diary 2015.9.

diary 2015.10.


2015.9.30 (Wed.)

学年の出発式がようやくできる態勢になった、ということで代官山でフレンチをいただいただよ。
代官山なんて自分にとっては渋谷へ行くために自転車で通過するエリアでしかないんだけど、
ふだん通過していることは確かなので、地図を片手に先導役だよ。店を意識して歩いたのは初めてかな。

フレンチはおいしゅうございましたよ。たまにはこうやって気取らないと人間どんどんしぼむなあと思いましたよ。
自分には絶対に無理だけど、気取った空間を演出する商売もあるんだよな、皆さん大変だなあと。
そういう視点を持つことができただけでも十分に収穫なのである。世の中、自分の知らないことだらけだよ。


2015.9.29 (Tue.)

道満晴明『ヴォイニッチホテル』。どーまんせーまんといえば僕にとってはまず『快楽天』の寓話たちで、
そして『ニッケルオデオン』(→2012.2.4)。フィクションを構築する能力が突出している漫画家さんである。
そんな彼が『ニッケルオデオン』と同時に連載していたのが、『ヴォイニッチホテル』。こっちはチャンピオン系列。

太平洋に浮かぶ小島にあるヴォイニッチホテルを舞台に、一癖も二癖もある人物たちが動きまわる。
さすがに道満晴明なので、登場人物には「イジワル」な設定が加えられている。突飛なボケもエンジン全開。
星新一のショートショートを連続で読むとものすごく疲れる(→2006.10.18)のと、ほぼ同じ感覚だ。
正直、読むのにエネルギーが要る。こちらの常識を軽やかに飛び超えるせいと、それが好ましい感触でないせいとで。
小さい話が見事につながっていく『ニッケルオデオン』に対し、こちらは中心となるものが最初から明確になっている。
すごく短い一話一話があてもなくつながっていくのだが、その先のおぼろげな全体像はどうにも中途半端な印象。
思ったのは、ストーリーの大きさと作家のキャパシティのバランスを考えさせる作品、と言えるかもしれないということ。
これ以上デカい話を構築できない、そのリミットが垣間見える。作者はそれをグロさのギャグで埋めにかかるが、
それは読む人を選ぶ種類のものなので(僕はそれを「イジワル」と表現した)、連発されるとただただつらい。

結局は作者の価値観、好みの問題なんだろうけど、『ニッケルオデオン』より大きくて中途半端で「イジワル」な分、
僕はつまらなく感じる。もったいなさだけが残る。道満晴明の才能は、この程度のマニアックさで終わってほしくないのよ。


2015.9.28 (Mon.)

授業、授業、授業、授業で、完全に休みのない状況で生徒会選挙に突入するのであった。
責任者としては、時間的な余裕があればもっときっちりできたのだが……という思い。気づけないことだらけ。
でも手厚いフォローをいただけて、滞りなくすべてができたのは本当にありがたいことです。感謝しかないです。

その後も休まずに臨時時間割の調整などの仕事に追われるのであった。今日は本当に疲れたよ。


2015.9.27 (Sun.)

区内で図抜けて強い学校の試合で副審をやる。とにかく走らされたのであった。

肝心のこっちの試合は1-2。以前よりは戦えていたのはよかったかな、と思う。私立が相手でもひるまなかったもんね。
でも、何も言わなくてもこれが当たり前って状態にならないとなあ。生徒のハートを鍛える部活、にはまだまだ。

ヤクルトM3点灯おうううううう! ついに! ついについに! 14年ぶりの歓喜、味わうことができるんですかね!?


2015.9.26 (Sat.)

マサルから人生相談をお願いされて、じゃあ集まれるメンツで集まるか、となる。昼には春画展を見たかったのだが、
びっくりなことにマサル本人が参加できなくなり、春画という雰囲気でもなくなって、さあどうしたものかと。
そしたら東京ドームでヤクルトと巨人の頂上決戦が繰り広げられるということで、突如みやもりと一緒に観戦することに。
チケットなんてそんなもんあるわけないので、覚悟の立ち見、1,000円也である。初めての経験だが、話のタネに決行だ。

 東京ドーム。ニューヨークへ行きたいぜー!

立ち見はもう、実にとことん立ち見でありまして、通路から覗き込んだら緑色が見えたよ、というレヴェル。
いちばんよく見えるのは「財宝」で、おうこれが噂の財宝か、とふたりで納得するのであった。財宝見に来た感じね。

  
L: 立ち見だとこんな感じである。うーん財宝。  C: スコアボードはよく見える。  R: 根性でバッテリーを撮影。

それでも試合が始まると、ヤクルトがいきなりデッドボールと打撃妨害で無死一、二塁。巨人の先発は高木勇。
動揺しまくりやんけ、と思っていたら3番山田がヤクルトファンの妄想を現実のものとする3ラン。血が沸騰したね。
さらに一死満塁のチャンスをつくるが、キャッチャー中村は凡退。目をつぶってど真ん中を振れや!とびゅくさん激昂。
巨人打線はチーム打率こそ良くないが、いつ火がつくのかわからない。だってそれが巨人の恐ろしさだから。
点を取れるときに畳み掛けておかないといけないのである。結局、この不安が後でしっかり的中してしまった。

回を重ねるごとに巨人は点を奪っていき、5回裏についに逆転。それ以降は両軍ともヒットのないサッパリした展開。
実に尻すぼみな4-3で、ヤクルトの負け。ヤクルトが巨人を蹴落とすチャンスは明日もあるが、こうなるともうわからない。
客観的には巨人の方がつらい状況だが、素直にヤクルトを勝たせてくれるとは到底思えない。祈るしかないですなあ。

夜からはえんだうさんが合流。みんなの帰る方向から割り出して、南北線・東西線・有楽町線が乗り入れる駅である、
飯田橋にて飲むことに。出版社時代にさんざん通った飯田橋とは懐かしい。早めに着いてみやもりと歩きまわってみたが、
神楽坂界隈の雰囲気はあんまり変わらない。3年2ヶ月お世話になったが、自分の一部を形成していたんだと実感した。

日が暮れてから店に入る。基本はサラリーマンの多い街なので、日曜の夜はいい具合に空いていてうれしい。
僕のiPhoneに入っている曲をもとに、歌謡曲からJ-POPへの変遷についてあれこれ論じてみる。なんだこのダメスコラ。

そのうちにえんだうが到着。しかしこの日のえんだうはまあなんというか、悪い方面が全開でございましたな。
こっちは途中でもうイヤんなっちゃってダンマリですよ。先輩風を吹かせて怒鳴りつけようかと思ったけどやめた。
まあでもマサルの人生相談については有益なヒントが出たのでそこはよかった。そんな夜。


2015.9.25 (Fri.)

今日は朝練から授業、さらに研究授業に生徒会選挙の準備で完全にヒマがなかったよ!
授業変更の調整もあるし、どれだけ働けばいいの?って言いたい。これで給料一定とかどんだけブラックだよ。


2015.9.24 (Thu.)

授業と生徒会選挙でクソ忙しいところに授業変更の調整という別の仕事を入れてくるとか、もう勘弁してほしい。
みんな忙しいのは一緒だけど、バランスを考えてほしいのである。変な形で負担がかかってくるので本当に困る。

阪神の中村GMは亡くなるし、川島なお美も亡くなるし、なんだかもうねえ。
中村GMは僕がプロ野球に興味を持った1992年の阪神の監督。この年の阪神はヤクルトとデッドヒートを繰り広げたので、
それでショック。川島なお美は特にそんなに思い入れはないけど、やっぱりまだ若いのでそれなりにすごくショック。
歳をとると訃報に接する機会が増えるわけでなく、訃報をキャッチする対象が広がるというだけのことなのだが、
なんだか訃報だらけに思えてたまらない。せめて十分にお歳を召してからの大往生のニュースを聞きたいものですが。


2015.9.23 (Wed.)

今日は究極完全オフ日としていたのだ。いくら天気が良くても神社にも市役所にも行かないもんね。
自転車すらこがないもんね。というわけで、気ままに買い物やら散歩やらで一日過ごすことにした。

上野の森美術館でやっている「メカニックデザイナー 大河原邦男展」がそろそろ終わりそうなので、行ってみた。
タイムボカンシリーズのコミカルなメカから、ガンダムやボトムズなどロボットアニメの王道を行く作品まで、
その活躍ぶりはもうそのまんま日本のアニメの歴史をなぞるほど。混みそうなので午前中にさらっと見てみる。
感想としては、特に『ガンダム』以前の仕事はもう、造形の発想がとにかく凄いと呆れるしかなかった。
いったいどこからこういう形を生み出してくるのか、その引き出しの多さに恐れ入るのみだった。
誰も見たことのない機械をものすごいペースでつくっていたのが信じられない。圧倒的な想像力に触れるのが楽しい。

しかし一方で、興奮するおっさんたちをよそに、後半は明らかに飽きてしまった。急にお腹いっぱいになったのだ。
僕が意欲的に展示を見ることができたのは明らかに『Zガンダム』までだった。ハイザックの安定感すげえ!と。
でもそれ以降、つまりそれは僕が実際にロボットアニメから離れた時期を境に、急激に展示への興味が薄れてしまった。
こうなった最大の要因は、信じてもらえないかもしれないが、もともと僕はロボットアニメ自体への興味が少ないことだ。
確かに狂ったようにガンプラはつくったが、実はアニメ本編はあんまり見ていない。単純にプラモをつくる作業が好きで、
立体造形の喜びに浸っていただけだった、と今になって気づいた。だからアニメ作品に対する思い入れが本当にない。
『ガンダム』が『逆襲のシャア』で一段落して以降、「ザクの出ねえガンダムなんてガンダムじゃねえよ」となって、
もはや造形物としてのプラモにも興味がなくなってしまった僕は、それらの作品の展示を見ても何も思わないのだ。
今回、メカニックデザインが美術館の展示として成立しているのは、やはりそういう「思い入れ」という要素が大きい。
「思い入れ」を強制する力、あるいは教養として価値観を共有するベースがあること、それが芸術の条件ということか。

しかし絵の上手い人の描いたものをたっぷり味わうことができる、という点においても価値があるのは間違いない。
線画もいいのだが、特に色を塗ってある原稿がいいのである。製図の几帳面さを持つ線に、うっすら塗られた色。
ところどころホワイトの線で光沢が表現されている。ああ、職業的に上手い絵ってのはこうやって描くんだ、とわかる。
だから「すごく勉強になる」展覧会であると思う。プロのテクニックを直接見ることのできる、非常にいい機会なのだ。
でも上で述べたように、大河原邦男の想像力の引き出しはとんでもない。その非凡さは「勉強」ではマネできない。

午後は渋谷で買い物。壁に貼る御守ポケットが足りなくなったので、新たに2つ購入。これでついに10枚目だ。
1枚あたり35体入るので、ポケットがすべて埋まったら350体ということになる。いったいどこまで増殖するのか。

夜はラグビーW杯のスコットランド戦を見る。南アフリカ戦は奈良に行ってて乗り遅れたので、にわかブームにびっくりである。
わが飯田高校は花園に何度か出ているが、僕の在学中には部員がたった2名という超暗黒時代なのであった。
それでも体育の授業でいちおうはラグビーをやる。僕はスクラムを組んだときに股に腕を入れられるのがどうしてもダメで、
お飾りフルバックをやっていたような記憶があるなあ。とりあえずノックオンとスローフォワードだけは覚えさせられるのね。
その記憶とアメフト観戦の要領で試合を見ていく。よく考えたらちゃんと中継を見るのは初めてだ。ま、僕もにわかですよ。

序盤、スコットランドがフィールドゴールじゃなかったペナルティゴールばかりでつまらんのに対し、日本は愚直にトライ狙い。
これは確かに応援しがいのあるスタイルである。しかし肝心な場面で反則が出るし、スコットランドの守備にも隙がない。
まさに手に汗握る試合である。見ているうちに要領がつかめてきて、高校時代も思い出して、いいプレーがわかってくる。
それにしても日本はランプレーがぜんぜん通じないのが痛い。自分から相手に突っ込んでいくだけなんだもん、意味がない。
最後はスコットランドにスルスル抜けられて惨敗に終わった。結局、そこの差なんじゃないかな、と素人は思うのであった。


2015.9.22 (Tue.)

新人戦がスタート。実力的に近くてなんとなく因縁めいている学校が相手である。
もっともそれはこっちから見た場合の表現であって、向こうにしてみればこっちは実力を測るいい相手、のはず。
ふだんきちんと練習していれば順当に勝てるけど、たまに食われることがあるから油断できない、そんな感じか。

結果としては0-4で順当に負けたのでありました。負けるにしても、これはちょっと離されすぎのスコアである。
つまり向こうが夏休みの間に着実に力をつけていたのに対し、こっちはサボったのが数字にきちんと記録されたわけだ。
初戦で痛い目に遭ってからでないと目を覚ませないのもウチのダメなところ。まあダメなヤツはだいたいそうだが。
自分としては、そういう彼らの姿勢を他山の石にしていくのみである。冷たく思われるかもしれんが、根性の問題なんで。


2015.9.21 (Mon.)

