diary 2016.7.

diary 2016.8.


2016.7.31 (Sun.)

起きてしまった事実を変えることはできないわけだから、開き直るしかない。捻挫した事実を素直に受け入れて、
そのうえでできることをやる。すごすごと東京に帰ったところで足の治りが早くなるわけなどないからしょうがない。
(そう考える僕は、無理して動きまわって捻挫が悪化する可能性を想像する力がまるっきり欠けているのである。)
本来であればもうちょっと余裕を持って出発するつもりだったが、捻挫で走れないことを考慮して1時間早く動く。
そう、いちおうは歩けるのだ。走れないけど、歩くことはできる。歩くことができれば、ある程度の予定はこなせる。
(でもやはり、工夫すれば「歩けてしまう」ことで、最悪の捻挫を過小評価してしまったことは否めないなあ……。)

本日最初の目的地は、潟上市役所である。実は潟上市役所は2年前に訪れているのだが(→2014.8.22)、
新しい庁舎が竣工したのでそっちを押さえなくてはならないというわけなのだ。旧庁舎は見事なまでに昭和の雰囲気で、
二田駅からすぐ近くという立地もたいへんよかったのだが、今度の新庁舎は上二田駅から1.5kmちょいで徒歩20分。
足首を捻挫したてのホヤホヤな僕にとって、それはどう考えてもイジメでしかない。撮影と往復に2時間を確保する。

無人駅の上二田駅から畑の中にヨタヨタと降り立つと、右足をひきずりながらトボトボと国道101号を南下する。
東北の朝だというのに日差しが強烈で、じわじわと体力を奪われつつも気合いで30分歩き倒し、目的地に到着。
Googleマップで徒歩20分のところを30分かかったということで、だいたい1.5倍の時間という基準がわかった。
昨日、秋田駅から宿までのルートでもだいたいの計算をしておいたのだが、これでより精密な確認ができた。

  
L: 潟上市役所。  C: だいたい正面くらいから見たところ。  R: 敷地は少し盛って高くしてあるのね。

旧庁舎訪問時に書いたとおり、潟上市役所の設計は村田弘建築設計事務所。新庁舎の業務開始は昨年5月から。
向かって右側のガラス部分が議場となっている。建物としてはわりと洒落っ気がないというか、実務優先な印象。
あとは広大な駐車場が用意されている点が目立つ。朝で車も少なく、たいへん撮影しやすいのであった。

  
L: 北から東へとまわり込んで側面。  C: 側面と背面。潟上市役所は北側が正面になるのだ。
R: 背面。広大な駐車場越しに眺めたところ。こちらが南側になるのだが、そのわりには窓が小さいな。

敷地を一周してみるが、正直あまり面白みがない。周囲はこれから開発する余地がまだまだある感じだし、
道を挟んだ向かい側には天王グリーンランド(道の駅てんのう)があって、潟上市としては中心となる場所だ。
男鹿市や大潟村方面へ向かう車の交通量も多い。今後もいろいろと計画が進められそうな気配があるものの、
現段階では本当に役所以上のものはない。秋田市も近いし、ベッドタウン的にやれればそれでいいのかもしれない。

  
L: 南から県道側に出たところ。  C: 中を覗き込んだらこんな感じだった。  R: もうちょい西側の内部。

足がマトモなら当然、天王グリーンランド(道の駅てんのう)に寄るところだが、それだけの元気がない。
トボトボと国道を戻るとわずかな時間的余裕を利用して、近くのスーパーでアイスを食ってやる気を充填する。
やはり捻挫のダメージは大きいが、天気がいいからポジティヴに過ごせる。やれる範囲でがんばればいいのだ。

 天王グリーンランド(道の駅てんのう)。足が万全なら寄りたかった……。

早朝のおつとめが終わって秋田駅まで戻ってくると、さっそくレンタサイクルの申し込み。2回目だから要領はわかる。
駐車場で手続きを完了すると、勢いよくペダルをこぎだす。うん、自転車だと捻挫の痛みもぜんぜん気にならない。
本日のラストはJ3秋田の試合を観戦するので、試合開始時刻に市役所・県庁近くにある八橋の競技場にいればいい。
足のこともあるし、無理のない範囲で神社や旧跡めぐりをするのだ。それにしても天気がよくて本当によかった。

八橋が市域の西側なので、反対の東側から先に押さえていくことにする。まずは久保田城址の神社から攻めるのだ。
まずは二の丸跡にある、平田篤胤・佐藤信淵を祀る彌高(いやたか)神社から参拝。平田篤胤は秋田の出身なのね。

  
L: 千秋公園の堀ではハスが見事な花を咲かせていた。ハスって、咲いているうちはいいんだけどね……。
C: 彌高神社は久保田城二の丸跡の奥に鎮座している。  R: 拝殿。1778(安永7)年築の建物を移築。

捻挫した足でえっちらおっちら石段を上ると、本丸跡の八幡秋田神社に参拝。放火に遭って2008年に再建されたが、
古材を使っているようでそれなりの風格がある。御守を頂戴したところ、なぜか一緒に神社のタオルもいただいた。
ほんの些細なことだが、神職さんに親切にしていただけると神様に歓迎された気分になり、本当にうれしいものである。

  
L: 八幡秋田神社。本丸の南側にある。  C: 拝殿。  R: 本殿。拝殿から離してあるのが独特である。

八幡秋田神社の隣には與次郎稲荷神社が鎮座する。この神社が珍しいのは、稲荷神社だから狐像があるのではなく、
初代藩主・佐竹義宣に飛脚として仕えた「与次郎狐」を祀っているので稲荷神社となっている、という点である。
動物が化けて人間と関わった由緒のある寺社はそれなりの多さなのかもしれないが、江戸初期で藩主レヴェルとなると、
そうとうに珍しいのではないかと思う。建物も神社らしくなく、中で女性たちが何かやっていていろいろ不思議。

 與次郎稲荷神社。残念ながら御守はなかった。

久保田城址を後にすると、そのまま県道28号を東に走って奥羽本線の東側に出る。そのまま進んでいって、
道が緩やかにカーヴしていったところに太平山三吉神社がある。役小角が創建した修験道の霊場ということで、
神社の体裁ではあるのだがどこかそれを逸脱した雰囲気が確かにある。社殿は太平山の姿を模したとのこと。

  
L: 県道から住宅地へ入っていくと、太平山三吉神社の社殿背面が見える。ふつう逆向きだと思うんだけど。
C: 参道。県道から住宅の路地、参道と進んでいくと、ぐるっと180°回って拝殿の前に立つ格好になるのだ。
R: 1977年竣工の社殿。祈祷所・授与所・社務所がぜんぶこの中に収まっている、なんとも独特なスタイル。

太平山三吉神社の御守は標準的な袋守だけでなく、梵天柄や太平山を模したらしい三角形のものがあるのが面白い。
社殿の前からそのまま東側にも抜けることができて、その上り下りの形で天河大弁財天社(→2016.5.22)を思い出す。
天河弁財天も創建に役小角が関わっており、やはり独特な信仰形態を思わせる神社だった。通じるものがあるのかねえ。

  
L: 社殿の正面をクローズアップ。  C: 社殿右側の神楽殿。  R: 東側の石段。向かいは武道場で空手をやっていた。

せっかくの自転車なので一つ森公園まで行ってみたかったが、なんせ足首が捻挫してからまだ24時間経ってないので、
無理はやめておこうと断念。慌てず急がず、次の目的地へと向かう。線路の西側に戻ると、旭川を越えて寺町の手前、
赤れんが郷土館にお邪魔する。今まで何度か秋田に来ているが、なぜか存在を忘れていて、これが初訪問なのだ。

  
L: 南東から眺めた赤れんが郷土館。旧秋田銀行本店として1912(明治45)年に建てられた。重要文化財である。
C: 正面より。  R: そのまま北東側から振り返る。辺りは道幅が狭くて眺めづらいが、非常にきれいにしてある。

赤れんが郷土館は旧秋田銀行の本店として建てられた。面白いことに設計者は外側と内側で異なっており、
外側は秋田県技師だった山口直昭、内側は星野男三郎とのこと。銀行建築らしく、まず入ると大ホール(旧営業室)。
奥の旧貴賓室もしっかりと凝ったつくりである。2階からホール部を眺められる(本来は一周できる)のは非常に面白い。

  
L: 中に入るとこのホール空間。  C: 2階から眺めるとこんな感じになる。  R: 奥の部屋もまた豪華なのだ。

また、部屋や通路の入口に金庫の分厚い扉がある点も興味深い。どちらかというと「蔵」の感覚ではないかと思う。
昔の地主とか商人とかは邸宅に蔵を接続させていたけど(→2015.8.9)、ああいう感覚でしっかり区切っている印象。

  
L: 奥の部屋への入口も凝っている。階段はよく見ると白大理石なのだ。  C: 金庫室。  R: 新館との通路にも金庫扉。

新館では暗黒舞踏でおなじみの土方巽についての展示をちょうどやっていたので、興味深く拝見する。
土方巽は秋田市の出身なのだ。しかしまあ、舞踏っこそ究極的にお金にならない芸術だと思う。直感的に。
「卑しさ」の社会学(→2013.3.20)では、金銭を対価として自己の身体を他者に預けると卑しくなる、と書いた。
しかし舞踏は(あくまで僕の先入観だと)絶対的かつ剥き出しの自己の身体のみを媒介に、先鋭的な表現を示すものだ。
鴻上尚史の「表出/表現(→2005.10.24)」で言えば圧倒的な「表出」となり、「表現」が成立する可能性は低め。
舞踏は風俗の真逆にあるから精神的には最高に気高いが得られる金銭は究極的にゼロ。最強の浮世離れではないか。
この「舞踏」という芸術ジャンルを理解できることって、ものすごいことだと思う。一度観てみたい気はするなあ。

赤れんが郷土館を後にすると、山王大通りを西へ進む。中央分離帯には提灯を並べた竿燈が飾られていた。
4日後には秋田竿燈まつりが始まるのだ。見れば、ビルのオープンスペースで練習している人たちもいる。
秋田の街全体が祭りに向けて動いているのだ。しかし僕はそんなのと関係なく、街の上っ面を舐める作業に熱中している。
東北地方には各県に盛大な夏祭りがある。それらをきちんと味わわずしてそれぞれの街を知った気になっているのも、
ちょっと違うんじゃないかなあという気がしてきた(四国における都市と祝祭についてのログ →2007.10.9)。
平時だけでなく、祭りで発散されるエネルギーも実感しなければ、都市を理解したことにはならないのではないか……。

  
L: 米俵に見立てた提灯を並べた竿燈。  C: 竿燈大通りは中央分離帯が観覧席になっている。祭りのためにわざわざすごい。
R: 練習風景。これだけ祭りに賭けているなら、それを目にしないと都市を理解したことにならないのではないか、と思えた。

そうこうしているうちに秋田市役所に到着。2年前に訪問したときには建設工事が始まったところだった(→2014.8.22)。
そして今年の4月に新庁舎が竣工し、今はちょうど1964年竣工の本庁舎・議場棟とギリギリ仲良く並んでいる状態だ。
とりあえず、交通量の多さに苦しみつつも根気よく撮影していく。どうせ足が悪いし、焦ってもしょうがないもんね。

  
L: 秋田市役所。旧庁舎の東側に完成した。秋田県庁の山王大通りを挟んだ向かい側という位置関係は変わらない。
C: 正面より眺める秋田市役所。  R: 県庁舎前から眺めたところ。こっち側からだとあまりヴォリュームを感じない。

秋田市役所を設計したのは日本設計。設計者選定プロポーザルで選ばれたのだが、日本設計は最近、勢いがある。
歴史ある旧庁舎を活用した豊岡(→2014.10.26)、もともと病院だった建物を利用した長浜(→2015.8.7)、
県庁所在地として完成度の高さを見せつけた甲府(→2015.12.26)など、面白い市役所を多く手がけている。
そして同じく県庁所在地の秋田も担当したということで、現在の市役所シーンにおいては大きな存在感を見せる。

  
L: 南西側から。旧庁舎を壊した後はこちらが正面っぽい扱いになるのかな。  C: 近づいてみたところ。
R: 山王大通り側のエントランス付近。バス停から延びる雨よけの屋根が徹底している。この辺は長浜に似た印象。

一周してみると、さすがに県庁所在地だけあってマッシヴだ。幅のある山王大通りを挟むとコンパクトな印象だが、
あまり余裕のない側面や背面を見上げると、思っていたよりも規模が大きい建物であることに気づかされる。
逆を言うと、周囲の住宅と違い、秋田の官庁街は余裕たっぷりに土地を確保して整備されたということなのだろう。

  
L: 側面。実はけっこうマッシヴ。  C: 北東側から眺める。  R: 北西側から。ずいぶん印象が異なる。

日曜日だけど中に入れるのでお邪魔する。日本設計の秋田市役所紹介ページによれば、「行政」「議会」だけでなく、
「公民館」としての機能も持たせているそうだ。通路の吹抜は展示スペースになっており、確かに汎用性が高そう。
また、甲府市役所と同様にコンビニのローソンが入っている。官庁街には地味ながらもありがたい存在なんだよな。

  
L: 秋田市役所のエントランス。シックですな。  C: 通路を吹抜のホールにして、展示スペースとしている。
R: 奥にあるコンビニ。ここは甲府市役所のノウハウが活かされた部分なのかな。昔じゃ考えられないねえ。

吹抜の通路の先にあるのは、もっと大きな吹抜というかアトリウム。ここは囲炉裏に見立てた「市民の座」だそうで、
これを市役所の中心に据えたところが売りとなっているらしい。確かにふつうの市役所では玄関脇を一般市民に開放し、
情報公開コーナーとして各種の資料を置いておく、というやり方が多い。しかし秋田市役所は滞留スペースが中心だ。
ベンチだけでなく机まで用意しているのは、僕からするとかなりの覚悟を感じる。長居させる気満々ってことなのだ。
「市民のための空間」を役所の中に開放することは、20世紀のうちは言葉では心地よく繰り返されていたものの、
実際には貧弱極まりない空間としてしか実現されることがなかった。しかし21世紀以降、空間は確実に変化している。
デパートの空いた階に窓口が入ることが当たり前になり、さらにはデパートの後釜に市役所が入り(→2015.12.20)、
行政と商業の距離感は確実に変化していった。今や市役所はショッピングセンターのノウハウを取り込んでいると言える。
経済・商業との密着こそが地域の原動力になるという現代の本質が、空間の編成から見えてくるのである。
……まあ、本当に市民向けの空間であるなら、平日と休日で利用に差があるのはまだまだってことなんだけどね。

  
L: まるで図書館のような一角。市役所の中心にこのような機能を認める時代が来たとは、感慨深いものがある。
C: 「市民の座」の中心部。休日モードなので人がいないが、平日にはどんな感じで利用されているのか気になる。
R: アトリウムを見上げる。従来、アトリウムの底は行政の窓口というのが定石だったが、まったく異なる仕上がりだ。

最後に旧庁舎もしっかり撮影しておく。向かって左の議場棟が先に壊されるようで、銀色の布で覆われている。
議場棟が終われば次は旧本庁舎。そうして街は着実に変化していく。モダニズムとは過渡期の建築なのか。

 
L: 旧議場棟。さらばモダニズム。  R: 旧本庁舎。この勇姿を目にするのもこれが最後なんだね……。

一足先に新陳代謝を果たした秋田市役所とは対照的に、秋田県庁は昔ながらの堂々とした姿で南側にそびえている。
実は1959年の竣工でこっちの方が古いのだが、建て替えの気配はまったくない。地味に改修しているんだろうなあ。
こちらはこちらで、日本建築史において象徴的な意味合いのあるモダニズム庁舎建築なのである(→2014.8.22)。
平成の秋田市役所と昭和の秋田県庁が好対照な形になったのも、それはそれとして楽しめる。前向きにいこう。

  
L: 秋田県議会議事堂。またこの角度で撮影したよ。  C: 秋田市役所の駐車場から見てようやく県庁舎全体が収まる。
R: 敷地の入口から見た秋田県庁。時代を感じさせるデザインだが、きれいにしてある。末長くがんばってほしい。

では今度は市域の西側を探索するのだ。最終的には土崎の手前、秋田城址まで行ってみることにする。
市役所から北西方向へと抜ける途中、日吉八幡神社に寄る。「日吉」と「八幡」とは、なかなかのハイブリッドだ。
山王大通りはこの「日吉」が由来ってわけだ。いざ参拝してみると、建物がすごい。日吉は天台系の神仏習合だが、
境内は確かに伽藍の雰囲気である。三重塔が1707(宝永4)年の建立で、これは明らかに仏教の価値観によるもの。
いちばん奥には1778(安永7)年築の拝殿と1797(寛政9)年築の本殿があるが、非常に規模が大きい。

  
L: 東側から日吉八幡神社の参道を行く。  C: 急に木々に囲まれて湿った雰囲気になる。  R: 拝殿が現れた。

拝殿には千木も鰹木もないのでシルエットとしては寺の印象が強いが、前にせり出してきている向拝のおかげか、
神社としても違和感はない。本当に寺と神社の中間らしい、両方を融合した美しさを持った建物であると思う。
よく見たら扁額は揮毫ではなく、六歌仙の姿を浮き彫りにしたもの。特殊なこだわりが本当に面白くて素敵だ。

  
L: 向拝。自然な朱色がまたいい。あらゆる要素がものすごく独特で、それでいて違和感がない。面白くってたまらない。
C: 角度を変えて拝殿を眺める。バランスがとれているいい建物だ。  R: 奥には本殿。この点はしっかり神社建築。

緑、建物の朱色、そして青い空と、それぞれの競演を味わいながら過ごす。不思議と居心地のよい場所だった。
ひとつ残念だったのは、御守を頂戴できなかったこと。ガラス一枚挟んだ向こうには多種多様な御守がいっぱいで、
指をくわえて見るしかなかったのは非常に悔しい。なんとかなりませんかねえ。こういうパターンがいちばんつらい。

  
L: 宝の山を目の前にしておあずけを食らう切なさったらない。  C: 三重塔。見事に神仏習合である。
R: 北側の参道。境内全体は、北側から見ると仏式、東側から見ると神式で建物が配置されているそうだ。

日吉八幡神社を後にすると、狭めの道をえっちらおっちらと北西へ。地味な上りがなかなかつらいが、そこは根性。
粘り強くペダルをこいでいくと、右手に鳥居が現れた。古四王(こしおう)神社ということで、さっそく参拝。

  
L: 古四王神社。見てのとおり緑に埋もれかけているが、かつて秋田県では最も高い社格の神社だった(国幣小社)。
C: 鳥居を抜けて参道を行く。  R: 右側には坂上田村麻呂が蝦夷討伐の際に戦勝祈願をしたという田村神社がある。

石段を上っていくと拝殿。古四王神社は秋田県内のあちこちに勧請されていて規模のある神社のはずなのだが、
ここはあまりひと気がない。本当に本物なのかなとちょっと疑いながら本殿を覗き込んだら、きちんと立派で納得。

 
L: 拝殿。地味だなあと思いつつ本殿にまわり込む。  R: そしたらきちんと立派なのであった。

古四王神社からもうちょっとがんばって先へ行くと、秋田城址への入口がある。ここがまた上り坂になっていて、
捻挫した足をかばいつつどうにか上りきると、左手の護国神社脇がしっかり遺跡として整備された空間になっていた。
秋田で城というと、さっき訪れた佐竹氏の久保田城を真っ先に思い浮かべるわけだが、これは秋田城とは別物なのだ。

  
L: いきなりこれ。掘ってますねー。  C: 門と土塀を用意。  R: その奥はこんな感じで整備されている。

秋田城は奈良時代から平安時代にかけての蝦夷対策の城で、陸奥国の多賀城(→2013.4.28)に対応するイメージ。
現在、秋田城址はほかの国府跡地と似たような感じで整備されており、高清水公園という名称がつけられている。

 南東側の高清水公園。高低差があり、沼がある。往時はどんなもんだったのか。

これでいちおう目的達成ということで、秋田市役所&県庁方面へと引き返す。途中のスーパーで一服して、
日吉八幡神社で御守を頂戴できないかと企むも空振りに終わるのであった。神職さんはどこへ行っちゃったのか。
しょぼくれながら境内を出ると、神社の参道からすぐにある秋田市八橋運動公園球技場(あきぎんスタジアム)に寄る。
本日の試合開始まではまだまだ時間があるが、準備が着々と進んでいる。盆踊り用の舞台まで用意されていた。

  
L: 秋田市八橋運動公園球技場(あきぎんスタジアム)のメインスタジアム側。キックオフの約2時間前の光景である。
C: まだひと気はあまりないが、道路を歩行者天国にする準備ができている。歩行者天国とはすごくいい発想だと思う。
R: スタジアムの入り口付近。ユニフォーム姿のサポーターがチラホラ。どれだけ盛り上がりを見せるのか気になる。

まだ混み合っていない今のうちに回っちゃおう、ということでスイスイとペダルをこいでスタジアムを一周。
公園だし駐車場があるしでスムーズに一周できなかったが、穏やかながらもヴォルテージの上昇ぶりがうかがえた。

  
L: 南側のサイドスタンド裏。秋田サポーターが入るのはこちら。  C: バックスタンド裏は駐車場。近くていいな。
R: 北東側はこんな感じ。ビニールシートで覆わないと試合がタダで丸見えってのが、J3らしく牧歌的でいいなあと。

キックオフまではまだ時間があるので、いったん中心市街地へ。2年前の訪問時には果たせなかったことをやるのだ。
それは、藤田嗣治の大作『秋田の行事』を鑑賞すること。秋田赤十字病院を再開発した地区である「エリアなかいち」、
その真ん中の安藤忠雄設計のコンクリートが『秋田の行事』を収納する秋田県立美術館・平野政吉コレクションだ。
2階が『秋田の行事』をメインに据えた大壁画ギャラリーになっているのでさっそく行ってみる。ただいまレオナール。

縦3.65m、横幅20.5mという規模はそれだけで圧倒的である。壁面いっぱいを占める絵画をぼーっと見上げていると、
岡本太郎の『明日の神話』(→2008.1.192010.5.3)を思い出す(『秋田の行事』の方がひとまわり小さい)。
こちらは雪まみれの日常と祭りを対比して秋田という街を賑やかに描き出した作品。全体が3分割の構図となっており、
伝統的な屏風絵あたりと比較すると、引き伸ばした分だけ時間と空間の進行をしっかり強調するものとなっている。
面白いのは右側2/3を占める祭りが左側へとせり出す構成になっていることで、日常へ押しかける勢いを感じさせる。
さっき山王大通りで竿燈祭りの練習風景を目にして「平時だけでなく、祭りで発散されるエネルギーも実感しなければ、
都市を理解したことにはならないのではないか……。」と考えたが、それは1937年に藤田嗣治がやってのけていたのだ。
色合いは派手だが淡い繊細さも併せ持つ。細部まで描きこまれて全体の雰囲気はどこか上品。さすがはレオナール。
というわけで『秋田の行事』には大いに満足したのだが、特別展の『異界をひらく 〜百鬼夜行と現代アート〜』はダメ。
「人を怖がらせること」を「人を不快をさせること」と履き違えとりゃせんか、と怒りが湧いてくるのであった。下品。

そろそろ頃合いだろう、と八橋に戻る。日吉八幡神社の神職さんは……この日は結局、いらっしゃらなかった。
ションボリしつつもスタジアム内に入る。雰囲気としては、改修前の南長野(→2012.10.14)に似たパターン。
J3やJFLとしては最適な球技場だ。まあいずれ、その牧歌的なスケール感ではやっていけなくなるのだが……。
個人的には、スタジアムの背景として市役所も県庁も見えるというのが最高。街中のスタジアムという何よりの証拠だ。

  
L: 秋田県はババヘラアイスの本場ということで、さっそく頂戴した。ブラウブリッツ仕様の青いアイスもあったよ!
C: 秋田市八橋運動公園球技場(あきぎんスタジアム)。右側に秋田市役所と秋田県庁が見える。最高の立地じゃないの!
R: 選手名の表示が実に牧歌的である。秋田サポにも見えるように、ちゃんと表裏両面の表示になっているのね。

メインスタンド以外は芝生席。そこに鮮やかな青色のサポーターたちが集結すると、なかなか壮観である。
一口に「青」といってもいろいろな種類があるが、秋田の青は特に鮮やか。よくこの色を見つけたものだと思う。
そしてアウェイ側のゴール裏を見ると、藤枝サポーターが8人ほどで懸命に声をあげている。いやあ、頭が下がる。
下位カテゴリのアウェイは大変だけど(→2010.4.4)、それだけに純粋な敬意をおぼえずにはいられないのだ。
もっとも、メインスタンドにはその何倍かの藤枝サポーターがきちんといた。サッカーは確実に地域に浸透している。

  
L: ゴール裏の秋田サポ。鮮やかないい青色をまとっていますな。  C: 1ケタでがんばる藤枝サポ。ただただ偉いと思います。
R: ブラジルから決勝ゴールを奪った生ける伝説・伊東輝悦。やっぱりボールを出す場所が違う。センスが段違いなのだ。

秋田の見どころはいくつかあるが、まずはオシムの元通訳・間瀬監督がどのようなサッカーを展開するのか。
そして今季初のスタメンで起用された伊東輝悦のプレーぶり。主にその2点に注目しながら試合の流れを見ていく。
まず優位に立ったのはホームの秋田で、32番のFW浦島がとにかく頭で触る。その落としたところに入り込むサッカー。
非常に手堅い内容である。対する藤枝はパスをつないで裏へ抜けることにこだわる。実に対照的なカラーをしている。
藤枝の果敢な姿勢は好きだが、秋田の守備を崩すところまではいけない。秋田は落ち着いて対処ができていた。
まあその辺りが間瀬監督の腕ということなのだろう。藤枝としては、パスをつないで稼いだ相手ゴールまでの距離を、
浦島狙いのロングボールでチャラにされるという展開でもある。スペシャルなドリブラーがいないとつらいところだ。

  
L: プロの試合で給水タイムなんて初めて見た気がする。16時キックオフでも夏場にはキツすぎるんだよなあ。
C: 競り合うFW浦島。秋田は浦島がボールを落として相手ペナルティエリアに侵入するサッカーを徹底。手堅い。
R: ロングボール勝負の秋田に対し、藤枝はパスをつなぐことにこだわる。果敢に挑む姿勢は好感が持てる。

後半に入ると秋田がさらに圧力を強める。浦島や呉大陸が積極的にシュートを放つがなかなか決めきれない。
身体能力の高い(体が強い)選手はJ3にもいるが、シュートを打っても枠に行かないことがやはり多いように思う。
プレーの予測という点でJ1とJ2には大きな差があり、プレーの精度という点でさらにJ2とJ3の間にも差がある。
それは長い時間をかけて地道な練習と実践で縮めていくしかない差なのだ。サッカー観戦には忍耐力が必要だ。
そんなことを考えていたら、左サイドからのクロスに呉が頭で合わせて秋田がついに先制。ついに決め切ったか。

  
L: 浦島のボレー。ゴールはならなかったが、これはすごかった。  C: 決まった!と思ったらはずれた場面。
R: 71分、呉大陸のヘッドでついに秋田が先制。結局、藤枝は秋田に力で押し切られちゃった感じだなあ。

なお、伊東輝悦は60分までプレー。ボールを出す場所がいちいち非凡で、秋田の攻勢をしっかり下支えしていた。
ただ、それがゴールに直結するかというとまた別の話だった。そこもまた上位カテゴリとの精度の差なのかもしれない。
とにかく、藤枝に攻めさせないままに秋田は先制に成功。すると今度は藤枝が攻勢に出る番だ。終盤はなかなかの死闘。

  
L: 終盤は藤枝が懸命に攻める。  C: 決定的なチャンス!  R: しかしゴールキック。秋田の壁を破れなかった。

終盤の藤枝は先制時の秋田に劣らぬ勢いで襲いかかるものの、秋田は力強い守備でしのぎ切ってみせた。
振り返ってみると、秋田は前線の高さと強さで藤枝に圧力をかけ続けたが、一方で伊東のようなパスも武器にあった。
そういう空中戦と地上戦という両方の手段で攻めることで、藤枝が攻撃する時間をとことん削っていたわけだ。
派手な戦術があるわけではないものの、危険性を極力排除したサッカーを実現した間瀬監督が上手かったということか。

 
L: 試合終了後の藤枝ゴール裏。明らかに選手の方が多いのだが、応援本当にお疲れ様でした。
R: 秋田のゴール裏は勝利のラインダンス。どうでもいいけどラインダンスやるチーム多すぎ。飽きた。

試合後のスタジアム周辺は何やらイヴェントで盛り上がっていたのだが、こちとら自転車を返却しなければならない。
残念な気持ちを抱えつつ、駅に向かってペダルをこぎ出す。でも自転車だと距離が気にならず、移動が本当に楽でいい。
駅ビルで晩ご飯をいただくと、昨日と同じように右足を引きずってホテルへの長い道をトボトボと歩くのであった。
捻挫は相変わらずな状況だが、今日一日はそれをものともしない動きができた。ま、不幸中の幸いってことで。


2016.7.30 (Sat.)

