな感覚ということで、被災地という絶対的な悲劇性とは本来は相反するものである。
しかし悲劇から立ち上がるにあたって必要となるポジティヴさを増幅する役割は果たしうるだろう。「演出」として。

  
L: BRTの「踏切」。鉄道とは逆に、BRTのバス専用道路の方に遮断機がある。白地に赤い×の標識はBRTの証拠(→2014.12.23)。
C,R: プレハブの集合店舗は部室の雰囲気を漂わせる。親しい者たちの秘密基地、といったワクワク感があるのは否定できまい。

そのまま、国道に面した丘の上にある加茂神社に参拝する。別雷神を祀っているそうで、なるほど上賀茂系である。
同じ境内には横向きに八坂神社もあって、こちらの社殿の後ろに茅の輪が置いてあり、なるほど牛頭天王系だと納得。
運良く御守を頂戴できたのはよかった。街を象徴する神社(位置的にそのはず)の御守が頂戴できるのはうれしい。

  
L: 加茂神社入口。石段を上ってさらにまた上ると境内。  C: 社務所の脇には津波警報塔が建てられている。
R: 社殿。神様は津波で目の前の街が流されるのをどんな思いで見つめたのか。郊外化する復興をどんな思いで見つめるのか。

加茂神社の手前からは大船渡の港町が一望できる。5年前、眼下の空間はすべてが海の一部と化してしまった。
そこから残った建物、プレハブの建物、新たにできた建物、露になった土、今はそれらが景観を形成している。
神社ってのはもっと長いスパンで事態を見つめているはずだ。「いや、近代化したときの方が大胆な変化だったよ」
なんてふうに神様は言うのかもしれない。「津波のたびに人間は立ち上がる」、それだけが確かな事実なのか。

  
L: 神社の手前からちょっと行ったところから北側を眺める。国道45号を軸にして郊外型の店舗が点々と並ぶ。
C: 神社のすぐ手前から大船渡駅方向(北東側)を眺める。  R: 東側を眺める。郊外ショッピングセンターが賑わう。

もう行くところもないので、国道沿いの本屋で時間をつぶす。旅行ガイドで岩手三陸海岸のページを見てみるが、
やはりそもそもがこれといった観光名所がないし、復興支援をクローズアップしているようなページもほとんどない。
つまり、もともとこの地域じたいが、売りになるものをあまり持っていない「弱い」地域なのだ(→2014.5.16)。

あらためてそのことを実感しながら、大船渡駅前にあるホテルにチェックインする。真新しいホテルは居心地がよく、
非常に快適に過ごすことができた。ふだんのお安いビジネスホテルとは違うなあと思う。いい宿だとやる気がみなぎる。
しかしこのホテルは津波に街が流されたことによって建ったことを考えると、またちょっと複雑な気持ちにもなる。

  
L: ホテルから西側を眺めたところ。国道45号より西側(山側)はこまごまと住宅があり、以前とそんなに変わらない感じ。
C: 北側には大船渡駅とロータリー。  R: そして東側(海側)。整備が終わるのはいつの日か。また、どんな姿になるのか。

せっかくなので、晩ご飯はおおふなと夢商店街でいただくことにした。上で書いたようにプレハブの店舗というのは、
仲間内での親密さを増幅する要素があるだけに、一見さんが入りづらい雰囲気がある。正直ちょっと勇気が要ったが、
恥ずかしがっていてはいい旅などできないのだ。ラーメン店にお邪魔しておいしく醤油ラーメンをいただいたのであった。

 
L: 建物はプレハブでも、中はけっこうしっかりしたつくりになっている。  R: ラーメンおいしゅうございました。

ホテルに戻る途中、BRTの駅を通りながら考える。すでに述べたように、大船渡市には2つの核がある。
鉄道の拠点である盛と、BRTと郊外が交差する大船渡。そして今回泊まるホテルが大船渡にあることの意味。
大船渡市は震災を契機にして、旧大船渡町だけでなく旧盛町も含めて市全体が大きく姿を変えようとしている。
釜石では古い建材による建物と新しい建材による建物が街並みとして調和していく実験室のように感じたが、
大船渡はもっと大胆で壮大な実験をやっている。それは、郊外こそが新たな都市の中心となる、という実験だ。
地方都市の活性化という全国的な問題も引き受けながら、「震災復興」という大義名分も得て事態は進んでいる。
中心市街地に観光名所がないということは、残酷な言い方だが、明確に主役となった歴史がないということでもある。
そんな街・大船渡が郊外化という武器を得てどのように逆襲をしていくのか。冷静に見つめていかなくてはなるまい。
(この点において、過去優位だった旧盛町に対する旧大船渡町の逆襲という意味合いもある。事態は複合的だ。)


2016.9.17 (Sat.)