ネットカフェの欠点は布団がないことだな、と思いながら起床。まあ十分に眠ることはできたので文句はないが。
精算を済ませて外に出ると、なかなかいい天気である。今日もいっぱい御守を頂戴するぞ!と決意を新たにする。

 旧奈良駅舎の奈良市総合観光案内所。京都帝室美術館の落選案を再利用。

メシを食ってやる気を補充すると、法隆寺駅へ。目指すは法隆寺……ではなくて、廣瀬大社。二十二社なのだ。
でもそりゃあできれば法隆寺にまで行きたいに決まっている。両者は駅を挟んで、きれいに線対称の位置にある。
時間はかかるけどがんばって歩くか、と思って南口に出たら、そこにはレンタサイクルの文字が踊っているのであった。
即決して申し込むが、どうもメジャーな観光ルートは「斑鳩三塔めぐり」であるらしく、店主はその説明に終始する。
そんなものは右から左でヘイヘイヘイと返事をしつつ、心はすでに廣瀬大社なのである。ひねくれ者との自覚はあります。

ペダルをこぎ出す。交通量の多い奈良県道5号をまずは避けて南下するが、結局は5号に出ないと大和川を渡れない。
しょうがないので合流して橋を渡り、左岸にスイッチ。ここからがまたちょっと面倒くさく、少し南によけいに進んでから、
まわり込むようにして東に入って廣瀬大社の鳥居の前に出る。まあ結局、それだけ廣瀬大社の参道が立派で長いのだ。

  
L: 廣瀬大社の鳥居に到着。自転車の便利さを心の底から実感するスタートとなった。  C: 参道を行く。長い。
R: 500m弱の距離を進むと本格的に境内に入る。まあ、自転車なんでここまで一瞬で来ちゃえるんですが。

Wikipediaによれば、廣瀬大社が鎮座するのは奈良盆地を流れる河川のほとんどが合流する地点とのこと。
それで水神を祀っているのだという。この後に訪れる予定の龍田大社は風神を祀っており、対応関係にあるそうだ。
立地する場所の特性は完全に異なるが、面白いことに、昨日の大和神社(→2015.9.20)と雰囲気が驚くほど似ている。
長い参道、緑の勢い、人工度合いの弱い境内。つまりそれが歴史ある大和国の神社が持つ本質なのかな、と思う。

  
L: 鳥居をくぐって本格的に廣瀬大社の境内に入る。昨日の大和神社と同様、緑の勢いが強くて人工が自然に押され気味。
C: 拝殿を眺める。緑に包まれる様子は歴史ある神社の風格を感じさせる。  R: 拝殿の中を覗き込んだところ。

奥には本殿。祭神は若宇加能売命で、これは伊勢神宮は外宮(→2014.11.9)の豊宇気比売大神(→2012.12.28)、
伏見稲荷大社(→2010.3.28)の宇加之御魂神、さらに鳥海山の大物忌神(→2013.5.11)と同じ神とされている。
ここまでいろいろ盛り込まれているのは驚きだが、つまり収穫の豊かさに関連する神を総合的に祀っているということだろう。
大和国の自然に包まれた姿といい、農業の収穫を司る神といい、きわめて日本らしい神社と言えるかもしれない。

 拝殿の裏にまわると本殿。

朝イチで御守を頂戴すると、来た道を戻ってそのまま大和川も関西本線も突き抜ける。目指すは法隆寺である。
そのまま突撃してしまってもよかったのだが、上記のとおりもともとは徒歩の予定だったので、時間はたっぷりある。
それならちょっと寄り道しちゃおうということで、国道25号で少し西へ抜けて、斑鳩町役場を撮影しておく。
奈良盆地にはやたらと「町」が多い。観光資源が豊富なベッドタウンで、無理に合併して市になる必要がないのか。
斑鳩町もそんな「町」のひとつである。さすがに法隆寺を抱えていれば、それだけで十分やっていけるだろうなと思う。
それでも生駒郡4町(斑鳩・三郷・平群・安堵)と北葛城郡内の3町(王寺・上牧・河合)で合併計画があり、
「西和市」という名前まで決まっていたそうだ。結局は王寺町・斑鳩町が合併協議会から離脱して白紙となったが、
それはそれでいいと思う。そのごちゃごちゃしたところが解消されない感じが奈良県なんだよなと、よそ者は思うのだ。

 斑鳩町役場。1986年に竣工している。

というわけで法隆寺に戻る。御守を頂戴すればホイさよならのつもりだったが、時間的な余裕もしっかりあるし、
何よりあまりに天気がよかったので、きちんとひととおりの観光コースをこなすのであった。まあ当然ですな。

  
L: 国道25号に面する参道入口。  C: まっすぐ行って南大門。ここからすでに国宝だもんなあ。  R: 抜けて中門。

なんだかんだで法隆寺にはしょっちゅう来ている気がする(→2010.3.292011.9.112013.6.15)。
もともとがそういう商売とはいえ、「オッスまた来たぜ」と言いたくなるのは自分でもちょっとどうかと思う。
でも不思議と、法隆寺に来たときには晴天に恵まれることが多いように思う。今日もゴキゲンにシャッターを切る。

  
L: あらためてきちんと撮影してみた大講堂。なんかすごく正々堂々と撮れた。  C: 角度を変えてさらに撮っちゃうぞ。
R: 金堂。幅があって回廊までの距離がそんなにないので、意外と撮影しづらい。視野に入ってくる観光客もすごく多いし。

根性でできるだけ観光客が入らない角度とタイミングで撮影しているのだが、もう本当に大変。しょうがないけど。
それにしてもやはり、法隆寺の建築群は撮り甲斐がある。建築様式が歴史の厚みそのものだから、どう眺めても面白い。

  
L,C,R: 法隆寺五重塔を徹底的に撮ってみた。逆光を避ける関係で南面ばっかりだけど許して。

さてここで閃いた。そうだ、さっき自転車を借りる際に「斑鳩三塔めぐり」の話が出た。天気もいいし、やってみよう。
西院伽藍を出ると東院伽藍に寄って夢殿を眺め、観光客の多さに閉口しながらもどうにかあれこれ写真を撮る。

  
L: 夢殿。これも回廊が近くて、なかなかすっきりとは撮影できない。  C: 北側には絵殿(左)と舎利殿(右)。
R: 南側には礼堂。夢殿はもちろん国宝だが、それを囲む回廊と絵殿・舎利殿・礼堂もまるごと重要文化財よ。

というわけで結局、「斑鳩三塔めぐり」である。北へ抜けて法輪寺へ向かう途中に神社を発見。斑鳩神社という名で、
いかにも歴史が古そうだと思ったら祭神は菅原道真。最近じゃん(飛鳥時代より)。ってことで「天満宮」の別名もある。
斑鳩を代表する神社かと思ったが規模は小さく正直ちょっと肩透かし。まあでもきちんと二礼二拍手一礼なのだ。

  
L: 斑鳩神社の境内入口。法隆寺の北にある天満池のすぐ脇に鎮座。  C: 拝殿。  R: 本殿を覗き込んだところ。

さらに北へと進むと程なくして法輪寺。こちらの三重塔が「斑鳩三塔」に数えられているのである。
しかし実はこの三重塔、戦時中の1944年に落雷で焼失してしまった。7世紀末に建立された旧国宝だったが、
避雷針が供出されていたそうで、なんとももったいない。現在の三重塔は1975年に西岡常一によって再建された。
カメラを構えるが、向かいにある金堂が近いので撮影できる角度が制限されてしまう感じ。ちょっと切ない。

 
L: 法輪寺の境内入口。法隆寺とはだいぶ差があるが、それはそれでこの小ぢんまり感はなかなか悪くない。
R: 三重塔の向かいにある金堂。こちらは1761(宝暦11)年の築で、それ相応の風格を見せてくれる。

江戸時代の金堂と比べるとさすがに三重塔はしっかりきれいなので、今後のいい具合の古び方に期待である。
奥にある講堂は鉄筋コンクリートの収蔵庫となっており、重要文化財の仏像がバンバン並んでいる。
飛鳥時代と平安時代のものがあり、さすが奈良と唸らされる。こりゃ三重塔より仏像目当てで来るべきか。

  
L,C,R: 「斑鳩三塔めぐり」、続いては法輪寺三重塔。向かいの金堂が見応えあるので、どうしても比べてしまう。

法輪寺から東に抜けると奈良県道9号にぶつかり、すぐに法起寺。法隆寺まで来てしまえば斑鳩三塔は適度に近い。
2年前の修学旅行では法隆寺の次に大和郡山を抜けて薬師寺に向かったので、法起寺の三重塔は車窓から見えた。
見覚えのある景色がいきなり目に飛び込んできて、懐かしい気持ちになる。大和郡山も懐かしい(→2010.3.29)。
しかし、奈良市内から自転車で行った大和郡山がすぐそこってことは、奈良盆地は本当にサイクリング向きだと思う。

さて法起寺である。聖徳太子の息子・山背大兄王が創建したが、残念ながら当時の伽藍は失われてしまっている。
しかし三重塔だけは当時のままの姿で現在も誇らしげに立っている。706(慶雲3)年築で、日本最古の三重塔とのこと。
まずは境内北側の堂宇を見ていく。聖天堂も講堂も江戸時代の築なのだが、どこか奈良時代へのリスペクトを感じる。

  
L: 法起寺の境内入口。もともとは「ほっきじ」だが、世界遺産登録の際に「ほうきじ」を正式としたそうだ。うーん……。
C: 聖天堂。1863(文久3)年、金堂の跡に再建された。  R: 講堂(本堂)。1694(元禄7)年の再建。

ではいよいよ最後の「斑鳩三塔」である法起寺三重塔とご対面だ。こちらは境内に比較的余裕があるので、
ある程度好みの角度を見つけて撮影に専念できるのがうれしい。歴史がある分、改修で大きく姿を変えていたそうだが、
1970年代の解体修理によって創建当時の姿に復元されたそうだ。風格がありながらも小ぎれいなのはそのせいか。
法起寺の境内は緑が多いためか、寺というよりもむしろ庭園といった雰囲気である。それがものすごくいい。
三重塔の後ろは広大な農地となっており、周囲は変に大袈裟な伽藍ではなくて穏やかな庭と畑という自然体で、
その中に往時の勇姿ですっと立っている姿はカジュアルな魅力に満ちている。まあしっかり国宝なんだけどね。

  
L,C,R: 「斑鳩三塔めぐり」、最後は満を持して法起寺三重塔だ。風景とマッチして、いかにも「斑鳩の里」って感じ。

期せずして「斑鳩三塔めぐり」をすることになったが、これはきちんと体験できてよかったと心の底から思う。
法隆寺五重塔は日本を代表する木造建築だし、法輪寺三重塔は再建への強い意志に触れられることに価値がある。
そして法起寺三重塔はまさに斑鳩の里を象徴する存在だ。三者三様の塔を簡単に比較して味わえるのは贅沢なものだ。

駅に戻って自転車を返却。結局は店のおやじさんの言うとおりなったなあと思うが、観光とはそれでいいのだ。
深く満足感に浸りながら列車に揺られて王寺駅へ。しかしすぐに各駅停車に乗り換え。そして王寺の次の駅で下車。
奈良県の鉄道は実に面倒くさい。変に環状でワケのわからないことになっているうえに、快速なんかもある。

さて下車したのは三郷駅。「みさと」ではなく「さんごう」と読むのだ。慣れない読み方を突き付けられると、
もうそれだけで関西に来ているという実感がより強く湧いてくる。三田も「みた」じゃなくて「さんだ」だし。
それはそうと、三郷駅から向かうのは龍田大社である。さっきの廣瀬大社と対になっているという風神の神社だ。
Googleマップで見たところ、駅からわりとすぐなのでナメてかかっていたのだが、実際はかなり急な上り坂だった。
今は地味な住宅地という印象だが、もともとは大和川に面した小高い丘の上だったわけだ。なるほどと納得する。

  
L: 坂を上りきると駐車場と公園が現れる。その奥にあるのが龍田大社だ。東側にまわり込み、境内を正面から眺める。
C: 鳥居をくぐる。境内の地味につけられた高低差が印象的である。  R: 拝殿。廣瀬大社よりは人工度合いを感じる。

大和神社と廣瀬大社がなんとなく似ていたのに対し、龍田大社は自然にまかせている比率がひとまわり低い印象だ。
しかし拝殿は同様の筒抜け構造となっており、本殿とははっきり分かれている。そして背にした龍田の山は緑が茂り、
山と里の境界に神社が建てられているような感触だ。まるでこの拝殿が後ろから寄せてくる自然を押しとどめているようだ。

  
L: 少し角度をつけて拝殿を眺める。後ろから押し寄せてくる自然の力をがっちり背負っているように感じる。
C: 拝殿の中を覗き込むと、大和神社や廣瀬大社と同じスカスカ感なのであった。  R: 本殿はさらに奥にある。

やはり歴史ある神社だけあり、龍田大社の本殿は独特。拝殿の後ろに玉垣で本殿と摂末社をしっかり囲んである。
正面にふたつ並ぶのは祭神の天御柱命と国御柱命だが、向かって左側では摂社の龍田比古と龍田比売を祀っており、
右側では天照・住吉・枚岡・春日の各神が祀られている。社殿たちはまるで会議中のような雰囲気で並んでいる。
そして脇には稲荷と戎に白龍神社。白龍神社は奥にある磐座に水をかけるようになっている。やっぱり独特だ。

 白龍神社。たいへん水を好まれますのでご自由におかけください、だそうだ。

御守はいろいろあって困ったが、いちばん代表的なものは守袋に「風神」と記されているもののようだ。
とりあえずそれを頂戴しようと思うが、色の種類もあって悩むのであった。御守趣味はそこがつらいのよ。