どうしようもないほどに何ごともまったく上手くいかない日というのは確かにある。
日常生活の中でそういう日にぶち当たってしまった場合、なるべく平穏に過ごしてさっさと帰って寝ればいい。
しかし、もし旅先でそんな日にぶち当たってしまったらどうすればいいのか。しかもそれが、旅行の初日だったら。

5時15分、ほぼ定刻にドリーム鳥海号は象潟駅前に到着した。僕の記憶だと象潟駅は駅舎内にコインロッカーがある。
登山と関係のない荷物はすべて置いていき、できるだけBONANZAを軽い状態にして鳥海山に挑むつもりでいたのだ。
しかしいきなりそれが頓挫する。駅の待合室が開いていなかったのだ。おかげでフル装備のまま動くことになった。

 朝の象潟駅。しかしコインロッカーが使えず、いきなりつまずいた。

鉾立口まで乗せてくれる鳥海ブルーライナーは6時20分発の予定である。それまでボーッとしていてもしょうがないし、
そもそも食料やら飲料水やらを確保しておかねばならない。最寄りのコンビニまで散歩、それも計画のうちなのだ。
朝焼けに照らされた象潟の市街地をのんびり北上しようとすると、途中で子猫に遭遇した。よく見たらその家族もいる。
時計を気にしつつカメラを構える。直接じゃれ合うことはさすがにできなかったが、かわいい姿にほっこりである。

  
L,C,R: 子猫は無条件でかわいい。近くには親や兄弟と思しき猫もいて、どうやら縄張りに踏み込んだみたい。

頃合をみて別れ、住宅地を行く。象潟は2年前に自転車で走りまわっており(→2014.8.23)、ある程度の土地勘はある。
しかし国道7号より西側の市街地には行ってなかったので、リヴェンジということであえてそちら側を歩こうというわけ。

 
L: 象潟の住宅街を行く。この辺りは隆起する前から陸地だったのかな。  R: 港だ。

道の駅に到着するとコインロッカーがないかと様子を探るが、あえなく空振り。仕方なくコンビニでただ買い物をする。
国道7号でまっすぐ駅に戻るが、おかしなことに6時20分を過ぎてもバスが来ない。駅の脇にあるタクシー会社に飛び込み、
確認してみる。そしたらなんと、バスは定刻よりも早く出ていた。事情を説明して対応していただいたが、驚くほどの不運。
まず、僕がにかほ市の観光サイト経由でなく、会社に電話で直接予約したことで、連絡ミスが生じてしまったらしい。
さらにそれだけでなく、なんと僕の他にも「マツシマさん」がいたことで予約がひとまとまりになってしまったみたいだ。
まさかそんなことが起きるとは(バスが定刻どおり出たなら問題なかったじゃん……とも思うが、しょうがない)。
結局はタクシーに乗っけてもらい、先行するバスに追いつく形で解決できたのだが、どうもスタートから噛み合わない。

なんだかんだで7時前には鉾立口に到着。しかし荷物の問題を解決しないことにはさすがにどうしょうもない。
最終的には覚悟を決めたうえでのウルトラCを敢行せざるをえなかったのだが、やはりここでも噛み合わなかった。

 鉾立口から眺める象潟方面(だと思う)。

さて、なぜ鳥海山に登らなくてはならないのか。まずその大前提をきちんと確認しておかねばなるまい。
昨年は越中国一宮のひとつである雄山神社に参拝したが、雄山神社は前立社壇・中宮祈願殿・峰本社があり、
峰本社は立山の雄山山頂にあるので必然的に立山登山をすることになったのであった(→2015.8.2)。
そしてこれと同様、出羽国一宮の鳥海山大物忌神社にも吹浦口之宮・蕨岡口之宮・山頂御本社があり、
吹浦も蕨岡もすでに参拝済みなので(→2013.5.11)、いよいよ山頂御本社に登拝しようというわけ。
「なぜ山に登るのか?」と聞かれると、高所恐怖症の御守マニアとしては「御守があるから仕方なく……」なのだ。

幸いなことに天気はよく、車でやってきている登山客はけっこう多い。皆さんエネルギッシュだなあと感心する。
僕としては御守がなければ登山なんてしたくないのである。趣味で山登りとか、本当によくやるなあと思う。
7時30分、そんなまっとうな皆さんに混じって僕も登山口から一歩を踏み出す。頂上までは5時間弱とされる。
5時間も延々と上り坂を行く、しかも高い場所……というのはたまったもんじゃないが、やると決めたからにはやる。

  
L: 鳥海山・鉾立口の登山口。登山が趣味でもなんでもないのに、どうして登るのか自分でも疑問だが、やるのだ。
C: 展望台から眺める鳥海山の山頂。見事な眺めとか思う以前にまず、「あそこまで行くのかよ……」という気分。
R: 序盤の登山道。見てのとおり石段になっているが、踏面がゴツゴツしていて大変。帰りは地獄そのものだった……。

僕としてはほとんど自ら望んだわけではないものの、なんだかんだで結局、それなりの登山をする破目になっている。
そんな僕の体験から言えることは、登山中は哲学レヴェルの思えごとをするか、何も考えずにリズムに乗せて足を動かすか、
そのどちらかである。でなきゃやってらんない。だいたいは脳内の8ビートに合わせて足を動かして解決を図る。
しかし鳥海山は、「花の百名山」にも「新・花の百名山」にも選ばれているとおり、あちこちに咲く花がとても美しい。
気ままにシャッターを切りながら歩いていく。また時間がかかる分、登山道は緩やか。怖い思いはしないで済んだ。

  
L: 鳥海山は時間がかかる分、登山道が緩やか。石で舗装している箇所も多い(それが帰りにつらかったが)。
C: 鳥海湖。カルデラ湖ということで、火山としての鳥海山が実感できる。花の名所としても知られている。
R: 先へ進むとうっすら山頂が見えた。展望台からに比べれば近いが、まだまだたっぷり歩くことになりそうだ。

7合目にある鳥海御浜神社は山小屋にもなっている。せっかくなので鳥海湖の写真を撮りつつ軽く休憩する。
時刻はまだ8時45分と、いいペースだと思う。しかし公称片道5時間というのは生半可なものではないはずなのだ。
行く手に広がる靄の向こうに山頂が見えるが、まだまだかなりの距離がある。気合いを入れてリスタートする。

  
L: 靄の向こうの山頂をクローズアップ。あのトゲトゲまで行くのだ。  C: 来た道を振り返る。思えば遠くへ来たもんだ。
R: 七五三掛にて。ここまで上ってきたけど、ここで一気に下りとなる。位置エネルギーがもったいない!と泣きたい気分。

遠景で見るとよくわかるが、鳥海山は実は東西2つの火山が複合してできている。最高峰の新山は東側なので、
つまり西から行くとどこかで下ることになるわけですな! ちょうどのその分岐点が、七五三掛(しめかけ)。
ここから外輪山を行くコースと新山に直行する千蛇谷コースに分かれている。千蛇谷の下りっぷりを目にして、
思わず「げえっ!」と叫んだらほかの登山客に笑われた。せっかくの位置エネルギーがたいへんもったいないが、
外輪山だと遠回りになるので千蛇谷へ。ちなみに三角点を狙う場合は外輪山の方へ行かないといけないので注意。

  
L: 千蛇谷の底にて。カールっぷりが実感できる。  C: ラストスパートはけっこう厳しい。  R: とにかく斜めに上を目指す。

千蛇谷はしっかりと雪に覆われている。底から眺めるとかつて氷河が削ったんじゃないかってカールがきれい。
しかし見とれていたのも束の間、その先は「千蛇谷」の名前にふさわしい草木のモジャモジャの中を行く。
ようやく抜けたと思ったら、斜面に申し訳程度にできた岩場の道になり、最後は岩そのものをよじ登っていく。
それまでは岩畳をのん気に歩いていただけだったが、千蛇谷コースは登山の多彩な要素が目白押しだったなあ。

  
L,C,R: 突然ですがここで道中きれいだった花たちの写真。専門的な知識があれば確かに登山が楽しくなるわな。

最後の岩場を抜けると砂利の広場になっていて、ここが御室。鳥海山大物忌神社の山頂御本社はここにある。
「山頂」というものの厳密には違って、このさらに奥には新山がそびえている。まあでもとりあえず参拝するのだ。

  
L: 御室に到着。鳥居の向こうに休憩スペースがあり、左手が鳥海山大物忌神社の山頂御本社となっている。
C: 山頂御本社の入口。  R: というわけでいよいよ参拝なのだ。左側が社務所。奥に新山が見えるなあ。

覆屋の中にある本殿に二礼二拍手一礼すると、社務所で御守を頂戴する。せっかくなので鳥海山の登頂バッジも購入。
これで島関係を除いた一宮はすべて制覇した。でもやっぱり島を無視するわけにもいかないのでうれしさはそこそこ。
とはいえ難度の高い一宮をきっちり押さえたことに変わりはない。ほっと一安心である。よかったよかった。

  
L: 社務所の手前から山頂御本社を眺める。  C: 山頂御本社の覆屋をクローズアップ。いやー、ついにここまで来たよ。
R: あとで新山に登ったときに振り返った山頂御本社。200名収容可能な山小屋としての機能も持っている。

さて、御守を頂戴するという目的は達した。とはいえ、これで帰ってしまうのはさすがにもったいない。
せっかくだから鳥海山の最高峰・新山に登るべきではないだろうか。しかしこちとら筋金入りの高所恐怖症なのだ。
一度チャレンジしたものの、その岩山があまりにも急で即時撤退。これ無理! これ無理!と脳内で叫ぶ。本気で怖い。
でも少し落ち着くと、やっぱりもったいない。やはりなんとかすべきではないか。葛藤の末、再チャレンジすることに。
結局、怖いという気持ちが発生するのは背にした荷物が重いからなのだ。荷物を目立つ場所に置いて、いざ挑戦。

  
L: 行く手にそびえる新山。これまでの鳥海山とは明らかに異なる溶岩の塊が迎え撃つ。ラスボス変化しすぎ。
C: 矢印の指示に従って溶岩の塊をよじ登っていく。よく考えると、最初に矢印を描いた人は偉いよね。
R: 岩と岩の間をすり抜ける。もうこの写真、上向いてんだか下向いてんだかワケわかんねえもん。

無心でよじ登り続けると、「←山頂」と書かれた文字を発見。無我夢中でまわり込んだら山頂の標識が置かれていた。
そこは5~6人くらいがいられる空間になっていて、先達が充実した表情でいろいろ話していた。ついに、僕も来たのか。

  
L: 鳥海山・新山山頂。ラストスパートが大変だった。  C: 外輪山である七高山。あちらの方が高そうに見える。

R: 鳥海山の一等三角点は最高峰の新山ではなく、2229mの七高山の方にある。新山から望遠で撮影したらこんな感じ。

「2236m 新山」という文字は間違いなくここが山頂であることを示しているのだが、呆気なくてそういう感じがない。
それに、こちらを囲んでいる岩山の群れを見回すと、どうもそれらの方が高そうに見える。本当に山頂なのか?と思う。
以前、東京都庁の展望室から夜景を眺めたとき、地形がすり鉢状に見えたことがあった。都庁がボウルの底に思えた。
地球は巨大な球体だから本来は逆のはずだが、どういう錯覚なのか、地平線に高さを感じてしまったのである。
あれと同じで、人間の目がそういうふうにできているのか、周りの岩場の方が高く、自分が囲まれているように見える。
先達も同じことを言っていたので、この感覚は僕ひとりだけではないはず。この錯覚は学術的に何というのだろうか。
もし検証されていないんなら「鳥海山効果」とかテキトーに名付けちゃおうぜ! いや本当に不思議な感じなのだ。


パノラマで撮影した西半分。どう見てもこのお隣の峰の方が高いように思えるのだが……。


こちらが東半分。外輪山に囲まれているのがよくわかる。でも新山の方が高いのだ……。

岩と雲と青空を堪能すると、来た道を這って戻って山頂御本社前の休憩スペースまで戻る。……ここまではよかった。
しかし、それまで登山客がいっぱい並んでいた山頂御本社の入口がきれいな無人状態になったことで、
「これはすっきりした写真が撮れるぞ!」と欲をかいたことが大失敗のもとだった。本当に愚かだった。

安定しない岩だらけの地面を慌てて走ったせいで、右足首を思いっきり内側にねじり込んで体重をかけてしまった。
その瞬間、くるぶしの辺りでブチブチブチッ!!と大きな音がした。頭の中に響いたその音を聞いて、血の気が退いた。
衝撃の反作用で跳び上がり、マズいことになったとすぐにわかって立ち尽くす。痛みを感じる前に冷や汗が出てきた。
しかし起きた現実は変えられない。歩を進めようとすると、くるぶしの外側、皮膚の中で何かがピラピラと動く感触。
まだ痛くはない。しかし、足首に力が入らない。登山靴で足首が固定されているので、歩くこと自体はできるのだ。
でも感覚が明らかにおかしい。冷え切った体の感覚がなくなるのに似た、無の感じ。靭帯が切れたせいなのか、
触覚までもがぶった切られている。マズい、マズい! そう思っているうちに、液体が広がるように感覚が戻ってくる。
さっき七五三掛で会った人に「あっ、『げえっ!』の人だ!」と声をかけられる。「そうです、『げぇっ!』です」、
そう笑って返すが、これからどうすべきか、そのことで頭の中はいっぱい。やがて痛みがじんわりと広がりだす。
よりによって、山頂である。何かがちぎれる音が聞こえるほどひどいこの捻挫が、人生最悪の捻挫なのは間違いない。
ここまで3時間かけて登ってきたルートを、人生最悪の捻挫をしたこの足で下るのか……? すべてが暗転してしまった。
(完全に余裕がなくなったので、この日はこれ以降、一切写真を撮っていない。とても面白がれる状況じゃなかった。)

時刻は正午の少し前。とにかく、一刻でも早く地上に戻らないといけない。靴は脱がずにそのまま、歩きだす。
登山靴が患部を固定するテーピングの役割を果たすだろうと信じて、すべてを捻挫した状況のままに下山を開始する。
脂汗が全身から吹き出る。一歩一歩がどんどんつらくなる。しかしペースを落としても絶対に休まないで歩き続ける。
登山道のほとんどが石畳ならぬ岩畳で補強されているが、それが本当につらい。岩はランダムな角度で顔を出しており、
そこに右足を乗せるたびに足首に負担がかかるのである。角度の変化がなめらかな土の道ならどんなに楽だろう。
でも現実はとことん牙を剥いてくる。ただただ、無心で歩を進める。なだらかな地獄の道のりが延々と続く。
やがてケガしていない方の左足も痛みだす。左足にばかり無理に体重をかけていたからだ。でも、歩くしかない。

3時間ちょっとで下山しきったのは根性の賜物としか言いようがない。フラフラになって鉾立口の登山口に戻ると、
鳥海鉾立ビジターセンターに助けを求める。タクシーを待つ間にいただいたオロナミンCの味を私は忘れません。
しかしここでも噛み合わない。象潟町内の病院はレントゲン技師が不在ということで、由利本荘の病院まで行くことに。
土曜日なので当然、救急外来で地元のおばあちゃんたちとともに順番を待つのであった。ひたすらじっとガマン。
やがて診察してもらったはいいが、整形外科は専門外ということでとりあえず応急処置の足首固定が精一杯。
それでも病院から羽後岩谷駅までバスに乗ることができたのは不幸中の幸いか。なんとか秋田駅にはたどり着けた。
いろいろやって足首固定のギプスが無意味だとわかったので、秋田駅付近のドラッグストアでサポーターを購入、装着。
晩メシをいただいてからエンヤコラヤと旭川まで歩いてホテルにチェックイン。秋田市街の広さがつらかったなあ。

どうしようもないほどに何ごともまったく上手くいかない日というのは確かにあって、まさに今日がその日だった。
しかも旅行の初日。今まで経験したことがないほどにひどい捻挫をしている足首で、旅行なんて続けられるはずがない。
でも、東京に帰ったところで明日は日曜日、医者はお休みなのだ。そして月曜日になっても、僕の捻挫は治らない。
さてどうしたものか。明日は一日ずっと秋田市内を動きまわる予定なので、レンタサイクルなら旅行を続けられる。
問題は明後日と明々後日なのだ。さっさと東京に帰っておとなしくすべきか、すでに底は打ったと見るべきか。
ま、とりあえず明日秋田市内をあちこち動いて、その感触で決めるとしよう。人間、喉元過ぎれば熱さを忘れるのだ。


2016.7.29 (Fri.)

本日は究極的にだらけてしまいました。夏休みなんだもん、そんな一日があってもいいじゃないか!
ほぼ毎日部活がある中で、通信のお勉強もやっている中で、日記も書いている中で、旅行もしている中で、
しっかりと休みをとることだって必要なのである。明日からの旅行に向けてバッチリ充電できましたぞ。


2016.7.28 (Thu.)

練習試合でまさかの主審をやることに。最近、主審はご無沙汰だったので、だいぶオドオドしながら笛を吹く。
最後はどうにか慣れてきて面の皮が厚い感じでできたけど、ファウルに確信を持てないでやるのはやっぱりつらい。
まあ主審を無難にこなせないで、「サッカーの勉強をちゃんとやっています」なんて言っちゃいけないのである。
久しぶりに現実を突きつけられて反省するのであった。うーん、われながら情けないものだ。

午後はプール当番だったのだが、まさかの0人。おかげで早めに撤退できたのであった。じっくり休めるっていいわあ。


2016.7.27 (Wed.)

美術の先生がパソコンの画面で西往寺の宝誌和尚立像(重要文化財)を見てえらく感心をしていたので、
「それってロラン=バルトの『表徴の帝国』で表紙になったやつですねえ」と反応を示す僕なのであった。
そんな自分のセリフで「最近きちんと骨のある本を読んでねえなあ」と実感。中学校レヴェルに染まりきっている。
昨日の研修での反応といい、今日のこの反応といい、大学レヴェルだとまったく大したことのない程度のものだが、
中学校レヴェルの日常ではまずありえないことだ。すっかり人間がスケールダウンしてしまっているなあと大反省。

知っているか/知っていないかの差というのは、実はかなり絶対的なものである。
別に偉ぶるつもりなんてさらさらないけど、僕は以前に『表徴の帝国』を読むという経験をしていたので、
宝誌の像にほかの人と違う形での反応ができたわけだ。知識があったから昨日の研修でもほかの人と違う反応ができた。
つまり、「その他大勢」に埋もれないためには、結局は知識量がないといけないということなのだ。
そもそもが、知識がないと気づけない。知識がなければ、感性がはたらく余地がそもそも生まれることがないのだ。
知っているということは、すべてのきっかけなのである。世間では最近「知識偏重を正す」などと言われているが、
知識のない者は可能性を閉ざされた者でしかない。知識がなければ何も始まらない。知識こそがすべての根源だ。
実学は基礎となる知識があってこそ成り立つ。その基礎をないがしろにする今の教育は、何も生むことはないだろう。

僕にとって知識と不可分の関係にあるものは、旅である。旅は自分自身の経験という深いレヴェルで知識を定着させる。
そして経験を経た知識は連鎖的につながっていって次の知識を呼び込み、知識じたいが等比級数的に広がっていく。
それだけでなく、旅とは「無慈悲な夜の女王」ならぬ「厳格な(女)教師」でもある(いちおう元ネタ →2008.10.10)。
僕に知識がなかったせいで、もう一歩足を延ばせばよかったのに!と後悔した経験は、数え切れないほどいっぱいだ。
知っていれば得をするし、知らなかったら損をする。その絶対的な差を冷酷に突きつけてくるのが、旅なのだ。
だから僕は、旅を通して自分の知識がどこまで通用するのかを測っているところがある。そういう遊びを楽しんでいる。
最近は本というヴァーチャルな旅がまるっきり疎かで恥ずかしい状態だが、その分だけ意地でリアルの旅をしている。
理想を言えば、読書と旅行をバランスよく組み合わせて、もっと効率的に知識をまとめていきたいところだ。
(読書とは他者の体験を自分のものとして追体験する行為にほかならない。それは情報空間における旅と言っていい。)
そうして十分な準備をしてから存分に感性をはたらかせる、そんな生活をしていきたい。それが「豊か」ということだ。


2016.7.26 (Tue.)

午前中は人工芝のサッカー場でバリバリ部活だったのだが、午後は東京海洋大学で研修なのである。
(とにかくいい名前をつけたと思う。水産大も商船大も悪くはないが、「東京海洋大学」だと通いたくなるもん。)
バスで移動することにしたのはいいが1時間に1本で、しかも到着するのが開始時刻のけっこうギリギリ。
最後は全速力で走って教室に飛び込みなんとかセーフ。本当、自分でも真面目によくやっているよなあと思う。

夏休みに研修を受けなければいけないのは非常に面倒だが、テーマを自分で選べる点はありがたい。
「海洋大ならなんとか興味を持てますわ」ということで、今回の「江戸前の海の授業づくり」に応募したのである。
参加型ワークショップで学ぶという名目だが、小グループに分かれてちょっとしたゼミ形式で考える、ってこと。
僕のグループは小学校の先生が2名と、海洋大の学生が3名ほど。向かいに座った女子大生がすごくかわいかったよ。
その子は広島出身ってことで、庄原のワニの刺身(→2016.7.21)の話で盛り上がったよ。旅行しておくもんだねえ。

内容は、東京湾を舞台にして海との関わりを持つ授業の提案。海洋大の先生は男女2名態勢で研修を進めたのだが、
やはり専門家の話を聞くのは面白い。植物の三大栄養素が話題に出てきて、当然のごとく即答するオレなのであった。
むしろ即答できない方がおかしいだろと思うのだが。ほかにもバラスト水にホンビノス貝の話題にもしっかり対応。
そんなやりとりをきっかけに「できる奴」扱いされたのでたいへん気持ちがよかった。ああ、優等生は楽しい……。
そうなりゃもうこっちのもので、大学でふつうに授業を受ける感じでレジュメにメモメモ。純粋に勉強になった。
もちろんワークショップもきちんとやったが、休むに似た素人考えよりも専門家の話の方が圧倒的に面白いのだ。
生活排水からの水質汚濁の具体的なプロセスとか、漁業と埋め立ての変遷とか、座学の楽しさを存分に満喫したねえ。

興味本位で終わらない工学精神やNPOとの連携など、かつて在籍した大学院の研究室の感触がして懐かしかった。
確かに環境改善のために住民を巻き込んでいくという点じたいは、大学院時代の研究とやっていることは一緒なのだ。
東工大の社会工学だとああだったけど、それが海洋大だとこうなる、というのが客観的に見えたのは興味深かった。
それにしても、男性の先生の頭の切れ具合にはしびれたよ。大学レヴェルの丁々発止は久々で、ゾクゾクしたねえ。


2016.7.25 (Mon.)

サンライズ出雲の中から平日の朝のラッシュを眺めるのは実に贅沢なもんだけど、出勤する皆様に見られて恥ずかしい。
青い縦縞の寝間着をはだけさせて「やーいやーい、悔しかったらお前もきままなる旅にいでてみん」と言えるようになりたい。

さて毎年夏休み恒例、人工芝のサッカー場で本格的に夏休みの日常がスタートするのであった。今年も部活三昧さ。
しかしながら、なぜか書類を取りに学校まで戻るトラブルも発生。その慣れないドタバタ感にまた夏休みを感じる。
さて肝心の練習はというと、情けないほど体が動かねえが、生徒も7人だけなので軽くほぐす感じになるのであった。
この夏休みの序章という感じはいくつになってもいいもんだなあと。好きにできる未来があるって本当に素敵だ。


2016.7.24 (Sun.)

鞆の浦から始まって中国地方を縦断して島根で御守三昧という贅沢な旅も、今日が最終日である。
しかし今日もみっちりと予定が詰まっているのだ。最後の最後まで大きな神社を参拝しまくれるところに、
出雲国の凄さをあらためて実感させられる。本当、どれだけ聖地がいっぱいあるんだよと。行けるだけ行くぜ!

本日の一発目は出雲国二宮の佐太神社。さまざまな説があるようだが、神社としては「さだ」とは猿田彦、とのこと。
場所は松江城の先、島根半島の真ん中。山がちな島根半島で唯一平地が切れ込む箇所があり、その北端にある。
松江駅からバスで揺られること30分ほど。便は悪くないので、まずここに朝イチで乗り込んだというわけである。

  
L: 県道37号沿いのバス停から佐陀川を渡るとこの参道。鳥居脇の社号標には「佐陁大社」とある。面白いな。
C: あーっと、昨日に続いて今日も改修工事中だー!!  R: 持ち上げられている手水舎。派手にやっとりますな。

というわけで、昨日の平濱八幡宮に続いて佐太神社も大規模な工事中なのであった。朝からこれはヘコむぜー。
特に佐太神社の社殿は大社造が3つ並ぶ独特なスタイルで、重要文化財でもありしっかり味わいたかったのだが……。
御守は頂戴したけど、さすがにここまで強烈に工事中だときちんと参拝した気がしない。切なすぎるで。

  
L: もうどうにもなりません。  C: 現在はこちらの仮拝殿で参拝するのだ。  R: 意地で覗き込むけどこれが限界。

佐太神社には田中神社という摂社がある。参道から少し離れた佐陀川沿いの飛び地にあって、これがちょっと面白い。
佐太神社本社北殿はニニギを祀るが、田中神社の東社はイワナガヒメを、西社はコノハナサクヤヒメを祀っている。
ブサイクだとしてニニギに離縁されてしまったイワナガヒメの東社は佐太神社に背を向けて建っているのに対し、
次にニニギと結婚した美人・コノハナサクヤヒメの西社は佐太神社の方を向いている(その後の顛末 →2016.2.26)。
つまり、東社と西社は互いに背を向けて建っているのである。物語を空間にちゃんと反映させたというわけだ。

 
L: 互いに背を向けている田中神社の東社と西社。ニニギがイワナガヒメと別れたせいで人間の寿命が短くなったのよ。
R: 佐太神社前のバス停にて。運行日を示す記号に♯や♭を使っているとは面白い。ぜひ♮も使ってほしかった。

松江駅に戻ると一休みしてから再びバスに乗り込む。今度の目的地は美保関ターミナル。そう、美保関まで行くのだ。
ただし美保関といっても長い(「広い」ではなく「長い」)。ターミナルでさらにバスを乗り継がないといけない。
なんせターミナルは中海側(弓ヶ浜半島の西側)だが、本来の美保関港は日本海に面している(弓ヶ浜半島の東側)。
つまり境港をかすめて島根半島のほとんど先っぽまで行くことになる。バスでそこまで行くのはけっこう大変なのだ。

 
L: ひたすらバスに揺られる描写をしてもしょうがないので、ハイ美保関ターミナル。駅からここまで45分。
R: 境港のフェリーターミナルを眺めつつさらに東へ。ここから先はコミュニティバスでの運行となるのだ。

松江駅を出たバスは国道431を進む。小学校・中学校・公民館・美保関総合運動公園が集まっているところが終点で、
なるほどターミナルとは地元の拠点なのかと納得。公民館内の待合室で少し待ってからコミュニティバスに乗り換えて、
さらに30分弱。7年前(→2009.7.19)とまったく同じ姿で、静かにたたずむ美保関の漁港にやっと到着した。
前回訪問時は朝イチだったし、その先の灯台を見て帰っただけだったが、今日はある程度しっかり歩きまわるのだ。

  
L: 美保関港。島根半島の東端、南側のちょっとへこんだところ。完全に山と海に挟まれたところに生活圏がある。
C: 反対側から見るとこんな感じ。  R: 港に面して旅館が並ぶ。美保関の景観はほかにない独特なものだと思う。

天気がよくなるのを待ちつつ、まずは港の周辺をフラフラしてみる。が、純粋な漁港なので特に何かあるわけでもない。
かつてはたたらによる鉄の輸出港であり北前船のルートでもあったそうだが、今は本当に漁港に特化している港だ。

 駐車場の端っこには歴史を物語るモニュメント類が配置されている。

しかし港から一本奥に入ると、そこは「たたら」や「北前船」ほど具体的ではないものの、歴史を感じさせる空間となる。
青石畳通りという名前で、狭い石畳の路地と木造の家並みが往時の繁栄ぶりを思わせる。見事に近代以前の空間だ。
思えばこの旅は鞆の浦から始まったが(→2016.7.21)、それと似た雰囲気が確かにある。これが近代以前の港町か。
鞆の浦も美保関も陸路だとアクセスが非常に面倒くさい。でもだからこそ、歴史が今もきちんと息づいているのだ。

  
L: 港から一歩奥に踏み込むと、そこは昔ながらの港町。  C: 石畳とかぎの手。  R: 東西と南北の路地が交差する。

  
L,C,R: 青石畳通りの風景。この辺りは国登録有形文化財を中心に古い家々が並ぶ。見事なものだ。

  
L: 1908(明治41)年竣工の美保館本館。  C: 向かいの美保館旧館。こちらは1932年の竣工。
R: 青石畳通り、美保神社側の入口。「艮(うしとら)門」との扁額あり。丑と寅、すなわち鬼門だね。

青石畳通りを抜けた先は、美保神社の参道である。狭い狭い美保関の路地とは明らかに異なる迫力があり、
神社前の空間が参道を兼ねながらオープンスペースとして機能していたことがうかがえる。港と神社を結ぶ広場だ。

  
L: 美保神社の参道。素直に港から西に入るとこちらの光景となる。  C: 大きな社号標と歴史を感じさせる鳥居。
R: 鳥居をくぐって石段をちょっと上がるとこの光景。右手は収蔵庫だが、特に奉納された楽器に貴重な物が多い。

ここまで来るのは大変なのに、不思議と参拝客がそれなりにいるのである。車って便利だなあと思うのであった。
こちとら半ば意地で公共交通機関だけで旅をやっているけど、いろいろ調べて頭を使う作業が楽しいんだよね。
そんなことを思いつつ斜めの参道を進み、神門を抜けて拝殿の前に出る。と、その規模の大きさに息を呑む。
拝殿は伊東忠太の設計で1928年に造営されたが、正々堂々とした姿に言葉なくただ見つめることしかできなかった。

  
L: 斜めの参道と神門。  C: 拝殿。船庫を模したので壁も天井もなく梁がむき出しとのこと。しかし美しい。
R: 境内の端から本殿ごと眺めるが、非常に安定感のある船のような印象を受ける。ただただ息を呑むばかり。

美保関の街並みから考えて、美保神社がこれだけ規模の大きい神社だとは思っていなかったので、ひどく驚いた。
しかし実際はむしろ逆で、やはりこの規模が当然のものであるくらいに、かつて美保関は重要な港だったわけだ。
旅行で歴史に触れるたび、かつては陸上交通より海上(水上)交通で大量の物資を運んでいた事実を突きつけられる。
美保関には近代以降の日本が忘れてしまっている本質が詰まっていると思う。わざわざ再訪問した甲斐があった……。

  
L: 拝殿の奥にある本殿。1813(文化10)年の再建で重要文化財。大社造を2つ並べた特殊な形をしている。
C: 裏側にまわり込む。左殿(大御前)に三穂津姫命、右殿(二御前)に事代主神を祀る。  R: 美しい……。

時間のある限り美保神社の社殿を眺めて過ごすが、バスの時間が来る前に美保関でもうひとつやりたいことがある。
それは焼きイカをいただくことである。港の駐車場近辺には地元のおばちゃんによる焼きイカの屋台が複数ある。
幌の下にはイカが並べて干してあり、一目でそれとわかる暖簾のようになっている。これはもう文化だなあ、と思う。
1杯500円で、注文するとその場で焼いてくれる。食べやすいように丸めた形で焼き、ビニールに入れて渡してくれる。
ちょっとずつ出してかじることで、手を汚さずに食べられるというわけ。完成されているなあ!と感動するのであった。
味の濃さはいくらでも食べられるバランスの良さだし、ゲソを内側に折り込むことで歯ごたえも楽しめる。最高だ!