夏休みの宿題チェックがまだ終わらなくって、思うように部活に参加できない日々が続いている。
自業自得といえば自業自得なのだが、この状況になったそもそもの原因は僕の方にはないので、怒り心頭である。
具体的には書けないのが悔しいが、「生徒の勉強量が絶対的に足りない!」と思ったので宿題を出したわけで、
それを責任持って自分がチェックするのは当然のこと。このチェックがまたバカ丁寧なので時間がやたらかかる。
おまけに生徒はふだん見てもらっていないから、字がものすごく汚いし。まあとにかく、負担が非常に大きい。
この怒りをどのようにコントロールするのが最も望ましい結果につながるのか、あれこれ考える毎日である。


2016.9.16 (Fri.)

都立中央図書館での資料あさりが一段落ついたので、国際法のリポート第2回を書きはじめる。
今回のテーマは「核兵器使用の合法性について」。2000字に要領よくまとめる作業はなかなか難しく、
どうにか半分まで組み立てたところで終了。構成を練り直しながら後半をまた考えなければならず、苦難は続く。

しかし国際法とは面白いものだとあらためて思う。前回は人間が平等であることにもとづく国家の主権免除がテーマで、
関係する歴史的事件や法律や判例などを調べていくと、世の中の仕組みが今までと違った角度で見えてきた。
また、テキストで印象的だったのは海洋法で、厳密な論理性によるルールと現実の関係がやはり新鮮に映った。
そして今回の核兵器使用である。結局、これは戦争に関する国際法のハーグ法とジュネーヴ法を理解する必要があり、
騎士道精神や人道的配慮によって戦争というものには明確なルールが規定されている事実を知ることになるのだ。
特に戦後の日本人は、そもそも戦争を放棄していることから、この辺の知識がまるっきり不要とされてしまっている。
しかし現実にはきちんとルールが存在している。軍事力という究極の暴力を制御するのは人間の理性であって、
法律の論理性というのはまさにその智慧を高度に蓄積したものなのだ。法学部って大変だけど、やりがいあるんだね。


2016.9.15 (Thu.)

湿度が高いと意識が飛ぶのか。今シーズン初の「自分で自分が何言ってんだかわかんない状態」になってしまった。
そんな具合にこっちも妙にヘロヘロになったが、生徒も妙にヘロヘロだった。お互いヘロヘロってことはどうも、
僕の意識が飛ぶのには外的要因があるような気がするのだ。で、思い当たるフシは、湿度ぐらいしかないのだ。
いいかげん「自分で自分が何言ってんだかわかんない状態」はイヤなので、なんとか原因を探って対策を練りたい。


2016.9.14 (Wed.)

来年度からウチの学校では授業スタイルに微妙な変化、本当にものすごく微妙な変化があるのだが、
それが日経新聞に記事として出て、しかもそれがミスリードを誘う内容になっていて、しかも訂正しないんだと。
まあそもそもが、区の方からミスリードを誘う内容を用意したって話もあるそうで。やっぱどっちもクソだな。
わが勤務先の教育委員会がどれだけ頭がおかしいかは書いてもキリがないしイヤな気分になるので書かないが、
何の信念もなく使い捨ての時事記事を載っけるだけ載っけて経済経済と浮かれる日経もバカの極致であるなと。
結局、行政もマスコミも無責任なんだよね。この先がどうなるのかを考えず、その場でのウケしか考えていない。
信念だけで動いているこっちとしては、足を引っ張られて大迷惑だ。そして生徒の教育レヴェルがまた下がる、と。


2016.9.13 (Tue.)