参拝を終えると駅に戻り、再び関西本線に揺られる。とりあえずこれで本日の神社は完了ということにしておいて、
ここからは市役所を押さえていくことにするのだ。三郷の次の駅・河内堅上からはその名のとおり、大阪府である。
旧河内国も個性的な市がいっぱいあるが、どちらかというと近鉄で動きまわった方がいい市が多いように思う。
というわけで、そっちはそっちで次の機会ということにする。今回は今まで接点のまったくなかった片町線が相手だ。
まずは久宝寺駅でおおさか東線に乗り換える。半年前に初めて乗ったが町工場群が印象的で(→2015.3.27)、
あらためてその光景をきちんと見ておきたかった。やはり地平線を埋め尽くす住宅と町工場は壮観としか言いようがない。

  
L,C: おおさか東線の車窓から。住宅と町工場が混在しつつも街割りは整然としている。  R: JR長瀬駅前。すぐ先は生野区。

放出駅に着くと、いよいよ片町線に乗り換える。本当に馴染みがなくてよくわからない路線である。うねりまくるし。
(そもそも名前のもとになった片町駅がなくなってしまっているからよけいわからん。大阪城北詰駅付近とのこと。)
もう何から何まで新鮮なので、かえってワクワク感が倍増である。まずは住道(すみのどう)駅で下車して大東市へ。

  
L: ペデストリアンデッキから眺める住道駅。降りてみたら都会でびっくり。「すみのどう」って、絶対読めないよ。
C: 駅から出ていきなり寝屋川にぶち当たる。見事なカミソリ堤防と水量にこれまたびっくり。街が水面より低いのがわかる。
R: 住道駅から延びる商店街。関東にいると大東市って意識することがないのだが、しっかりと都会なのであった。

駅前で恩智川が寝屋川に合流する豪快な景観からスタート。どうしてこんな複雑な構造が許されるのかと思ったら、
もともと大東市の大部分は「深野池(ふこうのいけ)」という名の広大な池だったそうだ。これが江戸時代に干拓された。
そのために天井川で水害にめちゃくちゃ弱いという弱点を抱えているとのこと。百聞は一見に如かず、な光景である。

大東市役所があるのは、そんな寝屋川のすぐ脇である。かつて干拓された大地のど真ん中だと思われる。
「大東」とはずいぶん個性のない覚えづらい名前だと思ったが、もともと歴史性の薄い街だったというわけだ。
なお、大阪市の東にあって『光は東方より』という古代ローマの諺を意識して、「大東市」となったそうだ。
つまりは大都市・大阪があっての大東市というわけである。その構造が昔も今も変わらないという意味では潔い。

  
L: 大東市役所(南面)。住宅と店舗が入り混じったエリアにあり、道を進んだ行き止まりにこんな感じで位置している。
C: 角度を変えて撮影。撮った際に僕が立っていた場所は、実は暗渠なのだ。水は市役所のすぐ前を通って寝屋川に注ぐ。
R: 南東側から撮影。左端に川の柵がわずかに写っている。大東市ってのはとことん水っぽい場所なんだな、と実感。

大東市役所は1965年の竣工だが、やはり新庁舎建設計画が進行中。プロポーザルでコンサルタントを決めており、
今後いろいろと本格化していくことだろう。災害に弱い街なので、移転して大規模な庁舎を建てそうな気がするなあ。

  
L: 東側から眺めた大東市役所の側面。  R: 北東側。昔ながらの庁舎建築で、個人的には親しみを感じるのだが。
R: まわり込んで背面を眺める。右側にある建物はふつうに個人の住宅で、そのせせこましい感じに驚いた。

大東市役所は本庁舎の西側に西別館がくっついているのだが、これが道ひとつ挟んで寝屋川にギリギリくっついており、
西側を撮影するには寝屋川を渡らないといけない。距離をとって撮影できるのはいいが、これがなかなか面倒くさかった。
寝屋川の堤防はコンクリートの壁となっており、やっぱり高さがしっかり確保されている。実に天井川なのであった。

 寝屋川越しに眺める西別館(西面)。大東市っていろいろ大変なのね。

帰りも同じ道を行くのはつまらないので、とことん寝屋川沿いに駅まで戻ってみた。そしたら当然のことだけど、
ひたすらコンクリートの壁の脇を歩くことに。圧迫感がすごいが、それだけ頑丈な堤防にしないとしょうがないからね。
よくわからない状態で訪れた大東市だが、これでもう十分すぎるほど土地の特徴を理解できた。そこは満足である。

住道から2駅、次は四条畷駅で降りる。でも市名は四「條」畷市が正式。片町線はいろいろとややこしいですな。
やはり半年前に京阪で門真市や寝屋川市を訪れているが(→2015.3.28)、四條畷市はその東側で奈良県に接する。
しかし四条畷駅は実はギリギリ大東市にあるのだ。四條畷の戦いがあった土地ということで1895(明治28)年に開業。
それに対し、自治体名としての四條畷は1932年に甲可村が四條畷村に改称して以来。市になったのは1970年である。

四条畷駅を出ると北へと歩いていくが、四條畷市域に入ると状況が一変する。昔ながらの雰囲気をよく残す商店街が、
しっかりと賑わっているのである。こりゃいいやと思いつつ西へ折れて進んでいくと、楠木正行の墓にぶつかる。……そう、
四條畷の戦いは楠木正成が湊川の戦いで亡くなった後、高師直が正成の遺子・正行を大軍でぶっつぶしに来た戦いだ。
結局、寡兵は敵せずと言うと失礼だが、正行は敗れて弟の正時とともに自害する。四條畷神社はその正行を祀っている。

 
L: 小楠公御墓所。楠木正成を「大楠公」とするのに対し、正行は「小楠公」。  R: 樹齢600年のクスノキがある。

さて小楠公御墓所からは大阪府道160号を北上していったのだが、とにかく道の狭さに閉口した。
府道のはずなのに2車線ギリギリの幅しかなく、歩道がないも同然なのである。車が来るたびに店の敷地へよける。
幅のない道路を歩くのがこんなに面倒くさいとは思わなかった。意外な苦労をしながら四條畷市役所にたどり着く。

  
L: 国道163号越しに眺める四条畷市役所。1964年に四條畷町役場として竣工。その前の役場は別の場所だそうだ。
C: エントランス。敷地にぜんぜん余裕がない。  R: 西側を眺めたところ。大規模な改修工事をやっている模様。

四條畷市役所には本館と道を挟んで東別館があるが、本館は複数の建物がくっついたような構造になっている。
さすがに建設された経緯はよくわからないが、駐車場がほとんどない点から察するに、増築されたように思える。

  
L: 四條畷市役所の背面。  C: 北東側から眺めたところ。  R: 東側玄関。この棟がいちばん古そうなのだが。

市役所の撮影を終えると、せっかくなので市街地をのんびり歩きながら四條畷神社まで参拝してみることにした。
そしたらもう、これがものすごいことになっていた。まず市役所からそのまま片町線西側の住宅地を南下したのだが、
路地に次ぐ路地で凄まじい入り組みっぷり。どうにか抜け出して線路の東側、国道170号に入るが、これも異様に狭い。
歩道というものはまったく存在せず、歩行者は車をよけつつ側溝の鉄蓋の上を歩かないといけないのだ。誇張ゼロよ。
ただ歩くだけなのにここまで神経をつかう街は初めてじゃないか。四條畷は、間違いなく日本でいちばん道が狭い街だ。

  
L: 和田(にぎた)賢秀の墓所。楠木正行の従兄で、四條畷の戦いで討ち死に。敵の首に噛み付いたまま亡くなったそうだ。
C: 国道170号に面する四條畷神社の鳥居。もうこれだけでも道幅の狭さがわかるでしょ。四條畷には歩道がぜんぜんない。
R: 鳥居を抜けて四條畷神社の参道を行く。周囲は住宅となっているが、よく見るとこの道には不自然な要素がある。

四條畷神社への参道はしっかり歩道が付いているのでようやく安心しながら歩いていったのだが、ふと気がつく。
この参道、周囲の住宅地よりも高くなっている。切り通しの逆で、山で言えば尾根筋のようになっているのだ。
おそらく1890(明治23)年に四條畷神社が創建されたことがきっかけとなり、参道が盛土で整備されたのだろう。
その後に参道の周囲が宅地化した結果、異様な高低差のある空間ができあがったと思われる。もしかしたら、
周囲の宅地の方が土地を削って造成された可能性もなくはない。まあどのみち、四條畷は特徴がありすぎる街だ。

  
L: 参道脇にある住宅。玄関が2階の高さとなっているが、削って道をつくる切り通しとは異なり、家が持ち上げられている。
C,R: 参道へ出る路地を見れば、高低差がもっとはっきりする。これはそうとうな差がある。宅地化の経緯を知りたいところだ。

そんな宅地が山とぶつかる接点に四條畷神社は位置している。石段を上がりきると参道は山に沿って左に折れて、
きれいに整備された境内へと入る。その穏やかな雰囲気は、神社が四条畷市民の誇りとなっていることを実感させる。

  
L: 参道を進んで四條畷神社に到着。  C: 石段を上りきると左に曲がってこの光景。  R: 拝殿を眺める。

賽銭箱には楠木氏の家紋である菊水が刻まれており、ああこれは飯田と同じだ、と思い出した。
飯田の大宮神社には境内社に楠神社があり(→2015.8.14)、そこの賽銭箱にも同じ菊水の紋があった。
歴史がありすぎるだけに神社の世界はキリがないが、神紋・家紋ぐらいはきちんと勉強せねば、と反省した。

 
L: 近づいて拝殿を異なる角度で眺める。  R: 本殿を覗き込む。まあとにかくきれいにしてある神社ですわ。

いずれ湊川神社にも参拝したいものだ、と思いつつ、参道を下ってさっきの国道170号との交差点に戻る。
そのまままっすぐ進んだら片町線の踏切があって、気づいたらスタート地点の駅前商店街に入っていた。
そこでようやく、四條畷神社と小楠公御墓所が商店街を介して一本の道でつながっていたことを理解した。

あとは時間の許す限り、四條畷の道がいかに狭いかを実証する写真を撮ってまわる。本当に衝撃的な狭さなのだ。
まずは商店街の写真から。上記のとおり第一印象は、昔ながらの商店街がしっかりと賑わってこりゃいいや、だったが、
市街地を一周してみると結局それは、単純に四條畷の道幅が狭いので昔ながらに賑わっていられるんじゃないかと思う。

  
L: 四条畷駅から少し北に行って四條畷市内に入るとこの商店街。東京の私鉄っぽい親密な感じが漂っている。
C: 小楠公御墓所の前から東を振り返ってみたところ。  R: 一本北の商店街はさらに狭くてアットホームな雰囲気。

しかし四條畷の道の狭さは本当に容赦がないのである。幹線であるはずの国道170号と府道160号を実例として挙げる。
どちらも2車線の道路だが、歩道というものが存在していない。ここをガンガン車が通るんだぜ。怖くてたまらないよ。

  
L: 国道170号。バスの幅が車線ギリギリだし、そもそも電柱の位置がおかしい。歩道となっているのは側溝の蓋である。
C: 同じく国道170号。歩行者はどこを歩けと。通過する車と住宅・店舗も近すぎる。撮影が大変だったのがわかるかな?
R: 小楠公御墓所付近の府道160号。ただでさえ歩道が側溝なのに、右手前のところで道がさらに狭まるこの地獄っぷり。

 府道160号。歩道らしきものはあるが、存在が完全に否定されているんですけど。

というわけで、いかがでしたでしょうか。四條畷はもう、オレには信じられない光景が満載でしたよ。
さっきも書いたけど、本当にただ歩くだけでも最高に神経をつかう街。間違いなく、日本一道幅が狭い街。

命からがら(と言いたくなるくらいだった)四條畷を脱出すると、今度は長いこと揺られて京都府に入る。
片町線はそれとともに豪快なヘアピンカーヴを描くが、乗っている感覚としてはただ山に沿って走り続けるだけ。
ともかく、そうして京都府に入ると京田辺市である。本日ラストの市役所はここだ。やはり馴染みはないのでワクワク。

京田辺駅で下車すると、あえて京都府道22号(2本あるうちの東の方、山手幹線ではない方)まで出てから南下する。
これが昔ながらの旧街道で、古い建物がポツポツと残っている。もっともその分、道が狭くて交通量もそれなりで、
さっきの四條畷ほどではないけどそれなりに気をつかう道だった。根気よくトボトボと南下していく。

 
L: 京田辺駅から府道22号に出ると、見るからに旧街道。重要文化財の一休寺まで行く時間がなかったのは残念。
R: 道はこんな感じである。街道らしい幅のままだが交通量はそこそこ。古い建物が残っているのは風情があってよい。

しばらく歩いていくと、いきなり開けた国道307号との交差点に出る。ここで針路を西に変えて坂を上っていく。
するとすぐに京田辺市役所だ。西隣は体育館などの運動施設が集まった田辺公園となっており、しっかり整備されている。

  
L: 京田辺市役所。市街地から離れているので土地の使い方が贅沢である。高低差があり、国道307号側のこちらは2階扱い。
C: 市役所の手前にあるコミュニティホール。庁舎と同時につくられており、中身は純粋にホールで、大空間がひとつだけ。
R: コミュニティホールは屋根が長めにとられており、軒の端がちょうど市役所のエントランスに来るようになっている。

京田辺市役所の竣工は1986年。京田辺市は市制施行が1997年なので、田辺町役場として建てられたことになる。
なお、先代の役場は現在の中央図書館が建っている場所にあった。京田辺駅に非常に近くて、そこなら楽だったのに。
おそらく田辺公園と一緒に整備しただろうから土地に余裕があるとはいえ、面倒くさい場所に移ったもんだなあと思う。