  
L: 焼きイカの屋台。こんな感じのイカ暖簾。  C: 甘めの醤油だれにたっぷりと浸けてから焼く。匂いがたまらん。
R: ビニールから小出しにしてかじるスタイル。クレープのような感覚で気軽にいただけるが……これが凄まじく旨い。

帰りのバスも同じように乗り継いで松江駅へ。時間がかかって大変だったが、美保関はそれだけの価値があった。
余韻に浸っているうちに駅に到着。しかしすぐに別のバスへと乗り換える。松江もかなりのバスの街だなあ。

今度は南へ突撃なのだ。松江市営バスで20分ほど揺られると八重垣神社で下車。やっぱり参拝客がワンサカいる。
特にこちらは縁結びに力を入れている神社なので、心なしか若い女性の比率が高いように思う。皆さん好きですなあ。

  
L: 八重垣神社。「八雲立つ 出雲八重垣 妻込みに 八重垣造る 其の八重垣を」ということで縁結び方面で大人気。
C: 神門。出雲の神社って本殿を大社造で凝るわりに、神門は取って付けたような掘っ建て感のあるものが多いよな。
R: 拝殿を正面から撮影。人影がなくなる瞬間までどれくらい待ったことか……。いや別にいてもいいんだけど。

まあそもそも参拝客がいてナンボだし、別に神社に非はないのだが、参拝客はなんかキャーキャー感があるのよね。
神社を介して時間や空間、物語を楽しみたい僕としては、なんかちょっと違うなあと。テーマパークとは違うのだよ。
この神社本来の凄みが絶対にあるはずなのに、それよりも「ここに来た自分」を優先して楽しんでいる感がどうもね。
そんなことを考えるたび、近代以前の参拝客だってチャラチャラしとったぞと自分に言い聞かせているんですけどね。

  
L: 拝殿を少し角度を変えて。  C: 側面から本殿方面へ。  R: 本殿。やはり大社造である。さすがにご立派。

八重垣神社の一番人気は、鏡の池での縁占い。社務所で頂戴した紙に小銭を乗せて池に浮かべると文字が浮かぶ、
といういかにもなシステムで、皆さん競うように必死で紙を浮かべておるわけです。うわー本気でどーでもいいわー

  
L: 本殿を背後から見上げる。高いのう。  C: 川を渡って奥の院方面へ。  R: 鏡の池と奥の院。紙がプカプカ。

帰りのバスを待つ皆さんを尻目に、僕は独り東へと歩いていく。まばらな住宅はやがてなくなり、緑の中へ。
しかし道はしっかりとある。それどころかあちこちにハニワ的なオブジェが置いてある。いい感じの遊歩道だ。
同じようにわざわざこのルートを歩く物好きもいて、ひと気がまったくないわけではなく寂しいことはない。
あとで調べたら「はにわロード」として松江市が整備したらしい。途中に何か名所があれば、より面白いのだが。

  
L: 八重垣神社から東へ、「はにわロード」を行く。  C: 森の中を抜ける。  R: 休憩用の東屋もこんな感じ。

そうして東に抜けたところにあるのが、神魂(かもす)神社だ。本殿が国宝ということで是非にとやってきた。
車道に沿って歩道の参道が長くとられており、横参道の形から石段を上ると境内、というなかなか独特のスタイルだ。

  
L: 神魂神社の参道。車道に沿って長くとられている。  C: 進んでいくと石段が始まる。  R: 手水がなんかすごい。

石段を上って境内に出ると、まずすぐ目の前に拝殿。石段からまったく余裕がなくて、眺めているとひっくり返りそうだ。
「御神前の撮影 御遠慮ください」と貼り紙があるが、確かに拝殿を正面から撮ろうとすると中を覗き込まざるをえない。
それくらい余裕がないのである。少しずれた位置から社殿全体を眺めるが、まあとにかく本殿が圧倒的である。
上述のように神魂神社の本殿は国宝である。現存する大社造では最も古く、1583(天正11)年の再建とのこと。
出雲国の神社の本殿はほとんどが大社造だが、間違いなくこの神魂神社の本殿がチャンピオン的存在だろう。

  
L: 神魂神社の社殿。  C: 全体を眺める。国宝の風格だなあ。  R: 本殿。こうして見るとマンモスみたいだね。

神魂神社でひとつ残念だったのは、御守をめぐる対応である。いつものごとく「ふつうの御守」を所望したが、
神社ではそれを切らしていて交通安全のものしかなかった。しょうがないので交通安全で頂戴したのだが、
「それも縁ですから」と言われたのには正直腹が立った。国宝があって参拝客も多い人気のある神社なのだから、
やはりそこは御守を切らさないでほしい。そして目的の御守が頂戴できないことは確かに「縁」ではあるのだが、
ぶっちゃけ神社の側の怠慢が原因である。遠路はるばる来て目的が達成できなかったことを「縁」と言われると、
こちらとしてはかなり強い否定を受けた気分になる。神社側の不手際を参拝者の責任にして正当化してないか?
上から目線で参拝客の気持ちを考えられない神社だな、と思ってしまう。非常にイヤな気分にさせられてしまったわ。

  
L: 神魂神社の本殿。本殿は立派だが、神社側の対応には不満がいっぱいです。  C: 稲荷社の足元には狐たち。面白い。
R: 摂末社が並ぶ光景もどこか原始的な神々しさを感じさせる。歴史も古すぎると何がなんだかわからんがとにかく凄くなるね。

そのままさらに東へ行くと、「島根県立八雲立つ風土記の丘」の展示学習館である。よくわからない名称だが、
この辺りから昨日参拝した平濱八幡宮&武内神社の辺り(手前が旧出雲国分寺)までを「八雲立つ風土記の丘」とし、
そのまま広大なフィールド・ミュージアムとして扱っているのだ。その展示施設があるので寄ってみたわけだ。
建物じたいは昭和のコンクリ建築だが外観を目立たせる気がないようで、もうちょっとなんとかならんかという感じ。
しかし階段で直に屋上へ行くことができて、そこから「風土記の丘」エリアを眺められるようになっている。

  
L: 室町時代の豪族の館跡を復元したエリア。風土記……うーん?  C: 展示学習館の屋上を行く。なんか惜しい建物だ。
R: 屋上から眺める「風土記の丘」。正直、期待したほどいい景色ではなかったなあ。なんかいろいろ空振り感がある。

国道432号に出てバスを待つ。本日の最後は熊野大社なのだ。3年前にも参拝しているが(→2013.8.18)、
非常にいい雰囲気の場所だったのでもう一度行ってみようと。コミュニティバスへの乗り換えが面倒ではあるが、
それだけの手間をかける価値のある神社なのである。ここもやっぱり自家用車だと楽なんだろうけどねえ。

  
L: というわけで熊野大社にやってまいりました。  C: 駐車場からいざ神社へ。  R: 一段高い境内を脇から撮影。

3年前には気絶しそうなほどの炎天下での参拝だったが、今回は落ち着いた夕方。写真も落ち着いた感触になった。
晴天の下でこそ色は魅力的に映るのだが、神社の場合には不思議と晴天でなくてもきれいに撮れるものだ。
もともと雰囲気のいい熊野大社、気の済むまでシャッターを切って過ごす。御守も複数頂戴したし大満足である。

  
L: 拝殿。少し角度をつけて撮影なのだ。  C: 伊邪那美神社。  R: 本殿を覗き込む。やっぱり立派な大社造。

帰りのバスではやっぱり気になるのが鼻曲のバス停。今回はこんな感じで撮影してみました。

 何故このような地名が生まれたのか。

松江駅に戻ると晩ご飯をいただき、各種お土産を確保してから、いよいよ帰る準備である。
今回はなんと、サンライズ出雲に乗っちゃうもんね! 寝台特急に乗るのは初めてなのだ。鉄じゃないナリよ。
やはり人生で一度は寝台列車を体験しておかなくちゃいけないんじゃないかってことで。華々しい旅の終わりだぜ。

 やってきましたサンライズ出雲。

そんなに頻繁に乗れるわけじゃないからねえ、せっかくだからやっぱり奮発してシングルなのだ。
一人でウホホーイと興奮して過ごす。写真撮りまくってリョーシさんに送ってみたりして。

  
L: サンライズ出雲のシングル!  C: サンライズ出雲のシングル!  R: サンライズ出雲のシングル!

車窓の風景はだんだんと暗くなっていくが、無駄にテンションを高く過ごしている自分には関係がないのだ。
テンション高いついでに白バラコーヒーとそのアイスクリームをいただいて、さらにテンションアップ。
それにしても白バラコーヒーのアイスがあるとは。でもよく考えたら、かつてマツシマ家ではお中元として、
白バラ牛乳こと大山乳業農業協同組合のアイスクリームを贈っていたのだ(かなり好評だったようだ)。
白バラコーヒーの人気ぶりを考えれば、こういった商品が開発されるのは当然のことか。おいしゅうございました。

 白バラコーヒーがある限り、山陰の魅力は僕の中でMAXなのである。

疲れもあって、列車が伯備線に入った頃にはもう寝ていた。伯備線はまた、昼間にあらためて乗りますので……。
最後の最後までやりたい放題にやった4日間で、ただひたすらに満足である。いや、本当にやりきったわ。


2016.7.23 (Sat.)

4日間の旅程で今日がいちばん体力的にキツい日である。レンタサイクルを利用して、走って走って走りまくる。
それだけに天気が心配だったのだが、朝から紫外線たっぷりの快晴でかえって不安になってしまうほどである。
とりあえず広い広い出雲市の市街地を駅まで歩いていくが、途中にあった出雲市立出雲体育館が面白かったので撮影。
こりゃタダモンじゃねえなと思って調べたら、石本喜久治の設計だった。竣工は1961年で、よく残しているなと感心。

 
L: 出雲市立出雲体育館。  R: 外観は「おろち」をイメージしたそうだ。どっちかというと象っぽいけど。

7時20分、バスはJR出雲市駅を出発したのであった。45分ほど揺られて目指すは終点・日御碕だ。
日御碕には第1回・チキチキ男3人ブラ珍クイズ旅で訪れたが(→2009.7.18)、日御碕神社には行ってないのよね。
地元民や出雲大社への参拝客を乗せて出発したバスだったが、日御碕まで行ったのは僕だけ。みんな行けよぉー。
稲佐の浜を後にすると、県道29号は島根半島の山の端をぐんねりぐんねりと走っていく。左は崖と海、右は山肌。
7年前にも細くてうねる道にビビった記憶が蘇る。やがて北東へと針路を変えて緑の中を突っ切って行くと、
一瞬、緑に埋もれた朱色の社殿が見えた。おお!と思っている間にぐるっとカーヴして、バスは終点に到着。

  
L: 日御碕神社の境内入口。  C: 鳥居をくぐって「く」の字の参道を行くと楼門。  R: 楼門をくぐる。朱色が眩しいね。

日御碕神社は12棟の建物が重要文化財に指定されている。まあつまり、境内の建物はだいたい重要文化財というわけ。
鮮やかな朱色が目立ってそんなに古さは感じさせないが、屋根をはじめとして細部がいちいち立派で風格のある造り。
これだけ見事な神社なのになんで7年前には参拝しなかったのか。まあ今回きちんと参拝できてよかったよかった。

  
L: 下の拝殿。枝がウルトラ邪魔だ。  C: 角度を変えて眺めるとこんな感じ。  R: 拝殿の側面にまわる。立派だなあ。

日御碕神社には上下2つの本社がある。参道からまっすぐ行ったところにあるのが下の本社で、「日沈宮」という。
これは伊勢神宮が昼を守るのに対し、日御碕神社は夜を守る役割を与えられているため。さすが西の果ての神社だ。
祭神も伊勢神宮の内宮と同じで天照大御神である。さすがは「『日』のみさき」なんだなあと感心するのであった。
出雲地方はどうしても出雲大社の存在感が抜群に大きいが、それ以外にもトップレヴェルの魅力を持つ聖地だらけだ。

  
L: 下の宮の拝殿脇はこんな感じ。  C: 下の宮の本殿。彫刻が美しい。朱色が鮮やかだが上品なのがいい。
R: 失礼して上の宮から見下ろした下の宮の社殿。拝殿も本殿もどちらもそれぞれに魅力的。見とれてしまうわ。

上の本社は「神の宮」といい、スサノオを祀る。境内端の石垣の高台上にあるが、歴史はこちらの方が古い。
石段を上ったら蜂っぽい虫が朝から元気に飛んでいて肝を冷やしたが、なんとかしっかり参拝するのであった。

  
L: 廻廊と上の宮の社殿。下の宮とは対照的に、こちらは海の方を向いている。  C: 拝殿へ向かう石段。
R: 上の宮の拝殿。場所が狭くて思うように撮れなかったが、さすがに立派。それにしても蜂っぽい虫が厄介だった。

無事に御守を頂戴すると、7年前にも訪れた出雲日御碕灯台に行ってみる。天気がいいので雰囲気はもう最高。
高さ43.65mの真っ白な塔は1903(明治36)年の初点灯で、世界灯台100選にも選ばれている文化財なのだ。
日御碕は青い海と木々の緑そして柱状節理の岩が独特のコントラストを描いているが、灯台はそれらを背景に従え、
絶対的な主人公として誇り高く屹立している。今回、ようやくその本来の美しさに気づくことができた。

  
L: 出雲日御碕灯台。  C: 日御碕ではどこにいてもこの灯台が主人公としてふるまう。  R: 正面より見据える。

午前9時になりちょうど灯台がオープン。一番乗りで中にお邪魔する。高所恐怖症だけど味わわないといかんでしょう。
当然、中は狭くて螺旋階段を黙々と上がっていく構造。レンズの下を抜けると展望台で、ありがたいことに一周できる。
怖いんだけど、それよりも景色の見事さが上回り、夢中でシャッターを切った。風がなかったのも幸いだったなあ。

  
L: 灯台の内部。  C: レンズの下の小部屋。ロマンがあるわ。  R: 眼下の日本海。美しい青に目を奪われる。

島根半島は本当に不思議で、まさに緑豊かな島を取って付けたような印象がする。それくらい平野部と雰囲気が違う。
神様が引っ張ってきてくっつけた土地という伝説も納得できちゃうなあ、なんて思いながら景色を眺めるのであった。

  
L: 北の方を眺める。  C: 南東側の土産物店や駐車場。山が険しい。  R: 日の沈む西側。左手奥にあるのは経島。

バスの時刻まで余裕があるので遊歩道を散策して過ごす。海の端っこの方まで行ってみたり、鳥たちを眺めたり。
天気がよければなんでも楽しいのである。青い海と岩陰のかわいい花と白い灯台を見比べながら過ごすのであった。

  
L: 日御碕の海岸線を眺める。  C: いちおう突端まで行ってみる。柱状節理がすごい。  R: トビかな? 休憩中。

最後に経島を見ておく。かつては日御碕神社の下の宮があったそうで、今もど真ん中に鳥居と祠が建っている。
そういえばバス停のある日御碕神社付近に戻る途中、食堂の店先の看板に「古事記丼」という文字があった。
非常に気になってたまらなかったが、時刻も時刻なので断念。実はダジャレでひじきが満載とかやーよ。

 
L: 経島。展望台からきれいに見渡せる。  R: 祠近辺をクローズアップ。きちんと鳥居に鳥がいるね。

出雲市駅に戻ったのがだいたい10時半。さあいよいよここからが本日のメイン・エベントなのである。
レンタサイクルを確保すると、気合を入れて市街地を南下していく。川を渡ると国道184号をさらに南下。
2ヶ月前に菟田野から東吉野へと爆走した記憶が蘇る(→2016.5.23)。今回もあれに劣らない無茶な旅なのだ。
目的地は、須佐神社。その名のとおりスサノオを祀る神社で、かつては国幣小社にもなっていたほどである。
しかし非常に不便な山の中で、バスは神社の3km手前が終点なのだ。それならいっそ、自転車でぜんぶ行くぞ!と。
幸いなことに高低差はそんなに激しくなかったが、延々と山の中を走っていくのはやっぱり精神的につらい。
しかも途中で狭い一方通行の車道に分岐するし。後ろから来る車に申し訳ないと思いつつ必死でペダルをこぐ。

  
L: 国道184号を行く。こんな山の中を延々と突き進む。  C: 行程の半分くらいで立久恵峡(たちくえきょう)を通る。
R: なぜか道路は途中から一方通行の細い道になってしまった。後ろから車が来て走りづらいったらありゃしない。

出雲市役所佐田支所(旧佐田町役場)に到着すると、そこからまた南下。まあここまで来ればほぼゴールだが。
川沿いの道をしばらく行くと、いきなり落ち着いた人里に出る。山に囲まれた盆地には田んぼが目一杯に広がり、
その穏やかな雰囲気に不思議と心が和む。なるほどここがスサノオが最後に開拓した土地、「須佐」なのだ。

 
L: 出雲市役所佐田支所(旧佐田町役場)。奥にはその名もスサノオホールがある。
R: 須佐の里。日本の原風景といった趣で、たぶん誰もが懐かしさを感じる風景だと思う。

橋を渡って東側から須佐神社の境内にまわり込む。そしたら予想外に参拝客がいっぱいで、ヘナヘナになってしまう。
オレがここまで苦労して人力100%で来たというのに、車で簡単に速く来た連中でごった返しているとは……。
それでも意地で、できるだけ人影が入らないようにして撮影していく。それがかなり大変なほど参拝客が多かった。

  
L: 素鴨川に架かる宮橋を渡って須佐神社の境内へ。  C: 橋を渡って左手に鳥居。  R: 参道を進んでいく。

川沿いの境内は細長く、木々が鬱蒼と茂る川側と開放的な日なたの神楽殿側がずいぶん対照的な印象である。
パワースポットとして有名なようで、次から次へと参拝客がやってくる。こっちも意地で粘って撮影していく。

  
L: 随神門。簡素である。  C: その先に拝殿。半分木々がかかっている感じ。  R: 角度を変えて拝殿を眺める。

拝殿まではそんなに大した神社なのかなと首を傾げていたのだが、いざ本殿を目にして思わず唸り声が出た。
1554(天文23)年の造営という本殿は見事な大社造で、圧倒的な説得力を漂わせて鎮座していたのであった。
神社建築をある程度見てきて知識もついてきたけど、大社造は何か独特の迫力を感じさせるように思うのである。
見るからに高床式倉庫から発展したことをうかがわせる造りで、他の様式より高さがあるからそう感じるのか。

  
L: 拝殿の裏にある幣殿。拝殿から分離しているのは珍しい。  C: 奥の本殿。大社造の迫力を直に感じる見事さだ。
R: 反対側から眺めたところ。なお、本殿の背後には樹齢1200年ほどという大杉が控えている。すごいもんだな。

しっかり参拝して御守を頂戴すると、来た道を引き返すのであった。いやー、根性根性! この手間がいいんだよ。
出雲市駅まで戻るとハンバーガーをいただいてエネルギーを充填し、いよいよ松江へと移動する。まだまだ旅はこれから。
島根は出雲だけじゃなくて松江側にもワンサカと大規模な聖地があるのだ。それらを徹底的に押さえるのである。

 やってきました松江駅。まずは駅裏のレンタカー屋で自転車を借りるべし。

最初に参拝するのは松江市街のど真ん中にある賣布(めふ)神社。飲食店街と寺町に囲まれた位置にあって、
すぐ北を大橋川が流れる。鳥居や神門からして空間的な余裕がまったくないのだが、境内に入ると雰囲気は一変。
非常に落ち着いた風格のある神社である。松江も普請道楽な気質の街だが(→2013.8.19)、ここは別世界だ。

  
L: 賣布神社の境内入口。非常に狭っ苦しい印象である。  C: しかし中に入れば立派な神社。  R: 拝殿。

御守を頂戴すべく社務所にお邪魔したが、面白いのが塩の入ったお茶をいただけること。賣布神社には塩の御守があり、
それを入れたお茶をサーヴィスで出してくれるのだ。こちとら汗びっしょりなので、それはもうありがたくいただいた。
少し熱めだったが、かえって腹を壊さなくてよい。塩分補給は願ったり叶ったりだし。ちょうど必要なものを頂戴できた。

  
L: 角度を変えて眺める拝殿。見事である。  C: 本殿。やっぱり大社造なんだなあ。  R: 本殿の背面を眺める。

境内奥にある摂末社もまた立派だった。和田津見神社・金刀羅神社・船霊神社など、海運交通関係が多い。
こういう摂末社にも風格がある辺りに松江という街の文化度の高さを実感させられるのだが、いかがなもんだろうか。

 摂末社も立派。平入や妻入のヴァリエーションがまた面白い。

さて、あまりのんびりしていられない。次の神社はちょっと遠いのだ。東松江駅から西に1kmほど戻ったところにある、
平濱八幡宮・武内神社まで突撃するのだ。松江駅南口に突き抜けて国道9号をひたすら東へ。きっちり郊外化しており、
車の交通量が多くて歩道が貧弱。自転車としては気を抜けない道である。さっき摂った水分はすぐに汗となり飛んでいく。
けっこうフラフラになりながらもどうにか到着。境内脇に駐車場があったので、そこに自転車を停めて石段にまわり込む。

  
L: 神社の南側に延びる参道。まずはわざわざここまで来て参拝開始である。  C: 進んでいくと神社らしい雰囲気に。
R: 石段を上っていく。脇の駐車場からだといきなりこの辺に出られて便利。参道の長さに規模の大きさを感じるね。

実際に参拝してみてもイマイチよくわからないのが、この神社の正式な名称あるいは力関係である。
Wikipediaの記事なんかを参考にすると、「平濱八幡宮」がメインで「武内神社」がサブ(境内社)とのことだが、
どうも後者の方が存在感が強い感触なのである。武内宿禰は八幡トリオの忠臣なのでサブでいいはずなんだがなあ。

  
L: 神門の向こう、何かイヤな予感がするぞ……。  C: かなり派手に改修工事中(平成の大遷宮)なのであった。
R: 社殿をクローズアップ。手前が境内社の武内神社で、奥の平濱八幡宮が改修工事中というわけ。構造が気になる。

で、見てのとおり社殿は大規模に改修工事中なのであった。平成の大遷宮で、2年後の6月に工事完了予定とのこと。
脇にくっついている格好の武内神社も半分が工事のシートに隠れており、社殿全体がどういう構造になっているのか、
なんともわからないのが切ない。本来はどんな姿をしている神社なのか非常に気になる。うーんモヤモヤするぜ。

  
L: 武内神社も拝殿のほぼ半分がシートの向こうで、何がどうなっているのかよくわからない。  C: いちおう背面。
R: 摂末社も高床式となっているのが出雲らしさということか。大社造の影響が本当に大きいことがうかがえる。

なんでそんなに慌てていたかというと、せっかく松江に来たんなら温泉に浸からないといかんでしょ、という発想。
駅に戻って自転車を返却すると、バスに揺られて玉造温泉へと向かうのであった。バスだと直で温泉街に行けるのがいい。

  
L: というわけでやってきました玉造温泉。  C: 相変わらず風情があっていいですな。  R: まがたま橋のオブジェ。

よく見たら、まがたま橋の巨大勾玉の脇にはなぜか安西先生の顔が描かれている案内板があった。
「勾玉を制する者が玉造を制す。とりあえず、君は日本一の勾玉になりなさい……」とのこと。そしてさらには、
「おい見てるか矢沢 日本一大きい勾玉がここにあるのだ しかも4つも同時にだ……」のフキダシ付き。
なんでスラムダンクが出てくるのかはわからないが、安西先生にそう言われちゃったら納得するしかあるまい。

 けっこうマニアックなところを持ってくるなあと。

玉造温泉で存分にとろけると、再びバスに揺られて松江駅へ。宿はかなり独特なスタイルで寮みたいだったが、
それはそれで無駄なく便利でもあるので素直に面白がる。しかし明日で旅が最終日だと思うと淋しくなるなあ。


2016.7.22 (Fri.)

備後庄原駅を出発したのは7時30分。いつもの旅行ならもっと早い時間にスタートすることがほとんどなのだが、
なんせ相手は芸備線の最深部、ウルトラスーパー本数が少ないのである。そっちの都合に合わせるよりないというわけ。
8時17分に備後落合駅に到着すると、ホームに降り立った客はたった一人だけ(つまり僕)なのであった。
ここから1時間ちょっとの自由時間となる。さあ、どうやって過ごすか。ま、せっかくだから歩きまわってみるか。

  
L: 備後落合駅にて。列車が東から来たり西から来たり北から来たりするのだが、ぜんぶ超ローカルなので切ないのなんの。
C: 駅舎の背面、木次線のホームを眺める。  R: とりあえず駅舎を出て、散歩してみることにした。行ってきまーす。

2年前の庄原訪問でも備後落合駅は経験しているが(→2014.7.21)、駅周辺を実際に歩いてみるのは初めてである。
究極的に何もないことはどうせわかっているのだが、それでもじっとしていてはもったいない。とりあえず東へ歩く。
国道183号を少し行くと、まず簡易郵便局。しかしその先には何もない。単に山の中を走っている国道でしかない。
小鳥原(ひととばら)トンネルの東側には民家が数軒あるものの、それだけ。途中に芸備線の踏切があったのだが、
列車の本数が少なすぎて見事に錆びていた。あまりの何もなさに無言で引き返す。駅の西側に行く気力はなかった。

  
L: 備後落合駅から国道に出て振り返る。  C: 東へ向き直ったところ。簡易郵便局の先には緑と道路があるのみ。
R: 国道314号との分岐点はちょっと公園っぽくなっていた。でもどういう意図で石が置いてあるのかまったくわからん。

9時を過ぎて、木次から気動車がやってきた。程なくして芸備線は備後庄原・三次方面へと去っていく。束の間の邂逅。
そして9時22分になり、たった一人の客(つまり僕)を乗せて木次線は動きだす。備後落合は噂以上の僻地だったなあ。
さて木次線である。緑の中をスルスルと抜けていき、まさに森林鉄道といった趣。見どころはなんといっても出雲坂根駅。
JR西日本では唯一という3段スイッチバックが強烈だ。しかしながらそんなものは鉄道に興味がなければなんともない。

 
L: 出雲坂根駅のスイッチバック。  R: 少し長めの停車時間だったので、駅舎ごと木次線の車両を撮影してみた。

鉄っちゃんなら楽しめるかもしれないが、一般ピープル相手にはなかなか厳しいものがあるよなあ……と思っていると、
八川駅を越えてようやく風景に人里らしい雰囲気が漂いだすようになった。どうも出雲横田駅以北の木次線は、
「奥出雲町」としてまとめられる山間の集落を縫って押さえていく感じである。そうしてやっとこさ木次駅に到着。

 
L: 木次駅に到着。  R: 駅の南側に延びる商店街。でもこっち側の旧市街を歩く暇がなかったのが残念。

木次線は本数が少ないのに、市役所は国道54号沿いに新しく建てられて駅から遠い。こういうのは本当に困る。
でもしょうがないので斐伊川に沿って軽く走りながら市役所を目指す。結局、往復でしっかり走らされたなあ……。

  
L: 国道54号は斐伊川を渡るのだが、その橋の高さから見下ろす雲南市役所。  C: 南側から眺めたところ。
R: スロープの終わるところから眺める。最近できあがりました!って感じのいかにもなファサードだなあ。

雲南市は、2004年に大東町・加茂町・木次町・三刀屋町・掛合町・吉田村の6町村が合併して誕生した。
市役所は木次図書館・勤労青少年ホームの隣にあった旧木次町役場に置かれたが(中心商店街の南側)、
昨年10月にずっと北にある斐伊川沿いで国道沿いの場所に移転したのだ。案内板がややこしくて困ったわ。

  
L: グラウンドレヴェルから眺める。ここが駐車場の入口ね。  C: 正面より見据えたところ。  R: 少し近づく。

新しい雲南市役所を設計したのは日本設計と中林建築設計のJV。プロポーザルによって6社から選ばれた。
日本設計はなかなか元気で、最近訪れたところでは豊岡(→2014.10.26)や長浜(→2015.8.7)など、
非常に特徴的なリニューアル込みの市役所を世に送り出している。また県庁所在地に強く、甲府(→2015.12.26)、
あとこの次の旅行で訪れる予定の新しい秋田市役所も設計している。面白い仕事をしている組織事務所だと思う。

  
L: 北東側から眺める。  C: 後述する島根県雲南合同庁舎前から見た側面。  R: 斐伊川の堤防から。天井川なのよ。

ぐるっと一周してみたが、非常に現代風。国道と天井川に囲まれており、見られることが意識される立地だが、
横の階層にガラス窓の縦のラインで大胆に変化をつけたファサードだ。鉄を思わせる色合いに仕上げてあるのは、
ここ奥出雲地方がたたら製鉄の本場だからか。流行りの木材を排して金属感を強調するとは、よく考えている。

  
L: 西の斐伊川側から見たところ。  C: で、一周して国道に合流する。建物のデザインは玉鋼のイメージなのかな。
R: 北側に隣接する島根県雲南合同庁舎。というより、もともとこの土地全体が島根県のものだったわけだなこりゃ。

中に入ると外観とは対照的に床が板張り。白い色も多用して柔らかい印象を与えている。メリハリがついている。
吹抜のホール部分にはテーブルと椅子がど真ん中に複数置かれており、誰でも自由に使えるようになっている。
ここまで空間を開放的につくっておいて、実際に来庁者にどーんと開放するのはなかなか珍しいのではないか。

  
L: エントランス部分。金属感から一転、明るい色調に。  C,R: 中に入ると板張りホール。けっこうな広さなのだ。

雲南市役所がさらに特徴的なのは、フォントのデザインをかなりこだわってやっている点である。
「雲南市役所」の文字はもちろん、階数表示の数字についてもこだわりをみせている。これは好感が持てる。
モダニズム全盛期には字体へのこだわりも少なからずあったものだが、現代でここまでやるのは珍しい。

  
L: 「雲南市役所」は必ずこのフォント。建物内のあちこちで見かける。かつてのモダニズムのこだわりを思い出させる。
C: フロアの案内表示もこんな感じでオシャレ。自治体が率先してデザインにこだわるのは民主主義の理想形だと思う。
R: 番号の付いている相談室。どちらかというと病院の診察室みたいね。まあ相談室があること自体が画期的だが。

雲南市役所は特にデザイン面で志の高さを大いに感じさせる市役所なのであった。いやー、楽しませてもらった。
しかしのんびりしている暇はない。ハイペースで走って引き返し、途中のスーパーで飲み物を購入。汗だらけですよ。

余裕のない旅は切ないなあ、と毎度おなじみのことを思いつつ木次線に揺られ、ついに終点の宍道駅に到着。
時間の都合で泣く泣く特急に乗り換えて出雲市駅に出ると、今度は一畑電車に乗り換えである。一日乗車券を購入。
実は私、一畑電車に乗るのは初めてなのであります。今までは宍道湖の南側ばっかりで、島根半島も端っこばっかりで。
今回はその島根半島のだいたい真ん中、一畑電車の名前の由来でもある一畑薬師こと一畑寺に参拝しようというわけ。