本日は新人戦の組み合わせ抽選会が行われたのだが、われわれがまさか死のグループの草刈り場になろうとは。
夏季大会が一段落ついての新人戦はシードなしでの完全フリー抽選なのだが、区の1位と2位と3位が来るんだもん。
おまけのもう1校も私立だし。部員が来なくて11人揃うかどうかのレヴェルでヒーヒー言ってんのはウチだけだよ。
逆を言うと、強い相手と戦うことで刺激されてサッカーの上手さが引き上げられるのであれば、やる気があれば、
こんなにやりがいのある状況はない。どう捉えるかは生徒しだいだが、われわれが試されるのはまずそこなのよね。


2016.9.12 (Mon.)

艦これはじめました

ラブプラスは2ヶ月もたなかったので、こっちはテキトーになんとかやっていきます。


2016.9.11 (Sun.)

区のサッカー大会3週目、本日はグループ2位どうしが対戦して4位・5位・6位を決めるリーグ戦である。
今までのことを考えると、信じられない善戦ぶりである。こりゃもうできるだけ勝って4位に入らないともったいない。

が、結果は2試合ともスコアレスドローなのであった。ある程度の実力がある相手に失点しなかったよ!と、
確かに言えないことはない。しかしあまりにも見どころの少ない試合でがっくりである。今年もつらかったなあ。

9.11テロ(→2001.9.112001.9.122008.5.10)から15年。撒き散らされたテロの種はあちこちで可視化され、
直接の面識はないもののわずかながらつながりのある人も犠牲となってしまった。事態はまったく改善されていない。
深く根差した悪意を絶やすことは難しく、面倒でもこまめに対処するしかない。もはや世の中は単純ではないのか。
植物(→2012.7.2)とのアナロジーで言うなら、テロが繁殖しづらい環境づくりをもっと意識すべきではないかと思う。
外へ外へといいかっこしいな今の日本の対テロ対策だが、まずは内側をきちんとすべきだ。島国らしさもたまには必要。


2016.9.10 (Sat.)

今シーズン最後の青春18きっぷの旅である。あれこれ考えたのだが、群馬の赤城神社を押さえる旅にした。
夏休み中から週末は台風だったりくずついていたりで、大いにストレスの溜まる天気が続いていたのだが、
最後の最後で運よく晴れてくれたのでほっと一安心。なんだかんだで雨の多い夏だったなあと思う。

さて「赤城神社」と一口に言っても、延喜式に記載されている赤城神社は現在、論社が3つある状態だ。
赤城山の山頂に近い順から、大洞赤城神社・三夜沢赤城神社・二宮赤城神社となる。これを一気に制覇する。
まずは休日に出るバスを利用して、大洞赤城神社から攻めるのだ。前橋駅に着いてから朝メシを食い、バス停へ。
そしたら赤城山に登ろうとしている人たちで行列ができていてびっくりした。皆さん気合の入った恰好ですなあ。

 車内より赤城神社の大鳥居を撮影。

赤城山へは県道4号で向かうのだが、とにかく自転車が多くて呆れた。赤城山ヒルクライム大会なるものをやっており、
決して広くない車道を無数の自転車が上っていくので、バスはいちいち減速する破目になる。本当にイライラさせられる。
結局、バスは予定よりも15分ほど遅れて赤城山大洞のバス停に到着したのであった。これはもう大迷惑である。
目的地の大洞赤城神社までは少し距離があるのに、帰りのバスは10時14分で、30分も滞在できない計算だ。
走って神社まで往復できるならいいが、なんせ足首を捻挫しており思うように動けないのである。勘弁してほしい。

赤城山大洞のバス停から林の中にある石段を下っていくと、大沼のほとりにある大洞赤城神社の旧社地に出る。
なお、「大沼」は正式には「おの」と読むそうだ。大洞赤城神社は1970年に、少し先にある小鳥が島に遷座したのだ。
ロープが張られて立入禁止となっているが、神社らしい遺構はそのまま残っており、実に興味深い空間となっている。