  
L: あらためて、コミュニティホールごと京田辺市役所を眺める。市役所ならともかく、町役場としてはかなり大規模。
C: 角度を変えて南西側から。  R: 隣の田辺公園から見た側面と背面。国道の2階レヴェルから1階に下りたわけだ。

「田辺」という地名は全国に複数あって、「田辺市」(→2013.2.10)があるのは和歌山県だ(1942年市制施行)。
重複を避けるために京都府の「京」を先頭に付けて「京田辺」となったわけだが、それはそれでちょっと微妙な気もする。
というのも、田辺は舞鶴市の城下町(西舞鶴 →2013.8.12)の旧称でもあるからだ。京都府内に「田辺」が2つあるのだ。
舞鶴は舞鶴で地名がブランド化しているが、西舞鶴と東舞鶴には明確な違いがあるし、いろいろややこしい事態である。

  
L: 裏側の駐車場から撮影。  C: 背面。高低差があるなあ。  R: もう一丁。東側にちょっとした緑の塊がある。

もうちょっと京田辺の市街地を体験したかったので、帰りは陸橋で片町線を越えたところで北へ。近鉄までは越えない。
そうして片町線と近鉄に挟まれながら歩いていったのだが、農地からいきなり商店が連続する風景へと変化して、
そのまま私鉄っぽい面的な商業空間になるのが面白かった。西はJRの京田辺駅、東は近鉄の新田辺駅が両端となって、
限られたエリアを店舗が集まる歩行者専用買い物空間としている。先ほどの旧街道や郊外の公園のことを考えると、
京田辺というのは都市のあらゆる要素が詰まった独特な街であると感じる。松井山手のニュータウンも同志社もあるし。

 田辺中央駅前の交差点から近鉄・新田辺駅方面を眺める。

京田辺駅を後にすると、片町線を制覇して木津駅へ。奈良線で京都駅に出ると、あとは新幹線でさっさと帰る。
この2日間は奈良の御守集めを中心にした旅の予定だったが、それ以外もいろいろ濃かった。充実した旅だった。


2015.9.20 (Sun.)

世間はシルヴァーウィークで浮かれておるわけですが、こちとらどうせ部活が入るだろうと想定しておったわけです。
で、いざフタを開けてみたら今日と明日は試合の予定が入っていなかったので、考えるよりも先にまず飛び出した次第で。
目的地は、奈良方面。京都の御守収集はすでに何日もかけてやったので(→2015.2.12015.7.252015.7.26)、
「今度は奈良だ」という単純な発想による。ただし世間はシルヴァーウィークということでどうせ混んでいるだろうから、
奈良の中心部はあえてスルー。奈良県を攻めるには違いないけど、吉野から攻める!という奇策に出たわけであります。
なお、考えるよりも先に飛び出したので、宿は確保できていない状態である。ネットカフェが開いていることを祈るのだ。

朝7時過ぎに近鉄の大和八木駅に到着。今回の旅はここからスタートするのだ。コンビニで手早く食料を買い込むと、
まずは橿原神宮駅へ。そこから乗り換えて吉野駅へ。8時半ちょい前には吉野にいるんだから世の中は便利なものである。
吉野に来るのは5年ぶりだ(→2010.3.30)。何ひとつ変わっていない印象なのは、吉野の歴史が強大だからか。

 
L: こうして見ると吉野駅のホームってけっこうすごいね。  R: 吉野駅。いい天気に恵まれていい旅夢気分。

吉野に来たのはいいが、どこまで行くかが問題だ。そもそも吉野駅から金峯山寺のある中心部までけっこうあるし。
御守が置いてある可能性のあるいちばん遠い神社が金峯神社。5年前には西行庵まで行っているが、その少し手前だ。
さあ、金峯神社まで行きますか行きませんかハイ行きます。本気で遠いのだが、行かないで後悔するよりはいいやな。

  
L: 吉野駅から七曲がりの坂道を上ってさらに進んでいって黒門。ここを抜ければいわゆる吉野の街並みになる。
C: 銅鳥居。  R: 吉野らしい光景というと、僕の場合はこういう感じ。なんだかんだで基本、山の中さ。

朝早くて店も開いてないし、どうせ後でいろいろ寄るので、まずは迷わず一直線に金峯神社まで歩いていく。
じっとりとしてそれなりによくくねる坂道を黙々と歩いていくこと80分。「修行門」と扁額が掲げられた鳥居に到着。
(この苦難に満ちた80分をどうにかして読んでいる人に共有させてやりたいんだけど、苦痛の種類が一方向のみなので、
 文章にしても80分に等しい量にはならないし、そもそもそんなものを読んでも誰も得しないんだよね。あーあ。)
でもここからラストスパートの坂がキツいのね。勢いで一気に乗り越えると、見覚えのある金峯神社の社殿が見えた。

  
L: 金峯神社の「修行門」。ここまで来るのがまず修行ですよまったく。  C: 境内。本当に小さい神社なのだ。
R: 拝殿を見上げる。この簡素な神社に来るまで長かったなあ。前回もそうだが、山の奥すぎて規模の小ささに納得さ。

さあ肝心の御守だが、ちゃんとあったよ! ここまで来た甲斐があったよ! 神職さんからありがたく頂戴したよ!
ホクホクしながら鳥居の左脇にある道を下りていき、前回はスルーした義経隠れ塔を見学。これまた小さい建物だった。

  
L: 拝殿から本殿へと向かう石段を覗き込んだところ。苔ががっちり生していますな。この簡素さが神聖さを感じさせる。
C: 義経隠れ塔。義経は屋根を蹴破って追っ手から逃げたそうだが、現在の塔は大正に入って再建されたものだとさ。
R: 鳥居の右手の道は、さらに深い奥千本の山に続く。前回は西行庵まで行ったけど(→2010.3.30)、今回はパス。

ちなみに参拝を終えたタイミングで「修行門」前にマイクロバスが来て、何人かの参拝者が降りてきた。
実は竹林院のちょっと先に奥千本へ向かう道が分岐する点があり、そこから金峯神社までマイクロバスで来れる。
しかし朝イチで吉野に来た僕としては、バスが動き出すのを待つより歩く方が早いと読んで、徒歩を強行したわけだ。
これがバッチリ的中した形である。では帰りはバスに乗ればいいかというと、そういうわけにはいかないのだ。
次の目的地である吉野水分神社は、バスが通らない方の道にあるのだ。しょうがないよね、と苦笑しつつ来た道を戻る。

15分弱で吉野水分神社に到着。さっきも目の前を通ったけどね。今度はきちんと参拝するのだ。御守も頂戴するのだ。
鼻息荒く楼門をくぐると、やはり独特の空間構成が刺激的だ。「コ」の字を描く社殿に包まれ、しばしフラフラ歩きまわる。

  
L: 吉野水分神社。住宅から山道へ切り替わる曲がり角にある。  C: 楼門を見上げる。  R: 実に独特な本殿。

さて肝心の御守頂戴タイムだが、なんと、子ども向けのものが中心だった。「水分」=「みくまり」=「みこもり」で、
子どもを授けたり子どもの健康を願ったりと、そういう方面に御守が特化しているのだ。これはまったく知らなかった。
しょうがないので、自分にはぜんぜん縁がないけど、子ども向け御守と大人用の健康御守(というよりお札)を頂戴する。
子ども向け御守を引っくり返してみたら、しっかり「子守宮」と刺繍されていたのであった。そういうものだったのか。

  
L: 本殿の向かい側。木々を挟んで長ーい社務所になっている。  C: 寄ってみるとこんな感じ。独特すぎる。
R: 前回(→2010.3.30)と同様に、本殿のひとつをクローズアップ。そりゃあ重要文化財になるよね。

戻る途中で展望台へ寄ってみる。前回のログ(→2010.3.30)とは違うスケールの写真を貼ってみることにする。
でもやはり印象は同じで、「誇り高く孤立した箱庭」という感触である。吉野を囲む緑のヴァリエーションもまたいいな。

 
L: 前回よりも遠景で。吉野の山の中っぷりがわかるなあ。  R: 今度はクローズアップ。金峯山寺の存在感は別格だ。

さらに15分ほどで竹林院まで戻ってくる。入口のところにネコが現れるが、遊んでいるヒマなんてあまりないのだ。
一向にデレてくれないのを残念に思いつつ、吉水神社へ。言わずと知れた後醍醐天皇の逃亡先、南朝の皇居である。
時間がないので断腸の思いで書院の見学はスルー。5年前(→2010.3.30)に見ているし、今回はいいや、と。
御守の種類は異様なくらいに豊富なくせに、いちばんふつうの御守がない。こういうパターンはけっこう困る。
結局はいかにも吉野らしい、一目千本の桜が全面にあしらわれた「健康長寿御守」を頂戴したのであった。

  
L: 吉水神社の入口。ここから下って上る。  C: 上りきるとこちらの門。  R: 境内。書院は改修工事中だった。

そして吉野のラスボス(金峯神社から戻っているので)、金峯山寺だ。本堂の風格は本当に圧倒的なものがある。
その金峯山寺の本堂脇には、威徳天満宮という神社がちんまり鎮座している。神仏習合のやや珍しい事例か。
なお、威徳天満宮の御守は吉水神社で頂戴できる。もちろん、学業御守と合わせてきちんと頂戴しておきましたよ。

  
L: 金峯山寺の本堂。今回は角度を変えて、威徳天満宮の手前から撮ってみた。どの角度から見ても絵になるわ。
C: 威徳天満宮。東照宮的な価値観の社殿だ。道真流罪で死後も苦しむ醍醐天皇に頼まれ、如意輪寺を開いた日蔵が創建。
R: あらためて撮影してみた吉野の街並み。いちばん賑やかな金峯山寺〜吉水神社付近でこんな感じ。やはり山の中だ。

以上で吉野の聖地はだいたい押さえたので、坂を下って吉野駅まで。今回はロープウェイを待つのも面倒くさく、
大股の早歩きで七曲がりを下ったのであった。なんとまあ健康にいい旅行ですこと(自虐的なトーンで)!

吉野駅を出たのはいいが、次の吉野神宮駅であっさり下車。そう、吉野神宮にも参拝しておかないといけないのだ。
駅を出て左へ進むとすぐに大きめの鳥居。これをくぐってそのまま坂道へ突撃する。坂道は森の中をくねりながら続く。
道は車向けにきちんと整備されており、実際に車がたまに通るのだが、歩行者の姿はゼロ。なんだか不安になってくる。
なぜわざわざこんな場所に神社をつくったんだろうと思っているうちに、右手に幟と鳥居が現れる。よかったよかった。

  
L: 吉野神宮駅から左に出ると、まずはこちらの鳥居。  C: 整備されたひと気のない山道を上っていくと到着だ。
R: 境内の様子。砂利敷きでくねる上り坂を歩いていくことになる。入口の石垣に小さいアオダイショウがいたんだけど。

吉野神宮はそのものズバリ、後醍醐天皇を祀る神社だ。後醍醐天皇を祀っている点は先ほどの吉水神社と一緒だが、
明治天皇の意向によって1892(明治25)年に創建された。つまり明治に入ってから創建された神宮の典型例なのだ。

  
L: 坂道を上りきると「神宮」らしい風格が出てくる。  C: 鳥居をくぐって神門。山の中を開いて整備した感じが漂う。
R: 外拝殿。明治期に創建された「神宮」は、やはり広さと大きさで勝負してくるなあとしっかり実感させられる。

吉野神宮の特徴は、もともと山の中だったところに豪快に境内をつくった感触が今もきっちり漂っていることだと思う。
社殿を建て、木々を配置して、砂利を敷いて神社空間としているが、どうも隅々から山っぽさが漏れている気がする。
つまりは神社らしい人工的な要素と、山林らしい大雑把な植物の存在感がせめぎあっている。油断すると山に埋もれそう。

  
L: 外拝殿の右手にある摂社の拝殿。御影・船岡・滝桜の3社で、南朝方で奮闘した武将たちを祀っている。
C: 外拝殿から内拝殿を覗き込む。  R: 境内を通り抜けた反対側の神社入口。車で来た人はこっち側からかな。

シルヴァーウィークで吉野は観光客がどんどん増えてきている時間帯だったが、吉野神宮は非常に静かで穏やか。
わざわざここまで足を運ぶ人は少ないわなあ、と納得。まあ神社ってのは賑わっていればいいってもんじゃないわな。

吉野神宮の次もやっぱり明治期に創建された神宮に参拝するのだ。そのまま近鉄に揺られて橿原神宮前駅で下車する。
橿原神宮は5年前にも訪れているが(→2010.3.29)、御守はまだなので素早く再訪問して頂戴しておこうというわけだ。
でもその前に、橿原神宮前駅の構内を撮影しておく。1940年竣工の駅舎は、村野藤吾の設計によるものだ。
正直そんなにいいとは思わないのだが(村野の作品にはそれなりにムラがあると思っている)、きちんと見ておく。

  
L: 橿原神宮前駅構内の様子。  C: 反対側から眺めたところ。うーん、特にこれといって凄みを感じないのだが。
R: 外観。和風のモチーフを拡大する「極端系村野」の作品だと思う(ほかには大阪の新歌舞伎座 →2013.9.28)。

ではいざ橿原神宮を目指すのだ。駅前ロータリーを出発して5分足らずでもっさりとした巨大な緑が見えてくる。
これが橿原神宮の手前のロータリー。左に入って広大な駐車場を抜けると、無数の灯籠が並ぶ長い参道となっている。
初参拝時にはこの広大さが非常に印象的で、以来、橿原神宮を明治以降創建の神宮のモデルケースと認識している。