電鉄出雲市駅を出発すると、電車は市街地から斐伊川沿いの農地を突っ切り島根半島へと突撃していく。
そうして大社線と分岐する川跡駅で大量の観光客を降ろすと、適度な人数の地元住民とともに東へと針路を変える。
雄大な湖に接続する平野と、その北側を延々と塞ぐ壁のような緑の山並み。出雲は島根半島が見守る土地なのだ。
駅名がちょっと特徴的な読み方なのも、この土地の特別さを物語る。さっきの川跡駅は実は「かわと」と読むし、
美談(みだみ)、旅伏(たぶし)など一癖ある名前が続く。「湖遊館新駅駅」という嘘みたいな名前の駅もある。
そうして面白がっているうちに、一畑口駅に到着した。ここがまた特徴的で、平地なのにスイッチバックなのである。
地図を見てわかるとおり、かつてはこの先に線路が延びていて、次の一畑駅が一畑薬師への最寄駅となっていた。
しかし戦争でレールが持ち出されて現在のような形となってしまい、そのまま今もスイッチバックで走っているのだ。
この状態が解消されないところに一畑薬師に対する敬意を感じるし、旅情を掻き立てる重要な要素になっていると思う。

 一畑口駅で下車してから宍道湖まで出てみる。こっち側から眺めるのは初めて。

一畑薬師行きのバスが来るまで時間があるので、宍道湖に面したコンビニ(もちろんポプラ)まで買い物に出る。
無事に昼飯を確保すると、残った時間で一畑口駅のスイッチバックを面白がって過ごす。いやあ、旅情がすごいぜ。

  
L: 一畑口駅のホームを遠景で眺める。  C: 振り返るとこんな感じ。このひと手間が、一畑薬師への敬意なのだ。
R: 一畑口駅にある、レールの上でポーズをとる構図が秀逸な目玉おやじの像。目玉おやじについての詳しい話は後述。

やがてバスがやってきた。ちなみにこのバス、「平田生活バス」という名称で運営されている。「生活」って!
もともとこの地域は平田市という自治体に含まれていたのだが、2005年に出雲市と合併して平田市は消滅した。
しかしその後も出雲市がコミュニティバスの運行を継続しているのだ。しかし「生活」とは……。生々しいなあ。

乗客は僕だけで、運転手さんとあれこれ話をしながら一畑薬師まで連れていってもらうのであった。
県道23号をのんびり北上していくと、いきなり左折して山の中の急坂をグリグリ進んで広い駐車場に出る。
眼下にはまずまず広い空き地があったのだが、実はここ、かつて「一畑パーク」という遊園地があったそうだ。
1961年に開園するも、1979年に閉園。広大な駐車場はその名残でもあるというわけか。バスを降りて一人納得。
もともと寺というものが仏教の世界観を伽藍という空間で表現したテーマパーク的な存在であるとはいえ、
隣に遊園地をつくっちゃうって発想がすごいよなあ、と呆れる。アクセスが面倒くさすぎたか……。

 
L: 一畑パークの跡地と思われる空き地。アクセスにだいぶ難があったけど、豪快な発想だったなあと思う。
R: かつて一畑パークがあった影響か、やたらと広い一畑薬師の駐車場。年末年始とか満杯になるのかね。

さて、先ほど一畑口駅で目玉おやじ像を目にしたが、一畑薬師の境内にはさまざまな目玉おやじ像がいっぱい。
それらを見ていくだけでも楽しめる。ある意味、水木しげるロード(→2009.7.192013.8.20)の番外編かも。
一畑薬師についてきちんと知っている人なら、「なるほど目の薬師如来だからそれにちなんだのか」と思うだろうが、
実際にはむしろ逆のようで、水木しげる先生の妖怪の師匠・のんのんばあが一畑寺の薬師如来を信仰していて、
その経験が目玉おやじを生み出すヒントになったのではないか、という説がある。つまりは聖地なのであります。

  
L: 「欲にころぶな 元気におまいり」とのこと。  C: 茶碗風呂に入ろうとする目玉おやじ。手前の枕がいいなあ。
R: 「果報はねてまて 涅槃おやじ」。しかし冷静に考えると目玉おやじは何でもやってくれる優れたキャラクターだ。

駐車場から境内へ向かう途中には土産物店があったが、平日だったせいか閑散としていて切なかった。
遊園地の話を聞いたせいもあって、だいぶ弱っているのかなあと思う。参拝客はそこそこいたんだけどね。

  
L: 駐車場から境内へ向かう道。それなりに規模があるので閑散としている印象がより強まってしまっている。
C: 土産物店もなんとなく物悲しい。みんな、出雲大社だけじゃなくって一畑薬師にも参拝しようぜ!
R: さらに進む。この辺りまで来ると由緒あるお寺らしい雰囲気でなんとなく安心。参拝客の姿もちらほら。

参道を行くと、左手に石段が現れた。その脇には法堂(坐禅堂)。規模の大きいお堂がいくつもあって、
一畑薬師の底力を実感させられるのであった。そして石段を上りきるとしっかり整備された境内に驚かされる。

  
L: 法堂(坐禅堂)。  C: 石段の手前には座禅を組む目玉おやじがいるのだった。  R: 上りきって境内。

石段から見て境内は横向きで、右手奥に見事な薬師本堂があった。1890(明治23)年の再建で、かなりの迫力だ。
側面を見ると神社の本殿のような感じでちょっと複雑な構造。振り返れば法堂越しに緑に囲まれた宍道湖が目に入るが、
南北2つの山並みが青い湖を挟む光景は非常に独特で、なんとも不思議な気分になるのであった。出雲は独特だわ。

  
L: 薬師本堂。彫刻がすばらしい。  C: 側面。珍しい形状の寺院建築だ。  R: 緑の山並みと宍道湖。

島根半島という山の中にある一畑薬師だが、その境内は人の手できれいに整備されているのが印象的だ。
石畳、複数のお堂、石灯籠、十六羅漢堂の仏像、鐘楼堂、寺務所など、さまざまな要素が詰め込まれている。
そして寺務所の向かいには一畑薬師の名物であるお茶湯のセルフサーヴィス。専用の徳利がまたいいですなあ。

  
L: のんのんばあと水木少年の像。合掌しつつも片目を開けてのんのんばあを見上げる構図がたいへんいいなあと。
C: 薬師本堂の手前にある観音堂。  R: お茶湯。飲むもよし目につけて洗うもよし。もちろん一口頂戴しました。

来るのはなかなか面倒だったが、きちんと参拝できてよかった。平田生活バスに揺られて一畑口駅まで戻り、
30分ほど強制的にのんびり過ごして再び一畑電車に乗り込む。今度は川跡で乗り換えて、終点の出雲大社前駅へ。
やはりここまで来たからにはスルーなんてできないのだ。17時近いがきちんと出雲大社を参拝しておく。

  
L: 出雲大社への参道。平日の夕方だからか、それなりに落ち着いた光景が撮影できた。奇跡的ですな!
C: 鳥居前の交差点。いつもは参拝客とその車でごった返しているのだが。  R: うーんすっきりいい写真。

なんだかんだで出雲大社に参拝するのも3回目である(→2009.7.182013.8.19)。しかし相変わらずモテない。
出雲大社でもどうにもならないほどにモテないとは。まあ三度目の正直ということで、面白がって参拝しておく。

  
L,C,R: これだけすっきりした出雲大社って、そうそう味わえるもんじゃありませんぜ。参拝するなら夕方だな!

出雲大社はやはり拝殿が面白い。大社造で非対称なデザインがきれいにキマっているんだよなあ。
そしてその奥の本殿へ。本当に参拝客が少なくて、ほとんどストレスなく写真を撮れるのがありがたい。

  
L: 拝殿。  C: もう一丁。この非対称なのがかっこいいんだよなあ。  R: 本殿前の八足門。重要文化財よ。

庁舎もあらためて撮影してみる。実は老朽化により建て替えの方針が決まっており、保存運動が始まっている状況。
最終的にはどうなるかわからないけど、とりあえずいろんな角度から撮っておくのだ。そうして味わっておくのだ。

  
L,C,R: 南側は西から見ていってこんな感じである。竣工当時は斬新極まりなかっただろうなあ。

 
L,R: 北側から見たところ。

時間的にギリギリではあったが、ちゃんと御守を頂戴しておいた。いやー、よかったよかった。
出雲大社前駅に戻ると駅舎を撮影。今回は無人の駅舎内をしっかり撮影できて大満足である。

  
L: 出雲大社前駅。夕方なので木の影が邪魔……。  C,R: 駅舎内。アール・デコの影響が見えて微笑ましいぜ。

 ホームがまた風情があるなあ。鉄骨が錆びきっているけど。

そんなわけで本日の作戦行動はこれにて終了。出雲市駅の土産物屋を見てみたら、どじょう掬い饅頭が大人気。
さまざまな味や個数で商品のヴァリエーションが非常に豊富になっており、そこまで支持を集めているのかと驚いた。
中にはミニサイズのどじょう掬いのざるまでセットになっているものもあった。すごい企画力だなあ。

 これぜんぶ、どじょう掬い饅頭の関連商品ね。ものすごい人気ぶりだ……。

この日は出雲に泊まったのだが、市街地は意外とスカスカ感があって、なんとも妙な印象がした。
空間的に余裕があるというか、店舗の密度が低くって、思った以上に歩かされる感じ。やたら広いのよ。


2016.7.21 (Thu.)

3日前には愛媛県にいたんですけど、夏休みが始まっちゃったらそれはもう旅の季節だからしょうがないのだ。
あの手この手で少しの無駄もなく全国各地を味わい尽くす、そのためにはちょっとの隙も許されないのである。
というわけで、終業式と同時に夜行バスに乗り込み、やってきたのは備後の中心・福山市。福山には何度か来ていて、
そのたびに規模の大きさと全国的な存在感のなさのアンバランスぶりに首を傾げるのが恒例となっている。

  
L: 福山駅前から南側を眺める。相変わらずの都会っぷりである。  C: 駅前の石垣。旧福山城内に駅をつくったからねえ。
R: 駅前のローズガーデン。福山は執拗にバラにこだわる。言っちゃあ悪いが、ちょっと偏執的である(→2014.7.23)。

今回の旅行は4日間、かなり大掛かりである。最終的には島根で御守三昧なのだが、そこに至る経緯がいろいろ満載。
ふつうに島根へ行くのは面白くないので、そこはやっぱ木次線じゃん。しかし余裕を持って木次線に乗るためには、
どうしても庄原で1泊せざるをえない。備後落合はとんでもないところなのだ。ところがこの庄原じたいが行きづらい。
ここでまた1日を消費することになる。じゃあもういっそのこと、福山をスタート地点に設定してしまおう!というわけ。
福山市役所は2年前に押さえたけど(→2014.7.23)、鞆の浦へのリヴェンジをすればいいじゃないか、と思いついた。
鞆の浦には第2回・チキチキ男3人ブラ珍クイズ旅で訪れたが(→2011.2.20)、沼名前神社には行ってないのよね。
そういうわけで、春の三江線(→2016.4.2)に続いて、今度は福塩線と木次線による中国地方縦断の旅なのである。

 鞆の浦に向かう鞆鉄道のバス。どこからどう見てもテツandトモを思い出す。

鞆の浦へは5年ぶりの訪問となる。見覚えのある道をバスはグイグイ進んでいき、35分ほどで鞆の浦バス停に到着。
ではまずさっそく、5年前にはやらなかった沼名前神社に公式参拝だ。なお、「沼名前」と書いて「ぬなくま」と読む。
鞆の浦のある半島は沼隈(ぬまくま)半島。地名に歴史がありすぎて、なかなか難しい混同状態となっているようだ。

  
L: 歴史ある漁港らしい細長い路地の中、突如立派な鳥居が現れる。  C: 進んでいって境内入口。  R: 隋身門。

石段を上がるとコンクリートながら風格を感じさせる社殿。港に対しては横向きだが、街を見下ろす位置にある。
江戸時代には鞆祇園宮としてスサノオを祀っていたが、明治に入って境内社だった渡守(わたす)神社を合祀。
この渡守神社が延喜式内「沼名前神社」であるとして、そちらの名前に変えたという少し複雑な経緯がある。
渡守神社は海神ワタツミを祀り、神功皇后が弓を射る際に使う鞆を奉納したことで「鞆の浦」の地名が生まれたという。

  
L: 失礼して拝殿を正面から眺める。  C: 側面。本殿まで含めて安定感のある船のように感じるのは気のせいか。
R: 途中には能舞台がある。もともとは豊臣秀吉が伏見城内で愛用した組立式だったそうだ。重要文化財となっている。

参拝を終えると辺りをぷらぷら。そしたら森下仁丹の創業者・森下博の像を見つけた。なんとも独特なポーズだ。
実は森下博、沼名前神社の宮司の長男として生まれた人だったのだ。後に大阪で薬を販売するようになり、
仁丹の大礼服ヒゲオヤジマークなどに代表される巧みな広告戦略で「日本の広告王」と呼ばれるまでになった。
そして森下は学校建設・観光開発・寺社の修復・鞆鉄道の創設などを通じ、莫大な財産を鞆の浦に還元している。
鞆の浦の街角では仁丹マーク付きの案内板があちこちに見られる。彼の存在は今も街の誇りというわけだ。

 
L: 沼名前神社にある森下博の像。こういうポーズをとっている像は初めて見た。やっぱり一味違うなあ。
R: 鞆の浦のあちこちにある案内板。しっかりと仁丹マークが入っており、今も地元で愛されているのがわかる。

そのままちょろっと安国寺にも寄ってみる。釈迦堂と仏像が重要文化財なのだ。釈迦堂は正面側の敷地に余裕がなく、
むしろ外から眺めた方がいいくらい。まあもともと鞆の浦は道が狭くて建物が密集しているからしょうがないけどね。
その後は南へと引き返して鞆の浦の街並みをのんびりと味わうのであった。もちろん福禅寺の対潮楼にもお邪魔して、
弁天島と仙酔島を眺める。御守も置いてあったので頂戴しておいた。天気もいいし、順調この上ないスタートだ。

  
L: 安国寺釈迦堂。敷地内だとこの構図がやっと。  C: 鞆の浦の街並み。見事に近代以前のスケール感が残っている。
R: 対潮楼から眺める弁天島と仙酔島。5年前にも眺めているが、やはり天気がいいと美しさが段違いである。

さて鞆の浦といえば保命酒。旅行も初日で、液体の入った瓶を持ち歩くことなど到底できないので買えないのが残念。
一度きちんと飲んでみたいのだが。保命酒は中村吉兵衛が考案したものだが、その本家が明治時代に廃業してしまい、
現在は4つのメーカーがそれぞれ生産中。結果、どれを飲めばいいのかよくわからんのも困ったポイントである。
ただ、現存のメーカーはどこも風情のある店舗で営業しており、鞆の浦の独特な街並みに確かな色を添えている。

  
L,C,R: 鞆の浦の歴史ある街並みで、保命酒の店舗が果たしている役割は大きい。複数あるから盛り上がるわけね。

港をぐるっと一周してみる。5年前に訪れたときには港を埋め立ててバイパスの橋を架ける計画が持ち上がっていたが、
結局それは頓挫した模様。鞆の浦が背負っている歴史は万葉集レヴェルなので、さすがにそりゃ無茶だろうと納得。
生活するうえでは絶望的に道が狭いのだが、もともとが海路専門の街なんだからしょうがない。まず福山の存在感を高め、
鞆の浦の観光資源を強化し、沼隈半島内でのパーク&ライドに対応するしかあるまい。陸路じゃどうにもならない。
少しでも知的好奇心のある人なら、鞆の浦は訪れておきたい場所だ。その人たちを徹底的に呼び込めるといいが。

  
L: 鞆港。昔の日本の港が想像できる場所って、本当に数が少ないんだよ。  C: 常夜灯。歴史を感じるなあ。
R: 港の端っこから常夜灯付近を眺めたところ。江戸時代からほぼこの光景が変わっていないってのがすごい。

港から太田家住宅を抜けて、鞆城跡にある鞆の浦歴史民俗資料館方面へと向かう。そこへ至る起伏がまた、
細く張り巡らされた路地とあいまって歴史を感じさせるのだ。近代以前の空間を直接体験できるのである。

  
L: 太田家住宅。道が狭くて全容をつかみづらい。昔の日本人は建物全体は気にせず、細部のつくり込みにこだわったのね。
C: 入口。全体的なバランスはわからないが、凝ったつくりで歓迎されていることは感じられる。そういう価値観なのね。
R: 旧魚屋萬蔵宅、龍馬談判の町家。いろは丸沈没事件の際、海援隊&土佐藩が紀州藩と損害賠償を話し合った場所とのこと。

鞆の浦歴史民俗資料館からは鞆港全体がいちおう見渡せる。本当のことを言うともうちょっと高さが欲しいが。
上記のようにここは鞆城の跡地。福島正則が整備したが、規模が大きすぎて徳川家康に睨まれて取り壊した。
その後、福島正則は広島城の無断修理を咎められて改易される。この鞆城も伏線だったと思うと興味深い。

  
L: 鞆の浦歴史民俗資料館の石垣。実際のものではなく、出てきた石をそれっぽく積んだものとのこと。
C: 鞆港の眺め。昔ながらの屋根の向こうに港が見えると最高なのだが、まあさすがにそれは贅沢な望みだな。
R: 本丸跡。小学生たちの遠足コースになっているようで、いかにも先生っぽい人が近くで待っていた。

鞆の浦は歴史が深すぎてなかなかそのすべてを味わうのは大変なのだが、いちおう上っ面は舐めたつもり。
来たときと同じ時間をかけて福山駅前まで戻ると、自転車を借りて再始動。福山の市街地はとっても広いのだ。
福山は城下町としての歴史がしっかりある分、チェックしておきたい神社も複数ある。まず目指すのは、
芦田川沿いにある草戸稲荷神社。もともとは中洲にあったそうだが、そんなもん流されるに決まっとるがな。

  
L: 遠くから眺める草戸稲荷神社。懸造の稲荷というと祐徳稲荷を思い出す( →2014.11.23)。独特の存在感だ。
C: 堤防上の道路にかかる橋。でもその道路、交通量が多くて狭いのでここまで来るのが本当に大変。自転車でも大変。
R: 橋を下りていく途中から眺めた境内。こうして見ると規模はそんなに大きくない神社だが、存在感は抜群なのだ。

コンパクトな境内に対し、懸造で高さを持たせた社殿で独自性を出すという発想が面白い。稲荷は仏教っ気がある分、
どこか自由な発想というか大胆な方法論というか、そういう思い切りのよさがあると思う。素直にそれを楽しむ。

  
L: グラウンドレヴェルにあるのが拝殿と授与所。本殿がコンクリート懸造の上に乗ったのは昭和末期とのこと。
C: コンクリート構造体を見下ろす。もうちょっと何かできそうな感じ。  R: 本殿前。菱灯籠が神仏習合だね。

さすがに高い本殿は展望台としての要素も兼ねており、芦田川越しに福山の中心市街を眺めることができる。
境内の端っこにある木がやや邪魔だが、まあしょうがない。ゆったりと広がるビル群は福山の規模の大きさを物語る。

 本殿前より眺める福山市街。都会だよなあ。

芦田川の左岸に戻ると、今度は福山駅の北口に出る。福山城址の北側には福山八幡宮があるので参拝するのだ。
しかしこの福山八幡宮、非常に珍しい構造をしている。境内入口が東西2つあるのだが、まったく同じ規模で同じ形。
さらに参道を進んだ先には鳥居に石段、拝殿があるのだが、すべて同じ規模で同じ形。完全なる双子状態なのだ。

  
L: 福山八幡宮の境内入口。こちらは東側なのだが、西側もまったく一緒の姿をしている。  C: 東の参道を行く。
R: この神門は……えーっと、西側……かな……? 完全に同じ形をしているので、どっちがどっちだか本当にわからん。

2つの神社を一体化させつつ東西で分ける例はいくつか見てきたが(元は東西別々だった天岩戸神社(→2016.2.28)、
きれいに並べて整備した日前神宮・國懸神宮(→2012.2.242014.11.8)と豊榮神社・野田神社(→2016.4.4))、
異なる祭神を祀っていたり地形に特徴があったりする以上、東西の社殿で少なからず違いは生じるものである。
しかし福山八幡宮は東西が完全に同じ姿をしている。ここまで徹底されていると、特別な何かを感じずにはいられない。

  
L: パノラマはちょっと難しかったので、素直に写真を並べます。こちらは向かって左、西御宮の拝殿。
C: 真ん中にある合祭殿(中央拝殿)。1984年につくられた。  R: 東御宮の拝殿。西とまったく一緒。

東御宮はかつて延広八幡宮といい、町人の氏神だった。対する西御宮は野上八幡宮といい、福山藩士の氏神だった。
身分の違いを平然と乗り越えて両者を対等に整備したのは1683(天和3)年、第4代藩主・水野勝種による。
初代福山藩主の水野勝成はかなり豪快というか独特すぎる経歴を持った人物で、徳川家康のいとこで乳兄弟なのだが、
父親から勘当されて傭兵生活やら放浪生活やらを送っており、大名になった後はその経験を生かして善政を敷いている。
彼の特異な経歴が確固たる価値観として引き継がれたからこそ、象徴的な空間として福山八幡宮がつくられたわけだ。

  
L: せっかく面白い社殿なので、角度を変えてあらためて撮影。こちらは合祭殿前から眺めた西御宮の拝殿。
C: 合祭殿に近づいてみる。水野勝成が造営した吉備津神社(→2013.2.232015.5.6)をちょっと思い出した。
R: こちらは合祭殿前から眺めた東御宮の拝殿。ここまで何から何まで同じように揃えている神社はほかにない。

仲良く並んだ延広八幡宮と野上八幡宮は「両社八幡宮」と呼ばれていたが、1969年に合併して福山八幡宮となる。
今はすっかり馴染んでいて、まったく同じ社殿を2つ持っている珍しい神社、ぐらいな感覚になっているのだろう。
しかしその歴史を掘り返してみると、水野勝成という、不思議と知名度は低いが確かな名将・名君の存在に行き当たる。
空間から政治や歴史を読むことは本当に面白い。またひとつ素敵な物語に触れることができて、実にうれしい。

  
L: 3つの拝殿を視野に収めてみました。  C: 西御宮の裏には水野勝成を祀る聡敏神社。かつては真ん中にあったそうだ。
R: 合祭殿の本殿。ぶっちゃけ、水野勝成こそこのど真ん中の社殿にメインで祀っていいくらいの存在だと思うのだが。

裏手にまわって本殿を見てみたら、ここでようやく東西に差が出た。最近になって色が塗られたのか、西御宮は色鮮やか。
それに対して東御宮は昔ながらの古びた姿である。でも形はまったく一緒。ま、それくらいの差があった方が楽しいよね。

 
L: 西御宮の本殿。  R: 東御宮の本殿。薬師寺の東塔と西塔( →2010.3.29)に似たバランスかな。

参拝を終えると駅に戻って自転車を返却。昼メシをいただいて落ち着くと、福塩線に乗り込んでいよいよ縦断を開始。
府中で気動車に乗り換えて塩町へ。芸備線に乗り換えると備後庄原で下車する。17時ちょうどの着だがまだまだ明るい。
備後庄原は2年前の同じ時期に来ているので(→2014.7.21)、こんなにあっさり再訪問するのはもったいない気分。
しかし明日以降の旅程を考えると、ここで庄原に泊まっておかないとどうにもならないのである。しょうがないのだ。
なお、備後庄原駅の駅舎には地元出身の平泳ぎ選手・金藤理絵を応援するメッセージがでっかく張り出されていて、
「そういう選手がいるんだー」と思ったら、まさかこの旅行から1ヶ月もしないうちにリオ五輪で金メダルを獲るとは……!

さて、そろそろ晩メシの時間である。2年前には悔しい思いをしたので、今回はそれを一気にリヴェンジしてやるのだ。
まずはやっぱり「庄原焼き」。広島型お好み焼きの「肉玉」をベースにしているが、焼きそばではなく庄原産のお米を使い、
さらにソースではなくポン酢で仕上げることが条件となっている。前回行かなかったスーパー内の店舗でいただいたのだが、
正直言うとお好み焼きを乗せたご飯という感じ。ただし底ではキャベツとモヤシ、そしてチーズがしっかり目立っている。
別の店ではキムチチャーハンを混ぜるそうだが、確かに合いそうな味だ。ふつうのご飯だとややインパクトに欠けるかな。
そしてもうひとつの庄原名物が、「ワニの刺身」。ワニとはサメのことで、ワサビではなく生姜でいただくのである。
なるべく小さいパックを買ってホテルに戻って食べてみたのだが、意外と臭みはなく、ちゃんと魚だね、っていう感じ。
確かに生姜とは合う。まずくはないけど、かといって特別旨くもない。ただただ、魚だね、っていう感じなのであった。
半分の5切れくらいを食ったら飽きてきた。あんまり大きいと筋を軸にして口の中に残る。臭くないからいいけど。
まずくはないけど、そればっかりはさすがにまいった。盛り合わせの中に混じっている、くらいでいいかなと思います。

  
L: 庄原焼き。身も蓋もない言い方をしてしまうと、お好み焼きライス。まあB級グルメらしい旨さなんですけどね。
C: いちばん驚いたのは、スーパーの惣菜コーナーを占領する膨大な量の広島型お好み焼き。これぜんぶそう。びっくり!
R: ワニの刺身。ふつうに魚の刺身で生姜と合うのだが、ずっとこればっかり食っているとさすがに飽きる……。

そんな具合に庄原オリジナルグルメをしっかりリヴェンジして初日の夜は更けていくのであった。旅は楽しいなあ。


2016.7.20 (Wed.)

終業式である。いよいよ夏休みなのだ! 今年の夏休みはいつも以上によく学んでよく遊ぶ予定である。
リポートだけでなくスクーリングがしっかりありますんでな。そして部活に旅行と、こちらもがんばる。
がんばることがいっぱいありすぎて、日記がどうなるか不安である。ああそうだ、日記もがんばらねば……。


2016.7.19 (Tue.)

本日で1学期のレギュラー授業が終了。いやー、実に波乱に満ちた1学期だった。ここまでなのは初めてかな。
原因はひとえに一人のバカによるもので(それも生徒じゃないんだぜ! 年齢を聞いたらもっと驚くだろうぜ!)、
われながらこれだけの厳しい状況を顔色変えずによく平然と乗り切ったもんだなと感心してしまうわ。
通信教育での勉強を進めつつ部活もがんばりつつ本分であるところの授業も一切手を抜かず。オレ偉い。オレ大きい。
この経験が何かにつながるというわけではないだろうけど、素直に自分で自分を褒めたい気分なのである。ふう。


2016.7.18 (Mon.)