  
L: バス停から石段を下ると大洞赤城神社の旧社地に出る。  C: 鳥居の先を覗き込むとこんな感じになっている。
R: 旧社地から東へまわり込むと土産物店が並ぶ。榛名山(→2016.3.30)より小規模だが活気は上かな。微妙だけど。

大沼ほとりの土産物店から北へと早歩きすること5分、大洞赤城神社の入口に到着。参拝客はそこそこいた。
わざわざ橋を渡って境内へと入る形になっており、それが参拝というちょっと特別な空間体験を上手く演出している。

  
L: 大沼に浮かぶ小鳥が島(厳密には島ではない)が、大洞赤城神社の境内となっている。橋を渡って参拝するのだ。
C: 橋から社殿を眺める。山の天気は変わりやすく、この一瞬だけ晴れた。  R: 橋を渡りきったところ。右に曲がる。

小鳥が島の境内には手前に土産物店があり、その奥に進むと手水舎と社殿という構成。社殿の脇が授与所なのだが、
これがわりと新しめでがっちりつくってある建物。中には無数の御守が置いてあって驚いた。種類が多くて困るわ。
いちばんふつうの御守はないか訊いたところ、赤城山の四季を刺繍したものがそれだ、との回答。800円×4とな。
御守マニアとしては、凝った御守はうれしいが、お財布的には厳しい。四季の御守というと、個人的にはやはり籠神社。
あちらと比べると、色づかいが原色主体で安っぽい印象を与えてしまい、ちょっと残念。まあ現代風ではあるが。

  
L: 小鳥が島の境内。手前には土産物店があり、奥へ進むと手水舎があって、本格的に神社らしい空間となる。
C: 拝殿。  R: 授与所の手前から眺めた本殿。「赤」城神社とはいえ、見事に真っ赤っかなのがなんとも。

なお、大洞赤城神社の正式名称は「赤城神社」である。区別のため「大洞」を冠するのが一般的になっているが、
それだけ赤城神社をめぐる論社のあれこれはややこしいのだ。まあとりあえず、これで奥宮は制覇したと思っておく。

 大洞赤城神社の境内より大沼のほとりの土産物店地帯を振り返る。

急いで戻って帰りのバスに乗り込む。乗客は僕ひとりだけなのであった。みんなマジメに登山するのね。
終点の前橋駅まで揺られると、駅の西側にある駐輪場でレンタサイクルを借りる。ここからが勝負なのだ。
次の目的地は、三夜沢赤城神社。デマンドバスの予約が面倒くさかったので(時間が読めなかったのもある)、
自転車で一気に行ってしまえ、と。気合を入れて出発すると、昼メシを食ってから東へひた走る。ただただ走る。

三夜沢赤城神社への挑戦が非常につらいものになるのは、事前の調査で十分わかりきっていたことだった。
まず、前橋駅からの直線距離でいえば、なんと伊勢崎市役所よりも遠いのである。しかも赤城山の山腹にあるため、
けっこうな勾配の上りになる。借りられるのは電動自転車だといいな、なんてかすかな希望を抱いていたのだが、
実際には3段ギアのママチャリで、かなりの重量級。自転車じたいがクソ重いのである。いちばん軽いギアでも、
はっきりと重さを感じさせるほど。大胡までの道は多少の高低差はあっても勢いでなんとかなったのでよかったが、
大胡駅を合図に左折してから、県道16号を北上していくのはもう本当につらかった。とにかく延々と上り坂。
さっきの大洞赤城神社では山頂近くだけあり「ちょっと寒いな」という気温だったが、もはや全身汗まみれ。
鼻毛石の交差点まではどうにかがんばってペダルをこいだが、ぐんまフラワーパーク入口あたりでついに断念。
意地でペダルをこぐよりも、自転車を押して歩く方がずっと速いんだもん。残り3kmは歩いて進まざるをえなかった。

  
L: 大胡駅の少し北から赤城山を眺める。あの中腹まで自転車で行くのだ……。結局オレもヒルクライムかよ!
C: 「鼻毛石」って……。鎮守の諏訪神社に鼻の形に似た「鼻石」があって、その別名「鼻ヶ石」が訛ったらしい。
R: 人里から農地、そして高原へ。国道353号より北は、もう完全にママチャリで来るようなところじゃない雰囲気。