  
L: 橿原神宮入口のロータリー。ここからまず規模がデカい。  C: 駐車場越しに鳥居を眺める。脇の灯籠も巨大。
R: 長い参道を進んだ先、右手に南神門が現れる。反対側の左手に進むと深田池。とにかくいろいろデカいのである。

南神門を抜けた先の境内もとことん広大。晴天に恵まれたおかげで砂利敷きの境内にはほとんど日陰が見当たらない。
まずは正面から外拝殿を撮影。Wikipediaによれば橿原神宮の社殿の設計は、伊東忠太の最初期の仕事らしい。

  
L: 広大な境内と外拝殿。広すぎてぜんぜん日陰がございません。  C: 角度を変えて正面より外拝殿を眺める。
R: 内拝殿を覗き込んだところ。奥に千木が見えるが、本殿は京都御所賢所を移築しており重要文化財とのこと。

橿原神宮は空間的にも強烈だが、御守もこだわりを感じさせて興味深かった。願いごとによって種類が分かれており、
基本的には同じデザインの色違いとなっている。各色についてひとつひとつがんばって理由付けをしているのが微笑ましい。
ただ、頂戴する方としては非常に困るパターンであるのもまた事実。とりあえず「心願成就」と「開運延寿」をいただいた。

  
L: 回廊を進み、角度を変えて内拝殿・幣殿・本殿を眺める。  C: 回廊はこんな感じ。吊灯籠がどこか寺っぽい印象。
R: 橿原神宮の錦守一覧。詳しいことはいずれ、御守紹介ページ(⇒こちら)に書く。コンプリートには9000円かかる……。

これで橿原神宮もクリアである。のんびりするヒマもなく、駅に戻って再び近鉄の電車に揺られて北西へと移動する。
そうして下車したのは、高田市駅。そう、神社参拝とともに大和高田市の街歩きも敢行するのだ。いろいろ満載すぎだぜ。
さて大和高田といえば、僕の中ではモーニング娘。OGではいちばんお騒がせになってしまったあの人の故郷ということ、
それ以上のイメージが残念ながら湧いてこない。なのでしっかり歩いて、大和高田について正しく認識するのである。
もともと奈良県の鉄道路線はJRだけでも非常にややこしいのだが、さらに近鉄が縦横無尽に走っており、めちゃくちゃ。
その影響もあって、大和高田市には「高田市駅(近鉄)」「高田駅(JR)」「大和高田駅(近鉄)」がそれぞれ存在する。
この3つの駅は南北でだいたい一直線上にあるので、市役所を経由しつつ、南から北へ歩いてみようという作戦である。

高田市駅を出ると、そこは非常に狭苦しい旧街道なのであった。国道166号になっており、交通量がけっこう多い。
同じく狭苦しい駅前空間の右手にはアーケード商店街。その北側にあるのが石園座多久虫玉神社だ……読めるかー!!
式内社は歴史がある分、読みづらい名前が多い。特に奈良県は難読ぶりがそのまま保たれている神社が多いのだ。
そして石園座多久虫玉神社は別表神社の中でもぶっちぎりの難度を誇っている。歴史を味わえて趣き深いんだけどね。
正解は、「いわぞのにいますたくむしたまじんじゃ」。なんだ、意外と素直じゃねえか。でも地元では「龍王宮」と呼ぶ。

ではいざ参拝、と思って道路越しに写真を撮ろうとしたら、神社の脇にあるバス停に1台のバスが停まった。
このバス、方向幕に「特急 新宮駅」とある。まさかと思ってじっくり見たら、ビンゴ。こいつ、日本一長い路線バスだ。
橿原市の大和八木駅と新宮市の新宮駅まで、紀伊半島を6時間半かけて縦断するという、伝説の路線バスである。
これはすごいものを見たぜ!とカメラを構えたら、手前のバス停にもバスが停まった。まさかと思ってじっくり見たら、
こっちも日本一長い路線バスだった。日本一長い路線バスと日本一長い路線バスが行き交う瞬間に立ち会ったわけだ。
果てしなく長い旅を続けるバス同士が交差する一瞬。生き別れた兄弟が出会ったその瞬間、みたいなもんだ。たぶん。
さすがにこれには興奮するのであった。機会があればぜひ乗ってみたいけどね、どうせ途中で寝ちゃうしね、困った。

 運命に導かれた2台が交差する貴重な一瞬。きっと運転手はうれしいわな。

2台のバスがそれぞれ互いの通った道へと去っていくのを見届けると、今度こそ石園座多久虫玉神社に参拝である。
歴史を存分に感じさせる名前とは裏腹に、境内も社殿もごくふつうに市街地に落ち着いて適応した神社なのであった。
名前はどう刺繍されているんだろう、とワクワクしつつ御守を頂戴したら、裏にあったのは「龍王宮」のたった3文字。
そりゃあないぜえええ!とその場でうなだれてしまったことよ。もっとその貴重な名前を面白がってくれよー。

  
L: 龍王宮こと石園座多久虫玉神社。ふつうに街の神社である。  C: 拝殿。  R: 本殿を覗き込む。これげ限界。

まあそんな具合に大和高田市は初っぱなからなかなかのフルスロットルなのであった。日記のネタとしては最高ね。
参拝を終えるとそのまま国道166号を北上するが、本当にすぐにまたオモシロ要素にぶつかるのであった。
片塩ロータリーという交差点なのだが、なんとも大胆な五叉路となっていたのだ。特に南北方向が微妙な分かれ方で、
どっちを行く方が面白いのか、そうとうに迷う。結局、東西方向にもくねくね移動しながら北を目指すことにした。
左に入ると本町商店街で、まっすぐな道に木造和風から1920年代モダンまでさまざまな建物が並んでいる旧街道だ。
では右(奈良県道5号)はどうなのかとそっちに出ると、ものすごく大胆なカーヴ。こちらにも商店が点在していた。
いったいこれはどういう事態なのかと思ったら、南本町の交差点に「旧高田川 古川橋」という案内と古い地図があった。
Wikipediaによると、この県道5号がかつての高田川の跡だそうだ。1932年に工事を行って高田川を西へと移したそうで、
元の流路はそのまま道路化して県道5号になったとのこと。昔の空間構成がこれだけ強烈な形で残っているのは珍しい。
(地図で確認してみると、あまりにも川の流れそのまんまのくねり具合になっていてすごい。よくこの形で残ったよ。)

  
L: 片塩ロータリーの歩道橋から北を眺める。左の道は本町商店街で見るからに旧街道、右の県道5号は大胆にカーヴを描く。
C: カーヴの途中、南本町の交差点で振り返る。  R: さらに先、市民会館入口の交差点。もともと川ということで納得。

川の形そのまんまのカーヴ地帯から東へ行くと、JR和歌山線の線路にぶつかる。実に小規模な地下通路があって、
それを抜けたところにあるのが高田城址。市名の由来なんだろうからちゃんとした城かと思ったら、ただの小さい公園。
まあ戦国時代の大和国は、興福寺が押さえていたり筒井順慶と松永久秀がやりあったりで安定していなかったわけで、
いかにも畿内ならではの混乱ぶりに巻き込まれていた場所である(南部は完全な山の中で十津川郷士がいたわけだし)。
政治的な配慮から大和国の城らしい城は郡山城だけに集中することになった影響もあるだろう。本当にただの公園だ。

 高田城址。城というより砦に近い感じだったのかねえ。

その後は旧高田川の県道5号を中心にフラフラ散歩しながら、大和高田市役所を目指して北上していったのだが、
大和高田の市街地があまりにも特徴的で、驚きの連続なのであった。なぜって、どこへ行ってもそこが商店街だから。
行く先行く先に商店街があるのだ。ふつう商店街ってのは駅を起点に線状になっているものだが、ここはまったく違う。
北の大和高田駅(近鉄)、東の高田駅(JR)、南の高田市駅(近鉄)と県道5号を囲むように駅があるのは事実だが、
あまりその位置関係とは関係なく、昔ながらの街割りに沿って店が点在しているのだ。東西南北、線状ではあるけど、
商店の集合体が濃淡のリズムをつけながら並んでいる感じ。面的ではなく線的で、商店街が交差し続けている感じ。
城跡の小規模さからもわかるとおり、大和高田は城下町ではない。繊維産業の市場町だ。どこへ行っても商店街なのは、
それだけ往時の繊維産業が栄えていたということだろう。都市としての歴史がとことんまで刻まれた空間なのだ。

  
L: というわけで大和高田の各商店街の写真を貼り付ける。これは高田市駅前商店街(片塩商店街)のアーケード(東西方向)。
C: 片塩ロータリーを北上した本町商店街。上で述べたが、旧街道に木造和風から1920年代モダンまで並ぶ(南北方向)。
R: 高田城址に向かう途中に横切った通り(南北方向)。奈良県は歴史があるから、古い木造建築が平然と点在している。

全国あちこち街歩きをしていても、奈良県(旧大和国)にだけは、他にはない独特な感触が確かにあるのだ。
それは、「歴史が古すぎてもうどうにも動かせない感じ」である。それこそ神話の時代から大和民族が生活した空間が、
区画整理できないままでそのまま現代まで来ちゃっているのだ。だから道は狭いままで曲がりくねったままでいるし、
古い建物が平然と点在して残っている。どこもかしこも迷路のように入り組んで、角を曲がるといきなり建物が現れる。
橿原市には今井町が残るが(→2010.3.292012.2.182012.2.19)、それだけでなく八木の街並みもまた古い。
大和郡山市には溜池と城下町が残り(→2010.3.29)、天理市と桜井市には山の辺の道が現存する(→2012.2.18)。
桜井駅南口は迷路そのものだ(→2012.2.18)。そしてこの大和高田市も、近代以前の生活空間の匂いが強く漂う。

  
L: 高田駅西口から延びる道の一本南にある天神橋筋商店街(東西方向)。「さざんかストリート」という愛称がついている。
C: 天神橋筋商店街から県道5号(旧高田川)を挟んで西側の天神橋西商店街(東西方向)。大和高田市は商店街でできている。
R: JRの高田駅から近鉄の大和高田駅へ向かうルートは大和高田駅前商店街(南北方向)。以前はアーケードだったらしい。

行っても行っても商店街なので、茫然としながら西へ。天神橋西商店街を抜けてそのまま現・高田川を渡ったので、
大和高田市役所の裏手に出た。もう、見るからに正統派の昭和庁舎建築である。正面にまわり込んで撮影をしていく。

  
L: 北西側から見た大和高田市役所。  C: 道路を挟んで正面より眺める。  R: 北東側から見たところ。

市の公式ページの年表によれば、大和高田市役所の竣工は1963年。遠くから見るとそんなに汚れている感じはないが、
近づくとそれなりの時間経過がうかがえる。生活感たっぷりの街並みもそうだが、市役所も時代のリアリティが満載だ。

  
L: 隣の消防署から西側を撮影。  C: 裏手にまわり込んで南東側を撮影。  R: 駐車場を挟んでさらにもう一丁。

そのまままっすぐ東に戻って高田駅へ。地図で見れば奈良県全土がめちゃくちゃ複雑な構造をしているのがわかるが、
大和高田という街もやはり、大和民族の歴史がたっぷり詰まった空間をそのまま残していて、予想以上に楽しかった。
こういうところにこそ、日本人の本質というか、日本人が本来持っている空間感覚を探るヒントがあると思うのだ。
奈良県の奥深さをとことん実感できたのはよかった。奈良県の大地にはいまだに何かわれわれを縛るものがあると思うわ。

桜井線に揺られて東へ。桜井駅を過ぎると線路は北へ針路を変える。そうして天理の手前の長柄(ながら)駅で降りる。
本日最後の目的地は、大和(おおやまと)神社。二十二社のひとつということで、きちんと参拝して御守を頂戴するのだ。
無人だが最近整備されたっぽい長柄駅から東へ歩いていくと、住宅が密集した一帯に入る。この辺りの空間も特徴的で、
奈良盆地東端の山々が目の前で壁のように迫っているが、そこに至るまでの平地は農地と溜池が穏やかに広がっている。
住宅はその中で道路を軸に線状に延びたり、粘菌のような塊を形成したりと、都市になりきれない独特さを見せている。
「里」という言葉がしっくりくる。きっとこの辺りは1000年以上の時を超えて、完成された空間を維持してきたのだろう。
やはり奈良県はここでも、動かしがたいほどに固く蓄積した歴史を保っているのだ。これもまた日本人の本質というわけか。
そしてそこに、人の手の入り具合が緩い場所がひとつだけある。鬱蒼とした木々に包まれて、大和神社は静かにたたずむ。

  
L: 大和神社の入口、一の鳥居。砂利敷きの参道は、自然と人工の適度な中庸という印象を抱かせる。
C: 参道をさらに進んでいくと二の鳥居。  R: 拝殿が見えてきた。長柄駅からの近道を来るとここに出る。

二十二社ということで、かなりかっちりと整備された境内を想像していたのだが、実際はまったく違ってだいぶ自然体。
とはいってもすべてが自然に委ねられているわけではなく、人の手が入ることでもたらされる整理された感じはある。
自然を人の手で適度に管理することで神聖さが保たれているという印象だ。自然と人工を結ぶインターフェイスという感じ。

  
L: 大和神社の拝殿。少し逆光になってしまったのが残念。  C: さらに踏み込んで拝殿をクローズアップ。
R: 拝殿から本殿方面を覗き込む。中門との間には距離があり、拝殿は本当に拝むための場所。なんだか古風な印象だ。

大和神社は本殿が3つ横に並ぶ春日造となっている。かつては天照大神と倭大国魂神の両方を一緒に祀っていたが、
ケンカしたらイヤだから別々にする方がいいだろうということで、倭大国魂神だけを残して祀るようになったそうだ。
また、戦艦大和(→2013.2.23)と同名であることから、大和神社の分霊が大和の艦内に祀られていたという。
「大和」という名前の響きからはどうしても日の丸を想像してしまう。それで赤い御守を頂戴しようかと思っていたが、
大和神社の周囲の瑞々しい大地を目にして気が変わった。青と緑系統の色合いの御守を頂戴したのであった。

  
L: 拝殿脇から中門と本殿を眺める。  C: 横から見た本殿。社殿は1871(明治4)年の官幣大社列格の際に建てられたそうだ。
R: 帰り道、奈良盆地東側の典型的な景色を撮影する。農地と住宅、それを見守るなだらかな山々。奈良−桜井間はずっとこうだ。

桜井線に揺られて奈良駅へ。車窓からは夕日を浴びる山々を眺めて過ごす。「まほろば」とはこのことか、と思う。

奈良駅に着くと、ちょっと早いが夕ご飯。しっかり食べると駅前のネットカフェに突撃し、無事にフラットブースを確保。
そりゃあ疲労回復を考えると、きちんとした宿の方がいいに決まっている。でも宿が取れなかったから、これで十分満足だ。
いい機会なので気になっていたマンガを読みまくり、明日に影響が出ないうちにさっさと寝る。今日も中身が濃かったぜ。


2015.9.19 (Sat.)