伊予国の旅もいよいよ3日目、最終日である。昨日の午後に引き続いての快晴ということで、気分よく宿を出る。
今日は朝のうちに宇和島市内を歩きまわり、その後は北に引き返しつつ卯之町に寄る。そして伊予長浜にも寄って、
長浜大橋を見てみるのだ。そうして松山から飛行機でポーンと帰る。ちなみに本日、愛媛県の全市役所を制覇の予定。

  
L: 朝の宇和島駅。駅ビルだが、上は商業施設ではなくホテルなんだよね。  C: 歩道橋から線路の最果てを眺める。
R: なんか鳥がいて、かわいかったので思わず撮ってしまった。地方に行くといろんな鳥がいて面白いんだよなあ。

朝イチで訪れたのは、和霊神社だ。宇和島を代表する大きな神社で、別表神社のリストにも入っているのだ。
面白いのはこの神社、宇和島藩主を祀ったものではなく、その家臣である山家公頼(やんべ・きんより)が主祭神。
もともとは伊達政宗の家臣で、長男だけど側室の子で仙台藩を継げない伊達秀宗とともに宇和島にやってきた。
非常に能力の高い人物で藩の財政再建に取り組み領民に慕われていたが、その分ほかの家臣から妬まれており、
また政宗の命を受けて秀宗のお目付役をやっていたことで秀宗からも疎まれていた。そして1620(元和6)年、
和霊騒動が勃発。秀宗が家臣に命じて山家公頼を襲撃させ、一族を殺害してしまったのだ。なかなかとんでもない話だ。
その後、宇和島藩では襲撃に関わった者が相次いで謎の死を遂げたため、彼を祀る祠が建てられた。これが起源。

  
L: 和霊神社の一の鳥居。この先は和霊公園となっており、宇和島市民の憩いの場として整備されている。
C: 進んでいくと大鳥居。石造では日本一の大きさとのこと。  R: 川に架かる太鼓橋の神幸橋を渡れば境内だ。

秀宗は襲撃の件を幕府にも政宗にも報告しておらず、事実を知った政宗は当然ブチ切れて秀宗を勘当してしまう。
しかし鋭い政宗は先手を打って宇和島藩の改易を嘆願したうえで仲介工作に奔走。結果、どうにか改易はまぬがれた。
面白いのはその後、秀宗が仙台藩を継げなかった経緯などについて政宗と腹を割って話し合って、和解している点。
むしろ仲が良くなったらしい。その逸話からみても秀宗自身は暗君ではなかったようだが、失ったものが大きすぎた。
そして時代は下り、秀宗が祀られることはなく、彼が殺害した家臣を祀る神社が街で最も大きい神社となっている。

  
L: 門をくぐって境内。参道が独特な曲がり方をしている。手水舎では蝶が水分を補給しており、近づくとひらひら舞う。
C: 石段を上って右手に拝殿。城跡に鎮座しているそうだが、それにしても境内の構造が独特だ。どっしりと威厳のある建物。
R: 奥の本殿。和霊神社の社殿は空襲で焼失したが、1957年に再建した。とても昭和30年代とは思えない立派さだ。

山裾の城跡に鎮座していることもあり、空間としてはそんなに広くない。しかし社殿は不思議と風格がある。
土地が広くない分、建物に最大限の威厳を持たせるように場所を確保して配置した結果、参道が折れ曲がっている、
そういうことだと思う。市街地の中心で見下ろす宇和島城に対し、市街地の北端からその全体を眺める和霊神社。
祭神に対する最大限の敬意と宇和島という街のプライド、両方をしっかりと感じることのできるすばらしい神社だった。

 拝殿内に神輿が並ぶ光景ってけっこう独特。御守も種類がわりと豊富だった。

まだ宇和島の市街地を歩きまわる余裕があるので、天赦園へ行ってみる。その手前に宇和島東高校があるので、
とりあえず校門だけ撮影(高校野球ファンの先輩先生方に「見てきて!」と言われた)。文武両道ですごいですね。

 校門は昔のものを残しているのね。個人的には元ヤクルト・岩村の印象が強い。

南へ進むと左手に宇和島市立伊達博物館があり、右手が天赦園。入口が奥まっており、細い路地を抜けてから、
クランク状に進んでいく。ありがたいことに8時半から開いているので、待たされることなくスムーズに入れた。

  
L: 天赦園の入口。  C: 入ってすぐの藤棚を抜けると左手に芝生が広がる。こちらは伊達宗紀が家臣たちと会った潜淵館。
R: 広大な芝生の広場にはもともと明神楼があり、そちらがメインだったそうだ。1896(明治29)年に取り壊された。

昨日の南楽園は愛媛県がつくった庭園だが、こちらの天赦園は第7代宇和島藩主・伊達宗紀(むねただ)による。
この伊達宗紀という人がなかなかとんでもなく、あの手この手で藩財政を再建し、隠居してから天赦園をつくった。
伊達宗城(むねなり)を養子に迎えたのも好判断。そして100歳近くまで生きて、亡くなったのは実に明治の22年。
非常にパワフルなコンビが幕末の宇和島藩を取り仕切ったのだから、本家の仙台藩を上回る爵位を得たのも当然か。

  
L: 書斎として利用されていたという春雨亭。今日みたいに天気のいい日にこんなところで過ごせりゃそりゃ最高だわな。
C: 左手前、石灯籠の裏で広がっているのが蓬莱竹で、行く先にあるのが日本で最も一般的な竹である真竹(マダケ)。
R: 庭のいちばん端から池越しに眺める。奥の方には藤棚。藤が多いのは、伊達氏が藤原氏の子孫だからだと。

南楽園と比べると天赦園は手頃な広さに感じてしまうが、大名の庭園らしくただの庭では済まないスケールである。
開放的な箇所とそうでないところでしっかりと変化をつけており、多彩な表情を持たせている点がやはり非凡だ。

  
L: 東屋周辺から見たところ。非常にいい景色なのだが、とにかく蚊が多くてじっとしていられないのが難点。
C: 池に沿って春雨亭に向かって歩く。  R: 南端はこんな感じで、いろんな表情を持つ庭だ。こちらの竹は唐竹。

唯一残念なのが、ブロック塀がそのまま露出している箇所。せっかくいい雰囲気なのにもったいない。
よりによって何の工夫もないブロック塀とは。ここを改善すれば天赦園はまったく隙がなくなるのに。惜しい。

 これはぜひ早急になんとかしてほしい。ぶち壊しですよ。

さて天赦園最大の特徴といえば、さまざまな種類の竹が植えられていることである。ぜんぶで19種にもなるという。
これは伊達家の家紋「竹に雀」にちなんだものだそうで、それぞれの竹の違いを見ていくのもとても楽しい。
池の周辺はじっとしているとあっという間に蚊にたかられてしまうので(本当にものすごい勢いで来る)、
じっくり観察するには服装を考えないといけないかもしれない。しかし竹ってのも、すごく興味深い植物だよなあ。

  
L: まずは入口近くの泰山竹。  C: 養老の滝と四方竹。  R: 蘇枋竹(スホウチク)。

  
L: 日本にある中では最大の孟宗竹。これはよく見かけるね。  C: 黒竹。  R: ベニスホウチク。

いい天気なので、帰りは宇和島市役所に寄って撮影。10年前には1枚しか撮っていないんでな(→2007.10.7)。
というか、あの四国一周大作戦からもう10年も経ってしまったのか……。時間の経過が早すぎるよ……。

  
L: 宇和島市役所。まずは東側から眺めたところ。  C: 表参道を行く。  R: 向かって左の本庁舎。

宇和島市役所は石本建築事務所の設計で1976年の竣工。左に本庁舎、右にホール(大会議室)と議場という構成。
8階建てという規模と真っ白な色から分析するに、来たる80年代に先行する保守色の強い庁舎という印象である。

  
L: 駐車場の端から角度を変えて撮影。  C: 議場付近。入口には「大ホール」と昭和な文字が貼り付いている。
R: 北西側から眺めたところ。うーんマッシヴ。窓がいっぱいな本庁舎とそうでない議会の対比が印象的だ。

市役所の立地は中心市街地の端であり、宇和島港への入口といった位置になる。裏手の西側には広い駐車場。
撮影しやすいのはありがたいが、市役所ができたことでこの周辺がどう変化してきたのか気になるところ。

  
L: 西側の駐車場から見た背面。  C: 南側にまわり込む。  R: 南東側より。道路と敷地の間に川があるんだよな。

最後に中を覗き込む。議会との間を利用して吹抜としているようで、これはなかなか面白い工夫だと思う。
本庁舎と議会は一緒に建てられてはいるが、デザインとしてはまったく別物。その差を上手く利用している。

 1階を覗き込む。高さはないが、そのまま広めのスペースとしている。

あとは残った時間で宇和島の街をぶらぶらと歩く。まだ朝早いこともあって、あまりひと気がない。
それにしてもやっぱり宇和島の道路は規模が大きい。調べてみたら、やはり空襲で大きな被害を受けていた。
市街地がこれだけ大胆に道路を通せるほどやられたのに、宇和島城の天守はよく無事だったなあと思う。
そして道路の広さから、往時の宇和島の勢いが本当にすごかったことを実感させられる。
しかしあまりに規模が大きすぎて、かえって現在は衰退した印象を与える結果になっているようにも思う。

  
L: 宇和島駅から西へと延びるワシントンヤシ通り。広い。  C: そこから南に延びる、きさいやロードの入口。
R: 前も撮影したけど、いちおう今回も撮ってみた。大漁旗もあって雰囲気はいいけど、広すぎて密度を低く感じる。

どうやらこの愛媛旅行、最終日は文句なしの快晴で確定してくれたようだ。宇和島を後にして、北へと戻る。
予讃線は一瞬だけ、見事なリアス式海岸の風景を見ることができる。初めて見たときから(→2007.10.7)、
どうにかしてこの光景を押さえたいと思っていたが、失敗してばかりだった。でも今回ついに成功したもんね。

 急斜面に広がるみかん畑と青い海。これが正しい南予の風景なのだと思う。

卯之町駅で下車。宇和町卯之町は重要伝統的建造物群保存地区だが、現在は合併で西予市の一部となっている。
というわけで、卯之町の街歩きとともに西予市役所にも行ってみるのだ。まとまってくれているのでありがたい。

 卯之町駅。古い街並みを意識してか、和風の駅舎である。

まずは西予市役所へ。卯之町駅からすぐ近くというか、図書館を介して駅と隣接しているといっていい立地だ。
駅前の通りから国道に出て右にまわり込んだら即、市役所。これだけ駅に近い市役所も珍しい。ありがたい。

  
L: 西予市役所。見てのとおりできたてのホヤホヤ。  C: 敷地内に入ってあらためて撮影。  R: 北側の図書館前から。

西予市役所は2011年の竣工で、設計は東畑建築事務所。詳しい紹介がサイトにあるので参照されたし(⇒こちら)。
近年流行の、木材を前面に押し出して金属・ガラスとの調和を図るスタイルの市役所である。嫌いではないけどね。
もともと川と国道と線路に挟まれた「狭い一等地」に役所があって、その位置のままで新庁舎を建てたのがよくわかる。
ただその分、敷地面積に対して建物の規模が大きくならざるをえず、正面からだと少し圧迫感があるのがちょっと残念。

  
L: 近づいてみた。建物の手前に屋根をかけてオープンスペースとしている。「交流プラザ」とのこと。  C: 屋根の下にて。
R: 反対側。ここが入口になっていたわけだ。しかし休日はこちらから庁舎内に入ることができない。詳しくは後述するのだ。

なお、西予市は「せいよし」と読むのが正しい。同じ愛媛県に西条市がある影響で「さいよし」と間違っちゃうのね。
やはり新しい地名を無理につくるのは問題があると思う(弧を描く愛媛県は東予・中予・南予という3つの区分が標準)。
まあ何より「卯之町」⊂「宇和町」⊂「西予市」ということで、「卯之町」という名前の存在感がより弱まったのが、
いちばん問題ではないかと思う。駅名だからいいかもしれないけど、そうすると今度は「西予市」の弱さが問題だ。
そうやってお互いに存在感をかき消してあっているように思うのだが。ただ損しているだけに思えるんだけどなあ。

  
L: 宇和文化会館前の陸橋から眺めた西予市役所の背面。  C: 卯之町駅の長いホーム越しに眺めた背面。  R: もう一丁。

休日だが西予市役所の中に入れたので、何枚か写真を撮影してみた。といってもすべて開放されているわけではなく、
正面から入ることもできない。教育保健センター側の入口から入り、1階「市民ロビー」の半分だけ滞在可能なのだ。
まあそれは別に悪くないと思うのだが、せっかく開放するんならこっち側に何か目玉になるものをつくればいいのに。
現状では単なる休憩スペースでしかないのがもったいない。卯之町の観光案内拠点とか、できることあるでしょ!!
凝った設計で居心地のよい空間づくりはできていると思うのだが、それを有効活用できているとは言いがたいなあ。

  
L: 1階の市民ロビーの半分を休日も開放しているのはいいが、単なる休憩スペースでしかないのがもったいない。
C: 金属のシャッターから奥、窓口スペースを覗き込んだところ。  R: 反対側の外からガラス越しに覗き込む。

というわけでモヤモヤ感を抱えつつ、今度は卯之町の街並み探訪へと移る。もともとは山裾の城下町であり、
市街地が卯之町駅・国道56号のある宇和川沿いに移ったことで、古い建物がそのまま多く残ったそうだ。
駅前にはまず木でつくった大きな門があり、それを抜けるとかつて商店街だった匂いがしっかり漂う住宅地。
しかしあまりに仕舞屋ばっかりな感触で、寂れきった感覚が非常に切ない。国道の方も似たような感じだし。
気を取り直し、古い街並みの東端と思われる宇和先哲記念館のある坂を上っていく。なかなかの勾配である。

  
L: 卯之町駅前の道が国道56号とぶつかるところに、このような門が建っている。イマイチはじけきれていない。
C: 国道から山側に入ったところにある通り。かつては商店街として賑わっていた感触があるが、なんとも寂しい。
R: 坂の途中にある鳥居門。庄屋・鳥居半兵衛が1834(天保5)年に建てたが、身分不相応だとして左遷されたとか。

宇和先哲記念館を背にすると、そこには見事なうだつが並んでいる光景があった。道はまっすぐきれいに延びており、
山にへばりついた土地であることを感じさせないほどだ。右手前の酒屋がコルゲート板で覆われているのは残念だが、
通りに向かってせり出すように妻入の家々がずーっと並んでいるのは確かに壮観である。道幅の狭さがまたリアル。

  
L: 卯之町の街並み。妻入の建物が目立ち、狭い道幅のままで淡々と毎日の生活を送っている感じ。商売っ気が少ない。
C: 開明学校入口付近。  R: 食い違いから振り返る。伝統的な街並みなんだけど、それ以上に「落ち着いた住宅地」。

卯之町の街並みの特徴は、あまり商売っ気を感じさせないところだ。昔ながらの姿で淡々と毎日を過ごしている印象。
観光地としての自覚はほとんどないようで、「落ち着いた住宅地」の雰囲気がする生活感の強い空間となっている。
一段下にある仕舞屋通りが寂れた感触を残すのに対し、こちらはかなり力強い生命力にあふれている。

  
L: 卯之町の街並みの中にある高野長英の隠れ家。伊達宗城が匿って、彼を通して宇和島藩の軍事力を近代化させていたそうだ。
C: こんな感じの家々が並んでいるのだ。  R: 1770(明和7)年築の末光家住宅。酒造業の後、醤油を製造していたとのこと。

卯之町の住宅街からさらに一段高いところにあるのが、開明学校と光教寺である。建物の間にある石段を上がると、
右手が宇和民具館で、左手に開明学校がある。開明学校は1882(明治15)年に町民の寄付で建てられた小学校で、
実にはっきりとした擬洋風建築である。開明学校は松本の旧開智学校(→2008.9.9)と姉妹館提携をしているそうだ。

  
L: まずは向かって左の歴史民俗資料館。こちらは大正時代に取り壊された第2校舎を1976年に復元したもの。
C: 真ん中にある開明学校。重要文化財となっている。洋を採り入れた和が新たな空間を生み出した見事な事例だ。
R: 向かって右には左氏珠山の私塾・申義堂。1869(明治2)年に設立され、開明学校の母体となった。

現在、開明学校は教育資料館となっており、建物内には教育に関する膨大な量の資料が展示されている。
4人以上で予約すれば、1人200円で明治時代の授業を体験することもできるそうだ。これは非常に興味深い。
観光資源としてはかなり上質なので、もっと全国的な知名度を獲得できるといいのだが。現状じゃもったいない。

  
L: 開明学校の内部ではこのような展示が行われている。こちらは2階なのだが、昔の建物らしい階段がまたいいのだ。
C: 戦前の教室を再現している部屋。  R: 申義堂の内部も見学可能。近代化以前の勉学風景を堪能できるのもよい。

開明学校の反対側にあるのが宇和民具館。商売道具や生活道具といった民具を展示する施設は全国各地にあるが、
古い建物の中に「とりあえずあるだけ並べて雰囲気を合わせてみました!」というものが多いのが実際である。
しかし宇和民具館はかなり丁寧に展示してあり、非常に見栄えがいい。展示室の明るさって大事だなと思う。
さらにそれだけではなく、収蔵庫までそのまま見学ルートに設定してしまっているのが、ものすごく面白い。
あまりに収蔵品が多くて開き直った結果なのだろうか。博物館の舞台裏まで見学できる事例は珍しく、価値がある。

 
L: 展示室はこんな感じ。密度がものすごく高い。部屋全体が明るいので展示物もきれいに見えて大変すばらしい。
R: 舞台裏まで見学できるとはびっくり。その名も「収蔵展示室」。ここもきちんと明るさを確保してあるのがいい。

最後に、ちょっと離れた宇和米博物館へ行ってみる。この地域の米に関する展示にはあまり興味はなかったのだが、
建物が凄いという話なので無理して訪れてびっくり。小学校の校庭の向こうに現れたのは、バカ長い木造建築だった。
実はこの建物、宇和町小学校の旧校舎なのだ。校舎を新しく建て替える際に移築して米博物館にしたそうだ。
まあ要するに、旧校舎の価値を認めて残すために、「米博物館」というエクスキューズを用意したというわけである。
それなら「米博物館」という名称で、かえってこの建物の価値をわかりにくくしない方がいいと思うのだが。
さっきの「宇和町」やら「西予市」やらもそうだけど、この地域は価値判断がしっかりできているにもかかわらず、
それを外向けに活用することがとっても下手だ。観光資源は一流なのに、ものすごくもったいないなあと思う。

  
L: 宇和米博物館こと宇和町小学校の旧校舎。1928年竣工とのこと。  C: 建物に近づいてみた。長いなー!
R: 中の様子。廊下の板張りは半分で、もう半分が土間というのはびっくり。全長109mという長さにまたびっくり。

こちらの施設は入館無料なのだが、雑巾掛けを200円で体験できる。独りでやってもつまんないのでやんなかったけど。
ちなみにここを会場にして、「Z-1グランプリ」という大会が毎年開催されている。「Z」は「ZOKING」の頭文字で、
つまり雑巾掛けの大会である。なるほど、廊下を合法的に走ることができる唯一の方法は雑巾掛けというわけか!

 
L: 反対側から入口を眺める。遠い……。なお、Z-1グランプリの歴代最高タイムは18秒19とのこと。信じがたい。
R: 現在の宇和町小学校。どうやら外観から見るに、長い廊下はこの学校のアイデンティティとなっているようだ。

というわけで、卯之町のあれこれをしっかり味わったのであった。いいもん持ってるのにもったいない街だったなあ。
さて松山方面に戻る途中、伊予石城駅近くでマンモスを発見。往路では撮影し損ねたが、復路ではバッチリ撮れた。
毎年つくっているそうだが、人気が出てきて今年は通年で残しているとのこと(それまではGW後に撤去していた)。
気ままな旅行者としては、こういう工夫をされると面白くってたまらない。旅がより印象深いものになってくれる。

 藁でつくられたマンモスの親子。楽しい工夫をありがとうございます。

八幡浜でいったん下車して駅近くのジョイフルで昼メシをいただく。ちゃんぽんの食える商店街はやはり遠くて、
結局ロンドン以外の味を楽しめなかったのは残念である。イーグルのちゃんぽんも食ってみたかったなあ……。

昼メシに余裕がなかったのは、伊予長浜へ行きたかったから。今回の旅行の最後は長浜大橋で締めようというわけだ。
ヘリテージング100選にして重要文化財。1935年竣工で、日本で現存する道路開閉橋としては最古のものである。
毎週日曜日に開閉するので昨日ならそれを目にすることもできたが、冴えない天気の中で見てもつまらなかっただろう。
素直に橋じたいの美しさを味わうだけで十分だ。そんな気分で予讃線を肘川沿いに下っていくと、赤い橋が見えた。
列車はその橋にそっぽを向くように進んでいき、山に沿って東にカーヴしたところで伊予長浜駅に到着。

地元の高校生たちとともに駅舎を出る。スマホを片手に西へと戻ると、長浜商店街の入口があった。
多くの店舗が仕舞屋となっているものの、細々と営業している店もある。総じて、いかにも港町らしい匂いが強い。
決して人口が多いわけではないが、漁港としての確固たる歴史を感じさせる街である。動かしがたい迫力がある。
そんな商店街を抜けた先に、長浜大橋はある。赤い鉄骨も見事だが、石造りの親柱もモダンで風格十分だ。

  
L: 伊予長浜駅。純然たる港町である。  C: 長浜商店街を行く。寂れつつあるが、港町らしい誇りをどこか感じる。
R: 商店街を抜けたら長浜大橋だ。機能それ自体の美しさを強調するように、全体的にモダンな仕上がり。設計は増田淳。

橋のたもとには竣工当時の写真が入った説明板がある。国指定の重要文化財ということで、なかなか説明が細かい。
長浜大橋の全長は232.3m。それに対して幅員はわずか5.5mで、戦前らしいスケール感である。歩いて渡ってみる。

  
L: 橋に入ってすぐ。車もけっこう頻繁に通る。  C: 明かりもモダン。  R: この赤い箇所が跳ね上がる。

戦前の機械ということで、どこか簡素な印象がする。トラスの補強がむしろ軽量化で素材を中抜きしたような感触だ。
しかしすべては飾りではなく、現役で動かせる跳ね橋なのだ。剥き出しの構造体、その正直さがとてもいとおしい。
全体が鮮やかな赤で彩られているのも、この橋の力強さを直接的に誇っているようで、本当によく似合っている。

  
L: 近づいてみた。  C: 通り抜けて振り返り、カウンターウェイト(重り)を眺める。  R: 左岸側のたもと。

極限まで絞り込まれた機能美とプライドをそのまま可視化した赤い色と、両者のマッチぶりが本当にすばらしい。
しばらくいろんな角度から眺めてはシャッターを切って過ごす。見応えがあって、全然飽きることがないのだ。

  
L: 左岸から少し距離をとって眺めたところ。  C: 下に潜り込んで撮影。  R: 肘川の岸辺から見たところ。

長浜大橋は幅が狭くて竣工当時のスケールがそのままである分、どうしてもどこかかわいらしい印象がする。
それが地元で現役のまま大切に大切にされている、その光景を目にするだけでも訪れる価値は十分あった。
でもやっぱり、実際に開閉しているところを見てみたかったなあと思う。跳ね橋は動いてナンボなんだなあ。

 
L: さらに海側に架かる新長浜大橋から眺めた長浜大橋。自然の中で人工の美を力強く主張する赤が美しい。
R: こちらは1977年に建設された新長浜大橋。おかげで長浜大橋は文化財と生活道路に専念できている感じ。

帰りは新長浜大橋で右岸に戻る。橋の上から角度を変えつつ、長浜大橋をあらためて遠景で眺めながら歩く。
ちなみに新長浜大橋の右岸のたもとには旧長浜町庁舎(現・大洲市役所長浜支所)が建っているが、この建物、
実は1936年築の国登録有形文化財。それに気づず写真を撮らなかった私はアホでございます。ああ悔しい。

伊予長浜を後にすると、17時過ぎに松山駅に到着。名残惜しい気持ちもあるが、どうにもならない時間帯である。
大人しくバスに乗って松山空港へと向かう。駅よりも西側は延々と矩形の地割で店舗と住宅が広がっており、
四国最多の人口を誇る松山の一面、観光都市のエネルギーを支えている足元の部分を目の当たりにした。

 
L: 松山空港に到着。  R: 少し距離をとって眺める。車がいっぱいですな。

せっかくなので晩ご飯は、鯛めしに並ぶ愛媛県名物である「さつま汁」の定食をいただいた。
「さつま」という響きから鹿児島を想像してしまうが、「伊予さつま」として区別する表記もあるようだ。
(実際に、薩摩国から伝わったという説もある。昭和天皇は「さつま」に「佐妻」の字を当てたそうだ。)
焼いた魚をしっかりすりつぶし、それを炙ってから味噌と出汁で混ぜてのばすという、手間のかかる郷土料理である。
その分、魚の旨味が凝縮されており、あたたかいご飯にかけて食べると山国出身には想像のつかないおいしさなのだ。
正直なところ宮崎名物の冷汁(→2016.3.21)に近いものがあるが(加須の冷汁うどんもあるな →2016.7.10)、
夏を意識している冷汁と違い、さつま汁はあくまで魚の旨味に主眼が置かれており、濃厚な味わいである。

 
L: さつま汁定食。宇和島で郷土料理というと、鯛めしかさつま汁の二択になる模様。
R: このようにあたたかいご飯に汁をかけるところが冷汁との相違点ということになるのか。

まあそんなわけで、この3日間で愛媛県をだいぶしっかり楽しむことができたと自負しております。たまらんわー


2016.7.17 (Sun.)

愛媛県を味わう旅の2日目は、伊予市・大洲市・八幡浜市と、中予から南予へ着実に愛媛をカーヴしていくのだ。
しかしその前にやっておかなきゃいけないことがある。そう、朝のうちに道後温泉に浸かるのだ。朝風呂朝風呂。
なんせ道後温泉は大人気、昨晩も混み合っていて入るのを諦めた。それで「朝イチならまだ空いてんじゃね?」と、
7時前に突撃したわけであります。それでもやはり客がしっかりいる。まずは道後温泉本館の周辺を撮影してまわる。

  
L: 道後温泉本館を南西側から眺めたところ。来年から7年かけての改修工事が始まり、しばらくこの姿は拝めなくなる。
C: 正面より撮影。こちらに浸かるのは3回目になりますな(→2007.10.62010.10.11)。浸かるたびに最高!って思う。
R: これまた前回も撮ったが、道後温泉商店街のアーケード。温泉を味わいつつここをのんびりと歩くのもまた楽しいものよ。

浸かり貯めだ!と言わんばかりにたっぷり30分ほど温泉に浸かってふわふわ状態。でも外に出たら雨でしょんぼり。
とりあえず道後温泉駅周辺の様子も撮影しておき、路面電車に揺られて松山駅まで出る。朝から雨とはねえ……。

  
L: 道後温泉駅前の光景。雨なのがなあ……。  C: 道後温泉駅。1986年に建て替えられたが、旧駅舎を忠実に再現。
R: 大街道のアーケード。なんか、新しくてオシャレになってるでないの(→2007.10.6)。昨年夏に改装したそうだ。

松山駅から予讃線を南西に揺られること20分弱、伊予市駅に到着する。その名のとおり、伊予市の中心部にある駅だ。
伊予市はもともと江戸時代に「郡中(ぐんちゅう)」と呼ばれていた街で、1955年に合併によって伊豫市が誕生した。
その後、「伊予市」という表記が優位になっていき、2005年の合併であらためて正式に「伊予市」となったそうだ。
そんな伊予市の市役所は、なんと工事の真っ最中。いちおう古い建物が機能しているが、今後建て替えられるのは明白。
まあ、「古い庁舎が壊される前にどうにか間に合った」と無理やり納得しておくしかない状況である。トホホ。

  
L: 建て替え工事が進行中の伊予市役所。  C: 交差点越しにさらにクローズアップ。  R: 南側に少し入って眺める。

伊予市役所の竣工は1957年。けっこう凝った建物で、この時期らしいモダニズムの上品な価値観を漂わせている。
デザインの基本が徹底的に直線によって構成されているが、実に端整な仕上がり。確かなセンスを感じさせるのだ。
また、交差点に面した側面に時計を入れているあたり、見られることをきちんと意識した積極性が誇らしく思える。
単純な形状としては、僕の中で現時点でのベスト市役所である笠岡市役所(→2014.7.23)にかなり似ている。
やっぱり1950年代というのは鉄筋コンクリートが最高にポジティヴで品があって面白かった時代なのだと思う。

  
L: 予讃線の踏切近く、南東側から眺めたところ。  C: 今度は北西にまわって裏から見てみた。
R: 振り向いて左、その北側を見ると新たな庁舎がつくられている途中(背面)。パーツっぽいなあ。

敷地の北側にはコンクリート打ちっ放しの新しい伊予市役所ができつつある。とはいえ人の出入りは平然とあって、
すでに市役所としての機能がある程度こちらに移ってきているようだ。よくわからないけど、使いながら建てている。
今後どういう形で仕上がっていくのかわからないけど、かなりダイナミックなやり方である。面白いものだ。

  
L: 国道378号越しに眺める伊予市役所の新庁舎。明らかにまだパーツにすぎないのだが、中はすでに機能している。
C: 間の通路を抜けていくとこんな感じ。  R: 奥まで行って振り返る。かなりミニマルなパーツだが、どうなるのやら。

雨なのであまりあちこち動きまわる気が起きないが、ざっと歩いてみた限りでは、昔ながらの港町の雰囲気がすごく濃い。
「伊予市」という特徴のない名前で覆われてしまっているので大損をしていると思う。やはり「郡中港」こそふさわしい。
いずれ伊予市役所が竣工したときには、あらためてこの郡中港の街並みをしっかり味わってみたいところだ。

 1860(万延元)年竣工の山惣商店。もともと旅籠とのこと。

10時過ぎに伊予大洲駅に到着。6年前にも来たことがあるが(→2010.10.12)、今回はそのリヴェンジなのだ。
なんせ前回は改修工事の真っ最中で、全面グレーの布だった。せっかくのリヴェンジで天気がよくないのは残念だが、
気がすむまでとことん撮影してやるのだ。そんなわけで鼻息荒く、駅から市役所までの1.5kmを歩いていく。

  
L: 肱川を渡って最初の大きな交差点に大洲市役所は面している。右手は議場ではなく大ホールとのこと。珍しいなあ。
C: 高層棟をクローズアップ。議場はこちらの4階と5階の左側に収まっている。  R: 角度を変えて南東側から眺める。

大洲市役所は1984年竣工。北側にくっついているのが議場だと思ったら、なんと大ホールなのであった。
大洲は城跡の手前にある市民会館(1968年竣工)がけっこう強烈だが、それとは別に市役所にホールを付けるとは。

  
L: 南側にまわり込んだところ。左奥が後述の別館。  C: 背面。表側とだいたい同じデザインになっているのね。
R: 裏の西側にくっついている大洲市役所の別館。2014年の竣工だが、オープンしたのは翌年の3月とのこと。

大洲の旧城下町は山と川にしっかりと囲まれており、かなり狭っこい。我慢できずに肱川の対岸に商店街が広がっていき、
鉄道の駅もそっちにできた、そんな経緯がある。だからこっち側にばかりホールを複数つくるというのは少し不思議。
もっとも、それこそが旧市街のプライドってことなのかもしれない。市民会館も含めて今後どうなっていくのかな。

  
L: 別館の北側に出てきた。  C: 本館と別館の接合面。タイルを揃えているんだけど色の違いがはっきり出ている。
R: 玄関から中を覗き込んだところ。1980年代庁舎だけど1階が吹抜じゃないのは、上に議場を乗っけているからかな?

大洲市役所のリヴェンジを果たすと、予讃線をさらに進んで八幡浜へ。実は今まで八幡浜で下車したことがなかった。
初めて訪れる街ということで、ワクワクドキドキが止まらない。かなりの興奮状態で改札を抜けるのであった。

さて八幡浜といったら醤油味のちゃんぽんである。かつて松山空港で食べて、すっかり魅了された(→2010.10.12)。
ぜひ本場で食ってみたいと思いつつ、あれから6年が経過してしまった。そしてついに今日、宿願を果たす時が来たのだ。
長崎のちゃんぽんが中華街で育まれた味であるなら、八幡浜のちゃんぽんは大衆食堂が中心となって発達した感じ。
それだけに、より地元に密着した形の食べ歩き・食べ比べが楽しめるとのこと。でも時間がないので有名店に突撃だ。
いろいろ調べたところ、いちばんの有名店は「ロンドン」らしい。醤油ちゃんぽんなのにロンドンってナニユエだろう。
(ほかの有名店には「イーグル」もある。ロンドンでイーグルというと初代『ストリートファイター』を思い出すのですが。)
まあよくわかんないけど食べるしかない。八幡浜駅は中心市街地から離れたところにあるので、走って走って商店街へ。
正午近くのいい時間帯で、しばらく店の外にあるベンチに座って汗だらけで待つことに。人気店なんだなあと実感。

  
L: ロンドンの外観。ちゃんぽんは数あるメニューのひとつみたいで、ふつうに定食を注文する地元の客も少なくなかった。
C: 八幡浜ちゃんぽん。透き通った醤油ベースのスープによるちゃんぽんも大変おいしゅうございました。定期的に食いたい。
R: 二宮忠八(→2015.3.28)生誕の地である銀座商店街。八幡浜の市街地には昔ながらのアーケード商店街が残っている。

ロンドンのちゃんぽんはシンプルにつくっているからか、具といいスープといい麺といい、それぞれの味がはっきりしている。
各具材が複雑に絡み合った感じはない。具もしっかり主役なのだ。そこがラーメンとちゃんぽんの大きな違いかなと思う。
醤油の風味が効いたスープは非常にあっさりめ。それでもまったく飽きずに最後まで飲み干すのであった。汗が止まらんね!