ヘロヘロになりつつも、どうにか三夜沢赤城神社の一の鳥居まで来た。県道の一本東側がかつての参道なのだが、
草木が茂りたい放題で、もうほとんど自然に還りかけている。さらに坂を上っていくと最後の交差点で、北東に惣門。
惣門は江戸時代のもので群馬県指定の文化財になっているが、手前に堂々と駐車してあって困った。こういうのやめて。

  
L: 三夜沢赤城神社・一の鳥居。ここから参道には直接上がれないが、脇から行ける。  C: 参道はこんな感じ。少し行くと自然の王国。
R: 惣門。その自然に還りかけている参道をまっすぐ北上した位置にある。この真ん前に駐車できる神経がオレにはまったく理解できん。

最後の上り坂をがんばって歩いてやっとこさ到着である。車で訪れる参拝客がけっこう多くて妬ましいのなんの。
実際に来てみるとけっこうな山奥に位置しているのだが、そのわりにはきちんと賑わっている印象である。
この三夜沢赤城神社の意外な人気ぶりの理由のひとつに、湧き水があるようだ。境内で水を汲めるようになっており、
車で乗り付けては満杯の容器を必死で持ち帰る人が何組もいた。いいんだけどさ、門前への無断駐車はやめようぜ!

  
L: 三夜沢赤城神社の境内入口。ひっきりなしに参拝者がやってくる。群馬県ではしっかりメジャーな存在であるようだ。
C: 境内はこんな感じ。山と人間の生活区域の境界上らしく、自然と人工が美しく調和した空間だ。  R: 拝殿。

三夜沢赤城神社の中門と本殿は1869(明治2)年の築。手前の拝殿は焼けてしまって後の再建とのことである。
本殿は石垣の上にあり、瑞垣の中は木々が茂っていてよく見えないが、堂々たる神明造であることはなんとかわかる。
時期も時期だけに、神仏分離からの神道重視という価値観が透けて見える。建築から政治が読める興味深い事例だ。
なお、三夜沢赤城神社も正式名称は「赤城神社」。近代社格制度ではここだけが県社で、大洞と二宮は郷社だった。

  
L: 拝殿の脇にある神楽殿。  C: 拝殿から本殿へ行こうとすると石垣。手前の木がまたすごい存在感だ。
R: 本殿をすっきり見ることはできないが、正統派の神明造なのがわかる。簡素さがかえって迫力を漂わせる。

本当にヘロヘロになって到着したが、歴史を感じさせる威厳のある境内で、歩きまわっているうちに元気が回復。
上機嫌で御守を頂戴するのであった。やはり活気のある神社というのはいいものだ。こんなに奥まっているのにねえ。
帰りは位置エネルギーを開放するだけなので、調子に乗って事故を起こさないように注意しながら下っていく。
クソ重いママチャリを引いての上り坂は本当につらかったが、すべてはこの下りのためだったのだ。気分いいぜー

一瞬で大胡駅周辺まで戻るが、そこからもさらに下りなのだ。左手に分かれて県道74号をひたすら南下していく。
やっぱり位置エネルギーに身を任せるだけなので、非常に楽ちん。国道50号にぶつかったところでようやく右折。
そうしてやってきたのは、本日最後の赤城神社である二宮赤城神社だ。かつては里宮として人気だったそうな。

  
L: 二宮赤城神社の境内入口。すっかり郊外社会化している農地の中にある住宅地、その中心に位置している。
C: 参道を行く。今では完全に「集落の神社」といった雰囲気。  R: 橋だけが残っており、その先に随神門。

3つの赤城神社の中で「赤城神社」を正式名としないのはここだけ。しかし「二宮」とは当然、上野国二宮のことで、
周辺の地名にもなっている(二之宮町)。上野国一宮は一之宮貫前神社である(→2010.12.262014.9.13)。
貫前神社の社殿は家光・綱吉によるもので、重要文化財になっている。その権威に次ぐ二宮と認められていたのなら、
もっと規模が大きくていいんじゃないかと思うが、今ではすっかり「地元の神社」といった程度の存在感しかない。
なんだかんだで参拝者が絶えることのなかった大洞・三夜沢と比べると、ずいぶんと寂しい現状である。