うおおおお、シルヴァーウィークだぁー!!!……と世間は元気いっぱいになっているにもかかわらず、こっちは授業。
そんでもって終わったら午後は部活。3日後には新人戦の初戦。やってらんねーよコンチクショーである。
それでもまあ天気がいいから気分は悪くないかなと思って外に出たら、真夏がぶり返したような暑さじゃねーか!
過ぎたるは猶及ばざるがごとし。休みを1日分つぶされた、という切なさも相俟って、ヤケになりつつボールを蹴る。


2015.9.18 (Fri.)

職場体験でございました。自転車での行動を想定したため僕には広大な担当エリアが割り当てられており、
昨日は雨だったので近場にしか行けなかった。今日も雨が降り続けるのかどうだかよくわからない空模様だったが、
行かないことには写真が撮れなくってどうしょうもないので、覚悟を決めて歩きで動きまわることにした。

でっかい四角形を描きながら、歩きも歩いたり6kmちょっと。高低差もあるし、実にいい運動になったぜ。
それにしても、生徒にうな重食わせて予定終了時刻を大幅に早めて帰した店にはまいった。そんな体験、オレもしたいよ。


2015.9.17 (Thu.)

安保関連法案が参議院特別委員会で可決。国会議員が自分からアメリカの犬になってどうするわんわん。


2015.9.16 (Wed.)

人工甘味料が許せない。よく「カロリーゼロ」なんて謳っている食べ物や飲み物が増えてきているが、
マズくてたまらないのである。確実に、後でイヤな余韻が残る。特に飲み物に多くて、飲んだ後にゲンナリである。
最近は成分表を見てから買うように心がけているが、それが見えない角度だったり目先の味に釣られたりすると、
飲んでみてゲンナリ、全力で後悔するけどもう遅い。……そんなことがだんだん、しかし確実に増えてきている。

スクラロース、アセスルファムK(カリウム)、アスパルテーム・L-フェニルアラニン化合物。
この3つが入っていると間違いなく、安くてマズい。人体に危険かどうかには僕はぜんぜん興味がなくって、
もう単純に、入れるとマズいから入れるな!と主張したいのである。変に安くして味を落とすことに腹が立つのだ。
こいつらに一杯食わされるたび、砂糖の偉大さを実感する。摂りすぎちゃダメなんだけどね、おいしいんだなと。


2015.9.15 (Tue.)

やっと、やっと1月10日分の日記(→2015.1.10)を書き終えた……。近年まれにみる難産で、本当に本当につらかった。
理由はいくつもあるのだが、原因はひとつだ。それは、土浦という街のせいだ。僕が思っていた以上に、土浦は深かった。

まず、20年前の受験の思い出。そして、15年近く前の大学院時代の思い出。どちらも今となってはいい経験だが、
やはり僕の中では大きな塊となって沈んでいた。まあそうは言ってもそこまでしっかり見つめなおす必要はなくて、
「こういうことがあったよ」程度の触れ方なのだが、関係してしまったがゆえに触れずにはいられないものがあるのだ。
それが思いのほかゴロゴロしていたということ。ちょっと気づいて掘ってみたら、意外と濃かった。そういう感じである。

あとは、ログでしっかり書いたように、土浦という街が予想していた以上に「都市の読解力」を必要としたことだ。
駅から中城通りまで歩いただけで、もうその違和感にあてられてしまって、僕はかなり混乱した状態になっていた。
その混乱から秩序を見出すまでがかなり厄介な作業で、ものすごくエネルギーを消費させられたのである。
違和感をおぼえたら、その原因を探らざるをえない。探ってみると、これが底なし。どんどん出てくる。しかも絡み合っている。
それを整理していくのは本当に大変だった。表面をつるっと舐めた程度の仕上がりでも、本当に労力がかかった。

「みんなの土浦の記憶」と「ぼくの土浦の記憶」、片方だけでも十分重たいのに、両方混じってもうてんやわんや。
いろんな事実と感情があふれ出て、まるで『黒部の太陽』の破砕帯のようなもんである。今は茫然とするのみだね。


2015.9.14 (Mon.)

人類はまだスマホを使いこなせるほどに進化しているとは思えない。

発明されたものが便利な道具になるか危険な凶器になるかは使う人間しだい、なんてことがよく言われるが、
ことスマホに関しては圧倒的に、「まだまだ上手く使えていない道具」なのではないかと思うのである。

そういう自分もスマホを地図の検索とテザリングにしか使っていない。その2点においてガラケーより非常に有利なので、
仕方なく使っているだけである。アプリなんて、東急ハンズとか無印とか、よく利用する店のものしか入れていない。
スマホは確かに便利ではあるけれども、じゃあスマホがないと何かに時間がかかって困るかというと、そんなことはない。
スマホで劇的に生活が変わったわけでもないし、スマホがないから生活が成り立たないってわけでもないのだ。
ということは、それは本当に必要なものではないと思うのである。本当に必要にしている人がどれくらいいるのやら。

マクルーハン的な視点からすれば、人間の能力を拡張するところまでスマホはまだ来ていない、となるはずだ。
まだ人間の能力を拡張する方向に使われてはおらず、時間を浪費させることで利益を生み出す手段の域を出ない。
経済学的な表現になるのかどうかわからないが、「価値のベクトルがねじ曲がっている財」となっているように思う。
でも現時点では人間の能力の拡張に至らなくてもそれなりの収益が出ているので、そのままになっている、そんな感じ。
移動時間や休暇時間など、それまで空白だったところにスルッと入り込み、時間の消費と引き換えに利潤を生み出す。
そのニッチな時間をビジネスチャンスとして可視化した、それ以上の仕事を今のスマホからは見出せないのである。
それどころか、たとえばスマホのゲームは作品から集金マシンへと劣化しており、むしろゲーム業界の首を絞めるだろう。
もっと簡単な例を挙げれば、歩きスマホ。行為の主客が転倒してしまった状況が一般化してしまっている。
倫理が確立しないうちにテクノロジーが広がってしまった悲しさ。スマホは自らを抑える倫理を拒否して繁殖する。

スマホは過渡期的というか。ケータイに初めて縛られたときのインパクトと比べると、スマホの独自性はまだまだ弱い。
それはスマホが道具として不十分なのか、われわれがスマホを使いこなせるほどに進化していないからなのか。
おそらくスマホの機能を日常的に引き出すような生活にわれわれが至っていないということなんだと思う。
上記のマクルーハン的表現をこの考えで言い換えると、われわれがまだそこまで進化していないから、
スマホに対する必要性が不十分なのだと思う。人類はまだスマホを使いこなせるほどに進化しているとは思えない。
便利な道具か危険な凶器かは使う人間しだいと言われるが、大半の人間がニッチな時間を食い物にされているだけ、
むしろ今まであったものを劣化させるきっかけにすらなっており、われわれの倫理の概念は簡単にグラつかされている。
そんな現状を見るに、われわれがまだまだなんだな、と思う。ジョブズの理想にはまだまだ遠いし、ズレも甚だしい。


2015.9.13 (Sun.)

区のサッカー大会、最終週。つらいつらい9月のお勤めもこれでなんとかラストなのだ。本当につらい。

試合は2点リードしながらも2点取られてドローで終わるという、全力でがっくりな展開。徒労とはまさにこのこと。
結局、修正能力がないのである。失点したことで危機感を持ってプレーできないから、追いつかれてしまう。
サッカーの試合ではあるんだけど、それ以外のすべても象徴しているような感じだ。これこそがサッカー、か。


2015.9.12 (Sat.)

いつまでも新人戦のスケジュールにキレていてもしょうがないので、気分転換にお出かけ。
いいかげん湘南ベルマーレのその後を観たい!ということで、今月のJリーグ観戦は平塚にすんなり決定。
それなら昼間のうちに鎌倉方面で御守をもらっちゃおうじゃん、となる。気ままにのんびり歩こう。

ここ最近は梅雨かと思うようなぐずつきぶりが延々と続いており、おまけに台風まで来て大雨になってしまった。
本当に本当に久しぶりの晴天である。今日は新学期が始まって初の完全オフなので、晴れてくれてありがたい。
相変わらず容赦なく混雑している鎌倉駅の改札を抜けると、そのまま進んで段葛。工事中で、壁が建っていた。
そして鶴岡八幡宮まで行くが、どうせ来年2月に行事で来るので今回はスルー。東へと抜けてさらに歩いていく。
というわけで、最初のターゲットは鎌倉宮だ。本当なら駅からバスを利用する方が賢いくらいの距離があるが、
せっかくの晴天なので歩いてみた。まあ虫干しのようなもんだ。きちんとビタミンDを生合成しないといかんぜ。

20分ほどで鎌倉宮に到着。鎌倉は前任校でみっちり体験しており(→2010.11.192010.11.272010.12.11)、
おかげでどこに何があるかだいたい把握できてるぜ!……と言いたいところなのだが、あまりにも寺の数が多くて、
結局どれがどれだか覚えきれていないのである。でも神社の数は寺よりぐっと少ないので、だいぶ押さえやすい。
まずは東端の鎌倉宮から攻めていくのだ。名前のおかげか、参拝客が絶えず現れてそれなりの賑わいが感じられる。

  
L: 鎌倉宮。建武中興十五社のひとつで護良親王を祀る。建武中興十五社は面倒くさいんで制覇する気はないです。
C: 拝殿。真ん中には獅子頭がしっかり置いてある。  R: 角度を変えて眺める。夏は清涼感のある境内って感じね。

次はすぐ手前にある荏柄天神。太宰府・北野とともにウチが三大天神だと自称しているが、それはどうかと思う。
住宅地にいきなり舗装されていない砂利道が現れるのが非常に独特で、交差する木の向こうに鳥居が隠れている。

  
L: 鳥居とその前にある木。これは前回も撮影しているな(→2010.11.19)。  C: 一気に石段を上がって境内へ。
R: 高台なので境内は広くない。しかし緑と建物に囲まれて、かえって雰囲気のいい庭といった感触になっている。

砂利敷きの参道を行くと一気に石段を上がって境内に入る。振り返って見下ろす感じが荏柄天神っぽさなのだ。
境内は高台の上なので少し狭く、それゆえにミニチュアっぽい小ぎれいさも感じる。雰囲気のいい神社である。

 
L: 拝殿。これも前回参拝時と同じ構図だな。  R: 本殿は重要文化財だが、全体をしっかり見るのは少し難しい。

今回は鶴岡八幡宮をスルーするので、これで鎌倉の東側にある神社参拝はおしまいである。トボトボ歩いて駅に戻り、
地下道を抜けて西口に出る。ここから市役所へ歩いていって、トンネルを抜けてさらに西へ。案内板に従って右折すると、
やはりお散歩日和ということでのんびりブラブラ歩いている人がいっぱいいた。電線をつたうタイワンリスに大興奮。
そうして住宅地を歩いていくと、佐助稲荷神社と銭洗弁天の分岐点に出る。まずは佐助稲荷からだ。左折して奥へ。
いちばん奥の住宅の脇に参道が延びていて、もっさりと勢いよく茂る緑の中に、赤い鳥居が並んでいるのが見える。
鳥居の下は坂と石段になっており、夢中で進むと拝殿の前に出た。この湿った感じがいかにも佐助稲荷だと思う。
拝殿のさらに奥には本殿。その周りでは、以前よりも整然と狐の像が並べられているような気がする。見事なものだ。

  
L: 佐助稲荷への道。行ってみるとそれなりの規模なのだが、この段階では山の中の小さな祠と変わらない印象だ。
C: 石段を上りきると拝殿が現れる。緑が濃くて湿り気の強い場所で、それがなんとも神秘的(→2010.12.11)。
R: 奥にある本殿。前に来たときよりきれいになっている気がする。それでも独特な雰囲気はまったく変わらない。