本場の八幡浜ちゃんぽんに満足すると、早足でさらに西へ。端っこの八幡浜港には道の駅「八幡浜みなっと」がある。
ここでレンタサイクルを借りる計画なのだ。「みなっと」は駅から実に1.7kmもの距離がある。帰りが恐ろしいわ……。
そんなことを考えつつ敷地に入ると、まあとにかくものすごい混雑ぶりだった。駐車場は広大なのに車で埋め尽くされている。
3連休中日ということを考慮しても、これだけ人気のある場所だとは。人が多すぎてすっきりと写真を撮れずに苦労した。

  
L: 八幡浜みなっと。八幡浜市の人口のほとんどが集まっているんじゃねえかってくらいに混み合っていた。すごい人気。
C: 海と向き合って弧を描くように店舗が配置されており、真ん中に広大な駐車場とオープンスペースを確保している。
R: 海に面した北西側にはこのような遊歩道が整備されている。ここから見える山はみかんの段々畑で、等高線がすごい。

愛媛県といえばみかんの産地として全国的に知られているが、その中で最も生産量が多いのが八幡浜市なのである。
みなっとからは等高線に沿って横線が引かれた段々畑の山肌を見ることができ、その景観には思わず圧倒されてしまう。
複雑きわまりないリアス式海岸の山肌が、すべて走査線によって表示されている。これこそが愛媛の誇りの源泉なのだ。

 リアス式海岸の複雑な地形が走査線によって解析される、そんな独特な景観。

八幡浜の本質に次々と触れて、旅の楽しさに眩暈がする。しかし残念ながらそれに酔っている時間はないのだ。
素早くレンタサイクルの手続きをすると、目的地に向かってペダルをこぎ出す。わかっちゃいるけど、つらい時間だ。
というのも、その目的地とはDOCOMOMO物件である八幡浜市立日土小学校だから。距離でいうと7kmほどだが、
まずとんでもねえ坂道を上っていき、そこから長い長いトンネルを抜けて、その後もひたすらじっとり坂を走るから。
電動自転車だからいいけど、そうじゃなかったら絶対に無理である。ちゃんぽんパワーに物を言わせてがんばったよ。
(基本的にみなっとのレンタサイクルは佐田岬観光がメインターゲットであるようだ。それはそれでやってみたい。)
日土小学校はDOCOMOMO20選の初期メンバーである。その頃からどんな学校建築なのか、かなり興味があったのだ。
しかし愛媛の山ん中という立地に愕然とした記憶がある。今回ついに、その実物を見ることができるというわけだ。

  
L: まずは国道197号・名坂道路の入口がとんでもない上り坂。八幡浜市役所方面を眺めるが、すごい高さ。
C: そしてトンネルの入口に。右が車道で左が歩行者用。真ん中に地蔵堂(屋根が見える)があるのがなんとも……。
R: 歩行者用のトンネルを行く。ひんやりとした空気が461mも続く。お地蔵様のせいでよけいに寒く感じるわ……。

どういう理由なのかわからないし、知っちゃったら怖い気がするんだけど、トンネルの手前には地蔵堂がある。
もうそのせいで中のヒンヤリ感が怖くて怖くて。自転車だから短い時間で済むけど、これを歩くのは絶対にイヤだ。
そんな長い長いトンネルを抜けてもさらに道は続く。山の中を抜けて国道沿いの歩道を進み、途中で県道に分岐。
そこからも川に沿ってじわじわと上り坂を進んでいく。やがて住宅が並ぶ光景から緑の中へ入っていくと、
右手に日土小学校が現れた。川との間のわずかな平地を小学校としているのだが、その校舎の端整なこと。

  
L: 八幡浜市立日土小学校。見るからにモダニズムの精神を感じさせるが、すべて木造であるところがポイントなのだ。
C: 角度を変えて眺める。手前が1958年竣工の東校舎、奥が1956年竣工の中校舎。重要文化財の指定を受けている。
R: 校庭から北側の山裾に並んでいる住宅群を眺めたところ。貴重な平地を学校のために提供しているのがわかる。

設計者の松村正恒は土浦亀城の事務所に勤めていたそうで、なるほどそういう流れなのかと思う。
この小学校を設計した当時は八幡浜市役所の職員。その後、作品が評価されて独立したという経緯がある。
地方公務員が地元でモダニズムの傑作を建てちゃうという事例はけっこう多い(→2014.10.272015.5.4)。
歴史というフィルターを通さざるをえないわれわれは、当時のワクワク感を距離を置いて眺めるしかないのが切ない。

  
L: まずは中校舎をクローズアップ。木造なのに窓の面積がものすごい。屋根は薄緑色の瓦を載せてあるのだ。
C: 近づいてみた。  R: 反対側から。雨が降ったのか、湿った校庭には蝶が舞い、小さなカニまで闊歩していた。

見られる範囲で動きまわってみたのだが、なんとも言えない冒険心をくすぐられる建物という予感がする。
木造の歴史ある学校建築は全国各地にそれなりに残っているが、だいたいの空間構成は決まりきっている。
しかしこの日土小学校はシンプルな外見とは対照的に、モダニズムらしいさまざまな仕掛けがあるのがわかる。
奇をてらった学校建築というのは現場としては迷惑この上ないのだが、日土小学校はどうそこを解決しているのか、
非常に気になるところだ。日土小学校では夏・冬・春の長期休暇を利用して見学会を開催しているが、
夏は8月なのでタイミングが合わなかった。機会があればぜひリヴェンジしてみたいですなー。

  
L: 東校舎。中にある階段はかなり緩やかで、内側にいるとどういう光景になるんだろうかと非常に気になる。
C: 西校舎。こちらは2009年の竣工。建て替え危機を乗り越えて増築された。雰囲気を合わせているのがわかる。
R: 背後を流れる喜木川の方から眺めたところ。もうこれだけで面白い。モダニズムの学校には憧れるなあ。

苦労してここまで来たわりには、割とあっさり去らねばならないのがつらい。でも現役の学校だからしょうがないのだ。
帰りはひたすら下りになるので楽ちん。でも距離があるので時間と手間はしっかりとかかる。トンネルも怖いし……。
そうして市の中心部に戻ってくると。天気が少し良くなった隙を突いて、手早く八幡浜市役所の撮影をしていく。

  
L: 八幡浜市役所。まあ、よくある感じですな。  C: 敷地が五角形になっており、一周すると変な感じがする。
R: 側面。オープンスペースと呼べない中途半端な空間がもったいない。妙な形の敷地で、しわ寄せが来ている感じ。

八幡浜市役所は石本建築事務所の設計で1985年に竣工した。1980年代らしい規模の庁舎建築で、撮影が大変だ。
特筆すべきは五角形という敷地の形。その大半を駐車場として整備しており、オープンスペースが実質存在しない。
港町の端っこに位置しており、歴史的にはけっこう重要な場所だったのではないかと思わせる立地である。

  
L: 裏手にまわる。  C: 背面。両側に建物が迫る駐車場からギリギリの構図で撮影。  R: 敷地のいちばん北側は鋭角。

休日ということで中には入れなかったが、外のガラスから中を覗き込むことができた。外にオープンスペースがない分、
中に広めの吹抜ホールを用意して過ごしやすくしているようだ。二宮忠八の飛行機が吊るされているのも独特だ。

  
L: これで一周完了。  C: 中を覗き込む。玄関から入ると広めのホールとなっている。二宮忠八の飛行機があるねえ。
R: 角度を変えてもう一丁。奥に窓口があるのを確認。それにしてもホールはだいぶ広い。ソファや椅子が多いのも特徴的。

帰りは猛スピードで駅まで戻って自転車を返却しようとしたら、少し戻ったところにある蒲鉾店で返せとのこと。
もうちょっと自転車を借りやすくするなり、駅と港のアクセスを良くするなり、きちんと工夫をしてほしいものだ。
八幡浜は観光資源がかなり豊富な街なので、そこを改善すると遠距離からの観光客がもっと増えると思うんだけど。

八幡浜を後にすると、そのまま南下して宇和島へ。今日は宇和島に泊まるのである。が、まだ午後3時前で動ける。
そこで、バスに揺られて南楽園を目指す。愛媛県は高度経済成長の勢いで南予レクリエーション都市構想を始めたが、
南楽園はその一環でつくられた日本庭園である。日本の都市公園100選なのでわざわざ行ってみようと思ったわけだ。
宇和島の市街地から南下すること40分、宿毛へ向かう街道から北灘湾へ入っていくと、海の反対側に南楽園がある。

  
L: 南楽園の入口。1985年の開園とのことで、バブル的な発想を感じる。今でもきちんと営業できているのは立派。
C: 園内の様子。伝統ある大名庭園と違って規模が大きく、やはりどこかテーマパーク的な整備のされ方である。
R: 東側の池越しに眺める。背景には南予らしい雄大な山々が重なっており、借景の使い方が大変すばらしい。

310円の入園料を払って、まずは総合管理棟休憩所へ。「世界の風鈴展」ということでたくさんの風鈴が展示されており、
実に涼しげでよい。というか、午前中に苦しんだ雨雲はすっかりどこかへ行っており、もはや炎天下である。
旅行用に買っておいた帽子をしっかりかぶって庭園に出る。規模が大きいのでどこかテーマパークの匂いがするが、
どの角度から見ても様になるように、丁寧に設計されているのがわかる。なかなか高いレヴェルの仕上がりだ。
どことは言わないが歴史はあっても実際には大したことのない庭園と比べると、こちらの方がずっとよくできている。

  
L: 1980年代でイケイケの自治体が整備したにしては造りが丁寧な印象。それを30年経ってもキープしているのも立派。
C: 橋の上から眺める園内。  R: もう一丁。きれいに木々を刈り込んでいるが、広いのでそうとう手間がかかるはず。

園内のあちこちをくまなく歩いてみる。7月半ばということですでに菖蒲園は時期を過ぎていたので残念だったが、
時期を狙って来ればかなり見事な光景を味わうことができそうだ。また紅葉滝周辺の木陰も静かな雰囲気でよい。
現代に整備された日本庭園だからといってナメてかかったら大間違いである。けっこう楽しませてもらいました。

  
L: 菖蒲園。面積は広めで、梅雨時にはかなり見事な花々の群れを楽しむことができそう。  C: 紅葉滝周辺。
R: しかし北灘湾に面する県道37号に沿って、このような現実に引き戻される光景も。ここは一工夫欲しいわ。

といっても欠点がないわけではない。広いがゆえに粗が見える部分もある。まあ、贅沢な要求なのかもしれないが。
もったいないなあと思ったのは、緑のホースがあちこちにある点。思ったのだが、色がベージュなら目立たないわけで、
そういう日本庭園用のホースをつくったらそれなりに売れるのではないだろうか。ぜひ誰かつくってみてくれ。

  
L: 緑のホースが見えているの図。こういう箇所はけっこう多い。ホースの色がベージュなら気にならないのでは?
C: 展望スペース。手をかければいいのに。  R: 展望スペースから池を見るとサルスベリが邪魔。咲いてりゃいいけど。

西側の池の方が広いのだが、その分だけ周りを回遊するしかないので特に面白みはないのであった。
それにしてもさすがに暑くてたまらず、一周して総合管理棟休憩所に戻るとソフトコーンアイスを買ってしまった。
プラスチックの上下のパックから取り出すやつ。上が透明、下が白いパック。久しぶりに食ったけど旨かったなあ……。

帰りのバスは宇和島まで行く最終ということで、1時間弱の滞在なのであった。思ったよりは楽しめてよかった。
来た道を戻って宇和島市街へ。戻ったのは夕方5時過ぎくらいなのだが、もう早めに晩ご飯をいただいてしまう。
宇和島といったらやっぱり鯛めしなのである。男一人でちゃんとした店に入るのはけっこう度胸がいるのだが、
そこは「オレは出張で来たサラリーマン」と自己暗示をかけて入店。外観はそんなに凝っていない店だったが、
中に入ったら別世界のオサレ時空でさっそくドギマギ。でもごくごくふつうに応対してくれましたよ、念のため。

 
L: 鯛めしのセット。じゃこ天もおいしゅうございました。  R: こうやって食う。

最初っから晴れてくれれば言うことなしだったが、なんだかんだでレンタサイクルも予定どおり利用できて、
所期の目的はきちんと果たすことができた。今日も順調だった。明日の最終日も目一杯楽しむのだ。


2016.7.16 (Sat.)

海の日3連休といえば何ですかハイ旅行。1学期の終業式は来週だが、そんなものは旅行なのである。
学年でのお疲れ様会を終えた私は、そのまま二子玉川から夜行バスのパイレーツ号に乗り込んだのであった。
パイレーツ号は今治まで行くのだが、僕が降りたのは途中の「西条登道」。つまりは愛媛県西条市である。
というわけで、この3連休はリヴェンジも新規チャレンジもありで、伊予国こと愛媛県をたっぷり堪能する旅なのだ。

西条登道のバス停は、伊予西条駅から西に行った図書館のところにある。西条市には昨年も来たが(→2015.5.5)、
駅から市役所までを往復しただけなので、この辺りは初めてだ。やっぱり水がきれいで、それでああ西条だと実感。
昨年の記憶が一瞬で蘇る。あの旅の続き、もし市街地の南側をちゃんと訪れたら、という「if」の楽しみが始まる。

 寝ぼけ眼でも澄んだ水を目にして、ああ西条だと実感するのだ。

昨年は西条市役所を訪れた後、石鎚神社を参拝した。しかし西条にはもうひとつ、大きな神社があるのだ。
今回の旅はその神社、伊曽乃神社を参拝するところからスタートする。リヴェンジの機会は意外と早かった。
時刻はまだ7時前。しかしそれが信じられないくらいに日差しが強い。クラクラしながら南西へと歩いていく。
途中のコンビニで我慢できずにアイスを買った。それくらいの強烈な晴天なのである。ま、雨が降らなきゃいいんだ。

加茂川を渡ると国道11号から左折して国道194号を行く。そうして川沿いにしばらく歩いていくと、
農地の中の住宅地をまっすぐに抜ける道が右手に現れる。これが伊曽乃神社の参道なのだ。南下していく。
伊曽乃神社はすっかり周囲の穏やかな雰囲気に染まっているが、参道の規模はかつての国幣中社らしい大きさだ。
アスファルトの参道は石段を上って鳥居をくぐると砂利道になり、社号標から先はワイルドな石畳へと変化する。
けっこうもったいぶるなあ、と思ったらようやく境内に出た。横参道で、社殿は右手にある神門の先である。

  
L: 伊曽乃神社の一の鳥居。  C: 鳥居をくぐってからが長い。周りの緑に埋もれつつある感じも。  R: さらに進む。

境内の雰囲気は非常に厳かで、参道が少々自然に押されている印象なのに対し、その自然と上手く共存している感じ。
あえて神門とは反対の左手に入ると、勢いよく茂った木々に包まれて境内社の古茂理神社が静かにたたずんでいる。
それではメインの方はどうだと神門をくぐると、堂々たる拝殿に圧倒される。長い参道に負けないだけの規模で驚いた。

  
L: 境内の様子は緑豊かで厳か。たいへん居心地がいい。  C: 神門。両側にある御神木もまた立派なのだ。
R: くぐると拝殿。かなりの幅がある堂々とした建物。一宮ではないが、かつての伊予国を代表する神社だった。

本殿の方までぐるっと一周してみたが、とにかく大きい。祭神は天照大神の荒魂なので神明造を基本にしたのだろう。
あともう1柱の祭神・武國凝別命は景行天皇の皇子で、伊予を開拓したとされる。やはり伊予国を代表する神社なのだ。
ちなみに、この「別(わけ)」の子孫が治めたことで、「別子(→2015.5.5)」という地名が生まれたそうだ。

  
L: 失礼して拝殿の中を眺めたところ。  C: 拝殿の側面。脇にあるブロンズ像の木花開耶姫像が金色すぎてちょっと……。
R: 本殿を眺める。裏手の方にもぐるっとまわり込むことができる。しかし規模が大きい。神明造だとまた迫力あるなあ。

授与所が開くのを待ちながら日記を書いていたのだが、頻繁にやってくる蚊もなかなかのビッグサイズなのであった。
御守には神紋の御所車がしっかり入っている。伊曽乃神社の例大祭は山車の数が非常に多いそうで、御所車に納得。

まだまだ時間に余裕があるので、せっかくだからもう一度、旧西条陣屋の西条高校や西条市役所まで行ってみた。
昨年、西条市役所は古い方の棟が改修工事中だったので、きっちりリヴェンジしておこうというわけなのだ。
3連休だが西条高校には登校してくる高校生がいっぱい。正門になっている大手門がやっぱりいいなあと思う。

 
L,R: というわけで、もう一度撮影してみた旧西条陣屋大手門。今は西条高校正門である。

続いて西条市役所。工事はすっかり終わっており、新旧それぞれの建物が並んでいるのが楽しいではないか。
まずは東側の駐車場越しに撮影してみる。しっかりと広い空間があるおかげで撮りやすいのがありがたい。

  
L: 西条市役所。左が本館で右が新館。  C: 角度を変えて近づいてみた。  R: さらに近づいてみた。

本館の竣工は1979年、設計は石本建築事務所。後述するが、石本は愛媛県でもかなり多くの市役所を設計している。
そして新館の竣工は2014年で、設計は安井建築設計事務所。東側の駐車場は新しくつくられた雰囲気なので、
おそらく新館の工事とセットで新たに整備されたのだろう。本館だけだったらかなり狭苦しい立地だったと思う。

  
L: 南東側から見上げる本館。  C: 南西側から見上げる本館。敷地に余裕がない。  R: 西側から裁判所越しに。

さて、ネットで調べてみたら、新館の建設にあたっては西条市全体を巻き込むそうとうなドタバタ劇があった模様。
建設見直しを訴えた候補が僅差で市長になったが、1ヶ月も経たずに建設続行を表明。議会での不信任決議を経て、
出直し市議会議員選挙が行われる騒ぎになったようだ。それぞれの街にはそれぞれの事情があるのでなんとも言えないが、
つくるんだったらきちんとしたものにしないといかんよ、とだけは言いたい。愛されない建築はつらいだけですよ。

  
L: 北西側より眺める新館の背面。  C: 側面にまわり込む。  R: 北東側から。これで一周完了である。

時間的にまだ少し余裕があったので、前回訪問時には外からちょっと眺めるだけだった四国鉄道文化館に行ってみる。
伊予西条駅のすぐ脇にあるので駅前ロータリーを通り抜けるのだが、駅舎がなんとも昭和である。風情あるなあ。

 伊予西条駅。あらためて見ると、いかにも昭和の建物って感じ。

四国鉄道文化館は南北2つの建物からなる。「ぽっぽ橋」という名前の跨線橋で行き来することになる。
2007年のオープン当時は北館のみだった。中を覗くと木製のアーチが非常に凝っている。0系新幹線があるのは、
「新幹線の父」こと十河信二の関係だろう。十河信二は西条市長の後、国鉄総裁を務めて新幹線開発を実現した。

  
L: 四国鉄道文化館・北館。  C: 中はこんな感じでアーチがすごい。やっぱり新幹線といえば0系だよなあ。
R: こちらは2014年に増設された南館。手前に置かれているのはフリーゲージトレインの第二次試験車両。

南館では蒸気機関車の「C57 44」をジロジロと見たのだが、やはり昔の鉄道は威厳が違うなあと見とれてしまった。
いかにも重そうな雰囲気が全体からにじみ出ているが、だからこそ堂々たる迫力がある(→2012.7.162015.1.2)。

  
L: 南館には「キハ65 34」と「C57 44」。車両は正直よくわからんが、古いやつはノスタルジーが満載だよね。
C: 駆動系をじっくり眺める。ロマンじゃのう。  R: 運転席のすぐ脇にあるボイラー操作機器。ロマンじゃのう。

しっかり堪能すると、10時前に西条登道のバス停に戻る。鉄道ではなく、ここから再びバスに揺られるのだ。
今治(高縄半島)を無視して松山と新居浜を結ぶ「新居浜特急線」に乗り込むと、横河原バス停で下車する。
そうして伊予鉄道に乗り換えると、2駅先の見奈良駅へ。そこからすぐ南へ行けば、東温市役所である。

  
L: というわけで東温市役所。まずは東側の背面から眺める。  C: 南側へとまわり込む。  R: 西側より。

東温市は2004年に重信町と川内町が合併して誕生した。「東温」とは「温泉郡の東部」という意味であり、
実は明治以来の歴史を持つ地名なのだ。ちなみに温泉郡の「温泉」とはもちろん道後温泉のことを指しており、
かつては松山市の中心部を含んでいる郡だった。いかに道後温泉の影響が大きいかがうかがえる話である。

  
L: 県道193号に出て北西側から見たところ。  C: 敷地内に入ってあらためて西側から撮影。  R: 近づいてみた。

東温市役所は重信町役場として2000年に竣工。設計は石本建築事務所である。2つの棟をアトリウムでつなぐパターン。
重信の中心市街地は伊予鉄道の線路より北側で、市役所は周りを田んぼに囲まれている。南側の個人住宅を除けば、
遮るものがほとんどないのはありがたい。でも余裕のない県道や田んぼのあぜ道から撮影せざるをえなくて、
眺める角度は意外と限られていた感じ。しかしこの時間だけ急に曇り空になってしまったのは残念だった。

  
L: 田んぼのあぜ道から北側側面を撮影。気合い。  C: 北東側より。  R: エントランスより中を覗き込む。

撮影を終えると伊予鉄道で松山方面へ。しかし松山市駅は通過して、大手町駅で降りる。JRの松山駅を目指して歩く。
コインロッカーに荷物を預けると、南側にある駐輪場で自転車を借りる。松山をレンタサイクルで走るのは初めてだが、
観光名所が広範囲に散らばっている街なので、絶対に自転車が効果的に決まっているのだ。鼻息荒くペダルをこぎ出す。

最初の目的地は、ぐーっと南に行ったところにある伊豫豆比古命神社。どうやら松山では「椿神社」と呼ばれている模様。
一気に南下して石手川を渡ろうとしたのだが、上がったりまわり込んだりで少々複雑。それでもどうにか対岸へたどり着く。
広大な矩形の住宅地を進んでいくと、巨大な鳥居が突然現れて驚いた。そのまま東へ進むと、左手のカーヴが境内。
どうやら西側は裏参道で、東から来るのが表参道のようだ。まあとにかく無事に到着。さっそく参拝開始である。

  
L: 西側の鳥居。足元は道路ではなく建物の敷地に入り込んでいる。  C: 東からだとまっすぐこの光景。  R: 楼門。

伊豫豆比古命神社の境内はちょっと独特。拝殿・本殿は一段高いところにつくられており、そこへのアプローチが斜め。
帰るときにお尻を向けないように門と社殿の角度を少しずらしている事例はちょこちょこあるけど(→2015.3.28)、
伊豫豆比古命神社の場合、楼門と社殿はきれいに一直線上にあるのに、楼門をくぐってから参道が斜めになるのだ。
そしてその角度を社殿へ上がる石段で戻して「く」の字になっている。とっても不思議な神社なのであった。

  
L: 境内の様子。楼門をくぐって参道が「く」の字になっていて、なんとも不思議な気分にさせられる空間である。
C: 石段を上って拝殿。建物が目いっぱい迫ってくる感じ。  R: 回廊から本殿を覗き込んだところ。何がなんだか。

なお、御守に記されていた神社名は「椿神社」。「椿」というと猿田彦系かと思うが(→2012.12.282015.1.31)、
祭神は伊豫豆比古命・伊豫豆比売命・伊与主命・愛比売命の4柱でローカル。愛比売命は「愛媛」の由来とのこと。
でもなんで愛媛県だけ女神の名前を県名に冠したのか。しかもそこまでメジャーでもないし。よくわからない。

 こちらは東側の鳥居。やはり大きい。入口の国道33号交差点は大混雑。

参拝を終えると国道33号を北上していくが、なかなか大変。幅が広かったのが天山交差点から急に狭くややこしくなり、
交通量も多くてビクビクしながら走る。石手川にぶつかってからは川沿いに石手寺方面を目指すが、狭くて走りにくい。
松山は四国一の都会で観光地としても洗練されているが、生活空間としてはかなりややこしい要素が残っている街だ。
そうして川を渡るとそこが石手寺。6年ぶりの訪問だが(→2010.10.11)、雰囲気はまったく変わらずちょっと独特。

  
L: 石手寺。石手川を渡ってそのまま正面から見るけど、いろいろゴチャゴチャしていて寺っぽくないのだ。
C: 回廊の入り口。風格を感じさせるのだ。  R: 回廊を進むと土産物やら仏教グッズやらが売られている。

石手寺は何もかもが相変わらずだ。参拝客がとにかく多くてしっかり賑わっているのもそうだし、
全力で平和を祈願する看板や書や折り鶴などがバンバン設置されているのもそうだ。やる気だよなあ。

  
L: 山門。国宝よ、国宝。  C: くぐって左手が阿弥陀堂。  R: 中央、一段高いところに本堂。

石手寺の独特さは御守にもしっかり現れている。住職の筆でそれぞれ「不敗」「七転八起」「意思力」「再生」とある。
さらには「人の痛みを知る」「喜ばれる喜」など、あまり御守らしくないフレーズのものまであった。個性派だなあ。

  
L: 三重塔。  C: 茶堂。このお堂は本当に迫力があるんだけど何の文化財にもなっていないのが意外。
R: 置いてあった御守をクローズアップ。御守の種類が豊富なのはいいんだけど、個性が強いんだよなあ。

回廊の中のある店では、猫が非常にふてぶてしい態度で店番していたので思わず撮影。だらけきった体勢もいいが、
不敵な目つきもまたいい。猫の猫としてあるべき猫らしさを全開にしていやがる。面白いやつめ。

 「なんだよ、文句あんのかお前?」……心の声が聞こえる。

石手寺の参拝を終えると、ちょっと西へ移動して伊佐爾波神社に参拝。こちらも6年ぶりの訪問だ(→2010.10.11)。
道後温泉を見下ろす山裾にあって、あらためてじっくり見ると、石段がなかなかすごいことになっている。

  
L: 道後温泉駅方面から来ると、この一の鳥居がお出迎えなのだ。  C: あらためて石段がすごいなあと感心。
R: 石段を上りきると楼門。やはりそんなに空間的な余裕がないのできれいに撮影できる角度は限られている。

伊佐爾波神社は八幡神トリオを祀るが、仲哀天皇と神功皇后が道後温泉を訪れた際の行宮跡に創建されたそうで、
その辺が単に勧請された八幡宮と違うところだ。本殿は石清水八幡宮を模したという、きちんとした八幡造である。

 
L: 回廊から本殿を覗き込むの図。撮影するにはけっこう窮屈。  R: こちらは背面。

道後温泉方面の寺社はこれにて参拝完了である。松山駅にはまっすぐ戻らず、松山市駅にちょっと寄るのだが、
その途中で近代建築を2つほど見学しておく。まずは愛媛大学教育学部附属中学校にある旧制松山高等学校講堂。
国登録有形文化財だがあまりうやうやしく扱うつもりはないようで、よく言えばごく自然にふつうに使っている印象。
もうひとつは松山地方気象台(旧愛媛県立松山測候所)。こちらは中央部が妙にきれいでリニューアルの雰囲気。
やはり国登録有形文化財とはいえあまり積極的に見せるつもりはない模様。手前にある桜がとにかく邪魔だった。

  
L: 旧制松山高等学校講堂。1922(大正11)年の築。  C: 正直、敷地の端っこにさりげなく残した、という感じ。
R: 松山地方気象台(旧愛媛県立松山測候所)。1928年竣工とのこと。手前で雑に植えてある桜をなんとかしてほしい。

さて、なんでわざわざ松山市駅(いよてつ高島屋)に寄ったかというと、東急ハンズの松山店が入っているから。
7階の大部分を占めているワンフロア型の店舗だが、フロア自体がかなり広いので売り場面積も非常に広かった。
それでいて品物の密度が高いので、見てまわるのがなかなか大変なのであった。最近のハンズが力を入れている、
ボディケア関連のコーナーも広い。工具やネジなどの方面は、開き直ってまとめた感がある。こりゃしょうがないか。
全体的に開放感があってオシャレになっている印象。四国一の都会にふさわしい店舗だと納得するのであった。

自転車を返却する前にもう一丁、国宝建築を見ておく。駅の西側、松山総合公園となっている大峰ヶ台の南麓に、
大宝寺という寺がある。真言宗だが八十八箇所には入っていない。本堂は愛媛県内最古の木造建築ということで突撃。
まず予讃線をくぐって西側に出るのが大変。そこから国道196号に入るのだが、道路の規模が大きすぎてまた大変。
モータリゼーションな道路は徒歩や自転車だと本当に不便なのだ。そして住宅地の坂を上っていくと入口となる。

  
L: 大宝寺の入口。閑静ないいお寺ではあるのだが、人の気配がほとんどなくて本当に国宝建築があるのか不安になる。
C: 石段を上りきるとその本堂なのだが、周囲を木に覆われていてすっきり見られない。  R: 側面。狭いよー。

本堂は鎌倉時代前期の建立で、1685(貞享2)年に修理が行われたそうだ。まわり込んで上から背面を眺めると、
なるほど鎌倉期らしい質素な造りをしている。でも木材に活気を感じるのは修理がしっかり行われたせいなのか。
周りにはさまざまな木々が茂って建物が非常に見づらいが、どちらも手入れが行き届いており暗い印象はまったくない。
いかにも国宝らしい重々しさはあまり感じられないが、大切に使われているのがよくわかる建物なのであった。

 これで松山市内めぐりは終了。松山駅前のターミナルからバスに乗る。

愛媛県の旅、初日の最後はJリーグ観戦なのだ。本日のカードは愛媛FC×清水エスパルスのオレンジ対決なのだ。
さて愛媛FCの本拠地・愛媛県総合運動公園陸上競技場(ニンジニアスタジアム)の所在地は松山市ではあるが、
ほとんど砥部町と言っていい位置にある。国道33号をひたすら南下すればいいのだが、距離は長いわ渋滞するわで、
所要時間が50分(松山市駅からだと40分)となっている。アクセスにかなり難のあるスタジアムなのだ。
覚悟を決めて列に並ぶが、非常に運のいいことに、席に座ることができた。疲れていたんで助かった。

  
L: 愛媛県総合運動公園陸上競技場(ニンジニアスタジアム)の入口。  C: ゲートを抜けて南西側から見たところ。
R: メインスタンド前の芝生。人は多いが穏やかな雰囲気で好印象。家族連れの娯楽として定着しているようだ。

到着すると、恒例のスタジアム一周である。最近になって整備されたようで、真新しいコンクリート構造体が印象的。
バックスタンド側には一段低くして小型の球技場が整備されており、なぜかそっちのベンチでのんびりしている人がいた。
池越しには東温市から松山市にかけての住宅地が広がっているのが見えて、松山の規模の大きさをあらためて実感する。
それにしても、同じオレンジ色だが愛媛に負けない数の清水ユニのサポーターがいる。やはり元J1は気合いがすごい。

  
L: メインスタンド。  C: バックスタンド側はこんな感じ。  R: ホーム側サイドスタンド裏。

スタジアム内に入る。せっかくなのでメインスタンドに陣取ったが、しょうがないとはいえ陸上のトラックでピッチが遠い。
今年改修が終わったばかりだが、アクセスにも問題があってピッチも遠いとなると、観客数を伸ばす要素が見当たらない。
いっそのこそ道後温泉近辺か松山城の堀ノ内あたりに球技場をつくっちゃえば面白いのに、と部外者は気軽に思う。
せっかく松山は観光資源満載の街なのに、観光とサッカー観戦を一体的に楽しめないとなると、本当にもったいない。

 
L: 愛媛県総合運動公園陸上競技場(ニンジニアスタジアム)。陸上競技場としてはすばらしいが、サッカーをやるには……。
R: スタメン発表は愛媛色満載。輪切りのミカンが飛び、蛇口からはオレンジジュースが流れる。すがすがしいですな!