  
L: 橋の脇にあった石灯籠の土台が面白かったのでクローズアップ。  C: 随神門をくぐった境内の様子。開放的。
R: 社務所が実に独特である。神社というよりは寺のお堂だな。残念ながら無人で、御守も置いている気配がなかった。

しかし随神門をくぐれば、かなり開放的で広々とした空間となっている。まっすぐ進めば立派な拝殿と本殿があるし、
右手の先には舞台のような造りになっている神楽殿がある。最近リニューアルされたようで、色が鮮やかである。
本殿は覆屋で保護されており、よく見ると凝った彫刻がしっかり施されている。やはり伝統ある神社なのだと再認識。

  
L: 拝殿。  C: 角度を変えて本殿と一緒に眺める。  R: 覆屋の中の本殿をクローズアップ。すごく立派で驚いた。

参拝を終えると国道50号に戻って西へとひた走る。途中の桃ノ木川に架かる観音橋から赤城山を振り返る。
西から南から、バスやら自転車やらであの山まで行ってきたのだ。そう考えるとなんというか、自分物好きだなと。
とんでもないスケール感の旅を強行突破してきたんだなあと自分で自分にとことん呆れるのであった。

 あの山の中腹までクソ重いママチャリで行ったんだぜ。

前橋駅からまっすぐ北へ進んだところに「まえばし駅前天然温泉ゆ~ゆ」という入浴施設があるのだが、
超絶汗ダルマの私としては、入らないわけにはいかないのであります。土日は100円増しだけどしょうがないのだ。
おかげで大変気持ちようございました。おかげで帰りの高崎線では超ハイテンションでお勉強が進んだよ。

広島が25年ぶりのリーグ優勝ということでおめでとうございます。昨年のヤクルトに続いて今年は広島ですか。
正直なところこんなぶっちぎり優勝をするとは思えなかったので本当におどろいた。昨年の緒方監督は批判だらけだし、
何よりマエケンが抜けちゃうし。黒田と新井が戻った昨年がピークだと思っていたが、実際は違っていたようだ。
つまりはそれだけ攻守両面で若手が伸びたということなのだろう。あとマエケン頼みからみんなが自立したのね。
まあとにかく、ここまで来たら日本一まで突っ走ってほしいものである。昨年のヤクルトの恨みを晴らしてほしい。


2016.9.9 (Fri.)

今日はなんと6時間連続の授業があったうえに、夜の9時まで都立中央図書館でお勉強。オレすごい。オレ大きい。


2016.9.8 (Thu.)

今日は今日で6時間連続の授業。自分でも本当によくやっていると思う。


2016.9.7 (Wed.)

仕事が終わると夜の9時まで都立中央図書館でお勉強。自分でも本当によくやっていると思う。


2016.9.6 (Tue.)

W杯アジア最終予選、今度はタイ戦である。相手が上り調子でそうとう難しい状況なのは認めるが、
そうしてしまったのは自分たち自身なのだ(→2016.9.1)。自分で蒔いた種は自分で刈り取らないといかん。

試合が始まると、やはりタイがアグレッシヴに来る。アウェイで見事に勝ったUAEに学んだか、と思う。
さすがに負けたらいろいろマズい日本は、前半18分に原口がゴール。それまで中央でゴチャゴチャやっていたから、
気分転換にサイドからクロスを入れたら決まったって感じがするのは気のせいか。頭で合わせた原口は大変偉い。
その後も日本は実力どおりに押してはいるが、やはりまだ思考スピードが遅い感じがある。アギーレカムバックな気分。
なんだかんだでタイの攻撃に精度がないから助かっている、という印象は否めないのだ。リードしているが消化不良だ。
そんな感じで前半は本田が空振ったりボールの圧を主審に訴えた森重がカードのプレゼントをもらったりの珍場面で終了。