佐助稲荷は源頼朝の挙兵を促したという伝説があるため、出世・開運方面のご利益があるとされている。
いちばんふつうっぽい御守(稲荷らしく黄色一色)を頂戴したら、それは一番人気の仕事の御守とのこと。
観光地としての鎌倉の人気はとどまるところを知らない勢いだが、佐助稲荷の人気も以前より急上昇している印象。

先ほどの分岐点まで戻って北へと向かい、坂道を上っていくと途中にあるのが銭洗弁天。ここはもっと人気だ。
学校行事や下見で何度か来ているが、僕は一度も銭を洗ったことがない。だから金が貯まらないのかもしれないが、
なーんか浅ましい気がしてね。銭を洗う人混みを無視して本宮に二礼二拍手一礼。そして御守を頂戴したのだが、
神職の方がこちらの選んだ御守の真上で火打石を打って火花を飛ばすのが独特。これはありがたみを感じざるをえない。

  
L: 銭洗弁財天宇賀福神社の入口。トンネルをくぐるのがなんとも独特だが、この入口ができたのは戦後のことらしい。
C: 境内の様子。金の亡者どもでごった返しておるわ!とか言いたい気分さ。  R: こちらが本宮。ちゃんとお参りしよう。

そのまま坂道を上っていって、葛原岡神社へ。ハイキングコース内の休憩所近くにあるのがなんとも珍しいが、
これは祭神として祀られている日野俊基の処刑された場所がそこだから。猛烈に縁結びのご利益を主張しているが、
後醍醐天皇に仕えて鎌倉幕府打倒を目指した日野俊基は縁結びとはまったく関係はないはずである。理解に苦しむ。
でも参拝して御守は頂戴しておくのである。社務所が境内から少し離れているので、ちょっと戸惑ってしまった。

  
L: 銭洗弁天や源氏山公園から北に行ったハイキングコースの途中に葛原岡神社は鎮座している。右手は休憩所。
C: 葛原岡神社。日野俊基は後醍醐天皇に仕え、楠木正成を天皇方に引き込むなどしたが、倒幕前年に処刑されてしまう。
R: 境内をいちばん奥まで行った本殿。かなり珍しい屋根の架け方だ。ここが
日野俊基終焉の地で、近くに墓もある。

これで鎌倉駅周辺の主要な神社はだいたい押さえたはずである。江ノ電に乗って長谷で下車。神社はないが、
有名な寺があるので参拝して御守を頂戴しておくのだ。まずはやっぱり、鎌倉の大仏で知られる高徳院から。

 5年ぶりの訪問か(→2010.11.19)。相変わらずの人気ぶりですな。

今回は鎌倉の大仏をちょっと違う角度から撮ってみることにした。20円で大仏の中に入れるのが魅力いっぱいだけど、
行列がすごかったのでやめておいた。でもその値段で大仏の中を体験できちゃうのって、最高に気が利いていると思う。

  
L: 近くに寄って、ほかの観光客が写り込まない角度で撮影。  C: この角度もなかなかよろしいのではないかと。
R: 背面を撮影してみた。なるほどこうなっていたか! これが噴射口で大仏が座禅組んだまま前進する妄想をしてみる。

続いては長谷寺。高低差のある境内の造りは面白いのだが、建物は関東大震災後のものばかりで、あまり魅力はない。
とりあえずバカデカいご本尊の木造十一面観音立像にお参りし、その観音様を思わせるデザインの御守を頂戴した。

 
L: 長谷寺といえば提灯。これまたいつもと違う角度から見てみた。  R: もう少し高さが欲しいかなあ。

そのまま西へと抜けて、御霊神社に行ってみた。京都のそれとは違い、鎌倉の御霊神社は権五郎神社の別名を持つ。
これは祭神が鎌倉権五郎景政であることに由来する。後三年の役の際に右目を射られても戦ったという逸話があり、
しかも顔に足をかけて矢を抜こうとした仲間を「無礼だぞ」と叱ったそうで、鎌倉武士の勇猛さの象徴とされた。
(同じようなパターンでも、山内一豊の場合はもうちょっと平和的というかなんというか。→2015.2.27
なお、この御霊神社をよけるために江ノ電は極楽寺トンネルを出た直後にカーヴするように線路が引かれていて、
結果としてそれが絶妙な撮影ポイントとなっているそうだ。実際、鳥居の前でうろうろしている鉄っちゃんがいた。

  
L: 御霊神社の境内。緑豊かだが手入れが行き届いており、とても厳かな雰囲気だ。  C: 拝殿。  R: 本殿。

長谷駅まで戻るのが面倒くさいので、そのまま極楽寺坂切通を抜けて極楽寺へ行ってみる。ここに来るのも初めてだ。
境内は、思っていたよりは規模が小さく、いかにも北鎌倉駅−鎌倉駅間にありそうな静かなお寺という雰囲気。
撮影禁止なのだが日本語がわからん外人が撮りまくっちゃうのがなんともだ。そんな外人のひとりが話しかけてきて、
「鎌倉の神社が見たいけどどこに行けばいいか」とか英語で訊いてくるので、「鎌倉は神社よりも寺だぞ」と返す。
それでも神社がいいみたいなので、「鶴岡八幡宮行っとけ」と。あらかじめ自分で調べておけよーと思うのであった。
結局、スマホで見て佐助稲荷が気になったようなので「なるほどそれはいい」と勧めておく。が、行き方を訊かれて困る。
「鎌倉駅からだけどそうとう歩くぞ」としか言えないのであった。これはもうね、現地で訊きながら行くしかないわ。
極楽寺駅で鎌倉行きの列車が来たので慌ててそこで別れたが、彼が無事に佐助稲荷までたどり着けたか気になる。

 とりあえず極楽寺の山門だけは撮影。

そんなこんなで江ノ島へ。江島神社の御守を頂戴するのである。バヒさんから開運御守はもらったが(→2015.3.22)、
ふつうの御守はまだないのでこの機会に確保しようというわけだ。江ノ電から歩くとやっぱりけっこう距離があるなあ。
で、当然ながら江ノ島は大人気でものすごい人混み。辺津宮に参拝する列が拝殿前に収まらず、石段まで延びていた。
とりあえず神社入口の授与所で御守を頂戴したが、巫女さんがたいへん美人でございました。人気の観光地だけに、
オーディション的なものがあるんだろうか。しかしまあ、なんだかんだでこの往復にはそれだけでだいぶ疲れてしまった。

 
L: 江ノ島に来るのが5年ぶりとは(→2010.11.27)。  R: 見よこの混み具合。当然といえば当然だが。

寝っこけているうちに藤沢に到着。東海道線に乗り換えるがやっぱり寝っこける。が、どうも列車が遅れたようで、
平塚に着いたときには16時半を過ぎていた。授与所が閉まってしまうではないか!と慌てて平塚八幡宮へと向かう。

  
L: 国道1号を挟んで眺める平塚八幡宮。ぼんぼり祭の準備モードに入っております。  C: 境内の様子はこんなん。
R: 池のほとりではアヒルやらカモやら、鳥たちが睡眠モードに入ろうとしていた。実に平和なもんですなあ。

調べてみて驚いたのだが、平塚八幡宮の歴史はかなり古い。京都の石清水八幡宮(→2015.3.28)より古いのだ。
案の定というかなんというか、本日湘南ベルマーレと対戦する松本山雅のユニを来た参拝客がいた。熱心だねえ。
彼らの後について閉まりかけの授与所でどうにか御守をゲット。これで今日の予定はきっちりコンプリートできた。

 
L: 平塚八幡宮の拝殿。前回参拝時(→2011.5.4)とは異なる角度で撮影してみた。夕方は夕方で風情があっていいな。
R: 本殿。平塚八幡宮の社殿は関東大震災によって倒壊しており、現在のものは1928年の再建とのこと。

駅前に戻っておにぎりと飲み物を確保すると、いよいよ平塚競技場へ。湘南ベルマーレは昨年のJ2でぶっちぎり優勝。
僕もいわゆる「湘南スタイル」にすっかり魅了されてしまったが(→2014.4.262014.5.312014.11.15)、
その湘南はJ1の舞台でどのように戦っているのか。ずっと気になっていたが、今日ようやく観戦することができる。
それはもう心の底からワクワクしながら試合開始を待つ。しかし平塚は自由席がいっぱいになるのが早くて困るぜ。

  
L: 今回はホーム側バックスタンド自由席で観戦。長野県出身なのに山雅を応援する気が完全にゼロのポジションであります。
C: キングベルI世。冷静に考えると、上半身裸のジジイがマスコットってのも豪快だな(実際は神様という設定である)。
R: 湘南のスタメン発表前の映像。音ゲーの要素を取り入れて盛り上げるとは上手い。BGMは湘南乃風『SHOW TIME』。

湘南は多少の入れ替わりはあるものの、一目見て昨年と同じ戦い方をしているとわかるスタメン。期待が膨らむ。
対する松本は、J1で通用するであろう名のある選手を補強して昨年からのレヴェルアップを予感させるメンバーだ。
特筆すべきは元C大阪のキム=ボギョンで、松本に加入して最初の試合。違いを生み出せる選手なので要注目だ。
あと面白いのは、大木監督時代の京都でプレーした選手が3人もスタメンにいること(酒井・安藤・工藤)。気になるぜ。

 湘南は円陣からのダッシュがやっぱりかっこいい。

試合が始まるとさっそく湘南が攻撃に入ろうとするが、松本が上手く対応してみせる。とにかく素早くプレスをかけて、
湘南の選手に前を向かせないのだ。多少ファウル気味でも構わないと割り切って、ボールホルダーにしっかりと体を当てる。
この勢いにひるんだのか、湘南はとにかく動きが遅くて判断も悪い、冴えないプレーの連続となる。松本はボールを奪うと、
湘南のペナルティエリア付近にボールを落としてくる。DFには対応の難しいボールを送ることでリズムを狂わせるのだ。
そんな具合に、早い段階から松本が優位に立った。いつぞやの塩沢頼み(→2013.8.4)より、明らかに進化をしている。

  
L: 前半16分、CKから松本が先制する。安藤のヘッドが湘南ゴールに突き刺さる瞬間をバッチリ撮影してしまったぜ。
C: 湘南ゴール前に迫る松本の攻撃陣。ハイボールをゴール前に出し、しっかりと人数をかけて攻め込んでいるのがわかる。
R: 松本の徹底したプレスとチャージに手を焼く湘南。松本は湘南に前を向かせない守備を見事にやりきってみせた。

もともと松本はカウンターサッカーを前提とするチームだ。そこに大木監督のエッセンスが加えられたとまでは言わないが、
パスで変化をつけられる選手(工藤やキム=ボギョン)が加わったことで、相手の嫌がるサッカーを実現できるようになった。
対照的に、湘南はパスミスからカウンターを食らう場面があまりに多すぎる。相手が待ち構えているにもかからわず、
そこにパスを出して引っかかって崩せない、というシーンが無限に繰り返された。そもそもトラップが大きいし、
相手に対して体を入れてキープするところまでもいけない。ドリブルも相手を避けようとして外へ外へ逃げる形ばかりだ。
高い技術と強い体で圧倒するサッカーは見る影もない。むしろ「湘南スタイル」を松本がやろうとしている状況に見える。
また、昨年の湘南はGK秋元へのバックパスがほとんどなかったが、今の湘南は頻繁に戻してはロングフィードさせている。

  
L: 後半に入って猛攻を見せる湘南。しかし松本が粘り強く対応し、最後のシュートまでなかなかもっていけない。
C: ボールを奪った松本はカウンターで一気に湘南ゴールに迫る。が、こちらもシュートに精度を欠いて得点できず。
R: 湘南はボールを保持してチャンスをうかがうが、松本を崩せず結局サイドへ追いやられる展開ばかりが続く。

湘南は積極的にボールを持つのはいいが、つなぐ途中で必ず松本の守備に引っかかってカウンターを食らってしまう。
しかし松本もせっかくのチャンスをつくるが技術がイマイチで決めきれない。特にオビナの下手さは目に余るレヴェルだ。
終盤が近づくにつれてかなりオープンな展開となり、湘南は圧倒的に攻め込むが松本が湘南ゴール前まで一気に返す、
それが繰り返されるようになる。それでもジワジワと湘南が松本のディフェンスを下げ、アディショナルタイムを迎える。
押し込む湘南はCKを獲得すると、ゴール前の混戦からボールが弾み、なんだかよくわからない状態からとにかくゴール。
最後は日本代表に選出された遠藤の体に当たってのゴールのようだ。湘南にしてみれば、最後は執念で追いついた形。
このCKのシーン、湘南はGK秋元がゴール前に上がってきていた。秋元はボールに直接関与することはなかったものの、
松本のカウンターが危険だとわかっていても上がった彼の気迫が執念の同点ゴールを生んだ格好と言えるだろう。

  
L: 終了間際のアディショナルタイム、押し込む湘南がCKを獲得すると、GK秋元(ピンク)がゴール前に入ってくる。
C: 松本GK村山の弾き方がまずかったか。村山はSAGAWA SHIGA FC(→2012.10.17)出身。好セーヴを連発していたのに。
R: 最後は何がなんだかよくわからない状態から遠藤が押し込んだ。残留争い中の松本は悔やんでも悔やみきれない失点だ。

周りの湘南サポたちは大興奮していたが、僕はひとり冷めていた。耐える松本の姿に長野県出身者としての血が騒いだ、
ということはまったくなく、湘南の不甲斐ないサッカーに嫌気が差していたからだ。松本の方がいいサッカーだったのは確か。
僕の中を占めていたのはとにかく失望感である。松本は残留争いをしているが、明らかにサッカーの内容が進化している。
それに比べて湘南ははっきりと昨年よりレヴェルが落ちている。同じJ1昇格組なのに、この差はいったい何なのか、と思う。
「湘南スタイル」は完全に失われてしまっている。なのにどうしてサポーターはこのゴールに熱狂できるのだろう?
僕にはそれが不思議でならない。J1で通用することを目標にJ2をぶっちぎった昨年の湘南は、もう影も形もないのだ。

 
L: 同点に追いつかれたものの、確かな進化の証拠を見せてくれた松本山雅。やっぱりサポーターでびっしりだ。
R: 拍手で選手を迎える湘南のゴール裏。あの内容でブーイングがない、というのは僕にはちょっと理解できない。

最後に、雑感をいくつか。山雅サポの多いこと多いこと。ホームの湘南サポに引けを取らない量が押し寄せていた。
熱心なのはもちろん悪いことではないのだが、それだけ長野県の娯楽の少なさを示しているようにも思えるんだよな。
そして反町監督は、松本山雅に来る前には湘南の監督をやっていた。湘南サポがどんな反応をするか興味があったが、
拍手が1/3でブーイングが1/3で無関心が1/3という感じ。実に微妙な反応で、これはなんとも意外だった。
また、松本に在籍している岩上も前は湘南でプレーしていた。必殺技であるロングスローが何度も披露されたが、
この日は得点につながらず。ちなみに岩上は反町監督とは対照的に、スタメン発表の際に大きな拍手を受けていた。
基準がイマイチわからん。まあとにかく、長野との信州ダービーが早く見たいもんだ。そういう締めですよ当然。


2015.9.11 (Fri.)