さて、愛媛FCといえばマスコットだ。最近は一平くんばかり注目しているが(→2013.9.292016.3.262016.6.19)、
能田達規デザインによるオ~レ君・たま媛ちゃん・伊予柑太もすばらしい。特にオ~レ君のシャークマウスがたまらん。
そもそも能田達規はめちゃくちゃサッカーをわかっている人だもんね(→2008.3.13)。さすがなあと思いつつ撮影。

 
L: 伊予柑太・オ~レ君・たま媛ちゃんのジェットストリームアタック。青いカエルは愛媛FC事務局スタッフの「金太」。
R: 一平くんとともに並ぶ3連星。ちなみにオ~レ君の口元についているのは、ヨダレではなく果汁。芸が細かいのよ。

19時のキックオフに向けて日が傾いていく。ホームの愛媛もアウェイの清水もどっちもオレンジで、
夕日を浴びるとよけいにオレンジである。スタジアムは本当にオレンジ一色に染まった感じになるのであった。

 
L: こっちが愛媛サポ。紺が混じる。  R: こっちが清水サポ。白が混じる。やはりJ1経験クラブはアウェイ観戦者も多い。

試合が始まると、大方の予想どおりに清水が押す展開になる。強いチームはボールの持ち方に余裕があるのだ。
それに対して弱者側はミスの可能性が高まるのでボールを保持したがらない。弱者のカウンターの構図はそういうこと。
しかし先制したのは愛媛。前半10分に右サイドでつないで、きれいにボールを入れたところに小島がヘディング。
3月の試合でも小島は攻撃の核として期待されていたが(→2016.3.26)、清水相手にさすがのセンスを見せつける。
その後も愛媛は冴えのあるカウンターを見せるが、追加点には至らず。逆に24分、清水がゴール前に入り込むと、
GKが弾いたボールが味方に当たってオウンゴールに。これは人数をかけて攻めたから生まれた得点ということだろう。

 
L: 小島のヘディングで愛媛が先制。  R: しかし清水がOGで着実に追いつく。清水の勢いに押し切られた形かな。

試合はその後、両チームとも得点がないままで膠着するが、余裕を持って攻める清水が優位に立つのは変わらない。
清水の攻撃時には、ディフェンスラインがハーフウェイラインを越えてくるほどに全体が厚く攻め上がる。
守る愛媛は押し込まれてしまう。失点時も守備の人数が多すぎて混乱していたが、そういう状況になりがちだ。
対照的に愛媛の攻撃時には、清水の攻撃陣を警戒するディフェンスラインが上がりきれない。DFでボールを持って、
なんとか前線にいい状態でボールを送ろうとするものの、スタート地点がゴールに遠いので清水はぜんぜん怖くない。
実力差がそのまま「プレーエリアのゴールからの距離」という形で出ている、典型的なゲームである。

 
L: 清水の攻撃時。CBがハーフウェイラインを越えてフィード。愛媛を完全に押し込んでいる。
R: 愛媛の攻撃時。最終ラインが上がりきれず、その分だけ攻撃が遠くからのスタートになってしまう。

後半に入った66分、ついに清水が均衡を破る。右サイドからクロスを入れると愛媛GKが反応してこれを弾く。
しかし中央にこぼれたところをチョン=テセが胸トラップで奪って、そのままボレーシュートを叩き込んだ。
さすが海外で揉まれた代表FWだ、と思わせる鮮やかなゴール。清水はチョン=テセという強みを最大限に生かしている。
しかし愛媛はまったく下を向くことなく、ケガからの復帰のFW西田を途中出場させてスタジアムを一気に盛り上げる。
そしてアディショナルタイム、CKからの混戦を最後は林堂が押し込んでドローに持ち込んだ。いや、すごい気迫。

 
L: チョン=テセのゴールで清水が逆転。J1復帰を目指す清水にとって、チョン=テセの存在は本当に大きい。
R: しかし最後の最後、GKまで上がっての反撃で愛媛が追いついた。これは林堂が押し込む直前のシーンだな。

清水は優位に戦い続けて実力を存分に発揮したし、しっかり対抗してドローをもぎ取った愛媛の粘りもすばらしい。
クラブの伝統や規模というものはいかんともしがたい現実だが、愛媛は誰もが納得できるゲームをやりきってみせた。
とてもいいゲームを見たなあ、というのが素直な感想である。地方クラブの粘りには特別な美しさがあるものよ。


2016.7.15 (Fri.)

学年の先生方で1学期お疲れ様会である。今回は夜行バスに乗る僕の都合で、場所を二子玉川にしてもらった。
でも運がいいことに、それで皆さん十分都合がいいのだ。むしろ二子玉川というシチュエーションを面白がるほど。
そうしておいしいピザに舌鼓を打つのであった。気のおけないチームで仕事ができるって本当に最高ですよ!


2016.7.14 (Thu.)

英語の授業なんですよ。英語の授業なんだけど、思うところがあって、オープニングから漢文の紹介。
司馬遷の『史記』に登場する「桃李不言、下自成蹊。」が本日のお題。これを生徒に紹介して解説したわけだ。
なんでそんなことをしたのかというと、まあはっきり言って生徒の姿勢が気に食わないからである。
勉強での成績ばかり必死で追求するくせに、相手を思いやることのできないやつがちょこちょこいるのでな。
「お前がどんなに勉強できたとしても、誰もお前なんかについていかねえよ、それで仕事ができる人って言えるの?」
本当なら直でそう言いたいんだけどね、そう言うと教育委員会に文句たれるやつがちょこちょこいるのでな。
年々そういう勘違い野郎が増えているので困る。能力の欠如を知らせてやるのは教員の重要な仕事だと思うが。


2016.7.13 (Wed.)

事件から10日が経って、事件と僕の間にうっすらとしたつながりがあることをようやく知った。
バングラデシュの首都・ダッカのレストランで日本人を含む人々が襲撃されたテロ事件が発生し、多くの犠牲者が出た。
ニュースで犠牲者についての情報を聞いて、なんだか大学院時代を思い出すなあと思っていたが、本当にそうだったとは。
無視していたアドレスから、なんだかよくわからないタイトルのメールが届いていて、それが妙な頻度だったので、
まさかと思って開けてみたら、言葉にできないほどに悲しくて苦しいメッセージの込められた連絡だった。
そこでようやく、かつての僕と同じヴェクトルを持っている人が事件の犠牲になってしまった事実を知ったわけだ。
直接の面識があったわけではないが、僕の中にあるものと同じものを持っている人が、許しがたい暴力の犠牲になった。
僕にとってテロとの戦いというものが、これで初めて明確になったように感じている。なるほど、これが「敵」か。

「テロとの戦い」。思慮の浅い政治家が軽々しく口にする言葉だが、よくよく考えるとこれはそうとうに重い。
僕らの「敵」は、人類全体に対する尊厳レヴェルでの「敵」だ。他者を傷つけることだけに目的に知性を用いる「敵」。
知的生命体としての人類という存在、その価値を支える思想という深度からして絶対にわかりあうことのできない「敵」。
楽天的な性善説はこうやって、憎しみの連鎖に駆逐されていくのか。その感情を理性で押しとどめることはできないのか。
自分の中でいろいろ考えてみるのだが、やはり僕は、こびりついてしまった「敵」という質感を拭い去ることができない。
丸腰の自分に十分な覚悟なんてない。でも知的生命体のはしくれとして、認められないものは絶対に認められないのだ。

だから僕は、テロリストの存在を許容することができない。そういう思想の存在を絶対に認めることができない。
ゆえに、今後は軽々しく「テロ」「テロリスト」という言葉を使わない。それは人の皮をかぶった悪魔を指す言葉だから。


2016.7.12 (Tue.)

システムトラブル連発にてんやわんやの件。今年から新しいシステムを導入したのはいいが(本当はよくないが)、
以前のアナログ気味な作業の方が明らかに効率がよくて正確だったわけで、現場はただただ混乱させられております。
教育の現場ってのは本当に、行政の感覚が通用しない場所なのだ。こちとら日々ナマモノを相手にしているので、
法律の論理的な文章のようにコトが運んでいくことなどありえないのである。法律に合わせると教員が疲弊する。
そういう治外法権というか、遊びというか隙間というかニッチな部分を残してもらわんことにはどうにもならない。
そもそもなんで現場よりも役所の方が偉いんですかね。ナマモノの現場を知らない頭の悪いやつに指図されたくねえ。


2016.7.11 (Mon.)

EURO決勝・ポルトガル×フランス。開催国だしデシャン監督も勝ち癖あるし、フランス有利だわなあと思いつつ見る。
まあそうは言っても、ここまで余裕を持って勝ってきたフランスよりも、ギリギリで勝ち上がって来たポルトガルの方が、
しぶとく勝っちゃいそうな気もしないでもない。苦戦だからこそ急成長することは実際ありうるのだ(→2016.1.31)。

序盤はらしくないミスがチラホラで落ち着かない。パスがうまく通らずにラインを割ってしまうシーンが目立つ。
日本代表の試合なら珍しくないが、EUROではなかなか見ないシーンだ。実際に副審をやってみるとわかることだが、
上手いチームはとにかくボールを外に出さないものだ。選手たちも人の子で、大舞台だと緊張するもんだなあと思う。

フランスは今大会すでに6得点のグリーズマンがやっぱりキレキレ。素人には見えない隙をしっかりと突いてきて、
「ああ、これは隙だったのか」と驚かされるプレーを見せる。対するポルトガルのGKルイ=パトリシオもすごい反応で、
どっちも精度がとんでもないプレーをするのでもう見惚れるしかない。ヨーロッパのトップレヴェルは別世界である。
このレヴェルになると戦術云々じゃないよなあ、と思う。まず絶対的な基本技術を持っていることが大前提になっていて、
それでようやくピッチに立つ資格が与えられるのだ。頭の良い人どうしのハイレヴェルな会話の中に入っていけない、
そういう感覚に近いものがある。われわれが戦術の概念に含めている部分が、選手個々のレヴェルでは生まれつき、
つまりわれわれが後天的に学ぶことがすでに先天的に刷り込まれている、それだけの差を感じざるをえないのである。
ボールの扱い方はもちろん、ボールを奪われたときの素早い守備への入り方、特に瞬間的な最善手のコースの切り方は、
後から理屈で教わったものとは思えない。いい意味で動物的な野生のセンスを感じる。サッカー文化が段違いなのだ。

そんな中、クリロナが接触プレーから不調を訴え、前半わずか25分で離脱してしまった。これは衝撃的な事態だ。
そこまで厳しい激突だったとは思えないのだが、あれだけ優勝したくてたまらないはずのクリロナ本人が諦めるんだから、
どうにもならないのだろう。そういえば2年前のW杯ではネイマールも途中でプレーできなくなったし(→2014.7.5)、
意図的なものでないにせよ中心的存在となる選手をつぶしてしまうのは、見ていてまったく気分のいいものではない。
なんとかポジティヴに捉えれば、敵討ちということでかえって燃える展開ではある。なんとなく漂う悲壮感がたまらん。

もともと緊張気味の試合ということもあったが、クリロナがいなくなったことで泥臭いカラーの試合に確定した気がする。
そしてまた、戦術の介在する余地が大幅に増えたようにも思う。常人離れした反則級の存在がいなくなったことで、
常識的な範囲に収まる選手たちで試合が行われるようになった。監督の想像力で計算できる範囲に試合が寄ってきた。
「クリロナが何をやるのか」という視点が抜け落ちたためか、試合からは変なクールさ、カッコつけがなくなった。
ただただ点を取りたい点を取られたくないという熱い試合で、サッカーの本質についての純度が上がり、見応えがすごい。
よけいな形容詞を考える暇があったら点を奪いたいし、そんなことを考える隙なんか絶対につくりたくない、そういう試合。
フランスはコマンとグリーズマンが脅威を与え続け、ポルトガルは粘って粘ってとんでもないシュートを撃ってくる。
どれが決まってもおかしくない、それほどの精度。でもルイ=パトリシオもロリスも防ぎまくる。なんで防げるんだ?

そんな中、解説の松木安太郎氏はふだん日本代表の試合の際に見せるようないいかげんな発言をまったくせず、
自国開催で早く点を取りたいフランスとアウェイということで自分のペースで粘るポルトガルについて、的確にコメント。
フランスが全力で押しまくってもポルトガルが耐えに耐えるという展開は、実はポルトガルの流れとの冷静な指摘をする。
なるほどなるほどと頷ける内容ばかりで、毎回こうならいいのにと思うのであった。いい解説できる人なんだからさあ。
そんな松木氏の指摘のとおり、最後は途中交代で入ったFWエデルが力強く振り切って撃ち切ったシュートを叩き込み、
ポルトガルは守り切っての勝利。やっぱりここまで苦戦を何度も経験してきたからこそ、底力が鍛えられたのだろう。
どうしてもクリロナばかり注目されてしまうポルトガルだが、むしろクリロナ抜きでもやれたってことが大きい。
初優勝おめでとうございますなのである。今大会はサッカーの深さをいろんな角度から教わった大会だったと思う。

最後に一言。レナト=サンチェスが18歳って絶対にウソやろ。……以上がEURO 2016の総括であります。


2016.7.10 (Sun.)

いいかげん、鷲宮神社にきちんと参拝したい。で、ついでに何ができるかというか、どの市役所に寄れるかを考える。
そうして日帰りの旅程ができあがるのだ。というわけで今回は、鷲宮神社&東武沿線市役所めぐりと洒落込むのだ。

基準は、朝9時前に久喜駅に着くこと。まあ要するにレンタサイクルだ。自転車なら市役所から鷲宮神社までの距離も、
ぜんぜん気にならないというわけ。駅の西口から少し行ったところにある中央自転車駐車場を探し出すと、手続き完了。
意気揚々とペダルをこぎ出す。実にいい天気である。いい天気すぎて脱水症状が心配だが、まあ気をつけてがんばる。

  
L: 久喜駅。埼玉もここまで来るとさすがに田舎ですな。  C: 駅前の通りがコレだもん。  R: 商店街。鄙びているな。

久喜というとどうしても大学時代のエロい後輩を思い出してしまうので、それ以外の印象を植え付ける必要がある。
自転車であちこち走りまわることにより、きちんとした正しい久喜のイメージというものを上書きしないといかんのだ。
まあ実際に走ってみると、深谷とか本庄とかそういう「埼玉のキワ」の感じ(→2012.12.8)、そのものである。
駅からはしばらくいちおう商店街があり、そこに宅地が連続していく。もっとも、家なら宅地、そうでなきゃ農地、
そういうもともと農地感のある宅地であり、それがゆったりベロベロベロベロと広がっていった結果としての空間だ。
だから本当に市街地からはずれてしまうと、緑豊かで土埃いっぱいの田舎そのものとなる。久喜市役所はその農地側。

  
L: 久喜市役所。宅地化したエリアから、していないエリアに入った突端のところにある。地図で見るとすごいぜ。
C: 東側からエントランス付近を眺める。  R: 角度を変えて、南西側から見たところ。木で全容がつかみづらい。

久喜市役所は石本建築事務所の設計で、1980年に竣工している。この時期にしては少し簡素な庁舎という気もする。
しかし近づいてみるとやはりそれなりにきちんとマッシヴ。中に入ると確かに80年代らしいホールになっていた。

  
L: 南西側、さらに建物に近づいてみたところ。確かに80年代らしい厚み。  C: 背面。耐震補強が目立つなあ。
R: 中に入ってみたらこんな感じのホール空間。1階と2階をぶち抜いて開放感を持たせるのは80年代の手法ね。

久喜市役所の向かいは、久喜総合文化会館。これがまた、高さがないくせに幅があって全容がつかみづらい建物。
佐藤総合計画の設計で1987年に竣工。もともとこの辺りは「仏供田(ぶっくでん)」という地名の農地だったそうだ。

 
L: 久喜総合文化会館。端っこにあるのはプラネタリウム。  R: 市役所の背後に広がる水田。お寺にお供えした田んぼね。

県道85号に戻ると北西へとひた走る。東北自動車道の手前で方向転換して今度は北東へ。とにかき北を目指す。
道はもう完全に郊外的な田舎のそれで、歩道があって走りやすいのと土地の起伏のなさに埼玉を感じつつ走る。
そうして陸橋で東武伊勢崎線を越えると、北へと進んで鷲宮神社の参道に入る。まっすぐ先には立派な明神鳥居がある。

  
L: 鷲宮神社の鳥居。  C: 鳥居の脇にはこのような旗が……。そういえばこの神社、そうだったな。  R: 境内の様子。

かつて準勅祭社だった規模の大きい神社ということで、鷲宮神社を参拝しようと思ったわけである。
アニメ方面の予備知識はまったくないので、何がどうしてそっち方面に絶大な人気があるのかは知らない。
しかし鳥居前の七夕の短冊や神社にびっしりと掛かっていた絵馬から、とんでもない事態になっているのはわかる。
ここまで大人気だというのなら、間違いなくそれなりの確かな理由があるのだろう。正直、ちょっと気になる。

  
L: 木々の間を進むと開けた場所に出る。参道の曲がり方が独特。  C: 参道の右手には境内社。孔雀や鶏も飼っている。
R: 絵馬の大半にはこのような絵が描かれている。中国語やアラビア語が書かれたものもあったんですけど……。

鷲宮神社の歴史は古く、移住してきた土師氏が先祖を祀った「土師の宮」が訛って「鷲宮」になったという説がある。
その土師氏の名を冠した神楽は重要無形民俗文化財になっている。参道の先には横向きに拝殿と本殿があり、
参道を挟んだ拝殿の真向かいに神楽殿がある。まさに神様に見せるための神楽というわけだなと納得する。
境内は広く開放感があり、社殿や境内社はその端っこに配置されている。権威を主張する空間という感触はなく、
古来の祭祀を行うための空間という印象がする。空間構成が変に洗練されていない分、確かな歴史を感じさせる。

  
L: 参道のどん詰まり、左手には神楽殿。  C: 右手には拝殿。  R: 奥の本殿。鷲宮神社の空間配置は非常に独特。

鷲宮神社の参道を帰る途中、コスモスの自動販売機を発見。さすが埼玉、こんなものがまだ現役で動いているのだ。
インチキ満載、怪しさ満点、著作権の概念ゼロ、やったもん勝ち、いいかげん。しかし昭和最後の徒花を濃縮した存在、
それがコスモス。この強烈なノスタルジーは何なんだろう。あの「コスモス」のロゴを見ると、妙に活気付く自分がいる。

 
L: 怪しい玩具で一世を風靡したコスモス。今も熱烈なファンがいる。めちゃくちゃだけど、古き良き日本の一部だな。
R: 自販機の窓を覗き込むが、もうカオスそのもの。しかしこの「コスモス」のロゴはかなり秀逸だと純粋に思うのね。

県道3号に出て久喜駅に戻るが、駅からけっこう離れた北西エリアは郊外型ロードサイド店舗でいっぱい。
干からびた駅前商店街、果てしなき埼玉の農地、そして郊外社会。久喜市は多様な表情を持っている場所だった。

東武伊勢崎線に揺られ、久喜の次は加須(かぞ)で降りる。加須市というと手描きこいのぼり、そして加須うどん。
あとは正直これといった名物があるわけではない。しかしそれでは面白くない。加須らしさを感じる旅をするのだ。
加須の場合、駅から少し北へ行った加須市商工会館で自転車を借りることができる。さっそく手続きする。

 
L: 加須駅。  R: 駅の北口から延びる商店街。弱り気味だが歴史ある店が多い印象。道幅が妙に広い。

まずは当然、加須市役所である。駅からまっすぐ北上して1kmちょいの距離にある。商店街を抜けて国道を渡ると、
急に道幅が狭くなって田舎っぽさが増す。いや、上で述べたようにそれが「埼玉のキワ」の本質なのだが。
そう思いつつさらに北へ進んでいくと、周囲を緑に縁取られた一角にぶつかる。それが加須市役所である。

  
L: 加須市役所の側面。通りにはこちら側が面している。  C: 敷地内に入って撮影。  R: 反対の南東側、駐車場から。

加須市役所は、石本建築事務所の設計で1985年に竣工している。やたらマッシヴなのは昭和50年代の影響で、
やや金属っぽい感触の曖昧なグレーは平成オフィス建築への方向性を示唆している。裏側にまわるともっと豪快で、
オフィスとしての機能を強調するかのような、無機質な印象がいよいよ強まっている。なかなか正直な市役所だ。

  
L: 加須市役所の背面。人間にはとっつきづらい、役所としての機能を強調するかのような無機質さが全開だ。
C: 少し距離を置いて眺める。  R: 北西側の出入口から眺めたところ。質実剛健といえば聞こえはいいが。

休日ではあるが中に入れたのでちょっとお邪魔する。入って左手は市民向けのスペースとなっている。
さっきも書いたが、加須名物ということで手描きこいのぼりが堂々と置かれていた。なお、2階部分は、
「市民食堂やぐるま亭」となっているようだ。ホールとしては面白い使い方だ。そして右手が窓口の入口。

  
L: 加須市役所のエントランス。  C: 左手のホールには手描きこいのぼり。上の2階が食堂なのは面白い。
R: 右手を進んでいくと各種の窓口となっている。渡良瀬遊水地がラムサール条約に登録されたという展示が目立つ。

市役所の撮影を終えると、昼メシタイムである。すでに11時半をまわっており、ピークにぶつかりそうな気配。
しかし並ぼうが何だろうが加須うどんを食わなければならないのだ。今回は有名店の「子亀」に行ってみたのだが、
すでに駐車場はほぼ満車状態。そこにするっと自転車で乗り付けて店先の列に並ぶ。店は家族づれで大賑わいで、
お一人様がちょっと申し訳ないが、実際にはそこまで気にしなくても大丈夫なのであった。よかったよかった。
さて肝心の加須うどんだが、決まったスタイルは特にない模様。とりあえず一番人気の「冷汁うどん」を注文した。
胡麻味噌のつけ汁でいただくのだが、夏には最高に旨い。薬味はネギとショウガで、とことんサッパリなのがいい。
冷汁というと宮崎が思い浮かぶが(→2016.3.21)、こんなうどんの食い方があったのか、と目から鱗である。
さすが埼玉、うどんの生産量が香川県に次いで2番目なだけある。埼玉のうどんは山田うどんだけではないのだ。

 一度食ったら毎年夏に食べたくなること請け合い。これはいい!

加須うどんはもともと不動ヶ岡不動尊・總願寺の門前で食べられていたそうだ。というわけで、總願寺まで行ってみる。
国道125号から北に入るのだが、かつて門前の商店街だったのがさびれてどんどん宅地化していった、そんな感じ。
それでも總願寺の手前では、加須名物の菓子・五家宝(ごかぼう)の店だけが往時の勢いでがんばっている。
道路の雰囲気は近代以前の雰囲気を残してはいるものの、あまりのさびれ具合に少々悲しくなってしまった。
が、金ピカの山門をくぐって本堂と向き合うと、その迫力に思わず圧倒されてしまった。これは見事なお堂だ。

  
L: 金色の山門。はしゃいでるなあ。  C: 進むと不動堂。これがものすごく立派。石と銅の灯籠の対比が面白い。
R: 不動堂を横から見たところ。これだけすごいお堂なのに、閑散とした雰囲気になっているのが不思議。

参拝客はまったくいないわけではなく、ちょこちょこと現れては拝んで去っていく。しかし全体的に閑散としている。
不動堂には年男(年女もいる)の札が貼り付いているが、これが非常に興味深い。まず副市長や教育長の名前があり、
続く名前の中にしれっと「松方弘樹」「山本譲二」「小金沢昇司」がある。「遠野なぎこ」まであるではないか。
面白いのが「長州力」と「長州小力」が並んでいること。いったいどういうつながりで總願寺なのか、とても気になる。

 
L: 不動堂の背面。  R: 年男のみなさん。なぜここにこんなビッグネームのみなさんの名前があるのか不思議。

というわけで、加須では案外いろいろ楽しむことができた。特に冷汁でいただく加須うどんは絶品だった。
余韻に浸りつつ東武伊勢崎線に乗り込むと、2駅揺られて羽生駅で下車。羽生市というと個人的な思い出として、
出版社時代に最も遠距離通勤をしていらした上司が羽生市在住とのこと。それ以外には特に印象がない。
淡水魚専門のさいたま水族館があって、非常に面白そうなのだが、遠くて本日はそこまで行く余裕がない。残念。

  
L: 羽生駅西口。東武鉄道と秩父鉄道が接続するけど、来るのは初めて。  C: 駅から延びる商店街。やはりやや小規模。
R: 途中にジョイフルがあって興奮。西日本ではさんざんお世話になっているが、東日本で見るとなんかうれしいね。

羽生駅からひたすら東へ歩く。駅から延びる道は「埼玉のキワ」らしさ全開の商店街と田舎道なのだが、
メインストリートは南北方向の県道60号である模様。しかし一歩踏み込めば路地と住宅が密集した光景に変わる。
1.5kmほど歩いて羽生市役所に到着するが、駅前から川を一本隔てたところにあるためか、土地に余裕がある。
微妙な平行四辺形になっている区画をまるまる使って、どっしりとした市役所とたっぷりの駐車場を用意している。

  
L: 南西側から眺めた羽生市役所。こちらが敷地の入口で、市役所の前を通って東側の駐車場に行く形になっている。
C: 市役所を正面から見たところ。  R: 南東側から側面を眺める。西側よりもこっちの東側の方が複雑なのね。

羽生市役所は1974年の竣工だが、公式サイトにある「羽生市の歴史」で当時の写真を見ることができる。
もちろんトラス構造の耐震補強はなく、建物は真っ白。今の色づかいにも違和感がないので、けっこうびっくりだ。
建築的には、色の塗り替えってのもけっこう重要なできごとになりうるはずだが、どう分析すべきか考えてしまった。

  
L: 北東側から眺める。  C: さらにもう少し北に寄って駐車場越しに。  R: 北西側から見たところ。

建物の周囲をぐるっと一周して撮影してみたが、羽生市役所のどっしり感はかなりのものだった。
敷地のすぐ北側には住宅が並んでいるが、道幅もあまりなくてなかなかの圧迫感。住宅地の市役所は珍しくないが、
羽生市役所の場合は周囲とのスケール感の差を妙に感じる。後から宅地化したのか、再開発が強烈だったのか。

 しかし見事に「山」型だ。

さっきも書いたように、羽生市には特にこれといった印象がなく、実際に歩いてみても個性を感じなかったのだが、
ひとつ気になったのはゆるキャラの存在である。「ムジナもん」という名前で妖怪のムジナとムジナモがモチーフらしい。
頭の乗っている葉っぱはモロヘイヤ。あと、「いがまんちゃん」という妖精もいる。羽生市はPRにかなり積極的で、
電柱にくっついて住所を示す街区表示板にムジナもんを登場させている。そういう事例はなかなか珍しいのでは。

 街区表示板にムジナもん。ここまでやるのは珍しいと思う。

さて、本日のラストは利根川を越えて群馬県に突入した先、館林である。館林で反応した人、手をあげなさいススス。
館林は群馬県の本当に端っこ、ツル舞う形の「ツルの頭」にあたる市なのだ(でも周囲には町がいくつもあるけど)。
しかし正直なところ、館林といって思いつく観光資源はほとんどない。熊谷と同じくらい暑いことは知っているが……。
そういえば分福茶釜の茂林寺が有名だが、すいません途中下車が面倒くさくて今回はスルーしました。
まあとりあえず、建築的には旧館林市役所が菊竹清訓のメタボリズムが全開なので、そこが最終目標ということで。

  
L: 館林駅。東武伊勢崎線から佐野線と小泉線を出すターミナル。  C: 駅からまっすぐ延びる道。商店街度合いは低めか。
R: 分福茶釜の茂林寺が市内にあるからか、マンホールには茶釜を背負ったタヌキが描かれていた。平和な昔話っていいよね。

館林の市街地は東西に延びている。歩くとけっこう面倒くさいので、毎度おなじみ自転車を借りることにした。
駅前の観光案内所で聞いたら、まわり込んだメインストリート沿いの商店で借りる仕組みになっているとのこと。
行ってみたら歴史ある個人商店で、自転車を借りるという雰囲気ではない。しかし店舗の脇には確かに自転車があった。
貸してくれるだけありがたいが、やっぱり観光資源が乏しいからレンタサイクルも活発じゃないんだな、と思う。

そんな具合にやや不安げなスタートだったが、館林の市街地は実際に訪れるとかなり探索しがいがあった。
まあもともとが榊原康政や徳川綱吉が治めた歴史を持つ街なので、何も残り香がないなんてことはないのだ。
案内板にあった「歴史の小径」を参考にルートを設定したのだが、興味深い場所が点在している印象である。
まずは旧二業見番組合事務所。「二業」とは料亭と芸妓置屋のこと。かつてこの辺りは「肴町」という名前で、
料亭などが並ぶ華やかな街だったそうだ。今は見る影もない静かな住宅地と化しているが。それだけに、
旧二業見番がきれいに残っていることが奇跡に思える。中は町内の集会所みたいになっていたのが残念である。
それ以外にも、江戸時代後期の中級武士の住宅を移した「武鷹館」などがある。まとまっていないのはもったいない。

  
L: 旧二業見番組合事務所。1938年竣工で、国登録有形文化財。  C: 内部の様子。魅力を生かした活用を期待したい。
R: 旧館林藩士住宅「武鷹館」。長屋門などが残っていたところに母屋を移築してきたようだ。地域の拠点という印象。

フラフラしながら東へ進んでいくと、館林城址にぶつかる。城らしく整備されているのは敷地の北側のみで、
南側は文化会館や図書館などがきっちりと建てられている。しかし往時はかなり広い城だったようで、
本丸が向井千秋記念子ども科学館、二の丸が館林市役所、三の丸が文化会館ということになるそうだ。
つまり城跡として現存している部分は三の丸の一部のみ、ということになる。そんなことでいいのか、館林。