後半に入っても妙なフラストレーションが続く。シュートがことごとく相手に当たったり決まらなかったり。
日本の攻撃はすっかりタイに読まれてしまっているように思う。その辺は監督が引き出しを持たせないといけないのだが。
松木の解説も感情的で本当にレヴェルが低い。これが放置されている状況は、もはや日本社会にマイナスだと思うほど。
それでも75分に浅野がさすがのFWらしいゴールで追加点。シュートがGKに当たったのは課題だが、決めるのが大事だ。
しかし今回スタメンに抜擢した原口と浅野が2人とも得点したのは、ハリルホジッチの采配ピタリということか。

結局2-0で勝ったものの、攻撃について知性をまったく感じられない内容だったのは残念である。
守備もかなり不安定で、相手の攻撃を受けて危なっかしい場面がたびたびあるのがどうにも情けない。
GK西川のイエローのシーンとかもう本当にアホかと呆れた。確かに審判のレヴェル云々という意見はあるだろうが、
その程度のことに翻弄されてんじゃないよと言いたい。脆さが抜けていないのだ。これは他人のせいにできない。


2016.9.5 (Mon.)

9月1日が始業式で、土曜日の3日に授業があったので、今日が2学期の授業が始まって3日目ということになります。
3日目でさっそく少人数の予定が合同の授業だぜイエーイ。もう呆れ果ててなんとも。ま、粛々と仕事するだけですが。


2016.9.4 (Sun.)

区のサッカー大会2週目。学校が始まったこともあり、今回はなんとか11人で試合に臨むことができた。

昼の1試合目はクラブチームとの対戦。正直厳しいだろうなあと思っていたのだが、相手のドリブルに中盤で対抗し、
ショートカウンターから押し込む場面を連発。互角以上に戦えており、予想していなかった善戦ぶりに驚いた。
そしてゴール前でシュートを撃っては撥ね返される大混戦の末、右上を突いたシュートが入ってついに先制。
後半はスタミナ切れになりながらもどうにか押し込まれずに逃げ切り、まさかの勝利をあげてしまった。うーん、すごい。

夕方の2試合目は私立の3年生チームとの対戦。ここでも積極的なプレーを見せ、再びゴール前の大混戦から先制する。
これで予選リーグ1位通過も見えてきたぜ、というところで前半が終了。しかし後半開始直後にあっさり失点してしまう。
その後はしばらく互角に持ちこたえたが、注意しなくちゃいけない相手10番にドリブルで突破されて、1-2となる。
それでも終了間際にCKに持ち込み、鮮やかなヘッドで同点に追いついたのは立派。保護者の皆さんが大盛り上がり。
ところがアディショナルタイムに差し掛かるところでまたも10番にドリブルで抜けられて2-3。これで勝負あり。
何度も同じ形で失点して負けたので、もう悔しくて悔しくて。観客にはそうとう面白い試合だったろうけどね。

過去ずーっと負けっぱなしだったこの大会だが、まさかの予選リーグ2位で、4・5・6位決定戦へとまわることになった。
ここまで来たら勝率5割以上で突き抜けたいものである。ま、見ていて面白い試合を演じられるようにはなったかな。


2016.9.3 (Sat.)

リョーシさんが上京してきたので姉歯メンバーで集合なのだ。今回はマサルが取材のため欠席である。残念。

神保町に集まると、リョーシさんオススメの焼肉屋へ入る。そして「特選」やら「上」やらのつく肉をひたすら注文。
明らかにふつうのメニューとは値段が違うが、それだけの価値があって最終的なコストパフォーマンスがいいとのこと。
やってきた肉は確かにどれも迫力があり、じっくり味わって食う喜びにあふれていた。たいへんおいしゅうございました。
で、その後はお茶の水に移動してのんびり飲み食いしつつダベるコースである。今回も時間を忘れるほどダベったね。