とにかくクソ忙しい一日なのであった。修学旅行で3年の授業がないはずなのに、休む暇が本当にない。
3年生がいないということは、3学年担当の先生もいないのである。それで結局、しわ寄せが来るというシステム。
まあ、修学旅行に行ったら行ったで不寝番なのね。どのみち楽はできないようになっているのである。ニンともカンとも。


2015.9.10 (Thu.)

新人戦の日程にキレる。というのも、テスト前の3連休すべてに試合が入ったからだ。
旅行の計画がー!という感情もゼロとは言わないが、生徒の勉強のことを考えると、これはもうありえない。
たっぷり試合をさせてあげたいという他校の顧問の気持ちも、さすがにこれではイヤガラセでしかないのである。
今年はもうどうしょうもないが、来年は絶対に抵抗してやる、と固く心に誓ったのであった。ふざけるな。


2015.9.9 (Wed.)

大雨でござる! 大雨でござる! 台風から距離があるはずなのに東京は大雨でござる!
こんな状況で修学旅行に出かけた3年生は大変だあと思ったら、関西は降っていないっていうじゃないの! うらやましい!
強弱はあるものの、これだけコンスタントに延々と雨が降り続くのは初めてかもしれない。ウンザリを通り越してもう茫然。
職場では区が避難準備を勧告したせいで、あちこちでスマホが警告音を鳴らす。まったくもって異常事態である。
よく考えたら降水量が多すぎて多摩川危ないよね、という話にもなる。地下鉄はまだ無事っぽいけど浸水するかもしれん。
風がないのであまり危機感が差し迫ってこないのだが、冷静になるとこれはマズい事態である。早く帰って日記を書こう。


2015.9.8 (Tue.)

サッカー・日本代表のアフガニスタン戦。

見るからに付け入るスキのあるアフガンの守備だなと思っていると、原口の仕掛けから香川がファインゴール。
ボールを受けてからターン、そしてシュート。一連の動きが実になめらか。見れば見るほどこのシュートはすごい。
いかにも海外サッカー仕込みというか、Jリーグであまりお目にかかることのない動きであるように思う。さすが。

その後はなかなか点が取れないが、アフガンが意地を見せているので真剣勝負の見ごたえのある試合になっている。
アフガンも国内がいろいろ大変な状況だろうに、簡単に得点させてくれないのはさすがアジア予選ということか。
それにしてもMF原口が効いてるなあと感心。正直そんなに好きではない選手だったが、今日の活躍にはぐうの音も出ない。

2点目はFKから森重のヘッドをはじかれたが、それを本田が残して再び森重。まず本田のボールの残し方がすごい。
なんだかんだであの位置に入り込んでくる献身性は感動的で、しかも決定機にきちんと絡む。この人もさすがだよ。
森重はFKのターゲットだったが本田の折り返しによく反応。この試合ではいいフィードも出しているし、すばらしい。

後半早々にまた香川。よく決めたもんだと思う。原口とのパス交換は偶然なのかどうなのかよくわからないが、
狭い中でも確実にボールを扱い、絶妙のタイミングでシュートまで持っていくのは彼らしい美しいプレーだ。
4点目は相手スローインからだったが、そこからつないで崩してゴール前に受け手がいっぱいいるのが素敵である。
5点目は本田のシュートがこぼれたところを岡崎。反応できるのがすごい。前半からは考えられない得点ラッシュだ。
そして6点目は本田がうまく押し込んだなあ、と感心。年々泥臭いゴールが増えている印象だが、それは進化だろう。

というわけで、終わってみれば6-0の大勝。アジア予選とはいえ、見たら幸せになれるプレーをいっぱい見られて満足。


2015.9.7 (Mon.)

しかしまあ、飯田には何もねえなあとあらためて実感。長野県内のほかの都市と比べてみると、悲しくなってくる。
長野には善光寺があるし、松本には松本城があるし、上田には真田家ブランドがあるし、諏訪には諏訪大社がある。
須坂だって田中本家博物館があるし、小諸だって小諸城址がある。でも、飯田にはこれらに対抗できるものがない。
南信のライバル・伊那にはベルディがあるからいい。でも飯田には本当に何もないのだ。なんとも情けないものだ。


2015.9.6 (Sun.)

区のサッカー大会2週目。本日最初の試合ということで8時40分集合。9月は休みが削られて本当に切ないであります。

相手は先週、非常にパワフルなサッカーを繰り広げており、こりゃあ苦戦どころじゃないなあと思っていたのだが、
いざ試合が始まってみたらぜんぜん強くないの。ベストメンバーでしっかりやればこれは絶対勝てるわ、とすぐにわかる。
しかし勝負弱いウチの生徒たちは、まずベストメンバーを組むどころか11人揃えるのにヒヤヒヤするような有様で、
せっかくのこのチャンスをモノにできるはずもないのであった。スコアレスドローで喜んじゃいけない試合だよこれは。
FWだったらペナルティエリア付近では特別なスイッチが入らなけりゃいけないと思うんだが。少なくともオレは入るが。
そういう「特別なスイッチ」ってのが、部活だけじゃなくて勉強でも重要なんだが。最近はそう痛感することが多い。


2015.9.5 (Sat.)

午前中に授業で午後に部活。終わってカフェで日記を書いていたら、Yahoo!のトップに「吉澤ひとみ 一般男性と婚約」。
うーむ、ついにこの日が来たか。相手がIT経営者ということでなんだかなあ、というところもあるが、まあなるほどねと。
真っ先に考えたのは、「ウチのサイト名どうしようか」である。結局すぐに「面倒くさいからこのまま」という結論になったが。

『青春時代 1.2.3!』や『BABY! 恋にKNOCK OUT!』の頃の黒髪ショートがいまだにアンタッチャブルな破壊力だったのに、
金髪にして激太りしてキャラに迷走。実際にはこの時期すでにけっこう気持ちが切れてしまっていたので(若かったのう)、
もはやそんなに反応しなくてもいいんだけど、いちおうは義理ってもんがあるからね。反応しておくのがケジメかなと思う。
おめでとうは悔しいから言わないぜ、ってことにしておく。……これでいいかな。言えない程度にはまだ尖っていたいんだよ。
まあでも正直、よくここまでクリーンに行ったよな、と思う気持ちが強い。オレの見る目があった、ってことにしておいて。

昨夜というか日付変わって今朝というか、パソコン(futsutama)の調子が著しく悪くて修理の手続きを取っていたのだが、
家に帰って起動してみたらほぼいつもどおりに動いた。でもすごく不安。何が起きてもいいように準備しておかねば……。


2015.9.4 (Fri.)

中学2年生の儀式ではトップレヴェルの面倒くささを誇る「職場体験」の季節が近づいて参りました。
そして本日の放課後、生徒たちがお世話になる事業所に電話をかけて打ち合わせのアポを取るという任務が遂行された。
中学生が知らない大人のところに電話をかけるなんて、そんなの誰だってド緊張してしまうに決まっているのである。
しかし実際にやってみたら、みんな思いのほかちゃんとできていた。事前の十分なイメトレが功を奏したのかねえ。
ようできたエライエライと、いつになく優しいマツシマさんなのであったことよ。オレが中学生だったらうまくできなかったわなあ。


2015.9.3 (Thu.)

サッカー・日本代表のカンボジア戦。守備を固めまくる相手をどう崩すのか、アジア予選定番のテーマである。

序盤から見ていてイライラ。ゴール前で相手が人数をかけて守っているところに突っ込んだりクロス出したり。
なんで遠くからどんどんシュート撃たねえんだよ!と思っていたら本田が決めた。フリーになったら、前が空いたら、
ペナの前だろうがなんだろうがシュートシュートでいいんだよ、やっぱそうでなくっちゃ!と納得。それが欲しかったのよ。
後半には吉田、混戦から香川で3-0。やっぱりとにかく撃たなきゃダメなんだよ、とあらためて思うのであった。


2015.9.2 (Wed.)

2020年・東京オリンピックのエンブレムがすったもんだの末に使用中止になった件を通してあれこれ。

個人的には、「ヤン・チヒョルト展」が決定打になったかな、と思う。これはもう言い逃れが不可能なレヴェルだ。
もともと「なんでこれがオリンピック?」と首を傾げてしまうデザインだったところに完全なる元ネタが出てきて、
擁護する側の気力がなくなった感じがする。これで決定的に、誰も擁護することのできないデザインとなってしまった。
(写真の無断利用は確かに倫理的にアウトだが、デザイン自体の息の根が止められたのは「ヤン・チヒョルト展」だ。)

国立競技場の件もこのエンブレムの件も、現代社会においてオリンピックがどういう存在であるかを明白にした。
スポーツの祭典でもなんでもなく、金を稼ぐための口実にすぎない。もはや単なる「投資の機会」でしかないのである。
1964年には、戦争からの復興とアジアで初の開催という二重の誇りがあった。亀倉雄策が正統派のデザインを披露し、
丹下健三と山田守と芦原義信がそれぞれに優れた建築をつくりあげた。このときと同じだけの意義はもう、見出せない。
東日本大震災からの復興がほとんど進んでいないにもかかわらず、頭の弱い総理大臣をはじめとする無責任な勢力が、
雰囲気や気分を醸成して押し進めた結果がコレだ。オリンピックは金のなる木だから、みんな必死でしがみついている。
今の混乱ぶりからは剥き出しの欲望しか見えてこない。おかげで日本という国じたいがだいぶ恥をさらしている。

さらに言うと教育現場では、オリンピックのおもてなし精神ということで「話す英語」教育を推進する方針だ。
「曲学阿世」という言葉があるが、今まさにそれが現実となっている。英語という言語を通して異文化の思考を学ぶこと、
それが本来の英語教育だが、「話す英語」はかえってレヴェルが引き下げられて品のない英語を蔓延させる結果になる。
なぜオリンピックごときのために、低レヴェルな会話訓練のために、貴重な教育の時間を割かなければいけないのだ?
むしろ世界に日本語と日本文化を広めるべきだろう。日本語を勉強する観光客こそ、歓迎すべき相手ではないのか?

こうなったら1940年と同じように、オリンピック開催を返上してしまっていいのではないか。いやぜひそうすべきだ。
オリンピックなんかいりません。そんなもののために日本の欲深さを加速したくはありません、それが正しい価値観だ。
「武士は食わねど高楊枝」、オリンピックなどない方が誇り高く生きていける。麻薬ならぬオリンピック中毒を脱すべきだ。
ロンドンは3回もオリンピックを開催したけど、東京が1回開催して2回辞退なんてやってみせたら、これはかっこいいぜ。
発展途上国じゃあるまいし、たかがオリンピックに振り回されてしまうとは。恥を知るべきだ。日本の品位が問われている。
冷静になってこの現状を見つめてみたとき、果たして日本は成熟した国家であると胸を張って言えるだろうか?
擬人化して言うなら、こういうことだ。「いい『歳』してオリンピックごときに夢中になって大騒ぎして、恥ずかしくないの?」


2015.9.1 (Tue.)

ついに始まってしまったよ新学期。ぐずついた天気のせいもあって、こちらの気持ちも冴えない。
それでも初日は午前中だけなので、まだ負担は少ない。今のうちということで事務仕事をある程度やると、
その後は提出された宿題の猛チェック。とにかく字が汚いうえに採点間違いも満載なので、大いにキレつつがんばる。
本当にキツかったけど、思っていたよりはチェックを進めることができたのはよかった。まだたっぷりあるけど。

久しぶりに顔を合わせた生徒たちは、心なしかおとなしくなっていた。幼稚に騒ぐ要素が明らかに減った感触である。
まあまだまだではあるんだけど、パッと見ただけで「成長したな」と思わせる雰囲気を漂わせている。すばらしい。
この調子で変な負担をかけてこないで2学期を過ごしてほしいものである。ちゃんとやってりゃ、ちゃんと褒めるよ。


diary 2015.8.

diary 2015

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