 
L: 1983年に復元された土橋門。  R: 土橋門の脇の土塁。城らしい箇所がここだけってのは淋しすぎる。

東へ抜けると館林市役所である。1982年竣工、設計は桂設計。いかにも昭和50年代後半のマッシヴ庁舎で、
シックな茶色を使って親しみやすさとオシャレさを演出しているのもまた時代を感じさせる要素である。
1980年代は保守への回帰とともにどんどん市役所がオフィス建築として巨大化していく時期なのだが、
館林市役所はホール建築的な要素を持たせた分だけ大きくなったという印象だ。単なるオフィスではないね。

  
L: 館林市役所。エントランスからまっすぐ入ってくるとこんな感じ。アプローチはかなり植栽に気をつかっている。
C: 少し角度を変えて全体を眺める。手前側のホール部分がかなり大きくつくられているのが最大の特徴だと思う。
R: そのホール部分をクローズアップ。2階は吹抜で、3階が議場になっている。理にかなった空間配置ではある。

館林の場合、考えなくちゃいけない要素が非常に多い。まず先代の市役所が有名建築家の作品であるという先進性。
そして先行する1974年竣工の文化会館と図書館。1991年には向井千秋記念子ども科学館(館林子ども科学館)。
つまり、大まかに10年ごとに大規模な公共建築が建てられているのだ。しかもだんだんと館林城の本丸に近づいている。
(なお、2001年には群馬県立館林美術館が開館しているが、こちらの施設は市域西側の多々良沼方面にある。)
この当時の動きをきちんと読み取るには当時の資料を詳しく当たる必要があるが、何かしらの意図は確実にある。

  
L: 市役所の南側にある「市民レストラン栄」。市が主導してわざわざちゃんとしたレストランをつくる狙いとは?
C: 広大な駐車場越しに眺める市役所南面。日曜日なのに車がいっぱいなのは、市の狙いが機能しているってことか。
R: 茂林寺つながりで置かれたタヌキ像。選挙PRのタスキをかけている。なお、この近くにはきちんとしたバス停もある。

20世紀のうちは、館林市としては館林城址周辺に公共施設を集め、市街地の新たな核としたかったのではないか。
でなけりゃ築20年弱なのに無理して大きい新庁舎を建てるはずがないはずだ。その新庁舎は単なるオフィスではなく、
市民が訪れやすい工夫が存分になされた。広くてきれいで居心地のいいホールが用意され、市民レストランが用意され、
駐車場もたっぷりと用意された。バス停だってベンチに屋根と風除けがついている。来てくださいと言わんばかりだ。
純粋に施設の充実ぶりだけで見れば、館林市役所の利便性・開放性はトップクラスだと思う。悪くない市役所なのだ。

  
L: ホール部分1階には議会の入口がある。  C: 右を向いて1階南側。大規模なピロティでお出迎え感を演出。
R: 休日なので中が閉まっていた。ガラス窓から意地で覗き込んだホール内部の様子。かなり立派につくってある。

この従来の価値観でいえば絶対に、群馬県立館林美術館は城跡か城沼周辺に建てられたはずなのだ。しかし違った。
それはおそらく、新たな施設を開発するよりも城跡としての歴史を重視する価値観への転換があったのだと思う。
市役所と向井千秋記念子ども科学館に挟まれた本丸跡は現在、広大な空き地としてそのまま残されている。
予算を考えると途方もない話だが、将来的には再建が可能なようにしているのだろう。そう思わせるものがある。
歴史から見て館林という街はもともと文化度の高い街のはずで、新旧の市役所を見れば志があるのがよくわかる。
行政は時代を正確に見据えてじっくりと、しかし的確に手を打っている印象だ。焦らず着実にがんばってほしい。

  
L: 北側から駐車場越しに見た館林市役所。こっちの駐車場もいっぱいか。  C: 事務棟側をクローズアップ。
R: 東側にある館林城本丸跡の原っぱから眺めた側面。城跡はかなり広くて動くのがけっこう大変だった。

上述のように市役所の東側には広大な原っぱがあり、道路に面する北側に向井千秋記念子ども科学館がある。
その科学館の道を挟んだ向かい側が、館林市第二資料館こと旧上毛モスリン事務所と田山花袋旧居である。
つまり館林の歴史的建造物をまとめここに移築したわけだ。館林城址周辺を核にする構想がここにも見える。

  
L: 旧上毛モスリン事務所。1908(明治41)〜1910(明治43)年にかけて工場が建設され、その際に建てられた。
C: 正面より撮影。  R: 1階は工場の部品や遺構の展示となっている。特に目を惹いたのがこちらの人力車。

モスリンは単糸で平織りの布のことで、日本では羊毛のウールモスリンを指すとのこと。羊毛なのであたたかい。
上毛モスリンは1902(明治35)年の設立で、1908年より館林城の二の丸跡(つまり現在の市役所の辺り)に移転。
ということは、館林城址の遺構がほとんど残っていない原因として、火事だけでなく工場建設の影響もありそうだ。
旧上毛モスリン事務所の1階は工場関連の展示、2階はホール的な空間でイヴェントなどで実際に使える模様。

   
L: 田山花袋旧居。7歳から14歳までをこの家で過ごしたそうだ。道路を挟んだ南側には田山花袋記念文学館がある。
C: 向井千秋記念子ども科学館。1991年に館林市子ども科学館として開館しており、後に現在の名称になった。
R: 市役所側から眺めた館林城本丸跡。非常に広大で、このままはちょっともったいない気もする。祭りの舞台によさそう。

まっすぐ東へ抜けると城沼である。両側の岸辺をハスが覆っており、水質もそんなによくなさそうで見栄えはイマイチ。
さらに先にはつつじヶ岡公園があるが、今は特にツツジの季節でもないのでそこまでは行かずに引き返すのであった。

 城沼(じょうぬま)。ツツジやハスが満開の季節には印象も変わるのだろう。

北寄りの市街地を西へ戻って、本日最後の目的地を目指す。さっき走った駅から東へと延びるメインストリートは、
だいぶ再開発された感触が強かった。それに比べると北側のルートは、昔ながらの穏やかな商店街といった雰囲気。
館林市民センター分室など、やはり市街地には面白い建物がしっかり点在している。活用の余地が存分にありそう。

 
L: 館林の市街地、北側を行く。  R: 館林市民センター分室(旧館林信用金庫本店)。1934年に建てられたとのこと。

そんな表通りから少し奥まった位置にあるのが旧館林市役所。現在は保健福祉センターとして使用されている建物で、
写真を見てのとおり菊竹清訓のメタボリズムが存分に味わえる。1963年の竣工だが、市はよくきれいにしていると思う。
きちんと活用していて、建物が生きているのがわかる。使わなくなった建物ってのは、あっという間に朽ちてしまうものだ。
この旧館林市役所のように、行政がきちんと建築物の価値を理解しているのを目の当たりにすると、こっちもうれしくなる。

  
L: 旧館林市役所(現・保健福祉センター)。丹下健三の山梨文化会館(→2012.5.6)に3年先行するこの面白さ。
C: 少し角度を変えて南面を眺める。  R: 南西側より。エントランスが脇にくっついているスタイルなのね。

この日記に登場した菊竹作品を年代順にまとめると、まず出身地である久留米の石橋美術館(→2011.3.27)となる。
次が島根県庁第3分庁舎(→2013.8.19)、60年代に入って出雲大社庁の舎(→2009.7.182013.8.19)、
旧館林市役所、東光園(→2013.8.20)、都城市民会館(→2009.1.82011.8.11)、萩市民館(→2015.11.20)。
でも70年代の作品は萩市役所(→2015.11.20)だけでやんの。80年代も少なくて、出雲大社神祜殿(→2013.8.19)、
あとは川崎市民ミュージアムもそう。90年代は江戸東京博物館(→2013.6.9)、久留米市役所(→2011.3.27)。
そして21世紀は九州国立博物館(→2011.3.26)。思ったよりもけっこう見ていたなあ、とあらためて驚いた。

  
L: さっきの写真から少し距離をとって眺めた。木々の葉っぱが入るが、それをギリギリよける格好で撮影。
C: 西側は児童公園になっており、建物がぜんぜん見えない……。  R: それでも意地で西側を撮影したところ。

まずは敷地を一周してみたが、メタボリズム以前にまず、昭和のなんでもかんでもコンクリートな感触が懐かしい。
50年ほどの時間が経過しているからそう思ってしまうのだろうが、細部を見れば見るほど昭和の印象が強く残る。
もちろん一歩引いてマクロに見つめればしっかりメタボリズムなのだ。でも僕らはもはや、時間に流されてしまって、
現物を目にすれば特に、「昭和的思考としてのメタボリズム」という文脈から離れられなくなっているのではないか。
つまり、「昭和」という大枠の中でしかメタボリズムを読めなくなってきている、そう思う。時代に回収されつつある。

  
L: 東側。一段低い駐車場があって、そこからだとすっきり見られる。  C: 東側の勝手口をクローズアップ。昭和だ。
R: こちらは西側の正式なエントランス。入口を本体に直接つけないで外に取っ付けたところが非常に独特である。

中に入るとまずスロープ空間にびっくりさせられる。左を行けば2階に、右を行けば1階に接続するのだが、
鉛直方向に印象深い外観を持つ建物なのに、最初のアプローチで水平方向を強調するという仕掛けに驚いた。
まず1階に行ってみたら恐ろしく地味な役所空間で、こっちは職員向けのルートということなのだろう。
2階も時代が時代なのでそれなりにしっかり役所空間なのだが、いちおう手前に椅子が置いてあって自由に座れる。
ここが現役の市役所本庁舎だった頃はどんな利用がなされていたのか、非常に気になるところである。

  
L: 玄関から入って右を向くとこのようなスロープ。一般市民は左側で2階に行ったものと思われる。
C: 1階の様子。役所じゃのう。  R: 2階の様子。左手に椅子があり、小学生がゲームに興じていた。

現在は保健福祉センターという名称になっているが、保健系の事務はすぐ北側にある棟がメインになっているようで、
むしろこちらは公民館としての利用が中心のようだ。上の階に行ってみたら、歌声やら何やらが聞こえていたし。
もともと公用財産だったものを公共用財産に転用する例はそれなりにあるが、こちらはそれがかなり年季が入っていて、
すっかり公民館らしさが板についている。市民に開かれた庁舎という意味で、正しい第二の人生を歩んでいる模様。

  
L: 右側の部屋が事務室。左側は和室と第一研修室で、もはやほぼ完全に公民館として機能しているようだ。
C: 上階はだいたいこんな感じ。中央に広々とした空間をとっておいて、周囲に各部屋を配置している。
R: 階段にて。サッシュがモダニズムだなあ。金だらいが常設されていることから雨漏りのひどさが窺える。

上記のように、なんだかんだで僕はけっこうな数の菊竹建築を見てきた。江戸東京博物館に呆れたのが初体験であり、
正直あんまり印象はよくなかったのだが、都城市民会館をきっかけに見方が少しずつ変わってきて(→2009.1.8)、
東光園と萩市民館を経てやや肯定的になってきた。やはり彼のメタボリズム作品には、確実な魅力が存在するのだ。
建築としての使いやすさは微妙かもしれないが(旧館林市役所は夏にクソ暑くてかなり不評だったそうで)、
外から見るぶんには「これやっちゃうの?」というバカ正直なバカバカしさがあって、どこか微笑ましいのである。
でもそれは、やはり上で述べたように、「昭和的思考としてのメタボリズム」という文脈が魅力を増幅した結果だろう。
高度経済成長の時代、鉄筋コンクリートによる造形美の喜びを謳歌していた時代、そこへのノスタルジーがある。
未来が無条件に明るく輝いていた昭和という時代の若気の至り、それがメタボリズムの根源的な要素なのだ。
だから戦後社会の成熟とともにメタボリズムは消える。もっとも、これは「建材」の面からしっかり考える必要がある。
時代の流れとともに建築物が高層化し、コンクリートも万能でなくなったことの影響を正確に捉えなければなるまい。
また、若手建築家から重鎮へ、(政治的な意味ではなく)革新から保守へと立場が変化せざるをえなかったこと、
それも要素としてある。その複数の流れを経て、メタボリズムはノスタルジーの対象となっていったわけだ。
江戸東京博物館はもはやメタボリズム的作風と合わないスケール・建材の時代だったから、僕は嫌悪感を抱いた。
それだけのことなのだ。九州国立博物館は現代という時代にきちんと即した感があるので嫌いではないよ。

以上で館林の探索は終了である。駅西口にある製粉ミュージアムの存在にまったく気づかないままで終了。情けない。
とりあえず今回思ったのは、館林はものすごいポテンシャルがあるけどほとんど発揮できていない街だ、ということ。
「館林といって思いつく観光資源はほとんどない」とか書いちゃったけど、実際にはそんなことは全然なかった。
行政は街に点在する建築の価値を理解しているにもかかわらず、それを観光資源として上手くアピールできていなくて、
もう本当にもったいない。確かな歴史を持つ街ならではの迫力は存分にあるので、それを前面に押し出してほしいわ。


2016.7.9 (Sat.)

紀伊國屋サザンシアターで『紙屋町さくらホテル』を上演するというので、そりゃ観に行かねば!と馳せ参じた次第。
戯曲を読んで以来(→2001.9.19)、上演された本物の演劇をいつか観たいと長年思っていたのであります。
あらすじについては省略。実際に戯曲を読むなり演劇を観るなりしてもらった方が絶対に良いので。

最前列の席ということで目の前でドラマが繰り広げられたのだが、それを差っ引いても役者の熱演ぶりが印象的だった。
役者の皆さんの物語への入り込み方、それがいちばん僕にとって衝撃的だったのだ。完全に物語の世界に入っていた。
もちろん観客も引き込まれていたものの、あまりの熱演ぶりに、かえって僕はどこか冷静になってしまっていた。
15年前に戯曲を読んだときには確かに僕も物語に引き込まれていたのだが、一周まわって観察眼が戻ってきた感じ。
「こんだけ役者も観客も感情移入しまくるとは……」そんなふうに一歩引いてしまったのだ。奇妙な感覚だった。

冷静になって物語全体を眺めると、実は『紙屋町さくらホテル』とは、一貫して演劇の力を信じる話なんだなと思う。
15年前の僕は、劇中では語られることはないが日本人なら誰もが知っている「8月6日という結末」に意識がいっていた。
でも実際のところはそのような物語の皮をかぶりつつも、もうひとつ別のところに確かな核を持っている作品なのではないか。
役者をあそこまで感情移入させる引力、観客を惹きつける引力、それは演劇の持つ力がテーマなのだからだと確信した。
演劇とはまず「演る者」による内輪の世界であり、「観る者」をその内輪に引き込むことで成立するメディアである。
(その内輪の世界をどこまで広げるか、というテーマをそのまま劇団名にしたのが、鴻上尚史の「第三舞台」となる。)
『紙屋町さくらホテル』はおそらく、そんな内輪の世界の絆をとことんまで強化する使命を帯びた物語なのである。
演劇は内輪だけで成立するメディアである。内輪を構成する「演る者」も「観る者」も、演劇というメディアを信じている。
お互いに演劇というメディアを信じているから共犯関係が成立し、大胆なフィクションを現実として受け入れられるのだ。
劇場という密閉された空間で想像力が増幅され、役者も観客も共有する世界をものすごい勢いで育てていく。
『紙屋町さくらホテル』という作品は、その一種のトランス状態、最大瞬間風速がほかにないレヴェルにあるのだ。

そんなことを冷静に書き付けられるということはつまり、自分はその劇場で「他者」だった、ということは否定できない。
意地悪な言い方をすると、『紙屋町さくらホテル』とは、演劇信奉者の自己弁護のためにつくられた物語なのではないか?
ある瞬間にそう思えてしまったのである。陶酔するがごとく演じる役者、引き込まれる観客。それはそれでいいのだが、
舞台に近すぎる僕は、まるで顕微鏡で観察するがごとく役者の挙動を見つめていた。実際に涙を流し、鼻水を垂らし、
依代として物語の世界を構築する役者たち。彼らは全身全霊で演劇の可能性を語る。それ自体には十分納得できる。
しかし一方で、その時代に戦争を支持して邁進していった人々の「狂気」と、ベクトルは違えどスカラーは一緒、
そんな論理を僕は発見してしまっていた。この物語では針生さんがいちばんの敵役ということになるんだけど、
大多数の国民はここに入っていたのである。演劇を信じて熱演する役者と同じように、勝利を信じて生活していた国民。
大東亜戦争という命がけの演劇、そんな視点を発見してしまった瞬間、僕は取り返しのつかないニヒリズムに陥っていた。
『紙屋町さくらホテル』は、8月の抜けるような青空を最後に映して終わる。でも僕はそれ以上の皮肉に言葉を失った。

帰りの時間にはすでにタカシマヤタイムズスクエア南館は営業を終えていて、小さなエレヴェーターが唯一の出入口だ。
どれくらいの客が残っているのかわかっているんだから、この異様な混雑ぶりはなんとかならんのかと大いにゲンナリ。


2016.7.8 (Fri.)

うすうす想定していたことが実際に起こった。ま、僕は粛々と仕事をハイクオリティにやるだけですが。
本当の正念場は夏休みが明けてからだ。今後はとにかく自分に変な負担がかからないようにやっていくだけ。
要領のよさだとか賢さだとかが問われることになるね。軽やかに乗り越えていきたいものです。


2016.7.7 (Thu.)

EUROの準決勝・ポルトガル×ウェールズ。ポルトガルも国の規模が大きくないので強豪とは言い切れないが、
世間的には一定の強さのある国として認識されている。でもウェールズはどう考えたってそこには及ばないわけで、
判官贔屓として断然ウェールズを応援しつつ見る。ラムジーを出場停止させないでほしかったわあ……。

試合が始まると、予想どおりにポルトガルがボールを持つ状況。ヨーロッパのボール回しは上手いなあと感心するが、
対するウェールズもさすがによく守っている。これくらいのレヴェルになるともう、技術がとことんまで追求されて、
「どんな状況でもボールをどれだけきちんと持てるか」のミクロレヴェルでの勝負になってくるんだなあと思う。
日本と世界の差は結局そこか、と。要求される「ボールを収める力」が、われわれの標準とは違いすぎるのだ。

締まっている内容なんだけれども、どっちもチャンスをつくり続けるという、実に見応えのある試合となった。
果たして、J1のレヴェルがぐわーっと上がっていった先にこういう試合があるのだろうか、と思ってしまう。
目の前で展開されているのは、J1よりもスピードがずっと速く、それでいてまったくミスなくボールを扱う、
そういうサッカーである。むしろバスケットボールのスピード感に近い。J1がそこまでいく日は来るのだろうか。

前半はスコアレスで折り返すが、ウェールズはやはりラムジーの不在が大きい。ベイルだけではいかんともしがたい。
その点、ポルトガルにはクリロナという1人でどうにかしちゃう化け物がいるのだ。見ていて怖くってたまらない。
またクリロナが圧倒的すぎるだけに、みんなでがんばる印象が強いウェールズによけいに愛着が湧いてくる。

後半になると、やはり試合が動く。CKから変化をつけてクリロナのヘッドで先制。さすがのドンピシャリっぷりだ。
そうなるとモメンタムがポルトガルに傾いて、ナニがコースを変えて追加点。あっという間に2点差に広がった。
クリロナのジャンプ力にしろ、ナニの足を出すセンスにしろ、これはもう生まれついてのものだなあと感心するしかない。
そういう身体能力が当たり前になっている人たちが同じ人間に思えない。なんだかもう、ただただ悲しくなってしまう。

というわけで、ウェールズは残念ながらここで敗れてしまった。世間一般の常識的な見方すれば大躍進なんだろうけど、
もっと上まで行けそうな戦いぶりだっただけに残念。まあ、層の厚さこそがその国本来の実力だからしょうがないが。
でもウェールズにしろアイスランドにしろ、すごく勉強になるサッカーを展開してみせてくれたことがうれしい。
強豪国どうしで人間離れしたサッカーをやられても呆れることしかできないが、そうでない国の奮闘は学ぶところが多い。

それにしても、準決勝のもう1試合・ドイツ×フランスを地上波で中継しないとか信じらんねえ。ありえないだろ!?


2016.7.6 (Wed.)

昼間、職場で「オレは被害者面をしたいんですよ!」と叫ぶ事態が発生。もう笑うしかない。乾いた笑いしか出ない。
周りの皆さまは事情を理解してくれて、本当にありがたいのであった。一生懸命やって認めてもらう、とにかくそれだけ。

仕事が終わるとバスに揺られて都立中央図書館へ。時間いっぱい文献を読み込んでお勉強なのだ。
閉館時刻ギリギリで作業は終わったのだが、もう本当にヘロヘロで。今まで慣れていない方向に頭を使ったわけで、
それで思考回路が広がった感覚がはっきり残っているのが面白い。とことんまで疲れているんだけど、はっきり面白い。

今回がんばって仕上げたのは、国際法のリポート(1本目)だ。国家の主権免除がテーマとなっていたのだが、
人間が平等だという発想を国の関係に広げていったことが基本となっている。ベースとなっているのは西洋の発想だが、
それを細かく見ていくことでむしろ、西洋の発想ならではのクセを深く見つめることができる。そこがまた面白い。

主権免除は絶対免除主義から制限免除主義へと変化していくが、背景にあるのは国家と経済の関係が変化したこと。
国家が経済を利用しようとする動きが顕著になったわけだ。なんだかんだ昔から国家と経済活動は密接な関係にあるが、
武力・軍事力が国家の力を単純に示した時代から、経済力で国家の力を示す時代へと事態は複層的に動いている。
国際法のトレンドにはその変化をはっきりと映しているので、なるほどなるほどと納得。こりゃ世界史そのものだ。

ちなみに、こちとら修学旅行中も夜中に廊下で警備をしながら国際法の本を読み進めていったくらい努力しとるもんね。


2016.7.5 (Tue.)

ケータイやらスマホやらは僕らの生活を決定的にいろいろ変化させている。たぶん不可逆的にだ。
でもそれが歓迎すべきものかどうかは、もっと冷静に考えないといけない。何も考えないことは不幸な結果を生む。

われわれファミコン世代にとって深刻なのは、コンシューマーゲームがかなりの勢いで駆逐されている現状である。
課金前提の無料スマホアプリゲームは完結しない以上、作品と呼ぶことはできない。ただの「サーヴィス」でしかない。
隙間の時間に侵入してきて、暇つぶしとして機能するサーヴィス。それが利潤を発生させるという新たなカラクリ。
そうして逆説的に、たかがゲームだったわれわれのゲームが、実は「作品」だったことにようやく気づいたわけだ。
相手は「作品」だから、暇つぶしでやるわけにはいかない。思えばわれわれはファミコン相手につねに全力だった。
そう、同じゲームという土俵でくくられているものの、明らかに変質している。この差異は、決定的に大きなものだ。

かつてゲームを制作する会社は確かに利潤を追求していたが、完結するゲームはそれに留まらない何かを持っていた。
完結するから「作品」であり、過去として語られる資格を持つのだ。作品は過去として語られる点で価値を有する。
しかし、完結しないゲームは現在進行中の「サーヴィス」にすぎない。会社に利潤をもたらす、ただそれだけの存在。
それがサーヴィスの終了として過去となったとき、何が残るのか。われわれの心の中に残るだけの価値がそこにあるのか。
そう考えると、「サーヴィス」としてのゲームは、利潤を求めるその歩みを絶対に止めてはいけないことがわかる。
歩みを止めた瞬間に存在価値はゼロとなり、誰からも顧みられることもなくなる。現在の中でしか生きられないのだ。

つまり、両者は最初から目的が違うのだ。「作品」としてのゲームに費やした過去の時間は、確かに無駄かもしれない。
でも共有した時間を仲間や他者と語る喜びがある。それが本物のエンタテインメントということなのだと思う。
「サーヴィス」としてのゲームはつねに現在進行することなので、語られない。過去ではないので語りようがないのだ。
語る暇があれば、その時間を無駄にせず今すぐプレーすべきだから。そこにあるのは、ただ利潤を生むメカニズムだけだ。

怖いのは、本来暇つぶしだった時間が目的化してしまうことだ。「つぶす」ことを目的とする時間。本当に恐ろしい。


2016.7.4 (Mon.)

夕立でございますか。梅雨はあと10日くらいで明けてくれるのかね。毎年この時期はそんな不安な気持ちになる。


2016.7.3 (Sun.)

EUROの準々決勝、ドイツ×イタリア。昨夜は強豪扱いされている国に弱小扱いされている国が正面からぶつかって、
窮鼠が猫を噛むどころかどっちが猫だかわかんない好ゲームを展開してくれたわけだが、今夜は本命どうしの大決戦。
ちなみに、やたらと優勝しているドイツだが、イタリアに勝ったことはないそうで(4敗4分け)、すごく意外。

サッカーを知り尽くしている国どうしが堅実に戦うから、ひとつひとつがハイレヴェルだけどやや地味な展開となる。
お互いに隙を見せないようにしながらも、全神経を集中させて攻めるポイントを探り合う、すごく通好みな試合である。
野球だと、カウントごとに打者有利だったり投手有利だったりのせめぎ合いがあって、それを逆算した組み立てがある。
サッカーでほぼ互角な実力あるチームどうしが戦うと、それに似た「計算の要素」が急速に出てくるような気がする。
ゲームは0-0の局面からスタートするが、90分ずっとそのままではいられない。どこかで均衡を崩さないといけない。
というわけで、まずは均衡を崩すための計算。ただし互角だから、攻撃に傾いて守備のバランスを疎かにはできない。
そして均衡が破れた瞬間、計算はさらに難しいものとなる。「1点の重み」というものは確かに実在しており、
点が入ることによってそれまでになかった勢いが、試合を激しく動かしていくのだ。それは得点側を勢いづけることも、
失点側を勢いづけることも、どちらもありうる。その微妙なモメンタムの先を読んで采配を振ることが求められるのだ。
その読めない危険な「揺れる時間」をできるだけ短くしたい場合、「後半勝負」という戦略が選択されることが多くなる。
サッカーは2-0が最も危険という言葉もあるが、自分たちが得点することが敗北を呼び込む可能性も十分あるのだ。
そしてこの試合のドイツもイタリアも、その戦いぶりを見ると、単純に得点だけを狙っている感じがどうもしない。
90分あるいはさらにその先の時間まで、できるだけ変な波乱を起こさないように慎重に自分たちのペースに持ち込む、
そういうレヴェルでの戦い方をしているような感触があるのだ。局地的な戦闘はあるけど、まるで冷戦のような……。

しかし得点しなけりゃ永遠に勝てない。ドイツはワンタッチでボールを正確に扱う技術を積み重ねて相手ゴールに迫り、
エジルの先制点を呼び込んだ。パサーとして期待されるエジルがパスを出すのではなく、自ら飛び込んだのも逆説的だ。
ブラジルW杯のときと同じように、最後にドイツが笑うのか。それともジンクスどおりにイタリアがドイツを抑えるのか。
そんなことを考えていたらボアテングのバンザイハンドでPKとなって、イタリアが同点に追いついた。いや、読めない。
一度動き出したゲームはやはり激しく揺れ続けるものなのだ。そして両国は再び、不確定要素を締め出す時間を続ける。
ハイレヴェルなGKを擁するチームどうし、しっかり守って延長戦もそのままタイムアップ。見事な膠着状態だった。

そしてPK戦もなかなか決着がつかない。ブッフォンとノイアーの対決とか、もうとことんハイレヴェルすぎるぜ、
なんて呆れながら見ていたのだが、まさか9人目まで行くとは。で、結局最後はドイツが決めきったんでやんの。強いわ。


2016.7.2 (Sat.)

今年のEUROは参加国枠が増えたそうで、ふだん「弱小国」のレッテルを貼られてしまっている国々がまさかの大活躍。
予選リーグのうちは暇がなくって詳しくチェックできなかったが、ニュースを見ては「ひえー」とつぶやいている。
さすがにベスト8からはしっかり追っかけていかねば、ということでテレビ観戦した感想をまとめてみるのだ。

準々決勝、ウェールズ×ベルギー。サラッと書いたけど、ウェールズがEUROでここまで来ているんだもんなあ。すげえ。
しかも相手はFIFAランキングで2位のベルギー。とは言っても、オレはベルギーを強いとはまったく思っていないもんね。
世界的には評価の高い選手が集まっているようだが、ブラジルW杯でも勝ちきれなかったではないか(→2014.7.6)。
過大評価が気に食わないし判官贔屓だしで、そんなもん、ウェールズを全力で応援するに決まっているのである。

まずはベルギーが猛攻を仕掛けてウェールズのゴール前でシュートを3連発。それを凌ぎきるウェールズがすごい。
攻撃がベイル頼みととことん割り切っているところも潔い。典型的な「弱者のカウンター(→2015.5.3)」だが、
迎え撃つ相手がヨーロッパのトップレヴェルで、その鮮やかな攻撃を泥臭く泥臭くつぶしていくのは感動的である。
最後まできっちりと対応しきっているところがとにかく非凡なのだ。破綻なくやりきる監督と選手は本当にすごい。

しかし先制したのはベルギーで、ナインゴランがとんでもないミドルをブッ刺すのであった。さすがヨーロッパは違う。
それでもウェールズは落ち着いたもの。着実にペースをつかむとCKからきれいに同点に追いついてしまった。
逆を言えば、セットプレーからの同点弾を許す甘さがベルギーの脆さだ。強豪常連国の守備はもっとタイトだと思うのね。

後半に入ってベルギーが上から目線の攻撃に戻ったところで、ウェールズは一発のロングパスからチャンスをつくると、
クロスを受けたロブソン=カヌが美しいターンで逆転弾を叩き込んでみせた。ウェールズもやっぱりヨーロッパなのだ、と実感。
ふだん揉まれている環境が厳しいからこそ磨かれたカウンターサッカー。さらにウェールズはスルスル攻め上がると、
クロスからのヘッドで3点目を奪った。いや、確かにベルギーはチームとして甘い。脆い。それは間違いない事実だ。
しかしウェールズのカウンターサッカーのレヴェルが本当に高いのだ。何があっても守りきって、一瞬の隙を確実に衝く。
それは必然的にそういうスタイルなってしまっただけかもしれないが、もはや90分を通して美しいレヴェルに達している。
今大会のウェールズ(そしてアイスランド)が見せるパフォーマンスは、間違いなくサッカーの豊かさを教えてくれるものだ。


2016.7.1 (Fri.)

晴れたはいいが、梅雨時なので湿度がものすごい。今日は金曜日なので朝練だったが、終わった直後はびしょ濡れ状態。
なんで朝イチでこんなにならなきゃいかんのだ、と思うが、そういう商売なんでしょうがない。天気に呆れるしかない。

しかしまあ、そのせいなのか、一日働いて変に疲れた。湿度がボディブローのように効いてくる。つらい季節である。


diary 2016.6.

diary 2016

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