今回の話題はやっぱり広島カープの快進撃が中心なのである。これはもう、しょうがないのだ。みやもり大喜び。
あとは長野トークと岡山トーク。けっこう熱かったのが旧吉備国トークで、地理的に踏み込んだ内容が本当に面白い。
僕は福山市の存在感のなさが不思議でしょうがないのだが、リョーシさんが指摘した日本鋼管(NKK→JFE)の話に納得。
企業城下町はその企業の中ですべてが完結してしまうので、本来、アイデンティティを必要としないものなのだ。
だから新たなアイデンティティとして、バラに異様にこだわるのだ(→2014.7.232016.7.21)という結論に。
前に「企業城下町は歴史を必要としない」と書いたのは僕自身なのにねえ(→2015.5.5)。いやあ、面白かった。
もうひとつ強烈に面白かったのは、陸軍都市と海軍都市の話。明治以降の「軍都」といえば陸軍の連隊がある都市だが、
これは城下町とだいたい重なる。それに対し、海軍の都市は立地の根拠がまったく異なっている、という話だ。
たとえば鎮守府が置かれたのは横須賀・呉・佐世保・舞鶴だが、これは日本を囲む海を複数の区域に分けて、
それぞれの中で良港に配置した経緯がある。が、工廠の建設もかなり重要なので、それも込みで考える必要がある。
circo氏とも都市の話はいろいろするのだが、どうも今まで陸軍に偏っていたなあと反省。本当に勉強になった。

というわけで、今回は自分にとってけっこう新たな発見があって面白かった。楽しい。実に楽しい。


2016.9.2 (Fri.)

無料動画で見た『スレイヤーズ』の感想を書くのを忘れていた。いやーしまったしまった。

リアルタイムで放映していたのが、僕が大学生のときだ。僕は興味がなかったが、ダニエルが大ハマりしていて、
黄昏よりもうんちゃらかんちゃらとよく言っていたものである。おう、これが元ネタだったのか、と今ごろ納得。

で、感想としては、もうつまんなくてつまんなくて。途中からもう完全に、見るのが苦行でしかなかった。
もともと僕にはファンタジー脳(能)が欠けているので(→2011.10.152013.11.15)許してほしいのだが、
これが「ライトノベルの金字塔」とされているとはワケがわからん。どこが面白いのかもうサッパリ。
シリアスを崩すギャグは空回りだし、なんでもかんでも結局はリナの活躍でめでたしめでたしだし、何がなんだか。
設定がRPGのファンタジーにありそうな正統派なので、そこが支持者のツボに入ったのかと思うしかない。
まあそれが正統派な分だけ反比例的に、ファンタジー脳(能)のない僕には苦痛だったということで。
とりあえず、とことん悪役の子安さんの演技は迫力があってよかったと思うっスよ。それ以外、何も書くことがない。


2016.9.1 (Thu.)

W杯アジア最終予選、初戦はホームでのUAE戦である。

アジアでこっちがホームということで、UAEはガチガチに守る感じでくるのかなと思ったらぜんぜんそんなことはなく、
意外とアグレッシヴに前から来る。まあ日本としてはその方がやりやすいだろうな、と思いつつ見ていると、
清武のFKから本田がヘッドで先制。清武のキックの精度は本当にすごい、そして本田のヘッドも本当に強い。
どちらも貫禄を感じさせてくれるプレーぶりだなあ、と感心してのスタートなのであった。

ところがわりとすぐにUAEがFKを直接決めて同点に。悔しいのだが、敵ながらいいFKだなあと思うほかない軌道だ。
その後もUAEは積極的な姿勢を見せる。攻撃ではよくポゼッションしている。球離れが早く、連携がスムーズなのだ。
守備では寄せが速く、プレスがいい。またポジショニングがいいので日本はなかなか前線へ縦パスが出せないでいる。
SBからクロスを上げようとして切り返しても、前に立たれてボールを出せない。本当によく日本を研究している印象だ。

日本はどんどん攻勢に出るが、相手ゴール前に入っても守備のポジショニングにビビって横にパスばっかり。
これは見ていて本当に情けなかった。プレーの判断も遅い。アギーレジャパンが遠い昔のようだ(→2015.2.3)。
PK狙って倒れてんじゃねーよバーカと思っていたら、逆にPKを取られて逆転されてやんの。応援する気が失せる。
結局、日本は最後まで意味不明な横パスで夢を見ていたのであった。相手がブロックを敷いているのであれば、
ドリブルで入り込んでシュートを撃ち、こぼれ球を蹴り込むしかないだろう。先制したときには想像できなかったが、
終わってみたら近年まれに見るひどいゲームだった。正直、ハリルホジッチの解任が視野に入ってきたと思う。


diary 2016.8.

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